「高い城の男」って何ざます!?  
 
 
「高い城の男」は1962年に書かれた長編小説である。ディック中期の傑作として人気も高い。  

第2次世界大戦がなぜか枢軸国側の勝利に終わり、日独に分割占領された敗戦国アメリカで、  
「もしアメリカが勝っていたら」というSF小説が密かにブームとなる。  
人々はその作品にえもいわれぬリアリティを感じ、そして.....というお話。  

この作品を通じてディックが主張したいことは色々あるようだが、その一つで特に  
見逃せないのが「近代合理主義の結果としてのナチズム」というテーマである。  
ディックは、主人公の一人であるドイツ軍将校に次のような考えを託す。  
「ドイツ人にとって『善』はあっても、『この善人』とか『あの善人』というものはない。  
 観念が具象に優先する。それがナチズムの根本的な狂気の正体だ。それが生命にとって致命的なのだ」と。  
森羅万象を分類・整理し、体系化し、概念として抽象化する。それは絶対的な規範と化してゆく。 
そして、その「偉大な概念」に現実世界を従属させようして.....彼らはガス室を作った。 
アフリカ大陸を「浄化」し、一般家庭にテレビが普及してもいないのに火星を植民地化しようとするディックの 
第三帝国のいびつな姿は、絶頂期の実際の帝国を正確にスケールアップしたものに思えてならない。  
そういえばこんな表現もあった。  
「彼らは歴史の犠牲者ではなく、歴史の手先になりたいのだ」  

この作品はドイツで発禁処分を食らった。例えば「シンドラーのリスト」には用意されているような、  
ドイツ人にとって都合のいい逃げ道を全てふさいでしまったからだと思われる。  

作中「もしアメリカが勝っていたら」本を読む者たちは、それぞれの立場に応じて何がしかの  
インスピレーションを受ける。が、基本的には思考が日常に埋没しているので、大した結論には  
至らない。このあたりがSFでありながら妙にリアリティに優れていると言われる一因であろう。  
とにかく予定調和的に人物が愚鈍に描かれたりしないのがよい。  
「もし自分が彼であってもこれ以上の考えには及ばないだろう」という感じ。  
なんといってもその上記SF本の著者でさえ、単なる思いつきと占いの結果に誘導された  
狂言回しでしかないのがミソである。  
で、彼らの断片的なひらめきを総合すると  
「この世界は悪夢的パラレルワールドの一つに過ぎない。そして人々は  
  頭脳に植え付けられた観念の牢獄につながれているに過ぎない」というヴィジョンがおぼろげに  
浮かび上がってくる。うまい構成だ。  

結局、彼ら登場人物の「日常+α」な悪戦苦闘が最終的に何を提示するかは読んでのお楽しみにしたいが、  
イメージとしてわかりやすいところで言えば楳図かずおの「漂流教室」となにかしら似てるような  
気がしないでもない。理屈はかなり違うのではあるが。  
この作品は歴史に対し認識論を大胆にオーバーラップさせたという点で、やはり後年の  
哲学SF「ヴァリス」の直接の祖形といえるだろう。  
「ヴァリス」で普遍的な観念として提示される「帝国」の一つの具体例がナチズムなのは明白である。  

さて、作品の背景となる世界その他の描写も気になるところだが、やはりディックだけあって凝り方が違う。  
SS、SD行政官のデスクワークの退屈ぶりがリアルに描かれてるあたりも、とても60年代の作品とは  
思えない。とにかくドイツ軍の描写全般にJ・P・ホーガンの「プロテウス・オペレーション」のような  
安手のハリウッド臭が少ないのがとてもよい。  
口うるさいマニアックな視点からは「ブランデンブルク部隊」の扱いに納得いかない向きもあろうかと  
思うが、まあそれくらいよいではないか。  

あと、ポイントとして、日本人が妙に好意的に描かれている。主人公の一人は日本人外交官なのだが、  
彼が第三帝国の領事に向かい啖呵をきってナチズムの本質を告発する場面はすばらしい。  
これについて有名な評論家、ダルコ・スーヴィンなどは「日本軍の悪行に対して甘すぎる」と批判的であり、  
またディックも完全にリアルな日本人を描いたとは言い切れないが、私としては  
名画「眼下の敵」のUボート艦長(K・ユルゲンス)やヒギンズの名作「鷲は舞いおりた」のシュタイナ中佐が  
「連合軍的な」ドイツ人像であるにもかかわらずそんなこと無関係にブラボーなのと同じ理屈で、  
すごくイイカンジの設定だったと思う。ディック先生ありがとう。  

で、その国では「高い城の男」の30年後に「紺碧の艦隊」が書かれて売れているのである。  
我輩は恥ずかしくて仕方がない。 
 

 
 .....以下続刊であります。