魔境の裏側 3 


 

 そのコツコツという音はしだいに私の部屋に近付いてくる。少ししてからそれが革靴の音だと気がついた。 看護師の靴はどちらかというとペタペタという音なのだ。ゴムの底のサンダル特有の音だと 最近聞かされた。どうやら消音の為らしいが、それが医者の靴に適用されないのがどうも不思議だ。

 その音は私の部屋の近くで止まった。

 「細岡さん、休んでおられますか?」

 殆ど息だけの小声だ。だが、確かに聞き覚えのある艶を含んだぞくりとくる声。

 「いえ」

 緊張のあまり口の中がカラカラに乾いている。

 「じゃあ、ちょっとお時間いいでしょうか?本当は担当医の許可がいるんですが」

 逆光でその黒い影が誰なのか全く見えなかったが、それがリョウガだという事はすぐに理解できた。

 「はい」

 依存のあろうはずもない。私とて彼と二人だけで話すチャンスをずっと窺っていたのだ。 彼の方からこの機会を作ってくれる事に『なぜ?』と多少の違和感を感じずにいられなかったが、 今はそんなものにかまっている暇はなかった。  

 実際、数週間前瀕死ともいえた私の身体は信じられないくらい回復していた。今まで薬などというものを使う事もないので、よく効くということもあるのだろうが、自己再生能力も一般の市民よりは優れているといつか父に聞いた事がある。

 そんな父も戦いの最中に亡くなってしまった。この世界では回復魔術ではない何か別の力で身体を再生させようとする、それはつまりどこか毒薬にも似た薬の力を使うことがこの世界のやりかたらしい。

 そしてこの世界の男達は牙を抜かれたように大人しく、逆に女達は意味もなく力強い……それはまるで男の庇護を拒否するかのようだ。

 リョウガも例外ではなかった。これがあのリョウガと同じ顔を持つ 男の物言いかというくらい細やかで柔らかい。

 これが、彼等の世界というものなのだろうか?

 

 

 私の住んでいたあの世界で、どちらかというと男として大人しい私としては、この世界の居心地が決して悪くはなかった。 大人の男の自分ですら、怪我をしているというだけで、まわりが幼子のように扱ってくれる。くすぐったく感じる程に……。

 そんな安心感が、私が恐れずにリョウガについて行けた所以だった。向こうの世界なら間違いなく身を隠していただろう。

 「どうぞ、殺風景なところですが、紅茶くらいならごちそうできます。まだ、完全に御身体が本調子ではないでしょうから、どうぞそのベッドで休んでください」

 彼に通された部屋で勧められたベッドに軽く腰をかけると彼は肘掛けのついた回転する椅子にかけた。そして私の瞳をじっと見据えながら、不安そうに右手の親指で人指し指と中指を神経質そうに何度も撫でている。

 「単刀直入に伺いますが、なぜ、細岡さんは僕の名を御存じだったのですか?普段は、医局でも名字以外で呼ばれる事がないのです。もちろん前にどこかでお会いした記憶もないのですが……」

 「申し訳ありません。栗田先生が私の知った者に良く似ておりましたので…つい…彼もリョウガという名だったものですから……」

 「だが、あなたは記憶に障害が残っているとお聞きしました。……っというかカルテを見せていただいたんですが……他のどんな近しい方の名前も忘れていらっしゃるのになぜ、私の……その名前を口にされるのですか?」

 どうみても、リョウガに思える青年の口から発せられる、優しいそして私を気遣うその言い回しに思わず苦笑が洩れた。だが彼はそんな私など全く関知せずに自分の話を進めていく。

 「呼びつけてこんな事を申し上げていいのかどうか。お会いした事はないと先程いいましたが、実は僕にもあなたの記憶があるのです。それも何度も」

 「え?」

 この世界でももう一人の私はリョウガとなんらかの接触を持っていたのだろうか?

 「すいません、混乱させるような事をいって……。実際に細岡さんとお会いした訳ではなくて昔から僕が幾度となく見続けた夢の中の人物なのです。そして、 怒らないで聞いていただきたいのですが、夢の中では記憶の中のその人はあなたにそっくりの美しい女性でした。しかも彼女の事を『カムイ』とあなたと同じ呼び名で呼んでいたのです。 だから、初めてお会いした時、あなたに名前を呼ばれても一瞬、僕は男のあなたが誰なのか思い浮かばなかったのです」

 この青年にいったい私は何を伝えればいいのか、リョウガと瓜二つの顔を持ち、同じ発音の名前だからといって、この医者は全く別の男だと私の理性は囁いているのに、感情がそれを認めようとはしなかった。

 胸の奥から激情が沸き上がり、好きだ……抱いて……と縋り付きたくなる。

 それを堪えると鼻の奥がきゅっと締まるように痛んで目頭が疼いていた。

 「すいません、失礼な事を言って。気を悪くされたなら謝ります。ただ、僕はあの日から どうもあなたの事が気になってしまって偶然にしては色々な事が重なり過ぎている……神経科を専門としているので、もし何か気になる事があったらなんでも相談していただけませんか?そして御迷惑でなければ僕の話も聞いていただけると有難いのですが」

 「私で良かったら……」

 私はそう呟くのが精一杯だった。彼がリョウガとは全くの別人だと この時から私は思えなくなってしまった。感情がどうしても理性に勝ってしまうのだ。

 いや、そんな生易しいものではなかった、この時すでに私の理性は感情にその全てを食らいつくされている……といっても過言ではなかった。

 リョウガに抱かれた夜の事を思い出し、背中がぞくりとなる。 あんなにも乱暴な男が、二人だけになったとたん、砂糖菓子のような言葉を甘く囁き、自分の身体のあちこちを愛おしむように撫で回す。

 その指を待ちわびて心が戦慄く自分がたまらなく嫌だった。 この男を前にしていると、私は嫌でもリョウガとの熱い夜を思い出してしまうのだ。


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