戦史とナチズム研究、そこに横たわる妙な障壁
 
 
書店で働く知人の話によると、 
「ナチスドイツにおける精神医学」というような、いわゆる歴史と人道を扱うナチズム研究本と、 
「V号突撃砲戦場写真集」みたいなのをいっしょくたに買っていく私のような客は珍しいらしい。 
そうなのか。そうでもないという別の友人の証言もあるが、統計とったわけじゃないから 
よくわからない。 
しかしそういや「タミヤニュース」とか読んでると、読者の投稿欄でしばしば「兵器=人殺しの道具」を 
趣味とすることの是非論というか、良心のとがめのはけ口を求めるような意見を目にすることが 
ある。やはりそれなりの葛藤が生じるのは確かなようだ。 

上記の両者を読み比べて気になるのが、絶対に世界がクロスオーバーしてるはずなのに 
あたかも別の時代、場所を扱っているような疎遠さが感じられることである。 
研究本に出てくる「ナチス親衛隊」はえてして常軌を逸したサディストか冷血漢だし、 
戦記に出てくる「武装SS」はチュートン騎士団的な高潔で比類なき勇者であることが多い。 
こんな単純な切り分けでいいのか? 
ちなみにわたしが言いたいのは「実相はどっちなんだ」ではなくて、いずれにせよ 
今のままでは根本的に立体視的な視野に欠けてて読むに値しないんじゃないか、ということである。 

個人的見解を先に述べると、マジメ研究本のたぐいはナチズム体験から歴史的教訓やその害悪の構造を 
GETしようという熱意にあふれており「こんなひどいことは世界史上でも例がない」と事象の大きさを 
的確に捉えているものの、一方その原因について漠然とした一般論に帰着させる傾向が強すぎる 
ように見える。つまり「ドイツならでは」くさい注目なポイントがあっても、 
そもそもそういう偏見じみた考え方がナチ的とかいうことで、サディズムとか集団ヒステリーとか 
(こういうと語弊があるかもしれないが)世界中どこでも起こりうるような月並み路線に 
話が集約しがちなあたりが特徴。なんかはぐらかされたような気分。 
スピルバーグの「シンドラーのリスト」などはその代表的な例だ。 

一方、マニア的な戦記のたぐいの方がドイツの特性=ナチズムの歴史的特異性、という観点に 
斬り込める材料が豊富だったりする。ある意味でドイツのプロダクトに表出する「お国柄」の 
掘り下げ方は極めて強力といえよう。しかし残念なのが、その興味があくまで機械類や 
戦場ドラマの範囲で完結してしまいがちなところだ。 

.....さて話は変わるが、ナチス最大の話題といえば「ガス室」である。 
これは通常ドイツ軍マニアとしては興味の対象にしにくいところらしいが、 
私は超ドイツ的プロダクトという観点からこれに注目したい。根は兵器と同じなのである。 
有名なガス室には2つの種類があったのをご存知だろうか。青酸ガス注入型と、一酸化炭素注入型である。 
ガス室関係の技術者はこの2つの派閥に分かれて技術競争を繰り広げた。青酸ガス注入型は即効性が 
ポイントで、一酸化炭素注入型はコスト安がポイントであった。 
「青酸ガス派」技術者たちは「苦しむ時間の短い我々の技術は実に人道的だ」とヒムラーに 
売り込んだそうな。決して言い訳や逃げ口上でなく、自信たっぷりに誇らしく。 

この史実について、ありがちな書物だと 
「近代合理主義的戦争はいかに人間性を麻痺させるか」みたいな解釈に陥りがちで、 
それではCM含み実質1時間15分のドキュメンタリー番組で充分語り尽くせる程度の 
内容におさまってしまう。 
ここからは何の歴史的教訓も引き出せない。ディックの書評でも触れたが、 
倒置的に「近代合理主義の行きつく先は実はナチズムではないか」というようなテーマに 
実証的観点から攻め込んだりしてくれないと、私のような視聴者の脳髄には何も残らないのである。 

そしてこれは、 
「部分的な合理性を突きつめて極めたら、全体的には非合理的な怪物になってしまった」 
とか、 
「単体スペックを磨きぬけば全体の勝利を得られるに違いないと思い込んで作った」 
という偉大なるドイツメカ一般のあり方と決して無関係ではあるまい。 
そこには、兵器であるという以上に何か根本的に人間性を圧殺するような鈍い輝きがある。 

だから私にとって、アウシュヴィッツにある排水溝のない「シャワー室」と同様 
最強戦車「ティーガー」の威容は、狂熱状態のドイツ人が建造した一種のエントロピー神信仰の 
トーテムに見えてならない。 
それゆえ空前絶後であり、それゆえ比類なき暗黒の魅力を放つのだ、と私は信じる。 

このような観点からの研究が、いずれ何かしら世のため人のためになってほしいものである。 
あまりにも暗く混沌に満ちているため、大いに時間は必要であろうが。 
 

 
 
 .....以下続刊であります。