2002年5月22日

 

立て万国のマニア諸君!(仮題)

 

 21歳のとき、マンガ原作者を目指して大学(日本大学の心理学科)を中退。あれから25年たつ。最初の15年くらいはチョー貧乏なアルバイト暮らしだった。夏も冬も、すり切れたジーンズに煮染めたような革ジャンを着て、ボロアパートの2万円くらいの家賃に四苦八苦したもんだ。

 ところが現在、中古とはいえ一戸建てに住み、交通違反関係の原稿料だけで食えている。おかげさまでそれなりに名前も売れ、「えへ、ちょいと仮装大会でね」とテレ隠しを言わずに普通にネクタイを締められるようにもなった。昔の私を知る方々はみな絶句する。
 どうしてこうなっちゃったのか、という話をしよう。

★牛丼ムカムカ事件★

 普通車の運転免許を取ったのが19歳。中古の原付を普段の足とし、バイトでクルマを運転する日々が始まった。
 それまで警察は正義の味方と、なんとなく思っていたが、何度か取り締まりを受けるうち、「警察は汚え」と腹が立つようになった。交通安全の観点からは何ら問題ないはずの運転を、「違反は違反だ」と待ち伏せて警察は取り締まる。「汚えぞ」と感じるのは自然だろう。

 本当は、不服があれば反則金を払わず主張できる。汚い取り締まりが相手なら、ほぼ100%、不起訴という形で勝利できる。だが当時の私はそんなことは露知らず、捕まったらカネを払わざるを得ないものと信じ込んでいた。だから怒りが腹にたまっていった。

 そんなある日、28歳のとき、バイクを運転中に事件が起こった。
 2車線の道路の歩道寄りから2輪停止線へ出て信号待ちをし、青になって直進。すぐに、交差点内にいた白バイ警察官から停止を命じられた。
「後ろを見てみろ」
 ふり返ると、いま走ってきたのは左折専用車線だった。そのことを示す矢印ペイントが見えた。さっきは信号待ちのクルマの下になって見えなかったのだ。
 警察官は角の交番へ私を連れ込み、指定通行区分違反だとキップを切った。私は「危険も迷惑もないし、教えてくれれば直進しないのに、汚えっ!」と腹が立った。が、「違反は違反」というセリフに逆らえず、キップにサイン。交番を出て近くの松屋へ牛丼を食べ行った。

 当時の私にとって牛丼はごちそうだ。紅生姜と七味をたっぷりかけて食べた。しかしそのうち、ムカムカしてきた。どうにも納得できない。あの警察官に何か言ってやらなきゃ腹の虫が治まらない。

 私は交番へ戻り、文句をぶつけた。あなたの上司の見解を聞きに行くぞ、なんてことも言った。すると警察官は、「じゃあ、キップを預かる」と言い出した。
 私は思った。ははあ、こいつ、握りつぶすつもりなんだな! 私はキップを預け、ニコニコと帰った。

 ところがどっこい、警察官は、「被疑者は現場へ舞い戻ってキップを突き返した」と、受領拒否の扱いにしたんだねえ。
 受領拒否は、反則金を払ってオシマイにするのを被疑者が自ら拒否したことを意味する。するとどうなるのか。後日出頭した場所(いわゆる交通裁判所)で、私は別の警察官から言われた。
「ここまできたら裁判てことになります。裁判には略式と正式とありますが、どうします?」
 どっひゃ〜ん!!
 略式は、カネがかからず簡単に終わるけれども、自ら屈服することを意味し、イヤなら略式を蹴るしかないらしかった。そしたら正式な裁判? 大金がかかるんだろ? そそっ、そんなのできないよお〜
!!

 受領拒否じゃないのだ、警察官が「預かる」と言ったのだ、と何度説明しても相手にされなかった。
「あんたがキップを突き返すところを見た目撃者がいる」
 とまで言われた。このウソつきどもめっ
!!

 しかし、じゃあどうすればいいのか。誰に相談しても、略式で泣き寝入りするのが「大人の選択」だと言われた。だが、こんなインチキに屈したら、一生ぐずぐず後悔することになるんじゃないか。かといって……。私はハゲるほど悩んだ。

 当時、『THE BIKE』というバイク雑誌があった。毎日新聞社刊で、バイクを巡る社会的な記事が目玉だった。私はその編集部へも相談。交通事件で有名な高山俊吉弁護士を紹介してもらった。その流れで、矢貫隆さん(『交通殺人』文藝春秋)や浜島望さん(『警察がひた隠す電子検問システムを暴く』技術と人間)などそうそうたるメンバーにもお会いした。しかし、まったく無知でオロオロするばかりの私には、彼らの話はよくわからなかった。

 そうしてついに、私は覚悟を決めた。
「どうせ命までは取られやせんだろ。とことんやってやる!!」
 絶対に泣き寝入りしないぞと宣言すると、間もなくあっさり不起訴とされた。私は勝ったのである。

 この体験、つまり警察のインチキに屈するかどうか悩み抜いたことが、私の原点になっている。あれがなければ、現在の私はなかった。もしも当時、金持ちだったら、あんなには悩まなかったろう。貧乏プータローであったことが幸いしたわけだね。

★『THE BIKE』★

 1984年、30歳になった私は、我が身をしみじみふり返ることになった。大学を中退して10年近いけど、私ってナニ? 原作のほうは懸賞で佳作を何回か取ったがデビューには至らず、相変わらずの貧乏バイト暮らし。これでいいのか!? 

 当時はバイクブームだった。バイク雑誌が多数あった。で、愛車のホンダCB250RSは走行距離6万qを超え、貧乏な私は経費を詳細にメモしていた。たしかローン(月約2万円)の支払いを含めても1q走るのに11円くらいの計算だったか。それをまとめ、前出の『THE BIKE』へ持ち込んだ。「面白いっ」ということでソク掲載決定。なんと担当編集者は連載コラムまで持たせてくれた。

「今井クン、記事は中学生が読んでわかるように書かなきゃいけない。漢字は多くても3割。カタカナや数字も混ぜなさい」
 と指導された。マンガ原作は活字になることを想定していない。まず編集者にイメージを伝えればいい。ぜんぜん違う。これは本当に勉強になった。

 そんなヘタクソな私が、なぜライターになれたかって? やっぱ、ヒマにまかせて得た面白ネタと、権力に屈しない個性がその副編集長の好みに合ったんだろうか。あと、バイク雑誌バブル≠ニいえる時期だったことは見逃せないだろう。出会いと運、これは大事だ。

 とはいえ、当時の原稿料収入は年にせいぜい40万円程度。相変わらず貧乏暮らしではあった。けど「マンガ原作で一旗あげるのだ!」と夢見ていたので苦にはならなかった。

 

★初めての単行本★

 『THE BIKE』で活字ライターとしてデビューした頃、前出の高山弁護士が、交通取り締まりについての勉強会を主催していた。“牛丼ムカムカ事件”で警察の汚さを思い知った私は、そこに参加させてもらっていた。そんなことばかりしているから、原作のほうはなかなかうまくいかなかったのかもしれない。

 ある日、高山弁護士が言った。
「取り締まりに納得できないときどうすればいいか、ということを運転者たちはまったく知らされていない。無知がつまらないトラブルを呼ぶ。わかりやすい解説書を当会で作れないか」
 同感! 素晴らしいアイデアだ! が、締め切りのない仕事はなかなか進まず、やがて同会は解散した。

 しかし私はあきらめきれなかった。こつこつと独自に取材を重ね、いろんな紆余曲折を経て1990年12月(36歳のとき)ようやく出版できたのが、私の初めての単行本『交通取締りに「NO」と言える本』(恒友出版)だ。
 交通違反の処理手続きをわかりやす〜く解説。軽微な違反では「不起訴」の確率はほぼ100%であることを明かにした。
 そのときついた肩書きが「交通ジャーナリスト」。なんだか違和感があったが、「今井亮一なんて誰も知らない。せめて肩書きくらいは」と編集者から言われ、そうなったのだ。

 たかが単行本1冊だけど、これにより交通違反の専門家として世間に認知されたらしい。出版後すぐ、「交通ジャーナリストの今井亮一さん」にテレビ出演の依頼がきた。もう緊張しまくったっけ。
 この頃から、原稿料収入も増えた。同年代のサラリーマンに比べれば数分の1程度だが、赤貧からは脱することができた。バイトに頼らなくてもすむようになった。

★好奇心で被告人に★

 交通違反の専門家ということで、全国の運転者の方々から多数のご相談等が寄せられるようになった。私の知識と認識はさらに深まっていった(感謝!)。
 けれど、なんだか物足りなくなった。牛丼ムカムカ事件の後も何度か不起訴を勝ち取ったが、ご相談者のなかには起訴されて裁判を闘う人もいる。ああ、私も最前線へ出たい。

 そんなある日(39歳のとき)、バイト先の便利屋からタダでもらったベコベコの軽ワゴンを、駐禁レッカー移動された。幅が広いのに行き止まりのような道路で、誰の迷惑にもならないのに。
 よっしゃ、これは徹底的に争ってやろう!! 不起訴で終わるのを避け、ある裏技を用いて、首尾良く正式な裁判の被告人になった。壇上の裁判官から、
「被告人、前へ!」
 と言われるときのゾクゾク感。いま思い出しても緊張する。
 レッカー料金についても民事の裁判をやった。
 すべて負けたが、非常に良い体験をさせてもらった。私はますます専門家になっていった。

★ニュースに名前が!★

 『交通取締りに「NO」と言える本』を出版したとき、ジャーナリストの寺澤有さんと知り合っていた。当時彼は「発狂警察」という物凄いタイトルで『ニューモデルカーマガジンX』(三栄書房)に連載しており、誌上で本を紹介してもらったのだ。

 その後、寺澤さんは警察の不正を暴くことにかけてNo.1のジャーナリストになり、1996年(私が42歳のとき)警視庁赤坂署のカラ支給事件を雑誌で暴いた。条例により参考人に支払われる日当・交通費について、支払ったとウソの帳簿をつくっていたというのだ。

 詳細は『おまわりさんは税金泥棒』(オルタブックス)に書いたが、私は警察を相手に「カラ支給したカネを東京都に返せ」という裁判の原告になってしまった。
 そして翌年、なんと勝ってしまった。被告警察官らが不正を全面的に認めたのだ。提訴のときも勝訴のときも新聞・テレビで大きく報じられた。実際に頑張ったのは東京市民オンブズマンの弁護士さんたちなのだが、私は「あの裁判の今井」として名が売れることになった。講演に招かれたりもした。

★四半世紀を経て原作者に★

 思えばこれで少し慢心したのだろうか、なんとなく交通違反にマンネリを感じて、「そろそろ卒業したい。マンガ原作の道に集中したい」と1997年頃、私は言い出した。

 このとき厳しく諫言したのが寺澤さんだった。「ここまで来ておいて、運転者たちを見捨てるのか。無責任だぞ」と。
 がーん。そのとおりである。私は目が覚め、以前に増して交通違反のフィールドワークに力を入れるようになった。原作は遠ざかった。

 そして1998年の秋、友人のジャーナリストから、東京簡裁でオービス裁判をやっていると聞き、傍聴に行った。裁判は、通常の取材では得られない情報を得るチャンスだ。そうやって得た情報を、雑誌や個別の相談をとおして多くの運転者に渡す、それが私の仕事と思っている。相談は無料だから経済効率は悪いが、私が好きでやっていることだからいいのだ。

 ともあれ、その裁判で検察官は、オービスの製造・販売メーカーの営業部社員に「ウチの機械は間違いありません」と語らせ、オービスの信頼性を立証しようとした。裁判官はそれを鵜呑みにして有罪判決を書いた。
 んなバカな! 被告人は猛烈に感動した。おかしな言い方? いや、この被告人は『ビッグコミック・スピリッツ』(小学館)の編集者だったのである。だから猛烈に感動し、こんな面白いものをマンガでやれないかという話になった。
 私は、「原作をやらせてくれ」とは言えなかった。私は交通事件にどっぷり浸かりすぎている。細かな部分の正確性にこだわってしまい、マンガとしての面白さは失われるだろうから。

 しかし結局、私が原作をやることになった。こうして2000年6月末に連載スタートしたのが、初めての本格的スピード違反裁判マンガ『交通被告人 前へ!!』だ。私の固い原作は、新人漫画家のウヒョ助さん(年齢は私の半分くらい)により見事に演出され、おかげさまで望外の人気を博すことなった。連載は予定より延び、2001年1月まで続いた。同年5月には、第2弾として『駐禁ウォーズ!!』が連載スタート。

 私は現在46歳。21歳のとき大学を中退して志したマンガ原作者に、25年後とうとうなれたのである。

★立て万国のマニア諸君!★

 本誌の読者には、交通違反、交通警察のマニアがおいでだろう。このジャンルは、頼まれて調べてすぐ原稿を書ける、というものではなかなかないように思う。警察に取材してもキレイ事しか言わないし、法令は条文どおりには運用されていないからだ。それゆえに、こだわりをもって追及し続けるマニアの出番がある。私もそうしたマニアの1人といえる。

 私の専門は交通違反の処理手続きだが、まだまだ切り口はあるはず。免許人口7400万人、取り締まられ人口は年間1300万人! 情報の需要は多いのに、書けるマニアはきわめて少ない。新しい人に斬り込んできてほしいと思う。


2001年のたしか5月頃『ラジオライフ』(三才ブックス)に書いた記事より
 
 

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