国 栖
新 子
南伊勢街道バスの路
天誅組終焉の郷
中 黒
小 川
鷲 家
木津峠
出合橋
平 野
杉 谷
麦 谷
大 又
菟田野
榛 原
武 木
足ノ郷越
旧木津トンネル
高見トンネル
丹生川上神社中社
宝泉寺
やはた温泉
高見山(1248.3m)
ハンシ山(1137m)
国見山(1418.7m)
明神岳(1432m)
薊岳(1406m)
ショウブツ山(1308m)
白屋岳(1176.9m)
鷲家川
高見川
高見川
高見川
四郷川
三 尾
狭 戸
小栗栖
丹生川上神社上社
宇太水分神社
吉野川
大又川
麦谷川
ニホンオオカミ終焉の地
初瀬街道
東熊野街道
東熊野街道・南伊勢街道
南伊勢街道
伊勢神宮
コウバイ塚(1095m)
東熊野街道
佐倉峠
南伊勢街道
●南伊勢街道

 南伊勢街道は伊勢南街道や参宮南街道とも呼ばれ、古くから、伊勢詣の人々が利用した街道でした。そのほか、紀州、大和、伊勢の商人が行き交い、江戸時代には紀州和歌山藩が参勤交代にも利用しました。この街道は、吉野川(紀ノ川)を遡り、国栖から高見川を遡り、高見峠(標高約900m)を越えて松阪に抜けます。 
 伊勢街道と呼ばれるものには、この他、曽爾・御杖・美杉を通る伊勢中街道(伊勢本街道)、室生・名張・青山を通る初瀬街道があります。時代や資料によってその呼称は異なり、南伊勢街道を伊勢街道と、初瀬街道を北伊勢街道や伊勢街道と呼ぶこともあります。また、東熊野街道も諸説があり、古くは、伊勢神宮から多気・尾鷲・木ノ本(現 熊野)周りの路を東熊野街道と呼んでいましたが、近世では、榛原・菟田野・鷲家・国栖・伯母峰越えを東熊野街道と呼ぶようになりました。
 南伊勢街道沿いには、紀州藩や彦根藩の陣屋、旅籠、江戸時代の石灯籠や道標など、今でも古い町並みがあちこちに残っています。

●東吉野村

 吉野郡東吉野村は、四方を山に囲まれ、高見川とその支流である鷲家川や四郷川に刻み込まれた谷間の郷です。とくに、東には高見山、国見山や明神岳などの1000m超の山々がそびえ、大和の国の果てを印象づける風景です。また、これらの山々は登山でも有名です。特に冬の樹氷観光登山は有名で、臨時バスも運行されます。その景観は、まるで最果ての異世界のようです。
 小川には村役場があり、かつては東吉野村の林業の中心地として栄え、ここから筏を組んで下流に材木を運んでいました。特に、醤油樽や酒樽が有名でした。また、ニホンオオカミ終焉の地としても有名で、小川には記念のブロンズ像がありますす。明治38年にここ東吉野村で捕獲されたのを最期に、その生存は確認されていません。
 村内には、いくつかの温泉があり、大又川沿いの「やはた温泉」や平野の「たかすみ温泉」が特に大きい施設を持っています。比較的バスの便があるので、時刻さえしっかり確認しておけば、奈良県北部からでも日帰りで温泉が楽しめるのではないでしょうか。
 そして、ここは、天誅組が最期を迎えた地。至るところにその足跡を残しているので、「早すぎた尊皇攘夷」と言われた彼らの壮絶な最期を
肌に感じるのもよいでしょう。

●天誅組の最期

 天誅組は、尊皇攘夷を達成するために1863年(文久3年)8月14日に決起した脱藩士たちに対して、後世の人々が付けた名称です。公家の中山 忠光を大将に立てた、吉村 寅太郎、藤本 鉄石、松本 奎堂ら三総裁は、8月17日に約30人で挙兵し奈良の五条代官を殺害、五条新政府を樹立しました。そして、倒幕を達成すべく孝明天皇の大和行幸を迎え入れる体制を整えようとしました。
 ところが、天誅組の計画は一瞬で破綻しました。翌8月18日に朝廷で行われた会議で尊皇派が敗れて大和行幸が中止になり、一変して天誅組の行為は幕府に対する反逆行為として扱われ、追討軍に追われることになりました。
 十津川郷士約1000人の協力の下、吉野を中心に転戦しましたが、高取城の奪取に失敗してからは郷士たちとも別れ、最後の活路を伊勢方面などに求めて高見峠を越えるべく、川上村(現在の国道169号線武木口)から足ノ郷越を通り、9月24日には東吉野村の鷲家口(現在の小川)、小などの高見川沿いの集落に落ちのびました。
 しかし、すでに街道筋は紀州藩、彦根藩などの兵士に占拠されており、4日間の攻防の末、多くの隊士がこの地で壮絶な最期を迎えました。かろうじて大阪への脱出に成功した主将の中山 忠光も、1年後の1864年(元治元年)12月6日に逃げ延びた山口県で暗殺されました。なお、中山 忠光の叔父は後の明治天皇、孫は清国ラストエンペラー溥儀の弟の妻です。
 1868年、ついに尊皇派が勝利し、明治政府が樹立しました。天誅組が最期を迎えてからわずか5年のことでした。歴史上、早すぎた討幕運動とも言われています。

●街道を走る路線バス

 奈良交通バスは、ちょうどこの南伊勢街道をたどるように運行しています。平成14年7月現在の運行形態は、以下の3種類に分類されます。
    
    ・新子−国栖−千代橋−鷲家−高見平野−杉谷(平日5.5往復)
     1便だけ、高見平野を経由しない杉谷行きがあります。
     新子では、八木駅〜湯盛温泉杉の湯便と連絡しており、杉谷方面−新子−上市方面の乗り継ぎが出ます。
     鷲家では、榛原駅〜大又便と連絡しており榛原駅方面−鷲家−杉谷方面の乗り継ぎが出来ます。

    ・榛原駅−菟田野町−鷲家−高見平野−杉谷(平日3往復) 

    ・榛原駅−菟田野町−鷲家−千代橋−麦谷−大又(平日8往復)
     鷲家では、新子〜杉谷便と連絡しており、杉谷方面−鷲家−榛原駅方面の乗り継ぎが出来ます。

 平成5年頃は、以下の運行形態でした。(便数は時期により若干異なります。)

    ・新子−国栖−東吉野村役場前(現 千代橋)−鷲家−高見平野−杉谷(平日6.5往復)
     現在とほぼ同様の乗り継ぎでした。

    ・菟田野町−鷲家−東吉野村役場前(現 千代橋)−麦谷−大又(平日8往復)
     現在とほぼ同様の乗り継ぎでした。菟田野町では主に榛原駅方面と連絡していました。

 昭和50年代まで遡ると、以下のような運行形態をとっていました。(便数は時期により若干異なります。)

    ・上市駅−国栖−東吉野村役場前−鷲家−高見平野−杉谷(平日6往復)
     一部高見平野止め便、高見平野を経由しない便がありました。
     鷲家では、榛原駅〜大又便と連絡しており榛原駅方面−鷲家−杉谷方面の乗り継ぎが出来ました。

    ・榛原駅−大宇陀−菟田野町−鷲家−東吉野村役場前−麦谷−大又(平日2往復)
     鷲家では上市〜杉谷便と連絡しており、杉谷方面−鷲家−榛原駅方面の乗り継ぎが出来ました。

    ・榛原駅−大宇陀−守道−鷲家−東吉野村役場前−麦谷−大又(平日6往復)
     一部麦谷止め便がありました。
     鷲家では上市〜杉谷便と連絡しており、杉谷方面−鷲家−榛原駅方面の乗り継ぎが出来ました。
                                    
 現在、これらの路線にはマイクロバスが使用され、スクールバスには、マイクロバスの他、元観光バスが使用されています。
 上記の運行形態から判るように、現在の杉谷方面は、榛原駅発着よりも新子発着の方が便数が多く、新子で上市駅方面に乗り継ぐ形態は、
南伊勢街道のイメージを色濃く残しています。しかし残念ながら、現在街道沿線の生活圏は榛原や桜井と強く結びついているため、上市〜杉谷
を利用する乗客は非常に少ないそうです。

 なお、新子、大又、杉谷の各停留所には車庫とともに宿泊施設があります。

 
たかすみ温泉
@中山忠光を含む
  天誅組本隊の進路
A
@
B
C
D
A松本奎堂、失明し自決
B藤本鉄石、紀州藩陣屋
 に切り込み戦死
C吉村寅太郎、津藩
 の銃弾を浴び戦死
D決死隊の進路(植村定七は彦根藩の包囲を突破しようとして狙撃され、那須信吾は彦根藩分隊長を切り倒して陣屋へ飛び込んで狙撃され、
  宍戸弥四郎は追いつめられ転落した鷲家川から上がろうとして狙撃され、それぞれ絶命しました。また、山下佐吉、林豹吉郎もこの付近で
  絶命しました。)
木 津