Ichishuのさだ作品批評シリーズ(第7弾)

 

ひき潮(ひきしお) 〜アルバム「夢供養」より〜

 

 

歌詞参照 

 

(文中では、さだまさし氏の敬称を略させていただいています)

 

前曲「木根川橋」の優しいオルゴール音による、眠れ眠れの子守唄のエンディング

に続いて、穏やかな前奏の後にいつ始まったのかわからないうちに始まる「ひき潮」

まさに作品同士のバトンタッチの妙技。

そう、この偉大なる「夢供養」というアルバムは、「唐八景」というプレリュードに始まる

11曲で構成される組曲なのである。

その組曲を締めくくるのが名曲「ひき潮」だ。

 

しばしば人生は潮の満ち引きに例えられる。

夢を求めて、希望を持って、多くの人々が意気揚々と都会へやってくる。

自らの可能性を信じ、純粋な気持ちで新たな土地での生活を始める。

まさに潮が満ちている状態である。

本人はもっともっと満ちると信じている。

当時18歳だった僕自身もまさにそのような気持ちであった。

 

ところが、さだまさしは、しばしば(というかいつも)都会を否定的に捉える。

しかし、おそらくそのメッセージは、都会の全てを否定するものではなく、

都会には都会のよさがあるということを前提に、

都会という化物にだまされ傷つく人々への応援歌であり、また

「風の篝火」の女性のように、都会によって変わってしまい

大切なことを忘れてしまう愚かな人間への戒めなのである。

 

ある意味、私を含め地方出身者は「田舎者」かもしれないけれど、

故郷という心の拠り所があることは幸せだ。

都会生まれ都会育ちの人には、生誕地という定義的な故郷は存在しても、

あの、田んぼにたたずむ案山子を連想させる、ホッとするような、のどかで温かく、

包み込んでくれるような観念的な故郷は存在しない。

そういう意味では、地方出身者は逃げ場を持っているとも言える。

 

都会という、人間の作り出した、幻想と虚構。

都会の生活はフィクションであり、さだまさし的に言えば「空蝉」とも言える。

都会に過大な期待を求めて集まった人ほど、都会に傷つき居場所をなくして帰っていく。

そう、それは人生におけるひき潮である。

 

しかしそんな人たちは、決して負け犬ではない。

むしろ、自分のあるいは人間の本質に気づいた、

都会という虚構のなかで生きられない繊細な心を持った人々であり、

そんな人々の傷ついた心を癒してあげたいというさだまさしの応援歌だ。

 

最後は「帰ろう」を繰り返した後、

オーケストラの、美しくやさしいメロディーにより、

故郷のぬくもりに包まれて眠るようなエンディングを迎える。

 

都会で背伸びして、アップアップしながら生きている自分にとって

なんとも優しく、そして決して忘れてはならないものを思い出させてくれる名曲

それが、さだまさしの「ひき潮」である。

                                               以上
 

 

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