自動速度取り締まり機(以下「オービス」という)の誤測定を争うある裁判で、もっと調べてほしいことがあると言う被告人に対し、壇上の裁判官が言った。
「犯罪事実は検察官が立証するんです。検察官は十分に立証した。専門家を呼んで十分に尋問した。証拠調べは十分に尽きたと思ってます」
私は耳を疑った。十分に立証? 専門家? オービスの製造販売会社の社員を呼んで、要するに「当社の製品はこのように優秀でございます」と言わせただけじゃないか。裁判所にとってはあれが「専門家」で、あれで「十分」なのか? 普通は専門家といえば、警察ともメーカーとも被告人とも利害関係のない学者や技術者のことじゃないのか?
なおも食いさがる被告人に、裁判官はさらに言うのだった。
「あまり細かいこと……何万分の一の可能性を言われてもねえ。とにかく十分に立証できたと思ってます。それで判決に不服なら、控訴してもらって、高裁で証拠調べなり何なりしてもらえば……」
オービスは、いちおうすべてのクルマを測定し、設定速度を超えたクルマだけ撮影する。たとえば1日1万台の通行量の道路で1万回に1回、設定速度を超えるプラス誤差を出せば、1日に1人、無実の運転者を犯人とすることになる。3万回に1回なら3日に1人、1年に約122人だ。
それを「細かいこと」ですますのか。審理を尽くさず、高裁へ投げてしまうのか。
などと唖然とする裁判を私はずいぶん傍聴してきた。
最高裁のホームページには、
「刑事裁判は疑わしきは被告人の利益に≠フ原則が貫かれている。検察官が証拠によって、違反事実の存在を合理的な疑いを入れない程度にまで証明しようとする。被告人のほうは、違反が存在しないことまで証明する必要はない。裁判官に対して、検察官の立証が合理的な疑いを入れない程度にまでは証明されていないと考えさせるだけで十分である」
というふうな解説があるけれど、オービスで誤測定を争う裁判は検察立証が疑わしきは検察の利益に≠フ原則が貫かれているとしか言いようがないように思う。または、「合理的な疑い」以前に「立証」といえるほどのことがないというか。
「日々有罪を大量生産してきた機械が自動的に測定・撮影したんだから間違いない。否認があればそれらしい儀式(公判手続き)を踏んでとっとと有罪にしましょ」
それが現実の裁判にすぎないのか。
ただ、多くの事件を傍聴してきて思うのだが、あとで書類だけ見た者には「そうか、それなら有罪でおかしくないな」という外見をつくろうとするようなところがある。そして、多くの被告人はその外見づくり≠ノまんまと嵌ってしまっているように思える。
被告人自ら墓穴を掘っている、とまでは言わないが、誤測定がどうこう、検察立証がどうこういう前に、墓穴になりそうなところはしっかり埋めておき、その上で「検察立証にはこれこれ合理的な疑いがある」と攻めるのでなきゃいけないんじゃないか。そう思うのだ。
たとえば、否認の動機。
「免許停止など行政処分を逃れようと否認している」
「違反して刑罰を受けると勤務先をクビになるため、違反してないと言い張っている」
そういう形を検察官も裁判所もつくりたがる。
略式に応じず否認を続け、何度も会社を休んで裁判所へ通う、そのことのほうが社内での立場は悪くなる場合でも、「会社での立場を守るため」という形に落とそうとするのだ。
また、弁護士や周囲から「勝てっこない。100%有罪だ。ムダなことはヤメとけ」などと言われ、それでも「いや、自分にウソはつけない」と争っている場合でも、無実なら必ず(または否認すれば五分五分で)無罪になると被告人は思っていてそれで「無実だ」と言い張っているかのように検察官、裁判官は扱う。机上の空論ならぬ机上の動機≠ニいうのか。
とにかく、普通の生活者にとって、黙ってされるがままにならず裁判覚悟で否認する(かつ実際に被告人となって法廷でも否認し続ける)のは非常に不安で重荷だということを、裁判官はまったく想像もできないように思われる。
そういうなかで、検察官から「あなたの否認の動機はこうでしょ」と得意げに問われて「違います」と答えるのでは弱い。「これこれの事情のなかこういう理由で否認しているのだ」と積極的に陳述してもいいのではないか。
それから、説明の一貫性。
こうした手続きにおいては、事実がどうであったか、口頭でどう説明したかは相手にされないと考えておくほうがいいだろう。書類に記載されたものだけが、運転者の説明になるのである。
運転者の説明は、いろんな書類に記載される。違反キップの2枚目、事件原票のサイン欄には「私が上記違反をしたことは相違ありません。事情は次のとおりであります」と印刷されている。そこにそのままサインすれば、違反は事実でとくに説明したいことはなかったことになる。ほかに、現場での調書、その後に警察署などで作成される調書。警察官の報告書にも「運転者はこれこれ述べた」と記載されることがある。それから検察官作成の調書。そして法廷での被告人質問も、あとで書類にされる。
それらに少しでも差異があると、たちまち「説明は転々と変遷して信用できない」とされてしまう。
被告人質問で検察官は、説明の細部をネジ曲げてネジ曲げて執拗に問いつめ、矛盾を暴いたような形をつくろうとすることがある。そうすれば、裁判官は有罪判決を書きやすくなるわけだ。
被告人のほうは、検察官が何を狙っているのかわからないまま、「被告人は当時のことをよく覚えておらず、思い込みか処分逃れで否認している」という絵図にまんまとのせられていく……。
どうしてそうなるのか。
運転者が陥りがちなワナとして、誤測定の原因を、自分が閃いたか思い込んだかしたものに限定し、その原因により誤測定が起こり得ることをわかってもらおうと必死になりがち、ということがある。
その線に沿って、自分が重要と思い込んだことは鮮明に記憶している。が、他の記憶は時間とともにどんどん曖昧になっていく。実はそこにこそ大事な要素が隠れていることもあるが、運転者は鮮明には覚えていない。そこで、曖昧な記憶をたどり、なるべく誠意をもって答えよう、少しでも真実に近づこうと四苦八苦し、質問に答える。と、「さっきの説明と今の説明は違う。矛盾する」とされてしまうわけだ。
また、たとえば、運転のトラブルで殺傷事件になったとよく報道されるなかで、暴力団かいわゆるヤンキーらしきクルマから深夜に執拗に追われたら、普通は動転しまくるでしょ。スピード違反をしても必死に逃げようとしておかしくない。そういうときの心理は、したがってそういう状況をふり返っての説明は、合理的とはいえないことがある。
そこを、検察官は執拗に突く。「ヤクザとどうしてわかるのか。止まって確認したのか」などと。傍聴席で見ていて、「よく整理され塵1つない机の上で人間はこう行動するはずだ≠ニ考えたがる裁判官が、有罪判決を書きやすい形を、検察官はつくってやっているのかなあ」とさえ感じたりもする。
そもそも、運転者には無実の(または緊急避難的な要素があったことの)証拠などないのが普通だし、実際の裁判は疑わしきは検察の利益に≠セから、いったん起訴されたら有罪は間違いないといえる。
しかし、それが悪いと愚痴る前に、誤測定の原因をあれこれ検討する前に、運転者の側でやっておかねばらないこと、押さえておくべきツボがあるんじゃないか。そういうことをちゃんとしたうえで、「さあ、検察立証のほうはどうなんだ?」というステージに立てるんじゃないか。そして、そのステージにしっかり立てる被疑者は、立てない被疑者に比べれば、起訴(公判請求)されにくいだろう。私はそう思うのだが。『ドライバー』(八重洲出版)2003年11-05号に若干加筆。