中島大水道  

2002/10/16 写真を入れ更新

まずは以前から歩きたかった、「中島大水道跡」を歩いてみる事にします。ただいまの東淀川区から淀川区・西淀川区を貫き、此花区にまで到達したという、悲劇を秘めた大治水事業です。この水道こそ、古と今を繋ぐ私の「街道以外をもゆく」の第一回に相応しいと考えたからです。

「中島水道」 とは

延宝六年、水害のための不作に悩んだ当地の農民は、排水用
の水道工事を考えました。
莫大な費用が掛かるため、陳情にいくと幕府は「全額百姓負担」
とのこと。農民は「せめて幕府に半分持って欲しい」と嘆願すると、
幕府は態度を変え「生意気な、工事はならん!」と一蹴。

仕方なく、許可を得ぬままに三人の庄屋さん主導のもと突貫工事
を始め、なんと二十八日間(異説五十日)で、九.五kmの水路を
完成させました。

途中、奉行所から工事中止を言い渡されましたが最後までやり抜
きました。工事の途中、三人の庄屋さんはその責任をとって、役人
に捕らえられる前に切腹したそうです。
白装束で、将軍のいる江戸の空を睨みつけながら。

切腹の場所は、西中島七丁目にある「さいの木神社」。今でも四月
九日に慰霊祭が行われています。

資料につきましては、三善貞司先生の大阪春秋84号執筆作と「わが町昔さが誌」・渡邊忠司先生
の「町人の都大阪物語」・東淀川農業協同組合編「百姓普請の中島大水道」・「東淀川区史」など
を参考にさせていただきました。有難うございます。

スタートは中島大水道の工事の起点のある東淀川区淡路四丁目です。新幹線の高架下に、小さな公園があり、「中島大水道跡碑」が造られています。

お菓子の「水ヨウカン」みたいです。
生レバーというと怒られますか?

 

 

復活した新太郎松桶

昭和30年代?左端に新太郎松樋

ここには当時の礎石で、新太郎松桶が再現されているんです。

これが中島大水道のスタートです。

 

一時ちょうどにここを出発しました。

オーソドックスで落ち着いた石碑です。

 

 

 

 

 

水路の幅は平均30mあったそうです

あらら新幹線が石碑は左下

なかなか、水の流れを表すように上手く作ってあります。

ここから後は、顕彰するものも殆どありません。残骸を辿るだけです。

しばらくは高架下を歩きましたが、路傍に「歓喜地蔵」というのがありました。

歓喜天は生駒の聖天さん、愛欲の神様ですね。それが慈悲深い地蔵さんになるとはミスマッチで面白い。

てなことを考えながら歩いていると、涙が出てきました。なんでこんなことで感傷的になるのかな、と思うと雨でした。

(写真は別の日に撮りました。その日は秋の好天です)

 

 

 

小雨に傘も差さず新大阪駅までやってきました。もう少し行くと我家です。

「新大阪は大阪の玄関口」といいます。すると我家は下駄箱あたりですかな。

 

 

 

右が三国本町公園、左が宮原小

昭和39年左下が宮原小、南が水道

大水道は西へ西へと、宮原小学校裏門と三国本町公園の間を通ります。
今は下水道に姿を変え、働いているそうです。

話は逸れますが、難波長柄豊崎の宮の離宮に「味経(あじふ)の宮」というのがありました。万葉集(第六巻)のなかにも歌われている宮なのですが、京大の喜田貞吉先生は、宮原の地ではないか?と言っております。

新幹線の下、西北を眺める

この水道の先が左の景色だと・・・

そして阪急宝塚線の高架の手前、つまり能勢街道と合流してから南下します。

宮原操車場の横です。
前にJR貨物、上に新幹線、もひとつ上に飛行機が・・・。

「能勢街道」と書いてあるのが見えます。

 

これがアケミ幼稚園です

本には東雲とありますが栄橋かな?

「木川栄橋」というバス停がありますが、これは大水道に掛かっていた橋の名称です。十三病院のところですね。

ここからアケミ幼稚園を沿うように、また西へ進みます。

一番交通事故が多いところで、よく花が供えられています。

十三中学校です

創立10周年、北(右)に水道がある

十三中学校北には大水道に掛かる「中島橋」がありました。昭和32年の創立10周年行事の航空人文字写真には、大水道が写ってます。もちろん、中島橋もね。

喫茶サンライズのおじさんは、親切にいろいろ教えてくださいました。奇麗なお姉さんも二人働いてはりました。何をレポートしてるねん。

阪急京都線の「中島小橋踏切」は、大水道からの疎水に掛かる橋です。英真学園高校の生徒の声が聞こえます。

私は以前この近くに住まってました。

 

 

 

ルート176区民センター前に東雲橋がありました。今は赤バスが通ります。

ここから先は、十三バイパスの下が大水道跡です。

バイパスは歩けませんので、少し脇道を通ったりします。

 

阪急神戸線と交差するところに「長兵衛橋(武田長兵衛)」というのがあったそうです。最近まで橋跡が残っていたらしいですが、今は全くありません。

しかし私と宜保愛子には見えます。線路脇のこの段差が怪しい。バイパスは武田製薬の敷地内を通ります。ズーッとその下が大水道になります。

 

十三筋にぶち当たる辺りには、堤防跡が幾つか残っています。近くの散髪屋さんに当時の話を一杯伺いました。

ここで昔大火事があったというのも他の方に聞きました。「ベンジンが大水道に流れ込み、それに火がつき、火の海ならぬ火の川だった」と懐かしそうにおしゃべりします。月日は悲しみまで風化させるのです。

 

十三公設市場前にも堤防の石段が1ヶ所残っています。

バイパスを歩いて元今里商店街の一本南の道まで歩いてまいります。

 

 

 

ここが西国橋跡です。

「ここが大水路だったんですよ」と、訴えるような微妙な蛇行の道です。

 

 

 

後は西へ蛇行しながら進みのですが、途中ダイヘンの向かいに大水道を見つめ続けていた木々の立ってます。

「喉元過ぎれば暑さ忘れる」と言いますが、「塚本過ぎれば淀川区忘れる」いよいよ西淀川区に入ります。なんのこっちゃ。

 

 

大野川遊歩道は中島水道跡で、ここにも昭和54年に造られた石碑があります。

文面に間違えがあると指摘されて久しいのですが、永遠に変えないつもりでしょうか?

 

 

 

遊歩道をゆくと、歌島小学校の児童の絵をパネルに再生して、難波大放水工事のフェンスにしたりしています。これなら雨の中でも楽しく歩けます。

わたしは常々思ってるんですが、都会の真中の遊歩道で必要以上に木を植え森みたいにしたり、野鳥の鳴き声をスピーカーで流したり。住民を子ども扱いした(この言葉も良くないかな)、しらける演出が多すぎます。そんな欺くようなことはしないで、謙虚に都会らしい風景を出す努力をすればいいんじゃないでしょうか。

 

カラフルな遊歩道も終わり、福町に着きました。ここから伝法大橋を渡るんですが、車が混んでますねえ。同時に渡り始めた塚本幼稚園のスクールバスは最後まで私に追いつけませんでした。

対岸はゴールの伝法五丁目です。はじめて訪れましたが、旧家が多くいい町並みですな。この辺まで大水道の恩恵を蒙ってきたのでしょうね。

 

中島大水道とは関係ないお寺をお参りして、今日のウォーキングの終了としました。

ゆっくり歩いて二時間半です。

約十キロですので皆さんも是非歩いてください。
因みに私は日本ウォーキング協会(元日本歩け歩け協会)に所属してます。

 

実際の終着点は、明治末年の新淀川開削で川底に沈んでいます。百姓普請のと国家治水の違いを見せ付けられました。

 

 

 

 

伝法大橋から東を見ますと、東淀川区にあるキーエンスのタワーが微かに確認できます。視界に移る町々は、中島大水道と何らかの繋がりのあったところです。

橋の向こう側から撮るべきやったなあ。反省。

 

 

後日、切腹した三庄屋のうちのお一人、西尾六右衛門のお墓にお参りしました。西中島七丁目の「西町霊園」の奥にヒッソリと町の移り変わりを眺めています。改めて三庄屋と農民に合掌。

山口村の庄屋さん西尾六兵衛

剥落しても西尾六右・・・

最後にひと言。

 資料を当たると、ある小学校の記念誌に「むかしはここで遊びました…、汚いドブ川になりました…、子供が溺れました…、この川は危険です…、埋め立てて遊べるようにしました…、私たちの町はこんなに素敵に変りました…」という記述がありました。

 私が正しく訂正します。「むかしはここで遊びました…→(むかしはここで遊びました)、汚いドブ川になりました…→(私たちが皆さんのためを思った結果、汚れました)、子供が溺れました…→(汚れた川には人は近付かないものですが、変った考えの子供が溺れました)、この川は危険です…→(こんな子供がいるから危険です)埋め立てて遊べるようにしました…→(特別に埋め立てて遊べるようにしてあげました)、私たちの町はこんなに素敵に変りました…→(私たちの町はこんなに素敵に変りましたがまだ危険な場所があれば埋め立てましょう)

東淀川区役所1F 中島大水道模型

その模型のセンイシティーあたり、
カクカクと曲がるのが大水道

万歩計は20101を示しています。

神社巡り の 巻

中国街道をゆく

蒲田街道をゆく

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