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旅 行 記(1)   home back top

 

tabiooo4.jpg (67103 バイト)

  ノイシュバンシュタイン城(ドイツ) 

 

*ウイーン・ミュンヘン・ザルツブルグ紀行(その1)
 関空からウイーンへ

*ウイーン・ミュンヘン・ザルツブルグ紀行(その2)

  ウイーン

                 WB01242_.gif (344 バイト) 目次

    

*ウイーン・ミュンヘン・ザルツブルグ紀行(その3)

  ミュンヘン

                 WB01242_.gif (344 バイト) 目次

  

*ウイーン・ミュンヘン・ザルツブルグ紀行(その1)

    関空からウイーンへ

 

 

 1999年3月31日から4月7日まで、妻と共にヨーロッパ旅行を楽しみました。関西空港からルフトハンザ航空でおよそ13時間の空の旅。関空を朝9時40分に発ち、フランクフルトに着いたのは、現地時間の14時35分頃。夫婦二人だけの旅が始まりました。フランクフルトに着いて、次は、ウイーン行きの飛行機に乗り換え。パック旅行ではないので、自分達でゲートを探し、ウイーン行きの飛行機に乗らなければなりません。少し不安がないわけでもありませんでしたが、空港内の標識に誘導されて目指すゲートに辿り着きました。ゲートの前のカフェでジュースを頼んで、まずは一休み。テーブルを囲んで談笑している人々をそれとなく見つめながら、遥か遠くへ来たもんだとしみじみと実感しました。けれども、およそ30年前に、横浜から船でナホトカ経由ロンドンへ行った時は、モスクワ、パリで遊んだとはいえ約2週間かかったことを思えば、わずか13時間の空の旅は、さほど距離感を感じさせませんでした。
 フランクフルト空港、17時10分発。飛行機は、旧式の飛行機で、座席は一番後ろ。約1時間半でウイーン空港に着きました。空港を出たところで、私は気が付きませんでしたが、妻が、「タケナカ」と書いた紙を頭上にささげていた大柄な男性を見つけました。日本を発つ前に、弟がインターネットで,タクシーの手配をしておいてくれたのです。荷物を引きづりながら、男性に近づき、自分がタケナカであることを名乗り、その男性に少し待ってもらいました。荷物は預かります。という彼と妻をそこに残して、お金をチェンジするために交換窓口へと駆けつけました。海外旅行をする場合、まず、しなければならないことは、お金を現地のお金にチェンジすることです。ユーロは、為替市場では使われ始めていますが、一般通貨として使われていません。ですから、面倒でもオーストリアのお金に変えなければならないのです。
 薄暮のウイーン空港を出て、市内へと車は走ります。サービスのつもりか運転手は、市内の国会議事堂、市庁舎などを説明しながら車はホテルへ横付けになりました。もうすっかり暗くなっていました。
 ホテルにチェックイン。荷物を置いてシャワーを浴び、長旅の疲れを癒しました。ベッドにしばら
く横になってから、すっかり暗くなったウイーンの町へと二人で飛び出しました。
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*ウイーン・ミュンヘン・ザルツブルグ紀行(その2)


ウイーン

      

「断言しますが、ウイーンはすばらしい土地です。
          僕の職業にとっては世界中で最高の場所です。」   
 モーツアルト

私達の泊まったホテルは、エクサレンスというペンションでした。1泊2人で約1000シリング(日本円で約10000円)。夕食はつかないで、朝食のみ。ここに3泊しました。
 ウイーンでの第1日、7時ごろフロントの向こうにある食堂に行くと、もう家族連れの旅行客が何組かテーブルを囲んで食事をしていました。コーヒーと、ロールパンにジャムをつけて簡単な朝食を済ませた僕達は、早速部屋に戻り、かつてロンドンへ行ったときと同じように、ベッドにウイーンの地図を広げて、今日の予定している所への交通手段を確認しました。今日は、まず有名なシェーンブルン宮殿を訪ね、その後、聖シュテファン寺院を訪ねる予定です。

シェーンブルン宮殿

地下鉄のシェ―ンブルン駅で下りて外へ出ると、果たして左手のほうに公園が広がり、私はてっきりそこが宮殿の前庭だと思い、不安げな顔をしながらついてくる妻の手を引いて、歩き始めました。しかし、それらしき建物は見当たりません。しばらく森の中を行くと、作業をしている若者が居ましたので、声をかけて尋ねました。私はドイツ語はほとんど話せないので、もっぱら英語で今回の旅は通しました。今思えば、冷や汗が出そうです。幸い若者は私の言ったことを理解してくれたようでした。「宮殿はこちらではない。もう一度駅の方へ戻って、向こうの広い道を右のほうへ行けば、宮殿の入口だ。」と、教えてくれました。
 宮殿の前庭は、予想に反して殺風景でした。約30年前に訪れたパリのヴェルサイユ宮殿の入口も石畳が敷かれて殺風景な雰囲気でしたが、ここも例外ではありませんでした。埃っぽい中を入口まで歩き、見物料を支払い中を見て回りました。

tabi0010.jpg (75872 バイト)←左の写真はシェーンブルン宮殿の前で

シェ―ンブルン宮殿の歴史について少しお話しておいた方が良いかもしれません。
 シェ―ンブルン宮殿はご存知の通り、ハプスブルグ家の夏の離宮として古い歴史があります。そして1141室のうち約40室が一般公開されています。この宮殿をほぼ現在の形に完成させたのは、女帝マリアテレージアで、部屋の名前には「黒檀の間」「中国の間」日本の間」といった名前が付けられていたといいます。彼女の娘がフランス王ルイ16世の妻で、フランス革命のさなか断頭台の露と消えたマリーアントワネットであることは広く知られております。また、マリーアントワネットが娘時代、なんと幼い6歳のモーツアルトの音楽に耳を傾けたことがあるというのです。そして、モ―ツアルトが「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」とマリーアントワネットに言ったという話も有名です。1762年のことです。彼が演奏した「鏡の間」もあります。また、この宮殿は、2度、かのフランスのナポレオン皇帝の司令部として使われたこともあるのです。実際、宮殿内には、幼いナポレオン2世のベッドまでそのまま陳列されていました。また、オーストリアの皇太子フランツ・フェルヂィナンド(フランツヨーゼフ1世の甥で王位継承者)がサラエボを訪問中、セルビアの過激学生の放った銃弾によって暗殺され、それをきっかけに第一次世界大戦が始まった事は、私達も歴史の教科書で学びました。このように、この宮殿にはいくつもの物語が語り継がれています。最後のハプスブルグ家の王フランツ・ヨーゼフ1世は、1918年に86歳の生涯を終えています。そしてハプスブルグ家も700年の歴史を閉じたのでした。宮殿の中は、ハプスブルグ家の家具、調度類がいくつもの部屋に陳列され、物陰から美しく着飾った、王や王妃が飛び出してくるのではないかという雰囲気でした。ウイーンは第2次大戦中は、ドイツのヒトラーに占領され苦しい経験をしました。
tabi0011.jpg (77266 バイト)さて、細かな説明をしていると先に進みませんので、私達は心残りがしましたが、宮殿から外に出ることにしました。正面から右の方角に行くと庭園に通じる道があります。宮殿の裏側に回って驚きました。その公園の広いこと。はるか彼方の小高い丘の上に建っている城壁風の「グロリエッテ」がかすんで見えるのです。かつて、ベルサイユ宮殿の庭を歩いたことがありますが、その広大さに勝るとも劣らない広さなのです。ローマのバチカン市国の約4倍の広さがあるということです。疲れていたのと、意欲もありませんでしたので、私達は宮殿の近くから、ただ眺めていたに過ぎません。ハプスブルグ家の栄華を目の当たりにし、声も出ませんでした。私達は、近くを通りかかった観光客ににこやかに近づき、私達の写真を撮ってくれるように頼みました。この広大な庭園をバックにカメラにおさまりました。(写真=はるか後ろのほうにかすんで見えるのがグロリエッテ)宮殿の中のトイレに観光ガイドブックを忘れてきたというハプニングはあったものの、特に大きなトラブルもなく私達はとりあえず都心に戻り、聖シュテファン寺院を訪ねることにしました。
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聖シュテファン寺院

tabi0012.jpg (11875 バイト)地下鉄シェーンブルン駅からステファンスプラッツ駅へ。、まるでウイ―ン子になったような気分で地下鉄の電車に飛び乗りました。ウイーンの地図をしっかり握り締めながら、間違ってもかまわないと思いつつ、「何所へ連れて行かれるのだろうか」と不安げな顔を窓ガラスに映しつつ外を眺める妻の顔を尻目に、僕は浮かれた気分になっていました。30分足らずで着きました。階段を上がると、ふと薄汚れた大きなレンガ色の建物が頭の上のほうまで聳え立っています。シュテファン寺院です。国内最大のゴチック建築だけあって、余りにも大きいために全体像をカメラに収めることはできませんでした。まずは中に入って見学です。薄暗い寺院の中は、それでもステンドグラスから差し込む明かりが不思議に荘厳な雰囲気をかもし出していました。祭壇に向かってひざまづく人々、ガイドの声に耳を傾ける観光客。僕達は、寺院内に葬られている人々のレリーフを見ながら、寺院の中を一巡しました。パリのノートルダムの荘厳な雰囲気、ミラノのドゥオモの大きさには少し劣るかもしれませんが、歴史の重みをずしりと感じるひと時でした。おっと、忘れてならないことは、私が大好きなモーツアルトは、ここで結婚式を行い、ここでお葬式が執り行われました。あるいは、モーツアルトが若妻と歩いた床に、私達の足跡を残すことができたのは、無上の喜びです。しかし、その床下に「ハプスブルグ家の人々の内臓が保管されている」というと、何だか気味が悪いですね。top  home

 

 

カフェハウス・モーツアルト

シュテファン寺院を出ると、観光客を乗せた馬車が、何台か人ごみをよけるようにして駆けていました。。二人はまぶしい太陽を浴びながら、ケルントナー通りを歩きました。歩行者天国で、車の乗り入れは禁止しているようでしたが、道路の両側にブチィックや土産物屋や、レストランなどが並び、ウイーン子や観光客で賑わっていました。道路の真中に店を出していたカフェで、歩き疲れた体を椅子にどーと落とすように座り込んでしまいました。カウンターでアップルパイと、コーヒーそれにビールを注文。ホテルの簡単な朝食をとってからもう5時間余りが過ぎていたというのにそれほど空腹感を感じなかったのは、いろいろなものを見ることに忙しかったせいかもしれません。値段の割には大きなアップルパイに僕達は、ぱくつきました。のどが渇いていたこともあって、ウイーンで初めてのビールは最高の味でした。

ケルントナー通りを市内電車道の方へ歩いて来ると、右側に大きな古い建物がどっしりと建っていました。それがオペラ座です。その横の広い道路上に数人の赤いガウンを着た若者が、道行く観光客を呼び止めて何やら話し掛けています。私達が近づくと、「今晩のコンサートの切符を買わないか」と、笑顔で語りかけてきたのです。私達もウイーンで何か一つ生の演奏会を聞きたいと思っていましたが、街頭で切符を売るということ自体、どこまで信用できるか心配でしたので、ていよくその若者に「ノー」と言い、彼等の脇を通り過ぎ ました。ひとまず、ぶらりとウイーンの中心街を歩き回ろうということになって、僕達はどこへ行く当てもなく、土産物屋を見たり、街角を行き交う人々に目を奪われたりして、そぞろ歩きを楽しんだのです。

tabi0015.jpg (19444 バイト)「モーツアルトというカフェに行ってみない。」という妻の提案で、僕達は、そのカフェを探しました。けれども見つかりません。オペラ座の近くにあるということは分かっていたのですが、どう探しても見当たりません。カフェハウスは、ウイーンにはたくさんあります。ウイーンを語るにはこのカフェハウスを抜きにしては語れないというくらい、カフェハウスはウイーンの人々にとっては生活の一部なのです。そしてカフェハウスほど「オーストリア人の知的な活発さと国際的視野に貢献したものはないだろう」とツヴァイクは言っています。(森本哲郎著「ウイーン」文芸春秋社刊より)それらは、市民のくつろぐ場所であるばかりでなく、かつては作曲家や思想家、詩人、画家が思いをめぐらし、新しい芸術的境地を切り開いていったのはこうした芸術家達の集まりの場所でもあったカフェハウスにおいてでした。カフェハウスモーツアルトは、1794年(ロベスピエールが処刑された年)に開店し、1929年に「モーツアルト」と名前が改められたそうです。(同前掲書)そして、思い出して下い。あのギターの名曲で知られる名画「第三の男」は、このウイーンが舞台だったのです。そして、このカフェハウス「モーツアルト」もこの映画に登場したことは申すまでもありません。(写真はカフェハウス・モーツアルト・・翌日に撮った写真です。)

少し興奮気味になってきましたが、話がぜんぜん前に進みません。道草が多すぎるようです。

結局「モーツアルト」は見つからないまま、僕達はオペラ座の近くをうろうろしていました。こうなったら聞くしかないということになり、交差点で自転車を引っ張り、信号待ちをしている若いカップルに声をかけてみました。

「さあ、知りませんね。でも他のカフェでも良かったら連れて行ってあげますよ。」

若い男は、親切にもそう言ってくれました。途中、女性は、さよならを言い電車通りを向こうの方へと去って行きました。地元住民が知らないなんて。でも、それはありうることです。特に関心のない人には「カフェハウスモーツアルト」がどんなに歴史の古いカフェであろうと、そんなことはどうでもいいことなのかもしれません。僕だって岐阜市内に住んでいながら、しかもすぐ近くにあるというかの有名な夏目漱石の門下生であり、平塚らいちょうと恋に陥った、岐阜市出身の作家森田草平の文学記念館がどこにあるか知らないのですから。しかも、今、最も関心のある人であるにもかかわらず・・・・。
  若い男性と道々話したのですが、彼は、ウイーン大学の学生で、都市計画を勉強しているということです。彼の指示するままに歩いてゆくと、交差点の向こうの角に確かにカフェハウスがありました。
「あそこでもよければどうぞ。」
 と、言う若者に礼を言って、僕達は別れました。
  カフェの中は、お世辞にもきれいとは言えませんでした。椅子のカバーは擦り切れて中身が飛び出し、床も所々汚れていました。ウイーンで初めて入った喫茶店がこうでしたから、少しがっかりしました。それでも僕達はコーヒーを注文し、疲れを癒しました。ガラス戸の向こう側は道路に面し、オープンカフェになっています。
  「モーツアルトはどこなの。」
まだあきらめきれない妻は、コーヒーを飲みながら言いました。
「後からもう一度ゆっくり探そうよ。」
僕は、少し疲れた体を椅子にもたせて力なく言いました。しばらく休んだ後、僕達は早々にチップを置いてその店を出ました。top   home

ナッシュマルク(食料品市場)

そういえば、さっきの若者が別れ際に、

「この道路に沿って右の方へ行けば、ナッシュマルクトという市場があります。そこではいろいろな食料品を売っていますし、おいしいパンやソーセージにもありつけますよ。」
 と、教えてくれました。観光ガイドブックをなくしてしまった僕達は、ホテルでもらった、観光案内の地図をポケットに入れ、持ち歩いてはいましたが、いちいちそれ見ながら歩くのも面倒なので、行き当たりばったりの格好になっていました。特にその日の予定は、シェーンブルン宮殿と、シュテファン寺院、それに都心の散歩ということもあって気ままにあちこちを歩き回ったのです。
  大きな交差点を渡ると右の方に、多くの人が行き来しているナッシュマルクが見えてきました。僕達は、お互いはぐれないように手を取り合って、一つ一つの店を見て歩きました。野菜を売っている店、調味料を売る店、果物店、などなど。人ごみの中をしばらく歩いていると、握りずしの「アキコ」という店があり、中も外も客があふれていました。すしがヨーロッパ人に人気があるとは聞いていましたが、これほどだとは予想していませんでした。客のほとんどがウイーン子で、おいしそうにすしをほおばる姿を見て、彼等になんだか親しみを感じたのでした。僕達もお腹がすいてきました。露店でソーセージとビールの小壜を買い、カウンターで食べ御腹を満たしました。top   home

王宮庭園のモーツアルト像

(下の写真)

tabi0013.jpg (89755 バイト)ナッシュマルクの混雑した人ごみから抜け出して、私達は王宮庭園にあるモーツアルト像を探すことになりました。今回の旅は、モーツアルトを訪ねて歩く旅でもあったのです。特に僕は「フルートとハープのための協奏曲」、アマデウスという映画で最初の、サリアリが自殺する場面に出てきた軽快なリズムの「交響曲25番ホ短調」、さらにはこれも映画”美しくもはかなく燃え”で、恋人同士が野原で戯れた後、ピストルで自殺するシーンに静かに奏でた「ピアノコンチェルト21番」などは特にお気に入りの曲です。何度聞いても聞き飽きることはありません。こんなにすばらしい作品を残したモーツアルトが活躍したウイーンを訪問できたことは、本当に幸せでした。
 大きな建物の間を抜け、いくつかの銅像やオットーワグナーの記念碑の前で写真を撮りながら、市電が走る広い道路を横切って、モーツアルト像のある王宮庭園へ辿り着きました。天気は良く、春の日差しが照りつける中、僕達はコートを小脇に抱えてモーツアルト像を探しました。木の間から向こうの方にそれらしい物が見え隠れしています。
  近づいて見ると、モーツアルト像は思ったより大きかったのに驚きました。像の前の芝生の中には、ト音記号の形で黄色いパンジーが植えてありました。偉大な音楽家にしては訪ねる人はほとんどなく、一人寂しく立って居ました。僕にピアノが弾けたなら、この像の前で「ピアノソナタ第11番イ長調」でも弾いてみたいとどれほど思ったことでしょう。像に近づいては眺め、遠くからもう一度振り返って眺め、写真を撮り、まるで恋人と別れを惜しむかのようにして、その場を離れました。明るい太陽の光が、モーツアルトの像を照らしていました。それにしても両手を広げ、空を見上げるようにしているモーツアルトはいったい何を訴えているのでしょう。あるいは自作の曲を高らかに歌っているのでしょうか。そしてモーツアルトの足元に群れる子供達は何を意味しているのでしょうか。top  home

ケルントナー通り

王宮庭園を出て、電車通りを少し行くと、マリアテレジア広場に出ます。広場の真中にマリアテレジアの大きな銅像があり、かつては王宮であり、現在は王宮宝物館になっている巨大な建物や、美術史美術館がこの広場に面して建っています。僕達は、少し疲れていましたので、この広場を横切り、観光客で混み合う王宮を通り抜け、再び聖シュテファン寺院の方へと歩いて、ふと見つけたカフェハウスで一休みすることにしました。さっき入ったカフェとは異なり、外観もこぎれいで、洒落た雰囲気でした。中に入ると、ウエイターが近づいてきて、「コートを預かります。」という。コートを小脇に抱えていた私達を、ウエイターは店の奥の部屋へ案内してくれました。コートをここで預かるというのです。手に持っていたコートを係りの女性に渡しました。まさか、ここで預かり料が取られるとは思いませんでしたが、私達の横に居た客がコートを差し出しながらお金を渡しているのを見て、初めてお金がいるのだということを知りました。二人で40シリング(約400円)払いました。
 コートを預けて、先ほどのウエーターに案内され、ようやくピアノの近くの席に落ち着きました。壁も椅子も濃い赤で統一し、壁に取り付けたライトが上品な雰囲気をかもし出しています。僕達は少し心が安らぐ思いがしました。大柄なウエイターにコーヒーを注文すると、間もなくコーヒーと水をトレイに載せて持ってきてくれました。日本でもそうですが、ウイーンのカフェでは必ず水が出るそうです。ヨーロッパといえば特にパリなどは水がおいしくないということで有名です。ワインが盛んに飲まれるのもそれが一因しているということです。しかし、ここウイーンの水はおいしく、安心して飲めるそうです。そして、それがウイーンの人々の自慢でもあるのです。何しろウイーンの水は、アルプスから流れ来る清い水なのですから・・・・・。
  コーヒーの味もさることながら、僕達は水で喉を潤しました。そばにあるピアノに向かって男性が曲を奏でていました。
  「少し疲れたわね。」と、コーヒーを飲みながら妻は言いました。私も夢中で歩き回ったせいか、足が棒のようになっていました。
tabioo14.jpg (11620 バイト)「そうだ。日本へ葉書を書いて出そう。」と、僕は、思いつきました。シェーンブルン宮殿や、シュテファン寺院の近くの土産物屋で買った絵葉書を取り出して、友人、親類の人たちへウイーンの印象を書きました。
 およそ30分ほどいたでしょうか。少し薄暗くなった外へ、今書いたばかりの絵葉書を数枚持って出ました。しばらく歩くと、郵便局の案内標を見つけました。なんと、運の良いことでしょう。その標識に従って、左へ折れて間もなくの所に郵便局がありました。そんなに広くない中には数人の客が居ました。「ウイーンの香りを日本まで届けて欲しい」その願いを込め、局員の夫人に絵葉書を差し出たのでした。夕暮れのケルントナー通りをそぞろ歩き。そういえば、今日一日僕達は、食事らしい食事はしていないことに気づきました。「何かお肉でも食べたいわ。」
「ビールも飲みたいしね。」
二人は、店をいくつか探して歩きました。オペラ座の近くのビルの地下へ下りる入口に、レストランの看板が出ていました。食道楽でもない僕達は、躊躇することなく、その店に入ることにしました。薄暗い階段を地下に下りると、右側に入口がありました。まだ、五時少し過ぎでしたので、中はそんなに込んでいませんでした。テーブルが5つか6つ並んだ決して大きくない店は、かえって私達の心を落ち着かせました。
  カウンターの方で女性が何か忙しげに働いていました。しばらくすると、若いウエイターがオーダーを取りに私達のテーブルに来ました。感じの良い若者を見て、私は気軽に話し掛けました。自分達は日本から来たこと。今日一日あちらこちらを見て回ったことなどを話して聞かせました。それから、メニューを見て何やら分からない肉料理を二人前注文しました。テーブルに出された量の多さに思わず二人は驚いてしまいました。
 「こんなに食べられるの。」
 と言いながらも、妻はフォークとナイフを取り、厚い肉に挑みかかろうとしていました。大きなジョッキに口を当て、「ゴクリ、ゴクリ」と飲んだビールの味は今でも忘れません。そして、肉料理もまずまずでした。
 私達の向かい側のテーブルには、3組の夫婦連れらしいアベックが、楽しそうに語らい、その声がこちらまで聞こえてきました。僕達も遠い日本から来たことなど忘れて、すっかりくつろいでしまいました。1時間ぐらい居たでしょうか、席を立つ時に妻は
 「モーツアルトはどこにあるか聞いて。」と僕の耳にささやきました。
 そうだった。カフェハウス・モーツアルトの所在を確かめないことにはこのままホテルに帰って寝るわけには行きませんでした。僕は、さっきの若いウエーターを呼び、
 「有名なカフェハウス・モーツアルトはどこにあるのですか。今日ずーっと探し回ったのですが、ついに見つからないままでした。」
 と、彼に訴えるように私は聞いてみました。すると、にこっと笑った彼は
 「モーツアルトですか。このすぐ上ですよ。階段を上って外に出たらそこがモーツアルトです。」
 「うそ・・・。」
僕は、思わず言ってしまいました。
自分について来るようにと言う彼の後を、二人は追いかけるようにしてついて行きました。
外へ出て、そのビルをくると左へ曲がったところにカフェがあり、それを指差して、彼は私達を笑うように言いました。
「ここですよ。」
 見ると、確かに窓の上に「モーツアルト」と書いてあるではありませんか。なんと私達は、モーツアルトの地下で食事をしていたのです。
 礼を言って、彼と別れた僕達は、モーツアルトへ入ったのは言うまでもありません。中は、先ほど入ったカフェほどきれいではありませんでした。僕達は道路に面したオープンになっているところに席を探したのですが、夕暮れのカフェは込んでいて、見つかりません。仕方なく中に入って、一番奥の席に座りました。ゆったりとした時間が流れます。映画「第三の男」の曲が頭の中に響いてきました。二人ともしばし言葉も出ませんでした。
その帰り、道に迷い暗くなったウイーンの街中を、日本の老人夫婦がさまよい歩く運命が待っていたなんて誰が予想したでしょうか。top  home

 

ウイーンの夜

もう辺りはすっかり暗くなっていました。私達も御腹も満たされ、そろそろホテルに帰ろうということになりました。緊張していたせいか、一日中歩き回ったにしては大して疲労感はありませんでした。オペラ座の近くの地下鉄の駅へと急ぎました。朝、乗った駅の名前を覚えていましたので、切符を買い電車に乗りました。車内は、少し混雑していましたが、たいしたことはありません。電車が止まるたびに駅の名前を確認しながら、何とかホテルの近くの駅に着きました。階段を上り外に出ましたが,果たして、どこへ向かって歩いたらよいのかさっぱり分かりません。それもそのはず、朝の景色と夜の景色では違うのが当然です。地図も持っていても頼りにならない、分からない道路をただ、感に頼って右へ行き左へ行きしていることおよそ30分。もう一度降りた地下鉄の駅へ戻った方がよいだろうという事になり、大きなビルの間を、来た道を辿りながら、駅へと向かいました。朝、通った道路の中央には、大きな街路樹が続いていたはずなのに、その道路もわかりません。きれいに飾られたショウウインドウを見ている心の余裕などあるはずがありません。ただひたすら、来た道を地下鉄の駅へと歩きました。文句一つ言わないで、妻は僕のそばについて離れません。ビルとビルとの間の細い道を抜け、やっとのことで地下鉄の駅へ辿り付きました。
「タクシーに乗って帰りましょう。」
  という妻の言葉に
「そうだった。タクシーを拾えばよかったんだ。」
  と、思いつきもしなかったことに、僕は安堵しました。
「タクシー乗り場を探さなければ。」
  だいぶ疲れていた僕達は、地下道から外へ出る階段の近くの店で、タクシー乗り場を聞いたのでした。外へ出て、広い道路を隔てた向こう側に、タクシー乗り場はありました。ほっとした気持ちからか、私達は、急に疲れを感じました。その疲れた体を、車内の座席に投げ出し、運転手にホテルの名刺を見せて、
「ここへ、行ってくれますか。」
と、英語で頼みました。
ドイツ語の会話の本を日本を出る前に買って来ましたが、ホテルに置いたままでした。しかし、運転手はすぐに分かってくれました。車はわずか10分ほど走ってホテルに着きました。
シャワーを浴び、ベッドに大の字になったのは、九時半頃でした。top home

市内電車

あくる日、私達は映画「第三の男」で、追い詰められたハリー(オーソンウエルズ)が大観覧車に乗り、マーチン(ジョセフ・コットン)から逃れようとするシーン。その舞台になった、プラター公園を訪ねることにしました。朝、起きて食堂に行くと、もうほとんどのテーブルが埋まっていました。家族連れの客がほとんどでした。客同士がなにやら話していました。そのうちの一人の男性と視線が合い、「グーデン・モルゲン」とドイツ語で挨拶をして、私達は、テーブルに座りました。

朝食を終え、部屋に戻る時に、カウンターに立って何やら書類を書き込んでいた手伝いの若い男性に、私はプラター公園への行き方を英語で尋ねました。部屋を出て来る時に地図を持って出ましたので、それをカウンターの上に広げました。彼は、まずプラター公園の位置を指で示し、このホテルを出て、左の信号の角から、出る5番の市内電車に乗り、終点がプラター公園だと教えてくれたのです。意外と簡単に行けることにほっと安心しました。

市内電車に乗るには当然切符が必要です。その切符は、タバコ屋に売っていると、ガイドブックに出ていましたので、私達はまずホテルを出てタバコ屋を探しました。出て左の方に、さっきホテルの男性が教えてくれたとおり、信号がありました。その斜め向こうにタバコ屋の看板が目に入りました。

tabi0018.jpg (36764 バイト)まだ、八時少し過ぎたばかりだというのに、もう、店は開いていました。背の高い店番の婦人が、店に入ってきた僕達に無愛想な視線を投げかけました。

「市内電車の切符が欲しいんですが。」

「はい。ありますよ。」

と言って、差し出された切符をもらい店を出ました。

電車はすぐに来ました。二両連結の電車で、僕達が乗り込むと、すぐに動き出しました。驚いたのは運転手です。日本でしたら、そして、パリでもロンドンでも地下鉄の乗務員や、バスの乗務員は制服を着ていますが、彼女(運転手は女性でした)は、全く私服で、膝の上にひざ掛けを置いて、中腰になって運転しているのです。スピードも意外と速く、事故がおきないかと気がかりでした。しかし、窓を走るウイーンの街の風景を見逃すまいと、僕達は、外をしっかり眺めていました。top home

プラター公園

電車を降りると、まだ、9時少し前。時間も早いせいか、公園の方へ向かって歩く人影はほとんどありません。私達は、ジュースやお菓子類を仕入れるために、停留所の近くにあった、スーパーに入りました。中は、さほど広くなく、朝の買い物をする人々でごったっがえして居ました。ジュースと、チョコレート、それに菓子類を籠に入れ妻はレジに並びました。まるで、ウイーン子になりきったみたいです。
ほとんど人の居ない入口から、公園へ入るとすぐに向こうの方に大きな観覧車が見えます。「あれが、第三の男に出てきた、観覧車だわ。」めったに感激しない妻は、さすがこの時は、大きな声を出して言いました。近づいてみると、私達の期待はずれでした。ジェットコースターや、メリーゴーラウンドなどのある大きな遊園地を期待したのですが、あるのは観覧車とそのそばから出る、子供の機関車と、ゴーカートくらいのものでした。まだ、時間が早く、人影もほとんどない公園は、益々私達には寂しく感じられました。
tabi0016.jpg (50875 バイト)「観覧車に乗りたいわ。」
「まだ時間が早いから動いていないよ。それに僕は、遠慮しておくよ。」
高所恐怖症の私にとって観覧車を見上げるだけで目が回りそうなのです。結局、僕達は映画のシーンを頭に描きながら、何度も観覧車を見上げ、カメラに収めてその場を離れました。公園を横切ると、中央墓地に通じる道路に出ました。幅広い道路は両側が自動車道、真中は街路樹が続く歩道になっていました。僕の頭には映画のラストシーンと、自分が今目にしている風景とが重なり合っていたのです。私はマーチンになりきっていたのかもしれません。top home

ドナウ川

 ドナウ川を見たいと言う妻の意見で、私達はプラター公園の近くの駅から電車に乗りました。、市内電車ではなく、郊外に出てゆく電車です。ヨーロッパの電車(汽車)は日本の新幹線と同じく、広軌を使っています。ですから、車両が一回り大きいのです。日本の電車になれている僕達は、そばに行くと少し怖く感じられます。
    窓際に座った僕達は、早速ジュースと菓子を取り出しました。電車はスピードを上げていきます。駅を出て間もなく左側に大きな建物が目に飛び込んできました。最近出来たばかりの国連関係の役所が入っている建物でした。そこはまるで宇宙基地を思わせるような近代的な大きな建物がいくつか建っていました。古い建物が並ぶウイーンとは余りにもかけ離れた雰囲気でした。二つ目か、三つ目の駅を過ぎると、もうドナウ川です。ヨハンシュトラウスの「美しき碧きドナウ」は汽車の窓から見る限り、青くは見えませんでした。しかし、はるか遠くまで続くドナウの流れが私の脳裏に残っています。
tabi0017.jpg (34141 バイト)ドナウ川にかかる鉄橋を渡った最初の駅で、僕達は降りることにしました。
駅を出て川の方へしばらく歩くと、土手に出ました。私達はその土手を下の方へ降り、しばし、ドナウの流れを見つめ続けけたのでした。top  home

 

 

 

ベルベデーレ宮殿(美術館)

 ドナウ川の帰り、僕達はベルベデーレ美術館を訪ねることにしました。地下鉄の駅を降りて地図を片手にベルベデーレに向かって歩き始めたのはいいのですが、20分ぐらい歩いてもそれらしい建物は見当たりません。お城ですから僕達はすぐにも見つかるだろうと思っていたのが間違いでした。シェーンブルン城を訪ねた時もそうでしたが、城そのもの建物の高さは目立つほど高くはありません。ですから、街中を歩いて城を探すとしても、他の高い建物にさえぎられて、近づいてみないと分からないのです。地図を見て方角は確かにベルベデーレに向かって歩いていたのですが、見つかりません。道路端に白バイを止めて休憩しているおまわりさんが居ましたので、聞いてみました。「この道をまっすぐしばらく行くとウイーンの南駅に出ます。そこを左に曲がってしばらく行くと左側に見えてくるはずだ。」と教えられました。言われたままに、僕達は歩きました。何時までたってもそこまでたどり着きません。ふと見ると道路の向こう側に銀行が目に入りました。僕は今度は銀行の中に入って、行員に尋ねたのです。「ベルベデーレはこの前の道路を左に行けば突き当たったところがそうですよ。」とハンサムな若い行員は親切に教えてくれました。僕達は外に出て言われたままに左の方を見ても、それらしい建物は見えません。それらしい建物が見えるはずだと思い込んでいたのが間違いだったのです。銀行員を信用しなかったわけでもありませんが、僕達は先ほどのおまわりさんが教えてくれた道を再び歩き始めました。それから間もなく、南駅の前にでました。教えられたとおり左に曲がりしばらく行くと、ようやくベルベデーレの前に出たのでした。地下鉄の駅を降りて歩くこと約40分でした。確かに先ほど銀行員が教えてくれた道は、ベルベデーレ宮殿の横に通じていました。これはベルベデーレからの帰り、市電に乗る時にわかったのでした。

tabi0020.jpg (28897 バイト)ベルベデーレの前に立って驚いたのはやはりその広さでした。ヨーロッパの城にしろ、日本の城にしろまずそれはその町で一番目立つ建物であるはずです。ところが、パリでもロンドンでもここウイーンでも建物は、せいぜい3階建てか4階建てで、遠くから目立つものではありません。近づいて初めてその広大さに圧倒されるのです。このベルベデーレも例外ではありません。宮殿の入口前には大きな洋風の池がありました。(この池は後になって作られたものでしょうか。建設当時の絵には描かれていません。)正面から見る限り大きな城とは思えませんでした。しかし、・・・・・・・。この城の説明を僕の言葉でするより「講談社刊・現代新書・ハプスブルグ家ー江村洋著」から引用させていただきます。
一七世紀から一八世紀にかけて、ウイーンではバロック風の豪壮な宮殿や離宮が数多く建築された。オーストリアの貴族達は地方の領地に広大な地所を私有していたが、その他にもウイーン近郊に居を構え、暑い盛夏はそこで過ごし、冬には市内の屋敷に残った。今日のウイーンノ中心部には当時の建築物でなお残されているものも少なくないが、その最たるものがベルベデーレ宮殿であろう。
  君主に仕える家臣のなかでも、オイゲン公といえば格段の存在で、この将軍が君主から受けた財産は計り知れないが、オイゲン公はそれを元にしてウイーンの市域外に夏の離宮として、ヒルデブラントの設計によってベルベデーレ宮殿を造営した。今日のウイーン南駅から北へゆるい勾配で下る斜面に横たわり、美しい庭園と泉水をはさんだ上宮と下宮との雄大な構造はそのままオイゲン公の気宇の広大さをあらわしている。(以上、上掲書より引用)

さて、長くなりましたので、記念撮影もそこそこに建物の中に入ってみましょう。現在この城は美術館として使用されています。正面から右の方に庭園に通じる入口があり、そこから裏へ回ったところに一般客の玄関がありました。階段を上り入場券を買って中へ入りました。ここには19世紀末、花開いた画家クリムトやシーレの絵が展示されてあります。ちょうどこの時は「アメリカ現代絵画展」が開催中で、観光客ばかりでなくウイーン市民で混雑していました。僕達は数々の「アメリカ絵画」を見た後、常設展示室の方へと向かいました。階段を上って3階の部屋に入ると、クリムトの絵が展示してありました。有名なtabi000019.jpg (13743 バイト)「接吻」を間近に見たときは、思わず心の中でつぶやきました。「また、会えたね。。」
実を言いますと、僕がこのクリムトの「接吻」に会うのはこれで2度目なのです。20年くらい前でしたか、僕がまだ、東京に居た時にいろいろな展覧会を見たり、美術館を訪ねるのが趣味だった僕は、池袋のデパートの中に出来た(今尚あるかどうかは知りませんが。)西武美術館の開館記念のときだったと思いますが、その時に、このクリムトの絵が展示され、たくさんの人に混じって見たことがあるのです。少し派手ともいえる黄色(金色)を主にした色使いで、男性が女性を抱きかかえて接吻している図はまさしく二人の愛の情熱がふつふつと伝わってきます。男の黒、白のモザイク調の衣服、女性の円を主にした細かな柄が目をひきつけます。恋人同士の、余りにも大胆な構図は僕達に強く印象付けます。華やかな色彩で見る人の心を捉えるクリムトの絵とは対照的にただひたすら暗い印象を与えるシーレの絵も、ここには展示してあります。自画像を多く描いたシーレの絵を見ていると、常に見ている僕達に何かを訴えかけているようです。そして描かれている人物のポーズも特異さを感じさせます。思わず見る人を立ち止まらせるそんな雰囲気を醸し出している気がします。特に僕の印象に残った絵は、夫(男)が妻(女)を前にしてその女が自分の子供を抱きかかえるようにして座っている「家族」という絵です。この男はシーレその人と言われています。僕は二人の絵を前にして、僕自身が日本を遠く離れたウイーンにいることすら忘れて、しばらく立ち止まっていました。世界が大きな渦の中に飲み込まれようとした19世紀末から20世紀初頭にかけて駆け足で生き抜いたクリムトとシーレ。クリムトは1918年56歳で、シーレは同じ年の1918年クリムトより少し後に28歳で亡くなっています。19世紀末、音楽に絵画に建築に思想に華やかな花を咲かせた偉大なる芸術家、思想家が申し合わせたようにこの世を去っています。

余談ですが、シーレとヒトラーは同じ美術学校で勉強をした仲です。シーレは言っています。「僕は芸術家になた。彼は政治家になった。それだけのことだ。」と。最もシーレはこのときヒトラーがヨーロッパを不幸のどん底に突き落とすほどの人物になるなど予想もしていなかったことでしょう。何故なら、ヒトラーがドイツの宰相になったのは1933年のことですから。(ヒトラーのことについて暫くお話したいのですが、道草ばかりしていてはいけませんのでここは森本哲郎著「ウイーン」のp313からp340に詳しいですのでそちらにお任せすることにします。)そして、クリムトとシーレが亡くなる少し前、1916年にハプスブルグ家最後の皇帝フランツヨーゼフが死去。約650年続いたハプスブルグ家の名が実質上歴史から消えていきました。

少しクリムトとシーレに酔いすぎたようです。僕達は、気分を変えて庭園に出てみました。シェーンブルンの庭園と同じようにここもはるか下の方まで広大な敷地に、彫刻が置かれ、木が植えられ、思わず驚嘆させられました。緩やかな下り坂になっている庭園のはるか下の方には、ウイーンの市街が一望できました。昨日訪ねたシュテファン寺院の尖塔もはっきりと見えました。それはすばらしい眺めでした。top home

6月13日名古屋駅JR高島屋での「エリザベート展」に出かけました。

エリザベートは、フランツヨーゼフ皇帝の妻であり、1898年ジュネーブで無政府主義者の青年に暗殺されています。また、彼女の激しい気性は、息子を自殺にまで追いやっています。生涯、皇妃として国民の信望が厚かったエリザベートも実際は満たされぬ生涯を送りました。彼女の遺品の数々が展示されていました。(010615)

 

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         国会議事堂前を行く馬車

美術史美術館

ベルベデーレ美術館の出口のすぐの所に市電の乗り場がありましたので僕達はそこで電車を待つことにしました。まだ、クリムトとシーレの余韻が僕の頭の中を行ったり来たりしていました。すぐに目の前の情景を受け入れることは出来なかったのです。広い通りに沿って右側は今出てきたベルベデーレの塀がはるか向こうの方まで続いています。
 暫くすると電車が音をたてて近づいてきました。車内は四,五人の乗客で、日本からの主婦が障害児を連れて乗り込んできました。子供達に外国の景色を見せてやろうと、この旅に出てきたのでしょう。静かな車内が日本語で賑やかになりました。
 僕達は一旦オペラ座の広場に戻り、今度はマリアテレジア広場の方へ歩いて行きました。美術史美術館でブリューゲルを見るためです。
  マリアテエジアの大きな銅像が建つ広場の右手に美術史美術館はあります。
 旧王室の約40万点に上る美術品が展示してあります。僕達は時間も余りありませんでしたので「見るべきものだけは見つ。」ということで、まずブリュ―ゲルを探しました。
 「バベルの塔」「狩人」などを見つけたときはほっとしました。ラファエロ、ルーベンスの大きな絵と異なり、ブリューゲルの作品は、控えめに地味に僕達を待っていてくれました。人間の力を誇示し、天(神)に少しでも近づこうとする人間の驕りを描いた「バベルの塔」は、私達も歴史の教科書などでおなじみです。「ブリューゲルが都市をこんなに克明に描いたのはこれだけだ」「実にすばらしい都市俯瞰図がそこに現われる。水路がある、あの独特の切妻屋根の低地地方の家々がある。」(中野孝次著ブリューゲルへの旅)
 そして小高い丘から下の村を見下ろす狩人たちを描いた「雪中の狩人」も当時の庶民の生活をそのまま描いた絵として私達に語りかけてきます。氷上に遊ぶ人々の声が耳に聞こえてくるような気がします。1500年代の画家として、今に人の心を捉えて離さないのはなぜだろうか。1966年憂鬱な気分でウイーンの地下の下宿の部屋で毎日を過ごしていた中野孝次がブリューゲルと出会った。「この画家はいろんな言葉で語りかけてきた。しかもいつでも強いメッセージをわたしにかたりかけてきた。…・・」(前掲同書)
 日本でも私は、二,三度ブリューゲルの絵と対面しています。克明に描かれた、農民達の表情、動作は見るものをあきさせません。そして、当時の人々の生活ぶりが手にとるように分かります。top

 

宝物館と楽器・武器博物館

 

tabi0023.jpg (33983 バイト) 武器博物館の中

美術史美術館を出るとすぐ英雄広場があり、その広場に面して旧王宮を利用した宝物館、楽器、武器博物館があります。僕達はくたびれた足を引きづりながらそれらを見て回りました。宝物館の王家のダイヤをちりばめた、冠や衣類、装飾品の数々、楽器博物館の古い楽器の数々、特にモーツアルトが使ったというチェンバレンは立ち止まって見ていました。その古い楽器の多さにびっくり仰天でした。また、武器博物館ではこれも数多い甲冑やサーベル、馬具が陳列してありました。馬具の間から兵士が飛び出してくるのではないかと言う錯覚に陥ります。ほとんど見物客が居ない館内は不気味な雰囲気が漂っていました。
 さて、昼食の時間もとっくに過ぎていました。御腹がすいた僕達はどこかで何かを食べようと言うことになったのですが、英雄広場の真中ではレストランなどあるはずがありません。向こうの建物の脇では数台の馬車が客待ちをして並んでいます。日差しも少し強くなってきました。コートを脱いで、とにかくこの広場を出ることにしました。top

ペスト記念塔

王宮の裏の出口からすぐの所に何人もの人が寄り添って上に上り詰めようとする彫刻の塔が道路の真中に建っていました。それが有名なペスト記念塔でした。1679年当時ヨーロッパに大流行したペストの終息を記念して皇帝レオポルト1世が立てたものですが、上の方には三位一体像が輝いています。その脇を僕達はレストランを探して歩きました。

夕方薄暗くなって、どこかでクラシックの生演奏を聞いてみたいと思い、案内所に飛び込んで尋ねてみましたが、特に聞きたいものもなく、ただチラシを数枚もらってオペラ座の近くを散歩して歩きました。一日中歩き回った僕達は少々疲れ気味でした。目に入ったカフェハウスに入り、コーヒーを啜りながら、バッグから予定表を取り出して見ると、家を出るときに持って出た京都の仏像の絵葉書が数枚出てきました。妻はそれを手に「これを昨日のレストランの若者に届けてあげよう。日本の絵葉書だからきっと喜ぶに違いないわ。」と言い出したのです。このままホテルに帰るにはまだ早すぎるような気もした僕は、妻の提案に賛成し、昨日入ったレストランに行くことにしたのです。
   若者を呼び出したところ、すぐに彼は私達の前に姿を現しました。僕達は、店の中に入らないで、入口のところで昨日の礼を述べ、絵葉書を差し出したのです。彼は快く受け取り、住所を書いて欲しいと言う私の注文にも答えてくれました。差し出した手帳に彼は住所を書いてくれました。「日本へ帰ってから手紙を書きますから。」という妻の言葉にニッコリと微笑み、「それじゃこれで、ごきげんよう。」と言って、彼は、店の中に消えていきました。
  土産物屋を見て回りながら、僕達はウイーンの夜を惜しみつつ、ホテルへと帰ったのでした。
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さらばウイーン

朝、7時頃目を覚ました僕たちは、ホテルを飛び出し、すぐ前の大学の構内を散歩しました。小さな大学で,構内の庭にはフランツヨーゼフU世の銅像が建っていました。
  学生用のスーパーがこんな早くから開いていましたので、2人は中に入り牛乳とパンを買い、聞きなれない小鳥の声を聞きながらベンチに腰掛けて食べました。ホテルで朝食が出るのですが、それまで待ちきれなかったのです。
   学生たちはバーベキューでもするのでしょうか、テーブルや椅子、コンロなどが大きな木の下に積み上げてありました。この時期学校は、キリスト教の復活祭で休みなのです。もちろん学生の姿は見受けられません。大学を出て、ホテルに帰ろうと歩道を歩いていると、小さな教会に入って行く老夫婦がいました。その小さな教会の壁に、僕は小さなレリーフを見つけました。誰のだろうとよく見ると、なんと「冬の旅」なtabi0024.jpg (15199 バイト)どの歌曲集を作曲したシューベルトだったのです。この地がシュ―ベルトと何のかかわりがあるか知りませんが、(ドイツ語を読めないことが残念です。)新しい発見をしたような気分になり、ホテルに戻ったのでした。
 食堂に顔を出すと、もうテーブルはほとんど家族連れで埋まっていました。一つだけ隅のほうにテーブルを見つけた僕たちは、ジュースとパンとソーセージ、サラダの簡単な食事を済ませ、部屋に戻りました。いよいよウイーンともお別れです。荷物を整え、部屋を出たのは十時少し過ぎていました。フロントでお金の清算を済まし、飛行場までタクシーを頼んでもらいました。
  ウイーンの朝は静かなものでした。東京や名古屋のようにあわただしく車を飛ばす人もいませんし、足早に人を掻き分けて急ぐ人もいません。タクシーの窓から見るウイーンの街は、歌劇の前奏曲のように静かなハーモニーが流れているようでした。飛行機は午後1時発でしたが、空港に着いたのは11時頃でした。十分に時間を取るほうが飛行機に乗る時は安心です。僕たちはそれほど広くない空港の中を荷物を持ってうろうろしました。免税店のみやげ物を見たりしていると、幾分疲れてきましたので、通路に置いてある長いすに腰を下ろしていると、向こうからニコニコと笑顔で近づいてくる日本人の若い女性がいました。お決まりの会話を交わした後、すぐに親しくなり、しばらく話していました。彼女は、東京から団体旅行でウイーンへ来たこと、これからパリへ向かうことなどを話してくれました。住所などを教えあった後、彼女は去っていきました。(この人とは今でも手紙でお付き合いしています。)
  まだ
充分時間はあります。僕たちは昼食もかねてレストランに入り、軽い食事をとりました。
  午後
1時、飛行機は予定通りウイーン空港を飛び立ちました。眼下にウイーンの街が広がりました。「さらばウイーン。」僕は、思わず口の中でつぶやきました。 top

 

*ウイーン・ミュンヘン・ザルツブルグ紀行(その3)

 ミュンヘン

 ウイーンからミュンヘンへは約1時間です。空はすっかり晴れ渡り、眼下に見えるオーストリアの風景はすばらしく、隣の妻は、何度も感嘆の声をあげていました。
  ミュンヘンの飛行場に着いたのは午後2時頃、そこから今度はミュンヘン中央駅まで電車で移動です。
  ここで一つ失敗談をお聞かせしましょう。
  電車に乗ってミュンヘン中央駅へ行く時でした。僕は、電車が止まるたびに駅の標識を見て、そこがどの駅かを確認していました。僕がそういう作業をしていることを、妻は知っていたかどうか、僕にしきりに話し掛けてくるのです。僕はいいかげんに相槌を打ち、妻の話に乗らなかったのです。電車は、いくつかの駅に止まりました。ところがふと妻の話に気をとられているうちに、一つの駅の標識を見落としてしまいました。電車がその駅を出てしばらくして、僕はなんだかおかしいことに気づいたのです。繁華な町の中心から、電車は家がまばらな郊外へと向かっているような気がしました。おかしい。もう迷っている猶予はありません。中央駅は通りすぎたのだ。そう直感した僕は、妻を促し、網棚の荷物を膝の上に載せさせ、いつでも降りられる体制をとったのでした。
  電車は、駅に止まりました。僕たちはすぐに荷物を抱えてその電車を降りたのです。案の定、ミュンヘン中央駅はこの駅の一つ前だったのです。僕たちは、反対ホームに立ち中央駅へ行く電車に乗ったのはいうまでもありません。
  中央駅を降り立った僕たちはほっとしました。今夜のホテルはこの中央駅からすぐの所の「モナコホテル」です。日本を出る前に、すべてを予約してくれた弟がインターネットで取り寄せたホテルの地図を頼りに、駅の地下道を歩きました。
  駅の地下道を出てしばらく行くと左側にホテルの看板が見えてきました。小さなビルの小さな入り口を入るとエレベーターがあり、その五階がホテルの受付になっていました。ペンションですので大きくはありませんが、受付の女性は愛想が良く、名前を名乗るとすぐに部屋のキーを渡してくれました。
  荷物を部屋に置いて、僕たちは早速ミュンヘンの町へ飛び出しました。ここでは、美術館も観光名所も訪ねる予定はありません。もう時間は
4時半ですし、明日は、ノイシュバンシュタイン城へ行く予定です。ここでは、市庁舎のからくり人形を見ることと、有名なビアホール、「ホーフブロイ」でビールを飲むことだけが予定に入っているだけです。top

市庁舎のからくり人形とホーフブロイ

tabi0026.jpg (8383 バイト)ミュンヘンで有名なものに市庁舎のからくり人形があります。地図によるとホーフブロイは市庁舎の近くにあります。僕たちは大通りを、目指す市庁舎へと歩きました。大勢の人たちが歩く方向に、市庁舎はきっとあるに違いないと思い、人の流れに乗ってしばらく行くと、市庁舎の広場に出ました。広場にはたくさんの人がいました。そして私たちは、なんと運が良かったのでしょう。そこに着いたら丁度5時だったのです。予め計画したわけでもないのに…・。まさしくからくり人形の演奏が始まったのです。まるで僕たちを歓迎しているように、からくり人形は時を告げてくれたのでした。市庁舎の建物を見上げながら、しばし異国情緒を楽しみました。
  夕暮れてだんだん薄暗くなってきました。僕たちはお腹がすいてきましたし、ビールも飲みたくなりましたので、ホーフブロイを探すことにしました。地図を頼りにしばらく探し回りましたが見つかりません。結局、洋品店の前に立っていた女性に聞いて、ようやくホーフブロイの前にたどりつきました。約
30分ぐらいうろうろしたでしょうか。建物の外観は大きく見えませんでしたが、中に入ってあまりの広さに驚きました。東京銀座のサッポロビアホールの比ではありません。学校の講堂を思わせるほど広く、たくさんのテーブルは人でいっぱいです。ウエイターが大きなビールのジョッキを持って行き来し、ホールの真中では五,六人の楽団が、いろいろな曲を演奏し、顔を真っ赤にした客が、それに合わせて大きな声で歌っていました。そういえばこのビアホールは世界で一番歴史が古く、世界一大きいと聞いています。それにもう一つ有名なのは、このビアホールでかのヒトラーがナチ党の旗揚げをしたということです。   私たちは入り口から真中の通路をしばらく行ったところに二tabi0025.jpg (33163 バイト)人が座れる席を見つけ、そこに腰をおろしました。大きなテーブルにはドイツ人でしょうか、六人ぐらいの若者のグループがわいわいやっていました。私たちは彼らと同じテーブルに座ったのです。すると、すぐに笑みをたたえたウエイターが注文を取りに来ました。
  妻も私も、自分たちの顔が入るくらい飲み口の大きなジョッキを手に、本場ドイツのしかもミュンヘンのビールで乾杯しました。昔テレビのビールのCMで「サッポロ、ミュンヘン、ミルウオーキー」というのがありました。そのミュンヘンで妻と二人でこうして大好きなビールが飲めるなんて誰が想像したでしょうか。このときに飲んだ大ジョッキのビールは、ウイーンのクリムトの絵よりも、王宮宝物館のダイヤをちりばめた光り輝く王冠よりも、僕たちにははるかに「旨い」ものでした。
  同じテーブルの若者たちと仲良くなるに大して時間はかかりませんでした。僕がカメラを取り出し「いっしょに写りましょう」と誘うとすぐにのってきました。妻はもう真っ赤な顔になって、若者たちからの乾杯の声を受けるのに一生懸命でした。僕は、酔った勢いでホールの中央にいる楽団のところへ行って、日本の歌の「上を向いて歩こう」(
30年ぐらい前には、外国では「スキヤキソング」といわれ、僕がロンドンにいた頃は何度もこの歌を聴きました。)をリクエストしてみました。バイオリンを抱えていた、年配の人が「うん、うん」と頷いていましたので、てっきり演奏してくれるものと思い席に戻ると、なかなかその曲が聞こえて来ません。結局スキヤキソングは聞けませんでしたが、ドイツの若者と過ごした時間は生涯忘れないでしょう。楽団の周りには娘を相手にダンスをしている父親の姿もありました。(日本へ帰ってから聞いたのですが、チップを払えば演奏してくれたかもしれないということです。)
  一時間くらいいたでしょうか、僕たちは若者たちに別れの言葉を言い、ウエイターに料金を払いその席を立ったのでした。しかし、このまま外に出るのはなんだか惜しくなり、僕たちはこの建物の中を見て回ることにしました。奥のほうへ通じる通路を行くと2階へ上がる階段がありました。そこを上がると広いテラスに出たのです。テラスの手すりに寄りかかって下を見ると、そこは中庭になり、たくさんのテーブルが並べられ、多くの人がジョッキを手に騒いでいました。ふと見ると、僕たちの行く手に十人ぐらいの高校生風の若者たちの一団がいました。私たちを手招きし、こちらへ来いというのです。彼らに近づくとそれぞれが握手を求めてきました。そしてそのうちの一人がジョッキを私に差し出し、乾杯をしようというのです。私はそのジョッキを受け取り若者たちと乾杯しました。こうしてミュンヘンでの楽しい時間が過ぎていったのです。

 

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