天狗争乱

吉村昭著
「天狗争乱」
発行・朝日新聞社・朝日文庫1999年11月1日発行
時は幕末、桜田門外の変から4年、尊皇攘夷派の水戸藩浪士が茨城県築波山で挙兵し、当時京都に居た将軍徳川慶喜に直訴をしようと、田丸稲之衛門を大将とし総勢百七十余人が、筑波山の大御堂前を出発したのは四月三日であった。中仙道を辿り京都へと進軍する。途中、浪士達に同調した者を列に加えながら、幾多の困難を乗り越え、福井に辿り着く。そして、最後は加賀藩に敦賀で捕らえられ、天狗党の約325人が斬首の刑に処せられる。これは歴史的事実を克明に描いた、ノンフィクションである。
以下に引用した部分は、飯田藩の勇士が、賛助金千両を持って天狗党の後を追いかける場面である。
その日は曇天であった。
天狗勢は、宿賃の支払いを済ませて、鵜沼宿を出立し、中仙道を西へ進んだ。加納藩から道案内の者が出ていて、二里〔八キロ〕ほど行って新加納〔各務原市〕のあたりから、中山道をはなれて右折し、間道を北上した。
その動きを、加納藩をはじめ大垣、彦根、桑名の各藩と後方から追ってくる幕府軍の探索の者たちがひそかに見まもり、さらに尾行していった。
天狗勢の列は、枯れ草の広がる各務ヶ原の原野を北にむかって遠ざかっていった。その頃、天狗勢の後を必死に追って旅をつづけている三人の男がいた。一人は飯田藩領座光幸村の名主北原稲雄の弟である今村豊三郎で、他の二人は、今村がやとい入れた屈強な男たちであった。
(中略)
町の中に入った今村は、飯屋に入って昼食をとった。店の者に天狗勢の動きをきいたかれは、天狗勢に追いつくことは到底不可能であるのを知った。天狗勢は、昨日、岐阜の東方の蘇原を過ぎて北上し芥見で長良川をわたり、さらに北西にむかい天王(高富町)付近で宿営したという。今日は、天王を出立し、速い速度で進んでいるはずであった。
今村は、為替手形を含む千両を持って追ってきながら、それをわたせぬことが悲しかった。結果的に天狗勢との約束にそむいたことになり、人間として恥ずかしい、と思った。
かれは、追うことを断念し、やむなく西材木町〔岐阜市〕の旅籠屋である茶碗屋善左衛門方に草鞋をぬぎ投宿した。
(朝日新聞社発行・朝日文庫・1999年11月1日発行P426〜P436から)
注・西材木町は「岐阜の町から・東材木町・川原町」を御覧下さい。江戸時代末期の雰囲気が今も残っています。
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篝火(かがり火)
川端康成作
新潮社版{川端康成全集」第2巻
昭和55年発行
川端康成が東京大学の学生だったとき、東京本郷の喫茶店でウエートレスをしていた伊藤 初代さんと知り合う。彼女に恋をする康成は、やがて縁者を頼って岐阜の澄願寺に来た初代さんを何度も訪ねる。そして初代さんとの婚約を交わすまでになるのだが、結婚は果たされず二人は別れることになる。この続編とも言える「非常」という小説にも物語のみち子と澄願寺が出てくる。この寺はその後の調べで、岐阜駅南口の新本町通りに面する西方寺と言われている。(「岐阜ところどころ・西方寺」を御覧下さい。)
この物語では、実際に康成が体験したことが描かれており、和傘や提灯を作る加納地区、岐阜駅、長良川、岐阜公園そして長良川などが描かれている。
この場面は、私の友人で一緒に岐阜まできてくれた朝倉とみち子(初代さんがモデル)と私が岐阜公園の方まで歩いて出かける場面である。
「おい、もう雨は止んでいるんだよ。」
朝倉とみち子は、近路だと、小さい天満宮の境内へ折れて行った。寒さに敏い櫻の落葉が思ひ出したやうに立ち上って微かな秋の音で湿った地を走り、また直ぐ風に見棄てられると静かに死んだ。境内の裏の畦路から、やがて廣い道に出た。足の早い朝倉がどんどん歩くので、みち子が後れた。私はみち子と歩いてゐた。女の美しさは日の下の道を歩く時にだけ正直な裸になると思って、私は歩いているみち子を見た。體臭の微塵もないやうな娘だと感じた。病気のやうに蒼い。快活が底に沈んで、自分の奥の孤獨をしじゅう見つめているやうだ。女と歩き馴れない私には背丈の違ふ相手が具合悪い。敷き詰めた砂礫を踏むみち子の足駄は運びにくさうであった。
「それより早く歩けない?それで一生懸命か。」
「ええ。」
「おい、もっとゆっくり歩いてくれ。早く歩けないさうだ。」
「さうか。」と言って朝倉は暫く足を緩めてゐたが、直ぐ二人を残してずんすん先へ行った。その朝倉の暗示は分っていた。しかし、私は白々し過ぎる気がした。宿屋へ落着くまで、朝倉も私もみち子に何も言わないことに固く約束してあるのであった。
突然みち子が言った。
「俊さんおいくつですか。」
「え?二十三だよ。」
「さうですか。」といったきりみち子は黙ってしまった。
東海道線の陸橋で、朝倉は二人を待ってゐた。
「あすこに踏み切りが見えますでせう。あの踏切を越えてお使ひに行く時に、わたしよく東京へ行く汽車を眺めてゐるんですよ。」とみち子は陸橋から遠くを見て言った。岐阜驛前から電車で長良川へ行った。南岸の宿の玄關に立ってゐるとお上が出て、この間の嵐に二回も階下も雨戸を破られて休んでゐると言った。不吉な前兆ではなかろうか。
(新潮社版「川端康成全集」 第2巻 昭和55年発行 P92〜P93から」
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夜明け前

島崎藤村作
新潮社発行・藤村文庫第1編、第2編
(昭和11年6月10日第77版)
「木曽路はすべて山の中である。」で始まる「夜明け前」。
江戸から明治へと大きな変革の中、木曾の山村に生まれ育ち、国学者平田の門下生たらんと江戸へ出て様々な変化に遭遇する、主人公青山半蔵の生涯を描いたこの物語は、今も私たちの心を打ちます。和宮降嫁、水戸浪士天狗党の木曽路の通過、等々、木曽路は様々な事件に振り回されることになります。
この物語は長野県妻篭、馬篭、そして岐阜県中津川が主な舞台です。折りしも今年は岐阜県も中仙道400年と銘打って、大々的に様々な催しを行っています。
場面は、中津川に住む半蔵の友人景蔵が香蔵を誘って飯田で開かれる国学者平田の門人の集まりに出るために家を出るところです。
「どうでせう。香蔵さん、大平峠あたりは雪でせうか。」
「さあ、わたしもそのつもりで支度して来ました。」
二人の友達は先づこんな言葉を交わした。景蔵の支度も出来た。取りあへず馬篭まで行かう、二人して半蔵を驚かさうと言ふのは香蔵だ。年齢の相違こそあれ、二人は古い友達であり、平田の門人仲間であり、互ひに京都まで出て幾多の政変の渦の中にも立って見た間柄である。その時の二人は供の男も連れず、途中は笠に草鞋さえあれば足りるような身軽な心持で、思ひ思ひの合羽に身を包みながら、午後から町を離れた。尤も、飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考へると紋付の羽織に袴ぐらゐ風呂敷包みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、馬篭本陣への手土産も忘れてはゐなかったが。
中津川から木曾のはづれまではさう遠くはない。その間に落合の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠にかかって、あれから信濃の国境に出られる。各駅の人馬賃銭が六倍率にも高くなったその年の暮あたりから見ると二人の青年時代には駅と駅との間を通ふ本馬五十五文、軽尻三十六文、人足二十八文と言ったところだ。
水戸浪士達は馬篭と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日に西へ通り過ぎて行った。(第一巻P557より・仮名遣いは原文のままとした。)
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それから

夏目漱石・作
岩波書店刊
夏目漱石全集(昭和60年版)第4巻
文豪夏目漱石の{それから}の中に、岐阜の日傘が出てきます。
漱石が何故岐阜の日傘を知っていたのかと言う考察はさておき、私は感激しました。この前読み終えました「虞美人草」には岐阜の名産・柿羊羹が出てきましたが、今度ははっきりと「岐阜の絵日傘」と出ています。
「それから」のあらすじを書いておきましょう。
主人公代助は、実家から生活費をもらって特にこれといった職業もなく、毎日、思索と読書などで過ごしている30歳の男です。彼は、友人平岡に本当は自分が好きであった女性三千代を紹介し、二人を結婚させるのですが、三千代の不幸な毎日の生活を間近に見ることになります。代助は、三千代を自宅に呼び、自分の彼女への愛を打ち明けるのでした。実家の父や兄が勧める結婚話に耳を貸さず、代助は三千代の夫である友人平岡にも、三千代への気持ちを打ち明けます。しかし、そのとき三千代はすでに重い病気に罹り、平岡は代助に、三千代を譲ることを約束するのですが、病身の三千代が元気になるまでは、彼女に絶対に会わないでくれと、代助に約束させるのでした。生活費を出してくれていた父の勧める結婚話を断り、人妻への愛を貫き通す決心をした代助は、父からも兄からも見放され、さらに、親友平岡までも失うことになったのです。
場面は、主人公代助が実家から周ってきた園遊会の招待状を持って、麻布のある家へ行ったところです。その部分をここに書き抜きます。
それから二三日は、代助も門野も平岡の消息を聞かずに過ごした。四日目の午後に代助は麻布のある家へ園遊会に呼ばれて行った。御客は男女合わせて大分来たが、正餐といふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に背の高い男と、それから鼻眼鏡をかけたその細君とであった。これは中々の美人で、日本杯へ来るには勿体ない位な容色だが、何処で買ったものか、岐阜出来の絵日傘を得意に差していた。(本文P377より)
「岐阜の町から」に日傘を今尚作っておられる岐阜市加納矢場町の石川さん宅を訪問、そのときの写真が載せてあります。是非御覧下さい。
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細 雪

谷崎潤一郎作
中央公論社刊(昭和24年12月20日初版)
昭和初期から戦後において活躍した文豪の代表作。
「刺青」「痴人の愛」「鍵」など多数の作品がある。
この「細雪」は個性のある四人姉妹を描いたもので、映画にもなり一世を風靡した。大阪船場に生きる若い四姉妹が生き生きと描かれている。
抜粋した場面は、四人姉妹の一人雪子の縁談話がもたらされ、その相手である大垣の素封家、菅野家へ雪子、幸子とその娘悦子、妙子の四人が招かれ蛍狩りを楽しんだ後、鮎をご馳走になる場面である。期せずして5月11日は鵜飼開きで長良川は観光客で賑わった。(「岐阜の町から」参照)
「こんな田舎にをりますと、かういう見事な生きのよい鮎を戴くなんて云ふことはめったにございません。」
と、常子が口を挟んだ。
「―――而も沢山氷詰めにしてお持ち下さいまして、さぞお荷物でございましたでせう。此れはどちらで獲れました鮎でございましょうか」
「これは長良川で、…・。」
と、澤崎はだんだん機嫌を直して、
「昨夜電話で頼んで置きまして、先刻岐阜の駅で汽車まで届けさせたのでございます。」
「それはまあ、お手数をお掛け下さいまして、…・。」
「お陰で初物が戴けますわ。」
と、未亡人の尾について幸子が云った。
そんなことから又少しづつ座談の縒りが戻って行って、岐阜縣下の名所旧蹟の話、日本ライン、下呂温泉、養老の滝の話、昨夜の蛍狩の話など、ぼつぼつと取り交わされたが、どうもさっきのやうには弾まず、お互にギコチなさを忍びながら、座をつなぐために何か彼にか話題を持ち出してゐると云ふ感じであった。(本文p397より)
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美濃
小島信夫著
平凡社刊
小島信夫
大正4年岐阜市に生まれる。
昭和29年「アメリカン・スクール」で芥川賞受賞。
昭和40年、家庭崩壊の姿を描いた「抱擁家族」で
第1回谷崎賞を受賞。
他の作品に、「別れる理由」「異郷jの道化師」な ど、また、文学論集として「文学断章」など多数。
現在、東京国分寺市に在住。
・いうまでもなく、作者小島信夫が若き日を送った岐阜を舞台にした小説である。小説と言うより作者自身もあと書きで書いているように「『随筆』を書き出したところ、思ったより長くなり、いよいよ時間がきたときには、小説的になっていた。」第1章から第12章まであるが、それぞれに、美濃(岐阜)に実在するあるいは実在していた人物が、作者の分身でもある古田を中心に、かわるがわる登場し、岐阜を語り継いでいる。「これは、作家の不用意が呼びさました罰の物語で、かくれていた罰が数珠つなぎになっていて、嬉嬉として登場してきたのかもしれない。」(本書あとがきより)尚、昨日、本屋で小島信夫の新著「各務ヶ原、名古屋、国立」という本を見つけた。最新刊である。
* 「岐阜ところどころ」に長良橋が紹介されています。
その彼の家が伊勢湾台風のときに水につかった。もともと堤防が切れることは度々あったのであろう。大堤防の北にも南にも小堤防がある。灌漑用の水は大堤防から小堤防をと二つの水門をぬけて市内を流れ、私が育った南部の方の駅ぎわの方へ流れ、東海道線や高山線の下を通って濃尾平野へと下って行くのである。市内を通るときある場所では山ぎわをひそかに流れる。昔から私はその山ぎわをどんなに恋しがったであろう。(本文P62より)
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岐阜のつたえ話

編集・ 岐阜のつたえ話編集委員会
著作・ 財団法人 岐阜市教育文化振興事業団
発行・ 財団法人 岐阜市教育文化振興事業団
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岐阜にはたくさんの伝え話があります。これまでに出版された6冊の「つたえ話」をこのたび1冊にまとめ、出版されました。「おもしろいいわれ話」「洪水とたたかう話」「人々の生き方の話」など7項目に分類し、約25のつたえ話が載っています。見慣れた景色、何気なく歩いていた所に、昔の人々のさまざまな生き様が埋まっているのを知り、夢中になって読みました。ここにその中から1部をご紹介します。
御手洗池
むかし、日野村に与吉という釣りのすきな子どもがいました.。
ある日、与吉は、金華山のふもとによく釣れる池があると聞いて釣りにやって来ました.「やあ、ここやな」
その池は青々と水をたたえて大きな岩の下にあり、さかながたくさんいそうでした.与吉はさっそく釣り始めましたが、なかなか釣れません。
「おかしいな、どうして釣れんのやろう」
と、その時、ぐっと手ごたえがありました。
「来たっ」
与吉は、さっと引き上げようとしましたが、何かに」引っかかったようで、なかなか上がってきません.やっと引き上げてみると、釣り針に、長いかみの毛が引っかかってきたので、ぎょっとしました。そして、
御手洗池で、釣っとったら、針に女のかみの毛がひっかかってきたことがあったぞ」
「かみの毛だけやないぞ。幽霊もでるんやと」
と言った五平のことばを思い出しました。 (上掲書より)
「岐阜ところどころ」に「御手洗池」が紹介されています。御覧下さい。
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