海原

cradle of the deep 19


 

それから暫くは雄斗の周りに何も無かった。いや、正直にいえば大きな変化がひとつだけあった。
クラスメイトが話し掛けてくるようになったことだ。
他愛無いバカ話しだが、雄斗にとっては、これほど救われる事は無かった。
姫などと呼ばれる事もあるが、打解けたせいで「うるせぃよ」と一言返すだけでいきなり殴り掛かりたくなる衝動は無くなった。
無論、実際殴っていたら、半年で緑帯に昇級してる雄斗は空手部をやめなければならなくなっていただろうけれど。
すっかりクラスのアイドルとなり誰もがユウ、ユウと呼んで懐いてくるようになって何時の間にか雄斗も前からそれが普通だったように平穏な日々が過ぎていった。 そして何時の間にか雄斗が空手で海野を撃退したという武勇伝まで真しやかに流れはじめ、だれも雄斗に性的なちょっかいを出そうなどと言う、不届きな輩はいなくなった。
いや、一部、雄斗の空手の雄姿がみたいなどといいつつちゃっかり更衣室にやってくる者もいたが、あまりに 呆気無く着替える色気のかけらも無い雄斗をみて毒気を抜かれたらしく、何時の間にか誰も覗きに来なくなっていた。

そんなある日クラスメイトの一人がいきなり言い出した。 「今だから言うけど、海野先輩にクラスの何人かを集めて仲良くしてやってくれっていわれたんだ。ちょっと驚いたけど。ユウってみかけよりずっと良い奴だからほっとしたよ」
「いつの話し?」
「ほら、先輩がユウの部屋に帰らなくなって久住先輩の部屋に入り浸るようになった頃だったよ」
それを知って雄斗は心中複雑だった。
時折海野を見かけたが、いつも久住が海野の隣に陣取っており、雄斗には話し掛ける勇気も無く、もしあったとしても話し掛けるきっかけも理由も見出せなかっただろう。
なぜか、遠くから見つめると海野は今まで知らなかった人物のように危うく魅力的に見えるのが不思議だった。そしてそんな自分の重苦しい気持ちを雄斗は少しだけ持て余していた。
それからしばらくして修学旅行から帰ってきても相変わらず、雄斗はまるで何事も無かったかのように海野にふるまわれていた。修学旅行に何かを期待していた雄斗はもう、本当に何も無くなってしまったんだと自覚せざるを得なかった

ところが、夏休みの始まる少し前のある日、雄斗が部屋に戻るとドアの向こうに黒い影が揺らめいていた。
思わず、雄斗が身構えると姿を現したのは照れたように微笑む海野だった。
「びっくりさせないでくださいよ。先輩。荷物ですか?自分の部屋なんだから黙って入ればいいのに」
正式には海野はまだ、雄斗と同室扱いになっており、わずかながら私物も残っている。
「雄斗、俺さ」
雄斗がドアを開けたまま部屋に入るように促すが海野は動かなかった。
言い難そうに海野が続ける。
「俺、イギリスに留学することになったんだ」
「イギリス....」
そういえば、ポスターで交換留学生を募集していたっけ。
「あぁ、それでイギリスにいく前に一応雄斗に誤ろうと思って」
「何を?」
雄斗は怪訝な顔で海野の顔を覗き見る。
「お前を振り回した事、嫌がる事をしたり、強姦まがいとか」
言いながら海野はらしくもなく赤くなる。
雄斗は脱力する。謝ってもらわなくたって構わないのに。 ただもう、海野に振り回されたく無いだけだ。
「大人になったんですね。海野さん」
精いっぱいの皮肉をぶつける。今までされた事を考えたらこれくらい構わないだろう。
「あぁ?」
「海野さんを大人にしたのは久住さんなんでしょ?」
雄斗はにやりと海野を見た
そんな雄斗の皮肉には何も答えず、少し照れた顔で海野が近付いてくる。
「これ」
海野がぐっと拳を雄斗の前に突き出した。
雄斗が瞬きも出来ないでいるとゆっくりと指が一本ずつ開かれていく。
するすると指の間を伝って落ちたのはリボンのついた鍵だった。
「何ですか?」
「俺名義のマンションなんだ。お前にやる」
「はぁ?やるって俺に?なんで貰う理由なんかないでしょ?」
「もらうのはいやか?じゃあ、俺がイギリスから帰るまで管理してくれない?ちゃんと管理費用は負担するから」
そこに海野の後ろからゆっくりと久住が現れた。
「貰ってやれよ、ユウ。お坊ちゃまはそれで気がすむんだとさ。」
「でも....」
なぜじぶんが?これって手切れ金?雄斗は混乱していた。留学とマンション一度に考えると混乱しすぎてとんでもない事を言いそうだった。
「海野も大人になったんだぜ。ユウも少し大人になれよ」
雄斗の台詞をからかうように久住が海野から鍵を取ると雄斗に握らせる。
「じゃあ、帰るまで預かっておく……っていうか彼氏か彼女が出来るまで貸しておいてもらおうかな」
海野は満足そうに微笑むと恥ずかしそうに握手を求めてきた。
「いつかユウとの事も思い出になる日がくるさ」
久住がそういって海野の肩をぎゅっと抱き締めた。
その様子をみてやっぱり久住にはかなわないと思い、心の奥では少しだけ久住に嫉妬してしまう雄斗だった。



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