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それは寒い夜だった。 集中暖房つきで全室床暖房付きのこのマンションのペントハウスですら
その寒さが判る。
なぜかというと外気温との差で2重サッシになっている窓にも微かに結露がついているからだ。
外気との湿度差を自動調節する換気扇が唸っている。
今夜も城(きずく)は帰りが遅くなるのだろう。
ここ5日ほどずっと深夜の帰宅だ。どんなに疲れて帰ってきても城は優しくキスしてくれるけれど、
若いおれにとってそれだけじゃ蛇の生殺しだと思うのは贅沢なのか?
俺が城の上になれるなら、どんなに城が疲れていたって優しくその気にさせて
朝まで夢心地にさせてられるけれど、残念ながらそれだけはできないのだ。
一人だけの部屋はやけに音が大きく鳴り響く。独りならテレビもネットももちろん、音楽だって
聴きたいなんて思えないのは、俺に余裕がないからか。
ただ、なかなか動かぬ時間と格闘しているだけだ。ほんの数分しかたっていない時計を何度も見てはため息。
全く、どうなっているんだろう。今までだって俺はずっと一人で暮らしてきたはずだ。ひとりで暮らしていた時、どうやって時間を潰していたのか、不思議な事にもういくら思い出そうとしても思い出せない。
俺は城に逢ってからすっかり変わってしまった。身体の内側も変えられたけれど、なにが一番変わったのかって、自分の心だろう。
こんなに甘ったれだなんて思わなかった。 ホストなんて職業についてはいたが、俺はあの世界で自信いっぱいに暮らしてきたはずだ。城の帰りをこんな気持ちで待ちわびる日がくるなんて思いもしなかった。
これは本当の俺じゃない。 城の事は愛おしいと思うけれど、やっぱりこんなの俺らしくないと思う。
だけど、もうホストには戻れない。しかも俺の所属する企画室なんて何をやっていいのかさっぱりだ。
納得していたようだけど、こうして城の帰宅が遅い夜にイライラして待つ我が身はなんとももどかしく、
堂々回りのように考えてしまうのだ。
やっぱりこれは俺の本当の姿なんかじゃないんだと。
迷惑だと分かっているのに我慢ができなくて城に携帯にメールした。
2分も待たずにすぐに返信が来る。
『ごめんね。今夜も遅くなるから先に寝ていて。週末には必ず時間を作るよ』
城のバカやろう……。ちっともわかってない。
俺は女じゃないんだ。それなのにこんな思いをさせんな。待ってるだけの生活なんて辛すぎる。
俺だって一人前の男として自覚と自信を持って生きたいだけ。
城の事は愛しているけれど、それだけじゃだめなんだ。
それとも一緒に暮らして生活も心配ないのにこんなにも不安になる……俺が贅沢なんだろうか?
でもきっともう、俺は限界だったのだ。メールを見た後、俺は携帯をベッドに投げつけてそのまま
ジャケットを羽織った。 このままこの部屋で城を待つのはもう限界だったから。
見知ったはずの夜の街。金とカードさえあれば誰でもそこそこお大尽に成れる場所。
今までは癒される気がしていた女の優しげな笑顔さえ、男に媚びて金を強請る醜い表情が透けるように見え隠れしているような気がして、俺は気持ち悪くなって慌てて外に出た。
きっと水商売の裏側を知ってしまってるから、正直言って気持ちよく酔う事もできなくなってしまっているんだろう。なんでも斜に構えてしまう。相手を癒して金を巻き上げようという魂胆が見え過ぎる自分の事すら嫌いになりそうだった。
それでも独りのマンションに戻る気にもなれない。この際、気分を変えて静かなショットバーでもう少しだけ時間を潰そうと、ビルの地下にある一見重たい扉に手をかけた。
ドアの向こう側に今、まさに帰ろうとしていた客に危うくぶつかりそうになった。よろめく俺の腰をぐっと引き寄せる逞しい腕に俺は思わず声を出して呻いた。
「なにするんだ」
「志月さんじゃないですか?神様のお導きかな」
ぐえ〜〜!こいつ俺をホストNO1の座から引きずり落とした恐上ではないか?
「神が飲み屋に導くか!お前の顔なんか見て飲めるか!帰る」
「そうなんですか?僕もちょうど帰るところだったんですよ。じゃあ、他の店に案内しますよ」
「あ、そ。お前が帰るなら、ここに入る」 俺はそのまま恐上の腕をすり抜けるようにショットバーの中に入っていった。 中はそれほど薄暗くもなく、見た事もない銘柄の酒がずらりと並んでいて
酒独特の良い薫りが漂っている。細部まで気を遣っている品の良い店だ。 「いらっしゃいませ」
マスターらしいバーテンダーも俺が入るなり微かに笑みを浮かべて会釈してくる。顔だちもいいが、彼の嫌みのない爽やかな雰囲気がすごくいい。
俺はすっかり気に入ってさっとカウンターに席をとった。
「やだな、志月さん、相変わらず駄々っ子みたいだ。そんな可愛っこぶりっこして
僕の気を惹こうっていうんでしょう?参っちゃうな」 そんなばかばかしい事を嬉しそうに言って隣に恐上が陣取った。そのうえマスターが渡そうとしたお絞りをわざわざ自分で受け取り広げると俺の手を包み込むように拭きやがる。
「誰が駄々っ子だ!誰がお前の気を引かなきゃいけないんだ」
そのまま恐上は俺の手を抱いたまま丁寧すぎるくらい丁寧なくらい念入りに手を拭いている。俺は思わずそれを振払うようにした。全くなんでもネタにしやがって。
「まぁまぁ、志月さん照れないで。あのね、マスター。これが僕の憧れの人志月さん。なんかメロメロになるようなすごいカクテル造ってよ」
「カクテルなんて飲めるか。オンザロックで」
俺は不機嫌そうにマスターに向って注文した。黒いスーツに 小さなボウタイが良く似合っている彼は
俺の顔を見て意味深に笑ってみせた。その割にその笑顔は嫌味な感じは全くなくて、逆に
優しそうな瞳が俺を安心させた。だけど……。
「あれ、失礼ですがどこかでお会いしてませんか?」
思わず、マスターに声をかける。
「良く解りましたね。さすが客商売を極めた方だ。確かに一度、あなたのお店におじゃましたことがありますよ。恐上さんの席についたので、あなたが覚えていてくださるとは、思いませんでしたが」
やっぱり、こういう水商売は客の顔を覚えてナンボの仕事だ。
一流になると、一度来た客のプロフィールはもちろん、誕生日、電話番号、趣味など
瞬時に思い出し、客に合わせて会話を振る。
俺は誕生日などの数字と客の顔を覚えるのが得意だったから、固定客がつきやすかった。
客との駆け引きも結局は情報戦だ。覚えてない振りだって本当に覚えていなかったらただの
間抜けか、傲慢なホストでしかない。 カードをこっちが握っているからこそできる技。
そんなことを俺はとりとめもなく思い出していた。
「志月さん、志月さんたら」
恐上の声でやっと我に返る。
「もう……いったいどうなんちゃったんですか?無視するにしたって
自分の世界に閉じこもられたんじゃ、僕の立場がないじゃない」
焦点が定まらないほど恐上の顔はすぐ近くにあった。
「なんだよ」
「ひとりで出歩いたりしていいんですか?御主人はどうしたんです」
からかうような恐上の一言に俺はかちんときた。
「御主人ってなんだよ。ただの同居人だ」
「そうですか?」
そういいながら、恐上は妙に嬉しそうな顔をした。
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