「警察=正義」という幻想

 世の中には警察嫌い≠フ人がけっこういるよね。インターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」には、警察をボロクソのズタボロにこき下ろす投稿がよくある。他にも警察をクソミソに非難するサイトはある。非難しまくること自体に生きがいを感じているようにも見える。
 いったいどうしたらそこまで警察を憎悪、罵倒できるのか。「たしかに警察も悪いからな」だけではすまない、けっこう奥深いものがあるんじゃないか。そこんとこ、ちょっと考えてみたい。

 まず、「警察=正義」というイメージ、これって広く共有されてるよね。信頼や安心といったものと当たり前に結びついて。
 そういうイメージを固く持っている人に根拠を尋ねると
「だって警察が正義じゃなきゃ困るでしょ」
「悪い人を捕まえる立場の人が正義でなくてどうするのよ」
 などと返ってくる。原子力施設の近くに住む人が
「絶対に安全です。なぜ? だって安全でないと困るから」
 と答えるのと同じ論理だ。「A=Bでなければ困る。A=Bであってほしい。ゆえにA=Bである」なんて破綻もいいところ。「警察=正義」は幻想なんだね。

 警察との現実の接点が、交番で道を尋ねるという「正義」がどうこうには関係ないことであったり、自分の利害に直接は関係なかったりするぶんには、幻想は維持される。
 しかし、幻想が否定される場面に出会ってしまうこともある。やたら警察を罵倒したがる人は、たいてい何か体験というかきっかけがあるようだ。

 たとえば毎年1000万件を超えて行われ続ける交通取り締まり。その背景には莫大な警察利権がある。現実の多くの取り締まりは交通安全には関係なくノルマ消化のために行われているといえる。「安全や危険は関係ない」とズバリ豪語しちゃう警察官もいる。
 守るべき合理的理由を見出せない規制により、とくに危険も迷惑もない形式的な違反が日常的にあふれる状態をつくっておき、そのごく一部を取り締まり(元警察官僚・平沢勝栄議員によれば検挙率は0.005%)そこから生じる莫大なカネを天下り先へ流し込む、それが交通行政の実質といえる。つまり「交通商法」。
 だから、「警察は交通安全(道路交通における正義)のために取り締まるはずじゃないのか」と怒る人が出てくる。違反があふれる状態があるため、マズイ運転をして捕まりながら「みんな違反してるのになぜ俺だけ」と不満を持つ人も出てくる。
  しかも、この交通商法は運転者がみなとっととカネを払うことを前提に成り立っており、手間がかかることを嫌う。1件ずつ手間をかけていては毎年1000万件以上も処理できない。それで、運転者がキップへのサインを拒否したりすると、警察官は高圧的になり、ウソでだましたり脅したりすることも少なくない。
 私は昔、地回りのヤクザと顔見知りだったことがある。そのヤクザは、普段はすごく親しげでよい人≠ノ見えた。ところがある日、「よう、ちっとカネ貸せよ」と言い出し、断ると、恐ろしく凶暴な顔をした。マジでゾッとなった。何もないときは人がよさそうにふるまっていても、思いどおりにならないと凶悪な本性がむき出しになる、それがヤクザなんだなあと実感した。

 なんとなく「警察=正義」と信じていた人にとって、取り締まりは警察の実質に触れる接点、幻想を否定される体験になるだろう。
 また、テレビなどに出てくる正義のヒーローは庶民の心を優しく酌んで人情味のある決着をしてくれるもんだから、そういうのに慣らされた人は
「正義の警察がどうして俺の言い分に耳を傾けてくれないんだ?」
 となりやすかったりする。正義の警察は過保護の母親のように隅々までめんどうをみてくれると思い込んでいた人が、家庭や近隣のつまらないトラブルを解決(気にくわない奴を逮捕!)してくれと言ったが相手にされず、
「けしからん。警察は善良な市民を見捨てた!」
 と怒る、みたいなこともあるようだ。

 なんであれ、根拠のない幻想が否定されるのはいい。理想と現実は違うんだと気づくならいい。
 ところが、それじゃ終わらない。妙な方向へいってしまう人もいる。
 そこのところは精神科医の春日武彦さんの指摘が参考になるように思われる。同氏は『屈折愛 あなたの隣のストーカー』で、「理想化が裏切られたとき、ピュアでプラトニックであったからこそ」「平然と現実離れした残虐さが発揮されることになる」と述べている。「警察=正義」という幻想、その幻想に基づく信頼は十分に「ピュアでプラトニック」といえる。
 同氏はまた『不幸になりたがる人たち』では、人間にとっていちばんやっかいなのが「被害者意識」であるとして、こう述べている。
「たとえば性格に問題があるがために世渡りがスムースにいかないような人たちが、世を『すねる』のと同義語のレベルで被害者意識を持つようになり、その結果として一見弱々しげな人物がひどく図々しい振る舞いをしてみたり尊大な態度を示すことがよくある。瑣末なことに反応して烈火のごとく怒ったり……」
 春日さんによると「被害を受けている『ワタシ』は正当化され、しかも労られ特別扱いされるべき存在と化す」ため、「被害者意識」は甘美なのだそうだ。
 ※焼糞日記2001年10月5日参照

 なるほど。不当な取り締まり≠竍不適切な扱い≠受けた者として「被害者意識」をゲットし、日々報道される警察犯罪・不祥事をテキトーにつまみながら「警察=正義」という幻想を後ろ盾に警察を非難するなら、いくらでも非難できる。その人が受けた取り締まりや扱いがほんとうに不当、不適切だったのかはどこかへ隠れてしまう。甘美だ。

 そして大事なのが、どんなにバカげた悪口を浴びせても警察はいちいち反論しないことだろう。事実無根のことで罵倒しても警察から「名誉毀損だ」と訴えられることはない。新聞への投書なんかだと、おかしなものは相手にされないが、インターネットへの(多くは匿名での)発信にはそういう制約がほとんどない。
 制約もなく反論・反撃されることもなく、言いたい放題。罵倒する者はついつい調子にのってしまう。ナニか立派なことを言っている素晴らしい人であるかのように、少なくとも本人自身は思ってしまう。たぶん実生活ではだれからも相手にされない者が、「悪い警察を叩く正義の人」を演じたつもりになって、寂しくちっぽけな自我を満たそうとする……。

 とまあ、大ざっぱだけどもそういうカラクリが、奥のほうに潜んでる場合もあったりするんじゃないかと私は想像するわけ。
 べつに、寂しい人だから悪いってわけじゃない。いちばんマズイのは、やっぱ「警察=正義」という幻想だろう。そんなものがあるから、その裏返しとしての、強い憎悪や被害者感情も生じるんだろうと思う。
 だいたい、正義なんて存在しないのだ。存在するのは、正義が少しでも実現される社会に近づこうとする「不断の努力」だけなのだ。
 努力なんてメンドイ? まあね、世の中の問題ってのは多分野にわたってるから、しかめっ面で努力しまくってた日にゃメシを食うヒマもない。食うカネがなくなる(笑)。
 私は、交通のことについてはこう考えている。自他の安全と交通の円滑を守ることは、警察がどうこうには関係なく運転者に課された当然の責務であり、まずはそこをしっかり守る。そして、それでも取り締まりを受けたら、つまり自分の身にふりかかった行政行為が不適切と思ったら、そのときはちゃんと争う。要するに、普通に生活して、たまたま問題に直面したときだけちょっとマジになる。とりあえずはそこが基本だろうと思うのだ。普通が格好悪いと思うのは、自己顕示欲ばかり肥大な弱っちい人じゃないのかな。普通に楽しく生きるのは、ある種の強さが必要かと思うですよ。
 つーことで2004年も普通にいこうっ。

 ※「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(日本国憲法第12条前段)

ドライバー』(八重洲出版)2004年1-5号 より

 

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