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「羽鷲課長……よろしいですか?」
スケジュールに追われていた羽鷲が顔を上げると、そこには可憐な印象のうら若き…そう多分大学をでたばかりと思われるような女性が立っている。その隣には少しだけ難しい顔をした社長の第一秘書室長である小山田が精一杯の優しげな表情で付き添っていた。
「あ、もしかして」
「そうなんです。この度羽鷲課長の秘書に決まりました。長内綾乃さんです」
羽鷲の顔に一瞬困惑の表情が拡がったが、すぐに気を取り直して 「羽鷲です。よろしく」
そういって握手する為にゆっくりと右手を差し出した。
羽鷲は、肩書きこそ課長だが実際は父の仕事を引き継ぐ為に、取り締り役に就任する話も出ていた。
それを必死で固辞したのは、自分で会社を立ち上げたかった為だが、その話はまだ恋人にしか話をしていない。
紆余曲折があったが、結局専任秘書をつけることだけは、譲歩させられたのだった。
最初は光田という若くて有能な青年が秘書に決定しかけたのだが、彼だけはセクハラもどきを受けたこともあって遠慮したのだ。その際、他に条件を付けないと約束させられて。
何が困るって、新人が仕事ができないかもしれないそんな事じゃなかった。
もともと秘書など当てにしないような仕事をし、必要な事象はそれぞれ得意な課にまわすという事をモットーとしていた羽鷲にとってじゃまさえしなければ、どうでもいいのだが、問題は彼女が若く美人と言うことだった。
自分としては美人だろうが若かろうが何の問題もないが、恋人の雄斗にばれたら何を言われるかわかったものじゃない。
困ったなと思った。 秘書が決まる前の方が言い訳がしやすい。決まった後だとどうも気まずい。
実際恋人の羽生雄斗は、普段は全く羽鷲に関して無関心を装っているのに、いざ関心などもって欲しくないことになぜか関心をもってしまう。
「天の邪鬼だからな……」
ため息をつく。
実際、使ってみると彼女は非常に優秀だった。教えられたことは卒なくこなし、指示されないことにもよく気がまわってついつい羽鷲は彼女を重宝して使い始めた。
いなかったらいなかったですむものだが、一度当てにするとなくてはならない存在になってしまう。
そういう人間は雄斗で充分なのだが、忙しさにかまけて羽鷲は羽生に新しい秘書の説明をする
機会をついつい逸してしまっていた。すでにその存在が空気のようになりかけたある夜。
「課長、もうお帰りですか?」
長内に声をかけられて、羽鷲は小さく頷いた。
「今日、早く帰らないとしばらくまともな時間に帰られないから」
「雨が降るみたいですよ。よろしかったら傘」
淡いパステルカラーの傘を差し出され羽鷲は少しだけ躊躇した。
このまま社用車で帰るのだから傘はいらない。しかし…
「君の私物なんだろう?」
「使い捨ての傘だから構いませんわ。よろしかったらどうぞ」
竜斗は好意を断るのが酷く苦手だ。まして相手はうら若き女性。なんと言えば傷つけないで断れるのかさっぱり見当もつかない。
「ありがと…」
結局傘を受け取って羽鷲はまた小さくため息をつく。
急に土砂降りになった雨に結局羽鷲はその小さめの折り畳み傘を使ってマンションに駆け込んだ。
いつもは帰りが遅い雄斗も今夜はなぜか早めの帰宅だ。
羽鷲は嬉しくなって勢い良く扉を開くとそこにはなぜか寂しそうな雄斗の後ろ姿。
あれっと思いながらそのまま部屋に入ると雄斗はぐるっと振り向きざまに
「隠してる事ないか?」
そういって睨んでくる。そしてその視線がそのままゆっくりと羽鷲の手許に下がってくる。
「女物か?上等じゃねーか」
「違うんだ……これは」 ガッターン 必要以上に大きな音を立てて
返事を聞く前に雄斗は部屋を出て行った。 結局一言だって言い訳させてくれない。自分が悪いとは分かっていても竜斗は大きくため息をつく。
ひとり取り残される部屋はいつもより広くなんだかよそよそしい。空調もそれほど強く無いはずなのに寒いくらいに感じる。羽鷲は傘を靴箱の上に置くと、力なくソファに座り込んだ。
やっぱり早く言ってしまえばよかったんだ。光田が嫌だったから、たまたま光田以外なら誰でもいいっていってしまったら彼女になったんだって。
視界の端にバルコニーの辺りで何かが揺れているのが見えて竜斗はそのまま立上がる。窓際で揺れているのは七夕飾りだった。
毎年飾りを忘れなかった竜斗ですら、忙しさで忘れていたのに、雄斗が覚えて飾り付けてくれていたことに胸が締め付けられた。 「ごめん…」
普段そんなことをするキャラじゃないのに。
忙しい竜斗の代わりに忘れずに飾り付けてくれた。照れ屋で可愛いやつ。
そんな彼を不本意ながら傷つけてしまったことに深く心を痛めた。 外は雨。 七夕の時に降る雨をなんと言ったか。七夕の雨は不浄なものを流す意味で歓迎されたこともあったらしいが、
1年に一度しか会えない恋人との逢瀬が雨だったなら牽牛もさぞかし寂しかっただろう。
つらつらとそんな事を思っていったいいつまでそこに立っていたのか、背後からそっと差し出された傘に竜斗は「あ…っ」と声を出した。
後ろからそっと抱き締められ首筋にキスをしてくる。
「雄斗…」
「風邪をひくぞ…それに七夕の雨にあんな女物の折畳み傘なんて似合わない」
独特の香りに包まれて見上げるとそれは蛇の目傘。
「前からいいなと思っていたんだ。お前の分だよ」
竜斗が傘の柄をもつ手に雄斗の手がそっと添えられた。
傘の中でそっと重ねられる唇が、微かに震えている。 「好きだ……」 そんな言葉も雄斗の口の中に消え……。 「今さらだろ」 そういった雄斗の掠れた声も甘さを含んでいた。
Fin
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