日記・雑感のページ

昨年のこと 0103

昨年は、仕事を始めてから最も忙しい一年だった。そして、精神的にかなりつらい年だった。ため息ばっかりついていたように思う。ちゃんと食事もできる、寝るところもあるのだから、つらいといってもたかが知れているのだが、やはり自分にとってはきつい一年だった。

多分、人が一番つらいのは、自分が認められないということなのだろう。対等な存在として。そして、それと同じくらいつらいのは、自分の弱いところを直視することだと思う。やることなすこと認められず、そして自分のできなさを直視する一年だった。昨年は、その二つを存分に味わったと思う。

何を変えるかと言えば、自分を変えるしかない。思い返すときが来れば、良い経験になったとか思えるのだろうが、今は正直そんな気分にはならない。

しかし、生きてはいけるのだろう。そして、やってやるとも思っている。



雑感 1106

思いがけなく東京、大阪へ行く機会があった。私が住む九州の地方都市とはどれくらい人口が違うのだろう。100倍というのは、案外適当な数字ではないかもしれない。

基本的に田舎者なので都会へ行くと、どの電車に乗ればいいか、どの出口から出ればいいかわからなくなって困る。こんなに車両がつながった電車が数分後とにいっぱいになる訳を理由もなく考えたりする。山がなくてびっくりする。土が見えなくて、びっくりする。大きなビルとコンクリートの建物たちを見上げてしまう。これだけの建物と道路を作るための材料はいったいどこから来ているのだろう、と思ってしまった。土はどこにあるのだろうと思った。

当然いい男も多かった。分母が多いということは素晴らしい。しかし、ときめく出会いとかはないのだけれど。多分、住めないのだろうなあと思う、こういう場所には。しかし、都会には都会のよさがあるとも思う。きっとあと20年後になると思うが、一月ほど部屋を借りて、ゆっくり訪れてみたいと思った。


ジェネレーションギャップ 0228

すでにこのようなタイトルを思いつくこと自体が、歳をとったということなのだろう。自分とは違う思える若い人々に出会うことが多くなった。

先日、タイヤを交換に行った。結構な時間を待たされた後、仕上がった自分の車の所へ行くと、若い人が立っている。この人がやってくださったのだろう。私は、感謝の礼を述べた。
「どうも、ありがとうございました。」
彼は、
「はい。」と、無表情に言った。

そもそも同じであることの方が奇妙で珍妙な事なのだとは思う。「最近の若い者・・」云々は、はるかエジプトの文明でもあったそうだから、その時々の時代に沿う生き方と考え方をする人々がいるのは、当然の事なのだ。

しかし、私は
「いいえ、とんでもないです。ありがとうございました。また、おいでください。」を彼に期待してしまうのだ。

車は、すこぶる調子がいい。そう感じる度に、彼の事を思い出す。


デジタルであること  1211

10月にハイビジョンが自宅で見れる環境になった。電気屋でもちろん観た事はあったが、ハイビジョンの画像はすさまじい。服の質感がわかる、化粧のノリがわかる、フケまでわかるのだ。そしてデジタルBSアンテナも購入したら、DVDで見るより高画質な映画が(ちゃんと5.1CHで)空から降ってきているという事実も知った。(DVDはD2出力ですが、ハイビジョン放送はD3とかD4です。) これは、私にとってある種の衝撃であった。今までの一番良いが、ガタリと崩れ落ちる。今では、家のDVDプレイヤーで映画を再生しても、正直「画質が良いな」という印象や感動は、なくなってしまった。

著作権保護のため、アナログ放送のような、自由な録画はできない。良い品質の映画を味わうためには、その時間にテレビの前に居なければならないのだ。もちろん、通常の録画機器でも録画はできるが画質音質ともにガタ落ちする。ハイビジョン対応の録画機器を準備しなければ、良い品質にはならない。本体もだが、メディアもブルーレイディスクなど、まだまだ高価だ。欲しいなとは思うが、購入する気にはならない。

コピーワンスなどの著作権対策は、地上デジタルの普及に従い徐々に緩和される流れのようだ。しかし、これも単純に喜んでられない気もする。デジタルということは、完全な復元ができるということだ。また、メディアは劣化してもデータは劣化しない。現在、WOWOWで放送されているようなものが、簡単に録画できて複製できてしまったら、事実上無敵だ。映画音楽業界は激変してしまうだろう。数年かけて撮る映画、苦心したシーン、何日も考えた台詞、会心の演技・・・。映画に限ったことではない、音楽にもソフトウェアにもモノを作り上げる人たちの労力が詰まっている。簡単に録画でき、複製ができてしまうような時代になったら、そのような人たちは、また私たちを楽しませるものを作り続けてくれるのだろうか。

デジタルの未来は、必ずしも明るくない。


DVDから  0816

最近(のことなのだろうか、我が家ではここ二年だが)DVDが、とても身近になってきて、自分でも気に入った映画や気になる映画はDVDソフトを買うようになった。ほとんどのそれらには、メイキング集や監督やキャストのインタビューなどが入っている。せっかく買ったのだしと、一応はそのような特典映像(?)にも目を通すようになった。

普通私は、映画を「おもしろい」か「つまらない」で判断する。しかし、特典映像を見てみると私が「つまらない」と思った映画でも、ものすごい数のスタッフが大変な努力をして映画を作っていることがわかってくる。ちょっとしたアクションシーン。映画の中では、15秒ほどしか使われておらず、私も特に心に残るということはなかった。でも、その15秒を作るための人材や工夫。ブルーバックの中で演技を終えた俳優に、スタッフから大きな拍手が贈られている・・・。

消費者である自分が映画を「おもしろい」「つまらない」で判断することは、特に悪いことではないと思っていた。しかし、「モノを作り上げることには、大変なエネルギーが要るということ」に気付かないでいる自分を発見した。あれこれ批評することと、創造を続けること、どちらが価値があるか言うまでもない。

世の中でモノを作り続ける人を私は、尊敬する。たとえそれが商業的に成功しようが、しまいが。私の好みであろうが、なかろうが。


コミュニケーション 0419

私は、かなり長いこと電話が苦手だった。そのくせ、街で楽しそうに携帯電話で話す人々をうらやましく思うことも多い。私にも、かかってくるといいのにな と思ってしまう。別に、かかってくる分には、どういうことはない。かけることが苦手なのだ。

今のコミュニケーションは、実際に会う、電話で話す、メールをするの三つがあるように思う。この中で、一番労力がかかるものの、一番人と親密なコミュニケーションがとれるのは、もちろん実際に会うことだろう。30秒の沈黙も怖くないし、笑顔で見詰め合うことで伝わることもある。セックスだってできるだろう。

では、逆に一番手軽で簡単なのは?もちろん、メールだ。

私は、メールは結構する。でも、電話はめったにかけることはしない。これが、私のコミュニケーションの手段ということになる。私は、なぜ電話をしないのだろう。もし、今電話をかけることが相手に迷惑だったら?もし、今電話をかけることで、何かの邪魔をしてしまったら?いやいや違うのだ。相手のことを思いやって、電話をしないのではない。私は、怖いのだ。私の電話にぞんざいな対応をされたらどうしよう、怒らせてしまったらどうしよう、嫌われてしまったらどうしようと考えてしまう。私は、自分が一番傷つかない方法を、選んでいた。

私が電話をしないわけが、今日わかった。だから、電話をしようと思った。



誰かを好きになるということ 0330

最近、職場で二人の人が同時に休んだ。なんとなしに、理由を他の同僚に聞いてみたら、それぞれ胃や目を悪くしていて治療に行ったそうだ。それから、どんどん話が出てきて、他の同僚も肝臓だの首だの腎臓だの悪くしているという話が出てきた。もちろん、100%健康などという人は少ないだろう。しかし、少し正直、みないろいろあるのだなと驚いてしまった。それから、二週間後知り合いがガンで入院することになったと聞いた。

今私が、「気をつけねば、失明するかもしれない」「手術をせねば、後三ヶ月の命だ」「とても、体が痛くて苦しい」などという状態であれば、私は恋をするのだろうか。同じように、「仕事が多すぎて、手が回らない」「お金の工面がどうしてもできなくて、困っている」「夜も眠れないほどの悩み事がある」という状態で、24時間起きている時間のすべて、誰かのことを考え続けることができるのだろうか。

私は、4年前の春3ヶ月ほどとても忙しい時期があった。確かにあの時期、私は自分のことで手がいっぱいで、誰かを切に想うということはなかったように思う。誰かを想うということは、裏を返せば今自分の心がそれをするだけの余力があるということなのだ。恋をするのは、パワーが要る。それが片思いなら、さらにきつい。必死に想う分だけつらいが、それはある意味、今、自分が両足をつけて立っている場所が、安寧でかつ心に余裕があるという証拠なのだろう。だれかを好きになれるというのは、幸せなことなのだ。


今 0104

私はあまり世間のことを知らない。「へえ、そういうものなのか」と思うことが多い。ゴミ処理場に行ってから「そういうきまりなのか」と知る。スーパーに行き「このくらいの値段なのか」と知る。万事そんな感じだ。きっと、そういう感覚が鈍いのだろう。

そんな私でも、最近の世間の閉塞感は感じる。「無駄をなくしましょう。」「不正は許しません。」「環境を大切にしましょう。」「ボランティアをしましょう。」「仕事は能力給にします。」
どれ一つとっても、おかしいことはない。正しいのだ、正しくてたまらない。細かな難癖すらつけることができない、当たり前の掛け声たちが、いつのころだろう、そう6年位前から私を私たちを縛りつけているような気がする。

地球の資源はすべて有限であり、それを取り合うようにして消費をしているのが、現代の社会である。そして、一部の権力者が不正をすることは許すことはできないし、この地球に住み続けるのなら、これ以上の環境の破壊は食い止めねばならない。会社というものは、利益団体であり、個人の能力に応じて賃金を払うというのは、そう ちょっと非情ではあるけれども、経営するものの立場にとっては、あるべき姿なのだ。また、人は、絶対に一人では生きていけない。なぜなら、他人とのかかわりの中でしか、自分というものを作れないから・・・。

間違っているものは、一つもない。では、いっこうに世間が明るい展開をしないのは、なぜなのだろう?「将来が不安だ。」「戦争」「年金は、もらえるのだろうか」「テロ」「自分さえ良ければよい」「犯罪の増加」「出生率の低下」「失業率の増大」「不景気」・・・何一つ明るい材料がないのは、なぜなのだろう。みんなが、正しいことへマインドシフトをしているはずなのに・・・・。

今という時代は、新しいゴールを向かうための過渡期だと思いたい。これは、きっと良い方向へ向かうはずだと思いたいが、どこからしら、みんな間違っているような気もする。決して、エネルギーを無用に消費しようと言っているわけではないのだが、私たちは今、進めない袋小路の壁に手を当てて、空を見上げているのでは・・・・、そんな感覚に襲われるのだ。


品 0512

最初に言ってしまうが、自分が上品とはまったく思わない。むしろ自分は、品性のない人間だと思っている。だから、品を身につけたいと思っている。美しいものを、「美しい」と声を出して愛でていきたい。風情のあるものに、敏感になり、それを味わいたいと思う。

マスコミは、報道をする権利と義務がある。その責任の重さを感じ、仕事をやってらっしゃる方もたくさんいるのだと思う。知りたいと思う人がいるから、知らせるのであり、それがどんな類のものが受けるのか(喜ばれているのか)、もなんとはなしにわかる気もする。他人の財産、生命を脅かすことはゆるすことはできないし、実際にやってしまったのならば、その人は罰されるべきであろう。それは、わかる。しかし、私はその犯罪を犯した人が、どんなレンタルビデオを好んでいたかは、知りたくはない。どんな女性が好きだったのかも、知る必要はないと思うのだ。それは、あまりに興味本位で品がない。日常という安全で退屈な基盤からドロップアウトした者を、私たちは高いところへ昇り、とことんあざ笑っている。

しかしそれは、私たちがそれを求めているから起こる・・・
他の誰でもない、私が、私たちが、それを求めているのだろう・・・
観て聞いて面白いと感じる 私が、私たちがいるから・・・

そんな報道を聞くたび、私は私の、私たちの品の無さが悲しくなってくる。


性質(たち) 0130

職場でけんかがあった。その二人は「自分の今の気持ち」をそのまま言葉にして、争った。
しばし呆然として、聞いてしまっていた。私には、絶対できないだろうと、感じたからだ。私は、自分の感情をそのまま言葉にはできない。

二人ともいい人だ。だからわかりあえないことが悲しかったが、この二人は、感情をストレートに表現する性質(たち)なのだろうと思った。

私は性的に受身である。かつて一夜を共にした人は、「いかせるのが好き」と言った。正直言って、私はその気持ちがよくわからなかった。セックスを考えたとき、どっちが楽なのかということを考えるのは、非常に意味のないことだろうが、私は受身の方が楽ではあると思う。また、快感の度合いも高いのではなかろうか。あれこれ性技を尽くし快感を与える立場より、その快感を享受する受け手になる方が楽に決まっている。そう思っていた。

ところがそうではないらしい。快感を与えているということが快感であり、直接的な刺激を体に受けることはもちろん好みはするが、それよりも自分の手で愛しい人を喜ばせているということに喜びを感じる性質(たち)の人たちがいるのだ。おそらくこの世界では、タチということになるだろう。私は、受け手となり愛しい人に愛されることを悦びとする、そういう性質なのだ。

よくわからないが、こういう性質は自分の意図で自由に変更できるものではないような気がする。そして、私でない人、他人もきっと同じなのだ。
だから、受け入れようと思う。
自分の性質を。
あの人の性質を。


秋風 1009

コンビニで見かけた、眉の濃いちょっと小太りの年配の方。小学生の女の子の手を引いて、出て行った。娘だろう、笑いかける笑顔が良い。
朝いつもすれ違う白いワゴン車の運転手は、髭面。一瞬なのだが、鼻唄を歌っているのがわかる。彼にとってはせまいであろう運転席で、いつも肩がゆれている。
トラックから荷物を降ろしている、帽子をかぶった兄貴。私と同年代位なのだろうか。奥の方に手を伸ばして、むっちりとしたおしりでズボンをぱんぱんにしている。
出会い系サイトで見つけるプロフィール、43歳、タチ、筋肉質、髭あり。身長体重を見ながら、想像してしまいぐっとくる。

時々私は、不思議になる。なぜなのだろう?なぜ、あの人の隣にいるのは、私でないだろう?なぜ、あの運転手と私は恋人ではないのだろう?なぜ、あの兄貴は、私のことを好きではないのだろう?なぜ、私の体型ではダメなのだろう?
なぜ私が好きなものの隣に、私はいないのだろう?なぜ、彼は私を愛さないのだろう?

我侭で非理性的で、それでいてとても純粋な思考が、私の中に満ちていく。

そう、昔からそうだったような気がする。私が心から欲するものは、一度だって、手に入ったことはないのだ・・・・。

秋風に顔上げた。


罠 0911

博多の電気屋に行ったときのこと、狭い店内に所せましと置かれている商品、大きな広告用の飾り、無いところを探す方が難しいくらいの壁のポスターに圧倒された。「買え」「消費しろ」と、店内全体が、私に催眠術をかけているようだった。
少々疲れたように用を済まし店を出て、街を見渡してみたら、実は店内とあまり変わらないことに気付いた。小さな小さな「買え」という声が、人々の雑踏の中にまぎれて聞こえてくる。看板が、広告が、ポスターが、店頭のオブジェが、コーヒーの匂いが、携帯の色が、車のエンジン音が、通り過ぎる人のバッグが、紺のネクタイが、私に絶えず発信を続けている。

ああ、このような状態の中にあって、自分の収入と見合った生活を考えることができない人を、カード破産をしてしまう人を、どうして責めることができるだろう。なぜそうしたと問い詰めることができるだろう。そう、それは自然な成り行きなのだ。なにしろ、街は「消費しろ」と叫んでいるのだから。

下を向いて歩く。罠に落ちないように気をつけて。私が歩く、固い確かな日常という道の上に、罠がしかけられている。


テレビドラマとミステリー小説 0425

職場でテレビドラマの話題が始まると、私は出る幕がない。私はまったくといっていいほど、ドラマを見ない。皆が盛り上がって話しているのを、ちょっと気分的にも引いて傍聴している。話題は役者がどうとか、役者を取り巻く人間関係などに及んでいく。テレビドラマは、恋愛ドラマのようだ。エピソードはちりばめられているものの、結局は終末に至るまでを描くのみ・・・。そして、自分に関係のない人たちの文様を見て、何が楽しいのだろう?そんなもの見る暇があるなら、私ならゲームするか、絵を描くよなあと、そんな風に思っていた。まあ、テレビを観るという行為が、俗っぽい感じがしていたのかもしれない。

私は本をよく読む。そのほとんどは、ミステリーと言われる部類のものだ。ミステリー小説は、大体の決まりがある。物語の根幹のなぞが大体始めの100ページ程度で示され(しかもそれは、大体において、殺人事件だったりするのだが)、後は延々主人公とその周りの人々がさまざまにかかわりあいながら、謎を追う。そしてラストに謎解きがある。私は筆者が工夫に工夫をこらした、ミステリーのミステリーらしさを楽しむ。ラストの数十ページを読むために、それまでのページも楽しむ。ミステリーは読んだことがある方はわかると思うが、読み手に深い思考力はいらない。物語は、実に懇切丁寧に読者の手を引き、状況を理解させ、解決に導いてくれるのである。

最近まで気がつかなかったのが不思議なくらいであるが、このテレビドラマとミステリー小説は、たくさんの類似点がある。そして、おそらくそれを楽しむ人々も類似点があると思う。テレビを小ばかにしていたような、今までの自分の態度が恥ずかしくなった。そう、私は俗っぽい人なのだ。



男性であること 、女性であること 0305

先日職場の友人から、面白い話を聞いた。

「外性器(いわいる、男性の性器 ちんちん)があること、骨ばっていること、髭が濃いこと、筋肉質なこと・・・など、男性であることを10項目に分けるとする。すると、ほとんどの人は、6個か5個が○になって、後は該当しない(つまり女性)。」というものだった。「男性と女性の違いは、外性器にあるもの」と思っていた私は、なんだそれは?と思ったが、その後が面白い。外性器はあるが、自分は女性のような気がして、悩む。外性器がないが、自分は男性であると認識している人たち(トランスジェンダーというのでしょうか、間違っていたら、すみません。)のことも、この考え方をすると、すんなり納得できるというのだ。他の9項目は、すべて男であるが、外性器だけがない・・・・。あるいは、その逆・・・。社会は外性器があるかないかで性別を判断し、その人をその性別で取り扱う。なるほど、もし自分がその立場であったら、たまらない精神的な苦痛であろう。

髭が濃いことは、男性ホルモンと関わりが深いので、彼の話はまったく正しいというわけではないのだろう。いささかステレオタイプな想像になるが、おそらく「苛虐的であるか」「支配することに喜びを感じるか」「挑戦的であるか」「活発であるか」「性行動に、能動的であるか」などが、項目として存在するように思う。その数はいくつだろう。100くらいはあるかもしれない。外的な環境に左右されない遺伝子レベルの話で、私達はうまれもった ○ と 該当なし を持っている・・。

おそらく私は、50程度の○を持っている一般人なのだろう。私は、外性器があるが、自分のすべてを男性的とは思わない。どちらかというと、女性的な精神・思考法を持っているかもしれない。
そして、ふと思ったりする。きっと「○を多く持っている男性を見分けることできる」「男性に魅力を感じる。」の欄に、○がついているのだろうと。


生まれる前から憎しみ合う人々がいること 1012

もし、私の友人が恐怖主義者の行動の為、命を落としたなら私はどう考えるのだろう。「許せない、報復だ。」と息巻くのだろうか。本当にわからない。

争いが起きている。「通常(なんと変な言い方なのだろう)、世界中の人々のおよそ30%は、争いの中にいる」という話も聞いたことがあるが、冷静さを呼び戻すきっかけにはならない。テレビは、連日の破壊の後を伝えている。そして、やがて彼らは自らの子ども達に伝えていくのだろう、この怒りややり場のない悲しみを。

歴史や宗教や国家間の緊張関係・民族・経済格差そして、リーダー達のエゴ。私達は、いったいなぜこのような複雑な道を歩んでしまったんだろうと思う。失敗というにはあまりに言葉足りないが、私達はなぜこんな失敗を繰り返しているのだろう?二つ以上の主義や正義がある限り、争いは必ず起こらなければならないのだろうか。

とても小さい頃に読んだマンガの中に、藤子F氏の「ぼくら共和国」というのがあった。子どもたちが、自分たちで大臣を決め、大きくなったら争いのない本当の平和な世界を目指そうとする・・・そんな話だったように思う。子ども心に思った。そうなんだ、大人はだめかもしれないけれど、子どもなら・・・。苦しみたい、争いたいなんて願う子どもはいるはずがない、もし世界中の子どもたちが一度にそう願うなら、それはかなわないはずがないと・・・。

私は今、大人になっていた。



仮面あるいは、服 そして裸 1007

「○○になったとたんに、あの人は、人間が変わった。」
ある役職に着いたり出世をしたとたんに、人柄が変わったように感じることは多い。まあ大体良くないニュアンスとともにそれは使われるのあるが、実はそれは人の行動としてはごく自然なことなのだそうだ。仕事を退職してすっかり怠惰な生活を送っていた老人が、なんとか会の会長になったとたんに元気になるとか、キャプテンになったら部活動で積極的に声を出すようになる・・・。これらが教えてくれるのは、いつも「ある」つもりの自分というのが、いかに「外部の影響によって作られているのか」ということだ。外部から与えられた(あるいは、自ら手に入れた)仮面により、己は可変していく。「自分はいつもそこにあって、自分は自分である。ほかの誰でもなく、何の影響も受けず、そこにある。」なんてのは、ちょっとかっこいいのかもしれないが、やはり人は他人との影響の中でしか、自分を作れないのかも知れない。

仮面がなしで、自ら自分の意識(行動を)を簡単に変えることができるものは、私は「服」だと思っている。ネクタイを締める、スーツを着る。スニーカーにしてみる。プレスのきいたズボン。流行の色のシャツ。女性なら化粧もそうかもしれない。たとえば、仕事に行くのなら適した服装なら何でも良いはずだ。しかし、明らかに私たちはそれ以上の意味を服装で演出してもいる。お堅い仕事の人々が、揃いの制服を着るのは伊達ではなく、意味があることなのだろう。(警察の場合は、外的に影響をする効果も期待できるし・・)

ふと考えたりする。私は、今の仕事がなくなってしまったりしたら「私」でいられるのだろうか?お気に入りの服たちがすべてなくなっても、私であることを維持できるのか?

仮面をとり、服を脱いだ自分は、「裸」である。私は、「裸」の自分に、情けないほど自信がない。裸の自分を磨くしか、手はなさそうだ。


かっこいい 0904

夏にたくさんCDを買った。買ったのは、十数年前の洋楽ばかり。私のお気に入り(だった)のアーティスト達のものだ。実のところレコード盤は持っていたりする。しかし、「なんだかここいらで、CDを買っとかないと、もういい音で手にするチャンスはないかも?」なんて気がしたからである。博多の結構でかいCDショップに行き、いろいろと買いあさった。中にはどうしても見つからない(廃盤)のものもあり、「げげ、しまった。もうちょっと早く行動すべきだった。」なんて後悔もしたが、それは結局ネットで手に入ることとなった。

聴いてみるとやっぱりいい。彼らの作る音楽は、いい。耳に心地よい。来て欲しいところに音が来る。胸の内側がくっとなる楽曲が多い。つまるところ「かっこいい」。

最近の流行の音楽も聴きもする。「結構いいかなあ」なんて思ったりもする。でも、やっぱり十数年前の音楽ほど、聞き込んだりしない。あのころほど時間が有り余っているわけではなく、聞き込む時間もないのだろうが、それほど好きにはなれない。私は今の音楽を「いい」とか「かっこいい」とかとは、思えないのだ。

職場の同僚のその話をしたりした。「年とったのよ。」と言われた。

確かにそうなのだろう。音楽にしろ、洋服にしろ、構図にしろ、デザインにしろ、生き方にしろ、私の最も「かっこいい」は、あの当時に作られてそして今も強く残っている。


サーカム 0904

7月の終わりにサーカムにやられた。結構有名なようなので、ご存知かもしれない。サーカムというのは、コンピュータウイルスの名前で、感染するとコンピュータの中にあるアドレス帳宛に勝手にウイルスつきのファイル(このファイルというのも、ドキュメントフォルダから勝手に選んだりしてくれる)を添付して送付するという、ウイルスだ。ネットにつながなければ実害はない(よくわからないが)のかもしれない。

ネット暦およそ5年。いわいるウイルスの被害にあったのは、初めてだった。ネットに接続するたびにぞくぞくと、送った覚えのない重いメールがどんどん返送されてくる。メールソフトに着信する黒い文字に恐怖した。結局再インストールをすることで治療とあいなったが、怖いできごとだった。そして自分も、(合計で40分近くだったと思うが)誰かに「害」を及ぼしているかも?という気持ちが、さらに気分を暗くさせた。

他人の作為的なプログラムで自分のものが操作されているという不快感、自分の意図しないことを実際にやり続けるコンピュータへのいらだち、作った人への憤り、そして私の5年分のメールのやりとりを消すことになってしまった悔しさは、忘れることはできない。

サーカムは、確かに私に強い思い出を残した。


衣食住足りて 0221

友人が、「川端康成って、絶対貧乏じゃないよね。」と言ったことがあった。喰うものもなく、生きるか死ぬかの毎日を生活しているようでは、あのような文学は書けないだろうというのが、言い分だった。果てして、川端康成が貧乏な生活をしていたかどうかは知らない。でも、その日食べるものがない程の貧しさの中で、「雪国」を書いたような気は、確かにしない。

「衣食住が足りて、初めて礼節を知る。」という言葉がある。着るもの、食べるもの、住むところが不満足なようでは、人は人としての生き方や礼節を考えることはできないとは言わないが、かなり難しいという意味だった。すごく納得して、記憶した。できないことではないのだろう、住む所がなくとも貧しくとも高潔に礼節を持って、生きている方はきっといると思う。しかし、私には出来そうにもない。

現在私は、衣食住足りているわけだ。で、私は何をやってるんだろうと思ったりする。

「鯨を殺すな」とグリーンピースに入るか、「森林伐採反対」とブラジル政府に手紙を出すべきか、「ダイオキシン問題」を考えて、ごみの分別に力を入れるべきなのか・・・?

インドでは大地震が起こった。埃の舞う路上のテントで、診察の順番を待つけが人は、衣食住が足りてない、しかも命すら、確かなものではない。

ああ、私は、衣食住が足りているのに、何もしはしないのだ。


性の商品化 0213

もうやがて、勤務時間が終わろうとしているときに、中高生が読むような本(コミック本、おそらく某少年雑誌のコミックだったと思う)を持ち出して、職場の年配女性(結構頭がキレる、美しい方である)がキーキー言い出した。彼女は、「男性は、女性を商品化」していると言う。覗いてみると、胸の大きくて目がでっかくて髪の長い女が、ベッドに横たわって顔を赤くしているシーンがあった。なるほど、中高生が好みそうな感じである。しかし、それ自体を「性の商品化」だとは、正直思えなかった。

「漫画に出てくる女は、みんな、胸が大きくて、かわいくて、足が細くて、腰がしまってて・・・。ね、こういう本が、売れているのよ。そして、ブスは笑いの対象でしかない。こういう表現方法は、差別を助長してる。」

言われてみると、そうかもしれない。 あまり私は、自分が男性であるということを強く自覚していないタイプだと思っていた。そしてある程度の人権感覚は持ちあわせているつもりでもあったのだが。この主張は、「確かにね」と言う気がした。女性の性の目から眺めてみると、この世はまだまだすみよい世界ではないらしい。まして、私は自分の性向から言って、このテの問題を冷静に判断できるのだろうか・・・?なんてことを考えていたら、ごちゃごちゃしてきて賛成する気も反対する気もおきなかった。

(でも、キムタクは売れてるよなあ・・・)なんて事を、頭によぎらせながら騒ぎから離れた。


嘘 0131

引越しした先にも、幸いな事に、私と話の合う人がいた。彼とは、よくおしゃべりをする。仕事のこと、車の事、パソコンのこと、昨日の晩飯から腹具合にいたるまで、本当に様々な話をする。彼は、私より一つ年下なのだが結婚をしていて、話の中に(それは、頭だったり、結びの方だったりするのだけれども)必ず「嫁さんがね・・・」というフレーズが入る。彼が他の私以外の他の同僚と話すときも、例の「必ず」が入るのかどうかは、知らない。が、おそらくしてはいないだろう。(またか・・・)と思う度、まあ私には、打ち解けてくれているからの事だと、嬉しくも思う。

彼は、その習慣をまったく自覚していない。あるいは、気づいていない振りをしているのかなあと思ったこともあったが、そういうタイプではないので、おそらく無意識のうちに「嫁さんがね・・」と、口に出てしまうのだろう。彼は、本当に彼の生活時間と彼の心を「嫁さん」と共有しているのだと思った。

私にもし、そのような時間も心も共有できるような人が見つかったら「○○(さん)がね・・・」という話を、彼にするのだろうか。

今日も、彼とおしゃべりをした。
「嫁さんがね・・・・」心を割って話をする彼に、今日は、心の中で小さく謝った。


デザイン 0122

何度見ても、これはすごいなあと思う形や絵に出会うことがある。それは、生活用品の中だったり、車だったり、はたまたロボットアニメの中だったりする。車では、とびぬけてアリストのデザインが好きだ。時計ではスプーンの形を見たとき、びっくりした。映画「エイリアン1」のプロダクションデザインもすごい。二次元では、ダンバイン。(←は、少々わかりにくいかもしれない。)

私が最近とてもこの人はすごいと思っているのが、金子一馬さんだ。ゲームをちょっとなさったことがある人は、知っているかもしれない。彼は、一連の女神転生シリーズのキャラクターデザインをしている。この人の絵は、かなり前から知っているが、ここ数年の彼の円熟さを増したデザインには鳥肌が立つ。彼が手がけた「ペルソナ(私は、プレイしたことがないのだが)」というシリーズには、とても奇妙な形の霊(適当な表現ではないかもしれない)が登場する。すべて基本は人形(ひとがた)なのだが、どのデザインも目がくぎ付けになる。その奇抜な形、色使い、シルエット、一枚の絵としてのまとまり。それらは、まったくの怪物ではない、あるものはバイクをモチーフにしてあるのだろうと想像がつくし、あるものは泡をモチーフにしてあるのだろうと予想がつく。しかし、その絵には、あきらかに自分が知っているものとまったく知らないものが、妖艶にあるいは怖れを抱かせるように、混在する。絵に引き寄せられるように魅入ってしまう。「魔剣X」のデザインも、大変に素晴らしかった。

誰も見たこともないもの、誰も想像できないものというのは、本当はないのかもしれない。優れたデザインというのは、誰もが知っているものを独自の方法で違うものと混ぜ、まったく違ったもののように見せるということなのだろう。そして、サザエさんの世界に、のび太は登場できないのだ。

優れたデザインは、その世界観を壊さずに存在し、かつその世界の中で、異彩を放つ。


流れ 1012

小学校の頃に、第一次産業とか第二次産業とか用語を勉強した。大別すると原料を得るとか、それを加工するとか、それら出来上がった製品を販売する・・・そのような分類だったような気がする。まあ、あれから数十年の時間が経ったのであるから、あの勉強していた当時の産業構造比率がそのままであるはずがない。しかし、現在は明らかに第○次産業とも呼べないような産業が、大手を振るい巨万の富を得るようになったなあと思う。それは、「お金をある場所からある場所へ移す事によって、利益を得る産業」である。正確な分類は知らない。おそらく、呼び名はあるのだろう。

インターネット取引の登場によって、それはますます身近になってきた。海外では、講座などが積極的に開かれ、「どこに移すべきか」を論じている人々が大変多いと聞く。リスクももちろんあり、面白みもやりがいもあるのだろうから、批判的な立場を取るわけではないが、それらを「仕事」と呼べる程、私の意識は成熟をしていないようだ。

モノと金が流れている。その間に人がいる。モノが金になる、金がモノになる。モノを買い、モノを売る。そして、金で金を得る。もう一国の問題とかではなくて、世界中を巻き込むような大きな流れが出来上がっている。だから、間違ってはいないのだろう。どのようなスタイルがあったとしても。

今日も仕事をして帰ってきた。明日も、もちろん仕事に行く。この大きな流れの中で、私は小さな汗をかいていたい。


猫 0826

今度住む事になったアパートには、猫が住んでいる。。白黒のまだら模様の大人(?)の猫である。しかも、二匹。彼らは私には、まったく同じ様に見えていたので、その事実を知るまで「?!」とびっくりすることもあった。

ベランダの戸を開けて掃除をしていると、挨拶もなしに入り込んで来たりする。かなり人に慣れているようである。そういうことも、一回ではなく、結構厳しい対応をせねば出て行ってくれないということもわかってきた。また、疲れて帰ってきて車から降りると、ポストの下に寝そべっていて、けっこうなガンをたれてきてくれる。そこには、「おつかれさま」とか「おう、おまえか」とかいうニュアンスは感じられず、「ふん」というようなずいぶんな横柄な態度だ。愛車にすばらしい手足マークをつけてくれるときもある。

そいつらも、最近の暑さには本当に参っているようで、階段の脇にそれはもう両手両足を「ぐてー」と突き出し、あお向けで寝ていることが多い。人がそばをとおると、ぱっと頭くらい上げたりするのが普通の猫であろうに、彼らにはそのデリケートさはもうなく、微塵も動きもしない。

そして、ちょっと思ったりもする。「こうなるまでには、いろいろあったんだろうなあ」と。

基本的に生き物と心を交わす事ははあまり得意ではないのだが、最近ちょっと気になる奴らになってきた。


神様 0515

前の職場の話だが、帰り道時々会うに自転車に乗っているさる人を見るのが、楽しみだった。彼には、簡単には会えない。かなりの経験を積んだ後にわかったのだが、職場を5時7分に出ると出会う確率が最大になるようだった。しかも、途中で私が横路に入るために、出会う可能性のある道のりは、賞味500メートルというところだろうか。

彼の服装は完全に肉体労働者だった。いつもグレーの上下の作業服を着ている。体つきはむっちりと太っていて、自転車のサドルからはみださんとする尻の肉感がたまらなかった。また、顔がとても良い。何回かモデルにしたが、本当に温厚な感じがするのだ。太い眉毛に優しそうな細い目。鼻は私好みでやや大きかった。無精ひげだろうか、顔全体が青黒いのも、私にとってはかなり高得点だった。

一週間に一度会えただろうか、そのくらいの確率で、しかも車と自転車の一瞬のすれ違いで、知り合いになどなれるわけがない。三月、引越しがきまってばたばたしていた時期に、ふと「もう、すれ違うこともないのだろうなあ」と思った。

4月5日に引越し用のトラックにすべて荷物を積みいれ、私は不動産屋へ車を走らせた。カギを返すためだ。

その時である、私が向かう不動産屋のすぐ近くの路地で、なんと私は彼を見つけた。彼は、バキュームカーの作業員のようだった。ちょっと車を遅めに走らせて、彼の姿を目に焼き付けた。

歌の歌詞ではないけれど、「これって、偶然?」と思ってしまった。ありがとう、神様。


引越し 0421

予想はしていたが、引越しはとても大変だった。モノが溢れる部屋を片付けなければならない、新しい部屋を探さなくてはならない、電話やガス水道を止め、住民票を移す。仕事の引継ぎもあった。一週間くらい走り回っていた。今住んでいる部屋は、一度も中も見ずに契約。本当にあわただしかった。

荷物を運ぶのも大変だった。小一時間くらいかかってようやくすべての荷物を部屋に押し込み、業者さんが帰っていった。その後、50個を越えるダンボールの中で、新しい間取りの計画を立て、4時間くらいかけて、住める部屋が出来上がった。

とても意外だったのは「さみしい」と感じたのは、一人になって荷物を動かしているときではなく、朝「ハトの声」が聞こえたときだった。以前住んでいたところでは聞こえることのない音。「犬のほえる声」。窓を開けたら、茶色ではなく、白い家が建っていた。

「ここに、住むんだ。ひとりで。」

今でも、違和感がある。そして、残してきたたくさんの知人・同僚のことを懐かしく思い出してしまう。正直今は、「ここで、がんばる。」なんて、前向きな気持ちにはなれない。でも、なんとかやっている。なんとか、やっていけるはずだと思う。


85人 0314

職場の同僚が、最近の一連の不祥事の話題の後、こんなことを言い出した。
「どんな職場も100人中85人は、いい人なんですよ。かわいそうですよ。一生懸命やっている人が。」

彼が、一体どうやってその数字を割り出したかはわからない。が、しかし妙に納得して聞いてしまった。ちょっと突っ込んで聞いてみると、職場に限った話ではなく一般的に「100人中、85人くらいいい人だ」という考えを持っているということがわかった。彼の考え方はすばらしい。その85人という数字は、本当に奇妙な自然さを私に与えた。もし、50人と彼が言うなら、彼はかなり悲しい人生を歩いてきているような気がするし、100人というならある種尊敬もするが、彼に対する信頼度はぐっと落ちただろう。

この世の中を悲観しうつむいて暮らすことはせず、人とつながりあえるとかなり強く思って生活している。そして、注意深く生きている。彼の手はポケットの中に入っているが、にぎりこぶしを作っているのではなく、隙があれば握手をしようとその出番を待っているのだろう。ほんのわずかな言葉だったが、私は彼をすごいと思った。

もし、この日記を一連の不祥事が続いている職種の方が見たなら、元気を出して欲しいと思う。
私も85人説を、信じている。


DNA 0308

NHKが時々放送するような科学ドキュメントの番組を見るたびに「今度こそ、わかった」と思う遺伝子の事だが、ちょっと人に尋ねられると「?」はたと、止まる。いつまでも、これではいかんだろうと思い、2月は遺伝子関連の本を読んだ。その中の一冊に「利己的遺伝子」ということを説明している本があった。

「人は遺伝子という存在の乗り物にすぎない。」一見、利他的に見える動物の種々の行動や愛でさえも、先の考え方にのっとって説明することができる、とまあこんな感じの本だった。愛という感情さえもそう考えるなんて、なんと乾いた発想だろうと当初斜に構えた私だったが、本を読み終わる頃には「すべての生物は、自分の遺伝子の複製を未来へ伝えようとしている。」のかなあという気になってきた。

では、「私という存在は、何なのだろう。」私という存在は、遺伝子を未来へ伝えようとすることをまったくしておらず(おそらく、将来においてもせず)、はなはだ枠外の存在である。あくまで、前述に考え方にのっとった話しではあるが。「同性しか、愛せない者がいる」のは、なぜなのだろう。

本の中には、「同性愛」者には共通の遺伝子があるかもしれない、ともあった(小さい集団では、調べているようですが、まだ大規模な調査は行われてないようでした)。個人的な意見だが、これは正解だろう。遺伝子レベルで、「同性を愛するように」になっている人たちが、世の中にはいるのだ。

私は人間であるから、遺伝子は残さずとも、知識を伝えていける。私が死んだ後でも、私の描いた絵のうち一枚くらいは、ネットのどこかにかすのように残ることがあるかもしれない。そして、働くことで社会に(ごくわずかではあるが)貢献もする。そして、それで十分だと思う。遺伝子は残せなくても、誇りを持って生きていける。

しかし、間違いで、あって欲しくないと思う。これは、「大いなる膨大な組み合わせの中に生じる間違い」ではないと思いたい。


ゆらぎ 0222

デジタルビデオを充電をしようとして気づいた。電池の裏には、小さなシールが貼ってある。注意書きだった。「分解をするな」とかと一緒に、「電子レンジであっためないでください。」とあるのだ。これには、少々驚いた。「あっためる人いるのかしら?」まったく、変な感じだ。

「これは製造物責任者法のために書いてあるのだから、企業の一種の防衛手段なのだ。」と思いもしたが、1000人いれば一人くらいいるような気もしてくる。しかし、普通「分解」までは思いついても、「電子レンジ」までには行くだろうか?そして、何より、「電子レンジであっためたい」と思い立つ人が、このシールに気づいて「なーんだ、やめようっと・・・」と思うのか?想像は、止まらない。

先日夕方の駅前の交差点で、私はおばさんをひきそうになった。言わせていただけるなら、私は結構慎重に運転をするタイプである。おばさんは、たくさんの車とバスが行き交うあの交差点を、まっすぐ手を挙げて、直進してきていたのだ。気が付くと、私の車の真横まで来ている。普通の判断力なら、もう少し待つか、渡る場所を変えるかするだろうに、その表情には、「迷い」は感じられない。ひやっとした私などには、気にも止めずにあたりの車を次々を止めてわたりきってしまった。
彼女はマラソンをしていたのだろう。上下ピンクの運動服だった。「私は、今マラソンをしているの。だから、あなたたちが、止まってね。」

結局、シールは貼ってあっても、充電池は「電子レンジ」に入れられることがあるのかもしれないと思う。自分に正当な理由があると思えるときは、誰も止めることはできないのだろう。そして、生きていく上で、ある意味それは強力な武器となる。ことある毎に「ゆらい」でしまう私は、その強さにちょっとあこがれた。


愛の意味 0217

今朝の通勤途中に、なぜか頭の中に「さらばシベリア鉄道」が流れてきた。
「不意に愛の意味を知る」
そのときわかってしまった、「愛の意味」を。

守るべき人が欲しくて、守ってくれる人を欲しくて、慰めて欲しくて、慰めてあげたくて、暖かさが欲しくて。
そう、人は寂しいから人を愛するのだ。


100000ヒット 0213

カウンターをつけて、ちょうど一年くらいだった。1/25に10万ヒットになった。一応の目標のように考えていたので見たときに、とてもほっとした。訪れてくださる方に、本当に感謝している。今日の更新をするまでに、もう3週間くらいたった。きっと、来ては見たが新しい絵は見当たらないということが、多くの方にあったのだろう。大変申し訳なく思っている。

気が抜けたのだろうか、インフルエンザらしきものにかかり、体調が悪くなった。おまけに、一月からちょっとこじれていた人間関係が上手くいかないようになり、精神的にも落ち込んでいたのだと思う。下絵は数枚描いたが、気力が続かない。そんな日が多かった。

また、がんばりたいと思います。よろしくお願いします。


的ばかい 0117

今年も「的ばかい」に行った。「的ばかい」というのは、褌姿の男たちが、藁でできた「的」をばかう(奪い合うという意の方言だそうです。)という非常に勇壮な祭りである。

昨年は、途中から見たのでよくわからなかったが、今年は神社の境内を男たちが駆け回る姿を見た。この寒さの中、係りの人がバケツで水をかける。掛け声とともに、的ばかいは続いていく。男たちの背中からはうっすらと湯気が上がり始めた。男たちの格好はいわいる六尺褌とはちょっと違う。腹巻のような部分があるのだ。六尺ならもっといいのに、と思わないわけではなかったが、がっちりとした太ももと背中が力が入りながら動き回る姿を見るのは、やっぱり興奮する。短髪、筋肉質、髭、男たちの中には私のストライクゾーンど真ん中の人もいた。水がかからぬように、男たちの邪魔にならないように少し遠巻きの円を作る観衆も、(私とは、違う理由だろうが)大きな声援をあげていた。

去年は思いつきで出かけ、慌ててインスタントカメラを買った。今年はデジタルビデオまで新調したので、「がんばって撮ろう」とは思ったのだが、とても観衆の輪を越えて直接撮れるものではない。周りを見渡すと、簡易梯子を持ってきている人が多い。「なるほどな」と納得をした。そして私のようなよこしまな動機で撮っている者ばかりではないのだろうが、カメラ、ビデオの数はものすごい。ようやく掻き分けて輪の中に入ったとしても、動いている被写体をベストアングルで撮るなど、およそ不可能なことだった。

半分諦めたが、昨年の経験が役に立ち「全部終わってから撮ろう」という作戦を思い立ち、海岸線へ移動した。そして、ベストポジションと思われた防波堤に立ち待つ。この祭りのクライマックスは、的をばかいつつ、海へなだれ込むのだ。今年は潮の関係で水がすくなかったが、今年は潮もいい。やがて男たちは、海へ入り祭りは終わった。私がベストと思った場所は全然ベストではなかったのだが、このチャンスを逃すともう撮れない。ずうずうしくも人ごみをかきわけ、目当ての人を撮る。ここまでやったら普通不自然に思われるくらいなのだが、たくさんの人が思い思いに海から上がった男たちと話したり、記念写真を撮ったりしているので絶好の隠れ蓑だ。すぐとなりで、私のお目当ての人を高そうなカメラで撮っている人もいた。「お仲間さん?」とちらりと思ったりする。

お目当ての人が、帰る時の後姿までばっちりとった。こういうときはカメラと違ってビデオはありがたいと思った。

家で楽しみに見てみると、果たしてきちんと撮れていた。全身が写っているもののあった。そして、このようなカメラを今まで使ったことがなかったから知らなかったが、とてもきれいに停止できることに感動した。お目当ての人が写っている場面は、時間ににするときっと1分ないだろう。それでも、満足だった。そして、とても不思議な事に気が付いた。何度か見たのだが、ちっとも興奮しない。それは、きっと自分の目で直接見たのと、ファインダーを通して見たのの違いから来るものなのかもしれない。満足はしたものの、もっとしっかり「見れ」ば良かったとも思った。エロビデオには当然ならない。参考に人物デッサンを極めようと思った。


世界平和 0117

先日、クリーニングに行って恥ずかしい思いをした。袋の中にシャツやセーターに混じってなんとパンツが入っていたのだ。私の部屋の洗濯物は、あまりきちんと整理されていない。多分、ハンガーから落ちてしまったいたのだろう。「すいません。」と慌てて、ご主人の手から取り上げた。ご主人は、「はは、いいですよ。」と笑う。いつもの奥さんだったら、こうは行かなかったろう。

清算の後、主人がにっこりと笑いこんな話をしてくれた。
「私たちの店はですね、以前はホテルからの注文もとっていたのですよ。その中に、あったんです、パンツが。私は、それを見たときこれだけはと思って、返そうとしたんです。そしたら、ホテルの人がね、ぜいたくだって言うんですよ。頭に来たから、糊をばりばりつけてやりましたよ。」
二人でひとしきり笑った後、「それじゃ、お願いします。」と言って、店を出た。なんか気分が良かった。

主人の顔を思い出してみる。急に顔に色が付き立体になったような気がした。今まで表面しか知らなかった人が、急に奥深い「人」になったように感じられる。今までなら、ある日突然あの主人の顔が変わっていても、私は気づきもしなかったろうに。

そう思えば、無表情で「ありがとうございました」というコンビニの店員も、毎朝自動販売機で会うおじさんも、いつも行くガソリンスタンドの店員さんも、ピザの配達をしてくれる人もきっと話す機会があれば、「人」になって行くのだろう。きっと私と同じように、毎日怒ったり笑ったりしてるに違いない。そして、同じように考えたり悩んだりもしているのだろう。とても簡単な当たり前のことに気づいた。

世界平和の第一歩は、「話すこと」かもしれない。


勝手な思い込み 0105

毎年スキーに行くが、私には友人たちの如く「上手くなりたい」という意欲が希薄だった。私は数本滑るとさっさと、あったかいコーヒーを欲しがる「お茶スキー派」で、「楽しく滑れて、こけない程度に」上手くなればそれで十分と思っていた。それが数年も続くとやはり倦怠期は来るもので、あれほど楽しかったスキーがさほど楽しくなくなるという経験を今年初めてした。友人の「スクール行ってみようか」との誘いにのったのも、そういう理由がある。

今年行ったのは、蔵王。私たちの先生(インストラクターというのだろうか?)は、40代(とお見受けした)のすらっとした体格の方だった。「ストックはぁ・・・・」ちょっと期待してもいたのだが、先生の説明には、「東北弁」が混ざる。変な話だが、雪景色を見る以上に「ああ、旅行してるんだなあ」と感じてしまった。そして、私は、東北の言葉のふわりとしたイントネーションやなだめるような語尾が、優しさ溢れているような気がしてとても好きになった。

友人も同じ想いだったようだ。「よかなあ。東北弁」と、私たちは思いっきり九州の言葉で、感想を言い合った。そして、二人の結論、「九州の言葉って、怖いっていうか、ちょっと汚いね。」先生の指導はとても上手く、午後のレッスンが終わる頃には私さえ「おお、何か上手くなってる!」と実感することができた。

もっと話しをしてみたいなあと思ったし、できればこっちの世界の人と会えたりしたらすごく楽しいだろうなあと思いつつも、蔵王を後にした。きっとこの優しい言葉を操る方々は、優しい方に違いない。そして、寒いから熊さんみたいな体格の人が多くて、毛深くてったかいに違いないと、私は思い込んでいる。明日は帰るという日だったが、いい思い出ができたと思った。