表紙 プールサイド小景・静物(庄野潤三著、新潮文庫)

戦後日本文学を代表する作家の代表作を読んでいこうという計画で昨年から進めているが、今回はいわゆる「第三の新人」である庄野潤三の作品を読んでみることにした。
「第三の新人」には、遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三らがいる。このうち、遠藤周作だけは以前、といっても相当前であるが、いくつか読んだことがあるが、他の作家は名前は知っているが、読んだことはない。
庄野潤三は大正10年(1921年)生まれ。海軍での従軍体験がある。父親は帝塚山学園を創立した教育者である。「プールサイド小景・静物」には全部で7つの作品が収録されている。作品が書かれた年代は昭和20年代の半ばから30年代の半ばまでである。日本が戦後の荒廃から復興し始め、高度成長へ入り始めるあたりまでの時期といえる。
基本的に、庄野潤三氏の小説は私小説の系譜に入ると考えられる。つまり、自分自身が実生活で経験したことを書くということである。古くは、島崎藤村や志賀直哉もそうである。
最初に収録されている「舞踏」は初期の作品で、結婚5年目になる若い夫婦の家庭の危機を描いている。2人の間には3歳の女の子がいる。市役所に勤めている夫は職場の同じ課の19歳の少女と恋をしている。一緒に映画を見に行ったり、コンサートを聴きに行ったりする。しかし、妻のことも愛している。夫の浮気に気がついた妻はメチルアルコールを飲んで自殺を図る。妻は一命を取りとめるが、夫婦の間の溝はそのままである。この作品の冒頭の一節にこうある。

家庭の危機というものは、台所の天窓にへばりついている守宮(やもり)のようなものだ。
それは何時からということなしに、そこにいる。その姿は不吉で油断がならない。しかし、それは恰も 家庭の内部の調度品の一つであるかの如くそこにいるので、つい人々はその存在に馴れてしまう。それに、誰だっていやなものは見ないでいようとするものだ。

夫婦の関係というのは難しいものである。夫は妻が自分のことをわかってくれないと思い、妻は夫が自分のことをわかっていないと考えている。このすれ違いはいったいどこから生ずるのだろうか。
2番目に収録されている「プールサイド小景」は第32回芥川賞受賞作で、氏の代表作である。ある学校のプールで、男の子2人が水泳の練習をしている。それをプールサイドで見守っている40歳の男が主人公の青木氏である。まもなく、青木氏の妻がプールへ迎えに来て、親子4人で家路につく。傍目には幸福な一家の姿と見えるが、実は、青木氏は会社の金を使い込んだことがばれ、18年勤めた会社を首になっていた。
妻は夫が話すバーの話や会社の話をはじめて聞く。そして、自分が夫のことをどれだけわかっていたのだろうかと思う。次のような一節がある。

夫がそのような気持で会社に行っていたということは、彼女に取っては初めて知ることなのだ。とすると、何という、うっかりしたことだろう。いったい自分たち夫婦は、十五年も一緒の家に暮していて、その間に何を話し合っていたのだろうか?

確かに一緒に暮していても理解し合えるというものではない。お互いの目指すものが違う方向になっていくということもあると思う。理解できないから別れるというものでもない。とすると、それぞれの役割を果たしているに過ぎないということになるのだろうか?
他の5編、「相客」「五人の男」「イタリア風」「蟹」「静物」は昭和35年に『静物』として刊行され、新潮社文学賞を受賞している。このうち、「静物」は小学5年生の女の子、小学3年生と3歳の男の子、その両親という5人家族の日常生活を断片風に描いた作品である。描かれている家庭はほのぼのとしているが、実は10年ほど前、子供たちの母親は自殺未遂をしていた。つまり、「舞踏」で描かれた家庭の数年後ということになる。解説で、山室静氏は「静物」を昭和文学の最高の名作の一つとしているが、私にはそこまでの名作とは感じられなかった。訴えてくるものが弱いのだ。時間がたてば見方が変わってくるかもしれないが…。(2001/2/11)



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