我が最果ての旅行記2018/7/25更新  トップページへ戻る)

◆シベリア紀行(2018/7/19~24)
 ウーンいったいシベリアとはどんなとこか? 抑留とはなんだったのか? シベリア鉄道ってどうなんだろう? 少しばかりの期待を込めてシベリアを旅しました。
 7/19 成田発15:40シベリア航空でウラジオストックへ 到着後はバスでホテルへ(かなり遠い) ホテルは日本とほぼ変わりは無いが、湯ががすこし茶色で、使った後湯が落ちない まあまあ眠れた
 7/20 旧横浜生命銀行、旧日本人学校、旧総領事館、松田銀行、浦潮本願寺跡地、与謝野晶子歌碑などを見学 これほどに戦前に日本人が進出しているとは知らなかった 
      エアロフロート機でハバロフスクへ 
 7/21 平和慰霊公園、日本人墓地、第16番収容所本部跡 抑留の犠牲者の記念碑はあるが、抑留の実感がいまいち分からなかった
      シベリア鉄道でプラゴペシェンスクへ クーラーも効き、トイレもそれなりに綺麗だ 見わたす限りのシベリアの大草原がひろがる
 7/22 到着後ホテルで休憩して、日本軍による虐殺があったイワノフ村を訪問 シベリア出兵がこれほどの奥地に来ているとは知らなかった
      ロシア正教会、郷土博物館見学 ロシア近現代史を時系列で見せる レーニンやスターリンも否定的ではなく事実として展示している アムール川添いの公園が素晴らしい
      シベリア鉄道でハバロフスクへ
 7/23 ウチョース展望台、ブレオブラジェンスキー大聖堂、大祖国戦争祈念碑、アムール川クルーズ 独ソ戦の犠牲者にたいする熱い追悼の意を覚えた アムール川添いの公園が素晴らしい
 7/24 シベリア航空で成田へ
 
 ロシア史におけるシベリアー日本人から見た
 (1)ロシア革命で破壊されたロシア正教の教会は壮麗な姿でよみがえっていた。革命政権の宗教政策の間違いを今日にどう生かすかが問われる
 (2)ロマノフ王朝期のロシア史を刻んだ記念碑が沢山ある。これはロシア民族主義の伝統回帰とみなしていいのか?
 (3)ロシア革命とCCCPの祈念碑が沢山ある。ソ連崩壊とロシア革命の否定は必ずしもイコールではない
 (4)スターリンは必ずしも否定的に扱われてはいないように感じた。必ずしも全体主義とみなされていないのではないか、いったい市場経済への移行は何なのか?
 (5)現代ロシアは、ロシア現代史の評価について、まだ混沌とした状況にあるのではないか?
 (6)あらゆる時代の変容をこえて、底に流れる民衆生活のしたたかさを覚える
 (7)戦前期のロシア干渉と侵略の戦争犯罪について、日本の認識は決定的な限界と弱点があるように思われる

◆イギリス紀行(2017/11/20~27)
 私の海外旅行で最後に残った帝国・イギリスへの旅行(ロンドン→リバプール→マンチェスター)8日間の旅となりました
(11/20)成田発11:25KL862でアムステルダム・スキポール空港へむかう。曇天のもと離陸、10時間強の機中はエコノミークラス満席で、15:30アムステルダム着、寄る年波には勝てずかなり疲れました。機内食は上質の2回で満足しました。アムステルダム発16:40K1023機でこれも満席、保安検査靴まで脱いで徹底的におこなわれた。ロンドン・ヒースロー空港着17:00、タヴィストックホテル宿泊(このホテルはすこし貧弱)
(11/21)9:00ホテルを出発して、午前中はマルクスが暮らしたSOHOエリアから大英博物館までをウオーキング・ツアー、レーニンが機関紙『イスクラ』を発行した家やマルクスが暮らした貧しい家を訪れる。大英博物館は1Fのみの観覧でしたが、大英帝国が集めた植民地からの掠奪品であふれていました。ガイド(日本人女性)は、英国政府が現地の人にカネを払って収集したと、かなり弁護するような解説をしていた。午後は、ハイゲート墓地でマルクスの墓を見学した。この巨大な墓は、旧ソ連政府代表団が訪問したときに、イギリス労働党が建立したもので、元の墓は別の場所で荒廃した状態でした。その後は、ウエストミンスター寺院、国会議事堂、ビッブベンなど外観のみを観ました。夕食後は疲れてそのまま寝ました。
(11/22)この日は終日自由行動で、最初はロイヤル・コート・シアターという小劇場に行き、夜の公演のチケット2枚を購入。ナショナル・ギャラリーで古典から現代までの絵画を鑑賞、いわゆる巨匠作家たちの作品の収集力に圧倒されました。ギャラリーの前はトラファルガー広場が広がり、そこで演じる大道芸が一番面白かった。大道芸を観る観客は圧倒的にアラブ系の若者で、際どい演技に女性が嬌声をあげていた。日本では、こうした街頭での自由なパフォーマンスが少ないのはなぜだろう?
 次いでテート・ブリテンに行きましたが、ここは英国美術家の作品が中心で、むしろテート・モダンに行ったほうがよかった。非常に疲れて、頻尿気味で困った。タクシーで劇場に行き、開演までかなり時間があるので、近くのパブに入って食事をとる。サラダと白ワイン1グラスでおよそ2500円払ったが、イギリスのレストランやパブの飲食は、日本に比べてかなり高い。
 ロイヤル・コート・シアターで、19:30開演の「BAD ROADS」(悪路?)という前衛演劇を鑑賞した。イラン人の作品で、かなりシリアスな作品でしたが、英語の台詞がほとんど理解できず、残念でした。会場は80席ほどのアングラ劇場で、中高年で満席でした。21:30終了でホテルに帰ると、疲れはてて着替えもしないで就寝した。
(11/23)ロンドン発の列車で2時間かけてリバプールに行く。昼食後にリバプール大聖堂を見学後、ビートルズの足跡をたどる。フィルハーモニック・パブ、ストローベリー・フィールド、ベニー・レーンなど、ファンにとっては垂涎のプランでしょうが、私にとってはあまり意味はなかった。夕食後は、キャヴァーン・クラブでビートルズ・ナンバーの生演奏を大音響で聴きましたが、アジア人の私をみる白人のまなざしには、どこか蔑視の感じがうかがえました。
(11/24)リバプールから10:16発の電車でマンチェスター・ピカデリー駅に行く。昼食後に、民衆の歴史博物館を見学した。マンチェスターの産業革命を契機とした穀物法同盟から普通選挙運動、オーウエンの空想的社会主義、モリスの社会主義をへて、20世紀の社会主義運動から崩壊までの歴史を系統的に展示していた。驚いたのは、小学生の集団見学があり、地域の社会運動の歴史を学んでいたことです。マンチェスターはイギリス左翼の拠点で、社会主義が地域生活に埋めこまれていると感じました。市議会の99%が労働党議員で、たった一人自由党議員がいると云うことです。
 マンチェスター・リバプール間の世界最初の鉄道とその駅、人口運河など産業革命時の雰囲気がそのまま残っていた。科学産業博物館は、原綿から綿織物が出来るまでの当時の機械の実演がおこなわれ、産業革命が機械と児童労働(5歳児から)によって担われていたことを批判的に説明していた。労働の犠牲者が埋められた墓地は印象的でした。夕食の中華そばは結構美味かった。
(11/25)リトル・アイルランド地区を見学し、ウクライナで引き倒された巨大なエンゲルスの石像が引き取られて立っていた。マンチェスター(イギリス?)で、誰にも開放された最初のチェサム図書館は、小さな修道院のような荘重な雰囲気があり、マルクスとエンゲルスが読書した机と読んだ書籍が印象的でした。分厚い書籍は盗難防止用の鎖が付けられていました。棉取引所は巨大な空間で、マンチャスターが欧州の取引所の中心であったことを実感させた。
 夕食後に、エンゲルスの石像の隣にあるHOMEというエンタメ施設に行き、演劇を観ようとしましたが、終演が11時ということで諦め、「社会主義の記憶」と題する前衛系の展覧会を観ました。チトーを讃えるユーゴのマス・ゲームの記録フィルムが上映されており、社会主義の理念を前衛的な造型で表現しており、印象的でした。若者の音楽とスポーツ感覚を社会主義リアリズムに動員する演出に興味を持ちました。こうした企画展が開かれるところに、現代のマンチャスターの社会意識の特徴を感じました。
(11/26)マンチェスター空港からアムステルダムに飛び、11時間かけて翌27日に成田に着き、新幹線で帰名。

 (「コメント)
 ○アングロ・サクソン型新自由主義のイメージでしたが、意外とクラシックで左翼文化が根づいているいることに驚きました
 ○王室からホームレスまで垂直的な重層構造にあるロンドンにたいし、資本と労働に分岐しているマンチェスターの非対称性、マンチェスターは路上での物乞いがみられた
 ○市民的な個人主義のよき面が見受けられ、知らない人にも微笑む余裕が感じられたが、一部には有色にたいする微妙な差別意識がある

◆スペイン周遊8日間(2017/4/24~30)
 妻がぜひスペイン旅行したいというので、2度目のスペイン旅行となった。イベリア航空直行便就航記念の格安旅行となった。
(4/24)成田発11:20一路マドリードへむかう。13時間の機内閉じこめに耐えて21:00マドリードから飛行機を乗り換えてバルセロナ22:15着。
(4/25)バルセロナ市内観光、サグラダ・ファミリアの内装がほぼ完成していたのには驚いた(ローマ法王の訪問で大急ぎで工事をした由) カサ・ミラ→カサ・パトリョ→サンパウ病院と回る。
昼の3時間の自由行動はピカソ美術館に行く(青の時代までのキュビズム以前の作品が展示してあり、ピカソのデッサン力の凄さを改めて感じた) 専用車でバレンシアに向かう
(4/26)ラ・マンチャ地方に向かう。風車を見学、当時の時代の木製機械技術の発達に驚愕、グラナダにむかい、夕食後アルハンブラ宮殿を見わたす洞窟で夜のフラメンコショーを鑑賞、ジプシーが踊るフラメンコの原初的な迫力に圧倒された、ライトアップしたアルハンブラ宮殿を眺める
(4/27)グラナダ市内観光 カテドラル→旧市街→サンクリストバル展望台 ミハスを散策後にコルドバに向かう
(4/28)コルドバ歴史地区観光 メスキータ→ユダヤ人街をまわってセビリア市内観光 カテドラル→サンタ・クルス街 飛行機でマドリードに向かう
(4/29)プラド美術館 ゴヤ黒い絵の部屋に圧倒的な迫力あり オプションでトレド市内観光(はじめて中世の街並みそのものが残る光景をみた) マドリードに帰ってソフィア王妃芸術センターのピカソ展鑑賞、長蛇の列で予約が必要な≪ゲルニカ≫は観れないとのことだったが、係員がルーズで予約切符なしにピカソ展を鑑賞することが出来た(スペイン人のこのおおらかないい加減さがまた魅力であった、全欧から集めたピカソ作品は圧巻であった) スペイン広場での路上のギター演奏に痛く聴き入った
(4/30)マドリード空港から一路成田に向かう
 コメント
 ○アメリカ建築に制覇された日本の町並みのみすぼらしさを実感、日本も歴史を尊重した都市計画を追求しなければ駄目だ、交通信号がうるさい日本と較べて信号が簡素で、路上駐車が自由で人間味が漂う街となっている
 ○スペイン人の男性はヒゲが流行っているようでほとんど伸ばしている、女性は特有の美しさに溢れているが肉感的で知性が無い
 ○スペインのTVアナウンサーは中年が多く、日本のような子どものようなアナウンサーがいない、大人の文化が漂っている、
 ○ホテルの部屋の装備がシンプルでよい
 ○左翼政党ポデモスについて市民に聞くと、それほどの関心を示さなかった、女子学生はポデモスに関心があるようだった
 ○路上にテーブルを並べる食事風景や市場の盛況など、生活を愉しむ欧州文化には深いものがある、農村風景も良く整備されて美しく、スペイン特有の貧しさの実感がない
 ○添乗員がうるさく盗難注意を呼びかけるので、スペイン人との直接的な交流をはばかるようなふんいきがある

◆唐津現代製鉄所視察とソウル3日間(2016/5/11~13)
(5/11)8:20自宅を出発し、名古屋9:04発特急で中部空港へ向かう。セキュリテイチェックで指紋の採取が求められたのは初めてだ。大韓航空KE742で11:55發。天候は曇り。機内食は寿司でビール1杯呑む。13:55に仁川空港着。ワールドカップのためにつくられた巨大空港。韓国人女性ガイドはハキハキと明るい元気のいい人だ。専用車でホテルに向かうが、人口1000万の首都は、巨大ビルとマンションが林立する近代都市で、道路が広く驚いた。伝統建築の大統領府を横目に、日本大使館前の慰安婦少女像の前で記念撮影。若者3人が少女像を守るために机を囲んでいた。景福宮で朝鮮王朝の宮殿をみる。タブゴル公園にいき、3・1独立運動の宣言文や立ち並ぶレリーフをみる。17:00にチェックインし、19:00から韓国風の牛肉ジンギスカンを食す。生ビール1本とマッコリを1本痛飲する。こんなにアルコールを飲んだのは半年ぶりで少々心配だ。夕食後は郊外の山頂のソウル・タワーに行って夜景を見物。若いカップルで超満員。夜景は見事な美しさであった。帰る時に一人行方不明になって大騒ぎとなった。22:00ホテルに帰り、そのまま寝る。シャワーで風呂形式ではなかった。
(5/12)6:00モーニングコール。6:30朝食バイキング。午前中は唐津の現代製鉄所見学。原料から製鉄までの一貫工程は、整然と綺麗に整理された近代工場で、人間の姿はなくオートメ化されている。粉塵が出る過程は屋根で掩われ、地域住民への公害の影響はない完全な環境対応型工場と誇り高く案内者が説明していた。12:00に環境団体の人と昼食を囲み、その後事務所に移動して、現代製鉄の公害について質疑応答。最初は立地そのものに反対し、そのなかで公害対策の工場プランを提出し、かなり取りいれられて工場が作られたが、公害は激しく年間300人ほどが癌などを発症して死亡しているという、驚くべき対称的な報告でした。ソウルに帰って西大門刑務所を訪問。日帝支配下の独立運動家を収監し、戦後は反独裁運動家を収監した刑務所の内部は、陰惨そのものであり、独房や立房、ハンセン病囚の房など、日帝の過去の罪責の一端がうかがえました。夕食は豚肉のバーベキューで、ここでもマッコリを痛飲し、ホテルでは9時頃から疲れてシャワーも浴びないで寝る。
(5/13)6:30朝食後、38度線の4号地下トンネルをたずねる。地下深く岩盤を掘り進めた北朝鮮の執念に深い感慨を抱いた。小学生や中学生の遠足のような団体客も多く、遠く北朝鮮の町を望む美しい自然の風景は、現実の重い緊張とかけ離れて、あまりに非対称的であった。こうした南北分断の背景に、日本の植民地支配があったことを思うと、日本はいったいアジアの歴史に何を刻んできたのか、と暗然とした気持になる。昼食は1日目と同じレストランで牛肉ジンギスカン。19:05発大韓航空で帰途につく。20:55中部空港着。23:00帰宅。なぜか頭がさえて深夜1時までTVTVを見て寝る。
(印象記)1950年の朝鮮戦争からわずか60数年でこの見事な経済成長をなしとげた韓国の現代史に改めて感銘を受けましたが、現在では非正規や格差、少子化、若者の未婚率など日本と同じ影が差している。1970年代の民主化の経験は現在にどう生かされているのだろうか。財閥支配のシステムをどうするか。街で見る限り、韓国の人はキリッとしてキビキビ動いているように見え、子どもたちも日本とは違って、知的な感じがする。このあたりが爛熟して疲れているように見える日本の若者とはイメージが違う。日本はこのまま、斜陽国家としてイギリス型の成熟の道を行くのだろうか、中国や韓国のまだ前向きの表情に対し、どうもイメージ的に日本は世紀末の雰囲気が漂う。(2016/5/14)
 
沖縄現代史の旅(2014/12/23~26)
(12/23)
 6:10自宅発 6:29地下鉄 6:53ミュースカイで中部空港へ 8:45中部空港発トランスオーシャン航空で那覇へ、三重県員弁の高校生が沖縄への平和修学旅行、機中で年賀状を書く 11:25那覇空港着、気温17度 11:45那覇市内で昼食(自然食レストランでバイキング、オリオンビールがうまい) 15:00バスで東村・高江へ ヘリパッド予定地見学(楽しくユーモアあふれる説明者は30歳代の女性か?) 17:30名護市ホテル 18:30夕食(和食)
(12/24)
 5:30起床 7:00朝食(海を見ながら快適なランチ)8:00ホテル発 本部港へ 9:00フェリーで伊江島へ 9:30伊江島港到着後 ヌチドウタカラの家(お祖母さんの熱弁を聞く) 城山展望台 13:00伊江島港で昼食 13:30フェリーで本部港到着後に辺野古へ(辺野古テント村、若者が2隻のゴムボートで防衛庁に抵抗していた)、パイナップル園に寄る、名護市ホテル
(12/25)
 6:30起床 7:10朝食8:30 ホテル発 読谷村チビリガマ見学(台湾の戦争研究者のグループと同席、洞窟の遺骨と遺物は茶色に変色) 嘉数高台公園(普天間基地を一望) 那覇市内あいびうなあで昼食(首里城の秀麗の門見学) 14:10トランスオーシャン航空で久米島へ 15:10 痛恨の碑、慰霊の碑 17:00ホテルで夕食
(12/26)
 7:00朝食 9:00ホテル発 久米島内観光(海岸、畳石、高台、教育家の家、久米仙酒工場、博物館、松) 16:10 トランスオーシャン航空で那覇へ 18:58那覇空港発名古屋へ
*印象記
 ①沖縄の人びとの本土=ヤマトにたいするルサンチマンは党派を超えて深く沈潜している(現地の人は本土から来た人に説明するのにうんざりしている感じがある)
 ②琉球独立論は左翼の人にも隠然たる支持がある
 ③高橋哲哉の差別論はほんとうに沖縄の実情を知った上で論じているのか、藤田嗣治のサイパン島玉砕図の女性の洗髪をバスガイドに聞いたら、沖縄の人は風呂ではなくシャワーで、全身に掛けると寒いので、最初に頭髪を洗うと説明を受けて納得した
 ④ヌチドウタカラの家のカリスマ・リーダーである阿波根昌鴻の言葉は、命を賭けて戦う者の凄さがあふれている
 *『陳情規定』=「一、反米的にならないこと、一、会談の時は必ず坐ること、一、集合し米軍に対応する時は、モッコ・鎌・棒きれその他を手に持たないこと、一、耳より上に手を上げないこと(米軍はわれわれが手を上げると暴力を振るったといって写真を撮る)、一、人間性において、生産者であるわれわれ農民のほうが軍人に優っている自覚を堅持し破壊者である軍人を、幼子を諭すように教え導く心構えが大切であること(中略)右誓約致します。1954年11月23日 真謝、西崎全地主一同」
 ⑤戦いの現場にアートがない
 ⑥オナガ知事には必ずしも左翼は賛成ではなかったようだ
 ⑦沖縄の祖霊信仰の歴史的な土着性はつよい、亀甲墓などの巨大な墓制は貧富の差を反映しているようだ

インドで考えたこと(2014/10/1~6)
(10/1)快晴
 5:15自宅を出発し、6:00中部空港行き特急にのる 7:00搭乗手続き開始(ライター没収、どうも朝からイライラする) 8:20中部空港発日航機で、9:20成田空港着 11:30成田空港発デリー行き日航機(成田では両替はできない) 16:30デリー空港着(時差3時間) HISの現地インド人スタッフの車でメトロポリタンホテルへ向かう 道路は片道7車線、小型車で渋滞し、止まると物乞いがすぐに押しよせる 17:30ホテル着 日本食レストラン「さくら」でうどんを食べて、すぐに就寝する(ムンバイ在住の息子夫婦は飛行機の遅れで深夜到着の由、本日は会えない)
(10/2)快晴
 4:00目が覚めて昨日の記録を整理する 外の街路に出て一服すると、シーク教の兵士が堂々と道の真ん中を歩いていく 7:00朝食(バイキング、息子夫婦と再会) 7:30タージマハールへ向けて出発(片道4時間)、アグラ城を車中からみる タージマハール見学(ヴェルサイユ宮殿のような豪華な建築、イスラムモスクの瀟洒で豪華な建物)) レストラン2階でインド料理を味わう 手洗いの水もすべてミネラルウオーターという慎重ぶり 街の雑踏と車の大渋滞、すごい警笛の乱射 少年少女の物乞い 生きるエネルギーがほとばしっている まるで時間が止まっているようだ 物乞いの少年の真剣なまなざしに圧倒される インド人の哲学的な風貌が印象的 22:00ホテル帰着・夕食(息子夫婦と朝日新聞の従軍慰安婦問題をめぐる論争、本日はガンジー記念日でアルコール厳禁)
(10/3)快晴(本日はイスラムの祭日)
 5:00起床 6:30朝食 7:00ホテル出発 9:15デリー空港発 10:30バナラシ空港着 車でラデイソンホテルへ向かう ホテル到着後に東南アジア風のレストランで昼食医 車でガンジス川に向かう 手が8本ある彫像が鎮座するヒンズー寺院見学 ガンジス川河畔を散歩 火葬はすでに終わっていた イスラム寺院とヒンズー大学見学 日本人経営のレストランで休憩 初めてリキシャに乗る 恐ろしいほどの大渋滞をぬっていく ガンジス河畔でヒンズー教の荘重で民俗音楽をバックにした宗教行事を鑑賞 10:00ホテル帰着 夕食
 〇バナラシ市内はほとんどスラム街と市場がたちならぶ混沌とした原始的カオスにある リキシャとオートバイがけたたましく警笛をあげながら大渋滞 そのなかを牛がゆっくりと歩いていく この人並みと喧噪とエネルギーに圧倒される つぶらな瞳をした可憐な少女の物乞いの声に一瞬哀しみがこみ上げてきた リキシャは殺人的な運転で迷路のように入りくんだ市場の中を縫うように走って行く 生命そのものが煮えたぎるようなルツボとなって放射し、誰もが生きるのに必死で、そうした自分を客観視するような暇はない ガンジス川でみた火葬は圧巻でいたいの足や頭が見え、人々はさしたる哀しみの表情はなく、淡々と火葬に付している 火葬のシステムそのものがシステム化された販売店があり(衣装、木材、葬式用具)、遺体をつつむ金襴緞子や焼く薪は重さで売られている 火葬の実務は最下層のカーストが担当し、海の近くのアパートに集住している 火葬は男だけで、女は自宅で焼き、子どもは石を付けてガンジスに沈めるが、子どもの遺体が浮いている 火葬時間は3時間で灰はガンジスに流す、これがヒンズー教徒の最高の幸福な埋葬なのだ 夜の宗教行事は、5人のバラモン出身の若い僧侶が朗朗と流れるご詠歌のような歌をバックに、さまざまのパフォーマンスを演じ、群衆が唱和する、夜の闇に焔が燃え上がり、人々を昂奮状態にみちびく
(10/4)快晴
 5:15車でガンジス川へ行き、ボートに乗って沐浴と日の出をみる 5~6体の火葬をみる ガンジス川に子どもの遺体がプカプカ浮いて流れていた 8:00ホテルへ帰って朝食 9:30ホテル発 サルナート(大庭園) 仏教寺院 ストウーパをみる 12:00レストランで昼食 15:10バナラシ空港発 デリー経由でムンバイに向かう 息子の会社の車で日本食レストラン「幸福」にいってソバを食べる その後息子のマンションに行く 門番が2人居るゲイテイッド・マンションでプーツ付き 3LDK トイレ3 浴室2 5階の窓から海が見える 築40年だが内装はきれい 
 〇朝の日の出と沐浴は、清浄感につつまれてすがすがしい空気が漂う 宗教の存在論的な生活と一体になった埋め込まれた文化の恐ろしいような偉大さを実感する それは人々の心の救済をもたらすとともに、近代化への大きなカベとなっているようだが、近代化そのものに意味があるのかどうかを問い直すような迫力がある いったい人間のかけがえのない個別性とか個の尊厳などという西欧的な近代が根底からゆるがされ、共同体に埋め込まれた生涯の意味を深々と覚らされる カースト制度を当然のように黙々と仕事をこなしていくインド人にとって、ポストモダンなど夢想だにできない まさに飢えて死んでいく子どもにとって芸術とは? 等という問いがまったく意味を成さない
(10/5)快晴
 9:00息子の自宅を出発 海上にあるイスラム寺院を訪れる 足のない障害者やいたいけな子どもの物乞いが道ばたに続いている ゾロアスター教の鳥葬の沈黙の塔を車中からみて、ガンジーがムンバイにいた時の記念館をみ、昼食をスターバックスでとり、土産物の買い物をする(インド衣服2着、コーヒーカップ) 2:00世界3大スラムの一つであるムユバイスラムを訪れる、原始的な問屋制家内工業が密集する表現をこえた苛烈なスラムがつづき、想像を超えた生活環境にいきる人間の生々しい姿をみせつけられた、ここからブランド製品が作られるのだ! いったんホテルに帰ってシャワーを浴び、超豪華ホテルの高層階の日本食レストランに入るが、半ズボンとスリッパでの入場を断られたが、なんとか入場できた 深夜帰宅  
(10/6)
 10:00息子の自宅を出発して、11:00ムンバイ空港着 12:45ムンバイ空港からデリーに向かい、台風で2時間遅れた日航機で成田空港に向かう 成田空港についてスレスレで名古屋行きに間に合い、中部空港に着いた 帰宅後にすぐ愛犬コロを迎えに行く
 〇このようにして、私のインド紀行は終わった 旅行記が書けないほどの異文化のカルチャーショックをうけた海外旅行となった

クリスマス休暇のドイツをいく(2013/12/24-31)
(12月24日)
 快晴 7:45自宅を出て地下鉄で名古屋駅 8:23発特急で8:50中部空港着 待合室でビール一杯飲む、空港内は暑い 11:15フィンランド航空に搭乗
 15:10ヘルシンキ空港着 外は暗い 時差7時間 16:00乗り換えてベルリンへ向かう 19:40ベルリン着 日本大使館近くのインターコンチネンタルホテルへ向かう
 ベルリンのメインストリートは少し殺風景だが、クリスマスイルミネーションで輝いているがクリスマスで出歩く人は少ない バウハウス風の近代建築が立ち並ぶ
 ホテル内では風呂の操作が分からず苦労した
(12月25日)
 ベルリンの朝は暗い 6:30朝食はヴァイキングのデラックス料理で満足、20世紀の激動の地ベルリンの1日がはじまった
 三島憲一『戦後ドイツ』(岩波新書)を読了、知識人中心の戦後思想史で民衆史は出てこない、戦後の出発のドイツの苦しみがよく描かれている(日本は転向物語中心で加害責任の問題が欠落していることが分かる)
 
 ベルリンの壁は観光化して残っているようで戯画的な感じがある、監視塔は全体主義の見事な記念物となっている
 ドイツ連邦議会は古典主義のモデルのような建物で、ナチスの放火事件とクリストの梱包芸術を思い起こさせた、首相府と議員宿舎のモダニズム建築と対象的である
 ブランデンブルグ門は激動の歴史を刻み込んで圧巻であった
 ベルリン市内の観光を終えてバスでドレスデンに向かう、あちこちに風力発電の風車が林立している広大な牧草地帯の風景が広がる、夕食はホテルの外の地下レストランで濃厚な肉料理の味で少々閉口した
 21:00教会でパイプオルガンの宗教音楽のコンサートを聴く(16€)
(12月26日)
 6:00起床 6:30朝食 9:00ホテルを出発し旧市街を徒歩で散策する、エルベ川河畔の恐ろしい程に中世の街並みが復元保存されて残り、ホテル前の広場は廃墟の跡の調査事業が進行中
 アテル・マイスター絵画館でルネサンス以降のデユーラーやクリスト、フェルメールの著名なコレクションが満載
 フラエニ教会はルターを擁護したザクセン国王のプロテスタント教会で再建されて新しい、広大な庭を持つドレスデン城は陳列館となっている
 カトリック教会と三位一体教会は外観のみ
 復元のための詳細な瓦礫調査報告書をみると、欧州の歴史と文化への記憶の意識のすごさを実感した
 夜はオペラ座の「マダム・バタフライ」を天井桟敷の立ち見席で観たがかなり前衛的な演出で面白い
(12月27日)
 6:00起床、入浴 6:30朝食
 チェシーリエホープ宮殿でポツダム会談のあった部屋部屋などを見学、この部屋で日本への無条件降伏宣言が起草された、なにかつわものどもが夢の跡といいった感じを受けた
 リヒテンシュタイン大王のサンスーシー宮殿はヴェルサイユを模したような壮大な宮殿であったが、ギリシャ建築の廃墟をつくったり悪趣味の感じもある
 感じのよい村の田舎風のレストランで昼食をとった
 バスでベルリンに向かう、広大な農村風景にハイデガーの「存在の故郷」のようなゲルマン共同体の精神文化を感じる、風力発電の風車が目立つ
 夜は東ベルリンにあるブレヒトのベルリーナ・アンサンブルの芝居を観る(ブレヒト劇の本場を最前列の座席で観ることができて感激)、妻と二人で隣のイタリアレストランで夕食(ピザ)をとる
(12月28日)
 ラーフェンスブリュック女囚強制収容所を見学、広大な敷地で湖のそばで避暑地のような場所に立っている、隣りにあるSSの瀟洒な官舎とのコントラストが際立つ
 ラインスベルグ原発は高級避暑地のような湖の畔にあるが、島の影で見ることができなかった
 夜はドイツの高校教師5名との夕食懇談会で、ネオナチ的なふるまいの子どもは退学となるという点が驚いた、哲学や宗教が正課として位置づけられている点も驚きだ
(12月29日)
 9:00出発のバスで、プレッツエンガー記念館(政治犯刑務所)で処刑場所や独房を観る、あらためてナチスの悪魔性を実感した
 途中でヒトラー防空壕跡をみたが、いまは地下に埋もれて標識のみ
 有名なモニュメントがあるホロコースト記念館の地下資料室をみる
 13:00バスでザクセンハウゼン強制収容所にいく、広大な荒涼たる敷地でわびしい、人体実験の実験台(2台)には参った
 17:00ファーザーネン通りのケーテ・コルヴィッツ美術館にいき、コルヴィッツの原画を観る、若者の観覧者が多くジット見入っていたのには感慨を覚えた、レストランで夕食
 19:30ホテルへ帰り入浴し、20:30に就寝
(12月30日)
 9:30ホテル発 12:05発ヘルシンキへ向かう 17:15ヘルシンキ発で名古屋へ向かう
(12月31日)
 8:50 中部空港着
 
 かくてドイツ旅行は終わった、美しく素朴な農村の田園風景、移民労働者を除いてどのような職業の人もプライドをもって仕事をしているように感じた(サービス業の人も客に媚びない)
 あちこちにソ連軍やKGBの基地や宿舎の跡があり、旧ソ連は帝国主義のイメージがある ドイツの風土性はナチスをも生みまた革命を生む両義性にある文化ではないか
 まだまだドイツは新自由主義に侵されていない社会的市場経済の根強さがある

明日の異世界遺産に出会う旅・五島列島4日間(2013/4/26-29)
(4月26日)
 名古屋駅より新幹線で博多に向かい、博多埠頭よりフェリー太古2島船室で五島列島に向かう(23:30発)。ごろ寝で寝るのが大変。
(4月27日)
 7:10若松港着 朝食後、若松大橋を経て矢堅目の塩釜見学し、青砂ケ教会を見学し、蛤浜ビーチを見る(すばらしいエメラルド・グリーン)
 頭ケ島教会、奈良尾神社をへて、奈良尾港から福江港に向かう。ホテルに入り、椿茶屋で夕食後ホテルに帰り、就寝
 開発されない離島の美しい海と素朴な人情は、都会で失われたものを想いおこさせる。
 それにしても、隠れキリシタンの土着化した信仰が営々と築きあげてきた貧しいけれども気品ある教会文化には、初めて触れた日本の民衆文化の一面を実感させた
(4月28日)
 ホテルを出て井持浦教会を見学し、大瀬崎断崖展望をみて、高浜ビーチにむかう(この眺望と美しい海岸がすばらしい)
 遣唐使記念館を見学して昼食(命を賭して中国に向かった志の基底に流れる文化吸収の意欲のすごさを実感)
 水ノ浦教会と堂崎天主堂、珊瑚記念館から溶岩海岸、鬼岳という絶景に感嘆する
 カンパーナホテルに投宿し夕食後就寝
 キリシタンに対する拷問部屋の復元は、弾圧を超えて信仰を守るキリシタン信仰の神秘的な強さを実感する。封建支配と貧困の救済からの解放を求める宗教的な形態が、最下層の庶民の心をつかみ、命をも捨てる覚悟と崇高な犠牲的精神をもたらした。単に気高い献身的な殉教とみるのではなく、思想そのものが肉体と化して、超越的な耐久の力をもたらしたのか。思想と倫理、転向と非転向が、庶民のレベルで趨向された点に考えさせられるものがある。同じ村人の内部が、敵と味方に分かれて弾圧が行われ、共同体が壊れたにもかかわらず、全ての恩讐を超えて人は与えられた地で生きていかなければならない。キリシタンとか、隠れキリシタンとか云うのは差別用語だそうだ。隠れキリシタンと潜伏キリシタンの意味が違う事も初めて知った。「崩れ」の意味は、「転び」ではなく、隠れキリシタンが名乗り出て、それまで共同体で営まれていた信仰のシステムが崩壊することを意味するのも初めて知った。
(4月29日)
 福江港からクルーズ船で久賀島へわたり、五輪教会、浜脇教会、牢屋の窄を見学し、福江港から長崎港へ行く。平和祈念像と浦上天主堂、26聖人殉教の碑を見学。
 長崎は神戸のような海岸から山へ伸びる街で美しい平和都市のイメージがある。
 人間にすれたところが無く、失われた純情な素朴さが残っている。私たちが帰っていかなければならない人間を見たような気がする。男子高校生は詰め襟の古典的なスタイルで表情がりりしい。女子高校生は化粧がなく澄んでいる。こうしたピュアーさとキリシタン信仰は関係あるのだろうか。19:40発のANAでで中部空港に向かう。21:10中部空港着。日本にはまだまだ見なければならない地域文化がある事を痛感した旅だった。ツアーで一緒になった84歳の元女教師の感性と鋭い観察力が印象に残った

シルクロード・チベットをいく(2012/8/18-25)
(8月18日)
 4:00 起床 水撒きして5:00自宅出発 地下鉄始発(5:33)で名古屋駅から6:02はつミュースカイで中部空港へ(快晴で暑い)
 8:00 搭乗手続き(スムーズにいった)
 8:15 21ゲートで待機(ホットドッグ800円食べる、少々腹の調子がおかしい)
 8:50 中国東方航空にて出発
10:00 機内食(簡単な中華、青島麦酒注文) 快晴で青い空と青い海がひろがる
11:00 上海上空に接近 海と川は驚くべき泥水 浦東沿岸開発の影響か 時差1時間30分はやめる 巨大空港で迷子になりそう 外国人旅客は
      多くない
11:10 中国東方航空でのおなじ飛行機で西安に出発
13:40 西安空港到着 巨大空港に変貌していた
16:35 国内線に乗り換え、甘粛省の省都・蘭州へ(西部大開発で人口300万の巨大都市へ変貌、高層ビルが林立)
17;45 蘭州着 蜀郷東酒楼で夕食後ホテルへ 就寝
(8月19日)
 6:30 モーニングコール
 7:00 朝食(洋食中心のバイキング)
 8:00 ホテル出発し、甘粛省博物館新館見学 まだときどき目が痛い
      市内観光後に、甘粛3大石窟「柄霊寺石窟」、白塔山見学 猛烈な自動車の運転でヒヤヒヤしながら奇岩の中の山岳仏教を見る
19:00 蘭州ラーメンの夕食の後、ホテル着 明日の出発時刻を遅らせるように不満があり、明日の朝食時に全員で相談することとなった
      街は高級車が走りまわり、自転車の姿はない 道の横断は自由で危ない
(8月20日)
 6:30 起床
 7:00 朝食
 8:30 ホテル出発 市内観光で「黄河の母の像」「黄河水車」を見学後に西寧にむかう
      いよいよチベット鉄道でラサに向かう 乗車時のパスポート安全検査が非常に厳しい 2段ベッドの一等車 白酒を飲んで高山病になった
      隣席の高齢者が痴呆気味で奇行が多く一睡もできなかった 下痢になり夜3回ほどトイレに行く
      標高4千ー5千mの壮観な昆ロン山脈を行くが、高山病で寝たきりとなり、食事もほどほどにとった 揚子江の源流に野生動物と放牧の風景
(8月21日)
14:35 ラサ着 ホテルに向かう 驚くべき近代都市へ変貌 チベット人女性ガイドはエキゾチックな雰囲気がある 
      ホテル到着後に体温を測ると38度あったので医者を呼ぶ、血圧170-100だが心配ないと言われ、点滴(2万8千円)すると1時間で恢復
(8月22日)
      専用車でポタラ宮とポタラ宮広場見学 チベット仏教の総本山は圧巻であり、狭苦しい仏間が入りくみ、金メッキの仏像と霊廟が所狭しとある 
      香の匂いが立ちこめ、修行僧がアチコチで瞑想し、密教の雰囲気がただよう
      3時間の自由時間で足裏マッサージ(3000円 可愛らしい少女) 
      12歳のシャカ像がある大昭寺見学 装飾は原色が多くきらびやか
      門前町はすごい出店で巡礼者が寺のまわりを3周する あちこちに武装警察が警戒している 五体投地という儀礼を少年がおこなっていた
      夕食はチベット民族舞踊を鑑賞しながら、夜ライトアップしたポタラ宮をみる
(8月23日)
10:30 ホテルを出発し、ダライ・ラマの夏の別荘ノルブ・リンカ(宝の庭)を見学 チベット仏教最大の祭であるショトウン祭(ヨーグルト祭)の最中で、チ
      ベット全土から僧侶やチベット族が集まり、推定10間人を越える人たちがを超える人たちがテントを持って集まり、中央舞台で華麗な民族舞
      踊チベタン・オペラ(アチェ・ラモ)が披露されていた。国営西蔵劇団を含む仮面舞踏7劇団のうち5劇団が出演しコンペを競い合っています。
      この仮面舞踏(マスクダンス)は60年の伝統をもち、もとは寺院の宗教活動が源流で、17世紀から民間にひろがり、民衆の中心的な娯楽と
      なっています。離宮前広場の大テントの下で演じられ、何重もの人垣で見るのに苦労しました。周辺には屋台や露店が立ち並び、日本の縁
      日のような光景です。仮面舞踏の題材はチベット神話や仏教伝説で歌と踊りが身体の旋回と跳躍を伴いながらくり広げられます。仮面の面
      具の素材は木彫もありますが、布や神に原色を彩色し、周辺を白と黒の毛で装飾し、額の真ん中に丸と三日月が描かれています。これは太
      陽と月、陰と陽を表す中国の陰陽5行説の影響がうかがえます。祭のエネルギーはチベット民族のプライドとエネルギーを示しているが、ここ
      でも武装警官が監視しています。
       次にチベットでもっとも聖なる寺院といわれるセラ寺見学、ここも軍人がおおい、ちょうど修行僧たちの問答による試験が行われていた、
      50人ほどの僧侶が両側に座し、2人の試験官の前でマイクの前に修行僧が一人一人立って身ぶり手ぶりの問答法が行われていた、
      僧侶が許可した撮影許可証(30元)を手に、撮影していたら、私服(?)が猛烈な勢いで叱責し、警官と私服の横暴な態度にガイド2人が
      強硬な抗議をおこなった
      セラ寺は2008年の暴動の拠点であり、寺院と公安の微妙な緊張関係がうかがわれた(ちなみに移動に使う専用車の運転席のガラスは
      銃弾の跡が残っていた)。今日はチベット民俗の典型例に触れられて貴重な1日でした。
(8月24日)
 7:30 モーニングコール
 9:30 旧市内最大の繁華街である八角街で買い物散策、朝は巡礼者が歩きまわり、武装軍人8人編制で行進、男物民族衣装(160元)と曼荼羅
      (400元)購入、      その他カレンダー(40元)タペストリー(50元)ヤク肉(280元)購入
14:30 ラサ空港着
16:30 国内線で西安へ向かう(出発が1時間遅れる) 高山の上を飛行し景観がすばらしい
18:10 西安着
(8月25日)
13:00 西安空港着
15:00 中国東方航空にて上海へ
18:10 上海発で中部空港へ(出発時間が1時間遅れる)
22:10 中部空港着  最終電車で金山に行き、タクシーで自宅にいく

シルクロード・チベット雑感(中国で考えたこと)
○すさまじい西部大開発 蘭州・西寧・ラサは近代ビルの建設ラッシュで壮観である(マンションは70年の借地権で購入する)、都市戸籍より農村戸籍をとりたがる(土地投機と開発投資)、中国社会主義とは土地国有化にあるが、すでに土地は借地権で自由取引の対象となっている
○資本主義的価値観の浸透、共産党への入党希望者は特権志望者であり、入党したくない者が多くなったいる、ガイドは一党制が崩壊すると言い、そうした表明への規制はないという、
多党制への移行に伴う保守派との対立が激化する局面があるのではないか
○中国工業化をめぐる経済理論の再審(国際分業、技術移転論、雁行型発展論など)が求められる、逆に21世紀社会主義論の再構築が求められる、とくに日本はマクロ経済学の新たな展開が求められる
○経済史学における自然決定論、風土決定論を新しく位置づけ直す必要がある
○チベット問題、 漢人ガイドはチベット暴動に批判的でどこか差別感があり、当然に独立に反対であったが、チベット人女性ガイドはこのテーマには沈黙していた
○仏壇問題 日本の仏教とアジア仏教は文化的に相当の差異があり、日本仏壇をアジアに輸出することはできない、中国・ベトナム・印度へと海外展開する日本仏壇の委託加工も限界に直面する、日本は独自に職人の養成システムをつくらねばならない、日本向け輸出仏壇は高水準で日本の棺桶はほとんど中国製、木材の原材料は規制の緩いベトナム・ラオスから輸入し、中国で加工・彫刻して日本に輸出、仏壇輸出でもうかればそれを他の分野に投資してさらに展開する(日本文化のことなど考えない)、絞りの委託加工も同じ論理である

GWの白川郷をいく
 東海北陸道から高鷲インターで降りて、国道をいき、白山に向かったが、冬季通行止めが解除されていないので断念し、世界遺産・白川郷に行く。深緑がまばゆく、まだ桜が散りかけた山並みは新鮮なうす緑で美しい。途中で荘川桜があったが、見物客で満員のため、白川郷に直行する。車は比較的少なくスムーズに現地に着くことができたが、白川インターからきた車は大渋滞で列をなしていて可哀相だった。白川郷は、茅葺きの家が点在するなかに、おそらくかなり規制を受けた民家が立ち並んでいた。若者のが三々五々と散策するのは、GWのせいか観光化した趣があり、世界遺産が次第に世俗化しているような印象を受けた。白川の湯という民芸風の風呂に入り、蕎麦を食べた。愛犬・コロは、なにか緊張した様子でアチコチ散歩に連れ回し、疲れた様子であった。初夏の快晴の白川郷を満喫して帰途についたが、16万人が避難する福島のことを思うと、少々胸が痛んだ。帰途は
白川郷インターを使ったが、逆方向のためスイスイと走行できた。白川郷から高鷲までの東海北陸はトンネルだらけで高速通行の醍醐味はないし。(2012/5/6)(

オーストリア・ポーランド紀行(2011/7/26-8/2)
(7月26日)
 6:30 自宅出発
 7:20 名鉄特急にてセントレア空港へ
 7:50 セントレア空港着 5万円をユーロに換える 排便あり、今のところ大腸は順調である。スーツケースの重さに参った。
10:40 フィンランド航空にてヘルシンキへ向かう。客席はガラガラで、海外旅行の落ち込みを実感。
12:00 チキン風ランチの機内食、赤・白ワイン各1注文、座席のTVで「SP]という警察を讃美するアホなテロリズム映画をみる、目が痛くなる  
19:00 焼きおにぎりでる、時差7時間に修正
14:15 ヘルシンキ空港着 EU内では入国カード不要 少々頻尿傾向あり 快晴
16:45 ウイーン行きプロペラ中型機に乗り換え 少々寒い 
17:05 出発
19:30 ウイーン空港着 ガイドのMR・岡本氏(ウイーン在住声楽家)の案内でウイーン中心部のホテル・ロウアルに投宿
 街は中世風の町並みが復元されている、ほとんどブランド店が軒を連ねている マルボロ1箱購入 大道芸人があちこちで演技している 最初の夜は寝つけず『人類学者と少女』(岩波現代叢書)を読む ユダヤ人少女(奇跡的に生き延びて戦後は著名な歌手として活躍)の人体実験が圧倒的な迫力で描かれている

(7月27日)
 9:00 MR岡本氏の案内で市内観光 ハプスブルグ家の壮麗な王宮(ヴェルサイユを少し小振りにしている)見学 昼食は王宮近くの植物園内のレストランでヘルシーランチ その後に美術・美術史博物館でルネサンス期の膨大なコレクションを見る(ブリューゲルの作品が多い)
18:00 ホテルに帰着し、スーパーで買ったパンと麦酒で夕食
20:00 ウイーン楽友協会ホールでモーツワルト・フィルの演奏を楽しむ 団員は貴族風の衣装でサービス満点の演奏(メジャー演奏家は夏休みでいない)
22:00 ホテルに帰る
 ウイーンの街は中世風の壮麗さとブランド店が立ち並ぶ、大道芸人が演技している イスラム系の多さには驚く(ガイドはウイーンの良さがなくなったと慨嘆) 売春婦はいない

(7月28日)
 7:30 ホテル出発
 8:00 ウイーン空港 出発手続きが機械式でトラブルあり ポーランド航空のの80人乗りプロペラ機で満員
 9:30 クラクフ着 現地ポーランド人ガイドの出迎えを受けバンでホテルへ 平原がなだらかに続く ガイドが福島の日本の報道をしきりに批判(日本政府と東電は嘘つきと欧州から見られている)
10:10 ホテル・フランツスキに到着 かなりクラシックなホテルで403号室に投宿 広場にいって簡単な昼食を注文するがヘルシーでボリューム満点 三々五々に生活を楽しんでいる市民の姿はかなり日本の風景と違って余裕が感じられる 教会を中心にした広場は欧州有数の広さでテントを張った出店が並んでいる  これが欧州の広場民主主義か! ホテルに帰ったら森英樹夫妻がいて合流しクラクフ市内観光に出発 王宮・聖マリア教会・織物会館などをまわる 教会でのいくつかのコンサートが予定されているがみんなは敬遠する
 ウイーンよりもはるかに多くの大道芸人が演技して楽しめる  固い石畳の道はかなり疲れる 
 アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所見学 ガイドは日本人の中谷さん 云うべき言葉を失うが、当時の実相を想像することは至難で、その落差に驚き、感応できない自分を情けなく思った イスラエルの中学生か高校生が国旗を掲げて収容所内を集団行進していた 石原都知事が1年前に見学したそうだ 写真集購入 帰りにシンドラーズ・ファクトリー見学
 夕食はスーパーで買ったパンと麦酒で部屋で4人ガヤガヤ云いながら食べる
21:30 就寝

(7月30日)
 7:15 ホテル出発
 8:00 クラクフ駅を列車で出発(2等車 トイレは悲惨)
10:54 ワルシャワ中央駅着 女性ガイド(菊池さん ポーランド人と結婚し熊本大学留学)が出迎える ワルシャワ蜂起記念碑・バルバカン・旧市街・聖十字教会・ショパン記念碑などまわり 聖十字教会の裏手の地下にあるレストランで会食(ぎょうざを食べる)
 戦争で崩壊した街を完全に復元する文化の重さを実感した 文化科学宮殿をソ連への忠誠とともに贈られたポーランド人の反感はよく分かる 街のあちこちには社会主義リアリズム建築が立ち並ぶ
16:00 マリオット・ホテル帰着
19:30 ホテルから出発 ショパン・ピアノリサイタル楽しむ(体重100kgはありそうな巨漢女性ピアニスト 聴衆10数名のホームコンサートで迫力があった)
21:00 ホテル帰着 その後少し酒飲んで就寝

(7月31日)
 6:30 朝食
 午前中は自由行動で電車の24時間切符でコルチャック先生の孤児院訪問(かなり元の姿をたもち外装整備中、今も孤児院として経営) すぐ近くにワルシャワ蜂起記念館があり記念日で入場無料 迷路のような展示で迫力がある 写真集購入 玄関で生き残りの兵士と記念撮影
 バンでショパン博物館に行き生家を見学する 伯爵の広大な敷地に整然と保存されている まさに国民的な記念施設となっている 絵はがき4枚とショパンTシャツ購入 雨が激しくなりワルシャワに帰る
 教会とワジェキ公園の無料ピアノコンサートを聴くが降りしきる雨の中で女性ピアニストが独奏してドラマテックな演奏風景である
19:00 ホテル内レストランで夕食 ステーキ1人分とビール2・ジュース1で高額の請求にびっくり(6千円)
20:00 バスでワルシャワ蜂起記念碑の記念行事に行くが、バスを間違えて反対方向へ行きあわててタクシーに乗り換える すでに大統領演説の終わり近くで大統領がスローガンを叫ぶと衛兵が唱和しナショナリズムの迫力ある演出がつづく 著名人が生き残りの兵士の前で記帳するごとにシンバルが打ち鳴らされる 式典終了後に朗読音楽劇が上演され、サーチライトが点滅する荘厳な演出となる 満員の聴衆がじっと見つめている光景は歴史の記憶の日常化を感じる 日本がみじめに見えてくる
21:00 タクシーでホテルに帰る
22:00 麦酒を飲み就寝

(8月1日)
 6:20 起床しホテル玄関前で喫煙 タバコをくれというホームレス風の男性に1本提供
 6:40 朝食 9:00まで談笑する
 いよいよ今日は帰途に就く ショパン空港→ヘルシンキ空港 喫煙所で禅仏教徒と名乗るスエーデン男性および盛岡市で英語講師をしていたアメリカ人男性と談笑 フィンランド航空にて日本に向かう(機内ガラガラで4人席で横になる 楽に就寝)

(8月2日)
 セントレア空港着 日本のごみごみした都市風景にガックリ

*欧州の歴史的佇まいは文化の重さを実感させ、日本のビジネス優先の雑然とした都市風景の非人間性にみじめさを覚える。戦争を含む歴史の記憶が制度的にも生活に埋めこまれており、日本の歴史感覚の浅薄さを実感した。国家記念行事も市民参加で誠実なナショナリズムを示しており、日本のナショナリズム=右翼とはまったく違う威厳と矜持が漂う。欧州におけるユダヤ人の歴史的迫害は予想以上に深刻でイスラエルのパレスチナ排斥への単純な批判は有効性を持たないことを実感したが、なおかつイスラエル的な方向を拒否するユダヤ人の存在に救いを感じる。欧州の民主主義はアゴラ広場を中心に発達した歴史的なもので、制度的にみるよりも文化としてみることがただしい。旧ソ連が東欧ではファッシズムそのものであったことが分かる。ポーランドから見ると北朝鮮は「キチガイ国家」にみえるというガイドの言葉には驚いた。毅然として尊厳と矜持をもつ個人文化と云うことが少し分かったような気がする。最近の日本がほんとうにどこかおかしくなっていると実感する。(8月3日記す)

日本美術会シンポin郡山
 日本美術会のシンポジウムと討論集会が磐梯熱海温泉の浅香荘という旅館で、70名弱の参加を経て行われました。私は新会員ですのでかなりの期待を持って参加したのですが、日本美術会の現状と理論を知る上で大きな収穫を得た印象です。なにしろ郡山とか磐梯山は初めてですので、東北文化の片鱗のもふれて有意義なものがありました。東海道から山形新幹線をジパング割引で1万4千円弱でしたので助かりました。講演は金沢美大教授による原始美術のリアリズムを現代につなげるもので、原始人の表現の解釈の興味がありましたが、かならずしも現代のリアリ図ズムにはつながりませんでした。シンポジウムは、ホロコーストを描きながら平和運動を進めている人、農業と米問題を抽象画で描く人、展望をさがして生きる人間を彫刻する人、屋外でのインスタレーションを竹細工を使って環境を表現する人、自由奔放に抽象画を描く韓国人女性画家など多彩なパネリストが登場して、現在の日本美術会の多彩な表現が凝縮されていました。
 シンポ初参加の私は、かなり緊張して質問し少し会場に緊張感をもたらしたようです。ホロコーストを異文化のアジア人が描くことの意味は何か? 自由奔放に描くことと現代の表現の結集軸はなんなのか?などかなりシリアスな質問をしてパネラーたちに打撃的な内容で迫ったので、会場は緊張したようでした。この会は和気あいあいと連帯感がありますので、ぎゃくに人に迫るような対話が薄いような印象がありますので意識的に挑んだのですが。翌日は分散会での討論でしたが、それぞれの表現活動の紹介で理論的に討論しあう面で少し物足りなさが残りましたが、各地域と個人の実践的実例は非常の参考になりました。午後は五色沼湖畔の諸橋美術館という素晴らしい美術館のダリ中心の展示を堪能しました。自由奔放な表現のダリの作品には、社会的テーマの追求という狭い表現を越えた感性の跳躍を感じましたが、相当な違和感も残ったのです。こうして充実した研究会を終えて、東京の息子の処に一泊して帰途につきましたが、久しぶりの大旅行で堪能することができました。(2010/10/26)

大学私的OB会(1月22-24日)
 かって大学の同じ学科で学生運動をともにしていた級友たち6人で集合。
(1月22日)のぞみ自由席(ジパング)で上京し、品川から渋谷へ向かう。Bunkamuraで「ピカソーとクレーの時代」を観る。私の関心はナチスによって頽廃芸術として迫害されたドイツ表現派の痛々しい描画に集中した。道玄坂の名曲喫茶「ライオン」に入ったら、「英雄の生涯」がかかっており、数人が沈黙して聞き入っていた。このようなレトロな雰囲気の店で、ひたすらクラシックのLPに聴き入る都会人の心情は何だろう。
 総武線に乗って浅草橋で降り、ホテルでのOB会に行った。じつに懐かしいメンバーが40数年の年輪を刻んで再会するのは、独特の感性の高揚をもたらす。一人一人半生をふり返り、談笑するが、なにか学生時代のイメージの核のようなものは健在だと感じた。2次会では4人のカラオケとなり、唱ったのは青春系清純歌であり、演歌を歌ったのは私だけであったが、T嬢とのマイ ウエイ のデユエットは絶唱であった。彼女がこのように高らかに歌おうとは驚いた。表参道の農林省系南青山会館に投宿。
(1月23日)10時頃より神田古本屋街を散策し、本を渉猟し、購入した書籍を宅配便で次々と郵送する。その後、岩波ホールで映画『懺悔』を鑑賞。衝撃的な内容(詳しくは映画・芸術欄参照)。新宿に向かい、息子と待ち合わせして紀伊国屋地下の居酒屋で飲む。すこし元気がないようだが・・・まマイペースでやっているようだ。息子のアパートに泊まる。
(1月24日)午前中はブリジストン美術館の名品展を観る。なんと西欧と日本の巨匠達の作品がズラリと勢揃いしている。この収集力の凄まじさには圧倒されたが、収集のコンセプトがなく、金にあかせて買いまくった感じ。
 同じ都会でも東京は決して視線を互いに交わさず、それぞれが忙しく歩んでいる感じ。これを無機質な孤独という人もいるだろうが、私はむしろ落ち着く。名古屋はなにか互いの視線を感じつつ、仲間同士でじゃれ合っているような雰囲気でいつまでたっても好きになれない。(2009/1/25 9:17)

キューバ紀行(12月24日~30日)
(12月24日)
 9:00 自宅出発 今朝は寒く風邪をひく心配がある。ガラガラと大きな音を立てて、スーツケースを駅に運ぶのはあまり気持ちのいいものではない。時に非正規のような若者とすれ違うと、すこし申し訳ないような気になる。
 9:35 名古屋駅着 1時間も前に着いたので休憩室にはいる。さて今回のキューバ行きの目的はなんだろうか。(1)経済封鎖のもとで営まれる社会主義の実態を知る(2)そこで実際に生きて生活している人の生の姿を見たい(3)キューバ教育事情(質問としては、①華やかな資本主義文化への誘惑がこどもにとってどうか②革命を直接経験していない世代への継承は③中国・ベトナムの市場社会主義の評価)などである。M氏と合流しホームに上がる。10:33発のひかりに乗ろうとしたら、先にでる20分発の自由席がガラガラだったのでそれにした。3人でアレコレとよもやま話をしながらいく。  
12:20 東京駅着 スタンドで簡単にサンドウイッチの昼食をとる
13:03 成田エクスプレスで出発 車中は海外旅行客でほぼ満席 車中は暑くうたたねする
14:20 成田第1ターミナルロビー 添乗員A氏と合流
17:45 総勢19名搭乗開始 エアカナダ機満席(出発時間1時間遅れる)
18:20 離陸
19:00 機内食(チキンパスタ) エアカナダ機は座席にTVブラウン管がある、少林寺拳法のたわいない映画をみる、3人掛け席の真ん中は苦しい 
24:53 機内食(朝食 おかゆ) バンクーバーまであと1時間 アヴァンギャルド分野の映画をみるが英語でさっぱり分からない
 1:30 外が少しづつ明るくなってきた
14:20 バンクーバー着(現地時間) 降雪でトロント行きキャンセルあり 12:00離陸予定が遅れる 成田出発の客に無料飲食提供、私の若い頃の組合青年部で一緒に活動した女性がグループの一員にいた、バンクーバー空港の職員はアジア系を含む多国籍、飛行機なかなか飛ばない、雪降りしきる 
17:10 着陸に入る 雲間から素晴らしいトロントの夜景が広がる、クリスマス・イブの夜か
21:00 トロント空港から10分ほどのダブルツリーホテルに入る 23:00までワイワイ言いながら会食 その後入浴して就寝、凄いベッドで枕がなぜか5つもある

(12月25日)
 6:00 起床
 6:45 朝食(ヴァイキング) 便秘対策の薬のむ
 8:00 バスでホテル出発
 9:45 ハバナ行きエア・カナダ機搭乗 3-3席の中型機 満席 天候快晴 キューバに行く人が結構多い 多民族 日本人の1人旅もいる 眠たくなる 機内食は10ドルで配られるが私は朝食は止めておこうと思う いよいよカリブ海に入る 快晴
13:00 キューバ上空 快晴 真っ青な海 いよいよキューバ入国である
13:40 ハバナ空港着陸 前席の美しい娘さんが涙ぐんでいた 空港な粗末さには驚いた 秘密警察風の人物が2人いて私をじっと見る 
      バスに乗ってハバナ郊外から市外に入る 恐るべき市外の荒廃した風景が広がる スペイン風の建物が朽ち果てつつあるような感じ これが封鎖経済の実態か
      ハバナ蒸留博物館 ラム酒の製造資料館だがあいにく閉館 バンドがフォークソング演奏 CD1枚購入
      革命広場 巨大なモニュメントを中心に内務省、郵政省などの政府機関が集積しているがいずれも建物は貧しい、しかし警備の風景がほとんどない
17:00 ホテル着 海岸沿いの豪壮なホテル 客はほとんど外国人観光客 ロビーにあるキューバ現代絵画のほとんどはピカソ風の抽象画でそのニヒルさに驚く(社会主義リアリズムはほとんどない)、いったいこれは芸術表現の自由の反映なのか いよいよキューバ1日目の夜を迎える
18:30 ロビーに集合してバスでレストランへ行く ヘミングウエイ愛用の伝統あるレストランで無数の落書きがある ”キューバ革命万歳 荒木國臣”と落書きする 3人組がラテン音楽を謳う 左手に凄い教会がある
21:00 ホテル帰着 入浴して就寝

(12月26日)
 6:30 朝食
 8:00 出発 快晴 都市農園で経営者から話を聞く(有機農法 すべて店頭売り 価格決定は共同組ないし経済計画省織 田んぼのあぜ道の幅まで指導がある)
      識字博物館 非識字克服が革命の主要課題であり同時に社会主義思想普及運動でもあった この博物館は幼稚園から高校までが集積する学園地帯にある 革命とは具体の必要から出発するのだ
12:00 日本から移民して成功している大江さんの個人農場兼自宅を訪問、畑見学のあと昼食(カレー、揚げ物、エビ揚げ物、トマトとマンゴージュース、コーヒーなど)
13:00 ホテル着 ホテル近くのスーパーに買い物に行く 巨大なスーパで品数もそれなりにある ラム酒2本とビスケット購入(30ペソ)
16:00 教職員交流会 スサーナ(ハバナ大学日本語教授) ノエル(ハバナ大学 筑波大留学) イエン・スペーチ(中学 スペイン語) マリン(高校 スポーツ学校で数学) ドラコバ(小学 中央ハバナ コンピュータ)
 質疑応答
 ・教職員組合運動は? 組合のスローガンは?(モラル・価値観・愛国重点)
 ・小学1-6年 中学1-3年 義務教育 その後高校か専門学校(スポーツ系、芸術系) 大学まで学費すべて完全無料 小学20人 中学15人
 ・社会主義教育(マカレンコなどは今はどうか マカレンコ教師と揶揄するような表現に驚いた 集団目標と個人の統合 不登校・イジメなどの暴力現象は少ない)
 ・TVヴイデオ教育を強調
 ・世界1学力の秘密(貧乏な国だが心を込めて教える 安い給料だが給料のために働くことはない 自分の教えた子どもが大卒後挨拶にくるのが一番嬉しい)
 ・キューバ人の特性は学んだことを役に立てる
 ・教師のストレスはそんなにはない 授業を工夫する いい雰囲気で授業ができるよう退職教師を呼んで学ぶ
 ノエル氏に『カストロ演説集』を贈呈して話を聞く(最初の1年は日本が素晴らしい思ったが、次の2年目で日本の問題が分かってきた 先進国も問題がある 完全な国はない)
19:00 レストラン・カフェタルベーナ ラテン系音楽演奏 隣席のギリシャ人のグループと話をする(コミュニスト、アナーキストには批判的 アテネ暴動共感する)
 夕食後旧市街を散策し、ヘミングウエイが通ったカフェでダイキリ・カクテルを飲む 柔道5段と称するキューバ人と意気投合
 明るく底抜けに人生を楽しんでいるキューバ人がいることが分かった(ラテン系の文化と社会主義の融合? 人間の顔をした社会主義)
23:00 すごいオンボロタクシーでホテル帰着(途中でエンジンストップ 運転手は昼は煙草工場で働く白タクシー 葉巻2本プレゼントされる)

(12月27日)
 8:30 ホテル出発 一番街を通って旧市街へ 5番街(ジョギオング街と呼ばれる) 海岸通りは釣りをしている人が多い(堤防は1900年建築開始 長さ7km 世界で最も長いベンチと呼ばれる)
 葉巻博物館 煙草栽培が奴隷産業から近代産業へ脱皮する過程を展示
 ゲバラ博物館 ゲバラの生涯が写真や日用品で彼の人間性中心に展示
 革命博物館 ホセ・マルテイ以降のキューバ革命史 英雄史観の展示で農民や労働者の生活や戦いがない 最後にバチスタ・レーガン・ブッシュを揶揄する漫画はやりすぎ
21:00 トロピカーナ 最前列特等席
22:00 開演 華麗な息もつかせぬ演出であっというまに2時間過ぎる 最後に踊り子とダンスした
24:00 公演終了 ホテルへ帰って就寝

(12月28日)
 8:00 起床 朝食
 9:30 バスでヘミングウエイ博物館へ プール・ヨット付きの大邸宅 こんな豪勢な暮らしをしてなんの文学か! 彼自身も最後は自殺したらしいが・・・
14:00 ハバナ空港 エア・カナダ機搭乗
14:45 離陸 トロントへ
      トロント着 零下2度 ホテル内日本食レストランで会食 なんでか戦争体験継承の話

(12月29日)
 5:00 起床 相変わらず便秘と下痢を繰り返す
 6:00 朝食 快晴
 6:30 ホテル出発
 8:30 トロント空港出発 機内はすこし寒い
14:15 バンクーバー空港 大幅に離陸が遅れる(搭乗者が一人ゆくえが分からない) 降雪激しい 乗務員に乗客への状況説明をきちんとするように要求したら、英語でまくし立てられて頭にきた、妻が八つ当たりするなと怒った、しかし私はジッと我慢している乗客を見て腹立たしくなったのだ
14:35 離陸開始 雲の上は快晴 アりょーシャン列島は氷山と氷河がすごい圧巻
16:45 成田着 スーツケースの鍵が全部壊れていた 東京駅に着いたら人身事故で新幹線ダイヤ大幅に乱れる
24:00 ついに帰宅

(キューバ社会主義雑感)
1)いったい社会主義とは何かー考え込まされた
2)反独裁・反大土地所有制の民主主義革命としてのキューバ革命
3)少数者による武装蜂起と都市ゲリラによる革命
4)指導者は都市知識人層
5)土地・企業の国有化とモノカルチャー
6)熱いラテン系の文化を基礎 独自の民衆文化
7)ソ連・中国モデル以外の独自の途をいくのか
 
 キューバに捧げる  荒木 國臣

 君は荒野にあって志を失わなかった
 多くの友が倒れて この世を去ったが
 君は他者にあくまでやさしく 自分にはあくまできびしくあった
 多くの敵が君を攻め 迫害するなかにあって
 君は虚偽を見ぬき 真実を唯一の銃として撃った
 世界が傷ついて汚れ 失意に沈んでいる時に
 君はひそかに手はずを整えて 来るべき日を待った
 独裁が我が世の春を楽しんで 頽廃を極めていた時に
 君は世界は変わる 世界は変えることができるということを身をもって示した
 そしてついに時は満ち 君は立ち上がった
 独裁は恐怖に戦いて 逃亡し
 民衆は歓喜のうちに歩み始めた
 時を経ていまや50年が過ぎようとしている
 君は世界でもっとも子どもたちにやさしく 病者にやさしい国となった 
 しかしなお君は貧し君の選んだ道は険しい
 世界は知っている この世にまったく新しいタイプの人間が誕生しつつあることを
 カリブの真珠がふたたびまぶしいひかりを放ちはじめていることを   (12月28日 ハバナ発トロント行きエア・カナダ機中にて)
  (2008/12/31 11:41)2008/12/31 11:42)

おわら風の盆紀行(9月29日ー30日)
 富士ツーリスト企画の風の盆紀行に妻とともに参加しました。名古屋から東海北陸道で途中世界遺産の合掌集落に寄りました。こうした山間に桃源郷のような山村が現代まで残っているのが脅威ですが、その背後にある辛酸を極めた歴史を想像すると観光気分だけではなくなります。ホテルについて一風呂浴び、おわら踊りの練習です。2人の師匠について、身ぶり、手ぶりで「女踊り」「男踊り」を練習しましたが、難しい。おわらはどうも田植えから収穫までの労働舞踊(舞踏)であるようで、テンポはゆっくりとした反復です。会場までバスで行くと、小雨で中止となっていました。残念!江戸期からの旅籠街のような街並みの両側に、ぼんぼりが灯されて幻想的な夜景がひろがっています。公民館と酒屋が解放されて少数の踊り手が舞っていたのを観覧できてホッとしました。笠をかぶり、太鼓と三味線と鼓弓が奏でる哀愁に満ちた音が独特の雰囲気を醸しだします。観客は意外と若いカップルが多く、なにか癒しを求めて来ているようでした。
 翌日は浄土真宗総本山・瑞泉寺の壮大な伽藍を参観し、門前町を歩きました。一向一揆の本部となった寺は浄土真宗の宗教権力の凄さを実感させ、門前町の裏側にある遊郭街は当時の庶民の生活をしのばせます。(2008/9/7 9:20)

奥飛騨紀行(2008/8/15~8/18)
 じつに40度近い名古屋の猛暑から脱出して、奥飛騨の山荘に避難しました。盆の末日で高速道路はそれほど混んではいず、名古屋高速から名神一宮インターを経て、東海北陸で2時間弱で着きました。郡上大和の大和温泉は設備が豊富でくつろげます。男女の浴場が交互に入れ替わるので、今日は女子用の浴場でした。山道を行くと涼しく山荘は夜になると寒いほどでした。隣の山荘には旧知のK氏夫妻(画家)がちょうど滞在中でした。北京五輪の中継を観て楽しみ、中古の電子ピアノで私は初めて作曲に挑戦しました。その題名は「非正規のバラード」で忘我の境地で作曲しましたが、はたしてその出来映えはどうでしたでしょうか。翌日は白鳥の美人の湯ですごし、次いで満点の湯、最終日は牧歌の里を愉しみました。盆明けで牧歌の里は湯客がおらず、贅沢な湯となりました。洋画の道具を持っていったのですが、どうも絵を描く気にはならず、ウオーリン『ハイデガーの子どもたち』を読んだり、作曲で3日間があっという間に過ぎました。
 涼しい山荘で「非正規のバラード」を作曲している自分を、このように報告することに、いくばくかの後ろめたさを覚えるのですが・・・・・。養った英気をもとに何を創造して世に提出するか、問われます。(2008/8/19 9:26)

ギリシャ旅行(2008/7/30~8/5)
 JTB企画ギリシャ旅行に妻と友人で参加、全体22名のツアーでした。全日程快晴。
(7月30日)
 8:35自宅出発 10:00セントレア空港着 8万円をユーロに両替(173円08円) ゴールドカードラウンジで休憩(飲み放題)
13:20 中国国際航空160便で出発 機中にて燕京ビール1本 昼食メニュー(パン 団子 サラダ チキンライス 珈琲 ワイン)
15:30 北京空降着 五輪1週間前にしては閑散としている 北京空港レストランがファースト・ビジネス・エコノミーの3ランクに別れているのに疑問(最上階がファースト) 
      このレストラン階級制と9.11の評価についてM女史と論争
20:40 CA943便にてドバイへ 8時間の行程 機内食フィッシュ定食 最後サンドウイッチ 眼鏡が合わないのか頭痛を覚える
(7月31日)
01:10 ドバイ空港着  
02:40 ドバイ空港発 機中で金石範『火山島』を読む
06:50 アテネ空降着 両側に素晴らしい朝焼けがひろがる ついにエーゲ海に来たのだ アテネ空港は小さい空港 空気はさわやか 樹木のない小高い丘が見える
      市内まで40分 道路の信号が目立たない
08:00 オリンピック競技場をみる 400mトラックぐらいに石造の観覧席 パルテノンが遠望できる 野口みずきはここで優勝したのだ
10:00 アクロポリス アテネ市内を一望する丘の上に立つパルテノン神殿 これがあのギリシャ文化を象徴するパルテノンなのか! なにか複雑な気持ちになる 土産物品店による
11:00 国会議事堂を経て国立考古学博物館見学の後昼食
13:00 バスで一路デルフィへ向かう
      デルフィ着 ホテル・ファミンエデン投宿 大過なく1日が過ぎた 見晴らしがよい南欧風のホテル そそり立つ岩壁が切り立っている あの上に修道院があるそうだ 
      35度の暑さなのにさわやかな暑さだ 
(8月1日)
 9:00 バスで出発 メテオラ修道院(聖ニコラウス、聖ステファノ) 天上に届くかのような絶壁の頂上に立つ修道院 こんなところに修道院をつくって修業する宗教精神の凄さ
      そしていまや観光化して頽廃する聖地
13:00 バスでデルフィに 踊りながら歌いながら自決する(オスマン・トルコ独立戦争) ギリシャ人はチームワークがなく集団スポーツは弱いが、政治的テーマではすぐ団結する
18:30 ホテル キング・イオニフォス着
19:30 夕食 食後街を散歩 ネオンや風俗店は一切ない 土産物屋でTシャツ購入
(8月2日)
午前中デルフィ遺跡観光 途中で下痢となりガソリンスタンドで止めてもらう 午後コリントス運河見学
バスでアテネへ ホテル周辺は軍事警察による厳戒体制 店屋はほとんど閉まっている
18:00 ホテル カニンゴス21着 ラブホテルのような感じ 屋上レストランでデイナー
(8月3日)
05:30 起床
06:30 朝食
07:15 バスで港へ エーゲ海クルーズ出発 ポロス・イドラ・エギラ3島をめぐる コバルトブルーの海と青い空、白亜の建物 ウーン 帆走するヨット 点在する島々
      土産物店が軒を連ねる 驢馬1コース9ユーロ
      デイナーは海岸べりのレストランで
(8月4日)
10:30 アテネ空港発 搭乗口で白人系欧州人優先に怒り爆発
16:10 ドバイ空港着
17:50 ドバイ発CA944便で北京へ
(8月5日)
05:20 北京空港着 乗り換え検査厳しく怒り爆発
08:15 北京発8:15CA159便でセントレアに
12:20 セントレア着 ソバを食べて帰路につく 38度の暑さに参る

 古代ギリシャ遺跡からみる古代ギリシャ文明は日本の縄文期のものだ その先進性に驚く 神話の世界 しかも民主制の知性がきらめく エーゲ海の陽光きらめく地中海の自然美
 欧州文明の基盤にあるギリシャの底深さとギリシャ正教の圧倒的な宗教力 しかも現代史の内戦と社会主義の激動 ゆったりとおおらかな人間 あくせくしない生活 イタリアもそうでしたが、遺跡の保存のオープン性に驚きます。日本では観客が直接触れないように厳重な柵が設けられるでしょうが、ギリシャでは遺跡と日常生活が共存しているような感じです。(2008/8/6 20:46)

はじめての開発途上国-タイ旅行(12月22日~28日)
 妻のグループでタイで日本語教師として働き、タイ人女性と結婚して生活している知人がいる学校を訪ねて1週間の旅でした。
(12月22日)
 快晴。セントレア空港・12番ゲートへ9時30分に集合。フランス・スペイン旅行をともにした懐かしいメンバーの顔がある。K氏はかっての同僚で結婚式の実行委員長をした人であり、まさか彼と同行することになるとは思わなかった。いつものA添乗員から説明があり、10時30分にタイ航空で出発。少しして飲み物、次いで昼食が出る。辛いカレー、寿司2個、そばでメニューは豊かだ。ワイン2杯とビール1杯、機内は少々暑く飲み物が美味いうまい。機内で酔っぱらって大声で話している人がいる。現地時間3時30分(時差2時間)に巨大なバンコク空港に着き、国内線に乗り換えて4時30分にチェンマイに向けて発つ。意外と欧米系が多いのは驚いた。機外には素晴らしい夕焼けがひろがり、まだまだ地球は充分に美しいと感じる。この景色がそのうち温暖化によって崩れていくのか? 6時30分にチェンマイ空降着。ホテル(部屋412号)に入り、ホテル内レストランでヴァイキング。食後に街に出る。夜店と屋台が軒を連ねて並び、雑然たる雰囲気。仮面1個(200バーツ)とTシャツ1枚(150バーツ)を買う。妻とは途中で別行動となりホテルに帰ると、妻は吐き気を催し下痢症状となっていたので、様子を見ることにする。
(12月23日)
 快晴。妻の下痢は改善せず、今日はホテルでそのまま1人で静養することにする。最初にゾウ公園に行き、ゾウの芸当をみる。素晴らしい訓練で演技をしたり絵を描いたりする。ゾウの背中に乗って園内を1周。その後仏教寺院にいく。キラキラと黄金色に輝く小乗仏教寺院で、薄暗い日本の寺院とは大違いだ。ホテルに帰ると妻は7度5分の発熱で、医者の往診を依頼する。タイ人の女医がすぐに来てくれて食あたりの診断。ガイド、添乗員が献身的に取り組んでくれた。点滴30分、薬4種類で4000バーツ(安い!)。夜の行事はすべて参加を取りやめて妻の側にいることにする。パンなどを食べて9時には就寝。(タイ人は素朴でおとなしい人が多い感じだ)
(12月24日)
 快晴。10時にチェンマイ空港を出発しバンコクに向かう。機内で私も下痢症状となる(どうも機内食のジュースがおかしい?)。バンコク市内観光。ワットアルーン、王宮、エメラルド寺院など荘厳な黄金色で仏教と国王の権力の凄さを感じる。昼食は下痢にもかかわらず酒とビールを呑む。ホテルに入り、入浴後レストランでタイ式鍋料理。タイ料理は中華によく似ている。「メコン」というタイのウイスキーがとても美味で最高だった。9時頃就寝。(タイはオートバイが多く、自動車はトヨタ、タクシーはカローラが多い。ガソリン価格が高騰してオートバイが増加しているそうだ。それにしてもアジア的雑踏と欧米系観光客の多さには驚いた)
(12月25日)
 7時にバスでクワイ河泰麺鉄道に向かう。バスの中で現地学校の交流会の歌の練習と、現地日本人教師のH先生の資料説明を受ける。教育システムは4:3:5:4制から6:3:3:4制へ移り、ボーイスカウトが公式教育活動に入り、教師の初任給7000バーツで業績に応じて昇給。10時30分にカンチュナビリ到着し、捕虜収容所をみる。旧日本軍は連合軍捕虜に加えた虐待の写真が多い。トロッコ電車のようなクワイ河鉄道に揺られてクワイ河駅に向かう。鉄橋近くの民芸風レストランで昼食。バスでバンコクに変える。30度を優における暑さだ。3時15分にカンツナビリに帰り、日本人慰霊碑と戦争博物館をみる。旧日本軍の機関車あり。受付には遺族会と思われる多くの日本人の記帳があった。7時35分にバンコクのレストランに着き、古典舞踊を鑑賞しながら夕食。9時にホテルに入った。はじめてタイ式マッサージを1時間受けたが、日本のそれとほとんど変わらない。(バンコク市は高層ビルと貧民街が混在する大都会で、いかにも途上国首都の匂いがする。大渋滞でほとんど車は動かない。市場経済の煌びやかさと封建農村が混在しているかのようだ。タイ人は素朴でピュアーな感じ))
(12月26日)
 6時やっと排便しホッとする。7時30分にホテルを出発し、バスで延々と続く農村風景のなかをクメール遺跡に向かう。12時30分にバラックの民芸風レストランで昼食(1人1000バーツ)、クメール国立博物館をみて、クメール遺跡を歩く。アンコール・ワット風の巨大な遺跡群で、仏教・ヒンズー教・クメール習俗の習合的な遺跡群が並ぶ。3時45分にバスでピアリに向かい、5時30分にホテルに着く。農村部にしては近代的ホテルだ。
(12月27日)
 バスで学校に向かう。会議室で校長以下職員、近隣学校の校長、教育長などと初対面の挨拶。9時30分から授業参観、純朴な表情の子どもたちが、外国人に興味津々で騒いで迎えてくれる。ほとんどはだし。10時から日本人が授業をし、10時30分頃から全体交流会。タイ人少女の踊り、日本側の歌と太極拳演技、12時頃昼食会。昼食時に少女が歌謡曲を歌ってくれたには驚いた。1時より教師の意見交流会。日本の子どもの問題行動、読書教育について質問あり。バスでバンコク空港に向かう。空港で「メコン」ウイスキー大瓶3本(1本170バーツ)を購入。(日本の較べての施設・設備の貧しさは覆いがたい、生活自身が貧しいのだ、しかし子どもの純朴な生き生きした表情は未来への可能性を信じていることをうかがわせる)
(12月28日)
 午前0時10分発のタイ航空で中部空港に向かう。機内で小食が出て就寝すると、あっというまに名古屋に着いた。
 開発途上国にはじめていったのですが、その開発経済と軍部クーデター、総選挙でのタクシン派の勝利という激動の割には民衆の生活は淡々と営まれている感じだ。市場経済システムの進展で外国資本の流入が激しい。経済と生活、農村と都市部の二極分解が激しいように感じた。都市部内での高層ビル群とスラム街、都心部と周辺部の落差など印象が強い。それにしてもタイは、なぜあれほどに屋台と出店が軒を連ねているのだろうか。消費経済の面ばかりが表面に目立った。タイの左翼はどうなっているのだろうか。王政があれほどに根を張っているのには驚いた。どこにいっても国王の写真ばかりだ。

(タイ旅行にて詠みし歌)
 朽ち果てし石碑のはてに 栄光の古代の国の影をばしのぶ
 はるか青き時代に 胸震え くちびるに歌交わしつつ 花バスに満つ
 ひとすじに信じる道をゆく者の むすばれし瞳は澄んでキララに光る
 下痢と便秘をくりかえし 地獄の道をひとすじに 歩みゆく我に幸あれ
 開発の独裁 ひかりと影をうきぼりに 国のさだめは民にゆだねよ
 きららかにつぶらなひとみ 輝きて われの手をとるピュアーはまぶし     (2007/12/29 9:40)

年末の東京
 急に思い立って上京した。面白そうな絵画展が並んでいたからだ。
 (12月6日)
 9時50分頃の新幹線で上京し、すぐにお茶の水へ行く。回転寿司屋さんで1000円程度つまんで、神田古本屋街に行く。驚いたことに全体的に古本価格が下降している。特にマルクス社会科学系は痛ましいほどの落ち込みで、久留間鮫三『レキシコン』は1冊700円程度と悲惨であった。神田で最も社会科学系で集めていたA書店は、いまや鉄道系に特化していた。ぐるぐる歩き回って、面白そうなものを購入し、宅急便で自宅に郵送した。お茶の水から地下鉄で後楽園ホールに行き、ボクシングを鑑賞する。メーンイベントの日本ウエルター級タイトルマッチでは、第1ラウンドでダウンの応酬があり、決着が付いてチャンピオンの防衛となった。一気に場内は興奮状態となったが、ラッキー・パンチではあまり面白くなかった。居酒屋で少し飲んでから、新宿に行きまた本屋にはいる。
 (12月7日)
 9時過ぎてから上野公園に行き、西洋美術館のムンク展と都美術館のフィラデルフィア展、上野の森美術館のシャガール展をみる。広大な色にひろがる上野はまさに文化の殿堂といった感じで、大都会の喧噪を忘れさせる。ムンク展では見学に来た小学生の一団が真剣に観ていたのが微笑ましかった。フィラデルフィア展は超満員で、私は人混みの中で絵を観るのが嫌いなので素通りして終わった。シャガール展も超満員で同じく素通りした。上野公園を出てアメヤ横町を散策した。珈琲の格安品とパイプを探したが、それほど安くないのでブラブラして終わり。
 地下鉄で神保町に行き、岩波ホールで『サラエボの花』という映画を観て、銀座に出て息子と会食。こうした華やかな大都会の夜をみていると、不況などどこ吹く風に見えるが、よく見ると飾り立てた虚栄の崩壊が迫っているようにも感じる。夜の繁華街は圧倒的に若人の天下であり、老人の姿などはない。このような繁華街で飲み食いする若者は、なにか不安を抱えながら精一杯楽しもうとしているようだ。
 (12月8日)
 朝から西武新宿線で上井草・いわさきちひろ美術館に行く。都会を離れた住宅街にひっそりとたたずんでいるこの建物はまさにちひろにふさわしい。観覧者が少数でゆっくりと水彩画を楽しむことができた。初山滋という人の回顧展が同時に催されていた。ちひろの源流をみたような思いがする。六本木に行って、フットサルの練習を終えた息子と合流し、新国立美術館のフェルメール展をみる。ここも超満員で人の肩越しに観るのでいやになった。地下鉄・日比谷線で恵比寿に向かい、写真美術館の「東松照明」展をみる。ここはそれほどに人は多くなく、じっくりと見ることができた。以上で今回の上京は終わり。東京はあることが多くクタクタに疲れて帰途につく。

秋の京都をいく
 立命館で開かれた学会に出席するために、久しぶりに雨の京都を訪れました。会議は夕刻からなので、朝からでかけて美術館をめぐってみました。注目されている狩野永徳展(国立博物館)は、永徳の巨大な作品群をはじめて一堂に会した圧巻の展示で超満員でした。残念ながら私はこうした煌びやかな桃山屏風絵の世界には、なにほどかの感慨は湧きませんでしたが、激しい戦乱の世にあって、権力との緊張を画家として生きる永徳の生のあり方に思いをはせました。次いで近代美術館に向かうと、まったく知らないイタリアの現代陶芸家の作品展でした。私の感性の限界でしょうか、この彫刻にもさして迫るものを覚えず、むしろ常設展にひかれました。ここにある津田青風という洋画から日本画に転進した画家に興味を持っていたのですが、彼の「河上肇」は残念ながら展示されていませんでした。隣接する市美術館に行くと、院展・帝展の回顧展をやっていました。明治初期から大正期に到る国家公認の作品は、かっての日本的感性がいかに自閉したパラダイムの美の世界に閉じこめられていたかをうかがわせました。一本の線もゆるがせにしない描画の繊細さには頭が下がりますが、ヒューマンな表現というのは一切なく、時代精神の制約を感じました。ここで同時に開かれていた主体美術展は圧倒的な量の出展数であり、この団体の威力を示していましたが、抽象から具象を含め現在の世界と日本に対する省察の混迷を感じました。個々の作品の訴求力はあるのですが、全体として結局どれも同じような印象を残すのです。パラダイムを打破するような時代を切りひらく作品に出会いたいものです。
 降りしきる雨の中を京都駅前にあるキャンパス・プラザで開かれた学会にいきました。巨大な京都駅は、なにかニューヨーク的なモダン建築であり、権力を剥きだしにした感じで滅びゆくツイン・タワーに他なりませんでした。学会は30周年記念シンポをもって始まりましたが、8人のパネラーが持ち時間15分で語るという限界もありましたが、準備不足で本格的な問題提起はなく、なれ合いと沈滞を覚えました。ただ一人のパネラーだけの真剣な考察にこの学会の有効性がまだあると思いました。詳細は略します。
 地下鉄を降りて予約したホテルに向かうタクシーの走行中に事故を目撃しました。前を走っていたタクシーが、直前を横切ろうとした老人をはねました。老人は頭を打って倒れ、仰向けに倒れて動きません。私はこうした事故を目の前で見たのは初めてです。まるで映画のシーンを見るように、私は醒めた眼で動かぬ老人を見つめ、私の乗ったタクシーが迂回して走り去るのに任せました。実は私はすでに始まっているプロ野球セ・リーグのCS中日ー巨人戦に興味が集中していました。おそらく私の取るべき行動は、私の乗ったタクシーを止めて救急車を呼ぶことであったでしょう。私は道行く歩行者がこの事故をどのように見て、どう行動するかジッと観察していました。日頃から社会的主張をしている私は、こうした瞬間に冷酷な観察者であったのです。ホテルに着いた私は、アルコールを飲みながら中日の勝利の余韻を味わいました。 
 翌朝は朝からの学会の環境問題部会に出席し、EUの環境エネルギー政策をテーマとする議論に参加しました。若い女性の報告者はよく勉強し、自分の頭で語っていましたが、社会的欧州の問題についての言及が弱く、議論となりました。次にエコロジー・フェミニズムの理論現状を整理した報告があり、理論現状については知ることができましたが、積極的な問題提起が弱く、議論もそこに集中しました。昼からは学会を抜け出して、隣で開催されていた日韓学術交流シンポに顔を出しました。日本と韓国の戦争責任とナショナル文化をめぐる報告は何れも刺激的で、韓国の若い女性研究者の博識と勉強ぶりと主体的な情熱に圧倒されました。日本側研究者はいずれもなにかシニカルで、クリエイテイブな問題提起ではなく、観察者の眼でしたが、韓国側は現状を打開していく方法論を必死で模索されていることがうかがわれました。特に興味を惹かれたことは、韓国側が被害意識に立脚した文化を克服しようとする問題意識が強いことでした。私が驚いたのは、南京虐殺の被害者の体験と、朝鮮から引き揚げる日本人被害者の体験を同列の被害意識として論じる報告があり、会場から拍手が上がったことでした。私は、こうしたポスト・モダン的な2項対立批判のパラダイムをツールとする方法論に強い違和感を覚えて、議論に参加しました。韓国側の研究者は感情を害したようでしたが、こうしたコスモポリタン的な方法では、過去の記憶を打開する方向は切り開けないというのが私の提起でしたが、うまく伝わったでしょうか。立命館大学の旺盛な研究活動の国際交流にに敬意を表します。久しぶりに充実した時間を過ごして帰名の途につきました。京都に行くといつも感じるのですが、京都人のふくよかでナイーブな人間性を感じるのです。名古屋人のささくれだった応対がありません。文化の違いでしょう。(2007/10/21 9:29)

犬山の鵜飼をみる
 妻の友人グループの鵜飼観光に参加して、犬山の鵜飼をみました。私ははじめて鵜飼をみたのです。名古屋駅から犬山線特急で40分少々で着いた犬山遊園駅は、木曽川のすぐ側で鵜飼乗船所まで数分で着きました。犬山は職場の同窓会でよく来ましたが、木曽川に船を浮かべたのは初めてです。夕方5時30分に乗船し、1時間ほど船上で夕食となりました。缶ビール2本を飲んで、幕の内弁当を涼しい風の吹き抜ける川面で食べるのは結構楽しいものでした。夕食中は浮かぶ根の間を琴のプロが演奏して回るという凝った趣向もありました。しだいに夕暮れも吹けて暗くなってくると、いったんは20分ほどトイレ休憩で船を下り、6時50分にもう一度乗船しいよいよ鵜飼のはじまりです。最初は船上での娘さんの琴演奏があり、日本の唱歌をみんなで静かに口ずさんでいるうちに、幾艘かの見物船の真ん中に、かがり火を焚いた鵜飼船が現れていよいよ鵜飼が始まりました。このかがり火が夜の川面に映えてなかなか幻想的な風景でした。鵜たちは鵜匠の手綱に操られてもぐり必死になって魚を飲み、綱で引っ張り上げられては魚を吐いています。少々残酷な気もしましたが、日本の伝統的な漁法を目の前で見ることができました。かがり火は4M四方を照らす明るさに調節され、その光で魚が驚き騒ぐのを鵜が呑みこみ、首を縄で適度に絞めて魚が腹中に入らないようして漁をするのです。夏休みの涼しい最後の夜を堪能して帰途につきました。(2007/9/2 10:22)

帰郷
 先輩のK先生のお見舞いを兼ねて久しぶりに故郷に帰りました。朝の新幹線は座れましたが意外と混んでいました。岡山駅に着いて津山線に乗り換えて、1時間強で津山駅に着きました。驚いたことにJR津山駅の駅前商店街は裏寂れたシャッター街と化しており、昼食をとろうと食堂を探しても見つかりません、しょうがないでの少し離れたホテルのレストランでランチを食べ、タクシーで病院に向かいました。地方都市の荒廃をまざまざと感じたのです。郊外の高台に中央病院があり、病室に行くと、K先生は静かに眠っておられました。その顔は憔悴しきったようなやつれようで、一瞬ギョッとしましたが、通りかかった看護婦さんに面会できるだろうか?と聞くと、声をかけて起こしてくれました。眠りから覚めた表情は意外と元気で、1週間後には退院され、ひょっとしたら名古屋に戻ってこられるとのこと、一安心でした。まさに死地から生還した人の晴れやかなようなお姿でした。長居しても迷惑なので病院を後にして、また一路岡山に向かいました。2両編成のデイーゼル車は岡山弁であふれ、ほのぼのとした故郷の雰囲気がただよいます。岡山駅に着くと、ホテル入館までまだ時間があるので、ブラブラ歩いて県立美術館に行くと、ちょうどピカソ展の最中で終了2日前と云うことでした。大勢の人が鑑賞しており、落ち着いて観ることはできませんでしたが、なかなか壮観でした。ドイツのルートヴィッヒという人の個人コレクションだそうで、その凄さには圧倒されました。ピカソ展をみてから、常設展を観ましたが、そこには福武総一郎(進研社長)の国吉康雄の個人コレクションがあり、多くの作品が陳列されていました。国吉は米国で評価された画家ですが、第2次大戦中の戦債募集協力画はなにか日本の戦争協力画と同じような印象を持ちました。女性の物憂げな描写に国吉の思想があるように思いました。県美を後にして、丸善に行き郷土コーナーを観ましたが、目に付く本はなくホテルに向かい、入浴後に夕食をとってTVを観ながらいつの間にか寝込んでいました。
 翌朝は部屋のバスで汗を落とし、朝食後にTVをつけるとちょうど世界陸上のマラソンをやっていました。いつも世界競技会にもかかわらず、日本選手にのみ焦点を当てたナショナリックな放映で残念に思いました。レンタカーを借りて故郷に向かい、途中のホームセンターで除草剤としきびを買って、故郷に着きました。墓に行くと、誰も盆のお参りをした形跡はなく花が枯れていました。花を供えて墓参りをすませて家に行くと、前にも増して朽ち果てようとしている我が家がありました。屋根の瓦がかなり壊れて雨がもり、傷みがすすんでいます。かってはこのような光景を眼前にすると胸が痛みましたが、いまはそのような感受性はなくなったのでしょうか。淡々と除草剤を庭の周辺に撒いて、そそくさと家を後にしたのです。墓と廃屋の行く末を想ってある感慨をいだきながら、岡山駅に引き返し帰名したのです。(2007/8/25 16:48)

真夏の奥飛騨をいく(Ⅱ)
 妻を名古屋に残して、1人で絵を描くために奥飛騨に行く。東海北陸自動車道の美並インターあたりから大渋滞が始まった。おそらく郡上踊りをみにいく観光客であろう。慌てて美並で降りて国道156号線をいくがこちらもかなり混んでいる。絵を描き始めてから、事物の色と形が気になり始め、目の前に広がる山並みの色彩の微妙なありかたに注目する。郡上大和に着いたので大和温泉に入浴し、山荘をめざす。今夜は疲れて描く気にならない。麦酒を飲んで一息つくと、HHK終戦記念の討論番組が始まっていた。ゲストはコバヤシなんとかという極右漫画家と渡辺治氏(一橋)が出演していた。テーマは「憲法9条をどうするか」ということで、護憲と改憲の双方の視聴者が参加して討論をしていた。歴史の事実認識よりも自分の信念をファナテイックに話す改憲派の貧しい主張には哀れを感じるが、護憲派の主張もなにか紋切り型だ。双方が互いに内在的な批判を展開するというレベルに到らないので、見ていてもまた同じことかという感じだ。気にかかったのは、街頭インタビューで、10数年間を月11万円の収入で暮らすフリーターの青年が、「どうせこのままでもなんのために生きているのか分からない、戦争があれば自分は名誉ある犠牲者になることができるかも知れないから、9条を改憲すべきだ」と主張していたことだ。あてどもなく漂流するフリーター青年層に、かってのナチス突撃隊の心情が広がっているのだと云うことをまざまざと感じた。もう1人はアフガンPKO活動に参加した青年が、「武装解除する時に米軍よりも、日本のNGOのほうがやりやすかった。私たちは9条によって非武装でゲリラの武装解除をするから、米軍よりも安心感を得るからだ」と特異な護憲論を語っていたことだ。NGOが武装解除活動に参加していたこと自体が驚きだが、9条の意味が多義的であることも知らされた。
 途中で面白くないのでチャンネルを回すと、吉永小百合の「広島・長崎・沖縄」と題する戦争童話の朗読会の歩みが流されていた。齢60を越えてみずみずしい気品はたいしたものだ。声高な政治的主張ではなく、淡々と戦争の悲惨を読む彼女に感動し励まされた多くの人の生活も登場する。長野の高校の女教師が、同じ朗読を生徒の前でおこなう取り組みは面白かった。なぜ彼女が校長室で校長に不安をさらけだして、涙を流しながらアドバイスを請うのか、私はいまの教育現場に唖然とした。同僚はどうしたのか、平和教育はどうなっているのか、しかしこうした取り組みを学校が認めるのは長野の独自性だろう。番組は吉永小百合の数年にわたる取り組みを編集して伝えている。数年の密着取材をおこなったNHK取材チームの努力と見識は無条件に称讃されなければならない。
 8月6日から始まって15日に終わる戦争関連番組は、総じて被害者からの視点が依然として多数であり、加害者の視点を真正面から取り入れる企画はなかったのではないか。米国下院決議で従軍慰安婦の戦争責任の清算を迫られた日本の現在の情況に真正面から切り込む企画がないようだ。NHKはその点で失格者だから、民放に期待したがどうなんだろうか。
 奥飛騨の自然を描いた3点(F81点、F62点)を描いたが、どうも山林樹木が無理だ。リアルな描写を避けて自己流にまとめようとしてしまう。次いで初めての50号の大作に入った。画題は未定。構図は、焼身自殺するベトナム僧が左、山形の即身仏が右で、それを見おろす磨崖仏という配置だ。磨崖仏の滲むような斑点の描写ができないので、仕方なく点描でおこなった。描画の際は、忘我の境地でのめり込むような恍惚と解放感が訪れ見入ってしまうが、一夜明けて同じ絵を遠くから見ると、なにか空白感が押しよせる。私はどうもテーマ主義で自己満足する悪弊に陥っていないか。もし断られたら自殺せざるを得ないような、せっぱ詰まったラブレターを書くような気持ちがない。私はよく言えば表現主義、悪く云えば美しく彩色したプロパガンダだろうか。
 TVは連日の猛暑を伝えているが、こちらは天国にいるようなさわやかな涼しさだ。このままここにいて名古屋に帰りたくない気持ちも働くが、あの都会の喧噪も懐かしくなる。(2007/8/18 20:13)

真夏の奥飛騨をいく(Ⅰ)
 妻とともに奥飛騨の山荘へ久しぶりにいく。東海北陸自動車道を降りてやまと温泉で一風呂浴びる。空気は清浄で緑の山並みに囲まれた温泉は格別だ。私はサウナが好きなので2回ほど入って山荘へ急ぐ。盆入りが近く山荘客が平常に比べて少し多そうだ。涼しい風が吹き抜けて別天地の感じだ。夕食は焼き肉で、巨人ー中日戦を見ながらゆっくりと飲む。中継は途中で終わったのですが、夜のニュースでは堂上選手が本塁打を打って延長戦を制した。デッサンに色を塗って仕上げていくと段々と絵らしくなってきた。これほど涼しいと一気に読書は進むので3冊ほど読了した。
 妻は朝が遅いので私1人でパンを焼いて食べた。10時過ぎに車を走らせて荘川から大白川温泉に行く。白山への登山道が始まる高原は、湖が真っ青で素晴らしい眺望開ける。ここには自然の露天風呂がある。硫黄泉でゆっくり漬かっていると疲れが押しよせる。ロッジに行ってアイスクリームを食べて、写生にはいる。まわりに登山客のような人が大勢いるが気にしないでデッサンをする。人がよってくるのを気にしなくなったのはよほど私が図々しくなったからだろうか。山並みをバックに湖を描くとすでに時間は過ぎた。車を飛ばして山荘に帰り、昨日の夕食の残りで鉄板焼きを食べる。巨人ー中日戦は圧倒的に中日有利に進み、私は至極満足だ。
 翌朝は1人で石徹白にでかける。満点の湯という温泉を通過すると、崖崩れで通行止めの標識がでたが、かまわず行くところまでいく。川のせせらぎと鮎釣りの客が三々五々散見される。別荘地のなかをしばらく走って、木の下に車を止め写生にはいる。野外で油を使って描くのは初めてだ。自然の細部の難しさを初めて知った。特に木の葉の描き方がこんなに難しいとは知らなかった。ごまかして緑と白を使いながら仕上げていく。2時間ほどたつと昼になったので、缶ビールと寿司を食いながら書き進める。これが私にとっては恍惚ともいえる桃源郷の感じだ。充分に満足して山荘に帰り、妻とともに鷲が岳温泉に行く。盆客であふれかえり久しぶりに活況を呈しているようであった。2泊3日の山荘の日を終えて盆の初日を名古屋へ帰る。反対車線は帰省の車で大渋滞を呈しているが、こちらの車線はスイスイと帰名できた。一夏の山荘旅行はかくて終わった。これが日本の中流生活の姿だろうか。50号の大作を書くためにもう一度、今度は1人で訪れなけれればならない。熱い名古屋の夏に戻った。(2007/8/13 16:49)

ロシア紀行(8月2日~7日)
 妻の友人グループ6人によるHISのロシア・ツアーに参加しました。実はHISというのは初めてですが最近急成長している旅行社のようです。訪問地はサンクト・ペテルスブルグとモスクワ。アンドレ・ジイド『ソビエト旅行記』(1931年)風にロシア社会のある程度深い体験をしたいのですが、如何せん観光ツアーですので限界がありました。ロシアの巨大都市は伝統と市場経済に洗われる混沌とした過渡期にあるような印象でした。

 (8月2日)名古屋ーヘルシンキーペテルスブルグ
  7:20 自宅を出て満員の地下鉄で名古屋駅に向かう
  8:02 特級で中部国際空港に向かう、これも満員
  8:36 空港駅着 旅行客で大混雑している いったいワーキング・プア問題などどこにあるのかと思うような若者で満員
 10:40 飛行機搭乗
 11:05 離陸 エコノミークラスは満席(大学生か若い人が多い 隣席は音大生で独逸のハンブルグに向かうそうだ)
       いよいよ10時間のフライト
       機内食2回 缶ビール3本(日本、フィンランド)とワイン2本(赤、白)飲む
 14:33 着陸に入る
 15:05 着陸(6時間の時差) 5時間のトランジット 疲れてジュース1本飲む 20度で少々寒い 
       フィンランド人女性はカウリスマキ映画に出る冷たく鋭角的な表情の人が多い
 19:50 ヘルシンキ発
 20:00 ペテルスブルグ空港着(1時間の時差)  
       空港はなにか空虚な荒廃感がただようかなり耐用年数が過ぎたような建物だ
       全員のスーツケースが出てこない(1便前に乗ったそうだ) 3種類ほど書類を書かされてスーツケースに対面
       大型バスにたった6人が乗ってホテルに向かう 
       空は10時過ぎまで白夜のように明るい 一路ペテルスブルグを走る
       ロシアのスターリン建築様式の建築は個性的デザインを一切排した画一的な均質的イメージ 超高層ホテルに入る 
       本日は疲れて入浴せず就寝
 (8月3日)
  5:30 起床 入浴する 水は黄色がかっているが温水は充分に出た
       朝は日本型のラッシュがなく騒音がほとんどない 車が走る音もしない静かな明るい朝で遠くに海が見える
  7:30 朝食はバイキング メニューは豪華 
 10:00 ホテル発 大型バス
 11:00 エルミタージュ宮殿着 ネヴァ川の両サイドに美しいロシア風の宮殿のような街並みが続く
       最初はガイドの案内で中世中心の欧州絵画(ガイドの質は高い)
 13:00 エルミタージュ内のカフェで昼食
 14:00 近大中心の絵画鑑賞 ものすごいコレクション(マチス、ピカソ、セザンヌ、ルオーなど)
 17:00 エルミタージュから港のレストランへ向かう
 17:50 レストランでロシア民謡の生演奏を聞きながら食事 一緒に踊った
 19:30 ホテル着 入浴後就寝
 *ロシア人のガイドはまじめで博識で日本語の習熟がスゴイ 相当の知識人がガイド業をやっているようだ 彼女は市場経済に賛成している エルミタージュはロシア帝政の繁栄の粋を集めた豪華絢爛たる建築物 絵画は革命後に貴族などのコレクションを国有化したという

 (8月4日)
  5:30 起床
       近くにある24時間営業のスーパーに行く 巨大なアパートの1階にあり雑然と積まれた食料品から日用品が豊富に並んでいる 
       価格は日本より少し安いくらい 早朝の散歩で巨大なアパート群を見るとロシア現代史の流れを象徴しているように見える
 本日のメインはエカテリーナ宮殿
 そこまで血の上教会、デカブリスト広場、聖イサク聖堂、マルスの原などをみる
 しかし私のメインは私が注文して変更してもらったオーロラ号と政治史博物館 ロシア革命の号砲を告げたオーロラ号は綺麗に修復されて観光客を満載していた ロシア革命のヴォルシェヴィキ本部となった博物館は小さな建物でレーニンの執務室を含むレトロな展示が満載(ガイドがここを訪れた日本人は私たちが初めてだと云った)
 中華風のレストランで食事 私の企画を入れた返礼に昼食時の飲み物はプレゼントした
 帰途は時間が余って第2次大戦包囲戦の記念碑にいく こうした戦争記念館が荘厳に設置されている理由は本質的に祖国防衛戦争であったということだ
 21:30 玄関外の広場で中国人が太極拳をやっていた
 *1917年革命→社会主義建設→1943年第2次大戦で壊滅→米国にならぶ強国へ→1989年ソ連崩壊という激動 農奴制→初期資本主義→社会主義→資本主義と劇的に変貌したロシア現代史の偉大さと悲惨をつくづくと考えさせられる 日本人観光客は水が汚いと文句を言うがどこかに優越感があるような気がする

 (8月5日)
  5:30 起床 1Fフロアで煙草を吸う ガードマンと話をしたが英語が通じない
  7:00 バスでペテルスブルグ空港へ向かう 朝食はバス内で弁当
  9:00 本来の乗るべき飛行機が欠航で1便早く出発 隣席の近ツリグループの人と話すがほとんど同じコースの由
       (彼のグループは血の上教会で取り囲まれて財布を強奪された人がいたとか、昨晩にはエルミタージュ劇場
       のバレエ公演オプションがあった等参考になった) 
  モスクワ空降着 驚いたことにガイドはモスクワ大学東洋学部準教授であった 
 レーニン廟に入るために1時間30分並ぶ 内部は荘厳な雰囲気で薄くらい光で白鑞のようなレーニンの顔が照らされていた これがあのレーニンか! 呆然と見ている間に先へ急がされて外へ出た 外には革命家の銅像とレリーフが並んでいた 不思議なことにレーニンの顔を見てもそれほどの感慨が起こらないのだ この男が20世紀の世界を動かしたのかー背の低い男だった
 昼食後クレムリンを見る 武器庫の金銀財宝は圧巻だがあまり興味は起こらない
 ホテル(超高層!)到着後にモスクワ地下鉄にのって代表的な駅装飾をみる 驚いたことにトロツキーをはじめとする粛清された革命家の壁画がそのままある この感覚が分からない あれほどスターリンが弾圧した人びとを壁画にそのまま残していることに! 地下鉄車内で若者に腕を掴まれ連れ出されそうになった スキンヘッドの若者もいる ロシアの一般庶民の表情が少しうかがえた 全体としてロシアは非常にオープンになっており、若者の男女が自由に人前で抱き合っているのには驚いた
 グローヴァリゼーションによるファッションのアメリカ化もあれば生粋の農民風の男もいる 地下鉄では障害者が物乞いをしていた
 地下鉄をみた4人で夕食 ロシアの現代化をめぐって激論を交わす

 (8月6日)
  6:00 起床 
  6:30 喫茶店で珈琲を飲んで支払をする段階でルーブルがなかった カードがダメなので両替をしようと思ったがこれもだめ 
       部屋まで取りに行って50ルーブル支払う 喫茶店の店員は慌てず騒がず悠然としている
  モスクワ空港からヘルシンキへ向かい2時間のトランジット後に名古屋へ向かう
  機内で日本新聞を読む 客少なく水平に寝て帰った

 (8月7日)
  8:45 中部空港着 国際空港と云うが外国人はいない

 ロシア革命の聖地を訪れたはずだがそれほどの深い印象はない
 市場経済化とは何か(サムスン電気の進出には驚いた)
 混沌のなかにあるロシア!(2007/8/7 21:25)

京都・美術館探訪
 在日画家・呉炳学氏の個展が京都であるというニュースがあって、久しぶりに京都へ出向いた。いつもならすぐに車を飛ばすのですが、なぜかおっくうになって新幹線を使った。朝9時頃に家を出て名古屋駅で自由席に乗ると案外に混んでいて、しかも車内は携帯でうるさく騒ぐ人がいるので閉口した。そうこうするうちに京都に着いたので、最初に国立近代美術館に行った。「舞台芸術の世界-デイアギレフのロシアバレエと舞台デザイン」という特別展で、20世紀初頭のロシア美術と舞台芸術がロシア革命を挟んでどのような推移を示したかの検証であった。本物の舞台衣装やデッサン、写真などがあり、シャリアピン、ニジンスキー、メイエルホリドなどの華々しい名前が散りばめられている。彼らのほとんどはパリに留学または仕事をし、フランス芸術の影響が大きいことも分かるが、オリエンタルなフォクークロアの民族性も漂い、ロシア芸術が革命前後で華々しく花開いていたことが分かる。しかしロシア革命の後のスターリン時代にに、未来派や構成主義、分離派がどのように政治のなかで変貌していくのかはほとんど説明されていない。全体主義芸術に飲みこまれていく過程についての対外的な公表にはまだ時間がかかるのだろうか。詳しくは芸術批評で。次いで京都市美術館を経て、疲れ切って飲み屋に入りビールと焼酎を飲んで地方公務員宿舎に入った。公務員の出張が規制されているのか、ほんとうに宿泊客の人数が少ない。街中は中学生の修学旅行のグループ行動であふれていた。トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』をうつらうつら読みながら就寝。
 朝食会場には宿泊客は3人しかいなかった。新聞を読んで宿を後にしてバスに乗って立命館大学に向かう。昨日とはうってかわった快晴で風も優しく心地よい。いつも自家用車で走り回る京の街は、バスでゆっくりまわるとじつにしっくりと伝統の味が滲んでいて感嘆する。名古屋の街がいかに頽廃的に金銭中心におよそ人間が住む町ではなくなりつつあることをありありと実感した。立命平和ミュージアムに入る。なかなかよく戦争期の資料を集めている。現代中心だが、これだけの戦争資料館が日本にあるのだろうか。修学旅行の中学生で満員となった。しかし「平和」の宣伝的要素もあり、じっくりと事実と真実を中心にした第1次史料を網羅し、判断は観客に委ねるという展示思想の方がよいと思う。次に近くの堂本印象美術館にいったが、日本画にはさして感銘は受けない(学ぶことは多々あるが)。次いでタクシーで都メッセへ行き、呉炳学氏の個展を見た。骨太の素晴らしい作品だ。私の描画の参考になった。詳細は芸術批評で。午後1時からオープニング・パーテイが始まったが、どうも在日コリアンの人ばかりのようで、居心地がうまくなく早々に失礼した。あとは新幹線で一直線に帰名。充実した1泊2日の旅でした。(2007/6/23 18:13)

奥浜名湖をいく
 リゾート・ホテルの招待券をもらったので、はじめての写生旅行を兼ねていく。私は4月から洋画を学びはじめたのだ。東名高速・名古屋インターに入って一路静岡方面にに向かう。途中の岡崎インターで降りて、岡崎市内の古本屋を覗いてみる。うずたかく積んだ本は、名古屋の古本屋にはみられない種類の本や、名古屋ではとっくに売れているような本が片隅にあるので、格安そうな本を選んで購入した。アーナ・パリス『歴史の影』(社会評論社)2400円、『フロイト著作集 5・7』(人文書院)各1000円、『レオナルド・ダ・ヴィンチが残した宝物』(TWJ)1800円、『終戦の追憶』1000円、『装いの文化史』800円でまあまあ掘り出し物だったと思う。東名高速に戻って三ヶ日インターで降りて少し走って三ヶ日町まで行くと、少し時間があったので記憶に残っている三ヶ日原人遺跡をみた。辺りは一面のミカン畑が拡がり、少し岩肌のやまに日本の沖積世の原人遺跡の発掘現場が、整備されて残っていた。訪れる人もなく写真を撮って一路ホテルへ向かう。
 地中海風の瀟洒なホテルは、黄金週間にしては客は少なくすぐに風呂の入った。大好きなサウナで汗を流して部屋に入り、ビールを飲んで少し休憩。窓からは浜名湖が春風に吹かれてたたずみ霞んでいた。さっそくキャンパスと三脚、絵の具を出して描き始めた。水彩画のようなタッチで4時間ほどでほぼ完成した。部屋に和食が運び込まれて夕食となったが、前回の時よりも品数も少なく寂しく感じた。日本酒とウイスキーでほろ酔いかげんになった。今晩は中日の試合はないようなので、TVもみるものがなく、午前中に買った『歴史の影』を読み始めた。この書は、カナダ人ジャーナリストが世界の代表的な戦争犯罪の場を訪問して考えたルポルタージュ風のエッセイ的な論文である。ドイツ、フランス、アメリカ、南ア、日本などの戦争犯罪の現場を訪れて印象深く考察している。日本のヒロシマから読み始めたが、私たち日本人が気がつかないような視角からのまなざしと考察があって非常に面白かった。日本社会の異常な特殊性が浮き彫りとなっている。詳しくは、このサイトの「千夜一夜の読書物語」を読んでください。
 途中で眠くなって目を覚ましたら11時を過ぎていた。もう一度風呂に行って汗を流して就寝した。ものすごく複雑で奇怪な夢を見た。私の古い友人たちが次々と登場して、あちこち行っては激しい喧嘩をするというもので、途中で私の家の一部が焼けてしまい目が覚めた。朝6時頃でそのまま風呂に生き、たっぷりと汗を流してバイキングの朝食を採る。食堂いっぱいにお客がおり、世の中には金と暇がある人もいるんだなと感心した。部屋を片づけて一路帰路に向かい、豊橋市内で天満堂という古本屋に入ったら非常に文系が充実していた。同じジャンルの本があちこちに分散しているので苦労はしたが探索する面白さもあった。『油彩画技法4』1200円、青木虹二『日本労働運動史年表』(新生社)1800円、『日本思想体系 蓮如 一向一揆』(岩波書店)1200円、姜徳相『朝鮮人学徒出陣』(岩波書店)1100円、マレーネ・デイートリッヒ『デイートリッヒ自伝』(未来社)1200円、『長田弘詩集』400円、『小野十三郎詩集』400円とこちらも充分満足する渉猟であった。
 名古屋へ着くと自動車車検の車を受け取りに行ったら、欠陥がまだ明らかでないということでトラブルになった。今日は受け取れずそのまま帰ってきた。帰宅して油絵を出して眺めると、現地で描いた時とどうも印象が違う。すこし修正を加えるべきかどうか思案中。以上で4月の簡便な小旅行は終幕した。(2007/4/28 16:05)

(株)ワーロン会社訪問調査
 本日は産業政策研究会の会社訪問調査。名古屋は清州にある和風インテリア素材メーカーのワーロンで、あいちブランド、なごやブランドを受賞し、皇居新築の障子をすべて受注している。元はセルロイド玩具製造メーカーであったが、1956年に和紙を塩化ビニール樹脂でプレスする独自のラミネート加工で和風インテリア製品開発に転身し、いまは日本有数のインテリア素材メーカーに成長している。名古屋駅からJR・普通で2駅目の清州で下車。時間があったので駅前のパン製造直売店で珈琲を飲んですごす。みんな揃ったのでタクシーに分乗し会社へ行く。名古屋駅から2区間にかかわらず、都市化は進んでいない。清洲城という観光のほかは、田畑や工場が平地へ広がっている。ワーロン工場は、2000平方㍍はある敷地に、製造工場と倉庫・事務所がある。少し説明を聞いて、さっそく工場を見学した。薄い和紙を塩ビに挟んでプレスしたり、最後は包装して注文先別に棚に陳列し、注文後1日以内で発送するという。九州地区のみは運送会社西濃の都合で、別枠出荷するというスタイルだ。巨大なピッキング機械が自動的に製品を取りに行き、発注別に整理するのは壮大だ。1時間少し見学し、会議室でデイスカッションとなった。
 2004年売上高は21億4千万円、経常利益2億2200万円と着実に成長している。ラミネート工程にはマニュアル化できない職人技の暗黙知のスキルがある。殆どが正社員でパートは10名。手作業部分が残っているが、むしろ機械化が進んでいるという印象だ。開発部門は専任が3名いるが、営業・製造部長含めてチームをつくる。協同組合は、最初は共同開発をやったが、大手メーカーが先に開発しプレス機だけ残って独自に和紙プレス製品を開発した。競争優位性の条件は、和紙風合を生かした伝統性にあり、カタログも売れ行きを気にせず多品種小ロット(600品種登録)でコストと両立させようとする。安全在庫80-90%は売上げ上がっても変えない。
 採用は地元工業高校で1次募集ではいるようになった。毎年2-3名の新卒採用。名古屋市の助成事業は申請手続きが難しく、事後報告も煩瑣でもう少し簡便にして欲しい。その点三好町は簡便だ。弊社は無借金経営に近く金融支援の必要はない。コンピュータ導入時の支援体制が求められる。中小企業診断士、情報会社、市の援助者との有機的連携が望ましい。名古屋市市民経済局は、市民と経済を切り離して欲しい。名古屋圏はトヨタの影響が大きく、トヨタ県トヨタ市としてもいいぐらいだ。以上2時間ほどの聴取調査を終えた。
 還りにミッドランドタワーにはじめていった。目も眩むような高さで高所恐怖症の私には苦手だ。4階の和食屋でみんなで夕食を囲む。高級料理なのか知らないが、酒代含めて1人1万円であった。8時過ぎに解散して地下鉄で家路につく。久しぶりの地下鉄であった。(2007/3/16 9:49)

早春の諏訪湖・上田を行く
 何と暖かい冬だ、まだ2月初旬と云うに信州の山々は頂上のみが白く、結雪がほとんどなく道は快適に飛ばせる。空気は澄んで胸のなかも清浄なキリッとした大気にみたされる。思い立って諏訪から上田という中央高速道をいく一泊の旅に出た。どうしても行きたかったのは伊藤千代子の顕彰碑と、戦没画学生の絵を集めた無言館だ。諏訪インターを降りて霊園を道々聞きながら小高い諏訪湖を一望する伊藤千代子の顕彰碑にたどりついた。途中で墓地の場所を聞いたおばさんたちが親切になんの感情の揺れもなく自然に教えてくれて私はホッとした。それは伊藤千代子が地元の人達にどのように受けとめられているかを示していると思ったからだ。墓地周辺は20-30cmの残雪があり、誰かが訪れた踏み跡もある。三角形の中がくりぬかれて、地面に彼女の生涯を讃えた文が刻まれ、その背後に女学校時代の恩師である土屋文明のいずれも有名な歌三首が刻まれていた。もとは千代子の墓だけだったが、地元の有志たちが墓の上に顕彰碑を建てたという。毎年墓前祭が行われる。
 墓碑には「闘いに散った崇高な生涯」と刻んであったが、「崇高な」は確かにそうだが、私は「誠実な痛ましさ」のようなものを感じる。彼女は戦時期に治安維持法違反で逮捕され、獄中闘争と夫の裏切りによって発狂し、最後は精神病院で死んだ。なんの報いも期待しない無私の献身と抵抗をそのまま自分の生活とした千代子の生涯に、私は言いしれぬ切なさと羨望を覚えるのだ。彼女は裏切った元の夫が精神病院に見舞いに来た時に、「恥らんで子どものように逃げていった」と夫の手記に書いてある。この狂ってなおのピュアーさに私はふるえるような痛ましさを感じるのだ。
 こうして私は伊藤千代子の墓を訪れようと思ったのだ。誰かの墓や顕彰碑を訪れたいと思ったのはこれが初めてだ。その人が生まれて成長した土地と風土のなかに、その人を置いた時に何か見えてくるものがあるのではないかと思った。期待は外れなかった。清澄な済みきった冬の冷気のなかに暖かい春が忍びよるかのような晴れた朝に、千代子の墓は諏訪湖を一望して見おろすかのように望んでいた。こうした歪みのない自然の中に確かに彼女のような真っ直ぐな人間が育ったのだと思った。信州全体が何かそのような風土がある。しばし黙祷してその場を去った。
 諏訪湖に降りて北澤美術館とその新館、サンリツ美術館、ハモニ美術、島木赤彦記念館と諏訪湖周辺をめぐって諏訪文化の一端を楽しんだ。何でこの諏訪湖周辺はかくも文化施設が集積しているのだろうか。諏訪市は電子産業の集積地としても著名だが、ひょっとしたら芸術的土壌と知的創造性はつながっているのかも知れないなどと考えながら、国家公務員保養施設に入った。建物はおよそ古びて建て替え寸前だが、温泉と料理ともてなしはレベルが高かった。翌朝もういちど温泉に入り、朝食を摂ってから、白樺湖を越えて上田に入った。白樺湖はさすがに真っ白く氷結していたが道路はノーマルタイヤで十分であった。上田に入って、無言館へ行った。この館も上田を見おろす高台にあり、ひっそりと建物はほんとうに無言で佇んでいた。コンクリート打ちっ放しのシンプルな展示室は薄暗く、戦没画学生たちの作品と説明が陳列されている。無抵抗のままに絵筆を捨てて戦死した画学生の無念がそのままほとばしり出るような作品群であり、絵の水準を云々するのを拒絶するような迫力がある。手紙や遺品の数々も胸を撃つものがある。予想を超えて意外に多くの人が観覧していた。若い人も結構いる。
 私はこの戦死した画学生の無念と伊藤千代子の狂死をつなげて考える。画学生は多くの日本人がそうであったように、抵抗の道を知らなかったばかりか、名誉の出陣ととらえた人もいる。千代子のこころざしと当時の青年たちがもっと広く深くつながっていたら、互いの不幸はなかったものを。彼らの死は多くのことをいま生きている我らに訴えている。上田の街へ入り、上田駅からのメインストリートを歩いた。すばらしい小京都のような雰囲気の漂う街だ。斉藤書店という大きな古本屋があって入り、石川啄木『一握の砂』(復刻本 500円)と野本三吉『子ども観の戦後史』(1500円)を買って、向かい側にある民芸風の信州そば屋で豆腐そばを食べた。一路長野道を経て中央道から東名へ向かう。一泊2日の充実した旅であった。それにしても地球温暖化はまったなしのリアルな事態を告げている。いよいよ天変地異は近いか。(2007/2/8 19:52)

奥飛騨の秋を行く
 白鳥インターを降りて一路満天の湯に向かう。山道を上がっていく時にはさほど感じられなかった紅葉が、降りていく時にはまぶしいほどに映る。いつきても何の変化があるのか分からない佇まいほどに落ち着かせてくれるものはない。湯に入って遠くの山並みをみればもはや秋も終わりなのかという寂しさがただよう。老人クラブの人達が賑やかに温泉を楽しみ、ざわめく食卓をみると日本の老後の典型的パターンがある。サウナに3回入って温泉を出て山荘に向かう。誰もいない山に自分だけはいるのはまた楽しいものだ。日本シリーズの中日-日本ハム戦を堪能して新庄の涙に我知らず共感して、中日敗戦の悔しさをカバーした。なぜ中日がいとも簡単に負けたのかちゃんと考えねばならない。
 翌日は論文の校正に明け暮れて夕方になって温泉に行った。鷲が岳温泉は、いつ行ってもお客は2-3人で私の貸し切り状態だ。夜になってTVで日本シリーズ最終戦を観たら、ついに完膚無きまでに中日は叩きのめされた。何なんだこれは! ひとり新庄が涙にむせび満場の拍手を浴びていた。最後の打席で中日の谷繁捕手が「泣くな、直球を投げてやるから」と励ましたというのを聞いて私も何か胸打たれるものがあった。こういうピュアーな世界で生きている者はいったい幸せなんだろうかとフト思うのだ。いつの間にか寝入って朝になっていた。郡上大和の湯を満喫して一路名古屋への途をたどった。(2006/10/27 18:47)

碧南地場産業調査(06/9/14-15)
 (9月14日)メンバー5人で碧南市役所に集合し打ち合わせ。
 ○Y醤油・味噌製造会社
 最初は雑貨・佃煮・脱脂大豆を作っていたが、大正3年に醸造業へ転換し、昭和24任意会社組織へきりかえる。現在従業員は19名(男12 女7)であるが、かっては越前・越後から50名ほどの季節労働者を入れるほどであった。一時は日本でも有数の業績を誇り、長者番付のトップにランクされる。工場は駅前の一等地に広範に分布しているが今は稼働しているものはすくない。現在は愛知・三重中心に出荷し、10%のシェアを占めている。大豆は米国、カナダ、中国、インド、ブラジルから商社経由で輸入している。味噌・醤油の種類と生産工程を詳細にうかがう。残り糟は乾燥させて肥料とするか、産廃として焼却処分する。醸造業者は同時に山林地主でもあり施肥として山に廃棄することもあった。現在の生産量は50万㌧を切り横ばいで推移している。各社とも設備水準は上昇し、大量生産による価格競争に入っている。市場は縮小し、品質の優位では争えない。新製品開発はあり得ない。

 ○商工会議所(専務理事)
 かって210社を越えた繊維工業部会はいまや10社となり、そのほとんどは家内工業的な生布とタオル業者である。酒造業は灘などへの樽売りとなっている。2100社を超える機械部会の4分の1は鋳物業者で出荷額は200億円を超える。トヨタ関連の3次下請に包摂されている。繊維と窯業の産業技術の伝統が現在の碧南産業の源流にある。衣浦臨海工業地帯は200万坪を超える敷地に150企業が立地し、市の税収の50%は臨海企業からくる。財政力指数で日本1位の規模にあるのはコンビナートに依存しているからだ。衣浦港の水深は12mであるが、大型コンテナ船が入るような船体構造となっている。衣浦港の上陸税の48,77%が碧南市に、他は半田市27,24%・高浜市6,34%・武豊町17%となっている。個人企業が専用埠頭をもっているのは碧南だけであり、企業の経営動向の影響を受ける場合もある。中電火力の4分の1が碧南火力で発電されている。リゾート開発も中部電力が行い、広大な公園を経営するのは電力会社だ。碧南市は、定期健康診断への補助事業、市内住宅建設補助事業などをおこなっている。
 歩いて暮らせる町づくりは、堺屋太一(経企庁長官)時代に発案し、20自治体が立候補して、愛知県内は春日井と碧南(大浜)が指定され、商工会議所中心に町づくり委員会が推進母体となっている。UFJ総研にプランづくりを依頼したが、平板なもので失敗した。形式的なものづくりではなく、必ずオーナー(地主)を入れた住民参加の体制が必要だ。

 1日目は、老舗の伝統産業と商工会議所の実態を垣間見ることができた。産業構造の変容の中でわずかに生き残りを計る伝統産業と、地域経済の発展をめざす商工会議所の企業家精神に触れることができた。ホテルに入り、共同研究の細部打ち合わせ。

 (9月15日)本日は碧南市・高浜市の瓦と鋳物工場の調査。
 ○M陶業(株)
 北大浜村で庄屋を営みながら味醂と瓦製造にはいる。黒瓦から出発し、塩焼瓦を経て釉薬瓦へと移り、現在は平板瓦を主体に多種類の生産をしている。瓦の発祥は、初期は焜炉、練炭、煉瓦などの土石品を中心に三州で500軒の瓦屋が存在した。庄屋が大浜港や新川港、吉良港への川沿いの土地を独占し、船から貨車を経てトラックへと流通が変化する中で産地は変容した。舟業は運送業へと転換し、瓦屋は日通と契約し、日通は駅に立地するので、瓦業も駅に営業所を構えた。瓦窯はダルマ式から倒焔式を経てトンネル窯へと変貌し大量生産が進んだ。設備投資による大量生産で量で勝負する時代になり、三州瓦が全国を制覇していくことになった。工場は、今年の6月に稼働を始めた最新鋭ラインと、旧式のラインがあり、混流生産システムの大量生産がおこなわれている。特殊な注文瓦は取引のある専門瓦屋に下請発注する。原土枯渇の問題はあるがどれほど切迫感はないようだ。市内の和風料理屋でランチを注文したら、古代米のご飯が出てきた。赤飯のような色をしていた。

 ○K工業(株) 碧南市・高浜市 老舗の鋳物業者で現在は水道部品を中心に生産。
 昭和3年創業。昭和33年以降は水道部品がメイン(特に上下水道のジョイント)で売上の75%、自動車部品25%。日本の産地では川口鋳物の衰退は公害対策の遅れと住宅化で企業の転廃業が相次ぐ(現在は30社)。業界の問題は後継者、公害問題、従業員不足である。工場環境では、中津川の松原鋳造は環境対応型工場として先進的。碧南ではかって100社あったが現在は46社となり、1品生産の家内工業はかえって生き残っている。砂は野間砂かオーストラリア産を使う。中国鋳物は品質管理基準で問題があり現状では競争力がない。
 その後工場見学をしたが、いままで初めてみるすごい工場だ。1000度を超える溶鉄をほとんど人力で動かす重筋労働である。ものづくりの本物を観たような感じ。こうした原始的ともいえるものづくりがあってはじめて日本の組立メーカーの洗練された製品ができてくるのだ。こういう深部で頑張っているものづくりに焦点を当てなければならないと痛感した。鋳物組合を訪問した時には、3K労働の現場を見せたくないと言われたことを思い出して複雑な気持ちにもなる。K工業は大手メーカーなので家内工業的な鋳物づくりの現場を見せてもらうことを考えようと思った。それはまさに「キューポラのある街」なんだろう。(2006/9/16 14:00)

帰郷
 亡父の25回忌の法要を営む為に久しぶりに帰郷した。古里に還るといつもなにか胸が締めつけられるような悲哀を覚えるのですが、歳を重ねるに従ってじょじょに疎遠な感じが増してそれがまた哀しくなります。岡山駅に着くと、駅前の岡山会館というビルが閉鎖されて無人状態でした。タクシーの運転手はパチンコ業者が買い取って放置していると怒っていました。ホテルについて荷物を置き、ブラブラ繁華街を歩くと高校時代によく通った古本屋がなくなっていました。高校時代にこの店先で店番していた親父さんがなかなかの知識人的な表情で、時たま娘さんが替わって座っていましたが、この娘さんがまた知的な美少女でしたので私は彼女の顔を見るために、足繁く通ったのですが、ジッと彼女を見つめているとスーと顔が赤らむのをみて僕はハッとした想い出があります。それ以上何もなく終わりましたが、いま彼女がどのような人生を送っているのかを考えるとまたなにか苦い哀しみが湧き起こってくるのです。でき得ればあの多感な少年期に戻りたいなと、汚れちまった哀しみを覚えるのです。なくなった古本屋のあとは瀟洒な丸善がたっていました。丸善岡山店は名古屋と較べるとはるかにセンスがあり、棚の配置や郷土工芸品、花屋さんと素晴らしくマッチして感心しました。あらためて岡山は文化の香りが漂う街だと思いました。駅前の高島屋によって法事の用意を調えましたが、このデパートにはルイ・ヴィトンなどの高級ブランドが1階に配置され、少女が群がっているのに驚きました。ホテルの夕食はヴァイキングで、貧乏性のせいか飲み過ぎ食べ過ぎてしまいます。部屋に帰って野球を観て就寝しましたが、クーラーのせいか眠ることができずウトウトしながら朝を迎えました。
 レンタカーを借りて岡山駅で息子と落ち合い、寺に向かいました。ジリジリと焼け付く太陽で汗が滲みます。緑したたる山合いにある寺には一陣の涼風が吹いて都会の暑さとはまたひと味違う暑さです。代理の和尚さんの読経がひびくなか、全員で焼香して無事に法要は終了し、近くの寿司屋さんで会食しました。それぞれ久しぶりに合ったので四方山話に花が咲きます。全員が近況報告をして、それぞれの健在を確かめ合うことができました。みんなの生きざまの一端が溢れでて面白く拝聴しました。会食後お墓にいって花と水を供え、故郷の廃屋をみて解散し、息子を岡山駅まで送りホテルに帰着。
 翌日はホームセンターで除草剤をかって廃屋に向かい、庭一面に巻きます。この行為はほんとうに切ないのです。子ども時代の大家族の生活の記憶が浮かんでは現れ、傷んでいく家の中から生きているかのような声が聞こえてくるようです。いたたまれない気持ちとなって早々に立ち去るのです。古里は遠くにありて想うものであって、近くによれば古里を捨てて去った痛みが痛撃されます。しかし日本の近代と高度成長はこのような傷と影を抱え込むことでしか実現しなかったのです。我が村はあくまで静寂に包まれてひっそりとたたずんでいました。おそらく江戸期いらいその相貌は変わることなく、現代に到っているでしょう。村人の姿はなく子どもたちの歓声も聞こえません。村の広場の銀杏の樹はそびえるほどに高くなって、この村の盛衰をジッと見つめてきたのです。夏の終わりの踊り祭りはいまはどうなっているのでしょうか。子どもの時は世のなかにこんなに盛大なイベントがあるのだろうかと思うほどの盛況だったあの踊り祭りは・・・・。老若男女が1年の労働の感謝を込めて踊り明かす祭りは岡山県の無形文化財になっていました。私は朝早く起きて広場に落ちているお金を探して歩いたことを懐かしく思い出します。我が小学校は校舎を建て替えて健在でした。授業を抜け出して学校の前の川で魚を追い、先生に怒られて自宅まで逃げ帰り、先生が探しに来てしょげて学校に行ったこともありました。どの郷愁も懐かしくノスタルジックにこころのなかを苦く温かいものが流れます。また明日からは大都会の喧噪に立ち戻り、私は「現代」の前線と向かい合わねばなりません。サヨウナラ古里よ、サヨウナラそこに生きた人々よ、どうかあなたを見捨てた私を責めないでほしい・・・・・。(2006/8/28 19:50)

東京・西新宿を行く
 息子は西新宿はオペラ・シテイにある企業に勤務している。日頃からバイク好きの彼は、400CCのバイクを運転中に転倒し、右肩を骨折した。K総合病院に駆け込んだらX線写真撮影後に骨折を告げられたが、治療はできないと言われて、インターネットで探索して独歩で外科専門救急病院に行って手術を受けた。親を心配させたくない彼は、たった一人で受診し手術して退院した。いったいK総合病院は治療を断ったとしても、他の病院を紹介すべきではなかったのか。何か大都会の薄ら寒い医療の影を見た思いがした。
 今回は右肩に入れた固定片を除去する手術だ。西新宿の高層ビルが林立する片隅に小さな病院があった。救急指定でひっきりなしに救急車がくる。入院した部屋は4人部屋でうち2人が外国籍(中国、韓国)でかなり日本語を駆使している。彼らはいったい健康保険はあるのだろうか。入院ー退院のサイクルが早く、あっという間にいなくなる。息子の手術は成功したが、24時間点滴で少し微熱があるが、手術の翌日には退院してもよいと言われる。息子のアパートから、朝に徒歩で40分かけて病院に行く道すがら、傲然とそそりたつ超高層ビルの下に無惨にひろがって放置されているようなみすぼらしい街の中を歩いた。途中で24時間営業のレストランに入って朝食を摂ったが、あちこちに少年少女の徹夜して眠り込んでいる姿があった。この若者たちは、不夜城の新宿の夜をどのようにして過ごして朝を迎えているのだろうか。店を出て歩くと、あちこちに戦後直後のようなバラックがある。超高層ビルとこのバラックの恐るべき非対称性にこそ現代東京の本質が浮き彫りとなっているようだ。
 病院に着くとひっきりなしに受診の人が入ってくる。なんだか映画の「赤ひげ」をみるような雰囲気だ。結局息子は病院に2泊して退院した。ところてん式に次々と患者が入れ替わる無機質の医療があった。しかし患者サービスは現象的にはいたって親切であり、サービス医療産業の経営に徹しているようだ。それにしても、西新宿から大久保にかけての街は、飲食店が圧倒的に多く、朝から夜まで客が絶えない。なにか東京人はしょっちゅうモノを喰っているような感じだ。6万円近い部屋代の狭いアパートは、大通りから少し入ったところだが、家が軒を連ねて建て込んでおり、隣と窓を接している。こうした環境で一生を過ごす人間の姿がなんだか哀しくなる。
 東京の電車のなかは相変わらずそれぞれが本を読んだり、沈思している。この風景が私は好きだ。名古屋の地下鉄は、友人同士のとめどない会話が飛びかい、車内放送もうるさくて仕方がない。個人の空間なのだから、車内放送も最低に留めて欲しいと思うのだが、乗ってから降りるまでなんのかんのと煩く放送を入れる。名古屋の文化は決して自立した創造性が育たないだろうといつも暗然とした気持ちになる。東京の電車は車内放送がほとんどなく、いい意味でか個人の尊厳を保とうとしている。アレコレと思いながら息子の手術の付き添いの3日間は終わった。超高層ビルが林立する東京は、民衆がもはや自分自身の手で歴史に参加し、創造するという意欲を剥奪する権威主義文化が蔓延しているのではなかろうか。数年ぶりでみる東京は生活の両極分解が甚だしいが、名古屋はもともと文化が育つ風土はなく、主体性が育つ条件もない、どっちつかずのモノヅクリ街だ。どちらも「都市の空気は人間を自由にする」(ルソー)時代は去ったと云えそうだ。
 八重洲ブックセンターと神田の古本屋街を歩いた。神田の古本屋街の価格が下落していることに驚いた。次いで高円寺の都丸書店に行った。ここの水準は高いのでいつも感心する。(2006/4/9 20:46)

碧南地場産業調査(4月4日)
 ●O煉瓦(株)
 社長ヒアリング。岡田煉瓦新川工場長の暖簾分けで起業(1910年)95年の歴史を刻む。瓦・土器・煉瓦主業。構造材としてとしての煉瓦が関東大震災による建築基準法改正によって禁止となり、衣装材・工業炉材(第1次事態戦後)に転換。戦後の列島改造計画を契機に景観材や床材・断熱材・エクスレリア材・ガーデニング材に転換した。バブル以降オーストラリアから輸入煉瓦が入る。鉄分が少なく景観と風合いで市場浸透。価格は高くサイズ大版。矢作川流域の河口近くの粘土層は鉄分が多く煉瓦が赤く発色する。採掘業者から直接買い、精製する。焼成は1150度(重油使用)。ニーズの変化に対応した嗜好品として提供。ほんとうは構造体として使って欲しい。焼成はバッジ式→ホフマン釜(独式リンカン釜)→トンネル釜連続焼成と技術展開した。3原則は<余熱→焼成→冷却>。
 最近は市場縮小と重油価格上昇で自己破産企業誘発。タイルは大手のINAXやTOTOがてがける。全国赤煉瓦協会には13社加盟しているが、実質は9社しか生産していない。重油の価格上昇へのコスト負担能力と製品開発力が企業存続の分岐となった。小ロット・小サイクル・環境対応・エコシステムなど新たな製品開発に取り組みたい。
 中国産はホームセンターなどへ出ているが、大したことはない。松本(株)は中国企業と技術提携したがいまは撤退している。三菱商事地方館の赤煉瓦ビルの再生に取り組むプロジェクトがあるが、どうも中国へ発注が行きそうだ。①市場縮小②燃料コスト③担保価値の低下④設備投資力が企業競争力のポイントだ。弊社は家業95年の赤煉瓦を本業として残したいし、本業と関連した分野ににも進出する意欲はある。販路開拓にもインターネットなど努力している。

 ●M陶業(株)
 全国産地は三州・淡路・島根の3大産地。三州は碧南~高浜~刈谷~安城の西三河中心。協同組合はかって110社あったが、、現在は40社弱に激減。①品種による棲み分け②住宅着工数の低下(160万戸→100万戸)。工事屋と瓦製造業者を仲介する問屋機能が著しく衰えている。売れ行き3色は、黒・茶・グリーンで他の色は囮だ。最近は学校・マンションなどの屋根を瓦で葺く注文が多い。夏の最上階の暑さや屋上を造らない流れが生まれている。
 海外品は天然スレート系があった(日本では富山のみ)。エタニット社やレッドランドグループ社などのpセメント系がある。大量生産になじまないものの海外展開はあり得るが、それほど影響力はない。工場内での廃棄製品のリサイクルを組み合い協同事業としてやっている。弊社もマリーナ事業やGS事業を取り組んだが、いまでは撤退している。価格競争が激化している。オリジナルブランドを開発して市場投入して達者との差別化をめざす。高浜市のように木造住宅で県内産瓦使用に補助金を出すシステムなどがある。工芸分野では、三州瓦技術保存会中心に経済産業省が支援している。瓦業界は、大メーカー-家内工業-個人職業など幅広いイコール・パートナーがいることは大きな励ましとなります。
 産地間競争はない。エリアの接点で競合が起こるが、業界全体を揺るがすことはない。但し住宅メーカー大手の瓦受注は競争激化が激しい。(2006/4/4 20:28)

抵抗の歴史をたどるー光州・済州島の旅
 どのような旅になるのか、このようなテーマの海外旅行は初めてで少し緊張感を持って迎えた旅がいよいよ始まった。在日の文学を通じて培ってきた韓国のイメージが現実に触れてどうなるかという期待感もある。

3月25日(土) 名古屋ー関空を経て済州島に向かう

  8:30 自宅を出て名古屋駅へ向かう。新幹線ホームのアナウンスが乗客を叱責するような詰問調で、安全を大事に
      することは分かるが、なにか日本全体がささくれ立っているようで不愉快になった。新幹線で京都駅からasuka
      で関空に向かう。
 12:45 関西空港着 Aカウンターのツアー客集合地で相部屋のU氏と挨拶する。
 14:45 KEー734機で飛び立つ。スチュアデスは初々しい清純感の漂う美人で和む。軽い日本食パックが出る。
 16:35 済州国際空港着。ソテツが茂る南国風のリゾート風景が拡がる。空港には高級自家用車が多く、韓国の富裕
      層の一端がうかがえた。ガイド・李今福さん出迎え。
 17:30 済州島ロイヤル・ホテル着。部屋割り後にみんなで食事に行く。初めて本格的な韓国料理を食した。うどんすき。
      野菜に刳るんで食べる健康食だ。ビールは少し軽めで焼酎は甘いワインのようだ。全員の自己紹介が始まった。
      大阪市大のS教授がいたのには驚いた。品のよいおばさんだった。ガイドの李さん(女性)はソウルの大学院で
      日本研究を専攻したスラッと背の高いハキハキした美人だ。ホテルに帰り同部屋のU氏と杯を交わして就寝。

3月26日(日) 今日は済州島4・3事件の跡地を、済州島4・3研究所長の案内で終日めぐる予定。4・3事件は米軍政
          下での南部単独選挙に反対する民衆蜂起をさす。

  9:30 ホテル発バスで独立記念館に向かう。日帝支配下の独立運動と犠牲者の足跡を記録した資料館。生々しい拷
      問の音声が響きわたり、当時の資料が陳列されている。3・1万歳運動は海女主体の婦人運動から開始されたと
      いうことには驚いた。海女は白衣であり、白衣は純潔を象徴する朝鮮民族の正装であるという。
       朝天邑善屹里という山深い村民が逃れて隠れた洞窟とアジトへ向かう。今は自然保護林となっているアジトは
      薄暗い林の中にあり、石を積んでその上に屋根をつくり雨風を忍んだという。乳幼児の泣き声で居場所がばれる
      ことで子は闇に葬り、水を汲みに行った少女が捕まってアジトがばれ全員が殺害されたとのこと。
       百祖1孫の墓という4・3事件発祥地と日本軍の飛行場跡に向かう。虐殺された人たちの墳墓が密葬されてい
      る風景は圧巻であった。旧日本軍基地はちっぽけな艤装格納庫と見張り台が残っており、その側でも虐殺がおこ
      なわれたという。廃虚となった村跡は当時の面影はなく、風が吹いているだけだった。
      最後は人間魚雷回転の出撃基地をみた。海辺の岸壁に転々と洞窟が掘られている。この海辺はいまは観光化し、
      観光船が出入りし、チャングムの誓いのロケ地で大きな看板が立っていた。
  夕刻 夕食(黒豚カルビ)をとったあと、ホテルに帰り、U氏と飲んで就寝。 

  バス内でのガイドの案内の知的レベルが高く、韓国は文の文化、日本は武の文化と言われたのには驚いた。沖縄は本
 土からも差別されたが、済州島を含め韓国内の差別はないという。科挙という公務員試験で機会の一定の平等があったと
 もいう。しかし韓国の文化が朱子学に染められ、祭祀・先祖崇拝の文化になったところに問題があるとも云う。
  旧日本軍の抵抗が沖縄作戦と済州島作戦の両面作戦でおこなわれ、もし8・15が遅れていたら済州島も焦土と化してい
 た可能性があるという。沖縄の半径2000km以内に東北アジアのすべての大都市が含まれていたという戦略的要地であ
 った点は済州島も同じであったのだ。この眼で旧日本帝国主義の侵略の残滓を見たのは衝撃であった。風が蕭々と吹きす
 さんで往時を忍ばせる軍事遺跡が寂しく立ち並んでいる。

3月27日(月) 本日は光州へ移動し、太白山脈の跡をたどる

  9:35 OZ8142機で済州島を発ち光州へ向かう。韓国中学1年生が修学旅行に向かうのと出会った。
 10:20 光州空港着。軍民共用空港で韓国空軍戦闘機が轟音をたてて離陸していくのを身近で見る。凄まじい轟音で岩国
      の痛みが少し分かったような気がした。バスで太白山脈へ向かう。途中の町の風景は、小説の風景とそっくりに残っ
      ていた。小説の舞台となった村に向かう。玄長者の復元された家は小高い丘にあり、金を貢いで日本軍の許可を得
      て建てられたものだという。壁の色は白でこれは王族以外の者が使う色だそうだ。門に高い日本風の部屋があり、そ
      こで小作人の働く田畑を観察したり、娘と遊んだのだという。
       近くで小説の著者の記念館建設が始まっていた。次いで中島という日本人が開いた開拓地と、天皇を記念して造っ
      た昭和橋と虹橋を見た跡に、昼食(竹ご飯)をとる。地名や施設に日本名が残っているのは、朴軍事政権で復活した
      ものが今でも続いているのだそうだ。
       楽安城邑民俗村で中世風韓国の村をみる。中央に官庁と両班の居宅があり、それを取り巻くように小さい茅葺きの
      農家が点在し、今でも村人がローテーションで住み保存しているそうだ。
      最後に栗於という山高い峠を越えた盆地に拡がるヨム・サンジン率いるゲリラの解放区であった地域を見る。よくこんな
      ところで解放区型ゲリラ戦を戦ったものだと思う。ゲリラ戦争の経験をまったく持たない日本との大きな違いを感じる。
 18:00 ホテル着後、みんなでパンソリ鑑賞と韓定食の夕食に向かう。哀切に満ちた韓国民俗舞踏とパンソリを聞くと、悲哀
      感が溢れて、酒を飲みながら観ている日本人の自分にいたたまれない気持ちが湧いてきた。耐えられない。ホテル帰
      着後に、U氏と外出し、CDを探して歩いた。彼は「イムジン河」を探し、私は韓国抵抗歌のCDを探したがいずれもなく、
     ホテルに帰って痛飲し寝たのは2時をまわっていた。 

  ガイドの案内から。加藤清正は野蛮で小西行長(キリシタン大名)はソフトな侵略をしたという。来るときは泣きながら、出ると
 きは泣きながらーと言う言葉が印象にあるが、はてどういう意味であったか。福沢諭吉「時事新報」の対朝鮮観を批判したりし
 なかなかの日本研究がうかがえる。全斗煥評価も軍事独裁を批判しつつ、日本の山口組を壊滅させるなどの業績があったと
 いう。本日は旧日本の産米増殖運動の植民地開拓の足跡と光州ゲリラ戦争の跡地を観て歴史を記憶することをの意味を考え
 さえられた。現地ガイドがまだ20歳代の少女(ボランテイア)でその説明の純情に感銘した。

3月28日(火) 本日は終日光州市内の5・18民衆抗争記念跡を見学して釜山に向かう

  9:00 バスでホテルから光州事件記念館に向かう。
  9:30 光州事件記念館(全南大学併設)で5・18研究所長(歴史学教授チェ氏とイム氏)の説明を教室で受け、その後資料
      館を見学する。全斗煥戒厳令の3大遺跡が①道庁噴水②全南大正門③墓地であるという。光州の高い市民意識、光
      州は平和と人権の聖域化された都市であり、世界人権民主革命の揺籃地であり、東アジアの平和統一運動をめざすと
      いう。韓国教科書では、光州事件参加者を1980年代までは暴徒と呼び、1990年代から民主化運動の犠牲者と呼ん
      で評価を180度変えたという。光州事件の世界史的な意義を語る。資料館はビラや資料と顔写真を時間の経過で配列
      し、残酷な現場の再現はそれほどなかったがゆえに想像力を刺激した。
       光州博物館に向かう。広大な敷地に巨大な博物館がそそり立っている。展示は古代から中世に至る遺跡と遺物の展
      示中心。仏像は朝鮮民族風の表情で、それぞれの民族を反映しているのだと思った。コーヒーカップを購入する。博物
      館のガイドが流暢な日本語を駆使する鶴のような美人であった。
 12:00 昼食はビビンパで日本的なビビンパではなく、次々とご飯に載せてかき混ぜて食する。その後、光州抗争の中心となっ
      た5・18墓地に向かう。圧倒的な巨大墓地で大学生から中学生までの犠牲者の墓が並んでいる。最初に墓前のモニュ
      メントの前で慰霊式をおこなう。黙祷と同時に荘重な音楽が鳴り響いたのには驚いた。黙祷後に献花する。雪が降り始め
      て強風が吹き、献花は全員一斉となる。墓には顔写真がはめ込まれている。思えば日本には歴史を切りひらくために犠
      牲となった人たちの国家的な記念顕彰行為がない。自由民権とか米騒動も国家による顕彰はない。権力への抵抗と犠
      牲の体験が極端に不足している日本近現代史は特殊なのか。
 夕刻   バスで釜山にいく。到着後の夕食に向かう釜山港で、ストライキ中の青年男女が横断幕を掲げて日本語のビラを配って
      いるのに遭遇し驚いた。全国運送荷役労働組合・未来高速支部となっている。内容は最低賃金以下の給与と残業に抗議
      するものだ。ストの風景を見るのも日本ではほとんどなくなった。夕食は東京から参加している教員の方2名と大いに盛り
      上がった。農心ホテル到着後に、東菜温泉に入った。日本の健康ランドとそっくりで面白かった。U氏と街に出て散策し、
      庶民的な焼き肉屋に入った。店員の女性がハキハキと応対して気持ちがよく、隣の韓国青年グループと話になったが、ノ
      ムヒョン大統領には批判的であった。ホテルに帰って、就寝。

3月29日(水) 釜山から帰国の途につく

  7:30 バスで空港へ向かい、空港近くの民俗食材店で土産物を買う。高麗人参酒(1)・焼酎(1)・高麗人参錠剤(1)を求む。
  8:50 金海国際空港でガイドさんと別れる。空港の免税店でブランデー(2)・韓国タバコ(1)・パンソリCD(1)を求む。
 11:00 KE-731機で関空へ向かう。機内食はパン食でビール1本注文する。朝日新聞で日本の首相が中韓を批判している記
      事を見て情けなくなった。
 12:20 関空着。harukaで新大阪から新幹線で一路名古屋に向かう。名古屋駅でラーメンを食べて家に向かう。

(中間総括)
 25名参加のツアーで新潟・東京・大阪・神戸・福岡など全国から集まりましたが、男性はわずか5名という圧倒的なフェミニズム旅行であった。こうしたテーマのツアーに女性が大挙押しかけるということは何だろうか。日本の男性はどうなっているんだろうかと思った。『太白山脈』は映画では観たのですが、原作を読んでいなかったことを現地へ行って大変残念に思いました。韓国は自然も街も非常に日本とよく似ており、庶民に至るまで日本語をかなり駆使していますが、人間だけがかなり違いました。元気がよく純情で真摯に語って物怖じせず、女性はスラッとしていました。曖昧さがなく、自分の意見を単刀直入にいい、女性同士の会話も何か喧嘩をしているように聞こえました。瞳が真っ直ぐで歪みがないような気がします。街は高層ビルと古い民家が混在し、発展途上のエネルギーを感じました。交通信号や交通標識が少なく、駐車禁止がほとんどなく、日本の交通規則の管理性を実感しました。ひるがえって日本の沈滞した元気のない表情と対照的でした。

 韓国人女性ガイドの説明から、韓国知識人の対日観を興味深く聞きました。大江健三郎を高く評価し、川端康成をけなしていましたが、彼女の日本批判が真実を突いていればいるほど(石原・小泉は変人だ、読売・産経は御用新聞だ等々その通りなんですが)、なにかちょっと抵抗感が生まれてきたのに自分ながら驚きました。私が日頃思っているのと同じことを外国人から聞くと、賛同もしますが一部抵抗も覚えたのです。これは私自身に実は深いところでナショナリズムが染みついているのではないかということに気づかされました。一部のツアー客がガイド女性の「高慢」さを暗に非難するのを聞くと、複雑な気持ちになりました。

 この旅行から最も学んだことは、歴史の受難者に対する国を挙げての顕彰の違いです。独立や民主化という巨大な歴史的経験を記憶し、子々孫々に伝える壮大な行為と事業は衝撃でした。巨大なモニュメントもそうですが、近現代史の資料保存と事実の究明を専門とする国家機関が組織されていることにも、非常に驚きました。日本が後世からの記念に耐えられる歴史を刻んでこなかったことを深く自覚させられました。自由民権から米騒動を経て、治安維持法犠牲者に日本はどのような顕彰をおこなってきたかを顧みると寒々とした気分になります。東アジアから見れば、日本は一貫して侵略と支配の「武の文化」に映っていることもはじめて実感させられました。日本では「正義派」=少数派=敗北者のイメージが強く、敬遠される傾向があります。自分たちで立ち上がって歴史を転換させた経験がない国の哀しさです。明治維新も革命ではなく、将軍に替えて天皇を戴いた体制内抗争であり、歪な近代化と侵略への道をたどったがゆえに、明治維新の犠牲者も民衆闘争の犠牲者のイメージがありません。こうしてみると日本は抑圧ー被抑圧の体験を外部に発散する特異な国であったのではないかと思います。ただ私は韓国を一方的に美化しようとは思いません。日本をモデルとする経済開発が進むなかで、日本と同じような負の面がじょじょに表れていることも知り、互いに対抗することよりもパートナーとしてあることに日韓の未来があるとますます感じました。

 それにしても日本は東アジアに対する過去の事実を事実として明らかにして、罪責への補償をおこなう最低限の責務を果たすことなしに、パートナーとして迎えられることは決してないだろうと確信しました。日本の今の政権が逆の方向へ進み、ふたたび傷跡に塩を塗り込むような恥ずべき行為をしていることに慄然とした恥じらいを覚えます。紆余曲折を経つつも、韓国は東アジアをリードする方向性とちからを着実に蓄えつつあるように思います。日本のような加害性に裏打ちされた国が、自己否定を伴う未来へ踏み出すことの困難が予想されるばかりか、国内の競争のトラウマがルサンチマンとなってふたたび侵略に手を染めかねない動きが強まっているのと対照的です。独立記念館や民主化のモニュメントは、むしろ日本人こそがきちんと観なければならないものだと思います。ドイツのリーダーは、かっての支配地のモニュメントを訪問して頭を垂れて謝罪していますが、いったい日本の指導者がこうした行為に踏み切るのにどれだけの時間がかかるのかを想像して気が遠くなるようです。

 私はいままで在日の視点からの韓国イメージに依存していましたが、誤解を恐れずに言えば、彼らは韓国に留まらなかった(留まれなかった)人たちの屈折したものです。在日の表現者たちは、日本語で表現するしかない環境での屈折した深い内容を表現していますが、韓国の現地の人たちは、そうした屈折を媒介とせずに、直接に権力に立ち向かった巨大な歴史を刻んでおり、また別の韓国イメージを形成しているように思います。そして日本人はいったいなにをしなければならないのかと言うことも考えさせられます。韓国との直接的な結びつきを持って歴史を再構築する人もいるでしょうし、それぞれの人が今の自分のポジションで精一杯の歴史貢献的な行為を営々と積み重ねていけばいいのだろうと思います。(2006/3/30 15:08)

 付記)日本外務省北東アジア課調査班「朝鮮半島をめぐる動き(取扱注意)」(平成18年1月25日作成 『中央日報』4月5日報道)
 我が日本の外務当局がこのような偏見に基づいた分析をしているのを見ると悲しくなりますが、その概要をよく読んでお考え下さい。特に下線部のところにご注目下さい。

 1,韓国では反日政策が政権の支持率を高める傾向がある。20%台に低迷していた政権支持率が、竹島や歴史認識をめぐって
  05年3月の独立記念日におけるノムヒョン大統領の演説を機に40%近くに上昇した。
 2,竹島問題に関しては、ナショナリズムを煽り、韓日関係を悪化させながら、反日強硬派の効果を維持している。これは、簡単に
  沸き立つ韓国的情緒の無分別な発露と分析できる。
 3,ノムヒョン政権はレームダックを避けるためにも、任期中反日政策を放棄しないと予測される。


 (筆者コメント)外務官僚の民族ショービニズムと中・韓民族への蔑視観がにじみ出ているような分析だ。過去の植民地支配に対する外交責任意識や罪責の感覚がほとんど欠落している痛ましい実態だ。外務省文書の秘密指定区分は、『極秘』・『秘』のみで、『取扱注意』は「みだりに知られることが事務遂行に支障を来す恐れのあるもの」となっており、外務省は意図的にこの文書をメデイアに流し、「日本外務省は弱腰ではなく、ノムヒョン大統領がナショナリズム・カードを権力基盤強化のために弄んでいると分析している。簡単に沸き立つ韓国的情緒の無分別な発露には打つ手がない。悪いのは韓国であって、日本の外務省ではない」という自己保身のための宣伝をおこなっているように思える。韓国が自国を侵略したA級戦犯を慰霊し、植民地期に『奪われた」領土を擁護するのを「情緒の無分別な発露」と評価するのを許せるはずがない。韓国外務省の抗議に日本公使は、文書の存在にノーコメントと答えている。
 例えば、米国大統領が広島・長崎に原爆投下をおこなった爆撃機の飛行士の墓地を訪れて、公的に慰霊したら日本人はどう感じるだろうか。千島列島をロシアがかってに領土宣言したら日本人はどう感じるだろうか。日本外務官僚には、他者に対する想像力の惨めなまでの想像力の欠如がある。以上・佐藤優氏論考参照。(2006/4/22 10:35)

蒲郡で退職者を励ます
 朝早く自宅を出て東名高速に入ったら、豊田から岡崎にかけて15kmの大渋滞であった。やはりトヨタ関係中心に一定の景気回復があるのだろうか、大型トラックが数珠繋ぎだ。豊川インターまで走り、豊川市内の古本屋を漁り、NHK昭和の記録カセット本2500円、手塚治虫『夜よさようなら』(900円)を買い求める。一路蒲郡に入り、残っている一軒の古本屋でビクトル・ハラ『終わりなき歌』(800円)と国立劇場『風俗備要抄』(500円)を求む。この『風俗備要抄』では”仏前の線香を立てて商い”とあり、何のことかと思ったら、郭の娼妓が客の相手をする時間を線香1本鳥目幾らと決めて、揚げ代のことを線香代といったそうだ。線香は人目につかない暗所で秘密の商いをするのに必需品であったわけだ。この蒲郡の古本屋は、ほんとに戦前の古本ばかりでいかにも古本屋といった感じであった。途中で蒲郡博物館を見学し、宿に入った。入浴後宴会が始まった。今年は退職者1人なのに、20人を超える人が集まった。宴もたけなわで懐かしいメンバーと語り明かした。夜にまた入浴し就寝した。今年は激しい論争もなく、つつがなく終わった。この会のことをメンバーの1人が、朝日新聞の「声」欄に紹介していたので、ひとしきり盛り上がった。
 翌朝は東名高速から岡崎インターをおりて、岡崎公園近くの都築書店にいった。ここは地方都市にしては、歴史・文芸中心にからり面白いものが並んでいる。『パウル・ツエラン詩集』(900円)と『日本の音 全5巻』(1万円)を購入して一路名古屋をめざした。『日本の音』は古代から現代までの日本のあらゆる音を集成した定価3万7500円を店頭価格1万3000円を、思い切って値切ったものだ。これはほんとうに掘り出し物だと思い、ホクホク顔で帰途についた。帰宅して、前夜の深酒が残り少し眠った。(2006/3/12 19:33)

三寒四温の京都
 立命館大学コリア研究センター主催「東アジアに発信され拡散する韓国文化力の可能性」出席のため、24日朝VRVを駆って名神をいく。10時過ぎに着いたので、百万遍付近の古本屋で物色。若い女子学生風の人が、本を3冊買ってくれと頼んで300円を手にして食費ができたと喜んでいたのには驚いた。衣笠校舎に行くと、予約なしの駐車はできないと断られたのには驚いた。何とか頼み込んでシンポ会場に行く。寺島実郎氏(日本総研)と白楽晴(韓国『創作と批評』)の2人の講演。寺島氏は経済データを駆使した東アジアの結合と政治のギャップを指摘。白氏は朝鮮半島分断の質的変化を指摘し、統一は劇的ではなく「のらりくらり」と周辺に受容される形で進むだろうと痛苦の体験を踏まえて説いたのが印象的。驚いたことに会場で同僚のT氏にでくわした。終了後宿舎の近くで、2人で痛飲。韓国問題中心に談論風発。久しぶりに飲みながら議論した。宿舎に着いてそのまま就寝。朝の食堂は国公立2次試験を受ける学生で満員だった。
 2日目はぎっしりとつまった日韓両国の研究者の報告。通訳がすばらしい能力の持ち主。韓国の研究内容と関心がうかがえて非常に興味があった。日本と同じようなポスト・モダンの影響を受けた内容に興味を持った。発表者がほとんど米国留学体験者であったことも。韓国側は、ポスト・モダンに批判的であり、日本側は研究というよりエッセイ風であり、学問水準も韓国より劣化しているのではないかと思った。内容的には韓流ブームをテーマとしていたのが多く驚いた。ルック コリアというトレンドなのであろうか。午後の途中から退席したので、討論は聞けなかった。「韓国文化力の可能性」を多角的に考える刺激的な報告が充満していた。日本はほんとうに東アジアでの指導性を失いつつあるのではという危機感を覚えた2日間であった。
 かって左翼の牙城であった立命館大学のキャンパス・イメージはいまいずこでもあった。コリア研究センター所長の徐勝氏は学生時代からの知人でもあったが、韓国文化研究を本格的にプロパーとする日本人研究者が必要だと痛感した。(2006/2/25 21:07)

2005年末・スペイン紀行
12月25日(日)
 6:00 起床し、簡単なパン食を摂る
 6:40 自宅を出て名古屋駅に向かう
 7:32 快速特急に乗る
 8:02 セントレア空港に到着。はじめてセントレアをみる。快晴。知り合いのY氏夫妻、M氏、K氏と挨拶。
10:55 ルフトハンザドイツ航空にてフランクフルトに向け予定通り飛び立つ。ウキウキとした気分。M氏ともっぱら映画のことを話す。「男たちのヤマト」をめぐってちょっとした論争。昼食は寿司、牛丼、ビールと白ワインを飲む。眠たくなるが少々酔ったのか尿意を催す。機中のTVではハリウッドのファンタジー映画が上映されていた。次いでサンドイッチが配られ、ビールを飲む。座り続けて腰が痛くなる。飛行時間の無為に耐えられる人は立派なもんだ。到着前に夕食が出る。魚ムニエル、白ワイン1杯飲む。スチユワデスにドイツ航空ならハリウッドではなくドイツ映画を上映しろと注文する。
17:35 フランクフルト空港に到着し待機。日本の女子高校生グループがオランダでのハンドボール試合に行くためにいるのに出会う。オランダ系黒人と雑談。欧州女性はスラーっと背が高い。小型ルフトハンザ機でバルセロナ・プラット空港に向かう。眼下に美しい夜景が広がる。初めての海外旅行で見た黒海上空の夜景を思い起こした。サンドイッチとワイン2杯飲む。
20:30 ホテル カタロニア アテナスにチェックイン。同室(418)はK氏。スペインをよく見、よく聞き、よく眠ろう。

12月26日(月)
 3:00 目が覚め、本を読みながら朝まで過ごす
 7:00 朝食 バイキング 便秘気味となる
 8:30 バスで空港へ向かう。バルセロナはすべて車が一方通行となっている(スゴイ!)。ローカルガイドがかならず付くことになっているようで、スペインの観光産業の職業政策の厚さを感じる。エキゾチックなグエル公園はガウデイ風の建築の造作で面白い。ガウデイの居宅もあり、バルセロナを一望できる。サグラダ・ファミリア教会へ行く。圧倒するガウデイ建築。キリスト教と建築芸術の融合の息をのむ凄さ。世界最後の大聖堂建築だそうだが、壮大な権力芸術ではないか。ジョージ・オーウエルは『カタロニア讃歌』で醜悪な建築と酷評していたが、この尖塔にもかっては赤と黒の旗が翻っていたのだ。この横に新幹線が引き込まれるという。オリンピックスタジアムとバルセロナ王立公園の頂上からバルセロナ市街を見おろす。海岸の市内レストイランLA FONDA DE PORTO OLIMPICでパスタ風昼食と、ビール1本(2E)、ワイン1杯(2E)を飲み満腹。バルセロナは雑然としたいかにもカタロニアの風情が漂う。
 バスでモンセラット修道院へ向かう。1700mの奇岩がそそりたつ山の頂上に、黒いマリアを安置する聖ベネデイクト派修道院。荘厳な雰囲気の漂うこの修道院を鉱山の頂上に作った修道僧の気持ちは? ローマ・カソリックの有力派閥となる変貌は? ガウデイ建築のイメージはこの奇岩の様相を連想させる。はるばると下界を見おろすと、日本とは異なる迫力ある自然と街並みと生活リズムがある。日本は小さいよーと小泉純一郎氏に言いたくなった。帰途土産物屋で、プリモ・レーヴィイのアウシュヴィッツに関する本を購入。夜はタクシーでバルセロナの街で夕食を採りに向かう。

12月27日(火)
 7:00 朝食
 8:30 ホテルを出発しブラット空港へ向かう。高速道路は雪と霧。道路周辺に不法移民労働者のバラック住宅が点々と広がる
10:25 イベリア航空でビルバオに向かう。曇天
11:20 ビルバオ空港に到着しバスでゲルニカに向かう。英国の田舎風の田園風景が広がり、牧草地がよく整備されている。
13:00 ゲンニカに到着し、記念館に入る。バスク地方の自治の拠点となった議事堂の中にはいる。階段状の座席と投票箱が設置され、バスク民主主義の伝統を感じる。このバスクの自治が人民戦線を支え、ナチス空爆を招いた。空爆で残ったのはゴシック建築の教会堂のみ。村の長が集った「ゲルニカの木」は歴史を超えて屹立しているようだった。ガイド(エレナさん)に、バスク「祖国と自由」について聞くと、このテログループの基盤に強固な郷土意識があり、彼女は必ずしも批判的ではないことがうかがわれた。さらにバスク地方のモンドラゴン協同組合について聞くと、資本主義に伍して確実に発展するだろうと言うので、日本の生協の危機をふまえてホッとした。
16:15 ビルバオのホテル シルケン インドーツにチェックイン。ホテルのフロント係に聞くと、夜の勤務は11時ー朝7時の8時間で週休2日だという。彼も「ゲルニカはバスクの魂 The Spirit Of BASUKU」と言い、モンドラゴン協同組合MCCを非常に評価していた。
21:00 夕食

 <欧州におけるキリスト教と教会の存在の圧倒的な巨大さ、イスラムとの宗教戦争、キリスト教内部の教派間闘争、流された血、象徴的イデーなどすべてがキリスト教を外部化できない構造的な充填>

12月28日(水)
 朝から猛烈な腹痛が襲い下痢が始まる
 9:15 ビルバオ空港に向かう
10:50 イベリア航空にてセヴィージャへ 
12:30 セヴィージャ空港着
13:00 市内レストランHOSTERIA DE LAURELにて昼食
14:00 市内見学 カテドラル イスラム教を駆逐したキリスト教とがモスクを教会に造り替えた 
17:00 コルドバに向かう
19:15 ホテル コンキスタドールにて投宿 下痢気味ですぐ就寝

12月29日(木)
 9;30 市内見学 メスキータとアルカサル見学 イスラム支配の拠点都市、イスラム文化の残存、迷路のような城塞都市、ユダヤ人街 ほとんどアフリカの街並み 堀田善衛の紀行記を思い起こしてしばし感慨にふけるが、体調不良で立っているのがやっと
12:30 昼食 ほとんど口にできず
14:44 スペイン新幹線AVEにてマドリッドへ
17:00 マドリッド ホテル ラファエル アトーチャにつく タクシーでソフィア王妃ニュージアムにタクシーで向かい ピカソ「ゲルニカ」を見てかえる。ただ「名画」を見て終わったという感じ。ピカソの怒りは伝わってこなかった。夕食も絶食して夜のフラメンコ鑑賞をキャンセルしベットで寝る 惨めで残念なことになった

12月30日(金)
 7:00 朝食 果物のみ
 8:30 バスで古都トレドに向かう 完全なイスラム風城塞都市 すばらしい世界遺産の景観 石畳の迷路 どこへ行ってもあるユダヤ人街 金属彫刻のブローチ購入
13:00 昼食 ほとんど口にせず
15:00 プラド美術館 エル・グレコ中心にみる 宮廷画家の自己主張が激しい
15:30 ホテル帰着 そのまま就寝 数人はサッカー観戦に行く 残念!

12月31日(土)
 3:15 起床
 4:15 空港へ
 6:15 ルフトハンザでフランクフルトへ 
 8:55 フランクフルト着 地下鉄でフランクフルト中央駅を見学 ドイツの地を初めて踏んだ 駅の大型店で哲学書中心に6冊購入(約60E) スペインのどこの書店に行っても、大江健三郎と村上が並んでいるのには驚いた。空港免税店でブランデー2、ワイン1土産に購入(80E)
13:50 ルフトハンザで名古屋へ向かう 

 1月 1日(日)
 9:15 セントレア着 帰国ゲートは人少ない 正月とは思えない 帰途の電車に正月風景はない 女性の和服姿は1人のみ 日本の正月もおかしくなった
13:00 自宅帰着 こうしてスペイン旅行は終わった

<総括>
1)海外旅行は年齢を配慮したプランとし、直前からの体調管理(特に胃腸)を充分にしなければならない。スタッフや同行者とのパートナーシップに配慮しなけばならない(充分に気を遣うか一切遣わないか何れかにしぼる)。充分な歴史・文化の事前調査でターゲットを明確にしぼること。以上が旅行上の注意。
2)スペイン紀行から考える
 ①スペインはキリスト教とイスラム教、ローマ、アフリカ、ケルトが複雑に交錯する多民族国家である
 ②土着的な郷土意識が強固で、独自の地域文化を持つ。伝統的なデモクラシーの営みによる中央集権を拒否する
 ③アナーキズム、サンデイカリズムの伝統が隠然としてあり、協同組合運動が根付いている
 ④キリスト教と教会の圧倒的な現世支配力とそこで形成された文化の抜きがたい呪縛 これを日本人が理解するのは至難だ

奥飛騨の秋
 思い立って奥飛騨へCRVを飛ばした。平日で名神も東海北陸もスイスイと100km超で走行した。白鳥インターで降りて国道に入り、高鷲をめざす。途中でラーメンを食べたくなったが昼前で開店していない。途中で瀟洒な喫茶店があったので入ったら珈琲がおいしそうだった。昼食はまだ用意できないということなのであきらめて出る。阿弥陀滝への登り口の途中の弁当屋で500円の定食を食べる。そのあと山頂の温泉「満点の湯」につかってサウナと露天風呂を思い切り楽しんだ。湯客は私を入れて2~3名であり、ゆっくりとできた。はるかに見える山並みはまだ雪を戴いてはいないが、すでに晩秋の色が漂い全山紅葉である。はるか下界には石徹白の村が点在している。高鷲に急ぎ山小屋に着くと、窓を開け放ち空気を入れ換える。自宅より持ってきた書籍を搬入し、自動車の荷物を整理して身軽となった。夕方になって鷲が岳温泉に行くと、すでに人工雪によるスキー場が1コースオープンしており、若者でにぎわっていた。またゆっくりと温泉につかり、帰宅する。寒くなったので炬燵を出し、石油ストーブに点火するとじょじょに部屋の中は暖まってくる。フト見ると隣の小屋の灯がつけっぱなしであったので開けて消灯する。コンビニで買った寿司弁当と簡単なつまみでビールを飲みながら大相撲を見る。いつのまにかウトウトし、映画「ローハイド」を見ながら就寝する。私の中学生時代にヒットした番組であったように思う。
 早朝目を覚ますとすでに外はじょじょに明るくなってきている。本日は快晴のようだ。小屋を片づけて車を駆って、人も通らぬ山道を選んで荘川方面に向かう。美しい紅葉と山並みに囲まれた林道をゆっくりと進む。最近始めた写真教室の刺激で、いつのまにかカメラの構図を気にして風景を見るようになった。山深き里には農家が点在しまるで人がいないかのように静まりかえっている。競争に明け暮れる都会の喧噪とは違う非対称性の世界が目の前にある。こうした中山間地に住む人の一生を想像するとあまた思いがめぐってくる。永田町の人々はこうした農山村で生涯を終える人の暮らしは頭にあるのだろうか。次々とシャッターを押しながら荘川へ着く。Uターンして高鷲から白鳥へ入り、温泉「美人の湯」につかりビールと昼食をとる。帰途郡上八幡によって、好物の郡上味噌を1kg仕入れて一路名古屋をめざす。初めてカメラ撮影を意識した1泊旅行であった。(2005/11/16)

同窓会琵琶湖紀行
 8月23日一人でCRVを駆って大津に向かう。名神は車が少ないのんびりと行く。日頃は追い越し車線しか走らない私は今日はどうしたことか、走行車線を行く。大津に着くと早速滋賀県庁に行き、商工部の伝統産業課を訪ね滋賀県の伝統産業について聞く。スタッフは1人しかいないのか、30歳代の若い人が熱心に説明してくれた。残念ながら滋賀県の伝統産業政策は、近畿経済産業省以外の独自の政策を持たず、展示会の主催と補助金政策が中心であった。伝統産業パンフと滋賀県の経済振興ビジョンの2冊の資料を拝受した。それから滋賀県立図書館に行く。瀬田の山沿いの広大な敷地で美術館や龍谷大学等の広大な文化ゾーンが広がっているが、市街地から遠いので自家用車なくては訪れることは難しく、参覧者は少ない。こうした一点豪華型の文化施設は実は市民型ではないのだ。滋賀県コーナーは充実した資料群を揃えてあるが、経済関係の資料は少ない。「水」をテーマとする資料群は圧倒的であり、さすが琵琶湖をを抱える滋賀県の関心の置き所が伺えた。資料を2部コピーして、次に県立美術館に行く。滋賀県出身の画家なのか横田重太郎の個人展覧会があり、明治・大正期のパリ留学から始まる独自の画風を感じた。現代的なインパクトはない。洋画から日本画への転換にいたる彼の変遷に興味が持てた。そこから大津市街にもどり、大津市内唯一の古本屋を訪ねたが、品そろえは貧しくまた高めの価格設定で、購入したのは『日本の百名山ー岡山県』を1000円のみであった。この古本屋があるアーケード商店街の歯抜けのようなシャッター通りは、実に中心市街地の衰退を象徴している。それにしても大津の衰退はひどい。足を伸ばして琵琶湖大橋を渡って草津に行き、古本屋を探したがあいにく定休日であったので、またUターンして雄琴温泉も山上にある同窓会会場の旅館に行く。総勢7人の参加で和気藹々と宴に臨む。相変わらずH氏は意気軒昂で周囲に毒舌を吐いて煙に巻いていた。寄る年波には勝てず、早々と就寝。
 24日は朝は6時頃に朝湯に入り、朝食後日吉退社から三井寺を回る。日吉大社は神仏混合で壮大な建築物が並び、圧巻であった。三井寺は確か臨済宗の寺院であり、唐風がかなり入っており堪能したが、修理が遅れており痛みが激しい。そばを食べた後、大津の阪本屋に行って鮒寿司を4千円で求め、一路名神を走って家路につく。同車のK氏は独特のユニークな感覚が衰えず、退屈せず帰名した。猛暑の最後を飾る一泊旅行であった。(2005/8/24 17:50)

猛暑のなかをボスケ山荘で
 久しぶりに鷲が岳のボスケ山荘に行った。暑さで小川の水は伏流水となって水音がこだますことはない。山荘は都市の猛暑からは別天地のような涼しさで、鳥のさえずりを聞きながらしばしたたづむ。啄木鳥の声だろうか、それとも郭公の声だろうか時々鋭い鳴き声が響きわたる。驚いたことに鶯の声も聞こえる。なぜ今鶯なのか分からない。静かななかで日頃落ち着いて聞けなかったピアノ曲を聴く。山荘にはピアノがぴったりのような気がする。ベートーベンやショパンを聞きまくる。ショパンを聴いていると、ほんとうにこの人の湧き出るような楽想に人間業ではないような気がしてくる。街で読む気になれない小説をじっくりと読む。莫言や堀田善衛『路上の人』など引き込まれていく。久しぶりに小説にのめり込む愉楽を思い出させてくれた。莫言は中国の文芸主流派に抗して貧しい農民の実相をリアルに描く。『紅いコーリャン』(張芸謀)など映画化された作品も多い。若い男女が好き会いながら分けれ、農村に残る少女と北京の大学教師になる少年の再開と別れを描いた作品も映画化されたが、原作を読んでみてかなり編集されていることが分かった。莫言の小説は、ガルシア・マルケスに似た極限の情念の世界を淡々と描写する。現代中国の感性が驚くほど深く多様だと言うことを教えてくれる。
 翌日は九頭竜から福井へ行った。山岳のなかを走るのは心が洗われるようだ。こうした山奥でひっそりと生活している家と人影の見えない村里を行くと日本の別の姿が見えてくる。美しい棚田が拡がり観光スポットとなって手入れされている。こうしたことはやりすぎないようにしてほしい。村おこしの方向をほんとうに模索しないと、日本は滅びてしまうんではないかとつい思う。帰りは山上の温泉に入って汗をかく。満天の湯というのが私のお気に入りだ。夜の星空の下でゆっくりと浸かってみたい。こうして私の山行きは終わった。現役の時のワンダーフォーゲル部の山行きとは違う風情であった。あの過酷な山行きをもう一度やってみたいとも思った。山荘に次々と書籍を移動しながら、ここを第2の拠点として著作活動に集中したいという気持がより強くなってきた。(2005/8/1)

大阪・四国・岡山6日間を自動車で駆け抜ける
 郷里・岡山で叔父の3回忌があるのにあわせ、ちょうどいい機会だと考えて大阪から四国の仏壇産地旅行をおこない今帰名したばかりだ。緑したたる初夏の関西・中国圏は思いのほか美しい日本の原風景といささか開発から取り残された地方圏の痛みを覚えた。記憶をたどりながら現在の日本の姿の一隅を報告したい。

▽5月17日(火) 早朝に名古屋インターから名神に入り一路大阪をめざす。近畿道から阪神高速にはいると事故もあり激しい渋滞でこれではとても都市高速とは云えない。大阪仏壇協同組合に連絡したら、理事長がJR西日本の尼崎事故で亡くなり取り込み中ということで断念し、大阪府庁の地域産業振興室を訪問する。大阪府庁舎は横山知事時代の立替計画が頓挫し、民間ビルに間借りしているという状態であった。産業室の係官2名と大阪府の伝統工芸品振興について聴取する。真面目な若い担当者であったが、大阪仏壇そのものの聴取ではなく、伝統工芸品産業全般について実態をうかがった。伝産品展示企画が業務の中心でその事務局として一定の補助金も交付している。総予算は1000万円であるから地域産業室予算としてははなはだ貧しい。府庁舎といいこの予算規模といい大阪の元気のなさを感じた。聴取調査を終えて道頓堀から難波にかけての日本有数のアーケード街を歩いた。中学生らしい修学旅行の集団が三々五々歩いている。驚いたのは店という店が若者中心のファッション点で閉められ、しかも風俗店が激増している。歩いている人は、圧倒的にストリート系ファッションの若い女性が多く、それだけ見れば元気があるように見えるが一歩裏通りには入れが閑散として人がいない。煌びやかな表通りだけが賑やかであるが大人が歩く街ではない。途中で古本屋があったので3軒入ったが大阪の古本屋は価格設定が高めで、西陣織作品集を2000円で購入した。途中でタクシーに乗り、アリーナ大阪という宿泊施設に向かう。私が乗るまでに40分客待ちしたそうで、運転手さんは不景気ぶりを嘆いていた。”大阪の街と若者のを見ていると、いったい日本は日本はどうなるんだろう”と嘆いていた。宿泊所に着くと「豊田南」と書いた30人定度の中学生の修学旅行客がおり、ざわめいていた。拠点分散の形態で大阪を見るらしいが、道頓堀なんか見ていったい意味があるのだろうかと考えさせられる。

▽5月18日(水)早朝宿舎を出て阪神高速から神戸・淡路大橋に入ったが、強風で時速60m以上の速度を出すと恐くなる。瀬戸内海を眼下に見下ろす眺めは抜群であるが、高所恐怖症の故にか海の上の高速走行は恐い。鳴門インターからすぐに徳島市に入り、木工会館に向かい、徳島仏壇協同組合の事務所を訪れる。木工関係だけでこのような会館をつくれるところに、徳島木工業界の実力がある。組合の女性事務局員から聴取調査をおこなうと、誠実に詳細なデータを提供し業界内部の問題も詳しく話してくれた。元は船づくり大工から仏壇製造に参入し、いまや全国トップの座に君臨する徳島仏壇産地のちからを実感した。この産地も静岡と並んで、或る巨大信仰門徒団体への仏壇提供で急成長し、いまは産地と宗派性を越えて全国供給しているが、外国産との競合で悩んでいるところは同じだ。組合で生産データを集約することはなく、展示会向けの作業が組合の主要業務のようだ。しかも海外展開している業者が組合員であり、海外輸入問題を中心議題にはできないとも云っていた。
 徳島市内の古本屋を探すと、10万点を展示する大規模なロードサイド店があり、そこでかなりの時間を費やした。社会科学系も充実しているが価格が高めであり、改めて名古屋の価格設定の廉価さに気づかされた。ここでは思い切った投資をおこない、土門拳写真全集3万8千円とVTR「ヌレエフ」とヴィスコンテイ「革命前夜」に6千円という大枚を投じた。徳島市郊外の山の上にある簡保の湯に投宿。徳島市と吉野川の流れを一望できる絶景の宿でしばらく入浴を楽しむ。部屋は和室。

▽5月19日(木)早朝宿舎を出て高松道から瀬戸大橋に向かう。途中与島インターで休憩し一路岡山に向かう。午前中は空き家となっている実家の利用について相談する。実家に着くと見るも無惨な雑草で覆われ、家のガラスが割れてどうも泥棒が入った形跡がある。歩くと畳がふわふわして相当痛んでいる。役場に行き田舎の集成図と地番一覧を入手し、福祉課と社会福祉協議会で跡地利用の相談をおこなう。親戚の家に行くと不在であった。岡山市へ入り、急に懐かしくなったので付属小中と朝日高を数十年ぶり訪れた。かっての木造校舎はすべてなく鉄筋の校舎群が取り巻いていた。ただ一つコンクリート製の同窓会倉庫があった。グランドでは喚声をあげてサッカーをしており、そこに教師がいたので話をした。いまは試験中でサッカーをしているのは、浪人生対象の「補習科」の生徒だという。かっては予備校がなく浪人をした卒業生を教えるシステムであり、私も一時在籍したのだがいまもって顕在であるとは驚いた。岡山は中学区総合選抜を崩し単独選抜に移行しているので、朝日高は急浮上しているそうだ。成績による選抜クラスは廃止しているそうだ。次いで高校の裏山にある寺に行った。本堂は昔のままで遠州流の見事な庭園がそのままあった。高校時代によく訪れ世話になった住職さんに会いたいと思ったが、気恥ずかしくなってやめた。附属小学校に向かうと、こんなに広く大きな校舎だったのかと驚いた。子どもの時にはあんなに広いと感じていた道が本当に狭いものだったのだと改めて実感した。後楽園近くの宿泊所投宿。

▽5月20日(金)朝から再び故郷の廃屋へ向かい、ガラスの破損箇所を修理し、除草剤を庭一面に撒いて、一路入院中の叔母がいる和気に向かう。途中の熊山に詩人・永瀬清子の記念館と実家を見る。永瀬清子の女学校が愛知一女(現・明和高校)というのは知らなかった。記念館では愛知一女のことを記した文章はなく、ほとんど金沢の子ども時代の記録が多かった。ひょっとしたら清子も名古屋時代にあまりいい印象を持っていなかったのではないかとも邪推した。生家は朽ち果てる寸前のあばら屋でわが家とまったく同じであった。つわものどもが夢の後・・・・故郷を捨てた者への復讐なんだ。永瀬清子は来年生誕100周年を迎えるそうだ。彼女の詩を1編。この詩は沢田知加子が歌ったアルバムが今年2月に出ている。

 美しい国 永瀬清子

 ああ夜ふけて空がだんだんにぎやかになるように
 瞳はしずかにかがやきあいましょう
 よい想いで空をみたしましょう
 心のうちにきらめく星座をもとましょう

 敵とよぶものはなくなりました
 醜とよんだものも友でした


 途中に偶然に温泉施設があったので2時間ほど休憩した後岡山の宿舎に帰り、従兄弟のT君と合流し痛飲した。彼の鼾が凄まじく終夜眠れなかった。

 崩れゆく屋根に瓦の波うちて 草むす庭にしばしたたずむ

 かにかくも打ち捨て去れば生き物の朽ち果てるかの わが家に見入る

 ガラス戸の破れるさまをば一目見て 我が心はキリリと痛む

 我が父母の祖父母の在りしこの館 今は朽ち果ててなにをしぞ想う


▽5月21日(土)叔父3回忌に20名ほど終結し、西大寺で法要を営んだ。住職が高齢でその読経のしゃがれた声が妙にこの世ともならぬ迫力があり、瞑目して聞き入った。仏壇産業の研究ともに、生者必滅の心情とそれをとりまく民俗を思うようになった。縁者一堂で会食する。縁者一族の文化性は高く、岡山の片田舎の農村部出身の高度成長期以降の家族史の展開の一つのモデルとなっている。座は情報交換で華やいだあと、我が母の生地に向かう。田んぼの中に笹が茂り、2,3の大木がある地にもはや廃墟はなく、明るい日差しの中で風が吹いているだけだ。ここで我が母は生まれ高等女学校までを過ごし、我が父に嫁ぎ吾を産みて29歳の若い命を閉じたのだ。とても実感が湧かない。想像力がはばたかない。ただ黙って見入るだけだ。隣接する本家の家で休憩し解散。こうして、6日間に渡る法事兼調査旅行は終わったそして私は生まれて初めて母の生地を見たのである。明日は一路名古屋をめざすだけだ。

 たらちねの母の廃墟にきてみれば 薮吹き渡る風に佇む

                                               (2005/5/22 18:00)

奥飛騨の春
 3日午前10時に出発し、東名ー東海環状ー東海北陸と渋滞を避けていくつもりが、まず豊田付近で大渋滞、次いで土岐で大渋滞だったので東海北陸にのらず、あえて国道で高鷲をめざす。着いたのが午後4時をまわっていた。4日は九頭竜から石徹白へと向かう。初めての道でまだまだ桜が満開であった。石徹白へ向かう県道は秘境のようなせせらぎがある狭い道をノロノロいくと途中で通行止めで残念ながら引き返して白鳥「満天の湯」に向かう。5日はやまびこ街道を右に折れて山道を荘川に向かう。山並みのなかに点在する山村は春の最盛期で花々が入り乱れて咲いていた。こうしたところで営まれる生活とは何であろうか。同じように途中で通行止めとなっていたが、他の車が通るので敢えて行ってみると、途中の道は落石が転がっていた。まだまだ人知れず暮らしている山国があるんだーということを実感したドライブであった。荘川インター近くの桜華の湯に入って一路帰名する。今度はスイスイと走れた。(2005/5/5 20:15)

飛騨の温泉めぐり
 従兄弟と2人でゆっくり温泉めぐり。9日朝名古屋を出て白鳥高原「満天の湯」に着く。残雪がいっぱいに残ったスキー風景を見ながら山の頂上から遠くの冠雪した山並みを観ながらゆっくり湯に漬かるのは最高である。2時間ほど入浴し食事してからまた入浴。客は少なく経営を心配するほどだ。身も心も洗い流されていのちの洗濯とはこのことか。温泉を出て山荘に向かい、雪で覆われた出入り口をスコップで開いて出入り口を確保。水道は凍結していなくてホッとする。しばらく休んでまた山を下りてふたごえ温泉に向かう。この施設は会社の保養所でリゾートっぽく豪華だ。食事付き入浴1800円で食事もボリュームがあり満足して帰る。山荘で巨人ー中日戦をみてアレコレと話す。残念ながら中日敗戦。夜12時頃まで酒をに観ながら話す。いつもながらの従兄弟の怪気炎を聞いて就寝。
 翌朝は郡上八幡に行き、ぶらぶら散策しながら名物ソバを楽しむ。郡上八幡は歴史が残る都会とは別世界の町だ。町中の路地を流れる小さな小川とともに暮らしが息づいている。こんな生活はいつの間にか忘れてしまっていた。大黒屋というみそ屋でいつもの味噌を仕入れて出発し、途中で子宝の湯という温泉施設で入浴。木曽川河畔の素朴な湯で、長良川鐵道のホームのそばにある。ゆっくり入浴し帰途につく。夕方帰名する。なんともはや桃源郷のような日帰り温泉旅行であった。(2005/4/11 14:10)

東京の3日間
 ○3月25日(金)午前中は東京都庁で伝産関係資料調査をおこなう。東京駅から最初に東京都中央図書館へ向かうがあいにく閉館。次いで東京都都庁の伝産振興室へ向かう。資料室の都庁関係資料整備は素晴らしい。すべての部署の資料が完備・公開されている。東京都伝統工芸品実態調査報告書は無料で提供を受ける。30Fの伝産振興室でヒアリング。まあまあの資料収集に成功。このそびえ立つ超高層都庁ビルは管理中枢イメージが際だち、都民生活から隔絶した権力に見える。東京都民はこの超高層ビルを自分自身の所有物と実感するのであろうか。
 都庁調査を終えて神田・神保町の古本屋街で資料収集。時間がないので店頭の廉価本対象に収集し宅急便で名古屋に郵送。夜は息子のアパートへ行き、サッカー・イラン戦を観戦して就寝。
 ○3月26日(土)渋谷から田園都市線ではるばると東工大へ行き、進化経済学会研究大会出席。現在の学会の中心を担う人々の顔がある。院生中心の発表は、生物進化論の経済学適用の主観主義的解釈が蔓延し、とても客観的な経済科学とは遠い。この学派の混迷を実感する。昼から浅草・アメ横を散策。敗戦直後の焼け跡・闇市の雰囲気がそのまま残っていて、学生時代と変わっていない。ブルーマウンテン500gが1000円と驚くべき価格であったので買い求める。六本木ヒルズに行き、家族3人で散策しながら夕食を採る。六本木ヒルズは最先端現代都市の象徴的存在だが、私には巨大な廃墟に見える。人間の生存と生活には意味がない建造物だ。
 ○3月27日(日)午前中は池袋へ行き、西口散策。芳林堂が倒産していた。西口のゴミゴミした下町商店街は学生時代とほとんど変わっていない。中国人対象の店が増えている。伝産協会センターで資料収集。時間があれば詳細な説明を聞けるだろうが、全国の伝産産地の危機的な実態とは無関係のゴージャスな建物だ。午後から家族3人で民藝公演『火山灰地 第2部』をみる。この民衆演劇が、無機質の超高層ハイパー大都会で公演される違和感にとまどう。公演終了後新大久保の韓国焼肉店で夕食。驚いたことに歴教協の小出氏とバッタリ出くわす。久しぶりに韓国料理は美味であった。帰途ヴィデオのバーゲン店で360円のものを2つ購入。新大久保は完全に韓国人街になっていた。そのまま帰名する。新幹線車中でスピノザ『エチカ(下)』読了。
 東京は壮大な超巨大都市に変貌しているが、その裏に崩壊する墓場のような気配を感じた。超高層ビル街と泥臭い庶民街から外国人街が共存する混沌とした個人の無力感を覚える首都。もしかしたらこうしたよく分からない不安を覚えている都民は、その不安を解消する気持で雪崩を打って石原慎太郎に投票したのではないか。

蒲郡で退職者を励ます
 私の退職校のOBメンバー3人の退職を励ます会が蒲郡の共済宿泊所であった。この機会を利用して、知立市から岡崎市をめぐって仏壇産業関連の調査と資料収集をおこなうことができた。知立市の愛知屋社長から三河仏壇産地の現況を直接うかがうことができ、また産地アンケートにも応じて頂けるという快諾を得たのは予期せぬ成果であったそのあと知立市立図書館で数点の資料を収集し、その後岡崎市立図書館に向かった。充実した郷土史コーナーがあり、かなりの資料を収集することに成功した。さすが家康の城下町でひろびろと緑の公園が広がっている。
 降りしきる雨の中を東名高速に乗って、5時半の開会時間になんとか間に合って、蒲郡莊についた。久しぶりの海岸線を見てホッとする。退職者の方々は、お元気で自分の来歴を語り、お一人の女性は劇団での女優活動に入り、他のお一人の女性は地域の環境運動の中心として活動され、男性は読書と海外旅行の夢を語った。お祝いの言葉もそれぞれ個性があふれて、みんな精一杯にやっているなという実感を味わった。夜も更けて深夜3時ぐらいまでとめどなくダベリながらいつの間にか眠った。
 翌朝は風が強いが快晴でまた車をとばして岡崎にいき、古本屋を廻った。都築書店という本屋が、充実した歴史文献を集めており、なかなかのものであっった。購入したのは、ヴァルガ『世界経済恐慌史』8千円、西東三鬼千円、『古井戸』500円でまあまあの収穫であったが、三河仏壇関連資料は全くなく残念であった。岡崎の古本価格は名古屋よりまた一段安く入手したいのがあったが、手元不如意でやめた。一路名古屋をめざし昼過ぎに帰宅。(2005/2/20 22:46)

彦根から京をめぐる地場産業調査の旅
 2月9日の朝名古屋を出て名神にのり快適な走行で彦根に着く。琵琶湖沿岸の街は空気が澄み切って綺麗に整備された街だ。彦根商工会議所に行って商工課で仏壇の話を聞くが、協同組合の事務局の人が不在でまた来ることにした。少し彦根城の堀端を走って滋賀大経済学部に行く。経済経営研究所と経営史料館でめあての論文を探索すると、女性の係員が親切に全部探してくれた。さすが彦根高商の伝統をひき資料の充分整備され、建物も旧制高校の建物がそのまま残っているような風情がある。生協へ行ってコピーをとるとカードが余ったので、そばの女子大生にプレゼントしてあげた。聡明そうな美人であった。かなり充実した資料収集ができたので、もういちど協同組合事務所にもどると、事務局員の女性がいて真剣に対応してくれた。実態調査2部をくれたので大いに満足して彦根を出た、琵琶湖湖畔をドライブで大津に向かう。リーゾート地帯のように係留されたヨット群が広がる。夕方に京都に着き、堀川今出川の社会保健施設であるベアーれ堀川に投宿。夜はサッカー北朝鮮戦を観戦。劇的な日本の勝利。
 10日は朝から北山の京都総合資料館に向かう。開館まで近くのレストランで朝食をとり、9時に入館。建物はそのままだが中の資料の配置が少し変わっていた。この資料館の充実ぶりは素晴らしい。京都関係や官公庁の資料はほぼすべて網羅してあり、しかもそれが整然と配置されている。館員はまた親切そのもので、わたしの持参した資料目録すべてを検索して用意してくれた。なかにないのがあると、コピーさせてくれと頼まれた。その完璧な蒐集姿勢には感服した。広い資料室の机で調べものをしている数十人の人は、沈黙して真剣になにかに取り組んでいる。名古屋での図書館ではペチャクチャしゃべるヤツがいるが、ここには一人もいない。京都の市民の知的水準を実感する。資料館を午前中で終えて、京都市内の古本屋を廻る。百万遍の3軒の古本屋に最初に行った。京大周辺は立て看が林立し自由の雰囲気が満ちている。河原町に出て古本屋をまわり、寺町にすごい仏教専門の古本屋があったので覗いた。参った参った!すごい仏教関連の専門書がある。そこを出ておもしろい伝統工芸店と、民族楽器店をみて、車に帰るととんでもないことになっていた。警官が2名駐車違反のマークを貼り付けていた。なんとかしてくれんか・・と頼んでもダメ・・1万数千円が吹っ飛んで2点減点・・・トホホ・・・・・。宿へ帰り近くの居酒屋でやけ酒を飲んで就寝。
 11日はみやこメッセの京仏壇・仏具展に行く。やはりこのメッセはすごい!京都の伝統工芸への想いが伝わってくる豪華絢爛たる展示場だ。京都以外では、特に名古屋では絶対にできないしろものだ。工程の実演を見学し、組合の話を聞く。今日の収穫はゼロ。比叡山ドライブウエーを通って一路名古屋をめざす。途中は雪・・・そうなんだ京都は雪国なんだ・・・。今日は建国記念日だそうだ。(2005/2/11 1743)

04年末フランス紀行
 愛教労主催・フランス歴史と文化の旅(12月23日~30日の8日 32名)に妻とともに参加。案内はフランス在住の美帆シボさん(アニメ『つるに載って』の作者でフランス在住平和運動家)。

▽12月23日(木)
 6時30分に家を出て名古屋駅に向かい新幹線に乗って新大阪へ向かう(米原付近で雨、大阪は晴れ)。8時16分発はるかで9時関空着。ロビーでフランス人に会ったのでデリダは知っているかと聞くとNonと言う。KLM機11:15出発。15:30アムステルダム空港着(快晴 よく11時間も我慢できたと思う)。機中で映画3本を観てランボー詩集半分読む。KALは中年スチュアデスが多く労働条件の成熟を感じる。16:20KALでパリに向けて出発。機内でオーストラリアの家族とカタコトで話したら、2ヶ月の夏休みだそうで、織り紙がうまい。途中でサンドウイッチのうまいのが出た。ドゴール空港からバスでペイ・ド・ワール地方のアンジェへ行く。クオリテイホテル投宿。

▽12月24日(金) 
 7:00起床しアンジェ城周辺散策、きれいなフランス風小都市、歴史の重みあり小雨。11:20バス(運転手ウッシーニ)で美帆シボ母子とともにアンジェ城見学。ジャン・リュルサ・タペストリー美術館見学。平和テーマの渾身の力作あり。17:30街に出て本屋で哲学書3冊購入(50ユーロ)。

▽12月25日(土) 
 7:50バスでリモージュへ向かう。車中で自己紹介と美帆さんのフランス教育事情説明あり。果てしなく広がる農村地帯。北海道をはるかに超える風景はフランスが農業国であることを実感。9:40ドライブイン、トイレ休憩。10:40出発一時にわか雨、シェルブールの雨傘をなぜか思う。リモージュのノポテル・ホテル到着(湖の側のリゾート風ホテル)。工業都市のような感じでトヨタの支店あり。中華料理店で夕食、中世風の古い教会と町並み、欧州文明の歴史を感じる。

▽○12月26日(日) 
 6:00起床・6:30朝食 ラウンジでコーヒー2ユーロ。9:00バスで出発しオラドール村到着。ナチスによって全滅させられた村。村人は男女に分けられ、男は広場で射殺、女とこどもは教会で焼殺される。ナチス親衛隊の戦後裁判で釈放。市庁舎を訪問しオラドール市長を表敬。歴史修正主義を批判する挨拶あり。オラドールは沈黙の廃墟であり、それを表現する言葉はない。歴史の記憶の問題を深く思う。14:00バスで出発し、ジョルジュ・サンド博物館見学。中世風の田舎の豪華な館で文化の香り漂う。イッスダーンのホテル・ユニットは1つ星で豪華なデイナー。美帆氏と同じテーブルで歓談、ほとんど政治的テーマ。わたしが試みた質問は「あなたの国籍はどうなっているか」「麻原とイエスは本質的に似ているのでは?」「なぜフランスではイスラムのベールを禁止するか」であった。それにしても美帆シボ氏は美人だ。部屋は2階のある夢のようなおとぎの国のつくり。

▽12月27日(月) 
 6:00起床 7:20出発 9:00トイレ休憩 一路林の中を高速道路で行く。田園風景で空が明るくなり日の出。周囲は工場地帯と林が交互に広がる。フランスの高速道路は、平地と一緒のなかを走り日本のような仰々しさはない。ほとんど交通標識がなく落ち着いた感じ。シャルトルに着きノートルダム大聖堂見学。壮麗なゴシック建築とステンドグラス、石の彫刻で教会権力の底深いちからを感じる。14:10昼食、白ワイン2杯、ボリュームあるランチで満腹。14:20シャンピニに向け出発。レジスタンス博物館見学。コミュニスト中心のすさまじい抵抗運動の1次資料が生々しい。CDとDVDを購入。18:00のメルキュール・ホテル到着。

▽12月28日(火) 
 朝食後バスでペールラシューズ墓地見学。ピアフやショパンの墓、パリコミューンの虐殺の壁などフランスの死者に対する礼葬の重み実感する。その後ノートルダム寺院見学。壮麗な大聖堂。昼食後はオプションでヴェルサイユ宮殿見学。王侯貴族の栄華の跡は革命の必然性を実感。その後ルーブル美術館に向かう。地下鉄でさんざん苦労してたどり着いたルーブルは閉館、残念!。混み合う地下鉄は多国籍であり、黒人が多いことに驚いた。途中でトルコ人風のストリートパフォマーがラジカセをバックに歌を2曲歌ってコップをもって回り始めたが誰も入れなかった。日本人観光客は固くなって意固地のように無視していた。夕食後はオプションで市内観光とセーヌ川クルーズ、電飾で飾り立てた美しさは花の街パリを実感。世界の洗練された消費大都市である。ムーラン・ルージュは楽しいショーである。パリの場末の歓楽街を観る。ホテルにたどり着いたら深夜2時を廻っていた。

▽12月29日(水) 
 11:30ドゴール空港発エアフランスでアムステルダムへ向かう。出発前にチョコレートと哲学書2冊購入。空港にすべての主要新聞無料で配布。ユマニテあり。天上から下がっている人物写真も平和や人道に貢献した歴史上の人物であり、さすがフランスと思う。窓側24A席で快晴、大地は広がり街が点在、人間の営みの哀しさを覚える。海岸線は風力発電用の風車が林立しさすがオランダを実感。爆撃で人の命が実感できないことが少し分かった。14:30アムステルダム発。薄晴れ、また31Aという窓席でラッキー。一路大阪関空へ向かう。

▽12月30日(木) 9:20関空着、ついにこの旅は終わった。13:00名古屋駅着。
 
 森有正はフランスが私をとらえて離さないと云っているが、そうした歴史と文化の重みは如何ともし難いことを実感させた。それは殺戮をも含む悲劇と華々しい文化であり、教会権力のそそり立つ権威であり、また歴史を記録する誠実さでもある。その文化と歴史の深さが米国のユニラテラリズムに追随しない重みを生んでいると思う。以上は中間報告。もっともっと深い省察が必要だ。
                                                            (2004/12/31 20:29)

信州・松本探索
 経済学教育学会(於 松本大学)出席のため松本に一泊した。CVRを駆って一路中央道を松本インターへ。12時頃に到着し、早速市内の古本屋を4軒廻った。1軒が本格的な構えでぎっしりと並んでいる。名古屋にはないような珍しいものがあり、旅の気分も手伝って大枚はたいて購入した。他の3軒は斜陽気味で雑多な陳列で興ざめした。松本の街は、洗練された気品が漂う。女性も上品な知的な美人が多いような印象を受けた。やはり京都とは違った歴史と伝統を感じさせる。はるか北アルプスが迫り、上高地を臨んで清涼な気持ちである。
 2時に松本大学に着いた。田園の中にある校舎が新しい大学だ。シンポジウムが始まり、川田龍平氏と母親の川田悦子氏がいた。龍平氏は松本大学の教員として赴任しているのは驚いた。悦子氏はパネラーの一人として、自身の重い体験からにじみ出たエコロジー思想を展開された。パネラーでもっとも注目したのは地元の市民運動家の問題提起であった。テーマの地域で生きるにもっともふさわしい発言であった。会場で私の勤務する大学のM先生と偶然会った。
 松本駅前のホテル・飯田屋に投宿し夕食は近くの大衆居酒屋で済ました。疲れが出て目が充血し頭痛が激しくなったので早速とベッドに入った。翌日の朝は快晴で山並みに大きな虹が美しく架かっている。松本大学での2日目は3つの分科会に出たが、地方単科大学の廃校寸前に到る実態が赤裸々に報告され参った。私語と戦う大学の授業の実践も大いに興味をひかれた。夕方一路名古屋をめざしてひた走る久しぶりの遠出であった。(2004/12/5)

神戸は文化の匂う元気がある
 何年かぶりに神戸の街を歩いた。中小商工業研究所の夏期研究集会が神戸市立勤労会館であった。ホンダ・CRVの走りも快適で一気に名神を飛ばしても、それほど疲れは感じない。神戸の街はクルマにとってはあまり便利な街ではないが、それが正解だ。名古屋のようにほとんどノンストップで走れるような街はじつは人間にとっては異常なのだ。ホテルを予約しないで行ったので、少々心配でしたが、ちょうどキャンセルがあったの初めて警察共済宿泊所に泊まった。少しおっかない気持ちがあったのですがなんということはなかった。元町・三宮に徒歩3分でにぎやかな夜の街を散策した。ガード下の商店街やセンター街は賑やかで浅草や上野を思い浮かべる飲屋街があった。居酒屋で少し飲んで、古本屋を探していったが、いずれも7時閉店であっけなかった。阪神淡路大震災の傷跡は全くない。
 翌日午前中は研究会に出て、昼からセンター街の古本屋2軒を回った。後藤書店というのがすごい古本屋で、品格ある品揃えは大したものだ。名古屋の大手・大学堂など足下にも及ばない堂々たる店だ。ちょうど夏期セールで店前に均一本が並んでいたので、名古屋では入手できないものしめて1万6千円を出費した。店の主人が、ヘーゲルのドイツ語原書を示して、「これはラッソン版だ」と言うので驚いた。
 古本屋はその街の文化水準を象徴するというのが私の持論で、その点から云うと神田はおいて、全国で感心する古本屋は広島、神戸、大阪、京都である。神戸は住んでみたくなるような街だ。関西人特有の人なつっこさと同時に神戸独特の品がある。(2004/8/22 21:43)

信州・野麦峠はみどり滴る山並みであった
 勤務校OB会の一泊旅行が信州・渋沢温泉であった。中央高速・中津川インターを下りて、国道19号線を北上しながら、沿線の7市町村の役場を訪問し合併計画の聴取と資料収集を兼ねて旅館に向かった。過疎が進む町村はいずれも必死で合併問題をクリアーしようとしている。驚いたことには、必ずしも合併に積極的でないことだ。賛成派も不安を抱えている。最大の自主財源となっているスキー場の経営が決定的に不振で、合併後の住民サービスの逆転を最も恐れている。過疎債で上下水道や道路のインフラ整備は大体終わっているので、わざわざ特例債で実現するものがないともいう。総じて長野県特有の独立・自立意識が強いことを感じた。こうした現地調査をやると、机上の研究がほんとうに有効性があるのか試される気がして緊張する。
 旅館に着くと、すでに皆さんご到着で和気あいあいと酒を酌み交わしていた。夕食後は例によって、議論好きの先輩H氏と私の大論争になり、他の人は辟易していたようだ。議論の中味はここでは控えるが、どうも論争が生産的でなく、いかに相手をやっつけるかという青さがいま以て漂う。元気で若いことの証明かも知れないが。翌日は野麦峠を訪れて、往事の少女たちの跡を偲んだ。緑深い山道は、いまは綺麗に整備されているが、当時の難行を偲ばせる避難小屋は迫力があった。皆さんは19号へ戻り、私はひとり高山をめざしてかなりの峻厳な山道をくだった。(2004/8/20)

奥飛騨の初夏
 3日より穂高への入り口の平湯温泉に行った。東海・北陸道は快適で、じょじょに山並みに入り緑したたる初夏の道は明るく澄み渡っていた。いたるところに温泉が湧きいで、ゆったりと流れる時間は都会の喧噪とは違う別の人生があるような気がした。平湯は学生時代と在職中によく北アルプス登山に使った懐かしいところで、当時のたたずまいが残っていた。はるかにそびえる北アルプスの連峰は山への憧憬を想いおこさせた。
 さて本日は東京唯物論研究会の合宿研究会でその末席につらなった。第1日目の報告は、吉田千秋「バーチャル・リアリテイー」と東京・若手の「ヴェジタリアニズム」に2本で、何れも刺激的な内容であった。吉田氏はバーチャルリアリテイの競争原理と協同原理のシステム論的な問題を強調したが、私はシステム問題とは異なる次元の情報技術の独自の問題があると指摘した。ヴェジタリアニズムは私が全く考えたことがなかった衝撃的な内容で、その思想の独自性が深く整理されていた。逆にシステム論が欠落していたために問題が狭く把握されていたように思う。
 夕食後は哲学研究者の集いにマッチした談論風発の論議が熱く展開され、私は朝4時まで議論にふけった。こんな体験は何十年ぶりだろうか。個性的な方々が多く、鋭い論議が飛び交う刺激に充ちた時間が過ぎた。翌朝は頭がガンガンし、2日目の報告は上の空であったが、加藤恒男「哲学カウンセリング」と渡辺憲正「ネオ・ナショナリズム」の2本でこれもなかなか面白かった。竹内章郎氏は相変わらず鋭く全否定的な挑発的な批判を展開した。最近の唯研は(特に名古屋)、突っ込んだ議論を避ける傾向があり、なかなか面白かった。島崎隆氏や吉田傑俊氏などとはじめて語り合えて有意義であった。島崎氏は、私の大学時代の友人とも懇意で、久しぶりに懐かしく時の流れを忘れた。
 昼食は飛騨の蕎麦を楽しんだが、さして美味いとも感じられなかった。一路鷲が岳のボスケ山荘をめざした。空気は澄み切って涼しく高原生活を満喫する。小川のせせらぎと鳥のさえずり、虫の音が自然のゆったりと流れる時間と調和し、しばらくは読書三昧と温泉生活にひたれそうだ。イラクの戦火と参院選の転換点の渦中で、こうした生活に一抹の痛みを感じつつ、浮世離れの数日間になりそうだ。名古屋の猛暑と較べて別天地だが、人との対話がなく寂しくなることもある。(2004/7/7 16:50)

◆2年ぶりのふるさと帰還
 5月21日(金)朝7時30分に東名阪高速道にて出発。山田IC付近の事故で渋滞に巻き込まれて遅々たる歩み。奈良・大阪を経て近畿自動車道から中国自動車道へ入り、この辺から快適なスピードを満喫する。1週間前に購入したHONDA・CRVは上から見下ろすような感じで疲れがこない。昼過ぎに瀬戸SAに到着。ここは私が生まれた村のすぐ上にあり、見渡すとこんなに美しい村であったのかとしばし見入る。
 岡山ICを経て少し早めに岡山市内に入った。2年ぶりに見る岡山は新築ビルが林立し、交通信号も名古屋と少し違うのでとまどう。学生時代によく通った古本屋はもはや姿を消していた。岡山医大前の古本屋で、『瀬戸町史』『ブレヒト 私の愛した人』を合計1万1千円で購入した(実は2千円値切った)。わが故郷・瀬戸町は合併で今年限りで姿を消す。夕方真備莊に到着し一風呂浴びる。従兄弟のN氏が着いて夕食をとった。N氏はふるさとの山の下草狩りをしてきたという。
 5月22日(土)叔父の3回忌を私の母のふるさとである西大寺の真言宗の寺で催す。親戚20名ほどが集合。遠くに母の実家・松崎新田の跡地が竹藪に囲まれてはるかに見える。私が母の実家をこの目にするのに実に60年が過ぎたのである。法事が終了して近くの寿司屋で会食。みなさん定年か定年を控えて円熟の雰囲気が漂う。その後叔父の未亡人の入院先を訪れて見舞う。私の記憶はあるようだ。散会し岡山駅へ帰郷する人を見送りホテルへ帰る。
 5月23日(日)朝食後N氏の息子の帰岡を迎え、それぞれふる里の掃除に向かう。私は2年ぶりに生まれ故郷の廃家の前に立った。屋根は崩壊し始め、そそり立つ木が屋根に迫っている。実は私は恐かったのだ。2年間も欠礼していた私を故郷はどのように迎えるかを。新家の世話になっているM子氏の居宅を訪れて挨拶。庭の草はすでにシルバー人材センターの人によって除草されていた。おそるおそる門を開けて、玄関からはいると中はいつもの通り静まりかえり、生活といのちの気配はなく、時間はとっくに記憶の感慨を奪っていた。庭全体に除草剤をまいた。それから畑の耕作を依頼しているN氏のとこへ行って契約を確認。高速道路の工事によって村の道路も一新されかっての田舎道の草に覆われた記憶をよみがえらせることはなかった。確実に月日は、私と故郷のあいだを遠ざけていた。空気だけはいかにも新鮮でさわやかな透明さに澄み切っていた。墓に参ると、祖父母の墓が傾斜し倒れそうなので修理を業者に頼んだ。夕食は従兄弟とその息子の3人で歓談する。アジアと中東のプラント事業で飛び回る従兄弟の息子を見ていると、世の激しい変容を感じとりうらやましく思う。散会後従兄弟と酒をくみ交わして、世の趨勢について激論を闘わせる。鼾がうるさく眠れない、参った!
 5月24日(月)この日も岡山に宿泊の予定であっtが、切り上げて早めに帰途についた。もう一度ふるさとにより農協の預金通帳を記帳し、幼友達のF氏と挨拶を交わして、叔母が入院している和気のケアハウスに向かう。あいにく留守で書き置きをして一路名古屋をめざす。名神にはいると、片道規制の渋滞で関ヶ原ICから下りて東名阪高速道をめざす。田舎の県道を走るのは風景を直接味わう良さがある。こうして3泊4日のわが故郷帰還大旅行はすべて終わった。ふるさとへの帰還はいつも痛みを伴う。その痛みの深さが年を経るたびに薄らいでいくのがほんとうは悲しい。(2004/5/27 20:15)

◆ボスケ山荘の晩秋(2)
 すでに紅葉は終わりあれほど緑豊かだった山はまるで焼け落ちた山火事の後のようにひっそりとしている。残念ながら少し遅すぎたようだ。すでにこの年の終わりを告げて雪が積もる準備をしているかのようだ。さすがに寒く到着するとすぐにストーブと炬燵を入れた。天体望遠鏡を持ってきたので、夜空を見ると降るような星空ではなく、はるか高く星たちは小さくまたたたいている。望遠鏡をみるにもエネルギーがいるようで今宵は炬燵に入って映画を観た。完全特別版と称する『地獄の黙示録』は、反テロ戦争が渦巻くアフガンやイラクに重なって米国の末路を想像させる狂気があった。翌日は素晴らしい快晴、妻の友人たち4名が訪問し、しばらく歓談した後にコージュ高鷲なるふたごえ温泉に行きゆっくりと湯につかった後、一路名古屋をめざした。帰途本山の生協で食材を買い込み、帰宅した。一般のスーパーに較べて割高感は否めない。価格破壊の競争を生き抜く生協の経営の大変さを実感する。淡々と過ぎた連休であった。山では『ヴィーコ自叙伝』を呼んだ。ナポリの勉強好きな学歴のない無名の青年が、教会や財界のパトロンの支援を受けてじょじょに世に出る物語だ。学問と世俗権力の構造を通して、なおかつ真理への道を歩む深い教養の持ち主、欧州アカデミズムの源流と深い教養の世界の一端に触れたような感じだ。(2003/11/24 8:16)

◆ボスケ山荘の晩秋(1)
 3連休を利用して奥飛騨に行く。今年の天候異変は紅葉を遅らせ、山はようやく緑を散らし始めたばかりのようだ。山荘の周りの朽ちた樹と雑草を刈ってすこしはきれいになった。この世を離れた静寂のなかで口にするワインの味はいちだんと美味い。妻の労働に対する姿勢は真剣でいったん始めた草刈りはやむことがない。このへんが私との基本的な違いだ。中腰の労働はすぐ腰に来て痛みが走る。翌日は小雨の中をくるまでドライブを堪能し、富山県に近づくにつれて青空が見えてくる。目的の秘境・大白川温泉は途中の崖崩れで通行止めとなっていた。残念しごく、目的を変更して荘川村の美しいたたづまいをみながら温泉に入って帰名する。(2003/10/12 22:56)

◆ボスケ山荘の残暑(2)
 台風接近で雨模様のなか夕方山荘に着く。20度で半袖では寒い。温泉で休養しすぐ就寝。翌日は秘境に近い大白川温泉への道をたどったが工事中で通行止め。残念。清見村へ行って絵本美術館を観ようとしたがよく分からず、行き先を変えて古川村へ。大太鼓と祭りで有名な村だが、町並みが整然と復元されている。祭り会館で太鼓と祭りのビデオを観る。岐阜の山里にこのような町並みが残っていることに驚嘆する。しかし町並み保存が行き届いた観光街とそうでない地域の落差も感じる。むつかしい問題だ。古川町の歴史と民俗の本格的な調査が課題として与えられた。翌日は台風接近の中早々と退散。一路東海北陸道で帰名する。(2003/9/21 17:10)

◆ボスケ山荘の残暑(1)
 下界では梅雨明け後の夏を思わせる猛暑に襲われているようだ。ここでは夏の日差しを受けて日光浴できると言った風で酷暑は想像できない。午前中は論文作成、午後から打ちっ放しで汗を流して温泉という極楽のような数日が流れる。奥飛騨は未だ知られざる秘境に近い湖畔の露天風呂があり、スイスを想起させるような神秘的な雰囲気が漂うところがある。あと1週間でこの夏も終わりだ。私にとっては或る意味で最後の夏だ。自分史作成のための年譜も整理したが、つくづくと来し方の悔い多き日々を想う。決定権が自覚的な私にある明日の過ごし方について期するものあり。(2003/8/24 19:08)

◆ボスケ山荘の盛夏(1)
 台風接近のニュースを聞きながら原稿完成にいそしむ。やはり方法論がないから他人の論文を読んでその集成から何か生まれてくるのではないかーという悪しき習性が身に付いてしまった。やはり自分でとことん苦しんでしか新しいものは生み出せない。朝から夕刻まで論文作成に没頭し、その後風呂へ。この風呂は不況でほとんどいないので貸し切り状態だが、他にいないと寂しい感じもする。3食とも自炊で安上がりだ。机も椅子も入れ替えて腰痛はなくなった。CDプレーヤーも配置し直してセッテイングはよくなった。音はやはり部屋を閉め切って聴くと、ヴィブラートも素晴らしい。台風襲来に備えて帰名す。高速はスイスイ快適だが歳のせいか疲れが早い。池下のコピー屋で200頁の印刷用原稿に直す。(2003/8/8 18:52)

◆ボスケ山荘の初夏(2)
 長梅雨が開けてやっと本格的な夏が来そうだ。山荘はまた忘れていた自然を思い出させてくれた。不況かで人間の姿は見えない。温泉も貸し切り状態でゆったりと湯に浸かって山並みを眺めると、都会の喧噪とは違うリズムがあることを思い出させてくれる。8月に
完成するはずの原稿に没頭して1日10時間はアッという間にワープロで過ぎてしまった。CDを持っていって聞きながらであったが、清流のせせらぎをそのまま聞いた方がいいのかな-とも思った。スピーカーの音が思った程良くない。やはり自然の音には及ばないということがよく分かった。長い雨が終わって太陽が顔を出すと、鳥や虫が一斉に奏で始める。自然はまさに生きている-ということを実感する。明日は帰名して原稿の印刷にかかろう。椅子が腰に合わず腰痛を我慢してなんとか完成した原稿だが、しかしやはりこれは偽物だ。論者の主張の寄せ集めにすぎない。方法論の衰弱をつくづくと身に滲みて考える。方法論が大事だ。(2003/7/1 22:27)

ボスケ山荘の初夏(1)
 6月中旬の台風が温帯低気圧となって北に抜けた後、土曜日は快晴となった。前夜から山荘へきて、緑したたる山並みと鳥のさえずりと川のせせらぎは都会の喧噪をしばし忘れるひとときであった。朝から車をとばして、美幌ダムと大きな湖をみながら、世界遺産白川郷へ行った。茅葺きの民家が密集する山あいの村は観光客であふれ、土産物屋が軒を連ねている。重要伝統的建造物保存法による建物保存と暮らしを両立させるアンビバレンツな苦闘がうかがえる。馬籠・妻籠と同じように住民の保存と生活の両立の運動が背後に伺われる。現代風の家屋もある種の規制がかかって、茅葺きの民家にマッチする外観となっている。囲炉裏から立ち上る熱と煙が屋内を煙し、養蚕業の後が忍ばれる。写真によくある雪に埋もれた白川郷の沈潜した風景とは異なる初夏の明るい日差しのもとでの集落が広がる。前近代のノスタルジーを求めて来るとすれば、それはいかにも傲慢な都会人の発想だ。
 帰りは、白山スーパー林道を上ってみたが、石碑の数々は林道賛歌にあふれている。この林道拡張計画に反対した環境保全運動の声は跡形もない。必須の交通手段であれば致し方ないが、観光のためにこんな道を開削するのはいかにも大規模開発型公共事業の無惨な残りかすだ。
 晴天の山道を満喫しながら、ひるがの高原の分水嶺をみて一路山荘への帰路をたどった。3カ所ほどハシゴした温泉で、都会の赤を洗い流して久方ぶりに自然の中での生活を試みただけにすぎない。この大不況下の日本との関係は、あきらかにこの山村にも波及し、大規模ホテルの廃屋と化した無惨なビルが雑草に覆われて建っている。おそらく日本の田舎のどこに行っても、こうした開発と不況の破産の風景に出会うのではないか。(2003/6/22 18:23)

ボスケ山荘の晩秋-その3
 ひるがのが近づくにつれて紅葉が山並みをなだらかに覆っています。木々の間を走る渓流の周りは特に自然の淡々とした営みの深さを思わせます。たどり着いた山荘は、いつものようにひっそりと佇んで宿主を迎えてくれました。この山荘は、先代の持ち主の生活の知恵が隅々にまで行きわたり、こじんまりとした宿坊ながら周囲の清逸さと相まってこころ深々と落ち着くものがあります。
 部屋を整理して夕刻が近づいたら、小雪が降り始めました。11月の初めに雪を見たのは生まれて初めてであり、妻とともにジッと見入りました。次第に真っ白な雪が粉のように降り始め、みるみるうちに大地をおおっていくさまはこの世のものとは思われません。車が走れなくなると困るので、早めに鷲が岳温泉に行ってゆっくりとサウナに入り、体を洗いました。冬のスキーシーズン以外ではこのホテルは人影もまばらでゆっくりと入浴を味わうことができるお気に入りの場となっています。夕食は家から持参したおでんの残り物ですが、山の上だと味までが違うようにおいしいのです。
 夜になると降りしきる雪の中で、万物がシーンとした静寂の裡に沈潜し、名古屋から連れてきた愛犬コロもとまどってしまったのか、いつになくおとなしく座っています。こうした世俗を離れたところにいると、かえって日頃の自分のけがれとゆがみが逆に浮かび上がり、何か大切なものを恢復しているような気持ちになります。この2日間は産業空洞化についての資料を整理し、地域産業再生の方途を勉強したいのですが、渓流の水音と雪の静寂のなかで思ったより仕事ははかどりました。
 翌朝は積もった雪が60cm近くあり、ときどき屋根からドーンと音を立てて積もった雪が落下します。そのうち除雪車がやってきて道をつくっていますがアッというまに埋まってしまいます。
 隣のKさんに聞くと20数年で初めての11月の豪雪だということでした。山荘の橋を除雪し車の周りの雪をどける作業をしてから、帰名できるかどうか不安になったので車のトランクを開けてみると、案に相違してチェーンがありません。管理事務所に電話すると、持ってきてくれましたが10、900円もかかってしまいました。四苦八苦してチェーンを取り付け必死の思いで坂を下っていくと途中で切れてしまい、またそこで息も絶え絶えに修理して何とか高速入り口に着きました。白鳥からは不通で岐阜大和インターまで行き、途中で大和温泉に入浴し後は一路名古屋へ。それにしても岐阜の温泉開発はすごいものがあり、あちこちに道の駅と温泉を併設しいずこも満員です。日本人はこんなに温泉好きなのでしょうか。不況で疲れ切った体を癒しているのでしょうか。
 と云った次第で私ははじめて雪国の生活の苦しみを実体験し、よほどの準備がなければ来るものではないと骨身にしみて感じました。しかし私はまた冬になると行くでしょう。あの降りしきる雪はすべての汚れを洗い流してくれる自然の天啓のようにみえたからです。三好達治の詩が浮かんできます。(2002/11/4 19:15)
 太郎を眠らせ 太郎のうえに雪降りつむ
 次郎を眠らせ 次郎のうえに雪降りつむ

ボスケ山荘の初秋ーその2
 ひるがの高原はさすが初秋を感じさせる。一面の黄金の実りで稲刈りのまっただ中であった。高鷲村の道路整備が素晴らしいので、村の人に聞いてみたら、雪国は道が生命線であり最優先であるとのことー納得した。朝起きてスキー場のなかを愛犬コロを連れて散歩がてら鷲が岳頂上に登った。1600m有余から頂からひるがの高原が一望できた。まだ紅葉は早いがそれとなく近づく秋を感じさせる秋分の日であった。山荘で、地域産業論と出版電子化論の最終原稿をほぼ完成させることができた。どうもTVがあると世俗との断絶がむつかしく中途半端な生活になる。思い切って仙人になりたいものだ。
 栗の実が道端のあちこちに落ちていて、それを拾いながら連休を満喫した。拉致と民主党党首選挙が少し気になる。(2002/9/23 14:56)

ボスケ山荘の避暑ーその1
 岐阜県鷲が嶽標高1200mの山荘に高原生活を満喫。気温20度で夜は寒い。ソロー『森の生活』を読みながら、超俗的なエコロジー生活の一端を味わった観がある。ソローは、知的教養を最高の純度で発酵させたエコロジストの先駆的存在であるのだろうか。ある湖の畔で自力で小屋を造り自然との一体的な生活を展開し、尚かつ現代的なテーマとも切り結ぶ彼の生活は、現代の工業化社会に飲み込まれた人間にとって、自然の豊堯なイメージにあふれたそれ自身魅惑的なライフ・スタイルではあろう。小川のせせらぎの流れ落ちるチョロチョロとした水の音の純粋性、その音に耳を傾けながら思索にふける私!というのであれば素晴らしいが、倉本薫「北の国から」の最終回を涙を流して見入った。
 虫の音と共に眠りにつき、鳥の声と共に目覚めた。スキー場に接している草原は、愛犬コロの格好の散歩ルートとなり正時間の快い散歩時間となり、一周して我が家に戻った。ボスケとはスペイン語で「森」という意味だそうだが、前所有者の素晴らしい管理によって快適な生活空間を保障してくれる。暑い名古屋への帰途について、私はまた本来の生存の地へと帰っていくのだ。非日常的な空間と時間の束の間の超越性がなんと人間にはリフレッシュの契機となるのであろうか。(2002/9/8 19:03)

イタリア紀行(1990年) 妻・長男とともに石黒氏(伊オペラ留学中 二期会)
                      の案内で妻の友人13名とのツアー 
   12月23日(土)
     16人で小牧空港発 快晴 19時15分香港空港着 夜景が美しい24時間空港
     風邪気味37.8度あり 漢方薬約20$で購入 両替3000円を150香港ドル
     ジュース飲む 23:05発予定が23:15分で香港発フランクフルトへ
     風邪少し善くなる 中国薬効き目よし
       途中夜景の美しい都会あり(黒海沿岸トルコ近くで記す) 12:30ジュース配布
     空腹感13:00朝食出る 14:00フランクフルト空港着

   12月24日(日)
     ドイツ時間7:30フランクフルト空港着 小雨 温かく雪なし 9:00ルフトハンザで
     ミラノに向かう 機中紙Weltan Suntty読む 東欧情勢満載緊迫
     快晴高度低くアルプス山脈美しい雪 平原がきれいだ いよいよイタリア入り
     9:50ミラノ着 暖かそうで風はない 石黒氏出迎え HotelSperonari投宿
     聖サンタ・マリア聖教会最後の晩餐修復中 2:00急行列車コモ湖見学
     50歳ぐらいの男牧師の前で告解する姿あり 宗教の日常性を実感

   12月25日(月)
     朝外に出て朝食を探したがない カプチーノとケーキ一つ食べジュース一杯飲む
     スツオルツエスコ城にいく 中世風の城中庭広し 城内美術館閉館 ホテルへ帰る
     石黒氏と待ち合わせし11:30ドウーモ昼のミサ 聖歌隊が入り荘厳であった
     その後ウインドウショッピング 東方飯店で昼食 スカラ座前でタクシー待つが来
     ない  歩いてサント・アンブロージュ教会へ 初期キリスト教美術(キリスト教公認
     させたローマ時代の人) ドウーモへ帰る 7:00に待ち合わせて夕食セルフサー
     ビスのバイキング美味なり

   12月26日(火)
     7:00モーニングコール 8:00タクシーで8:30ミラノ駅着9:00ヴェニスへ出発
     ミラノ駅壮大である 列車も欧風ボックス席15両編成の長い列車 ロンバルデイア
     平原の広大な畑作地帯 ほとんど工場は見られない 12:05ヴェニス着 ホテル
     エスペリア投宿 見事な石造りの海上都市 地中海貿易を独占した富の征服者で
     あるヴェニス共和国の財力がうかがえる なおも市民的自治のストコスフィアへ
     昼食 レストランで海鮮料理 その後サンマルコ大聖堂 キリスト教と商業が一致
     した壮大な寺院と中庭 大運河をめぐる ゴンドラのカンツオーネよく響き渡る
     帰りははぐれて迷ってしまう 必死でなんとかホテルへ帰る 買い物時間無くなって
     しまった 夕食は同じレストランで 疲れて早めに就寝

   12月27日(水)
     6:20起床 7:00朝食 8:20ホテルの隣の店でウニタ買う チャウシェスク処刑
     の報道に驚く「哀れな独裁者の末路」とした一面記事
     サンタマリア駅でフレンツエ行きの列車に乗る フレンツエ着 ドウーモ・ウニフィー
     ショ美術館 ルネサンス赤レンガの街 ダビンチ・ボッカチオ・ミケランジェロの教科
     書どおりの名画 圧倒的な迫力と実感なし 納得せず時間に追われる レストラン
     にて夕食 イタリア料理のフルコース16000リラ

   12月28日(木)
     6:00目覚めシャワー浴びる気持ちよい 照建早く起きろ 8:00朝食 午前中自由
     行動 サンマルコピオテイ教会 屋台すごい メデイチ礼拝堂・サンマルコ教会・ピ
     ッテイ宮殿 帰りに屋台で買い物 カバン・オーバコート購入 12:00ホテル着
     13:05フィレンツエ出発 16:35ローマ着

   12月29日(金)
     5:30起床入浴 7:00朝食 8:00観光バスにて市内観光 クリナール宮殿・トレ
     ヴィの泉・パンテオン・ヴァチカン宮殿 最高権力と芸術の結合! 
     昼食レストラン 午後観光バス フォロロマノ・コロセウム・サンピエトロヴィコリ教会
     ナヴァーナ広場をめぐり夕食レストラン 8:30ローマ国立劇場バレエ「シンデレラ」
     ローマ帝国の帝国性をいかんなく感じる カソリック権力と地上権力と芸術の融合
     バレエ・オペラ芸術の芸術性 何れも時間なく余裕なし駆け足で見た感じ

   12月30日(土)
     6:30起床 7:00朝食 7:30観光バスにてナポリ・ポンペイ・ソレントを回って夜
     ホテルオーガスト投宿 南地中海の素晴らしく暖かい水音はじける風景 崖の上を
     走るバス ポンペイ遺跡 古代ポンペイ 海洋国家の人間くさい味の残った生活の
     においを感じる

   12月31日(日)
     8:00よりヴァチカンへ カラカラ浴場跡をタクシーで回り システイナ礼拝堂 最後の
     審判・ラファエロの間「アテネの聖堂」をみる カソリック権力と芸術のシンフォニー
     そのままタクシーでスペイン広場へ 庶民的な街並みと高級ブテイック専門店並ぶ

    1月1日(月)
     バスでレオナルドダヴィンチ空港へ キャセイパシフィックで一路名古屋へ 名古屋は
     雪の由 我が生涯はじめての海外旅行はかくして終わった 何が残ったか 西欧文
     明の源流の圧倒的な重厚さ 西欧生活の重圧感 無秩序の中の個性など・・・・