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凍てつくような瞳で、河本は俺を射抜く。何、お前が睨んでるんだよ。怒っていいのは俺のはずなのに。 「何いってるんだよ。俺が知らないとでも思ったか。亜矢と出来ていたのはお前なんだろ。だけど俺達はもう離婚したんだ。もう十分俺を侮辱し蔑んだだろう?後は、二人で勝手に結婚でもなんでも仲良くやればいいだろう。だから今更、俺の事はもう、頼むから放っておいてくれ」 河本は小馬鹿にしたように鼻で笑った。 「ふっ、そんな事か?」 離婚は俺にとっては一大事だ。それ以上のなにがあるっていうんだ。 「そんな事って他にもあるのか。まさか、俺の母親とも出来ていたなんて言わないだろうな?」 腹立ち紛れに俺は飛び上がるように起き上がると、思いっきり彼の襟首を締め上げたが、あっという間にその腕を捻られて唸りを上げた。 「母親だと?全くお前は呑気な男だ。まさかお前は、本当に今の今まで知らなかったのか?俺のオヤジとお前のオヤジが昔恋仲だったことも」 あまりの突飛な話に俺は、酷く驚いたものだからあれよあれよという間に、河本に促されるまま、和室の奥にある俺の高校時代まで過ごしたそっくりそのまま作られている例の部屋に、拉致るように連れて来られた。 「ばかいうな。あの二人がありえないだろ」 「ありえないって犬猿の仲にだったからか?いいか?あの二人がまともに口をきかなくなったのは、お前の父が俺のオヤジを捨てて、お前の母親と結婚したからだ。半分痴話げんかみたいなもんだ」 「捨てる?痴話げんかって……絶対嘘だ……馬鹿なこというな」 「俺だって嘘だったらいいと何度思ったことか。俺のオヤジは、俺達母子のことなんか、殆ど関心がなかった。多少後ろめたい気持ちはあったんだろうから、お金では、何不自由ない暮らしをさせてもらった。だけどオヤジの関心の中心はいつもお前達の家族だった。 あいつはお前の父に、卓(すぐる)さんに捨てられても、ずっと未練たらしく付きまとっていたんだ」 あまりの事で頭が真っ白だ。真面目だけが取り柄みたいなうちのオヤジが、あのいかにも性格がキツそうな河本のオヤジとできていたなんてありえない。 どうして河本はこんな造り話を俺に始めたのだろう? 「卓さんと別れた俺のオヤジは、今でいうストーカーみたいになってしまったんだ。可愛さ余って憎さ百倍って奴だ。隣に家を買い、俺の母親と結婚し、卓さん夫婦に小太郎が出来たと知ってからは、当てつけがましく対抗して俺を作る為に励んだらしいぜ。だけど、どれほどオヤジが手をつくしても、最後まで卓さんは靡かなかった。当たり前だよな。別れた男同士だ。それが当然だよ。自然の摂理と頭では分っていたはずなのに、オヤジは暇さえあれば、お前の家の方を眺めてため息をついていたよ。 どれだけ冷たくされても自分の気持ちに、折り合いがつけられなかったんだろう。 オヤジが生きていた時は。どんな嫌がらせを受けても無視していたのが卓さんだった。それなのに不思議だったよ。俺のオヤジが事故で死んだ時、どうしてあんなに卓さんが取り乱して号泣したのか、俺には謎だったんだが、今なら少しだけわかる」 わかるって意味が分からなくて、俺はじっと河本の顔を見つめていた。 「卓さんは、お前の母親に一生お前を大切にするから結婚してほしいと頼んだらしい」 くそ真面目が取り柄のオヤジらしい話だ。 「お前のお袋さん……は、小夜子さんっていったけ?彼女は何もかも知っていて、跡取りであるお前を生む為に結婚したんだよ。だから結婚してからは、卓さんは小夜子さんをたてて女はもちろん、男とも二度と付き合わなかったらしいんだ。別れた男とよりを戻すなんて論外だったんだろう」 頑固なオヤジにそんな過去があったなんて俄には信じがたい。 「お前のオヤジが死んで、残された借金で首が回らなくなった小夜子さんを訪ねた時、俺は条件を出したんだよ。お前の部屋を、部屋の中にあるすべてのものを俺にくれってな。そしたら小夜子さん、『因果応報』だって一言言って、もう当事者は小夜子さん以外全て死んだから、俺の気持ちを汲んで、俺達のオヤジ同志の全てを話してくれたんだよ。俺のオヤジの思いが俺に乗り移っているのかもってな」 お袋も知っていたのか? 思わず頭を抱えたくなった。 「誤解してるみたいだが、俺は小太郎の奥さんに、手なんか出しちゃいないぜ。俺が彼女を呼び出してここに小太郎と二人で住めばいいって言ったら、愛情のない男となんか住みたくないって言って」 「じゃあ、どうして?」 「俺は一応彼女を止めたんだぜ」 確かに俺は彼女にちっとも優しくなかった。結婚させられてるんなんて被害者ぶっていた。 「だけど亜矢は河本と結婚するって……」 「小太郎に同情されたくなかったんだろう。そしてオヤジ達の事もうすうす勘付いていたのかもしれない」 鈍かったのは俺だけかよ? 「なんだかワケがわからない。死んだオヤジ達の思いをどうやってケリをつけりゃいいんだ」 「誤解しないでほしいけど、オヤジと俺とは別の人間だよ。思いなんか受け継いでいない。 そりゃあお前の母親にしてみれば因果応報といいたくなる気持ちもわかるけどな。俺は、俺として小太郎が必要なんだよ」 「必要ってなんだよ?第一、河本は俺にこのマンションで何をさせたいんだ?俺がここにいて お前の役に立ってるとはどうしても思えない。」 「立ってるよ。お前が気がつかないだけだ」 「だって俺は、掃除以外何もしていない。やることがなくて暇だからつい、ぼうっとしたり」 「それでいいんだよ」 「洗濯もしないし食事をつくる訳でもない。お前は俺にここにいろというが、俺は何をしたらいいんだよ。お前の意図が分からない」 「退屈だったか?」 「当たり前だ。テレビもパソコンもないし、書斎の本は難しいし」 「それでもかなり読んだようじゃないか」 「あぁ、お前もこの本を読んだのかなとか考えた」 「そうか、やっぱりそれでよかったんだ。お前は、何もする事がなかったから、随分いろんな事を 考えたんじゃないか?俺のいないこの部屋で、書斎で、そしてかつてのお前の部屋を再現した あの部屋でも」 「…あそこは入らなかった」 「でも、俺の事は考えただろう」 「そりゃあ……」 「それでいいんだよ」 そういって俺の頬に触れてくる河本の指は微かに震えていた。 野鳥の雛の産毛にでも触るように。 「お前はその退屈な時間を無駄と思ったかもしれない。だけど無駄なように見える時間だから、本物が、一番大切なものが見えてくる事があるんだ」 俺は何も答えられなかった。重い空気を払拭するように、河本の声が優しさを帯びて降ってくる。 「人の心を縛る事はできない。俺のオヤジが冒した間違いを俺は再びしたくはない。ただ、少しの間だけ俺がお前の事を考える一万分の1でいい。俺の事も小太郎の記憶に残したかったんだ」 「もう、もう残ってるよ」 頭を上げずに呟く。 「嫌な思い出ばかりだろうがな?」 自嘲するような河本に思わず「違う」と声を重ねて必死に首を振った。俺だって……。 河本がハッとしたように俺を見下ろす。 「俺もずっと考えていた。河本の事をずっと。嫌いになりたくてもなれない。考えまいと思っても心に浮かんで消えなくなる」 泣き笑いのような複雑な表情で河本は俺を、ぎゅっと抱き締めてくる。 「俺のオヤジも、きっと後悔していたと思うんだ。お前の死体に縋って泣くくらいなら、 今、お前と向き合った方がいい」 そんな俺の決心を河本は何度も俺の後ろ髪を遊ぶように梳きながら 「なんだか、お前の方が男前じゃないか」 そういって俺の背中を強く抱き締めた。
Fin. |