左折禁止→不立件

 

 1998年1月28日午後3時ころ、大谷正則さん(仮名・25歳・千葉県)は、新京成電鉄・上本郷駅そばの小さな踏切を渡ろうとした。
 渡るとすぐ、左折できる道がある。わりと幅が狭く、一方通行になっている。出てくるクルマはないうえ、線路沿いのため踏切からの見通しはいい。だが大谷さんは言う。
「大型車やオバチャンのクルマが、曲がりきれずに、切り返すことがたまにあるんです」
 踏切内で右に少しハンドルを切ってから左折すれば問題はないのだが、対向車がいるとそうもいかないのだろうか。
 だから大谷さんは、この踏切を通過するとき、曲がり切れないクルマを線路上で待つハメにならないよう、いつも注意していた。


 その日、大谷さんは助手席に母親を乗せていた。目的地は、その一方通行路の先にある母親の友人宅だった。踏切は開いており、曲がりきれずに切り返す先行車はなかった。ミラーを見ると後続車もなかった。大谷さんは踏切を渡ってスムーズに左折し、線路沿いの一方通行路を進行した。
 すると、道端にパトカーが駐車していた。駐車違反の取り締まりだろうかと思いながらそばを通過。ところが、なぜかそのパトカーが赤灯をつけて追いかけてきた。
「前のクルマ、止まりなさい!」
 大谷さんは驚いた。何だろう。シートベルトはしているし……。
 命じられるがまま停車すると、パトカーから警察官が降りてきて言った。
「左折違反です。こちら(パトカーの中)へ来てください」
「えっ?」
「手前に標識があったでしょ」

 よく見ると、線路沿いのその一方通行路の入口付近に2本の標識がある。
 向かって奥のほうの標識は、青地に白い矢印が1本、下から上を真っ直ぐに指している。「直進のみ可」の意味だ。が、その一方通行路への左折を禁ずるにしては、ずいぶん遠いような気がする。近くの松戸警察署に筆者が確認したところ、さらに20mほど先の別の道への進入を禁止する標識とのことだった(そっちは進入禁止の一方通行路で、当然左折できない)。
 そして、その手前にもう1本、青地に白い矢印の標識がある。こちらは、下から上(やや右斜め上)を向いた矢印の、真ん中あたりの左の腹に、短い横棒がついている。横棒の先は矢印の形になっていない。この標識はどういう意味か。松戸署の交通課の説明はこうだ。
「青地に白の矢印は、指定方向外への進行を禁止する標識です。矢印の方向へしか行けません」
 では、矢印のない小さな横棒は何か。
「それは、そこに道があることを示しているだけです。横棒には矢印がついてないでしょ。だから進行(左折)しちゃいけないんです」
 なるほど。おっしゃるとおりだ。

 しかし大谷さんは、もう5年ほど、母親を送るために何度もそこをとおりながら、左折禁止だとはまったく認識していなかったという。いったいなぜなのか。
 矢印ナシの短い棒は、どの方向が進入禁止なのかわかりにくい複雑な交差点では見かける。だが、本件の、踏切を渡ってすぐの場所には、線路沿いのその一方通行路があるだけだ。出てくるクルマはなく、わざわざ短い棒を加えなくても困惑も混乱もしない。
 いや、そもそも、反対方向からは進入(右折)できるのに左折は禁止、という場所はそうはない。よけいな棒を描くことでかえって「入れるけど行き止まりっていう意味かな?」との誤解を招きかねない。
 それに、そもそも標識は乱立しているため、運転者は「ここ、大丈夫?」と特に気になるときしか、まじまじとは標識を見ないのが普通だろう。

 大谷さんは、他のクルマやバイクが左折するのを幾度となく見ていた。本人自身、いつもまったく問題なく左折していた。
 そうしたことから、・標識が目には見えるけれども意識には入らず・ということになり、左折禁止とは思いもしなかったのではないか。
 もちろん、「大谷はウソをついている。禁止と知っていながら左折をくり返していたに違いない」と考える方もおいでだろう。確かに、そこのところは誰にもわからない。
 では、警察はこの違反をどう処理したか、先へすすもう。


 パトカーの中で、警察官は違反キップを作成し、大谷さんにサインを求めてきた。大谷さんは言った。
「納得できないから、サインはしません」
「違反は違反だから……」
「いや(サインは)しません!」
 キップのサイン欄には「私が上記違反をしたことは相違ありません。事情は次のとおりであります」と小さく印刷されている。大谷さんの場合、違反したのは事実なのだから、「事情は……」の後に不服の内容を簡単に書き、サインしてもいい。しかし大谷さんは断った。サインは任意。するかどうかは本人の自由なのだ。
 こういう場合、サインを強要されることもあるが、その警察官はあっさりあきらめ、短い調書を取った。「この交通違反について裁判を希望します」というふうな内容だった。大谷さんは、裁判を望むなどとは一言も口にしていない。だが警察官は、必ずといっていいほどそういう調書をつくる。おそらく、その文言を見て「逆らうと裁判になってしまうのか」と萎縮し、サインに応じたり、あるいは、現場ではさんざん文句を言っても結局は反則金を払ってしまったりするドライバーが少なくないからだろう。
 けれど大谷さんは、その調書にサインした。「裁判か。やってもいいな」と思ったからだ。彼は大学院の博士課程で半導体の研究をしており、時間に余裕があった。法律の素養はまったくなかったものの、高校のとき三ない運動=i「買わない」「乗らない」「免許を取らない」という、高校生をバイクから隔離する教育方針)について、学校や教育委員会とモメたことがあり、腹は据わっていた。
「それに、今井さんの本(『交通取締りに「NO」と言える本』など)を読んで、どうせ99%は不起訴になるだろうと踏んでましたし。たとえ裁判になっても、せいぜい数万円ですむならいい勉強だと思ってましたから」
 と大谷さんは言う(註:警察からすれば、これは非常にけしからんヤツだろう)。

 一通りの手続きが終わると、警察官は、青キップと反則金の納付書(7000円)を交付しようとした。
 反則金は、取り締まりに不服のない人のための便宜的なペナルティ。青キップはその意味と納付の方法を告知する書類だ。「裁判を希望する」者に交付する必要はないように思える。
 が、道路交通法第126条により、警察官は「反則行為」(左折違反や駐車違反など軽微な違反)で検挙したときは、ドライバーが住所不定などの場合を除き、それらを交付しなければならないことになっている。現場では興奮してブーブー文句を言っても、冷静になって反省し、反則金ですましたいと思う人もいるからだろう。
 大谷さんは、青キップについては、後に証拠になるだろうと思って受け取った。納付書については、「どうせ払わないから要らない」と突き返した。警察官としては、受領を拒否するドライバーに無理に交付することはできない。
 取り締まり当日はこうして終わった。


 それから2週間後の2月10日。この日は、青キップに指定された出頭日だった。出頭場所は「交通反則通告センター」。ここは、
「交通違反も犯罪であり、本来は刑事手続きによって処理するのだが、あなたの違反は軽微だから、取り締まりに不服がなければ反則金を払い、刑事手続きをパスすることができますよ」
 と説明する「交通反則通告書」と、本納付のための反則金納付書を交付する場所だ。つまり、現場でと同じようなものを、また交付するのである。犯罪の容疑で検挙しながら、裁判も経ずにカネを払わせるという扱いは法律的には異例なので、こうしてややこしい手続きを踏むことになっているわけだ。「反則金ですましていいのか?」と、じっくり考える期間を与えるという意味もある。
 通告センターへの出頭は任意。出頭しなければ、それからだいたい20日くらい後に、出頭して交付されるのと同じものが自動的に郵送される。ただし、郵送料の800円が反則金に加算される。
 大谷さんは、そのあたりを本などで知っていた。だいいち、反則金を払うつもりなどなかった。そこで、出頭しなかった。
 ところが、通常なら2月中には郵送されてくるはずの通告書と本納付の納付書が、3月中旬になっても届かなかった。
 こういう場合、あなたならどうするだろう。「やった! このままウヤムヤになればラッキー」と喜び、知らん顔する人がほとんどではないだろうか。
 しかし大谷さんは、そうはしなかった。ではどうしたか。彼は言う。
「このころ、論文の執筆に追われていたんです。深夜3時、4時までパソコンを打っていると、疲れてくる。だから、気分転換にちょっとクルマに乗り、松戸署へ行ったんです。これこれの違反で取り締まられたが、どうなっているのか教えてほしいって。ゴネて払わないと思われるのもイヤでしたから。で、キップの番号と携帯電話の番号を言いました。4〜5回、それをやりました」
 受け付けた警察官は、「早急に調べる」とか「朝には連絡する」とか言ったが、いつまで待っても連絡はなかった。
 5月のゴールデン・ウィークが明けて、大谷さんは珍しく昼間に松戸署へ行った。すると、交通課の警察官は大谷さんを受け付けカウンターの中へ入れて話をした。
 大谷さんは、「規制が明確とはいえない場所で、待ち伏せるかのようにして杓子定規に取り締まることは、道路交通法の目的に反している」といった内容の、ビシッとした上申書を提出。警察官は言った。
「わかりました。1週間か10日後には連絡を差し上げます」
「いつまでもこれじゃ、気分が悪いんで、免許の更新(満了日は8月)までにカタをつけてください」
 だが、10日どころか2週間たっても連絡はなかった。
 6月に入り、大谷さんは自分のほうから先日の警察官に電話した。
「どうなってるんですか」
「じゃあ(署へ)来てください」
 すぐに松戸署へ出かけた大谷さんに、警察官は言った。
「何度か携帯に電話したんですが、連絡が取れなくて……」
 大谷さんはムッときた。
「ウソでしょう! 私の携帯は24時間、電源を入れっぱなしです。留守電サービスもある。連絡が取れないはずはないじゃないですか!」
 警察官は黙ってしまった。こいつら、本当に平気でウソをつくんだな、と大谷さんは思ったそうだ。
 警察官は、
「違反キップを貸してもらえますか」
 と言い、大谷さんが渡すと手元にしまった。返却を求めると、
「いや、これは手続き上、必要だから返せない」
 と言った。大谷さんが強く返却を求めると、コピーをよこした。そして、こんなことを言い出した。
「この件については、あなたの言うことも一理ありますので、取り締まりについては記録を抹消します」
「どういうことですか、それは。じゃあ、今回の左折違反は、コンピュータに記録されていないんですね」
「そうです。安全運転に気をつけてください」
 こうして、10分ほどで大谷さんは松戸署を出た。
「あ、ナシになったんだ……。あっさり終わってしまったなあ」
 という感じだったそうだ。

 7月になり、免許の更新を知らせるハガキがきた。「最新違反内容」の欄には4年半ほど前のスピード違反しか書かれておらず、「優良運転者等講習」の対象とされていた。
 更新の日、幕張の試験場で新しい免許証を受け取ってから、大谷さんは免許課(?)の部屋へ行き、違反歴を確認した。コンピューターから打ち出された記録を見ると、確かに4年半ほど無事故無違反だった。
「もう少しでゴールド免許だから頑張りなさい」
 とまで言われたそうだ。


 その後、現場はどうなったか。規制も標識も変わらず、左折は禁止だとの案内板が立てられることもなく、ときどき取り締まりが行われているという。大谷さんは、線路沿いのその道路へは、直進して駅前のロータリーをぐるっと回り、踏切とは反対方向から右折する形で入るようになった。
「捕まっても反則金なんか払わないわけですが、今回と同じことをくり返すのもバカバカしいですから。結局、規制と運用(=取り締まり)が現実離れしているってことでしょうか。そんなので捕まって反則金を払っても、・運が悪かった・と思うだけでしょう。私は、グズグズ怒りをためるのが気分的によくないから、こうして争ったわけです。7000円が惜しかったからじゃないですよ(笑)」


 さて、私(筆者)は、全国の読者のみなさんから600件を軽く超える相談や質問や報告をいただいてきた。
 どんなに軽微な違反でも、どんなに不適切な取り締まりでも、警察はなかなかウヤムヤにはしない。ドライバーが反則金を払わなければ、事件を検察庁に送致するのが普通だ。その結果はといえば、軽微な違反に対する不適切な取り締まりでは、ほとんど100%が検察官により不起訴とされる。そのことは、全国の多くの実例が証明しているし、『検察統計年報』と『司法統計年報』からもわかる。不起訴になれば、反則金も罰金も払わずにすむ。
 一方、点数については、累積の過程に検察官や裁判官のチェックが入らない。警察が行った取り締まりをもとに警察自身が累積する。そのため、不起訴になっても点数はなかなか抹消されないのが一般的だ。
 ところが大谷さんの場合、不起訴どころか「不立件(不送致)」、つまり事件として扱わず、当然検察庁にも送らない、ということになり、点数も抹消された。不起訴は多いが、不立件はあまりない。多くのドライバーは、検察官から呼び出されて調べを受け、不起訴となり、しかし点数は抹消されず悔しい思いをしているのだ。
 すると、大谷さんのケースは何が違ったのか。全国の多くの実例を見てきた私は、大谷さん本人の姿勢というかキャラクターに大きな原因があったのではないかと推測する。
 私はファミレスで大谷さんの話を聞いてから、標識のことを尋ねに松戸署へ行った。そのとき、大谷さんはついてきた。で、対応した警察官が「矢印ナシの横棒がついた標識は、すぐ近くの別の交差点にもある」と言ったとき、大谷さんは、「どこですか!」と横から口を出した。語調の鋭さにふり向くと、ファミレスではにこやかだった大谷さんの表情が、鋭く強ばっていた。ウソによる言い逃れは許さない、一歩も引かないぞ、という姿勢がありありと見て取れた。
 最初はヘコヘコと言い訳をし、キップは逃れられないと知るや急に口汚く文句を言い、しかし結局はカネを払ってしまう、そういうドライバーを警察官は多く見ているに違いない。「どうせ、こいつら……」という思いから、いい加減な取り締まりを押しつけることもあるだろう。
 そんな警察官にとって、大谷さんのような姿勢は非常にやっかいだ。なぜなら、ドライバーが反則金を払えば、書類はごく簡単なものですむのに、事件が検察庁、さらに裁判所へ送られるとなれば、そうはいかならいからだ。取り締まりはノルマのもとに行われている。たかが1件のノルマ消化のために、多大な手間ヒマをかけるわけにはいかない。あまりにも効率が悪い。争うのがメンドウなのは、ドライバーだけではないのである。
 ここにおいて大谷さんは、普通なら「このままウヤムヤかな? ラッキー」と黙っているところを、「いったいどうなってるんだ」と、何度も警察署に乗り込んだ。前述のように、警察に対応するときの大谷さんは口調も表情も鋭い。上申書もビシッとしている。言動からして、裁判など少しも怖れていないことがよくわかる。「裁判なんか怖くない」と口に出して言っても、そのセリフの裏におびえが透けて見える人もいる。そういうのはすぐにわかるものなのだ。
 そうしたことに、標識があまり適切とは言えないことも加わり、大谷さんのケースはあっさり不立件となったのだろう。ただし、大谷さんのようにやれば誰でも不立件になるわけではない。担当の警察官のキャラクターも関係してくる。


 ところで、「相手の態度によって扱いを変えるのは不公平だ」という方もおいでだろう。だが、私は、直ちにそうは言えないように思う。
 このような軽微な、しかも誰の迷惑にもならない違反を検挙することが妥当かどうかは捨象するとして、すべての違反を取り締まり、その後のドライバーの態度によって、主張は本物なのかどうか、安全運転意識の高さはどうかを確認。大丈夫と判断できたら潔く、点数とともに記録を抹消する。そういう扱いがあってもいいのではないか。
 現実の社会はユートピアではない。不適切な取り締まりは当然にある。そのとき、ドライバーは、権利(不適切な行政行為により不利益を被らない権利)を守るため毅然と努力し、その主張により自分たちのミスを知った警察は、自発的に撤回する……。どこにも不公平はないように思うが、いかがだろう。


『ドライバー』(八重洲出版)1998年10-20号「今井亮一のハイパー・トラフィック・ジャーナル」より
 

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