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絨毯の深みで靴の汚れが妙に気になる。 今日は念入りに本職の靴磨きに磨いてもらったから大丈夫だと思うが、 つい最近、自分の靴がどれも碌に磨かれていないのに気がついたのだ。 実をいえば鹿央は、以前にはあまり感心がなかった身だしなみにも最近随分気にかけるようになった。 もともと、高価な物をあてがわれてはいたが、マンションにやってくる家政婦が 妙に煩わしく干渉してくるのが嫌で、理由をつけては断っていたのだ。 だが、最近は家政婦がやってくれるアイロンやクリーニングも断る事はない。 なぜならどこかで、もしかしたら美杉に触れられるかもしれないと 思ってしまうからだ。 おやじであることは、どうしようもない事実だが、せめて身だしなみだけは きちんとしていたい。 今までやってきた家政婦の中には、家政婦というには若過ぎる妙齢の美人がやってきたりするのも 鹿央にとってうんざりする所以だった。 間違いなく親か親戚の差し金でやってきたのだろう。 あわよくば嫁にというわけだ。 そんな意図が分り過ぎるくらい分かってしまうからこそ、家政婦を敬遠していた鹿央だったが、最近はそんな事もいっさい気にならない。 彼の関心の殆どは、どうしても美杉に向いてしまうからだ。 彼に、軽蔑されるのは恐ろしいけれど、たとえ仕事のためでも彼と触れあうその感覚に どこか溺れそうな予感がする鹿央だった。 エントランスの奥に、前に美杉と待ち合わせたバーラウンジがあった。 重厚な入り口に、どちらかというと男性的な佇まいで、英国のクラブを模しているのだろうか? 深い絨毯の襟足と低いソファが鹿央には逆に居心地が悪かった。 ある程度のステータスを持った男性ならいざ知らず、所詮親の七光り、虎の威を借る狐の自分にとってひどく場違いな場所だ。 あまり目立たない場所に腰掛けると、ボーイがすぐにオーダーを取りに来る。 「鹿央さまでいらっしゃいますね?カンパリソーダでよろしいでしょうか?」 前に来たのは一度きりだというのに、名前と注文を覚えているボーイに プロ意識を感じた。 どんな職業だって居場所を見つけプロ意識を持っていれば、そこそこのプライドを保っていける。 それに比べて自分はどうなのだろう。 兄に対する対抗意識。 親は自分をいまだに可愛がってくれていると思うけれど、それはどこか幼子の扱いに似ていた。 兄のように信頼を寄せているわけではなく、 結局バカな子ほど可愛いという心理なのだろう。 だから自分はいつまでも中途半端なのだ。 そんな事をつらるら考えながらも、ボーイにだまって頷いて辺りを窺うとなんとそこには最も苦手な男の一人である兄の生島哲(いくしまさとし)の姿が見えた。 すっと身体が寒くなる。 兄もいまだに自分を可愛がってくれる。 それはまるで自分が少年だった頃の扱いと 全く変わっていない。 自分は頼りにならないから、子会社の庇護の元に置いてやっているという意識なのだろう。 『直樹は享楽主義だからな。次男は気楽でいいじゃないか。お前くらい何もしなくても 俺の会社でいくらでも養っていける』 そんな言葉をいつもかけられて多少反発もしたし、傷つきもしたけれど、結局本格的に対峙してこなかったのは自分の罪なのだ。 だけど、今だけは、どこか自分を小馬鹿にし甘やかす兄に今だけは会いたくなかった。 兄達も許可したというお仕置きの現場を見られるなんていくらなんでも酷過ぎる。 兄は知っているのだろうか? 知ってこんなお仕置きと称した性的虐待を許すのだろうか? だとしたら、もう兄にも親にも頼らない方がいいのかもしれない。 だからといって、自分が何かこの年齢で新しい仕事を見つけられるメドもないのだ。 そう思いつつ、そっと彼の目を避けるように顔を伏せた。 だが、それは幾分遅過ぎたようだった。 「直樹……直樹じゃないか。誰かと待ち合わせか?」 「あぁ、兄さん、年下の上司です。ちょっと仕事上で誤解が生じたみたいで」 もちろん人前で話せる内容ではないのは兄こそが知っているのではないのか? 「相変わらず、真面目に仕事をしていないんだろう?ゆくゆくはお前にあそこを任せるつもりなんだぞ。 それにお前ももういい歳だろう」 そう小言のような事をいいつつ、その表情はまるで幼い頃から全く変わらぬ優しい声色だ。 とても40代の一人前の男に対する言い方ではなかった。 「お金は足りてるか?最近家政婦をやめさせなくなったそうだが、あんなおばあさんがいいのか?」 まるで小学生にでも言い含めるような言い方。今までは何の疑問も持たなかったのに。 いったい兄はどこまで知ってるんだろう。 「新しい事業は、好調なんですってね。僕は結局この子会社で終わる人間なんでしょう?」 「まぁ、そう拗ねるな。デアコーポレーションだって、今では社長になった小平くんが頑張ってくれてるから、 我が社にとって重要な会社だ。それよりお前に会わせたい人がいるんだが」 デアコーポレーションとは、今、鹿央が席を置いている子会社の通称だ。 「また、お見合いですか?僕は嫌です」 「女の子に不自由してるんだろう?そろそろきちんと身を固めろ。お前はもう、40過ぎてるんだぞ」 「分かってます」 分かっているのだ。そんな事は。 だけどいつも宛てがわれるのは兄のお下がりのような女ばかり。 それなら結婚なんかしない方がいい。 「何をそんなに意固地になってる」 「だって全部兄さんが味見をした女ばかりじゃないですか。僕はいつも下請け扱い」 鹿央がそういうと名義上だけ名字の違う兄の生島はすっと鹿央の頭に大きな手を乗せる。 「ばかだな。そんなつもりはない。お前に相応しいか確かめてるだけだ」 「そんなお手付き女なんか、真っ平ごめんです」 それでも生島はさも嬉しそうに、「結婚したくないなら仕方ないさ。お前は一生童貞でいればいい」 そういってすっと顎を指で撫でた。 ちょうどその時 「鹿央さん……」 そう二人に声をかけたのは無論美杉だった。 生島は柔らかい笑顔でゆっくりと席を立上がった。 「君が直樹の上司になった美杉くんか?直樹の教育よろしく頼むよ。こいつもいつの間にかこんな歳になってしまったがまだ、無垢という言葉が似合うような精神的には幼いところがある奴だから」 そういってすっと名刺を差し出した。 親会社の取り締まり役の肩書きに一瞬どきっとした美杉だったが、この事も含めて後でゆっくり 部屋で身体に聞いてやろうと美杉は決心していた。 「御挨拶が遅れまして、この度鹿央課長代理と同じ所属に配置されました美杉と申します」 「君の噂は聞いてるよ。デアなんかには勿体無い人材ともっぱらの評判だ。うちの社に引き抜きたいくらいだよ」 生島はがっちりと美杉の手を握りしめ意味深に片方の口角を上げた。 「過分なお言葉痛み入ります。実はこの後、鹿央さんと具体的な打ち合わせがありまして」 一方の美杉も負けずに爽やかな笑みを返しながら露骨にこれ以上の干渉と時間のロスを牽制する。 「そうか、引き止めて悪かったな」 兄と美杉のやりとりを、鹿央は呆然として聞いていた。 思わず自分の耳を疑ってしまう。自分がずっと行きたかった親会社に兄がいとも簡単に美杉を引き抜こうとしているなんて。……誰もが、美杉の才能を認めている……自分とは対照的に。 しかも自分はもう既に40才を越し、同じ親から生まれた兄弟でありながら、こんな小さな会社で燻っていると言うのに。 きりきりと胃が痛んだ。 不機嫌な気分を隠せないまま、立上がって会計を済ませた美杉の後をついていく。 だが、エレベーターで振り向いた美杉の顔は今までにないほど冷たい表情で、 何か彼の気の触ることを知らずにしてしまったのかと、鹿央は大切なところが思いっきり縮み上がった。 何か鹿央の方から声をかけるべきだろうと思うのだが、喉が張り付くようで声もうまくでなかった。
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