21世紀へのメッセージ 2001/3/5〜

第14エッセイ集(2012年 3月29日〜2013年 4月 8日)
第13エッセイ集(2011年 8月18日〜11月21日 (東日本大震災・福島原発関連情報T)
第12エッセイ集(2010年 9月 7日〜2011年 8月17日) 
第11エッセイ集(2009年 1月10日〜2010年 8月 7日)
第10エッセイ集(2007年 1月 1日〜2009年 1月10日)
第 9エッセイ集(2005年 8月17日〜2006年12月31日)
第 8エッセイ集(2005年 8月17日〜2005年12月24日)
第 7エッセイ集(2005年 1月 1日〜2005年 8月16日)
第 6エッセイ集(2004年 5月 5日〜2004年12月22日)
第 5エッセイ集(2003年 9月13日〜2004年 5月 4日)
第 4エッセイ集(2002年12月30日〜2003年 9月12日)
第 3エッセイ集(2002年 4月28日〜2002年12月29日)
第 2エッセイ集(2001年 8月14日〜2002年 4月27日)
第 1エッセイ集(2001年 3月 5日〜2001年 8月12日)

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第15エッセイ集(2013年4月9日〜2016年6月5日更新)

ハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』(みすず書房、2014年
 「ドイツ国民による反ナチ抵抗行動を描いた最高傑作」とプリーモ・レーヴイが評しているのをみて、読んでみようと思いました。作者は、ドイツ最高裁判事の息子に生まれながら、精神状態が不安定となり、親友との心中未遂や薬物依存におちいって、カネほしさに横領を2度働いて、刑務所生活を送るなどして、職を転々とし、26才で作家デビューして、ナチス台頭期のドイツ市民の不安を描いてベストセラー作家となり、ナチス独裁下では「好ましからぬ作家」とされながら、亡命せず、敗戦後はソ連占領地区で生活し、ヨハネス・ベッヒャーの依頼を受けて、実際にあったハンペル夫妻事件(ナチオス批判のハガキを頒布してギロチン処刑)を題材に作品化したのが本書であり、わずか4週間で書きあげ、作品完成後に死去しています。
 この作品は、ヒトラー暗殺事件のシュタウフェンベルグ伯爵(映画『ワルキューレ』)のようなエリート階級ではなく、白バラ抵抗運動のショル兄妹(映画『白バラの祈り』)のようなのような知識階級の抵抗でもなく、一介の職人の抵抗を描いているところに、最大の特徴があります。ナチス期に生きた普通の市民のナチスに引きこまれていく心情と、互いに密告し合うような荒涼たる生活と意識が、最強度のリアリズムで描かれています。ナチスの尖兵となった親衛隊や突撃隊が、生活意識のすみずみに浸透し、疑心暗鬼と事なかれ主義の体制順応が蔓延していく日常がリアルに伝わってきます。政治には全く無関心であった職工の夫妻は、最愛の息子兄弟がフランス侵攻で戦死したことを契機に、「親は子どもを殺し殺されるために産んだのではない」とし、ナチスを批判するハガキを書いて、建物に隠れて置くという、ごく単純な抵抗を試みますが、驚いたことにハガキを見た多くの市民はただちにゲシュタポに届け出て、非戦や反戦の運動にはひろがらなかったということです。逆に市民の中から、ハガキを監視する動きが起こり、検挙されるに到ります。日常でのユダヤ人にたいするドイツ市民の対応、ユダヤ人の少女を陵辱してから撃ち殺す親衛隊、ハガキの頒布や検挙後の取り調べ、刑務所生活から最後の処刑の瞬間に到るストーリーが、余りに生々しく迫真的に描いているために、読むことを途中で止めることができません。
 どのような権威主義的な恐怖の独裁下においても、人間の尊厳を貫こうとする人たちが存在し、そうした存在によってドイツの歴史はわずかに救われていますが、それはナチスを食いとめられなかったドイツの抵抗運動の哀しい反省ともなっています。この作品は、ソ連占領下の東ドイツ地区で書かれたため、少なくない改作や削除がおこなわれたそうですが、敗戦直後の反ファッシズムの意識が東ドイツ地区で強く残っていたことを示しています。なぜ、こうした意識が、戦後東ドイツのシュタージの密告政治に暗転していったのか、暗然たるものがあります。市民は従っておればいいのだ、考えることは総統がやってくれる、総統よ命令を!我らは従う!(ゲッペルス)という自発的隷従の精神構造が、なんの違和感なく蔓延していく光景は、いまの日本もそれに徐々に近づいているようであり、取り返しがつかない時が来る前に、「一人でも行動する時だ」と呼びかけているようです。

 補足)ナチスのギロチン刑(ベルリン刑務所)の執行方法の状況
 死刑執行は、ドイツ全土で広くおこなわれるため、死刑執行人は各地をめぐり、ベルリンは月曜と木曜の深夜におこなわれる。深夜に看守が独房を訪れ、牧師が祈りを捧げる(この段階で泣き叫ぶ者も折れば、従容として従う者もいる)。次いで医師が脈搏をとり、看守がバターを塗ったパンとタバコ2本をもってくる。助手が頭を丸刈りにしてヒゲひげをそる(髪の毛はカツラ屋に売られて看守の副収入となる)。その後、処刑場に移動し、検事が死刑執行命令書を読みあげ、上着を脱がされ、シャツの襟を切り取られ、台の上に腹ばいになって両足をベルトで固定され、湾曲した鋼鉄の棒が背中に降りてきて、両肩が台に押しつけられ、おが屑の入った篭をのぞき込む格好となり、死刑執行人が首筋を剥きだしにし、「今だ!!」という合図とともに、数秒後に落ちてきた幅の広い刃のブーンという音がゴーッという音となって落下し、うなり声がどんどん大きくなって、耳に轟き、刃が首筋に命中し、頸が切断されておが屑に落ち、頸の切り口から勢いよく血しぶきが噴き出して、切断された体が反り返り、革紐と鋼鉄の棒に拘束された身体がのたうちまわる。執行人の助手たちが、身体ごと覆いかぶさって抑えつけ、両手の血管がみるみる膨れあがり、それからしぼんでいき、聞こえるのは吹き上がり、ほとばしり出て、流れ落ちる血の音だけとなる。刃が落ちてから3分後に、医師が死亡を確認し、屍体が片づけられる。(以上は本書の叙述より)

アナトーリー・ルイバコフ『アルバート街の子供たち』(みすず書房、1990年)
 古本屋で上下1000円という値段にひかれて買い求め、積んでいたのですが、風邪を引いて寝込んでしまい、ベッドでうつらうつらしながら一気に読みました。今は崩壊した旧ソ連のペレストロイカ路線の本格的な開始を示す小説だそうです。しかし、第1部はフルシチョフによるスターリン批判秘密報告(1956年)のあとにに掲載予告されて実現せず、作者は第2部を書き進めて1978年に掲載予告が出ますが、それもストップとなるという数奇な運命をたどっています。物語は、モスクワ・アルバート街の青年が大学での壁新聞を理由に反党活動とされてシベリア流刑となり、最後は赤軍将校としてスターリングラード戦を戦う物語と、1930年代の農業集団化と工業化政策を進めるスターリンによるキーロフ暗殺にいたる2つの物語が重奏します。リアリズムとロマンテイシズムをむすぶほんらいの社会主義リアリズムの作品のような気がします。
 シベリア流刑生活のリアルな姿が浮かびあがり、どのような苦境にあっても人間の尊厳と矜恃を捨てない主人公を通して、希望が浮かびあがります。もう一つは、スターリンの党内生活のリアルな描写を通じて、そのマキャベリズムが社会主義の理想を裏切っていく惨憺たる姿を浮かびあがらせます。感想の第1点は、別刷りで著者宛の手紙が収録されているのですが、多くは賛辞とあふれているなかで、そのなかに「この本は有害な歴史についての主観が入り混じった偽りのものであり、KGBに手紙を送る」というレニングラード市の個人名入りの者があり、根強いスターリン崇拝が生き残っていることに強い印象を持ちました。第2はルイバコフ自身はスターリン批判者であり、同時に社会主義擁護というスタンスに見えますが、その後のソ連崩壊に進む道は見えていたのでしょうか。第3は、これほどの正義感と理想にあふれる作品がベストセラーとなる国で、なぜKGB元議長が大統領となるような文化風土にあるのでしょうか。専制的権威への憧れというのは、前近代的なアジア的生産様式の心性に他なりません。ソルジェニツインなど著名なスターリン批判者が、大ロシア民族主義に回帰していったロシア文化の底知れない闇を感じます。(2016/2/13)

新しい年の夜明けに
 早朝6時半すぎに、愛犬・コロを連れて近くの公園にいくと、すでに10人ほどの愛犬家が集まって新年の挨拶を交わしていた。雲ひとつなく澄んだ朝焼けの日の出をジッと待つ姿には、どこか敬虔な雰囲気が漂っている。こうして新しい年がすでに始まり、心新たにして出発する年頭のことばを書きつけていく。

   踊れ 誰も見ていないかのように
   愛せ 一度も傷ついたことのないかのように
   歌え 誰も聞いていないかのように
   働け 貨幣のためではないかのように
   生きろ 今日が最後の日であるかのように −リュ・シファ


  とくに、最後の行がいつにもまして胸に迫ってくる元旦の朝ですが、今晩寝てしまえばどこかへ忘れていくような凡夫ではあります。健やかな心は健やかな身体に宿るしかないのであれば、しばし身体の平衡をたもつ用意をしなければなりませんが、この明るい陽光が我が身一つに降りそそいでいるのではなく、生きとし生けるもののすべてのいのちの上に、アメイジング・グレイスとなってふりそそいでいます。ほんとうにそうでしょうか。
 じつは最後の行は、ステーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式のスピーチで使い、「毎日を人生最後の日であるかのように生きるならば、いつか必ず本当にそうなるだろう」と述べ、それ以降毎朝、鏡の前で「今日が人生最後の日になるとしたら、今日の予定は私がやりたいことなのだろうか?」と自問することを習慣にしていた。
 神の火を操作してノーマンズランドとなったフクシマに、はたして陽光は降りそそいでいるか。戦さのための基地を無理強いされている南方の人に、はたして陽光は降りそそいでいるか。ひき裂かれた国家憲章に陽光は降りそそいでいるか。これらすべてが最後の日となるように、新しい365日を生きていくときに、はじめて人はほんとうに生きたこととなる。2016年があらゆる意味で、日本現代史の分岐を画する年になるのならば、後世からかえりみて恥なき決済となる毎日がはじまったといえます。(2016/1/1)

代議制民主制の崩壊のあとに・・・
 戦争法案の提案者は、ちからによる威圧にこれほどの魅力をおぼえているのだろうか? 為政者と市民の意識の乖離がこれほどにひろがり、代表民主制が市民の主権感覚をとらえることに失敗した事例は過去にはない。代表民主制を通じて実質的な独裁がすすんでおり、民主主義はみずからの鬼子として独裁を生みだすというシステムのパラドクスがこれほど露わになった例はなく、市民の間に深い怒りとルサンチマンがひろがっています。フランツ・カフカは、自分が預かりしならない掟に支配される市民の姿を描いて、近代法の虚構をあらわにしましたが(『審判』『城』)、実はそうした掟(憲法)そのものも存在しないことが示され(解釈改憲)、日本の代表民主制はそうした不安に満ちた市民の間接投票からなりたっていることが明らかとなりました。市民の誰もが重要な決定から排除されている虚構の構造は、すでに福島原発で痛感したのですが、もはやだれも傍観者でいることが許されない際どい時代となりました。
 首相の名前も知らないような市民もまた、当事者の1人であり、我が事として事態を見なければ、みずからが滅びる瀬戸際の時代にあって、あるべき参加と決定の民主制のモデルは、市民みずからの主体的な学習の水準によって決まることを身にしみて感じさせられました。戦後70周年にわたって、営々と築きあげられてきた代表民主制の形式を危機の時代にふさわしい民主制にどう作りかえていくのかが問われています。しかし、国会周辺に集う無辜の市民は、もはやかっての無知のヴェールに包まれた臣民ではなく、また1960年代に叫ばれた”ワレワレ全学連は闘うぞ!”と定型化された集合的心性ではなく、”私は””僕は”という個人代名詞で発言しており、自らの個人意志で集合し語りかけています。もちろん、学生団体や労働組合での集合が衰えているのは問題ではありますが、日本の歴史上、はじめて、個としての市民がみずからの責任でネットワーク的に集合する姿は日本の市民社会の成熟を実感させます。
 市民相互の利害の対立を調整するモデルとしての代表民主制の限界が露わとなり、市民が決定に直接参与する全員参加制や抽選制などメンバーチェインジの直接民主制なしに最適決定できないことが明らかとなっています。心配なことは、今回の強行決定による多数の独裁が、政治そのものを忌避するニヒルな心性を生みだし、選挙を忌避したり、あるいは積極的に拒否して代表民主制を破壊するふるまいを誘発させることです。選挙拒否などは、代表民主制の民主主義的な条件を空洞化させる(小選挙区制)為政者の動向のなかで、それに加担する第5列の役割を果たします。代表民主制と直接民主制は、背反する関係にあるのではなく、民主主義をより豊かにする相互補完の関係にあります。
 では、普通の市民は今どう行動すべきでしょうか? もう卓越した能力を持つ指導者に寄りかかるのではなく、自分自身が生活している身近な場にあらわれている代表民主制の問題を洗い直し、直接民主制を浸透させていくことにあるようにおもいます。自分が所属している企業や学校、サークルや団体で、全員参加制やローテーション制などのメンバーチェインジの仕組みを具体的に導入していくことにあります。ワークショップやアウトリーチなど専門家と普通の市民が、直接に結びつく試みが浸透しています。そうして、国政や自治体では、民主主義という一点で大異を保留して手を結ぶオール沖縄のような一点共闘をめざすべきではないでしょうか。(2015/9/20)

ふるさとのわが母ほどの老が組む スクラムならばわれはたじろぐ(筑波杏明)
 筑波さんは、60年安保闘争で樺美智子が亡くなったとき、警視庁の警部補としてデモを弾圧する側におり、この心情的にデモ側に立った歌が咎められ、警察官を諭旨免職となりました。先日観た沖縄のヘリパッド反対を描いたドキュメンタリー映画『標的の村』で、同じ沖縄県民が反対派と警察に別れて争うさまを、哀しく抗議するシーンがありましたが、日本の歴史ではこのような情景がいつも繰りかえされてきました。争いの原因をつくりだした支配の側は、上から冷ややかに笑いながら見下ろしているのです。いつの世も、生活を選ぶか、思想を選ぶか、煩悶の選択を迫られるのが、民衆の姿です。
 いま世界の紛争地に、電子操縦された無人機を飛ばして、無差別殺人をくわえている米空軍兵士に、PTSDが蔓延しています。無人機の操縦士は、米本土の基地から遠隔操縦して、標的を攻撃しますが、彼らは毎日、朝起きて自宅から基地に出勤し、操縦室で無人機を操り、ゲームのように人を殺し、任務が終わるとまた街に帰り、買い物やスポーツをする日常生活に戻ります。勤務時間中は、バーチャルなデイスプレー上の飛行機から弾丸を発射し、想像力がある者ほど、民間人を射殺する恐怖感を味わい、それが終わると戦争などどこ吹く風の平和な日常に戻り、この落差に耐えられなくなっていきます。人を殺した後に、家族と普通に団欒するような生活に,異和を感じない人はいないでしょう。
 無人機の操縦士は、現在約1200人ほどいますが、毎年約240人(!)がストレス過労で退職し、補充されるのは180人ほどで人手不足となり、昼夜交替制や休暇を取り消され、ますます過重労働になっています。米国防長官は、無人機の監視飛行を1日65回から60回に減らす方向で、国防総省は逆に70回以上に増やせと要求していますが、攻撃回数を減らしたり、操縦士の人員を増やしたからといって、退職者が減ることないでしょう。
 アメリカは西部開拓以来、自分の命は自分で守るという思想が埋めこまれており、現在でも市民は自衛用の拳銃の所有を許され、西部劇の1:1の決闘は、相手に先に銃を抜かせて撃った場合にのみ、正当防衛が成立するというルールの下で、或る意味では正々堂々と行われます。だから、背後から撃ったり、闇討ちするのは、もっとも恥ずべき汚らわしい行為として軽蔑され、重刑に処せられます。無人機による殺戮は、アメリカの武闘文化の「正義」に真っ向から反する行為であり、ここに無人機の操縦士が煩悶する根源的な原因があるように思われます。同じく、日本列島の上空には、我が物顔で米軍機が飛び回り、事故で日本人を殺しても、日本側の捜査権はなく、米兵は裁かれることなく、被害者は泣き寝入りの状態となっています。無人機の乱射を浴びている紛争地域の無辜の市民と、日本列島に生きる市民は、本質的に同じなのです。(2016/6/29)

ここまで劣化した日本の統治集団の質的頽廃はなにを意味するのか?
 政権党の若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」(25日、37人出席)は、百田尚樹とかいう作家を講師に、官房副長官も出席して、メデイア統制について議論し、「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番、不買運動じゃあないが、日本を過つ企業に企業にたいし、広告料を払うなんてとんでもない、経団連に働きかけて欲しい」(大西)、「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい、スポンサーにならないことが一番マスコミにはこたえる」(井上)など政府批判の報道への統制を強めようという方向をうちだしました。「沖縄タイムスと琉球新報まど、沖縄の特殊なメデイア構造をつくったのは戦後保守の堕落だ。左翼勢力に完全に乗っ取られている。沖縄の世論の歪みを正しい方向へもっていく」(長尾)といいう出席議員の発言に、百田なる人物は「沖縄の2つの新聞社は絶対につぶさなあかん。沖縄県人がどう目を覚ますか、あってはいけないことだが、どこかの島でも中国に取られてしまえば、目を覚ます。基地の地主たちは大金持ちなんですよ。左翼は米軍基地があるから、米兵が沖縄の女の子を強姦すると批判するが、沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪のほうが,はるかに比率が高い。政治家は言葉が大事であり、『負』の部分はネグったらよい」という低劣きわまる下品なファッショ的な発言をしています。注目すべきは「沖縄人」と異民族のように蔑視して呼び、「沖縄県人」とみなしていないことです。この百田とか云う人物は、たしかNHK経営委員として、権力から独立する放送法を遵守する立場にあったのではないでしょうか。なぜこのような異常な人格が育っているのか、それ自体戦後日本史の人格形成として考察する必要があります。彼は、かって、ナチスのゲッペルスが主導した頽廃芸術展による作品焼却や焚書という芸術と思想への統制を思いおこすような全体主義的な言説を、平気で垂れ流すようになっています。さらに驚いたことに、アベとか云う首相は、「自由闊達な議論であり、言論の自由は民主主義の根幹をなすものだ」として、言論統制を推進する反民主主義の言説を,言論の自由の名ににおいて肯定していることです。百田とか云う人物は、翌日の記者会見で、「ほんとうにつぶしたいのは、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞だ」と云ったそうですが、こうした人物に作家の資格はありません。意見の違いによる批判を封殺する反民主主義の潮流は、最初はからめ手から経済的に締め上げ、ついには検閲や暴力による統制にいたり、真昼の暗黒となったことは、戦前期の治安維持法が示しているとおりです。
 同じく政権党の文部科学部は、18才選挙権導入にあたって、高校教員の「政治的中立」の逸脱にたいする厳罰を科す教育公務員特例法改訂への準備を始めました(25日)。「逸脱」とはこの場合、政府の政策にたいする批判的検討を意味するのでしょうが、実質的には公正な政治教育をそのものを抑圧する機能をはたすことをめざしているように思われます。欧米の高校教育では、自由闊達なデイヴェートなどの手法で、政治的知性を高め、自律した判断能力を形成する熟議民主主義の教育が浸透し、活発で旺盛な議論中心の授業が定着しています。
 しかし、ほんとうに恐いことは、こうした本音トークのヘイトスピーチに溜飲を下げるようなカタストロフィーを覚え、民主主義のリベラルな真面目さに反撥を感じるようなポピュリズムの貧しい感性が浸透しているのではないかと云うことです。最高のカノンである日本国憲法の規範を逸脱した法案を提出して恥じない自らの「逸脱」行為に、自制の判断が働かないで暴走する精神構造こそが問われるべきであり、そこにはいったん逸脱したら、堰を切ったように前のめりになって進んでいく日本型集団主義の醜悪な姿があらわれているような気がします。ありふれた日常のなかで、ファッシズムが忍びよっているようです(2015/6/26)

約1万6500人が強制手術されたとは!
 旧優生保護法(1948年)の第1条は、「優性上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という目的で、遺伝性の疾患や知的障害者を対象に、審査会の審査をへて、本人の同意がなくても強制的な不妊手術をすすめ、1949から94年の間に約1万6500人以上が手術を施され、その68%が女性でした。ハンセン病患者には、本人の同意によって不妊手術が施されました(実際には不同意が多い)。実際の手術では、旧優生保護法も認めていない卵巣への放射線照射や子宮の摘出がおこなわれたそうです。この優生保護法の差別条項は、1996年に廃止され、現行の母体保護法に改正されて現在にいたっています。国連人権委員会は、1998年に強制不妊手術の対象者への補償をおこなうように、日本政府に勧告しましたが、政府は従わず、ハンセン病患者には国の謝罪がおこなわれましたが、旧優生保護法の被害者はそのまま放置されてきました。
 宮城県の女性(69)は、1963年に家事手伝いの住み込み先の雇い主に、なんの説明もなく県の診療所に連れて行かれ、16才で卵管を縛る手術を受けさせられました。彼女は誤って知的障害と診断されたのです。彼女は、この6月23日に手術は幸福追求権を侵害する違憲行為として、日弁連に人権救済を申し立て、国に謝罪と補償を勧告するよう求めています。この女性の申し立ては、彼女自身の人権救済のみならず、現在の日本の人権を象徴的にうきぼりにしているようです。
 障害者は人間ではなく、産むにあたいする命とそうでない命を国家が決めるというナチスばりの優生思想が1996年まで続いていたというのは、なんということでしょう。優生保護法の最初は、第2次大戦への道を急ぐ時代に、”産めよ増やせよ”という人口政策で、避妊も中絶も不妊手術も禁止された時代に、遺伝性疾患のみの不妊手術を認めた国民優性法(1940年)であり、障害者はこの世から消されてよいうという気持ちが人びとにゆきわたるきっかけとなりましたが、実際には政府の人口政策が優先して手術件数は少なかったようです。ところが、戦後の優生保護法は、敗戦後の人口増加をくいとめるために、対象を遺伝性疾患から、ハンセン病や遺伝性以外の知的障害に拡大し、膨大な数の手術が繰りかえされてきたのです。日本の刑法では、堕胎罪(1880年制定)がいまもってあり、人工妊娠中絶を禁止しており、中絶は医師の認定と配偶者の合意が必要となっています。
 子どもを産むか産まないかは、カップルとくにとくに女性の自己決定に属し、どのような子であっても育てる社会的支援が保障されるというのは、もはや国際常識となっていますが、日本はそうではなく、いまだに優生と劣生という人間を差別する思想が埋めこまれています。ハンデイキャップを負う障害者が普通に生きられるノーマライゼーションとユニヴァーサル・デザインが浸透し、パラリンピックが健常者の五輪と同等に位置づけられるようになってきましたが、原点にあるいのちそのものの平等の考えは、とくに知的障害では道半ばにあります。”この子らに世の光を!”ではなく、”この子らを世の光に”(糸賀一雄)こそが人間の社会のめざす方向ですが、1万6500人の犠牲者を放置する政府の姿勢は、はるかそれ以前の優生思想にとらわれています。この世に餓えている人がひとりでもいる限り、すべての人は餓えているのであり、この世に差別されている者がひとりでもいる限り、すべての人は幸せではない(宮沢賢治)という言葉を胸に刻まねば、と思う次第です。(2015/6/24)

幼稚園が武装する時代になったのか?
 福岡県私学振興課は、県内の私立幼稚園、小・中・高宛てに、「ミサイル攻撃や航空攻撃の際に、爆風などからの直接の被害を軽減するための一時的な避難(退避)をおこなう」場所の基準を満たしているかどうか、園を提供することが可能かどうかを照会する文章を送付したそうです(6月11日)。すでに県は、公営の学校や公民館、公園4400カ所を避難施設に指定したそうです。この措置は、武力攻撃を受けた場合の対処をさだめる「国民保護計画」策定のためであり、2004年の国民保護法によって、自治体に義務づけられたものです。なにか戦前期の国民総動員体制を思いおこさせるような事態が進んでいます。太鼓叩いて笛吹いてーといういつか来た道の戦争国家づくりが、すでに市民レベルで準備されています。支配の鉄則は、対内的危機を対外的な危機に転化せよーにありますが、戦争法案が東アジアに挑発的な効果をおよぼすことをこれほどに示していることはなく、戦争準備に明けくれるいまの日本の異常性が象徴的にあらわれています。
 日本の異常性を逆照射しているのは、6月21日のミラノでの討論集会でのローマ法王・フランシスコの発言からも浮き彫りになります。法王は、「自分自身をキリスト者と名のる経営者やビジネスマンがいて、その人たちが武器を製造している。それはちょっと信用できないと思わないか。彼らは偽善者だ。(軍需企業に投資する人たちの)二枚舌が現代の流行りだ。云うこととやることが違っている」(ロイター)と、現代の戦争ビジネスを批判しています。これほどに率直な言葉でローマ法王が戦争ビジネスを批判したことはなく、彼が戦争屋のために、ミサを催し、祝福することはないでしょう。ローマ・カソリックは、かってナチスに協力して、ユダヤ人を虐殺したショアに加担した罪責を自己批判し、いまは平和の道をまっしぐらに進んでいこうとしているようであり、ローマ法王の姿勢と日本の憲法第9条は、いまや至高の輝きを放っているようにみえます。地球の未来は、憲法9条が先取りしているのであり、珠玉のダイヤモンドとなって、人類の共有財産となっています。いま日本がすることは戦争準備ではなく、世界のデイアスポラとなって流浪する難民に支援の手をさしのべることではないでしょうか。
 国連高等弁務官事務所は、2014年の紛争や迫害で難民となっている人たちが、第2次大戦以降最悪の5950万人に上り、国内避難民3820万人(シリア760万人、イラク360万人など)、、難民は1950万人(トルコ160万人など)となっており、うち母国に戻れた難民は12万6800人で、過去30年間で最小に落ちこんだと報告し、前例のない人道的対応が必要だとています(6月18日)。しかし、驚いたことに、国連の平和維持活動(PKO)に従事する兵士や警官、文民要因たちは、生活支援や物資と引き替えに、現地住民に性的関係を強要するケースが、2008から13年で480件に上ったとしています。最多は、ハイチPKO231件、次いでコンゴPKOが214件、480件のうち18才未満の被害者が36%となっています(国連内部監査部報告書、6月17日)。この数値は調査に応じた者の数であり、氷山の一角だと思われます。PKO要因の犯罪は、派遣国が一義的な操作責任を負いますが、文民要員は一定の免責特権を持っており、性的虐待は実質的に野放し状態になっています。国連PKO活動は薄汚れた性的犯罪行為に堕落しています。ひょっとしたら、日本のPKO活動もおなじようなふるまいに及んでいるのではないでしょうか。
 さらに国連は、内戦下の中央アフリカに派遣されていたPKO隊員が、ストリート・チルドレンに性的虐待を働いたとし、フランス軍兵士が食料提供の見返りに性的虐待を繰りかえし、国連が半年以上放置したと発表しました(6月23日)。
 戦争は、最前線でも銃後でも、すべての人を醜悪な非人間的ふるまいを平気で犯すような状態に、落とし込んでいきます。戦争法案は、日本の決定的な分岐点になります。おそらく、こうしたサイトが反国家的行為として裁かれる時代が来るでしょう。決定的瞬間における決定的判断が問われています。(2015/6/23)

台湾国立・従軍慰安婦記念館の開館について
 台湾の馬英九総統は、抗日戦争70周年記念フォーラムに出席し、慰安婦記念館と抗日戦争記念館の2つの施設を12月に開館することを明らかにしました(6月3日)。台湾の支援団体によると、台湾の元従軍慰安婦の生存者は現在4人であり、平均年齢90才をこえています。馬総統は、慰安婦問題は「人権侵害の重大な戦争犯罪だ」と指摘し、強い関心をいだいてきました。これにたいし、日本政府は記者会見で、従軍慰安婦記念館の設置をとりやめるように台湾政府に申し入れるとしました。日本政府は、米国の歴史教科書から慰安婦の記述の削除を求め、ソウル日本大使館前に設置された従軍慰安婦少女像の撤去を韓国政府に求めましたが、なぜ日本政府は過去の恥部に目を閉ざし、外交問題にまで発展させるような態度をとるのでしょうか。
 日本政府は、「従軍慰安婦」の強制性を否定する1点で公的責任を回避するのですが、すでに国際連合(マグドウーガル報告)は性奴隷制と規定して日本政府に謝罪と補償を勧告して、国際的には結論がでており、政府の撤去要求は恥の上塗りでしかありません。こうした日本政府の態度の根底にある女性観が問われます。それは、敗戦直後の占領軍駐留に際し、占領兵士向けの日本女性の慰安所を設置した恥ずべき行為に象徴的に表れており、さらに米軍の単独駐留に伴って、多発した米兵による日本女性にたいするレイプ事件にいっさい抗議しないという戦後の歴史に浮き彫りとなっています。6月7日付けの朝日新聞は、1952年3月26日に、千葉県九十九里町の米軍片貝キャンプの米軍4輪駆動車が民家に突っ込み、1才の男の子が即死し、母親が挟まれて気を失うという事件が起きたとしています。6才の姉は奇跡的に生き残り、次のような作文を書いています(『基地の子』光文社、1953年)。

  「お母さんは、毎日毎日泣いて、赤ちゃんに一番だいじなオチチが出なくなってしまいました。ほんとうにかなしくて、2年生の妹とふたりで、赤ちゃんを子守しながら何回泣いたことでしょう

 少女は小沢君代さん、いまは74才で九十九里町に暮らしています。加害米兵は日本の警察が捜査することなく、日本で裁かれることもなく、米国に帰ってしまいました。沖縄を除く米兵による日本人の死者数は、52〜59年度で583人に達し、高まる抗議のなかで日本本土から米軍の地上部隊はすべて撤退して、沖縄に移動し、それ以降は米兵の暴行をすべて沖縄が引き受けることとなりました。1984年に、高校2年生であった沖縄の少女は、下校途中に米兵に道を聞かれ、後から別の米兵に羽交い締めにされ、ナイフを突きつけられて、声一つあげられず、米兵3人から暴行を受けました。警察に行けば事件を再現させられると聞き、家族にも相談できず、被害届も出せず、何度も自殺を試みました。いま48才になって那覇市で暮らしています。95年の米兵3人による12才の少女暴行事件を聞いて衝撃を受け、「あんな幼い子が犠牲になったのは、私があの時に黙っていたからだ」と涙を流しました。それからも米への性犯罪は、01年北谷町、03年金武町、05年本島中部、08年北谷町、12年那覇市と絶えることなく続いています。これは公表された件数であり、封印された事件は数知れません。彼女はいま、月1回ほど辺野古に行き、抗議の輪に加わりながら、次のようにつぶやきます。

 「基地から遠くいる人たちには、近くにいる私たちのことに気づかないのでしょうか。気づいても見ないふりをしているのでしょうか

 日本政府は、民族の娘たちが外国兵に蹂躙されるのを黙って見逃し、抗議することもなく、野放しにしてきました。「戦後レジーム」を決算して、「美しい日本」を取り戻そうと怒号するアベとかいう首相の言葉は、こうした米兵の暴力に媚びへつらって民族の娘を売りわたしてきたみずからの行為へ向けられなければなりません。それはできないでしょう、なぜなら自分自身が、見て見ぬふりをしてきた共犯者であったからです。自らの民族の娘を汚して恥じない者が、他国の娘を蹂躙する従軍慰安婦の行為に自省の念などはありません。彼らはもはや右翼の資格jさえありません。右翼は民族の尊厳に忠誠を尽くすからです。それほどに、戦後日本を司ってきた人たちの罪は重く、阿鼻叫喚の煉獄に堕ちるしかありません。(2015/6/7)

警官が1日あたり2,57人、市民を射殺する国とはなんだろうか!?
 ワシントン・ポスト(電子版)は、全米で公務中の警官が2015年1〜5月の5ヶ月で385人を射殺したと伝え、過去10年間の平均値の2倍以上になったとしています。5ヶ月で385人は、一日平均2,57人であり、うち白人171人、黒人100人、ヒスパニック54人で、その80%以上は銃やナイフで武装しており、18才以下が8人、最高齢は83才としています。人種比でいえば、明らかに黒人やヒスパニックの比率が高く、警官が丸腰の黒人を射殺したり、暴行を加える事例が相次ぎ、米国の人種偏見と格差が浮き彫りとなっています。殺害した警官の多くは、正当な公務執行とされ、起訴される例は少なく、米国市民社会の亀裂を深めています。5ヶ月で385人は、1年で約924人に上ります。アメリカ社会は、なぜこのような剥きだしの暴力でしか治安を維持できない国になったのでしょうか。M・フーコーが言ったような一望監視のソフトな管理社会というモダンなスタイルでは維持できない前近代的なちからによる統治へと逆転しているのでしょうか。
 かってアメリカでホームステイしていた日本の名古屋の高校生・服部君がハロウインの祭で、仮装して他人の家の玄関先で射殺された事件のときには、射殺した犯人は正当防衛で無罪となり、服部君の母親はアメリカの銃規制を求めて運動を起こし、当時のクリントン大統領は服部君の自宅の母親に電話して哀悼の意を表しました。この時期には、アメリカの建国以来の銃による自己防衛の秩序に、一定の検討が加えられ、銃購入時の前歴把握などの規制が導入されましたが、銃社会そのものはゆらぎませんでした。いまや、警官が日常の公務として、銃を使用することが常態化しているのです。おそらく、その背景には深化する格差社会のなかで、明日なき希望を失った絶望が犯罪をうみ、対抗暴力が無際限に拡大していく悪循環に陥っているのでしょう。それは、9・11を契機に、アフガン・イラクと続けてきたグローバルな戦争国家が対抗テロの連鎖をうみ、国内での愛国者法による自由の剥奪と連動して増幅しています。
 アメリカの富裕層は、荒廃した中心市街地ではなく、郊外の武装したゲイテイッド・コミュニテイに住んで安全を確保し、貧困層は病に伏せても高額医療費に耐えられず、ホームレスとなって街路をさまよい、生き延びるための犯罪に手を染めていきます。人間は互いにオオカミであり、野放しにすれば互いに殺し合うというホッブス的な殺伐とした光景が広がっているアメリカは、21世紀の世界でもっとも特殊な野蛮国家となっています。こうした国を未来モデルとして、後追いしている国が東アジアのある島国であり、同じように未来構想を構築することなく、戦争と銃をもてあそんでいます。後もどりができない、とりかえしがつかないような時代の分岐点にあって、決定的な瞬間における決定的選択と判断が問われているように思います。(2015/6/1)

戦死した夫に、今も恋文を記す94才の女性・・・
 福岡県糸島市の大櫛ツチエさん(94)は、1920年に博多に生まれ、20才で見合い結婚をし、41年10月の結婚式当日にはじめて夫と出会い、「まず恋をしようね。それから夫婦になっていこう」と話しかけられ、42年に長男を出産し、その年に夫は出征しました。千人針を街の人につくって、博多駅で涙を流すことなく見送ったそうです。43年に長女を出産し、夫が台湾からマニラをへてニューギニアで、戦病死したことを46年に知らされましたが、遺骨は帰りませんでした。2人の子どもを抱えて途方にくれ、里に帰って再婚するか、夫の弟と結婚するか、再婚せずに家に残るか、夫の両親は選ばせてくれましたが、「両親と子どもを頼んだよ」という夫との約束を守って両親の家に残りました。彼女はそれ以降、いっさい戦争について口を閉ざして生きてきました。以上は、朝日新聞5月28日付け夕刊。
 ここまでは戦時を生きぬいた日本の女性のごく普通の話です。驚いたことに、彼女は昨年の暮れに,知人から真新しい手帳をもらい、空に浮かぶ雲を見て、20才の頃に帰ったような気持ちになってふと亡き夫に手紙を書きたくなったそうです。

 ≪流れる雲よ、心あらば、私の想いを伝えておくjれ、遙かに遠いニューギニア、ジャングルの中に今も尚眠る貴方に届けたい
 ≪貴方!! 裏庭の紅梅が3分咲き 馥郁とした香りを漂わせています。貴方に届いていますね
 ≪今日はとても良い天気で洗濯物が気持ちよく乾きました(略)出征される貴方を送ったプラットフォーム、鮮明にパノラマのように思い浮かべます

 たった1年2ヶ月の新婚生活の鮮やかで深い幸福感なしに、70年以上過ぎた今に亡き夫に恋文を送るようなことはできないでしょう。70年前の過ぎ去った日々は、今日の現在となって記憶に刻みこまれているのです。これほどに慕われた夫ほどに幸せであった男もまたいないでしょう。ツチエさんの日記の文章は、彼女の高い知性をうかがわせますが、94才になってなお、これほどにナイーブで新鮮な感受性をもっていることが、また大いなる驚きです。ただし、残酷かも知れませんが、ニューギニア戦線は地獄となった戦場であり、兵士たちは大岡昇平の『野火』さながらの餓死となって野垂れ死にした戦場です。ツチエさんのナイーブでピュアーな心情は、本当に心を打つものがあります。誰が彼を戦場に送ったのか? 94才の未亡人に恋文を書かせるようなことにいたらしめたのは誰なのか? 後世を生きる者は、ほんとうに心して受けとめねばならないと、あらためて心に刻みました。
 実はツチエさんは、私の亡き母と同じ時代を生き、似たような境遇を過ごしたようにおもいます。私の母も新婚で私を身ごもり、同じように父は召集令状を受けて戦地に向かいました。母は最後の別れのときに、「ダルマになってもいいから帰ってきてね」(手足がなくなってもの意)と父に言って見送ったそうです。そして出征後は、毎夕食時に陰膳(その場にいない人のためのお膳)をつくって帰還を待ちわびました(今は亡き母の姉の話)。母は父の出征中に私を出産した後、結核を患い、戦時中では特効薬もなく、私が3歳の時にこの世を去りました。だから、私に母の面影の記憶はまったくないのです。中国戦線で戦った父に、母の死が伝わることはなく、父は終戦を迎えて戦地から帰還し、我が家の玄関先で初めて母の死を知ったのです。その時の父の心境はいかばかりだったのでしょう、父は最後まで自分の戦争体験と母の死については、いっさい語ること逝ってしまいました。いま私は、父や母のへてきた苦衷の経験にふさわしい生き方をはたしてしてきたのであろうか、ツチエさんの新聞記事を読みながら考えされられた次第です。(2015/5/21)

ポツダム宣言を読んでいない東アジアの島国の首相ー世界の嘲りを浴びる無知の知の極致
 第2次世界大戦の終結をみちびき、「大日本帝国」が無条件に受託して崩壊した戦後レジームの原点である「ポツダム宣言」(1945年7月26日)を読んだことがない首相が、戦後レジームからの脱却を怒号するというマンガのような事態に、世界は驚きあきれはて、ソクラテスも真っ青となり、オレの対話法はひょっとしたら間違っていたのではないのかと悩んでいます。ポツダム宣言の内容は、日本の中学校社会科の初歩的な知識であり、この首相は中学生レベルの知識もなく、「政治指導者としては恥ずかしいことだ」とースタンフォード大学のショレンスタイン教授は述べています。日本の首相の歴史認識のお粗末さがこれほどに露呈したことはなく、首相にとどまらず、日本は一気に国際的な信用を失ってしまいました。
 「ヤルタ・ポツダム体制打破」と叫んできた戦後日本の極右は、少なくとも中身を読んだ上で、天皇制絶対主義の戦前レジームへの回帰を唱えてきましたが、首相は読むこともなく同じことを唱和してきたのですから、極右の人もお粗末さにあきれはて、みずからの知的レベルの貧困を暴露したとして、困惑しているのではないでしょうか。もしドイツの首相は、同じことを述べれば、ドイツはEUから追放され、欧州で生きていく条件を失うでしょう。ポツダム宣言を無条件に受託して、敗戦日本は新しい憲法をつくって国際社会に復帰したのですが、ポツダム宣言を読んだことがない首相が、現行憲法に忠誠を誓うことがないのは当然の成りゆきとなります。同時に、戦後レジームの打破を叫びながら、アメリカにたいして忠犬ポチ公のように媚びへつらって上納金を貢いで基地を提供し、娘を陵辱されても知らぬ顔をする、まるでチンピラヤクザのような醜いふるまいになんの矛盾も感じないという人格の破綻を示しています。この首相は、サンフランシスコ講和条約記念式典で、「日本の独立を祝う日であり、若者に夢と希望を与えた日」と述べたそうですが、彼が講和条約も読んでいないように思われるのは、そこには、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受託し」(第11条)と記しているからであり、それは彼の祖父がA級戦犯であることを認めることになるからです。
 なぜこのような精神構造をもった男が、戦後日本にあらわれたのか、そしてあたかも独裁者のようにふるまいはじめたのか正確に分析しないと、日本は立ちゆかないで崩壊していくのではないかと思われます。大阪の住民投票を主導した男と同じく、彼を支持する層は混迷する日本を一刀両断するイメージに若者層の期待があるような気がします。大阪の住民投票でキ構想に賛成票を投じた層は若者層が多かったようですが、敗北した若者層のルサンチマンがネオ・ファッショにむかうことのないように、戦後史の分岐点が試されているように思います。もはやあれこれの解釈の時代は去って、実践的な行為の方向を鮮明にして相まみえる時代が到来しています。(2015/5/23)

I am not Abe(安倍さん、まだ弾は一発残っているがよ)
 「人々が生命を守り生活を維持するための人格権は至高の権利であり、経済活動としての原発の稼働はそれよりはるかに劣位にある」(大飯原発訴訟判決)、「福島事故の後に重大事故の危険があるという判断を避けることは、司法の責務の放棄だ」(高浜原発仮処分判決)が天の声のように響きわたってから、次には一転して政府に追随するみにくい判決がだされました(川内原発訴訟判決)。まさに、時代は激動というより、激突の時代をむかえています。いったい、100年後から振り返って歴史はどのような審判を下すのでしょう。あれだけの事故をへても、結局何も変わっていないばかりか、厚顔無恥にも首相が外国へ原発を売りにいくような恥ずべき国を、いったい誰が信頼するでしょう。大飯・高浜判決を出した判事は、翁長知事に匹敵する歴史的な人物として歴史に刻まれるでしょう。
 原発はノーマンズランドの惨劇をもたらし、核兵器と一体化して、ヒロシマとフクシマはメダルの表裏の関係にあり、非核国家日本とは原理的に背反するのです。寺島実郎氏は、原子力政策は国家の統合戦略として、政府が責任をもって決めよーというおよそ国民主権に反するファッショ的なことを云っていますが、西欧諸国の多くは国民投票で原発全廃をきめたのです。アベとか云う首相が、平衡感覚を失って不安を押しのけながら暴走している姿は、なにか戦時期の東条とかいうファナテックな戦争オタクに似てきました。連休明けから、戦争国家へ踏みだす法案がめくらましのように、10本一括でたった80時間の審議で可決するのだそうです。世界を股にかけて世界の憲兵となって人殺しにいくような国を、いったい誰が信頼するでしょう。しかも、靖国のA級戦犯を誉め称えながら、星条旗に媚びへつらう自己矛盾を演じ、ヤクザの親分に従うチンピラにひとしい醜い姿をさらしながら。
 自衛官の皆さまは、はじめて人を殺す体験をすることになりますが、驚いたことに自衛隊法を改定して、上官の命令に不服従の者は7年以下の懲役・禁錮に処すという特別権力関係による抗命罪を設けるそうです。第2次大戦の戦後処理のニュルンベルグ裁判は、間違った上官の命令には従ってはならないという義務によって、命令だから仕方がなかったーと自己弁護するナチス軍人を有罪として処刑したのです。戦後の軍事法体系から、特別権力関係は消え、上官と下士官は契約関係に入ったのです。こうした特別権力関係論が至高となるシステムが軍隊ですすんでいけば、学校や企業に波及し、日本社会のすみずみに浸透していくでしょう。
 戦場に行った自衛官のみなさまの将来の姿は、アフガン・イラク戦線に派兵された米兵の姿にくっきりとあらわれています。派兵された米兵約200万人のうち、50万人はPTSD(心的外傷後ストレス障害)とTBI(外傷性脳損傷)に苦しみ、帰還後は精神障害や薬物中毒、暴力行為におちいり、毎年240人以上(!)が錯乱状態となって自死しています。左手で原発を動かして列島を壊滅に追いこみ、右手で銃を撃ちながら世界の人々を殺していく全身血だらけとなったAbeとかいう人物に、天国の菅原文太さんは、「安倍さん、まだ弾は一発残っているがよ」と告げるでしょう。その前に、みずから自律神経の健康診断を受け、心神喪失による判断能力なしということで、免責を求めるのでしょうか。
 Abeとかいう首相が、米国の大統領に「辺野古しかありません」と沖縄を米国にプレゼントして恥じない姿は、主人から餌をもらって嬉しそうに尻尾を振る忠犬ポチ公のようにさもしく、自分の娘を売春婦として親分にさしだす三下ヤクザに似ています。「サンフランシスコ条約の記念式典で、日本の独立を祝い、若者に夢と希望をあたえるんだという話があったが、沖縄にとってはあれは日本と切り離された悲しい日だ。そういった思いがある中、あの万歳三唱を聞くと、沖縄への思いはないのではないかと率直に思う」(翁長沖縄県知事、官房長官との会談で)。他者の痛みへの想像力を決定的に欠落させたAbeとかいう人物に、I am not Abeととなえる声にこそ、日本の矜恃があらわれているように思います。手遅れになるまで待っていた罪、Abeとか云う人物の暴走を許した罪が後世から問われる時代になっています(2015/4/25)

この痛ましい実態は、日本のなにを示しているのだろうか?
 警察庁の発表(3月26日)では、2014年度に警察が児童相談所に通告した18才未満の児童虐待件数が、過去最多の2万8923人(前年比33,9%増)となっています。親や養親を逮捕・書類送検した件数は698件(同49,5%増)・719人(同49%増)、被害児童数は708人(同49,1%増)でいずれも過去最多です。類型別では、心理的虐待の通告数が1万7158人(同39,0%増)で、最多は親が子どもの前で配偶者やパートナーに暴力を振るう面前DVが68%、他には、子どもに「生まれて来なければよかった」と云ったり、無視する、他の兄弟と差別する、刃物を子どもに向ける、人を殺すゲームを強制するなどです。暴行や真冬にベランダに出すなどの身体的虐待が7690人(同25,0%増)、育児放棄(ネグレクト)3898人(同31,7%増)、性的虐待177人(同18,8%)となっており、虐待で死亡した児童数は20人です。西東京市の中学2年の男子は、継父から「24時間以内に死んでくれ」と迫られて自殺し、初めて心理的虐待による死者となりました。児童虐待の通告数推移のグラフを見ると、ほとんんど45度に近い右肩上がりの曲線となっており、統計開始時04年の30倍に達し、たんに警察への通報数が増えたのではなく、その絶対数が増大していると思われ、通告数をはるかに上まわる虐待の実態が潜在しています。この痛ましい現実は日本のなにを示しているのでしょうか。
 親に依存して生きるしかないいたいけな子どもたちが、最後の居場所である家族のなかで、最愛の親から自分の存在を根底から否定されるこころの傷の深さは、本人でしか分かりません。自分の子どもを虐待するに至った親の心の闇も想像を超えています。自分の子どものために、命をも捨てる親もいれば、早く死ねと迫る親もいるのです。たんなる刑罰強化論ではなく、なぜ親がそのような行為に及んでいくのか、そうした加虐の心におちっていく経路依存性を明らかにすることなしに、この問題の深層に迫ることはできません。虐待する親の多くは、みずからの幼少期に同じことを体験した親が多いといわれますが、いまそうした生育環境の世代循環論では対応できない質的な変化が日本に起こっているように思われます。子ども同士の集団暴行やイジメ、ひょっとしたら、沖縄をいじめ抜いている政府のふるまいと似ているのではないかとも思われ、日本の社会全体が虐待現象に転落しているような気がします。私は、こうした行為を強い者が弱い者に次々と抑圧を垂直的に下方へ転化していく抑圧の委譲理論、或いはネオ・リベラリズムによる競争のトラウマで考えてきましたが、そうしたレベルを超えて、日本から信頼の基盤と共同の意識が失われていきつつあるように思われます。もはや空気さえ吸うことができなくなった福島の子どもたちが、避難先で「フクシマ菌」と忌避されて、不登校におちいり、引きこもった孤室で泣いているように。
 
 突然に解雇を通告して荷物をまとめて出ていかせるロックアウト解雇を強行する日本IBM、仕事を取りあげてリストラ部屋で退職を強要するソニーのような会社を野放しにしているのは誰なのか?
 金さえ払えば、理由がない不当解雇を合法化しようとしているのは誰か?
 集めた視聴料を私的なハイヤー料金に使うNHK会長、政務調査費を使ってSMバーで遊ぶ地方議員、企業への補助金を横流しして政治資金に使う政府首脳の横行を許しているのは誰か?
 自衛隊を「我が軍」と呼んで、人を殺す「決然たる行動」を強要し、出動前に全隊員に「遺書」を書かせる最高司令官の暴走を許しているのは誰か?
 彼奴を殺せと叫んで街を行進するヘイト・スピーチの集団、外国人を居住区別に分けよと説教する女性作家の横行を許しているのは誰か?

 NHKから流れてくる『花は咲く』という震災からの復興の歌は、は、失われていく”なつかしいあの街を思いだす”なかで、”叶えたい夢もあった、変わりたい自分もいた”ことをふり返り、”悲しみの向こう側に”未来を見ようとしていますが、いま”私はなにを残しただろう”として、フクシマの悲惨をひたすら主体に責任を還元する哀しく、痛ましい、誰かを免罪するような歌となっています。日本は、こうした歌を詠いあげながら、「花は咲く」国へと歩んでいくのでしょうか、それとも「花は散る」への道を歩んでいくのでしょうか? そうではなく、いままで追い求めてきた花は虚栄の幻想であって、私たちは今まで見たこともないような花を自分たち自身で咲かせねばならない時代を迎えつつあるのでしょうか? もうすぐ桜が咲く春爛漫の季節を迎えて、私たちは「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄にひとしい」(魯迅)、模索が許される最後の時代にあるのではないだろうか? (2015/3/27)

ヤマト国は聞く耳を持たない
 菅原文太さんが最後のいのちをかけて、「辺野古を勝手に売り飛ばさないでくれ」と遺言のような演説をして逝ってから、数ヶ月が過ぎましたが、ヤマト国は聞く耳を持つものかわ、外国基地の建設に「粛々と」とり組んでいます。戦後70周年の記念すべきこの年に、子孫に顔向けできないような汚らわしい統治がおこなわれています。おそらく、地方自治体の総意を無視して、中央政府が強行するような統治は、日本の歴史上初めてではないでしょうか。閣僚のほとんどが違法な企業献金で金まみれの腐敗の極致をしめし、過去の罪責に目をつぶって原発再稼働にいそしむ姿は、ドイツの女性首相も異常に見えたようで、日本の首相に憐れみと軽蔑のまなざしをそそいでいました。それに気がつかない首相の無感覚は、みずからの政治感覚の劣化をリアルにさらけだしています。沖縄を犠牲にして星条旗に媚びへつらう姿は、もはや「美しい国」日本を語る資格はなく、歴史上もっとも醜い首相として日本史の教科書に記されることになるでしょう。沖縄在住の芥川賞作家・目取間俊氏は、いまみずから辺野古の立ち入り禁止区域に、逮捕覚悟でカヌーを操って侵入し、抗議活動をしているそうですが、そこにはどのような思いがあるのでしょう。傍観者は必然的に加担者となるという歴史の学習をした私たちは、いま彼の言葉をどう受けとめるかが問われているように思います。
 「(この行動は)怒りとか義務感とかの言葉で説明できるものではありません。これまで生きてきた総体が、この行動にまっすぐにつながっています。怒りなんか通り越して、もう憎しみに近いと思っていますよ。他人まかせではなく自分でやるしかないんですよ。自民党にも、昔はもっと歴史を肌で知る政治家がいました。戦争で沖縄に犠牲を押しつけた、という意識がどこかに残っていました。それがいまでは、歴史意識も配慮もない。基地を押しつけて当たり前という、ものすごく高圧的な姿勢が中央に見えます。政治が劣化しています。憲法9条だけを掲げる平和運動にも、欺瞞を感じます。9条の擁護と日米安保の見直しが同時に進まなければ、結局は基地負担を沖縄に押しつけて知らん顔をする。日本では国民の圧倒的多数が政治に無関心になってしまった。大変なことが起きても、すべて他人任せの国になってしまったのです。首相が知事に会わないのは、権力による形を変えた暴力です。暴力が横行する事態を避けるために、築いてきた民主主義というルールを、いま政権がみずからの手で壊している。そして、憎悪と怒りを沖縄中にばらまいています。抗議行動に参加する人々は非暴力で一致しています。それが運動をひろげ、支える原理ですから。恐いのは、そうした場に参加もせず、鬱屈した感情を内に抱えこんだ孤独なオオカミの暴発です。知事選で翁長さんをを応援したのは、期待とか希望とか、そんな生ぬるい世界じゃあないんですよ。私たちはここまで追いこまれているんですよ。どこまでも粘り強く、したたかに、これが小さな沖縄の闘い方です。仮に基地が完成したとしても、それで私たちの闘いが終わりだとは思いません。絶望したときが終わりです」 (朝日新聞3月13日朝刊より筆者要約)
 民放TVをみていると、北陸新幹線特集で北陸のうまいもの特集をこれでもかとばかり、タレントを動員してやっています。NHKニュースもほとんど沖縄関連は報道せず、いまは古館氏のニュースしか見なくなりましたが、これほどに享楽とニヒルの劣情があふれる姿は、かって経験したことがないような惨状です。なにか、ワイマール末期のドイツを少しはなやかにしたような雰囲気があります。傍観する者は共犯となり、意見を言わない者は賛成者となってきた歴史の悲劇を、もう一度繰りかえせば、大いなる悲喜劇が待ちかまえているように思います。(2015/3/13)

誰がこの国をそうしたか?
 政府は、密告によって自分の有罪を逃れる「証言買収型司法取引」制度の導入をめざし、重大犯罪に通信事業者の立合を義務づけている盗聴法(通信傍受法)の限定を取っ払って、捜査機関が自由に盗聴できる法改正をめざしています。すでに警察が捜査令状なしに、捜査対象者の車両にひそかにGPS端末をとりつけて、行動を監視するGPSは2006年からはじまっており、日本は国家権力が国民の動向を一望監視するパノプテイコンという、最悪の警察監視国家に転落しています。警察庁「移動追跡装置運用要綱」(06年6月30日)は、GPS捜査は裁判所の令状がいらない人捜査でおこなうとし、7種類の犯罪を対象に、4種類の車両(車、バイク)としていますが、その内容は公開していません。米国では、幾つかの州で令状を義務づけ、最高裁は10日間を過ぎたGPS捜査を違憲とする判決を出しています。GPS捜査は、「何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利」(憲法35条1項)に違反し、人の車両を勝手にいじることですから、器物破損罪に該当します。任意捜査は本人の了承なしにできないので、無断で端末をことも警察官職務執行法違反です。すでに、日本の警察は脱法的な権力行使をおこなう組織になりつつあります。
 このまますすめば、市民たちが互いに互いを監視して、自分が密告されないために、誰よりも早く相手を密告して助かろうとする究極のシュタージ国家が実現します。それは脅迫や拷問というハードで野蛮な管理ではなく、フレンドリーに微笑しながら冷酷に支配するテロ・ファッシズム国家であり、イスラム国をはるかに上まわる恐怖の日常をシニカルに生きていくことになります。20世紀最大の哲学者と言われるマルテイン・ハイデガーが、平然と師のフッサールを裏切ってナチスに売りわたし、右手をかざして「ハイル ヒットラー!」と叫んで授業を始めたような時代がまた来ようとしています。
 さすがに、アベなんとかという首相の暴走に眉をひそめる保守もあらわれています。野中とかいう元保守党の幹事長は、TBSで次のように云っています(2月15日)。「(首相の施政方針演説は)私が中学生の頃、昭和16年に聞いた東条英機首相の大政翼賛会の国会演説のラジオ放送を耳にしたときの感じと変わらない。重要な部分に触れないで、非常に勇ましい感じで発言された。(沖縄辺野古基地強行は)沖縄を差別しないために政治生命をかけてきた一人として、絶対に許すことができない。私にとっては、ほんとうにくやしい。死んでも死にきれない。県民の痛みが分からない政治だと思い、強く憤慨している。(ODA新大綱は)非軍事的援助といいながらも、それが先方で軍事的に使われても何も言えない。これからも平和にはつながっていかない。防衛費だけが増えていく予算は、そういう国づくりがほんとうにいいのか。一番大切な中国の問題、韓国の問題を正面からとらえようという意欲がないのではないか。私は戦争を経験した生き残りだ。どうか現役の政治家は”戦争は愚かなものだ、ぜったいにやってはならない”ということを分かってほしい」。ウーン、先行する世代の遺言のような諌めの言葉ですね。
 しかし、アベなんとかという首相は、こうした忠告は歯牙にもかけないで、ファナテイックなファッショの道を進んでいくでしょう。彼の盟友の曾野綾子とかいう作家は、日本の外国人を白人、アジア人、黒人の居住に分けるべきだと主張し、南ア共和国から人種差別という強い抗議を受けましたが、こうした極右グループは人間を垂直に編成して絆を裂くことで共通しています。誰がこの国をそうしたのか? (2015/2/16)

NHKBS海外ドキュメンタリ『ヒトラー・チルドレン ナチスの罪を背負って』(2011年、イスラエル・ドイツ)
 ニュルンベルグ裁判で処刑されたナチス高官の孫たちの姿を追う圧倒的に迫真性あふれるドキュメンタリーです。登場する孫たちは、親たちが遺した人類史上最悪の犯罪者の名前を背負って生きています。ゲーリングを大叔父にもつ兄妹は、ゲーリング家の血統を断つべきだとして、2人とも不妊手術をしています(!)。アウシュヴィッツ収容所長ヘスの孫は、収容所を見学に来ていたユダヤ人の少女から「ここにヘスがいたら、あなたはどうするか?」と質問されて、「自分のこの手で殺します」と答えます。この二つのシーンは、ナチスの罪責がどこまで深く戦後ドイツに浸透しているかを示す象徴的なシーンです。ヘスの孫は、このように答えたことによって、ユダヤ人の少女と抱き合い、赦しを得て新たな世界を切りひらいていくのですが、ここには謝罪も赦しもあり得ないような根源悪の状況を生きる次世代の姿へのヒントがあるように思います。ドキュメンタリーは赦しが成立したかのように撮っていますが、どこかチグハグした雰囲気もあり、根源悪を前にした戸惑いが感じられます。ナチス高官の遺された親族たちは、必ずしも父祖批判ではなく、ナチス信奉者もおり、親族たちは愛憎半ばするかたちで、つき合っているか、崩壊しています。
 かえりみて、日本とドイツの過去の罪責についてのあまりの非対称性に慄然とするのです。いったい東条内閣の孫たちがメデイアの取材に応じるだろうか、否それ以前にこうした企画そのものが没にされ、実現することはないでしょう。東条英機の娘と称する人が時々登場していましたが、いまはどうしているのでしょう。東京裁判で処刑を逃れた岸信介(東条内閣商工大臣)の孫たる人物は、恥ずべき歴史修正の先頭に立って、極右への道を走っていますが、第2次大戦の戦後処理をめぐるドイツと日本のあまりの非対称性に呆然といたします。原発事故の責任を誰ひとりとらないで歴史が流れ、沖縄県知事を2度にわたって面会を拒否する哀れな政府の醜態、ごく最低の人間的なモラルに無知である無残な光景が広がっています。そういえば、アベなんとかという首相の顔は、チョビ髭さえあれば、ヒトラーと間違えるほどに似てきています。彼は、次回の参院選後に憲法改正の国民投票を実施するそうですが、それはみずから墓場を掘っているようなものです。この人物のことを口にすればするほど、私の人格も汚されていくようで、このあたりでやめておき、かわりにアメリカ人に語ってもらいましょう。
 日本政府が歴史教科書から日本軍従軍慰安婦を削除する検閲にたいし、アメリカの歴史家19名(コロンビア大学キャロイル・グラック、アメリカン大学ピーター・カズニックなど)が、「第2次世界大戦中に日本帝国軍の野蛮な性的搾取制度の下で辛酸をなめ、婉曲的に名づけられた『慰安婦』についての日本や他の国の歴史教科書の記述を削除しようとする最近の日本政府のたくらみに、歴史家として私たちは失望を表明する。政府関係資料の念入りな調査や証言から、『慰安婦』制度が国家が後押しした性的奴隷制の特徴を備えたものだったことは間違いない。安倍政権は立証された慰安婦の歴史に声高に異議を唱えており、対象は米国の歴史教科書の記述までに及んでいる。政治目的で出版社や歴史家に研究結果を変えるよう圧力をかける国家または特定の利益団体のとりくみに反対する」(米国歴史協会『歴史の展望』3月号)と述べています。従軍慰安婦をめぐる歴史的事実は、国際的に確定した世界標準となっており、アベなんとかは国際的には極右のウルトラナショナリストとみられています。(2015/2/6)

「仲井間さん、弾はまだ一発残っとるがよ!」(菅原文太)
 昨年末の沖縄知事選の応援演説で、反政府派の候補を応援し、その直後に死去した俳優・菅原文太さんのあまりにも有名になった言葉です。彼は政府の役割は、国民を餓えさせないこと、そしてもっとも大事なことは戦争をしないことだと述べた上で、映画『仁義なき戦い』の台詞を引用し、沖縄を裏切った現職知事に「仲井間さん、弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ! 辺野古を勝手に他国に売り飛ばさないでくれ!」と言い放ったのです。私もこのニュースを聞いた時には、少しギョッとするような衝撃と痛快さを覚えました。昨年の暮れに辺野古を訪問すると、青く澄んだ海原がひろがり、ここに巨大な基地ができるとは想像もできませんでしたが、テント村で話を聞き、海岸に出るとダイビングのユニフォームを着た若者たちがボートに乗って、抗議活動をし、そのまわりを防衛局の舟が警戒しているのを見て、少し緊張感を感じました。その若者たちが海岸に上がって、素顔を見ると、美しい少女が凜々しい表情で微笑していたのに、身体を張って戦う姿にまた打たれたのです。
 さて菅原文太さんの父君が、彗星のように現れて消えていったプロレタリア詩人の狭間二郎(本名・菅原芳助)であることを、今日初めて知りました。彼は、小林多喜二の「1928年3月15日」が発表された雑誌『戦旗』(1928年1月号)に「1女工より」を掲載し、その後「畜生つ!」(6月号)、「秋」(12月号)、「復讐」(1929年1月号)を発表した後に忽然と姿を消し、その後は画家に転じて知られるようになったそうです。
 ”くやしい事もつらいことも破れかぶれの小唄にまぎらして来た娘さん達”と語りかけている詩は、厳しい労働にあえぐ少女の境遇を告発していますが、あたかも現代の非正規労働者の姿に通じる所があり、多喜二の『蟹工船』ブームにある現代の原始的貧困の第4世界をうきぼりにしています。ユーチューブで菅原さんの演説の映像を見ていると、熱いものがこみ上げてきます。年末の紅白歌合戦のサザンオールスターズの「ピースとハイライト」で桑田圭祐が歌った”都合のいい大義名分”(集団的自衛権の閣議決定)”裸の王様”(安倍首相)もまた、鋭い暗喩を秘めていました。菅原さんの父君の想いは、立派に次世代の息子たちに引きつがれ、現代によみがえったのです。この世は、まだまだ捨てたものではありません。(2015/1/14)

若者たちは公民としての権利を奪われているという感情をたぎらせるようになる
 1月末に開かれる世界経済フォーラム(ダボス会議)の基調報告「2015年世界の見通し」は、第1の問題として「社会から排除された人びと、とくに若者たちは公民としての権利を奪われているという感情をたぎらせ、民主主義が掘り崩され、持続的発展と平和な社会への希望が失われかねない(中略)人間らしい雇用を伴う排他的でない成長以外に解決の方向はない」とし、世界の多国籍企業が格差による資本主義世界への危機感を語っています。OECDは、上位10%の富裕層が下位貧困層10%の9,5倍に達し、もはや成長がしたたり落ちるトリクルダウンの先富理論は破産したと宣言しています。とくに悲惨なのが日本であり、非正規雇用が2000万人(38%)を超え、年収200万円以下のワ−キングプアが1119万人(24,1%)を超え、中間層が崩壊しつつあります。生活保護受給人数は216万8393人、受給世帯は161万5240世帯にたっし、65歳以上の高齢者世帯が2479世帯増の76万1593世帯(47,4%)を占め、いずれも戦後史上最高を記録しています。
 日本の貧困が子ども世代に劇的にあらわれており、子どもの6人に1人、貧困率が16,3%にたっするという事態は、「明日食べるご飯に困る」原始的な貧困をあらわにし(昨年末NHK特集番組)、これから10年後の日本の想像を絶する悲惨を予測させます。恐るべき貧困大国日本! ところがTV番組の多くは、グルメとお笑いにあふれる世紀末的な頽廃番組が蔓延し、貧しさなどの実感はありません。竹中何とかという元財務相は、「日本の正規労働は世界の中で異常に保護されており、正社員が解雇できないから非正規がふえている」と人貸し・ピンハネビジネスを礼賛するという異様な妄言を垂れ流しています。日本IBMの人事部長のサム・ラムダーは、リストラ費用6億ドルを計上して、1000人解雇を強行し、業績相対評価の低評価の社員に労基法違反の10〜15%の賃金削減をして退職を強要し、それを断ると、達成困難なノルマを強要する業務改善プログラム(PIP)をおしつけて退職に追いこんでいます。フランスのベルサイユ高裁はフランスIBMの解雇無効判決をだし、IBMを断罪しました。OECDの「雇用保護指標」では、日本の正規労働の雇用保護水準は34カ国中24番目という劣悪な水準であり(2013年度)、日本では解雇の法規制がなく、整理解雇の4条件は判例でしかありません。初歩的な事実すら無視してプロパガンダに走る竹中なんとかの姿勢には、経済学者としての基礎的な能力が決定的に欠落しています。
 政府との面談を求める沖縄県の翁長新知事にたいし、安倍何とかという首相と官房長官は面談を拒否するという無礼を働き、7日には農水省がJA沖縄の代表とは面会しながら、翁長新知事との面談を拒否するという侮辱的な対応をおこないました。日本国憲法では、地方と政府は同等な位置にあり、地方を代表する者の意見を聞かないということは許されません。
 残年ながら、幸せのシンボルであるひつじ年は、惨憺たる出発を遂げようとしています。ピケテイは『21世紀資本論』を書いて、資本主義のシステムが必然的に平均利潤率低下のなかで、格差を深化させ、資本主義の崩壊をもたらすことを実証して、レジョン・ドヌール勲章を拒否しましたが、おそらく世界でもっとも早く、音を立てて自壊していくのが日本であるという確かな事態が進んでいます。近い将来に、若者たちと沖縄の怒りが爆発にいたることは間違いありません。その爆発が、郊外の暴動にいたるのか、もっとも弱い層へヘイトスピーチをぶつけながら戦争による解決を狙う全体主義に向かうのか、際どい分岐点が近づいています。(2015/1/8)

ひつじ年を迎えて
 12支のシンボルとなる動物は、人に身近な動物であり、象形文字として漢字の出発点になった。今年の干支である羊はもっとも典型的な象形文字であり、漢字の起源となる甲骨文字や金文では、「羊」は角がぴんと左右に張りだして、下方にカーブを描く写実的な書体となり、そこから「羊」」という漢字がつくられた。土地や穀物の神をまつる祭祀にあたって、供え物をする「太牢」では、食用の家畜である牛と豚とならんで羊がそなえられ、羊が人間生活に欠かせない動物であったことが分かる。西暦100年に成立した『説文解字』では、「羊」と「大」という字を組みあわせて「美」という文字をつくり、羊がまるまると太って大きければうまいと「美」の原意を説明している。日本語の「うつくし」という語は、「いつくし(美)」からきており、「いつくし(厳)」や「いつくしむ(愛)」と同一の語源であり、「良い」とか「立派な」と同じ意味であり、美と崇高を同じ一つの感情から分化したものとみなすカント美学の系流とも重なる。さらに、おいしいことは「善」につながり、善には羊という文字が含まれており、「美」は「善」と同義であった。めでたさの極致を意味する「祥」は、「吉祥」とか「瑞祥」などの熟語として用いられ、「祥は福なり」として幸福の意味にも用いられている。美は善であり、同時に幸福となった。
 このように「ひつじ年」は、うまくて甘くて美しく、幸福を約束するたぐまれなる年であり、ひつじ年うまれの私は、今年ついに6回目の年男となったのである。家畜化された羊は、いつも群れとなって行動し、監視者がいないとどこかへ行って見失ってしまう存在であり、私も幾多の監視の目をかいくぐっては、幾星霜をへて生きてきた。『詩経』の「君子干役」では、”日の夕べなるに 羊牛は下りに来たる”として、夕暮れになって放牧された羊が丘を降りてくるシーンを詠っているが、私も晩年にいたってようやく丘を降りようとしている。他にも丘を降りていくあまたの動物がいるが、高度成長後の失われた20年をへていまの日本はどこへ降りていこうとしているのか? 取り返しのつかないような地獄への道を歩んでいこうとする者もおれば、ひたすらに我が道に耽溺して降りていく道にすら関心を持たない者もいる。
 そのなかでたった一つ、確かな未来への希望を切り開いている南方の島がある。それはいくさの道をやめて、「羊」の道を選ぼうとしている「オール沖縄」と称するモデルをつくりだしている。それはごく辺境の島の特殊なモデルではなく、この列島の未来をひらく唯一の普遍的なモデルとなる予感がする。いや、このモデルの方向を選ばなければ、この列島そのものが沈没する危うい分岐点にあるような気がする。昨年末に訪沖したときに、オール沖縄モデルに生涯を捧げてきた人が、「手を耳より上に上げるな、正しいことは幼子を教え導くように、かんでふくめるように説き聞かせよ」という説得の極意を説いていたが、できうれば新しい年の私もこのようなスタイルを身につけたいと思う。羊はもはや群れとなって、牧人の監視を受けて生きるのではなく、自立した人間となってみずからの選んだ道を降りていくに違いない。(2014/1/6)

朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』について
 皆さま今日は、お久しぶりです。7月以来4ヶ月ぶりの記載です。朝日新聞11月27日付けの高橋源一郎氏の時評が、頭の片隅にひっかかって残り、どうしてもここで考えてみたいと思ったのです。パクユハ氏のこの本は、元従軍慰安婦の名誉を毀損したとして韓国で提訴・告訴されたそうです。パク氏は、従軍慰安婦たちを連れ出した朝鮮人同胞と、それを許した家父長制を厳しく批判し、謝罪すべきは帝国日本だけでなく、宗主国に愛と忠誠を誓った朝鮮人の恥部をあからさまにしたのです。パク氏の最大の問題は、従軍慰安婦は、日本人兵士を激しく憎みながら、同時に戦場でモノとして扱われる同志でもあったとしていることです。さらに問題は、慰安婦の被害者としての記憶以外を隠蔽し、被害の面のみをあつかうことは慰安婦の全人格を奪い、従属を強いているとも言い切っています。高橋源一郎氏は、このパク氏の主張に打ちのめされ、言葉を失うほどの衝撃を受けたと述べています。、
 こうした植民地朝鮮の暗部の闇に迫る自己告発のような表現は、在日作家の粱石日氏の従軍慰安婦が日本兵と恋愛関係におちいる迫真的な描写の小説になってあらわれています。こうしたみずからの内部にある恥部をさらけだすような作家精神に、私は戸惑いを受けたのですが、今回のパク氏の論調にも大きな疑問を感じたのです。一体この違和感はなんなのでしょうか? 他者の犠牲になって煩悶する魂に生まれる負の側面をえぐりだしてさらしものにし、みずからの作家としての社会的認知を求めていくような姿勢に、文学や批評の特権性が隠されているのではないかと思うのです。同じように、フランスでは、ナチス占領軍に協力してユダヤ人を収容所に送ったヴィシー政権の恥部を告発する表現が、最近のフランスにはあらわれていますが、それと同列には論じられない質の違いがあるような気がします。政治的なはげしい屈辱的な支配のなかで、被害者のなかに生まれる負の側面を、基軸となる加害と切り離して描写する作家の特権は、被害者の傷を二重に暴きだして塩を塗り込む様な罪を犯しているいるような気がします。
 あるいはハンナ・アーレントが、強制収容所のユダヤ人虐殺の主犯であるアイヒマン裁判で、「悪の凡庸さ」と述べて、客観的にナチスの主犯性を客観的に免罪するような効果を与え、またワルシャワのユダヤ人評議会がユダヤ人移送計画に加担したと告発するような言辞を弄して、ユダヤ人内部の恥部を暴露することに主力を注いだことと非常によく似ています。パク氏やアーレントにみられる共通点は、自分が現場にいて極限の選択を迫られる熾烈な体験が一切なく、なにか超越的な批判の基準から冷ややかに論断していることです。それは、現実の政治力学の緊迫した世界とは無関係に、人間の深部に迫るとする存在論的な関心によって、現実のリアリテイを裏切る高踏的な批評に堕落していることを示しています。
 問題の本質は、悪を犯した罪ある者が被害者を放擲して謝罪と補償をすることなく、かえって真実を糊塗しながら居直っている浅ましい実態を白日の下にさらすことにあり、被害者の側にあった負の側面は謝罪と補償がすべて終わった後に、ミネルヴァのフクロウが飛び立つなかで、曇りないまなざしによって歴史の全体と局部にあるあらゆる真実を眼を避けることなく明らかにすればよいのです。残念ながら、高橋源一郎氏はこうしたテーマへのアプローチの方法を知らず、ただ呆然としているだけです。それは氏の良心的な特質を示していますが、こうした無知故の純粋さは、歴史のリアリテイの前では無力であり、歴史の問題を文学だけで解決することは本質的にできないという限界を知らねばなりません。(2014/11/29)

明日戦争がはじまる・・・
 高知県出身で、いまは埼玉県に住む詩人・宮尾節子さんの「明日戦争がはじまる」と題された詩が、ネット上で拡散しています。

    明日戦争がはじまる   宮尾節子

   まいにち
   満員で車に乗って
   人を人とも思わなくなった

   インターネットの
   掲示板のカキコミで
   心を心とも思わなくなった

   虐待死や
   自殺のひんぱつに
   命を命と
   思わなくなった

   じゅんび
   は
   ばっちりだ

   戦争を戦争と
   思わなくなるために
   いよいよ
   明日戦争がはじまる


 集団的自衛権の行使を容認する閣議決定によって、日本の大転換が画されたにもかかわらず、あたかも何ごともなかったかのように、朝が明け、私はいつものように、愛犬コロの散歩に「平和公園」という近くの公園にゆき、いつものようにコロの便を拾って家に帰りました。老若男女が散歩とジョギングを愉しみ、よく出会う若者と、今日は蒸し暑いねえと挨拶を交わし、何ごともなく今日の一日がはじまりました。戦後日本マンガの思想的な分析を試みて、昼食をとり、スポーツ・ジムに行ってサウナで汗を流し、夕刊を見て、宮尾さんの詩を目にしたのです。ナチスのファッシズムは、血で血を洗うような修羅をくぐりぬけて、独裁への道を爆走していきましたが、日本では何ごともないかのように、地獄への幕が切って落とされたのです。現代のファッシズムは、ソフトに微笑しながらフレンドリーに進んでいくのでしょうか。
 宮尾さんは、毎日のように報道される虐待死やイジメ自殺、ネットの掲示板でののしり合い、満員電車の無表情な人々に胸を痛め、直観で筆を走らせたそうですが、表面的な明るい日常の裏側に、寒々とした地獄のような荒廃の風景がひろがっています。平安末期の『地獄草紙』(奈良国立博物館蔵)は、悪業の報いとして地獄に堕ちた人の姿を描き、生前に汚物を他人に食べさせた者は巨大な蜂に生きながら喰われ(膿血所)、生き物を苛んだ者は怪獣のような鶏に焼き殺され(鶏地獄)、人の物を奪った者は羅刹によって鉄の臼で焼かれ(鉄臼所)、深い闇のなかで素裸で鮮血にまみれる人々の壮絶な苦しみが、すさまじいイマジネーションでリアルに描かれています。『地獄草紙』は、仏教経典の『起世経』の地獄品にある八大地獄(活大地獄・黒大地獄・合大地獄・叫喚大地獄・大叫喚大地獄・大熱悩大地獄・阿毘至大地獄)のそれぞれに付随する16の別所(小地獄)を描いていますが、そのひとつの糞尿所地獄では、罪人が煮えたぎった黄色い糞尿のなかで、浮き沈みし、大きな鉄虫(針口虫)に身体をあちこち食い破られ、血がにじみ出ています。その詞書きには、次の言葉が記されています。

 むかし人とありしとき、こころをろかにしてきよからぬ物をきよしとおもひ、きたなからぬものをきたなしとおもひ、仏法にあひながら、三宝をうやまふ心なきもの、この地獄にをつ   

 日本のアベ某とかいう首相も、こころをろかにしてきよからぬいくさをきよしとおもひ、きたらからぬ九条をきたなしとおもひ、平和にあひながら、憲法をうやまふ心なきもの、この地獄にをつ・・・『地獄草紙』の「鬼の厠地獄」では、たんに三宝(仏・法・僧)に帰依しなかったために責められるのではなく、子を愛するがゆえに自らも罪を犯して地獄に転生した母が鉄虫となって、自分の子を貪り喰うという設定になっていますが、アベ某とかいう首相は、地獄に墜ちる前に、現世で日本と日本国民を貪り喰っています。それほどに、アベ某とかいう首相の業は深く、地獄に墜ちなければ分からぬほどの狂信にあり、地獄に墜ちてはじめて救われるのです。(2014/7/9)

われ、炎となりて−焼身抗議のめくるめく非対称性のイメージ
 7月1日の戦争国家への転換をめざす閣議決定に抗議し、29日に60才くらいの背広姿の男性が焼身自殺を図り、重症を負って病院に収容されました。6月29日午後1時頃、JR新宿駅南口付近の歩道橋の地上約10mの屋根によじのぼり、集団的自衛権の行使容認に反対する演説をはじめ、午後2時過ぎにガソリンの入ったペットボトルの液体を被ってライターに火をつけました。このニュースは、新聞の片隅に小さな記事として30日の朝刊に載りました(朝日新聞6月30日)。
 私は学生であった1960年代のことをあざやかに思いおこしました。当時はアメリカのベトナム侵略戦争のまっただなかで、焼身自殺が全世界で試みられ、1963年にベトナムの仏教僧クアン・ドオクさんが軍事政権の仏教弾圧に抗議して、蓮華坐で燃えさかる炎に包まれて死んでいく姿が全世界に写真配信されて衝撃を与え、これを契機にベトナム僧の焼身が相次ぎました。法華経第28品では、薬師如来が供養として身を焼く話があり、仏教徒たちは独裁にたいする抗議の最後の手段として焼身自殺を選びました。
 1965年には、ドイツからアメリカに亡命したクエーカー教徒の米国人アリス・ハーズさんが、アメリカの戦争政策に抗議して焼身し、続いて8名のアメリカ人が焼身自殺しました(芝田進午『われ、炎となりて』青木書店参照)。日本では、エスペランテイストの由比忠之進さんが米軍の北爆に抗議して焼身し、江藤小三郎さんが1969年に建国記念日に抗議して焼身し、1975年には船本州治さんが米軍に抗議して嘉手納基地前で焼身しました。こうして全世界で反戦平和の運動が圧倒的な存在感を示す契機がつくりだされたのです。いまは中国の少数民族支配に抗議して、チベット仏教徒が2009年から12年にかけて80名以上が焼身しています。昨年のチベット旅行で、自動小銃で武装した中国兵がものものしく街を行進する光景に恐怖を覚えたことを思い出します。
 1960年代から70年代の焼身は、新聞の1面のトップで報道されて、強烈なメッセージ性をはなって社会に大きな影響をあたえましたが、昨日の焼身未遂は3面記事の片隅に小さく報道されただけでした。これは未遂だったから報道価値がうすくなったのではなく、焼身自殺というパフォーマンスそのもののイメージがインパクトを失ったことにあるのでしょうか。それとも、社会的な事象にたいする興味や関心がなくなっていることを示しているのでしょうか。だとすれば、この数十年で市民社会の意識に起こっている変化は、私たちの予想をこえた変容が深部で進んでいるような気がします。ひょっとしたら、日本の軍隊がどこかで戦争を始め、殺し殺される修羅の世界となっても、見て見ぬふりをして日常を過ごしていく末期的な時代になったのでしょうか。焼身という行為がもはや刺激的な意味を持たないほどに、暴力の文化が蔓延し、人間的な感性の弛緩とマヒが深化し、リアルな世界とバーチャルな世界の境界が融解し、まるで劇画的なパフォーマンスを見るように焼身を見ているのでしょうか。たしかに湾岸戦争以降、戦争はデイスプレー上のバーチャルなスポット攻撃となり、コンピュータで操作される無人飛行機などの無機的な武器が、殺す側のリアルな感性を消滅させ、戦争そのものイメージが融解していきました。
 しかし、大都会の片隅で試みられた60才頃の男性の焼身は、明らかにいのちを賭した最後の行為であり、60年代の命を賭けたメッセージと変わるところはありません。1960年代と21世紀初頭のめくるめくようなイメージの非対称性に呆然といたしますが、戦争とファッシズムの事態そのものは厳然とリアルに進行しており、日本は近い将来に殺し殺されるリアリズムの悲劇を身体的に味わうこととなります。今回の焼身未遂の全貌はまだ判然としませんので、結論的なことはいえませんが、事実をめぐる情報があきらかになるなかで、日本の現存在にある本質にせまる考察が求められるのではないでしょうか。(2014/6/30)

抗命権・抗命の義務
 抗命権とは、上官の命令に絶対に服従しなければならない特別権力関係にある組織(例えば、軍隊や警察)で、違法な命令には従わなくてもよい権利をいいます。ドイツ軍法には、人の尊厳を傷つける命令など違法な命令には従わなくてもよいとする規定があり、さらに従ってはならないとする抗命の義務が規定されているそうです。つまり、ドイツ軍の兵士は一人一人が命令の適否を自分で判断する権利と義務があるのです。2003年のイラク戦争で、ドイツ軍のある少佐がイラク戦争は国際法違反で米軍には協力できないとして任務を拒否し、裁判にかけられましたが結果は無罪となりました。ドイツはどうしてこのような軍法を置いたのでしょうか。それはナチス期にさかのぼる痛苦の体験があるからです。
 ナチス独裁時にドイツ国防軍がナチスに抵抗できず、悲惨な侵略と敗戦をまねいた経験をもとに、独裁に抵抗して民主主義まもるために、閉ざされた志願制の軍隊ではなく、軍隊を市民軍とするために徴兵制を採用しました(これ以外に冷戦体制時の東独に対抗する目的もあったと思いますが)。徴兵制を軍国主義の完成ととらえる日本とは逆に、ドイツは徴兵制を民主主義の防波堤と考えたのです。ここには、多くの国で市民軍が編成されて王制を打倒する革命軍へと転化してきた欧州の歴史もあるような気がします。ところがドイツの国家財政がゆきづまり、軍事費削減のために小規模で高能力の軍隊再編にむけて、徴兵制を廃止して志願制に切り替えました。このときに、ふたたびかっての国防軍のような事態をくりかえさないために、抗命権と抗命の義務という核心的な規定を残したのです。アメリカも、1973年のベトナム戦争での敗北を契機に、徴兵制を廃止して志願制に切り替えましたが、志願の中身は進学費用の支給や優先入学などの制度によって、主として貧困層の若者たちで編成されており、戦場体験で多くの自殺者やPTSDがうみだされ、多くの市民は軍隊を他人ごとのようにみなし、反戦平和運動が衰え、政府が戦争をし易くなりました。
 これにたいし日本はどうでしょうか。戦時期には、1銭5厘の郵便切手が貼られた召集令状によって、いとも簡単に徴兵され、すさまじい内務規律によってイジメと暴力が横行する軍隊がつくりだされ、上官の命令は天皇の命令と心得よという軍人勅諭によって、抗命すれば軍法会議で裁かれるばかりか、ふるさとに残された家族も村八分となってしまいました。こうして捕虜や無辜の市民を惨殺する非人道的な命令をも、みずから進んでおこなうような歴史上もっとも凶暴な軍隊となりました。こうした悲惨な体験は2度といくさをしないと憲法9条となって結実したのですが、残念ながら、なにかおかしいと思っても異議を唱えず、空気をよんでまわりにあわせるKY文化はなくならず、いまはもっと深化しているような気がします。
 さて、現在の自衛隊は日本の防衛に限定された軍隊であり、他国の戦争に参加することを絶対に禁じられており、自衛隊員の方々はそれを誓約して入隊しています。もし集団的自衛権の改憲クーデターがおこなわれたら、それは政府がみずから違憲行為をおこなうのですから、もしドイツ軍であれば全兵士に抗命の義務が生じますが、自衛隊ではどうなるでしょうか。自衛隊の方々は、こころのなかではおかしいと思いながら、自分は間違った人殺しができるのだろうか、といま煩悶しています。しかし、現行の自衛隊法には抗命権はおろか抗命の義務はなく、選ぶ道は泣く泣く戦地に行くか、除隊するか、特別権力関係による命令を拒否して裁かれる道をえらぶか、決定的な判断をせまられます。しかし、集団的自衛権の導入は明らかな憲法違反ですから、多くの裁判で無罪判決が出る確率が高まります。こうした矛盾をのりきるために、政府は特別裁判所である軍法会議の設置などをめざしますが、これもまた憲法で禁止されていますから、行きつくところ現行憲法の全面改定を選ぶことになります。日本のすみずみにあるKY文化が根底から問われる決定的な瞬間が近づいてこようとしています。以上は、朝日新聞6月29日参照。(2014/6/29)

托卵国家の悲劇
 カッコウはほかの鳥の巣に卵を産んで子育てをさせる托卵をおこないます。日本に5月頃飛来して繁殖する夏鳥であるカッコウは、オオヨシキリやホオジロ、モズ、オナガなどさまざまな鳥の巣に托卵していきます。カッコウの卵は孵化すると、まだ孵化していない托卵相手の鳥の卵を巣の外に墜とし、餌を独り占めします。カッコウの托卵は相手の鳥にとって存続にかかわる大問題であり、相手の鳥は自分の卵の殻の模様を変えて区別するように進化していきますが、カッコウもまたそれに合わせて自分の卵の模様を変えて進化していきます。托卵相手の鳥は産んだ複数の卵の殻に高度なくり返しのパターンをつけて複雑にし、カッコウが托卵するとその卵を見つけ出して排除しようとしますが、カッコウもまたそれをのりこえる工夫をこらします。以上は『ネイチャー・コミュニケーションズ』6月18日付け参照。
 この托卵のシステムは、まさにいまの日米関係のアレゴリーではありませんか。カッコウである米国は、日本に無数の米軍基地を托卵して、日本人の卵である所有地を奪って突き落とし、膨大な思いやり予算でカッコウの雛を育てさせ、サッサと海外の戦場に巣立っていきます。カッコウは、日本列島で日本の卵をたたき落とし、1952年から2010年の間で、208029件の事件を起こし、1088人の日本人が死にましたが、犯人は米国本土に引き上げて裁かれることもない犯罪の天国をつくりあげました。カッコウたる米国は、俺の卵を育てれば、お前が危ない時に助けてやると約束して托卵してきましたが、カッコウの「非戦闘員救出作戦(NEO)」は英国とカナダの市民は助けるが、日本はその他大勢の外国人であり、一番後回しとなっていることが明らかとなりました。日本でもカッコウの欺瞞を見抜いて、托卵を拒否する市民の動きがありますが、托卵の所在地は主として沖縄に集中しているため、多くの国民は沖縄に托卵を押しつけて安全を確保する道を選ぼうとしています。政府はもっとおめでたい態度をとり、カッコウに媚びへつらいながら、約束を信じこんで、自分の国土と国民を犠牲にしてまでも、せっせと忠勤を励んでいます。世界の鳥を代表するサミットという国際鳥会議でも、カッコウはまったく日本を相手にせず、むしろ急成長してきた中国鳥に気をつかうようになり、追いつめられた托卵国家はもっとカッコウにすがりついて忠勤を励むために、自分の巣そのものをカッコウにさしだし、一緒に戦争する戦闘指揮権を譲るというまでになりました。カッコウは、逆にこうした托卵国家を軽蔑して苦々しく見つめているのですが、それにも気がつかないでマンガのような狂気の道に進んでいこうとしています。カッコウの托卵システムは無限に進化していき、東アジアの島国の巣はいま崩壊の危機に瀕しています。(2014/6/22)

日本人は、最後の「その他外国人」に位置づけられているのか!?るでトヨタのモヤシ広告に似ている!?
 集団的自衛のモデルケースとして、朝鮮半島での戦争で「避難する日本人を輸送する米国船を守る」事態を想定していますが、なんと米政府自身が拒絶しているそうです。「日米防衛協力ガイドライン」改訂(1997年)をうけた周辺事態法(1998年)の作成時に、「非戦闘員救出作戦(NEO)」は米政府の強い意向で排除され、米軍の海外民間人の救出作戦の優先順位は、「@米国籍保持者A米国グリーンカード(永住権取得者)B英国民、カナダ国民Cその他外国人」の4段階に設定され、日本人は最後の「その他外国人」に位置づけられているとされています(防衛研究所「軍隊による在外自国民保護活動と国際法」、『防衛研究所紀要』2002年2月所収)。たしかに韓国には、米国民約20万人、日本国民約3万人が居住していますが、米軍は20万人の自国民を優先し、日本人を優先して救出することはありえないでしょう。ベトナム戦争で首都サイゴンが陥落した時に、逃げ落ちる米艦船に乗船したのは米国人であり、その米国人でさえ多くが海に沈んでいくシーンを私たちは目撃しました。日本人を救出する米艦船を支援するなどという「美しい」甘えの虚構のシナリオが、いかに欺瞞的なマンガであることは明らかです。
 周辺事態法では、朝鮮半島での戦争で米軍への後方支援と実質的な韓国防衛を約束していますが、米政府は日本国民の救出を事実上想定していないし、できるはずもないのです。自国民の避難は自国で責任を負うのが大原則ですが、現在の韓国政府が自衛隊機や艦船を韓国の領土内に受けいれることがないことは、アベなんとかの靖国参拝や従軍慰安婦問題で明らかです。こうして日米安保条約に基づく「日米同盟」関係がいかに脆弱で、忠犬ポチ公のように媚びへつらう一方的な関係であることが明らかとなっています。朝鮮半島で戦争が起きれば、日本の米軍基地が標的になることは明らかであり、要するに日本列島に米軍基地があることが、危機の主要な要因となっているのです。
 想定上の仮想の議論を積み重ねることがいかに非生産的であるかは、日中韓の経済的な関係がシステムとして埋め込まれ、どのような戦争もありえない相互依存の質が深化していることがあります。アベなんとかが、風車に突撃するドン・キホーテのように戯画的に暴走しているのは、日本の国内経済が軍需と原発、五輪やリニアのような巨大プロジェクトなしに再生できないと思い込んでいるところにあります。とくに軍需産業の利潤の極大化は、戦時システムの構築なしにありえませんから、必死で戦争の危機を煽って軍需予算を増やす死の商人の暗躍をもたらしています。50年後や100年後の未来世代を想定した議論が今ほど求められる時はありません。
 と思いきや、どうもこの構造は法人税を払わないトヨタの広告にどこか似ているのです。トヨタが史上最高の利益を上げた2008〜12年の5年間で法人税を支払っていない理由は、国内外の子会社からの株式配当などを所得から差し引く受取配当収益金不算入制度を利用して利益を圧縮し、研究費の1割を税額から差し引く試験研究費税額控除を利用して、黒字を赤字とカラクリ決算したのです。そしてトヨタは4月23日付けの日経に、「この4月から消費税が8%に上がった。・・・たとえばモヤシのような安価な食材も、工夫次第では立派な主菜になる。節約はじつは生活を豊かにするのだと気づけば、増税もまた楽しからずやだ」という広告を打ったのです。たしかに、節約の限りを尽くして下請けに転嫁して史上最高の利益を上げるトヨタ・システムの本質をあらわしていますが、トヨタ社長はモヤシをほんとうに食べているのか、疑問なしとしません。ということは、死の商人がしこたま稼いでいる舞台の背後で、多くの若者が戦死することを求めるアベなんとかの構図とよく似ていませんか。以上は朝日新聞6月16日付け参照。(2014/6/16)

大江健三郎氏は、小説を書くことを諦めたのか!?
 10日に渋谷公会堂で開かれた「9条の会」10周年記念講演会で、大江健三郎氏は「昨年暮れに小説を書くことを締めくくりました。もう小説を書いているとは言えません。ここにきて得心ができました。(中略)加藤周一さんは、非常に大きな根本的な危険が訪れていると見抜いていました。(中略)私は文学より他のことをしなくてはならないと感じるようになりました」と述べています。彼は相当な覚悟をもって、時代の危機を受けとめているようです。たしかに、現在の日本の危機は過去の危機とは異質の根元的なものであり、人間が殺し合う戦争システムへの転換と原発再稼働による核危機、地球温暖化による2050年代の日本列島の亜熱帯への移行など、取り返しのつかない不可逆的な破局の複合的な大災厄の到来を意味しています。人類史上の過去の大災厄は、膨大な犠牲をもたらしましたが、なお明日の地球はふたたび回復して、歴史をきざみ始めるという未来への可能性を潜在していましたが、現在の危機は地球と日本列島の生存そのものが終末を迎える生命の断絶を意味しています。文学者の鋭い想像力は、こうした異質の危機を見抜き、もはや机の上で小説を書くなどという行為は許されないというせっぱ詰まった極限の意識へといたったようです。大江氏が文学を捨てて街頭に出るという決意を表明したことは、現在の日本が決定的な選択の瞬間にあることを象徴しており、すべての日本列島に生きる人たちが、わが行く末と次世代への責任の判断を迫られていることを意味しています。
 こうした事態は、欧州の現代史で言えば、ファッシズムとナチス占領に直面した市民たちの決定的な選択に似ています。フランスの歴史家マルク・ブロックが、歴史研究を捨ててレジスタンスの地下活動に参加し、親衛隊に逮捕されて拷問を受け、恐怖におののく少年を励ましつつ、野原で銃殺されていった事例を思い浮かべます。もはや、あれこれと時代の推移をながめつつ、評論して解説する時ではないのです。知恵ある者は知恵を、カネある者はカネを、ちからある者はちからを、思想と信条をこえてすべての人が戦争と核の終末の危機を前に、一歩前に進みでて出て”No PASARAN”と声をあげる時です。まだ生まれこぬ命たちは、のちの世になって、善かれ悪しかれ2014年が日本の現代史の画期的な転換の年となったと教科書で学ぶでしょう。そして、2014年を生きた大人たちに、「あなたは2014年になにをしていたのか!?」と問いかけるでしょう。
 私自身も、目の前で動いていく歴史を歴史をみると、いまほどに歴史がほんとうに人間の判断でつくられ、動いていくものだという実感を覚えています。そして、巨大な歴史の動態と、営々と営まれている市民的な日常のめくるめくような乖離の実感を抱きます。すべての市民がが職業生活を捨てて、大江氏のような選択をすることはできませんし、むしろ私は大江氏は最後のちからをふり絞って、生涯最後の作品を書くべきではないかと思うのですが、誰もがナチスの無差別爆撃を告発する≪ゲルニカ≫を描くことはできないように、大江氏の選択はかれ自身の最善の選択であるのかも知れません。それぞれの人が、みずからの日常の営為のなかで、みずからの≪ゲルニカ≫を紡ぎだして歴史の表舞台に登場することはできます。「いまは激動の時代ではなく、激突の時代であり、すべての人が主人公となって歴史の表舞台に登場する時だ」とある財界人が言いましたが、ふりかえって悔いることのない選択の真っただ中の瞬間にあることはたしかです。
 いまもっとも苦衷にあるのは、自衛官とその家族の皆さんではないだろうか。自衛官の方々は、現行憲法と自衛隊法への遵守を誓約して自衛官に就任したのです。ところが、ある日突然最高司令官がいままでの解釈は間違っていた、自国の防衛とは無関係の戦争であっても、見知らぬ他国の人との戦闘で、命を捨てるのが正しい解釈なのだと言い始めたのです。入隊のときに交わした誓約はいったいなんだったのか、誓約した覚えのない戦闘で血を流す義務が生じようとは! いったい家族にどう説明すればいいのか? たしかに私たちは上官の命令に絶対に服従する特別権力関係にあるが、それは憲法と自衛隊法の「法の支配」を根拠にしているからではなかったのか! 私は、現行憲法と自衛隊法に忠実でありたい、しかし最高司令官の命令に絶対に服従しなければならない、私は軍法会議に付されることになるのだろうか、私はいったいどうすればいいのか!(2014/6/12)

NO PASARAN!(奴らを通すな!)ーなんと懐かしい言葉だ!
 ”ノーパサラン”は、戦前期のスペイン人民戦線政府の指導者であり、ラ・パッショナリア(情熱の花)と呼ばれたスペイン共産党の女性議長ドロレス・イバルリが、反乱軍フランク将軍によるマドリード包囲に降服を選ぼうとした政府軍司令官に反対し、ラジオ放送ですべての市民にマドリード死守を呼びかけ、”跪いて生きるよりは、立って死んだ方がましだ、奴らを通すな!”という有名な演説の最後の言葉です。イバルリの政治戦略にたいする評価は、スペイン人民戦線史の膨大な研究の蓄積の結果から定まってくるでしょうが、紛れもなく反ファッシズム運動を鼓舞した女性として歴史に刻まれることは間違いありません。驚いたことに、この言葉が5月29日にフランス全土でくりひろげられた高校生のデモで現代によみがえりました。
 このデモは、25日投票の欧州議会選挙で移民排斥を掲げる極右・国民戦線(FN)が4人に1人という得票で第1党に躍りでたことに危機感を抱いた、フランスの高校生たちがおこなったものです。
デモを主催した独立民主高校生連盟、全国学生連合は、「(選挙結果は民主主義の深刻な危機であり、若者は平等と連帯の価値観をもっている。極右が私たちの代弁者になることを拒否する」と声明を発しています。注目すべきは、デモのきっかけは、マルセイユの1人の男子高校生(17)が自分のフェイスブックで「FNの人種差別、外国人嫌悪や憎悪、閉鎖性を告発し、フランス人はこれらの価値観を共有しないと表明しよう」と呼びかけ、即座に多くの青年団体がこれに応じたところにあり、現代のネット民主主義の可能性を実感させます。
 危機の時代には、ハードな批判をくりかえす勢力に魅力を覚えて、投票は右翼と左翼に両極分解しますが、今回の欧州議会選挙ではドイツ左翼党(7,4%)、チェコ・モラビア共産党(10,98%)などが従来のちからを維持し、欧州統一左翼/北欧緑左翼はギリシャ、スペイン、イタリアの南欧で驚異的な得票をしましたが、左翼イメージの強いフランスのみがなぜ極右の伸長を許すようなことになったのか、よく分析してみる必要があります。フランスの世論調査では、35才以下の約30%がFNに投票したとしていますから、青年層の少なからぬ部分が極右に向かったのです。ここにはかって、ユダヤ人をナチスに売りわたしたナチス占領期のヴィシー政権を支持したフランス市民と似たような心性があります。
 にもかかわらず、選挙権がない自分たちの意思表示の方法はデモしかないとし、直ちに街頭に出るフランスの高校生の姿は、やはりフランスの民主主義が深く生活の意識に根づいていることを示します。こうした高校生の全国組織があること自体が驚きであり、しかも、この高校生たちのスローガンが”No PASARAN”という歴史的な反ファッシズムのものであることに、私はいたく感銘を受けたのです。フランスの15歳前後の若者たちが、この言葉を知っていると云うことは、1930年代のフランスとイタリアの人民戦線運動の歴史がしっかりと学校教育に根づいていることを示しています。
 ひるがえって、東アジアのある島国でも極右が大量に議会に進出し、若者の少なくない部分がまるでタレントを支持するように投票していますが、フランスの高校生のような運動が起こらないのはなぜでしょう。ここに、日本の未来を決めるような大きな問題が潜んでいるように思うのです。民衆が血を流して王を処刑して市民革命をおこなった国と、葵から菊に印籠をすげ替えただけの国の歴史の違いに還元したとしたら、あまり生産性はありません。日本の若者たちが、日本風の”NO PASARAN!”を叫びながら、街の中を行進していく姿を一度は見てみたいと思うのです。英雄があらわれないような国は不幸だが、英雄を必要とするような国はもっと不幸だ(ブレヒト)にちなんで云えば、若者が活躍しないような国は不幸だが、若者の活躍を必要とするような国はもっと不幸だーとなるでしょうか。(2014/6/3)

この程度の知性が、太平洋戦争を指導したのか!?
 極東国際軍事裁判(東京裁判)は、平和にたいする罪、戦争犯罪、人道にたいする罪で戦犯を裁き、最高指導者をA級、一般将兵をB・C級と区分しましたが、ドイツが時効を廃止して現在も戦犯追及をしているのにたいし、日本では終身刑の被告を仮釈放し、公職に復帰させています。文化放送が1956年4月のラジオ放送で流した仮釈放されたA級戦犯のインタビューで、、被告たちは次のように語っています。なおA級戦犯は、東条英機ら7名が絞首刑となり、18人が終身刑・有期刑となりましたが、その後全員が仮出所し、78年に靖国神社は「昭和殉難者」として合祀しています。A級戦犯に指定されながら起訴を免れた人物には、岸信介(のち首相)や正力松太郎(読売社主)、児玉誉士夫(右翼)などがいます。

 橋本欣五郎(陸軍大佐、陸軍桜会を組織し、極右クーデターを首謀)外国に対してあいすまないとは、1つも思っておらない
 賀屋興宣(蔵相、戦後法相)敗戦は誰の責任か。我々の責任ではない。それはだな、我々がけしからんといって憤慨するのは少し筋違いじゃあないか・・・あらゆる責任は、いわゆる軍閥が主です
 鈴木貞一(陸軍中将、企画院総裁として東条英機の側近)もし国民が戦争を本当に欲しないというのが政治の上に反映しておれば、できないわけなんだ。だから日本は政治の力が足りなかった。国民の政治力が(足りなかった)
 荒木貞夫(陸軍大将、軍部皇道派の領袖)勝ったとは云わせない。負けたとは私は云わん。あの時に(米軍が)上陸してご覧なさい・・・血は流したかもしれんけど、惨憺たる光景を敵軍が受けたと思いますね・・・だから敗戦とは云ってないよ。終戦と云っとる。この戦争は、アメリカの野心による戦争への誘導に日本が落ちたんだ。これを侵略国などと云うのはあたらない

 こうしたA級戦犯の発言にたいし、治安維持法で検挙された有沢広巳(法大総長)は同じ番組で、「この人々はやっぱり戦争の責任者。われわれに弾圧を加えた時の権力者はこの人々だった。民主主義の権利を狭める動きに一歩を譲れば、百歩を譲ることになる。一歩のうちに民主主義を守らなければならない」と批判していますが、この言葉は今も新鮮に響いてきます。

 ニュルンベルグ裁判では、多くの被告が特別権力関係論によって命令には従わざるをえなかったと自己弁護していますが、ドイツを敗戦に導いたみずからの責任そのものは認めています(カイテル独国防軍総司令官)。日本のA級戦犯のモラル水準は、いっさいの自己責任を逃れて、他者に転嫁しようとしているところにあらわれています。A級戦犯の末裔である現在の首相の精神構造もまた同じです。同じような精神風景が、いまの日本の企業や学園、地域に広がってはいないでしょうか? 「放射能はクヨクヨしている者にはきますが、ニコニコしている者のところにはきません」と云って、ヨウ素剤の配布をストップし、被曝地から避難させなかった御用医学者が、いまも高笑いしながら医学を講義している姿は、戦前期以降の日本の責任感覚がまったく変わっていないことを示しています。
 こうしたことは、日本の右翼がどの程度の知性にあるのかを市民が知ることができ、いっさいの幻想をぬぐい去ってその限りで有益ですが、なぜこうした貧しい知性の持ち主が権力を握るのかについては、よくよく考えてみる必要があります。とくに新大久保でヘイトスピーチに参加している皆さんは、またふたたび自分が騙されているのを知って、みずからをふり返ることができます。誤りは1度目は悲劇として起こり、2度目が茶番の喜劇として起こるまえに食いとめねばなりません。(2014/5/25)

樋口英明氏を内閣法制局長官に起用すべきではないでしょうか!
 大飯原発3,4号機の再稼働を違憲とした福井地裁判決を主導した樋口英明氏は、発狂したように暴走する日本列島に立ちはだかって、最期の警告を発する理性の輝きを放って閃光のように流れていった彗星のようにみえます。なによりも、原発は憲法13条(生命・自由・幸福追求権)と25条(健康で文化的な最低生活を営む権利)という人類の到達した尊厳に原理的に背理し、人格権を経済と取引してきた従来の司法判断をこえ、人類と原発の共存はできないとし、実質的に廃炉を勧告している点に、記念碑な不滅の意味があります。この判決は、原発が消え去って自然エネルギーで豊かな循環を実現する21世紀の選択をたぐりよせ、将来の学校教科書は日本列島を破滅から救った判決として記録するに違いありません。
 彼の判決は、生活と生命の気高い倫理的なレベルを告知し、現在のあてどなく漂流する日本の危うい状況に、文明論的な示唆をくわえています。「人格は人の生命を基礎とするもの(中略)これを超える価値を見いだすことはできない」とし、人間的な生存の原点を示し、人間の尊厳をうばう大災厄を「大きな自然災害」「戦争」「原発事故」の3つにもとめ、ここには確率論的な安全性はないとしています。こうした判決を読んでいくと、電力会社の幸福論がいかに浅薄で醜悪なものであるか、それを残念ながら認めてきた市民の正義論がいかに脆弱なものであったかを白日の下にさらしています。「(原発の停止による国富の流出論はまちがいであり)豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」とし、おそらくはドイツの倫理委員会の報告書を元にした「豊かさ」論を展開し、さらに原発はCO2を削減できるという電力会社の主張に、「福島事故は日本最大の環境汚染であり、環境問題を再稼働の理由にするのは甚だしく筋違い」として、生まれくる未来世代に責任を持つ環境的正義の思想を述べています。
 この判決は、形而上的な観念論ではなく、基準値震動と炉心溶融の限界点を予防原則という科学的な基準で判定し、冷却機能の絶対的な限界による熱制御の不可能性を明らかにし、近い将来の原発事故を「現実的で切迫した危険」と指摘し、最大限の警告を発しています。福島原発事故で政府は、チェルノブイリと同じ250km圏内の避難を検討しましたが、判決は「この数字は直ちに過大であるとすることはできない」としています。いま日本列島にある16原発から250kmの同心円を描けば、北海道の北部と沖縄を除いて逃れるところはありません。樋口氏を左翼判事と呼んだり、感情に流れる判決だと非難する人がいますが、そのような批判者はみずからの思考と感性が、憲法原理から遠く離れていることをはしなくも示しています。
 もしこの判決に政府や電力会社が従わなければ、彼らはみずから人間的な良心が完全に欠落し、日本の統治をになう資格がないことを告げ、日本を破滅に追い込んだ悪魔の役割を演じることになります。すくなくとも、政府は樋口氏を内閣法制局長官に任命し、正確な憲法判断ができるような体制を整える必要があるようにおもいます。そうすれば、軍用機の騒音で生活を権を侵された軍事基地の近くに住む人々は、自衛隊機の騒音は差し止めるが、米軍機の騒音は野放しにするダブル・スタンダードから逃れることができるでしょう。米軍機が日本人の生命と健康を蹂躙して、他国の空を勝手に飛び回る姿は、明治期の外国人犯罪を裁けなかった治外法権そのものであり、星条旗に奴隷のように媚びへつらって命を投げだすように求める政府の姿に、彼は違憲の宣告を発するでしょう。それは、樋口氏を樋口氏たらしめたのは、日本列島のすみずみに広がる無辜の市民たちの良心でもあったことを示し、日本はやっと「普通の国」にもどることができます。この判決は日本の維持可能性をしめす最後の砦となり、その砦を守るかどうかはわたしたち市民にかかっています。(2014/5/23)

なんとも哀しいアナクロニズムの極地ー「清明心」が日本人の最高のモラルとは!?
 特定の価値観を強いて市民の内面の自由に泥足でふみこむ全体主義の教育として、戦前の修身科は廃止されたのですが、政府はまたぞろ道徳科を設けて、子どもの心を5段階で評価するそうです。今すすめられている道徳科の教科書の中心となる価値は、「清明心」という神道のお祓いの思想に置くとしています。「清明心」を信条としたい人は、思想・信条の自由でいいのですが、仏教やクリスチャン、無宗教の人もいるグローバル化している日本の学校で、特定の神道思想を強要する野蛮は目をおおわしめるものがあります。イスラム圏を除いて、近代国家は聖俗を分離し、特定の宗教的な価値を市民に強要することを禁じており、政府は近代原理のイロハが分かっていないようです。
 「清明心=清き明るき心」は、『古事記』に登場する至上の心情倫理であり、罪を犯す「黒き穢れたる心」を禊ぎやお祓いによって、きれいに水に洗い流してしまえば、穢れなき澄んだ心に立ち戻ることができるという意味です。ここまでは形而上的な価値に過ぎないのですが、古代の「黒き穢れたる心」の実体は、天皇制統一国家の形成に従わない地方豪族の心を意味し、「清明心」は身を捨てて天皇に尽くす天皇信仰を指しました。明治政府はこの価値観を「教育勅語」(1980年)に導入し、大いなるPaPaたる天皇のために命を投げだす臣民の育成に向けて、巨大な影響力を行使しました。それでも近代市民の思想に依拠して、必ずしも天皇を神と讃えない潮流が生まれ、政府は「国体の本義」(1937年)によって、子が親に従うように天皇を従って戦場に行けと命じました。天皇への忠誠は、アジア人への蔑視に暗転し、2000万人を超すアジア人を虐殺し、日本自身も300万人が犠牲となる大惨事をもたらし、戦後の国会は「教育勅語」と「国体の本義」は国民を強制的に操作したマインド・コントロールであったとして、その失効を決議しました。近代原理に背反し、歴史的な大災厄をもたらした観念をまたぞろ持ち出すところに、極右の決定的な未来構想力の欠落があり、それは新大久保でヘイト・スピーチに狂奔する街頭右翼の野蛮と本質的に同じです。戦後日本の価値のスタンダードは、市民が主権者となる民主、2度と殺しをしない平和、誰も奪えない基本的人権の3つであり、もし学校での道徳があるとすれば、この3つの原理にしかありません。
 「歴史はくりかえす、1度目は悲劇として、2度目は茶番の喜劇として」というヘーゲルやマルクスの言葉が、いま実際にあらわれているようで、笑えないのは2度目の喜劇の後にはもはや歴史そのものがなくなって、日本から歴史そのものが姿を消していくからです。日本列島に生きる人がすべて、「清明心」を身につけて身を捨てて国に報じ、天皇に献身するイメージは、あらゆるイマジネーションをこえたマンガ的な終焉の世界でしかありません。
 原発事故の数日後に原発に留まった「フクシマ・フィフテイ(福島の50人)」の英雄物語の虚妄が露わとなりました。福島原発所長の命令に従わないで、職員の9割にあたる650名が現場を捨てて逃げていたことが明らかとなりました。彼らは、東北と関東が全滅するかどうかの瀬戸際にあって、死を覚悟して原子炉に突入するのか、それとも逃げるのかの決定的瞬間の選択を迫られ、逃げたのです。この事態は、もはや原発の業務が、命令違反を抗命罪として処刑を含む処分に付す軍隊のような特別関係でしか営めないことを示しています。おそらく現在の企業の労務契約では、こうした極限状況での個人の行為は努力義務でしか規定できないでしょう。チェルノブイリ発電所の所長は銃殺刑となり、韓国の旅客船の沈没で船を捨てて逃げた船長以下の乗組員は殺人罪で起訴されていますが、日本では同じ行為が捜査の対象にもなりません。日本では、自分だけ助かりたいという「黒き穢れたる心」は、きれいに水に流して「清き明るき心」にもどれば、許されるのです。福島原発事故でどこの誰一人として、責任を問われていないという驚くべき実態は、外国からは奇異なる文化とみられて侮蔑されています。
 では、福島原発所長以下あえてふみとどまった「フクシマ・フィフテーン」はほんとうに英雄的にふるまったのでしょうか。東電は3・11の3日後の14日に、注入水がなくなった3号機の格納容器が壊れるのを防ぐために、高濃度放射能を人為的に外気に放出するドライベントをすすめたことが明らかになりました。政府はその時に、3号機の危機の情報を秘匿する情報統制をしき、午前7時前の時点で甲状腺癌を引き起こす放射性ヨウ素が南南東の風に乗って北北西にひろがり、3時間で相馬郡付近が250mSvになる事実を隠蔽しました。東電と政府は、住民の命を犠牲にする大量被曝よりも原子炉制御に狂奔したのです。いま問題となっているマンガ「美味しんぼ」の意味があるとすれば、ここのところです。極限に追いつめられた人間は、必ずしも命令に従わず、マニュアル通りにいかないということを前提に原発を位置づける必要があることが明らかとなり、再稼働は悪魔の選択でしかありません。もはや「清明心」が存在するための日本列島という存在そのものが、人の住めない廃墟となります。
 いま福島原発の汚染水の放射能を除去するALPSがトラブルですべて停止し、汚染水の処理が不可能となっています。セシウムを除去して62種類の放射性物質を低減させるアルプスは、トリチウムは除去できず、追いつめられた東電は高濃度汚染水を海に垂れ流し、福島の海は1リットルあたり1700ベクトルの全ベータという過去最高の汚染濃度となり、太平洋全域を汚染します。いま再稼働に向けて11原発18基が安全審査を申請していますが、住民の命と日本列島の崩壊とひきかえに、誰もいなくなった廃墟で原発だけがゴトゴト音を立てて発電しているという終末の光景がひろがろうとしています。こうした国内の極限の矛盾から目をそらして権力を維持しようとする安部なんとかという歴史上最悪の首相は、市民の目を外部に向けさせるために戦争の人殺し政策にのめり込んでいます。対内矛盾を対外矛盾に転化せよーというのが、追いつめられた者の常套手段です。「黒く穢れたる心」とは彼のことを云うのであり、それはいくら禊ぎやお祓いをしても、「洗っても洗っても血が落ちない」として手をぬぐうマクベスとおなじく、もはや「清明心」に立ち戻ることはありません。なぜなら、彼には最初から「清明心」などなかったのですから。以上は朝日新聞5月20,21日付け参照。(2014/5/21)

街は元気か?
 久しぶりに中心市街地の商店街を歩いてみました。昭和初期からの老舗商店街は、一時は近くにできたデパート街に客を奪われ、暴力団の抗争があるなどしてさびれましたが、次世代の若手店主たちが町おこしのとりくみをおこない、大道芸や祭などのイヴェントを企画して、じょじょに客が戻り始め、いまでは古着屋はやアジアン・ファッションその他メジャーが参入できない業態で復興し、毎日が祭日のような雰囲気となって、奇跡的な復興をとげ、若者からお年寄りまで賑わっています。日曜日の今日は、商店街のあちこちの空き地で街頭音楽祭が開かれ、老若男女が集まっています。私は、東京芸能音楽集団とか云う昭和のレトロ歌謡曲の唄を聞きました。30歳前後の3人グループは、アコーデオンとコントラ・バスをバックに歌うレトロなファッションで決めた歌手が朗々と歌っていきます。懐かしいヒット曲が次々と歌われ、よく歌詞を覚えているもんだと感心しました。おひねりが次々と投げ入れられ、かっての青空歌謡の雰囲気が再現されていました。この商店街は、ウルトラ・モダンな繁華街にはない庶民の文化が根づき、健闘していくだろうと思いました。ただし、企画は大手の宣伝会社が参入しているようで、地域に埋め込まれた文化がどうなるか、今後を見ていきたいと思います。
 日本の庶民が楽しく日曜日を過ごしている背後で、原発の再稼働に向けて避難計画が策定され、従来の8〜10km圏が30kmに拡大され、対策がたてられています。シビア・アクシデントの場合は、約20分で炉心溶融が(メルトダウン)はじまり、1時間半ほどで圧力容器に穴が開き、放射能の放出がはじまり、数時間以内の緊急避難が求められます。30km圏プラス10kmに最終避難所があると仮定すると、その範囲の乗用車が一斉に避難すると、最後の人の避難が終わるまでの時間が問題となります。5km圏内の住民が最初に避難する段階的避難が基本ですが、福島の実際は、指示を待たないで避難を始めた住民が多く、それを前提にすると段階的避難は困難です。避難時間は指示を受けて準備する時間、移動時間、完了確認時間の総和ですが、自治体の避難計画は移動時間のみでたてられています。車のない人のために自治体がバスを手配するとしていますが、ほんとうにバスが手配できるのか、歩いてバスに向かうお年寄りをどうするのか、明確ではありません。津波などの複合災害があれば、沿岸道路や橋は使用不能となり、浪江町の場合は12日に指示が出て完了したのは16日です。浜岡原発の避難時間は、高速道路を使用しない場合は自治体の計画をはるかに超える142,5時間です。政府の防災指針は、スリーマイル規模のレベルならある程度は有効ですが、福島レベルでは、5km圏内は被曝がはじまるなかを避難することとなり、30km圏内は放射能の空間線量が毎時500mSvで避難指示が出ることとなっていますので、完全に被曝がはじまってから避難することになります。動かしては危ない入院患者は介護者も含めてその場に留まることとなります。以上は環境経済研究所の試算です。
 政府の避難計画は、実効性がなく、被曝を避けるための避難ではなく、実際には被曝容認計画となっています。住民の避難は不可能なのです。政府の代表は、福島原発で「放射能の害はクヨクヨしている者のところにはくるが、ニコニコ笑っている者のところにはこない」(山下俊一福島県立医大副学長)として、住民に安定ヨウ素の服用させず、SPEEDIの放射能拡散予測のデータを公表しないで、住民を高線量地域にわざわざ避難させ、無用の被曝にさらしました。もはや住民の被曝を止める方法は、原発そのものをなくす以外にないのです。アメリカの映画監督オリバー・ストーンが昨年8月に来日し、沖縄とイスラエルにはなぜ原発がないのかと問いかけましたが、戦略的な中枢の軍事基地に原発のような危ないものは置けないのです。(2014/5/12)

”日本の民主主義が試されている”(『ニューヨーク・タイムズ』5月8日付け社説)
 米紙ニューヨーク・タイムズは、8日付けの社説で「日本の平和憲法」と題し、解釈改憲をねらう安倍首相を批判し、「安部は憲法9条の改定ができないので、憲法の再解釈によって、海外で軍事力を行使できるようにすることをねらっている。しかし、そうしたやりかたは民主的な手続きを完全に損なうもので許されるものではない。安部は憲法のもっとも重要な機能は、権力のチェックにあることを知るべきだ。憲法は政府の気まぐれな思いつきで変更できるものではない。さもなければ憲法などわざわざ持つ必要はない。いま日本の民主主義が試されている」と述べています。アメリカ憲法を一時停止し、虚偽の理由をでっち上げてイラクを侵略して大殺戮をくりかえし、いままた無人攻撃機で無辜の民衆を殺害している醜悪な自国の政府を批判しないで、民主主義を語るダブル・スタンダードには呆れますが、安倍批判の内容はその限りでは正しい指摘となっています。ようするに、NYタイムズがほんとうに云いたいことは、もはや米国は日米同盟ではなく、米中のパートナーシップを選んでいるのであり、日本は余計なことはするなーということです。こうした米国の戦略転換に置き去りにされて、なお米国にシッポをふる日本の首相の哀れさは見る影もありません。
 こうした想像力の貧困は、日本の政府だけでなく、さまざまの分野にひろがっています。小学館発行の雑誌に連載されている漫画「美味しんぼ」では、福島第1原発を訪れた主人公らが鼻血をだす場面を描き、双葉町は出版社に「福島への差別を助長させる」と抗議していますが、作者は「私は真実しか書かない」とブログに記しています。さらに『みえないばくだん』という絵本は、原発事故で被曝したこどもが大きくなって結婚し、「おててのかたちがかわっているあかちゃん」が生まれるというストーリーで、原発の恐ろしさを子どもに伝えようとしています。しかし、こうした漫画や絵本を読む福島の被曝した子どもたちはどのような気持ちになるのか、作者の想像力は決定的に欠落しています。これらの漫画や絵本は、結局のところ、外部のまなざしでつくられたお話であり、善意がかえって人を苦しめる無知の罪について気づいていません。あるいは、原発批判の言説の一部には、脱原発のためには放射能の被害が大きいほどいいーなどという無意識の作為が潜在しているのでしょうか。
 放射能の制御が不能となるなかで、福島では依然として97%の県民が県内で暮らし、高線量の中通りには100万人の人が住んでいます。そこが半永久的に住めない土地であるにも関わらず、100万人の県民は安全神話に欺され、いままた除染神話にたぶらかされている愚かな人々なのでしょうか。せめて子どもたちだけでも、県外に避難させるべきだという善意のメッセージが、多くの親を苦しめています。新井満≪千の風に乗って≫や武満徹≪翼≫が福島でよみがえり、坂本九≪見あげてごらん夜の星を≫≪上を向いて歩こう≫が口ずさまれ、≪故郷≫が肺腑をうがつような癒やしの歌となって歌われていますが、不幸の極地にある被災地に出かけていって、いまさらのように癒やしの歌を唄うことほど欺瞞的なことはありません。ほんとうの癒やしは、たしかな再生への希望をつくりだすなかにしかないにもかかわらず、福島の報道はメデイアから姿を消してしまい、もはや忘れ去られたかのようです。
 代表民主制への不信がこれほどに深まった時代はなく、自己統治のシステムとしての民主主義の意味が問い直されています。原発も最終的には市民が選択し、憲法9条の下での違憲の自衛隊を認めてきたのも市民であるならば、市民の責任が間違いなくあります。海外で殺し殺される時代がはじまり、原発が次々と再稼働していく日本列島にどのような未来が待ちかまえているのでしょうか、想像力のすべてが試されているように思います。
 青い空にもくもくと浮かびあがる白い雲、緑のじゅうたんの田んぼの上を、スイスイと今年も燕尾服姿のツバメたちが飛んでいきます。アア・・・今年も福島に初夏が来て、いつもと変わらない生命の営みが震災の跡地に広がっています。あのツバメたちも全身に放射能をあびて、南の島に向かうのでしょうか。飛び交うツバメたちのそばに、子どもたちの成長を願って毎年大空にひるがえる鯉のぼりの姿はありません。大きな鯉のぼりを立てても、放射能で汚染されるだけだと、地元の人は立てなかったそうです。日本の首相は、欧米をめぐって軍事力の強化と原発輸出に血まなこになっていますが、いま行くべき所は福島であり、痛めつけられた日本列島を修復することではないでしょうか。(2014/5/10)

バナナを投げ込んだ観客は,禁錮3年の懲役刑となるのか!?
 サッカーのスペインリーグの試合(4月27日)で、バルセロナのブラジル出身の選手を猿として侮辱するバナナが投げ込まれ、投げ込まれた選手はそれを食べて抗議の意志を示し、「差別を飲みこんだ」と称えられています。ゲームの主催者はただちに投げ込んだ観客を永久入場禁止処分にしましたが、スペイン警察は人権侵害として逮捕し、起訴されて有罪となれば禁錮3年の懲役刑が科せられるそうです。欧米のほとんどの国は、人種差別やヘイトスピーチ(憎悪表現)、宗教や性別による差別を犯罪として禁止しています。フランス1年、スイス3年、ドイツ5年、英国7年、セルビア10年(それぞれ最大)となっています。日本の埼玉でも似たような行為がありましたが、サポーター・クラブの解散と無観客試合という措置に終わり、行為そのものが犯罪として罰せられることはなく、新大久保の街頭では堂々とヘイトスピーチのデモがくりひろげられています。ここには、先日も記したように、「権利」をめぐる彼我の意味にある天地のような違いが浮き彫りとなっています。「ヘイト」とは憎悪一般の感情ではなく、人種や民族、性などマイノリテイにたいする否定の感情であり、「ヘイトスピーチ」は「憎悪表現」より「差別煽動」と訳した方が正確です。実際には暴力や脅迫など重大な人権侵害を伴っていますが、一部には表現の自由の範囲に含める人がいますが、憲法21条の表現の自由を完全に逸脱し、いくつかの裁判で威力業務妨害や強要罪、名誉毀損の有罪判決をうけています。ヘイトスピーチは、5段階の憎悪のミラミッド(@ひがみ→A偏見による行動→B差別行為→C暴力行為→D大虐殺)と展開していきます。日本で欧米のようなヘイトスピーチ規制法が成立しないのは、安倍とか石原、橋下といった権力者が先頭に立ってレイシズムの煽動をしているからです(師岡康子『ヘイトスピーチ』岩波新書、2013年参照)。
 日本には右翼はいても、排外主義を前面に掲げる極右はいないというのが定説でしたが、2000年代になって在特会(「在日特権を許さない市民の会」)のような右翼があらわれてきたのはなぜでしょうか? 在特会は@主として外国人排斥を掲げ、A規制の街頭右翼とは独立して行動し、B40歳代以下の若年層が中心となる西欧型極右運動と共通し、第2次大戦以前から日本に住む外国人に適用される「入管特例法」廃止を目的にしていますから、主たる対象は在日コリアンです。大衆的な社会運動の発生は、社会変動によって中間層が没落し、個人の孤立化と不安が増大し、極端な主張に共鳴して不安を解消するからだという大衆社会論的な分析がなされます(小熊英二)。安定した組織がゆらいで、将来の予測可能性がうすくなり、没落して放り出された中間層がゆきどころのない自由の不安のはけ口を外部に求めるというE・H・フロム(『自由からの逃走』)の分析とよく似ています。たしかに、長期不況と非正規労働の激増という流動化のなかで、そうした心情が浸透していますが、なぜそれが「嫌韓・嫌中」の右翼的心情に向かうのかは別の分析が必要です。そこで不安を吸収する理論や運動が先にあって、個々人を勧誘して吸引するという資源動員論が登場します。在特会のメンバーの多くは、インターネットを媒体とする見知らぬ者が掲示板を見て集まっており、従来の活字媒体やフェイストウフェイスの濃密な関係に依存した社会運動とは異なります。インターネットによる動員は、気楽な水平的な参加を実現し、動員費用もいちじるしく安価であり、在特会の多くは解散すれば普通の生活に戻る市民たちです。全身真っ黒のファッションで固めた伝統的な街頭右翼には違和感を持っていた、従来とは異なる市民層が参加しています。時にはサッカー場に行く熱狂的なファンでもあり、従来のブルーカラー下層の不安を吸収しているとは必ずしも言えません。在特会のデモを見ますと、差別的な排外のヘイトスピーチを怒りを込めて叫んでいると云うよりも、差別そのものを愉しんでいるような気分がみられます。
 こうした傾向は、反原発運動にもみられ、官邸前行動に集まる青年層は伝統的な組織の動員ではなく、むしろインターネットによってむすびついた層であり、寄り合い的な話し合いで運動を整然と組織し、必ずしも既成の組織に敵対的でもなく、シングル・イシューによって一時的に集合し、それが終われば解散し普段の生活に戻ります。方向とは違いますが、在特会のモードとよく似ている面があります。こうして、伝統的な組織が吸収できなかった層がインターネットによって集合するようになり、権力も情報世界の重要性に築き、なんらかの管理の網の目をかけなければならくなり、登場したのが秘密保護法です。この法律の危険は、在特会は守るが、反原発は抑圧するというところにあり、在特会が元気がいいのは自分たちが政府(機動隊)によって守られているという確信があるからです。秘密保護法の主要な対象は、平和や反原発などの市民であり、秘密を扱う人物の適正度の身辺調査を家族や病院、金融機関を対象におこないますが、照会を受けた側は当該者のプライバシー情報の提供を断ることができない仕組みになっています。もし断ればみずからが有罪となるのですから、訊かれる前にすすんで答えざるをえなくなり、なにか薄気味悪い密告の社会となります。国民一人一人の情報をくまなく調査し、権力者があらゆる情報を独占して、膨大な秘密情報を独占し、国民の手と足も縛る究極の管理社会ができあがっていきます。歴史の真実は、権力に閉じこめられ、歴史は自由に操作されて書きかえられ、真実はもはや記憶されることなく、闇のなかに消え去っていきます。
 ドイツでは、ホロコーストの犠牲者が住んでいた住居の前の路上に、名前と連行先の収容所名や死亡場所を刻みこんだ「つまづきの石」が埋め込まれ、路上を歩く市民はそれにつまづくたびに、過去のユダヤ人大虐殺の犯罪を思い出して心に刻みこみます。私も昨年のドイツ旅行で、ベルリン市内でこの石をみることができ、深い感慨にうたれました。「つまずきの石」は、ベルリン出身の芸術家ギュンター・デムニッヒさん(66)が1990年代から始め、ドイツやオランダ、ノルウエー、チェコ、ハンガリーなど欧州各地で約4万6千個に達し、現在もその作業が続けられています。600万人の犠牲者からみれば、わずかでしかありませんが、デムニッヒさんは個人や団体から埋設の依頼を受けると、手作りの石を用意して15分ほどで完成させます。昨年は1年のうち235日を費やしたそうです。ここには歴史の記憶と現代の芸術表現がむすびついた希有の例があります。日本でこうした作業をすれば、すぐに警察官が飛んできて、公共の器物破損罪で逮捕してしまうのではないでしょうか。いったいこうした違いはどこから来るのでしょうか。それは「公共」の感覚がまったく異なるところにあり、欧米の「公」は市民的なcommonを意味しますが、日本の「公」は「オオヤケ」つまり「お上」を意味するのであり、葵の印籠や菊のご紋でしかなく、市民自身が参加してつくりあげていくものではないのです。この違いは、市民が血を流して王を倒した下からの市民革命と、王(天皇)が上から近代化していった差異によってもたらされ、現在にいたってもこの違いは深く文化に埋め込まれています。
 日本の「権利」意識は、NHK視聴料に浮き彫りとなっており、私たちは視聴料を「義務」として払っているような感覚がありますが、むしろ視聴料は市民自身が「公共」放送であるNHKの経営に参加していく「権利」の対価なのです。NHKは採算や効率を度外視して、公共放送に徹するために、視聴料によって維持されています。しかし、「安部ちゃんのお友達」である籾井とかいう会長は、就任会見で「ボルトとナットを締め直すのが主な任務」といって権力からの自立という原理を投げすててしまい、しだいにNHKの内部は「物言えば唇寒し」とか「長いものには巻かれろ」といった自主規制の萎縮がはじまり、暗い雰囲気がしみ渡りつつあります。最近のNHKニュースは、政府発表を中心にした作為された編集が目立ち、じょじょに国営放送に近づきつつあります。とくに夜9時のニュースのキャスターは、ひどい無知をさらけだし、そこには権力を監視するジャーナリストの矜恃はありません。
 欧米のなかで、唯一例外的な特殊な「権利」意識を持っているのが星条旗をひるがえす米国です。イエメンやパキスタンで、反テロの代表的な手段として無人機を飛ばし、すでに死者数はイエメンとパキスタンだけで約2900〜4500人、うち民間人が330〜400人に達しています(米シンクタンク「ニュー・アメリカ財団」推計)。米国の無人機は、全地球測位システム(GPS)で地球の裏側から操縦し、軍事部門を有する世界でも数少ない情報機関であるCIAが、カーター政権が中止していた暗殺などの軍事行動を2001年の同時多発テロを契機に再開し、「米国側の戦死者をださずに安価に攻撃できる」最適の戦術として採用され、失業状態のCIA軍事部門を活性化しました。CIAは、名前や住居、顔写真、声紋をデータ化した標的リストによって、全世界に情報を提供する内通者を高額の報酬で雇い、情報の条件が一致すれば攻撃に移ります。操作の最小単位は、パイロットと、レーダーやカメラをセットするセンサーオペレーター(スキャナーマン)、状況判断する作戦コーデイネイターの3人編成で、作戦を遂行します。パイロットが目標を見つけ、センサーオペレーターが標的リストかどうか判断し、最後に指揮官が命令するシステムで、パイロットが一人で攻撃する有人飛行機よりはるかに効率性が高まり、攻撃側の犠牲はゼロです。かっては1つの目標に数百発の爆弾を使ったが、1発で目標を破壊できます。無人機攻撃の流れは以下のようなパターンをたどります。
 @スパイー情報→ACIA軍事部員ー情報→BCIA本部→C出撃指示→D現地基地から発進→ECIA本部のチームによる遠隔操作→F攻撃→G帰投
 パキスタンでは、2004年以降に320回以上の無人機攻撃がおこなわれ、CIAは武装勢力2千人以上を殺害し、民間人犠牲者は67人だったとしていますが、じつは479人に上っているとされています。無人機攻撃は現地情報が不可欠であり、民間人の巻き添えは誤差の範囲であり、たとえば謝礼として受けとったコーランに無人機のミサイルを誘導する発信器が仕込まれて殺害されたように、内通者なしになりたちません。こうして武装勢力の内部にスパイの疑心暗鬼が誘発され、公開処刑など惨たらしい内部抗争をもたらす内部撹乱の効果があります。こうして高度情報通信技術を駆使する電子武器と、武装勢力の原始的な武器の非対称性がきわだつ現代の戦争がくりひろげられます。かって戦闘は、西欧や西部劇の決闘のように、1:1のフェイストウフェイスの聖性のもとで合法化され、西部劇の決闘では相手に銃を先に抜かせて発砲する場合のみ正当防衛として無罪となりましたが、現代の電子戦争はコンピュータ室のデイスプレー上のゲームと化して冷酷に愉しまれています。
 民間人の殺害を必然的にともなう無人機攻撃は、残虐兵器や市民を戦闘対象とすることを禁止したジュネーブ条約に違反していることは明らかなのですが、なぜ米国はこうした攻撃を自画自賛するのでしょうか。もし、中国がチベットなどでテロ容疑者への無人機攻撃を採用したら、米国は恥ずべき国家テロとして非難するのでしょうか。米国が旧ソ連や東欧圏で無人機攻撃をおこなわないのは、あきらかに白人だからであり、相手が有色人種であれば、スペインのサッカーと同じく「猿」とみなし、人間的な痛みなく殺害できるからです。こうしたアメリカの人種意識は根深く、米国留学した日本人が肌身で感じるところです。国連は米国をジュネーブ条約違反の疑いで調査を始めましたが、無人機攻撃の国際規約がないことを理由に米国は応じていません。驚いたことに日本政府は、他国の主権を易々と侵害し、冷酷無残な殺戮をもたらす無人機を今後5年間で3機配備し、将来は無人攻撃機の導入を検討しています。日本政府は、無人機をアジアに対して躊躇なく使用するのでしょうが、そこには同じアジア人を「猿」とみなす第2白人の醜悪な意識があります。いま部屋で流れているNHK・FMから、自衛隊音楽隊が演奏する戦時期の山田耕筰作曲の軍歌が流れています。山田耕筰は音楽によって人殺しをおこなった最大の戦犯音楽家として、戦後はなんの自己批判もせず居直った人物なのですが、いったいNHKはどうなっているのでしょう。(2014/5/5)

この国は、装甲車が街を制圧するようになったのか?
 たまたま昨日、クルマで街の大通りを走っていましたら、街角に棒を持った機動隊がものものしい警備体制をしき、周囲を威圧するように警戒していました。大通りの対向車線は、大型の装甲車が道を封鎖して、走行禁止にしていました。私は何ごとかと思って、機動隊員に尋ねると、近くの公会堂で憲法集会が開かれるからだと答えました。たしかに近くでは、例の真っ黒い右翼の街宣車が大型スピーカーから、「憲法改正」を叫びながら走り回っていました。しかし、おびただしい数の機動隊員の姿を見れば、憲法集会に参加しようとする市民は不安を感じて萎縮してしまい、なんだか機動隊と右翼が連携しながら、憲法集会を封じ込めているような感じです。1930年代のドイツで、ナチス突撃隊の暴力を野放しにして、左翼を攻撃させたやり方に似ています。右翼の街宣演説は、かってのような絶叫調ではなく、落ち着いた論理的な口調で語りかけています。そうこうするうちに、秘密保護法に反対する学生数百人のデモ隊が、ヒップホップの音楽に合わせて、笑いながらにぎやかに行進していきます。ところが両手に掲げたプラカードならぬ画用紙のような紙には、”FREEDOM of SPEECH”のような英文のアピールが多く、まるで外国人に向かってアピールしているようなスタイルであり、デモのパラダイムが変容しているんだなと実感しました。
 さて集団的自衛権の限定行使論による解釈改憲という法の支配を破壊するような言説が、我が世の春とばかりにたれ流されていますが、その先頭に立っている北岡とかいう政治史の研究者は、現代の番犬知識人の原型のような存在です。彼は「憲法は最高規範ではなく、上に道徳律や自然法がある。憲法だけではなにもできず、重要なのは具体的な行政法。その意味で憲法学は不要だとの議論もある。憲法などを重視しすぎてやるべきことが達成できなくいては困る」(東京新聞)と近代立憲制さえ否定しています。彼も一生懸命勉強したはずのナチス法学者カール・シュミットも、目をシロクロするようなファッショ法学であり、もはやホンネは法律さえ要らないとする独裁を肯定しています。シュミットは、すべての人間を友−敵の二項対立で決断する法学を主張しましたが、法そのものを否定することはありませんでした。どうしてこのような発想の持ち主が、政府諮問機関の座を占めるようになったのでしょうか。
 彼は営々とした理論的な探究のはてに、こうしたファッショ法学にたどり着いたのではなく、おそらく青年期に理論的に痛めつけられた民主主義への憎悪が宿っているように思います。理論的な対立をこえるメタ理論の視座を築きあげる前に、主観的な憎悪の偏見を理論化して自己肯定する「野蛮な文明人」の道を無自覚に選んでしまったのではないでしょうか。そうでなければ、西部とかいう右翼思想家と同じように、民衆的な形象を嫌悪するニーチェの超人の論理に侵されてしまったのではないでしょうか。こうした発想の持ち主は、異論と交流しながら高めていく止揚の方法をとらず、異論そのものを最初から排除する洗練された理論の構築に情熱を注ぎますが、街頭右翼の宣伝と本質的には同じなのです。たとえ敗北しても、東映の任侠映画のように敗者の美学にのめり込んでいくか、サッサと転向する臆病な道を恥じらいなく選びます。こうした人物は、ナポレオン的なイメージにひきこまれながら、本能的に民衆的な心性に恐怖を覚え、緊迫した場面では容赦ない暴力に魅惑されます。あたかも今日のような、春爛漫の陽光に妖しく光る幻想に耽溺していくように。それは無力感が裏返された能動性であり、自分の錯誤が白日の下にさらされる恐怖のなかで、地獄への道を誰かを道連れにしながら、キリモミ状態となって転落していきます。
 しかし、北岡とか云う人物のような歪んだ「権利」のイメージがどうして現代にまで蔓延しているのでしょう。こうした発想の根底には、「権利には義務が伴う」というような錯誤があります。この源流には、rightを「権利」と訳してしまった明治の翻訳後の誤謬があり、rightは文字通り「義」あるいは「正義」という倫理的な規範moralityを意味したのですが、「権利」と訳して自己利益self interestの「利」という語を入れたためにおかしくなったのです。ちなみにイエーリンク『Der Kampt Recht』は、日本では『権利のための闘争』と訳されていますが、英語圏では『The Struggle for Law』と訳しています。rightは奪いがたい天賦の倫理的な規範なのですが、日本語の「権利」はrightとは異なる私利私欲のイメージに落とし込められたのです。rightは譲ったり妥協することができない規範なのですが、権利は交渉したり歩みよることができるものとなり、「権利には義務が伴う」などという倒錯した使用がでてくるのです。義務や責任とは切り離された超越したレベルにrightはあるのですが、日本では世俗で取引可能な概念となってしまいました。こうして天賦の規範としての人権は、日本の文化にそぐわないとする自民党の憲法改正草案が登場し、北岡とか云う人物がその旗振り役を務めるようになったのです。rightは政治が介入できない触れてはならない規範であり、権利と義務は同じ平面にはないということに気づかない北岡という人物の言辞は、政治思想史のイロハを知らない者でしかありません。(2014/5/4)

ヒットラーは、毎晩ケーキを食べながら、なにを考えたのか?

 夜型人間のヒトラーは、深夜まで起きては使用人が寝たあとに台所へ行って、家事手伝いが用意したナッツとレーズンをまぶした「総統のケーキ」と呼ばれたリンゴケーキを毎晩食べていました。一方ではひどく健康に神経質で、食事に異常な細心の注意をはらってもいました。ドイツ南東部のベルヒテスガーデン近郊にある山荘ベルクホーフは、愛人エヴァ・ブラウンが主人となって経営し、ヒトラーがゲッペルスなどの幕僚とともに世界戦略を練った場所として有名です。ヒトラーはそれ以前には、姪のゲリ・ラウバルと近親相姦の関係にあり、真剣に結婚を考えていましたが、ラウバルは1931年に自殺してしまいます。オーストラリア人のエリザベート・カルハマー(89)さんは、18歳の1943年に雇い主ヒトラーとは知らずに、家事手伝い募集の新聞広告をみて応募し、勤務初日にヒトラーをみて驚愕したそうです。うっかりお気に入りの高級紅茶カップを割ってしまい、外出禁止処分を受けました。以上・時事通信を参照。
 世界史上稀なる独裁者の精神分析をしますと、異常に細部にこだわるパラノイア的な嗜好症が浮かびあがってきますが、こうした症状は女性蔑視のサデイストによくみられる傾向であり、時には真っ白な手袋を1日中離さないような潔癖症をともないます。電車のつり革も白手袋でしか握れない状態になります。しかし、ある限定された欲望にのめり込んだ場合は、委細を尽くした冷徹な計算によって、目標を貫徹する情熱を集中していきます。ちょうど北海道でボンベを無差別に爆発させた犯人のように。こうした傾向の持ち主は、自分の失敗の経験には深く傷ついて、そのルサンチマンを別の目標に転化して喪われた自己の救済を図ります。高卒後のヒトラーが、姪の自殺とウイーンの美術大学の受験に失敗した挫折感はあまりに深く、ヒトラーの入試で描いた絵を見ると、なかなかの風景画なのですが、当時のウイーンはそうした古典画はまったく評価しませんでした。権力を獲得したヒトラーは、当時のドイツの著名な前衛美術家の作品をすべて没収して焼き払ったり、売却しました。彼の青年期のルサンチマンは、これで一気に解消し、傷ついたアイデンテイテイを回復することができたのです。
 パラノイア的な潔癖症の人がサデイズムの傾向を帯びるのは、自分の規範に合わない他人の生活スタイルを嫌悪し、異端を許さない残酷さを帯びて、嗜虐的な攻撃の欲望にコントロールがきかなくなるところにあります。すべてが自分をモデルとする純粋性であらねばならず、国民もそうであり、異民族は排除されなければなりません。これが600万人をガス室で殺害する究極のホロコーストを導き、ヒトラーは冷酷な計算で最適化された殺人計画を実行しながら、秘やかな快楽に酔いしれたのです。
 ところで、最近の日本の首相をみると、なんだかヒトラーの表情に似てきているようであり、しゃべりもどこか同じような傾向を呈し、信じ込んだ虚飾の使命感に駆られて、計算をめぐらしながらもはや引き返すことができない地獄のスパイラルに落ち込んでも、それを愉しんでいるような姿勢がうかがえます。4月29日に、米オクラホマ州で薬物注射の処刑を受けた死刑囚(38)は、3種類の薬物の最初の麻酔薬で10分後に意識を失い、次いで呼吸をマヒさせる薬剤と心停止を早める薬剤を注射され、激しいけいれんやあえぎがはじまり、苦悶しながら拘束台から立ち上がって何かを叫び、死刑の執行は中止されましたが、男は間もなく心臓マヒで死にました(朝日新聞5月2日付け)。こうした痛ましい人体実験に等しい死刑は、アウシュヴィッツのメンゲル医師の得意としたところであり、オクラホマ州の刑務所はそれをモデルに死刑執行をおこなっているのでしょうか。ここにも、パラノイア的な嗜虐症のサデイズムがくっきりと表れていますが、日本の首相の神経症状とよく似ています。
 日本の首相は、従来は薬物や銃器など4つの犯罪に限定されていた盗聴を、詐欺や出資法違反、児童ポルノなど一般犯罪をふくむ10犯罪を新たに拡大し、日常的な盗聴の監視社会を実現する方向に踏みだしました(法制審議会特別部会4月30日最終報告)。他人の電話や電子メールの盗聴は、通信事業者の立ち会いを義務づけていましたが、立ち会いなしで警察署で盗聴できるようにします。おそらく、他人のプライベートな会話を、誰にも見られることなく自由に盗聴できることは、パラノイア的な嗜好症にとって涎が出るような最高の快楽をもたらし、次々と対象は際限なく広がるスパイラルにおちいり、もはや盗聴そのものが自己目的となる究極の監視社会をもたらすでしょう。歴史は、意外とこのような特異で特殊なパーソナリテイによって動かされる可能性があることは、ヒトラーによって明らかとなっており、多くの場合、市民もそれに巻き込まれて盲目となっていきます。現在の日本がまさにそのような分水嶺にあるような気がします。ひょっとしたら、日本の首相も甘党なのでしょうか。(2014/5/2)

ブラック企業とは何か?
 ブラックとは色彩の黒色を意味し、「腹黒い」など忌み嫌われる色であり、上から下まで黒一色で決めているファッションの人は「黒社会」の人とみられ、天使は白色で悪魔は黒色で表象され、犯罪者はクロ、無罪はシロのように、黒色は一般的に否定のイメージであり、一方ではなにかうかがい知れない秘密の魅力も放ちます。人間を奴隷のように働かせる会社をブラック企業と言い、最初はIT業界から広がって、今は外食産業や介護、小売業などに蔓延しています。ブラック企業には、大量に新人を仮採用して徹底的にしごき、退職に追い込んで残った者だけを正採用するパターンと、最初から正採用して過労死するような過酷な労働を強いて使い捨てるパターンに分かれます。ブラック企業は、ブラック士と呼ばれる弁護士や社会保険労務士を囲い込んで理論武装し、募集をかければ殺到する求人状況で急成長していきました。職業安定法44条で禁止されていた「人買い」「人貸し」「身売り」が解禁されて派遣業が自由化されたことを契機に、ブラック企業が急増していきます。驚いたことに産業競争力会議では、過労死をひきおこす脳・心臓疾患は「加齢や生活習慣によって増悪(ぞうあく)するもので、労働時間だけというわけではない」(日本経団連)として、残業代をカットするホワイトカラーエグゼプションを弁護しています。
 居酒屋チェーンの「日本海庄や」は、大卒正社員月給19万4500円で募集をかけ、実際には残業が入っていますので、残業しないとどんどん減り、過労死ライン月80時間を越えていきます。ワタミは、すぐに店長にして管理職として残業代をつけません。ユニクロは大量採用をかけて大量の離職者をうみだす仕掛けで、柳井社長の資産は1兆5千億円までふくらんでいます。にもかかわらず、多くの若者がブラック企業で働くのは、正社員としてまじめに働きたいと思い、なにかあっても自分に責任があるという人間的な誠実さがあるからです。ブラック企業の見分け方の初歩は、募集要項に基本給と手当の区別がない、残業代を組みこんで給料を高く見せている、半年で店長になれるなどの誘惑の言辞が入っているなどです。或いはその会社の離職率をみてみるのもいいでしょう。
 ブラック企業や非正規の若者たちは、自己責任論の板挟みにあって、怒りは深く沈潜し、橋下とか言う人が「悪いのは公務員だ!」「悪いのは労働組合だ」と叫ぶと、「そうだ!」といって熱狂的な拍手を送り、ついには一部の若者は、新大久保を行進して、ヘイト・スピーチを唱えるようになります。こうした光景は、世界大恐慌で失業にあえぐ若者を煽動して独裁を築いたヒトラーのやり方にそっくりなので、彼をハシットラーと呼ぶ人もいます。ブラック企業を生みだすような仕組みを見ぬけば、そしてそのような仕組みの対極にあるイメージが思い描けるようになれば、世界は違ったものなるでしょう。山の稜線に出て、パッと視界が開けるような瞬間を味わえば、今までひたすら昇ってきた道の真実が見えてきます。それが悪魔が手を引く地獄への道であったことを。(2014/4/22)

自国民の指紋を外国に売りわたして恥じない国がある
 日本政府は米国の強い要請により、2月7日に「重大犯罪防止対処協定」をむすび、米国政府が被疑者を特定せずに指紋を日本に紹介してきた場合、警察庁の指紋データベース(1040万人)から該当の有無などを米国側の端末で自動的に提供し、該当者の場合はその個人情報を提供する指紋提供法が16日の委員会で可決されたそうです。日本の全人口の8%(12人に1人)に匹敵する指紋を米国は自由にみることができるようになります。紹介の方法は2通りで、@米国の持ち主が分からない指紋情報の1次照会には、警察庁の指紋情報1040万人すべてがコンピュータで自動回答され、A持ち主が特定された指紋情報の2次照会には、有罪確定や公判中の被告人、起訴猶予処分などの300万人分に限定して、犯罪歴や指紋採取にかんする個人情報を個別に回答するとし、自動紹介は無罪判決確定者、起訴猶予以外の不起訴処分者、任意捜査中の740万人分としています。個人情報の提供も事前の制限規定はなく、警察庁が個別に判断するとなっています。国際刑事警察機構による国際捜査なら、相互に指紋を提供する措置はありうると思いますが、なぜ外国の1政府に日本国民の指紋を自由に提供する権利を政府が持つのでしょうか? たとえ犯罪者と雖も、自分の指紋が外国政府に了解なく売りわたされることは、重大な人権の侵犯であり、近代国家の主権では許されないことです。自国民の人権を擁護すべき政府が、すすんで人身保護を蹂躙する国際人権規約違反の行為です。
 驚いたことには、日本の国家公安委員会の指紋取扱規則では、指紋の削除は「本人死亡の時」「保管の必要がなくなった時」とのみ定められ、無罪確定や不起訴者の指紋削除の規定がなく、一度嫌疑を抱かれて指紋を採取されれば、生涯にわたって警察庁に保存されるシステムになっていることです。日弁連は1997年に無罪判決確定後の指紋の保有は違法とする勧告を出していますが、警察庁は対応していません。英国も同じように、半永久的に指紋を保管してきましたが、欧州人権裁判所から欧州人権規約違反とされ、2012年に撤廃しています。米国は州ごとに、指紋を含む犯罪歴の削除を規定し、「起訴されずに解放された場合は自動的に記録が消える」(メリーランド州刑事訴訟法)などとなっています。要するに日本では、国家権力が自由に国民の指紋を採取して監視するシステムになっているのです。さらに、最近の顔貌識別や指紋識別システムの普及によって、犯罪とは無関係の市民の指紋採取が進展し、警察庁が一元的に管理するシステムと連動し、監視国家のシステムがいちだんと進んでおり、特定秘密法とセットになって、市民全体を犯罪者と想定する密告社会のシナリオが準備されています。市民の権利そのものを疎ましく思うような雰囲気がじょじょに浸透し、あらゆる分野にわたって市民を束縛し、異常を異常と思わない究極の異常がすすんでいくでしょう。
 こうした日本の異常と非対称的に、、インド最高裁は性同一性障害者を「第3の性」として公的な地位を認める決定を出しました。遺伝的な性別と精神的な性的志向が一致しない性同一性障害者は、インドでは不可蝕賤民(アンタッチャブル)として扱われ、強烈な差別を受けてきました。彼(彼女)らのコミュニテイの1つである「ヒジュラ」は、遺伝的には男性のグループで、女装して集団で生活し、慶事に招かれて歌舞を披露して収入を得てきましたが、カーストの序列からは排除され、就職も困難で、物乞いや男娼として生計を立てる人も多いと云います。インド最高裁の決定は、性同一性障害者を「第3の性」と認め、就職や教育で優遇措置(アファーマテイブ・アクション)が受けられる「後進階層」にくわえ、救済していくとしています。性に「第1」「第2」「第3」というボーヴォワールのような階層性を設けることへの疑問はおいて、ここでは人権の意識が世界的に高まっていることが反映されています。おそらくは、男性は極楽に救われ、女性はその資格がなく、夫の死亡後に妻も殉死するというヒンズー的な宗教文化も問い直されていくだろうと思われます。
 世界で最も多文化主義による人権が尊重されているはずの米国が、他国に勝手に指紋提供をせまるという行為は、いかに米国政府の人権感覚がオリエンタリズムにあふれているかを示しています。米国は、けっしてEU諸国にはこうした要求はできません。さらに米政府は、2000年代からテロ対策と称して、アフガンやパキスタンで無人機攻撃を実施し、パキスタンでは04年以降330回の攻撃で、死者2200人以上、うち600人以上が市民と非戦闘員の犠牲者をだし、一切補償をおこなっていませんが(2013年国連報告)、欧州の紛争地で無人機を飛ばすことは絶対にありません。日本に臆面もなく、指紋提供の要求をするのは、どこかに人種的なオリエンタリズムが潜在しているからです。このような辱めの行為を受けて、唯々諾々と追従する日本政府の態度は、主人に媚びへつらう植民地の支配者に酷似し、彼らのナショナリズムはせいぜいのところアジア諸国へのヘイトスピーチにしか発揮されない貧しいダブル・スタンダードにあります。(2014/4/17)

このようにしてファッシズムはすすんでいくのか!?ーいったい日本の子どもたちはどうなるのでしょう?
 かって世界に冠たる民主憲法であったドイツのワイマール憲法が、根こそぎ崩れていったのは、ナチスの暴力的な強圧によったとともに、ナチスは選挙によって圧倒的な議席を得て、議会内の多数決で「全権委任法」を可決し、独裁を実現していきました。民主制は、民主制を通して自己自身を葬り去る鬼子を抱えこんでいます。この痛苦の体験によって、日本の憲法は、憲法の原則自身を否定するような改正をしてはならないとしているのですが、いまの日本はなにかナチスの合法的な独裁への道を歩んでいるような気がします。それは、「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」とした世界で最も先駆的な平和条項を、1内閣の解釈によって変えようというクーデター的な動向にあらわれていますが、子どもの世界を操作する教育政策でも同じ動きが見られます。

 いま議会に提出されている学校教育法改正案は、大学の教授会の人事と予算審議権を学長を中心とする理事会へ移すものですが、これによって学問の自由と大学の自治は空洞化し、戦前型の国家目的に奉仕する戦前型の大学へと変質し、とくに批判的な学問研究は封殺されていくでしょう。自主的で批判的思考なしに、真理に迫ることはありえないことは、戦前の歴史学が皇国史観に転落して莫大な戦争の犠牲を生みだすシステムに加担していったことでも明らかです。自然科学も、とくに物理学や医学では戦争科学が推進され、軍事研究や反人間的な人体実験も横行しました。教育や学問が政治の世界から独立していなければ発展はなく、日本の教育と学問は政治世界にこびへつらう御用学問となって衰退していきます。おそらく、小保方問題はこうした動向を先取りした理研の垂直的な研究システムにあります。「20世紀最高の哲学者」と称せられたM・ハイデガーが、ユダヤ人の妻を持つ先生のフッサールへの迫害に沈黙し、授業の最初には右手を掲げて”ハイル・ヒトラー!”と叫んだような痛ましい悲劇的な光景が、21世紀の日本で喜劇となってくりかえされる恐れがあります。

 教育委員会の解体によって、自治体の首長が教育の責任者となり、国家戦略特区によって公設民営の学校がひろがり、公教育は姿を消していきます。すでに橋下氏の大阪市は、「子どもが笑う大阪」など空疎な目標をかかげ、実際には日の丸・君が代の歌唱を口元チェックするマンガ的な統制をくわえ、市長の意図に忠実な公募校長によって締めつけを強め、学校の雰囲気が暗くなり、誠実な教師ほどモチベーションが低下して早期退職が激増しています。大阪市の公立の教員をめざす若者が激減して私立学校へ流れ、その結果非常勤講師が異常に増え、学校はその日暮らしの運営となり、困難校には子どもが集まらず、学校の整理統廃合が進んでいます。めまぐるしく担任が替わる子どもたちは困惑して不安になり、激しいテスト競争の中で、励まし合うような子どもの関係は衰弱し、生き生きと躍動するような子どもの世界は姿を消していきます。こうした子どもが成長する未来は貧しいものであり、自主・自発のエネルギーと互いの支援がない社会と経済は沈滞し、かっての大阪らしい大阪の再生はないばかりか、沈没していくでしょう。
 いま街を歩けば、撤退したコンビニの跡地に、企業民営の小ぎれいな保育園や学童がありますが、その園庭は狭く、園庭すらないところがあります。300m以内に公園があれば設置基準をクリアーできるそうですが、あどけない子どもたちがそれでも歓声を上げてジャングル・ジムで遊んでいる姿を見ると、胸がキリキリと痛みます。こうして待機児童ゼロをめざすそうですが、それなりの広さの園庭で走り回り、時には秘密の場所をつくってドキドキするような冒険を楽しむ光景は姿を消しました。無垢であどけない子どもたちに、日本はいったいどのような未来をプレゼントしようとしているのでしょうか。

 激しいテスト競争は、図画工作や芸術の授業を周縁化し、かって公園で子どもたちが写生の野外授業をするような光景は姿を消し、いま風景画の授業は教室のなかで写真を見ながらおこなわれています。リアルな自然そのものが都会で失われて写生は困難となっていますが、それでもビル群の空間情報を立体的に受けとめて、観察と洞察をくわえながら創造の深度を深めるなかで培われる感性は、人間的な想像力を豊かに発展させます。アメリカの芸術教育は、こうした実践を大切にし、芸術教育がうむ観察力は数学や理科の学習能力に連動し、社会性やモチベーションを高めることが、リサーチ・プロジェクト(2010年)で実証され、イタリアの芸術教育は子どもの自由な表現を中心にクリエイテイブなちからを伸ばし、イタリア・ファッションやデザインが世界をリードする条件をつくりだしています。日本の即効性を求める画一的な競争教育は、製造業のレベルでは一定の有効性がありますが、知的情報のフロンテイア産業へ向かう現代では、遠回りで無駄のようなとりくみが生みだす豊かな判断力と洞察力が決定的であり、短期の成果主義を煽るSONYや富士通の凋落はそれを実証しています。
 ファッシズムは、秘密保護法のようなかっての軍隊的な統制システムの側面と、ソフトで真綿で首を締めつけるようなソフトな支配を強めていますが、その未来展望に自信がないことは、新大久保のヘイトスピーチのように、外部に敵をつくり出して攻撃を集中する頽廃となってあらわれ、新大久保の極右のデモの先頭にはヤスクニに参拝する首相が立っています。もっとも恐ろしいことは、未来を代表する子どもたちが、ルサンチマンをため込んでそうした潮流にのめり込んでいくことです。何度もくりかえしますが、日本は際どい瀬戸際にあって、後からふり返れば、あの時が転換点だったという時代を迎えているのではないでしょうか。(2014/4/16)

カジノと戦争国家の行きつく先は?
 日本のギャンブル依存症は、世界でも群を抜く560万人と推定され、麻薬と同じように一度はまり込んだら、抜け出せなくなって身を滅ぼす悲惨な実態を呈しています。世界のギャンブル市場を賭博場の粗利(客の負け額の年間合計)でみますと、マカオ2兆6800億円、ラスベガス4600億円(全米は5兆円)、日本はパチンコ・パチスロだけで3兆9000億円、競馬など公営賭博を合わせれば5兆6000億円の世界最大のギャンブル大国です。ギャンブル依存症(病的賭博)の有病率(%)は、日本の男性9,6、女性1,6でずばぬけており、豪州2,1,スペイン1,7、フィンランド1,5,米国1,4、カナダ1,3となっています。
 賭博やカジノは犯罪として刑法で禁止されていますが、いまカジノによる経済誘発効果を期待する合法化法案が準備されているそうです。その理由は、カジノの収益を依存症対策に当てるためだそうですが、カジノで患者を増やして儲けた金で救うという倒錯した論理です。2020年の東京五輪に向けて、国内10カ所程度のカジノ開設が予定され、現在誘致に多額の調査費を投下している自治体は、小樽市、夕張市、熱海市、大阪府、佐世保市(ハウステンボス)、宮崎県、沖縄県、お台場など20をこえる団体がありますが、ここには地域経済の衰退で戦略を失った自治体や過剰資本の投資先を求める企業グループの特徴があります。
 地獄に落ちるようなリスクと引き替えに、一発大当たりの昂奮をもたらす賭博は、ドキドキするような緊張の快感をもたらし、すべてが自己責任となって人間が水平化され、凝集した時間と空間のなかで、幻想の自由と快楽の罠に転落していきます。こうしたスパイラルに取り込まれていく心情の背後には、生活の現実が制御できない巨大な強制のちからの中で、自分が弄ばれており、自分が現実を動かしているという実感が根底から奪われていることにあり、自分が生きているという実感を取り戻したいという儚い欲望が深く浸透していることにあります。カネがすべてとなった貨幣信仰のなかで、丁か半かの判断にすべてを賭ける幻想の自由の感覚が、人間を呪縛していきます。ルーチーン化された営々とした日常の生活から、いったい俺の人生なんなんだ? 汗水垂らしてクソみたいな人生やってられない!というルサンチマンがため込まれ、一瞬の裂け目として賭へ事の情熱が噴出します。
 あるいは、すでに世界と生活のシステムそのものが金融資本のギャンブル世界となって、なにかモノを生産してつくりだすよりも、他人の巨額のカネを動かして一夜にして稼ぐデイ・トレーダーの異常な神経系と似ています。デイスプレーの株価の変動のグラフを見ながら、指先のキー操作でカネを動かすギャンブル資本主義の凝集した空間がカジノです。立案→実行→点検→修正→再実践という積み重ねの人間的な営為の過程が、なにか馬鹿馬鹿しくなり、一気に勝敗を決めるネオ・リベラリズムの感性が遊びの世界にも入りこんでいきます。ネオ・リベラリズムの原理は、自己責任による自己選択によって、勝者と敗者を分かち、人間を無限の競争と敵対の関係に貶めていきますが、ギャンブルの世界はそのもっとも典型的なモデルです。
 こうした傾向はネット社会によって加速されます。日本では、全国3大新聞が国民に情報資源を比較的に均質に配分している世界でも特異な国であり、情報の一定の平等性によって認識が共有され、国民的な世論形成がなされてきましたが、インターネットの情報ビッグバンによって、こうした牧歌的な情報のプラットフォームがゆらぎ、良質な情報を判断できるリテラシーの所有者に質の高い情報が集積され、そうではないユーザーにジャンク情報が堆積する二極化の傾向をもたらしています。負のジャンク情報は、知的な思考を奪い、インサイダー情報をあたかも誰も知らない極秘情報にアクセスするような快感をもたらし、ここから陰謀史観へののめり込みが生まれます。ヘイト・スピーチに向かっている人たちは、ごく普通の市民なのですが、いつのまにか自閉した情報圏に自閉するうちに、あたかも使命を帯びた戦士のような気分になっていきます。双方とも、たがいに世界を斜めから見るようなニヒリズムにおちいって、憎悪の感情を誘発するようになります。
 こうして次第に、人間が互いに協働し合いながら、未来へすすんでいく共存のモデルは消え去り、人間同士は敵対しながら、互いにオオカミとなって生き残りをかけたホッブスのような闘争の世界に入り、国同士もそのように位置づけられます。カジノが好きなギャンブル依存症の人は、だから国同士の意見が違った時の戦争が大好きなのです。こうしたホッブス的な世界の恐ろしいところは、自分が敗者や犠牲者にならないために、先手を打って犠牲者をつくりだす、イジメの構造が蔓延することです。いま日本でみじめなヘイト・スピーチが流行しているのは、だれか外部の異端者をつくりだして、弱者と位置づけて攻撃を集中して、自分が敗者におちいる不安を発散しようとする心理が働いているからです。こうなると、誰が味方で敵か分からなくなって、互いに信じられない不信の構造が蔓延しますから、最後の一人に到るまでイジメや闘争が終わることはありません。イジメやヘイトスピーチが流行していることは、もはやその国の終わりが近いということを示すサインです。
 STAP細胞問題で、なぜ小保方さんに攻撃が集中され、共同研究者は免罪されるのか、四国四十八カ所霊場巡りで朝鮮人を入れるなと云うビラがまかれるのか、なぜ嫌韓や嫌中という異常な排外主義が横行するのか、多くは敗北の不安をため込んだ人のルサンチマンの放射となっていますが、こうした心性に為政者自身がのめり込んでいることが、日本の未来を危うくしています。ネオ・リベラズムに侵された人は、ひろく長いスパンで世界を見わたして判断するのではなく、即効的な利益でギャンブル的な判断をしますから、理念的な思考に弱くなり、どちらかというと過去の伝統指向型の価値観に陥りやすくなり、また当座の人気を求めるポピュリズムに傾斜します。天皇に命を捧げることを強要した教育勅語を賛美したり、自国の歴史の過ちを認めることを「自虐」と称したり、殺人の武器を売りまくる死の商人のために原則を修正したり、はては根源法である憲法の解釈は自分の自由だ等と言いだして戦争を肯定するようになります。
 丸山真男の云う「次々と成りゆく論理」のように、現在の日本は競争と戦争への修羅の道を一直線に進んでいますが、それは表層の現象であって、こうした虚偽と幻想は国際的なスタンダードとは背反していますから、国際的な理解を得ることはなく孤立していきます。最後の崩壊と破滅に到る前に、ストップする日本の人間的な矜恃が問われています。今は亡きある財界人が、現在は激動の時代ではなく、激動の時代であり、市民の誰もが歴史の表舞台に登場する対決にあるとしています。日本列島の未来の存続を望むならば、一歩踏みだす時代がきているような気がします。(2014/4/13)

STAP細胞論文問題は、どこへいくのか?
 若い女性研究者によるSTAP論文捏造問題は、いまの日本の科学研究の構造と責任倫理の問題を浮き彫りにしているように思います。共同研究であるのも関わらず、理研もメデイアも、彼女にバッシングを集中させ、週刊誌にいたっては私生活に立ち入ってプライバシーもものかわ、オモシロおかしく書きたき立て、彼女をスケープゴードにして、日本全国がイジメを愉しむような状況となっています。もちろん彼女の実験や論文作成に未熟さやずさんさがあったのは事実のようですが、問題の本質はSTAP細胞の実存であり、そこに踏み込んだ考察はありません。論文の瑕疵によってSTAP細胞そのものが葬り去られるならば、その損失は計り知れないものがあります。共同研究者のなかで、彼女と共同責任を取ろうとしている者は、ハーバード大のアメリカ人のみであり、日本の共同研究者はいとも簡単に彼女から離れていこうとしているように見えます。なぜ、日本の科学研究のシステムはこのような醜い実態に転落したのでしょう。
 ここには日本の科学研究体制のおそるべき劣化が浮き彫りとなっています。研究体制に選択と集中のネオ・リベラリズムが浸透して、正規研究職が急減し、多くは非正規の有期雇用となり、任期内に成果を上げなければならない激しい競争のシステムに駆りたてられます。理研も例外ではなく、かっての「個人の研究の自由を尊重して個人の創意に委せる精神」(朝永振一郎「理研の精神」)は消え伏せ、彼女もユニット・リーダーとはいえ、将来の不安を抱えた非正規研究者であり、競争の罠におちいった側面がないとは言えません。日本の共同研究者が彼女を見捨てたのも、みずからの研究生活を自己防衛する本能が働いたように思えます。3月末に中間報告を出した理研は、特別研究法人への移行をひかえて、あわてて彼女一人の倫理責任を問う最終報告書を出すという醜態を演じました。野依とかいうノーベル賞受賞者の理事長が、あろうことか、政治党派の自民党を訪問してこびへつらう態度は目も当てられませんでした。彼女よりも、この理研理事長の政治権力に膝を屈する没倫理性ほどに、日本の研究システムの貧しさを示した例はありません。カネのためには研究者の矜恃と良心を棄てて恥じないまでに、日本の科学研究システムは頽廃しています。日本の基礎研究部門は、もはや崩壊に直面しています。(2014/4/6)

2100年の日本列島は、亜熱帯と化す!?
 環境省研究プロジェクトは、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告にもとづいて、世界の温室効果ガス排出が現状のペースで増えた場合、2100年の日本列島の温暖化を次のように予測しています(3月17日発表)。IPCCは、21世紀末の地球の気温は、1986〜2005年の水準より、最大4,8度上昇し、海面も最大82cm上昇すると予測し、産業革命前と比べて2度を超えると、生態系と人間の生存は危機におちいるとしています。温度上昇を2度未満に抑えるには、温室効果ガスの排出量を2050年までに今よりも40〜70%削減し、2100年にゼロにすることによって可能になるとし、2030年までの取り組みが遅れると、手段の選択幅が狭くなると警告しています。
気温3,5〜6,4度上昇(る) 雨 60〜63cm上昇  洪水被害 2416〜4809億円(最大6、800億円)/年増加(20世紀末の3倍)  高潮被害 最大2592億円/年増加  砂浜 最大83〜85%消失  コメ生産地分布の北上  
 温室効果ガスを削減する戦略的な方向は、再生可能な自然エネルギーへの転換であり、すでに世界の2011年の太陽光発電は00年比91,3倍、風力発電は13,7倍に拡大していますが、そのなかで日本のみが停滞しているのは、核燃サイクルにしがみつく原発政策を維持しているからです。核燃サイクルの事業費は18,8兆円(政府試算)、使用済み燃料の再処理だけで12兆円にのぼり、国家財政は破綻します。昨年末に訪問したドイツでは、いたるところに風力発電の風車がまわっており、あまりの日本との違いに呆然としましたが、もはや温室効果ガス削減を理由に原発を存続することは、世界標準からはるかに遠ざかっていると実感しました。
 約138億年前のビッグバンから誕生した宇宙は、気の遠くなるような時をへて、地球惑星に生命を誕生させましたが、人類はこのわずか100年でそれを傷つけ、ふたたび荒涼とした生命が住めない惑星へと逆行させる不可逆的な道を歩んでいこうとしています。ビッグバンを引き起こした急速膨張・インフレーション(1兆の1兆倍の100億倍分の1秒)を証明する原子重力波による宇宙マイクロ波背景放射をハーバード大が初めて観測しましたが、こうしたニュースを聞くほどに、地球を汚して恥じない人類のふるまいに忸怩たる想いがします。ちょうど、Jリーグ・浦和レッズの3人のサポーターが、「JAPANESE ONLY(日本人以外お断り)」とする差別的な横断幕を出して、23日のホームゲームを無観客試合とする制裁を受けたように、「我が亡き後に洪水は来たれ」というネオ・リベラリズムが、地球の環境もものかわ、利潤の極大化に狂奔しています。2050年代以降から、じょじょに地球上は「無観客試合」が増えていき、最後にはプレーする選手もいなくなって、朽ち果てたグランドがひろがる風景が広がっていくでしょう。(2014/3/18)

「こんなクソみたいな人生やってられない。とっとと死なせろ! 俺の犯行は人生格差犯罪だ!」
 36歳の派遣社員は、週刊少年ジャンプの人気漫画「黒子のバスケ」の作者の成功に恨みを覚え、2012年の10月に、上智大学に硫化水素入りの脅迫文を置き、セブン・イレブンとバンダイに販売中止を求める脅迫文とニコチン入りの菓子を郵送して逮捕され、13日の裁判の意見陳述で15分間にわたって、次のように述べています。

 「起訴内容は一切間違いございません。罰則を科せられるべきだと考えている。理由を述べたい。小学1年生の時に受けたイジメがきっかけで、自殺を考えはじめて、今年で30年目になる。自分は負け組だ。30歳代になって、自分を罰する何かに一矢報いようと決意した。自分が手に入れられなかったものをすべて持っている(黒子のバスケの)作者の存在を知り、人生はあまりに違うと思った。成功を傷つけたい、漫画を世間から消したいと考えた。作者を自殺の道連れにして、燃え尽きるまでやろうと考え、頑張った。犯行を反省はしない。年収は200万円を越えることはなく、金銭では責任がとれない。出所したら自殺します。こんなクソみたいな人生やってられない。とっとと死なせろ!」(朝日新聞14日付け記事より)

 検事の冒頭陳述は、被告は大学受験に失敗し、アニメ制作に関わる夢もかなわず、人生に不安をいだくようになり、以前から好きだったバスケットボールの漫画を読み、「黒子のバスケ」の成功に怨念を募らせたとしています。新聞記事では、「被告の約15分間の陳述の内容は、被害者意識に満ちたものだった」と指摘しています。私はこの記事を見て、2008年の25歳の青年が起こした秋葉原の歩行者天国での10人に上る無差別殺傷事件を思いおこしました。秋葉原事件の犯人も、大学進学で挫折し、非正規を転々としながら、負け組の悲哀を味わい、ダガー・ナイフで無差別殺人に到りました。彼はインターネットの掲示板で「幸せになりたかったなあ〜。誰でもよかったんだ」とつぶやいていますが、こころの底に流れる、なんともいえない挫折感とルサンチマンは似ているような気がします。犯行そのものは、許せない反社会的な行為ですが、そこには不安定就業におびえながら漂流する現代のプレカリアートのうめきのようなものが感じられます。先日観ました『東京難民』という映画では、仕送りを立たれた大学生がテイッシュ配りから始まって、ホスト・クラブのホストのなかでトラブルに巻き込まれて,ヤクザに追われ、ついにホームレスに転落していくストーリーでしたが、いまや誰もがそうなるようなリアリテイに満ちていました。テイッシュ配りのノウハウや、ホスト・クラブの実態がうかがわれて面白いところもありましたが、それは転落していく者をみる客観者の立場でしょう。
 朝どこからともなくビルの裏口に集まり、終わればひとりで夕闇のなかに散っていく、仲間など誰ひとりいない、互いに名前をも知らず,互いの顔を見ることもなく、安価な中古のレンタルロボットのようにこき使われて、この世から永久に追放されるネズミのような生活がただよってきます。「ただ絶望した者にのみ、希望は与えられる」(ベンヤミン)のような最後の希望も失われた叫びのような行為は、あまりにみじめな姿となってさらされています。日本では長期にわたって部屋にひきこもり、外部と隔絶するひきこもりが,推定100万人をこえ、1998年以降の年間自殺者数は3万人をこえ、未遂者数はその10倍に上るとされますから、未遂や既遂者の周辺の多くの人も打撃を受けています。これが、アベとか云う首相がいう「美しい国」の惨酷な実相です。
 日本列島には、広島型原発の26発分の放射性物質が3年前にまき散らされ、いまも大気中をただよい、さらに今も排出が続いています。原発の再稼働をすすめる政府の中枢メンバーが属する極右団体「日本会議」の代表委員は、「アジア解放、有色人種解放の大東亜戦争を戦い抜いた結果、アジア・アフリカに次々と独立国が生まれ、黒人への差別をなくして、オバマ大統領が誕生したり、ゴルフのタイガー・ウッズやテニスのウイリアム姉妹が活躍しているのも、じつは日本のお陰だ」などという恥ずべき言辞を垂れ流しています。みずからは、大震災をあらたな利潤のチャンスとして惨事便乗型の公共事業をくりひろげて、富をため込みながら、若者には戦場で天皇のために死ねと呼びかける醜悪な現実がひろがっています。これがアベとか云う首相の「美しい国」の惨酷な実相です。
 黒子のバスケや秋葉原の青年犯罪の背後には、市場原理と戦争システムがむすぶ競争と自己責任の殺伐とした世界がそびえたっています。こうしたそそり立つ悪の世界をたじろぐことなく凝視し、蝶のひと舞いがついに嵐をひきおこすことを信じ、蜂の一刺しとなって迫るならば、わずかな一歩が明日への巨大な回路を開いていくのではないでしょうか。白鳥は死ぬ前に、一声美しく歌うのであれば、誰しもたった一度は美しく歌ってみたいと思うのではないでしょうか。ナイフではなく・・・(2014/3/14)

東日本大震災3年をへて、なにを学ぶべきだろうか?
 「放射能は完全にブロックされ、制御されている」(首相)
 「原発事故で1人も死者は出ていない」(自民党政調会長)

 東日本大震災被害者数 死者1万5884人 うち身元不明98人  行方不明2633人(3月10日現在 警察庁まとめ)
                避難者26万7419人(2月13日現在、復興庁まとめ)
 東日本大震災関連倒産(負債額1千万円以上、任意整理含む) 1402件 実質破綻20件(阪神淡路大震災関連倒産314件) 
                                        負債額累計1兆4943億8400万円

 (福島県の現在)
  直接死 1603人(障害者の死者割合は一般人の2,5倍)
  関連死 1664人(政府認定基準は自然災害のみ被害の半年以内まで、以降は関連死認定しない *1年以降の関連死は全県16%、双葉郡8町村23%)
  その他の死 224人
  避難生活者数 13万5598人(県内8万7551人、県外4万7995人 うち関東2万2793人、東北9892人、中部8569人、近畿2312人、
                                              北海道1667人、九州1015人、中国854人、四国223人)
  避難指示区域の再編 11市町村を帰還困難区域、居住制限区域、避難指示介助準備区域の3区域に再編
  除染事業 政府直轄除染2014年完了予定をさらに3年延長し、2017年完了に変更
  政府福島復興方針中間指針第4次追補 
    帰還困難区域(20km)、故郷喪失精神的賠償一括支払い(1人700万円)、自宅廃棄物処理無償

    旧避難解除準備区域(30km)は、精神的賠償(1人月10万円)打ち切り、就労不能賠償終了、宅地・建物・田畑への賠償なし、
       早期帰還者90万円賠償対象外、国保税・介護保険料・医療費一部負担減免の一部住民対象外
、自宅廃棄物処理有償    
  弔慰金支給認定率 県全体80,1%(50%未満の自治体あり *災害関連死弔慰金 主たる生計維持者500万円、それ以外250万円)
  福島原発全10基廃炉請願決議自治体 福島県議会ほか56市町村(59中)
 (災害公営住宅 *復興公営住宅は2015年までに2万5000戸予定)
 完成状況 久慈市27% 野田村26% 岩泉町29% 釜石市16% 石巻市4% 相馬市28% いわき市0%
 入居戸数 岩手県467/6038 宮城県 322/1万5608 福島県146/7583
 (災害交付金執行率) 山田町10% 大槌町20%  南三陸町28% 山元町46% 南相馬市11% いわき市39%
 (災害交付金執行額) 岩手県684,66億円/1720,74億円 宮城県1900,52億円/3087,28億円 福島県299,23億円/850,91億円
 被災者生活再建支援法 最大300万円(原発被害は除く)
 自治体職員1人当たり決算総額(2010年基準) 女川町509% 山田町1136% 大槌町1597%  陸前高田市1032% 女川町2217% 
                               東松島市804% 新地町599% 相馬市365% 広野町476%(*平成大合併の職員削減による過重業務)
 全国原発使用済み核燃料貯蔵状況 14340(トンU) 管理容量20640(トンU) *資源エネルギー庁資料
   管理容量を超過するまでの年数  泊16,5年 東通15,1年 女川8,2年 東海23,1年 柏崎刈羽3,1年 浜岡8年 志賀14,4年 もんじゅ9,3年
                         美浜7,7年 大飯7,3年 高浜7,6年 島根7年 伊方8,8年 玄海3年 川内10,7年
 全国原発低レベル放射性廃棄物発生見積もり量(資源エネルギー庁調査、単位:立方メートル) *レベル1は地下50m、300〜400年埋設管理(処分地未定)
  泊11,563 東通12,104 女川31,943 福島156,579 福島212,136 浜岡64,285 伊方11,900 柏崎刈羽93,367 志賀25,676
  敦賀13,550 美浜9,896  大飯33,891 高浜18,490 島根17,317 島根17,317 玄海18,216 川内9,863

 福島原発放射能排出量 毎時1000万ベクトル大気中に排出、セシウム1日当たり2億4000万ベクレル放出
 11-13年度放射線被曝検査結果判定数25万4280人 うち甲状腺癌診断数75人(疑い含む)
 原発発電コスト(1キロワット時、円)
   政府コスト等検証委員会試算(2010年) 原発8,9(*) 石炭火力9,5〜9、7 石油20,8〜37,6 LNG10,7〜11,9 
                            風力9,9〜17,3 水力10,6 太陽光33,4〜38,3
                            *震災直後の福島事故費用5,8兆円(試算)/原発50基(40年+稼働率70%)=8,9円
   原発現在事故費用 損害賠償4,9兆円 事故収束・廃炉費用2,7兆円 防染費用2,5兆円 中間貯蔵施設1,1兆円 その他1,8兆円 
                            =合計13兆円/原発48基(40年運転+稼働率70%)=12円
 超巨大噴火カルデラ 泊原発(支笏4万年前、洞爺11万年前) 六カ所再処理工場(十和田1,3万年前) 
  (*1万年に1回)  玄海・伊方・川内原発(阿蘇9万年前、阿多11万年前、鬼界7千年前、桜島2,9万年前)
 NHK原発世論調査(3月10日) すべて廃止30% 減らす46% 増やす1%  現状維持22%  

究極のオーウエル型社会か、パノプテイコン(一望監視)社会か?
 総務省所管の独立行政法人・情報通信研究機構(NICT)は、JR大阪駅ビルに90台の高性能カメラを設置し、通行人や施設利用者を無差別に撮影し、撮影した市民の顔画像と歩き方の特徴をデータ化してID(個人識別番号)をつけて、一定期間追跡調査する実験を2年間にわたっておこなうそうです。このシステムは、J・オーウエル『1984年』が描いた、独裁者がTVデイスプレーを通じて全国民を監視する究極の管理社会にそっくりであり、M・フーコーが警告した監視塔にたつ権力が市民をすべて見とおす刑務所の思想を思いおこします。従来の監視カメラのシステムと本質的に異なるのは、個人別に特定し、その動向を長期にわたって監視して保存するということです。2年間の試行実験をへて、全国の街頭にこうしたシステムを設置し、日本に暮らすすべての市民の顔と動作が個人別に政府によって集中管理されるようになります。2016年から運用が始まる共通番号制(マイナンバー)は、日本で暮らすすべての人に12桁の番号を付け、所得や医療の受診歴など幅広い個人情報を政府が一元的に収集・管理しますが、NICTのデータとむすびつけば、恐ろしい管理社会が実現します。
 憲法13条のプライバシー権や「何人も承諾なしにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する」(最高裁判決)などという人権など、もはやどこ吹く風の全体主義社会そのものです。憲法遵守義務がある公的機関が率先しておこなうのですから、その精神構造の崩壊は異常なものがあります。おそらく彼らは、犯罪を防止するための「公共の福祉」による「やむをえない」人権の制限とでも主張するのでしょうが、「公共の福祉」は公権力の行使の規制に向けられるのであり、市民の自由の侵害に向けられるのは方向が逆となっています。近代の市民社会の原理は、「100人の犯人を取り逃がしても、1人の無実の者を有罪にしてはならない」ところにあり、犯罪捜査もこの規範のなかでおこなわれます。それにしても政府は、この実験地になぜ大阪を選んだのでしょうか? 大阪では儀式で教師が君が代をほんとうに歌っているか、校長が監視して報告する全体主義のシステムが浸透しており、市民の違和感が薄らいでいるとでも思っているのでしょうか?
 NICTのシステムは、本質的に旧ソ連のKGBや東独のシュタージがおこなった、カード化された詳細な市民データをもとに、市民を24時間支配した全体主義国家の秘密管理社会とおなじです。自分の個人データをすべて国家に把握された市民は、もはや意見を述べることにも戦々恐々となり、生き残るために他者のデータを国家に密告する究極の全般的奴隷制を生きることとなります。昨年ドイツを旅行した時に、東ドイツ出身の女性ガイドは、ドイツ統一後に旧東独政府のアーカイブにある自分の個人データを閲覧し、「この女性は資本主義国の友人が多く、思想的に問題があり、上級のポストに就けてはならない」と記してあるのをみて、愕然としたといっていましたが、今回の実験はそうした薄ら寒い社会へ一歩近づくような気がします。
 いまや日本政府は、市民は監視の対象でしかなく、それほどに自らの統治への正当性の感覚が失われ、江戸期のような「生かさず、殺さず」という支配の対象とみているのです。ある学校で、すべての教室に監視カメラをつけ、教師の授業を校長室から監視するシステムが導入され、大問題となりましたが、国全体がそうした構造になるまでに、この国の権力は暴走しています。(2014/3/6)

山本作兵衛・筑豊炭坑記録図とともにーユネスコ「世界の記憶遺産」になにが指定されたか?
 ユネスコは、人類にとっての重要なテクストの保存と環境整備のために、「世界の記憶遺産」指定事業をおこなっています。今まで指定されたものには、グーテンベルグ聖書、ベートーヴェン『第9交響曲』、ニュールンベルグの歌、ベンツの特許申請書、ベルリンの壁、ドイツ統一条約、グリム童話、映画メトロポリス、ワルシャワ・ゲットー、チェ・ゲバラ日記などがありますが、日本からは山本作兵衛・筑豊炭坑記録図、慶長少年使節団資料(3点)、『御堂関白記』があります。私はこの3点のうち最初は初見であり、後のものも見たことがありませんが、各国のユネスコ委員会が責任を持って推薦したのですから、人類の記憶遺産として貴重な価値をもつのでしょう。しかし、欧米の指定テクストとくらべて、日本の推薦はなにか文化教養主義的な傾向があり、ユネスコ選定委員会は多大のユネスコ予算を負担する日本政府の意向を、そのまま受け入れざるを得なかったのではないでしょうか? 三島憲一氏は、田中正造の質問書や水平社宣言、江戸の浮世絵春画などのほうがよほど歴史的意義があるとしていますが(『みすず』624号)、私は水俣病判決や日本国憲法9条などのほうが、『御堂関白記』などよりはるかに意義があると思いますが、こうした歴史感覚は文化庁にはないようです。
 さて2013年度の「世界記憶遺産」に、『共産党宣言』と『資本論』第1巻がオランダとドイツの推薦で、全会一致できまりましたが、この選定委員会は韓国・光州で開催され、光州がビエンナーレを含め、国際的な文化都市として認知されていることを示しています。ユネスコ委員会は、マルクスのこの著作を「19世紀における解放運動の重要な文書であり、集合的な主体の理論として、いまでもきわめてアクチュアルである。社会のなかで排除されているマイノリテイや、不安定雇用にあえいでいるプレカリアートたちが、どのように批判と反抗の運動を引き起こすかを考えるときに、マルクスのテクストは限りない想像力の源泉となるだろう」(ドイツ代表挨拶)と説明しています。このドイツ代表は、ドイツの対外文化交流の拠点であるゲーテ・インステイテユート総裁として文化行政の中心にあるひとですが、マルクスの思想が社会に埋めこまれて生活意識の一部となっている欧州文化の重みを感じます。文化や歴史の記憶が従軍慰安婦にみられるように浅薄に扱われ、政府が先頭になってヘイトスピーチをくりかえす日本とのちがいに、ため息がもれてきます。日本の国際交流基金の代表が、マイノリテイやプレカリアートに言及するようなことはないでしょう。
 日本の大学からは、すでにマルクス経済学は姿を消し、「政治経済学」や「社会経済論」などを名乗りながらほそぼそと存続し、唯物論思想をかかげる哲学は姿を消し、哲学そのものがカリキュラムから消えていき、産官学連携のもとでリベラル・アーツは息も絶え絶えとなっています。なぜこんな状態になったのでしょうか? それは、ネオ・リベラリズムが怒濤のように覇権を握ってきたことがありますが、同時に日本の研究のパラダイムが福沢以来いまも欧米の輸入に依存しており、マルクス系の研究も欧米思想の翻訳と輸入に明けくれ、研究生活のほとんどは欧米の動向に右往左往しながら、翻訳書を刊行するみじめな実態にあり、それが当然と思い込む意識が浸透しているところに大きな原因があります。
 こうして日本の大地と生活に根を下ろした自立した思索が育たず、なんらかの権威に寄りかかった主張の範囲に留まり、主体的であろうとする意識が狭隘なナショナリズムに頽廃する傾向があらわれています。かっては恥ずかしくて言えなかったような極右思想が、NHK経営委員になった女性哲学者からたれ流されても、学園ではニヤニヤ笑いながら冷笑する光景が繰りひろげられています。帰趨を迫られるような真剣なテーマであっても、周囲に微笑をふりまきながら語る風景は日本独特であり、そこには意見の違いが人間的な対立に転化する文化風土を恐れる浅ましい心情があります。マルクスは<現存する一切のものへの呵責なき批判>なしに文化は育たないとしていますが、それはマルクス自身をも批判の対象とするということであり、<マルクスとともにマルクスに抗して>進んでいく欧州文化に、日本は自然科学をのぞいて太刀打ちできません。(2014/3/5)

哀しいまでにみじめな東北の悲惨・・・誰が彼らをこうしたか?
 福島第1原発の避難者2万3千人がくらす福島県いわき市の仮設住宅には監視カメラがはりめぐらされています。高級車ばかり7台のフロントガラスが割られ、市役所には「被災者帰れ!」などのスプレー書きなどの事件が相次いだからです。背景には、津波被害を受けながら東電の補償がない地元と、4人家族で平均5千万円〜1億円の補償を受ける原発避難者の感情の差異があり、避難者同士でも損害額の差による対立が生まれていることがあります。政府は住民の不安をなだめるために、除染目標を年間1oシーベルトと決めましたが、汚染度の中間貯蔵施設は従来の基準のままであり、除染はすでに破綻しようとしています。そこで政府は、放射線測定の対象を「空間」から「個人」に変え、ひとけのない地域は除染しないことに決め、放射線の高い地域の全員帰還の方針をあきらめました。避難者は就業や風評被害、地域インフラが整備されないなかで、多くは帰還をあきらめ、もはや被曝地は荒廃したノーマンズランドと化そうとしています。これが安倍ナントカという首相のいう「美しい国」の実態なのです。こうした悲惨な実態は、もの言えぬ弱い者ー子どもたちに集中しています。
 東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島の子どもたちの33,8%に、強い不安や不眠の状態が1ヶ月以上続く1ヶ月以上続く心的外傷後ストレス症候群(PTSD)症状があり、被災地ではない子ども(三重県3,7%)の約9倍に上っています。つらい体験が突然甦るフラッシュバックや体験した夢をくりかえし見たり(14%)、体験を思い出せない(17%)、体験した場所や行動を避ける(17%)、ちょっとした物音に驚く(10%)、眠れない(10%)などの症状です。地震や津波での流出物の目撃、親しい者との別離、別居や避難所生活など被災の要素が重なっている子どもほど発症しやすくなり、とくに親がPTSD症状にある場合の子どもは1,7倍にふえ、多くが無表情になってしまい、自分の症状をうまく説明できないため見逃されてしまします。以上は、厚労省研究班調査(被災時に保育園児であった3県198人、三重県82人対象)。岩手県教委の調査(13年9月)では、津波で町がなくなって、放課後に遊んだりおしゃべりする場所がなくなり、「震災の恐い夢を見る」などの支援が必要なPTSDにある子どもは、沿岸部で15,6%、内陸部で12,1%にのぼり、ストレスの原因が津波の恐怖から親の転職や家庭内不和などに移っているとしています。
 「人に危害を与えてまで発電する必要があるのか? 東京の人の電気をつくって放射能で苦しめられるのはおかしい」(南相馬市の中学1年)・・・一番の被害者である子どもたちのこうしたホンネはほとんど大都市部に伝わりません。被災地を訪ねたスポーツ選手やタレントが子どもたちとニコニコと握手し、「勇気をもらいました、前向きに生きていこうと思った」などとコメントしていますが、ほんとうは子どもたちは泣いて全部はき出したいし、こころには深い不安を抱えています(「ママ? わたし将来子どもを産めるのかしら?」)。仮設住宅では、不安といらだちから家族内の口論やDVがふえ、薄い壁を通して隣の家に伝わり、仮設住宅全体が重苦しい空気に包まれ、そのなかで独り暮らしの老人が部屋のなかで倒れ、助けを発する気力もなく、この世を去る孤独死が相次いでいます。オリンピックに一喜一憂しながら、「福島から3年も過ぎたし、もうそろそろいいんじゃない」・・・東京五輪に向けてカジノ開発にいそしむ風潮が広がっています。こうしたなかで被災者の方々は、必死に助けあって生きのびていこうとしています。これが「美しい国」・日本のほんとうの姿なのです。
 原発事故は、避難の負担もありますが,将来の見通しがまったくたたないという深刻な不安にさらされ、一番恐れるのは、自分たちの苦しみに社会が無関心になってしまい、もはや見捨てられたという気持ちをもたらしていることです。過去の事実をすぐ忘れ去ったり、糊塗したりする日本では、はやくも東京五輪に浮かれはじめ、原発被災者の無念は深まっています。福島の詩人・和合亮一さんは、災害で亡くなった人の魂を鎮める東北の民俗芸能「鬼剣舞」に託して、「悲しみや絶望を抱えながら、それでも立ち上がって生きていかねばなりません。鬼の気迫が必要です。しかしそれは優しい鬼なのです」として、として、次のような詩を書いています。

 <ひとりひとりが/優しい鬼となりて/生きぬくのだ/我らは鬼だ

 核廃棄物の最終処理に10万年かかる処理場を設置できる場所は、地震や火山活動が活発な日本では、万年単位で安定した地層を選ぶことは不可能で、核燃サイクルも破産しています。いつでも廃棄物を取り出せる施設で数十〜数百年間、各都道府県で分散して引き受ける暫定保管しか対策はありません(日本学術会議検討委員会提言、2012年)。ましてや再稼働などできるはずがありません。未来の世代に犠牲を転嫁して、営業利益率を確保しようとする東電本社の人間的な人格を問いたいと思います。いま、このホームページをみている東電本社の社員はぜひこの問題に答えていただきたい。福島原発の最前線にいる東電職員は、みずからが被災者でありながら、命がけの仕事の強烈なストレスにあり、安全な本社にいて遠くから指示を発している職員とは本質的にちがいます。3・1独立運動記念式典でのパク・クネ韓国大統領の演説は、従軍慰安婦問題だけではなく、日本の原発再稼働への真摯な警告となっているように思います(もちろん韓国の原発停止もふくめて)。「歴史」を「福島事故」、「証人」を「被災者」、「政治的利害」を「電力会社の経営」と読み替えてください。

 「真の勇気は、過去を否定することではなく、歴史をありのままに直視し、次世代に正しい歴史を教えることだ。歴史を否定すればするほど、みすぼらしくなり、窮地に追い込まれるる。歴史の真実は生きている人々の証言だ。証人の声を聞こうとせず、政治的利害でそれを認めなければ、孤立を招くだけだ」(2014年3月1日、抄掲)   (2014/3/2)

どうも外からのほうがよく見えるようだー日本社会はどこへ行こうとしているのか?
 父親がアメリカ人、母親を日本人とするシカゴ大学の日本文化研究者ノーマ・フィールドが、最近の日本について次のように言っています。渦中にいるよりも、外側から冷静に見る方が事の本質がよく見えてくるのでしょうか? あたかも外科医が人体をモノのようにみて手術すると、手術が成功するように。

 「米国のひどさが身にしみるようになった。日本も米国の格差社会に追いつけ、追いこせといわんばかりで、かろうじて残してきたものを壊していくのをみると、いたたまれない。日本には大切な人がいるから、帰りたいのですが、このままいくと,いずれ帰れなくなるのでは、と恐れを感じます。最悪の場合はビザがおりなくなることもあるように思える。敗戦後は『めだかの学校』のように、誰が生徒か先生か分からないような解放感がありましたが、あの感覚が次第に薄れている。知人が、日本のある小学校の講演で『平和』という言葉を使わないように言われましたが、敗戦直後の真剣な議論がゼロになりつつあります。若くて生活に困っている若者たちが田母神さんに投票しましたが、最初に戦場に出る若者が右傾化を支持するという近代史のいまわしいパターンです。今の若者は戦争を知らないだけでなく、戦後を知らず、バブルも知らない、戦後民主主義の平和と繁栄を知らない世代です。細川さんの『腹八分目の豊かさでよしとする成熟社会』という言葉は、就職できない若者には届かない。日本は、まず繁栄がなくなり、そして平和を犠牲にする流れとなっています。8月15日に云われる『平和と繁栄』という欺瞞がいまは懐かしくすらなっています。
 生活のために自分の生存を犠牲にしなければならない構図がいたるところにあり、原発を誘致した地域や原発作業員のように、明日どうなるか分からない人々に、細川さんの文明論はぜいたくに聞こえる。原発に反対するなら、反対できない人々のことを考えなければいけない。選択肢がないひとは情報すらほしくなくなり、現実を伝える言葉すらタブー視されていくようになります。田母神さんと宇都宮さんを支持した若者は、実はおなじ層であり、希望を託す先が違うだけで、この双方に『われわれ』という意識が生まれる可能性があると思います。『蟹工船』のような物語を現代に当てはめても、正規社員と非正規労働者は一緒に闘えないといわれましたが、そこをどう橋渡しするか、小林多喜二はその失敗を丁寧に描いている。だから次があると感じられます。自分が実感できない希望を人に信じて貰うことはできませんが、希望は模索する行為であり、結果よりもプロセスを重視するということではないでしょうか。井上ひさしさんは『絶望するには,いい人が多すぎる。希望を持つには,悪いやつが多すぎる』といっていますが、これほど人間を馬鹿にした政治を押し通すのは放っておけるものか、と考えます。
」(朝日新聞、3月1日付け、筆者省引)

 こうした率直な危機感あふれることばを外国人からきくと、あらためて日本人自身が日本の現状をしっかり見つめ直さねばならない分岐点にあるような気がします。ファッシズムは、ドラステイックな激動のなかからよりも、日常の積み重ねのなかから静かに浸透していき、気がついたらもはや立ち戻れない不可逆的な瞬間にいたるのであり、いままさにそのような事態が目の前で静かに進行している気がします。1941年12月8日の真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦の日には、日本人はさあ戦争だ!と待ち構えていたのではなく、開戦のニュースを聞いても、浅草や新宿の歓楽街は大勢の人があふれ、いつものように娯楽を楽しんでいたのであり(『永井荷風日記』)、日米新安保条約が締結された1960年1月のその日の後楽園球場は巨人戦をみる野球ファンで超満員となっていたのです。私はノーマ・フィールド氏のように、希望は主体の決断にあるとは思いませんが、「希望は希望なき者にのみ与えられる」(ベンヤミン)のであり、よく考えぬいて実現可能な次の時代のイメージを見いだす者に生まれると思います。

 ノーマ・フィールド氏は、なぜ日本がアメリカ・モデルを必死で後追いしているのか、その必然性とアメリカの自己責任について言及していません。彼女の属するシカゴ大学は、全世界を市場原理の暴走に巻き込んだ新古典派マクロ経済学の拠点です。彼女は「日本はアメリカの忠告に耳を傾けよ」とも言っていますが、じつはここにアメリカの醜い二重基準があります。米国務省『世界人権報告書2013年版』(2月27日)は、世界200カ国・地域の人権の現状に次のような警告を発しています。「日本では在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチをくり返す極右グループが東京でデモを行い、在特会の会長が抗議の人々と衝突して逮捕され、民族的少数派と同性愛者への差別が蔓延している。北朝鮮では、極めて悲惨な人権侵害が広がり、中国ではチベットやウイグル族への抑圧があふれ、多数の死者が出ている。中国の人権状況を改善することが不可欠だ」(概要)とし、ネオ・コン(ネオ・コンサーヴァテイブ新保守主義)のアーミテージ元国務副長官は「安倍の参拝は過去の首相の参拝よりも政治的色彩を帯びた。中国の外交を後押した。慰安婦問題にはきわめてこころを痛めている。日本は人権や人間尊厳について模範となる国であってほしい」(2月27日)とも云っています。ノーマ・フィールド氏と米国務省は、対極的な立場にありますが、本質的に米国の覇権性の意識については共通性があります。
 かれらの指摘と提言は、世界の反人権的な状況の根源に星条旗の覇権的な人権侵害があることに、まったく無自覚であることにおどろきます。南アフリカのアパルトヘイト政権を支持して支援したのは誰でしょうか? チリの民主政権をクーデターでうち倒したのは誰でしょうか? ベトナムで大虐殺をくりひろげたのはどこの国でしたか? 大量破壊兵器があると言って攻撃し何十万の民を殺したのはアーミテージ氏自身ではありませんでしたか? いまも無人戦闘機を操りながら無辜の民衆を虐殺しているのはどこの国でしょう? 世界の政府首相の携帯電話を盗聴して謝らないのは誰でしょうか? 日本の女性を強姦するアメリカ兵を本土に連れて帰って釈放しているのはどこの国でしょう?
 世界最大の人権侵害国は、星条旗を掲げて覇権を求める帝国自身であり、この帝国は自らの恥部を告発することによってのみ、はじめて世界を告発できる資格が生まれるという最低限のモラル規準ににすら無自覚である点で、アングロ・サクソン民主主義の限界をさらけだしています。この帝国は、生存権を奪われた者の抵抗権の最後の手段としての9・11という本質の側面から、ほとどんど学んでいないように思います。(2014/3/1)

アジア的生産様式の野蛮はいまも続いているのか!?
 日本の2012年度の女性雇用者総数は2424万5千人ですが、うち正規社員は1030万1千人、非正規社員1394万5千人(57,5%)であり、国連男女差別撤廃条約(1981年発効)と男女雇用機会均等法(1985年)以降、むしろ非正規が圧倒的に上まわる逆転した事態となっています。女性の平均賃金は男性の52,2%であり、女性の62%が第1子出産後に離職し、従業員100人以上の企業の部長職に占める女性は6,9%でしかなく、選択的夫婦別姓や結婚年齢の差などを含めた政治、経済、教育、健康の4分野で評価する男女平等指数(世界経済フォーラム、2013年度発表)は世界で105位です(1位アイスランド、2位フィンランド、3位ノルウエー・・・23位米国、69位中国、韓国111位)。
 こうした背景には、雇用形態や派遣労働の自由化が女性の非正規雇用を拡大し(非正規労働57,5%)、労基法の女性の時間外・休日・深夜労働を規制した女子保護規定が97年に撤廃され、保育所や介護施設の不足で女性に家政労働の負担が集中していることにありますが、儒教文化の残滓による男女性別役割分担の意識が根強く残っているところにあります。フィンランドの女性の就業率は86%(!)であり、母親休業か親のどちらかが休業する両親休業で、年263日の育児休業が取得でき、その間は政府から給与の70%が支給されます。その期間が過ぎても3年延長でき、復職時は休暇前の職に復帰することが法で決められています。保育園への入園は平均4ヶ月待ちですが、事情があれば自治体が2週間以内に措置する義務を負っています。「母乳を出す」以外はすべて男女の親は同じ育児のしごとにいそしみます。
 国際刑事裁判所に送付された北朝鮮の人権に関する国連人権理事会報告書(2月17日)は、次のような内容となっています。1970年以降国民すべては「核心階級」「基礎階級」「複雑階級(童謡、敵対)」に3分類され、さらに51階層に階層化されています。2000年から食糧不足と飢餓が蔓延し、11〜13年では760万人(30,9%)が栄養不足となっています。政府の食糧配給目標は1人1日573gですが(敗戦直後の日本の摂取食品量は1100g超)、08年以降に達成率は40%を切り、08年6〜9月は150g(茶碗1杯のご飯分)となり、03〜08年の5歳未満の子どもの45%が年齢に対して低身長となっています。道別にみた5歳未満乳幼児の低身長率は、両江道45%、滋江道41%、咸鏡南道39%、咸鏡北道38%、江原道34%、黄海北道31%、平安南道31%、黄海南道29%、平壌23%となっており、低位の出身身分が集中する北部への配給が減らされて、上位身分が集中する平壌を中心とする南部地域に配給がおこなわれ、食糧配給が政治的忠誠を強いる重要な手段となっています。過去50年以上で数十万人の政治囚が収容所で死亡し、4カ所の政治犯収容所に8万〜12万人の政治犯がいると推定されます。50年からの外国人拉致や帰国拒否によって、20万人以上の強制失踪の犠牲者が生まれ、キム・ジョンイル総書記の命令を受けた朝鮮労働党中央委員会35号室が、少なくとも100人以上の日本人を拉致しています。この報告書は、80人以上の目撃者や専門家の公開の場で証言と240人以上の犠牲者や目撃者の非公開の場での聴取調査からつくられています。北朝鮮政府はこの報告書をデタラメと否定し、ここでは報告書の真偽は争いませんが、北朝鮮の実態を一定反映しているのではないでしょうか。
 私がもっとも驚愕したのは、平壌北東部にある政治犯強制収容所「14号管理所」から、2005年に脱北したシン・ドンヒョク氏(31)の証言です。14歳の時に、母と兄の逃走計画を看守に密告し、両親は公開処刑されました。「自分は何も感じなかった。当時は家族の愛を知らなかったし、密告しろと教育されていたから。(その後さまざまの国で家族が助けあう姿を見て)人間は、母親のお腹にいる時から、DNAとして自由を持っていると考えるようになった。母は自分を産んでくれ、兄とは血を分けていたのだ、ということをようやく理解し、母と兄への懺悔の思いがわいてきた。自由という言葉が、どれほど大きな意味を持っているか。自由を与えられない北朝鮮の人々のために、少しでもいいからなにかできないかを考えてほしい」(朝日新聞、2月27日付け)と語っています。3歳までに家族の愛の関係を知らない者は、ほぼ一生トラウマをかかえて、人を愛する心情や自由の感覚ををうばわれる発達心理学を証明しています。シン氏のドキュメンタリー映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」は3月から日本公開されます。
 ここには、スターリンを真の父と崇拝し、自分の父親を密告する息子を英雄と称えたスターリン主義と同じ精神まで支配する全体主義の野蛮があります。中国文化大革命やカンボジアのポル・ポトによる大虐殺も同じであり、その抑圧は主として批判的な考えをいだく者や知識人や芸術家に集中し、アウシュヴィッツ型の人間抹殺の論理が蔓延し、恐怖と独裁者崇拝が入りくむ惨酷な人間の疎外態の究極の姿となってあらわれます。その抑圧は罪百代に及ぶ封建的な身分制による支配となります。かって北朝鮮は地上の楽園と仰がれ、多くの在日が帰国事業で祖国へ渡りましたが、人間の解放をめざしたはずの美しい理想であった社会主義がなぜかくも無残な地獄の様相に転落したのでしょうか。私は、日本のみじめな女性差別の実態も本質的に通底しているように思うのです。こうした実態をアジア的野蛮から説明することができるでしょうか?
 K・ウイットフォーゲルは、古代アジアでは灌漑や治水の農業管理がすべてを決め、農業を管理する官僚が支配者となる専制的な家父長制の家族国家が形成され、権力による威嚇の服従のなかで、被支配者はテロルの脅威に適応する行動が求められ、親や教師に絶対服従する儒教的なモラルが形成されたとする。権力の恣意的なテロルの恐怖のなかで、民衆の自己否定の心性が増幅され、支配者自身も暗殺の恐怖におののき、さらなるテロルを行使するスパイラルにおちいる。官僚的土地所有によって、私的所有を基礎とする階級は生まれず、手工業と商人層は官僚制に従属して対抗権力への発展を閉ざされる。原始的な貧困におちいる農民の蜂起を回避するために、ある枠内で温情的なパターナリズムの恩恵がほどこされ、専制への抵抗の回路はせばめられる。「百姓は生かさず殺さず」という支配の論理と、水戸黄門の葵の紋による弱者救済がくみあわさって、貧窮する民衆は自分自身で立ちがあることはないシステムが形成される。
 朝鮮半島では、降水量のいちじるしい季節変動という風土の条件のなかで、灌漑のための集約労働がもとめられ、それを組織する専制権力が形成されたが、王権も両班階級も私的所有地と臣族を所有せず、洞や里の共産的なムラ自治が認められ、共同体の全員が全般的に王権に臣従する奴隷制をみずから受け入れる基盤が形成された。儒教的な家父長制のモラルが日常のすみずみに浸透し、違反する者は民衆の相互監視の網の目のなかで摘発される。こうしてすべてを諦めながらもルサンチマンが沈殿し、「恨」という独特の純潔性に満ちた心性がはぐくまれたが、日本の惨酷な植民地支配のなかで、「恨」は殉教者的な抵抗精神に高められ、朝鮮労働党の全一的な神のような権威へと転化し、専制的官僚制は党の総体的な集権制へ姿を変え、民衆全体を国家へ包摂する擬似的な「社会主義」体制が成立する。こうした封建的な社会主義システムにたいし、近代民主制による社会主義を対置する批判勢力は、「将軍さま」に逆らう悪逆非道なチンピラ・ヤクザと位置づけられて抹殺される。
 日本は、朝鮮半島とほぼ同じ自然条件のなかで、アジア的野蛮の残滓(絶対主義天皇制)を残しながら近代化への道を開いた希有の事例となったが、アジア的野蛮を主として近隣諸国への侵略にふりむけ、畸形的な近代化のなかで、東アジアに擬似的な先進地域ー途上地域の垂直的な構造をつくりだし、現在の嫌中嫌韓の心性が生成した。日本に残るアジア的野蛮は、こうした脱亜入欧のモデルに逆らう国内の抵抗者たちに集中的に放射され、多くの民衆は日本的集団主義の疑似共同体に安らぎながら、抑圧の委譲のシステムを形成し(村八分、イジメ、君が代口パク)、現在では市場原理主義と結びついたアジア的野蛮の現代版(業績評価と過労死)となっている。こうした説明にたいし、風土的決定論とか文化本質主義の批判が加えられますが、はたしてどうでしょうか。明日3月1日は、朝鮮半島で澎湃と起こった3・1独立運動の記念日です。(2014/2/28)

フランスの100万本植樹計画と日本の欺瞞
 フランスの環境団体リフォレスト・アクション(再森林化行動)は、国連森林デー(3月21日)にあわせて、3年間で100万本の植樹を実現する行動に踏みだしました。「森林が環境にもたらす数知れない効用は貴重なものであり、経済発展を優先させるあまり無視されている」(代表の訴え)という主旨で、企業向け事業「森林の1日」(参加企業に毎月1回、1日分の収益の1%を寄付し、特定の商品を1つ売るごとに価格の5%の寄付を求め、植樹活動への参加を示すロゴの使用権を認める)は、環境保護と販促の両立によるもっとも持続的な投資となると説明しています。すでに個人と企業向けに贈答用苗(1株390円)を販売し、1枚購入すれば1本の植樹につながるメッセージカード(390円)の販売によって、植樹を実施しています。フランスの森林存続のためには、年8000本の植樹が必要ですが、この計画ははるかにそれを上まわる森林を維持することができます。フランスやドイツを旅行すると、大都市近郊でもすばらしい緑の森林と田園地帯が広がり、都市の夜の照明は暗く、高速道路の街頭もなく、西欧の環境保護が本格的にすすんでいることを実感します。このニュースを聞いて、「明日世界が滅びようとも、私は今日木を植える」といって、木を植え続けた男を描いたジャン・ジオノ『木を植えた男』や、岐阜県で黙々と桜を植えたバスの車掌の話を思いおこしました(実はジオノの作品はフィクションだったことが判明)。
 ひるがえって日本をみれば、夜の地球を宇宙からみた映像では、地球上で日本列島が異様な輝きを放っていることが分かります。福島第1原発では、稚拙なミスによって高濃度汚染水100トンが流れだし、放射性物質を吸収する中核装置(アルプス)も1系統がマヒし、トリチウム以外の放射性物質を除去できないまま、大量の汚染水が滞留し続けています。しかし政府は、原発は「低廉で安定的に稼働できる重要な電源」(!)として再稼働する計画をつくりました。もはや、環境は未来からの預かり物とする次世代への倫理観が決定的に欠落して、暴走する最大のテロとも云うべき行為が野放しとなってたれ流され、日本列島の終わりに向かって転落する断末魔の叫びがひびきわたり、我が亡き後に洪水は来たれと嬌笑を放っています。一方では、「言ってはいけないことを不注意で言ってしまう」(『広辞苑』第4版)失言が横行し、本人自身には「言ってはいけない」という自覚すらなく、正確には失言ではなく、「暴言」いや「妄言」であり、あわてて撤回するという醜い姿が常態化しています。「憲法自体が憲法違反の存在だ」(与党議員)という意味不明の発言まで飛びだし、日本社会の劣化はもはや回復不可能なまでに深まっています。一度云ったことをすぐに撤回するような文化は欧米にはなく、発言は死を賭して責任をとるのですが、日本では恥ずべき前言撤回を侮蔑するような雰囲気がなく(武士に二言はないーといような)、むしろ「よくぞ言ってくれた」と共感する空気すらあります。
 日本の問題発言は、国内からの徹底した追求を受けるよりも、外国メデイアや政府からの批判によって問題化するようになり、いつのまにかあいまいに処理されて消えていく傾向にあります。どうして恥ずべきことを言ったのに、てんで恥じるような様子もなく、恥じずに過ぎていくのでしょうか。日本の政治にそんな信義観を求めても仕方がないほどに、頽廃が進んでいるのでしょうか。そこには、「私」と「公」を安易に分けて、個人的な考えと公的な考えを分けることが許される現代日本の独特のモラル・ハザードがあるように思います。社会的な個人に関して、こうした分割を絶対に認めない欧米からは理解できない奇怪な文化に映ります。欧米では、公的な存在となった個人が、公的な事柄について私見を述べるということは原理的にあり得ないのです。タテマエとホンネが分離することはありえないのです。個人的な信念であるホンネは、日本では「世間を騒がせて」も身内に迷惑をかけなければ、放言程度で許されるのであり、そこにはほんとうの「公」の感覚はなく、ムラ的な帰属集団への責任感覚しかありません。だから安倍とかいう首相は、アメリカ政府からの制止を振り切って、自分が属する右翼団体への仁義を優先し、靖国参拝をしたのです。
 こうしたムラ共同体の心性は、じつは日本社会のすみずみに浸透して共有されており、私たちは失言者と似たような行動形式に置かれているからこそ、日本国内からの痛烈な批判は出ないのです。橋下ナントカという知事の暴言も、どこかにホンネとしてある意識に通じるところがあり、外国政府の批判を待って彼は謝罪したのです。こうして現在の日本では、国際的には到底許されないような暴言が相次ぎ、云ってはならない規準が次々とソリッド状態となって融解し、もはや「現在の憲法は憲法違反だ」などという究極の妄言が発せられても、平穏に日常が過ぎていく、極めて危険な状態に落ち込んでいるのです。むしろホンネを堂々と言ってはばからない強烈な言辞がかえって人気を集め(橋下現象)、誰もが恥を恥と感じない光景がひろがっています。メデイアはNHK会長の失言を非難しましたが、すぐに撤回したことを非難することはありません。それはメデイア自身が、撤回などタテマエであり、ホンネはそのまま維持されていることを無自覚のうちに共有しているからです。
 「タテマエ(建前)」の原義は「方針、原則、規準」であり、現在のような「表向きの意見(実はウソ)」という意味ではなかったのですが、1968年の倉石発言(「憲法はメカケ」)をきっかけに、ホンネとタテマエが対比されるようになり、欺瞞的な意味が消えて平準化されて使われはじめ、両者を使い分ける文化が浸透していきました。こうした発想は、「オモテとウラ」、「ウチとソト」などの日本的な二分法と重なるところがあり、こうした二分法はアジア・太平洋戦争の惨酷な欺瞞によって白日の下にさらされたのですが、高度成長の一定の生活の安定のなかで、またぞろ息を吹き返して今日に及んでいます。コンプライアンス違反の会社の社長が、記者会見で深々と頭を下げる謝罪は、「世間を騒がした」ことを謝っているのであり、罪に対して本当に謝っているのではなく、観る人もそうしたホンネを分かって観ているのです。こうした危険なほどに際どい日本の謝罪文化の欺瞞は、もう一度敗戦のような極限状況を実体験しなければ払拭できないかも知れません。それは福島事故をもう一度繰り返すという致命的な破局にむすびつきます。日本の近代は未完であり、ポスト・モダンなどとおい未来のことでしかありません。(2014/2/27)

このめくるめく非対称性のパラドクスをどう考えればいいのでしょうか?
 ドイツ検察は、2月20日にアウシュヴィッツ収容所でユダヤ人の大虐殺に加担した容疑で、元ナチス親衛隊の男3人(88歳、92歳、94歳)を逮捕しました。ナチス・ハンターの組織であるサイモン・ウイーゼンタール・センターは、この逮捕を歓迎して、「時間の経過は決して殺人者の罪を軽減することはない」という声明を発しましたが、同時にセンターは日本で続発している『アンネの日記』(2009年世界遺産指定)やナチズム関連の書籍を毀損している行為について、「衝撃と深い憂慮をいだく。組織的な行為であることが強く示唆される。しかし私は多くの日本人がアンネを深く研究し、敬愛しているかを知っている。偏狭と憎悪に駆られた人だけが、迫りくる運命に直面したアンネの勇気と希望、愛の言葉を破壊しようとするのだ。実行者は処罰されなければならない」とする抗議声明を発しています。アムステルダムの「アンネの家」の館長は、「なぜこうしたことが起きるのか、容疑者はこうした破壊行為を通じてなにを成し遂げようと考えているのか、ぜひ知りたい」としています。ドイツは反ナチ法によって、ナチスを宣揚する行為は厳罰に処されられ、統一後にユダヤ人虐殺記念碑に次いで、ロマ虐殺記念碑や抵抗者慰霊の施設を建設し、過去の罪責を記憶して次世代に伝える作業を営々と続けてきました。私も昨年末にドイツを訪問し、収容所跡やベルリンの延々と長方形のブロックが並ぶユダヤ人虐殺慰霊碑や焚書モニュメントをみて、歴史の真実に真摯に向き合うドイツに深くうたれました(ベルリン中心部には、過去の罪責を想起する48の記念碑や施設があります)。
 ところが日本に帰ると、歴史の真実に背を向けて居直るような浅ましいふるまいが相次ぎ、あたかもナチス台頭期の光景を見るようで、そのあまりの非対称性に呆然としました。『アンネの日記』をズタズタに引き裂いた行為は、1933年5月10日にナチスがおこなった焚書事件を思いおこさせ、当時の米紙『ニューズウイーク』は「ホロコースト」と呼んで、「図書が焼かれるなら、次は人間が焼かれるだろう」と警告しましたが、その後の事態は人間の大虐殺に展開し、ここからユダヤ人大虐殺のことを「ホロコースト」と呼ぶようになりました。いま日本では、ナチスを批判する書籍が破り捨てられていますが、放置すれば次は人間が破り捨てられる時代がくるでしょう。
 米紙ニューヨーク・タイムズは、「安倍は自分の解釈で憲法の基本原則を変えるまでの危険に近づきつつある。自分が憲法解釈の最高責任者だとして立憲主義を否定し、法の支配に逆らいつつある。日本の最高裁判所は、指導者が個人の意思で憲法を書きかえることができないと明言すべきだ」(2月19日)と批判していますが、こうした首相の言動が街頭極右を煽動し、日本列島にネオナチのような野蛮が蔓延しはじめ、最初はうさんくさいと思いながらも、しだいに薄ら寒い恐怖となって沈黙を強いていきます。維新とかいう政党のナントカという議員は、「NHKは反日、反皇室、反英霊の報道をくり返して国益を損ね、いまやNHKは日本と日本人の敵となっており、解体するしかない」(衆院総務委、21日)と真っ向から報道の国家統制を呼びかけています(NHKほどに国粋的な放送局はないことに気づかない認識も浅薄ですが)。いま「荒れ野の40年」という演説で有名となったヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の『回想録』を読んでいるのですが、この保守系の大統領の歴史を真正面から誠実に受けとめて、前へ向かおうとする知性は、なにかチンピラ・ヤクザのような日本の政治家とは根本的に異なる思想と人格の蓄積があるように思います。彼は日本にたいして次のように云っています。

 「日本の今世紀も苦難の歴史でした。この過去とどう向き合うかは日本の人々にとって重大な挑戦です。そのための正しい道を見つけることは、もっぱら日本人自身の問題です。過ぎたこの世紀とどう向き合うかという日本の意見形成に介入することは、たとえ近しい間柄でも、外の人間にはできることではありませんし、そんな資格もありません。(中略)日本は第2次大戦の末期に、破滅的な原子爆弾が広島と長崎に投下されたとき、きわめて深い意義をもつ世界史的な事件を経験し、以後これに苦しんでこなくてはなりませんでした。(中略)東西抗争の渦中にあったわれわれドイツ人が、どのようにして強固な未来への道を求め、われわれなりにこれを発見したかー(中略)日本の方々の歓待や開放的な態度に感謝し、過去についての私の考えを日本でもお伝えする勇気が出てくるのです。」(『回想録』岩波書店、P3)

 彼は、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と世界に警告したのですが、日本はどうやらこの盲目の道を歩んでいるようです。日本のもっとも良質な遺産は、『アンネの日記」を引き裂くような行為の対極にあり、戦後は戦争で1人も殺めなかった日本の平和と非核のイメージこそが世界の承認を得る歴史を築いてきました。図書館を渡り歩きながら、『アンネの日記』のページをめくって引き裂いていく、薄ら寒い行為の背後にある殺伐とした暗い心情に、私は時として哀しい共感を覚えます。彼(女)は、周囲をキョロキョロと見渡しながら、棚から本を取りだしては破っていく行為に、秘かな愉楽を覚えたのでしょうか。これほどに正義と公正の感覚を失って荒廃が進むこの国では、とくに未来への微かな希望さえ奪われた非正規労働に翻弄される若者たちに、自己責任論による深い挫折の心性がきざみこまれ、華やかにまたたく夜のネオンのなかで、うす暗い路傍の野犬となってさまよう自らの姿に悲哀の感覚をしみわたらせ、なにもかもが空しくなるニヒルな心性が、はげしい反逆と攻撃を煽動する街頭極右のふるまいにのめりこんで点火されれば、もはや褐色のナチス突撃隊のように、はてしなく凶暴化して高揚感を味わう集団心理の力学に転落していきます。日本は、まだ過去と向き合う正しい道を見つけていないのでしょうか。霞ヶ関で戦後民主主義のマインドコントロールの克服を説く人々は、図書館の片隅で秘かに本を破るように市民をマインドコントロールしているのであり、そうした虚妄は1度目の悲劇を2度目の喜劇ではなく、さらなる悲劇としてくりかえすことになるでしょう。
 アメリカのユダヤ人人権団体の副会長は、「アンネの日記は日本で愛されてきた。ホロコーストをめぐる議論はあってもその象徴を狙うのは新しい現象で、世界でも聞いたことがない。極めて消極的だ。犯行は明らかに組織的で計画的であり、なんらかの思想的な動機がある。アンネの日記が世に出た時、人種差別主義者やネオナチは作り話だと言いたがった。今回の犯人はある意味、同じコトヲしようとしている。欧州の現状は、第2次大戦以降見られなかったほどの反ユダヤ主義がふたたび吹き荒れている。ネット上では日本人の犯行であるはずがないという主張も出回っている。われわれは他の誰かのせいにしたがる。ヘイトクライムは、米カリフォルニアでも年間1500件以上起き、特定地域の現象ではない。日本にもネット過激派やナチス崇拝者がいるしかし日本の人々は衝撃を感じ、政府は声明を出し、捜査本部も起ち上がった。ヘイトクライムの狙いは対象の孤立と弱体化だが、団結というよい効果が生まれた。私たちは来年にホロコーストとアンネ・フランクの展示を東京と広島で計画中だが、若い世代が学ぶ機会となるよう、日本との協力の道をさぐりたい」と述べています(2月27日、朝日新聞インタビュー)。

 アジア・太平洋戦争は厳然としてある過去の事実であり、なぜ起こったのか、さまざまの戦争犯罪も厳然たる事実であり、なぜ起こったのか、目を背けて沈黙するのではなく、たじろぐことなく主観を排して真正面から見つめ、私たちが犯した罪であるならば認めて謝罪し、2度と起こらない誓約をしめして実行する「理性の泉」のなかにしか日本の未来はありません。罪があったのかなかったのか、もはや尋ねる時代は終わっているにもかかわらず、私たちはなにも知らなかったことを知らなかったのであり、なにごともなかったように粉飾する恥ずべきふるまいと訣別し、死者たちをふたたびはずかしめてはなりません。単に涙を流して謝る心情倫理ではなく、「わたしはここに立つ! 神よ照覧あれ!」とする責任倫理において、ドイツは毅然としてひざまづいて、矜恃ある途を踏みかためてきましたが、日本はどうでしょうか? 日本は本当にどうなのでしょうか? 「今は激動の時代ではなく、激突の時代だ。(誰もが)歴史の激突のなかに引きずりだされて運動の表舞台に立たざるを得ない状況だ。(中略)『よし、いま今が勝負だ』という気持ちを、私たちが保つ時です」(品川正治『激突の時代』新日本出版社)といまは亡き経済同友会終身幹事は警告しています。(2014/2/22)

新保守革命(Neo Konservative Revolutiom)は、日本をどこへみちびくのだろうか?
 最近のメデイアは、毎日途切れることなく右翼化のニュースが報じられ、世界は日本は極右ナショナリストがリードする異常な国になりつつあると報じています。最近の幾つかの事例をみてみましょう。東京都美術館(小室明子副館長)は、「展示会の中止や施設使用を見直す」と脅迫して、現代日本彫刻家連盟代表の作品の撤去を求め、作品の一部を削除に追い込みました。「日本はいま病の中にある」と記した作品の「憲法9条を守り、靖国参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう」や秘密保護法を批判した切り抜きが、政治宣伝にあたるというものです。同美術館の運営要綱では、「特定の政党や・宗教を支持、または反対する場合は使用させない」とし、アジビラと同じような政治的主張は芸術であっても許されないとしています。すると、ロシア構成主義やピカソの≪ゲルニカ≫などのメッセージをふくむ多くの芸術作品は展示できないことになり、芸術表現の自由そのものが否定されます。各地の美術館や公共図書館で、従軍慰安婦や天皇制をめぐる作品の撤去がくり返されて、日本の芸術表現の自由は実質的に機能を失いつつあり、芸術そのものが危機に瀕しています。おそらくNHKもまた、こうした作品を放映することはないでしょう。
 NHK会長は、2月12日の経営委員会で「発言は取り消しているし、発言のどこが悪いのか。私は失言したのか。素直に読めば分かるはずだ。NHKの営業の対策をどうするかは分かりません」と経営委員を威嚇し、自分は悪くないと居直ったそうです。この人物は戦後民主主義を否定する漫画的な確信犯であり、日本の文化状況の劣化を象徴する幼稚な思考構造にあります。彼の個人的な思想と信条は100%自由ですが、自分の思想が公共原理と一致しないという自覚が完全に欠落していますから、公共圏での存在そのものが許されません。意見が異なる他者を「人間のクズ」呼ばわりした経営委員も、思想・信条以前に人間的人格として失格しています。こうしたNHKの思想は、アメリカ政府からの嫌悪をよび、アメリカ大使館はNHKの取材を拒絶しています。
 こうした芸術やメデイアへの政治的介入は、無垢な子どもの成長を支える教育にまで及んでいます。戦前期の軍国主義を推進した教育のシステムをきりかえた戦後の教育委員会制度は、教育への政治的な介入を遮断する中立の原則をかかげましたが、いま提出されている再編案は、教育の基本政策と教育条件や教員の人事権を首長側に移し、教育長を首長の部下として、教委の権限をわずかに教科書採択などにとどめ、教育の自主原則を根本から否定するるものとなっています。このように、文化芸術やメデイア、教育などあらゆる分野で極右的な再編がすすんでおり、もはやこれは保守革命といえます。
 保守革命は、F・エンゲルスが1848年に最初にもちいた言葉ですが、歴史的にはアルミン・モーラー『ドイツの保守革命』が、ワイマール共和国時代の非ナチス的なナショナリズムにあたえた総称であり(ウイクペデイア参照)、ゲルマン民族の優越性と国粋的な愛国主義によって国家資本主義をめざし、未来への見通しを失ってニヒリズムにおちいったドイツ国民を結集する思想運動であり、最後はナチス全体主義に吸収されました。現代の「新保守」は、ブッシュ政権の中枢にあったネオ・コンが主導した星条旗と新古典派市場原理をむすぶ世界帝国をめざす運動を意味し、多国籍企業の世界展開を軍事的にささえる運動となり、大義なきイラク戦争を主導しました。いまの日本は、伝統保守と新保守が入りくんだ保守全体主義としての「新保守革命」にあるような気がします。それは「維新」と称する下からのファッショ運動となってあらわれ、平和と民主主義を基調とする戦後リベラルの価値を文化マルキストの「白い共産主義」と否定し、国家を至高とする価値観に転換し、想像の共同体の物語を基礎につくられる強力な国家の傘のもとで、市場のマネー・ゲームにすべてをゆだねて、競争を組織するシステムを意味します。
 いま過去の歴史をぬりかえて、「国民の歴史」の伝統共同体への回帰をめざし、強力なリーダーシップをもつ指導者のもとに国民を結集し、戦後につくられてきたシステムを全否定してつくりかえるプログラムが着々と進んでいますが、その内実は制度のたんなる再編にとどまらない社会「革命」ともいうべき運動となっています。それはかっての軍部によるクーデター的な国家再編ではなく、大阪現象や新大久保のヘイトスピーチ、都知事選のように、民衆の一部が極右のムーブメントの主体となる下からの民衆運動をともなっている点で、戦前期の絶対主義天皇制の保守革命と異なります。過酷な非正規労働と野蛮な競争原理によって荒廃する日本では、散り散りになってさ迷う生活のなかで、出口を求めて彷徨するルサンチマンが哀しいまでに激しい感情を噴出させ、沈殿する汚れた大気を一気に振り払う強い思考へ吸引される極右の力学が働いています。最後は、螺旋となって転落する悪のスパイラルに侵される痛ましい姿となることは、すでにヒトラーや東条英機で証明されていますが、1度目は悲劇として起こり、2度目は喜劇としてくりかえされるというよりも、2度目はさらなる悲劇の大災厄となるような気がします。
 こうした新保守革命の虚妄は、ためらうことなく沖縄を米軍基地の犠牲としておしつけ、放射能をたれ流しながら被爆の補償を先送りし、避難計画すらない原発を再稼働させるという、辺境地域にたいする差別に象徴的に表れており、ネットカフェで人生を閉じる非正規労働を野放しにし、さらに拡大する恥じないふるまいをみれば充分です。(2014/2/20)

安重根(アンジュングン)はテロリストか?
 1910年の「韓国併合」の前年に、初代韓国統監・伊藤博文をハルビン駅頭で射殺した安重根は、韓国では義兵闘争の英雄的な義士として称えられてきました。韓国はハルピン駅の射殺現場にレリーフを設置することを中国に求めましたが、中国は安重根記念館を設置してこたえ、いまも見学者が絶えることなく訪れています。日本政府は、この記念館設置に「安重根はテロリストである」と抗議しています。安重根が呪われるべきテロリストであるならば、韓国と中国はテロリストを称えるおぞましい国ということになります。逆に正義に殉じた義士であるならば、日本政府の主張は倒錯した歴史認識を示していることになります。はたして安重根は、テロリストなのでしょうか?
 『広辞苑』(1991年版)では、テロ(テロル)を「(恐怖の意)あらゆる暴力手段に訴えて敵対者を威嚇すること」、テロリズムを「@暴力或いはその脅威に訴える傾向。暴力主義。A恐怖政治」とし、テロリストを「テロリズムを奉じる人」と説明しています。この定義は、暗殺や虐殺、処刑など過酷な手段で敵対者に恐怖をよびおこして、政治目的を達成する戦術という意味であり、歴史的には治安維持法など支配者の市民にたいする野蛮な抑圧形式でしたが、最近の日本政府の一部は街頭での市民のデモ行進もテロと云っていますから、現在の日本ではテロの意味が拡散し、「テロに対するたたかい」を大義に、批判的な市民運動をも封じ込めるタームになっています。では、白人支配に「テロ暴力」を含む多様な手段で抵抗した南アフリカの黒人運動の指導者であるネルソン・マンデラはテロリストと呼ばれることなく、ノーベル平和賞を受賞して世界から尊敬されているのはなぜでしょうか? それは世界人権規約で認められている理不尽な抑圧や支配への抵抗権の行使であり、植民地支配者が白色テロによって民衆の生存権を奪い、議会制度など民主制による抵抗の回路が閉ざされている場合に、抵抗権の行使の最後の手段として採用されたからではないでしょうか。江戸時代に庶民の困窮に憤激して暴力の抗議をおこなった大塩平八郎がテロリストと呼ばれることはなく、主君の遺恨で敵対者を殺害した忠臣蔵の赤穂浪士は集団テロに近いのですが、日本の市民たちはいまも一喜一憂してドラマを鑑賞しながら、共感の涙を流しています。
 安重根が生きた時代は、伊藤博文は「駄々をこねるようなら殺ってしまえ」と朝鮮政府を脅かし、実際に朝鮮王妃を殺害して、朝鮮から外交権を奪い、翌年に日本帝国に併合した時代です。朝鮮半島の隅々に、義兵闘争という民族独立をめざす武装反乱が起こり、安重根の「個人テロ」はそうした背景で行使されました。安重根がテロリストであれば、伊藤博文はさらに巨大なテロリストといえるでしょう。処刑直前の安重根をみた日本人看守の青年憲兵・千葉十七は、彼の気高い愛国心に感銘を受け、『東洋平和論』の執筆を支援し、終生供養しました。安と千葉を一緒に顕彰する記念碑がある宮城県栗原市の大林寺では、毎年追悼会が開かれ、顕彰碑には安が処刑直前に千葉に贈った「日韓両国の永遠の友好を祈念して」という遺墨の文字が刻まれ、この文字は宮城県知事・山本壮一郎が揮毫し、「千葉も立派だが、その千葉に終生合掌させた安重根の生き様も立派だった」と住職に述べています。ここでは、安重根の評価は民族の独立に命をささげた清廉な人物とされています。どうして安重根の評価をめぐって、日本政府と市民の間にこのような大きな差異が生じたのでしょうか。日本政府が安重根をテロリストというなら、マンデラもテロリストになり、伊藤博文の肖像を日本銀行券に印刷するような日本政府の行為は茶番にひとしいことになります。あるいは、太平洋戦争末期に日本軍に志願して特攻作戦に参加して「散華」した朝鮮青年軍人の死に対して、なんの畏敬も補償もおこなわない日本政府の恥ずべきダブルスタンダードは、どうなるのでしょう。おそらく日本政府には、過去の朝鮮半島への植民地支配を否定して正当化し、さらにはアジア・太平洋戦争を聖戦として美化する歴史修正主義史観がふかく浸透しているのでしょう。(2014/2/18)

「多数を以て一時を制する如き、皆人為の大男を作るのみ。たとへ一時を制するも後世必ず破れんのみ」(田中正造、1895年6月記)
 政府と資本の苛烈な抑圧のなかで、最後まで鉱毒におびえる農民の側にたち、身をもって足尾鉱毒事件をたたかった田中正造は、日本近代史の尊厳の輝かしい証しです。現在の日本は、みずからが無名の田中正造となった市民が登場するかどうか、デモクラシーの試金石の時代にあるような気がします。大雪のなかで46,14%という低投票率となった東京都知事選は、全有権者のわずか19,5%しかない人物が当選となりましたが、10人に2人しか支持しない人が4年間の行政をになうのですから、日本のデモクラシーは実質的に死に体であり、投票率50%未満の選挙は無効とする規定が必要なほどです。スカンジナビア・モデルのデンマークなどでは投票率はつねに80%をこえていますが、日本の異常な低投票率はほとんど政治的なアパシーを呈し、とくに20歳代は過去最低を記録しています。ところが20歳代の24%、30歳代の17%が、「侵略戦争、南京事件、従軍慰安婦、全部ウソだ!外国人参政権には反対だ!靖国参拝して誇りある歴史をとりもどそう!」と街頭で絶叫演説する極右候補へ投票したことは、さらに重大な意味を持っているように思います。演説でスピーカーの調子が悪くなると、「ただいま中国の妨害電波が入りました!」というような民族排外ショービニズムを煽る人物に若者たちはなぜ殺到したのでしょうか? 極右候補を支援した「維新政党・新風」の元副代表の瀬戸某という人物は、「アドルフ・ヒトラー生誕125周年記念パーテイ」(4月)への参加を呼びかけ、「偉大なる総統閣下が生誕された日に、皆でワインを飲みながら語らいましょう」という、ドイツであれば反ナチス法で即座に逮捕されるような言辞を吐いています。
 1930年代のナチスが急激に台頭したときに、世界大恐慌によって没落する中間層の青年たちが柿色の制服を着た突撃隊に参入し、反ユダヤ主義の人種差別にルサンチマンを爆発させた事件(水晶の夜)を思い起こさせます。蔓延する高失業によって希望と誇りを失ったドイツの青年たちと、40数回も落とされる就活と非正規労働、熾烈な業績競争によって自尊心を傷つけられ、毎日を不安に過ごす日本の若者たちの心性はよく似ています。世のなかをみれば、食品偽装や汚職があふれ、カネで入選者を決めるメジャー公募展、被爆2世と聾のハンデイでクラシックフアンを裏切る作曲家、イルカの追い込み漁の非人道性を批判しながら、絶滅危惧種のジュゴンが棲息する辺野古の海を埋め立てて軍事基地をつくる米国大使のように、少しの正義の感覚があればまじめに生きるのが馬鹿馬鹿しくなるなかで、若者たちがルサンチマンをためこむのは当然の現象です。若者たちの哀しいまでの悲鳴はどこに向かっているのでしょうか?
 いま神保町の大手書店などにいけば、1階レジのもっとも目立つコーナーに「嫌中嫌韓」の刺激的な帯がついた本が山積みとなってベストセラーに入っています。「これでもまだあの国につき合いますか?」「あの国に学ぶことなど一つとしてない」など扇情的な言葉が氾濫しています。週刊誌メデイアは、国内のスキャンダル報道は訴訟リスクが高く、「嫌中嫌韓」はリスクがなく、オモシロイので売れゆきがよくてやめられません。新大久保のヘイトスピーチの影響で地元の高麗博物館の入場者数は激減しました。『週刊現代』のみが編集長を交代させて、「嫌中嫌韓に酔いしれる人はほんとうに武器を取るつもりか」と路線転換しましたが、ヘイトスピーチによるルサンチマンの発散は続くでしょう。人をいたぶって攻撃するなかに快感をみいだすしかないサデイズムの心性が生成し、正義感と反権力に向かうとされてきた古典的な若者像は、すくなくとも日本では雲散霧消してしまったかのようです。
 都知事選の極右候補を支持した若者層の多くは、「かわいそうな若者」として軽蔑され、承認欲求を満たされなかった若者たちが「ネット保守」となって集まるようになった層だとされます。シカゴ学派の新古典派マクロ理論が市場を席巻して日本型の戦後中流が崩壊し、少数の正規社員を中心とする新しいホワイトカラーと非正規のブルーカラー層に両極分解し、若者の多くがプレカリアートとなって漂流するなかで、強力な武装とヤスクニ幻想に希望を託するしかない閉塞した回路が形成されてきました。こうした20歳、30歳代の若者たちが10年後の日本の主導権をにぎれば、ナチス型の保守革命というドラステイックなポピュリズムの変革が起こる可能性がないとはいえません。しかしこうした潮流の決定的な限界は、市場原理主義の激しい競争原理で他人を蹴落とす生活のなかで転落する挫折感を、愛国的な排外ショービニズムによって救済する方向ですから、ネットや街頭でマイノリテイを攻撃するしかない一時的なルサンチマンの発散に終わり、生活そのものを新たに切りひらく前進的でクリエイテイブな契機は失われます。平和と公正の原理で展開するグローバルな世界が、ウソっぽい絵空事のように感じられるようになり、結果的にだれからも相手にされないみじめさが、より凶暴な攻撃へと転化していく負の連鎖におちいります。未来を夢みる希望を失った若者たちを生みだしてきたのは誰でしょうか? 
 在日米軍の2005年から昨年までで性犯罪の深刻な疑いがあった件数は620件、容疑事件数473件のうち、実際に訴追され軍法会議にかけられたのは24%に過ぎず(全世界では68%)、処罰兵士は244人であり、うち3分の2は留置されず、罰金や降格、除隊、文書訓告に終わっています(AP通信、米情報自由法FOIAによる)。米軍内での性犯罪は、全世界の米軍基地のなかで在日米軍基地が突出しており、加害米兵の所属基地は三沢、横田、横須賀、厚木、池子、富士、岩国、佐世保、嘉手納、瑞慶覧、原子力空母ジョージ・ワシントンなどほぼすべての基地で発生し、とくに沖縄が際だっています。日本人女性にたいする性犯罪に地元の日本警察は手出しできず、泣き寝入りとなっているなかで、「美しい国」という感性語をたれ流して右翼の心情を組織する日本の首相は抗議すらせず、ひたすら辺野古基地造成に邁進しています。民族の女性が傷つけられても、 救いの手をさしのべない右翼は誇り高い「純生右翼」ではありません。ヤスクニに祀られた「殉死」した魂たちは、この首相のふるまいに歯ぎしりして唾を吐きかけています。こうした蔓延する偽善を見ぬくならば、右翼に向かう若者たちは美しい言葉で自分たちを裏切っているのがほんとは誰であるのかを知ることになるでしょう。(2014/2/12)

科学の勝利か? STAP(刺激惹起性多能性獲得)細胞の発見
 約200種、60超個の細胞からなるヒトの身体は、たった1個の受精卵から細胞分裂をくり返し、形態と機能が異なる細胞に分化し、さまざまの器官や組織をかたちづくる体細胞へと成長し、生体が形成されていきます。いったん分化が完結した細胞が分化前の状態に戻る初期化現象は、植物や再生能力の高いイモリなどでは起こりますが、哺乳類ではあり得ないという常識をくつがえす革命的な発見がIPS細胞です。理研の小保方氏は、マウスの体細胞を弱酸性の溶液に短時間浸し、細いガラス管を通して毒素処理を施す刺激を与えるだけで、自発的な初期化が起こることを証明しました。万能細胞の作成は、最初は受精卵をもとにES(胚胎精)細胞が作成されましたが、その後山中氏が細胞に遺伝子を導入する人工的な手法で体細胞の初期化に成功したips(人工多能性)細胞の発見で多能性細胞の道がきりひらかれました。小保方氏は受精卵や遺伝子を使うことなく、たんなる刺激だけで細胞の初期化に成功したのです。
 STAP細胞は、ips細胞やES細胞にはできない胎盤への初期化が可能であり、受精卵とほぼおなじ全能性をもち、特殊な培養液でより高い増殖能力をもつSTAP幹細胞もできます。発生生物学の歴史を塗りかえる革命的な発見であり、当初『ネイチャー』は「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄する実験」として論文掲載を拒絶しましたが、実験データの追加によって掲載にいたりました。STAP細胞は、再生医療や創薬開発の革新的な展開をもたらす可能性があります。STAP細胞がなぜ胎盤にまで初期化されるのか、実験器具内ではなく、生体内の酸性環境ではたして誘導できるかなどの新たな研究が始まりました。ひょっとしたら、人間の生体ではつねにSTAP細胞ができては免疫細胞によって食べられて消えていっているのではないか、がん細胞を初期化することができるのではないかなど、驚異の世界がひろがってきます。
 こうした自然科学の最先端の研究開発は、人間の身体や精神、生命思想におおきな影響を及ぼし、いま生命倫理学のひとたちは、大慌てで理論の再構築を迫られています。従来の人間観は、生命の誕生→成長→老い→死という単線的な過程で不可逆的な生命の初発と終末を考え、それぞれの段階の人間的な生活の最適化を考えてきましたが、これからは老い→成長→誕生という逆過程の可逆性を視野に入れて考えなければならず、精神的なレベルで処理してきた問題が身体処理に切り替わり、人間のアイデンテイテイそのものが変容しゆらぐことを考慮に入れることとなります。あるいは死そのものが姿を消していく時代が来るかも知れません。死を最大のテーマの1つとしてきた宗教の存在も根底から存在意義を再編することになります。あれこれと思索をめぐらせてきた思想家たちは、人間の身体と精神そのものがモノとして人為的に操作される「科学の勝利」をまえに、あらゆる形態の観念論思想が敗北し、唯物論思想が勝利しつつあることを認めねばなりません。おそらく、いままでの豊かな観念論思想の業績は唯物論思想のなかに吸収され、二項対立の認識論史の終焉をもたらすでしょう。
 しかし、いまもっともSTAP細胞に注目しているのは、アメリカを中心とする軍事科学や修復医学の研究者です。戦場の兵士たちは、傷ついた身体を修復して,何度も戦場に投入される可能性が生まれ、徴兵制など兵士調達の困難が一気に解消するアンドロイドのような世界が切りひらかれるからです。あるいは敵兵を撃って身体を破損する戦闘行為そのものが無意味となるかも知れませんから、戦闘そのものが問い直され、いったい殺すとは何か、殺人とは何か、といった人間の究極の犯罪行為も再審されます。始まったばかりのSTAP細胞の研究は、いまは光と闇のなかにありますが、無限にすすむ生命操作が人類史に光と闇の革命的な転換をもたらすならば、人類そのものの再定義が必要となります。(2014/2/9)

日本ではなぜ極右が跳梁するようになったのか?
 ウーンこれ程のアナクロニズムはひさしぶりです。NHK経営委員の長谷川某氏は、暴力団とも交際していた極右団体「大悲会」元会長である野村秋介が、朝日新聞東京本社にのりこんで、漫画の表現を社長に抗議し、拳銃で威圧して自殺したテロ行為を絶讃する文書を発表しています。「彼は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかった。彼らほど,人の死を受けとる資格に欠けたる人々はゐない。人間が自らの命をもって神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、神にその死を捧げたのである。『すめらみこと いやさか』と彼が3回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神であられる天皇陛下であった。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、我が国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現人神となられたのである」(野村秋介追悼文集、2013年10月18日、全文は朝日新聞デジタル版)。長谷川某氏は、「朝日新聞社での拳銃発射は、メデイアに対するテロや圧力ではなく、精神的な意味を見いだすべきだ」とし、「日本の国柄というものは、ほんらい国民が天皇のために命をささげる、そういう国体」(13年11月25日、三島由紀夫・森田必勝両烈士43年祭の挨拶)などと発言し、「(著書)『神やぶれたまはず』を読んだか?」は、極右グループの合言葉となっているそうです。
 銃刀法違反の拳銃を所持して、他者の住居に乗り込んで威嚇するのは「精神的な行為」であって、テロや犯罪ではないというのですから、長谷川某という人物は自らの思想を暴力で強要する市民社会の敵そのものなっていますが、その思想は近代市民社会を否定する神権的な皇国史観そのものです。この人物の言行録をみますと、日本は、「自由と民主主義の精神に貫かれていた教育勅語」(『あなたも今日から日本人』)を喪ない、「日本の『敗戦後』とは、喪失の日々にほかならない」(『正義の喪失』)のであり、「帝国憲法がこんなにいいものなんだって、しかもしっかり民主主義なんだっていうことを見ればみるほど、じゃあなんで日本国憲法なんていうものに変える必要があったのか」(12年2月16日、チャンネル桜)とか、「日本国憲法を永久に存続させたら大変なことになる。こういうものは永久に廃止するという議論をすべき」(12年5月15日、チャンネルAJER)と、公務員の憲法遵守義務を平然とふみにじる暴言をたれ流しています。日本が敗北したのは、「日本が敵国に与えた『被害』不十分だったから」(『本当は恐ろしい日本国憲法』)であり、「この敗戦をのりこえる・・・一番手っ取り早い方法、もう一度戦争をして勝つ」(『日本の息吹』13年10月号)ことであるなどと、アナクロニズムあふれる幼稚な議論をたれ流しています。この人物は、みずからが尊崇する現在の天皇家の言辞をもっと謙虚に聞くべきでしょう。現天皇は「日本は、平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本憲法をつくり」(13年、誕生日会見)と語り、皇太子は「憲法を遵守する」(14年、誕生日前会見)と発言し、皇后は自由民権運動の五日市憲法を「世界でも珍しい文化遺産」(13年、誕生日文書)と称賛しているのです。よほど天皇家のほうが健康な精神の持ち主です。
 長谷川とか云う人物の現天皇さえ否定する前近代的な神権思想であっても、個人の思想とその表現は自由であるのはもちろんですが、重大なことはこのような思想の持ち主が、公共放送の最高機関の一員となるまでに、日本歴史の車輪を後ろに回す反動にいたったことです。この人物は自称・思想家であり、その思想と行動(安倍氏を首相にする会のメンバー)を評価されて経営委員に就任したのですから、いまや日本の公共分野は極右分子が占拠しつつあります。どうしてこのような異常で異様な状態に日本はおちいったのでしょうか?
 この人物は比較思想、日本文化論が専攻で、選択的夫婦別姓に反対し、婚外子の相続差別規定を違憲とした最高裁判決を批判し、女性の社会進出が出生率低下の原因であり、少子化対策は女性が家庭に帰って子を産み、男性が妻子を育てる戦前型の日本型家族制を合理的としていますから、文字通り戦前型の家父長制を賛美する極右のイデオローグです。こうした反動思想が公共権力に参入している背景には、現在の日本社会そのものが痛んで劣化し、見通しを失っている際どい危険水域にきていることを示しています。上昇期にある社会は未来へのなんらかの希望をいだく前進的な精神風景をもたらしますが、斜陽化し沈没する危機の社会で希望を失った一部の人たちは、救いを過去の美化された幻想に求め、過去への回帰にしか希望を見出せない自閉した精神構造におちいります。おそらくこの人物は、理性的に現在の社会を分析し、打開する方向をさぐる能力が決定的に欠け、ノスタルジーの美学にのめり込んでいるようにおもいます。生育過程のどこかで、極右思想に共鳴し、信じ込んだら一直線の単線的思考となって、全体を冷静に見渡して判断することができなくなり、閉塞した永遠回帰の世界に思想も感情も呪縛され、もはや靖国の再興にしか救いを見出せない閉じた思考の囚人となっています。日本女性史の基礎知識すら欠落しているこの人物は、自分が日本と世界の全女性の敵となっていることにすら無知です。
 こうした人物を自宅に呼んで食事しながら、高説をうかがって感激した安倍ナントカという首相も本質的には同じ思考構造の持ち主のようです。問題は、こうしたアナクロニズムの醜い思想が生まれてきた背景には、アメリカン・スタンダードのネオリベラリズムによって、日本社会が競争原理に汚染され、見苦しいまでに他者を排斥する修羅の世界となり、経済も社会もなにもやってもうまくゆかない閉塞と崩壊状況に直面しており、未来への創造r的な変革のダイナミズムを信じられなくなり、過去へのノスタルジックな天皇崇拝の幻想の美学へと倒錯していったところにあります。市民のわずか20%程度の支持しか得られないこうした思想は幻想なるがゆえに野蛮であり、むきだしの暴力に転化する危険を内包し、全世界から孤立を深め、ますます泥沼におちいり、悪が支配するおぞましい世界をもたらそうとしています。安倍ナントカという首相の三下やくざが公共放送のトップに送り込まれましたが、百田某とかいう人物も、「東京裁判ははっきり言ってしまえば、『裁判』に名を借りた『日本人の処刑』である。捕虜を処刑するのに、形だけの裁判を開いたようなもの、(中略)もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送りだす」(ツイッター)などど下劣な品性まる出しの暴言を吐いています。
 こうした極右思想がゾロゾロと這い出て、ハイエナのように徘徊する異様な光景が繰りひろげられていますが、こうした連中につき合うために無駄なエネルギーを費やすとすれば、21世の初頭の日本は哀れなほどに非生産的な状態におちいっていきますが、一度水に落ちたイヌは二度と這い上がれないように叩き込まなければなりません(魯迅)。世界の主要メデイアはもはや、彼らを世界市民の敵として評価しています。(2014/2/7)

 *参考 世界の主要メデイアのNHKと安倍首相批判
 「集団的自衛権の閣議決定論は、立法主義の観点からは正道を外れた見解であり、法の支配そのものに挑戦するものだ」(ニューヨーク・タイムズ、2月19日)
 「首相が米国のアドバイスを無視し、不意打ちで参拝した事実は、日米両政府の信頼関係をある程度傷つけた可能性がある。首相が米政府の働きかけにもかかわらず、靖国を参拝したことは、日米関係を複雑化させるリーダーの本質をはっきり示した」(米議会調査国報告、2月25日)
 「安倍氏と自民党にとって、メデイアを再起動させることは優先課題だ。日本国内では依然として平和主義が維持されている。NHK会長の発言は集団的自衛権の容認を売り込むのを一段と難しくした。もっとも日本最大の放送局を味方につけておくことは間違いなく助けになるだろう」(エコノミスト、2月8日号)
 「NHK会長や経営委員の一部の発言を知ったときに、最初に感じたのは怒りです。彼らはウソをいっているからです。(中略)ただ今回の発言で驚きはありませんでした。ナショナリストの安倍は首相になって以来、日本で続く現実だからです。ドイツでホロコーストがなかったと公共放送の幹部が発言したら、即刻その日のうちに辞任です。ドイツだけではありません。率直に言って,こんな発言をする人が職にとどまれる国はないと思います。(中略)安倍が靖国参拝してから、日本は国際社会からどんどん孤立しています。日本のイメージは変わってきています。日本がかっての闇の時代へ戻ろうとしている。世界は今の日本の動きに恐れと警戒をいだいています」(フランクフルター・アイゲマイネ東アジア特派員カーステイン・ゲアミス)
 「NHK会長と百田経営委員の発言は破壊的な歴史否認主義だ。日本政府と首相はなぜ明快に糾弾する気になれないのか。百田氏を指名し、会長の起用を立案した首相の責任は特に重い。報道の自由に対する政府の圧力の影は簡単にはぬぐえない。米政府も首相がナショナリストなのか、改革者なのか疑問に思っている。報道の独立を支持するかどうか明確にできるのは首相だけだ」(ワシントン・ポスト、11日付け)
 「安倍首相は、NHKを政府の政策に合わせるようにしただけでなく、第2次大戦の歴史を国粋主義的に解釈し直す道具にしようとしているのは明らかだ」(フランクフルター・アルゲマイネ、11日付け)
 「特定秘密保護法は原発や米国との関係のような国家的問題で政府の透明性を低め、タブーとして覆い隠す。調査報道、公共の利益、情報源の秘匿が犠牲となる。原発事故情報からのフリーランスジャーナリストや外国人記者の排除を強める。東電福島第1原発事故に関する情報アクセスに問題がある」(国境なき記者団、12日、日本の報道自由度53位→59位へ)
 「NHK経営委員・百田が、東京裁判は米国の原爆投下や東京大空襲をごまかすための裁判だったと述べた発言は非常識であり、日本など各国の責任ある立場の人々は地域の緊張を高める論評を控えるよう努めることを望んでいる」(在日米大使館報道担当官談話、8日)
 「靖国参拝は安倍首相の軍国主義の表れで、国際社会はつよい警戒心をいだいている」(オーストラリアン、6日付け)
 「安倍の干渉がNHKの心象を汚す。彼はかってNHKの番組内容を変更するよう圧力をかけたが、NHKをもっとも揺るがしているのは、右派からの政治的敵意だ。日本で何がまともな保守主義と考えられているのか、その境界線が試されている。安倍首相は日本の民主主義に懸念を及ぼすような国家主義的な政策を強引に進めている。中国の脅威を口実として使いながら、日本の比較的開かれた社会が攻撃されるなら悲劇である。安倍氏にとって不都合な真実は、国民の大部分が戦後の平和主義を支持し、安倍氏のように保守的ではないことがはっきりしていることだ。議論の機会を減らすことで、世論を自身に好ましい方向に持っていこうとしている」(フィナンシャル・タイムズ、4日付け)
 「日本の公共放送であるMHKの経営委員が、南京虐殺を否定した。日本政府による性奴隷使用に関する論争が新会長をのみ込んだ数日後のことだ」(BBC、4日付け)
 「日本の公共放送であるNHKの経営上層部の人物が、日本帝国軍による南京での虐殺を全面否定した。NHKが話題になるのは、ここ数日で2度目だ。政府は首相のお気に入りであるNHK会長の個人意見だと述べた」(ルモンド、4日付け)
 「NHKは日本政府の権力に屈したかに見える。大学教授が番組で原発問題を話すのを拒否されて降板した。拡張的な右翼的政策を押しつけようとするなかで批判を封じる試みだ」(ニューヨークタイムズ、3日付け)
 「公共放送が保守的な行政官(首相)の思想に付き従う必要があるというNHK会長の発言は、批判の嵐をよびおこした」(スペイン・インフォルマシオン、2日付け)
 「NHK会長の発言は、首相の歪曲された歴史認識と軌を一にするものだ。首相の落下傘人事と知られる人物がNHKを”安部のラッパ吹き”にした」(東亜日報、1月28日付け)
 「NHK会長が犯した2つの過ちが事実でないことを事実のように歪曲した。NHKを極右政治家である橋下のレベルに転落させた。私が知っていた以前の”大国日本”はどこへ行ってしまったのか。太平洋の小さな孤島ガラパゴスになりつつある日本が残念だ」(中央日報、1月28日付け)
 「NHKがモデルにした英BBC放送は、政府を批判すべきと判断すれば決して批判をためらったことはない。NHK会長は問題発言を撤回するという。しかし、彼にはBBCのような歯がない。NHKが政府を批判すべきときに批判するかどうか。これが一つの判断基準になる」(シンガポール、ストレーツタイムズ、1月30日付け)」

核の冬への想像力が試されている
 核保有国9カ国が2011年に使った核兵器の維持と管理費用は、約1050億ドル(11兆円 うち米国613億、ロシア148億、中国76億、仏60億、英55億、インド49億、パキスタン22億、イスラエル19億、北朝鮮7億ドル)におよび、この額は2014年に必要な人道援助額(17カ国対象 129億ドル)の8倍を超えます(グローバル・ゼロ試算)。日本政府は究極の限定状況での核兵器使用を認めていますが、もし50発の広島型原爆(15sトン)による攻撃があった場合の推定死亡者数は、中国1672万人、インド1242万人、パキスタン917万人、ブラジル796万人、エジプト783万人、イラン743万人、ロシア627万人、日本590万人、米国406万人、仏351万人、英290万人、イスラエル260万人にのぼります(『サイエンス』試算)。この目もくらむような圧倒的な数字は、日本で1人の少女が姿を消して大騒ぎするのに比べて、あまりに想像力をこえていますから、この地球という惑星が絶滅する事態を今日や明日のわがこととして、意識することは至難です。それは人間のいのちがゴミを燃やすように消失していくことであり、しかも核の冬の気候変動による飢餓数は約20億人と想定されていますから、この世の終わりかハルマゲドン、アポカリプスにほかなりません。
 ところが、世界最大の450発の大陸間弾道ミサイル(ICBM)を保有する米国の核兵器管理部隊(モンタナ州マルムストロム空軍基地)では、1月9日にミサイル発射管制官の違法薬物所持が発覚し、運用の習熟試験の答えをメールで教え合う不正行為で将校34人が職務停止となりましたが、30日には米空軍は不正行為を行った将校は92人(同基地の発射管制担当将校の半数、空軍全体の25%)にのぼると発表しました。ICBMを統括する司令官でさえ、飲酒暴力で解任されているのですから、米軍のICBM管理機能はほとんど崩壊状態です。米軍は今後10年間で2千億ドル(20兆円)を投下して核兵器の近代化をめざすとしていますが、それは世界の年人道援助額の20倍(!)にのぼります。なぜ米国はこのような劣化したシステムに転落したのでしょうか。
 かってアメリカでは、女性の2人に1人が生涯のうちに性的暴行か家庭内暴力の犠牲者となり、とくに若い女性にたいする性暴力は1974年以降50%をこえていますが(「性的暴力国際提携調査」1989年)、21世紀に入ってこの数字は急増し、その内容は集団強姦や連続強姦、バラバラ殺人など凶悪性を深めています。アメリカで暮らす女性は、日課のように殴られ、まるで殴られるのをみずから「期待している」雰囲気さえただよいつつあります。ICBM基地にピケを張った女性たちは、「ぶっこわし屋のクソ女!」と罵倒され、ウジ虫や排泄物を浴びせられるのを覚悟しなければなりません。ダモクレスの剣の糸は、もはや腐って切れかかっており、いつ人類の頭上に落ちても不思議ではありません。
 旧ソ連が崩壊した理由の1つは、米ソ核軍拡競争による軍事費の過剰負担にありましたが、米国はそのリスクを回避するために、同盟国への軍事負担を拡大しています。その最大のターゲットが、忠犬ポチ公を任ずる東アジアの島国であり、この国は米国のアジア軍事戦略の尖兵となって軍事予算を膨張させ、米国の原発輸出政策に屈従して50基を超える原発を列島に張りめぐらし、いつでも列島を壊滅させる狂気のスパイラルにおちいり、ついには戦争に向けた国家総動員システム(秘密法、NHK支配、教委制度)を構築しつつあります。この島国の異常は、かっての侵略戦争の最高指導者を神として祀る神社に、首相が感謝の念を捧げに出かけていくアナクロニズムきわまる姿に象徴的にあらわれています。私が尊敬する同僚の兄君も、陸軍士官学校卒業後に沖縄特攻で「散華」し、その軍服が遊就館に展示されていますが、個々の遺族がこの神社にいくのは信仰の自由の範囲であり、なにも申し上げることはありません。しかし一国の首相がノコノコと出かけて頭を垂れることは、侵略を受けて死んだアジア諸国の2000万人の犠牲者の魂を侮辱することになります。このような人物を裁けないような国は、みずから自滅の道をあゆんでいくしかありませんが、首相の靖国参拝を批判する国会質問にたいし、「お前は日本から出ていけ!」というヤジを浴びせ、ついにこの国は魔女狩りの国に転落してしまったのかと思いました。中世の西欧では、1560〜1760年の200年にわたって魔女狩りと称する女性への大殺戮がくりひろげられ、フェミニズム研究者のアンドレア・ドウオーキンみよれば、約900万人が火刑に処せら、拷問や自死を含めれば死者は1000万人に達すると報告しています。しかも告発した男たちの多くは、夫や息子、孫などの食料を求める近親者であり、犠牲者の多くは50歳を超えた貧しい老女たちであり、黒死病やインフレ、不作に苦しむ少し裕福な人たちが、自分より弱い抵抗できない人たちを異端裁判にかけて諸手を挙げて賛成し、公開の場で焚刑に処しルサンチマンを発散して愉しみました。さらには、魔女が自分で子どもを殺さないなら、産婆が「子どもが子宮から出てくると、脳みそに達するまで脳天に針を突き刺し」て殺しました。
 アメリカで蔓延するDVや日本でのイジメの氾濫は、自分より弱い者をスケープゴードにして不満を発散する心理であり、中世の魔女狩りとほとんど同じ構造を持っています。アメリカで同性愛者の女性が増えているのは、生得的な性同一性とともに、男性の暴力への恐怖があります。核兵器は広島と長崎をスケープゴードにし、原発は福島をスケープゴードにしましたが、ほんらいのスケープゴード(身代わりの生贄)は自分を犠牲にして誰かを慰めることによって自分が神聖なものになることですから、広島や長崎、福島はたんにうち捨てられたに過ぎず、スケープゴードですらありません。DVや魔女狩りをはるかにこえる最大の暴力であると核兵器と原発の切れかかったダモクレスの剣の糸への想像力が少しでも働けば、戦慄するような地獄のスパイラルをのぞき込んで、凄まじい集団発狂がおこるでしょう。(2014/2/2)

自発的隷従論の陥穽
 エテイエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)が話題になっているようです。少数の権力者にたいし、多数の民衆が隷従してみずから権力を支えるような構造がどうして生まれるのでしょうか? そこにはみずから望んで隷従していく民衆の心理的な機制が働いているのでしょうか? 公開処刑のようなかたちで沖縄を屈服させて、基地建設を急ぐ政府のアメリカへの隷属はたしかに政治的な頽廃の極地を示していますが、公約偽装を犯してもカネを求める沖縄の権力者の姿は、自発的隷従の典型的な事例となっています。
 隷従をみずからの習性としてしまうような心性の基底には、人間の本性としての「自由への希求」が決定的に欠落しているのでしょうか。そうではありません。支配者は少数であるがゆえに、同質性が強くまとまりやすのですが、支配される圧倒的な多数者は個々別々にとどまり、生活の論理が優先して、イデオロギーやカネのちからの前に結集しにくい状況に置かれます。少数者はありとあらゆる権威づけの操作を駆使し、アメとムチの政策を総動員し、「分裂させて支配せよ」という支配の鉄則をつらぬきます。とくに空気の読めないKYを排除する日本的な集団主義の残滓が色濃く残っている日本では、「村八分」を忌避する心情がはたらき、「次々となりゆく」(丸山真男)の論理によって、パンとサーカスのポピュリズムが作動します。4割の得票率(比例区は27,6%)で8割の議席を独占した与党は、投票率6割で全有権者の4分の1しかないにもかかわらず、圧倒的な多数を形成し、少数派による多数派支配を実現したわけです。
 さらに醜いことには、支配される者のルサンチマンがさらに弱い者へと発散される垂直的な抑圧の委譲の連鎖的な重層構造がつくられ、上からの抑圧がアメとムチによって下方へ放射され、この構造のなかでは中間にいる人はしだいに加害の意識が弱くなり、上方からのアメによるそこそこの安定を期待して構造そのものに安定感を覚えるようになります。現代の世界はほぼ1%の人が99%の人を支配していますが、それは99%の人のなかにある中間の人が加害に加担していく構造にあるからです。アウシュヴィッツ強制収容所のユダヤ人のなかにも、被害者のユダヤ人がカポー(ユダヤ人を取り締まるユダヤ人)の座をめぐって争う状況となり、結果としてみんなが殺害されることとなりました。ガス室に仲間を送り込んで生き残ろうとしたユダヤ人は、証拠隠滅のために次は自分が殺害されたのです。人々が隷従の惨めさを受け入れるのは、不幸に耐える以外に選択肢のない運命として受け入れ、その日その日を必死に生きるなかで、隷従させられているという意識を失っていく構造にあるからです。
 この構造を打ち破るためには、過労死や自殺に追い込まれている最下層の人がたちあがるとともに、中層にある人が全滅の結果を予測して、最下層の側に付くという意識の転換が起こらなければなりません。名護市民がこの転換を選んだことは、日本歴史上に画期的な転換をもたらす重要な意味をもったのではないでしょうか。次は、日本列島全体の人たちが、名護市の市民の期待に応えるような選択をする番です。とくに原発と基地を辺境に配置して、生活を享受している大都市部の人たちは重大な選択を迫られることとなりました。シモーヌ・ヴェイユは「欺瞞の社会の転換は、思考と愛の働きから起こる」といい、アンドレ・ブルトンは「自由への意識は愛と詩と芸術から起こる」(『秘法17』)と云っています。たしかに思考と詩的直観は惰性的なヴェクトルを打ち破る重要な契機となりますが、しかしわたしは、「自覚せよ」とか「真の自由を考えよ」とか、市民の自己責任論につながるような主体性論を述べる気はありません。それは「汝・・・すべし」という倫理主義的な権威の裏返しであり、生活の論理を第1義とする生活者がみずから動くことはありません。自発的隷従を越えていく道は、まず意識からではなく、生活の経験から熟成してくる学習の効果からしか生まれてこないからです。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマをへて日本の経験は臨界点に近づいています。おそらくは、近い将来に経験の学習の効果のなかから、爆発的な意識の転換が起こってくるような予感がいたします。(2014/1/29)

「ヒットラーを称えるような意見を言う学生をどう指導しますか?」「ただちに退学処分にします」
 昨年の年末にドイツを旅行したときに、ドイツの教師との交流会で質問しましたら、間髪を入れずこの答えが返ってきました。交流会が終わった雑談で、日本人の教師が「思想や表現の自由はないのかな?」とつぶやいていましたが、ドイツでは公共の場でのナチス称賛は反ナチ法によって厳罰に処せられ、それは社会の隅々に埋め込まれていることを実感しました。最近では90歳に近い収容所の看守が逮捕され、戦犯裁判にかけられているように、第2次大戦の戦争犯罪は時効がなく、現在でも追求しています。戦後レジームの清算と戦前への復帰を着々と進めて孤立を深めている東アジアのある島国の姿を思い浮かべて、あまりの非対称性に言葉を失い、暗澹たる気持ちになりました。
 ところがまた、無知と恥を上塗りするような発言がNHK新会長の就任会見ででました。この人物は商社出身ですから、それなりの国際感覚を持っていると思っていましたが、アベなんとかいう日本の首相を上まわるような極右思想というより、人間的な感覚が欠落した疎外態の極地を示しています。いかにもどう猛な顔つきをしたこの人物は、「慰安婦はどこの国にもあったことであり、・・・今のモラルでは悪い。秘密法は・・・あまりかっかすることはない。政府が右と云えば右だ」などと、ドイツでは直ちに逮捕されるようなことを平然と言っています。無知でエネルギッシュな人間ほどに恐ろしい者はなく、ヘイトスピーチを垂れ流して恥じないこの人物は、自分が何をしているのか分からないままに、日本の現代史に泥の上塗りをしています。ハシットラーに次いで、モミットラーと称するモンスターがあらわれて、新世紀エヴァンゲリオンのように暴れる先に、世界の誰からも軽蔑されてあざ笑われる日本の姿が見えてまいります。
 すでにNHKの夜9時のニュースなどは、権力をチェックするジャーナリズムの片鱗もなく、政府報道をたれ流す国営放送に退廃しており、世界の批判を浴びています。ウオール・ストリート・ジャーナルは「日本の公共放送は政府の手先に?」と報じ、BBCは「極めて政治的な意見を表明したのは衝撃だった」と伝えています。NHKのホームページをのぞきますと、「NHKは放送法の使命を、とくに政府からの干渉を受けることなく、自主的に達成できるよう」と説明していますが、これほどに戯画的な説明はありません。すでにこの放送局は、政府からの干渉を受けることなく、自主的に政府の意向をくみ入れて市民を誘導するニュース番組を流しているのですから。かっては、一定の良心的な編成をしていた「NHKスペシャル」や「クローズアップ現代」も秘密保護法を組むことはありませんでした。アベ何とかという首相が、官房副長官のときに、ETV特集に介入して内容を改竄させてから、NHKの極右化が一気に進んだように思います。NHKの経営委員には、極右の日本会議の代表が就任するまでになりました。日本の片隅でジットしていた極右のリーダーたちが、ぞろぞろと顔をもたげはじめ、それはそれで無知の水準をさらけだして、この程度のものかと市民が理解する機会をつくりだしましたが、デモクラシーにおいては異なった多様な意見が多角的に公開され、市民の熟議によって結論を出していくのが初歩的な条件となりますが、日本からはすでにこの条件が失われつつあります。なぜこのような、ヒトラーが登場する初期ドイツのような極右的な潮流が勢いを得つつあるのでしょうか。
 ナチスは1929年世界大恐慌のなかで、没落する中間階級の不安をアーリア民族至上主義のナショナリズムに組織して、圧勝したのですが、市場原理の競争原理が社会の隅々に浸透し、たまっていくルサンチマンが弱者への攻撃となって集中し、すべてを一刀両断して解決する強力なメッセージを発する指導者崇拝の心性が深まっていきました。明治政府は、日本を富者、貧者、極貧者、極々貧者の4階層に分け、極貧者と極々貧者を20数%と分析して、20%のルサンチマンを政府ではなく、外国への憎しみに転化して外へ発散する政策をとりましたが、現代の日本でも似たような状態が起きているように思います。2010年の日本の統計では、最富裕層1%の人々の所得が全所得の9,51%を占めるにいたっており、00年代から1.29%も増加し、そのなかで中間層が分解して極貧者と極々貧者が急増しています(米国でも最富裕層10%が国民総所得の50%を独占し、格差は世界大恐慌前の1928年と同じ水準にひろがっています)。とくに日本の青年層の非正規率は60%をこえ、生命の再生産にすら参入できない苦境のなかで、鬱々たる自己責任の不安をかかえてただよっています。この層が近い将来に褐色の制服を身にまとう可能性がないとはいえません。いま日本である程度元気なのは、小金を貯め込んだ中高年退職者や主婦層の一部であり、観光や文化産業の市場はこの層によって支えられ、いずれもが極右政権を支持する構造となっているように思います。
 フクシマの子どもたちに象徴される放射能障害の発症の恐怖は想像を絶するものであり、現在での喉頭癌患者の発症も有意であり、成長するに従って爆発的な患者数になることが予測されます。岩手、宮城、福島3県の保育園児のうち、暴力や爪かみ、ひきこもりなどの問題行動でケアが必要な子どもは4人に1人にのぼり(3〜5歳児178人対象調査、2011年)、被災3県で25,9%の子どもがケアを必要としています(国立成育医療センター調査)。比較のために調査した三重県の子どもは8,5%です。「お母さん、わたしは将来子どもが産めるの?」・・・放射能に怯えながら我が子に母乳を与える母親に娘が聞いています。もはや自分たちは見捨てられたのではないか?という不安が子どもたちのこころに深くしみ通り、そうした実態を冷ややかに横目で見ながら原発を海外に売りまくる首相の偽善を鋭い感受性で見抜いています。若者や未来世代をこれほどに苦しめている時代はなく、いよいよ大人の責任が正面から問われる時代がきています。(2014/1/28)

南島の選挙は、人間の尊厳をあかし、希望の閃光を放った
 日本では、社会的な決定への疑似自発的な参加によって、参加そのものを劣化させる代表民主制の頽廃が進み、漠たるルサンチマンが浸透していくなかで、民主制のなかから独裁があらわれる不安な時代の人民投票がゆきわたってきました。誰もが決定から排除されている実態はフクシマであらわとなり、自分があずかり知らない掟に支配される代表民主制に翻弄される市民(F・カフカ『掟』)の姿を浮き彫りにし、フクシマやオキナワを他人ごとのように傍観する日常を撃ちました。カネのちからがすべてであり、カネを散らつかせば思うがままに支配できるという市場の力が社会の隅々に浸透し、支配される者がみずから支配を望むような頽廃のスパイラルにおちいり、もはや戦後民主主義を憎悪するような潮流があらわれ(大阪現象)、心のなかでは民衆を軽蔑しながら民衆を操るみにくいポピュリズムの前に、南島の市民は立ち上がって屹立し、No!と告げたのです。
 どのような侮蔑と嘲笑を浴びようとも、もはや現代の市民はかっての無知のヴェールに包まれた愚かな大衆ではないという人間の残された最後の尊厳が閃光を放ったのです。カネのちからによってゆがみをおび、カネのちからに屈服してみずからの初志をうばわれる辛い生活との訣別を告げ、カネか人間の尊厳かという最後の選択のなかで、南島の人々は尊厳への希望をえらんだのです。南島の人々の選択は、世界の著名な知識層のこころをつかみ、ノーム・チョムスキーやオリバー・ストーン、ジョン・ダワー、カレン・フォルフレンほか100名を超える人々が、辺野古建設中止を求める国際署名活動をはじめました。呼びかけ文は日本のメデイアの水準をはるかに超えるような知識にあふれ、世界の思考と良心のありかを示しています。アウシュヴィッツからヒロシマをへてフクシマにいたった人間の体験は、この地球の大地は未来からの預かり物に過ぎないという意識をはじめて芽生えさせ、つまづいた記憶の集積のなかから明日をつくろうという決心をうみだしました。ぬきさしならない選択の亀裂をのりこえて、南島の人々は未来の世代への責任をえらびとり、「我が亡き後に洪水は来たれ」という欲望の無差別曲線に抗して、民主制の危機を救ったのです。華やかな中央の繁栄のために地方を犠牲にする垂直のシステムに痛打をくわえ、新しい地域の民主制の世界へのとびらを開け、村人のみんなが制御に参加する入会地のような思想が死んでいなかったことを示しました。
 南島の人々がカネを拒絶してジャスト・イン・タイムの現在の幸福を選ばず、未来の可能性への希望を選んだことは、「各人(地域)の自由な発展が万人(全国)の自由な発展の条件となる」ような未来社会の萌芽を示しています。こうした挑戦が巨大な力によってふみにじられないで、日本のすみずみにネットワークとなってひろがるならば、たがいの直面している問題をたがいに我がこととしてうけとるような新しい世界があらわれるような予感がいたします。おそらくこれからも、試行と失敗、飛躍と切断をくり返しながら、悠々と流れる大河のような歩みのなかから、尊厳と希望の潮流が営々とした日常にしだいに姿をあらわしていくような気がします。1月19日名護市長選の結果を聞いて。(2014/1/20)

日本はほんとうに「大丈夫」なのか?
 最近の日本の配慮言葉として、やたら「大丈夫ですか?」「大丈夫です」ということばが使われているようです。「大丈夫」の原義は、意志のしっかりした男性(ますらお)である「丈夫」に「大」がついた美称(褒め言葉)であり、江戸期に「丈夫」から別れて「危なげない」とか「まちがいない」状態を指す言葉になっていき(『日本語大辞典 第2版』)、現在はどうも婉曲な断りの俗語として、ひろまっています。おそらく「大丈夫ですか?」は、「○○とか〜」や「○○のほう〜」とおなじく、断定回避のニュアンスをもったあいまい表現とおなじであり、スパッといわないぼんやり表現として流通しています。理知的なイエス、ノーを明確にした意志表現が人間関係を壊しやすい日本文化の特徴を示しているのでしょうが、逆に「大丈夫?」と問われると、自分が否定されているようで、「何が?」と反発したくなるようなシーンも生まれてきます。このあたりの微妙なニュアンスは、シロ・クロをはっきりしないとコミュニケーションを軽蔑する欧米系の文化では理解できないでしょう。
 欧米系では、満座のなかで孤立しても自分の意見を堂々と述べる人が尊敬されますが、日本では逆に集団の調和を乱すとして、最悪の場合はいじめられたり、村八分にあいます。あいまい言葉は、人間関係の亀裂をさける集団主義文化の言語表現ですが、ネオ・リベラリズムの競争原理がこれ程にすすんでも、なお明確な言葉がオープンに語られる文化が育たないで、新しいあいまい言葉が次々と登場していることに、なにか痛ましいようないじましさを覚えます。だから、ここではほんとうに「日本は大丈夫なのか?」と根源的に問うことが意味を持ってくると思うのです。「原発を動かして、ほんとうに大丈夫なの?」、「1年間に3万人も自殺者がいて、ほんとうに大丈夫なの?」と問うてみたい気がします。ここでの「大丈夫」は言い逃れを許さない原理的な問いかけとなっています。
 「なぜ自殺者が3万人にも上るのですか?」と外国人から問われて、どう答えたらいいのでしょうか? 自殺も自由だから,それは人の勝手だーというのは倒錯した自己責任論にほかなりません。「地上における人類の限りない存続のための条件を危うくしてはならない」という定言命令に反し、大量の自殺を生みだすような時代をつくりだした原因から目をそらす強者の論理となります。回避できた不幸をみのがして冒涜する者は、何かを人に語る資格を持たないでしょう。このまま成りゆきにまかせれば、なにか生存そのものが危うくなるような予感を持つ感受性が失われており、死んでいった魂は浮かばれないでしょう。人間のみが自分をも殺す自由を持っているとすれば、見て見ぬふりや息を殺してながめるのではなく、うめき声をあげて苦しんでいる人を自分のこととして受けとめるのでなければ、自分を殺す自由を持たない動物の次元に転落してしまうでしょう。新卒大学生の平均就職受験社数は1人43社だそうですが、想像を超えた修羅のような数字です。どうしてこのような日本になってしまったのか、別の道がありえたのではないか、必死になって考えねば後がないような黙示録の世界がひろがっています。(2013/1/18)

日本列島は万里の長城に囲まれた要塞列島と化すのかー巨大防潮堤の恐怖
 国土交通省は、岩手、宮城、福島の東北3県の海岸線に、総延長400kmmの巨大防潮堤を総事業費8500億円を投下して、3〜5年以内につくる巨大プロジェクトをスタートさせました。堤防の高さ(TP)は、百年に1度の確率で起こるレベル1の津波は背後地を完全に防御するもので最高14,7m(底幅90m)、500年から1000年に1度の確率で起こるレベル2では、一定の浸水を許すが完全には破壊されない5〜10mとなっており、基本はレベル1防波堤の建設です(詳細は各自治体の海防基本方針を参照されたい)。これによって砂丘はほぼ消滅し、陸からの海の眺めはなくなり、広い海岸が窪地(つぶれ地)となります。コンクリートの巨大な塊が陸と海のつながりを断ち切り、打ちこむ矢板によって地下水が遮断されます。北海道奥尻島(1993年地震)は総延長14kmの巨大防潮堤を211億円を投下してつくりましたが、海岸線が一変して観光業が打撃を受け、つぎつぎと人口が流出し、4700人の人口は3000人を切り、2040年には1500人を切ると予測されており、巨大防潮堤の無残な失敗モデルとなっています。コンクリートの寿命は40年であり、いくら保守管理をくり返しても、40年後には廃墟となった巨大防潮堤に囲まれたノーマンズランドとなります。奥尻島は、スマトラ沖地震(2004年)のスリランカ東海岸の復興をリードした国際コンサルタント「アルガムベイ資源開発計画」(漁民の家の再建を禁止し、跡地に国際観光ホテルを誘致してリゾート地とした)をモデルに復興計画を立て、いまや過疎地域と化そうとしています。
 唯一の成功モデルがあります。巨大防潮堤を選択しないで住居と道路の高台移転を選択する方法で復興した大船渡市の吉浜地区は、いまでは「奇跡の集落」といわれ、3・11大津波による被害は行方不明1名にとどまりました。なぜ政府はこうした成功モデルを参照しないのでしょうか? いうまでもなく、そこにはミルトン・フリードマンの「危機をチャンスととらえる」シカゴ学派の理論を根拠とする災害資本主義のショック・ドクトリン(ナオミ・クライン)があり、アメリカのシンクタンクCSIS(戦略国際問題研究所)がつくった「東日本大震災復興構想タスクフォース」(リチャード・アーミテージ主宰)の提言が、「創造的復興」戦略として日本政府に採用されました。大災厄は資本にとって利益を極大化する絶好のチャンスですから、阪神淡路大震災の復興総需要14,4兆円のうち、90%が被災地以外に流出したように、被災地以外の資本が復興利得の大部分を収奪する結果となります。市場原理主義の知事が君臨する宮城県は、復興計画の策定を野村総研に丸投げし(!)、石巻、小泉海岸(230億円)の巨大防潮堤は鹿島建設、大成建設、大林組が受注し、大手ゼネコンは瓦礫処理で莫大な利益を上げ、今度は40年周期で受注する巨大防波堤で巨大な利益を確保することとなりました。この陰で、民生分野の復興は進まず、住宅復旧は8月末地点でわずか岩手4%、宮城1%、福島2%でしかなく、福島の除染もほとんど放置されています。これが「コンクリートから人へ」を掲げて権力を得た前政権からの実相です。
 巨大防潮堤が延々とつらなる三陸・常磐沿岸の光景は、おそらく第2の奥尻島となり、廃墟と化したノーマンズ・ランドが出現するでしょう。同じように廃墟と化した福島原発地帯とともに、東北地方にポッカリと人が住まない空洞地域があらわれます。ナチス建築を主導したアルベルト・シュペーアは、ローマ帝国の廃墟の美学にのめりこみ、最初から廃墟を想定してベルリンその他の都市建設をすすめましたが、おそらく日本政府は同じような倒錯の美学に耽溺しています。高らかに嘲笑する大手ゼネコンの嬌声が虚空にこだます近未来がみえてきます。以上は『経済』2014年1月号(日本出版社)を参照。
 国内外で1700カ所以上の植樹を指導し、4000万本以上の樹木を植えてきた植物生態学者・宮脇明氏は、300kmから400kmの東北の海岸沿いに、いのちを守る森の防波堤『森の長城』計画を提案し、自治体ともにとり組んでいます。従来のマツ主体の単層の防潮林は根が浅く、大津波で腰折れし2次被害をもたらした教訓をふまえ、被災地のガレキを埋めて盛り土し、多様な照葉樹の苗木を植え、競り合い効果で15から20年で多層群落の樹林が形成され、災害に強い防潮の森となるという構想です。すでに岩手県大槌町「千年の森」、気仙沼市「海辺の森」、岩沼市「千年希望の丘」計画などが宮脇氏の助言を受けて進行中であり、国交省も「緑の防潮林」構想として検討するとしています。国交省は一方で、大手ゼネコンの要求に応えて巨大防潮堤で囲みながら、一方で防潮林をつくるというアンヴィバレンツな方針で、基本戦略の理念そのものに自信がないことをみずから示しています。(2014/1/13)

反アマゾン法と日本の書店文化
 フランスの元老院(上院)は、インターンネット書店が送料無料で書籍販売することを禁止し、小規模書店を保護する反アマゾン法を可決しました(1月8日)。フランスのラング法は、書店の割引率を定価の5%以内に制限していますが、ネット通販のアマゾンなどは巨大輸送網を背景に、送料無料サービスを付加して競争力を強化し、小規模書店を市場から駆逐し、フランス国内で得た利益を法人税率の低いタックス・ヘイブン地域に移転して徴税を逃れ、莫大な利益をあげてきました。政府与党は、アマゾン商法を不公正競争と批判していますが、注目すべきはこの法案を提出したのが、保守系の最大野党である国民運動連合(UMP)であり、法案が超党派で支持されたことです。保守派はつねにネオリベラリズムと同盟して、メジャー資本の側に加担するのですが、なぜフランスでは逆なのでしょうか。多くの国では定価販売の規制を撤廃して、書店刊の販売競争をあおり、大手書店が支配して地域の中小書店が姿を消しているのですが、フランスを旅行すれば街中に多くの書店があることに気づきます。
 ここには、出版文化を市民の普遍的な公共財とし、生活に密着した地域の書店を文化としてとらえる視点が埋め込まれているフランス文化の尊厳があるように思います。ネット販売は効率配達と安価販売で消費者利益を最大化するという情報資本主義の説明を拒否する生活に埋め込まれた文化の意識が感じられます。日本も書籍再販制によって定価販売は維持されていますが、部分再販制や自由価格本が出現し、送料無料の効率配達とポイント制による実質的な値引きによって大型書店とネット書店が市場を独占し、地方の街では書店が姿を消し、大都市においても街中書店はつぎつぎと撤退して姿を消しています。もはや電子販売でしか書籍を入手できない人たちが激増し、書店で実際に本を手にとって読み、書棚にある本を参照しながら購入するというリアルな書籍購入の体験は姿を消しつつあります。デジタル情報の浸透によって活字文化が圧迫されるなかで、書店の選択と集中が進み、とくに専門書は危機的な状況に陥って異常な価格上昇が起こっています。こうして地域に埋め込まれた文化は荒廃し、売れるものしかつくれない文化の市場化と俗悪化がすすみ、”我が亡き後に洪水は来たれ”と嬌声をあげる資本のかたわらで、書籍文化の公共財性は衰弱し、荒涼たる風景がひろがっていきます。アマゾン社はフランスの決定に怒っていますが、反アマゾン法はアメリカ型ネオ・リベラリズムとEU型社会的市場経済のシステム論的な対立を象徴しており、日本も最後の選択を迫られる時期が近づいているような気がします。(2014/1/13)

この惑星は、あと30年の命なのか!?ー2050年の日本のシナリオ
 「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」第5次評価報告書(2013年9月)によれば、地球温暖化の主因が人間活動による可能性を「95%以上100%」であるとし、二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスが主因であることの確信度をあきらかにしました。気温上昇を産業革命前から2度未満に抑えるためには、CO2の累積排出量を約8000億トン(炭素換算)に抑える必要があり、すでに約5300億トン排出しており、残りは約2700億トンで、現在毎年約100億トン排出しているので、あと30年で余地がなくなり、CO2排出をゼロにしなければならない時代が来るとしています。21世紀末の世界平均気温は100年前に比べて最大4,8度上昇し、海面水位は1901〜2010年で19cm上昇し、このまま放置すればオランダの国土はほぼ水没し、アルプス氷河の後退でスイス地方は潰滅し、世界の水循環が攪乱されます。京都議定書(1997年)は、2008〜12年(第1約束期間)での先進国温室効果ガスの排出量を規準年(1999年)比5%以上の削減目標を設定しましたが、2013年以降の目標は合意できず、第1約束期間を2020年まで延長しましたが、ここで日本とカナダが離脱しました。この間にすでに0,85度上昇しましたので、あと1,15度の上昇分しか残されていませんので、2050年までの長期目標は90年比で70〜80%以上の排出削減が必要とされ、ピークアウトの時期が近づいています。しかしIPCCの予測は、自分がオオカミ少年になりたくないために、あまりにも控えめな予測しか出していません。ただし、二酸化炭素の増大を火山活動やエルニーニョ現象に求める主張もありますが、ここではIPCCに従います。
 IPCC最終報告書(2014年3月発表予定)では、21世紀末の平均気温は4,8度、海面水位は約80cm上昇し、農産物生産は10年単位で最大2%減産し、人口増による需要が14%増え、供給不足と価格高騰で貧困率の高い熱帯中心に食糧難が深刻となり、水産物は温暖化で生息域が変化し、21世紀末に日本海沿岸と南方太平洋で漁獲量が減少し、東北沖の太平洋で増加する。この結果、21世紀末までにアジアを中心に数億人の移住が必要となる。経済影響では、2,5度上昇で、0,2〜2%の所得が減少するが、耐高温性品種や栽培技術の開発が進めば、現在の収穫量の15〜18%の増加をもたらす可能性があるーなどとしています。

 世界第5位の排出大国である日本は重大な責任がありますが、安倍政権は2020年の排出目標90年比25%削減(民主党政権)を白紙撤回し、90年比3,1%増(原発再稼働なし)という逆の増やす目標を決め、全世界に大きな失望をあたえました。安倍政権はこのプログラムを原発再稼働の根拠としていますが、しかし原発は出力調整ができないため、つねに石炭火力発電と組み合わせて使わざるをえず、結果的に原発稼働とともに石炭火力によるCO2排出量は増大するという悪循環に陥ります。数十万年も要する放射性廃棄物の処理に必要な地殻変動がない場所は地震国の日本には存在せず、原料のウランも数十年で枯渇し、原発は致命的な限界を抱えています。政府は原発を過疎地の地域経済の維持に不可欠としますが、ほとんどの原発自治体は人口減少が続き、波及効果論も破産し、札束で頬をひっぱたいて利益誘導しても、犠牲者を増やしているだけです。
 日本はエネルギー資源のほぼ全量を輸入しており、化石燃料とウラン購入費は毎年20〜25兆円の国費を海外へ流出させており、このコストは20年で400〜500兆円という膨大な費用に上ります。このコストを再生可能エネルギーの開発に使えば、ドイツのように日本はエネルギー自立が充分に可能です。しかし、福島事故の被害補償は実害のごく一部にとどまり、被害者は泣き寝入りを強いられ、事故原因の責任を誰一人取る必要がないため、また再稼働にむけて動きだしています。日本は成熟社会になっても、GDP成長神話にしがみつくアベノミクスの犠牲のシステムが続けられ、もはや「経済成長」という量の時代は去り、「経済発展」という質が問われる時代に入っているにもかかわらず、無知と無能の表面だけ元気よい硬直した極右思考が横行しています。これが「美しい国」日本の最悪のみにくい実態です。

 IPCCの予測をもとに、2050年の日本の蓋然性の高いシナリオを描いてみましょう。極地上空のオゾン層が破壊されてホールができ、西欧と北米に有害紫外線が降りそそぎ、氷河が消え始めて世界の主要河川は融氷水で氾濫し、日本列島は6月を過ぎると巨大台風と高潮が押しよせ、1時間あたり100mm以上のゲリラ豪雨が荒れまくり、農作物は壊滅的な打撃をうけ、土砂災害や水害の膨大な犠牲者がうまれ、それが終わると45度以上の灼熱の夏がはじまり、高温で溶け始めたアスファルト道路や歪みはじめたレールによって交通が麻痺し、水没がはじまった沿岸都市部から逃げ出した避難民が、貨物船に乗って漂流し、地盤沈下と洪水で傾いた我が家を呆然と眺めています。無人となった陸地には、シロアリの蟻塚のみがわずかな生命活動の痕跡を示し、わずかに残った新天地であるカナダやロシアをめざす漂流民は国境警備隊の非常線をどう突破して上陸するか、必死で相談しています。オランダとバングラデイシュはすでに水没し、ニューヨーク、ロンドン、東京、シドニー、ニューオーリンズの水没がはじまっています。工場の有害汚染物質が直接に海に流れ込み、腐敗によるメタンガスが発生し、貨物船のタンクの飲料水も途絶していきます。生き残った人類は残った生物資源を無差別に食料とし、人間以外の種が激減していきます。西欧北西部の沿岸に流れて熱帯の熱を運んでいるメキシコ湾岸流の流れが温暖化によって止まり、グリーンランド沖にある熱塩循環によって海底に引き込まれる表層海流がなくなり、西欧大陸はニューファンドランドの状況に変貌し新たな氷河期が到来する可能性はまだ低いが、間氷期が続くかどうかの確率は30%に低下します。数百万台のコンピュータを駆使したIPCCの予測モデルは、温暖化危険可能性レベル8、ダメージレベル6、危険度レベル7としていますが、その最悪の荒唐無稽とも思われるような予測が「地球最後の日」となって、いま目の前で現実に人類を襲っています。
 ところが日本列島は、気候変動とは別の特別の異質のシナリオが準備されています。2050年を待たず、大地震と津波による原発のメルトダウンの危険可能性レベルのほうが、温暖化の危険レベルよりもはるかに高く、今後30年で7割といわれる東海・東南海大地震の発生確率と巨大防波堤を越える大津波によって、静岡県牧ノ原市の浜岡原発のメルト・ダウンがはじまり、東海道沿線と首都圏,中部圏への放射能汚染によって、高速道と新幹線はストップし、日本列島中央部が潰滅していきます。以上が原発再稼働という人為的な日本の政策判断の致命的な間違いが招く近未来のシナリオです。
 こうした最悪のシナリオは実際に起こりうるでしょうか? 日本は静かに原発メルトダウンを待っているのでしょうか? 世界の終わりは近く、世界はイースター島と化すのでしょうか? 回避する予防原則のシナリオはあるのでしょうか? 最悪の事態にどう備えたらいいのでしょうか? もはや個人の省エネのシナリオだけでは限界にあり、甘いまなざしで地球と日本の未来を語ることはできません。省エネと自然エネルギー転換への明確なカウンター・ヴィジョンと草の根の運動が世界をおおうならば、手遅れになる前に窮地から脱する可能性はまだ残されています。「共有地の悲劇」のふるまいからまず脱出することが求められています。「どうして高齢のホームレスが野ざらしにされて死亡することがニュースにならず、株式市場が2ポイント下がっただけでニュースになるのか? 飢えている人がいる一方で食べ物が廃棄されているのを見過ごし続けられるのか」(フランシスコ法王「使徒的勧告」2013年11月)というシステムそのものの変革が求められます。(2014/1/7)

さあ! 新しい年の出発とともに、メッセージを再開します!
 昨年の末は原発廃止に向かうドイツを訪れ、林立する風力発電用の風車に圧倒され、ブレヒトのベルリーナ・アンサンブルでの観劇とケーテ・コルヴィッツ美術館を訪問し、もはや思い残すことはないほどの気持ちを味わい、ドイツの教師との懇談で「ナチスを支持するような発言をする学生は直ちに退学処分となる」ことを聞き、ヘイト・スピーチが蔓延する日本との落差に慄然としました。日本では彼我の落差を象徴する事例が年末に相次ぎました。まさかこのような事態が21世紀初頭の日本にあらわれようとは、私の歴史感覚はほんとうに貧しいものであったことを思い知らされます。
 沖縄県知事は、最後の最後の段階で県民の総意と公約を裏切って、辺野古埋め立てを承認し、戦後史上初めて海と土地をみずから金で米軍に売り渡すという歴史的な裏切りを演じました。恫喝されて奴隷のようにうなだれている沖縄選出の与党議員をバックに、公約破棄を宣言した与党幹事長の醜悪な姿に次いで、嬉々として首相に従う知事は哀れとも云うべき姿をさらし、もはや県庁に登庁することすらできません。「売国奴」という人間が実在することを、はじめて実感することとなりました。これほどに市民を愚弄してはじないふるまいは戦後はじめてであり、沖縄を代表する地位にある彼らは、”固き土を破りて民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ”の大合唱のなかで、詐欺罪で告発されて歴史の舞台から退き、ただ汚名をのみ教科書に残してこの世を去っていくのです。「かぐや姫はいったいなぜ、なんのためにこの地上にやってきたのか」(高畑勲『かぐや姫の物語』)という問いは、美しく澄んだ辺野古のみどりの海を奪おうとする者たちへの絶望と哀しみを込めた46億年の惑星への悲痛なつぶやきです。福島原発事故で沖縄に逃れた一田裕介さん(34)は、「お金で黙らせようとするのは原発も基地も同じだ。もう見て見ぬふりをすることはできない」と悔しさをにじませながら語っています。
 3年近くが経過してメデイアから福島原発の現状はほとんど伝わらなくなりましたが、大雨のたびにタンクのまわりの堰から汚染水があふれ、海側の井戸からも検出され、少なくとも毎日300トン(!)が海に流出し、太平洋沿岸の海水の放射性物質の濃度はますます深刻になっています。東電も政府もすでに制御不能となっており、国際機関が介入する時期が近づいています。福島以外のすべての原発も地下水対策がないまま、再稼働の申請が相次ぎ、大地震と火山の爆発が近づいているなかで、日本列島は不可逆的なダメージを受けることを想定し、すでに列島の崩壊と終焉に向けた幾つかのプログラムが準備されていますが、パニックを恐れて公開されていません。非常事態宣言から戒厳令にいたるプログラムは、まず最初に特定秘密保護法からはじまりましたが、2014年は本格的な「国家総動員」システムの構築にむけた動きが加速します。チェルノブイリ発電所の責任者は銃殺となりましたが、福島事故の責任は誰一人負うことはなく、展望と予測可能性をうしなった首相は、もはや神頼みしかなく、伊勢神宮や靖国神社に出向いてかしわ手を打つか、ストレス解消のゴルフに耽溺するしかありません。
 12月26日の午前に首相の公用車は、SPに囲まれ、ジョギング中の人たちを排除しながら靖国神社に入りました。年明けの準備で大忙しの神社の迷惑もものかわ(?)、急落する支持率の挽回を右翼に期待してコソコソとでかけたのです。靖国神社はいうまでもなく、「平和に対する罪」で裁かれたA級戦犯を「ぬれぎぬ」の被害者として祀り、太平洋戦争を「アジア諸国の解放と共存共栄の新秩序」(徳川康久宮司)と宣揚する侵略美化の宣伝センターであり、国際社会に復帰した戦後民主日本のアイデンテイテイを真っ向から否定する戦争神社であり、ドイツで云えばヒトラーの墓に詣でることに他ならず、ただちにドイツは国交断絶の制裁措置をうけます。首相の靖国参拝にたいする外国政府や国際機関の反応ははやく、私の想像を超えた厳しく広汎なものでした。国連事務総長やEU外相が抗議声明を出し、アメリカ政府が「失望」を表明し、首相が米国政府の忠告を蹴って参拝した経過が明らかとなっています。日本の「名誉」と「矜恃」がもしあるとすれば、もはや地に墜ちた感があります。無知で無能な首相を選んだのも日本の市民であるからには、外国からの批判に頼らないで自力で決済するしかありません。(2014/1/5)

 *資料
 (外国政府、国連コメント)
 「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させる行動をとったことに、米国政府は失望している」(在日米国大使館声明 2013年12月26日)
 「第2次大戦の結果に対する世界一般の理解と異なる流れを日本に押しつけようとする一部勢力の試みの強まりを背景とする今回の行動は、遺憾の念を呼び起こす」(ロシア政府外務省報道局長 2013年12月26日)
 「日本の近隣諸国との関係改善に貢献しない。慎重な外交による紛争の処理と、緊張を高める行為の自粛を求める」(EU外交安全保障上級代表=外相 2013年12月26日)
 「過去の緊張が依然として北東アジアの地域を苦しめているのは極めて遺憾だ。他者の感情、とりわけ犠牲者の記憶に敏感である必要性を強調する」(パン・ギムン国連事務総長 2013年12月27日)
 「植民地支配と侵略戦争を美化し、戦犯を合祀する靖国神社に参拝したことに、わが政府は慨嘆と憤怒を禁じ得ない。誤った歴史認識をそのまま表し、韓日関係はもちろん北東アジアの安定と協力を根本から損なう時代錯誤の行為だ。安倍首相の積極的平和主義は、はたして誤った歴史観をもって平和増進に寄与できると考えているのか、問い直さざるを得ない」(韓国政府声明 2013年12月26日)
 「国際正義への公然たる挑戦であり、人類の英知をみだりにふみにじるものだ」(王毅・中国外相 2013年12月26日)
 「日本の指導者の靖国神社参拝は、中国と他のアジアの戦争被害国の国民感情を乱暴に踏みにじり、日本軍国主義による対外侵略と植民地支配の歴史を美化し、第2次大戦の結果と戦後の国際秩序に挑戦するものだ」(秦剛・中国外務省報道局長 2013年12月26日)
 「極めて大きな憤慨を覚える。国際社会への挑戦で、中国、韓国の感情を傷つけた」(程永華・中国駐日大使 2013年12月26日)

 (海外メデイア速報)
 「中国や韓国との緊張関係をさらに悪化させる。安倍首相の保守的な支持基盤に訴える動きとみられる」(ウオール・ストリート・ジャーナル 2013年12月26日電子版)
 「安倍首相の靖国参拝は米国の同盟国間の協力を損ない、外交的不和がもたらす影響は極めて大きい。日本の一部有力政治家の個人的信条で、慰安婦や戦時の残虐行為の真実をごまかし、真実を損なう行為は日本にとって戦略的な負担になる」(ウオールストリート・ジャーナル 2013年12月28日付け社説)
 「日本の秘密保護法は国民に対する政府の権限を拡大し、個人の権利の保護を減らすことを構想している。安倍氏の狙いは戦後体制からの脱却であり、それは時代錯誤で同時に危険なヴィジョンである」(ニューヨークタイムズ 2013年12月16日付社説)
 「長らく日本とアジアの隣人たちを緊張させてきた行動を復活させた。中国や韓国との膠着状態の際どい時期の訪問に、中国はすばやく反応して抗議した。日本は安定したアメリカの同盟国になるどころか、米国にとってアジアの新たな問題国になった。安倍首相は戦後の平和主義から日本を遠ざけるという大きな政治的リスクを自ら進んで冒している」(ニューヨーク・タイムス 2013年12月26日、27日)
 「無知や一方的な歴史認識は相互の無理解を助長する」(フランクフルター・アルゲマイネ 2013年12月27日)
 「日本の戦後史は重大なことを些細なことのようにみせることを特徴としている。ドイツでは第2次大戦の犯罪は清算されてきたが、日本では今日に到るまで多くが成されないままになっている」(ツアイト 2013年12月26日)
 「安倍首相は、冷徹な打算家で、中韓との関係がさらに悪化することはないと判断し、支持基盤の右派との約束を守るために参拝した」(南ドイツ新聞 2013年12月27日)
 「過去に参拝した小泉首相の時よりもはるかに困難で緊張が高まっている状況でもっとも不要な新たな挑発を行った。第1次大戦前の欧州と似ているというのはおおげさかもしれないが、この地域は非常に不幸な新年を迎える」(デーリー・テレグラフ 2013年12月27日)
 「自らの国際的な立場と日本の安全保障を弱化させる恐れが強い挑発的な行為だ。安倍首相はアジアとの和解を断念するかわりに、憲法改正や自衛隊の制限をゆるめる右翼的な構想を正当化し、緊張状態を利用する戦略をほのめかす政治的に無分別だ」(ワシントン・ポスト 2013年12月27日)
 「すでに緊張状態にある中国・韓国との関係をさらに悪化させる行為についての米国の助言を無視して参拝した」(ロサンゼルス・タイムス 2013年12月26日電子版)
 「日中韓の政府関係者を引き合わせようとする公式・非公式に取り組んできたすべての人々への『私(安倍)は気にしない』ということを意味する平手打ちだ」(ボイス・オブ・アメリカ 2013年12月26日)
 「安倍氏は秘密保護法や軍事防衛力強化など、多くの人から右翼的主張にますます傾注しているとみなされている」(フィナンシャル・タイムズ 2013年12月27日)
 「安倍氏の靖国神社訪問はすでに高まっている日本と近隣諸国の緊張をさらに強める。安倍首相は平和憲法の修正を願っている」(ル・モンド 2013年12月27日)
 「安倍首相は国内的にも国際的にも暴走している。日本政治の右傾化の新しいあらわれだ。安倍首相はいま、自分の思うままに何でもやりたい放題だ。今後は集団的自衛権の行使などさらに危険な措置をとるのではないかと危惧している」(劉江永・清華大当代国際研究員副院長 2013年12月26日)
 「安倍首相の靖国参拝に激しい怒りと悲哀を感じています。価値観外交を大声で叫ぶ彼は、世界の歴史観から大きく遠ざかっている。日本という船の舵を取る彼は、いったい日本をどこへもっていこうとしているのか」(蘇智良・上海師範大学中国慰安婦問題研究センター主任 2013年12月27日)
 「メガトン級の悪材料だ。大統領府は,韓日首脳会談を固辞し、最悪の対日関係を想定せざるをえなくなる。安倍首相が靖国参拝を皮切りに集団的自衛権、平和憲法改正などの右傾化の動きに拍車をかけ、来年の北東アジア情勢はより厳しくなる」(韓国聯合ニュース、2013年12月26日)
 「行き詰まっていた韓日、中日関係は悪化の一途をたどる」(韓国KBSテレビ 2013年12月26日)
 「安倍の挑発で韓日関係は崖っぷちに、破局に向かって疾走している。安倍は元に戻れない橋を渡った」(中央日報 2013年12月27日)
 「日本は国際社会で孤立する。韓国政府内では中国との共同歩調を模索すべきだという声が出ている。日本という船はすでに方向転換した。「過去」の日本はもはやない。韓国政府は完全に別の次元から日本を相手にする方策を考えるときがきた」(朝鮮日報 2013年12月27日)
 「韓国人の胸に釘を打ちこんだ」(東亜日報 2013年12月27日)
 「日本の市民が事態をどのように受けとめるかを世界が見守るだろう。日本の威信を貶めた安倍首相に対し、日本国民は声を上げなければならない」(京郷新聞 2013年12月27日)
 「靖国・戦争神社は多くの人にとって受け入れがたい歴史解釈を広めようとしている。併設されている博物館は日本を被害者として描いており、アジア各国を侵略した日本軍の残虐行為について充分な言及がない」(インド・ヒンドウスタン・タイムズ 2013年12月27日)
 「首相はこの挑発的な行為が近隣諸国にどう受けとめられるか、十分に理解していたはずだ」(インド・ヒンズー 2013年12月27日)
 「安倍首相の靖国神社参拝程に無神経なふるまいはない。残虐な戦争犯罪者の追悼のなかで、不戦を誓うなどの滑稽なことはない。彼は誠意がなく、中国や韓国の反発などなんとも思っていないように見える。中韓に触れながら日本軍から甚大な被害を受けた東南アジア諸国には触れていない。多くのタイ人は、自国の過去の犯罪に敬意を払う安倍氏に衝撃を受けている」(バンコック・ポスト 2014年1月7日)」
 「靖国神社の軍事博物館・遊就館は、20世紀の出来事をめぐり、日本を被害者とする信じられないほど偏向した解釈を提示している。展示内容は極右の観点から戦争の歴史を書き換えており、中国人や韓国人だけでなく、ほとんど誰もが不快に感じるだろう」(『アトランテッック』電子版 2014年1月2日)
 「日本の秘密保護法は、国家の安全保障と国防に関して国民の知る権利を厳しく制限する点で国際基準のツワネ原則にはほど遠い。21世紀に民主的な政府が検討した法律のなかで最悪のレベルのものであり、深い懸念を表明する」(モートン・ハルペリン「オープンソサエテイ財団」上級顧問)