第2回 東宮職日誌 昭和21年8月6日


 この画像は侍従職に保存されている「東宮職日誌」の一部である(クリックすると大きな画像がでます。手書きの書き込みは私の字です)。
 東宮職日誌は、第1回目の史料紹介で取り上げた「侍従職日記」の東宮職(皇太子付)版と思っていただければ良いと思う。
 私がコピーを取らず、手で内容を写していたので、史料自体の画像があまり残っていないので、上記のような半分だけの史料を紹介しているが、実際には「侍従職日記」とほぼ同じ体裁をしている(全部の形を見たければ、「情報公開審査会第1回小泉信三」の中の最終結果が参考になる)。

 東宮職だけあって、「侍従職日記」とは異なり、あまり政治的なことが書かれていない。政治史をやる人にとっては、多少見劣りがする史料であろう。
 では、早速史料紹介にはいるとしよう。

(■は不開示部分(人名)。□は読み取れない部分。)


 この史料は、別に政治的にどうという史料では全くない。
 学習院関係者には多少面白い史料かもしれない。
 期日は8月6日、広島原爆から1周年の日であるが、特に東宮職では何も行われていない。

 この日の話題は、米軍が東宮職の官舎を接収すると言ってきていて、混乱に陥っている様子である。

 当時、皇太子(現天皇)は学習院の中等科1年生であった。
 学習院は校舎を戦災で焼かれており、またその他色々な事情があり、中等科を現在の東京都立小金井公園の江戸東京たてもの園のあたりに移転していた。
 現在でも、その校舎であった光華殿が、たてもの園のビジターセンターとして使用されている。
 その建物の一群に東宮職の官舎もあった(もちろん皇太子もそこに住んでいた)。そしてそれを接収するというのである。

 では史料を見てみよう。

一.午前十一時 栄木侍従 進駐第八軍憲兵司令部ヲ訪問 東宮職官舎問題ニ関シ打合セヲ為ス
 1.官舎接収ニ付 進駐軍来訪シタル場合ハ許可証所持ノ有無ヲ確メ 所持セサル場合ハ固辞シ、所持セル場合ハ 東宮職官舎トシテ接収ナキ様 進駐当局と交渉中ノ旨 説示スルコト(■■■ヘハ 栄木侍従ヨリ伝言ス)
 2.進駐軍ヨリ受領ノ制札ヲ官舎周囲ニ掲示ノコト
 3.第八軍憲兵司令部隊長グラルド・クレツペル少尉ヨリ旅団長ヘ面接交渉スル旨回答アリ 好意的ニ諒承セリ
 4.クレツペル少尉ハ近ク帰国ニ付後任者ニ申継ヲナス
 5.随行通訳は■■■ナリ

(以下略)

 いきなり米軍から接収されそうになったので、とりあえず接収元の憲兵司令部に行ったら、話は通してくれるということを確認している。
 しかし、そんな程度では話は終わらないのである。翌日の日誌を見ると「官舎接収ノ件ハ 八軍ノ手ヲ離レテ 連合国軍最高司令官ノ方ニ移ツタ旨報告アリ」となり、話が大きくなってきていることがわかる。

 そして、8月10日の日誌には、「午後八時 東京都接収委員会吏員来所 校内ノ一部(官舎ヲモ含ム)進駐軍ニ於テ接収スルニ付通知アリタル旨内報アリ 右ニ依リ、三井官房当直主管ニ移牒、緊急処置方ヲ要請ス」となり、あっという間に接収が決まってしまったのである。そこで、慌てて宮内庁に助けを求めることになった。

 次の11日の日誌。

一.構内ノ一部ヲ連合軍ニ接収ニナル 沼津(注:皇太子は沼津御用邸に滞在中)ヘ状況報告 尚 黒田式部官ヘ電話ヲ以テ至急善処方ヲ依頼 月曜日朝連合軍司令部ヘ交渉ノ為 右ニ付午後七時半 東京都接収係建設局土地課用地係■■地方事務館来邸ニ付 接収命令等 写ヲ明十二日 ■■出仕ニ御□方依頼ス
 沼津ヨリ東京都方面ノ交渉ヲナシ情報ヲ外事課長官房文書課長ヘ通知方通知来ル


 さらに12日の日誌。

一.接収命令書写受領及交渉ノ為 東京都■■事務官ヲ訪問ス(■■出仕)
一.角倉侍従 沼津ヨリ帰京 総司令部日本連絡部山本公使及終連■■事務官ヲ訪問 接収問題ニ付 依頼交渉スル□アリ
一.本省ニ於テ 角倉侍従 後藤外事課長 ■■出仕会同 終連ヘ交渉スルト共ニ 許可者神奈川第八軍ヘ交渉 命令取消方打合セヲナス
一.午後八時 東京都■■事務官来所 命令書写持参ス 尚本書ハ都ヨリ宮内省ヘ回付(本日午後)シタル□ナリ 明日都ニ於ル接収委員会ノ席上(各所関係官出席)
 一.小金井ノ一部接収ノ件ハ宮内省関係ナリ 二.宮内省ヨリ接収支障ノ申出等々発言シ 都及び外務省(終連)ヨリ命令取消方配慮セラルル見込ミノ旨附言アリ


 史料だけをざっと並べてみたが、要するにいきなり進駐軍がやってきて小金井の東宮職の一部を接収すると言ってきた。
 しかし、小金井にそもそも学習院中等科を移したのは、皇太子に進駐軍が大勢いる都心に残しておきたくなかったということも、大きな理由の一つだった。
 だから、この問題はただ土地を取られるというだけでなく、皇太子の教育環境に重要な影響を及ぼす可能性があったのである。
 この数日の日誌は、他の日にはあまりない必死さが字にも表れている(読みにくい!)。宮内庁だけでなく、GHQとの交渉窓口である終戦連絡事務局にすぐに連絡したり、第八軍の司令部に直接交渉しに行こうとしたりしている。

 さてこの話のオチであるが、8月26日の日誌に「本省外事課長ヨリ官舎及其ノ附近土地 連合軍接収ノ件 本日鈴木公使 横浜軍司令部ニ交渉ノ結果 免除ニ決定」とあり、なんとか接収を免れたのである。

 この今思えば些細な事かもしれない出来事を通してみると、当時の米軍による接収がいかに強引なものであったかということが、非常によくわかる。
 たまたま東宮職という天皇に近い役所だったから何とかなったものの、おそらく普通であればそのまま強引に接収されて終わりだったのであろう。


 今回はこれで終わりである。1回目の史料のインパクトがあったから、いまいちと思った人は多いのではないだろうか。
 要するにこの史料は、明仁皇太子研究をしている私にとって意味がある史料だということなのである。
 ちなみに、この「東宮職日誌」も、昭和20年に東宮職が設置されて以後、全てがあるようである。
 私は全部請求したいのだが、昭和25年で止まっているので、その先を請求しにくくなっている。裁判で勝ったら、全部の年度を一気に請求してみようかと、結構真剣に考えている。


2006年8月28日執筆

 

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