新自由主義・市場原理型人間モデルの陥穽
 
                                   荒木 國臣
 
 はじめに
 
 新自由主義理論に対する評価は、現代の思想潮流を分かつ分水嶺となっている。新自由主義理論(注 新自由主義の定義は、資源配分を市場原理に委ねるという経済学的定義から、社会システムの全域を代表する概念となっている)が世界的に制覇するなかで、対抗理論であったはずの史的唯物論派のなかに、新たな生産力主義とも云うべき潮流が台頭し、急展開するグローバリゼーションと開発経済論およびそれを担う主体形成論の評価をめぐって鋭い分岐が生じている。小稿はその分岐をめぐる再検討のための試論である。
 
 文化庁が実施した「平成12年度国語に関する世論調査」結果から興味深い特徴が浮かび上がる(平成13年1月実施 調査対象全国16歳以上男女3、000人 有効回収率73、1%)。
 
  <問16>「情けは人のためならず」の意味について下記の2つから選んでください。
     (ア)人に情けをかけておくと、めぐりめぐって結局は自分のためになる
     (イ)人に情けをかけてやることは、結局はその人のためにはならない
 
 直感的には(ア)は協和的な心情があり、(イ)は自立的な心情がある。正答は(ア)であるが、結果は(ア)47、2%、(イ)48、7%であり、本来の意味で理解している人は少ない。60歳以上の正解率は65、2%であり、年齢が下がるに連れて正解率は下がり、16〜19歳の正解率は35、5%(誤答率は60、2%)である。この特徴を青年層での国語力の衰退とみるのではなく、諺に対する時代感覚の差異を示していると考えると、その基底にある社会システムの変容が浮かび上がるのではないか。では(ア)から(イ)への移行の背景にある社会システムの変容とはなんだろうか。
 
 功利論的には、正答(ア)と誤答(イ)はいずれも「人に情けをかける」ことは利他行動ではないという点で共通している。なぜ利他行動ではないかを互酬論的にみる。「情けをかける」という自己の経済的損失をともなう利他行動は、寛大とか慈悲とかの人格的評価となって環流し、結果的に自己の人格的資本を増大させ、喪失した経済的損失を上回る利益をもたらす可能性が充分にある。つまり「情けをかける」ことは、投資効果を期待する利己的な行動である(正答ア)。
 次に、情けをかけられた方は、自己の経済的便益を手に入れるが、同時に相手に対する人格の自由を放棄する従属(負い目)を生み、利子返済を迫られる。人格的従属を無視しても(居直り)、その集積はいつかは本人に大きなリスクを誘発する可能性がある。こうして「情けをかけない」のが真の利他行動ということになる(誤答イ)。
 
 次に再分配モデルで考えると、2つの背反する仮説が成り立つ。1つは、ケインズ・モデルであり、社会的弱者に対する所得再分配政策(雇用保障や補助金制度)は、労働資源の最適配分によって有効需要を拡大し、景気の好循環を誘発するから、結果的には社会的強者の利益を極大化することになる。これが正答(ア)の論理である。
 第2の市場原理モデルは、社会的弱者にたいする所得再分配政策は、援助効果が逆に働いて、弱者がさらに構造的に固定化するとして、マクロ的なケインズ政策を批判する。社会的弱者(過疎、成熟衰退産業など)への保護政策は、贈与と互酬を媒介に権力構造への包摂を生む。これが誤答(イ)の論理である。
 結論的にいうと、「情けは人のためならず」の解釈の変容は、ケインズ・モデルと市場原理モデルのシステム間闘争を反映しており、先進国中心に新自由主義的な市場原理モデルが制覇し、自立・自助による競争原理が社会システムの全線を覆うなかで、日常的な国語感覚が変化していることを示している。こうした変化をもたらしている新自由主義的な市場原理モデルを最初に、公教育という上部構造を対象に考える。 
 
 市場原理モデルの教育世界
 
 東京都教育委員会は、石原都政改革戦略に沿って、全国に先駆けて「教育基本法」を教育目標から削除し、都が指定した「進学指導重点校(4校)」の教師を進学技術研修のために予備校へ派遣することを決定した。小・中学校の学力調査結果の区市町村別成績結果と、最高・最低校名の公表を検討している。「低学力の学校は生徒は行かない。そういう所は無くしてしまうことだ」「高校中退が3、1%もでるなら、その分高校進学率を最初から下げたらよい」といった主張が横行している。以上東京都高校問題連絡協議会『都教育委員会傍聴記』から。
 
 ここに典型的に示されている市場原理型教育観をどのように把握すべきだろうか。公教育の世界を、市場原理モデル(小さな政府)とケインズ・モデル(大きな政府)のシステム間闘争という視点からみると、公教育のシステムは管理型教育とその対極にある自由放任型教育及びそのバリエーションである。
 子どもの音楽教育を例に考えてみる。
 子どもに音楽を教える場合、管理型教育(大きな政府)では、教師はモデル音楽を提示して忠実な模倣を強制する。子供のモデル音楽への従順性が刷り込まれるとともに内発的な独創性は極小化する。自由放任型(夜警国家)では、教師は子どもへの介入を一切放棄して、音楽の時間であってもゲームをしたり、マンガを読む自由にまかせる(レッセ・フェーレ・レッセ・パッセ)。そのなかで少数の音楽的才能の持ち主が登場する一方、それと引き替えに音楽への共感機会を喪失する多くの子どもが生まれるが、それは「見えざる手」による自動的な調整に委ねられる。市場原理型(小さな政府)では、子どもの自由な選択を保障するが、同時に最も優れた者への賞金と賞状の提供を約束し、音楽市場における支配権を委ねる。多くの子ども達は、一斉に作曲競争に参入し、最後に投票による評価によって最優秀賞が授与される。子どもたちは、賞金と賞状という外部からのインセンテイブによって自らの才能を争って自己顕示しようとする。こうした競争原理を媒介とする能力開発によって、勝者と敗者が決まり、敗者は音楽市場という個性から撤退して別の市場(個性)へと向かう。 
 自由放任型と市場原理型の共通点は、子どもの初期条件のバイアスによる機会の実質的な不平等という問題が捨象され、子どもは「小さなおとな」として扱われ、発達可能な潜在能力の所有者とはみなされない点にある。このような子ども観は、「合理的経済人(利己的個人)」として自己利益の極大化を追求する方法的個人主義という近代の人間モデルに基礎を置いている。      
 一方の管理型(そのバリエーションとしての集団主義教育)は、措定された価値に向かって似非目的意識的に接近するという画一的な人間モデルであり、子どもは既成の与えられた理想型モデルへの操作対象物とみなされている。            
 いずれのモデルも、児童期や青少年期をライフ・サイクルにおける独自の発達課題を担う独立した意義を持つ時期とはみなしていない。経済的にみるならば、社会システムへの何らかの「効用」に子どもを誘導する効用価値説に立脚している。学習過程を投資過程とみなす私的財としての子ども観であれ、共同社会を担う公共財としてみる子ども観であれ、子どもをなんらかの効用価値を生む財とみなしている点で共通している。市場原理型利益極大化モデルであれ、社会主義的ユートピアへの献身型モデルであれ、民族の至上の価値に殉じるファッシズム型モデルであれ、子どもは大人が構想した一定の社会システムへの適応過程にあるとみなされている。           
 
 効用財としての子ども観の基底には、近代大工業を動かす健康な壮年男性をモデルとする「近代的個人」という人間観があり、そこには「潜在能力」の開発論(アマルテイア・セン)とか「発達保障」論(全障研)が介入する余地はなく、従って子ども世界の双方向的な豊かなコミュニケーションによって生まれるドキドキするような共同性、ユニバーサル・サービスによる世代間のコラボレーションや、バリア・フリーを媒介とする障害者と健常者の相互浸透といった生活世界は、非効用価値として投資戦略の対象とはみなされない。
 
 こうした子ども観の世界をめぐるシステム間闘争は、対抗理論であったはずの史的唯物論派の公教育観の自壊を生んでいる。次にその最も典型的な例をみてみる。
 
 「共同性を重視する論者は、能力の個人帰属的性格に対して批判的である。(中略)しかし問題は、能力が語られるのは、何よりも社会的富の増大とその分配との関係においてであるという点である・・・自己努力による能力開発が社会的富を拡大する場合には、その個人に対して全体への貢献の名で、適正な報酬が与えられなければならない。そしてそのことが可能なのは、能力の個人帰属的性格を前提にすることによってなのである」(碓井敏正「日本型戦後教育体制の変容と転換」(大西広・碓井敏正『ポスト戦後体制への政治経済学』所収)。                                              
 
 ここでは戦後民主主義教育の共同性至上主義を批判し、「主体性ある日本人の養成」(新学習指導要領)を「諸国民と連帯する新しい市民の形成」と評価するという驚くべき結論に至っている。このような立論は、競争原理による初等教育から高等教育に至る全面的な複線型再編成によって「労働力の3類型」(日経連)を創出する戦略と客観的に一致する。こうした能力の「個性化」の基点には、資本に従属する古典的労働者像に替わる知識や技術で武装した自立する「合理的個人」像が措定されている。
 しかし現実の労働者は、縁辺労働から知的先端労働に到る垂直的な階層化された労働力価値の編制のどこかに帰属しており、その頂点にある知的先端労働者をモデルとすれば、労働力市場における「ニワトリ小屋のキツネの自由」を認めることでしかない。
 
 共通の言語や文化を修得した共同的公民の形成と、独自のスキルを探求する市民的個人の成熟は連続した相補的な過程にあり、相反する隔絶関係にあるのではない。社会的諸関係のアンサンブルとしての共同性と、独自の領域を開拓し果敢に前進する個は、アンビバレンツで共約不可能な関係ではなく、相互承認関係にあるという自明の事実から出発すべきである。それにしても、旧ソ連型集団主義教育モデルの崩壊を契機に、いともあっさりと「民主主義教育」の豊かな蓄積を葬り去り、盥の水とともに赤ん坊も流そうとしているのではないか。
 
 新自由主義と新生産力理論
 
 さらに驚くべきことに、新自由主義型グローバリゼーションを史的唯物論的な必然性と等置して無条件に讃美する潮流が登場している。例えば次のような言辞である。           
 「現在我々が考え直さなければならないことは、ケ小平の決断によるあの弾圧がなければ現在の中国の経済発展はない、というおそらく厳然たる事実である。あの時のケ小平の決断は『冷酷』であっても正しいものであった。そしてこのことはまさに『この国に最終責任を持つ』ということがケ小平にはできて、我々には出来なかったと云うことを示している」(大西広『ソ連の「社会主義」とは何だったのか』大月書店 P211)
 「社会的弱者の側に立つ(『左翼』の定義)ことは、通常社会的変化に弱い人々の味方をすることに等しい。(中略)『史的唯物論』は、こうした弱者救済主義とははっきり峻別されなければならないということである。なぜなら、資本主義化の過程でも最も社会的弱者となった没落する小経営と熟練労働者をマルクス・エンゲルスは救済しようとしなかったからである。マルクスたちは、ただその必然に添って発展する新しい階級のみを次代を担う階級と認めたのであった。(中略)そしてこの歴史の必然的な発展法則とは結局生産力発展に適うことだったのだから。(中略)われわれがものごとの正しく客観的な評価を行うためには、われわれに染み付いた左翼的心情から離れ、ものごとをトータルに評価しうる視点を獲得しなければならない。それは実は、現在中国の経済改革に限ったことではなく、同様にロシアや東欧の経済改革についてもいえることであれば、日本の高度成長に対する評価についても云えることである」(同上書P231〜232)。
 
 こうした言説と次のような言説の間に、もはや本質的な差異はない。        「今や世界はメガコンペテイションの時代だ。競争とは優劣によって生じる結果としての格差を容認することである。そしてその上で、人間としての尊厳を守る保障制度を行うのが、自由経済の正しい道だろう」(中谷巌『「次」はこうなる』講談社 1997年 P223)。「グローバリゼーションとか大競争時代の流れは、21世紀になってもしばらくの間は加速することはあっても、止まることはない。ましてや逆戻りすることんか期待できない。これを好き嫌いのレベルでけしからぬと言いたい人がいるかもしれないが、そんなことを言っても意味がない。世界は大競争時代に突入した。一番遅い船足に従っていると、本来速い船も大競争には勝ち残れない。つまり、全員討ち死にするしかないのである」(中谷巌『日本経済「混沌」からの出発』日本経済新聞社 1998年 P63)。
 
 史的唯物論派経済学の一部の潮流は、新自由主義的な世界市場化を無条件に肯定し、開発独裁地域への企業の立地展開による国内空洞化と地域経済の破壊、安価な外国品の無秩序な流入による国内再生産構造の崩壊などは、資本主義の必然的法則として受容され、せいぜいセーフテイーネットといった激変緩和政策を対置するに過ぎない(注)。このような言説の史的唯物論的な根拠とされるのが、マルクスの有名な「資本の文明化作用」といわれる世界市場の次のようなイメージである。                               
「ブルジョアジーは、あらゆる生産用具を急速に改善することによって、またすばらしく便利になった交通によって、あらゆる国を、最も未開の国までも、文明に引きずり込む。彼らの商品の安い価格は、どんな万里の長城をもうち崩し、未開人のどんな頑固な外国人嫌いをも降伏させずにはおかない重砲である。ブルジョアジーは、あらゆる国民に、滅亡したくなければブルジョアジーの生産様式を取り入れるように強制する」(『共産党宣言』邦訳大月書店全集版4 P466)。                      
 
 *注 市場原理批判派の一部にもセーフテーネット論が見られる。近代人は「自立性への要求と共同性への要求という分裂した要求」を抱える「弱い個人」であるが、マルクス主義の階級闘争論と計画経済論も「高い負荷」に耐えられる「強い個人」を想定し、新古典派も合理的計算能力を持つ「強い個人」を前提としているから破綻せざるを得ない。「弱い個人」を前提とした理論構築とセイフテイーネットによってのみ、個人の本当の自己決定が可能となる。個人の自己決定と社会的共同性は相補的関係にある。以上金子勝『市場』(岩波書店 1999年)。マルクス主義に対する評価はおいて、現在の新古典派的なセーフテイーネット論はむしろ市場における「強い個人」の敗者が再度市場に参入しうる機会を保障するという意味であり、金子氏の言うような福祉国家的な意味ではないという点を指摘しておく。
 
 一部の論者は、情報通信革命とグローバリゼーションという現代型「資本の文明化作用」は、同時に成熟した資本主義の必然的な「墓堀人」となる進歩的現象であるから、オルタナテイブな変革はこれを受容した上で変革の構想を打ち出すべきであるとする。
 しかしマルクスは別稿で、「その生産がまだ奴隷労働、賦役労働などという低い形態で行われている諸民族が、資本主義的生産様式によって支配されている世界市場に引き込まれ、この世界市場によって諸民族の生産物を外国へ販売することが、主要な関心事にまで発展させられるようになると、奴隷制、農奴制などの野蛮な残虐さの上に、過度労働の文明化された残虐さが接ぎ木される」(『資本論』新日本新書版2AP400)とも述べ、「資本の文明化作用」の負の側面を痛烈に告発している。                 こうしてマルクスの「資本の文明化作用」に関する評価の歴史的意義を精確に再検討することは、現代のグローバリゼーションによる「資本の文明化作用」が、果たして「文明化」形態なのか、より一層残酷な洗練された「野蛮化」の形態なのかを分ける分水嶺となっている。新生産力論者は、このグローバリゼーション過程を不可避の文明化過程とみなしている。    
 新生産力論者の第1の特徴は、トータルな人間的諸要素の重層的なアンサンブルの過程として生産力をみない「経済主義」にある。生産力と生産諸関係が複雑に絡み合うシステム間闘争ではなく、経済主義的生産力の素朴な単線的発展が物神化されている。かってこうした生産力理論は、太平洋戦争時の総力戦体制を推進した企画院「革新官僚」による国家統制経済の理論的根拠となった。つまり上部構造の形態が、ファッシズムであれ、帝国主義であれ、開発独裁であれ、その状況における最も有効な生産力推進モデルを選択するのが正しいということになった。先記の論者は、論末の最後に「労働者側に求められている戦略はこの歴史法則(筆者注 新自由主義)に逆行するのではなく、制御しつつも促進する方向のものでなければならない」(同上書巻末)と述べ、開発独裁型生産力推進戦略への労働者の無条件の協力を求めるという無惨な結論に陥っている(先記した大西氏の論文は「開発独裁の必要と史的唯物論」と題されている)。このような新たな生産力理論は、実は貧困化法則の貫徹による恐慌か革命かという破産した窮乏化革命論の裏返しに過ぎない。
 第2の特徴は、自然権=自然法と経済の相関領域における、共同(協同)と「公共性」原理を対象化しない(できない)という点にある。経済現象に対する法的規制の根拠である自然権思想は、経済主義的生産力の発展を補完する下位概念でしかなく、文化や法による経済的領域への独自の佐反作用や公共的規制といった問題は捨象されるから、環境やエコロジーといった外部不経済の領域を射程に収めえない。
 第3の特徴は、基底にある人間モデルとして、J・S・ミルの「利己的個人(合理的経済人)」モデルを措定し、「公共性」原理をせいぜい生産力推進のための調整技術とする点である。「利己的個人」モデルは、中世カソリシズム支配から世俗的利益を開放するという歴史的な役割を担ったが(ウエーバー・大塚史学)、それ以降に構築されてきたさまざまの多様で豊かな人間モデルの開発と成果は視野に含まれず、結果的に産業革命期のモデルに先祖帰りしている。歴史の舞台から退いたはずの人間モデルが、なぜ21世紀を規定するような強力な人間モデルとして再登場したのだろうか。 
 世界システムをめぐる闘争と人間モデル
 
 世界観をめぐるシステム間闘争が最も顕在化した9月11日は、総力戦としての近代戦を勝ち抜く殲滅戦型軍事思想と、醜悪なテロリズムと「貧者の核爆弾」による不安心理の極大化という対抗戦術の衝突であった。こうした「新しい」形態の対決は、グローバライリゼーションによる一国経済の国内循環システムの破壊、国際的な不等価交換による超国籍企業の利益極大化と他方における貧困化法則のグローバリゼーションのしょうとつである。一極帝国を頂点とする垂直的な「抑圧の移譲」システムがそびえたち、集積された非抑圧者の敵意が飽和点に達したときに、「帝国主義的市民」の象徴的建築物に対する突入がなされた。
 グローバリゼーションへの対抗戦略としてのテロリズムは、国民経済を要塞化する拝外主義的なナショナリズムを基盤とする最も粗野で野蛮な形態であり、他方におけるソフトな対抗戦略である輸入代替型開発経済戦略(インド型)とともに失敗に帰することは明らかだ。市民やNGOによるインターナショナルな連帯の潮流の前進にもかかわらず、現状では圧倒的に米国スタンダード型グローバライゼーションが制覇しつつある。
 
 こうした垂直統合型グローバライゼーションを物神化する理論的根拠は、新自由主義型市場原理論である。新自由主義を勢威理論たらしめている要因は、対抗理論であった生成期社会主義(国家資本主義?)モデルの崩壊とそれを誘発した情報通信技術革命の進展である。情報通信技術革命によって誘発された、「速度の経済」と「範囲の経済」による水平ネットワーク型社会システムへの転換は、垂直統合型計画経済とその原論的位置にある労働価値説のゆらぎを生んだ。ここで重要なことは、情報通信技術革命が必然的にもたらそうとしている水平ネットワーク型社会システムが同時に、新自由主義型の垂直統合システムをもゆるがす両刃の刃となっていることである。ここに、新自由主義型垂直統合システムの最も弱い環があり、それを防衛する新保守主義が登場する必然性がある。     
 こうして垂直統合型システムと水平ネットワーク型システムの比較優位を争うシステム間闘争があらゆる階層化されたレベルで発現し、私財と公共財、市場と計画、利潤と再分配、法と経済、私教育と公教育、個と共同体といった社会システムの全線にわたって複雑多岐な問題群を誘発している。                           この闘争の基礎にある人間モデルは、「合理的経済人」モデルと「共同体的公共人」モデルの相剋であり、それは諸個人の自由とコミュニケーションのありかたをめぐって鋭い分岐を生み出している。「合理的経済人」モデルは、アトム的個人から出発する方法的個人主義であり、「共同体的公共人」モデルは、共同体の価値を基軸とする方法的共同主義にある。両モデルは、間主体のコミュニケーションの成立可能性、両モデルの対話と交通の成立可能性、両モデルを架橋し止揚する新たな第3の人間モデルの可能性−といったコミュニケーション論の基本問題を投げかけている。「合理的経済人」モデルが普遍的モデルとしての有効性を持っているかどうかを検討する。           
 「合理的経済人」をここでは次のようなモデルとして考える。





 

@)合理的主体は、S型状況において効用極大化のX行動をとる
A)現在の状況は、S型である
B)Pは合理的主体である
C)PはX行動をとる
 





 
 合理的主体とは、経験の観測によって集積された規則性を次の行動にも適用する行動科学的な[刺激ー反応]の自動制御を遂行する主体である。次の行動の予測は、完全競争市場における[完全情報→完全予測]という公準を条件とし、経験則を超えた自然権による自然法といった超越的規則を排除する。合理的主体は、経験則による予測能力を持つ個人であり、情報の非対称性(情報は位階制的な垂直性を持つ)や、成育過程の初期条件によって生じている主体のバイアスは無視される。                      合理的主体の目的は、「利己的個人」の効用の極大化であり、公共的行動や美的行動を、非効用的な行動として捨象したうえで、ミクロ経済学における無差別曲線と予算線の接点に実現される(下記図参照)。
 
       y









 
 無差別曲線
                *消費者は、最終財を購入し自らの所得制                  約の下で自らの効用を最大化する

     




 




         x
予算線
 
 こうした「合理的経済人」モデルが現実に機能しうるかどうかを考える。       第1に、「合理的経済人」モデルでは、あらかじめ人生の初発期に自らの人生の効用を調整しておくと仮定するが、現実の個人の効用は経験の過程の中で多様に変容するから、このような初発的調整は非現実的で意味をなさない。
 第2に「合理的経済人」が効用の極大化を追求する場は、市場における交換である。しかし市場は、剰余価値の配分をめぐる闘争の場に他ならず、他者の犠牲を媒介に自らの効用を極大化する能力のみが勝利するから、市場参入者全員が同時に相互の効用を極大化するような均衡はありえない(パレート最適)。従って「合理的経済人」は、個々の分配問題や不利益を被る人の効用の最大化(ロールズ差別原理「公正としての正義」)を一切考慮しない。例えば、ローレンス・H・サマーズ財務長官(ポール・サミュエルソンの甥で、28歳で史上最年少のハーバード大終身教授)は、効用原理による資源配分の最適化について次のような結論を出している。     
 
 「汚染企業が途上国にもっと移住するよう、世界銀行は奨励すべきだ。なぜなら健康を損なう汚染コストは、羅病率と死亡率の増大による逸失利益の多寡に依存する。一定の健康を損なう汚染は、コストが最低の国、すなわち賃金が最低の国で行われるべきである。毒性のある産業廃棄物の投棄が最低賃金国で行われるという背景にある経済倫理に欠陥はない」「人口のまばらなアフリカ諸国は、まだまだ低汚染のままであり、ロサンゼルスやメキシコシテイーに較べると、そこの大気の質の効率性は恐らく相当低い。毒性物質の集中的投棄を始めたばかりの時は、特に人口がそれほど緻密でないところでは、病気や死亡はあまり発生しなかったから低コストで済む」(ローレンス・H・サマーズ、スーザン・ジョージ、ファブリチオ・サッベリ『世界銀行は地球を救えるか』朝日選書 1996年)。
 
 第3に、市場における「合理的経済人」の最適決定は、すべての市場情報が水平的に伝達される完全情報モデルを前提としているが、現実の情報は垂直的な位階制を媒介に伝達される非対称性とデバイドを持ち、常に選択の歪みの脅威にさらされているから、最適決定は困難である。以上のように「合理的経済人」モデルは、人間の発達可能性の排除や資源の最適配分の歪み、情報の非対称性による選択の歪みなどの基本的な弱点がある。   次に対抗モデルである「共同体的公共人」モデルの現実的な機能について考える。このモデルでは、共同体の価値が優先される。その共同体が水平的に編制されている場合には(例 原始共同体)、共同体の価値と「個」の価値は溶け合い、個は共同体に安らぎながら自然な相互承認関係にある。ところが垂直的に編制された共同体(例 封建制)では、最上層にある高貴なる者と最下層にある卑賤なる者の階層秩序にどこかに埋め込まれている。全体を統合する虚偽意識への献身を動員する力学(ミランダ、クレデンダ)が働き、個の尊厳は喪失するが、そのルサンチマンは共同体自体を破壊させる「合理的経済人」への憎悪となって噴出する場合がある(例 宗教的原理主義)。           
 この2つのモデルは、現代の新自由主義・市場型編制システムを組み替える有効な普遍モデル足りうるであろうか。
 
 この問題を生命倫理問題のデモグラフィーから考えてみる。
 
 問:ここに適合検査に合格した1つの心臓があります。心臓の提供を待っている幾人か  の人がいますが、あなたは下記のどの人に提供すべきだと思いますか。順位を付けて  ください。
 
  a総理大臣 b人間国宝 c普通の3歳の女の子 dおぼれかけた人を助けて心臓病  になった学生 e3億円出すと言っている大金持ち fオリンピック金メダリスト
 
 「合理的経済人」モデルは、a〜fの市場価値を基準に何らかの順位をつけ、提供による自己の効用を極大化する資源の最適配分をおこない、「共同体的公共人」モデルは共同体価値による指揮的な選択がなされる。これに対し「生命の尊厳」派は、あらゆる順位決定を人間的生命の尊厳に対する冒涜として拒否するだろう。このような衝突の調整は、何らかの第3の公共性原理を導入することによってのみ可能となる。沈みゆくタイタニック号の船長は、ベートーベンの「第9」の演奏をバックに、救命ボートに乗り移る順番を「子ども→病人→老人→女性→成年男性→青年」と指定して救助活動を行おうとしたが、実際には最後尾の青年の先に助かりたいという自己利益極大化行動によってパニックが起こり、予期せざる大規模な犠牲者が出た。こうした危機的状況の決定的瞬間における決定的判断の帰結は、「共同体」原理による全体効用の最大化と、「力」による自己利益最大化との熾烈な闘争が凝縮する。   
 以上の2つのデモグラフィーは、算術的な市場価値に還元できない人間生活の領域が確かにあり、そのような領域を効用原理や共同体原理のみに委ねる方法は、力による「強者の論理」に転化してしばしば全体を危機にさらす破壊効果をもたらすということを示している。そのような非市場的な領域とは、人間的自然の存立と発達にかかわる生命とその尊厳の領域である。このような領域は、自己と他者の共約不可能性に帰着する「方法的個人主義(アトミズム)」と、異共同体間の共約不可能性をいう「共同体主義(原理主義)」のいずれの幻想によっても調整不能な領域である。前者はオオカミの争闘の修羅となり、後者は全体の名による個の生け贄である。                     
 こうして「効用と公正の新たな同盟」(アンソニー・ギデンズ)という第3の道が登場する。効用と公正を架橋し止揚するような「協同的公共人」ともいうべき第3の人間モデルが求められる。このモデルは、第1に自然と協和する生態系から人間の社会システムを構想し、第2に相互の水平的なコミュニケーションによる交通をおこない、第3に協同的な相互承認のなかで同時に専門的なスキルを自己実現する人間でなければならない。この第3の試論的な人間モデルは、言い替えれば理性における「コミュニケーション合理性」(ハーバーマス)に近似し、「支配と隷属」(ナチズム・原理主義)に堕する「道具的理性」(アドルノ、ホルクハイマー)や実存的な「決断主義」から解放された伸びやかなイメージを持っている。新自由主義型市場原理の暴走によって、「道具的理性」と「決断主義」の雑炊のなかを羅針盤なきプラグマテックな状況追随主義がさまよう現代の日本は、この第3の人間モデルが浮上する客観的な条件を成熟させつつある。      
 
                        (2001年12月5日脱稿 未完)