クルマという凶器が

ある日

突然もたらすもの

 

 2000年2月10日、東京地裁で「隼ちゃん事件」の公判を傍聴した。涙がボロボロあふれ、メモしていたノートから顔を上げられなくなった……。

 「隼ちゃん事件」の概略はこうだ。
 1997年11月28日午前7時40分ころ、当時8歳(小学2年生)だった片山隼ちゃんは小学校へ行く途中、過積載の大型ダンプにひき逃げされた。
 渋滞の世田谷通りで、ダンプの運転手は横断歩道(歩行者信号は青)をふさぐような形で停車。前のクルマが発進したので漫然と自分も発進し、隼ちゃんをひき殺したのだ。目撃者もいた。
 翌98年1月23日、父親の片山徒有さんは「加害者はどんな人間なのか。裁判はいつ始まるのか」知りたくて東京地検へ出かけた。すると、地検は言った。
「処分は下りてます。不起訴です。(不起訴の理由を)お答えする義務はありません」
 事故発生から20日後の前年12月18日、すでに不起訴とされていたのである。どうして!?
 ……これが「隼ちゃん事件」として大きく報じられることになる発端だった。

 事件はマスコミ(とくに毎日新聞)で大きく取り上げられ、検察庁の冷酷な対応について法務大臣が国会で謝罪するまでに発展した。
 「不起訴は妥当だった」と言っていた検察庁も、世論の盛り上がりに耐えかねてか、加害者を「業務上過失致死」罪で起訴した。異例の起訴だった。
 その公判(法廷での審理)が99年2月から始まった。
 じつは片山さん夫妻はその1年前の98年2月に加害者と会い、「発進するとき無線交信に気を取られていた。まったく自分の不注意だった。しかるべき罪を受けたい」旨の話を聞いていた(録音テープが ある!)。
 ところが裁判では、加害者には4人の弁護士がつき「無線交信はしていなかった。過失はなかった」と主張した。
 だが、刑事裁判は被告人側と検察官との争いである。片山さん夫妻は単なる傍聴人にすぎなかった。
 けれど、「隼ちゃん事件」へのマスコミの注目がひとつのきっかけとなって、「犯罪被害者に対する法制度の不備を改善しなければ」と具体的に検討され始めていた。2000年1月26日、法制審議会は「犯罪被害者の権利を保護し、拡大するための法整備に関する要綱案をまとめた」(朝日新聞)。
 そして2000年2月10日、隼ちゃんの両親である片山徒有さん、章代さんが、検察側の証人として法廷に立つことになったのである。
 午後1時半から、途中30分の休廷をはさんで午後4時半まで、証人尋問は行われた。私の傍聴メモは、B5サイズで17枚になる。それを要約してお伝えしよう。 

 まずは隼ちゃんの父親、徒有さんから。
 片山さん夫妻が初めて加害者に会う前に、加害者の会社の社長と電話で話したときのことを、徒有さんはつぎのように述べた。

 加害者はどう思っているのか、気持ちを手紙で伝えてほしいとお願いしたら、「(加害者は)筆無精で書けない」と言われた。事故後いろんな人から電話があって心理的にたいへんだと伝えたら、「俺も月末には手形の電話が」と言われた。それで、子どもを亡くした者の気持ちがわかりますかと言ったら、「俺には子どもはできないんだ。できない者の気持ちがあんたにはわかるか」と言われた……。

 傍聴席で私は、心の弱い加害者をこの社長が否認へ押した……という面もあったのか?と感じた。
 続いて、98年2月19日に加害者と初めて(というか一度だけ)話したときのことに移る。

 加害者は「明らかに自分の過失だ」と言っていた。世界中みんなの前で隼は悪くなかったと言ってくれるかと尋ねたら「はい」と言っていた。私は、残った者が一生懸命に生きなければならないからと、お互い立場は違うけれど頑張ろうと言った。

 起訴に至るまでのこと。

 ここまでやってこられたのは、冷たいアスファルト(注・なぜ「冷たい」と言えるのか、章代さんの証言で明らかになる)の上で踏みつぶされて何も言えない息子の名誉を守るためだった。事実を明らかにしてほしかった。加害者を起訴してほしい、罪を重くしてほしいと言ったことは一度もない。

 しかし……。

 無線交信をしていなかったと、加害者は法廷でウソをついた。裏切られ、とても悲しくなった。怒りを超えると悲しみになる。あのときあれだけ加害者は言ったのに……。2月19日以来なにを加害者は考えているのか、まったくわからない。
 隼は本当にいい子だった。毎日毎日成長する息子を見ているのが楽しかった。もっと生きたかったはず。隼は(今回のことについて)自分の言葉で伝えたかったはず。それを思うと胸が張り裂けそうだ。できることなら、隼の命と替わってあげたい。本心だ。
 命は愛情と健康と環境があれば育つと思っていた。だが、本当に石ころのように命はなくなってしまう。
 息子の命が失われてしまった。その大きさを真剣に考えてほしい。だが加害者は、ウソをつき、無罪を主張している。裁判所には、公正な判断のなかで、きちんとした厳重な罰を言い渡してもらいたい。隼はモノではない。石ころじゃない。人間なんだ。と、皆さんに考えていただきたい。

 加害者の弁護士は反対尋問で、社長が持ってきた香典を片山さんが断ったことを持ち出した。片山さんは必要以上に頑なになっている、との心証を裁判官に与えたかったのか。だが、片山さんは言うのだった。

 (葬式で)私たちにできるのは、生前お世話になった方たち1人1人に、隼の代わりに心をこめて「仲良くしてくれてありがとう。 遊んでくれてありがとう」とお礼を言うことだった。私たちは涙を流して1人1人にお礼を言った。
 ところが、あとで香典により、社長が来ていたことを知った。私たちのあのお礼を黙って聞いて帰ったのかと、ショックだった……。

 徒有さんの証言は、胸に迫るものがあってか言葉につまるシーンもあったが、おおむね落ち着いて見えた。
 30分の休廷をはさみ、今度は母親の章代さんが証言席についた。章代さんはずっと泣きながら、しかしはっきりと言うのだった。

 最後に隼を見たのは、朝ご飯のサンドイッチとヨーグルトを食べさせて、学校へ送りだしたときだった。
 歩き出した隼は2歩くらいで振り向いた。どうしたの?と言ったら「お顔見せにきたの」と、にこーっと笑った。その笑顔が可愛くて、私は後ろ姿を見ていた。「きょうは(サークルの)バスケよ」と声をかけると、隼は後ろ姿のまま「わかってる!」と右手を上げて世田谷通りのほうへ行った。それが最後だった。
 それから隼の弟のTを起こし、幼稚園へ行く支度をした。8時半頃、隼の担任の先生から「事故だ。病院へ来てくれ」と電話があった。
 Tを連れてすぐクルマで病院へ向かった。世田谷通りに出ようとしたが、パトカーがいて通れず、別の道から出た。隼はとっくに学校へ行ってるはず。隼の事故現場とは知らず、不思議な空気のなかを病院へ向かった。
 病院の受付で、霊安室へ行くよう言われた。どうして霊安室なの? 廊下を歩いて行ったら、担任の先生、校長先生、おまわりさんがいた。残念だけど死んじゃったと、誰から聞いたか覚えていない。隼に会わせてくださいと言ったが、お父さんがいないとダメと言われた。それから何分後に主人(徒有さん)が来たか、隼が死んじゃったと気が動転して、長く感じられたけど時間は覚えていない。
 「すごく可哀想な姿だからお母さんには会わせられない」と言われた。おまわりさんが私に聞いた。隼はどんな服で出かけたかご存知かと。「当たり前じゃないですか!」と私はすごく怒った。

 章代さんの、泣きながらの証言は続く。

 霊安室で隼は、工事などに使う青いビニールシートをかけられていた。隼にそんなものかけるなんてひどい!とシートをはがした。
 そしたら、隼は頭がなくて……。足も背中もぜんぶ隼なのに、頭がなくて……。一生懸命抱きしめたんですが、ほんとに頭がないんです!さっき元気に送り出したばかりなのに!
 隼は可愛い子だった。人なつこくて優しくて、お友だちのいいところを見つけるのが上手だった。私にも「ママはここがすごいね」と言う子だった。放課後は、お友だちを連れてきたり外へ行ったりで午後5時ころまで遊び、帰ると弟のTと遊び、夕食をとってお風呂に入り、Tといっしょに眠った。毎日毎日楽しかったみたい。
 隼は毎日泥んこになって遊ぶので、洗濯物が毎日たくさんあり、クリップのいっぱいついたハンガーが壊れた。隼はすぐにTを連れて、近くのスーパーへハンガーを買いに行ってくれた。そのハンガーに、いまも洗濯物を干す。けれど、隼の服を干すことはない。ハンガーを見て毎日思い出す。隼がいないのに、どうして私はご飯を食べているんだろ。隼がいないのに私は生きている。そんな自分が 許せない。
 Tは、隼のことをもちろん覚えている。きのうも泣いていた。じつはあの日、動転して気づかなかったが、Tが霊安室に入ってきていたのだ。Tは今、1人で隼の部屋に入れない。1人で2階へ上がれない。「隼ちゃんお顔がなかった」と泣くんです。「ぼく大きくなったら科学者になる。タイムマシンを発明して時間を戻したら、ママ、隼ちゃんに会えるでしょ」と言うんです。
 主人が冷静だなんてとんでもない。ダメージはひどかった。泣いてわめいて死にたいと叫んだり。夜になると出かけて行くので、私は心配になってあとをついて行った。そしたら、現場のアスファルトに寝そべって泣きながら話しかけてるんです。
 隼みたいな可哀想な子は、もう絶対に出ないでほしいです。でも、それからも、事故は毎日のように起こってる。自分が動かしてるのはどんな大きなものなのかということ、奪ってしまうのは命なんだということを、よくわかってないんだと思います。こんなに悲しい思いをするのは、ほんとにもう私だけでたくさんです。

 加害者の弁護士は「ありません」と、反対尋問を放棄した。
 私は痛いほど思った。自分が日々運転しているモノがいったいナニであるかということを。そして、「遺族」という言い方は大事なことを隠してしまうのではないか、と。隼ちゃんはこの世にいないけれど、徒有さんは隼ちゃんの父親であり、章代さんは母親なのだ。いまも、これからもずっと……。

 1999年11月28日は、隼ちゃんの命日だった。片山さんたちはお墓参りの途中、隼ちゃんがいつも遊んでいた砧公園の上に、時ならぬ煙を見たという。それが、東名高速で酒酔いの大型トラックが乗用車に追突して幼児2人が焼死したというあの惨い事故だったとは……。

『ドライバー』(八重洲出版)2000年4-5号の連載コラムより

 

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