ディオニュソスの雫


 

【 1 】

  朝、目覚めると自分がいったい今何処にいるのか、さっぱりわからないという錯覚に陥った事はないだろうか?

 自分が、何者なのか?そして自分がどこにいるのか?全てから隔離され、リセットされたような状態。

 僕は、毎朝、覚醒するまでまるで母体の中に包まれた胎児のような感覚にとらわれる事がある。

 ゆっくりと今、自分が何処にいて、自分が何者なのか覚醒するとき、本当は今こそが夢であればよかったのにと何度思った事だろう。

 だからといって僕は、貧しい家庭に育ったけれど、自分がさほど不幸だったとか、困窮しているという自覚を持つ事はなかった。

 それは、有り難い事にひとえに母の愛に包まれていたからだったのだろう。 幼い時は、母の愛こそが僕の全てだった。  

 だが、思春期に入ると僕は、自分と他者との違いを自覚せざるを得なくなる。 母が、僕の父であった男に騙されて代々受け継いだ全財産を失った事や、それでも女手ひとつで、代々僕の曾祖父から通っているという今の学園に、お情けで入れてもらっている事。 そしてこのセレブの子弟達が通う学園に通う事が、どんなに母が努力したとて、貧乏な僕が周りからどれほど浮きまくっている事など。

 引っ込み思案だった僕は、自分から誰かに話しかけるなんて考えもしなかったから一人を孤独だなんて思った事もなかったけれど。 誰かが僕の噂をしても、それは僕の外側の出来事でしかなかったはずなのに。

 つまるところ、どんなに人と関わり合いたくなくとも、人は一人では生きていけないということなのだろう。

 だからといって僕の覇気のない顔立ちが、学園で最も人気のある、某生徒にほんの少し似ているから、いらぬ注目を浴びるだなんて、やっぱり理不尽だと思ってしまう。

 その、僕が彼によく似ているという評判の男は、僕より20cm近くも身長も高く、さらさらの髪に少し顎の尖った、逆三角形の輪郭。すっと通った鼻梁に口角の上がった上品な口元、そして今時の洒落たヘアスタイルの持ち主というもっぱらの噂だった。

 いかにも金のかけられた形(なり)をして、どこからどうみても、あきらかに僕とは住む場所の違う人種だった。  

 つまり、いうなれば生まれもっての支配階級オーラを持ち、育ちの良さが滲み出るそんなタイプだと皆の賛辞を受けている。  

 いつから伸ばしっぱなしなのか分からない、目に半分かかっているような長髪で、入学してからずっと同じ制服を着用し続けて、しかもすでに肘や膝がテカテカの僕とは、どうみても似ても似つかないと僕は思う。  

 しかも、僕の制服の裾ときたら、自転車通学で何度もサドルに引っ掛けるからボロボロで、この学園でそんな襤褸を身にまとっているのは、どうみても僕だけだったから、似ているというその噂は、僕にとって苦痛でしかなかった。

 だから、必ずと言っていいほど、僕には枕詞がつく。

 『雫くんを酷くした』というヤツだ。

 そう、その雫くんというのが、僕によく似ているらしい天野雫(あまのしずく)という同期生の事なのだ。

 『らしい』という曖昧な言葉をつかったのは、実のところ僕は彼の姿を実際に間近で確認した事がないからだ。

 それというのも、僕は、誰にも関わりたくない事もあったし、自分に自信がない事から、いつも人と目を合わせないようにしていて上を向いて歩いた事が一度もなく、確認のしようもないからだ。

 それは、それじゃなくても貧乏が故に悪目立ちする僕が、なるべく人に目を付けられないようにと自衛する苦肉の策だった。

 それでも、とおりざまに聞こえてくる。古くたってボロだってきちんと洗って繕ってあるのに。

 「きったねーな」

 「本当にどうしてここの学園にいるのかしらね」

 「全くどこが雫に似てるって?」

 などという悪し様な誹りを、僕はどこか他人事のように遠くで聞いていた。

 その雫という僕にそっくりと噂される男が、僕に直接関わってくるまでは。

 

 それは春先にしては暑い朝だった。実は以前から、何度か上靴を隠されていて懲りていた僕は、鞄の中から自分の履き崩れた潰れた上靴を取り出した。

 代わりに上靴が入っていたビニール袋に履いてきた外靴をしまい込む。 そうしないと、僕は裸足で家まで帰らなければならない羽目になる事を覚悟しなくちゃいけない。 それだけは避けたかった。

 ただでさえ、授業料に苦労してる母に心配をかけたくなかったし、情けない事に、僕の肌は男にしては、あまりにかよわくて、とても裸足で長時間の自転車通学に耐えられそうになかったからだ。

 突然、背後から、思いっきりどつかれ、よろめいたところを、背後からやってきた誰かに靴の入ったビニールを奪い取られる。

 「や、やめて」

 「うるさい。これは、ゴミだろう?」

 「そうそう、ゴミはさっさとゴミ箱に入れなくちゃ、臭くてかなわないよな」

 次々と他の生徒から生徒へ、伝言レースのように靴が投げられる。 僕は、それを見ながら、殆ど諦めかけていていた。

 どうせ、あの靴も捨てられてしまうのだろう?確かに古くてボロボロの靴だけど僕にとっては、唯一のまともな靴だったのに。  

 それでも僕は、もう次の瞬間にはその靴の事を忘れ去っていた。それが最初からなかったもののように意識の外に置く事にして。  

 だって、どうせあれはもう、ボロボロだったんだもの、処分したと思った方が気楽だし。

 もう何度もこんな虐めに近い事があって僕は、多少の事では驚かなくなっていただけでなく、今までの経験上、キモチを切り替えるのだけは上手になっているんだろう。  とにかく裸足で帰る事だけは避けなくては、それだけは、母に酷く心配をかえてしまうからと、ため息とともに、学園の事務所に向かう。  

 そこでは、こういう場合に備えて忘れ物の靴を貸してくれたり、何もない時は、学園のスリッパを貸してくれる。  

 ところが、まるで待ち伏せでもしていたかのように、その事務所の脇から何者かが僕の前に突然現れて、ぐっと腕を掴んできた。 いつも俯き気味の僕もさすがに、びっくりして顔を上げる。

 なんと僕の目の前に、僕のクラスメートではない知らない男が、仁王立ちしている。

 唇には、笑みが浮かんでいたけれど、切れ長の瞳の意志の強そうな顔立ち、思わず警戒して体を固くする。

 「有楽野くんだよね。有楽野雅俊(うらのまさとし)くん。実は、さっき友達が僕のクラスメートが、君をからかったらしいって聞いたんだけど、どう聞いてもそれが、やり過ぎだと思ったから」

 だけど僕はこの男を知らない。

 「あの……」

 僕が口ごもっていると、さらに彼は、親しげに微笑みかけてくる。

 「僕は、天野雫。靴は今、購買で買ってきたんだけど、悪かったね。これで許してくれないだろうか?」

 彼が、あの天野?

 僕に似てるっていう天野雫?

 実は、僕は今まで彼を遠くからちらっとしか見た事がなかったから、すぐに彼だと認識できなかったばかりか、僕は今の彼が僕に靴を差し出してる今の状況に、軽いパニックになっていた。

 新品のしかも最新モデルのスポーツシューズ。学園内で履く事を認められてるものの中で最も高価なものだ。

 こんなものを差し出されても、僕が今、目の前の靴に立て替えてくれた代金を払う現金すら財布に入っていなかった。

 顔から火が出るほど恥ずかしかったが、言わない事には腕を放してもらえそうにない。

 「あの、ぼく、今持ち合わせが……」

 「それはいいよ。雅俊くんの靴をダメにしちゃったのは、僕絡みだって聞いたから気にしないで。それより雅俊くんって、クラスメートが僕に似てるって騒いでいたけど、確かに君は僕の妹にすごく似てるかも。僕に似てるかどうかは微妙だけどね」

 そういってにっこり微笑んだ顔は、僕に似てるなんて思えないほど、男らしくてすごいいい男だった。

 僕みたいな、冴えない男が、彼に似てるなんて言われたら、確かに、彼に心酔してる人たちはいい気分ではないのだろうと、ぼうっと考える。

 そして僕が我に返った時には、もうその天野の姿はどこにもなかった。

 この学園で、常に爪弾きのような存在だった僕は、なんだか、天野のような華やかな男に話しかけれただけですっかり夢心地になってしまっていた。

 それが、僕を取り巻く全てのものの序章に過ぎないとは知らずに。

 

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