2003年4月20日

 

「違反は違反」で良いのか?

 

「40キロ制限だけど、たとえば20キロ前後オーバーするくらいが普通のスピード、ってことがよくある。そのときスピード違反で捕まったら、やっぱり40キロで走らなかった自分が悪いのか?」

 これ、ほとんどすべてのドライバーが多かれ少なかれ感じてる疑問ではないだろうか。疑問に思いつつ、結論の出ないまま「まあ、いいや」と20キロ前後オーバーして走っているのではないだろうか。
 走ってるときは「まあ、いいや」ですむが、取り締まりを受けるとそうはいかない。まずは、反則金を払うかどうか、2つに1つの選択を迫られる。

「ンなこと考えなくていいよ。捕まったらカネ払えばいいんだ」
 そういう人がけっこう多いようだ。つまり、
「良いも悪いもない。捕まる=カネ払う。それだけのこと」
 ってわけだ。
 これはもう論外のアホだと私は思う。
 だって、交通安全とか取り締まり(つまり法律の運用)の妥当性とか、いちばん大事なことを「考えなくていい」と切り捨てているから。交通ルールは、勝ち負けを分けるためのゲームのルールじゃないんだよ。
 だが、どうも警察のほうもゲームのルール程度に考えているらしい。ドライバーが交通安全の観点から文句を言うと、「安全や危険は関係ない。規則は規則、違反は違反だ!」と言ってのける警察官がよくいる。交通取り締まりは交通安全に関係ない? そんなアホな!
 ドライバーも警察も交通安全を忘れ、交通ルールを取り締まりゲームのルールと見なしていたのでは、どうにもならんでないの。

 ……と批判すると、こんな反論が返ってくることがある。
「いや、規則は規則≠ナいいのだ。悪法も法なり。違反した以上、捕まって罰を受けるのは当然だ」
 そういう人は、ソクラテスのことをよく持ち出す。ソクラテスは「国家の神々を否定し、青年に腐敗と堕落を吹き込んだ」として死刑を宣告され、助かる道もあったのに、「国法にはしたがわねばならない」と毒杯をあおって死んだのだという。
 だからドライバーも、交通安全の観点からは納得できなくても、規則は規則、違反は違反なんだから捕まったらあきらめろ、というわけだ。

 なんとなく説得力ある? いやいや、ちょっと待ってほしい。ギリシャの話を持ちだ出すなら、ドイツの話はどうだ。
 「ベルリンの壁」を国境としてドイツが東西に分断されていたころ、西ドイツへの亡命者を東ドイツ国境警備兵が射殺した。そのことについて1992年、統合ドイツの裁判所が判決を出した。元国境警備兵は、命令にしたがって射殺したにもかかわらず有罪とされた。
 朝日新聞(1992年2月15日)によると、裁判所は、当時の法(東西分断時の東ドイツの法律)の有効性は認めながらも、
「命令にどう応じるかは、普遍的な『人間の掟(おきて)』を判断基準にすべきだった」
 としたそうだ。朝日新聞はこう書いている。
「たとえ軍隊のような組織にあっても、自分の良心に照らしてなにが大事かを確かめねばならない、との判例がすでに50年代に憲法裁判所などで出ている」

 運転や違反について「普遍的な人間の掟」「良心」とは何か。それは交通安全だ。みんなが安全に円滑に道路を利用できること、それが「普遍的な掟」であり、その「掟」を守ろうとすることが「良心」であるはず。道路交通法第1条も、事故を防止し交通の安全と円滑を図ることが目的だとハッキリ書いている。
 ソクラテスは、「普遍的な人間の掟」「良心」など考えなくていい、法律(命令)にしたがって亡命者を射殺しろ、と言うのか? もしそうなら、とりあえず「青年に腐敗と堕落を吹き込んだ」とされても当然 なのでは?

 もちろん、言論も思想も自由だ。「規則は規則。違反は違反」という考え方があってもいい。
 しかし、どうも理解し難いことがある。「規則は規則」と言うなら、制限の40キロが低すぎると思えても、絶対に40キロ以下で走らなきゃおかしいではないか。
 捕まるまでは、「交通安全の観点からは20キロ前後の超過はナンの問題もない」と思って走ってたわけでしょ。交通安全の観点から「悪いこと」をしてるとの認識はなく、常識的な運転をしてるつもりだったんでしょ。
 ところが、捕まって反則金を払うかどうかの選択の場に立たされると、「規則は規則」と言いだす、それっておかしいんじゃないか。
「俺は悪いことをしたとは思ってない。取り締まりはおかしいと思う。けど、反則金を払わざるを得ない。おかしいと思うものに渋々ながら屈服せざるを得ない。その心理的ストレスを回避するために、『規則は規則』と理屈づけしているだけなんだ 」
 それが本音なんじゃないの?

 まあね、このように言うと、
「でも、たしかに取り締まりに納得はできんけど、自分がまったく悪くないとも、正直なところ思えんのだよ」
 とおっしゃる方もおいでだろう。
 うむ。何事も「悪い」「悪くない」でいつもきっちり分けられるとはかぎらない。「すごく悪い」「ほんの少しだけ悪い」がある。同じ超過速度でも、乗用車と過積載のトラックとではちがうし、天候によってもちがうだろう。
 たとえば超過26キロ超過の反則金は(普通車では)一律に1万8000円。
「俺の場合は半分の9000円が妥当だと思う」
「ワタシは1800円が妥当だと思う」
 そういう不服があって当然だろう。
 突拍子もない発想?
 んなことはない。スピード違反の罰則は、道路交通法第118条第1項第1号で「6月以下の懲役又は10万円以下の罰金」とされている。その範囲内で、個々のケースに応じて裁判官が決めるのだ。

 じゃあ、反則金の金額はあれは何か。1967年7月13日、反則金の制度(1968年7月1日施行)について参議院の地方行政委員会で審議されたとき、当時の警察庁交通局長がこう答弁している。
「(反則金の)額は、一応従来の科刑の実績を参考にいたしましてきめていくわけであります」
 裁判で言い渡される罰金の額は、ケースによっていろいろだが、従来の実績だとだいたいこれくらい、というのが反則金の額なのである。
 したがって、
「従来のケースと自分のケースは、ここんとこがだいぶちがう。そこんとこ考慮して金額を決めてくれ」
 と思えば、決められた金額の反則金を払わずに争う、裁判官に判断してもらう、それはもう当然のことなのである。そういうケースを積み重ねて、おおむね妥当な法律の運用が模索されていく、そういうものではないのか。
 もちろん、実際には、ドライバーの不服が客観的にうなづけるものなら、ほとんどが不起訴で終わるだろう。不起訴が多ければ、それはすなわち、そのような違反は処罰するまでもない(=取り締まるまでもない)という前例が積み上げられていくことであり、「その違反は取り締まらない」とか「そもそもそんなものは違反としない」とかいうことなっていく。それが民主主義社会における適切なあり方と私は思うけどもね。
 不服があっても誰も言わなければ(つまり反則金の納付率が100%)なら、不服を言う手続きはムダだからと廃止され、しかし違反は減らないからもっと厳しくしてやれと金額は値上げされるだろう。

 現実に目を転じば、反則金の納付率は毎年ほぼ100%。上記「だろう」を現実のものとする大かがりな法改定が、「駐車違反取り締まりの民間委託」なるものを手始めに動き出そうとしている……。
 これもまた、民主主義社会における当然のあり方といえるか。


八重洲出版『ドライバー』2000年4-20号「今井亮一のハイパー・トラフィック・ジャーナル」より

 

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