「詩」という言語ゲーム──メディア論的な性格を持つ、詩人の仕事
林道郎
詩が言語の実験であるとは、広く信じられている詩の定義だが、その時「言語」とは、
往々にして、日本語や英語といったいわゆる「言語」とだけ考えられている。だがそれで
は、詩はいささか狭く見積もられているといわざるをえない。詩の実験とは、たえず「言
語」の境界を拡張し、世界のあらゆるものが言語的な相貌のもとに見直される可能性を追
求することにあるからだ。
かつてマラルメは、作者である「私」ではなく「言語」にイニシアティブを与えようと
した。それは、言葉を、意味ではなく、その物質的固有性によって見つめ直す「純粋化」
の実験とみられたが、それは逆に、あらゆる物質の言語的可能性への扉を開くことにもな
った。マラルメ自身が頁の余白やフォントの形式に、準言語的な働きを見出したことを嚆
矢とし、いわゆるコンクリート・ポエトリーは、そのような可能性の地平を広く開拓した
のだった。言語そのものへの還元には、端から拡張子が埋め込まれていたのである。
松井は、その拡張子を臨界点にまで現動化しようとしする。たとえば、最新の詩集『時
の声』で使われたプロセスを見てみよう。まず具体音を録音・編集し、耳をたよりに文字
に書き起こし、それを朗読し、再度オノマトペを使って書き起こし、起こした文字を新聞
活字を使って印刷紙、拡大して展示用パネルにしつらえ、さらにそれが壁にかかった状態
──画廊展示──を写真に撮影し、その写真を本のページに埋め込んでいくという、迂遠と
しかいいようのない転換・翻訳作業の連続である。しかも、その幾つかの段階では、自分
以外の作業者をも媒介させている。ごく普通の「本」に慣れ親しんだ我々は、たとえば、
最後の段階だけをとっても、こんな疑問を押さえることができない。なぜ彼は、活字を直
接使うのではなく、パネル化されて展示された「詩」の写真を使ったのだろう。答えは単
純だ。彼にとって詩は、意味としての言葉だけによって成立するのではないからである。
それが画廊の壁にパネル化された物体として掛かっていること、したがって、その背景の
「地」の部分は、紙そのものの白ではなく、写された壁の白だということ、さらにそれら
の表面を照らす光の状態が微妙に違うこと、そういう細部すべてが、文字と同じ資格で
「詩」を構築する要素として扱われているのである。わざわざ新聞活字やその文字組を使
うのも、そのような方法意識の表れである。
*
一般に、「翻訳」という作業は、意味の共通性を前提にして、ある言語から別の言語へ
の転換が行われるように信じられているが、それは因習による錯覚にすぎない。意味は、
翻訳が成立する二言語の外に実体としてあるのではなく、あくまでも翻訳可能性そのもの
によって保証される亡霊のようなものなのだ。一言語内においても辞書を引けば、単語か
ら単語へ、そしてまた別の単語へ、やがてはもとの単語にもどってしまうように、「意味」
という超越的参照項は存在しない。とすれば、当然、翻訳が成立するところには言語的シ
ステムの可能性が潜在しているということにもなる。日常世界では無意味にしか思えない
具体音が、録音・編集され文字に翻訳されることで、途端に読まれるべき「ヒエログリフ」
として再組織化されるという事態。もちろん、その「読み」には、様々なノイズやズレが
紛れ込むには違いなく、それがさらなる「翻訳」を促す更新要因になっていくのだが、世
界のあらゆるものを、そのようにして翻訳的方法を通じ、言語的システムとして事後的に
再組織化していくこと、そのような可能性を松井は、詩という言語ゲームの中心に見出し
ているかのようだ。
注目すべきは、このとき、録音や写真という切断と固定化の装置が介在することで、そ
れらを通じて反復(再生)可能な単位へと転換されることが、世界の断片を言語的システ
ムたらしめる条件となっていることだ。反復可能性と交換可能性、それは言語(あるいは
記号一般)のもっとも基本的な存在条件だが、レコーダーやカメラといった装置は、その
条件を、世界のあらゆる断片に貸与する力をもって出現したのだということが、松井のよ
うな詩人の仕事から逆照射される。だとすれば、この詩人の仕事が、メディア論的な性格
を持つのは、ことの必然と言うべきなのだろう。さらに付言するならば、彼のメディア装
置を織りこんだ翻訳・転換のプロセスの積み重ねは、時間の層を雲のようにとらえどころ
のない体積へと変容させ、詩の「現前」を解体するような働きをする。これは読書の「現
在中心性」の揺らぎとでもいえる不安をもたらすとともに、どこにもない「時の声」を響
かせる詩的機械、とでもいえそうな表情なき相貌を紙面に与えている。
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