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様々な人々が行き交う『ムーンドック』にやってくる人々の数は半端ではない。 だからこそ、純粋にカクテルが好きだという青年も少なくない。
爽やかな顔立ちの癖に妙に毒舌な熊谷という青年もそんな一人だった。
雑誌かネットで聞きかじった僅かな知識で必死に質問したり、興味深そうに僕の手許を見つめる彼に
なんともいえない、僕がどこかに忘れてきた純粋さのようなものへの懐かしさが込み上げる。 そんな彼も純粋にカクテルが好きで常連のように入り浸っていた。
ある晩、ノンケだと思っていた熊谷は常連達が息を飲み込むほどの美青年を連れてきた。
不思議な事にあんなに日参していた熊谷は。美青年を連れてきた夜からニ度と来なくなり。
逆に熊谷の代わりにその美青年……小平……がいつの間にか毎日入り浸るようになって。
僕の周りで急速に様々なものが回りはじめていた。
その綺麗な顔に似合わず小平はどうやら、熊谷に純情なまでの片思いをしているのが、僕にも分かった。
質問してくる事は全て熊谷絡みだったからだ。ほんの些細な情報でも熊谷に関わる事なら何一つ聞き逃すまいとするその姿は、本当に純粋でいじらしくて。
何かすっかり汚れてしまった僕の心の清涼剤の様だった。
あまりにいじらしいので、なにくれとなく、つい世話を焼いてしまい、いつの間にか
小平はこの店の看板ボーイのような存在になっていた。
それは週の中過ぎ人気もまばらな早い時間だった。ドアの開く音がしてその音の方を見上げると
「レイさん……」
思わず開けた口の閉じ方を忘れたように、石になって固まっていた優しげな青年。
それは懐かしい空だった。
すっかり大人っぽくなってはいたが、零れるような笑み愛らしい笑顔は昔とちっとも変わっていない。
「まさか噂の『タチ食いのレイ』ってレイさんの事だったの?全然知らなかった」
僕は思わず声をトーンを落とす。
「ここでは、その事を知らないお客さまもいらっしゃいますので、その件に関しては御内密に。でも、せっかくですから私から特別に一杯なら何かご馳走しましょう」
僕はわざと悪戯っぽくそう言って、ドライマティーニをすっと差し出す。
「本格的にこの仕事をやってるんだね」
空はそれにすっと口をつけると一気に流し込む。
「美味しいよ、すごく」
なかなか粋な飲み方をするじゃないか。若い女達がきゃーきゃーいいそうな妖しい笑みをイミシンに浮かべながら、頬杖をついている。
「まぁ、そうですね。この仕事は気に入ってますよ」
グラスを乾いた布で磨きながらこちらも負けじと微笑み返しておき。
「そんなニューハーフになって逞しい男達をひーひー言わせてるなんて思えないくらいここでは、爽やかに化けてるじゃない。今度、僕とどう?」
だから内緒にしろと奢ってやったのに。子供っぽさは相変わらずなのだなと妙に納得する。
「さぁどうでしょう」
そういって軽くかわして、「いらっしゃいませ」と新しく入ってきた他の客との会話に変える。
空は少しだけ不満そうな顔でそのまま出て行った。それはそれでいい。
胸の奥が小さくちりりと鈴の音を鳴らせたけど、僕は聞こえない振りをした。
もう、彼は来ないかもしれない。でもそれはそれでいいじゃないか……下手な期待を抱かせない方がいい。
そんな自分の勘違いに辟易したのはその直後だったのだ。
何年も互いに音信不通で、しかも僕が手酷く振った形の空が僕を捜してこの店に辿り着いたわけなんか当然なくって。
少しだけ注意して空を見れば、空は、小平という美青年が帰るのを待ち構えていたかのようにやってきていたのにすぐ、気が付いた。
常連の一人が興味ありげに僕に囁く。
「あの、空って言う子ね。昔、小鹿ちゃんとつきあっていたみたいだよ」
「小鹿さんってどなたですか?」
「やだな、知らないの?小平君のあだ名だよ。だって彼って瞳が大きくて子鹿みたいにくりくりしてるじゃない」
「え?小平くんが、空とですか?」
「なんていったって彼等は美形同士だし、しかもネコ同士っていうんで結構噂の的になっていたけど、空君がこうやって通っているところをみると、案外振ったっていう空君の方が未練たらたらなんじゃないの?案外ここで網を張って小鹿ちゃんが、彼氏と別れるのを待ち構えているのかもな」
ここは、仕事場だ。 だから顔に出しちゃまずいと思うのに笑う顔は強張り、口の中に苦いモノが拡がる。
なんだろう、この気持ちは。 自分が捨てた関係だって言うのに、空が僕ではなく他の男に夢中になっているのが嫌なのか? そんなの子供っぽい独占欲でしかない。
そう思うなら、なぜ、僕はあの時、空の手を手放してしまったのか? なぜ、今まで
空を捜そうともせず、連絡先すら教えなかったのか?
素直に認めるのには多少抵抗があるけれど、思い出してみれば、今まで、唯一身も心も満たされたセックスができたのは、空と過ごしたあの夜だけではなかったか。
あんなにも僕らは求めあい、溶け合ったのに、目前の突然振って湧いたような幸福に恐れをなして
逃げ出したのは僕の方だったじゃないか…。
自分のあまりの身勝手さに気分が悪くなり、ちょうど珍しく人の流れも切れたので早々に店仕舞をすることにきめた。
閉店の支度が終わって店に鍵をかけていると背後に人の気配がする。
確認する間でもなく視線を下に落とすと空の靴だった。
どうして僕は空のてっぺんからつま先まで、ほんの僅かな立ち姿を見ただけで
彼だと気付いてしまうのか?
「もし、今夜誰も相手が決まっていないなら僕とどう?」
そんなことを今の僕に軽くいってくる空に加虐的な気持ちが芽生えてくる。
「悪いね、噂で聞いてると思うけど僕のタイプは筋肉隆々とした男っぽいタイプなんだ。
女っぽいなら本物の女を抱いた方がいいし」
空の傷ついた悔しそうな顔をみて、ちょっといいすぎたかなと思う。
「ごめんね」
すっと差し出した手をパンと邪険に払われて。
「別に、僕だってニューハーフと好んでやろうなんて思わないし」
悔しそうに言い返すあまりの分かりやすい反応に思わず笑ってしまった。
男も可愛いなんて思うのは、僕がすっかりこっちの世界に染まっているからなのかもしれない。
「僕がいうのもなんだけどさ、実際、レイさん、女となんかできんの?」
意地悪そうに空が聞く。そんな空が愛しくて抱き締めてやりたくなる。
「たぶんね。男の身体より興奮する」
「じゃあ、なんで男なんか抱いてるのさ」
「半分はマウンティングだよ。お前より俺の方が上位なんだってね。半分は
復讐かな」
「復讐?前に言っていた事?だったらもう、やめなよ」
その声はすごく……柔らかくて優しくて、本当に僕の事を心配していってくれるのがわかる。
だけど、そんなふうに気遣われる方が、かえって僕のプライドが傷ついて。
「君に何がわかる……放っておいてくれよ。それより空は?僕の店は、ゲイの人も多いけど、ノンヶも女性も来るよ。僕自身が女装趣味はあってもゲイじゃないからね。こんな店に入り浸っていないで
いい人でも捜せる店にいったら?」
「いい人なんて……失恋した相手にストーカーまがいの事してるうちは捜せるわけ無いよ」
そういって空は視線を足元に落とす。
やっぱり、空は小平君のことが、今でも好きなんだな。
そう思っただけで、自分の顔が強張っていくのがわかる。
たとえ、相手が男だろうとその想いが真剣ならば崇高だ。自暴自棄とも言える自虐的な状態で男を食い散らかしている自分に照らし合わせて苦々しく思っているだけなんだろう。
僕の心を推し量るように空は真直ぐに僕を見つめていた。怖いくらいに真剣な瞳で。
「ゲイでもないのに女装したり好きでもない男と身体を重ねて男達に復讐してるのは、まだ、忘れられないって事?……その…澁澤っていう人」
僕は驚きのあまり持っていた鍵を落とした。まさか空が一度しか話していない澁澤の名前を覚えていたなんて思わなかったから。
「僕達……縁があったのかな…それともやっぱりなかったのかな?」
僕が呆然としている間に、切なそうな潤んだ瞳で空は僕を見つめてから、踵を返して走り去った。
「そら、空……」
僕達縁があったのかな?なんてどうしてお前がいうんだろう。
だって、空は恋に落ちた小平を空の方から手酷い形で振ったと聞いていた。
きっと何か理由があったんだろう? でも僕がそれを聞いてどうなる?
このまま、彼の恋の話しを冷静に聞けるほど、僕は人間が出来ていない。
だって……あれは、あの捨ててしまった僕らの関係の後、僕は空に特別な感情を持ってしまったと気付いてしまっていたから。 別れた後の後悔を振払うのにどれほどの時間を要したというのか。
たとえ、身が引き絞られるように寂しくたって、今は心の平穏が保たれている。 もう、穿った事をいって僕を激情の渦の中に巻き込まないでおくれ。
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