昔、オレはネコを飼っていた。
ふわふわした茶色い毛に、いたずらっ子のようにくるくる回る緑の目、それでいて小さな少し湿った鼻、
小さくて濡れた舌でキスをするようにオレを舐める。甘えん坊の癖に、気まぐれで、たくさん可愛がって
構ってやらないと拗ねる、たくさん構っても時に拗ねる。オレの布団の中で丸くなって寝ていた、
オレのネコ。
ネコは時にふらっと出て行って、数日帰って来なかった。
元が野良だったので、オレはあまり心配しなかった。数日経つと、叉ふらりと戻ってきた。
どこかで可愛がられていたのか、前より綺麗に毛並みが整えられて、満ち足りた様子だった。
ある日、ネコはいなくなった。オレはいつもの事だ、と気にも止めず、叉すぐ戻ってくるだろう、
と思っていた。でもネコはそれ以来オレの所に戻ってこなかった。
オレは長い間ネコが戻ってくるのを待っていた。
ある日ネコが戻ってきた。
前はオレが話し掛けても、ニャーとしか答えなかったのに。
戻ってきたネコは人間の姿をして、人間の言葉を喋り、前より我儘で、甘えん坊で、気まぐれだ。
だけど前のようにふわふわした茶色の毛といたずらっ子と天使の混じったような緑の目をして、
小さな口を尖らせて、甘えるような声で「利、利、キス、キスして。」ってねだる。
ネコには名前がなかった。
でもオレにとって、ネコはその一匹だけだったから、名前はいらなかった。
やつには名前がある。多分、他のやつよりも長ったらしくて、大仰なやつ。
やつはオレの戻ってきたネコなのか、そうでないのか?
もし、オレがやつに「お前はオレが子どもの頃、家で飼っていた野良ネコだったんだぜ。」
って言ったら、どんな顔をするだろう。でもオレはきっと言わない。
これはオレの秘密だから。
近藤秋岑サイド
「お前さ、毎日オレん所来てて、溜まんない?」
オレ、近藤秋岑が大学のサークルの一年先輩で、去年の春から、外資系食品会社の営業マンになった
坂上利貞のボロアパートのコタツの中でごろごろしていると、隣に座っていた利貞がぼそっと言った。
オレは読んでいた漫画雑誌から目を上げて、皆、特に同年代の女から殺人的に可愛いと言われる
グリーングレーの目を利貞に向けて、まるでキスを誘うように口を尖らせて言った。
「何、それ?」
イギリス人の母親と日本人の父親を持ちながら凶悪(そしてオレにとっては悲劇的)な程、
母親にのみ似てしまったオレはライトブラウンの髪、グリーングレーの目を持つ、まるっきりの
外人にしか見えない。
「オレはね、お前が毎晩来るから、女とデートも出来ず、めちゃ溜まってんの。」
「だって、さっきエロビデオで抜いたじゃん。でも溜まってんの?」
「そんなもん、自家発電と女の中に突っ込むんじゃ違うに決まってるだろ。バカ。」
利貞は近くにあったバレンタインのチョコの箱でオレの頭を叩いた。
(そっか今日バレンタインデーだったよな。オレ興味ないから、あんまり考えてなかったけど、
こいつみたいに、ムードなしの男でも女の所に行きたくて、オレに嫌味いってるわけ?!
つまんねえの。)
オレはほとんど四年来の片恋の相手を少し睨んだ。
「オレのこと邪魔だったら、はっきり言えよ。」
「邪魔とは言ってねえじゃねえか、、、、、」
利貞の歯切れの悪い台詞に傷ついた。分かってるよ、オレ単なる後輩なんだから、
傷ついたとかいう権利なんてないって、分かっちゃいるんだけどさ。
「秋は怜華に会わなくていいのか?」
「昼に会ったよ。」
卯月怜華は大学の同級生で、一応オレの彼女と言う事になってる、って、言ったって、
オレ、ゲイだから、所謂カムフラージュなんだけどさ。アメリカ育ちで正統派美人で男なんて、
よりどりみどりなのにさ、同じサークルで出会って、二ヶ月もしないうちに
「ねえ、秋ってゲイなんでしょ。私と付き合ってる振りしない?じゃないと、秋がゲイで坂上先輩の
こと好きなんだって、ばらしちゃうよ。」
そんな風に脅されて、付き合っている振りを始めた。初めは彼女がもてすぎるから、男を振るのが
面倒で、そんなことを言ってきたのかと思っていた。でもそのうち怜華が本当にオレのこと
好きなんだって、分かっちゃったんだ。そんな怜華をオレはいろんな意味で利用してる。気が強くて、
勝気で、頭がよくて、でもオレにはただ優しいばかりの怜華。
オレ、自分のたった一人のワンルームマンションに帰るの嫌いなんだ。だから何かと言うと、利貞の
所に行く、利貞の所に泊まる。でなければ、バーかどこかで男に引っ掛けられて(と言うか引っ掛けて)
ホテルに行って、その後深夜に寝るためにだけ帰ってくる。
どこにも行く当てがなかったら、怜華のところに行く。
怜華は食事を作ってくれて、優しく抱きしめてくれて、キスしてくれる。
怜華のセミダブルのベッドに並んで寝ると、時に怜華は胸とかにオレの手を持って行って
「触って。ねえ、感じる?」
何て聞く。そんなのに感じて、たつようだったら、オレもゲイやっていない。
時に怜華は
「秋にしてあげたい。」
そう言いながら手を伸ばしてくるけれど、いつもお断りしている。
昔、自分にゲイの自覚がなかった頃、何人かの女の子と誘われるまま、ラブホに行ったけど、
結局誰とも出来なくて、出来なかった現実に加えて、彼女達の言葉に凄く傷ついてしまったので、
絶対に女の子では、オレたたないんだ。
いや、たった一つ例外がある。利貞の別れたばかりの彼女とだったら出来る。別れたばかりの時、
たった一回きりという限定付きだけど。自分でも、もういっちゃってるって、思うぐらい、欲情して、
実際オレ、利貞の別れた彼女、総なめしてる。彼女達だって、甘ったるい声で、利貞より断然いいって、
すげえ、腰振って、喘いでるの。終わっちゃえば、オレ冷静になっちゃって、そんな女達、ニ度と
見たいとも思わないんだけどさ。
利貞は唸るように言った。
「そうだよな。どうせ、お前等卒論も終えて、暇持て余してるんだもんな。いくらでも、したかったら
昼間出来るもんな。それに比べて悲しきサラリーマンのオレには夜しかねえんだぜ。それなのに
何が悲しくて、男のお前の隣でエロビデオ見て、抜かなきゃなんねえんだよ。お前ももう少し
遠慮しろよ。お前あれこれ言って、もう十日はオレの所に泊まりこんでるだろ。」
「だって、一月の間、利貞出張ばっかりでいなかったじゃん。寂しかったのに。オレやっぱ邪魔なの?」
「邪魔だって言ってるわけじゃないけどさ。オレだって、男の都合ってもんあるだろ。なっ、お前も
男なら分かるだろ。なあ、そんなに一人でいるの寂しいのか。」
「オレさ、三月になったら、怜華と一緒に暮らすの。親父が知り合いの2LDKのマンション買ったから、
そこに二人で引っ越すんだ。」
「よかったじゃないか。お前、甘えん坊の寂しがりやだから、帰っても一人じゃないって嬉しいだろ。
特に働き始めて、遅くなって、暗い部屋に戻ると、なんかもの悲しいもんな。よかったな。
それだったら、これからはオレの所にこなくても大丈夫だな。」
「もう利の所にきちゃだめなの?」
「ダメなんて言ってないだろ。でもあの会社だって、結構残業あるときはあるし、その上、彼女と
同棲してて、オレの所に来る暇なんてないだろ。」
ちなみに四月から入社の決まっている会社は利貞と同じ会社だ。勿論もうそこだけを本命に頑張った。
オレみたいに神も、仏もない人間がわらにもすがる思いで願掛けまくった。
「じゃあ、オレ、怜華と住むのやめる。」
利貞が苦笑した。
「バカ言ってんじゃねえの。」
「どうせ怜華の会社だって、残業一杯で忙しいって言ってたもん。」
「ふくれてるんじゃねえの。ガキ。」
「ガキじゃねえもん。利、キス。キスしてよ。」