戦乱とともに変わった生野峠


藤本博氏(生野書院元館長

生野書院入口 遠坂峠は但馬と丹波の峠である。青垣町が右側にある。大外をあがる。これが国道かと思われる道をあがってくる。黒川・大明寺。黒川〜生野町まで2車線であるが、国道は1車線である。この道は福知山から津山までの国道。312号線は朝来町までつづく。神子畑を経由して津山までつづく。

 遠坂峠〜青垣〜生野。青垣の峠は佐治峠。佐治町が合併して青垣町になった。生野の東が佐治峠。室町終わり頃、北条から足利へ移る時代に足利尊氏が丹波の土地をもらった。

 山名氏は足利の家老をしていた。足利の天下になったとき、山名氏が因幡と但馬をもらった。そしてそこの守護職になる。本拠を出石におくことになる。播州の守護職は赤松氏であった。3代目の山名時熙(ときひろ)が赤松を攻めた。攻める拠点に自分の領土の南端の生野に山城を築く。

 8代目、山名是豊(すけとよ)の時代に生野から銀を掘り出す。銀を掘り出すまでの但馬の国境は生野の北側の山であった。山の上の城では銀山を管理できない。管理するために下におりてきて、東に城を築いた。しかし平地山城跡のある山頂は赤松(播磨)の土地である。すけとよが播磨の地に城を築いたのである。赤松から見ると、播磨であると思っているのに山名が城を築いた。そのため赤松は山名と2回真弓峠でたたかった。

 銀山の発生は1200年前、当初は銀を掘り出していなかった。銀は用途がなかった。銀を掘り始めたのは、今から500年前。外国から鉄砲を買うために金や銀がいる。それならといって銀を掘り出した。

 但馬と播磨の国境が生野峠。生野から帰るところ。山名ときひろ時代の但馬と播磨の境が昔は生野峠と呼んでいた。銀を掘り出してからは真弓峠と呼んでいた所が生野峠となった。 昔の生野峠の旧峠とか呼んでいる。元来の北側の峠が生野と播磨の境であった。

 明治の初めまでは但馬と播磨の境は旧峠であった。新しい生野町ができたとき、明治22まで神崎郡に属していた真弓村や森垣村が合併で生野町になると同時に町の境が南の真弓峠にうつった。現在生野駅のある所は播磨であった。

 国境は山の上であった。国境には城が築かれていた。赤松への防御であった。500年前から銀を掘り出した。銀山を管理しなければならない。8代是豊、山の上ではやりにくいので平地に屋形を築こうとした。本来は赤松の土地、赤松は上郡。一般の人も平地に家をつくるようになった。

 播磨の国、市川に合流。明治22年までは但馬と播磨の国境となった。真弓村と森尾村が新しい生野町となった。

播磨と但馬の国境跡 真弓村の南端が朝来郡生野町となった。国境が2kmくらい南にずれた(500年くらいの間)。 佐治峠〜大外〜黒川。室町幕府の時代。但馬〜京都、遠坂は高くて通りにくい峠。

 京都〜亀岡〜佐治〜大外〜黒川〜与布土(ようど)〜山東町粟鹿(あわが)〜和田山〜八鹿〜日高〜豊岡と回ったようだ。出石へ帰る一番近いルート。

 山名氏が但馬から京都へ帰るには、そのルートをたどった。

 本来の生野峠。山名宗全が大明寺で修行したかはさだかではない。山名家家臣、足立。

 山名時熙が京都の帰りに立ち寄っている。
 
(講演要旨 文責:管理人)