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恐神の男にしてはすっと伸びた美しい指がすっと片方の腕を流れ落ちてから
そのまま上に上がるとすっと自らのシャツブラウスの襟元に中指を入れネクタイを親指でなぞってゆく動作。
……まさか……
解りたくも無いのに、俺は一瞬にして理解してしまう。
彼のその仕種はあの時…『ネクタイが曲がっています』と言われて首筋に指を這わせた時と
全く同じ動きだったのだ。俺の青ざめた顔を確認すると彼は満足そうに片頬を上げて微笑み、会場のメンバーにまるでお開きだとでもいうように片手を上げた。
「御苦労様でした。、おおまかな範囲で理解されたと思うのでそちらの詰めの方は担当者にお願いしましょう。では、矢萩部長代理、私達はこの後2.3、契約の件に関して詰めてお話したいので時間はよろしいですか」
有無を言わさぬ物言いに俺は「はい…」と呟くしか無い。
「私も御同行させていただきます」
その様子で森本課長が弾かれたように立上がったのを見て、
「いや、結構だ。同行にはおよばない。君はここに残っていただきたい。それとも私が矢萩さんと二人でお話したいと私が言っている事に何かご異論が?」
恐神が今までにないきつい口調で諌め森本を睨み付ける。
思わず平身低頭する森本を庇うように彼の前に立って、
「私に免じて御容赦を……」と口に出してからしまったと青くなる。
何が私に免じてだ、これなら自分から借りを作ってしまったようなもの。
案の定、恐神の顔にいつもの高慢そうな笑みが浮かび機嫌は最高という感じで
俺の肩に手を置いた。
「もちろんですとも」
そう耳許で妖しく囁くと「おい、車をすぐ用意しろ」と振り向きざまに部下らしいガタイの男に
命令する。
そういえば、今さらながら気がついたのだが、この会議室にいる連中はサラリーマンというより
やくざとか武道家とかという職種が似合うような面々が揃っているではないか。
そんな事を考えているうちに気がつくといつの間にか彼の黒塗りの社用車に俺は勝手に押し込まれるように乗せられていた。
「どこに……」
情けないが俺の声は震えていたに違いない。
「いやだな、矢萩さん、何もとって喰おうというわけじゃない。二人だけで静かなところで話がしたいと言ってるだけじゃありませんか」
恐神のどこか整った顔から醸し出す理知的な笑みに俺の深層心理が騙されるなと警告のベルを鳴らす。
「いったい何が望みです?」
俺は単刀直入に迫った。
「だから、そんな怖い顔をしないでください。やり方は乱暴かもしれないがあなたと二人だけで過ごしたいだけだと言ってませんでしたか」
17.18の小娘じゃあるまいにそんな御為ごかしが俺に通用すると思っているのか?
「仕事をちらつかせて私をからかってるだけですか?だとしたら勘弁してください。
あまり無体な事を要求されるのでしたら、こちらにも考えがある」
恐神はさも楽しそうに声を上げて笑い出した。
「じゃあ、その考えとやらをさっそく伺いましょうか?」
あくまで俺を小馬鹿にしたいらしい。
「こんな事を強要されるなら、もうこんな仕事をやめたっていいんです」
吐き出した俺の台詞に恐神はさも楽しそうに小首を傾げた。
「いったい突然何をおっしゃられるのかと思えば、矢萩さん、今の職場をやめていったいどうなさるんです?はっきり申し上げてあなたの年令なら同じ条件での再就職は
難しいでしょう?あなたが仕事をやめて、好きなホッケーもゲイバー巡りもできなくなり、
食べていくだけでやっとになったら、私にとってもっと好都合だ。惨めなあなたにそっと
救いの手を差し伸べる自分を想像するとぞくぞくしますね」
「変態め」
俺は相手が取引先だと言う事を理解しながらも毒づかずにいられなかった。
「あなたは今までここまで20年近く築き上げてきた今の立場をそう簡単に捨てられるわけがない。
これまで、人に言えない努力をなさってきたはずだ。それこそ身も心も会社に捧げるほどに努力されてこそ今のあなたの地位があるのではないのですか?そんなあなたが簡単に今の地位を捨てられるのでしょうか?」
そんなのは恐神に言われるまでもない事だった。 だけど……。
会社の地位も、ずっと続けてきたホッケーもただ一人の男に認められたくて続けてきたのだった。
そう思うと俺は誰もいない暗闇に独り取り残されたような深い絶望に囚われていく。
そうだ、どこかで葛西がいつか離婚したらとか、困った時に役に立ちたいと本当に現実的ではない微かな希望の光だけを頼りに生きてきたのだ。
20年、そんな愚かな妄想だけが俺を慰めてきた。
まだ、彼の相手が女なら許せる……だが、なぜあんな若造に俺の駿を奪われてしまったのか。
思わず下唇を噛んだ俺の頭を抱えるようにして恐神が自分の肩に押し付けた。
「苦しい時や悲しい時は男だって泣いたっていいんですよ。何も恥ずかしいことじゃない。
涙はストレスや苦しみをやわらげてくれる……我慢していても、思い出が浄化されて苦しくなるだけだ」
優しく囁く恐神に俺は身を捩って反発しながら、溢れる涙を拭う事もできなかった。
泣き出すともうそれはしだいに嗚咽に変わってゆく。思い起こしてみれば、俺は母と死に別れた大学の時以来、初めてまともに泣いたような気がする。 しかも嗚咽を堪えないほど酷く泣き出すなんて小学校以来かもしれない。
身体は震え、嗚咽は止まらないのに、恐神が俺の髪を優しく梳きあげるその長い指にすっかり安心して
身を預けている自分が不思議でしかたがない。
ずっと苦しかったのに、なぜ俺はこいつの胸で安心して幼子のように涙を流しているのか?
気がつくと俺達を乗せた黒塗りの車は高速にのっていた。どこにいくつもりなんだろう?
俺はまるで他人事のようにぼんやりと考えながら、それでもそのまま恐神の肩に頭を預け、その上、いつの間にか深い寝息をたて始めていた。
それでも寝入る俺の直前の記憶は、恐神の吐息がすぐそこに感じられ寝息を窺っているのだなという意識の後、恐神の男にしてはすっと伸びた美しい指が遠慮がちにすっと俺の頬から顎に滑る……という感覚が残っていた。
そしてそのまま親指を上唇にまるで羽のように微かに触れ、直後に下唇を躊躇うように触れるようになぞってゆく。
きっと完全に目覚めている時なら嫌悪しか感じないその行為を俺はもっと優しく触れて欲しいと感じるほどに安心して深い眠りに落ちていった。
眠り込んでいたはずの俺は誰かに背負われている揺れる振動で目が覚めた。 それでも自分がなぜ誰かに背負われているのかとか、
ここはどこなのかとぼんやりと意識するだけだ。
慎重にベッドの上に下ろされてネクタイを緩め、上着をぬがされる感覚があった。
そうだった、昨夜恐神の社用車に乗せられて高速に乗った……確かそこまでは微かに記憶が戻ってくる。
「ここは?」 誰に問うた訳でもなく呟いたはずなのに、自分の息のかかるようなすぐ背後で声がした。
「今回のプロジェクトの一つである胡桃半島の先にあるホテルですよ」
そう、紛う方ない恐神の声だった。
彼の胸で泣いてしまった自分を思い出し急に恥ずかしくなってとても恐神に顔を向けられそうにない。
「会社には私の方から連絡しました。直属上司の桂木部長の許可をとってあります。あなたを2.3日かしていただけるようにね」
「勝手な事を……」
俺は恥ずかしかったのも忘れて思わず振り向いて彼を睨み怒鳴っていた。
「たしかに勝手をしてすいません」
恐神はこちらが拍子抜けするほど殊勝な様子で、いったいどうなってるのかと正直戸惑ってしまう。
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