Ichishuのさだ作品批評シリーズ(第1弾)

 

春告鳥(はるつげどり) 〜アルバム「夢供養」より〜

 

ここで紹介する「春告鳥」は、情景描写(心理描写)に秀でた、さだまさし屈指の作品である。この曲は、79年(私が高2のとき)に発売になった名アルバム「夢供養」の中の一つであり、その詩の深みに感動した作品である。歌と言うよりもむしろ文学というか、もはや芸術作品だ。

 

 歌詞参照 http://www.cai-insect.jp/sada/lyrics.html#harutugedori

 

 

(文中では、さだまさし氏の敬称を略させていただいています)

 

 

では歌詞を解釈していこう。

 

歌の出だし「衣笠の古寺」これは、京都竜安寺のことであろう。なぜなら次に「侘助椿(わびすけ)」が出てくるからである。竜安寺には日本最古といわれる侘助椿がある。秀吉が朝鮮半島から持ち帰らせたという胡蝶侘助である。と、ずっと思ってきたのであるが、先日アルバム「夢供養」のCD版を買って、彼自身による曲の紹介を読み、それが「竜安寺」ではなくそこから程近い「等持院」であることが初めて分かった。(それからというもの「等寺院」を訪ねてみたいという気持ちが強まり、その1年後に実現した。見事な侘助椿をしっかり見てきた)

 主人公は女性。付き合っている男性の心が自分から離れてしまっているのではないかという不安を抱きながらも、そのことを確かめるかのように2人で京都を訪れていた。

 

「そのひと」というのが彼のことである。椿の花が散り、彼の前髪をかすめながら池に落ちた、ただそれだけのことなのだが、横で見ていた女性には不安がよぎるのである。なぜなら、椿は花の首から落ちるので、死を意味することから(特に武士からは)忌み嫌われきた花であり、今でも花そのものを嫌うことはあまりないにしても、「椿の花が落ちるという現象」は少なからず不吉を連想させるに十分効果があるからである。(しかし侘助はどちらかと言えば花びらの数も少なく軽そうなので、多分ボトッと落ちるよりも、まさにたおやかに散るという感じなのであろう。)

 

次の情景描写がこの詩の中でも圧巻。

 

「鏡のまどろみのくだかれて 錦の帯の魚のふためいて」 落ちた椿の花が、鏡のように静かで滑らかな水面を壊し波紋をつくる。するとじっとしていた鯉が驚いて逃げる。「同心円に拡がる紅のまわりで さんざめくわたしの心」 池の中を覗き込んだ女性は、水の波紋に映る自分のゆがんだ顔を見て、平穏で幸せな日々がほんの少しのきっかけでいつか壊れる日がくるのだと確信し、それは今なのかもしれないという不安に襲われるのだ。(3行目の同心円に広がる紅の「紅」はここでは「鯉の赤い色」を現しているのだろうが、女性の口紅とも解釈できる。)

鯉を「錦の帯の魚」と言い換えたのは鮮やかである。重厚でいて静かなる和の世界を醸成している。

 

そして次のヤマの部分というか曲の締めくくりの4行(12番共通)

 

 

「春の夢 朧気に咲き」おぼろげに咲いた春の夢とは、女性の恋心のこと。ところが、その夢が誰にも知られずに静かに儚く終わる。それは、あたかも、かつて古都で行われていた、野辺送りと言われる密葬のように、静かで悲しく切ないものなのだ。

 

そして2

 

「化野の古宮」は、嵯峨、野宮神社のことであろう。野宮神社は「源氏物語」にも登場する由緒正しき神社であり、実は縁結び、子宝安産の神様として全国から多くの人が参拝に来るという。別れる二人が訪ねるのにはこれほどの皮肉は無い。嵯峨野の竹林は、京都好きの私にとってもベスト3に入る場所である。私が行ったのは5月だったが、真夏のような日差しの強い暑い日だった。ところがこの竹林に一歩足を踏み入れた瞬間、全く別の世界に変化するのだ。うっそうと茂る竹林道は、ひんやりとした霊気を漂わせており、もやがかった空気に、無数の木漏れ日が差し込むまさに幻想的な世界なのだ。「ふりしきる葉洩れ陽」という表現は、この風景を見た人にとってはまさに鳥肌のたつような描写である。

「そのひとのこぼした言葉にならない言葉が、音も無く谺(こだま)する」 多分ここでそのひと(彼)は、何の言葉も言ってはいない。それは彼女にしか聞こえない言葉であり、木魂(こだま)となって何度も彼女の耳元で繰り返されるのだ。

 

 

足元に「蟠る」のは薄氷ではなく、心のわだかまりをかけたものであり、また「靄(もや)めいた」のは白い風ではなく心のもやもやを意味しているのではないだろうか。「春告鳥の問いかける別離に」 春告鳥は説明するまでもなくウグイスのことである。なぜここでウグイスが出てくるのか、別れとウグイスとどのような関係があるのか。実はウグイスには隠語として葬式の意味があるのだ(ウグイスの鳴き声を泣き声としてとらえ、「梅にいく」ことを「埋めに行く」と読み替えたようだ)。春告鳥の鳴き声により、恋の終わりの悲しさをよりいっそう切実に表願しているのである。

 

 

はじめはなんと情景描写の美しい作品なのかという感想を持って聞いていたが、本気で詩を読んでいくと、実は、とてつもなく深い。そして、とてつもなく儚く、ある意味とてつもなく残酷な歌だということが分かった。この歌では恋の終わりを「死」に喩えている。歌詞の中には実は死を連想させる言葉が8箇所もあるのだ。1.「侘助椿のたおやかに散りぬる」=つばきの花が散るは死を意味する 2.「水面へと身を投げる」=身を投げるが死を意味する 3.「同心円に広がる紅」(「紅」は口紅の赤にしても鯉の赤にしても、それがゆがんで見えたことで水の中に「血」が広がったようにも見えたのではないかとういう私の勝手な推測。) 4.「密やかに逝く」=逝くは死ぬこと 5.「野辺の送り」=前述の通り、野辺の送りはかつて古都で行われていた密葬のことである 6.「化野」(化野は京都の嵯峨野あたりの地名ではあるが、「あだし」にかけて、はかないものごとの象徴となる。火葬場のあった地名としても有名である。) 7.「ふりむけばただ閑かさ」(「閑か」には動かないさまという意味があり、つまり死をも意味するのだと思うが私の考えすぎか。)そして窮めつけが、曲のタイトルともなっている8.「春告鳥=ウグイス」(上記のようにウグイスには葬式の意味がある)である。

さて、この詩にはもう一つの解釈もありうる(というかこの解釈の方が正しいのではないかとも思う)。それは、二人が死別するという筋書きである。二人は愛し合っているのだが、彼の死期が近づいていることを彼女が悟るのである。それがゆえに古都での出来事を全て不吉なものと受けとり、春を告げるウグイスの鳴き声さえも、別れの使者の声に聞こえてしまうのである。まあ、何れが本当なのかということばかりは、さだまさし氏本人にしかわからないことである。しかし私はあえてこのオプションを選ばなかった。あまりにも悲しすぎるからである。

 

いずれにせよ千年もの歴史をゆったりと重ねてきた古都京都にとって、ある人の死などというものはほんのちっぽけな出来事で、ましてや恋の終わりなどとるに足らぬ日常茶飯事なのである。ここで一つの恋あるいは命が終わるのだが、古都京都は無情にも何事も無かったかのように静かなままなのである。

以上

 

  第2弾 空蝉へ  第3弾 歳時記へ  第4弾 まほろばへ  第5弾 夕凪へ   第6弾 晩鐘へ   第7弾 ひき潮へ

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