第7エッセイ集 (2005年1月1日〜2005年8月16日)
第6エッセイ集 (2004年5月5日〜2004年12月22日)
第5エッセイ集 (2003年9月13日〜2004年5月4日)
第4エッセイ集 (2002年12月30日〜2003年9月12日)
第3エッセイ集 (2002年4月28日〜2002年12月29日)
第2エッセイ集 (2001年8月14日〜2002年4月27日)
第1エッセイ集 (2001年3月5日〜2001年8月12日)
第8エッセイ集(2005年8月17日〜 最終更新日
12月24日)
[Why Japan Has No Friends(日本にはなぜ友人がいないのか)ー『ニューズウイーク』10月31日特集より]
表紙に大書された特集号には、日本の首相がひとりぼっちで無視され、そのまわりで近隣諸国の代表が楽しく談笑している漫画が掲載されています(12月7日号)。
「日米が緊密であればアジアも良くなる。靖国は外交カードにならない」(日本首相 11月16日)とか、「中国と韓国だけがアジアではない。遊就館は事実を展示しただけだ。こちらはいつでも会うと言っているのに向こうが会わないのでは、話にならない。あの国は予想が立てにくい」(日本外相)などのアジア諸国を侮辱する挑戦的発言を繰り返す日本政府は、アジアで四面楚歌のみじめな孤立状態におちいっています。米国の代理人としてふるまう日本は、「10年前まではASEANにとってナンバーワンであった日本は、いま地域での存在感を喪ってしまった」(チュラロンコン大学ポンステイラック助教授)のです。
孤立した日本政府は批判を謙虚に検討することなく、逆に居直って攻撃を強め、俺には最強のボスがバックにいる、なにか文句あるか!とまるで三下ヤクザのようにふるまっています。かえってボスのほうが困惑してたしなめていますが、それでも聞く耳を持ちません。白人へのコンプレックスと裏返しのアジア蔑視という福沢諭吉起源の脱亜入欧思想が身に染みつき(彼らの多くは推薦入学した福沢創立の大学出身者が多く基礎学力がない)、ボスなしには将来の展望を考える能力がない。恐いのは、階層分裂が進む日本の下層市民に溜まっているルサンチマンが、首相のアナクロニズムに巻き込まれて同調する気分が広がっていることです。韓流ブームの一方で、街の書店の棚には嫌韓流とかいう漫画本が溢れるという複雑な状況があります。国内の不満を対外的に煽って振り向ける支配の方法は、60年前の戦争でイヤと言うほど味わったのですが、その痛苦の経験は生かされないまま、息を吹き返しつつあります。ちょうどアドルフ・ヒトラーが登場して、ファナテイックに救世主として崇拝した時代の雰囲気によく似ています。ヒトラーに心酔したグループは、底辺にうごめくドロップアウトしたアウトサイダーのゴロツキからはじまって、しだいに階層分裂で没落する中間層の不安を集め、ついに選挙で多数を制するに至りました。同じように出口が見えない不安を抱える日本の青年層が、メデイア操作によって首相の改革幻想に踊らせれています。
孤立すればするほど、逆に意固地になって批判者を攻撃し、自分を強く見せようと言うのは、実は弱い者の使う常套手段です。弱い犬ほどよく吼えまくり、特に三下の子分ほど、親分に気に入られようとして常軌を逸した言辞を弄するようになります。「中国は現実的脅威となった」(A外相、M野党党首)などのオオカミ発言に続いて、遂に日米同盟によって中国を攻めるような発言をするようになりました。中台間紛争時の米軍出動時の日本の対応について、「米軍への後方支援を展開できる場合があるかないか、主体的に判断し、決断していく」(N防衛庁長官 11月28日)と軍事介入を肯定するまでに至りました。ポツダム宣言や日中平和友好条約、周辺事態法にさえも反する違法な暴言ですが、こうした主張をしてももはや罷免されない状態になっています。スキンヘッドで戦闘服に身を固めて大音響をたてながら街を走り回る右翼街宣車の主張が、いまや日本政府自身によってなされています。いや右翼でさえも口に出せなかった極右の主張です。
Why Japan Has No Friends? 答えは明らかです。親分の意向を傘に着て、仲間を脅かしては同調を強要するような人を誰が友人とみなすでしょう。しかもかって2000万人の兄弟姉妹を殺害した過去の責任者を慰霊している人をです。いつまで昔のことをほじくり返しているのか、と逆に居直っている人を誰が友人とみなすでしょうか。「ドイツは隣国に苦痛を与えた人々の追悼施設をひとつもつくらなかった。東アジア共同体の核心は、過去の秩序に対する徹底的な反省に基づく」(ノムヒョン韓国大統領)のです。日本列島は歴史上始まって以来の豪雪が吹きすさび、どうもこれは天変地異の始まりではないかと危惧していますが、自然現象すらも日本に警告信号を発し、正道の道へ戻れと呼びかけているかのようです。
残念ながら日本歴史は、民衆と市民がみずから立ち上がって、血を流して自分で世の中を変えた経験がありません。江戸時代から、はやく水戸黄門が表れて葵の印籠を出して悪人をやっつけてくれないかなーと乞い願いながら生きてきました。変革は常に外部から「黒船の来航」を契機にもたらされ、内部から湧き起こった行動は常に鎮圧されました。悪いことをやっても、大岡裁きにすがって責任者を自分で裁いた経験がありません。イタリアの市民は独裁者ムソリーニを広場に吊して処刑しました。こうして自由民権や戦犯裁判、戦後改革の挫折は世界でもまれに見る君主制を存続させています。つねに大勢の流れに順応し、強者のまなざしを気にしながら、適当に身を処していく行動様式が染みついてしまい、忘却を繰り返しながらキッパリと責任をとらない歴史が偽造されてきました。おそらく偽造建築士もいつのまにかうやむやに過ぎて忘れられていくでしょう。後には恐怖に震えるマンション住民を見捨てながら。
Why Japan Has No Friends? ニューズウイークの問いかけに、米国研究機関は「日米同盟の強化と日本の改憲を支持するが、遊就館に展示された靖国神社の戦争を正当化する歴史観は容認できない。東アジア首脳会議の場で、日本の首相は靖国参拝中止を宣言すべきだ」(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン 12月9日)と答え、米国政府も同じアドヴァイスを日本に繰り返しています。もはや日本の首相の行為を認める国は全世界に一つもないのです。日本の首相はホワイトハウスの言うことは不承不承に受け入れるのでしょうか。それとも完全に孤立して満州国建国時の国際連盟脱退の道を歩むのでしょうか。
奢れる者は久しからず、ただ春の夜の夢に同じ。日本の首相の愛読書は、加藤廣『信長の棺』だという。果断にして疾風のごとく動き、予期せぬ謀反に潔く散った美学に参っているそうだ。”人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬもののあるべきか”と嘯きながら彼も日本を破滅させて、この世を去りたいのだろうか。自らの頭脳で展望を切り開く能力のない者は、どうしてか歴史上の人物に自分を仮託して自己肯定を計ろうとする。平等を希求する一向一揆に血なまぐさい殺戮を繰り返しては地獄に堕ちていった、ホモ・セクシュアルの戦国大名を崇拝するこの人物に統治を語る資格などあろうはずがない。日本の首相がこの程度の知的レベルにしかないことが、日本の致命的な現状を象徴している。さてもおそらく21世紀の初頭は、権力の恣意的偽善を見抜いた日本の市民が初めて自力で立ち上がり、自からが水戸黄門となって世の中を変える歴史的経験をすることになるでしょう。なぜなら権力の恐怖で不正と虚偽を強いる行為は、かならず歴史の裁きを受けるからです。米国の惨めな代弁者となって媚びへつらうような行為は、あまりにも恥ずかしく寂しいものです。私は窓辺からいつまでも降り続く純白の雪をみながら、暮れゆく2005年の残酷と永訣し、新たな年の朝をひそやかな希みを胸に刻んで迎えようと祈念しています。1年間にわたって、このむさ苦しいサイトをご覧いただいた皆さまに心より感謝の念を捧げながら、2007年がどのような年になるか、ドキドキするような期待と不安が交錯している次第です。(2005/12/24
12:54)
[ついに人口減少が始まったー”我が亡き後に洪水は来たれ!”]
厚労省人口動態統計05年年間推計で、遂に日本は死亡数が出生数を上回る自然増加数マイナス人口時代に突入した。統計開始の1899年(明治32)以来の初めての事態であり、おそらく日本歴史史上初めての経験であろう。将来人口推計は、06年1億2774万人をピークに07年から減少に転じ、2050年1億59万人そして2100年には6400万人に半減する。これがどんなに恐ろしいことかは、単純に言えば自分の今の家族が半分になったときの状態を想像すれば分かる。どうしてこんな悲惨な人口構造に転落したのだろうか。原因は単純である。子どもを産み育てることの喜びよりも不安のほうが強く、若者たちが希望を失って出生率減少が歯止めのきかない状態におちいったからです。なぜ若者たちは子育ての希望を失ったのでしょうか。ここに日本が今抱えている問題のすべてが凝集されています。
驚いたことに人口が半分になる社会を歓迎するような議論があります。空き家が2倍に増えて1家族あたりの居住面積が増える(内閣府『21世紀ビジョン』)とか、都心への通勤人口が減って交通難が緩和される(東大予測)等の単純な議論は論外として、一国でなくアジア全体で見れば心配はない(朝日新聞23日社説)など人口減少をゆとり社会と見るおめでたい主張があります。こうした議論をバックにした政府関係者の自己責任の回避は目をおおわしめるものがあります。A官房長官は「確実に少子化を食いとめる政策はない」と政策責任を放棄し、厚労相は「少子化対策として消費税を考えてほしい(19%へアップ)」と少子化問題を脅迫に使っています。人口が半減するという危機を目の前にして、統治能力の喪失が露わとなっています。
ではなぜ若者たちは子どもを産まないのでしょうか。一般的に成熟社会は少子化に向かいますが、日本の若者は自主的な選択として産まないのではなく、他律的に産めない状況に追いつめられています。若年雇用の30%は生活が維持できない年収200万円未満の非正規雇用に転落し、夜8時以降の帰宅が60%を超える長時間労働であり(政府は年間1800時間の時短目標も取り下げた!)、年金や医療費の自己負担が強化され、国立大学学費は値上げされ、公立保育園の保育料の値上げなど子育て条件が破壊されています。正社員でもリストラの不安の中で、若者たちは子育ての条件を根こそぎ奪われています。
これは欧米諸国が、最悪1,1台に落ち込んだ出生率を急速に回復させている状態を見れば明らかです。例えば男性の帰宅時間は、スウエーデン男性の70,9%は午後6時までであり、政府は公的保育と子育て支援手当を充実しています。こうした成功例から学んで日本へ適用すればいいのですが、なぜ日本は失敗しているのでしょうか。簡単に言えば、少子化対策よりもビジネス利益極大化の経済政策を優先させる福祉敵対政策を推進してきたからです。
マネーを求めて狂奔する市場競争を野放しにして、自分だけは生き残りあわよくば六本木ヒルズに入居しようとする自己利益追求人間がモデル化され、社会は両極分解して、マネーゲームの勝者しか子供を産めないシステムになってしまいました。こうしたシステム思想の根底には、シカゴ学派の市場原理主義の蔓延があります。この学派はすべてを「市場の滴」に委ね、公共の業務を経済を沈滞させるとして攻撃します。すべてをマネーで鑑別する思想は、無邪気に微笑む天使のような赤ちゃんは、マネーをもたらす経済の対象とはなりません。なぜなら子どもたちは未来を代表していますが、現在の利益にとってはコスト負担のみを意味するからです。現在の利益のみが至上の価値であり、人間の生命や人口の維持などのコストは極小化しなければなりません。まさに”我が亡き後に洪水は来たれ”という聖書の世界です。
いまあらゆるデータが日本の迫りくる崩壊を示していませんか。偽造建築で倒壊する建物を売りまくる建築屋、株の誤発注を利用してたった3分間で400億円を稼ぐ金融証券屋、700兆円もの国債の借金を次世代につけ回し、外国軍隊を国内に置いて2800億円をプレゼントし、批判する市民を監視カメラで捉えては密告させ、労働保護法制を次々と改訂して労働権を奪い、君が代強制を受け入れない教師を解雇し、介護病床を廃止して有料ホームへ高齢者を移し・・・・・数え上げたらきりがないシステムのメルトダウンが進んでいます。競争システムの不安は、トラウマとすさんだ人間関係をもたらし、蓄積されるルサンチマンを弱者攻撃へ向け、会社で落ち込んだ夫は家で妻に暴力をふるい、妻は幼子を虐待し、子どもはペットを虐めるという暴力の連鎖が広がり、子どもたちは通学路で襲撃を受けています。どこかおかしい、なにか狂っているんじゃないかと怯える市民は、誰か変な人はいないかと自警団を組織して相互監視と摘発をおこなっています。こうしてシステムそのものがゆらぎ、崩壊の前夜にあるような情況です。カルトや占い、邪教がはびこる社会は終末を象徴しています。日本の歴史上まれにみるミゼラブルな世を前にして、首相は他人事のような平然たる表情で相変わらず「民間でできるものは民間で」とワンフレーズ・ポリテックスを振りまいています。ここにある感受性の頽廃を表現できる言葉はもはやありません。おそらく逸脱心理学か異常心理学の研究対象でしょう。これが人口半減社会の背後にあるすべてです。(2005/12/23
12:27)
[エルトン・ジョンの同性愛婚を考える]
もとビートルズ・メンバーであるエルトン・ジョン(58)が男性映画プロデユーサー(43)と、チャールズ皇太子が再婚の挙式を挙げたロンドン郊外ウインザー城近くのギルドホールで21日に結婚式を挙げた。53歳になるエルトン・ジョンは白髪の目立つ中年となり、パートナーは15歳年下のイガグリ頭で、二人とも笑顔で手を振って答えています。ジョージ・マイケルの挙式も近いと言われています。英国で施行された同性パートナー法は、同性愛者が「市民パートナー」に登録すると、異性婚夫婦とほぼ同じ年金、相続、生命保険などの優遇措置を受けられる。英国イングランドとウエールズ地方ではすでに同性愛カップル約700組が登録をすませている。英国では今後5年間で1万1千件の登録が予想されている。2001年にオランダが合法化してから、ベルギー、カナダ、スペインと続き、米国はバーモント州とコネチカット州が認め、カリフォルニア州議会は可決したがシュワルツネッガー知事が拒否権を発動して阻止している。逆に11州では禁止する州法が可決されており、米国は分裂状態だ。フランスとドイツは異性婚と同じ権利を一部認めています。
かって私たちは、同性愛者をホモとかレズ、ゲイと呼んで嘲弄し、異常性愛の変態心理学の対象として迫害してきたし、今もなお偏見は根深い。あたかも刑務所や寄宿舎で見られる逸脱行動のように。朝日新聞12月17日付けの相談コーナーで、山形県の男子高校生(18歳)が次のような相談をし、自らカミング・アウトしている服飾デザイナーのピ−コ氏が答えている。
(相談)「僕はゲイなのかもしれません。男の人しか好きになれないのです。通っている男子校では、同級生や後輩に対して恋愛感情を持ってしまいます。相手に告白したいと思うのですが、変態とか思われるのが怖くとてもできません。男の人しか好きになれない自分がとても孤独に感じられ、悲しい気持ちになってしまいます」
(回答)「あなたはゲイだと思います。でも人を好きになることは仕方がないことで、あとは自分が受け入れるしかない。一生変わらないから、変態だと思われたくないなんて考えない方が良い。陰湿なゲイになるのが一番いけないことなの。みんなに受け入れてもらうためには、素敵な人間になるしかない。努力しないと駄目よ。みんながいやがることを率先してやるとか、まわりの信頼を得て、その延長線上でカミングアウトしても平気だと思うの。まだ18歳なんだから誰にもすかれるように自分を磨くことね。男女の間だって相手が見つからない人がいっぱいいる。親に納得してもらうことも大切よ。特に母親が一番いやがるの。自分の責任と思うから。大掃除など率先してやって何気なくにおわせた方がいいわね。みんなに知られるのがイヤなら、一生隠して暮らすしかない。でもそれで女性と結婚してもあなたも相手も不幸よね。どちらを選ぶかはあなたの自由だけど。暗いゲイは嫌われる。どうぞ明るいゲイになってね」
ピーコ氏の回答はいかにも爽やかで明るいが、そこに至るには相当の紆余曲折があったと推測される。ゲイであるピーコ氏が答えているから、行き届いた前向きの助言となっているが、そうではない人が答えたらどういう内容になるのでしょうか。しかしピーコ氏の助言もゲイ者の一方的な努力による社会的受容が奨励されており、日本の悲しいまでに根深い偏見が伺われます。ピーコ氏の唯一の間違いは、一生変わらないとしていることですが、実際には対象が変わるトランス・ジェンダーの人もいます。おそらく日本では、多くの人が自分を隠して「暗い」ゲイとして今を生きているのでしょう。しかしこの男子高校生は男子校です。女子校でよくささやかれる同性愛は、一方の女性が擬似的な男性を演じてコミュニケイトする一時的な代替愛でしょうが、男子校でも同じことがあるのでしょうか。この男子高校生はどうも女性の役割を演じているような気がします。宝塚の世界はまさに女性の男性的な強さに対する憧れを、男装した女性が演じる擬似的男性に求める劇世界であり、そこには男性との直接のコミュニケーションを禁欲する純情があります。こうした一時的な過渡期の作為されたピュアーな感情とは異なる自然で生得的な愛情が同性愛です。
かってナチスは同性愛者や精神障害者を民族の純潔を汚す者として迫害し、断種したり強制収容所に隔離して根絶する政策をとりました。いま同性愛を異性愛と同じ普通の健常な姿と社会的に認め、公正に位置づける潮流が進んでいます。エルトン・ジョンの挙式は、第2次大戦後の世界の人権感覚がもはや食いとめることのできない奔流となって進化していることを示しています。
同性愛者の存在割合は、英国調査で男性3,6%、女性の1,7%、米国世論調査センターでは男性2,8%、女性1,4%、ハーバード大学調査(1995年)では男性6,2%、女性3,6%でいずれも相対的に男性の方が多い。なぜ男性が多いのかを考えると、女性の方がより社会的抑圧に適応的であるからでしょうか。異性愛・同性愛・非性愛など人間の性的傾向は、性同一性障害と同じく自律神経を司る脳機能によって規定されているという説が有力であり、特にスウエーデンでの研究が進んでいる。しかし私は生物学的な唯脳論的決定論よりも文化・宗教的要因を考えてみたい。ほとんどの文化・宗教は種の保存と共同体の維持を優先するために異性婚を優先し、同性婚を排除してきた。逆に同性愛に寛容な社会では同性愛者が増え、生育環境が同性愛的感情を育む場合も増えるという事実は、同性愛がジェンダー問題であることを示している。イスラム教は同性愛を厳禁し、場合によっては石打や処刑の対象となり、聖書・レビ記では男性同性愛者を死刑と規定している。ところが中世日本では武士団の団結強化のために同性愛を推進したり、成人男性と少年との同性愛が公認された(織田信長ー森蘭丸など)。これらは同性愛が文化・宗教的に規定されたジェンダーであることを示している。要するに唯脳論的決定論であれ、文化・宗教的要因であれ、同性愛者自身には何等の責任もないのです。
いま同性愛者の間に、自己に誇りを持ち、ゲイ・パレードやインターネット上でのコミュニケーションを通じて差別を克服する運動が盛んになっている。新宿2丁目や大阪の堂山町に行けば、カミングアウトした人たちが賑やかに集っている。私は、同性愛をとりたてて肯定したり排除するのではなく、単なる恋愛感情のバリエーションの一つとみなす文化が徐々に育ちつつあるように思う。すでにG8先進国の多数は、教会もリベラルとなって同性婚を認めている。残念ながら日本はまだ、興味本位の異端化がみられ、見せ物扱いしている傾向がある。血友病エイズ患者のカミング・アウトがつい最近であったように、企業や学園でカミング・アウトしたならば、どのような排除のまなざしを浴びるかを考えれば実に厳しいものがある。日本はしばらくは、ピーコ氏の言うようにいばらの道を歩むのだろうか。(2005/12/22
10:29)
[内なるゼロ・アクセス・ポリシー]
1990年代の湾岸戦争から、米国政府は海外から移送される米兵の遺体が収容された星条旗の棺桶の映像の報道を禁止した。さらに負傷者や死者の衝撃的な痛ましい映像の報道を規制する措置を採ってきた。これがいわゆる「ゼロ・アクセス・ポリシー」だ。報道の自由を主張するCNNがこの規制を無効とする訴訟を連邦裁判所に起こし、ブッシュ政権は規制を撤回した。大義なき権力はつねに自らの恥部をさらけだす真実が白日の下にさらされることを恐れ、特に戦時のメデイア規制に誘惑される。報道や表現の自由は、その国のデモクラシーのレベルを計るバロメーターとなる。CNNの勝利はアメリカ民主主義がいまだ或る水準で健在であり、機能していることを示している。しかし彼らと雖も、9.11直後のファナテイックな反テロ宣伝の一端をにない、アフガンからイラクに至る米国の単独行動主義を宣揚した罪は深い。
しかし日本のメデイアはもはやメデイアの本質的機能である権力の監視と批判という本源的な役割を喪失して、漫画のような劇場型報道に頽廃し、それは日本の首相のワン・フレーズ・ポリテックスをオウム返しに垂れ流し、劇場型選挙によるマス・デモクラシーを煽る宣伝報道に露骨に表れた。圧勝した日本の首相は、想像を超える過酷な反福祉重税政策を情け容赦なく次々と繰り出し、投票した市民はあっけにとられていま慚愧の涙を流している。今から思えばNHK・従軍慰安婦番組への政府介入をめぐる経過は、日本のメデイアの方向を決める決定的な分岐点であった。番組内容の政治家への事前説明という、およそ信じられないような報道の自己否定は、撤回されることなく今も続いている。朝日はいつのまにか矛を収め、事後の経過報道をやめた。皆さんは、あの事件以降のNHK報道番組の無味乾燥を肌に感じているでしょう。能面のような無表情で、現行を棒暗記してロボットのように伝えているニュース番組には、もはやジャーナリストの面影はほとんど見られない。権力を監視し批判する報道はNHKからほとんど姿を消してしまった。NHKの姿勢を問うために視聴料納入を拒否している人を裁判に訴えるという、強制権力に頼るというまでに至った。自分が気に入らない商品は買わないという資本主義社会のごく初歩的な原則を、気に入らなくても買えと権力で強制する恐るべき非常識がある。私がNHK視聴者センターに電話で聞いたところ、担当者は「朝日新聞は真実を伝えないので、産経と読売を読んでくれ」と答えたのには、正直言って驚いた。これが公正・中立を標榜するNHKの言葉なのかと。私はいぜんとして視聴料を払い続けているのは、文字通りNHKが公共放送として、せめてBBCレベルの報道へ再生するかすかな希望を持っているからだ。
問題は権力によるゼロ・アクセス・ポリシーにあるのではない。日本は、もはや権力による統制を必要としないほどに、すでに報道内部の自己規制が完成している。アレコレの部分的な恥部を揶揄する暴露的な報道によって視聴率を追求はするが、本質的な問題からは目を背け、逆に隠蔽するかのような報道が横行し、もはや批判といえる水準にはない。或いは恐ろしいことにひょっとすれば、市民自身の感性レベルで、真面目なことを避け、批判的に見る感性そのものを忌避する心理が蔓延しているのかもしれない。こうした心情は嫌韓流とか言われるナショナリズムの潮流にフィットしているのではないだろうか。侵略によって親を殺された子どもたちが、反省しないかっての侵略国への抗議を繰り広げても、反射的な防衛反応が働いて、自らの加害への痛みから遠ざかろうとする反射行動が誘発されているような気がする。
偽造建築問題での責任転嫁の応酬は見苦しいまでのモラル・ハザードを露呈し、すでに阪神・淡路大震災で手抜き工事の横行が明々白々であったにもかかわらず、政府による一切の責任追及はなされないまま、現在の内部告発に至った。日本はすでに「正義」や「法の遵守」を平気で蹂躙して憚らない頽廃の極地を示している。どこかの証券会社が株取引で誤発注すれば、ハイエナが群がるようにミスを利用して、たった3分間で400億円という莫大な金儲けをおこなう会社が跋扈している。
いま政府がゼロ・アクセス・ポリシーを打ち出しても、ほとんど批判は起きないところまで来ているのではないか。そのモデルは日本国新憲法草案に象徴的に表れている。「公益と公の秩序に反しない範囲で人権を行使する」という人権規定は、私たちが高校の社会科で学んだ恩恵的権利そのものではないか。王に服従する者のみにその範囲で人権を与えるという前近代社会の似非人権ではないか。ほんらい人権とは、生まれながらにして持っているものであり、誰からも与えられたものではない生得的な自然権だということを確か高校の社会科で学んだ。さらに憲法とは政府が勝手なことができないように、政府を縛るものであり、政府が国民を縛るものではないということも学んだ。だから憲法には国民の権利規定はあるが、義務規定はないというのがほんらいの姿だーとも学んだ記憶がある。ゼロ・アクセス・ポリシーの定義は、国民の権利に対して政府が一切介入することを許さないという意味でのみ正しい。(2005/12/21
23:28)
[ジョージ・オーウエル『カタロニア讃歌』(岩波文庫)]
年末からスペイン旅行を控えてスペイン事情を少しは知ろうと思って何冊かのスペイン関連文学作品を購入した。ジョージ・オーウエル『カタロニア讃歌』、カルデロン『人の世は夢 サラメアの村長』、『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』、J・R・ヒメーネス『プラテーロとわたし』の4冊と(何れも岩波文庫)、堀田善衛『バルセロナにて』(集英社)だ。前から購入して読んでいなかったジョージ・オーウエル『カタロニア讃歌』から読み始めたが、後の作品は知らない。
この作品は1936年に発足したスペイン人民戦線政府に対するフランコ将軍の反乱が起こり、内戦に突入してマドリードが陥落した時から、37年のバルセロナ動乱の渦中を生きた英国人・オーウエルのルポルタージュ風の体験記録だ。驚くべく具体的で微細な記憶が生々しく活写され、スペイン市民戦争の局面が生き生きと伝わってくる。かってオーウエルは『1984年』や『動物農場』でスターリニズムを批判し、日本の左翼からトロツキストとみなされていた作家だが、歴史の進行はむしろオーウエルの側にあったようだ。
人民戦線敗北の要因の一つは、いうまでもなくアナーキストとコミュニストとトロツキストの熾烈な内部抗争にあったが、オーウエルはトロツキスト派民兵のメンバーとして戦っているので、スペイン共産党に対する批判的な言辞がめだつ。何れに正当性があったのかは別にして、革命と反革命の修羅場の喧噪と坩堝のなかで、政府の統治能力が暗闇を歩くような手探りの試行状態にあったことが痛々しく伝わってくる。
しかし大事なことは、歴史上初めてスペインが資本と地主制を否定し、階級支配を克服しようとする民衆の体験があったということだ。だから無秩序と混乱の横行は、階級支配の遺制からの解放をめざすドキドキする混沌を反映している。反乱軍に対抗する政府側の軍隊は、政党と組合別に編成され、前線基地もそれぞれ別に設置されていることも驚きだ。政府のヘゲモニーを握ったスペイン共産党が、民兵集団を再編成して人民軍という正規軍の構築をめざしたのもその限りにおいて正しい。哀しいかな民衆の多くは文盲で信仰に近い党派信仰を持ち、共和国防衛という前に党派への忠誠を先行させている。野蛮な半封建制資本主義から社会主義へ進むのは、ロシア革命と本質的に共通しているがゆえに、議会制が未成熟で土着的な党派性が広汎に残存し、近代革命の主体勢力が成熟していないことからやむを得ざる野蛮性を伴う。
現在の知から60年前の挫折した革命をアレコレと論じる歴史の後知恵は容易いが、重要なことはこの貴重な先駆的経験から引き出すコアとなる教訓は何かということだ。フト私は、グラムシの『現代の君主』を連想した。グラムシは、或る意見や思想を結集する集団的組織を現代の君主と表現し、そのちからの源泉はかっての君主の暴力的権力ではなく、政治的・道徳的・知的影響力(ヘゲモニー)にあるとする。この闘争は近代の対峙する両軍が平原で真っ向から勝負を決する機動戦ではなく、生活と生産の単位を奪い合う陣地戦になるという。つまり学園や工場などのそれぞれの生活場所のヘゲモニーの集合として、政府の権力が構成される。おそらくここにスペイン市民戦争の最大の教訓があると思う。なぜななら同じ型のチリ・アジェンデ政権も右翼軍部のクーデターで倒壊したという戦後世界の経験があるからだ。
私たちは記憶しなければならない。挫折したスペイン人民戦線は、私たちの原初的な人間関係の美しさが地上において確かに存在することを、自らの血をもって証している。今は色褪せてしまったかに見える「平等」という言葉が生き生きと実感を持って受けとめられていた。民兵軍では、指揮命令系統はあっても、軍人と兵士の身分的上下関係はない。街ではすべての市民が「同志!」と呼び交わす原始的な共同がある。ほとんどの兵士が15,6歳の少年兵であるのも驚きだ。ここにある共同の関係は無条件に私を感動させるが、現在から見れば「個」の質が集団に融解して埋没しているとも受けとられるだろう。ここがほんとうに難しいところだ。
半封建制の原始的でハードな支配を打ち破る対抗権力もまたハードな形態をとらざるを得ない。生と死が露わに姿をみせる場にあっては、共同の様相もまた生死を一次元的に共有する熱い連帯に包まれていたであろう。TVのドラマ劇場で投票が左右されるような現代の晩期資本主義のソフトな支配への対抗は、おそらく気の遠くなるような長期にわたる陣地戦の様相を呈するだろう。あたかも米国市民がベトナム戦争の悲劇的体験を、9.11以降の反テロ戦争で生かすことなく愛国の渦に巻き込まれたように、日本も次々と形を変えて何人かの小泉純一郎が出現してはソフトな支配を更新し、幾世代にわたる痛苦の体験を経て市民の対抗力がワインのように熟すのだろう。これが『カタロニア讃歌』から得た私の教訓だ。
さておそらく現代スペインには、60数年前の人民戦線の歴史の痕跡はおそらくほとんど残っていないと思う。勝利したフランコ独裁政権が人民戦線の痕跡を消し去ったからだ。ピカソ『ゲルニカ』ぐらいのものだろうか。果たして歴史の記憶は彼方へと消え去って、若者達はさんざめいているのであろうか。ただし現代スペイン政府は、自国での列車テロを契機にアッサリとイラク戦線から離脱して、ブッシュの怒りを買って平然としている。これはスペイン現代史の過去の国民的記憶があることを示しているに違いない。過去の罪責をリセットして責任者を追悼して恥じない東アジアの島国から、遙かラテンの歴史を学ぶ旅に向かう時に、窓の外は数十年ぶりの大雪の残雪がまだ残っている。(2005/12/21
17:00)
[時給10−30円アップが成果とは!?]
労働者が大きな看板を掲げて成果を示している。その看板には「時給が10−30円上がった」と大書してある。1日8時間労働で80−240円であり確かに大きいが、その額は人間的で豊かな生活からはほど遠い。トヨタの孫会社光陽シーリングテクノ(徳島県藍住町)と請負契約を結んでいる請負会社2社(うち1社はクリスタル)に雇用されている派遣労働者30人が、光陽への直接雇用を求めて厚労省と徳島労働局長へ指導・勧告を申告した。形式は「請負」だが、実質は労働者派遣事業であり、彼らは派遣先の光陽で係長・班長の指示で他の従業員とともに自動車部品のオイルシートを製造している。請負会社は製造と加工にかかわるすべての資金を支出せず、必要な機械と材料は派遣先が用意している。光陽は、製品の出来高ではなく、男性労働者1人時給1600円ー1700円を請負会社に支払い、請負会社は600円ー800円をピンハネして労働者に1000円を支払っている。これは労基法の中間搾取の禁止違反ではないのか。
「物の製造」への労働者派遣が04年3月に解禁され、そのなかで労働者は実質的な偽装請負によって派遣労働を強いられている。労働者派遣法では、最初の3年間は、特定製造業務の派遣期間を1年に限定し、1年を超えると派遣先は派遣労働者に直接雇用を申し入れる義務がある。にもかかわらず会社は申し入れを拒否してきた。なぜか。正社員より年300万円ー400万円低い低賃金で派遣労働者を、偽装請負というかたちで利益を上げることができるからだ。偽装請負は請負会社と派遣先会社が結託して労働者を絞り上げる手段となっている。
19世紀から営々と積み上げられtきた労働の尊厳を保障する労働立法が、次々と「規制緩和」という名の権利剥奪の横行によって蹂躙されてきた。無権利状態で労働力を酷使する原生的労働関係が、合法性の装いをもって露わに復活しつつある。雇用する経営者サイドの優越的地位の乱用を合法化し、フレクシブルに労働力を自由使用するという19世紀の野蛮が復活しつつある。クリスタルなぞという請負会社の名称は、文字通り労働権を剥奪した純白状態を象徴する企業名だ。かって野麦峠を越えた少女達の悲惨が、形を変えて現代に復活しつつある。一方の労働は、資本との妥協のスパイラルの泥沼に転落しつつ、資本の蹂躙を許す労働貴族が支配し、資本と手を結んで労働の尊厳を汚すというミゼラブルな実態になっている。労働力の売買は、一般商品と同じく、販売者と購買者が完全に対等な関係でおこなわれるというごく初歩的な近代的労使関係の常識もどこかへいってしまった感がある。資本は全身から血を滴らせつつ、利潤の強大化を求める悪魔のような相貌で、我が世の春を謳歌しつつある。トヨタの何とかという日本経団連会長の、あののっぺらぼうの表情はもはや何のヒューマンな感性も失った卑しい貨幣亡者の顔である。死者累々たる荒廃する労働市場の犠牲と引き替えに、世界最大の自動車企業に躍り出るという行為はもはや非人間性の極地ではないか。
光陽の徒手空拳の30人の労働者の申告は、地獄へと転落しつつある日本の労働市場に救世主のように登場した未来を体現している。どうかこのサイトをご覧の皆さまは、我が事として30人の偉大な挑戦を注視して頂きたい。(2005/12/20
20:11)
[サッカー選手パオロ・デイカニオのファッシスト式敬礼について]
イタリア・サッカーリーグのラッツイオの主将であるFWパオロ・デイカニオ(37)が、11日のリボルノ戦でムッソリーニへの服従を意味する片方の手を高く掲げるファッシスト式敬礼をおこない、ラッツイオファンは「白人の力」と書いた横断幕を振ってこれに応えた。彼は1月のローマ戦でも同じ行為をして1万ユーロ(138万円)の罰金を科されている。イタリアユダヤ人協会が告訴し、国際サッカー連盟はサッカー界から追放すると述べている。彼はトリノ冬季五輪の聖火ランナーを務める国民的英雄なのだ。これは何を意味するのだろうか?
欧州のサッカーは国技にちかいスポーツとして市民の熱狂的応援を受けるが、選手の一部とフーリガンといわれるファンの多くには極右グループがいる。彼らにとっては、日常の虐げられた生活のトラウマをサッカーに発散させて暴力をふるう最大の舞台ともなっている。フランス都市近郊部での暴動や、オーストラリアでのイスラム系襲撃など外国人労働者への弱者攻撃とおなじ社会心理が忍び寄っている。フランス大統領選挙での極右ルペンの躍進などルサンチマンの発散の対象となっている。サッカーはすばらしい文化間の交流をつくり出すと同時に、深くよどんだ偏見による対立を煽る場ともなっている。
先進国で広がる極右の潮流の背景には何があるのだろうか。以下は東京都高等学校教職員組合「日の丸・君が代白書」(3108人回答19日)による。
問)君が代斉唱時に日の丸に敬礼する義務について
義務づけるべきではない 88,1%
義務づけは行き過ぎ 8,3%
義務づけは当然 1,4%
問)起立斉唱を生徒に指導することについて
指導すべきではない 32,9%
強制すべきではない 61,0%
通達によって指導すべき 3,4%
問)式典実施の細則について
従来の良さが失われた 67,7%
シカゴ学派の市場原理主義が蔓延し、効率と効用が運営の基準になって、それに適しない者は容赦なく振り落とされるシステムが浸透し、ごく少数の勝者と大多数の敗者への社会分裂が進んでいる。底辺に沈められた者の無念と失望は深いルサンチマンを蓄積し、その刃を自分より弱い弱者に発散させる「抑圧の移譲」が起こっている。弱者とは、社会的発言の機会を保障されていない外国人労働者や、障害者、或いは子どもたちである。逆に攻撃を受ける側も被虐の意識を膨張させて、反対暴力や追いつめられたテロリズムに依存する。サッカーなどの乱痴気騒ぎはそのおめでたい表層の現象に過ぎない。社会全体にすさんだ相互監視の不信に満ち、信頼や愛情の感覚は狭隘な家族空間にかすかにその残滓があるが、そこでさえすさまじいネグレクトや虐待が誘発されている。最も弱い子どもたちは、自分たちのトラウマをペットに向けて発散したり、究極的には自分自身への自傷行為となる。
こうして社会の全線にわたって、終末的な融解とメルトダウンが進んでいる。このような崩壊の元凶が、市場原理型競争システムにあることを発見する前に、何らかの社会的統合によって分裂を作為的に食いとめなければならない。それは各国の特徴にあった独自の方法が採られる。星条旗への団結、王室への団結、独裁的英雄への団結などなど、日本では統合の方法として象徴天皇制が採用されている。ファナテッックな前近代的形態を強制して服従を創出しようとしている。このような統合は、ソフト或いはハードな権力をバックに行使されるために、一時的には成功する。しかし服従は心のなかまで内面的に食い込み、自ら進んで服従させるのは難しい。服従のメカニズムを発見し、その元凶への対抗の行為がかならず起こることを歴史は示している。だからこそ支配は拷問や虐待という肉体的な打撃を剥き出しにせざるを得ない。対抗は最初は少数者の犠牲的行為から始まり、遂には多数を得て支配を転覆させるに至る。奢れる者久しからず、それは夏の夜の夢に等しい。
最初の抵抗者の象徴が、いま全米を席巻しているイラク戦争批判のウエーブを起こしたシンデイ・シーハンさんだ。彼女は24歳の息子をイラクで失い、公報を受けて哀しみに沈み自殺を試みるに至った。彼女は長女カーリーの次の詩を読んで、たった1人でも立ち上がろうとする決意をするに至った。
息子の死を大声で悲しむ母親の物語を耳にしたことがある?
母の涙は果てることを知らない。
息子は英雄といわれ、喜ぶべきだという。
そんな母親の泣きわめく声を耳にしたことがある?
国が眠りに誘い込まれる物音を耳にしたことがある?
指導者はあなたをマヒさせたがっている。
私たちがそのままにさせて
もし別の母親が嘆き悲しむことになったとしたら
国が眠りに誘い込まれる物音を耳にしたことがある?
(2005/12/20
8:40)
[国家権力による闇の犯罪ー英国秘密収容所について]
英国陸軍省・統合特別尋問センターは、第2次大戦終了後の1945年8月ー47年7月までドイツ北西部・バートネンドルフに尋問のための秘密収容所を設置し、のべ男性372人、女性42人をナチ党員、実業家、左翼活動家を尋問していた。殴打、鞭打ち、睡眠妨害などの拷問で大量の餓死者や寒さによる衰弱者が発生した。収容所の階段を深夜まで上り下りさせ、手錠の収容者を真冬に裸で開けっ放しの窓に立たせたり、さらに配偶者や子どもを逮捕して脅迫する尋問方法を用いた。収容者はナチ党員やナチ親衛隊員から、ナチ政権と深い関係にあった実業家、さらに46年末には旧ソ連スパイやドイツ国内の左翼活動家までを含んでいた。英詩ガーデイアンが情報公開法に基づく請求で英外務省が公開した秘密報告書(当時内部告発でロンドン警視庁のヘイワード警部が調査した実態報告書)による(12月17日ガーデイアン紙報道より)。
米国中央情報部(CIA)が、ドイツ政府黙認のもとで国際テロ・アルカイダ容疑者を秘密収容所で尋問していたという疑惑が浮上している。独南部ノイ・ウルム在住のレバノン系ドイツ人であるカレード・マスリ氏(42)は、03年にCIAによってドイツからマケドニアを経てアフガン秘密収容所に連行され、無実が判明するまでの5ヶ月間にわたって暴行による尋問を受けたとして、05年12月にテネット前CIA長官らを米国裁判省に告訴した。ドイツ情報機関は拘束前から彼を監視し、CIAの拘束を黙認していた。さらにドイツ治安当局はキューバ・グアンタナモ基地に拘束されているトルコ系ドイツ人の尋問をしていた疑惑をドイツ内相は連邦下院で認めた。
CIAはアフガニスタン・カブール近郊に「闇の監獄」と呼ばれる秘密収容所を設置して、収容者を真っ暗な独房に鎖でつなぎ、ラップやヘビーメタルを大音量で流し、何週間も食べ物や飲み水を与えない虐待と拷問を繰りあけしていた。尋問官は制服ではなくCIAメンバーが運営していた。ヒューマン・ライツ・ウオッチ19日発表。
ブッシュ大統領は、01年の9.11以降国家安全保障局による米国市民に対する超法規的な盗聴を許可してきた。盗聴は45日毎に健闘され、30回以上許可してきたとし、今後も継続すると言明した。知られてはならない情報を政府の許可なく報道して敵に知らせたーとして16日付けニューヨーク・タイムズ記事を非難した。米連邦捜査局(FBI)は、グリーンピース、動物の倫理的取り扱いを求める会(PETA)、アラブ系米国人反差別委員会(ADC)、カトリック・ワーカーズ・グループ(GWG)などの合法市民団体を国内テロ団体や非米的共産主義的傾向団体に指定し、集会出席者の連絡先などの情報収集活動をおこなってきた(米市民的自由同盟ACLUが情報公開法により入手したFBI資料より20日発表)。
ニューヨーク市警が身分を隠して私服で反戦集会に参加し、調査活動をおこなっていた。04年8月から7カ所の集会に少なくとも10人の警官がスパイとして参加していた(ニューヨーク・タイムズ 22日)。
米連邦捜査局)FBI)とエネルギー省が、主要都市のイスラム礼拝所(モスク)とイスラム教徒の住居や倉庫の放射能を密かに測定していた。ワシントンを中心に、ニューヨークやシカゴなど6都市で両省の核緊急支援チームが02年初め頃から開始し、ワシントンではピーク時に3台の車を使って1日に120カ所の測定をしていた(USAニューズ・アンド・ワールド・リポート誌報道)。
以上を総合すれば、諜報機関は容疑者を恣意的に逮捕して拷問にかけ、密かに電話を盗聴し、市民集会をスパイし、放射能測定を秘密裏に測定しているのが米国の日常となっている。ここには国民による信託を受けた国家の法治原則を逸脱することへの致命的な政治意識のマヒがある。国家の安全と秩序維持という「正義」は、あくまで法手続の保障の枠内で執行されるという法治原則を逸脱する国家権力の常態化した姿がある。かってのマッカーシー非米活動委員会による赤狩りに等しい違憲的行為がおこなわれている。ひとたび手にしたリヴァイアサンの強大な権力がは、法を超えた執行への誘惑を生み、遂には「正義」のための脱法行為を自ら肯定して暴走する。こうして幾多の無数の無辜の無実の市民とその家族が、言われなき迫害と拷問の犠牲となって闇に消えていった。国家暴力への告発と批判はそれに倍する猛々しい攻撃の対象として、犠牲者の生命は動物的な物体として扱われた。尋問官は「正義」を冷酷なサデイズムによって行使しながら、いたぶる快感によって拷問を自己目的化する動物へと頽廃していく。
闇の権力は他方では麗しい正義のふるまいを演じる。中央アジア・ウズベクキスタン東部のアンデイジャンで5月に起こった暴動を鎮圧して数百人の市民を殺害したアルマトフ内相が、拷問と人道に対する罪でドイツ検察庁に告発された。ドイツ国内法で、拷問と人道に対する犯罪は、その実行された場所にかかわらず訴追が可能となる(ピノチェト元チリ大統領が98年に英国で逮捕されたのと同じ事例)。EUは同内相を含むウズベク高官12人を虐殺罪で域内立ち入り禁止としたが、ドイツ政府のみが治療目的で同相のドイツ入国を認め、その結果独軍のウズベク駐留継続が許可されてきた。ドイツ政府検察は自らのダブル・スタンダードを厳しく問われている。
ASEANがめざす東アジア共同体のアキレス腱が、ミャンマー軍事政権による民主化指導者アウン・サン・スーチーの自宅軟禁だ。ミャンマーがASEANに加盟した97年から「建設的関与」によるスーチー解放を求めたにもかかわらず、スーチー氏は8年間にわたって自宅から出ることはできない。人道に対する罪を掲げるEUは執拗にASEANへの抗議を続けているが、自らの人権侵害には目を覆っている。米国はそうしたダブル・スタンダードのモデルとなっている。北朝鮮と中国の人権問題を批判しながら、ミャンマーやイスラエルの大量破壊壁を擁護している。
国家は本質的に闇の権力と二重基準を胚胎しているのであろうか。私は国家の闇の権力を行使しうる批判的言論の自由が保持されている英・米・独の一定のデモクラシーの成熟を評価する。残念ながら日本のデモクラシーの現状は、国家権力の監視と批判のレベルで致命的な欠陥が誘発されつつある。日本の国家権力が闇のうちにおこなった治安維持法による拷問と迫害の過去は暴かれていない。世界史上最悪の法律といわれる治安維持法によって、幾多の無実の犠牲者がいのちを奪われた過去の罪責を問う行為を国家自体は一度も試行しなかった。いま進行中の横浜事件再審裁判は過去の罪責を正面から問う歴史的裁判だ。敗戦直後に戦犯追及を恐れた司法当局は、判決書を含む裁判資料を焼却処分した。弁護団は米国公文書館から資料を復元し、遂に裁判所は特高警察3人のの拷問を認定したが、みずからの戦争責任と人権弾圧への協力については沈黙している。要するに日本は過去の特高警察と司法の罪責について何等の責任追及を行っていないのだ。
あろうことか現日本政府首相は、過去の罪責を認めず責任者を追悼するというアナクロ行為を繰り返して、全世界から戦後史上かってなかった孤立状態に陥っている。首相自身が孤立するのは自由だが、その被害を最も受けているのは日本国民であり、その国民が大衆操作による選挙で圧倒的な信任を与えるといういびつな状況に転落している。以下は14日開催の東アジア首脳会議での日本首相の孤立を伝える各国メデイアの報道である。
「第2次大戦の遺物が絶えず東アジア首脳会議につきまとい、日中韓の論争が友好的に解決されないなら、無関係な国々が論争当事者よりも苦しむ」(インドネシア ジャカルタ・ポスト15日)
「東アジア協力の主柱の1つである日中の対立の深化を懸念する。戦争神社論争に両者の対立がある」(マレーシア ニュー・ストレーン・タイムズ14日)
「中日関係は歴史と関連し、日本が関係悪化を作りだした。日本が正しく歴史を認識し、歴史を鏡として隣国の傷つけられた人々を思う行為を避けることだ」(マレーシア南洋商報 15日)
「ドイツが隣国に苦痛を与えた人々に対する追悼施設をつくらなかったというノムヒョン大統領の発言は、靖国参拝を戦没者を追悼する小泉首相の強弁をねらい撃ったものだ」(韓国中央日報)
「日本は韓日中首脳会談の中止から教訓を得よ。第1の責任は日本にある。小泉首相は靖国参拝は外交カードではないと言い、3カ国首脳会談延期を意に介さない反応を見せた。日本国内の保守右傾化に迎合するとともに、東アジア共同体のなかに米国を入れようとするのはあきられる」(ソウル新聞6日)
「小泉首相はASEAN会議を利用して中国を非難した新華社通信 15日)
おそらく日本の首相はこうした批判を歯牙にもかけない確信犯であろう。かくまでにして日本国家の無責任の闇は深い。TVドラマでは最後に葵の印籠を掲げる水戸黄門が登場して、これらの極悪人に断固たる厳罰を科すだろうが、日本の市民は自らの手で審判を下した経験がない。ただ拍手喝采して溜飲を下げてきただけだ。ムソリーニを広場に逆さに吊して殺害したイタリア抵抗運動の実績がない国は、いつ果てることもなく無責任の戦犯システムが闊歩する。A級戦犯が亡霊のようによみがえって再び首相の座に就く国が日本であり、その孫が次期首相の有力候補であるという国が日本なのだ。国家の闇の部分が昼日中の明るい陽光の下で、大手を振って歩いている異常な国日本。頽廃しきった日本国家に隠された闇の部分はない。頽廃した衆愚政の地獄のスパイラルに転落していく日本。(2005/12/19
19:14)
[奈良県「子どもを犯罪の被害から守る条例」でほんとうに子どもを守れるか]
04年11月に発生した、幼児性愛性癖者による奈良市の小学校1年生の連れ去り・殺害事件を契機にパニックに陥った奈良県は、全国で初めて05年6月県議会で条例案を可決した(3人反対)。その条例第11条(子どもに不安を与える行為の禁止)は次のようになっている。
何人も道路、公園、広場、駅、興行場、遊園地、観光施設、飲食店、公衆便所その他の公衆が出入りする場所又は、汽車電車、乗合自動車その他の公衆が利用できる乗り物において、保護監督者がただちに危害を排除できない状態にある子どもに対して、正当な理由なく、甘言を用いて惑わし、又は虚言を用いて欺いてはならない。
第12条では子どもを脅迫する行為の禁止、第13条では子どもポルノの所持禁止(注:ポルノ防止法では単純所持は犯罪から除外されている)があり、最も怖いのは発見者の警察官への通報を義務づけて密告を強制していることである。いったい奈良県の知的水準はどうなっているのであろうか。
この条例は県警本部長が責任者となる推進本部が作成した。明らかに警察主導による市民監視と取り締まり強化を犯罪防止の手法とし、いままで必死に声かけ運動などに取り組んできたボランテイアから批判を受け、県防犯協会・県警発行のパンフでは「第11条規定は、日常の子どもへの挨拶や見守り活動における声かけなどを規制するものではない」という注記がある。殺伐とした凶悪犯罪の頻発を止める緊急避難的な措置としてはありえても、権力主体の安全網の整備は監視システムを地域の隅々にまで浸透させて息苦しい監視社会を生み出し、逆により陰湿な犯罪手法を誘発させる効果をもたらしはしないか。文科省は学校警備員制度の導入を提案し、すでに大阪府は全小学校への警備員配置を決めた。モデルとした世界最高の犯罪大国であるアメリカでは、武装ガードマンや警官が警備員となって学校の玄関ですべてのこどもの武器と凶器検査をおこない、武器を持って校内を巡回するというすさまじい状態となっている。武力による監視と凶悪犯罪は相互に正比例する。米ロサンゼルス郡警察は、99年のコロラド州コロンバイン高校での銃乱射事件を模倣した疑いで、クオーツヒル高校を退学処分で放校された15歳と17歳の少年を逮捕した(18日)。2人は高校に恨みを抱き、2人を馬鹿にした生徒を銃と爆発物で殺害して自殺するつもりだったと供述している。自宅からナイフ、実弾、インターネットからダウンロードした爆弾製造説明書が発見された。ここに監視型安全システムの究極の姿がある。日本でも武器を携帯した制服警官が校内に立ち入ることに、何の違和感もなくなったかのようだ。
学校災害の04年度給付状況をみると、国内全学校で医療費2,052,006件、障害見舞金528件、死亡見舞金92件の総計2,52,626件の災害件数が発生している。こうして日本の子どもたちの安全はゆらいでいる。過日の新聞で、駅の広場で警察が主催する子どもの安全大会が開かれ、子どもたちに”助けて!”と絶叫させてその声量を競うコンクールが華やかに報道されていて、暗然たる気持ちになった。人間を育てる場が、人間を疑う場となっているかのようなこのミゼラブルな実態にメデイアは疑問を感じない。
ではお互いに信頼を育てる安全観は可能だろうか。互いに自立しながらオープンなかたちで安全を保障しうるシステムは可能だろうか。ここで最初に指摘したいことは、なぜ殺伐とした弱者攻撃の現象が頻発してきたのかーという根元的な問題の解明なしに、対症療法的な権力的安全観が横行していることだ。確かに被害の当事者から見れば緊急避難的な警察対応の局面も必要だが、一時的に封鎖しても閉塞した犯罪心理は沈潜してより凶悪な形で噴出するだろう。
いま凶悪犯罪の原因を一部の異常心理に収斂させている傾向がある。確かに本源的に攻撃本能が肥大化した歪んだ異常心理の持ち主は潜在的にいる。しかしそうした潜在的な異常心理が発芽する要因はむしろ社会システムにある。企業や学校で異常な競争の秩序に巻き込まれて、勝ち組と負け組の両極に分解するなかで、敗者のトラウマが内部に深く沈潜して、インターネットなどに飛び交う異常サイトの過剰刺激と相まって、孤独な魂のゆがみが深化してより弱い者へとトラウマを発散させる「抑圧の移譲」の暴発に至る。さらに大人たちが企業に絡め取られた地域の空洞化によって共同体は失われ、もはや隣人と道であっても挨拶すらしないという状況になっている。地域から子どもの高らかに遊ぶ声は消え、自宅ー学校ー塾のトライアングルの中で豊かな異年齢間の遊びはなくなった。あたかもそれは、鳥のさえずりが消えた「沈黙の春」のようだ。しかし家庭内にもどれば、そこでは大人による陰湿な虐待とネグレクトが待ちかまえている。いま日本の社会のすべての領域でモラル・ハザードが蔓延し、建築士は平気で欠陥住宅を設計し、株取引の失敗を利用した何百億円もの架空の金を稼ぎ、株を売り抜けては巨万の富を稼ぐファイナンスが横行し、真面目に額に汗して生きることが冷笑されている。こうした共同性の連鎖的な喪失が問題の根底にある。社会のシステムそのものが根底から揺らいで融解している。新たな共同性を回復するには、壊すのに倍する気の遠くなるような時間がかかるような気がする。私たちはいったいどのようにすればこうした袋小路から抜け出せるだろうか。
警察主導の監視・閉鎖型安全システムに替わる市民主導の自立・開放型安全システムの有効性を具体的に証明しなければならない。その具体的なモデルをてづくりで創出するにはどうすればいいだろうか。基本は弱肉強食の野蛮な競争システムから共同型社会連帯型システムへ切り替える気の遠くなるようなパラダイムチャインジなしにほんとうの解決はない。でもそれではいま目の前にいる子どもたちの、その日の安全は守れない。そこで奈良県条例に対する対案を具体的に考えてみたい。
第1に、第11条のような地域のコミュニケーションを疑惑視するような条項に替えて、見守り・声かけ運動のような積極的なコミュニケーション運動を奨励する内容に改訂する。子ども会、児童館、地域子育てセンター、相談・調査センターなど地域の子ども支援機能を質的に強化する財政支援をおこなう(*但し東京都の学校支援センターのような管理機能と介入機能をもたせない)。地域の伝統的行事や文化・スポーツ活動による地域再生機能へ財政支援をおこなう。
第2に、学校警備員制度のような監視的発想ではなく、体罰やスポーツ災害、犯罪等から子どもを守る総合的な安全職員制度をつくる。
第3に、校長の許可がないと救急車を呼べないような災害発生時の垂直型救急システムから、教職員全員が参加する協議型救急システムに切り替える。
第4に、学校災害対策を再発防止重視に転換する学校安全基準を法制化する。例えば清水6中のサッカーゴールポスト死亡事故は、校長の自殺で事件が終息しているが、問題の根元は地中固定型ポスト基準ではなかったことにある。
いま1400を超える自治体で生活安全条例が制定され、警察・行政・住民が一体となった地域安全システムの構築が進められている。監視カメラが縦横に街中に張りめぐらされ、互いに密告し合う一億総監視社会が実現しつつあります。結論的に言うとあらゆる意味で、「誰か変な人はいないか」と常に互いを疑惑の目で見る米国型監視モデルと決別することだ。米国家安全保障局(NSA)は、9.11以降に常時500人を対象とする電話と電子メールの秘密傍聴をおこなっていた。NSAの盗聴は裁判所の礼状を必要とするが、02年の大統領令によって3年以上にわたって国際電話と国外電子メールの通信傍受がおこなわれてきたことが発覚した(ニューヨーク・タイムズ16日付け)。これがハリケーン・カトリーナへの救援活動をおこなえなかったNSAの実態だ。米国防省省は、過去10ヶ月で1500件の平和運動グループの内容を調査し、うち40件を脅威指定して情報収集活動をおこなってきたとする400ページの秘密文書が暴露された(NBCTV ウイリアム・アーキン14日)。こうして世界最大の犯罪国家が同時に世界最大の監視国家でもあることを世界に明示している。市民を信頼しない政府のもとで、市民の互いの信頼は衰弱し、凶悪犯罪が誘発されることは明らかだ。以上・喜多明人氏報告(全国学災連シンポ)参照。(2005/12/17
10:37)
[ブータンの経済指標・GNH(国民総幸福量)は何を照射しているか]
一国の経済力を計る指標のモデルは、GNP(国民総生産 Gross
national Product)うやGDP(国内純生産 Gross
Domesstic Product)で表されますが、何れも新たに生産された財の年間合計です。GNH(国民総幸福量 Gross
National Happiness)は心の幸福度を表し、分母=欲求、分子=財とし、先進国ほど財は少なくとも無欲に暮らせば幸福が維持できるという発想だ。かって日本でNNW(国民純福祉 Net National Welfare)という環境要因とレジャーを組み入れた指標が試行されたがいつのまにか消えてなくなった。GNHを国造りの指標に使っているのは、ヒマラヤの人口75万人(政府推計)の小国ブータンだ。
年間1人あたり国民所得は、日本の1/50の約7万円であり、そのほとんどは田畑を耕す自給自足の生活だ。しかしそこには1人のホームレスも存在しない。経済指標に表れない相互扶助のこころ豊かな暮らしがある、チベット密教系仏教が生活の隅々に深く溶け込み、学校も朝の祈りから始まる。低学年まで一糸乱れずに祈る姿は圧巻だ。「今日もよく勉強できますように」と児童代表が元気にかけ声をかけると、百人の子どもたちが一斉に手を合わせて、」頭を下げる。
しかしここにも近代化の波は押し寄せている。小学校の授業は、国語以外はすべて英語であり、中高等教育は隣国インドに行く人が多く、英語の習得は不可欠となっている。英語を駆使する30歳代前の若者と年配者の情報格差が生じている。川や広場に散乱している空き缶や菓子袋は、仏教思想の「すべてのものは土に帰る」という信仰によって、残飯は外に捨てられていること示している。加工食品の急速な輸入とのギャップが誘発されている。深夜になると若者達は民族衣装を脱ぎ捨ててデイスコで明け方まで踊っている。TVとインターネットは国際化と頽廃文化の論争を国王判断で99年に解禁され、03年には携帯電話が導入されたが、逆に04年には「悪魔の香り」とされていた煙草販売が禁止され、05年には下着ファッションショーと流血プロレスのTV番組が禁止された。
近代化と伝統の狭間で揺れ動く途上国の姿がここにある。日本は脱亜入欧によって、西欧文明へのキャッチアップをめざして高度経済成長を果たしたが、その陰で伝統的な共同体文化を喪失してきた。ブータンも同じ道を歩むのだろうか。愛知万博を機に日本からの観光客が1400人(例年の1,4倍)に増えたとブータン政府は喜んでいる。おそらくその多くが日本で失われたエスニックを求めてのオリエンタリズム観光であろう。
近代化=西欧化=(米国型)資本主義化というパラダイムの限界が露呈しつつある一方で、後発開発途上国は同じ道を歩んでいこうとしている。非資本主義的近代化のモデルを遂に人類は発見できていないのであろうか。”スモール イズ ビューテイフル”は先進国市民の成熟した幻想なのであろうか。くたばれGNP!と叫んだ人たちはどのようなオルタナテイブを対置してきたのであろうか? 怒濤のようなグローバリゼーションの波涛は、田園豊かなブータンを襲っては飲み込んでしまうのであろうか?
飢餓などの原始的貧困を目の前にして、誰が近代化への欲望を非難できるであろうか? 物質的豊かさを実現した人たちが、この道は間違っているよと途上国へ説教する資格があるだろうか? ブータン政府のGNHは両刃の刃だ。欲望至上主義を乗り越える可能性をもっていると同時に、原始的貧困への耐乏生活を強いる側面がありはしないか? 豊かさとは何か? 量よりも質を!と問いかけるのは成熟先進国の傲慢さが隠されてはいないか? では現代で「生活の質」を途上国を含むグローバルなレベルで実現できる道はないのか? もしその道の希望がないのであれば人類史の危機は深い。なぜ貧困にあえぐ途上国野の子どもたちの眼は生き生きと輝き、先進国日本の子どもたちの瞳は輝きを失っているのか? 以上・朝日新聞12月16日夕刊参照。 (2005/12/16
20:14)
しかし今ブータンは地球温暖化の直撃を受けている。ヒマラヤ山脈に点在する氷河が急速に融解して、氷河湖が決壊し洪水が襲っている。氷河湖は氷河が後退した後にできた天然のダム湖であり、氷河に押し出された岩や土砂が谷をせき止めてできる。ブータンには標高4千b以上の高知に2674の氷河湖がある。モレーンと呼ばれる堰は高いもので100mになるが、岩クズでもろく、水かさの増加で決壊する。IPCC(気候変動政府間パネル)は、地球上の平均気温は20世紀に0,6度上昇し、21世紀中にさらに1,4−5,8度上昇すると予測している。国連環境計画(UNEP)は、02年に5−10年以内に決壊の恐れのある氷河湖はヒマラヤ山脈南側の44カ所とし、うち24カ所がブータン国内にある。ネパール政府は2323の氷河湖に排水口を設置する工事を進めているが、ブータンの対策は遅れている。1つの氷河湖の工事費は約3億円であり、国家予算300億円の1%にあたる。ブータン政府の対策は、上流の水位を無線で首都に伝える警戒システムだけだ。上流の洪水が街に達する時間差を利用して逃げるという計画だ。以上・朝日新聞12月17日夕刊参照。温暖化ガスを排出する先進国(特にアメリカ)は、経済成長をめざして温暖化を進めてきた。地球温暖化の被害も明らかに南北問題の非対象性を示している。(2005/12/17
19:13)
[カルト・ブームとエクソシスト志願者急増の背景にあるもの]
欧州の若者の間に悪魔崇拝やカルト文化への人気が静かに浸透している。イタリアのロックバンド「サタンの野獣」は、若者2人に自殺を強制し、若い女性を銃殺して9人が逮捕された。被害者の部屋からは頭蓋骨や黒ローソク、野獣の血を使う黒ミサの痕跡が発見された。イタリア北部中心に650の悪魔崇拝組織があり、約5000人のメンバーがいるとされる。悪魔主義の出版活動をおこなう富裕層のグループと麻薬や犯罪と結んで教会や墓地を破壊する貧困層のグループに分化している。大人社会の権力への反抗が反キリスト教の悪魔主義に吸引されている。
9.11以降にひろがった社会不安や、生きる意味が見いだせない問題の根元を「悪魔」に求める傾向もある。悪魔払いを求める人が年間数十万人に対し、公認エクソシストは300−400人に過ぎない。悪魔払いの希望者急増に対するエクソシスト不足を補うために、バチカン・レジーナ使途大学は公式のエクソシスト養成講座を始めたところ、神学生以外の一般聴講者が増えている。最終試験をパスすれば修了資格がもらえ、神父のみが公認エクソシストとなる。以下はそのカリキュラムである。
○悪魔払いと解放の祈り
○聖書と神学における天使と悪魔
○悪魔からの短期、長期的な解放
○悪魔払いが直面する危険性
○オカルトと悪魔主義者
悪魔憑きの特徴は、@突然知らない外国語を話し出す Aあり得ない怪力や物理的に不可能な動作をするB十字架など神聖なものを恐れるなどだ。ローマ法王庁のエクソシスト指針は、精神科との緊密な連携を義務づけ、医学的治療の対象者と悪魔憑きを区別している(1614年制定 1999年改訂)。悪魔払いの儀式は、祈り→悪魔憑きに聖水降りかけ→十字架へキスさせる→「悪魔よ我は汝に命令する 悪魔よ帰れ」と追い出しの言葉を言う。
新約聖書・福音書では、悪魔を「誘惑する者、悪魔憑きと病気、嘘をつく者、神とその国への反対者」の姿をとって現れ、神の力を借りて悪魔を追い出すとしている。この定義では、明らかにブッシュ大統領と小泉首相には悪魔が憑いていると判断せざるを得ない。彼らはイラク開戦理由に「大量破壊兵器の存在」という真っ赤な嘘をつき、自らを「聖なる十字軍」と称して進撃し、今になってあの情報は間違いだったと言っているのだから。世界の二大帝国の最高指導者が悪魔憑きとなった世界はいま滅亡の悲劇へと向かっている。イラクではすでに3万人を超える人が悪魔憑きの犠牲となってしている。ブッシュ氏と小泉氏には相当の大悪魔が憑いているに違いないから、ローマ法王自らエクソシストとなって、ブッシュ氏と小泉氏に聖水を降りかけて悪魔よ去れと悪魔払いをしなければならない。しかし彼らが悪魔憑きであることを見抜いている人は少ない。特に小泉氏を圧勝させた日本は、おそらく多くの小悪魔憑きが広がっているのであろう。
時代の転換期や混迷期の不安を背景に、神秘主義やカルト、新興宗教、占いなどが大流行する。個人の力がとても弱く見えてしまい、自分がなにものかに弄ばれ、翻弄されているような気がして、将来に見通しがもてなくなったようなときに、人間を超えた偶然や神の力に身を任せて安心を得たいという心理が蔓延する。日本ではオーム現象が象徴的であったが、いまここにきておそらく再び静かなブームが密かに進んでいるに違いない。以上・朝日新聞12月16日参照。(2005/12/16
9:12)
[悪役レスラーはほんとうに笑っていたのか? 森達也『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)]
私はプロレスが嫌いだ。最近の大晦日に紅白歌合戦に対抗して、プロレス興行が中継されており、多くの人々が最後の往く年来る年の夜を野蛮な番組に熱狂しているのをみると哀しくなる。しかしこの書を読んで、多くのプロレスラーが、非日本国籍であり生き抜いていくための手段として、こうした修羅場のエンタテイメントに参入していることを知って少し観方を変えた。哀れむべきは、善悪二元の世界にいじめ抜かれた正義派が最後にどんでん返しで勝利するのを熱狂してみている観衆の方だ。日常の被抑圧を幻想のリングで、カタストロフィックに恨みを晴らすかのような、非日常の瞬間に忘我の開放感を味わうのだろうか。
この書は戦後プロレスの絶頂期に力道山と盟友であった、悪役レスラー・グレート東郷(米国籍)に焦点をあてて、彼が血しぶきが飛び散るような卑劣な演技を敢えておこなったかの真相に迫ることを通して、実は戦後日本の虚偽と虚像を暴こうとしている。力道山は日本の国技である大相撲が、朝鮮半島出身の横綱の出身を許さない相撲界に失望してプロレスを立ち上げた。グレート東郷は、米国公演で最初はグレート東条(英機)と名乗り、日の丸を振って日米決戦を煽ったが、激怒するアメリカ人観衆の襲撃で生命の危険にあって東郷に名前を変えた。しかし彼は太平洋戦争開始とともに、敵性国民として強制収容所に入れられた。同じ同盟国のドイツ系とイタリア系米国人は収容されなかった。金正日の後継者とされる金正哲の母親である高英姫の父親である高太文は、和田アキ子の実家であるプロレス道場で修行したプロレスラーであり、帰還事業で北朝鮮に帰ったのだ。力道山がヤクザに刺されて死亡した時の告別式の葬儀委員長は自民党副総裁・大野伴睦であり、代理は児玉誉士夫。当時の日本プロレス協会会長は児玉誉士夫、副会長は山口組3代目組長・田岡一雄、監査役が町井久之、、コミッショナーが大野伴睦・中曽根康弘という当時の右翼とヤクザのオールスターキャストだ。
プロレス業界は、当時の日本の暗部と闇が交錯する矛盾の凝集点であったのだ。グレート東郷は、巨万の富を得てロサンゼルスに邸宅を構え、死去後は家族は四散した。彼はほんとうに悪役を演じながら笑っていたのだろうか? 辛酸をなめ尽くした悲哀が隠されていたのではないか? それとも自らを罵る観客を高みから嬌笑していたのだろうか? (2005/12/15
17:31)
[アオドルフ・ライヒヴァインの反ナチ抵抗教育を初めて知った]
ライヒヴァインは教育アカデミー教授として活躍していたが、ナチ政権成立後の≪公務員再建法≫によって免職となり、人口300名の小さな村の小学校教師になった。トルコ政府によるイスタンブール大学教授への招聘を断ってドイツにあえてとどまった。当時のナチスによるヒトラー神格化教育は就学前の幼児教育までを席巻し、それまでのワイマール民主教育は窒息した。教室の壁にはハーケンクロイツ旗のもとにヒトラーの肖像が飾られ、子どもたちは声を合わせて次のように唱えた。
お父さんに従う者は/総統を尊敬する
お母さんを愛する者は/総統に奉仕する
わたしが学び作るものを/総統は必要とされる
食前の感謝の詞は次のように祈らなければならなかった。
総統よ 神から与えられたわたしの総統よ
わたしのいのちをながく保ち守ってください
あなたはドイツを深い苦難から救い出してくださいました
わたしは今日もわたしの日毎のパンをあなたに感謝します
どうかわたしの傍らにいつまでもとどまり わたしを去りませんように
総統! わたしの総統! わたしの信仰 わたしの光! わたしの総統 万歳!
日本の戦時期の天皇制絶対教育も顔負けのヒトラー崇拝教育であり、教師も子どもたちも一生懸命に情熱を込めて唱えたのである。しかしこうしたファナテイックなナチス教育の中でほんとうに子どもたちをすくすくと成長させる教育を追求したのがライヒヴァインという人であった。ナチ教育の中にあって、基礎学力の形成と主体的な行動をとる人格をめざす多面的な個人能力の開発を志向した。ナチ体制を生きるためのカモフラージのために、教室にヒトラーの肖像を掲げたが、それは後方の壁であった。子どもたちは授業の間にヒトラーの肖像を見ることがないようにするためだ。教え子の一人は「こころ動かされた開放的な子どものみが、やみくもの服従なしに行動し、自己を発達させることができた。彼によって子どもたちはみな自信を持つようになった」と言っている。ライヒヴァイン『創造する生徒たち』参照。ライヒヴァインはその後ナチ政権打倒の抵抗運動に参加し、1944年7月20日事件の後に秘密警察に逮捕されて、民族裁判所によって反逆罪を宣告されてベルリンの刑務所で処刑された。
わたしはこうした教師がいたことを今まで知らなかった。そしてほんとうに子どもの成長を願うこころは、政治の渦中にあっても自らの良心に従うのだということが分かった。君が代の斉唱を強制し、教育基本法をを変えて愛国心を謳おうとする人たちは、かっての独裁礼讃によって子どもたちが歪められた悲劇の歴史を繰り返そうとしている。
東京都が「都立学校経営支援センター」設置条例案を13日に可決したそうだ。都内6カ所にセンターとその支所を設置して、校長の学校経営を支援するという。その内実は、センターから毎月、行政系を含む職員チームが各学校を訪問し、授業参観と職員会議に出席して教育内容を「支援」するというものだ。センターメンバーは教職員の人事権も握り、強力な統制権を持つ。このシステムがはたして教育基本法第10条に整合的かどうか疑わしい。ライヒヴァインの悲劇から戦後ドイツは、学校経営と教師の行政からの独立を保障している。教師はのびのびと子どもたちと共同してしごとを進めている。日本の学校は、外部の監視を受けて教師は戦々恐々としながら教室にいる。子どもたちと教師にこそ光を当てるシステムがメインであり、外部からの介入はどのような善意であれ、学校を閉塞させるものだ。ここに日本の子どもの学力が急速に低下している原因の一つがある。日本はつい60年前まで、天皇と国家に対していのちを捧げよーという無限責任を子どもたちに求める教育をしていた。
「されば私生活をもって国家に関係なく、自己の自由に属する部面であるとみなし、私意を恣にするが如きことは許されないことである。1椀の食、1着の衣と雖も単なる自己のみのものでなく、また遊ぶ暇、眠る間と雖も国を離れた私はなく、すべて国との繋がりにある。かくて我等は私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕するのを忘れてはならぬ」(文部省『臣民の道』1941年 この書は37年の『国体の本義』を補強したもの)
戦時期までの日本では、一切の私生活は許されず、睡眠を含む24時間が天皇と国家のために捧げるよう子どもたちに強制したのです。睡眠中の奉仕とは、夢もまた勝手に見てはならないということです。
私たちは再び次のようなジョークでしか抵抗できない時代を迎えているのであろうか。
ヒトラーがある精神病院を訪れたとき、患者たちは訓練でみごとに”ハイル ヒットラー!”と敬礼したが、2,3人が手を挙げていなかった。
ヒットラー「なぜ君たちは敬礼しないのか?」
2,3人「総統! 私たちは看護人であります。気が狂っているのではありません」
ヒトラー「私はアドルフ・ヒトラーである。私は強大な権力があり、神にも近いものだ」
(患者たちは微笑を浮かべ、互いに哀れみあうように顔を見合わせ、その1人がヒトラーの肩を叩いて言った)
「じっさい、われわれも最初はそうだったよ」
ヒトラーに抵抗してダッハウ強制収容所に隔離されたドイツ告白教会牧師であるマルチン・ニーメラーの痛苦に満ちた≪シュトウットガルト罪責宣言≫の一節を記しておきます。
「大きな痛みをもってわれわれは告白する。われわれによって、かぎりない苦難が多くの諸国民や諸国の上にもたらされたことを。われわれは、われわれ自身を告発する。われわれは、もっと勇敢に告白しようとはしなかったこと、もっと誠実に祈ろうとしなかった、もっと喜ばしく信じようとしなかったこと、、もっと熱烈に愛しようとしなかったことを」
これがナチと闘い破れて収容所に幽閉された人の言葉である。敗戦後の日本でかくも痛切な自己批判をした人はいるだろうか。そしていま日本政府首脳がA級戦犯の慰霊に出かけ、首相は諸外国からの批判を「理解できない」とする恥ずべき無知をさらけだしている。 (宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』岩波新書 参照)
*教育基本法第10条「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負っておこなわれるべきものである」 (2005/12/14
11:25)
[2006年1月1日はうるう秒なのか!?]
来年1月1日は1日の長さが1秒長くなるのだそうだ。午前8時59分59秒の1秒後に59分60秒が挿入されて、その1秒後を午前9時とする。地球の自転周期は、太陽が真南に位置する時刻から翌日の真南に位置するまでを1日=24時間とし、1時間=60分、1分=60秒と定義している。ところがその後の精密測定可能な原子時計の開発により、徐々に遅くなる地球自転周期の複雑な変動が数十万年で1秒の誤差まで測定可能となり、1秒の定義を変更し、1日=24時間の誤差が±0,9秒以上拡大するのを調整するうるう秒が設けられた。1972年7月1日に初めて導入され、2006年は23回目となる。時間管理を厳密にする通信関連分野、連続観測システムの補正作業も併せておこなわれる。*うるう秒実施日 第1回1972年7月1日・・・第22回1999年1月1日 第23回2006年1月1日
かってコンピュータの西暦2000年問題(Y2K)で私も自分のパソコンがどうなるのか少々心配でしたが、結局何も起こりませんでした。うるう(閏)とはいったい何なのでしょうか。「うるう(閏)」とは、「潤と書き誤ったところからの訓」(『広辞苑』であり、現在の暦であるグレゴリウス歴は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がそれまでのジュリアス・シーザーが制定した「ユリウス暦の誤差を修正する設計をおこないました。平年は365日ですが、地球が太陽のまわりを一周する時間は、正確には365,25635日であるため、4年に1度3年間の平年誤差を相殺する366日(2月を29日とする)を設けます。
@西暦年が4で割り切れる年を閏年とする
Aしかし100で割り切れる場合は閏年としない
Bしかし400で割り切れる年は閏年とする
例えば
@4太陽年:1460,9688日→暦の日数:1461日→年差:0,0078日(約11分)→128年で1日の誤差
A100太陽年:36524,22日→暦の日数:36524日→年差:0,0022日(約3分:455年で1日の誤差)
B400太陽年:146096,88日→暦の日数146097日→年差0,0003日(約26秒:3333年で1日の誤差)
従って西暦2000年はちょうどBの400年に一度の閏年であったわけだ。すると100年後の2100年3月にひょっとしたらコンピュータの誤作動が起こるかもしれない・・・と書いてきましたが、私自身ほんとうはよく分かっていないのです。ということでマイクロソフトの公式サイトを覗いたところ、Excel95の日付データは1900年ー2078年までですが、他のソフトの互換性のために1900年をうるう年として扱っていると書いてあります。2100年ではExcel95は混乱するということでしょうか。
しかしローマ法王庁はすごいですね。信徒向けには聖書の記載通りの天動説(地球が静止し太陽が回転している)を説いてガリレオを迫害しながら、時間管理はちゃんと地動説でおこなっているのですから。キリスト教はグレゴリウス暦によって、世界の時間管理を独占する支配権力を手に入れたわけです。時間管理をめぐる権力闘争でも、世界は西欧に破れたのです。アジアの太陰暦は平年を354日と定め、適当な割合で1年を13ヶ月とする調整をおこないましたが、このいい加減な方法は世界の標準とはならなかったのです。
私も年を追うごとに時間の流れが速くなり、あっという間に1年間が過ぎてしまいます。つまらない時間は過ぎゆくのが遅く、後には何も記憶が残っていませんが、充実した時間はあっという間に過ぎてしまいますが強く印象に残っています。しかし年単位で見るとあっという間に過ぎた時間は詰まらない無駄な時間を過ごし方であったような気がします。こうして人間は歳を重ねていくのでしょうか。ミヒャエル・エンデ『モモ』のように、私たちは時間泥棒と戦わなくてはなりません。とりあえず来年は1秒だけは長い1年となります。どうか充実した時間をお過ごしくださいますように。(2005/12/13
9:02)
[いろは歌の驚異とかけがえのないいのち]
日本語の仮名を一度づつ使って全部を表す作品で最も有名なのは「いろは歌」です。
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日超えて
浅き夢みじ酔ひもせず
現存最古のいろは記載文書は『金光明最勝王経音義』に万葉仮名で7列7段書きされている。
以呂波耳本へ止
知利奴流乎和加
余多連i會津祢那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須
ここには恐ろしい仕掛けがある。7行の最後の文字を綴ると、「止加那久天之須」となり「自分は何も罪を犯していないのに処刑されるのだ」という言葉が登場する。これは中世の言葉遊びである沓冠の沓の手法であるのですが、これは偶然の一致なのか、それとも練り上げられた傑作なのか定説はない(篠原央憲氏提起)。
すべての仮名を1回使う歌は明治以降もおこなわれている(某新聞社懸賞第1位当選)。
鳥鳴く声す 夢さませ 見よ明け渡るひんがしを
空色映えて沖つ辺に 帆船群れ居ぬ靄のうち
こうしたすごい技ができるのは、母音字と「ん」以外のすべての文字が1字で子音と母音を合わせ持つ仮名の特徴と関係あるそうだ。英語などは子音と母音が独立して言葉の中に母音がひんぱんに登場するので、とくにeやaを1度しか使わない表現は至難だという。アルファベット26字すべてを使ったパングラムという遊びの例がある。
Mr.Jock TV Quiz PhD bags few-Lnyx(テレビクイズ博士ジョック氏は大山猫をわずかしか獲物にしない)
日本の1文字遊びと大きく違うのは、日本は心情や思想を盛り込んだ奥深い表現をしているという点だ。一字も重複しない文字を組み合わせる古典は、中国の「千字文」(子どもの国語教科書)であり、4文字を一対として組み合わせる250句から成り立ち、日本でも習字用教科書として使用されてきた。梁の武帝の命令で整然とした韻文に再構成した周興嗣はこの作業で一夜にして頭髪が真っ白になったという(小川環樹『千字文』岩波文庫)。千字文に強い刺激を受けた古代日本人は仮名で同じことを試み、最初に普及したのは平安期の手習い歌「あめつち詞」であった。
あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(生ふせよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(慣れ居て)
このように文字を1回しか使わない遊びは、なぜか生き生きした個性の発揮を思わせるものがある。”世界にたった一つの花”といかいう流行歌があったが、一人一人のいのちは地球上に1回しか現れないという至上の価値と尊厳を持っています。千字文と同じく、誰しもがたった一つの命でもってこの地球の歴史を紡いでいると考えると、なにか涙が出てきそうな感慨を覚えます。いま日本はほんとうにたった一つの文字や花やいのちを大事にしているのでしょうか。子どもたちのいのちが犠牲になっていくのを毎日見ていると、なんでこんな世の中になってなってしまったのだろうかと辛くなります。一部の人の異常な犯罪心理と見る人もいますが、私はそうは考えません。勝ち組と負け組を競うシステムがトラウマをつのらせて、いちばん弱い層へはけ口が向かっているような気がします。私たちは、もう一度千字文の一言遊びに込められた一人一人のいのちを蘇らせる現代のいろは歌をつくろうではありませんか。ぜひどなたか挑戦してみてください。
以上・林直道「千字文・あめつち・いろは歌」(『経済』1月号所収)参照。林氏は高名な経済学者ですが、かって百人一首の世界をマンダラのような絵図に描いてその秘密を解き明かしたことがあり、私は強く印象に残っています。(2005/12/12
9:26)
[貧しいアメリカはイラク占領から宇宙占領へ向かい、その一端を日本がになう]
ハリケーン「カトリーナ」は米国のすさまじい貧困を白日の下に晒した。全米の家族構成別所得の貧困水準と、カトリーナが直撃したニューオーリンズの実態をみてみましょう(04年度米国勢調査局統計参照)。
○全米貧困人口数 3700万人
全米貧困率 12,7%(総人口に占める貧困人口)
全米エスニック別貧困率
黒人 24,7%
ヒスパニック 21,9%
アジア系 9,8%
非ヒスパニック系白人 8,6%
全米家計統計
資産1000万ドル以上家計数 1983年66,500(全家計数8,400万)→338,400(全家計数10,600万 *増加率409%)
0,1%の納税者の所得の全所得に占める割合 2002年 7,4%(14万人 平均年所得300万ドル)
うち超富裕層400人(0,0003%)の全家計所得に占める割合 1,1%
第1位ビル・ゲイツ資産額510億ドル
第6−10位ウオルマートファミリー資産額800億ドル
○ニューオーリンズ市統計
総人口 485,000人(全米31位)
黒人人口比 67,2%(全米12,3%)
貧困率 家族23,7%(全米9,2%)
個人27,9%(全米12,4%)
黒人貧困率 35%(全米24,7%)
住宅所有率 46%(全米66%)
車非所有率 27,3%(全米不明)
貧困家庭の車非所有率 白人34% 黒人60%
公立学校統計
児童数 6万人
うち黒人児童在籍率 96%
児童停学処分人数 1万人
うち退学処分率 10%
殺人件数 04年度264件 05年度8月19日現在192件(昨年同期比+7%) *ニューヨーク市殺人件数572件(人口比16倍)
○カトリーナ被災状況(ニューオーリンズ市)
大被災地(8地区)
住民数35万人
人種構成 白人18% 黒人76% ヒスパニック3%
小被災地(8地区)
住民数14万人
人種構成 白人46% 黒人43% ヒスパニック4%
みなさんはこの数字を見てどう思われますか。要するに世界で最も豊かな米国の富は14万人(0,1%)の富裕層が独占し、99,9%は排除され、最貧困層に黒人やヒスパニックが集中してあらゆるリスクを背負っているのです。その貧困は南部諸州に集中し、総人口の35,6%を占める南部に貧困人口全体の40,0%が生活しています(99年統計)。なぜ米国はこのような目眩くような貧富の差が生まれているのでしょうか。幾つかの理由がありますが、ここではニューデイール政策以来の社会保障を廃止して、急速に膨張する軍事予算とくにスターウオーズ計画に焦点を当ててみたいと思います。
アメリカの世界支配は、宇宙技術と最先端誘導技術を結ぶRMA(軍事技術革命)で比類ない無敵の軍事力を確立し、米兵の血を流すことなく、中東の石油と中央アジアの天然ガスを戦略的拠点として統制し、多国籍企業による世界市場制覇にあります。米政府の宇宙活動費年360億ドルは全世界の宇宙支出総額の73%を占め、軍事関連宇宙活動費は年間200億ドルで全世界の90%を占め、うち年100億ドルがミサイル防衛局予算となっている。運航中の衛星数は1054基で中国はわずか46基であり勝負は決している。宇宙衛星によるスターウオーズ「トロイの木馬」計画は湾岸戦争とイラク戦争で幕を切り、米軍の圧勝に終わった。しかし地上戦でのハイテク兵器や核兵器は国際法の制約を受けるため、制約のない宇宙空間の衛星から「神の棒」(劣化ウランなどの棒状兵器)や「神の光」(X線レーザー兵器)を地上に発射する次世代宇宙戦略を推進しています。宇宙基地から地球上のすべての目標を2時間以内で攻撃するファルコン計画は、3万m上空の成層圏を飛行する有人巡航宇宙飛翔体から無人の共通宇宙飛翔体(ファルコン)を発射する地球攻撃戦略です。連動して最先端核兵器の開発を推進し、原爆(第1世代)→水爆(第2世代)→核弾道(第3世代)→出力調整核弾道(第4世代)へと迎撃先制ミサイルと地中貫通型核弾道の開発を進めています。米国の軍事支出は以下のようになっている。
国防総省・エネルギー省核兵器関連 4416億ドル(06年度)
航空宇宙局軍事関連 80億ドル
本土安全保障省軍事関連 160億ドル
国際武器援助関連 80億ドル
イラク・アフガン追加補正戦費 1100億ドル
退役軍人恩給 700億ドル
軍事国債利払い 3140億ドル
こうして米国の軍事支出総額は9420億ドル(総予算の48%)に達し、世界の42%を占めています。これらの予算の大部分は軍需企業に垂れ流され、軍産複合体(アイゼンハワー)のパワーが米国経済を活性化させています。軍需企業の受注総額は01年460億ドルから04年800億ドルと75%の伸びを示していますが、その受注増加率の上位企業は以下の通りです。
第1位 ハリバートン社 4億ドル→80億ドル(*チェイニー副大統領前社長)
第2位 ノースロップ・グラマン社 52億ドル→119億ドル(*ミサイル防衛TRW社合併)
第3位 ロッキード・マーチン社 147億ドル→207億ドル(*絶対額第1位)
軍事衛星1基平均価格は3億5000万ドル(400億円)で、敵ミサイル10発程度を撃墜する宇宙防衛システムの構築費は2200億ドル−1兆億ドルと推定されている。レーザー衛星から標的を破壊する費用は1基1億ドルであり、新型スパイ衛星編隊からなる「未来の画像衛星システム」構築費は250億ドルに達している。宇宙核戦争時代が近づき、宇宙核戦争で予想される放射能ゴミは想像を絶する規模となる。すでに1,3a以上の宇宙ゴミ(デブリ)が11万個以上地球周辺を周回し、世界的にガン患者が急増している。米政府の膨大な軍事予算は連邦予算を圧迫し、その分担を同盟国に迫っている。ここに日本にとっての最大の問題がある。
米国スターウオーズ「トロイの木馬」戦略に連動して、世界米軍の再編成が推進され、その中核に日米同盟が位置づけられている。日本政府は99年に共同研究を始めたMD共同技術研究を推進する次世代海上配備型迎撃ミサイル(SM3将来型)の開発段階への移行を正式決定し(17日閣議)、2015年に生産開始をめざす。すでに旧型MD計画は、07年に本格的にスタートし、パトリオット3型ミサイル(PAC3)4個高射群が地上配備され、スタンダードミサイル3(SM3)搭載のイージス艦4隻が横須賀と新潟に配備される。新型MD3は、防御範囲が倍加し「おとり」識別が可能で、敵の反撃を心配せずに先制核攻撃が可能となる。日本政府は関連部品の対米輸出を可能とする「武器輸出3原則」緩和を04年に決定している。こうして日本自衛隊は米国先制攻撃戦略の一端をになう海外戦闘軍に変貌しようとしている。その理由を中東ペルシャ湾からマラッカ海峡に至る1千海里シーレーン防衛に置いているが、内実は米国世界戦略のジュニア・パートナーとして本格参戦することにある。在日米軍再編の主要な柱である米陸軍第1軍団司令部のキャンプ座間移転と日米共同司令部創設はその象徴である。驚くべきことに沖縄海兵隊のグアム移転基地建設費97億ドル(1兆1千億円)を日本政府が全額負担するそうだ。戦後30年間にわたって米軍に支払った施設建設費2兆円に匹敵する額を、外国領土の基地建設に支払うなど世界史上かってない事態であり、日米地位協定に違反する。日本は在日米軍駐留の日本側負担の特別協定で、@施設建設費A日本人従業員労務費B光熱水料C訓練負担比総計2378億円を単年度で負担している(05年予算)。
こうして全体の構図が見えてきた。米政府の地球規模の軍事制覇を実現するPNAC(Project for the New American Century 新世紀アメリカ計画)の実現に向けた膨大な軍事支出によって疲弊する米国は、主要な同盟国である日本を再編成の中心において軍事費負担を転嫁しつつ、世界米軍の機動的な再編成を進めている。
こうした米国の帝国的な野望は逆に孤立を深めている。いま全世界で、ドルで石油を買うのではなく、ユーロで石油を買おうという動きが澎湃として起こり、マグドナルドやコカコーラはボイコットによって急速に売上げが落ちている。もし米国国債の購買ボイコットに発展すれば、貿易と財政の双子の赤字によって巨大帝国アメリカは破綻する。米国国債を買い支えている中東産油国・中国・日本のうち、最後までドルにすがりつくのは日本だろうから、米国の破綻は日本の破綻に連動する。日本にとって最も怖いことは、米国に媚びへつらうMD参加や憲法9条改正を契機に、アジアで日本商品ボイコット運動が爆発する可能性があることだ。アジア市場で日本製品がボイコットされる事態が起こったときに、日本の多国籍企業はどういう態度をとるだろうか。折しもASEANはドルからの自立経済圏をめざす東アジア経済共同体構想を課題とする本格的な議論に入っている。日本は東アジア共同体を選ぶか、日米経済共同体を選ぶかの選択を迫られる。
いま日米が支出している軍事費のほんの一部で、全世界のエイズ患者に治療薬をプレゼントし、世界の貧困率を半減させることができる。もし東アジアに非核地帯条約をができれば、日本の軍事費は急減し高齢者や障害者医療と年金をあまねく行き渡らせることができる。それとも果てしない戦争を繰り広げて不安と危機のスパイラルの地獄におちいるのか。それは日本社会が貧富差が極大化する米国型社会へと転換することとパラレルだ。一方にトヨタ・レクサスを狙う少数の富裕層と、他方にカップラーメンと発泡酒を求める多数の下層がいる両極分解の社会だ。さらに恐ろしいことに、米国南部貧困層が星条旗にすがってブッシュ政権を支持したのと同じく、日本の団塊ジュニア世代の貧困層がコイズミ政権に改革幻想を抱いていることだ。その結果日本列島は米兵による日本女性暴行列島となった。沖縄に続いて04年9月にキャンプ座間で米兵が日本女性に強制猥褻行為を働き、禁固3ヶ月と懲戒除隊になっているにもかかわらず、地元相模原市には一切連絡がないという事態が起こっている(9日)。日本は致命的で決定的な分岐点にさしかかりつつある。憲法9条が絵空事の理想ではなく、リアルなインパクトをもって光芒を放ちつつある。その光は消えゆく前の一瞬の明るさなのか。雑誌『経済』1月号参照。
(資料 米軍の世界展開状況)
欧州 1990年31万人→2005年112,039人(ー30%)→今後5−10年間で欧州駐留陸軍62000人(うち駐独58000人)を24000人に削減
西半球 1990年 2万人→2005年 1,941人(ー90%)
韓国 2005年34,803人→2008年までに25000人へ削減、米軍基地41→17へ削減(総面積ー60%)
日本 1990年45千人→2005年34,928人 横須賀第7艦隊含めると51000人→削減計画なし
*米軍1000人以上駐留国(05年3月現在 米国防総省資料)
日本 34,928
韓国 34,803
グアム 3,231
艦隊 12,313
アジア・太平洋計 82,742
デイゴガルシア 1,246
バーレーン 1,666
艦隊 2,498
中東・アフリカ・南アジア計 6,672
ドイツ 74,717
イギリス 11,345
イタリア 12,531
スペイン 1,780
トルコ 1,723
アイスランド1,383
ベルギー 1,431
セルビア 1,762
ポルトガル 1,024
艦隊 2,347
ヨーロッパ計 112,039
西半球計 1,941
イラク 182,500
アフガニスタン21,200
米軍現役総計 1,398,833
(資料 戦争死者統計)
日清戦争 戦死者977人 脚気による死者4064人 脚気患者総数40000人(全患者の25%)
日露戦争 戦闘死47000人 戦病死37200人 うち脚気による死者27800人 脚気患者総数250000人
アジア・太平洋戦争(15年戦争) アジア人犠牲者 2100万人 日本人犠牲者 310万人
日本軍戦没軍人軍属死者 230万人 うち戦病死(餓死)140万人
主な戦闘(藤原彰『餓死した英霊たち』青木書店)
ガダルカナル戦(42/8−43/1) 第17軍30000人 戦闘死5000人 餓死15000人 栄養失調10000人
ソロモン群島 餓死66000人
ビスマルク群島 餓死27500人
ニューギニア・ブナ 15000人派兵 うち救出3000人 死者12000人うち病死8400人
ニューギニア 148000人派兵 戦死者135000人(大部分が餓死・病死)
インパール作戦 303500人派兵 戦死185000人 うち病死(栄養失調・マラリア)145000人
南洋群島 餓死・病死120000人 メレヨン島部隊は将校死者33% 兵死者82% 全体75%そのほとんどが病死
フィリピン戦線 613600人派兵 戦死498600人(うち12000人は45年8月以降)
レイテ決戦 84000人派兵 死者80000人 うち30%は戦闘死以外
中国戦線 病死30−40%
大陸打痛作戦 病死50%
ベトナム戦争 ベトナム人死者 200万ー300万人 米兵派兵数延べ310万人うち戦死者 5万8191人
湾岸戦争(1990年1月17日ー2月28日 43日間)
イラク兵死者 1−3万人 米兵派兵数69万6628人 うち米兵死者 戦闘死148人 その他軍務死 1149人(92年米国防総省)
イラク兵死者 12万5000−15万人(ラムゼイ・クラーク推計)
イラク民間人死者 米軍爆撃による死者 2万5000人 間接死 2万5000人
湾岸戦争後91−98年 イラク人死者120万人(国連) 5歳未満死者50万人(1000人当たり幼児死亡率131人 ユニセフ)
米兵退役除隊数 57万5978人 うち障害者数 13万6031人(米退役軍人局)
イラク戦争(2003年3月20日ー5月1日 43日間)
イラク兵死者 不明
イラク民間人死者 2万7383人ー3万0892人(NGOイラクボデイカウント推計)
2万7368人ー3万0877人(ワシントン・ポスト 10日)
約10万人(科学者チーム04年10月推計)
3万人前後(ブッシュ大統領12日フィラデルフィア演説)
米兵死者 2141人(同上) (2005/12/10
15:14)
[韓国の「歴史整理」と日本の歴史認識の恐るべき非対称性]
韓国政府は朝鮮王朝末期から現代に至る100年間の歴史を総点検し、新たな歴史を構築する壮大な国家事業を扱う「真実と和解委員会」を発足させて取り組みを進めている。誤った歴史の真実を明らかにし、被害者の名誉を回復して未来への基礎をつくるためだ。対象となる事件は、東学農民革命、日本植民地化の親日行為、済州島4.3事件、居昌事件(1951年の良民大量虐殺)、5.18光州事件、老斤事件(1950年 米軍による300人射殺)、三清教育隊事件(全斗かん政権 81年社会浄化目的で強制編成された軍隊内での疑問死)、朝鮮戦争前後の民間人殺害など15の過去の歴史を再点検する。この政府方針に基づいて、国家情報院(旧中央情報部=KCIA)は「過去の真実究明による発展委員会」を設け、国家機関による人権侵害と真実究明の「過去史告白」調査活動を開始した。
7日に国家情報院は「人民革命党・民青学連事件」(1974年)の調査結果を発表し、朴正き軍事独裁政権によるでっち上げだとした。全国民主青年学生連盟事件では、大学生千人以上が逮捕され、8人が最高裁判決確定後わずか18時間後に処刑された。真実委は、大統領官邸とKCIAによるでっちあげ捜査で、激しい拷問と自白の強制がなされたとしている。この裁判には日本人2名も巻き込まれた。調査は結論で「国家保安法を利用し、憲法上の権利を著しく侵害した過去の権威主義時代と決別しようとする国家レベルの決断が必要だ」としている。
韓国国会は、朝鮮半島の植民地化と統治に協力した者の子孫の土地・財産を国が没収する「親日反民族行為者財産の国家帰属特別法」を可決した(8日)。対象期間は、日露戦争から第2次大戦終了までで、とくに日本が韓国の外交権を奪った第2次日韓協約(1905年)や日韓併合条約(1910年)を推進したり、日本から爵位を受けた公職者を「親日反民族的行為者」と規定して彼らの富を不法財産として没収する。韓国内では戦後の混乱で日本人名義の放置されたり所有権不明の土地が、行政自治省管理の未処理地10万2千件(1万2千f)に上り、昨年だけで親日派の子孫160人が360fの所有権確認訴訟が勝訴していることに対する反発もある。。
こうした韓国政府の主導的な歴史究明に対し、政敵を駆逐する政治的な意図で、権力者による新たな歴史の書き換えだとする批判もある(「中央日報」、「朝鮮日報」)。或いは財産権の侵害だとか、財産権上の連座制だとする批判もある。この批判の背後には、社会的に高い位置を占めている子孫、日本軍と取引して成功して現在の位置を築いている財閥、韓国政府に横滑りした朝鮮総督府職員など現体制のかなりの部分に過去を隠蔽して過ごしている「親日派(売国奴)」の存在がある。韓国で推進される「真実と和解委員会」は、南ア共和国で342年間続いたアパルトヘイトの真実を究明し、黒人と白人が共生への道をすすむためにネルソン・マンデラ氏が創設したものをモデルとしている。
こうした歴史の過去に対する徹底した追求がなぜ可能となるのだろうか? 過去の虚偽を暴きそれによって血を流し社会的に抹殺される人が出ることを覚悟した国家プロジェクトの壮大さに圧倒される。日本でいえば、西南戦争の西郷隆盛、秩父事件等の自由民権運動、幸徳秋水などの大逆事件、関東大震災下の亀戸事件と朝鮮人虐殺、治安維持法下の多くの虐殺事件、そして南京大虐殺や731細菌戦作戦等の海外での戦争責任事件、戦後の3大騒擾事件等々再審すべき事件が目白押しの日本の近現代史は、衝撃的な血塗られた歴史の書き直しを迫られるであろう。日本では決して想像だにできない事態ではないか。
逆に日本は過去の罪責に目を閉ざし、歴史を美化する教科書を子どもに与えたり、政府首脳が自ら進んで戦争犯罪者を慰霊する神社にひざまずいて祈り、旧被害国からの抗議を歯牙にもかけない態度をとっては、軽蔑と冷笑を浴びて孤立を深めている。にもかかわらず彼を選挙で圧勝させる多くの国民がいる。この恐るべき非対称性の根元に何があるのだろうか。日本文化のいわゆる心情倫理で説明できるだろうか。罪=ケガレとし、洗い流してキヨメれば許されるとする神道的な倫理や、「水に流して」また仲良くやろうという共同体モラルは確かに日常生活に今も染みついている。いつまでも追求していると、逆に「あんなに謝っているのにいつまで追求するんだ、ほどほどにしておけ」と怒られるほどだ。しかしこうした裏で汚職は限りなく繰り返され、かっての戦争犯罪者が政界にみごとに返り咲くことが日常茶飯事となっている。いま繰りひろがられている建築偽造事件も誰かがスケープゴードになって時間とともに雲散霧消するだろう。そしていつのまにか、どうしようもないあきらめの心情がおおっていく。つまり文化論による責任倫理の解明は説明はできても未来への可能性を生まない。ここでは全面的な解明はできないが、指摘しておきたいことは制度的な転換に日本は失敗したことだ。それは15年戦争の最高司令官を裁けなかったことにある。戦地から帰還したB・C級戦犯が日本を恨んで自暴自棄に陥った理由もそこにある。最高責任者が罪を逃れ、なぜ命令を受けた自分が戦争責任で死ななければならないのかーという根元的な疑惑と絶望だ。要するに日本は共和制の体感が欠落している。もう一つは福沢諭吉以来の脱亜入欧思想にある。戦時までは欧州をモデルに近代化をめざし、戦後はアメリカをモデルに現代化をめざし、つねにアジアからの脱出を試みてきた日本は、骨の髄までアジアへの蔑視の心情が染みついてしまった。まるでトムソーヤーのように、白い肌になるように黄色い肌をゴシゴシと石鹸で洗い落とそうと必死になってきた。星条旗への媚びへつらいとアジアへの優越はメダルの裏表の関係にある。ここに戦後日本のアジアへの無責任システムの根元がある。
韓国政府は北東アジアの恒久平和をめざす北東アジア共同体構想を不可避の国家戦略として提起し、自らのを北東アジアのバランサー(均衡者)と位置づけている。この背景には、日清戦争、日露戦争、植民地支配、朝鮮戦争と常に祖国が大国覇権の争闘場となってきた地政学的な苦渋の体験がある。いま韓国はマレーシアと並んで東アジアの平和のフロントランナーとなっている。アナクロニックな古典的愛国心へ回帰している日本との顔が赤らむような非対称性がある。
ひょっとしたら韓国のデモクラシーは、日本をはるかに超えて成熟しつつあるのではないか。韓流ブームの背後には、日本人が決して手にすることができなかったピュアで責任感あふれる真摯な生き方を想起させるものがある。21世紀を切り開こうと全身をかけて問いかけているような気がする。私は決して韓国を美化しているのではない。ただ生き方の最も大事な部分で、私たちの盲点をついているものがあると思う。この照射に多くの日本人は気づいていないばかりか、反日意識を煽動していると反発する右翼的潮流に巻き込まれつつあるのが怖い。「真実と和解委員会」はほんとうは日韓共同でつくられなければならない、それともいったん水に落ちた犬として徹底的に叩きのめすべき存在なのだろうか、日本は。(2005/12/9
14:55)
[ノーベル文学賞 ハロルド・ピンター氏(75)のブッシュ批判]
05年度ノーベル文学賞を受賞した英国の劇作家であるハロルド・ピンター氏(75)は、現在食道ガンで入院中です。スットクフォルムでの授賞式を欠席し、スウエーデン・王立アケデミーでの受賞記念演説がビデオ映像で流された。以下はその概要です。
芸術、真実、政治 ハロルド・ピンター
米英のイラク侵略は無法行為、あからさまな国家テロであり、国際法の概念への完全な侮辱を示している。多くの人を偽りの情報で欺いた上に、無差別殺戮をもたらすクラスター爆弾や放射性兵器の劣化ウラン弾なども用いて多数の罪のないイラクの人々を殺害した。イラク戦争を始めたブッシュ大統領とブレア首相は大量殺人を主導した戦争犯罪人であり、ただちに国際刑事裁判所(ICC)で訴追するよう召還すべきである。しかし米国はICC設立条約を批准していない。この点でブッシュ大統領は抜け目がない。英国の外交姿勢は米国追随であり、ICCがブレア首相を訴追しやすいように、住所はロンドン、ダウニング街10番地と教えてあげたい。真実であると同時に誤りでもあることがありうる文学の世界と異なり、市民生活では、何が真実で何が誤りかを尋ねなければならない。イラク戦争開始の理由として米政府が主張した、イラクのフセイン政権の大量破壊兵器保有や、同政権のテロ組織アルカイダとの関係保持が真実でなかったことが明らかとなり、政治家は真実ではなく権力とその維持に関心があることを示した。
第2次大戦後の米国外交政策は、世界であらゆる右派軍事政権を支援し、多くの場合生み出してきた。インドネシア、ギリシャ、ウルグアイ、ブラジル、パラグアイ、ハイチ、トルコ、フィリピン、グアテマラ、エルサルバドル、チリなどなど。米国の犯罪は、系統的かつ継続的で、悪質で容赦のないものだった。にもかかわらず、米国が自らを普遍的な善として描き出す情報操作にたけていたために、事実がほとんど知られていない。市民として、自らの生活や社会で真実を明らかにする断固とした、揺るぎない強い知性の決意が必要であり、こうした決意が実現しなければ人間の尊厳を取り戻す希望はない。2005年12月7日。
日本のノーベル文学賞受賞者で川端康成氏は失笑を買うようなつまらない演説をした。大江健三郎氏は、「あいまいな日本の私」と称する文字通りあいまいな演説をおこない、欧州とのコミュニケーションに失敗した。ピンター氏の演説に一切のあいまいさはない。YESかNOかだ。日本のノーベル賞受賞者で、こうした直截な表現で小泉首相をこき下ろす人はいるだろうか。いない。もういい加減に風見鶏のように風向きを見ながら、アレコレとあいまいな賛同や批判を垂れ流すことをやめようではないか。そういう意味で日本はほんとに頽廃した知性が蔓延している。
ブッシュ政権の国防副長官であったウオルフウイッツ世界銀行総裁が、イラクに大量破壊兵器(WMD)の危険がないと確信があればイラク侵攻は不必要であったーと述べた。最も彼は最強硬派のネオコン(新保守主義者)であり、WMDがないことを確信できていればイラク反体制派を支援する別の選択肢があったということであり、米覇権主義の方法の最適化問題を指摘しているに過ぎない。しかしイラク侵攻批判がネオコン内部からも出てきたことに注目する必要がある。軍事侵攻によって2100人を超す米兵の死者には彼らも戸惑いがあるのだ。要するにもっとうまくやるべきだったーと言っているに過ぎない。おそらく彼らはいま、中南米・ヴェネズエラの政権転覆戦略を必死で考えていることだろう。こうした人物が世界銀行のトップにいる構図にこそ現代世界の致命的な欠陥がある。
60年前の日本を思い起こしてみよう。当時はフセインをはるかに上回る天皇制独裁であり、朝鮮と台湾を武力支配し、仁科理化学研究所を中心に原爆の開発も進んでいた。ブッシュのイラク侵攻が正しければ、当時の米国が日本に侵攻し、自由と民主主義をうち立てることも許されたであろう。そして天皇を治安維持法による市民虐殺と外国侵略の罪で裁判にかけることもできたであろう。
ハロルド・ピンター氏のノーベル賞受賞演説は、ハッとするような威力であいまいな日本を射抜いてくる。以上は朝日新聞12月8日夕刊参照。(2005/152/8
18:42)
[決断と自己決定のコミュニケーション・モデル−あなたは脳ドックで未破裂動脈瘤が見つかったらどうしますか?]
人間ドックで補助対象になった脳ドックの受診率上昇によって、未破裂動脈瘤の発見が増えている。脳動脈の一部に瘤ができて放置すれば、破裂して致命的なくも膜下出血に至る場合がある。その平均確率を阪大脳外科は以下のように推定している(この値も各国医学会によってかなり異なる)。
未破裂動脈瘤の破裂確率 1年後までに0,5−1%(積年ごとに倍加する 2年後までには1−2%)
破裂後の手術後の治癒確率 死亡30% 後遺症発症30% 健康回復40%
破裂予防手術後の治癒確率 死亡・後遺症発症 40歳代5% 60歳代17%
破裂予防手術自体の成功率 99%(*名古屋日赤脳外科)
(*破裂防止手術は開頭クリッピングによる従来の瘤除去法と、カテーテルによる挿入法の2つがある)
未破裂動脈瘤患者に対する医者の対応は次のように類型化される。
A:パターナリズム(父親が子どもに良かれと接する恩寵的態度)
「放っておけば破裂して死ぬかもしれない。手術しましょう」
B:リスク・コミュニケーション
患者の受益とリスクを治療の選択肢ごとに数値で説明する
従来はAタイプが多く、患者は医者を信頼し、或る程度まで自分を委ねて任せる。日本では医者も「患者が自分の親だったら」という人格関係による医療が実践されてきた。患者も医者を神のように信頼し依存する。或いは「先生だったらどうしますか」と患者は医者の人格的な決断を聞こうとする。Bタイプは、米国型訴訟社会でリスクを開示して患者の許諾を求める非人格的な関係が強い。患者は自己責任で手術方法を選択・決定する。B型は多くの患者が混乱におちいる。未破裂動脈瘤では次のような困惑状態に陥る。
「頭のなかに爆弾を抱えていると思うといてもたってもいられない」
「死ぬのは怖いが、開頭手術なんてもっと怖い」
かくして患者は手術を避けて逃げ回るか、泣く泣く手術を受けるか、毅然として手術を受けるかー人によって対応が分かれてくる(どちらかというと男は逃げ回り、女性の方が決断力がある)。
AタイプであれBタイプであれ、現在は患者のサインがないと手術に入れないというインフォームド・コンセントは同じだが、Aタイプは人格的・情緒的に手術を受け入れ、Bタイプはドライで訴訟対応型テクニックの傾向がある。あるべきインフォームド・コンセントを研究するクオリテイマネイジメントという経営学的手法が病院に導入され、AタイプとBタイプを統合したありかたが探求されている。脳ドックをわざわざ受診する人は、未破裂動脈瘤発見の場合を想定した事前の自己決定が或る程度なされていると想定されるが、そうでない場合もあるから難しい。脳ドックを絶対に受診しない脳外科医もいるから事態は複雑になる。
次のようなインフォームド・コンセントはどこが良くないか考えてみてください。
○「当病院ではこれまでこの手術は失敗したことがありません」(→その治療全体の状況を併せて説明しているか)
○「重大な後遺症の起こる確率は飛行機が落ちる程度です」(→これでリスク評価ができるか)
○「お腹を開けるのは昔のやり方。今は腹腔鏡を使います」(→治療の選択肢がきちんと伝わっているか)
次の対話の医者の欄にあなたの言葉を入れてみてください。
医者「放っておけば50%の確率で亡くなります。手術の成功率は50%です」
患者「・・・先生なら手術しますか?」
医者「○○○○○○」
すべての手術がそうだが、特に未破裂動脈瘤の手術はパーフェクトでない確率の世界に自分を委ねることになる。健康状態にある患者の開頭による脳手術は、失敗が許されない成功して当たり前の手術である。患者は年間0,5−1%のリスクから逃れるために、自らの頭を開く。動脈瘤の場所や大きさによってそのリスクも異なる。完璧なインフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンを受けたとしても、最後は患者の自己選択・自己決定である。あたかもそれは「限界状況」(ヤスパース)を突き抜ける「投企」(ハイデッガー)に似ている。あなたはどう考えますか?
朝日新聞12月6日夕刊参照。(2005/12/7 17:00)
[私たちは水平的な感覚を失いつつあるのではないか]
政府与党の幹事長があるパーテイで挨拶し、「日本は天皇中心の国だ。中心がしっかりしているのと同時に、中心をみんなで支えていく国柄だ」と述べて顰蹙を買っている。世界で数少ない立憲君主国でも君主を国家の中心として、あたかも主権が君主にあると褒め称えるような主張を述べる国はない。戦前期の大日本帝国憲法体制下では天皇=神であり、それを否定すると大逆罪か不敬罪で投獄されたが、戦後憲法では中心=国民であり主権者は国民となった。かって森とかいう首相が「日本は天皇を中心とした神の国」」と言って内外から痛烈な批判を浴びたが、ことほど左様に天皇制の呪縛は連綿として現在に至るも私たちの意識にまといついている。或る左翼系学者が叙勲に涙を流して感謝し、また最近はある左翼政党の後援会会長が叙勲されたのを褒め称える記事が掲載され、私は唖然とした。制度的な変革が進んでも、意識の変革が遅れるのは「上からの近代化」を進める開発独裁国によく見られる現象だが、今の日本は依然として明治期のしがらみを引きずっているようだ。そればかりか逆に前近代的な身分意識が強まってきているような気がする。最近のメデイアを見ると、天皇家の個人を「○○さま」とあたかも高貴な身分のように尊称する言い方が蔓延している。こうして、うまれながらにして「すべて国民は法の下に平等であって、・・・・社会的身分又は門地によって・・・・差別されない」(憲法第13条)という平等の水平軸の感覚が衰弱して、生まれや門地によって無条件に貴賤の差をつける垂直軸の感覚が蔓延しているように見える。自分の上にいる貴い人への礼讃は、同時に誰かを自分の下に位置づけて偉ぶるという卑しい心情に裏打ちされている。自分を他人と比較して勝手に上に上げて喜んだり、下に下げて悲しんだりして右往左往する哀れな姿は、渦中にいると気づきにくく、ますます垂直のスパイラルに嵌っていく。
垂直軸の至上の高みに最も高貴な人を置き、最下辺に最も卑賤な人が置かれ、全員がその垂直軸上のどこかに位置して最高位からの距離を競うことになる。最高位からの表彰状に涙を流して喜び、しかもその表彰状のランクに一喜一憂するという漫画のような世界になる。紙切れに過ぎない表彰状の権威は、絶大な象徴効果を持ち、フェテシズム的な崇拝の対象となる。最上位者のちょっとした一言に忘我の喜びを味わったりする。こうして最上位者は最も安上がりに下位者を統制し、支配することができる。かっての帝国軍人は恩賜のタバコ一本に感涙の涙を流して戦場に散ることができた。日本人は歴史的に、共和制の感覚をただ一度も味わうことなく過ごしてきた民族なのだ。こうした水平軸を持たない、国家の垂直軸の構造は悲劇を最下層に集中させて、最上位者が生き残るというめくるめく惨状を呈する。
フィリピン戦線で敗走する日本軍に何が起こったか。米軍への切り込みの肉弾戦を挑んだ日本兵達は、白骨化した遺体を野にさらし、全身にウジがたかった。飢えた兵士はマラリアで倒れた兵士のポケットを探り、塩を奪っては雑草にふりかけては食べた。虫けらのようになった兵隊は、最後には腐敗した戦友の肉片を口にしたのである(大岡昇平『野火』参照)。大岡氏がなぜ文化勲章を辞退したか。大本営参謀本部は末端の兵士の惨状には目もくれず、自らの命令責任を放擲し、天皇の延命工作に熱中していたことを知ったからだ。
これが「大東亜戦争」」と称せられた15年戦争の実態である。しかしこの兵士達は、大東亜=天皇制国家をアジア化する「八紘一宇」の先兵であった。その最重要課題はアジア民衆への日本語強制であり、いまでもアジアの中高年の人は、驚くほどうまく日本語を話し、文部省唱歌を歌うことができる。ここでも日本語をめぐる水平軸と垂直軸の衝突が起こった。日本語のアジア化のためには、表音文字の使用など国字の合理化が求められた。その典型が国際標準であるヒダリヨコガキの導入であったが(このサイトのように)、これに反対する猛烈なタテガキ貫徹論が起こった。タテガキ派は「日本人の考へ方は、どこまでも、上から下へ流れていく方式であり、二カケル三ハ六と言ふのもー2×3=6と言ふタテガキにおいて、日本数字は、なりたつ。上からしたへのひとすじのお言葉である教育勅語のように、タテガキ表現様式こそ日本人の精神美である」(徳沢龍譚「日本語の大東亜政策」 『興亜教育』1942年6月号)と主張した。垂直軸のタテガキ言語強制は、このような無惨な非合理主義を生んだ。数学も物理も化学もその数式はすべてタテガキでおこなえと国民精神文化研究所は唱道したのである。
例えば今イラクを占領している米軍は、アメリカ型の「自由と民主主義」をイラク化すると宣揚して占領を合理化しているが、アラビア語に変えて英語を公用語とし、小学校から英語教育を強制するとしたら、イラク国民は一夜にして米軍への反乱を起こすだろう。我が大日本帝国はつい60年前に同じ所業をアジアで繰り広げたのである。いま日本自衛隊は米軍に追随して占領政策に加担している。サマワ駐留自衛隊はサマワ市民から失望の視線を浴びている。自衛隊がおこなった給水活動は、16万市民のうち1万6千人に1日4−5gのみであり、道路と建物補修による雇用はほとんど進んでいない。2年間で使った650億円の巨費は600人の自衛官を維持するためであり、市民生活は改善されていない。逆に米軍と独立して活動するフランスNGO・アクテッドは、抵抗勢力の妨害を受けることなく、70台の給水車で給水し浄水場を整備して多大な貢献している。サマワ近郊ルメイサで自衛隊が補修した障害者施設の竣工式で、自衛官が市民に取り囲まれて「ノーノージャパン!」と罵声を浴びて投石を受けた(5日)。これがブッシュを頂点にした米国に追随する垂直軸の底辺に置かれた日本自衛隊の無惨な姿である。個々の誠実な自衛官の献身的良心は、大義なき派遣によって踏みにじられている。
いま日本の垂直軸編成は「構造改革」という名によって、次々といままでの水平軸を壊しつつある。保護と規制は甘えを生んで経済を沈滞させるから、規制緩和で競争を刺激すれば経済が活性化するとして、公共分野の市場化を進めている。皆さんはタクシー業界のすさまじい実態をご存じでしょう。自交総連の調査では、全国のタクシー運転手の平均年収は269万円(04年度)であり、運転中の脳出血など突発的病による事故は04年度21件発生している(規制緩和前は一桁)。東京都自動車連合健康組合調査では、健康診断で何らかの異常あり92,9%で一般労働者の2倍以上に上り、現職死亡率は全国保険組合平均の4倍に達し、自殺者は年間700人を超えている(規制緩和前より16%↑)。00年の改正道路運送法によってタクシー業界への参入が自由化されてからの実態だ。家賃が支払えないので、会社の仮眠室へ寝泊まりする「企業内ホームレス」となっている或る運転手(54歳)は、乗務1回16時間、月12回で、売上げの40%は会社がとり、保険料を引いた後の手取月収は5−6万円である。彼の会社では住む家を持たない運転手が10%近くいる。一般企業をリストラされてタクシー運転手へ転職した人が多い。
皆さんはTVに登場する華やかなタレントをよく見るでしょう。彼らは法規上は芸能実演家と言われる。大半の芸能実演家の年収は貧しく、05年度は100万円未満が14,7%に拡大しており(00年は6%)、アニメーターは年収100万円未満が26,8%に上っている。芸術や文化の構造改革によって文化庁予算は削減され、競争の中で自分で稼げということになっている。長者番付に載る芸能実演家の背後には、生活保護基準を大きく下回っている芸能実演家の大群がいる。
東証一部の市場規模は時価総額で504兆86億円に達し(上場株式数ベース)、バブル期の90年7月17日以来、15年5ヶ月ぶりに500兆円を突破し、バブル絶頂期の89年12月末の590兆9087億円に迫りつつある。日経平均は1万5551円と5年2ヶ月ぶりに大台を突破し、全世界からオイルダラーが日本に集中している。しかしサクセスストリーはトヨタ自動車の時価総額が90年7月日で約3倍に達しているように、輸出製造業と金融ビジネスでしかないという偏倚した構造だ。国内市場は疲弊し切っているのに、外国人投資家が日本の輸出製造業やIT関連株を買いまくるという異常な事態が誘発されている。株価がバブル期に遠く及ばないのに時価総額が伸びたのは、上場企業数が増えたからであり、自動車関連株と並んでIT関連企業株が急伸したからだ(NTTドコモ、ヤフー、ソフトバンクなど)。これらのサクセス企業が公正な競争を自力で勝ち抜いたというなら、大いに評価しなければならないが、そうではない。法人税率の削減や連結会計による莫大な法人税逃れ、IT減税や研究開発投資減税という優遇税制を最大限に利用し、M&Aと社内での非正規雇用とリストラによって人件費を削減するという、徹底した社会的責任逃れによって競争力を強化しただけだ。ここに経済的な垂直軸の作為がある。お陰でライブドアのホリエモンは日本経団連への入会が許されたという。ライブドアはこれによって通信メデイア、銀行業への参入のパイプをつくることができる。垂直軸の経済再編成は、さらに中小企業支援の衰弱によってほんらいのベンチャーの参入機会を実は奪いつつある。
日本IBMは02年の会社分割法を利用してHD部門の労働者800人を日立子会社へ転売し、スズキは「チャレンジ30」プランで正社員700人を削減し、1ヶ月間の連続休暇と引き替えに残りの期間を9時間勤務とする異常な変形労働時間制を導入し(磐田工場)、沖電気の「フェニックス飛翔」プランは従業員10200人を5300人に半減して、製造原価に占める労務費を10%に削減している。この結果沖電気の傷病手当の64%が精神疾患に関するものという異常な状況になっている。
野村證券・中期経済予測(06年ー10年)では、東京圏実質GDPは04年度3,1%→10年度4,9%にたいし、中国圏は04年度2,2%→10年度2,8%と3倍の地域格差が拡大するとし、その原因として@人口減少による既存住宅余剰が大都市圏住宅事情を改善A雇用形態の流動化による労働力移動B大都市圏住民サービス上昇による人口吸収をあげている。こうして垂直軸の経済再編は、日本列島との空間的な地域格差の垂直軸を拡大している。
私たちは日本から水平軸が失われ、あらゆる面で垂直関係がつくられつつある現状を見た。それは政治、経済、社会の全線にわたって浸透しているようだ。しかしこれでほんとうにいいのだろうか。誰しも胸の片隅に不安を抱えながら、影に脅えて突っ走っているように思える。その先に何が待ちかまえているのか、垂直軸の正と負の距離が無限に拡がるまで走り続けるのだろうか。日本をこのような状態にして、次世代の子どもたちにバトンを渡せるだろうか。大人たちの醜い競争を見ながら、はたして子どもたちは何を考えているのだろうか。そこには実は大人が赤面するほどに、みごとな水平軸の考えが生きている。例として近江八幡市立島小学校を取り上げよう。
「島小こどもの権利憲章」 2004年度卒業生
第1条 どの子どもも楽しく生活する権利がある
第2条 島小の子どもはしっかりと学習できる権利がある(まわりの人からじゃまされずに学習できる)
第3条 島小の子どもは1年から6年まで全員平等である
第4条 この島の自然を大切にする権利がある
第5条 島小の子どもは講師を呼べる権利がある
第6条 一人ひとり意見を出しあう権利がある
第7条 自分が児童総会を開く権利がある
第8条 島小の子どもはみんなと遊ぶ権利がある
昨年度の卒業生が下級生に残していったものだという。ここには国連子どもの権利に関する条約が生き生きと具体化されていて、胸をうつようなものがありませんか。おそらく金や地位や名誉などの価値が染みついた大人では決してつくれないようなヒューマンな関係があります。教師の側が「○○しなさい」といったり、特に生活指導で「正しいことには有無を言わせず言うことを聞かせる」やり方を評価する親が多い中で、どうしてこのような発想の子どもたちが育ったのであろうか。しかも「○○を守りましょう」と義務的に呼びかけるのではなく、「○○できる」という権利的な関係として互いのルールを認め合うという意識がどのようにして生まれてきたのだろうか。
この文章の「子ども」と「島小」を、「社員」と「会社」に置き換えて作り直してみよう。
「○○会社の権利憲章」
第1条 どの社員も楽しく仕事をする権利がある
第2条 ○○会社の社員は、しっかりと研修できる権利がある(まわりの人からじゃまされずに研修できる)
第3条 ○○会社の社員は新入社員から幹部社員まで全員平等である
第4条 この会社の自然を大切にする権利がある
第5条 ○○会社の社員は講師を呼べる権利がある
第6条 一人ひとり意見を出しあう権利がある
第7条 自分が社員総会を開く権利がある
第8条 ○○会社の社員はみんなと遊ぶ権利がある
こんな会社憲章がある会社は瞬時に倒産するだろうといった冷笑が聞こえてくるほどに、ほんとうに空想的な絵空事が並んでいるかのようだ。しかしもともと会社とは、人間の生活に必要なものを協力してつくるために、集まってできたものだ。それを市場に出して得られた利益はみんなで分配したはずだ。その会社の存在を認めた出資者が現れて支援し、社員はそれにも答えるために良い製品を作ろうとしてきた。会社を育てるというよりも、頑張っている会社の株を操作してM&Aで儲けるということは恥ずかしく軽蔑されることだったし、いまもそうであるはずだ。ギャンブルのようなマネー・ゲームがそうした会社のほんらいの姿をゆがめてしまった。社員はいつ自分の会社がM&Aになるのか、いつリストラされるか戦々恐々として働いている。島小の子どもたちは、大人のつくっている異常な醜い社会の姿を無意識のうちに鋭く告発しているような気がする。一度リセットしてみようよ、と呼びかけているような気がする。(2005/12/6
15:47)
[もしTVがなければ小泉氏は落選していたか? 竹内一郎『人は見た目が9割』(新潮新書)]
米国の心理学者アルバート・メラビアンのコミュニケーション研究では、人が他人から受け取る情報の割合は次のような割合となっている。
「見た目・身だしなみ、しぐさ・表情」(視覚) 55%
「声の質(高低)、大きさ、テンポ」(聴覚) 38%
「話す言葉の内容」(言語)
7%
この実験は矛盾した情報に接したときに、人は自分の言語・聴覚・視覚のどれを優先するかを調べたもので、「7:38:55」をメラビアンの法則という。
氏はこの調査結果から、言葉以外のコミュニケーション手段の技術と力を身につけるハウツーを説く。例えば演出家が配役を決めるときの最大の要素は「見た目」であり、特に顔の形は丸顔は明るく、角顔は意志が強く、逆三角形は学者タイプという法則があるという。多くの人のイメージがそうなっているという先入観が、映画やTVのメデイアを観て学習され、拡大再生産されているという。
確かにメデイアの「コイズミ劇場」という視覚メッセージがなかったら、小泉氏の圧勝はなかったであろう。なぜなら小泉氏の「言語」は、「大量破壊兵器が見つからなかったから、なかっとは云えない」などハチャメチャな答弁をし、「民間ができることは民間で」とワンフレーズを繰り返しているだけだからだ。おそらく歴代首相でもっとも「言語」を矮小化した首相として歴史に記録されるだろう。しかし圧倒的多数が彼に投票したのは、見た目にはノーネクタイでライオンヘアーを振り乱し、「なんか世の中を変えてくれそう」という視覚イメージでとりあえず大衆心理をつかんだからだ。
タレントや芸能人の世界でも、「見た目」は成功の最大の条件であり、私たちは歌手の歌う歌の歌詞(言語)よりも、声調やメロデイ(視覚)で歌そのものを評価し、場合によっては歌手のスタイルや衣装、動作(視覚)で評価する。ファンはアイドルの髪型をまね、同じ衣装をまとい、同じしぐさをして、あたかも自分がアイドルになったかのような同一化の心理に満足する。
昨夜のNHK教育TVの障害者特集をみていたら、知的障害者のたどたどしい言語とサリドマイド後遺症の女性の枯れた声調が聞こえてきた。彼らの発する言語は、発する一言一言に重みがあり、言語の持つ迫力を充分に伝えていたが、その背後にはやはり全身から醸し出される障害のしるしに裏打ちされているようだった。特に私の眼は、サリドマイド女性の両肩から伸びている小さな腕と手を凝視していた。出演者は健常者と障害者のコラボレーションによる障害者雇用の確保を真剣に話し合っていたが、私の「見た目」による印象は危うい差別の意識につながっていたことを隠すことはできない。障害者雇用を推進する中小企業の社長の発話も、どこかに「助けてあげる」というある種傲慢な雰囲気が漂っていたが、それが企業の厳しさなのかもしれない。それにしてもサリドマイド女性の淡々とした態度と、彼女の発する言葉は立派であり感服した。
ことほどさように、コミュニケーションにおける「見た目」(視覚)の要素は大きい。こうしたコミュニケーションの特徴を人が人に影響を与える権力((支配)の関係に適用すると何が見えてくるだろうか。M・ウエーバーは人が人を支配する方法を、カリスマ的支配(超人的な能力の持ち主)と伝統的支配(昔からのしきたり)と合法的支配(言語による約束)の3つに分けて考えた。カリスマや伝統的支配は、秘儀などの身体動作(視聴覚)によって権力を維持するが、合法的支配は言語に表現された約束のちからを重視する。ウエーバーは、カリスマ(古代)→伝統(中世)→合法(近代)と支配の方法が進歩するというが、コイズミ劇場を観ているとこの考えは必ずしもパーフェクトではない。
どの支配の方法が有効であるかは、文化や階層などの条件でおおきく左右される。だから近代以降の合法的支配の時代に、伝統やカリスマが登場する可能性もある。もし日本人の肌が白かったら、広島・長崎への原爆投下はなかったと考えられるのはなぜでしょうか。トム・ソーヤーは、なぜ必死で風呂場で自分の皮膚をゴシゴシ洗って白くしようとしたのでしょうか。皮膚の色の濃さという「見た目」の違いによって、多くの人が迫害されたのはなぜでしょうか。カリスマや伝統が人を支配する主要な手段が「見た目」の差異を最大限に利用したからではないでしょうか。こうして「見た目」によるコミュニケーションは、一部の人の権力を極大化し、大勢の敗者が自分の敗北を仕方がないものと受け入れるあきらめの心情をつくり出します。
いま日本はますます「見た目」によって判断する傾向が強まっています。街ではどこかに「変な人」はいないかと互いに監視し合い、子どもたちはちょっとした違いを理由に仲間はずれにしていじめあい、会社や大学は「見た目」の業績を競い合い、大人たちは名刺の肩書きをみてコミュニケーションをしています。「見た目」(視覚)から「言語」への評価基準の転換が進めば、おそらく日本には革命的な変化が起こるように思います。まず最初に小泉首相は間違いなく落選するでしょう。彼の「言語」はワンフレーズを単純に繰り返す無内容なものであるからです。「言語」(政策)とそのリアルな結果が豊かになれば、それが「見た目」にもはねかえり、視聴覚による表現のレベルを豊かにします。貧しい精神と貧しい表現は近接し、豊かな精神と豊かな表現も近似しています。メラビアンの法則はアメリカ型大衆社会の表現であり、言語を重視する欧州文化の対極にあります。(2005/12/4
11:35)
[規制緩和による日本のメルト・ダウン]
耐震強度偽造によって日本の居住の安全性は崩壊状態となった。まず事実経過の概要を確認してみよう。
2004年1月にアトラス設計(渋谷)は姉歯建築士の構造計算書偽造を発見し、木村建設・日本ERIに通告したが2社は放置。アトラス設計は同時にイーホームズに偽造通告。2005年10月にイーホームズは内部監査調査により偽造を発見し、姉歯建築士に25日に確認後、国交省担当係長に通知。その13時間後に国交省は「本件は申請者と貴社の問題であり国交省への報告は必要ない」と回答。27日に建築主・民間検査機関関係者の会談でヒューザー社長は「公表してなんの意味があるか。地震で倒壊したときに発覚としたい」と述べる。11月8日に山口那津男参院議員秘書がヒューザー社長を国交相に紹介、15日に伊藤公介衆院議員(自民)は国交省にヒューザー社長を紹介。17日偽造問題公表。24日の国交省聴聞会で姉歯建築士は「木村建設から鉄筋量削減を迫られた」と述べる。26日に自民党幹事長は「悪者捜しを始めると、マンション業界はバタバタつぶれる。BSEと同じ状況になるのが心配だ」と講演で発言。29日衆院参考人質疑で木村建設は「架空請求書を要求して私の営業経費に使った」と証言。姉歯建築士の関係する建築物は206件で、うち偽造は43件、残り163件のうち偽造がないのは100件で後は現在調査中(国交省1日発表 *国交省調査は96年作成分以降しかおこなっていない)。
ここから浮かび上がる業界構造は、建築主(販売会社)が施行主(建築会社)に安価な施行を要求し、建築会社が設計事務所にコストダウンを要求し、顧客確保をめざす設計事務所が計算書を偽造し、民間検査機関が偽造を見逃してフリーパスさせ、自治体建築主事はその報告をほぼ無審査で通しているという実態である。姉歯建築士の偽造は98年の建築基準法改正(民間検査機関による建築確認導入)の翌年99年からはじまり、01年から急増している。もし建築基準法改正がなければ今回のような事件は限りなく起こらなかったといえる。居住の安全性を民間検査に委ねるという公的規制緩和政策そのものが問われている。利潤とは無関係の、いくら金をかけてもパーフェクトでなければならない建築の安全審査を、営利を追求する民間会社にゆだねることは間違いだと云うことが明確になった。しかも民間検査機関は、住宅建設企業が出資してつくられており、申請者と審査者が実質的に同じという構造になっている(国交省指定民間検査機関40社のうち11社が大手企業出資)。
それにしても東京都の対応は非情且つ冷酷だ。石原とかいう都知事の対応をみてみよう。東京都の初期対応は、被害者に公的住宅を提供する意志もなかったが、被害の拡大に慌てふためいて11月25日に方針を転換し、都営住宅500戸を確保したが、家賃の減免措置は採らないという。一方で神奈川県、横浜市、川崎市、藤沢市は「緊急避難的に住宅が必要な住民から、費用を取るべきではない」として無料化対応をしている。石原慎太郎の発言は以下の通りである(私の胸は怒りに煮えたぎっている)。
「基本的には国が決めた制度、手続きに欠陥があったから、こういう馬鹿な問題になった分けでね。住宅は用意するが家賃は自己負担だ。神奈川県の松沢君はちょっとフライングだと思うよ。格好いいかもしれませんけど、払うのは県民の税金ですからね。三宅島は無償提供しているが、今回は誰かしらの責任を問える話だ。責任をまずはっきりさせるべきだ」と冷酷に言い放った。最終の建築確認を出している都の責任は一切ないというのであろうか。家賃とローンの二重苦にあえぐ被害住民の生命と安全は、石原知事には無関係なのだ。国交省は関係自治体に、公的住宅の家賃の一時減免を表明しているが、制度導入者である自らの責任については一切語っていない。いま日本は居住の安全について、誰もが逃げ回るモラルのメルト・ダウン状態にある。騙された住民の自己責任で処理せよーという実態だ。石原やコイズミ両氏に投票した人は、自分が裏切られつつあることを肌で感じている。
原理的に問われていることは、市場化によって公共性が根底から崩れていることであり、公共性の確保には一定の公的規制が不可欠だと云うことだ。それは居住の安全と並んで、食の安全性にも象徴的にあらわれている。BSE牛肉輸入をめぐる食品安全衛生委員会「米国・カナダ産牛肉等の食品健康影響評価(答申案)」(11月2日発表)の結論を見てみよう。
@(日米の)科学的同等性の厳密な評価は困難である(データの質・量の不明性)
A輸出プログラムが遵守されると仮定すれば、リスク差は非常に小さい
B輸入再開は、管理機関による輸出プログラムの実効性と遵守状況の検証が必要である
(付帯事項)米国牛は、脊髄などの危険部位の除去が不十分。検査が「よろけ牛」のみで検査率は全頭の1%に過ぎず、健康と蓄牛のBSE発症の危険がある。豚、鶏用餌に危険部位を含む肉骨粉を使用しているー等への監視と十分なサーベイランスが必要。出生月齢不明牛、危険部位除去不十分、処理過程での20ヶ月以上の肉との混合が判明した場合は輸入停止(*米国は月齢の耳票制度はなく、肉の色と骨化で月齢を判断)。
食品安全衛生委員会は、安全性の科学的評価は不可能であると結論づけ、すべて「仮定」を前提にするというおよそあいまいな結論となっている。BSEは何c以下ならいいという安全域の量的問題ではなく、ちょっとでも口にした瞬間に罹患する。全頭検査によってパーフェクトにBSEを駆逐している日本に、致命的なリスクを覚悟させるような輸入再開は、米畜産業界の市場原理が公共性を壊して利潤極大化を図るところにある。対米輸出制裁措置を恐れる日本政府もまた公共性を犠牲にして市場利益を優先しようとしている。
公的規制による公共性は、民営化という規制緩和によって傷だらけになってしまった。しかしここで公的規制はほんとうに市場を萎縮させ経済発展を抑えるのか、考えてみよう。公正な公的規制によって、かえって市場は活性化し経済は発展するという仮説は成立しないのかーを具体的に考えてみよう。
環境規制によって経済発展は阻害されただろうか。自動車排ガスを10分の1に規制した1970年のマスキー法の規制は、日本の自動車メーカの技術水準を世界最高水準に上昇させ、マスキー法をクリアーした低燃費エンジンの開発に成功した日本企業は世界の自動車市場を制覇するに至った。トヨタが世界トップに躍り出ようとしているのは、最高水準の環境対策車「プリウス」の開発にある。京都議定書による排ガス目標設定によって、燃料電池車の開発は急速に進展し、水分しか排出しない無公害車の商品化は近い。また労働規制によって経済発展は阻害されただろうか。19世紀の英国工場法による労働時間規制によって、労働者の不健康は一歩是正され、機械と設備の技術革新を誘発し、英国経済は発展し、世界は一斉に労働条件の公的規制をおこない、国内購買力は上昇して世界経済は発展した。こうした事例は明らかに一定の公的規制による市場の秩序が必要であることを示している。犯罪対策の民営化によって犯罪発生率は抑制されたか。激増する犯罪と監獄人口の増加によって、米国は警察と刑務所の民営化を進めている。監獄の管理を民間会社が請負い、公共警察に代わる民間警察会社が好況を呈し、犯罪ビジネスは急成長している。米国は犯罪なしには市場経済が成り立たない社会となっている。
日本の刑務所も飽和状態だ。例えば和歌山刑務所(女子)。この刑務所は、江戸期に岡の牢と呼ばれ、その後監舎→囚獄→徒刑場→懲役場→監獄→監獄署と変化して現在に至ってるが、500名定員で652名収容している。受刑者の40%が覚醒剤、窃盗20%、殺人10%で、平均刑期3年7ヶ月、平均年齢43歳、15カ国の外国人がいる。女性刑務官の平均年齢は若く、育児休暇中の刑務官が6名いる。652名の懲役・矯正業務は至難で、3年目までにかなりの確率で再犯が起きている。日本の刑務所も米国モデルの業務民営化を推進している。
いま日本は一周遅れの市場化のラストランナーとなって米国モデルに追随し、、いままで営々と築かれてきた公的規制を破壊している。公的規制の撤廃による経済活性化という幻想に攪乱されて、逆にシステムの秩序そのものがメルト・ダウンの崩壊状況におちいりつつある。審査民営化による建築設計偽造は建築業界を沈滞させ、安全性を確認できない米国産BSE牛肉輸入によって食品業界は沈滞するだろう(吉野家が復活するかかどうかは疑わしい)。労基法改正による労働規制緩和は不安定雇用と長時間労働を蔓延させ、製品回転率の高いデジタル家電業界に手作業を復活させ、リストラによるスキル継承を困難にさせて国内製造業界を沈滞に追い込んでいる。市場競争による神経系のゆがみは残虐な犯罪を誘発させ、その対象は幼い子どもに向かっている。こうして生活と国内市場は疲弊し、階級格差が深化して、「失われた10年」から脱却しているのは一部の輸出大メーカーとマネーロンダリングの金融ビジネスに過ぎない惨めな姿へ転落している。最後の結論はあまりにも明確だ。公正な公的規制を導入して、市場と社会生活の秩序あるシステムを再生させることだ。
米国モデルの日本への導入は、米政府「対日年次改革要望書」(1994年〜)を忠実に国内で実施し、その結果を回答書で米政府に送り、米国議会に報告されるという信じられないような内政干渉システムでおこなわれている。この過程は米国大使館での週1回のキイプレイヤー(*竹中氏と推定されるー筆者)との会合で検討されている(米通商代表部USTR日本担当代表補米下院歳入委員会公聴会証言 9月28日)。私たちは「売国奴」という言葉を知っている。いま日本には言葉の正しい意味で真の「売国奴」が政権中枢を握っているのではないか。かくして51番目の米国州である日本州に転落した哀れな日本の姿がある。
哀れな日本よ 荒木 國臣
哀れな日本よ
君の美しい古里の山並みに
星条旗はひるがえり
幼い少女のいのちは汚されて
君の澄んだ海はるかに
いくさ船が帆を上げる
哀れな日本よ
君の厚い胸元深く
剣は射しこまれ
若者の明日は奪われて
君の開けゆく大地に
いくさ車の音がひびく
哀れな日本よ
君の仰ぎみる空に
銃弾は放たれ
牢にあまたの翁は満ちて
君の抱きゆく青空に
見よ 戦闘機の高く飛べるを
*米国「年次改革要望書」の概要と日本関連法案成立経過
1995年版
郵便局の民間競合保険商品提供禁止→05年10月郵政民営化法
1996年版
大店法廃止→ 98年大店法廃止法
労働者は兼業手制限撤廃 → 99年 労働者派遣法改正
民間による郵貯・・簡保資金運用許可
外資によるM&A制限除去
1999年版
簡保制度削減・廃止→ 05年郵政民営化法
2000年版
外国企業参入の商法改正→ 02年 監査役廃止・社外取締役代替商法改正 05年 外資による買収簡易化会社法改正
2001年版
医療制度市場化→ 02年健保本人3割負担 06年混合診療制度導入
郵政民営化懇談会外資代表
2003年版
道路公団・郵政公社民営化→ 04年道路公団民営化法
2004年版
郵政民営化過程における外資と外国政府職員意見交換 → 05年郵政民営化法 (2005/12/3 10:09)
[子どもたちは最悪の世紀を生きさせられようとしている]
大人はなぜ子どもを虐待するのでしょうか。いま児童福祉施設は急増する虐待を受けた児童で満杯状態になっています。児童福祉施設は保護者のいない子どもや虐待を受けている子どもを保護していますが、児童福祉法改正によって乳児院で対応していた6歳までの子どもも受け入れ、退所した子どものアフターケアもするようになりました。しかしいま虐待を受ける児童が急増し、施設に入れないで巷に放置されている子どもが急増しています。入所する子どもは深刻なケースに限られ、施設内は混乱状態となっている。入所初期の「試し行動」(周囲の人が安全な人かどうか確かめる)によって、安定期に入った子どもが攪乱されて不安定になったり、性的虐待が施設内で繰り返されたりする。包丁を振りまわしたり、一日中奇声を発するパニック状態が続くと、他の子どもたちが昔受けた傷を思い出して、影響を受ける。学童期の子どもは、小学校から登校の自粛を求められ、排除されている。こうした子どもたちと正対する職員は疲れ切ってしまい、自分自身のメンタルヘルスが必要となり、辞めていく職員が激増している。一方厚労省の児童福祉改革によって、施設維持費の最低基準と措置費の廃止などが導入されるなかで、児童虐待防止法は有名無実と化そうとしている。虐待が表面化して保護対象となる子どもはまだ救いの可能性があるが、家庭内に隠蔽された隠然たる虐待の被害を受けている子どもたちは膨大な数に上る。子どもの証言に依存せざるを得ない児童虐待の裁判は、有罪判決が出にくい。被害者である子どもの証言能力や錯誤によって冤罪が発生する場合もある。フランスで戦後最悪といわれる冤罪事件は、元夫婦が自分の子どもを含む18人の子どもに対する性的虐待で17人が起訴され、4人だけが禁固15−20年で有罪となったが、他は全員無罪となり、3年以上拘留された被告のうち1人が獄中で自殺するという悲惨な事態を招いた(朝日新聞12月2日付け夕刊)。
しかし虐待を受けた子どもたちは、無条件に自分が嫌われていると体感し、哀しみと憎しみの入り交じったとめどないアリ疑獄に陥っていく。いったいこの日本はどうなってしまったのでしょうか。大人はなぜ無償の愛の対象である子どもを虐待するのか。相互承認(ヘーゲル)において成立する人間の人間的関係をなぜ自ら断ち切るのか。自らの抑圧されたストレッサーを自分より弱い対象に向けて解消するのか(抑圧の移譲)。子どもに対する無条件の愛情がなぜ攻撃の対象へと逆転するのか。しかも性的な虐待に至っては言葉もない。かっては虐待現象は異常心理学の世界で扱われ、社会的に隠蔽され、多くの人も目を背けてきた。
元気に無邪気に遊んでいる子どもたちを見て、素朴に微笑ましく感じるような雰囲気がなくなってきてはいませんか。子どもたちも学校でセキュリテイを徹底的に叩き込まれ、大人たちを加害者かどうか即座に峻別する訓練を受けています。大人の社会も、弱肉強食の競争で神経系が張りつめ、温かい人間の関係が衰弱しています。「万人の万人に対する戦争」というホッブス的な人間観が剥き出しの状態になっていませんか。もはやかっての一部の異常心理ではなく、健やかな協同の神経が傷つけられた野蛮状態になっています。明らかに昭和時代のふっくらとした透明な関係(映画『3丁目の夕日』や『カーテンコール』にみられる)が過去のものとなっています。企業の従業員ではメンタルヘルス不全症が77,9%に達し、将来深刻になると答えた企業が75,8%に上っています(労働政策研究機構調査 本サイト「地域経済・中小企業情報」参照)。企業職場で大人たちは徹底した業績主義評価を受けて、同僚がもはや同僚の意味を失い、明日のリストラで生き残る敵に見えているのです。成功すれば華やかな六本木ヒルズでの生活が約束され、駄目なら不安定な非正規労働生活が待っています。業績を上げなければならない建築士は、建物の構造計画書を偽造して、倒壊するマンションを売りまくっても、こころに痛みを覚えない神経系に頽廃しています。子どもの虐待と偽装建築は本質的に共通した原因があります。
一部の成功者は健全なのでしょうか。私の近所にある豪邸は、建物全体を電飾で飾り立て光り輝く夜を演出しています。私はこうした人の神経を疑います。これだけ世の中が痛んで、荒んだ状態が蔓延している中で、この人たちは「マッチ売りの少女」を冷ややかに無視しながら、自分の家庭だけの幸福を楽しんでいるのでしょうか。それとも実はこの人達も、輝く電飾に囲まれた部屋の中で我が子を虐待しているのでしょうか。
さて街で横行する剥き出しの暴力は、国家をも含む合法的な暴力の行使へとエスカレートしています。陸上自衛隊・富士学校「普通科教導連隊」が、米陸軍第1軍団所属の「第3歩兵連隊第2大隊」・「第2機構連隊」とのイラク型市街戦研修をおこないました(10月10日−11月11日 ワシントン州フォート・ルイス基地)。米部隊は世界のどこへでも96時間以内に展開して戦闘する「ストライカー旅団」であり、イラク占領の市街戦を担当していた部隊です(03年12月ー04年11月イラク展開)。自衛隊・教導連隊180人は、個々の戦闘技術訓練と、市街戦を想定した昼夜攻撃訓練を受け、「イラクでの米軍の経験を学び、市街戦マニュアル作成の準備をし、日本に帰ってから他の兵士や部隊と教訓を共有する」ということです(教導連隊長 フォート・ルイス機関紙)。この訓練は明らかに在日米軍再編日米合意(10月)による座間新司令部設置(米軍ストライカー旅団と陸自海外派遣の中央即応集団部隊の統合司令部UFX)に対応しています。イラクで民間人を虐殺している米軍殴り込み部隊から、殺人ノウハウの訓練を受ける自衛隊に「成長」するのです。「一緒に訓練できて光栄です。将来ほんとうの戦場で一緒にたたかえることになることを楽しみにしています」と米兵は語っている。以上TV朝日「報道ステーション」10月15日放映参照。
いよいよ日本は他国に出かけていって米軍と共同して殴り込んでは無辜の市民を殺害する暴力部隊を養成するまでに変貌したのです。国家を先頭に暴力を賛美し、暴力がセキュリテイの日常的方法になろうとしているなかで、市民生活もまた個人の暴力で弱者を支配することに違和感を抱かない惨状を呈し始めています。コイズミ自衛隊最高司令官は、実は児童虐待の最高司令官も兼ねているのです。児童期に虐待を受けた子どもたちは、成長して青年になると他国の民衆を虐待する殴り込み兵士へと変貌するのです。
荒んでいく世のなかの痛みを集中的に受けているのが子どもたちです。いま子どもたちの痛みはどのようなレベルにあるのでしょうか。痛みのレベルを犬で調査した評価基準を参考に考えてみましょう(「動物の痛み研究会」作成 11月18−20日動物臨床医学会で発表)。下記の基準は、骨折や手術後の急性痛のしぐさの表現を43項目に分類し5段階に分けています。
レベル4(8項目) ○持続的に泣きわめく ○全身の硬直 ○食欲廃絶 ○眠れない
レベル3(13項目) ○背中を丸める ○心脈数増加 ○震える ○よだれを流す
レベル2(9項目) ○痛いところをかばう ○食用低下 ○じっとしている ○立ったり座ったりする
レベル1(13項目) ○逃げる ○尾を振らないか弱い ○反応が少ない ○目を閉じている
レベル0 ○痛みの兆候が見られない
児童福祉施設で見られる虐待を受けた子どものしぐさは、動物の最高レベル4に近い。刃物を振りまわしたり一日中奇声を発する行動は、追いつめられた自分を守る最後の自己表現だ。レベル3までは攻撃的しぐさはなく、ひたすら耐える自己防衛型のしぐさだ。性格や個性によるしぐさの違いがあるから、機械的には当てはまらないし、動物と人間では異なるだろうが、それにしてもかなり似ている面がある。日本の人間社会全体がひょっとしたらレベル4に近づきつつありはしないか。犬の寿命は約10歳前後であり、いま日本で飼われている犬の約40%は7歳以上が占める超高齢化社会となっている点もまさに同じだ。(2005/12/2
17:13)
[中国・市場型社会主義経済の理論問題]
怒濤のような発展を遂げる中国の市場型社会主義は、いったいどのようなイメージの社会主義をめざしているのだろうか。中国共産党は07年に予定される第17回大会に向けて「マルクス主義理論研究・建設プロジェクト」を立ち上げ、主要テーマの一つとして「20世紀の外国社会主義理論、思想傾向及び流派に対する分析」を掲げている。このプロジェクトは中央宣伝部理論局が担当しているが、そこで検討されている理論問題は以下のようになっている。中国の政権党がどのような問題意識を持って世界と自国のシステムを探求しようとしているかが表れている。
第1グループ 現代の世界をどう見るか
第1問 グローバル化の背景の下での世界の社会主義運動の影響とその発展の展望
第2問 現代の時代的テーマをどう認識するか
第8問 現在の資本主義の本質、特徴と自己調整能力をどう見るか
第2グループ 社会主義運動とマルクス主義の歴史的評価
第5問 マルクス主義の歴史的地位と今日的課題をどう評価するか
第7問 20世紀の世界の社会主義運動の経験・教訓・総括とソ連・東欧の解体の原因についての見解
第3グループ 社会主義の現代的展望
第3問 新たな時代の社会主義の実現形態や未来の社会主義社会の政治・経済形態をどう構想するか
第9問 中国的特色のある社会主義への見解
第4グループ 日本の情勢にかかわる問題
第4問 日本の社会構造、とくに労働者階級の現状についての分析
第6問 日本の国内の政党をどう見るか
第1グループが現代世界論であり、第2グループが歴史的マルクス主義論、第3グループが現代マルクス主義論、第4グループが現代日本社会論となっている。現代のマルクス主義理論が直面している理論問題に真摯に向き合おうとしていることがうかがわれる。従来の中国では、最高指導者による託宣的な理論提起によって国全体が雪崩を打ったように、一方向へ向かうという印象が強く理論作業はその後追いのような傾向があり、しかも古典の教条的な適用というイメージがあった。しかし上記の問題群をみると、理論担当のセクションではかなり本格的な理論構築の探求が進んでいるようだ。その背景には、自閉した国民経済の枠内を突破するグローバリゼーションへの対応を問われている現状がある。もはや資本主義復活とも云えるような現象が進展する中で、政権党内部において理論的な整理がなされておらず、中国独自の社会主義理論を構築する課題が突きつけられているのだろう。
いま私は、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『マルチチユード』(NHKブックス)を読んでいるのですが、そこでは中国の現状についてはほとんど分析がなく、マルクス主義理論は原理的に有効性を失い、資本ー労働というという既成の産業労働パラダイムを過去のものとして、マルチチュード(多数派)による民主主義の実現を唱道している。この書についての意見は後日を期したいが、現実に世界とアジアでの中国の占める位置と日本の関係を考えると、いったい中国の市場型社会主義とは何なのかを明らかにすることは日本にとっても不可欠の理論問題となっている。逆に言うと、中国も一国経済を越えた国際経済の枠の中で、自らの現在と将来について本格的な究明がまだなされていないということだ。社会主義への政治的評価はおいて、現にそこにあって驚異的な発展を遂げている中国型社会主義をどうみたらいいのか、@〜Fの問題提起にどう答えるか、21世紀の基軸的な理論課題であろう。私の問題意識は、@〜Fの「社会主義」という語句をすべて「唯物論」に置き換えて考えてみたいというところにある。(2005/11/30
21:00)
[ヒルズ族の時代的意義とはなにか]
華やかなサクセス・ストリーを繰り広げるIT起業家が大勢入居しているところから、ヒルズ族と称せられる若手企業家が注目を浴びている。ヒルズ族は現代の若者の職業選択意識を変える可能性をもっているとして手放しで賞賛する意見があるのには驚いた(朝日新聞夕刊「経済気象台」11月30日)。その意見の概要を紹介しよう。
日本は今まで、個々の資質より学歴や所属で評価してきた。欧米では大企業より、自分で起業する個の資質を重視する。また同質・同類を好み、成功者への嫉妬の感情があった。ところがヒルズ族を「カッコイイ」といって尊敬し憧れる若者が増えている。これは若者と、社会の美学が大きく返還していることを示しているーとまあ大要はこのように述べている。確かに情報産業が未だ未知であった時代に、先駆的に参入し大胆に市場を制覇していった起業行動は大きく評価するが、それ以降の彼らの行動はむしろITネット・ビジネスから金融ビジネスに変化している。自分で新たな創造活動をするよりも、資金を募って既存の企業を買収したり、株価を操作して売り抜けては莫大な利潤を生み出す虚栄のマネービジネスに傾斜して、基本的にハゲタカファンドのような経営を展開している。もちろん一夜にして倒産する高いリスクをとっている果敢な行動ではあるが、本質的には虚業のビジネスではないか。
私はむしろ六本木ヒルズに居を構える若者たちよりも、マネーに疑問を感じて違う生きたかを模索している若者をこそ注目したい。多くの若者は、50%に達するフリーターや非正規雇用に苦闘しながら必死に生きているのであり、華やかなサクセス・ストリーは局部的な現象に過ぎない。日本の未来がマネー・ゲームへの憧れにあるとすればあまりにも惨めだとして、別の道を行く若者達がマルチチュードになりつつある。こうした若者はメデイアの光があたらないかもしれないが、しっかりと大地に足をつけて着実に日本を背負いつつある。六本木ヒルズを仰ぎ見て尊敬し、憧れる文化なんて、一皮めくれば他人の汗水流した労働の成果を売り買いしながら儲けまくる、実はもっとも恥ずべき生き方ではないのか。朝日新聞「経済気象台」は日頃から市場原理礼賛の薄っぺらな言辞を垂れ流して、弱肉強食を煽っているが、ヒルズ族の時代的意義と題した評論は、若者をマネー地獄に誘導する恥ずべき悪質さで際だっている。若者にギャンブルこそ最高だーと説教しているに等しいこの論説の背景には、ギャンブルを持てはやす現代日本の風潮がある。この風潮は、サッカーくじ(とと=toto)が政府公認で始まったことから本格化した。いまtotoはどうなっているのか。
日本サッカー協会は、りそな銀行(当時大和銀行)から350億円の初期投資でコンピュータシステムを整備して01年にスタートしたが、この負債を毎年70億円づつ返済する計画は2年目で頓挫し、3年目ではわずか4億円しか返済できず、05年度末の負債は230億円に達している。売上げは01年度643億円→04年度157億円に急落し、りそな銀行との委託契約は打ち切られ直営となった。直営方式への移行に伴うシステム再編の費用は100億円から300億円を超えると云われる。なぜシステム変更が必要となるのかの説明はないまま、りそなとの契約内容は一切秘匿されている。文科省は、totoが破産した場合の公的資金投入を明言している。驚くべきことに文科省が、貸借対照表に154億円の債務を記載しない粉飾決算をおこなっていることが発覚し、会計検査院から注意を受けた。赤字が分かると、批判を浴びて解散の恐れがあったからだ。政府自身が粉飾決算をおこなうという致命的なモラル・ハザードをさらけだしている。トトの売上金の半分は払戻金に、経費を引いた残りがスポーツ振興費となるが、03年度から経費が膨らみスポーツ振興費はなくなっってしまった。経費の9割はりそな銀行への業務委託費となっているが、この業務委託費の内容が非公開となっている。独立行政法人通則法第3条2項で「業務の内容を公表することを通じて、その組織及び運営の実態を国民に明らかにする」ことが求められているにもかかわらず。
TOTOはJOC(日本オリンピック委員会)と日本体育協会の要望で導入され、TOTOの収益を前提にしたスポーツ振興基本計画(2000年)はTOTO配分がゼロとなって計画実現は頓挫した。文科省のスポーツ予算は激減し(99年301億円→05年215億円)、国民のスポーツ権はどん底におちいっている。ギャンブルTOTOが日本のスポーツ界を蝕むガンとなって病巣を広げている。(2005/11/30
19:10)
[世界最大の死刑大国・米国 死刑執行997人]
1976年に死刑制度を復活させた米国では、05年11月18日までに997人の死刑が執行され、30日にある強盗犯の死刑執行が予定されており、1000件を突破する見通しだ。28年で1000件だから年間35,7人、月間3人が処刑されている。驚くべきことに州別執行数をみると、テキサス州(ブッシュ大統領の地元)353件、バージニア州94件、オクラホマ州79件と半数以上が南部3州に集中しているのに対し、イリノイ、ニュージャージー州は死刑執行を猶予してゼロとなっている。05年3月に連邦最高裁は18歳未満の未成年の死刑を違憲とし死刑制度の再検討が進んでいるなかで、テキサス州だけは突出して処刑している。18歳未満の死刑を執行してきたことも驚きだが、キリスト教原理派の拠点州が死刑執行の拠点となっていることに注目したい。
さらに1000件のうち2000年までが600件であり、01年以降ののブッシュ政権が400件であり、年24件から80件に急増している。2000年までの600件のうち150件(25%)がブッシュが知事であった6年間のテキサス州に集中している。米国50州で死刑存置州は28州であるから、28州で600件を割ると21,43件であるが、ブッシュ知事在任中のテキサス州死刑件数は平均の28倍に達している。ブッシュ知事は知的障害者を処刑し、違憲性を指摘された。ブッシュが大統領に当選するまでのテキサス州の累計死刑執行数は300件であったから、彼はたった6年間で半分を処刑したことになる。彼がテキサス州を去ってからの5年間は50件であり、知事時代の30%にダウンしている。
ここでは死刑廃止・存続論争には立ち入らない。ただ指摘しておきたいことは、国連死刑廃止条約以降に先進国の死刑廃止が続き、死刑存置国は米国と日本などごく限られた国になっていることだ。国連加盟国190余国ですでに死刑廃止に踏み切った国は100を超えている。イタリア・ローマのコロッセウムには、新たに死刑廃止国が出ると、その祝祭に会場をライトアップする照明装置がある。米国と日本はそれに光を灯すことができるだろうか。
南部諸州はID(インテリジェント・デザイン)運動の拠点ともなっている。創造説と進化論の対立を克服するなんらかの超越的な存在を主張する新たな創造説をカリキュラムに義務づける教育が推進されている。1925年にテネシー州のある高校教師がダーウイン進化論を授業で紹介して、逮捕され裁判にかけられた。テネシー州法は、神が人間を創造したとする聖書を冒涜するとして進化論を禁止していたからだ。この裁判は全米をゆるがす”猿の裁判”として激しい論戦が戦わされた。南部諸州はキリスト教原理派が強固な地盤を持ち、現在でも形を変えた創造説を義務づけている。神は白い肌をした白人であり、最初の人間であるアダムとイブも白い肌をしている。つまり神は自らに似せて人間を創ったのだから、肌の白い人ほど神に近く、肌の色が濃くなるほど神から遠ざかっていると云うことだ。従って黒人を中心とする有色人種は神から遠ざけられた人種であり、陪審員制度によって南部の黒人の有罪率は高くなり、当然に死刑囚も有色系が多数を占める。南部州の人種差別は、南部地域へ留学した日本人が陰に日に味わう痛烈な体験である。
かって南部諸州では、死刑執行は盛大なセレモニーとして公開でおこなわれ、市民達が特別列車を仕立てて繰り出し、、あたかもピクニックのように黒人を吊すシーンを囃したてて楽しんだ。いまも死刑執行は、日本のように密室でおこなわれるのではなく、被害者の家族が集まった部屋で遺族が見守る中でおこなわれている。犯罪の激増と監獄人口の急増で監獄が民営化され、市場ビジネスの対象となっている。有色貧困層を中心とする容疑者は優秀な弁護士を雇えず、サッコ・ヴァンゼッテイ事件のように、冤罪で処刑された多くの生命がこの世から去った。マッカーシズムの嵐のなかでローゼンバーグ夫妻もスパイとして無実の罪で処刑された。
イラク・アブグレイブ収容所での捕虜虐待、キューバ・グアンタナモ収容所のアルカイダ容疑者の拉致、東欧CIA秘密収容所でのテロ容疑者幽閉などは、米国に強固に温存されている有色人種差別と無関係ではない。もし日本人が白色人種であったならば、広島・長崎への原爆投下はなかったであろう。28日から始まるモントリオールで始まる温暖化防止条約国際会議で、先に京都議定書を離脱した米国は孤立状態となってもなお妨害を続けている。2012年までに90年比5%の温室効果ガス排出量削減目標は、米国の抵抗で流産するかもしれない。EUは8%削減、日本は6%削減の国際誓約をめざして必死に努力しているにもかかわらず。国内で1000人以上を処刑し、全世界で有色人種を殺害し、自国経済のみの繁栄を追求する米国に遠からず歴史の審判がくだされるだろう。
最近発売されたDVD『風の遺産』(スタンリー・クレイマー 1960年)は、”猿の裁判”を通して痛烈に米国のマッカーシズムを批判している。シナリオのネドリック・ヤングはマッカーシズムの赤狩りに屈しなかったハリウッド・テンの一人であり、もう一人のマイケル・ウイルソンは68年に『猿の惑星』のシナリオを書いて痛烈に風刺している。
私は米国の国内における確かな良心の存在を信じることができる。なるほど今は、エリア・カザンのような裏切り映画人もいるが(彼はマッカーシーの尋問に屈し幾多のハリウッド映画人の友人を売った)、同時にカザンを軽蔑するようなすぐれた芸術家も存在する。彼らはアカデミー賞授賞式で、ハリウッド貢献賞を受賞したカザンに対して、起立して拍手せず冷酷に無視した。私はこの中継を観ていて胸が熱くなるような感動を覚えた。(2005/11/29
20:28)
[英国海兵隊の歓迎式典で何が起こったか]
05年5月の英国プリマス基地の海兵隊新兵歓迎儀式で、10数人の裸の男が野外に立ち、殴り合いをする男性2人を取り囲んで囃したてている。新兵に全裸で殴り合いをさせているのだ。さらに上官が新兵の頭部を蹴り、意識を失った裸の男が倒れている。局部への電気ショックで失神したり、イバラの中を全裸で匍匐前進するよう強制したり、寝室の窓から飛び降りるよう命令して足を骨折した新兵がいる。以上は海兵隊員の隠し撮り写真を掲載したニューズ・オブ・ザ・ワールド27日付け報道。
海兵隊はいうまでもなく最前線の殴り込み部隊であり、もっとも過酷な訓練によって全身を鋼鉄のように鍛え上げられた精鋭部隊です。この実相を描いたのが、スタンリー・キューブリック『フルメタル・ジャケット』の凄惨な訓練シーンですが、この映画はそうした地獄の訓練を生き残る青年海兵隊員を描いています。海兵隊志望者の大多数は、奨学金や多額の危険手当を目的とした最貧困層出身の若者が占めています。中には「崇高」なパトリオットもいるでしょうが、大多数はそうした理念とは無関係の「ならず者」部隊です。沖縄で少女を襲って陵辱する兵士はほとんど海兵隊員です。海兵隊のみならず、なぜ軍隊ではこうした暴行とイジメが横行するのでしょうか。
軍隊は殺らなければ殺られるという極限状況を平然と冷静に生き抜く機械のような冷徹な人間を育てなければなりません。しかも理想や大義と無関係の軍隊ほど冷酷な殺人マシーンが要求されます。彼らの目的はマネーのみです。機械の条件は主人の命令を正確無比に、人間的感情を一切捨てて実行することです。すると入隊したばかりの新兵に残っている市民社会の残滓ー例えば尊厳とか誇り、同情、痛みへの共感ーがもっとも新兵訓練の障害物となります。市民的感覚の残滓を一掃する最大の手段は、プライドをズタズタにして傷つけ、あたかも動物的生存本能のみに特化したギラギラする闘争本能を植え付けることにあります。裸にして殴り合わせる見せしめの勝利の栄光と敗北の無惨を骨身に沁みて体感させ、勝つか負けるか、殺るか殺られるかという極限状況に陥れて、上官から与えられた目標のみに献身する自己犠牲の精神をたたき込みます。敗者には容赦なく嘲笑と軽蔑を浴びせ、勝者には至上の称賛と報酬を与えます。こうした数ヶ月の訓練は、幾人かの自殺と引き替えに、みごとに兵士の精神構造を変革し、もはや殺しの対象のみを凝視する見事な肉体をつくりあげます。これは韓国映画『シル・ミド』を観た方は実感されたでしょう。英国国防省は海兵隊のイジメ事件の調査を始めるそうですが、こうした事件が日常茶飯事であることはすでに先刻承知なのです。
さてこうした非人間的な訓練は日本でも企業研修や管理教育で取り入れられています。特に企業の営業部門では、毎朝の朝会で業績報告を行い、達成した者には最大限の賛辞が、未達成の者には満座の中で怒声による蔑視が浴びせられます。企業研修は深夜に及ぶ徹底的な弱点の追求で神経系をマヒさせて、集団反応によるマインドコントロールがおこなわれます。まるで発狂状態となって、自己の弱点を告白し、達成目標に献身する誓約のシーンが展開します。実際に多くの精神障害が発生します。ある愛知県の有名な管理教育の学校では、生徒を満座の前で恥をかかせ屈折したプライドを育てることによって学力上昇を計ります。教師の暴力は日常茶飯事で、生徒の多くが自らそれを期待するようになります。
本質的にこうした軍隊型管理組織は、自由で伸び伸びした創造的な精神と絶対的に矛盾する命令と服従のエセ自発性が不可欠なのです。しかし徐々にネットワーク型組織が進展するなかで、こうした野蛮な人的資源動員の方法は限界が出てきました。いまや高いレベルの動員が必要になってきました。その理由は、アイデアや情報発信力などの少しハイレベルの能力が要求される情報ネットワークの力が問われるようになったからです。ここではプライドを形式的には尊重しながら、能力と業績による過酷な競争原理が導入されます。目標は上司から与えられず、自ら設定するという似非自発性によって、結果は自ら自己評価する自己責任によって、他者との差異化を極大化する自尊心の競争を煽ります。表面的には自由で伸び伸びした雰囲気があるかのようにみえますが、その裏には実に恐ろしい他者排斥のエゴイズムが蔓延しています。職場と学校は、精神的内戦状態になり、研ぎ澄まされた凄惨な神経戦が展開されます。典型例は業績評価によって105倍の給与格差が発生し、最低ランクのボトム10に位置づけられた社員はリストラ対象となる日本IBMです。○○カメラは目標未達成の社員へ暴行を加えます。あまりにも異常な業績主義を採用した富士通は逆に経営悪化によって沈滞していますが。こうしたシステムに嫌気を感じた若者達に大量のひきこもりとニート現象が発生しているのは、むしろ若者の健康でヒューマンな精神の裏返しであるかもしれません。よほど図太い神経の持ち主でないと耐えることはできないでしょう。こうした若者が一時的な幻想を抱いてコイズミに投票した気持ちも分からないではありません。
春 宮沢賢治
陽が照って 鳥が啼き
あちこちの 楢の木も けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚い掌を
おれは これから もつことになる
花巻農民学校の教師を辞めて、一介の農民になることを決めたときの賢治の深い決意が滲んでいるような詩だとは思いませんか。宮沢賢治は現代ではおそらく、ひきこもりかニートになっていたに違いない繊細でヒューマンな精神の持ち主です。いとしい人をいとしいと思い、大切な人を大切に思う、ごく普通のヒューマンな心情が引き裂かれて痛みつけられる世にあって、賢治のこころは哀しみに沈むでしょう。ひと鍬の大地を耕して、しんどくてもそれが自分の道ならば、あえて選ぶという決断は賢治を類い希なるピュアーな詩人に育てました。ふりかえって悔いのない、振り返って涙をこぼさないような人生であれかしと誰しも望むでしょう。私も妻の大病を経て、何ごとかをこの世に残して去りたいという思いが込み上げてきました。他者を励ますことが、同時に自分を励ますことにつながるということを初めて知りました。シュクラン・ジーラ(どうもありがとう)と云って最後の時を迎えたいと痛切に思いました。
職場の過酷を生きている若者たちよ、そこをやめて賢治のように大地に行こうとは云いません。せめてすがすがしくあるひとつぶの希望を胸に灯して春を迎える魂であってほしいと願うばかりです。(2005/11/28
20:37)
◆日本型民営化システムのメルト・ダウンー「耐震偽造追求は”悪者捜し”」(自民幹事長)にみる統治能力喪失
自民幹事長の次の発言をごらん戴きたい(釧路市 26日)。
「(耐震偽造問題で)悪者捜しに終始すると、マンション業界はバタバタつぶれる。不動産業界も参ってしまう。これは景気をおかしくする大きな問題だ。これはBSE問題の時もそうだったが、対応には気をつけなければならない。『大変だ大変だ』、『心配で眠れない』といったらそりゃあ眠れないだろう。自分のマンションが、大きな地震がきたらつぶれるという話ばっかりされると」(*ちなみにこの幹事長は農水相の時に、「(BSE感染牛は)まだまだ出るから驚かないでください。感染源が解明されないことが大きな問題か」と暴言を繰り返し批判を浴びた)。要するに彼にとってはひとの命よりもマンション会社の倒産が心配なのだ。
公党の実務最高責任者がこのレベルでしかないという点に日本の末期的症状があります。これでは膨大なローンを組んで数千万円の欠陥マンションを騙されて購入した人は、一生ローン地獄に苦しむことになります。この幹事長は、先の選挙で刺客を派遣しては目くらましで国民を欺き、大勝した後には次々と反対派を除名して我が世の春を謳歌していますが、他者の痛みと自らの責務が分からない人格喪失者であるようです。
いま日本の欠陥建造物は震度5で崩壊する状態にあり、設計事務所も検査機関も自治体もすべて責任を他者に転化する制度崩壊状態にあります。市場原理派は公的業務を民営化して市場に委ねれば、市場の厳しい競争の中で悪は淘汰されて、もっともすぐれた選択肢が生き残り、結果的に国民生活の効率的な安定が極大化するとしてきましたが、この理論が根底から破産したことを示しています。市場原理では基本的な公正が実現せず、一定の公的規制と制度が不可欠であるということが逆証明され、シカゴ学派の市場原理主義経済理論は崩壊したのです。日本の建築規制緩和の経過を見てみましょう。
1998年の建築基準法改正によって、建築確認業務・完了検査などの最も重要な安全検査を民間業者に委譲し、99年21機関→04年122機関と急増しました。建築基準法による建築確認は、申請から3週間以内となっていますが、民間業者は1週間程度でパスさせてしまいます。自治体の安全審査を担当する建築主事(1級建築士資格を持つ公務員)は削減されて民間会社に就職し、自治体独自の検査機能は衰弱の一途をたどっています。民間検査機関は建築業者と癒着して安易な検査と偽造を生む構造ができあがっています。最高裁は横浜市のマンション紛争事案で、民間業者のおこなった安全確認は自治体業務を代行したものであり、その責任は自治体にあるとする判決を出しています。しかし実態は、民間業者が自治体に提出する報告書は数枚のものであり、ぶ厚い構造設計書の中味を点検することなどできない仕組みで、フリーパスとなっています。要するに指定確認機関の偽造を見抜けない自治体と、偽造するような民間業者を野放しにしている国交省と、コストダウンを迫る建築業者の3者が入り組んだ欠陥建築物が日本に林立するようになったのです。最大の責任は、市場原理主義によって公的業務を民営化する建築基準法改正を推進した政府与党にあるのです。いま日本全体は、金儲けのためには手段を選ばない、誰かを犠牲にしても自分だけ儲かればよいとする市場の悪魔が跋扈しています。冒頭の自民幹事長発言はその象徴といえるでしょう。公正(フェアネス)の感覚そのものがマヒして、日本社会はあてどもない漂流を始めています。自民幹事長の発言を許すマスメデイアも救いがたいと云えるでしょう。
規制緩和と民営化を野放しにすれば、日本は破綻するという警告を今回の事態は日本に突きつけました。怒濤のような市場競争原理の荒波に日本は翻弄され、地獄の門がまさにいま開かれようとしています。なにか決定的な分岐点にさしかかっている不気味な様相が漂っています。たかが一人のライオンヘアーと竹中なるイエスマンに媚びへつらう雰囲気は私たちをどこへ導いているのでしょうか。逆らえば自分が危ないから表面だけは従うのだ、そのうちどこかで逆転があるだろうという虚しい願望とキッパリ決別する時ではありませんか。それとも「我が亡き後に洪水は来たれ」という大合唱に飲み込まれていくのでしょうか。
資料1:建築確認件数推移(自治体・民間業者)
1998 1999 2000 2001
2002 2003 2004年
自治体 833,191 839,810 736,827 591,399
485,079 409,079 333,665
民間業者 15,534 83,106 155,398
238,880 336,664 418,871
資料2:マンション建築の流れ図(CEFを民間指定業者が行い、自治体へ報告する)
@設計事務所→A構造計画書→B建築主→C建築確認申請→D着工→E中間検査→F完了検査→G使用開始・引き渡し (2005/11/27
17:23)
◆私たちはまた戦争をやろうとしているーあなたの町内に触手をのばす民間軍事ビジネス・コンサルタント
国民保護法による市町村の有事保護計画を自力で作成できない自治体に、民間コンサルタントがビジネスチャンスとして積極的な営業活動を展開しています。大量の自衛官を研究員として採用している三菱総合研究所が全国自治体に配布しているPR資料は、「これまで防災関連業務や危機管理業務で蓄積した技術やノウハウを活用し、都道府県の国民保護計画の策定作業をご支援します」となっています。民間軍事コンサルタント企業・独立総合研究所と契約した自治体は、04年で福井、鳥取、神奈川など20,05年度は佐賀、新潟、沖縄など15自治体です。福井県の例を見ましょう。
独立総合研究所(テロ、インフラ防護の軍事コンサルタント業務)「有事における避難マニュアル調査」事業(契約額280万円)
○既存輸送手段の輸送能力
○避難状況の類型化
○既存施設での避難施設指定適合状況
日本への直接的武力攻撃の可能性は「ほとんどあり得ない」(政府)にもかかわらず、着々と自治体防衛計画が進んでいるのはなぜでしょうか。それは米軍の先制攻撃に対応した日米共同作戦の国民総動員システムにあります。その経過は以下の通りです。
2002年4月 有事法案提出
2003年6月 有事3法成立
2004年6月 有事7法成立
2005年3月 国民保護の基本方針決定
7月 47都道府県で国民保護計画作成のための条例制定
10月 政府・国民保護計画策定(28省庁)
米軍再編中間報告合意
11月 国民保護実動訓練
2006年3月 都道府県計画策定
2007年3月 市町村計画策定
「国民保護法」とはいうまでもなく、国民戦争総動員法を意味しますが、実態は米軍先制攻撃時に自治体に住民統制の責務を課し、住民の避難・救済にとどまらず、私有地の強制使用・物資挑発・交通規制などの可罰的強制が主なる目的となっています。住民の国防意識を醸成する啓発・訓練という思想の統制もおこなうところに重大な憲法問題を含んでいます。しかし実際には各自治体は戦争などを想定する切迫感はなく右往左往している状態で、民間コンサルタントに依存せざるを得ないのです。なぜ政府はここまで強行的に有事体制を加速しているのでしょうか。
10月末の在日米軍再編中間報告では、有事体制の推進を次のように規定しています。「日本の有事法制に基づく支援を含め、米軍の活動に対して、事態の進展に応じて切れ目のない支援を提供するための適切な措置をとる」ために、日本の港湾・空港・道路・水域・空域の使用に米軍協力を片務的に義務づけています。自治体は一方的に民間空港・港湾の詳細な調査と訓練の実施をしなければなりません。「米軍支援法」で自治体の米軍協力の責務を課し、特定公共施設利用法は米軍・自衛隊の、自治体が管理権を持つ空港・港湾・道路の優先使用権を保障しています。住民は自分を守る計画を作成しているのではなく、実は米軍・自衛隊協力行動を一生懸命に策定しているのです。すでに日本は米軍の先制攻撃戦争を遂行する国内システムを整備し、戦争はイヤだという国民を統制する戦前の体制を完成しつつあります。
米政府の戦争計画がどこまですごいものであるかはニクソン政権時(1969−74年)の犠牲者8千万人を想定する地球全面核戦争計画にあらわれています(米国民間研究団体 ナショナル・セキュリテイ・アーカイブ発表 国立公文書館解禁文書 23日)。
@ソ連と中国の都市圏の外にある戦略核運搬能力(α)への先制攻撃
Aαと両国都市圏外にある通常兵器能力(ブラボー)への先制攻撃
Bα、ブラボーへと両国都市圏内にある核兵器能力(チャーリー)への先制攻撃
Cα、ブラボー、チャーリーへの報復攻撃
Dα、ブラボーへの報復攻撃
以上の作戦は最大4200発の核兵器を使い、6500施設を破壊する(Bのケース)大規模攻撃で8000万人の犠牲者を想定(*ニクソン大統領は、74年1月に攻撃目標を限定する国家安全保障決定メモ=NSDM242という限定核戦争戦略を策定した。旧ワルシャワ条約機構もNATOとの反撃核戦争を大西洋を範囲に想定する核戦争計画を想定していたーポーランド国防相による旧統一労働党政権下の秘密文書700点公開)。
私は日本で米国と同じように、民間軍事ビジネスがここまで進んでいるとは想像していませんでした。すでに皆さんご存じのように、イラク戦争は米正規軍のみでは遂行できず、民間軍事ビジネスへのアウトソーシングと民間企業による戦争ビジネスによって政権中枢の政策判断が左右されていました(チェイニー副大統領の経営するハリバートン社など)。軍産複合体による戦争経済で、大量の兵器を戦場で消費して大もうけする仕組みです。日本も戦前期のような民間軍事ビジネスが成長しつつあります。私たちが自分の息子や父や兄弟を「○○君出征万歳!」と歓呼の声を上げてプラットフォームから戦場に送り出し、白木に包まれた遺骨を迎える日は近づいています。そして靖国神社に行って肉親の慰霊にぬかづくのです。すでに小泉首相は着々とそのリハーサルをおこなっています。
しかし先の戦争と決定的に違う点は、今次は日本に無関係の米軍の先制攻撃戦争へ日本人の命を捧げるのです。米政府のいのちに対する感覚がどの程度のものであるかは、すでに先の米軍全面核戦争計画で8千万人の死者を想定しているところで明らかでしょう。要するに現代世界の最大のテロ帝国に私たちは自分のいのちをうやうやしく捧げるのです。
いま米政府・CIAは世界各地で勝手に人を逮捕して、航空機で秘密収容所に拘束して虐待と拷問を繰り返しています(ワシントンポスト紙報道、ヒューマン・ライツ・ウオッチ)。CIAはさまざまの会社名の飛行機を使い、容疑者を違法に誘拐してはEUの国境を越えて空輸しています。
秘密収容所所在地:ポーランド・ルーマニア・セルビアモンテネグロ(コソボ)(*現在判明分)
中継基地:スペイン、ポルトガル、ハンガリー、アイスランド、ドイツ(ラムシュタイン空軍基地)、フィンランド、スウエーデン、マケドニア
事例1:ドイツ(ベルリーナ・ツワイツング 25日付け)
02年ー04年にCIAが85回にわたってラムシュタイン基地を利用。03年2月7日にミラノから到着しエジプトへ飛んだガルヅストリーム機に、ローマで誘拐されたイスラム聖職者ムスタファ・ハス氏が搭乗。同機は米プロ野球レッドソックス所有でCIAに貸出中。04年1月アルジェリアからマジョルカ島を経てマケドニア・スコピエに着いたボーイング737機では、レバノン系ドイツ人がアフガン収容所へ拉致された。
事例2:オーストリア(ウオルフ空軍司令官談)
03年1月にテロ容疑者を拉致するCIA・ハーキュリー型輸送機がオーストリア上空を通過。
事例3:カナダ(ロイター通信)
CIAの幽霊企業と関係する2機の航空機がアイスランドからカナダ東岸のニューファンドランド島セントジョンズに飛来し、収容者移送に使用された1機がカナダに3回着陸した。
事例4:コソボ(EU会議ジルロブレス人権委員談 ルモンド25日)
コソボ自治州キャンプ・ボンドスチール米軍基地敷地内に秘密収容所目撃。グアンタナモ基地を小規模にした施設で、有利鉄線に囲まれ、、オレンジ色の作業服を着た収容者がそれぞれ15−20人単位で生活する小屋がある。但しこの施設がCIAである証拠はない。
これが「自由と民主主義」を唱道する「アホで間抜けな」(マイケル・ムーア)米国政府の人権と国際法を蹂躙して憚らない汚い実態です。しかしもっとおめでたいのは日本であり、日本国内の米軍基地は100%治外法権であり、日本政府の主権は及びません。戦後直後の鹿地亘事件で日本に米軍秘密収容所があることは明らかとなっています。羽田沖の怪電波による飛行障害について、日本政府は一切米軍基地に調査を要求できないでいます。日本はCIA活動の天国といわれ、おそらくCIAのエージェントは日本政府や主要野党の中枢に食い込んでおり、報酬と引き替えに地位を提供され内部情報を垂れ流し、米国の利益のために活動していると推定されます。これが明らかになれば、おそらくアット驚くような人がいるでしょう。日本国内をCIAの航空機が勝手に飛行しても野放しで、日本は自国領土の制空権を売り渡しています。一定の矜持と尊厳の感覚が強固にあるEU諸国の対応とは雲泥の差があります。忠犬ポチ公はせっせと米軍に忠勤を励みながら、住民の生活と生命を米軍の戦争にささげる計画づくりを着々と進めていますが、私たちは自分の息子や娘にこのような日本を残して後世に伝えるのでしょうか。(2005/11/27
11:00)
◆海外は日本国新憲法草案をどうみているか
○仏ルモンド(電子版 24日)
「平和憲法修正によって日本は完全に軍隊を所有し、国際的軍事作戦に参加できる。国際舞台での日本の位置の修正はワシントンを満足させ、近隣諸国を不安にし、戦争を拒否するとした日本の戦後史の転換点になりうる。自衛隊という名の日本の軍隊は、24万人を擁し、世界でもっとも進んだ装備を持つ軍の一つだ。この自衛隊の完全な軍隊化は、海外への介入の制約をなくし、東京がいままでのようなとめどない詭弁に頼ることなく、軍事作戦に参加することが可能となる。これは東京の無条件のワシントン追随と米戦略への参加を示し、首相の靖国参拝に敏感な近隣諸国をないがしろにする小泉首相の姿勢とあいまってアジア地域の日本のイメージを低める。APECで小泉首相はブッシュ大統領から褒め称えられたが、中国からは会談を拒否され、韓国からは批判されて彼は明らかに孤立している。日本はワシントンの庇護の下でしか安全を確保する道はないと東京は主張するが、米国という船の航跡のもとで日本も孤立している」
○ワシントン・ポスト(23日)
「自民党の憲法改定案は海外での自衛隊の平和維持活動を是認するだけでなく、集団的自衛権を容認し、他国の軍事支援に駆けつけるという、より幅の広い憲法解釈に道を開く。最大の受益者は日本の一番近い同盟国である米国だ。米国は日本がそのような措置をとることを促してきた。9条改定で特に台湾をめぐり米国と中国に紛争が起こった場合、重大な意味を持つ。政経分離の表現を弱め、第2次大戦の戦犯を含めた戦死者を祀る靖国神社に首相が容易に参拝できるよう狙ったのは明らかだ」
○ロスアンゼルス・タイムズ(23日)
「集団的自衛権の名の下に自国の軍隊により高い地位を与え、海外での展開を容易にする。日本が再び主要な戦略的大国として姿を現す覚悟を示唆し、中国の高まる影響力に対する日本の対応と見られる。日本の新憲法草案のねらいは、地球規模の平和維持活動に日本を全面的に参加させるととともに、米国や台湾が求めれば同盟国の支援に駆けつける道を開く。この背景にはアジア、中東でさらなる安全保障の役割を担うために、日本が陸海空の戦力を提供することを求める米国の後押しがある。国連常任理事国入りなど最強国の地位に復帰しようとする日本の願望は、米国に対する軍事支援にあり、最強国復帰をねらう日本には世界各国が反対や疑問を示している。原因は小泉首相などの靖国参拝が、日本の指導者が残酷な帝国主義という自国の過去を深く反省していないことにあり、近隣諸国のいまも消えない苦痛を理解していないという想いがある。残虐なアジア侵略をおこなって処刑された人々を祀る靖国参拝がその印象を一層強めている」
○シカゴ・トリビューン(23日)
「日本は武装した平和維持活動に参加し、米国など同盟国の軍事行動に加わることができるようになった。改憲は日本により明確な国際的軍事的役割を与えることが目的だ」
○中国外務省報道官(22日)
「歴史的原因があるために、中国を含むアジア諸国は日本の改憲の動きに強い関心を払っている。日本が平和的発展の道を堅持することが日本自身の利益に一致し、この地域の平和と安定、発展にも役立つ。小泉首相の靖国参拝は私的参拝とは考えない。日本の一般市民の靖国参拝には異議を唱えないが、日本の指導者の参拝には断固反対する」
○GPPAC(武力紛争予防のためのグローバルパートナーシップ 01年アナン国連事務総長提案によるNGO)世界会議(118カ国、900人参加)『世界行動宣言』(05年7月 国連本部)
「世界には規範的・法的誓約が地域の安定を促進し信頼を増進させるための重要な役割を果たしている地域がある。例えば日本国憲法第9条は、紛争解決の手段としての戦争を放棄するとともに、その目的での戦力の保持を放棄している。これはアジア太平洋地域全体の集団安全保障の土台となっている」(*05年8月15日にアジア各地域の9カ国12の新聞が日本国憲法第9条の意義を説く意見広告掲載)
(コメント)米紙の分析は改憲の本質を鋭く指摘しているが、自国の帝国的膨張政策は批判が鈍るという二重規準にある。米国国防総省は今後20年間の米軍戦略を構想する「4年ごと国防計画見直し(QDR)の策定作業を続けている(06年2月議会報告)。ワシントンポスト・ウエブサイトのウイリアム・アーキン(軍事研究家)のプログ「QDRに関わる内部文書」は次のように伝えている。
○ポストイラク後の脅威(5カ国)
@核兵器開発を推進する北朝鮮・イラン
A競争相手として出現し将来脅威となる中国
Bならず者国家のシリア・ベネズエラ
○ベネズエラ
予想できない非対称的な飛び出す脅威、中南米担当米南方軍に何かやることが必要だという官僚的な現実がある
○テロ対策・宇宙軍拡関係予算拡充、「研究開発費」削減
この構想が決定されれば、イラク後の北朝鮮・イラン・シリア・ベネズエラー特にベネズエラへの軍事侵攻が想定される。日本自衛隊は中南米まで派遣される可能性がある。(2005/11/26
10:15)
◆恐るべく哀しい障害者差別
この日本で、3年間(!)もの間議会で自由に発言できない
議員がいる。岐阜県中津川市議会だ。市議・小池公夫氏(66)は02年10月に、ガン手術で声帯を失い、食道を使って少し声を出せるようになったが、込み入った話は難しい。メモを職員に渡して代読してもらう方法で議事に参加したいと要望したが、議会側が拒否している。代わりに認められたのは、音声変換パソコンであるが、小池さんはパソコンが使えない。よほど操作に慣れた人でもスムーズに使いこなすことは無理だ。岐阜県弁護士会人権擁護委員会は議会側に代読を認めるように勧告したが、議会側は誤読や代読者による悪用の危険を挙げて代読を拒否した。小池さん自身がその場におればすべて防ぐことのできる弊害であるり、どうみても屁理屈だ。障害者に一方的に努力を要求する冷酷な姿勢を感じる。
小池氏は、一時はあと半年の命と宣告されたが、手術の翌年には市議選があり、もう一回生き直したいと家族の反対を押し切って挑戦し、再選された。彼はいまも再発の不安と戦っている。声帯を除去した人は全国に1万人以上おり、鎌倉市議会は脳性マヒの市会議員を職員2人で支援しているが、多くは周囲の理解を得られず仕事を断念している。以上は朝日新聞11月25日付け夕刊「窓」参照。
じつに暗然たる障害者差別だ。いったい障害者基本法は何のためにあるのだろうか。ノーマライゼーションとかバリアフリーとは何なのだろうか。それとも中津川市議会は、特定党派への意識的な排除と嫌がらせをやっているのだろうか。市民を代表する議員の発言権を実質的に奪うなんて。かって中津川市は、日本でも有数の民主教育の業績を上げた地域として有名だった。おそらくその頃に学校教育を受けた人たちが、いま議員として活動しているに違いない。まさかこのような地域で障害を持った人の公職活動を制限するとは想像だにできない。それともデジタル・デバイドを公認するのであろうか。これを一地域の取るに足りないハプニングの問題として等閑に付していいのであろうか。もしこの事実を知った人がいれば、でき得れば中津川市議会に問い合わせて事実を確認してほしい。こころからこのサイトを読んで頂いている方々に呼びかけたい。私も今日、市議会事務局に電話して聞いたところ、弁護士会の勧告を受けて市議会各会派で再検討に入ったという。しかしこうした基本的人権である意見表明権は多数決に属することなのだろうか。(2005/11/25
19:26)
◆東京裁判は勝者の裁きであり、日本の戦争犯罪はなかったーのか?
1946年10月1日にニュルンベルグ裁判の判決が下されてから今年は60周年を迎える。19日からドイツ南部ニュルンベルグで「ニュルンベルグ裁判の遺産ーニュルンベルグからハーグへ」記念集会が開催され、当時の検事、、弁護人、証言者、国際刑事裁判所(ICC)関係者が参加して、ニュルンベルグから東京を経て、ユーゴ国際法廷とハーグに至る国際法のニュルンベルグ原則が再確認された。ニュルンベルグ裁判は、第2次大戦の連合国が設置したナチス・ドイツの戦争責任を裁く国際軍事法廷で、独政府・軍・ナチ党・経済界指導者24人が重大戦争犯罪人と指定され、45年10月18日にベルリンで開廷し、11月20日にニュルンベルグ地方裁判所第600法廷に移され、240人の証言、宣誓供述書30万件を超える証拠で、12人が死刑(ゲーリング空軍相、リッペントロップ外相等)・3人が終身刑判決(ヘス・ナチ党副総裁等)を下された。自殺したヒトラー(総統)・ゲッペルス(宣伝相)・ヒムラー(内相)は不起訴であった。ナチ親衛隊の強制収容所の残虐行為、秘密警察ゲシュタポの政治犯弾圧も組織訴追された。ニュルンベルグへ法廷を移した理由は、33年ー38年までナチ党大会が開催され、ニュルンベルグ人種法(ユダヤ人とドイツ人の婚姻を禁止しユダヤ心の市民権を剥奪した)などナチスの象徴的な場所であったからだ。今回の記念集会での証言をみてみよう。
「ヘス(アウシュヴィッツ収容所長)は、まるで商売をやっている店員のような顔で尋問に答えた。何人を殺したのかと聞かれて、こともなげに250万人だと答えた」(当時・米国主席検事補佐官 93歳)
「ナチス指導者は戦争に負けるまではまるで神のようにふるまっていたが、普通の人だった。どうしてドイツ人はこの人達に従ったのか」(当時・通信社記者 82歳 *これは逮捕されたサダム・フセインの姿を見ると納得できるー筆者注)
「被告人達は『命令に従っただけだ』と言って自分の行為の責任から逃れようとしたが、普通のドイツ人もユダヤ人に対して何がおこなわれているかを戦時中から知っていた」(ナチ文書翻訳者のユダヤ人 82歳 *これは中国戦線での旧日本軍の残虐行為とおなじだー筆者注)
「ドイツでもドレスデン空襲など大きな被害があったが、原因と結果を取り違えてはならない。侵略戦争を始めたのはナチス・ドイツであり、ICCは平和に対する罪、人道に対する罪というニュルンベルグ原則を継承し発展させている」(ICC判事 *これは広島・長崎の惨劇をめぐる苦しい指摘だー筆者注)
「ニュルンベルグ裁判は東京裁判のモデルとなり、ユーゴ国際法廷、ICCへと発展し、国際法上のニュルンベルグ原則は確立している」(ドイツ連邦政府法相秘書官)
「東京裁判を勝者の裁判として批判する意見は信用しない。東京裁判はニュルンベルグ原則が適用されている。ニュルンベルグ原則は、21世紀の適用されるべき世界平和と国際関係の原則だ。この原則は日本でも生きているはずだ。今私たちはICCによって将来紛争の処理が可能となった。21世紀の侵略者はICCで犯罪追求の対象となることが望ましい。」(当時・米国主席検事補佐官)
ニュルンベルグ裁判の記念集会を企画してその現代的意義を再確認するドイツの姿勢に対し、東京裁判批判が声高に論じられている日本との恐るべき非対称性の原因はどこにあるのかをきちんと明らかにする必要がある。それは一言で言うと、最高責任者の戦争責任を免罪し、次々とA級戦犯を釈放して戦後政治の中枢に座らせてきた米国とその追随者にある。おかげで日本人は責任をとる感覚がマヒしてしまい、あたかも被害者のような感覚マヒを蔓延させてきた。A級戦犯が首相の座に返り咲いたときに全世界は驚愕したが、いまをしもその孫が次期首相の最有力候補としてふるまっていることに誰も驚かない。ニュルンベルグ原則を主張する意見を東京裁判史観として嘲笑う教科書を認定して子どもたちに与え、A級戦犯を慰霊する施設に首相がぬかずいているという姿は、世界から異常で異様な理解しがたいものに映っている。
こうした日本の戦争責任免罪論は、あたかもレイプ被害者を非難して加害者を免責する『非難文化』に酷似している。アムネステイ・インターナショナル英国支部のレイプ犯罪に関する英国民意識調査は驚くべきというか、みごとにこうした意識があらわれている(21日発表)。
○被害女性にも責任があるか YES 30%
○被害女性の誘惑的行動に責任があるか YES 34%
○露出度の高い衣服をつける女性に責任はあるか YES 26%
○酔っている女性に責任はあるか YES 30%
○男にノーと言えない女性に責任はあるか YES 37%
おそらく日本でこうした調査をすればもっと賛成率が高いと推定されるが、忌むべき女性蔑視と被害者女性を非難する文化は実におぞましいまでの自己卑下が表れている。ちなみに英国のレイプ被害は年間1万件を超え、有罪率はわずか6%に過ぎない(その事実を知っている者はわずか4%と14%だ)。こうした文化こそレイプと戦争犯罪を誘発している。日本をABCD包囲ラインによる被害者として戦争責任を免罪する意見と、レイプ被害者を非難する意見は本質的に通底している。
侵略戦争はかならず政府による戦争動員のための情報操作をともなう。大量破壊兵器の存在をデッチあげてイラク侵略を始めたブッシュ政権は、戦後最大の侵略戦争責任者としてICCの裁きを受けることは確実だから、ブッシュ政権はICC条約の批准を拒否した。情報操作を見抜く知性が今ほど問われているときはない。残念ながら刺客騒動で劇場型選挙を繰り広げた日本の首相は、類い希なる情報操作と演出力を持っていた。情報操作の威力は、ブッシュ政権によるカタールの衛星TV・アルジャジーラ本部攻撃計画が象徴している。イラク中部・ファルージャでの米軍の大規模掃討作戦を中継するアルジャジーラTVを敵視する米政府は、04年4月の米英首脳会談でアルジャジーラ攻撃計画をブレア英首相に打ち明けて制止された(デーリーミラー 22日付け)。自分の気に入らない情報を報道する他国の首都にあるTV局を武力攻撃するとは、よほど米政府はみずからの戦争の大義に自信がないことを自己暴露している。米政府の戦略の致命的な欠陥は、企業経営のERM(エンタープライズ・リスクマネイジメント=統合リスク管理)にある。企業の内部統制の世界標準とされる米国トレッドウエイ委員会「COSO」レポートは、ERMの要件を@全社的リスクカルチャー(リスクへの感度醸成)A組織の階層によるリスクの主体的対処B自社リスクの定性的格付けと計量化にあるとしている。企業組織の末端における不祥事が直ちにトップの責任に転化し、個人情報漏洩や内部告発による企業価値の毀損リスクへの経営者の危機感がバックにある。しかし究極のリスク管理は、リスク管理の技術ではなく、長期にわたる企業の持続的発展を保障する経営ヴィジョンと戦略にある。米政府はネオコンに引っ張り回されて、軍事力による強制的誘導という幼稚なヴィジョンと戦略しかない。それに媚びへつらうコイズミのような輩ばかりだと通用するが、あくまで真実に忠実な報道を追求するアルジャジーラTV局は、米政府にとって目の上のたんこぶなのだ。こうして情報操作への誘惑は底知れぬ泥沼へと向かって増幅していく。サイト上でいま騒がれている情報操作の一例を紹介する。
「無限に続くと思われていた円周率がついに終わりを迎えた。千葉電波大学の研究グループがこれまでの円周率演算プログラムに誤りがあったことを発見。同大のスーパーコンピュタ『デイープ・ホワイト』を使って改めて計算し直したところ、10桁で割り切れた」・・・・・! 円周率3.14159265・・・と続く無理数は20世紀末に2千億桁を超えてすでに計算されている。10桁で割り切れるなどトンでもはっぷんであるが、実はこのニュースが全世界を駆けめぐった。しかし次のニュースはかなり信憑性が高いものと錯誤された。
「米国のネグロポンテ国連大使は、28日の国連総会演説で、南極の不可侵をうたった南極条約の破棄を正式に表明し、同国が保有するアムンゼン・スコット基地を中心に今後軍事基地を展開する計画があると述べた。これはテロリスト撲滅というブッシュ政権の方針を推し進めるためのものとみられている」・・・これはかなり信じてしまう人が出るのではないか。いずれも精緻に仕組まれた情報操作の手法だ。
ニュルンベルグ裁判記念式典から始まって、現代のグローバルな帝国の虚像にまで議論は発展したが、いずれもニュルンベルグ原則そのものを否定するのではなく、その継承と発展の方向をめぐっての熾烈な意見の相違である。誰しも戦後世界でのニュルンベルグ原則を否定はできないのだ。欧州ではそうした言動と行為は刑事罰を科せられる。ただ一つ我が日本のみが、ニュルンベルグ原則を否定する異様なパラノイアの状態におちいっている。若い知性にこころから呼びかけたい、虚偽を見抜いて敢然と対峙できるフェアネスの感覚を育ててほしい。私はそのために自らの生を営んできたつもりだが、そのバトンを渡す対象を探すのに苦労する時代とはなってしまった。願わくば我が生の欠片を路傍の石に刻み込んでいただけるランナーが出現することを天に向かって訴えるばかりだ。(2005/11/24
18:57)
◆緩慢な内戦を生きる日本ーなぜいまうつ病が急増しているのか
何となく不安、とにかくつらいなど原因がよく分からないでどんどん悲観的になっていくうつ病が急増している。ある統計では推定数330万〜660万人に達し、1日通院患者数は21,600人、入院患者数は11,900人で合計33,500人に上り(1999年)、その数は上昇傾向にある。努力しても報われない社会は、うつ病になりやすく、治りにくい社会であり、今の日本は市場原理主義による弱肉強食が蔓延してうつ病が誘発される条件を次々とつくりだしている。
うつ病の初期は何となく不安で眠れない状態が続き、ここである程度の薬で熟睡すると悪化は防げる。こうした不眠になっても神経科に行かない人が多く、症状は悪化する。中期になると、原因不明で理屈なしにつらい、何とかしようと頭で考えても悲観的になり他人の言葉がとどかなくなる。この段階で休養し服薬して安静にしないとさらに症状は悪化する。回復期は、気分が変わりやすく、気分が良くなって薬をやめると逆に反動で死にたくなることもある(薬の離脱症状)。時間をかけてゆっくりとするしかない。
うつ病はどっちつかずのあいまいな状態に耐える力によって回復するが、今の日本社会は勝ちか負けか、白黒ハッキリする(改革か抵抗か)傾向がますます強まり、人間も本来的にそうした二元論におちいりやすい要素がある。ある特定の理想に献身したり、他人の期待に過剰に応えたり、企業業績の目標管理にエネルギーを集中していると、うまくゆかないときや失敗したときにそれを余裕を持って受け入れられない状態になり、自らの責任と無力感に苛まされて自分を責めるようになる。まじめで誠実な人ほどうつ病にかかりやすい。日本でもっともうつ病患者と自殺者が発生する日本IBMという会社は、人事評価によって昇級に105倍の格差が生まれ、最下位のボトム10に位置づけられるとリストラされる。この会社はそうしたシステムを貫きながら、日本でもっとも発達した社内カウンセリングの体制をとっている。こうした会社でうつ病になるのは本人の責任ではない。さらに日本の社会は、自分の内面から発する価値ではなく、周りの価値基準に合わせて要求を過剰に自分に取り入れてしまう傾向が強い。他者との協調性が個の自律性を圧殺し、大勢順応のスパイラルにはまりこんでいく。日本型集団主義の良きパートナーシップの面と米国型競争原理が激突し、互いにもつれ合いながら矛盾を深めている。
こうした社会システムにこそ、ほとんどの病の根本の原因があるのだが、社会システムをすぐに切り替えることは無理なので、どのように個人的に対応するかの力も問われる。なにかうまくゆかないことになっても、困難にぶつかって見通しがもてなくなっても、理想通りにはゆかないのが当たり前だと楽天的に考える人はうつ病になりにくい。現実を相対化し、明日は明日の風が吹くさーケセラセラとふるまう自己統治能力が求められる。こうした自己統治能力の差異によって、さらに罹病のヒエラルヒーが誘発される。
しかし自己統治の呼びかけは、うつ病患者のこころにはなかなか届かない。キルケゴールの言うように「悲しんでいるのは私であり、誰も私に代わって、私の悲しみをほんとうに悲しむことはできない」のだから(限界状況)。私の知人の教育実践にすぐれた業績をあげてきた高校教師は、ある年にクラス運営がうまくゆかずさんざん悩んだ末にうつ病にかかり、自殺まで考えるところまでいった。その時に周りの人は、無条件に「たいへんだねえ」と共感し、決して「もっとがんばれ」などとは激励しなかった。なぜなら一番悩みながらがんばっているのは当人であり、「もっとがんばれ」という激励はますます彼を追い込んでしまうことになるからだ。ほんらい「悲しみ」というプロセスは本人の私的な営みであり、どのような他者の共感も本人の「悲しみ」そのものに迫ることは不可能なことだ。周りができることは、肩の力を抜き、もっと楽になってと静かに温かく見守ることしかない。早く医者にかかって薬を飲んで楽になるように勧めることであり、本人が気兼ねなくそうできるように仕事を分かち合い休んでもらうようにすることだ。
いま日本の社会は、個人のレベルでの「悲しみ」を処理するプロセスを保障せず、逆に奪っている。日本IBMがどのように社内カウンセリング・システムを充実させようと、「悲しみ」を生み出す業績評価による地獄の競争を煽っている限り、うつ病と自殺者がなくなることはない。自己決定・自己責任原則が蔓延する日本社会ではし、一見するとブラブラ病に見えるうつ病は自己責任をもっとも追及される病であり、敗者への転落への不安感が相乗してうつ病は増大の一途をたどる危険がある。最悪の場合は、そんな奴は軍隊に入れて叩き直せーというような自衛隊研修を導入する企業もあらわれる。
ところが一方では株を買い占めては株価をつり上げて、高値になると売り抜けて一夜で150億円も稼ぐ村上ファンドなどの華やかなサクセス・ストーリーがもてはやされ、額に汗して働くことが馬鹿馬鹿しくなるような世相が蔓延し、勝者が高笑いして敗者を冷笑するような投機資本主義のもとで、人を騙して勝ち抜くことへの痛みはマヒしている。しかし私はこうした華やかなサクセス・ストーリーの裏に、一夜にして莫大なカネを手にしながら、株取引に失敗し夜逃げと家族崩壊に至った多くの人がいることを知っている。私の友人は、ネット取引で大もうけし、高給マンションと外洋ヨットを手にれたが、いまは蒸発して行方不明となっている。しかし相も変わらず多くの人が、、ネット上の個人投資にのめり込み、血眼になって深夜のデイスプレーを見つめている。そしておなじ深夜に年間3万人を超える自殺者がこの世を去り、その10倍を超える未遂者が発生している。
戦争と革命の時には自殺者は急減するという法則がある。みずから命を賭けて実現する戦闘は、自ら選んだものであれ強制されたものであれ、生き生きと前向きに生きるエネルギーを生むのだろうか。でも私はこうしたビッグ・プロジェクトに生き甲斐を見いだす時代はとっくに過去のものだと思う。靖国神社に行くと、亡き肉親の遺影を飾った展示室がある。肉親の遺影を見知らぬ他人に公開する遺族の心情を思うと、胸が苦しくなる。私の尊敬する先輩の沖縄特攻で散華した兄君の軍服もある。陸軍士官学校を卒業した優秀な息子を失った遺族の「悲しみ」は想像を超えた切なさがあるが、それを靖国神社に展示することはさらに切ない。なぜなら靖国神社こそ最愛の息子を死に至らしめた主導者であったからだ。そうでなくても、「悲しみ」はすぐれて個人の内面的な悲嘆の過程であり、見知らぬ他者の共感を容易に受容するものではないからだ。あなたは肉親の死を見届けた経験はありますか? 一般的に肉親の死を体験した遺族の悲哀は次のような過程をたどるとされ、遺族へのグリー・ケアもモーニング(悲哀)に添ってなされる。
@情緒危機の段階:数時間から1週間ほど続く喪失によるパニック又は無力感に打ちのめされる時期
A抗議・保持の段階:数ヶ月から時には数年間続く喪った者への思慕、否定、探索の時期
B断念・絶望の段階:永久に戻らないという本格的喪失感により絶望の襲来とうつ症状、精神免疫低下による病気発生もある
C離脱・再建の段階:喪った対象から他の対象への気持ちの向き変えと新たな精神活動の発生
一般的に女性は泣き崩れるなど感情が激発するが、立ち直り過程も早いと言われ、男性の悲嘆表出は抑制的だが悲嘆の処理過程の進行は遅いと言われる(男性では食事をまったく口にしなくなったり、その場を離脱して放浪する場合もある)。特に自殺による喪失の場合は、加虐的な自己責任感情が伴い、自虐的に後を追う危険もある。このように喪失による悲嘆(グリーフ)は、他者の共感を遮断する絶対的な深い心情である。
いま日本は、ステータスと生活水準の勝ち負けを競う緩慢な内戦状態にある。この戦争は剥き出しの暴力と武力ではなく、仕事の業績を競うかのような神経戦であり、しかも手触りのある努力による報いではなく、仮想上のマネー争奪という報いである。この戦争は他者の身体的生命を撃つのではなく、相互の精神活動のレベルで争われる心理戦である。争われる価値は、自己の尊厳とプライドであり、敗者は身体の喪失ではなくみずからの誇りをズタズタにされる。そうした内戦の殺戮を高みから冷ややかに見おろしながら、冷酷にせせら笑っている少数のリヴァイアサンが君臨している。こうした地獄の様相を呈し始めた世にあって、戦場から離脱し帰還するにはどうしたらいいだろうか。誰しも人として尊厳ある生をまっとうする不可侵の権利を持つとする近代原理が高らかに宣言されてから、いまやそれは虚妄の陰影を呈し始めた。貨幣の価値がこの尊厳の領域を強姦し、偽装された近代の形式原理の裏でうごめいている。犯された友愛原理を恢復するのは気の遠くなるような奇跡の作業に見える。希望の虚妄は絶望の虚妄にあい等しいか。
そそり起つリバイアサンは実は自らの足下を掘り崩している。奈落の底が迫っているからこそ、全身血だらけになりながら無限の競争スパイラルを生きざるを得ない。それは何時かかならず復讐の刃が降りかかり、略奪者が略奪される恐怖の瞬間がくることを予知しているからだ。盛者必滅の理が自分を襲うことを予期している。こうして遂に他者を食い尽くさなければならない者がこの世を司る資格がないことが、辛酸の果てに露わとなる。
リバイアサンに対置しようとする私たちは、愛する者と出会いによる心の底から湧き起こるよろこびを知っている。故郷を目の前にしたときの、懐かしく甘酸っぱい感慨を知っている。終末期の肉親に自分の命を替わりに差し出したいという気持ちが生まれることを知っている。プラットホームから転落した人を助けるためにとっさに飛び込み、自らの命を犠牲にした人を知っている。あたかかい真情に満ちた励ましを受けたときに起きる勇気を知っている。貨幣の価値に還元できないなにものかがあることを知っている。こうしてリバイアサンが決して創造できないすべての価値を身に帯びている者が誰かが明らかとなり、長い夜の果てにようやく曙光が射し込んでくる。それはまぶしくて目にするのがつらいほどだ。(2005/11/24
11:57)
◆石原都知事の披露宴祝辞は「不敬罪」ではないか
11月15日のおこなわれた紀宮の結婚式披露宴を途中から見た。私は皇族の披露宴を生で見るのは初めてなので興味を持った。まず披露宴の席の配置はメインテーブルに天皇家が座った。普通の披露宴では、両家の両親と家族は一番後ろの末席に座るというのが常識と考えていたのは私の間違いであったのだろうか。宴席には天皇と皇后が最後に入場したのも特徴的であった。次に列席者の服装に注目した。第1級正装に近いものではないかと思ったが、一般の披露宴の服装と大して変わりなかったので簡素な感じがした。さて乾杯の音頭は石原都知事であった。驚いたのは彼が「東京都民と日本国民を代表して・・・・」との祝辞から始めたことだった。彼が東京都民を代表する資格は十分にあるが、なぜ彼が日本国民を代表する資格があるのか、今もって判然としない。
さらに驚いたのは続く挨拶で、「フランスの哲学者・ベルグソンであったと思いますが、『神さま仏さまを信じる信仰と、結婚というのは非常に本質的に似ている。その本質の原理は一種の賭けだ』と書いております。・・・お二人の賭けの配当に相伴させていただく光栄を得てしあわせです」と述べたことである(朝日新聞・石原知事発言録 11月22日)。「結婚が賭け」ということは、当たりもあるし外れもあるということだ。幸せな結婚が死が最後に二人を分かつまで続くという可能性があるとともに、離婚や不幸せな結婚があるということだ。こんな言葉を結婚式で使うのは、いわゆる忌み言葉に近い不謹慎な言葉ではないだろうか。しかも皇族の結婚式の祝辞で使うということはほとんど不敬罪に近いのではないだろうか。それとも石原氏が確信犯として意図的に皇族に贈ったのであれば、石原氏は驚嘆すべき共和主義者と言えるかもしれない。もっとも今は不敬罪は刑法から削除されているので、石原氏の犯罪は成立しないが。
さらにさらに「神さまを信じる信仰も賭け」と述べていることは、これはゆゆしき言辞ではないか。天皇家と皇族は神道という宗教を信仰する宗教者であり、天皇は60年前までは「神聖不可侵の神」とみなされた聖なる存在であったのだ。その宗教者を前に、「信仰も賭けとおなじ」だといったのだから、これは天皇家の信仰を揶揄し、侮辱しているに等しい。天皇家は当然に彼の発言に抗議し、場合によっては告訴する資格がある。もっとも天皇家は一般刑法の告訴権はあるのか、ないのかよく分からないが。
石原氏は天皇家の最大の儀式の一つである結婚式典で、外国のフランス人の言葉を引用することに違和感と抵抗感はなかったのだろうか。おそらくどこかの結婚式の挨拶で使って受けが良かったので場を考えずに流用したのであろう。皇族の結婚式であれば、当然にして日本の歴史上の人物の言葉を引用すべきだと天皇を敬愛する人たちは怒り心頭に発したのではないか。ベルグソンの言葉がほんとうかどうかが記者会見で話題になったときに、石原氏はその出典を正確に示すことができず記者達に激怒したという(スポーツ報知 11月19日)。石原氏は披露宴直後に記者に聞かれて「ささやかな披露宴であった」とも答えているが、「ささやかなもの」というのが敬意を込めた称賛の意味なのか、それとも貧しいという意味なのか、褒め言葉としてそのまま通用はしない。もっとも国家財政700兆円の大赤字で天皇家も節税に協力したという意味なら、よく分かるが。
いずれにしろ一連の事態は、石原氏の知性と教養と感性がいかに低劣なものであるかを満天下に示したものとして反面教師にはなる。作家としての表現力も救いがたいほど貧しいこともよく分かった。日頃から繰り返す妄言と暴言の数々も、彼の水準からすればやむを得ないものだ。しかしその無邪気な言辞の影響を直接に受ける国民と天皇家にとってはたまったものではない。それとも国民と天皇家は、自らにふさわしい都知事を戴いているに過ぎないということなのだろうか。宮内庁は人選を誤った。(2005/11/23
17:19)
◆朝の陽光がまぶしい窓辺の向こうに戦車が見える
日本の外相が米国TVのインタビューに答えて、「(靖国神社の)遊就館にはなんどか行ったことはあるが、戦争を美化するという感じではなく、その当時をありのままに伝えているというだけの話だ。問題にするのは中国と韓国だけだ。韓国大統領の訪日のために靖国問題で譲歩する必要はない」(21日)と述べ、中国政府は「彼はあの時期の歴史に正しく対応する勇気がない」と厳しい批判を浴びせ、韓国YTNテレビは「外相の発言は右派代表の政治家の暴言であり、無視するから好きなようにやりなさいとの暴言に等しい」と批判しています。私は外交責任者の致命的な認識の誤謬に唖然とするばかりです。いうまでもなく遊就館は、靖国神社に付属する軍事博物館で、旧陸海軍省の管轄で1882年に開館し、45年に解体して富国生命に賃貸後、86年に再建され2002年の大改修を経て現在に至っています。私も数年前に訪れて、日清戦争以降の旧日本軍の武器の展示に驚きました。あの世界に冠たる優秀な零式戦闘機の実物は、あまりにも貧弱でこんな代物でよく米軍と戦闘を交えたものだと嘆息しました。しかし私の同僚であるK先生の兄君の陸軍中尉の軍服の展示を見たときにはほんとうに衝撃を受けました。彼は沖縄特攻作戦で米艦に突入し散華したのです。陸軍士官学校を卒業後にただちに特攻へ志願した優秀な兄君の慰霊を見て、日本はなんと無惨な戦争で多くの若者の命を犠牲にしたのかーと彼が靖国に祀られていることに複雑な感慨を持ちました。靖国神社宮司は、遊就館の使命を「英霊の顕彰と、近代史の真実を明らかにすること」であり、アジア・太平洋戦争を「自存自衛であり、皮膚の色とは関係ない自由で平等な世界を達成するために、避け得なかった戦ひ」(『遊就館図録』)と無条件に正当化しています。アジア人2000万人を殺害した戦争を、アッケラカンと肯定する心情を理解できませんが、一宗教法人の思想の自由を認めるとしても、一国の外相がそれに追随して国際的に発言する異常な無知の頭脳については赤面するばかりです。彼はおそらく東京裁判もA級戦犯もすべて否定して、アジア・太平洋戦争を肯定するのでしょう。太平洋戦争開戦にあたって発せられた天皇の「開戦の詔勅」が、「帝国は今や自存自衛の為決然起って、東洋永遠の平和を確立する」と述べた発想と60年を経た今日ほとんど変わっていません。なんたる無惨な外相でしょう。
最大与党の行革推進本部は、防衛庁を防衛省に昇格させる法案を来年に提出する決定をおこないました(22日)。防衛省(防衛大臣)は独自の予算請求権と省令制定権を持つ「軍部」として独立することになります。戦前期の軍部ファッシズムと独走による悲劇的な地獄の結末を想起するとゾッとします(私の父は母が身ごもっているうちに中国戦線に出征し重傷を負い、帰還前に私の母はこの世を去りました)。私は決して戦前の軍部独裁と戦争を許すことはできないのです。
政府最大与党は結党50年の大会で新理念・新綱領を決め、新憲法草案を最終決定して50周年宣言を出しました。95年の新宣言の「奢りや腐敗が生まれ国民の厳しい批判を受ける苦い体験をしました。私たちは2度と国民の皆さんを裏切ることのないよう、良心と責任感をもって真摯に取り組む決意」はアッサリと投げ捨てられ、総選挙での圧勝をバックにまた「奢りや腐敗」を全面に国家改造にとりくむ惨憺たる内容となっています。決定的な欠陥は将来ヴィジョンが欠落していることです。55年結党時は「民生の安定と福祉国家の完成を期し、駐留外国軍隊の撤退に備える」とそれなりの国家イメージがありましたが、新綱領はスローガンだけがあり、戦争憲法改正の決意をトップにもってきています。原理的にこの党には未来イメージの構築能力がなく、粗野なポピュリズムに翻弄される権力亡者に過ぎないという哀れな実態が露呈されています。
新憲法草案では、9条2項「戦力不保持・交戦権否認」を削除して「自衛軍」という名の日本軍設置を明記していますが、ほんとうに戦後60年間「1発のピストルも撃たず、1人の人間も殺さなかった日本」(首相APEC記者会見)を誇りを持って讃えるなら、9条2項こそアジアに向かって日本が維持する誓約であるはずです。私の父もおそらく中国戦線で中国人を殺害したでしょうが、息子の私が中国と交流できる資格がかすかにあるのもこの9条2項によってしかありません。日本が21世紀に世界に受け入れられるたった一つの拠り所であるのではないでしょうか。
なぜこうした発想が日本政府の中枢を占めるようになったのか、ほんとうに考え抜かないと取り返しのつかない道に日本は踏み込んでいくのではないかと不安に駆られます。劇場型デモクラシーによって国民を「パンとサーカス」で弄ぶ手法の行き着く先に、国内は弱肉強食の地獄にあえぎながら、そのトラウマを外国に発散させる戦争へとめりこんでいく日本の惨憺たる姿が見えてきませんか。ニューヨーク・タイムス社説(19日)は、「ブッシュ政権は冷戦期の反ソ戦略を復活させ、今日の複雑な米中関係という違う状況下で採用しようとしている。すでに厄介な国粋主義の日本政府に、戦後の軍事抑圧から脱皮させ、さらに野心的な地域安全保障目標を抱くように積極的に励ましている。ブッシュ政権の対中政策は、新封じ込め政策である。アジアの偉大な挑戦は、過去の破壊的軍事的対抗に陥ることなく、経済的により強い中国の道を探すことである。それを米、日、インドの現在の中心的関心にすべきで、新たなバージョンの封じ込めではない」と主張し、かなり正確に日米同盟による中国新封じ込め政策の誤謬を指摘しています。興味深いことに日本政府を「厄介な国粋主義」と表現し、日本政府の右翼ミリタリズムを告発していることです。外国から見ると、日本政府は戦後の国際感覚からドロップアウトした異常なショービニズムに写っているようです。確かに私たちが日本人を離れて、外国人の視点から日本を見ると、子どものように意地を張って靖国に参拝する首相の行動は異様なものでしょう。異常な競争の緊張に神経をすり減らしている職場にいる日本の私たちは、こうした異常で異様な事態に敏感に反応する神経がじょじょにマヒしているようです。それは仕方がありません。疲れ切って我が家に帰っても、まじめに考える気力はなく、お笑い番組とともに垂れ流される刺客騒動に関心を奪われ、獅子咆哮する首相に改革イメージを抱いてしまいます。株価上昇による景況感改善も、明日をも分からないリストラで生活不安感で酒に紛らわす毎日が続きます。
政府自身がアメリカ型競争モデルと軍事力依存の貧しい将来イメージしかありませんから、社会全体が競争主義に翻弄されて、なんとか自分だけは生き残ろうと強者にすり寄るしか生きる目当てがなくなったかのようです。誰しも自分が敗者になるのは怖いことです。
鶴見俊輔氏が次のように言っています。「自分を底から支える信仰がなくては、社会の波に任せてどこかへ連れてゆかれるばかりだ。戦争の中で育った私は、動かされることに恐れを抱いていたが、動かされないことにも危険がある。それは今も変わらない。おなじ問題が今も日本の社会にある。私の中にもある。私が拠り所にした、まだ平和だった頃の大正知識人は、1931年の満州事変以後は頼りにならなかった。倉田百三、武者小路実篤、新渡戸稲造・・・ああ、ああ、と思うばかりだった。私なりに知識人を定義するなら、知識人とは政府の方針に合わせて即座にではないがゆっくりと自分の信念を変え、自分のかわりかたを転向でないと言い張り、他人の言説について転向と批判する人たちということになる。この定義を、自分の信条の一部として1992年の今、日本の知識人について変える必要を認めない」(「個人の救済と共同体」 『岩波講座 宗教と科学5』所収)
この文章は92年に書かれたものですが、2005年の今ますます意味を持ってきているように思います。92年ではまだかすかに恥じらいがあった知識人は、いま雪崩をうって政府審議会に参加し、まるで権力の番犬のような言辞を振りまいて恥じないばかりか、使命感をもって政策の一翼を担っています。しかし私はここに逆に彼らのアキレス腱を認めます。自由で公正な競争は、互いが自律した自己の主体となったところにはじめて実現する可能性があるのですが、自由で公正な競争原理を掲げるはずの主体が、日本では大勢順応の媚びへつらいにあるからです。「私は君の意見には反対だが、君が自分の意見によって弾圧されるなら、私は断固として君を守る」という欧州型デモクラシーの成熟した個人がありません。私も苦い経験として、ある管理主義システムの渦中いた時に、率先して管理を実践するパッションに我を忘れてエネルギーを投入した経験があります。今から振り返るとゾッとするような慚愧にたえない心理でした。最も高水準の頭脳活動を展開したはずの京都学派の哲学者たち、或いは20世紀最大の哲学者の1人とされるハイデッガーは、軍部ファッシズムとナチズムの思想的売文家に転落したのでした。
ほんとうに自分の頭で考え、毅然として屹立する羅針盤を持ち、「自らの良心にのみ」にもとづいて審判するという、最も困難でリスクの高い生活が否応なく迫られてくるようです。教育勅語に頭を垂れなかった内村鑑三、戦場で中国人捕虜を刺殺することを断って処断された続満那(丹波の禅僧)など別の道を行った有名無名の人たちがかっていました。治安維持法によって青春のただ中で錯乱死した伊藤千代子、幾多の無数の無名の犠牲者たちがいました。おそらく2007年は日本の死命を決する決定的な年になるでしょう。2007年は防衛省設置法案、教基法改正法案、憲法改正国民投票法案、消費税改正法案、社会保障関係改正法案等々が一斉に賛否を問われます。おそらくこれから1年をかけて、マスメデイアを総動員して洗脳が繰り広げられ、職場は息が詰まるような閉塞感が満ち、多数で可決される雰囲気づくりが進むでしょう。その阿鼻叫喚の世にあって、私はハイデッガーの道だけは選びたくありません。
24歳で狂死した伊藤千代子を偲んだ旧制諏訪高女時代の師・土屋文明は次のような歌を彼女におくっています。
まをとめのただ素直にて生きにしを
囚えられ獄に死にき五年がほどに
こころざしつつたふれしをとめよ
新しき光のなかにおきて思はむ
高き世をただめざすをとめらここに見れば
伊藤千代子がことぞかなしき
(2005/11/23
12:32)
◆あア〜ん、もう社長さんたらア
新宿・歌舞伎町に1ヶ月で700万円稼ぐホステスがいる。「あア〜ん もう社長さんたらア」こんな感じのニュアンスに客は参ってしまう。この「あア〜ん」は「あ」と「え」の中間語で英語の母音に近く、日本語の母音の領域には含まれていないので、ふだん耳にしないからよけい魅力的に感じるのだそうだ。このホステスさんの甘い誘いの声は一朝一夕にできあがったものではない。まず声は生まれつきで変わらないという思いこみを捨て、鏡で口の形を見たり、腹式呼吸で発声する涙ぐましいトレーニングで、肌を磨くように一生懸命にプロとしての声を磨き上げたのだ。
新宿のホステスさんに負けないほどの甘い媚声を出せる人がいる。云うまでもなく、「ブッシュ様ア〜日米同盟いのちよン」といってすり寄っている忠犬ポチ公と呼ばれる男だ。彼はブッシュ氏に「あア〜ん もう」といって媚びを呈しながら、国内向けには「改革なくして成長なし」とか「民間にできることは民間で」等の断定調の威勢のよい早口で同じ言葉を繰り返し、みごとに国民を取り込んでしまった。後世の史家は彼を恐るべき騙しの天才と評価するだろう。彼は、おそらく電話の声だけで大金をかすめる振り込め詐欺のテクニックを習得したのだろう。振り込め詐欺師は「おれだよ、おれ。実は事故に遭っちゃって。金、お金が必要なんだ」とせっぱ詰まった声で迫る。彼は「おれだよ、おれ。実はすごい財政赤字になっちゃって。改革、改革、改革が必要なんだ」と国民に迫った。
断定的な早口を耳にすると、聞いている人の心拍数も同調して上昇し、時にはパニックになる人もいる。人が通常1分間に話す言葉はひらがなで350〜400字とされているが、甲高い声で同じ言葉を繰り返し、500〜530字位になると振り込め詐欺は成功する。そういえば忠犬ポチ公の演説もよく似ている。こうした詐欺師を見抜く声紋鑑定は、声帯や口腔、鼻腔の形や話し方、方言などひとりひとり異なる特徴をコンピュータ解析し、紋様をグラフ化して犯人を絞り込む。93年の甲府信金OL殺人事件は、「ほうすっか(そうですか)」という甲府方言の特徴が犯人逮捕の決め手となり、声帯の振動の平均周波数から身長170cm(実際は173cmでっあった)まで割り出された。
一般的に人の声の高さは12歳頃まで男女差はなく、男子は声変わりする。欧州のカストラートといわれるカウンターテナーは成人後もボーイソプラノを維持するために睾丸を切断して声変わりをとめる。また身長の高い人ほど身体の部位も大きく声帯も大きいから、背の高い人の声は一般的に低くなる。さらに物まねのうまい人は、肺から吐き出す空気をコントロールして、いろいろな声を出す。忠犬ポチ公は、主人ブッシュのものまねが抜群にうまいので主人から可愛がられているが、国民に話すときには断定調の早口で同じ事を何回も繰り返す(この手法はおそらくヒトラーの演説も練習したのだろう)。忠犬ポチ公の演説を聴く国民の心拍数は高まり、「そうだ、そうだ、早く改革しなければ危ない」と同調し、あのライオンのようなパーマをあてた髪型も改革幻想を増幅したのかもしれない。
一方でいまネット上で、アバター(サンスクリット語で化身の意)という化身ビジネスが流行している。ネット上で自分の好きな顔や服、髪型を選んで自己流に飾りたてる。あるサイトでは、会員は自分のページを持ち、文章や写真にアバターを挿入する。アバターのアイテムは、ストレートヘヤー200円、お姫様風ドレス250円など飾れば飾るほど費用がかさむ仕組みになっている。アバターは90年代後半に韓国で始まってから日本に入ってきたが、月に数万円を使うマニアもいる。ここには匿名でいたいけれど、個人としても認められたいというバーチャルな仮想による個性表現の欲求がある。ライオンヘアーに雪崩をうって投票した人たちも、実はこのアバターマニアに近い心理があったのではないだろうか。ライオンヘアーに自己を同一化してあたかも自分もよくみられるような同調の心理だ。
ところが彼はアバターを、日米同盟のテクニックとしても大いに利用しいる。あちらの米軍基地をこちらに移し、こちらの戦闘機をあちらに移し、司令部を統合してネットでつなぎ、あたかも着せ替え人形のように日米同盟のアイテムを飾り立てて化身しようとしている。現地の当事者はこのアバターに抵抗し、政府へ猛烈な抗議をしているが、一部には凝ったデザインと補助金に目がくらんでつい誘惑される人もでている。横須賀基地の退役空母「キテイホーク」に替わる原子力空母は、ニミッツ級空母「ワシントン」(92年就航 全長330m 戦闘機80機搭載)に決まったという(ロイター通信)。選定にあたって米海軍は艦名を大きな要素とし、日本への原爆投下を命じた大統領の名を冠する空母「ハリー・トルーマン」は日本国民の感情を害する恐れがあるから、独立戦争指導者ジョージ・ワシントンの名の空母にしたという。これはまさにアバターによる化身ビジネスの応用に他ならないが、こちらは仮想ネットではなく現実に非核3原則を侵すという重大な問題をはらんでいる。
さらに政府のアバター戦略は、つい最近見事に絶大な効果を発揮した。建物の耐震強度をチェックする構造計算書を偽造して、民間の指定確認検査機関をパスさせ、震度5で倒壊するマンションやホテルを日本全国で林立させたのだ。98年にライオンヘアーは、例によって「民間にできることは民間で」と建築基準法を改正し、営利目的の民間会社に建築確認と完了検査を委ねるようにした。こうして彼のアバター命令は、人命を危機におとしいれる大量の住宅供給に成功したのだ。国民の命と安全を金儲けの民間会社に丸投げすることが、彼の「改革」と称する騙しのアバターであったのだ。彼は命よりも金のほうが大事だとして、公的責任の放棄を化身するアバターアイテムを駆使したのである。彼はこのアバターを国際会議でも利用した。APEC首脳会議後の記者会見で、「(靖国参拝のような)短期的な一つの問題で関係が悪化しないよう努力しよう。互いに時間がたてば理解される」と述べて顰蹙を買い全世界から孤立した。彼が駆使したアバターは、靖国参拝は「自国の戦没者の尊い犠牲を慰霊するだけだ」と述べ、かって植民地支配をした被害国に一言の反省も述べないという見識のなさをさらけだした。被害国から見れば傷口に塩を塗り込まれるような耐え難い侮辱であったが、被害国の大統領は怒りよりも軽蔑のまなざしを彼に浴びせた。こうしてライオンヘアーの無知厚顔のふるまいは、袋だたきにあって鄭重に帰国を促されるという恥ずべき醜態をさらしたのである。以上・朝日新聞11月20日付けを参照して考察。(2005/11/20
9:33)
◆マグドナルド・IBM化する日本社会の悲劇
晩秋と云うよりも初冬に近い街をいくとなぜか元気がない。APECを阻止する韓国の若者の映像を見ていると、1960年代の日本のような昔日の感がある。日本でグローバリゼーションを批判するような街頭行動は想像だにできない。若者の特権である溌剌とした希望のまなざしはどこへ行ってしまったのだろうか。パート・派遣・請負などの非正規雇用が若者を覆い尽くし、15−24歳の若者の非正規雇用は45%に上り、15−34歳の年収格差は正社員387万4千円、フリーター105万8千円で4倍に達している(総務省「労働力調査2004年」、厚労省「賃金センサス2003年」)。いまマグドナルド・IBM型雇用が若者をターゲットに席巻し、日本全体に蔓延している。マグドナルドで8年間アルバイトしているFさん(29)の給与明細表みてみよう。
Fさん(29) 給与明細書
支払明細 @ hr
金額
時給(T) 840円 123 103,320円
割増時給(T)1050円 2,5 2,625円
時給(U) 1000円 42 42,000円
割増時給(U) 0円 0 0
時給(V) 0 0 0
割増時給(V) 0 0 0
その他時給 0 0
休日勤務 0 0 0
深夜勤務 20 4200円
交通費 0 0
HELP交通費
0
給与明細書の右上欄外には「あなたの努力に心から感謝します。この経験があなたの人生にプラスになることを期待します」と記されている。8年前の時給が800円であったから彼の時給は7年間で40円アップしたに過ぎない。交通費も自己負担で、休日は週1回平日で有給休暇を取得したことはない。厚労省のフリーターの定義は「15−34歳(学生・主婦を除く)の青年層でパート・アルバイトで就業中の人と、それを希望する無職の人」を指し、内閣府の定義は厚労相定義に加えて「派遣社員、正社員を希望する無職の人」を含めており、01年のフリータ人口は417万人(25%)となっている(内閣府「2003年国民生活白書」)。企業が非正規社員を雇う理由は、、賃金節約52%、仕事の繁茂に対応28%、景気変動の雇用調整27%という、まるで明治期の原生的労働関係である。1995年から2004年にかけて正社員はマイナス369万人、非正規社員は逆にプラス563万人へ推移している(厚労相「05年労働経済白書」)。若者たちの5人に1人は非正規として、正社員とのギャップに苦しみながら、生活保護基準以下の低賃金で雑巾のように使い捨てられている。彼らは、「仕事のやり方が悪いと減給されるのでは? 派遣先で残業を命じられて断れない、景気が悪いと解雇されるのでは? 健康保険や厚生年金はどうなっているのか?」などの不安に脅えながら毎日を過ごしている。これがマグドナルド型雇用のリアルな姿なのだ。
では正規社員は救われているのか。30歳代の男性正社員(農林漁業を除く)の25,64%は週60時間以上の労働で、残業20時間となっており、毎月残業時間は80時間を超えており(総務省「2004年労働力調査」)、彼らの毎日は朝9時の出勤から夜10時ないし11時まで職場にいる。これは明らかに厚労省過労死認定基準に該当している。不払い残業代はこの4年間で600億円(50万人分)を超え、非正規と正規の競争を煽って互いを対立させながら、企業はバブル期を上回る空前の利潤を挙げている。濡れ手に粟の投機的錬金術を駆使して儲けまくっている六本木ヒルズのサクセス・ストーリーテラー達の華やかさも、一夜明ければ奈落の底に転落する倒産のリスクと不安の隣り合わせだ。日本IBMの成果主義賃金は昇級で105倍の格差を生み、人事評価が下位10%になると「ボトム10」と呼ばれるリストラ対象者として多くが退職に追い込まれる。日本IBMはリストラの毒味役と呼ばれる非情な経営に転落し、不採算部門は労働者も含めて他企業に丸投げして売り払うリストラを強行している(ハードデイスク部門→日立グローバルテクノロジー800人、パソコン部門→連想レノボ600人、デイスプレー・テクノロジー解散400人別会社へ等々)。かくして日本IBMは、日本で最も自殺者と神経症発症率が高い会社として勇名をはせている。これがIBM型雇用のリアルな姿なのだ。
かくして現代日本は、マグドナルド型雇用とIBM型雇用がドッキングして、ごく少数の富者とその他大勢の貧者が2極に分解する階級社会となった。以下の収入別階級による意識調査をみると(内閣府「2005年毎10月消費動向調査」)、明らかに高所得層で雇用改善と収入増が見られ、低所得層で雇用悪化と収入減の傾向があり、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる両極分解の傾向が現れている。
○雇用環境
300万円未満 1200万円以上
良くなる 12,9% 25,5%
悪くなる 22,9% 11,3%
○収入
減る 23,7% 19,5%
増える 3,2% 8,6%
日本の最貧困層の指標である生活保護世帯は103万世帯・146万人を突破して10年前より60%以上増え、し、教育・就学補助受給児童生徒数は12,8%とこの10年で倍増し、貯蓄ゼロ世帯は23,8%に急増している。厚労省は住宅扶助・教育扶助の国庫負担廃止と生活扶助・医療扶助削減(1/2)を打ち出し自治体へ移管する方向を出した(現行は国3/4,地方1/4)。地方財政力によって受給認定と給付水準の地域格差が生まれる。日本の貧困率(全世帯年収中央値の1/2以下)は15,3%(1900万人)となり、OECDの平均10,2%を大きく上回った。竹中氏が推奨する日本のアメリカ・モデル化は完全に成功した。「国民はすべて健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(憲法25条)という生存権規定は崩壊寸前だ。
OECD貧困率上位5カ国(国立国会図書館資料)
1990年代 2000年
@メキシコ 21,7 20,3
Aアメリカ 16,6 17,0
Bトルコ 16,2 15,9
Cアイルランド 11,0 15,4
D日本 13,7 15,3
国連児童基金(ユニセフ)報告書『豊かな国の子どもの貧困』は、日本の子どもの貧困率(0−17歳)は26カ国中10位の14,3%で90年代から2,3%上昇している。米国は2位で21,9%、英国は7位で15,4%であるがいずれも90年代から2−3%下降している。ユニセフは「近い将来、日本は米国に次ぐ子どもの貧困率が高い国になる恐れがある」と警告している。子育てをおこなう若者の2人に1人が非正規雇用ということは、子どものほぼ2人に1人が未来を失うことになる(出生率1台として)。
こうして勝ち組・負け組という嫌な言葉が横行し、二極化する社会は所得のみならず、働く意欲、学ぶ意欲、対話の意欲、要するに生きる意欲そのものを二極化させている。早朝からパチンコ屋の開店を待って路上に座り込んでいる若者がいるかと思えば、昼から高給レストランで騒いでいる中年女性がいる。下流階層にマグマのように溜め込まれたトラウマは高齢者や子どもの虐待、いじめ、病者など弱い者へ攻撃を集中する寒々とした荒廃たる世の中となり、年間3万人を超える自死者が自ら命を絶ってこの世を去り始めた。未遂者は自死者の5−10倍に上る15万ー30万人と推定されるが、未遂者への対応はほとんどなされていない。逆に厚労省医療改革試案は、国民誰もが保険証1枚で必要な医療が受けられる国民皆保険制度を崩し、民間の疾病付き生命保険に加入しなければもはや病気を治せない仕組みに転落させようとしている。日本はマグドナルド・IBM型の米国モデルが浸透し、フランス郊外の若者暴動とは原因は異なれど、同じような事態がいつ爆発しても不思議ではない実態になっている。将来に希望を持てる人ともてない人に分裂し、希望がもてない人がニートに陥れられ、それをまた自己責任として非難する最悪のスパイラル状態になっている。ニート達は「自分らしさが大事だといいながら、努力もせずにブラブラしている中途半端な人間」と攻撃され、政府は「人間力を回復させる」という漫画のような政策を打ち出し始めた。ここにみられる無知厚顔な偽善性は、ホリエ何とかというベンチャー成功者が「貧乏人からも税金を取るのは当たり前であり、僕も消費税は海外と同じようにすべきだと思っています」(堀江貴文『稼ぐが勝ち』光文社)とヌケヌケと言っているところにあらわれている。はたして若者は「楽だから努力もせずにブラブラしている」のか? それとも若者の半分しか正規採用しない日本経団連の労働力政策の犠牲者なのか?不払い残業の解消で160万人分の雇用が創出される事実こそ、問題の所在を一目瞭然に示しているが、ホリエなる人物の書名がハッキリと「稼ぐが勝ち」となっているように金の亡者が蠢いている現状ではそれは虚しい。
「自分らしく生きろ」とか「自分探し」などの個性宣揚のメッセージは実は自己責任原理の裏返しであり、「自分が幸せだと思うなら人がどう見ようといい」とか「豊かさは自分のこころの問題だ」という主観的幸福感が蔓延し、実は下流階層ほど「自分らしさ」志向が強いという不気味なスパイラルに落ち込んでいる。個性化社会の主張は深いニヒリズムを湛えている。
日本社会は未来の宝である若者と子どもたちという、社会的な発言ができない層に打撃を集中する異常な事態をもたらしている。それはいたいけな乳幼児さえ例外ではない。公立保育園が次々と民営化されて子どもが金儲けの餌食になろうとしている。子どもたちは何の意見表明もできないままに市場原理の修羅場に投げ込まれている。日本の乳幼児の現状に危機を覚えた国際連合は、子どもの権利委員会「乳幼児期における子どもの権利についての見解」(2005年)で、乳幼児期(8歳未満)の赤ちゃんや乳幼児の発達する権利(第6条)と自分の意見を表明し尊重してもらう権利(12条)を規定し、乳幼児の意見表明能力と未発達な意見の尊重義務について「乳幼児であってもその意向を表現する権利がある。それは子どもの年齢や成熟度に応じた重みを与えられるべきである。乳幼児は言葉を話したり、書くことで伝えることができるようになる前に、その感じたこと、考え、希望をさまざまな形で選び伝える」(一般所見)としている。これは計り知れない重要な責務を日本の大人に求めている。特に乳幼児の言葉にならない言葉を全身で受け止め、信頼関係を築いて成長を促す保育士の聖職的な専門性を保障しなければならないということだ。もし保育園がマグドナルド・IBM型民営化に転換すれば、保育士は身分保障を失い低賃金で不安定な生活に転落し、その最大の被害者は子どもたち自身となろう。この私も共働きで息子が生まれたときに、地域の親同士で共同保育所と学童保育所をつくるなかで、公的保育の必要性を肌身に感じて痛感した体験を持つ。民営化された保育は、富裕者の子どもは十全な保育を享受し、高額な保育料を負担できない貧者の子どもたちは街に放置される。両者は互いに敵対し合い、日本の未来の宝であるいたいけな子どもたちはともに地獄の底へ転落していくだろう。
マネーが唯一の生き甲斐となった日本の頽廃を象徴する企業が、あのチワワのCMで一躍サラ金業界のトップに躍り出ようとしているアイフルだ。利息制限法の上限(年利15−20%)を大幅に超える利子の返還を求めて、31都道府県の債務者1900人が、サラ金大手111社を相手に提訴した。請求額は28億円で、昨年の7億8千万円(9割が勝訴)を大きく上回っている。違法利息で貸し付けている実態を知らない多重債務者は150万ー200万人に上っていると推定される。カネまみれになって借金地獄に呻く被害者のモデルは、ビッグプロジェクトに湯水のような公共投資をおこなって700兆円という天文学的な借金を抱え込んで倒産寸前にある日本政府に他ならない。財政赤字の責任を放置して、その借金を弱者を犠牲にして支払おうとしている無知厚顔は天をも恐れぬ行為だ。これがコイズミなる人物が、国民を欺いて垂れ流してきた構造改革という破壊戦略である。彼の墓碑銘に記された”我が亡き後に洪水は来たれ”というスローガンは、ひたすら亡国のイージスに励む自らの行き着く先が無限地獄にあることを暗示している。いま日本語から「希望」という言葉が消え去ろうとしている。しかしこの「希望」という言葉は、「絶望」という言葉と同じく虚妄である。うち捨てられ、傷だらけとなってのたうつ「希望」はフェニックスのようにふたた力強くびよみがえり、この地上から羽ばたくだろう。ひとたび我が身に痛みを受けた者たちのネットワークは、互いの痛みを分かち合う地の塩となって、しっかりと大地に根を張るだろう。「絶望」をくぐり抜けた「希望」は二度と再び屈しない光を放つだろう。(2005/11/19
10:15)
◆文化を効率原理で弄ぶのか
晩秋の黄昏のの木漏れ日を受けて、紅葉した木の葉がハラハラと落ちていきます。道の側には落ち葉がひきつめられて、歩いていくとサクサクとここちよい音がひびいていきます。私はヤマハの大人のためのピアノ教室から、幾らたっても上達しない無念に打ちのめされて黙々と帰りを急いでいます。今日は「愛の挨拶」というロマンテックな曲でしたがどうも左手がうまくいきません。先日のテレビで脳卒中で右手の機能を失ったピアニストが、痛手から立ち直り左手だけでピアノを演奏していましたが、彼は「左手だけというハンデイはまったく意識しません。全身でピアノと向き合っていると、自分が片手で演奏していることをまったく忘れています」と云っていました。デモその裏には語り得ぬ幾多の苦悩があったと想像します。彼を見舞ったすべての人が口にした「がんばってください」という激励は、言外にピアニストとしての生命は絶たれたという意味を込めていたということが、彼を絶望の淵に陥れたのです。しかし芸術への想いと執念は奇跡的な片手演奏の習得をもたらし、彼は復帰コンサートを成功させることができました。ここに芸術活動の本質があるような気がします。ベートーヴェンは聴覚を失ってからむしろ名曲をつくったのです。
芸術や文化はそれ自体で人間の豊かさとすばらしさを無条件に告げています。その国の豊かさは帰するところ、GDPの大きさではなく、文化と芸術にどこまで市民がアクセスし得ているかによって計られます。その点では無条件にフランスこそが世界最高の文化の国でしょう。フランス政府は莫大な税金を文化支援に投下していますが、ひるがえって日本の文化予算の貧困は目を覆うものがあります。いったい租税は何のために納めるのでしょうか。それは市民生活に必要なものではあるが、金儲けの対象にはなじまないもの、つまり公共財を市民に供給するためであり、そうした分野は民間企業が利潤対象の営業活動にしてはならないのです。公園や道路は金持ちも貧乏人も平等に利用できなければなりません。文化芸術作品も公共財的な性格を持っています。例えば書籍出版活動に定価販売の再販売価格維持制度を採用しているのもそのためです。大都会の人も田舎の人も同じ定価で本を購入できます。もし書籍を自由競争市場に委ねれば、輸送コストのかかる田舎の人は同じ本を高額で購入せざるを得ないでしょう。学術専門書の出版経営は困難となるでしょう。美術や音楽、映画なども似たような財です。もしこれらを自由競争市場に委ねれば、お金持ちの人しか作品に接することはできなくなります。
さて政府は国立美術館などの国立文化機関を独立行政法人化し、地方文化施設に指定管理者制度を導入して企業参入を進めてビジネスチャンスをつくろうとしています。あなたの近くの文化施設で急に駐車場が有料化されたり、入場料や資料コピー代金がアップしたりしてはいませんか。特に図書館をよく利用する人にとっては大きな痛手となってはいませんか。さらに政府は2006年から国立美術館・博物館の統廃合と市場化テストによる維持管理の民間委託を導入しようとしています。平山郁夫氏や高階秀爾氏などのグループが一斉に批判声明を出して抗議し、文化芸術を利潤原理で考えはじめるとかならずその国の文化は創造性を失い、衰退すると危惧を表明しています。文化芸術活動は本質的には個人や集団の自主的・自発的な創造活動ですが、利潤原理になじまないために条件整備を公共機関が保障するところに発展の基礎的な条件があります。かって中世期までは、宮廷やブルジョアによるパトロンの保護で文化芸術は維持されてきましたが、近代以降は政府や自治体がそれを公共的にになうようになりました。日本では戦後の図書館法や博物館法の制定によって、私立施設を支援し、資料収集や調査・研究の専門職員を配置し、広く市民に提供してきました。この集大成が2001年制定の文化芸術振興基本法であり、文化芸術の創造と享受を市民の基本的権利とし、その環境整備の義務を政府と自治体に求めています。これを受けて文化庁は、東京国立近代美術館付属施設の国立映画フィルムセンターを充実させるフィルム・アーカイブ独立施設化の方向を提案していますが、政府は逆に基本法に背反する違法な施策を推進しています。
かっての財界リーダーはそれなりに文化芸術を重視して、、コレクション活動や企業メセナとして文化芸術・スポーツの支援活動を展開してきましたが、ここにきて急に態度を翻し、メセナ予算を削減しその結果多くの企業スポーツ・クラブが危機に直面しています。倉敷・大原美術館に象徴される企業文化活動は明らかに限界があるのです。なぜなら文化芸術・スポーツは本質的に最大原理順を追求する私的市場財ではなく、使用価値の比重が極端に高い公共財であるからです。従って利潤原理を生命とする企業に委ねることは、文化芸術の本質になじまないのです。私は、文化芸術と近しい伝統工芸産業の研究に従事してきましたが(本サイト電子論文参照)、西陣や鹿の子絞りなどあまたの伝統工芸は産業と同時に工芸活動の側面があります。政府施策とは逆に、むしろ地方は村おこし、まちづくりに向けて積極的に地方美術館や博物館、民俗資料館などの整備を推進し、地方独自の文化の復元と維持に努める地域活性化政策を各地で繰り広げています。
いまなぜ韓国映画が世界を席巻するすばらしい作品を創りだしているのでしょうか。韓国文化省は、ハリウッドの無秩序な市場攪乱を抑制するために、韓国映画を無条件に一定範囲で上映しなければならないというアファーマテイブ・アクション政策(ポジテイブ・アクション)によって恒常的に韓国映画の上映を確保し、莫大な映画制作支援をおこなっているからです。フランスを中心とするEU諸国も手厚い支援政策をおこなっています。米国やハリウッドの蹂躙にまかせている日本の都市文化がいかに無惨な実態になっているかは、欧州をちょっとでも旅行するとお分かりになるでしょう。こうした文化財の公的支援を批判する人たちの常套句は、死にものぐるいで競争する緊張関係の中でしかほんとうの文化芸術は生まれないのだというものですが、その規準は売れるかどうかにありますから、目先の儲けだけを血眼に追いかける活動からはほんとうの創造活動は生まれません。日本で最も成功したと云われる劇団・四季の活動はを否定はしませんが、大企業のパトロンを得るための演劇の方向性と水準ははなはだ疑問です。
国立美術館や博物館が公営から撤退し民間へ移行することはどういう事態を誘発するでしょうか。入場者数やグッズ売上高でを評価し、次代を担う芸術家の育成支援も削減され、その先にはカネで買われる文化芸術のみが生き残る惨憺たる状況になるでしょう。その影で世に出ることなく無名のままに埋もれていく、幾多の天才を失うことになるでしょう。
日本経団連会長の顔を見ていると、なにかその表情は日本銀行券を写し出しているようなイヤらしさを感じます。日本の首相は歌舞伎やオペラを鑑賞していますが、こうした非大衆芸能的な芸術公演が日本で成立しているのは、本格的な舞台芸術活動を保障する国立劇場があるからです。彼はいままで先人が営々と築き上げてきた文化芸術の伝承と創造活動を根底から掘り崩す政策を推進しています。罪万死に値する政策の自己矛盾に気づかないまま血道を上げている彼は政治屋であってもステイツマンではありません。ミシェル・フーコーという哲学者が逝去したときに、フランス大統領は全国民を代表して哀悼の意を表するメッセージを遺族に送りましたが、私は日本では想像できないような文化の厚みを感じました。文化芸術活動は人間の豊かさを示す本質的な表現活動です。それが崩れる国はもはや人間が生きる国ではありません。(2005/11/18
8:29)
◆暴力と殺戮の20世紀を21世紀に増幅しているのは誰か
20世紀における暴力と殺戮による死亡者数統計は、あまりに冒涜された惨憺たる人間の尊厳を示している。はるか宇宙の彼方から見れば、地球惑星は互いに殺し合う高等生命の無惨な姿が投影されている。
○戦争と弾圧による殺戮数
[大量虐殺+抑圧的な国家権力による死亡者数]:8300万人
[戦争による死亡軍人数]:4200万人
[戦争による死亡民間人数]:1900万人
[人為的要因による飢餓数]:4400万人
[総計]:1億8800万人
○戦争と武力衝突件数 1993年:62件→2004年:42件
この間の戦闘死者数 1300万人(うち900万人以上がサハラ以南アフリカ諸国)
○軍人・民間人比較 20世紀初頭 民間人1人:軍人9人 →現在 民間人9人:軍人1人
新たな新世紀はさらなる暴力の石積みをもって始まり、今のこの瞬間においても幾多のいのちがこの惑星で喪われている。以下は21世紀初頭の世界暴力生産関係数値である。あまりに歴然としていることは、大量破壊兵器とはまさに小型武器のことであり、それによって最大の犠牲者が生み出され、最大の利潤を挙げているのは帝国・米国そのものに他ならないと云うことだ。米国をどうみるかということが21世紀の在り方を決める分水嶺となっている。
○2004年度世界軍事費支出 1兆350億ドル(うち米国47%)
・2015年の世界軍事費支出の7,5%(7600億ドル)により乳幼児死亡率2/3減少+全世界初等教育実現
・アフリカ、アジア、中東、ラテンアメリカの武器購入費(110億ドル)ですべての子どもの小学校通学実現
・米国軍事費510億ドル削減による感染病(結核、マラリア、エイズ)1400万人のいのち救済
・トライデントミサイル”6発分(3億5000万ドル)で世界1000万人の子ども予防接種可能
・イラク戦争・占領予算(推定2300億ドル)で世界の最低限食料、エイズ治療、子どもの予防接種、清潔な水と衛生設備供給可能
○世界軍事費支出(2004年5月現在)
順位 国名 支出額(10億ドル) 1人当たり支出額(ドル)
@アメリカ 455,3 1,533
Aイギリス 47,4 798
Bフランス 46,2 764
C日本 42,4 332
D中国 35,4 27
Eドイツ 33,9 411
Fイタリア 27,8 484
Gロシア 19,4 136
○世界軍事産業(2003年度)
兵器製造業トップ100社の兵器連結売上高2360億ドル(前年比+25%) うち38社が米国系(カナダ系1社)で売上高の2/3独占
@ロッキード Aボーイング BグラマンCBAE Dレイセオン EGD Fタレス GEADS Kハリバートン
○大量破壊兵器としての小型武器
・小火器により1分間に1人死亡 年50万人強(全武器死亡数の40%)
・30万人/年が武力衝突で死亡 20万人が殺人、自殺、銃撃で死亡 150万人負傷
・武器による1人死亡する1分で15の武器製造 世界小型武器数6億4千万丁(10人に1丁 60%が民間人男性所有)
・銃による死亡確率は他の武器の12倍 被害者は女性(南あでは女性が18時間に1人パートナーの銃撃で死亡) 出所:「New
Internationalist」No381
(2005/11/17
16:39)
◆最後の死の瞬間を効率原理で弄ぶのか
厚労省「医療改革試案」は終末期医療を在宅推進する体制整備(報酬体系)を提案している。死期が迫りつつある患者の60%が自宅療養を望んでいるが、実際の死亡場所は自宅10%・病院80%であり、この死亡場所を逆転させることで老人医療費を削減するという。例えば食道ガン術後死亡のケースでは、自宅療養30日で57万円(往診代など)、入院では30日で115万円(抗ガン剤、痛み止め、発熱抑制剤、酸素吸入など)と2倍の医療費の差がある。もし自宅死亡割合を40%に引き上げると終末期医療費年間9000億円は2015年に2000億円、25年には5000億円を削減することができるとする(厚労省説明)。終末期患者はサッサと退院し、医者の往診だけを受けて早くこの世を去れという案だ。引き取る家族の心労と不安は関係ないという。生命の最後の瞬間をどう選択するかという患者の自己決定権は、生命の尊厳論や安楽死問題ともかかわって、リビング・ウイルなど生命倫理の問題として対費用効果とは無関係に真剣に議論されてきたが、厚労省試案は経済効率性原理による対費用効果のみで終末期を位置づけて、ライフエシックスを否定した。要するに貨幣価値を生まない生命は国家の損失だという考えだ。彼らの終末期医療観をめぐる発言を時系列的にみてみよう。
「末期の患者さんでも月何百万円も使う方がおられる。費用を使えば病気が治るかというと、なくなる方の方が多い」(小泉純一郎厚相 1997年2月衆院予算委)
「抵抗勢力とは何も特定の業界や族議員だけではありません。実は国民誰しもが、ある意味抵抗勢力となり得ます」(奥田日本経団連会長 2002年10月3日)
「延命治療を望まないという患者の選択も尊重すべきだ」(日本経団連 2005年10月14日)
「4年間は衆院選挙がないわけだし、苦しいことはその間にやっておかなければならない」(日本経団連 宮原副会長 日刊工業新聞 2005年9月20日)
「医療を施しても治らないような所にはもう金をかけない。病院で死んでいるけれども、在宅で死んでもらうこともあり得る」(久間自民党総務会長 TV番組で2005年10月23日)
「病気になったら国にお金がありませんから死んでください、とはとてもいえない」(尾辻厚労相 2005年2月財政諮問会議)
ここには経済的に無益な生命は生きている意味がないとして、他者のいのちを操作することに何の痛みを覚えない恐るべきニヒリズムがある。或いは終末期のみならず障害者や遺伝病者を排除したナチス断種法・安楽死法と通底するファッシズム思想がある。自己決定権を偽装して、生命の領域を経済的比較衡量説(シカゴ学派)で推し量る冒涜と無知がある。厚労省試案はかって重度障害施設を視察した都知事の次のように発言を思い起こさせた。
「文明がもたらした最も悪しき有害なるものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を喪っても生きているのは無駄で罪ですって。男は80.90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子どもを産む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって・・・・。なるほどととは思うけれど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなもんだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね」(石原慎太郎都知事 2001年11月6日 『週刊女性』)
「ああいう人って人格あるのかね。ショックを受けた。絶対良くならない、自分が誰か分からない、、人間として生まれああいう状態になって・・・・。しかしこういうこと(*養育)やっているのは日本だけでしょうな。おそらく西洋人なんか切り捨てるんじゃないの。あれは安楽死につながるという気がする」(石原慎太郎都知事 1999年9月18日)
こうした発言を繰り返す公職者の責任が野放しに放置されて、今や日本はモラル・ハザードの状況にあり、厚労省試案もこの延長線上にある。しかし厚労省試案が主張する終末期医療費の高額は事実だろうか。死亡3ヶ月前から入院した高齢者のうち、終末期医療費が高騰したのは20%で老人死亡者の8%に過ぎない(国立社会保養・人口問題研究所報告 1998年)。終末期の始期についての医学界の明確な定義はなく、厚労省試案は勝手に1ヶ月前からで算出しているが、同じ症状で医療を継続して生存し続けている人の医療費を参入しないデータ操作をおこなっている。つまり厚労省は延命する生命を途中で断ち切ってもよいーと主張していることに等しい。さらに治療しなければ半年後に死亡したと推定される終末期患者が高額治療によって、半年後に42,2%、2年後に32,2%が生存していることが明らかとなっている(国民健康保険中央会実態調査 1999年)。要するに厚労省試案は高額利用費負担に耐え得る富裕者は入院治療で延命し、貧困者は自宅で早く死ねと云っている。確かに延命治療を中断して自宅で最後を過ごしたいという富裕者もいる。その人たちの自己決定はもちろん尊重しなければならないが、延命を悲痛に願う家族もいる。私も今秋に妻の死線を彷徨う大脳手術でいのちは貨幣価値に替えられないと実感した。厚労省試案は、家族の在宅治療を医療機関が引き受けても経営的に成り立つ報酬制度を導入して安価な在宅終末に政策誘導する国家による合法的・政策的殺人に他ならない。明らかに個人の生命の尊厳を貨幣に代替する神をも恐れぬ行為だ。終末期の明確な定義もなく、終末医療費の算定自体が確定していないなかで、医療現場はどうなるだろうか。ある日突然病院は特定の患者を終末期医療に切り替え、高額医療費を支払えない延命可能な患者が半強制的に在宅に追放されるという悲惨な事態が誘発されるだろう。生命の尊厳と自己決定権の実質的に剥奪された患者は、国家によって合法的に殺害される。すでに「障害者支援法」によって、障害者は自力でしか生きられなくなった。同じことが高齢者を対象に進められようとしている。私の妻は20日間の入院で60万円を支払ったが(3割負担から逆算すると180万円)、共済健保で大部分が還付される。これが無保険者や外国人であれば手術は不可能であったろう。人間の最後の死の瞬間を効率原理で弄んでいる政府は、地獄の閻魔大王の前でどのような自己弁護をおこなうのであろうか。答えは明らかだ。無間地獄への転落に他ならない。彼らは国家を統治する基本的な資格を失っているばかりか、国家そのものを崩壊に導こうとしている。
*資料
日本経団連・医療費集中改革期間
医療給付費(医療費ー患者負担分) 2010年:30兆円以下抑制(現行推計 32兆8千億円)
◇診療報酬大幅マイナス改訂◇入院患者ホテルコスト自己負担(ー5千億円)◇高齢者窓口負担引き上げ(ー8千億円)
◇保険免責制導入(ー2兆8千億円)
→医療・介護給付費のGDP伸び率以下への抑制(医療費伸び率推計年3.6% GDP伸び率予測年1−2%)
医療費対GDP割合国際比較 米国15% フランス10,1% ドイツ11,1% 日本7,9%(OEDCD2005年調査)
1人あたり医療費 年28万円(OECD加盟国中7位 *日本は患者数が多く患者1人あたりでは世界最下位 1996年) (2005/11/14
8:38)
◆人類史上最悪の経済封鎖 帝国アメリカのモラルは地に堕ちた
11月8日の国連総会は米国のキューバ経済封鎖解除決議を賛成182・反対4・棄権1・欠席4のほとんど満場一致に近い票数で可決した(反対は米国・イスラエル・マーシャル群島・パラオで棄権はミクロネシア
日本政府も流石に賛成に回っている)。米国の態度がいかに国際法を蹂躙する恥ずべきものかは一目瞭然となった。経済封鎖の「キューバ・カストロ政権転覆」という目的そのものが民族自決権の否定であり、米国国内法の強圧的な第3国適用など明らかな国連憲章と国際法違反の実態が白日の下にさらけだされた。さらに1992年から2005年までの14年間にわたる国連総会決議を無視してきた米国の態度は、もはや国連のメンバーとしての資格を失っている。あなたの学園や職場で、気に入らない奴と付き合うと痛い目に遭うぞと脅迫している人がいれば、あなたはどうしますか。
米国の経済封鎖によるキューバの直接被害は年平均18億ドルに達し、累計では2003年:720億ドル、2004年:793億ドル、2005年:820億ドルとなっている(キューバ政府資料より)。例えば病院で使う血液中のガスを検査する集中治療用機械を35年間供給していたデンマークのメーカーが米企業に買収されてハバナ事務所が閉鎖され、年間20万ドル(2340万円)の追加費用で別企業から購入せざるを得なくなったり、7−13歳のすべての児童に豆乳ヨーグルトを無料供給する冷凍設備にデンマーク製コンプレッサー14台が含まれており、米企業の買収で販売が禁止されたことなど。病者や児童への打撃を狙うこうした政策は明らかに「人道に反する罪」(ニュルンベルグ・東京裁判)である。米政府は意識的にキューバと取引する外国企業の株式買い占めをおこなっているのではないかと考えざるを得ない。こうした非道の米国によるキューバ制裁史は以下のように展開した。
1959年 キューバ革命(バチスタ独裁政権打倒 カストロ政権成立)
1960年 米政府 食料と医薬品を除く物資禁輸・米船舶キューバ寄港禁止
1962年 米政府 全面禁輸 次いで貿易・金融関係断絶措置拡大
1992年 キューバ民主化法(トリセリ法) 第3国にある子会社を含む米系企業のキューバ貿易禁止
キューバ寄港船舶の米国寄港180日禁止
1996年 キューバ自由民主主義的連帯法(ヘルムズ・バートン法)
過去の全封鎖措置の法制化
キューバに投資した外国企業役員の米国入国禁止
キューバ革命で接収された米国人資産を利用する外国企業の米国裁判所提訴(*亡命米国籍キューバ人も米国人と扱う)
2001年 ブッシュ政権「自由キューバ支援委員会」設置 貿易・渡航禁止の厳格な適用開始
2004年 キューバ系米国人の親族送金禁止
キューバ政権・共産党員への送金禁止
親族訪問渡航回数規制を年1回から3年に1回へ
2005年 米下院 個人使用の衣類・石鹸・種子の供給制限の新措置を否決
米国のキューバ経済封鎖は、キューバのみならず世界80カ国に経済的打撃をもたらし、EUは自国企業と市民を保護する法的対抗措置をとってきた。キューバ国民は経済封鎖の苦難に耐え抜き、米国内の良心派も自らの行為に恥じらいを抱き始めている。米国のキューバ経済封鎖は、米国モラルがいかに頽廃したダブルスタンダードに転落し、全世界から孤立しているかを赤裸々に示している。キューバ国民は経済封鎖に耐えきれず瓦解していくだろうか。それは同時に米国市民と全世界の良心が瓦解することだ。それとも米国が頭を垂れて自らの罪を謝罪する日が来るだろうか。キューバはいまや全世界の民主主義の試金石の位置を占めている。『ブエナビスタソシアルダンス』で明るく陽気に歌うキューバ人の映像を見ながら、私は苦難の14年間を想像し胸が痛んでくる。(2005/11/13
9:04)
◆古代ギリシャの女神アテナの肌は黒かったのか!
クレオパトラの肌は黒かったのか!
女神アテナは金髪碧眼の白人ではなかった(M・バナール『黒いアテナ』1987年)は、古代ギリシャの欧州起源を否定し、アフロ・アジア(フェニキア・エジプト)起源を立証し、西欧古代史に衝撃を与えた。古代ギリシャはエジプトと西セム語系フェニキアの植民地であり、古代ギリシャ史は近代西欧の人種差別的歴史観の産物であるとする。従来の定説は、ギリシャ文明は北方からの民族移動とギリシャそのものから生まれたとするアーリア・モデルであったが、バナールはギリシャ文明を脱中心化したギリシャ古典研究の大胆な仮説を提出した。その内容は、古代ギリシャの歴史家自身が古代ギリシャ人の父祖を南方と東方からの影響とする古代モデルでギリシャ史を考えていたからであるとする。
このバナールのパラダイムチェインジに対して激しい批判が起こっている。アフリカ中心主義として攻撃する人もいる。アフリカ中心主義とは、クレオパトラは黒人だったとか、創造性にはメラニン黒色素が必要だとか主張するブラック・アフリカニズムであり、「ブラック イズ ビューテイフル」を主張するマルカムX等も関係しているかもしれない。バナールは、異なった大陸間の文化融合として古代ギリシャの誕生を考えているが、人種的本質の普遍性と西欧中心主義を無条件に肯定するアーリア主義の攻撃は激しい。
もしバナールが正しければ、ギリシャ発のヨーロッパ史はすべて書き換えられる。日本の高校世界史教科書で必死に覚えた私たちのギリシャ史も間違っていたことになる。これだから学問はドキドキするような面白さがある。願わくばこの論争が、人種的偏見に囚われれることなく、歴史の事実と真実を解明する誠実且つ実証的なものであってほしい。(2005/11/12
17:43)
◆吉野せい「老いて」(『洟をたらした神』より)
私は吉野せいをまったく知りませんでしたが、そのエッセイ集である『洟をたらした神』という鮮烈な書名にひかれて、「私は百姓女」と「老いて」という2編を偶然に読みました(ちくま哲学の森2『いのちの書』所収)。一読して開墾生活に生きた女性の原初的なパトスが、ゴツゴツした長いセンテンスの文章から放散されて、、ここには文壇に毒されない肉声が迸りでているような吸引力を覚えました。まるでラテン文学のガルシア・マルケスのような骨太い日本語による長編詩のような表現を感じました。
はるかな、はるかなかっての日に、何を求め、何を希い、何を夢み、何に血を沸らせてこの地を踏んだか、その遠い過去は記憶のぼけた雲煙の彼方に跡形なくきれいに消えてしまったーとはいいきれようか。だが思い出そうとしても遠い日の夢に等しい記憶の切れっぱしが、ひからびた脳波の中につながりもなくぴくぴくするように、捉えどろこもまとまりもなく、ただ風に似た何か荒れ狂うものの羽音だけが残る。(中略)
憎しみだけが偽りない人間の本性だと阿修羅のように横車もろとも、からだを叩きつけて生きてきた昨日までの私の一挙手一頭足が巻き起こした北風は、無蓋な太陽のあたたかさをさえ、周囲から無惨に奪い去っていったであろうことを思い起こし、今更に深く恥じる。ついさき頃、偶然眼にした、老いさらばえた頃の混沌の一つの詩を、全身蒼白の思いで私はよんだ。
ぜつぼうのうたをそらにあげた
そんなにあさっぱらからなげくな
なげけばむすこはほうろく(*失う)
あるいはばあさんじしんがどうなるか
むすめはどこへ
さてボクはここでおわるとしても
めいめいのみちをたびたってしまう
くどくなばあさん なげくな
それさえなければ なにをくい なまみそでいきてもいい
いっせんでも むすこのしゅにゅうになるなら
クサをとるというボクを ボクをみていよ
じゆうはそれぞれにあるとしても
そうすることはどういうものか
ふこうはみんなのあたまのうえにおりてくる
なげくな たかぶるな ふそくがたりするな
じぶんをうらぎるのではないにしても
それをうったえるな
ばあさんよ どこへゆく
そこはみんなでばらばらになるのみだ
つつしんでくれ
はたらいているあいだ いかるな たかぶるな
いまによいときがくる
そのときにいきろ
生涯憤ることをつつしんだ木偶の坊のような彼(*開拓詩人・三野混沌 夫)の詩を、いいおりに私は読んだものだ。なまなましいくり言は、唇を縫いつけて恥一ぱいでかき消そう。しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長とはいえはしないか。せっかくゆらめきだした心のなかの小さい灯だけは消さないように、これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。よろけた足どりでもかまわない。まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい。
黙々と大地を開墾して汗にまみれて働いてきた詩人の、はるか遠くに過ぎた青春の日の熱いパトスを偲ぶかの深い感慨があふれ出る文章である。まるで石川啄木の明星デビュー作の老年版のような感じだ。
血に染めし歌を我が世の名残にて 幸いここに野に叫ぶ秋
妻は未破裂動脈瘤の手術から奇跡の生還を果たして、本日12日午後1時に退院し自宅に戻った。ナースセンターは土曜日で2人しか看護師はいず、一人がエレベーターまで見送ってくれた。息子と3人で荷物をまとめあっけない退院風景であった。同室の高年女性3人に挨拶を交わして病室を去る。神の手を持つ主治医と医療関係者、親戚、友人の皆さまに心から感謝の念を捧げる。10月31日の手術を超えて圧倒的な恢復力を示した妻の生命力に感嘆するのみ。(2005/11/12
14:28)
◆ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま文庫)
妻の入院中の付き添いの病室で読んだ。「人間の条件」は、五味川純平の中国戦線で戦う日本兵の良心を描いた小説を思い起こすが、この書は米国へ亡命したユダヤ人女性による全体主義の基盤となった大衆社会の思想的系譜を探求した思索の書である。彼女は生地ドイツで、ハイデッガーやヤスパースのもとで学び20世紀思想に巨大な足跡を残している。ナチズムとスターリン主義の根元に肉薄した『全体主義の起源』が主著といえようか。ナチスにひれ伏したハイデッガーとの恋愛関係も知られている。「人間の条件」とは、人間が人間であり得るための必須不可欠の要素を指すが、彼女は時代と文化に規定された人間が状況に働きかける内発的な能力としての活動力を云い、<労働><仕事><活動>の3つの側面があるという。彼女は<労働>を奴隷がになう動物的生存のための家族内活動力として軽蔑している。<仕事>とは職人的なアート労働(?)を指し、<活動>とはポリス的市民のコミュニケーション活動を指す。近代以降に<労働>が優位となって、<仕事>と<活動>が人間的な意味を失い、ポリス的な公的領域が失われて、私的領域が国民国家の規模にまで肥大化して支配し始め、利己的個人を実現する大衆社会が形成されたとする。
私は彼女の人間論に2つの違和感を持つ。1つは、労働概念を動物的生存のための私的且つ奴隷的労働とみなし、従って労働を人間の条件とするマルクスを否定することだ。しかしマルクスの労働概念は、彼女の<仕事>や<活動>を包摂する広域概念であり、決して狭い生存活動ではない。「猿から人間への進化にあたっての労働の役割」というエンゲルスの考えを彼女も知っているだろうが、なぜか彼女は<労働>を切り離して<仕事>と<活動>を重視する。労働が指揮によって強制された受動的性格に転落しているのは、あくまでも生産関係による従属の問題に他ならないが、彼女にはそうした発想はない。<活動>や<仕事>が後景に退いたのは、搾取された労働による自由時間の剥奪にあり、彼女の<活動>概念はマルクスの自由時間による人間の全面発達に他ならない。<仕事>と<活動>を第1義的とする彼女の考えは分からないではない。疎外された労働こそ仕事の剥奪であり、長時間過密労働こそ<活動>の剥奪である。<労働>から解放された有閑市民階級にこそ、人間的な活動力が宿るとする主張に落ち込んでいく危険があるような気がする。私的領域の「国家規模への拡大とは、所有権による私的利益の極大化というという資本の原理に他ならない。彼女には私的所有権の問題抜きに、公的領域を語るから、なぜ公的領域が衰退するのかが説明できない。
彼女の激しいヒューマニズムへの希求は、出自であるユダヤ人としての自己を基礎にした人間を支配する全体主義の解明にあるが、その人間概念の歴史的規定性の論理がない。卑近な表現で云えば、心がけ次第で人間的回復が可能だと云うことになる。(2005/11/10
20:13)
◆ジャンケン文化は新しいパラダイムか?
韓国の李御寧氏が、アジアの拳遊びの三すくみに注目し、西欧のコイン投げに象徴される2項対立の思考を超える循環文化の可能性を提起している。ジャンケンを韓国ではカウイ・バイ・ボと云い、中国ではツアイツアイツアイと云い、年齢・性別・国籍・時代・貧富などのあらゆる差異に捕らわれない最も普遍的で平等な反ヒエラルキー的なコミュニケーションであり、日本には豊かな拳文化が発達した。ヘビはナメクジを、ナメクジはカエルを、カエルはヘビを恐れる三すくみの発想を踏まえた虫拳は1千年の歴史を持ち、その根底にはアジア的な易の陰陽道の論理があるとする。易は、すべての力関係を相補的なものと捉え、春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、冬は春に負けて季節は循環し、陰と陽は対立を超えて補完し合っている。アジアは近代化する前は、易の論理を基底文化とし、一人勝ちも完敗もない相互補完的な循環関係を構築してきた。ある種の大腸菌は三すくみ状態で生存し、ポツダム会談ではスターリン=グーとチャーチル=チョキ、トルーマン=パーというジャンケン遊びをやっていた。現代の日本でも政官財のような3者間のトライアングルの力関係を表現する。
こうしたジャンケン文化は、誰も勝たないが誰も負けないという相互依存の社会モデルを構築できる可能性があるとする。力の国・日本は縮み志向でグー、大陸と島の両義性をもつ朝鮮半島はチョキ、地理的拡がりと寛容に富む中国はパーという壮大なジャンケン関係にあるが、朝鮮半島のハサミ機能は日本の侵略で失われて分断が続き機能は未回復だ。3国が競い合いながら循環関係を再構築する可能性がジャンケンコードにある。そして易の論理を体系的に普遍化し、西欧にとっても適用できる文化枠組みをつくることを提起する。以上・朝日新聞11月10日夕刊参照。
面白い議論だ。西欧のコイン投げとジャンケンは本質的に違うのだろうか。コインは表か裏かの二者択一的対立であるが、ジャンケンは3者択一の対立であり、選択肢が1つ加えられたところに引き分けの可能性が生まれることは確かだが、勝敗が決するまで続く緊迫感は同じである。この引き分けがあるところに、アジア独特の文化があると言うことだ。こうした勝敗を決し得ない可能性があるゲームを生み出したアジアの基底には何があるのだろうか。私は自立した個の牧畜に対し、稲作集団農耕を主要な生活としてきた文化の差異にあると考える。稲作集団農耕では、みんなが同じリズムで田植えを行い、同じリズムで稲刈りをしないと収穫はうまくゆかない。思考も集団に合わせた大脳が発達し、河川を管理する王権のもとで集団的な従属関係が生まれ、地域は孤立した村の閉鎖空間が成立し、ムラ共同体が同時に個人の運命に重なった。当然に子どもたちの遊び文化も大人がつくり出した共同体の関係を反映した遊びがつくり出される。私はこうした共同体を一義的に否定はしない。前進的に作用すれば時代を切り開く民衆運動の基盤となったからだ。しかし残念ながらこの自立を抑圧する作用も強く、村八分などの制裁が制度化された。
いま日本は米国型コイン文化の導入を急ぎ、世の中全体が勝ち組と負け組に分化する市場原理が蔓延している。韓国と中国は、依然として共同体の絆を残しながらも市場社会への途を進んでいる。李氏が述べるようなジャンケン文化は新たな東アジア共同体構想の文化基盤を提供しないだろう。なぜならジャンケンと雖も勝敗を決するための遊びであるからだ。少なくともアングロ・サクソン型効用極大化をねらうゲームの理論的な発想とは異なる文化を東アジアは育てていくだろう。(2005/11/10
17:31)
◆「ウイスキー・ピート」を投下せよ
ウイスキー・ピートとは米軍の隠語で白リン弾を指す。白リン弾とは、米軍のM−15白燐りゅう弾で爆発半径17m、燃焼温度5千度であり、白燐(黄燐)は酸素の少ない水に触れると猛毒ガス・ホスフィンを出し、、煙を吸収すればPhossy
Jawという症状が起き、顎の骨が砕け散る。白燐(黄燐)は小匙1杯未満で吐き気、嘔吐、肝臓障害、心臓障害、腎臓障害を伴い死に至る。M−15白燐爆弾には15オンス(425g)の白燐が入っている。かっては花火に少量入っていたが、花火師の病気が増えて廃止された。衣服を残したまま皮膚が焼けただれる場合もある。白燐爆弾は国際条約で禁止されている残虐兵器にあたる。米軍はファルージャ掃討作戦でこの白リン弾を使用し、米軍ボイラン報道官は「陸上戦のすべての協定で完全に合法だ」と主張し、建物破壊用に白燐爆弾の使用を認めた。
大量破壊兵器を抑えるために始めたと自称するイラク戦争は、実は米軍の大量破壊兵器と残虐兵器の一大投棄場となった。劣化ウラン弾の使用によって、砂塵に混じった劣化ウラン弾の残留物を吸い込んで被爆した米軍帰還兵の多くが、放射線障害に苦しみ、先天性奇形児が生まれている。米兵の尿検査を行うと、通常の81倍の濃度のウランが検出される。米軍はファールージャでは大量の鉛爆弾を使用した。鉛は、中枢神経系、心臓血管系、生殖系、腎臓を冒し、、心臓発作、脳卒中、腎臓病をひきおこす。衣服に大量の鉛の粉末を浴びたイラク住民は、そのまま家に帰り、子どもや家族全体に健康被害をもたらす。
米軍はファルージャ掃討作戦で、ナパーム・ガスを使用した。ナパームはポリスチレンとジェット燃料の混合剤で1908年に国連が禁止したものだ。燃えながら皮膚にくっつき人間を焼却する効果を持ち、現在はガソリンではなく灯油を使用する改良型が開発され、敵軍の兵士が炎を上げて焼け死んでいく様に恐怖をもたらす。「敵兵の死は偉大な死ではない。将軍たちは大変ナパーム弾が気に入っている。心理的に大きな効果があるからだ」(第11海兵航空群司令官ジェームズ・アレス大佐)。
同時に米軍はファルージャ攻撃で2種の化学ガスを使用した。第1は抵抗する敵を麻痺状態にする麻酔ガスで、捕虜を縛り上げて戦車で潰すか屋内に押し込めて爆破した。第2は、人体を黄色(または黒色、白色)に変色させる有毒ガスで、米軍兵士は防毒マスクを使用して攻撃している。さらに米軍はクラスター爆弾を使用し、親爆弾が破裂すると無数の子爆弾が周囲に散って身体に食い込んで死に至らしめる。
米軍の製造した化学兵器はブッシュ政権の2006年予算の削減で防衛関連予算が減り、大量に備蓄されている化学兵器の廃棄が求められた。米軍はイラクでその兵器を使用し、廃棄費用の70%を削減することに成功した。イラク戦争は米軍の化学兵器の在庫放出作戦でもあった。帰還米兵は厚い治療を受けられるが、現地イラク人はこれから永久に汚染された大地に住み続けるのだ。農地や飲料水は汚染され、すでにバスラでは5万人のガン患者が発生している。イラク戦争に参加する米海兵隊は沖縄基地から出撃している。手放しで米軍を賛美している国が世界で一つある。その国はどこかすでにお分かりであろう。(2005/11/10
8:27)
◆マルクス後半体系とグローバリゼーション
マルクス『経済学批判』(1859年)「序言」にある6分編成プランは「資本・土地所有・賃労働・国家・対外商業・世界市場」であり、彼は前半3プランを『資本論』で解明し、後半3プランは未解明のまま世を去った。これがいわゆるマルクス・プラン問題である。彼は前半プラン『資本論』を資本の一般分析とし、後半をその具体的な諸形態にあてるとした。『資本論』は全世界を一国とみなす一般抽象分析(原理論)であり、後半プランは国境で区切られた国民経済の具体的な諸形態の未完の分野となった。すると『資本論』における一般的抽象分析の論理を世界市場分析に適用する方法が考えられる(機械的な論理であるが)。村岡俊三「マルクス後半体系と帝国主義」(『経済』No123)参照。
○『資本論』を適用した世界市場論
@『資本論』第1部第1編→世界市場における商品・貨幣論
a)商品論:労働の国民間格差の発生と世界的な普遍労働→国民間生産性格差と国際的個別価格の成立(比較生産費説)
b)貨幣論:世界的普遍労働による一般的等価物=世界貨幣=国民を超えた=貴金属の地金形態=国際間債権・債務残高清算機能
A『資本論』第1部第2編→世界市場における貨幣の資本への転化
国民間実質賃金水準の差異を利用した剰余価値の創出
B『資本論』第1部第3−5編→各国資本間の価値増殖運動
a)先進国剰余価値率の比較高位
b)各国比較優位部門の特別剰余価値獲得→各国資本の増殖度の部門別差異
C『資本論』第1部第7編→各国資本の蓄積過程
a)比較優位部門への剰余価値投下
b)先進国比較劣位部門資本の国内萎縮と途上国移動(対外直接投資)
c)世界全体としての資本・賃労働関係の拡大再生産
D『資本論』第3部第1−2編→国際間利潤率均等化運動
資本の国際間移動による国民間利潤率の併存
○問題:本源的蓄積論と植民論の世界市場での展開形態と相対的過剰人口論の展開形態
資本への転化を求める貨幣の存在と土地にアクセスできない労働力商品存在とそれを支援する国家権力
@国際分業と世界市場の成立
A外資導入による原始的蓄積
B自然条件と各国間共同体規制のレベルに対応する原始的蓄積の差異
C原始的蓄積のレベル差=比較生産費による農工間地域分離
D先進地域による自由貿易帝国主義(支配ー従属)→後進地域の原始的蓄積は農工国際分業と帝国主義圧力の二重の制約を受ける
*従属学派のの不等価交換論は国際関係論的偏倚であり原始的蓄積論を逸脱しているが、独自の検討課題ではある
原始的蓄積論から見た世界市場の歴史的諸形態
@古典的モデルーイギリス(『資本論』第1部第24章参照)
英国への原材料供給と製品販売を実現する自由貿易帝国主義植民地としての世界市場
A追随型モデルー仏・独・米・日
英国に対抗する保護貿易制度による世界市場参入、国内土地制度改革不徹底による寄生地主制度(米国は例外)
他地域は英国自由貿易帝国主義による地域再編8小農生産、プランテーション強制労働制度による原材料生産、原材料食糧供給基地)
B先進諸国金融資本成立下の原始的蓄積
a)先進国金融資本による世界市場再分割(資本輸出・独占協定・領土再分割)
b)植民地のおける原始的蓄積の進行
・先進国資本輸出と民族資本の成長
・土地共同体規制の弛緩と小農農業生産
・植民地権力による強制的賃労働創出(土地家屋税、人頭税など)
c)植民地原始的蓄積は農工間分業に添うモノカルチャー構造
d)植民地権力と買弁資本に対抗する民族資本・民衆の抵抗と独立運動を誘発
○グローバリゼーション
@本源的蓄積の完了=民族独立(植民地体制の崩壊) 1964年:国連貿易開発会議(UNCTAD)成立
国民的利潤率の併存
A相対的過剰人口の停滞=貧困=南北問題
Bレーニン型帝国主義論(革命前夜の資本主義の最高段階)ではなく、資本主義世界市場の完成形態(グローバリゼーション)の前史
*ネグリ・ハート『帝国』における国民国家を超える世界経済の帝国主義から帝国への移行論
原始的蓄積過程の永続的過程論と国際間利潤率均等化運動論の誤謬
国民国家の厳然たる存在の軽視
先進・後進の不均等発展の厳然たる存在
Cグローバリゼーションの主役は多国籍企業と貨幣資本蓄積(投機マネー)運動
ソ連崩壊後のアカデミーにおけるマルクス思想の凋落は著しく、経済学は雪崩を打つようにシカゴ学派に依拠しつつあるが、村岡氏の論考は『資本論』の論理によって現代世界経済の論理を原理的に解き明かす作業に成功している。マルクス主義者であるかどうかにかかわりなく、『資本論』の有効性が検証されている。但し、イギリスをモデルとする『資本論』の限界や、現代国家の変容と情報化資本主義の超国家性と労働価値説の再検討については言及されていない。(2005/11/9
20:34)
◆ロシアの郷愁ー「最も肯定的な歴史上の人物」(ロシア世論調査」
ロシア世論調査会社バシキロフ・イ・パルトニョルイが10月に実施した1500人対象の調査結果から。
肯定的評価 否定的評価
@レーニン 54.5% 28,7%
Aジェルジンスキー 45,8% 28,8%
(ソ連初代秘密警察長官)
Bニコライ2世 40,4% 295
(最後のロシア皇帝)
Cスターリン 37,3% 45,5% (レーニンの後継者にして独裁者)
Dデニキン 29,9% 35,7% (反革命指導者の将軍)
Eラスプーチン 21,5% 46,5% (ニコライ2世を操った怪僧)
Fトロツキー 21,5% 42,8% (スターリンと敵対した指導者)
Gケレンスキー 18,5% 49,4%
(2月革命臨時政府首相でレーニンによって打倒された)
人気第1位はレーニンであり、全体としてロシア革命への評価と郷愁が強固に残っている。ロシアの現在の汚職や貧富の差の拡大を反映して、秘密警察への郷愁もある。意外とトロツキーへの評価が低いのは、ロシア革命史の叙述がスターリンに傾斜しているからなのだろうか。驚くべきことにデニキンが5位にあるのは、現政府が支援しているデニキンのモスクワ改葬などの再評価運動にあるのだろうか。日本におけるアジア・太平洋戦争のA級戦犯である広田弘毅に対する再評価や東条英機への郷愁と通底する部分があるのだろうか。(2005/11/9
8:05)
◆イスラエル病院の臓器移植は「崇高な行為」なのか!?
パレスチナ自治区のヨルダン川西岸北部にあるジェニンで、イスラム過激派とイスラエル軍の銃撃戦が起き、11歳のアフメド・ハテイブ君(11)が巻き込まれて頭と胸を撃たれて殺害された。イスラム教の断食月の終わりを祝う祭り「イード・アルフィトル」の初日に花婿の真似をして背広の上下を着、ネクタイがないのに気づいて小遣いをもらって、約300m離れた店に買いに行き、店の手前5mで100m先のイスラエル兵から右下腹部を撃たれ、立ち上がると額を直撃された。少年の側に転がっていたた銃は直前まで一緒にいた友人が置いて逃げたオモチャであった。子どもたちはイスラエル兵とパレスチナ人の兵隊と活動家ごっこをよくしていた。イスラエル軍の誤射によって命を落とした。イスラエル軍は遺憾の意を表したが、兵士を処罰するかどうかは調査中である。その後の展開が劇的である。収容されたイスラエルの病院は、脳死状態に陥った子どもの臓器を、父親のイスマエルさんに臓器提供の承諾を求めたのである。私はイスラム教の遺体観と埋葬観を全く知らないが、常識的には射殺された遺体はきれいに整えて全身を大地に手厚く葬るだろう。敵対する勢力の誤って殺害された少年の遺体の臓器提供を求める病院の態度がまったく理解できない。誤射された敵国の子どもの遺体は鄭重に整えて、謝罪とともに父親に返すのが医師の行為ではないのか。
ところが驚くべきことに父親は臓器提供を承諾し、少年の臓器は生後半年から56歳までの患者6人!に移植された(6日 イスラエル放送)。イスマエルさんは次のように語った。「病院に来る道すがら、遊んでいる子どもたちをたくさん見た。息子の命を与えることで他の子どもたちが遊び続けられることを祈る。これ以上子どもが殺されないように、平和のメッセージを世界に伝えたい。息子の臓器を受けたユダヤ人は人を殺しはしない。」・・・・・。およそ人の親として想像を超えた美しい精神の光が放たれているではないか。どこの親が殺された我が息子の遺体を刻んで敵軍の病院に提供するだろうか。これをしも崇高な行いと言わずして何を崇高と言おうか(肉親を喪った悲しみを知る者のみがこの崇高さを理解できる)。臓器提供を受けたイスラエル人6人の生命は蘇生して新たな活動を再開する。愚かな戦争が招いた美しい行為の証しとして。
しかしちょっとまてよ、ひょっとしたらイスラエルの病院は多くのパレスチナ人を殺害してはその遺体を切り刻んで臓器移植をしているのではないかーという疑問がふと浮かんだ。或いは無惨な冒涜に等しいが、病院に収容されているイスラエル人患者と家族は多額の臓器提供代を支払ってパレスチナ人の遺体を購入しているのではないか。すると父親の行為は・・・・? こうした邪推を次々とめぐらしていく私自身がもはや歪んだ想念に侵されているのだろうか。パレスチナ戦争のおぞましい実態を浮き彫りにしたニュースだ。それにしても戦争はこうした無惨な美談はごく普通のことなのだろうか。今しもイスラエル放送は、イスマイルさんの行為を敵・味方を超える麗しい美談として放送しているのだろうか。だとしたらその偽善は神をも恐れぬ行為だ。願わくば報道の内容がすべてであり、その裏側になにもないことを願う。なぜなら父親の行為は、パレスチナの悲劇を終わらせる契機となるような偉大な意味を持っていると思うからだ。以上・朝日新聞11月7日付け朝刊参照。(2005/11/7
7:49)
◆フランスの怒れる若者たちと日本
インテフィーダ(民衆蜂起)とも「都市ゲリラ」ともいわれるフランスの若者たちの暴動がパリ郊外からフランス中部デイジョンから始まり、全土に拡大している。暴動の契機は10月27日にセーヌサンドニ県で北アフリカ出身の3人の若者が警官に追われて、逃げん込んだ変電所で感電し、2人が死亡し、1人が重傷を負う事件であり、同夜数10人の若者が消防士と警官に投石し車に放火するなど暴動が拡大し、全土に拡大している。サルコジ内相の「彼らは社会のクズだ。掃除機できれいにする」という発言や30日の衝突で催涙弾がモスクに放たれたことも暴動を拡大した。フランス警察はパリ南方エソンヌ県エブリ市内でで火炎瓶製造秘密工場を発見し、現場にいた13−16歳の少年6人を拘束した。倉庫には150本の瓶があり、うち50本は火炎瓶として使用可能な状態だった。捜査幹部は暴動は衝動に駆られた行動ではないtこを示していると計画性を強調し、フランス政府は暴動参加者との対話から治安部隊による抑制へと方針を転換させた。
パリの北から東に拡がる地域は若者の失業率が40%にも達する移民地域であり、大都市郊外は「治安重視市街地域」(ZUS)として貧困、治安の国内の第3世界問題が凝集している。多くのメデイアは「怒りと絶望に駆られた若者の爆発であり、許せるものではないが彼らの暴力は貧困と排除、不正義、悲惨の表現に他ならない」(リベラシオン)と同情的に報道している。「若者の非行、差別の現実があり、警官も恐怖で人種差別的な取り調べを行い、侮辱されているという深い感情、憤激、怒りの表現だ」(ニース大学ジャンフランソア・マッテイ哲学教授)という論評が暴動の背景を警告している。移民排斥を訴える極右グループの攻撃とサルコジ内相の治安対策強化路線による対話拒否が鬱積したルサンチマンを蓄積させていた。希望を胸に移住した親の世代と違い、将来への希望を喪って学校から落ちこぼれた10代後半の少年たちが鬱憤を発散している。「暴力や良くないけど、こうでもしないと誰も私たちに耳を傾けないわ」(アフリカ系少女)。フランス移民の大半は北アフリカ旧植民地(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)出身のイスラム教徒で70年代フランス経済のの「栄光の30年」から郊外の低家賃集合住宅街に定着している。移民の失業率16%、アルジェリア・モロッコ系は25%を超え、イスラム系の名前では面接にも呼ばれない。
しかしなぜフランスの暴動が突出し他の欧州諸国は平穏なのだろうか。英・独は、インド系、パキスタン系、アフリカ系、トルコ系の移民が個別の移民社会を独自に形成しているのに対し、「統合による同化主義」原則のフランスは民族や出身国・宗教ごとの独自の共同体形成を避け、米国型のアファーマテイブアクションも採用しない。フランス革命以来の共和制原則を受け入れ、フランス人になりきって文化的差異を認めながら共生社会をつくる徹底的平等主義が形式にとどまった。しかしアラブ系の名前では就職は難しく、実質的な不平等が深化し移民社会がフランスから孤立してしまったのだ。ZUS指定地域は751カ所に上り、同地域の失業率は20,7%、移民の失業率は男性26%、女性38%に上っている。フランスの警察戦略も、住民と地域密着型の組織から緊急時制圧の治安部隊へ傾斜した。ここにフランス型社会連帯モデルの限界がある。さらにフランスの世俗主義による政教分離に対し、イスラム教の聖俗一致原理が矛盾を生じる(女性スカーフ問題)。地域的に集住しているイスラム教徒は共和制原則よりもイスラム原則を優先し、独自のコミュニテイを形成する。フランスはこのコミュノタリスム(共同体主義)を分裂をもたらすと警戒してきた。フランス内務省は、630特別監視地域の半数、180万人にコミュノタリスム的兆候があるとし、イスラム説教師の比重が増大していると指摘している。
逮捕された少年のほとんどは20歳未満であり、行き場のない絶望を抱えた若者が暴発している。舞台は自分たちの生活圏内で、武器は火炎瓶と石、バット、つるはし、ペタンクで使う鉄球などであり、破壊対象は車、商店、学校である。ロンドン同時多発テロとは異なる、荒廃した郊外で学校で落ちこぼれた14−20歳代の若者とワルが、日頃から2級市民の扱いを受けて「国家への仕返し」を自然発生的に繰り広げている。労働力不足を補う移民が大量に入居している集合住宅への補助金が緊縮財政で削減され、一層荒廃が進み、約500万人が暮らしている。
フランス政府は8日に非常事態法の適用による夜間外出禁止令発令権を県知事に付与した。この措置は烙印を押された地域住民への差別感情を煽り、緊張を一層激化させるという批判が巻き起こっている。さらに職業訓練の開始年齢を現行16歳から14歳に引き下げる改革案を提出した。「学校を嫌うか、退学してしまった子ども」を対象とする。年間15万人に上る中途退学者、職業訓練を受けている若者の10%が15歳である実態に対応するとしている。しかしこの改革は、16歳義務教育制度の根幹を揺るがし、むしろ義務教育期間の延長が論議されているEUの流れに逆らうパンドラの箱を開けるものだとする批判が起こっている。逆に差別を助長し、社会的アパルトヘイトであり、街頭で暴れている若者にとって職業訓練所が受け入れ場所だというのは訓練所イメージを失墜させるとする。一方年齢引き下げには国民の83%が賛成しているという世論調査(パリジャン紙 9日付け)もあり、問題の解決を職業訓練年齢引き下げに求めるのか、教育指導の多様化に求めるのか論議が巻き起こっている。
さてこうした移民社会の差別構造とフランス労働者はどういう関係にあるのだろうか。すでに5月末に実施されたEU憲法批准国民投票が反対55%で否決されたのは、新自由主義による規制緩和・民営化路線が、従来の社会保障と労働者保護を重視する「フランス社会モデル」を破壊していた(スーザン・ジョージ『われら欧州人民』)。EU憲法は「競争が自由でゆがめられない市場による高度に競争力のある社会的市場経済を実現する」(第3条)という競争原理導入を規定している。左翼支持層の多くがノンと記した。失業対策として打ち出された「新採用契約(CNE)」は、従業員20人以下の企業を対象に、新規採用労働者への特別手当支給とともに見習い期間の2年延長(通常は1ヶ月から半年)による解雇自由化と不安定雇用化を盛り込んだ。フランス労働保護法制の強化が実質的に移民を包摂しないものであるならば、暴動の根源を絶ちきることは難しい。フランス社会の特徴を示す幾つかの世論調査結果を見よう(世論調査機関LH2 10月28日 104人対象 リベラシオン紙)。
問)どのような社会を望むか?
資本主義 33%
社会主義 51%
問)どのような社会を望まないか?
資本主義 61%
社会主義 42%
問)資本主義はどのような社会か?
人による人の搾取 41%
少数者による富の蓄積 45%
日本の現状から見ると驚くべき数字だ。フランス人の多数は資本による不平等を否定的に捉え、社会における労働の位置を尊重しようとしている。フランス人の社会観の歴史的な蓄積があるからこそ、EU憲法の市場原理主義にNONと言ったのだ。フランスは1995年11−12月に公務員給与凍結・年金制度改悪・国鉄合理化・社会福祉予算削減反対の無期限ストが国民の支持率50−62%を集めて撤回に追い込む運動で新しい段階に入ったと云われている。新自由主義反対が世論の多数を制し、当初の反グローバル化運動から「もう一つの世界をめざす」新しい社会運動に発展し、『社会の選択』をめざす課題を掲げるようになった。
ところで新自由主義的な市場原理による抑圧を強く受けている点では日本の若者も例外ではなく、フランスよりはるかに労働保護制が弱い日本では、若者の就業状況はフランス以上に深刻且つ過酷な状況を呈している。しかし日本の若者はなぜか正義感による抗議行動は起こさない。次記の一橋大学学生意識調査結果をみてみよう(2005年 281名対象うち女子101名)。詳細は加藤哲郎氏サイト参照されたし。
問2:日本社会は資本主義社会と言われますが、あなたはどういう社会を望みますか?
2005年 1999年
現体制 47 32
改良体制 53 66
社会主義 1 2
問8:会社でデートの約束がある時に残業を命じられたらどうしますか?
2005年 1999年 1993年 93生産性本部 85生産性本部 73生産性本部
デートを止めて仕事 65 61 62 67 77 69
残業を断ってデート 35 36 38 33
23 30
「デートを止めて仕事を選ぶ」という心理自体が、すでにパートナーに対する人格的裏切りに近いが、そういう意識は極端に低い。しかも明らかに現体制擁護派が増大し社会改良派が減少している、デートと仕事の関係では仕事優先が微増であるが、母集団から見て有意味かどうかは分からない。このデータのみでは日本とフランスの若者意識の差異を抽出はできないが、権利意識の後退と企業社会への統合の傾向がうかがえる。全体の若者意識動向は大学生よりもはるかに現状順応的だ。
国際人権規約(社会権規約)は高校と大学の無償教育の漸次的導入を規定しているが、世界で大学無償化を留保している国は、日本・マダガスカル・ルワンダの3国のみだ。国連社会権規約委員会は日本政府に批准を要求し、回答期限を2006年6月末日としている。これが日本の2006年問題だ。授業料無償化を実現している国は、高校授業料では米・英・仏・独・露で徴収している国は中国と日本であり、大学授業料では独・仏が実現し、英国は40%の学生が免除され、デンマークは無償で且つ月4万5千円の奨学金が支給される(文科省6カ国比較資料)。何か夢のような話ではないか。日本の国立大学授業料は来年も値上げされるらしい。授業料支払い不能で退学せざるを得ない私立高校生、アルバイトに明け暮れる大学生、単身家庭の子弟の大学入学はほとんど不可能だ。
私はフランスのように公然たる外的表出には至らない隠然たるルサンチマンの滞積を予感する。それとも・・・・? 日本の24歳までの若年失業率は8,5%、完全失業者の半数が34歳以下という若者にとっては悲劇的な社会となっている。彼らの人生の半分は平成大不況下で経過し、不況の押しつぶされた無力感が漂っている。不況が人為的につくられたものではなくあたかも自然現象のように映り、不安からの脱出口を求めて模索しているが、その出口の幻想は政府与党の改革イメージに取り込まれた。首都圏比例区での自民党支持した20−30歳代の63%は自民党を「革新」と評価し(毎日新聞9月13日)、大勢に流されているように見える。しかし20−30歳代の若者の主要な関心は、「老後の生活」63%、「財政赤字」58%、「減税」55%であり、「郵政民営化」は13%にしか過ぎなかった(政策過程研究機構調査)。時代閉塞の生きづらい現状にあって、自分を取り巻く社会の真実を見抜こうとする知性もまた成長していると信じたい。(2005/11/6
21:41)
[踊りの果てには地獄がある]
私たち、ただの市井に生きる庶民は政治に疎く世の流れに疎い。あの首相のように勢いのある単純な言葉で「断固、こうなのです。YESかNOか」と断定的に迫られると、ああそうなんだとつい頷きそうになる。騙されやすいのだ。彼の言葉の空疎な内実や雄弁のようで実は何も語っていないことに気づいても、時すでに遅しなんてことが往々に起こる。地域の実情を露ほども知らない大都会から発するかけ声に、まんまと踊らされて、その果てに味わう痛みに薄ら寒い想いを多くの人が抱き始めている。いつの世も市井に生きる市民はその人の良さを利用されて、献身的な自己犠牲を強いられてきた。”踊る”とは広辞苑によれば、@手・足を上げながら跳ね飛び上がるE人の意のままに行動するなど多義であるが、現状はEの意に近い。E→@になるとファッシズムかオカルトだ。まだ日本はそうなってはいない。「笛吹けど踊らず」とは孤独な予言者の歎きであるが、いずれにしろ他者指向型大勢順応の勢いに追随することでは本質的に同じだ。或いは不安の「影」に脅えて一方向へ突っ走っていくなかで一時的に不安を忘れるユング的な心理現象でもあろうか。私たちは「踊り」の果てに待ちかまえている予測のつかない闇を予感しながら毎日を送っている。
1942年に米ウエストバージニア州教育委員会は、国旗敬礼とすべての儀式への参加の義務を決め、拒否すれば不服従行為として退学と刑事処罰を科す条例を作った。バーネット家は信仰上の理由によって国旗敬礼を拒否し退学処分を受けた(バーネット事件)。1943年米連邦最高裁は州教育委員会規定は憲法違反であり、公的機関の統制から保護される知性と精神への侵犯とした。「意見を異にする自由は小さな問題に限られるものではなく、その本質は現在の秩序の核心に触れることに関しても意見を異にする権利である。そうでなければ自由は単なる幻影に過ぎない。この国における権威は世論によって支配されるのであり、世論が権威によって支配されるのではない」と判示した。アジア太平洋戦争で日本への復讐と精細を求める愛国心が最高潮に達していた時代の判決である。”踊り”の渦中にあるとき、人間はそのパトスに圧倒されて酔いしれるように自分を委ね、その波に洗われていく快感を味わう。その大団円が去った後に、祭りの後の虚脱が訪れ、少し冷静に周りを観察し始めても、そこに拡がっている荒涼たる風景はもはや取り返しが付かない不可逆的なものであることに気づいて打ちのめされる。自分で蒔いた種は自分で刈り採らなければならないーという行為の規準によって果てしない悔い改めの過程が始まる。こうして60数年が過ぎた。残念ながら悔い改めの行程を着実に歩んで二度とは繰り返さないという記念碑を築き上げた欧州の国もあるが、罪の歴史を覆い隠して薄ら笑いを浮かべて冷笑している恥ずべきアジアの国もある。一旦は許した被害国も2度目は決して許さないだろう。父祖の世代が犯した罪はダモクレスの剣のように次世代の頭上に垂下しているにもかかわらず。
悔い改めをせせら笑う極反動の言辞を垂れ流している地獄への使者を紹介しよう。それは実名を記すのも汚らわしい東京都知事である。彼は米戦略国際問題研究所での講演で無惨な国際感覚をさらけだして、「戦争は生命の消耗戦。生命に対する価値観が全くない中国は憂いもなしに戦争を始めることができる。中国は文革で3千万人が死に、大半は餓死だが同胞をたくさん殺して平然としているDNAは今も続いている。南京事件は蒋介石軍が最も多く人を殺し、日本軍は殺戮が行われたかもしれないが当時の装備で6週間で40万人も殺せるわけがない。私たちは冷戦期よりもはるかに危険度の高い緊張のなかに置かれている。米中の緊張が高まり戦火が拡大すると、生命を尊重する市民社会の価値観を持つ米国は勝てないと思う。中国に対して講ずべき有効な手段はマスプロダクションに頼る中国経済封じ込めだと思う」と惨めな対中認識を述べた。この人物は先日も「国連憲章なんてまだ金科玉条としている馬鹿がいる」がいると放言しているが、偏見に全身を汚染されているこうした人物に何を言ってもムダである。国連総会第3委員会・人種差別特別報告は「東京都知事の外国人差別発言に対して、日本の当局がはっきりした態度を打ち出すなど、人種差別と戦う政治的な意志が求められる」と述べた(11月7日)。この都知事は00年4月に「3国人、外国人が凶悪犯罪を繰り返し、大きな災害では騒擾事件すら想定される」等と関東大震災時の朝鮮人虐殺を肯定する発言をおこなった。彼が地獄へ堕ちることは明白であり、水に落ちた犬は鞭打たねばならない。彼は地獄への途をまっしぐらに歩む確信犯であり、彼のような行動をこそまさしく”踊り”というのだ。(2005/11/4
21:10)
[鳥インフルエンザとナノ粒子の不平衡グローバリゼーション]
鳥類がインフルエンザウイルスに感染して、ニワトリなどを死亡させる毒性の強い高病原性鳥インフルエンザ。H5N1型ウイルスは家畜と接触した人間への感染と発病が報告されている。人のウイルスエンザウイルスと混じって人間間の感染をもたらす新ウイリスの発生の危険がある。1918年から19年のスペイン風邪は鳥インフルエンザの突然変異で世界で数千万人の死者を出した。
東南アジアで62人が死亡し121件の感染例が報告されたH5N1型が欧州にも伝播し、WHOは死者500万人ー1億5千万人の予測を出した。犠牲はワクチンと抗ウイルス剤の薬品製造に関する知的所有権問題で入手できず被害の集中が予測される。ベトナムは03年以来5千万羽の家禽を殺処分している。水路が発達し放し飼いで移動し衛生管理ができていないメコンデルタに集中発生。8月から家禽へのワクチン接種を開始し、11月末までに2億6千万羽を目標としているがワクチン輸入が遅滞。人口の10%820万人の感染を想定して8200万カプセルが必要だが備蓄は60万カプセルに過ぎない。東南アジアの感染上は以下の通り。
ベトナム 感染91人 死亡41人
タイ 感染19人 死亡13人
インドネシア 感染7人 死亡4人
カンボジア 感染4人 死亡4人
アフリカでは10月のルーマニア・トルコでの発生ーロシア・カザフスタンの欧州東部の渡り鳥ルートから北・東アフリカ諸国への大量伝播の危険性(FAO)。中国では5月に青海省で渡り鳥6千羽が死亡、10月内モンゴルフフホト市、安薇省天長市、湖南省で感染報告。中国の家禽飼育数は150億羽で世界の5分の1.多くが農家副業で抑制困難。EUは英国で南米スリナムから輸入されたオウムからH5N1型が検出され販売目的のペット鳥全面輸入禁止。7月西シベリアで最初の感染。10月にトルコ、ルーマニア、クロアチアで感染して死亡した七面鳥、サギ、白鳥発見、ロシアで殺処分60万羽。全世界で鶏肉販売額急減。
アジア開発銀行は鳥インフルエンザの影響について、「97年のアジア通貨危機以降で最も深刻な事態になり、最悪で2969億ドル(34兆7千億円)の損失が発生する。日本を除いた9カ国地域を対象に、流行が1年続き人口の20%が感染し、アジア地域で300万人が死亡すると予測した場合、観光・サービス業・投資に深刻な影響が誘発され、需要で2827億ドル、GDOP成長率6.5ポイント引き下げ、香港とシンガポールはGDPそれぞれ17ポイント、22ポイント引き下げる大打撃を受ける。労働者の感染で供給で142億ドルの損害が出る。03年新型肺炎ウイルスSARSによる経済的打撃は180億ドル(2兆880億円)をはるかに超える」と発表した(3日)。
驚いたことにラムズフェルド米国防長官は鳥インフルエンザを利用して莫大な利益を挙げている。彼は米政府を動かして巨額の対策費を計上し、彼が元会長であり大株主である新興医薬メーカーの株価を急騰させて資産を膨らませた。抗ウイリス薬「タミフル」を96年に開発したギリアド・サイエンシズ(本社 カリフォルニア)は製造権をスイス医薬大手ロシュに供与し巨額の特許収入を得ている。ラムズフェルドは97年ー01年まで同社会長を務め、500万ー2500万ドル(6億ー30億円)相当の株式を保有している。米政府が治療薬備蓄に71億ドル(8300億円)を計上すると発表した瞬間に、株価は8%上昇し、ラムズフェルドの資産はたった2日で日本円で数億円膨らんだ。明らかに政権内でかれが操作した政治銘柄だ。
低公害最新エンジンに異変が生じている。デイーゼルエンジンの排ガスに含まれるナノサイズ超微細ナノ粒子が、肺の最深部に達し肺胞壁を瞬時に突破して血液循環に入る。妊娠中の女性が吸い込んだカーボンナノ粒子が母体から胎児に移り、胎児の脳や精巣の特定細胞に取り込まれて蓄積し、周囲の剤棒に変性を誘発する。ナノnとは10億分の1を示す単位で、電子部品と化粧品の新素材として使われている。1ナノbは1mの10億分の1、1oの100万分の1であり、直径1万4千qの地球に対しナノは1,4cmのビー球に等しい。デイーゼルエンジンの燃料(軽油)の高圧噴射で燃料効率を高めて排出される汚染粒子がナノ粒子となっている。黒煙に代わる目に見えないナノ粒子が放出される。通常は体内に入った微細な異物は、カムロファージ(掃除細胞)が捕食して排出するが、ナノ粒子は捕食能力の限界を超えて肺に侵入する。未来産業に指定されているナノテクノロジーがナノ粒子による生態破壊を誘発している可能性がある。
首都圏からはじまったデイーゼル排ガス規制は2年が経過したが果たして効果はあったのか。東京の飼い犬を解剖すると肺が肥大化して浮遊粒子状物質SPMの黒い粒子に覆われている。飼い犬は@飼い主とほぼ同環境で成育しA呼吸器構造が人と類似しB鼻の高さがベビーカーの子どもと同じであるから、子どもの呼吸器系に同じ異変が起こっていると考えて間違いない。児童喘息罹患率は10年前の2倍となって急増している。SPM基準値は73年基準のままで24時間平均と年平均のうち日本は年平均を採用しないまま今日に至っている。日本がEU水準の年平均基準値(1立方b0,04r)を導入すれば、現在の東京心肺疾患による死亡者7万9000人のうち690人の死亡を回避できるという研究結果がある(岡山大学医学部)。さらに日本の24時間平均値=0,1rをEU基準値=0,05rに抑えると年間220人の死亡を抑制できる。東京都の00年度SPM総排出量は1万3000トンであり、自動車走行によるデイーゼル排気微粒子SPMが1万710トンで全体の80%を占めている。SPMによる気管支喘息因果は00年の尼崎大気汚染公害判決で初めて認められた。この因果を証明した嵯峨井氏はマウスにSPMを気管内投与して喘息と同じ気道慢性炎症を確認し、さらにSPMとアレルゲン(アレルギーを誘発する物質)の両方を投与すると短期間に喘息症状があらわれた。日本政府は「12時間の交通量が4万台以上の幹線道路から50m以内の居住者」(東京地裁1次判決)のみの公害患者を認定し他は切り捨てた。EU基準を適用すれば明らかに国の立法不作為にあたる。ここにグローバリゼーションの著しい不衡平がある。日本自動車メーカーは国内ではデイーゼル排ガスを撒き散らしながら、欧米ではクリーンエンジンを搭載している。(2005/11/2
21:18)
[神の唯物論]
唯物論は神の存在や信仰を否定する無神論と同じように見られ、科学と理性の進歩によりそうした幻想は消滅すると考えられてきた。科学者たちもおなじようにみなしてきた。しかし現代の大脳生理学は神を志向するメカニズムが脳の働きにあり、宗教は幻想でも虚偽でもなく脳機能現象であるという「心の唯物論」が主張され始めた。V・S・ラマチャンドランは大脳側頭葉の辺縁系にてんかん(ニューロン発火の爆発的伝播)が起こると、エクスタシーやトランス状態(神懸かり)などの霊的体験を持ち、これが悟りの感覚を誘発するという。これは能の合理的思考からくるものではない。すべてのてんかん症状に辺縁系の異常性が見られるわけでもない。するとある種の超常体験は脳活動の状態であり、神の実在性とは無関係ということになる。
アンドリュー・ニューバーグは普通の人でも、辺縁系に電気刺激を加えると、幻覚、体外離脱感、既視感、錯覚などの神秘的意識現象が生み出されるとし。瞑想状態にある脳は上頭頂葉後部灰白質の方向定位連合野への感覚情報の流入が遮断され、自己と外界との関係を失うトランス状態に陥るトランス状態になる。このときに神との一体感や宇宙との合一感が生まれる。こうして外界の実在に関する認知と神秘体験の経験は、脳内メカニズムの存在論的な過程だと云うことになる。宗教意識は脳メカニズムの進化過程を示している。宗教が生命維持の効用を高めている。主要な信者の平均寿命は平均より高く、脳卒中や心臓病が少なく、免疫機能が良好で血圧は低く、薬物利用やアル中、離婚と自殺が平均値より低い。
人間の脳は、長い進化の過程を経て3層の発展を遂げている。肉体の生存や社会的行動に関わる爬虫類的脳でこの部分は感情には関与せず(攻撃・支配)、辺縁系が情動脳として社会的共同性をになう旧ほ乳類脳を形成し(平和・協同)、その外側に理性機能を持つ新皮質系の新ほ乳類脳という3層が形成された。この3層は三位一体であり、時に辺縁系における攪乱((協同と対立など)を解決する機能として宗教的意識のメカニズムが進化した。この調停機能を司る新皮質系は、情動的な右脳と知的な左脳が相互に情報を交換し合い依存するネットワーク構造を形成している。
脳神経の基盤は、6つの認識演算子(全体視、因果、抽象、二元化、量化、価値)の組み合わせで認識を生み出す。上下・内外・左右・前後・全無・先後・同時連続の時間と空間の形式は価値と結んで豊かな意識をつくり出す。内=善、外=悪、天国=上、地獄=下などなど。こうした対立の統合と解消の社会的統合物が神意識である。左脳の意識が右脳の全体的ゲシュタルト知覚にシフトするのが神である。神意識は人間の偶然性や限界性の知覚に対する制御機能であり、分裂した意識の統合化作用である。しかし神意識が真に分裂を統合するには、生活に体験化される集団的儀礼を生み出すことによって可能となる。太鼓や鐘、祈りなどの身体運動の反復が、交感神経と副交感神経を刺激し、大脳両半球が同時に起動し、集団との一体感や統一感が現実化される。神とは脳神経活動の統合化作用の外的対象化に他ならない。外的に対象化された存在が、崇拝行為を通して身体に働きかけ世界と自己の融合感が形成される。竹田一博氏論考参照(『唯物論研究年誌』10号)。
以上が現代の脳生理学による神意識の分析である。神意識がどのように脳機能のメカニズムのなかで生成してくるかがよく説明されている。しかしそれが脳機能を超えた超越的な実在という結論を導くときにニューロ・フィロソフイーの飛躍がある。自然や世界の外的実在の脳内反映としての実在性と同一視されているところに問題がある。かって世俗レベルでフィーバーした唯脳論に堕落する危険がある。脳が破壊された人にとって世界が実在しないとすれば、脳医学は必要ないと云うことになる。むしろ脳進化過程をより精細に解明し、文化と社会システムとの関連を解明することの方が、意味があるのではないか。(2005/11/2
7:17)
[アメイジング・グレースAmazing Graceは祈りの歌か]
驚くばかりの恵みーとも訳すのだろうか。私が最も好きなアメリカン・ポップスのひとつだ。てっきり黒人の祈りを歌うニグロスピルチャルだと思っていたが、そうではなかった。17世紀に新大陸へ植民した英国ピューリタンは、和声や対位法を駆使した音楽を華美として毛嫌いし、無伴奏、無和声を厳格に守り、徐々に重奏や掛け合いを含んだ自由で個性的な口語音楽(ヴァナキュラー・ミュージック)へと展開した。アメイジング・グレースは、強欲な英国奴隷証人であったニュートンが自分の奴隷船が難破を逃れたことを契機に悔い改めて、作詞した。それが普及した背景には、大規模な信仰復活運動があり、黒人の音楽表現を許したのは、奴隷の労働インセンテイブを喚起し、キリスト教への改宗を促進するねらいがあった。黒人たちも白人向けには西欧クラシック音楽を演奏し、黒人内部では陽気で自由奔放な演奏をした。アメイジング・グレイスは、白人が黒人を自文化に包摂するソフトな支配の荘重な調べであった。しかしそうした原初の意味は失われて、今や人類的祈りの財産となって、山古志村の災害記念式典でも独唱が響きわたった。実に音楽は、階級や人種、国境を越えて人の心をつかむ独自の力を持っていることが分かる。こうして伝統と革新は彩なす織物のように歴史のなかで紡がれていく。以上・奥田恵二『アメリカ音楽の誕生』(河出書房新社)参照。
折しも日本では、平成の大合併で地名が次々と変わり、ひらがな、方位付き、ブランド地名など百花繚乱である。栃木県喜連川町と氏家町が合併した「さくら市」は桜の名所を根拠にしているそうだが、そこには連綿と継承されてきた歴史と伝統に対する想いはなく、新奇性とアピール性のみが重視されるマネイジメントがある。空襲で瓦解したレンガを元から一つづつ積み上げて復元する気の遠くなるような欧州の都市では、歴史的地名の変更は破壊的行為として糾弾される。名古屋市南方のある町は「セントレア市」というネーミングで流石に否決されたが、ことほどさように日本の地域アイデンテイテイの軽さには驚くべきものがある。普通の市民たちが大まじめに未来への希望を託したネーミングは、悪意不在のピュアーな志に支えられているが、その文化感覚の軽さはもはや絶望的だ。ネーミングは善良な市民が民主的手続きで公然と大規模に歴史的地名を破壊していく。これはまさに、バーミヤンの大仏破壊よりも恐ろしいことではないか。以上・片岡正人『市町村合併で地名を殺すな』(洋泉社)参照。
こうした現代日本の意識構造の基礎には何があるのだろうか。ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)は敗戦と占領という極限状況に置かれた7年間に、天皇から指導者、企業家、帰還兵士、女性、学生、売春婦などなどあらゆる階層の占領軍に対するふるまいを詳細に解明し、日本人の思考と行動の特徴を鮮やかに浮き彫りにしている。ここに表出された日本人のふるまいは、当時の恥部をさらけだし現代日本にまで及ぶ行動様式の原点があるように思ってドキッとさせられる。あたかも、2,3,5,7,11・・・・という1と自分自身以外では割り切れない正の素数(自然数)があらゆる数字の元素になっているかのような行動の原点だ。私はこうした分析が日本人ではなく、アメリカ人研究者によってなされたことが哀しい。印象深い叙述を紹介しよう(一部筆者責で再編。*印は筆者コメント)。
崇高なる使命の出撃に命を賭けた特攻兵の生き残りも、敗戦と同時に物資の奪い合いを始め、将校から兵士に至る軍需物資の略奪が始まった。帰還兵にとって最もショックだったのは、苦労して帰国した自分を迎えるよそ者のような白眼視の視線だった。
放射線の傷跡を身体に負った被爆者や傷病兵、戦争孤児と浮浪児や戦争未亡人という最大の犠牲者たちが、まともな人でないとして冷遇され排除され人目に付かぬように隔離された。不幸に苦しんでいる人に気が向いたときだけ感傷的に親切になり、純粋な共感で接するという伝統は日本では決して強くなかった。(*これは米国のベトナム帰還兵でも同じであったが)
子どもの遊びは時代を測る尺度だ。戦時中は戦争ごっこに興じた子どもたちは、「ギブミーチョコレート!」という英語を最初に覚え、「闇市ごっこ」、「パンパン遊び」、「デモ遊び」、「ルンペンごっこ」、「泥棒ごっこ」、「買い出しごっこ」など嬉々として遊び、成長するとそれが自分の現実となった。
内務省は全国の警察管区に秘密電報を送り、占領軍専用の「慰安施設」を特設する命令を出した。副総理である公爵・近衛文麿は「日本の娘を守ってくれ」と警視総監に嘆願し、大蔵若手官僚・池田勇人は政府融資3000万円を前払いし、「1億円で純潔が守れるなら安いものだ」と云った。業者と集められた娘たちは皇居前に集合して「天皇陛下万歳!」と叫んだ。善良な日本女性を守るために、身を捧げる娘を外人に提供する政府の方法は、ハリスの妾であるお吉以来続き、45年の売春婦は「昭和の唐人お吉」と呼ばれて使命感を鼓吹された。この施設での値段は15円=1ドル(タバコの半値)という格安であったが、施設解散後女性は感謝状1枚をもらったのみであった。売春婦は白人を嫌って応募せず、普通の少女が応募したので自殺者が続出した。施設廃止後に、内務省は女性は売春婦になる権利があるという人権を認め、赤線が公認された。パンパンとは、南太平洋の現地語で、手に入る女性という意味である。
日本最初のストリップである額縁ヌードショーの発案者は、ゲーテ『ファウスト』の翻訳者であるドイツ文学者・秦豊吉であった。彼は慈悲の心から、短足の女性が踊るのは上品でないと考えた。初演は「ヴィーナスの誕生」である。
帝国日本のイデオロギーの心臓部にある発想は「新しさ」であり、常識的な説明とは違う。早く変わること、大勢に順応すること、状況に追随することである。
『きけ わだつみのこえ』は戦時期の軍国主義に危険なほど似ている。純粋な学生たちの死は、気高く罪はない。戦争に抵抗しなかったといって批判すべきではない。彼らは犠牲になったエリート学生であり、将来の日本の指導者になるはずの犠牲者であった。彼らが殺した人間の死は登場せず日本人以外の犠牲者は目に入らない、閉鎖的戦争観がある。
コンプレックスに苛まれている日本人は戦争に勝つと子供じみた蛮行を行い、負けると勝者に奴隷のように媚びへつらうーとマッカーサー元帥は云った。
山のように殺到するマッカーサーへの手紙を翻訳していると、日本人を軽蔑するようになった。日本人は風向きに応じて風見鶏のように方向を変える。
原爆が投下された長崎では、最初に到着したアメリカ人にプレゼントが用意され、住民たちは駐留米軍兵士と一緒になって「ミス原爆美人コンテスト」を開催した。多くの日本人はあたふたとアメリカ人を礼賛し、無邪気で浅薄な対応をおこなった。
日本国民統合の象徴天皇は、かっての家族国家を新しく言い換えたものに過ぎず、和合と上下関係の維持が、張りつめた争論や個人の尊重より価値あるものとされた。
日本降伏の前月からマッカーサー司令部の心理作戦部隊は、天皇と軍閥を切り離すくさび戦術を展開した。「天皇は東条の捕虜であり、戦争の責任は軍人にあり、日本の統治構造を変えるには天皇は役に立つ。日本人の目の前で天皇を卑しめるつもりはない」(マッカーサー)
マッカーサーとの会見に臨んだ裕仁は緊張し、不安げで震えていた。日本の皇室擁護派は宮中の優雅な娯楽行事に占領軍を招待し特に鴨猟がに嬉々として参加した。
人間宣言は、ヘンダーソンが原案をつくりそれをもとにブライスが仕上げ、マッカーサーが承認して宮中に回した。
全世界で高まる天皇退位論に対抗して平服での全国巡行が始まり、「ホーキ(箒)」と呼ばれる効果を上げた。
渡辺清『砕かれた神』(1977年) 渡辺は戦艦武蔵で奇跡的に生き残り村に帰った。軍隊の隠匿物資を持って帰らず肩身の狭い想いをした。彼は天皇が自殺すると考え、東条のへまな自殺未遂は嫌悪感を抱き、マッカーサーと天皇の写真に吐き気がした。なぜ天皇は恥ずかしいと思わないのか絶望した。彼にとってその日天皇は死んだ。先日まで聖戦を呼号した新聞は米国を褒め称え、政府は一億総懺悔を言い始めた。彼は激しい怒りで消耗し、皇居に火をつけお濠の松の木に天皇を逆さに吊し上げて樫の棒で打ち据えることを妄想し始めた。海の底に引きずりおろしてそこに横たわる死骸を見せてやりたいと思った。彼の村ではマッカーサーを新しい国王と呼び始めた。人々の移り気に彼はムカムカした。GHQが戦犯逮捕したときに、彼は日本人自身が裁判を始めるべきだと思った。天皇が靖国神社を参拝したとき、死者の霊魂がこの君主をどう出迎えたのかと考え、彼らは天皇を呪い殺しただろうと思った。
天皇がサイパン帰りの兵隊に「ほんとうにご苦労さん。今後もしっかりやってくれ。人間として立派な道に進むのだね」と云ったとき渡辺は絶望感に苛まれた。彼は天皇に手紙を書いた。天皇をアナタと呼び、海軍の給与明細と軍からもらった品のリストをつくり、合計金額428円05銭の為替を同封し最後にこう書いた。
「私は、これでアナタには何の借りもありません」
GHQ憲法草案に激しく反対する日本政府保守派は「天皇を守るためにはこれしかありませんよ」と言われてほんとうにその通りだと思った。
世界がドイツより日本が憎いと実感したのは、東京裁判で明らかとなった、独伊軍に捕虜になった英米兵の4%が死んだが、日本に捕虜になった米英軍の27%が死亡したことだった。
戦陣訓で生きて虜囚の辱めを受けずと軍人に訓諭した東条はすぐに自ら命を絶つべきだと広く考えられた。すぐに自決せよという手紙が殺到し、棺桶も送りつけられた。遅ればせながらようやく死ぬ気になった東条は、武士らしく刀を使わずまるで外国人のように銃を選び、おまけにヘマをしたことは愛国派の耐えられる限度を超えていた。彼は米兵の輸血を受けて混血児となったのだ。
マッカーサーが解任されて日本を離れるときに、蛍の光が流れ、学校は休校となって200万人が沿道で見送った。「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から掬い上げてくれた元帥、元帥!」(毎日新聞社説)と異常な興奮を見せた。しかし上院合同委員会で「欧米人、ドイツ人が45歳だとすれば、日本は12歳の子どもということです」と云う証言を聞いて、日本人は征服者にすり寄った自分たちの甘さを恥じた。
膨大な資料を駆使して占領期日本の実態を分析する本書は、米国知識人の目から見た日本観が濃厚にあるが、同時に日本人が意識的に消そうとしてきた恥部というものがえぐり出されている。確かにファッシズム期日本がいかに異常なシステムであり、国民がそれに包摂されて膨大な無意味な犠牲を強いられたかがよく分かる。しかもそうした神話が一夜明けると白人司令官に媚びへつらい、デモクラシーを宣揚し始める無理念なものであったかも、リアルに描かれて呆然たる想いがする。問題はこうした精神構造が現代まで連綿と生き続け、星条旗に跪いて弱肉強食の競争原理に巻き込まれてフィーバーしている現状は60年前とほとんど変わっていない。鋭く真実を見抜き、自らの頭で立つという文化はまだまだこれからのことだと痛感する。(2005/11/2
9:28)
[甲子園で暴動は起こらなかったーここに日本の未来モデルがある]
ロッテが阪神を完膚無きまでに叩きのめして4連勝で2005年日本シリーズを制した。阪神4連敗の最悪のシナリオはスタンドの阪神ファンの暴動であり、3戦までにすでに6人の阪神ファンが逮捕されていた。最後の打者が三振で倒れた瞬間に、予想通り阪神ファンから、「なにやっとんねん」という猛烈なヤジが起こり、無数のメガホンがグランドに投げ込まれ始めた。その時である。左翼スタンドのロッテ応援団から”レッツゴー タイガース レッツゴータイガース”というエールが阪神ファンに送られ始めた。驚いた阪神ファンに一瞬どよめきが拡がり、すぐに”レッツゴー マーリンズ”というぎこちないエールが返され始め、敗北の悔しさを押し隠した拍手が贈られた。この瞬間から球場の雰囲気は一変し、両者の交流が続き、阪神ファンのヤジは姿を消した。ロッテ応援団の敗者の健闘をたたえるエールも立派であるが、それに答えて矜持を示した阪神ファンも立派である。もしロッテ応援団がエールを送らなかったら、甲子園球場は無惨な修羅場と化し、阪神選手のバスは襲撃を受けたであろう。
ここにはプロ野球を超えた全力で闘い互いの健闘を称賛し合う勝敗を争う者のめざすべきフェアーな水準がみごとに現れたと思う。私ははじめて日本シリーズでロッテ応援団の応援風景を見たが、セリーグの鐘と太鼓の画一的な手拍子に辟易していた応援ではなく、サッカーに似たさわやかな身体動作を伴う声の応援であり、私は感心した。ロッテファンの応援マナーは、12球団で最も水準が高いといわれる。選手のミスにヤジを飛ばさず、相手選手のファインプレーに拍手を贈り、そのフェアーな爽やかさは抜きんでていると云われる。なぜロッテファンはこうしたレベルに達したのだろうか。ロッテは旧毎日時代の精彩を失い常敗球団に転落して川崎球場には観客の姿がない時代が続いた。7年前に18連敗のプロ野球記録を樹立したときに、少数の根強いロッテファンは、負け続けてもヤジや物を投げ入れることなく、うつむいて去る選手に「俺たちの誇り」という新たにつくった応援歌を歌って励まし続けた。選手もそんなファンを誇りにし、日本シリーズ向けに球団が作成したポスターには、「『俺たちの誇り』あなたたちは僕らをそう歌う。ファインプレーに熱く、つまらぬミスに厳しく鼓舞し続けてくれる。あなたたちこそ僕たちの誇りだ」というファンへのメッセージが書き込まれている。バレンタイン監督の選手を励まし、全員の団結で闘う指導理念もこうしたロッテ文化を創り出したに違いない。逆に阪神ファンの応援スタイルはファナテイックであり、甲子園での試合で勝った相手チームは襲撃を恐れてそそくさとに逃げるように球場を後にせざるを得なかった。しかし今回は違った。
私はこうした激励と連帯のモデルを社会全体に広げたいと思う。弱肉強食で人を蹴落として「我が亡き後に洪水は来たれ」という文化は、ごく少数の勝者と大多数の敗者を敵対させる動物的な世の中をつくり出す。保険金を払わない保険会社が現れ、投機マネーが会社を丸ごと買収し、自動車会社が一人勝ちしてほくそ笑み、障害者は自分のカネで生きろと言い、非正規労働者を酷使し、学校の成績を全国公表して競争を煽り、どこかに変な人はいないかと監視カメラで探しまくる社会は、年間3万人を超える自死を生み出す異常に歪んだ社会となった。たとえ競争による勝敗が決まっても互いの健闘をたたえ合い、再度のリベンジの機会を保障するようなシステムでこそ、人間は充実したさわやかな競争が可能なのではないか。
折しも自民党は結党50周年を記念する「新憲法草案」を最終決定した。憲法改正案ではなく新憲法草案であり、現憲法のマイナーチェインジではなく現憲法を否定する政治的クーデターである。格調ある気高いメッセージである前文はすべてスポイルされ、国家への忠誠を求める前近代的な絶対主義原理に切り替えられた。近代憲法とはほんらい国家・政府が勝手なことができないように、主権者である国民が国家・政府をしばり政府の国民に対する義務を課すものだが、驚いたことに国民の政府に対する義務を強要するアナクロニズムになっている。「国や社会を愛情と責任感を持って自ら支える」(前文)という個人の内面的価値の領域に国家が介入して徴兵制を想定し、「公の秩序に反しない自由の享受」(13条)として個人の自然権を超える価値を認め、第9条2項は米国政府(アーミテージ国防副長官)の要求に屈服して廃棄され、遂に自衛軍の設置と対米軍事協力を世界展開する恐るべき戦争国家を宣言するものとなった。「自由」と「権利」は「公の秩序」に服従する者のみに限定され、明治憲法の人権レベルに後退した。改正案の前文はまるで事務的な高校生の作文であり、パトスとエートスが喪われてしまった。公共の福祉は、公益及び公の秩序と言い換えられ、国民主権による主体的秩序形成から国家による秩序維持に転落し、9条3項は多国籍軍参加へ道を開き、緊急事態下の国民弾圧を可能とし、軍事裁判所の設置によって人権排除の道を開き、閣議決定なしの首相指揮監督権を認めて、戦争国家へと転換した。いま日本は希望のない社会でみんな自分のことを考えるのに精一杯で、青年は右傾化してモノローグに閉塞し、その間隙をついて突進する危うい国へと変容している。「日本の思想風土には、民衆が歴史を変えるといういうのははじめから不可能だとする非常に強いシニシズムがある」(池明観)という指摘がリアルに響いてくる。
自民改憲案のゴーストライターはアーミテージ国防副長官に他ならない。以下時系列で米国の改憲対日要求を見てみよう。
1949年 米統合参謀本部「日本の限定的軍備再編」(ロイヤル陸軍長官)
軍事的観点から日本の軍隊創設が望ましい。新しい憲法作成とポツダム宣言廃棄が必要だが今やるのは賢明ではない。
日本軍の組織化の媒体として警察権の拡大をおこない、将来の日本軍は米軍によって組織され初期の訓練を受け、厳格に
監督されなければならない。日本の再軍備を認める見地からの新憲法改定を探求する
2000年 米国防大学「対日特別報告」(アーミテージ国防副長官) 集団的自衛権容認のための9条改訂要求
2003年 米政府 イラク戦争での対日要求
「ブーツ・オン・グラウンド(地上部隊を出せ)
「茶会じゃあない。逃げるな」(アーミテージ国防副長官)
小泉首相 自民党憲法改定案作成指示
2005年 自民党憲法改定案決定
在日米軍再編中間報告「日米同盟 未来のための変革と再編」((日米共同による世界紛争介入)
同じ日にワシントンで開かれた日米安全保障協議委員会(2+2)中間報告は、日米同盟の「変革」として、米軍の先制攻撃世界戦略のグローバルな軍事協力と、自衛隊の米軍に対する「追加的かつ補完的な能力提供」を誓約し、日米共同司令部(共同統合運用調整所)の新設と基地共同使用を打ち出し、名実ともに自衛隊が米軍の従属的同盟軍として機能するものとした。米軍の世界的再編の一環として、アジア太平洋地域での中国と軍事衝突を想定した日米同盟へと大転換を果たした。米国防総省は日本で論議されている集団的自衛権論争と米軍基地再編について「馬鹿げている。憲法改正は始まりに過ぎない。気に入らない人々がいても驚かない。何かしようと思えば気に入らない人がいるのが世間だ。米軍再編は中間報告であるが事実上最終報告である」(ラムズフェルド)と言い放ち、日本政府はそれに媚びへつらう態度を示した。米兵が何人の日本人女性を強姦しようと、ヘリコプターが墜落しようと、自責の念はない。
こうした憲法改正草案と米軍再編下でおこなわれるプロ野球日本シリーズはどのような光景を呈するだろうか。おそらくロッテファンは勝利の虚栄に酔いしれ、阪神ファンに軽蔑と蔑視の視線を浴びせ、我が世の春を歌って敗者を徹底的にいたぶるであろう。奈落の底に沈んだ阪神ファンは敗北のトラウマを選手に発散して罵声を浴びせては暴行の限りを尽くすだろう。そして両者は互いに罵りあいながら、肩に銃剣を担いで戦場へ向かう行進の準備をするだろう。しかし最も悲劇的なことは、こうした阿鼻叫喚の醜い争いを、高みから冷酷にせせら笑って見下している権力が永田町に君臨していることだ。あたかもローマ皇帝・暴君ネロが、コロッセウムでライオンと奴隷を闘わせ、市民たちを昂奮させてパンとサーカスで民衆を支配したかのように。
ところが阪神ファンは、今回その地獄の光景の直前で踏みとどまった。それはロッテファンの胸を打つような真実のエールがあったからだ。私は信じることができる。日本国民の大多数は互いにエールを交換し合うロッテファンと阪神ファンのように共同し、決して人殺しを平気でおこなうような国を選ばないであろうことを。(2005/10/29
9:55)
[アフガニスタン選挙と日本の民主主義]
NNH・BSで「アフガニスタン・”民主化”選挙の1ヶ月」という番組を見た。米軍によってある意味では強要された民主主義の実験だ。20数年間の戦乱のなかで、イスラム軍事的原理主義は駆逐されたが、伝統的な長老会議ショーラが支配し文盲率90%に達する民度のなかで進行する選挙はまさに実験的意味を持つ。このルポはショルガラ地区という地域に立候補している元軍閥司令官と改革派男性技術者と女性候補3名に焦点を当て、その選挙戦を追跡している。18歳選挙権という日本より進んだ選挙資格であるが、この地区では有権者数10万人、うち有権者登録数6万人で実際に投票した人は3万人であった(実質投票率30%)。
改革派の技術者候補は、社会的基盤を持たず自分の研究所のメンバー中心に活動し、軍閥候補を激しく批判して自主的な判断による投票を呼びかけるが、途中で長老会議から辞退勧告を受ける。女性候補者は、印象的に上層市民的な感じであったが、女性対象の演説会が不可能で、長老会議の許可を取りながら細々と活動し、女性の社会進出と自立を訴える。屋外で絶対に男性と同席できない慣習で演説会に女性は来ない。彼女を助ける夫も地域から孤立しながら如何ともしがたい諦め気分だ。元軍閥司令官は長老会議の推薦を受け、飲食をふるまいながら、当選後のモスクの屋根の修理や井戸掘りを公約していく。長老会議も候補者に金銭を請求し、当選後の見返りを求める。選挙中に対立候補7人が殺害された。この地区は農村部であり、ショーラと呼ばれる長老会議と元軍閥司令官が結託して農民の投票行動を支配する。投票所は男女別々で、文字が分からないために顔写真で投票する。結果は、元軍閥司令官9000票台で当選、技術者2000票台落選、女性2000票台落選であった(この開票に不正があったかどうかは分からない)。それにしても女性候補の得票はすごいと思う。日本のフェミニストで自分の命を賭けて闘う女性はいない。
基本的に米軍占領下における演出された選挙であったかもしれないが、私はなにか原初的なデモクラシーの息吹のようなものを感じて胸が熱くなった。ある農民が、自分で栽培した作物を自分が食べられる時代がはじめて来たーと云っていたのが印象に残る。前近代的な封建遺制が支配するムラ共同体に明らかなゆらぎと変革の芽生えがあるように感じた。むしろシステム化された先進国の劇場型のお祭り選挙にはない真剣さを感じた。そこにはおそらく日本で初めて普通選挙が実施されたり、女性参政権が認められた選挙の時のような、戸惑いながらも希求する民衆のパッションのようなものがある。選挙の意味すら理解できず初歩から学んでいくなかでの投票率3割と、膨大な棄権を抱える日本の投票率3割の意味は決定的に違う。20年間の戦乱の果てに訪れた表面的な平和のなかで、自分たちの意志を反映できる歴史的な体験を初めてしている人たちに、素朴ではあるが熱い主権者意識の芽生えを感じたのだ。選挙そのものが銃に替えて自分の命を賭けた決戦なのだ。
選挙戦終盤で、すべては長老会議で決めるから一般村人は帰ってくれーと要求されたときに、敢然と長老を批判する候補者との論争が起こり、村民集会が混乱のうちに解散する情景は、かっての地主を批判する明治日本の姿そのものではないか。米軍による強要という決定的限界をもつ選挙ではあるが、その内実はアフガニスタン国民そのものが最終的に決めていくのだと改めて思う。選挙という近代民主主義制度がどのように土着的なイスラム世界に展開していくのか、まさに壮大な社会的実験だ。メデイアに煽られてアイドル選挙に頽廃している日本の選挙と、アフガニスタンの長老支配選挙にそれほどの質的な違いがあるだろうかーと考えると、日本の現状に暗澹たる思いがする。(2005/10/28
20:06)
[デイビス・レポート]
日本の市民団体が米環境研究所に依頼して作成された原子力艦船の炉心融解(メルトダウン)事故の場合の被害想定。熱出力10万キロワット(中規模原発に該当)で、船から4時間にわたって放射線が放出される場合に、米原子力安全委員会の商業用原発の事故想定を適用した場合、事故後1年間で7万7千人以上が死亡すると推定している。これは人里離れた原発立地を想定しているから、横須賀市という大都市と海洋汚染の被害については参考にならない。アメリカ海軍は原子力艦船事故の想定は一切しておらず、被害想定データも横須賀市に提供していない。市の原子力防災訓練にも電話訓練のみ参加している。ぶ厚いコンクリートで遮蔽されている原発をはるかに超える事故確率が原子力艦船にあるのもかかわらず。ニミッツ空母は横須賀に年100日以上は停泊することになる。
米軍が突然発表したニミッツ級原子力空母は、全長332,9m、幅40.84m、満載排水量10万トンという巨大空母で、2基の原子炉を使用し、搭載航空機85機、5500人が乗り込んでいる。放射能漏れの事故対策など整備する以前に事前連絡もなく発表された。日本が主権独立国家であり法治主義原理であるならば、原子炉設置基準による安全審査なしに米軍の決定に追随するならば、明らかな国家主権の侵害だ。米海軍は日本時間28日午前に発表し、ところが日本外相は「日本の平和と安全に寄与する。日本政府として評価する」とし、同時に米大使は「不完全な世界に住んでいるので、これから絶対に事故が起きないといういうことはできない。西太平洋の安保環境は最強の艦船の前方展開を必要とし、海軍と統合部隊の即応による高度な攻撃能力と作戦能力を発揮する」と話した。
28日午前7時過ぎに外相から横須賀市長の自宅に電話が入り、1分間の通告があり、市長は突然の話で対応はできなかった。神奈川県には外務省から基地対策か職員の携帯電話に連絡が入ったのみだ。前日の沖縄辺子野と同じく最も影響を受ける自治体は一切事前のアクセスはなく地域自治は蹂躙された。日本は原子力空母の恒久基地となり、東アジアの軍事情勢に決定的な転換を遂げ、中国や朝鮮との軍事緊張は最高度に高まることとなった。おそらく米軍は、中国・朝鮮との近未来の戦争をすでに不可避とするシナリオで戦略展開を推進している。日本政府は28日午前閣議で、外国からの武力攻撃とテロに備える国民保護法に基づき、「国民保護に関する基本指針」による中央省庁を含む指定行政機関28団体(放送局)の対応を規定したる「国民保護計画」を決定し、同時に全都道府県と指定公共機関の放送局が参加する同時多発テロの図上訓練をはじめて実施した。侵略とテロという名の戦争体制の整備が新しい段階を迎えた。
あきらかにブッシュ政権は東アジアでの先制攻撃を射程に収めた軍事作戦をすでに実践段階に移し始めたのではないか。なぜならブッシュ政権は、イラク戦後処理の無惨さと、ハリーケーン・カトリーナによる大混乱、側近グループの相次ぐスキャンダルで支持率が最低に下落し末期症状を呈してレームダック(死に体)状態に陥ったからだ。国内における矛盾を海外に転嫁せよーというのは政権存続の常套手段であり、海外に敵を作為的に作り出し戦争を含む緊張を演出することによって愛国心を政権に集中させるという手法は、頽廃した政権の残された唯一の手段であるからだ。(2005/10/28
19:18)
[欧州カーフリーデーにみる人間回復都市構想]
かって日本で繁華街の大通りを歩行者天国にする運動が繰り広げられ、私は身近なところで人間らしさを取り戻す文化を実感しましたが、単に買い物のための歩行者天国という限界はあっても、なにかウキウキとした楽しい気分になりました。最近は繁華街へとんと行かないのでまだ歩行者天国は続いているのかどうかよく知りません。9月22日は欧州カーフリーデー(2000年開始)で、毎年1千都市以上で同時に取り組まれ、日本でも5都市が参加しています。EUのプロジェクトであるモビリテイーウイーク(都市交通週間9月16−22日 2002年開始)は、自転車の日とか公共交通の日などのテーマを設定して、公共交通をすべて無料とし、文化施設を開放し、サイクリングやローラーが走り、馬車のパレードや馬で街を歩いたり、大道芸やモダンアートの展覧会など多彩な催しが繰り広げられます。その原点にはクルマ社会から人間回復への転換があります。
<ロンドンの場合>03年から市内に入る車から入場料を取るロードプライシング(渋滞税 8ポンド=1600円)を実施。ロンドン市内に車で行けるのは、バスとタクシー、金持ちのみになった(一般車締め出しに反対もある)。
<パリの場合>01年から「バスの廊下」事業開始。一般車のスペースを削減し公共交通と自転車にほぼ2車線を割り当て、道路空間の再配分をおこなっている。一般車道は激しい渋滞を起こすが、環境優先型交通政策として展開している。
<ブリュッセルの場合>カーフリーデーは市内全体がカーフリーゾーンとなり、地下鉄網全体が入る32kuが人と自転車に解放される。
財界グループのトップを自動車会社の社長が握り、政府が自動車販売しか気にしないような日本では、およそ想像を超えたとりくみだ。クールヴィズなんて小手先のパフォーマンスでお茶を濁して終わっている。いわんや自動車大国アメリカにおいておや。いま朝日新聞夕刊で「世界の貧困と闘う」というシリーズで海外で活動する日本のNGO活動を紹介している。日本のNGOはまだ脆弱で会費を払って支援する人は49万人で、国民260人に1人しかいない。NGOの当人は純粋な使命感で献身的にやっているが、少数派なるがゆえに使命感を他人に押しつけて現場に行かない人を見下す傾向がある。Tink
Globally Act Locallyが本物であるならば、世界の貧困は原因の一部が日本の多国籍企業の低賃金労働力利用にある本質的な問題になぜ触れないのだろうか。逆にNGOの一部は多国籍企業企業から寄付を仰いで免罪符を提供している。かって欧米帝国主義諸国がアジア・アフリカ・ラテンアメリカに進出するときに、前段階でキリスト教宣教師を派遣し、ボランテイア活動による植民地支配の露払いをおこなったと同じ構造がありはしないか。かく言う私もCRVをを駆って走らせているのが少々恥ずかしくなるが。欧州都市は70−80年代に都市問題が深刻化し、日本以上に中心市街地の空洞化が進んだが、EU統合による人間回復をめざす都市間競競争がクルマ中心社会の克服をもたらし街の賑わいがもどってきた。環境対応とともに都市再生運動として注目されている。街でマイカーを使わないIn
town without my carという社会啓蒙・都市交通イベントと車社会を再考する都市交通社会実験はEUの公式プロジェクトであり、日本のコーデイネイターは望月真一氏(都市設計研究所)が務めている。(2005/10/28 9:11)
[命名して病理化することで何か解決できたかー誇大自己症候群]
16歳の普通の少女が診察室にきた。彼女は灯油をまいて火をつけ家を全焼させた。少女は少し恥ずかしそうに答えた。
「出かけようとししたら、掃除が終わるまでだめだと母がいった。それで腹が立って」
「何か用事があったの?」
「デートの約束があったんです」
「火をつけてから、デートに行ったの?」
「ええ・・・・」」
その日彼女は、駅で待ち合わせた彼とデートを楽しんで、いつも通り夕方に家に戻ってきた。
「家はどうなっていた?」
「丸焼けでなにもなくなっていて・・・・」
「どう思った?」
「びっくりしました」
その不可解な行動に精神障害を疑われていたが、彼女はごく普通の少女であることが分かった。些細なことがきっかけでこうした取り返しのつかないことをするケースに対して「発達障害」や「解離性障害」という診断を下すが、最近は途方もないことをためらいもなくやってしまう普通の若者のケースが増えている。一体何が起こっているのだろうか。私は「誇大自己症候群」と命名する。岡田尊司『誇大自己症候群』(ちくま新書)参照。
この命名の背景には、いままでの犯罪者の精神鑑定が「人格障害」の観点からおこなわれてきたが、どう分析しても「障害」とは云えないケースが目立ってきた。佐世保小女児事件、首輪王子監禁事件、長崎駐車場事件など「ごく普通の」子どもが引き起こす事件は「人格障害」では説明できない。「全国に自分の名を知らしめて満足」「第2の宮崎勤、宅間守として世間に名前が残ればいい」と云った奈良女児誘拐殺人事件もそれに当てはまるかもしれない。小さい頃にはめちゃくちゃ可愛がられて育ち、成長して突如現実の厳しさを味わい傷ついた怒りが増幅する場合(溺愛・挫折型)、逆に愛情の欠落と剥奪のなかで自己否定感が蓄積し自己防衛行動の爆発が起こる。その共通点は、肥大化した自己愛と他者に対する共感や罪悪感の欠如である。その破壊行動の矛先は他者に対する攻撃か、自己に対する攻撃としての自己破壊に向かう。岡田氏によれば、こうした行動は従来の「人格障害」ではなく、普通の人格の行動機制であるとする。例えば、教育ママが自分の実現できなかった希望を我が子に身代わりとして強要するのも自己を過剰に投影した肥大化した自己愛であり、人格障害ではない。
岡田氏の主張の特徴は、こうした肥大自己症候群現象を新自由主義市場原理の弱肉強食によって生み出された「勝ち組」「負け組」という人間を優劣で二分化するシステムに求めるところにある。確かに「普通の」人格による凶悪犯罪は、米英両国に多発し、次いで日本に発生し始めていることをみると、統計的には根拠がある。つまり誇大自己症候群は、精神神経医学の概念というよりも、文化的・社会的な複合概念である。社会全体に誇大自己症候群が蔓延し始め、古代ローマ皇帝ネロからヒトラーを経てブッシュ大統領に至るまでこの病理に侵されている。現代はそれが全社会的に広がっているとするなら、あなたもわたしもこの症候群に陥る危険性は大いにあり、それとどうつきあうかという問題に直面していることになる。愛し合うのではなく、競争し合うシステムのもとでは、多くの人が自己愛を肥大化せざるを得なくなるからだ。
岡田氏の主張が正しいとすれば、こうした現象の克服は基本的に市場原理システムから社会的連帯システムへと切り替えていくしかない。ところが実態はどうだろうか。神戸の酒鬼薔薇事件を頂点とする凶悪少年犯罪を契機に、文科省は”こころの教育”をうちだして道徳補助教材『心のノート』を発行して全国に配布した。「日本国民としての価値意識の共有化」をめざして、4部構成のモラルをうちだした。<自分自身><他人とのかかわり><自然や崇高なものとのかかわり><集団や社会とのかかわり>というふうに。これは3番目と4番目が逆であり、普通は自分→他人→共同体→目に見えないものと同心円的に拡がるはずであるが、実は逆にしたところに意味があった。最後を<集団・社会>という”公”に献身する人間をめざしたのである。
さて『心のノート』は成功したか。多くの子どもたちが集団や社会に尽くす献身的な人間に育っていったか。むしろ困惑するような凶悪事件が増加の一途をたどっていった。なぜだろうか。国連が「過度に競争的な日本の教育」を批判しているように、一方では激しい競争を煽りながら(学テ成績主義)、他方で仲良くしようーと呼びかけている大人の虚偽はどこかで見抜かれているのだ。表面的には仲良くし、大声で君が代を歌いながら、子どもの隠れた地下の世界が陰湿に形成され、イジメが激化し小学低学年での学級崩壊が進んだ。子どもたちは大人の自己愛の肥大を全身に浴びて、塾やスポーツに励んでも、自分はほんとうに愛されているのではなく、大人の道具と化しているのではないかと薄々と感じている。
文科省『心のノート』の原理的な問題は、物事へのふるまいを心理主義で解決するところにある。世の中はリストラや倒産が吹き荒れ、若者がフリータに転落していくときに、心だけしっかりすれば何とかなるというのは幻想であり、自分の将来が中学時代にすでに見えてしまう現実にどうして希望を持てようか。こうして自己愛の肥大化としての攻撃と自己破壊はとめどなく螺旋状のきりもみ状態となって増えていった。漠たる不安はカッコイイ独裁への依存として、自己愛の肥大を代替する代償行為として、改革を叫ぶ首相への大量の投票行為となった。かなりやばいところにきていると思いませんか。それとも私の自己愛の肥大によるニヒルな杞憂でしょうか。私は、高齢者や障害者やこどもたち、マイノリテイに重心を移した社会的公正のシステムに切り替えていくなかでしか、誇大自己症候群は基本的になくならないと思います。自己を誇大化する条件と必要がもともとない存在しない社会にするしかないからです。それは人を優劣で分けるのではなく、それぞれのかけがえのない尊厳が大切にされる社会のことです。(2005/10/27
12:35)
[喧噪と宴の後には、ファッシズムの罠が用意されていた]
700兆円を超える世界史上最大の借金国家をつくった首相がなぜ選挙で圧勝したのか、フリーターやニートなど最悪の労働市場にあえぐ若者たちがなぜなだれを打って首相に投票したのか、いのちを生み出し育んでいる女性たちがなぜ戦争を推進する首相に「純ちゃーん!」と絶叫するのか、選挙のコミュニケーション戦術のパフォーマンスにわれ知らず飲み込まれたのか? 確かにそうだろうが、私たち自身の意識になにか大きな変容が起こっているような気がする。端的に云って、何か不安だけど考えるのはめんどくさい、自分がやばくなるような批判はやめておこう、正義や真実など真面目にやるのはアホらしいなどという意識がそこはかとなく広がりつつあるような気がする。朝日新聞社全国世論調査「TV視聴時間と投票」(22,23日実施)は次のような結果を示している。
○TV視聴時間 自民党投票(男 女) 民主党投票(男 女)
2時間以内 39% 40% 33% 18%
2−4時間 42% 45% 35% 22%
4時間以上 45% 49% 35% 23%
全体 42% 27%
○メデイアが特定候補者や選挙区ばかり取り上げているという印象を持ったか
持った50% 持たなかった41%
TV視聴時間が長い人ほど自民候補に投票し、視聴時間は高齢者と女性の方が長く、高齢者や女性の自民候補への投票が多いという結果が出ている。小泉圧勝の要員のひとつにメデイア効果があったことが分かる。メデイアは視聴率競争を競うから、選挙報道も商品化して刺激的な劇場報道になりやすい。郵政は是か非かという改革イメージを刺客という時代劇用語で演出したメデイア効果は明らかに投票行動に大きな影響を与えた。政権の政策評価と政策論争という本来の主権者行動がどこかへ吹っ飛んでしまった。米国大統領選挙型のコンサルテイング会社が広報戦略を主導する劇場型お祭り選挙の様相を呈した。その要諦は@単純な分かりやすいメッセージ(YESかNOかの二分法)A熱意を信じさせるパフォーマンス(刺客など)B好感を得る能力(ノーネクタイのカッコよさ)による幻想的期待感が雪だるま式の好循環をもたらした。自民党は総選挙に向けて「コミュニケーション戦略チーム」なるものを立ち上げ、「刺客候補」に「骨を埋めます」とか「嫁ぐつもりで」等と云わせるシナリオをつくり、意識的にTV出演をセットした。メデイアは自民党の広報戦略に載って無意識の世論誘導をおこなった。こうして沈滞する不安な気持ちを抱えた市民の一時の脱出を求める願望が首相への雪崩を打つ投票行動となった。
しかし宴の後に有権者が見たものはなにか? ニューオーリンズの大洪水に放置されてさまよう人々の姿に自分の将来を二重写しにし、給与所得増税や消費税アップの大増税、年金や社会保障と障害者の切り捨てなど生活基盤を奪う施策が次々と打ち出されている一方で、大企業は厚い減税を受け続けるという施策が次々と打ち出されてきた。選挙の時の言辞とえらい違うではないか? 痛みに耐えて我慢しなければ日本は終わりだというメッセージを信じた自分の投票はいったいなんだったのか?という素朴な疑惑が起こってくる。おかしなことに反対党であるはずの民主党が小泉路線に輪をかけた痛みの強要を国民に求め始めた。一体これは何なんだという幻滅を味わいつつある。首相の戦術の最大の特徴が、意識的に虚偽の敵を作為して、自らの失政への批判の矛先を転嫁するめくらましにあったということに気づき始めている。
上層での権力が肥大化するなかで出口がいっそう見えなくなった国民の間に、じつはもっと恐ろしい事態が進行しつつあるような気がする。「国民生活保護法」や「安全保護条例」、「青少年保護条例」などなど形式的正当性を持つ施策の裏で、実は自分が学び生活している地域や学園で、”変な人””おかしな人”を探し出す運動が街ぐるみでくり広がれ、お互いに監視し合い密告しあうシステムが擬似的な住民参加手法でつくり出されている。街にはシビック・エンゼルと称する市民自警団の車が行き交うようになり、東京の地下鉄の改札口には、顔識別監視カメラがセットされ、子どもたちはGMSシステムを組み込んだ制服を着て移動のすべてを警察に把握されている。これがいま目の前ですすんでいる事態だ。徐々に信じられるのは家族だけだ、君を守るために俺は戦うーという自閉的な安全への指向が生まれいる。これはまさにホッブス的な”万人は万人に対してオオカミである”自然状態ではないか。ジャングルの掟から抜け出すには強力な権力国家の統制しかないという19世紀型国家の再現だ。リストラと競争のトラウマにあえぐ市民は互いを監視しあう無限螺旋に陥りつつありはしないか。独裁によってしか安全は手に入らないという最悪のファッシズム国家に転落しようとしてはいないか。嬉々として安全運動に従事している町内会市民の顔は、生き生きとした使命感に輝いている。
不信で人を見始めると最初は少し胸が痛むが、じょじょに麻痺して不審が次第に快感に転化し、監視しあうことが喜びとなる。ちょっと待て、冷静に考えよう、どこかおかしくないかーと違和感を抱いても、すでに自分自身を浸蝕した不信の力で武装し整然と行進する体制には抗しがたい。なんだこれは!そうなんだ、いまから60年ほど前にそっくりの国家があったではないか。この究極の独裁国家をつくりだした指導者は次のように云った。
「大衆の受容能力は極めて少量で、理解力は弱く、忘却力は大きい。この事実からすべての効果的な宣伝は、要点をできるだけ絞り、スローガンのようにして反復しなければならない。大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮ではなく、むしろ感情的に自分の行動を決める。非常に単純で閉鎖的なものだ。そこには物事の差異を識別するのではなく、肯定か否か、正義か悪かだけが存在する」(アドルフ・ヒトラー『我が闘争』)
この民衆観を見事に実践したのが、「善と悪、アメリカにつくのか、テロリストにつくのか」(ブッシュ)と「改革に賛成か、反対か」(小泉)であり、「熱に浮かされたような演説に昂奮する人々の目は異様に強い光を放ち、戦争の開始とともに光は失われて戸惑いを見せ始め、敗戦で人々の目ははじめて現実を見始めた。あなた自身の瞳の奥にファッシズムが潜んでいる」(ミハイル・ロンム『野獣たちのバラード』)というかっての異常心理が忍び寄りつつある。考えることをやめて自分を誰かに預けてしまう心地よい安心と安全の果てに、荒涼たる焼け野原の風景が訪れた記憶を想起するにはどうすればいいのだろうか。今自分がいるその場所で、考えることを回復する拠点を営々とつくりだしていくこと、いわばヘゲモニーをしっかりとうちたてる陣地戦(グラムシ)の歴史をふたたび学習し直してみると、真実の姿がふたたび浮かび上がる。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必滅の理をあらわす
奢れる人も久しからず
ただ春の夜の夢の如し
猛き者も遂には滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ(平家物語 巻第一) (2005/10/26
9:08)
[シジフォスの神話 ラオスは200万発の不発弾を掘り続ける]
神の命令に逆らったシジフォスに下された罰は、山の頂上に石を運び上げ、転げ落ちた石をまた運び上げる永遠の運動を繰り返すというものだ。何の意味もない徒労でしかないこの作業をシジフォスは黙々と遂行していく。このシジフォスの行為を不条理とみるか、それとも人間の神に対する究極の存在証明と見るか、私たちが生きている不条理の世界を凝視しようとしたのが、カミュ『シジフォスの神話』だ。しかしいまもなおシジフォスの神話を生きている人たちがいる。
ベトナム戦争で米軍のB52爆撃機がラオスに投下した住民1人当たり1トンに達する総計200万トンの爆弾の大部分はクラスター爆弾(クラスターとはブドウの房を意味し親爆弾のなかに小さな小爆弾が無数にあって爆発時に飛び散って身体に食い込む)であり、その10−30%の200万発がまだ残されている。米軍はホーチミン・ルートを破壊するために、8分に1回という大規模な絨毯爆撃を加え、無数のクレーターが口を開けて不発弾が埋まっている。戦後30年で12000人以上が死傷し、年間200人が命を落とし、その半数は15歳以下の子どもたちだ。年間平均所得200ドルに満たない貧しい農民は、爆弾の破片を集めてくず鉄として売って生活費を稼いでいる。少年や少女がスコップを使って一生懸命に掘り出した破片は、仲買人を通じて鋳物工場に売られる。巨大な不発弾の赤錆びた背に乗って、シーソー遊びをしている子どもたちの表情は明るい。傍らには米軍の「レイン・ダンス」作戦(枯れ葉剤投下を含む絨毯爆撃)を受けた大仏が全身を朽ち果てさせて遠くを凝視している。僧院に運び込まれる爆弾の破片は、喜捨するお金がない村人が代わりに持ってきたものだ。
不発弾撤去に取り組むNGOは、掘り返す不発弾のあまりに多さに呆然とし、すべてを撤去するのは絶望的だとつぶやく。しかし絶望の淵を超えて黙々と続けなければならない作業だ。これが現代のシジフォスの神話だ。米軍という神がB52爆撃機という天使を地上に派遣してラオスに罰を下したのか。確かにラオスは北ベトナムを支援して米軍に逆らった。それが神に対する反逆だというのであれば、もはや現代の神は悪魔の化身だ。ラオスのシジフォスたちは、黙々と撤去作業を続ける行為を通して星条旗の悪魔を告発していく作業を数世代にわたって繰り返していく。よくみると星条旗をまとった神が戦後に下した罰は、すべて有色人種と非キリスト教の異教徒を対象としているではないか。星条旗をまとった神の肌は白く輝いているのだ。
その神が派遣する天使の米軍B52爆撃機はどこから飛び立ったのか。いうまでもなく沖縄嘉手納基地だ。この基地なしに米軍のベトナム戦争は遂行できなかった。逆にこの基地がなければ、ラオスのシジフォスの神話は大きく違ったものになっていた。この国もかっては天使の飛行機から原子兵器攻撃を受けて壊滅したが、いまやその神にひれ伏して僕となり、神の戦争の特需によって驚異的な高度成長を遂げた。黙々と作業を続けるラオスの少年少女の住む農村から離れて、都市近郊部には日本から進出した企業の工場群がフル稼働している。そこで働いている少年少女は、貧しい農村部から家族を養うためにやってきた。ひょっとしたら、私たち日本は、シジフォスに罰を下した神の国の共犯者となっておこぼれにあずかっているのではないか。よく見るとその手はラオスの人たちの鮮血で染まり、いくら洗っても洗っても落ちない鮮血がこびりついている。ラオスの少年少女はシジフォスの不条理を反復しながら、その瞳はジッと遠く私たちを凝視している。『DAYS
JAPAN』No11参照。(2005/10/25 9:09)
[今年も記憶にとどめるべき多くの人が逝った・・・・・そして日本は]
9月20日にサイモン・ウイーゼンタールは老衰でこの世を去った。享年96歳。彼は人生の前半を収容所で過ごし、後半はすべて「ナチ・ハンター」の仕事に捧げられた。1908年にウイーンで生まれ、41年にナチスに逮捕され10カ所を超える収容所生活を送り、銃殺を待つ囚人の列に3度並んで死を覚悟した。母を含む89人の親戚がナチスに殺された。解放後はウイーンを拠点に60年間にわたって1100人の元ナチを摘発し、裁判にかけた。その白眉はナチ親衛隊中佐アイヒマンをアルゼンチンで発見し、処刑にいたらしめた。その原点は、「虐殺の事実を信じる者は誰もいないだろう」とうそぶく元ナチ親衛隊将校の一言だ。「忘れると同じことがまた起こる。20年後、50年後、100年後に」。そして「アンネ・フランクの話は嘘だ」というオーストラリアの少年に、5年かけてアンネを逮捕した警察官を捜し出して少年に真実を証明した。ホロコースト犠牲者に非ユダヤ人や同性愛者を含めて米作家エリー・ウイーゼルと論争した。こうした罪に対するほとんど狂気に近い執念の追求を、私たち日本人は持たない。例えば近代日本の代表的作曲家・山田耕筰は、戦時期に国民精神総動員運動の先頭に立って、日本音楽家協会という翼賛団体をつくり、その会長として音楽家登録制による統制強化と軍国音楽活動の最前線を指揮した。彼は軍装、帯刀し将官待遇で従軍しながら、「満州国国家」「満州行進曲」「関東軍をねぎらう歌」「南京にあがる凱歌」「聖戦賛歌」など無数の作品をつくり、戦時歌の作曲は100曲を超えた。これがあの名曲「からたちの花」や「この道」を作曲した浪漫派と同人物とはとても思えない。もし彼がヒトラーの協力音楽家であれば戦後の音楽家生命は絶たれたであろう。戦後彼は「私は昭和天皇を尊敬していた。しかし天皇は敗戦責任をとって退位しなかった。私は大変失望した。だからなんで私に戦争責任があるんだ」と明言して作曲活動を再開した。すると他の作曲家も「山田耕筰に戦争責任がないんなら、私だって責任をとる必要はない」として現代日本音楽史の恥辱の歴史はスポイルされていった。例えば古関裕而、西条八十、林伊佐緒、服部良一、古賀政男等々。私はいままで「からたちの花」や「この道」をうっとりとなって聞いてきたが、今はこうした歌を何の問題意識もなく歌う歌手を軽蔑する。以上・佐々木光氏論考参照。
9月17日に巴金が植物状態でこの世を去った。彼は四川省の省都成都の大地主の息子に生まれ、19年の五・四運動でアナーキストとなって、『家』によって30年代文学の旗手となり、魯迅の深い信頼を得た。34年に来日したが、日中戦争開戦後日本の侵略に抵抗する市民を描く『寒夜』で、中国の欧化と革命、戦争による伝統的家社会の解体を深く掘り下げた。中華人民共和国成立後共産党の文化人粛清に協力し、文革期には紅衛兵にむち打たれ労働改造を強いられ、その渦中で愛する妻を失った。文革が終わった後、多くの知識人が自らを被害者として描くなかで、「私は加害者だ。一言の正論を吐く勇気もなく、恐怖に駆られて毛沢東に対する個人崇拝の塔を建て、遂には自らも滅亡の淵にのぞんだ」と告白して知識人の責任を問うた。89年の民主化と天安門事件では、文芸誌『収穫』によって言論の自由を掲げて鄭小平独裁に抵抗した。私たち日本人にこうした良心の証人は稀少だ。以上・藤井省三氏論考参照。
人間は所詮滅びるかもしれず、残されるものは虚無だけかもしれない。しかし抵抗しながら滅びようではないか。そして、そうなるのは正しいことではないとしようーセナンクール(仏 18cモラリスト)を引いて加藤周一は廃虚からの思想を問う。60年前の焼け野原の廃虚に立った日本人は、今まで信じてきた価値の喪失に茫然自失したか、解放された新たな自由の息吹を感じた。高度成長後にそれらはすべて失われた。多くの人は過去の経験を汲み出すことなく、新たな時代に順応していった。和を以て貴しとする伝統文化にはじめて亀裂をもたらした廃虚はどこかへ消えてしまった。しかし今六本木にきらびやかに輝いて聳える摩天楼の背後に、実は荒涼とひろがっている廃虚があるののではないか。我が家の窓から見える光り輝く高層ビル群は崩壊する直前の虚しい光ではないのか。巨大な無機質の高層物質は冷ややかに人間を遠ざけ、伸びやかな生存の語らいを奪い尽くして屹立している。街では精神の貴さは失われて、酔いどれた喧噪の渦のなかで反吐を吐く人々の群れが彷徨っている。21を数える新たな世紀が始まっているにもかかわらず、もはや世紀末のような頽廃の渦に巻かれてさまよう人間たちの毀誉褒貶がある。夕陽妄語とはまた云ってむべなるかな。
第1次大戦で爆弾で身体を吹き飛ばされ、四肢と顔面の半分を失い生ける屍として倉庫に保管されて15年間生きた青年がいる。身体は動かず、目も見えず、耳も聞こえず、顎と舌を失って喋ることもできないこの青年は、食物も経口摂取ではなくチューブで栄養補給されている。ただ意識だけは鮮明で、過去の記憶を頼りに回想を繰り返している。マスクをはずされたときに、一瞬浴びた太陽の暖かさで意識を呼び覚まし、看護師が皮膚に記すアルファベット”メリークリスマス”で初めて他者とのコミュニケーションを恢復する。彼は少し動く首でモールス信号を送りコミュニケーションに成功する。最初の言葉は「私をサーカスに売り飛ばして晒し者にするか、そうでなければすぐ殺してほしい」であった。ダルトン・トランボ(赤狩りで証言を拒否したハリウッドテンの一人)は映画『ジョニーは戦場に行った』(1971年)でこの実在の青年を取り上げ、戦争の悲哀を淡々と伝えた。私はいまでも数十年前に観た時の感動を想い起こすことができる。いま現代に生きている私たちは、あのベットに植物状態で横たわっているジョニー以上のコミュニケーションをはたして営んでいるだろうか。絶え間ない喧噪とさんざめく笑いの裏に横たわっている深い深い断絶の闇に気圧されて、束の間のコミュニケーションにドップリと浸って裂けていく不安を逃れようとしているのではないか。”この道はいつかきた道、あ〜アそうだよ お母さんと馬車で行ったよ”ーお母さんは子どもを馬車に乗せて戦場に見送ったのだ。いままた”いつかきた道”を歩み始める日本よ、ジョニーがいった戦場への道をお前はまた辿ろうとしているのか。(2005/10/24
19:40)
[沈没する東京ー「こころの東京革命」]
東京都は、治安担当副知事の指揮による緊急治安対策本部が新宿・渋谷・池袋の治安対策強化地域を対象に監視カメラと職務質問を強化してきたが、今年の8月1日に知事部局と生活文化局の一部を統合して、知事直轄の青少年・治安対策本部を発足させ、治安対策対象を青少年に集中し始めた。そのスローガンは「青少年健全育成と首都東京の治安再生をめざすこころの東京革命」となっている。「体感治安の低下」と「不良外国人」対策に集中していた警察権の強化が青少年に向け始められた。青少年育成条例を改正して保護者の監督責任を強化し、有害図書販売を規制し始めた。こころの東京革命推進協議会が結成され、「親と大人が責任をもって正義感と倫理観、思いやりの心を育み、人が生きていく上での当然の心得を伝える」さまざまの取り組みをおこなっている。たとえば「武道は日本の精神文化のよりどころであり、子どもたちが社会生活を営むうで必要なマナーやルール、他者を思いやる気持ちを育むヒントを提供する」というシンポ開催など。
こうした施策は戦時期の国民精神総動員運動をモデルに策定され推進されている。確かに目を覆うような退廃的出版物やメデイアが溢れ、青少年の一部がそれに巻き込まれているが、権力による強権的な規制や精神運動によって青少年の負の側面を消去することはできない。なぜなら彼らは力による統制と内面への侵入に原初的で本能的な反発行動機制をもっているからだ。現象的には、より外向的な凶暴化する行動か、内向的な自閉行動を誘発させ、成長のゆがみはますます深化するだろう。権力統制と反発行動が螺旋状に泥沼化し、米国型の無法地帯が出現するだろう。なによりも、家族のあり方や子どもの育ち方、心の内面という最も私的な生活の領域への権力介入が常態化し、萎縮効果が蔓延し、相互の監視と密告活動が激化する不安社会となる。恐ろしいのは犯罪とテロ対策を大義とする一元的な権力構造が完成することであり、犯罪とテロを逆に誘発する結果となる。こうして社会の存立基盤そのものが崩壊し、惨憺たる荒涼とした風景が広がる。東京革命とは明らかな権力による社会的反革命といえよう。もはや東京はいわば開発独裁国家になろうとしている。
日本はそれほど落ちぶれた頽廃国家ではなく、むしろG7では最も犯罪発生率の低い安定国家なのだ。米国・ニューヨークではもはや裏通りは歩けない、表通りも道路寄りを歩くと危険であり、地下鉄は犯罪の巣窟であり、災害時には警官も含めて暴行と略奪が横行する無法地帯と化し(ハリケーン・カロリーナ)、上層市民は要塞化した郊外高級住宅街に自らを隔離せざるを得ない。こうした銃で武装する米国モデルに依拠した治安対策は日本の文化土壌には適合しない。私たちがいま注目するのは欧州型の社会的連帯モデル(フィンランド、デンマークなど)に他ならない。若者の未来失望性を深める自己決定・自己責任の競争原理から日本を離脱させるシステム転換なしに頽廃現象は払拭されない。(2005/10/24
10:32)
[メルセデスの罠]
高級車の代名詞であるメルセデス・ベンツの名前は、100年前にオーストリアの富豪が36台まとめて注文するから、今後はすべての車に自分の愛娘の名前を付けるように製造元に注文し、11歳の少女の名であるメルセデスが商標登録されて現代に至っている。彼はマネーの力で世界的高級車の命名者となったのだ。マネーが権力となって徘徊する「メルセデスの罠」と筆者が命名する社会システムは富める者と貧しき者の分裂をもたらしたが、第1次大戦を経た社会主義革命を契機とするワイマール以降人間の尊厳を保障するユニバーサルな生存権パラダイムが普遍化してきた。しかし21世紀はなんと対極のアングロサクソン・モデル(米英)というメルセデスの罠がまたも世界を席巻して、日本もあっという間にその罠に飲み込まれていこうとしている。みんなそこそこ安定した「中流」日本はいまドラステイックな解体に翻弄され、『年収300万円時代を生き抜く経済学』等という本が売れまくっている(著者自身は流行評論家で巨額のマネーを稼いでいるが)。彼によると今後の日本は「上」15%、「中」45%、「下」40%の階級社会となるそうだ。怖いのは、下流40%は単に所得が低いだけではなく、働く意欲や学ぶ意欲など生きる意欲そのものが衰弱し、ダラダラその日を生きる姿になるという。下流の若者の3種の神器は、3P=パソコン+ページャー(携帯)+プレステであり、男はオタク系<ひきこもり>、女は<歌って踊る>憂さ晴らしのラテン系カーニバルに耽溺するという。彼らは大都市郊外の新興住宅街で成長し、都市中心部への参入機会を喪失して、親にパラサイトして郊外定住に追い込まれている。時々は渋谷等に出かけるが、それはあてどもなくブラブラすることに他ならない。こうした新たな都市近郊「ムラ」の若者が小泉自民党へ一斉に投票した。以上三浦展『下流社会』(光文社)参照。
同時に大都市中心部は、スラム街と単身者マンションと空中楼閣ビジネスビルと高度警備装置を備える高級住宅街に分裂する。段ボールハウスが繁華街に近接して群生し、廃棄物都市環境に寄生する路上生活者とコンビニや公共施設に寄生する単身サラリーマンの生活は構造的に近似してくる。段ボールハウスの工法は、テント型、小屋型、寝袋型、ツーバイフォー型、モノ構造体型、無セキツイ型、寮型、賃貸型、ルームシェア型等々絶えず変化する多様な形態に分化し、それは彼らの過酷な生活を忠実に反映している。自己決定・自己責任が貫く時代では、彼らはエリザベス救貧法の対象でしかなく、そこに生存権はもはやない。長嶋千聡『ダンボールハウス』(ポプラ社)参照。
こうした都市空間の変容は賽の河原に石を積むような徒労に似たスクラップ・アンド・ビルドであり、欧州のような数百年にわたる建築文化に埋め込まれた都市生活は雲散霧消する。ウイーンから地下鉄で30分にあるハイリゲンシュタットには、全長1kmを超える総戸数1400の巨大なアパートメントハウス「カール・マルクス・ホフ(邸宅)」(こうした名称が使われていること自体が驚きだ)が100年を超える歴史を刻んで赤茶色の壁が続く。第1次大戦敗戦による帝国の崩壊から首都に流入する労働者の集合住宅として建設され、労働者運動の中心となった「赤いウイーン」のシンボルであり、ウイーン新建築運動の指導者オットー・ワグナーの弟子であるカール・ケーンが設計した。共同の洗濯室、浴場、幼稚園、図書館、レストランがセットされ、中庭は行き届いた緑の庭園となっており、労働者のユートピアを実現している。赤いウイーン期にこうした集合住宅は6万5千戸建設された。この発想をタイムラグなしに日本に移入したのが、関東大震災後の同潤会住宅であり、共同食堂と浴場が整備されたが、数年前にあっという間に都市開発の波にのまれて壊されてしまった。いま日本政府は公共住宅を廃止して民間ビジネスに任せるという住宅政策の大転換を打ち出した。もはや上層15%の超高級住宅と中層45%のローン住宅があるのみで、下位40%の居住権は廃棄されるだろう。松葉一清(朝日新聞10月23日)参照。
スクラップアンドビルドは人間関係に及んで破壊的作用を生んでいる。安全網(セイフテイネット)という名の生存権は後退し、人間のスクラップの後にビルドがない荒涼たる人間界になろうとしている。階層化された縦のヒエラルヒーにもはや友情などという言葉は死語になった。意見と利害の一致がなく、善意や共感のないところに何で友情が成立するだろうか。友情は縦に細分化された階層内で擬似的に成立し、友人の有無が生活の質を左右する親しさの牢獄とも云うべき階層内に閉塞された利害実現型友情がかろうじて残るだろう。こうした擬似的友情は原初的には、「友だちとしゃべって盛り上がっていても、なにか虚しい」というつぶやきとなり、小学校で「友だちと仲良くケンカしないようにしよう。一人で寂しくいる子をなくそう」という表面的な賛同の渦となって教師の前に現れる。違いを見いだして互いに傷つくことを恐れる関係が幼少期から形成される。しかし裏の世界と目に見えない地下の世界では、他者と異なるふるまいをしている者に対して、隠然たる無視やイジメがおこなわれている。これは「友愛と温情に与るには政府の方針に従わなければならない。服従しなければ粛清される」というフランス・ジャコパン主義や旧ソ連のスターリン主義と本質的には同じ構造であり、今の日本はまさにソフトなスターリン主義社会になりつつある。互いに監視し、密告しあうソフトな収容所社会を小泉政権はつくりだしている。清水真木『友情を疑う』(中公新書)参照。
日本最初の憲法の第1条には「和を以て貴しと為す」と記されたが、これは実に恐ろしい言葉だ。人間関係のモラルを王が決定するという問題はおいても、誰一人自分のことは自分で決めるという自己定義の機会を保障されず、ただ「仲良きことは美しきかな」(武者小路実篤)という均一的な幸福の世界を権力が保障しますよーということなのだ。ただし王の仕草に合わせる限りにおいて。日本は世界で最も制服が大好きな制服天国だ。制服はみかけと本質(職業)が一致しているファッションであり、今流行のコスプレは現代的な制服着用運動に他ならない。新しがりやが大好きな日本は、次々と制服を変えて新たなファッション・イメージがつくりだされるが、そのモードの底にある本質は変わっていない。コスプレで多くの若者が靖国神社に参拝する。イメージはその語源のイミテーションではなく、本質や現実と遊離した独自の価値を持って浮遊し始め、いわゆる「カワイイ」という甘えの構造にどっぷりと漬かっている。現実の本質と全く乖離したイメージ操作で圧勝したのが小泉純一郎であるが、彼の幻想工場は意外と生産力が高くマーケッテイング戦略がすぐれている。ドナルド・リチー『イメージ・ファクトリー』(青土社)参照。
こうした時代に、穴の開いた堤防に腕を入れてオランダを守り抜いた少年が日本でも出現するだろうか。山手線で転落した人を救うために飛び降りて自分が死んだのは確か韓国青年だ。あの外国青年に対して日本政府は何らかの謝意を表したのであろうか。ナッシング! 「大変だ! 堤防に穴が開いて水が漏れているよ!」とか「線路に人が落ちているよ!」と少年が手を振って大声で騒いでも、聞こえぬふりと見て見ぬふりをして「ナニ?アレ?ぜんぜんわかんない。頭イカレてんじゃない」などと周囲に同調を求めている。いままさに700兆円を超える借金を抱えた日本は、ほっとけば堤防が決壊しようとしている。そのために弱い部分を先に破って水をそこから集中的に流し、他の堤防を助けようとしている。いったい誰が堤防を守る少年を助けに行くだろうか。誰が線路に落ちた人を助けようとする青年に手をさしのべるだろうか。そうした心象風景を藤井貞和は次のように歌っている。『神の子犬』(山田)参照。
ちからが足りなくて
なんにもできなく 3年 10年
わたしたちはただうたっている 階段室で 吹きさらしの
廊下で つらい時代が どんなにきみたちを捨てても
忘れられなく また立ち上がるからね
藤井氏の詠嘆は少数派であろうか。そうではない。世界と日本の乖離がこれほど恐ろしいほどに進んだのは珍しい。あらゆる権力に屈しない正義の味方というイメージは今や日本では冷笑の対象だ。しかし中東カタールのTVアルジャジーラ(アラビア語で「半島」)を見よ。私もBSで時々見るが、中東を中心にする戦争情報は迫真的だ。このTV局は、BBCがサウジ資本をスポンサーに始めたアラビア語放送が編集権問題で挫折したときに、カタールの首長が引き取って96年に発足した。カタールはいわば封建王政で米国との同盟で湾岸の権力政治を生きる王国であるが、多くのアラブ人はこのTVを通じて中東の真実に迫るチャンスを手に入れた。レバノン元首相暗殺に関する国連報告書の英語原文を、解説抜きでアラビア語同時通訳をつけて4時間にわたって読み上げるという画期的な画面を流したのだ。イラク戦争報道以降に日本では化石になってしまった月光仮面が中東を駆けめぐろうとしている。メルセデスの罠も時には味なことをやるもんだ。ヒュー・マイルズ『アルジャジーラ』(光文社)参照。
アルジャジーラは衛星放送であり全世界で中継可能であり、インターネット放送も展開している。イスラム圏もまたデジタル文化の渦に巻き込まれている。日本ではワープロやケータイの氾濫で手書きの文字や筆で字を書くという営為はもはや遺物と化したかのようだ。これが日本の精神性や社会性にどのような変容を呼び起こしているだろうか。書は、黒と白の対比の表現であるとともに、青銅器や石に刻んだり竹簡や紙に筆で触る筆触による表現だ。筆尖を通じて対象に力を加え、対象からの反発を受けて、ねじ伏せたり、折り合いをつけたり、微妙に震えたりすーっと逃げたりする。原初は秘儀的な甲骨文に始まり、諸王による自前の正書体の覇権闘争を経て、秦の始皇帝が焚書によって政治的に文字を統一する。しかし書は個人の精神的営為でもあるから、権力が確立した規範からの揺らぎや崩しが起こり、それが新たな規範となるのは革新的な技法と思想を持つ個人が出現するからに他ならない。楷書が軟書化していく唐以降の狂草や、空海が日本にもたらした雑書体もまたそうした革新的な書法であった。まっすぐにひく垂線は絶えず天を意識する宗教的感覚=何らかの理想への憧憬であり、デジタル文字が縦に垂線を引く営為を失わせてから、世の中全体に理想と自己を自省するチャンスは失われた。石川九楊『書 筆触の宇宙を読み解く』(中央公論新社)参照。
そうしてデジタル化した企業環境のなかでサラリーマンは、「上司より先に帰ったらだめですか」とか「気にくわない上司をしゃぶり尽くせ」、「話せぬ若手と聞けない上司」とか「人の上に立つ=有能という幻想を捨てよう」などとうそぶきながら、楽天とTBSに象徴されるような会社の激動期を生き抜いている。それはチェルノブイリから20年が過ぎてなお原発の安全設計を構築できないにもかかわらず、千年王国をめざす「原子力政策大綱」を閣議決定する日本の社会構造を象徴している。いま企業内研究者は約58万人(総務省 04年3月末)に達し、博士号を持った企業研究者が大量に存在している。青色発光ダイオード(中村修二)や田中耕一などノーベル賞受賞者という高水準の研究者がいるにもかかわらず、企業は国際競争を勝ち抜くための短期的で効率的な業績を求めて予算の選択と集中を強めている。休日も休まず、残業が月150時間を超えるような研究勤務を続けて開発した業績は会社の特許となり囲い込まれる。企業を飛び出したり、特許裁判に訴える研究者の反乱が続発している。
激烈な企業社会を煽りつつ、政府は他方で着々と軍事路線を突き進んでいる。戦時での死者を慰霊する準備段階として、首相は批判を無視して靖国神社参拝を強行した。中国や韓国の強硬な抗議によって東北アジアの国際関係は危機に瀕している。しかしその背後で進行している断絶の深さに愕然たらざるを得ない。「靖国問題はもう飽き飽きだ。ああ、やっちゃったという感じ。日本で反対の声があるのも知っているが、社説に書く意義はない」(韓国大手紙幹部)というつぶやきは、あきらめと脱力感のなかで、かってのような直情的な拒否反応を示すのが馬鹿馬鹿しくなったことを示している。倦怠感と歴史への総決算の義務感が交錯する冷ややかな視線が漂っている。真っ向からの激烈な批判が姿を消した背後には、日本に対する視線の決定的な変化がある。これほど云っても一切受けつけない日本に対して絶縁したいという離別の感情だ。このトラウマは深くて修復困難な傷だ。小泉首相は東アジアに外交次元を超えた決定的な人間的な裂け目をもたらした。日本のメルセデス首相は、もはや周りが見えない自己閉塞した人格喪失者になってしまった。これこそほんとうのメルセデスの罠だ。
日本の衰弱を象徴的に示したのが国際学力調査((PISA2003 04年12月公表)だ。日本はOECD加盟諸国で平均かそれ以下の位置を示し、逆にトップか上位をフィンランドが占めた。フィンランドの成功の要因は何だろうか。なによりも「現場への全権委任=学校自治権」であり、85年に教育の分権化を推進し国の学習指導要領を650頁から100頁に圧縮し、しかも拘束力のないガイドラインにした。カリキュラムはこの指導要領を参考に、自治体と学校が独自に編成する。ある小学校では、1週間の時間割に教科名がない×欄が週間授業時数の40%あり、教師が児童の理解状況を見て独自に教科を弾力的に編成する。教育委員会による査察制度は廃止され、全国学力テストも学年全体の全数調査ではなく抽出であり、結果は全国平均のみを公開し、学校をランク付けしない。条件が違う学校や困難子をランク付けする意味はなく、また学校間競争を避けるためだ。「ルク・スオミ(読み書きするフィンランド)」というプログラムは、全教科を通じて読解力をつけるために、大学資格試験に2本の必修小論文を課し、数学や理科も穴埋めではなく記述式の問題を中心とする。中学生は、月に1度は学校から図書館に行き、創造的な内容や論理的な文章を繰り返し書く。日本の文科省はフィンランドをモデルに権限委譲と読解力改善プログラムを策定中だが、確実に失敗するだろう。なぜならそれは、全国一斉全数学力調査の県別ランクとセットされ、東京都にみられるような学校名の公開をしたりする競争原理によっているからだ。日本では競争によるインセンテイブ神話が強固に残っている。さらに君が代斉唱の声量を学校ごとに調査して報告させるなど、およそ学校自治に背反する教育行政を展開しているからだ。原理的に北欧型福祉国家戦略をとるフィンランドは、社会的連帯と衡平をめざす生存権社会であり、子どもたちが敗者への転落に脅えることなく伸び伸びと自分の才能を追求できる。いつまでたっても他国にモデルを求めて右往左往する日本文科省の権力発想に革命的な変革がない限り、米国追随モデルが失敗したと同じような挫折をまた味わうだろう。その最大の犠牲者は教育政策に振りまわされて無意味な徒労を味わう教師と、2度とない学校生活の一回性を生きる子どもたちだ。日本文科省の最大の罪は、現場の教師を信頼していないところにあり、結果的に教師は上を気にして右顧左眄しそのトラウマの矛先を子供に向けて発散するという最悪の構造がつくられている。ここに変革のメスを入れない限り、日本の教育の再生はない。しかしもはや手遅れになりつつある。すべてはメルセデスの罠を断ち切ることができるかどうか、この一点にかかっている。東京都のミゼラブルな実態を見よ。本日は朝日新聞23日付け書評欄を中心に,「メルセデスの罠」という視点から独自に再編成して現代世界の諸相に迫ろうと試みました。(2005/10/23
14:21)
[漂流する芥川賞]
最近の芥川賞をみると、高校生や中学生が登場し、日常生活の極微の世界を繊細機微なタッチで描いて痛々しさを感じる。時代が激動して典型的状況における典型的人間の形象化なんてとっくに昔のことになってしまったようだ。時代のマクロを描くと絶対に受賞できない構図、或いはマクロと断絶したミクロを描く自己閉塞的な私的心象の自己暴露ともいえようか。長者番付に名前を連ねる有名流行作家が選考委員として君臨し、そうした文学の権力空間に服従しながら長い辛苦の修業期間を経て受賞に至るという既成のパラダイムは崩壊し、芸能人が受賞したり逆に作家が芸能人化したりする文学空間の境界が融解している。特に日本ではそうした傾向が著しい。欧州のように作家が逝去すると大統領が弔意を表したりするような社会的位置もとっくに失われている(もともともなかったか)。
作家が職業として自立すのはいつ頃からだろうか。文学が貴族階級の有閑文化であったり、ブルジョアの片手間であったり、パトロンの庇護下にあったのが、19世紀前半の商業出版によって打破されて自立した固有の職業となった。しかしすでにモリエールやラシーヌが活躍した17世紀古典主義時代に自立した文学が誕生したと云われる。メセーヌ(文芸庇護者)やクリエンテリズモ(有力者が恩恵と引き替えに配下に抱える)のもとでの文芸活動が、ジャーナリズムやサロン文化の隆盛で読者層が大量化して作家が誕生した。これは音楽や絵画の世界でもほぼ同じであったろう。フランスでは1600年から1700年にかけて、著作物は2.5倍となり、売上げの6−8%が印税として著者に支払われるようになったという。
現代日本の作家はほんとうに作家として自立しているのであろうか。確かにかっての芥川賞は、太宰治が必死に選考委員に嘆願して失敗したように、文学世界の独自のヒエラルヒー空間ができあがっており、新人作家は登竜門をめざして必死に修業したが、いまや意外性の華々しいデビューによるサクセスストリーが現れたり、或いは受賞自体を忌避する独自の作家活動も現れている。
しかしよくみると、貴族やブルジョアのパトロンに替わる新たな堕3権力の庇護下にあるのではないだろうか。それはマスメデイアや巨大出版社のマーケッテイングだ。そうした市場価値にフィットしない作家はデビューできず、デビューしてもすぐにつぶされていく実態がある。作家は形式的には自立した職業として営まれているが、内実はソフトな営業戦略に包摂されて、自らの心象よりも市場価値を優先する活動に頽廃してはいないだろうか。激烈な市場批判そのものが、実は反転して巨大な市場価値を持つというパラドックスも蔓延している。時代と正面から向き合う作家活動が真綿で首を絞められるように場所を失うようになってはいないか。アラン・ヴィアラ『作家の誕生』(藤原書店)参照。(2005/10/22 16:29)
[アフガン駐留米軍は、タリバン兵の遺体を焼却処分するのか!]
アフガン駐留米陸軍第173空挺旅団の兵士が、タリバン兵の遺体を焼却処分した。豪州SBSTVの映像では米兵が火をつけた遺体が燃え上がる様子が映し出されている。これがイスラム圏にとってどんなに神を冒涜する衝撃的な行為であるかは異教徒には想像もできないのであろう。イスラム教では、死者はアラーの最後の審判で蘇るとされており、土葬が一般的であり火葬は許されない。日本のような仏教圏は、水葬・火葬・土葬・林葬(鳥、風)など多様であり、日本は伝染病予防法による条令で火葬率が99%に達しているが、霊魂と遺体が分離する仏教観では遺体処理は多様な形態をとる。しかし霊魂と遺体が分離しないイスラム信仰では遺体の焼却は教義の否定行為なのである。それを異教徒の軍隊が遺体を蹂躙する背神的な焼却をおこなったのであるから、米軍に対するルサンチマンは想像を超えて深いだろう。
イラク収容所における捕虜虐待やアフガンでの遺体焼却という米軍の行為は、米軍に凝集されたアメリカの異文化理解がいかに浅薄であるかを示している。残念ながらアメリカは軍事的に世界を制覇する力量を持っているが、文化的にはキリスト教原理主義に自己閉塞している。多様な異文化とのコミュニケーション能力が欠落し、せいぜいハリウッド程度の水準にしかないのだ。
おりからユネスコ総会は各国の独自文化を維持・促進する「文化多様性条約」を可決し、各国は自国の文化を保護する主権的権利を認めた。採決内容は、日本を含む148カ国が賛成し、反対は米国・イスラエルの2カ国のみと言う米国の完全な孤立を浮き彫りにした。実態はハリウッド映画と米国音楽の世界市場攪乱に対する世界の危機感の反映にある。わたしもハリウッドの一部には賛嘆する映画もあり、ニグロ・スピルチャルやカントリーは大好きだが、資本攻勢による大宣伝をおこないながら海外市場を蹂躙する米系文化資本によって各国の独自文化が衰退の一途をたどっている現状を見逃すことはできない。生物多様性条約と同じで、弱肉強食の生存競争に委ねるならば生存力の強い種のみが生き残り、生態系バランスが崩壊して遂には生命全体の危機をもたらすように、文化の世界も商品化した市場競争に委ねるならば資本力の強い文化が他の文化を駆逐し、遂には文化全体を衰滅の危機に陥れる。火葬を許さない信仰を踏みにじってかってに焼却するという涜神的行為が横行するようになる。タリバン兵の遺体焼却は、米国のバンダリズム(野蛮主義)が文化侵略=文化帝国主義に堕しているかを象徴的に示している。(2005/10/22
7:16)
[我が祖国日本はいったいどこへ向かおうとしているのか]
私はいつから外国軍隊が日本にいることに麻痺してしまったのだろうか? 私の家の空をたまに戦闘機が飛んでも何の疑問も抱かなくなった。でもあの飛行機と24時間をともに生きている人がこの日本にはたくさんいるんだ。考えてみれば不思議ではないか。なぜ外国軍隊が平気で他国にいて我が物顔で空を飛んでいるなんて。それを思いやりと称してお金まで捧げている国があるなんて。かって啄木は「見よ飛行機の高く飛べるを」とリリックに歌いあげたが、いまあの飛行機はイラクの子どもたちの手足を奪い、大地に砲弾の雨を降らしているんだ。詠嘆の影で司令部は僕の予想をはるかに超える冷酷な作戦を着実に準備している。
核戦力緊急行動メッセージ(EAM)は核戦力のC2(指揮・官制)において使用される高度認証システム(2005年米統合参謀本部議長指令)であり、世界14地域に配置された短波地上通信局を結ぶ短波世界通信システム(HFGCS)網を最先端コンピュータ化制御技術であり、ホワイトハウスと核攻撃部隊を結び、地上局要員に依存せずにホワイトハウスからの遠隔操作で駆動する。短波通信システムはテロ攻撃で破壊されても、高価で復旧に時間を有する衛星通信に比べて効率性が優れている。このEAM近代化計画である「スコープ・コマンド計画」の対象に、米空軍所沢通信基地(横浜第374通信中隊)が含まれていることが明らかとなった。所沢基地は横田基地の送信機能を持ち、受信基地である大和田通信基地と一体運用されている。所沢基地は送信用アンテナが最新式に更新され、非常用電源の燃料タンクが新設された。明らかに横田・所沢・大和田基地は在日米軍核戦力の中枢指令機能を担う最重要基地となっている。ブッシュ大統領が発射ボタンを押せば日本列島から核攻撃がおこなわれる。
米国内にある米陸軍第1軍団司令部のキャンプ座間(神奈川県)への移転は、先制攻撃時に陸軍・海・空・海兵隊の統合部隊と多国籍軍を指揮命令する司令部であり、同時に陸上自衛隊中央即応集団の新設によって日米共同作戦の司令部ともなる。厚木基地に配備されている米空母艦載機部隊が岩国基地へ移転し、指令中枢は首都圏へ実戦部隊は沖縄・九州・中国という配置になった。普天間基地に替わるキャンプ・シュワブ海上基地(名護市)はジュゴンを絶滅に追い込み、米空軍が航空自衛隊機を共用する計画(新田原=宮崎、築城=福岡、鹿屋=鹿児島)など基地負担の全国展開がめざされている。以上の結論は、10月下旬の日米安全保障協議委員会(2プラス2 両国の防衛・外交閣僚で構成)でまとめられ、11月の日米首脳会談で最終決定される。こうしたアジアにおける米軍の再編成はひとり日本列島のみに集中している。フィリピンはすでに米軍基地撤去を実現させ、韓国も米軍基地縮小と司令兼独立を主張して米軍の縮小を進めている。日本政府は、こうした米軍再編計画の内容を関係自治体や住民に一切公表せず、合意に至ろうとしている。東アジアから見れば、日本列島は米軍の核攻撃戦略の最前線基地に映るだろう。
沖縄の米兵犯罪事件は、1995年の少女暴行を含む年間70件から、イラク戦争開戦時の2003年には112件に急増し、05年には小学女児に対する強制猥褻が再び起こっている。日米政府協議機関SACOは沖縄米軍基地11カ所の返還を打ち出したが、それは返還ではなく移設であることが明らかとなり、名護市辺古野計画は住民の強力な抵抗ですでに挫折した。「私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない平和な沖縄を返してください」(95年10月21日県民総決起集会)という沖縄女子高校生の悲痛な訴えは、残念ながら実現されていない。
推進派は東アジアにおける抑止力強化のためだと称して正当化するが、当の日米政府自身が日本列島を攻撃する可能性を持った仮想敵を挙げることはできない。今最も戦争の確率が高いのは、ブッシュ政権の核兵器を含む先制攻撃戦略による日本列島への報復にあるというのが常識だ。戦争の第1撃は必ず防衛を大義として先制的におこなわれてきたが、ブッシュ・ドクトリンは戦時国際法を否定した先制攻撃と予防戦争を採用するに至っている。1930年代の忍び寄る戦時体制の不安を覚える戦争体験者はもはや20%もいなくなってしまった。21世紀の初頭の東アジアの構図は、日米先制戦争か「東アジア共同の家」にはっきりと分岐してきた。
Once You Had Gold
What is the dark
Shadows around you
Why not take heart
In the new day
Ever and always
Always and ever
No−one can promise a dream come true
Time gave both darkness and dreams to you
朝露 キム・ミンギ作詞・作曲
長い夜を明かし 草の葉に宿った
真珠よりも美しい 朝露のように
私の心に 悲しみが宿ると
朝の丘に登り そっと微笑みを浮かべる
太陽は墓地の上に 赤く昇り
真昼のうだる暑さは わたしへの試練だろうか
わたしは行く あの荒れすさむ広野へ
悲しみを振り捨てて わたしは行く
(2005/10/21
11:32)
[インテリジェント・デザイン運動ー神を棚上げする新装の創造説]
インテリジェント・デザイン(知的計画=ID)論の創始は、19世紀初頭の英国教会神学者ウイリアム・ペイリーが、部品の偶然の絡み合いで時計ができることがないように、複雑な機能を備える脊椎動物もまた偶然に生まれたのではなく、複雑なデザインは創造者が存在していることを証明していると主張したところにある。現代のインテリジェント・デザイン論は、分子生物学理論を駆使しながら、ランダムな変異と自然選択というダーウイン進化論では説明できないデザインがあると主張する。インテリジェント・デザイン論は神の存在と創造の細部を意識的に回避して創造論内部の対立を棚上げする新機軸の創造論として全米で急速に支持を集めている。
かって1920年代の米国では、進化論を全面否定して聖書「創世記」の神による天地創造説(生物はすべて別個に創られて繁殖し、生物相互の類縁関係はなく、ヒトもヒトとして創造され今も変わらない)を公教育に採用する反生物進化論州法が制定され、1980年代には創造科学と進化論の授業時間数を同じにする均等化州法が制定されたが、いずれも合衆国憲法修正第1条(国教樹立の禁止)によって裁判で無効とされた。その後創造論者は、進化論の無神論性を攻撃し、信仰を否定する同性愛や人工中絶、安楽死などの無神論的行為を激しく糾弾した。こうして科学的装いをもったインテリジェント・デザイン運動がデザイナー抜きのデザイン論を強力に推進し、その推進団体であるデイスカバリー研究所が支持を拡大し、オハイオ、ニューメキシコ、ミネソタ各州で公教育に制度化され、いまカンザス州で生物の授業でITをを教えるカリキュラム改定案が教育委員会で承認され(6:4)、他方ではペンシルバニア州ドーバー地区では学校区委員選挙でID反対派が当選している。構図はID推進派=共和党、反対派=民主党と党派性を示している。日本でも東大はじめかなりの大学でシステム量子工学科にインテリジェント・デザイン研究が導入されている。なぜ米国のインテリジェント・デザイン運動は広範囲な支持を集めるのに成功したのだろうか。
第1に、保守派の潤沢な資金を進化論批判研究に投入し、科学論争を意識的に巻き起こした。
第2に、神による創造論争を回避し、「進化論VSデザイン」という限定的な対立軸で憲法判断を逃れたこと。
第3に、この対立軸を「信仰の否定VS信仰の調和」という対立軸と重ねて、信仰と科学が両立すると主張し、進化論を受容している中間派市民を巻き込むことに成功した。
第4に、論争がある場合には両論併記で教えるとする公平原理を訴えたこと。
要するにアメリカが伝統的に築き上げてきた、圧倒的多数のクリスチャンの存在と論争の公平性を重視する民主主義の伝統、公教育に納税者と保護者の意見を最大限尊重する風土、州と教育委員会の強い独立性等々のアメリカ文化の特徴を最大限に動員する戦略を採用したのだ。それは逆にアンチ・キリストのレッテルを貼られて社会的支持を失う研究は難しくなるという文化でもある(エイズ研究、ES細胞研究、クローン研究など)。以上・朝日新聞19日付け夕刊参照。
*米国宗教意識調査(オハイオ大 11月発表)
この世は神がつくったと信じる 54%
公立学校でIDを教えることに賛成 50%
しかし私はもう一つの理由があると思う。それはブッシュ政権の中枢をキリスト教原理主義(ファンダメンタリズム)が独占し、強力な政治的・社会的影響力を行使していることだ。ブッシュ大統領は「IDと進化論のいずれも教えるべきであり、そうすれば何が問題になっているか分かる」と発言し、フリスト共和党上院院内総務も同じ発言をしている。連邦最高裁判事の人事をめぐる軋轢は原理主義グループ(共和党右派)によって誘発され、イラク攻撃を「神の使命を受けた聖戦」と主張するブッシュ大統領に象徴されているように。私は宗教と信仰の最大限の自由を主張するが、公教育や公共世界で信仰の有無で人を判別することは、実はイエス自身が強く否定するところではないだろうか。(2005/10/19
17:30)
[ゲームと占いの氾濫する日本はいったいどこへ向かうのか]
占いや運勢番組が大流行で、「六星占術」女性占い師・細木某の活躍がすさまじい。なんの根拠もなしに断定的に「○○しなさい」と言い切って命令している。かって血液型占い番組の影響で特定の血液型の子どもがいっせいに学校でイジメに遭うという事態が起こり、民放放送倫理規定で「(53)迷信は肯定的に扱わない(54)占い、運勢判断及びこれに類するものは、断定したり、無理に信じさせたりするような取り扱いはしない」を遵守しようと自粛がおこなわれたが、いままたそんなことはどこ吹く風で視聴率を稼ぎまくっている。戦後第4次占いブームの到来といえようか。こうしたブームの背景には必ず時代の混迷による不安な社会心理の蔓延がある。いまは激しい競争原理で自分の将来がどうなるか分からない、どんなに努力しても先が見えている、いざとという時にどうすればいいのか分からない等々素朴な日常不安が占いに吸引され、ズバリという断定的結論に惹きつけられ、あるカタルシスや安心を味わうのであろうか。
占いの流行と同時にTVゲームが今や1兆円産業に成長しようとしている。特に戦争ゲームだ。世界初の戦争ゲームは、1958年にマンハッタン原爆製造計画に参加した米国物理学者ウイリアム・ビギンボーサムがつくった「テニス・フォー・ツー」であり、現在は米陸軍によるプロジェクトが「戦場で役立つ思考を重視」する戦争ゲームの開発を推進し、戦場シュミレーションによる訓練や新兵研修に用いられている。本質的にゲームは暴力性を内包している。日本の子どもたちは閉鎖した個室空間で熱狂的に戦争ゲームに熱中しているうちに、戦争そのものをゲームのようにとらえ、いのちに対するリアルな感情が麻痺していく。ただ現在のゲーム機購入層は20歳代がトップであり、こどもたちのゲーム離れが進んでいるとも云われる。こうしたゲーム離れを防ぎ、20歳代のかってゲームに熱中した世代を囲い込むために、より過激な暴力表現にエスカレートしている。しかしそうした傾向に抵抗する人もいる。堀井雄二(ドラゴンクエスト制作者)は、「もう殺し合いはいやだ」として冒険物に転換し、郷里・淡路島の風景をゲームに取り入れ、「戦争を止めるために僕らの世代が責任を負いたい」として戦争のむなしさを伝える「メタルギアソリッド」を開発している。しかしこうした傾向はメジャーな制作者だからできるのであって、これからゲーム業界に参入しようとしている新人プログラマーたちは争って過激な暴力ゲームの制作にいそしんでいる。こうした占いやゲームの大氾濫は日本社会にどのような影響を与えているだろうか。
1980年代以降から、リアルで真面目な冒険や決断やアンガジュマンを回避し、適度に楽しむ軽いバーチャル文化が隆盛を極めてきた。1980年代以降から、通勤電車でサラリーマンが漫画に熱中し、車内で平気で化粧する女性が現れ、ペースメーカなど無視して携帯メールに熱中する若者が現れた。最近は漫画家が文部省検定歴史教科書を執筆したり、将棋指しが東京都教育委員になって失言で天皇から叱責されても誰も批判しないおかしな事態が続出するようになった。虚(軽さ バーチャル)と真(真面目 リアル)の境界が危うくなり、「軽さ」が君臨し「真面目さ」をネクラとして嘲笑うようになった。人生そのものをゲーム感覚で過ごそうというスタイルだ。なにしろ本年度のノーベル経済学賞2名もゲーム理論による社会現象の解析であり、ゲームは学問から大衆文化に至る普遍現象となった。
小泉純一郎氏はみごとにこの世代感覚をつかんだ。総選挙の東京都比例区をみると、自民党は高齢層に加えて唯一20歳代の支持を得る政党になったことが分かる。若者はなぜ自民党に投票したのだろうか。彼らは小泉氏に象徴される党に投票したのであって、自民党に投票したのではない。彼は、政策を真面目に語るのではなく、あれかこれか単純化したワンフレーズで歌舞伎役者のように見得切りをおこなう「軽い」パフォーマンスに徹した。民主党の岡田氏は愚直に政策を語り、ネクラな「真面目さ」を演じたがゆえに嫌われた。こうして占いや運勢ブームの背景にある不安社会をつくり出した最高責任者本人に拍手喝采するという異様な投票行動が起こった。1970年代の文化人類学で藤岡喜愛氏(愛媛大)が、ロールシャッハテストを使って投票行動を分析し、投票者は政策というよりも自分の性格に似ている人に投票するという調査結果を発表したが、今次総選挙はまさにそれを証明するものとなった。
こうしたパラドックスを若者たちの責にして責めることはできない。熾烈な競争社会のただ中に放り込んで少年にしてすでに自分の将来が見えてしまい、伸び伸びと生きる空間を奪って弧室での過激な刺激に熱中させ、なにかを真面目にやれば味わう達成感よりも、「軽く」その日その日を適度に楽しく過ごせばいい、そして結局は強者の枠内で生きる安心に追い込んだのは、小泉氏と彼を取り巻く大人たちだ。理不尽なことに対する正当な抗議と抵抗を、ごく自然に街頭でのデモやストという行動で示すことができる欧米や韓国とは異なって、日本ではこうした自然な社会行動がとんと姿を消してしまった。そうしてほんとうに怖いことは、占いやゲームにのめり込んで軽いノリで楽しく過ごしている裏で、着実に進んでいる小泉劇場のリアルな事態であり、これが取り返しがつかない悲劇か喜劇となって若者たちに襲いかかることである。以上は野田正彰氏論考その他参照。(2005/10/19
10:05)
[野中広務&渡辺治◎対談から]
元自民党幹事長にして抵抗勢力の領袖であった野中広務元自民党衆院議員と左派政治学者である渡辺治一橋大教授の対談に興味を引かれた(『自治と分権』No21所収)。以下は野中氏のことばから、さわりを幾つか紹介する(筆者責による編集あり)。
小泉氏が3回目の総裁選で立候補した公約に、憲法改正と8月15日の靖国神社参拝をやると云ったとき、私は「アッこれで橋本龍太郎は負けた」と思った。憲法改正も靖国参拝も歴代首相が絶対に公約できなかったことを彼は云い、強力な基礎票をもつ日本遺族会をとりこんだ。小泉氏はだいたい五七五調で「改革なくして回復なし」とか「備えあれば憂いなし」とポンポンと言い、国民は鬱積したものがあるので異常な支持率が出てきた。アメリカに完全に支配され、アジアとの間に溝をつくり、取り返しのつかない大きな傷になった。私は米国招待を断り続けて最後には反米政治家みたいになっちゃった。我々が国会で委員会をやってると廊下で記者がドアの隙間から聞き耳を立てている。日本が常任理事国へ入りたい気持ちはあれで、聞き耳たてなくて中に入りたいんだ。自民党の派閥が生きていけない状態になったのは、国民にタバコ1個分だけ民主主義のコストを負担してもらうと云って三百数十億円の政党助成金を導入したことだった。外国人の地方参政権法案が通るという瞬間に、小沢さんが採決前に退席させてつぶした。私はいまだにあの人を信用できませんね。
小泉さんは見事なコピーライターですよ。「抵抗勢力」といい、「造反派」や「刺客」など見事なコピーでこの国はガタガタにされていった。改革派は、改革改革と云うが方向は何も定まっていない。ただナショナリズムは共通項でこれが怖い。自民党結党50年の新憲法草案なんてちゃんちゃらおかしい。あんな粗末なものをよく世に出したなと恥ずかしくなりますよ。戦争を知らない世代が7割5分近くになってきましたが、こんな国は世界でも日本だけだ。これがどれほど大事なものかよく考えてみたいわけです。
あれだけの犠牲を払った戦争で天皇に責任を求めないなら、誰かが責任をとらなければならない。昭和53年にA級戦犯を合祀してから天皇は靖国神社にお参りになっていません。サンフランシスコ条約を守っているのは天皇家ですよ。今の天皇は非常に気配りされていると思います。サイパン島にも慰霊に行かれ、愛知万博で行ったのは中国館だけですよ。大変気配りされて政権がやらないことを一生懸命やっておられる。天皇家がアジアでの日本の危機を一番真剣に考えていると思います。日の丸や君が代をオリンピックの旗や歌と考えている人も多いのです。私が提案して国旗国歌法をつくったことを後悔していません。
ペルシャ湾で米軍に給油している海上自衛隊員5000人で、日当3万円という莫大な経費を費やしている。サマワだって物をやっているばっかりで、あんなものは青年協力隊にやらせたほうがよっぽどいい。
2人の対談は、小泉政権の評価、政治改革、構造改革、憲法改正、民主党の評価、靖国問題、アジア外交など現代日本のほぼすべての領域をカバーしている。私が驚いたのは、憲法問題での護憲か論憲かと国旗国歌法の評価の2点で意見の違いがあるのみで、その他のテーマは小泉批判で一致していることだ。これは渡辺氏自身が最後のまとめで、ビックリしたと云っている。私は野中型保守主義を支持する基盤に興味を持った。おそらく小泉型パフォーマンスに違和感を持つ保守層がかなり根強く存在しているのではないかと思う。それは特定郵便局長会や利権と重なる層でもあるが、実は日本の伝統的なコミュニテイの生活に基盤を置いた一定の平和志向を持つ層が存在しているということでもある。「保守」が「改革」を怒号して革新派のようにイメチェンして支持を集めている裏に、実は小泉支持勢力の基盤が日本遺族会であるという点にパラドクシカルな政治状況のアクチュアリテイーを実感する対談であった。それにしても野中氏は権力の頂点に上り詰めて、一気に滑り落ちたわけで、権力闘争の非情をくぐり抜けた哀れを感じる人もいるだろうが、本人は天に誓って恥じざる自負を持っているのであろう。(2005/10/18
18:52)
[通りから毎朝大きな声であいさつする子どもの声が響く ”!”]
幼稚園の通園バスが我が家のそばに止まり、大きな声で”オハヨウゴザイマス!”というあいさつが響きわたります。私は元気な声を聞いておもわず頬がゆるむのですが、しかし"オハヨウ"に”ゴザイマス”が付いて、あまりにもよく揃って発声されているのでなにか訓練されているような違和感をおぼえることもあるのです。"オハヨウゴザイマス"の後半部分の”マ”が一斉に強調される子どもたちのアクセントです。どうもいま日本全国で、PTA・地域・企業が一体となった「あいさつ運動」がおこなわれているようです。とくに子どもの事件が多発している地域ほど熱心におこなわれ、「あいさつの街」とか「あいさつ日本一」とかいうキャッチフレーズで、街に「あいさつ通り」が設けられて決まった時間に大声であいさつする大運動が展開され、各家庭には「あいさつカレンダー」が配布されてチェックするというシステムをとっている地域もあるそうです。
よくみると何か子どもが受け身で指示されているような気がします。純情な子どもほど信頼するおとなの指示に従って、一生懸命にあいさつしている様子を見るとすこし胸が痛んできます。そればかりかデータをとって数値化した資料を作成し、それをもとに運動を推進しているやり方は、少し抵抗感が生まれてくるのです。どうも議会質問への答弁資料になっているようです。
戦時期の国民精神総動員法でも同じような大運動がおこなわれ、全国から東京の宮城方向に向かっての宮城遙拝がおこなわれ、直立不動のあいさつ運動がおこなわれました。まさかそのような戦争動員システムの再版だとは思いませんが本質的に似ているような傾向を感じます。
文科省調査によると、小学校の暴力行為が97年以降最多となり、長崎県では8・9月で遺書のない中高生の自殺が6件連続し、教師の早期退職と自殺が急増しています。文科省は危機管理と称してカウンセラーを派遣するシステムを導入していますが、現場では他人を蹴落とさないと生きられない業績競争が蔓延し、ゆったりと素朴に冗談を言い合うような雰囲気はなくなっているようです。いま生まれてくる赤ちゃんに、不機嫌な顔で笑わない赤ちゃんが急増していているそうです。赤ちゃんは母親の表情をそのまま自分の表情としますから、おそらく不機嫌で無表情な母親が増えているのでしょう。
他方で少年犯罪への死刑判決が相次ぎ、少年法の再改正による厳罰主義の方向が強化されています。少年院送致年齢の下限を廃止し小学生でさえ少年院に収容するそうです。一方ではあいさつの指示、他方では少年院というソフトとハードを組み合わせた方法で少年少女を封じ込めてしまうような恐怖を覚えます。ほんらいならのびのび溌剌と活発に動き回る少年期なしに、少年の成長はないと思うのですが。かって私は大人たちから「よく学び、よく遊べ」と云われて育ってきたような気がしますが、いま「よく遊べ」ということばをいうのがはばかられるような雰囲気です。「遊び」が個室のゲームでの孤独な行為になっていることがあるのでしょうか。或いは地域で自由に遊んでいると危険であるのでしょうか。全国の小学校でICチップがランドセルにセットされ、子どもの移動はすべて学校と警察が把握できるシステムが導入されているそうです。子どもが悪いのでしょうか。そういう環境をつくり出したのは大人なのでしょうか。もはや人を監視しなくては生きていけない社会になろうとしているのでしょうか。私は中小企業論や地域経済論を勉強していますが、自由で自発的な精神文化なしに、起業家精神は育まれません。どうも規制緩和と市場での自由競争をいいながら、他方で学園から地域と企業まで生活の管理と束縛が進む日本では、自由経済の基礎的な文化を抑圧しているような気がします。(2005/10/18
8:32)
[主は問うた 哀れな日本の首相よ クオ ヴァデイス?]
小泉首相は、見窄らしい背広姿で一般参拝者と同じく拝殿に向かい、一礼してポケットからさい銭を取り出し、30秒手を合わせて一礼し、献花も記帳もすることなくそそくさと靖国神社を後にした。あなたがほんとうに信念によって参拝するなら、国の最高責任者が礼装も献花も記帳もなく慰霊するという余りの非礼の行為に、「英霊」たちの魂は怨嗟の呻きをあげているだろう。「今回の参拝は邪心あるパフォーマンスに過ぎない。約束した8月15日に行くべきであった。『戦争によって心ならずも命を落とされた』という言葉は、自ら進んで戦場に行った将兵のこころが全く分かっていない。形だけの参拝など、むしろしてほしくない」(西尾幹二)という靖国派の怨念がむしろ真摯な批判に聞こえてくる。どこからみても右顧左眄しながら意地を通そうとする幼児的でマニアックなふるまいでしかなかった。あなたのふるまいは、左右いずれからも軽蔑と失笑を浴びている。しかしあなたの行為の客観的な代償は余りにも大きい傷跡を残した。
第1にあなたはなによりも靖国参拝は違憲であるという大阪高裁確定判決を無視して司法の最終判断に従わなかったことによって、あなたはすべての人に法と自分の見解が違った場合には、自分の考えを優先していいのだということを身をもって示した。あなたは、権力を握れば幾らでも法とルールを破ってもいいのだということを事実上宣言した。すべての人は法に従うという近代原理は実質的に崩壊の危機に瀕した。
第2にあなたは東アジアとの共同に取り返しのつかない致命的な決裂をもたらし、その修復のために今後莫大な犠牲を強いる結果をもたらした。あなたは、韓国ノムヒョン大統領との会談で無宗教の国立追悼施設建設を約束したのではなかったのか。あなたは「心のなかの問題に外国政府は干渉するな」と云ったが、それは首相職を辞して1私人に戻った場合に言える言葉ではないか。あたなの「私的行為」によって、東アジア諸国との決定的な亀裂と断絶が生まれたことに対する歴史的責任の感覚がない。私も今夏に中国社会科学院との共同研究を通じて、中国側の身にしみるような共同の意志を体感したが、あなたの行為はまさに傷に塩を塗り込むような痛苦をもたらした。戦後の血の滲むような努力で形成されてきた東アジア共同の流れを、一気に断ち切って歴史の歯車を逆転させることとなった。特に今まで一切発言を控えていた米国があなたの行為を批判し始めたところに大きな特徴がある。東アジアの現代史は、あなたの名前を屈辱の記憶として決して忘れることはないだろう。以下各国の反応を見てみよう(青字はもっとも注目される論調)。
「参拝したのは、歴史に対してなんの反省もなく良心がないからだ。小泉首相は天罰を受けるだろう」(イヒジャ韓国太平洋戦争被害者補償推進協議会代表 62歳)
「参拝の本質は非常に深刻で首相は自らの約束に背き中日関係の政治的基礎を破壊した。参拝は全中国人民に対する重大な挑戦だ。小泉首相は中日関係を破壊する歴史的責任を負わなければならない」(王毅駐日中国大使)
「日本の政治家は戦略的な見識を持つべきであり歴史に正確に対処すべきであり、そうでない人を受け入れることはできない。中国、韓国との関係が好転せず、冷却するのは日本は歴史問題にきちんと向き合わないからだ。こうした現状が続くのは日本にとっておおきな損失である」(中国国家統計局鄭京平報道官)
「A級戦犯を祀る靖国参拝は、日本国憲法が定める政教分離に反するのみならず、戦犯の罪に勝るとも劣らぬ罪に当たる。歴史の改竄は許されない」(マレーシア日本占領期殉難同胞作業委員会)
「世界の人は、小泉首相の度重なる靖国参拝を日本国民が許しているのではないかと懸念している。首相の靖国参拝は日本国民、ひいては日本という国の評価に関わる問題です。靖国神社を日本の宗教と思想の中心に据える靖国主義を首相は世界にアピールしているが、世界はこれを認めません」(シンガポール コラムニスト・黄彬華)
「東京の無意味な挑発 首相は日本軍国主義の最悪の伝統を公然と賛美する挙に出た。日本の戦争犯罪によって犠牲になった人々の子孫に対する計算ずくの侮辱だ。靖国神社とその附属博物館は朝鮮・中国・東南アジアに非情な爪痕を残した日本の暴挙を謝罪しようとしない見解を鼓吹している。神社の宮司と博物館は日本の戦争は西側列強からアジアを解放するためであり、第2次大戦は米国によって強要されたとの考えを強力に主張している。日本は誉れある21世紀を迎えられるよう、いまこそ20世紀の歴史に向かい合うべきだ」(ニューヨーク・タイムス10月18日付け)
「神道は日本軍がアジアの広範囲を侵略し植民地化した帝国日本時代の国家宗教であり、アジア解放を崇高な大義とし、日本の軍国主義を美化する博物館がある」(ロサンゼルス・タイムス)
「アジアは欧州の誤りを繰り返すのか 多くのアジア諸国は神社が日本の戦時期の残虐行為への謝罪拒否を示す象徴だと主張している。東アジア共同体の構築のために政府による和解と強調の行動が緊急に必要だ」(フィナンシャル・タイムス)
「聖なる血と世俗の争い 首相の靖国参拝は戦後60年に謝罪した外交の成果を台無しにした。靖国問題と反省の欠如が安否常任理事国入りという日本の野望を妨害する完全な口実を与えた。羽織、袴をやめて平服で参拝したのは、ナチスの制服を着てパーテイーに参加して世界から非難を浴びた英国のハリー王子の行いに匹敵する」(フィナンシャル・タイムス)
「遊就館を訪れて、日本は中国侵略や真珠湾攻撃を強要され、欧州植民地主義からアジアを解放するというもう一つの歴史観を知ったが、それは敗者によって書かれた歴史だ。ブッシュ政権が小泉首相の参拝を喜ばない理由は、日本が米国はもはや信頼できないとして米国なしで日本の再軍備を決意することである」(ロバート・ノバク ワシントンポスト紙寄稿)
「小泉首相の参拝は、戦後60年という戦後の節目に、自らの個人的心情を国益ー日本外交の利益の上に置くものだと志位共産党委員長は語った。小泉首相の態度は第2次大戦の正当化と賛美を象徴するものであり、彼の行為はアジアの人々の感情を無視するものである」(ワシントンポスト)
「アジア諸国の批判は歴史問題に懸念の根拠があることを理解している」(米国務省マコーミック報道官)
「小泉の危険な公約 小泉首相とその後継者は地域における日本の立場を心配すべきだ。戦没者に敬意を表し、国民に健全な愛国心を教える権利については異論はないが国内の支援者受けを狙った行動は国際的には高くつく。日本は孤立し、アジアでの指導的位置を失う。外国の感情に対する日本の無関心が領土問題などの妥協を困難にし、北朝鮮拉致問題・安保常任理事国への共感を期待できなくする。日本が地域で孤立すれば、日本は米国にさらに接近する。これは短期的には日米同盟を強めるが、長期的には危険だ。米国の日本支持が周辺国に『甘やかし』とみえる現実的リスクがある。靖国参拝がもたらす結果と、米国の国益に及ぼす影響に、米国の政策立案者は関心を払うべきだ。日本が地域の緊張を高めており、米国がそれを励ましているという非難さえ起きる」(米国際問題戦略研究所太平洋フォーラム研究部長ブラッド・グロッサーマン インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙)
「日本政府関係者が靖国参拝を続けていることを遺憾に思う。靖国神社はアジアを始め全世界に第2次大戦の未解決の歴史を象徴しており、太平洋戦争を引き起こした軍国主義の象徴だ。決定的な時期に歴史問題が再び提起され、域内各国の建設的な対話ができなくなるとすれば日米両国にとって利益にならない」(ハイド米下院外交委員長)
「小泉首相は国際社会の反対にもかかわらず、軍国主義の象徴である靖国神社を再び参拝するという無分別な行為を敢行した。日本の執権者の靖国神社参拝は周辺アジア諸国と国際社会の大きな抗議と糾弾を呼び起こしている」(朝鮮中央放送)
「首相の靖国参拝はかって東アジアを解放するといって戦争を超した日本帝国主義の傲慢さすら感じさせる」(ソウル新聞)
「苦労して積み上げた両国の連帯感が、こうした厚顔無恥の行動で一瞬にして敵対心に変わり得る」(中央日報)
「靖国参拝の裏面には平和憲法改定の動きや歴史教科書の歪曲にみられる日本社会の右傾化がある」(京郷新聞)
「小泉の祈りの計画、軍国主義復活で日本は近隣諸国を驚かせている。東京は第2次大戦で日本の侵略の犠牲者となった国々の考えを再び足蹴にした。靖国神社は、近隣諸国と多くの日本人にとって、過去の軍国主義の象徴で、現在は攻撃的なナショナリズムの精神的支柱となっている」(ブレーミヤ・ノボースチェイナ)
「小泉首相の靖国神社参拝は、侵略戦争をアジア解放戦争とする解釈を承認する行為だ。彼は、戦前の超国家主義の中心であった靖国神社の参拝を日本の拡張主義的過去の無罪化だという近隣諸国のことを考えたのか。近年ますます多くの政治家が帝国日本の侵略戦争を解放戦争だと正当化している現実を承認するものだ」(ル・モンド)
「日本は東アジアとの冷え切った関係を速やかに解決する必要がある。それは小泉首相の執務室の机に置かれた最後通告だ」(ベトナム青年紙・トウオイチャ)
{戦犯の亡霊を拝むことは日本の国内問題ではない 日本の軍事侵略で悲惨な目にあったアジア太平洋の人々にとって日本の首相が靖国神社に参拝するのは内政問題ではない。シンガポール陥落で80万人のうち7万人が日本軍によって虐殺された。日本が戦犯の美化に固執すれば被害を受けた隣国の人々が感情を傷つけられるのは当然だ」(シンガポール中国語聯合早報)
「靖国神社は、第2次大戦での日本の無罪を主張する書籍や南京虐殺はなかったとする書籍を多数販売している。土産物用の旧日本軍の帽子の複製をかぶって喜ぶ子どもや、神風特攻隊員の写真を見ると、欧州の枢軸国のドイツやイタリアではこんなことは不可能だ。しかし若い神官は、『彼ら(A級戦犯)の行ったことは世界の発展の一部』と説明した。中国と朝鮮にとり日本の首相の靖国参拝はドイツと違って日本が第2次大戦の罪を悔いていない証明とうつる。日本は自らの戦争の罪を、近隣諸国に謝罪しようとしない。政治指導者らは戦争犯罪人の魂への参拝を続けると約束している」(『ニューズウイーク』ロシア版 11月28日)
「日米安保強化や9条改憲の提案を私は歓迎するが、小泉首相の靖国参拝が引き起こした周辺国の激しい怒りにも注目したい。靖国神社を実際に訪問して驚いた。南京大虐殺を南京事変と展示し、この事件により南京市民は再び平和に暮らすことができたーと紹介している。これは侮辱的だ。小泉首相は任期中に戦時の歴史の誠実な清算をおこなうべきだ。これまで小泉首相の靖国参拝を擁護してきたが、より大きな外交的視点から参拝を中止して未来に向けて前進すべきだ。さらに3国の歴史学者が共同編集した『未来を開く歴史』を小泉首相が支持し、各学校に配布すべきだ」(『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』12月9日)
第3に靖国神社最大の年中行事である例大祭という、戦死者の武勲を讃え英霊の顕彰をおこなう儀式日に参拝した。この日は、戦前期には戊辰戦争官軍戦勝記念日や日露戦争陸軍凱旋艦兵式、海軍凱旋観艦式などの軍事記念日であり、同時に戦死者の新たな合祀をおこなう霊爾奉安祭ががおこなわれる。10月17日は1978年にA級戦犯を極秘裏に合祀した「清祓」の日という神社最大の儀式の日を選んであなたは参拝したのだ。
第4にあなたが熱心に推進しようとしている国連安保常任理事国への参加は、あなた自身の行為によってほぼ絶望的となった。あなたのいう「国際貢献」の可能性を自ら閉ざしたのだ。これはあなたに最大の責任があるが、適切なアドヴァイスができない外務省の責任も問われる。
第5になによりもあなたは正々堂々と参拝についての説明をせず、こそこそと隠れるように卑屈なふるまいを演じたことで、失笑と軽蔑を浴びる卑小な人格を暴露したことで国を総理する最低の資格がないことを自己証明した。いまあなたを支持しているのは、後継をねらって媚びへつらっている側近やチルドレンたちの取り巻きに過ぎない。あなたは選挙で圧勝し、世界と世の中をなめきって傲慢になっているのではないか。「靖国参拝は、憲法19条『思想および良心の自由はこれを侵してはならない』と憲法で保障されている。アジア諸国にはいずれ理解してもらえる」とは何という傲慢非礼な言葉であろうか。肉親や同胞を殺した戦争を「聖戦」と賛美する神社への拝礼を「思想良心の自由」と「理解」するとしたら、それは奴隷的屈従を強いるものではないか。憲法20条が「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」としてあなたの行為を否定していることを知らないのか。初歩的な憲法学習があなたには欠落している。日本の在京紙で靖国参拝を評価しているの産経のみで、毎日・日経・東京・朝日は批判し、読売は内外説明責任を求め、あなたは完全に孤立状態になった。さようなら小泉純一郎、あなたは一時のパフォーマンスで国家と国民を惑わし、国内では弱肉強食のジャングル社会をつくり、対外的には他国の尊厳を蹂躙して恥じない外交をおこなってきたが、それももはや歴史のひとつの悪しきエピソードに過ぎない。しかし修復のためにどれほどのエネルギーが要求されるかを考えると、あなたは東条英機に次ぐA級戦犯として後世の歴史教科書に記載されるだろう。(2005/10/17
20:20)
[タイガースの株式公開はプロ野球を活性化するか]
阪神電鉄の筆頭株主となった村上ファンドが阪神球団株の上場を提案した。株式市場で自由取引になれば、従来の内部閉鎖的経営が株主総会での決算書公開・長期計画による近代経営に移行する。しかしプロ球団は一般サービス商品とは異なる公共財性を持つから、球団売買による経営不安定を回避する安定株主が必須となる。安定株主とは球団を発展させようとするファンや企業株主に他ならない。民間企業がメセナとして経営する運動部とは本質的に異なる。プロスポーツの「商品」とは、勝負を争う緊迫感に満ちた「試合」そのものであり、その商品価値は勝負を超えた面白さである。その面白さを保障するのは、戦力の均衡的高度化である。戦力の均衡的高度化を保障するのは、球団経営の独立性(球団収入の均衡化と支出平準化)であり、その手段はドラフトの完全ウエーバー制やサラリーギャップ制(年俸制限)などの公共規定である。株式公開は、従来の親会社からの天下りによる場当たり経営とコミッショナーさえ把握できない収支の不透明性を打破するが、同時にいつ乗っ取られるかというリスクを抱え込む。
村上ファンドのような投資コンサルテイング企業が経営権を握ればどうなるか。村上ファンドは、1口10億円の金を集めて、それを元手に巨額の資金運用をおこなって利潤を挙げる。現在4000億円の資金(うち外資50% オイルマネーなど)を持ち、利回りは20−30%で資金提供者は運用をすべて村上ファンドに任せている。つまり村上ファンドは、株であれ球団であれTV局であれ投資先の経営よりも利潤をあがればサッサと引き上げるのである。村上氏はM&Aの前面に躍り出て、経営者に配当金を増やせと株主を煽って株価が高くなれば売り抜ける手法である。阪神電鉄株の買収は、話題を集めて株価をつり上げるねらいであり、阪神球団が上場すれば親会社である阪神電鉄に上場益が入り、電鉄株は上昇し村上ファンドは売り抜ければいいのである。
球団株の公開は1998年に大リーグ・インデアンスが1口15ドル(210円)で400万株を公開し、わずか1時間で売り切れ、公開による株価下落はあったが、オーナーは6000万ドル(84億円)の資金を集めたが、2年後に公開は廃止された。大リーグは1980年代に野球と無関係の投資家が球団を買いあさり、広報宣伝に利用し短期利益を追求して、莫大な年俸による選手集めや監督・選手の入れ替えをおこない、結果的に球団経営の悪化と入場料高騰というファンへの犠牲を強めた。その代表例がドジャースであり、いまやファンは純粋に野球が楽しめるマイナーリーグに向かい始めた。
村上ファンドに続いて、楽天のTBS株取得で横浜ベイスターズの身売りが浮上し、プロ野球球団という公共性を持つスポーツが株式市場の嵐に翻弄されている。親会社の前近代的な独裁的場当たり経営の失敗は巨人球団の惨状ですでに明らかとなり、球団経営の近代化が問われているが、私は村上ファンドや楽天のような投資コンサルテイングの市場攪乱に反対する。彼らは人の金を集めて(中味は外資系ハゲタカ資金)、M&A買収と売却を繰り返して巨額の利幅を稼ぐマネービジネスという虚業に他ならない。こうした虚業と公共財市場は本質的に敵対的性格を持っている。ファンを主体とする広島型市民球団が本来のふさわしいプロ野球球団の姿ではないだろうか。(2005/10/17
9:45)
[BERTOLTBRECHTベルトルト・ブレヒト「Kinderkreuzzug
1939子どもの十字軍」(パロル舎 2005年)]
1939年9月1日ドイツ国防軍はポーランド侵入を開始し、28日間の戦闘で占領し大ドイツ帝国構想によって南西ポーランドを併合した。第2次大戦の勃発である。100万人以上のポーランド人が追放されて放浪し、300万人のユダヤ人を含む1000万人以上が殺害された。これは5人に1人に上る人口比世界最大の被害である(ちなみに日本320万人、ドイツ600万人、ソ連1500−2000万人、アメリカ41万人)。ベルトルト・ブレヒトは1933年2月のドイツ国会放火事件に始まる左翼弾圧を逃れてスウエーデンに亡命し、悲劇のポーランドを詩に歌い上げた。以下はその抜粋である(一部筆者責による意訳)。
雪の降る東の町で
ひとはうわさをした
子どもの十字軍が
ポーランドに始まったと
5歳の子どもを連れた
11歳の女の子
母のすべてをもっていた
ただなかった 平和の国が
学校もあった
小さな書き方の教師
壊れた戦車の壁に 生徒はおぼえた
書くことを 平和の・・・・・平まで
愛もあった
12歳の彼女、15歳の彼
廃墟に庭先で
彼女は彼の髪をすいた
愛はつづかなかった
あまりの寒さがやってきた
雪がどっさりとふりつもって
どうして木は花をつけるか
信仰も希望もあった
肉とパンがなかったのだ
彼らが盗みをはたらいても 叱ってはいけない
彼らに宿を貸さなかった人々は
その年の1月 ポーランドで
つかまった一匹の犬
やつれた首に
紙の札をぶら下げて
助けて!と書いてあった
道に迷っています
55名です
この犬がそこへ案内します
もし来れないなら
追い払ってください
撃ち殺さないでください
彼だけが場所を知っています
子どもが書いた字だった
百姓たちはそれを読んだ
1年半前のこと
犬はすでに飢えて死んでいた
65年前に砲声と瓦礫のなかをさまよう子どもたちは自らの無力に打ちのめされながら、全き孤独の深淵をつなぎ合わせ、一人のリーダーのもとであてなき行進をはじめた。冷たい現実の辛酸を我が肌身に受けてなお希望を喪うことはなかった。彼らは学習し、合唱し、演奏し、恋をした。そこには生の最果てに追いつめられてなお生きようとするけなげなこころがある。おとなは支援の手をさしのべなかった・・・自分たちが生きぬくのに精一杯だったから。彼らの放浪はつづき、食糧が絶え、飢えの危機が迫って最後の望みを犬に託した。犬は村人に伝言を伝えて息絶えた。そして子どもたちは姿を消してしまった。あたかもハーメルンの笛吹男に連れ去られたかのように。
子どもたちはどこへ消えたのかーブレヒト「子どもの十字軍」を詠んで 荒木
國臣
子どもの十字軍はどこへ消えたのか
そうではない 子どもたちはいまもけなげに行進している
飢餓大陸アフリカの焼け付くような灼熱の太陽と砂嵐のなかをよろよろと歩いていく
大地に埋め込まれた地雷を掘り出してその日の糧を稼ぐために歩いていく
地下鉄の入り口に傅いて一枚のドル札を手にするために朝早くバラック小屋から歩いていく
銃口に脅えながら手をつないで凍てついた国境の河を越えようと歩いていく
ゴミ捨て場の噎せ返るような汚臭を吸いながら空き缶を集めるために歩いていく
子ども兵士となって敵を撃つカラシニコフ銃の訓練を受けるために歩いていく
親の生活を助けるために自分を買った人買いの後をとぼとぼと歩いていく
W杯の最高級の公式ボールを手づくりで編み上げるためにナイキの工場へ歩いていく
おとなたちは今度も支援の手をさしのべなかった
自分たちが生きぬくのに精一杯だったから
65年前と同じように子どもたちは姿を消そうとしている
あたかもハーメルンの笛吹男に連れ去られたかのように (2005/10/16 11:28)
[カレル・チャぺっクのロボットはすでに現代を予言していたのか!]
カレル・チャペック(1890−1938)はチェコの国民的作家で、「ロボット」(1920年)で世界的に知られる。「ロボット」の原語はチェコ語の「ロボタROBOTA(=苦役)」であり、命名は兄の画家ヨゼフ・チャぺックによる(兄ヨセフはナチスに逮捕されドイツの強制収容所で45年4月に死亡し、7千人の遺体とともに埋葬された)。ナチス台頭やスペイン市民戦争を背景に終始ファッシズムを告発し、8回ノーベル賞候補となったがナチスに遠慮した選考委員会が文学賞を与えなかった。現代のロボット王国である日本では、産業用ロボットの稼働台数35万台と全世界80万台の44%を占めている。原国チェコの稼働台数はわずかに1445台にすぎない。日産追分工場では、従業員3500人と800台のロボットが働き、溶接作業の92%はロボットが受け持つ。音楽とともに溶接ロボットが作業を始め、「標準以外のことが発生した場合には止める、呼ぶ、待つ」のプレートがあり、ラインの異常を瞬時に知らせる掲示板が置かれている。しかし組立工場ではラインのロボットによる自働化は逆に減り、50kg以上のコクピット部を運ぶ助力装置などの人間を補助する業務に変わりつつある。「標準以外のこと」を厳禁するということがロボットの本質だ。
チャペック「ロボット」のストーリーは、理性はあるが完成はないロボットが登場し、単なる作業用ではなく人間の行為を代替していく。ロボット兵士が戦争に動員され、人間の労働はすべてロボットに置き換わり、人間の出生率がゼロとなる世界だ。すると改良ロボットが人間に反抗し始め、ロボット製造を禁止したが逆にロボットはすべての人間を殺害する。唯一人残った人間が、製造法の解明のためにロボットの解剖を始める。捉えられたロボット2台が互いに相手の身代わりとなろうとし、愛が芽生えたことを知った人間は2台のロボットを祝福し送り出すーとうものだ。その時の会話は以下の通り。
ヘレナ 私、窓から飛び降りるわ! 貴方が解剖室へ行くなら窓から飛び降りる!
プリムス (彼女を押さえて)放さないよ! ご老人、2人のうちどちらも殺させないぞ。・・・・僕たちー僕たちはー体なんだから。
(以上 朝日新聞10月15日付け日曜版参照)
ヒューマノイドという人間型ロボットの2050年での完成をめざしてロボコップの開発競争が展開されているが、源流は「鉄腕アトム」という楽天的なロボット観にあり、百恵や聖子と名付けたロボットが工場で溶接作業を行っている。しかしチャペックのロボット観は、ナチス的ファッシズムと科学技術至上主義を鋭く批判する。機械の人工知能は無限に人間の領域に近づき、人間がロボットに合わせて自分の生活スタイルを決めなければならない時代をすでに予感していた。日本将棋連盟は、将棋ソフトがプロ棋士を破り始めたので、有段者のプロ棋士の将棋ソフトとの対戦を禁止する措置をとった。人工知能はかなり高度の判断水準の人間的思考のレベルに迫りつつある。人間の左脳(理性)の部分はかなり代替され、右脳(感情)の部分に介入しようとしている。創造的進化を遂げる人工頭脳のプログラムが開発される可能性はもはや夢物語の世界ではなくなった。ゲームの理論でプログラミングされたスーパーコンピュータが、すでに政治的決断や戦略的判断の領域に答えを出し、2人の学者がノーベル経済学賞を得た。イラクでは高度情報技術で操作された電子兵器が操られ、もはや戦場での殺害の一次元的感情を味わうことのない兵士が存在している。人間と機械の境界線が揺れ動き、機械が人間に接近し人間を操作するシーンが現出し始めた。ジョルダンの曲線定理はコンピュータが完全解を出して証明している。
こうした果てになお機械が代替できないような人間的本質の領域はあるだろうか。「標準以外のこと」が厳禁されるのがロボットの本質であるとしても、人間自身が「標準以外」の思考を自ら抑制し規制する社会をつくり出すならば、もはやロボットと変わるところがない。頭のてっぺんから詰め先まで規制された管理教育の横行、君が代の声量を測定する卒業式、密告しあう共謀罪の立法、街中に張りめぐらされた監視カメラ、ICチップを埋め込まれて移動をキャッチされる小学生・・・・例を挙げればきりがないチャペック型の人間のロボット化世界が蔓延し始めてはいないか。「標準以外のことが発生した場合には止める、呼ぶ、待つ」という標語は工場を出て、今や世の中全体に浸透しつつあるのではないか。しかし注目すべきはロボット最先端工場がロボットによる自働化を減らし、人間労働に戻しつつあることだ。ここに解の手がかりがありそうな気がする。(2005/10/15
19:35)
[日本はジョルダンの曲線定理を見事に証明する社会となった]
ジョルダンの曲線定理とは「平面上の綴じた曲線は、その平面を内と外の2つに分ける」というもので、綴じた曲線とは円や三角形などの図形を意味する。この定理の証明はけっこう難しく、フランスの数学者カミーユ・ジョルダン(1838年生まれ)が、1880年代に出版した『解析学教程第1巻』ではじめてこの定理を掲載して証明したが、その直感的証明は単純な多角形の場合を仮定しており、複雑な多角形や閉曲線での証明には欠陥があった。アレキサンダーの定理という位相幾何学を用いて証明できるが、そこには人間の直感的要素が入り込んでいるといわれる。ポーランドのアンジェイ・トリブレッツが1970年代に「ミザールMIZAR」というコンピュータ証明ソフトを開発して証明に挑んだ。そしてついに中村八束氏(信州大)とビアトリーク大(ポーランド)の共同研究で91年から14年間をかけて20万行に及ぶ膨大な論理の流れを確認し最後の証明を完成した。数学の証明は人の頭脳でしかできないが、直感による論理的な不明確性がある。今回の完成はコンピュータによって、そのギャップを埋める画期的な証明だといわれる。以上朝日新聞10月14日夕刊より。
いま日本社会はこのジョルダンの曲線定理に侵されている。改革か否か! 民営化か否か!というウチ・ソトの二元的曲線で裁断し、ウチでない者を徹底的に外部に排除しようとしている。その目に見えない社会的曲線はやっかいで、社会に生きる人間を翻弄する性質を持っている。外部の排除された者の多くは社会的弱者であり、障害者、高齢者、病者、下層サラリーマンなどが閉じた曲線の外部に排除されようとしている。この日本型ジョルダン曲線の社会は、ますます証明の必要がないほどに暴風のように吹き荒れている。その定理は毎年3万人を超える自死者が自らのいのちをもって証明している。閉じられた曲線の内部にいる者は、外部に排除された者の生き血を吸って我が世の春を謳歌しようとする恥ずべき野蛮なグループだ。彼らは機会の平等を踏みにじって恥じない競争原理の勝利者であるが、その全身から汚れた血を滴らせつつ世界を徘徊して、なにか金儲けはないかとヴェニスの商人のように肉1ポンドを求めている。外部に排除された者の一部は、奇怪なことに選挙の時に内部の勝者に投票し、「蜘蛛の糸」のように他者を蹴落として、自分だけは内部に潜り込もうという浅ましい姿を晒し始めた。しかしそれは所詮かなわぬ、はかない努力に過ぎない。それを自分自身が心底からよく知っているからこそ、なお手をつなぐべき他者を蹴落として自分だけは生き残ろうとする「恐怖の報酬」の罠に嵌りこんでいる。
要するに数学的分野で成立するジョルダンの定理を社会現象に持ち込んではならないのだ。ジョルダンの閉じられた曲線は、社会現象では「ガラスの天井」となって、階層の境界線を閉ざしているので、ウチとソトの自由移動が個人的な才能と努力で可能になるのではないかと錯覚させる摩訶不思議な幻影のちからを持っているのだ。社会からジョルダンの定義を追放しようーと呼びかける少数者は、異端として排除され沈黙を強いられているかのようだ。平面上の閉じた曲線は実は嘘で、よくみると垂直的に編成された貨幣と権力の縦に伸びる曲線がウチとソト(実はウエとシタ)を分けているのが、社会的ジョルダン曲線の世界なのだ。そして徐々に垂直曲線上の移動可能性は閉塞し、遮断されて固定化していく傾向にある。こうした垂直的ジョルダン曲線そのものに直感的な嫌悪を覚えて、そこから飛び出して異次元の空間を無意識に模索しているのが、いわゆるニートという若者たちに他ならない。彼らはまさに直感的に社会的ジョルダン曲線が本来の人間的な関係を裂くということを知っている。
財団法人運輸政策研究機構(国交省、東京メトロ、日本民営鉄道協会、警察庁など参加)が06年4月から数ヶ月間かけて東京の地下鉄で顔認証システムの実証実験を行う。システムは米国IT企業とNTTコムが共同開発したもので、改札口に監視カメラがセットされ、客一人一人の顔写真を撮影し、登録してあるデータベースと照合して合致する客が見つかったら警報で警備員を呼ぶというものであり、千人程度のデータベースとの照合は1秒以内で終わる。実験では誤認率を検証する。すでにサッカーW杯開催時に成田・関西空港の税関に導入されている。米国都市圏交通局は今年の8月にカメラ・センサー4千台を設置し、同じ場所を不必要に歩き回る不審行動者を登録し該当人物がカメラに写ると警報が鳴るシステムをセットしている。同じ装置は全米鉄道旅客公社(アムトラック)の駅にも導入されている。テロが誘発される要因をつくっている側がテロ防止のために、こうしたプライバシー権侵害のシステムを安易に導入する神経構造に日本は頽落してしまった。わたし視る人・あなた視られる人という視線のジョルダン曲線であり、一望監視社会(フーコー)の完成だ。
九州国立博物館の開館記念式典で、総務省の某大臣が「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本以外にはない」と祝辞で語ったそうだ。こんなすでに過去の亡霊と化している単一民族国家説を信条的に鼓吹する政府首脳がいることは別に不思議ではないが、中国・韓国大使館関係者が列席している席で厚顔無恥にのたまう神経は常軌を逸している。しかもこの博物館の目的が東アジアの文化交流を中心としている性格に真っ向から挑戦するものであはある。わたし日本人・あなた外国人という民族ショービニズムにつながるジョルダン曲線に他ならない。
近代社会は垂直的なジョルダンの身分関係を否定して、解放された自由と平等な空間を地上平面に形式的に実現したはずだった。しかし身分という経済外的な曲線に替わる第3のパワーである貨幣と一体化した権力がふたたび垂直的な閉鎖関係を再構築しようとしている。それは市場原理といわれる。この第3のパワーはよりソフトなまなざしと微笑によって垂直曲線を描きので、その閉鎖的な本質を見抜くのはかなり難しく、時には歓呼の声を上げながらライオンヘアーに投票する頽廃したマスデモクラシーをつくりだす。その魅惑のパワーの振る舞いは、かっては「パンとサーカス」をマスに投げて民衆を回収したが、現代は自ら進んで服従する同意の調達というソフトで、しかも真綿で首を締め付けられるような息苦しさを伴っている。この本質を見抜いて拒否反応を示すのに少しタイムラグが要る。(2005/10/14
19:34)
[鳥取県「人権救済条例」はほんとうに人権を救済するのか]
政府が推進する人権擁護法案を先取りする県単条例が12日に成立した。この県の知事は改革派といわれるが果たしてこの条例を施行するのだろうか。当該県の弁護士会が反対し委員推薦に応じないのはなぜだろうか。
鳥取県人権救済条例の概要を見てみよう。
@定義:人種、民族、信条、性別、身分、障害、性的嗜好などを理由として差別的取り扱い・粗野で乱暴な言動・虐待や、性的言動や社会的信用を低下させる目的で誹謗・中傷したり、不特定多数者の人種等の属性情報収集と摘示、私生活情報を広めたりする行為
A人権侵害救済委員会設置(5名 知事任命 審理は非公開)
B委員会の権能:申し立てによる調査、当事者からの事情聴取・情報提供(第3者申立可 予防認定可 事前弁明機会あり)
C協力拒否当事者への5万円以下の過料(抗弁機会なし 行政機関は協力拒否可能)
D当事者への助言、関係機関斡旋、侵害中止勧告、研修参加奨励
E勧告拒否者名と住所の公表(事前弁明機会あり)
すごい条例ができたもんだ。個人や集団の発言や表現を差別かどうか認定して、非公開の行政機関が警察権を上回る処分をおこなうことができる。令状なしの強制捜査、差別認定が行政に委ねられ、氏名と住所の公表によって本人を社会的に抹殺し、冤罪の場合の救済規定を置かないなど信じがたい近代人権原理の蹂躙が並んでいる。言論や表現の領域の紛争は、対話と討論そして最終的には司法を通じてしか制限できない基本的人権に係わる問題であり、行政機関が専断的に介入してはならない分野だ。委員会の調査に協力しない当事者に課す5万円以下の過料という罰則は刑事司法権を蹂躙している。さらに行政権力の人権侵害が極めて不十分で、私人簡紛争を主として対象にし、公私の著しい不均衡がある。言論は萎縮し、密告社会が蔓延し、オーウエル型の監視社会が完成する。おそらく日本で出版されているほとんどの文学や社会科学関係書はすべて処罰の対象になるだろう。委員会の独立性がなく、委員の任免・予算編成・事務局職員・規則制定権をすべて知事が把握し、行政権の優越的地位を保障している。
対象行為の内容規定が抽象的でどんな言いがかりも裁きの対象になり、予防と称して事実の発生以前におそれとして事実認定ができ、申立人に対する反対尋問権・抗弁権と弁護人依頼権がなく、鳥取県民以外のすべての人も調査対象となる。この条例に抵触しそうな憲法条文を列挙すると、第19条思想・良心の自由、第21条集会結社言論出版その他表現の自由 第31条法定手続きの保障 第33条逮捕の条件 第34条弁護人依頼権 第35条捜索・押収令状の提示 第38条黙秘権等々・・・・・。
この条例を作成した人たちは、人権の本質的な意味への初歩的な理解が決定的に欠落している。人権は人が生まれながらに持っている自然権であり、生まれた後に国家や行政が恩恵として付与したものではなく、いかなる力を持ってしても奪うことが不可能な不可侵の権利なのだ。かっては幕府権力を認める者のみに権利を与えたり(江戸期幕藩体制)、天皇制を認める者のみに与える(明治憲法)という権力の枠内でのお恵みの権利であったが、現憲法ではそれを全否定した生得の近代自然権思想としてある。市民相互間に生まれる人権相互の衝突は、当事者間の調整に委ねられ、最終的には「公共の福祉」を基準に司法が判断する。人権の制限は「公共の福祉」によって司法のみが判断し、一切の行政中間機関を介入させてはならないのだ。行政が司法に替わって強制的に人権を奪う権力を行使する違憲的条例であり、特に表現の自由を自己規制する萎縮効果を誘発し民主主義の自殺行為になる。以上・松本光寿鳥取県弁護士会会長の論評を参照。
確かにこのような条例作成を誘発するような社会現象が著しい。2チャンネルやプログ、出会い系やアダルト系サイトでの人間の尊厳と人権の侵害は目を覆うような頽廃状況だ。他者を傷つけて恥じない表現が垂れ流されている。しかしその規制を行政権力の恣意的判断に委ねるならば、戦前型治安維持法の警察国家と監視国家の密告社会が蔓延する。現行の人権擁護委員会の質的再編成ではなく、なぜ司法権と警察権を持つ特定行政委員会を新たにつくる必要があるのだろうか。ナチス期ドイツやスターリン主義下の旧ソ連においても、独裁を批判する思想と表現の自由は弾圧されたが、それでも形式的には司法判断を媒介とし、中間行政機関が司法権の領域に介入することは許されなかった。近代人権の原理は、「私はあなたの意見には反対だ、しかしあなたが弾圧されることには私は命を賭けて戦う」ということなのだ。(2005/10/13
11:02)
[弱者を痛めつけて抹殺する社会をつくる方法]
イチかバチかの綱渡り的な手法で奇襲作戦に成功したマス・デモクラシーが暴走をはじめている。破局に追いつめられて統治能力を失ったグループの最後の手段は、自分自身(保守)をぶっ壊すと「改革」を怒号して、閉塞状況に陥って出口を求める庶民の心を捉えた。奇襲攻撃のプログラムは、ごく一部の側近と広告会社のチームによって1年前から周到に準備されていた。マスメデイアはいとも簡単にそのシナリオに載せられて思う通りの演技をさせられた。刺客などという少女歌劇の些末な劇場型パフォーマンスに観客の視線を動員し、日本の将来への真剣な議論はどこかに吹き飛んでしまった。彼らは国家を弄んで野望を実現した。
しかし圧勝の裏でこのマス・デモクラシーグループの閉塞と国家経営能力の喪失は、実は余りにも無惨な実態を呈している。過去の戦争の罪責を肯定する醜い姿勢がアジアからボイコットされて国連安保常任理事国入りは惨めに流産し、外交能力の無能を全世界に暴露した。さらに国家基本法を改定して戦争国家への道を切り開こうとし、アジア諸国は一斉に懐疑のまなざしを向けている。国内生活は荒廃し、若者はニートに、重税、弱者支援の廃止のなかで巨大企業は84兆円もの余剰利潤を溜め込み、弱肉強食の市場競争が吹き荒れている。対抗する巨大野党は「改革」という名の市場競争を競って財界通知簿の得点競争にのめり込みつつある。
こうした事態はどのようにしてもたらされたのだろうか。こうした手法で成功を収めたモデルが、ナチスドイツの宣伝大臣ヨゼフ・ゲッペルスだ。彼の言葉を引こう。
「国家や社会、指導者を批判する者に対しては、動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数派や異端派は悪だと思いこませよ。みんな同じことを考えさせるようにせよ。みんなと同じように考えない者は、国家の敵だと思いこませよ」
「青少年に、判断力や批判力を与える必要はない。彼らには、自動車、オートバイ、可愛いスター、刺激的な音楽、流行のファッション、そして仲間に対する競争意識だけを与えてやればよい」
ゲッペルスは”Heil! Hitler!(ヒットラー万歳)”というナチス敬礼を創案し、”私は戦争が好きだ!”という演説で「総力戦」ということばを初めて導入し、ヒットラー神話の偶像化に成功した類い希なる宣伝技術の開発者だ。彼はドイツ国会放火事件という陰謀を「テロとの戦い」と怒号して一気に多数派を組織し、ワイマール憲法を廃止し授権法(全権委任法)を制定してヒトラーを総統に就任させ第3帝国を発足させた。ゲッペルスの演説は皮肉とユーモアに富んだパフォーマンスで民衆を酔わせ熱狂的支持を得た。その内容は、アレカ・コレカ、敵か味方か、彼は敵だ敵は殺せ!という二元的ワンフレーズの羅列であり、”嘘は百回つけば大衆は信じる”という愚民観でマスメデイアを最大限に利用した。彼は4歳の時に小児麻痺で左足が短く、第1次大戦の徴兵検査に不合格となってコンプレックスを抱き、ハイデルベルグ大学卒業後の就職で挫折して鬱屈していた時にアドルフ・ヒトラーと出会って積年のルサンチマンを一気に爆発させる目標を見いだした。ベルリンのナチ指導者に抜躍され、『Der
Angriff攻撃』という新聞を発行しドイツ共産党を壊滅に追い込んで宣伝大臣の座を得た。
このゲッペルス宣伝秘術を現代に見事に適用したのがブッシュ上級顧問のカール・ローブだ。彼は9,11を最大限に利用し、米軍を「神の軍隊」として演出し、世界制覇にのりだす大戦略を立案して遂行し、敏腕な選挙コンサルタントとしてブッシュ当選を成功させ(討論会でブッシュの背中に無線の遠隔指示器をセットした)、アーノルド・シュワルズネッガーを刺客として知事に送り込んだ(今はCIA要員の名前をメデイアに漏らした罪で大陪審の喚問を受けている)。日本のゲッペルスと云われる人物がいる(ここで名前は伏す)。彼も1年前から奇襲作戦のプログラムを作成し、ゲッペルス宣伝技術を最大限に活用して圧勝をもたらした。その手法は、まさにアレカ・コレカ(改革か後退か、民営化に賛成か反対か)という二元的なワンフレーズで大衆の圧倒的支持を得るのに成功した。しかし「改革」の中味が公共生活破壊の別称である事実が明らかになるにつれて幻想は崩壊し、次の新たな激動の時期が来ることは間違いない。この国の民度は世界で最も高いのだ。恐れるのは裏切られたと知った民衆がどこに向かうかだ。より一層の「改革」のさらなる幻想(既得権益の打破)が振りまかれて、狂気のような破局に至るのか、或いは第3極が形成されてゆるぎないデモクラシーが再生するのか、民衆の学習能力が試される。どのような紆余曲折を経ようと独裁は崩壊し、最後に笑う者が最もよく笑うという真理は貫かれるだろうが、その最後に至る過程であらゆる悲惨が経験されるだろう。
いま進行している事態は抗いがたいような勢いがあり、突風が吹きすさんでちっぽけな私は吹き飛ばされるかのようだ。個人のちからはあまりにも弱く大勢に順応しているほうが楽に思えるしほんとうに楽だ。特に日本のような集団文化の残滓が色濃く残っている国では、周りに合わせて流れに棹させば流されてしまうかのようだ。みんなが起立して君が代を唱っているのに、自分だけ着席するのは勇気がいる。さらに誰よりも先に自分が踊っている方が評価され、生活は安穏に維持される。自らの選択によって愛する家族の崩壊を目にすることは辛い。かってそのようにして多くのドイツ市民が胸のうずきを覚えながらも、ゲッペルスの演説を聞いた。最初は疑心暗鬼でありユダヤ人の移送に眉をひそめていたが、彼のかっこよさはじょじょに心のなかに食い込んでいき、最後は身も心も捧げる熱狂に転化した。そしてすべては嘘だった。気がついたときにはもはや取り返しのつかない共犯者になっている自分を見いだした。これが第3帝国を生きたドイツ市民の痛苦の体験であり、すべてが終わった後に過去の罪責の告白と贖罪の悔い改めの苦しい生活が始まった。そしていまドイツ市民は欧州の巨大なリーダーとして再生し迎え入れられつつある。
ゲッペルスは妻子を伴ってベルリン攻防戦の地下壕に入り、ヒトラー自決の翌日に6人の子どもを毒殺し、妻とともに拳銃で自殺した。夫婦の死体はガソリンで焼かれたが、ガソリン不足で黒こげ状態でソ連軍に発見された(映画『ヒトラー 最後の12日間』)。これが独裁者の末路である。私たちはいま誰に拍手しているか、しっかりと見極めよう。みんな同じことを考えさせられてはいないか、立ち止まって考えてみよう。流行のファッションや可愛いアイドルを追っかけているうちに、何が進行しているかをみよう。
志未不報(志 未だ報われず) 梁啓超(注:清朝で変法を説き西太后の弾圧を受け、後に資本主義と共産党に反対し、この世を去る)
雖成少許 不敢自軽(成すこと少しばかりといえども 敢えて自ら軽んぜず)
不有少許合 多許渓自生(少しばかりあらざれば あふれんばかり何によりてか生ぜん)
有無世界的進歩 如不絶衆生苦悩 如乱命(世界の進歩は止まるときあるなく 衆生の苦悩は絶たざること 乱るる命の如し)
(2005/10/12
10:43)
[弱者を痛めつけて 抹殺する社会がかってあった]
お年寄りはお金を払わないと医療や介護が受けられなくなった。障害者は障害が重ければ重いほど負担が増えて施設にいけなくなる。義務教育の国庫補助はなくなって貧乏な県は学校経営が難しくなる。ありとあらゆる弱者を標的に公的な保障が取り払われる施策が嵐のように進んでいる。誰かに頼り依存しているのは恥だとする自己責任の考えが社会全体を覆い始めている。老人一人が死ぬことによって図書館ひとつが失われるといった考えは戯言だと声高に言い立てるようになった。若者は最初から敗者として使い捨ての前面に立つように強いられている。労働の規制ははずされて自由気ままに人を働かせてあとは自分で始末せよと企業は叫んでいる。要するに社会は、健康で壮健な能力の高い男子の正規社員だけでつくり、金と利潤が神となって企業を潤すような時代が到来している。”我が亡き後に洪水は来たれ”というテーゼはが二千年を経てほんとうに実現するかの様相を呈し始めた。その象徴は首都の知事が言い放った”生殖能力を喪ったババアには生きる意味はない”という言葉だ。標的とされた老人や障害者、女性、マイノリテイは自らの痛みを痛んでいるが、それに属さない人の心は痛みを共有する想像力を失ったかに見える。
かってこうした社会をを理想として掲げ、選ばれた優秀な人間だけで世の中をつくり、邪魔な劣等人間を本気で抹殺しようとした人と国があった。その名前はアドルフ・ヒトラーのドイツ第3帝国といわれた。ほとんどすべてのドイツ人がその方針を支持して、恐るべき殺人工場が作りあげられ、実際に600万人の「劣等人間」がこの世から「処理」されて姿を消した。その工場員の一人はインタビューで次のように答えている。
「あなたは収容所で人を殺しましたね」 「ええ」
「毒ガスを使って殺したのですか」 「ええ」
「生き埋めにしたことはありますか 「ええ そうしたこともあります」
「犠牲者は欧州全土から連れてこられたのですか」 「そうだと思います」
「あなたは個人的に殺戮に手を貸したことがありますか」 「まったくありません、私は収容所の一主計官に過ぎなかったのです」
「あなたは収容所でおこなわれていたことにいついてどう思っていましたか」 「最初はよくないと思いましたが、私たちは慣れてしまいました」
「裁判であなたを絞首刑にしようとしているのをご存じですか」 (突然涙があふれだし)「いったいどういうことでしょう。私が何をしたというのです!」
確かに彼は命令を遂行しただけであり、命令への服従が最高の美徳であった時代を彼は生きさせられた。後から命令への反抗が美徳になっただけのことだ。すべてのドイツ人が大量殺戮機構の歯車となっていた時代だ。彼は妻に対して貞節な、子どもをいたわるごく健全な家庭のパパであり、ほとんどのドイツ人は善良で無垢な市民であった。しかしこうしたごく普通の市民が人間の尊厳を奪い尽くす冷酷な殺人マシーンの部品となっていったのだ。彼らは生まれつきのサデイストでも殺人者でもなく、精神倒錯者でもなかった。むしろナチスはこうしたノーマルな家庭人のサラリーマンが持っている、官僚組織での誠実な義務の遂行という責任感を最高度に組織することに成功したのだ。自分の家族を守るためなら、遂には死刑の執行すら進んで引き受けていく馴致を組織した。解放されたユダヤ人が、解放証明書を手渡す親衛隊員のなかにかっての学友を発見し、じっと黙って彼を見つめると、男は自分から「君なら分かってくれるはずだ。5年も失業していたから。連中は僕に何でもやらせることができたんだよ」と言った。こうした極限の修羅場を生き抜く技術は人間の尊厳を根こそぎ犠牲にして提供することと引き替えに手に入れることができる。”キャツは敵だ!敵は殺せ!”という”ラッパが鳴り旗が翻るとみんな考えることをやめてしまう”のだ。独裁者に自己を投影させ、自己との一体感と運命共同体の意識が充満し、たぎりたつルサンチマンを弱者に向けて一気に放射したのだ。
こうして600万人のユダヤ人たちが死に追いやられた。最初は意図的な無視・剥奪・恥辱、この段階で体の弱い人と自殺する気力を持った人が死んだ。次に飢餓・強制労働、この段階で体力の差で千人単位が時間をおいて死んでいった。最後はチクロンBによる殺人工場、ここではすべての人が単なる生物として完全に平等に死んだ。ユダヤ人のほとんどは一切の抵抗を示さず、ただ家畜のように従順に服従して死に向かった。時には自ら進んで殺戮に手を貸し同じユダヤ人を死に至らしめた者もいた(カポー)。あたかもみずからの義務であるかのように淡々と。
ナチの大量殺戮機構は最新の専門知識を動員した科学的プログラムで冷静につくられた。多くの科学者が動員されて技術開発をおこない、敗戦後彼らはあっさりと米国やソ連に忠誠を尽くす科学者に転向した。ナチの思想と技術を学的に基礎づけるために、一流の高名な学者が協力した。法学者カール・シュミット、哲学者マルテイン・ハイデガー等々、彼らは敗戦後一切の自己批判を拒否した。
ナチズムは一者が全体を支配する全体主義的野蛮の先駆的な現象であったのであり、この本質は連綿として現代に至っている。最愛の家族のために自らの信念と職業を峻別し、組織において誠実な命令の遂行者となって冷静に与えられた仕事を十全にこなすという行動様式は、いままさに日本の企業に世界に冠たる競争優位をもたらしている。老人や障害者を対象にした集中的な迫害政策の遂行を官僚は、煌々と照り輝く霞ヶ関のオフィスで冷静に事務作業を行っている。学校では君が代を歌わない教師を完璧にチェックして密告し、子どもの唱う声量をきちんと段階評価した報告書が作成されている。免許証と奨学金を手に入れるためにイラクへ人殺しに行く若者がいる。彼らは老人を大切にしない世の中はよくないと思い、障害者をいたわらない社会はおかしいと思っている。しかし愛情溢れる温かい家庭を犠牲にはできない。「最初はよくないと思いましたが、すぐ馴れてしまいました」というナチズムの馴致の動員技術はいまもってその有効性を証している。ただ違う点は現在は激しい競争原理の渦中に陥れて、争って献身の評価を競い、誰もがカポーとなる時代であることだ。競争の罠に嵌りこんで互いに蹴落としあう疑心暗鬼の時代。
ナチの最高責任者やA級戦犯の何人かを絞首刑にしても、彼らが全市民を組織することに成功した技術は継承され、それを受け入れる市民の心性がマグマのように沈積しているとしたら、人類は忌まわしい過去の記憶の喪失とパラレルに、再びの悲劇をもう一度味わう時代がきても不思議ではない。過去の罪責への記憶を次の世代に伝えるドイツにはその危惧は少ない。しかし日本はそのような過去の罪責を免罪してふたたび祭壇に据えようとするパフォーマンスが息を吹き返しつつある。その分岐ラインは良心の「恥じらい」や「痛み」への想像共感がまだ残っているかいないかだ。ここ数年でその決着がついてしまうような予感がする。猪口邦子という国際政治学者は「小泉さまをいのちをかけてお守りする」といって議場に向かった。かってマルテイン・ハイデガーがナチ入党申込書にサインしたときのように。時代は恐ろしい勢いでナチ登場前夜の情景に酷似してきている。私はこのような世の中を残したままこの世を去りたくない。ナチを横目に見ながら家族の安穏のために冷静に事務処理を遂行したかってのドイツ市民にはなりたくない。人間が学習する存在であることをほんの少しはこの世に刻みつけてサヨナラしたい。ハンナ・アーレント『アーレント政治思想集成』(みすず書房 2002年)参照。(2005/10/10
15:26)
[忘れ去られたグアンタナモと人間の楯]
グアンタナモ米軍収容所(キューバ)には、米軍のアフガン侵攻で打倒されたタリバン政権と国際テロ・アルカイダのメンバーが2002年に収容されてすでに3年を経過している。彼らは収容されたままで証拠不十分でわずか4人しか起訴に至っていない。しかし世界はいつのまにかこれらの収容者を忘れてしまっているようだ。赤十字国際委員会(ICRC)は、この収容所での大規模なハンガーストライキがすでに2ヶ月以上にわたって続いていることに懸念を表明した(7日)。このハンストは、210人の囚人が待遇改善と法的権利回復を求めて始まり、開所以来最大規模に達している。収容所側の声明は以下の通り。
「自主的断食参加者は9月に131人と最多だったが、その後は徐々に減少し、22人が医療施設に収容され、鼻からのチューブや静脈注射で栄養物を与える強制給餌をおこなっている。収容者は医療スタッフの監理下にあり安定した状態で、適切な栄養補給を受け良好な医療下にある」
そうなんだ。米軍はこのハンストを「自主的断食」という健康療法と見なし、食事は「給餌」とみなしているんだ。「餌」とは人間が人間以外の動物に与える食料を意味するのではなかったのかな。米軍の政策と行為は、かってのナチズムがめざしたユダヤ人絶滅政策とアウシュビッツ経営戦略を想起させる。現代的粉飾が施されているが、あるターゲットを敵と定めその絶滅によって人類に幸福がもたらされるという思想的本質は同じだ。当時の世界はアウシュビッツ収容所の存在にうすうすと気づいていたが見て見ぬふりをした。ローマ法王も例外ではなかった。いまグアンタナモもアウシュビッツと同じく忘れ去られようとしている。誰かを異端的な敵と見なして攻撃し孤立させる支配の手法がいつまで続いていくのであろうか。日本の首都の知事は「生殖能力を失った婆あは生きている意味がない」といって攻撃したが、彼の思想もナチズムとほとんど変わらない。それを見て見ぬふりをして過ぎていく日常がある。グアンタナモは日本でもあるのだ。
私が人間の楯という言葉を初めて知ったのは、米軍のイラク侵攻時に多数の外国人ボランテイアがバグダッドで米軍機の爆撃を身を曝して止めようと時だ。ところがこの人間の楯はイスラエル軍がパレスチナ民間人を家宅捜索に使う有力手段としてすでに00年9月から使用していたという。▽パレスチナ人にドアを叩かせ容疑者をおびき出す▽パレスチナ人を容疑者宅に入れ爆発物を調べさせる▽パレスチナ人を兵士の前に立たせ攻撃できないようにし、パレスチナ人の肩越しに銃を構えて発砲する▽パレスチナ人に路上の不審物を除去させる等々の作戦である。イスラエル軍は「パレスチナ人が自由意志で自主的にやっている行為だ」と主張し、イスラエル最高裁は「軍の行為は冷酷で野蛮なもので国際法に違反する」という裁定を下したが、右派・国家宗教党は「兵士の命を危険にさらす判決だ」と攻撃している。ここにはグアンタナモと同じく異邦人を動物と見なし、婆あは無意味だという首都知事とおなじ精神構造がある。驚いたことにイスラエルでは、ナチのホロコーストに対する歴史教育が年々薄らいで、かっての痛苦の体験を想い起こす取り組みが衰えているそうだ(厳密な事実確認ではない)。民族を襲ったホロコーストの恐怖と同じ攻撃をパレスチナ人におこなっているイスラエルの矛盾をみて暗然たらざるをえない。現在のイスラエルは頽廃したシオニズムそのものなのだろうか。ホロコースト体験によってイスラエル建国を支持した良心派は多く、パレスチナとイスラエルの共存を望む人も多いが、現状ははるかにそのレベルを超えた侵略国家になっている。なぜだろうか。いうまでもなく中東原油の独占を狙う星条旗を掲げた世界帝国のダブルスタンダードにある。そして世界はアラブを攻撃する米軍にみて見ぬふりをしながら日常が過ぎていく。そのおこぼれを期待して自己の生存を維持しようとしているからだ。そのモデルはいうまでもなく東アジアの海に浮かぶ小さな島国のライオンヘアーだ。(2005/10/10
7:59)
[島尾敏雄・元特攻隊長 そして「つまずきの石」]
作家・島尾敏雄の名前を知ったのは、小栗康平監督の映画『死の棘』でしたが、島尾氏の経歴に接して「体験」の意味について何をどう考えたらいいのかと思い迷いました。なぜならそれまでの氏のイメージは、内省的でなにか暗い私小説風の世界であり、私はこういう世界があまり好きではなかったからです。しかし彼の経歴は恐るべきものでした。もしこの経歴を知った上でこの映画を観ていたら違った見方ができたと悔やまれます。
九州帝大を繰り上げ卒業した彼は、第1期魚雷艇学生として訓練を受け、1944年に50余人の特攻隊委員を含む183人の部下の指揮官として、奄美群島・加計呂麻島に駐屯した。奄美の王の係留である娘ミホと恋愛しながら、45年8月13日に出撃用意の命令を受け、死装束に着替えて待機したが、最終発進命令が出ないまま15日の敗戦を迎えた。それは死刑直前に赦免されたまさにドストエフスキー体験であった。彼の作品に自爆攻撃に向かうこの3日間の極度の緊張と焦燥を描いたものがある。彼は戦後もこのときの悪夢に襲われ、それがシュールで自虐的な異様な文体となって結実した。追いつめられた自己と生き延びた自己の平衡がないまま彼の戦後は過ぎたのだと思う。島民は彼を「ワーキャジュウ(私たちの慈父)」として信仰に近い信頼を寄せ、「島民と島尾は生死をともにするという心で固く結ばれ、男は竹槍を持ち女は看護婦として、老人や子どもは集団自決のために隧道を隊員とともに掘り、13日に全員が隧道へ集合した」(島尾ミホ『特攻隊長のこころ』1974年)。沖縄戦は一人の作家精神を弄び崩壊に至らしめた。軍人として誠実に振る舞えば振る舞うほど、その行為が何の意味もない行為であり、奄美島民を地獄へ導いたものであったという経験を自ら背負って終生解き放たれることはなかったのだ。
いまドイツ全土で「つまずきの石」というモニュメント運動が展開されている。表面を真鍮の板で覆った10cm四方の敷石に、ナチ時代の忘れられた犠牲者の名前を刻み、歩道に埋め込む芸術運動である。ナチ被迫害者やシンテイ・ロマ、ホモセクシュアルなどを旧住民台帳から調査して、彼らの運命をたどり寄付によって石を注文し、その名前と運命を刻印して歩道に埋めていく。その調査をギムナジウムの歴史の授業で生徒たちがおこなう地域もある。「心に刻む文化」はナチとそれに協力したドイツ人の戦争犯罪を記憶し、歴史にとどめる贖罪の作業だ。日本の極右評論家・西尾幹二は「ドイツ人はすべての戦争責任をナチスに押しつけて逃げている」と云って顰蹙を浴びている。西尾グループは戦争犯罪そのものを否定するという恥ずべき醜態を曝しているにもかかわらず。
これが人間か プリーモ・レーヴィ
暖かな家で
何ごともなく生きている君たちよ
家に帰れば
熱い食事と友人の顔が見られる君たちよ
これが人間か 考えてほしい
泥にまみれて働き
平和を知らず
パンのかけらを争い
他人が頷くだけで死に追いやられるものが
これが女か 考えてほしい
髪は刈られ 名はなく
すべてを忘れ
目は虚ろ 体の芯は
冬の蛙のように冷え切っているものが
考えてほしい こうした事実があったことを
これは命令だ
心に刻んでいてほしい
家にいても 外に出ていても
目覚めていても 寝ていても
そして子どもたちに話してやってほしい
さもなくば 家は壊れ
病で体は麻痺し
子どもたちは顔を背けるだろう
*プリーモ・レーヴィは1943年にパルチザン活動で逮捕され、アウシュヴィッツに送られ奇跡的に生還して、
地獄の証言者となったが、1987年に自宅アパートで自死を遂げた。彼の友人であったある女性は、「いかな
る理由が彼にあろうと、それを追及する資格は私たちにはないと思います」と述べています。レーヴィの墓には
≪174517≫という彼のアウシュヴィッツの囚人番号が刻印されている。ユダヤ人は教義で身体に入れ墨を
することを禁じられていた。
東洋鬼 V 濱口國雄
李三竜は
恐れ気もなく 胸を広げた
広げた胸に
銃剣を突き刺した
突如として 発作をおこし
心臓 締め上げ 圧してくるのは
今日もぼくの手に残っている
李三竜の
断末魔の心臓の鼓動
広げた胸の
胸板の厚さである
私がはじめてこの詩人の名前を目にしたのは、確か教壇に立ってからだと思います。真壁仁『詩のなかに生きる日本』(岩波新書)に載っていた「便所掃除」という詩でした。感動した私が教室で朗読すると、クスクス笑いが聞こえてきて戸惑ったことを想い起こします。濱口國雄についてはそれ以上知りませんでしたが、彼がニューギニアから中国戦線に従軍して地獄の戦場を彷徨って奇跡的に生還した旧日本軍兵士であったことを知りました。この詩は彼が中国人の捕虜を銃剣で刺突した痛苦の体験を描いたもののようです。いまニューギニアの密林の泥沼に埋もれている兵士の虚ろな眼窩の髑髏は、小泉首相の靖国参拝を聞いて「フフ」と笑っているのだろうか。
中国での反日デモを反日教育の結果だという人がいる。小学校の教科書に「李お婆さんの身体の傷痕」という1章があり、1937年の南京大虐殺で抵抗する李秀英さん(86歳 04年12月死去)が日本兵から刀で37カ所をめった斬りにされ、19歳で妊娠7ヶ月の胎児を流産した話が載っている。彼女は「幸存者」(幸運に生き残った者)として、日本政府を相手に損害賠償訴訟を起こしたが名誉毀損のみが認められた。つまり虐殺の事実は認めたが損害賠償は拒否したのである。中国の「反日」がどこからくるかいまさら説明する必要はない。痛みは加害者はすぐに忘れ去るものだ。
立川2中の家庭科教師・根津公子は今年四月の入学式の君が代斉唱時に起立せず、7回目の処分を受けて停職1ヶ月となった。その前の3月に3年生にこう話した。「今度の卒業式では起立してしまうかもしれない。いままでたくさんの処分を受けているので、免職になるのを恐れて。その時に根津は生活のために云うこととやることが違うと、そのまま捉えてほしい。自分にも嘘をつき、みんなにも嘘をついてしまうだろう、そのことをまずみんなに謝りたい」と。最も痛ましいことは、こうした根津の行為を怖がる生徒がいて親が教委へねじ込むことだ。東京の教育現場を荒廃に追い込んでいるのは誰だろうか。
以上は『前夜』5号のなかから印象に残ったことを抜粋して考えた。この雑誌の編集方針は、日本の加害的側面に焦点を当て歴史の暗部を赤裸々に提示し、現在の危機を問いかけようとしている。危機の時に命をかけて抵抗した事実は欧米や中南米のレジスタンスや抵抗運動を取り上げる。しかし現代の危機を打開する方途を日本の過去の歴史に内在する経験から導き出そうとする記事は少ない。日本自身に内在して、今は歴史の彼方に葬り去られようとしている抵抗運動の無名の人々の記憶を復権する作業もまた重要なことではないだろうか。戦前期の治安維持法の犠牲者数をあげてみよう。
明らかな虐殺 68人
拷問による獄死 114人
病気による獄死 1503人
逮捕送検 75681人
逮捕被送検 数十万人
ここに日本の戦争犯罪を告発し、自らの命を賭けて抵抗した有名・無名の人たちがいる。「解放運動犠牲者の墓」に埋葬されて歴史の記憶に名をとどめた人もいるが、大半は闇の中に消されていった人だ。政府は事実そのものを認めず、犠牲者の顕彰はおろか加害者の処罰と被害者救援を全くおこなっていない。むしろこうした人の生を発掘し、歴史の舞台に復権させる作業がいま求められているのではないか。ここに雑誌『前夜』の限界があるように思われる。『前夜』編集部は現代日本の政治的スタンスにあるタブーを置いている(賢明な読者はすでにお分かりであろう)。それは韓国の国家安全法によって数10年間にわたって今も獄中にいる長期良心囚を取り上げないのと同じだ。敗戦直後数ヶ月日本政府は治安維持法の有効性をもって政治犯を獄中にとどめ、三木清をはじめ幾多の者を死に至らしめ、激怒したGHQの停止命令を受けてはじめて釈放した。しかし戦前期の治安維持法犠牲者は今もって名誉を回復されず復権されず、高齢化してこの世を去っている。
ドイツでは加害記念館(強制収容所跡地保存)、反ナチ抵抗運動犠牲者顕彰などの公的記念館が多数存在する。ドイツ抵抗博物館(ベルリン)はナチス支配12年間の抵抗者であるクーデター軍人(シュタウフェンベルグ伯爵)、白バラグループ、KPDや社会民主党、キリスト教神父や牧師、ユダヤ人、シンテイロマ、ユダヤ人を匿った人、収容所蜂起の展示があり、毎年7月20日に政府代表が出席した追悼式が催される。他にプレンツエンゼー追悼所、白バラ抵抗運動記念館、フンボルト大学記念碑、ゲオルグ・エルザー追悼所などがある。日本にはこうした公的な抵抗記念館は皆無だ。あるのは戦没者追悼と戦争被害を記録する記念館のみだ。私たちは、つまづいたままに戦後をおくってきた。(2005/10/920:37)
[共謀罪法案は究極の監視社会をもたらすのか]
正式名称は「犯罪の国際化及び組織化に対処するための刑法などの一部を改正する法案」で、4年以上の刑にあたる犯罪は懲役2年以下、死刑・無期・10年を超える犯罪は懲役5年以下の刑とされる。国連「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」の批准に伴う国内法整備でつくれられる。国連条約は、国際テロなどの国際的組織犯罪防止が目的であり、それ以外の犯罪を対象としてはいない。では共謀罪法案のどこに問題があるのだろうか。
刑法は犯罪行為発生後の処罰を大原則としているが、犯罪行為の準備(凶器準備集合罪など)と発生段階前の、話し合いと合意などを処罰する刑法原則の転換を意味する。。メンバーしか絶対に知り得ない特定集団の話し合い段階の有罪証拠をつかむための捜査手法は、集団内部への浸透(スパイ)と盗聴しかない。必然的に室内の会話や電話・携帯・FAX・メール盗聴が合法化され、フーコーのいう監視社会となる。さらに犯罪行為着手前に自首した時は刑が減免され、メンバーの誰かが偽の共謀を密告して組織解体をねらったり、スパイが主導して共謀をでっちあげてメンバーを逮捕に導くこともできる。警察による監視国家にとどまらず、国民相互の監視と密告がうまれる。政府原案は犯罪対象の規定だけで、集団の対象の限定がなく、市民団体や宗教団体をふくむすべての団体が無限定に対象となっている。4年以上の刑を科す犯罪を対象とすると、道交法・税法など600以上の犯罪が対象となるから、警察はほとんどの市民生活を対象に監視活動を行い、主観的な取り締まりと組織弾圧を無秩序に行うことができる。
戦前期の治安維持法は、個人のこころの内面まで侵入して犯罪として刑罰を科したが、共謀罪はその一歩手前の「会話」(こころの表出行為)を罰することになる究極の治安立法に他ならない。誰も本気でなくその場限りで”やってしまえ!”と昂奮して気炎を上げて場合や、いったんは本気で合意して途中で思い直してやめた場合も当然に有罪となる。
日本はひとりひとりの市民が自由な意志をもって生活する市民社会であり、すべての人が自分の生命と財産を安全に維持する権利を持っている。その権利を保障するために、一部の犯罪者の行為を取り締まる権利を政府に与えている契約社会だ。政府は国民との契約による負託によって、警察権を行使する強制力を持っているに過ぎない。国際テロの防止を理由に、すべての市民団体を監視対象にして市民の基本的な人権を侵害することは明確な近代法原理の侵犯であり、主たるねらいがおそらく別のところにあることを示している。隣近所の隣人が相互に監視し合い、メンバーのなかにスパイや密告者がいると想定して生活する社会は、もはや市民社会とは云えない。あなたは自分の家庭が盗聴の対象になっている生活を想像できますか。自分は悪いことはなにもしていないから大丈夫だというのは少々ナイーブだ。
自衛隊の薬物汚染が次々と摘発されている。1996年から05年の10年間で24人の陸海空自衛官が薬物汚染で逮捕されている。7月に逮捕された2等海曹はと海士長は自宅の物置やベランダで、大麻をプランターで育て肥料や水はけを良くする軽石、不在時に水を切らさない循環ポンプという本格的栽培をおこなっていた。横須賀第2潜水艦隊の7隻の潜水艦のうち5隻で大麻が吸引されていた。同じ基地の通信隊員は勤務中に覚醒剤使用で倒れ、粉末と注射器が発見されたがもみ消された。おそらくこれは氷山の一角で内部では一定の広範な汚染がすでに進行し、薬物常用が蔓延していると推定される。24人をみると海上12人、陸上7人、航空3人、防衛庁職員2人という内訳で海上自衛官が相対的に多く、階級別では尉官2人、曹官7人、士(長)10人、その他となっており、敵の探知要員や武器の発射要員という最前線の実戦部隊が多い。海上自衛官の多くは潜水艦要員であり、レーダー探知・ソナー探知の電測員と水測員が含まれ、陸上では地対空ミサイル発射手や迫撃砲の弾薬手などの最も緊張感を求められる業務が多い。最前線の要員が幻覚や幻聴、誇大妄想で自己コントロールを失うと、どのような最悪の事態が誘発されるかは想像にお任せする。旧日本軍も出撃前に覚醒剤を使用し、イラクでの米軍の死者は少なからず麻薬常用で錯乱した味方兵士の乱射によって生まれている。自衛隊法改正によってミサイル防衛時の現場部隊の武器使用権が認められ、薬物錯誤による誤射の危険性は高い。
汚染ルートは、海上では同じ潜水艦に乗務する先輩・後輩のつながりを使うものやインターネット利用が主だが、問題は自衛官が外部の一般市民にも横流しをして密売するヤクの売人になっていることだ。一般市民を巻き込んで自衛官の売人が横行していると推定される。なぜ自衛官に薬物が蔓延するのだろうか。軍隊独自の戦場での緊迫感ではないだろう。海自に多いのは、数ヶ月にわたって海中を航行する密閉された空間でストレスが蓄積されからだろうか。上下関係を利用した陰湿なイジメが横行しているのであろうか。暴言や暴行を伴う厳しい訓練が日常化しているのであろうか。メンバーを互いに監視し密告しあう調査活動があるのだろうか(内部告発防止のために)。この原因を探る一つの資料は自衛官自殺統計だ(防衛庁発表)。1995年ー2005年の自衛官自殺数は710人に上り、年ごとに増加し2004年は94人と過去最高を記録している。自殺原因は「借金苦」「病苦」「職務」「家庭問題」などがあるが、最も多いのは「その他・不明」であり隊内問題が関わって可能性を推測させる。自殺者数のほぼ3倍に上る未遂者数やその倍に上る願望数を想像すると、かなり自衛隊の内部は痛んでいる。ここに薬物汚染のほんとうの原因があるのではないだろうか。防衛庁は入隊後の定期的尿検査システムを導入すると言明しているが、そのような方法でほんとうに解決できるだろうか。薬物汚染数と自殺数はパラレルに上昇しており、自衛隊内部の組織問題の再検討なしに薬物汚染は続くだろう。
自らの任務に誇りを持つ軍隊には腐敗現象は起こらない。いま薬物汚染が多発している軍隊は、米軍と自衛隊だ。私は多くの自衛官は「祖国防衛」と「社会貢献」に献身する使命感をもっていると思うし、現にそうした自衛官を知っている。使命感溢れる彼らの存在を考えると、薬物犯罪や自殺はほんとうに悲しい。自衛隊自体の評価の違いはおいて、私は組織としての健康な存在を願う。そしてもしそこに共謀罪によるスパイ、密告、相互監視のシステムが日常的に導入されるならば、おそらく生死をともにする軍隊という組織の内部崩壊が始まるのではないだろうか。
注)大麻は心拍数の著しい増加によって、脳障害・意識障害・幻覚・幻想・記憶力低下を引き起こし、乱用で情緒不安・集中力と忍耐力の低下・自発性の喪失等の障害や幻想と妄想の引き金になる(厚労省)。(2005/10/9
9:07)
[我らの最後の希望 ヒットラー ヨーゼフ・ゲッペルス『ミヒヤエル 日記が語るあるドイツ的運命』]
朝から蕭々と雨が降っています。昼からのシンポジウムにでる前に、ジムで一汗流して学校に向かうと、私の勘違いで日程は朝9時からですでに終わっており、教授と苦笑しながら別れた。仕方がないので大須の古本屋街に回って棚を覗いていたら、表題の書がひっそりと片隅にあった。池田浩士編『ドイツナチズム文学集成』全13巻の第1巻「ドイツの運命」(柏書房 古本価2000円)とあった。これに惹かれたのは、そこにゲッペルスの日記が載っていたからだ。いうまでもなくゲッペルスは、ナチス政府の宣伝大臣として、彼の宣伝技術なくしてヒトラーの独裁はなかったといわれほど、20世紀の広告宣伝技術に革命的な影響を与えた人物だ。この日記は、ミヒヤエルという架空の人物に仮託して自らの学生時代の毎日を綴っている。私は、このナチスの高名なリーダーが青年期に何を考えていたのか、すごく興味をいだいて購入することとなった。
すべてを詳しく読む気にはなれないので、ペラペラとめくっていった。青春期の高揚した感性が生き生きと活写され(ひょっとしたら刊行期に改竄したのではないかと思われるほど)、ナチズムの精神と感性の特徴がすでに学生期ににじみ出ていることが分かる。抑圧されて鬱屈した青春の魂が、その脱出口をゲーテ以降のドイツロマン主義と祖国への献身に向けられ、激しい資本主義攻撃に溢れ、同時に社会主義とユダヤ民族への軽蔑と対抗心の心情が形成されている。ナチズムが単に独裁の恐怖によってドイツ人のこころを支配したのではなく、自らの「純情」のパッションと頽廃した世俗へのルサンチマンがほとばしり出る理念として青年をとらえたのだと云うことが分かる。ナチスとは国家社会主義ドイツ労働党の略だ。こうしたパッションは、かって全共闘といわれた日本の学生や三島由紀夫、現代のコバヤシとかいう漫画家のニーチェ主義的な心性と酷似している。その一部を引いてみよう。
青年は老人よりもつねに正しい。
未来を喜ぶ心のなかには、熱くまた烈々と、創作への、生への、形式への意志が燃えている。
悲痛な想いを込めて幾百万がその日を待っている。安下宿の屋根裏部屋で、日雇いのドヤや出稼ぎの飯場で、飢えと寒さと精神的苦痛でいっぱいでありながら、もっと別の時代の希望と象徴とが形成されつつある。信念と闘争と労働が、今日のドイツの青年たちを彼らのファウスト的な創造衝動のなかで合一させる美徳となっている。
われわれは雷雨の嵐がもたらすその日を待っている。われわれはいざというその瞬間に、祖国のための行為をなす意志を奮い立たせる勇気を持つだろう。我々は生を欲する。それゆえわれわれは生を勝ち取るだろう。
戦争は生を肯定することのもっとも単純な形式である。ひとりの母がひとつの生を送り出し、ひとりの子どもに生を与える。死の瞬間になってもなお、老人のなかで最後の意志が頭をもたげて、死にたくない!と叫ぶ。人間がこの地上に踏み入れたときが闘争だ。この地上を去るときが闘争だ。(中略)平和もまた戦いとられることを欲する。しかもそれを棕櫚の団扇でなく、剣でなのだ。社会主義は組織された怯懦に過ぎず、これこそ共和国の最も重い罪だ。人間の顔をしているものは皆な平等だー等というのは馬鹿な連中の戯言だ。
われ信ず ゆえにわれあり! 狼とともにいっしょに吼えなければならぬ(*多数決に従えとの意)。ぼくはそんなことはまっぴらだ。ぼくは神の一部なのだ。ぼくのなかのすべてが解放され、ぼくの思想はまるで飛び散る花粉のように自由だ。
ある変革のはじめには革命的な人間がいるのであって、なんらかの社会的な窮迫があるのではない。これが端緒なのだ。革命家はその窮迫を利用するに過ぎない。新たに創造されるためには、まず破壊されなければならない。
まるでワグナーの世界のような激烈で悲劇的なパッションとアジテーションが満ちていますが、同時に次の日には恋人との愛らしい対話も交わされています。初期ナチズムの思想がドイツ人の心をとらえたのは、単に野蛮な独裁の恐怖ではなく、出口のない焦燥に満ちた若い感性であったのだと思う。親衛隊は真っ白な手袋をしてワーグナーに心酔しながら、冷酷に事務処理作業のようにガス室でチクロンBを散布したのです。いま日本の閉塞感は、自閉した私的空間へと孤立し、若者はひっそりと声を潜めているように見えますが、ひょっとしたらくすぶり続けている若い感性がマグマのように噴出する時がくるかもしれません。三島由紀夫は頽廃する日本社会の現状に焦燥感を抱き、天皇制絶対主義による再生をねらうクーデターを試みて失敗し腹を切って死にましたが、彼のねらいはもっと明るいかたちで着々と実現しつつあるパラドクシカルな状況があります。若者のパッションを現代で組織するのはコバヤシとかいう漫画家でしょうか、それとも燃えるような心臓と冷ややかな頭脳を併せ持つ理性の人でしょうか? かってのドイツはそのパッションとルサンチマンの獲得をめぐって、激しくナチスとコミュニズムが争い、ナチスの謀略主義が勝利しました。現在の日本でも刺客などと称する、ありとあらゆる種類の謀略がソフトに微笑しながら蔓延し、気がついたら身動きとれない状態になっているようです。ガキのようなチルドレン議員が「料亭へはやくいってみたい」とまるで遠足に行くような気持ちで議会で活動し、ほほえましさと妬ましさの入り交じる庶民の興味を引いては衆愚制選挙で勝利しています。これが1930年代と2000年代の違いです。その真相と真実は現代のほうがはるかに見抜くことが難しい。あなたの味方だと、激しく抵抗勢力を攻撃しながら、けっして暴力の恐怖ではなく、あたかも自分から進んで投票用紙に名前を書き込ませるかのようなメデイアによるマインド・コントロールが進んでいます。いま日本は、社会学の教科書に解説されている「微笑するファッシズム」をリアルに勉強することができます。それは画家になりたくて挫折したアドルフ・ヒットラーのルサンチマンの表出と同じなのです。(2005/10/8
16:44)
[日本の女優に超美人が少ないのはなぜか-個性型「オタク」文化の陥穽]
私がいまはまっている韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』の主演女優は、日本でいうと吉永小百合風のキリッとした精神性ある美女だが、日本のドラマではこうした女優はおそらく起用されないだろう。日本の女優は容姿端麗というよりも、なにか影のある個性か、または没個性のアイドル風の少女だ。中国の女優は、万人に1人という超美形の雲の上にいるような存在であったが、いまは勇気と個性のある「隣家小妹」(隣近所にいる普通の女性)が熱烈に支持されているという。この現象を「反偶像(アイドル)」と云って議論が盛んになっているそうだ(莫邦富氏論考参照 朝日新聞8日)。
かって日本の女優を代表する歴史的存在は、幻の女優といわれる原節子であり、彼女は戦前期に日本を代表してドイツにいってヒトラーと握手した。小津安二郎映画の常連であった彼女は、貞節で清らかでけなげに振る舞う戦前女性の象徴であり、当時の理想的女性のモデルであった。しかし私は余りにも日本人離れしたギリシャ風の彫りの深く瞳の大きい容貌に、男性にかしずく戦前期女性の姿とは違和感を覚えた。いま原節子が登場しても、スターにはなれないだろう。彼女はあくまで雲の上から微笑む天上の女神のようなイメージであり、憧憬の対象ではあっても視聴者との一体感を感じ感情移入させるものではないからだ。
いま中国で進む「隣家小妹」を求める「反偶像」現象は、中国市民社会が少しづつ成熟し、価値観が多様化して個性を求める市民意識が芽生えつつあることを示している。かっての原節子型偶像崇拝は、水戸黄門の葵の印籠に土下座する庶民の心情と本質的には同じであって、そこには「個」はなかったのだ。過去の中国映画は、集団の苦悩と喜びを描いて個人は集団へ奉仕するイメージでしたが、現在の中国映画は集団の中での個人の苦悩と喜びを描いています。着実に中国は現代的変容を遂げつつあります。
こうした個性の行き着くところに日本の「オタク」文化があります。「電車男」のヒットや、アニメ・ゲームなど独自の趣味の世界にのめり込んでいく現象です。「オタク」の定義は、「特定の分野・物事しか関心がなく、そのことには異常に詳しいが社会的な常識に欠ける」といういささかネガテイブなイメージで、暗い印象を与えています。アンケートによる「オタク」イメージは、視野が狭い・気持ち悪い・あか抜けない・個性に富む・モテない・うっとうしい・かっこ悪い・話が長い・博識・話がおもしろい等々で、個性に富むまでが圧倒的に上位にあります。「オタク」著名人のダントツは宅八郎で、その他タモリ・みうらじゅん・森永卓郎・やくみつる・荒俣宏・伊集院光・小泉純一郎・岡田斗司夫・山田五郎と続くのですが、私は小泉純一郎ぐらいしか詳しく知りません。
私は「オタク」というマイナスイメージの言葉で大事なものが消去されているような気がします。なにか一途に熱中する異才をもつ人が異端視され、排除されていっているような気がします。何ごとかをなした人はある「オタク」性をもった人ではないでしょうか。色濃く残る集団主義文化の異端排除の傾向が、「オタク」を生んでいるような気がします。ただし「オタク」の一部に他者に対する冷酷な無関心と自己閉塞があることも事実です。「オタク」のパッションとちからを、歴史を切り開くフロントランナーの方向へ発揮したらいいのではないでしょうか。(2005/10/8
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[頽廃する世界帝国のオオカミ陰謀理論]
ニューヨーク市長が記者会見して差し迫る地下鉄テロの脅威を警告し、警戒態勢を5段階の上位2位にランクするオレンジにし、駅での荷物検査を実施している(6日)。ブッシュ大統領はイラクを対テロ戦争の最前線と位置づけ、シリアとイランをテロ支援同盟と攻撃した(6日)。ところがNYについては、国土安全保障省や他の情報機関が「この情報は疑わしい」と述べ、在米イラク大使館は「武装勢力のうち外国人は5%以下で大半はイラク人だ」と述べて実質的に両氏の演説を否定している。同時に行われたブッシュ氏の演説は次のようなものだ。
「イスラム過激主義は共産主義と同じで全体主義的目標を追求するエリート主義だ。それは旧ソ連の強制収容所、中国の文化大革命、カンボジアのポル・ポト大虐殺と同類だ。罪もない市民を政治的理想の犠牲にする。アラブメデイアは憎悪と反ユダヤ主義を煽り、陰謀理論を垂れ流している。イスラエルのヨルダン川西岸は駐留であり、占領ではない。過激派が暴力の口実に利用してきた。神が『ジョージ、アフガニスタンに行ってテロリストと戦え』と命じたので実行した。すると今度は『ジョージ、イラクの圧政を止めてこい』と言ったので実行した。今は『パレスチナに国家を、中東和平を実現せよ』という神の声を感じている。だからこれを実現する」
驚いたことにブッシュ氏は神の声を聞く神託政治をやっているのだ。ヨルダン川西岸のイスラエル軍の存在が占領ではなく駐留であるならば、歴史上の占領はすべて駐留になるだろう。西岸での反イスラエル武装闘争を続けるヒズボラは合法政党であり、すべてのアラブ諸国は「占領への抵抗」と評価している。米国はイスラエルの占領やテロと核武装については一切批判せず、そのダブルスタンダードは際だっていたが、ブッシュ氏はなぜこの時期に反テロ危機を煽る演説を行ったのであろうか。
すでに前国務長官が自らの国連での大量破壊兵器演説を「私の生涯の最大の汚点だった」と自己批判しているように、イラク戦争の大義が虚妄であったことが明らかとなり、現地イラクでの米兵死者が1200人を超えるに及んで、急速に米国内での支持率が低落し、ハリケーン襲来での無能が暴露されたことで政権は末期症状を呈している。膨大な軍事費支出で国内の災害対策費用は削減され、膨大な被災者が放置されている状況は、もはやアメリカモデルが世界を主導するという幻想が破産してしまった。危機感を煽って支持率恢復を狙うという、いつもの使い古した戦術しかもはや頼るものがなくなったという政権の末期症状を示している。
しかし東アジアのGDP世界第2位の国は、相変わらず崩壊したブッシュ・モデルにしがみついて、ゆがめられた選挙制度を利用した国会選挙の圧勝によって、当面の危機を湖塗し必死で延命を図ろうとしている。この国の現状は米国以上に惨憺たる実態に陥り、ある種の独裁を期待するようなファッシズム状況を呈しつつある。政権党は改憲案前文のアナクロニズムに満ちた原案を提示した。「国を愛する国民の努力によって国の独立を守る。国民は国民統合の象徴である天皇とともに歴史を歩んできた。国際社会において圧政や人権侵害を排除するよう努力する」などなど。率直に言って私は21世紀の初頭がこのような血塗られた反動が我が物顔で跋扈する世になろうとはまさか想像することもできなかった。おそらくここ2年から3年間が21世紀の日本の姿を決める決定的な分岐点になるようだ。(2005/10/7
17:35)
[自動車産業の世界的再編成ートヨタの世界制覇と日本の未来]
トヨタ自動車が2006年にGMを抜いて世界首位に躍り出る可能性が高まった。トヨタの生産目標は05年で828万台(前年比+74万台)ですが、米国テキサス工場が稼働する06年には米大手の牙城である小型トラック市場に本格参入し、900万台に到達すると予測される。トヨタの連結純利益は3期連続で1兆円を突破する成長を示し、GM・フォード・ダイムラークライスラーの3社純利益合計をはるかに超えるものとなっています。GMは04年に909万台を生産したが、05年には北米の減産を予定し(社員並み大幅値引き販売効果は一時的であった)、06年は900万台を割る可能性が出てきた。トヨタは名実ともに世界No1企業に成長しています。
GMは、特殊な車台とエンジン構造がネックとなって提携効果が出なかった富士重工株をトヨタに売却し、スズキ(20,4%出資)といすゞ(8,4%出資)とはエンジンと車両開発の合弁事業を展開しているが、環境技術開発コスト負担に耐えられず資産売却が進む可能性があります。ガソリン価格の高騰とハイブリッド技術の遅れによって主力の北米市場での販売が下降している。GM帝国の斜陽化によって、自動車産業の世界的再編成が進む可能性があります。
1990年代後半から規模の経済と環境技術投資を求める400万台クラブをめざした第1次再編成が進みましたが、巨大合併による規模の経済だけでは競争優位を構築できないことが明らかとなりました。競争優位の条件が、新車生産の世界同時立ち上げと市場投入に移行しているからです。限られた経営資源の選択と集中、弱い資源の相互補完関係形成が最大のポイントになってきました。規模の経済を追求したGM戦略が敗北したのです。
日本の自動車産業の国際化の過程をみてみましょう。1960年代は国内モータリゼーションによる国内市場重点で北米への輸出は少量でしたが、1970年代には生産システムの高度化と減量経営によって、品質・コストともに国際競争力をもち低燃費の日本車が急速に北米に輸出され摩擦を引き起こしました。1980年代にはいると、輸出自主規制による生産の現地化が推進され、日本車は高くても売れる競争力を獲得し、トヨタ生産システム(リーン生産システム)の競争優位性が明らかとなりました。同時にASEANへのSKD(セミノックダウン)が本格化しました。トヨタの海外戦略を、M・E・ポーターの3段階論で整理すると以下のようになります。
第1段階:単純なグローバル戦略 開発・生産の地域集中による規模と連結の経済(三河地域の下請分業システム)によって、高品質・低コストの比較優位で完成車を海外輸出する
第2段階:ホームベース戦略 開発拠点をホームベースとして三河クラスターに置き、生産拠点の現地化を進める
第3段階:相互補完戦略 開発・生産拠点を主要地域経済圏(日本・アジア・米州・欧州)ごとに自立配置し、現地資源を活用しながら部品や完成車の相互供給と補完関係をつくる
次の段階は生死をかけた総力戦の様相を呈するでしょう。日本の海外生産台数が国内生産台数を上回る06年は、本格的なグローバル企業戦略が問われます。それは従来の各国経済が段階的に発展する雁行型発展が終焉し、同時並行型発展へと市場の質的大転換が起こっているからです。雁行型発展段階では、日本のマザー工場でシステムを立ち上げそのノウハウを日本人技術者が出向して、現地の発展段階に応じて順次に海外生産に移行しますが、同時並行型発展段階では、絶えず最先端を走る日本のマザー工場のノウハウをマニュアル化し日本での現地人研修によって、全世界で同時に新モデル生産を実現する。つまり規模の経済→連結の経済→速度の経済へと競争条件が移り、新車生産世界同時立ち上げ(世界同時モデルチェインジ)体制の構築が今後の競争優位のポイントになる。情報通信によって世界の同質化と同期化が進み、顧客の新たな流行需要がほぼ全世界で同時・同質に変化するようになったからです。トヨタは新車生産世界同時立ち上げ体制の構築をめざして、ハイブリッドエンジン、レクサス・プレミアム戦略、CCC21(新原価低減活動)、IMV、WARP(世界部品即時調達システム)、GPC(グローバル生産推進センター)、トヨタインステイテュート等のプロジェクトを立ち上げていますが、果たしてうまくいくのでしょうか。
第1に懸念されることは、速度の経済に企業組織の経営理念(信頼)・企業文化(社員の行動特性)・アイデンテイテイ(誇り)が追いついていかないのではないかということです。従来のトヨタの企業文化は、否定の力(危機の超克)・品質重視・カイゼン・系列一体化・自前主義等の特徴を持っていましたが、激変する世界戦略で既成の文化に揺らぎが生じ新たな企業文化への移行が遅れています。
第2に、ハイブリッド(プリウス)の成功によって慢心と奢りが生じ、危機を打開する否定の組織力が衰弱しています。開発投資と効果の点でホンダに劣りつつあります。F1に進出したのはこの危機感があります。第3に、レクサスを除いて品質評価が10位に転落し(米国評価会社)、韓国・現代自動車にも抜かれつつあります。第3に、作業のマニュアル化が進み、現場作業が形式化・官僚化して、従来のカイゼン力が衰弱しています。第4に、系列によるシナジー効果(危機の時の下請転嫁)が現地化で通用しなくなったことです。第5に、競争優位を実現してきた従来の三河中核の内向き・単一文化の自前主義が限界にきていることです。
しかし私が最も重視することは、トヨタ一人勝ちによるトップリーダーの指導精神の衰弱です。トップリーダーは自社シェアのみに責任を持つのではなく、社会全体の利益を実現する社会的構想力を持たなければ、自由な競争市場を生き抜くことはできません。「わが亡き後に洪水は来たれ」という閉塞した経営理念では、企業自体の社会的承認は得られません。そうしたリーダーのもとにある企業は必ず組織の硬直化と官僚化が進み、自由で大胆な発想をする人材は遠ざけられ、斜陽化が始まります。日本経団連の最高スタッフを独占しているトヨタが主導する社会経済的発言は、社会的弱者への支援削減や労働基本権の剥奪など狭窄した提言に終止し、とても日本のナショナルミニマム全体を視野に入れた社会的責任を自覚した発言ではありません。極端な例で言うと、トヨタの急成長カーブと日本の自殺率カーブはパラレルで進行しているのです。市場の基盤となっている市民社会が疲弊し、不安社会が深化して、国民購買力が失われて経済全体が低迷しているなかでトヨタ一人が高笑いするのを放置しておけない状況が必ずくるでしょう。いまトヨタシステムが自動車のみならず他の産業や、また社会保障や福祉・教育・芸術などすべての社会生活にモデルとして浸透しつつあります。この行き着く果てに何があるのでしょうか。小泉・奥田体制によって、日本は富と貧困と頽廃のめくるめくような両極分解の地獄でしょうか。おそらくこの2〜3年で結論が出るでしょう。以上・小坂隆秀「世界に進出するトヨタの新戦略」(『経済』122号)参照。(2005/10/7
11:48)
[カトリーナはワーキング・プアを見捨てたが、日本ではー松下電器魚津工場・請負社員の場合]
松下電器魚津工場(半導体生産 富山県魚津市)には、約1000人の正社員と600人の請負労働者が働いています。請負労働者の勤務実態をみてみましょう。
2交代制 9:00−21:00 21:00−9:00 休憩時間2回1時間30分 実働10時間
4勤2休 日勤で4日連続勤務し2日間休み、次週は4日連続して夜勤(月12回) このサイクルが繰り返される
深夜勤務手当 定額の1−2万円支払い
このシステムは、労基法の1日8時間・週40時間の上限を週12,5時間、月52,5時間を超える違法状態にあり、36協定の上限をも超えています。同社の正社員は労基法内の2勤2休システムで法規内になっています。松下へ請負労働者を送っているアウトソーシング社(本社・静岡市)は北海道から沖縄まで全国から集めていますが、過酷な業務で大半が1週間程度で退職していきます。その実態をみてみましょう。
半導体基盤生産は窓のない半地下の暗室でおこなわれ、作業は休憩時間に食い込み食事は5〜6分で終わらせる。常に移動する動作で1日10km以上は歩く。工場の近くにあるアパートでは工場外の地域との交流はなく、休日は疲れていても眠れなく、たまにいくのはパチンコ程度。
いま15−34歳の平均年収は正社員が387万4000円で、非正規は105万8000円と正社員の27%となっており、非正規は45%を占めています(UFJ総研調査)。月10万円を切る賃金は生活保護基準を完全に下回っており、日本では健康で最低限の生活を営むことができない勤労貧民=ワーキング・プアが激増しています。ワーキングプアの先進国はいうまでもなくアメリカです。政府基準の貧困ライン(夫婦・子ども2人の4人家族で年収200万円未満)を下回る米国貧困層は、3700万人(前年比110万人増)となっています。この大半は最低賃金(時給5,15ドル)並みかそれ以下の低賃金労働者であり、黒人を含む白人低所得者やヒスパニックに集中している。米国貧困層の大半は、福祉の受給者ではないのであり、富裕層の税負担が貧困層の福祉を支えているというのは事実ではなく、貧困層の低賃金労働が富裕層の富をもたらしているのです。
カトリーナ襲来でニューオーリンズから脱出できなかった人の多くは、ワーキングプアであり、ガソリンが買えない、車がない、バスに乗る金がない、ホテルに泊まる金がない、預金も保険もない人が自分の家を離れることができなかったのです。カトリーナ襲来で約21万人が失業による失業保険を請求しましたが(米労働省 9月22日発表)、他の大半の貧困被災者は失業保険に入っておらず、彼らに職が廻ってくるのは一番最後になります。これが自己決定・自己責任を謳歌する新自由主義市場原理のアメリカン・ドリームの姿です。日本は構造改革を掲げて米国型をめざして突っ走っていますが、その街は将来武装ガードマンが警備する少数の高級住宅街と他方で累々と横たわるホームレスの青テントが見事に対比される景観をうみだし、東南海大地震の被害は恐るべき非対称性をもたらすでしょう。(2005/10/4
8:57)
[近くで子どもの泣き叫ぶ声がする・・・・そして私は]
下の道から何か子どもが絶叫し泣き叫ぶ声が聞こえてくる。大人がなにか云っているがよく分からない。子どもは何の演技もしているのではないから、モロに自分の悲しみを訴えている。ちょうど注射を打たれる前の子どものようだ。じょじょに声は小さくなって遠ざかっていくようだ。かって子どもの泣き声は、それがどんなに激しいモノであろうと、近隣から微笑ましい笑顔を持って受け入れられていた。しかし今はなぜかギョッとする。この世の追いつめられた極限の状態にある悲鳴のように響いてくる。でもこんなにリアルな子どもの声が聞こえてきたことは久しくない。いま子どもたちは個室に密閉され、そこで家族がどのようなふるいまいを演じているのか皆目分からなくなった。ひょっとしたら陰湿な虐待が繰り広げられているのではないかと思いながらもそれは想像でしかない。街は何事もなかったかのように夕陽が沈んでいく。隣のぜんそく気味の老人の苦しそうな咳が聞こえてくる。咳はやまない。いつまでも続く。かっては、子どもの泣き声を気にし、老人の咳を心配して、家を出ては様子を聞きに行ったのではないだろうか。いま私はそのような行為に及ぶことは決してない。ただ耳に聞いては、その推移を少し気にかけながら自分の家にとどまっているだけだ。
こうした日常の異変は制度に委ねられて、誰か市役所の人が職務として対応するというシステムが浸み通って、互いに自分の市民生活を安穏に保つことに越したことはない。そうなのだ。私たちは近代世界に生きているのであって、過ぎ去った田舎の共同体に生きているのではない。近隣とはただ空間的に近接して居住している隣人の関係であって、そこになんの地域の紐帯もないというのが近代の原理だ。それを個の自立として宣揚し、共同体の煩わしさから解放された自由の空間として解放されたかの幻想を手に入れたのが私たちだ。ほんとうにそれが人間の世界なのだろうか?という疑問は、個人の取得した貨幣量によって救済もされ、打ちひしがれもする。
明日からのいったん家を出ずれば七人の敵ありという現場にい出ゆくために、今宵はやすらかに過ごし眠らねばならない。たとえ近くで子どもの泣き叫ぶ声が響き渡り、老人の咳が止むことなく続いたとしても、私は決して介入などしてはならない。
夏が過ぎてコオロギやスズムシが一所懸命にさえずる夜になると、彼らが奏でる声がなにかわびしくなって、来し方と行く末を想うこともあるが、それはつかの間の感傷に過ぎない。明日の朝に満員電車に乗って会社に着けば、私の心は生き生きと躍動し目の前にある仕事の遂行に熱中する。このようにして私の半生は過ぎてきた。これからもこのスタイルを崩すことなく、私は今日から明日へとワンダーフォーゲルのようにさまよい飛びゆくだろう。泣き叫ぶ子どもよ、咳に苦しむ老人よ、しょせんあなた方とは無縁な世が形づくられて、幾ばくかの痛みを覚えながらも見捨てられていく、そういう世界に間違いなく私たちは生きているのだ。いつの間にか、子どもの泣き声と老人の咳は聞こえなくなり、いつもと同じように静寂の中を車の音が聞こえてくる。かくて世は何ごともなく昨日と同じように過ぎていく。私もこのエッセイの入力を終えてお茶を飲みに行く。
(2005/10/1 20:08)
[東京枝川朝鮮第2初級学校は廃校に追い込まれるのか]
03年12月に東京都は、突然江東区にある枝川朝鮮学校に対し、校舎取り壊しと校庭の明け渡し、90年以降の地代4億円の支払いを求めて提訴した。この提訴に正当性があるのかどうか歴史的経過をみてみたい。
枝川は旧東京市が戦時中の41年にゴミ焼却場しかない埋め立てたばかりの荒れ地(都有地)にバラックの市営住宅を建て、東京オリンピック(戦前)のために近隣に住む朝鮮人を強制移住させたことに始まった。戦後になっても都によるインフラは整備されず、朝鮮人たちは自力で水道、ガス、道路を整備し建物を修理してきた。戦後直後につくられた朝鮮学校に対し、48年・49年に民族教育を禁止する閉鎖令を出して強制的に都立学校にして正規授業から朝鮮語を追放した。60年代後半から自治体の支援が始まり、72年に東京都は枝川学校に対し年300万円の地代を支払えなくなった70年にさかのぼって、20年間の都有地無償貸付契約を結び、期間終了時点で学校が存続しておれば善処するとし、90年以降も払い下げ交渉と無償貸付状態が続き、新契約を結ぶまで地代は請求しないという態度をとってきた。ところが石原都知事になってから態度が急変し、不法占拠として明け渡しを求めるという事態になった。
明らかにこの転換は石原なる都知事の個人の偏見的主観が大きく影響している。彼は都内の犯罪を外国人に押しつけ、”中国人をみたら犯罪者と思え、第3国人で東京の治安が悪化した”などと数々の排他的暴言を繰り返してきたアジア系外国人排斥論者だ。日本政府は、外国人学校を各種学校として扱い続け、国連人権委員会から同等の扱いをするように何度も勧告を受けているがすべて無視してきた。その主要なターゲットは朝鮮学校だ。石原なる人物の民族ショービニズムがここにきて極まった。自治体が現に学んでいる学校を廃校に追い込み、子どもたちを不安に陥れ、教育権を奪う先頭に立っている。一般不法占拠とは明らかに異なる歴史的経過があり、外国人の民族教育を保障するの義務があるのもかかわらず、こうした行為を恥じらいなく決行する神経はもはや人間的神経の持ち主とは云えない。ホームレスの立ち退きすら、ちゃんと公設シェルターを用意して立ち退きを実行している。しかも在日朝鮮人の多くは、日本政府によって強制連行され他律的に日本列島に居住してきたという日本が免れることができない贖罪の部分だ。明治以降の日本的近代の闇の世界が権力のかたちをとって暴発し、市民もまた加担するという構造が隠然として残留している。福沢諭吉の「脱亜入欧」に象徴されるように、白人に媚びへつらい、有色系に優越感を抱くという日本人の無惨な精神構造がまたさらけだされた。
折しもアメリカの人種差別の根深さを示す事態が起きている。ベネット元米国教育長官がラジオのコメントで「犯罪を少なくすることだけが目的なら、この国のすべての黒人の赤ちゃんを堕胎すれば犯罪率は下がる。話にならないばかげた、道徳的に非難されることだが犯罪率は下がる」と露骨な黒人差別発言をおこない(28日)、ハリケーン「カトリーナ」の黒人地域の救援の遅れと相まって全米から激しい批判が殺到している。よくみるとこの発言は石原都知事の暴言と同じではないか。かの国では政権は末期症状を呈しつつあるが、この国ではどうか。(2005/10/1
12:09)
[偏見による差別ー太めの顔は就職に不利(フランス社会学者の実証統計)]
肥満が就職に影響するかどうかを調査するために、フランスの社会学者ジャン・フランソア・アマデユー(パリ大学差別研究所所長)がコンピュータで求職者の顔写真を太めに加工し、本物の顔写真と分けて応募した。白人学生の2種類の顔写真を貼付して50通を接客セールス系100社に送付し、別の白人学生の履歴書50通も電話勧誘係を求める100社に送付した。結果は以下の通り。
本物写真を送った100社のうち、面接日を聞いてくる前向きな対応を示したのは57社
太め顔を送った別の100社で前向き対応を示したのは29社
業種別では、接客係での前向き反応は本物64%、肥満20%。電話勧誘係での前向き反応は本物50%、肥満38%
同じ会社に本物と肥満顔の双方を送ったのではないので厳密な比較はできないが、相対的に明らかに肥満顔は不利だという結果となった。フランスでは肌の色などの身体的特徴で採用の可否を決めることは違法行為であるが、実際には見かけによる差別行為があることが実証された。教授は履歴書から顔写真を外すべきだと主張する。朝日新聞10月1日号参照。
電話勧誘係は容姿が関係ない業種だが、接客係は容姿を一定の基準にするのではないかと一瞬考えたが、おそらくそれも違法な差別行為にあたるのだろう。写真で見る2種の写真は、1つは鋭くもう一つは明るく開放的で確かに印象が全く異なる。日本では採用にかかわる法的規制は明文化されておらず、憲法による「人種・信条・性別・社会的身分・門地」による個別裁判の判例の実定法によって規制されているのみだから、容姿による採用差別は野放し状態だ。就職試験向けの整形手術がかなりおこなわれているそうだし、顔つきや表情で候補者を選ぶ投票者も結構いる。ある新人女性議員はミス東大コンテストの優勝者だそうだ。日本では笑い話で過ぎていく話が実際には多くの悲喜劇を生んでいるが、大まじめに差別問題として糾弾することはない。こうした事例を研究対象とするフランスはやはり人権大国なのだろうか。私も肥満顔でダイエットを気にしているので、少々気になるニュースであった。(2005/10/1
9:14)
[裁判官が「自らの良心と憲法のみに従う」場合があるんだ!ー小泉首相靖国参拝大阪高裁判決(30日)]
憲法20条は戦前期の神道国教化によってもたらせられた信教の自由の蹂躙の反省にうえに厳しい政教分離規定を設けている。一宗教法人に過ぎない靖国神社になぜ行政の長たる総理大臣が参拝するのかー普通の小学生でも疑問を持つだろう。いうまでもなく靖国神社は明治以降の政府の戦争に従軍して死亡した人を「英霊」として顕彰(武勲を褒め称える)している特殊な宗教法人であり(A級戦犯を合祀して事態は一層複雑化した)、首相も「いざという場合に命を捨てることに敬意を持つ」として参拝を繰り返してきた。大阪高裁はこれを総理大臣としての職務行為にあたる公式参拝とし、特定の宗教活動にあたる憲法20条違反と明確に判示した。すべてのアジア諸国は、私的であろうが公的であろうがA級戦犯を慰霊する行為を戦争犯罪を免責するとして全面批判してきた。私は本日の夕刊の報道をみて4つの点を指摘したい。第1はアジア諸国からみた心情的な問題であり、第2は日本の国内法からみた純法理論的な問題であり、第3は私的参拝であるのもかかわらず判決批判を展開する政府高官の姿勢、第4は怒濤のようなコイズミイズムの蔓延の中で司法にまだ「良心」が残っているという驚きである。
第1のアジアからみた靖国参拝への信条は、台湾人原告の次のような言葉によく示されている。
「違憲かどうかは日本人の問題で私たちにとっては大きなことではない。関心があるのは、日本の謝罪と賠償だ。日本人でない私たちの祖先の霊が、日本の神として祀られているのはおかしい。靖国に合祀されている祖先の霊を返してほしいという私たちの小さな願いを靖国神社は理解してほしい。私たち台湾の原住民が人殺しをした人と一緒に祀られていることは納得できない。どんな権利があって遺族の意志に反して死者の霊を祀るのか。遺族の祖霊を祀る権利を否定し、そこへ参拝する首相は私たちを愚弄している」(台湾原住民タイヤル族・高金素梅さん(40歳) 父が高砂義勇隊員として戦い死亡)
「首相の参拝は近隣諸国に対し、戦争のできる軍事大国となったと宣言する軍国主義復活の証明だ」(陳明忠さん(76歳) 関東軍部隊に所属)
これらの言葉は靖国神社の戦争神社の本質を鋭く突き、遺族の意志を無視する独裁性をさらけだしている。私は頭を垂れざるを得ない。
第2の純法理論的な問題は、政教分離規定の司法判断基準にある。津地鎮祭訴訟最高裁判決では、政府の行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教への援助・助長・促進・圧迫・干渉になる場合は憲法20条3項違反であるとし、社会的通念によって判断するとし、一般の伝統的習俗儀式は宗教活動ではないとしている。29日の東京高裁は、公用車の使用を「公務の完了前に私的行為をおこなった必要な措置」とみなして首相の職務ではなく個人の信教の自由による私的参拝としたが、大阪高裁は公用車使用と秘書官同行、私的か公的かを曖昧にした場合は公的と見なされる、数回にわたる参拝が靖国を特別支援している印象を与え特定宗教への助長と促進になる違憲の行為と判示した。信教の自由の侵害の範囲を「公権力による強制」から「圧迫、干渉を受けない権利」まで拡大した大阪高裁判決は強い説得力を持っている。私は大阪高裁判決を支持する。
第3は政府高官たちが一斉に大阪高裁判決を攻撃している奇怪な事態だ。「大変遺憾だ」(官房長官)、「非常に暴論だ。する必要のない憲法判断をしている」(首相周辺)などなど。参拝が総理大臣としてではなく小泉個人の行為であれば、政府全体としては司法判断に謙虚に耳を傾けるべきであろう。司法をゆるがす行政権の優越をこれほど示している例はない。小泉首相は頭にきてこんどは司法「改革」に乗り出すのではないか。
第4は司法権独立の問題だ。正直に言って、私は高裁レベル判事に反政府的な判決を下す良心を持った人がいることに驚いている。ということは小泉劇場の演出にいかに私たちが巻き込まれているか、小泉劇場が憲法基準からみてどれほど逸脱した振る舞いを演じているかに麻痺している状況があることを示している。おそらくこれから憲法を遵守する判事を排除する司法制度改革が始まるだろう。「首相が参拝するのがいまの憲法に反するというのなら、憲法のほうを変えるまでだ」(奥野信亮議員)とまでいう違憲議員が現れている。まるで自分のために基本法をいくらでも変えることができると思いこんでいるかのようだ。立憲民主制の理念を軽々と蹂躙してはばからない太陽族都知事は決して異端ではないという雰囲気が流れつつある。
政府は賠償論で勝利しており上告できない、原告も上告しないだろうと予測され、大阪高裁判決は最高裁判決がないまま画期的な確定判決となる可能性が高く、仙台高裁(91年)、福岡高裁・大阪高裁(92年)と確定違憲判決が定着しており、今までのすべての裁判で合憲判決はゼロであり、今回の大阪高裁判決はそれにとどめを刺す。ここに最大の現実的効果が生まれるだろう。最後に違憲判決を出した下級審判事の昇進は絶たれるという。そうしたハンデイを乗り越えて、自らの良心のみに従った判事に敬意を表したい。
付)憲法20条@信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。B国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
国家賠償法1条@国又は公共団体の公権力の行使にあたる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずる。(2005/9/30
18:48)
[手首にはめるホワイトバンドを300円で買った]
1998年に国際サッカー連盟はワールドカップで使用する公認ボールの製造での児童労働を禁止し、02年日韓ワールドカップ大会ははじめて児童労働でつくられたサッカーボールが使用されない大会となった。児童労働とは、「義務教育年齢の子どもが教育を受けられず、危険な環境や不公正な条件で18歳以下の子どもを働かせる」ことをいう(年齢や体力に見合う仕事で適正賃金が支払われるアルバイトや家の手伝いは入らない)。ILOの02年統計では全世界で2億4600万人の子ども(5−17歳)が児童労働に従事している。これは世界の子どもの6人に1人にあたる(公式統計なので実態ははるかに超える)。児童労働の約70%は対外債務にあえぐ途上国の先進国へ輸出する商品作物のプランテーションの生産現場にいる(コーヒー、紅茶、カカオなど)。たとえばケニアの13歳の少女は、学費が払えずコーヒー摘みに従事し、バケツ1杯=10シリング(15円)で1日60シリング(90円)を稼いでいる。彼女は朝6時から深夜まで働き、農薬が体内に蓄積していく。
インドのサーカス団の危険度の高い演技をさせられ、オーナーの性的虐待を受けている少女たちは、毎年1万2000人以上がネパールからインドに売られてきた。インド洋沖津波の被害を受けたインドネシアは人身売買で少女が農村から姿を消した。エルサルバドルのゴミ捨て場で働く少年の1日収入は20コロン(180円)であり、カンボジアでペットボトルを集めている5歳の子どもの収入は500リエル(15円)だ。最悪の児童労働は、子どもの人身売買(ILO182号条約で禁止)で、日本人のブローカーが230万円で13歳のタイ人少女を買い受け、売春斡旋で摘発された。少女は月3万円を故郷の家族に送金していた。飢餓線上をさまよう親は、子どもを売ることによって子どもを飢え死にから逃れさせている。貧困が児童労働の原因となり、児童労働で成長力を失った子どもはまたさらに自分の子どもを売るという悪循環が生まれる。先進国のサッカー選手は、火傷したように手が腫れ上がった少女が手縫いしたボールを蹴り、女性たちは空腹で朦朧とした少年が摘んだ一粒数百円の高級チョコレートをおいしく食べている。日本のあるCVSは、期限切れの食品を年間約400億円廃棄して営業利益430億円を稼いでいる。日本のCVSの売れ残り商食品は年約60万トンで、毎日300万人分の食料を廃棄処分にしている。
日本にも児童労働は存在した。16世紀から大正期まで操業した石見銀山(島根県)は、10歳代で仕事を始め20歳まで延命したら奇跡であり、25歳で還暦祝いがおこなわれた。こうして採取された銀で貨幣が造られたがその貨幣を手にするのは金持ちだ。先進国入りした日本は、過酷な3K労働を途上国へ移転し、いまや児童労働による商品を満喫する国となった。しかしこうした2億4600万人の子どもたちを「ほっとけない」として、世界のNGOはシリコン製のバンドを1本300円で売り、その売り上げ金を救援に回すホワイトバンド運動が起こっている(「ほっとけない世界の貧困」キャンペーン)。しかし自分の腕にホワイトバンドをはめて、運動に賛同する歌手のライブに熱狂しているだけでは児童労働はなくならない。児童労働によらない公正な貿易品を買おうというフェアトレードが拡大し、世界貿易量の10%を超えた段階で残りの90%の製品に影響を与えようと取り組んでいる。10%を超えると、他の企業は児童労働無使用原料を確保し、その宣言を競争優位とする企業間競争が一気にはじまるという経済法則があるからだ。児童労働による製品輸入を禁止する法案が米国議会に提出され、その最も大きな被害を被るナイキは製造過程の再検討をはじめた。
児童労働が、Slow Death(静かに迫る死)を強制する奴隷労働(04年度ノーベル平和賞受賞 ワンガリ・マータイ)だとすれば、多国籍企業のグローバル商品に囲い込まれて翻弄されている先進国の消費者もまた消費の奴隷だ。果たして少女の血が染みこんでいるサッカーボールを蹴って楽しいか、子どもたちの汗がにじんでいるカカオ豆から作られたチョコレートはほんとうにおいしいか?(2005/9/30
10:40)
[愛知万博とは何だったのか]
愛知万博の正式名称は「愛・地球博」であり、この命名ははじめて地名をはずした万国博覧会であった。「愛知」のネームバリューがないので「あいち」を「愛・地(球博)」と言い換えたのだ。それだけ主催者はみずからの地域アイデンテイテイーに自信がなかったのだ。しかし愛知万博は、市民の世論によってはじめて計画が変更される最初の万博となった(最初の予定地・海上の森が自然保護で国際万博協会の批判を受ける)。計画が変更されたのは市民の異議申し立ててであったが、もし国際万博協会の公式批判がなかったなら愛知県は強行したに違いない。それほど愛知県行政のアイデンテイテイは低レベルなのだ。しかし国家総動員体制でファナテックに推進された大阪万博に比べて、市民がはじめて前線に躍り出てインパクトを与えた点で画期的な意味があった。
第2の特徴はトヨタを中心とする企業が運営の中心に座る企業万博であった。大阪万博では、批判を受けつつも前衛芸術家やアーテイストが参加していたが、愛知万博は企業が前面に出た。広告代理店が全体企画を推進し、理念よりも大衆の欲望に追随するポピュリズムの手法で運営された。目玉はマンモスと金鯱、大正期民家程度であり、後は新奇をてらす企業パビリオンが林立した。名古屋駅近くのささしまサテライトも、スター・ウオーズ展とかポケモン遊園地、80年代デイスコの再現など支離滅裂な関連企画であり、デイズニーランドにはるかに及ばなかった。ある理念を凝集するような世界大で発信するイベントはなく、映像としても視聴率は低かった。
第3は最初から目標入場者数を低く設定し、それすら達成できない恐れから大々的に児童・生徒を動員するために行政は学校見学を無料とした。結果はつくば万博の入場者数を上回ったと喜ぶレベルでしかなかった。地元のリピーターが400万人以上を占め、県外からの見学者は少なく、海外からの見学者はほとんどいなかった。要するに世界的な国家イベントとしての認知はなく、大きな地方博であったに過ぎない。
なぜ21世紀を切り開く原理的な理念を失敗覚悟で鋭く打ち出し得なかったのか。たしかにテーマ自体は「自然の叡智」という根元的なものでったが、内容は地球にやさしいとか癒しのレベルでしかなかった。愛知県の二酸化炭素など温室効果ガス排出量は、年間8395万トンで全国排出量の6,5%にのぼる環境破壊の元凶県である。こうした根元的な環境問題についてはなにも語られず、高速道路をつくっては排ガスを撒き散らすという矛盾した政策を展開した。19世紀に始まって世界大で産業革命を主導する勧業政策の巨大プロジェクトとして出発した万国博覧会の歴史的意味がなくなったのだ。開発型の理念による国家事業として万博を位置づける意味がなくなって転換期を迎えたときに、まだ企業中心に「自然の叡智」を追求するというパラドックスを抱えては、新たな創造的理念を創出することはできない。
結論的に云うと愛知万博は、従来の開発型公共事業としての経済効果を企業にもたらすという従来の枠にとどまり、世界博としての21世紀をきり開くことには失敗した。県財政を湯水のように注ぎ込んで、巨大空港や高速道路をトヨタ本社所在地を中心に張りめぐらし、トヨタ万博というようにトヨタがひとりほくそ笑む結果となった。「おかげさまで道路を非常に良くしていただいたので近くなりましたよ。道が良くなってグリーンロードも複線になりましたからね。スイスイいけて昔より早く藤岡のゴルフ場なんかへ行けるようになりましたよ」(豊田章一郎トヨタ自動車名誉会長 万博協会会長)という言葉が象徴的だ。万博関連事業費(中部空港、リニモ、名古屋瀬戸道路を含む)は、05年までに3278億円にのぼり、県債残高は過去最悪の約4兆円に達した(05年度当初予算見込み)。万博・空港の経済効果を2兆5000億円とし、2本目の空港滑走路の建設、中部経済産業局「グレーター・ナゴヤ・イニシアテイヴ」(外資企業誘致政策)、「国際交流大都市圏」の新たな大型公共事業構想を打ち出している。ところがこの直後にアメリカン航空が中部空港からの撤退を発表し構想は頓挫した。生活関連公共事業は衰弱し、アスベスト飛散の恐れがある公立学校は愛知県が最多の15校(5233u)にのぼっている(文科省調査)。子どもの命を危険にさらして、ポスト万博の愛知県財政は破綻し巨大なツケが市民に廻ってくるだろう。ではこうした万博の本質を見抜いたドイツ市民が、ハノーバー博をボイコットして失敗に追い込んだにもかかわらず、愛知万博には一定の市民が殺到したのか。ここに実は市民社会の成熟を問う本質的な問題がある。五十嵐太郎氏論考(朝日新聞9月28日)参照。(2005/9/29
8:52)
[国連憲章を信じる奴は馬鹿だ! 太陽族都知事の暴言を許す心情は何か]
東京都知事の暴言のオンパレードは、特別公務員としての資格を喪失している。その一端をみてみよう(詳しくは暴言データ集参照されたし)。
(2003/3/4都議会予算委)「私はあの憲法を認めません」
(2004/12/8都議会本会議「私は命がけで憲法を破るんだ」
そして極めつけが昨日27日の都議会本会議で飛び出した。
Y議員「日本の戦争が侵略戦争であったという、国連憲章にも明記された戦後国際政治の原点を認めるのか、認めないのか」
石原都知事「国連憲章の精神って何ですか。そんなもの金科玉条なんですか。国連ってそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないですよ。今頃国連憲章なんて、まともに信じている馬鹿はいませんよ。国連憲章に何がうたわれようと、内部が腐敗しきった国連の実態、戦後60年たってもなお戦勝国条項なるものがまかりとおるいびつな仕組み、運営がある。そろそろ国連信仰をお捨てになったらいいんじゃあないですか」
あなたはこの都知事発言を聞いてどう思いますか。日本の小中学校で勉強している教科書をも真っ向から否定していますよね。こんな貧しい発想しかできない人が首都を代表しているのです。彼は前にも”文明がもたらした最も有害ないものはババアだよ。女性が生殖能力を失ってもなおババアとして生きているのは犯罪だ”とか”精神病者には人格がない””フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなと云う気がする”などと暴言を垂れ流してきたが、今回は国際社会の大前提を否定して国連憲章を”馬鹿”呼ばわりするに至った。都議会はただちに問責決議を可決すべきでしたが、抗議声明を出して終わっています。国際連合は、2度の悲惨な世界戦争の痛苦の体験を経て創立された国際平和組織であり、日本も国連憲章を遵守するとサンフランシスコ条約に明記して復帰しているからだ。彼は国際関係の原点を否定して、A級戦犯を崇拝し第2次大戦を聖戦として肯定している。彼の個人的思想は自由だが、首都の知事という特別公務員の立場からみれば明らかに公務員法違反の公的発言である。日本政府外相は国連総会一般演説で、分担金削減を脅迫して常任理事国入りを求め、途上国へのODA援助と引き替えの多数派工作を展開し、失笑と軽蔑のまなざしを浴びて退場した(すでにODAは2000年比38%も削減しているにもかかわらず)。日本の常任理事国参入がアジア諸国で全く支持を得られないのは、侵略戦争を正当化する靖国参拝をおこなうなど国連憲章の基本理念に泥を塗る行為にある。今回の都知事暴言によって、日本の孤立は極限まで進行し米国でさえも苦々しく叱責している。
問題はこうした暴言の連鎖を許す心情の背景には何があるのかということだ。どうして誰も心の底から怒らなくなったのでしょう。ひょっとしたら職場や学園で同じような沈黙が蔓延しているのではないでしょうか。矛盾が沈積して不安社会が広がっているなかで、政治的な頽廃がすすんでも無感覚になっているのはなぜか。フロムは『自由からの逃走』で没落する中間階級の不安が自由を否定して独裁を求める心理現象を解明し、フーコーは精神的な管理社会の監視社会化を説いたが、私は市場原理主義と民主主義の二律背反を指摘したい。討議のプロロセスを重視して少数意見を尊重しながら時間をかけて結論に至る国民主権の方法は、経済的効率性原則からみると非効率だ。経済社会の矛盾が深くなればなるほど、トップダウンの決断と司令による効率最大化という企業論理が社会全体に波及する。グダグダ言わずに単刀直入に明確に断言せよーという断言主義が心地よさを生み出す。政治世界での権力維持は、虚構によるワンフレーズが大衆操作の手法としてますます効果を発揮する。たとえば郵政の次は公務員制度改革として、猛烈な公務員攻撃が展開されているが、公務員の主要な問題は高級官僚の癒着などにあるにもかかわず、公務員すべてを特権階級として攻撃し、悪の権化としている。一般公務員は過労死するほど必死に働いているのもかかわらず。いま一般公務員は飲み屋に行っても肩身を狭くしていなければならない。特定の問題を激情的に争点化して、アレカコレカの二者択一に流し込んで選択を迫るポピュリズムの手法が制覇している。正義や真理をまじめに追求する姿勢は煙たがられ、鳴り物入りの面白さに引きずられて、隠れていた本音と汚い欲望が表面に姿を現して噴出しようとしている。若い新人議員が「グリーン車もタダだ。はやく料亭に行ってみたい」というのも素朴な欲望の本音であり、いままで決して口にしない常識のレベルを逸脱しても、オモシロ劇場の注目を集めてメデイアが殺到する。かくしてモラルのメルトダウンが深化し、自分たちの異常な状況を異常と認識できなくなる頽廃が進む。社会全体を覆う気分が正気を失って、翻弄されつづける大衆は最後に取り返しのつかない惨めな事態に陥る。ナポレオン3世からアドルフ・ヒトラー、ムソリーニ、東条英機をヒーローとして讃えたあげくに知った痛苦の体験をもう一度この国は味わうのだろうか。(2005/9/28
11:01)
[縄文編布(アンギン)の蘇り]
アンギンとは、弥生期に織布のp技術が波及する以前に、縄文期に編まれた最古の編布である。カラムシ(麻の一種)、アカソ、イラなどの草皮や樹皮の繊維を原料に、俵や菰を編むのと同じ用具と技法を用いて編み上げる。江戸期の文献に記されているが、実物がなく幻の布といわれ、1953年(昭和28年)に新潟県津南町の秋山郷・結東集落で小袋が発見され、1960年に同町樽田集落でアンギン製品とともに、工具一式と製作体験者(当時92歳)が発見された。津南町役場の滝沢秀一氏(87歳)は、調査活動を続け、県内でアンギンの帯や前当て、袖無し着を相次いで発見した。60年に上山遺跡(新潟県山北町)から土版の裏面にアンギンの布目圧痕、65年に山王遺跡(宮城県)からもアンギンの布断片が発見されて、古代編布の存在が確定した。その後13県の遺跡からアンギンの圧痕・布目・繊維などの出土が相次ぎ、津南町周辺で発見されたアンギン製品と工具一式が、76年に国の重要有形民俗文化財に指定された。
江戸期の文献では日常衣服として多用されたアンギンはなぜ消滅して記憶までも薄れたのか。アンギンづくりが男性の手仕事であり、明治期になって木鉢やこすきなどの木工品による現金収入が主流となって、アンギンは消滅していった。秋山郷・大赤沢小学校は学校挙げてアンギン製作に挑戦し、農と縄文の体験実習館「なじょうもん」で小袋や敷物の製作体験ができる。滝沢秀一『編布(あんぎん)の発見ー織物以前の衣料』(つなん出版)参照。
日本の衣服ファッションの源流をはじめて知った。なんともロマンがあり、日本衣料ファッション史はその最初のページを書き換えなければならない。しかし資源や環境が問題となっている現代で、こうした古代編布はエコロジーの原始形態としてむしろ注目しなければならない。自然繊維を用いた現代衣料開発の最前線におおきな示唆を与えるのではないか。(2005/9/28
9:32)
[働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり じっと手をみるー激増するワーキング・プア]
戦前期の原始的貧困を啄木はこのように詠んだけれど、いまふたたび新たな装いを持ってこの歌が登場しつつある。ワーキング・プア=ちゃんと働いているのに最低限度の生活ができない状態の人が急増している。最低限度の生活の基準をどこに置くかで違ってくるが、ここでは生活保護基準を中心にみてみよう。
○就学援助受給児童・生徒数、比率(義務教育就学困難な児童・生徒対象 生活保護基準の1.2〜1,3倍を基準)
1997年・78万人→2002年度・115万人 →小中学校家庭の25−35%程度が生活保護基準以下と推定される
都立高校授業料免除者
1999年・3,9%→2003年・9,3%(職業高校17,41%)
○夫婦2人+子ども世帯収入
500万円未満 1997年・146,4万世帯(23,8%)→2002年・188、6万世帯(30,9%)
*大都市部の生活保護基準概算値 4人世帯500万円 3人世帯440万円
400万円未満 同上 68,9万世帯(11,25)→ 同上 98,8万世帯(16,2%)
→22%程度がワーキング・プアと推定される(医療費と高校以上の教育費は含まない)
○勤労単身者世帯収入平均消費支出 第1分位155万円 第2分位191万円
15−34歳非在学者男性雇用者収入 250万円未満 28,1% 200万円未満 14,8%
単身者生活保護基準 2級地 140万円
→20%近くの若年男性労働者が生活保護基準以下のワーキング・プアと推定される
○最低賃金基準(東京710円 710×8×30=月17万円)では生活保護最低生活費(夫婦2人+子ども=24万円)をまかなえない
いずれの数値からみても日本で働いている人の最低約20%(5人に1人)がワーキング・プアーとなる。この傾向は今後ますます進むと予測される。日本はかなり危険なメルトダウンが迫っていることが分かる。なぜなら@まじめに働いても報いられない社会だという実態が明らかとなり、A働かないで生活保護を受けている人を攻撃して生活保護基準を引き下げ結果的に「貧困」層が少なくなり、Bさらに「生活できる賃金」という常識が解体して企業間競争により全体の賃金水準が下がり続けるだろう。Cその結果、統計的な貧困は消えても豊かな人とそうでない人の階層間格差がますます拡がるだろう。
アメリカの国民所得5階層の1973年ー2000年の所得の伸び率は次のようになっている。
低所得者層 12,1%
やや低所得者層 18,3%
中所得者層 26,6%
やや高所得者層 36,5%
高所得者層 66,9%
お分かりのように上位1/5層の伸びが極端で下位4/5層との間に2極分化社会が生まれている。金持ちがますます金持ちになるという社会であり、日本も遠からず1/5対4/5の両極に分化した2極社会になり、4/5に大量のワーキング・プアが出現するだろう。
いまや「豊かさ」をめぐる常識がもはや根底から崩れつつある。
@社会全体が豊かになれば貧困はいつかは消えていくという常識(例:中国の先富論)
A貧困は個人の努力不足という常識
B飢えやボロ着という貧しさの常識(例:ホームレス)
まじめに働いても報われないという事実は、個人責任説を吹き飛ばしシステムそのものを問い直すことになるだろう。そのシステムとは椅子取りゲームのことだ。ある部屋(社会)のスペース(空間)は限られ、全員分の椅子(資源)がないとすれば、人々は互いに椅子を奪い合って誰かが必ず座れなくなる。ところが座れる椅子もデラックスなものから壊れている椅子まで多様にセットされている。このゲームが繰り返されると、最上級の椅子に座る人は固定化され、自分の親が座っていた椅子に子どもが座るようになり(世代の履歴効果)、格差は固定化されて椅子がない人の子どももまた座れないというシステムが完成する。個人に責任があるという神話は打ち砕かれて、椅子取りゲーム社会というシステム自体を問題とする時が必ずくる。
世界銀行は貧困を所得基準でとらえ、国際貧困線を途上国1日1ドル以下、ラテンアメリカ1日2ドル以下、東欧1日4ドル以下、先進国1日14,40ドル以下(米国基準)とし、先進国の国内貧困線を個人可処分所得中央値の50%に設定してはじめて貧困の国際比較をおこなった。
ロールズはゲーム理論を修正したマクシミン・ルールをつくって、「もっとも恵まれない人が優先的に椅子に座る」ということを条件に格差を認める分配の正義論を考え、完全雇用とソーシャル・ミニマム保証と累進課税を提案し、アマルテイア・センは人間の「潜在能力」を開花させる人間開発指数(HDI)を提案している。それは「平均寿命」・「成人識字率・教育就学率」・「一人あたり実質GDP(購買力平価換算)」の合成であるとし、この3指数から乖離したレベルを「人間貧困指数(HPI)」とした。しかしこれでは先進国の貧困を測ることができないので、「60歳未満死亡予想人口」・「薬瓶の指示を読み取り、子どもへ読み聞かせができる機能的識字」・「個人可処分所得が中央値の50%を切る収入」・「12ヶ月以上の長期失業」という社会的疎外を加えたHPI2という基準が開発された。このHPI2基準で日本をみれば、個人可処分所得中央値50%を切る層と12ヶ月以上の長期失業者が急増して、日本の貧困率は先進国中でトップとなった。
現代日本はおそるべき椅子取りゲームが極限まで進行する格差社会になりつつある。椅子を求めて奪い合う段階は既に過ぎて、じょじょに椅子は特定階層に固定化した指定席になっているにもかかわらず、しかしまだ椅子が手に入るだろう、もっといい椅子に移れるだろうという幻想を抱いて最後の奪い合いをする凄絶な様相を呈している。
WHO統計で日本の自殺率は上位10位(他はすべて旧東欧圏のアイデンテイテイ危機)に入り、中高年男性の生活・経済苦による自殺が急増している。若者は手取14万円で生活し、刑務所は囚人が溢れ統制不能に近い。刑務所増設の補助金を求めて自治体は誘致に殺到している。自動列車停車装置をけちったJR西日本は死者107人に上る大惨事を起こし運転手に責任を押しつけている。住宅リフォーム詐欺の主犯は20歳代の若者で、ネクタイしめた青年社員が認知症の老人を騙し抜いている。西武、カネボウなど経営トップが重犯罪の詐欺行為をおこなって恥じない。一方で議員は2世3世でないと立候補も当選もできない時代となった。少なくとも機会の平等は喪われた。これらはシステムのメルトダウンの予兆に過ぎない。迫りくる東南海大地震とともに日本社会の危機が迫りつつある。不安は強者を待望し、微笑しながら振る舞う明るい独裁者を圧勝させた。不安と怨念を対外的に振り向ける戦前型ウルトラ・ナショナリズムが強まるだろう。しかしこうした痛苦の経験を経て学習を積んだ人々は累々たる屍体のの果てに、システム自体のパラダイムを根底から覆すことに気づくだろう。ピンチの裏の顔にはチャンスと記されているが、チャンスを自覚するのは相当に困難だ。じっと手をみながら、そこに何を発見しどう動き出すのかにすべてがかかっている分水嶺の時代がきた。『ポリテーク』No10参照。(2005/9/25
12:55)
[Elio Vittorini『CONVERSAZIONE IN SICILIA』(岩波文庫)]
なんとも濃密でシュールな文体で引き込まれる。著者はイタリナン・ネオリアリスモの代表的な作家。小学校しか終えていない著者は、最初はムソリーニのファッシズムに賛同し、コーポラテイズム協同体主義の理想を追っていたが、次第にムソリーニの虚像に失望してスペイン内戦ではっきりと反ファッシズムへ転換する。この小説はファッシズム批判をムソリーニ共鳴者に届けるためと検閲をくぐり抜けるためのシュールな暗喩の手法を駆使している。文体そのものは会話中心で分かりやすいが、その裏にある含意は注釈を参照しなければ意味をつかめない。
シシリアという独特の共同体の風土が色濃く反映され、自然と人間のラテン的な濃密さに圧倒される。階級と貧困が支配する南欧での、普通の民衆の心情の一端に触れたような気がする。ファッシズムの心情的な基盤が貧しき者の尊厳の恢復にあり、その心情は同時に左翼のものでもある。資本家と地主への反発の情念が共通しているのだ。ひるがえって日本の戦前期の農本主義的なファッシズム・イデオロギーにも共通した心情があったようだ。初期ファッシズムの共通した心情だろう。しかし現代の右翼はいわゆる新右翼はのぞいて、星条旗と大資本に屈従した排外主義へと転落している。其処に供給される青年層は、明らかに学校から排除されたアウトサイダーや暴走族出身が多く、中堅層も右翼ビジネス化して理論としては空疎なものに堕している。この作品は、イタリアのファッシズムの伝統的基盤と心情を体験的に表現し、反ファッシズムへの回路の可能性を探そうとするイタリア左翼の精神的遍歴の書だ。(2005/9/25
9:24)
[プラザ合意から20年・・・荒廃した破綻国家が漂流している]
米国の巨額の双子の赤字を救済する日米英独仏の秘密会談が、1985年9月22日にプラザホテル(ニューヨーク)でもたれ、日本(竹下蔵相)は自発的に10%以上の円高許容を申し出た。米連邦準備制度理事会が驚愕した提案だ。その後の推移は日本の予測をはるかに超えて円高・ドル安が進展し、85年・9月1ドル=240円→年末・200円→86年・160円→95年・80円となった。日本経済は一気に円高不況に陥り、輸出関連地場産業の倒産、大企業の海外展開による空洞化、国内賃金抑制などリストラとコスト削減の嵐がはじまった。日米政策協調による内需拡大政策の実施で、公定歩合5%→2,5%という超低利金利政策による通貨供給量の異常膨張による株・土地のバブル経済、銀行の過剰融資による巨額不良債権によって破綻に直面した。このときにドイツ連邦準備銀行は、米国の圧力に抵抗し金利引き下げを拒否して、対米自立の独自経済圏を構築した。破綻国家米国の生き残り戦略は、2つしかなくなってしまった。1つは強大な軍事力による威嚇戦略と軍需経済であり、他は自らに屈従する衛星国家への市場参入に他ならない。
これだけの犠牲を他国に強いた米国経済の貿易不均衡は是正されたのか。米国の財政・経常収支の双子の赤字は放置され、軍事費膨張によって貿易赤字は6000億ドルを突破した。これだけの赤字を抱えてなぜ米国政府は破綻しないのか。他ならぬ日本が巨額の資金を流し込んでいるからだ。常に日本の金利を米国の金利より低く設定する「写真金利」によって日本の資金が高金利の米国へ流れ込むシステムが作られている。日本は輸出系大企業(自動車、電機)などが海外生産を推進し、国内は熾烈なリストラによって輸出競争力を維持するなかで、社会的経済は崩壊しつつある。日米金利差を利用した金融自由化によって、米国の投機マネーが全世界を跳梁し一国経済を震撼させる事態が誘発されている。米国利益を優先する日本の政策協調路線の限界と矛盾がますます深化している。ドルに対抗するユーロや東アジア共通通貨基金を無視してひたすら米国追随の道を進む日本の異常さが浮き彫りとなっている。円ドル運命共同体に包摂されて、日本は米国とともに地獄への道をまっしぐらに転げ落ちつつある。あたかも影に脅えて突き進むかのように、不安が相乗化して深まり、破綻を回避する先送りによってさらなる破綻を招き込んでいる。遂には日本国民の虎の子の財産である郵便貯金を政府保障からはずして民営化し、米国へ流し込んで助ける最後のサービスが始まりつつある。
日本の経済システムが崩壊状態にある事態を劇的に示したのが、大手会計監査法人である中央青山の企業会計監査だ。すでに中央青山は山一証券、ヤオハンジャパンの粉飾決算を見破れなかったばかりか、驚いたことにカネボウの粉飾を自ら指導したのだ。国際基準で監査する上場企業監査はトーマツ、中央青山、新日本、あずさの4大監査法人が独占し、デタラメ決済を容認する独占市場となっている。中央青山は、カネボウには業績不振の小会社をダミー会社に保有させて連結対象から外す粉飾手法を指南し、山一には巨額の飛ばしを見破れず監査適正証明を交付し、ヤオハンジャパンには転換社債の購入者に1億円の賠償金を支払い、アソシエーション・テクノロジー社の粉飾決算を見抜けず、足利銀行の旧経営陣の違法配当に加担して11億円の損害賠償を求められている。同じような不正会計に加担してエンロンを破綻させた米国アンダーセン会計事務所はすでに解散しているが、中央青山は依然としてトヨタ・ソニー・東京海上日動火災・日本郵船などのクライアントと契約を結んで会計監査を行っている。もはや企業倫理とコウポレイト・ガヴァナンスが破綻しているのが日本経済の現状だ。
自ら巨額の財政赤字を抱えて外資系資本の蹂躙に委ねた日本政府は、金融的には独立国の主権を喪失して東アジアの米国属州に転落しつつある。遠からず発生する米国債の崩壊とドル危機は、日本を直撃してその息の根を止めるだろう。危機からの脱出は可能か。「改革」という合い言葉の怒号は云っている本人の不安を表しているに過ぎない。ほのかにみえる道は、自立した東アジア共通通貨による地域経済圏再構築の道だ。ここにしか脱出の道はないことを誰しも気づきつつある。
10月になろうとしているのに昼は30度をはるかに超えて暑い。米国南部はハリケーンの度重なる来襲で壊滅状態だ。北大西洋の海面温度上昇で上空の気流が攪乱されて巨大ハリケーンが発達している。すでに国連が数十年前に警告したシュミレーションどおりに地球環境が不可逆的な破滅への歩みをきざんでいる。京都議定書を破棄した米国は自らの実体験でその償いをしているにもかかわらず、誰しもおかしいぞ・・と思いながら、せいぜい政府の救援体制の不備を非難して終わっている。もはや終わりの始まりなのか。そうではない。システムの欠陥がじょじょに姿を現しつつあるに過ぎない。システムそのものを改変すれば事態は鎮静に向かう。周りを見ると娘たちは化粧に忙しい。学校では暴力といじめが横行している。愛なんとか博といって物見遊山に押し寄せて入場者数の増大を自画自賛している。地球環境を最も破壊している自動車会社が実質的に主催している博覧会に。この宴の後には荒涼たる財政赤字が横たわっているのもかかわらず。この虚妄の時代を誰が想像しえたか。批判が物質的力を得ないままニヒルな気分が蔓延している。つかの間の虚栄の祭りによって一時的ななぐさめにひたっても、痛烈なしっぺ返しが待ちかまえている。その時になって、間違えていた、騙されていたという取り返しのつかない事態になる前に、両目を開いてしっかりとリアルに凝視しよう。未だ生まれこぬ未来世代のために。あなたの息子、娘のために。(2005/9/24
8:25)
[落ち込み症候群を超えて]
身の回りや世の動きが自分の考えと違っているようなときに、私たちは落ち込んだり、時には鬱などの気分障害になる。鬱病は21世紀の国民病となっている。市場原理による競争の蔓延は、勝者と敗者の両極に人間を分解し、子ども期からの葛藤や軋轢の量が溜まって許容限界を超えると気分障害が発症する。互いに他者を気遣い手をさしのべあう人間の自然な関係が衰弱するなかでこの傾向はひろがる。鬱病の対症療法は抗うつ剤の投与による薬物療法が即効性をもつが、環境そのものが変わるわけではないから再発の可能性もある。そこで環境に対する思考のありかたをかえる認知療法が併用される。認知とは「ある状況を察知して処理する能力」をいう。メンタルクリニックによる認知療法の開発はめざましいが、認知療法にも限界がある。認知療法とはなにか。ある状況に際して多面的に問題を考えて新たな結論を導きだすカウンセリングの技法をいう。その特徴を見てみたい。
1)感情は思考の影響を受けるー会議で久しぶりにあった友人に声をかけたが、相手は振り向かないというケース
○思考T:失礼だ、無視されて侮辱を受けた→怒りの感情が誘発
○思考U:私に興味がないのか、私はみんなに気をかけてもらえない→悲しみの感情が誘発
○思考V:私とは話したくないのか、なぜだろう→不安の感情が誘発
このようにある感情はその前に頭に浮かぶ思考(自動思考)に影響を受けている。
2)思考・感情・身体反応は相互に影響しあう
ある状況下での否定的な思考(T〜V)→怒り、悲しみ、不安の感情→動悸、息苦しさ、涙、立ちすくみなどの身体反応
3)認知(思考/感情/身体反応)のゆがみがないか
@白黒思考:曖昧な状況に耐えられずものごとを割り切ってしまおうとする
A決めつけ思考:根拠や証拠がないのに思いこんでしまう
Bべき思考:○○すべきだーと行動を限定したり、アレコレと過去を悔やむ
C自己責任思考:なにかマイナスが起こると自分のせいだと責める
小泉首相は、白黒思考(改革か否か)と決めつけ思考(抵抗勢力は去れ)という認知のゆがみを利用して圧勝したが、不況下で落ち込んでいる国民のこころをとらえた。これらの思考は、鬱病という個人の疾病にも現れるが、時代の国民心理にも現れる。では認知のゆがみを避けるにはどうすればいいか。
感情に先立つ自動思考の根拠となっている事実とは異なる(矛盾する)事実を取り上げて、それらを比べながら視野を広げた適応的思考を導き出す。考え方を変えてみると、マイナス感情がやわらいでいく。しかし自動思考にあるゆがみは、その人の個性でもありうるからすべて否定する必要はない。白黒思考は決断力でもあり、べき思考や自己責任思考は責任感と誠実さの表れでもある。ゆがみはそれがあるバランスを超えているところに誘発される。
郵政民営化に対する公営化の+面の指摘、改革の中身の吟味などなど認知のゆがみをさける直前思考が働いていたら、選挙結果は違ったものとなっていたであろう。要するにものごとを多面的に、発展的に見ることが大事であり、基本は環境それ自体を人間的なものに再編成することだ。以上は野末浩之氏の論考参照。(2005/9/21
10:02)
[知的障害者を徴兵して放擲した旧日本軍部ー清水寛氏(埼玉大)調査から]
太平洋戦争期に精神疾患を発症する兵士が続発した日本軍は、兵士を国府台陸軍病院(現・国立精神・神経センター 市川市)に収容し、1937年ー45年に1万人以上が入院した。同病院が保存する8002人分のカルテ(病床日誌)を分析した結果、徴兵検査時に知的障害があったとみられる兵士が484人(6%)いたことが判明した。入院時期は37年度・4人→44年度・157人→45年度・81人であり、ほとんどは入隊数ヶ月で収容され、敗戦間際になるほど重度障害者が増大していた。カルテは1人当たり数十枚の記録が綴じられ、入隊後の経過や身体・知能の検査過程が詳細に記録されていた。
兵役法では、「疾病その他身体又は精神の異常がある者は、兵役を免除す」とあり、知的障害者も免除対象となっていたが、戦争末期には兵士の不足から徴兵が急増した。戦地で身体的、精神的傷病を負った兵士は、恩給や療養費が支給されたが、知的障害者は大半が戦地で精神疾患を発症したにもかかわらず、もともと障害を持って入隊したと見なされ、恩給と補償の対象外とされた。兵役を免除さるべき多くの弱者が戦地に駆り出され、想像を絶する戦場で新たに疾患を発症した知的障害を持つ兵士は一切の補償を受けず戦後を生きたのだ。
千葉県出身のある男性は、42年1月に20歳で召集され、一等兵として中国河北省に送られたが、適応できず43年3月に国府台病院に送還された。カルテには、「算数力ハ零ニ等シ」と記載され、精神年齢は6歳8ヶ月とされていた。最終的に重度知的障害と診断され、3ヶ月後に退院したが、戦地派遣で精神的バランスが崩壊し、カルテには「症状悪化」と記されている。戦地での急速な精神状態の悪化が詳細に記されているが、政府は恩給の対象としなかった。茨城県出身の男性は、20歳で徴兵されたが、入隊後の脱走で国府病院に装置され、知的障害と診断された。カルテの聞き書きでは「点呼に立つのが恐ろしい。夜になるとみんなが叩いたりする。兵隊が嫌になってしまった・死んだ方がよいと思って抜け出しました」と記している。
戦争という極限状況のなかで、社会的弱者から「処理」の対象となっていくことを示している。ナチスは知的障害者の断種を実行した。少なくとも484名の名誉回復のために、政府の謝罪と補償が求められる。時効はない。(2005/9/20
19:44)
[「親鸞・悪人正機説に甘える近代真宗学」ー梅原猛氏の主張(朝日新聞9月20日)について]
梅原猛氏の主張の概要は以下の通りです。
西本願寺の書庫に眠っていた親鸞『歎異抄』が注目されたのは、古典文献研究が盛んとなった江戸中期であり、妙音院了祥『歎異抄鈔聞記』はその著者を唯円とした。『歎異抄』が知られるようになったのは、明治末期の近代真宗学の開拓者である清沢満之とその弟子である暁鳥敏、佐々木月樵、金子大栄の系流である。『歎異抄』第3章「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」に象徴される悪人正機説は親鸞思想の中枢に位置づけられ、倉田百三・三木清・丹羽文雄・野間宏を経て親鸞礼賛者を生み出した。しかし親鸞思想の中心に悪人正機説を置くのは間違いである。親鸞思想の中核は彼自身の著作である『教行信証』にある。その信の巻に、親鸞は自分の親を殺したアジャセ王に自分を比して、人間の根元にある悪を鋭く見つめている。次の証の巻で二種廻向説が説かれる。法蔵菩薩は難行苦行で48の願いを立てて阿弥陀仏となり、善行を人間に廻向した。その廻向は、どのような悪人でも口承念仏すれば極楽往生する往相廻向と、極楽浄土へいった人間がまた衆生救済のためにこの世に帰るという観相廻向の2種がある。
極楽に行くと阿弥陀仏の世界のすばらしさを知るが同時にこの世で悩める人間の姿も見えてくる。悩める衆生を救うために念仏者はいつまでも極楽にとどまらず(利他行)、またこの世にかえってこざるを得ないのだ。近代真宗学はこの二種廻向説を無視してきた。近代科学から見て浄土へ行くのも幻想であり、そこから回帰するのもまた幻想に他ならないからだ。しかしこの幻想は、人間を個としての主体で見るからであって、現代生物学が明らかにした遺伝子(DNA)の永遠の旅を考えると必ずしも幻想ではない。悪人正機説に甘える近代真宗学は、永遠性と利他行の思想が欠如している。二種廻向説による新たな真宗学が望まれる。
フーンそういうものかなと思う。私もはじめて高校時代に、親鸞の悪人正機説に接し、その深いヒューマニテイに感じ入った覚えがあります。親鸞思想に感心しながらも私の関心はマルクスに向かい、そこに展開される「疎外論」に悪人正機と本質的に共通した悪の観方があるように思いました。それから親鸞思想を横目で見ながらも深入りすることはありませんでした。そのなかで私はある特徴に気づいたのです。それは、なにか人生で挫折したり痛手を受けたり、大切なものを喪失する限界状況に直面した人の多くが、途中から親鸞思想に没入していく傾向があることを。しかもそうした人の多くは、ヒューマニズムや唯物論を探求していた知識人に多いということを(服部之総、吉本隆明、高史明氏など)。もちろん思想の自由はありますからそれ自体を難じることはできませんが、私にとって不可解なことはそれまでリアルな変革と実践を説いていた人が雪崩をうつように親鸞思想へ傾倒していくことでした。特に在日朝鮮人である高史明氏が深く親鸞思想へ傾倒し、それを他者に宣揚するに至って、私の疑問は深まりました(彼が最愛の子息を自死に至らしめたという体験を契機としていることは分かりますが)。率直に言って地上の挫折を天上の救いに求める逃避の姿勢がうかがえたのです。さらにそれを自己にとどめることなく、他者に宣揚するという行為ははなはだ私の疑問を深めました。こうした親鸞思想の現代的受容の形態がますます親鸞から私を遠ざけたのでした。
いっぽう親鸞教団の現代的展開のなかで注目すべき動向があらわれました。他のどの宗派にもまして、戦後親鸞教団(東本願寺派)は戦争の罪責を告白し、強烈な反戦活動を展開しはじめたのです。こうした教団活動と悪人正機説の思想がどのように結びついているのか判然とはしませんでしたが、梅原猛氏の二種廻向説の再生の呼びかけは貴重な示唆を投げかけているのではないかと思います。
浄土を感得した人が他者を同じ浄土にいざなう悪人正機説は、自らの悪を凝視して救われぬ自己を阿弥陀にゆだね、浄土入洛の資格を得るということに他なりません。いったい「悪」そのものはどこかへかリセットされる可能性があるのではないでしょうか。悪から救われて浄土へ行った人が、ふたたびこの世へと回帰し、リアル世界での救済行為に身を捧げるという観相廻向にこそ親鸞思想の中心があるとすれば、罪を犯してなおリアル世界に生きてある自分の存在の意味を再定義することができるのではないでしょうか。私は梅原氏の遺伝子(DNA)の生物的な永劫回帰説は保留しますが、少なくとも悪人正機説を「甘え」と断ずる彼の言葉にいささかの共感を覚えます。少なくとも巨悪から微悪に至る垂直的な悪のヒエラルヒーがそそりたっているリアル世界で、すべての悪をひとしなみに水平的に位置づける国民総懺悔の危険を回避することができます。以上は、親鸞研究の最前線をほとんど知らない一学徒が、梅原氏に触発されて直感的に記したエセーにすぎません。ご批判を期待します。(2005/9/20
10:46)
[萌えカルチャーとはなにか]
「萌え」を広辞苑でひくと、次のような語句がある。
「萌え出ず」:@芽ざす。芽ぐくむ。生じる A心にきざす 例)さわらびの萌え出づる春になりにけるかも(万八)
「萌える」 :@芽が出る。きざす。芽ぐむ A利息が付く
要するに「萌え」とはながい冬をくぐりぬけた若芽がいっせいに芽ぐむ初春を云い、人間にとっての輝かしい青春の出発を意味するに違いない。いま若者の世界に「萌え」系カルチャーの大流行があり、「萌え」関連市場規模は888億円にのぼり(浜銀総合研究所レポート)、萌え要素の強い書籍、映像、ゲーム、玩具企業の株価は急上昇している。経産省も03年にゲーム、アニメ、音楽等のコンテンツ産業を日本の有力な輸出産業として支援を開始した。秋葉原はいまや電気街から萌え系グッズを扱う商店がひしめき土日ともなると若い男性が殺到する。8月に東京国際展示場で開催された「コミックマーケット」は、3日間でのべ48万人が参加し、コスプレ広場は1万人が集まった。
アニメや漫画、ゲームに登場する2次元の架空のキャラクターに惹かれる若者の心情は何であろうか。男性だけでなく少女もキャラクターを模したコスチュームをする「コスプレ」ファンが激増している。彼、彼女たちは目を輝かせて好きなキャラクターを語る。
「彼女は僕の理想のすべてだ。やさしく、きれいで、かっこいい。彼女に出会って僕は変わった」(20歳 男性フリーター ときめきメモリアル2の陽ノ下光に夢中)
「かわいいし、ドキドキする。架空恋愛かもしれないが現実とは分けている」(27歳 男性社員 妹系年下キャラに夢中)
「かわいいとほめられてうれしい。コスプレをはじめて積極的になれたし友だちが広がった」(19歳 女性フリーター フリルのピンク系メイド服で)
「現実よりもずっと楽しい。学校では話の合う人もいない。現実の恋愛は喧嘩もあり考えることが多い。ここは絶頂に楽しい」(専門学校生 自作衣装で)
男性は、かわいく・楽しませてくれる仮装の女性に憧れて没入する。そこでは好みの女性がすぐに見つかり、辛いこともなく傷つかない世界がある。女性も、生身の自分をリセットし、バーチャルな存在に変身して男性に認められる快感を味わう。要するに両者ともリアルな世界では容易に入手できない相互承認行為の安心を実現している。萌えに没入する若者は決して特異なアウトサイダーではなく、ごく普通の若者たちであり、仮想の限界をわきまえている。萌えに熱中した後には、翌朝に会社や学校に出かけてリアル世界に生きている。問題はリアル世界の壊れやすく傷つきやすい人間関係と格闘するのはつらいのだ。現実から逃避し、投げやりになる自分をくい止め、つかのまの充実を味わう対象として「萌え」の世界がある。そこには、つながっている・認められているという安心の世界がある。ひょっとしたら「萌え」系はライオンヘアーに投票した人たちかもしれない。しかしそのバーチャルな世界の一部は、仮想と現実の境界が危うくなって幼児ポルノや死体嗜好という犯罪世界ともつながっていることも事実だ。
問題はこうしたリリックで繊細な若者の心情を商品対象として市場化するビジネスが異常に発達しつつあることだ。次々と新しいキャラクターを生み出しては「萌え」市場を膨張させるコンテンツビジネスが急成長し、もはやサブカルチャーからメーンカルチャーに成長している。幼少期からゲームやアニメ、漫画の消費文化の渦中で成長し、個室でカチャ、カチャと器具を操りながら刺激を味わうジコチュウーの人格が成長する。少子化のなかで家族内での兄弟間葛藤や、地域での異年齢児童集団の集団遊びのなかで培われる生々しい体験は喪われ、児童文化の個室化・個人化が進んでいる。そして成長した青年期には、世界や未来への拡がりをはばむ激しい競争の世界が待ちかまえていることを充分に知っている彼らは、はやばやと人生から降りる不安に襲われながら、必死で正規社員の道を探していかなければならない。
「萌え」カルチャーを逃避的な青少年文化ととらえたら、日本の未来は暗い。”誰が私をこうしたか”という問いは、団塊の世代がつくり出したリアル世界の市場原理システムに向けられねばならない。若い世代が自ら好んで自らの生を空虚なものにするはずがない。彼らは自分に悔いなく生き抜く対象を求めている。ただ単に与えられたものではない、自分で何かを創り上げていく喜びを求めている。自分の限界を乗り越えたときに味わう充実とすがすがしさを知っている。彼らは一歩前に出たがっている。しかしそうした機会の平等は喪われつつある。彼らの目の前にある厳然としてそそり立つリアル世界は、若者の介入を決して許さない。その世界に直面する時点ですでに、勝ち組と負け組のグループ編成が完了している。集団体験が衰弱した子どもの時代を経て成長した青年は、途方に暮れて投げやりになるか、仮想の世界でつかの間の自己実現を味わう。「萌え」カルチャーの世界は、そうした危機にある若者たちの救済の場だ。彼らは何年かの「萌え」の時期を過ごした後に、リアル世界での自己存在を証明するための不可逆的な過程にはいるだろう。仮想現実に求めた対象を、リアル世界で実現する試行をひとつひとつ積み重ねていくにちがいない。そのときにもはや「萌え」は、若芽が一斉に芽吹く本来の意味を恢復するに違いない。(2005/9/19
11:12)
[米軍基地アスベスト被害にみる米国のダブル・スタンダード]
米海軍横須賀基地の日本人労働者と遺族がアスベスト被害の慰謝料を求めた裁判で、賠償金7億1千6百万円のうち米軍側が1億9千4百万円を負担することで合意したそうだ。米軍の不法行為による従業員事故の賠償は、日米両国に責任がある場合は均等負担を規定しており(日米地位協定18条)、1億8480万円慰謝料支払いを国に命じた確定判決(02年横浜地裁横須賀支所)を受けて、防衛施設庁が26人分の賠償金を米軍に請求していた。
アスベストはすでに1980年代に欧州で使用禁止となり、現在は英・仏・独・伊など先進国20カ国以上で使用禁止となっている。日本政府は04年にやっと原則禁止とし(但し代替品のないものは除外される)、完全禁止は08年まで先送りされている。米軍は「1970年にそれ以降建造されるすべての艦船と陸上施設の石綿全面禁止」措置を採り、国内基地はすべて完全禁止されたが、在外基地は1975年「指令」でアスベスト暴露規制を実施し、基準の厳格な施行と違反があった場合の作業中止を指示しながら実質的に使用を放置してきた。日本政府はすでに昭和30年代後半に危険性を熟知しながら米軍基地への踏査・監視を行わなず容認してきた。米国政府は自国基地の安全を保障しながら、海外基地は放置するという二重基準にある。
なぜ米政府は補償に応じたのであろうか。海外基地が集中する日本列島は、イラク後の戦闘地域として浮上しつつある東アジアの拠点として軍事力が強化されつつあり、在日米軍基地のミサイル防衛を推進する日米共同声明によって新たな戦争の発生率が最も高まっている地域だ。彼らにとって1億9千4百万円は安い保険金に過ぎない。おめでたいのは日本政府であり、均等補償原則を破る涙金の補償を喜んで押し頂き、日米パートナーシップの虚妄に疑問を抱かず、強者に媚びへつらう忠犬ポチ公として忠勤を励んでいる。もっとも象徴的な事例を紹介しよう。米陸軍大学の教官が持つ同盟国の信頼度を示す3重の同心円では、日本は一番外側の「その他」組に記載され、授業が情報の核心部分になると、「その他」組の留学生は教室から退去を命ぜられる。番匠幸一郎一佐イラク派遣隊長の留学体験から(『自衛隊 知られざる変容』朝日新聞社 参照)。
ここからかなりの飛躍を覚悟して米国の二重基準の背景を考えよう。第2次大戦時に米政府は、在米日系人の財産を没収して強制収容所に隔離した。では在米ドイツ・イタリア系市民に同じ措置を採ったか。米政府は広島・長崎に原爆を投下したが、同じ行為を独・伊にたいしておこなったであろうか。朝鮮戦争でマッカーサーが原爆攻撃を主張できたのはなぜか。カトリーヌの襲来がニューヨークであったなら、1週間も被災救援を手をこまねいていたであろうか。ベトナム戦争の米軍最前線で戦わされた米兵の大部分は誰であったか。独・伊駐留の米軍兵士の対市民犯罪はなぜ全員逮捕されて現地国の裁判にかけられるのか。沖縄の少女陵辱米兵はいまどこにいるのか。あれこれの諸例からどのような結論がでてくるか、すでに賢明な皆さんはご存じであろう。云うまでもなく抜きがたい有色人種差別そのもである。かってアパルトヘイトを強いた南アフリカ共和国では、日本人は有色人種であるのもかかわらず、第2白人の待遇を受けてせっせと商売に励んだ。いまおなじように、日本は忠犬ポチ公として第2白人の振る舞いを演じて恥じない惨めな国となっている。私はレイシズムですべてを裁断するナショナリズムを忌避するが、レイシズムへの無自覚は拒否する。(2005/9/18
10:58)
[チャベス・ベネズエラ大統領国連首脳会議演説(9月15日)]
「米国は国際法を侵害し続けている。今や我々は大量破壊兵器がイラクに存在しなかったことを知っている。米国民は世界の諸国民と同様に真実を知りたがっている。大量破壊兵器がなかったにもかかわらず、国連の頭越しにイラクは攻撃され占領され続けている。我々は国連に対し、総会で決めたことを守らない国(米国)から立ち去ることを提案する。米大統領は米州機構で新たな貿易政策を提案したが、それは新自由主義に基づく資本主義であり、米大陸の人々に苦悩と悲劇をもたらす。我々は一握りの国が国際法の原則を解釈し直し、先制攻撃戦略を押しつけることを許さない。それは非常に危険な考え方だ。すなわち帝国主義と干渉主義だ。国際テロには効果的に対処せねばならないが、それを軍事侵攻の口実にすることを許してはならない。パット・ロバートソン師は私の暗殺を求めたが、いまも街中を歩いている。これは国際犯罪だ。国際テロだ。(4分の発言時間を過ぎて)昨日ブッシュ氏は20分演説した」(盛大な拍手が続き、米代表団は憮然 ニューヨーク発)
国連創設60周年首脳会議で採択される「成果文書」は、米国の修正案提出による妨害を押さえて「公正で持続可能な平和」を樹立するミレニアム目標を促進する国連憲章の理念を明記し、2015年までのODAのGDP比0,7%目標と温暖化防止京都議定書の実施を再確認した。核兵器廃絶を含めた軍縮は米国の反対ですべて削除されたが、「差し迫った脅威に対する先行的自衛を安保理の承認なく認める」という米国の先行的自衛戦略は否決された。ただし大量虐殺と民族浄化の国民保護責任は記入された。ここで注目すべきことは、ODA援助目標値と京都議定書推進義務から拘束されないと宣言している米国の単独行動主義である。イラク戦費に膨大な支出をおこなって、ハルケーン「カトリーナ」の襲来に自国民を放擲した米政府の非人道的なユニラテラリズムは依然として継承されている。こうした米国の本質を鋭く指摘したベネズエラ大統領の演説は、決して彼の個人的立場の表明ではなく、深部にある全世界の米国観の変化を象徴的に代表している。国連ミレニアム開発目標(2015年までの貧困率半減)の達成に向けて、アルジェリア・スペイン・チリ・ドイツ・フランス・ブラジルの6カ国は、補助財源として航空券課税を提案し、フランスは06年から実施すると発表し、結核・マラリア・HIV対策費にあてるとした。島嶼国代表は地球環境の危機の緊急性を訴え、「地球的規模で気候パターンが変わり、極端な気候現象の頻発と天災の脅威が高まり、貧しい国も裕福な国も襲われるが、気候変動の直接の影響に晒されるのは弱小国であり、その多くは気候変動の原因にかかわっていないというのは矛盾している」(サモア首相)、「気候変動はもはや遠くにある可能性ではなく、現に起きている。京都議定書が期限切れとなる2012年に向けた新たな枠組みが必要だ」(モーリシャス首相)、「地球的規模での気候変動を押さえ、海面上昇を止めなければ、我が国が持続可能な開発に努力しても無意味であり、我が国民は環境難民となる」(マーシャル群島大統領)。
全世界の首脳が人類的な危機の打開に向けた行動を提案する中で、日本首相のみが自国の常任理事国参加を求めるという恥ずべき低水準の演説をおこなって冷笑を浴びた。(2005/9/17
9:13)
[これだから米国は不可解なんだー公立学校・宣誓違憲判決]
米国の学校では、始業時に生徒が右手を胸に当て星条旗に向かって「忠誠の誓い」を唱える。その誓いの言葉のなかに、「神のもと(アンダー・ゴッド)」と言う言葉が冷戦期の1954年に挿入された。無神論者のカリフォルニア州在住の医師マイケル・ニュードーさんは、小学校に通う娘の保護者として違憲裁判を起こし、02年にサンフランシスコ連邦控訴裁が「政教分離原則の基礎をなす国教禁止条項(憲法修正第1条)を侵す」とする違憲判決を下した。連邦最高裁は04年に「原告に親権はない」という形式的理由で門前払いとした。マイケルさんは3つの学区に通う保護者の代理人として再び提訴し、カリフォルニア州サクラメント連邦地裁は憲法の政教分離原則に反するとの連邦控訴裁の判例に従うとする違憲判決を下し、3学区の誓いの言葉を禁止する命令を出した。これに対し宗教右派は強烈に反発し、再び連邦最高裁に持ち込まれる。
米国を席巻するキリスト教原理主義がブッシュ再選を実現させ、進化論を禁止して創造説による学校教育が推進されているなかで、アメリカン・デモクラシーが強固に根付いていることを実感させ、司法判断もまた世相に動かされることなく合衆国憲法の尊厳を守り抜いた。こうしたアメリカン・リベラリズムの良き伝統が、対外的にも普遍化されて独立宣言の理念をイラクにも当てはめてほしいと願わざるを得ない。合衆国は各州の独立権限が強い連邦制国家であることも、あらためて確認することができた。私が連帯の手をさしのべるのは、アメリカ市民のこのような最も良心的な人々だ。さんざんにこき下ろしてきた米国にも尊敬すべき部分はある。日の丸・君が代強制裁判で日本の司法はどのようは判決を下すだろうか。(2005/9/15
18:38)
[蔓延する薬物乱用社会]
若者中心に薬物(シンナー・覚醒剤・大麻など)の乱用者は国内200万人を超える。覚醒剤事犯関連は以下のように推移している(2004年『警察白書』)。
○覚醒剤事犯検挙人数推移 94年:14655人→97年:19722人→03年:14624人
○MDMA等錠剤型合成麻薬押収量推移 99年:17500錠→00年:77076錠→01年:112358錠→02年:174248錠→03年:393062錠
日本の薬物乱用は犯罪観の側面が強く、病気の認知と治療が先進国で最も遅れ刑罰で対処している。薬物対応型病院が極端に少ない中で、薬物依存症とその家族は孤立し、家族が依存症を助長させたり共依存症になり、崩壊や自殺が誘発する。薬物依存症は、合法・非合法を問わず必要以上の薬物を本来目的から離れて反復使用し、体内耐性で自らの意志でやめることができなくなり、使用量と回数が増加し深みに嵌って精神と身体が崩壊に向かう。
薬物依存症の治療モデルはダルクというプログラムである。ダルク(DARC)とは、ドラッグ(薬)・アデイクション(嗜癖)・リハビリ(回復)・センター(施設)の頭文字を組み合わせた造語である。無料の通所方式と入寮(月15万円 生活保護あり)の2方式があり全国30数施設で約400人(!)が利用している。03年14624人の2,7%に過ぎなく圧倒的多数は治療を受けていない。12の回復ステップを用い、毎日2−3回のミーテイングに出席して体験交流をし、スキーや農作業、アルバイトの就労プログラムをおこなう。04年度厚労省報告では入寮型方式で77%が再使用を抑制している。ダルク利用者の約40%が社会復帰をしているが、多くは統合失調症などの合併症を抱えている。ダルク施設への政府支援は弱く、地元の依存者と切り離すために沿革施設に入寮させるが住所移動で生活保護が受給できない、援護寮20カ所が必要で、1日2−3時間働ける社会福祉施設が必要だ。医師・保健所・警察・ダルクのネットワークを早急に構築する必要がある。政府は「薬物乱用防止新5カ年計画」で積極的支援を打ち出し今後の実践が注目される。学校教育での危険指導にもかかわらず、押収量は激増しているが検挙数は減少している。
薬物乱用が蔓延し依存症が激増する背景には、競争原理で疲れ果て未来可能性を喪失して閉塞感にうちひしがれている状況がある。ニートやフリーターの増加率と薬物乱用件数は正比例している。失敗は原理的に自己責任原則で処理され、他者をいたわり励まし合う人間の本来の姿が喪われていくこととパラレルにクスリの世界に虚偽の快感を求める若者が増加している。精神と身体の自然な健康が失われ、なんでも薬剤に依存する薬漬け社会が蔓延し薬剤産業が急成長し、ついには幸福(感)もクスリで入手する社会になりつつある。闇の世界で最大原理順を追求する裏組織が跋扈し、若者を取り込んでは生け贄としている。こうして薬物乱用天国が出現している。(2005/9/15
9:52)
[ゼロ歳児も「英霊」として祀られている]
靖国神社は、幕末争乱以降の政府の戦争によって亡くなった軍人・軍属(A級戦犯14人を含む)・「準軍属及びその他」を合祀している。敗戦直後にGHQが靖国神社廃止を検討するなかで、存続のための「臨時招魂祭」をおこなったが、合祀者が特定できず死亡者を一括して「祭神」(注:一太郎ではこの語句はない)とした。その後厚生省が作成した戦傷病者戦没者遺族等援護法(53年)の適用対象となる「公務死」名簿の提供を受け、「祭神」名を記入した。一宗教法人に過ぎない靖国神社に公的名簿を提供した行為自体が憲法20条[政教分離]原則に違反している。1958年に援護法第2条3項に「準軍属」の対象として、「軍の要請に基づく戦闘参加者」が加えられ、軍によって作戦任務を課せられ、任務遂行中に敵と戦闘し、または戦闘行為を幇助し、戦死・戦病死に至った者と定義した。
そこで沖縄戦の渦中で発生した軍によって強要された「集団自決」の死者を含め、さらに「軍の要請」によって泣く子を死に至らしめたゼロ歳児も合祀対象となった。靖国神社「祭神・合祀に関する内規」は合祀対象者に「軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者」をあげて、「満州開拓団人」や「沖縄県一般邦人」を含めている。
いたいけなゼロ歳児はこうして、「軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者」の一員となった。弾丸降り注ぐガマのなかで、ゼロ歳の赤ちゃんは殺されることによって自分の泣き声を消し、軍に貢献したのだ。軍は一般民間人を楯として米軍に抵抗し、戦力維持と称して民間人を放置して我れ先きに逃走した。軍を信じた母親は軍を助けるために我が子の首を絞めた。沖縄戦は、国家は守るが国民は守らないという大日本帝国軍の本質をさらけ出す悲劇となった。我が子を殺して裏切られた母親の無念、我が母によっていたいけな命を絶たれた赤ん坊の無念は、靖国神社に「英霊」として祀られるという二重の冒涜を受けている。ハリケーン「カトリーナ」の襲来で、重病患者を放置して逃げた病院管理者、歩けない老人を見捨てて避難した老人ホーム経営者は逮捕後も「自分の判断は正しかった。全員を救い得なかっただけだ」と釈明している。(2005/9/15
8:54)
[ハリケーン「カトリーナ」に群がるハイエナ企業]
米連邦緊急事態管理庁(FEMA)の前アルボー長官がルイジアナ州の州都バトンルージュを訪問し、政府復興事業の受注獲得のロビー活動をおこなっている。彼は2000年大統領選挙でのブッシュ選対の幹部を務めてFEAM長官に就任し、今次災害支援の責任をとって更迭されたが、コンサルタント会社の経営者である彼は直ちに前職を利用してロビー活動に入った。顧客にあのハリバートンの子会社サロッグ・ブラウン・アンド・ルート(KBR)社を抱える。ハリバートン社はチェイニー副大統領がCEO(最高経営責任者)を務める企業で、イラク戦争の米軍支援事業と復興事業で巨大な利益を上げている。KBR社はすでにハリケーン「カトリーナ」のメキシコ沿岸沿いの海軍施設の修復事業を受注した。
米国の軍産複合体による利益極大化戦略は、政府中枢(副大統領)を掌握して、自国政府に戦争をやらせては軍需需要で巨額の利益をあげ、一方では自然災害を利用して復興需要で莫大なカネを稼いでいる。「資本は全身から血を滴らせつつ、カネを求めて徘徊している」(マルクス)という企業の論理の実態が示されている。戦争も災害も人間の命を奪い尽くす悲惨な極限状況だ。「カトリーナ」が去った後に見つかったのは、老人ホームと大病院で逃げることができなく見捨てられ捨てられた多くの腐乱死体であった。犠牲者は12日時点で513名に達し、家屋を失った20万世帯が3−5年間の避難施設を強いられ、復旧作業は困難を強いられている。この廃墟にハイエナかハゲタカのように企業が群がって、人の不幸を最大限に利用しながら虎視眈々と儲けを吸い上げようとする構図は米国の末期的症状だ。まさにDV型ファッシズムの極地ではないか。そうして遅くない将来にこれらのハゲタカは日本に襲来し、郵便貯金の多くを巻き上げてサッサと引き上げるだろう。話はそれるが、ある民放の古館とかいうニュースキャスターの反郵政民営化論者に対するエキセントリックな攻撃的振る舞いは、強者に媚びへつらう市場原理派の様相をますます呈し、DV型ファッシズム・メデイアのフロントランナーとなっているようだ。彼は田中とか云う長野県知事に、もっとキャスターは勉強しなさいーとたしなめられて喧嘩をしていた。ハリバートン社の行動を批判するワシントン・ポスト紙(8日付け)にみるジャーナリズム・スピリットから少しは学ぶべきだろう。
ニューオーリンズの象徴は、ルイ・アームストロングのジャズ、フォクナーやテネシー・ウイリアムスの文学、フレンチ・クオーターやマルデイグラのアカデイアンなどであり、これらのダイヤモンドが殺されて内蔵をえぐり出されている(米谷ふみ子)。エアコンもないスーパードームで黒人の被災者3万人が炎天下で5日間水もミルクも食料もなく放置され、7千人分の遺体袋だけが用意されたという。石油工業の化学物質、人間の汚物を含む悪臭が充満して街は瀕死の状況にある。メデイアが入っているのに救援部隊はこない。「国からの援助はなにもない。僕の友人の母親は毎日援助を待ちながら5日目に死んだ。この街だけが独立国なら良かった。インドネシアには津波の2日後にアメリカは援助を贈った」とジェファーソン区長は泣きながら云った。区長はなにも分かっていないのだ。ホワイトハウスは救援がどれくらいの利益を上げるかの計算をしてはじめて起動することを。利潤がないところになんで予算を投下するのか。ここに救いがたいアメリカの悲劇がある。(2005/9/14
9:05)
[DV型ファッシズムの劇的な幕開けか]
配偶者(事実上の婚姻関係を含む)への身体的・精神的・性的暴力を防止するドメステック・バイオレンス法(DV法 2004年11月改正)では、配偶者や同居する子どもへの接見禁止等の保護命令、住民基本台帳閲覧の制限、健康保険取得、雇用・住宅支援、就学援助、加害者啓発と更正プログラムを規定しています。いくつかの自治体のDV発生件数をみてみよう。
<東京都> 2001年・3334件→2003年・9253件
<札幌市> 1997年・ 938件→2004年・4051件
<鳥取県> 2004年・ 519件
被害者の多くは女性であり、多くは泣き寝入りで闇の中に葬られてきました。最も親密な愛情の共同体に公的権力が介入することも避けてきました。DVを犯罪的な人権侵害としてからその闇の部分が浮かび出ていますが、しかしまだ多くは内部に隠れたままでしょう。なぜ愛情共同体に「暴力」という反人間的な行為が誘発されているのでしょうか。もっともよく説明できる心理的な方法は「抑圧の委譲」というメカニズムでしょう。たとえば会社内で、部長→課長→係長→社員と進んだ抑圧を受けた社員は、自宅へ帰り妻へ向けると妻は子どもかペットに向けるしかない。そして弱者(下)に行くほど被抑圧の量は蓄積し、その発散の残虐性が増していきます。どうしてこのような構造ができあがったのでしょうか。おそらく日本の社会が競争による勝ち組と負け組に分化する垂直的な階層関係が進んでいることと無関係ではないと思います。国内で処理できない被抑圧は海外の弱者に向かい、星条旗白人の国際的なDVのなかで途上国へのバッシングとなります。強者に媚びへつらいながら、その屈辱感をさらに弱者に向けて解消するゆがんだ快楽感情を味わうなかで、徐々に良心は麻痺してゆがんだ人格が刻み込まれていきます。
こうした構造に嫌気がさして家族や国を捨てられる条件がある人はまだ幸せであり、ちょうどカトリーナから逃れるための自家用車がないアフリカ系米国市民がニューオーリンズに取り残されて大量の犠牲者を出したように、日本でも多くのDV被害者が加害者に囲い込まれてサデイステイックな攻撃を受けています。もっとも怖いことは、被害者が加害者を逆に崇拝するという異常な逆転が起こることです。垂直的な構造の頂点に立つ権力者が発する、すべてをぶちこわして改造するというメッセージが地獄に苦しむ被害者にとって最後の救いを約束する光のようにみえる幻想が生まれます。底辺に苦しむ民衆がカリスマ的な独裁者を待望し、選挙という民主主義によって民主主義を殺す独裁を生み出すというパラドックスです。頂点に立つ権力者のメッセージは、アレカ・コレカという断言的な二分法で選択を迫り、「パンとサーカス」(郵政民営化)を与えられた民衆は、ある種の心地よさを感じてファナテックな快感で独裁を支持していきます。
実は人類はこのような独裁のパラドックスと快感をすでに経験しています。1930年代のゲッペルス宣伝によってアドルフ・ヒットラーを熱狂的に支持したドイツ下層民衆、黒シャツ隊・ムソリーニを歓呼して迎えたローマ下層市民、文人首相・近衛文麿に圧倒的支持を与えた日本下層市民など、閉塞した時代状況を一閃切り開く救世主のような期待をもって迎えました。倒産寸前の国家と破壊寸前の我が家の暮らし・・・・忍び寄る不安をカリスマ的な指導者への全権委任によって突破しようという幻想国家が生まれました。破産寸前の国家の救済を、他国の資産を奪う対外的な侵略に求め、下層市民ははじめて支配の快感を味わいました。ここに人類史上未曾有の悲惨な世界戦争の体験がもたらされました。この体験の学習をきちんとおこなった独・伊は、平和的な共存を実現するEUをつくって戦争の可能性を閉ざしましたが、日本のみがひ弱な学習効果によって再びカリスマ型救済国家への道を選択しようとしています。これが今回の総選挙の真実です。
勝ち組の頂点に立つカリスマ権力は、冷ややかにせせら笑いながら負け組の熱狂的支持を侮蔑して受け入れ、一気に勝ち組戦略を加速するでしょう。こうして日本の市民はもう一度悲惨な独裁体験の学習を迫られる可能性が生まれています。これをしも私はDV型ファッシズムと命名するのです。今回のカリスマ的支配は選挙というソフトな合法的支配の偽装によっています。だから愛情を利用した暴力であるDV型ファッシズムはかなり難度の高い学習となるでしょう。しかしDVの本質が暴力であることは変わりませんから、必ず幻想的な期待を裏切る悲惨な体験をもたらしまう。その深い痛みの中から分厚い学習効果が蓄積され、独裁を永遠に駆逐する不可侵基準が打ち立てられる時が必ずくるでしょう。歴史は直線ではなく、一見するところ遠回りや逆流のジグザグの螺旋を描きながら、時には劇的に時にはゆっくりと刻まれていきます。その過程で後戻り不可能な決定的な不可逆的な選択があります。それはおそらく2007年度に想定される憲法改正国民投票でしょう。(2005/9/12
10:12)
[驚くべき情報の非対称性ーキューバを襲ったハリケーン・カトリーナ]
ハリケーン・カトリーナによるルイジアナ州の壊滅は、ブッシュ政権の対外軍事攻撃力に比べて国内の危機管理能力の無能性をさらけだした。3度も現地入りした大統領は「失敗の原因を時間をかけて考える」と言い、ライス国務長官は黒人差別を否定して大統領を擁護する発言を繰り返しながら救援物資を箱に詰めるシーンをTV局に撮影させるパフォーマンスを演じている。ママ・ブッシュは記者会見で「被災者はみんな救援活動に感謝しているわ。彼らにはあの程度で充分だわ」と云った。そこには自国市民に対する責任感が欠落して権力維持に奔走する恥ずべき姿が映っている。
しかし驚いたことにカトリーナはフロリダ沖のキューバを襲来してから米大陸に上陸しているが、キューバを中心にしたカリブ諸国の被害状況は日本のメデイアでは全く伝えられていない。CNNニュースを見ていたら、キューバの被害状況が流れ暴行や略奪行為はゼロで、地域組織による救援活動がスムーズに進んでいると伝えられている。もちろん家屋の倒壊や流出のシーンもある。そのキューバのカストロ議長は、医師の派遣を米国に申し出て米側は「寛大な申し入れ」を認めている。米国はキューバとの国交を断絶しすでに長期にわたって経済封鎖をおこないキューバ経済を困難に陥れている。
なぜ米国では暴行や略奪行為が頻発して無法地帯と化しているのか、なぜキューバは整然と救援活動がスムーズに進行しているのか。私は詳細な資料とデータがないので結論的なことは云えないが、少なくともコミュニテイ形成の基本的なモデルの違いがあるように思われる。弱肉強食のジャングルの市場原理でコミュニテイが痛んでしまった米国と、経済困難の中で共同が維持されているキューバの違いが、追いつめられた極限状況の中でその本質を露わにしているのではないか。現在の国際救援の状況は95国・機関、総額10億ドル(1100億円)で以下の通り。
ドイツ 浸水を排出する高速ポンプ提供
オランダ 堤防再建の専門家派遣
スリランカ 2万5000ドル
アフガニスタン 10万ドル
クウエート 1億ドルと石油4億ドル
カタール 1億ドル
アラブ首長国連邦 1億ドル
イラン 2000万ドル(但し経済制裁解除を条件とし米国は拒否)
韓国 3000万ドル(政府+民間)
中国 510万ドル
日本 100万ドル(赤十字20万ドル 緊急援助物資80万ドル)
*注:日本の救援金が極端に少ないことに対し、日本外務省北米1課は「企業や個人の民間支援もあり単純に比較はできない」としている。驚いたことにここにも民営化の発想が働いているではないか。小泉改革の内容をこれほど劇的に示していることはない。(2005/9/8
17:57)
[沈黙の時限爆弾アスベストの恐怖]
アスベストの語源は「純潔な」、「無垢な」、「腐敗しない」という意味のギリシャ語amiantosであり、白石綿の鉱山は純白に輝いて美しい。純白・無垢の天然資源が危険な時限爆弾となった理由はなんだろうか。高温で燃えにくい白石綿は、建材の内装や自動車シート、ブレーキ材など不燃性の材料として日常生活に入っている。この白石綿は発ガン性物質であり、何ミクロンかの微粒子となって空気中に飛び散ると、呼吸で人間の肺に突き刺さり何十年後かに肺ガンや中皮腫を誘発する。多くの自動車レーサーが亡くなり、ある米国俳優の死を契機にアスベスト問題が急浮上した。WHOが発ガン性を確認してから25年後の今日に至って、日本ははじめて本格的調査に入った。発癌性の高い青・茶石綿さえ、1995年まで禁止されず、2000年以降の40年間で中皮腫死亡者数が10万人を超えると推定されている。1971年にアスベスト対策の強化を労働省が通達していたが、業界は管理して使えば安全と効率を優先してきた。ILO162号条約(石綿の安全使用に関する条約 1986年)の批准は2005年の8月であり、大量のガン患者発生が予測される。(2005/9/7
10:36)
[この国は大切な何かが壊れようとしているー文化財の「保護」から「処理」へ]
日本は37平方qの国土に37万カ所を超える遺跡があるといわれている。この遺跡は平野部に集中し、数百b四方に1カ所の遺跡がある。文化庁統計では、1982年ー2002年までに59万件の発掘調査届けが出されたが、学術調査は1,7%であり、ほとんどは開発工事に伴う緊急発掘調査である。緊急発掘調査は、調査記録の保存のみでありすべては開発によって消滅し、回復不可能な文化財の消滅が急進している。2001年の地方分権一括法による文化財保護法の改正は、都道府県主体の保護行政に移行し、「文化財保護行政」から「保護」を落とした「文化財行政」となった。文化財の学術的解明よりも行政的合理性を優先させる「処理」行政へと転換した。出土品の取り扱いは、摩滅土器の破片、同種同型同質のもの(瓦、陶磁器)、古墳の石室石材、配石の構成れき等は保管義務がなくなり、記録調査対象は中世までで近世・近現代は地方の独自の判断となった。これら日本の文化財「処理」行政への転換を象徴するのが、世界遺産・平城宮跡のバッファー・ゾーン(緩衝地帯)に高速地下トンネルを貫通させるという開発計画である。
ここまで文化財保護での開発優先が進んでいるとは思わなかった。欧州を旅行した人は実感すると思いますが、実に歴史と文化財の保存と継承に熱心だ。それはまさに自分自身のアイデンテイテイを守るかのような姿がある。敗戦後のポーランドが、瓦解した街並みを市民総出で煉瓦を一つ一つ積みあげて、完全な原型復元をはかるという都市計画に比べて、日本の次々と伝統建築を壊してはノッポビルを積み重ねるやり方は恥ずかしくなるような貧しさがある。石造と木造の違いはあるが、街並みをまとまりのあるランドスケープとして考える欧州に比べて、日本の地域文化に対するレベルの低さは覆いがたい。回復不可能な文化財の喪失よりも道路が大事だという発想に、ほんとうの人間的豊かさはあるのだろうか。こうした開発優先を主張している人々が、一方では「日本の伝統文化」を挿入する憲法前文改正案を出しているのをみると、その矛盾はほとんど知的頽廃を示している。
私の故郷である村落を貫いて高速道路が貫通した。私もやむを得ず地所を提供させられた。豊かな農村風景が一変し、コンビニが進出して商店は閉ざされ、村には若者はいない。私も村を捨てた一人だ。東大寺の瓦を焼いた遺跡もいまや看板1つが立っているだけだ。帰省するたびに胸に痛みが走る。もう一つはあの軍艦のようなJR京都駅だ。伝統文化が集中する古都・京都の玄関駅をデザインした建築家と採用した京都市は罪万死に値する。開発か保存かの2者択一的な論争の時代はとっくに過ぎて、原則は一切の開発行為を断念し文化財を保存して未来世代に渡さなければならないという国際基準になっているのもかかわらず、日本は逆噴射の方向を歩んでいる。日本は、過去の歴史的遺産の保存と継承に目をつむっている唯一の国だ。文化財も破壊して道路を通し、従軍慰安婦もなかったことにして歴史を改竄して恥じない国だ。「過去に目をつむる者は未来を失う」というドイツ大統領の言葉が日本ほど当てはまっている国はない。矢島國雄氏論功参照。台風14号の来襲を聴きながら記す。(2005/9/7
9:57)
[真実と和解のための歴史究明]
韓国ですすむ歴史の真実を究明する作業の推進は、自らの恥部を暴いても歴史の真実を定着させようとする韓国デモクラシーの成熟を示している。いま総選挙中の隣国の政府はそれを国民向けのリップサービスとして嘲っているが、むしろ自らの知的退廃と無知をさらけ出して顔を覆わしめるものがある。私がこの件に関心を持つのは、学生時代の知人が含まれているからだ。韓国国防省・国家情報院・警察庁の「過去史真相究明委員会」は政府が関与した過去の人権弾圧を明らかにする作業を本格化させ、「過去史整理法」(05年5月成立)によって設置された独自機関「真実と和解のための過去史整理委員会」との共同調査を進めている。調査対象となっているいくつかの事件をみてみよう。
○光州事件 1980年5月17日 全斗煥戒厳司令官による金大中拘束に反発した光州市民の抗議行動に、軍部が無差別発砲し死者207人、負傷者2300人(公式発表)
○実尾島(シルミド)事件 1971年8月23日 68年の北朝鮮特殊部隊による大統領暗殺計画への報復として、朴政権が北朝鮮首脳暗殺目的で24人の空軍特殊部隊を無人島のシルミドで訓練をはじめたが、南北対話のなかで部隊員全員の殺害を命令し、察知した部隊員が上官を殺害し首都に向かう途中で政府軍によって20人が射殺された事件。映画「シルミド」はこの事件を映画化したもの
○徐兄弟事件 京都出身の在日韓国人学生徐勝・徐俊植がソウル大学留学中に北朝鮮スパイとして逮捕され、投獄された事件。兄の徐勝氏は私の大学時代の知人であり、現在は釈放されて立命館大学教授
いずれも韓国軍事独裁政権のファッショ支配下での事件ですが、これら被害者の名誉回復はなされず、犯行の責任者の罪は問われないなかで、国民諸階層に真実と和解を求める声が高まっている。これらの事件の解明によって、韓国は軍事独裁期の歴史を正当に清算し、民主主義の新たな段階に進み出ることができる。こうした真実解明の作業をあざ笑っている日本の右派評論家の卑しい言動は、実は自らの恥部を避けようとする矜持のなさを晒している。人間の尊厳を剥奪した従軍慰安婦の真実に迫って自らの罪責を問う作業は日本自らの責務であるはずだ。
いったい戦後日本史の闇と恥部の部分をめぐって、日本政府は真相解明の作業に取り組んだことはあるだろうか。戦前期の治安維持法による無実の犠牲者の魂はいまも救われず彷徨しているのではないか。戦後のレッド・パージの犠牲者たちは思想の自由を奪われていまも呻吟しているのではないか。人間の尊厳を冒した者は、歴史の法廷で裁かれなければならない。こうした事実を闇に葬って他国の民主主義のレベルを論じている自らの無知を恥じなければならない。日本もいつの日か「真実と和解のための歴史究明」に着手し、身に覚えのない罪で尊厳をけがされた人の名誉を回復させる日が来るだろう。現代日本の歴史は過去を隠蔽し、勝者に媚びへつらう奴隷の道を歩んでいるかのようだ。(2005/9/6
9:24)
[ある在日女性の批判について]
金伊佐子(キム イサジャ):1957年堺市に生まれ、民族団体で活動し慰安婦問題に取り組みながら演劇活動を展開し、02年に45歳で逝去。「在日女性と解放運動」から抜粋(一部筆者意訳)。