りんごのエッセイ「大きくなったら何になる?」
第4章「はじめの一歩」

 @保育園のお迎え時間
 A夫の家事
 B夫の家事はお手伝い
 C夫の苗字は私の苗字?
 D夫との約束:姓
 E夫の主張
 Fペンネーム
 G「名前・旧姓・現姓」の使い心地
 H・・・あれから10年経って
 Iライターという仕事
 J働くお母さん達
 K次はどうしよう?
 L子&仕事アリのマタニティ生活
 M娘に見せたい背中

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2005年3月17日木曜日

@保育園のお迎え

朝、0歳児クラスに保育園に送り届け、
電車に乗って通勤し、
夕方、必死に電車に飛び乗り、
保育園に向かう生活が始まりました。

当時のI市の保育園はとても時間に厳しかったです。
家庭状況調査書の用紙を提出する時、
「5時退社、5時30分電車に乗って、
電車で20分、駅から3分の保育園だから
5時55〜6時にお迎え予定」と書いて出しました。

園長先生との面接で、
「なんでこんなに時間がかかるんですか?
5時に会社が終わって会社から駅までは5分なら、
5時11分の電車には乗れるはずです。

遅くなっても18分の電車には乗れますね。
だから5時30〜40分にはお迎えに来れるはずです。
必ずこの時間に保育園に来てくださいね」と
厳しく園長先生に言われました。

私は民間企業でOLしてましたから、
「はぁ?」と思いました。
だって、5時に就業時間が終わって、
5時に出るなんて“ありえな〜い”じゃないですか。
そりゃあ、年に何度かの特別な日に、
5時に帰ったことが一度もない、とは言いませんよ?
でも、普通に会社に勤める人が、
そんなこと・・・できるんですか??
と、思うの、フツーじゃないですか?

でも、園長先生、そこは当然です、
それが決まりです、って感じで、
全然、取り合ってくれませんでした。

この時、保育園に入るお母さんの職業には
公務員以外には、難しいということが納得できました。
(育児休暇が取得できるようになってから、
だいぶ変わってきましたが)

幸い、職場の方々も、
さんざんそういう思いをされてきた女性の方ばかりなので、
「保育園ってそういうところだから、
時間になったら帰っていいわよ」と言って下さったので、
本当に5時になったら机を片付けるという感じでした。
勤務時間も配慮してくださり、
9時40分ごろ着き、5時ジャストに会社を出る生活でした。

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2005年3月17日金曜日

A夫の家事

朝は朝食を作り、自分のお弁当を作り、
洗濯をし、洗濯物を干し、
娘の保育園準備をして、
保育園ノートには、体温を測り、
昨晩から食べたものを全部書き、
子どもの様子を書き、保育園へ8時に着き、
保育園のセットを済ませて、駅へ行き、
会社に行き、仕事をする。

夕方、保育園に着くと、洗濯物を袋に入れて、
(金曜日にはシーツをとって、
朝持って行ったシーツをかけかえていました。)

実際に一緒の時間は短いので、
ビデオの早回しのような生活でした。
帰って洗濯物を取り込み、
娘に赤ちゃん煎餅を食べさせながら、
台所で夕食を作って、
娘をお風呂に入れて一緒に入り、
お風呂から出たら夫の食事の支度をして、
お皿やお鍋を洗って、洗濯物をたたんで・・・
と慌しかったです。
(その時は、それなりに大変だと思って
やっていたんですが、数年後の生活を考えると、
この頃の忙しさなんて、たいしたことはないのでした)

布おむつは保育園で洗濯に出してもらえるので、
持ち帰りはしませんでしたが、
おむつ代は保育園料金とは別で、
現金で納めていました。
それでも職場の先輩ママの話では、
『私の時なんかシーツどころか、
“布団”まで持ち帰っていたんだから
雨の日なんか大変だったのよ』
だそうですから、少しずつは保育園も
ママに親切になっているのかな、と思いました。

保育園で、娘を迎えに行くときは、
それはもう毎日、恋人に会うよりずっと恋しい気持ちで、
そんな気持ちも新鮮でした。
毎日娘といた生活では、
娘が離れて欲しい、と思う時間がありました。
ところが、離れている時間があると、
一緒にいる時間は貴重で、
とても幸せな時間だけが流れていました。

そして、夫は私が忙しそうなのを見かねて、
手伝ってくれるようになりました。
この頃の 夫は家で夕食を食べた日はお皿洗いをしました。
よくあるパターンではパパが子どもとお風呂に入れる間、
ママが皿洗いや洗濯物たたみをやるのですが、
夫がお風呂に子どもを入れるのが苦手だからと、
ウチでは私がお風呂に入れていました。
娘はなるべく早く寝かせたい意見は共通だったので、
私が娘とお風呂に入って、出ると、
お皿が洗い終わっていました。
時には、洗濯物までたたんでありました。
休日には、自分のワイシャツのアイロンかけをするついでに、
私の会社に着て行くブラウスまで
アイロンをかけてくれるようにまでなりました。

夫は、私が働くことをモチロンまだ反対でした。
彼なりに協力をしてくれました。

それはとてもありがたいと思いながら、
でも、私には、まだ足りないように感じました。

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2005年3月18日土曜日

B夫の家事はお手伝い

夫がお皿を洗うのも、
洗濯物を取り込むのも、
アイロンかけも、助かるのですが・・・

でも。
あくまでも【お手伝い】なのが・・・


気に入らなくなってきたのです。
(自分でも反省していますが。)

当時、フェミニズムの考え方を知り、
市民講座で、女性の働き方や
社会のおかしなシステムを教えられると、
それに気づかなかった自分にも腹立ち、
男として専業主婦を求める夫にも腹が立ってきました。

とくに、市民講座から帰ってきた日から数日は、
議論する日が続きます。

*これが私だけでなく、市民講座に参加した
半数以上の家で繰り広げられたらしいです。
各家庭、妻が理論武装し、
夫に対して、社会の不条理を解き、
自分の立場の理不尽さを夫に訴えていたようです。

今、あれから10年以上経って振り返ると、
あの私の議論に付き合った夫、偉かった と思います。
(すみません、ノロケですか?)

でも、その時の私、全然そんなこと思っていません。

全然、積極的に家事に参加してくれるわけじゃないじゃない!
少し【お手伝い】したぐらいで、
ものすごぉ〜くやってあげた気になっているでしょ!
私、やってもらっているんじゃないもん!
一緒に暮らしているんだから、
生活に関することはもっとアナタだってやって当然なのよ!

この頃の私、PMSも知らなかったし、すごかったです。
(*PMS=月経前症候群)
保育園に行き、仕事に出て、
私が家事をする時間がグンと減って、
忙しくなったけれど、
議論の時間は減りませんでした。
毎晩のように議論をふっかける私。
(ホント、ひどい妻だこと(^.^; )

そして次に私が言い出したのは・・・

〜〜このケンカ状態のまま、すみませんが、〜〜
来週はエッセイはお休みしますm(_"_)m 。
来週の「ひとりごと」は【月経痛】です
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2005年4月6日水曜日(再開)
今日から新学期です。ご入学・進級おめでとうございます。

( 明日から給食♪ L(@^▽^@)」 ワーイ)

すみません、「月経痛」はお休みし (いつまでか未定)、
今日からエッセイが少し?続きます(^∧^) スイマセン
3月18日以来のエッセイの続きです。

5章のあらすじ:長女を預けて働き始めた頃。
夫は家事を手伝うようになったけれど、
“手伝ってあげてる”では満足いかない。
毎晩のようにフェミニズム・社会学・女性の立場などを議論をふっかけ、
次に私が言い出したことは・・・

エッセイ「大きくなったら何になる?」

5章 はじめの一歩
C「夫の苗字が私の名前?」

今でもまだ私の【苗字】のことは夫婦間で未解決です。
でも今は、この時より私は楽になりました。

女性と社会について学びながら、
女性だけの編集プロダクションに入ると、
胸に抑えていたある思いを口にするようになりました。
「仕事で旧姓を使いたい」

私は会社を辞めるまで旧姓で仕事をしていました。
1992年の当時は、今ほど旧姓を使う女性は多くはなく、
他の部署の男性に「結婚したのに名前変えないの?」と度々聞かれました。
その都度「はい(^▽^)覚えていただくのも申し訳ないし」と
適当にあしらっていました。
ほとんど「そうなんだ」と会話は終わっていました。

そういえば銀行から出向していたオジサマだけはひどく失礼でした。
『いつ辞めるの?』とまで言われました。
その失礼さに気づいていないオジサマの後姿を見送りながら、
銀行ってひどい所なんだな〜と当時、思いました。

会社では旧姓は問題なく使って困ることもなかったものの、
会社を辞めてしまってからは、
戸籍上の名前である、夫の苗字で呼ばれていました。

呼ばれる度に違和感を感じていました。
それは単に『私の名前じゃない』感じです。
社会が私につけた番号みたいに違和感がありました。
それはなくならず、ずっと残っています。

どうして女性だけが名前を変えなきゃいけないの?
どうして名前を一緒にしないと結婚したことにならないの?
(夫婦別姓については、こちらのHPが詳しいと思います。)

ところが、名前に関してだけは、何度話しても・・・
保育園の件も仕事を始めることについても、
とりあえず話は聞いてくれる夫が、
この名前の問題に関しては、
話を聞く態度もみせてくれませんでした。
それは初めて夫が見せた明確な『拒絶』でした。

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2005年4月7日(木曜日)

D「夫との約束:名前」


夫はまたしても結婚前の約束を持ち出しました。
そうなんです。実は、夫に質問されて答えたのは、
4章C「夫との約束」 だけではありませんでした。


「今は女性が元の姓や名前を名乗りたいという方も
いらっしゃいますが、それについてはどう思いますか?」
と、夫は私に聞きました。

私、その時も自信をもって答えました。
「私、ちょっと読みにくい名前って憧れだったんです。
今の苗字は誰でもすぐわかる名ですから」


ホイホイ喜んで変えるに決まっていますとばかりの
返事をしたんです。

過去に戻れたら、自分を殴ってやりたい。<<o(>-<)o>>

その時、そう答えたのは嘘ではありませんでした。
疑いもなく、そんなものだろうと思ったのです。

だって、みんな結婚した男性の名前に変えているんです。
むしろ、女性で結婚していないから、
名前が変わっていないことが辛いような話を聞いたことはありました。

だから 名前を変えるということがどういうことなのか
わかってなかったのです。

だから、仕事を辞めて、
旧姓を失ってからしばらく経つまで、
自分が夫の名前で呼ばれることに
これほどの違和感を感じるなんて
自分でも思いませんでした。

痛みを伴うものであるとか、
自分のアイデンティティが失われる気がするとか、
自分の名前を失うということが辛いとか・・・
だってそんなことは誰も教えてくれなかった。
そんな話を聞いたことは一度もありませんでした。

でも、私は仕事を失って辛かったし、
名前を失って辛かった。

それに“ちょっと読みにくい名前”は使ってみたら、
読み間違えられて、いちいち訂正するのが面倒でした。
旧姓の簡単で誰でも読める名前は楽チンでよかったのです。

夫は私のそんな主張も、
ほとんど聞こうとはしませんでした。
夫が「じゃあ、名前を戻したいなら」と言った言葉は、

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2005年4月8日(金曜日)

E夫の主張

「どうしても名前を戻したいなら、
キミがそうしたければ離婚するしかない」と夫は言いました。

僕は子どもを保育園には預けたくなかった。
子どもが小学生になるまで働かないと
キミが言ったけれど、やっぱり働きたいと仕事も探してきた。

それは僕が考えていた、望んだ家庭の姿ではなかったけれど、
自分にはキミが働きたい気持ちを止める権利はないと思った。
だから、仕方なく子どもは保育園に預けることになった。
それはそれなりに悪いこともあるだろうけれど、
いい面もきっと見えてくるだろう。
(非常に理屈っぽい夫なのです)

僕は、自分なりに譲歩したつもりだ。
名前のことは、ちゃんと結婚前に確認して、
キミは僕の苗字になってもいいと言ったから結婚した。
僕の苗字が嫌で、キミが自分の苗字に戻りたいなら、
離婚してもいい


う〜ん。。。
どうやらこれは拝み倒せそうにないと、思った私は、
離婚することも含めて考えました。
考えて、考えて、考えたけど・・・
ま、離婚はしたくなかったんですね。

そうかと言って、ハイそうですか、と
戸籍の名前を名乗る気には、
どうしてもなれませんでした。

だから、職場の編集プロダクションの人の知恵も借りて、
なんとかいい方法はないかと思いました。
そこでなんとか苦心の策生み出した名前とは?

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2005年4月9日土曜日

Fペンネーム?

旧姓を使うなら離婚、と夫。
でも、戸籍名は嫌。

そしたら合体させるしかないか。
全部入れたらどうだ、という発想。

「名前・旧姓・夫の姓」
漢字でうるさいから、ひらがなにして。

親が私につけた名前、
親の苗字だった名前、
夫の苗字だった名前。

夫はしぶしぶそれを許可しました。
たぶん、ヘンだからそうは続かないだろう、
と思ったこともあったでしょう。

そのペンネームみたいなヘンな名前を、
その職場は、女性問題などに非常に詳しい人ばかりだったから、
私の主張を、他の方も受け入れて下さいました。
そして私の希望通り、ファーストネームで呼んでくださり、
パートの私にその名前の名刺を作ってくれました。

たぶん、その名刺がなかったら、
私はそれを使い続けることはなかったと思います。

そして、ある自治体の職員に電話で、
名前を名乗ったときに、
私がファーストネームで仕事をしたことで、
代表の方へお叱りの電話というものを受けたことがありました。
私は申し訳なくて、身の縮む思いがしたけれど、
その代表のUさんは嫌な顔ひとつされなかった。

パートなのにすぐ名刺を作っていただいたことと、
このクレームに対応してもらったこと。

この2つの事が、簡単に名前をあきらめない気持ちを
ずっと持ち続ける支えになりました。

私が戸籍名になってしまったら、
あの時に代表の方がした嫌な思いがフイになってしまう。
そして、この名前を使い続けることは、
その編集プロダクションに在籍していた方々とも
気持ちが繋がっているような気がしていました。

では、その名前の使いごこちは?

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2005年4月11日月曜日

G「名前・旧姓・現姓」名の使い心地


「苗字 名前」がいわゆる普通の名前。
セカンドネームが許されるのは、
国籍が違う人と結婚した女性だけなのでしょう。

名刺の名前で第一印象から、
「ナンダ、こいつ?」と思われる、
ある意味マイナス印象から始めなければならない辛さに代えても、
私は自分の「名前」にこだわりました。

なぜかと問われれば
“それが私”というものを失いたくなかったから。
誰になんと思われても、
自分の名前を失いたくなかった。

後になって『千と○尋の神隠し』を見たときには、
そうだよね、名前って大事なんだよね、って思いました。

ペンネームのような名を使うのは、楽なことではありませんでした。
「この名前、なんなの?」と聞かれて、
説明するのは、面倒な苗字を説明する数倍面倒でした。

いいことはひとつもなかったのかもしれません
友人達も年賀状の度に困惑してくれたのだと思います。

それを知っていても夫は「旧姓でいいよ」とは言ってくれませんでした。
“それなら自分の姓を使えばいいじゃん”というスタンスでした。
その感覚の差は埋められないんだな、と思いました。


ひとつエピソードがあります。
長男Mが保育園の2歳児の頃。
保母さんが「今日はみんなで名前の話をしていたんですよ。
そしたら、Mくんが、ママの本当の名前は“現姓 名”じゃなくて
“旧姓 名”だって言うんですけど・・・」と
遠慮がちに聞いたことがありました。

私はおかしくてふきだしてしまいました。(o⌒∇⌒o) フフッ!
ヘンな名前を使わざるを得なかった私は、
長女Aによく言っていたのです。
ママの本当の名前は“旧姓 名”なんだけど、
今は日本の国の決まりでパパの苗字を使わないと、
ママはパパと結婚していることにならないの。
だから仕方なく“現姓 名”を使っているけど、
Aが大きくなった時には法律がきっと変わって
名前を変えなくてもよくなるとママは思うのよ」と。

それをそばで聞いていた長男Mが、
そんなことを保育園で話すなんて面白いなぁ〜と思いました。
私には息子が2人いますが、
別姓を快く認める男になるよう教育しています(^▽^)

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2005年4月12日火曜日

H・・・あれから10年経って


「名前・旧姓・現姓」のペンネームを10年使いました。

「いいことはひとつもなかったのかもしれません」
と、昨日書きましたが、続けた意味はありました

10年使い続けて、
ほとほとその使い心地の悪さに困っていました。
そして、当たり前のことですが、
まだまだこれから新たに出会う人たちが
たくさんいることを、あらためて感じていました。

10年間、私はあなたが「旧姓」を認めれくれなかったから、
この名前を使っていたけれど、
やはり使いづらくて困ることが多いから、
仕事上では「旧姓 名前」の名前に戻したい、と
夫へは『申請』した上で
「旧姓 名前」の名刺を使うようになりました。

夫の『承認』はもらえませんでした。
でも、離婚はされずに(笑)とうとう自宅のポストに
小さく旧姓を入れることができました。


元の名前を取り戻したことは、
私にとっていい効果がありました。
今までは「現姓」で呼ばれると、
(ホントはそう呼ばれたくないんだけど)と心で思っていました。

でも、「現姓」で呼ばれる時は、
子どもつながりの方が多いので、
「ここでは現姓」と割り切れるようになりました。
いちいち呼ばれたくない、って思わなくなったことは、
ストレスが減ってよかったです。

「旧姓」で呼んでくれる人が増え、うれしく思っています。

あとは、きっと子どもたちが成長した時に、
どういう選択をするかで、
私のしたことの結果が見えてくるのではないかと思っています。

(名前の巻き、終わり)

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2005年4月13日水曜日

Iライターという仕事

カタカナ仕事ということもあるし、
文字を書くオシゴトには、
一度は憧れる人が多いようです(特に主婦の方)。

でも、よく言われるように、
「文章書くのは誰でもできる」ワケです。

誰でもできることをやってお金を貰える・・・
というオイシイ話は世の中にないのはやはり道理でした。

誰でもできないことをやって文章に書いたり、
誰でもできないハードスケジュールをこなして文章を書いたり、
人脈と持てる体力のすべてを使って文章を書く人が、
ライターさんだったりするワケです。

ガテン以上にガテンなオシゴト。
一言で表現すればこんな感じでしょうか。

編集プロダクションは、
今まで垣間見たどの職場よりも大変そうでした。
今まで私が見たどんな人たちよりも、
たくさん働いていました。

文章を書くために、どれだけ足を使い、
身体を使い、神経をすり減らし、
かなりの生活時間を削ってまで、
向き合わないと食べていけないかを、
そこで目の当たりにしました。

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2005年4月14日木曜日

I編集プロダクションの仕事

そこでは1年の間に雑多な仕事をさせていただきました。

単純作業でいうとアンケート等の紙折&封緘作業、
自治体から出す小冊子のため市民の方への取材、
民間企業の裏方業務、
雑誌の取材に同行させていただいたこともあれば、
自治体の下請け作業はいくつも行いました。

いち市民の立場から見る、
自治体はソフトにはお金を出さないんだなぁ〜、
(設備などのハード面にはお金を出しても)
いわゆる下請け作業って、
そんなに簡単でないことでも、
労働時間の割にはお金にならないという実態を垣間みました。

前職では逆の発注する側で、
その時は気づかなかったけれど
こうやって影でいろんな人の手をわずらわせて、
仕事をしていたんだなぁ〜とあらためて思いました。

前職では掃除の方がいらして、
自席のごみ箱すら毎夕に回収していただいていました。
こちらは小さな事務所ですからお掃除は自分達でします。
そういうことは嫌いではありませんでした。

でも、やはりこれは非効率的だと思うことがありました。
1994年の当時、この会社はパソコンが
使える人がいませんでした。
富○通のオア○スというワープロは使っていましたが、
パソコンを使ったことがある人はいませんでした。

1989年からIB○のマ○チプラン(簡単な表計算ソフト)を
仕事で使っていて、1992年の退職時には、
パソコンがないと仕事にならなかった程度に
この頃のPCを使っていて、
退職後も自宅でロー○ス1-2-3(なつかし〜)を使っていた私は
パソコンの導入を強く進言しました。

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2005年4月15日金曜日

J働くお母さん達

1994年では中小企業でパソコンがない会社は、
少なくなかったと思います。
この編集プロダクションは“零細企業”と
いっても差し支えない会社でたし、
「パソコンを導入した方がいい」と進言した私は、
つい最近入ってきたパートに過ぎません。

でも、この会社の方は、
みんなで考えて悩んだ結果、
パソコンを2台導入しました。
そこの会社はワープロのデータを
オア○スで持っていたので、富○通のパソコンを買いました。
(この時、EX○EL?)
そこで使えるのは私だけなので、当然
パートの分際で社員の方に教えることになりました。

でも、そんなことはパソコンぐらいで、
この会社の方達からは1年でしたが、
とてもたくさんのことを教えていただきました。

特に女性問題などの、
第4章で書いたような悩みや、
講座に出ていた人の話などについても、
それらのコメントはとても役に立ちました。
女性問題についてのスタンスはここで教わりました。

そして、その会社の方はほとんどの方が
中学生以上のお子さんがいらっしゃったので、
(小学生のお母さんも1名いらっしゃいました)
辛かった時には、よく思い出して励まされました。
ここの人達はもっと頑張っていたんだから、
私も頑張らなくっちゃ、そうでないとここで教えていただいたことを
無駄にしてしまう、ここで教えていただいたことは
自分の信念を支える心の支えになりました。

前職の時には働くお母さんが1人もいなかったので、
お子さんのいる女性と仕事をしたのは、
この時が始めてでした。

大学受験を控えた息子さんと、
高校生の男女双子の3人のお母さんだった方は、
毎日、牛乳などの飲み物を3本(3L)持って帰るというのを聞いて、
そんなに食べない頃は、まだ楽チンなんだなぁ・・・と、
長女のおむつを変えていた私は思いましたし、
中学受験をさせたお母さんの話を聞いて、
中学生ってそんなこと言うんだ、大変なんだ・・・と
まだたいした言葉も話せない
娘がとてもかわいく思えたりしました。

働くお母さんの多い職場で、
そしてみんな楽な仕事をしていなくて、
こんなに頑張っている人たちの中で仕事ができて、
なんて素敵なんだろうと思いましたし、
そこにいた時間はとても貴重でした。

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2005年4月18日月曜日

K次はどうしよう?

この会社は、とても素敵な場所でした。
ただ、常に気になっていたのは、
二人目を産むタイミングでした。

そして、実際に仕事の手伝いをし、
『書く』という仕事の大変さを間近に見て、
これから何を仕事にするかずっと考えていましたが、
私自身は、『書く』仕事がそれほど好きではない、
ということに気づきました。

たまたまこの会社の仕事で、
「○○という仕事はこんな職業」というようなことを
調べる仕事をさせていただきました。
クレーン技師になるための資格やその労働形態、
ファイナンシャルプランナーの資格やどういうことができるか、
フラワーアレンジメントを仕事とする場合は・・・等々、
いろんな職種、いろんな資格について、
読んだり書いたりしました。

自分で次に何をするか、
探している私には非常にありがたく、
職種も資格もたくさんあったのですが、
いくら調べても自分に何が合うかわかりませんでした。

「中小企業診断士」という仕事に、
あこがれと興味を持ったこともありましたが、
資格を取るのにお金もかかるし、
難しそうだし、調べていくと
この仕事は人脈のあるオジサマが、
企業からお金をもらうための仕事?と思いました。

また、その会社にいつまでもお世話になる・・・
というわけにもいかなそうだと思い、
(とにかく2人目は産むつもりでしたし)
産むタイミングをその会社の人にも相談しましたが、
先輩ママでもあるみなさんが
「2つぐらいの差で産んじゃった方かいいよ。
いいよ、妊娠しちゃいなよ。
妊婦でも通えばいいじゃん」という感じでした。

そんな具合でその会社に入り半年過ぎた頃、
私は予定通り妊婦となりました。

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2005年4月18日月曜日

L子&仕事ありのマタニティ生活

1人目の時のマタニティ期間は、
夫と半年も離れていましたが、
今回は前回の不在を挽回とばかりに親切な夫がいました。
また、前回と違って1歳半の子どもがそばにいて、
仕事もありました。

1人目の時よりも、
家事内容はずっと大変だったのですが、
(長女は夜以外は布おむつで頑張っていました)
気分的に楽だったのがよかったみたいで、
つわりが前回よりもずっと楽でした。

妊婦を一度経験し、次がどんな風になるか、
わかっているのが気分的に楽でよかったのかなと思います。

さすがに仕事を終えて保育園から帰ってくると、
疲れてしまい夕食を作るのが辛かったのですが、
子どもに早く食べさせなきゃ!という
使命感がありますから、
必死に夕食の支度をしていました。
この時に、大変だったのは、
子どもがなかなか食べなかったことでした。
食べさせるのに1時間つきっきりだったことも、
少なくありませんでした。

そんな長女は今は私よりよく食べます(^.^;;;
あんなに苦労したのはなぜだったのか、
今でもよくわかりません。
子育ってそんなものなのかしら・・・?

保育園の洗濯物はたくさんあったし、
おむつもあったし、
食事にも時間がかかっていたけれど、
職場に理解ある女性ばかりだったことが、
とても精神的にプラスに働いたのだと思います。

私自身、マタニティ通勤の経験ができて
とてもよかったと感じていました。

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2005年4月19日火曜日

L娘に見せたい背中

仕事があって一番よかったのは、
私がマタニティ勤務を経験できたことでした。

「何かしなきゃ」と思い始め、学び始めてから、
私は“専業主婦”という存在が、
そのうち過去のものになるだろうと
思うようになりました。

時を経た時に、日本の歴史の中で、
ほんのわずかなこの数十年だけが、
高度成長期で影で夫を支えた女性達のなごりと、
電化製品の普及によって専業主婦という存在を、
庶民が体験できる時なのではないかと思います。

長女が成長し結婚する頃には、
専業主婦という存在はごく一部残るかもしれないけれど・・・
生活のために仕事をしなくて済む女性は、
今よりもグンと減るだろうと思いました。
それは市民講座で女性問題を学んだときに、
これから労働状況はもっと厳しくなるだろうと、
この時(1994年)に推測したからです。

どんどん社会は厳しくなり将来長女は
働きながら子育てをするようになるだろうと思いました。
今後はそうなると確信しました。
(それは2005年の今当っていたと言えると思います)

そんな時代になった時には、
働く母親を当然と思った方が長女が楽だと思ったのです。
専業主婦の母親を見て長女が働くことを当たり前と
思わせるのは難しいのではないかと思いました。

父親が働いて家事協力もして、
母親が働く姿を当り前と考える環境で、
長女を育てるべきだという思いがありました。

仕事を始めて長女と過ごす時間は少なくなりましたが、
私はあなたのためにも、こうやって仕事をしているのよ、
という思いもありました。
そう思うことは、夫への言い訳にもなり、
長女のそばにいられない申し訳なさを償えるよう
感じたこともあるでしょう。
でも、何よりも自分が正しいと信じる背中を
子どもに見せておきたいと思いました。

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