管理人の独り言
「通信教育虎の巻」ホームページの管理人たちは、いずれも大学教育に携わる教員であり研究者です。大学教員は高等学校までの教諭とは異なり、学生教育以外に研究・論文作成・学会発表・事務的仕事など処理しなければならない仕事が山積しており、おまけに長期休暇もありません(ここが高校までの先生と最も異なるところか)。
このページでは大学教育を通じて見聞し感じたこと、職場の困ったちゃん、政府や関係官庁への提言(愚痴?)などを思いついたまま徒然に書いていこうと思います。
- 学費の値打ちについてのあれこれ(2000/03/09)
通信教育課程と通学課程の学費対照表を作成して気付いた。通信教育に学ぼうとする学生にとって、学費は大学選択の主要な要素のひとつであると思われるが、これを web site 上で公開している大学はそれほど多くないのだ。確かに毎年変化する学費を掲載するとページの更新を頻回に行わなければならなくなるので、担当者の負担は増加する。しかし学生の確保は私立大学経営の根幹であることを考えれば、担当者の怠慢は譴責されるべき事項であろう。
通学課程の学費公開についても然りである。情報の disclosure が進む現在、大学はもっと開かれた存在になってよい。また大学志望者も学費についてもっと考える機会を持って欲しい。新学期開始当初の講義室は通常満員御礼状態になるが、ゴールデンウィーク頃を境に空席が目立つ季節が訪れる。それは教官達の勉強不足や不徳によるものではない。学生の遊興意欲が勉学意欲に勝るためである。
しかしながら学生諸君、君がサボった90分を学費に換算したことがおありだろうか。年間52〜53週あるとして週休二日、長期休暇などを考え合わせれば私立大学なら講義単価がどう安くとも1,500円を下回ることはない。この金額を高いと取るか安いと取るかは人それぞれであろうが、教官の立場で物申すなら、これだけの対価を負担しても講義の対費用効率は高いよと言っておきたいと思う。(の)
- 国立大学授業料値上げ、このままでいいのか(2000/04/02)
再び学費対照表を更新しながら愕然とした。いや、実は前から気付いてはいたのだが、実際に数字として自らが入力していると俄然真実が見えてくる。何のことかといえば国立大学授業料の高騰に関してである。これだけ凄まじい値上げ率になると憤りを通り越して笑いすら出てくる。これは一種の社会的犯罪なのでは、とも思えてきた。
トシが分るが、筆者が学部学生であった頃の年間授業料は20万円を超えるものではなかった。半期毎の授業料納入の際、親には10万円を仕送ってもらい、釣りをピンハネして食費の足しにしていた同級生もごまんと居たものだ(国立大学は経理掛に出頭して現金払いするのが常だったためこのような芸当が可能であった)。それでも授業料は「高い」と思った。高校時代の大先輩達から、学費は月1,000円だと聞かされていたからである。
国立大学の授業料は無料でよいと筆者は考えている。これは決して極論ではない。世界的にはほとんどの国で国立大学は国家予算のみで運営されているし、我が国でもかつてはそれに近いことを行っていた。現在でも予算規模的に考えると国が米軍に支出している「思いやり予算」(開始年[1978年]度 62億円、2000年度 2630億円)を取り止めれば国立大学無料化が実現できるのだ。
にもかかわらず政府は無計画な授業料値上げを続け、これからは学部別に授業料格差をつける計画らしい。文系は高く理系はもっと高くという方針らしい。だがここで考えなければならないのは、我が国が技術立国であるという点である。特に戦後の驚異的復興を支えてきたのは理・工学系出身の優秀な技術者達であることに異論はないであろう。理系離れの進む現在、理系の学費をさらに高騰させればその傾向が加速されることは火を見るより明らかである。優秀な技術者を確保できないとなれば、将来的には国の存亡の危機が訪れることがあるやも知れない。笑い話では済まされない問題である。(の)
※なお国立大学授業料の変遷は完成次第このサイトで公開したいと思いますが、古い時代のデータにいくつか欠失部分があってグラフ化できないでいます。このコラムをお読みになった方で、昭和24年の新制大学令以降の授業料・入学金・入学検定料に関するデータをお持ちの方が居られましたらメール等でお教え下さい。よろしくお願いいたします。
- 入試判定ミスが露呈したもの(2001/07/19)
山形大学工学部入学試験において発覚した合否判定ミスは、過去5年間で誤って不合格と判定された受験生数が428名に上り、その多さゆえ社会に及ぼした影響は計り知れない。山形大学のみならず全国立大学に対する信頼の失墜、杜撰な入学試験合否判定の実態の暴露、失わせてしまった将来ある若者の貴重な時間。これらは今後何年にもわたって山形大学が背負い続けなければならない十字架である。
この山形大学工学部における合否判定ミスを受けて全国の国立大学で行われた実態調査において、富山大学人文学部で16名、金沢大学理学部でも6名の受験生が誤って不合格となっていることが明らかとなった。いずれも単純な採点集計用プログラムの誤りが事の発端である。このうち富山大学ではあろうことかこの事実を隠蔽し、2年間も放置するという暴挙に出ている。富山大学が合否判定ミスに気付いた時点でこれを公表していれば、山形大学における合否判定ミスもこれほどの人数にはならなかったであろうという穿った考えもできる。報道によれば当時の入試担当であった元富山大学学生部長は懲戒免職処分になったという。当然の処置だろう。
山形大学工学部といえば明治43年設立の旧米沢高等工業学校を前身とする伝統校である。従って追加合格となった受験生の所在地は北海道から沖縄まで全国38県にわたる。山形大学工学部では入試ミス発覚直後から教授たちが分担して謝罪の全国行脚を行ったそうだが、その対応の速さは評価したい。また教官一同が私財を拠出しあって賠償金に充てるという。被害者に対する真摯な贖罪の態度は却って立派だ。先日、山形大学学長以下の処分が発表されたが、世論はそろそろ大学批判を終了させて、より良い入学試験のあり方について議論する段階に入っても良いのではないか。
本稿をここまで読み進めて、いやに大学擁護的意見だなと思われた方も多いに違いない。その通り、私は富山大学の入試判定ミス隠蔽にかかわった者以外の関係者に同情的である。なぜなら入試関連事務が各教官層の多大な負担の下に成り立っていることを斟酌するからである。国立大学の入試業務は通常、各学部を代表する教官が数年間の任期を以って持ち回りで担当する。しかし入試担当教官に任命されるメリットは事実上ない。研究・教育といった通常業務にひとつ大きな負担が加わるだけである。かといって入試業務をおざなりにするわけにはいかない。受験生の人生を左右する一大イベントであるからというのがその最たる理由であるが、優秀な人材を確保することは自学の将来の繁栄につながるということも大きな理由のひとつだ。
入試業務は大学人でない人々の想像以上に重労働である。近年、入学試験の多様化と相俟ってアドミッション・オフィス (AO) を設置し、入試業務専任教官を採用する大学が現れ始めている。AOの普及は受験生にとっても大学にとってもメリットの大きいことに違いない。受験生は自らの人となりを大学にアピールでき、大学は多様な人物評価が可能となる。大学改革も良いだろう。入試改革も良い方向に進むのであれば大歓迎である。入学試験は「ヒトを選ぶ」場であることを再認識し、受験生・大学の両者にとって実りの多い結果を産むような制度を模索していくことがこれからの入試業務の関心事となる。(の)
(※その後、平成13年度入学試験では埼玉大学教育学部で6名・筑波大学医療技術短期大学部で5名の受験生が入学試験判定の見直しで新たに合格者となっている。いずれも単純な出題ミスであり、試験問題公表後に受験産業関連出版社からの指摘で発覚している。出題・問題文の校正・採点には細心の注意を払い、不幸なミスの再発防止に努めて頂きたいものだ。[2001/12/28 追記])
- 大学の脱レジャーランド化への試み(2001/12/21)
随分前に面白い話を聞いたことがある。ある大学の先生が、「講義中に学生の私語を防止する方策」について検討したことがあるらしい。まあ検討事項が情けないといえば情けないのだが、その結果はと言えば、「講義中の学生の私語を止めさせる手段はない」というものだったそうな。誤解を生じるかもしれないが、「さもありなん」と私は思う。
大学教員にとって、学生の私語は極めて不快なもののひとつである。世論では大学教員に対する能力評価を求める声が増えつつあるが、評価すべき能力のひとつとして「魅力的な講義を行うことのできる構成・指導力」があるらしい。平たく言えば「充分に練り上げた面白い講義をやって、学生を夢中にさせなさい」ということのようだ。しかしそんなことは言われなくても分かっている。問題は学生が私語に励んで講義を聴こうとしないことだ。いくら有名な先生でも学生全員を夢中にするような講義を行うのは至難の技だろう。無名教員である私などは、私語をするくらいなら睡魔に襲われて文字通り夢中に行ってくれと感じることもしばしばだ。こういう発言をすると、同僚からは「教育者として不適当な意見」とお叱りを受けるのであるが、では具体的対策についての suggestion は?と続けると、やはり名案は出てこない。
ポケットベルが普及し始めた頃から講義を妨害する要素が追加された。呼び出しの電子音である。それまでも腕時計のアラーム音が鳴ることはあったが、正午などに集中してひと鳴りするだけだったのでさほど気にはならなかった。ところが時と所を構わずに鳴り続けるポケベル・たまごっち(もう死語ですね)には閉口した。学生の集中力が激しく削がれるのである。携帯電話・さらに携帯メールの爆発的普及が学生の集中を決定的に阻害することになった。今では講義開始から終了まで携帯メールを入力し続ける学生も少なくない。
これでは講義の効率が上がる訳がない。学生の理解度も低下する一方だ。学生の学力低下に業を煮やした静岡大学など複数の大学では、成績不振が続く学生に退学勧告を行う制度を開始したらしい。効果の程は定かではないが、学生側に危機感が生まれたことは確かなようだ。入学してしまえば卒業が約束されていると言えなくもない日本の大学が、米国の大学のように「入りやすいが卒業しにくい」形態に変わっていくのは、学生間に競争を促す意味でも好ましいことだろう。この試みが首尾良く当初の目的を達成すれば、大学がレジャーランドの汚名を晴らす日も近い。(の)
- 小学生が憧れる職業(2002/03/03)
本日は桃の節句ということで、子供に関する話題を俎上に上げたい。何でも最近の調査では、小学生が将来就きたい職業の上位に「学者」が登場しているらしい。小学生の意識の中で大学教員と学者が一致した存在であるかどうかについては不明であるが、学者のはしくれとしては取り敢えず喜ばしいことと捉えるべきであろう。
しかし翻って考えると、学者のどこに子供たちは惹かれているのだろう。教育者という側面を省略して考えてみると、小学生がイメージするであろう学者の概略は「白衣」「ヒゲ」「発明」「ロボット」「計算機」などに集約されようか。お茶の水博士のイメージではある。但しこの推定も大人の目からのものであり、子供たちの本当の意見がどのようなものであるかは不明である。是非一度子供たちの生の声を聞いてみたいものだ。
ところで上記の「学者」は、理科系学者のイメージに他ならない。 私自身が理科系研究者であるからそういう意識を抱くのかもしれないが、少なくとも私が子供の頃、学者とは確かにそういうイメージだった。そこに文科系学者のイメージはない。では文科系研究者の実際とはいかなるものであろうか。
社会科学系学者である本サイトの管理人の一人が言うには、理論系学者と実学系学者では研究スタイルが全く異なるらしい。理科系的にいえば単純系と複雑系の違いのようなものか。因みに学史系の研究は「逃げ」らしい(笑)。これについては異論も多いことだろうからこれ以上触れないようにしよう。いずれにしろ、机上であるいはフィールドで調査して導かれた理論を文献的に肉付けし、その説の正当性を実証するというのが最大公約数的なイメージだろうか。
文科系学問の面白さは答が一意に定まらないことだろう。もともと正答というものはなく、正答に近いと思われるものも時代とともに変化する。逆に理科系研究の目的は普遍的真理を追求することであり、答が一つしか求められないことも多い。もっとも生物学の領域では「例外の存在しないことの証明」は困難を極めるのだが。
いずれにせよ、この星の将来を担う子供たちが学問に興味を持ってくれるのは歓迎すべきことである。そして学問を究めていく中で学問的正答とはどのようなものかを知り、あたかも人生のように決まった答の存在しない混沌の世界を考える楽しさを感じていただければ幸いである。やはり学問は面白い。(の)
「通信教育虎の巻」ホームページは、インターネットお助けグループ・ねっとへるぱぁが運営しています。
Copyright(C) 1998-2007 NetHelper Guild, All rights reserved.
Last updated: 2007/02/10
Updated by Maria