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それはいつもの雪でも降るんじゃないかと思うような寒い朝。 僕は白い息を吐きながら小走りで学校に向う。 この時間なら走らなくとも遅刻の心配はしないけれど、いつものメンバーと朝にダベリングするのが、毎朝のちょっとした楽しみだからだ。 「いてっ」 後ろからいきなりぽんっと頭を小突かれて、振り返ってみれば、悪友の将汰だった。 「おい、トモ!何をちんたら歩いてるんだよ。お前は足が短いんだからもっとこまめに動かせよ」 そんな毒にもこっちも背伸びして殴り返してやる。 「うるせっ!」 小突きあいながら「よせよ」「テメーが先に殴ったろうが」などと子犬のようにじゃれあう。 そんな15才にもなってそんな幼いじゃれあいもなんだなと思うのだが、こうして登校するのも僕達の日課だった。 実は僕らの学校はちょっと特殊だ。 知る人ぞ知る。工業高等専門学校。 いわゆる高専というやつだ。 早い話が、高校と短大が一つになった中途半端な学校だが、理数系が得意だし大学に行くのに試験がいらないからいいかなんて気楽に考えていた僕は全く浅はかだったという他ない。 なぜなら就職率100%…そういえば、確かに聞こえはいいけれど、実は進級するという事自体が、とんでもなく大変という仕組みなのだ。なんと一教科でも6割以下なら赤点というとんでもない落とし穴が用意されており。つまり、就職できないような落ちこぼれは、あっという間に落第させられてしまうという現実を僕は知らなかったからだ。 僕らは、これをダブりと呼んでいたけど、ダブリは2年はできない規則になっており、力のないやつはあっという間に高専という巨大戦艦から容赦なく振り落とされる。 実際、高校よりよっぽどシビアなところだった。 しかも、男子高ではないのに、女子はクラスに数えるほどしかいないし、もっと最悪な事に近くの高校とはなぜかとんでもなく離れていて、お年頃の僕たちとしては、寄ると触ると猥談に花を咲かせるしかないそんな情けない状況だ。 そんな高専と言えば昔は、オタクの巣窟だったらしいが、僕達平成生まれは、そんなイメージほどダサくはない。 たとえば洒落っけのないパーカーなんか着てるやつは、昭和生まれの先輩たちだけだ。 クラスを見回してみれば、将汰を筆頭に女にモテそうな男ばかりが揃っている、だから 僕みたいなどっちかといえばチビで気の弱い男なんかに女子達は鼻もひっかけてはくれない。 全く寂しいものだ。 クラスの中でどんどんカップルができていく中で、この16年間校外にも校内にも彼女というモノがいた試しがないのは僕だけという情けない状況だった。 しかも、高専には悲しい病がある。 高専病だ。 これにかかるとどんな女の子も可愛く見え、しかも恐ろしい事に末期症状になると 男まで可愛く見えてくるという。 5年も青春時代をここで過ごすなら、それだけは絶対避けたいところだ。 もっとも、そんなに盛んではないが、そんな僕らの高専にも部活動はある。 一番有名なのはロボットコンテストで有名なロボット研究会とか、映画やドラマで有名になった男子のシンクロスイミングクラブだったりするのだけど、小学校の時から実験クラブに入っていた僕は、高専でも実験同好会という怪しい部に入る事にした。 自分達でさまざまな実験もしたりするけれど、基本的には、児童館や小中学校に実験の出前をしたりというのが主な活動だ。 それでもさすが、国立だけあって、実験道具も薬品も他の高校生がみたら、垂涎ものだろうというくらい揃っている。科学室が大好きな僕はこの薬品の香を嗅ぐだけでドキドキしたものだった。 1年生の僕は、簡単に薬品など触らせてはもらえないのだけれど、その日はたまたま先輩達が、近所のコンビニに美人の若いバイトが入ったとかで、みんなが総出で見学にいってしまい、僕一人が留守番と称して実験室に取り残される事になった。 多分、魔が差したというのはこういう事をいうのだ。僕は滅多に手にする事のできない薬品をそっと瓶から出して、眺めるだけなら許されるだろうという悪魔の囁きに抗えなかった。 慎重に、ゆっくりと震える手でスカイブルーのある薬品を瓶から出した時だった。 「朋之(ともゆき」 いきなり声をかけられて、焦った僕はなんと最悪な事にスパチュラから薬品を試験管立て の上にばらまいてしまったのだ。まるでスローモーションでも見ているようにその青い薬品はゆっくりと 拡がってゆく。 「あ、あぁ……」 しかもとんでもないことに、何本かの試験管の中に薬品が入り込んだらしく、試験管から煙りが出てきた。 実験室に入り込んだのは悪友の瀬川将汰だったから、彼もびっくりしたように僕に声をかけてから、教室を出ようとする。 「おい、そのまま待ってろ。誰か先生を呼んでくるから」 待って……僕は叫んだつもりだったけど、発生した妖しい青い気体を吸い込んだらしく、足元がふらふらする。 心臓がバクバクして身体は溶けるんじゃないかっていうくらい熱くって、自分じゃなくなりそうだ。 不味い……そう思いながら僕は胸を押さえた。 そこには、ふにゅっとした異様な感覚があった。 なんだこれ?自分の胸の上に何か異物が乗っている。 奇妙な感覚のそのゲル状のものは、なんと僕の胸の上に張り付いている。 僕はパニックになりそうになる。 どうして? 何が起ったの? そしてその時の自分の行動が後から考えてどうしても自分でも説明ができないのだけど、僕は証拠隠滅でもしようと思ったのか、試験管に残った顆粒状のものをポケットにたまたま入っていたビニールに詰めると 慌てて実験室を飛び出した。 なんとか落ち着かなければとトイレに駆け込もうとすると、向こうからやってきた学生がぎょっとしたように「うおっ」と声を上げた。 そして僕を見て恥ずかしそうに顔を赤らめると「女性用はあっちですよ」 と今までの僕の人生でおなじ男からかけられた事のないようなネコ撫で声で囁く。 その時の僕はやっぱりパニックになっていたんだと思う。 「はい」 と素直に返事をすると抵抗なく女子トイレに入り込んだ。 高専に女子の絶対数が少ない事もあるけれど、運良く誰も使っていないようだ。 鏡をみて、僕も『うぉっ!』と声を上げたつもりだったのに、出てきた声は「きゃっ」という極めて情けないものだった。 それも、仕方ないだろう。 なにせ、鏡に写っているのは、見慣れた僕自身ではなく、どうみても可憐な少女だったのだ。 髪も若干伸びてどこからどう見ても僕とは別人だった。 もともと男の中では、逞しいとはいえないタイプだったけれど、真っ白な顔と妙に赤くて小さな唇。 そしてふっくらとした頬がすっぴんであるにも関わらず、女である事を主張する。 僕はおずおずとその手を股間に持っていく。 だってそうだろう。男の象徴だけはなんとしても 死守したかったのだ。 それなのに股間には、いつも存在していたはずの僕自身がなく、妙に柔らかい感覚の下半身に僕は叫び出すところだった。 「助けて……」と。 いや、きっと声に出していたんだと思う。なぜなら 「大丈夫ですか?」 と妙に紳士的な話し方をする 将汰が、いつの間に入ってきたのか洗面室に入り込んで僕の肩を包むように抱き、しかも今にもお姫さまだっこをしそうになっていたからだ。 「きゃ〜」 パニくった僕のその情けない叫び声と共に、我に返った将汰は、「し、失礼しました〜〜」と慌てて女子洗面台から飛び出していく。 どうせなら、僕も将汰と一緒に飛び出せばよかったと、すぐに後悔したけれど、それは遅過ぎたようだった。 自分でも混乱し過ぎると何もできないものだ。いったいどのくらい僕は、女子トイレの個室に佇んでいただろう。 冷静になるとあまりの情けなさに本当に泣きたくなった。 どうして僕が女の子に? 女の子の身体を触ってみたいとは思っていたし、裸も見たいと思っていたけれど、 自分がこうなってしまえば、恐ろしくて触る事もできない。 僕はなんて小心者なんだろう。 それにしても、僕の心臓はまだ高く鼓動を打鳴らす。だって将汰が、将汰じゃないみたいだった。 男同士の僕には、随分遠慮がない彼だけど、いくら助けてと呟いたからってお姫さまだっこなんかするか?ふつー。 そういいながら、僕は女の身体になってしまった事実より、将汰に優しくされたことになぜかドキドキしてしまっていた。 そうしているうちに、また急に胸が苦しくなる。僕の身体が燃えるように熱い。身体が溶けてしまうような熱さに気が遠くなりかける。いったい僕はどうなっちゃうんだろう。 少しそれが冷めて落ち着くと、僕は下半身に異物を感じて思わず手をやってみた。 ある。 確かにある。 僕の大切なものが戻ってきた。 僕は嬉しさと今までの恐怖で泣きそうになりながら、慌てて低学年棟に駆け出した。
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