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そうなのだ。鹿央にとってあの夜は、美杉が自分を軽蔑しているに違いないと恐れる気持ちと同時に 二人で過ごした時間は、彼の短くない人生の中で唯一無二のかけがえのないひとときだったのも事実だ。 鹿央は少しでも暇な時間があればあの甘い恋人同志を思わせるひとときを思い出し……そんな自分を、哀れんでしまう。そして自分のそんな弱さが嫌だった。 そんな邪念を払うには、僅かな時間でも寝る間を惜しむように書類に目を通し、自分を追い込むしかない。 そんな中、ある1枚の書類が目に止まった。 今までであれば、間違いなく最初に鹿央に回されていいたであろうその受注書は、どうみてもこちらの 発注する商品の単価が一桁小さくみえる。単位が万だから、1桁違えば、美杉の開発促進課にとってだけでなく、会社に甚大な被害を与える事になりかねない。 まさか……と思った。 普段どうりならば、これほど大きな受注なら3人は目を通していたはずだった。 美杉や一人前の社員が数人確認したのならありえないようなミス。 順調だと思われた仕事の他に、鹿央の本来やるべき美杉の補佐を鹿央の直属の部下の吉田が、ずっとやっていることに多少の違和感を感じていた。 いや、違和感とはまた、違うのかもしれない。 嫌な予感だった。慌てて他の書類もめくる。 そこまで、大きなミスではないが、細かいミスがいくつかあった。 吉田だって、仕事についてはそれなりに信頼のおける男だ。ましてや、やり手と評判の 美杉がこんなミスを……。 まさかと思いつつすぐに、鹿央が先方に確認と訂正のメールを送る。 まだ、間に合うが、これが上司に知れれば、自分だけでなく美杉のとっても 不味い事態に違いない。 いくつものミスを見ている内に気持ちが急いて頭を抱えたくなった。 鹿央が嬉々として新しい企画を実体化している間に、こんな事態になっていたなんて。 額に当てていた手をすっと離して、鹿央ははたと思いやる。 もしかしたら、この嫌な予感は、彼等が籍を置くデアコーポの親会社の生島産業に何か関係があるのではと思ったのだ。 なぜなら実家で久しぶりに夕食を共にした時に見た兄、生島哲の、最近妙に疲れた顔を思い出してしまったからだ。 実は、兄である生島とわざと名字を違えているのは、鹿央が、子供のいない母方の叔父の養子になって母方の財産を引き継ぐためにいるからなのだ。だが、そんな自分を島流しのようにデアコーポに追いやったままの抜け目ない兄も、実家で両親と会えば、まるで自分が成長していない未熟者として、鹿央を甘やかし、家族でなにくれとなくその身辺を心配し、構ってきたものだが、先日は心ここにあらずという感じで眉間に皺を寄せていた。 しかも考え事をするように、ため息をついていた。 確か、デアコーポの株の40パーセント以上は、鹿央の実家の生島産業が持っている事になっている。 最近、生島産業は、大口の取引先が証券取引法に引っ掛かって大きな含み損を出していた。 それは、最近の経済ニュースで話題になっていたはずだ。 まさかそのとばっちりが、自分達のデアコーポにくるなんて予想もしなかったが、兄とて追い込まれれば色々な手立てを考えるに違いない。 きっと鹿央の予感は外れていないような気がするのだ。恐らく兄は最近好調のデアコーポレーションの株を利用して 損失補填をするつもりことを考えているのではないだろうか? もちろん、表向きは互いに独立した会社だから、普通なら露骨なことはできないだろうが、 デアコーポの内部に不審なことがあれば、おおっぴらに介入できるという算段なのではないだろうか? あの抜け目ない兄ならやりかねない。 多少の汚い手を使っても強引に自分の思いどうりにするだろう。 たとえ、その結果が、好調なデアコーポの社員に不利益になっても。 そう、思い立つと鹿央はもう、じっとしてられなかった。 今まで、早く生島産業に戻りたいと思っていたのが、嘘のようだ。 もしも生島産業が、正規の取り引きでデアコーポから、お金を融資してもらうつもりなら それはそれで正当な取り引きなのだからもちろん 鹿央の口の挟む余地などあろうはずもない。 だが、もしもこのいくつかの不自然なミスが誰かに仕組まれたものであるなら、 もう鹿央は黙って見過ごすことなどできなかった。 たとえ、今まで一度も逆らった事のない兄だけでなく、生島家そのものから 睨まれたとして。 そう、鹿央にとって、美杉はどんな事があっても穢されたくない聖域であり、守ってやりたい唯一の宝のような存在だった。 もし美杉が鹿央を軽蔑し気嫌いしていたとしても。 美杉の周辺がばたばたしだした。 ようやく、親会社に自分達の会社が追い詰められているのに気がついたからだろう。 鹿央の周りの机上でも怒号が飛びかっている。 「何かの間違いじゃないのか」 しばし呆然としていた美杉もすぐに気持ちを切り替えた。 「いやまだ、間に合うはずだ」 「諦めるな」 部下に的確に指示をしつつ、自分でも取引先に電話をしたり出かけたり奔走している。 鹿央ももちろん、影ながらではあるが、手立てを尽くしていた。 大きなミスはなんとか鹿央の顔もあって食い止める事もできたが、一部の取引先からは 今回のミスで取り引き停止を言い渡される不始末もあった。 「いったい何がどうなっているんだろう」 混乱した美杉が青い顔で独り言を言ったのを鹿央の部下の吉田は聞き逃さなかった。 「僕らの後に誰かが何らかの悪意によって作為的に改竄したとしか考えられないんじゃないですか」 そういって美杉に詰め寄った後、ちらっと鹿央に瞳を移した。 「課長に注意されてから根に持つ人もいるみたいですしね」 まさか、信頼していた吉田にそんな事を言われるとは思わなくて鹿央は椅子から立上がった。 「大人しくなったと思ったら、課長を貶めるような姑息な事を考えていたんですね」 畳み掛けるように小杉麗華も口を挟む。 「どんなに美杉課長が忙しくても、満足に課長の補佐もせずに自分だけ新しい子を雇って侍らせて嫌らしいったら」 そこまで小杉に言われて 「違う!」 と鹿央は思わず叫んでいた。 ショックだった。 小杉には嫌われている自覚があったが、直属の部下である吉田にも全く信頼されていなかったことが。 だが、美杉は顔色も変えずに二人を制止した。 「証拠もないのにくだらない内輪もめをしている場合じゃないだろう。自分がやるべき事をやれ。 今回の事でどういう判断を下すのかそれは、上層部が考えることだ」 もちろん、美杉は鹿央の顔さえ満足に見なかった。 |