作・奈良 早香子
プロローグ
いつもと変わらない日常の中で、僕はそれを見つけてしまった。
日常が非日常へと変わり、僕の人生をも変えてしまったもの。
それは、兄の死体だった。
宙に浮いたままの足と、頭、腕、指、全てが下に向いている体。
叫び声よりもまず先に、腰の力が一気に抜けた。そして、それからは息をすること
以外で体のどこかを動かす、ということが出来なくなってしまった。
珍しくなかなか起きてこない兄を部屋まで呼びに行ったきりなかなか戻ってこない
僕を叱りに、母が兄の部屋の前にやって来るまでの間、僕は兄の死体から目を離せない
でいた。
腰を抜かしたことで見えるようになってしまった兄の顔がどこかしら安らかに見えた
のが、僕に今までの兄の思いを連想させるきっかけとなった。
幼い頃から、僕は優越感の中で暮らしていた。
それは世間に対してであり、兄に対してでもあった。
僕の家族は両親と一つだけ年の離れた兄の四人。
父は不景気の中でもリストラされることなく一流企業に勤め、母は近所付き合いと
あまり必要とも思われない習い事に忙しく暮らしていた。また、両親共に一流大学を
出ていたから、僕たち兄弟の教育にも熱心だった。
記憶のある一番昔から僕は兄と一緒に様々な塾や習い事に行かされ、幼稚園も小学校
も私立の名門に入れられた。
でも、それは苦痛ではなかった。勉強は面白かったし、いい成績を取るのも悪い気は
しなかった。成績優秀者として掲示板に名前が張り出されたときに感じる優越感もなか
なかのものだった。
ただ、それがいつからかうれしいとも楽しいとも感じなくなっていた。
そこそこの点を取ると必要以上に誉める両親にはうざったいような嫌気がさしていたし、
それに対する兄の嫉妬にも愛想が尽きていた。
どうして弟の僕より成績が良くならないのか、どうして悪くない成績なのに両親は自分を
叱るのか、おそらくそんなことを考えながら独り部屋で塞ぎ込んでいる兄を僕はよく目に
していた。
そういう言葉にも態度にもならない嫉妬だったからこそ、僕は兄のことを優越感の対象と
すら見ることができなくなっていた。ただ情けない、としか思えなかった。
けれど、今更考えてみれば、兄にとって自分ばかりを叱る両親はとてつもない重圧だった
に違いない。叱られることで伸びていく人間もいるが、少なくとも兄はそういうタイプでは
なかった。
しかし、それを兄が口にすることはなく、まさか自殺をするまで思い詰めていた、と僕は
考えてもいなかった。自殺をする前日も落ち込む後姿を見かけたが、いつものことだ、くらい
にしか考えなかった。
そんな心の食い違いが、兄弟のコミュニケーションを少なくさせてもいた。
兄と1時間、いや、30分以上話したのはいつだったかも思い出せないほど、僕たち兄弟の
間に会話はなかった。
そして、それが結果として兄の自殺を誘う一因となっていたと思う。こういう結果になる
前に腹を割って話し合っていれば別の結果が待っていたかもしれないが、結局それは結果論
でしかなかった。
自殺した兄の机の上には、遺書が残されていた。
警察と野次馬がとりあえず家の周りからいなくなる頃、僕は両親と一緒にそれを読んだ。
中味はほぼ予想できていたが、実際に見るとなると、やはり兄の自殺が現実感を帯びて襲って
きた。
兄の自殺の原因は大学の進学を苦にしてのことだった。
僕が兄と同じ有名私立高校に入って、成績の差が中学の時よりも明らかなものとなったのに
加え、両親が望む大学に兄が確実に入れないことがわかってしまったのが直接の原因だ、と
遺書には綴られていた。
私立の有名高校となると、進学のことにはうるさい。よって学校では成績が伸び悩んだり
落ちたりすれば怒涛の非難を浴びることになる。他の高校がどうかは知らないが、とりあえず
僕と兄が通っている高校はそういう教育方針だった。
それに加え、家では成績が少し伸びても目標に到達していないから誉められることもない。
さらには弟が同じ高校に入って、いつも成績のことで優秀な弟が引き合いに出されるようにも
なる。
それは兄にとって針の筵だった、と遺書には繰り返し記されていた。
浪人しても両親の望む大学に入れる保証はなく、下手をすれば弟よりも下の学年になり、
就職しても永遠に弟の影に怯えなければならない可能性もある。
兄はそれから逃げ出す道を選んだ。
そして、その兄に見えた道は”死”であった。
しかしながら、自分の弱さもわかっていた、と兄は遺書の最後で語っていた。何事にも
立ち向かう勇気を持っていなかった、と。
ただ、その弱さを守ってくれなかった両親に対しての恨みによって結ばれた遺書は、後味の
悪さだけを残していた。
兄にしてみれば、よく受験の年の秋まで耐えた、ということになるのだろうか。たとえ逃げる
道を選んだとしても。
兄が死んで、ようやく両親は自分たちが兄を苦しめ、追い込んでいたことに気付いた。遺書が
なければそのことに気づかなかったように、兄の遺書を読んだ両親は絶望感と脱力感とに襲われ
ていた。どうやら、自分たちに兄が自殺した理由があるなどと微塵も思っていなかったらしい。
叱咤激励の言葉のつもりが、傷つけるだけの言葉だったなどとは。それに関しては、僕も同罪
なのだが。
兄の死以来、両親の間では些細なことで口論が始まるようになった。
そして、兄の死の責任を互いに押しつけ合う日々が続いた。
さすがに僕に責任を押しつけることまではしなかったが、表面上平穏で穏やかだった家庭は
なくなってしまった。
それが兄の復讐だったとしたら、見事に成功したことになる。
結局、兄の死から一年もしないで、両親は離婚した。
丁度高校が春休みに入った頃だった。
それらしい予感はしていたから、両親の離婚は僕にとって特に驚くことではなかった。むしろ、
僕が転校しやすいように春になるのを待って離婚したようにさえ思えた。
そして、僕は母について母の実家で暮らすことになった。
もちろん、学校も変わることになった。
母の実家は小さな田舎の村だが、一つ山を越えれば大きな総合大学があるから、少し離れた
私立の高校通って大学はそこを目指せばいい、ということで話はついた。
高校も今まで通っていたところよりレベルは低いが、私立で悪くはないところだし、大学も
全国的に名前が知られている。
大学に入って何になりたい、という願望がなかった僕は、それでいいと思った。自分自身を振り
返れば、両親の言いなりになっている自分しか思い出せなかったから、元々の志望大学に未練も
なかった。
僕の名前は”佐々木 奏”から”五十嵐 奏”に変わり、母は父から僕が就職するまで養育費を
もらって、僕は月に一度の割合で父に会いに行く。
それが新たな僕の家族関係になった。家族の絆は途切れたまま。
小説でもドラマでも家族の絆ほど強いものはないと謳っているが、それは嘘だと実感できた。
いや、絆など最初からあったのかどうかもわからない。あったとしても、それは血の繋がりだけの
表面的な、酷くもろいものだった。
血の繋がりは絶ち切ることが出来ないだけで、心は酷く離れやすい。
それが、真実なのだ。
第一章 自殺の名所
日本海に面した波月という小さな漁村が、母の実家のある村だった。主な産業は漁業だけで、
人口も三〇〇〇人に満たない、本当に小さな村だった。
それでも山を一つ越えれば大きな大学があったり有名な海水浴場があったりするので、都会に
逃げる若者たちはそれほど多くないという。母はというと、そういった人たちとは違って都会に
就職先を決めて村を出たために、村で暮らすのは二〇年ぶりくらいだという話であった。
また、村を大きな海岸道路が通っているために、交通の便も悪くない場所だった。海岸道路は
地元政治家の力の象徴と言われているため、地元の人間以外には特に必要のないものらしいが、
ドライブコースの穴場として一部の人間の間では有名らしい。
他に村の特徴を挙げるとすれば、そこから飛び降りれば絶対に死体が見つからないと言われる
自殺の名所、というものがあった。その”自殺の名所”は海に突き出した断崖絶壁の先端で、
海面からの高さが三〇メートルはある場所だった。そこから飛び降りただけでも生き残れそうに
ない上に、潮の流れで死体が見つからないのなら、そこは自殺の名所と言われても仕方のない
ような場所でもあった。
わざわざ兄の死を連想させる言葉のある実家で母が暮らして行こうと決めたのは、経済的な
理由だけではなく、自分に対する罪の意識と戒めがあったからかもしれない。母が波月のことを
いろいろ説明してくれたとき、話題がなくなったわけでもないのにこの話が出てきたから。
コンクリートやアスファルトばかりに囲まれていた場所から、逆にそれらを見つけるのが難しい
場所にやって来てしまったが、波月はこれから暮らす場所としては悪くないところだった。
いや、今の僕ではどこに行ってもそう思っていたかもしれない。
親に縛り付けられていたせいにはしたくないが、僕はどこへ行っても何をしても、良くも
なければ悪くもない、とそれしか思えなくなっていた。
友達とも僕が転校して何ヶ月かしたら顔も思い出せなくなるような希薄な関係だったし、
志望校も全国的にある程度名前が売れていればそれでよかったし、好きな誰かもいなかった。
浅く広い人間関係で他人に干渉せず、干渉されず、世渡りが上手くなるのは僕のような人間かも
しれない、と思えた。
強い感情は、強い想いは、一体どこへ行ってしまったのだろうか?それとも、初めからなかっ
たのだろうか?
僕はその答えを見つけることが出来なかった。
奏が波月にやって来てから二ヶ月がたったある日。
奏は村で唯一のバス停に一人降り立ち、海岸道路を家に向かって歩いていた。いつもより
濃い色の夕焼けを見ながら、ゆっくりと。
学校が遠いせいか、村の人口が少ないせいか、村で唯一のバス停で降りるのは奏だけで、奏は
自宅までのおよそ一五分を一人で歩いて帰らなければならなかった。冬になれば日もすっかり落ち
て、数少ない外灯を頼りに歩くのが心細いほど人の少ない道。まだ春が終わったばかりの季節だか
らいいものの、本当に冬がやって来たら歩いて家に辿りつけるのかさえ、不安になる道だった。
それに、海岸道路では交通事故でもあったのか、いつも花束が供えられている場所があった。
それを見ていると、帰りが遅くなった夜にでも暴走した車に轢かれてしまわないか、と恐い想像も
してしまう。実際、奏はものすごいスピードで道路を走り抜けていく車を何台か見かけている。
車道と歩道の間にガードレールのない道なので、視界の狭い夜やタイヤの滑りやすい雨の日はいつ
事故が起こっても不思議はなかった。
外灯の数にしろガードレールにしろ、あまり人が歩くことを前提として考えられた道路ではない
ようだった。
また、奏がバス停から家に帰るまでの道程はほとんど海岸線に沿っており、海岸道路から海が
良く見えるように造ってあるせいか、歩道からの眺めもすこぶるよかった。海岸道路がドライブ
コースになる、というのも奏にはその理由がよくわかった。おそらくは、そのせいで人が歩くこと
にまで考えが回らなかったのだろうことも。
その他、海水浴場になるような広い砂浜がないために、海岸線には小さな漁船が停泊するのみで、
人気が少ないのもまた景色をよくする効果を持っているようだ、とも奏には思えた。
絶え間なく吹く海風にさらされながら、奏はゆっくりと歩みを進めていた。中間テストが終わって
からは、家に帰って猛勉強をする必要はない。しかし、だからといって他にすることもない。暗く
なり始める頃に家につけばいい、というくらいのペースで奏は海岸道路を歩いた。
そうして歩いていた奏の横をより強い海風が通り過ぎたとき、奏の耳に聞きなれぬ歌が届いた。
海岸道路の両側は海と山とがそれぞれ独立に連なっているが、奏が見渡せる限りで人の姿は見え
ない。聞こえる声は村内放送のマイクを通したものではないので、その状態でどこから声が発せ
られているのか気になった奏は、歩みを止めて辺りを見回し、どこかにいるだろう声の主を捜した。
立ち止まって何度も振り返りながらようやく視線が上に向いたとき、奏はついに声の主を捜し
当てた。
声の主は、海岸道路から見える先の突き出した、自殺の名所と呼ばれている例の崖の上にいた。
しかしながら、その場所は奏がいる場所と一〇〇メートル以上離れているために、その姿は人で
あるということしか奏にはわからなかった。けれど、他に声の主だと思える人物は近くにいない。
歌声の主、おそらく女性だろうその人物と崖の上にいる人は同一人物だ、と奏には思えた。
しかし、奏には歌声の主がその場所にいる理由の方が気になった。
「まさか・・・自殺しようとしているんじゃ・・・」
奏の頭の中にはまず兄のことが過ぎり、歌声の主は死ぬ間際に最後の歌を歌っているのでは
ないか、と奏は思ったのである。
「そりゃ違うよ。」
「え!?」
不意に自分に向けられた声を、奏は驚いて迎えた。どうやら、心の中だけでつぶやいたと思って
いた言葉を、奏は口からこぼしてしまっていたらしい。
「あの崖の上で歌っているのは、如月さんとこの更羅ちゃんだよ。雨が降っても雪が降っても、
毎日あそこで歌ってる。」
奏に声をかけたのは、海岸道路の横にわずかながら広がる浜辺で網の繕いをしていたおじさん
だった。奏とは極近い距離にいたので、思ったより大きくなっていた奏のつぶやきも聞こえて
しまったらしい。
この村でわずかに広がる浜辺には漁船が停泊し、日があるうちには誰かしらが網の繕いや船の
点検をしている。なんでも、波月の港はそれ自体が小さく、港に入りきれない船がいくつか出る
ので、それらは交代で浜辺に停泊するようにしているのだという。
主だった産業が漁業しかない”村”なのだからそれも仕方のないことだ、と思いながら奏は
いつも漁船の横を通り過ぎていたが、まさかそこにいる人に話しかけられることがあるなどとは、
予想もしていなかった。そもそも、今日は珍しく浜辺に誰もいないと思っていたところに、である。
奏の心臓は少なからず波立っていた。
「毎日って・・・いつもこの時間に、ですか?」
奏は浜辺にいる漁師がどこの誰だかわからないまま、質問を繋げていた。話しかけられたの
だから話しかけても大丈夫だろう、という心が働いている。
波月は都会よりもずっと人と人の繋がりが強いから、話しかける理由を考えずに話しかけても
平気な場所ではあるのだが。
「ああ。ここだと風向きによって聞こえたり聞こえなかったりするが、聞こえてくるのはいつも
この時間だ。お前さんは五十嵐さんところの子だろう?ここに来て間もないなら、知らなくて
当然だな。」
「あ、はい・・・」
やはり、田舎の村というのは情報が隅々まで行き渡るのが早い。奏が引っ越して来てから二ヶ月
だが、それだけ時間が経過していれば、奏がどこの高校に行っていてどのくらいの成績でどこの
大学を目指しているのか、くらいはこの漁師も知っているだろう。
都会にいるときから、母は息子について誰かに自慢するのが癖のようになっていた。おそらく、
今でも母はそれを実行している。それが兄の自殺の原因の一端に繋がっていたことに、母は多分
気付いていないが。
母は出来のいい弟を自慢し、出来の悪い兄を悩みの種だと言うのが口癖らしい、と都会に住んで
いたとき近所のおばさんに嫌味のように言われたことがあるのを、奏は思い出した。
「噂だと更羅ちゃんはいろいろな歌のコンクールで優勝しているらしい。まあ、さしあたりこの村
の”歌姫”ってところだろう。」
「”歌姫”・・・ですか。」
会話が途切れたところで奏が再び耳を澄ましてみると、美しく澄んだ歌声が再び奏の耳に届いた。
一〇〇メートル以上離れている位置まで声が届くということは、相当な声量がないと出来ること
ではない。さらに、それがただ叫んだものではなく、歌として届いているのだから、いろいろな
コンクールで優勝しているという噂も、誇張されて尾ひれが付いただけでもなさそうだった。
「何の歌を歌っているのかは、わかりますか?」
「さてね、儂には日本語の歌ではないことくらいしかわからんよ。」
「そうですか・・・教えて下さってありがとうございました。」
それだけ言うと、奏はその場から再び足を動かして家へと帰る道を進み始めた。夕日はほぼなく
なってしまったが、まだ聞こえ続ける更羅の歌に耳を傾けながら、奏はその声をずっと聞いていたい
と思った。
それから毎日、奏は学校からの帰り道に崖を見上げるようになった。
授業の関係で夕方頃に帰れなくて崖を見上げられないこともあったが、夕方頃に奏が崖を見上げ
れば、如月更羅という少女は必ずそこにいた。
また、漁師のおじさんが言っていたように、彼女はどんなに悪い天気の日でも崖の上で歌っていた。
まだ雪の降るような季節ではないが、夜から天気が荒れると天気予報が言っていた日も、彼女は崖の
上にいた。海岸沿いはただでさえ風が強いし、天気が荒れるとなればその前触れとして相当な風が吹く。
さらに崖の上ともなれば吹き飛ばされてしまうかもしれないというのに、彼女は歌うのをやめなかった。
彼女の家族は何も言わないのだろうか、という疑問も奏の心に湧き上がったが、それ以上に彼女の
規則正しさに驚かされることの方が、奏の心の中で広い面積を占めていた。
何度も彼女の歌を聞くうちに、奏は彼女の歌がどうやら日本語でも英語の歌でもないらしい、という
ことがわかった。英語でないとわかったのは、メロディに乗って届くわずかな歌詞の中に、奏の知って
いる英単語がなかったからである。歌詞というのは大抵わかりやすい、簡単な単語が使われるもので、
愛とか夢とか涙とか、そんな決り文句がどんな歌でも一つくらいは入っている。しかし、彼女の歌には
奏が聞く限りでその簡単な英単語もなかった。
ということは、フランス語か、ドイツ語か、はたまた別の言葉の歌を彼女は歌っていることになる。
まあ、コンクールで何度も優勝しているというのだから、英語だけではない外国の歌も歌えて当然なの
かも知れないが。
そうして日々を過ごすうち、奏は如月更羅という少女に会いたい思いを募らせていった。もっと近く
で、もっと正確に彼女の歌を聞いてみたくなっていた。
小さい頃にピアノを習っていたくらいで音楽に関してはほとんど素人の奏だったが、そんな素人でも
魅了する歌声の持ち主はどんな人なのだろうか、と奏はずっと感じていたから。
梅雨の季節が始まる直前、ついに奏はその思いを実行する行動に出ることにした。
よく晴れた日曜日。
六月に入ってからは過ごしにくい暑さになる日も増えていたが、その日の朝日はとても気持ちのいい
一日になることを予感させていた。気温も湿度もそれほど高くない、快適な一日になると天気予報も口
をそろえて言っている、そんな日だった。
如月更羅という少女を見られる限り見続けていた奏は、彼女が必ず夕方の五時半から六時半の間に崖
の上にいるとわかっていたから、その過ごしやすい日の中で崖の上に行く時間を夕方の五時頃と決めた。
一分一秒も狂っていない、というくらい彼女は時間に正確だったから、どのくらいの時刻に崖の上に
行けばいいのか、奏は迷わなくてすんだ。
そういう性格なのか、何か意味があるのか奏にはわからなかったが、その行動自体は奏にとってあり
がたいものだった。
出来ることなら、奏は彼女に気付かれることなく、彼女の歌を近くで聴いて、そのまま立ち去ろうと
考えていた。やはり、初対面でいきなり、
『歌を聞かせてください。』
とは言えなかったから。
自殺の名所と言われる崖の上に行く道のりは、狭くてかなり急な坂道になっていた。
道は道でも獣道としか言えない道の両脇に生える木々につかまりながら坂を登らないと、今にも転ん
でしまいそうなほどだった。下りならば歩くのにそれほど苦労しそうもなかったが、登りとなると
きつかった。
それでもこの道が道としての体裁を保っているのは、彼女が毎日往復しているせいだろう。一応
崖の上に到着するまで迷子になることはなさそうだった。
また、遊び程度でも、中学・高校と続けているサッカー部で鍛えた足腰が、わずかながら奏の山登り
を援助してくれていた。服装もそれなりに動きやすいものにしていたので、息は切れても足が動かなく
なることはなかった。しかし、さすがに二〇分以上も山登りが続くと、体力のあまりない奏の足取りは
重くなった。
そんな道のりの中、山道が海沿いを走ってくれているおかげで、海風が不快感を取り除いてくれる
のもまた奏にとっては救いになっていた。もしそれがなかったら、奏は途中で引き返していたかも
しれない。
そして、ようやく崖の上のゴールが見え始めた頃、彼女の歌声がはっきりと奏の耳に届くように
なった。かなりはっきりと発音されているようだったが、それでも奏はそれがどこの国の言葉かわから
なかった。英語ではない、という確信が持てただけで。
奏は頂上に近付くに連れて足音を忍ばせ、彼女に近付いていった。
時計を見て確認すると、彼女の歌が終わるまで三〇分強の時間が残っていたから、奏は彼女を歌を
邪魔しないよう隠れて二〇分くらい聴いたら立ち去ろう、と決めた。
奏は彼女の後ろ姿が確認できる位置くらいまで近寄ると、その場所から一番近くにあった、人が
隠れられるだけの木の陰に身を潜めた。
崖の先端はゴツゴツした岩肌になっており、木はおろか草すらも生えていないような場所だが、
そこを少し離れればうっそうとした森になってしまう。彼女との距離はゆうに七〜八メートルは
あるから、奏はそれほど神経を尖らせずに隠れることが出来た。
間近で彼女の歌を聴いてみて、奏は改めて彼女の歌の素晴らしさに圧倒された。
如月更羅という少女は身長が一六〇センチくらいで細身の体つきをしているが、そこから信じられ
ないくらいの声が生まれ出でていた。声には透明感と神秘性があり、耳だけではなく、もっと奥深く
まで響いてくる感じがした。この声ならば数々のコンクールで優勝出来る、と奏は納得できた。
彼女が歌っている歌そのものも、落ち着いた感じのいい曲で、彼女が歌うのに相応しい曲だった。
彼女が歌っている以外では耳にしたことのない曲だったが、それは最近の歌というよりも、クラシック
に近い感じがした。
また、彼女の歌う姿も神秘的だった。
彼女の髪の色は茶色なのだが、元々色素が薄いせいだろう、奏には彼女の髪が夕日に透けて金色に
見えた。おそらく、染めた色ではない、と奏には確信が持てた。なぜなら、染めた色ならば透けて
あれほどの金色にはならない、と予測出来たからである。それに、染めた色ならば、染めたばかりでも
なければ生え際辺りがもっと黒く見えるはずである。それが、彼女にはない。
腰まである長い髪が海風に流されて、奏には彼女がまるで黄金のヴェールを被っているかのように
見えた。
彼女が着ている白いワンピースも薄いオレンジ色に染まり、この世のものとは思えないほどの美しさ
がそこにあった。
両腕を大きく広げて歌い上げる彼女をもっと近くで見ようと奏が動いたそのとき、奏はうっかり足元
にある小枝を踏んで音をたててしまった。
案の定、その瞬間に彼女の歌声は止み、歌ではない言葉が彼女の口からこぼれる。
「誰かそこにいるの?」
歌に集中していて更羅が自分の存在に気付かないことを奏は願っていたが、そうはいかなかった。
とっさに体を木に押しつけて姿を隠したものの、奏の存在は確実に彼女に知られてしまっていた。
なんてベタなことをしてしまったのだ、と奏は自分を責めたが、この状況を打破する手段は思い浮かば
なかった。
しかし、奏はここで彼女の前に姿を現そうかどうか迷った。歌が終わった後でこちらから声をかける
ならまだしも、陰で覗き見していたところを見つかったのでは体裁が悪すぎる。
「・・・姉さん?更紗姉さんなの?そうでしょう!」
[・・・サラサ?更羅の・・・姉?]
彼女の言葉で、奏は彼女の前に姿を現すかどうかという問題を一瞬だけ忘れた。けれど、それはやはり
一瞬で、続けて聞こえてくる彼女の声に、奏は逃げるわけにもいかなくなって、彼女の前に姿を現す決心
をした。誤解を解くなら、この場所の方がいい。
「・・・すいません。あなたの歌をどうしても近くで聞いてみたくて、ここまで来てしまいました。」
奏は彼女と目を合わせないまま、木の陰から彼女の前に姿を現した。後ろめたさが残っている証拠
である。
「あ・・・姉さんじゃなかったのね・・・」
その言葉に驚いた奏は、そこで初めて彼女の顔を見た。
奏が驚いたのは、彼女の口から、
『あなたは誰?』
という言葉が出なかったからである。
普通、見ず知らずの誰かが木の陰から現れれば、その言葉が出るのではないか、と奏は考えていた
から。しかし、彼女は奏がそこにいたという事実より、奏が姉ではなかったという事実を残念がって
いるようだ、と奏には思えた。
目を合わせた彼女もまた奏の顔を、驚いたような、残念がっているような、どんな表情にも見える
不思議な顔で見つめていた。
正面から如月更羅という少女の姿を見て、どうやら彼女はどこかの国とのハーフらしい、と奏は
感じた。彼女は目鼻だちがはっきりしていて、手足も長い。むしろ、日本よりも外国の血の方が濃い
と言える顔立ちである。日本語を話さなかったら、奏は彼女を外国人だと勘違いしたかもしれない。
けれど、それならば、彼女の髪が金色に見えた理由も奏には納得出来た。元々彼女は黒髪ではないのだ。
年齢は一六、七歳だろうか、顔にまだ幼さが残っている。少なくとも、奏より年上、ということは
なさそうだった。この年齢であれだけの声が出せるとは、相当な才能と努力があってのことだろう。
「・・・いつもここで歌っているよね。あそこの海岸まで聞こえてくるから、学校帰りによく聞いて
るんだ。」
会話が途切れた声のない時間の流れを止めたくて、奏は崖から見える海岸線を指差しながら言葉を
口にした。海岸線から崖の上がよく見えるように、崖の上からも海岸線がよく見えたのが、今の言葉
を選んだ理由であった。
そして、彼女は奏の言葉に反応するように、明るい表情になってから口を開いた。
「あら、海岸まで私の歌が届いていたのね。知らなかった。」
更羅の言葉を聞いて、奏は第一印象とは全く逆の印象を更羅から受けた。
更羅は奏が思っていたよりも、ずっと明るい性格のようだった。最初の二つの言葉から推測して、
更羅はもっと暗くておとなしい性格だと、奏は思っていたから。また、年齢よりも大人びた口調で
話すのだな、とも同時に感じた。
「あ、自己紹介が遅れたね。僕は五十嵐 奏。この村には三ヶ月くらい前に来たんだ。」
言いながら奏は木の隣から開けた崖の上へと移動し、更羅に近付いていった。それまで更羅の警戒心
を心配してその場を動けなかった奏だったが、更羅の言葉を聞いて前に進む勇気が出た。
更羅も、奏が隣に近づいてくるのを嫌がるような行動はしなかった。
「ああ、だから・・・この村では見ない顔だなって、たった今思っていたところ。五十嵐さんの家
だと・・・私の家とそんなに離れていない場所ね。歩いて七〜八分かな。」
田舎の村だと、それほど家の数も多くはない。”五十嵐”という名字もこの村では二〜三軒だと
いうから、更羅はその中で最近引っ越して来た人がいる家を口にしたのだろう。
やはり、田舎だと人が少ない分、人間関係は濃くなるのかもしれない。
「そうそう、私も自己紹介するね。知っているかもしれないけど、私は如月更羅。”更羅”って呼んで。
名字で呼ばれるのは慣れていないから。」
「じゃあ、僕のことも”奏”でいいよ。」
「じゃあ、遠慮なく、ソウ。でも、ソウって珍しい名前よね。私も人のことは言えないけど・・・
どういう字を書くの?」
話し始めてみると、奏はすっかり更羅のペースにはまっていた。田舎の村だから年上の男とも
話し慣れているのかも知れない、と奏は感じた。前の学校では、少なくとも同じクラスでもない
女の子と最初からこれほど親しく話をする機会などなかったから。
「奏でるっていう字だよ。演奏の奏。」
「へえ・・・だったら、お父さんかお母さんが音楽が好きとか?」
「さあ・・・名前の由来は聞いたことがないから。でも、音楽とは関係ないと思うな。」
実際、奏は自分の名前の由来を聞いたことがなかったが、少なくとも、両親共に、もしくはどちらか
が子供の名前に影響を与えるほど音楽が好きだ、とは思えなかった。母はクラシックの名曲をcdで聞
くようなところはあったが、それはそれでエリートのたしなみ、程度に考えているだろうと思える。
両親の過去と言えば、二人とも一流大学を出て一流企業に勤めて社内恋愛で結婚した、というくらい
で、音楽に関係した特別な何かがあるわけではない。大学の前も頭のいい私立を出ているのだから、
音楽とは無関係のはずである。
兄の名前も音楽とは無関係だから、偶然だろう、と奏には思えた。
「残念。そうだったらいいのにって思ってた。私、大学で声楽を専攻しているからかもしれないけど、
そういう名前、いいなって思うの。子供が生まれたら音楽に関係する名前を付けたいなって、今から
考えているから。」
「えっ!?更羅って・・・大学生?」
驚いて奏は思わず声をあげた。たった今、更羅は一六、七歳だろうと思っていたところだったので、
余計に奏の驚きは大きくなってしまっていた。
それだけ奏が驚いたからかどうか、言われた更羅は、少し苦笑いを浮かべて言葉を続ける。
「そうは見えないってよく言われる。いつも高校生に間違われて、たまには中学生にも。もう一九に
なるっていうのに。多分、奏よりも年上のはず。」
言われて奏は更羅が最初から敬語を使おうとせず、また、見た目より大人っぽい話し方をする理由
がわかった。更羅が敬語をわざと使わなかったのは、更羅だけがお互いの敬い方を知っていたからなの
である。間違っていたのは、奏の方だった。
しかし、自分より年上だとわかった途端に言葉遣いを変えるのもおかしいと思い、奏は今までと同じ
口調で言葉を続ける。
「あ、ああ・・・確かに。僕は今年で一八だから。」
「それじゃあ、受験生?」
「ああ。大学は山一つ越えた総合大学にしようと思ってる。その関係で引っ越して来たんだ。」
奏が波月に引っ越して来たのは、そういう建て前になっていた。プライドの高い母は、ただ離婚
したから実家に戻ったということでは体裁が悪いから、奏の進学の関係で戻ってきた、という理由も
それに付け加えていた。
奏には意地を張るつもりもなかったから、母の言葉にそのまま従っていた。全てに流されている
自分を理解しながら。
「それなら、私と同じ大学になるのね。結構いい学校だと思うわよ。土地もお金もたくさんあるから、
各学科で設備にもかなり力を入れているし。総合大学の芸術系ってどうしてもそれ専門の大学より
劣るところはあるけど、力のある先生もちゃんといるのよ。他の学科も同じだと思う。」
「それを聞いて安心した。パンフレットと実物って結構違うし、東京じゃないから設備もあんまり
整ってないって思ってたんだ。」
設備が整っていたところで、まだ自分がやりたいことも決っていないのだからそれを心配する資格
もない、と奏は思い当たったが、それを口に出すことはしなかった。理系学科に進みたい、とは考え
ているが、だから何がしたい、というものが奏にはない。
「ところで、失礼かもしれないけど、更羅ってハーフ?」
話を大学のことから離したかった奏は、更羅が次の言葉を口にする前に話題を変えた。とっさに
考えたことなので、いい話題とは言えなかったが。
「別に失礼なことじゃないけど・・・そうよ。お父さんがドイツ人で、お母さんが日本人。どちら
かっていうと、お父さんの血が濃いみたい。周りを見ていると、私って日本人の顔立ちと違うなって
よく思うし。」
「じゃあ、日本で生まれたんだ。」
「ううん。一〇歳まではドイツに住んでいたの。本当はずっとドイツにいるはずだったんだけど、
一〇歳のときにお父さんが死んでしまったから、その関係で日本に帰って来たの。日本語はお母さん
から教えてもらっていたし、名前も漢字に直したから、日本で暮らすのに特別不自由はなかったな。」
父親が近くにいない、という点においては自分と更羅は同じだ、と奏は気付いた。ただ、父親に
対する思いは全く違うだろう、と想像できたが。
「ということは、今の歌もドイツ語?」
奏は気づいたことを口にしないまま、質問を続けた。
「そう。お父さんに教えてもらった歌。お父さんが生まれた村に伝わっている歌だから、有名では
ないけど。」
「でも、いい歌だって思ったな。何かこう・・・落ちつくっていうか。それに、更羅の声もすごくいい
からさ、聞いてて飽きないっていうか。」
「ありがとう。」
言いながら穏やかに笑った更羅の顔に、夕日に溶けて儚く消えてしまいそうな雰囲気を、奏は感じた。
強い意思を持っているようで、今すぐにでも消えてしまいそうな、そんな雰囲気。
考えてみれば、歌っているときから更羅にはそれがあった。
「あのさ、さっき僕を誰かと間違えてたみたいだけど、そのことを聞いてもいいかな?」
話題が途切れ、このまま更羅を放っておいたら本当に消えてしまいそうで、奏はとっさに頭に浮か
んだ質問を口にした。
言ってしまった後で奏が後悔を確認したのは、次の更羅の言葉を聞いた瞬間だった。
「ああ、更紗姉さんと間違えたの。」
今まで明るかった更羅の表情は、その言葉を口にする直前、暗いものへと変化していた。奏が感じた
第一印象そのままの姿に、更羅は戻っていた。
「更紗姉さんとは、三年・・・くらい前から会えなくなっちゃって、それから私、ずっとここで更紗
姉さんを待っているの。昔、もしも二人が離れ離れになっちゃったら、この時間にこの場所でまた
会おうって約束したから。それで・・・」
「名前が更羅と似てるけど、もしかして双子?」
更羅の表情は暗いままだったが、奏は好奇心に負けて質問を続けた。
今の質問の答えで更羅が時間に正確な理由がわかったから、もっと質問をすればそれだけ謎が解ける、
と奏には思えたから。
「そうよ、二卵性だけど。でも、よく似てるって言われてた。」
更羅は奏の質問に答えるには答えるが、それを発展させようとしないことに、奏は気付いた。更羅は
平気で嘘がつけるような性格ではなさそうだから、義務感で奏の質問に答えているようであった。
それがわかってしまった奏は、それ以上質問が続けられなくなってしまった。
「ところで、ここは自殺の名所なんて言われているけど、こんな場所にいて危なくないの?」
奏は自らの好奇心を満たすことよりも、更羅の表情が次第に雲っていくのを止めたくて、別の話題を
口にした。コロコロ話題の変わる人だと思われることを覚悟で。
しかし、奏が質問を口にした直後、更羅はまた表情を逆転させて、今度は声を殺して笑い始めた。
それに驚いて奏が言葉をつなげられないでいると、更羅は笑顔の中に少しすまなそうな表情を作って、
口を開いた。
「それ、嘘よ。」
「え!?」
更羅にそう言われても、奏には事態が飲み込めなかった。言葉は理解しているのに、それが現実と
結びつかない。
「この村って漁業以外に主要な産業ってないでしょう?隣街まで行けば海水浴場とか他にもあるけど、
この村に限ると観光地になれる話題だとか目玉なんてないから、この場所を”自殺の名所”にして話題
作りしたのよ。五〜六年前かな。悪い噂でも、物好きが来ればってことね。
でも、結局”自殺の名所”なんて言っても村人が少ないからなかなか外まで噂が広がらなくて。
それに、広めようとした人も少なかったから、奏みたいにこの村に引っ越して来た人を一年くらい信じ
込ませることくらいにしかならなかったのね。私、三年くらい毎日ここに通っているけど、自殺志願者
となんて会ったことないもの。」
「じゃあ・・・飛び降りた人も実際はいないってこと?」
「少なくとも、私は聞いたことないな。ただ、何年か前に台風で木が折れてここから落ちたことが
あったんだけど、それは近くの海岸に流れ着いたの。多分、人が飛び込んでも同じだと思う。ほら、
そこに木が折れた跡があるでしょう?」
言われて奏は、その噂を母親から聞いたときのことを思い出してみた。
確か、波月のことを説明されたとき、ここは”自殺の名所”と言われているから近づかないように、
と言われた。母親は実家にここ数年帰ってくることはなかったのだから、嘘だと知らなくても無理は
ない。
つまりは、母親が騙されていたのだ。
「確かに・・・”自殺の名所”なんてよく聞く話だよな。」
「学校の七不思議、みたいなものかも。でも、ここが恐くなくなったでしょう?」
「まあ、ね。それじゃあ、これからもここに来ていいかな?もうここに来るのが恐くなくなった、
ってだけじゃないけど、更羅の歌が聞きたいし。もろろん、迷惑でなければ、だけど。」
「いいわよ。私も誰かに歌を聞いてもらえた方が、張り合いがあるから。」
更羅は嫌な顔一つせず、奏の申し出に笑顔で答えた。
奏は更羅が自分の申し出を受けてくれたことに加え、笑顔が戻ったことにも喜びを感じていた。
そして、できれば二度とあの暗い表情は見たくない、とも同時に思っていた。
自分の口から更紗の話題は二度と出さない、と奏は心に誓った。
