■ 俳句 選評 ■
眞鍋 呉夫

 今年だけに限らず、ここ数年の応募作については、私も種村さんとほとんど同じような印象を抱いているが、それではそういう記号的・文節的ではない「俳句という詩」を作るためにはどうすればいいのか。たまたま、その契機の一つになるのではないかと思われる、若林真理子さんの「3年後の詩人へ」というエッセイを目にしたので、次にその一節を紹介しておこう。
「目は光の受容体である、と学校で習いました。目に見えている世界というのは、すべて光でできているのです。
(中略)けれども、さわってみると私の手は光でできているわけではありません。私は本当に目の前にあるものを、目で見ることはできないのです」(「東京新聞」平成15年1月6日夕刊)
 若林さんはこの一節に続けて、私たちは自分がいま見ている世界が世界そのものの姿だと思っているが、それは世界のほんの一部分にすぎない、という意味のことを書いている。
 また、現代のような情報社会の中で生きていくためには、自分の生命の幹のような部分を自覚し、その枝を伸ばし、その葉を繁らせるように、おびただしい情報と向かいあう必要がある、と書いている。
 ちなみに、若林さんは二年前の五月に行われた『詩のボクシング全国大会』でライト級のチャンピオンに選ばれた、現在十九歳の大学生である。

【一般の部】
 入賞三句のうち、遠藤さんの「干梅の」には動かしがたい現実感がある。それは、ひと昔前までは、わが国の常民の年中行事の一つであった「梅干造り」の一過程がけれんなく詠みとられているからであるが、この句に難があるとすれば、「干梅」と「土用」という夏の季語が重なっているだけではなく、「二つの取りあわせ」(芭蕉)としてもあまりにも近すぎる、ほぼ同じ範疇の季語が使われているということであろう。
 岩上さんの「凍蝶」には、身の引き緊まるような冬晴の日の静謐がたちこめている。しかし、さながら前記の若林さんの記述のように、今まで冬日を浴びていた蝶がそっと翼をたたんだところを「ひかりしづかにたたみけり」と詠むことで、もう二度とは翼をひろげることはないかもしれぬ「凍蝶」のいまわのきわの姿を対象化することに成功している。はかないようで、根靱い佳句だと思う。
 秀逸十句のうち、渡邉さんの「大釜に」には、文字どおり、沸騰点に達した熱気とエネルギーがみなぎっている。堀野さんの「暁冴ゆる」は、中七と下五の「かたむきて鋭き残り月」がよく利いているが、遠藤さんの「干梅の」と相似の問題がありはしないか。つまり、「冴ゆる」と「残り月」がどちらも天象なので、その重複がこの句をやや単調にしていはしまいか。木村さんの「雪見たく」は、やはり「ひねもす雪見て」とのリフレーンを、自然で成心のない述懐とみるかどうかで評価が分かれよう。岡本さんの「稲妻や」はいわば正統的な作風で、分りすぎるほどよく分るが、おそらく少なからぬ類想句があるのではないか、という危惧を禁じえない。欲を言えば、もう少し芭蕉が言う意味での「新しみ」がほしいと思う。伊賀さんの「あづかりし」は、「あづかりし稚」そのもののようにやわらかく、なつかしい句である。ただし、「稚」の一字に「ヤヤ」とルビを振るのは、やはりちょっと無理であろう。相対的ではあるが、「稚」は「赤子」か「稚児」かにした方がいいのではないか。渡辺さんの「片蔭や」は、「迷路」という二字がこの句に多義的なひろがりをもたらしている。その「涯」を吹きすぎていく「風の声」も切ない。小山さんの「村中が」は、なんでもない句のようであるが、今では失われがちな、かつての里山に流れていた時間が事もなげに詠みとられているところが、かえって珍しい。「村中が」という上五の表現も、放胆で、凡庸ではない。作山さんの「濁酒」は、「影」を曳いて行く主体を「余生」と詠みきった点に、この句の生命がある。しかし、八十三歳の私であればともかく、五十七歳の作者がこんな句を詠むのは、少し早すぎはしまいか。内田さんの「見てあれば」は面白い句だと思うが、上五の「見てあれば」は、なにかもったいぶっているような気がしないではない。どうして、「見てゐれば」ではいけないのか。というよりは、「中七」と「下五」があれば、「上五」は不要だというのが俳句という短詩型の特殊性の一つではないかと思うが、如何。有永さんの「露けしや」は、自分も死へ向かって歩いていく生者の一人である作者が、思いがけぬ訃報に接した時の如何ともしがたい気持ちが過不足なく詠まれていると思う。

【児童生徒の部】
 入賞二句のうち、古賀さんの「雨乞や」を読むと、ふだんは忘れていた記憶が一気によみがえってくる。その形象は鮮明だが、「雨乞や」という上五では、せっかくの中七以下の表現の説明になってしまう。その点、もうひと工夫すべきではあるまいか。
 今村さんの「手に落ちる」雪は、現実の経験であれば、白いとか、冷たいとかとも感じるだろう。しかし、この句の「手に落ちる」雪は「夢の中」に降っているのだから、「綺麗な」でいいと思う。それが逆に現実の経験を昇華して、少女らしく夢幻的なニュアンスをかもしだしているからである。
 秀逸十句のうち、旭さんの「天然の梅干」は、作者は意識しているかどうかはよく分からないが、「天然の」という点に現代の重要な問題の一つがあり、機知的でほほえましい。但し、機知はないよりあった方がいいにきまっているが、詩にはどこかでその機知を超えるところがなければならないというのが私の考えであることを、ここで念のために付け加えておこう。宮代さんの「青葉から」は、渡邊水巴の名句〈かたまつて薄き光の菫かな〉を私に思いださせた。それはおそらく、水巴は「薄き」という二字で、宮代さんは「淡い」という二字で、万象の混沌から宇宙への運動の微妙な機微を反射的に詠みとり得ているからであろう。岡本さんの「焼いもを」と「月」との「取りあわせ」は面白いが、この句もはたして即興的な機知を超えることができているか、どうか。その点が、もうひとつ、心もとないような気がする。後藤さんの「螢籠」は、このままでいいと思う。中学校三年生の作者が、殊更背のびすることなく、自分のありのままの姿を素直に表出しているからである。川端さんの「宇宙人」の句も、「取りあわせ」が面白い。一見、岡本さんの「焼いもを」の句に似ているようだが、その「取りあわせ」の一つである「宇宙人」が岡本さんの場合とは比較にならぬほど突飛であるだけに、無限定的な空間の拡がりを読者に感じさせる。そういう意味では、これからはもう少しこういう傾向の句が増える方がいいのかもしれない。金栗さんの「少し抱き」の場合は、一般の部の木村さんの場合とは逆に、「少し」のくりかえしが、むしろ、この句の本意を強化していると思う。多くの人が見のがしている日常の何気ない仕草を詠みとめた佳句といってもいいのではあるまいか。木村さんの「貝採に」は、いかにも小学生らしい漫画チックな詠み口ではあるが、「ウツボ」のグロテスクな印象はよく出ている。植松さんの「桜散る」は、一見、大人びた句のように見えかねないものの、作者は中学校の三年生である。だから、小学校を卒業する時に別れた相手のことを、事実のとおりに思いだして詠んだのであろう。渡邊俊哉さんの「月になり」は、中学生や高校生になれば醒めてしまうような夢が、あっけらかんと詠まれている。生き方の上でも、句作に際しても、その夢をいかにふくらませていくか。それが、この作者の今後の課題であろう。渡辺理絵さんの「秋の雨」は、近くの水たまりにぽつんと一つ波紋が浮かんだ、その一瞬を鮮やかにとらえている。多分、この作者は、孤独というよりは、敏感で明晰な眼の持主なのであろう。
(尚、俳句は長い歴史を持つわが国の伝統的な短詩なので、ルビや仮名遣はすべて「歴史的仮名遣」に改めたことを断わっておく。)