Ichishuのさだ作品批評シリーズ(第4弾)

 

まほろば 〜アルバム「夢供養」より〜

 

 

歌詞参照 http://www.cai-insect.jp/sada/lyrics.html#mahoroba

 

(文中では、さだまさし氏の敬称を略させていただいています)

 

さだの歌詞を読み解くには、辞書と百科事典が必要である。今はネットという文明の利器があるので言葉を調べるのが容易にはなったが、ネット上にはびこる、さだの歌に対する他人の解釈はあまりあてにしたくない。先入観が入ると、孤高の天才ichishuも感性が鈍るからである(笑)。(ホントの話は、けっこう鋭い解釈をする人がいるんだなと感心することも多々あります。でも自分の解釈をする前に他人のを見ると、パクッたと思われるのがいやだと思う意識から、自由にかけなくなるので見ないようにしています。)

 

さて、この曲を正確に解釈するのは大変難しい。

まずはタイトルの「まほろば」とはなにか。歌に「鹿」が出てくるからといって、「ろば」の仲間ではない。「まほろば」という言葉は古事記や万葉集によく見られ、「まほら」が転じた言い方であるという。では「まほら」とは何か、漢字で書くと「真秀ら」となる。「ら」は場所を表す助詞であり、「真に秀でたところ」すなわち、「すばらしいところ」というような意味があるという。しかし、例えば現在の「六本木」はすばらしいところだが、「まほろば」ではない。「まほろば」には「霊地」とか「聖地」といったような厳かなニュアンスもわずかに含まれるようである。この歌のタイトルである「まほろば」には、「すばらしいところ」という一般的な意味はほとんどなく、万葉の都としての「奈良」という固有の土地を指しており、「まほろば」を曲のタイトルにしたのは、さだの、奈良を歌うぞ、そして万葉の世界を歌うぞという宣言であろう

 

この曲の全体的なテーマは、「無常観」。中でも人の気持ちの「脆さ」や「不確かさ」を中心に据えている。同じアルバムで「儚さ」を歌った「風の篝火」もテーマは似ているが、曲調そのものによるものなのか、歴史の重みからくるのか、全く感じが異なり、こちらは力強く男性的である。それは、七五調の古典的な歌詞と、曲調により決定づけられている。静寂を切り裂く悲鳴にも似たバイオリンで始まる曲の出だしは、荘厳でドラマティックである。3拍子の1拍目にアクセントを置いた上で2拍目が休拍に近い、タン ツ タタン、タン ツ タタン、というギターの重々しいリズムの繰り返しが、あたかも、千数百年の永きにわたり綿々と積み重ねれられてきた歴史を振り返り、一歩一歩踏みしめているような、そんな思いに駆られるのである。

 

僕は京都が好きだ。なぜかと言えば、仏像が好きだからだ。で、なぜ奈良より京都かと言えば、東寺に象徴されるように、真言密教の華麗なそして圧倒的な仏の力を仏像から感じることができるからである。仕事で大阪に住んでいた時には、京都にはよく行ったものだ。多いときは月に3〜4回。そして、奈良にも行った。奈良と京都の印象を一言で表せば、京都より奈良のほうが「重い」感じがする。もちろん歴史の重みなのであろうが、それが京都より単に100年早いというものでなく、平城京を舞台する、貧困、虐待といった民の苦しみ、重ねられた合戦による数々の怨念が、通りすがりの僕にも重くのしかかってくる感じがするからである。

 

さて、春日山の春日大社から飛火野へ向かう参道には「ささやきの小道」という脇道があり、馬酔木(あせび)の木が鬱蒼としげっている。いわゆる「馬酔木の森」である。通常の観光客は通らないのであろうが、さだファンであった僕は当然歩いたのである。

「泥む」とは、広辞苑によると@滞る、行きなやむ A離れずに絡みつく B悩み苦しむ・・・とある。普通「暮れなずむ」と言えば、暗くなりそうで、なかなか暗くならない様子を言うが、ここでの「泥む」は、Aの絡みつくという意味もあるのではないだろうか。春日神社から飛火野あたりは、ひっそりと静まりかえっているうえに、そこを歩く二人にも言葉がない、その静寂さの度合いや息苦しさを、「静か」とか「息苦しい」というダイレクトな言葉ではなく、夕日の影ばかりが絡みつくという映像による描写で表現しようとしたのではないだろうか。

馬酔木(あせび)は、スズランのような壷形の小花をいっぱいに咲かせる、万葉時代を代表する植物である。枝葉に「アセボチン」という有毒成分を含み、馬が食べれば酔ったようになるところから、馬酔木の字が当てられたようである。「馬酔木(あせび)の森の馬酔木(まよいぎ)に」 歌詞の中で2つ並んだ後の方の馬酔木は「まよいぎ」と読み、気持ちの「迷い」をかけたのである。

 

さだは、男と女の生まれもった性質というか、精神の構造的差異を、「男は遠くを見つめ、女は近くを見る」「男は夢を見て、女は現実を見る」というように歌いことが多い。まあ、どちらがいいというわけでもなく、夫婦揃って夢ばかり追いかけていてもしょうがないし。しかし、時に、この精神の構造的差異が、男と女の間に深い溝を築き、修復不能になる危険性を暗示している。ここで出てくる、「遠い明日しか見えない僕」と「足元のぬかるみを気に病む君」はまさしく、男と女の違いを表現し、その食い違いにより、いくら手は結んでいても、それは「不確か」なものでしかないのである。

 

   川の流れは よどむことなく
   うたかたの時 押し流してゆく

 

これぞ「本歌取り」。

以下は、有名な方丈記(鴨長明)の序文である。

 

     ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
     よどみに浮かぶうたかた(泡沫)は、
     かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし。

 

方丈記は、鴨長明が、無常観(世の中には常に同じであるものはひとつもない)をあらわした随筆であるが、さだも、ここで、この歌(まほろば)のテーマである「無常観」や「不確かさ」を強調するために、方丈記の序文から、「川の流れ」「よどむ」「うたかた」という語を引用し、さらに自分の言葉で無常観をふくらませて表現したのだ。

「本歌取り」というのは、「古歌の一部を自作にとり入れ、表現効果の重層化を意図する修辞法」「すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧」などとあるが、いずれにせよ大変高度な技法であることには違いない。本歌取りの際に注意しなければならないのは、本歌のことばをあまり多く取りいれてはならず、少なすぎてもならない。そう、モトネタがわかる程度がよい。多すぎれば読み手が興ざめするし、また下手な使い方をすると「パクリ」や「盗用」とみなされるのでその辺の加減も難しい。

 

うたかたは泡沫と書き、消えやすく儚いことのたとえ。現実の世界はひとつであるが、昨日、今日、明日と時は移ろい行くものであり、決して戻すことはできない。川の流れはすなわち厳然たる時の流れであり、よどみに浮かぶうたかた(泡沫)は人間なのでああろう。

 

さあ、いよいよ、この曲の最大の見せ所、「黒髪に霜のふるまで」である。

次の歌は、万葉集の87と89である。


   87 ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く
      わが黒髪に 霜の置くまでに
     
   89 居明かして 君をば待たむ
      ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも
                磐之媛皇后 「万葉集」より


磐之媛は葛城豪族の娘で、仁徳天皇の皇后だったが、天皇が八田皇女を妃にしようとしたのを怒り、家出をして山城筒城宮に住み、難波宮に帰ることなく同宮で崩御した。嫉妬に苦しみながらも天皇を愛し、また、優れた歌人として万葉集にも詠まれている。その歌にこめられた、嫉妬に怒り狂う、メラメラと燃え上がる恐ろしいほどの女の情念を感じる。


さて、この「黒髪に霜の〜」というのは、「黒髪が白髪になるまで待つ」という解釈である。つまり来てくれない(振り向いてくれない)男を、白髪の老婆になっても待っているという世にも恐ろしい話である。もうひとつは、物理的に「霜が降りる明け方まで待つ」という二通りの解釈があるようだが、この歌の場合、私は「白髪になるまで」という解釈をとる。朝まで待つというのは、主に肉体的な苦痛に耐えれば済むことであるが、白髪になるまでというのは、相手がいつ振り向いてくれるかわからないにもかかわらず、待つ=心変わりをしないという精神的な束縛による苦痛である。精神的な苦痛は、肉体的苦痛を凌駕する。つまりは、長い年月にわたって人の気持ちが変わらないということは、極めて大変なことであり、そんなことはなかなかありえない、と言いたかったのであろう。

 

しかし、どうしてもここでひっかかることがある。「まるで宛名のない手紙」とはいったい何のことなのかということである。この解釈にはずいぶんと悩んだ。ただ単に「届くはずのない手紙」という意味か。「不確かさ」を強調するためのものか。いいや、そんなことはないだろう。さだのことだ。もっと深いに決まっている。しばらく考えてふとひらめいた。宛名のない手紙というのは、宛名を書き忘れたのだとばかり思っていたが、意図的に書かなかったということはないのだろうかと。すると、今まで、もやもやしていたものが一気に晴れた。

それはこういうことである。例えば、「あなたを愛しています」というメッセージ。私たちは、少なくとも自分の人生の中で、このメッセージを複数の人に言ってないだろうか?(そんなことはありません、という一途な人ももちろんいるでしょうが) あるときは、「Aさん、私はあなたを愛しています」といい、その三年後には「Bさん、私はあなたを愛しています」という。これは一見矛盾していているが、決してウソではないのである。なぜならば、人の気持ちは変わるから、その時々において、それらのメッセージはいずれも本当だったのである。この2つのメッセージは、内容が同じで、宛名が違うだけである。手紙に例えれば、「愛しています」という中身だけあらかじめ書いておいて、宛名は空欄にしておくようなものである。そうすれば、そのつど愛する人が変わっても、宛名を替えるだけで済んでしまうという皮肉である。

この歌詞の中での「宛名のない手紙」の意味は、「君が黒髪に霜のふる迄待てると云ったその言葉」は、「もしかすると数年後には僕ではない別な人に言っているかもしれないだろ」と。つまり、黒髪に霜のふる迄待てるなどということは、僕にはとても信じられないということである。

 

しかし、見事な本歌取りといい、「宛名のない手紙」など高度なメタファーといい、ほんとに弱冠267歳の若者が作った歌なのかと驚くばかりである。(267歳は「弱冠」とは言わないか・・・、まあ許してくれ)


「寝ぐらを捜して鳴く鹿の」は、安らぎを求めてさまよい歩く自分たち二人。後を追う黒い鳥は「カラス」のことだが、それは、自分たちの幸せをさえぎるものの象徴(例えば「心変わり」や「考え方の相違による溝」であったり)であろう。馬酔の枝に引き結ぶ、行方知れずの懸想文は、宛名のない手紙と同じである。恋文そのものはあるけれど、誰に宛てるべきものなのか、迷い(馬酔い)をぬぐえない状態である。

「蜘蛛の糸」は小学校3年生ぐらいのときに世界子供文学全集で読んだが、挿絵にあったおどろおどろしい地獄絵図が脳裏に焼きついている。いずれにしても蜘蛛の糸は、決して美しいもの強いものを連想させるものではない。この詩の中では、「儚く、もろいもの」を、そして、さらには、蜘蛛の糸のテーマでもある、人間の「エゴイズム」の象徴として使われているものと思われる。

「君を捨てるか僕が消えるか、いっそ二人で落ちようか」 詩中の「僕」の選択には、@君を捨てる A僕が消える B二人で落ちるの3つしかなく、C二人で昇るというのはなく、悲しさを増長している。もっとも、芥川の「蜘蛛の糸」の教訓から言えば、@の「君を捨てる」というのはありえず、そうしようとした瞬間に、糸が切れて、二人で地獄へ落ちることになるのであるが。

 

   例えば此処で死ねると
   叫んだ君の言葉は
   必ず嘘ではない
   けれど必ず本当でもない


「嘘ではない、けれど本当でもない」一見矛盾したこの言い回し、これはいったいどういうことか。実は、これも、宛名のない手紙と同じなのである。「ここで死ねると叫んだ君の言葉」は、今は本当の気持ちかもしれないけれど、十年後にはわからない。つまり、人の気持ちは常に変わる「不確か」な「脆い」ものであるということをあらわしたかったのであろう。さらに「必ず」とつけた意図はなにか。「必ず」の後には肯定形がくるのは常識なはず。ところが、ここでは「必ず嘘ではない」という、間違った使い方をしている。語尾に「嘘ではない」という否定形を持ってくるならば、「必ず」ではなく「全然」とか「まったく」とか「絶対に」であろう。

では、正しい使い方をすると歌詞は次のようになる。

   例えば此処で死ねると
   叫んだ君の言葉は
   まったく嘘ではない
   けれどまったく本当でもない

 

悪くはない。しかしこの力強い曲には、ちょっと弱すぎるような気がする。

おそらく「必ず」を用いたのは、

「必ず嘘ではない」は、→「『必ず嘘である』 とは言えない」といいたかったのであり

「必ず本当でもない」は、→「『必ず本当である』 とも言えない」といいたかったのであろう。

それを短縮して、このような歌詞になったのであろうが、やはりこの方が断然力強い。


最後がこの曲の最も盛り上がるところである。

絶唱する「空に〜」、の後にわずかな静寂の間を置き、「まーんげーつー」と渾身の力をこめた、さだの歌声に鳥肌がたち、涙さえも流したのは僕だけであろうか。

月日の流れによって、何もかも移ろい去る無常の世界。しかし、ただひとつだけ変わらないものがある。それは、平城山の上空に妖しく輝く満月である。

 

   第1弾 春告鳥へ    第2弾 空蝉へ   第3弾 歳時記へ  第5弾 夕凪へ   第6弾 晩鐘へ   第7弾 ひき潮へ

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