【今週のインプット9月9日号】

アートとアーティスト
そしてそのパーソナリティ

 

 「ライ麦畑で捕まえて(原題Catcher In The Rye)」の作者サリンジャーの長女が、
父親であるサリンジャーの評伝を出した。サリンジャーは、けして佳い人柄ではなく
父に強いられた生活は辛いものであった云々・・。
彼女は語ることに拠ってしか、克服できぬものを身中に得てしまったのだろう。

 若い頃私は友人の作家に訊いたことがある。
「人間関係ってしなくてはいけないもの?作品だけじゃだめなわけ?」
 だめだろう。
 今の私ならそう言える。
 私自身について言えば、如何に満足のゆく作品活動をしていても、人間的に問題が
あれば、周囲は、即ち所謂社会は納得してはくれないだろうと今は思っている。人の
価値はその作品だけでは評価されない。

 では、他のアーティストについては?自分自身に対するものといささか見解が変わ
る。オーディエンスとしての私は、あくまで作品至上主義だ。その人物が私にとって
クリエーターであり、アーティストであるならば、その人格はあまり問われない。
アーティストに社会的な乃至は普遍的な人格を求めたりはしない。
勿論、変人故に、アーティストであるとも言わないが。

 作品はその作品を以て独立した生き物である。作者は一切の弁解を許されない。逆
に作品が、作者の人格によってその如何を問われるべきでもないと私は考える。
作者が許されざる罪を犯したとき、その作品によってその罪が、或いはその罪に対す
る罰が減ぜられることはないが、その罪によって作品の価値が減ぜられることもまた
ないと考えている。

 もちろんアーティストのパブリックイメージは、そのアーティストの作品への評価
も左右する。プロ作家なら誰でも知っている事実だ。プロは、職業的熱心さで自分の
作品のイメージを守ろうとする。私もまた、BELNE’S LOVEのパブリックイメージを
守るための努力は最低限行っている。
 それは、拙作を支持する人々への礼儀であり、作品自体への愛情であり、ささやか
な職人意識である。

 けれど、当たり前のことに、本当の自分はパブリックイメージそのままというわけ
には行かない。
そして、真実作品を生みだしているのは、多分に人様にお出しできないところの私自
身であったりするのだ。

 私はサリンジャーの作品から、多くを学んだと思っている。
バナナ魚にもってこいの日(九つの物語)の主人公を永遠に愛している。
書物がもたらした絶望の深淵を、人がどんな遠くまで行くかを、私は知ってしまった
のだ。
 サリンジャーが彼が作家であることで、他者にどのような痛手を負わせていたとし
ても、彼の作品の価値は変わらない。
 彼にたとい全人格が備わっていなくとも、彼が私にもたらしたものは失われること
がない。彼が誰でも、どんな男でも。

 逆に作品自体が犯罪的芸術であり、芸術的動機の犯罪であったときはどうか。
これは又、別の話乍ら、BELNE的にはNOです。絶望の浅さが透けて見えるから。