ディオニュソスの雫


 

【 2 】

 天野に貰った靴を見つめながら、僕はたった今起きた現実を、なぜか受け入れる事ができないでいた。

なぜならこの学園に入園してから、目立たなくも続いてきた苛めに近い毎日。

   そしてそれより以前は、完全に無視されていた。僕がまるでいないかのように振る舞われて。

 そんな事が辛くなかったと言えば、それは単なる強がりだ。 だけど僕は、母にその事実を伝えようとは思わなかった。 なぜなら、母に心配されるだけでなく、干渉されることを極端に警戒していたから。実際、僕は充分に母に干渉され続けていたのだ。  

もう、僕は幼子じゃない。

だから、可能なら僕は透明人間になりたかった。

せめて魂だけで浮遊するように存在したかった。

なるべくそれに近いものになる為に、努力もしたし、足りない所はそんな自分を夢想したりもした。

僕は、いつも現実と非現実の間を、いったりきたりして、少しずつそれが成功しかけていたのに、天野という男の存在が、そんな僕の些細な企みに波紋を投げてぶちこわしにしてしまったのだ。

 それなのに、僕はそのぶちこわしにした張本人の気配を追わずにいられない。彼だけが、この学園で僕に関心を示し、優しくしてくれたのだから。

そして彼も、ことある毎に僕の姿を確認すると、駆けるように寄って来て、話しかけてくれる。

「ありがとう、あげた靴を履いてくれたんだね。無理に押し付けたから、捨てられちゃうかもしれないって覚悟してたんだ」

貧しい生活の僕が、他の靴を買う余裕がある訳がない。多分彼はそんな事を予想する事すらできないだろうけれど。

「こちらこそ、ありがとうございました」

天野は俯きながら答えた僕の顎をすっと親指で引き上げると

「雅俊くんは、顔立ちだけじゃなくて、声も綺麗なんだね」

とにっこりと微笑む。 僕が、真っ赤になると

「普段は姿勢がいいのに、話す時は俯くんだ。それも誰かに言われているの?」

その一言で僕は、すごく驚いて飛び上がるように彼を見つめた。

「迷惑じゃなかったら、一緒に昼食をとらない?カフェで好きなものを奢るから」

僕は、すごく怖かった。知られてはならない僕の秘密のほんの欠片でさえ、知られるのが怖かった。

そして、僕はその心配より、その秘密を守る事より、彼と親しく話す機会の方が大切なキモチになっている自分が一番怖かった。

恥をさらすようだけど、菓子パンとか、母の手作り弁当ばかりしか昼食を食べない僕は、この学園のカフェテラスに入るのが、初めてだった。

 吹き抜けの高い天井とシャンデリア。そしてこんな大きなガラスがあるのかと思うような壁一面を覆う強化ガラス。そこから見える同じ系列のキャンパスに続く森のような庭に咲くバラが、色とりどりに大輪に咲き誇って見事だった。

 入るなり、みんなの視線を浴びたのは、天野がいっしょだからだろうか? それとも、僕の裾の痛んだボロボロの制服が珍しいのか?

実は、僕は学園のカフェといっても、セルフで好きな食事を取るのだと思っていたが、ちゃんと真っ白な制服のギャルソンがエスコートしてくれる本格派だった。

 しかもメニューには金額が入ってない。どうする? そんな僕の気持ちが伝わったのだろうか?

「カードで親が払うからね。気にしなくていいよ。しかもそれだって会社の交際費で落ちてるらしいし」

 おどおどする僕を見透かすかのように、天野は頬杖をつきながら、じっと僕の仕草を見つめている。

「フレンチでいいかな?」

 僕は黙って頷いた。ここは初めてだから希望を聞かれたって困るし。

 馴れた仕草の天野をこっそり盗み見ながら、どうしてこんなに人生が不公平なのか考える。  いっそ母が、自分が金持ちだった昔を忘れて、貧乏な今を素直に受け入れ、貧乏な僕がさほど目立たない学校にいかせてくれればよかったのだ。  いくら母の家柄が名家であっても家柄より芋茎というではないか?こんなに生活に困窮していては差し障りがある。

 特に僕は、生まれついた時には、もう人より貧しかったのだから、逆にいじけて育ってしまうと思うのだ。まさに自分のように。

 いったい誰が、僕と天野を似てるなどとふざけた事を言い出したか?こんな天と地とも違う僕らを捕まえて不思議で仕方が無い。

「実は、知ってると思うけど、もうすぐ学園祭があるだろう?それのチャリーティーパーティって知ってると思うけど、さっき、話した僕の妹が君に興味を示してね。男性だからダンスに関心はないとは思うけど、参加してくれないだろうか?」

「パーティに参加なんて僕、困ります」

 実際、この学園の学園祭の華やかな事と言ったら、マスコミが取材にきて報道規制がひかれるほどなのだ。その中でも、チャリーティーパーティは最も豪華で滅多に許可されない家族枠がオークションに出されるほどだった。

 しかも会場に入る為のパーティ券ですら数万円もしたはずだし、第一本来学園の生徒や家族は、正装でくるはずだから、制服すらボロな僕が参加するなんてどうかんがえても現実的じゃない。

「せっかくのお誘いはとても有り難いのですけど、服もないし、自慢できる話ではないのだけど、僕の家は今は人にチャリティーする余裕なんてとてもなくて」

 自分が、そんな金があるなら欲しいくらいなのに。

「パーティ券はあるし、服ももし嫌じゃなかったら、僕が小学校高学年の時に来た服でよかったらもらってもらえないだろうか?その頃は、だいたい今の君の体型と似たような感じだと思うし」

「小学生……」

 僕が絶句してると。

「いや、申し訳ないが今から作っても、時間的に余裕がなくて中途半端なものしかできないから。その服は、生地から注文した品だから気に入ってもらえると思う。それで有楽野くんは、他に具体的に何かチャリティーを考えてる?今から考えるのは面倒だろう?」

 畳み掛けるように言われると僕は頷くしかなかった。なぜなら学園にいる限り、寄付なりチャリティーなりするのが義務のようなものだったが、僕は今まで極力避けてきたからだ。

 この学園は寄付かチャリティーで100万円単位のお金が、動くのが普通の世界なのは知っていた。

 でも、母子家庭の我が家にとってどこをどう工面しても授業料以外に100万単位のお金を捻出する事はできない。

 それを僕は、なるべく関わらないでいようと思っていたけれど、こうして直接指摘されれば何も言い返す事など出来る訳がない。

 背後に控えるギャルソンが、テーブルをセッティングしてバカラのデキャンタからアルコールの入っていないシードルをゆっくりと注いでくれる。

 僕にとって重苦しいだけの雰囲気の中、次々と運ばれる色とりどりのアミューズやらアペリティフの段階から、僕は殆ど手をつけられずにため息ばかりついていた。

 それから数日後の午後、僕は結局上手に天野の誘いを断る事もできずに、ホテルに預けてある天野のスーツを僕の体に合わせた後、そのままサロンに連れ込まれる事になっていた。

 美容師の隣で天野が、腕を組みながら僕を見つめている。

「髪の長さはそれほど切らずに、すっきりさせて」

「長さを変えないと男っぽくするの難しいですよ」

「別に男っぽくする必要はない」

 それってどういう意味だよ?

僕の意見は聞いてくれない訳?

 美容師も、当然のように僕の意見を伺おうともせず、ごく自然な幹事で天野の意向だけに関心を寄せて二人だけで、話し込んでいる。

 いったい誰の髪なんだと心の中で突っ込みを入れつつ、はやり金を払うつもりだから、もはや、僕の意向なんかどうでもいいんだろうと、やさぐれた気持ちになる。こんな惨めな思いをさせられるなら、最初からきちんと断るべきだったのだと唇を噛んだ。

 華やかな学園祭の当日は僕の心とは裏腹に綺麗に晴れ上がって雲ひとつない日本晴れだ。

 数日前。天野がわざとらしく泥をかけてしまったからと僕の体型に合わせてプレゼントされた制服をもやもやした気持ちで身に付けていた。 そのまま、彼が僕を女の子でもエスコートするように肩を抱いている。

 なんだか、小馬鹿にされてるような、彼の子分にでもなってしまった、嫌な気分になる。

 天野と関わりあいたい生徒は、多いのだから、僕の事など放っておいてくれるといいのに。

 もしかして、天野は自分と似てると言われてる僕が、貧しく地味なのが我慢ならないのだろうか?それとも金持ちの気まぐれなのか?

 こんな華やかな場所でつき刃の格好をした僕が天野と一緒にいて目立つ事、それだけを僕は気にかけていた。

 

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