Ichishuのさだ作品批評シリーズ(第2弾)

 

空蝉(うつせみ) 〜アルバム「夢供養」より〜

 

 

歌詞参照 http://www.cai-insect.jp/sada/lyrics.html#utsusemi

 

(文中では、さだまさし氏の敬称を略させていただいています)

 

この作品のタイトルの「空蝉」であるが、なぜこのようなタイトルをつけたのであろうか。

その謎解きをすることが、この作品の解釈のカギになってくるのではないかと思う。

そこでまず、空蝉(うつせみ)にはどういう意味があるのか。万葉集にも登場する「現人」(うつそみ、のちにうつせみと読みが変わる)に始まり、その当て字として「空蝉」となった。つまり、もともとの意味は、「この世に生きる人間」。あるいは「この世」、「現世」を指していたのだが、「空蝉」の当て字を使い始めてからは、「蝉の抜け殻」あるいは「抜け殻のような虚ろな状態」をも意味するようになった。

 

万葉集に

うつせみの、命を惜しみ、波に濡れ、伊良虞(いらご)の島の、玉藻(たまも)()り食()む」

という作者不明の歌がある。

これは、麻続の王(おおきみ)が伊良虞(いらご)の島に流された時、島の人がこれを哀しんで詠んだ歌をだといわれ、「命惜しさに、波に濡れながら、伊良虞(いらご)の島の藻をとって食べる」というような意味だ。万葉集などで枕詞として使われる「うつせみ」は、「この世」あるいは「この世の人」という意味で使われているが、実は微妙なニュアンスの違いがあると思う(あくまでも私のインスピレーションによるものであり、論理性は全く無いのであるが)。「うつせみ」という言葉の持つ意味は「この世」というよりも、「空蝉(=せみの脱け殻)」のような仮のものと捉え(つまり「この世」は仮の世界で、本当の世界は「あの世」という宗教的な思想が微妙に含まれているのではないか)、だからここで使われる「うつせみ」は覚醒した現実の「この世」ではなく、虚ろで曖昧なあるいは儚(はかな)い「この世」のイメージを含んでいるような気がする。

 

さて、この作品の歌詞はわりと具体的なので、「まほろば」や「春告鳥」などと比べれば、容易に状況は想像できる。老夫婦が、駅の待合室で息子の帰りを待っている、ところが電車は来ないという状況である。しかし、読めば読むほどこの歌詞の中にはたくさんの意味を含んでいることに気がつくのである。

 

では歌詞を解釈していこう。

 

2行目僕の前には年老いた夫婦」で、この物語の一人称「僕」が出てくる。

しかし、後にも先にもこの一箇所にしか出てこない。「僕」とは誰で、終電が行ってしまうような時間に、いったいここで何をしているのだろう。そう、「僕」は現世の人間ではないのである。そして、この「僕」こそが、後にでてくる「都会へ行った息子」なのだ。つまり、息子は既に死んでいて、そこで老夫婦を見ているのは霊魂なのである。

 

この息子は、都会に出て行くときに、両親と約束したのだろう。「お父さん、お母さん、将来きっと迎えに来るからね。それまで元気でいてくれよ」というような。両親は、愛する息子のその言葉だけを頼りに過ごしてきた。月日が経ち、ようやく息子もそれなりの立場となり、いよいよ両親を迎えに行くことになったのだ。

息子の帰りを指折り数えていた両親は、いても立ってもいられずに駅で待つことにした。「おむすびを用意している」ことが長丁場の覚悟を示している。多分、息子は「近々迎えに行くぞ」と連絡したきり、その後、不慮の事故あるいは突然の病気により他界してしまったのであろう。そうとも知らずに、いつ来るかわからない息子を迎えに、毎日駅へと足を運ぶ老夫婦。なんと切ない情景なのか。(普通死ねば両親のもとに必ず連絡がくるであろうが、そんな現実的なことには目をつぶるべし、詩を気持ちよく解釈するにはあらさがしをしてはいけないのだ)。

しかし、息子は都会に空蝉(死体)を残し、実はその場に来ている。だが、老夫婦の前には決して見えないのである。そのことを唯一知っている息子は、そんな両親に自分がここにいることをどれだけ伝えたいことだろうか。しかし自分が現世にいないことが分かれば両親は間違いなく自分の後を追ってくるだろう。そのことも分かっているがゆえの歯がゆさ、無念さ、絶望感が、この作品をさらに悲しくさせている。

 

足元に力無く寝そべった

仔犬だけを現世(うつせみ)の道連れに

 

ここの部分ではタイトルの「空蝉」という漢字を「現世」と書き換えている。つまり、ここでの「うつせみ」は現世を表す意味に限定しているのである。そして「仔犬だけを道連れに」の、人間でなく動物であること、そして「だけ」という言葉が、この老夫婦の現世でのきわめて孤独な状態を強調している。

 

小さな肩を寄せ合っているこの老夫婦は、仲睦まじいのであろうか。そんなことは疑う余地もないだろうが、次の歌詞から微妙なニュアンスの違いが窺える。

 

 「灰の中の埋火おこすように 頼りない互いのぬくもり抱いて 昔ずっと昔熱い恋があって 守り通したふたり」 現在の絆の強さの所以は、ずっと二人で歩いてきたという運命共同体のような感情もあるが、なによりも、孤独感の共有から来ているのではないだろうか。この世の中での自分達夫婦の味方は息子以外に誰もいない、強いて言えば仔犬ぐらいだという孤独感。そしてそうした俗世間に対する疎外感や怯えが、必然的に孤独な二人の肩を寄せ合わせているのである。

 

 

「都会へ行った息子がもう迎えに来るはずだから・・・」 もう現世での楽しみは、息子が迎えに来てくれることだけなのだ。そのささやかな楽しみすらも半分奪われかけた老夫婦は、「現人(うつせみ=この世に住む人間)」でありながら、心にぽっかりと穴があき魂を奪われた虚ろな状態である「空蝉(うつせみ)」となって、ひたすら息を凝らして息子を待ち続けている。

 

「もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません 今日の予定は終わりました」 息子を待つことだけが生きるための原動力となっている孤独な老夫婦。駅員はとても彼らを絶望の渕に突き落とすようなことなどできない。その気持ちが「とりあえず今日は来ません」と、つまりは暗に「明日は来るかもしれない」と言わしめたのである。あるいは駅員のささやかな優しさなのであろう。来ないといいながらも「とりあえず」という言葉をつけることによって、老夫婦は明日こそは息子に会えるかもしれないというわずかではあるが希望をもって家路に向かうことができる。ともすれば終わってしまいそうな命の灯火が、また一日消えずに燃え残ったのである。もちろん駅員は、息子なんて来ないと思っていながら「とりあえず今日は」と言ってしまうことは、それはそれで残酷なことかもしれないとも思っているだろう。

 

実は、この詩の解釈にはもう一つのオプションがある。

それは、息子の死を、老夫婦は既に知っていながら、息子が迎えに来るのを毎日待っているという解釈である。決して気が狂っているわけではない。「息子が死んだ」ということを認めないことが、老夫婦の唯一の生きる支えだからだ。「駅で待つ」という行動によって、「息子の死」という現実から逃避し、自らの命を守っているのである。

 

まあ、いずれにせよ悲しい内容である。ただ一つだけ救われたと思うのは、儚く、虚ろな空蝉(この世)において、不器用だけどまっすぐな駅員の優しさを感じ、この世も捨てたもんじゃないなと、そんな気になったことだろうか。

 

以上

 

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