21世紀へのメッセージ 2001/3/5〜
第10エッセイ集(2007年1月1日〜2009年1月10日)
第9エッセイ集(2005年8月17日〜2006年12月31日)
第8エッセイ集(2005年8月17日〜2005年12月24日)
第7エッセイ集(2005年1月1日〜2005年8月16日)
第6エッセイ集(2004年5月5日〜2004年12月22日)
第5エッセイ集(2003年9月13日〜2004年5月4日)
第4エッセイ集(2002年12月30日〜2003年9月12日)
第3エッセイ集(2002年4月28日〜2002年12月29日)
第2エッセイ集(2001年8月14日〜2002年4月27日)
第1エッセイ集(2001年3月5日〜2001年8月12日)
第11エッセイ集(2009年1月10日〜2010年8月7日)
◆これほどまでに地域が痛んでいるとは?
じつに2ヶ月近い空白ののちに、ふたたびエッセイの筆をとることとなりました。回心に近いような二度目の体験によって、いささかエネルギーの衰えを味わったのですが、どうしても記さざるを得ないようなことが我が住む街におこったのです。おどろいたことに、学区のある町内に150本を超えるのぼり旗がはためき、赤字で無料低額宿泊所開設反対と染めぬかれています。町内会を通して反対署名が回覧され、多くの家庭が子どもも含めて署名していましたが、我が家はなにか違和感があったので署名をしませんでした。すると、昨日の回覧板で「学区の皆さまへ 朗報 無料低額宿泊所開設断念のお知らせ」として町内会長の連名で回されてきました。その大要は以下の通りです。
「学区の皆さまにおかれましてはご健勝のことと思います。無料低額宿泊所開設反対署名は大勢の皆さまの賛同をいただき、7千余名の署名が集まりました。ほんとうにありがとう御座いました。6月にNPO法人関係者より、路上生活者の支援活動となる無料低額宿泊所を開設したいとの説明があり、早速町内会の代表が集まって協議を重ね、行政にも足を運んで反対運動をすることとなりました。NPO法人の活動そのものに反対するのではなく、路上生活者の事件が多発しているため、学区の住民が安心して生活できる環境を守るため、今回は路上生活者を対象とした宿泊所の開設に反対することとなりました。7千名の署名をもってNPO法人に学区の住民の反対の声が強いことを伝達したところ、先日になって開設断念の連絡が入りました。みなさまの力強い声のお陰で、安全で安心できる生活を続けることができるようになりました。今後とも地域の問題を独りでかかえることがないよう、みんなで一緒に考えて、いつまでも住みたくなる町にしていきたいとねがっております」
みなまさはこの町内会の住民運動をごらんになって、直感的にどのような印象をお持ちになったでしょうか。ホームレス自立支援法による民間の支援活動は、行政の認可を得て貧困からの脱出をめざすものであり、一部に貧困ビジネスに巣くう悪徳業者がいますが、この住民運動は路上生活者が地域に居住することそのものを許さないものであり、あきらかに排除の論理によるゆがんだ幸福追求権の実現に他なりません。わたしは、日本の近現代史の中で、同じような論理で他者を排除するか、どこかに封じこめて集住させる事例を知識としては知っていました。被差別部落、在日朝鮮人、ハンセン病者の隔離政策などはその最たるものでしたが、日常においても精神病院や刑務所、ゴミ処理場の設置反対は茶飯事でした。最近では、幼稚園や保育園、学校の設置も騒音で反対するなどの文字どおり住民エゴとしかいえないような反対もあります。普天間基地に象徴される米軍基地の沖縄封じ込めは、まさに本土の日本の水準を象徴しています。しかしまさか自分の住んでいる足下の町内で、こうした排除の論理が市民の生活感覚として沈積しているとは想像できませんでした。おそらくここには、ホームレスを襲撃して殺害に到る少年たちのルサンチマンの暴発と本質的に共通した感性があるのでしょう。それはユダヤ人やシンデイ・ロマを絶滅に追い込んだナチスの悪魔的な心情と似ています。
なぜこのような自らの歪みに無感覚な感覚が蔓延していったのでしょうか。文科省の調査では、09年度小中校生の不登校は小学校2万2327人、中学校10万105人であり、小学校は313人に1人、中学校は36人に1人(!)であり、08年以前からの長期不登校が小学校40%、中学校51,4%と長期で高水準で推移しています。なぜか? すこしでも集団になじめない子どもたちは、周囲から激しいイジメを受けるからです。このイジメの辛さと痛ましさは体験した者にしか分かりません。加害者は面白半分にゲーム感覚で虐めるのです。
警察庁調査によれば、10年度上半期の摘発された児童虐待件数は181件で前年比15,3%増であり、00年統計開始ご再考に達しました。虐待による死亡は18人(前年比7人増)で、身体的虐待140件、性的虐待31件、育児放棄10件、被害児童数は過去最多の187人で5歳以下が42,8%、加害者は父70%、母30%となっています。児童相談所相談件数は、過去最高の4万4210件に達しています。先日の大阪西区の2児餓死事件はその象徴的な事例に過ぎません。
もはや日本の子どもたちは、両親からの肉体的な攻撃にさらされて「ママ!」と叫びながらいのちを奪われていく存在であり、学童期になればイジメの被害者にならないために加害者の椅子取りゲームに狂奔する存在となっています。世界では6ヶ月未満の乳児の35%しか母乳を供給されず、65%の乳児が飢餓線上をさまよっていますが、日本では血を分けた親からの生命の剥奪の恐怖に戦いているのです。こうして日本の子どもたちの最後の救いは、苦しみを感じている自分を壊すこと=自殺を選ぶしかない存在となって、子どもの自殺件数は過去最多となっています(国連子ども権利委員会最終所見)。自分を孤独だと感じている15歳児の割合は、日本29,8%と異様な高率であり(OECD平均7,4% ユニセフ07年報告書)、「驚くべき数の子どもが情緒的幸福度の低さを訴えている」としています。その原因を親と教師と子どもの関係の貧しさにあるとしていますが、国連の勧告は日本の悲惨さの実態をほんとうに把握しているとは云えません。虐待とイジメが日常茶飯事となって蔓延し、横行する日本はもはや末期的な状況なのです。ただし別言すれば、甘えの構造を許してきた日本的集団主義があまりにあっけなく崩壊していったがゆえに、個の自律の尊厳の感覚が成熟しないままに、競争のジャングルで甘えへのノスタルジアを求めているような日本独特の構造もあるような気がしますが。
では大人たちはどうでしょうか。日本の大人は、100歳を超えるような後期高齢となれば、家族も行政もその生死を把握できない行方不明状態となるのです。東京都足立区の白骨遺体となって発見された113歳の女性は、数十年前から行方不明であり、住民登録を残したまま誰も問題にしなかったのです。日本の後期高齢は、家族も含めて誰からも絶ちきられた孤立状態となり孤独死に到るのです。こうして数十年間も敬老祝い金を送り続けるという行政の悲喜劇がおこるのです。
では壮年期男女は大丈夫なのか? ワーキング・プアの無保険者に病の治療機会はなく、将来の年金もありませんから生涯を構想することは意味がなく、正規社員は無限の剰余価値をくみつくされて過労死に到っています。ここでは壮年期日本の歪みを詳説はしませんが、全体としての日本は歴史上もっとも痛んだ国となっています。なぜこのような終末の崩壊状態となってしまったのでしょうか。とにかく貧困人口が15%を越えた世界最初の先進国となったのです。
率直に言いましょう。日本の晩期資本主義はもはや終局の崩壊期に直面し、あのライオンヘアとタケナカなんとかの市場原理のネオ・リベラリズムが宣揚されはじめてから終末は加速し、システム破綻の末期をみんながそれとなく感じはじめています。アガンベンのいうホモサケル(絶対的に排除される他者)なしに維持できない社会システムは、排除の対象を無限に拡大し、もはや自分自身をも排除の対象にして自壊していくしかないのです。しかし資本主義システムがもはや崩壊しつつあるという予感を誰しもいだきつつ、それを越えていく新たな未来のイメージが鮮明とならず、暗中模索の流浪に陥りつつ、とりあえずの今日明日の生活を生き抜くしかないという自己保存の現在主義しか見えなくなっています。
自己保存の悪しき姿は、とりあえずみずからのルサンチマンと不安を自分より下位の弱者に発散し、下方への抑圧の移譲を繰り返すしかないという悪無限のサイクルを選んでいきます。そのもっとも悲惨で痛ましい姿が、抵抗する力のない子どもと高齢者に他なりません。こうして虐待とイジメが始まり、さらに路上生活者などの弱者への嗜虐的攻撃になっていきます。ときには最高位の貴族的階層への攻撃的な現象が誘発され、皇室の不登校児をうんだ母親へのルサンチマンの発散も見られますが、それは砂のような大衆として劇場の中で演じられるしかありません。痛々しい廃虚のイメージを眼前にして、ではどうすればいいのでしょうか。
ネオ・リベラリズムの市場原理のマクロ政策を断罪し、北欧型ともいってよい社会的経済のシステムに早期に転換して、晩期資本主義の成熟した退廃を食いとめるしかありません。その次の段階としてはたして社会主義というシステムを構想できるでしょうか。すくなくとも中央計画型統制経済(ソ連型)は崩壊し、労働者参加による自主管理システム(ユーゴ)も失敗し、市場社会主義も資本主義的所有と変わらないようにみえ(中国、ベトナム)、いずれも日本の将来構想には参考資料の一部にしかなりません。しかも2000万人を殺害したスターリニズム、1000万人を殺害した毛沢東主義など旧社会主義のイメージは血に汚れていますから、ポスト資本主義のシステムの再構築には数十年を費やすでしょう。
マンションの一室に閉じ込められてなお、「ママ! ママ!!」と泣き叫びながら、しだいにか細い声となって餓死していった、いたいけな子どもが、今日と明日の私たち自身の姿なのだとしたら、なんとかして部屋の鍵をこじ開けて外に出て行くしかありません。だれも外から合い鍵で開けてくれないとしたら、自らの頭脳と身体のすべてを回転させて、新たなシステムを考えぬいていくしかありません。以下続く。(2010/8/7)
◆美しき偽善の裏に
南アの日本大使館が、アパルトヘイト中に名誉領事となって日本人を差別から守ろうと努力したジェッペなる白人を記念する碑を設置したそうです(朝日新聞 6月18日)。確かにアパルトヘイト中の日本人は「名誉白人」として有色人種が受ける差別からある程度免れていましたが、それは日本が南アの有数の貿易相手国であり、一人の人物の人道的な支援によってではなかったのです。差別そのものを廃止するのではなく、名誉白人という何とも恥ずかしい称号を得ても白人待遇を受けようとした日本人のあさましさほどにアフリカーンの軽蔑を受けたことはありません。南アの日本大使館の仕事は、むしろ日本の差別加担の歴史を丹念に発掘し、その事実を明らかにして謝罪することでしかありませんが、これとても過去の罪責から逃れることはできないのです。ジェッペ氏の主観的意図がどうであれ、記念碑をつくってアフリカーンに記憶してもらうような行為ではありませんでした。銘板は直ちに撤去して、今も深刻な黒人生活の支援に回すべきでしょう。或いは避難民となって世界を流浪する人たちが、09年末で4330万人と前年比130万人増加し90年代以降最高になっているという世界の現実に目を向けるべきでしょう。とくにイスラエルの封鎖を受けるガザ地区の惨状は惨酷で、衛生と医療は極端に劣化し、毎日7時間の停電によって人工呼吸器と透析装置がストップし、薬品の供給も途絶して死線を彷徨う事態となっています。救急支援船はイスラエル海軍によって拿捕され、殺害されています。世界を流浪しながらじっと堪え忍んでいる避難民たちは、まさに日本で云えば幕府の禁教政策の元で密かに続けられた隠れキリシタンの姿ではありませんか。
平戸の隠れキリシタンたちは、明治の禁教解除後も多くはカトリックに復さないままに現代に到る信仰を続けています。なぜカトリックに復さないのでしょうか? 彼らは弾圧を避ける偽装として仏壇と神棚を家に配置し、仏画や仏像に似せてマリア像を描き、ご神体として納戸の奧に祀ったのです。彼らの祈りはオラショと呼ばれ、地区毎の組織単位で特別の行事を年20−30回、特別の暦でおこない、ゴタンジョウのような12月のクリスマスの日もあれば、5月の田植えの日もあり、地域の伝統的な民俗行事となっています。行事を仕切るオヤジ様は、自分の家に信徒を集めてオラショを唱えた後に、食事をふるまいます。つまり隠れキリシタンは、カトリックが日本の民俗的土壌に溶け込んだ祖先崇拝の民俗信仰となり、祖先とは殉教者や先祖を意味したのです。禁教解除後にカトリックに復さないのは、仏壇や神棚の廃棄を求められるからであったのです。おそらくここに第1次産業を生業として大地に緊縛されていた前近代の民衆的心性と原初的信仰の典型的事例があるように思います。苛烈な弾圧によって惨たらしい犠牲者をだしながら、なおかつ支配の空間で生き延びていく唯一の方法でありながら、それはもはや生活そのものとなって本来の理論信仰とは姿を変えてしまったのです。
アパルトヘイトのただ中にあって、はげしい抵抗を繰りひろげたアフリカーンの人々は、もはや弾圧者をも許す思想を身体化し、記憶と和解の新しい歴史を踏みだしています。今たたかわれているワールドカップのスタジアムの多くは、アパルトヘイトに抵抗した英雄たちの名前が記されています。多くの避難民たちも望郷の念に駆られながら、新たな立ち位置を模索していかなければなりません。差別と支配のなかで、媚びへつらいながら第2白人の地位を手に入れて喜んでいた日本人の精神ほどに恥ずべき貧しいものはありませんが、日本の片隅には信ずべき信仰を捨てなかった少数者もいたのです。グレゴリオ聖歌Laudate Dom inumwoを本歌とするオラショらおだての歌詞を記しておきます。
だおだて、どーみの、おーねー、ぜんて、ろーだて、いよーに、いしぽぽりや、こんや、こえりますと、あすりべつす、のす、みじりこーりや、えんしゅ、よっべりつすどみの、まにへ、みすてーりか。ぐるいや、ぱーてろ、よつひりょと、よつべりと、よさんと、しくでら、えんぺら、せんぺら、いぇぬき、せんぺら、えね、せーくろ、せくろ、あんめーずす
*注:オラショはラテン語で祈りを意味するORATIOを語源とし、宣教師の言葉が意味不明の呪文として継承されたもの (2010/6/21)
◆独房社会・日本の希望
鮮やかな緑が滴るように迎えてくれる公園にいくと、まだ幼稚園前の子どもたちと遊んでいる若い母親の姿があちこちにひろがっています。けがれなき子どもたちの歓声がひびきわたって、愛犬コロも弾むようなリズムで生き生きと前に進んでいきます。世は平和であかるく、未来は希望にあふれているかのようで、わたしも晴れ晴れとした気持で散歩を愉しむのです。池のまわりには、鮒や鯉を釣る太公望たちが静かに釣り糸を垂れ、風が爽やかに池を吹き渡っていきます。日本もまだまだいい風景があるんだ・・・と少し安心した気持になって帰途につくのですが、しかしふと考えると、この至福の風景はじつはごく一部ではないのだろうか、整備された広い公園で遊び戯れる人たちはむしろ恵まれた一部の人ではないだろうかと思うと、暗然たる気持も忍びよってきます。
「働きたいけど仕事がない、職を失い一人でいると、独房にいるように感じるときがある」ー首都圏の33歳の男性は、派遣会社に登録して家電量販店で働き、嫌がらせを受けて自暴自棄となり突然に解雇された体験をうめくように語ります。いま職場の人間関係や仕事の疲れ、非正規の不安から精神疾患にかかる若者が急増しています。ワーキング・プアや失職した人に、医療費が手元になく、医療機関を受診できず、メンタル不全を起こして、追い込められて自死を選ぶ人が激増しています。
09年の日本の自殺者数は3万2845人(前年比1,8%増 全体の71%が男性)、最多は50歳代の6849人ですが、自殺率(人口10万人あたり)は20歳代24,1(3470人)、30歳代26,2(4794人)と、1978年の警察庁統計開始後の最悪を記録しています。失業を動機とする人が1071人(前年比65%増!)、とくに30歳代は228人(88%増)、就職失敗を動機とする人は354人(40%増)、うち20歳代が122人(42%増)となっています。ワーキング・プアや非正規労働は、収入自体が低く仕事の掛け持ちでメンタル不全を誘発する危険要因が重層化しているのです。雇用の悪化を背景とする自死が若い世代に集中し、日本は若者を殺す社会になってしまったのです。大学生の総合職就活のまっただなかで、私の授業も欠席者が目立ちます。いま街を歩いていて感じるのは、若者の表情が何か暗く、覇気がないのです(少女系は元気な気がしますが)。自死に到った人の多くは、自分の不安で頭がいっぱいになり、うつ病の症状を呈しても考える時間もなく、まわりが牢獄のような壁となって迫り、追いつめられていきます。何十社もうけてすべてNO!となれば、自分の存在の意味が根底から否定されたようで、落ち込んでしまうのは明らかです。いったい日本は、どうして若者を死に追い込むような国になってしまったのでしょうか。
いうまでもなく、コイズミなんとかとタケナカ某によるシカゴ学派の市場原理主義による経済システム再編であり、全てを市場競争に委ねて自己利益の極大化をめざして、全員が競争すれば便益は最大化するという、子どものような漫画チックな理論でした。自己選択ー自己決定ー自己責任が唱導されて、競争環境の公正は無視され、動物のような弱肉強食のジャングルになってしまい、敗者は自己能力の欠如とされ、淘汰の対象となったのです。前近代的な日本型集団主義に辟易していた市民は、この自由の幻想に幻惑されて歓呼の声をあげて歓迎し、日本はあっというまに野蛮な競争社会に転落し、かっての善い意味での協同性すら喪失してしまいました。この犠牲が若者に集中していったのです。誠実な若者ほど、うまくゆかないことの責任を他人に転嫁せず、自己責任として受け容れてしまうのです。人間の誠実と尊厳をこれほどに痛めつけて、我が世の春を謳うごく一部の勝者が高笑いをする世となってしまいました。
不思議なことに市場原理システムの無残な失敗にもかかわらず、首相の顔を次々とすげ替えることによって当面の危機を乗り越える手法が蔓延し、またまた市民運動出身のカンなんとかいう首相がおどりでて局面打開をめざしています。瀧川事件で京大法学部を崩壊させた文部大臣を祖父にもつハトなんとか内閣支持率17%が、一気に60%に急上昇したのですから驚きです。なぜなら市場原理主義と日米同盟というシステム原理を踏襲して突っ走る政権与党の基本はそのままで、顔だけで支持率が53%も変動するのですから、市場原理をささえるポピュリズムの怖さがあります。
それは辺野古移設の日米共同発表の実現をめざす新政権の姿勢を評価する49%、評価しない26%という数字にみごとにあらわれています。沖縄の人たちにとっては、政府にも裏切られ、さらに本土市民からも見捨てられたという二重の哀しみを覚える数字です。沖縄の悲惨を共有し得ない人が49%に上る市民感覚の実相を深く考えざるを得ません。沖縄の人たちは、米国と日本によって、基地の島に閉じこめられた独房の生活をこれからも強いられていくのでしょうか。新首相の理念は「最少不幸社会」「第3の道」等の標語や松下圭一・永井洋之助の登場など1960年代から70年代に登場した市民主義とギデンズ流の失敗した社会民主主義の亡霊でしかなく、いかに新世紀を切りひらくオリジナリテイが欠落しているかを示しています。要するに強いアッパー・ミドルの自律主義は市場原理の悲惨の抑止力にならなかったばかりか、今まで構築してきた社会保障の連帯を破壊してしまったのです。いま逆に払拭されたはずの原始的貧困がひろがっているなかで、「新しい道」は資本の暴走を粉飾する虚飾の政策でしかありません。
3月生活保護世帯が前月比1万4607世帯増の134万3944世帯となって過去最高を更新しました(9日厚労省発表速報値)。09年度月平均は127万4239世帯で、前年比12万5473世帯と急増し、月平均でも過去最高を記録することとなりました。3月生活保護受給者数は186万6157人となり、09年度月平均は176万3604人で前年比17万984人増加しています。受給要件が厳しい生活保護は、最低生活費基準を下回る所得しかない世帯の15,3%しか受給していません(厚労省4月発表推計)。もし完全に受給した場合は、約830万世帯・1150万人となり、およそ10人に1人が原始的貧困にあえいでいることになります。市場原理の敗者は貧困の悪魔の罠に陥って、脱却するのが困難で、世代を超えて再生産されていきます。
市場原理の犠牲者となって自死に向かう若者たちと、貧困にあえぐ大人たち、本土の犠牲となって基地を強制される沖縄の人たちは、現代日本の独房社会を象徴しています。市場原理モデルとそれを守る軍事力は、つねに自らの体内に犠牲者をつくりだし、それを自己責任として体外に廃棄物として捨てながら、モンスターのような巨大怪獣となり、全身から真っ赤な血をしたたらせて這いまわっていくのです。そして自分の身を自分で食いあさり、最後は轟音を発して崩れおちていくのです。それでもタケナカなんとかは、最後の勝利を信じて瞠目しながら狂ったように笑い、シカゴ大学へ救いを求めるでしょう。
年間3万2845人とは、1日90人、1時間3,7人がこの世を去っていることになります。この自ら去った人たちの無念は、歴史の闇のクズとなって消えていくのでしょうか。そしてこれに数倍する未遂者のこころもまた、世の隅にひっそりとたたづんで、何ごともなかったように今日を過ごしていくのでしょうか。辺野古移転を評価しない26%という全国平均は、沖縄県ではおそらく逆転し新内閣は不信任されるでしょう。いま独房社会のシステムに幽閉されている者たちは、歯を食いしばってじっと堪え忍び我慢していますが、独房からのつぶやきはしだいに大きくなって世界にこだまし、閉じ込めていた者が裁かれる日が必ず来ます。これこそが「真昼の暗黒」の真実なのです。希望はまさに希な望みでしかありませんが、絶望はほんとうに絶望を招くのです。(2010/6/10)
◆「新しい公共」なる虚妄を宣揚する評論家
朝日新聞という大手メデイアがあり、この新聞社は一定の旧政府に批判的なポーズをとりながら、他方では熱烈な皇室礼讃記事を連発する皇道派でもあるという複雑怪異な編集です。この新聞社の論壇時評に採用したのが、東浩紀という三島由紀夫賞受賞の評論家なのですが、この評論家と新聞社の姿勢は左翼と極右のダブルスタンダードを奇妙に共存させるゾンビのような本質で共通しています。東氏は全在日米軍基地撤去に賛同しながら、三島由紀夫賞に感涙の涙を流すというすばらしく弁証法的な自己止揚の衣をまとうことによって論壇に登場したのですが、自らの浅薄な知性と想像力の貧困にあまりに無自覚な点で朝日新聞のお抱え評論の資格を得たのです。要するに両者とも、現政権与党のエピゴーネンに過ぎないことが根底にあるのです。5月27日付けの彼の評論をみてみましょう。
安易な政権交代で政治が変わらないことに失望した多くの市民は、政治参加の手段を根底から変えなければならないことに気づき始めた。その手法は、政府とNPOと市民運動が連携した新しい公共という社会運営の可能性である。この新しい公共の障害は、市民というのも新たな圧力団体でしかない反市民的感情の根強さと、政治的ニヒリズムであり、この2つの障害を克服する方法は単純な国語力と討論力の成熟である。具体的には公教育での思想教育の復権と情念動員力を持つ言論力である。
新しい公共というはいうまでもなく鳩山友愛社会論の基軸となっている理念ですが、東氏は新しい公共論の源流がシカゴ学派の市場原理主義による公共原理の再編にあることを知らないか、無視しているようです。新しい公共とは、企業の市場行動の自由を極大化することによって商品享受の便益が最大化するという市場原理主義によって公共分野の効率をめざすために、政府の市場介入を極小化して利潤になじまない公共分野をも市場に委ねるという市場神話の虚妄に過ぎませんでした。政府の公共政策を極小化する代替策として、NPOや市民の参加の自主性を幻想的に保障するものでしかありませんでした。これがいかに社会の連帯と協同を壊してしまったかは、日本の公的保育や年越し派遣村の実態をあげるだけで充分です。
新しい公共とは要するに再配分政策を全廃して、競争原理の弱者を自己責任で補償せよという、もっとも野蛮な動物的淘汰の世界を偽装する美しい言葉でしかないのです。いま社会は変わらない、とあきらめて挑戦的な姿勢を放擲する若者たちがあちこちで立ちすくんでしまい、最後は凶暴な無差別殺人による自己顕示か、自死という悲惨な選択に追いつめられているのは、新しい公共の幻想に力尽きた姿に他ならないのです。東氏はどうも現実の実態のリアルな認識と想像力、そしてそれをもたらした大人たちの峻厳な責任感覚はほとんど欠落しているようです。こうした評論家によって言論がリードされるとすれば、日本の21世紀は、絶望的といえましょう、
ただ表面的には評価する点が二つあります。公教育から思想とイデオロギーを追放した政策が討論力を弱めたとを批判し、在日米軍基地の全面撤去に賛意を表していることですが、これとてもまず子どもでも知っている事実認識がありません。公教育では、日の丸・君が代を暴力で強制し批判を弾圧するファッシズムが完成し、民主主義そのものが追放されているという末期的な実態があり、また彼の在日米軍基地全面撤去論は核武装による自主防衛論という極右政策と一体であることを巧妙に隠蔽する三島思想でしかないということです。(2010/5/27)
◆頽廃の極地にのはてに荒涼たる廃虚がひろがるのか、それとも反転する希望はあるのか?
内定学生や新入社員に理不尽な罵詈雑言を浴びせて追いつめ、辞めさせる「新卒切り」が横行しているといいます。多めに採用して後から適当にクビにするそうです。初日から怒鳴りまくり、反省文を書かせ、上司が「もうしんどいやろ?」と聞くので「イエがんばります」とこたえると、「給料もらってまだ居座るのか!」と罵倒しながら退職届が渡されます。もはや最低限の尊厳さえもが汚され、上司も含めて貶めていることに気がつかないほどの頽廃がふかまっています。
リストラに幾人を切り捨てしのち 彫像のごとわれはひび割る(長尾幹也)
大阪のある会社の営業部長であった長尾さんのこの歌は、まだしも人間的な煩悶の影を残しています。通告にのぞむ時は、口が渇き足が震えながらであったそうですが、今は長尾さん自身がリストラの通告を待つ日々だそうです。しかし人間的な姿勢を見せつつのリストラもまた、なにか偽善的な感じが漂い、リストラされる方はむしろ機械のように事務的に云ってもらった方がいいかも知れません。このような風景は一部の企業ではなく、本質的に全ての企業に「ひろがっています。こうした企業社会の変貌で日本はどうなっていくのでしょうか。
政府『子ども・子育て白書』(5月25日)では、30−34歳の男性非正規社員の有配偶者率は30,2%、正社員は59,6%であり、就労形態の違いによる家族を持つ格差がひろがっているとしています。しかし正社員の4割が未婚であることも異様であり、若年層の所得減と共働き、育児・保育環境の劣化によって、日本の合計特殊出生率は1,37と先進国中最下位をつづけています。自動的に計算すると、日本人口がゼロになる日が遠からず来ることになります。
ところがおどろくべきことに、この10年間で大企業の経常利益は15兆円→32兆円に増え、内部留保も142兆円→229兆円と膨張しています。あのリコール問題で致命的な打撃を受けたはずのトヨタでさえ、今期経常利益はプラスに転化しています。残酷なリストラと非正規労働によって人件費コストをきりつめ、人間をモノ以下の消耗品として扱う野蛮な原始的労務政策作の結果に他なりません(雇用者報酬はこの10年で279兆円→253兆円)。内部留保は、設備や施設だけでなく、現金・預金・有価証券という形でももっていますから、229兆円の内推計96兆円は換金可能で、労働分配に廻せるにもかかわらず、企業はワーキングプアを尻目にせっせと溜め込んでいます。
先を読め!と云った先輩リストラに(第23回サラリーマン川柳第2位)
リストラと非正規をもっとも残酷に推進している第1生命という会社が主催しているコンクールというのが漫画的ですが、この川柳に現代日本の悪無限のシステムが象徴的に示されています。単年度の成果を極大化して評価する業績評価主義が社会の全線に染みわたり、効率性を第1義とするシステムが人間性をも取りこんでしまうシカゴ学派の市場原理が制覇したのです。企業経営などの経済や教育や福祉などの社会、そしてついには芸術や科学などの非市場的領域までも覆い尽くしています。
こうしたシステムで弱者が生き延びる道は、強者の憐憫によるおこぼれを期待するしかないのですが、これをシカゴ学派はトリクル・ダウン・セオリーといい、日本のナントカという首相は「友愛」という言葉で虚飾しています。この言葉がいかに非人間的な偽善に満ちているかは、最近の辺野古基地移転問題をめぐる首相の二枚舌で明らかです。この首相はいったい人間的な感性を持ち合わせているのだろうかと、率直に言ってウソと汚らわしさをきれいに見せて言い逃れに終始する幼稚園児のようです。現地の市民の大多数が拒否していることを、外国政府と合意して上から押しつける手法は、かってどのような政府も採用しなかった悪質で卑劣なモノですが、本人自身はどうやらなんの痛みも覚えず、カリユシを着て謝れば済むと思っているようです。日本の戦後史上ここまで劣化した政治はおそらく初めてではないでしょうか。
それにもまして傷ましいほどに迷走しているのは、連立を構成して共同責任を負っているはずの与党の一部が、現地に行っては媚びへつらうような反政府的な意見を言い、グアムやテニアンがいいのではない?等と脳天気なことを恥ずかしげもなく述べていることです。普天間基地の閉鎖・返還を総選挙の公約に掲げて当選しながら、すぐにそれを投げ捨てて連立に参加し、今はグアムヤテニアンの国外移設を説いています。なんという破廉恥な姿をさらけ出しているのでしょう。「グアム・テニアンについても、国家の壁を越えても、その他の人々の自己決定権の無視に想到する域に達している」とする鹿野政直氏の批判に赤面するしかありません。
21世紀の初頭がこれほどにシステムが劣化し、卑劣で非人間的なふるまいが横行し、しかもそれに痛みを覚えないという頽廃が浸透していくと誰が想像したでしょうか。ライオン・ヘアーの登場を歓呼の声を以て迎え、痛みを我慢すれば幸福が来るという虚言にわが身を委ね、背信と裏切りにあって騙されたと知っても、今度はまた新たな虚像のタレントに殺到するという、この集団熱狂のユーフォリアからきっぱりとわが身を遠ざけ、自分自身の頭で考えぬくという、それこそ近代的な主体がまだ歴史的な課題となっているという奇形的な日本の現状を認めざるを得ません。そしてなお私はかすかではあれ確かな希望をまた、最後にみておきたいのです。このような頽廃の表象の裏で、確実に虚偽を認識する知性もまたゆっくりと育まれ成長していることです。この知性は歴史の表面にはなやかに躍り出ることは希ですが、幾多の試練を刻んで地下水脈のように静かにながれ次第に水量を増して、ある時点でほとばしる波涛となって真実の姿をあらわにちがいありません。(2010/5/25)
◆差別の無間地獄へ、キリモミとなっておちゆく前に
ワジワジー沖縄方言で怒りや焦燥がない交ぜとなってルサンチマンがたまっていく心を意味するそうです。「日本を代表する首相さまには約束を破ってほしくない」・・・ウーン首相さまか!? なにかどこかの首領さまを思いおこさせますが、もはや沖縄の人たちはいたたまれない心境にあるようです。数日前の朝日新聞の投書欄に、「苦しみの解決を県外移設に求める沖縄の人も勝手ない言い分だ」という趣旨のものが載っていましたが、掲載した編集部の姿勢に目を疑いました。県外移設を引きうける本土の地域は皆無で、自分の処にはこないという前提で沖縄県民を批判するこの投書者の意識をどう考えているのでしょうか。本土に真剣に考えてもらうために、本土移設を言うしかないというところまで追いつめられた沖縄をどう考えているのでしょうか。
どうも事態がおかしな方向に進みはじめているような気がします。ちょうど米軍の侵略と占領を受けて、はげしい宗派間の内部闘争が起こったイラクのように。米軍は宗派間対立を最大限に利用して、イラク国内をコントローして占領を実現してきました。日本政府は徳之島の推進派議員を集めて切り崩しと内部対立を煽る戦術に出ているようです。この推進派グループの中核は、よくみると地元建築業者のようで保険金詐欺事件で執行猶予中の者とか、選挙で落選中の会長とか、どうもいかがわしい金権派のようです。しかし分裂させて支配せよというのが支配の論理の鉄則の一つであれば、この威力は少なからずある種の誘発効果を持つかもしれません。沖縄県内部の住民の内部対立、沖縄県民と徳之島島民の対立など政府は現地の分裂政策という汚い手法を取り始めているようです。もし決定的な亀裂が沖縄と本土の市民意識に生まれるならば、取り返しのつかない事態となる危険があります。沖縄の市民の率直な声を聞いてみましょう。
この苦しみを本土に引きうけて下さいとはいえません、でも本土の人はほんとうに沖縄の苦しみを理解しているのでしょうか?
県外移設を引きうけようとしない、痛みを受けとめようとしない本土の日本人にはガッカリする
いったい誰にいえばいいのか、もはや沖縄が独立して直接に米国と交渉するしかないのか!
くたばれ民主! 沖縄の血しぶきを浴びたような叫びを聞け!
本土の人はみんな移設反対反対っていうが、沖縄だってどうぞどうぞとつくらせたわけじゃあない、占領下で無理矢理にやられたのだ
沖縄は日本だと本土は本当に思っているのだろうか?
本土の人は会議で、基地なしでやっていけるんですか、基地のメリットもあるでしょうーという、だったら本土でも基地を置けばいいではないか
抑止力のために必要なら国民全体で考えるべきで、沖縄だけに押しつけるのは差別ではないか
首相の再訪問が本土復帰記念日の15日に設定されたが、復帰を快く思っていない人もいるのに、どういう感覚なのか?
戦後初発の日本が決定的な選択のまちがいをしたことが、垂直的な下方への抑圧の連鎖をつくりだしています。米国政府ー日本政府ー本土ー沖縄という垂直的な抑圧構造は、冷戦下の抑止力という美名のもとで米軍の世界戦略の最前線基地としての機能を、沖縄に集中して高度成長を実現する構造的な差別をつくりだしてきたのです。こうした体制を容認しつつ、沖縄の痛みを解説してきた大手メデイアの偽善ほどに醜いものはありません。大手メデイアは、首相が沖縄に期待を抱かせて、失望させられた沖縄の人が可哀相だという論調を満載していますが、みずからの抑止力万能報道の罪についての自責はありません。こうして孤立して犠牲を一身に引きうける沖縄の市民に、ワジワジ感がしみわたり、「うちなーやはりのさち、はーいーくーさんが」(沖縄は針の先のように小さいが、針はけっして飲み込めないよ)という諺が爆発する限界線にきています。
日本のすべての地域が米軍基地を拒否するということは、基地被害への嫌悪とともに、根底には米軍基地そのものがポスト冷戦の21世紀で有効性を失ったばかりか、逆に紛争の元凶になりつつあるのではないかという認識があります。有事の際の日本防衛義務を持つはずの米軍は、じつは自らを防衛軍と位置づけず、攻撃を受けた際の防衛活動のマニュアルとその訓練を全く行っていないことが、密約公開で明白になっています。米軍の世界展開の最前線出動基地としてのみ機能しているのです。逆に言えば、米軍に対抗する戦略ミサイルの発射目標はすべて沖縄に照準を合わせているのです。
構造的な差別は、自らの痛みをつぎつぎと下方へ移譲して転嫁することによって逃れようとする卑劣な心理を生みだし、支配の論理はそれを最大限に利用しながら内部矛盾を誘発させて高みから薄笑いを浮かべて支配を維持しようとします。残念ながら日本は、江戸期に完成した士・農・工・商・非人の身分制度の文化が現代にまでソフトに継承され、公的な場でも抑圧が下方に移譲されていく構造からのがれていません。原発立地、廃棄物処理場立地から基地立地まで。しかし逆に見れば、いま日本は絶好のチャンスに直面しているのかも知れません。星条旗帝国からほんとうに独立する精神を手にする決定的な時機に逢着しているともいえます。クラーク、スービックという米軍最大の海外基地を抱えていたフィリピンは、1991年に議会で基地存続を否定し、翌年にアッサリと米軍は撤退しましたが、これによって太平洋の軍事バランスに決定的なマイナスが起こりましたか? 冷戦が終結して仮想敵国であるソ連が崩壊した結果、米軍基地の意味がなくなったからです。いま日本の基地存続派は、北朝鮮とか中国を仮想敵国にして在日米軍基地の存続を主張していますが、これは21世紀戦略として正しいでしょうか? 21世紀の東アジアは東北アジア共同体として確実にネットワーク経済圏に移行していきますが、そのときに先制核攻撃を主張している在日米軍基地は犯罪的な意味しかなくなります。ここにこそ沖縄が苦しみから解き放たれ、日本の抑圧の移譲をリセットする唯一の道があるのではないでしょうか。(2010/5/13)
◆陽光あふれるこどもの日に、子どもたちは子どもであるか?
ユニセフ07年調査では、「自分は孤独だ」と感じる15歳の割合は世界平均7,4%ですが、日本だけが約30%と異常に突出した割合になっています。おそらく伸び伸びとみずからを表出する他者に対する透明な信頼感が奪われているからに他なりません。幼少期に大人に無条件に甘えることがその後の成長と自立への必須条件といわれますが、ほんとうに日本子ども期は大人によって傷つけられ、奪われているようです。おそらく日本の長い歴史のなかで、飢えなどの原始的貧困からは形式的に解放されて、生理的生命の存続は達成されているように見えますが、物質的な達成と引き替えに、何か大切な人間的生命の本源が根こそぎ流されていっているような気がしませんか? この世界は何色に見えますか? 灰色とか黒色と答える青年の割合がもっとも高いのが日本です。幼年期から青年期にいたる「極度のゆがみの構造から、はたして日本の未来が美しいものとして輝いてくるでしょうか? 未来などという言葉がもはや、色褪せたイメージではないでしょうか。文化の一定の成熟段階で次の時代が見えにくくなった爛熟期といってしまえばそれまでですが、なにか成熟以前に衰弱して野にくずおれているような感じです。しかし生命の一回性の尊厳は、自己責任ではない子どもたちにとって、取り返しのつかないものである以上、どうしてこのような子ども受難の時代に頽廃してしまったのかを考えぬいて対処しなければなりません。
子どもの毎日にとって、自己の安全が守られやすらぎのなかにあって、見守られているという意識されない環境が前提となります。やわらかに微笑んだり、すやすやと眠っている赤ん坊をこの手に抱いた経験のある大人は、このことをほんとうに実感します。いまこの日本で、やすらぎの時間と空間を家族でともにする子どもの姿は消えていこうとしています。長時間のサービス労働によってしか生計を維持できない蟹工船の労働は、子どもから父を(母をも)奪っています。或いは顕示的消費によって、習い事や塾にのめり込ませる母親の罪も深いかも知れません。だれがいったい子の父と母を責められるでしょう。それは企業も労働も学校も激しい競争原理の渦中に投げ入れ、すべてを自己選択と自己責任で処理するシカゴ学派の市場原理主義が誘発したものに他なりません。
子どもたちは、親や先生の期待と信頼を裏切らないように「いい子」であることを必死で演じ、小さな胸を振るわせながら友人関係の維持に神経をすり減らす毎日をおくっています。
しかしほんとうに「孤独」であるのは、じつは大人たちであり、大人たちの忠実な鏡像として子どもたちは存在しているのです。連合総研が2010年4月に実施した「第19回勤労者短観」(民間企業900人対象 573人回答)では、今後1年の間に自分自身が失業する不安を「かなり感じる」「やや感じる」の割合が全体で23,9%に達し、とくに男性非正社員が45,7%と、女性非正社員25,6%と男性正社員22,7%の約2倍になっています。これが日本全体の傾向的な特徴であるかどうかは即断できませんが、連合という労組の性格から大都市圏の大企業の特徴を表してはいるでしょう。するとこの割合は、中小企業と地方ではさらに増大すると推測されます。
年収200万円以下の働く貧困層が99年800万人→08年1070万人へと270万人も急増し、1ヶ月あたり平均賃金は97年37万2千円↑09年31万5千円と15%も下落しながら、輸出額は99年47兆5千億円→08年81兆円へと急増しています。厚労省調査(5月11日)では生活保護最低生活費以下の所得の世帯が389万世帯(10,4%)にのぼり、うち実際に生活保護を受給しているのは13万世帯(3,3%)にすぎません。被雇用者世帯2478万世帯のうち基準以下は172万世帯(13,5%)で、受給世帯は1,2%にすぎず、就業母子家庭世帯60万世帯のうち基準以下は42万世帯(70%)となっており、日本の原始的貧困の凄まじい実態がうきぼりとなっています。しかもこの最低生活費計算では家賃分を含まず、実際にはこの数倍に上ると思われます。
国民生活の空洞化と企業の繁栄がパラレルに進行していることが分かります。日本経団連「成長戦略2010」の国際競争力強化による雇用創出が真っ赤な虚偽であり、経産省産業構造審議会の所得分配による内需拡大の限界論が免罪理論に過ぎなかったことが白日の下にさらされています。ようするに子どもの世界を維持して保障する第1義的な立場にある大人たちの生活の基盤が、足下から崩れていくような不安を抱えながら、大人たちが生活していることが分かります。こうして家族で2人以上働いても、全体の40%の世帯が相対的貧困ラインを下回るという世界で突出した貧しい国に転落しています(ワースト2の米国の2倍)。失業と貧困の悪無限軌道の連鎖のなかを下方に向かって真っ逆さまに奈落へと転落していく大人たちの誰が自己責任を問えるでしょう。
警察庁09年度自殺統計(現場状況と検死結果から自殺と認定した事案の集計 13日発表)では、自殺者数3万2845人で前年比596人増、98年以降12年連続で3万人を超えるという異常な自殺大国となっています。世代別では50代6491人(2%増)、60代5958人(3,9%増)、40代5261人(5,9%増)、19歳以下565人(7m5%減)となっており、原因・動機で増加幅がもっとも大きいのは「経済・生活問題」8377人(13,1%増)で、内訳は生活苦1731人(34,3%増)、失業1071人(65,3%増)
、性別では70%強が男性です。あれこれと特徴を分析するのはもう止めにしておきますが、自己責任の無限競争社会は弱者殺人社会でもあるのです。
セーブ・チルドレン『2010年度母親白書』は、健康や経済状態など女性と子どもの状態を指数化して子育てしやすい母親指数を発表しています。いま妊娠・出産で死亡する女性は世界で年35万人に達し、5才未満児の死亡数は900万人です。母親指数第1位はノルウエー、次いで豪州、アイスランド、スウエーデンと続き、逆に最下位はアフガニスタン、ニジェール、チャドなどサハラ以南のアフリカ諸国となっています。米国の母親指数は28位で、妊産婦死亡率が4800人に1人と先進国でもっとも高く、出産休暇が最も短い国となっていますが、さて日本はさらにそれ以下の32位であり、先進国ではもっとも悲惨な子育て国となっています。
こうして子どもを産むことそれ自身が困難となった日本は、異常な子ども数の激減を記録しつつあります。総務省が発表した15才未満子ども推計人口(4月1日現在)は、」前年比マイナス19万人の1694万人(男子868万人、女子826万人)で29年連続の減少となり、比較可能な1950年以降の統計で過去最少を更新しました。総人口に占める子ども人口比は前年比マイナス0,!ポイントの13,3%で36年連続で低下し、米国20,0%・中国18,5%と較べても異常な水準となっています。しかも年齢別では、12−14歳356万人、9−11歳355万人、6−8歳338万人、3−5歳320万人、0−2歳325万人と低年齢化するほどに減少しています。日本の青年男女の未婚率の上昇と出産率の低下がパラレルに進行している背後に、蟹工船型資本主義があることはまちがいありません。では蟹工船型資本主義とはいったいなんでしょう。星条旗帝国が北洋漁業の蟹工船のような奴隷労働の自由によって、日本を地獄の惨状におとしいれています。
なぜ日銀はドルを買い支える対米協調行動にのめりこんでいくのか
なぜ医療・保険分野が民間市場に開放され、米系資本が蹂躙するようになったのか
なぜ郵政は民営化されたのか
なぜ労働法制は規制緩和され非正規就業が野放しになったのか
なぜ食料自給率が急下降しているのに、農産物市場を開放する日米FTAが締結されるのか
なぜ大店法が廃止され米系小売店が進出を始めたのか
なぜ建築基準法が改正されて米国の木材の大量輸入が始まったのか
なぜ会社法が改正されM&Aが強力に推進されるのか
なぜ知的財産権がマイクロソフトとグーグルの情報寡占体制を許したのか
なぜ武器輸出3原則を緩和する軍産複合体の圧力が強まっているのか
これらは大人の世界でくりひろげられている醜悪な欲望の肥大化の諸現象に他なりませんが、そのミッシング・リンクはいうまでもなく星条旗帝国のグローバルな市場ファンダメンタリズムの世界制覇とそれに媚びへつらいながら延命を図る日本多国籍企業の同盟に他なりません。星条旗のジュニア・パートナーとしての「友愛」がいかに虚妄で偽善的なものかは、首相の沖縄訪問で露骨に示されましたが、同盟の最大の被害者はじつは回りまわって私たちの未来であるべき子どもたちに他ならないのです。星条旗への屈従による繁栄がもはや嘘っぱちであることが露わとなり、日米同盟の軍事力が抑止力の対極にある海外侵略へのジュニア・パートナーに他ならないことが暴露されてから、時代の矛盾は沸点に近い極点に達し、おそらく矛盾の凝集点である沖縄では暴動に近い事態がもはや不可避であるほどに追いつめられています。それは日本全国の追いつめられた子どもたちが発している悲鳴に近い悲痛な無言の声と同質なのです。
陽光あふれる5月の空は初夏のような暑さとなってまぶしく輝いています。とびはねるような歓声を挙げて走りまわる子供たちの姿をみながら、アーでもでも・・・薄暗い家の片隅で小さく背中をかがめてひっそりとうずくまっている子どもの姿が頭をよぎります。もうほんとうに大人たちは、なにかをはね返して一歩前に踏みだして行動に出るべき時ではないか、それとももはやもう遅いのか? 無垢な子どもたちのまなざしに、いつまでごまかしながら過ごしていけるのか、この5月の輝きにあって子どもたちは最後のなにかを訴えようとしてはいないか。(2010/5/5)
◆他者を差別する者は、みずからを卑しめている
差別は(意識内であれ現象であれ)、見て見ぬふりをする当事者の存在を不可欠の必要条件とする。差別の痛みは被差別者にしか分からないという言明は、じつは差別を利用してなにかを図ろうとする者の常套句だ。認めると否とに関わらず、この世は垂直的な差別のヒエラルヒーに構造化されており、どのような市民も重層化された構造の一部に刻みこまれている。上層にいけばいくほどに、加虐の抑圧に加担する度合いが強くなり、それと比例して痛みの体験から除外されていくが、その極頂点に君臨する者でない限り差別から解放されてはいない。こうして垂直的な差別のヒエラルヒーは、そのまま抑圧の下方への移譲のヒエラルヒーの体系となる。抑圧の下方への移譲の恐ろしさは、下層の極点に近づくに従ってその質と量において際だった重さと深さの迫真性を誘発する点にある。
人類の歴史はこの垂直的な差別のヒエラルヒーに抗して、パラレルなヨコの尊厳を創出する無名者と少数の有名者たちの苦闘の歴史であった。1789年の記念すべき革命は、少なくとも形式としての差別をくつがえす凝集点として出発を刻み、地球上の諸民族と市民はあらゆる領野においてその実質的な実現に向かって生きてきたと云える。差別の痛みを互いに共有する市民の意識は深化するように見えたが、それは必ずしも平坦な道ではなく、ときに原初的な影の爆発が極限的な差別を暴発させたこともあった。皮膚の色や民族と宗教の差異をことさらに人間的な質に結びつけて、異なる扱いをする現象はいまもって絶えることはない。わずか70年前に600万人を殺害したホロコーストの惨劇の記憶から逃げ去ることはできず、有色の皮膚を理由にいともアッサリと2発の核爆弾を投下して無差別殺人を行った帝国へのトラウマは消えることはない。
差別の痛みへの共感的想像力がどの水準で機能しているかが、その民族や国家の市民の進歩を表すメルクマールに他ならない。たしかに国際学力テストで優秀な平均点をとることも大事かも知れないが、点数化できない人間の問題こそ文化の質を問うている。残念ながら東アジアの唯一のG7参加国は、こうした人間的レベルのグローバル・スタンダードにおいて、赤面するような恥ずべきふるまいに及んでなお無自覚という醜悪な姿をさらしている。
日本政府の文部科学省は4月30日の告示で、高校授業料の実質無償化の対象として、外国人民族学校14校と多国籍の子どもが在籍するインタナショナルスクール17校の合計31校を認めた。しかしここには最大規模の民族学校である朝鮮高級学校が除外されている。国交がない北朝鮮系の学校のカリキュラムが公的に把握できないからとする理由を発表しているが、では文部科学省管轄の全国の国公立大学が朝鮮高校卒業生の受験資格を認めているのは何故なのか? あきらかに拉致に伴う経済制裁措置を子どもに科すという国連人権規約違反であり、国連人権委員会は日本政府に重大な疑義と警告を発している。文部科学省は4月中にカリキュラムの検証機関を発足させ、早急に結論を出すとしているが、その機関のメンバーすらまだ決まっていない。おそらく明白な差別問題を議論する委員の辞退が相次いでいるのであろう。
さて朝鮮高校の生徒たちが身に滲みて味わっている差別された哀しみへの痛みの感覚が、日本の市民の日常の意識にどのように派生しているのであろうか。自らの痛みとして怒りへと高まる共感的想像力は残念ながら貧しい。それはメデイアの報道をみればほとんど無視されていることで分かる。朝鮮高校の生徒たちが街頭で協力を求める署名運動のなかに入っていく日本市民は少ないばかりか、逆に罵声を浴びせ揶揄する市民も少なくない。いうまでもなく差別は見て見ぬふりをする当事者の存在を不可欠の必要条件とするならば、いま朝鮮高校の除外をどのようなまなざしでみているか、歴史は審判を下すに違いない。多くの人が見て見ぬふりをしているとすれば、率直にいって、これが憲法記念日を祝う日本の民主主義の実態であり、私たちはここから出発するしかない。他者を差別する者はその人自身自らを卑しめているという認識までは、まだまだ遠い。韓国併合100周年を迎えてなお歴史の歩みは遅々として遅いのだろうか。(2010/5/3)
◆日本はG7でもっとも退化した国になったのだろうか?
いまG7で97年から2007年の10年間で、たったひとつGDP(国内総生産)がのびず、雇用者報酬が減っている国があります。残念なことに我が日本であり、国際競争力強化をメインスローガンとする構造改革の市場原理主義がもっとも劇的に破綻した国となったのです。経済成長も国民の生活もかってなく破綻に瀕した原因はいうまでもなく、シカゴ学派の理論を媚びるように導入した市場原理学派の曲学阿世にあります。驚いたことにもっとも責任あるメンバーが、こんどはあわてて衣を脱ぎ換えて「立ちあがれ日本」などというサプライサイド経済を斉唱し、「日本創新」などと呼称しては、時代閉塞の現状への目くらましを乱射していますが、いずれも市民のトラウマの心情を動員するファッショ的なポピュリズムの手法に他なりません。かって下からのファッシズムを本格的に経験したことのない日本は、あたかも水戸黄門のかざす葵の印籠を仰ぎみるかの如くに、またぞろあらわれたソフトな極右に拍手を送る市民もいないではありません。重度障害者を観て「彼らははたして人間として生きる価値を持った生命なのかね」と言い放った都知事、「犯罪国家の子どもになぜ授業料を軽減するのか」とうそぶいた大阪府知事などは、まさにファッショの極地を示しています。自らの破廉恥に無知である破廉恥ほどに醜悪なものはありません。シカゴ学派の市場原理主義による構造改革の惨状と醜い自己弁護をみてみましょう。
花形輸出産業である自動車産業の従業員に占める非正規雇用の割合は、国内11社で15,1%(グループ連結)ですが、同じ会社が欧米に進出した場合は、欧州0,8%、米国2,2%(生産、販売その他法人)に過ぎません。生産法人に限っても、欧州1,0%、米国3,5%であり、日本の自動車メーカーは海外進出後に現地の雇用ルールに従っていることが分かります。つまり日本国内での雇用規制強化や温暖化規制強化は海外逃避を誘発するという企業側の主張が、まったく虚偽であることが自己暴露されています。
09年1−3月期の自動車輸出額(新車)は世界経済危機前の08年7−9月から7000億円減少し、これによる生産マイナスは大企業8300億円、部品供給で間接輸出する中小企業は4000億円と深刻な影響を受けています。大企業の生産総額からマイナスが異常に少ないのは、マイナスの抑圧を下請中小企業へ移譲していることが分かります。下請中小企業の売上単価は、2007年ー13,5→2008年ー10,0→ー20,8→ー34,5→ー43,6と異常な数値で下降しているなかで、大企業製造業の利益剰余金(年度末)は98年54兆5000億円→08年65兆7000億円と膨張し、世界大不況下で逆に大企業は内部留保を大規模に蓄積しています。企業規模別の賃金格差(08年1月当たり現金給与総額)をみると、従業員1−4人19,3万円、5−29人26,5万円、100−499人39万円、1000人以上53,1万円と異様ともいえる格差があり、中小企業が必死の努力で単価削減に耐えながら雇用確保を低賃金で切り抜けようとしていることが分かります。これは前政権が99年に改正した中小企業基本法で、シカゴ学派の理論を適用して競争原理による中小企業の整理淘汰を推進し、欧米的な保護育成政策を放擲したことに主な原因があります。政府予算に占める中小企業対策費は一般歳出比率で1980年2435億円(0,79%)→2010年1911億円(0,36%)へと急降下しています。
しかし驚いたことに、米国でのリコールで致命的な打撃を受けたはずのトヨタは、2010年3月連結決算で営業損益が08年リーマンショック時の09年3月4610億円赤字から、1475億円の黒字に転換しています。売上高が前期比7,7%減の18兆9509億円となったにもかかわらず、なぜ黒字なのでしょうか。いうまでもなく部品購入価格3割減の下請単価の減価改善5200億円、製造現場の人件費削減の固定費削減4700億円などなど苛酷なコスト削減によってカバーしたものです。こうして内部留保の利益剰余金は前期から370億円積み増して11兆5686億円という莫大なものに到っています。みずからの経営責任を下請と人件費に転嫁して厚顔無恥の醜悪な経営にいそしむトヨタは、いつの日か地獄に堕ちるでしょう。
こうして供給を増やせば需要を誘発して好況になるというサプライサイド経済学と、すべてを市場の調整にゆだねて完全競争を実現すれば理想的な景気循環となるというシカゴ学派がドッキングした政策の破綻が眼を覆うばかりにこの列島を蹂躙してしまったのです。日本がG7のなかで異常に荒廃した国に堕したのは、従来の日本型経営のの良質の部分をも洗い流してしまった結果、いままでそれなりに機能していた助け合いの相互扶助と弱者包摂のシステムが崩壊してしまい、うまくゆかないのは自己責任とする功利主義的な世界観が蔓延してしまったことです。もっともエネルギッシュである若者のあいだに、あきらめと憐憫が浸透し、青年らしい競争と協力の美しい関係が破壊されてしまいました。誰かを犠牲にしないと生きていけない国、弱者を差別してうまい汁を吸わないと経営がなり立たない国、強い個人しか生きていかれない「新しい公共」の国、子どもと老人は自力では生きていかれない哀れな存在とする国、これがタケナカなんとかとライオンヘアーとかいわれる首相がつくりあげた地獄の惨状を呈する「美しい国」の実相なのです。欧州は歴史的に社会権的平等志向の文化が深くしみ込んでいるために、シカゴ学派の影響をある程度食いとめ得たのでした。いつまでも水戸黄門の出現を期待して、「ジュンチャーン!」と叫んで裏切られてもさして怒らず、おなじようなポピュリストにまたも同じような幻想を抱いてアイドル化している市民と、自ら血を流して王様を倒す革命をなし遂げてきた欧州の違いの大きさをこれほどに浮き彫りとした時代はありません。
ではどうすればいいのでしょうか? 君は批判ばかりでなにもオルタナテイブがないではないか! すぐにこうした反論があびせられます。この反論はじつは批判そのものを封殺する最大の効果があるようにみえますが、それにたじろぐ必要はありません。じつは批判そのものの中に対案が潜在しているのであり、その対案への恐怖があるからこそ、こうした反論が即座に起こるのです。つまり市民の多数の生活に基礎を置く理論こそが有効である真理は長いスパンで歴史を切りひらいてきたし、これからもそうなのです。シカゴ学派がもはや死んだからには、反シカゴの制度学派が躍り出るしかないでしょう。(2010/4/30)
◆人間はひょっとしたら、チンパンジーから退化を始めているのではないか?
西アフリカ・ギニアで野生チンパンジーの群れの観察を30年以上続けている京大霊長類研究所が、死んだ子どもをミイラ化するまで背負い続ける母親の数例を複数観察したと報告しています。ジレという名前のチンパンジーが1992年に病死した2歳半の子どもを27日間以上背負い、03年には病死した1歳の子どもを68日間背負い続け、さらに同じ群れの別の母親も死んだ2歳半の子どもを19日間背負い続けた。3例とも屍体はミイラ化したが母親は生きているときとおなじように毛繕いをし、蠅を追い払っていたと云うが、生きているときとは背負い方が違い、死んでいることを理解しているのではないかと分析しています。人が死者を弔う気持は、死んだ子どもに寄り添うチンパンジーの行動の深化した形態ではないかとしています。
愛する者との根元的切断である死を永遠の別れと認識することほど辛いことはありませんが、動物にあっても本能的な愛情の切断は辛く哀しい者であり、別れの悲哀を屍体との時間的共有を経て受容し、さらにある種の儀式として制度化しているとすれば、チンパンジーの文化は恐るべきレベルにあるといえるのでしょう。人間は永遠の別離の悲哀を高度に複雑な儀式として制度化し、その葬儀へのエネルギーの集中によって悲哀の質を緩和してきましたが、逆に葬儀の高度な制度化が自己目的ととなって(或いは商業化し)、悲哀と鎮魂の本来の質は疎外されてきました。最近も肉親の抱擁を巨大なセレモニーとして営み、政治権力の持続へとつなげる与党幹事長の頽廃がありましたが、ここまでくるともはや死者は生者の手段として利用される頽廃の極地に到っています。このようなこのような弔いのモダニズムの疎外に反発して、弔いの儀式そのものを拒否したり、自然葬などの新しい形態の模索も増えていますが、はたして母親チンパンジーがわが子の屍体を背負って暮らすような弔いの原初的形態と較べて、ピュアーな真情を表すものとなっているのでしょうか?
しかし人間が動物から離陸したと称して営んでいる文化と文明は、もはやチンパンジーの原初的愛情の姿すら喪った頽廃の極地に瀕しているのではないでしょうか。母親が子を攻撃していじめ抜き、暴力を加えたり食事を拒否したりするDVという現象が先進国で増えています。この目を背けたくなるような陰惨な親子の光景は、およそ動物の世界ではみあたらないでしょう。高度な(?)文化を発達させてきた人間は、逆に文化の歪みに浸蝕されてネイテイブな姿を喪失しつつあるのです。欲望の社会的水準が次々と高度化していくと、欲望そのもののの自己コントロール性を失い、欲望そのものが目的となり、未遂の欲望の量的な蓄積が弱い他者への攻撃となって発散され、それはわが子でさえも加虐の対象となっていくのです。
こうした欲望の連鎖は抑圧の下方硬直性となってあらわれ、抑圧は次々と弱さの下方へと転化していきます。これは家族という生活集団から地域や企業、或いは国家という国際集団までも同じ論理となって貫通しています。国家レベルでは、国家防衛の抑止暴力としての軍隊の地域配置の偏倚となってあらわれます。最高の暴力集団である軍隊の人間的レベルは、祖国へのピュアーな忠誠心と正比例し、虚偽の目的でたたかう軍隊やカネのために志願した軍隊のレベルほど暴力がむきだしとなり、あたかもサド的な嗜虐が民間人さえも襲うようになるので、こうした軍隊の配置に市民は嫌悪感を示します。こうして軍隊の駐留は金と引き替えに貧困地域に集中するようになります。まさに現在の沖縄米軍基地の偏倚的な集中に他なりません。市民の社会的欲望水準が高度化すると、基地住民の軍隊への反発も強くなり、一方的な負担に反発して撤去を求めるようになります。ましてや、沖縄米軍は沖縄の市民に無制限の暴行や強姦を加え、東京政府の1次裁判権放棄の密約で被害者は救済されないという残酷な実態は、もはや人間の生命の維持という最低レベルすら奪われているのですから、叫びは限界に達しています。これにたいし、本土ヤマトの市民たちは我が世の中流生活を満喫し、犠牲を南方の島に押しつけて70年が過ぎてきました。
本土ヤマトに本社を置くマスメデイアは、南方の島の市民へのまなざしはじつに冷ややかで、星条旗同盟のささやかな犠牲としか見てきませんでした。3月25日の普天間基地閉鎖・返還を求める県民大集会の報道はじつに事実報道に終わり、島の精神の深みに近づいてはいませんでした。おどろいたことに海外報道がその真実に迫っているのです。
「沖縄の米軍基地抗議をひきおこす! 約9万人が議論を呼び起こしている米海兵隊基地の沖縄県からの撤去を要求し、鳩山首相に対する新たな圧力をさらに強めた。鳩山氏はこれまで基地の県外移設の約束で、沖縄の有権者の機嫌を取ってきた。昨日の集会の規模や自治体首長らの高まる反対の声は辺野古湾への移設に固執すれば払うべき政治的コストをはっきりと示した」(英フィナンシャル・タイムズ26日)
「10万人の島民が米軍基地の沖縄からの撤去を求めて大集会開く。沖縄では多くの人たちが米軍に対し頻繁に不満を述べている。米軍基地が騒音や環境汚染、米軍兵士と住民の衝突などを日常的にもたらしていることに嫌気がさしている」(シンガポール・聯合早報26日)
「日本の南の島、沖縄で10万人近くが米軍基地撤去を求めて集会に参加した。参加者は鳩山首相に基地完全撤去の選挙公約を守れと求めた。首相は基地について優柔不断で行きづまっている。この問題の扱いは7月の参院選挙を前に決定的に重要となる。日本人は沖縄の巨大な米軍基地に長い間、憤慨してきた。日本を本拠地とする米兵4万7千人の半数以上が沖縄に駐留している」(英BBC放送25日)
「日本国民が米軍基地に反対して結集。日本は戦後憲法で憲法で平和主義を誓約したが、安保面では条約相手国の米国に深く依存してきた。沖縄島民の多くは第2次大戦敗北の遺物である米軍基地の重圧下で不満を抱いており、米兵との諍い、騒音公害に対して苦情を訴えている。基地問題の解決は鳩山政権の政治的将来を脅かしている」(カタール・アルジャジーラ25日)
「政府に任せておけない、沖縄の人間が立ちあがらなければ、大規模な民衆の集会が日米両政府に普天間基地の撤去、国外移設を強く要求した。鳩山首相は10万人集会で四面楚歌となり、住民は米軍基地を拒否した」(国営新華社通信26日)
もはや日本のメデイアから真実を知ることは困難で、海外報道に依存するしかないという哀しい実態を実感しませんか? おそらく地球上の人類で、もっとも退化を速めているのが星条旗をいただく帝国で、次がそのジュニア・パートナーとなって媚びへつらう東アジアの島国でしょう。(2010/4/28)
◆奪われる言語のあとに、なにがくるのか!
日本の聾学校高等部の生徒が修学旅行で、韓国聾学校の生徒と交流し、日韓の手話に共通の単語が多く、複雑な話しは無理だが日常会話はできることに感激したそうです。朝鮮半島の聾教育は、1909年に米人宣教師が創設した平壌盲唖学校に始まり、地域で独自に生まれていたホームサイン(身ぶり手ぶり)が使用されたが、韓国併合後の1913年に朝鮮総督府は官立聾教育機関である済生院盲唖部を設立し、日本人教師による日本式表現が流入して、日韓の共通化が進み、初期の韓国手話が成立した。佐々木大介(北星学園大学)によれば、日韓手話辞典の基本単語533語のうち、表現が同じ単語が35,7%、類似が12,5%の合計48,2%が類似性が高いと分析しています。戦後新しい造語が増えている中で、半分が同じ表現と云うことは、戦前期には相当の同一表現があったと推定されます。
ここには複雑な歴史的な二重性があるような気がします。朝鮮半島での手話が前近代的な段階にあったときに、植民地権力による近代聾教育の導入によって、聾者の言語的公共圏が成立したという近代化の面と、その言語は民族的出自ではなく植民地支配言語という文化支配の側面です。公教育において朝鮮語をすべて禁止した朝鮮総督府の文化政策からみれば当然であったかも知れませんが、ここにポスト・コロニアルとかクレオールとか呼ばれる植民地文化の問題が、東アジアにおいても浮き彫りになっているように思います。スターリン主義言語学においては、言語は下部構造から相対的に独立した上部構造の存在だという有名なテーゼがありましたが、こうした植民地言語をどのように位置づければいいのでしょうか?
ところが朝鮮半島には、さらに複雑な手話言語が進展しています。韓国と北朝鮮は同じ手話であるはずですが、分断後に聾者の手話による会話がいちだんと困難になったそうです。北朝鮮の手話の教科書と辞典をみると、日常用語の「キムチ」や「悲しい」などの表現なども異なり、地名の表現も違いが多くなったそうです。「首領」や「人民軍隊」などにお政治、思想、軍事に関する表現が多くなり、日韓で同じ表現でも北朝鮮では異なる単語もあり、「お父さん」は日韓では右手の人差し指を鼻の横に当てたあとに、親指を突き立てる動作ですが、北朝鮮では、親指を立てるのではなく頭を前から後ろに撫でるように手を動かします。これはおそらく、キムイルソン主席の肖像画のようにオールバックにまとめた髪が父の象徴とみなされたからだと云います。「大元帥」は、「敬愛する首領、キムイルソン大元帥への尽きることのない尊敬をこめて、右手の親指を左肩に丁寧にあげる」とあります。以上・朝日新聞4月24日夕刊参照。
なにか哀しくなってくるような話しです。プロレタリア独裁の権威主義は、かくも教育に影響を与え、思想や政治と無関係である言語表現の世界にも介入し、聴覚障害者がもはや分断後はコミュニケーションが困難となると云う人間の基礎的な交流を奪ってしまっているのです。
ただし私は、日韓に於ける怒濤のような米語の流入による実質的な植民地文化のソフトな汚染にも危機を覚えます。おそらく日本語は、その歴史の中でいま、文化的言語性を強姦的に奪われて、消滅の危機に瀕する絶滅言語と云ってもいいのではないでしょうか? 日本の聾者も米語に犯されて激変する現代日本語の変貌に必死で付いていく表現を学ばなければならないのでしょう。政治権力のハードな介入も、文化のソフトな介入も、おなじように文化の尊厳を奪い、もっとも弱い層からコミュニケーション能力を喪失していくのですが、重大なことはソフトな介入は被害の意識がなく、あたかもモダンを自分からすすんで受け容れるかのような幻想をもたらすことで、より深刻な文化剥奪を伴います。朝鮮半島よりも、この日本のほうがむしろ危機にあると言っていいでしょう。
世界大不況の中でしかも経済制裁を受けて危機にある北朝鮮は、体制維持に向けた政治的・文化的統制をさらに強め、それは聾者の手話の表現にもさらに反映し、南北のコミュニケーションの分断がさらに進展すると考えられます。世界金融危機による飢餓、乳幼児・妊産婦の健康、清潔な水へのアクセスは地域的に偏在して誘発され、東アジアでは北朝鮮に誘発されています。1日1.25ドル(117円)未満でくらす最貧困層は、東アジアで1990年54,7%(8億7300万人)→2005年16,8%(3億1700万人)と激減していますが、いまや南アジト北朝鮮に集中しています。経済危機と政治危機と文化危機が複合的に進み、いずれもその集中的な剥奪は最貧困層と障害者に凝集しているのです。言語の尊厳の回復は、人間の尊厳の回復の基礎的な初発の条件です。(2010/4/25)
◆ブルカ考
イスラム教は聖典コーランや預言者ムハンマドの言行録のなかで、女性の美しいところを隠すよう求められていることで、イスラム女性はベールを身につけます。あたまから顔全体を覆い隠すブルカ(アフガンに多い)や目を除いて顔を隠すニカブ(サウジに多い)、、顔の部分以外を覆うチャドル(イランに多い)或いは髪だけ覆って頭は隠さないヘジャブなどがあります。日本はヘジャブが多いようですが、いま欧州でイスラム系女性ファッションをめぐってはげしい議論が起こっています。その前にまず、イスラム教の教義が女性のファッションを規定するという男性中心的な特徴があり、しかも性的な刺激に対する宗教的な抑圧を加えるという点で、なにか微笑ましくなるようなヒューマンなものを感じますが、しかし女性から云えば許し難いジェンダー問題なのでしょう。
欧州各国のブルカへの対応をみると、英国は身元を隠す目的での衣装は警察官が取るよう命じることが可能で、違反者には禁固刑や罰金刑が科せられますが、ドイツでは公共の場で身元確認ができない格好を禁止していますが、屋外での儀式や宗教の行列や巡礼を除外しています。イタリアは、公共の場でのブルカ全面禁止は不可能としています。こうした規制の背景には、イスラム系移民の増加による原理主義系の流入への警戒感があり、ブルカなどの衣装の内側に爆弾を隠しやすいとする治安上の理由がありますが、基本的には世俗主義的な男女同権をめざす欧州にとってブルカは女性の社会参加を抑制する象徴的な規制というイメージがあるようです。逆に全面着用禁止は、表現とファッションの自由の抑圧とし、イスラム系の信教の自由を侵犯するとする批判論も強くあります。
フランスの実態をみると、ブルカやニカブを着ている女性は推計で数百人から2千人とされ、その多くは@イスラム教に改宗した20歳代までの女性A離婚などの悩みを抱えた中年層B神秘思想にひかれた高齢層が多く、逆にイスラム系居住地区では高学歴層の着ない層が多く、男性から着用を強要された例はなく、いずれにしろ強固な独立心を持っているとされます(アニェス・ドウフエオ調査)。
さてこうしたなかで、ベルギー下院で欧州初めてのブルカ・ニカブ全面禁止法案が可決・成立しました。学校・病院・競技場などの公共施設と行動では、顔を隠して本院を特定できない装いの着用を禁止し、違反者は1週間以下の禁固や罰金刑が科せられます。フランスでもサルコジ政権は、裁判所・学校・病院などの公共の場での全面禁止法案が提出されようとしており、その理由を女性の尊厳の侵犯にあるとしています。以上・朝日新聞4月22日参照。
じつにこの問題は東アジアの島国からみると、あまりピンとこないけれど、近代人権と信教の自由の領域での多元性を問う興味深い問題のような気がします。政教分離の世俗主義原則と心境・表現の自由の矛盾と対立に、複雑な移民問題と外国人排斥や反テロ問題が絡んできているように思います。
あるイスラム系女性は、イスラム法の国ではブルカを強制され、欧州に来ると逆に脱ぐことを強制される、どっちもどっちだと憤っていますが、ここに人権相互の調整のポイントがあるような気がします。着用の強制も禁止の強制もない、信教と表現の自己選択と自己決定がなによりも優先されるとすれば、世俗原理と女性の尊厳による一律統制は近代的なこの原理にはやはり背反するのではないでしょうか。
最大の問題は、ブルカといったファッションの問題に正面から尊厳ある政策を真剣に提起し、外国人差別に敏感極まりない配慮をする欧州世論に比較して、東アジアの島国の政府を含む世論のあまりに醜悪な差別意識の乱舞ではあります。外国人学校を含むあらゆる公立高等学校授業料を無償化しながら、ただ朝鮮学校のみを対象外として排除しようとする政策に、なんと糾弾の声の弱い国でありましょう。人権や自由と平等に関する国際問題への貢献の機会をすべて失ってしまっているのが日本の現状です。ブルカ問題は、じつは質的には日本に突きつけられた逃れることのできない21世紀にまで持ち越された問題に他なりません。(2010/4/23)
◆ポストモダンの野蛮な神話ーユキオはまさしく世界最大の敗者だ
ワシントンで開催された核保安サミットの論評で(ワシントン・ポスト14日付け)、「オバマと公式首脳会談をおこなえなかった鳩山は、間違いなく世界最大の敗者であり、彼は夕食会での短時間の非公式会談しかできなかった。普天間基地の迷走が米政権に信頼できない印象を与えている。5月末までの結論を出すとしているが、いまのところ何の提案もない。ユキオ、同盟国の筈だろう。米国の核の傘で、何十億jも節約しているだろう」としていますが、ここまで日本政府が侮蔑された事例は過去ないでしょう。この論評は、星条旗帝国の傲慢をさらけ出している点で正直とも云えますが、米国から見て日本政府が何らのイコール・パートナーではなく、目下の同盟者いや媚びへつらう愛犬ポチ程度の存在でしかないことがわかります。司馬遼太郎で云えば、明治以降欧米先進国へのキャッチアップをめざして苦心した先人たちの労苦に泥を塗るような奴隷的ふるまいに他なりません。たしかに日本国内で尊大な態度をとる政府層は、米国に対する奴隷的な醜悪さで世界で軽蔑の対象となっていますが、これは企業でも同じで、トヨタは自社車の欠陥に対し、米国では媚びへつらって謝罪しながら、日本国内では何らの反省をも示していません。なぜこのような底知れないモラル・ハザードと尊厳の破綻が蔓延しているのでしょうか? それは虚栄の神話に呪縛されて自己自身を鋭く客観視できない文化が浸透しているからです。
情報とグローバル化による資本の地球制覇によって、もはや文明は成熟してしまい、あとはそのわずかな差異を愉しむ他はないというのだというポストモダンの幻想が帝国の幻想に転化してから、資本がのたうち回る醜悪な終焉の時代にあって、あらたな次へのイメージを見いだせぬままに、強風にあおられて桜と桃の花の入りまじって散りゆくさまは壮観です。帝国の支配する哀れな地球は、偽善の大統領がノーベル賞平和賞をイチジクの葉っぱとして、信じがたい戦争犯罪が繰りひろがられる日常の修羅の世にあっても、われ関せずの安穏が静かに過ぎていきます。日本を惑わしている3つの神話の事例を挙げたいと思います。
第1の神話が軍事技術神話です。いま米国はアフガニスタンで、無人航空機を使ってテロリスト容疑者を標的とするミサイル攻撃を無制限に実施する作戦をとっています。アフガン国境沿いに集中する作戦は、09年で53件、10年は3月末までで28件と急増しています(ニューアメイカ財団調べ)。作戦は軍事機密とされ、標的がテロ容疑者であるとする情報も公開されず、家族と同居している場合は無関係の民間人も犠牲となっています。容疑者を無制限に殺害する行為は、戦時国際法上に許されるのか(米国は国際法上の宣戦布告を行ってはいません)として、国連超法規的殺害問題特別委員会が批判しています。米国政府は、太平洋戦争中の山本連合艦隊司令官撃墜と同じと強弁していますが、なにか殺人行為への底知れない想像力の頽廃が誘発されているような気がします。
デイスプレイでの遠隔操作で敵に命中させ、自らのリスクはまったくないテレビ・ゲームがリアルな攻撃作戦としておこなわれています。ハイレベルの電子技術を駆使する軍隊と、素朴な武装で立ち向かうテロ集団のめくるめくような軍事技術の非対称性の世界があります。無人飛行機による殺害は、米軍とCIAが独立して行っていますが、どうも実態はもっと闇の作戦であり、米国防総省が民間軍事会社を使って容疑者を殺害する作戦と同時進行でおこなわれているようです。こうして米軍の特殊部隊の秘密作戦によって、多くの民間人犠牲者がうまれ、まさに無法テロに対する無法の反テロという頽廃の極地に転落していっています。まるで手負いのネズミを探しだしては、虐めまくる猫のようなサデイズムの加虐的な行動ではありませんか。どのような不法、無法な行為であっても、国際法による制裁は、殺害を認めてはいません。ここに米国の恐るべき頽廃が沈積しています。
第2の幻想的神話が、米軍抑止力論です。米帝国最強の軍隊は云うまでもなく、全世界で殴り込みをかける海兵隊にほかなりません。海兵隊は「世界的な役割を果たす戦力投射部隊」(チェイニー国防長官 1991年 米議会予算委員会)であり、「いずれかの国の防衛にあたるものではない」(ワインバーガー国防長官 1982年 米上院歳出委員会)という敵基地侵入の最前線部隊に他なりません。けっして侵略に対する抑止力としての防衛部隊ではないのです。これはじつは、日本の防衛省スタッフも認めていることであり、「海兵隊はいつでもどこでも出動する。特定地域の防衛に張り付くような軍種ではない」(柳沢防衛相防衛研究所特別客員研究員)のであり、「沖縄海兵隊が米国が抑止力のために置いているのかどうかも定かではない」(坂口防衛研究所研究員)のです。つまり米海兵隊が拠点とする普天間基地は、米軍の全世界での軍事作戦の最前線基地ととなっているのです。海兵隊=抑止力論の呪縛はもはや砂の上の楼閣に他なりません。しかも海兵隊のグアム移転に対応して、日本国内に海兵隊基地はなくなるのですから、新たな移設先をさがす必要はないのです。抑止力論の最大の問題は日本のモラルハザードを誘発してしまったことにあります。沖縄返還時の核持ち込みの日米秘密合意によって、日本政府は日本国民を欺いて米国にひれ伏し、同時に米兵犯罪の裁判権を放棄する密約をむすんでいました。こうして日本政府は第1次裁判権を行使しないまま米兵の犯罪が野放しとなったのです。2001−08年08年の日本での一般刑法犯の年平均起訴率は48,6%であるのに対し、米兵の起訴率は17,5%にしか過ぎないのです。こうした世界的な戦争犯罪を実行している軍隊に自国民を欺いて基地を提供している偽善とは手を切るしかないのです。
第3の神話が云うまでもなく、国際競争力論に他ならず、日本の社会経済システムを基礎から支えている幻想です。賃金上昇や最低賃金制は人件費上昇によって国際競争力を衰弱させる、或いは法人税増税は国際競争力を奪うなどの論理で、日本の賃金カーブは下降の一途をたどり、法人税もまた減税の連続的対象となってきました。こうした企業経営のコストによる国際競争力論によって、日本は世界有数の輸出高を実現しながら、企業のおどろくべき内部留保を確保してきました。たしかにコストは国際競争力の重要な要素ですが、しかし最大の要素はいうまでもなく商品の質であり、第2は為替相場に他なりません。商品の質が国際的な比較優位性を実現していれば、他の要素は副次的なものとなり、だからこそ研究開発と商品開発のための人材育成が決定的に重要なのです。ところがトヨタ・システムが成功神話となって、JIT的なコスト論が横行し始め、いまや商品の質そのものが問われるような事態を誘発しています。人件費の上昇はむしろ国内市場の購買力を高めて好況の誘因となるのです。人件費コストを商品価格に転嫁しても、その上昇分で販売が落ちる影響は、デフレスパイラルによる価格競争よりもはるかにすくないのです。日本の国内商品市場と労働力市場を破綻に瀕した国際競争力論の誤謬こそ、致命的な幻想のイデオロギーであったのです。以下続。(21010/4/16)
◆桜花舞い散る春らんまんの風に吹かれて
愛犬コロをつれていつもの散歩です。満開の桜が風に吹かれて舞い散るさまは、まさに幻想の美の世界が現前しているようです。白に薄色のピンクが入りまじってはかなく散っていくさまは、これぞ散華の美学とでもいうのでしょうか。それぞれに場所どりしたグループがさんざめく宴に興じるさまは、平安期の貴族の花見をモダンにしたような感じです。おそらく散り始めた今日こそ、桜にみいる最後のハレの日となるかもしれません。北上する桜前線は、つぎつぎと宴の後を残しながら春の盛んを告げています。三々五々と散歩するあれは老人ホームのお年寄りたちだろうか、その側でスポーツに興じる子どもたちはほんとうに未来を象徴しているようなはち切れるエネルギーを発散しています。それぞれが意識することなく、互いに場所を分け合っているみごとさは、世の枠を離れた自発の秩序の創出に他なりません。このようにして2010年の春もまた、いつもの年と同じような光景を演じつつ、シナリオ通りに再演して反復の感慨を残して去っていこうとしています。
桜の花の満開の下には腐臭がただよっていると云ったのは誰でしたか? どうも太宰治のような気がしますが、違いましたか? 春はまた日本でもっとも痛ましい季節でもあります。3万229人が自死する日本では、10歳ー20歳代の若者が3756人に上り、毎日どこかで10人がこの世を去っていますが、多くが3−4月期に集中しているのです。学校のリズムでいえば、もっともドラマテックな卒業、就職、入学といった生涯を分かつ時期にまた、自死が選ばれています。日本列島を南から北へいきわたる桜前線の波涛は、同時に自死の波の北上でもあるのです。だからこそ、桜花ただよう桜の樹の下には、生きたかった若者たちの生命の腐臭がただよっているのです。
10−20歳代の3756人という自死の数字は警察庁の数値に過ぎず、それは薬物やロープ、遺書などの確かな証拠があるケースのみを自死として処理し、それ以外はすべて事故死扱いとされているのです。だから自死の実数は、警察庁統計の20−30%増というのが精神科医学会の常識です。<なにもかもイヤになった、いつも嫌な思いが残り人間関係に疲れました>(25歳男性)。<早く死にたい、生きるってなんでこんなにしんどいのでしょう>(25歳女性)・・・・こうした世の中と生きることへの絶望を性格的素因として分析する精神科医がいます。フィンランドの調査では、自死した男性の78%が8歳の時点で自死の前兆を示し、日本でも小学2−3年生から生きることを苦痛と感じる1−2%層群があり、青年になるまでに自死の機会をさがすようになるという報告があります。彼らは@対人恐怖と対人不安A自己評価が低く怒りを覚えても反撃しないB自分のせいにする自責感が強いCこの世に生きる意味を感じない虚しさと疲れというような症候群が錯綜してあらわれると云います。しかしよくみれば、@−Cの特徴は、もっともヒューマンで繊細な感受性を持つ謙虚な人格ではありませんか? こうした人格が生きにくくなっているのは、本人の人格的欠陥ではなく、あきらかに病んだ世の矛盾を一身に引きうけたふるえるような繊細な神経の犠牲といえましょう。自死は精神病理の問題に帰すことができないのです。
いまこの世の春を謳歌している人は、他者を押しのけても自己実現をめざす自己主張型の人間です。こうした一見強い人格の裏に、なんと醜いエゴイズムが隠されているでしょう。つまり結論的に云えば、他者排除型の攻撃的競争という動物的本能が強く残った人格が生き残り、共存型の相互生存を追求するもっともヒューマンな人格が犠牲になるという、もっとも非人間的な社会システムのなかでこそ、繊細な神経が真っ先に死に追いやられているのです。いま私たちはもっとも非人間的で陰惨なシステムの下で生きているのです。それはいうまでもなく、シカゴ学派の市場原理主義システムに他なりません。もっとも野蛮な自由を主張したこの学派の根底には、動物的な競争本能がながれています。
生きていくことはむなしい、人生に意味はあるのか、死にたい、早く消えてしまいたい、なにもやる気がしない、どう生きたらいいのか分からない、さみしさとむなしさとはかなさがいりまじる、誰も自分の存在に気づいてくれない・・・こうした気持を抱く人は本人の精神的病理ではなく、まさにそのような虚無の世界に追い込んだ市場原理のシステムの問題に他なりませんが、感じる当事者は安易な励ましによって覚醒できるものではありません。そのような負の感情への共感とふるえるようなヒューマニテイへの敬意こそが、互いに感じられたときに、その人は心を開くでしょう。
桜散りゆく春らんまんの4月に、あまりの非対称性の世界が現実にあり、散りゆく桜とともに生を閉じる人が確かにいること・・・このリアルな春こそ日本の否定に他なりません。そしてもし精神医療的に治癒できるならば、可能なあらゆる手だてをこうじるべきでしょうが、日本の精神医療システムは大きな問題を抱えています。ドイツのクレぺリンは1899年に、精神疾患を世界で最初に病気と認識し、病気である以上隔離した入院病棟で治療に専念するシステムが普及しました。通常の病ならば入院治療が普通ですが、人間関係を遮断されて管理された生活を送る方法は、精神疾患者の2次的な障害を逆に誘発させました。こうして現住に隔離された個室で薬でおとなしくさせるという精神治療の限界があきらかとなり、次第に訪問型治療というノーマライゼーションの方法が主流となっていきました。1993年のWHO障害調整生命年では、従来の死亡率と発生率を主要指標とする政策から、疾病による労働力の損失と社会的コスト、苦痛の軽減などの指標に変化していきます。欧米では精神科の病床数が激減して在宅医療に移行していきますが、日本だけは精神科の病床数が増加して、相も変わらずの隔離思想が深く染みついています。あれほどに喧伝されたハンセン病元患者の社会復帰はすすまず、施設で人生を終える人が多いのも、こうした隔離思想に他なりません。日本はほんとうにこころやさしく、繊細な神経を持つ人をはねのけて隔離する国なのでしょうか。
春の夜の嵐のように、満開の桜が花吹雪となって舞い散っていくさまは、息をのむような乱調の美の世界をつくりだしています。妖しく舞い散る桜の花の樹下には、ほんとうになにか埋まっているのでしょうか。(2010/4/6)
◆てふてふが一匹ダッタン海峡をわたっていった(安西冬衛)
春とともに軽やかに飛んでいるモンシロチョウの原産は、はるかユーラシア大陸であり、何万という群れで日本列島に飛来して棲みついたといわれています。疲れると海上におり、一方の羽を海面につけ他方の羽をヨットの帆のようにたてて飛ぶ蝶の大群を見たという九州の漁師さんがいます。安西さんの詩は、たった一匹で崩れおちそうになりながら、必死に日本海を飛ぶ蝶の姿をシュールに描き出して戦慄を覚えます。ダッタンという漢字が変換できませんので、やむをえず片仮名で記していますが、どうか漢字をご想像下さい。
今朝は5時半に目が覚めてしまい、愛犬コロをつれて広い平和公園を散歩して参りました。桜はまだ早いのですが、ところどころにタンポポが咲き、菜の花にチョウチョがさかんに飛ぶ日が近いようです。春告げ蝶と呼ばれるモンシロチョウは、蝶のなかでいちばんはやく蛹から孵化して、日本の野を飛びまわるのです。春の菜の花畑をとびまわるチョウチョウを見ながら、日本の子どもたちは大きな声で「ちょうちょう」を唱いました。
ちょうちょ ちょう、ちょう ちょう、
なの はに とまれ
なの はに あいたら
さくらに とまれ
さくらの はなの
はなから はなへ(栄ゆる御代に)
とまれよ あそべ
あそべよ とまれ
1881年(明治14)に発表された日本最初の『小学唱歌集』(伊沢修二編集)に収められている「蝶々」の最初の歌詞は、カッコのように、天皇の世が爛漫と咲きほこる桜のように繁栄することを讃える国家主義的な言葉でしたが、敗戦後の民主化のなかで換えられて現在に至っています。元歌の旋律はスペイン民謡だそうですが、ドイツには少年の冒険を唱った『幼いハンス』があり、英国にはボート漕ぎを歌った『軽やかに漕げ』があるそうです。元の本歌詞は、愛知・渥美半島のわらべ歌「胡蝶」だったそうです(『あいちのわらべうた』1981年)。
ちょうよとまれ 菜の葉にとまれ 菜の葉がいやなら 木の葉にとまれ
ここに日本の唱歌の源流がみごとに浮き彫りとなっています。日本民謡・わらべ歌を西欧音階の旋律で小学生に教えるという、明治の誘致外来型近代化の音楽教育があり、しかもちゃんと絶対主義天皇制の権威を浸透させるという使命です。こうして独特の重層的構造を持つ日本型近代の感性がつくられていくのですが、オルガン演奏のもとで一生懸命にうたったピュアーな子供たちの心をとらえて放さない歌となったのです。この愉しく軽やかな明るい唱歌は、どこかもの悲しげなところのある文部省唱歌のなかでは、めずらしいもののように思います。必死の決意をこめて、荒海を渡ってきたモンシロチョウたちは、いま日本の菜の花の上を乱舞して飛んでいます。なんとけなげな生命のイメージでしょう。
今日はめずらしく朝から晴れわたり、初春の陽光が降りそそいでくる窓辺で、わたしはお気に入りのアメイジング グレイスを静かに聴いています。まさに至福の時間が過ぎていくようですが、この輝くような朝に、まだ就活に胸を痛めている多くの若者がいることを私は知っています。彼らにとって、子どもたちの高らかに歌う「ちょうちょ」は、なんと哀しく残酷な歌に聞こえるでしょう。アメイジング グレイスもまた・・・・・。朝日新聞3月27日朝刊参照。(2010/3/27)
◆「私は17年半、無実の罪で捕まっていた。このことをどう思いますか?」(管家利和さん 68歳)
DNA型鑑定の誤りによって、無実の罪で獄に下った管家さんは、再鑑定の結果によって17年半ぶりに釈放された後、2010年1月の第5回公判で、自分を起訴した森川検事に直接聞きました。その後の審理は次のように進みます。
森川検事「深刻に思っている」
菅家さん「謝って下さい。お願いします」
森川検事「・・・・・・」
管家さん「裁判長、どうか私の17年半を無駄にしないような判決をお願いします」
人生の壮年期を無実の罪によって、獄中に散らした管家さんの懇願に対して、ついに検事は非を認めて謝罪に応じることを拒否したのです。管家さんの悔しさ、怒り、虚しさの胸中はいかばかりだったでしょう。いよいよ26日の再審判決で無罪が言い渡される見通しのなかで、彼の気持ちは生涯晴れることはないでしょう。以上・朝日新聞3月22日付け参照。
ここに現在の日本の罪と責任の構造が露わに示されていると思います。おそらく森川検事は、再審判決の結果まで主体的な責任の態度は明らかにしないということなのでしょうが、すでに警察署長は対面して深々と身をかがめて謝罪しているなかで、なぜ検察は率直な対応をしないのでしょうか? おそらく、市民のいのちよりも組織の権威を優先する日本の権力機構の精神構造の特質にあるのでしょう。もしDNAの再鑑定がなかったならば、彼は獄中で人生を閉じたのです。
ロラン・バルトはあらゆる言語構造に潜む支配的な権力性を指摘していますが、検事の沈黙という語らざる無言の背後にある権力をも考えざるを得ません。真実を懇願という従属的な表現によって求める対峙に於いてさえ、拒絶する究極の冷酷さがあるように思います。
おそらく欧米であるならば、政府を代表した謝罪と冤罪の原因を明らかにして二度と繰り返さない制度保障の誓約がなされないならば、政府そのものが倒壊するようなケースです。なぜ日本ではかくも市民の生命の尊厳がいとも軽く扱われていくのでしょう。私は、市民社会の成熟の問題として考えてみたいと思い、身近にある2つの事例を取りあげます。
いま日本全国各地で、かっての特高服姿の黒塗り街宣車というスタイルではない、ごく普通の市民の右翼活動が活発になっているそうです。06年に結成された最大の団体は、ネット登録会員がわずか1年で8千人になり、全国23支部を置き、在日外国参政権人や外国人学校授業料無料化問題、捕鯨問題などテーマは既成右翼と共通しています。従来の地縁や商売でむすばれたような共同体組織ではなく、出入り自由のネット的な結びつきがあり、ごく普通のマジメな市民が多いといわれます。欧州でも大不況の深化のなかで、外国人労働排斥や反ユダヤを掲げる右翼が増大し、一般選挙で10%を超えるような拡大を示しています。欧州では、ヘイトクライム(憎悪犯罪)を煽る差別行為は「民衆煽動罪」とする刑法がありますが、日本ではこのような差別禁止行為はありません。日本でも、興奮したサッカーのサポーターの騒ぎのような、憎しみを直接にマイノリテイにぶつける市民の直接行動があらわれたのです。彼らはおそらく、米兵の日本人少女暴行事件のような問題では行動せず、もっぱら領土や外国人などマイノリテイに攻撃を集中する右翼の新しい形態なのでしょう。こうした運動の意識にある強固な偏見の情熱は、犯罪による秩序のゆらぎを強力的に処理しようとする雰囲気と連動し、新たなファッショ的基盤を醸成していきます。しかもそれは現代科学の先端と結びついた実証的方法で、有無を言わさず犯罪者を逮捕し、社会的に葬り去る権力装置を市民的に支援する社会的ひろがりをもつようになります。ここにおそらく現代の冤罪が生まれる要因のひとつがあるように思います。凶悪犯罪に帯びる市民社会が、市民的な権利の制約を超えた警察活動を容認し、或いは協力していくことになります。DNA再鑑定結果が明白な無実を証明するまで、管家さんにたいする市民の関心と支援はほとんどなかったのです(私も含めて)。再審の段階に到っても、起訴をした検事が非を認めず謝罪をしないのは、権力犯罪を必要悪として認める一部市民社会の雰囲気がありはしないでしょうか。
次は名古屋市内の電車の車内とホーム放送から考えてみたいと思います。東京では、次駅名程度でほとんど放送が入らず、乗客はかなり自分の判断で動いているのですが、名古屋市内の電車のホームと車内放送は、それはそれは幼稚園児向けのような至れり尽くせりの内容で走行中の時間はいつまでも車内放送が流れているような感じです。ここで正確な再現はできませんが、だいたいは次のような感じです。「まもなく電車がホームに入って参りますので、白線の内側でお待ち下さい。外に出ると大変危険ですのでおやめ下さい。ドアが開くのを待って、乗客の方が降りてから順番にお入り下さい。入口付近でお止まりになると、後がつかえ大変危険ですのでできるだけ車内中央へお進み下さい。まもなく、○○行き電車が入ります。注意して下さい」(ホーム放送の例)
「席は詰め合わせてお座り下さい。荷物はできるだけ足の上に置いて、多くの方がお座りになれるようご協力下さい。まもなく発車です。ドアが閉まりますのでご注意下さい。この電車の運転手は××、車掌は△△です。次の停車駅は○○です。××学校、△△公園はここでお降りになると便利です。走行中は電車が揺れることがありますのでご注意下さい」(車内放送)
まあだいたいこんな感じなのですが、東京と名古屋の放送の差異に、じつは両都市の文化の差異が鋭くあらわれているような気がしませんか? 東京はいわば市場原理の自己責任と市民の自主的な行動を尊重し、名古屋はあらゆる危険を避けるべく管理型の傾向が色濃く出ています。すると乗客の態度も、東京は乗客同士がペチャクチャとしゃべり会うことはなく静かに本を読んでいるシーンが多く、名古屋は乗客同士のおしゃべりと車内放送が入りまじってなにか落ち着きません。
みなさまはどちらのタイプに親近感を覚えますか。或いはどちらでもない第3のタイプがあるでしょうか。おそろしいのは、どのタイプであれ、日常的に利用しているとそれに馴れてしまい、神経反応もパブロフ的に固定してなじんでしまうのです。東京で数日過ごして、名古屋に行くと、その違いの凄さを実感すると思いますが、じつはここにこそ現代日本の日常の底にある文化の束縛の力を感じるのです。おそらく管家さんを取り調べて起訴した警察と検事は、就任以来生きてきた環境になじんでしまい、最初は違和感があってもいつのまにかそれを率先してやる自分になっているのです。アレコレと開発された訊問マニュアルで、自白に追い込み有罪判決を得てきた実績が、無実の自白などはあり得ないという固定観念をうみ、しかもDNA鑑定という科学的証拠の幻想に取りこまれて、無実の可能性を露ほども疑わない冤罪の構造ができあがっていたのです。いま取り調べ過程の可視化の導入が議論となっていますが、それは冤罪を防ぐ方策の一部であり、捜査の権力過程そのものを脱構築しなければならないと考えるのです。
二つの市民社会の事例は、捜査権力そのものが市民社会の文化の束縛を受けているという仮説をみちびきだしますが、少し飛躍があるかも知れません。いずれにしろ、捜査する者が市民の監視下にあるというシステムを構築するための市民社会の成熟が不可欠の条件です。さて26日の再審判決を受けて、検察がどのような態度をとるか注目したいと思います。(2010/3/22)
◆いま一度日本を洗濯致したく候(坂本龍馬)
龍馬ならずとも、このように言いたくなるようなみじめな汚れが、この国にまとわりついて、なんど洗濯しても汚れが落ちません。マクベスが手に付いた血を「なんども洗ってもこの血が落ちない」と呻いたときのような気持になります。この国はどうも公教育の学費無料化を国籍によって違う扱いをするようです。4月実施予定の高校無償に朝鮮学校を含めない方向で、首相は裁定を下し、それを第3者機関の裁定とイチジクの葉でくるまうかにみえます。この間の経過を整理してみましょう。
2009年 中井拉致担当相「経済制裁をしている国だから、朝鮮学校は除外してほしい」(文科相に申し入れ)
2010年2月12日 橋下大阪府知事 大阪朝鮮学校訪問し懇談 府独自補助金交付の条件を提示(私立高校生徒1人年12万ー24万円)
「拉致問題を引きおこした不法国家の北朝鮮と付き合いのある学校に府の公金は入れられない、既存の外国人学校新興補助金も検討したい」
@朝鮮総連との金銭的(寄付を受けない、行事に学校幹部が出席しない、総連主催のコンクールを保護者主催にする)
A北朝鮮指導者の個人崇拝を促す教育をやめる(教室の肖像画撤去、教科書の個人崇拝記述削除)
2月23日 中井拉致担当相「制裁を加えている国の国民だから、そこは充分考えてほしい」(記者会見)
2月23日 川端文科相「外交上の配慮、教育の中味が判断の材料になるのではないと拉致担当相にははっきり申しあげた」(記者会見)」
2月24日 国連人種差別撤廃委員会会合 日本政府の人権保護への懸念を議論(ジュネーブ)
2月25日 鳩山首相「中井氏の案はひとつの案だ。そう言う方向になりそうだと聞いている」(記者会見)
2月24日 鳩山首相「国交がない国だから、どういう教科内容かも調べようがない」(記者会見)
3月 2日 鳩山首相「朝鮮学校の子どもたちと会うことは、私としても大いに結構だと思う」(衆院予算委 この日無償化法案可決))
3月 4日 韓国約50民間団体が朝鮮学校の除外反対集会を開き、韓国・朝鮮人への無償化適用を要求(ソウル)
3月11日 鳩山首相「朝鮮学校の家庭が高校に類する課程かどうか判断するなんらかの客観的基準を作ることが必要だ。ある程度時間がかかる」(記者会見)
3月12日 平野官房長官「外国人学校は4月制度開始の当初の段階では除外し、文科省の有識者の第3者機関で教育内容が日本の高校に準じているかどう
か審査して判断する」(記者会見)
3月12日 鳩山首相「4月に間に合うかどうかよりも、正確を期す方が大事だ。客観的に評価できるシステムが必要だ」(記者会見)
この経過について、首相は「朝鮮学校の生徒とは無償化の問題では会わない」と後になってもらし、首相周辺の一人は「朝鮮学校の歴史教科書の内容に問題がある。無償化の対象にしては絶対にいけない。直ちに判断しないであいまいに放置しておくことになるだろう」とし、文科省官僚は「どちらでもいい。政治家が判断する問題で、どちらにせよ、理屈は後からついてくる」と話し、第3者機関の設計はなにも決まっていません。こうして政府は初めから除外前提で動いているようです。以上・朝日新聞3月13日付け参照。
さて問題はどこにあるのでしょうか。単純にして明らかなように、国際人権規約と国連人種差別撤廃条約(すべての公共機関は人種、民族などで差別する行為・慣行をおこない、差別を扇動、助長するすべての行為を禁止する)などの国際法に違反する人権侵犯行為です。人権のグローバル・スタンダードの初歩的原則を侵犯する犯罪的行為です。問題は、日本政府の中枢部に人権感覚の決定的な欠落と想像力の貧困があることであり、さらに重大なことはメデイアが報道をひかえているように、市民社会の一部に受容する土壌的風土があることです。一連の推移は、政府中枢の一部にある極右的な民族ショービニズムが在日朝鮮人への伝統的な差別意識を煽るポピュリズムを主導し、市民社会の一部にある歴史的差別意識の痕跡を利用していることを示しています。おそらく激烈な競争原理のステイグマを刻印され、トラウマとなった劣情が拉致問題を契機に、抑圧の移譲の心理となって沈積しているのかも知れません。チマチョゴリの女子を襲撃する事件は、ホームレスを襲撃することと、おなじ心理的基盤があるような気がします。それとも、差別の心情や行為さえも、思想・心情・表現の自由として無制約に許容するウルトラ・リベラルの悪魔的な暴力性が起動しているのでしょうか。他民族を抑圧する民族は、それ自身自由でないという古典的テーゼが思い浮かんで参ります。この国は、かってのハードな暴力的差別支配を反省しているようにふるまいながら、潜在的な悪意の堆積が形式民主制のソフトな形態に姿を変えて、従って真綿で首を締めつけるような、より強固な形で、差別への良心の痛みを覆い隠す、もっとも卑劣な姿になりつつあるのではないでしょうか。まさに晩期資本主義の成熟しきった頽廃に他なりません。
ではどうすればいいのでしょうか? 対置すべきオルタナテイブはあるのでしょうか? ひとつ考えられることは、欧州にあるホロコースト刑法です。ドイツやオウストリアに次いで、ハンガリーもホロコースト否定発言と犠牲者侮辱を禁固3年の刑事罰の対象とする法律を施行することとなりました(2月22日ハンガリー議会採択、3月10日大統領署名)。旧社会主義崩壊後に東欧では急速に極右が伸長し、ハンガりーでもロマ排斥を柱とする民族至上主義を唱える極右政党が欧州議会に進出し(得票率15%)、ドナウ川にあるハンガリー系ユダヤ人犠牲者追悼記念碑「ドナウの靴」が汚されるなどホロコースト否定論が横行していることが背景にありますが、おそらく急速な市場原理化による貧困の怨念がマイノリテイへの攻撃感情を誘発しているのではないでしょうか。重要なことはホロコースト問題を憲法で保障された表現の自由という一般的人権とは厳密に区別する不可侵性を与えていることです。
日本でも深化する格差の犠牲者がおなじような排外主義による劣情の移譲の誘惑に落ち込んでいく可能性がないとは云えません。もしそうなれば、民族間の新たな差別が拡大再生産され、怨念と対立の連鎖が誘発されかねません。日本であらゆる差別的言辞に対する、無条件の刑事罰を負荷するようなハードな法制度は無理であるかも知れません。成熟した晩期資本主義の国である日本は、市民的な公共圏のコミュニケーションによるソフトなかたちで人権の水準を確かめていくしかないのでしょうか? それにしても、橋下大阪府知事の朝鮮学校に対する介入は、暴力的というしかない野蛮な犯罪であり、このようなバーバリズムが存在していることに驚嘆します。彼はおめでたく、もっとも危険なファッシストと言っていいでしょう。この橋下という人物は、映画『パッチギ』を観ておのれの言動を考え直した方がいいと思います。ほんとうにこの日本をいま一度洗濯しなければ、選択する機会はなくなるのではないでしょうか。かなり率直な意見をのべて参りましたが、どうかみなさまの忌憚なきご意見をいただきたいと思います。(2010/3/14)
◆きょうはひなまつり
♪あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
今日は桃の節句のひなまつりです。女の子の健やかな成長を祈る行事です。私の子どもの頃も床の間に大きなおひな様を飾って祝っていたことを想い出します。春が近いことを実感します。ひな祭りという伝統習俗は、平安期に3月3日に身を清めてケガレを払う中国の行事として伝来し、貴族が宮中で曲水の宴をはり、庭を曲がって流れる水に浮かぶ杯が自分の前を通り過ぎる前に杯を取りあげて酒を飲む風流な宴会でしたが、はらえの行事のみが生き残って、紙の人形にケガレを移し、川や海に流して不浄をはらうようになり、江戸時代から女の子のいる家で人形を飾るひな祭りとして庶民の間に定着していきました。私の住む街の近くにある足助という山あいの伝統的町並み保存地区では、家々が自分の家のおひな様を表通りに飾って陳列する行事がありますが、こうしたのどかな風景も残っているのはごくわずかとなって、日本から姿を消していこうとしています。
おひな様は早くしまわないとお嫁に行くのが遅くなるといわれ、ひな祭りが終わったら早々と片づけるのですが、この三寒四温の雨の日に湿った空気と一緒にしまうと、カビの原因になるので、天候を大変に気にしながらしまったものです。今日からまたぐずついた天気が続きそうで困ったものです。
いま私の部屋のFMから日本の童謡特集としてひな祭りの童謡(サトウハチロー作詞「うれしいひな祭り」 1936年)が流れてきます。やっぱり農作業の開始を告げるこの季節にふさわしい歌です。この歌には沢山の替え歌がつくられてきましたが、それはそのまま日本の時代を反映しています(鳥越信『子どもの替え歌傑作集』参照)。
♪あかりをつけましょ 100ワット
お花をあげましょ 若乃花
1950年代の終わり頃のものですが、なにか明るい雰囲気がただよい、まだ将来への元気があった高度成長期へ向かう時代そのままです。
♪あかりをつけましょ 爆弾に
どかんと一発
五人ばやしは人殺し
これは1980年代後半から歌われたものだそうですが、子どもの目から見たテロと暴力の恐怖を歌ったものでしょうか。子どもがこのような歌をうたうひな祭りの時代をつくりだしたのはいったい誰なのでしょう。21世紀ははたして子どもたちにとってどのような時代になっていくのでしょうか。我が家の愛犬コロ(白のスピッツ 2歳半)をつれて散歩にいくと、若いお母さんたちが幼稚園から子どもの手をとって家に帰る風景に出くわしますが、そのほのぼのとした姿はいつの世にもある母子の無私の信頼を感じさせます。いったいあの幼い子どもたちはどのように成長していくのだろうと考えさせられたりします。
こうした替え歌でもっとも新しいのは、大人のつくった現政権与党批判のものですが(朝日新聞 2010年3月3日付け夕刊)、これは世俗的な揶揄に近い低レベルなものであり、論評に値しないのでここでは無視させていただきます。やはり子どもの原初的な感性に比して、大人の頽廃したレベルでしかありません。とても唇に浮かべて歌えるものではありません。
さて相も変わらず首都の知事はアナクロニックな言辞をふりまいていますね。もはやなにを言おうと聞く耳を持たない確信犯としか言いようがないのですが、なんともはや殺伐とした雰囲気につつまれています。バンクーバー冬季五輪で日本のスノーボード選手が、選手団のユニフォームを独特の着こなしをしてふるまい、最後は出場を辞退するまでの猛烈なバッシングを受けましたが、これもなにか異様な光景でした。この知事は、「国家という重いものを背負わない人間が早く走れるわけがない、高く跳べるわけがないし、いい成績がだせるわけがない。銅をとって狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」とナショナリスト丸だしに息巻いたそうです。彼からみると、日本国籍を捨ててロシア代表として出場したフィギアの女性選手などは、さしずめ国を裏切った国賊に等しいでしょう。これほどにファナテックなウルトラ・ナショナリストが公職にある指導者として君臨しているのをみると、日本のデモクラシーのみじめなレベルに恥ずかしくなります。
極めつけは大阪府のナントカ知事で、「北朝鮮という国は暴力団と一緒で、暴力団とおつきあいのある学校に助成がいくのがいいのか」と差別意識をむきだしにしています。この人物は弁護士出身だそうですが、どうも彼は司法試験をほんとうにパスしたのか疑問になります。ロシアの大統領も自国の惨敗に対し、スポーツ大臣を首にすると怒り心頭に発していますが、これら三人の野蛮なプレ・モダニズムの極右ポピュリズムと低劣な想像力の貧困は眼をおおわんばかりです。こうした低次元の愛国主義の虚栄に対して、「日本のためとか、ロシアのためでなく、自分が好きだから滑っています」と答えたフィギア選手は、近代的な個の爽やかなレベルをあざやかに示しています。
とくに日本の選手は国家の象徴を背負うのも不可能なほどに追いつめられたあげくに、やっと出場を果たしているのが実態です。経済危機を理由とする企業スポーツの撤退で運動部の休廃部が相次ぎ、伊藤大貴選手(ジャンプ)は所属先を求めてさまよい、越和宏選手(スケルトン)は失業給付で妻子を養い、桧野真奈美選手(ボブスレー)は600万円のそりを自費で購入するなど追いつめられ、海外遠征の多くは自己負担で、選手強化の政府補助は30億円という韓国・欧米の4分の1から6分の1という貧しさであり、しかも事業仕分けでまた削減されました。自己責任の競争を宣揚しながら、一方では国家の栄光を担えなどという破廉恥な要求をするほどに、この国は市場原理主義と国家主義の醜悪なモンスターにみえませんか。誰か犠牲者を見いだして集中的なバッシングを加えたり、KYを観ながら差別問題に介入したり、どうも日本は晩期資本主義の頽廃の極みに落ち込んでいるようです。
ひな祭りの朝は久しぶりに明るい陽光が窓辺にふりそそぎ、冷気のなかに春の温かさが溶けあうようにただよってまいります。この国に生まれ、この国で世を去っていく私は、やはりこの国への愛しさを感じます。この国とはNATIONとしての国ではなく、COUNTORYとしてのMOTHER LANDに他なりません。あかりをぼんぼりにつけてあたりをボンヤリと照らし、桃の花をあげて子どもたちを祝福した、この国のたおやかな風景をよみがえらさねばと願うのです。(2010/3/3)
◆友愛思想の欺瞞
このような文章をかくような事態におちいった日本を深く哀しみます。日本の首相は、自らの政治思想の原点を「友愛」にあるとしてきましたが、その内実がほんとうに問われています。「友愛」といえば、フランス三色旗に象徴される「自由・平等・博愛(友愛)」という身分制を越えた連帯という市民革命の理念を思いうかべますが、首相の意味とは少し違うような気がします。おそらく首相の云う友愛は、いわば富める者の弱者に対する救貧思想の憐れみと高貴な者の責任(ノブレス・オブリージュ)といった英国型フェビアン思想に近いような気がします。フェビアン型友愛思想は、労働者の貧困を資本家の同情心で救済するという初期労働思想であり、英国の近代史の苛酷な階級対立の前にもろくも偽善性を露わにしたのですが、首相の「友愛」がそうならないように願うばかりです。おそらく友愛は差別のもっとも対極にあるものだと思いますが、首相の最近の言動は、「友愛」が修辞的なものでしかなかったのではないかと思わせます。なぜこうした印象を私は抱いたのでしょうか?
首相は高校授業料無料化の対象から朝鮮学校を排除するそうです。理由は「国交がなく教育内容が把握できない」ので、各種学校(専修学校、外国人学校)の適用要件を満たさないからというものです。しかし事実は、拉致問題相や国家公安委員長の対北朝鮮制裁要求に屈服したのです。なぜなら朝鮮学校は、日本の高校との文化・スポーツの公式戦に出場し、サッカーヤラグビーは全国大会に出場する有力校であり、日本の学習指導要領に準拠して教科編成をし(教科書は独自編集)、カリキュラムを地方教委へ提出し、日本の大学の多くが日本の高校に準じて受験資格を認め、文科省は大学入学資格検定を免除して日本の高校卒業と同等の資格を認めていますから、政府は教育内容を充分に把握できているのです。これは25日にジュネーブで開催された国連人権差別撤廃委員会が、日本の人権状況を審査し、高校無償化法案での朝鮮学校除外を人権侵害とする検討に入っていることをみても明らかです。国連人権規約と国連子どもの権利条約に掲げる教育の機会均等原則に背反の疑いです。
たしかに拉致行為は重大な人権侵害で許すことはできませんが、すでに実施している経済制裁を越えて、なんの責任もない子供たちの生活に制裁を加える応報もまた人権の侵犯に他なりません。政府がなんの疑問もなく、政策としてある排斥を実施する非国際公共的な感覚に驚かされます。おそらく国際標準に背反する差別に他ならないという想像力が欠落しているのでしょう。日本になぜ朝鮮学校が存在するのかという歴史的な原点を踏まえれば、恥ずかしくて云えないような発想なのです。戦前・戦中期に大量に朝鮮半島から拉致されて、日本に居住を強制された人たちの末裔が民族教育を自ら実現するのは当然の主権的な行為です。大人の犯罪行為の報復をその子弟に向けて晴らすような行為は、子どもですら分かる醜い行為です。アジア全域から非難と嘲笑を浴びる今回の無償教育排除は、長期的には東アジア共同体の未来を遠ざけるものでしょう。日本の首相の友愛思想の本質的な限界がはしなくも露呈されていますが、じつは英国型友愛思想そのものの本質的な限界であったのです。
百歩譲って拉致行為に日本の税金で授業料無料化できないという主張を前提にしても、日本の税法の原則からみて違憲の恐れがあります。高校授業料無料化の財源は、所得税・住民税の特定扶養控除の18歳以下上乗せ部分を廃止して当てるということになっています。これは日本人から見れば、実際の家計が増税の負担増となっても、子供たちの高校就学機会はみんなで保障しようという公共原理にあるのですが、在日朝鮮人もおなじように所得税と住民税は負担しています。もし彼らの子弟が援助から排除されれば、税支出の公平原則が蹂躙されることとなり、明らかに違憲です。税法上も許されない措置によって、汚い報復を狙う心情は、恥ずべき民族排外主義以外の何者でもありません。
こうした欺瞞は、沖縄普天間基地移転問題にも凝縮しています。宜野湾市のど真ん中にある普天間基地は、480haという広大な敷地を独占し、それに隣接して学校・病院・公共施設120カ所以上が立地し、9万人の市民が生活しています。「世界でもっとも危険な基地であり、セントラルパークに軍事基地があるようなもので、事故が起きないのが不思議だ」(ラムズフェルド米国防長官)、「この市は基地と一番近い住宅地が約3マイル離れている。普天間飛行場の近くにはおそろしくて住めない」(カリフォルニア州・オースアンサイド市長)、「ハワイでは危険なクリアゾーン地域への基地建設を認めることはあり得ない」(ハワイ市助役 *クリアゾーン土地利用禁止地域が普天間では基地外にはみ出し3600人の市民が生活している)など沖縄の米軍基地は、全世界でも異様な状況にあります。率直に言って、星条旗帝国は沖縄を奴隷的な準植民地として侮蔑的に扱い、日本政府も自らの国土と国民を人身御供として星条旗帝国に捧げてきたのです。残念ながら本土にくらす日本市民とても共犯者として見て見ぬふりをしてきました。私も含めて。この東アジアの小さな列島は、古代以来差別という行為に慣れ親しみ、マイノリテイを蔑む心情によって自らの安定をつくりだし、つねに差別される少数の他者を人為的につくりだしてきました。企業社会の垂直的差別構造→沖縄への基地差別→外国人への排他的制度・・・・。
こうした抑圧の移譲の論理は垂直的な重層構造となって定着し、容易に克服することを赦しません。友愛思想ですら抑圧の移譲の論理の前に、自らを偽らざるを得ません。しかしこうした抑圧の移譲と差別の制覇は、かならず歴史の審判の前に自らの偽善をさらすことになるのです。いま米国で進行しているトヨタ自動車の「バッシング」は、実はトヨタ生産システムの本質的偽善が白日の下に批判されていることを意味します。創生期のトヨタは、自動車不況期に雇用確保のためにカマボコづくりを指向したり、品質を高めるために現場作業員にもっとも発言権を与えて会社都合による解雇をしないなど必死の努力をして成長し、今日の評価を得たのですが、トヨタ生産システムの導入以降に非正規期間工の拡大と下請単価切り下げに狂奔し、内部留保を異常に高める頽廃経営に陥って、欠陥を指摘されても不誠実な対応をするような体質に堕落したのです。「人づくりと下請との共存共栄」を基本理念とするかってのトヨタの面影はなく、いまや差別と欺瞞を戦略とするカネ亡者となったのです。
いまこの列島にひろがっている友愛の虚妄と偽善は、列島の隅々にぬぐいがたい傷跡を残し、その克服の見通しを奪うようなニヒリズムを醸成しつつあるかに見えます。人の痛みを我が痛みとすることは聖人に近い行為ですが、人の痛みに無感覚で見て見ぬふりをする国になりはてようとしてはいませんか。朝鮮学校への授業料適用問題は、日本の民主主義と人権の帰趨を問うぶんきとなるでしょう。それほどに友愛思想の裏切りのはてにひろがる闇の世界は荒涼としていくかのようです。しかしいま、トヨタ車を買うことを拒否し、虚妄の友愛を説く首相と決然と手を切る市民が姿をあらわそうとしています。そこに創業期トヨタのものづくりの輝かしい理念が再生し、この列島に偽りなき友愛が満ちていく希望があるような気がします。(2010/2/26)
◆今日はなんの日?
2月11日は畏れ多くも神武天皇が即位した建国記念日であり、日本の紀元ゼロ年の記念すべき日本国最高の国家記念日です。今日のよき日を「建国をしのび、国を愛するこころを養う」ために、全国民は記念するのです。しかしやっと農耕文化がはじまった縄文時代に、なぜ全国統一王国が出現したのかを説明できる歴史学者はいない。神話に過ぎない日を公的な建国の日にしている国は日本だけだ。理性で説明できなくても、神話の情緒的世界観に共感すればいいのであって、アレコレと理屈をつけるのは非国民だという日なのです。めんどくさいことを言わず、休日だから休めばいいではないか?という人もいるけれど、ではなぜ月曜に移して3連休にすればいいではないかと思うけど、神聖な建国の日を移すなんて冒涜だということです。
さて2010年は希望と失望が交錯する不透明な霧が立ちこめようとしているかのようです。あれほどの輝かしい希望を持って登場し、就任後すぐにノーベル平和賞受賞者となったオバマ米国大統領は、いまや果敢な行動をしない臆病な大統領として、反対政党に選挙で連戦連敗を続けるみじめな常態に転落しつつありますが、反対政党も知性のない極右が実権を握ってパフォーマンスだけ華々しく、米国市民は失望の淵に沈みつつあります。倒産の危機を税金の支援で切り抜けたAIGのバンクハイマー会長のボーナスは、1億jであり(!)、米国市民の1%の人の収入が99%の市民の全収入に等しいという非対称性の極大化が目を覆いつつあります。企業献金に依存している米国二大政党制の絶対的な限界がいまほどに露呈されている時代はありません。
いま米陸軍兵士(70万人)の自殺者が160人に上り、精神疾患兵士が激増しています(戦地駐留米兵の10%)。米国青年市民の貧困層が、志願制となった軍隊に流れ込み、1年おきに戦地勤務となっています。健康プログラム軍責任者は、戦場から帰還して米国で過ごす期間を長くし(次期派遣までを24−30ヶ月とする)、少人数でもストレスに耐えられる訓練を強化する(腕立て伏せ、腹筋のプログラム)など対策を立てていますが、効果はないでしょう。なぜなら自分たちの死を賭けてたたかう意味が実は嘘であったことを戦場で悟り、米軍が現地住民から敵視されていることを肌で感じるからです。あげくの果てに女性や子どもを含む無辜の市民を残虐に殺害している自分の両手は、血でぬぐわれているのです。侵略の不正義の軍隊という本質がリセットされない限り、米兵の精神的ストレスは解消されません。
米国を至上モデルとして媚びへつらってきた日本はさらに深刻な惨状を呈しています。02年に開設されたホームレス自立支援センターは、ホームレスに宿泊場所と食事を提供して就労による自立支援をめざす施設ですが、現在20−30歳代の入所者が急増しています。大阪の場合、30歳代以下の割合が06年15,0%→07年18,9%→09年33,2%と推移し、平均年齢が50,5歳→44,4歳と下降し、これは東京・名古屋でも同じ傾向です。金融危機後に雇い止めと同時に住まいを失った派遣労働者の青年と、野宿生活がながく抜け出せない50歳代以上の両極化が進展しています。高卒予定者の就職内定率は過去最低に落ち込み、多くの若者が失意のウチに沈んでいます。自己責任の競争原理の渦中で成長してきた彼らは、自らの無能を恥じて闇に沈んでいる。こうして年間3万人を超える自殺者が当たり前の世の中となっています。一方では6億円もの小遣いが母親から出ていても、なにも知らずにいる息子が日本の首相となっているこの非対象性の凄さは米国に劣りません。
米国型二大政党制からはじき出された若者たちは、いま一斉に自衛隊へと流れ込みつつあります。任期制の自衛官は任期が過ぎても退職せずに引き続き自衛隊にいるのです(民間企業への就業が非常に困難)。自衛隊の幹部層に政治システムへのトラウマが蓄積されているように思われます。陸自第44普通科連隊の中澤とかいう1等陸佐(旧大佐)は、日米共同訓練の開会式で、東アジアの日米同盟の重要性を強調し、「同盟は外交や政治の美辞麗句で維持されるのではなく、ましてや信頼してくれなどという言葉で維持できない」と6億円首相を公然と批判しています。すこし前に政権批判をした空自幕僚長がいました。軍隊がシビリアンコントロールから離れて、独自の政治行動に踏みだす序章のようなファッショ的な行為が横行しています。おそらく背後には、軍産複合体を基盤とする自衛隊幹部層に非公然の極右的な政治グループが形成されつつあるのでしょう。なにからなにまで米国モデルに似せるしか国家イメージが構成できないのでしょうか。
2月11日という輝かしい建国の記念日は、全国的に曇天で吹雪か雨という最悪の転向にあるようです。さすが天は、地の動向の変化を鋭く見ぬいて、それにふさわしい天候をセットしているようです。とくに東アジアの洋上で、進路を見失ってヨロヨロと漂流している小さな島国の列島上空は。(2010/2/11)
◆日本側歴史学者の恥ずべき歴史感覚
日本と中国の歴史研究者による共同研究報告書(第1期 550頁)が公表されました。日本側の歴史感覚がいまもってこのような歪みに侵されていることを知って恥じらいを覚えます。天安門事件を含む戦後史の評価や、南京虐殺犠牲者数の確定など事実評価の隔たりは今後の解明の可能性があるとしても、日中戦争全体の基本的評価について日本側は明確な「侵略戦争」という規定を避けて、侵略的行為に言及するに留まり、731部隊などの細菌兵器開発の人体実験にも言及していません。日本側研究者は、満州事変以降の南進政策について自給自足経済圏の領土拡大の意図を認め、日本軍の非違行為を認めながら、侵略戦争の本質規定を回避して逃れようとしています。廬溝橋事件は偶発的な事件で日本軍の責任ではないとする発想や、満州国は満州経済の近代的工業化を進めたとする評価など植民地政策を肯定し、日本側の評価は日本歴史学の現在の定説すら逸脱する錯誤的なものです。他国の領土・領空・領海に軍隊を許可なく侵入させて、自らの意図を強制する行為が侵略戦争以外に何であるのでしょう。なぜ中国の領内に日本軍が駐留しているのか、ごく初歩的な事実認識の問題です。なぜこうした恥ずべき展開になったのではないでしょうか?
日本側研究者の構成メンバーを見ると、あきらかに日本の歴史学会からアウトサイダーとなった右翼的言辞を弄する曲学阿世の研究者で編成されています。たとえば座長を務めた北岡伸一氏などは日米同盟至上主義の偏向学者であり、他の多くの委員は彼の系流で占められています。ただ従軍慰安婦民間基金の推進者として軽蔑の対象となった朝鮮史・ロシア氏研究者がまたぞろ顔を出して、政府主張のイチジクの葉っぱの役割を果たしていることにはおどろきました。こうした学的良心が欠落した歪んだ、よく言えば無意識の偽善の学者が日本を代表して発言している現状は、残念ながら現代日本の歴史意識の低レベルを象徴しています。
驚いたことに日本メデイアは、こうした日本側の主張を節度に満ちた学問的な態度と称賛し、逆に中国側の主張を中国共産党の枠内でしかふるまえない政治的な主張として批判しています。こうした歴史的罪に対する責任の意識の欠落が、政府間レベルの公的な場ですらあらわとなっていることは、日本の歴史意識の貧困をさらけ出し、ドイツやイタリアとのあまりの非対称性に世界は改めて日本の異常性を再確認しています。なによりも東アジア共同体への希望はますます遠ざかることになるでしょう。
同じ日に、旧ソ連の作曲家プロコフィエフのオペラ「戦争と平和」の原作版が英国グラスゴーで世界初演され、五つ星の絶賛を浴びました。1812年のナポレオンのロシア遠征を題材にしたトルストイの原作をもとに、プロコフィエフが1941年に作曲しシナリオも書きましたが、ナチスとの戦争のまっただ中でスターリンの意向を受けて修正を余儀なくされ、原版の叙情的な人間描写は姿を消しました。3時間に及ぶ原版が、英国王立スコットランド音楽・劇学校の副校長リタ・マカリスターの主導でよみがえり、作品が完成したのです。60年代から40数年を経ての膨大な作業です。「スターリンを排除してワクワクするような」作品となったそうです(英紙タイムズ)。
スターリンという政府指導者が一作曲に介入するファッショ的な政策の醜さは、スターリニズムのこのうえない犯罪性を露呈していますが、作品を約半世紀もかけて復元するという行為は、なにか人間の歴史に対する崇高な責任の行為のようであり、こうした歴史への誠実な態度にはこころの底から感嘆させられます。欧州ではこうした歴史への誠実な追求が深く文化として定着し、あたかも神の前での最後の審判に望むかのような尊厳がただよっています。残念ながら日本では、そのような歴史感覚が希薄であり、作為的な歴史が浅薄に工作されても、それを非難する文化はそれほど確かではありません。なにしろ戦時内閣の閣僚でA級戦犯であった人物を戦後の首相として選出する国なのですから。
日本という国は、なぜにかくも自らの失敗と罪を素直に認めて謝罪する文化が育ってこなかったのでしょうか? 集団稲作農耕文化はなによりも集団の共同労働が不可欠であるために、罪をもって直ちに共同体からの追放などの報いではなく、主観的に心情を改めることによって赦される文化が形成されたなどという説明があります。この説明はつい最近までの集団主義組織文化において示される罪と罰の態様を見れば明白かも知れません。与党幹事長は遂に元秘書に罪をかぶせて逃げることに成功しようとしており、トヨタはブレーキ系統のプログラムミスを運転者の感覚の問題としてごまかそうとしています。欧米ではとっくにリコールして無償修理している同じ車種を日本では運転者の問題に転化して責任を回避しようとしています。罪と罰をめぐる日本的な処理の文化がまたも、ケガレとキヨメという心情倫理のレベルで処理される惨状にあって、なぜ社会的批判は強められないのでしょう。
しかし時間はどれほどかかろうとも、日本の歩んできた歴史の恥部は白日の下にさらされ、真実のみで歴史が叙述される時がくることはまちがいありません。なぜなら日本文化と雖も、そして人間は虚偽に服従して生きることはできないからです。これは私という一個人の生活記録でも同じであるでしょう。わたし自身の生活記録を真実のみに依拠することぬきに、他者の真実を明らかにしていく資格はないとも言えるでしょう。わたし自身を含む日本の文化を恥の文化から責任の文化へと作り替えていくなかで、ほんとうの恥じらいの感覚を手にすることができるでしょう。
日本に於ける真実の恢復を証す画期的な判決が下されました。1942−45年に大手メデイアのジャーナリストが共産党再建の会合を開いたとして、治安維持法違反容疑で逮捕され、約30人が有罪判決を受け、4人が獄死したという検察による陰謀事件でした。1986年に再審請求が開始され、じつに65年を経て真実が確定するに到ったのです(検察は控訴するかも知れませんが)。横浜事件に限らず、戦前・戦時期において治安維持法の犠牲となった無実の人の名誉回復と補償はいまもっておこなわれていません。もし横浜事件の遺族たちが再審請求を起こさなかったら、日本現代史は虚偽の歴史記録を残すこととなったのです。あまりにこうした虚偽による作為の歴史が多すぎるのが日本歴史に他なりません。私たちとこれから生まれてくる未来の私たちは、なんと多くの虚偽の歴史を身につけていくことでしょう。(2010/2/3)
◆65年前にくりひろげられた惨事
ちょうど私が東アジアの小さな島国で何億万人目かの新しい生命としてこの世に姿をあらわそうとしている頃、欧州では想像を絶するような人間に対する抹殺が冷然と執行されていたのです。同じ頃に私の父親は、中国戦線に出征して死線を彷徨い(父は復員後いっさい従軍体験を語らず、深夜の就寝時になにか悲鳴のようなうわごとをあげて家族を驚かせました)、母は出産後に病魔に冒されてこの世を去ろうとしていました(父は自分の妻の死を復員後の玄関先で知ったのです)。しかし私の個人的な体験は、欧州で繰りひろげられた惨劇に較べれば、まだしも戦争の現象のごく一部に含められるでしょうが、欧州の惨事はまさにこの世の終わりに等しいものでした。ヒトラーのユダヤ人絶滅作戦「夜と霧命令」によって、東欧につくられた強制収容所で、わずか数年で600万人のユダヤ人たちが実際に殺されたのです。この数は1日に1万人以上を殺害しなければ出てこない数字です。現代科学の最先端を動員した青酸カリの毒ガスと焼却室でじっさいにこの数字は実際に実現したのです。現代科学の最先端は少し遅れて、広島・長崎での核エネルギー実験として成功しました。第2次大戦は、人類が創出してきた科学的営為の源泉である人間的理性のおぞましい本質を露呈するものとなりました。今年は欧州の収容所解放65周年です。
1月27日に国際ホロコースト記念日として全世界で追悼の式典が開かれました。1945年1月27日に、ソ連軍がポーランドのアウシュヴィッツとビルケナウ絶滅収容所を開放したことを記念して、2005年の国連総会で制定されたものです。アウシュヴィッツの追悼式典では、犠牲者の冥福を祈り悲劇を繰り返さない誓いの黙祷がおこなわれ、もと収容者150人も参加し、次の演説がありました(アウシュヴィッツでは110万人が殺害されました)。
「虐殺は将来も起こりえる。だからこそ忘れてはならない真実を伝えていかなければならない」(カチンスキ・ポーランド大統領)
「ナチスが我々に行ったことをけっして忘れない」(ネタニエフ・イスラエル首相)
「ホロコーストを生きのびた人が減っている一方で、虐殺にかかわった者たちがドイツや欧州、世界のその他の地域で暮らしている。あらゆる手段を講じて、彼らを司法の場に連れだしてほしい。これは報復のためではなく、教訓を残すためだ。私の祖父はベルラーシのシナゴーグ(ユダヤ教会)で住民と閉じこめられ、放火されて殺害された。どうして自分たちがすぐれた民族で、他は劣っているとみなすことができるのか」(ペレス・イスラエル大統領)
EU・基本権機関(FRA)は、記念館22施設のうち21施設で自分の役割を単に歴史的事実を伝える狭い領域にとどめ、歴史的事実を現代の問題として理解させるガイドや教師の人権訓練が不足しているとのべ、過去と現代をむすぶ課題の重要性を指摘しています。
私は現代と過去をむすぶ課題の一つに、ぜひともイスラエルのパレスチナ侵攻を具体的な教材として含めてほしいと思います。なぜなら、あれほどの大惨事を受けた被害民族が類似の収容政策をガザ地区で繰りひろげ、強制的な死を迫っているからであり、ここに人間或いは人間的理性と行動の乖離を示す劇的な事例はないと思うからです。私にこうした批判をイスラエルに放つ資格があるのかと問われるとうろたえます。なぜなら、広島・長崎の体験は現代日本で正当に継承されているか、戦時期の植民地支配の残虐について、戦後日本はみて見ぬふりをしてこなかったか、私たちはドイツ人以上に実は罪責を逃れて高度成長を謳歌してきた恥多き国に他ならないからです。在住外国人の参政権をとっくに認めている韓国に比して、日本はいまでも頓挫しています。
ホロコーストとは、異なる文化や意見、ふるまいの人間を排除して抹殺するという思考と行為の総体の象徴的で極限の事例に他なりません。いまの日本に、少数派を排除してイジメ差別していく事例がほんの少しでもあれば、ホロコーストはいまもって日本の課題に他なりません。いま日本では、アウシュヴィッツのような物理的な大量殺害機関ではなく、ソフトな装いで静かな沈黙のうちで、ジワジワと抹殺に等しい事態が進行しているような気がします。(2010/1/29)
◆すでにして21世紀は10年も過ぎようとしているのか?
2010年! ウーン21世紀に入ってすでに10年も過ぎようとしているのか? 毎年の正月に記している年頭の辞も、今年はなぜか気力が起きなかったのです。2009年の6月30日以降は、私にとって生涯のもっとも劇的な日々であり、それから半年はまだ従前の私に復帰していないといえようか。あれから描画も作曲も物語も一作も創作していないのです。生命のちからが少し衰えただけで、これほどに表現の気力が去っていくとは、、、、。しかし2010年もすでにして20日も過ぎようとしているこの日々に、少しづつ気力が戻ってきているような気配を覚えるのです。いまそれは、下手なピアノ演奏という現象にあらわれているように思うのですが、2時間弱のあいだを演奏にうちこんでいると、なにか胸の裡から恍惚たるクリエイテイブな気持が満ちてくるのです。いよいよ本格的な再出発の前触れなのでしょうか、そうであってくれればいいのですが。
さてさて新年の初頭は、なにかよく分からない迷走の風景が日本全体を霧が覆うようにたれこめ、いつにない寒暖の差の激しい季節が過ぎようとしています。思いおこせば、この1月から3月の季節は、1年間の積み重ねてきた行為を一瞬に凝縮するような濃密な時間となるのですが(企業では決算期、、市民では確定申告期、学校では受験と卒業期)、私はいつもこの1年間はいったい何だったのかーという慚愧の念に囚われて、冷気ただよう鬱々とした時を過ごしてきました。そうした私の経験上の気分が、あたかも日本列島全体に蔓延しているようで、いったいこの国はどこへ行こうとしているのだろうーと少々本気を交えた心配の気持が強まってくるのです。
この国の正式の名称は「日本国」というのですが、普通の国名はその国の政治システムを象徴する用語(「帝国」「民主共和国」「民国」)など)で尊称するのですが、日本のみがたんに「国」と呼称しています。いったいこの意味は何なんでしょう。すくなくとも戦前は「大日本帝国」というすごく意気込んだ命名をしていたのですが、敗戦後は一気に謙虚になったのでしょうか? いやいやどうもそこには何かいわくがありそうです。おそらく国民主権でありながら、しかも象徴天皇制という元首を頂くという複雑な政治システムを選んだがために、本来は「日本共和国」をめざしながら、実質的には立憲君主制というシステムの矛盾を克服するために、たんなる国号にしたのではないかと思うのです。こうした歴史的な或いは制度的な事実を言語表現で切り抜ける方法は戦前期の日本の手柄であり、戦争→事変、撤退→転進などと読み替えて事実を隠蔽するスタイルは戦後にも続き、軍隊→自衛隊、巡洋艦→イージス艦、軍事衛星→通信衛星などと言い換えています。このような言い換えは、軍事用語のみならず、社会の各分野に浸透し、お陰で日本は矛盾の正面からの対立を巧妙に回避することに成功してきたのです。
あいまいなシステムで表面的には平穏な日々が過ぎていく背後には、じつはちからへの無意識の信仰と顕在化しない権力への屈従が同時進行しているところに、ほんとうの恐ろしさがあります。伝統的なムラ共同体は、調和の世界にどっぷりと浸かっている人にとってはぬるま湯の居心地の良さがあるのですが、少数派や異端或いは被抑圧の弱者にはとりかえしのつかないリスクを負うシステムでもあるのです。22日の足利事件再審公判であきらかになった、菅谷さんの(63)の再自白の瞬間を見てみましょう。
森川検事「じゃ、いま迄ね、認めてたのが何で最近になって急に否定する気持になったの?」
菅谷「・・・・・」
森川検事「僕はずるくなれと言ったわけじゃないんだよ? ん?」「どうなんだい。ずるいんじゃないか、君」
菅谷「・・・・・」
森川検事「なんで僕の目を見て言わないの? そういうこと。さっきから君は、僕の目を一度も見てないよ」
菅谷「・・・・(涙ぐんだような声)」
森川検事「うん?」
菅谷「・・・・ごめんなさい、すいません」
森川検事「うそだったの?」
菅谷「(すすり泣くような声)」
森川検事「そうだね?」
菅谷「ごめんなさい。勘弁して下さい。勘弁してくださいよお」
まさに人間の神経が耐えられる極限状況における嘘の自白の瞬間であり、この瞬間に菅谷さんは人間の尊厳のすべてを投げだして屈服し、検事はドキドキするような気持で自白の言葉を待ちながら加虐の快楽を味わい、最期に喝采を叫んだのです。1992年12月8日の宇都宮拘置支所で、25分間の取り調べで彼は自白しています。この時に私はすでに就職して何か忙しく働いていました。22日の再審で謝罪を求めた菅谷さんに、森川検事は小さな声で拒否しています!? この検事は無辜の人を虚偽の自白に追い込んで獄中に閉じこめたことを謝罪しない人格なのです。これは検事の個人的な人間性というよりも、検察全体の組織的な体質なのです。
こうして無辜の人が10数年も獄に閉じこめられても、市井の人たちは、ほんとうに対立すべき時にしなかったり、仲よくすべき時に逆に対立したり、普通はなんでもいいからニコニコと笑顔で交際する、ずいぶん奇妙な社会システムと文化が空気のように浸潤してこの国の風土を侵してしまいました。大不況下の「格差」社会の深化と、政治的上部構造での新旧政権入り乱れての頽廃現象は、おそらく後世の歴史教科書には異常な時代であったと記されるほどですが、一部では声はあげても国民の大勢はじっと黙って堪え忍べば・・・とにかく自分だけは・・・とりあえず明日のことで忙しい・・・などと日常の喧噪に明け暮れているかのようです。これが1930年代であれば、強力な指導者による独裁を求める極右か、デモクラシーによる体制変革を求める左翼の両極に分解し、激烈な対立が誘発されていたことでしょう。しかしよく似た状況でありながら、この日本の風景は奇妙なほどに落ち着いています。たしかに非正規に転落する正社員とホームレスの激増や年間3万人を超す自殺者の群れは、もはや社会システムの維持機能が喪失しつつあることを示していますが、それほどに危機感が醸成されているとも思われません。なんなのでしょう・・・・このくに「日本国」は! こうした現状をいつわりなく分析し、正当なプランを探求して、次世代に不安なく手渡さねばなりません。新年も1ヶ月を過ぎようとしているいま、やっと私は、本気になって世界と自らを見つめなおそうとしています。どのような1年になるのでしょうか? (2010/1/22)
◆ハングルの普遍性と日本語
インドネシアの少数民族であるチアチア族(8万人)は、固有の文字をもたない無文字社会でしたが、08年に表音文字であるハングルの採用を決定し、今年から学校での本格的な教育に入りました。「他の文字では正確に表記できなかったが、ハングルによって単語の意味を失わずに表記できるようになった」(バウバウ市長)そうですが、私はある民族言語がこのように異民族によって利用されていくことに驚愕しました。表音文字であるならば、たとえばアルファベットのローマ字でもよいように思われるのですが、なぜハングル文字なのでしょう。ハングルはいうまでもなく、朝鮮語の簡略体として人工的に作り出されたものですが、ハングルに民族的な誇りを持つ朝鮮半島の人たちのナショナリテイを越えたある種の普遍性があるのです。
同じ表音文字である日本語の仮名文字は、なぜ世界的な普遍性を持たないのでしょうか。私は言語学の世界にくわしくありませんのでよくわかりませんが、かって旧日本軍が占領地で強制的に日本語を移植した過去の汚い政策を想起するまでもなく、言語政策の政治性について考えざるを得ません。日本は言語を強制したばかりか、朝鮮半島では異民族の姓名まで奪い、植民地国家の姓名に改正させ、国教まで強制しました。こうした異民族の内面に到る植民地化の痕跡は、現在まで傷跡深く、とくにアジアで無文字民族が日本語を表音文字として採用するなどほとんど考えられません。こうした政治的背景抜きに、ハングルが表音文字としてすぐれた普遍性を持つ言語であるならば、そうした人工語をつくりだした朝鮮民族の言語政策に率直に学ばねばなりません。バウバウとソウルの両市は今後の文化・芸術交流で合意したそうですが、その合意文書は共通ハングル語で記されているのです。
対するに世界の国際語は圧倒的に英語である現状をみれば、英語が国際的な普遍性を持つすぐれた言語だからというよりも、英米を中核とする帝国主義国家群が英語圏であったからに過ぎない。英語帝国主義が全世界を支配するなかで、チアチア族が英語(アルファベット)を採用しなかった勇気は奇跡的であり、最大限の称賛に値する。ひょっとしたら、もはや英語帝国主義は斜陽の時代になりつつあるのだろうか? おそらく世界的には、EUを中心に英語文化から自立する政策とともに、衰退言語となりつつあることは確かですが、東アジアの島国がいつまでも時代錯誤の英語狂いに狂奔しています。公立学校で小学校低学年から英語を導入し、街には自国言語よりも外来語の英語がかくもあふれかえっている国はないでしょう。民族文化への尊厳意識の高いフランスは、この日本の英語狂想曲を軽蔑しきって眺めています。
おそらく日本は、21世紀の遅くない時期に世界の先進国グループから脱落し、衰退から崩壊への道を歩んでいるのではないだろうか。チアチア族のハングル語採用は、たんに少数民族の言語政策の転換に留まらず、21世紀の地球の直面する普遍的な問題を象徴しているように思われます。この日本とならんで忌まわしい歴史を刻んでいる国が、イスラエルに他なりません。この国はユダヤ教とヘブライ語がほとんど一体化した文化のもとで悲惨な迫害を受け、デイアスポラとなって全世界を流浪し、20世紀の半ばにはナチスによって絶滅の対象となり、600万人が虐殺されました。彼らは民族の最期の生存を確保するために、父祖の地パレスチナへの帰還を果たして祖国を再建するシオニズム運動をくりひろげ、ついにイスラエルを建国しましたが、かれらのホロコースト経験は深く傷つき、あろうことかパレスチナ・アラブ人への逆ホロコーストともいえる迫害にのめり込んでいきました。ガザ地区の無差別封鎖は住民全体を対象とする制裁であり、戦闘後の家屋再建に必要なトラック数千台のうち、41台しか通過を許可していません。世界はイスラエルへの懸念を表明しましたが、政策を変える有意味な行動をとらず、ガザ地域住民は全世界から見捨てられています。まるでナチス期のユダヤ人と同じではありませんか。150万人が封じこめられているガザにたいする数十万jの支援金は、封鎖によってセメントや鉄鋼の搬入がストップし、ガザ地区住民の90%が1日4−8時間の停電状態にあり、下痢による若年死亡原因が12%に上る水質の悪化を招いています。イスラエルは昨年12月にガザに侵攻し、パレスチナ人1400人以上を殺害しました。全世界のキリスト教徒は、餓死するパレスチナのイスラムを横目に、今宵のクリスマス・イブを愉しんでいます。
東アジアの島国も、クリスチャンでない多くの人が、電飾で煌々と輝く街で楽しくイブを過ごしています。これほどの偽善が世に存在していることなどどこ吹く風で。 (2009/12/24)
◆99円でケリをつける精神の恐るべき貧困
このニュースを私は赤面して聞きました。日本はここまで恥知らずのふるまいに頽廃してしまっているのです。太平洋戦争期に「朝鮮女子勤労挺身隊」として名古屋市の三菱重工業で働いた韓国人女性7人に、社会保険庁が旧保険法により1人99円の厚生年金脱退手当を支払ったということです。梁錦徳さん(78歳 光州市)は、31年に朝鮮半島南西部の農家の6人兄弟の末っ子に生まれ、教師の「日本で働けば学校へ通って家が建つほど金が貰える」と聞いて、6年生の時に先輩など23人と一緒に、名古屋の三菱重工で働き、賄い付きの寮住まいで朝から晩まで働き、10ヶ月後に富山工場に移ったが、給料は会社が貯金しもらったことはなかった。終戦後に帰郷すると「慰安婦」とみなされて迫害され、それを隠して21歳で結婚して3児の母となったが、経歴を知った夫が家を出てから、乞食をしながら子どもたちと飢えをしのいできた。日本名・梁川金子の年金記録を確認し、脱退手当を申請してから11年が過ぎた結果が99円だった。「まさか物乞いして貰える金額とは・・・挺身隊で人生が狂った、騙されて徴用され償いもなく待たされ、あげくにこの結果。くやしい。65年間の苦労を換算してほしい」
勤労女子挺身隊は、実質的には半強制的な不払い労働であり、旧政府と企業の責任において賠償の対象となることは、ドイツの場合を見ても明らかです。三菱重工はこの責任を認めず、あいかわらず軍用機製造に狂奔していますが、公共機関である社会保険庁の99円感覚はそれ以上に何か、非人間的なゾッとするような冷酷さをおぼえて恥じらうばかりです。確かに認定そのものに意味があるかも知れませんが(訴訟弁護団内河弁護士)、法制度以前の汚らわしい動物的な冷酷さをおぼえます。この一事だけで東アジア共同体構想が実現不可能なおめでたいプランだということを改めて確認するでしょう。社会保険庁は消えた年金問題で、最低限の実務能力すらないことを暴露しましたが、人間的レベルにおいても最悪の恥知らずだと言うことを示しています。この記事のすぐ下に、76歳の誕生日を迎えた天皇が「日々の務め、幸せ感じる」というコメントとともに、日本が困難を乗り越えてきたとふり返っていますが、朝日新聞はこの戯画的な非対称性を無自覚に編集したのでしょうか、それとも意図的に編集したのでしょうか?
おどろいたことに、沖縄返還時の核兵器持ち込みの密約文書を佐藤元首相の遺族が保管していることが判明しました。非核3原則という日本の外交の最高原則を足蹴にして、主権を蹂躙する秘密協定を勝手にむすんで、しかもその公文書を私的に所持するこの恐るべき無神経なシステムに、日本の政治中枢の構造はなっているのです。この佐藤とかいう首相は、いったいどのような神経でストックフォルムに、ノーベル平和賞をもらいにノコノコとでかけていったのでしょうか。弱者にあくまで強く、強者に媚びへつらう日本的な集団的垂直構造がみごとな姿をあらわしています。嘉手納、那覇、辺野古など実名で登場している核兵器貯蔵基地は「いつでも使用可能な状態」にあるそうですから、現在でも沖縄は核武装しているのです。国民を平然と裏切ってはノーベル賞のメダルに戯れるこの人物の神経は、ヒトラーとかわるところはありません。
労働政策審議会は登録型派遣の労働者派遣法改正を5年後に先送りする改正案をまとめ、しかも製造業派遣の常用雇用禁止例外とし、短期雇用の反復による実質派遣を許容し、違法派遣の発覚時の実効性が曖昧となっています。こうしてトヨタでもNTTでも相変わらずの派遣労働が横行し、奴隷的な実態が野放しとなっています。とくにトヨタは、世界最大の非正規雇用比率によって最大限利潤を実現しながら、また系列部品メーカーに単価30%引き下げを命令しました。00年にもおなじような単価叩きで6年で1兆円のコスト削減をおこないながら、またも下請に犠牲を転嫁するトヨタ生産システムの非情をあらわにし、対応する下請は人件費を極度に切りつめるか倒産かの選択を迫られます。このような悪代官のような経営を続けている限り、トヨタは私が不買運動を呼びかけるまでもなく、自ら倒産するでしょう。
年末までに解雇される非正規労働者は、厚労省把握(届出)のみで約25万人であり、さらに年末までに失業給付が切れ再就職の見込がない人が年末年始にかけて数十万人に上るとみられ、各地で派遣村の開設準備が急ピッチで進んでいます。ところが新政権は、失業給付の延長さえおこなわず、ハローワークのワンストップ・サービスも生活保護申請は受けつけないなどと冷酷な施策となっています。厚労省の緊急一事宿泊施設(シェルター)の2025部屋(12億2千万円)は、26自治体513部屋の目標値に留まり、機能マヒしています。その理由は、自治体がシェルターをつくると、近隣から他の地域のホームレスが流れ込み、受け入れ後の生活保障対応ができなくなり、とりあえず自分の処だけに集中するのを防ぐ意図があるからだそうです。なんという姑息で破廉恥な発想でしょう。すべての自治体が真摯に開設すれば、集中の偏倚は起こらないということがわかっているのに、痛みを分かち合って救済するという初歩的なヒューマニズムが欠落しているのです。これが年末に私がもっとも頭にきたことです。
介護を必要とする高齢者で特養ホームへの入所ができないで待機する老人がついに42万1千人を超えました(22日 厚労省発表)。自宅待機が19万9千人(47%)、介護老人保険施設7万2千人、病院など医療機関5万4千人、グループホーム1万3千人であり、要介護4以上が425を占めています。とくに自宅待機は独居老人が多く、孤独死や自殺が急増することが予測されます。内閣府の高齢者実態調査(09年2−3月全国60歳以上男女5千人対象 3398人回答)では、生活が苦しい19,2%、大変苦しい7,2%、普通65,2%、ややゆとりがある7,4%、たいへんゆとりがある1,1%となっており、大変苦しいという人で衣服が買えない19,3%、食料が買えない15,6%、水道・電気・ガスが止められた4,9%となっています。病気などで困ったときに相談できる人がいないとするひとが、独居男性の24,4%、独居女性の9,3%となっています。
コイズム構造改革の司令官であった竹中ナントカの号令によってすすめられた老後の社会保障は、後期高齢者医療に象徴される姨捨山に棄てる遺棄政策であり、もはや日本の老後はゆとりがある10%弱の人しか生きていく条件はなく、餓死か孤独死か自殺が約束されています。非正規労働力にすらなれない老人は、もはや余計な者として抹殺されるのです。
外国人に99円しか払わない強制連行と強制労働の発想は、国内では非労働力への抹殺政策と連動し、本質的に資本の最大限利潤法則の発現でしかありません。前回の階級の深化のこれが、実態なのです。もはや怒りも抵抗もなく、粛々と地獄へのみちをひたすらに転落している日本は、冬の夜をイルミネーションでいくら飾り立てても、汚いゴミのような構造を隠すことはできません。では希望はないのでしょうか? 安易に希望を語ることができない現状では、1960年代へのノスタルジックな回顧がすすんでいます。この回顧の精神がもし前に向かい、現在と未来を切りひらく見通しを手にしてエネルギーに転化したならば、そこに唯一の希望があります。私はパンドラの箱の底には、やはり希望が姿を隠して残っていることを信じます。それを見たい人は、年末年始の近くで開かれる派遣村に顔を出してみて下さい。そこに絶望などと呑気に戯れるのではない、目の前にある救いにちからを尽くしている人たちの忙しく動く姿を見るでしょう。そこに現代の確かな希望があります。(2009/12/23)
◆階級の現在
アメリカのある大手証券会社は、主要な居住用不動産を除く最低100万j(9000万円)以上の純資産の所有者を富裕層と定義しています。この定義によると、08年末世界の富裕層は860万人であり、その総資産は32兆8000億j(約3000兆円)になり、うち日本の富裕層は136万人(世界の16%)に達しています。自宅を除いて80億円の資産を所有し、毎年母親から9億円の子ども手当をもらっている日本の首相も当然に富裕層に入ります。他方で、1日1ドル未満で生活している極貧層は世界で10億人に達し、これを救う費用は世界の最富裕層10%の所得のわずか1,6%(3000億j 27兆円)にすぎません(国連05年報告)。この国連報告の基底にあるのは、階級の存在を前提として認めたうえで、所得再分配によって貧困の相対化を図ろうとするものですが、現在ではこうした最低の人道主義的な救貧も機能せず、日本の首相は9億円の小遣いを浪費し、今日も多くの人が飢餓線上をさまよっています。
世界の16%を占める日本の136万人の富裕層の背景にはなにがあるのでしょうか。日本の貧富の格差は戦前の寄生地主制の崩壊によって大幅に縮小しましたが、50年代の戦後経済復興のなかで徐々に拡大し、さらに60年代以降の高度成長期には縮小に転じ(「1億総中流時代」?)、80年代から格差拡大の時代に突入し、00年代以降は主として非正規雇用の急拡大による新しい階級社会の形成期に入っています(橋本健二説)。極端な低賃金と家族形成の困難によって次世代の再生産が危機に瀕するという世界でも異様な格差社会になってきました。この非正規労働者階級は、欧米型の同一労働同一賃金の非正規とは異なり、もはや労働者階級とは云えないアンダークラス、いわばジュ救貧民階層です。このアンダークラスは、92年の384万人(全就業人口の6%)から現在では800万人(12,8%)へと急増し、もはやマイノリテイとは云えない主要な階級構成層となっています。あのライオンヘアーとタケナカナントカによるシカゴ学派原理主義によって、あっというまに惨憺たる状況へ加速度的に転落してしまったのはなぜでしょうか。
日本は世界でも驚くべき異常な社会構成となっています。「日本では派遣や期間労働者がすごい速度で着られているのにショックを受ける。雇用保険などSNがなく労働者は絶壁から谷へ転落している」(ドイツ第1国営TV東アジア支局長)。失業給付不受給者割合は、日本77%、米国57%、英国40%、仏18%、独13%となっており、自動車産業に占める非正規比率はトヨタ20,3%、ダイムラー3,5%、プジョー・シトロエン8,5%となっていますが、あなたはこれらのデーターを見てどのように思われますか。
EUでは正規も非正規も労働時間、賃金、有給休暇、医療、年金はすべて時間比例による均等待遇となっており、同一価値労働・同一賃金が確立しています。週40時間のフルタイムの年収が600万円であれば、週20時間パートは300万円なのです(日本のパートは約130万円!)。こうした均等待遇は、EUパートタイム指令・派遣労働指令・ILOパトタイム労働175号条約で義務化されています。日本はILO111号条約(雇用差別禁止)の未批准国14ヵ国の一つであり、先進国では米国と日本だけです。ILOは全部で183のい国際条約を決めていますが、日本が批准しているのは48条約(25、5%)に過ぎず、とくに労働時間・有給休暇関連の18本はすべて批准していません。従ってあの最低の国際標準である1号条約の8時間労働制すら批准していないのです。日本では労働時間の上限規制はなく、、労基法36協定によって無制限の残業が強制されます。日本のパート労働法は、正社員と同一視できるパートのみ(15)にのみ均等待遇が義務づけられるに過ぎません。こうしためくるめくような差異の基底にはEU社会の社会的完全参加思想があり、日本のように男性中堅正社員を基軸とする社会構成ではなく、マイノリテイを含めて誰も補助的存在ではなく平等な世紀の社会的存在とみなすのです。だから日本では正社員のなかでも、外資系をめざす人が後を絶たないのです。
なぜ日本はかくも異様で特殊で異常な例外的社会が蔓延してしまったのでしょうか。このほんとうの原因を明らかにしない限り、日本の階級断絶はますます深化して、相当のコンフリクトを誘発しない限り克服することは困難でしょう。世代の再生産が不可能となって、社会そのものが崩壊していく危機があらわになり、もはや取りかえしが付かないという極限に到らない限り、システム転換はないでしょうが、その時はほんとうに取りかえしがつかない不可逆的な地獄の惨状を呈しているでしょう。ではほんとうの原因はなんでしょうか? そしてこの階級化の極大化を食いとめるどのような見通しをもてるのでしょうか?
問題をしぼって、なぜ日本的終身雇用制を中心とする企業集団主義がかくもアッサリと無残に崩壊し、いとも簡単に米国型の企業構造が直線的に輸入されたのでしょうか? その根底にはそれなりに共同の関係が相互扶助を実現してきた日本型社会が、なぜかくもアッサリと崩壊して市場原理型競争主義のシステムへとのめり込んでいったのかという問題と同じ質があります。市民社会の未成熟、戦後日本のアメリカモデル化、、日本型企業主義社会のゆがみ、管理社会化の進展、日本型文化の独自性などさまざまの視点で分析され、それぞれに独自の有意味な結果をもたらしていますが、現実そのものはよりいっそう悪化して見通しを持つこと自体が困難となっています。なによりも、自己責任論が浸透して、惨状に追いつめられている人たち、とくに若者が、なぜ怒らないのか? なぜ異議申し立てをしないのか? なにか日本から怒りの感情そのものが衰弱して、或いは表情そのものがなくなって、荒涼たる原野をさまよう子羊の群れのようになってはいませんか? こうした怒りの感情の衰弱に比例して、1968年代のヤングパワーの氾濫をノスタルジックに回顧するブームのような現象が起きていますが、なにか虚しい自己逃避と責任回避と自己慰安にしかみえません。勇ましかった過去の勇姿を想い出しても、現在のみじめな自己の姿を再確認して終わるのです。もはや出口や見通しはなく、夜は明けないのでしょうか? 私たちはそれでもなお人生にイエスといえるのでしょうか? 理論的分析の無力を味わう日々をどう突破できるのでしょうか?(続く 2009/12/20)
◆この頽廃と狂気のただよう日本列島の風景
11月13日の夕方5時、暗くなり始めた名古屋駅前でカウントダウンがはじまった。世界最大の名古屋駅ビルのJRセントラルタワーズの壁面に光の世界が現れ、歓声が上がった。タワーズライツと称する色鮮やかなイルミネーションが点灯され、四季の風景毎に変化する夢の世界を居眠りした子どもが散歩するというコンセプトが輝きを放ち、沢山の人が見入っている。おりからはるか離れたデンマークのコペンハーゲンでは、、地球温暖化をめぐる世界会議が開催され、温度上昇を2度に抑える対策を必死に話しあっている。いったいあのイルミネーションがどれほどの電力を消費し、温暖化に貢献しているか、JR東海のスタッフは考えたのだろうか? 地上では若い恋人たちが肩を抱きながら、、幸せそうなひとみでじっと見あげている。24日のクリスマス・イブの夜は若いカップルで、このタワーホテルの部屋は満室になるのだそうで、あの若者たちも列をなして予約に駆けつけてきたに違いない。しかし残念ながら、半年前に予約しないと部屋は取れないので、若者たちは肩を落として残念そうに帰っていく。おりからはるか離れた都市高速の高架下では、職を失った派遣の人たちが、いっぱいの豚汁を求めて寒さに震えながらならんでいる。
私の住む家の隣の家も、煌々と光り輝く電飾でこれ見よがしに飾り立てて居宅をくっきりと浮き彫りにしている。まるで市場原理主義の勝者が我が勝利を誇りたてているかのようだ。かって日本の夜は暗く、家族は家の中でじっくりと団らんにふけって長い夜を過ごした。欧州、とくに北欧に行けば、夜は暗く、街は静まりかえっている。人間の生活の24時間は、昼と夜に区分され、労働と仕事の昼と、団らんと文化の夜に区分けされて、人間らしい生活がゆっくりと流れていたが、いまや地上から夜は追放され、24時間昼のように明るい人工照明のもとで労働が区切れることなく続き、歓楽の夜は昼の明るさのなかで営まれる。こうした異常がもはや常態となって生活を覆い、なんの疑問もなく昼の生活で一生を終えるようになった。これは狂気の頽廃ではないのだろうか? 人間の生体リズムは狂い始め、身体と神経を病む人たちが急増し、地球の生態系そのものが危機に瀕するようになっているにもかかわらず、そのリスクをつぎつぎと後世に先送りしてこの瞬間を愉しんでいる。
この神経を病んだ典型的な人物が太宰治であり、会ってくれなければ自殺すると脅して井伏鱒二の家に押しかけ、薬物中毒となって精神病院に入院し、妻を泣かせて婚外子をもうけ、坂口安吾を腰巾着のようにこき使い、あげくの果てに愛人と玉川で入水自殺した(私はその現場に行ってみたが、あの30cmもない浅い川でなぜ死ねたのか不思議だった)。おまけに遺書に「みんな卑しい人ばかりです、井伏さんは悪人です」と書き残した神経には呆れる他はない。当時の日本でもっとも卑しい人生を歩んだ自分をおいて、他人を卑しめるとは! しかし不思議なことに日本人の多くは、太宰を天才故の異常な所業ともてはやし、無頼派のチャンピオンとして、不安定な傷つきやすさに共感して、いまでもベストセラーのトップを走る存在となっている。太宰の狂気は、地球環境の危機に瀕して、巨大ビルをイルミネーションで飾り立て、自宅を電飾でかがやかせて恥じない日本と同じく、もはや頽廃の極地にある。極地とは頽廃そのものを自覚し得ないほどに頽廃が極まっていることをいう。
こうした頽廃に直感的な反抗の異議を唱えても、それは虚しい敗者の遠吠えに過ぎないようだ。ロック・バンド「頭脳警察」は、1972年にファスト・アルバムの歌詞が過激すぎるとして、ビクターが販売を中止し、2作目も発売1ヶ月後に回収処分となった。世界革命戦争宣言を歌い、ふざけんじゃねえ/てめえの善人面を/ふざけるんじゃねえよ/いつかぶっとばしてやらあ・・・と3作目に歌い、彼らは新左翼運動のアイドルとして利用された。時代が変わりバブルにはいると、彼らはクルッと姿勢を変えて消費生活に対応するファッショナブルな歌に転換して時流に乗ろうとした。そしていま彼らはどう歌っているか? ああ 何も変わらない/それなのに/それなのに/ああ 変わった振りをしている/あまえのため/ほら万物流転・・・などと、多くの日本人の最期がたどる仏教的な輪廻の世界に帰依しようとしている。かって国家解体を叫んでさわいだ全共闘の連中は、いまは企業社会の戦士となってあくせくと働き、何ごともなかったように退職を迎えようとしている。このはてどもない無自覚の転向現象こそ、戦前以来の日本文化の特徴だった。少しは良心が痛む人々は、せめて沈黙を守り、家族生活に沈潜した。しかし「行動することのない良心は悪の側にいる」(金大中)という85歳でなくなった韓国の大統領の遺言は、むなしく聞く耳を持たないだろう。
かくまでに頽廃して狂気のただよう明るい電飾のかがやく日本は、もはや絶望なのだろうか? ウーン、むつかしい、最悪のシナリオでは温暖化による地球滅亡は80年という予測もあるが、それはニヒルな終末史観でしかないのだろうか。私は江戸期の只野真葛という女性史家を初めて知った。『赤蝦夷風説考』を書いた仙台藩医・工藤平助の娘で、驚嘆するような世界と時代認識を示している。これほどに独創的な思想家が封建社会に存在したとは、しかも女性ではないか!
「ロシアでは建具屋や獣問屋・酒問屋の頭が老中となり、養老院や孤児院もある。どうして日本はそうではないのか。一天四海をしろしめす皇尊の、国人の油を絞らせられて御身を富ませ給うは汚らわしきことならずや(領地の少ない天皇が御所のカネで高利貸しをしていることを批判)。オロシャでは、歴々の役人も供人も連れず国王のみ5人ほどの警護で外出するが、日本のお供の多さは嘘みたいだ。いまの世の人気はやりは人を倒して我富まんと思う心。なんとかこの心を翻し人良かれ我も良かれと思わせたい。女ひとりの心として世界の人を助けたく思う。世界の万民がカネ争いに苦しむ心の乱世はなんぞや」(『只野真葛集』)。只野は自分の原稿である「独考」を滝沢馬琴に見せて、添削と出版を依頼したが、馬琴は絶交を通告し、原本は関東大震災で焼失し、この女性思想家は歴史に埋もれてしまった。私はこの女性の存在によって、近世期江戸の日本のみならず、現代の日本も救われるような気がする。まるで『自然真営道』を書いた安藤昌益の女性版ではないか。昌益も生存時には危険思想として出版は諦めて、手書きで原稿を密かに回し読みした。こうした男女が確かにいた日本歴史に救いを感じる。
おそらく将来の日本は、昼と夜を画然と区別する生活様式を再構築し、昼は労働の愉しみを味わい、夜は静かに文化を愉しむ静謐な時間を取りもどすに違いない。しっとりと暗い時間は、思考と瞑想をめぐらせ、深い創造の泉の時間となるだろう。確かに夜の酒はうまい、酒を酌み交わして談笑する酩酊の時間は何物にも代え難い至福がある。それもよかろう。これみよがしに電飾をたぎらせ、カネで吊り上げた異性を弄ぶ頽廃の時間は恥じらいとなるだろう。(2009/12/19)
◆いまや若者の未来はとざされてしまったのか?
来春卒業予定の高校生の就職内定率が、55,2%(!)となりました(10月時点 前年同月比11,6%減)。18万7360人の就職希望者のうち、8万4008人が失業に危機にあります。男子内定率59,4%(ー12,4%)、女子内定率49,6%(ー10,7%)であり、学科別では看護科19,4%、普通科42,4%、工業科73,2%、福祉科57,6%となっています。地域別では、沖縄26,0%、北海道30,8%、宮城38,6%と低く、富山73,4%、岐阜72,8%、愛知72,0%とはなはだしい地域格差があります。04年度に次ぐ低水準の内定率で下落幅は過去最大となっています。以上文科省発表。この若者たちにとって、「健康で文化的な最低生活を営む権利」(日本国憲法25条)や「人は自己の尊厳と自己の人格の自由な発展に欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する」(世界人権宣言)は、なんの意味もなさず、路頭に放擲されてさまよう生活が約束されたのです。
ちょうどこの発表がおこなわれている頃に、日本の首相は実母から9億円の巨額資金の提供を受け、故人からの献金→首相の自己資金→実母からの貸付→実母からの贈与とつぎつぎと言い訳と説明を変えて、意図的な脱税を粉糊しようとしています。皆さまは税務署の職員が令状もないままに、自宅に踏み込んで乱暴に調査する宮本信子主演の映画をご覧になったことがあるでしょうか。零細業者への脱税追求は苛烈をきわめているのに、大資産家の首相には事情調査すらしない税務署や検察の姿をあなたはどう思われますか? 泥棒が人のものを盗んだのがばれて、盗んだものを返せばいいだろうと云っているのが、いまの首相の態度なのです。日本列島に荒涼とひろがる若者の失業の風景の一方で、電飾で飾り立てた御殿で「めぐまれた出生」を満喫している首相・・・このめくるめくような非対称性の醜い姿に神経を乱されない首相はあっぱれを通り越して唖然とさせられます。
またもや二人の無期囚の再審が開始され、無罪釈放の可能性がたまかっています。布川事件と呼ばれるこの事件では、足利事件と同じく、検事の取り調べ過程の拷問による自白が最大の証拠として無期懲役が確定しました。嘘発見器や目撃証言によって自供に追い込んだ検察は、自白過程の録音も意図的に操作して編集したと認定されました。すべての冤罪事件をみると、残念ながら被疑者たちが憲法の人権条項に無知であり、苛烈な取り調べの神経戦にその場を緊急避難する自供に追い込まれる点で共通しています。冤罪の被害者たちの表情は、ほんとうに素朴で人の良さそうなもので、ひょっとしたら検事の意気に感じてみずから協力しようという気持になったのではないかとさえ思わされます。自白さえあれば、検察は後はそれを補強する物的証拠と証言をでっち上げればよく、権力の脅威におびえる無辜の市民は検察に協力してしまうのです。ここまでの迫力を持つ検察の権力は、なぜか首相のような権力層には向けられません。それは検察機構自身が、首相の権力システムに包摂され、権力を指弾するような正義感ある検事は隠然たる排除の対象となるのでしょうか。最高権力の交代があるときにのみ、検察は敗者の権力を追い落とすことにいそしみます。
第2次大戦中に日本軍に強制動員されて、連合国にBC級戦犯として裁かれた朝鮮半島出身者が、名誉回復と補償を求めています。彼らは強制されて日本軍の命令を執行して、死刑となってこの世を去ったのです。彼らはいったいなんのために死ななければならなかったのか、残された遺族たちは父親の名誉を回復する最期の行動に訴えていますが、日本政府は韓国併合100周年の2010年を前にして冷酷な拒否の姿勢をみせ、戦犯関連資料の公開すら拒んでいます。ここに日本の政府と検察の正義の水準がみごとに象徴されています。着実に補償を進め共通の未来を構築しようとするドイツ政府に比して、日本は全世界の嘲笑を浴びて潜在的な不信が集中しています。
財界は優先政策事項10項目について政党の政策をA-Eの5段階評価をおこない、そのレベルで企業献金をする政策買収戦略を実施し、法人実効税率引き下げや労働法制規制緩和、多国籍企業の超国境措置、憲法改正などを掲げてその大部分を実現し、現在の首相も消費税増税など残された目標にちからを注ぎ、自らの政治資金の脱税を乗り切ろうとしていますが、その背後には累々たる若者の失業の風景がひろがっています。
いま毎日100人近くの人が自殺しています(08年度32,249人 男22,831 女9,418人)。その10倍に上る人が、つまり1000人に近い人が自殺を試みています。1人の自殺の背景には、平均すると失業や多重債務、過労や介護疲れ、うつ病など4つの要因が潜んでいると云われます。年末や年度末が近づいているいま、追いつめられて不本意な死を迫られる人が増えていくことが予測されます。ちなみに場所別の自殺率は、自宅17,511人(54,3%)、乗り物3,334人(10,3%)、高層ビル1,656人(5,1%)、海湖河川1,649人(5,1%)、山1,387人(4,3%)、その他6,712人(20,9%)となっており、自宅が圧倒的です(内閣府『08年自殺対策白書』)。政府の緊急対策チームの「自殺対策100日プラン」(11月27日)は、年末と年度末に向けての生きる支援の緊急拡充をうたい、中小零細企業経営者と失業者のハイリスク群と、多発地帯へのワンストップサービスを実施するとしています。たしかに相談しやすい恒常的な仕組みは効果的だと思いますが、なにか100日プランなどという名称自体が企業の営業目標のような冷ややかなマーケッテイング・イメージがただよい、自殺の基本にある社会的要因の解決を回避しているように見えませんか? 9億円も母親からもらって平然と隠している首相の行為を、倒産寸前の経営者はどのような気持で見ているのでしょうか? 9億円の献金をごまかす首相の責任こそ、日本の自殺を解決する大きな方法の一つです。
荒涼たる地獄のような風景がひろがって惨憺たる時代の渦中にいる日本は、さすがに出口を求めて政権交代という幻想を選択しましたが、その幻想が次第に虚妄をあらわにし始め、もはやどこへ向かったらいいのか混迷の渦がひろがっているようにおもいます。フタを開けたパンドラの箱から、すべての邪悪な「悪」が飛び立って地上に氾濫しましたが、最期に残っているはずの「希望」は実はどこにもないのではないでしょうか? 8万4008人の高卒予定者のひとみが日本を凝視しています。(2009/12/16)
◆誰が若者を自傷行為に追い込んでいるのか?
自傷行為とは、意図的に自分の身体を障破することによって、感情の混乱を一時的に沈静化する衝動的な行為であり、リストカットやアームカット、レッグカットなどがあります。アルコールや薬物乱用、過食と嘔吐などの摂食障害や抜け毛癖などと並行して起こり、反復して習慣化し自傷癖に発展する場合があります。自傷行為は必ずしも自殺との連動性はありませんが、身体の障破は時に生命に危険をもたらす場合もあります。自傷行為の原因は、個人や家族、友人やその他の集団のコンフリクトを誘因とする場合が多く、自己肯定感がいちじるしく衰弱し自分の感情がコントロールできなくなることにあります。「私は自分が大嫌いで、生まれてこなければよかったと思うこともしばしばです」(13歳女性)とか「気持をコントロールできなくて、泣くか自傷するかのどっちかです」(16歳女性)などとくに若い世代に誘発しています。
自傷行為への臨床心理的助言は、主として対症療法的であり、とりあえずどう回避するかに絞られます。
@身近に道具となるものを置かず、自傷行為の代替行為をおこなうこと(日記、カウンセラーに相談、外出して映画を観る、散歩やスポーツ観戦をする、好きな音楽を聴く、熱いシャワーを浴びる、アロマを嗅ぐ、冷たい氷を強く握る)によって、自傷に替わる身体刺激による五感を作用させる
A混乱する感情(悲しみ、寂しさ、見捨てられた気持、不安、怒り、罪悪感など)の渦巻きの取扱かたのトレーニングをおこなう、自分の感情そのものが分からない人はカウンセリングを利用する
B自分のはまりやすいクセや特徴を自覚しておくこと(良いことがあってもそれを見ないで悪いことをさがす、人の良いところは大きく見え自分の良いところは小さく見る双眼鏡トリック、落ちこぼれ・なまけもの・自分は駄目などのレッテルを貼るラベリング、あることをすべてにひろげる過度の一般化、べき・ねばならないなどの完璧思考など)
このように臨床心理的アプローチは、いま・ここにあるその人の行為をSOSとして緊急に回避し、生命の当面の危機を回避したうえで、それを契機にできうれば新たなコミュニケーションへのチャンスにしようというもので、こうした緊急避難的なアプローチはその限りで非常に重要な意味を持っています。しかし自殺救済アプローチと同様に、痛ましい行為の背後にあるマクロな要因との総合的なアプローチがなければ、こうした社会病理現象の基本的な解決への道は閉ざされます。では自傷行為のマクロ的な要因はなんでしょうか? 自傷行為の動機の多くは、自己肯定感の極度の衰弱による感情の混沌の深化にあります。ではなぜ自己肯定感が極度に低下するのでしょうか。自傷行為の発生件数はほぼ自殺率とパラレルであり、薬物犯罪発生件数や失業率とも間接的に連動しています。こうした総合的な指数の相互関係の基底にある社会構造の特質に注目するならば、生きているその時代の生活感情の質になんらかの変化が生じていることになります。自殺や自傷は、なんらかの自己肯定感の欠如が自己そのものへの攻撃にむかっています。さてこれらの社会病理現象は統計的に1980年代以降から増加し始め、とくに1990年代に入ってから、発生件数の絶対的な増加と低年齢化が有意な特徴を示しています。少なくともここから、日本の青少年期の育ちの家過程、教育と学校システムに、何か自己肯定感を衰弱させる大きな変動があったのではないかと推定されます。
日本の家族形態の核家族化が急進展し、第2次・第3次産業化による地域共同体の衰弱が、明らかに子育ての地域力を衰弱させ、子どもたちが地域で生き生きと遊ぶことなく、自宅の個室にこもる生活になっていきました。子どもたちは、公園デビューから少しの時間をおいて、塾と自宅と学校の三角移動に特化し、兄弟間葛藤や地域での異年齢間葛藤を体験することなく、従って自己を多様な摩擦にさらす体験をすることなく成長していきます。しかしここまでの現象は、多くの先進国共通の現象であり、なぜ日本だけが極端に自傷と自殺率が急増しているかの説明にはなりません。おそらく教育と学校システムに自己肯定感を衰弱させる、なんらかの政策変動があったと推定されます。
では1990年代以降の日本の教育政策の変動を見てみますと、明らかにそれまでの共同的なスタイルから、シカゴ学派の市場原理を政策化した競争システムに大転換し、学校は特定の学力での勝敗を競う修羅場と化してしまいました。これはOECD使節団が日本の教育の過度の競争性を批判する報告を政府に送付したことにもあらわれています。こうした市場原理的な競争教育によって、上位20%の子どもたちは日本の将来を担う層として位置づけられ、下位80%は教育投資として無駄な層であるとされ、競争はますます激化していきました。このような競争教育は米国モデルの短絡的な適用に過ぎないのですが、米国では自傷行為や自殺率の急増はみられず、逆に銃犯罪や薬物犯罪などの外向的な攻撃行動が誘発されています。この日米の違いはなんなのでしょうか?
日本は伝統的な集団主義文化を超克した、いい意味での個人文化が成熟しないままに、この原理を核とする米国型モデルが機械的に適用された結果、個人は従来の伝統的な集団主義的文化のなかで競争を自己内的に処理し、市場原理的な敗北は自己責任として内向的な否と攻撃に向かったのです。学校でも職場でも、この自立の文化は育たず、個の成熟した権利意識の相互承認は実現しないままに、集団主義的なタテの権威関係が存続し、下位層に位置したメンバーは上に対する反対行為よりも自滅的な内向をえらばざるを得なかったのです。
したがって若者に誘発されている自傷行為の解決は、臨床心理的な対症療法とともに、基本的なシステム転換を選択するなかでしか可能性はありません。(以下続 2009/12/13)
◆アメリカ留学はなぜ劇的に減っているのか?
文科省調査によると、日本の海外留学生は05年総数8万人と10年前の1,3倍に絶対的な増加を示していますが、地域別では米国が97年75%(4万7千人)→05年50%→07年3万4千人と激減し、中国が05年1万9千人と10年前の10倍以上に激増し、アジア地域が増加しています(朝日新聞12月10日付け)。この理由はなんでしょうか? 留学機関は中国の大学との交換留学協定の増加をあげていますが、米国志望の学生のなかに、米国の過激な競争原理を忌避する傾向が強くなって、カナダや豪州を選択する傾向があるといいます。日本人学生のなかに、外界へ積極的に飛び出さない内向き志向が強くなり、しかもゆっくりとリラックスできる(?)カナダや豪州志向の草食系が強まっていると云います。米国大使館や米国系大学は危機感を覚えて、あの手この手の誘致合戦を繰りひろげているそうです。こうした現象をどのようにみたらいいのでしょうか? 或いは米国志望の減少の理由はもっと他にあるのでしょうか?
戦後日本は、教育から学問の文化全般にわたって米国モデルに傾倒し、米ソ冷戦下にあって米国もケネデイ・ライシャワー路線のもとで積極的な留学政策を採用して、多くの日本人学生が米国への一種の憧憬をもって米国留学を選択しました。米国留学は日本帰還後のステータス・シンボルとなって、官僚やアカデミズムなどの強力な就職機会となり、現在でもその傾向は持続しています。1980年代以降に、米国留学世代が枢要な地位を占めるに従って、日本の経済・社会システムは機械的に米国モデルを適用し、自己選択・自己責任の市場原理システムを無制限に取り入れて、惨憺たる惨状を呈する劣化国家に頽廃してしまいました。その象徴があのタケナカなんとかという日本型シカゴ学派に他なりませんでした。こうした米国モデル指向に変化が生じはじめているのは、留学機関が分析するような日本の若者の内向き志向といったパーソナリテイの変化のレベルなのでしょうか?
たしかに日本の若者の精神風景の特徴に、青年期特有の反抗期を欠落させたオトナシ無気力症候群と言った現象が見られることは否定できません。子ども時代より過激な競争が日常化した若者は、精神的には疲れきって本格的な異議申し立てよりも、身近な弱者に対してイジメを集中して発散する抑圧の移譲の世界に包摂されていると言ってもいいでしょう。しかしこうした心理的要因による米国留学の忌避の説明は、深層にある時代の変化を見逃しています。
もはや米国モデルは21世紀を希望の世紀とする迫真的な魅力を失っているのです。世界大恐慌の発信源となるカジノ資本主義の虚栄が暴露され、勝者のみが正しいとして、激しい競争に明け暮れ、気にくわない相手にはすぐ軍事攻撃を加え、汝の隣人は敵であると教えるようなシステムに、もはや原初的な嫌悪を感じ始めているのです。ノーベル平和賞受賞と並行して軍事行動を推進するオバマの偽善ともあいまって、もはや米国モデルは斜陽なのです。しかし米国モデルを忌避し始めた若者の行き先は、カナダと豪州だという点がまたまた面白いのです。同じ英語圏でも英国といった古典的な文化圏ではなく、なにか新鮮でヒューマンなイメージのただよう地域であるからでしょう。残念ながら、日本の若者たちは、英語圏から独立した仏独・北欧圏に向かいません。なぜでしょうか。仏独・北欧圏は、戦後日本との枢要な交流圏ではなく、文化イメージにおいても刺激的な力を持てず、どちらかと言えば日本の成熟した世代の関心を引くに留まっています。若者たちが、新興アジアに向かう気持は非常によく理解できますが、新興アジアのイメージはかっての開拓精神期の米国西部のイメージとよく似ているのではないでしょうか。
おそらく急成長するアジア経済圏は、市場社会主義を追求する中国も含めて、米国型に近い巨大な格差社会を実現し、国内の階層間の分裂と対立を激化させるでしょう。日本の若者たちの留学志向にある前進的精神は評価に値しますが、彼らは外の世界になんらかのモデルを求めてみずからのアイデンテイテイを探ろうとする方法論の限界を体感するに違いありません。日本国内の米国モデルの陥穽によって傷だらけの惨状がくりひろげられている実態から、目を背けない堅固な精神の成長を期待するのみです。(2009/12/10)
◆子どもたちがもだえ苦しんでいる姿を、大人が冷ややかに分析・評価している日本とは何か?
文科省・08年度問題行動調査(11月30日発表 国公私立全小中学校3万9千校対象)では、暴力行為小学校6484件、中学校4万2754件、高校1万380件の合計5万9618件で、前年比13%(7千件)増と過去最多を記録し、小学校24%増、中学校16%増で高校は3%減となっています。暴力の対象は、生徒間3万2445件(54%)、器物破損1万7329件(29%)、対教師8120件(14%)であり、被害者が病院で治療した件数は生徒間26%、対教師22%となっています。このデータでうかがえることは、暴力行為がより一層低年齢化して対象が教師から仲間同士へと移行していることです。
学校で発見し得たイジメ件数は、8万4648件(前回比1万6千件、16%減)と減少し、ネットイジメも4527件(前年比1366件減)と減少しています。自殺した児童生徒数は136人(前年比23人減)、うちイジメによると確認されたのは3人、学校別では高校生100人、中学生36人、小学生ゼロ、背景にある問題として進路問題16人、家庭不和13人、不明が5割超の73人となっています。
文科省は感情の制御がうまくゆかない、コミュニケーション能力の不足などの子どもの変化があると分析し、思考のパターン化や表現の幅の狭小化、表現できない場合に感情と行動が激化するなどと述べていますが、ではなぜそのような子どもの生活感情や内面世界の変容が誘発してきたのかという分析はありません。いつものように対症療法的に、規範意識の劣化を克服するモラル涵養に留まっています。このような言説を弄している本人自身が自らの偽善を自覚しながら、いつまでも子ども自身に主体責任を転嫁する発想は、ため息が出るような無責任感覚の露呈であり、怒りをとおりこして憐れをもよおします。
普通の子どもが突然に暴発して、我を忘れて級友に暴行する。授業中に作業のやり直しを命じられて、突然に彫刻刀をふりまわし、説得されて正気に戻る子ども、おれのだけ給食が少ないと文句を言われた配膳係が容器を丸ごとひっくり返す、バスケの判定に納得できない子どもが他の子に当たり散らして押し倒す・・・・怒りをうまく言葉に表現できず、暴発する行為は今や日常茶飯事となってしまいました。
文科省やその他の研究機関は、少子化時代の兄弟間葛藤が空洞化して我慢する体験の喪失や感情統制体験の欠落にあるとし、キレズに問題解決するカウンセリング技法の開発などを提案し、学校と警察・病院の連携を推奨します。たしかにこうした日本の家族と地域の変容に伴う子育てシステムは烈しく衰弱していますから、私室に自閉した子どもたちの発達障害の問題はあるでしょうが、より原理的な問題を視野から意識的に排除しています。
子どもたちのピュアーで素直なまなざしは、そのまま現実の大人たちのリアルな生態の模倣であるのです。競争と成果主義に頽廃した大人たちのとげとげしい雰囲気は、繊細な感受性を持つ子どもの神経にモデルとして受容され、学校や地域から見守られ保護されているという実体験よりも、烈しい学力競争のなかで子どもたち同志が互いを敵視していく実態があります。企業内で蓄積された親のルサンチマンとストレスは、親から子へと抑圧が移譲され、それを子どもは仲間やペットに転嫁するのです。親の抑圧は、極限においては児童虐待やDVという犯罪の局面にいたり、この実態は顕在化することはありません。いまや子どもたちは、素直に自分の感情や思考を表現したり、甘えたりすることそのものが悪とされて、自分自身を責めるまでに追い込められ、自分を切ることの限界にきた子どもたちから暴発していくのです。こうした心理的な規制は貧富にかかわりなく、相当に複雑な心理規制ですから、ごく普通に見える子どもでも暴発に及ぶのです。文科省は暴力行為統計のみを他の子どもの生活現象から切り離して分析していますが、たとえば子どもの自殺率の急増との明らかな相関性を指摘しなければなりません。ルサンチマンとストレスは、外側へは対人暴力となって発現し、内向すれば自虐的な自殺に到るのです。子どもをめぐる頽廃現象の根元にある1980年代以降のライオンヘアー内閣が推進した市場原理主義は、企業と社会全体を蝕み、もっとも繊細で弱い子どもたちがむきだしの被害者となってもだえ苦しんでいるのです。
私はなぜこどもたちが暴発しているか、自己自身の体験を媒介に想像力を働かせてみると、やはりヘーゲル的な相互承認の論理と行為のシステムにヒビが入った状況において、劣位に置かれた人格に歪みが生じ、なんらかの自己肯定を表出する行為に外化するのだろうと思います。それにしても、こうした子どもたちの頽廃した実態が外在化するたびに、それを冷ややかに分析して評価する大人たちの感性の頽廃に絶望的にみえるほどの驚愕を覚えるのです。
たとえば大人の世界では、トヨタが米国で7車種426万台のリコールをおこない、アクセルよりブレーキ操作を優先する装置の導入とフロアマットの改善をおこなうと決めました。8月に米国州警察の高速隊員のレクサスが暴走して家族ら3人が死亡する事件が起きたことを契機に、トヨタは米政府から追及を受け何百億円かの史上最高の負担に踏み切ったのです。驚いたことに日本の消費者庁や国交省、経産省はなんの情報提供もおこなわず、同じ車種の日本国内での走行は野放しにしています。日本での事故報告はないからだそうですが、では死者が出るのを待ってから対応するのでしょうか。かって英国製ベビーカーの指切断事故は、米国内で発覚後に、同じ事故が日本でも起こっています。トヨタはかって、車体の補強用金属壁を米国向け輸出車輌にのみ搭載し、国内向けにはカットしていましたが、ここに相互承認の非対称性をめぐる大人社会の実態が常態化して、常識的な斉一性基準が稼働していないことに馴馳している頽廃があり、子どもたちはそのような頽廃を学習しているのです。
それにしても大人の醜悪な頽廃現象は、1972年の沖縄返還をめぐる密約に象徴的に現れています。元外務相局長が東京地裁の証人として、「沖縄返還に伴う日本の肩代わり400万jの密約があり、私が署名した。歴史を歪曲することは国民の大きなマイナスとなり、米国型の公文書公開制度を採用すべきだ。かっての裁判で密約はなかったと証言したのは嘘であり、私が嘘を言っても偽証罪には問われなかった。それほどに検察も政府側だった。国家公務員法違反に問われた西山氏の信念の強さには感心している」と述べています。証言を終えた元局長は傍聴の西山氏と握手を交わしたそうですが、ここに歴史の真実の顕現を感じました。もはや91歳になった元局長はおそらく、遺言のようにみずからの過去の公的言動の真実を明らかにしたのでしょう。それにしても検察側は、元局長の偽証を把握していながら黙殺していたのです! こうした大人社会の醜悪な頽廃が敏感な子どもの学習モデルとなって、真実と正義はこの世では封印されて権力を握るものが勝つのだという事実の前にひれ伏すトレーニングがおこなわれるのです。
それにしても欧米の第2次大戦の戦争犯罪に対する追求はいまも、いまも苛烈に継続されています。ドイツでは、イタリアとオランダで民間人を殺害した元ドイツ軍人とSS隊員の戦争犯罪裁判が継続しています。元SS隊員であったハインリッヒ・ベーレ(88)は独で生まれた後に移住先のオランダで、1940年にSSに入隊して射撃部隊に所属し、44年7月から9月にかけて非武装のオランダ人民間人3人を殺害、戦後に米軍の捕虜となりましたが独に逃亡し、49年にオランダの欠席裁判で死刑判決を受け、ドイツ検察は09年4月に起訴しました。同被告は犯罪を認め、殺害は命令に基づいたもので戦争状態のなかでの行為であったと主張しています。11月30日にはソビホール絶滅収容所の看守としてユダヤ人を少なくとも2万5千人をガス室で殺害した元看守ジョン・デムヤンユク(89)の公判が開始されました。彼は1941年にソ連軍兵士として捕虜となり、収容所看守としてSSに協力して生きのび、51年に渡米後に自動車工として米国市民権を得ましたが、トレブリンカ絶滅収容所の”イワン雷帝”と恐れられた看守と誤解されて、イスラエルの法廷で88年に死刑判決を受けましたが、93年に誤解が解けてイスラエル最高裁は判決を取り消し、被告は米国に戻りました。しかしサイモン・ウイーゼンタール・センターは「生存が見込まれるナチス戦犯リスト」の10人の1人として彼を追求し、他の収容所の看守だったことを突きとめ、米裁判所は05年に市民権を剥奪して09年にドイツに引き渡したのです。2010年の判決で有罪となれば、89歳の高齢から事実上の終身刑以上の最高刑となるでしょう。
私たちはここに、正義と真実を時空を越えて追求する執念が公共的次元で働き、相互行為の対象性を維持している社会の実例をみることができます。ひるがえって東アジアの島国では、かっての強制連行・強制労働・従軍慰安婦などの生存者の告発に目をつぶり、謝罪も補償もおこなわず歴史の闇に消していこうとしています。ようするにこの島国では、正義と真実を唱えること自体が恥ずかしく破廉恥なことであり、現在の安穏な生活さえなんとか過ぎてゆけば、過去の罪責はいっさい水に流してなかったことにしてしまうのです。こうして子どもたちの世界にも、真実と正義は美しくはあるが幻想の虚妄としてちからをもたないとして学習され、自らもそれを応用する生き方を学ぶのです。結局の処、自分さえよければすべてよしとする、究極のミーイズムが横行して常態化し、弱い者へと攻撃を集中して全体の安定を維持するシステムが浸透しています。ときどきに忍耐の限界点がみえてくれば、葵の印籠を持った強力な権力が登場して、ルサンチマンとストレスをきれいに振りはらってくれるのであり、市井の市民たちはそれをこころの片隅に抱いて、毎日の真実と正義の非対称性をなんとか無事に通り過ごそうとしているのです。(2009/12/2)
追記)12月21日に開始されたデムヤンユク被告の公判に、ホロコースト生存者12人が証言しました。フリップ・ヤコブ氏(83)=元薬剤師は両親と婚約者が死んだソビボール収容所で生き残ったことをいまでも罪悪だと考えているとし、ソビボールはけっして癒やされることのない傷だと語りました。兄と両親が殺害されたロベルト・コーエン氏(83)は「何が起きているのか和kらなかった。働かなければならないと思った」と語りました。デムヤンユク被告が看守をしていたソビボールでは25万人が殺害され、彼は43年にユダヤ人2万7900人をガス室に送った殺人幇助罪で起訴されています。ソビボールはSS20−30人と元ソ連軍捕虜の看守150人で運営されていたとされますが、デムヤンユク被告は涙ながらの証言にどのような感情も示しませんでした。(2009/12/23)
◆現代のチクロンBとはなにか?
アウシュヴィッツのガス室に入れて囚人を処理する時間は、10分と決められていた。チクロンBが噴射されて正確に10分後にガス室の扉が開けられると、玄武岩のように凝固した屍体が、ガス室の外へドーッと崩れおちた。何層にも重なった屍体の下のほうに子どもや老人の屍体があり、上にいくほど若者の屍体が増えた。ゾンマー・コマンドたちは、ブツブツと文句を言いながら、積みかさなった屍体を手押し車にのせて焼却場に運んでいったーこうして600万人に上るユダヤ人たちが生きる価値のないゴミとして処理された。「アウシュヴィッツ以降もはや、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)といった悲憤にかかわらず、現代においてもチクロンBによるゴミ処理は続いている。あらわな他殺ではなく、ソフトな自死というかたちで。現代のチクロンBとはいったいなんでしょうか。
『09年版自殺対策白書』(11月17日)では、08年度の自殺者は3万2249人(前年比ー844人)であり、11年連続で3万人を超える自殺大国の水準を維持しています。職業別では無職1万8279人(56,7%)、サラリーマン8997人(27,9%)、自営業3206人(9,9%)、学生・生徒972人(3,0%)で、学生・生徒が99人(前年比+11,3%)増えて、統計開始78年以降最多となっています。学生・生徒の特定された自殺理由(1人当たり複数)は、学校問題(学業不振・進路の悩み)337人、健康問題(うつ病など)284人、家庭問題81人です。厚労省は06−09年に自殺者46人の遺族を対象に原因の聞き取り調査をしましたが、12人が自殺前1年間に過度の飲酒をしており、「辛さを紛らわせる大量の飲酒が精神状態を悪化させた」と分析していますが、このような表層的な分析でどのような対策が可能なのか疑問を持ちませんか?
国連・子どもの権利委員会はすでに04年1月に日本政府宛に最終所見を出し、@日本の若者の自殺率が異常に高く増加しているAその自殺の原因に関する質的及び量的なデータが不足しているB若者の自殺を扱う主要な組織が警察となっていることを指摘し、是正の勧告を行っています。日本の新生児・乳幼児の死亡率と幼児死亡率は傾向的に低下しているなかで、子どもの自殺率だけが上昇しているのはなぜなのか、なにかここには日本の現状に対する重要な警告があるのではないか? ここではなぜ若者の自死が傾向的に増加しているのかを考えてみたいと思います。
時代が伸びやかさを失い「希望」を語り合えない辛さは、主としてもっとも敏感で繊細な若者たちに凝縮して発現し、最初の犠牲者となります。これはおそらく日本だけでなく、世界的なある種の法則だと思います。米農務省『08年度版食料安全保障報告』(11月16日)では、全米1714万世帯(14,6%)が収入不足で家族全員に充分な食料が与えられず、飢餓状態に落ちっているとし、これは前年比30%強の増大で1995年調査開始以降最悪としています。子どもの食事を制限する世帯が50万6千世帯(前年比+56,7%)に増加し、その50%強はシングルマザー世帯であり、人種別ではヒスパニック、地域別では南部が多いとしています。未曾有の経済危機が弱者とくに子どもたちに凝縮しているのです。
時代が息詰まって国民の生活が窮迫すると、最初に奪われる命はいうまでもなく「後期高齢者」と子どもたちです。これを英国と豪州の事例で見てみましょう。英政府は1940年ー50年代に児童施設の離婚や貧困が理由で収容されている子どもたちを選抜して国策として豪州に移民させました。当時の英政府は児童施設の予算確保に苦しみ、白人移民の増加を求める豪州政府の要望を渡りに船として、総勢1万人に近い子どもたちを「カンガルーが学校までつれていってくれる豊かな国」などとだまして送りこみました。子どもたちは農場で重労働をさせられ、虐待に苦しみ、親と再会できた子どもはごく少数でしかも老後になってからでした。豪州の1930年ー70年代の養護施設には、約50万人に上る「忘れられたオーストラリア人」と呼ばれる、国内や英国からつれてこられた子どもたちに対する精神的、肉体的、性的な虐待がおこなわれ、強制労働に従事させられました。同時に並行して白人社会への同化政策として、アポリジニなど先住民のこどもを親から引き離して施設などへ収容しました(「盗まれた世代」といいます)。現代でもっとも集中的に辛く苦しい生活で、精神的、肉体的に迫害を受けている子どもたちはいうまでもなく、アフガンと中央アフリカの子どもたちです。大人を信じて依存するしか生きていけない子どもたちは、じっと黙って何も申し述べることなく、ひたすらふるえながら堪え忍んでいます。
質はちがえど、日本の子どもたちも大不況の影響を全身に受けてあえいでいますが、日本の子どもたちの悲劇は激しい競争原理の渦中にひきづり込まれ、原始的な貧しさもありますが手をつなぎあう絆を断たれた敵対の地獄へと突きおとされているところに、よりいっそうのみじめさがあります。日本の子どもたちの自殺が歴史上最高に達しているのはけっして偶然ではなく、大人たちがつくりだしたシステムのもの言わぬ最大の犠牲者となっています。
タケナカなんとかいうシカゴ学派の市場原理派ネオリベラリズム経済学者の歴史を動かした「偉大なる」業績に、全日本の子どもたちと老人たちは「自己責任」を全身で味わった体験を得て感涙に咽んでいます。この人物の容赦なき、冷酷な競争原理の苛烈な実践によって、日本は全身を傷つけられ、それは子どもたちと老人に凝集していったのです。厚労省の自殺対策は、自殺1年前の深酒を規制することにあるそうですが、こんな表層的な対策しか提起できない無能さに、現代日本の救いがたい無能があらわれています。問題はネオリベラルな市場原理政策と訣別し、連帯経済の道に転換するしかありません。
新自由主義経済の破綻によって大量の貧困を創出したラテンアメリカ諸国は、人と人のつながりに価値を置き、互いの顔が見れる範囲の経済活動に転換し、生産者の再生産を保障するフェアトレード(公正取引)と社会的要素を反映させた政策を追求し始めました。「パクト・ロコー(地域の協定)」(仏)は、各地で地元の農家・自営業者・市民が参加し、農業と経済活動の地域問題を話しあい、行政・立法に働きかけるネットワーク・グループ組織が、仏全土で20地域経済圏の半数に生まれ、地元からの再生に地域住民が参加する参加民主主義を実践しようとしています。欧州を中心に社会的な目的を持つ事業に融資する銀行のネットワークであるINAISEが89年に7組織で発足し、現在は30ヵ国54組織が加盟してマイクロクレジット専門銀行も組織しています。この成功要因は、慈善精神などなど欧州の倫理的価値観とともに、予想を上回る規模の投資があることです。社会的企業育成法を成立させて、上からの連帯経済導入を推進している韓国やフィリピンもあります。残念ながら日本では、高齢者への弁当サービスなど地域密着型小規模事業(ワーカーズコレクテイブ)とそれに投資するNPOバンクなどが活動を始めていますが、法整備が遅れ活動が誓約されているのが現状であり、いつまでも輸出主導型の大企業経済に傾斜して、連帯経済は国民の合意を得ていません。
子どもたちが健やかに育ち、若者たちが希望を持って明日を夢みる社会は、ネオリベラルの競争原理からは生まれる可能性はなく、連帯経済への転換のなかにしかひかりはありません。そうは思いませんか?(2009/11/18)
◆ノーサイドの思想とは何か?
11月3日のJリーグ・ナビスコ杯表彰式で、準優勝の川崎フロンターレの選手たちが準優勝メダルをすぐに外したりするふてくされた態度をとって批判を浴び、チームと選手たちは次回の公式戦の前に全員が謝罪しましたが、ファンはむしろ激励の拍手を送ってこたえたようです。日本のサッカーの試合を見て驚くことは、敗戦チームがうなだれて頭を下げてサポーターに済みませんと謝り、逆に勝者は意気揚々と走っていって万歳をしていることです。サッカーに限らず、ラグビーでも野球でも似たようなシーンが見られますが、欧米の試合ではこうしたシーンは見られません。勝利をめざして全力を使い果たした結果の勝敗は、試合の同一性を共有した同志として敵味方を越えて健闘を称え合い祝福しあうシーンで終わり、敗者も堂々と胸を張ってフアンに挨拶をしています。欧米では、これをノーサイド(チームの区別をナシにする)の思想というそうですが、日本ではどうもこうした健闘を称え合う基本的な精神が育っていないようです。協会がいくら処分して強制的に規制しても表面だけはあらたまるでしょうが、基底にある精神の文化自身は変わらないでしょう。
こうした精神の規定にあるのは、敗北を全人格的な否定として捉え、敗者の生きる資格自身を剥奪する野蛮な恥の文化です。これは戦時の旧日本軍の「生きて虜囚の辱めをうけることなかれ」という戦陣訓にあらわに象徴され、日本兵は捕虜となる前に自殺しなければならなかったのです。これは裏返せば、敵軍の捕虜を簡単に殺害し、虐待する態度になっていきます。こうした恥の文化がいかに偽善に満ちたものであったかは、敗北の最高責任を取るべき司令官が免罪されて戦後も君臨し続け、戦陣訓の起草者たる東条自ら捕虜となり、部下に自決を命令した多くの上官はのうのうと軍需物資を掠奪して逃走し生き残ったことにあらわれています。ここにはじつは垂直的なタテの人間の関係を持続させていく日本文化の秘密があります。この日本型の垂直的な人間の体系は、責任と恥を次々と下位に転移して、多数が無責任と無答責のもとに延命していくという本質を持っています。こうした日本型集団主義の文化が社会の隅々にまで浸透し、Jリーグの川崎フロンターレの選手は、連綿として続く無責任と恥の文化のなかで育った犠牲者ともいえますが、彼らをヒロイックなまなざしで観ている少年たちにとっては悪の文化の伝播者となっています。
さてこうした無責任と恥の文化がまだスポーツの分野に留まっていれば、まだ生活を脅かすようなことはありませんが、残念なことにこの文化は日本の社会の全線に及んでいるのです。普天間基地の県外・国外移設を公約に圧勝した新政府は、米国国防長官の恫喝にふるえあがって思考停止状態に陥っています。かっての戦争で捨て石と言われた辺境の地である沖縄県に、軍事基地の痛みを凝集させる方法は、まさに日本型の垂直的なタテの関係での痛みの下層への転化に他なりませんでしたが、その限界にきた痛みの感覚を利用して選挙に勝利した新政府は、さらに自分より上位にある権力からの一喝を受けると腰砕けになって、平然と公約を裏切るという無責任と恥をさらけだしたのです。
破綻した一極帝国のユニラテラリズムを糊塗する在日米軍の再編計画にのみこまれて、星条旗の下に垂直的に編成された構造を再検討する独自の思考が欠落して彷徨するさまは、まさにかっての戦争であてどもなく戦場を敗走して餓死していった旧軍と変わりません。一方ではあっけらかんと東アジア共同体戦略を星条旗同盟とは無関係のようにアドバルーンを上げて、アジア諸国のひそかな失笑を買っているおのれの醜さに無自覚な思考停止のみじめさの犠牲は、あげて沖縄の人たちに日々の悲惨として刻みこまれています。ひき逃げ殺人の米兵は基地にかくまわれて、日本警察は手出しができないのです。これが独立国家の主権の実相に他なりません。
普天間基地問題は全世界の注目を集め、「沖縄の未来は我々が決める。うだるような暑さのなか南方の島沖縄では、多くの日本人が米海兵隊基地の撤去をもとめている」(ロイター通信 8日宜野湾発)、「(沖縄基地の歴史を総括した上で)総選挙で民主党は改善を約束したが、いまなお民主党の立場は明確になっていない」(シンガポール聯合早報 6日付け)、「何千人もの人が集まって辺野古への移転計画に抗議して、どこにも基地はいらない(NO BASE ANYWHERE)と叫んだ。米海兵隊基地が日米関係を緊張させている。沖縄の米軍再編は日米同盟を弱体化させる危険がある。県民の70%が普天間基地の県内移設に反対している。沖縄では民主党が県外移設の公約から後退するのではないかという不安がある」(フィナンシャル・タイムズ 11日付け)などと報道しています。
フィナンシャル・タイムスは「新たな日本の政権が徹底的に政策を見直すのはごく自然なことだ。米国務長官は日米合意の遵守を説教したが、米政府が不満をぶつけるのは馬鹿げたことだ。米国の姿勢は過剰反応で、日本の米国依存の減少は実際には歓迎すべきことで、前政権の合意もオバマが東欧ミサイル計画を破棄したように説得力はない。日本へ圧力をかけ続ける米政府はより危険をつくりだしている」(12日付け社説)と米政府を批判し、ワシントン・ポストは「日本に説教する古いやり方は終わりにしなければならない。普天間基地の県外移設を拒絶した国防長官の発言に多くの日本国民が衝撃を受けている。すべての2国間の問題を1度の訪問で解決しようとすべきでない。来年秋の横浜のAPECにあわせる大統領訪日まで先送りすべきだ。13日の大統領訪日は地球規模の課題に焦点を当てるべきだ」(12日付け スミス外交評議会上級研究員)といずれも米国の姿勢に批判的で、一方的な海外での軍事基地活動を規制する流れがもはや世界標準となっていることを示しています。しかし海外メデイアに較べて、日本のメデイアのみじめな対米屈従による沖縄の声の無視と、ここに及んで思考停止におちいって、独自の尊厳ある主権行動をとれない日本新政府の無能が浮き彫りとなってはいませんか。日米同盟はほんらいのノーサイドの思想にたつべきであり、そうでなければいったんは解消した方がいいでしょう。(2009/11/13)
◆資本主義は永遠に続くのだろうか? はたして新しいシステムに切り替わるのだろうか?
ウーンじつに面白い国際世論調査が発表されました。ベルリンの壁崩壊後の資本主義市場経済の20年間にたいする世界の意識です(BBC11月9日発表 カナダ国際世論会社「グローブスキャン」による世界27ヵ国調査、6月19日ー10月13日実施、2万9033人回答)。%は世界平均(括弧内は国別)。詳細はグローブスキャンHP参照。
問1)市場経済に基づく資本主義への見解
イ)資本主義はよく機能しており、規制強化は能率低下を招く 11%
ロ)資本主義は問題を抱えているが、規制と改革で対処可能だ 51%(ドイツ75% 日本66%)
ハ)資本主義は致命的欠陥を抱えており、異なる経済システムが必要だ 23%(フランス43% メキシコ38%)
ニ)その他 15%
問2)政府は経済運営にどのように積極的役割を果たすべきか
イ)より公平な富の分配 67%
ロ)企業への規制 56%
ハ)主要産業の直接的な管理や国家所有 47%
シカゴ学派型の市場原理的な資本主義のあり方に賛同しているのは、わずか11%であり、世界の大多数はなんらかの修正が必要としており、資本主義の廃絶も23%、国有化も47%に達しています。サブプライム破綻以降の世界恐慌が資本主義そのものへの疑問を含む深い懐疑を誘発していることがうかがわれます。日本の史上初の「選挙革命」もまた、このような世界的な動向の一部であったことが分かります。しかし日本の場合は推測するに、「資本主義は問題を抱えているが規制と改革で対処可能だ」という意識が主流であり、システムそのものの転換を画然と求める意識は薄いように思います。「規制と改革で対処可能だ」という方向の内実は、欧米ではおそらく社会民主主義的な社会的経済という修正資本主義(北欧スカンジナビア型)と推測されますが、日本の「選挙革命」の実際はそうではなく、ネオ・リベラリズムの過度な市場原理にブレーキをかける点にあり、欧州型社会的経済システムへの道を自覚的に選んだのではないと推測されます。なぜなら新政権の主要文書は市場原理と日米枢軸の基本は踏襲しており、いままでのあまりに野蛮な方法を是正するに過ぎないからです。たしかに環境と人権・東アジア共同体という階級を超えた普遍的な課題への挑戦は画期的なイメージがあり、当面はその新鮮なイメージによって政権は延命していくでしょうが、おそらく遠くない将来に、市場原理と日米枢軸戦略の矛盾が破綻し、欧州型の社会的経済システムへの転換を求める勢力による第2選挙革命が起こると予測されます。
問題はフランスや北欧などのように、歴史的に蓄積された社会的連帯の文化の構造が成熟せず、日本では社会的経済をささえる市民的な主体形成の成熟が脆弱であることです。率直に言ってあのように大量の非正規労働者が巷を彷徨し、路上で人生を過ごす原始的な野蛮の光景を目にしても、多くの人が見て見ぬふりをし、労組すらが正社員の身分維持に狂奔して会社の労務管理の先兵となったのです。日本では社会的な絆を実現する公的な場が奪われ(公共の市場化)、コミュニテイの私化がすすんでそれぞれが私宅に閉じこもる閉鎖関係が蔓延し、その結果どこにも表現できなく堆積したルサンチマンが、選挙という公的制度を通じて一回的な爆発となって噴出したのです。政治中枢は現象的に権力が異動しましたが、その本質はそれほどに変革されたわけではなく、そうした希望を抱いて投票行動に参加した人は遠くない将来に裏切られた疎外感を抱くに違いありません(とくに沖縄県の人たちは)。
しかしこのようにして、このようにしてしか歴史は歩んでいかないこともたしかなのでしょう。それは、慚愧に堪えないことながら、市民たちが自ら立ちあがって血を流す犠牲のうちに王制を打倒する歴史的経験をもたないままに、モダンからポストモダンに到るという世界でもっとも奇形的な展開を遂げてきた日本近現代史の避けがたい運命であるかもしれません。侵略と戦争にともなう、あれほどの恥ずべき歴史的なふるまいをくりひろげたこの国は、ニタニタと奇妙な薄笑いを浮かべながら、最高責任者を免罪し(戦争責任というような文学的なあやには関心がない、原爆投下はやむを得なかったー等の発言に抗議したマスメデイアはなかった)、たがいに水に流しては謝りあう日本的集団主義のうるわしい文化に漬かりきって、プレ・モダンとポスト・モダンが醜悪に野合した奇怪な姿に自己嫌悪すら覚えない頽廃の日常が過ぎていきます。みなさまは水戸黄門というギネスに掲載されている世界最長の連続TVドラマをご存じでしょう。悪人にいじめ抜かれた庶民たちは、葵の印籠をかかげる黄門の出現に感涙し、けっして自分で立ちあがって悪人を退治することはないのです。朝日新聞はいま特集で水戸黄門を賛美していますが、おりしもなんとかというJポップグループが、王の在位20周年を記念する歌を絶唱して緊張しながら感涙に咽んでいます。アー哀しいまでのこの頽廃!(2009/11/11)
◆イチャモン・クレーム社会の裏になにがひそんでいるのだろうか?
学芸会の主役になんでうちの子が選ばれないのか!という抗議で、主役が登場するドラマは上演しないとか、学校行事の写真でなんでウチの子が真ん中に写っていないのかと食ってかかる親の出現に集合写真はやめて個人写真を並べる学校とか、運動会がうるさいからやめろと怒鳴り込む住民などなどいわゆるモンスター・ペアレントの理不尽な要求に教師は頭を抱えているそうですが、どうも社会全体に理不尽なクレームが蔓延し、たがいに傷つけあって貝のように自己閉塞していく風景がひろがっています。電車に乗るときも、ホームの最前列に並ぶと突きおとされる不安におびえ、車内ではセクハラの加害者扱いにされないように絶対に女性の近くに立たないとか、なんとも荒涼とした殺伐たる風景がひろがっています。かく言う私も自宅を出て隣近所の人と挨拶を交わさないで歩くとか、朝の散歩で挨拶しても返事を返さない人が増えてきたように感じます。なにか人と人の絆が薄れてしまい、硬直した砂のように乾いた風景がひろがっているように感じませんか? いま学校では教員のうつ病や自殺、精神性疾患による退職が急増しているそうですが、いつ学級崩壊に到るか分からない不安と理不尽な無理難題を突きつける親におびえる毎日は、ほんとうにしんどく悩みを相談できない孤独な職場のなかで、教師たちは心理的に追いつめられていくのです。
悪いのはお前だ!私は被害者だ!と言いつのって教師や医者、店員さんたちを一方的に攻撃していく心性の背後には何があるのでしょうか? 前近代的といえども温かいネイバーフッドがあって共同が大切にされてきた日本は、個性の尊重という合い言葉とともに共同の赤ん坊も洗い流してしまったのでしょうか?
多くのリベラル左翼は日本のこうした惨状を次のように分析して終わります。クレーム現象が爆発的に現れたのは1990年代後半以降であって、それは自己選択・自己決定・自己責任の市場原理主義政策が蔓延し、市民がたがいに剥き出しの勝つか負けるかの競争原理に追い込められて、不安と焦りを弱者にぶつけるようになったからだ。市場原理は同時に、すべてを商品化して消費の対象に変えてしまい、教育や医療もサービス商品として顧客満足の対象にして、デイラーはユーザーに媚びへつらうようになったからだ。或いは職場の人間関係も、業績評価の競争人事管理が浸透し、互いに協同しあう仕事のスタイルが崩壊し、敵対関係に頽廃していったのだ。こうして自己責任論の逆表現として、誰にも弱みを見せず責められる前に相手を責めるという他罰攻撃型の行動が蔓延し始めたのだ。したがってたがいに支え合う相互依存のシステムを再建していく自覚と他者への信頼が必要だと心がけ主義の処方箋を書きます。
さて問題はシカゴ学派の欲望原理による効用極大化人間観の犯罪的な誤謬にありますが、なぜこのような人間観が市民自身のこころをつかみ一定の内発性をもったかを考える必要があります。残念ながら、明治以降日本は市民自身の手による社会形成の体験を経ないまま、上からの近代化を推進し、前近代的な共同体の心性を保持したまま社会経済システムの近代化を推進してきました。基本的に自己主張や上の者への批判は許されず、人間自身の近代化は成熟しないままに、ポスト・モダンの状況に到ってしまったのです。血を流して王政を倒した体験を持たない日本は、いつまでも特殊な王政を象徴的に維持し、垂直的な文化体系を崩さないままに、剥き出しの野蛮な市場競争原理の洗礼を浴びる結果となったのです。こうして欧米ではごく普通の現象である市民の自己表現と自己主張が、市民的参加のスタイルを成熟させる機会を得ないままに、剥き出しのイチャモン・クレーム行動を誘発させてしまったのです。モンスター・ペアレントは、水戸黄門ドラマのように、虐められた民衆が葵の印籠の登場を心待ちにする他者依存の奴隷的敗北主義の心性を脱皮している点では、前進しているとも云えますが、どうもそこには剥き出しのエゴイズムがあるような気がします。
よくみると、こうした無軌道なイチャモン・クレームの行動はけっして権力には向かわず、いわゆるパブリック・サーバントという教師や医者と言った公共のしかも弱者の部分に集中しているような気がします。クレームの主体である自分が反撃を受ける危険性がない安全圏に自分を置き、自分に反撃してこない対象に絞って、ルサンチマンを一方的に発散して抑圧の移譲をおこない、フラストレーションを解消する、なにか卑怯な心性が潜んでいるような気もします。
結論的に云いますと、日本はあまりに自己主張と自己表現を抑制された集団主義文化のながい歴史のなかで、なにかを言うことそのものがことあげと忌避・排除される前近代的な共同体文化が根づいてききました。学校になにか言うとわが子が差別される、医者になにか言うと診察に影響する?などという権威的な文化の抑圧がいまや臨界に達した時点で、シカゴ学派の市場原理を契機に、剥き出しのイチャモン・クレーム文化となって爆発的に噴出してしまいました。ほんとうにシステムを一歩前に進める改革や変革に資するイチャモンやクレームではなく、このままでは意見一般が野蛮なイチャモン・クレームのイメージに閉塞されてしまい、新たな公共の創造のチャンスを奪ってしまうかも知れません。いわゆる「もっと大人になれ!」とか「清濁併せのむ」とかいったかっての半封建的遺制の文化がふたたび息を吹き返すかも知れません。シカゴ学派を駆逐して、更なる旺盛なイチャモン・クレームを巻き起こそう、その混沌としたなかから、なにか新しい、おのずからなる市民的な相互抑制の節度ある文化が成熟してくるのではないでしょうか。(2009/11/8)
◆最低の人間的モラルを失っているトヨタ自動車は、いったんは解散すべきです
トヨタは9月初旬に期間従業員として働き解雇した元従業員に再募集往復はがきを送り、10月5−26日に出社すれば面接は不要としています。その文面を見てみましょう。
ますますご健勝のこととお喜び申しあげます。
弊社在籍中は業務に後精勤頂きまことにありがとう御座います。
この度期間従業員の募集を実施することとなりました。つきましては貴殿在職中のご経験と技量を弊社でぜひ生かして頂きたく、ご検討頂ければ幸いです。
2009年10月5日ー26日までに出社をして頂ける方は面接不要とさせて頂きます。
時節柄健康にはくれぐれもご留意されますますご活躍されますことをお祈り申しあげます。
ウワー!どのような神経があったら、このような手紙を恥じらいもなく送れるのでしょう! わずか1ヶ月前まで最高時10800人いた期間従業員を次々と解雇し、7000人以上を切ったトヨタは、臆面もなく自分が首を切った人間に今度はもう一度働けと云っているのです。トヨタはサブプライム破綻以降の世界不況に対応して、先陣を切って期間工の大量解雇に踏み切り、それをみた三菱・日産・日野・ホンダなど他の自動車会社も雪崩をうって解雇に踏み切り、電気など他産業に波及していき、大量の貧困層を路上に放擲してきたのです。まさにトヨタは労働力を雑巾のように使い捨てした最大の元凶に他なりませんでした。10月20日に政府が発表した相対的貧困率(国民の可処分所得の中央値の半分に満たない人の割合)は、06年で中央値254万円、その半額127万円で貧困率15,7%(2000万人)、18才未満の子ども貧困率14,2%(300万人)であり、じつに国民の6人に1人が月10万円以下で生活しており、OECD加盟30ヵ国の平均10,6%を大きく越え、メキシコ18,4%、トルコ17,5%、米国17,1%に次ぐ世界第4位という最貧国に転落しています。しかも生活保護の基準額(114万円)とほぼ同じ貧困線なのに、生活保護受給世帯は115万世帯(160万人)であり、2000万人の貧困線以下の人数と天文学的な開きがあり、貧困者を捕捉していないことが分かります(生活保護捕捉率はドイツ87%、英国85%にたいし、日本は10%以下に他なりません)。こうした日本の貧困にトヨタが大きく貢献したことは疑いありません。
しかしエコカー減税と補助金による政府の企業救済策で、一転してプリウスの販売が好調になると(販売価格200万円前後で14万ー19万円の税金が投入される)、100年に1度のお買い得などと大量宣伝によって生産を伸ばし、期間工の大量解雇で工場は生産が間に合わなくなったのです。トヨタの08年度生産台数は757万台でしたが、09年度目標660万台を大きく上回る見通しです。こうして、4−6ヶ月の雇用契約で数ヶ月で解雇と分かっている期間工をまたぞろ恥じらいもなく再募集し始めたのです。そして800人の募集目標に1600人が応募し(!)、トヨタは全員の受け入れを決めました。
一生の内に何十回も失職せざるを得ない期間工や派遣にあえいでいる人たちの苦境と窮状につけいるかたちで、最大限利潤を極大化する倒錯した企業の論理のフロントランナーとして、日本経済を根底からゆがめ、日本の社会と人間そのものを歪めてきたトヨタの本質が、先記した再募集はがきに象徴的にあらわれています。自分が首を切った人間に、健康に気をつけてがんばれとか、空きができたから又きてもいいよなどと、普通の人間関係であれば最大の侮辱となるふるまいをなんのはじらいもなくおこなっている姿の野蛮さに気がつかない異常さが露呈されています。もはやトヨタは、普通の人間が構成している企業風土ではなく、他者の痛みをむしゃぶり喰いながら生きのびていこうとする野獣企業に他なりません。結論的に云うと、トヨタは人間社会に生きる使用価値を生産する企業の最低限の資格を失っており、みずから崩れおち倒産する運命にあるのです。
トヨタがひとたび解散すれば、地域の経済と生活は大打撃を受けるでしょう。大量の従業員が路上に放り出され、自治体財政の歳入の大部分は破綻し、おそらく東海経済は崩壊するに違いありません。ある経済学者が、トヨタによる地域産業連関と地域経済の誘発効果を計量計算して、トヨタ撤退の効果を試算していましたが、まさに地域経済は破産に直面します。しかしよく考えてみましょう。長期的なマクロ経済予測を見れば、あきらかに自動車産業はもはや戦略価値を失った斜陽産業であり、一路衰退に向かうことはあきらかです。だからこそトヨタは、住宅や航空、ITなど先端産業に多角的に参入しようと必死になっています。おそらくトヨタは、当面はエコカーと電気自動車の開発によって自動車会社として存続するでしょうが、数十年後には命脈が絶たれていることでしょう。なぜならどのような分野に参入しても、経営風土の反人間的な野蛮は維持されていくからです。自動車産業に特化して多角的な産業構造と先端産業への育成に失敗した愛知県を中心とする東海経済圏は、自動車産業への特化依存構造を変革する絶好のチャンスといえましょう。
こうした長期的なマクロ経済のスパンを考察する以前に、もはやトヨタは企業コンプライアンスとしての経営本質が反人間的に疎外され、人間を攻撃しながら成長を維持するしかない野獣的な経営に堕落しているところに最大の問題があります。トヨタ9月中間連結決算によれば、トヨタの9月末利益剰余金(内部留保の一部)は11兆3658億円円(!)に達し、昨年の期間従業員9000人を年収500万円の正社員にしても年450億円であり、利益剰余金のわずか0,4%にすぎません。トヨタはF1撤退の記者会見で、担当役員が涙を流して説明していましたが、ここに非正規雇用の悲惨よりもスポーツをとるトヨタの非人間的本質があらわれています。残念ながらトヨタの経営的本質の変革は不可能でしょう。なぜならトヨタ生産システムの基本であるカンバン方式は、部品の最適供給システムであると同時に、人間を破壊する人間カンバン方式にほかならず、これに依拠しない限りトヨタの経営基盤は崩壊するからです。(2009/11/1)
◆偽善的な二重基準は、いつの日にか歴史の審判に服するだろう
いま米国を先頭に国連を含めて、世界はイランの核兵器開発の脅威を封じこめるために総力を挙げ、IAEA(国際原子力機関)はイランの低濃縮ウラン1.5dのうち1,2dをロシアないしフランスで核燃料に加工後、イランに送り返す方式で、イランの低濃縮ウランの軍事転用を回避しようとしています。しかし不思議なことに米国はじめ国連は、なぜイスラエルの核兵器について沈黙を守っているのでしょうか。
米国は1967年の第3次中東戦争を契機に、イスラエルとの核秘密協定を69年に締結し、イスラエルはIAEAの査察を受けることなく、核兵器を含む核施設を保持し核開発を維持できるとしました(ニクソン&メイア協定)。現在も米国は、対イスラエル支援金年平均30億j(2800億円、直接対外投資総額の6分の1)を供給し、その7割は軍事援助です。別に国防総省も独自にイスラエル軍兵器開発資金を拠出しています(07年)。イスラエルはイランの核施設に対する先制攻撃を公言してきましたが、秘密協定の暴露を恐れる米国は、イスラエルをなだめてミサイル防衛システム(MD)を配備し、2年に1回定期的に合同軍事演習をしています。これらがイランやパレスチナにどのような恐怖感を与えているか少しの想像力があれば分かります。
米国大統領オバマは、4月のプラハ演説で「核のない世界」を提唱し、ノーベル平和賞受賞の栄誉に浴しましたが、パレスチナやイランの人々から見れば、これほどに偽善的な二重基準はないでしょう。イスラエルのアラブ侵略を全面支援して核兵器開発技術を提供し、パレスチナ攻撃を野放しにして、一方では世界の平和を語るなどと云う無神経に積年の怨念を堆積させているでしょう。残念ながらここに、ぬぐい得ないオバマの偽善と限界があり、20世紀から引き継いだ米帝国の払拭できない虚像があります。大量破壊兵器の存在を唯一の理由として、他国に攻め込んで政府を打倒し、傀儡政権をつくるという21世紀最初の侵略行為の残滓は破壊知れない打撃を現地に与え、いまもって悲惨なテロリズムが横行し、国家秩序は崩壊しています。唯一の戦争理由が虚偽であったことが明らかとなった時点で、最高責任者ブッシュは裁きの席に着かねばなりませんが、いまやゆうゆうとテキサスの別荘で自適しているなどというすがたは、イラク市民の目にどう映るでしょうか。イラク侵攻の星条旗に媚びへつらって、軍隊を派遣して全世界から軽蔑のまなざしをあびた日本の当時の女性外相が、賢人会議を主催して核兵器削減を論じるなど、この鉄面皮な偽善の無神経には、神さえも恥じらいを覚えて赤面しているに違いありません。この国ではさすがに粗暴な暴力剥き出しの政府は選挙によって敗北しましたが、新政権は本質的にはよりソフトな形態に同盟を再編成することをめざすにすぎず、基地再編で少しなにか言えば恫喝を浴びてすごすごと引き返すというみじめな姿を露呈しています。
ドイツ・バイエルン州ニュルンベルグ裁判所は、リチャード・ウイリアムズ司教に1万2000ユーロ(160万円)の罰金刑を言い渡しました。司教は、カトリック分派の聖ピオ10世会(SSPX)というカトリック極右派に属し、ナチスのガス室は存在せず、殺害されたユダヤ人は30万人に過ぎないとする歴史修正主義の宣伝をおこない、ホロコースト否定犯罪に問われたのです。ユダヤ人600万人を殺害したナチスの犯罪に、かってヴァチカンは抗議しなかったばかりか、極右派聖職者がナチスに協力してユダヤ人迫害に加担したという恥ずべき歴史がありますが、現代でも極右派は連綿として生きのび暗躍しています。しかしドイツ国家の優れた点は、公的にそのような活動を犯罪と規定し裁いているところにあります。ただしホロコーストの犠牲者であることによって、恥ずべき人工国家であるイスラエルの存在と、パレスチナ侵略を免罪するとしたら、そうした二重基準こそ殺害された600万人の同胞を二重に侮辱するものとなるでしょう。
ひるがえって20世紀に最大の侵略国家として存在した東アジアのある島国は、いまもって公式な侵略行為の認定と謝罪・補償をおこなわず、政府代表の一片の談話によって糊塗しようとしています。その国でもドイツの歴史修正派と同じような極右が存在し、侵略戦争神社の国家運営や礼拝を繰り返し、旧軍の女性犯罪や虐殺を否定し続け、しかも旧政権の中枢を占める事態となっています。おそらくこの国は、歴史上の最大の歴史的な責任否定の国家として世界史の教科書に記載され市民の記憶に残るでしょうが、新政権のトップはまたぞろ戦争犯罪の処理抜きに共同体の結成を唱導するという恥ずべき行為に及んでいます。私は東アジア共同体による共通価値の創造に両手をあげて賛同致しますが、その前提には最低限の人間的な謝罪のふるまいが不可欠だと思います。新政権トップの偽善的な二重基準にこれほどの破廉恥はありませんが、世界史はこうした偽善を最終的には裁き、審判を下していくに違いありません。(2009/10/30)
◆失業率と自殺死亡率はなぜパラレルか?ー日本におけるいのちの問題
失業率と自殺死亡率は正の相関関係があることに疑いを持つ人はいないでしょう。EU26ヵ国の1970−2007年の統計では(英ランセット誌 09年7月号)、失業率1%上昇による65才未満自殺率は0,79%(310人)増加し、男性30−44才で1,17%上昇、女性15−29才2,07%上昇と男性中堅層と女性若年層の相関が最も高い。ちなみに、アルコール乱用死は28%(3500人)と増加し、交通事故死亡率は逆にー1,39%(ー630人)と減少している。経済活動の不活発は、飲酒活動を活発化し交通活動を停滞させるのでしょうか。失業率の変動が3%を越えるような危機の時には、65才未満の自殺率は4,45%(1740人)と一気に上昇し、かなり強い相関性を示しています。
ところが失業率と自殺死亡率の相関性がない例外的な国があります。フィンランドは失業率が90年3,2%→93年16,6%に急増したにもかかわらず、自殺率は逆に下降し、スウエーデンも91年2,1%→92年5,7%に上昇したにもかかわらず、自殺率はやはり下降しています。失業→社会不安の極大化につながらない社会保障的な雇用政策を採用していることがうかがわれ、あらためて北欧型高度福祉国家の戦略の優位性を感じる次第です。つまり北欧型高度福祉国家は、景気動向にそれほど左右されないベーシックな生活が制度的に定着し、日本などとは違った別の要因による高い自殺率が存在するという欲望水準の高度化が見られます。これは薬物犯罪の発生率を見ても同じ傾向が伺われます。
北欧では薬物使用がかなり自由化されていますが、薬物濫用による社会システムのゆらぎはそれほどに指摘されておりませんし、景気動向と薬物濫用の相関性も高くありませんが、日本などOECD諸国は景気指数・失業率と薬物犯罪件数は異常に高い相関性を示しています。日本の09年度上半期の薬物犯罪件数は、覚醒剤密輸検挙数が前年同期比4,4倍の102件、検挙数は5,2倍の129人、押収量は6,4倍の262,7kgに急増し、大麻など他の薬物検挙数も同じ傾向を示しています。いま日本は第3次覚醒剤乱用期にあるといわれ、とくに青年層を中心として多発し、学生やタレントの事件が大きく報道されていますが、問題は失業率10%を超える若年就業率の急降下と明日をも知れぬ不安定就業率の急上昇が青年層に集中していることです。
脳内神経伝達物質であるドーパミンの分泌による大脳の活性化がもたらす快感を薬物の人工的使用によって誘発させるのが薬物乱用ですが、初期2−3日[気分高揚・覚醒持続・食欲減退]→4−5日目[ねむり続けるつぶれ期]→その後数日間[食欲増進・薬物探索渇望期]というサイクルを繰り返して乱用して依存症におちいり、幻覚や被害妄想などの精神病を発症する慢性中毒にいたります。こうして人格と肉体は崩壊し、依存症治療薬はなく、たとえやめてもフラッシュバックなど精神異常を発症します。未来への生きる展望と希望が衰弱し、苛酷な労働によるストレスを蓄積した神経系は、いまや断末魔のように薬物乱用による瞬間的な解放感によって癒やすしかないのでしょうか。
さて日本の自殺死亡率を下降させる有意味な方法として、失業率の下降を含む雇用政策を北欧型に切り替える選択が考えられますが、残念ながら新政権の方向は非正規就業と失業そのものを食いとめる労働規制への転換は見えず、すでに失業している人たちへの就業支援に留まっています。新旧政権の労働政策の基本は、セルフヘルプによる労働力水準の高度化にあり、企業に雇って貰える労働力として自己を鍛えようというところにありますから、失業の自己責任原則の誤謬を払拭し得ていません。このままの政策でいけば、失業率と自殺死亡率は正の相関を保ったまま上昇の一途をたどるでしょう。第1次的的な生存の条件がこれほどに毀損し、破壊された時代は戦時期を除いておそらくなかったでしょう。
これは乳幼児と老人の命にかかわる保育所と特別養護老人ホームの認可最低基準の撤廃をうちだした地方分権改革推進委第3次勧告(11月7日)をみれば明らかです。設置・運営の最低基準を含む900項目を全廃し、すべて地方の条例に任せるというものです。保育所は、4歳児以上子ども30人に保育士1人、面積ゼロ、1歳児では1人1畳、幼児1,2畳、園庭は近所の公園を利用すればなくてもよい、2歳児未満のみの保育所はなくてのよいなど、現在でも劣悪な最低基準となっていますが、この基準は敗戦直後の原始的貧困期の日本に対応したものであり、これさえもが全廃されれば乳幼児の生命と成長はほぼ絶たれるでしょう。要するに政府方針は、待機児問題を解決するために政府責任を放擲し、民間企業の営利事業に任せるというものです。地方自治体はほぼ赤字財政を抱え、公立保育園の増設に消極的であり、基準引き下げによる企業参入を誘導しようと云うものです。民間保育所がどのようなものか、あなたは自分の乳児を預けることができるか、一回是非現場を見て下さい。民間の保育園で働く保育士のほとんどは、自分の子どもは預けないと云っています。たしかに良心的で懸命に保育をしている民間保育園もありますが、多くは乳児を金儲けの対象として居酒屋の2回や夜の街のビルに設置されています。01年に起きた「ちびっこ園池袋西」という無認可保育施設の乳児窒息死は、1つのベビーベッドに無理矢理に2人の赤ちゃんを寝かせて起きたのですが、もし認可保育所の基準が撤廃されれば、こうした無認可保育園の監督基準も野放しとなっていくでしょう。赤ちゃんの世界をめぐって、このような空恐ろしい政府行政がくりひろげられている先進国は日本のみです。日本では、子どもたちは赤ちゃんの段階で保育が放棄され、奇跡的に成長して青年になっても非正規就業と失業が待ちかまえ、自殺と薬物乱用の地獄に向かう人生がセットされています。これが新政権の思想原理となっているシカゴ学派の市場原理主義の荒涼たる廃虚の姿です。もしみなさまのなかで、新政権へのいささかの幻想をお持ちの方は、この保育政策をしっかりと見つめなおして下さい。(2009/10/27)
◆「故郷ふるさと」はつくられた風景だったのか?
わたしが胸を締めつけられるような歌に、文部省唱歌「故郷」があります。1番から3番までほんとうにこころが洗われるような感慨をもよおすのですが、とくに3番の”志をはたして いつの日にか帰らん”につづく詠唱はまさに絶唱とも云える全人生を凝縮したかのようなこころもちとなるのです。いったい、なんにんの日本の青年たちがこの歌を胸に秘めて故郷を出立し、そしてなんにんの人がふたたび故郷へ帰還したでしょうか? かっては戦場の星空の下で夢みながら果てた兵隊もいたでしょう、遠く開拓の地で生を終えた人もいたでしょう、おそらく多くの人は太平洋沿岸ベルト地帯への高度成長期に都会の喧噪に身を沈めてきたのではないでしょうか? こうしてわたしも例外ではなく、ひとたび捨てた故郷を慚愧の念でのぞみ、いまは朽ちはてていく祖父母と父母の地を遠くから想いうかべるしかないのです。こうして唱歌「故郷」はあたかも沈みゆく夕日にふさわしい生命の歌のようにひびき、胸を苦しくするほどに我が精神をしめつけてくるのです。
しかしこの歌の来歴を知ることなく、いままでなんの含意も付することなく、ただピュアーに唇にのぼせてきた私は、前期高齢者の今日を迎えてはじめて、この歌の歴史を知ることとなりました(朝日心朝日新聞09年10月24日朝刊)。文部省小学校唱歌教科書編纂委員・高野辰之が作詞し、おなじく岡野貞一が作曲して、1914年(大正3年)「尋常小学唱歌」第6学年用教材として発行され、現在も第2次大戦期を除いて小学校6年生の共通教材となっているとのことです。高野(1876−1947)が幼児期を過ごした長野県永江村(現・中野市)が、この歌の原風景といわれ、緑が濃い2つの山(大持山、太平山)が「かの山」、段々畑の間を流れる斑川が「かの川」であり、この地域で大正期まで2月下旬におこなわれた「兎追い」という兎を蛋白源にする猟が<兎追いし>となったといいます。
高野はそれまで庶民が父母を呼ぶときに「オトッサン、オッカサン」という呼称を、「オトウサン、オカアサン」に改めた教科書を編纂し、日本の国語の近代標準語化を推進した官僚らしいですが、「故郷」に代表される日本の近代的抒情の創造にはかりしれない大きな影響をあたえたといえましょう。「故郷」は、おそらく日本人が日本に生まれてよかったという素朴な感性を確信的に植えつけ、また言うなれば大東亜共栄圏の思想の基礎となるナショナルな感性をも育んだかもしれません。
「故郷」のゆったりした3拍子のリズムは、アジアの伝統的な歌謡を駆逐した賛美歌のリズムであり、日本の文部省唱歌は賛美歌の影響を受け、神に替わって自然を賛美する多様な唱歌の源流となっていったのです(「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「紅葉」など代表的な唱歌は、すべて高野辰之作詞、岡野貞一作曲です)。こうした四季が美しくリズムを刻んで交代する繊細な季節を持つ日本的な自然美が、この二人によってみごとに形象化され、日本型の近代抒情の基盤となっていったのです。これらの唱歌はいずれも、自然の移ろいゆく姿に受容的であり、けっしてそれを人為的に工作したり変容させる人間主義の要素はありません。ここに欧米の自然主義と原理的に異なる日本的自然観がありますが、これが古代以来のものなのか、それとも明治以降の近代化のなかで構築された抒情なのか、ここでは分析しませんが、日本的感性に支配的影響を与えたことはまちがいありません。
明治の文部省官僚は、近代化をささえる日本的感性の構築を、故郷的原風景への母なる慕情ともいうべき共感によるナショナルな感性を創出することに成功し、たぐいまれなる近代工業化を推進する教育と企業システムの集団的同盟感情の基礎をつくりあげたのです。成人した日本的感性は、右翼であれ、左翼であれ、落涙しながら「故郷」を歌い、手を結んだのです。結論的に云えば、「故郷」は日本型共同体の原風景を構成的に創造していく感性の中心に位置し、近代化の「個」の側面を融解しもしくは抑圧する効果を持ったと云えるかも知れません。しかしかって砂川基地に座り込んだデモ隊が、夕暮れに「赤とんぼ」を歌って抵抗したように、「故郷」もまた抵抗歌となる可能性をもっているといえるでしょう。それは第2次大戦期にはこの歌が教科書から削除され、また原風景が公共プロジェクトで次々と破壊されていく現代にあって、原風景の意味はいまや人間そのものを恢復し再生する意味に変容してきたからです。もはや「故郷」は文部省唱歌ではなく、民衆歌として国家から飛翔し、市民のふところ深く根を下ろし始めたのです。(2009/10/24)
◆罪は誰にあるか?
パキスタン北西辺境州のペシャワルの警察施設付近で、16日に連続して2件の自爆テロが起き、建物の一部が崩壊して子ども1人と女性2人を含む11人が死亡し、7人が重態となっています。もはやこうした日常茶飯事となったイスラム圏のニュースに、私たちは驚かず、眠い目をこすりながら会社や学校へ急ぐ朝の風景です。この子どもの命ははたして地球より重かったのでしょうか?
ユニセフ・WHOは世界の5歳児未満の子どもの死因を発表しました(14日)。それによると、新生児疾患37%、呼吸器疾患17%、下痢16%、マラリア7%、麻疹4%、外傷4%、エイズ2%、その他13%となっています。問題は完全に予防可能な下痢によって150万人の子どもが亡くなっているjことです。世界の下痢による死亡の88%は不潔な飲料水、非衛生なトイレなど劣悪な保健環境によってロタウイルスが蔓延していることです。06年時点で25億人が非衛生なトイレを使用し、途上国では25%が屋外で排泄行為をおこない、感染予防の決め手とされる母乳保育は途上国で37%でしかありません。こうして下痢による5才未満の子どもの死亡の80%以上が、アフリカ(46%)と南アジア(38%)に集中し、とくにインド、ナイジェリア、コンゴなど15ヵ国で4分の3を占めるに到っています。予防接種、母乳保育とビタミンA、手洗い用の石鹸の普及だけで150万人の子どもの命は助かるのです。これらの国は日本の多国籍企業が進出して大いに儲けている地域ではありませんか。この子どもたちの命ははたして地球より重いのでしょうか?
米国オクラホマ州のシンクタンクが、オクラホマ州南部の公立高校生1000人を対象に、米国市民権を得るための移民向け試験問題と同じ内容の10問を電話で聞いたところ、次のような結果が出ました。いずれも%は正答率を示します。
上院議員の任期は何年ですか? 11%(6年)
米国独立宣言を書いた人は誰ですか? 14%(トーマス・ジェファーソン)
米国初代大統領は誰ですか? 23%(ジョージ・ワシントン)
ワシントンは1ドル札や25セント硬貨など米国でもっとも流通するお金の肖像に描かれていますが、じつにオクラホマ州の高校生のの77%は米国史上最も著名な人物の名前を知らないのです。ちなみに移民は10問中6問の正解で市民権を取得でき、90%以上が合格しているのです。無知のままに成長していく米国の子どもたちを非難できるのは誰だろうか?
国際食糧政策研究所(IFPRI)の09年世界飢餓指数(食糧不足の人口比、子ども栄養失調率、子ども死亡率の総合指数で、5以下は飢餓、20以上が警戒レベル、30以上が極度の警戒)では、90年20,0→09年15,2へと改善されたが、サハラ以南22,1と南アジア23,0と29ヵ国は警戒レベルを超え、現在の食糧危機と景気後退による食糧安保と貧困の生活破壊はさらに深化しているとしています。とくにコンゴは25,5→39,1、ブルンジ32,2→38,7と子どもの栄養失調が深化し、バングラデイシュとインドでは低体重児が40%以上に達しています。逆に女性の教育や政治的権利が向上しているベトナム24,8→11,3、ブラジル、サウジ、メキシコなどでは著しい改善が見られるとしています。
こうして先進国、途上国にかかわらず、子どもたちは大人のつくりだしたシステムに翻弄され、もてあそばれて犠牲となっています。日本ではこの4月に導入されたばかりの全国一斉学力テストが、わずか半年で見直され中止の方向がでて参りました。烈しい点数競争による授業の崩壊は惨酷で、秋田県や鳥取県、大阪府では市町村別・学校別の結果公表による頽廃が深刻になっています。これほどに子どもを弄んで狂奔した大人の事例は戦後にないでしょう。自爆テロでこの世をあっけなく去る子ども、下痢で死んでいくしかない子ども、建国の指導者名を知らずに成長する子ども、点数を至上価値としてラット競争に突きおとされた子ども、これほどに21世紀は子どもの受難を放擲して恥じない万物の霊長が支配する惑星の姿は哀しく、恥じらいに満ちたものとなっています。かって貧困化理論で、地球はしだいに絶対的貧困が解消されて相対的貧困に向かい、欲望の社会的水準の高度化による貧困が問題となるという議論がありましたが、21世紀を迎えてなお晩期資本主義のグローバル化による文明化作用はゆがみ、絶対的貧困と相対的貧困が重層的に錯綜する、いっそうみじめな実態に転落しつつあります。ちがいますか?
私もその綱の一端を握ってきたシステムは、次の事実に象徴されています。バンク・オブ・アメリカは、シテイ・グループとならんで米大手最大の公的資金450億j(4兆1千億円)を受けて再建途上にありますが、すでに7−9月決算は最終赤字に転落し、450億jを返済するメドは立っていません。逆に米政府は史上最高の財政赤字に追い込まれています。しかし驚いたことに、バンカメCEOのルシスルイスは、年末の退職時に年金を含めて1億2000万j(110億円)を受け取り、そればかりか今年度報酬は150万j(1億3650万j)にのぼり、すでにそのうち100万ドル以上を受けとっています。さすがに頭に来た米政府報酬監督官は、今年度報酬の支給にストップをかけました。かけました。なんのことはない、米国市民は自分の税金で倒産銀行の再建ではなく、最高経営責任者の報酬と退職金を支払っていたのです。ようするに全世界にひろがっている子どもたちの地獄のような惨状のバックにあるシステムは、このような天文学的報酬を手にして、我が亡き後に洪水をもたらす市場原理システムに他ならなかったのです。
(2009/10/17)
◆哀しき裁判官の頽廃
ある市民団体が元判事、法学者など900人を対象に死刑制度についてのアンケートをおこなったところ、106人から回答があり驚くべき結果が示されています(毎日新聞10月11日)。この場合は絶対数に意味があるので、回答率の低さはあまり意味を持っていません。
問)刑事裁判で誤判は避けられるか? 避けられない82% 避けられる11%
問)死刑制度に賛成か反対か 反対45%
問)死刑宣告の経験がある元判事27人に対して
後に死刑は重すぎると思ったことがある 4人
仮釈放のない終身刑があれば死刑は回避した 5人
後から冤罪を疑ったことがある 1人
集会に出席した元東京高裁判事は、「1割以上の判事が誤判は避けられるという妙な自信を持っていることにびっくりした。神でもない私たちが裁く以上、誤判は混入する」とコメントしています。誤判の可能性を当然のこととして判決を下している頽廃した神経に唖然とするしかありませんが、何よりも深刻なことは実際に死刑判決を宣告した判事27人のうち、10人が自らの死刑判決に疑問を呈し、また冤罪を疑っていることです。
誤判と冤罪の最大の要因は検察・警察による取り調べによる人為操作にありますが、江戸期以降自白を最大の証拠としてきた日本の司法制度では、自白をとるためのあれこれの身体的・心理拷問が横行したばかりか、DNA鑑定に名を借りた科学捜査をも冤罪に利用されてきました(栃木・菅谷事件)。ここから冤罪を防ぐ取り調べ過程の可視化が提起されていますが、問題はでは冤罪がすべてなくなったと仮定されて、完全に正しい事実認定による死刑はあり得るか?ということです。現段階では冤罪の不可避性による死刑廃止論が有力ですが、すでに国連では死刑そのものの廃止がスタンダードになっています。
なぜ日本では死刑制度存続の世論が根強くあるのでしょうか? いうまでもなく被害者と遺族の残酷犯罪に対する応報感情であり、その感情を国家がかわって死刑というかたちで代理報復するというものです。被害者遺族ではない無関係の市民が死刑に賛成する理由は、日本型の罪と罰の独特の構造があるような気がします。日本では戦争や侵略などの国家犯罪の指導責任は、祖国という大義によって免罪する傾向が強く、私人間の残虐犯罪に冷厳な刑罰を要求する傾向が非常に強いように思います。核爆弾という大量破壊兵器を投下した史上最大の戦争犯罪に対して、日本は応報感情を持つことなく、逆に媚びへつらって軍事基地を提供し、外国兵に娘を陵辱されても怒らない文化っていったい何なのでしょう。15年戦争の最高司令官が、「戦争責任などと言う文学方面のあやは考えたこともない」と平然とうそぶいても、市民たちはあいかわらず土下座して敬意を表している文化っていったい何なのでしょう? この最高司令官の戦争犯罪の処理に最大の問題があり、それが現代史のゆがみに無自覚な文化を定在させてきたのです。
歓呼の声をあげて死刑を求める文化は、なにかパンとサーカスににのめり込んでルサンチマンを発散させた帝政期のローマ市民を思いおこさせませんか。死刑が制度としてあることは、すくなくとも主権者であるすべての市民が、死刑執行人として絞首刑のボタンを自分の手で押していることを意味しています。裁判員制度が導入されたと同じ論理で、市民が交代で死刑執行のボタンを押す義務を付与すべきではないでしょうか? (2009/10/16)
追記)全米で最多の死刑執行を記録しているテキサス州は、じつに76年以降441人が処刑されていますが、ここにきて04年に処刑された男性死刑囚(執行時36才)の無実を証明する報告書が相次いで、無実の死刑を公式に認めることを絶対に拒否しようとする知事が法廷科学委員会の委員を大幅に交代させて問題が烈しくなっています。この男性は放火による娘3人の焼死の殺人罪に問われましたが、処刑直前に失火報告が出たにもかかわらず、州知事は死刑を執行したのです。
死刑執行の場面を放映したある米国映画では、被害者遺族を含む大勢が見守るなかで、電気椅子による処刑が執行されていましたが、いまでもあの画面は記憶に残っています。しかも無実の罪で死刑が執行されている事例が続発していることは、もはや米国のみならず世界の死刑制度の根拠が根底から崩れていると云えましょう。以上・朝日新聞10月26日夕刊参照。(2009/10/26)
◆新古典派シカゴ学派に狂奔した人たちはいま?
東アジアに浮かぶ島国に生まれた新政府のある大臣が、ごく当然の発言をして物議を醸しています。
「大企業は従業員を正社員からパートや派遣労働に切り替えて、安く使えればいいとやってきた。ため込んだ内部留保をそのままにしといて、リストラをやり、人間を人間扱いしないで、自分たちの利益の道具として扱う風潮が、社会全体にひろがってきた。人間関係がばらばらになり、家族という助け合いの書くも崩壊した。この国で立件された殺人事件の半数が、親子・兄弟・夫婦の親族関係で起こっている。改革と称する極端な市場原理、市場主義がはじまっていらい、家族の崩壊や家族間の殺人が急増した。そうした風潮をつくった経営者団体に責任がある」
別にごく普通の新古典派理論による経済運営を批判する現状認識に他なりませんが、新首相は「言葉が過ぎる。もう少し全体を見て発言された方がいい」と批判しています。ここに新政権内部の日本型保守と市場派の微妙な差異がうかがわれますが、この国の実態ははるかに深刻でとりかえしのつかないレベルの痛みに沈みつつあるようです。厚労省「08年社会福祉行政業務報告」(10月7日)では、児童相談所が公式に対応した児童虐待件数は前年比2025件増の4万2664件と過去最高を記録し、身体的虐待1万6324件、保護怠慢・拒否1万5905件、心理的虐待9092件、性的虐待1324件であり、加害者は実母60,5%(!)、実父24,9%、被害者は小学生1万5914件、3−学齢1万211件、0−3才7728件となっています。これはいうまでもなくあまりに苛烈であるために、相談所に届け出られて指導を受けた件数であり、潜在的な実数ははるかに上回っていると予測されます。多くの要因があるでしょうが、確実に企業内抑圧→家庭内抑圧→幼児抑圧というはてしなく弱者へと向かう垂直的な抑圧の移譲の連鎖の結果に他なりません。おそらく経営者団体の幹部メンバーは、こうした事実への想像力は働かないでしょう。なぜなら、それだけの痛みへの人間的想像力があれば、冷酷無残な経営トップにつくことはないからです。
警察庁統計では、08年度自殺者数は過去最高を記録し、経済・生活苦を理由とする自死は7000人を超え、公式に記録された餓死数は100人に迫ろうとしています。09年度1月ー8月自殺者数は、すべての月で前年を上回り、2万2003人で03年の3万4427人をはるかに越える見通しです。11年間連続3万人を超えるという世界でも希な自殺大国となっています。交通事故死者5155人(08ん08年)の6倍が自死しています。生活保護基準を指標とする絶対的貧困世帯の捕捉率(基準以下で保護を受給している世帯)は、10−20%にすぎず、逆に窓口での申請を忌避する政策誘導がおこなわれています(EU諸国の捕捉率は70−90%)。受給世帯でも母子加算や老齢加算を廃止し、申請を拒否する政策が横行してきました。こうした経済・生活問題とうつ病などの健康問題がむすびついて自死を選んでいるのです。かって晩期資本主義論という枠組みで、成熟した先進資本主義国の原始的貧困の後にくる精神的貧困の議論がありましたが、現代の貧困は進級の貧困が重層的にいきかう複雑な状況を呈しています。
ひるがえって世界を見れば、出生登録がなされていない子ども数5100万人、児童労働従事数1億5千万人(5−14才)、その他表面に出ない人身売買と児童強制婚、レイプなどの児童虐待ははるかにこれをうわまわっています(ユニセフ「子どもの保護に関する報告書」10月6日)。この報告で注目されるのは、児童ポルノの所持を禁止していない国は先進国で日本とロシアの2ヵ国のみであるとして、日本政府を厳しく批判していることです。表現の自由を理由に日本では、子どもの人権をいとも簡単に葬り去っています。ネット上で飛びかう児童ポルノの惨状は眼を覆うものがあります。
あるいは先進国では職場ストレスを原因とする自殺が急増しています。フランスでは、フランステレコム24人、ルノー新車開発部門などの職場ストレスを原因とする自殺が多発しています。仏労働衛生環境安全委員会報告では(8日)、07年度い労働災害相談件数の第1位が精神疾患となっており、労使間で合意された職場環境協議合意は経営者側がネグレクトしています。フランス労働省は、9日に1000人以上の従業員がいる2500社に、労使協議による職場ストレス防止策策定を求める緊急対策を発表し、未達成の企業名を公表するとしました(9日)。今次対策は大企業に限定され労災の危機が中小零細に転化されていく危険がありますが、とにもかくにもあのEU労働指令の先進国であるフランスでこのような深刻な事態が繰りひろげられています。
こうしたいままでの社会的弱者をふくむ中堅技術者への精神的負荷攻撃が集中する構造こそ、個人の自由を極大化して市場にすべてを委ね、激しい競争を組織しながら、自己責任で熾烈な生活を強いる市場原理論が生みだしたものに他なりません。問題は80年代以降、新古典派理論をアカデミズムで宣揚し、経済学部の内実を一変させてしまったシカゴ学派が、いまは知らん顔をして我関セズの無責任の頽廃に落ち込んでいることです。本家の米国では、官僚はアッサリと撤退して公職から退いて責任を取りますが、日本では風見鶏のように顔向きを変えて媚びへつらっていきます。どのように時代の文化が変貌しようとも、つぎつぎと変容して無神経な転向を恥じらいもなく、くりかえしていく日本型無責任の精神構造は連綿として継承されています。かっての神世の時代に、罪やケガレは水に流して洗いおとす禊ぎによって許されるという、あの無責任の思想が・・・ポスト・モダンの超現代にかたちをかえながら息をしています。嵐が過ぎ去った曇り空に、なお東アジアのその国は、ほんとうの変革に直面しているにもかかわらず、てさぐりであろうともあがき続けなければならないのでしょうか?
もはや理論的な死を宣告された新古典派シカゴ学派が退場せずに尚グズグズしているのは、いうまでもなく日本型無責任の精神構造の残滓に他なりませんが、このままもしシステムとパラダイムの転換が起こらなければ、おそらく日本は終末の大団円をむかえるでしょう。世界ははるかに日本のこざかしい改革路線を追い越して、先に進もうとしています。たとえば、64回国連総会での各国代表による一般討論でもっとも異彩を放ったのは、ベネズエラ・・チャベス大統領です。このようなカッコ付きといえども、率直で気高い理念を日本の政治家の誰が表明し得るでしょうか。まあせいぜい「友愛」どまりにすぎません。以下はチャベス演説の概要です。
「いま地政学的な革命がすすんでいる。道徳的、精神的、包括的、そして不可欠の革命だ。数世紀に渡る中南米カリブ海の無数の人々の苦しみを経て、世界はこの瞬間に到着した。この革命の結果、21世紀は社会主義の世紀となるだろう。資本主義は変革を許さずに破滅へと進む道だ。故ケネデイは暗殺の数日前に、飢餓が南の革命の主な原因だと述べたが、彼は革命家ではなかったが知的であった。おなじようにオバマ氏も知的であり、前日に彼が話したこのテーブルには、もう硝煙の匂いはなく、希望の香りがする。いま進んでいる革命は、山中にいるゲリラからあらわれた革命ではなく、むしろ平和的であろうとする民主革命だ。この世紀はわれわれの世紀であり、われわれ自身が道を切りひらく。だれもわれわれをとめられない。帝国主義は終わる。米国が核不拡散を追求するなら、自らの核兵器を破壊し、気候変動問題に取り組みたいなら言葉を行動に移さねばならない。長い間だれもが、新しい世界秩序について耳にしてきた。新しい機構、新しい経済をもつ新しい枠組みが必要だ。その世界はもう生まれはじめている。」
なにか日本では1970年代に耳にしたようなメッセージ性の強い演説ですが、私たちに場違い又は新鮮にひびくのは、あまりに私たちが成熟のなかの頽廃に耽溺し、原始的貧困に見舞われはじめた現在にあって、新たな方向を見いだし得ない混迷の極地におちいっているからではないだろうか。新古典派シカゴ学派の処刑にだけは、死刑廃止論の私も賛成する。トリノのキリストの遺体をつつんだ聖骸布の複製実験が成功し、中世の捏造品であることが証明された。新古典派シカゴ学派という現代の聖骸布もまた偽物の経済理論なのです。(2009/10/8)
◆この国は、貧困ビジネスが野放しで横行する国なんだ
生活困窮者をターゲットして最大限利潤を追求する貧困ビジネスが横行しています。敷金・礼金なしを宣伝文句に借家人を勧誘するゼロゼロ物権業、それとつるんだ追い出し屋、生活保護受給者に不必要の手術をして診療報酬を詐欺する病院や、現在の主たる営業形態は、路上生活者を勧誘して住居を提供したうえで、生活保護を申請させ、月12万円前後の保護費から生活費と称する費用をピンハネ徴収して利益を稼ぐ手法です。空き部屋となった社員寮や倉庫、老朽化した賃貸住宅などを3畳程度のベニヤでしきり、家賃の他に食費や布団代と称して10万円前後を徴収するので、入所者の手元には2万円ほどしか残りません。徴収は@入所者に銀行口座を開設させて天引きするA窓口に同行して、その場で保護費から徴収するなどで、多くは明細書や領収書を発行しない暴力的で詐欺的なやり口です。
社会福祉法による第2種社会福祉事業無料低額宿泊所制度を利用したあくどい手法ですが、任意団体でも個人でも自治体への届出による開設ができ、ほとんどは就労支援を実施せず、また住居不定による生活保護打ち切りを強迫手段としています。第1種事業の特養とは異なり、補助金の助成がなく、ほとんどが架空NPO法人による無届け施設となって放置され、行政も把握し切れていません。リーマンショック以降生活保護受給者が急増し、それを狙った宿泊所も急増しています。朝食はご飯と味噌汁に漬物、夜はレトルト食品で夏は異臭を放つものなどが配達される例があります。路上生活者は最初の親切な対応に、藁をもすがる思いで付いていき、途中で騙されたと気が付いて、多くが無断で退所する例が多いが生活保護は打ち切られます。名古屋市内にある3事業者15施設では、定員526人の40%にあたる213人が無断退所し、退所し、退所者の47%を占めています。3月に発生した群馬県の10人の高齢者が焼け死んだ無届け有料老人ホームは、スプリンクラーも非常ベルもなく、違法増改築で迷路のような構造になっていました。入居者のほとんどは東京・墨田区などが紹介した生活保護受給者でした。
厚労省調査では、全国の無料低額宿泊所は415カ所(1万3000人)と増加し、全国で168万人が受給している生活保護者を対象とする貧困ビジネスが急成長していることを示しています。全国で最多の大阪市は、88カ所の無届け施設があり、1200人が入所し、3畳で家賃4万2千円という不当なものでしたが、届出がない施設への行政の指導権限はなく放置されています。愛知県内の届出宿泊所は15ですが、大半が定員20−30人の施設であり、事業者は関東から進出した不動産業者です。部屋の広さや築年数に無関係に、保護費の住宅扶助費3−5万円の上限に設定され、ケースワーカーも把握していません。銀行口座の強制管理という財産権侵害、優越的地位を利用した不当な利益、あるいは無届けや就労支援などの社会福祉法違反など犯罪行為が野放しとなって横行しています。
全身から血をしたたらせながら利潤の極大化を求めて、あらゆるチャンスをハイエナのように探し求めながら、生きるしかないキャピタリズムの醜悪な必然性をこれほどあらわに示している例もありませんが、これは非正規を労働力適正化と称して内部留保に狂奔している日本経団連の大手企業の本質と変わりはありません。一方は形式的な合法性を利用するソフトなまなざしで、他方は非合法ギリギリの野卑なまなざしで「搾取」の極地をいっているのです。
いったん解散した日比谷の年越し派遣村は間違いなく復活するでしょう。無料低額宿泊所から退所してホームレスに逆戻りした多くの人にプラスして、さらに多数のホームレスが出現してくるからです。雇用保険の失業給付期間切れと公的住宅緊急入居期間切れが迫りつつあります。特養老人ホームは全国で40万人の待機者が放置され、とくに東京は入所者3万4千人を超える3万8千人が待機状態で、大都市部では老後の生活は破産し、行き場を失った老人の最期のセイフテイネットとしての姨捨山さえありません。
(総務省労働力調査結果 10月1日発表より)
8月完全質失業率 5,5%
完全失業者数 361万人(前年比89万人増)
有効求人倍率 0,42(過去最低)
残業時間 15,2%減(前年比)
給与所得者平均給与 1,7%減(前年比1,7%減 10年前比10%減)
2009年失業非正規労働者数 23万8752人(08年10月ー09年12月)
正社員離職数 4万7676人
非法・無法な解雇におびえながら年の瀬を迎える人たちが、追いつめられたままに野放しにされています。日本の若者にもアメリカ型貧困徴兵制がしのびよっています。奨学金や学費免除をエサに軍隊への志願を誘導する実質的な徴兵制です。「うちは母子家庭なので、親に負担をかけられない。給与を貰えて食事も出て、資格も取れる自衛隊しか選択肢がない」などという若者たちの自衛隊志願が急増しています。自衛隊も全国650を越える高校を重点校に指定し、若い自衛官をハイスクール・リクルーターとして母校に派遣し、夢のような体験談を語らせて勧誘をしています。
戦後政治史に画期的な変革をもたらしたとされる新政権の真価が問われていますが、これとても期待水準は低位に留まっています。なぜなら新政権の与党の中枢は、企業献金に依存しないと活動ができない本質的な限界を持っています。労働者派遣法という中世にふさわしい人買い立法が根本的に改正される期待は幻想に終わる可能性があります。400万人にせまる失業者とそれをはるかにこえる潜在失業者が、みずからの独立の尊厳を毀損されて、声をあげることなく世を去っていく事態を、我関せずとして他人ごとのように見ているとすれば、もはや一揆的な自暴自棄の行動かみずから世を去る行動をとらざるをえないでしょう。
貧困ビジネスの解決は、簡単なことであり、貧困をなくせばいいのです。年収200万円以下のワーキング・プアが1千万人を超えている異常なシステムは、単純な新古典派市場原理理論の素朴な適用の誤りの結果であり、社会的な市場システムへの転換によって解決可能です。簡単なことであり、自己責任の幻想を払拭しなければなりません。すくなくともEU型の社会的市場経済へとシステムを切り替えることが求められます。とくにドイツは世界的大不況下で、失業率の上昇を食いとめ、内需による消費を安定化させています。第1に大不況下で逆に最低賃金を上昇させて、消費を刺激し、第2に操業短縮時の賃金の67%を政府が24ヶ月補償する操業短縮制度によって雇用を維持し、第3に失業時の1年間の失業保険給付に続いて、政府が負担する第2失業給付金で住宅費や光熱費などが支給されます。ドイツではどのような保守政党も、市場原理政策を公然と打ちだすことができないまでに、社会的市場経済システムが社会的に定着しているのです。アメリカ・モデルを無条件に礼讃して、この日本はアメリカ以上に荒み、痛みきってしまいました。あらゆる他者依存ないし他者指向型型の行動を克服する自分の頭で考える市民の出現に、日本の未来の最期のチャンスがかかっています。(2009/10/4)
◆魔女狩りが爆発的にひろがっている
ジュネーブで開催中の国連人権委員会の非公式セミナーで、女性や子どもを魔女として殺害・迫害する行為が爆発的にひろがっていると報告されています。信頼すべき統計はないが、国連では少なくとも数万人が殺害され、殴打や追放、財産剥奪などの被害者は数百万人にのぼるとしています。南アフリカ共和国からインドに到る地域では、多くの場合高齢の女性が対象となり、ネパールやパプアニューギニアでは農村部から都市部へと拡大し、多くの地域では魔女とみなされた子どもが家族から排除されてホームレスとなっています。当局が身柄を保護しても、両親は家に引き取るのを拒んで子どもを殺害するケースもあります。国連人権委は、世界的経済危機による貧困の深化のなかで、身代わりの犠牲(スケープゴード)をもとめる現象が背後にあり、一部の宗教伝道者や政府の一部が積極的に扇動しているとしています。
魔女を広辞苑でみますと、「西欧の民間伝説に現れる養女。悪魔と結託して麻薬や呪術をおこなって、人に害を与えるとされた。異端撲滅と関連して特定の人物を魔女に擬し、糾問する魔女裁判で焚刑に処した。比喩的に異端分子とみなす人物を権力者が不法に制裁することをいう」となっています。呪術的思考が根強い時代に、災厄や不幸の原因を擬人化して、排除したり犠牲にすることによって部族や共同体の安全を回復しようとする擬似セイフテイ・ネットとして存在しましたが、しだいに権力者による意図的なマヌーバーとして利用され、偏見による被支配の差別的分断の強力な武器となっていきました。近代以降は身分制からしだいに内面の自由にまで拡大し、ある特定の思想を理由とする魔女狩りがおこなわれました(マッカーシズム、スターリニズム)。こうなると、女性を対象とする魔女狩りの範囲は拡大し、性と年齢を問わず一般化したのです。さすがに生け贄として殺害するハードな形態は姿を消し、心理的な封殺やイジメというソフトな形態に移行しています。
災厄や不幸の解決や回避を短絡的に実現する手段として、抑圧を自分より弱い他者に転移して移譲する方法は、こうして文明とともにしだいに高度な形態へと移行し、現代はシカゴ学派の市場ファンダメンタリズムと結びついて、自分で自分を差別・排除する究極の形態へと近づきつつあります。たしかに身分や生まれつきのカーストによって現世の生活が決定される前近代からみると、能力や努力という個人のちからによって、幸と不幸が決定される近代は、質的には大きな違いがあります。この能力主義の底にある陥穽は、個人の能力や努力の内実が時代の規定を受け、現代で云えばマネーにむすぶ価値が評価の対象となるということであり、無償の行為や共感能力といった非貨幣的価値は能力の対象とはみなされないという点にあります。こうして現代の魔女狩りは、すくなくとも先進国では、貨幣価値を至上の基準とする抑圧の移譲の法則として発言し、派遣やパートの非正規労働が横行する事態を招いています。
こうして前近代的な形態であれ、近代的な形態であれ、歴史をつらぬいて連綿としてつづく魔女狩りという排除と追放の行為は、じつは不幸と貧困の罠がかたちを変えて深化してきた歴史だとも云えましょう。出生を至上価値とする奴隷制と身分制を克服した人類は、自由と平等を形式とする貨幣価値を至上とする資本主義をグローバル化していますが、餞別と排除の質的なレベルはますます深化し、ホッブス的なオオカミ世界がひろがっているようにみえます。日本の2009年は、史上最高の自殺者をうみだして閉じようとしています。痛みへの共感能力の衰弱がこれほどに深化している時代もないでしょう。朝から霧雨のような秋の雨が続き、もやが立ちこめてあたりを覆っています。曙光がさしこんで、かすかに窓を照らし、新しい希望が姿をあらわしてくるのは、やはりミネルヴァの梟が飛び立つのを待たねばならないのでしょうか。(2009/10/2)
◆日本に救いはあるのか!?
サイトの掲示板を見ると、捕まらない万引き法や逃げやすい店の名前など窃盗技術を競い合う遊び型盗みが満載され、万引きで摘発された少年の27%がゲームだと答えていますが、より衝撃的なことは少年万引きが激減し(28%)、かわって高齢者の万引きが激増していることです(22%)。高齢者の万引きはゲーム感覚ではなく、孤独が24%であり、友人ゼロの人が50%超、収入ゼロ60%超、生活保護20%超といまの日本の高齢者の追いつめられた状況を反映していることです。旅行や自己表現をゆっくりと愉しむ欧米型の老後に較べて、日本ではなんと陰惨な老後が繰りひろげられていることでしょう。この傾向はおそらくもっと深化していく可能性があります。なぜなら現在の働いている現役世代が、先進国でもっとも悲惨な状況にあるからです。
経済協力開発機構(OECD)09年報告を見ると、日本では世界恐慌以前からワーキングプア(所得順で真ん中の人の半分以下にある相対的貧困)が80%と先進国で最高を示し(OECD平均63%)、さらに就労者が1人以上いる家計に属する人の11%が貧困にある(トルコ、メキシコ、ポーランド、米国に次ぐ)としています。日本の税と所得再分配制度は機能マヒし、非正規労働者の比率が異常に高く、1985年16%→2008年30%となり、彼らは雇用保険非加盟で失業に脆弱で未来はないとしています。
しかし企業の売上高営業利益率は世界で異常なほど高く、とくに輸出型大企業は膨大な内部留保をため込んで、人件費削減による製造原価を極端に抑圧して、圧倒的な利益率を稼ぎ出しています。たとえばユニクロで、1枚1000円のTシャツの場合、原材料費22円、製造原価500円、その他運送・人件費経費を加えても、1枚150円という15%に達する売上高営業利益率をはじき出しています(東証1部上場企業の営業利益率平均2,5%)。
こうした若者の生活の貧困から来るルサンチマンは、まるでユニクロで服を買うように、政治家を選び、雪崩を打つ投票行動を誘発させています。市民は怒れる選挙民として投票に行ったと云うよりも、政治マーケットのコンサルテイングとマスメデイアの宣伝の圧力を受けて、政治のコンシューマーのように虚栄の消費的な投票行動に包摂されたのです。人はウオルマートで買い物するように、政治家を選択し、政治指導者の運動も石鹸の販売宣伝とあまり変わりはないのです。広告宣伝が難しいことを訴えないように、政治家もワンフレーズで消費者である選挙民の需要を満たすマーケッテングに習熟しているに過ぎません(郵政民営化なしに改革なし! 政権交代なくして改革なし!)。こうしてマーケッテイング活動に長けた巨大政党が投票を独占し、中間と少数政党は埋没していったのです。ようするにブランドを次々と変えて、あたかもファッションを変えるかのように、世の中を少し差異化してみようというに過ぎません。最先端の現代企業と同じく、製品の基幹であるプラットフォームは不変であり、わずかばかりの相違点を誇大宣伝して販売する戦略と同じなのです。カローラの宣伝は文字による説明が主ですが、レクサスの宣伝は運転席からの流れる風景だけでよいのです。IPodは数千曲をダウンロード可能ですが、実際の顧客はわずかの曲を20−30分繰り返して聴いているに過ぎないのです。
最大の問題は、企業活動や投票行動であたかも、無限の自主的な選択をしているかのような幻想をもって行動している市民は実は、ほんとうに自分自身で創造しているよりも誰かから提示されたモノから受け身で選択しているに過ぎず、そこでは深い自己能力の剥奪と無力が沈積していることです。私たちはあたかも、能動的に受動的な状態に入ろうとしているのです。選挙の世界では、小選挙区制の二大政党制の国ではどこでも、標準的なプラットフォームは不変であり、少しの差異を極大化して競い合う劇場型デモクラシーのパンとサーカスに狂奔しています。日本もやっとそのレベルに達しつつあるようですが。この小さな差異のナルシズムは、巨大な革命的変革はともなわず、安心して少しばかりの差異を愉しむことができますが、人間の成長は奪われていきます。もはや政治家との生き生きとした論争はなくなり、まるで商品のカタログ見本から商品を選ぶかのように、政治家を選択していくのです。これは医療の世界で見れば、医者はコンピュータ上のデータと対話しながら、治療方針を決め、患者との対面型診断が排除されていくのと同じです。
こうしてアメリカ以上にアメリカ的な競争原理の異常な国ができあがりました。堆積するルサンチマンは、ついに長期保守政権を崩壊させて、幻想の改革政権をつくりだしましたが、この両者のプラットフォームはほとんど差異がなく、おそかれはやかれその限界が露呈されるでしょう。その先にいったい何があるのか、まさにカムイ伝の知恵のまなざしを以て世の進展を見なければならないでしょう。(2009/9/19)
◆星条旗帝国の惨たる文化は、どのようにしてつくられたのだろうか?
米国内のすべての映画配給会社が、ダーウインの生涯を描いた「クリエーション」の国内上映を拒否したそうだ。映画は、ダーウインが『種の起源』の起稿にあたって、キリスト教信仰と科学の矛盾に苦悩する姿を描いているそうですが、39%しか進化論を信じていない米国では、神による創造説が圧倒的に優位で、映画上映がもたらす矛盾を考慮したそうです。一部にはダーウインを人種差別主義者として攻撃する人もおり、とくに南部の公立学校では進化論の教授は禁止されています。なぜ米国ではかくばかり、キリスト教原理主義の影響が強いのでしょうか?
ピリグリム・ファーザースは、英国内で迫害を受けた人たちが入植したはずです。西部開拓の自己責任で生きていくしかなかった米国人たちが、アイデンテイテイの依拠する場として聖書しかなかったのでしょうか。隆盛を極める市場原理主義とキリスト教原理主義という極右保守派がむすびつくのは、ちょうど日本の市場原理派と靖国派が醜く手を結んでいることとおなじなのでしょうか。
米国内で公的医療の推進を主張することは、ケインズ派の大きな政府に留まらず、スターリン・ヒトラーの社会主義ファッシストなのだそうです。大統領の推進する医療保険改革に反対する米国保守派のワシントン・デモ行進では、「レーニン+スターリン+ヒトラー+ムソリーニ+カストロ=オバマ」というプラカードが掲げられたそうですが、参加した市民は「米国は開拓者精神の国で、質の高い医療は国に頼らず自己責任で行え」と叫んでいます。ここには米国保守派に潜在する人種差別の醜悪なルサンチマンがあるように思います。すべての人に機会の平等が実質的に保障され、すべてが自己選択で営まれた開拓期の伝統精神が、異常な階級格差が拡大した現代にまで連綿として続き、ブルジョアではなく下層階級までとらえていることは、文化の連続性の問題として非常に興味がありますが、しかし足元の事実を見れば、今後10年間で無保険者になる人が65才以下で48%以上、21才以下で57%以上と試算されて以上に、米国での生存権は惨たんたる危機にあるのです。自由の偏見に侵された保守系米国市民の哀れな実態が浮かび上がって参ります。
米国の財政危機はすでに破綻に直面しています。財政難に転落したカリフォルニア州は、州内33カ所の刑務所に17万人(!)が定員オーバーで収監され、刑務所財政が破綻に直面し、連邦判事は4万6000人を削減するよう命令し、州議会は今後2年間で2万5000人を仮釈放することを決定しました。イリノイ州でも財政再建に向けて服役囚1000人を仮釈放し、年間500万j(4億5500万円)を削減すると発表しました。窃盗罪などの服役囚が対象で、仮釈放後は監視用器具のICチップが身体に埋めこまれ、24時間の監視を受けます。要するに、すでに米国犯罪水準は米国刑法を精確に適用すれば財政が破綻するほどに治安が悪化していることを示しています。犯罪者はもはや逮捕しても収監できない実態がある以上、逮捕できないという治安破綻の状況にあるのです。
米国内のこうした極限的な矛盾を国内で処理する困難を、対外的な矛盾に転化して星条旗の愛国心で処理しようとしてきた戦略も、イラク・アフガンで破綻してしまいました。結論的に云うと、アングロ・サクソン・モデルは世界史の舞台で破綻に瀕したのです。旧宗主国である大英帝国の醜悪な外交政策をみれば一目瞭然です。サーッチャー首相(当時)は、1989年のベルリンの壁崩壊の2ヶ月前にゴルバチョフソ連共産党書記長(当時)と会談し、ドイツ統一を阻止するように秘密裡に要請していたそうです(英紙タイムズ9月11日)。当時の西側は表面的にはドイツ統一を掲げていながら、東西ドイツ統一によるドイツの強大化を恐れて、ソ連の介入を要請する二枚舌外交を展開していたのです。このモスクワ会談でサッチャーは、ソ連がポーランド自由選挙などの東欧自由化に冷静に対処していることを評価しながら、「ここだけの話だが、ハンガリー経由で西側への大量逃亡が起こっている東独へ深い懸念もつ、米国大統領もソ連の安全保障に脅威となる事態は望まないとの伝言がある」として、米英がドイツ統一に反対であることを伝えていたのです。もしこの情報が事実であれば(ゴルバチョフ財団流出資料)、米英のアングロ・サクソン・モデルの浅はかな外交プラグマテイズムの堕落を象徴しています。おそらく、日本国内米軍基地と核兵器持ち込み密約についても、おなじようなダブル・スタンダードが働いていると知らなければなりません。
しかし他方で米国大統領は、9月からはじまる国連総会とNPT再検討会議をひかえた国連安保理事会に、核兵器廃止決議案を提案することを決めています。ここに西部開拓精神の米国文化の最良の部分が生きていると思います。進化論を忌み嫌い、ダーウインを人種差別と悪罵する保守系市民とは全く異なる、黒人を大統領に選出したのびやかですこやかな健康な市民のジャステイスが生きて働いているような気がします。日本を核の傘に治めようとする冷戦政策の残滓を一掃できるか否か、大いに注目されます。陽光かがやく秋空にまっただ中に、飛ぶ鳥を見ながら、庭に熟しつつある柿を味わう最高の季節・・・このじょじょに暮れていく秋の日こそ較べるべき季節はない。(2009/9/14)
◆タケナカなんとかの哀れな末路
ライオンヘアーとか云われた首相の政権で、シカゴ学派型市場原理政策を推進したタケナカなんとかという人がいました。このひとの自己の学問的信念に忠実な素朴さには、ほとほと感心してしまうのですが、自らの政策実践の結果についての反省の能力の欠落は目を覆わしめる脳天気さがあります。世界最高水準にあった日本の医療制度やどのような僻地もカバーした全国郵便制度は、もはや見る影もなく崩壊しつつあります。世界第2位を突っ走っていた1人あたりGDPは、いまや23位(購買力平価では24位)に転落してしまいました。この凋落の最大の犯罪者は、世界経済危機や円安と云うよりも、規制緩和という名の市場原理政策と輸出指向政策による雇用崩壊がもたらした内需(1人あたり個人消費)の激減にあるのですが、その推進責任者はいうまでもなく、シカゴ学派セオリーを幼稚園児のように嬉々として日本に適用したタケナカなんとかという人物でした。日本の雇用を崩壊させて、まるで江戸時代の人足寄せ場の人買いのような人材派遣業の隆盛を招いたのが彼に他なりません。このタケナカなんとか云う人物は、経済財政諮問会議でオリックス会長の宮内義彦とタッグを組んで、製造現場への派遣を解禁し、いまや労働者の3人に1人が非正規となり(青年層では2人に1人)、年収200万円以下の給与所得者が1000万人越えるという惨たんたる労働市場へと頽廃してしまいました。逆に労働者派遣事業は急成長し、年間売上高6兆円を超えるに到り、宮内義彦はかんぽの宿70施設をわずか109億円という超安値で買い取るというあくどい商法をおこないました。、
このタケナカなんとかという戦後最大の経済犯がいまなにをしているのか、ご存じでしょうか。東京のある私大に復帰したと同時に、なんと人材派遣大手のパソナグループの会長に就任していたのです! 経済学の真理を追究する分野で、自らの政策を含めた政策科学を謙虚に深めているのならまだしも、自ら規制緩和を主導した行政責任者でありながら、他人の血を吸って生きるドラキュラのような派遣会社のトップに納まる神経の異常性を指摘しても、彼にはなんの効果もないでしょう。それは彼が精神医療の異常心理の対象でしかないからですが、しかし彼は充分に自己責任をひきうける判断能力を持っているはずなので、医療の対象ではなく政策犯罪の対象被告です。彼は市場原理学派すらがもっともモラルハザードとして禁圧する行政官の身売りという恥ずべき行為をおこなったのです。
親分のライオンヘアーも、自己選択・自己決定・自己責任の競争原理による「努力した者が報われる」システムとは、なんのことはない、自分の息子のみに後を継がせて、他のナントカ・チルドレンたちは雪崩を打って退場させる「自分だけが報われる」システムに過ぎなかったことを白日の下にさらしましたが、彼らは自らの政策の結果責任にいっさい無関心に、自己利益を追求するホッブス型の利己主義の権化でしかなかったのです。しかし彼らの想像を絶する恥ずべきふるまいは、逆にその真相を市民にさらし、歴史の舞台からの退場を宣告されるにいたりました。すごすごと退場していく彼らは、自らの退場理由にすら無自覚で怨嗟のうそぶきをまき散らしながら退いていこうとしています。ここでこそ、水に落ちた犬はさらに叩かねばならないのです。
私たちがいかに異常なシステムのもとで生きてきたかは、他国と少し比較しただけで分かります。ドイツ下院は、9月最期の本会議で最期のタブーと言われた、ナチスに抵抗して有罪判決を受けた旧軍人の名誉を回復する包括的名誉回復法を可決しました。ヒトラーは、1943年の軍事刑法改定で、軍人の脱走・ユダヤ人逃亡の支援・戦争批判発言への死刑適用を拡大し、3万人の有罪判決をくだし、2万人を(!)処刑しました。98年名誉回復法では不当判決のみを無効とし、02年改正では脱走兵と兵役拒否者のみの復権を認めましたが、ついに今年ナチス軍事裁判被害者全員の名誉を回復することとなったのです。
対する我が日本の戦前期治安維持法犠牲者の名誉回復はなされているでしょうか? ナッシング! 外国人強制連行被害者への償いはなされているでしょうか? ナッシング! 従軍慰安婦への償いはなされているでしょうか? ナッシング! 逆に我が日本はA級戦犯数名の首をGHQにさしだし、他の有力戦犯はすべて釈放されて厚顔きわまる戦後政府首相を務めるにいたる醜悪な無責任の歴史を刻んで参りました。驚くべきことに戦犯指定を受けた戦中期為政者の複数が、戦後は米国秘密スパイ組織CIAの協力者としてコードネームをもらって媚びへつらって、日本の国家機密と市民の動向を米国政府に売ってきたのです。丸山真男がいうまでもなく、日本の無責任の体系というシステムは現在のこの瞬間に到るまで、連綿として生活の全域に浸透しています。
破産したシカゴ学派市場原理政策の失敗の遂行者は、責任をとったか? ナッシング!(2009/9/10)
◆未完の罪責
戦後64年を経て、日本が戦時下で強制連行・強制労働して無残な死を遂げた韓国・朝鮮の人たちの遺骨のほとんどは返還されていないという。強制連行を発動した日本政府と、強制労働に従事させた日本企業の戦争犯罪の責任は果たされていない。旧朝鮮総督府の資料では強制連行された人数は151万人(!)と推定されているが、実態を把握したものかどうか疑わしい。2005年に政府は遺骨調査を開始し、宗教団体172体、地方公共団体1194体、民間企業(125社147体)であり、重複をのぞくと2340体の情報が寄せられている。これが戦後64年も経った時点で政府がつかんだ数字であり、そのあまりの無責任は目を覆わしめるものがある。
韓国政府は強制連行の被害補償に向けて約20万人の申請を受けつけ、審査を始めたが、先ほどの数字はそのわずか1%にすぎず、日本政府の調査対象とならない多くの人が、補償を受けることなく、この世を去ることになる。それ以前に、なぜ日本政府でなく、韓国政府が補償の主体になるのだろうか、世界はこの信じがたい奇異を理解できないでしょう。とくに大問題は、強制労働に動員した数千社の日本企業のうち、125社しか調査しないというのはなんということでしょう。その筆頭は、強制労働を通じて飛躍的に会社を成長させた麻生鉱業(株)なのですが、いったい麻生首相はどう考えているのだろうか。自治体調査も10県でしかなく、最大規模の強制労働があった北海道や東京を含む30都道県が除外されている。
日韓政府協議によって、日韓条約の免責条項をのりこえて遺骨問題の調査に合意したはずの日本政府の破廉恥な態度の背後には、救いがたい戦争犯罪の隠蔽と戦前期植民地の正当化という非人間性的な反歴史性がある。これが21世紀のグローバル時代を生き抜かなければならない日本政府の恥ずべき水準なのだ。
かって昭和天皇が戦後初めての欧州訪問をおこなったときに、各地でタマゴをぶつけられる大歓迎(?)を受けたが、戦争被害の痛みへの想像力を失ってひたすらマネー資本主義の道を歩んできた日本のモラル水準の劣悪さは、世界史上に例を見ない醜いものだ。
昨日も地下鉄に乗ったら、娘たちが化粧に没頭している。じっとそのしぐさを観察していても、なんの恥じらいや反感の感情も表さず、ひたすら化粧の世界に没入している。幻想の美を創出して自己満足する化粧ほどに、女性の人格が毀損されているものはない。それは人間のごく普通の尊厳をすでに、無自覚のうちに喪失している悲惨を示している。このような自己表現によってしか、他者の承認を求めざるを得ないみじめさに突き落とされている娘たちの哀しい姿に、あわれを催すしかないけれども、そこには滅んでいく日本の未来が透けて見えるような気がする人もいるだろう。
大学では学生たちの一部に便所メシが流行っているらしい。いや一部ではなく、多くの学生が、学生食堂でひとりで食事をすることは、地獄にいるような辛いことであるらしく、きれいなトイレで昼食をとるのだという。街の牛丼屋でたったひとりで食べることはできるが、大学内でたった一人で食事をすることは、友だちがいない孤独な人間失格をさらけだす苦しみなのだという。とめどなく、あてどもない会話をかわしながら、なんとか群れていることによって孤立をのがれようとしている若者たちの姿は、いったいなにを意味しているのだろうか。たった一人で孤立しても、堂々と自分の意見を主張するグローバルな文化のなかでは、おそらくはじき飛ばされてしまうだろう。ここにも日本の滅びの未来が浮き彫りとなっているような気がする人もいるだろう。
しかしいったい誰がこのような若者の変容をつくりだしていったのであろう。それはいうまでもない。自己選択・自己決定・自己責任という名のミーイズムを宣揚した市場原理主義が、ほんとうの個の確立を抑圧し、無限競争の生き地獄のなかで、歪んだ孤立からの闘争と逃走をつくりだしてしまったのだ。希望とは、文字どおり希な望みのことをいうのだろうか。いやそうではない。ミネルヴァのふくろうは迫りくる夕闇とともに飛びはじめるのだ。(2009/9/8)
◆人間を抹殺する
追う者 長谷川龍生
人間を抹殺できない
俺たちを抹殺できない
俺たちとは、だれか
俺たちとは追う者、追いかける者だ。
おまえたちの侵した事実を血祭りにあげて
おまえたちの生涯を審判する者だ
被爆したヒロシマの犠牲者が、自分たちを抹殺しようとした戦争犯罪者を追求しようとする心に肉薄した渾身の力作です。自分たちが抹殺者であったことをかすかに認める声明を黒人大統領が発しましたが、東アジアの島国の政府の対応は何とも醜悪で恥じらうばかりの虚偽意識に満ちたものでした。攻撃型原潜への核搭載を変更しようとする星条旗帝国政府に対し、拠点集中型の鋭利な核兵器の配備を要求していたのです。とにかく核問題に関しては、この島国の政府は国民にはなんの説明もすることなく、日本の主権領土への核兵器持ち込みを了解する密約を交わしたり、核戦略の再編を推進したりしていたのです。これほどに自国の主権を蹂躙して恥じない政府は、戦時内閣以来のことでしょう。撤退→転進、原爆→新型爆弾などと姑息な言い換えマニュアルをつくって、国民を欺きながら低劣な戦争行為を繰り返してきたのです。
問題は、こうした政府の愚かな行為の被害者であった市民達は、痛苦の痛みを体験と刻みこんでいるはずですが、ルサンチマンを海外に転化する抑圧の移譲の論理の誘惑には、依然として免疫が形成されていないようです。ワンフレーズの断言的命題に我を忘れて熱狂するユーフォリアの体質は、相変わらずのようです。郵政民営化なくして○○なし!→政権交代なくして○○なし!という標語に浮かされて、雪崩を打って投票行動を変えていく付和雷同と大勢順応の集団主義は健在です。なるほど変化を求めて改革は求めない程度の選択肢であれば、少々の不安はあるけれどもまあまあ安心なのでしょう。おそらくこうした大勢順応型ポピュリズムの傾向が、まだまだ10年は続くように思われます。経済成長型日本モデルは、いつしか斜陽の終焉を迎えているにもかかわらず、決然たる対置プログラムを自分の頭で考えぬくには、幾たびの失敗の体験と学習が必要とされるのでしょう。(2009/9/5)
◆カリー中尉は生きていたのか?
AFP時事通信は次のように報道しています。ベトナム戦争期の米軍指揮官であったカリー中尉は、米ジョージア州コロンバスの社会奉仕団体の会合で謝罪して、「ソンミ村で起きたことに深い後悔の念を感じない日は一日とてなかった。殺されたベトナム人やその家族、事件にかかわった米兵らに大変申し訳なく思う」と述べた。いうまでもなく、ソンミ事件は1968年3月16日に、旧南ベトナムのソンミ村をゲリラ基地とみなして米軍が包囲し、無抵抗の無辜の村民を集めて機関銃の集中砲火を浴びせ、504人(ベトナム側発表)を殺害したという事件でした。犠牲者の大半は老人、女性と子どもたちであり、ゲリラではなかったのです。米軍司令部は事件を隠蔽しましたが、翌69年にセイモワ・ハーシュ記者が『ニューヨーカー』に暴露し、米国の汚い戦争が全世界に衝撃を与えました。米軍最高司令部はやむをえず、現場指揮官のカリー中尉を軍法会議にかけ、71年に終身刑を言い渡して、米本土に送還しました。
カリー中尉のその後から私たちは戦争犯罪に関する処理について重要な傾向を確認することができます。1つは、カリー中尉は3年後の74年に仮釈放となり米国での市民生活に復帰していることであり、第2は独立後のベトナム新政府がカリー中尉の引き渡しを要求することなく、現在に至っていることです。後者については、戦後復興を重視して米国の戦争犯罪追求に一定の限界を設けたベトナム政府の矜持に敬服するものですが、前者については米政府の厚顔について絶句するばかりです。無辜の市民504人の殺害命令と実行者である人物を、わずか3年で釈放する米政府の態度は、まさに想像を超えたモラリテイの喪失を示しています。米国軍法によっても、無期刑への恩赦はありえても、終身刑への恩赦はあり得ないのですから、いったいこの超法規的措置の裏にはなにが潜んでいるのでしょうか。
カリー中尉の戦争犯罪は、一片の謝罪の言葉によってはとうてい償われるものではなく、社会奉仕活動に参加することによって彼が個人的な救済を期待しているとすれば、504人の魂は鎮められることはないでしょう。カリー中尉はベトナム戦争期のすべての米軍の戦争犯罪について、解明し告発し謝罪し補償するなかで、やっとすこしはかすかな免責への道が開かれるのです。
しかし、これが他人事でないのは、全世界に基地をはりめぐらす米政府が、海外駐留米兵の犯罪についてどのような処理をしているかの問題に連動するからです。在日米軍基地関連の米駐留兵の日本国内での犯罪は、第1次裁判権がやっと日本側に移行したにしても、それ以前はすべて米本土に送還されて闇に葬られてきたと推定されるからです。いや現在でもほとんどの犯罪米兵は、日本側に引き渡されることなく、米本土に送還されているのではないでしょうか。戦後の在日米軍によるすべての犯罪を解明し、犯罪者がどのように服罪しているかをあきらかにすれば、ぞっとするような主権喪失の実態が浮かび上がってくるでしょう。これは同時に、日本政府が米国と破廉恥な密約をかわしながら、米軍に媚びへつらい、幾人かの戦後首相がCIAの協力者として祖国を裏切って売り渡してきた哀れむべき売国奴の姿をも浮き彫りにするでしょう。(2009/8/24)
◆トイレ清掃の大流行はなにを意味するのだろうか?
トイレ清掃を通じて「豊かな心」を育む「便教会」という教師の組織が日本全国に拡大しているそうだ。横浜市小中校は用務員の仕事であったトイレ清掃を子どもの義務とし、茨城県や愛知県でも全校生徒によるトイレ清掃がはじまったそうだ。「見えないところの汚れを素手で触って確かめ、スポンジやタワシで1時間以上かけて便器磨きをする」(結城市中学校)といった具合だ。すでに全国の小学校の95%、中学校の97%と圧倒的な普及に達している。私自身は高校まで、清掃は学期に1回でトイレ清掃はなかったので、はたしてトイレ清掃で豊かな心が育つのかどうか分からない。この全国運動の指導者は、自動車用遺品販売会社「イエローハット」創業者が創った「日本を美しくする会」で、全国120カ所と海外4カ所に組織があるという。その理念は「人が一番嫌がるトイレ清掃を率先してやれば、謙虚な気持になり心が磨かれる」ところにある。この会社は労使協調に向けた労務管理として、トイレ清掃精神運動をおこなってきたのです(以上朝日新聞8月22日夕刊参照)。
たしかに日本のトイレがきれいなことは、欧米のみならず開発途上国を旅行したことがある人は誰しも認めるでしょう。しかしこの精神運動は、なにか清潔潔癖症と汚物嗜好症が奇妙に結びついた異常性を感じませんか? 欧米ではトイレを含む清掃は専門職の公的な業務として、こどもは学習に専念するわけですが、そこには公共性の感覚の違いがあるように思います。川崎市は感染病予防の観点から小学校の便器は業者に委託するそうですが、最低の公衆衛生として当然のことのように思われます。
率直にいって汚物は汚物であり、素直な感情として忌避感が働き、ふれたくないと思う。私宅であれば誰しもトイレを清潔にし、他家を訪問してもトイレをみれば家族の育ちが分かるとも言われるが、それはあくまでもプライベートな領域の問題です。公的施設のトイレと汚物は、それなりの専門的なトレーニングを経て予防衛生を備えた専門業者が担うのが自然であった。問題はなぜいま、全国の学校でまるで目玉商品のように道徳教育として、トイレ清掃が強制化されつつあるのかが問題ではないでしょうか。この特別活動は重要な内申点となるから、偽善的に生き生きと実行する子どもをつくりだしていくかもしれない。
本然的にもっとも嫌悪する行為をあえてやらせることによって、なにが生まれるだろうか。嫌なことに耐えるばかりか、すすんで汚い作業をやることに喜びを感じるようになる精神とはいったいなんだろうか。自主的なボランテイアであっても、こどもたちは教師に眼を気にして誘導的に導かれる場合もある。こうした果てに生まれる精神は、矛盾に慣れ親しむ感性、命令に服従することの喜びなどの歪んだ精神の恐れがあり、開発途上国で感染病阻止のために全力を尽くしてトイレをつくるのとは全く意味が違うのではなかろうか。実際に生き生きとトイレ清掃をしている学校を訪問すればすぐに分かることですが、その多くでは子どもが教師になんの疑問も持たず絶対服従しており、授業でも質問を発することは極端に少ない。
そういえば最近、ガーデイアン・エンジェルズと称して、制服を着た民間の市民が自主的な警備活動や清掃活動、自転車の片づけをやっている姿を眼にする。彼らのまなざしは、それなりに生き生きとしており、生き甲斐をもってやっていることが分かる。裏を返せば、公共業務のアウトソーシングとか民営化の過渡期としてのボランテイア化に他ならないのですが、私はなにか江戸時代の五人組制度や戦時期の隣組制度を想起してしまうのです。よかれとやっていることが、じつはある特定の規範へ包み込まれていく構造になっているのではないかと危ぶまれます。その最悪の事例は、ヒトラーユーゲントやワンダーフォーゲルに代表される清潔できれいなナチス・ファッショに他なりませんでした。彼らはマイノリテオイや少数意見を汚い連中として攻撃し、排除し、抹殺したのです。
もしこれがファッショの初期形態であるとすれば、これほどにおそろしいことはありません。市民の善意を利用し、強制ではなくあたかも自主的に特定の規範に献身する習慣が市民生活にしみ込んでいくからです。現代ファッショはソフトに 微笑しながらフレンドリーに近づいてくるとされますが、その裏には有無を言わせぬ剥き出しの暴力が潜んでいるのです。
たとえば米国CIAは、01年から敵対勢力の極秘裏の暗殺計画を民間にアウトソーシングしていたことが明らかとなりました。CIAは01年の同時多発テロ事件を契機に、アルカイダ幹部の暗殺を民間軍事会社ブラック・ウオーターに依頼し、CIAの秘密基地で無人爆撃機・プレデターにミサイルやレーザー誘導爆弾を搭載する業務を委託していました。その費用はアフガンでの警護活動費だけで2億1000万j(200億円)に上っていました。ブラックウオーターはCIAの海外事務所の警備を受託し、CIAのテロ部門責任者の天下りを次々と受け容れ、07年にはバグダッドでイラク市民17人を殺害する事件を起こして業務を解除されましたが、社名をジーサービシズに変えて受託を続けています。CIAは対日工作も旺盛に繰りひろげ、暗号名PODAM(ポダム)である正力松太郎やPOCAPON(ポカポン)である緒方竹虎などを協力者に組織し、緒方亡き後は賀屋興宣や岸信介を協力者にして日本政府中枢を支配してきました(以上はニューヨークタイムズ、毎日新聞最近号参照)。
CIAがナチス・ゲシュタポと本質的に酷似したサデイズム的傾向を有することは、彼らの作成した拷問マニュアルをみれば分かります。ブッシュ政権は拷問を合法化して、水責め・睡眠妨害・銃や電気ドリルによる強迫の行使を採用し、時には照明をつけたままの睡眠や隣室での殺人演習などナチス顔負けの拷問手段を開発してきました。いまでは真っ赤な虚偽であったイラク戦争で、100万人のイラク国民が殺害され、80万人の女性が未亡人となり、400万人の子どもたちが孤児となる悲惨な結果をもたらした虚偽の戦争に米政府はいっさいの責任を放棄していますが、こうした悪に対する無感覚がCIAのサデイズムの基礎にあります。
トイレ清掃とCIAがなぜ結びつくのかと奇異に思われた人もいるかも知れませんが、虚偽と表層的な規範意識の形式的絶対化は、敵に対する扇情的な憎悪と少数の異端者に対する攻撃の感情によって抑圧を移譲するナチズムのユーフォリズム(集団熱狂)に似た良心のマヒをもたらすのです。(2009/8/23)
◆あなたは鳩山一郎を知っていますか?
いうまでもなく鳩山一郎は、現民主党党首・鳩山由起夫と前総務相・鳩山邦夫の祖父であり、いわゆる鳩山ファミリーの創業者として現代日本政治の中枢を担った存在です。自民党初代総裁として、日ソ国交回復と国連加盟を推進しましたが、問題はこのような戦犯政治家が、なぜ戦後日本政治に復活し得たかと云うことにあります。鳩山一郎の名前が、現代日本史に刻みこまれたのは、いうまでもなく戦前期の京大瀧川事件でした。1933年に京大法学部瀧川幸辰教授の民法・姦通理論の自由主義的傾向を批判し、時の鳩山一郎文部大臣は瀧川の罷免を要求し、京大の抵抗を押し切って分限休職処分を強行したのです。この事件を契機に大学での学問の自由は一気に崩壊し、思想・文化分野のファッショ化がすすみ、あの愚劣で悲劇的な最終戦争への道をすすんだのです。鳩山一郎は、2000万人のアジア人と300万人の日本人の死に、もっとも責任を持つA級戦犯に他なりませんでした。なぜ鳩山は絞首刑を逃れ得たのか? おそらくここにはCIAの対日政策が登場するでしょうが、深くはふれません。孫の由起夫氏と邦夫氏はいったい祖父の歴史的行為をどう評価してみずからの範としているのか興味がありますが。
さて鳩山一郎の思想をみごとに赤裸々に写しだしたのが、瀧川事件の前年に出した文部省訓令第4号「野球統制施行に関する件(野球統制令)」です。鳩山にとっては、大正デモクラシー運動の自由な思想の影響を受けたスポーツの自主的で自治的な繁栄が気に入らず、その中心にあった大学・中等野球のヒューマンな熱狂を腹立たしく思い、野球を中心とするスポーツの国家統制に踏みだしたのです。鳩山の野球の統制と弾圧を契機に、スポーツは強健な兵士を創出する軍事訓練へと変質し、多くのプロ選手が徴兵されて戦場に散ったのです。もしあなたが野球ファンであれば、鳩山一郎の名前はけっして許すことができないアンフェアーなものとして記憶されるでしょう。文部省と軍部はグルになって全国の大学野球部を潰しにかかり、大学対抗教練大会で重さ7,5kgの背嚢を背負って3人1組で40kmを往復する苛酷な協議を開催し、棄権者が出たり成績不良の野球部は解散させるとしました。早稲田野球部は最終走者が落伍者を背負ってゴールし解散は免れましたが、表彰式で文部省は早稲田の仲間を助けた行為を批判し、もし戦場なら全員戦士だ!と冷酷な論評をおこないました。その後の野球の試合は、試合前に選手による手榴弾の投げ競争を行い、野球は日本野球報国会へと再編されました。もはや野球は死に絶えたのです。夏の甲子園大会では、8月15日正午に試合を中断して黙祷を捧げますが、戦争犯罪者によって冒涜された野球と無念の犠牲者を追悼しなければなりません。8月15日に鳩山一郎は指弾されなければならないのです。
同じ時に米国はどのようにふるまっていたでしょうか。日米開戦前夜に大リーグ・コミッショナーは、ルーズベルト大統領に戦時下の試合開催の可否を手紙で問うと、大統領は「戦時下の国民には平時以上に娯楽の機会が与えられるべきで、野球を続けることは我が国にとって最良の選択だ」と返事をしています。大リーグでも優秀な選手が戦死していますが、すくなくとも試合は堂々と続けられたのです。これは野球が米国の国技と云うからだけではなく、他のスポーツもおなじように公式戦をおこなったのです。但し米国大リーグは有色人種を排除して、黒人はニグロ・リーグでプレーを強制されるという人種差別が色濃く残っていた限界はありました。
現在は学問やスポーツの世界で、鳩山のような野蛮な暴力的な統制は姿を消したように見えますが、ほんとうにそうでしょうか。昭和天皇が亡くなったときに、日本から歌舞音曲が姿を消した異常な姿を覚えていますか。スポーツも又すべて試合を中止したのです。或いは市場原理主義による効率と短期の業績を至上命題とする経営の論理が蔓延し、ほんとうに自主的で自発的な学問とスポーツの自由が保障されているでしょうか。ある意味で公共財である文化とスポーツは、市場原理からある程度切り離して利潤とは相対的に独立して運営したときに、もっとも豊かな成果が生まれるのです。なぜ日本の学問とスポーツは世界水準から大きく隔絶してしまったのでしょうか。それは、野蛮な鳩山型のハードな統制に変わって、ポスト鳩山型のソフトな統制に変容するなかで、ほんとうの自由な精神活動が封殺され、つねにマネーを気にしなければいけない雰囲気が蔓延してきたからです。
鳩山型パラダイムは、このようにハードとソフトの重層的な二面性を持ち、時代の条件に合わせて巧妙に使い分ける時に、もっとも効果を発揮するシステムです。しかし幾度かの統制の悲劇を身に滲みて味わい尽くしてきた市民は、そのような本質を鋭く見ぬいてけっして受け容れることはないでしょう。・・・と安易に云えないところに現代の悲劇があります。つい数年前にライウドアの仮想錬金術に拍手喝采し、ホリエモンを英雄崇拝してひれ伏し、ジュンチャーンと絶叫して投票所に殺到したのは、ソフトな統制の悲劇を味わい尽くしたはずの市民に他なりませんでした。いま次世代の鳩山ファミリーの登場におなじような集団ユーフォリズム(熱狂)の兆しがうかがわれはしませんか。独立した自由な思考を手に入れた市民の形成には、あとしばらくの失敗の学習が必要なのでしょうか。(2009/8/12)
◆ポカポンとは誰か?
7月26日の毎日新聞によると、CIAの対日工作第1号が緒方竹虎(朝日新聞副社長を経て吉田内閣副総理、自由党総裁)であり、彼はCIAの指示を受けて保守合同戦略の先頭を切りました。彼のスパイ名がポカポン(!)です。ポッカレモンと間違えそうな名前ですが、彼はどのような心境でCIA協力者となったのでしょうか。太平洋戦争期に朝日新聞主筆として、国家総動員宣伝に大きく舵を切って朝日を軍事協力一色にした彼は、敗戦と同時にクルッとかっての敵国のスパイに転落し、CIAの指示を受けながら戦後日本政治の中枢におどりでたのです。彼が死去したときに、ダレス国務長官は弔電を打ち、ポスト緒方のスパイとして岸信介(自民党幹事長)にきりかえ、1960年の日米安保条約改訂へと狂奔させ、現在の日米同盟路線を構築したのです。日本の権力中枢が、CIA協力者によって占められているという異常な状況は、そのまま戦後日本の異常性を象徴しています。
たしかにCIAは冷戦のソ連封じこめ政策によって、全世界にスパイ網を張りめぐらせて反ソ・反共政策を推進しましたが、政権中枢にスパイを獲得するという事態は、旧西独でもありえなかった異様なことです。なぜ戦後日本は、かなりの指導層が敗戦と同時に、恥じ入るような旧敵への積極的協力といった非道徳の極地のような行為ができえたのでしょうか。もっとも好意的な解釈は、神たる天皇の免責と引き替えに、協力者となったということですが、天皇の免責過程にはそのような事実はありません。どう考えても、責任と恥辱の意識と感覚が欠落した権力亡者の症状としかいいようがありません。いずれにしろ、戦後日本はこのような恥ずべき人格の持ち主が政治の中枢に座って、マキャベリステックにうごめいてきたのです。緒方竹虎も岸信介もA級にふさわしい戦犯容疑者として逮捕され、みずからの安寧を助けるが為にアッサリと祖国を売ることに、なんの痛みも感じない人格崩壊者であったのでしょうか。
こうした指導層のアンモラルな行動様式が、戦争責任の問題を曖昧にし、かっての被抑圧者への名誉回復と現在に至るも加害責任を回避して恥じない特異な国家として、全世界の軽蔑を浴びています。それがどれほどに異常であるかは、ドイツの戦後史と比較してみれば、あきらかです。8月にドイツ議会は、第2次大戦下でナチス政権によって国家反逆者として汚名を着せられた軍人や民間人の名誉回復を図る新法を成立させます。ナチス時代に処刑された人、脱走や国家反逆の罪名で有罪とされた人の生存者や遺族に謝罪し補償します。ナチス軍事法廷は軍人と民間人3万人に死刑を宣告し、うち2/3が実際に処刑されました。ナチスへの政治的反対派とユダヤ人を虐待から守った人を抹殺したのでした。ドイツ歴代政府は、名誉回復がもたらす補償問題に消極的で、判決は取り消さされることなく現在に至っていましたが、これをすべて清算して過去の罪責を解決するのです。
もしこれがおなじように日本であれば、治安維持法によって虐殺された多くの人々や軍事法廷で裁かれた非戦兵士の名誉が回復され、過去の罪責を清算することができるのですが、日本で実現するとはとても思えません。それほどに私たちは、過去と正面から対峙する真剣さを失い、曖昧にごまかしながら、非道徳の道を歩む痛みを避けてきたのです。こうした大勢順応とモラルの欠落は、社会の隅々に浸透し、商品や労働契約を偽装しても自己利益を追求して恥じない社会を形成してきたのです。職場でたった一人で孤立して異議申し立てをおこなうことは、日本では至難なことです。なぜなら権力者の攻撃を浴びるよりも、仲間から陰湿なイジメを受けるからです。こうしてもの言わぬ雰囲気が蔓延し、モラルがマヒしても無感覚になっていきます。
最高指導者の腐敗が極限にまですすんでも、ちょっとした大言壮語やワンフレーズに歓呼を上げて殺到する集団感情に陶酔して、いつまでたっても自分の頭で考えない癖性が親から子へと伝播していきます。これをこそポカポンというのです。さすがCIAの命名能力の水準は高いものがあります。おそらくこれほどにアンモラルで、痛みきったみじめな状況は、日本歴史の上ではじめてのことではないでしょうか。(2009/8/3 10:00)
追記)ドイツのミュンヘン地裁は、第2次対戦中のイタリア・トスカーナで民間人10人の殺害を命じた旧独軍少尉ヨセフ・ショイングラバー(90)に終身刑をいいわたした(8月11日)。彼は44年6月26日に2人のドイツ兵を殺害したパルチザンへの報復として、アレッツオ村の74才を含む市民4人を殺害、11人を民家に閉じこめて爆破した。少尉は戦後にミュンヘン近郊の村で村会議員を務めたが、イタリア軍事法廷が06年に欠席裁判で終身刑を宣告し、ドイツ検察は08年身柄は引き渡さず、自国での裁判に付した。ソビポール収容所でユダヤ人2万7900人の殺害を執行したジョン・デムヤンユク(89)は米国から身柄を引き渡され、現在裁判に付されている。歳月と年齢は殺人者の罪を軽減することはない、戦争犯罪者に時効はないのだ。(2009/8/14)
◆世界がこれほどに美しいとは!
おもえば1ヶ月ぶりの皆さまとの再会です。はじめて病棟を出て、近くの駅まで歩いていき(この歩くというのが、すばらしい原初的な感覚のよみがえりなのです)、地下鉄に乗って本屋に行きました。おもえば3週間ぶりの外出で、体力の衰えは想像以上ですが、ふたたび生命を得たかのような喜びがジワッとこみあげてくるのです。明るい陽光にひかっている白い街は、まるではじめて出会ったかのように新鮮で、まぶしさくかがやいています。かって、あれほどに侮蔑し、陰鬱な印象でしかなかった日本のモダン街が、まるで近しく違ったように見えるのです。青い空のまぶしさは、世界とはじめて出会った胎児のまなざしを想像させ、ふたたび世界に参加しようとしているような不思議な感覚が身体にあふれてくるのです。わたしは生まれて初めて本格的な身体との闘争を体験し、近代医療の最前線の恩恵に、よくも悪しくも浴しながら、希望せる生還を果たしたと云えましょうか。
日頃からよく覗いていた街の本屋は、人の一生に何ごとかが起こったのとはかかわりなく、いつもと変わりなく営業をしていました。この本屋の書棚も、店の奥に腰掛けている店員さんも、なにかはじめて出会うような新鮮で、懐かしい感じがします。わたしは世のなかの生し生けるものすべてを、慈しみをもって眺める感じをはじめて味わったような気がします。ほとほとに疲れ果てて、地下鉄に乗って、病床にかえると、ここちよい疲れとほんの少しの弛緩を覚えて、シャワーを浴びて眠りにつきました。病院の外の公園で、若者たちがオートバイを爆走させて夜遅くまで集まって騒いでいます。彼らのもてあますかのような生命力に、いまや感歎を覚えながら、また貧しい青春のエネルギーの発散に哀れをもよおすのです。
翌日の早朝、近くの公園を20分近くかけて、散歩しました。なにかしみじみとしたいのちの実感が静かにせまってくるような感じです。初夏のしたたるような濃いみどりが、まさにみどりそのものとなって私を迎えてくれているようです。公園の入口で初老の婦人が道ばたにポツンと腰掛けて、ボーっと街を見ながら煙草をふかしています。腕を見ると識別票があります。
「オー、煙草を吸っていますね!」(と声をかけると)
「この年になるとイライラするより、吸った方がいいと医者も言うのよ」
彼女は人の気のない朝の街をみながら、ゆっくりとふかしています。生命そのものといやおうなく向きあった者の解脱とも云える超越的な心境なのだろうか。
今日は快晴だ。
世界はかがやいているし、こんなにも美しい!
もはや賽は投げられたのだ! ルビコンを越えるときは、グズグズではなく一気に越えなければならない・・・・
私は表現する、わたしは小説を書く、私は絵を描く、わたしは作曲する、そしてわたしは研究する・・・・淡々と地道に、しかし勝負をかけて世界に問いかける・・・・
なぜなら世界はかくも美しく、私にほほえみかけてくれたから、世界からありとあらゆるけがれをふりはらうために、ちからをつくそう・・・・風はもはや立ってはいない、いざ生きめやも!(2009/7/23 10:02)
◆日本の「在日」化
こういう発想は日本人にはできないでしょう。カンサンジュン(姜尚中 東大)氏が、「最近の日本は日本国籍を持っていても、年金さえどうなるか分からない、定職に就けるかどうかも分からない、雇用と福祉が破壊され、セイフテイネッットなき時代を生きる日本国民は、特殊な存在として置かれている「在日(朝鮮・韓国人)」の状況に向かいつつあるのではないか、僕にとっては在日的な友がいやおうなしにふえつつあるわけです」と述べています。それならば、いまこそ国を超えて境界を越えてつながるチャンスではないか、貧困、非正規雇用、失業を強いられている人々が声を上げて連帯していくこと、同時にその周りの人々も、ともに結びあっていくことが必要だとおもうと云っています。
こうした国境を越える思想は、じつはすでにマルクスはじめ初期の社会主義者が労働者は祖国を持たない、万国の労働者団結せよ!というインターナショナルの思想として、現実に展開されました。残念なことに、この運動はモスクワ中心のコミンテルンというインターナショナリズムとは似ても似つかぬ組織になって自壊していきましたが、21世紀に新たなインターナショナリズムが姿をあらわし始めた予兆があります。すでに日韓の非正規労働の交流がはじまっていますが、姜氏のイメージがいまいち情緒的で明確でないので、わたし自身はそれほどに希望を託せません。ただ姜氏のいうように、国境を上から越えるのではなく、下から人々とつながりながら、断絶や対立、敵愾心を克服していく作業が求められていると思います。
こうした東アジアの共同の思想は、上からも東アジア共同体という経済共同体構想がだされており、この構想も日本主導による円共同体から、ドルから自立するEU型共同体まで多岐にわたっており、下からは「東アジア共同の家」構想から、姜氏のような構想まで複雑な展開を遂げようとしていますが、残念なことにどの構想にも、日本が障害物となって登場しています。姜氏は、1960年代の日本をふり返り、あの時代は社会を変革する過程で、人間は疎外から解放され、解放された人間が社会を丸ごと変えていくという、社会変革と自己変革がどこかでつながっていると考えることができたが、いまは挫折感や無力感にさいなまされ、資本主義総体の矛盾があらわになればなるほど、巨大なシステムの前で二の足を踏んでしまう人が多いという。その出口は、結局自分の頭で考えて行動を起こしていくしかないという、至極単純で当たり前の結論を出しています。そこで氏のいう「悩む力」が登場するのですが、問題はいくら悩んでも、行動を起こすことができないほどに絡めとられている現状があります。行動は即自らの不利益につながるリスクを負う現実が分かりすぎるほどに分かっているか、若しくは変えると云うよりも変わるというかたちでしか、変わっていない現状があります。氏の云うことは主観的な心がけ主義にあやうく接近しているようにみえますがそうではありません。
それは氏が外国人登録法による指紋押捺拒否をしたときに、多くの日本人の支援者がまわりにあらわれ、それまで在日対日本社会という二項対立で考えていたいままでの自分が変わったそうです。この体験が彼のインターナショナリズムの原経験となったのです。国家は引き裂いたのですが、市民がそれを結ぼうとした体験がすべてを象徴しています。しかし観方をかえると、こうした事態は日本の国民国家という点からみると、そうとうに問題は深いものがあります。つまり日本国家は、自国の国民の相当部分について棄民政策を国家政策として採用していることです。かって棄民は、からゆきさんや満州移民など国外に放擲するするものでしたが、現在は国民経済の市場に野放しにし、国家は派遣切りなどの企業行動をいっさい統制しない市場原理主義となって発現し、また「後期高齢者」への「末期治療」政策にみられるように、老人の棄民政策も公然とした公共医療として展開されています。こうして納税の義務を果たしていれば、国家から最低限の保護を期待できるとしたいままでの政策は雲散霧消したのです。こうして国家の棄民政策で、国内に大量の棄民が生まれ、「在日」と同じ実態が生まれてきているのです。
問題は、姜氏の云う国境を越えた棄民の連帯という市民レベルの下からの運動と、棄民政策そのものを転換する国家のあり方を変える運動がむすぶところに、ほんとうの希望が生まれます。東大が取り組んでいる希望学プロジェクトの方向性がこうした性格かどうかは知りませんが、すくなくとも国境を越えた市民レベルの連帯で国家を包囲していく予兆がうかがえます。(2009/6/2319:00)
◆国家犯罪とはなにか
国家は市民との誓約によって主権を行使する最高の機関と契約説的な定義をとりあえず前提にして、国家犯罪はその誓約に反する国家機関の権力行使すべてを意味するとします。この行為はとうぜんに対外的、対外的なすべての国家行為を対象とします。こうした国家犯罪行為は、主権者たる市民との誓約を蹂躙するものですから、市民はその違反を糺す権利と義務が発生し、その誓約が回復されないならば、国家を交代させる抵抗権を有していることも近代国家原理の前提となっています。問題は、抵抗権という規定が欧米のような市民革命による獲得ではなく、抵抗の実体的な経験を経過しないで、他在的に付与された場合の市民の意識です。これらの国では、前近代的な「お上」の意識の残滓が強いですから、制約違反があった場合でも、じっさいに異議申し立てをおこなう雰囲気が弱いという傾向があります。残念ながら日本がこれらの国の一つです。
さて国家犯罪は、北朝鮮による拉致やCIAによる外国政府転覆活動などの最強度の行為から、最近の日本でみられる政府メンバーによる文書偽造の行為までひろがっていますが、とくに問題となるのは市民に隠した外国政府との秘密条約とか密約という問題です。この場合は市民の対外的意志と無関係、又は反対の行為が国家によっておこなわれているにもかかわらず、市民はそれを知りません。しかしそうした国家の密約行為が明らかとなった場合は、市民に対する重大な国家犯罪として、政府は糺されることになります。ところが日本は、こうしたベーシックでファンダメンタルな分野での国家犯罪が公になった場合にも、メデイアは追求せず、また政府は責任をとらないという、驚くべき破綻国家に堕しているということがあります。政府自身が密約や偽装、虚偽行為をしていれば、もはや統制機能は失われ、同じような行為が民間や社会全体にひろがっていくのは明らかです。いま日本で蔓延している商品偽装のねもとには、政府自身の偽装があるのです。
沖縄が日本に返還されるときに、米国との秘密協定を暴露した毎日新聞記者は、おどろいたことに守秘義務を侵した犯罪者として、逆に逮捕されてしまいました。そのときにメデイアは、政府報道に誘導されて、記者の私生活の暴露に狂奔したことはまだ記憶に新しいでしょう。しかしいまさらに重大な密約が、ほかならぬ米国政府の公開情報から明らかになってきていますが、一般メデイアはほとんど報道していません。
1990年代末に米公文書館で解禁された文書で、核兵器の日本への自由持ち込みの密約が明らかとなりました。日米両政府は60年の安保条約改定のさいに、日本国民には日本への核持ち込みは、事前協議の対象となるから心配ないと説明しながら、裏で事前協議の対象としないという密約を結んでいたのです。マッカサー駐日大使と藤山外相の3つの秘密協定のなかでの「相互協力及び安全保障条約討論記録(59年6月)では、「日本への核兵器持ち込み(イントロダクション)は、事前協議の対象となる装備の重要な偏向に該当するが、核兵器を搭載した核兵器の飛来と感染の立ち寄りは影響を与えない」としており、63年4月の米国務長官から日本外相に宛てた電報でも再確認されているのです。
今年の6月1日付け共同通信は、この密約が歴代外務次官の引き継ぎ事項となっているという元次官4人の証言を発信し、この密約は内閣が替わる毎に首相に報告されていたとしています。ところが政府は「密約は存在せず、コメントできない」とのべています。こうして、米公文書館の文書が虚偽文書であり、元外務次官4人の虚偽証言であるのか、それとも政府が隠蔽して虚偽報告を国民にしているのか、という政府と市民の誓約にかかわる重大な問題となっています。日本の核兵器を「つくらず、持たず、持ち込ませず」という比較3原則はゴミ屑のようにすてられています。
おそらく米国国務省と日本の元外務次官の証言が真実であり、政府が虚偽であることは明らかでしょう。この事態に至っても、議会やメデイアはほとんど真相究明に動いておりません。いま日本の空と海は、自由奔放に米軍の核兵器がとびかい、先制攻撃論でいつでも発射できる状態となっています。東アジアの諸国や全世界の国は、当然に日本発の核兵器攻撃を想定して対応しています。北朝鮮の核武装政策の背後には、このような日米核戦略があることは確かです。北朝鮮の核開発を抑止することは、どうじに日本列島から米軍核兵器を撤去することとイコールでなければ、有効性を持たないでしょう。
さて問題はなぜ日本がこのような偽装国家犯罪をおこなって、しかも市民の審判を受けない破綻国家になってしまったのか、ということです。日本文化の心情倫理や無責任の体系論など文化論的な分析も重要ですが、ここでは制度としての日米安保条約の問題をとりあげたいとおもいます。戦後日本は出発時において致命的な選択のミスをしました。米国の忠実なジュニア・パートナーとしての奴隷国家の道を選択し、世界とのオープンな関係を絶ってしまったのです。冷戦下の米国との関係なくして日本の経済復興はないという理由に過ぎないのですが、優秀な競争力をもつ日本商品は、別に主権をなかば譲り渡すような奴隷国家に転落しなくても、対等な日米貿易のなかで充分に経済復興を果たし得たにもかかわらず。こうして日米安保条約が日本国憲法の上位体系として作動しはじめ、日本はワシントンの忠実なメッセンジャーとしてふるまう屈辱的な道をいままであゆんでまいりました。現在の日本外交がほとんど独自機能を果たせず、米国の投票機械と化し、全世界の冷笑を浴びていることは不思議でもなんでもないのです。
さてさらに重大な問題は、頂点における主従の奴隷的関係は、国内のあらゆる分野でも同じようなふるまいを誘発し、企業でも学園でも地域でも、正義によらないちからが君臨しはじめ、同じ構造がより下位に向かって浸透する垂直的な偽装のシステムができあがってしまいました。偽装を告発し正義を唱えることが、しらじらしく扱われ、問題を提起することそのものが敵視される文化が蔓延していきました。若者が派遣切りにあって路頭に迷っても、見て見ぬふりをし、学園で陰惨なイジメがあっても自分でなければみのがし、誰かをスケープゴードにしてよってたかって愉しむ雰囲気、商品を偽装して売りまくっても後で謝ればいいと云う経営者、おそらく日本の歴史上これほどに、痛んですさんだ時代はないでしょう。正しいから従うのではない、強いから頭を下げるという、およそ動物的な野蛮社会が出現してしまいました。未来に希望を持てない、自分の能力に自信がない、勉強する意欲がない青年、自死者が3万人を超え、先進国中群を抜いて多いのが日本です。
負の面が同時に正の面を醸成し、その矛盾のなかで事態が進んでいくという弁証法論理の有効性が試されています。もしそうでなければ、暴走する蟻地獄のように、ほんとうに破綻してしまう不安が蔓延しています。それぞれがいま生きている自分の場所で、かすかであれ確かな希望の鉱泉をさぐりあて、湧きでる泉を発見する営みが、次世代からもとめられています。(2009/6/22 11:00)
◆奴隷制を謝罪する米国のヘイトクライム
米上院は6月18日の上院本会議で、過去の奴隷制度を謝罪する決議を全会一致で可決しました。なんでいまどき?って思いませんか? イラクでの残虐な拷問やグアンタナモへの強制収容などの海外での米軍の醜悪な行為を見るにつけ、米国のダブルスタンダードのひどさが浮かび上がると思う人もいるでしょう。「残酷さと非人間性」をみとめ、「人種の偏見や差別を社会からなくすよう、すべての米国民に努力を求める」としています。奴隷解放を宣言した第16代リンカーン大統領の生誕200周年や、黒人初のオバマ大統領の誕生など人種間の融和に向けた気運の盛り上がりを背景にしています。黒人議員や団体は「米政府への賠償請求は認めない」としている点で不満があるそうですが、それにしても日本の差別問題への態度とくらべると、その差異には驚くべきものがあります。
麻生首相は、元官房長官の野中広務氏に「野中やAやらBは部落の人間だ。だからあんなのが総理になってどうするんだい。ワッハッハッハ」と01年3月12日の派閥の会合で云ったという。それに激怒した野中氏が、自民党総務会で麻生首相を面罵し、民主党議員が衆院で質問すると、麻生氏は発言を否定したという。野中氏はみずから部落出身ということを明らかにして、麻生首相を批判している。麻生首相の発言は、現場に居合わせた複数の議員の証言があるそうですが、もし事実でないなら、重大な名誉毀損として野中氏を告訴すべきでしょう。それほどに日本の部落問題は、恥ずべき差別であったし、現在もそれを引きずっていることを示しています。しかし麻生発言について、いったいどれだけの国民が敏感に反応しているでしょう。かってもいまも、日本の政府も議会も、部落差別と在日朝鮮人差別などについて、一度も謝罪決議をしたことはなく、過去の罪責は克服されないまま、記憶は薄らいでいこうとしています。おそらく麻生発言は、彼の特異な思想ではなく、国民のかなりの部分の意識を象徴しているのではないでしょうか。それほどにこの差別の問題は根深いのです。
米国の奴隷解放宣言が200年前ということは、フランスですでに市民革命で国王が処刑された後、ナポレオンが皇帝に就任して全盛を極めていた時代です。日本はといえば、文化文政期で家斉将軍のもとで、各地に一揆が起こり間宮林蔵が樺太探検に出かけていた頃です。この頃の日本で、士農工商の身分制度を否定し、「エタ・非人」の解放を叫べばすぐに処刑が待っていたでしょう。これは白土三平の「カムイ伝」を読めば、一目瞭然です。
よく日本は欧米の近代革命から100年遅れて近代に入ったと云われますが、近代原理である平等はいまもって実現されていないのです。「彼奴は部落だ」という殺し文句が効果を持って、野中氏が総理の座からはずされるという事実は、日本がいかに前近代遺制をひきづる人権途上国であるかを示しています。
このような前近代的な差別の遺制は、現代ではモダンなかたちをとって、よりソフトになっています。あなたは学校時代に、教室の席が成績順ではなかったですか? クラスが成績で編成されていませんでしたか? あなたはクラブ活動で上級生の下着を洗濯したことはありませんか? あなたの会社は正社員ー派遣社員ー請負社員ー期間アルバイトと幾つかの身分に編成されてはいませんか? この国ではお年寄りを後期高齢者と呼んで終末期治療をおこなってはいませんか? あなたが入院されたときにVIP専用の出入口と駐車場や病室はありませんでしたか? あなたはレストランで身なりで入場を断られたことはありませんでしたか? よくみわたすと日本の日常生活のすみずみにプレ・モダンとモダンの錯綜した差別がひろがっており、みんな多少の疑問を持ちつつも諦めて生活してははいませんか?
こうした日本的な差別構造の基本に、戸籍を持たない人たちが君臨して特別扱いされていることがあるのですよ。かってこの人は神と呼ばれて君臨していましたが、いまは私も人間だと宣言して、大衆のひとりになったのですが、なぜか特別の権利と義務を与えられています。逆に言うと普通の国民としての権利を奪われているわけで、差別されているわけです。垂直的なヒエラルヒーの頂点と最下層にもっとも差別が凝縮しているという奇怪な構造になっています。中間にいる国民はそれが居心地がいいのか、頂点にも最下層にもあまり関心を持たず、平穏な日常生活を営めるという構造が居心地がいいのでしょうか。だからこうした構造を刺激するように、最下層の人が総理大臣などの上層へ入りこんでくることは、反射的に違和感が働き拒否するのです。
このようにして日本人のひとり一人は、めくるめくような垂直構造のどこかにはめ込まれていて、ストレスを下へ下へと移譲して発散できるシステムに埋めこまれています。それでもだめなら、貧しい途上国をバッシングしてルサンチマンを発散するのです。北朝鮮バッシング(拉致と核兵器は論外ですが)や在日系の学校の生徒に対する攻撃などの、恥ずかしい行為が発生しても、見て見ぬふりをするのです。いまの日本の外交は、弱い国をいかにいじめるかという実態に頽廃しています。部落差別や在日朝鮮人差別への謝罪決議など、想像もできない社会ができあがっています。もし麻生首相の差別発言がこのままなにごともなく過ぎていけば、日本の未来は暗いでしょう。
アメリカでは、人種や出身地、民族などを理由に少数派を標的にするヘイトクライム(憎悪犯罪)が目立ちつつあります。オバマはユダヤ人によってつくられ、ホロコーストは存在しなかったとする白人至上主義者(88)がホロコースト記念館の警備員を射殺したり、コネテキカット州立大学のユダヤ人女子学生が射殺されたり、ニューヨクのユダヤ教施設が爆破されたりしています。FBIは07年の憎悪犯罪件数7624件(!)のうち、対黒人2658件、対ユダヤ人969件としています。08年極右グループは926団体で増加傾向にあります。黒人大統領の誕生、経済危機の深化、ユダヤ系金融機関の支配などに、誰かのせいにしたくなる雰囲気が醸成され、極右思想をもつ排斥主義者の一匹狼や小さな秘密結社による国内テロがもっとも危険な脅威になりつつあります。安全保障省が極右を取り締まるアメリカはまだ再生のチャンスがありますが、極右が政治の中枢を握っている日本は、アメリカの汚い部分に媚びへつらって品位を失ったまずしい国として、冷ややかな軽蔑の眼差しがそそがれるでしょう。
差別の哀しい本質は、ほんとうの敵を見失って、目の前の者を攻撃しあって、それを冷ややかに高みから、見おろしている者がいることです。日本では江戸期以来の士農工商の頂点に立つ者が、庶民相互のいがみ合いをみてせせら笑っていたのです。いま世界でもっとも陰惨な現実は、南アの新しい差別です。昨年の8月におこったヨハネスブルグのソエトでの南ア系黒人が、非南ア系黒人を襲撃した事件では、1ヶ月で死者60人、国内避難民10万人に達し、その半数が出国する暴動に発展しました。アパルトヘイト終焉後に、膨大な黒人が南アに流入し、200万人が800万人に膨れあがりました。もともと南アでは、非南ア系黒人を「マコレコレ」と野蛮人のように呼んで差別してきましたが、新生南ア経済は従来の白人財閥を維持し、少数の黒人中流層が生まれはしましたが、大部分の南ア系黒人の生活は貧しいままで、25%にのぼる失業率の下で、貧困地域に非南ア系黒人が流入して職を奪う事態が生まれ、ルサンチマンが非南ア系黒人に向かったのです。これは先進国の移民労働者問題とよく似た構造なのですが、南アではもっと劇的に悪化したのです。白人対黒人の形式的差別は廃止されましたが、実質的差別はのこり、そのはけ口が非南ア系黒人に向かったのです。支配の本質は分裂政策にあるのですが、支配される側がみずから内部対立を激化させて、支配を延命させていく哀しい構造が、象徴的にあらわれています。南アの白人はホクホク顔でこの暴動をみているのです。日本では派遣切りにあったひとたちが、ホームレスや外国人を攻撃する図式となってあらわれています。この支配の本質を見抜き、被支配の重層性を乗り越えて、手を結んでいく課題は、まだまだこれからの問題として投げかけられています。(2009/6/20 10:17)
◆跳梁する海賊とはだれのことか
日本の軍隊はいままで、海外で直接に他の国民を殺傷したことはありません。この背後には、2000万人のアジア人と300万人の日本人の血で贖われた日本国憲法第9条の交戦権の否認という国家基本法があるからでした。この基本法は、正当防衛権をも否定するような読み方もできるのですが、この問題はいまはふれません。しかしいま、攻撃に対する正当防衛でない場合も殺傷する海賊対処法案が可決されようとしています。自衛隊の攻撃がなくても、「他の船舶に著しく接近し」「つきまとい」「進行を妨げる」行為への先制発砲を認めるのです。使用武器も無制限であり、1分間に40発発射する速射砲、12,7_機関銃、対艦ミサイル、魚雷を装填した護衛艦と、P3C対潜哨戒機からの爆弾投下が可能です。日本の軍隊が戦後はじめて、他国民を殺傷する可能性が高まってきました。大義名分は商船団が航行するソマリア沖の安全確保と云うことですが、事実はそんな美しいものではありません。
国連開発計画(UNDP)の担当係官は、参院の参考人陳述で次のように述べています。海賊がリクルートされている理由は、(1)国際的商業漁業による現地産業の崩壊であり、日本を含む先進国漁業資本が、ソマリア政府が統治能力を失っているときに、年間300万jもの魚資源をソマリア沿岸で不法に掠奪し、ソマリア沿岸漁業を壊滅に追い込んだからであり、(2)先進国が産業廃棄物の不法投棄をソマリア領海内でおこない、04年の津波以来沿岸部の環境破壊がいちじるしく悪化して、ソマリア沿岸漁民の生存権が奪われているからだと陳述しています。欧州で廃棄物1dの廃棄コストは1000ドルかかりますが、ソマリア沖で捨てれば運賃だけの2,5ドルで済むからです。世界銀行の元副総裁ロー^レンス・サマーズは、「世界で最低の賃金の国に、有毒な廃棄物を捨てれば最大の経済効果がある」とうそぶいていたのです。貧しい漁民たちが、不法操業と廃棄物の不法投棄を監視する自警団を組織し、そしてが現在の海賊へ転化していったのです。難民キャンプで暮らすソマリア市民にとって、海賊は憧れとなっているのです。
海賊取り締まりの国際部隊は、実は多国籍漁業資本の漁業資源乱獲と廃棄物不法投棄を間接援助しているのです。国際対策部隊の活動は、ソマリア領海内での海賊行為をある程度抑制していますが、海賊たちはさらに1000q以上の遠洋に出たり、海賊母船を抑留しても、貧困に喘ぐ海賊は海外の拘置所生活をすすんで希望して効果はありません。こうした海賊行為の背後にある専心多国籍資本の掠奪活動の構図に切り込まない限り、海賊行為はなくならないのです。
日本政府の本当のねらいは、だから海賊対処などということにはなく、日本軍の海外派遣と武力の無差別使用という軍事的な目的にあることは明らかなのです。ソマリア海域を年間2000隻の日本船が航行していますが、08年度で海賊被害にあったのは3隻のみです。日本政府のほんとうのねらいは、北朝鮮をめぐる敵地先制攻撃論など軍事エスカレーレーションと連動した軍事国家への再編にあるのです。それは大不況に伴う国内の体制のゆらぎを、海外の問題に転化して体制を維持しようとする、かっての戦時期日本の頽廃的な国家戦略と本質的に通底しています。
こうした軍事国家再編への最大の障害は、国内の平和勢力ですから、大不況下のリストラを国会議員にも及ぼして比例代表部分を大幅に削減して平和勢力を駆逐しようとしています。たしかに現在の小学校の学級会のような、破廉恥で無能な政治を観ているとばかばかしくなって、国会議員など要らないと思うのは当然です。しかし一国の議員構成と選出方法は、多様な意見が分岐する国民の意見を反映する代議制デモクラシーの根幹にかかわる問題です。人口あたり国会議員数は、先進国で日本は0,62人で米国に次いで低いのです。米国は州政府の自治権が強く、日本は実質的に最下位となっており、すでに形式的には寡頭制に近いのです。馬鹿な国会議員を追放すればよくなるという議論は、究極的にはプラトン的な哲人王か独裁制を認めることになり、日本はいまゆるやかにファッシズムの方向へすすんでいるのです。あれかこれか断言口調で選択を迫った小泉なんとかを圧勝させた世論はあきらかに劇場型のソフトなファッシズムでした。もし日本の国会をリストラするのであれば、政党助成金という国家丸抱えの政党買収構造を廃止すべきでしょう。議会構造は、政治の公共性をもっとも担保する基礎的な条件ですから、単にコスト問題で議論すべきではありません。コスト問題だけですすんだ市町村合併によって、地方のデモクラシーは逼塞し、地域デモクラシーは意味を失いつつあります。地方でも劇場型のファッショ的なポピュリストが首長選挙で圧勝しつつあります。
いよいよ世界と日本の本質が見えはじめました。ソマリア沿岸にいる海賊はチンピラにすぎないのです。ほんとうの海賊は、世界を席巻して最大限利潤を稼いでいる多国籍資本とその利益政策を保障している政治勢力にあるのです。そのモデルは云うまでもなく、米国型市場原理モデルであり、このモデルは本国で大失敗し、世界経済をどん底におとしいれましたが、東アジアのある国はジュニア・パートナーとして奴隷のように媚びへつらっています。
お膝元の米国をみると、大卒新卒の採用予定企業数は07年79%→08年56%→09年43%と激減し、5社に1社が初任給を大幅に切り下げています。80年代の新卒者は失業率1%上昇に比例して初任給は7−8%下落しましたが、不況期の新卒者は12年後の給与が4−5%、18年後の給与が2%下落し、生涯賃金も打撃を受けています。まだ正規採用される新卒者はいいのですが、57%を越える失業学生は行き場がありません。ハーバードやイエールという著名大学の新卒者も、4年生の11%が貧困地域の公立学校教師への道を選んでいます。これがもっと増幅されて日本の学生の就職難を誘発しています。「希望はせんそう!」と主張する若者が増えている末期的な状況が生まれつつあります。こうしたルサンチマンが蓄積して、着実に戦争勢力が伸びていこうとしています。日本では憲法第9条を乗っ取った海賊グループが、国会の多数を制するまでになりました。おもうに21世紀のファッシズムは、銃剣とともにくるのではなく、微笑しながら友だちのような顔をしてくるのです。そしてあれよあれよというまに、とりかえしのつかない状態になっているのです。いまはまだ間に合います。日本のデモクラシーはそれほどやわではありません。日本の市民はかっての戦争期に比べて、はるかに賢くなっています。(2009/6/18 9:08)
◆絞首刑と蜜蜂と裸眼視力
朝日新聞の15面の1頁を使って、辺見庸氏が独特の死刑廃止論を展開しています。死刑制度は、天皇制とおなじように日常と世間にしみこんだ文化となり、廃止される日は遠いだろう。死刑は原始共同体時代の自然と共同体のアニミズム的な最古の刑であり、野蛮な刑罰であるにも、かかわらず、なぜ根づいているのかというのが彼の問題提起です。欧州趣味の日本人が、凶悪犯罪が起こるたびに死刑を煽りたてるのは何故か? 日本人は世界ではなく世間に生きているからだーというのが彼の結論です。たしかに、EUが「いかなる罪を犯しても、すべての人に生来の尊厳があり、その人格は不可侵である。有罪が確定したテロリストも、子どもや警官を殺した殺人犯も例外ではない。暴力の連鎖で暴力を絶ちきることはできない」「死刑はもっとも基本的な人権、生命に対する権利を侵害するきわめて残酷、非人道的で尊厳を侵す刑罰である」という欧州人権条約・第13議定書を批准し、死刑廃止が加盟条件となっていることの意味を考えるべきだという彼の主張は正しい。
問題は彼が、日本的特徴を「「世間」という文化に帰着させ、それ以上に踏み込んでいないことです。世間を日本的集団主義文化といいかえると、明らかに個の尊厳が成熟しなかった日本歴史の特質を解かねばなりません。彼は天皇制に触れることでそこに近づいているのですが、それ以上の分析をおこないません。それは、前近代を市民革命によって破砕できないまま、モダンとプレモダンが重層化した日本の特殊性から派生しているのです。天皇制と世間という文化特性の制度分析をしないかぎり、辺見氏のような詠嘆に終わるしかないでしょう。しかしこのような死刑廃止論に紙面を提供する朝日新聞も面白いところがあります。
同じ質の問題は、受動喫煙をめぐる斉藤貴男氏と禁煙学会理事長の論争にも伏在しています。斉藤氏は、禁煙キャンペーンをめぐるファッシズム的な排除の動きを辺見氏的な世間の力と公権力が結びついたものと批判しますが、禁煙学会理事長は生きる権利という人権論から受動喫煙の全面禁止を主張します。喫煙の自由と生命の自由という人権相互の対立のように見えますが、ここにはある人権を制限する方法論の違いがあるのですが、それをこえた価値観の対立に発展します。ここにも日本的な世間論が顔を出しているのです。
したがって2つの議論は結びついているのです。問題は生命の権利を主張する完全禁煙派は、どちらかというと死刑存続論につながっていく傾向があり、こうした奇妙な共存がどうしてできるかということです。この基礎には、なんらかの大義名分があれば、少数者の人権が犠牲になってもやむを得ないという強者の論理があり、死刑廃止と喫煙の自由論は少数者として世間から排除されていくのです。ここにも市民革命をくぐらなかった主体のプレ・モダンが、世間の大義名分を御旗にして社会全体を統制する回路があります。
このような議論をしている限り、日本はあいまいな未来しか描くことはできず、死刑廃止も禁煙も妥協的にしか推移しないでしょう。生命をめぐる深刻な現実が進行中にも拘わらず、あいかわらず経済の論理がまかりとおっているように。いま全世界で蜂群崩壊症候群が大問題となり、このままいけばミツバチが絶滅し、農業生産が大打撃を受けることが確実となっています。温暖化と乱伐によって乾燥と日照時間の減少が進み、蜜源植物の開花が阻害され、日本では農薬の大量投下によって敏感なミツバチの大量死が誘発されています。農薬は人間には頭痛をもたらす程度の自覚症状しかありませんが、ミツバチは死をもたらすのです。もしミツバチの生存が危機となれば、植物の交配が不可能となり、食物生産は大打撃を受けるのです。
いま裸眼視力1,0未満の視力不良の子どもが激増しています(学校保健統計調査)。その原因は、1979年にゴキブリが大量発生して、ゴキブリホイホイなどの殺虫剤が密室の室内で大量に散布されたことにあります。その毒性が明らかとなっても、有機リン系の殺虫剤の使用は止まず、視力不良の子どもが激増したのです。神経眼科の医師が指摘しても、厚労省の規制は緩く野放しとなっています。
ここに死刑廃止や喫煙をめぐる生命権の対立をこえる問題があるのです。意見表明権を持たない子どもたちを犠牲にして、温暖化や農薬の大量投下をすすめる経済論理の主な責任はおとなのつくりだした「世間」の論理にあるのです。我が亡き後に洪水はきたれ、未来世代を犠牲にして現在の幸福をもとめて恥じない現在の大人たちのb文化が根底から問われています。(2009/6/1715:42)
◆哀れむべき化石燃料恐竜に堕した偽装国家・・・汝の名は?
国際環境NGO「FOE」のサイトに日本の首相が、化石燃料恐竜と戯れているオブジェが掲載されています。彼は右手に8%と書かれた紙を高々と掲げて、しかめ面をしています。ついに日本は企業が商品を偽装するだけではなく、政府が先頭になって偽装をはじめたのです。年末のコペンハーゲン会議に向けた温室効果ガス排出量中期目標(2020年)の日本政府決定は、05年比ー15%(90年比ー8%)ときいて全世界はおそらく唖然としているでしょう。地球環境維持のための国連IPCC目標は先進国全体で25−40%で、その3分の1にもおよばないのですから。しかも日本は2050年の長期目標60−80%削減であり、もはや目標そのものを放棄したと宣言するに等しいのです。記者会見の表情をみていても、誰かの作文を必死に読んでいるようで、ほとほと知性のなさをさらけだしています。このような人物に地球の運命がゆだねられているかと思うと、ほんとうに暗然となってしまいます。90年比ー8%は、既存の省エネ技術でほとんどカバーできるレベルですから、ようするになんの努力もしないということなのです。産業界がまとめた長期エネルギー需給見通しをベースに、産業界の実現可能な数値に太陽光発電1%を追加したにすぎません。
@太陽光発電の10倍化A新車の50%を次世代車Bすべての新築住宅に断熱など民政分野が主であり、逆に産業界は@新エネを1%→4%A原発比を31%→44%という非対称的な内容となっています。この破廉恥な目標の策定過程が日本政府の頽廃ぶりをさらけだしています。化石エネルギーを大量消費する経済システムそのものを転換する自然エネルギーを重視した低炭素経済社会システムをめざさなければならないのですが、日本経団連に追随して、コスト計算を基本にするという退廃ぶりです。その論理は国際競争力をそこなわない範囲で、国際的公平性の確保という利潤原理の枠内で策定するということです。いいかえれば、環境を犠牲にしても金儲けができる範囲できめるという、アンモラルな発想しかありません。しかも家庭排出規制に偏向して、一般市民にコスト増の脅かしをかけ、電気料金に上乗せして電力会社は痛くもかゆくもなく、一方では環境ビジネスによる利潤最大化をねらうという破廉恥な手法です。総排出量の7割を占めている大規模事業所はいま嬌笑しながらあざわらっています。まさに”我が亡き後に洪水は来たれ”という資本の論理が剥き出しになっています。こうした対費用効果のコスト計算の論理は、コストの繰り延べでしかなく、将来世代の削減コストを極大化することは明らかであり、むしろいま適切な対策を実施することが、将来の莫大な費用を回避しつつ、なお経済波及効果を生むのです。いままで先進国は充分に地球の空気を汚して、経済繁栄を謳歌してきた責任を、こんどは途上国に転化して恥じないという低劣な発想があり、まさに世界の物笑いになるような目標を平然と国連に持っていく神経の異常は、もはや統合失調症としかいいようがありません。
これが京都議定書を主導した主要な責任を担う日本政府の態度なのです。先進国の中期目標は全体で90年比17−26%削減ですから、この日本の異様さは目を覆わしめるものがあります。政府説明は日本の7%削減はEUの27%削減に相当すると弁解していますが、これはいわゆる限界削減費用を計算根拠にしているもので、欧州諸国は相手にしないでしょう。或いは米国、中国、インドが参加しなければ無意味だ等といっていますが、もともと先進国と途上国を一緒にするのではなく「共通だが差異ある目標」(92年サミット)という原則があるのです。主要な責任を負う先進国が主導するのは当然なことなのです。さらには90年比目標はEUに有利だなどと合理化していますが、90年以降猛烈に増やしてきた日本のエゴがモロにあらわれた破廉恥な言い訳にすぎません。地球環境の未来が確保できる最低条件は、産業革命期の平均気温2度上昇の枠内に抑制するしかないのですが、IPCCはそのために温室効果ガスを209年までに25−40%におさえることが必須の条件だととしています。ほんとうは2度上昇でもだめで、1,5度におさえなければならないという議論もあります。
なぜ日本は、このような哀れむべき頽廃国家に堕落してしまったのでしょうか。発端は米国が京都議定書から脱落し、日本がそれをなんの非難もすることなく、奴隷のように媚びへつらって追随していったことにあります。なぜ日本は、自分の頭で自主的に考えることなく、米国に媚びへつらっていくのでしょうか。それは日本が米国の実質的な半植民地であり、主権のかなりの部分を米国に譲渡して、米国州の一つに成り下がっているからです。主権の基本である土地の使用権を米国軍隊に売り渡し、米国経済に依存するし米経済システムにまるごとくみこまれ、ものの考え方までも弱肉強食の米国型市場原理に汚染されて、みずから思考する能力を失っているからです。もし米国がEUなみの削減目標をかかげたら、日本はあわてていそいそと書き直すのでしょう。すでにオバマ政権は、20年に最大90年比28%削減可能な法案を下院に提出しています。
残念なことに、ひとたび奴隷的屈従におちいった人間は、自らの精神そのものも奴隷化してしまい、つねに主人の意向を気にしながら、こびへつらっていくことに無感覚になり、みずからの精神も尊厳を忘れた卑しいものに頽廃していくのです。主人の命令に屈従しながら、おなじように自分より弱い層にそれを転化していく無残な動物的心性におちいっていきます。いや動物のほうがまだ健全で、弱くても尊厳を持って強者に挑んでいくでしょう。
あわれむべき日本の醜い姿! 米国を頂点にした垂直分業の下請国家に頽廃して、下方にある2次、3次下請国家をいじめることでしか生き残れない国! こうした国家基本構造は日本の社会隅々に浸透し、企業でも学園でも垂直的なピラミッドがつくられ、抑圧の下方への移譲でしか自分の生活が維持できないシステムができあがっています。非正規を首にしてなんとか延命しようとする正社員、同僚を蹴落とすことでしか生き残れない正社員、こどもをいじめることでしかストレスを発散できない少年院の看守、無実の人を17年も牢獄に閉じこめる冤罪でしか検挙率をあげれない警察、1億総イジメ社会日本のいじましい姿がひろがっています。自然も人間も市場原理に絡めとられて、荒涼たる風景がひろがっています。だれもたがいに疑心暗鬼となって、自己利益を守ることに汲々となり、表面的には平和で豊かな生活をまもることに埋没してそれが当然だと思いこんでいます。つぎつぎと犠牲者を出しても、無関心を装う社会ほど生きにくい社会はないことを分かっていながら。
足利事件をみてみましょう。91年12月1日午前7時、自宅に突然踏み込んできた捜査官によって、管家さん(62)は任意同行という名の強制連行をうけ、足利署の取調室で、髪の毛を引っ張る、足を蹴るなどの自白強要が13時間連続で繰りひろげられ、午後10時に虚偽の自白に到っています。ほとんどの冤罪がそうであるよううに、昼夜を分かたぬ連続の責めで、意識が混濁し、早く楽になりたいと思うなかで、あたかも自分がやったかのようにシナリオ通りの自白をはじめるのです。唯一の物証は、1998年に導入されたDNA鑑定ですが、当時の精度は1万人中12人も同型があらわれるという原始的なレベルで、当時の法医学会が致命的な問題と指摘していたものでした。メデイアも、DNA鑑定を神のように持ち上げ、管家さんを変質者のように報道して追い込んでいきました(とくに朝日新聞)。現在4兆7000億に1人まで精度が高まり、再鑑定で不一致が証明されたのです。問題はDNA鑑定が神話のように証拠能力を持っている点にあり、DNA鑑定は型の一致を示すのみであり有罪性を証明するものではありません。犯罪検挙率が極端に悪くなった警察によって、真犯人は時効になってどこかに潜んでいるわけですが、しかし警察も検事も冤罪が明らかとなっても、平然と冷酷に自らの責任を回避しています。管家さんは「間違ったではすまない、人生を返してほしい!」と叫んでいますが、なんの応答もありません。45歳で無実で逮捕され、17年半を獄中で過ごし、獄中で他の受刑囚から肋骨を折るなどの暴行をうけた彼の人生、この風景こそ日本の現在が象徴されています。
精度の低いDNA鑑定を唯一の物証として有罪となっている事件がいくつかあります。これらはすべて再鑑定されなければなりません。最も注目されるのは、飯塚事件(飯塚市 女児2人殺害 1992年)は、DNA鑑定で死刑判決を受けた死刑囚が、無実を主張し続け、08年10月にすでに執行されています。弁護団は再鑑定を申請するとしていますが、もし再鑑定で不一致という結論が出たら、検察と司法はどうするのでしょうか、日本の死刑制度の根幹がゆらぎ、司法への信頼は地に落ちるでしょう。
地球環境も冤罪も、取りかえしのつかない不可逆性という点で本質的におなじです。数十年後の人類は、地球平均気温2度をはるかに上回る上昇によっておそらく破滅に瀕して絶叫するでしょう。「間違ったではすまない、地球を返してほしい!」 (2009/6/10 9:02)
◆死児をして語らしめよーいま男児が女児の倍も亡くなっている!
死産性比とは女子の死産100人に対する男子死産の割合をいいます。『人口動態統計』から1899−1941年、1947−2000年までの死産性比をみると、明治時代は110人台ですが、大正時代からしだいにふえはじめ、昭和から太平洋戦争終了までは120人台となり、1950年代は130人台に近づいていますが、1970年代半ばから急増し、いまや230人に近づいています。これは死んで産まれる男子が女子の倍以上になっているということではないか!(正木健雄氏調査)。
この原因は特定されず、専門研究者もいない。正木氏は出生比率(女子に対する男子の出生比)についても、戦前・戦中は男女比はほぼ同じであったが、戦後期は男子が有意な増加傾向を示しており、その原因を環境ホルモンによる化学環境の変化ではないかと予測していますが、死産性比の原因について電磁波の影響に触れているが断定はしていません。もし電磁波であれば、先進国共通に同じ傾向が現れるはずだが、このデータがあるのは日本だけで、ドイツの1970年代を分析してもそれほどの不自然な値はないという。だからこの問題は、WHO等の分析を待っていたのでは議論にならず、日本が独自に原因究明する必要があるといいます。
この背景には、日本の環境問題の特質がある。1960年代に激発した公害問題は、地域限定型の深刻な被害であったが、現在は広域化し被害の質も拡散し、問題化するのがむつかしくなっている。知らず知らずのうちにやられているという悪性腫瘍型になり、気がついたら手遅れということになりかねません。vbひところ携帯電話の電磁気が問題になって、電車のなかでの使用が規制された時代があったが、いまや街中での携帯の使用はペースメーカーを入れた患者がいても、ほとんど野放し状態となっています。おかげでNTTドコモは日本最大の営業利益をあげるに到った。もしいのちの誕生に携帯が深刻な影響を与えているとしたら・・・おそろしくなりませんか? 環境省は2010年から環境要因による子どもの成長の影響を12年間追跡するプロジェクトを立ち上げるそうですが、いますでに出ている出生性比と死産性比の異常について、対策をとってはいません。
環境の危機はまさにカナリア現象のように、もっとも繊細で弱い部分から発症がはじまります。ものいわぬ胎児がなにを語ろうとしているのか、受けとめるのは親とその集合である大人の責務です。世界大不況の影響をもっとも受けた非正規労働者は、追いつめられて声をあげ、政府も何らかの対策をとらざるを得なくなったが、それさえも事後的な救済策であり、解雇そのものを規制する措置はとっていない。派遣村を運営する湯浅誠氏によれば、貧困層の選択肢は5つであり、NOといえない労働者になる、実家に帰る、ホームレス化、自殺、犯罪であり、このうち統計によって可視化されるのは自殺と犯罪しかない。あふれる困窮者を生活保護がささえるセイフテイ・ネットも崩壊状態だ。というより、政府施策は企業に安心して首を切らせて、生活保護でなんとかしようという転倒したものです。国内総生産が戦後最悪のー15,2%となって、深刻化する危機がみえにくくなっている。まさに沈黙の臓器と言われる肝臓の自壊が進んでいる。どこかの政党の新しい党首は、友愛の国といっていますが、労働規制を野放しにしてなんの友愛でしょう。かれは「友愛」の実質的な考察にすすみえない無能を示しています。
要するに企業利潤を聖域化する施策は、資本主義のシステム限界を露わに示している。このシステムが子どもの世界を異常に歪めている。誰に発信することもなく、沈黙のうちに世を去っている無辜の胎児は、みずからの受けた被害について、なんの異議申し立てもできない。
これは戦争の死者をはるかに上回る3万人もの自死が11年間も続いている異常とどこかで結びついているのではないでしょうか。温暖化も確実な危機を日常化させているにもかかわらず、日本経団連はまだ費用対効果仮説による対策を平然と国際会議の舞台に提案しようとしています。現在の異常なカネとモノに執着して憑依している資本主義システムは、狂ったように逆立ちして、自分が倒れるまで踊り続けている死の舞踏のようにみえませんか? 人間の人間的自然の価値はどこかへ吹っ飛んでしまって、みんなが踊り狂っているように見えませんか? このシステムはもはや人間という生体を蝕んで、とりかえしのつかない破局につきすすんでいるのではないか?
おそらくいま日本でパニックとなっている新型インフルエンザはそうした末期的症状の一部であり、世界大不況や天変地異の同時進行のなかで、もはや地球という惑星は生存の限界点に逢着しつつあるのではないかという予感がします。ではどうしたらいいのか?
いつまでもGDP成長神話に拝惹せず、資本主義を修正してコントロールしたらいいのか、資本主義に替わる新しいシステムをたてない限りダメなのか、それとも神の救いに最後の希望を求めるのか、虚無と刹那に生きるのか、なにか本気になって考えることを迫られているように思えば思うほど、一歩踏みだすのに躊躇している現状がありはしませんか? まだ5月なのに30度をはるかに超える夏のような日がつづく・・・・。(2009/5/20 12:41)
◆前へならえ!
日本の代表的な整列法に「前へならえ」というのがある。最前列のひとが横一線にそろうと、各列の人が両腕をのばしして間隔をとり、整然と並ぶ方法だ。つめて並ぶ場合は「小さく前へならえ」という号令がかけられるときもある。この整列法の究極の完成形態は、もじどおり前へならって最前列の人と同じポーズをとることになるが、どうもそうではなく、一般的なマニュアルはないようだ。しかしきちんと全員が整列している光景はほんとうにみごとなほどに美しいと感じる人も多い。あなたはどうでしょうか。
日本では高校までの集会では必ずとっていいほど、この号令で整然と並ぶ慣習が定着している。号令をかける教師は、自分の号令で大集団を一糸乱れぬ隊列に並ばせることに、まるで教師生命をかけているかのように必死になり、クラスの担任は自分のクラスがどこよりも早く整列するように一喜一憂して見守る。ここでは命令と服従の権力関係が露骨にあらわれ、整列する子どものなかにも、どこよりも早く並ぶことによろこびを感じる子どももいる。整然と並んだ全校集会で、朝礼台にあがる学長は、自分に集中する子どもたちのまなざしに感じて、つい話に熱が入ったりする。この整然たる整列の魅力は否定しがたく、その集団の規律の水準が象徴されているように映る。わたしもはじめて整然と並んだ全校の学生を目にして、赴任の挨拶をしたときに、なにか感動したような記憶がある。こうして明治以降、日本の学校は集会の規律を象徴する整列に異常な情熱を注ぎ、それは教師の指導力のスキルを示す指標となった。
しかしときには、この「前へならえ」という号令に先天的な抵抗感や違和感を感じる人もいる。学校参観の日に、ビシッと整列してるわが子を見て感激する親もいれば、戦時期の軍国教育を思いおこして眉をひそめる親もいる。教師も同じで、いつまでたっても、この号令になじめない人もいるが、だいたいそうした教師のクラスはだらしがない生徒が多く、集会ではどうしても目立ってしまう。
さて「前へならえ」の思想は、ある目的や理念を同じくする集団が客観化された同一行動をとることを条件反射的に植えつけることによって、目的や理念の達成水準と速度をはやめることにある。こうした思想は、どうしても上からの近代化をめざす開発型国家にみられる。個の独立が成熟している社会では、集団の場における行動も個人の意志に委ねられ、超越的な指導者のモデルにあわせていくことはない。したがって、その国の文化的成熟度は、学校教育での集会の行動形態にもっとも反映されるといえよう。さすが日本では、「前へならえ」は学校段階で終わり、一般社会ではあまりみなくなった。軍隊や警察など文字どおり命令と服従が至上の行動規範となる組織では、整列はもっとも大事なトレーニングとなっているが、企業やその他の社会集団では姿を消してしまった。しかしまだ学校教育で残っているばかりか、企業研修でも規律教育がますます重視されるようになっている現状は、まだまだ日本はほんとうの文化的成熟を果たしていないと云えよう。
では集団規律が生命である軍隊を見ると、ほんとうに一糸乱れぬロボットのような行進をする軍隊が強いかというと、必ずしもそうではない。集団規律を神のように重視する軍隊ほど、じつは内面的規律の自発性は弱く、いじめが横行し、自己犠牲の献身的な精神は弛緩している。ベトナム戦争で敗北した米海兵隊を見ればよく分かる。集団行動はすぐれて文化の問題なのだ。
こうした規律をめぐる日本社会の現状は、なにかいまあやふやで流動し、不安定になっているような気がする。SMAPの草薙なんとかというタレントが、酔っぱらって裸で騒ぎ、公然わいせつ罪で逮捕されたとき、多くのメデイアはなにか生け贄を見つけたようにすさまじいバッシングをはじめた。政府の大臣までが「最低の人間だ」と人格攻撃をし、草食系男子として揶揄され、警察は家宅捜査までして追求した。ところがよく考えると、まちなかで裸体をさらすことが犯罪になっている国は先進国では日本だけだ。欧米を旅行すると、あちこちの公園や海岸でヌードとなって日光浴する人がいるが、これは冬が長く太陽を浴びる季節が短いからだと云うだけでは説明できない。おそらく個人のファッションは纏うかどうかを含めて、個人の自由なのだという考えが定着しているからであろう。性器をさらすことまで認めているかどうかは別として、草薙ナントカというタレントをめぐる騒動はちょっと異常な感じがした。
ひょっとしたら草薙事件は、タレントの酒飲み騒動という単純なものではなく、街頭での自由なパフォーマンスを取り締まり、少しでも集団から逸脱した行動は許さないという雰囲気が日本に強くなっていることの反映ではないだろうか。これを社会科学的に正確に定義すると、集団価値を至上とする全体主義(ファッシズム)の現象と云うことだ。草薙事件がいかに異常かということは、似たような犯罪を犯してもなんら捜査の対象にならないという恐るべき非対称性があるからだ。それはサミットに出席したある大臣が職務中に飲酒し、酩酊状態で記者会見したばかりか、ヴァチカン宮殿の柵を乗り越えて重要文化財に手を触れて騒いだということをみればハッキリしている。かれは、公務中の飲酒という国家公務員法違反と文化財保護法違反という犯罪を犯しているにもかかわらず、ただ単に辞職しただけで逮捕もされず、家宅捜査もされていない。(もちろんわたしは草薙ナントカというタレントをすべて免罪するわけではないが)草薙事件は日本の民主主義とファッシズムの危うい関係を示したような気がする。
集団の規律に殉じることを至上の価値とする全体主義の思想は、じつは権力の恣意的な独裁に服従する虚妄の思想なのだ。「前へならえ」という号令は従って、封建王政の異物であり、現代では不安を強力な指導者崇拝でのりこえようとするファッシストが大好きな言葉なのだ。行列ができる店があるが、これもひょっとしたら、並ぶことによって不安が薄らぐのかもしれない。私たちは自分の頭で考えず、前にならって並んでばかりいると、とんでもないことになることを60数年前に痛感したばかりだ。(2009/5/12 22:11)
◆今日は憲法62回記念日・・・・
最近は日本が世界でそうとうに特異な国なんだということが、ますます身近に感じさせるようになりました。過去の戦争の責任を問う人たちを自虐史観として貶める人たちが、政権中枢を握っている国はおそらく先進国ではおそらく日本だけでしょう。戦争犯罪者の功績をたたえる祈念施設に敬意を表して拝礼するアナクロニックな行為が平然とおこなわれる国もないでしょう。しかも現首相は、極右団体・日本会議の顧問を務め、戦争参加を合法化する改憲を主導する狂気の行動にのめりこんでいます。彼の子分は国際会議の記者会見で酩酊状態となって醜い姿をさらけ出しましたが、それはこのグループの本質を露呈したに過ぎないのです。無知ゆえに生まれる錯誤した行為を信念で偽装する神経の痛ましさは、アルコールでまぎらわすしかないでしょう。総務省は憲法改正国民投票に向けたシステム開発の予算を単年度で46億2400万円かけておこなうそうですが、投票年齢や最低投票率など初歩的な基準さえきめられていません。
朝日新聞の憲法世論調査(5月2日付け)では、9条維持が64%、改正が26%、読売新聞では(4月3日)では9条改正38,1%、維持54%といずれの世論調査でも戦争合法化には否定的となっています。つまり第9条に関してはすでに国民意識の平和主義は日常意識に定着しているのです。しかし改憲派がなお改憲に固執する背景には、あきらかに米国のユニラテラリズムの破産から多角的な安保政策への転換があり、大不況に伴う軍事負担を日本に負わせる意図があります。「日本は集団的自衛権の解釈を見直す必要がある。日本は海賊から世界のシーレーンを守り、アフガンの紛争現場で貢献することができる」(シーファー前駐日米大使)とし、後任の駐日大使に「アーミテージ報告」の共同執筆者であるジョセフ・ナイ(ハーバード大)が任命されているのをみても、米国の対日要求は苛烈さをましています。さっそく政権は「海洋国家として国家戦略で世界の海の安全を守ることを国策の中心にすえることが(海賊派兵)法案のねらいだ」(元防衛庁長官 4月15日 衆院特別委)と迎合しています。米国のジュニア・パトナー以外に日本の将来構想を描けない政権中枢の単細胞は、三下ヤクザのように媚びへつらうしかないのです。これらの極右派は、かって星条旗に真正面から戦いを挑んだ「英霊」に玉串をささげながら、他方で奴隷のように屈従するアンビバレンツな自分の行為になんの矛盾も感じない恥ずべき姿をさらけています。彼らはすこやかな将来展望を自力で構想する能力を失い、北朝鮮のような仮想敵をつぎつぎと作為して、国内に堆積するルサンチマンをナショナリズムに動員していくしか、みずからの延命の道がないことを知っているのです。米国はみずからの失敗をサッサと修正する新たな大統領を選出して、華麗で洗練された方向転換を図りつつありますが、日本の政権の相変わらずの前近代的な固執は全世界の嘲笑を浴びています。
さて今日の憲法記念日をめぐるメデイアの動向をみると、どうも第9条よりも第25条に焦点をあてた報道が多いように思います(とくにNHK)。派遣切りからはじまった国内生活の貧困が生存権を問い直すこととなっているようです。これは改憲を考える以前に、現憲法で決められている最低の人権すら実現されていない現実が目の前にひろがっていることを示しています。NHK特別番組での五木寛之氏と雨宮処凛氏の対談はなかなかに面白いものでした。なかでも日比谷派遣村で活動した雨宮氏のリアルな議論は、事実の迫力を持って議論をリードしているようでした。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(第25条)の虚妄を露わにするような現実が突きつけられ、抽象化する議論が現場に引き戻され、。具体的な事例ほど強い印象を刻んでいきます。
年間3万人を超える自殺者は、もはや経済成長を至上の価値とするGDP信仰が破産し、ブータンのような「国民総福祉」のような価値への転換を迫っているという議論の時に登場した事例は、冷酷な現実を突きつけていたように思います。自殺者がでた家庭の子どもは、学校で親の自殺を攻められて転校せざるを得なくなり、転校先の学校でも情報が伝わっていじめられる・・・・これが前首相の説いた「美しい国」の実態なのです。
或いは派遣切りにあった青年は、自己責任の罪責感にうちのめされて、経営者の責任を問うことなど想像だにできない、いわんやデモなどもってのほかの犯罪という意識にあるそうです。「デモというのは、知らない人が互いに腕を組んで行進することなの? そんな赤の他人と手を取り合うなんて・・・気持ち悪い!」そうです。青年たちは学校教育を通して、団結権や生存権など身にしみて学んだ経験はないのです。おそらくこれが多くの若者たちの日常感覚なのかも知れません。
たとえば電車が混み合っているときに、座席にすこし間があって坐ろうとすると、詰めてお尻が触れあうのはいやなので、スッと立つ人がおおいそうですが、これも殺伐とした無機質な人間の関係を示してあまりあるものです。たしかにホームや公園のベンチに一人ごとのしきりが設けられはじめたのはいつ頃からでしょうか。これはホームレスの人が寝そべるのを食いとめる目的ではじまったようですが、いまや個人が「孤人」化していく殺伐とした人間関係を示しているように思われます。五木氏はいま100年に1度の経済危機よりも、何百年に1度の価値変化が起こっているとしていましたが、たしかに日本社会に尋常ではない事態が忍びよりつつあるように思われます。
問題は打開の方向の議論が抽象的で野蛮であり、確かな希望と展望をうちだし得ないことにあります。五木氏は敗戦後の生活にもういちど戻って精神構造を再構築すべきだといったり、司会者は農村の前近代的な助け合いの共同性に救いを見いだしたり、ほとんど現実的な有効性を持ち得ない議論しか提起していませんが、「プレカリアート」の最前線で考えている雨宮氏の議論はもっともリアルな提起に裏打ちされて説得力があるものでした。ここからみえてきたのは、近代化期の理性による啓蒙主義がとっくに破産していることにほかなりません。五木氏や司会者の議論は、あくまで世界を上から鳥瞰して問題を指摘する近代啓蒙に終わっているのです。HHKは夜の番組で、内橋克人氏(ケインズ派経済評論)と湯浅誠氏(派遣村村長)による同じテーマの特集をおこないますので、同じ議論がどう展開するのか注目したいと思います。
あえてここでいえば、これほどに日本の社会が劣化して傷んだのは、米国型の市場ファンダメンタリズムを無批判に導入したシカゴ学派経済学にすべての問題が凝集しているのであり、対置するカウンター・プランは少なくともスカンジナビア型の社会的市場経済モデルを参照して独自の日本型モデルを創出していくところにあると思うのですが、はたしてどうでしょうか。それともとめどなく頽廃する問題状況を一気に振り払う強力な指導者原理にゆだねる危機の道が選ばれるのでしょうか。(2009/5/3 16:41)
◆あんたも切られたんか・・・・!?
図書館に本を返しにいくと、まだ開館前でおおぜいの人たちが玄関前にたむろしていました。駐車場に車をとめて本を手に開館を待っていると、庭の垣根のそばで60歳代と思われる男2人が所在なげに話をしています。
「おい区役所にいったらな、すごい行列ができて2階までまでつながっていたぞ」
「ウン、昨日は手当がでる日だからみんな押しかけんだよ」
「それにしても、手当がでる日は炊き出しに並ぶ人数が急に減ってしまうな」
「あたりまえだよ、手当がでるとみんな現金を持って食堂にいってたらふく食うんだ。おれも昨日は牛丼を腹いっぱい食べたよ」
「おれもそうだよ。だけど炊き出しはバナナが一本しかついていないのは困るな。せめて2本は欲しいよ」
「ほんとうだよな。だけど、どうせ競馬にいく奴もいるんだから、ぜいたくは云っておれんよ、ハハハハ・・」
「やっぱり競馬ぐらいしか楽しみはないんかな。おれは昨日はテレビをみていたけどよ、なんにも面白い番組はないぞ。野球をみておわりだ、ゴルフもやっていたけどよ」
(私はつい興味をそそられて話に耳を傾けました。ひょっとしたら、この2人はホームレスなのかなと思いながら。私は急に話を聞きたくなったので声をかけました)
「やっぱり最近は派遣切りの人が多いんですか?」
「あたりまえよ、30歳代とか40歳代の若い人が急に増えたよ、みんな生活保護をもらいにきてるよ、2、3ヶ月しかでないけど、それでもまとまって入るからいいよな」
「そうなんですか、いま仕事をさがすのはきびしいんですか」
「なにしろトヨタがあんなになっちゃんたんだからな、ほんもとが真っ先に首切ってんだから、他のところで仕事なんかないよ、愛知はトヨタで持っているようなもんだからよ」
「そうですよね」
「さあ、そろそろ開館だぞ、新聞でもちょろっと読んでから眠るとするか、ところであんたも派遣切りにあったんか?」
「エッ! いやあまあ、そんなところです(苦笑)」
2人はアッケラカンとした様子で、スタスタと玄関口のほうへいってしまいました。2人は意外とさっぱりとした身なりで、けっしてうちしおれた感じはなく、その辺にいるおじさんと変わりはありません。わたしは自分がうまれてはじめてホームレスのようにみられた貴重な体験を味わうことができたのです。なにか自分とホームレスの境界ってそんなにないんじゃないかと思った次第です。あの2人は、明日の自分の姿ではないのか・・・とふと考えたのです。図書館にはいると、1階のロビーのソファーのほとんどは、ホームレスらしき人たちに占められ、なにか近寄りがたい雰囲気です。市民の多くは何ごともないかのように、返却コーナーにいって手続きをしています。わたしの前の学生らしき青年が返却している本をチラリとみると、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの『帝国』と『構成的権力』であるのにすこし驚かされました。フーン、こんな本を今どき読む若い人がいるんだ・・・。玄関では図書館の管理職らしき人たちが、一列に並んでにこやかに、「オハヨウございます」と入館者を迎えています。一見するととても平和な雰囲気ですが、その影でなにかとてつもない荒廃が忍びよっているような感じがしてきました。今日の政府発表では、3月の完全失業率は4,8%、完全失業者数は335万人と過去最大の増加となっています。ほとんどが解雇などの「勤め先都合」で、年度末の企業の一斉解雇がはじまったようです。政府施策は職業訓練中心で、解雇そのものは野放しになっています。初夏のような遅い春の1日のはじまりです。そういえば今日はメーデーの日でした。(2009/5/1 16:11)
◆いま女子トイレでなにが起こっているか?
週刊朝日緊急増刊と名うたれた『朝日ジャーナル』(4月30日)で、もっとも面白かったのはコピーライター・尾形真理子の「女子トイレで感じる不況気分」というエッセイでした。ここ数ヶ月で女子トイレのが荒んできているそうです。落書きや衛生面の話ではなく、トイレットペーパーの切り口が、ちゃんと点線で切られていない、片手で乱暴にちぎったように切られ、ホルダーからだらしなく垂れ落ち、ハジの方だけがクルクル何重にも食い込んでいるそうです。この情景を彼女は、無残に引きちぎられた白い紙は不況のイライラが女を凶暴な気分にし、要するにちょっとのチカラでどうでも切られちゃう社会的弱者の気分を象徴しているとしています。ナルホド!さすが「世界の非常食になりませんように」(日清カップヌードル)などのコピーで朝日広告省を得ただけの感性はあります。彼女はここまでしか語っていませんが、いま日本は人間同士がたがいに相手をトイレットペーパーのように扱う抑圧の移譲が誘発されているというのが彼女の云いたいことなのでしょう。
私は女子トイレのことはまったく知りませんが、私はむしろ、男子トイレは彼女の印象とは逆のイメージを感じています。かってあれほどにいかがわしい落書きにあふれたトイレは姿を消してしまい、驚くほどに清潔で美しいトイレに変貌しているのです。私は原始的な野性味あふれる男子トイレの落書きにノスタルジーを覚えるのですが、綺麗な男子トイレに男の野性的なエネルギーそのものが衰弱し、なにか気持ちの悪い中性的なタレント的な心性が蔓延し始めたようで、じつは気味が悪いのです。
こうしたトイレ談義はおいて、編集部のそれなりの現在の日本への危機感から、この緊急増刊号が刊行されたのでしょうが、はたして肝心の内容はどうなのでしょうか。いうまでもなく『朝日ジャーナル』は1960年代以降に、いわば「過激派」などと言われた学生運動を称讃するような言辞を知的粉飾を懲らして「知的虚栄心」を満足させた(筑紫哲也)週刊誌であり、運動の衰退のなかで新人類に媚びる編集方針に転換し、最後に赤字を抱えて廃刊に到った週刊誌です。この週刊誌を購読した若者は、学生時代に反体制的な気分を擬似的に味わいつつ、社会人となっては多くが体制派となってその後の高度成長とバブル経済を主導した世代に他なりません。いわば『朝日ジャーナル』は、左翼ポーズをとりつつ、天皇制を礼讃する朝日新聞の偽善性を象徴する週刊誌であったのです。
さて、緊急増刊『朝日ジャーナル』は左から右まで、現在の日本に異議申し立てをおこなうスタンスのそれなりのメンバーを動員していますので、彼らの議論からそれなりの言論界の配置が見えて参ります。巻頭の見田宗介氏の議論は、社会意識のデータ分析から世代間意識の変貌を跡づけていますが、抽象的な文明批判に終わり、危機の言葉に反して氏自身の危機意識はなく、いつまでもデータ分析を繰り返して巧妙な解釈を施す社会学的思考の限界を露呈しています。
『敗戦後論』で戦争責任と鎮魂に失敗した加藤典洋氏は、みずからの論が極右視されている欧米の議論に不満をタラタラ垂れ流す言い訳の議論に終始し、最後には「連帯を求めて孤立を恐れず」などと居直って、学的資格そのものを疑わせる甘えの議論に終わっています。浅田彰・東浩紀・宇野常寛3氏の対談は、みごとに文芸評論家の主観的直観思考のナルシズムが丸だしで、現状へのニヒルな感慨をため息のように述べて終わっており、展望や可能性について語れない文芸評論家の非生産性を露わにしていますが、わずかに浅田氏の議論はシステムと触れあう思考を保っています。
柄谷行人氏の議論は意外と社会科学的思考をベースにしていますので、彼の警告はそれなりの有効性を示していますが、鶴見俊輔氏の議論は、もはや痛々しい老害ともいえる議論で、明治期の元老政治家を賛美して終わっているいるという無意味なものです。斉藤貴男氏の立論は、社会システムへのまっとうな批判と抗議に貫かれていますが、それを結局は許している衆愚制批判であり、なぜそのような衆愚的な国民意識が形成されているかの分析が欠落しています。
本号の見るべきものは、もはやアレコレの評者の論議ではなく、現場のリアルな実態を具体的に報告しているレポートにあり、29歳の派遣労働女性の体験、派遣村の男性、そして青森・沖縄の高校生2500人の意識調査、湯浅誠氏の活動日記、赤木智弘氏のインタビュー、フリーター労組の対談などから浮かび上がってくるリアルな現実の諸相であり、その実態から反映的な思考を探求していくことの大切さです。彼らを彼らあらしめた労働法制の大転換を恥じらいもなく擁護する八代尚宏・木下武男両氏の対談は、みずからのつくりだした惨状への自己洞察の意識が欠落し、労働学者の感性の貧しさをしめして余りあるものがあります。むしろ面白いのは、赤木智弘氏と民族派極右・木村三浩氏の議論が本質的に左翼と通底し、結論が天皇でなければ同じという感性と論理構造です。危機にあって左翼と右翼への両極分解の可能性を示しているのでしょうか。とくに赤木氏の言説は痛々しい被害者のルサンチマンにあふれ、ファッシズムの原始的心情を確認することができます。ちょうどナチス勃興期の突撃隊のような心情が表れています。以下それを紹介してみましょう。
「戦争は悲惨だ。しかしその悲惨さは持つ者がなにかを失うから悲惨なのであって、なにも持っていない私にとってはむしろチャンスとなる」
「僕が望んでいるのは負ける戦争であって、いまの体制が崩壊してもう一度再スタートが切れるようにしてほしい。外国による侵略でも、大災害に見舞われるのも同じことです」
「私は大不況はありがたいことです。こういうことでもないといまの体制への反省は生まれない。制度を是正するよいチャンスではないか」
「中途半端な不況ではなく、大企業でも倒産するような大恐慌なら正社員も含めて全員が安穏としていられない。私はもっと景気が悪くなった方がいいと思う。街に犯罪者があふれ治安が悪化すればいやでも社会のシステムを変えざるを得ないでしょう」
「正社員の特権を削るべきだと思います。正社員の雇用条件を非正規並みに近づけるしか格差を解消する方法はない」
「私を批判する知識人はまだほんとうの危機感を覚えていないのではないか。ワーキングプアにならないと、戦争を望まざるを得ない感覚は分かっていない」
最後に女子トイレに誘発されている焦燥とニヒルな攻撃的感性の方向が、たんにトイレのいたずらに終わるのか、それともじょじょに高揚して水準が高まっていくのか、ここにある反抗と抵抗のレベルの高度化が、おそらく今後の日本のありかたを左右するという感想を持った次第です。総じて現代の資本主義の総体をシステム的に分析し、展望を切りひらくする知的作業が帰趨を決すると痛感しました。(2009/4/23 16:37)
付記)同誌に18歳高校生対象の興味深い意識調査がありますので転載します(有効求人倍率最下位の沖縄県・青森県公立高校15校2500人回答)。
Q1)あなたは将来に不安がありますか ある83% ない15% 未回答2%
Q2)あなたの家庭は次の何れの層にあたりますか 上の上2% 上の下2% 中の上15% 中の中41% 中の下29% 下9%
Q3)富裕層とはいくらぐらいの年収がある人だと思いますか 500万円以上7% 800万円以上15% 1000万円以上37% 2000万円以上16% 5000万円以上12% 1億円以上11% 未回答2%
Q4)親の世代に比べて恵まれていると思いますか そう思う45% どちらかというとそう思う29% どちらかというとそう思わない15% そう思わない10%
Q5)秋葉原事件の25歳の男に抱く感情に最も近いのはどれですか
なぜ犯行に及んだのか理解できない 51%
犯行は許せないが犯人は社会の犠牲者でもある 16%
犯行は許せないが格差社会に喘ぐ若者の怒りを代弁したヒーローでもある 2%
犯行は許せないが犯人のメールの内容は共感できるところがある 3%
努力が足りない負け犬である 13%
ニュースを知らない 1%
その他12%
Q6)赤木智弘氏の「31歳 フリーター 希望は戦争」と不平等を解消する「国民全員が苦しむ平等」という主張に対し、最も近い気持ちはどれですか
共感できる部分がある 12%
戦争は極端だが不平等よりも全員が苦しむ方がいい 16%
共感できない 59%
その他 11%
Q7)いまの日本は努力しても報われない社会だと思いますか
そう思う 18%
どちらかというとそう思う 38%
どちらかというとそう思わない 23%
そう思わない 20%
未回答1%
Q8)世の中を悪くした責任はどこにありますか
日本の政治家43% 日本の企業5% 外国の政治家4% 外国の企業4% マスコミ7% インターネット3% その他11% 未回答13%
この結果に対する玄田有司氏(東大希望学プロジェクト)のコメントは、あまりに表層的で一般青年心理学に解消しているので、現代日本の若者の意識の深層の危機の解析に失敗しています。彼は、若者の現状は被害意識も強くなく、不安はいつの時代にあり希望に転化する想像力が必要だとか、努力しても報われないとして行動しないのは間違いだなどと道徳的説教を垂れたり、フリーターから競り社員になった人が40万人もいるのだから希望をもてとか、要するに希望を持てる方法と道筋を示すのが大人の責任だと云っています。玄田氏の基本は、社会システムそのものの問題性ではなく、それにいかに適応的に対応するかが問われるのだとする典型的な方法的プラグマテイズムに他なりません。秋葉原事件に何らかの共感を示す高校生が21%もあり、努力しても報われない社会と思う人が56%に達し、将来不安83%の内実を分析せず、こうしたデータの背後にひろがっている日本の惨状への想像力が決定的に欠落しているのは玄田氏に他なりません。(2009/4/24 8:30)
◆「日本の植民地支配は非常に公平で優しかった」・・・この歪みの極地にある精神の荒廃!
国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会への説明を終えた石原とかいう都知事は、またも驚くべき想像力の貧困をさらけ出しました(16日記者会見)。英国紙スポーツカル・ドット・コムの記者が「石原都知事は日本の朝鮮半島での歴史的な残虐行為を否定せず矮小化しているいるため、東京は五輪に選ばれるべきでないという、韓国での報道を知っているか」と問われ、「私は日本の韓国の統治はすべて正しいと云ったつもりはない、韓国の朴大統領から欧州がアジアを植民地にしたのに比べ、日本のやったのはむしろ非常に公平でやさしいものだ、と聞いた」と間接話法で答えています。これを聞いた英国人記者は「わたしが驚いたのは、知事が私の発言を否定しなかったことだ」と語っています。この都知事は、ハードな植民地支配は許されないが、ソフトなものはいいんだといいたいようですが、朝鮮半島での創氏改名や強制連行労働、従軍慰安婦などの欧米でさえ驚愕するハードで残酷な事実は存在しなかったとするのでしょうか。東京五輪開催計画書は史上初めて「平和」を五輪理念に入れて世界にアピールしていますが、石原とかいう都知事の歴史に対する無知と歪曲を、韓国のみならず世界の人々は衝撃をもって受けとめているでしょう。とくに歴史の記憶の作業を進める欧州その他の国は、東京の平和の虚偽に疑いのまなざしを向けるにちがいありません。
いうまでもなく朴とはクーデターで軍事独裁を樹立して最後は側近から射殺された人物ですが、植民地期に日本陸軍士官学校を卒業して日本軍の中尉として活躍した、いわば祖国を裏切った売国の輩に過ぎません。こうした人物の日本評を聞いて悦に入る神経もどうかしていますが、とにかくこの都知事の精神のゆがみは言語に絶するものがあるようです。重度障害者施設を見学して「ああいう人って人格があるのか?」、女性の老人を指して「生殖能力を失ったババアはもっとも悪しき犯罪的な存在だ」、「近頃の若者に元気がないのは戦争がないからだ」などと信じがたい暴言を吐いてきています。不思議なことは、政府首脳であればすぐに辞職するような言辞を垂れ流しても、メデイアは小さく報道して責任を問わないことであり、かえって市民の一部にも一定の支持があることです。さらに芥川賞でデビューしたこの人物は、現在は芥川賞選考委員として日本の文壇の頽廃を主導している存在でもあります。
この人物の精神構造は、偏見に充ちた歪んだ信念を心底から肯定し、なにはばかることなく断定的に言い切り、あらゆる権威に挑戦するようなポーズで大衆心理をつかんでいく、いわゆるデマゴーグ政治家の典型例を示しています。こうした精神構造はみずからのゆがみを自覚できず、咆哮の演説を繰り返して熱狂を煽る扇動の技術に長け、危機の不安にあっておののく大衆心理を一時的に操作するファッシズム現象に酷似しています。衆愚制ローマ帝国の皇帝が、パンとサーカスで大衆を操った手法を現代に適用しているのが、まさにサーカスである東京五輪に他なりません。
今回の発言でIOC委員の多くが、東京が五輪精神に背反する罪深いファッシストのものであることを知ったことは、かえって日本の僥倖であるかもしれません。いったいどの国のスポーツ選手がこのような精神のもとで、フェアーにプレーできるでしょう。このような恥ずかしい精神構造の持ち主であることがはしなくも全世界に露わになったことは、日本の歴史の記憶の作業の貧困をさらけ出しましたが、残念ながら私たちの立っている地平はまだこのレベルにしか過ぎないのです。五輪誘致賛成派の最後に残された手段は、この都知事を謝罪させ辞職させるしかなくなってしまいましたが、おそらくその可能性はないでしょう。これが2000万人のアジア人を殺害し、300万人の日本人を犠牲にした日本の戦争の60年を経た、偽らざる日本の姿なのです。(2009/4/17 8:47)
◆桜咲き誇る春爛漫に行列をみる
我が家の小さな庭に植えた櫻の樹が成長し、今年は一杯の桜の花を咲かせています。まるでレオナルド・フジタの乳白色に、すこし薄いピンク色が散りばめられて、えもいわれぬはなやかさをはなっています。となりには桃の木が花を咲かせ、ふたつが競うように匂いたっています。この頃は快晴続きで一気に初夏のような暖かさがつづき、木々はほんとうに我が世の春を謳歌しているようです。風もないのに、ハラハラと舞い落ちて地面一杯に散っていくさまは、季節のうつりゆくいのちのようであり、ぎゃくにはかない哀れを覚えるようです。人間のいのちもまた、なにかがうごめいて湧きいでる泉に似て、わたしに絵筆をとらせるちからがにじみでてきます。このようにして今年もまた春はきたりて、あらたな生命の湧水が大地からにじみ、子どもたちは仕立て下ろしの制服で学園の入学式に急ぎ、青年たちもまっさらのスーツに身を包んで入社式に向かっていきます。わたしもあてどもないそぞろ歩きに身をゆだねて、近くの公園の雑木林をいけば、わかい緑を芽吹かせた木々がひかりをあびて輝いています。
あしたに商店街の大通りをいけば、そこここにのぼりを飾り立てた店が客の目をひいて、アーケードの下は喧噪がひびきわたっています。フト気がつくと、商店街の片隅にある何かよく分からない、小さな店の入り口から三々五々と行列が伸び、若者たちがじっと順番を待ってなにかを期待するような表情でたたづんでいます。おもえばこうした行列をなして、じっと待つ風景は日本独特のものであり、欧米にはけっして見られない情景です。わたしは、この行列の待ち時間に身をあずけて、ひたすら待ち続ける若者たちの心情がいまいち理解できず、とまどってしまうのです。かれらは、なにかもの珍しい味の食べ物に出会う至福を求めて待っているのでしょうか、それとも誰かは知らない他人と同じ目的をともにする仲間のような気分を味わっているのでしょうか。わたしもつい、この行列に入って僥倖をともにしたい誘惑を覚えながら、同時になにか云いようのない反発を感じて、われ知らず哀れを催してジッと行列の若者を観察するのです。彼らはクチコミかタウン誌の情報に操られて集まったマーケッテングの犠牲者ではないのか、などと不謹慎な想いをいだいている自分を発見します。
さらに桜の舞いちる公園をいけば、それぞれのグループがシートを囲んで酒を酌み交わし、笑いさざめく声がひびいてきます。この桜見物の宴会の風景にも、独特の面白さがあるようです。それぞれのグループは、見ず知らずの他人たちが大勢集まっているところにわざわざ身を置いて、人があまりいない桜の下には誰も行こうとしないのです。ひょっとしたら、この人たちもお店に行列する若者と同じく、群れることによってなにか独特の安心を感じているのではないだろうか。わたしは苦笑いを浮かべて宴会のそばを足早に通り過ぎ、雑木林にはいるとそこはもはや人影はなく、すこし息を切らせて歩いていくに比例して、とおくにひびく笑い声がじょじょに小さくなって、まわりはシンとして声なく、鳥たちがチチとなく静寂に包まれます。
欧米でも公園や海岸で多くの人が群れている風景を目にしますが、よく見るとひとりでペーパバックを読んでいる人がけっこういるのですが、日本ではひとまえで読書している姿はあまりお目にかかりません。これは日本でも地域によってはかなり差異があるようにおもいます。たとえば地下鉄の風景をみると、東京ではひとりで本を読んでいる乗客が結構いるのですが、名古屋の地下鉄では、本を読む光景よりも、友だちどうしでしゃべりあっている姿がめだちます。名古屋ではなにかひとりでいることが、自分の孤立を示しているようで不安な気持ちになるのでしょうか。逆に東京では喫茶店や飲み屋で昼間からしきりにしゃべっている光景が目立つようです。ただ神田の古本屋街の裏通りにある喫茶店は、薄暗いなかで本を読んでいる人が多く、わたしはホッとするのです。
こんな比較に意味があるのかどうか、ながながと群れと行列について述べてきましたが、結論的にいうと、日本の集団行動とそれをささえる集合的意識になにか大きな変化が起こっているような気がするのです。日本の街頭から政治的大集会や街頭のデモンストレーション、或いは野外音楽集会が姿を消してしまい、小さな店先の行列や桜見物、そして場末の小劇場など小さく集う傾向がますます強まってきているような気がするのです。集団行動をささえる集団意識を生みだしているコミュニケーションのあり方が大きく変化したからなのでしょうか。それとも大きな物語に関心がなくなって、身近な日常の手触りの物語に移っているのでしょうか。若者たちがセコセコと携帯を操作している姿をみると、わたしはなにか哀しい気持ちになるのですが、こうした電子的コミュニケーションによって意識も変えられているのでしょうか。それとももっともっと、なにか劇的な変容が生じているのでしょうか。
わたしがもっとも心配することは、日本から生きる意欲そのものが次第に衰弱し、疲れ果てているような感じが漂い、いまや元気なのは後期高齢者だけではないかという印象を否定できないということです。どうして日本はこのような停滞社会になってしまったのでしょうか。それはあえて飛躍していえば、剥き出しの市場原理がもたらした荒涼たる傷跡ではないでしょうか。行列に群れる若者たちは、我が身に刻まれた傷跡を癒そうとして、ホッとする束の間の温かい連帯に救いを求める姿ではないだろうか。
例えば真鍋昇平『闇金ウシジマくん』(小学館)という漫画に登場する宇津井は、借金を重ねて実家を追い出され、ゲストハウス(現代の木賃宿)で自分の日常をブログで次のように発信しています。「俺はいますごくガンバって日雇い派遣で週5日も出て金を稼いで貯めている。今日みたいな雨の休日は、金の使えない身には苦痛だ(パチスロやりてエ)。1日の目的がないと、身を起こす気にすらなれない。アミダクジみたいな天井を見ていると、小学校の頃よく描いて遊んだことを思いだす。アミダの先端に決まり事やバツゲームの内容が書いてあった。天上のアミダの行きつくところには、当然何も書いていない、想像もできない。考える気力すら起こらない。今日1日の目的を誰かが書いてくれたら楽なのに。動かねば・・・顔洗って歯を磨こう。・・・半身を起こすだけでいい。腹筋を使って身を乗り出すのが俺にとっては、月に第1歩を踏みだしたアポロの宇宙飛行士並みの労力だ(腹減ったナー)。(・・・・・・派遣切りにあって思い詰めた宇津井は目の前の自転車に乗った老婆の鞄をひったくろうとするが、おもいとどまる)。ダメだ・・・あの婆さんよりも今の俺は戦闘能力が下だ・・・と判断したからだ。それは必ずしも体力のことだけではなく、自己否定的な敗北感が骨の髄までしみわたり、窃盗をする主体性さえ、抜け落ちていったからだ。カネがほしい・・・・カネが・・・」
この漫画を評して呉智英という漫画評論家は「勤労や学習、生活能力など人生への意欲が乏しく、その結果収入もなくダラダラ生きている」人々を描いたものと自己責任論で切って棄てていますが、いまやこうした実態にある非正規の若者たちは同世代の半数を超えているのです。原始的な貧困におちいっている若者たちを下流とみなし、彼らを描く漫画を下流漫画というのだそうですが、こうした発想こそ逆に人間的尊厳を失った評者の思想の貧困を示しています。社会関係資本の平等をスタート時点で失っている若ものになんの自己責任が問えるでしょう。元気を失って漂流しているかに見える若者たちは、人を卑下して恥じない醜い大人たちによって、人為的につくりだされているのです。
さていよいよ明日から新学期の授業がはじまり、はじめて出会う若者たちの初々しい顔を思うと、わたしの胸もついたかなって参ります。若者たちの希望を奪いつつあるシステムの綱の一端をわたしも握ってきたのです。しかしこの若者たちをおいて、明日の日本を担う者はいないことも確かな事実に他なりません。(2009/4/12 9:20)
◆「革命」の大流行?
革命Revolutionとは、もともと水車が一回りすることで、下が上になる社会や産業の大規模な変化を意味し、とくに西欧では政治システムの大転換を意味する神聖な用語として安易に使われることはありません。ところが現代の日本では気軽にポップス風に使われる「革命」が大流行しています。いわく「新春滝沢革命」(ジャニーズ ”女と男のLOVEと書いてこれを革命と読みます!” *男と女ではないところが面白いー筆者)、「革命元年」「革命チックKISS](ハロプロ *こんなグループは知らないー筆者)、「恋愛レボリューション21」(つんく♂)などのアイドル革命から、「ハンバーガー革命」などの食材革命まで、いまや世はあげてかしましい革命の饗宴となっています。料理教室では「表面がキツネ色になったら、革命してください(ひっくり返すことー筆者)」、ヘアスタイルを変えたければ「ヘアスタイル革命」などと語られています。あるいは政治の世界でも、増山麗奈などが半裸のようなファッションで踊り狂いながら街頭をサウンドデモしていますが、これはまじめなほうかもしれません。
ここにある「革命」の商品化、市場化、ファッション風俗化には、従来の「革命」の神聖なイメージはもはやなく、一部のレトロな60年代おじさんたちは悲憤慷慨して「革命」を汚すなと嘆くかもしれません。たしかにジャンクフードのイメージを覆す健康食材で売り出した「アール・バーガー」(Revolutionの頭文字)をヒットさせた社長は、「大手がにぎる既成の市場を壊さず、対抗せず、しかも新しいものを創造し、客層を新規開拓する」マネイジメント戦略を述べていますから、つまるところ現代の「革命」は、過去を否定せず手法を変えていく「改革」や「刷新」の強化された言葉にすぎません。
「改革」や「刷新」という言葉の衝迫力がなくなったのは、90年代以降に行政改革や構造改革などの言葉が大量に垂れ流され、それが結局のところなにも改革・刷新をもたらさず、むしろ閉塞状況を誘発し、色褪せてしまってことばの力を失ったからです。どうじに「脳内革命」とか「IT革命」「ギャル革命」などが使われはじめ、しだいに「革命」ということばへの抵抗感がなくなっていきました。 こうして現状を根本的に破壊して世の中をひっくり返す「革命」のほんらいのイメージがうすらいで日常語と化したのです。その背後には、商品を交換価値に転換する「いのちがけの飛躍」なしに存続しえない資本主義の論理が、あらゆる分野を市場化するイメージ商品戦略があります。
有史以来、一度も民衆による下からの革命によって世の中を変えた経験をもたない日本では、ほんらい神聖な「革命」ということばを気軽に使用してもそれほど抵抗感なく受け容れられ、商品市場のイメージ用語として氾濫していくようになったのです。もし日本商品を欧米市場に投入するときに、××革命の画期的商品などとキャッチフレーズにうたったら、おそらく眉をひそめられさっぱり売れないでしょう。では日本で氾濫している「革命」は、日本人がほんとうは大きな社会変革など望まず、せいぜいハンバーグを食べかえる程度の小さなイメージでしかないのでしょうか。以上・朝日新聞4月4日朝刊参照。
わたしは「革命」の氾濫の背後には、時代閉塞にあってなにか予期し得ぬ変化や破壊をひそかに願う不安が入りまじった時代の気分があるように思います。おそらく芸能界や食市場で誘発されているRevolutionnは、希望が死語と化して閉塞するリアルな日常への変革願望が、2次的な日常空間において間接的に爆発しているのではないでしょうか。もしこのようにとらえるならば、風俗世界における革命の大流行は、ある契機をへてリアルな社会変革の行動へと転化する可能性があります。ちょうど江戸末期の時代転換期に、ええじゃないかという民衆舞踏の爆発が起こったように、日本歴史では時代の大転換を画するほぼ前年に民衆舞踏の爆発が起こっています。現在の風俗世界での革命流行は、本格的な社会革命の予兆であるのかもしれません。なぜそのように言えるのでしょうか。
素朴なプロレタリア文学である『蟹工船』のベストセラー化は、時代閉塞の現状への共感が呼び起こしているのであり、それはリアルな労働生活のありようが時代を超えて本質的な類似性をあらわし始めたからです。1930年4月27日に乗組員400人を乗せて函館を出航したエトロフ丸(4200d 富山工船所有)は、カムチャッカ東海岸沖で操業を開始しました。エトロフ丸は日露戦争の捕獲船を蟹工船に改造し、飲料タンクは不良で野菜貯蔵庫が小さくて米や野菜が腐り、労働者は栄養失調と病気で苦しむなかで、午前2時から午後11時まで想像を絶する苛酷な労働を強制され、100名が病に倒れ17名が死亡するに到りました。漁雑夫たちは6月末に改善を要求して拒否されストに入りましたが、激昂した漁労長ら幹部が熱湯を浴びせて殴る蹴るの暴行を加え、鎮圧されました。当時は日露戦後の大恐慌で失業者があふれ、県知事の命令で失業者を素人漁船員に仕立て上げた悲劇の結果です。小林多喜二の描いた原作以上に悲惨な事件ですが、こうした原生的労働関係の悲惨は、奴隷労働に近い非正規と過労死に到っている現代の労働現場と本質的に同じなのです。労働の惨状と大不況の閉塞にあって、現状への破壊衝動が隠然とマグマのように蓄積しているのです。
現在の日本がどれほどに劣化しているかを示しているのが、大不況下での解雇がまっさきに障害者からはじまっていることです。08年度に解雇された障害者数が、今年2月までで2千233人に達しました。08年度上半期は前年並みの788人でしたが、世界金融危機のはじまった昨年10月以降は1446人に激増しています(厚労省 4月3日発表)。これはいったいなにを意味しているのでしょうか。自力で生きていく力のないハンデイをかかえた弱者を最初に会社から路上に追い出す非情は、いったいどこからくるのでしょうか。21世紀最初の人権条約といわれる国連障害者権利条約は「すべての人に保障される人権と自由を障害者に差別なく保障し、福祉・雇用・教育で障害による差別は禁止され、平等を促進する政府の適切な行動」を規定していますが、日本政府は一貫して実施せず、ILOは障害者雇用の是正を勧告しています。なにしろ障害者法定雇用率1,8%と低目標であるばかりか、1人当たり5万円の徴収金を出せば雇用義務を逃れることができるのですから。
群馬県渋川市の高齢者入所施設「静養ホームたまゆら」の火災で入所者10人が焼死しました。「たまゆら」の生活保護受給者23人の入所者のうち、15人が墨田区役所から送られ、8人が認知症または精神疾患で、7人が脳卒中後の不自由な身体であり、うち6人が火災で亡くなりました。厚労省は有料老人ホームの無届け施設が全国で579カ所あると発表し、東京都では長期療養を必要とする患者が入院する療養病床が少なく、1万7000人(!)が都外へ流出しています。東京都の65歳以上人口に占める介護保険施設(特養、老人保健施設、介護療養病床)は全国最低なのです。日本では特養ホーム待機者が38万人にのぼっています。にもかかわらず政府は、居住系サービスの割合を04年41%→14年33%へと引き下げ(在宅介護でやれ!)、療養病床は38万床→12年15万床へと激減する方針です。東京都では都外に流出する患者が行き場を失う事態となっています。05年介護保険法改正による食費と居住費が自費負担となり、月20万円以上の支払に耐えかねて介護保険施設に入れず、生活保護受給者を中心に無届け施設に殺到しているのです。江戸期には貧窮家庭は遠くの山奥に姥を棄てましたが、現代は無届けの施設に棄てているのです。
日本青少年研究所が実施した日米韓中4ヵ国の中高生意識調査は、日本の若者の喪失感を際だたせて暗澹たる気持ちになります(08年9−10月 中高生各1000人 計8000人対象実施)。
「あなたは自分はダメな人間だと思いますか?」(高校生)
とてもそう思う まあそう思う あまりそう思わない 全くそう思わない
日本 23,1 42,7 25,5 8,0
韓国 8,3 37,0 43,2 11,1
中国 2,6 10,1 34,1 52,7
米国 7,6 14,0 19,7 55,3
日本のみが65,8%とずばぬけた高率で自己肯定感を喪っている異常性が際だっています。これは能力感にも反映し、「自分に人並みの能力があると思うか?」には日本の高校生の46,7%が思わないと答え(世界最多 米国は7,6%)、ここから社会的活動への参加意欲も驚くべき低率となり、「学校の自治活動へ参加したい」と答える高校生は10,9%しかなく(中国40%、米国50%)、「青年が社会や政治問題に参加すること」について「参加しても無駄」は日本は15,2%と世界最高となっています。「外国への留学」も40,6%と最低になっています。とにかく「よく疲れていると感じる」高校生が83,3%と圧倒的に高率なのです。じつに日本の若者の3人に2人がすでに人生と世界を諦めているのです。この衝撃的な調査結果はすでにかなり前に発表されているのですが、本格的な分析と対処の方向は打ちだされていません。
おそらくわたしは、大人を対象とする調査でも似たような傾向がでるのではないかと推測します。若者から希望や肯定感、未来志向、参加意欲が根こそぎ奪われている状況は、おそらく日本歴史の上ではじめての事態ではないでしょうか。冷酷に云えば、日本の将来が創造的に切りひらかれる条件が未来世代からうしなわれ、もはや日本は過去の遺産を消尽して生きていく恐竜の末期に等しいのでしょうか。若者たちが風俗文化の世界で「革命」に熱狂しているのは、ひょっとしたら最後の滅びゆく恐竜のこどもたちの悲痛な絶叫なのでしょうか。
労働現場での非正規と過労死、障害者の解雇、高齢者の無届け施設収容、青少年の失望など痛ましい惨状は氷山の一角に過ぎません。普通の人間がごく普通の生き方と死に方を奪われている状況は、まさに現代のホロコーストとしか云いようがありません。ところが現在の「革命」願望の現象を、時代閉塞の現状への風俗的な破壊衝動に過ぎず、「資本主義システムそのものを問題とする感性ではない」(加藤哲郎)などという人がいますが、もしそのようにしか表層的にとらえられないとすれば、現象の基底にひそかに胎動している本質を分析する力量に致命的な欠陥があるといえましょう。1929年の世界恐慌の時代にも、風俗と文化におなじような「革命」と「頽廃」の両極の現象がみられ、多くの人たちが強力な独裁による突破をめざすファッシズムか、資本主義の廃絶をめざす左翼へむかう選択を迫られ、それはついに世界戦争の悲劇にいたりました。現代は20世紀の残酷な悲惨を体験していますから、私たちが記憶の継承と学習に成功すれば、現在の世界恐慌の閉塞状況にあって、煩悶しつつも紆余曲折を経て賢明な選択の途を探求していく違いありません。現在の風俗と文化の世界での「革命」イメージの日常化が、浅薄で頽廃的な大衆現象の破局に向かうのか、市場の商品化という物象から脱出する転換に向かうのか、じつは激烈で静かなシステム間闘争の渦中にあるのではないでしょうか。(2009/4/4 11:00)
◆「硫化水素自殺中」玄関に張り紙・・・・
3月1日午前9時45分頃、山梨県中央市の民家の玄関入口に「硫化水素自殺をしています」との張り紙をして、30歳代の男性が浴室で死亡し、近くの児童約100人と住民40人が安全な室内に避難したそうです。08年は硫化水素による自死が相次いで、前年比36,4倍の1056人に上り、、警察庁はネット上の硫化水素の製造方法を有害情報に指定し、プロバイダーに削除を依頼しているとのことです。ネットで「自殺 硫化水素」と検索をかけますと、じつに詳細な硫化水素の製造法が掲載されたサイトがトップにあります。そこには「硫化水素はサンポールと石灰硫黄合剤を混ぜ、2000ppm(0,2%)の濃度で気密性が保たれた狭い空間で可能」とあり、購入方法と製造方法も詳細に記されています。「発見者を巻き込む可能性があるため、張り紙で注意を促す。この場から離れて警察・消防に連絡」などの注意事項もあり、先の自死者はおそらくこのサイトを読んだのではないでしょうか。この事件は幾つかのことを考えさせます。第1に、こうした詳細な自殺サイトを運営して他者の自死を推奨している運営者のアッケラカンと歪んでいる神経に暗然といたします。このサイトの運営者は、みずからの発信によって自死している人の生命について、なんの想像力も働いていないのです。実行した30歳代の男性青年が、2次被害を避けるために実行行為を対外的に警告していることの痛ましい誠実さといった対極の神経にも暗然と致します。この青年はある意味で現代日本の自死を象徴的に代表しているような気がします。
おりしも警察庁は、08年の自殺者を3万2249人と発表し、月別自殺者数は金融危機が深化した08年10月が3000人を超えて最多としています。男性が2万2831人(前年比647人減 71%)、女性が9418人(同197人減)であり、リーマン・ブラザースの経営破綻の翌月10月が3029人、3月2939人、4月2854人、09年1月2655人(昨年同期比1113人増)、2月2470人(同62人増)となっています。遺体が発見された都道府県別では、東京都2941人で最多であり、最小は徳島202人ですが、前年比では北海道が86人増と最も多く、次いで長野80人増、埼玉68人増です。
日本の自殺者数は、1998年(平成10)に急増して32863人となって以降、11年連続で3万人を超え、世界で第8位、先進国ではロシアに次ぐ第2位という自殺大国になっています。ただしこの数字は変死者を除外していますので、変死者を加えた実質的な自殺者数は10万人にのぼると推定されます。さらに日本の自殺未遂数は自殺者の約10倍と推定されていますので、約30万人以上ないし90万人(変死者を入れた場合)が毎年自殺を試みていることになります。ここに私たちの想像をはるかに超えたミゼラブルな痛ましい実相がひろがっています。
自殺の原因・動機をみると(平成19年)、健康問題が14684人(48%)と圧倒的ですが、近年は経済・生活問題が急増して7318人(24%)と第2位になり、さらに勤務問題2207人(7%)、男女問題949人(3%)、学校問題338人(1%)と続きます。経済・生活問題と勤務問題を合わせると9525人(31%)で、およそ3人に1人が労働関係となります。これは一見して先進国型の要因であるようにみえます。つまりいままで一定の豊かさを実現していた生活が、一転して不況や失業で希望が失われ、それでも優雅な生活を維持している人を見て絶望に到るなど自死の説明がなされてきました(わたしは「自殺」という言葉はなにか反社会的なイメージがただようので、「自死」という言葉をあえて使います)。貧困論で云えば、相対的貧困であり、衣食住の基礎的な生活は一定保障されているが、欲望の社会的水準が高度化し、それを充足できない失意によるというものです。社会の混乱と困窮の絶対的貧困にある途上国や戦時期においては、生きることそのものに精一杯で自死への指向が生まれないというものです。たしかにそうした特徴はあるでしょうが、現在の日本はほんとうに先進国型の自死なのでしょうか。
私はむしろ精神的に追い込まれていく絶対的貧困の高度化(或いは相対的貧困との重層性)を問題にしたいと考えるのです。激烈な競争システムと労働の規制緩和によって、大量に発生している生活保護水準以下への転落が誘発されている非正規労働者は、その日の糧もない絶対的貧困状況にあえぎ、しかも自己責任思想によって否定的な自己評価が蔓延し、一方で巨万の富を得て優雅な生活を楽しんでいる層が存在する非対称性の極大化によって、繊細な神経が絶対的にも相対的にもすり減らされているのではないだろうか。さらに障害者や高齢者政策の市場化によってサービス産業化が進展し、医療における受益者負担原則との相乗的な負担限界が社会的弱者を直撃し、この世界でも絶対的貧困が忍びよって、孤立と隔離が極限まで浸透しているのではないでしょうか。自死はなぜ月曜日に多発し、なぜ土曜日に激減するのか? なぜ5月にピークを迎えるのか? すべて絶対的貧困と相対的貧困が重層的にクロスする曜日であり、月であるように思うのです。
中国や韓国では、街中の群衆が観るなかで、高層ビルなどから飛び降りようとしたり、ガソリンをかぶって焼身をこころみるパフォーマンスで、未払い賃金の支払いや労働条件の改善を求める、文字どおり命を賭した自死のショーが頻発していますが、日本ではあまり起こらないのはなぜでしょうか? 日本では自死するのはよくないこととする反社会的なイメージが強く、自死による社会的アピールは忌避される傾向があります。三島由紀夫が自死したときもそれほどに共感は起こらず、ただ「そんなにまでお前は思い詰めていたのか」というレベルの賛同にしか過ぎませんでした。戦時期の特攻作戦を美化する人はいますが、特攻の命令者に対する怒りの表出はそれほどに強くはなかったのです。
日本ではひっそりと誰にも看取られず、隠れてこの世を去るという自死のスタイルが多く、残された遺族の方々も故人の名誉を思んばかって公表しないのです。しかしいまひそかに自死している人たちは、いままでの日本型の自死の文化では意味づけられない特徴があるような気がするのです。それは群衆の前でアピールするパフォーマンスの姿をとることに匹敵するような、沈黙のアピールを試みているような気がするのです。それは沈黙の抗議ではないでしょうか。もしそうだとしたら、残された者の応答は義務となります。私たちはどのように応答すべきでしょうか。玄関にただいま自死中と記して、2次被害を出さないようにしてこの世を去っていく人を目の前にして。(2009/4/2 17:10)
◆冬は去りてふたたび春がきたのか・・・はたしてそれは希望の証しか?
早春の冷気がただようなかで、春は確かな時を刻んでおとづれています。我が家の小さな庭に育ちゆく桜と桃の樹は、今年も裏切ることなく淡い白と桃色の花を咲かせ、絶ゆることなき生命の営みを刻んでいます。荒みゆく人の世の動きがどうであれ、自然はいつものとおりの姿をあらわし、生きていくことの無限のすがたをあらわしています。歳を経てたゆまない花々は、やがて散りゆくさだめをものともせず、ゆっくりとみずからの足跡を残していこうとしています。しかし樹は昨日の樹ではなく、ひとまわり大きな胴の成長を刻んで、だまって成長を続けています。こうした人為なき自然のただに黙って空間への立ち位置を変えていくありさまは、わが生を含む人間の喧噪に比して、尊厳さの際だったしるしを示そうとする意志なく、有無を言わせぬちからの意志を示し、逆に人間に何かのメッセージさえ発しているようです。よし! わたしもこの4月1日という年度のあらたまる出発に参加せんとばかりに、なにほどかの意志を固めようとするのですが、はてさてどのような年になるのか・・・省みて悔いなき生活の探求に最初の一歩を踏みださなければなりません。
冷厳に足元をみるならば、戦後最悪の恐慌のなかで桜は花を咲かせ、そそくさに散っていくかのようではありませんか。いったい4月が希望において出発することのない、、はじめての歴史が来たらんとしています。「希望」なる言葉がかくも虚妄に見える時を私たちはかって経験したことがありません。こうした極限にあって、あらゆる人の営みが峻厳な審判を受け、すべての人の生の実相が時代の審判を逃れることなき、白日のもとにみずからをさらけることを否応なく迫られています。もはや虚妄の希望の言辞に耳をゆだねることが、逃れ得ない事実として立ちはだかり、誰しもみずからの頭脳をしか駆使して答えをださざるをえない限界状況に直面しています。あらゆる既成の権威が崩れ去ったからには、だれしもが自らの足で立たねばならず、頼るべき羅針盤はみずからの旋盤で刻んでいかねばなりません。だとすれば逆説的に、日本は歴史上ではじめて「個」の尊厳が問い直され、永遠に「葵(菊)の紋章」をはじめとする、ありとあらゆる既成の権威を捨て去る絶好のチャンスが到来していることでもあります。
いま芽ばえでようとしている春は、かってわたしたちが経験してきた春とは、まったく異なる春となる予感がします。いやほんとうにまったく違った春にしなければ、、もはや二度とほんとうの春を迎えることができないのではないか? 自然はおそらくこれからも永劫として春をきざんでいくでしょうが、人間の春としての春は、この年の春にあったと後世はふり返るのではないだろうか? ではこの今までと異なった春とはなんだろうか?
「ほっほほ、よく見なされ、あの放埒な飽くことを知らぬ者がのさばっているようすを。肝臓にもぐりこんで毒液を吐きだしていますよ。汚れた思いのうまれる心臓にもいますし、血のなかにはいって忌まわしい悪事をそそのかしています。舌の上にくつろいで誹謗をまき散らし、全身を不潔に這いまわり、みなさんを踊らせ、残忍な爪の犠牲にしています。男も女も、娘も若者も、、老人も老女も、よちよち歩きの子どもたちも。それどころかまだ母胎のなかにいる胎児でさえ、すべて、すべてが。寡婦や泣き叫ぶみなし子を脅かして金品を奪い、潔白で清浄であるとする人たちですら十字架に釘で打ちつけられている。自分の魂は真っ黒な闇となり、清浄こそが愛と善意に潜む地獄の犬が永遠の罰をもって、狡猾な罠を仕掛け、純なる思いへもぐりこんでいる。善意に悪だくみを注いで汚し辱める、ワインの樽に小便を垂れ流している。けだかいこころのすべてが涜神の焔となって燃え上がり、汚らしい酩酊と放埒の限りをつくし、それを気づかせもしない。謙遜が高慢となり、勇気が悪臭を放つ臆病となり、真理が赦されざる偽りとなり、胸クソの悪くなるような悪臭を放っている。銅貨の一枚一枚が金貨に変わることを密かに期待しながら、鞭打つような労働と努力はいったい何の意味があるのか? 謙遜から塵のなかに身を投げれば、その塵は永遠に高慢の蛇のすみかとなり、山を動かす思いは怯えたウサギを飛び出させるだけだ。あなたの心臓には恐るべき不正が巣くい、自分のことの他はなにも考えない。寛容は妬みから、誠実は偽善から、あなたの魂は醜悪の限りをみせるサタンとなっている。あなたの髪の毛一本にもデーモンが住みつき、骨の髄まで地獄の毒で腐っている。暴君の口笛のままに踊り、その舌で語り、吹き込まれたとおりにことをおこなう破滅が迫っている。感謝の言葉は凄まじい中傷にすぎず、称讃は冷酷無残な嘲りに他ならず、すべては苛まれた身体を切り裂いて血を流させ、一秒のやすらぎもゆるさない鞭打ちとなっている。腐った切り株、ボロボロの布きれ、道ばたの腐肉、羊の糞、それがあなたたちだ。
だれがこのデーモンから逃れ得るのか? 快楽に慣れ、汚物のなかにいる快適におぼれ、泥沼にはまって祝福を受ける者に救いはない。救われる方法を一緒に考えよう。みずからの魂に救うデーモンとどう戦えばいいのか・・・弱いちっぽけな人間は。偽りの快楽で惑わし、幻惑をほんものと思わせ、官能の焔を燃え上がらせ、地獄の罠を仕掛けているデーモンとどう戦えばいいのか? この人間の弱さを知った者だけが、地獄の狡猾な罠を見抜くことができる。堕落した者だけが堕落と戦うことができる。自分だけが罪を逃れて天へ駆け上りたい者は、かえって救われはしない。誰かの救いを待つ者は、ゆりかごから墓場まで傲慢の焔に包まれて地獄へ堕ちるしかない。みずからの弱さを知った者のみが、デーモンと戦うことができる」(L・コワコフスキ『悪魔との対話』筑摩書房 一部筆者意訳)
デーモン・・・いったい現代の悪魔とはなんでしょうか? それはまさに「市場」というデーモンに他なりません。市場は悪魔であるにもかかわらず、はれやかに神を偽装して地球を飛び回っているのが、現代に他なりません。「市場」の悪魔は、いま人間の頭脳から肝臓、前立腺まですべての臓器を食い荒らして、奔放にふるまっています。しかも犯された頭脳は、このデーモンを神と勘違いして、市場神として祭壇にまつり、我から進んで献身する官能にうち震えています。五臓六腑が食い荒らされて、もはや身体が朽ちはてて荒廃の極に瀕しているにもかかわらず。「市場」というデーモンに食い尽くされた人間の棲む地球は、いまや最後の断末魔を迎えて、はじめてデーモンのほんとうの姿に気づき始めました。ここにこそほんとうの春が来たりくる予兆を感じさせます。血で血を洗う激烈なデーモンとの闘争が迫りつつありますが、その最後の戦いに勝利するには、ほんの少しの注意力と勇気があれば充分です。なぜならデーモンは、人類がみずからつくりだした幻影であり、幻想でしかなく、実体がないからです。市場のデーモンにアッサリと別れを告げる悪魔祓いの儀式は、あるいは血の決済を必要と知れませんが、もはや多くの人がみずからの血を進んでささげる用意ができています。私たちは、善を欲しつつ悪をおこなう無残を知り尽くしているからです。(2009/4/1 20:38)
◆この痛ましい日本をみて、仏陀は恥ずかしさのあまり崩れ落ちた
イタリアの路上の落書きからはじまったプレカリアートという言葉は、不安的なプロレタリアの意ですが、なぜか日本ではおぞましい印象がただよい、予期さぬみじめを想像せるるような感じです。昨年末の日比谷公園で催された年越し派遣村で、派遣切れの人を励まそうと善意の意思で集まったうたごえのグループは、何を歌ってよいのか途方に暮れたそうです。そこで忽然と湧き起こった歌は、「ふるさと」であり、大の大人たちが涙を流しながら唱ったそうです。これこそ絶唱といえるのではないでしょうか。わたしはこの情景を想像して、なにか胸に迫るような残酷さを感じたのです。ふる里をを棄てて都会に流れ着いた人たちは、どのような想いで、あの「ふるさと」を唱ったのでしょうか。ある意味でここまでにひとをみじめさの極地におとしいれる残酷な歌はないと思うのですが・・・・・。しかしこの歌は作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一で1914年(大正3)の尋常小学校6学年用として発表され、時代を超えて歌い続けられています。オリジナル歌詞を紹介しましょう。
ふるさと
1,兎追ひし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき ふるさと
2,如何にいます 父母
恙なきや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出づる ふるさと
3,志を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き ふるさと
水は清き ふるさと
ふるさとの心象風景のすべてが込められているような絶唱曲です。でも・・・でも・・・いまこのような懐旧の念を込めて歌う人が、いったい何人いるだろうかを考えるときに、近代日本が喪ってきたもののふたたびよみがえらない意味を悔恨の情を込めてふり返らざるをえません。何を隠そう・・・このわたしもいくばくかのこころざしを得てふるさとを棄て、かえりみすればふる里のあの家はいまは朽ちはてて廃屋となって崩れおちようとしています。「故郷の廃家」というカントリーソングと重なって、わたしの胸はじつは張り裂けんばかりの哀しみに打ちのめされてしまいます。
しかしいまわの際の日本は、こうしたふり返るべき故郷さえ失って彷徨するひとたちがさまよい、もはやふる里といえる大地すら空虚な幻と化して漂流しています。日本という国そのものが、もはや郷関を出でて何ごとかをなし得るチャンスすら幻影となりはて、ふる里を成立させるファミリーすらが根底からゆらぎつつあります。これほどの痛ましさをこの国の歴史は刻んだことがないし、おそらく将来もありえないだろうミゼラブルな光景がひろがりつつあります。昨日歩いた六本木の天空にそそりたつ摩天楼は、足下をさまようプレカリアートの群れに向かって、もはや崩れおちようとするバーミヤンの石仏を思いおこさせました。
もはや云うべき言葉を失うような悲惨の定義がこの日本で姿をあらわしつつあります。夜の仕事に出かける前に、小さな子どもに睡眠薬を飲ませて、寝付いてから出勤する多くのシングルマザーがいることをご存じでしょうか(雨宮処凛『プレカリアートの憂鬱』講談社)。わたしは今日はじめてある新聞の書評を見てこの事実を知ったのです。いったいなんなんだ!これは! かってドイツの哲学者・アドルノは”もはやアウシュヴィッツの後では詩を書くことは野蛮だ”と云いましたが、わたしは睡眠薬を服用される子どもの姿を前にして、このようなエッセイを書くことすら野蛮そのものに他ならないと絶句したのです。こうした子どもたちが睡眠薬を服用させられて、深い眠りに落ちている大都会のかたすみに、もはやどのようなふる里がなりたつだろうか?
わたしはしばらく、こうした事実の背後にある様相を冷酷に淡々とつづることにします。低所得の母子家庭に支給される児童扶養手当の受給者がついに昨年12月に100万人を超え、母子家庭の求職件数に対する就職率は04年度の48%から07年度は40%に急降下しました。日本の母子家庭の母親の85%が働いており(英・独は40%)、その過半数がパートや派遣などのプレカリアートです。母子家庭の70%が200万円未満の就労収入で、児童扶養手当を含めて平均年収は211万9千円です。02年には就労支援を理由に児童扶養手当は支給開始5年後に半減され、およそ6400人が半額となり、05年から生活保護の母子加算の2年間の段階的削減で1万世帯が打ち切られました。そしてついにこの4月から、生活保護の母子加算が全廃されることとなりました。子どもに睡眠薬を服用させて出勤するシングルマザーの背後には、このような荒涼たる風景がひろがっています。
わたしはもはや云うべき言葉がありません。生まれきたあどけないいのちに睡眠薬を服用させる母親の胸中になにが去来しているのか? つぶらなひとみで無心に睡眠薬を服用して眠りにつく子どもは、たったひとりの肉親である母親の無限の愛情に安らいでいるのでしょうか? さんざめく夜の酒場で笑いこけながらサービスにつとめる母親の姿の背後にいったいどのような生が忍びよっているのだろうか? もし子どもがフト目を覚ましたならば、漆黒の部屋にたった一人でいる自分を見いだして、なにを思うだろうか?
これが碧空にそそりたつ摩天楼の影におびえながら生活をする親子の姿に他なりません。そしてこの風景こそがこの子どもにとってのふる里であり、そのふる里はもは決して思いだしたくはないみじめさの極地であり、或いは世に対する反乱を意識する最初の地に他なりません。思い出ずる父母は愛情と嫌悪の入り交じる嫌悪の対象でしかなく、二度と足を踏み入れたくはない汚辱の地となりはて、夢にさえ登場するのを拒む廃虚に他なりません。多くの子どもたちにとってのふる里は、みずからの生の初発を強いられた廃虚として出発し、逃れでなけらばならない地としてのみ意味をもったのです。この子どもたちは、いったいどこへいくのだろうか? どのような想いで二度と帰らぬ生の跡を刻んでいくのだろうか? この痛ましい姿を見て、仏陀は恥ずかしさのあまり崩れおちたのだ。いったい誰がこの母子をしてそうせしめたのか? (2009/3/30 17:51)
◆21世紀の恐るべき欺瞞ー「対テロ戦争」から「海外偶発事件活動」へ
米政府は「対テロ戦争」に替えて、今後は「海外偶発事件活動」という用語を使用するそうです(ワシントン・ポスト 3月25日付け)。ホワイトハウス管理予算局(OMB)が国防総省に電子メールを送付し、「オバマ政権は『長期の戦争』や『地球的規模の対テロ戦争』などの用語の使用を避け、『海外偶発事件活動』を使う」とし、OMB局長がオバマ政権の予算教書を説明する際に「海外偶発事件活動」という用語をすでに使用しています。この背景には、NGO「国際法律家委員会」が「対テロ戦争」という言い回しは、人権や人道法違反を誤って正当化するとしてオバマ政権に使用しないよう要請したとしていますが、おそらく米政府自身が対テロ戦争戦略は間違いであったと軌道修正をはかりつつあるのです。
想えばブッシュ前政権が国際法を蹂躙してアフガン・イラクを侵略して占領した唯一の根拠が、不特定のテロ集団からの無差別攻撃に対抗する「地球規模の対テロ戦争」という概念に他なりませんでした。しかしその後の展開は、国際法と国際連合憲章を蹂躙する米国のユニラテラリズム(単独行動主義)が、じつはナチス・ヒトラーを上回る21世紀最大の戦争犯罪に他ならなかったことを白日の下に明らかとし、その罪責を米政府自身が糊塗せざるを得なくなったのではないでしょうか。しかしもし、単なる言葉の言い換えによって、米政府の血塗られた行動が免罪されるとしたら、この米国の行為の犠牲となった無辜の民衆は救われません。100万人に上ると云われるイラク市民の犠牲者は、ある大統領の戯れの意思によってわが生と希望を絶たれ、無念のうちに冥界を彷徨していくのでしょうか。無辜の霊たちは、みずからを虐殺した戦争犯罪国家を告発して裁きの席に据えることすらなしえない国際社会の二重の欺瞞を目にして、憤怒の血をしたたらせながら、凝視しているに違いありません。
さらに想えば「地球規模の対テロ戦争」戦略は、全世界にテロの不安意識をばらまき、治安を名目とする社会秩序維持を至上の価値として、盗聴から監視カメラ、国境審査を含むあらゆる市民生活の人権を萎縮させ、国家権力による監視をすみずみまで浸透させていきました。テロ容疑者とか不審者、危険物という用語を使うだけで、市民生活を規制できる網の目の監視システムが構築されていきました。あたかも安心と安全が最良の価値として幻想的に宣揚され、ついには市民同志が互いに監視し、通告し、密告し合う究極の監視社会が実現したのです。日本では、下校途上の子どもへの声かけすら、疑惑の対象として取り締まりの対象とされるようになりました。地球上の全域で、「地球規模の対テロ戦争」戦略が浸透し、ホッブスの「人間は互いにオオカミ」であるというテーゼが証明されることとなりました。ブッシュは人類を19世紀の社会契約の野蛮時代までバックさせてしまったのです。それにしても、アレコレと苦肉の策をめぐらせて作為的につくりだされる用語は、言語の欺瞞的な権力性をみごとに示しています。欺瞞の戦略を象徴化した権力言語が、権力という実体以上の効果を持って、人類の意識そのものを内部から変え、あたかも自ら望んでとるかのような相互監視行動を誘発させ、抑圧の制度を再構築させていったのですから。
しかしわたしはこうした言語表現の基礎に潜んでいる文化と意識をこそ問題にしたいと思います。結論的にいうと、権力言語を振りまわしてふるまう西欧文化の中心に、いかがわしいオリエンタリズムのまなざしをみるのです。パレスチナのガザ攻撃に参加したイスラエル軍兵士は、パレスチナ人の妊婦や子どもを標的にしたTシャツを着用していたそうです。狙撃銃の照準望遠鏡に映ったパレスチナ人の妊婦が描かれ、下に「1発で2人射殺」とあり、1発の弾丸で母親とおなかの子どもを同時に殺すという意味だそうです。銃を持った子供を標的にするデザインや、モスクを破壊するデザインもあります。このTシャツはテルアビブの服飾店で大量生産され、顧客の大部分は現役のイスラエル兵だということです。
ここには自らの属する軍隊の大義なき戦闘の死の恐怖を克服し、勇敢に敵に向かう戦闘意識を擬似的に醸成する方法として、敵は醜く劣等な人間であり民間人でも殺害することが正義だとする、救いがたい侵略軍の本質があり、その方法として駆使されるオリエンタリズムの究極のまなざしがあります。イスラエル軍の戦闘意識は、かってのベトナム戦争でのソンミ虐殺やイラクでのアブグレイブ拷問と同じ米軍のオペレーションであり、その本質は結果的に大量のPTSDを誘発することは間違いありません。
米政府はただちに国際戦争犯罪法廷に告発され、国際人道法によって有罪を宣告され、正当な罪責と償いを求められなければなりません。このまま単に戦略用語の言い換えによって、歴史の審判を逃れていくとすれば、21世紀の人類に正義は存在せず不正義を許してきたということになります。21世紀最大のテロリストが、じつは米政府そのものにほかならないのもかかわらず、もし神がこの真実を見逃して沈黙しているとすれば、わたしたちが告発者となって米政府を告発し、逮捕し、連行し、裁きの場に据えねばなりません。さらにこの醜悪な国家テロリズムのジュニア・パートナーとして媚びへつらい、奴隷のように付き従ってきた憐れむべき日本政府も同罪に他なりません。水に落ちた犬を、もう一度叩き込まねばならないのは、犬が吠えてもキャラバンは進んでいかなければならないからです。(2009/3/27 16:48)
◆9ヶ月革命の危機
赤ちゃんの発達期に生後およそ9ヶ月前後で、言葉を獲得する土台を築く転機があるそうです。例えば、誰かが「ほら、あっちを見てごらん」と一定の方向を指さすと、赤ちゃんはその方向へ視線を向け始める「指さし」という動物にはできない人間固有のちからがうまれてくる。この指さしへの理解は、人間相互間の共同の関心が成立し始めていることを示しており、この9ヶ月革命をへて子どもは人間固有の言語を獲得していくのだそうです(M・トマセロ『こころと言葉の起源を探る』勁草書房 2006年)。ただし問題はこの革命の前提条件として、赤ちゃんを取りまいているコミュニケーションの時間・空間・仲間の3要素が不可欠であり、このいずれかの要素にゆがみがある場合は、革命は正常には訪れないということです。
もしこの仮説が正しいとすれば、現代の赤ちゃんたちは恐るべくゆがんだコミュニケーション環境に置かれ、多くの子どもたちにとって9ヶ月革命は不正常ということになります。はたして現代の赤ちゃんは家族内での充分なコミュニケーション時間を保障されているでしょうか。父親の長時間不規則勤務で父親が不在であったり、疲れきって父親の寝顔しか知らない家庭は少ないとは言えない、母親もパートなどで子どものそばにいる時間はそれほどとれるわけではない、複合家族から核家族へ移行し祖父母やその他近親者との接触の機会は失われてしまった、つまり3要素の時間要素が従前に満足されている赤ん坊は少ない。
では空間はどうでしょうか。いま両親が共働きの子どもで公立保育園に入れない赤ちゃんが、都市部で激増しています。この赤ちゃんたちは、一時預かりの民間保育園に通うことになりますが、保育所設置基準の規制緩和によって、床面積の基準が引き下げられ、乳児室の現行基準である1人1畳は大幅に狭くなってしまい、もはや指さしすらできない密集空間が出現しています。赤ちゃんは9ヶ月革命に必要な空間を奪われています。
仲間はどうでしょうか。かって公園デビューといわれて、よちよち歩きの赤ちゃんが母親に引かれて公園に遊びにいく風景がありましたが、これはどちらかというと母親相互の自己顕示のセレモニーであり、赤ちゃん同士がある仲間意識を持って集団遊びよりも、それぞれの発達段階をきそう個人プレーに傾斜していました。では運良く保育園に入れたとしても、個性化教育のもとで集団遊びよりも個人の成果遊びが多くなり、また民間保育園では細切れ保育で集団遊びなど系統的なカリキュラムは最初から放棄されつつあります。つまり赤ちゃんの互いの接触による相互刺激と交流の機会は衰弱していき、3要素の仲間という条件も危ういものとなりつつあります。
いずれにしろ現代の子どもたちは、かなりゆがんだかたちで言語を習得しているのではないかと推測されます。その背景に、父母の不正常な労働環境や保育政策による保育環境のゆがみがあるとすれば、その第1義的な責任は大人たちにあります。そしてこれらの要員の根元には、市場ファンタリズムによる経済システムがあり、はてしない公共分野の無規律な民営化による合成の誤謬によって、いたいけな未来世代の基礎的な成長条件が奪われていることを示しています。
さてこの9ヶ月革命論は、言語発生論にとっても重要な問題を提出しています。ここではあきらかに言語生得説は否定されており、人間的言語の獲得は人間という種が、時間・空間を含む人間的環境のなかで成長するときにのみ、言語が充全に獲得されることを告げています。重要なことは言語獲得における間主観性の質であり、いわば初期言語が人間相互の関心の共同性のなかで習得され、大人と大人、大人と赤ちゃんがどのような間主観的コミュニケーションを日常的に構築しているかが決定的であることを示しています。
もし大人たちのコミュニケーションが競争原理にもとづいていれば、そうした競争の質が無意識のうちに、大人と赤ちゃんのコミュニケーションに浸透し、赤ちゃんは競争の意識を刻印された言語意識を自動的に刷り込まれていくでしょう。競争の対極にある協同のコミュニケーションでも同じでしょう。そして現代の子どもたちは、9ヶ月革命を競争のコミュニケーションを刻印されて獲得しているのではないかーという少々怖い予測がなりたちます。わたしは乳幼児心理学や言語学の全くの素人ですので、こうした結論を安易にだすことを警戒しますが、なにか世代間文化伝達の底知れない危機が進行しているように感じるのです。(2009/3/27 15:36)
◆ふるさとの廃屋は朽ちはてて・・・・
故郷の親戚から電話があり、家の壁が崩落したという知らせが入りました。一瞬、暗然とした気持ちになり、どうなっているのか見にいきました。新幹線で故郷の駅に着き、レンタカーを借りて我が廃屋へ行くと、東側の壁が全部倒れて部屋のなかが透けて見えるようになっていました。庭には茫々と乾いた草が生え、庭の樹は見上げるような大木となってそそりたち、大きな家はまさに朽ち果てるような痛々しい姿をさらしています。倒れた壁をどうしようかと思い、このまま放置して家そのものを解体するかとまで考えましたが、とりあえずブルーシートで被うことにしようと思いました。車を走らせて近くのホームセンターへ行き、ブルーシート(3,8m×5m)を3枚と脚立を買い、家に戻りました。田舎の道は自動車1台がやっと通れる細い道で、人影はなく静かに続いていました。かって少年時代によくと歩いた道は、少年の身にはあんなに広い道という記憶でしたが、大人になって同じ道を通ると、その細さにビックリしました。村の広場に帰ると、5人ほどの少年たちがサッカーに興じて遊んでいました。この田舎にも、こんなに小さい子どもがいるんだとなにか感慨に打たれ、かってのわたしをみるようにじっと子どもたちを見ていました。村の広場の大きな銀杏の木は、もう成長をやめてひっそりとたたずみ、私が元気に走り回った時代は遠くへ消えていったかのように感じました。
家に入り、脚立を立ててブルーシートを柱に釘で打って張り、なんとか壁をおおうことができました。この作業すらわたしには少々骨の折れるものでしたが、なんとか全面を被うことができました。。わたしはそそくさと道具を片づけ、門の戸を閉めて鍵をかけました。私の少年期・・・百姓に汗を流した祖父と祖母の篤農家の姿を思いだし、広い百姓家で夏は戸を閉めることなく、星々の輝きをみながら、夜の布団に入った・・・あの黄金の日々ももはや遠く過ぎ去った薄れゆく記憶の断片にしか過ぎなくなりました。100数十年を経て屹立していた我が家は、もはやドーッと音をてて崩壊する寸前になったのです。私は志を立て希望に満ちて郷関を出で、このふるさとを棄ててきたのです。わたしがこの連綿と続いた家族の歴史に終止符をうつ罪人になったような気持ちです。祖父や祖母、父母はこの廃虚の無残をみて、草葉の陰から私をどのようなまなざしでみているのでしょうか。
ふりかえりながら門の鍵を閉めるときに、いっきに悔恨に似た哀しみがジワーとこみあげてきます。そしてわたしはすべてに区切りをつけるように、鍵を指で押して強く強く閉めるのです。車に向かう途中で、前の家の草取りをしているお婆さんに会いました。まあ〜国ちゃん! よく帰ってきたね、あの壁が倒れたときに地震のような大きな音がしたよ・・・・(御迷惑をかけて済みませんでした)、この田舎も若い者がどんどん村を出て行って空き家が目立つようになった・・・・頭がいいものほど村を出て行くよ、あんたもさぞ出世したんだろうね・・・・(私は微笑みながら聞くのです)、うちのおじいさんが後ろの家は跡取りがいるんかと何回も聞くんよ・・・・(よもやま話をしながら、私は区切りを見つけて別れました)
だんだん年をとるに連れて、故郷へ帰っても複雑な感慨をもよおす気持ちが薄らいでいくのです。いまは定着した都会の生活に早く戻りたいとさえ思うのです。いったい私は死んだら、どこの墓へはいるのだろうか・・・いったんは棄てたふる里の墓へはいるのだろうか・・・この村の生活の経験がないわたしの息子は、なんの関心もなく忙しいサラリーマン生活をおくっています。広域合併で、私の村は県庁所在地の市に編入されてしまい、村の後背は高速道路が走り、かっての美しい自然のすがたも都市化の波に洗われていますが、余計に私はなにか変わっていくことへの哀しみが込み上げてくるのです。
サヨウナラわたしの生まれた村、サヨウナラわたしの遊んだ広場、サヨウナラわたしの過ごした家、わたしはすべてを棄ててしまったのです。わたしは古里を捨てたときに、大いなる希望と志をいだき、道は前方に向かって開けていると確信しきっていました。わたしが求めてきたものはいったい何だったのだろう・・・。わたしのような道を選ばず、父祖の地を継いでしずかに田舎の生活を営んでいる友垣をみると、なにかわたしが間違ったことをしたのではないか・・・という後悔の念も湧き上がってきます。しかしわたしはやっぱり都会へ帰るでしょう。あの砂を噛むような孤立した人間の集住する街へ・・・。
やっぱりふるさとは遠きにありて想うもの・・・・なのでしょうか。わたしはデイアスポラの精神の一部なのでしょうか。こうして人はなにかをふりすてながら、前方へのみちをひたすらに急いで、大切なものを失いながら、おなじような流転のサイクルを刻んでいかねばならないのでしょうか。歴史とはそのようなものなのでしょうか。都会の自宅へ帰った途端に、同僚として酒を酌み交わした懐かしい先輩の逝去の報が飛び込んで参りました。ああ〜あの人もこの世にいないのか・・・・!? 寂寥の念をどう処理していいか分からないままに、わたしは通夜の席へ急ぐ準備をしているのです。春なお寒く、世はWBCの優勝のニュースにわきかえっています。フト・・・”明日に紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり”(蓮如)という言葉が浮かび上がってきました。世の喧噪のなかにあって、わたしはなお残されたちからを尽くして生きめやも・・・とひそかに想うのです。(2006/3/25 15:41)
◆かれらが最初に共産主義者を攻撃したとき(マルチン・ニーメラー)
ドイチ告白教会の指導者としてナチスに抵抗したマルチン・ニーメラーは、強制収容所から奇跡的に生還して、この詩を書きました。彼の盟友であったボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に加担して絞首刑となり(映画『ワルキューレ』参照)、現在のベルリン図書館前に絞首刑される銅像が記念碑として展示されています。ニメーラーがヒトラーを阻止し得なかった現代ドイツの悲劇をふり返って、痛みを込めてつくった詩が、標題の「かれらが最初に共産主義者を攻撃したとき」です。以下日本語訳の荒木バージョンを紹介します。
かれらが最初に共産主義者を攻撃したとき、少し不安だったが私はなにもしなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、前よりも不安になったが私はなにもしなかった
私は社会民主主義者ではなかったから
かれらが労働組合員を攻撃したとき、さらに不安になったが私はなにもしなかった
私は労働組合員ではなかったから
かれらがついで学校や新聞を攻撃したとき、私はなにもしなかった
私は教師でもジャーナリストでもなかったから
かれらが病人、治療不可能な障害者を連れて行ったとき、もっと不安になったが私はなにもしなかった
私は病人でも障害者でもなかったから
かれらがユダヤ人を連れて行ったとき、私はなにもしなかった
私はユダヤ人などではなかったから
かれらがカトリック教会を攻撃したとき、ずっと不安になったが私はなにもしなかった
私はカトリックではなかったから
そして、かれらがついに私の教会を攻撃したとき、私は牧師だったから行動した
しかしそれは遅すぎた、私のために声をあげる者は、誰ひとり残っていなかった
この詩には多くのバージョンがあるようですが、ナチスの迫害対象がじょじょに拡大していくことに恐怖を感じながら、みてみぬふりをしてついには破局に到っていく過程がリアルに描かれています。ちなみにニーメラーの原詩にある「病人、治療不可能な障害者」はすべてのバージョンで削除されていますが、ここでは挿入しました。1950年代のマッカーシズム期の米国では、「共産主義者」を削除したバージョンが多かったようです。何れにしろ「共産主義者→社会民主主義者→労働組合員→学校・新聞→病人・障害者→ユダヤ人→カトリック教会→私」とひろがるターゲットは、当時のナチスが市民の質的な違いを考慮しながら、攻撃の強度をマイノリテイから市民全般へ連続的に波及させて独裁を完成させていったことが分かります。こうした迫害方法は、「自分には関係ない」とする小市民的無関心を利用しながらの心理的な分断攻撃によって、効果を極大化したのです。
こうした独裁に到る迫害のスパイラルは、自分の身に直接降りかかってくるまで対峙しないという、おそるべく普遍的な人間行動の逃れがたい負の特徴を示しています。つまり取りかえしがつかないという事態にいたってはじめて気がついても遅いという行動です。例えば、自殺に至らしめるイジメ、麻薬における自己崩壊、非正規から始まる不況時のリストラなどなど数え上げればキリがありません。しかも人間だけが暴力の強度のスパイラルが無間地獄まではてしなく深化していきます。動物の攻撃行動は、相手が敗北の姿勢を示したときに、ただちに攻撃をストップするという本能によって生命の剥奪までにはいたりません。人間は極限の悪に向かってズルズルと深化していくスパイラルの罠に囚われているのです。この羞悪な罠から解放される唯一の方法は、過去の悲惨な悪の体験を学習して記憶し、次世代に誠実に伝えることにしかないのですが、この記憶を記憶化する作業がなかなかむつかしく、ふたたびおなじ罠に取りこまれてしまうことが多いのです。”いつか来た道”を知らず知らずのうちに歩き始めたり、”分かっちゃいるけどやめられない”というみじめな体験にうちのめされながら。次はわたしがつくった近未来史です。
政府が最初に自衛隊を海外派兵したとき 荒木
國臣
政府がPKO協力法で自衛隊を海外派遣したとき、すこし不安だったがわたしはなにもしなかった
復興支援や災害救助の国際援助活動でやむをえないと思ったから *1992年 前年にソ連崩壊、文科省中学公民教科書に自衛隊明記通達
政府が周辺事態法で米軍の後方支援をおこなうと決めたとき 前よりも不安になったがわたしはなにもしなかった
テポドンが飛んできたり、能登半島に不審船があらわれて危ないと思ったから *1999年 国旗・国歌法成立
政府がテロ対策特別措置法で米軍の対テロ作戦への参加を決めたとき もっと不安になったがわたしはなにもしなかった
9・11同時多発テロの恐怖におののき、日本の活動は非戦闘地域に限られていたから *2001年 ブッシュ大統領就任、新しい歴史教科書刊行
政府がイラク特措法で米軍の後方支援活動をはじめたとき さらに不安になったがわたしはなにもしなかった
イラクの人道復興支援が主たる業務だったから *2003年 米英軍イラク攻撃 日本人外交官2名イラクで殺害さる
政府が防衛庁を防衛省とし、自衛隊の海外派遣を通常業務としたとき 不安は強くなったがわたしはなにもしなかった
まだしもシビリアン・コントロールがあり、武器使用は正当防衛の緊急避難に限られていたから *2006年
政府がソマリア沖海賊警備行動を決め、任務遂行のための先行的な武器使用を認めたとき もっと不安が強くなったがわたしはなにもしなかった
ロケット弾で重武装するソマリア海賊は取り締まるべきだと思ったから *2009年
政府が北朝鮮の「人工衛星」をミサイルで撃墜する軍事的対応を決めたとき さらに不安が強くなったがわたしはなにもしなかった
日本列島にロケットが飛来するのは怖かったから *2009年?
政府が米軍との集団的自衛権を発動して××国に侵攻して戦争になったとき わたしはついに行動に立ち上がった
しかしそれはおそすぎた、すでに徴兵制がしかれわたしの行為は反逆罪となったから *2×××年
ー2009/3/23 11:50
◆文化財を平気で廃棄物処理する精神の貧しさについて
このニュースはおそらく大阪地方の人しか知らないのかも知れません。二度と再生できない貴重な歴史的文化史料は、不可逆的な価値を有するがゆえに、貨幣換算には非親和的な公共財とみなされ、市場の交換価値の対象としてはならないことは、ユネスコをはじめとする国際的な基準です。日本の近代産業史のあかしである産業遺跡も例外ではありません。しかし大阪では産業遺跡をいとも簡単に廃棄物処理業者にゆだねてゴミ処理するという、常軌を逸した文化財行政がすすめられています。以下は読売新聞3月13日付け報道です(一部筆者要約)。
大阪府・大阪市・大阪商工会議所・日本産業技術史学会で構成する「国立産業技術史博物館」誘致促進協議会は、バブル崩壊後の同博物館建設構想挫折にともなって、関西電力や東京農工大など約30の企業や個人から寄贈された貴重な江戸期以降の近代産業遺跡と資料の廃棄処分を決定し、16日から処理業者による搬出作業が始まる。その資料には、江戸時代の鋳物工場で使われた木製の人力クレーンや、大阪砲兵工廠で使われた機械など歴史的価値が高いものが多い。尼崎市が発電所の部品を引き取り、大阪大学も一部を受け入れるが、大部分はスクラップとして処分される。大阪商工会議所は、万博記念館で無償で保管していたが、記念館の改修に伴い、倉庫を借りれば年1千万円以上かかり、大阪府も財政難で新たな府費投入は許されないとしている。産業技術史学会は、資源もエネルギーもない日本が先進国入りした理由を表す物証であり、他にはない物も多く寄贈してくれた人には申し訳ないーとしている。文化庁は、資料価値が充分に周知されず引き取り手が現れなかったようだ、廃棄処分は極めて残念としている。
文化財はいうまでもなく、不可逆的な唯一の価値の絶対性を持っていますが、大阪府の発想は貨幣価値を最優先する貧しい市場の劣情でしかありません。文化財保護法による保存義務を有するはずの文化庁すらが行政的責任への痛みを覚えていません。しかも趣旨に賛同して資料を提供した全国のひとたちの善意を無残に蹂躙する行為は、無償提供をささえる信頼原則を逸脱して、もはや破廉恥ですらあります。日本の近代化に貢献した先人たちの汗と血がしみ込んでいる産業技術は、二度と復元できない歴史的モニュメントであり、大阪府の伝統破壊の貧困な精神には怒りをとおりこして哀しみすら覚えます。
少なくとも企画の責任者であった大阪府の歴史を汚した行為は致命的であり、制裁の対象となるでしょう。しかも大阪府は耐震不備の大阪府庁を理由に、閑古鳥の啼く関空隣地での府庁の超高層ビル化構想を推進しています。こうした大阪府の異常なふるまいの背後には、いうまでもなく橋下とかいう府知事の異様な市場ファンダメンタリズムがあるように推測されます。即効的な貨幣価値を生まない事業を徹底的に排除し、市場の交換価値を生まない文化事業に対して、憎悪に近いような排除の行政を繰りひろげてきた貨幣の奴隷の惨状があります。上方芸能施設や交響楽団の冷酷な切り捨て政策と本質的に通底しています。いまからでも、貴重な産業遺跡のスクラップを避ける支援活動の呼びかけを試みるべきです。大阪産業の発展に責任を持つ大阪商工会議所もまた、みずからの歴史的責務を放擲して恥じない経営者団体に他ならないことを暴露しています。この報道に驚愕した市民たちが自主的に資料回収を初め、段ボール箱に入れられた貴重な資料群の保存に取り組んでいるそうですが、もはや日本では文化公共財は公的行政の対象とはならず、市民のボランテイアにゆだねるしかない状況に頽廃しています。
国内で文化財が廃棄物としてゴミ処理されている一方で、目を覆わしめるような公共事業(?)が推進されています。在沖縄米海兵隊のグアム移転計画で、日本政府はグアム米兵家族住宅3520戸の建設に25億5000万j、1戸当たり7500万円の建設費を負担するそうです。米国防総省「米軍統一施設基準(UFC)家族住宅」では、家族住宅は階級別に広さが規定され、2等兵でも125平方b以上、大佐では4寝室で234平方bとなっています。主寝室はキングサイズベッドを収容できる広さ、3寝室以上の住宅はリビングルームと別に家族ルームを提供するとされ、150戸に1つのテニスコート、100戸に1つのバスケットボールコート、100−200戸に1つの400平方q以上の開放運動場などの関連施設も規定されています。志願制の下での米軍編成が入隊者数減少でうまくゆかず、はなやかな兵士住宅を宣伝に貧困市民を募集する米軍の戦略に奴隷のようにカネを提供しているのは世界で日本政府のみです。グアム移転計画の日本側負担は総額6500億円ですが、じつにその40%が米兵住宅建設費なのです。在日米兵の住宅費負担については在日米軍地位協定にともなう義務的経費があることが予想されますが、米国本土の米軍基地建設に日本の税金を使用するなどとは、尊厳を失って主人に媚びへつらう奴隷の姿でしかなく、全世界の冷笑があびせられれています。日本政府にとっては、派遣切りにあって路上に追いやられている日本の市民や、倉庫費がないことを理由に貴重な文化財をゴミ処理している日本の惨状は目に入らないのです。このめくるめくような非対称性にみなさまはどのような感想をお持ちでしょうか。
一般に市場ファンダメンタリストは、国境を越える多国籍の活動によって最大限利潤の追求をめざし、そのセキュリテイを保障する政府の軍事的なグローバル化も極大化していきますが、そうした活動の国民的合意を構築する手段として、ナショナルな伝統的価値の聖化による国民精神の統合を追求します。ここから市場ファンダメンタリズムと伝統的な保守原理の奇妙な合体が生まれるのですが、大阪府の事例はもはや市場ファンダメンタリストが伝統的保守主義のある公共性原理すら投げ捨てて、貨幣価値に狂奔する醜悪な実態におちいっていることを示しています。大阪府は放置すれば、生活的な公共性と文化的な公共性を犠牲にして、カネの亡者と化した劣情が浸透し、おそらく日本でもっとも剥き出しの市場競争原理が支配する市場の帝国となるでしょう。それはすでに、「学力テスト順位を非公開とする教委はクソだ!」と罵る府知事の下劣な言辞に象徴されていましたが、ここにきて貴重な文化遺産を廃棄物処理場に棄ててしまう反文化行為によって再確認されることとなりました。
市場ファンダメンタリストの野蛮は、すべてを市場原理にゆだねることにより、人間の行為の善悪それ自体も市場における競争結果で判断することにあります。強い者が勝つのであり、勝つ者が正しいのであり、敗者は放逐されるとする市場ファッシズムにほかなりません。人間の営みはジャングルにおける剥き出しの生存競争に他ならず、適者のみが生存を許されるのであり、すべては貨幣価値に換算され、個の競争を規制したり、貨幣価値を超えた公共性は排除されるのです。かってファッシズムは暴力の勝者を正義そのものとして、暴力の敗者を強制収容所に隔離して抹殺しましたが、現代のファッシズムは市場を神として物神崇拝し、ソフトに圧殺していきます。現代のアウシュヴィッツは市場原理神としてよみがえったのです。
アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない
アウシュヴィッツのあとではまだ生きていることができるのか、殺されていたはずの者が生きていてよいのか
もはや思想は、SSが犠牲者の声が聞こえないように大音響で流したワーグナーの音楽ではないのか
アウシュヴィッツ以降の文化はすべてゴミ屑である
崇高な響きを込めたどんな言葉もアウシュヴィッツ以降は正当性をもたない
アウシュヴィッツ以降は、われわれは無期の死刑囚なのである
ナチス・ホロコーストの惨劇を知ったドイツの哲学者は、西欧近代の問題を根元から我が身に引き受けようとする悲痛な文章を記しましたが(セオドア・アドルノ『否定の弁証法』)、いま日本はこのアウシュヴィッツを「市場神」と読み替えながら呪縛されています。「市場神」のガス室では、チクロンBにかわって競争の向精神薬が霧状に散布され、舞い散る札束をめぐって奪い合う地獄の惨状が繰りひろげられています。廃棄物処理場でマニュアル通りに処理されている歴史的文化財は、ガス室から引きずり出されて焼却室に運ばれる私たち自身の遺体に過ぎないのです。関空の超高層ビルの最上階にある知事特別室から、あの知事は一切の感情を交えず無表情に焼却室から立ちのぼる黒い煙を冷ややかにながめながら、芳醇なワインを口にしているのです。そしてすこしの時間が流れて、超高層ビルはゆっくりと崩れ始め、阿鼻叫喚のなかでみたこともない荒涼たる廃虚の風景がひろがっていくのです。こうして「市場神」はすべての人間を藻屑にする悪魔との誓約を果たしたことをたしかめ、満面の微笑を浮かべながら宇宙への帰還を果たしていくのです。(2009/3/20 11:55)
◆かくまでに劣化したのか! 日本は!
いま日本列島は春闘の真っ只中にありますが、どこをみてもそんな雰囲気はありません。かっては電車のほとんどがストップし、それをやむをえないこととして、多くの市民は学園や企業に通いましたが、いまやストライキの影も形もない日常が流れていきます。大不況でまっさきに非正規を解雇して路上生活に送りこんだ企業は、株主配当だけは汲々として増やしているかたわらで、春闘は軒並みゼロ回答であるばかりか、あろうことか定期昇給もストップするという、信じられない経営のモラルハザードが惹起しています。生存権そのものが脅かされている現在にあって、驚くべきことに労働組織の致命的な劣化が進んでいるように思われます。生活権を擁護する労働組織が、すすんで生活権放棄を共助しているかのような実態があります。民営化された企業における労使協調は、もはや労働組織の基礎的な条件さえも失われつつあることを示しています。次は企業内のある少数派組合が春闘ストに突入した際の、経営者に宛てた主流派組織の声明です。
JP労組第82号
2009年3月13日
日本郵政株式会社
代表執行役社長 西川善文殿
日本郵政グループ労働組合
中央執行委員長 山口義和
他労組の争議行為予告に対する対応について
200春季生活闘争ににおいて、JP労組以外の複数の労組が争議行為を予定しているとの情報を得ています。
私たちJP労組は、結成以来生産性向上運動を展開し、「事業の発展が労働条件改善につながる」との姿勢を
もって、平素から組合員が一致して郵政事業発展のため懸命に職務に精励しているところです。
今般の春季生活闘争においても、労使協約にもとづき適正に労使交渉がおこなわれ、労使が日本郵政グルー
プの成長と発展のために努力してきた社員の労に報いるとともに、会社の持続的成長を見据えたなかで労使合意
が図られるものと判断しています。
そのような状況において、一部の勢力によるストライキなどの行動により、万一にも業務運行確保に支障を来す
ような情況が起こることを看過できません。
つきましては、JP労組はかかる情況となった場合においても、「新パートナー宣言」の趣旨にのっとり、全組合員
が協力体制をもって対応していくことを表明します。
いうまでもなくJPは、国民の財産である簡保の宿ほか、多くの施設をいかがわしい入札方式で、郵政民営化を推進したオリックスその他におそるべきダンピングで売却し、多くの施設は転売されて入札企業は莫大な濡れカネを手にして、企業のコンプライアンスとモラルハザードが大問題になっている企業です。小泉ー竹中が推進した郵政民営化が、国民財産の転売による転がし利益を生むものでしかなかったという本質が暴露されつつあります。
このJP労組は典型的な日本型企業内組合主義の生産性向上=パイの理論による第2労務部に頽廃していることがはしなくも露呈されています。大不況下で労働の生存権を擁護する第1義的な義務があり、そこに存在理由があるはずの労働組織が、経営に奴隷のように屈従し、媚びへつらう奴隷的姿勢の無残と頽廃は目を覆わしめるものがあります。ストライキ戦術は労働基本権の主要な内容であり、経営に打撃を与えることによって労働を擁護することにあり、たとえスト戦術に反対であっても、同じ労働側のスト破りのような労務行動を堂々と宣言する行動は、まさに経営の第5列に他なりません。しかもJP労組はかってははなばなしいストライキ戦術を行使して勇名をはせた労働組織に他なりません。このおそるべき変貌!
それ以上に暗澹たることは、宣言にみられる人間的心情のはてしない頽廃です。まるで水戸黄門の葵の印籠におすがりして、おまんまにありつくかのような前近代的な奴隷の心性は、ひとたび人間的尊厳を放擲した者のはてしない転落の姿でしかありません。後ろから刺すーというもっとも卑劣で唾棄すべき行為に他ならないことの自覚すらが喪失している惨めさがあります。しかも経営のトップは自らの出自である三井住友銀行にJP関連益を優先的、排他的に提供したという疑惑すら浮上しています。労使協調を高らかに宣言するJP労組は、自らの企業のコンプライアンスの蹂躙について、経営責任をチェックする重要な責務を負っているはずですが、こうした初歩的な機能すら放擲している惨状にほとんど無自覚です。ここまで日本の労働組織の劣化が進んでいるとは、すでに少数派を排除する企業ファッシズムは完成しているように思われます。ストに突入するある福岡県の少数派組合員は、「午前9時45分から10時45分までストに入る予定です。この支店でストに入るのは私ひとりです。生まれて初めておこなうストですので、恐ろしく不安を感じています。しかし私は期間雇用社員の仲間のためにたたかわねばなりません」と悲痛に訴えています。私はJP労組内にあくまで人間でありたいと密かに想う良心的社員が少なからず存在していることを確信します。少数とはいえ、仲間が血を流して労働権を行使している時に、まさか背後から刺すようなふるまいに加担したくないという社員が存在していることを確信します。
どうしてこのような地獄のような人間性の喪失が労働組織に誘発されているのでしょうか。私はこの問題の解明は日本の21世紀の方向にある意味を持つと思うのです。ここでは、ドイツの戦後責任を追及したユダヤ系ドイツ人であるラルフ・ジョルダーノ『第2の罪』の分析をかりて、「ドイツ」をすべて「日本」に置き換えてみるという作業を通して、何か見えてくるのではないかという手法を使います。以下の「日本」は原文ではすべて「ドイツ」のことです(一部筆者意訳)。
敗戦直後の日本には戦争忌避者しかいなかったー不安からである。良心の呵責の論理に従って、自分の心理は勝者と同じと考えるほかなかった。だからこそクルッとアメリカ礼賛者が増えたのである。日本人にもっともうちのめされる経験は、敗戦までの間ではなく、不誠実と卑怯、追従を見せつけられた敗戦直後の何ヶ月かであった。天皇制の賛美者と同調者たちが、当時どんなふるまいをしたかは、子どもや孫の世代はよく知っておくべきだろう。1945年の夏から冬にかけての間にみられた自画像ほどに不快なものは、人類史上かって例がない。ところが数ヶ月過ぎて、報復されるという不安がなくなると、また天皇制支持者が息を吹き返し、戦犯への平然たる恩赦がはじまった。「人間的方向感覚の喪失」は、明治期から大日本帝国をへて現代にいたる病である。過去とそこで果たした自分の役割に正直に対決しようとせず、重苦しい記憶を振り払い脱出するために、過去の罪を忘れようとする第2の罪が始まった。歴史の審判はすでに下り、もはや個人が付け加えることはないにもかかわらず。戦争世代は、自らをさらけだすことを拒絶し始め、自己防衛のためのマスクを顔につけ、多くの人がこのマスクを着けたまま葬られていった。戦争の時にあれほどヒステリックに喝采を叫んだことを説明できる人が、みずから口を閉じ、狂気を究明する唯一のチャンスが失われていった。戦争指導者と民衆がアマルガム状態になった例は日本史上他にない。それは人間的方向感覚を失ったからこそ可能であったのだ。
戦時期の多くの人が倫理的に根本から再生することを望むのは、現実の錯誤であり、誤った期待だとつくづくと分かった。彼らはあまりに深く天皇制と同一化し、人間としての核心の部分を破壊されてしまったので、自分自身にも他人にも、ことに隣人に対して誠実である能力を喪失した。日常のファッシズムが怖いことは、その信奉者が正常で普通の市民であるということだ。彼らはひとりの時は分別を見せるが、群れになると雄が雌に見せるような威圧行動に身を隠してしまい、あたかも群れに守られているように権威的になる。
かっての戦争体験についての問題は、公の場での対外的な意見と、内なる本音の声の間に広がる深淵だ。親たちの世代は殴ってまわったが、自分自身も殴られ敗北を経験した。酷い目に遭っているので、否応なしに苦労事への共感が生じ、多くの人は単純な悪人ではなく、こころのなかの羅針盤を失った人たちとなった。天皇制ファッシズムは軍事的には破れたが、心性のレベルでは依然として続いている。戦争犯罪をごまかすという第2の罪の最大の犠牲者は、罪なくして生まれてきた戦後世代だ。こうして「哀しむ能力のない」人たちが、永遠に再生産されている。彼らのメンタリテイは次のような幾つかの特徴がある。
第1に過去の記憶を再処理しないで抑圧するという集団的情動である。それは南京虐殺を被害者数の量の問題に還元したり、その時は何も知らなかったといったり、他の国だってやったじゃないかと云って相殺したり、いつまでくどくど言うのかいい加減にしろと言ったり、戦時期は少なくとも規律と秩序があった・・・などという理由で罪の意識から逃れようとする自己防衛の心理規制が働く。こうした自己防衛規制は、人格の分裂と人間的方向感覚の喪失をもたらし、あらゆることへの感受性を鈍磨させる幼児期の行動様式にほかならない。しだいに自由で偏見のない人格の発達が阻害され、精神が集団的に奇形化する。天皇制ファッシズムが形式的には死んだあとでも、戦後世界では暴力と戦争のインフレのような連鎖がつづき、かっての過ぎ去った戦争犯罪はフタをされていく。
第2は日本の近代史が培ってきた権威主義的文化が戦後も深く根を張っている。命令と服従、上の者への隷従というヒエラルヒーの文化は明治以降の絶対主義天皇制の下でに培養されてきた。先進文明へのコンプレックスと遅れたアジアへの優越がない交ぜとなって異様で複雑な性格が形成され、企業や学園などあらゆる組織に浸透していった。ここでは健康で正常な市民感覚は、作為的に「内なる敵」へと封じ込められ、狂気の集団的な攻撃感情が少数者へ集中していく。かくして天皇制ファッシズムは去ったが、将軍たちは残ったのだ。
第3に戦時期の少数のレジスタンスが悪用される。一方では抵抗を聖化して自己免罪に利用したり、集団責任から逃れる口実にされ、他方では抵抗を後ろから祖国に弓を引いた匕首伝説として非国民攻撃し、みずからの罪の反動形成がおこなわれる。たとえ誤った戦争でも祖国のためにたたかうべきであったという破廉恥な倒錯した論理が出てくる。
第4に自らの手で戦犯を裁く経験をもたなかった日本は、ついには裁くことそのものを忌避するようになり、時間の流れに任せたり、まあまあそんなに怒るな、あんなに涙を流して反省しているのだから許してやれという心情倫理が蔓延していった。
第5に状況と心情に追随して判断力が衰弱していく状況倫理の蔓延と比例して、転向現象が日常化し、多くの市民は組織の決定と実務に沈潜して黙々と義務を遂行するようになり、ついには価値そのもへの無関心と私生活への埋没が始まる。
ここには戦争責任の処理をめぐる特殊日本的な特質が、じつは戦後ドイツの特質と共通性があることが示されています。戦争責任の処理の態様は、その国の社会的生活の全体が凝縮される典型的な行動様式です。社会のあらゆる領域に発現される行動様式を象徴しています。ストは反企業行為だとして後ろから刺すような痛ましい反労働者的労働組織の行動は、ここから派生しており、なんら特別で異常なことではないのです。
しかしジョルダーノは最後に、ドイツの戦争責任について、誠実な自己告白によってみずからの尊厳を恢復しようと願う少なからぬ市民が立ち現れていることに希望を託しています。同じように人間であればこその尊厳への希求は、日本でも重い口を開いて告白し懺悔する人たちを生み、おそらく最悪とも見える日本の労働組織においても良心の輝きがたしかにあらわれると私は確信します。(2009/3/18 22:22)
◆怒りを忘れたカナリアは・・・・・
民放TVの報道ステーションというニュース番組の司会者とコメンテーターは、現代日本の人間模様を象徴しているように思われます。古舘伊知郎という人は、不正に対して鋭く反応しながら怒りがにじみ出るようなスタイルで語りかけ、元アエラ編集長とかいうコメンテーターは、いかにも自信なげに微笑みながら大過ない解説を加えていきます。古舘氏のスタイルはパフォーマンスとして怒りの感情を表しているのではなく、いかにも氏自身の素直な感情の表出であることがみてとれます。コメンテーターは世の矛盾と自らの身体感覚がつながっているようには見えず、古舘氏に合わせて引きずられているように見えます。そして哀しいことに、現在の日本はおそらく、あたりさわりのないコメンテーターのふるまいに安堵感を覚え、古舘氏のような直球の鋭さは敬遠されるのではないでしょうか。つまり直截な怒りの表出は抑制され、たとえ不正や矛盾があったとしても平穏に過ごしていきたいという雰囲気があります。この底には不気味に広がっていく不安をかかえたまま、なんとか生きていかなければならない日常があり、不安を怒りに転化して表出することのリスクが骨身に沁みて分かっているからです。おそらく古舘氏には局内外から、かなりのプレッシャーを受けているでしょうが、私は現在のスタイルを貫いてほしいと思います。
さていま日本は身に覚えのない理由で理不尽な扱いを受ける人々が激増し、対照的にエゴイステックな自己欺瞞のふるまいが平然と見逃されていく風景が当たり前のようになっています。特に若者と社会的弱者といわれる層が、その主要な犠牲のターゲットとなっています。しかしなぜか、後期高齢者のパワーは元気なのですが、もっともピュアーで正義感の強いはずの若者が、怒りの声を挙げることなく、忍従の道を歩んでいるように思われます。むしろ派遣切りで路上に放擲された若者の多くに、「ダメになったのは俺のせいだ」という無力感が蔓延しています。いったい若者の正義感や怒りの感情はどこへいってしまったのでしょうか。日比谷派遣村を運営したある青年は次のように云っています。
「不器用というレッテルを貼られて最下層の労働市場へ追いやられ、著しく自尊心を傷つけられて孤立した多くの若者は、自分の困難を自身の無能力によるものとしてしまう。困難を他者と分かち合う機会のない彼らは、理不尽な困難を怒りへと社会的に表現することなど思いもよらないことなのだ。こうして下層の若者の困難は、不可視の世界となってしまう。彼らが怒りを表明する回路は、自分の存在を受け容れてくれる居場所が見つかり、不器用を攻撃する社会に対する防衛の場を手に入れ、怒りを表明する他者を知ることによって、理不尽な困難が自分の無能力によるものではないという意識が生まれるところにある。
日本の理不尽な状況に対し、外国だったら暴動が起こるだろうーなどという声があるが、いずこの国も日本と本質的に変わりはない。組合運動が正社員の防衛に狭隘化しているなかで、職場は正社員も含めた競争によるストレッサーが蓄積し、その解決の形態が個人化してしまい、怒りは内面に抑制されて社会的な回路に接続できない。国家は市民を道徳的な規律に包摂しようとし、不特定多数を対象に監視するシステムを蔓延させて、それでも規律を受け容れない人には服従と処罰を強いる。こうした社会全体の抑圧システム化が、互いに競争し監視し合う個人のアトム化をもたらし、ますます怒りは内面に堆積し不可視化されていく。フランスでは街でたむろすることを禁止する法律が成立し、一方で日本はリストカットが個人の尊厳のギリギリの表現にすらなっている。
しだいに怒りの反応を抑制していくと、怒りの事態にすら反応しない感覚遮断が進み、自らの理不尽な状況そのものに馴致されて、考えることをやめてしまう。たとえ同じ境遇の者と場をともにしたとしても、個々の米粒の自律と尊厳が消失しているオニギリ共同体のブルーテント村となってしまう。同じ紫陽花であっても、ひとつ一つの花の個性を強調するあじさい村とは似ても似つかぬ似非共同体が出現する。」(河添誠他 シンポ「怒りと批判の獲得」より)
いま蔓延している振りこめ詐欺とか路上ひったくりなどの犯罪は、未来を喪失した若者たちが最前線に立って後期高齢者を吊し上げてるゾッとするような情況です。しかしこの犯罪には笑えない悲喜劇のような風景が広がっています。大阪の71歳のひったくり被害にあった肝っ玉お婆さんが、逃げる男を必死に追いかけて捕まえたそうです。逃げる若者の自転車のチェーンが外れ、300m追いかけて男は取り押さえられました。男は32歳で無職、捕まった時は空腹状態で衰弱し逃げるちからはなく走ろうに走れませんでした。男は1円玉2枚しか持っていませんでした。お婆さんは近くの会社でパートして働いていましたが、彼女の奪われたバックには110円の現金が入っていました。男が逃げ切れたとしてもオニギリ1つくらいしか買えない額でしかありませんでした。それをみてお婆さんは、「若いのに気の毒やわ」とちょっと気落ちしたそうです。何か現代日本の残酷な姿を哀しく露呈しているようで、そして多くの犯罪もまた弱い者同士が互いに攻撃し合うなかで起こっているのではないかと、ますます哀しくなってきます。
西条八十作詞の童謡「かなりあ」をみなさまはご存じのことと思います。幼い日に教会のクリスマスで、華やかに灯されている電灯のなかで、彼の頭上の電灯がたったひとつだけポツンと消えていたそうです。その時におさなごころに「鳥がそろって楽しげにさえずっているなかに、ただ一羽だけさえずることを忘れた小鳥であるような感じがしみじみとしてきた」として、傷つきやすい子どもの心に希望を与えようとして、この「かなりあ」を作詞したのです。歌を忘れたカナリアも、自分の居場所を見つけることができれば、ふたたび美しい声で歌いだすのです。
童謡「金糸雀(かなりあ)」(西条八十作詞)
歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょうか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸の小藪に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょうか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思いだす
西条八十は戦時期にあって戦争歌謡を熱烈に推進しましたが(私は彼の戦争犯罪を見逃すことはできませんが)、しかし本質的には繊細な抒情をたたえた詩人であったと思います。戦前・戦時期の苛烈な天皇制支配のつらぬいている時代にあって、なお民衆の心性はなぜか共同体的なやさしさがごく自然にあったのです。乾ききった現代の精神風景と較べて、なんと常民の心はうるわしい共同性に充ちていたのでしょう。むしろこうした前近代的な心性の共同性を戦争に動員した為政者の醜い権力こそ、私たちは知らねばなりません。といったわけで以下は「かなりあ」のアレンジです。
替え歌「かなりあ」(荒木國臣作詞)
歌を忘れたカナリアは後ろの宿舎に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸のブルーテントに棄てましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアはハローワークでぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは派遣の船に炊き出しご飯
月夜の海で語り合えば 忘れた歌を思いだす
さて正当な場所と人間の関係が与えられれば、正当な怒りの声をあげられる人々はまだまだしあわせな人たちだともいえます。問題は自らに生起している事態をただ絶対的に被規定的なものとして受け容れるしかない人たちのことです。それは事態の社会的な意味がまだ理解できないおさない子どもたちです。私たちが知らなければならないのは、多くの派遣切りの犠牲者やホームレスの背後にはそれを上回る家族がおり、特に子どもたちは事態の意味するら理解し得ず、文字どおり他己責任にほかならない事態のなかを生き抜かざるを得ないのです。全米ホームレスネスセンターによれば、2005−06年のデータで150万人を超える子どもたちがホームレスとなっていると推定され、その42%は6才未満の子どもであり、多くは黒人と先住アメリカ人の子どもであり、116万人は高校を卒業できないとしています。まだ乳飲み子やよちいち歩きの多くの子どもたちがホームレスとなってさまよっているのです。他家族との同居が56%、施設収容24%、ホテル・モーテル7%で、77%が何らかの屋根の下にいますが、未収容が3%・不明10%ですからおよそ20万人が文字どおり路上生活をしています。アメリカでは50人に1人の子どもがホームレスなのです。何も分からず、何も言えない、いたいけな無垢の子どもの怒りを誰が怒らねばならないのでしょうか。もし神がいるとすれば、あまりにあまりに神の創造責任は重いといわなければなりません。
日本でも同じ事態が誘発されているに違いありませんが、いま表面化しているのは、学校の保健室を利用するしかできない医療を受診できない無保険者のこどもが急増し、学校現場が混乱していることです。政府は緊急に仮保険証を交付するそうですが、3割負担までの中学生はいいとして、10割負担となる高校生はどうなるのでしょうか。親の事情がどうであれ、病気になっても医者に行けない子どもがいることに、私はいたたまれない日本の無残さを感じます。私の怒りはここにありますが、私はなにか具体的な行動に移すでしょうか? とりあえず明日教育委員会に電話をしてみたいと思います。これがいま考えられる最低限の行動です。(2009/3/7 17:57)
名古屋市教委に電話したら担当主事が外出中ということで、次に愛知県教委に電話しましたら、健康保健課(?)に電話がつながりました。児童・生徒の無保険証の実態について聞きましたら、まだ教委としては実態を把握していない、学校保健室の統計は従来通りで個人情報の問題もあり、把握が難しい。養護教諭の部門でも実態は掴んでいない。今後調査する方向も今のところはない・・・概略は以上のことでしたが、仮保険証発行の動向についても詳しくは知らないようでした。以上は電話を通じて明らかになった現状です。これをみなさまはどのように評価されますか。(2009/3/13 11:20)
◆日本研究の衰退はなにを意味するのか?
海外研究機関で日本研究部門の衰退が相次いでいるそうです。ドイツ・マールブルグ大学日本研究所が閉鎖され、米国人の日本史学者が米国大学から任用を拒否されたり、欧米では日本研究所を中国を加えた東アジア研究所に再編する計画が大規模に進んでいます。他方で個別研究をみると、ヤクザの裏社会を調査するイスラエル人研究者や、日本のジャズ喫茶を訪問調査して異文化接触を調べたり、徳之島の闘牛とか奥飛騨の獅子舞、講談など話芸研究など多彩な活動がありますが、全体として欧米での日本研究はかっての面影はありません。危機感を覚えた日本財団は、相も変わらずジャパン・マネーを垂れ流して、オックスフォードなど英国の12大学に日本研究の講師ポストを設けるなど資金供給による他在的な支援をおこなっています。以上・朝日新聞3月6日付け夕刊参照。
ようするに日本研究が魅力的なテーマではなくなったことを直截に示しているに過ぎません。それは現代日本が世界的な研究対象の意味を失いつつあることの反映に他なりません。かっては、東アジアの奇跡とか、GDP世界第2位に躍り出て注目された”ジャパン アズ ナンバーワン”という日本モデルが虚栄の楼閣に過ぎなかったことが急速に暴露されていったのです。
その最大の要因は、日本がアングロ・サクソン・モデルつまり米国モデルの忠実なジュニア・パートナーに過ぎず、日本を研究しなくてもアメリカの忠実な再版に過ぎないことが分かってくるに従って、日本への興味も研究対象としての刺激性も失われていったからです。しかも日本の研究者も、米国への留学をキャリア・パスとして主体性を失った研究に埋没し、独自のアイデンテイテイあふれる成果と業績を打ち出せなくなったのです。世界金融恐慌を目の前にして、日本の研究者の右往左往と茫然自失ぶりは目を覆わしめるものがあり、外交においては忠実なアメリカの投票機械に頽廃し、軍事においても米軍の補完的役割を唯々諾々と果たすことに一喜一憂していることをみれば、日本研究に何の意味があるでしょう。わずかに自然科学分野の素粒子や基礎論研究で世界水準を評価されていますが、これをしも数十年前の研究であり、現代日本の研究で世界水準を領導している研究がいったいどこにあるでしょうか。思想、科学、政治、経済、社会のあらゆる分野で、日本を研究しても何の意味もないことが実証されつつあるのです。日本の哀しい現状は、成果と業績を自己評価できず、科学分野でも技術分でも、或いは音楽や美術・映画などの芸術分野でも、欧米アカデミーでの論文掲載や受賞などが唯一最高の評価基準となり、欧米他者依存でしか自らの仕事の承認を求められなくなっている貧しい現状があります。映画「おくりびと」など米国アケデミー賞を受賞しなかったら、日本映画界での評価は寒々としたものであったでしょう。自己評価能力を失った社会はクリエイテイブな仕事はできません。
逆説的に唯一の興味ある研究テーマといえば、明治維新以降の驚異的な近代化に成功した国が、なぜかくも無残に方向を見失って漂流するようになったのか、ということでしょう。特に政治世界における無残な頽廃は、目を覆わしめるものがあり、未曾有の大不況を前にして政治家がマキャベリステックな保身にあえいでいる実態は、侮蔑されるべき対象でしかありません。なるほど、ここにはなかなかの興味あるテーマが伏在しています。近代化に成功し、確たる近代的個人が形成され、民主主義が成熟しているはずの国で、なぜかくも前近代的な醜悪な政治的行為が繰りひろげられているのか。まるでそれは封建社会の村が閉鎖的な共同体をつくって派閥として君臨し、理性的政策を論じる前に血縁的共同体出身者が権力を握り、多くの民衆がその下位システムに下方的に垂直統合され、親分ー子分の関係で政治的行為が決断されていることに、唖然とするほかないでしょう。グローバルなモダン化と前近代性の奇怪な結合、奇妙な政策決定過程、そこにインテレクチュアルが権力の番人のように参画していく姿、唖然とするような全社会的イジメ現象と異様な高自殺率、出産に際して病院をたらい回しにされる妊婦、平然と老人を後期高齢者と命名する神経、正論を述べるマイノリテイへの迫害、嬉々として権力の手先となってふるまう弱者、ドメステック・ヴァイオレンスの横行・・・・ようするにこうした負の現象をしょうがないとして諦めて受け容れている心性などなど・・・・これほどに異常心理学や逸脱社会学の研究対象が満ちあふれている国はないのです。特に経済システムにおいてアッサリと米国モデルに媚びへつらって、伝統的な日本型経営の良質な部分を破棄して恥じないのか・・・興味ある研究テーマは枚挙にいとまがありません。
もっとも異常で異様なことは、マジョリテイの強者から排除され・いじめられ・迫害されているマイノリテイの弱者が、ほとんどなんの異議申し立てや抗議もせず、それは私が悪いからだという自己責任の思想に絡めとられて、羊のようにおとなしく忍従の道を歩んでいることです。さらに輪をかけて恐ろしいことは、自分より弱い層へ向けてのみ自己の攻撃的エネルギーを発揮する抑圧の移譲の蔓延です。企業では、正社員→契約社員→派遣社員→アルバイトという垂直下方のヒエラルヒーが成立し、互いに入り乱れてルサンチマンを発散し、”我が亡き後に洪水は来たれ”という心性に溺れています。1億総イジメ社会・日本の誕生がなぜ、いかにして出現したのか・・・これほどに興味あるテーマはないでしょう。
こうした現代日本の異常についての本質的な分析と解明は残念ながらありません。批判的分析は数多く垂れ流されていますが、自らも共犯者として何らかのかたちで加担している批判者は、本質的な思考を奪われ、単なる批判に自己満足して存在の証しとして免罪符を垂れ流しています。私は欧米の研究機関が日本研究から逃げていく動静は、正常な反動形成に他ならないと自省しています。日本システムの頽廃は、私たち自身の手で原理的に解明されるしかありません。もしその作業に失敗するならば、日本の明日は暗いものとなるでしょう。では私はどのように解明のちからを尽くしているでしょうか。忸怩たる牛歩の歩みですが、みなさまの批判を受けたいと思います。(2009/3/6 20:45)
◆刑務所が最後のセイフテイネットなのか!?
英国の哲学者ジェレミ・ベンサムは『パノプテイコン』(1791年)を刊行し、全展望監視システム(パンオプテイコン)という刑務所の構想を提案しました。フランスの初期の監獄建築は、獄房に収容された囚人がいつ看守に監視されているか、いないのか分からないままに、すべての方向から監視されているシステムで設計され(日本では明治村の明治期監獄展示で分かります)、ミッシェル・フーコーはこのシステムを社会全体に拡大し、日常生活から意識までを統制する現代の管理社会を告発しました。たしかにあらゆる所に監視カメラが張りめぐらされ、メールなどもチェックできる現代では、フーコーの考えが実現しているかのような恐怖を覚えます。
しかし元祖ベンサムの構想は、こうした完全監視構想ではなく、「最大多数の最大幸福」という彼の功利主義による社会全体の幸福を極大化する基準として、最底辺にある犯罪者や貧困者の幸福を底上げするものとして、収容者の福祉と運営の効率性が両立する刑務所モデルを考えたのです。それは最も少ない運営者が最も多い収容者を監督するものであり、収容者は職業選択の自由があり、刑期終了後も社会復帰のために身体の安全が確保されるまでこの施設で働くことができるとされました。パノプテイコンは単なる刑務所ではなく、社会に不幸をもたらす犯罪者を自力更生させる教育・改造システムとして構想されたのです。これは革命直後の新中国での労働しながらの学習という刑務所理念を思いおこさせます。
このようにベンサムのパノプテイコン構想は、社会全体の幸福を極大化するための最低レベルの基準として刑務所が考えられたのですが、驚いたことに現在の日本は刑務所が最後のセイフテイネットとしての機能を実質的に果たそうとしています。日本の刑務所は平日8時間の刑務作業と土・日の休日からなりたっており、平日のスケジュールは次のようになっています。
6:40ー 7:50 起床・朝食
7:50−10:00 刑務作業
10:00ー10:15 休憩
10:15−12:00 刑務作業
12:00ー12:40 昼食・休憩
12:40−14:15 刑務作業
14:15−14:30 休憩
14:30−16:30 刑務作業
16:30−21:00 夕食・休憩
21:00 就寝
この日程は非常に厳格であり、遅刻は許されず、軍隊式の時間管理で進行し、移動時は掛け声で行進し、労働時間も8時間で一切残業はありません。こうした規則正しい生活はかえって身体によく、不健康だった人が出獄時に元気になって出て行きます。衣類はすべて皆同じ服ですが、無料で支給され、食事は昔の学校給食を麦で混ぜたようなご飯(米70%・麦30%の栄養本意)ですが、材料費は1日530円程度です。安いようですが受刑者自身が料理するために人件費がかからず、530円でも立派な食事になります。小学校の給食が250円程度ですから、同じくらいの内容です。昔は「臭い飯」といいましたが、現在はまったく違います。スパゲテイー、ハンバーグ、サラダ、カレーなどメニューも豊富で病人には特別食がでます。A−C食に分かれ、健康・体重・作業内容によって決まります。1日1人当たりのカロリーは、A食1,600i・B食1,300i・C食1,200iとなっています(成人男性標準は2,200iですから少なめです)。私物制限は2006年法改正で、日用品や雑誌などの所持制限はなくなり、新聞購読も可能となっています。
さて皆さん、こうした刑務所の処遇基準は、現在の生活保護基準を大きく上回るばかりか、特養老人ホームの基準をも上回っています。刑務所では、夏場の入浴は週3−4回の入浴日があるのですが、特養老人ホームの入浴は週2回なのです。こうして現代日本の刑務所は、3度の食事、風呂、健康診断が保障され、少なくとも路上生活者の生活条件をはるかに上回っています。かって老人福祉の分野で、「刑務所の数ほど入浴を!」というスローガンで待遇改善の要求が起こりましたが、少なくとも現在の老人福祉や介護は刑務所の最低基準をも下回っているのです。
刑務所基準が次第に上昇していることは、生存権保障が堀の中まで浸透していることを物語っていますが、堀の外では社会保障と福祉の民営化によって、逆に生存権が無残に御脅かされ、セイフテイネットが崩壊しつつあることを示しています。塀の外で繰り広がれている一般社会の運営システムが、市場ファンダメンタリズムによっていかに歪められ、人間の最低限の尊厳が蹂躙されているかを示しているのです。これをしも異常と見ずして、何を異常と見るのでしょうか。私たちの意識は、市場ファンダメンタリズムの自己責任思想のもとで、ごく普通の生存権思想すら薄らいで競争原理に飲みこまれ、社会的弱者と敗者を排除しているのです。健常な生活が刑務所の中で実現され、逆に刑務所の外の市民社会が死屍紛々たる腐臭を放つ社会となっているのです。これこそ、フーコーが警告した究極のパノプテイコン社会ではないでしょうか。(2009/3/5 19:34)
◆ステイグマからの解放について
ホロコースト犠牲者の第2世代の動向を考えます。サラ・ロイ(54 ハーバード大学中等研究所上級研究員))は、強制収容所から奇跡的に生還し、戦後に米国へ移住した両親にもとに生まれます。敬虔なユダヤ教徒の家庭で、東欧系ユダヤ人の言語であるイデイッシュ語のもとで成長しました。イスラエルの友だちは、「ホロコーストで犠牲になった同胞は弱かったからだ。我々は二度と虐殺されない」と異口同音に話しました。彼女の生き残った叔母は「安全な場所はユダヤ国家しかない」とイスラエルへ移住しましたが、両親は「ユダヤ人だけの世界では生きたくない」と米国に留まっています。彼女が85年に調査に行ったガザで、驢馬を引くパレスチナの老人にイスラエル兵が驢馬の尻へのキスを強要した時に、老人が屈辱にまみれながら従ったのを見て衝撃を受けました。支配は人を辱め、絶望させ、人間性を奪い尽くすのだ、両親が収容所で体験した同じことがパレスチナで繰り返されていることをみて、彼女はイスラエル政府批判を信念とするようになりました。
究極の社会的排除を我が身に刻印されたユダヤ人たちの戦後は、ステイグマからの解放の方途を典型的に象徴しています。いましも背後のFM放送から、シューベルトのやさしい子守歌の独唱が流れてきます。母親の愛情に包まれたウットリするような歌です。しかしこの作曲者の末裔である民族は、我が家の夜のとばりの中で「♪眠れよい子よー」と包み込むような愛情をふりそそぎながら、水晶の夜をすごし、イエスの敵を強制収容所のガス室に送ったのです。ユダヤ民族は2000年をデイアスポラとして生き抜きながら、ショワーの惨劇をくぐり抜けてきたのです。美しい子守歌のやすらぎとデスパレートな20世紀の歴史のめくるめくような非対称性をこれほどに体現している民族はないでしょう。
しかし時にステイグマは聖なる体験となって、強力な自己防衛と他者攻撃へと逆転する様を私たちはみてまいりました。ステイグマは深いルサンチマンとなって堆積し、抑圧された被虐が奔流のように吹き出して攻撃性へと転化するのです。現在のイスラエル・シオニズムの異常とも思える過剰な自己防衛とガザ攻撃はそのような人間心理の重層性を示しているようにも思うのです。ところがサラ・ロイやハンナ・アーレントなどのユダヤ系米国人の存在は、第3の道を求めるユダヤ人の別の潮流が確かに存在していることを告げています。サラ・ロイは「両親から受け継いだのは、ユダヤ人の精神です。寛容、共感、人の救済、そして真実を見極め、発言し続けることです。ユダヤ人であることとイスラエルを批判することは矛盾しないのです」と述べます。以上・朝日新聞3月5日付け朝刊参照。
昨日ふとTVをかけましたら、ハリソン・フォードが主演する『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985年 アメリカ)という映画が流れていましたので、つい引き込まれてみてしまいました。そこでは私が詳しく知らなかったアーミッシュの世界が描かれていました。アーミッシュとは、スイスから移住してきた米国ペンシルヴァニアやオハイオ州に暮らすキリスト教原理主義のグループで20万人ほどいるとされます。彼らは電気や電話その他の現代技術を拒み、前近代と同様の生活様式を基本に大家族の自給自足生活を送っています。深く互助的なコミュニテイを形成し、移動手段は馬車で、服装も色つきの物は避け、洗濯物を見るだけでアーミッシュかどうか分かるそうです。映画では観光客がバスでアーミッシュ村を物珍しげに訪問し、写真撮影を拒否されて住民を侮辱するシーンが写っていました。ハリソン・フォード演じる逃亡者がかくまわれて、未亡人と恋愛するのですが、実際に共同体外部の人と結婚することは皆無だそうです。20歳になるとアーミッシュをそのまま続けるかどうか選択できますが、現在でも皆無だそうです。彼らは日常語としてはスイスで使用されている古典ドイツ語を使用し、英語は外部との接触の時にのみ使う第2言語です。
こうしたマイノリテイ文化が差別や偏見を受けつつも、それなりに生存を保証され、文化の多様性が息づいている米国の独特の構造に改めて驚くのですが、一方では激戦の大統領選挙では共和党を支持してペンシルバニアでのブッシュ勝利に貢献したというのですから、単純ではありません。宗教原理主義が保守主義と結びつくという構造は、ユダヤ原理主義がシオニズムとなるのと共通しており、暗然たるものがあります。
かって日本では「イエスの箱船」と称する共同生活をするキリスト教的なマイノリテイ・グループがあり、若い女性たちがバーのウエイトレスをしながら信仰生活をする様が奇異の目を集め、メデイアと警察権力がよってたかってバッシングしたことがありました。別の視点からみれば、あの新興宗教の教祖は類い希なるオルガナイザーの才能を持っていたともいえ、日本での信教の自由の水準を露わにしたのですが。
さて米国におけるアーミッシュのあり方は、パレスチナとイスラエルの共生のある可能性を告げているような気がします。おそらくサラ・ロイは、米国生活を通じて自らの属する民族の将来の可能な将来を見いだそうとしているのではないでしょうか。それは米国でのユダヤ・ロビーがブッシュの戦争を強力に推進する勢力となっているのとは対極にある選択です。おそらく米国ユダヤ系社会でもマイナーな立場ではないでしょうか。彼女がこうした自己の立ち位置を公然と表し得るのは、アカデミズムの世界で出自を克服するような研究者としての社会的承認を得ているという条件があるのも事実でしょう。
深い傷を刻印された被害の人が、生きのびた後にどのような一歩を歩み出そうとするのか、その後継世代が経験をどのように継承していくのか、ここに人間や民族の高貴と悲惨の凝縮された姿があるように思います。問題はステイグマを強いる経験しかない者たちが、アレコレと語ろうとする厚顔の無知について、特に日本は注意しなければならないということです。加虐の最高責任者を断罪しないままに、今に至っても君臨を許している日本、被虐の救済を冷酷に足蹴にして拒んでいる日本、国内にあって数え切れないほどのマイノリテイへの迫害を影で積み重ねてきている日本、いったいこのどこにイスラエルを批判する資格と権能があるといえるでしょうか。ステイグマからの解放の方途を試されているのは、この日本という国に他なりません。(2009/3/5 11:04)
◆短詩型抒情の惨めな哀れさについて
岡井隆という歌人はかって、「文学であるならば天皇制とむすびついた国家権力に守られたくない。民衆の下からのエネルギーで守られてこそ、その資格があるのではないか」(『短歌研究』1959年)と高らかに宣言して、前衛歌人として華々しくデビューしましたが、いつのまにか宮中歌会始の選者に就任し、「昭和から平成に替わって天皇家の象徴性は昔ほどではなくなっていると思います。同時代に反権力を歌った歌人たちが選者になる日は遠くなく、私はそれをとても望んでいます」(朝日新聞 1992年9月4日)と無残な転向を遂げてしまいました。日本人300万人とアジア人2000万人を死に至らしめた戦争の最高指導者のファミリーのために、彼は歌を捧げるまでになったのです。彼は自らの歌詠をささえる思想的基軸の転換をどのように自己弁護しているのでしょうか。最新の詠歌からみてみましょう(『短歌』2009年2月号巻頭30首「2009年年賀ののちに」)。
かぎりなく幹かさなりて杜となる そのま中なる御製しずかに
長官のよどみなき声去年も聞き 今年もきけば榮ゆる様式
第1首では自分は天皇制のために歌うのではなく、ただ天皇個人の人間としての歌に共感しているのだーと主張がうかがえます。かっての日本浪漫派のように、まるごと天皇制美学を讃美するのではない自律性が担保されているようにみえます。かって多くの戦争歌人がこのように、芸術の自律性の名において、民衆の前で歌おうと王の前で歌おうと私の歌は歌として自立しているのだと弁護しましたが、岡井氏の歌にもそうした傾向がうかがえます。しかしそれが虚偽に他ならないことが第2首で自己暴露されています。
第2首では天皇制の宮中行事が伝統美として聖化され、岡井氏の美意識が天皇制の様式美に包摂されてしまったことを示し、もはや日本浪漫派と本質的に通底する抒情の頽廃に到っていることが露呈されています。少なくともかって権力と呼んだ枠組みと対峙して自律を担保しようという姿勢は喪失しています。こうした彼の思想と抒情の頽廃は、個人詠において際だった人間の解体となって表れます。
人間の思想は断想の集合だ 自衛隊がまだ軍でないように
断想がアフォリズムまでゆく時と 陶土のやうにくだけるときと
もし思想がときどきにフト思うような断片の集合であれば、それはもはや思想ではなく卑近でプラグマテックなゆきあたりばったりの感想でしかないでしょう。しかも軍として公認されない自衛隊を哀れみの対象としてみる社会認識の原始的貧困と一体となっているところに、彼の歌はある危険へと踏みだしています。第2首をみれば、せいぜい彼にとっては断片的な想いがアフォリズム(警句、箴言)にまで高まればいいのであって、それは思想はおろか、多くは陶土のように砕け散るものにすぎないと卑しめています。ここには彼の外界と対象への認識が拡散してしまい、統一的な分析の視角が失われていることが示されています。天皇制に無限に屈従していく自己を省察する思考の条件すらがもはや崩れているのです。いったん座標軸を失って魂を売り渡した者の精神の痛ましいほどの自己崩壊が露呈されています。
おそらくかって前衛歌人と自称した少なからぬ人が同じような無残な道行きをともにするでしょう。なぜなら歌壇の構造的特質は、宮中歌会始を頂点にした垂直的なヒエラルヒーにあり、そこから排除されることは短歌世界そのものからアウトサイダーになることを意味するからです。これはそうとうに勇気のいることであり、まさに自己の「思想」が権力の前にあって試されるからです。たとえば第1歌集『無援の抒情』で全共闘世代の苦悩をうたってデビューした道浦母都子は、「自らの内なる天皇制とたたかうためにも昭和の終焉の作品化を決意した」(同書まえがき)はずですが、いまや皇太子成婚に祝意を表するまでに天皇制に接近しています(朝日新聞 1993年6月10日)。
ようするにこれらの歌人にとっては、思想とは生き方そのものの基本を決めるような原理的なものではなく、移りゆく時勢にみずからを適当にフィットさせる断片の集合でしかなく、ある立場から別の立場に移行することになんの痛みもともなわず、いわんや身を切るような転向の痛みなどという感性は想像だにできないのです。彼らの歌詠は帰するところ詠出の技術主義によるしかなく、きらびやかで錯綜した技術を駆使して他を圧倒するほかにないのです。ここに、自閉した述懐か、奇怪な妖しいニヒルな美の世界が誕生するのですが、それはもはや極限までゆがんだ人間の呪詛でしかありません。
桑原武夫・小野十三郎・金石範氏などは、この頽廃を短詩型抒情そのものの本質として激しく批判しましたが、彼らは戦争歌人の転向と戦争歌詠の悲惨を身をもって体験したからに他なりません。彼らは短歌を芸術世界から追放しようとしましたが、私はそこまで短歌的抒情を否定するにはなお逡巡します。たとえば次の栗木京子氏の作詠をみてください。
軍装の天皇在らぬ国に生れ 老いてゆくなり糟汁温し
同じ天皇制を歌っても岡井氏の詠とは対極にある抒情がかもしだされています。すると問題は抒情の背後にある人間と世界への認識そのものにあるといえるでしょう。それこそ思想に他なりませんが、おそらくほんものの思想は生き方への自己省察として人間をとらえ、偽物の思想はプラグマテックな試行錯誤の無残に堕していくのです。とくに表現技術が独立変数として芸術市場を支配している現在にあって、ほんものの思想を内在して発展させていくことの困難を岡井・道浦両氏の半生は示していますが、その点では彼らもある意味では交換価値が支配する芸術市場の犠牲者といえるかもしれません。しかしやはり芸術が芸術であるためには、交換価値に魂を売ってはならず、水に落ちた犬を叩かなければならないのです。(2009/2/27 9:32)
◆学の哀れむべき頽廃について
米国発大不況は、シカゴ学派の市場ファンダメンタリズムの理論的破産と終焉を告げ、経済学からの歴史的撤退を余儀なくされています。我が世の春を謳いあげた幼稚極まる理論は、冷酷な現実のしっぺ返しにあって破産を宣告されたのです。いまあれほどに隆盛を誇ったシカゴ学派の日本的亜流は、自らの理論的破綻に直面して、どのようにふるまっているのでしょうか。云うまでもなく、日本では竹中平蔵氏や中谷巌氏などが小泉構造改革を支える理論チームであったのですが、自らの理論的破綻を告げる世界大不況を前に、どのようにふるまっているかを検証したいと思います。概括的に類型化すると、現実の事態を前に自らの理論の敗北を認めてアッサリと転向する者と、理論を湖塗してあくまで現実を操作する者、そしてかっての大合唱への参画を隠蔽して沈黙する勢力に分化しているように思われます。
市場原理主義の敗北への加担を認めてアッサリと転向したのが中谷巌氏ですが、このあまりの変身と転進には云うべき言葉もありません。自らの理論的破産を潔く認める点では評価できないではありませんが、理論責任の感覚がゼロなのです。自らの理論の誤謬が惨憺たる現実を招来したにもかかわらず、理論の政策責任への苦衷がほとんどなく、誠実な自己審判もありません。ここに露呈されているのは、日本の理論研究のおそるべき無責任のシステムのほか何者でもありません。芸術家の高村光太郎は、太平洋戦争への加担を恥じて東北の寒村へ蟄居しましたが、中谷氏にはそのような誠実な自己省察はありません。
しかし中谷氏は自らの誤謬を率直に披瀝する点では高校生的な誠実さはあるように思います。救いがたいのは、現実の実証を無視して頑迷に自らの理論的正統性を維持しようとしている者たちです。こうした人たちは現実の前で敗北し、破産した自らの理論の誤謬を自省する能力すらない、つまり理論能力のなさを暴露しているにもかかわらず、みずからの知性の貧困に無自覚であるばかりか、相変わらずルーテインをオウム返しに繰り返す人格そのものの破綻を示していると云えるでしょう。その典型的人物が労働経済学者を自称する島田晴雄氏に他なりませんが、ここでは彼の主張に耳を傾けてみましょう(朝日新聞 2月8日付け朝刊)。彼が労働経済学専攻であることに殊の外注意してください。
「企業は環境変化に対応し、必死に生きのびるために雇用調整を急ぐのであって、その経営判断はまったく適切だ。・・・非正社員が真っ先に雇用調整の対象になるのは気の毒だと思う。国際競争の中でコスト競争を強いられる企業にとって、非正規社員の存在は経営の柔軟性を確保するために欠かせない。内部留保を雇用維持に使えば企業の成長性が疑われ株価は下がってしまう。雇用は生産の派生需要に過ぎない。企業の最大の社会的使命は生産性を上げて競争に勝つことだ。・・・雇用問題の矛先を企業に向けることは筋違いで、法人税引き下げや海外投資を招く環境整備など政府の怠慢は目を覆うばかりだ」
非正規労働を経営の必然とみなす論者の議論をひととおりみてみましょう。
「危機が深化するときは、内なる敵を直視しなければならない。最近マルクス主義や社会主義を再評価する意見があるが、統制経済による腐敗と破綻の結果を我々は充分に知っている。世の中が全員聖人君子であればよいが、人間は時に愚かで強欲になる弱い存在であり、その人間が社会をどうにか運営する方法として市場経済システムが生まれた。市場の失敗がいかに酷くても市場経済を放棄することはできない。危機の原因を米国主導のグローバル経済や新自由主義、途上国労働など外国を悪者にする意見は注意が必要だ。外国を排除して国内を守る保護主義は、世界貿易を縮小させ、国内雇用をさらに悪化させるだけだ」(小林慶一郎 朝日新聞 2月26日)
「派遣切りは経営の安定を確保しようとする必死の努力の姿であって、日本企業は国内での生産拠点を確保することができるのであり、派遣禁止は大きな間違いだ。内部留保は景気変動に伴う資金需要変化に対応する唯一の手段であり、雇用対策には使えない」(長谷川慶太郎『Will』3月号)
「派遣契約が更新されないことまで企業責任にするのは行き過ぎだ。非正規も雇用保険事業を積極的に活用すべきであり、規制緩和を悪とするのは単純な議論であり、労働規制を98年以前に戻しても非正規雇用問題は解決しない。農業・医療・介護分野で雇用は開拓できる」(八代尚宏『中央公論』3月号)
「正社員の既得権益も考え直すべきで、究極の解決策は全員を非正規雇用にしてしまえばいい。派遣切りの原因は共産党が3年後にはみんな正社員にすべきだと主張したのが原因で、彼らは首を切られた人を活動に駆り出している」(城繁幸『中央公論』3月号)
ウワー!ここまで企業の太鼓持ちに堕するのか!というのが率直な実感なのですが、いったい彼は企業の社会的責任という公共性が分かっていないというか、あまりの無知に絶句してしまいます。ある商品を生産するのはまず使用価値の生産(社会的欲求に応える)であって、次いで市場の交換価値が生まれるという経済学の初歩がないのです。企業の存立は経営と労働力の相補的な契約で成立するのであり、経営の論理が排他的に優先するのではないことは、労働基本権を自然権として承認してきた近代社会の初歩的な前提条件であったのです。市場原理とは経営にとっての原理であり、放置すれば強者や悪者が蹂躙するというのは、アダム・スミスでも認めていることに他ならない。おそらく島田氏やその他の労働経済学とは、労働力の経営への効率的参入を極大化する方法論に過ぎないのでしょう。ここには労働の尊厳とか権原性は露ほどもなく、おそらく彼らは奴隷労働こそ労働力の理想的存在形態とみるのでしょう。しかしここまでアケスケに云われると、労働経済学の頽廃性が自己暴露されており、この分野の研究者の寒々しい心境とそれ以前の人格的な崩壊を思えば哀れとしか云いようがありません。要するに彼は経済活動を人間的活動の一つとして見るのではなく、貨幣物神の至高性でみる能力しかないのです。竹中平蔵氏も同じ穴のムジナなのですが、さすがにここまで破廉恥な言い方はしません。経営者にあっても次のように言う人がいるのです。
「利益が減ってもいいじゃない。それで株が下がってもいいじゃないですか。ある程度の給料支払ってある程度のボーナス出して、含み利益なんかある程度吐き出してもいいじゃないですかーという判断力だと思いますよ。少なくとも雇用の問題は国の責任だと思っている大企業の経営者がいたら、ビンタですよ」(前田勝之助・東レ名誉会長 『BOSS』3月号)
市場ファンダメンタリストの厚顔無恥に対比して、社会的経済を主張してきた内橋克人氏の主張をみてみましょう(朝日新聞 09年2月23日)。
「日本は一番大切なものを失った。人間の尊厳と経済の自律的回復力は、過剰な外需依存と格差拡大でいびつな不均衡国家となってしまった。グローバル化に対応するのでなく適応することばかり考え、グローバルズ(日本型多国籍企業)に政策支援を集中させたからだ。雇われている人数である雇用指数はほんらいは景気よりやや遅れて動く遅行指数とされてきたが、いまや景気の先行きを示す先行指数となった。過去30年に及ぶ新自由主義は、学者(シカゴ学派)とメデイアを動員し、働き方の多様化ではなく働かせ方の多様化を推進してきた。日本人は時流に乗る熱狂的等質化の傾向が強く、強い者に弱く弱い者に強いという特性があって、少数の異議申し立て派を排除してきた。公共の意識も弱く、公共の企業化の本質を見抜けなかった。世界GDPは54兆ドル(5千兆円)だが、金融市場を暴走するマッドマネーは540兆ドルといわれ、虚のマネーが実体経済を振りまわして制御不能となった。競争原理は分断して対立を煽って競争させる。私は差別や身売りがあって生存権を奪われていた江戸時代の古き良き日本を復活させよと云っているのではない。連帯・参加・協同を原理として、F(食料)・E(エネルギー)・C(ケア)などの基本的生存権を戦略産業とするFEC自給圏を提唱する」
さて皆さんはどちらに共感しますか。私は内橋氏のFEC自給経済圏を基本的に支持しますが、それ以前に内橋氏の発想が原理的にデイーセント・ワークを基礎に置いたヒューマニテイを感じるからです。しかし両者は資本主義の暴走と統制をめぐって対立しているのであって、資本主義そのものの再審を呼びかけているわけではありません。ここが実は相当に重要であるのです。日本はいま経済システムの選択を問う決定的な選択の局面にあるといえましょう。さなくば日本列島は冬景色のまま凍死してしまうに違いありません(次は石川さゆり「津軽海峡冬景色」の替え歌です)。
アメリカ発の金融危機起きた時から
日本列島は 霧のなか
期待される経済対策なにもなく
支持率だけがおちていく
わたしは辞めない 替わる人もいない
漫画オタク 漢字読めない 何が悪いか
あーあー 日本列島冬景色
ごらんあれも二世議員 出来が悪いと
多くの人が指をさす
思いつきで補正予算 出してみたけど
身内に けちをつけられる
解散はしない 私はつづけたい
友だちまで足を引っ張る
辞めろとばかりに
あーあー 日本列島冬景色
(2009/2/25 16:37)
付記)中谷巌氏の懺悔に対する本格的な批評がありますので紹介します(二宮厚美 『経済』163号)。
現在の世界恐慌は新自由主義の失敗ではなく、成功の帰結であり、没落に向かう弁証法の帰結である。新自由主義がネオ・リベラリズムと呼ばれるのは、@ほんらいのリベラルは市場への公共介入による社会改良を意味したが、1930年代からこの意味が変わった、A公共介入の性格が古典的自由主義から変わったことにあり、新自由主義=市場原理主義ではない。市場原理は世界の市民を同じ市民関係に置くが、資本原理はその市民関係を階級支配関係に切り裂くのであり、ここに資本主義的市場原理の二重性がある。古典的自由主義では絶対王政や重商主義に制約を突破しようとし、現代の新自由主義は福祉国家による市場介入を排除しようとする。戦後日本では、@福祉国家的人権(生存権、労働権)による市場介入排除(憲法25条)A国民国家主権による市場のグローバル展開規制の排除(憲法9条)として展開した。
中谷巌の転向の理由はグローバル資本主義の@世界金融経済の不安定化A格差拡大機能内蔵B地球環境汚染加速にあるが、その懺悔は自らの理論的自己批判と謝罪がない。これは、新自由主義が市場原理に対する物神崇拝という宗教的信仰イデオロギーに他ならない(善悪をすべて市場に任せる市場フェテイシズム 社会科学ではなく信仰))ことを示している。中谷型新自由主義批判論は、@一神教的市場万能論→多神教的市場の限界論(K・ポラニー)Aエリートが大衆を搾取するための道具という2点にある。
では新自由主義はなぜこうした特質を持つようになったのか(中谷氏の説明)。一神教的市場偏向から多神教的市場へ。
@市場原理の行き過ぎ論(モラルハザード 社会の劣化)
A欧米型階級社会論に適合的な理論であって日本型社会には適合しない
B欧米型階級に適合的な市場原理のグローバル化によって世界規模のエリート支配を誘発した
市場王国からの脱出方向について。
@社会主義的唯物論かA多神教的共同体社会か Aが中谷氏(*キューバ、ブータンの共同体的価値観)→日本的伝統論への回帰
中谷式懺悔論批判
@日本を非欧米型平等・均質社会といsて過去の日本資本主義を美化する復古主義的文化論に向かう
A市場フェテイシズムからの転換であって資本そのものを原理的批判の対象としない
資本フェテイシズムとしての新自由主義イデオロギーの特徴
マルクス『資本論』における資本循環の3形態論
@G・・・・G`(貨幣資本循環) これを独立させると重金主義、重商主義、新自由主義
AP・・・・P(生産資本循環) これを「独立させると古典派
BW`・・・・W`(商品資本循環) コレを独立させると重農主義(ケネー)
→新自由主義は@に規定された資本イデオロギー
@)市場原理で意味を持つのはGーWーG`(G+g)であり、主人公はGとWのみである
A)GーWーG`にもっとも近似的な資本循環はGーW・・・P・・・W`ーG`
→G・・・G`の貨幣資本循環に呪縛された新自由主義のイデオロギー的特質
@G・・・G`ではG`>Gが至上命令となる=交換価値が至上の自己目的価値となる→利子生み資本を中心に据える金融主導型蓄積に向かう
→中谷氏はG・・・G`循環からP・・・P`循環へ資本運動の基軸を転換させる(日本的勤労観、共同的・自然との調和)
→しかしP・・・P`の資本主義的形態を捨象する一面性(日本的経営、商人道などの超階級理論)
AG・・・G`の中間項はすべて価値増殖のためのコストとみなされる(総人件費圧縮、小さな政府)
BG・・・G`はW`・・・W`の社会的総資本の絡み合いを捨象(生産と消費の関連) *ケインズ主義は一定のW・・・W`を配慮(Wが資本財として流通するか消費財として流通するか)
→新自由主義は賃金をコストとしてのみ扱い、賃金が消費需要としてPへの誘発効果を持つことを捨象する
新自由主義は社会保障(福祉国家)をコストとしてのみ扱い、市場における需要喚起効果をみない
→[金融資本の過剰蓄積+賃金・社会保障圧縮]→市場における消費需要圧縮→[過剰資本×過剰消費]=資本循環論からみた新自由主義の帰結=現代世界恐慌
→現代世界恐慌は新自由主義による資本主義の究極の姿が勝利したことの逆説的証明に他ならない
コメント)
二宮氏は中谷氏の懺悔論を宗教的転向としてその限界を批判し、自己自身の理論的破産を含む理論再構築に向かうのでなく、日本文化論によるプラグマテックな刷新に過ぎないと批判しています。理論の自己批判と社会的謝罪を求めていますが、私はむしろ中谷氏の懺悔における日本型無責任の問題を重視したいと思います。中谷氏は自らの誤謬の政策によって、日本を決定的に劣化させた政策責任の倫理的責任について、決定的に鈍感なのです。これが戦争政策の指導であれば、致命的な作戦指導の失敗によって祖国を敗北に導いたわけですから、戦争史どう責任は自己自身の社会的断罪と位置からの撤退は最低のとるべき方法ですが、泣いて土下座して懺悔すれば過去の罪は許されて、依然として社会的位置を保持し得るとしています。ここに社会的ふるまいに関する決定的な日本型無責任思想があります。懺悔論における無責任思想は、アジア・太平洋戦争期の日本に象徴的に示されましたが、21世紀の現代においても亡霊のようにあらわれているのです。この問題を原理的に批判した上で、中谷氏の理論転向への批判に進むべきであったと思います。(2009/3/15 10:55)
◆陰膳
陰膳とは「旅などに出た人の安全を祈って、留守宅で用意して供える食膳」(『広辞苑』)をいいます。おそらく昔の日本では、ひとたび居居から離れて遠くに旅に出ることは、帰還を約束できない至難の業であったに違いありません。しかも近しい人との共生の証しがおそらく、食事を伴にすることにあったことを意味しています。こうした日本語を国語辞典にひっそりと収める新村出はなんという博識でしょう。感嘆のほかありません。
戦時期にある娘が結婚し、夫が新婚早々と中国戦線に出征したあとに、毎夕食に戦地の夫へ陰膳を据えていた。今は亡き女の姉からいつかその話を聞いた時に、なにか胸つまるような気持ちになりました。いったい幾夜の夕べを女は陰膳をともにしたのでしょうか。田舎屋の薄暗いランプの台所のもとで、舅・姑との3人の静寂の夕食を妻はひたすらに夫の生還を祈って、陰膳を捧げていたのでしょう。すでに子を孕んでいた女は、夫との出征の別れのときに、「ダルマになってもいいからもどってきてね」といったそうだ。私は大正生まれの若くして嫁いだ娘の、精一杯のけなげさを感じるのです。おそらく女は、残された家を守るために、薄暗い夜明けに起き、田んぼ仕事に精だしながら一心に戦地の夫を思い、身を刻むような生活をおくったに違いありません。女は子を出産し、子が3歳の時に、当時では結核という不治の病にかかり、実家へ帰って療養することになりましたが、病は癒えずこの世を去りました。遠い戦地にある夫を想い、婚家にある子を思んばかって、女の胸ははり裂けんばかりの哀しみに包まれていたことでしょう。結核がわが子に伝染することを恐れて、女は実家に帰されてしまったのです。
ある時息子は婚家の祖父の背に背負われて、自転車ではるか遠い母の実家にたずねていったことをかすかに覚えています。亡き女の姉によれば、母はたずねてきたわが子に、部屋を隔てて「これがお乳よ」といって胸をはだけながら乳房を息子に示したそうです。この記憶は息子にはないのですが、帰り道におそらく、息子はオモチャ屋で泣きながら機関車の模型を祖父にねだり、家に帰って冷やかされたことは今でもあざやかに想い起こします。女は無念のうちに、まもなく死にました。おそらく戦時中ですから、葬儀はひっそりとしめやかに営まれたことでしょうが、息子には母の葬儀の記憶はまったくないのです。
戦さはやみ、男はいのちながらえて故郷へ帰還しました。息子はよく知らないのですが、何の事情か、父はまっすぐに我が家に帰ることができず、遠くの親戚の家に一時身を隠して、故郷へ帰ってきたそうです。男はここで打ちひしがれるような体験をしたのです。戦争の末期にあって、戦地との郵便は途絶え、男は妻の死を知らないままに、我が家の玄関に立ったのです。我が家にたどりついた歓喜とともに、男は妻の死を知らされることとなったのです。この時の男の驚愕と喪失感はいかばかりであったでしょう。
男はこれらの話をひとことも息子にもらすことなく、すい臓癌で悶え苦しんでこの世を去りました。実を云えば、息子は父の戦後の生き方に幾ばくかの疑問をもっています。男は自らの戦時体験と妻の死について、わが子になにも語ることなく沈黙のままに逝きましたが、やはりいかに辛いといえようと、何らかのかたちで次世代に伝えるべきであったのではないかと思うのです。しかしこれはこの男ばかりでなく、多くの戦時体験を持つ世代の戦後の生き方ではありました。多くの未曾有の希有の体験はこうして、語り継がれることなく、日本の戦後は過ぎていったのです。
男は再婚して新たな家庭を築き、息子もその一員として、おそらく普通の中間階層として成長を遂げ、いまは父と同じような職業に就き、現在に至っています。息子のたった1人の息子(男の孫)も、なんとか一人前に成長し、東京で忙しいサラリーマン生活をおくっていますが、おそらく平穏な中間階層としての戦後のどこにでもある家族の風景ではありましょう。しかしこの息子ですら、自己の半生について息子に語ったことは一回もないのです。息子は今にしてつくづくと思うのです。どのような家族の営みであれ、不在の家族を想う陰膳というスタイルは現在の日本からは姿を消してしまい、今は遠い失われた慣習の一つになったのではないでしょうか。
云うまでもなく男は私の父であり、妻は母に他なりません。陰膳は、広辞苑の淡々とした定義の背後にある、それぞれの家族の生活に込められた絆のあまりに豊かな具体を象徴しているような気がします。これを前近代の家族のありようを示す儀礼と解釈することもできるでしょうが、私は婚姻関係にある男女の引き裂かれた愛情の姿であると同時に、家族の継承を願う悲痛なふるまいであるように思うのです。有名と無名を問わず、家族の統合を願う民俗的行為として私はせっぱ詰まった哀しいまでの激情を覚えるのです。
いまや家族の食事風景は孤食へと解体し、かって日常の風景であった食卓を囲む家族の風景は姿を消していっています。私は、ノスタルジックに懐旧の念を込めてふり返るものではありませんが、それにしても孤食が常態化する風景の背後には荒涼たる人間そのものの解体がひろがっているように思えてなりません。清川妙という作家は『枕草子』の一節を引いて親の愛情について記しています。
「親などのかなしうする子は、目立て耳立てられて、いたはしうこそおぼゆれ」(親などがかわいがる子どもは周囲から注目され、大切にされる)
彼女は聾者として生まれたわが子に全身全霊の愛情を注ぎ、豊かに成長した息子のすい臓癌での逝去を偲んで親の愛情を書き、幼時に親から愛を充分に受けて育った子は、内的資源を持ち、自然豊かな環境で育った子どもも豊かな内的資源をもつとし、まさにわが子においてそうであったといっています。この作家の想像力は残念ながらここでとどまるのです。パレスチナやイラク、アフガンのいくさのさなかに埋めれている孤児には、どのようにして内的資源が育つのか、アジアやアフリカの人身売買で親から売られて児童労働や児童売春で生きることしかないこどもたちにとっての豊かな内的資源とは何かーといった想像力が欠落しているのです。いや先進国の子どもたちでさえ、陰惨な児童虐待の被害を受けている子どもたちや、競争のなかでしか互いにまなざしをかわさないソフトな悲惨を彼女はどう考えるのでしょうか。親の愛情さえ自閉してゆがんだ方向でこどもたちを包み込もうとし、内的資源が極端にゆがんでいっている実情をどう考えているのでしょうか。陰膳の民俗はもはやなく、たとえあったとしてもその方向すらミーイズムの危うさを帯びる現代の荒廃が広がっています。(2009/2/18 20:00)
◆原爆の夏 遠い日の少年
たまたまTVを観ていたら、なにか引きこまれるような番組でした。米兵ジョー・オダネル軍曹は、敗戦直後に米国空爆調査団公式カメラマンとして長崎に入り、数千コマにのぼる原爆の惨状を撮影しましたが、検閲を逃れてそのネガは現像されることなく、戦後はホワイトハウスのカメラマンとして歴代大統領を撮影してきました。彼を一躍有名にした写真は、射殺されたケネデイ大統領の遺骸に敬礼する息子の姿でした。しかし彼は、米軍のイラク攻撃とスミソニアン博物館でのエノラ・ゲイの一般公開に触発されて、被爆直後の写真の公開に踏み切ったそうです。歴史の証言となる幾つかの写真が登場しますが、私がくぎづけとなったのは、一人の少年が頭を垂れた子どもを背負って直立不動で屹立しているものでした。少年の表情はキッと前方を見つめ、泣くのを必死に我慢しているように唇をかみしめて立っています。オダネル氏は次のようにコメントしています。
佐世保から長崎に入った私は小高い丘から下を眺めていました。すると白いマスクをした男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業していました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかしこの少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちにまでくると、硬い表情で立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたでしょうか? 白いマスクの男たちがおもむろに近づき、背中の赤ん坊をゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けてジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕陽のような炎は、直立不動の少年のあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気づいたのは。少年があまりにキツく噛みしめているため、唇の血は流れることなくもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕陽のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました・・・・。
ジョー・オダネルは黙示録のような風景のなかに、喪失の哀しみにジッと耐えようとする人間の極限の姿を見たのです。あらゆる同情を峻拒する崇高ともいえる子どもの存在を目の当たりにして、声をかけることすらできなかったのです。少年が自分の弟を荼毘に付すために、ジッと順番を待っている姿は、追いつめられた敗者の、なお存在を保とうとするけなげさが全身から発せられています。痛みに耐えようとする必死の矜持の姿は、呆然と見つめるしかない存在そのものであったのでしょうか。オダネルは「もし私が声をかけたら、少年は崩れ落ちてしまうだろう。私たちがこうしてしまったのか」といっています。この1枚の写真は核の悲惨を深く告発ものとなっていますが、むしろ私は人間の存在そのものの尊厳を根元的にとらえているような崇高さを覚えて打ちひしがれるのです。それは死せる幼子と生ける兄が一体化して結ばれている、あまりの非対称性にあるのでしょうか。なにかキリストの受難の光景を想い起こさせる悲痛に抗しようとする人間のギリギリの姿を感じます。こうした深い精神のちからを前にして、もはや言葉による表現の虚しささえ覚えました。おそらく少年の家族は全滅し、最後に残った赤ん坊の弟すら失って、天涯孤独の孤児として廃虚の街を生きていくのでしょう。或いは狂気の果てに散ったのでしょうか。
オダネル自身も2次被爆で苦しみながらも、写真を通じて精一杯の訴えをくりかえし、80数歳で生涯を閉じています。写真展をみた子どもを抱いたアメリカ人の母親が「亡くなった弟をこんなにも愛している姿をみると、祖父母の世代が何をしたかを思いださせます」と涙していましたが、アメリカの普通の市民の良心がひしひしと伝わってきました。オダネルはトルーマン大統領の散歩に同行して、「閣下、日本への原爆投下をどう評価しますか?」と聞いたら、トルーマンは顔を真っ赤にして「あれは私ではない。ルーズベルトがやったことだ」と怒ったそうです。マックアーサーを馘首した最高指導者の核意識の一端がうかがえました。
もういちど少年の写真に戻りますが、あの少年はおそろしい受苦に全身をさらして悲痛に立ち向かおうとする人間の真実を示しているような気がします。私の毎日のつまらない虚飾や精神の貧しさを射ぬく閃光を放っているようで、侵しがたい戦慄を覚えるのです。戦時において女々しく泣くことを禁じられた軍事教育のなかで強いられた訓練の結果のようにもみえますが、あふれる愛情の対象の喪失に唇を噛みしめて必死に耐えぬこうとする姿は、時代精神に自律して立ち向かおうとする屹立した姿にもみえます。あたかも松本俊介の「立てる像」のように。
この少年の像はおそらく敗戦日本の出発を象徴する、ある種の覚悟さえ想像させます。戦後日本の歩みはこの少年のまなざしにはたして耐えられるでしょうか。面白おかしく生きてきた私たちは、じつはこの少年への裏切りと背信の道を歩んできたのではないだろうか。少年がふたたびこの世に姿をあらわしたならば、私たちは赤面して目を伏せて迎えるのではないだろうか。私たちは核を投下した悪と結んで手を汚し、道を踏みはずしているのではないだろうか。少年のまなざしは、私たちを真っ直ぐに見つめて写ってはいない。だからこそ私は引きこまれるような真実のちからをおぼえるのです。夜も更けて紀元節の休日が閉じようとしています。(2009/2/11
)
◆なぜ私たちは怒らなくなったのか?
「人民は優しく手なずけるか、さもなければ抹殺してしまうかだ。
なぜならば、軽く傷つければ復讐してくるが、重ければそれができないから。
したがって、そういう誰かを傷つけるときには、
思いきって復讐の恐れがないようにしなければならない」(マキャベリ『君主論』)
先日偶然にTVをみたら、黒沢明の傑作『生きる』をやっていましたので、ついついひきこまれて最後までみてしまいました。私はこの映画を世界映画史のトップスリーに位置づけているのです(あとは小栗康平『泥の川』、アンリ・コルピ『かくも長き不在』です)。癌を宣告された、しがない定年間近の市役所の課長が、生きるあかしを求めて懊悩してさまよい、最後に街に小さな公園をつくることに全精力を傾けて死んでいくというストーリーなのですが、降りしきる雪に埋もれながら「ゴンドラの歌」を口すさんで果てていくラストシーンは、いまでもあざやかに想いおこします。人間がほんとうに「生きる」というのはどういう意味なのかを問いかける作品は、あたかもヤスパースの限界状況やハイデガーーのDAS MANを象徴していますが、黒沢監督の静かに情動を喚起する冴えわたった演出の凄さに感服したものです(『七人の侍』とならぶ黒沢作品の白眉をなすと思います)。
この作品では、ルーチンワークに人間性を干からびさせてしまった公務員たちが、主人公の葬儀の場で次々と仕事の尊厳を訴えて怒鳴りあう場面がありますが、翌日の職場では今までと同じ死んだ労働を淡々とつづける姿に戻っています。ここに単純には世界は変わらないという黒沢の鋭い人間観察がありますが、しかしとにもかくにも少数とはいえ、あの時代には正義派と目されるピュアーな人間たちもたしかに存在したことも示されています。そこには確かな「怒り」の心情があったように思います。
戦後の時代から60数年が過ぎ去ろうとしているいま、なにか日本から「怒り」の感情が消えふせてしまったようにおもいます。私が授業で向かい合う青年たちの表情は、いかにも温和で誠実そうで、まじめに教師の指示を実行しようとする姿勢であり、たまにふてくされた表情をみせても、正面から教師に文句をつけたり批判することはありません。なにか日本全体が、老いも若きも怒りを忘れたカナリヤのようにおとなしく過ごしているような気がします。たしかに後期高齢者問題で老人パワーが破裂したり、モンスターペアレントのような歪んだ怒りは表出されていますが、街中や職場で辺りをはばかるような喧嘩のシーンはほとんど日本から姿を消してはいませんか。これほどの理不尽が世にはびこっても、じっとおとなしくしているような時代はかってなかったのではないでしょうか。これは晩期資本主義社会へ向かう日本の人間的成熟を意味しているのでしょうか、それともシステムに馴致されて飼育動物のようになってしまったのでしょうか。
煮沸した熱湯にカエルを入れると飛び出しますが、適温からじょじょに温めて熱湯になってもカエルは飛び出すことなく、茹で死んでしまいます。人間もある文化を当然のことと思って、そこにどっぷりと浸かっていると、それが当然のことと思いこんで疑うことなどできなくなってしまいます。こうした状況は、作為的に人間を操作する最高度のマインド・コントロールとして、ナチスに象徴される狂信的状態にものめり込んでいくことができたのです。いま日本は「怒り」の感覚を奪いつくすような文化が蔓延しているのでしょうか。
日比谷の年越し派遣村に象徴されるワーキング・プアは、高齢者よりも若者層が増え、しだいに家族と子持ちの人へと階層が移っていっていることを示しています。インタビューへの答えかたも、一定の知的レベルにあるしっかりした者のような気がします。派遣切りで職も住居も奪われて、究極の悲惨に追い込められた彼らは、しかし決して社会や為政者を怒らず、なりゆきでしかたがないものとうけとめているようです。自分を切った会社を恨んではいるようでも、「こういう派遣の道を選んだ自分が悪いのです。それは分かっています」とつぶやいています。こうした気持ちは、若者を問わず、学生も大人もおなじような傾向にあります。これを労働規制緩和の自己責任論浸透によるものと議論するまえに、そうした心情の内側をちゃんとみる必要があるように思います。
彼らは基本的に誰の助けも借りず、自分の力で何とかするとつねにがんばってきたのであり、自分一人で何とかすることを強制するシステムそのものを疑うことなどできないできたのです。だからこそ、もうダメだと両手をあげることは、ダメ人間として最後の尊厳を自分で捨てることになるのです。「社会が悪いんじゃあなく、自分が悪いんだ」「自分で何とかするんだ」というのは、彼らの最後の残されたプライドを守るよりどころであり、生活保護で助けてもらうことは、自分自身の最終的敗北を意味するものなのです。”働けど 働けど なおわが暮らしよくならざる ジッと手をみる”という自分への求心が、より人間を深く蝕むかたちで現代によみがえってきたのです。
「怒りは『条件を変えることができそうなのに変えられていないのではないかと疑うだけの理由があるところでのみ生じる』」(ハンナ・アレント)だとすれば、彼らには条件を変えられるという淡い希望が、繰り返される辱めと裏切りによって、しだいに空虚になっていったのです。派遣切りの目になんどもあうと、しだいに慣れていき、それが普通に起きることの一つとして埋めこまれてしまい、辛い状況があってもこれが普通なんだと思うようになります。いやそう思わないと、自分自身がきつくなるのです。絶えず会社から裏切られ続けていると、要求を低く抑えておかないと自分自身が追いつめられてしまうのです。何回も解雇が繰り返されると、しだいに自己肯定感が失われ、自分を抑圧するものへの「怒り」の感覚すらなくなっていくのです。こうして決して昇華に転化しない抑圧の構造に身を沈めていくのです。ここに誠実ではあるが不器用な人たちがおちいっていく悪魔のスパイラルがあり、器用に生きる基準が過剰に氾濫し、誠実なこころの人ほど「自分が悪い」という考えを進んで受容していくことになるのです。これこそ「自己責任」原理の罠にほかなりません。「自己責任」原理は次のような優しい言葉で、個人を魅了します。
「人間には自分自身以外に敵はほとんどいないものである。
最大の敵はつねに自分自身である。
判断を誤ったり、むだな心配をしたり、絶望したり、
意気阻喪するようなことばを聞かせたりすることによって、
最大の敵になるのだ」(アラン「汝自らを知れ」)
このように自己責任を声高に説く者たちのちからは、はるかに巨大で優越しており、毎日の軽蔑と口先だけの激励は、屈辱への反発からしだいに自己への嫌悪に転化し、仲間同士で互いに嫌悪しあい軽蔑する蟻地獄へとキリモミ状態となって堕ちていきます。
しかしほんらいの自己責任は、自己選択→自己決定の総和として問われるべきものであり、自己選択と自己決定の機会が奪われたシステムのもとでは自己責任は発生しないのです。派遣で働かざるを得ない制度をつくった者や不当に解雇した者にこそ責任があるのです。こうした責任の転倒によって、日本はゆがみに歪んでしまいました。転倒された自己責任が社会のすみずみに浸透し、学校でも職場でもネット上でも陰惨なイジメが誘発されています。今までのイジメは強者から弱者への垂直的な下方への抑圧の移譲でしたが、いまや入り乱れてイジメ合うミゼラブルな状況になっています。加害と被害があっというまに反転し、誰が敵で誰が味方か日めくりでかわるのです。バイトが店長をイジメたり、非正規が正社員をイジメたり、派遣どうしが足を引っ張り合ったりしています。責任の転倒とイジメの総踊りは、晩期資本主義の人間の分散化と断片化が極限まで進んでいることを示しています。
こうした状況にあっては、「器用」に適応できない者をふり落とすだけでなく、たがいに誰かを「不器用」として告発し、ふり落とさなければ自分を守れないという強迫の力が働き、人為的な排除が始まります。日本はいまや、生きているだけで社会にコストをかけているのだから、生きることそのものをやめなければならないーという極限の状況が生まれつつあるように思います。こうした振り落としは逆に社会的コストを極大化し、社会そのものが壊れてしまうのですが、生き残りを図る強者は相変わらず「我亡き後に、洪水は来たれ」とうそぶくことが可能だと錯覚しています。奥谷禮子とかいう人材会社社長の「過労死も自己責任だ」という冷酷な言辞ほどに、アンチヒューマンの頽廃はありません。
いま日本は例外なく誰しも、それぞれが一艘のボートに乗ってあてどもなく漂流しながら、さまよっています。多くの若者たちが、ボートから投げだされ助けを求めて海に沈んでいくのをみながら、我がボートの修復に忙しく、ボートを繋いで結びながら荒海を越えようとはしません。なぜなら自分のボートそのものがおかしくなっていて、他のボートをみる余裕はないからです。木の葉のようにゆれうごくボートの群れをみながら、大型旅客船が悠々と航海をしています。この旅客たちにとっては、波間に沈んで苦しむ相貌はこの世ならぬ最高の快楽をもたらすパンとサーカスの見せ物なのです。
さてここで「怒りとは、何らかの外的な力によって欲望が実現できない時に生まれる主体の反発的な情動」と定義してみます。すると「怒り」そのものが姿を消しているということは、「怒り」という情動が表層に表れず、深く主体の内部に潜在的に沈潜していっているのか、或いは遮断される欲望自身が主体から衰弱していっている(または欲望の水準が低下している)と考えられます。現代の日本では、おそらく欲望の自己抑制としての「怒り」の沈潜というよりも、欲望そのものの衰弱と水準の低下によってもたらされているのではないでしょうか。欲望の抑制に対する反発の度重なる失敗は、正常な反射行動としては「怒り」の原初的な爆発としての暴力(一揆)のレベルからしだいに高度化した異議申し立ての行動に発展するはずですが、現代の日本ではみられません。それは異議申し立ての回路が形式的にセットされていても、それを実際に作動させる主体が空虚なものとなっているからです。たとえ街頭での署名やデモ行進、或いはストライキという形式が法的にセットされていても、いわば「なんかダサイぞ!」という感性が世に蔓延し、アウトサイダーとみなされてしまうKYがあるのです(これがフランスや独、ギリシャなどの分厚い社運動の蓄積がある地域との違いです)。こうして実質的に異議申し立てによる欲望の遮断への「怒り」の表出の回路は奪われていくのです。
「怒り」の表出の回路を失った主体は、もはや欲望そのものと自己の関係性を幻想的に組み替えるしかありません。欲望を捨てるか、欲望の水準を下げるかです。しかしこれは主体にとっては、主体そのものの存在の意味をゆるがす恐ろしいことです。それはもはや自立的な欲望をもたず、ただ外的なちからに操作されていく自分を受容することになるからです。彼の「欲望」の内容の質が人間的であればあるほど、彼は人間から遠ざかっていくことになります。もし現代の日本の主体が、主体の条件そのものを失うことによってしか、自分の生存を確保できないとすれば、これほどに人間が壊れた時代はないでしょう。もはや熱湯に叩き込まれたカエルは、驚いて飛び出すことすらしなくなるのです。
しかし最大の問題は、日比谷公園の年越し派遣村へ向かう派遣切りにあった人の群れをみて、我が身に引きつけて怒りを覚える人がじつはそれほどに多くはいないということです。メデイアもあたかも他人ごとのように視聴率の取材対象としてしか扱っていないように思われます。自爆テロの犠牲に怒りを噴出させて反テロ戦争に狂奔する神経はあっても、イスラエルの残虐な国家テロリズムには怒りを覚えない神経とよく似ているように思います。文明国と自称するいのちの価値と、非文明国と称されるいのちの価値のおそるべき非対称性に疑問をいだき、戦慄するたましいはありません。おそらく日本の社会も、垂直的な分断がゆきわたって、同じ共同体に生きているという実感が薄らいでしまい、他者の痛みに対する共感能力が衰弱しつつあるのです。自己責任論で平然と処理するひとたちの非人間的感性ほどに頽廃している心性はないでしょう。たとえ明日は我が身であっても、今日はとりあえず平穏であることに自閉してホッとするような心情が忍びよるつつはありませんか。
「怒り」を忘れた者、忘れさせられた者、声を奪われた者たちはこのままに沈んでいくのでしょうか。抑圧され蓄積されたルサンチマンが突然予期せぬ暴発となって噴出することもあるでしょう(秋葉原事件)。しかしおそらく歴史の巨大な潮流は、最初に少数者が互いにボートを繋ぐことを覚え(日比谷年越し派遣村)、しだいにその輪はひろがっていくに違いありません。長い目で見ればたしかに歴史はそのようにきざまれてきたのです。たとえ最初は冷ややかな無関心と冷笑のまなざしにさらされても、誰もが声を奪われる予備軍として存在するようになれば、必ずや逆転が生じるに違いありません。あなたの街もそのようにしてつくられ、あなたの家もその一隅にあるのです。忘れ去られた者たちが声をあげ、奪われた者の怒りの声がこだまし、すべて者が宇宙船地球号の自由で平等な乗組員として登録される時がくるでしょう。たとえそれが気の遠くなるような時間であったとしても、その方向へ一歩すすめることこそ、『生きる』を生きていくことになるでしょう。(2008/2/6
11:52)
◆この哀しいまでに醜悪な日本のふるまいを見よ!
なにかほんとうに日本はおかしくなっているとは思いませんか。いままでの日本にあった、それなりの矜持がいまややせ衰え、平然とエゴを求めるみにくい厚顔が、なんの非難を浴びることもなく横行しはじめているような気がします。朝日新聞が、キャノン宇都宮工場と大分工場の偽装請負を報道すると、御手洗キャノン社長(経団連会長)は、翌月から1年半にわたって朝日新聞への広告をさし止め、パナソニック社長(経団連副会長)も諸手をあげて同調しました。新聞各紙は「御手洗批判をやって、新聞社の収益に影響を与えたら大変だ」とし、いっせいに労働関係の批判記事の掲載を自粛するにいたりました。
昨年の年末には、年金問題をめぐる厚労省批判報道に対し、奥田トヨタ元社長(前経団連会長)が「マスコミに対し、なんとか報復でもしてやろうかな。たとえばスポンサーにならないとかね」と公然と発言しています。不況下の広告宣伝費の大幅削減と、購読部数の下落によって軒並み大幅減益となっている新聞社にとって、こうした財界からの圧力は経営にとって非常な脅威であるでしょう。こうして日本のマスメデイアは、資本の論理に屈服して「権力を監視し、真実を国民に伝える木鐸」(新聞倫理綱領)としての使命を実質的に放擲しつつあります。少数の地方紙が独自の論陣を張って、ジャーナリズムの理念を守ろうとしていますが、大手五紙の変貌は目を覆うわしめる惨憺たる状況におちいりつつあります。しかし、こうした報道姿勢はますます市民の期待から背反し、更なる購読部数の減少を招き、それをカバーするための企業広告に依存する悪循環となって、ついには財界広報紙となってジャーナリズムそのものの崩壊をひきおこすでしょう。
このような負のスパイラルをひきおこしている財界人のエゴイズムの醜悪さは、もはや常軌を逸しています。みずからのコンプライアンスの失敗を批判されて、逆に居直ってヤクザのような攻撃にでるなぞ、経営者の資質が問われるのですが、おそらく彼らは、自らの経営理念の荒廃に無感覚であるばかりか、あたかも影に怯えるようにラット競争のように、市場原理の暴走の走狗となっているのでしょう。明治以降の近代化のなかで、日本の企業家は世に貢献するというそれなりのモラリテイー(経営哲学)をうち立て、従業員を運命共同体とみなして高度成長を実現しながら、あくまで経済の論理の枠内にあって、政治やマスメデイアに対する一定の禁欲的な姿勢を持ってきましたが、いまや欲望丸だしの脅迫的な言辞を弄して介入することをはばかりません。内にあっては冷酷非情に社員を解雇し、営業利益が赤字であっても配当金増額に狂奔するという異常な経営を繰りひろげています。これはまさに悪徳企業家以外の何者でもありません。悪徳は容赦なく追放されなければならず、トヨタ・キャノンなどは悪徳企業の代名詞となって、自己崩壊の道をたどらざるをえないでしょう。
こうした経営の暴走は、もっとも公共性の高いはずの環境の領域までに浸透し、日本政府は世界でもっとも破廉恥な環境政策をもつにいたっています。おそらく国際会議で、日本ほど冷笑と蔑みのまなざしを浴びている国はないでしょう。
2013年以降の温暖化対策の新たな国際協定の年内合意の焦点は、2020年までの温室効果ガス削減の中期目標の策定にありますが、排出量の多い先進国で目標を決めていないのは、もはやロシアと日本のみとなりました。昨年末の国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP14)では、20年までに90年比25−40%の削減による産業革命以降の温度上昇を2度以内に抑える国際合意を決めました。ドイツ40%、スウエーデン30%、EU20−30%など先進国が削減目標をうちだすなかで、日本政府の中期目標検討委は、はなからこの合意を相手にせず、日本が損をしないための許容範囲の議論に熱中し、世界的な流れである再生可能エネルギー開発を想定外とした原発増設に踏みだそうとしています。もはやオバマの米国でさえ、環境重視のグリーン・ニューデイールをかかげるなかで、これほどに日本の異常さが際だっていることはありません。中期目標は「せいぜい10%が限界」(地球環境産業研究機構 RITE)などという信じられない言辞が垂れ流されています。彼らは温暖化対策のコスト計算にのめり込み、対策をとらない場合の不可逆的な被害についての想像力の貧困を露呈しているばかりか、最大の排出源である電力・産業については自主プランに委ねるという政策の失敗を露骨に肯定しています。
まさにここには「我れ亡き後に洪水は来たれ」という資本の原始的蓄積期の野蛮が、恥じらいなく横行しています。これこそ資本による社会的包摂というのでしょうか。彼らは自分にとっての「不愉快な真実」と恐れることなく向き合う人間的な良心の欠落を、異様なスタイルで露呈していることに気がつきません。もはやこうした人間の名を騙るオオカミに、経済や環境の公共性について何ごとかを語る一片の資格もありません。彼らはプレーヤーとしての初歩的な条件と資格を欠いているがゆえに、レフェリーは退場を命じ、二度と復帰するチャンスを与えない永久追放の処分をとるでしょう。それほどの醜い行為に耽溺している自らを自省する批判的反省能力を失っている者に、救いの手をさしのべる機会も永遠にありえないでしょう。天に向かって唾する者はみずから汚れざるをえないのです。
問題はなぜ日本がここまで傷みきった陰惨な発想しかできない国に頽廃してしまったのかーということです。この点の解明なしに、日本の再生はないでしょう。どなたか教えてくれませんか? それともその答えは、意外ともはや分かりやすく提起されているのかも知れません。要するに市場ファンダメンタリズムに、かくも安易にのめり込んでいったのはなぜかということですが、これはなかなかの難問のように思います。とりあえずこの難問を解く前に、レフェリーの指示に従って、悪徳プレーヤーを冷酷非情に永久追放に付さなければなりません。パラダイム・チェインジはそれからじっくりと考えましょう。(2009/2/3
21:09)
◆食べ物ちょうだい・・・・・・オオカミ少年がいく
子ども(小学校4年生)の母親は障害を抱え、自分一人の生活もままならず、同居していた祖母も昨春に亡くなってから、子どもはほとんど給食を食べるためにのみ、学校へ通いました。夏休みは給食がなく、プール登校する子どもに数人の先生たちがおにぎりやカップラーメンを持たせました。「お母さんに持っていっていい?」と聞く子どもに、先生たちは余分のおにぎりを持たせました。お盆の数日間はプールもなく、ついに子どもは食べ物がなくなりました。子どもは街に出て、通りすがりの人に「食べ物をちょうだい」とねだるしかなくなりました。2学期が始まる前に、子どもは自分から先生に、「ぼく児童相談所に行く」と言い、母親に会うこともなく、そのまま施設に連れられていきました。
ある中学校で、2年の女生徒が、急いで階段を降りようとして転がり落ち、腰を打って立ちあがれなくなりました。駆けつけた先生に女生徒とは「先生、救急車を呼ばないで!」と懇願しました。「お父さんが会社を辞めちゃって、保険証がないから、お金がかかるから医者にはいけない」と・・・・。
まるで「マッチ売りの少女」が現代によみがえったような風景ではありませんか。かって日本は原始的貧困は基本的になくなり、欲望の高度化に伴う現代的貧困が問題なんだという貧困化法則の現代化が真剣に議論された時期がありましたが、いまや日本はとっくに克服したはずの19世紀型貧困社会に逆転しつつあります。07年国民生活意識調査では、生活が「大変苦しい」「やや苦しい」を合計すると、じつに「児童のいる家庭」63,4%、「母子家庭」85,1%に達しています。
子ども(小学校5年生)は母子家庭で、家にはお金がなく、家出を繰り返しながら、繁華街近くの神社の境内で寝泊まりし、格安量販店で万引きしては食料をまかなった。「家には戻りたくない、この段ボールの家で一生暮らしたい」と云っていたが、警察官に連れられて児童自立支援施設に入った。3度の食事と布団と風呂がある天国のような生活は、彼を一変させ、それまで目が吊り上がって暴力で人をねじ伏せるような授業妨害や放浪はパタッとなくなった。
フランスのサルコジ大統領は、18歳を迎えた成人に好きな日刊新聞を1年間無料で配達する計画を明らかにしました。「新聞を読む習慣は非常に若い時に身につくものだ」と述べ、活字離れを早期に食いとめる必要性を強調したそうです。各新聞社が無料で新聞を提供し、政府が配達料を負担するシステムです。このプロジェクトの背景には、フランスの主要紙の発行部数が軒並み減少し、特に若い世代で新聞を読まない傾向が広がって危機に陥った活字メデイア業界への政府支援策がありますが(今後3年間の新聞政府広告予算総額6億ユーロ=700億円)、それにしても日本では考えられない社会基盤への政府投資です。すでに世界のネット利用状況は、10億773万人と推計世界総人口67億人の15%(中国1億7971万人、米国1億6330万人、日本5999万人など)に達しています。インターネットの驚異的伸長とパラレルに、活字メデイアへのアクセスが急減している現状は、文化の国・フランスでも例外ではありませんが、フランスのように活字メデイア保護政策にのりだす国はありません。日本ではインターネットはおろか、新聞さえも、路上生活の段ボールのために使わなければならない子どもたちが増えています。
いったいこうした原始的貧困の罪は、どこにあるのでしょうか。シカゴ学派は自己選択の失敗と自己責任というでしょう。彼らはいっさい貧困を自分の学説の罪とは認めず、懺悔することはありません。懺悔聴聞で「今日の罪は?」と聞かれても、「特にありません」と平然と答えるでしょう。怒った聴聞師が「そんなことはない、なにかあるはずだ。罪の自覚がないことこそ罪深いことだ」と迫っても、彼は平然と冷笑するでしょう。竹中ナントカというエコノミストのふるまいは、まさにこのようなものです。或いはしたり顔で「罪とはそれ自体すでに罰である」(花田清輝)とか、「罪の渦中にあって人は神に近づく」(ジャン・ジュネ)、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人おや」(親鸞)などの形而上的言説が、いかに空々しく虚しい言辞に過ぎないか、今や白日の下にさらされています。
いま私たちが目にしている子どもたちの痛ましい貧困は、自分自身を含む日本の未来を象徴しているとみることができない感性は、もはや感性の初歩的な条件を失っています。子どもたちが成長して、大学にいくような年齢になったとしても、依然として子どもたちの原始的貧困は続きます。なにしろ「高等教育の漸進的無償化」(国連)を批准していない国は、全世界で日本とマダガスカルとルワンダであり、これらの国は子どもの生存権が崩壊した破綻国家なのです。子どもを産み育てることを保障できない国は、国家としての基礎的な条件を失っています。
一方でこうした現状を説明する数多の格差社会論が、書店の店頭に垂れ流されています。しかし私が思うに、このような貧困現象をやっと自分の出番がきたか!と受けとめて、華麗な現状分析を施す権威的知性が横行しているように思います。アカデミズムのなかで生存と承認を求める頽廃的知性が、解釈の技を競い合っている裏で、現実の子どもの貧困はますます深化し、それがまた輪をかけて解釈の精緻さを顕示する解釈競争のモチベーションを高めています。漠たる不安におおわれれば被われるほどに、その不安を利用して食いつぶす知の産業は使用価値を高めていくのです。いま多くの人が、不安に怯え、失業の恐怖に戦いている実態こそ、彼らにとっては絶好の稼ぎ時に他なりません。解釈者もまた、いつも気の利いたコメントを云わなければならないという強迫観念の虜となって、廃棄処分される大量の論文と著作を垂れ流しています。貧困は、貧困の当事者とともに、解釈者をも不安の幻想に包摂して、果てることなきスパイラルの鋏状曲線となっていきます。誰かが「果てしなき議論の後に、ヴ!ナロード!」と決然と踏み出すまでは。そして気がついたら、まわりにびっしりとオオカミ少年が渦を巻いて取り囲んでいるという救いがたい約束の時が準備されているのです。
問題は単純且つ明瞭なのです。日比谷公園の年越し派遣村に息も絶え絶えに集まってきた人たちに、一杯のスープを差しだす人の美しい善意にゆだねて終わっているシステムこそが、問われなくてはならないのです。マッチ売りの少女から、一箱のマッチを買って温かい家路へ急ぐ心性を疑わなければならないのです。それは竹中ナントカという水に落ちたエコノミストを、冷酷にもう一度水のなかにたたき込むこととほぼ同じ意なのです。(2009/1/27
15:42)
◆現代の「転向」の卑近なる明るさについて
小淵内閣時の経済戦略会議の議長代行として、市場ファンダメンタリズムの日本型規制緩和政策を主導した論者が、世界金融恐慌の嵐を受けて、華麗に転進して立場を変え、資本主義批判に「転向」して注目を浴びています(中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか』)。自らの過去の理論的営為の失敗を率直に認めて、新たな理論に向かうこと自体は、理論家の誠実を証すものとも云えなくはありませんが、むしろ彼は政策立案者としての実践的立場にあったのです。米国大手金融業界の倒産から始まって深化する世界的大不況の日本的現実のA級戦犯そのものであり、こうした論者が敗北宣言をして投降してきたのをみて、市場原理批判者は大歓迎しているようですが、私はどうも違和感が伴うのです。
彼の実践的責任の取り方は、あらゆる政府系政策会議からの撤退というスタンスにあるようですが、社会科学者としての理論的責任、政策ブレーンとしての実践的責任の自己省察そのものが致命的に欠落しているように思います。なぜ自らの理論的誤謬が生まれ、それを政策的に宣揚して致命的な惨状を日本にもたらしたのか、という誠実な反省の作業がないのです。社会科学者としての存在そのものが問われている状況への自己認識の欠落に無自覚な姿は、ため息をつくような無責任の精神構造をさらしています。例えば敗戦期において、高村光太郎がいっさい筆を断って東北の寒村に隠棲し、自己凝視の日々を送ったように、しばし理論と政策活動を全面的に懺悔して公職を辞して深く見直し、再出発の機会が与えられれば再び踏み出すような姿勢こそ、真理の探究者の態度のように思うのですが。確かに小泉内閣の経済政策を主導した竹中ナントカという厚顔無恥のエコノミストに較べれば、まだしもましかも知れませんが、またぞろかって自らが攻撃した反対理論に組みして、恥じらうことなくふるまう神経を理解できません。彼はいまもって、巨大金融資本のコンサルテイング会社最高経営者の職にあり(三菱UFJリサーチ&コンサルテイング理事長)、理論的著作を絶版に付することなく、市販しています。おそらくいま、彼のゼミに所属する学生たちは、あっけにとられて右往左往しているのではないでしょうか。
私はこうしたふるまいの基底に、日本型無責任思想の歴史性の問題があり、天皇制戦争犯罪の無答責が誘発した戦後日本の責任感覚の救いがたいゆがみをみるのです。天皇制戦争責任の無答責は、日本社会のあらゆる分野のリーダーの自己免罪としてトリクル・ダウンされ、21世紀初頭の現在にあっても連綿としてさまざまの無責任を生みだしています。重要なことは、政治や企業経営などの客観化された行為の分野では、トヨタ社長が交代したように、外在化した責任を取るのですが、ペーパーや言葉で表出している仕事では客観的責任は取りにくく、追求しにくい面があるのです。かって戦争を宣揚して多くの若者を戦地に送り込んだ思想家や文学者・芸術家は、ほとんど何らの自己批判なく戦後も活動を続けたのです。
問題は左翼メデイアが、こうした転向現象を諸手をあげて歓迎し、称讃していることです。こうした現象は敗戦後に戦争讃美者から左翼に転じた際にも、多くみられましたが、時勢をみて次々と変身を試みては社会的地位を保とうとするふるまいは、マックス・ウエーバーの指摘を待つまでもなく、神なき時代の憐れむべき卑小さに他なりません。こうしたふるまいの人格は、深い自己省察抜きに、あられもなく転進していきますから、理論理性のレベルが深まることはなく、どのように立場を変えても、また似たような誤謬の行為を犯しつづけるのです。日本現代史はこうした誤謬の合成であったと言ってもよいでしょう。
子どもが一度の失敗をとがめられることなく、再度の挑戦の機会を与えられのは、彼が失敗をへてより前進するだろう確率の高さを成長の過程において必然的に持っているからです。成熟した大人は、自らの大いなる失敗にあっては、うむを言わずに舞台から退場し、撤退しなければならないのです。一度水に落ちた犬は、もう一度たたき込れなければならないのです。大人の失敗者の最良の良心は、懺悔に到らずとも沈黙のうちに沈むのです。
同時に私たちが考えなければならないのは、左翼理論陣営の一部に逆のとまどい的なふるまいが生じていることです。左翼理論者が、理論通りに変革への展望が広がらず、標的を自らの属する左翼への批判に転じるという状況が部分的に誘発されています。「(左翼は)現在の日本資本主義の後にどんな社会が考えられるのかを、具体的に示し得ていない。だから、どうしても必要な中道左派を結びつける軸となるような運動が成長し得ないのだ。いまの日本には中道左翼結集の中核となるべき政党が存在しない。この点が日本社会の最大の弱点だ。日本の左翼は、日本の社会を改良していくために、左翼の再編という重要な問題を避け続けている。当面めざすべきは、社会民主主義的な福祉国家か、市民社会的な福祉国家であり、左翼がこのままの状態の継続で、ただ頑張ればよいということでは済まない。仮に自公政権から民主党中心の政権に替わっても、すぐに日本社会が良くなるとは思わないが、日本の市民はその経験を通して少しづつ賢くなっていくだろう。現状のままだと、結果とのたたかいに終始しているうちに、われわれの願いとは逆に生活不安は増すばかりということになる。いまこそ視野を世界に広げ、先進諸国から学ぶことが不可欠だ。無知から展望は開けない」(猿田正機・愛知労働問題研究所所報143号概要)。
どうもこの著者は、スカンジナビア・モデルを目標として、左翼陣営を再編すべきだという主張のようです。こうした議論は、問題が深化した局面でよく現れる主体批判論にみられますが、認識論で云えば政治的プラグマテイズムの方法論に習熟せよというものであり、戦線膠着状態にあって自らの陣営のあり方を問い直す傾斜に重心を置く方法です。確かに時にのぞんで、誠実な自己検討は成長の必須の条件ですが、対峙した局面における「自己刷新」への傾注が自己解体の別表現であったり、逆に我のみを正義とする教条が悲劇を極大化した事例もまた世界史に満ちあふれています。問題の核心は、現実と事実の精確で豊かな反映論的認識と、新たな展開可能性を実現する実践論的認識の統合にあるのではないでしょうか。
もはや私たちは、アレコレの外在的なモデルに依拠して、みずからの存在を変革させていく思考様式の限界を覚えています。それは明治以降の脱亜入欧型近代化モデルや誘致外来型地域開発モデルなどの外在モデル志向の失敗の辛い体験があるからです。スカンジナビア・モデルはそうした外在モデルの優れたものの一つではありますが、それは参照文献でしかなく、私たちが刻まねばならない主論文の本稿とはなりません。独特の国民経済モデルを構築しているスカンジナビアと、グローバル経済のただ中にあって歪んでいる日本は、変革を考える地盤と変革の方向がかなり異なるのです。
市場原理派に生じている転向現象と、左翼理論陣営に生じているとまどいの現象は、本質的に未曾有の世界大不況に直面して、自ら又は自ら属する陣営の反省と修正を誘発している点で共通していますが、前者は理論転向というかたちで転進し、後者は運動論の主体批判に転じています。問題は外的世界の激変にあって、ゆるがぬ理論と政策の構築に向かう共同にあるようです。(2009/1/25
14:28)
◆不完全な人間は、完璧なものをつくってはいけないのです
尾道の御袖天満宮の石段は、門を入ってから54段あり、1段目から53段目まではすべて1枚岩なのですが、最後の54段目だけは、つなぎ目があるのだそうです。その理由を地元の長老は、「不完全な人間は、完璧なものをつくってはいけないんです。人間がまだまだ成長できる証左として、つなぎ目があるんだ」と説明しました(大林宣彦)。ウーン、なかなか考えさせられる言葉です。なにか歴史や人間の営みの不幸の根元を突いているような気がします。時に人間は、神の如き正義の全能を求めて、完全なシステムをつくることにちからを傾け、おのれの相対性を他者に強いる凶暴な行為をなしてきました。その時は熱中していて、正義の唯一至高性に魅入られて、後からふり返ると悪魔のような所業をなしたことに慄然とします。わたし自身も、その時はよかれと情熱的に専心したことが、あとからピエロのようなふるまいであったと忸怩たる経験をなんどかいたしました。そうした人間の愚かさへの警告として、この54段の石段は、静かな沈黙のうちに語りかけているようです。一歩一歩昇っていって頂きに位置する最後の階段が、1枚岩になっていないのがまたある味わいがあります。思えば、ナチズムやスターリン主義の悪魔の所業もすべて一枚岩の思想から生みだされたように思います。
日本で人気ナンバーワンの石段は金刀比羅宮の785段ある石段だそうですが、その中腹にゴンと呼ばれるこんぴら狗の銅像があり、参拝客を迎えているそうです。こんぴら狗は、江戸時代に金刀比羅宮への参拝がかなわぬ人が、自分の飼い犬を身代わりにして旅人に託し、その旅人がまた違う旅人に託して、人から人へリレーされて参拝を実現し、また札を首に下げてもとの飼い主の所へ戻ってきたのだそうです。送り出した家族の願掛けや心配を、見知らぬ人が互いに協力して、励まし合いながら実現していく過程は、なにかもう一つの人間界の美しい営みを象徴しているようでもあります。無数の人の何げない善意というものの存在をこれほどに体現している狗は、こんぴら狗として宝物のように大切にされたそうです。このようにしてほんとうの歴史は紡がれてきたのですね。このゴンの銅像が最上段の頂ではなく、石段の中腹にあるということも、なにか大切なことを暗示しているように思われます。
不完全な人間の独善を警告する石段と、不完全な人間が何ごとかを成し遂げるために互いに励まし合う狗ーここにこそ人間のほんとうの人間らしい姿があるのでしょう。そしてそれぞれが欠陥を抱えつつ、自らの相対性を踏まえて手をさしのべあいながら、何ごとかを実現していく、無限の耐えざる連鎖の中に、一人の人間がその人にしかできない尊い行為を介在させるのだということなのです。
それにしても実際に触れあっている人間たちは、互いを傷つけあい、時には裏切り合う、醜い姿をさらしているのも否定できない現実に他なりません。私たちはこうした人間の悪魔のような面からも目をそらすことはできません。人間は天使にも悪魔にもなりうるという一筋縄ではいかない存在です。でも100%の善人がいるとしたら、それは何か非人間的で奇怪なモンスターのような気がするのです。悪を知っている人間にむしろ、或いはどこかに影があるような人間に、むしろある魅力を感じるということもあります。しかし人間の悪魔的な側面から目をそらさず、なおかつ天使的でありたいと願うのが人間の哀しさであり、真実ではあります。こうした考えを問いつめていけば、どこか親鸞の悪人正機に行きつくような感じですが、そこにもなにかある偽善が含まれているような気がして、私は戸惑いを覚えるのです。とくに一神教を知らない日本文化は、超越的な正義による審判という感覚が根づかず、あらゆる罪は水に清めて洗い流すかのように、事実としての悪に立ち向かって追求したり、決然と責任を我が身に引き受ける関係をついに構築できないままに、現代に到っているような気がします。口にするのも汚らわしいことですが、規制緩和によって多くの派遣社員を路頭に迷わしているKとかTとかいう為政者が、またぞろ厚顔をさらして多言を弄しているのを見るにつけ、ため息が出てくるのです。もうこのあたりで、許してはいけないことは絶対に許さないという選択をする決断が求められているような気がします。最後の石段になぜつなぎ目があるのか、長い石段の途中になぜ狗の銅像があるのか、知らしめる時ではないでしょうか。それとも、それをしも黙って受け容れ、ただ静かに見つめていくべきなのでしょうか。朝日新聞1月20日付け夕刊参照。(2009/1/20
22:55)
◆サマーズ・ドクトリンにみる抑圧の移譲の悲嘆
オバマ新政権の経済チームの中核となる国家経済会議(NEC)委員長に就任するローレンス・サマーズ(世界銀行副総裁・クリントン政権米国財務長官)の廃棄物処理理論は、市場原理主義の恥ずべき無残な極地を示しています。この人物を起用したのは、オバマの最大のミスではないかと思います。なぜか、彼の主張をみてみましょう。
(1)汚染費用は、死亡・障害による機会喪失稼得額に依存し、最貧国でもっとも低額となる
(2)汚染費用は汚染増加に比例する以上の高額となり、汚染をすでに汚染されている場からまだきれいな場に移すことが費用を減らすことになる
(3)所得上昇に比例して清浄な環境が評価されるので、汚染が豊かな場から貧しい場に移行することは費用を低下させる
従って有毒廃棄物を最低貧困国に投棄することは経済学の論理的必然である。
まさに先進国の剥きだしの破廉恥な論理であり、赤面しないで聞くことができない言説です。有害廃棄物を先進国から途上国に輸出することが、費用低減の経済原理なのだという論理ほどに、剥き出しのエゴイズムはないでしょう。まさにミクロ経済学における費用対効果理論の醜い本質を露呈しています。この理論は企業経営内又は国民経済の枠内での論理に、一定の有効性はありますが、臆面もなく国際経済学のレベルに飛躍させているのです。しかし現実にこうした論理による有害廃棄物の国際的な越境移動が誘発されたのであり、ココ事件(1988年)はアフリカが外貨獲得のための有害廃棄物受け入れを象徴する不法投棄事件であり、インデアン居住地への核廃棄物処分場建設も同じ論理です。日本でも1980年代に激化した「東北ゴミ戦争」も、地方圏に偏倚される廃棄物処分場と不法投棄事件に現れ、放射性廃棄物をめぐる地層処分が巨額の交付金を餌に困窮する地方へ誘導されていることに象徴されています。明らかに有害廃棄物は、国際的にも国内的にも垂直的な地域階層性を利用する底辺への移譲の論理が支配しています。心理学の世界で説明される負の底辺へと向かう抑圧の移譲の論理と酷似しています。
こうした有害廃棄物をめぐる抑圧の移譲の論理がなぜ誘発されたのでしょうか。
20世紀は「もっと使わせろ! 捨てさせろ! 無駄づかいさせろ!」(計画的陳腐化戦略)という大量生産・大量消費・大量廃棄社会となりました。そうした大量廃棄社会が成立したのは、企業が製品廃棄後の外部不経済の負担を免罪する廃棄物政策が展開したからです。廃棄物処理法(1970年)は、企業生産規制ではなく、焼却処理・処分場建設を無制限に拡大する政策であり、企業は廃棄物処理費用の外部不経済負担を考慮することなく、大量生産体制を構築しました。産業廃棄物の不法投棄の原状回復事業は、被害地の地方自治体が行政代執行の論理で代替し、企業にとっては捨て得の実態が蔓延し、首都圏の排出自治体が辺境自治体へ外部不経済が転嫁されています。
国際的にも循環資源貿易(再生・中古)が拡大し、資源を偽装する有害廃棄物が輸出され、安易な焼却処理技術の輸出も拡大しています。国内規制で国内処理できない有害廃棄物が、循環貿易の美名のもとで途上国に輸出されているのです。廃棄物そのものを発生させない製品生産システムというリスク負担を避ける企業にとって、ローレンズ・サマーズ・ドクトリンほどに快適な理論はありません。これはロールズ正義論ではどのように解析されるのでしょうか。
ゴミとは「塵芥」であり、「取るに足りない」ものですが、英語ではWaste(浪費、無駄)という意味です。しかし生命体にとって、廃棄とは成長と発展に伴う必然的な契機であり、廃棄なくして生命の循環はないのです。従来の人間活動は「生産→分配→交換→消費」を対象とし、「廃棄」は自然に任せてきました。身体で云えば、酸素と栄養を供給する動脈活動を重視し、二酸化炭素と廃棄物浄化する静脈活動は副次的なものとみなしてきました。しかし次第に人間が廃棄する物質の量と質が自然界へ循環する許容限界を超えるに従って、人間と自然の物質代射のサイクルはかく乱され、自然生態系の存続そのものが問われるようになりました。
大量廃棄社会は限界に直面し、生産者が製品の製造段階から無廃棄を構想した企画を考え、さらに廃棄費用の生産者負担に転換する段階に直面しています。大量廃棄社会の本質は、経済学レベルにとどまらず、思想と社会科学の不可避の問題となっています。思想と社会科学が無限定に垂れ流してきた膨大な学術論文は、物理的にも文化的にも廃棄物となって消費されていっています。何と膨大な論文が、業績幻想の影で無制限に製造され、無限定に消費されていったことでしょう。不思議なことに、学術論文の大量生産と大量消費・大量廃棄は、なんの懐疑の対象となることもなく、自己満足的に自閉して廃棄されるに任されています。論文形態に客観化された思索は、ほとんどなんらの議論と検証を経ることなく、ただ学術書に掲載されたことを唯一の理由として、業績評価の対象として浪費されてきたのです。ここに現在のアカデミズムの最大の虚栄と虚偽があるのです。いったい学術の世界において、廃棄費用の製造者責任はどのように問われているでしょうか。サマーズ・ドクトリンは、逆説的に現代の文化的上部構造の虚妄を証明しています。(2009/1/16
21:07)
◆いま、恐慌の危機をのりこえる「救国戦線」が求められている
倒産と失業が急激に爆発的にすすむことを恐慌といいますが、世界は「100年に1度の大不況」つまり、1929年世界大恐慌を想起させるような恐慌状態に突入しつつあるかに見えます。1929年世界大恐慌はブロック経済圏による大分裂によって、第2次大戦という未曾有の世界戦争の悲惨をもたらしました。1929年世界大恐慌をくぐり抜けることに成功したのは、ケインズ政策を採用したニューデイール米国と計画経済を採用した旧ソ連型モデルのみであり、他は軍事力による市場圏の暴力的拡大と戦争経済に突入して経済システムそのものが破綻してしまいました。
2008年大不況はこうした戦争経済シナリオの失敗の学習によって、くぐり抜けていかなければなりません。但し米国とイスラエルのみは、自国経済の成長循環を戦争による軍事経済化に求めていますが、世界の平和システムがその方向を容易に許さないために、莫大な財政赤字による自壊に危機に瀕しています。日本はこの米国モデルとの同盟を選んでいるために、自立した恢復シナリオを構築する可能性を極端に狭め、労働力を切り捨てるだけの野蛮な国民経済崩壊への道を辿ろうとしています。いま世界でもっとも危機レベルが高いのは、日米運命共同体に他なりません。さて新年初頭の経済雑誌は争って2009年展望を特集していますが、ここでは日本のマルクス系経済誌『経済』の現状分析と展望の語りをみてみたいと思います。同誌の特集の概要は次のようになっています。
1部 世界金融危機・同時不況はどうなるか
1 09年世界経済を展望する(課題)
(1)国際的金融危機を抑えることができるか
(2)世界的同時不況からどう脱却するか
(3)地球温暖化防止への新たな国際枠組みがつくれるか
(4)イラク・アフガン戦争の対テロ戦争を終結できるか
(5)AALAの自立的平和発展と新国際経済秩序は構築できるか
(6)対米従属から脱却する新しい日本に変革できるか
6課題のうち(1)(2)の現状分析
2部 大不況日本の生活と雇用を守る経済政策
1 金融危機と景気後退による国民生活危機
(1)金融危機による日本経済の急激な景気後退
(2)萎縮する消費と企業利潤減少・設備投資後退・雇用削減・労働分配率低下
(3)外需依存型経済の脆弱性
2 構造改革による日本経済の危機の深化
(1)構造改革の経過・矛盾
(2)構造改革による日本経済の変容
@国際化・市場主義化・金融資本主義化
A大企業収益構造の変容
B大企業の独占的利益収奪構造
3 経済政策による大失業・大倒産回避
(1)政府の失敗
@金融危機自然災害論・金融緩和政策・投機金融資本への公的資金投入
A企業の予防解雇
B金融硬直化(貸し渋り・貸し剥がし)による中小企業倒産
C定額給付金と消費税増税
(2)外需依存型から内需型経済への転換
@労働改革(雇用保障)・社会保障・投機規制による個人消費拡大
A内需型産業支援による地域経済活性化
・第1次産業の基幹産業化
・中小企業、ものづくり支援による地域経済活性化
・自治体権限強化による地域内投資循環
・地球温暖化対策の自然エネルギー産業投資
3部 国民諸階層運動の現状と展望
1 労働運動 雇用・生活危機突破
2 青年・学生 青年ユニオン・学費軽減
3 農漁民 食料の安全・燃料飼料高騰対策
4 中小業者 緊急融資・中小企業振興条例
5 反貧困 生活保護
6 社会保障 障害者応益負担・地域医療・無保険者・介護
7 平和・核廃絶 9条擁護・反核・米軍再編
09年展望を総論的によくまとめていますが、頁数をみると現状の告発型批判に傾斜して、対置すべき具体政策の提起とそれを実現する運動と主体形成については、従来の枠組みの踏襲に終わり、この切迫した危機をのりこえる有効な具体的提案がみられません。特に3部は深められた議論と探求の果てに錬りあげられた戦略ではなく、従来の諸分野の総花的なまとめに過ぎません。これは最近のマルクス系研究者の特徴であり、現状の批判的分析に終始し、政策提案と主体形成論を課題に留める傾向を反映しています。だから09年に想定される世界と日本経済のシュミレーションの幾つかのパターンを提示できないのです。最悪のパターンから最善のものまでの予測を考え抜き、どうすれば最善のものを実現できるかを主体的に構想しなければなりません。特にアキレス腱となるドル基軸の国際通貨体制と、内需型経済構造への転換を実現する財政政策について触れられなければなりません。さらに政治システムの転換について、わずかに総選挙での左翼前進に期待を表明して終わるのではなく、政治配置の再編成の可能性を分析しなければなりません。なぜなら既成の固形化していた政治意識に革命的変動が誘発されつつあるからです。この特集は、全体としてマクロな分析と提案に終わり、長期マクロ政策と緊急ミクロ政策を組み合わせた運動論的提起が欠落しているがゆえに、冒頭に整理された09年の6課題に明確に答え切れていないのです。
私はこの未曾有の危機を打開していく政治勢力の配置を既成のシステムの延長で見るのではなく、かってファッシズムに抗する人民戦線戦略の歴史的経験を再学習して、市場原理主義と投機経済を超克するという一点に絞った、21世型「人民戦線」の形成を構想します。これを私は「救国戦線」と仮称しているのですが、市場原理と投機経済による痛みをトラウマとしているすべての階層が合流する「統一戦線」のようなものを提起するのです。すでにその萌芽は、日比谷公園の年越し派遣村モデルとなって出現しています。日比谷公園へ支援に赴いた個人と団体は思想と組織を越えた良心派の総結集でした。私はこの年越し派遣村モデルが、テーマを越えて集合する絶好のチャンスがきていると思うのです。逆に言うと、マルクス系左翼のこうした大戦略なしに、この未曾有の危機を打開する可能性はないと考えるのです。原始的貧困は全国民の疲弊を乗り越えることによって、自らの貧困を乗り越えることができるのです。この危機はシステムそのもの危機であり、システム転換によってしか乗り越えられないことが明白になりつつあり、政治システムそのものの予想を超えたパラダイム転換に連動することは確かなのです。(続) (2009/1/16
10:34)
◆トヨタの明日をねがう良心的社員にこころから呼びかける
世界最大の自動車会社に躍りでたトヨタ自動車は、世界大不況を理由に2−3月に国内12全工場を11日間操業停止します。ところがこの11日の内の2日間を「休業日」として賃金を2割カットし、残り9日間は出勤して別作業をする「非稼働出勤日」か、「有給休暇」として扱い、賃金全額を支給すると云うことです。この対象は期間従業員を含むほぼ全従業員3万5000人に上ります。稼働日を操業停止日と読み替えたり、操業停止日の一部を休業日として賃金カットする労基法違反ともいえる措置が広がっています。労基法では、使用者責任で休業する場合は、平均賃金の6割以上の手当支給が義務づけられています。世界大不況のもとでの赤字宣伝による賃金カットの背後に潜む、トヨタの経営思想の貧困と姑息さが浮き彫りとなっています。
トヨタは労組との生産分科会で「今期は連結で1500億円、単独で2200億円の赤字見通しで、緊急事態ともいうべき大変厳しい状況」として、1月は3日間の稼働停止、2月以降も11日間の全工場の一斉稼働停止日を設定すると通告しました。こうした非常事態という赤字宣伝はほんとうにトヨタ経営の事実に基づいているのでしょうか。もし虚偽の宣伝であれば経営思想の根幹が崩壊していることになります。
赤字見通しの根拠は営業利益の数値であり、純利益(営業外収支を含めた経常利益ー特別損失ー税金)はじつに連結ベースで500億円、単独で2200億円の黒字となっているのです。企業の存続自身が問われている米国ビッグスリーとは根本的に違うのです。なぜ黒字を計上しながら、従業員を解雇したり、賃金カットするのか、トヨタの特異な経営が世界の注目を集め、韓国など世界からの経営視察が相次いでいます。
トヨタは02年以降米国中心に販売を大幅に伸ばし(02年16兆円→07年26,3兆円)、内部留保も飛躍的に急増させています(02年8,5兆円→07年13,9兆円)。このトヨタ売上高急増の条件は、米国市場進出による外需、小型環境対応自動車の開発という技術優位とともに、大量の非正規労働力雇用という労働力政策にあり(02年3万人→07年8万8000人)、またそれを補完する労使協調型労働組合の支援がありました。トヨタ販売台数は03年度672万台→07年度891万台と219万台と急伸していますが、うち90万台は米国市場です。トヨタは膨大な内部留保を米国現地生産に投入し、国内工場でも米国向け生産比率を02年46%→07年56%に急伸させて、逆に国内市場は11万台減少させているのです。こうして米国の不況に直撃される構造を自ら構築してきたのです。さらに非正規労働力構成をみると、トヨタ正社員平均年収800万円に比して、同じ仕事をする非正規社員平均年収300万円ですから、500万円×8万8000人=4兆4000億円という膨大な人件費削減による利益が転がり込んできたのです。この間の内部留保増加5兆4000億円の大部分は非正規労働力が生みだしたことになります。非正規が1万人増える毎に内部留保はほぼ1兆円増大するのです。
しかしトヨタは3月末までに期間労働者約1万人の契約打ちきりをすでに通告しています。非正規平均賃金300万円×1万人=300億円は株主配当金の6,7%、内部留保の0,21%に過ぎません。好況時には圧倒的な低賃金で野蛮に絞り上げ、不況になれば一転して解雇する経営思想ほどに原始的で野蛮な経営思想はありません。さらに操業停止を休業と読み替えて正規社員の賃金カットをする姑息は云うべきことばもありません。まさに経営学を勉強する必要がないほどに、単純素朴かつ幼稚で無能な経営思想しかありません。内部留保とは、技術革新と新規設備投資に備えた資本蓄積でもありますが、同時に不況時に社員の生活を保証する備蓄資本でもあります。こうした内部留保資本をいっさい出動させることなく、ただ一方的に労働力政策で乗り切ろうとする経営思想は前近代的な野蛮に過ぎません。一時的な収益を確保して株式配当を維持したとしても、こうした経営をする会社は株主からも見放され、従業員も戦々恐々として仕事のモチベーションを劣化させるでしょう。その先にあるものは、トヨタ自動車の自己崩壊です。さすがに経営者責任が追及され、朝日新聞は社長の交代をリーク報道しましたが、現社長は怒りの抗議をおこない、経営中枢では陰湿極まる主導権争いが展開されているようです。トヨタ経営思想と経営戦略の破綻をよそに、経営責任を相互に転化し合う醜い争いが繰りひろげられています。
いったいなぜトヨタ自動車はこのような頽廃的な経営に転落してしまったのでしょうか。かって15年前に今井新日鐵会長は「雇用に手をつけるのは経営者が責任をとって辞めた後だ」と言い、宮内オリックス社長は「株主重視こそ経営者の責任だ」として、今井・宮内論争が展開されましたが、前トヨタ社長(日経連会長)が「経営者たるもの、従業員の首を切るなら自ら腹を切れ」とした姿勢は大きく変貌してしまいました。それは米国バブル経済期に米国市場に進出して、株主配当と経営者報酬を重視する米国型経営思想を機械的に接ぎ木したからです。内部留保を極端に重視する日本型経営を温存したまま、急速に株主と経営者への配当を増大させていきます。1株当たり配当金をみると、03年45円→07年140円に跳ね上がり、配当金総額は1512億円→4432億円と3倍化しています。役員報酬は03年1人当たり7千万円→07年1億2200万円へと急増させています。逆に正規社員の平均賃金は03年822万円→06年800万円→07年829万円と停滞しています。ここに企業共同体を支える株主・経営者・従業員の三層の公正原則を崩壊させているトヨタ経営思想の頽廃があります。
しかし頽廃するトヨタ経営思想の本質的な構造問題は、いうまでもなく垂直的な下請制を基幹とするジャスト・イン・タイムの効率性原理の極大化構造に他なりません。リスクはすべて垂直構造の底辺へと移譲していき、頂点に君臨するトヨタ本社が最大原理順を実現するという、世界でももっとも洗練された冷酷な非人間的生産システムです。こうしたJITシステムが、労働力政策にも適用され、その時に必要なだけの労働力を無駄なく最大限働かさせるというJIT型労働力政策がトヨタで開始され、全産業に波及したのです。このシステムは市場が活性化している好況時は最大の効率を発揮し、矛盾は表面化されることなく、システムは維持されていきますが、ひとたび不況から恐慌状態になると、その前近代的な野蛮が剥きだしとなって、下請と下層労働者を襲います。豊田市や田原市に見られる愛知県西三河地域の惨憺たる現状はそれを示しています。さらにトヨタは、外部経済を最大化し、トヨタ工場を中枢とする高速道路網を公共事業として整備させ、すべての道はトヨタに通じるという一大王国をつくりあげましたが、いまや採算が取れているのは東名高速道路のみで他の高速道路は閑古鳥が啼いています。しかしそれはトヨタ自身の負担は一切ないので、負担はすべて愛知県市民に転化されています。
私は豊田佐吉が開発した自動織機から、自動車生産への参入を経て、優秀な自動車技術を開発してきたトヨタの創業とイノベーションの精神を充分に評価し、幾多のピンチをチャンスに変えて地域経済を活性化させてきた偉大な功績を認めますが、自動車産業がもはや斜陽産業であるにもかかわらず、ただJIT生産システムによるリスクの下請転嫁とあまりに野蛮な労働力政策によってのみ打開しようとしていることについて、大いなる疑問を呈します。おそらくトヨタの明日を誠実に考えようとしている良心的な社員は、私の危惧に幾ばくかの共感を示されるでしょう。この危機にあって、従来の野蛮且つ貧しいトヨタ経営思想の原理的転換にこそ、明日のトヨタが再生する絶好のチャンスであるはずです。(2009/1/14
19:59)
◆口をこじ開けても歌わせる哀れな国を、ほんとうに愛せるか?
昨年に改定された小学校学習指導要領は、音楽で「『君が代』をいずれの学年においても歌えるように指導する」とし、従来の「『君が代』をいずれの学年においても指導する」としていたのを強制化しました。「歌えるように」というたった5文字の挿入は教育現場に重苦しい抑圧感を蔓延させています。『君が代』の国歌制定時の、「歌う・歌わないのは個人の思想・表現の自由に属するから、強制にはなじまない」という当時の政府答弁はあっという間に雲散霧消してしまいました。すでに東京都町田市教育委員会は、「児童・生徒が校歌と同じように『君が代』を大声で歌うよう指導する」という通達を出し、実際の卒業式での子どもたちの声量をチェックして報告するように求めましたが、広範な市民の抗議を受けてたった1年で撤回してしまいましたが、今回の改定はこの醜悪な町田方式を全国に拡大する可能性があります。町田市教委の通達を撤回に導いたのは、小学校PTA会長をしていた在日韓国人ピアニスト・崔善愛さんを中心とする運動でした。「私の父は日本支配下の朝鮮で創氏改名させられ、学校での朝鮮語を禁止されました。そうした歴史とむすびついた『君が代』を大声で唱うように、私の子どもが強制されるのは大変な苦痛なのです」と訴えたのです(『父とショパン』影書房)。
戦時期に母を失った私も『君が代』に抵抗感がありますが、たとえ私が『君が代』賛成であったとしても、内面の良心と表現の自由を侵すような強制措置は、自由と民主主義の根幹を蹂躙するものとして拒否するでしょう。ましてや在日外国人の子弟にとっては、その苦痛は想像を絶するものがあります。有無を言わさぬ強制で響き渡る歌声をニンマリと聞いている歓声の貧しさは哀れとしか云いようがありません。世界の先進国を自称して多国籍化しているこの国の民主主義が、なぜこのように退嬰的で偏狭なレベルに堕落していったのでしょうか。それはこの国の為政者の中枢が、みずからのアイデンテイテイと未来への構想力を喪失し、華やかであった過去の栄光にすがるしかない破綻状態にあるからです。
政権与党の08年運動方針案は、「国会はねじれ現象で、政治は国民の負託にこたえられない困難な状況にある。吾が党は1955年の立党以来最大の危機が続いている。しかし吾が党に科せられた使命はなくなるどころか、さらに重要性を増している。現下の経済危機をはじめ、憲法改正、領土、拉致、教育、安全保障など吾が党でなければ責任ある解決ができない問題がいまだに山積みしている。雇用面の不安、収入減による家計直撃、医療・介護・年金など社会保障制度に対する不信など、国民生活を左右する政治課題が山積みしている。いまこそ防衛体制の整備、憲法改正に対する18歳以上の投票権実現に向けた国民運動の機運醸成、靖国神社への参拝を受け継ぎ、バランスのとれた社会保障安定財源(*消費税のことー筆者)を確保すべきだ」(概要 筆者整理)となっています。
驚いたことに、「歴史的使命の終わり」というまでの「存立の危機」にある要因を自ら内在的に分析する叙述は皆無であり、あたかも自然現象のように自らの劣化と衰退が極限に達したかのように描かれています。カジノ資本主義と構造改革の市場原理にすべてを委ね、日本を目眩くような富と貧困の格差、絶対的貧困の蔓延に至らしめた自らの政策の失敗への省察は完全に欠落しているのです。内政においても外交においても、星条旗モデルに全身を預け、ジュニアパートナーとして奴隷のように媚びへつらってきた歴史的過去にこそ、危機の要因があるのではないかという誠実な自己省察がありません。それは同時にシャープで明確な未来構想力を踏まえた政策提起能力の喪失を示し、だからこそ最後の拠点を愛国主義の鼓吹に求めざるを得ないのです。「愛国心は無頼漢の最後の拠り所」と云いますが、為政者の中枢はまさに偏狭な超国家主義の地獄へと転落しています。無邪気でいたいけな子どもたちに、強力で『君が代』斉唱を迫る剥きだしの野蛮はここから生まれているのです。
新年の財界賀詞交換会での挨拶をみると、「非常に厳しい経済状況にあり、世界経済は未曾有の危機だ。製造業の派遣は政労使で法制の見直しをしていけばいい。製造業を派遣対象から外すのは行き過ぎだ。柔軟な雇用の仕組みがなければ製造業は海外に逃避する。日本の国際競争力低下は避けなければならない」(日本経団連会長)、「経済危機的状況になっている」(経済同友会代表幹事)、「非常に厳しい状況が依然として続いている」(日本商工会議所会頭)、「世界同時不況がいつ底を打ち、どの程度のダメージで済むのか現段階ではまったく予想がつきません。今後の展望が描けません」(電子情報技術協会会長)などなど危機の大合唱であり、要するに財界中枢は現状分析力と展望設計力を完全に失っています。わずかに危機の原因に触れているのは、「肥大化したアメリカの金融制度が崩壊し、自由経済の担い手が思い上がって間違った。製造業の象徴であったビッグスリーが完全に経営的に行き詰まっていることも象徴的な出来事であり、市場経済の中枢にあったアメリカが、自らの誤りによって市場の輝きがなくなった。国際的な使命を果たせる政治システムに向けて、与野党が議論しているテーマは非常にいいテーマが多い。テーマを解決する方向性が内部対立では駄目で、一致協力してものをまとめていくことを求める」(社会経済生産性本部会長)などという意見がありますが、要するに与野党大連合にしか期待できないのです。この社会経済生産性本部会長は、経済同友会代表幹事時代に発表した「市場主義宣言」(1997年)で「市場は競争を通じて効率的な資源配分を実現する極めて優れた仕組みである。経済社会の運営を可能な限り市場にゆだねることが基本とされるべきである」と主張し、さらに経済財政諮問会議民間議員として市場原理主義構造改革を宣揚してきたみずからの犯罪的足跡については完全に沈黙しています。ここに自己省察力の究極の欠落があるばかりか、他者に「自己責任」を説きながら自らは逃走する救いがたいモラルハザードがあります。かれらにできることは、わずかに派遣や契約社員などの非正規労働力を無慈悲に解雇して、人件費を削減することでしかないのです。
ピュアーで無垢な子どもたちの口をこじ開けてでも、『君が代』を大音声で歌わせたがる人たちの熱心さは、じつは自らがほとんど未来構想力を喪失した不安とニヒリズムからくる焦燥の逆表現にほかなりません。最大の犠牲者は子どもたちのいたいけな精神です。こうした状況はちょうど、1929年世界第恐慌で没落する中間層のニヒリズムをつかんで独裁を実現したナチスの心性と酷似しています。没落の恐怖に覚えるワイマール市民は、世界の闇を一気に切りひらくようなヒトラーの演説に狂喜してトランス状態に陥り、果てなき地獄へのみちをキリモミ状態となって転落していったのです。
こうして政界であれ、財界であれ、システムを主導するメンバーの無知と無能が際だって限界に逢着しているのが、哀しいかなこの国の偽りなき事実です。しかし100年の1度の未曾有の危機は、同時に100年に1度の革命的事態でもある可能性が開けているともいえます。もはや既成のシステムが全線で崩壊しているからには、システムの部分修正による打開に希望はなく、システムそのものの原理的な再編成にしか救国の途はありません。口をこじ開けて唱わせようとするシステムを廃止し、誰もが心ゆくまでに自由にのびやかに唱い、或いは沈黙するシステムへのパラダイム・チェインジが求められているといえましょう。(2009/1/13
19:40)
◆人の世話になることを恥と思え
11日放送のフジTV「新報道2001」という討論番組で、雇用危機を脱却するというテーマで話し合いがありました。そのなかであるゲストが、「年越村で支援を受けた人たちは、人の世話になることを恥と思い、支援を待つのではなく行動すべきだ」と述べていました。この言説は、年越村にたどりついた人たちの実態に対する事実認識の貧困を浮き彫りにしています。日比谷公園に流れ着いた大多数の人は、派遣切りの窮状をなんども味わい、自らの努力を極大化しながら、最後にすべてを失って漂着した人々に他なりません。それは499名のうちの約半数がただちに生活保護を申請し、全員が受理されたことに示されています。いまや派遣労働者の大多数が、じゅ救貧民の瀬戸際に追いつめられていることは明らかなのです。こうした原始的貧困に喘ぐ人たちの自己責任を追及するのは、かっての19世紀的な貧困観の亡霊を想い起こさせます。当時は貧困を個人的努力を放棄した安逸のもたらした結果であり、原始的労働関係による少年・少女労働すらが、最大限利潤追求の生け贄とされました。彼らは恩恵的救済の対象でしかなく、お恵みを受ける哀れな人間の屑とみなされたのでした。
こうした貧困観が100年を経て亡霊のように甦っている国は、実は世界でももっとも特殊な国なのです。それはいうまでもなく、シカゴ学派の市場原理論によるトリクル・ダウン・セオリー(滴り理論 成功者の繁栄が涙が落ちるように貧困層に波及し全体が向上する)の素朴な野蛮を信奉してきた米国と日本に他なりません。20世紀の貧困観は、貧困が誘発される制度社会的な要因を重視し、すべての人間の生存権(健康で文化的生活を営む権利)を基本権と位置づけ、その実現を政府の義務とみなし、生活保護法などの社会保障立法として具体化しました。亡霊のような貧困の自己責任論が登場して恥じない国に頽廃している現状は、日本の生存権思想の未成熟を示しており、逆に日本が時間を逆行しつつあることを浮き彫りにしています。なぜなら年越村に集まった人たちの人格を否定する思想は、生存権による生活保障制度そのものを基本的に否定しているからです。
たしかに日本では、生活保護を受給することに、なにほどかの後ろめたさがただよい、申請行為そのものを忌避する傾向がありました。窓口での冷ややかな対応は、まさに自分の全人格を汚されるような屈辱感なしには耐えられないのです。先ほどの発言は、そうした生存権をめぐる日本的文化の貧しさを反映しています。
さて日比谷・年越村に集住した大多数の人たちは、1999年の派遣自由化と04年の製造業解禁の渦中にあって、自らの就業形態を規定された人たちです。それまでは通訳・翻訳業など一時的・専門的職種のみにふさわしいとされた派遣という就業形態が、日本の就業形態の基本となった犠牲者に他なりません。ちなみに07年の製造業従事者構成は、総数953万人のうち、正規851万人、派遣45万人、契約・嘱託57万人であり、青年層においては非正規就業が40%を超えています。いまや大卒といえでも正規就業は難しいのです。こうした悲惨な実態を誘発した法改正の時点では、自由就業による自己実現という虚栄の幻想が華やかに振りまかれ、多くの人がそれに巻き込まれてしまいました。それは”純ちゃ−ん”と叫んで、あたかもタレントのように時の首相を歓呼して迎えた有権者の虚偽意識が生み出したものにほかなりません。
貧困の自己責任論を主張する人は、率直に言って競争の勝者として自己を肯定するしかない憐れむべき心性の持ち主といえましょう。他者を犠牲にしてみずからの安楽を実現してはばからない、動物的本能にまみれた人間的人格の破産者に他なりません。しかしもっとも大事なことは、競争の敗者の多くが、”純ちゃーん”と宣揚した自己責任論の支持者であったことです。だからほんとうに考えなければならないのは、哀しいことになぜ扇動の虚偽意識にみずから参入していったのかーという精神構造にあります。
残念なことに、日本歴史をひもとけば、日本の市民達は自らの足で立ち上がり、幾多の犠牲を覚悟しながらも、世の中を自らの手によって変えるという革命の体験を持ち得なかった、世界でも珍しい特異な民族であることが分かります。それは「水戸黄門」というギネスに登場する世界最長のTVドラマにくっきりと象徴されています。悪人どもの被虐を一身に受けた民衆は、ひたすらに葵の紋の登場を乞い求め、救済者としての水戸黄門の現前に涙を流して感涙に咽び、水戸黄門は悠然と夕闇迫る地平線の彼方に去っていくのです。被虐の民衆はついに最後まで自らの足で立ち上がることはなく、メシアの登場を願って耐えていったのです。水戸黄門を頂点とする階級的身分社会のシステムは永遠に不滅と錯誤され、民衆が主権者となるシステムはつねに外部からもたらされた歴史として刻まれてきました。黒船からGHQを経て、ときどきのメシアとしてのスーパースターの出現に愕然と狂喜しながら、つねにシステムの受容者として我が身を温存してきた、世界でも希な文化が形成されて現在に及んでいます。
年越村に集まった人たちの多くは、自らの挫折を自己責任として受容し、自らの人格の毀損を自ら遂行するという、究極の誠実さを示しています。彼らこそ「人の世話になることを恥と思う」心性のはてにすべてを失って日比谷公園に漂着したのです。制度の犠牲者そのものでありながら、制度を従要として受容している人たちに、傷口に塩を塗り込むように「自己責任」を説く神経の無残さは地獄のものでしかありません。同じ時に、巴里郊外の若者たちは反乱を起こして労働規制緩和法を廃案に追い込み、ギリシャの青年達も数週間に渡って政府を糾弾する運動を繰りひろげています。この恐るべき非対称性は、そのまま日本の未来に対する希望と失望の非対称性に連なっています。
こうして2009年の課題はもはや明らかとなっています。システムの部分的修正では、さらに多くの人たちが日比谷公園に漂着していくことが繰り返されるでしょう。システムそのものの組み替えを指向する変革の意識が間違いなく、地下水脈のように湧き起こり、ついに地上に姿を現して街頭を公然と進んでいくでしょう。彼らはもはや頭を垂れて虚ろに地上に腹這う者ではなく、公然とまなざしを前方に向け、直立歩行の本然の姿を甦らせた主体者として登場するでしょう。私はもう一度「闇が深ければ深いほど夜明けは近い」という確かな弁証法がついに証される日が来ていると信じます。ひかりは前方から指し始めていますが、後方の闇はいよいよ深く、退歩のほうに引きこまれる弱さを誰しも胚胎しています。しかしひかりは前方からのみ来るのであり、過ぎ去りつつある残光に決然と別れを告げなければなりません。それは誰それのメシアの出現への期待をすべて断念し、自らこそが喜ばしいメシアの主体であるという、いまだ現前せざる真実のシステムへとほのかに自分が変貌していくことに他なりません。2009年の世界はこのような根元的(ラデイカル)なシステム転換が、静かに忍びよるように地球を浸蝕していくでしょう。もはや勝者もなく、敗者もなく、卑小な勝敗のレベルをはるかに超えた励まし合いと歓待の時代が姿を現してくるでしょう。(2009/1/12
10:59)
◆イスラエルを哀しむ
イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの攻撃による死者は800人、負傷者は3330人を超えました(うち40%は子どもと女性)。封鎖によって疲弊したガザ地区は、空爆と地上の直接攻撃によって、パレスチナ人の生命維持は限界に達しています。あたかもナチスによるホロコースト、或いはショアーとも云える民族抹殺に比肩する行為に他なりません。イスラエル政軍の苛烈な抹殺戦略の背後に、いったいどのような正戦の原理があるのでしょうか。驚くべきことに、哀しいことにイスラエル世論は、アラブに対するショアー作戦を全的に肯定してるようです。イスラエル紙イデイオト・アハロイトの世論調査は、私たちの予想を超える驚愕的な結果を示しています(1月4日〜6日電話調査)。
Q1)ガザのインフラや民間人に被害があっても、ガザへの空爆は正当化されるか? YES 92%
Q2)ガザの封鎖解除と引き替えに、ハマスがイスラエル南部へのロケット攻撃を停止するという場合、停戦すべきか? NO 80%
Q3)すべての目的を達するまでに攻撃を続けるべきか? YES 90%
戦時において民衆の心性は狂気の憎悪に組織されることをこれほどに示している世論調査はないでしょう。イスラエル政軍は、自国民の圧倒的な支持と米政府の支援及びエジプト親米政権の折衷政策などの国際条件を最大限に利用しながら、パレスチナ人自治地区の実質的な抹殺に踏み出しているように思います。私はイスラエルの存在根拠を、ナチスによって600万人を殺害されたホロコーストからの最後の生存を求めるシオニズム思想を、やむを得ざる緊急避難的な措置として容認する主張にある種の共感をいだいてきましたが、その場合も先住パレスチナ人との協和的な共存を条件にすべきだと考えてきました。こうした願望は苛烈な生存の対立をみない甘いものであったのでしょうか。さらに私は、ナチスや旧ソ連によるユダヤ人迫害の真実を迫真的に伝える肺腑をうがつようなユダヤ系文学と思想に震えるような共感を覚えてきました。
しかしもはや先記した質問にある剥きだしの適意が事実であれば、もはやイスラエル国家を形成する人々へのいかなる共感的親和をも廃棄せざるを得ないのです。私の考えは、何らの直接的影響も受けない局外者の外在的な観照にしか過ぎないのでしょうか。そうした批判を覚悟しつつ、私はイスラエルの攻撃を自衛を越えた戦争犯罪を犯していると認めざるを得ません。20世紀の先駆的な思想の先端をユダヤ系思想家が切りひらいてきました。アンナ・ハーレント、ベンヤミン、デリダ、ショーレム・・・数えればきら星の如くユダヤ系思想家の名前が浮かんで参ります。私は冷酷に云えば、これらの高名な思想家たちは、欧州良心派のホロコーストへの贖罪意識を客観的に媒介しつつ、自らの思想を構築してきたのではないか・・とさえ思うようになりました。
ただし、もし星条旗帝国の暗黙の支持がなければ、イスラエルは国際犯罪を構成するような攻撃を選択できないことも事実です。私は、たとえ黒人大統領が誕生しようとも、星条旗帝国のイスラエル政策の犯罪性を指摘し、糾弾します。もしかしたら、イスラエルは欧州社会から受けた忍びがたいトラウマとステイグマの抑圧を、アラブに向かって移譲しているのではないだろうか。ここには抑圧の移譲という悪魔のスパイラルが狂気の憎悪をともなって放射する地獄の惨状があります。その逃れざる結果は、憎悪の連鎖が幾世代にも渡って、未来永続的に継承されていく煉獄に他なりません。
もはやホロコーストを歴史的免罪符として、自己の行為を無限定に肯定されとするイスラエルの論理は破局に瀕しています。それはイスラエルそれ自体の存立条件の基底を剥奪し、もっとも孤立した自閉的国家として衰滅する結果をもたらすに違いありません。良心的ユダヤ民族の最後の良心が試される極限的な局面にあるのではないでしょうか。そして星条旗帝国とともに、イスラエルに加担してきた東アジアの島国も又免罪される資格を奪われているのです。(2009/1/11
18:54)
付記)イスラエルの停戦発表に次いでハマスの1週間停戦宣言でガザの砲声はやんだかに見えます。22日間に渡るイスラエルの戦争犯罪の実態をみてみましょう(パレスチナ人権センター調査)。
空爆回数 2500回
死者数 1038人(うち子ども 300人) *1月14日現在
うちハマス戦闘員死者数 48人
負傷者数 人
ガザ被害総額 16億j *パレスチナ中央統計局推計は4億7600万j(430億円)、瓦礫撤去費用5億j
完全に破壊された家屋 4100棟
損害を受けた家屋 1万7000棟
破壊施設 モスク20 教育・医療施設25 治安関係施設31 省庁建物16 工場・作業所・商業施設1500 国連施設53(被害を含む)
ガザのインフラは破壊され、多くの無垢のいのちが殺害されました。イスラエルは逆ホロコーストないしショアーを実行したのであり、明らかにイスラエルは道義的に敗北したのです。「無意味な戦争がイスラエルの道義的敗北をもたらした。イスラエル軍のガザ撤退によって戦争犯罪と告発するに値する行為の証拠が明らかとなるだろう。ガザ南部の村で、イスラエルのブルドーザーが住民の掲げた白旗を無視して家を破壊し、14人を殺害したのはジュネーブ条約に違反する。今回のガザ攻撃に反対して兵役を拒否したイスラエル兵士・ベンモチャは「私は平和主義者ではない。シウラエルの強い防衛軍の必要を認識するが、しかし40年間の占領はもはや加担できない。ガザ攻撃や占領永続はイスラエル防衛ではない。我々は将来の数千人の自爆者を、死者の兄弟、息子達から生みだしている。テロを生みだしているのは我々だ。私はハマスのロケット攻撃を正当化はしない。われわれイスラエル人は、イスラエルが何をしているかをまず直視すべきだ。私は兵役拒否によって投獄されるが、今回軍は私を家に帰した。軍が兵役拒否者の存在を認めたくないからのようだ」と語っている。
イスラエルの使用武器の大半は米軍需企業のものであり、莫大な利潤を上げたのは米国軍需企業のみであり、米国もイスラエルも莫大な軍事費による財政破綻に直面しています。イスラエルの背後にいる米国こそが世界最大のテロリストに他ならないことが明らかになってきました。米国内ユダヤ人票で当選を実現した次期オバマ大統領は沈黙を守っています。ケネデイ・ライシャワー路線の偽りの協調外交の本質があるのでしょうか。(200/1/20
16:47)