最終更新日2008年9月1日('01年10月1日)

 福永光司氏の道教

[日本文化に潜む「道教」を探る]
…….福永光司 朝日新聞1991.12.25夕刊から……文・小林慎也


不老長寿の仙薬、七夕、お中元、七五三、さらに気功法、柔道ーーここから「道教」という答えが引き出せるだろうか。 老子荘子に代表される中国の「道」の哲学、その研究のパイオニアである。
仏教や儒教の陰に埋もれてきた思想に学問の光をあてた。
「土着のシャーマニズムから、国家の指導原理、宇宙観、健康法までを包含する総合哲学。中国仏教や儒教の一部も習合している。 漢方薬のように混成複合が特色だから、西欧型の論理はなじみにくいかも」 日本にはどのように?
「肉と小麦の馬の文化が北回りで、米と魚の船の文化が南回りで、両方とも受け入れた。支配層は仏教と儒教を取り入れたが、 道教も民衆の生活レベルで根付いている。たとえば、太陽と赤い色を女性とするのは南の文化で道教、紅白歌合戦に生きている」
農耕儀礼、祭り、エトなど、米作文化の底辺に潜むもろもろを見ると、現世的現実的な生活の知恵か。
「生命エネルギーをあくまで気でとらえ、いのちは体に宿るとする。魂より体、死より生。医薬や健康法で長寿を願うのもそのため」
学生時代は柔道に励み、戦時中は軍人として中国中南部を歩いて、日本文化との接点を確かめた。京大、東大で中国思想を講義しながら、 膨大な道教文献に挑み、日本文化との関連を堀り起こす。
道教から見ると?「渡来したすべてを重層的に受容し、日本化してゆく。矛盾と対立を生命の本質として同時に存在させる道教に通じる。 自民党集団のように分かりにくいのはこの点。物事を一元的に割り切るのが困難な現代には、混沌の思想がもっとも見直されていい。 少なくとも、日本文化解明には道教のカードを一枚加えて」
       七十三歳。郷里大分県中津市に戻って、さらに少数派の道を説き続ける。


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『道教と古代日本』福永光司著 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行から
1918年大分県中津市生。1842年九月京都帝国大学文学部哲学科卒。中国哲学史。京都大学人文科学研究所教授をへて74ー70年東京大学文学部教授。80ー82年京都大学人文科学研究所長。定年退職のあと関西大学文学部教授。北九州大学外国語学部教授を歴任。


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[一]天皇と道教..........p9..........
. ▲日本の古代文化が中国の土着宗教である道教の思想信仰と明確な関連性を持ち始めるのは、 それまで「きみ」とか「おほきみ」とか呼ばれていたこの国の元首を新しく道教の神学用語である「天皇」の概念を用いて、おごそかに、 またすがすがしく呼び改めた時期からである。その時期は、日本国として初めて中国と正式の国家的な交渉を持った遣隋使派遣の頃、 すなわち聖徳太子が摂政として活躍された六世紀の終わりから七世紀の初めにかけてではないかとする説も有力であるが、 道教との文献実証的に確実な関係ということになるとやはり、それよりも半世紀あまり後れる天武・持統の頃ということになる。

▲持統皇后を生母として天武の皇太子であった草壁皇子(日並皇子尊=ひなみしのみこのみこと)の西暦六八九年四月の若き死を悼んで、 当時の宮廷歌人・柿本人麻呂の作った挽歌(『万葉集』巻二)に、「清御原の宮に神ながら太敷まして天皇(すめろぎ)の敷きます國」 とあるのがそれであり、この挽歌に用いられている「天皇」の語は、その五年前、天武十三年(684)に制定された「八色の姓(やくさのかばね)」が、 中国の道教の神学で神仙世界の高級官僚を意味し、最高神の「天皇」とセットにされている「真人」の称号を、 日本の天皇家の一族のみに賜わる「姓」として採用していることと緊密に対応する。

▲ちなみに、この「真人」の語は、西暦686年9月に崩御された天武天皇の諡「瀛真人(おきのまひと)」としても用いられており、 「瀛真人」(おきのまひと)というのも道教の神学で「瀛州」(えいしゅう)とよばれる海中の神山に住む神仙世界の高級者という意味である。


※日本の古代国家の元首を呼ぶ言葉として新しく採用された「天皇」の概念は右に述べたように本来は中国の土着宗教である道教の神学用語であったが、 この「天皇」という神学的な概念が一たび日本の古代で国家元首を新しく呼ぶ言葉として採用されるようになると、 その日本国の国家元首もまた必然的に「天皇」の概念が本来的に持っていたさまざまな道教的性格をほとんどそのまま継承することになる。…『道教と古代日本』福永光司著……p10以下略……

[二]天皇と神器
▲道教の神学において、最高神である天皇(天皇大帝)は、その宗教的神聖性の象徴として二種の神器を持つとされる。鏡と剣とがそれであり、「神器」という言葉も道教の経典である「道徳真経」(『老子』)第二十九章などにその用例が見えている。

▲鏡を天皇の神姫とする道教の神学思想の源流は、同じく道教の教典である「南華真経」(『荘子』)に「至人の心を用うるは鏡の若ごとし」(応帝王篇)「聖人の心は天地の鑑なり。万物の鏡なり」(天道篇)などとあるのに指摘されるが、この道教の神学と直接的に関連する典拠としては、漢代の識緯思想文献、いわゆる緯書(『春秋孔録法』)の中に「人有り卯金刀、天鏡を握る」とあるのなどが注目される。

▲西暦七一二年、元明天皇の和銅五年に成った『古事記』の天孫降臨の記述において、天照大御神が邇邇芸命に体し、「此れの鏡は、専ら我が御魂として吾が前を拝いつくがごと拝きまつれ」と詔しておられるのも、鏡を至人もしくは聖人の心、ないしは漢の王朝の劉(卯金刀)氏の皇帝権力の神聖性の象徴と見るこれらの道教的思想信仰と密接な関連性を持つ。

▲一方また、剣を皇帝権力の神聖性の象徴とする道教的思想信仰も、漢の王朝の創始者・高祖劉邦の斬蛇剣の神話として既に古く『史記』や『漢書』に記述が見え、六朝時代の道教神学の確立者・陶弘景の撰著『古今刀剣録』にも、このような神剣・霊剣の宗教的神秘性ないし神聖性の具体的記述が見えている。同じく『古事記』の須佐之男命の”斬蛇剣”である「草那芸の太刀」が神剣として天照大御神に献上され、その神剣がまた天孫降臨の際に邇邇芸命に下賜され、その下賜された神剣がさらにまた「伊勢の大御神の宮」で倭比売命(やまとひめのみこと)から甥の倭建命に授けられて、遂に尾張の熱田神宮に奉祀されることになる顛末、道教の剣の思想信仰と密接な関連性を持つ。

※道教の神学における鏡と剣を二種の神器とする思想信仰は、中国の六朝時代、『抱朴子』の著者・葛洪や『真誥』編著者・陶弘景らによって、その理論的基礎が確立されるが、この二種の神器の思想信仰を日本の天皇の皇位の象徴として、ほとんど直訳的に採り入れているのは、八世紀始めに成った『日本書紀』である。…『道教と古代日本』福永光司著……p12……

[三]天皇と八角形
▲紫宸殿の中央に「高御座」が置かれ、その構造は明確に八角形となっている。この高御座は西暦一九一四年、大正天皇御即位の際に特に古式に則って造られたというが、一方また遠く古代に遡って、奈良の飛鳥の地域には七世紀後半に造られた天皇の御陵墓が幾つかあり、それらの構造も平面の形がそれぞれ八角となっている。

▲さらにまた鎌倉時代に書かれたとされる神道書『皇太神御鎮座伝記』などの記述によれば、伊勢の神宮(内宮)の御神体とされている鏡もまた「八咫(やた)」もしくは「八頭、八葉形」すなわち一種の八角形であるといい、ごく最近に刊行された考古学関係の学術討論書『難波京と古代の大阪』(直木孝次郎編、学生社)をよむと、孝徳朝もしくは天武朝の前期難波宮遺跡からも「八角殿院」と呼ばれている宮殿建築の八角形礎石が発掘されたという。

▲いずれも日本国の天皇と八角形とが密接な関連性を持つことを示す遺跡遺構の実在であるが、この関連性を有力に裏付ける古代文献資料もまた容易に列挙される。例えば『古事記』の太安万侶の「序」「天武天皇、乾符を握りて六合を總(糸辺を手辺)べ、天統を得て八荒を包みたまう」と記しているのがそれであり、同じく『日本書紀』(神武紀)に天皇の橿原宮における即位前年の詔令として「六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為す云々」を載せているのなどがそれである。文中の「八紘」は「八荒」と同義で宇宙もしくは世界の全体を八角形として把握認識することを意味し、同じく全宇宙(世界)を意味する「六合」(『南華真経』斉物論篇)の語と共に道教の教典『淮南鴻烈』原道篇などに初見する。

※そして『古事記』の「序」にいわゆる「八荒を包みたまう」、もしくは『日本書紀』(神武紀)にいわゆる「八紘を掩いて宇と為す」などの表現も、 道教の神学における宇宙の最高神・天皇(天皇大帝)の八紘(八荒)すなわち無限大の八角形の中心に高御座を置いて、 全宇宙(世界)を一宇(一家)として統治する神聖な政治理想を意味するものにほかならず、この神聖な政治理想はまた道教の神学において、 しばしば「天下太平」もしくは「天下太和」とも呼ばれている。いわゆる「八紘為宇」もしくは「八紘一宇」とは、 道教の最高神・天皇(天皇大帝)の神聖な政治理想であると共に日本国の天皇の神聖な政治理想でもあった。……p14……『道教と古代日本』福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院

[四]天皇と紫色
▲神戸の町の出身である、故・吉川幸次郎先生が、ご生前、東京の皇居で天皇陛下にいわゆる御前講議を行われたことがあった。その時の陛下からのご下賜品を京都のご自宅で奥様から披露して頂いたが、ご下賜の品々は真っ白く菊のご紋章を染め抜いた鮮やかな紫色の風呂敷に包まれていた。紫色は菊のご紋章と共に日本国の天皇ないし天皇家を象徴する尊貴な色であった。そして菊と呼ばれる植物の愛好が古くその由来を中国に持つように、紫色の尊重もまた遠くその思想的源流を中国に持つ。

▲もともと中国の思想史で永く正統の座を占めてきた儒教の教義では「紫の朱を奪うを悪にくむ」という孔子の言葉(『論語』陽貨篇)が何よりも端的に示しているように、紫色は憎むべき反価値的な色であった。その紫色が西暦前三ー二世紀、秦漢の時代から宇宙の最高神として文献上に出現する太一神の住む宮殿を象徴する尊貴な色とされ(『淮南鴻烈』天文篇)、ないしは太一神を祭る漢の皇帝たちの甘泉宮に設けた祀壇もしくは祭場の幄とばりを象徴する聖なる色とされるのは(『漢書』礼楽志、『文選』揚雄「甘泉賦)、太一神が漢代に北極星の神格化されたものと解釈され、その北極星の天空から地上に放つ光芒が紫色とされたからであった。

▲宇宙の最高神としての太一神は、西暦紀元前後、中国の前漢末期から後漢初期にかけて多数成立するいわゆる『緯書』の中に見える宇宙の最高神・天皇大帝と、その最高神である唯一絶対性の故に同一視され、この天皇大帝の住む天上世界の宮殿がまた紫宮もしくは紫微宮(紫宸殿)と呼ばれるに至る。北極星の神格化である天皇大帝を二字に略して「天皇」と呼び、その天皇の住む天上世界の宮殿を明確に「紫宮」と呼んでいるのは、二世紀、後漢の張衡の「思玄賦」(『文選』巻十六)であるが、天上世界の天皇(天皇大帝)の委託を受けて地上の世界に君臨する皇帝(天子)の宮殿を同じく紫宮と呼んでいるのは、四ー六世紀、北中国を強力に支配して道教を国境とした北魏の王朝であった。

▲日本国の天皇(天子)もしくは天皇家を象徴する聖なる色を紫とする思想信仰もまた、この北魏の王朝にその源流を持つと見てよいであろう。 ……p14……『道教と古代日本』福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院p………

[五]天皇と神宮
▲この神戸という町の名と最も親近感を持つ漢語を一つだけ挙げよと問われれば、私は躊躇することなく「神宮」と答えたい。そもそも「神戸」とは神宮に充てられた民戸の意で、 『日本書紀』の成立に先立つこと二年、西暦七一八年に藤原不比等らによって撰定されたという『養老令』神祇令にも「凡そ神戸の調庸及び田租は、並びに神宮を造り、 及び神に供する調度に充てよ」とあるからである。

▲この「神宮」という漢語は、『日本書紀』景行紀によれば、日本武尊が東夷の征討に向かわれる途中、「伊勢神宮を拝み、仍よりて倭姫命に辞す云々」と見え、 同じく垂仁紀によれば、その伊勢神宮というのは皇室の遠祖とされる天照大神が、「この常世の浪の重波帰(しきなみよ)する国に居らむと欲す」と誨(おしえ)られたので、 この伊勢の国の五十鈴の川上に造営されたのであるという。

▲皇室の遠祖を祭る宮殿を「神宮」と呼ぶことは、中国最古の歌謡集『詩経』(魯頌)「悶宮(ひきゅう)の神楽歌の鄭玄(127-200)注に、 「(周王朝の)遠祖たる「姜女原」きょうげんの神(霊)の依る所、故に廟を神宮という」とあるのに基づく。

(「姜女原」も女性神)、この神宮が造営された伊勢の国が「常世の浪の重波帰するところ」という「常世」もまた、同じく垂仁紀に「常世の国とは神仙の秘区にして俗(人)の臻(いた)らむ所に非ず」などとみえている。

※天皇の遠祖とされる天照大神を祭る伊勢神宮の御神体が鏡であり、鏡であることが即ち道教の宗教哲学と密接な関連性を持つことについては既に述べたが、 天照大神の「大神」という言葉の使用、神宮を内宮と外宮に分かち、斎宮、斎館、斎王、采女等々を置くことなども、 それらの用語と共に道教をその代表とする中国古代の宗教思想ないし制度と密接な関連性を持つ。 西暦九世紀の初め、 桓武天皇の延暦二十三年に伊勢神宮の神職から朝廷に献上されている『皇太神宮儀式帳』によれば、 神宮の儀式儀礼の多くは道教ないし中国古代の宗教思想信仰と密接な関連性を持ち、 例えば祭祀に用いる「幣帛」や「五穀」「人形(ひとがた)」 や「五色の薄アイコン(うすぎぬ)」、神職の用いる「明衣」、 「アイコン(も)」、「袴」に至るまで、 道教的な中国のそれが大幅に採り入れられている。

[六]天皇と神道
▲「神道」という言葉が中国の思想文献で最も古く見えているのは、『易経』の「観」の卦の彖伝である。彖伝というのは、『易経』の六十四卦のそれぞれについて一卦の持つ総体的な意味を解説した文章であり、「観」の卦の彖伝の文章は、「盥いて薦めず、孚有てうやうやし。下観て化するなり。天の神道に観て四時たがわず、聖人は神道を以て教えを設けて天下服す」となっている。

▲神を祭る場合には先ず手を洗って心身を浄める。そして、お供物などをすすめる前の、これからお祭りを行なうという精神の緊張した状態こそ真心がこもっていて敬虔さの極致であり、しもじもの人間に対して偉大な政治的感化力を持つ。聖人すなわち最高の有徳の為政者は、春夏秋冬、季節の循環に規則正しい大自然の世界の、神秘霊妙な造化の真理を観察して、その真理に基づく政治教化を実践していく。かくして全世界の人間が悉くその政治教化に服従し、天下の太平と天地の太和とがこの地上の世界に実現するというのが、この文章の大意である。

▲そして、このような天下の太平と天地の太和の実現を天上世界の皇帝である「天皇」と結びつけて、『易経』よりもさらに徹底した宗教的信仰の立場で「神道」=神の世界の真理を強調しているのは、二世紀の半ば、中国の山東瑯邪の地区で「天神」から「神書」=神道の聖書=として道術の士の干吉に授与されたという『太平清領書』(『太平経』)百七十卷である。

▲わが日本国において「神道」という漢語を最初に用いているのは、八世紀の初め、 元正天皇の養老四年(720)に成った『日本書記』であるが、例えば「天皇、仏法を信じて神道を尊ぶ」(用明記)、 また「天皇、仏法を尊び神道を軽んず」(孝徳紀)などという「神道」の概念の使用法は、上記干吉の『太平清領書』(太平経)のそれに最も近い。……p18……『道教と古代日本』福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院


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「古代信仰と道教」『道教と古代日本』福永光司著 p19
[一]大君は神にしませばー『万葉集』の五首……p19…… 五回出る言葉。……p19……『道教と古代日本』福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院
中国年号の使用。……p20……『道教と古代日本』福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院
「天皇」も中国語。……p23……『道教と古代日本』福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院
皇子をさす大君。……p25……『道教と古代日本』福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院


「大君は神」の源流をさぐる。……p27…

そこで「大君は神にしませば」の「神」というのは、どういうものであるのか、また大君は神でおいでなさるという思想、あるいは信仰は、どのような源流を持つのかということです。これを中国宗教思想史の専門研究者として問題にしてみたいというのが、私の話の主題となります。

▲さて、以上の五つの歌に共通していることは、「おおきみ」に漢字として「王」「大王」「皇」などが当てられていることですが、これらはいずれも現実世界で王者である「人」です。政治的な最高の地位にいる人であり、一般民衆とは違いますが、やはり人間なんです。

「大君」は人である、あるいは人で王者である人間ですが、要するに「人」です。ところが「大君は神にしませば」というのは、その人が人であると同時に神であるというのです。人でありながら同時に神であるという、そういった考え方が、古代の日本でどのようにして成立してきたのかということを、私は問題にしたいのです。……p27……

▲この問題を考えていく場合に、大きく分けて二つの方向が成立します。第一の方向は、これまで日本で戦前からやってきた研究の仕方です。この仕方を最も良く代表するのは、折口信夫さんたちの民俗学のそれではないかと思いますが
、古代日本に古くからーだいたい、縄文期あたりからと考えていいかと思いますがー政治的な支配者を神と考える、つまり、天上世界に住む超越者と同じであると見なす、もしくは超越者が天上世界から降りてきて人の姿をとっていると見る思想信仰があった、あるいは、あったはずだということで研究していく方向です。これを仮に縦軸の方向と呼ぶことにします。そしてこの方向は、政治的支配者である大君を神である、もしくは、神として信仰するという考え方が古代日本のいつころから始まってくるのかということはしばらくおくとして、?あくまで日本の古代から独自に始まったであろうということを前提にする研究の立場です。……p28……

▲この縦軸の方向に対して、もう一つの考え方は横軸の方向です。横軸の方向といいますのは、古代の日本が大陸の文化と接触し交渉を持つ時期、この時期は普通に弥生期と呼ばれていますが、この弥生期を代表するのは水稲稲作と金属文化とされています。この弥生期以後に?大君を神とする古代日本の思想、信仰が大陸から持ち込まれてきたのではないかという方向で考える研究者の立場です。……p28……

縦軸の方向の研究は、戦前のいわゆる民俗学を中心として、特に
柳田さんや折口さん などの民俗学が有名ですが、それに対して横軸の方向を積極的に検討してみようという考え方は、むしろ戦後に新しく出てきた動きで、私などはやはり横軸の方向を重く視る立場です。 私は中国学の専門研究者として最近は中国宗教思想史の研究に重点をおいていますので、日本古代の宗教思想を、 同時期の中国の宗教思想と比較検討することによって明らかにしていきたいと考えています。……p28……

未発達の道教研究…『道教と古代日本』福永光司著……p29……
▲この中国の宗教思想を代表するものは道教です。道教とは何かという学問的な定義は、いろいろむずかしい問題をかかえていますが、 わかりやすくいえば中国固有の土着的な宗教思想信仰のすべてをさすと、おおざっぱに考えられてけっこうです。 中国民族の中核をなす漢民族の古くからの宗教的思想信仰を集大成して、民族宗教として整備されたものが道教です。 この道教の宗教思想と日本古代のそれとを比較検討していくわけですが、比較検討していくためには、 まず中国の宗教思想の歴史を正確に研究し整理しなければ比較検討の仕様がありません。……p29……

▲ところが現在もそうですが、中国の宗教思想を全体として統合する歴史的な研究は、これまでほとんど本格的に行われておりません。それには、 いろいろな理由や事情があげられますが、中国の宗教思想史の研究を日本古代のそれとの関連で積極的に進めていきますと、 どうしても日本の天皇の思想信仰、あるいは皇室のあり方といろいろなかかわりを持ってきます。ないしは日本の神道、 国体の問題とも密接にかかわってきますから、戦前は、そういった研究はできるだけ避けて通るしかありませんでした。 …『道教と古代日本』福永光司著……p29……

▲戦後は日本の天皇が終戦直後にいわゆる人間宣言をなさいましたから、学問的に研究することは可能になりましたが、学問的研究というものは、さあやれ、 といったところで急にできるわけのものではありません。日本の宗教的思想信仰と中国の道教を比較検討しようとしても、 いきなり研究を進めることはできないわけです。比較検討する必要があるということは、日本の学会の研究者たちも気付いておられる方が多いと思いますが、 そう簡単に中国の道教文献資料を整理し、それの解読ができるというわけのものでもありません。特に戦後は戦前に比べて、漢文の教育が中学校、 高等学校で弱体化されており、戦後の研究者たちは古典中国語、つまり漢文の読解能力が非常に落ちてきているという事情もあり、 こうした分野の学問研究がまだ十分に進められていないのです。

そういう私自身にしても、こういった研究に近頃ようやく着手したばかりであり、まだ十分な成果も擧げておりませんが、 ここでは、その見通し程度のことをあらまし申し上げてみたいと思います。…『道教と古代日本』福永光司著……p30……

鏡は神人の象徴…『道教と古代日本』福永光司著……p30……
道教思想からきた神社の幡…『道教と古代日本』福永光司著……p32……

宗教心篤い天武天皇…『道教と古代日本』福永光司著……p33……
▲そこで次に、私の話の主題である大君を神とする日本の古代信仰、具体的には『万葉集』の「大君は神にしませば」の歌における「人」 (大君)と「神」とを一体化する思想信仰の源流を横軸の方向から検討してみたいと思います。その場合、問題を考えていく上の手がかり、 ヒントとして以下のような点を特に注目しておきたいと思います。…『道教と古代日本』福永光司著……p33……

▲それは既にふれましたように、『万葉集』の中に全部で五首ある「大君は神にしませば」で始まる歌が、いずれも天武天皇か、天皇の皇子か、 その皇后である持統女帝と密接な関連を持っているという事実です。作者は四二六〇番の歌が大伴御行、二三五番の歌が柿本人麻呂、 二〇四番の反歌が置始東人などとなっていますが、歌の作者はそれぞれに違っていても、 歌われている内容はみんな天武天皇のご系列と深いかかわりを持っています。だとすれば、 「大君は神にしませば」と歌う「神」の意味を考える手がかりとして、まず天武天皇という方と「神」 との関係ないし宗教的な思想信仰とのかかわりを見ていく必要があります。…『道教と古代日本』福永光司著……p34……


▲その場合に注目されることは、天武天皇という方は一般的に言って大変に宗教心の篤いお方であらせられたということです。 すなわち『日本書紀』の天武紀を見てみますと、天皇は即位されると、すぐに大津皇子の実姉である大来皇女(おおくのひめみこ) 伊勢神宮に奉仕するため派遣されようとして泊瀬(はつせ)斎宮に居(はべ)らしめておられます。ここで、ちなみに申しますと、
『日本書紀』にいわゆる伊勢神宮の「神宮」というのは、 中国で周の王朝の始祖とされる姜アイコン(女性神)を祀った廟〈みたまや〉をよぶ言葉であり(『詩経』魯頌の悶宮〈ひつきゅう〉の詩の鄭玄の注)、 「斎宮」というのも中国の古典『国語』や『漢書』などに見える宗教用語です。日本書紀の神宮・斎宮などの語が、 これらの中国語をそのまま用いていることは間違いありません。…『道教と古代日本』福永光司著……p34〜以下略……

天武天皇と道教…『道教と古代日本』福永光司著……p35……
▲唐の皇帝たちは、中国伝統の宗教である道教を国教として尊崇すると共に、外来の宗教である仏教をも併せ信奉しました。 天武天皇もまたその皇帝たち、とくに天武と同時代の唐の皇帝で熱烈な道教信奉者であり。 みずからを「天皇」とも呼んでいた高宗の存在に注目されていたと思われます。といいますのは、 日本の天武天皇も中国の高宗と同様に仏教を重んじ三宝を礼拝すると共に道教に対しても積極的な関心を持たれ、 それを政治的な施策の中にも取り入れておられるからであります。たとえば天武天皇は即位四年に「始めて占星台を興され」、 「風神を龍田の立野に祠って」おられますが、占星台や風神の祠りは、それこそ道教と密接な関連を持つ、もしくは道教そのものの行事です。 …『道教と古代日本』福永光司著……p35〜38……

天武の皇子と道教…『道教と古代日本』福永光司著……p38……
▲天武天皇が大陸の道教と密接な関係を持っておられること以上のごとくでありますが、このことは天武の皇子たち、たとえば忍壁皇子や弓削皇子らが、 また道教の神仙信仰とさまざまなかかわりを持っておられること、さらには天武の皇后である持統女帝が、 道教の神仙信仰と深いかかわりを持っておられたことなどからも裏づけられます。 …『道教と古代日本』福永光司著……p40以下略……

持統天皇と道教…『道教と古代日本』福永光司著……p40……
以上は、天武の皇子たちと道教の神仙信仰との関係を、忍壁と弓削の二皇子を代表的な例として見てきたのでありますが、 同じようなことは天武の皇后であらせられた持統女帝に関しても指摘されます。持統女帝は『日本書紀』によりますと、 「始めより今に迄るまでに天皇を佐けまつりて天下を定めたまふ。…言、政事に及びて佐け補う所多し…」と記されております。 とくに「天武天皇、始めて体不安」となられた十四年の五月からは、持統女帝が政事の万端を取りしきられたようですが、 その年の秋七月に「諸国に詔して大解除」を行ない、「弊(みてぐら)を飛鳥の四社や住吉大神などに奉り」、『金光明経』を宮中で読ませ、 飛鳥と改元されていることなども持統の指示によるものと思われます。 そして天武の病気平癒を祈願することのような「大解除」や「奉弊や「改元」の処置などは、 唐の王朝で皇帝の病気平癒のために行われている宗教的行事とほとんど同類のものであり、道教の思想信仰とも密接な関係を持ちます。…『道教と古代日本』福永光司著…以下略…p40……

[三]道教の神観念…『道教と古代日本』福永光司著……p42……
道教の教理から移入された神…『道教と古代日本』福永光司著……p42……
神人と現人神…『道教と古代日本』福永光司著……p44……
現人神は仏教思想…『道教と古代日本』福永光司著……p45……


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「古代日本と江南の道教」p48
古代日本と呉国との交流
古代日本と中国の江南はたいへん密接な関係を持っていましたが、そのことは日本古代の文献である『古事記』『日本書紀』、とくに『日本書紀』の記述、それから考古学の発掘物などによってはっきりと証明されています。たとえば、『日本書紀』を見ますと、中国の江南は多くの場合、呉と」という言い方をしています。呉というのは狭い意味では現在の江蘇省の蘇州、広い意味では蘇州を中心にした江南の地域一般を指しますが、広い意味の呉の地域、つまり江南と古代日本の交渉について、とくに注目されるのは織物の技術です。古代日本の織物の技術は全面的と言っていいほど江南から、つまり呉の地域からやってきているということが、『日本書記』の記事で証明されます。 たとえば、この大阪ともたいへん密接な関係を持っている応神天皇の三十七年春二月の記述を見ますと、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つがのおみ)を呉の国に派遣して、縫工女(きぬぬいひめ)を求めさせたということが書かれています。応神天皇の三十七年というのは、西暦でいうと四世紀の始めで、普通は三〇六に当てていますが、そのころ阿知使主・都加使主を呉の国に派遣しています。ただし、使主という言葉が示すように、 阿知使主も都加使主も朝鮮系の人物です。 ですから、彼らはそういう使命を受けますと、まず高霊国に行っています。この当時は中国に行く場合、 パイロットに新羅とか高句霊の人たちをチャーターしていますが、この場合も高霊国に行って、呉の国、つまり中国の江南に行きたいんだけども、 道案内を世話してくれと頼み、そこで、高霊の王(こきし)は二人を道案内として与えたので、無事に江南に着くことができた、 そして江南地区を政治的に支配している呉の王様は、 阿知使主と都加使主に兄媛・弟媛・呉織・穴織(えひめ・おとひめ・くれはとり・あなはとり)という四人の女性を与えたと『日本書記』書いていますが、 もちろん彼女らを日本に連れて帰ったわけです。 同じような記事が、それより約百五十年ほどのちの雄略天皇の十四年にも書かれています。 《四世紀あるいは五世紀頃、河南すなわち、江南地方との交流は頻繁であったと推察される。Kino》p49

▲『史記』封禅書に具体的な記述が見えている瑯邪八神の祭り、この八神の祭りは古代日本文化に大きな影響を与えており、大阪奈良滋賀和歌山に多い兵主神社は、武器もしくは武神をお祭りする神社で、熱田神宮もこの系列です。
★茅山を訪ねて。      ★石上神宮の七支刀。     ★天寿国繍帳の曼茶羅図。
★明日香と道教。      ★伊勢神宮と道教。      ★日本の神社、神宮と道教。
★太安万侶と道教。     ★『古事記』神話と道教神学。 ★『古事記』の「天地開闢」神話。
★道教の中の仏教と仏教の中の道教。            ★『無量寿経』と道教。


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「古代日本と江南の道教」p55
道教の学問的な研究の場合も、キリスト教のバイブルや仏教の一切教にあたるものが現在もちゃんとあるわけです。道教の一切教について、日本古代との関連で現存最古のものをひとつだけ挙げてみますと、

▲わが国の『古事記』が書かれた712年よりも約一世紀半前の570年代、つまり六世紀の後半、北周の時代に書かれた道教の神学大全ともよぶべき一種の教理全集が現在も残っております。その教理百科全書を『無上秘要』とよびますが、この上なく尊い道教の教のエッセンスを記録したものという意味で、全部で百巻ありました。それが北周の武帝の時代、西暦の570年代に編纂されていますが、現在はその中の三十二巻が失われて、六十八巻残っております。この全書の具体的な内容によって、六世紀後半段階の中国で道教がどういう状況であったか、どういう神学教理もしくは宗教哲学を持っていたかということが一応わかるわけです。

この『旡上秘要』を編纂している六世紀の北周は、漢の異民族である鮮卑族(朝鮮系)が建てた王朝であり、同じく鮮卑族の建てたその前の王朝である東魏や北魏と共に、朝鮮を経由して古代の日本とたいへん密接な関係を持っております。

▲『无上秘要』巻四四〜四六  太平部七七三所収。北周武帝(561〜577在位)のころの撰。道教における類書として一〇〇巻から成る大冊(現行本は一部欠佚)であるが、上記の三巻には当時における代表的な戒を収める。戒文をあつめた文献として最古のものと思われる。………p55………『道教と古代日本』、福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院

江南の道教と古代日本」…p77
▲したがって、江南の道教を思想哲学という面から研究しようとすれば、いちばん中心になる文献は、この『真誥』と、『真誥』より二世紀ほど前に書かれた葛洪の『抱朴子』だということになります。『抱朴子』は近ごろの学者の研究では西暦三一七年頃に成立したと推定されますので、ほぼ二〇〇年ほど前になるわけです。それから、これは江南ではなく北中国の北周という王朝の武帝(560〜578在位)の時代に、すでにのべましたように、『真誥』の著作より約半世紀おくれて、『無上秘要』とよばれる道教の教理百科全書が編纂されます。この全書には江南で書かれた『抱朴子』や『真誥』などの学説思想大幅に取り入れられている上に、編纂されたのが古代の朝鮮と密接な関連を持つ北周の王朝ですから、したがってまた古代の日本とも密接な関連を持ちます。かくて古代日本と江南の道教との関係を調べようとすれば、『抱朴子』と『真誥』、それに『無上秘要』の三書が基本的で重要な文献資料ということになります。この三種の文献に記述されている道教の神学教理ないし思想哲学を、先に述べましたような日本の古代文献の内容と比べ合わせていきますと、日本古代の宗教文化と中国江南の道教との影響関係がかなり明確となっていきます。 ……p78中略……福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院


太安万侶と道教学
▲西暦七一ニ年、元明女帝の和銅五年に成った『古事記』の撰述者およびその序文の撰者として広く知られ、また多人長の『日本紀弘仁私記』の序文などによれば、『日本書紀』の撰述にも参与していたといわれる太安万侶(安麻呂)の墓誌が、奈良市比瀬町の茶畑の中から発掘されたのは、この数年前、昭和五十四年(1979)一月二十日のことであった。 その後、学友上山春平氏の教示によれば、安万侶の没した元正女帝の養老七年(723)の三年前、すなわち養老四年(720)に成った『日本書紀』の中にも「卒之」と同じように人の死歿を意味して「死之」「崩之」「薨之」などの用例が見えているとのことであるが、その教示を受けて私が容易に想起したのは、中国六朝隋唐の道教文献に「卒之」ないし「薨之」の「之」の字と同類の表記法、すなわち動詞と結合して実質的には殆ど意味を持たない「之」の字が文末で終助詞的に用いられている幾つかの例であった。 p142…『道教と古代日本』、福永光司著1990年四月十日五刷発行人文書院

▲太安万侶の『古事記』序が漢文で書かれている以上、彼が中国古典学一般に関する深く豊かな知識教養、ないしはすぐれた古典読解能力、語学力を持っていたであろうことは改めて言うまでもないが、たんにそれだけではこの漢文の『古事記』序は書けなかったのではなかろうか、どうしてもこの序文が書かれた元明女帝の和銅五年(712)以前、すなわち中国の六朝隋唐の道教教理に関する直接的間接的な知識教養、したがってまた道教教理書の読解能力、語学力を当然に必要としたのではないかという疑念である。

▲試みに岩波の日本古典文学大系本『古事記』の注釈および同類の数冊の『古事記』注釈書をひもといてみたが、そのこと(六朝隋唐期の道教教理書との関係)言及している記述は殆ど見あたらなかった。なかには『淮南子』や『列子』『枕中書』や『三五暦記』などの道教文献を典拠として挙げている注釈も全くないわけではないが、安万侶の『古事記』序の漢文が下敷きにしていると推定される思想表現の語彙成句などは、これら魏西晋期ごろまでの文献よりもいっそう後次的に成立し整備された六朝後半の道教教理書のなかに多く見られるものである。p144………『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行から 

『古事記』序の文章表現p145
▲太安万侶の『古事記』序の漢文が全体の構成において中国唐代に書かれた長存無忌(?〜659)の『五経正義を進たてまつる表』などを下敷きにしているであろうという推定は、 既に早く岡田正之氏の名著『近江奈良朝の漢文学』(「古事記の撰録と其の上表」)で記述されているところであり、おそらくこの推定は当を得ているであろう。

次に比較検討の便宜のため岡田氏の書中に掲げていない長存無忌の「進五経正義表」(『全唐文』巻百三十六)の『古事記』序と対応する冒頭の部分および末尾の文章を書き下し文に改めて挙げておく。

※臣無忌言もうす。臣聞く、混元初めて開け、三極の道分かれたり。醇徳既に酉璃(うす)くして六籍の文著あらわる。是に於いて亀書は温洛に浮かびて爰に九疇を演のべ、 龍図は栄河に出でて以て八卦を彰あきらかにす。
故に能く天地を範囲し、陰陽を堪延埴し、道は四冥を済すくい、知は万物に周あまねし。所以に七教八政、炯誠を百王に垂れ、五始六虚、徽範を千古に貽のこす。 詠歌は得失の跡を明らかにし、雅頌は興廃の由を表わす。実に刑政の紀綱にして乃ち人倫の隠括なり。…謹みて以て上聞し、伏して戦越を増す。謹み言す。永徽四年(653)。二月二十四日。 太尉、揚州都督、臣無忌等上たてまつる。
………146………道教と古代日本……福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行から

臣安万侶言。夫混元既凝。気象未効。無名無為、誰知其形。然乾坤初分、参神作造化之首。陰陽斯開、二霊為群品之祖。所以出入幽顕、日月彰於洗目。浮沈海水、 神祇呈於滌身。故太素杳冥、因本教而識孕土産嶋之時、元始綿猊、頼先聖而察生神立人之世。寔知懸鏡吐珠而王相続、喫剣切蛇以万神蕃息歟。議安河而平天下、論小浜而清国土。 是以番仁岐命初降于高千嶺、神倭天皇経歴于秋津嶋。………147………

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『無量寿経』と道教
▲…p224前略…特に本日は浄土真宗の大学であります大谷大学での行事でございますので、そうゆうことからもやはりこの「習俗と宗教」ということに重点をおいてお話しした方がいいんではないかーこうゆうふうに思いました。
そこで、このサブタイトルの「習俗と宗教」の「習俗」ということの意味を、中国の土俗的、土着的な呪術信仰というふうに理解させていただきまして、そういった中国の土着的、土俗的な呪術信仰を集大成する形で、西暦後ニ世紀の中ごろに宗教として成立しました道教を取りあげてみたいと思います。道教を中国の土着的伝統的な習俗を代表するものとして、この習俗にたいするもう一方の宗教、いわゆる中国仏教と、この土俗的な呪術信仰を集大成する道教とがどういう関係をもっているのか、というふうなことについてお話し申し上げてみたいと思います。…p225…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行 

『無量寿経』漢訳前後の中国宗教界
▲…p225…ところで中国仏教と申しましても、ご承知のようにたいへん範囲が広うございます。そこで本日は、その中国仏教の中でも経典を中心にお話ししたい。経典の中でも特に漢訳仏典の『無量寿経』を中心にお話ししたい。
と申しますのは、漢訳の『無量寿経』の中で、「自然」(じねん)という言葉が五十六回も使われています。そこで「東洋文化における「自然」という問題を考える一番手近な経典、仏教経典として『無量寿経』を取りあげ、その『無量寿経』の中の自然という言葉を中心にして、それと関連をもつ「道」という言葉ーもともと中国で自然という言葉は道という言葉の説明語として成立してきているわけですから、この道という概念を取りあげる。それからその道を説明する自然、さらに「無為自然」。これも『無量寿経』の中で重要な教理との関わりで、無為自然というこの老荘道教の言葉が四回も使われております。『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲それから親鸞さんが自分の教えを浄土真宗とおっしゃいました。その「浄土」という言葉が実は秦漢時代の神仙信仰でいわゆる清浄の国土、これを二字に詰めた言葉なんですね。「清浄」という言葉も、仏教の入る以前から『史記』の始皇本記などで神仙信仰と関連してずっと使われている道教的な概念です。そして、その教えを浄土真宗と呼んでいる「真」という言葉も、これは老荘の哲学ないし道教の宗教哲学の中の根本的な概念でありますから、そういったような関連をも考慮して『無量寿経』の中で「自然」という思想がどういうふうに考えられているのか、その考え方がまた親鸞聖人にどういうふうに関わりをもっているのか、といったようなことを、あらまし話させていただきたいと思います。 …p225…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行 

▲漢訳『無量寿経』は、唐の時代に書かれました『大唐内典録』などによりますと、三世紀の半ば、三国魏の時代に、洛陽の白馬寺で漢訳されたというふうに書かれております。この三世紀の半ばの中国思想界はどういう状況であったかと申しますと、三世紀の初めまで普通に三張道教といわれています道教の大規模な宗教一揆が、果敢に国家権力との闘争を展開しております。しかしこれは魏の曹操によって弾圧されて、三張の最後の張ー張陵、張衡、張魯と続く最後の張魯が曹操の軍門に降伏する。したがって張魯は当然に殺されるところでありますけれども、張魯のお母さんがたいへんな美人で、その身代わりで命を助けられ、政治とセパレートされた宗教運動だけは認められて、張魯の子の張盛のとき、現在の中国の江西省にある龍虎山に移動して、そこで現在なでずっと続くことになります。この道教の最高指導者を『荘子』(徐無鬼篇)に従って天師と呼びますが、現在の天師は今、台湾に移っておられますけれども、子孫がそのまま法統を継いでおられます。そういう道教の盛んな時代ですね。張魯の降伏が西暦二一五年のことです。そしてこのころにこの張魯教団の幹部教育用の教科書であったと推定されます『老子想爾注』という文献が、これは完全な形ではありませんけれども、シルクロードの敦煌から今世紀の初めに出土しております。…p227…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲これは一種の道教教理書ですけれども、この『老子想爾注』という道教文献が、三世紀の半ばに訳された浄土真衆の最高経典である『無量寿経』と、翻訳に使われている言葉や考え方などで共通するものが少なくないということですね。これは親鸞さんの浄土真宗を考える上で是非念頭においていただきたいと思います。それからこの『無量寿経』が漢訳された当時の洛陽という町は後漢の首都でありました。

▲次の三国魏の時代の首都は、今の河北省にある臨アイコンの町で、昔の名前はアイコン 。このアイコン の町と洛陽の町は、今日の日本でいえば東京と京都のような関係にあります。ここは普通の中国思想史に書いてありますように、このころ全盛期を迎えました魏晋の老荘思想の思想家たちが拠点を置いたところ、それがこの洛陽の町です。…中略…
このような阮籍やアイコン康を中心とする竹林の七賢は道教との関係を密接にもつ老荘思想家であり、彼らが活躍した場所がこの洛陽ですから、そういった時代、そういった場所で訳された『無量寿経』の内容が非常に中国くさいものになるということは、当然考えられる。…p228…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲十七世紀にキリスト教が中国にやってきますと、やはり中国で布教するためには中国土着の宗教である道教調和しなければだめであるという考え方とこれは同じですね。中国土着の宗教である道教のいろいろな宗教用語をキリスト教がまた訳語に使います。たとえばキリスト教のことを天主教と申しますけれども、天主というのは道教の天帝を呼ぶ宗教用語ですね。マリアを聖母と申しますけれども、聖母という言葉も道教の宗教用語をキリスト教が訳語として使ったわけですね。またバイブルを聖書といいますが、聖書という言葉も道教で使う言葉です。したがってキリスト教は中国では、二十世紀の初めまで神道という言葉で呼ばれていたわけです。上海で十九世紀の終わりにキリスト教叢書が中国語でだされていますけれども、何のことわりもなしに、ただ『神道叢書』と銘うっております。初め私は上海でどうして日本の神道が叢書の形で出版されたのだろうとたいへん不思議に思っていたんですけれども、中を読んでみますと、キリスト教の教理叢書であるということがわかりました。…p228…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行 

『無量寿経』・老荘・六朝道教の関係…p228…『道教と古代日本』福永光司 人文書院
▲そのように外国の宗教が中国にやってまいりますと、翻訳の段階で中国人に理解しやすいように訳語を選び、文章に表現していくということが行われます。 『無量寿経』はまさにその典型的な仏典で、漢訳の文章の中に最も中国的な性格の顕著に見られる仏教の経典であるといってもいいとおもいます。さきほど申しましたように、 自然(じねん)という言葉が六十回近くもその中に使われており、清浄という言葉も何度も使われております。それらはいずれも道家ないし道教の言葉であります。

▲私がまだ京都大学の研究生だったころ、この大谷大学からも大先生方が京大の人文科学研究所の共同研究に参加しておられました。 そのころ私は、仏典が漢訳されるということは言葉が変えられるということだけでなく、教えの内容にも何らかの中国的な変化が生じるのではないか、というふうに考え、 そのことを申しますと、大先生方から、ー「仏教の教え、仏陀のとかれた真理というものは、サンスクリット語で書かれていようと、中国語で書かれていようと、 本質的にはほとんど関係のないことだ、何か変化のあるように考えるのは、君がまだ仏教のことをよく勉強していないからだ」ーと、こうゆうお導きをいただきました。 私は、そうかなあ、という気持ちを持ちながら、それに対して強く反論する自信はありませんでした。…p229…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲私がどうもそうではないんではないかという気持ちを強めましたのは、戦争中に兵隊として中国を歩きまわるという体験を持ったからです。 しかも私は、北の中国ではなくて、 南の中国をくまなく歩くということになりましたので、南の中国をずっと歩いてみますと、いろいろな宗教施設だとか、 もちろん仏教が中心ですけれども、道教もたくさんあります。 また南中国のいろいろな生活習慣、宗教的な習俗など、そういったものをみますと、日本とよくにている。 特に私の郷里は九州ですから、九州とほとんど同じであるのが目につく。 子供の背負い方から田植えの仕方、村祭りの笛の吹き方、太鼓のならし方、神楽の舞い方までよく似ている。 初めは倭冦の子孫がここに定住しているのかと思ったんですが、 どこを歩いても華南地方であれば、宇治か嵯峨野あたりを歩いているのと変わらない。 ただ建物だけが中国式に軒が反って、 赤い色とか黄色・青色など日本人のあまり使わないけばけばしい色が使われている。 その点が違いますけれども、 自然の景色はまったく変わらない。そしてそこで行われている宗教的な習俗も、九州とよく似ていることを、 この足で確かめて帰ってまいりました。 …p230…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

これはやはり今までの日本人の中国に対する理解認識の仕方は北に偏りすぎていたのではないか。特に日本の文化を論じる場合、江南との関係が軽視されすぎていたのではないか、 そういうふうに私は考えて、仏典を読むにせよ、道教の経典を読むにせよ、できるだけ江南の特殊性に注目するように努めました。これは東京大学に移ってからですけれども、 ようやく道教の一切経=『道蔵』を買うことができましたので、道教の研究を仏教やキリスト教神学のように原典主義で進めることに志をたてました。 仏教とおなじように道教にも四五八五巻という一切経があるわけで、全部を読めないにしてもその中の代表的な経典を正確に読んで、 その経典の内容に即して道教とは何かということを考えてみようと思いついたわけです。これまでの学者は中国といってもほとんど黄河流域の北の中国を中心に論議をされて、 長江流域の南中国にはあまりふれておられない。けれども自然の世界にしても、自然という考え方にしても、私が日本人として理解している限りで言えば、 中国の南の江南地域というのは日本とほとんど変わらない。私が九州で生まれ育ったために、そう思いこむというめんもありますけれども、 それをさしひいてもやはり南の中国は日本とよく似ている。 得に宗教的な習俗に共通したものが多くみられる。 道教の神学教理の基礎的なものは六朝時代から江南で発達してきているわけです。 …p231…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲私たちは今年の五月 ('86/5?) に中国に中国を旅行して、江南の宗教事情を現地で調査してまいりましたけれども、 江南の道教の一番の中心は茅山という所です。 この山には現在も大きな道教寺院があって、最近多い日には一日に一万人以上の参詣者があるというふうに住職は話しておりましたけれども、 参詣にくる人たちも日本の仏教寺院のそれとほとんど変わらない。というより、今よりもっと素朴な、昭和の初めごろの九州の浄土真宗の信者たちを思い出させるような、そういう状況でした。 ですから、このような茅山の道教が拠り所としている経典を原典で読み、 同じ六朝時代に漢訳されている『無量寿経』という浄土真宗の根本経典を読んでみたらどうであろうかと思ったわけです。
…p228…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

『無量寿経』の中の道教的側面
…p228…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲そこで漢訳『無量寿経』を読みなおしてみますと、まず目をおどろかしますのは、 『無量寿経』の中で仏教もしくは阿弥陀さんの教えが中国語で「道教」と訳されていることですね。しかもそれが一回ではなくて四回にもおよんでいる。 しかし、これは考えてみれば当然なわけです。といいますのは、仏教は菩提の教えのことで、サンスクリットのボディを音訳しますと菩提となります。これに、 老荘の哲学の道、タオという言葉をあてますと、菩提の教えは道教となります。これは『無量寿経』に限らず、初期の中国仏教では仏教のことを、 中国人にわかりやすいように道教と呼んでいます。中国の民族宗教としてのいわゆる道教を道教という言葉でよぶよりもずっと以前に、中国仏教の方を先に道教と呼んでいるわけですね。 そうゆうことで阿弥陀さんの教えが道教と訳され、しかもまた、阿弥陀さんを中国人にわかりやすいように、無量寿仏というふうに中国語に訳しているわけです。 無量寿はいうまでもなく限りなき齢ということで、これを中国風にもうしますと、長寿、長久の寿命ですね。中国語の長久を無量と言い換えて、 仏教的な特徴を出します。…p238…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲仏典の漢訳では、通常の中国語をそのまま訳語に使う場合と、少しずらして使う場合があります。…p232…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲それから、漢訳『無量寿経』をずっと読んでいきますと、道教と同じように真人という言葉が使われている。 この真人という言葉は飛鳥朝の天武・持統のころから日本でも使われており、天武の諡が、瀛真人(おきのまひと)という道教そのものの言葉であることは、 いろいろな書物にも書いてありますが、…p233中略…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲それから「積善余慶」という言葉も、本来は『易経』(坤卦文言伝)の言葉ですけれども、道教の因果応報の説教にこれが使われて、 日本仏教にも非常に大きな影響を与える。この言葉のために親鸞さんはずいぶん苦しみ悩まれたのではないかとおもいます。親鸞さんは、 この積善余慶ということが中国の聖人の教えであるとは考えられず、インドの聖人である仏の教えそのものだと信じこまれていたと思います。 そのためにたいへん苦しみ悩まれたのではないか。親鸞さんはやはり昔の封建社会のエリートですから、自分が生まれた家というものを強く意識されて、 宿業宿罪の思想と強く結びつけておられたというふうに私は解釈しますけれども、積善というのは『易経』の中では「積善の家」となっております。 『無量寿経』の積善余慶というのは漢文で正確に書きますと、「積善之家有余慶」《積善の家には余慶がある》となります。「積善之家」とは善いことを代々行ってきた家ということ、 家になっていることが特に注目されます。積善の人ではなくて、積善の家なんです。そして「余慶あり」というのは子孫におよぶしあわせがあるということで、 因果応報の問題を個人の行為の善悪で説明するのではなく、祖先から子孫におよぶ血縁のたて系列の中でその問題を考えていくという、 伝統的な中国の考え方が明確に示されています。そしてこの上に仏教の因果応報の教説が乗ることから、日本でもよく知られた「親の因果が子にめぐる」という、 インド本来の仏教とは違った家単位の因果応報説が思想として大きな力をもつようになる。 これはインドの仏教が中国を中継地として漢訳されたために生じてきたものとみていいと思います。
…p233…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

▲そうゆうことで、道教の宗教哲学の中に取り入れられた言葉を、三世紀段階で魏訳の『無量寿経』はそのまま使っている。そしてこのことと関連して、 因果応報の説明を道教の教理によって行っているということが注目されます。時間がありませんのでその例を簡単に一つだけあげておきますと、 『無量寿経』の中に「かくのごとき衆悪は天神剋識」とあります。天神剋識というのは、天の神さまがちゃんと帳簿に記録するという意味です。 そして記録して「其の名籍を別つ」と『無量寿経』に書かれていますけれども、名籍というのは道教の寿命台帳のことで、寿命台帳が天上の神仙世界にちゃんと保管されていて、 地上世界のすべての人間の行動の善し悪しを天上世界の神が監視していて、定期的に行為の善悪の勤務評定をして、その寿命台帳の名前の下にこの男は八十歳までとか、 この女は四十五歳までとか、それぞれの寿命が書き込まれているのを区別修正する、つまり名簿が個別に書き改められるというわけですね。 ここで天上世界で神の裁きが行われるという道教の思想と言葉が漢訳にそのままつかわれている。これが魏訳の『無量寿経』ですが、この漢訳経典でさらに注目されるのは、 日本でもいろいろと問題になります仏と神との習合もしくは一体化が、三世紀の段階ですでに行われているということです。 しかもこのような神仏の習合もしくは一体化を推進する梃子の役割を果たしたのは、やはり『無量寿経』ではないかと思います。 …p235以下略…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行

『無量寿経』から道教への影響…略p237…

親鸞の思想の中の道教的側面
…以上略p240…▲まず最初に申し上げたいことは、日本の仏教学というのは、漢訳された仏教経典の学習から始まったということですね。 このことは私、ことあるごとに協調するんですけれども、やはり重要な意味をもっているとおもいます。聖徳太子がお読みになった仏教経典も、それから空海さん、最澄さんがお読みになった仏教経典も、全部中国語で書かれている、漢訳された経典であるということ。…p240以下略…サンスクリット語でお読みになっていたらおそらくそういったこともなかったであろうようないくつかの問題があったに違いない。…p240以下略…少なくとも平安期までの日本仏教とは違った独自の日本仏教が打ち出されてくるのには、やはり漢訳の思想哲学、これがやはり大きな役割をはたしているのではないかというふうに考えます。 …p241以下略…『道教と古代日本』福永光司 人文書院 1990.4.10初版第五刷発行


【曇鸞】どんらん
476〜512とするが、明らかでない。およそその頃、北魏後半から北斉時代にかけての人ではないかとされている。浄土五祖の第一、真宗七高僧の第三。北魏時代には、中国三大石窟中二つの石窟(雲岡と竜門)の造営に見るように仏教が盛行し、曇鸞出生の当時には、浄土教所依の経典、浄土三部経が訳出され、竜樹の『十住毘婆沙論』や世親の『無量寿経婆提舎願生偈』(『浄土論』ともいう)も訳されていた。特に大乗仏教の空観が盛んであった。
曇鸞は霊山信仰の厚い五台山近くに生まれたらしく、インド空観仏教の代表的論著である、四論(竜樹の『中論』『十二門論』『大智度論』、提婆の『百論』)を学んだ。大集経の注釈中、 病で倒れたが、霊感を受けて病気治癒、長生不死の仙経を道士陶弘景から授かったが、帰途、菩提流支に会い、仏教こそ長生不死の法であることを知り、菩提流支から観無量寿経を授かり、 仙経を焼き捨て浄土経に帰依した、菩提流支は世観の『浄土論』の訳者、曇鸞の『浄土論註』(『往生論註』『論註』とも、正式には『無量寿経優婆提舎願生偈註』)は『浄土論』の註訳で、 末法無仏の時代には他力の信心による浄土往生成仏以外にないと説いた。幵州の大巖寺に住し、後に石壁の玄中寺に入り、さらに汾州平遥山の遥山寺に移って没した。 勅宣により汾州西秦陵の文谷に葬られたという。【岩波仏教辞典】p621

▲一方また、望拝された天照太神は、『日本書紀』神代(上)(第六段)において「日神」(「日の神」)とも呼ばれており、同じく素戔鳴尊との対話においては、「阿姉」と呼ばれて明確に女性とされていますが、日神(日の神)を女性とするのは、タオイズムの根本経典『道徳真経』(通称は『老子』の「道(天道=お天道てんとうさん)ハ万物ノ母ナリ)の宗教哲学に基づきます。ー48ー第三回春日井シンポジウム
▲なお、天武紀の朱鳥元年(686)夏四月、託基皇女(たきおうじょ)らが天武天皇の病気平癒祈願のため派遣された天照太神を祀る「伊勢神宮」もまたタオイズムの教祖・老子(玄元皇帝)を唐の皇室の「遠祖」として祀る終山麓の道教寺院「宗聖観」をモデルとして創建されたものと推定されます。ー48ー第三回春日井シンポジウム
【詳細は『中日新聞』日曜版に連載の拙稿『タオイズムの嵐』〈14〉(平成七年一月八日)「伊勢神宮」を参照されたい】。

▲天武天皇の病気平癒には、儒教の恩賞制度、仏教の読経の儀式、道教の解除の呪術などいろいろな祈願方法が用いられていますが、
「鬼道」の道教の
1:祭祀、まつり
2:祈祷、いのり
3:禁呪、まじない
4:祝詞、のりと
5:護符、おふだ
6:憑依、かみがかり
7:神託、おつげ、

の七点セットの巫術もそれぞれ重要視されていたことが、 天武紀の記述の用語(古典中国語)の検討によって確認されます。ー50ー第三回春日井シンポジウム

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