ニムニムの 音楽よもやま話   その2


1997.6.21 塩尻市レザンホール 父の日に贈るコンサートより

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 みなさんこんにちは。今日は父の日にちなみまして、音楽家の父親たちについてお話しながら名曲を楽しんでいただきたいと思います。

早くに父を亡くした音楽の父/バッハの場合
 小学校の音楽室には決まって音楽家たちの肖像画が飾られていました。その一番左端に飾られている、もっとも堂々とした風貌の立派なカツラをかぶった人物、それが音楽の父として尊敬される大バッハ=ヨハン・セバスチャン・バッハです。
 彼の家系は200年の間にすぐれた音楽家を53人も出したという家系ですから、バッハはほとんど生まれてすぐからオルガンやハープシコードという楽器に触れて育ちました。もちろんそれは彼の一族にとって決して特別なことではなく、三度のご飯を食べるのと同じくらい当たり前のことでした。とは言え、バッハは10歳の時には両親を相次いで亡くしています。そうして兄に引き取られたのですが、15歳になると独立を余儀なくされます。
 このような苦労の中でどうやって彼はその偉大な才能を開花させたのでしょう。
 彼はもっぱら、当時の大作曲家たちの作品をいくつもいくつも自分の手で書き写すという作業に没頭していたそうです。これによってドイツ様式の技法を正しく学び取ったのでした。生涯に1080曲もの驚異的な作品数を残すバッハの、始まりはこうしたごく当たり前の探求心にあったと言えます。そしてこの当たり前の探求心を幼年期に植え付けたのは、やはり父親の力ではなかったかと想像することは許してもらえるのではないでしょうか。
 そうした苦労の反動のように、バッハは大変な美食家であったことが伝えられています。30歳のおり、教会のオルガン奏者として招かれた彼の晩餐のメニューが残されています。
[牛肉の煮込み・鱒のアンチョビバターソース添え・スモークハム・ソーセージとほうれん草・羊のロースト・子牛のロースト・グリンピース・ジャガイモ・レタスと赤かぶ・揚げ物・レモンの皮の砂糖漬け 云々]
これらを弟子たちには食べさせず一人でペロリと平らげてしまったと言います。
 これだけの食生活を見ると、高血圧と糖尿病が心配になります。どうやら伝えられるところによると彼の気質は「頑固で怒りっぽく、大変に付き合いづらい人物」だというのですから満更見当はずれの心配でもなさそうです。幼少年期には両親に見守られて育つことが心の安定には一番です。心理的な屈折はときにしばしば食生活に現れるものですが、みなさんのお子さんはいかがでしょう?

息子の好みを見込んだパパのパパ/ハイドンの場合
 気むずかし屋のバッハに対して、「パパ・ハイドン」と慕われたのは交響楽の父と呼ばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドンです。
 ハイドンの父親は、オーストリアのローラウという村に住む車大工でした。その村に、ある日流しのバイオリン弾きがやってきました。ハイドンが5歳の時です。その音色に心を奪われたハイドン少年は、2本の棒きれを持ってバイオリンの格好を真似ながら村中を着いて回ったというのです。そんな彼の音楽好きを見込んだ父親は、当時、音楽学校の校長先生をしていた義理の弟にハイドンを預けて、音楽教育をしてもらうよう依頼したのでした。
 やがてハイドンは教会の合唱隊員として美しいソプラノを歌うようになり、バイオリンやハープシコードまで弾いてみせるようになりました。その年の町の収穫祭で楽隊のティンパニー奏者が急に亡くなり、代われる人がいないというので、6歳のハイドンにお鉢が回ってきました。ハイドンはパン焼きのかごに布を貼って粉だらけになりながら一生懸命に練習しました。
 そんな陽気なハイドンですから、イタズラで教会を追い出されたりしながらも幸運が着いて回り、人との出会いにも恵まれ宮廷の楽長を務めるまでになります。彼の持ち前の明るさは、ちょっとした子どもの行動に「これは行ける!」と合点して早速音楽教育をしてしまうという、楽天的な父親に譲られた性格だったと感じられてなりません。

生計のために息子に与えたマンドリン/パガニーニの場合
 少年が5歳の時、父親は彼にマンドリンを与えました。それは音楽のたしなみのためと言うよりも自分のバイオリンの伴奏をさせるためであったかも知れません。少年の名はニコロ・パガニーニ。後に超絶技巧で「悪魔の指」と人々を驚嘆させたバイオリン奏者です。父親は北イタリアのジェノバの港町で、昼間は沖仲仕の仕事をし、夕方になると裏通りの酒場でバイオリンを弾いて生計の足しにしていました。
 やがて父親の弾くバイオリンの指使いがマンドリンのそれと同じであることに気づいたニコロ少年は、「父ちゃん、オイラにもバイオリンを教えてよ」とせがみます。7歳で手にしたバイオリン、その日から彼の狂信的な練習が始まりました。それは、食べることも寝ることも忘れ、一日に10時間以上に及んだと言われています。と言っても決して、父親や教師から厳しく言われてそうしたのではありません。むしろ父親は、「これ以上、バイオリンに狂ったら病気になる。」と心配したほどでした。
 それでも驚くほど短期間に上達を見せる息子のために何とかしたい、と思う親心。父親は良い先生を探しました。良き指導者を得たニコロ少年は、砂漠で水を得たごとくに一層の成長を見せ、難しい技術を次々に収得し11歳で初の演奏会を開くほどになりました。そのあまりに早く動く指を見て人々がささやいたのが「悪魔の指」という異名です。彼の評判を聞いたピアノ界の超絶技巧派リストが「とても人間業では弾けないような曲」を彼に送ったところ、彼はその挑戦をなんなくこなしてしまったのでした。
 この場合、父親はニコロ少年の天才を開かせるためのきっかけを与えたに過ぎないのですが、僕は少年の心理の底に悲痛な叫びを感じてしまいます。
 土地柄からしても、親子の暮らしは決して楽なものではなかったろうと思われます。父親はどちらかというと、その日その日を気ままに生きていればいいという性格の持ち主だったのではないでしょうか。あるいは子どもなど足手まといくらいに考えていたかも知れません。しかし、少年はそんな父親が大好きで大好きでたまりません。父親との蜜月の暮らしが少しでも長く続くために彼は父親の役に立ちたいと願い、父親の影になろうとしたのではないでしょうか。幼心の不安が彼を狂信的な練習魔に仕立て上げたのでなければよいのですが。

音楽家になることは許さない/ヨハンシュトラウス二世の場合

 ウィーンの森に響き渡る音楽、ウィンナ・ワルツ。ワルツ王と言えばみんなが知っているヨハン・シュトラウス。ハメハメハではないけれど、お父さんの名前もヨハンシュトラウス。こちらは別名ワルツの父。通常私たちが「美しく青きドナウ」や「歌劇こうもり」などで馴染み深いのは息子のワルツ王ヨハン・シュトラウス二世の方です。
 父、ヨハン・シュトラウスは、息子が生まれたときはすでにウィーンで100人からなるオーケストラを持って、ヨーロッパ中を演奏して回る売れっ子の音楽家でした。ところがこの父親は、息子を音楽家にすることには大反対だったのだそうですから、分からないものですねぇ。
 6歳の時、息子が小さなワルツを作曲して母親を驚かせます。母親は内緒でバイオリンを与えましたが、ある日、息子が夢中になってバイオリンを弾いているところに突然父親が演奏旅行から帰ってきてしまったから、さあ大変! 父親は怒り狂ったようにバイオリンを取り上げ、足で踏み壊してしまったと言います。なぜ、父親は自分が成功した偉大な音楽家であるにも関わらず、息子を音楽の世界から遠ざけようとしたのでしょうか。
 当時のウィーンは世界の中枢の都市でした。ヨーロッパの華々しい外交官が集まったウィーン会議は、策略家メッテルニヒによって大いに歪んでいました。「会議をするより踊りなさい」という合い言葉によって、それは政治の舞台ではなく輝かしい社交の舞台となっていました。ウィーンで建築や音楽の芸術が栄えたのも、「大衆に知恵を付けるな」というメッテルニヒの策謀とさえ言われています。そして、この歓楽の社会を支配していたのがワルツ王ヨハン・シュトラウス二世の音楽でした。
 ぼくは勝手な想像をたくましくします。ワルツに新しい形式を加え、あらゆる階層の人々に楽しんで貰いたいと願っていたワルツの父ヨハンシュトラウス一世だったからこそ、「音楽が悪しき政治の道具として取り込まれる」ことを予感し、無警戒に音楽にのめり込む妻や息子を許せなかったのではないか、と。あるいは彼自身、音楽を愛しながら憎んでいたのかも知れない……本当のところは分かりませんが。分かっているのは、今現在、ヨハン・シュトラウス二世の音楽は世界中の誰からも親しまれ愛されているという事実だけです。

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