21世紀へのメッセージ 2004/5/5〜2004/12/22 第6エッセイ集(トップページへ戻る)

[歴史のなかの「第9」]
 1824年5月7日に初演されたベートーヴェンの第9交響曲「合唱付き」は、圧倒的な成功を収め「凱旋的であった」(ロマン・ロラン)。それから180年が流れ、全曲日本初演から80年が流れた。終楽章のシラーの詩による歓喜の歌は、歓喜=フロイデではなくもともとは自由=フライハイトであり、専制君主の支配に対抗する人間解放の理想を高らかに歌いあげ得たが、当時の権力による迫害を避けて表題を自由から歓喜に改めた。1942年4月にアドルフ・ヒトラーは、自らの誕生日の前夜祭で「第9」を演奏させ、ゲッペルス宣伝相に説得された巨匠フルトヴェングラーがその指揮を採った。2004年に採択された戦争のない欧州をめざすEU憲法では、「歓喜の歌」がEU歌として制定された。
 まことに芸術は、思想や政治を超えて万人の胸を打つちからを持っていることを示しているが、あの人間の心を奮い立たせるような高揚する調べは、明らかにヒトラーやフルトヴェングラーのものではなく人類史のヒューマニズムを結晶している。しかしナチスはベートーヴェンを大音響で流しながらアウシュヴィッツでチクロンBを噴霧した。芸術の持つ本源的な訴求力の栄光と悲惨をこれほど象徴している例はないだろう。私たちはすべての芸術、特に音楽の背後に流れる基調低音が歓喜と自由の狭間にゆれていることを鋭く聞き分ける鋭敏な聴覚を持たなければならない。(2004/12/22 9:22)

[インドシナ少数民族・モンの悲劇]
 ラオスの山岳地帯で焼き畑農業を営んでいた少数民族モンは、ベトナム戦争時に山岳部に強い利点を生かすために米軍が特殊部隊を組織し、ベトナム解放戦線のホーチミン・ルートの最前線に送り込まれ、米軍の敗北後の1975年にラオス社会主義政権成立ととともに、数10万人が難民化してタイへ流入した。しかしモン族は宗教儀式や鎮痛剤としてアヘンを常用する習慣があり、アヘン栽培と中毒患者が激増し、難民キャンプは麻薬取引の舞台となった。タイ政府の麻薬鎮圧作戦によって、キャンプは鉄条網で囲まれブリキの粗末な小屋で暮らし、失業率は40%、キャンプ外で働いても法定最低賃金に満たない。テロの侵入を阻止する政府の政策によってキャンプは次々と閉鎖され今は1カ所にだけである。
 サイゴン陥落から30年の03年に突然米政府は1万5千人の米本土移住を受け容れた。なぜか。タイ政府が要請したのか、イラク戦争への協力を貫いたタイへの報酬か諸説があるが、当事者のモン族はほんとうに米国へ移住したいのであろうか。国家の論理の狭間で弄ばれた少数民族の悲哀がにじんでいる。国際移住機関IOMによる移住作業によって04年6月以降すでに9千人が米国へ移住した。文盲が多く英語が話せないモン族にとって米国生活は未来を約束するだろうか。モン族の悲劇の主要な責任は、ベトナム戦争で強制的に米軍側に動員した米政府にあることは言うまでもない。ラオスへの帰還、タイでの生活、米国への移住を自由意思によって選択する戦時保障を実施するのは米政府以外にない。戦時暴力で少数民族を地上から摩擦する結果を生んだ者が最後の責任を負わなければならない。以上・日本経済新聞12月19日参照。
 タリバン政権が破壊したバーミヤン遺跡の大仏立像の東大仏(38m)は、大仏表面の破片のワラの放射性炭素年代測定法で507年前後15年に建造され、西大仏は大仏表面の木製の釘とロープの分析から551年前後12年という測定値が得られた。国際記念遺跡会議ICOMOS調査。すごいではないか、東大寺大仏752年を250年さかのぼる! これも戦争の悲劇に近い。(2004/12/21 21:28)

[クリスマスの宴]
 街に行けば聖夜のメロデイが流れ、TVから楽しそうなクリスマス・ソングが響いてきます。こうして04年も暮れを迎え新たな年が近づいてきました。クリスマスの夜は私のとっては何か哀しく寂しいものでしたが、過ぎゆくこの年は世界と日本にとってもほんとうに悲劇的な年でした。はるか中東でのむごたらしい戦さから、この国での逃れ得ない災害を含めてついに希望という言葉がほとんど空しい響きをもってしまうかのような1年ではありました。このような世をつくるために私は生きてきたのではないーと悔しい想いがあふれんばかりに湧き起こってきます。
 でも私の住んでいる家のまわりに光り輝く電飾で飾り立てて演出している家が3軒ほどあります。私はこの住人の心がほとんど理解できず、こうした生き方を無自覚に選んでいるその神経にいつしか憐れを催してくるのです。サンタが空から降ってくるような電飾のキラキラとした光のまばゆさは、むしろ滅びゆく者の末期を思うてしまうのです。これだけ不幸が充ち満ちている世にあって、自分の家をかくも盛大に飾り立てて喜んでいる心性にはもはや他者に対する想像力の一片もありません。
 しかし私は実は賛美歌を一人で聴いているときには、よく感動することがあるのです。アメイジング・グレイスや主よ身元になど口ずさんでいる時もよくあります。私は高校時代に聖書研究会に入り、プロテスタント系の教会にも毎日曜日に通った時期があります。みんなで賛美歌を歌い、祈りを唱えていると心の中が安らいでくるのです。でも段々と慣れて深く牧師さんと話すようになると、牧師さんが私たち俗人とほとんど変わらない世俗的な感性の持ち主と知って、一気に私の関心は薄れてしまいました。だけどもあの賛美歌を歌う雰囲気は心のどこに残っているのです。大学に進んで変革運動の渦中に入り、キリスト教とはキッパリ縁を切って超克し、宗教現象を弱者の溜息とし、現世での理想を幻想の天上に置き換えるとするマルクス宗教論の真理を認めるに到りました。まるで近代日本史の白樺派からマルクスに到る歴程を踏襲しているかの自分にある種の感慨を覚えました。
 あれから幾星霜が流れたでしょうか。今でも賛美歌を含む欧州の宗教音楽は、信仰とは別次元でその美しさと真情に共感を致します。宗教の外皮は纏っていてもそこには人間の美しい音の世界があり、時代と信仰を超えて人の心をつかむものがあります。芸術は固有の世界を構築して宗教と教会から確かに自立していったのです。
 今夜は思わず私の青春期の一端をさらけ出しましたが、クリスマスが日本の世俗的な行事となってほんらいの意味を失い、商業主義の宣伝ツールに堕して久しいこの国で、クリスマスの意味を問い世界史に巨大な影響を与えてきたキリスト教の現代的な意味を考えることは決してムダな作業ではないでしょう。プロテスタント原理派が十字軍を自称してイスラム文化圏を総攻撃して殺戮している事実を全世界のキリスト者は自分自身の問題として胸に刻まなければなりません。そして東アジアの仏教工業国がひれ伏して追随しているさまを心に刻まなければなりません。私はクリスマスをこの国を脱出してパリで迎えることになりますが、久しぶりの欧州でかの国のクリスマスの実情をシカとみてみようと思います。輝かしいレジスタンスの国、今のところ帝国に敢然と逆らっている国の有様の一端をかいま見れたらと思っています。多分その結論は次のようになるでしょう。ジャングルの掟のなかで悲惨な競争をするアメリカ・モデルよりも、ぶ厚い歴史のなかで社会的連帯を常識化している欧州モデルのほうに、日本のモデルを切り替えていく必要があると。(2004/12/20 20:14)

[クラスターのめくるめく両義性]
 クラスターという言葉は、私の専門では地域経済のキー概念で多様な産業がブドウの房のように集積して相互のネットワークによって外部経済効果を挙げるという意味ですが、ここにきてクラスター爆弾という悲劇的な兵器が告発を受け、クラスターの言葉がダーテイーな意味になってきました。
 クラスター爆弾は滑走路や広く展開する対戦者攻撃用に開発され、親爆弾に数百個のジュース缶程度の子爆弾が詰まっており、空中で飛散し400m四方のすべてを破壊する能力を持っていますが、不発率が高く5−7%が地上に落ちてキラキラと光る不発弾となり、何も知らない子どもたちがオモチャと勘違いして身体を吹き飛ばされています。残虐でむごたらしいこどもの遺体が、コソボ、アフガン、イラクで生まれています。この爆弾は生産価格が廉価で大量生産が可能で威力効果も高いため、米英日など63ヶ国が保有し、03年イラク侵攻時に米英軍は人口密集地帯に1500発投下しました(マイヤーズ統合本部議長)。日本航空自衛隊は16年間で148億の巨費を投じて7千ー8千発のクラスター爆弾を所有しています。政府は「住民をその地域から避難させた上で使用する」(03年参院外交委 石破防衛庁長官)とまるで漫画のような保有擁護論を言っていますが、国際人道法違反の兵器として禁止の動きが強まっています。
 国際人権NGOの要請を受けた特定通常兵器使用禁止・制限条約締結国は、01年に地雷以外の爆発生残存爆弾の除去を議論し、03年に残存爆弾の第5議定書を作成しましたが、除去問題の進展はありません。ジュネーブ諸条約追加第1議定書第35条で「過度の損傷または無用の苦痛を与える兵器は禁止する」(日本は04年批准)としていますが、保有国が抵抗しているからです。国際的に地上残存爆弾の処理を議論しながら裏で米英軍は今もクラスター爆弾を投下し、多数のこどもの命が犠牲になっています。自らは絶対に安全な場所に身を置いて、こうした残虐兵器による勝利を追求する米英軍にどのような大義があろうともその非人道性は浮き彫りとなっています。除去は使用国の責任で行われるべきではありませんか。追随する日本政府が保有するクラスター爆弾は、理論的には防衛兵器として日本の上空にばらまかれることになりますが、人口密集地帯の日本列島に住民を避難させてばらまくことなど誰が想定可能と思うでしょうか。
 日本政府が決定した「防衛計画大綱」は、中国・北朝鮮を仮想敵国とする南西方面の兵力を強化し、空中給油部隊など機動的即応性を高め、統合幕僚司令部の新設と情報本部の長官直轄、MD防衛システム配備によって、従来の専守防衛型軍隊から先制主導型海外介入戦略へと大転換しました。つまりクラスター爆弾に固執するのは、海外の滑走路や戦車攻撃目的以外の何ものでもありません。
 改憲派の主導的位置にある石原都知事は、12月1日の所信表明で日露戦争を賛美し大東亜戦争を防衛戦争と呼んで肯定し、「命がけで憲法を破るんだ、9条には改正の余地がある、改正すべきだ」とヒステリックに憲法擁護義務を蹂躙しましたが、ことほどさように時代の危機は深まっています。未来を作る子どもたちの命を木の葉のように吹き飛ばしながら。そしていま8億5千万人の人たちが飢餓線上をさまよい、その8割は途上国に集中しています。人間の尊厳がこれほど戦争や飢餓によって喪われている現状を前にして私たちはなにを思うべきでしょうか。

 鶴見俊輔氏と岡部伊都子氏の対談の一部を紹介します(月刊『機』No155)。
岡部「私は残念なことに戦争に加担した人間です。私の1年上やった木村邦夫さんが見習士官となって、彼と婚約したときにはじめて私の部屋に入って襟を正して「僕は戦争に反対です。こんな戦争で死にたくない。天皇陛下のためになんか死にたくない。君やら国のためになら死ぬけど」と言いやって私、びっくりした。そんな言葉聞いたことおまへん。それまで。「私やったら喜んで死ぬけど」と言うた。いまになって、ずっと、邦夫さんごめんやで、ごめんやで、言い続けてますけどな。私はいまでもほんとうに邦夫さんに申し訳ない、私はあんなに戦争にまちごうてた女、殺してしまった加害の女やと思うてます。邦夫さんは配属転換で沖縄に行き、米軍の艦砲射撃で両足吹き飛ばされて、で、すぐに自分でピストル出して自決したそうです。私はどういう場合にあっても、戦争反対の立場で死にたいと思っていますから」
鶴見「・・・・・・・・。あとは継げないね。あとを継いで話すのはむずかしい。うーん、いやあ、まいるな」


 岡部氏の心情を活字で伝えるには限界がありますが、いかに真情の重さがこもっているかは鶴見氏の沈黙でうかがえます。これ以降鶴見氏は一切発言をしていません。思えば先の大戦で300万人を犠牲にした日本人は300万通りのそれぞれの体験と心情を胸に抱いて生きてきたでしょう。私を産み落とした母はすぐに父を中国戦線に送り出したあと結核が悪化してこの世を去りました。戦地の父はそのニュースを知ることなく、敗戦によって帰還して自宅の玄関で母が亡くなったことを知らされたのです。はるか中東で生まれている命は、成熟日本で生まれている命と較べるとその非対称性は目も眩むばかりですが、つい60年前にこの日本で同じような阿鼻叫喚があったのです。人間は学習によってより行動を前進させますが、記憶の衰えは学習効果を減退させまた同じような行為を繰り返すこともできるのです。いまがまさにそのような分岐の時にあるような気がします。(2004/12/20 10:44)

[中越地震が原発耐震基準再検討を迫っている]
 原発安全審査指針は、1978年に原子力安全委員会が策定して以降一部改訂を経て現在まで変更はない。耐震設計審査指針は次の3基準である。
@敷地に影響したと考えられる過去の震度5以上の大地震(歴史的証拠のある敷地周辺の地震、地震の再来期間が1万年未満のもの)
A近くの活断層が引きおこす地震
B活断層がなくても深さ10kmで起こるM6.5の直下型地震のうちもっとも影響が大きいものを想定し原子炉と周辺機器の耐震性を求める。
 耐震性についての原子力委員会・電力会社の是認理由は以下の通りである。
@原発はすべて活断層を避けて立地している
A最大の地震動を想定している
B原発はすべて岩盤上で支持されている
C岩盤上で震度5以上の時は自動停止する
D世界最大の震動台で実験してきた

 今次の中越地震はこの基準に依拠して設置された柏崎刈羽原発の安全性に根元的な疑問を投げかけた。
@政府地震調査委員会報告(10月)で、長岡平野西縁断層帯は、新潟市沖合から小千谷市にかけた長さ83kmの活断層と推定され、M8.0の地震が発生する可能性がある。この断層帯は今次地震の断層の西側で柏崎原発にさらに近く、断層近くの地表面段差は6−7mと推定される。この活断層は歴史資料から13世紀以降動いており、地震間隔は1200−3700年である。発生の長期確率は今後30年で2%以下であるが日本の活断層ではやや高いグループに属する。これらの新たな知見に現行耐震設計審査基準はまったく対応していない
A今次直下型地震はM6.5、鳥取西部地震M7.3、兵庫県南部地震M7.3といずれも審査指針の6.5を上回っている。瞬間的なゆれを示す地震加速度は1500〜2515ガルに達し、審査指針450ガルの5.6倍に達している。
B今次地震は大規模な余震が連続し、11月4日の余震で7号機のタービン軸受けがづれて緊急停止したが、耐震指針は余震の連続性については考慮していない。
C原発敷地内には検討すべき断層が6つあるが安全審査では2本のみを耐震設計対象としているに過ぎないのみならず、過小評価を行っている。気比ノ宮活断層は安全則では32,3kmとすべきところを安全審査では17.9kmとしている。安全審査は地表面断層のみで判断し、断層が地下で連続している可能性を無視している。今次中越地震は断層の地下連続性を証明した。
 兵庫県南部地震以降耐震規定の再検討が原子力安全委員会ではじまったのは、想定加速度基準が300−500ガルであるのに対し、兵庫県南部は818ガルを記録したからである。ところが原子力安全委員会は地震で原子炉が損傷する確率を数値化する方法の開発にとどまっており、審査指針自体の検討には到っていない。なにをなすべきか、私が言うまでもない。政府がこの検討を放置すれば日本原発列島は回復不可能な汚染列島となる。(2004/12/19 20:50)

[地球温暖化防止・京都議定書05年2月発効に向けて]
 WHOの報告では04年の世界平均気温は14.4度で1861年以来4番目の猛暑となった。世界の保険会社の保険料支払額は350億ドルと過去最高になり、日本の台風上陸回数は10個で200人が死亡した(51年以来の最多記録は6回)。IPCCは、今後100年間で1,4度から5,8度上昇し、海面上昇は9−88cmと予測している。1997年の京都議定書は、先進国の温暖化排出ガス削減目標を90年比ー5%としているが、IPCC推計では二酸化炭素濃度を現状で安定させるためには、排出量を50−70%削減する必要があるとし、環境NGO・気候行動ネットワーク(CAN)は90年比ー80%としている。
 しかし先進国全体の10年までの90年比排出量予測は+10%であり、日本の02年度排出量は90年比12,1%すでに増加している。日本の削減目標6%を達成するためには18%削減しなければならない。逆にEUのの02年度排出量は90年比ー2,5%であり、特にドイツはー18,5%であり独自に20年度に酸化炭素排出量ー45%削減目標を設定し、政府と産業界は12年までのー35%削減を協定した。英国は02年度に14,5%削減し、50年度までに二酸化炭素90年比ー60%削減目標を設定している。01年度に燃料と電力使用量にに応じた気候変動税を企業に課税している。政府はこれらの企業に減税措置を採る。
 米国は工業国の排出量の36%、全世界排出量の25%を占め、もっとも重い責任を持つが、01年にブッシュ政権が京都議定書からの離脱を発表した(議定書での米国の90年比削減目標はー7%であるが、02年には13,1%増加させている)。米国ブッシュ政権は、京都議定書からも離脱し、国際刑事裁判所開設にも参加せず、完全に孤立の道を歩んでいるばかりか、京都議定書の13年以降の第2段階の議論にも反対を表明して抵抗している。京都議定書で除外された国際航空・船舶の運輸部門の削減の義務化目標設定についても強硬な反対を唱えている。

 地球全体が危機に瀕し惑星の生命が取り返しのつかない状態が迫りつつあるなかで、自分の国だけは経済発展のためにガスを排出するという行動は、わがままな甘えっ子のものであり到底許されるものではない。我が亡き後に洪水は来たれーとはネオコン・プロテスタント原理派が奉じる聖書においてすらもっとも恥ずべき行動として神が禁止している行動ではないか。世界と地球は、いまブッシュに引きずられて地獄の底へまっしぐらに墜ちていこうとしている。地球惑星を破壊に至らしめる世界史上最大のテロリスト国家が20世紀から21世紀初頭にあったという歴史的事実が、世界史の教科書に記録されるであろう。(2004/12/19 19:36)

[自衛隊官舎ビラ配布事件・東京地裁無罪判決]
 この事件を耳にしたときに私は一瞬ギョッとした。戦前期の集会・出版条例から治安維持法に到るファッシズムの危機を身に感じた。同時期に国家公務員の政党ビラ配布事件と並んで、現代の表現の自由のメルト・ダウンからプレ・ファッシズムが忍び寄っていることを覚えた。そして当事者とそのグループ以外はさして批判をしないで傍観している現状について、この国の底知れぬ頽廃を知った。
 東京地裁は日本現代史を左右する決定的な分岐点で、近代原理に踏みとどまった。人の心や考えの内面の世界への絶対的不介入原則と、他者に対する表明の自由は危うくも土俵際で際どく守られた。
 「集会・結社及び言論・出版その他一切の表現の自由」(憲法21条)こそ、多様な価値観が共生する民主主義システムの一切の留保なき無条件の前提である。判決は、政治的表現活動を商業的宣伝よりも優越的地位が認められているとした。自衛隊官舎への商業的ビラ配布は野放しで、イラク派兵反対ビラのみを住居侵入罪で逮捕し75日以上勾留し懲役6ヶ月を求刑した東京地検八王子支部宇井稔支部長の違法な立件責任は重い。公安警察は、逮捕者に人格的侮辱を加え疲れさせて転向を強要するなどしたという(被告意見陳述)。しかし裁判所が逮捕令状を発行したという事実は、また市民運動への判事のまなざしを示していると思う。
 憲法9条を守ろうとする政党ビラを配布して逮捕・起訴した事件は唖然として声も出ない。国家公務員である被告は休日に一市民としてビラを配布したのであり、公務員法にいう地位利用による政治活動をしたのではない。公務員は、市民としての憲法21条の対象外になるのであろうか。ここでも判事は逮捕状を発行している。
 もし東京地裁判決が被告敗訴という内容であったら、日本の市民社会はどうなったであろうかと想像するだに恐ろしい。市民の政治的活動はほとんど封じられ表現の自由は窒息するばかりか、ピザの宅配業務も禁止され、路上でのビラ配布も許可がないとして逮捕されるようになる。地方で進んでいる安全・美化条例によるビラ配布や広告制限なども無制限に進むだろう。警備公安警察が主軸となって犯罪摘発率が極端に衰弱した日本の市民警察のシステムを基本的に再構築する必要がある。警察は恐い、というイメージが市民に定着し、お上にたてつくとどうなるか分からないという窒息した社会はもはやファッシズムに近い。リスクマネイジメントを契機に進む警察と住民の共同活動や町内会の監視活動は下からのファッシズムの条件を形成する可能性もある。(2004/12/18 11:01)

[ぬかるむ地に土下座した母]
 朝日新聞「声」(12月18日 無職 橋詰四郎 愛知県豊明市 79歳)

 ♪日の出だ日の出だ
 鳴った鳴ったサイレン
 うれしやかあさん
 皇太子さま おんまれなさった

 12月になると、なぜかふとこの歌を口ずさむ。私が育った地区では冬の朝、たき火で暖をとる習慣があり、昭和8年の冬の話題は、国民が願望する皇太子ご誕生だった。誕生に際してはサイレンを鳴らし、1回が皇女、2回は皇太子という通達も出た。12月23日の朝、たき火を囲んでいたときに、サイレンが鳴り響いた。大人たちは「男、男」と声をあげた。サイレンの音が小さくなれば、「もう1回」の連呼に変わり、再びサイレンが雄々しく鳴り出すと「万歳、万歳。皇太子様だ」と大歓声をあげて喜んだ。吹鳴はやんだが、大人たちはざわめいていた。そんな時、母は「もう1回鳴ったら火事だよ」と言った。後ろの大人がすかさず「この罰当たり」とい怒鳴り、背中を強く押した。母はたき火のなかに放り込まれた。母はたき火で霜が解けてぬかるんだ地面に土下座して、一人ひとりのひざにすがりながら、何度も何度も頭を下げていた。


 戦前期の農村共同体における天皇制の日常的な心性を象徴する無惨なシーンとするだけでは、この文章の底に流れる静かな告発と現代への抗議の意思への想像力がない。なぜならこうした心性は他ならぬ現在の企業や学校で形を変えて浸潤しているからだ。皇室の誕生の記事もはなばなしく報道され、最上級の敬語を付けてうやうやしく伝えるようになった。神格化された天皇制から庶民的な大衆天皇制への移行という現象の背後には本質的に維持されている君主制への統合のシステムが維持されているように思う。戦前期の天皇制批判は治安維持法による処刑の制裁を受けるハードな側面と、庶民自身が自ら進んで敬愛するソフトな統合が重層化していた。現代はソフトな側面が主要な統合形態であったが、そこで醸成されたアイドル型崇拝の心性が、批判理性をがハードに抑圧されるシーンで見て見ぬふりをする雰囲気ができつつあるように見える。皇室記事では先導的な役割を果たす朝日新聞が、こうした投書を掲載する編集部が残存しているうちに、批判理性はその仕事をフルに遂行する必要に迫られていると思う。(2004/12/18 9:43)

[祇園精舎の鐘の音が響きはじめた]
 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 
 驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し
 猛き人もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
 遠く異朝をとぶらふに 晋の趙高 漢の王莽 梁の朱己 唐の碌山
 これらは皆旧主先皇の政にも従わず 楽しみを極め 諫をも思ひ入れず
 天下の乱れん事をも悟らずして 民間の憂ふる所を知らざりしかば
 久しからずして亡じにし者どもなり
 近く本朝を窺ふに 戦時の東条 戦後の吉田 安保の岸 ロッキードの角栄 
 これらは驕れる事も猛き心も 皆とりどりなりしかども
 間近くは ライオンヘアー入道太政大臣の朝臣小泉の純一郎公と申しし人の有様
 伝へ承るこそ 心も言も及ばれね


 「今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺し合ったとうことよりも、途方もない数の人々がみずからの命を投げ出そうとしたということにある」(ベネデイクト・アンダーソン『想像の共同体』NTT出版 P237)に倣って云えば、「現代日本社会の異常さは、人々が類例のない規模で競争しあっているというよりも、途方もない数の人々が競争に自らの命を投げ出そうとしていることにある」となるだろう。祇園精舎の鐘の音が現代の日本にかすかに響き始め、諸行無常の響きとともに驕れる者が遂には滅びる時がこようとしている。取り返しのつかない破局の寸前で。アンダーソンは、平家物語のあまりにも有名なこの冒頭の文を「想像の響きと想像の色が生み出す身の毛のよだつような空虚な情景は、日本語を読む者だけに見えまた聞こえる」と云っているが、現代の日本の坂道を転がり落ちていくような競争の悲惨は同じく身の毛のよだつような空虚で危機的な状況だ。平家物語のこの一節がこれほど真に迫ってくる時代はない。(2004/12/17 22:43)

[今年のパリ・コレクションから]
 2005年春夏物のヨーロッパコレクションが華やかに展開されている。世界のファッション界を主導するコレクションは、どのような来年度のファッションメッセージを発信しているのであろうか。パリのクリスチャン・デイオールは、「For Peace Not War(戦争ではなく平和のために)」のロゴをプリントしたTシャツを発表し、こぶしを突き上げたり、舌を出している絵柄に、アメリカのブッシュ政権に対する抗議の意思を込めた作品を発表している。ショーの間には、ジョン・レノンのイマジンが流され、「想像してごらんすべての人が平和のなかで生きることを」を流し続けた。ソニア・リキュエールのショーでは、フィナーレでモデルたちがステージの端に座ってイマジンを歌い、会場は大合唱となった。60年代から70年代のベトナム戦争に反対する米国のヒッピー・ファッションに似たものがみられ、つば広の帽子やかかとまで届く花柄のスカートまで自然で自由な雰囲気が新鮮な印象を与えた。以上はファッションジャーナリスト藤岡篤子氏の報告から。
 欧州のファッション芸術の世界も市民的な感性を反映して、アーテイストも政治的な自己主張をすることがごく自然に行われ、それが決して商業ベースで排除されることなく、世界のファッション界をリードする文化の質の違いに溜息が出るばかりだ。山本寛斎や高田などの日本人デザイナーはこうした欧州全体を包んでいる現代的なメッセージに何を発信したのであろうか。
 日本のデザイナーの発信能力の深さと鋭さは惨めなまでに頽廃し、戦争でいたいけな子どもの犠牲者が出ていても見向きもしないで、奇抜なファッションにしか自己表現の途がない。デザイナー自身の感性の貧困とファッション業界の商業主義の頽廃が入り組んで、人間らしい自然な新鮮さを奪われ、奇形的なまたは性的なまたはアイドル的なつまらないものに堕落している。一見高度の芸術性を発揮しているかに見えるものも、実は演劇でいえば劇団・四季と同じけばけばしい露骨主義に過ぎない。(2004/12/17 11:08)

[
欧州の文化衝突と大学運動部の頽廃は日本の現在を照射してい]
 オランダでイスラム社会の夫の妻への虐待を描いた映画を制作した監督が殺害されたのを契機に、モスクやキリスト教会への放火など相互の衝突が進んでいる。イスラム過激派と欧州極右の暴力的な対立が激化している。フランスでは生徒のスカーフを禁止する校則が施行され、ドイツでは東独部の幾つかの州で女性教師のスカーフ禁止やモスクの礼拝をドイツ語で行うなどの圧力が強まっている。EUでは人口4億5500万人のうちイスラム教徒が1500万人を占め、特にドイツ・フランス・オランダで多く、ドイツでは人口の4%にあたる320万人がイスラム教徒であり、うち240万人がトルコ系で全国に800を超えるモスクがある。1960年代初頭からドイツへの大規模な移民がはじまり、ベルリンだけで25万人のトルコ系移民がおりその半数はドイツ国籍を取得している。
 イスラム教徒を攻撃する人たちは、旧東独部の開発に取り残された貧困層を基盤とする極右が人種的偏見による排外主義を唱える人たちだ。ここには抑圧の垂直的な構造の中でより底辺へ攻撃の刃を向けるのはナチス時代の思考と酷似している。彼らはネオナチと呼ばれる。移民による労働市場の狭隘化という要因も反映している。社会的欧州は、かって植民化した途上国からの労働力移民に寛容な政策を採り、国内労働市場に一定の変容をもたらした。低賃金単純労働部門への外国人労働者の参入が急速に進んだ。この矛盾の凝集点が旧社会主義システム崩壊後の市場経済による経済的格差の被害者感情を生み、それがイスラム教徒への集中的な攻撃という行動を誘発している。
 逆に言えばドイツ経済の単純労働部門は外国人労働力抜きに成り立たない構造となり、ネイテイブとの摩擦を生んでいる。しかし文化共生と異文化理解からいえば、信仰の自由は基本的な人権でありなにものもそれを剥奪することはできない。宗教や文化・言語を奪い自国のへの同化を求めることは明かな国際法違反である。イスラム教自身が女性のスカーフ着用は自由だとしており、彼ら自身も異文化社会への秩序と統合を果たそうとしているなかで、信仰の自由としてのスカーフ着用は社会統合の対象とはならない。イスラム教徒やキリスト教とのごく一部に存在する原理主義派や極右グループを一般化して文明の対立に転化することは、社会統合自体を壊す最悪の結果を生むだろう。
 ある価値観で統合された閉鎖的な集団の凝集度が高まるときに、価値の多元性を無視した一方向的な攻撃的行動が誘発される場合がある。他者に対して自らの価値を強制するばかりか、他者の存在自体を否定したり、道具化する逸脱行動が発生しやすい。キリスト教原理主義も例外ではなく、米国原理派プロテスタントを基盤とするネオ・コンサーヴァテイブである米国大統領は自らを十字軍と称してイラク先制攻撃をおこない、占領後のすさまじいイスラム教徒捕虜への虐待と拷問を行っている。
 日本でもマイノリテイに対する有形無形の抑圧構造が構築され、外国人労働者への襲撃事件が後を絶たない。一部外国人の犯罪行為を過大に宣伝し巨悪犯罪国家になりつつある原因を外国人に転化する動向もある。日本の外国人犯罪は、背後により凶悪な日本人犯罪グループが潜み連携しながらリモコンしなければ、日本国内での犯罪は難しいにもかかわらず。捜査も国外追放して終了し国内日本人の主犯捜査には入らない。
 身近な例では大学運動部の相次ぐ少女への集団暴行行為だ。大学運動部は、一般社会とは隔離された特殊な社会であり、自己絶対化への習慣が埋め込まれてしまう要素を持っている。とくに優待制度や広告塔として大学経営をになっている運動部は勝利至上主義の下で断絶した空間が作られる。スポーツ自身はほんらい健康で社会性が培われ、部活をやっている学生や生徒の自己肯定感と学校帰属意識は強い。ところが将来プロにつながるような運動部の垂直的な閉鎖構造は甚だしい。国士舘サッカー部は、200人以上を抱える6部編成になっており、特に1部を狙う2部や3部所属の選手は激しい葛藤と苛烈な練習に明け暮れて1部に昇格できるかどうかの不安な心理が蔓延している。亜細亜大や日体大も同様だ。今回事件を起こしたメンバーのほとんどが、2部と3部所属の選手であることはこうした垂直編成の閉鎖的社会の非人間的矛盾を象徴的に示している。彼らには弱い者への共感のまなざしは育たないばかりか、逆に蔑視と軽蔑と道具化の意識が醸成される。彼らは1部に対する激しい憧憬と劣等感をより自分より下位層に向けた優越感で補うしかない。こうした不安定な心情が蓄積して抵抗が不可能な弱者たる少女へ向けられ動物的欲望を発散させるのである。
 さて最後の結論はこうである。いままで運動部のようなごく一部の組織に限定されていた抑圧の移譲が、いまやすべての社会を覆い尽くす激烈な競争社会に転化しつつあることであり、弱肉強食と自己責任原理を国家が公認するシステムが築かれつつあり、日本が歴史上最悪の犯罪国家に転落しつつあることはまさにそれを示している。より基本的な問題の所在が明らかになってきた。運動部を休部したり学生を退学処分したりするだけでは、問題の再発は防げない。システムそのものを再構築しなければならない。弱者へのまなざしを失ったすべての組織体は自己崩壊を遂げるというのは歴史の残してきた最大の教訓ではないか。(2004/12/15 20:14)

[日本女性求人広告の歴史からみるジェンダー]
 日本最初の日刊紙掲載求人広告は、1872年(明治5年)乳母求人広告。人工ミルクが少ない当時はよい乳の出る女性が高給で雇われた。母乳がエンプロイアビリテイとなり、もらい子やこども遣度などこどもをやりとりする広告が多彩であった(こどもの権利条約違反)。求婚広告もあり、夫の家業が妻の家業となる当時では結婚は職業選びでもあった。絵を習いたい18歳の女性が画家の妻の求婚広告を出している。1879年(明治12年)の前橋製糸工場の工女雇い入れ広告では10歳ー14歳の少女を公募している(労働基準法違反)。
 大正期になると自由主義の中で、職業婦人が生まれタイピスト・店員・バス車掌などに職種が拡大し、彫刻家・高村光太郎は「モデル 体格よき女性を求む」などいささか人権上問題もある広告が出ている。カフェーの女給士募集では「多少教育あるもの」という知性が要求されている。東京スケートリンクは、「醜婦でない女」と堂々と歌い人権感覚がない当時では美醜を問う求人は普通であった。
 昭和初期では、酒場で働くインテリ女性を「街のマドモアゼルを求む!」とし、ミス・シセイドウなど外来語を使用した広告も出てきたが、戦争の中で敵国語は使用されなくなった。1936年(昭和11年)に東京府が出した「大募集満州開拓民並びに大陸花嫁」では、男子21歳ー50歳、花嫁18歳ー30歳となっており、見合いは現地で行われた。この人たちがその後残留孤児や強制労働の悲哀を味わったのである。
 敗戦の翌日には「戦災者を優先採用」という広告が出され、タイピストやGHQ関連採用が増え、その後女子TVアナウンサーや主婦の友婦人記者募集など知的職業の求人が増えている。高度成長期には、制服デザインをアピールする銀行や「職場の花」といわれる女性求人広告が満載されていく。1980年にとらばーゆが創刊され、男女同一待遇を売りにする企業が現れた(Dennys)。女性広告求人は、時代の思潮と人権水準を浮き彫りにする。以上女性と仕事の未来館・ブックレット参照。(2004/12/14 22:50)

[MEDACT(核戦争防止国際医師会議英国支部)報告書『紛争の直接的影響』(11月30日)]
 イラク全国規模988世帯調査による03年3月米英軍侵攻後の被災・医療状況。

 推定死亡者総数 10万人 侵攻後18ヶ月間の暴力により死者は侵攻前15ヶ月間の58倍、暴力以外の要因を含むすべての死因は2,8倍、ほとんどは米英軍の空爆、犠牲者の半数は女性とこども
 推定負傷者数 通常戦争では負傷者は死者数の3倍であるが、イラク戦争では死者数の10倍(爆弾テロの分析から)
 精神的後遺症急増、イラク北部に1千万個と推定される地雷と不発弾
 間接的な保険への影響 治安・停電による冷蔵保管システムのマヒによる予防接種計画の支障で5000人のチフス患者、出産の専門的援助が受けられない女性が都市部で30%、農村部で40%、イラクの1285カ所の保健所・172カ所の公立病院・65カ所の市立病院のうち03年に病院の12%が破壊され7%が略奪された。家族計画サービス施設の30%が破壊され、地域こども保健施設の15%が閉鎖された。
 10万人あたり医師数47人、看護師は人口2600万人に16700人
 女性・少女への暴行 03年4月以降400人以上(女性の通学、通勤、通院、外出は危険)
 米英占領軍への勧告@ジュネーブ条約遵守による非戦闘員と社会基盤攻撃の停止A人道的援助と軍による救援活動の明確な区分B医療施設の民間人利用の保障と軍事利用の停止C劣化ウラン弾の調査早期実施

 イラクの社会的基盤が崩壊し、イラク社会がそれを回復する能力さえも奪った(結論)。 (2004/12/14 8:55)

[誰にとっての異文化共生か]
 イスラム系の外国人労働者が大量に流入しているオランダで、異文化の共生を考えるシンポジウムが政府主催で行われ、移民担当の女性大臣とムスリム宗教指導者が出席した。会議の終わりに興味深いシーンが起こったので紹介する。

 移民担当女性大臣がムスリム指導者に歩み寄り、握手を求めたのに対し、指導者はやんわりと、しかしきっぱりと握手を断った。以下は両者の会話。

 ムスリム指導者「マダム、私たちムスリムは女性と握手はしないのです。私たちは女性の身体に触れることをしないのです。特にその女性が自分の妻でないときはなおさらです。握手であれ、キスであれ、女性の身体に触れないのは私たちが触れることによって起こるかも知れない誘惑を退けるためでもありますが、私たちは女性たちをリスペクトするからなのです」
 移民担当女性大臣「握手は西欧の慣習なのです。もちろん私たちは中東へ行ったらあちらの風習を尊重しますが」
 ムスリム指導者「大臣は私たちがイコールだとおっしゃる。しかしいまあなたは、私のムスリムとしての選択を拒否し、握手しろとおっしゃる。私たちは今、外国人がオランダにいかに同化すべきかということを話し合いましたね。だがあなたは握手しようと手を差し出された。そのようにムスリムに対して、こういう風に振る舞えと強要することが同化政策なのですが・・・・・」

 要するに先進人権国オランダの無知と無理解が象徴的に現れたシーンだ。
 17世紀の初めにイギリスのピューリタンは迫害を逃れて新大陸・米国をめざしたという話は誰でも知っているが、実は彼らはアメリカを約束の地として最初からめざしたのではなく、最初はオランダのライデンという町に移住した。そこでオランダ語も習得し生活スタイルも身につけた。じょじょになれるに従って、彼らはオランダ人の信仰心の浅さといい加減な生活態度に驚いて、ここは約束の地ではないとして10年後にオランダを去り、メイフラワー号でアメリカをめざし65日の航海を経て、1620年9月6日にマサチュセッツのプリムスに上陸した。
 ちょうどその頃オランダ商人ははるばると日本を訪れ、信長の許可を得て博多や大坂の商人たちと通商を始めた。その時に彼らは、切支丹迫害の踏み絵を踏むことを厭わなかったのである。こういう態度が厳格なピューリタニズムと合わなかったのだ。アメリカに上陸したピューリタンは厳格な信仰生活を守り(ナサニエル・ホーソン『緋文字』など)、犠牲的な開拓によって建国を成功に導いた。この原理主義的キリスト教の流れが現在の米国に脈々と継承されている。9.11テロの時に、米国キリスト教指導者は、イスラム・テロを攻撃するより、同性愛や頽廃したアンチキリストの米国生活に対する神の怒りだとみなした。アメリカ憲法は、厳密な政教分離を規定しているが、大統領就任式や裁判では聖書に手を置いて宣誓し、ドル紙幣にもIn God We Trusttoと印刷してあるように、アメリカは宗教国家なのだ。しかも異教徒に対して無礼な振る舞いをしてもそれを自覚しない十字軍意識を持った原理主義国家なのだ。原理主義テロリスト国家なのだ。以上JMM12月10日付けML参照。(2004/12/11 20:21)

[売春婦はなぜ看護婦やカウンセラーを望むのか]
 アレクサ・アルバートは(『公認売春宿』2002年 講談社)、ネバダ州公認の売春宿の聞き取り調査で、経済的理由で売春しなくてもよくなればどういう職業に就きたいかというインタビューで多くの女性が「売春はいつも屈辱的で自尊心の持てない職業とは限らないわよ。人の内面に触れる人間本位の職業よ」と言い、看護師やカウンセラーになりたいと答えたと報告している。売春に強制がない自主的な性的サービス労働だとすれば、カウンセラーや看護師・保育士と変わらない感情労働だということになる。彼女たちは身体的接触にも増して感情的接触を日常的に行っている。現代社会はプライベートな空間である家族と生活空間であるコミュニテイーがゆらぎ始め、そこでの親密圏の衰弱が売春宿に向かわせる状況にある。
 一方デパートのエレベーター・ガールがにっこり微笑んだり、マグドナルドのスマイル0のような商品化された親密感の虚偽性は人々を空しくさせるだけである。本来の嘘偽りなき親密な感情をナイーブに出し合える場はじょじょに衰退している。感情圏をめぐる親密労働が急速に登場して産業化し、やすらぎと癒しを求めてセラピーに投資する人も増えている。同時に商品化された感情圏は、強姦や殺人をも日常の営みにしてしまって他者の痛みをおのれの痛みとして共感し得ない感情の疎外をも蔓延させている。最近の国士舘や亜細亜大、日体大と続く体育系の集団レイプはその感性のマヒがどこまで進行しているかを示しているし、ファルージャでの6000人に上る集団虐殺に何ら感情を動かさない首相の神経系の欠損も信じがたい人間の頽廃を示している。
 これらの現象は一部の特異な人たちの例外ではなく、「すべて欲情を持って女を見るものはすでに心のなかで姦淫している」(イエス)のように、多くの人がもはや不正義や尊厳の剥奪にノーマルに反応しない疲れ切った神経症状を呈してきているのでないだろうか。かって「バトル・ロワイアル」というクラスメートが無差別の殺し合いをおこなう凄まじい映画があって論争が巻き起こったが、あの映画は現代社会の頽廃を先取りしていたのだろうか(私は深作欣二を絶対に許すことはできないが)。
 現代人は、売春婦の胸の中に埋もれてやすらぎ、セラピー空間で人工的な癒しを味わうしかない哀れな高等動物になり果てたのだろうか。しかしここで振り返らなければならないのは、こうした現象が先進国の成熟文明のなかで生まれており、他方の極に飢えて死す10億人のこどもがおり自爆するレジスタンスがいるという恐るべき非対称性の中で派生していることである。すべてを焼き尽くすかのような資本主義と商品の論理が、一方では精神的な感情の貧困を生み、他方では絶対的な原始的貧困を生んでいる。この両極の貧困がじつは通底している関係にあり、両極が螺旋状にめぐりあって両手を差し伸べ合い、システムそのものを作り替える本質運動がおそらく100年のスパンでじょじょに姿を表すだろうことも信じるに足る論理ではないか。修羅の現象の深いところで、こんなことでいいのだろうか、もっと違う世の中があるのではないかと少なからぬ人たちが思い始めていることも確かである。今のところは、威勢のいい片言に幻惑されたり、より弱い層へのはけ口を求めてさまよう人が多数であるように映るが、人間の本質はそんなものではない。
 多くの高等動物は、日頃エサを与えてくれるもの以外からエサを与えられても信用せず、場合によっては餓死に到る。植物でも根の表面から5〜20mmが影響を受けている根の域であり、その育つ根域から切り離して移植しても生き残れない。まして人間は、エサを与えられてホイホイと自分の尊厳を捧げて屈辱に喘ぐことを本然的に拒否する行動をとる。いま世の中は、こうした本来の人間的自然を真っ向から傷つけて恥じない勢力が跋扈していかにも強力であるかのように見えるが、じつは彼ら自身戦々恐々として不安であるか或いは神経系がマヒしているに過ぎない。王様は裸なのだ。誰かその真実を人に告げれば王様の権威は一夜にして粉塵に帰する。そのためにはほんのチョットした勇気があればいいのだ。以上・後藤道夫氏論考参照して考察。(2004/12/10 18:17)

[時代閉塞の現状を奈何にせむ
     秋に入りてことに斯く思ふかな(石川啄木)
] 

 いつか厳寒の季節を迎えても20度を超えるような晩秋の気配が漂っている年の瀬に、今啄木の心情がピッタリと重なるような昨今の気配です。大逆事件↓日韓併合を経て遂にはアジア・太平洋戦争に至った戦前期日本で、啄木の震えるようなアンテナは敏感に時代の危機を映しだしていました。あれから60有余年を経て時代感覚はもう一度学習したはずの「政府の失敗」の途を踏み出しているかのようです。わずか1世代前の日本は、1941年12月8日にアジア太平洋戦争に突入し、アジア人・2000万人を殺害し(最低推定)、自国民310万人を犠牲にしました。この数字の裏にある一人一人の取り返せ得ぬ人生の豊かさを想像すると気が遠くなるようです。私は戦時3歳にして母を失いました。父は中国戦線に従軍し母の死を復員して初めて知りました。この膨大な犠牲の事実は消え去ることなき記憶として通常の神経系は刻み込んでその後の世代に伝えるでしょうが、なぜまた同じような途を歩みはじめるかのような振る舞いが跋扈し始めているのでしょうか。被害の痛みは長い記憶に残り加害の痛みは相当の努力なしには持ちこたえていくことが難しいからでしょうか。日本の行為によってもたらされたアジア・太平洋諸国の死者数の推定は以下の通りです。各国政府公表数字から。

 日本  310万人
 中国 1000万人ー2000万人
 朝鮮   20万人以上
 ベトナム 200万人餓死
 インドネシア 200万人ー400万人
 フィリピン 100万人
 シンガポール 6万人
 マレーシア 7千人ー10万人
 ビルマ 5万人
 インド 350万人
 オーストラリア 23365人
 ニュージーランド 11625人
 バターン死の行進 7万5千人
 泰緬鉄道建設 16万2千人死亡
 香港英軍捕虜 1500人死亡
 中国人強制連行 7000人死亡
 朝鮮人強制連行 40万人
 朝鮮人従軍慰安婦拉致数 7万人ー10万人


 オーストラリアとニュージーランドは日本軍の直接占領を受けなかったために行政統計が正確ですが、他国は行政崩壊によりすべて統計は推定値です。これらの殺害を命令した最高責任者であるA級戦争犯罪者の慰霊碑に日本の首相はぬかずいているのです。これほど非道な行為は世界史上に例を見ないでしょう。あなたは自分の家族の虐殺を命令した人の慰霊を一生懸命に行っている犯人の後継者を許すことができるでしょうか。驚くべきことに靖国神社は、死亡韓国人21181人の合祀を遺族の意思を聞くことなくしています。韓国国会に日本の首相の靖国参拝中止と合祀取り消しを求める決議が初めて提出されました。これに対しこの国の大臣は「従軍慰安婦の記述が教科書からなくなってよかった。これは私の信念だ」と被害者を嘲るような発言を行っています。
 しかしもっとも深刻な事態は、陸上自衛隊幕僚監部防衛部防衛課防衛班所属の二等陸佐が与党憲法改正草案起草委員会の委員長に、憲法改正案を提出し与党憲法調査会の会議に資料として提出され、この草案内容のほとんどを盛り込んだ与党草案大綱が発表されたことです。防衛部防衛課は防衛・警備計画と業務計画の作成・調整にあたる防衛政策の中枢部門だ。軍事組織の幹部が公然と政治の世界に介入した実質的なクーデターとも云える戦後最初の事件です。与党も草案づくりを軍人に丸投げしたのです。一体憲法草案を軍人が作るという国があるでしょうか。想起すれば戦前期に軍部は統帥大権によって行政からの独立性を持って最後には軍部主導の軍事ファッシズムを完成させました。今回の事態は軍事主導型ファッシズムへの準備過程の最初の一里塚となるでしょう。首相は「専門家の意見を聞くことは悪いことではない」などと、自衛隊法の政治的中立義務や憲法99条の公務員の憲法尊重擁護義務、シビリアンコントロール(文民統制)の基礎知識すらないことを白日の下にさらけ出しています。
 60年前に私たちが2300万人の犠牲者の魂に誓った非戦の国をつくります、過ちは繰り返しませんという原理を洗い流してしまうような雰囲気が蔓延しています。最近のメデイアは皇室への敬語表現が横行し、丁寧語と尊敬語と謙譲語の区別すらしないで「○○様」を垂れ流して報道しています。韓流ブームでタレントにも「ヨン様」などと皇族級の敬語を使って囃したてていますが、いったいこの敬語の氾濫は何を意味するのでしょうか。ほんとうに心から尊敬して自然に出た言葉ではなく、それを使わなかったら不敬罪に当たるのを恐れるかのような雰囲気です。ほんとうに尊敬しているならばサーヤの結婚報道で持参金のことをとやかく言うのは失礼だという感覚がまったく欠落しています。
 若者はその場の雰囲気をすばやく読んでそこからズレないでうまく反応しなければ仲間はずれになるような若者文化のなかで育っています。この雰囲気はいったん成立すると真綿で首を絞められるような力を持って抵抗することが難しいという性質を持ちます。自分がその雰囲気に参入すると無限大に深化拡充して、自分自身がその雰囲気を増幅する側にまわります。この雰囲気は、何が正しいのか、何が真実なのかを本気で考えることをマヒさせてしまい、ドップリつかってしまう安逸のファッシズムをソフトに形成していきます。韓流ブームに熱狂している人に聞きたいのですが、日本の大臣の従軍慰安婦がカットされてよかったという発言をどう思いますか?
正義や真実ではなく、強さや雰囲気に従う楽なスタイルの中で、私たちの人間的な文化のレベルはドンドン退化していっています。OECDが実施した世界学力調査では日本は遂に底辺に転落してしまいました。大人が雰囲気生活を送っている間に子どもたちも自分で考えない楽な生活を選んでいます。つねにまわりを気にしながら、仲間はずれにされないように強者の指示に従うスタイルを今断ち切らなければなりません。汝の足下を深く掘れ!そこには泉が湧き出でるであろう!なのです。以上は大塚英志氏の論考を一部参照。(2004/12/8 19:34)
 補足:不思議なことにこの国で自分の頭で考えようとする姿勢を持っている人がいます。天皇は、「国旗・国歌は強制ではいけない」と米長邦雄を叱り、浩宮は自分の奥さんのためにムキになって宮内庁を叱り、秋篠宮はその兄君を「それはまずいよ」と叱っています。わずかながらも皇室の近代化に向けた主体的な思考が醸成されているようではありませんか。

[JTB時刻表は世界最高水準をいく]
 全国の列車を網羅したJTB時刻表は1925年(大正14年)創刊で、定期刊行物としては文藝春秋と並ぶ歴史的雑誌だ。かて伊能忠敬は全国35000kmを17年かけて踏破し大日本與地全図というという正確無比の歩測と三角測量の結果をすりあわせて、海岸線の微妙な出入りまで再現した日本図を作ったが、JTB時刻表はまさに現代の旅の案内人としてこの地図に匹敵する。編集長・木村嘉男は大学時代に始めた国鉄走破計画を日本地図をなぞった朱線の線が2万キロにおよび、一冊に書き込まれる推定約400万個の数字を米粒に細密画を描くような根気で完成させる。そこまでやるか!という技の殿堂だ。
 鉄道大陸である欧州の定番時刻表「トーマス・クック」には掲載されていない、入線時刻(列車がホームに入る時間)やホームまで細かに記載されている世界屈指の時刻表の裏には、歴代編集者の総意と膨大なオタク的知識が神業のように散りばめられている。
 木村の送られてくるJR各社の原稿は表記がバラバラで手書きもあるし、特急と普通が別紙になっているのを、乗り継ぎの便まで考えて並べ直す。彼の頭には全国主要駅の構造がしまい込まれており、乗り換え時間が3分あってもホームが離れているから無理だと計算する。これはコンピュータソフトではとてもできない。民営化でダイヤは複雑となり、創刊時の200頁は現在1200頁になり、重量オーバーで第3種郵便物許可指定をクリアするために本の上下と右側を1−2ミリカットして1冊1kg以内に納めている。数字の細密画を描き続けて20年になるが、6年前に右目の視界に黒い盲点ができた。網膜剥離で失明寸前だった。最近は新潟中越地震による上越新幹線ダイヤが白紙で締切時間が迫り胃がキリキリと痛んだ。以上・日本経済新聞12月4日付け参照。
 彼の仕事なしに、日本国内の旅行は正確にできないという絶対的な信頼感を構築し、松本清張『点と線』も上梓できなかったわけだ。しかし彼の名前を知る人は少なく、歴史に残るのもマニアの世界だけであろう。無名のママ膨大な作業の記録を正確無比に刻んで彼はこの世を去る。しかし彼の仕事なしに誰も日本国内を旅行することはできないのだ。本当の仕事とはこういうものではないか。久保田一竹の一竹辻が花染めや日本のストラデイバリウスと言われる国産バイオリン作家もこうしたほんものの仕事とは何かを教えてくれる。自らの仕事を省みて溜息が出てくるのだ。(2004/12/7 20:35)

[宮城県障害者差別排除条例(案)]
 障害者差別禁止法はすでに世界40ヶ国以上で整備され、日本政府は01年に国連勧告を受けて04年6月施行の改正障害者基本法に差別禁止を盛り込んだが差別の具体的定義がなく実効性に欠けている。宮城県は日本で初めて差別の具体内容と救済機関を設置する画期的な条例を提案する。以下はその概要。
(5分野)地域生活、医療、不動産取得と利用、労働、教育での障害者の不利益待遇の廃止努力
(具体例)
@本人の意志に反する施設入居
Aサービスの利用制限・拒否
B交通機関の利用制限・拒否
C不動産賃貸の拒否
D採用条件を満たした者の採用拒否
E不当な教育機会妨害
(救済機関)
 知事任命の5人で構成する差別救済委員会による申し立てへの助言・斡旋、認定された差別への是正勧告(罰則なし)、重大差別の公表。
 宮城県在住者の障害者差別の解決に大きな展望が切り開かれる。在住地域の水平的衡平の実現のためには他の自治体も追随すべきだ。地方自治体の政策立案能力の上昇を実感する。政府は基本法再改正に向けて踏み出すべきだ。朝日新聞12月5日記事参照。(2004/12/5 21:32)

[阪神大震災・復興住宅の独居死316人]
 00年1月に解消した仮設住宅に代わって被災者向けに兵庫県と15市町村が建設し、民間賃貸住宅の借り上げも含めた災害復興公営住宅は最大時315カ所、4万2千戸が供給され現在は2万4千世帯が入居している。この5年間での独居死者数は316人になり、04年度だけで58人に達した。ほとんど誰にもみとられない孤独死が多く、死後31日以上たって発見された死者は12人に上る。独居死の内訳は以下の通り。

 男性216人(68%)、女性100人(32%)、年齢別では60歳代93人、70歳代91人、50歳代57人、80歳代54人で60歳以上が全体の77%。地域別では神戸市内216人(68%)、西宮市37人、尼崎市22人、芦屋市10人。
 死因は病死238人(75%)、自殺41人(13%)、事故死23人(7%)。
 死者を最初に発見した人は、隣人・知人29%、家族27%、自治体職員・ヘルパー20%
 死後発見されるまでの時間
  1日以内   144人
  2日〜10日 126人
  11日〜20日  7人
  21日〜30日  7人
  31日〜    12人

 66歳で自宅風呂場でカミソリで腕を切って自殺し死後11日に発見された老人男性が生活保護司に云った言葉を時系列で示すと、「誰の世話にもなりたくない」(99年)→「手首でも切ろうか。兄弟は疎遠で妻とも別れた」(03年末)→「いっそ死んでしまおうか」(04年1月)。同じ棟に住む50歳代の女性は「私らはコンクリートの部屋にはめ込まれただけ。隣人と昔からの顔なじみのようなことはできない」と漏らす。索漠たる寂寥のまったき孤独の果てに病の進行とともに、異臭を漂わせてこの世を去る。
 世の哲学者が公共圏とか親密圏の理論を深刻なポーズで議論をしている傍らで、ひっそりと見捨てられて世を去っていった人が316人もいる。世の経済学者がコンプライアンスとかフィランソロヒーを声高に論じている背後に、誰にも看取られることなく自らカミソリを手にする人が316人いる。新潟・中越震災の被災者が厳しい冬を迎えてまた多くの孤独死が生まれるだろう。こうした死を射程に納め得ない世のすべての思想と学問はそれ自身存立の資格はないだろう。(2004/12/2 9:19)

[あなたは物乞いをしたことがありますか]
 物乞いとは「@物を乞い求めること Aこじき」(広辞苑)となっており、これではトートロジー(同義反復)でよく分からないので、乞食をみると「食物や金銭を恵んでもらって生活する者。ものもらい」(広辞苑)となっている。私はいままで物乞いをした経験があるかどうか一生懸命に思い出そうとしたが浮かんでこない。どうも少年時代にそのような経験があったような気がするのだが、確たることとしては思い出せない。私が物乞いを初めてみたのは、薄黒い丸メガネをした白衣の傷痍軍人がうら寂しくハーモニカを吹きながら電車の中を松葉杖をついて物乞いをしていたシーンだ。私は何とも云えず哀しい気持ちになって、10円玉をあげる客をみて逆に何か怒りのような感情が込みあげてきたのを思い出す。でもほとんどの客はお金を出さなかった。物乞いは一般的に、下劣で品性卑しい行為だとされているようだ(乞食根性)。ここでは現代の物乞いの文化について考えてみる。
 途上国の都市では、人が集まる寺院や市場、交差点におさな子を含む多くの物乞いがたむろし、通行人に向かって訴えている。ただ黙って座っている者もいる。彼らの前にはプレートか皿が一つ置かれている。お金をなにがしか入れると目で挨拶して頭を少し垂れる。彼らの多くは、高齢か幼齢、障害、乳飲み子を抱える母親である。自分の弱さと劣位の惨めさを精一杯に顕示して同情を得るかのようだ。原始的貧困の最底辺の極地への憐れみの情を喚起する。ある人がバングラデイシュで10歳代の健常な男性が物乞いしているのをみていぶかると、やおら自分の性器を露わにしてそれが切断されているのを示して仰天したと書いている。途上国の物乞いは、垂直的な貧富の格差の底辺に位置する者が上層に向かって、憐れみと同情の感情を喚起してその日の糧を得るパターンが多いようだ。
 しかし米国では、自分の主張を大道に大書して示し判断は通行人に任せるというタイプの物乞いがいる。或いは駐車場などですれ違いざまに「オイ!カネくれよ」とアッケラカンと声をかけてくる。どうもここには、憐れみや同情で物乞いするのではなく、自分の「尊厳」は保ったまま当然のように要求しているような態度があるようだ。貧富の差がもっとも著しい競争社会アメリカでは、勝者と敗者が水平的な感情の関係にあるようだ。同じ先進国の日本では、路上の物乞いは見かけなくなった。物乞いしなくてもコンビニの賞味期限切れの弁当をあさればホームレスで暮らしていけるからなのだろうか。それとも儒教的な恥の感覚が強く、貧しても物乞いはしないということなのだろうか。
 ところが日本には堂々と一生物乞いで生活している人がいる。それは修行僧が各家を回って布施する米銭を鉄鉢で受けたり、街頭でジット立ち尽くして布施を仰いでいることだ。彼らは信仰の実践として清貧を極めるためにおこない、喜捨する人も脱俗した人への支援として布施をしている。13世紀西欧でも多くの托鉢修道会が生まれ門付けの喜捨は救済行為であった。イスラムでも貧者に対する無条件の喜捨はコーランの重要な義務行為の一つである。するとここでの行為は崇高な宗教行為であるから、物乞いではないということになるが、形式的な現象としては物乞いと同じであるともいえる。

 では物乞いの本質的な性格はなんであろうか。私なりに考えてみると、人類史に私有財産が発生し、その所有をめぐって貧と富という両極が誘発され、絶対的貧困の回避を願う貧者が自らの尊厳を放棄して私有財産の一方的な譲渡を嘆願する行為というように規定したい。ここでは、私有財産の一方的譲渡という財産権の絶対的否定が、人格の尊厳の絶対的否定とパラレルの等価であり、或る主の交換行為であるとも云える。しかしモノと人格の交換は、物乞う側の人格を無限に剥奪していくから、物乞いの人格崩壊は際限なく深化していくという構造を持つ。途上国の物乞いの惨めさをさらけ出す姿は、奪われた尊厳の無惨を表しているが、アメリカ型の物乞いは奪われた尊厳の自覚すら喪失した人格の荒廃の極地を示していると思う。彼らはいつでも集団暴力で他者の私有財産を簒奪する行為に転化する可能性があるが、おそらく途上国の物乞いはそうした無自覚の犯罪には参入しないだろうと思う。こうしてアッケラカンと笑いながら物乞いする米国型の方がより悲惨であると言えよう。世界史上最大の殺人件数を誇る犯罪国家に転落しているのがアメリカだ。
 いまイラクで虐殺作戦を展開している米軍の行為は、実はこうした米国型物乞い犯罪国家の延長線上にある尊厳の喪失の極地を示している。憐れみを乞う捕虜をいたぶって快感を味わう兵士の精神はウルトラ・サデイズムだ。途上国型物乞いは、お金を与えてくれた他者にちょっとした視線を向けて感謝の意を表する。米国型物乞いは人間らしい痛みと共感の感性を失った想像力の貧困の極限に生まれる。そうした精神が権力を握ったときに無辜の他国の民を無惨に殺害することができるようになるのだ。そしてそうした物乞い犯罪国家権力の強勢にひれ伏して媚びへつらいながら加担している東アジアのライオンヘアーの精神は、コメントすることすら憚られる唾棄すべき精神である。なにしろ彼は、自国の娘が強姦され戦闘機が墜落して被害を受けても一片の抗議もしないで取り繕おうとしているのだから。(2004/12/1 21:31)

[米軍の虐殺作戦は自滅の螺旋を転落していく帝国の黄昏に他ならない]
 イラク赤新月社によれば、米軍のファルージャ殲滅作戦によるイラク人死者は6000名を超え数千世帯が瀕死の状態にあり、「いたるところに死体がある。食料の包みを受け取るときに人々は大声を上げて泣かんばかりである。実に酷い。人道的な大惨事だ」(同社スポークスマン)という悲惨な状態になっている。英国慈善団体・メッドアクトのイラク開戦以降の市民健康調査報告書(30日)では、伝染病患者の激増、うつ病などの精神的症状、戦闘による医薬品供給不足、妊娠中に病院に行けない人がバグダッドで5人に1人に達している。一方米兵の死者は1252人に達しているが、米軍の支配地はファルージャの大通りとその周辺に留まり抵抗勢力との激烈な交戦状態にある。いままで攻撃を控えていたイラク穏健派が戦術を転換しイラク治安部隊に攻撃を加え始め、イラクはベトナム型の泥沼状態となっている。全世界の対米感情は極度に悪化し、隣国カナダでさえも66%が嫌米意識を持ち、米国の青年の徴兵忌避によるカナダ亡命者が増大している。21世紀初頭はアメリカ文明を原理的に問い直す課題に直面した。
 大統領の戦争犯罪は裁かれるだろうか。戦争犯罪者を大統領に再選した民衆の加担責任は裁かれるだろうか。恫喝されて震え上がって軍隊を派遣した東アジアの国の首相は裁かれるだろうか。彼らは裁かれるだろう。国際戦争犯罪法廷を待つまでもなく、いまこの瞬間に爆撃で身体が飛び散っているおさな子の見開いた瞳のまなざしが彼らを裁いている。その視線は白亜の府に届いていないけれど、法服の裁きとは別にすでにまなざしによって最高刑をもって処断している。そうしてこのまなざしを地上の時代に刻印する役割は、それを見守る経験をしたはずの私でありあなただ。神に頼るのはやめよう。あの人は歴史のなかでよく沈黙を守りながら祝福だけを与えてきた。彼らの戦争犯罪を裁くことなくしてこれからの時を刻むことは遠い共犯者となる。銃を持つ兵士は銃口を白亜の府に向けよう。空駆ける戦闘機のパイロットは白亜の府の上空を飛ぼう。人を殺めたくないと思うすべての人は、自分の心の照準を白亜の府に合わせよう。今まさに子どもを産みおとさんとするすべての女性は、我が子の命の平安を念じて罪なき子を殺めるなと叫ぼう。
 迫りつつある戦犯帝国の凶暴性は世界犯罪を犯して恥じないところまで頽廃の極地にある。帝国の黄昏を迎えつつ夜明け前の暗さはもっとも深い。あたかも世界の黄昏とみまうが如くその暗いヴェールが覆いつつあるかにみえる。確かにそうだ。追い詰められた者の最後のふるまいはもっとも攻撃的で残忍だからだ。同時にそれは弱さのもっとも鮮烈な証しでもある。世界が同時にたった1秒間うち揃って、NO!と一斉に声を発すれば一気に瓦解してしまうのだ。そうして世界史の教科書の21世紀の頁には、かって強国と謳われたUSAの没落の事実が淡々と記載され、受験生は一生懸命にそれを暗記しているーそうした将来が目に見えるように浮かんでくる。驕れる者は久しくないのだ。歴史は2度繰り返す。1度目は悲劇のうちに崩壊したローマ帝国、2度目は嘲笑のうちに喜劇のピエロとなって崩れ落ちた星条旗帝国。すでに帝国亡き後の世界プランは準備されつつある。どこに?あなたの頭脳のなかで、私の頭脳のなかで発酵して生まれいずる準備がなされつつある。ほんのちょっとの勇気と決断があれば設計図が書けるところまできている。星条旗帝国の墓碑銘には、惨殺されたファルージャの市民6千名のフルネームと無意味な死を強いられた1252名の米兵のフルネームが、永久に消えないように深く刻み込まれなければならない。(2004/12/1 19:10)

[ウクライナ問題の深層にあるもの]
 ウクライナは西はカルパチア山脈、南は黒海に面し、中央部に肥沃な黒土地帯を擁する面積60万3700平方キロ(日本の1,6倍)、人口4800万人、首都はキエフ、公用語はウクライナ語を採用する。8世紀末にキエフ公国が建国され10世紀後半にギリシャ正教を導入しビザンチン帝国と並ぶ繁栄を誇った。13世紀にモンゴル人の侵入で崩壊し、14世紀にリトアニア大公国とポーランドの支配下に置かれたが、17世紀に独立運動を支援するロシア帝国がドニエプル川左岸とキエフを併合して自治権を認めたが、18世紀後半にロシアの一部となり1772年のポーランド分割で右岸も併合された。ここからウクライナ東部は正教、西部はカトリックが多数を占める。1917年のロシア革命で3年間の内戦を経てウクライナ社会主義共和国が成立し22年にソ連邦を構成した。スターリンの強制的農業集団化で数百万人が餓死した。東部は大炭田を持つドネツク州など重工業地帯を形成し現在でも人口の60%はロシア人が占める。90年に共和国主権宣言、91年に独立宣言でソ連から独立したが、その推進勢力は第2次大戦後にソ連に編入されるまでロシアではなかったリビウを中心とする西部国境のガリツイア地方であった。
 ウクライナは旧ソ連経済の20%を占め、70%のロシアに次ぐ存在であったが、独立後のインフレ昂進とと生産低下で、西・南部の肥沃な穀倉地帯、東部の重工業地帯はともに00年までマイナス成長におちいり、03年の1人当たり国民総所得は970$。しかし民営化による利益は「クラン(氏族)」や「オルガルヒ(独裁者=新興財閥)」が独占し、東部出身の与党政治家と癒着している。改革派は経済の機会均等、言論の自由を掲げ欧米との強調を求める西部・中央部に影響を持つ。東部に地盤を持つ与党は、ロシア、ベルラーシ、カザフスタンとの統一経済圏構想を推進している。イラク派兵については、与党はイラク総選挙後の撤退を云い、野党は即時撤退を主張している。与党支持派の中心は炭鉱労働者であるが彼らを首都に動員しているのは会社や組合であり、東部は一種の情報閉鎖の状態で、ドネツク州では選挙監視団が追い出されたりして投票率が98%〜105%という異常な状態になり、野党候補の毒殺未遂とみられる事件も起こった。民営化後の生活水準の劣悪化と一部新興財閥の親族支配への不満が爆発している。
 米国はウクライナのNATO、EU、WTOを積極的に推進するためにこの不満を利用してきた。米政府、共和党、民主党、NGOは連携を図りながらウクライナの青年層に浸透し、「好ましくない体制を倒すアメリカ製の民主化」運動を支援してきた。米団体が雇い入れた米国の世論調査会社やコンサルタントが野党勢力に選挙戦略を指導してきた。以上は英紙・ゲーデイアン26日付け参照。00年・ユーゴスラビア連邦ミロシェビッチ大統領辞任、01年ベルラーシ大統領選挙、03年ジュワルナゼ・グルジア大統領辞任を演出したのは米国団体であった。

 今回のウクライナ問題は、基本的にはソ連から独立後13年を経てウクライナの本格的な民主化過程の一里塚となるだろう。しかしその過程にいかなる外国勢力の内政干渉もあってはならない。ウクライナの困難をウクライナの民衆による打開に委ねよ。特に米国は自国の大統領選挙すら公正でないのに他国の選挙に干渉する資格はない。02年に発生したベネズエラのクーデターを事前に察知したCIAは米国政府最上級高官200名にクーデター予知の報告を配布しながら、現地チャベス政権にはなんらの通告もしないでクーデターを黙認した(米紙・ニューズデー24付け)。反乱軍の背後にCIAがいたのだ。(2004/11/28 21:50)

[世の中の半数を占める女性はセクハラ新保守派を許すのか]
 女性蔑視の妄言が新保守派から続出している。
 「子どもを産まない女を税金で面倒みるのはおかしい」(森元首相)
 「有害な者は生殖能力をなくしたババアだ」(石原都知事)
 「女の涙は最大の武器だ」(小泉首相)

 とくに石原都知事の発言はすぐ翌日にも辞職してもよさそうな破廉恥なものですが、東京都の女性たちはそうでもなさそうだ。新保守派の女性感覚はなべてこうした低レベルの下劣なものですが、どうして世の女性たちは総スカンにしないのでしょうかね。斉藤美奈子氏によれば、現代のセクハラ感覚を測るバロメーターは次のシーンにあるそうだ。あなたはこの小泉首相の発言を見てニヤッとしますか、それとも嫌悪感を感じますか?

 日韓親善大使に選ばれた女優・藤原紀香とキム・ユンジンさんが首相官邸に小泉首相を表敬訪問したときの首相発言は、「かわいくてきれい、(ぼくは)しあわせだなあ」です。あなたはこの発言を聞いて直感的にどう思いましたか? 斉藤氏は、女が相手と見て失礼極まりない発言であり、こういう土壌にセクハラ文化は花開くと批判していますが、私は結構世の多くの女性はこの小泉首相の態度を苦笑してうけいれ、藤原紀香に羨望と嫉妬を覚えているのではないかと思います。ことほど左様にジェンダー・フェミニズムはタテマエとして奉られ、声なき多数の男性は女性蔑視を埋め込まれています。ちなみに同じ表敬訪問で韓国・金大統領は「遣唐使のような志を持って頑張って欲しい」と述べています。とっさの際にその人の本質が暴露されますが、ほんとうに日本の最高権力者の頽廃した心は恥ずかしい限りです。以上・斉藤美奈子『物は言いよう』(平凡社)参照。(2004/11/28 20:46)

[萌え・現象について]
 PCのなかに登場する架空の美少女にいろんなことを囁かせて、その少女と恋愛をしていくという萌えというゲームが流行しているそうだ。試しに検索エンジンで「萌え」を入力すると膨大なサイトがおちてくる。こうした美少女のグッズを集めたフィギアショップが秋葉原に次々とオープンして全国から若者が集まってきているという。萌えの最大の特徴は、自分の思い通りの言葉を美少女が発してくれて自分の思い通りに操作ができるところにある。生身の人間なら自分の感情を逆なでするようなことばを発する場合もあるが、この美少女は高次なモノとして自由意志を持っているかの如く自分に従ってくる。
 なんか哀しい現象だと直感的に思う。他人の感情が生で自分の中に入ってくるのを拒絶して、自分の感情だけで他人との交流をする究極のエゴの世界ではないだろうか。あげくはその少女をフィギアにして愛玩するために秋葉原に通う行為は、外界との交流を絶ってひたすら自分の意識に閉塞する痛々しさがある。大枚はたいて買うというのはしかしすごいエネルギーだ。
 美少女は無機質なモノとなって店頭に並んでいるにもかかわらず、そのフィギアはあたかもほんとうの恋人のように映って、カネで買うことができるんだ。
 奈良市の少女を誘拐して殺害した犯人は、メールで「娘はもらった」とつたえたうえで、無数の傷がある殺害写真を携帯で母親に送りつけた。犯人にとって有山楓ちゃん(7)はモノとしての美少女・フィギアに過ぎなかったのだ。以上・大谷昭宏氏論考参照。 
 インターネットの世界を覗けばこうした事件がいつ起きても不思議ではない、異様で異常なサイトが満載されている。終わりなき非日常が日常となって、特に若者たちの神経系を奇形化させている。ばかりか文壇新人賞の世界はこうしたアブノーマルな世界を描かなければ入賞できないような頽廃現象を煽り立てている。
 逮捕されるだろう犯人に対する糾弾は苛烈を極め、死刑判決を求める声が声高に叫ばれるだろう。だけどほんとうに恐いことは、犯人を糾弾している当の本人たちが、同じような世界にドップリとつかり、自らは実行し得なかった犯人の行為に内心は憧憬し、かすかに残っている痛みを犯人に集中してカタストロフィックな満足を味わっていることだ。かれらはこの瞬間にも萌えのソフトに夢中になって我を忘れている。なぜこのような異様な空洞のなかでしか生きられない人間が大量に生まれているのであろうか。
 このような現象の最大の特徴は、他者の痛みや哀しみへの共感と想像力が決定的に欠落し、自分に向けられるであろう憤りや怒りをいともあっさりと無視してせせら笑う心情にある。どうしてこのような心情が醸成されているのであろうか。ホッブス的な欲望の自然状態が無制限に開放された自由社会がもたらしたものか。確かに有刺鉄線で囲まれたリング上で、全身血だらけになって戦うプロレスラーに熱狂的な応援を送っている観衆の生き生きと輝く眼の光を見るとそのようにも思えてくる。さらには成田空港に到着したヨン様に喚声を挙げて殺到する女性たちを見ると、なにかプロレスの裏返しでもあるような哀れさを覚える。要するに彼らは自分自身になにもないのだ。空っぽの空洞化した自分をなにかで埋めなくてはならない。その埋めてくれる代償物は、プロレスラーでありヨン様であり、そしてフィギア・グッズなのだ。こうした空っぽの空洞化した行為にしか、喜びと開放を味わえない日本はどこから生まれてきたのか。
 かって恐慌と戦争に向かう不安の時代に、同じような猟奇的な犯罪が激増した。少数の反権力運動が途絶えた後に、刹那的な私生活主義が蔓延し、世はエロ・グロ・ナンセンスに彩られた。泥のように蓄積されていくルサンチマンを組織したのは、権力への意志と独裁による一気に矛盾を払う幻想をふりまく戦争屋であった。
 そろそろ結論を出そう。いま日本はコイズミとタケナカがセットした鉄の有刺鉄線のリングと化し、国民はリングのなかで非情な競争と無制限の殺戮に到るデス・マッチを繰り広げさせられている。有刺鉄線を破ろうとする者は容赦なくファルージャとなる。自分より弱そうな者を必死に求めて攻撃を集中しなければならない。攻撃の対象は小学校1年生の犠牲者でなければならない。勝利のしるしに、「娘はもらった」とメッセージを送りその証拠に傷だらけの遺体写真を両親に示して自分の勝者の実感を味あわなければならない。
 こうした修羅場を抜けだす方法は一つしかない。誰かが有刺鉄線を張って地獄のリングをつくりだしているのだということに気がついて、一斉に同時に惨めなダンスをただちに止めることだ。(2004/11/27 10:27)

[中国社会科学院・日本研究所「中国の対日感情調査」(中国青年報24日付け)]
 3300人対象、3000人回答。
(日本への親近感)
 日本にまったく親しみを感じない 22,4%
 親しみを感じない 31,2%
 親しみを感じる 6,3%
(親近感がない理由)
 侵略の歴史を真剣に反省していない 61,7%
 日本が中国を侵略した 26%
(小泉首相の靖国神社参拝について)
 いかなる状況でも参拝すべきではない 42%
 日本の内政であり干渉すべきではない 5%

 中国民衆の対日観の現状が浮き彫りとなっています。日本と中国は1972年の日中共同声明で国交を回復し、日本が過去に戦争によって中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省すると述べました。しかし小泉首相による靖国神社参拝が続いて中国側の批判は高まり、04年8月に中国で開催されたサッカー国際試合で日本の国歌演奏中での不起立やブーイングが起こりました。中国への侵略を免罪するかのような「新しい歴史教科書」の採択、中国人強制労働補償、従軍慰安婦補償など歴史問題への無責任が発生しました。靖国神社参拝問題はすでに04年2月に大阪地裁が首相の参拝は公式参拝に当たり違憲であるとの判決を下しているが、小泉首相は判決を無視して強行している。ドイツの首相がナチス戦犯の墓に詣でたら、欧州諸国は直ちにドイツと国交断絶するだろうが、日本にはこのような歴史感覚はない。
 しかし少数ながら日本と中国の双方で歴史問題と訣別する未来派とか歴史修正主義派が台頭しているのも事実だ。日本では、大不況下のルサンチマンの堆積を基盤に対外膨張主義的な潮流が高まり、まごうかたなき侵略の歴史を修正してナショナリズムをウルトラ化しようとしている。こうした動向を利用しながら日本政府は、自衛隊の対外軍事力強化と憲法改正を推進し日米同盟によるアジア覇権国家構築を推進しています。ただし彼らの知的レベルは非常に低劣なので国際的な信頼を喪失させているが、国内では感情的動員に一定成功しつつある。中国では、欧米留学組を中心にした欧米崇拝型市場原理主義グループが、改革開放体制の進展の中で一定の地歩を占め、中国市場経済の極大化に向かって過去の歴史問題を留保しようとする主張を掲げている。先富論によって貧富の格差が拡大している中で貧困に喘ぐ階層がトラウマを蓄積して反日意識が醸成される基盤がある。
 双方の大衆レベルのトラウマが憎悪に向かい、その排外主義への転化が最悪の結果を招くことは過去の歴史が証明している。日中共同声明と日中平和友好条約の国際法上の誓約を基礎にすることによってのみ、両国関係の最適化は実現される。(2004/11/25 9:26)

[私たちには誰でも2つの人生がある(『不穏の書 断章』フェルナンド・ペソア)]
 ペソアは、真の人生はこどもの頃夢見ていた人生で、大人になっても霧のなかで見つづけているものだ。対して実用の人生、役に立つ暮らし、棺桶のなかで終わる生は偽の人生だという。そうだなあーと溜息をついて自分の人生を見つめるきっかけとなる言葉ではある。60億の人間がそれぞれに60億のかたちを刻んでこの世を去っていくのだよね。でもこの人は幸せだと思うよ。実用を生きて終世霧のなかを見つづけられたから。2つの人生を同時に生きるというのが理想なんだろうか。夢が同時に実用であるような人生ってあるんかいな。実用のない夢の人生ってのもありえないよね。だからすべてのひとは夢をどこかにかかえて実用を生きているんだ。だいたい実用の生活を軽蔑したり、遮断したりして夢のみを生きている人って人間的な匂いが伝わってこないよ。
 棺を覆うてはじめてその人の価値が定まるっていう言葉があるけど、それも違うと思うね。正確には、棺を覆うてそのずっと後になってその人の価値は定まるというべきだと思う。棺に入る直前に、”これが人生だったのか よしさらば今一度!”(ニイーチェ)となんらの悔いなく自分の生き越し道を全的に肯定できる人って、ほんとうに幸せなのかって思わないか? 後からふりかえれば、なんであの時にこうしなかったのか・・・と後悔の涙を流して生きていくのが私たちの実相ではないのか。僕はそれでいいんだと思うよ。何度でももとにもどってやり直しがきくような人生って、パソコンをリセットしているみたいで面白くもなんともないよ。やり直しがきかないからこそ、僕たちは1回しかない時間を不可逆的に生きる意味と価値を得ているんだと思う。間違いと後悔を繰り返して、なおも前方へ進んでいこうとする意志にこそ人間にしかない尊厳があると思う。
 だけどいちばん恐いのは、自分の選択と決定が自分に委ねられていると思い込んで、実は操作されていることに気がつかないで、あたかも自分で決めたかのように進んでいくことだ。これが最も恐いと思う。ではどうすればこの迷い道から抜けだすことができるんだろうか。僕は僕なりに考えると、僕以外の他人の生を真摯に見つめることから始まると思う。自分とは違う選択をしている生をしっかりと見て、そこから汲むべき何ごとかがあれば謙虚に汲みとることが大事なんじゃないか。そんなことにかまわず驀進する人もいて、みんなはその強さを褒めたたえたり、憧れたりするけど、僕はそういう強さはほんとうの強さじゃあないと思う。
 だから60億の生の姿をしっかりと見て、その生を確かめて、その後にそれらの結晶体として60億分の1の自分の生を確かめるといいなあと思う。いまこの瞬間にいのちを落としているおさな子の生は自分にとってなんなのか、いまこの瞬間にアジアから売られてきた娘やこどもを抱いて喜んでいる日本人っていったいなんなのか、つまりある確率で自分の生を自分で選べない人がいるってことだ。強制された生と死をいともあっさりと送って(送らされて)この世を去っていく生がたくさんあるってことに、自分の生をどのように結びつけるかってことだ。
 誰でも2つの人生があるとすれば、60億×2=120億の人生があることになるよね。だけど自分で選べない生のほうがずっと多いという気がするよ。自分より強い力によって強制された生と死のほうがあきらかにずっと多い。これだけは最低止めさせなければならないんじゃないか。一人でもそういう人がいることを横目にして、自分の生きる自由をいうことはそれは罪なんだとしたい。飢えて死んでいく人にとって料理の本って何の意味があるんだろう・・・といった哲学者がいたけど、この問はいまもって解決されていないんじゃあないか。そして飢えて死ぬ人は、食料がない人も愛情がない人も含めていろんな飢えがあるんだ。そうは思わないかい?(2004/11/24 20:16)

[米国務省「人身売買報告書」(6月発表)から]
 同報告書は日本に対して、人身売買を防ぐ法整備と被害者保護が基準を満たしていないとして、3段階評価の分類2に位置づけ、今後は分類3に転落する危険がある監視対象国に指定した。法務省入国管理局調べでは、04年2月の1ヶ月だけで、58人(タイ人34名、フィリピン人16名、韓国人、インドネシア人、コロンビア人各1名)が人身取引被害者に該当するとしている。日本は性的搾取のために女性やこどもを売買することを実質的に放置している許し難い人権侵害国なのだ。北朝鮮拉致事件を糾弾する中でこうした事態が放任されている。
 人身売買対策は、児童買売春・ポルノ禁止法のなかで児童への性的搾取の対策強化が計られているが、人身売買自体の対策は皆無だ。国際組織犯罪防止条約の人身売買補足議定書の批准もなされていない。人身売買禁止法の制定と人身売買罪の創設が緊急になされなければならない。現在日本政府は、被害者を不法滞在、不法就労犯罪者として処罰し強制退去させている。売買された被害者を犯罪被害者として保護し、民事法律扶助制度を適用するなど支援措置を強め、婦人相談所やシェルター拡充などの緊急対策が必要だ。すでに批准しているこどもの権利条約の規定から云っても早急に対策を講じなければならない。(2004/11/24 9:02)

[天変地異 人面獣心の時代]
 
 「自衛隊がいるところは非戦闘地域だって」
 「なに それー」
 「まるで自衛隊がいけば、そこが戦闘地域でなくなるみたいだよなー ありえないよねー」
 「あははは 誰がそんなオモシロイこと言ったの?」
 「コイズミさん」
 「一国の首相が言うなよー!!」(朝日新聞22日付け夕刊漫画より)

 ことほどさように今の日本は軍隊を出動させるという大事にすら頽廃した論理を振りまわして恥じない低劣な指導者を持っている。この指導者は殺戮と陰謀を命じながらその責を負う気持ちなどさらさら無い。国民は自らにふさわしい指導者を戴くとすれば、こうした指導者にふさわしい国民意識が残念ながら醸成されている。ケータイとネットでつながり自分が出歩く街が世界の全てであるかのような人にとって、新聞記事で満載されている無意味な戦争やテロ等の他国の死と自分を関係付けて考えることはない。日米無関心同盟、人格が壊れかけている末期症状をアメリカ人と日本人が競い合っている。このまま戦争と不況が長引いて、学校も社会も不信と欺瞞に曝されるなら、戦場からどんなに遠くにいても人格の崩壊は進むだろう。世相も思潮も壊れて疲れた臨床報告があふれ、開き直りと逆ギレと病気自慢に終始したり、やれやれと溜息をついている。以上・島田雅彦氏文芸時評参照。
 島田氏の結論は徹底した自己吟味によって人格崩壊をくい止めよーということにあるが、それは方向が反対だ。どのように自己吟味を分析的、批評的におこなっても内面への沈潜は自らを基礎づけている外部への反乱へのインセンテイブを誘発はしない。氏自身も言うように、自己は社会を映す鏡であり、自己のフィクションをどのように壮大に構築しても現実の試練を受けて破綻する。氏はその破綻の有様を記録するのが文学であり、英雄やならず者の時代からありふれた市民の時代を経て余計者の時代に到った現在のテーマは、職業意識を持たず浮遊しコミットしない無党派・無関心層のフリーターにこそあるという。
 さて島田氏の時代感覚はフリーターでとどまり、閉じこもるニートに及んでいない点で限界があるが、氏の言説の決定的な限界はフリータやニートが現代企業の労働力政策の結果であり、若者が自ら好んで選択しているのではないという構造的な分析がないことである。氏はそのことを分かった上で、その現実を所与の与件として、その現実に浸蝕される自己の破綻を描けーと言っているに過ぎない。その現実と真っ向から向き合う前方への自己を描けとは言わないのである。自己が社会的な諸関係のアンサンブルであると同時に、自ら現実をつくりだしている加担的な存在でもあるという重層的な存在としての自己を描いたときに、時代のうちにあってなお時代を超えようとする自己を形象化することができる。実はそうした希求の擬似的な英雄の代替物として、コイズミやイシハラ人気が登場しているところに現在のほんとうの怖さがある。
 氏が主張する自己吟味は、自己を社会的諸関係の場の中に鮮明に置き得たときに初めて可能になる。氏はそのような作業を、今更社会道徳や空疎な理想論なんぞを振りかざしても無意味だと冷笑する。ここに氏の一見リアルそうに見える文芸時評の現実肯定に陥る悲惨な本質がある。氏が評価する現代思潮からは、フリーターやニート自らがふたたび頭を上げて前方に歩み出ようとする契機は見えてこない。氏の宣揚する自己吟味は、フリーターやニートの若者にとってはとっくに自己了解済みの痛みなのである。氏は、すこしづつ瘡蓋をつけつつある傷口をもう一度開けと言っているのだ。パロデイ風に云えば次のようになる(うまくないですが)。

 「自分を見れば 社会が見えるんだって」
 「なに それー」
 「まるで自分がいれば、そこが社会になるみたいだよなー ありえないよねー」
 「あははは 誰がそんなオモシロイこと言ったの?」
 「シマダさん」
 「一国の作家が言うなよー!!」   (2004/11/22 23:09)

[日本の報道の自由度は世界42位、先進国最下位]
 国際NGO・国境なき記者団が52の質問によって世界の報道の自由度を算定した結果である。日本の評価は「報道は多様化し強力だが、記者クラブの存在によって海外メデイアが日本のニュースに触れる機会が奪われている」となってかなり本質を突いている。下位にランクされた国は、政府系報道機関しか存在しない、記者に対する統制が厳しい、内戦などで記者が殺害されるなどが指摘されている。低位国は東アジアと中東に集中し、北朝鮮が167位で最下位、中国162位と低位に位置している。西欧は北欧が上位を占めているが、ロシアが140位で旧ソ連圏はおおむね低位にある。米国は22位、カナダは18位で比較的上位にあるが、イラクにおける米軍は108位に位置づけられている。中東はイスラエルが36位で高位にあるが、レバノンの87位を除いて他の中東諸国は100位以下になっている。
 日本の報道が「多様化して強力」というのは、ほんとうにそうかと思う人もいるだろう。確かに量的に日本のメデイアの普及度は世界最高水準を行くが、英国のBBCのような権力に対する報道の独立性と批判性を保ち得ているかという点では大いに疑問がある。パーソナル・メデイアはおいていわゆる報道機関の権力独立性は非常に低く、記者クラブ制にみられる特権的な慣習が維持されているところに、先進国中最下位の評価を得る状況があることは間違いない。
 しかし最も危惧すべきことは、いま日本の報道の一部に権力の走狗となって世論操作を扇動しているマスコミがあることだ。「読売」「産経」はジャーナリズムの本質である権力批判を放擲し積極的に政府サイドへの誘導を図ろうとしている。かっての戦時期に「爆撃の後にはキャラメルがうまい」→「欲しがりません勝つまでは」→「撃ちてし止まん」というキャッチフレーズで戦争動員を鼓舞した新聞は、敗戦時には軍部の抑圧を攻撃して戦犯を告発する論説を掲げ、今やまた海外派兵を推進する論説を載せ始め、イラク派兵自衛隊を激励し、教基法改正を主張する新聞広告を優先的に載せ始めたのだ。(2004/11/21 21:19)

[自由民主党・憲法改正案大綱原案]
 自民党憲法調査会の改憲案大綱原案の要旨は以下の通り。起草委員会を経て12月初頭の総会で大綱決定し来年度大会で最終決定。青字は筆者がもっとも注目する部分です。

○基本的考え 我が国の歴史、伝統、文化に根ざした固有の価値、国民性
○第1章・総則 国旗は日章旗、国歌は君が代と定める
○第2章・象徴天皇制 天皇は日本国の元首。皇位は世襲。男女問わず皇統に属するものが継承
○第3章・基本的な権利・自由・責務 @名誉権、プライバシー権、肖像権A知る権利(情報アクセス権)B犯罪被害者の権利追加。
国民は国家独立と安全を守る責務を有する。徴兵制は容認しない。国民は社会保障その他の社会的費用を負担する責務がある。教育は郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を涵養する。
○第4章・平和主義と国際協調 自衛又は国際貢献のために武力行使を伴う活動は必要且つ最小限の範囲でおこない、事前に国会承認を要する。唯一の被爆国として核兵器は製造せず保有せず持ち込ませない。
○第5章・統治の基本機構 参議院は道州ごとの選挙及び選出(推薦)された議員で組織。大臣は全て衆議院議員から選ぶ。司法裁判所が憲法違反と認めるときは憲法裁判所の裁判を求める。 
○第6章・財政 会計検査院は国会の付属機関。複数年度予算編成を認める。
○第7章・地方自治 道州及び市町村並びに自治区とする
○第8章・国家緊急事態及び自衛隊 首相は国家緊急事態(防衛緊急事態など)と認めるときは布告し基本的権利と自由は制限できる。個別的自衛権または集団的自衛権行使のための必要最小限の戦力を保持する組織として自衛軍設置。国際貢献活動(武力行使を伴う活動を含む)をも任務とする。
○第9章・改正 @各議員の総議員の過半数の賛成で可決、国民投票の有効投票総数の過半数の承認、A総議員の3分の2以上の賛成で可決のいずれかによる。
国民は憲法擁護の責務を負う

 平和主義を簒奪した戦争国家への転換を構想する実質的なクーデター案であり、かってのナチスがワイマール憲法下で主導した授権体制の日本版に他ならない。散りばめられた新しい人権は無花果の葉に過ぎない。300万人の犠牲者はふたたび裏切られようとしている。21世紀の日本の存続を賭けた決定的な転換点が迫ろうとしている。私たちはこのような憲法を次世代に残すことになるのでしょうか。かって大日本帝国から未曾有の屈辱を受けた韓国の反応を見てみよう。

 「自衛隊の役割の変更と拡大は、東アジア情勢が嫌悪になったときに地域情勢の悪化を招く可能性が高い。日本は東アジア地域の人々に真の謝罪と和解をせず、過去の歴史を歪曲、捏造してきた。日本は軍事大国に進むより経済力を通じて地域平和に寄与することが望ましい」(中央日報 18日付け社説)
 「過去の日本帝国主義の植民地支配と侵略戦争を支えた象徴((日の丸・君が代)を全面復元するという点でわれわれの憂慮を刺激して余りある」(韓国日報 18日付け社説)
 「米日同盟と日本の軍事的役割強化を建設的に九州できる多国間安保の枠を考える必要がある。9.11テロ以降の対テロ戦争に参加することを同盟の基準に置いている米国の変化をよく理解した上での行動だ。東アジアの信頼醸成、軍縮と軍備統制という多国間協力安保の枠と多国間経済協力が、日本の進路に対する憂慮を解消できるよい方法だ。平和憲法と専守防衛は、われわれにとって日本が再び軍国主義へ向かわないという安心と説得の材料だったが、この2つの基準は崩れている。周辺諸国の懸念を解消することが日本の役割だ」(尹徳敏(ユン・ドクミン)外交安保研究院教授 中央日報18日付け)
 「改憲案でもっとも注目することは、草案が自衛軍設立を主張し、集団的自衛権の行使と国際活動への参加のなかで武力行使を許していることが疑いもなく自民党の改憲草案の核心である。もし同草案に基づいて改憲がなされたら、現行憲法の9条の中で残るのは戦争発動の権利の放棄1項のみで、日本に名実伴う軍隊である自衛軍を出現させることになる。改憲案の発表は日本の防衛政策に大幅な変更が下準備されていることを体現している。いわゆる集団的自衛権とは、本国が武力行使を受けなくても、他国が攻撃される状況下で他国とともに海外で武力行使を行うことである。日本の純防衛から攻守兼備の重大な転換を実現するためには、現行憲法の9条が最大の障害であることから、改憲は20004年の日本の政界の最も熱いテーマの一つとなっている」(新華ネット・電子版 20日付け)
 「日本の平和憲法は日本の経済発展を保障してきた。自民党の改憲案は軍拡を合法化しようとするものだ。彼らは有事法制、海外派兵、靖国参拝など改憲への雰囲気づくりを推進してきた。日本は他国を侵略した歴史を認めない国になっている。自民党改憲案は、平和憲法を廃棄しようとするもので、アジア諸国と人民の日本への不信を招き日本の利益を損なうことになる」(中国国際放送局・北京放送電子版)
 「日本は21世紀に帝国主義の復活を夢見るのか。過去の侵略に対する反省なしに、日本を戦争国家化し軍事大国の陰謀を実現するための具体的行動だ。改憲によって朝鮮半島での戦争の危険が一層高まる。日本の改憲はわが民族の生存を脅かす最大級の事案だ。」(韓国与野党国会議員71氏声明)

 自民党改憲案の評価にかかわらず、わたしたちは謙虚に隣国の声に耳を傾けるべきであろう。(2004/11/21 11:57)

[絶滅危惧種1万5千種の終局になにがあるか]
 国際自然保護連合(IUCN)の04年レッドリストによれば、絶滅の危機にある生物は03年度より3千種以上増えて1万5千種以上となった。動物7266種、植物8323種にのぼり、両生類の1/3、カメの1/2が絶滅の危機にあり、鳥類1/8、哺乳類1/4が絶滅しようとしている。この20年間で少なくとも15種が絶滅し、これは自然に誘発される絶滅速度の200倍ー1000倍に相当する。生物多様性の減少は予期せぬ速度で進んでいる。
 なぜこうした生命体の絶滅速度が急速に速まっているのだろうか。いうまでもなく生育環境が破壊されているからである。では生育環境がなぜ破壊されたのか。直接的には人間が食用として採取した、ペットにした、薬品に利用したなどがあるが、間接的には外来種の侵入と気候変動による。なぜなら絶滅の危機に瀕している生命体は、アジアやアフリカに集中しており、この地域は人間の貧困と飢餓がもっとも露わに発現している地域だからである。
 こうしてみると人間社会で悲惨な実態を生み出している南北問題(南南問題)が生物世界に投影していることが分かる。人間世界では、一部の先進文明を享受する人々が開発を独占し、途上国の資源と自然環境を破壊しながら終末期快楽を楽しんでいるが、その犠牲は弱者に集中している。人間世界への垂直的な抑圧の移譲がそのまま生物世界へと転化し、最も弱い生物から姿を消している。こうした悪魔の抑圧の移譲という生態系循環を水平的な共存のネットワークに切り替えない限り、地球生態系は攪乱し惑星自体の崩壊を招く。イラクで爆弾が1発投下されるごとに、種が絶滅しているのだ。(2004/11/21 9:00)

[地雷で8065人が亡くなっている地球]
 NGO・地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の04年版報告書は、03年の地雷による犠牲者が66ヶ国、8065人に上ったと報告しています。前年は8333人でした。アフガン847人、カンボジアが772人、コロンビア668人など被害が多く、犠牲者のうちの23%は子どもたちです。未報告の事例もありじ実際の犠牲者は15000人〜20000人と推計しています。対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)発効5年目となる今年はナイロビで第1回検討会議が開かれますが、米国、中国、ロシアを含む42ヶ国が未加盟のままです。
 日本を含む65ヶ国が対人地雷を全面廃棄して3730万個が処理されましたが、中国の1億1千万個、ロシアの5千万個など67ヶ国が約2億個の地雷を所有していると推定されます。米・中・ロの地雷大国の協力なくして条約の有効性はありません。ICBLは03年までに埋設されていた400万個の地雷を処理しました。90年代は年間26000人であった犠牲者は15000〜20000人に減っていますが下げ止まる傾向にあります。
 ICBLのサイトには両足を吹き飛ばされて義足を付けて立っている子ども2人の足の部分の写真が載っています。米軍がイラクで投下している収束爆弾は、親爆弾から無数の子爆弾がひらひらと蝶のように舞い降りながら周囲にばらまかれ、なにも知らない子どもたちがオモチャのようにいじると突然爆発して殺傷するという残虐兵器です。
 日本政府は憲法の平和原則によって武器輸出を禁止している武器輸出3原則を緩和する方向を打ち出しました。日米間や米国中心の多国間共同開発・生産関連の部品とテロ・海賊対策の国際協力に関わる武器を禁止対象から外すとしています。今まではミサイル防衛(MD)システムに限定していましたが、ヘルメットや防弾チョッキや退役軍艦などの輸出を可能とします。日本での兵器調達は、国産品を除けば@米国の完成品を購入する(FMS協定)A米国の開発手順に基づくライセンス生産がありますが、これに加えてB共同開発・共同生産による武器輸出を実現するものです。MD次世代迎撃ミサイルの発射実験は05年に実施され開発段階に踏み込みます。さらにMD用ABL(航空機搭載レーダー 弾道ミサイル発射直後に化学レーザーで迎撃する)の共同開発構想が進んでいます。方向が未確定の発射直後の迎撃は、日本防衛とはまったく無関係の集団的自衛権の行使に踏み込みます。
 実は武器輸出3原則の緩和は、11月12日に開かれた日米安保戦略会議で、ボーイング社が強行に日本側に要求し、日本軍需企業が強い意欲を示したのです。米軍は最新兵器の開発コストを削減する次世代戦闘機や無人機などの多国間共同開発を進め、米国内市場が狭隘化する中で国際軍需市場の拡大を希求しています。日本側企業は、軍需生産による利益極大化を先端軍事技術への参加によって実現しようとしています。
 武器輸出3原則は日本の平和外交の基本にあり、国際的な信頼を獲得してきた最大の原則であり、東アジア共同体で生きていくしかない日本の主要な共存原理です。米国の恫喝にひれ伏して忠犬ポチ公のように振る舞って戦争国家へのみちを歩むことは、世界と日本子どもたちが地雷に戯れて吹き飛ばされる哀しみを味あわせるでしょう。日本政府がなすべきことは、米国に対して直ちに地雷生産を止めて撤去するように迫ることであって、大量破壊兵器を一緒につくりましょうと呼びかけることではありません。(2004/11/20 9:56)

[古き良きアメリカと東アジアのジュニア・パートナー]
 生活の中心にコミュニテイーがあり、キリスト教会も各宗派がワンセットでそろっている。消防車を自前で持っていることが自治の象徴である。住民の読む新聞は地域新聞で結婚や葬儀の知らせが詳しく掲載されている。隣の州に行く必要はなく一生のほとんどは地域生活で完結する。かって北軍だった州の車には南軍の州はガソリンを売らないので、敵意がないことを示すために南部の国旗のステッカーを貼らないといけない。つまり古き良きアメリカとは、コミュニテイー、地域、教会中心であるが、外国人の異教徒も受け容れる寛容さを併せ持っている。異文化を超えて共存する雰囲気もあるが、世界のことには関心もなく知識もない。
 こうした伝統的な地域が9・11以降、キリスト教保守派の方向へ堰を切って走り出した。違いを超えて共存していたアメリカは、互いを敵か味方かの二分法で識別し始めた。アメリカ史は他面で見れば二分法の歴史である。奴隷制農業か商工業かを迫った南北戦争、自由主義かファッシズムかを問うた第2次大戦、計画経済か自由経済かを問うた東西冷戦、そしていまテロか反テロかという二元論がアメリカの分裂をもたらしている。テロか反テロかは同時に寛容か非寛容かに連動し、テロに対する寛容はコミュニテイーを破壊する。福音派を中心とするキリスト教原理主義は、スポットライトを浴びて登場し、信仰への忠実さこそ反テロの条件であり寛容は許されないと主張する。こうして宗教意識を煽る保守派教会が政治動向を規定する力を得た。宗教が政治をつかさどるのはまさに前近代的中世ののプレ・モダンに他ならない。公民権運動の高揚によって社会的承認を経た黒人層から、コンドリーナ・ライスのようなネオ・コン保守派が出現するという奇形的な国家となったのである。
 東アジアにあるジュニア・パートナーを自称するある国では、かっての絶対王政憲法を復活させるような憲法改正案が議会多数党から提案されるに到った。さてここで小咄を一つ。
 
 「不安だ」
 「何が」
 「M7級の首都直下型地震が10年以内30%、30年以内70%の確率で来る」
 「不安だ」
 「まだ?」
 「サマワの自衛隊だ。シーア派指導者が占領軍と規定した。頼みのオランダ軍は来春撤退する」
 「あら あっちは安心よ」
 「なぜ」
 「だって小泉さんは『自衛隊のいるところは非戦闘地域になる』といっているわよ」
 「?」
 「何だ あれは」
 「なによ」
 「駅のホームで未成年の高校生がタバコを吸っている」
 「何いってんの タバコを吸ってんだから未成年じゃあないわよ」
 「?」
 「何だ あれは」
 「赤信号でも平気で渡っているぞ」
 「もういいかげんにしてよ 人が渡っているんだから青信号でしょ」
 「??」
                 以上・中日新聞及び朝日新聞11月18日夕刊参照。(2004/11/18 19:50)

[恣意に弄ばれている教育はすでに矜持を失なったのか]
 愛媛県教委は県立63校の校長に対して、指導力不足教員候補を各校1人報告するよう通知した。半ば強制的に指導力不足教員を創り出し結果的に各校1人の63人が候補として掲載されたという。この制度はほんらい校長が本人に告知し、指導して改善しない場合に限って県教委に申請するというシステムだが、一人もいないと回答した学校が出て公平を欠いているためだという。指導力不足教員を行政的に作為して制度存続を図ろうとする恐怖による現場支配の意図が露骨に顕れている。民間企業の成果主義管理が破綻して経営不振に陥っているのと同じ実態が教育現場にあるとは驚きだ。県教委は権力的に操作して作為した数字としてデータがあればいいという官僚制の腐敗が良心をマヒさせている。部下を密告するような行為を校長に強制する指導が教育そのものを頽廃させている。同時に部下を密告するような行為に手を染めた校長は、それ自体もはや現場で人格を育てるような資格を失っている。こうした反教育的指示に対して毅然として拒否する校長が皆無であることも教育現場の頽廃を象徴している。これを愛媛の地域的な特殊性とみなすことはできない。東京都足立区の場合を取りあげよう。
 足立区議会自由民主党は驚くべきことに区立小・中学校の校長に日の丸掲揚状況の調査票を送付し回答を求めた。内容は以下の通りの選択回答となっている。誰が掲揚、降納しているかも回答するよう要求している。
・毎朝掲揚し毎夕降納している
・終日掲揚状態となっている(土日も含め)
・終日掲揚状態となっている(土日は降納する)
・その他
 政党からの調査には回答できないとする校長の批判を受けて、驚いたことに区教委が自由民主党に代わって区教委名の同じ調査票を送付し集約しているという。教育の政治的中立を原理的に蹂躙する違法行為をおこなう政党は、法意識がマヒしているが、それを幇助する区教委はまさに犯罪的行為に等しい。教育の独立性は損なわれ「国民に直接責任を持つ」原理への基礎知識が基本的に欠落している。日の丸掲揚に対する賛否以前の、政治勢力が教育現場に一切介入してはならないという本質的な問題が浮き彫りとなっている。足立区自由民主党と区教委の責任者は教基法・学校教育法・教育公務員特例法違反で直ちに処罰されるだろう。以上の2つの最近の事例は日本の教育システムが根底からゆらぎつつあることを示している。もはや教育行政は、自らの執行権がただ法律にのみ依拠しているのではなく、恣意的な政治勢力に弄ばれていることを示している。(2004/11/18 8:35)

[自衛隊統合司令部の発足は何を意味するか]
 現在の自衛隊の作戦行動は、陸・海・空3自衛隊がそれぞれ個別に各幕僚長が指揮し、PKO等の一時的な海外派遣業務の統合部隊はその都度編成され統合幕僚会議議長が指揮するシステムだ。このシステムが2005年から再編されて米軍型の常設統合軍に移行する。もともと統合軍体制を採用しなかった背景には、制服組が強大な実権を握って戦争につながった戦前型の旧大日本帝国軍の権限集中システムを排除したところにある。現行の統合幕僚会議議長は、会議の「会務を総理する」にとどまり、作戦行動の実権は各幕僚長に委ねられている。いまなぜこの改編なのか。

 再編案は陸・海・空3自衛隊の作戦行動を一元化する新統合運用として、「統合幕僚長」を新設しその下に「統合幕僚監部」がつくられて海外派兵司令機能を集中する「中央即応集団」を新設する。現行では常設統合軍でないために、派遣命令が下ってから統合部隊が編成されるが、新統合運用では統合幕僚長が日常的に海外戦闘を想定した計画立案から訓練を経て海外戦闘を指揮する全機能が一元化される。
 各幕僚長の作戦指揮権は統合幕僚長に一元化され、強大な権限を持った519人からなる統合幕僚部が最高司令部として自衛隊3軍を統合的に指揮することになる。この常設型統合軍システムは、統合幕僚会議議長が統括する米軍の編成システムと同じであり、軍隊編成において日米共同作戦行動の有機的結合は最高度のレベルになる。しかしもっとも恐いことは統合幕僚長に一元化された軍隊に対するシビリアン・コントロールが空洞化し、軍事機能が国政において占有的な位置を占めることである。すでに日本国憲法改正後の海外での本格的な軍事行動の実践システムが組織制度として遂行されていると言えよう。国民を代表する議会とそこから選出された政府の統制機能が衰弱し、軍事機能の独立性が増大するだろう。
 私は、祖国と国民の安全を真摯に想い献身的に活動しようとしている多くの現役自衛官がいることを知っている。しかしこうした軍隊が国全体をコントロールする軍事ファッシズムへの道は彼らの良心をも裏切ることになるのであり、東アジア共同体のなかでしか21世紀の未来を構想できない日本にとって、こうした海外派兵型軍隊への再編は東アジア諸国からの警戒を誘発し軍事的緊張を高度化することになるだろう。(2004/11/16 8:33)

[ビジネスに成功するためには3人の人間が必要だ(シリコンバレー・モデル)]
 1人は「ドリーマー(夢見る人)」であり、その夢を実現するためには他に2人が必要となる。1人は「ビジネスマン」で黙々と実務をこなす人であり、ドリーマーの側にいて資金調達や経営の細々とした段取りする。しかし現実に事業を遂行するには「サン・オブ・ア・ビッチ」というあらゆる侮辱に耐えてダーテイーな部分を担当する人物が不可欠である。以上・朝日新聞「経済気象台」15日参照。
 この記事を書いた「可軒」氏はこのように書いた上で、日本経済の不振の原因をドリーマーが百家争鳴となって空しい夢を語り続けてきたところに求め補助金漬けとなっている大学教師を攻撃している。事実と真実はそうではない。日本には真のドリーマーがいなくなって、ドリーマーがビジネスマンと汚い金儲けに媚びへつらうようになっているところに最大の問題がある。戦後60年を経てこれほどドリーマーが志と矜持を失って曲学阿世の徒となった時代はない。サン・オブ・ア・ビッチという闇の部分を担当する黒子に徹するポストが経営の実権を握り、企業経営のコンプライアンスは地に堕ちてしまった。ゲームの本質は、プレーヤーが公開された同一のルールの下でフェアーに競うところにあるが、ルール自体を無視して不正や騙しの技術で利益の極大化を図って恥じない企業が続出している。
 その根元にある要因は何か。勝利を最優先しそのためには手段を選ばないマキャベリズムが蔓延したからだ。なぜか。市場における勝者はほんらいは顧客満足を極大化する企業にあるとする自由競争の前提を監視するシステムが機能不全に陥っているからだ。社会的観念のレベルでは、「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ人は悪いことをしてはいけないのか」という社会存続の第一義的な質問に大あわてでまじめに答えなければならないという悲惨な状態となって現れている。モラルハザードのスパイラルが公的生活に蔓延するホッブスのような自然状態に回帰しているからだ。万人は万人に対してオオカミであるという市場で誰がまじめにルールを守るだろうか。
 ニューヨークを歩く観光客は胸ポケットに常に200ドくらいを入れておき、チンピラに囲まれたらすぐに差し出すのが災厄を避ける自然な方法だ。それは保険とみなされている。ジャングルの競争に転落してラットレースを繰り広げているアメリカ型無制限競争システムの後をひたすら追っている現在の日本はじょじょにそのモデルに接近している。

 シリコンバレー・モデルは致命的な誤謬におちいっている。汚い部分を担当する黒子の存在を許さないコンプライアンスによるCGを構築するためには、ドリーマーが同時にビジネスマンでもあるというモデルに常に接近しなければならない。ドリーマーはビジネスマンから学び、ビジネスマンは自らドリーマーになろうとする全体化された経営者像が求められる。そのときに市場の力は公正な競争を極大化する。確かに20世紀の専業による協業モデルではシリコンバレー・モデルは有効であったが、この専門人モデルは頂点に立つ寡頭制を必然化させて階層化モデルに頽廃して最後にはモラルハザードを誘発させた。21世紀の水平型ネットワークモデルは、自分の専門力を強化しつつ全体を見渡す力が求められる。これはあらゆる組織体の課題ではないだろうか。(2004/11/15 19:25)

[歴史の法廷は誰を裁くか]

 最初にイラク人少女・マルヤムさん(15歳 中学生)の声を紹介する。
 「拉致や自動車爆弾が恐くて、私は時々学校へ行くのがいやになります。でもお母さんはいつも言います。私たちは恐怖を乗り越えて前に向かっていくしかないと。そうしなければ私たちはいつまでも恐怖に怯え、自分たちの国を再建する能力を失ってしまうと。私は学校へ行く途中で米兵を見るたびに腹が立ちます。占領軍の兵隊が私たちの国を我が物顔で歩いているのを見るだけで胸が張り裂けそうな思いになります。もし占領軍がいなくなれば、テロ攻撃や拉致事件は減って、だんだんと治安が元に戻っていくのではないでしょうか」
 米軍がイラクに来たときに石を投げる子どもはいなかった。今は小さな子どもまで米兵に強烈な敵意を持って、TVに米兵が映るだけでスクリーンに物を投げつけるようになった。米軍のファルージャ殲滅作戦は街全体を壊滅させ、米軍発表では武装勢力千人以上が殺害され200人が拘束されたとしているが、その犠牲者の大半は実は無辜の市民であり最も弱い子どもたちだ。ロイター(14日)が配信した写真では、ファルージャ・ジョラン地区で砲撃によって左足を吹き飛ばされたムスタファ・アドンナちゃん(2歳)がバグダッドの病院に運ばれ、全身に包帯をされて苦痛に歪んだ顔が写し出されている。その子の左足は大腿部の根元から無い。
 私は史上最大の国家テロの責任者であるジョージ・ブッシュを国際戦争犯罪人として告発する。「国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書」(第1追加議定書・1977年採択)は、「戦時に於ける文民の保護に関するジュネーブ条約」(ジュネーブ第4条役 1949年採択)を補強するために制定され、第50条・文民の定義で「文民の定義に該当しない者が文民たる住民の中に存在することは、文民たる住民から文民としての性質を奪うものではない」とし、第51条で「文民たる住民全体及び個々の文民は、攻撃の対象としてはならない。無差別攻撃は禁止する」として文民以外の者がいることを理由に文民を含む無差別攻撃を禁止している。この議定書の締結を受けた米国は、政府職員を含む全ての米国民に戦争犯罪を禁止する米国戦争犯罪法(1996年)を制定している。ジョージ・ブッシュは、明らかにジュネーブ議定書と米戦争犯罪法に違反する攻撃命令を発した疑いが濃厚である。その命令によってもたらされている無差別攻撃は、自らが厳禁している国家テロ行為を誘発し自らが制定した国家安全法にも違反している疑いが強い。
 いまファルージャ(を含む全イラク)で、パブロ・ピカソが描いた「ゲルニカ」を超える地獄の惨劇が繰り広げられている。この煉獄の阿鼻叫喚の主宰者としてジョージ・ブッシュが地上における悪魔の使者のように君臨し、無辜の市民の無差別殺戮を命令している。彼は遠からず歴史の法廷の裁きを受け、最後の審判には神の裁きを受けるだろう。ジョージ・ブッシュにプードル犬のように仕えている小泉純一郎は、この無差別攻撃の勝利を祈って媚びへつらい、拉致された自国民の首が切り落とされることには関心はなくひたすら親分に付き従う三下ヤクザのように付き従っている。

 イラク人女性 スアード・トラーンさん(主婦)は言う。「日本政府は自国民の生命に関心を持っていません。なぜなら米国との間の利益のほうが国民の命よりも大きく重要だと考えているからです。私たちにとっては日本の軍隊も米占領軍の軍隊の一部です。日本の軍隊は米連合軍の枠組みのなかでイラクにやってきたのです。占領とともにある復興などあり得るでしょうか。・・・・・私は日本の母親がすぐに息子をイラクから呼び戻し私たちの現実を伝えて欲しいのです。イラクの母親は、息子が外出したら最後、彼がいつ戻ってくるのか、はたして戻ってこれるのかどうかも分からない、つらい日々を暮らしています」。

 遠からず開かれるイラク国際戦争犯罪法廷では、主犯被告ジョージ・ブッシュの隣に、第一級共犯被告としてブレアと小泉純一郎が座っている。(2004/11/15 10:08)

[カン・サンジュン「戦後民主主義の位牌を胸に」(『アリエス』創刊号)の現代日本認識について]
 カン氏は在日朝鮮人政治学者(東大)として批判的民主主義の立場から鋭い考察を展開している。彼の分析は、在日外国人として日本的党派性から切断された冷徹な外部の視線を含みつつ、燃えたぎる日本への関心がある。以下は彼の対談からの要約(筆者による一部改編あり)。

・戦後日本社会は中空的状態で芯が抜け落ちて、現代は没意味的にいちおうエンジョイできるパイの豊かさがある。「精神なき専門人、心情なき享楽人」で賭けるに値する虚妄/理想は喪われた。丸山真男の「戦後民主主義の虚妄に賭ける」というその虚妄すらすでになくなった。
・1979年を境に前期戦後と後期戦後を分けようと考える。大平内閣の田園都市構想で、戦後日本は終わった=キャッチアップ型近代化は終わった=近代は超克されたと唱道し、すでに日本は先進国モデルで新たな文化の時代に入ったと言ったが、今の30歳代は価値実態なしに階段を上がっていけるようになった。戦後日本のナショナリズムは、地方農村社会に基礎を置き地方へ配分する配分メカニズムで維持されてきたが、耐えざる都市化の果てに飽和状態に達し、近代日本史上初めて都市住民がマジョリテイとなった。従来型のナショナリズムは失われてはじめて都市型コンフォーミズム、画一主義がつくられた。竹下内閣のふるさと創世は忌避の対象となって失敗した。それはハイマート(故郷)が崩壊した後に作為的に行政が創り出そうとしたフィクションに過ぎなかった。
・流動化する都市住民は、エゴセントリックなかたちで自分たちの利益を増やす者になびく都市型ポピュリズムがやっと成立した。小泉純一郎や石原慎太郎の「逆毛沢東主義」(都市が農村を包囲する)は階層的にボトムを切り捨て地域の崩壊はますます進むだろう。都市住民のセンスに合った政治ドラマがメデイアによってつくられる劇場型国家が進む。それは逆にますます実体がない故に国民幻想を創らざるを得ないが、その実態は危うい。混沌としているなかで、強者の論理が社会を覆い寡頭制支配が強まる。
・今の若いフリーターが再び競争社会のルールに乗れる可能性はない。日本は10年以内に失業率10%時代に突入し、欧米型犯罪都市の実態が全国に現れる。自由を犠牲にしてもセキュリテイーを求めるような社会に対するアンチテーゼが出てくるかどうか。アメリカ型過剰セキュリテイ社会が何年か遅れて出てくる可能性が高い。
・戦後市民概念は、エートスを持って禁欲的に働いて生産力を支える人であって、そのような市民が空洞化して決断主義カリスマになびいている。
・戦後日本は太平洋の向こう側だけを見て、アジアへの視線を持たなかった。アジア主義の光と影を見直すべきだ。悔恨の共同体は、実感信仰の戦中派に支えられたが、その世代がいなくなると内部解体し、思想化できなかった。生活感覚と生活プラグマテイズムと結びついた悔恨の共同体の普遍化の課題が私たちに課せられている。実は悔恨の共同体が成り立ち得た基礎には、日米安保と戦後国体、アジアとの断絶といった国際環境が作用して戦後民主主義があった。戦後日本が一度も戦争をしなかったのは憲法を守ろうとしたからイノセンスでありえたという議論はフィクションの面もある。平和憲法を世界にプロイパガンダしようという発想には違和感がある。日本はジョン・ダワーのシナリオで踊ってきたのではないか。悔恨の共同体には過剰な倫理主義があり、一国近代化論に寄り添ってアジアとの新たな関係を構築できなかった。日本は今明治維新以降初めて国際環境の激変を経験している。
・かって朝鮮は準禁治産者から禁治産者として日本の管理を受けたが、日本の近代化はそれを与件として遂行されてきたが、初めて日本は北東アジアでワン・オブ・ゼムの国となった。日韓基軸論によって対中関係を共同して構築すべきだ。このままでは愛国が愛米になり超楽観主義的な従属ナショナリズムとなる。
・日本はこれまでのストックを食いつぶしながら、糖尿病で自分の体の蛋白質を浪費していく状況でネオ保守化が進んでいる。日本はアメリカなしに自分のアイデンテテイを形成できなくなっている。日本はなだらかに衰退し、将来の展望が持てない寂しい状態になっている。しかしこうした微温的な劇場国家の政治ドラマではやっていけない状況が必ず来る。若い世代の戦後は湾岸戦争以後であり、この新しい戦後民主主義の虚妄に賭けたい。戦後民主主義の野辺送りはしながらその位牌を自分の懐に抱いていこうと思う。1945年の廃墟に対して、現代の廃墟は西新宿高層ビル群だ。丸山真男を後生大事にしている人はエピゴーネンに過ぎない。

*コメント:戦後民主主義虚妄論の虚妄性の内実を実体的に分析しないと現象論に流れる。戦後民主主義をめぐる対峙する主体間闘争の検討が抜け落ちて清算主義的な悲観論に陥る危険がある。戦後民主主義史のリアルな内実の展開に関する生活過程の分析という視角がないから、超越的な批判と葬送論に陥る。こうした議論の建て方は、現に進行している憲法と教基法改正に対する実践的有効性を後ろから撃っている役割を客観的に果たす。全てか無かという二元論的な評価に陥り易く、改憲勢力にとってはポスト・モダンが果たした役割と同じように民主派を挟撃する立論としてむしろ歓迎される。戦後民主主義の変容をこそ論じるべきで、簡単に埋葬してもらっては困るのだ。
 それはカン氏の所属する主体の問題とも関連する。カン氏自身はそのような組織主体とは無関係の研究者の視点であるが、そこからもたらされる限界への自覚の矜持を危ういところで逸脱しかかっているような気がする。日本分析の究極目標は朝鮮分析にこそあるのではないか。
 政治現象という上部構造分析はまことに鋭い批判力があるが、経済現象との相関分析が欠落している結果、人間の政治・社会意識の変容からのみ分析されている。日本の戦後経済史のグローバリゼーションに到る過程での日米関係分析が政治分析に先行してなされる必要がある。
 将来展望が意志的な決断主義に陥る傾向がある。変革主体の構想と戦略もない。市民に代わるマルチチュードという浮遊する個人にどのような変革主体の可能性があるのか明確でない。(2004/11/13 22:00)

[ユルゲン・ハバーマス 京都賞受賞講演から]
 彼はいうまでもなくドイツ・フランクフルト学派の批判理論を代表する現代ドイツの哲学者。11月11日と12日に京都国際会館でおこなわれた受賞講演とシンポジウムに参加した。京都は相変わらず日本文化の深みを湛えた町並みが広がっていた。郊外の宝ヶ池の山並みを背景に晩秋の中に会場はあった。時間があったので京大近くの古本屋を覗いた。古本屋はその町の文化をモロに反映しているので名古屋の本棚とはかなり異なり、美術工芸関係が充実していた。せせこましいギスギスした名古屋人と違って、京都人も京都弁もなにかホッとする温かみがある。『一竹辻が花』『GHQ処刑命令書』の高額な2冊を驚いたことに半額(7千円)に負けてくれた。もう一軒の古本屋は、またまた驚いたことに京都の右翼の事務所があり、書棚にぎっしり右翼関係の本が並んでいた。店員はおとなしそうな若い青年でこういう人が右翼運動をやっているんだーと妙なことに感心した。ここでは中江篤介『正続 1年有半』(東京博文館)と『鍋山貞親著作集』の2冊を2千円で購入した。こういう本は決して名古屋では手に入らないだろう。
 1日目の講演は「私の哲学のルーツー2つの概念「社会的空間と政治的公共圏」と題する1時間に渡るものであった。教授は自分の幼年期、学齢期、青年期、成人期の4つの出来事を通して自分の哲学を語った。
(1)幼少期の口蓋手術。この闘病体験での徹底した他者依存性の自覚が、その後の人間の社会的間主観性の本質の考察の基礎にある。
(2)学齢期でのイジメと仲間はずれ。手術後の会話の困難による級友とのコミュニケーションの障害によって誘発されたイジメと仲間はずれによって、後のコミュニケーションと言語理論の解明に向かった。
(3)ナチス崩壊と新生ドイツの誕生の歴史的体験。「遅れてきた者の幸運」によって戦争責任を問われることなく戦後民主主義を自己の責務とした。ハイデガーを信頼していたが、彼が『形而上学入門』で、「宇宙的宿命に翻弄された個人の意思」という自己規定に失望した。
(4)戦後ドイツの政治体験。ナチスの遺産と向き合いどのような政治的公共圏を構築していくかを考察。
 私が感銘を受けたのは、率直に自己の幼少期の成長過程を明らかにして思想形成の背景を語ったことだ。教授は公的知識人の役割を@専門知識の公的使用A非中立の立場で議論のテーマをテーマを提出することB公的議論のレベルを向上させることC職業と公的活動を繋げることの4つを挙げて、最後に現代において「シニカルであることは許されない」と結んだ。
 2日目は、「意思と行動に於ける決定論と自由意思」というテーマでのワークショップであり、他には三島憲一氏その他がパネラーであった。最初に1時間に渡るハバーマス教授の講演があった。分子生物学や神経生理学での人間の選択行動起動以前にその分野の神経活動が活発になるという自然科学の先端的知見による人間行動の自然科学的決定論を批判し、自然と文化を統合した人間行動の在り方を、人間の幼児期に於ける間主観性の相互依存と承認という視覚から論じた。
 最後に実感したのは同時通訳の問題だ。ただ単に言語を通訳するのではなく、内容それ自体をを理解していない限り、専門分野の通訳は難しいと思った。その善し悪しが大きく相互理解に影響を与える。(2004/11/13 16:04)

[ペット・ブームの背後に何が潜んでいるのだろうか]
 03年のペットの犬・猫の数が過去最高の1922万匹となって、遂に初めて15歳未満の子どもの数1790万人を超えました。人間の子どもよりもペットを愛する国に日本はなりつつあるのです。欧米のペット数にはまだまだ及びませんが、ペット産業は有力な未来産業として成長しつつあります。ペット生産から販売、ペット衣料から病院、冠婚葬祭などのペット関連産業も急成長しています。
 江戸城の西の守り神とされる市谷亀岡八幡宮はペット受入神社として注目を集め、ペットの健康祈願やペットの死で苦痛を覚えた人が殺到し、遂にペット用のお守りが人間用のお守りと同額の販売高を記録し、初詣は当日の申し込みを断る人気を博しています。ユニ・チャームは今年の10月にペット向け事業の子会社を上場させ、いまやペットはエサを与える対象ではなく、家族と一緒に食事を取る感覚になり、独身女性が子育ての喜びを味わう対象となってます。杉並犬猫病院に来院する犬の50%は肥満であり、人間と同じ家に住み同じものを食べて買い主の生活がペットの体型にも反映し、ダイエットに訪れる顧客が急増している。03年度のペット・ダイエットコンテストでベストスリム大賞を受賞した9歳の犬は、18kgの体重を8kgに減量しています。
 子どもの遊びであるママゴト遊びで人気があったのは、かってはお母さん役か弟や妹役であったが、今の子どもたちはペット役をやりたがるそうです。つまりペットは、家族のなかで溺愛され大切にされて、人間の子どもにとってはいちばん幸せな存在に写っているからです。
 こうしたペットブームは人間自身の家族関係の変容を反映しています。かっての家族は豊かさをめざして家族の団結を強め、そこから必然的に家族にやすらぎや信頼という心理が醸成されましたが、今や家族の協働目標は衰弱しそれぞれが個性ある目標を選ぶようになりました。信頼できるかけがえのない存在としての家族関係が次第に衰弱し、最悪の場合は虐待やDV現象などが誘発されるようになりました。ここにポッカリと生まれた空洞感が、永遠の1歳児で適度に手間がかかるが決して飼い主を裏切らないペットへと向かうようになったのです。人間家族に生まれた隙間を埋めるもう一人の家族としてペットを受け容れるようになったのです。ペットを「うちのコ」と呼ぶことに特に違和感を持たない人が実に60,5%に達しています。以上・日本経済新聞11月9日朝刊参照。

[少子化・老人医療費の地域分析]

 年金制度の根幹を揺るがす少子化は、合計特殊出生率(1人の女性が生涯に生む子どもの数)は02年度に1,29に落ち込んだが、これは全国平均であり、トップの沖縄県の1,72は北欧国と比較しても優位にあり逆に東京都は1を切って先進国中最下位である。この差の原因は何か。幾つかの指標から考えてみよう。
@平均初婚年齢 未婚・晩婚が少子化の原因であり、特に妻の婚姻年齢との相関が高い。福島26,6歳 東京28,7歳。
A消費者物価指数 全国平均を100とする地域差指数は、沖縄県97,0 東京都110,1であり、出生率と物価は逆相関を示す。物価と所得は比例するが、都市部では物価指数に含まれない住宅ローンや通勤時間のコストが高い。
B教育費 塾や家庭教師の補習費が消費支出に占める割合は奈良県1,28、山形県0,25。教育費と出生率の相関も高い。
C女性の労働力比率 子育て期にある30−39歳の女性で働いている比率が高い県ほど、実は出生率が高い。有業率4位の鳥取、3位の山形の出生率は上位にある。奈良49,3%、山形72,5%で、大都市部の労働力化率は最低であり出生率も最低だ。農村部で3世代同居が多く、母親が就労していても祖父母が育児するというパターンだ。山形県の同居率は28,1%とトップで、逆に東京都は3,6%に過ぎない(総務省調査)。親の働き方と同時に周囲の育児サポートシステムが充実しているかどうかだ。近所づきあいが多い地域ほど出生率は高い。近所づきあいが多い山梨県・茨城県は出生率が高い(NHK放送文化研究所調査をもとに国交省がまとめた04年度首都圏白書)。
 兵庫県淡路島五色町は、合計特殊出生率90年・1,72→00年1,82と上昇した稀有な町だ。買い物は不便だが住宅も安く子育てしやすい。町内に5つある公立保育園はすべて学童保育施設を併設し、小学生が放課後を過ごす。兄弟が近くにいれば子どもも安心し、女性が心配することなく働ける環境がつくられ、進行していた過疎に歯止めをかけている。五色町は都市部の将来を示すモデルとなるだろう。)

 老人医療費は病床数の差が背景にあるが、同時に老人の独居率との相関が高い。独居率13,0%でトップの鹿児島は、1人当たり老人医療費80万円で9位、山形の独居率は6,5%で最低で医療費は45位。2番目に独居率が低い新潟の医療費は46位。独居率が高いほど医療費が高い。高齢期の独居は、外出機会を減らしコミュニテイとの結びつきを希薄にし、入院が長引いたり孤独感から来る心身性の病が増える。なぜ独居率の差があるのか。若い世代の雇用環境の影響やイエ意識の衰弱による同居慣行の薄れがある。鹿児島は伝統的に子どもは結婚すると家を出る傾向がある。独居老人イコール孤独ではなく、仕事などで周囲との繋がりを保ったりする。高齢者有業率が高い地域ほど老人医療費は低い。長野の65歳以上の有業率は30,7%とトップであり老人医療費は最低だ。有業率2位の山梨は医療費41位であり、逆に医療費が最も高い福岡の有業率は44位だ。以上・日本経済新聞11月9日参照。(2004/11/9 21:34)

[教育バウチャー制度について]
 規制改革・民間開放推進会議の中間まとめ(8月)で提案された教育バウチャー制度が急速に注目を集めている。バウチャー制度はブッシュ大統領がテキサス州知事時代に導入した公教育改革ツールで、日本語では兌換券と訳されるが、行政が各家庭に無料サービスが受けられるチケットを配布し、家庭が自由にサービスを選択できるという制度だ。80年代に荒廃した米国公教育は、バウチャーを配布し自由に学校を選択させて公教育に究極の競争原理を導入した。学校ごとの補助金を廃止し、生徒個人に補助金が付くようになり、すべての学校が経営維持のために生徒の獲得競争を行うようになり学校教育は活性化すると考える。生徒からみれば低所得者層の子どもたちも教育レベルの高い私立校進学のチャンスが生まれ、学校選択の自由と自己責任が生まれ、多様化した学校でのきめ細かなサービスが受けられる。福井秀夫氏(政策研究大学院)が包括的なバウチャー肯定論を展開しているので検討する(日本経済新聞11月8日朝刊)。最初に彼の主張の概要をみてみよう。
 
 現在生徒・学生の1人当たり年間公的補助額は、市立中学27,4万円・公立中学・105,6万円、私立高校28,3万円・公立高校82,9万円、私立大学15,6万円・国立大学106,4万円であり、私立系は極端な差別を受けている。なぜ教育を家計に於ける衣類の消費と同じように市場に委ねないのか。
@外部経済性。基礎的な言語・計算能力の育成は国民相互のコミュニケーションを成立させる前提であり国民全体が受益を受ける。
A価値財。義務教育を価値財として需要強制の対象として本人の利益をもたらす。本人と家族の自由に任せたら、行きたくない子は学校へ行かず、労働力として使いたい親は行かせないだろう。
B情報の非対称性。教育機関相互の競争性がないことにより、教育内容と財政の完全情報が把握できず市場は過小となる。
C所得格差是正。親の所得や資産の多寡による教育機会の不公正は希望を奪い、社会を不安定にする。
 しかし政府の失敗が蔓延している。校舎・運動場の面積からカリキュラムの細部に到る硬直した規制によって画一教育がおこなわれ、秘密主義によって公金の使途は不明確となり、知識価値のみの競争の強制で子どものストレスと歪みが生じている。教員免許制は免許を所有しない人材の参入規制となり、自己責任を伴わない校長と教師の身分保障はモラルハザードを助長し消費者の利益を損なっている。官僚が公益性の美名の下で教育を私物化している。
 従って消費者自身が教育を選ぶ消費者主権のもっとも効果的な方法がバウチャー制度である。不透明で非効率的な補助制度よりもはるかに事務経費を削減し、低所得者層にも公正な学校選択を保障し、私学選択者の被差別状況を解決し、教育機関と教師の創意工夫を刺激して多様な教育を実現し、教育水準は上昇する。すでに英米、カナダ、オランダ、スウエーデン、ニュージーランドで導入され、米国ミルウオーキーやクリーブランドで消費者満足度を上昇させている。

 以上が氏の主張の概要である。現在の教育危機をすべて一掃できるかのようなバラ色の推進論であるが、はたしてそうか検討してみよう。第1に彼が指摘している政府の失敗は、教育の非市場原理からもたらされているのではなく、公共性原理の不徹底からもたらされているという認識が欠落している。行政による細部の規制はむしろ教基法と学校教育法の理念を逸脱している文科省の統制型教育行政から誘発されているのであり、国民教育権に基礎を置いた現場カリキュラム編成権を剥奪してきた戦後行政にある。学習指導要領は大綱的基準でありながら形式的強制力を付与してきたのは誰か。公金の不明確性はむしろ行政のコンプライアンスの欠如によるものであり、公開と説明原理を徹底して市民監査制を導入すれば解決できる。競争の強制によるストレスは、入試受験システム自体を改革し公正な入学制度を採用する問題であり市場原理に委ねれば熾烈な受験システムが制覇するであろう。バウチャーによる低所得者層の救済は、現在の入試制度を改革しなければ、逆に一部進学校への入学競争を激化させかえって低所得者層の子弟は多様化という美名による早期専門課程へ追いやられるだけである。教師の創意工夫を刺激するのは、学校間競争によるのではなくむしろ教育という仕事そのものへの喜びと献身によってもたらされるものであり、ニンジンぶら下げてラットレースをやらせても職場の頽廃を生むだけだ(富士通を見よ!)。
 最後に原理的に衣服の購入と同じく教育を購入するという徹底した市場原理は、経済学に於ける公共財の意味をまったく欠落させている。最大限利潤追求という市場原理に最も遠いのが、子育て=教育という全人格的営為であり、親が原理的に持つ教育権を公的に保障する公教育の原理である。氏は私財と公共財の区別がない。第2に氏は「競争」の教育的意味の無理解がある。相互に励まし合いながら互いに伸びていくところに教育的競争の意味があるのであり、商品競争のジャングルとは原理的に背反するのだ。こうした氏の発想の基底には、シカゴ学派の「市場の滴」という市場原理主義がある。人間的諸価値を含むすべてを貨幣価値に変換して、計量計算するという発想は、人間の人格的尊厳と原理的に背反するのだ。すくなくとも、近代公教育史の基礎知識を踏まえて発言してほしいものだ。さらにはなんでもアメリカ・モデルを導入すればいいという他者追随的な没主体的な思考の貧困性を克服してほしい。(2004/11/8 23:10)

[アメリカ帝国は第2の誕生に失敗した]
 青年期は「第2の誕生」と言われます(J・J・ルソー”人は2度生まれる。1度目は存在するために。2度目は男か女になるために”)。最初は身体的誕生として2度目は自分の人生を選ぶアイデンテイテイー(エリクソン)を獲得する精神的誕生として。かっては青年期の前に、ギャングエイジという時期があり大人の監視がないところで子どもだけの世界をつくり、少年少女の異年齢グループが遊びや悪さや喧嘩をしながら集団として自立していくトレーニングの時期があった。ところがじょじょにコミュニテイーがゆらぎ遊びの空間がなくなって、大人の管理の目が細かく行き届くようになっていまやギャングエイジが消滅し、子どもたちはいきなり青年期を迎えなければならないようになりました。さらに大人社会の激しい競争原理がストレートに子どもの世界に浸透し、子ども自身が大人からの評価を常に気にしながら「よい子」のふるまいを演じ、大人が期待する感情を表しながら裏に大人が眉をひそめるような感情を抑制し適切に処理できないまま青年期をクリアーしなければならないアブノーマルな状況で「第2の誕生」は難産で歪んだものになっていきました。自分が自分であって大丈夫という自己肯定感が衰弱し、そこからさまざまの逸脱行動が誘発されてきました。それは外部に向かった他者攻撃的な行動から、内部に向かう自己破壊的な行動まで多様な現象を呈しますが、本質的には攻撃による自己救済なのです。自己破壊的な行動の一つに拒食・過食という食欲行動の歪みがあります。

 99年ー00年の20歳以上のアメリカ人の平均体重が、88年ー94年より4,5kg増えたことによって、国内線ジェット旅客機の燃料は年間約13億g消費量を増やし、2酸化炭素の排出量を380万トン増大させました。肉食文化のアメリカは、牛肉生産に大量の水と燃料を使い、コーラのような炭酸飲料も同じであり、牛肉500i採るには米の20倍の水を消費します。さらにマグドナルドなどのファーストフードの蔓延がアメリカ人の肥満を激増させています。アメリカの一人当たり資源消費量は、EUの1,6倍、日本の1,8倍に達しています(『地球白書』04−05年版参照)。
 さらに「第2の誕生」の失敗を救済する行動として、現世を超克する超越的な信仰への原理主義的な依存行動があります。現世での抑圧を絶対的な調節者にすがることによって逃れ、自分を救済しようとするもので根底には漠然とした不安感の怯えがあります。この心理は日本のオーム教団に典型的に現れ、それは逆転して陰惨な他者攻撃行動に転化しましたが、アメリカの大統領選挙を制した福音派キリスト教の原理主義の膨張の基礎にも深々とした不安感があります。ではアメリカ人の過食行動や宗教原理主義の基礎にある漠然たる不安感はどこからきているのでしょうか。

 基礎データとしてアメリカ人の肥満率と宗教原理主義信徒の分布状況は、いずれもブッシュが制したアメリカ大陸の赤いベルト地帯に重なっています。ミシシーッピー川沿岸を中心とするこの地帯は、アメリカ有数の大農耕・牧畜地帯と鉄鋼業地帯を抱えるかっての古き良きアメリカを代表する地域です。家族愛と地域共同体がしっかりと根づいて、日曜日には家族そろって教会へ礼拝に行き、祖国の危機の時には献身的に戦場へ従軍して名誉の戦死者を多数出した地域です。ところが1次産業と重厚長大産業の斜陽化が進み、一方民主党の基盤である東部はアメリカ経済の輝かしい発展のなかで政治・経済・文化の中心となり、地域格差が拡大していきました。優秀な若者は、自らの故郷を捨てて東部をめざしエスタブリッシュとして成功を収めていきました。東部エスタブリッシュは、スポーツクラブで汗を流してスリムな身体管理をおこない自己実現の夢を果たしていきました。辺境に取り残された疎外感は、東部から押し寄せる先端文化(中絶、同性愛など)の攪乱によって一層深まり、漠たる不安の蔓延に強烈な救済のメッセージを投げかけたのが、福音派を中心とするキリスト教原理主義であり、白人中流市民の大半がファナテックな伝道に巻き込まれて共和党の大勝をもたらしました。彼らは、”ゴッド ブレス アメリカ”神に選ばれた国アメリカという偏狭なショービニズムに救いを求めて投票所に向かったのです。カール・ローブ大統領顧問(選挙参謀)は、勝因は倫理的価値観による宗教右派の動員にあったとし900万票増票の中味を、週1回以上教会に行く人が335万人、女性が440万人、ヒスパニックが150万人、高齢者が415万人、大都市居住者が340万人、準郊外居住者が230万人前回より多く投票したと述べました(7日)。

 アメリカは1776年に第1の誕生を迎え、冷戦期というギャングエイジを勝利のうちに進みましたが、第2の誕生の瞬間にミーイズムにおちいって展望を失いました。ギャングエイジ期に、公民権運動という輝かしいアメリカン・デモクラシーの発展を実現しましたが、同時にマーッカーシズムという暗い伝統をも引きずっています。冷戦終了後、勝利に酔いしれながら成熟した精神的誕生に失敗し、ミーイズムはユニラテラリズムとなって帝国は今やのたうち回っています。彼らは展望を失ったまま、暴力で世界を制するという幼児帰りをおこなっています。マッカーシズムの亡霊が宗教原理主義と結んで予期せぬ圧勝をもたらしたというのが今次大統領選挙の実態でした。

 しばらくは世界内戦に近い紛争が激化するでしょうが、第2の誕生をクリアーできないアメリカの苦悶は深まり自己崩壊をとげるでしょう。その最悪のシナリオの回避は公民権運動の潜勢的な潮流がふたたび再生し理性を回復する中にしかありません。いまアメリカでは、カナダ国籍取得のサイトへのアクセスが激増していますが、カナダへの亡命などという短絡的な行動に未来はありません。アメリカン・デモクラシーの真価が問われる決定的な分岐点に直面しているようです。それは同時に地球そのものの運命でもあります。漂流するアメリカに、ゴッド ブレス アメリカ!。(2004/11/7 10:16)

[日本の名句迷言数あるなかで・・・・]
 驚き桃の木山椒の木。その手は桑名の焼き蛤。蟻が10なら芋虫20歳、サンゴ15で嫁に行く。コーデイネイトはこうでねえと。そんなバナナ。えっ、マンハッタン、行きはったん? リズム、勢い、付け足し言葉。駄洒落、こじつけ、おやじギャグ。語呂がいいのも肝心だ。はじめチョロチョロ、なかパッパ。警句、ことわざ、和歌、俳句。日本の伝統、七五調。あたり前田のクラッカー。

 なんか庶民の哀感がにじみでるような日本語のおもむきがあるよね。わたしがもっとも好きなのは、いまは亡き渥美清が演じる『男はつらいよ』のフーテンの寅がのたまう箴言(!)でしたね。こどもが幼い頃に家族三人揃って正月には松竹座にいって『男はつらいよ』を観てなにか善人になったような気分で今年も頑張ろうと思い、みんなで寿司をつまんで帰るのが正月の定番でした。いまでも懐かしく思い出す黄金の日々ではありました。息子はすでに青年となってはるか遠くでビジネスマンとなり、初老の私は白くなった頭をなぜながらまだまだこれからとそれなりに勉強にいそしんでいますよ。寅の妹の旦那である博の父がしみじみと語るりんどうが咲き乱れる安曇野の農家の夕食風景はいまでも鮮やかによみがえってきます。おもわず涙腺がゆるむのですよ。正確にはどんな言葉だったか思い出そうとして、インターネットを検索していたら、驚いたことに『男はつらいよ』のセリフをテーマ別に編集したすごいサイトがありましたよ。こういう人がいるからこそ私は日本はまだまだ捨てたものではないと希望を捨てないでいることができるんです。今年もあっという間に11月になってしまい災害と戦に明け暮れた世も年の瀬に向かいつつありますね。年末をこんなに早く実感するというのは歳をとったせいですかね。だけど私に定年はありましたが、諦年は永遠にありませんよ。私は本気で地域経済論を考え抜いていく仕事がまだ未完なのです。(2004/11/6 9:55)

[米国第3代大統領トーマス・ジェファーソンは奴隷を愛人に持っていた]
 われらは次の真理が自明であると信じる。すなわちすべての人間は平等につくられ、造物主によって一定の譲り渡すことのできない権利を与えられていること、これらの権利のうちには生命・自由および幸福の追求が含まれていること。またこれらの権利を保障するために人間の間に政府が組織されるのであり、これらの政府の権力は被治者の同意に由来すること。さらにこれらの目的をそこなうような政府は、いつでもそれを改廃し人民にとって安全と幸福をもたらす新たな政府を組織することが人民の権利であること。(アメリカ独立宣言)

 じつに輝かしい世界で初めて人民の抵抗権を規定した人権宣言ですね。ホーチミンが他ならぬアメリカと戦って独立した時のベトナム独立宣言にも引用されています。建国200数十年後の大統領ブッシュは、自らの祖国の建国の理念を蹂躙してイラク攻撃を続けて建国の父祖の歴史に泥を塗るという恥ずべきおこないをしています。彼はまちがいなく地獄へ堕ちるでしょう。さて今日は、この独立宣言の起草者にして第3代大統領トーマス・ジェファーソンの私生活について考えてみたいと思います。彼は5セント硬貨と2ドル札に肖像が描かれるほど、初代大統領ワシントンと並ぶ建国の父としてアメリカ史に記されています。
 ジェファーソンは14歳の時に父が死んで35人の奴隷を財産相続し、21歳の成人で正式の主人となり、28歳(1772年)で未亡人マーサ・ウエルズ・スケルトン(23)を妻に迎え、マーサは6人の子どもを設けて1782年に病弱でこの世を去った。その後ワシントン大統領からフランス公使に任命されてパリに赴任したときに、料理人として養成された奴隷であるジェームズ・ヘミングスを同行した。実は奴隷であるジェイムズ・フェミングスはマーサの母親の異なる弟だったが、マーサの異母姉妹であるジェイムズの妹のサリー・ヘミングスがパリにやってきて、その後サリーはジェファーソンの愛人となって7人の子どもを生んだ。サリーは白人と黒人の間に産まれた白い肌をした奴隷であったのです。
 ジェファーソンは独立宣言の起草後も生涯にわたって奴隷を所有し、1826年に死去する直前に遺言でサリーとの間に産まれた2人をfくむ5人の奴隷を自由にしただけです。その後200年間にわたってサリー・ヘミングスと7人の子どものことは封印されてきましたが、1998年にDNA鑑定によってサリーの子孫がジェファーソンのY染色体を受け継いでいることが分かり全米は衝撃を受けました。自由と平等を説いた人間がなぜ奴隷を所有したのか?建国の父は偽善者だったのか? ジェファーソンは異人種混交の罪を犯したのか? 保守派歴史学者は必死になってこの事実を否定する論文を発表し、建国の父が劣等奴隷と関係を持つはずがないということを証明しようとしましたが科学鑑定によってすべての真実が明らかとなりました。

 この一大スキャンダルは200年を経た今日も人種差別意識が牢固として抜きがたい米国の暗部を照らし出しましたが、両家の子孫は互いに相手を祝福し合い共同で親族会を開いていることに救いがあります。子孫たちは先祖の母が異なれ同じ血を引いた者として互いに愛情を注いでいます。独立宣言期には奴隷解放の条件はなく、南北戦争とリンカーンを待たなければならなかったのです。私はむしろ、ジェファーソンの人間的部分を認め、独立宣言の尊厳を傷つけるものではないと思います。当時は犯罪であった女奴隷と恋愛関係にあったからです。写真で見る女奴隷・マーサはじつに愛くるしい気品ある女性です。以上はシャノン・ラニア『大統領ジェファーソンの子どもたち』(晶文社)参照。ちょうどフランス大統領シラクが、愛人のとその間の子どもの存在を堂々と公認し、フランス国民がそれを自然なこととして非難しない成熟性を示していることに似ています。(2004/11/5 21:28)

[日本は永遠にイラク人の敵として記憶されるーワリード・アルズバイデイ(イラク政治評論家 アラブ系TVコメンテイター)1日香田証生さん殺害事件を受けて]
 香田さんの殺害は残忍極まる蛮行であり、多くのイラク人は心を痛めている。香田さん殺害後のイラクは今、イラクの無辜の子どもを日々殺害している米軍に協力するため、自国民を犠牲にする日本政府の姿勢に対する驚きの感情に包まれている。日本の首相が香田さん拉致を受けて示した反応はおよそ文明的なものではなく、逆に武装勢力を挑発するものであった。そこには占領軍によって日々殺害されているイラク人の感情に対する配慮も感じられなかった。
 外国民間人を拉致して殺害する事件は、イラク戦争以前はみられなかった。それは米軍によるイラク占領が始まった後に発生し、今年4月にファルージャに対する侵略が開始するのと同時に激しくなった。米軍が日々、イラクで民間人を殺している状況を目の当たりにしているイラク人にとって、米軍と日本の自衛隊を区別することは意味がない。イラク人にとってはどちらも同じ占領軍なのだ。
 米軍がイラク戦争の理由とした大量破壊兵器の存在は完全に嘘であったことがハッキリした。日本政府は嘘がハッキリした時点で、国会審議や国民的議論を通して、自衛隊の駐留について再考すべきであった。。そしてイラク国民に対しては、戦争や占領によってイラク国民が被っている苦難が誤った戦争によってもたらされたとの認識を示すべきであった。私たちイラク人は、米軍と同じようにこれに協力する外国軍に反感を持っている。それらは米軍の占領を正当化する役割を担っているからだ。米軍の侵略を支持する日本政府の立場は、日本自身の文明化、そして日本とアラブやイスラム世界との良好な関係を傷つけている。
 私は日本の指導者に忠告したい。米軍の占領を支持することを止め、正しい選択を行うこと、そして早期に自衛隊を撤退させることを。米軍がイラクで決定的な敗北を喫してからでは遅いのです。もしそれまでに撤退しなければ、日本は永遠にイラク人の敵として記憶されるでしょう。自衛隊の撤退は、むしろ日本国民の利益、そして日本のイラクに於ける将来の経済的利益にもつながる道だと考える。(2004/11/3 8:23)

[ラオス労働社会省報告『破られた約束、壊された夢』]
 ラオス国内の人身売買被害者253人とその家族、情報提供者の証言による調査報告。被害者の60%は12−16歳の少女、その35%が強制売春に従事、大多数が多数派民族ラオ族以外の出身者。被害者の搾取形態は、@タイでの家事労働者A売春宿に喚起された商業的性的搾取Bラオス国内での長時間工場労働など事実上の奴隷状態。この背景には何があるか。急速に発展している地域に位置する後発途上国であるラオスは、人口の55%が18歳以下で雇用機会が限られ、識字率が低く、青少年は外国や国内の都市に行くことが生活改善の最良の機会とみなされている。最も弱い社会層である子どもと少女に被害が集中する構造となっている。10月末に締結された人身売買防止協定(ミャンマー、ラオス、カンボジア、タイ、ベトナム、中国)調印に際して報告された。(2004/11/3 7:54)

[教育基本法改正をどう考えるか]
 教育基本法第1条(目的)「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身共に健康な国民の育成を期して行われなければならない」

 作成過程で教育勅語継承派は「祖国愛、宗教心、犠牲・奉仕の精神、日本人の育成」の項目の挿入を主張し、徹底民主派は教育理念という思想・良心の自由に関わること自体の法制化を否定する主張を展開して鋭く対立した。作成の中心にいた田中二郎(文部省調査局参事)は、教育理念は「教育者自らの思索と国民の総意」によるべきだとしていたが、当時の情勢でそれを実現するには「過去の誤った教育理念と方針」を一掃し「新しい正しい理念と方針」に代えて教師の虚脱状態を脱するべきだと考えた。
 その時に内面の自由との整合性をどう担保するかを、日本国憲法との関連で教育的に意味のある理念に限定するという禁欲的な内容に限定するという方針を採用した。自主的な教育活動を促進するという側面と、内面の自由の侵害を防止する禁欲という側面が統合された条文が作成された。こうして教育勅語継承派でもない、徹底民主派でもない現行第1条が誕生した。
 内面の自由を侵害するという理由で目的規定の作成自体を拒否するグループがあったことに驚嘆する。戦後民由主義虚妄論をかますびしく主張する現代保守派や急進派の心胆を寒からしめるものがある。徹底民主派の意識は現代民主主義の水準をも超えていた質を孕んでいたと云えるし、そうしたグループが策定過程に確固とした位置を占めていたことに戦後民主主義のちからが示されている。

 いま準備されている改正案では、「道徳心」「公共精神」「伝統文化の尊重」「宗教的情操」「郷土愛」「愛国心」などかって教育勅語継承派が主張した目的概念が復活されようとしている。すぐれて内面の自由の問題であるテーマが、今回は「目的」ではなく新たに起こす「目標」規定に挿入される。目標とは到達すべき実態概念であり、教育の現場では日々内面の自由が侵されていくことになる。さらに「憲法の精神に則る」という前文規定を削除し、第10条の「教育は不当な支配に服することなく」を「教育行政」に変更するという。これらは国民が国家を縛るという近代国家原理自体を基本的に否定する絶対主義性への復帰に他ならない。こうした改正指向の基礎には現行憲法のデモクラシー原理への嫌悪と絶対主義天皇制への郷愁があるが、他方には頽廃する教育への危機感から発想している部分もある。現行教育法の抽象性が具体目標の明確化を疎外しているという視点であり、改正案では「真理の探究」「正義と責任」「生命尊重」などの徳目を挙げている。

 改正論の主たる主張である「愛国心」について考えよう。国を愛する主体は多様であり、属する民族や地域、心情との関係で国のイメージは個別性が強いから、誰かが一義的に愛する国の在り方を規定し何らかの強制を加えることはかえって反発を生む。では多様性を放置してバラバラになるのを許容することも国籍制度の下では難しい。国の在り方の普遍的なイメージは、国際標準である国連的な理念との関連で探求されることが必要であり、単純な「国益」という利益概念では21世紀の地球市民との連続性を絶たれる。ここに欧米先進国が愛国新教育の法制化を避けて精神的自由を保障しようとする禁欲が生まれる。外的に強制された一元的な愛国新教育で育っていく子どもと、多元的な発想を互いに認め合いながら育っていく子どもを比較したときに、真に歴史の発展をになっているのはどちらであろうか。さらに改正案は現行法にある「平和的な国家と社会の形成者」という目的規定を削除し、「国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養」という目標規定に切り替えることによって、平和を国際概念に限定し、他方で「創造性、自主性、自立性の涵養」を歌いあげている。一元的な愛国心の強要と自主的・自律的精神の育成は、原理的に矛盾するが、この矛盾は個性の多様化という階層教育によって自由を満喫する一部の子どもと大多数の従順な子どもへの分割によって調整される。改正論の愛国心の基底にある国際関係論はパワー・ポリテックスであり、ちから(=軍事力)が決定的で歴史過程をパワー・ゲームとみなしている。そのゲームでは、勝者と敗者が存在するだけで正義ー不正義とか侵略ー植民地概念は捨象される。戦争は政治・外交の延長であり善悪や正義の問題ではなく、国益が衝突する場合の最終解決手段として全て肯定される。国王や君主と元首がなす戦争は全て正しいとするクラウゼビッツ型前近代正戦論である。ここでめざすべきは、国家の生き残りを賭けた生き延びる心としての愛国心が強調される。子どもの世界でイジメがあったとしても強者(勝者)をめざしてうまく立ち回る能力が必要で、いじめ自体をなくす協同関係は無意味なものとみなされる。弱肉強食の修羅場を生き抜く動物的な愛国心でしかない。

 与党内で教育目標の食い違いの調整がなされている。「郷土と国を愛し」(自民党)と「郷土と国を大切にし」(公明党)の差だ。愛すると大切にするの違いを広辞苑でみてみよう。
○「愛」@親兄弟のいつくしみ合う心、広く人間や生物への思いやりA男女間の愛情、恋愛Bかわいがる、めでる、たいせつにするC愛敬、愛想D好むことE惜しむことF愛欲、愛着、渇愛、強い欲望、12因縁では第8支で迷いの根元として否定的に見られるGキリスト教で神が自らを犠牲にして人間をあまねく限りなく慈しむこと
○「大切」@大いに尊重する、大いに重要なことA大いに愛すること、大事なことB愛情→ごたいせつC非常に切迫すること、危篤におちいること
 公明党は、「愛する」という個人の主観的な営みを権力による強制力を伴う法律で規定することは内心の自由を侵害するとしているが、「大切にする」も個人の主観的な営みで内心の自由を侵害することは上記の定義を見れば一目瞭然だ。両語の歴史的な由来を見れば、16世紀のキリスト教伝来の際に聖書の「アモール」の訳に困惑したことが分かる。当時の「愛」はF愛欲として迷いを意味したので、窮余の策として「御大切」をあて、神のアモールを「デウスの御大切」、キリストのアモールを「キリシトの御大切」とした。つまり愛と大切は深く連関した同義の意味がある。それとも宗教政党である公明党は宗祖・日蓮の教えに従って、愛を迷いの根元としての愛欲と解釈しているのであろうか。それなら分からないこともないが、それなら宗教解釈を法規に持ち込む誤謬を犯していることになる。何れにしろ放送用語の言い換えと同じで本質的な意味は変わってはいないのだ。以上は余談。

 「伝統文化の尊重」はどうか。改正論者の伝統論は、天皇制に基礎を置く集団主義文化を想定し、そこに「たくましい日本人」の育成の根拠を求めている。しかし伝統が時代を超えて現代に流れ込んでいる生活様式の特徴だとすれば、それは地域や民族によって多様であり、それをある特定の伝統文化に収斂し、固定化することは偏狭な伝統文化観でしかない。教育の場で特定の伝統の方を注入するすることは、現代の多文化共存の思考に背反し、狭隘な民族ショービニズムを煽ることになるだろう。むしろ日本の伝統文化は、たくましあにあるよりも、自然との共感や事物への感受性の繊細さにあったとえいえるでしょう。それをベースにしつつ、異文化理解と多文化共生をめざすオープンな伝統をこそ教えるべきではないか。そのような方向の中にむしろ、日本固有の伝統の発見と継承の人格が形成されるだろう。

 こうした改正論に対する批判は、@憲法改正への連動性A思想・良心への教育統制の危険B現代の危機は教基法理念の不実現にこそあるなどの諸形態があるが、現実への具体的実効性を求めて改正案を支持する層に対する訴求力は弱い。すると基本的な問題の所在は、現行教基法に教育の現実の危機を具体的に打開できる内容の有効性があるかどうかという点にある。

 教基法改正をめぐる賛否以前に最も重大なことは、意見の相違を権威主義的に強行しようとする権力発動と抑圧政策が推進され、議論の前提にあるべき思想と内面の自由と自治という近代原理そのものが危機に瀕していることである。東京都教委の卒業式・入学式実施指針(03年10月)は教職員の「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」義務を課し、従わない者を行政処分するという思想の強制を迫った。04年5月までに250人が処分され、不起立は「非行」とみなす服務事故再発防止研修への参加強制と反省文提出が命令された。治安維持法下で行われた思想転向の強制と本質的に同じであり、さらに生徒の起立強制と担任の指導責任が問われるという事態にいたり、公教育から思想・内面の自由そのものが奪われるという最悪のファッシズムが発現した。
 教育の本質である人格の自由と自主が簒奪され、服従と従順が蔓延して思考停止と人格喪失によってしか生きていけない場に
頽廃しようとしている。思想・内面の自由を蹂躙した上で翩翻とひるがえる日の丸を見上げて、尊厳を喪失したこどもと教師が傷つけられた誇りに耐えて君が代を口ずさむというミゼラブルな状況が将来されている。秋の園遊会で天皇すらが「強制に渡らないように」と注意して米長委員が縮みあがった事態にある。かって内村鑑三は教育勅語への敬礼を拒否して教職を負われたが、いままた亡霊のように権力による内面統制が跋扈し始めた。ここに教基法改正論の本質がある。

 こうした保守革命的な動向にどう対処したらいいだろうか。いろんな切り口があるが代表的なものに、似たような保守革命の時代にどのような抵抗が行われたかを歴史から抽出してそこから学ぶ方法である。日本近代史で言えばそrては初期社会主義運動に対する大逆事件を経た冬の時代の生き方である。20世紀初頭の日本は帝国主義的なアジア侵略にのりだして国内反戦勢力を一掃するために大逆事件というフレームアップをおこなって一気に戦争国家システムを構築していった。同時に青年層にはアパシー現象と私生活主義が蔓延し、愛国と公の価値を叫ぶ保守革命が進行した。現代と条件は異なるが本質的にはよく似た時代状況であった。この時代に真っ向から異議申し立てを行ったのが、石川啄木、徳富蘆花、河上肇である。啄木は「強権の勢力は普く国内に行亘っている。我々は一斉に起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ」(1910年・時代閉塞の現状)と遺稿に記し、蘆花は「人が教えられたる信条のままに執着し、いわせらるるごとくいい、せめらるるごとくふるまい、・・・・一切の自立地自信、自化自発を失うとき、すなわちこれ霊魂の死である。諸君、謀反を恐れてはならぬ」(1911年謀反論 幸徳処刑の1週間後に旧制1高弁論部集会で)と呼びかけ、河上肇は「学者はその真理を国家に犠牲にし、僧侶はその信仰を国家に犠牲す。これ即ち日本に大思想家出でず大宗教家出でざる所以なり」(1911年・日本独特の国家主義)と批判した。
 かっての抵抗は一部知識人とその謦咳に接する学生層に留まったのである。しかし国家にとっては上部構造の指導者が反権力に傾斜することは恐怖であり治安維持法によってねこそぎ服従に追いこみ、戦争への道を進んだ。現代は当時と較べて格段の広く深い抵抗の力が蓄積されている。惨めな戦争体験をもつ世代も一定健在である。国際的平和機構による国際システムも構築されている。現代の保守反革命を推進している勢力は、実質的には極少であるがマスコミと世論操作をフルに回転させて普通選挙での形式的多数を制しているに過ぎない。現象的に攻撃の強力さが目立っているが、ほんとうに強力であるものは直截な攻撃性を用いない。展望と見通しを失って直感的な偏見に依拠せざるを得ないからこそ、ヒステリックな攻撃性に依存せざるを得ないのである。広く深い抵抗の力は今のところ押され気味で撤退を続けているように見える。ただしこの後退しているかに見える抵抗の力は、目には見えない広さと深さを持っている。ほんの少しの勇気を持てば、分散から集中へと展開してふたたび攻勢に転じる十分な可能性を潜在している。一部知識人が獅子吼する時代ではなく、民衆の一人一人が自らの生活の中から拠点を築いてネットワークをつくり、壮大な潮流となって全体を動かす画期が実は近づいているのである。抵抗の力は批判主義の単純性を克服してカウンタープランを準備する充分な知性を蓄えている。ここにこそ専門化された現代知識人のはるかな仕事がある。(2004/11/2 9:42)

[聞く力がなぜ衰弱しているか]
 いま学校の授業は小学校から大学まで私語が充満して教師が四苦八苦している。授業とは無関係のおしゃべりで教師は腹を立てたり、揚げ句は無視したり、或いはヴィデオや作業を導入したり、途中でCMまがいの冗談を差し挟んだりそれは大変である。学校で講演会を企画するときには、椅子の間を巡回して静かにさせたりするが遂には講師が怒り出すこともある。なぜ子どもたちは人の話を聞かなくなったのだろうか。TV番組に数分おきにCMが入り小さい頃からそのような神経回路がつくられているのだという説から、教師や大人の権威が衰えたからだという権威喪失説、或いは個室文化の登場で家族の日常会話がなくなったからだとか、バーチャルなコミュニケーションが主流となって生のコミュニケーション体験が弱くなったからだとか,発達障害だとかの諸説が飛びかっている。
 しかしいよいよこの問題が企業に波及し、同じ職場にいるのに話が通じないという状況が誘発されている。いま企業は、意思疎通ができない社員の増加に悩んで社内の対話能力向上研修を実施し始めた。いままでコンサルタント会社は、プレゼン能力や交渉術などのプログラムの依頼が多かったが、最近は対話能力研修の依頼が増えている。コールセンター運営会社のオペレーターから30歳以下の女性が姿を消した。通販や旅行の顧客対応業務では、マニュアルにない想定外の質問があると言葉に詰まり、相手の言い分をじっくり聞けない若い女性が多いので結果的にオペレーターの年齢構成が40歳以上となってしまった。PC大手・デルは、すべてが顧客の要望を聞いて最適のパーツを組み合わせる受注生産なので、顧客の断片的な要望をよく聞いて製品提案する能力が欠かせない。同社は社内会議終了後に部下を指名して内容を2−3分で要約させる訓練をして顧客対応能力を向上させようとしている。
 コンサルタント会社に入社する新人は、相手を論理的に打ち負かすことが仕事だと思い込んでいる人が多いが、実は逆で一番大事なのは顧客の話を聞く力だ。答えの一部はすでに相手の中にあるのであり、相手がうまく云えないことを引き出したり、相手の考えが整理されるような質問を投げかけるアクテイブリスニング・スキルが重要なのだ。
 聞く力が低下した背景には、電子メールなど顔の見えない伝達手段が主流となったり、学校教育がスピーチ能力を重視しているからだ等という分析があるがそれは表層的だ。あるコンサルタント会社が研修で配布した聞く力の低下を測るチェックリストをみてみよう。

@早合点、早とちりで話を聞き違える
A話を聞いていると眠くなったり頭がぼんやりしてくる
B話している相手が嫌いな場合に心を閉ざしてしまう
C相手の話し方が下手なために聞こうとしなくなる
D自分のことを考えていて相手の話を聞けなくなる
E自分が先に話したくて相手の話を遮ることがある
F話に興味がなくて聞く気になれないことがある
G自分とは考えが違うと判断すると聞かなくなることがある
H人の話を聞くとき腕組みしたり無表情になったりする
I話の内容に不明な箇所があっても質問・確認しないことがある

 さてもっとも多かったのは何番でしょうか。答えはF番です。入り口の部分ですでに意思疎通の意欲が喪失している社員が多いのだ。コンサルタントはこれを危機だと分析するが、私は単純にそうは言い切れないと思う。「興味」は人によって多様であり、相手の興味がどこにあるかをじっくりと見極めた上で話者が発話しなければ、対話は成立しない。いっぽう自分の興味ある話しか聞かないという狭い聞き手の問題もある。ミーイズムが蔓延している状態では聞き手の興味の範囲は狭まり、人の話を聞く意識と力は衰弱する。現代は確かにそうした危機の状況がある。しかし学校での教師とか企業の上司は、相手の責任にして対話能力衰弱を嘆いては自分の仕事は成り立たない。とすれば相手の実態に即応した発話の内容と伝達技術を錬磨する必要があるが、実は私も含めてこのスキルの発達が弱いのが今までの日本的なコミュニケーションであった。
 人の話は無条件に聞くもんだ、特にフォーマルな場での権威的な人の話は黙って聞くという垂直的なコミュニケーションが秩序をつくっていたいままでの日本の在り方がゆらいでいるということを認める必要がある。ではそのゆらぎの向こうに、自立した個の尊厳を相互に認め合う関係が形成されているかというとそうではない。この過渡期にミーイズムが浸透して秩序そのものが崩壊しているのだ(成人式での首長挨拶の惨状を見れば分かる)。では権威的な強制によって秩序が回復するかというと、それは恐怖で沈黙させるだけだからほんとうのコミュニケーションはない。相手が誰であれ互いの尊厳を認め合う関係が成熟することなしに、この問題の解決はない。興味がなければ「ハッキリ興味がない!」と言葉で伝え、違うと思えばハッキリと批判し合えるような自然の関係が生まれなければならない。日本はプレモダンからモダンを飛び越えてポストモダンに行っているような状況があるから、ポストモダン=ミーイズムという非常識が身体化してしまったのだ。互いに何かしゃべり合っているが、実はそこには真の対話はない。ほんとうに重要な、ほんとうの真実を言うことを避けないと生きにくい世の中が形成されつつあることのほうが問題であって、表面的なスキルを追求しても解決にはならないのだ。

 しかしこのコミュニケーション能力の衰弱は、じつはもっと恐ろしい事態を誘発する。それは明確にハッキリと言い切る単純なメッセージの迫力に巻き込まれて、それがデマゴギーであってもみずから進んで支持するかのような似非自発性をもたらす(なぜ東京都知事は圧倒的な人気を誇っているのか)。つまりそれはファッシズムの社会心理の有力な基盤をつくっているのだ。(2004/11/1 20:12)

[高等教育無償化「2006年問題」]
 日本の大学の初年度納付金(入学金、授業料)は国公立大学80万円、私立大学平均130万円であり、年収400万円未満の家庭では、在学費用(授業料、通学費)負担は年収の50%を超える。欧米では、学費は無償又は廉価で奨学金も返還義務のない給付制が主流であり、日本の大学の私費負担割合は56,9%とOECD加盟26ヶ国中第3位の高額となっている(平均21,8%)。欧米諸国では学費は無償か廉価で、奨学金は返還義務のない給付制が主流となっている。
 国連総会・国際人権規約A規約13条2項(C)は「高等教育は・・・無償教育の漸進的な導入により能力に応じすべての者に対して均等に機会が与えられるものとする」(1966年採択)と規定しているが、日本政府は同規約を1979年に批准しながら同条項を留保している(日本、マダガスカル、ルワンダ)。この異常事態に対して、国連社会権規約委員会(01年)は日本政府に「留保の撤回」と06年6月末までの措置とNGOや市民との協議の報告を求めている。これが2006年問題だ。
 にもかかわらず文科省中央教育審議会我が国の高等教育の将来像(審議の概要)」(04年9月6日)は国連勧告を無視して一切触れていない。それは大学民営化の基本路線と真っ向から矛盾する性格を含んでいるからだ。(2004/11/1 8:29)

[発達障害児にどう接したらいいか]
 文科省による発達障害の定義を見てみよう。
ADHD(注意欠陥・多動性障害) 注意力不足(集中力がない)、衝動性(順番が待てない)、多動性(じっとしていられない)を特徴とする行動傷害で、7歳以前に現れ中枢神経系に何らかの機能不全があると推定される。およそ2,5%。
LD(学習障害)知的発達に遅れはないが、特定の能力の習得や使用が著しく困難な状態。中枢神経系に何らかの機能障害があると推定される。およそ4,5%。
高機能自閉症 他人との社会関係をつくれない、言葉の発達が遅れる、興味関心が特定分野に狭まるなどで知的発達の遅れはない。およそ0,8%。
アスペルガー症候群 言語発達の遅れを伴わない高機能自閉症。
 文科省調査では発達障害の可能性のある子どもは全体の6,3%で各クラスに1〜2人は存在することになる。文科省は04年1月に発達障害特別支援教育指針をうちだしyてモデル事業を03年度から開始し、07年までに具体化しようとしている。
@専門知識を持つ巡回相談員
A心理学・医師による専門家チーム
B先生の校内委員会
 文科省省令では発達障害児は通常学級で学ぶことになっているが、中央教育審議会は特別支援教室の設置を検討し、埼玉県は養護学級や養護学校で学ぶ試行を一部地域で年度内に導入する。医師・臨床心理士の専門家チームが症状の程度を判定し、特別な手だてが必要と思われる子どもを週1〜3時間程度学ばせるプランだ。埼玉県教委は「通常学級から排除する考えではなく、むしろ適切な支援がないという親の不満に応えることだ」とする。

 95年に米国で報告されたADHD診断法は、薬はある程度効果があったが食欲不振の副作用がある。一部では、脳神経の伝達物質がスムーズに流れないのが原因とする仮説を立て、楽しさや癒しの感情が脳内物質の分泌を促すことから踊りなどを取り入れる指導法が導入されている。

 私は障害児教育の専門家ではないから詳細な分析はできないが、文科省の方針に幾つかの疑問がある。もし「楽しさ」「癒し」が脳内物質の分泌を促すとすれば、7歳期までに発症する子どもの置かれた環境を問題にしなければならない。幼児期に関心を持たれず放置されたり、自尊心を傷つけられたりする体験を積み重ねれば6,3%のこどもに障害が発症することは推定できる。基本にある幼児期環境の詳細な分析抜きに、原因と対処法が未確立なままで単純に隔離することは排除に他ならない。子どもたちはさらに自尊心を傷つけられて症状が悪化する危険性がある。
 文科省の方向は、相談員や専門家重視に傾斜し、通常教育の枠内で発達障害問題を位置づけるのではなく、安易な隔離教育に落ち込む危険性がある。すでに発達障害のメカニズムが未解明のままで、少年事件の審判の過程で発達障害を原因とする司法判断が先行して恐怖心を煽りつつあるなかで隔離を求める声が増えてきている。発達障害を持つ子供に接する態度の基本は、「やさしく見つめる」「ほほ笑む」「話しかける」「ほめる」「さわる」の5つを徹底することにあると云われるが、まさにこれはヘーゲルの相互承認行為であり人間の人間たり得る原理的な方法ではないか。
 発達障害児問題は、家族とコミュニテイのゆらぎや激しい競争社会への転換による非和解的な反人間的な現象が、最も弱い孵卵期にある幼児たちの発達にふさわしい環境を破壊し、子どもたちの脳神経系を破損しているのではないか。最も激烈な競争社会を形成している米国とそれをモデルにしている日本に発達障害児が多発しているのは不思議なことではない。発達障害児は、現代社会の負の側面を集中的に一身に受けて救いを求めるムンクの叫びではないだろうか。

 以上は原論的な考察です。具体状況では、発達障害児はいままでは問題生徒として扱われ、障害者として正当に扱われず、教師も親も対処しきれないで強圧的に始動するか放置してきた。いま確かに光が当たりつつある状況であり、特別な支援の対象として本格的に対応する道が開かれつつあることは確かだ。最も重要なことは発達障害のメカニズムが未解明で諸家の間での意見が分岐していることだ。発達障害が生成する過程を明らかにして、どこに歪みが生じるかをつかんだ上で、特別な支援の内容を具体化する必要がある。第2は、一定の制度的な切り離しが必要とする結論が出たならば、それにふさわしいスキルと情熱を持つ教師を配置する財政措置を十全に整備しなければならない。それは行政サイドの問題だ。(2004/10/30 9:28)

[国連食料の権利特別報告官 ジーン・ジーグラー国連総会報告(26日)から]
 世界には充分な食料があるのに、5歳未満の子どもが1分間に12人、5秒に1人餓死しているのは世界の恥だ。03年時点で8億4200万人が恒常的或いは深刻な栄養不足状態にあり前年より200万人増大した。96年の世界食料サミットの2015年までに飢餓人口を半減するとした国連ミレニアム開発目標の実現は困難でむしろ飢餓状態は年々飢餓状態は悪化している。食料に対する権利は国際人権・人道法で規定された人権であり、飢餓は避けられないものでも受容できるものでもなく、われわれは以前よりも豊かで飢餓を根絶することが完全に可能な世界に生きている。飢餓根絶の方法には秘密はなく、新たな技術も必要としない。富裕者をより豊かにし、貧困者をより貧困にする現在の政治に挑戦する意思がありさえすればよい。インド、インドネシア、ナイジェリア、スーダンは退行現象が見られ、特にスーダン、北朝鮮、パレスチナ自治区、キューバの状態は危険であり、スーダン、北朝鮮には緊急措置が求められる。イスラエル政府はパレスチナ人の食料の権利を享受する占領者としての義務がある。米国はキューバ国民の食料の権利に影響を与えている一方的な経済制裁を停止するよう求める。(2004/10/30 7:47)

[イラク海外傷害保険はなぜ支払われないのか]
 5月に殺害されたジャーナリスト・橋田信介氏の妻である橋田幸子さんが、AIU保険(本部・ニューヨーク)に対して海外傷害保険の死亡保険1千万円の支払を求めて東京地裁に提訴している。支払拒否の理由は、約款で「武力行使の状況または武装反乱の状況下」の免責事由であるから支払義務がないというものだ。コラムニスト・勝谷誠彦氏がイラクで襲撃されてカメラ機材を奪取された時には、日本の保険会社は保険金を支払っている。ブッシュ大統領はすでに「イラクの戦闘は終結した」と宣言し、小泉首相も「戦闘地域ではない」としているから、少なくとも公的には約款の規定には当てはまらないことになる。外資であろうと日本の会社であろうと、日本の国内で営業する保険会社は、すべて財務省の監督下にあるのだから、財務省は公正な保険金支払いをするように行政指導する義務がある。
 しかしひるがえってみれば、明らかにAIU社の主張は正しく実態をとらえ、直裁に真実を主張しているのだから、財務省が行政指導すれば自分自身にはねかえって政府の自己矛盾が露わになってしまう。

[米長邦雄氏の惨めな姿]
 28日の園遊会で天皇・皇后と対面した米長邦雄(棋士 東京都教育委員)の対話内容を筆者がTVニュースから記憶した部分を再現する。

 天皇「日頃は教育に努力いただいてご苦労様です」
 米長邦雄「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させるというのが私の仕事です」
 天皇「やはり強制になるということでないことが望ましいのではないでしょうか」
 米長邦雄「素晴らしいお言葉を戴き誠にありがとうございます」

 米長氏は自分の仕事は棋士であるということを忘れて、日本の教育を指揮するとでも思っているのであろうか? それとも何らかの政治的発言を天皇から引き出そうと意図したのであれば、天皇の政治利用として戦前であれば処断の対象になったであろう。こうした政治と教育の基礎知識が欠落している人を都教委に任命した知事の責任も問われる。米長氏は、実は叱責されたことに気が付かない。天皇は”君はやりすぎだよ”と宴曲に批判したのだ。ただし現天皇制から云えば、一切の国政に関する権能を有しない天皇の憲法上の地位から云えば明らかに天皇の発言も逸脱している。米長氏は、東京都のジェンダーフリー教育を批判し、公教育からジャンダーフリーという言葉を追放する先頭に立った人物であり、戦後民主教育の否定をヒステリックに叫んでいる単純脳細胞の人物ですが、このような人物が東京の教育を動かしているのだから世はまさに末世だ。棋士は棋士らしく本業で勝負するほうがいいのではないか、これは最後の忠告です。最高権威に媚びへつらおうとして叱責されて醜態をさらした論評するに値しない人物だ。最後に米長邦雄氏の各所に於ける発言のさわりを紹介しておこう。
 ○教育問題の根元は95%母親に責任がある
 ○女がわがままになった。女性の教育をし直すべきだ。
 ○父兄会に戻してお母さんを閉め出すのがいい。学校に口を出させない。
 ○父は憲法、母は法律であり、母親は一歩下がって父親を立てないと。夫婦別姓でバラバラになり、行き着く先がジェンダーフリーだ。
 ○校長はワンマン社長であれ。
                                                 (2004/10/29 19:33)

[サマワ陸上自衛隊は直ちに任務を解いて新潟に転進せよ]
 サマワ陸上自衛隊宿営地内にロケット弾が着弾した件について、日本では巨大台風と中越地震に隠れて本格的な報道がないなかで、ふたたび日本人がテロ・グループの捕虜となって48時間後に殺害されると警告されている。このゲリラ組織は最も凶暴な組織であり、48時間とは48時間を意味している。従って日本政府の声明は慎重且つ柔軟な内容でメッセージを発しないと、人質は殺害される。わずかな一言が彼らの怒りに火を注ぎ人質の生命は絶たれる。
 しかし政府公式声明は「自衛隊は撤退しない。テロには屈しない。事実確認を行って救出に全力を挙げる」という驚くべき硬直した内容であった。最悪の事態が誘発されるだろう。声明前半部は後景に隠して触れず後半部のみを発すべきであった。人質は見捨てられたのである。
 サマワに本部を置くムサンナ州警察本部長は、「復興支援事業での「日本の失敗」に対するサマワ住民の不満が攻撃の背景にあるとし、住民に対する復興支援事業の契約をほのめかした上で実行しなかったり、宿営地内の労働者と復興事業請負業者を州外から連れてきたり、こうしたことが積み重なって住民の憎しみの感情を誘発した」と述べた。すでにオランダ軍は駐留を延長せず撤退を表明しているから、サマワ周辺は日本自衛隊単独となる。政府関係者が云うように、もはや戦闘地域か非戦闘地域かのレベルではなく、自衛官の生命の安全は確保できない状況に逢着している。自衛官は亀のように宿営地内に籠もって支援活動ができない状態に陥っている。従って防衛庁長官はただちにサマワからの撤退と新潟への転進命令を発すべきである。自衛官は見殺しにされつつある。

 「小泉さん、彼らは直ちに自衛隊を撤退させよと云っています。さもなくば私の首をはねると云っています。・・・・すみません。私はもう一度日本へ帰りたいです。」香田さんはこのように云っている。彼の行為を云々する前に(すでに自己責任論が噴出しているが)、まず救出に全力をあげるのが国民の生命を守る政府の責務であろう。

 テロリズムは人類の歴史とともに古く、1890年代はピョートル・クロポトキン公爵を象徴的な存在として、多くの知識人と良家の子息を集めた黒色アナーキストが国王や大統領と政府に対する連続テロを発明されたばかりのダイナマイトで遂行し、国際テロの恐怖に駆られた各国政府は反アナーキスト社会防衛国際会議を開催し(1898年)、アナーキズムは政治思想ではなく犯罪集団でありテロ犯人の引き渡しを決議した。21世紀初頭の国際反テロの合い言葉と同じ雰囲気に充ちていた。
 19世紀末と21世紀初頭は共通した特徴がある。第1は憎悪の理由が理解できず、単なるセキュリテイー問題として考えたことであり、第2に中央司令部による国際テロネットワークの国際謀略組織を仮想して鎮圧に努めているが、実際には孤立分散した小グループの絶望的な憎悪による行動であること、第3にベル・エポック(麗しき時代)がごく一部の富裕階級のものであり、大多数が富から排除されているということ、抑圧され疎外された者の自己防衛としてのテロは社会全体を震撼させて権力を震え上がらせるというメッセージを受容する基盤があること、第4にテロリストの実態は政治思想か宗教思想による狂信的な自己犠牲による社会の救済という自閉した観念で固められ、非抑圧者を代表すると偽装するが実際は自分自身しか代表していないこと、第5にテロ行為は変革をもたらさないばかりか逆に民衆から孤立し、警察と軍事権力を強化させる結果を引き出して自己破壊的になっていくことなどである。但しここではパレスチナ民衆の抵抗運動はレジスタンスであり、テロとはみなさない。
 19世紀のテロと現代のテロの違いは、かってのテロが支配権力中枢の個人(国王や大統領)に照準を合わせたのに対し、現代のテロは民衆を含む無差別の殺害という形態をとっているところにある。では現代のテロはなぜこのような最悪の絶望的な形態をとっているのであろうか。権力中枢のセキュリテイ装置と技術が格段に進化し容易に接近できなくなったこと、それによって権力に追随する同じ民衆自身に憎悪が向かう反転現象が起こっているからである。垂直的な差別構造の上中層は、議会制による自己表現機会が保障されるが、底辺の辺境にいる民衆はテロ以外に自己表現の手段が奪われていくのである。第2は、冷戦崩壊後に世界帝国となったアメリカ帝国の権勢と傲慢が主として石油資源のあるイスラム圏に集中し、最も原理主義的要素の強いムスリムのジハード(聖戦)意識を誘発したからである。ビン・ラデインの1996年のファトウ(宗教見解)は「武力によって抑圧と屈辱の壁を砕く」決意を表明している。従って反テロの最大の戦略は、セキュリテイ戦略ではなくムスリムが世界から排除されている現状を基本的に廃止することにある。アルカイダはそのなかで自然消滅する。以上はリック・コールサート氏(ベルギー・ヘント大学)の論考参照して考察。

[日本のDay After Tomorrow]
 日本の天変地異は一体どうなっているのだろうか。史上最多の巨大台風の襲来から中越地震など小泉純一郎氏が首相になってから特に酷いというのはあながち偶然ではない。この必然的な連関の詳細な解明は後日試みることにして、首相の事件に対する対応はもはや一国の最高責任者のものではなく、彼は精神的に変調を来しているとしか考えられない。

(イラク人質事件発生時)新聞記者とワインを飲んで歓談 特段の指示せず 自己責任で処理せよ
(沖縄米軍ヘリ墜落時)都内ホテルでゴロ寝(小泉ML152号)しながらオリンピック観戦 244時間ホテル滞在       
 8月16日 上京した沖縄県知事との面会拒絶 午前中歌舞伎鑑賞 14:10からホテル ホッケー女子予選「日本×アルゼンチン)
(新潟中越地震時)
 17;56 初回地震発生
 17:59 小泉首相 東京国際映画祭オープニングセレモニー出席(東京・六本木ホテル)
 18:00 首相官邸危機管理センターに官邸対策室設置
 18:12 第2回地震発生
 18:15 NTT災害伝言ダイヤルサーボス開始
 18:20 東電柏崎刈羽原発運転継続発表
 18:30 小泉首相 六本木ヒルズ内の映画館で映画鑑賞 秘書官の進言で俳優の挨拶聞いた後に退席 新幹線脱線
 19:08 小泉首相 映画館退出
 19:27 小泉首相 品川首相公邸に到着(首相官邸危機管理センターではなく自宅)) 
 19:34 第3回地震発生(震度6強)
 21:30 長岡・柏崎全戸停電

 今回の中越地震でははじめて新幹線が脱線し、原子力発電所からわずか20kmに震源があるという危機的な状況が発生した。特に新幹線の脱線は上りが長岡駅で減速していて惨劇に到らなかったという奇跡があり、非常ブレーキシステム「ユレダス」がまったく機能しなかったという安全上の基本問題を浮かび上がらせた。問題は水力発電所がすべてストップさせて再点検するというのに、東電が何の説明をもしないで継続運転していることだ。Day After Tomorrowに臨んで首相はゆっくりと映画を観ている国が日本だ。阪神・淡路大震災の痛苦の体験はまったく生かされていない。日本の首相は学習しない伝統があるようだ。(2004/108/25 17:49)

[台風が沖縄に「上陸」したことは歴史上一度もないのだ]
 気象庁は、、台風の中心が九州、四国、本州、北海道に達した場合だけを「上陸」と呼ぶ。気象庁は、沖縄本島を含めて全国各地の島與は台風が接近するだけで大きな被害が予測されるので、「上陸」と「接近」を区別しないですべて「接近」と呼ぶ。海に突き出た半島の場合も、20km以上内陸側に達しなければ「上陸」とは呼ばない。しかし沖縄本島は、南北100km、、東西30kmの広い範囲であり、沖縄県という地方行政単位であるから、他の島々と同列に扱うのは不自然ではないか。実は気象庁が台風上陸の統計を取り始めてから、21年後に沖縄が日本に復帰して琉球から沖縄県となった時点で、「上陸」の定義の見直しを行わなかったのだ。04年度の日本への「台風上陸」は10回の新記録を数えたが、沖縄への「台風接近」は13回の新記録となった。この10回と13回の差異には、日本近現代史の本質的な沖縄差別の問題が伏在している。はっきり言うと台風3回分ほど沖縄は差別されている。気象庁の定義は、隠然たる沖縄差別の歴史がいまも連綿と続いていることを示している。「沖縄県」は日本の周縁に位置する島與に過ぎないのだ。奄美大島に「接近」した台風は、九州・鹿児島県であるから「上陸」と表現するから、明らかに差別以外の何ものでもない。以上・朝日新聞10月23日付け夕刊「窓」欄の清水建宇氏記事を参照。

 私が沖縄をみるときには、太平洋戦争末期と戦後占領期の政治・経済社会の視点からでしたが、このような台風という自然現象の把握についても差別統計処理があることにその根深さをつくづくと実感させられました。沖縄戦での米空軍の10.10那覇市大空襲は、那覇市の市街地の90%を焼失させ、「鉄の暴風」と云われた艦砲射撃の序曲とみなされたが、実はこの那覇大空襲はその後の日本大都市無差別爆撃のためのデータを集約する実験場として位置づけられていた(!)。在沖旧日本軍は、沖縄県民を米軍の楯として逃亡し、民間人が捕虜となることを禁止して自決を命令し、県民の4人に1人が殺戮戦の犠牲となった。沖縄は本土を助ける捨て石に過ぎなかったのです。以上・久手堅憲『沖縄を襲った米大艦隊』(あけぼの書房)参照。
 戦後は米軍基地の大半を背負わされ、少女が米兵から暴行を受けても、ヘリが墜落しても何ら抗議しない政府の下で、主権侵害の被害を一身にになわされてきました。中心と周辺モデルの悲劇を象徴しています。私たちが抱いている抜きがたい差別への安住という意識は、自然科学的なデータ処理の分野にまで及んでいます。

 韓国国会が「日本軍慰安婦の名誉と人権回復のための歴史館建立」決議案を全会一致で決議しました。「日本の性奴隷制の被害者のうち94人が既に亡くなり生存している120人も高齢となった。光復60周年になる2005年までに日本軍慰安婦歴史館を建設することを政府に求める」としている。この決議は事前に予定されたものではなく、従軍慰安婦・吉元玉(キル・ウオンオク)さん(77)が午前中に国会でおこなった証言を受けて緊急に発議された。賛成討論では「日本に良心があるなら韓国に記念館をみずから建てるべきだが、謝罪の気持ちがない日本がそんなことをするはずがない。だから韓国政府が記念館を建てて欲しい。残された命はあまりない。これまでのくやしさ、悲しみを晴らしたい。一言でも心からの謝罪の言葉を聞きたい」との訴えがあった。私はこの国とこの国にあって何もしていない自分が恥ずかしい。

 200年後の世界では世界戦争で黄魔ウイルスがまかれ、人々は伝染の恐怖から高いタワーをつくって生活していた。高さ2kmの青色の塔は完全な階級社会で、上層を統治階級、下層を地の民が占めていたが、両者は対立状態にあってテロと憎悪の連鎖が蔓延がしていた。塔全体が崩壊することが分かっていながら両者は際限のない戦いを続けていた。以上・石田衣良『ブルータワー』(徳間書店))参照。これは200年後ではなく、まさに現在のこの瞬間で繰り広げられている中心と周辺モデルを垂直にそそり立つ高層ビルに象徴している。政治経済とテクノロジーのめくるめくような垂直の差別構造は、沖縄から慰安婦、そして3万人を超える自殺者を排出している現代日本のそのままの姿ではないか。(2004/10/23 19:30)

[朝日新聞の自殺分析の致命的な限界について]
 警察庁自殺統計による自殺の原因・動機の93年ー03年比較から。
 
        1993年  2003年
 健康問題 13,006 15,416
 家庭問題  1,961  2,928
 勤務問題  1,046  1,878
 男女問題    561    735
 学校問題    200    237
 その他    1,210  1.765
 不詳     1,383  2,571
 経済生活  2,454  8,897(負債5,043 生活苦1,321 失業610 その他1、923)
 総計    21,851 34,427

 自殺数のこの10年間の激増が主として経済生活問題に起因していることが分かる。警察庁統計の昨年の自殺は被雇用者が前年に較べ1004人(13,4%)増大して総数の伸びを大幅に上回り、年代別では30歳代が17,0%増加している。過労自殺の労災認定件数は02年以降毎年100件を超えている。
 失業が原因となる自殺は昨年610件で前年より10,7%減少しているが、無職者の自殺は前年より7,9%増え、生活苦による自殺は1321件(13,1%)も増え、失職した人が徐々に困窮して統計上は失業ではなく、生活苦による自殺へと移行している。昨年の自殺原因で最も増えたのは負債であり、900件(21,7%)も増えて5043件に達した。

 04年度厚生労働省白書は、自殺死亡率は景気循環に沿った動きをし、特に完全失業者数との相関が高いとするが、昨年の経済成長率は+2,4%と改善し、完全失業者数は350万人と高水準であるが前年より6万人減り完全失業率も0,1ポイント下降しているにもかかわらず自殺者は3万4427人(+7,1%)と世界最高に達した。
(1)過重労働の拡大 総務省就業構造基本調査では、週60時間以上働く被雇用者は92年・409万人→02年・548万人に達し、短時間の不安定就業との労働時間の二極化が進んだ。企業が不況期にリストラして労働者が減少したところで好況へ転じた多摩寧、異常な繁忙労働が働き盛りの中堅社員を直撃してうつ病と自殺が増えた。
(2)不安定就業による精神的不安定 非正規雇用は昨年1485万人で被雇用者の30%を超えた。派遣労働などの不安定雇用が本人と周囲にストレスを蓄積させ、殺伐とした職場環境のなかで仕事の激変への対応ができず将来展望を喪失する若者が増えた。
(3)失業の固定化による精神状態の悪化 失業期間が長期化すると経済状態の悪化によって精神状態も悪化し、精神状態の悪化がさらに失業期間を伸ばすという悪魔のサイクルが誘発される。失業者総数と2年未満の失業者は減少したが、2年以上の長期失業者数は03年度で60万人に達し、IT技術の進歩と連動して何度応募してもふるい落とされる求職者が激増している。
(4)負債による絶望感の増大 消費者金融の利用者数は2000万人に近づき(全国信用情報センター連合会加盟4000社の消費者金融を利用中及び過去5年以内に利用した数)、ヤミ金にも手を出して家族挙げて逃亡する例が後を絶たない。厚労省人口動態統計・国民生活基礎調査・総務省労働力調査・家計調査を総合分析すると、他に悩みやストレスがあってそこに借金が増えて自殺へと誘導される傾向が明白に示される。サラ金の宣伝が氾濫し、生活苦から借金に追いこまれて自殺に到るという回路がある。以上朝日新聞10月23日日曜版参照。

 朝日新聞の自殺分析は官庁統計をもとに、自殺の背景にある経済労働問題に迫ろうとしているが、その根元にある日本の経済労働政策の解明に迫れず、従って自殺を減少させる基本的な政策を対置することができない。貧富の格差の拡大の根本要因を解明しようとする姿勢が弱く、結果的に労働力水準の高度化に向けた個人努力の推奨に終わる危険性をはらんでいる。アメリカ型の新自由主義構造改革路線による労働規制と社会保障制度の総崩壊に基本的な要因があることを分析しないで、自殺統計の現象分析でに終わっては、自らこの世を去っていった人々の無念の魂は救われないだろう。なぜ朝日新聞はこのような表層的な分析に終わるのであろうか。それは、朝日新聞が社論として支持を表明している民主党の戦略にある。民主党は政府・与党をはるかに上回るネオリベラル構造改革推進政策を掲げる政党であり、政府・与党批判は更なる新自由主義を推進する立場からに他ならない。従って自己選択・自己決定・自己責任を人間社会の原理として普遍化する立場からは、せいぜいのところセイフテイ・ネット論による再挑戦機会保障に留まり、競争原理による刺激効果に最大限期待するから、人と人の協同原理は歯牙にもかけないのだ。ここに朝日新聞の決定的な限界がある。(2004/10/23 17:13)

[二宮清純氏は類い希なるスポーツ評論家だ!]
 二宮氏のスポーツ評論は今までの日本にはなかった理知的な分析と構想力がある。彼のプロ野球に対する提言をみてみよう。

 プロ野球はチームの拠点をフランチャイズという営業権を表す言葉を使うが、Jリーグはホームタウンというクラブの住み家という地域権という言葉を使う。日本プロ野球組織は、球団会社に地域貢献を義務づける規定を設けていないが、Jリーグは地域振興への貢献を積極的に呼びかけている。この背景には、プロ野球経営者が、球団を企業の所有物と考え、公共財としてのスポーツ認識がないからである。球団は地域の文化公共財であり、球団経営が危機に陥っても存続させようとする強い意志があるメジャーとの違いがある。プロ野球はもはや大都市の専有物ではなく、地域分権の時代にふさわしい多極分散型地域スポーツに生まれ変わらなければならない。いま新潟、静岡、そして四国の独立リーグなど現在の12球団制から16球団の2リーグ制に発展する可能性が成熟してきており、メジャーのような東西地区によるプレーオフにしてリーグ戦終了後の盛り上がりをはかる条件がでてきている。親会社の都合によって球団が振り回される時代はいい加減にやめよう。

 以上が二宮氏の提言の概要である。ここに日本のプロ野球の将来戦略の基本があるように思う。こうした大衆スポーツ理念の原点に返る議論がいままでまともな検討対象とならず、つねにドタバタ劇が展開されてきた。伝統的な権威主義的システムにほころびが生じ、その黒幕であったナベツネ氏やツツミ氏がコンプライアンスを踏みにじる行為を働いて表舞台から姿を消そうとしているのも歴史的必然である。折しも中日ドラゴンズを率いて活躍している落合博満監督の徹底して選手とファンを信頼する態度も、これからのプロ野球の姿を暗示しているような予感がする。川上とか長嶋とかいわれる権威主義的指導の時代はすでに過去のものとなったのだ。しかしライブドアと楽天のプロ野球加盟を審査する当事者がプロ野球協約に違反する闇金をアマチュア選手に渡して買収しているなど審査資格自体が疑われる事態が誘発されている。日本プロ野球機構はいったんは解散して再編すべきではないか。こうしてみると、野球というスポーツも確実に時代精神を体現して変容過程にあることは確かだ。部分的には危機に見えるが、潜在的には未来への巨大な可能性を秘めているように思う。中日ー西武戦日本シリーズ第5戦中日完勝の中継を観ながら記す。(2004/10/22 35)

[かって布施辰治という弁護士がいた]
 韓国政府が韓国独立運動に貢献した人に贈る「建国勲章」が、初めて日本人である今は亡き弁護士・布施辰治氏に贈られた。「われらの弁護士ポシ・ジンチ」とか「韓国のシンドラー」いわれ、韓国で顕彰運動に取り組む人たちは「布施弁護士のような日本人がいる限り、韓国と日本の未来はある」と言う。日韓近現代史に於ける日本の恥ずべき歴史は、こうした人物がいたことによって救われる。
 布施氏は、宮城県の農家に生まれ、明治法律学校(現明治大)を卒業して判事検事登用試験に合格して、宇都宮地方裁判所に赴任し、半年後に生活苦から母子心中を図った母親を「殺人未遂」で起訴するよう迫られ「母親の背にムチするの無惨なる」として辞職し、その後トルストイに傾倒し民衆派弁護士として一生を貫いた。1921年に自由法曹団を結成し、労働争議、小作争議、借家人同盟の活動に参加し、韓国併合に対して「朝鮮の独立運動に敬意を表す」という論文で検事局の取り調べを受けた。関東大震災の虐殺事件の救援に奔走し、1926年には朴烈金子文子の大逆事件を弁護、翌年に朝鮮に渡り義烈団事件朝鮮共産党事件の弁護を行い、台湾の農民運動を支援した。朴烈の弁護では、「天皇の名において司法権を行使する裁判官に対して、朝鮮王の威儀をもって相対したい」という朴烈の願いを実現し、彼は朝鮮王の礼装で出廷した。3・15事件では日本共産党被告を弁護し、1933年には新聞紙法事件で3ヶ月入獄し、労農弁護団事件で検挙入獄し弁護士資格を剥奪されて敗戦を迎えた。治安維持法違反で有罪判決を下した大審院は「多年人道的戦士として弱者のために奮闘したる貴き情熱を有するの士」と敬意を表している。敗戦後の1946年には朝鮮建国憲法草案私稿を発表し、49年には三鷹事件、松川事件の弁護活動や、在日朝鮮人の人権活動に献身し53年に死去した。彼の顕彰碑には、”生きべくんば民衆とともに死すべくんば民衆のために”との彼の言葉が刻まれている。以上『ある弁護士の生涯』(岩波新書)から。
 天地に照らして一片の恥なき人生とは・・・かくあるものだ! 実に見事な羨望すべき一生だ! その裏に幾多の苦難があったことも容易に想像される。こうした日本人をいまも忘れず勲章を贈る韓国政府の尊厳ある態度にも頭を垂れざるを得ない。苛烈な日本近代を生き抜いたレジスタンスの歴史は、むしろ現在の今にこそ復権されるべきである。一体日本政府は何をしたか!私たちがいかに恥ずべき政府の下にいるか考えるだに慄然とする。(2004/10/22 17:53)

[日本の総人口が歴史上初めて減少した!]
 総務省推計人口(確定値 04年5月1日現在)の総人口は1億2756万人で、前年同期の1億2761万人を約5万人下回り、毎月データを採り始めた1950年以来初めて減少を記録しました。総務省推計人口は、5年ごとに実施される国勢調査とは別に、人口の推移を詳細に分析するために集計され、直近の国勢調査のデータを基礎に最新出生数-死亡数+出入国者数(海外旅行を含む)で算出します。新型肺炎問題で海外旅行者数が大幅に減った昨年は、5月1日時点の総人口が増大し、今年はゴールデンウイークの海外出国者数が増大したことによって総人口が減少しました。わずか数万人の海外旅行者数の変動が総人口に影響を与えるほど人口減少が進んでいることを象徴しています。以上日本経済新聞10月19日付け朝刊参照。厚労省はこれを一時的現象としているが、ほんとうにそうでしょうか。
 人口減少の最大の要因は、出生率1,29という極端な少子化社会にあることは云うまでもありません。なぜ少子化が食い止められないのでしょうか。晩婚化が進み、既婚率と既婚者の出生率が低下している原因は何でしょうか。最大の要因は、日本社会の現状と未来のなかで生命の再生産に対する展望が持てないからです。展望が持てない理由は、ネオ・リベラリズムの競争原理が社会のすみずみに浸透し、協同の契機が失われて家族と子ども世界に退嬰的で陰惨な事件が頻発し、生まれた子どもが生き抜いていく将来社会に誰しも不安を覚えるからです。日本はセキュリテイを気にしなければ生きていけない社会になってしまいました。第2は共働きのなかで働く女性が出産と子育てに安心して専念できる制度設計が欧米からみても致命的に遅れているばかりかますます悪化しています。出産休暇、育児休暇、児童手当などなどが決定的に未成熟であり、男性の協力システムもないからです。第3は核家族の進展と地域コミュニテイの衰弱によって、子育てを共同のものとする条件がなくなっているからです。若い男女は自ら望んでというよりも、子育てを自己決定・自己責任原理に委ねるネオ・リベラル政策によって、生まないーという自己選択をしているのです。この政策の推進者であるライオンヘアー首相と竹中金融財政相の罪は万死に値するでしょう。なぜならこの事態が放置されれば、日本人口は遠からず半分になり、最後には理論的には消滅するような社会を創り出してしまったからです。
 造形作家である高田ケラー有子さんが、デンマークでの妊娠から出産・子育ての体験を報告している村上龍氏のサイトをぜひ覗いてみてください。子育ては政府と社会全体の責任だという思想が日常のすみずみに定着していることが分かります。(2004/10/20 14:26)

[ダイエット強迫社会の背後には混迷するジェンダーがある]
 若い女性のダイエット大流行をみてみようと、関連サイトを検索したらスゴイ!。そこでダイエット方程式なるものを見つけたので紹介する。
(理想的な体重を求める指数)
 BMI指数(体格指数)=体重(kg)÷身長(m)÷身長(m) 20未満やせ 22−23ちょうどいい 25以上太り気味 27以上肥満
 標準BMI指数 男22,8 女22,2    
 標準体重(kg)=身長(m)×身長(m)×標準BMI指数
(スレンダーで美しく見える美的体重)
 美的標準体重=身長(m)×身長(m)×美的BMI指数
(美的BMI指数)女性は17〜21
 17・・・非常にスリムでモデルのような体型 一般的ではない
 18・・・見るからにスリムな痩せ型
 19・・・引き締まってバランスがとれている型
 20・・・出るところは出て締まるところは締まっている感じの美しい体型
 21・・・いわゆるナイスバデイといわれる体型
 22・・・健康面からみた理想体型
(事例:身長160cmの女性の場合)
 標準体重=1,6×1,6×22,2=56,8kg
 美的標準体重@=1,6×1,6×17=43,52kg
 美的標準体重A=1,6×1,6×21=53,76kg

 驚いたことに160cmの女性では、標準体重(21)と美的標準体重(17)の間に10kg近い差があるではないか。健康的な観点の理想体重は完全に太り気味とみなされ、健康を犠牲にしないと美的になれないということだ。なぜこうした指数がもて囃されるのだろうか。太古以来の女性美の歴史的な変遷をみれば、現代女性の美的センスがあまりにも異常であることに愕然とする。こうした他者規定的な基準に惑わされず独自の道を行っている女性は良いのだが、多くの女性が異常な基準に振り回されてダイエット・ビジネスの餌食になったり、精神的障害に追いこまれている。こうした異常なダイエット社会の背後には何があるのだろうか。現状の一端をみて考えてみたい。

事例1:10月16日に下着メーカーとタイアップして催された慶応大のミスコンテストでは、極端なスリムさを強調するBMI17クラスの女性が登場して美を競う。展示されている下着メーカーのマネキンはいまにも折れそうな脚をしている。それを羨望のまなざしで眺めている女子大生たち・・・。かっては大学でのミスコンテストは女性蔑視の象徴として、ウーマンリブによって粉砕される時代もあったが、いまでは男子学生と並んで仲良く鑑賞している。
事例2:A子さんは、講義はすべて出席しゼミ活動も積極的にこなす完璧主義者。拒食から一転して過食になり、買い物カゴ2つ分を食べては吐くことを繰り返し、学生相談所を訪れている。
事例2:B子さんは、標準体重よりやや多いが減量をいつも考え、友人や生活でストレスが貯まると夜中に買い物カゴ1つ分にもなる食べ物を食べた後に、嘔吐を繰り返し、その挫折感と後悔や惨めさと自己嫌悪で、精神的に追いこまれて学生相談所に来る。
事例3:女性下着メーカーの世界12ヶ国女性意識調査で、日本の女性は自分の体型への満足度が最も低いという結果が出ている。○○さんのように足が細くなりたい、いまの体型では駄目という思いに駆られている女性が世界で最も多い。

 過剰なダイエットに挑戦する女性は、いわゆる”良い子”タイプが多く、人に認められることを動機付けにして頑張ることができるという傾向の者に多い。課題を達成することに自己肯定感と存在の意味を実感する。やせることは周りからみてすぐ分かり、評価しやすいからであり、ダイエットができる・できないは自分の存在を測る大きなモノサシになっている。ここでは男性の視線よりも、じつは周りの女性の視線が意識されている。なぜこうしたアブノーマルな美的身体を求める女性が増えているのだろうか。
 第1にまず異常な競争社会。競争要素は、精神・知的活動から身体的活動・表現にいたる多様性があるが、とくにアメリカ競争社会での成功者は肥満していない・肥満者は就職試験で不利とかいう神話が蔓延し、痩せていることが成功へのステップとし、痩せたら勝ち組・太ったら負け組という「常識」が浸透した。精神的・知的活動の競争力が同じようなレベルであれば、身体要素が差別化のポイントとなり、また精神的・知的活動の敗者は残された身体要素に競争優位を求める。もともと身体優位性への社会的な評価は、女性の方に強くまた女性自身も強く意識しているから、ダイエットの悪無限の罠に嵌りこんでしまうのは主として女性である。
 第2に女性の自己肯定感が持ちにくくなっている社会構造がある。歴史的に女性美は、社会が決めてきたのであり、男性が支配的な力を持ってきた歴史では、男性の視線が女性美のモデルを構築してきた。太った女性が美しいと称賛された時代もあれば、逆の時代もあり、意識は常に時代の標準とその時代をリードする男性覇権国家の意識を世界標準としてきた。明治以降の日本の女性美は大転換して西欧モデルを標準にしたのだ。女性がジェンダーとして男性社会から規定されてきた女性美のモデルを、女性自身が奪い返すことは至難であった。近代までは女性は男性の愛玩対象であり、ひたすら男性の願望に自己を合わせる生活に埋め込まれてきたが、現代以降に女性の人間化をめざすフェミニズムが登場して自立した女性美を探求する動きが誘発されたが、それは精神的・知的活動に於いて男性と並び立つ競争力を持った女性に留まった。普通の一般的女性は、ケバケバしい化粧を施して、相変わらずつくられた男性の美的虚栄の視線に自己を委ねてきたのである。 
 しかしここにきて、第1の競争社会で男性と並び立ちつつ、なおかつ一方で自己肯定感を獲得できない中間女性層が大量に出現してきた。彼女たちは、男性に媚びへつらう虚栄美のジェンダーを超えようとしながら、自己アイデンテイテイの方向を見いだし得ず、いわば男性と隔絶した女性世界のみの美の共有としてダイエットを当面選んでいるのである。総合職女性への道がいかにシンドク厳しいものであるかを予感している彼女たちは、学園生活のいま・ここを精一杯模索して生きるめあてとなって落ち込んでいるのがダイエットの強迫心理である。言い換えれれば、男性が期待する「カワイイ産む性」から訣別しようとする女性たちが、「産む」こと自体の健康を犠牲にしながら獲得しようとしている囲い込まれた女性世界でさまよっているのである。人類の再生産の歓びを健康のうちに迎える自然なほんらいの性は喪われ、従って男性との豊かなパートナーシップを構築する道からも遠ざかる。多くの女性はふたたび男性が支配する安逸の「主婦」生活へ回帰していくのではないか。結論的に云うと、女性に於ける「かけがえのない自己」の「かけがえのなさ」の内実が問い直されているのだ。(2004/10/18 9:30)

 一方官制の健康運動として政府の「健康日本21」(2000−2010)は、食生活や病気など国民の健康に関わる回お膳の数値目標を設定し運動を推進している。食生活・運動・たばこ・アルコール・循環器病・ガンなど9分野・70項目の数値で追跡するが、その中間評価が発表された(18日)。02年の国民栄養調査で把握できた53項目のうち、すでに最終目標を達成したのは「牛乳・乳製品の摂取量」などわずか2項目で改善したのが29項目、20項目は数値が悪化した。悪化した数値で顕著なのが、15%以下が目標の「20−60歳代の男性肥満」と「20歳代の女性の痩せすぎ」がそれぞれ29.4%、26,9%と大幅に悪化していることである。「日常生活に於ける歩数の増加」は全国民が全国民が減少し、ますます歩かなくなっていることが明らかとなった。政府に連動する地方自治体の計画も、健康増進法による義務規定であるのも関わらず、努力義務に留まっている市町村が04年7月現在で40%に満たず、40%は規定する時期さえ未定としている。上からの健康国民運動をめざす健康増進法は、戦時期の強健な身体づくりを連想させて批判も強い.。もしあなたが属している企業か学園で、上司か教師があなたの体重の管理目標を与えチェックしていくシステムがつくられたらあなたはゾッとしませんか。いま国家が国民全体を対象に、個人と身体という最も私的な人権の分野に介入を始めているのです。しかし政府による青年女性の健康体重の実現は完全に失敗している。その理由は前記したとおりの、女性の社会参加が揺れ動いて自分の身体にしか関心がいかない社会システムをつくり出しているところに根本の原因があります。厚労省は「一人一人の意識を変えたい」という表層的な対策を立てようとしていますが、個人のこころという内面にまで介入するというところに何の問題意識もありません。以上・日本経済新聞10月19日号参照。(2004/10/20 9:25)

[Karl Jaspers『Die Schuldfrage』Lambeert Shneider,Heidelberg,1946]
 国連児童基金(ユニセフ)「イラク教育実態調査報告」(10月15日発表)から。全国14000小学校対象。イラク戦争開始以降(2003年3月〜)
○爆弾被害校数  700校
○焼失学校数   200校
○略奪被害校数 3000校
○修繕必要校数 2700校
○水道供給校数 4200校
○トイレ設置校数 7000校
○二交代制授業 3500校
○校舎共有校数  600校
○小学校登録児童数 430万人(↑2000年 360万人) 男子240万人 女子190万人
○児童受入可能数 11368人
 中東で最も近代化した学校教育制度を誇ったイラクは、いまや430万人の登録児童のうち1万人強しか受け容れることができない惨状となっている。この責任は誰にあるのか。フセインかブッシュか。

 イラク戦争犯罪をカール・ヤスパース罪責論』に依拠して考察する。ヤスパースはすべての罪を4つに区分する。
@刑法的罪 立証可能な違法行為、審判者は裁判所(ナチス犯罪への直接的関与者)
A政治的罪 自然法と国際法違反の国家及びその公民 審判者は(戦勝国による)国際法廷(ナチス犯罪の支持者)
B道徳的罪 私個人のすべての行為 審判者は私の良心または愛情共同体(ナチス犯罪への消極的同調者)
C形而上罪 @〜Bの行為の後に尚生き残っている私の存在 審判者は神(ナチス犯罪への傍観者)
 *ドイツ敗戦後の1946年に書かれた本書は、ナチス戦争犯罪に対する徹底した苛烈な自己分析であり、国際裁判所における時代的の限界とキリスト教文明の独自性があるが、いま以て普遍的な意義を持っていると思う。特にB・Cは戦後日本思想が切り込めなかった致命的な弱点を突いていると思う。

 イラク戦争に関する米国の決定は、米国国内法にいかなる根拠を求めることもできない。国際法的には、国際連合が侵略判定を行うまでの暫定措置として反撃の攻撃を承認するが、米軍の行動のすべては国際法に違反している。国連憲章違反、先制攻撃の禁止、大量破壊兵器の不存在、独裁者といえでも軍事的転覆という主権侵害、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約違反、占領などなど。
 無辜の市民に対する無差別攻撃、子どもの虐殺、学校・教会への攻撃は人道上の罪に当たる。そしてすべての殺傷行為は生命への冒涜である。最も重要なことは、こうした戦争犯罪を傍観した米国と日本の市民(意識するか無意識かに関わらず)の道徳・形而上的な罪だ。イラクの無辜の民衆の死者が3万人を超えた後に、尚生き残ってそれを眺めている私たち自身の罪。ここにヤスパースの罪責論の本質がある。
 人類が緊急になすべきことは、国際連合による米多国籍軍の戦争犯罪認定と国連資格の保留措置、国際裁判所による裁判、戦争命令を発した最高司令官の逮捕による戦犯裁判である。同時にイラクからの多国籍軍撤退、国連緊急支援部隊の編成と人道支援である。
 以上の戦争犯罪の追求は、「反テロの新しい戦争」論によって免罪されない。新しい戦争論は侵略国の一方的な宣言であり、国際法上の認知を受けていない。それは無法地帯を徘徊する強者の論理であり、19世紀に歴史的な命脈を閉じた正戦論の再版に過ぎない。(2004/10/16 8:53)

[対米開戦通告覚書にみる裏切られた「武士道」]
 太平洋戦争の対米開戦通告覚書の作成過程を示す機密文書が外務省から公開された(10月14日外務省『04年版外交史料館報』)。9種類在る文書の第1草稿は、山本熊一外務省アメリカ局長が手書きで作成し、修正を加えて1941年12月3日付の草案にまとめられた。ここでは「(米国に)一片の誠意(もみられず)、交渉打ち切りのやむなきに至れる。将来発生すべき一切の事態については合衆国政府に於いてその責めに任ずべき」と明確な開戦意図が明記されていたが、翌4日の大本営政府連絡会議で検討され、軍部との調整を経た5日に、この部分が削除され、単なる交渉打ち切りの通告となる曖昧な表現になった。開戦通告が8日真珠湾攻撃の後になったこと、及び国際法上の最後通告の要件を満たさない曖昧な文章は現代史の批判対象となっていた。以上・朝日新聞10月15日付け夕刊。
 最後通告前に奇襲したことといい、曖昧な開戦通告といい、当時の最高指導層の無能と矜持のなさは覆いがたいものがある。根底には、YES・Noをハッキリしない集団主義日本文化の残映がある。こうしたレベルの知性が指導した当時の日本の貧しさは、当然にして結末の悲劇を約束していたのだ。実に目を覆わしめる情けなさだ。しかしこうした精神構造はいま以て続いていないか。アレカコレカの場面で決断すべき主体が逡巡し、曖昧に推移させることによって結論が自然のうちに出ることを期待する行動形態。誰も責任をとらなくてもよい稟議的集団の惨めさは、決定的瞬間の決定的判断の局面で暴露される。これがいわゆる「武士道」の真相であり虚栄だ。特攻作戦を命令した司令官が真っ先に逃亡するような軍隊の背後には、開戦そのものの命令者が責任を逃れる最も卑劣な人物が君臨したことにある。丸山真男「日本軍国主義者の論理と心理」参照。(2004/10/15 20:55)

[13歳の少女は20数発の銃弾を撃ち込まれてこの世を去った]
 ガザ南端のラファで、イマーン・アルハムスさん(13)は朝6時頃昼食のサンドイッチを手に、母のフワイダさん(40)にキスして家を出た。数百b離れた学校へ歩いて向かう途中、イスラエル軍監視所の周囲300bの立入禁止区域に入り、監視所から70bのところに近づき、監視所に詰めていた兵士の誤射により銃撃されて倒れた。倒れた少女に司令官の大尉が近づき、頭と腹に1発づつ、さらに至近距離からライフルの弾倉が空になるまで銃撃を続けた。
 この事実が発覚したのは、イスラエル最大紙イデイオト・アハロノトに、兵士が「部隊司令官が少女にとどめを刺した」と告発したからだ。軍は誤射を認めつつ、少女の落ち度を指摘し、大尉を司令官から解任したが、大尉自身は告発内容を否定している。遺族の元へは軍から何の連絡もない。父親のサミールさん(50)は、「娘は戦士でも過激派でもない。イスラエルのシャロンにただ一言、『なぜなんだ』と問いたい」という。少女の遺体の側には、教科書の入ったリュックだけが残った。イスラエル軍の少女虐殺の第1次調査は「兵士を指揮する上で誤りがあったが、非道徳的な行為は発覚しなかった」と司令官を免罪した(10月15日発表)。いまやこども立ちが学校へ通うことは命がけであり、虐殺を覚悟しなければ通学できないのだ。少女の属した学校を運営する国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は「ほとんど毎日子どもたちの最も基本的な生きるという権利が侵害されている」とし、、イスラエルに対し学校への攻撃を中止するよう繰り返し求めている。

 9月28日にガザ地区への大規模侵攻を開始したイスラエル軍は、すでに128人のパレスチナ人を殺害した(10月15日現在)。米軍の全面支援を得て「テロとの戦い」を僭称するイスラエル侵略軍の本質が赤裸々に示されている(米国はイスラエルの軍事作戦の即時中止を求める27回目の安保理決議案に拒否権を行使して葬った)。『地獄の黙示録』で描かれた米侵略軍がベトナムの田園で無惨な虐殺をおこなう狂気の世界がイスラエル軍を蝕み、最低限のモラルが崩壊していることを示している。イマーンさんの葬儀で泣き崩れている親族の側につぶらな瞳をした少女が恐怖にみちた哀しみのまなざしをカメラに向けている。その瞳は写真に見入る私自身に助けを求めているかのようだ。
 イスラエル軍はなぜ無辜の子どもたちを虐殺するのか。それは自らの侵略行為が人道と神の教えに背くものであり、レジスタンスの恐怖に苛まされる。目の前にいる子どもたちが純粋であればあるほど、自分の良心は痛み逆に凶暴な攻撃に及ぶのだ。そこに成長した未来の抵抗運動をみるのだ。米国とイスラエルは最後の審判を地獄で飾るだろう。
 少女の死は激烈な戦闘状態にある占領地での悲劇的なエピソードとして語られるが、歴史にその固有名詞が残ることはないだろう。無差別の殺戮の応酬が滾りたつ復讐の怨念の連鎖の中で明日も繰り返されることを私は知っている。この諍いの原因の原理がイスラエルによる暴虐な侵略と占領にあるという歴史の真実は暴力に敗北してこれからも孤独な無力のうちに痕跡を残していくだろう。無数の若いパレスチナ青年の絶望的な自爆攻撃が繰り返されるだろう。

 世界のすべての正義と真実が自らの弱さに落涙しても少女のいのちがもどることはない。東アジアの安逸な国では、7人もの青年男女が自動車に練炭を仕込んで集団で自らのいのちを絶っている。30数歳の青年社長がサクセス・ベンチャーの儲けを少し使って、野球球団をつくるためにしのぎを削っている。もはや何の比較の指標もないままに、消したり消されたりするいのちが地上から姿を消していく。そして私の心配事は、明日のランチがおいしいかどうかだ。

 罪の意味はほんとうはとりかえしのつかない行為が決して許されないところにあるはずですが、はるかかなたで犯される罪は日常のよしなしごとの煩雑さに紛れ込んで、いつのまにか罪の意識がなくなり、同じ行為が反復されてももはや自分のことではなくなります。ひょっとしたら、人類は生きていく資格そのものをすでに失っているのではないか。うすうすと気づいているかすかな痛みを覚えつつ、分析と評価を加える高みに自分を置いて、もろともに地獄へとゆっくりとまっしぐらに進んでいるのではないか。ホロコーストの極限を体験した民族は、あたかも子犬を撃つかのように少女の身体に乱射してとどめを刺す神経の持ち主でもある。人間は天使にもなりうるし、悪魔にもなりうる高貴と汚濁の両極でさまよいながら、何処へと歩んでいこうとしているのでしょうか。朝日新聞10月14日付け夕刊参照。(2004/10/14 17:50)

[ジョン・オカダ『ノー・ノー・ボーイ』(晶文社)]
 ノー・ノー・ボーイという言葉をはじめて知った。日本の真珠湾攻撃を契機に在米日系人11万人が強制隔離収容され、日系人青年に米政府は忠誠検査で2つの質問をおこなった。この質問にNo!と答えた青年を指すのです。
 質問1:あなたは軍隊に入って合衆国のために戦うか
 質問2:あなたは天皇(日本)ではなく合衆国に忠誠を誓うか
 Yesと答えて志願した青年は勲章と栄誉を受け、日系人に名誉と誇りをもたらしたが、ノー・ノー・ボーイは非国民として蔑視され日系人にも白眼視されて深い亀裂と傷がもたらされたのです。ジョン・オカダはこの在米日系人をめぐる差別の連鎖を描いたこの作品1作を残して47歳で他界しました。残された遺作は誰にも相手にされず遺族によって焼却処分されました。この作品はデイアスポラについて幾つかのことを考えさせられます。
 まずアングロサクソンの根深い人種差別意識について。同じ敵性外人である在米ドイツ人・イタリア人は強制収容されなかった。日系人の基準を日本人の血を1/16以上引く者とする厳しい基準を定めた(ナチスはユダヤ人の基準を1/8の血を引く者とした)。強制立ち退きと財産の没収を伴う苛烈な方法を採った。志願した日系2世青年兵は442歩兵連隊でヨーロッパ戦線の最前線で死傷率28,5%(米軍平均死傷率5,8%)に達した。私は米国による原爆2発の投下も敵が有色人種であったからだと推測する。
 次に被差別集団の階層間で螺旋状の相互差別が生じると云うことです。日系人でありながら「ジャップ」と呼んで軽蔑する無惨な関係が誘発される。人種主義レイシズムはマジョリテイによるマイノリテイ迫害ですが、レイシャリズムはマイノリテイ間の人種差別です。黒人は日系人を「ジャップ」と蔑み、日系人と中国人は黒人を「無知な綿摘み」と罵り、白人は徹底的に黒人を差別し、中国人少女は白人少年とダンスする資格を手に入れて他のアジア人を見下げる。蔑みの感情が垂直的に入り組んだヒエラルヒーの体系としての差別があります。日系人が日本人の痕跡を残した日系人を憎むところはすさまじい。誰かを差別しなければ差別されている自分から抜け出せないという恐ろしい無間地獄への蜘蛛の糸。こうした差別を絶つ希望への道はあるのだろうか。この答えについて概念的に回答しても無力です。この作品はしかし尚も微かに響く鈴の音として希望なしに生きられない人間の呻きのようなもの伝えて終わります。ミヒ=ナタリー・ルモワンヌ氏の云う「いかなる時も自分の不安を他者に投影し、軽蔑の応酬に入らない」という言葉が重く響いてきます。
 さいごにこの作品の批評は在日朝鮮人の李考徳(イ・ヒョンドク)氏によっておこなわれています。デイアスポラの渦中にいる氏がこの作品に最も敏感に反応したのです。しかし私は、やはり日本人自身による在米日系人問題の解明がなされなければならないと思うのです。そこには垂直的な差別ヒエラルヒーの比較的上位にいる者の精神の貧困があるような気がするのです。以上・李考徳論文(『季刊 前夜』創刊号所収)参照。(04/10/13 8:37)

[ああ無情・・・・「髪を長く伸ばすことはわれわれ式ではない」(北朝鮮労働党機関紙『労働新聞』)]
 政府当局が住民生活を細微に渡って指導する北朝鮮政府の一コマ。「髪を短くすることは、革命を進める時代、軍事優先時代のわれわれの社会主義社会の本質に合致する。髪を短くすると見栄えがよい。覇気があるようにみえるその姿は、人々の爽快な気分を呼び起こす。髪を短くすると健康にもよい。髪を長くすると、体内の多くの栄養物質が髪に行き渡る」とする啓蒙記事が掲載されている。韓国MTVは、長さ1〜1.5cmの角刈りが青春頭・覇気頭と呼ばれているとする北朝鮮TV番組を紹介し、短髪推進国民運動が推進されていることを伝えている。
 どうも髪の長さを問題にすると、日本の新設学校で展開されている頭髪検査を想い起こす。「耳にかかるな、えりにかかるな」と称して生徒を集めて教師が検査をし、不合格だと最悪はバリカンで刈り上げたりしている。その教師の髪型は異常に長いという笑えぬ話だ。長髪の教師が生徒の短髪検査を笑って見過ごしている風景を、私はプレ・ファッシズム初期段階と定義しましたが、私を含めて教師集団は内面に葛藤を持ちつつも遂行しているのです。「形から入って形を出よ」とか衒学的で分けの分からん理念をベースにしつつ、教師は自分のクラスから長髪が出ないように必死で指導するのです。こうした集団心理は内部にいる者しか実感できない異常な雰囲気なのです。たまに批判する教師がいるとよってたかってハバにするのです。野球部員は全員丸刈りでないと公式戦に出場できないという内規が高野連にあったのはつい最近です。生徒の大半も厳しく指導する教師を歓迎し、リベラル派の教師を排斥するという信じられない共同感情が蔓延します。
 日本に長髪スタイルが現れたのは、ロックグループ・ビートルズの日本公演がきっかけではないかと思います。ビートルズが後楽園スタジアムを満員にしたときに、大人たちは不良グループが集まっていると眉をひそめました。実は私自身も、男子が女性のような長髪スタイルをすることに違和感を覚え、彼らは不良だと思っていました。それからビートルズの曲が日本の音楽教科書に載ったときに私は驚愕したのです。確かにあの頃の長髪スタイルは、世の中へのレジスタンスを表現する問題意識のあるファッションであったのです。ところがそれが青年に広く行き渡るに連れて、思想性は喪われ単なる風俗にしか過ぎなくなりました。ことほどさように、頭髪スタイルは世相を映すファッション文化ですが、それ以上でも以下でもないのです。権力が国民や民衆の頭髪について、アレコレの指示をおこない、正当なファッションをモデルとして示すのは、ファッシズムであることの証左であることを免れないでしょう。
 国家レベルでそれを展開する北朝鮮の社会構造の問題をこれほど露わに示していることはないでしょうが、はたしてそれを批判する資格が日本にあるのかどうかも問われています。ここでは宗教的教義に基づく頭髪ファッション(ブルカなど)については考察の対象に含めません。(2004/10/12 20:49)

[ガッサーン・カナファーニ「ガザからの手紙」(『季刊前夜』創刊号所収)]
 カナファーニは、1936年にパレスチナ北部アッカーに生まれ、12歳で難民となってダマスカスに移住し、その後ベイルートでジャーナリストとなって20歳で小説を書き始め、27歳でアラブ文学不朽の名作といわれる「太陽の男たち」を表し、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のスポークスマンとして活動中に自動車に仕掛けられた爆弾で36歳で爆殺された。「ガザからの手紙」は20歳の時にカリフォルニアへの移住を夢見ていた自分がなぜガザに踏みとどまったかを記した、すでに米国へ移住した親友への手紙という形をとっている。

 渡米の夢が実現し最後に入院している姪のナデイアを見舞いに訪れる。病室で悲しみに暮れる姪に「真っ赤なパンタロンをおみやげに買ってきたよ」というと、姪のナデイアは身を震わせる。以下次のように続く。

 ナデイアは雷に打たれたように身を震わせると静かにうなだれた。ぼくの手の上をナデイアの涙が伝わって落ちるのをぼくは感じた。

 ーねえ!ナデイア・・・赤いパンタロンはいやかい?

 ナデイアはぼくを見上げた。そして何かを言おうとした。が、そのまま、歯を食いしばった。ふたたびぼくは、遠くのほうから伝わってくるようなナデイアの声を聞いた。

 ーわたしのおじさん・・・

 ナデイアは手を伸ばすと、白いカバーを指で持ち上げてた。そして、大腿部から切断された脚を指さした。
 断じて、ぼくは断じて、ナデイアの大腿部から切断されたその脚を忘れはしないだろう。ナデイアの愛くるしい面をよぎった悲嘆の色を、ぼくは生涯忘れはしないだろう。ナデイアにやるつもりだった2ポンドの紙幣を苦々しい思いで握りしめて、その日ぼくは病院からガザの通りへ出た。陽は輝きながら、通りを血の色に染めていた・・・・。ガザはその時なにもかも真新しかった。ぼくは一度としてこのようなガザを目にしたことはなかった・・・・・。僕たちが住んでいたシュザイヤ地区の一画、そこに積まれた瓦礫の山には、意味があったのだ。(中略)・・・。家に向かいながら、ぼくはいま、自分が歩いている大通りが、サファドに到る長い長い道のりの、小さな出発点以外の何ものでもないように思われた。ガザにあるすべてが、大腿部から切断されたナデイアの脚の悲しみに震えていた。それは挑戦だった。いや、それ以上に、それは失われた脚を取り戻すにも似た何かだった。
 ぼくはガザの通りに出た。まばゆい陽光に充ちた通りへ。そして人に聞いて知った。ナデイアは、爆撃が鋭い爪先を彼らの家に突き立てたときに、幼い弟たちをかばって、その脚を失ったのだと。ナデイアは自分を救うことができたはずだ。逃げて、脚を失わずに済んだはずだ。しかしナデイアはそうしなかった。

 なぜ?

 (中略)・・・・
 ぼくは君のもとへは行かない・・・・きみこそがかえってくるのだ、ぼくたちのもとへ・・・大腿部から切断されたナデイアの脚から学ぶために、生とは何かを、ここに在ることの意味を・・・・。友よ、帰れ!、ぼくたちはみな、きみを待っている。(1956年 クウエイト)


 カナファーニはこうして米国行きを断念してガザに自ら留まることを選んで殺されました。その後に、現代アラブ文学を代表する作品群を残して。彼はなぜ緑したたるカリフォルニアへの移住を選ばなかったのでしょうか。愛する娘を傷つけられた復讐でしょうか。脚のない娘を残して自分の幸せを選ぶことへの慚愧の念でしょうか。無辜の民を殺し合う民衆のありかたを問い直すためにその現場に身を置いたのでしょうか。
 異郷はるか離れた私には、かれの心情をほんとうに理解することはできませんし、分かったかのような不遜な言い方もできません。ただしこうは云えます。私のくにのなかに、無数のナデイアがいて脚を失いそれを訴えることなく、ベッドに横たわることもなく、惨めな生を強いられている人たちがいる。それは学校で激しいイジメにあっている人か、会社で過労死している人か、ブルーテントで生活している人か、そしてなによりも日本のなかにあるガザに踏みとどまれないで横目でみている私とは何でしょうか。
 カナファーニは無惨に殺されましたが、かれの残したメッセージはまるで十字架の処刑を受けた人に似て鮮烈な声を世界にはなっています。わたしはどうして苛烈なホロコーストを体験したユダヤ民族が、虫けらのように人を扱う同じような行為をなし得るのかほんとうによく分からないのです。核兵器で武装した世界第4位の軍事力をあやつって、無辜の100万のパレスチナ人を追放し虐殺する行為の深層に何があるのでしょうか。ホロコーストの悲劇を理由に蛮行を免罪する世界帝国のまやかしの良心(『シンドラーのリスト』など)の深い共犯性を告発しなければなりません。ナデイアの脚が喪われたほんとうの原因を探り、ふたたびナデイアの脚が奪われないようにするには、いま日本の此処で何をすればいいのか考えなければなりません。
 そして最後に云いたいと思います。パレスチナの抵抗にこころを寄せ、さまざまの取り組みをしている専門家と言われる人たちにある贖罪の意識からくる人道支援の質です。パレスチナの悲しみへの直接的な支援は、その根底に共犯国家である日本の現実、いま・此処にある日本の悲しみへの告発へと転化することが私たちの責務ではないでしょうか。パレスチナの現場でイスラエルの軍事用ブルドーザーに立ち向かって轢殺される行為(レイチェル・コリー 23歳 米国人女性ボランテイア)は、崇高な悲劇性を体現しています。無条件に頭を垂れます。そしてなお帝国本土に踏みとどまって、大統領に蟷螂の斧を向けている人もいます。現地での直接支援の意味を認めつつ、なおカナファーニがガザに踏みとどまったように、帝国市民は自らの地でこそ地を這うような日常の抵抗を試みる選択に注目すべきではないでしょうか。私は、先進国の保障された安逸の日常を確保しながら、かの地の悲惨に連帯を送るスタイルにどうしても恥じらいがあるのです。(2004/10/12 9:26)

[ツキノワグマの来襲について]
 今年に入って18県合計70人の熊による被害が発生しています。日本には北海道に生息するヒグマが2000〜3000頭、ツキノワグマが1万頭前後生息し、四国・九州では絶滅に近い。ヒグマは体長2m以上で体重250kgでツキノワグマの2倍近い。
 老人ホームの自動扉を破って侵入したり、作業場で襲ったり、犬の散歩中に襲撃されて川へ転落死したり凶暴化しているのが特徴だ。人家近くに現れて柿の実を盗んだりお寺の下で隠れて居眠りする軽微なものもある。現在は捕獲して射殺するケースが多い。クマの大半は3歳以下の子クマだ。
 いったいなぜ熊が急に出没するようになったのだろうか。駆除したクマを解剖すると、冬眠に備える時期なのに胃には例年の3分の2しか食べ物が入っていない。ドングリなどクマのエサとなる実を付ける山の木がキクイムシに荒らされて枯れたり、被害が集中する北陸3県では夏の猛暑と台風の相次ぐ襲来で主食のブナとナラの実が不作で、冬眠に備えた食料採取に里山の柿とクリのエサを求めて来ている。特にブナの実は、蛋白質と脂肪が豊富ででんぷんを主体としたドングリよりも栄養があり、渋くて消化が悪いタンニンも含まれていない。ブナの凶作指数とクマ有害駆除数は密接な比例関係があり、ブナの実は大豊作の翌年に必ず大凶作が来る。クマの有害駆除数は8−9月にピークに達するが、ブナの木が食べられるのは10−11月でクマがその年のブナの生育をどうして予測できるのかはまだ解明されていない。クマ社会は年功序列のピラミッド型社会であり、食料は子グマに行き渡らない。1歳ぐらいで親から離れて自立する子クマは自力で食糧を確保しなければならない。子クマにしてみれば生存を確保する本能的行動なのだ。
 しかし根本的な原因は、20数年間政府の林業政策がスギばかりを植えて、クマのエサや住処となる落葉広葉樹を切ってきたところにあり、クマの生息圏が狭まったからだ。クマと人間の緩衝地帯となっていた里山の荒廃がクマをおびき寄せるようになった。
 山本茂行氏(富山市サファリパーク飼育課長)の分析をを紹介する。富山県でクマが出没した114地点は@89%が標高50−200mの低地A82%が県東部と西西部Bミズナラやブナ林が広がる山地はゼロという特徴を挙げ、気候変動によるエサ不足だけでは説明できないクマと人の境界帯が崩れたことにあるとする。高度成長期以降里山が放置され、暗い林や藪となってクマの生活域に転化し、境界区域が面から線へと、人家の裏藪が新たな境界線になった。その線も85−94年は標高200mを超えていたが、いまや100mになった。エサ不足は引き金ではあるがその前から境界線が下降した。里山の荒廃がある限りクマの駆除だけで解決はできない。ふたたび境界区域を再建する総合的な取り組みが必要だ。藪を刈り、植樹を行い、炭焼きを復活して生態系バランスを回復することが必要だ。クマの混迷は自然界が悲鳴を上げていることを象徴する。以上朝日新聞10月22日朝刊。
 人間への危険を回避しながら、熊との共生の道はあるだろうか。福井県では35頭捕獲し8頭を山へ返し、唐辛子スプレーをかけて制裁した上で山へ返す奥山放獣という方法を採る。軽井沢町のNPO・ピッキオは、24時間態勢で熊を追い払い、発信器を付けて保護活動をおこなって被害を防止している。単なる射殺ではない共存の多様な方法が開発されつつあるが、しかしクマは地球或いは日本の異変を告げている予言的な行動をとっているのではないか。地球温暖化を含む地球気候の変動を全身に受けて、人間に何ごとかを告げているのではないか。凶暴化して人間と戦う姿は、なにか宮崎アニメのタヌキを想い起こす。クマさんには奥山深く生きていただくように、人間の地球開発システムを再編することが、むしろ人間もクマもサステイナブルな生存を可能とするのではないだろうか。(2004/10/10 9:09)

[こどもを省みない世界に未来はあるかー国連児童基金(ユニセフ)報告から]
 国連児童基金(ユニセフ)が5歳未満の幼児の死亡に関する実態を発表した(8日)。
 
 幼児1000人当たり死亡数
 シエラレオネ  284人
 ニジェール    265人
 アンゴラ      260人
 アフガニスタン  257人
 日 本        5人
 先進国平均     7人 
 イラク 幼児死亡率毎年平均7,6%上昇(1990−02年) 国連加盟国で最悪(フセイン政権下の経済制裁と米軍攻撃による)

 曇らない目でこの数字を見てみましょう。自らは何の責任もない5歳未満の無辜の子どもたちが、虫けらのように地上から消えていきます。もはやこれ以上ここでは語りません。(2004/10/9 9:00)

[労基法・女性坑内労働規制見直にみる非人間的行政の行き着くところ]
 厚生労働省は、労基法で禁止されている女性の坑内労働、重量物取り扱い、危険有害(鉛、水銀)な労働の禁止を撤廃する論議にはいる(10月7日決定)。女性と母性保護の最後の牙城が撤廃され、残るは妊産婦の規制のみとなる。る。これらの規定は、一般的な人体保護以上に、子宮・卵巣など妊娠・出産機能に大きな影響を与えるとする医学的な見地から規定されている。すでに1997年の均等法改正に伴う労基法改正で、女性の時間外労働・深夜・休日労働の制限規定が撤廃され、女性の健康・月経不順・下腹部痛などの症状が激増している。いのちに対する政府の荒廃した認識水準がこれほど露わになった例はかってない。
 私が想起するのは、かっての戦時体制下の男性労働者の戦地派遣に伴う空洞化した工場への女子学生の勤労動員だ。空洞化した危険有害な現場へ外国人強制労働力や少年少女労働力の強制動員によって、日本の生命の再生産システムは崩壊した。少子高齢化社会に対応した労働力再編成に女性をいかに組み込むかという視点から構想されているような気がする。或いは9条改正後の国内労働力再編成かも知れない。労基法の女性保護規定撤廃は、憲法体系の改編と本質的に連動している。
 いま戦争と軍隊のをいま戦争と軍隊と女性の関係を正面から問いかける事態が起ころうとしている。世界で軍隊を持たない国がある一方で、強大な軍事帝国が戦後世界史上まれにみる非合法な戦争を全世界で展開している事態の裏には、完膚無きまでに徹底した社会的弱者への攻撃があるが、遂には生理的弱者への生存攻撃にまで拡大したのではないか。

 世界で軍隊を保有しない国は以下の通り。
 @太平洋・カリブ海・インド洋の島嶼国 キリバス、ナウル、パラオ、セントビンセント・グレナデイーン(多くが人口20万人以下)
 A欧州小規模国 アイスランド(人口29万人)、マルタ(39万人)、サンマリノ、モナコ、リヒテンシュタイン(いずれも10万人以下)
 B中米 コスタリカ(409万人)、パナマ(308万人)

 これらの国は必ずしも非軍事主義によってはいない。アイスランドはNATOに加盟し米兵1600人が駐留し、パラオ・ミクロネシアは軍事・外交権を米国が掌握してイラク派兵し、パナマは米軍侵攻によって廃軍し、コスタリカはともに準軍事組織を持つ。軍隊を持たない内実は複雑だが、女性を坑内労働させてよいとか危険有害な労働をさせてよいとかは皆無だ。なぜなら国際人権規約に背反するからだ。日本政府の常識を疑わせる労基法改正論議だ。(2004/10/9 8:25)

[業務請負企業の闇の実態ークリスタル系X社の社内極秘資料から]
 製造請負の超大手X社が8月に作成したマル秘「管理報告」から。

  (企業名)         (工場名)     (合計)   (同業他社)

 トヨタ自工北海道      本社工場             150
 キャノンプレシジョン 北和徳事業所(青森)  284    881
 松下電器産業     映像工場(栃木)     106    400
 日産自動車      横浜工場           4     80
 日立製作所      那珂事業所(茨城)    36    112
 セイコーエプソン    村井事業所(長野)    94     98
 トヨタ自動車      本社(愛知)          5    800
 ソニーイーエムシーエス  一宮テック(愛知)   2   1500
 鹿児島松下電子  電子部品事業部(鹿児島) 30     93
                 (総計)      13940  33388(単位人)

 資料にはX社が取引先から受け取る「売上高」(企業が請負会社に払う請負料)が記され、工場ごとの請負料の総計を労働者数で割ると労働者一人当たりの平均請負料が算出される。月26万円。労働者の手取り月収は18万ー22万円。請負会社は一人当たり月7万2千円〜3万9千円(15〜28%)をピンハネしている。請負労働者を「人件費ではなく、資材費・購買費と同じ外注費」(NEC)として物品費扱いする企業の本質が透けて見える。X社では14000人、他社合わせて4万7千人を請負労働者として全国370工場に送り込み、仮に平均一人5万円をピンハネしているとすると、月に23億5000万円が企業に転がり込んでいる。
 一宮テック(ソニーの液晶TV,デジカメなど)の日給は8300円、月収は20万円を切る。三菱電機名古屋製作所はX社495人、他社と合わせて695人が時給1100円で働くが、X社全体の労働者へ支払う時給は、1100〜1250円(社会保険料込み)であり、その最低額を受け取っていることになる。明らかに労基法の中間搾取の禁止が侵されている。なんとも日本はとんでもない洗練された奴隷制社会へ移行している。(2004/10/8 120:07)

[なかなかのエスプリがある!]
 朝日新聞夕刊漫画・しりあがり寿「地球防衛家のヒトビト」から。

 「オレオレサギが増えてるなあ・・・」
 「もしあのヒトのとこに電話がかかったら・・・」
 (トウルルル ガチャ)
 「はい もしもし」
 「あっ オレオレ」
 「は? どなたですか?」
 「オレだよ オレ 同盟国だよ」
 「はいっ お金ですか? 自衛隊ですか?」
 「お金ではすまんの 旗を見せよ!って云うんだ」(この最後は筆者追加しました)  TVからイチローが国民栄誉賞を辞退するという快挙のニュースが流れている。さすが!イチロー!! 気に入った!!! 小泉を2度にわたってコケにするとは見上げたものだ!!!! (2004/10/8 19:13)

[コリアン・デイアスポラの悲劇]
 ベルギー人・ミヒ=ナタリー・ルモワンヌ氏は、韓国でチョン・ミヒ、母が付けたキム・ピョル、アーテイストとしてのスター・キムの4つの名前を使い分けながら、ソウル市を拠点に多彩な創作活動を展開するアーテイストである。釜山で生まれた彼女は、2歳の時にあるベルギー人夫妻の養子としてベルギーに送られ、彼女は自らのルーツについて何も知ることなく、フランス語を母語として育った。
 いま世界に在日朝鮮人を含め約530万人のコリアン・デイスポラがいると云われ、そのうち約20万人が1960年代以来の韓国政府による養子縁組政策によって海外に行った韓国出身の養子である。
 韓国政府は、遺棄された子どもを養育するための児童福祉政策のコスト削減のために、国策として国際養子を奨励し、しかも相手国の韓国投資額に応じて養子割当枠を決めて非常に安価な価格で提供してきた。さらに国内養子縁組は実親の親権放棄が曖昧でトラブルが多いので、児童養護施設は引き取った子どもを孤児扱いにして、国際養子斡旋機関は血縁をファイルから消してトラブルを防止した。オランダだけは身元不明の子どもを養子として受け入れることを禁止して養子の出生記録は残るが、他の国は養子の個人情報は消去され子どもたちのルーツは失われる。アメリカでは黒人の子どもが白人家庭の養子になることを禁止して子どものアイデンテイテイを保つが、韓国の子どもたちは何の問題意識もないまま白人家庭に送られた。彼女はソウル・オリンピックで初めて韓国入りして映画撮影を行い、それを契機にして自分のルーツの探求に入った。以下はルモワンヌ氏の言葉から。

 「私たち韓国養子は、母国の高度経済成長をもたらした、いわば産業廃棄物なのです。韓国の養子は他に較べて安上がりで希望して6ヶ月以内にもらえる。親に捨てられて海外に売られ、帰郷すると移民としてふたたび拒否されるアイデンテイテイ・クライシスを味わう。オリエンタリストの慈善意識が強い義母から「あなたが生きているのは私のおかげよ。もし私が拾ってあげなかったら、あなたはあの韓国という穴蔵でキット死んでいたでしょう」等と云われ、深く自尊心が傷つき16歳で家を出て、アルバイトしながら学校へ通った。私は人にレッテルを貼られても言い返すのではなく、相手が何でそんな偏見にとらわれるのかじっと見極めることで苦境を乗り越えてきました。当時の私はなるべく同胞が来ると避けて生活しました。自分のアイデンテイテイが不安になるからです。私は必死にベルギー人に同化して受け容れてもらうようにしました。私はいま持って自分の父親が分からず、売春婦の娘ではないかと悩みました。探し当てた実母と初めて会うときに、いざ厚化粧の女性が現れたらどうしようと思いました。在日コリアンの場合は、日本名を名乗れば日本人として通る場面があり、通名が日本社会の隠れ蓑となりえますが、ベルギーでは隠しようもなく受け容れてもくれない。いま私はいかなる時も自分の不安を他者に投影し、軽蔑の応酬に入らないこと。そして常に相手を人間として尊重する感情を持ち続けたいと思っています」(2月に東京経済大学でのルモワンヌ氏の発言を筆者の責任で要約)

 1988年のソウル・オリンピック以来韓国の児童売買に国際的な批判が高まり、遂に韓国政府は1996年に国際養子制度を停止した。以上『季刊 前夜』創刊号を参照。恥ずかしいことにこの事実について私は何も知らず、彼女の講演で初めて知りました。無知は犯罪の共犯者であることをあらためて身に滲みて思いました。あの儒教的な家族主義的な伝統が強い韓国でなぜ国際養子制政策が96年まで続けられたのか、韓国ネイテイブが韓国出身養子を差別するいたたまれない仕組みがなぜあるのか、外発的な批判によってしか政策転換できないのはなぜか、大日本帝国による植民地支配がもたらした歪みの深さ、そして他ならない日本で同じような差別構造が隠然として再生産されている、こうした構造を赦し続けた日本人の精神構造はなにか、戦後日本民主主義を領導した丸山型近代化論の無知の陥穽がこんなところにもある等々つぎつぎと克服しなければならないテーマが浮かんでくる。それにしてもルモワンヌさんのまなざしと境地は見事なものだ。彼女は600人以上の養子の実親探しをおこない、創作活動をする多忙な毎日である。11月27・28日に再来日して東京経済大学で公演する。それにしても先記した徐京植氏といい、ルモワンヌさんといい、ある秀でた才能の持ち主はこうした自立に到るが、ごく普通の庶民である20万人の人生を思い浮かべると暗然とした気持ちになる。(2004/10/8 10:00)

[先進大国・日本の黄昏]
 モーゲンソー(「国際政治ー権力と平和」)の伝統的国力概念の要素は、地理・天然資源・工業力・軍備・人口・国民性・士気・外交の質・政府の質となっている。これを人口(国連と国立社会保障人口問題研究所推計)・国内総生産(労働生産性が長期収束すると仮定)・軍事力の3指標に合成した総合国力指数で2050年を展望するどうなるか。日本の総合国力は、現在で米国・EUの30−40%だが50年には15−20%に低下し、また中国の2/3である現在から8%に低落する。
 こうした伝統的な国力概念からみると日本の未来は悲観的だ。しかしハードな国力概念ではなく、サービス・情報・技術のソフトな国力概念で推定するとどうなるだろうか。総合研究開発機構(NIRA)の21世紀型総合国力概念では、@市民生活向上力(国民の福祉)A経済価値想像力(企業の付加価値)B国際社会対応力(国際貢献)の3能力を基本とし、この能力の基礎を人的資源・自然環境・技術・経済産業・政府・防衛・文化・社会の8分野に求め、指標化を試みた。
 指標化の素材は、@国際比較可能な既存の統計2千項目から88指標抽出し偏差値に換算し総合指標とする。経済価値創造力は技術輸出・科学技術雑誌掲載論文数など、国際社会対応力は対外対内直接投資総額・ODA総額から作成し、A定性的な要素(グローバルブランド力、政府の国際指導性など)は国内外シンクタンクへのアンケート調査によって把握する。以下続く。(2004/10/7 9:21)
 ジョセフ・ナイはハードpワーを強制力・買収力(モノ、資金力、経済・人口規模)、ソフトパワー(知識、文化、コミュニケーション)を魅了する力に分けて国際政治を考えたが、ここでは21世紀型ソフトパワーとして、人的資源の質、環境、先端技術力、バイタリテイ、情報力、ネットワーク力、モデル提示力、ルール形成力を考える。人的資源の質では、日本は基礎学力と労働意欲は高いが、高等教育と管理職の国際性は低く、モデル提示・ルール制定力ではブランド力は高いが政府の見識や国際指導性は低い。
 総合研究開発機構(NIRA)の9ヶ国調査では、日本がソフトパワーで上位3位以内に入った指標は次のようになっている。健康平均寿命、労働モチベーション、労働損失日数、グローバル化への態度、温暖化ガス排出量、家庭ゴミ排出量、ハイテク輸出、特許登録数、研究開発支出、R&D部門、科学技術者数、ノーベル賞受賞者数、グローバルブランド、科学技術論分数、固定資本形成、人工衛星登録数、日刊新聞、犯罪率、所得格差だ。

 こうした国力比較の問題性は、原理的にグローバリズムの時代に尚国益をやナショナリズムを基本に置くという限界がある。もはや国力の要素を競い合って順位を争うという発想自体が発想の貧困を示している。それを前提にしても分析の方法論に欠陥がある。各要素を並列的に併記しただけで内的連関と構造を明らかにしない。地球が直面している課題の解決能力という視点がなく、日本のみが生き残るという狭隘なものに堕している。現在にあって未来を代表するような思想と晉の力の探求が欠落しているからだ。イラクを含む全世界にハードパワーを駆使する一極帝国が、このシミュレーションでもトップにくるという摩訶不思議なことになる。(2004/10/9 17:00)

[巨人神話の崩壊]
 年間視聴率10年連続3冠王を誇ってきた日本TV放送網の王座がゆらいだ。三冠王とは、ゴールデンタイム(19−22時)・プライムタイム(19−23時)・全日(6−24時)の3時間帯の視聴率をすべて制する意味だが、日本TVの視聴率が9月下旬集計ですべてフジTVに抜かれた。その原因はドル箱巨人戦視聴率の激落にある。今期巨人戦視聴率は平均12,2%で記録を取り始めた1965年以降最低に陥落した。ゴールデンタイムの2時間を巨人戦に費やす方針の再検討が始まった。優勝を決める巨人ー中日戦の視聴率が9,8%に落ち込んでTV局は混乱状態になった。
 「巨人戦中継で1試合1億円の収入がある」と公言して1リーグ制を推進した堤西武オーナーは一敗地にまみれた。TBS系・北海道放送は巨人単独では視聴率が取れないので、7月19日の巨人ー中日戦と日ハムー西武戦の二元中継をおこない、15,5%の視聴率を上げた(瞬間最高視聴率は28,1% ちなみに巨人単独中継の平均は13,7%)。フジTV系・北海道文化放送も翌日から追随した。
 東京のキー局が試合のある系列局と提携して、巨人戦の全国ネットワーク放送で効率的にコスト削減し最大原理順を実現する従来型ビジネスモデルが崩壊してしまった。これから始まる来期の放映権料交渉で、王者の牙城を誇った巨人球団はついに追い詰められてしまった。かって1984年には28%を超える天文学的な視聴率を実現した巨人戦視聴率は、04年に12,2%まで凋落するという劇的な転落に到った(ビデオリサーチ 関東地区)。これはそのままナベツネ帝国の崩壊を意味し、戦後日本の反動文化を推進した読売新聞の崩壊に連動するだろう。(2004/10/7 8:32)

[人間を破壊する成果主義の破産ー富士通の危機は日本の危機を象徴する]
 仕事の成果を給与と昇進に反映する成果主義を先駆的に導入した富士通の実態が鋭く暴かれた(城繁幸『内側からみた富士通』)。富士通型成果主義は、目標管理制度という社員と直属上司(課長)が面談で半年ごとの仕事の目標を決め、目標の達成度に応じて段階評価を行い、賞与・昇給・昇進に反映させる。昇給は、減給でもあり賞与は最大で10倍、金額で300万円の格差を生む。この制度は1993年に導入され他社のモデルとなって、実力主義社会の到来と宣揚された。最初は誰しも「自分の力で未来が切り開かれる」と張り切ってスタートした。富士通では、社員が決めた目標と評価はさらに上の部長で構成する事業本部単位の「評価委員会」で最終調整される。この委員会には対象となる社員が半期ごとに設定した目標と評価が数値化された目標シートが配られるが、部長の誰もそのシートを調べる者はいない。年功序列で昇進してきた部長は部下の業務目標と労働を把握してはいないのだ。結局評価は、各部がそれぞれ何人分の悪い評価を引き取るかの減点枠の押し付け合いとなる。
 最も期待を寄せた若手社員から不満が広がり、匿名サイトをつくって制度批判と憎悪に満ちた書き込みを始めたり、社外秘情報を暴露したりするようになり、社員の心はじょじょに蝕まれていった。抑鬱状態の社員が増え、病欠と休職を繰り返し、実績評価に不満を持つ社員と直属上司との不信感が蔓延し、人間関係は冷え切っていった。2001年のITバブル崩壊で富士通は3800億円を超える赤字を計上し、翌年業界各社が業績を回復する中で、富士通のみが2年連続で1000億円を超える赤字を計上する結果となった。この会社には未来がないと決算をみて痛感し、業績の惨状の一因が成果主義にあるとする社員が次々と会社を去っていった。電機大手の新人離職率は10%前後だが富士通は20%を超え、しかも入社時の評価がトップクラスであった新人の10%が3年以内に退職している。モチベーションが衰弱した富士通のビジネス挑戦意欲は致命的に減退した。こうして富士通は、同業他社が業績を回復する中で1社だけ2年連続で1000億円の赤字を計上するという惨憺たる実態となった(2万5000名をリストラしたにもかかわらず)。城氏は本社人事部に所属してその裏をすべて見尽くした結果、富士通の未来に絶望して去った。逆にソニーやホンダは早くから年功色を薄めるにとどめ、トヨタは年功色を維持し、キャノンやシャープは日本型を残して業績を維持している。一方では04年4月から、松下電器、や日立製作、日産自動車が定期昇給を廃止して成果主義賃金を全面採用した。賃金と人事をめぐる激烈な闘争が展開されこの2−3年で帰趨が決するであろう。

 この3年間で上場企業270社の60%で社員の精神疾患が激増している(社会経済生産性本部メンタル・ヘルス研究所調査)。自分の評価に納得できないという回答が30%に達し、彼らは根強い被害者意識と疲労感、抑鬱感を訴える。成果主義を採用した企業の社員は元気がなく、特に選別が厳しい30歳代の精神的不安が顕著である(小田晉同研究所所長)。伝統的な日本型経営を貫くトヨタやキャノンの業績が堅調なのは、明らかにヒトを大事にする経営風土と無関係ではない。年功型経営を安易に否定し成果主義を機械的に採用して競争と選別を煽る手法は有効性がないことが明らかとなっている。日本で最も自殺者が多い企業はIBMであり、そこでは神経をすり減らす激烈な成果主義競争が展開されている。人間のいのちを奪いながら成長する企業とは一体何であろうか。

 日本能率協会調査(上場企業経営者対象 回答1100社 04年7−8月実施)によると、成果主義賃金を導入した民間企業は78,4%に上るが、いま「多少の手直しを検討」64,7%、「大幅な手直しを検討」6,4%と71,1%の企業が何らかの再検討を始めている。その理由は、導入の目的や利点の理解が進まず効果を挙げていないケースが最も多く、成果主義になじまない職種や部門があり、チームワークを個人評価に還元するのは難しいなどにある。
 驚いたことに愛知県は、来年度からの「愛知県行政改革大綱2005−2010年」策定に向けた中間とりまとめで成果主義導入を決めた。能力と実績を重視した人事管理に転換し、職務遂行能力と業績を反映した任用・給与制度の導入を推進し、職員の能力開発を進めるという。同時にNPOへの業務委託、任期付き採用、公社統廃合、、第3セクター見直し、指定管理者制度の導入、公立大学法人化、県立高校再編と地方行政の構造改革が目白押しだ。私が注目したいのは、県立学校教員への成果主義の導入だ。教育という最もハーモニーとコラボレーションが不可欠の職場に、ニンジンをぶら下げた排他的競争原理を持ち込むならば、職員室は陰湿な雰囲気が充ち満ちて教育機能は崩壊し、子どもたちが最大の犠牲者となる。教師であるならば、成果を個人に集約するシステムが教育の本質と矛盾することを知りすぎるほど心得ている。教室でみんな助け合って協力しようという呼びかけがいかに空しく響くかを知っている。子どもたちが教室で、自分のクラスの担任は罰点だと知って誰が信頼するだろうか。虚妄のパフォーマンスが荒れ狂い、教室は廃墟と化すであろう。富士通の現場をはるかに上回る地獄の修羅場となるだろう。

 さらに文科省は全国で実施している全国学力テストのデータを公表し競争原理を導入するという。これほど教育の原理と矛盾した方針はない。学習指導要領は学力のミニマムを規定しているのであって、むしろ創造的な個性あふれる教育を独自に志向せよと呼びかけておきながら、一方では画一的な学力基準で優劣を競わせるテストの公表を行うというのだから、その整合性を求めて全国の教師は目を白黒させるに違いない。全国学力テストそのものが日本の子どもの学力の全国的な特徴をつかむという趣旨であり、競争に用いるものではないという趣旨で導入されたのだから。最悪のパターンは、成果主義に踊る教師が競争に煽られて子どもたちを競争させるチキン・ゲームに一喜一憂することだ。学園はますます荒れるか、不信感が蔓延すし、もはや誰も信頼できない修羅場と化すであろう。一部の勝者が微笑み、挫折感を身に滲みて味わう多数が両極に分離し、日本社会そのものが互いにいがみ合う地獄の風景が現出するだろう。

 人間は本質的にニンジン競争を嫌悪する尊厳を誰しも持っている。相互承認行為の中で(ヘーゲル)こそ、個性は生き生きと発現し結果的に企業業績は伸びる。いわんや学校や家族という利潤とは原理的には背反する共同体に、他者を排斥する競争原理を持ち込むことは死刑に値する反人間的な行為だ。(2004/10/6 19:44)

[政府はまた自殺者を増やすのかーフリーター徴税強化政策]
 政府税制調査会は短期就労者への課税方法を見直す税制改革を提案した。サラリーマンの徴税は原則として給与から所得税(国税)と個人住民税(地方税)を勤務先の企業が代わって納付する源泉徴収(天引き制度)をとり脱税ゼロを誇ってきた。月給が8万7千円以上(社会保険料を除く)あれば、扶養家族数に応じた税額が源泉徴収され年末調整で本来の税額との差を精算する仕組みだ。給与所得者は年収が課税最低限(独身者で114万円)に達しなければ税金を払う必要がなく、いったん源泉徴収された税額はすべて年末調整で還付される。複数企業に就労し一定収入があるのに、1社当たりの月収が基準額に満たない人は、税務署に自ら確定申告しなければならないが、税務署の実態把握は難しい。また就労が不規則で年末調整を受けずに過払いで還付申告していない層もある。
 個人住民税は企業が1月1日時点で働いている人の前年給与を報告した上で、納税額を天引きする特別徴収が一般的であるが、しかし短期間のアルバイトは企業が報告せず課税しない場合もある。激増するフリーターなどの雇用流動化に対応した個人税制「改革」に向けて、フリーターの就労管理を厳格化し徴税しやすくすることをめざす。同時にフリーターの国民年金保険料未納の事例も増大し、税金と保険料の徴収効率化を指向する。

(給与所得者にかかる住民税給付手順)
 前年中・所得発生期間→本年1月1日・就労者調査基準日→本年1月31日・企業が市町村に給与支払報告書提出→本年5月31日・企業に市町村が税額通知→6月から翌年5月まで・給与から徴収した税金納入

 総務省は1月1日時点で働いていないフリーターについても前年給与の支払実績の報告を企業に義務づける方針だ。所得割の非課税限度額は扶養家族のいない独身の場合は年収100万円前後が多く、これ以下は税負担は生じないが、仮に基礎控除(33万円)と給与所得控除(最低65万円)などを除いた前年の課税所得が10万円なら、納税額は5000円(税率5%)となる。現行地方税法は終身雇用制度を前提に、短期雇用を想定しないので新たな環境づくりが必要だ。以上が政府税政策転換の概要である。

 よく分からない点も多々あるが、なにか哀しくなるような発想だ。自ら好んでフリーターをめざしている分けでもない社会的弱者から徹底的に絞り上げる手練手管を編み出す技術は素晴らしいものがある。社会全体の厚生を維持するための公正な負担として、納税の義務を否定するものではないが、徴税戦略の方向性が基本的に狂っているのではないか。同一労働同一賃金原則で雇用形態による賃金差別がないEU型フリーター制度ならば、フリーターに正規労働者との同一負担を求めるのは当然であろうが、日本のフリーターは劣悪な賃金と社会保障から排除された辺縁労働者である。政府はまず先に均等待遇原則を企業に強制し、その上で均等な納税負担を求めるべきではないか。こうした税制転換により国民購買力は飛躍的に高まり個人消費の上昇による景気回復が誘発されるにもかかわらず。さらには法人税の優遇税制を廃止し、所得税の累進制を高度化して富裕者からの公正な負担を求めるべきだろう。所得再分配の理念を放擲した江戸封建制の前近代的な納税思想(弱者は生かさぬように殺さぬように)がいま以て横行している。英国市民革命は人頭税を契機に起こり、フランス大革命も納税問題を直接の契機として起こった。日本で蓄積された怨念は遠からず納税一揆として爆発するのではないか。それにしても政府税調会長である石弘光氏は曲学阿世の徒だ。(2004/10/6 12:15)

[米国は明らかに第2次朝鮮戦争を見据えている]
 米国議会は4日「北朝鮮人権法」を可決した。北朝鮮住民(!)の人権向上、人道的支援、脱北者保護を目的に、「人権、民主主義、法治主義、市場経済の増進プログラムを進める民間非営利団体」への毎年2400万ドル(26億円)の支援を行うものだ。UN発足以降人権のユニバーサルな適用が国際法として承認されたが、他国の内政に介入する場合はあくまでUNの合意が条件となる。米国のユニラテラリズムは、「人権」の美名を利用しながら北朝鮮の孤立と崩壊をねらうソフトな侵略に他ならない。いままで中南米を中心として全世界で政府転覆活動を繰り広げてきた米国のどこに人権と民主主義を宣揚する資格があるだろうか。北朝鮮の現体制の評価を保留したうえで、私はこうした米国の卑劣且つ野蛮な間接侵略に深い憤りをいだく。おそらくソフトな形態でCIA要因をNGOに配置して謀略をともなう「支援」活動が展開されるだろう。
 米国政府の戦略は、1998年にイラク解放法を制定して侵略の条件をつくり、次いで2003年にイラク民主化法を制定して軍事占領を実現したシナリオの手法を再度踏襲しようとしている。第2次朝鮮戦争を想定したシナリオがすでに作成され、その第1段階としてこの北朝鮮法がつくられている(韓国民主労働党・権永吉議員のコメント参照)。
 イラクが大量破壊鋭気を持っていないという情報をCIA報告を無視して、ブッシュ政権は偽情報を流して国民意識を操作してヒトラー型侵略を遂行し悲惨な地獄絵をもたらしている。あおの知性のかけらもないアホで間抜けなブッシュなる人物がいま世界を席巻しているとすれば、世界史のこれ以上の不幸はない。拉致を含む北朝鮮政府の非道な反人権的行為は、国連又は国際司法裁判所又は国際刑事裁判所が国際法に依拠して裁くべきであって、朝鮮半島に星条旗を立てるために利用するべきではない。(2004/10/6 8:14)

[リベラリズムの再定義は可能か]
 9.11以降のアメリカ型自由の軍事的強制と小泉構造改革の自由化路線が巨大独占に進むのをみると、自由=リベラリズムの実態が自由の名による強制にあるのではないか、または強者による自由独占ではないかとの疑惑が拭いがたくなっている。また新自由主義批判の一部に、自由と公共を非親和的な対峙関係とみなす傾向があることではないか。こうして自由概念の再検討と「リベラリズムの再定義」が提起されてきた(『思想』9月号)。
 リベラリズムは、初期には国家王権からの市民的自由を意味し(〜からの自由)、その帰結が「個人と民間への公共部門の介入を排除する」古典的リベラリズム(アダム・スミス”レッセ・フェーレ”と神の見えざる手)を経て、現代の市場原理型ニュー・リベラリズムに到るアングロ・サクソン型自由主義の流れがある。その対極に自己実現としての自由(〜への自由)があり、むしろ本来の米国型リベラルの本旨は政府による再分配と福祉国家的政策(民主党)をさし、どちらかといえば左翼親和的な概念である。
 こうした欧米リベラリズムの二重性が腑分けされないで機械的に導入された日本では、自由が経済概念としてのみ流通し、多様な思想の共存を肯定する政治社会思想としてのリベラルがどこかへ吹っ飛んでしまうという奇妙な偏狭さが出現している。日の丸・君が代の権力的強制は、最後の自由の場である私的領域としてのこころ=内面に土足で介入し、最も私的な集団である家族に対しても家庭科という教科を通じての父権中心のあるべき家族像のイデオロギー的注入がおこなわれ、性教育に於ける純潔教育が強調されている。さらには憲法論議に於いて、「歴史、伝統、文化に根ざした我が国固有の価値」とか「日本人が元来有してきた道徳心など健全な常識」を前文に置き、「憲法という基本法が国民の行為規範として機能し、国民の精神(ものの考え方)に与える影響についても考慮する」として、リベラリズムに真っ向から挑戦する主張が公然と謳われるようになった(自民党憲法調査会プロジェクトチーム「論点整理」)。これが万世一系天皇制文化と教育勅語システムの現代的復活の抽象表現に他ならないとすればアナクロニズムも極まっている。ここには「自由」=放縦とみなす皮相な自由観しかなく、突き詰めれば自由そのものを嫌悪し排除する独裁とファッシズムの堕思想が流れている。私は経済的自由主義を公正原則に依拠して承認するが、政治社会思想としての自由主義もアナーキズムからコミュニズム、天皇主義まで含めてすべて共存を承認する。
 いま最も尊厳を冒されているのは、自由の名による真正リベラリズムの侵犯である。現代新自由主義は実は自由の本旨を裏切っている。(2004/10/5 20:52)

[史上最大の作戦ーアフリカ23ヶ国8千万人ポリオワクチン一斉接種]
 世界ポリオ絶滅計画(世界保健機関=WHO、国連児童基金=ユニセフ、ロータリインターナショナル、米疾病予防センターで構成)は、2005年でのポリオウイルス感染完全阻止、2008年のポリオ根絶宣言をめざして、サハラ以南のアフリカ諸国での2000年から01年の大規模接種活動で、ナイジェリアとニジェールを除く地域のポリオ発症を追放したが、2003年のナイジェリア接種活動停止(宗教上の理由)で12ヶ国で再発し、04年度にはアフリカで658人の子どもがポリオによるマヒ症状を示した。今回の一斉接種は、西、中部アフリカとスーダンを含めた23ヶ国の5歳未満のこども8千万人を対象とし、10月8日から12日の第1次接種に続いて、11月18日から第2次接種がおこなわれる。

 極貧途上国への公衆衛生事業は、米国の軍事行動主義の虚妄を浮かびかがらせる。テロ根絶は、本質的にポリオを誘発するような基礎条件の解決にしか道はないというこを示している。一発の劣化ウラン弾をポリオワクチンに切り替えるならば、米国は世界史でもっとも尊敬される国となり、もはや星条旗を撃つテロリストの存在基盤をなくすだろう。

 注)ポリオ(脊髄性小児マヒ)に対して免疫を付けるために経口接種する生ワクチンは、日本では乳幼児に6週間の間隔を置いて2回飲ませている。副作用は少ないが、生ワクチンが腸内で毒性を回復しポリオを発症する副反応ワクチン関連マヒ(VAPP)を超す場合がある。以上『知恵蔵』P1117参照。(2004/10/5 11:05)

[アンネ・フランクは無国籍のままこの世を去ったのか]
 アンネ・フランク(1929−45)の家族は、アンネ4歳の時にナチスドイツのユダヤ人迫害を逃れて13歳でドイツを離れて国籍を失い、オランダ・アムステルダムの隠れ家で生活し、密告によって44年にナチスに拘束され、アンネは1945年に強制収容所でチフスに罹り15歳で病死した。隠れ家での生活を綴った『アンネの日記』は60以上の言語に翻訳される世界的ベストセラーとなった。オランダTV(KPO)がオランダの偉人を讃える番組作成のなかで、19世紀の画家ゴッホやレンブラント、サッカーのクライフら200人の候補者リストに入り、TV局はアンネの国籍申請をしたが、オランダ法務省は「同情は覚えるが、法律は死後の付与を禁止している」として法律を理由にアンネ・フランクへの国籍付与を却下した。KROはリストから除外せず、アンネをあくまで「オランダの偉人」として候補者搭載を続けている。 
 アンネが無国籍のままこの世を去り、いま以て無国籍だとは知らなかった。ドイツは彼女の国籍を回復する措置を執らないのはなぜなのか。アンネ一家を密告した人物は戦後どうなったのか・・・等々頭に浮かんでくることがあるが、戦後60余年を経てナチスの犯罪を告発し、犠牲者の名誉回復の作業を続ける欧州の感覚に深い感慨が湧き起こってくる。国籍を空気のような存在として自覚しない日本人には、国境を越えて移動しさまよう体験がないから、こうした問題への想像力が貧しい。かって台湾・韓国併合によって、すべての台湾人と朝鮮人を日本国籍を強制した日本帝国は、敗戦後も1951年のサンフランシスコ条約まで日本国籍を強要した。しかし日本国籍所有者の権利は一切剥奪し、かっての強制動員や徴兵、戦場慰安婦への謝罪と賠償はおこなっていない。逆に日本名のまま死者を靖国神社に合祀して、撤去を迫る台湾・朝鮮人遺族の要請を拒否している。なんと日本は恥多き国ではないか。徐京植氏の呻きに近い告発から誰しも免れることはできない。
 民族や人種、宗教の差異を理由にする差別と迫害は、9.11を契機に急増している。米イスラム関係委員会(CAIR)が、実施したイスラム教徒イメージは次のような結果となった(6−7月実施 ハワイ、アラスカ州を除く48州1000人対象電話調査)。ムスレム(イスラム教徒)という言葉から受けるイメージは、暴力・テロなど否定的イメージ32%、好感を持つ2%である。否定的反応を示したのは、男性>白人>高卒以下>保守派>共和党支持者>南部在住者の順に多かった。米国には推計約600万ー700万人のムスリムが住んでいる。イラクの武装勢力の人質となったイタリア系4人のうち、イタリア国籍の女性2人は解放されたが、20年以上イタリアに住んでいたトルコ人とイラク人の2人はスパイとして処刑された。遺族は「イタリア政府は釈放のために何もしなかった。二流人質扱いされた」と抗議している。(2004/10/05 11:27)

[日本の平和勢力はいよいよ正念場に来たのかー「安保・防衛懇」報告書(4日)]
 「2001年9月11日、安保の21世紀が始まった」という書き出しで始まる報告書はいよいよ海外派兵を基本任務に据える自衛隊の大転換を画するものだ。日本の安保戦略の2大目標を従来の「日本防衛」に「国際安保環境改善」を加え、「同盟国である米国との適切な協力」を謳い、96年・日米安保共同声明のアジア太平洋地域の共同作戦から地球規模の作戦を展開する新共同宣言策定を提言している。
 「自衛」概念が、海外での在留邦人・多国籍企業・シーレーン防衛という「外側での脅威の防止」という海外権益防衛型先制攻撃戦略を主軸とする自衛概念に拡大した。自衛隊整備目標も「基盤的防衛力」構想から「多機能弾力的防衛」構想へ転化し、日本自衛隊は「日本」自衛から「惑星」自衛へと無差別攻撃戦力の質的な転換を図る。
 同時に戦争遂行の国内体制を構築する「国家総動員」システムの確立に向けた、国家緊急事態権による首相への権力集中、衛星・機密情報をを含む軍事情報能力、安保会議の最高機関化、自治体・民間防衛体制、産官学連携による軍事研究開発、集団的自衛権行使など国家総動員態勢のメニューが目白押しである。自治体と自主防衛組織による平時からの訓練参加は当然に学校教育に於ける訓練を含むであろう。さらに武器輸出三原則(輸出・共同開発)を「他国の軍事技術進歩から取り残される」として再検討するよう勧告している。戦時国家体制の完成に至るこの10年の流れをみると、いかにそのスピードが急ピッチであるかが分かる。

 1991年 4月 ペルシャ湾海上自衛隊派兵
 1992年 6月 PKO協力法
 1995年10月 沖縄米兵少女暴行事件
 1996年 4月 日米安保共同宣言(アジア太平洋地域へ対象拡大)
 1997年 9月 日米新ガイドライン(アジア太平洋での米軍作戦協力)
 1999年 5月 周辺事態法
 2000年10月 アーミテージ報告(日本へ集団的自衛権行使容認迫る)
 2001年10月 テロ特措法(米軍の対テロ戦争支援)
 2001年11月 海上自衛隊インド洋に派兵
 2001年12月 PKO協力法改正(PKF参加凍結解除)
 2002年 9月 ブッシュ政権「国家安全保障戦略」報告(先制攻撃戦略採用)
 2003年 3月 米英軍イラク戦争開始
 2003年 6月 武力攻撃事態法他有事関連3法
 2003年 7月 イラク特措法
 2003年11月 ブッシュ政権世界規模での米軍事態勢再編構想を同盟国と協議開始
 2004年 2月 陸上自衛隊本体イラク派兵
 2004年 4月 安保・防衛懇談会
 2004年 6月 イラク多国籍軍参加

 この流れとかっての戦争に至る流れを対比してみよう。
 1927年 東方会議(対中政策確定)
 1931年 満州事変
 1932年 満州国建国宣言
 1933年 国際連盟脱退
 1934年 ワシントン条約破棄通告
 1936年 ロンドン軍縮条約脱退
 1937年 日独伊防共協定日中戦争開始
 1938年 国家総動員法
 1939年 国民徴用令
 1940年 大政翼賛会
 1941年 太平洋戦争開始
 1945年 日本無条件降伏

 歴史的事象は異なるが戦争への推進過程は本質的に共通した論理がある。満州事変に突入する過程で、「満蒙生命線」による日本の海外権益と在外法人保護が叫ばれ、国際法と軍法を無視した海外派兵が展開し、最後の段階にいたって軍人以外の一般民衆の戦時動員体制がつくられて、その3年後に本格的な全面戦争に突入している。現在も同じように軍隊の派兵が日米同盟という超国際法で部分的に推進され、それを踏まえて戦時国内体制の構築が推進されている。軍隊が海外で活動し、国内生活では戦争が実感され、しかし不況下で徐々に安逸のファッシズムが蔓延し、バンドワゴン効果によって最後には取り返しのつかない悲劇が誘発された。
 客観的にはまったなしの危うい極限の事態をいままさに迎えていることがうかがわれる。ではもはや戦争への道は不可避で絶望的な状況にあるのだろうか。ここで私は2つのことに触れたいと思う。第1は国際的な条件が基本的に異なっている。アジア諸国の侵略戦争体験が強固に残り、日本の再軍事化に対して強力な批判を持っていることだ。安保常任理事国参入に対する強烈な批判は、日本の軍事路線がアジアでまったく孤立していることを如実に示している。一方日本経済とアジア経済が有機的に結合し、日本の21世紀がアジア経済共同圏にしかない構造がますます進む。第2に日本国内にまだまだ一定の平和勢力がある。その強力な武器としての憲法9条が満身創痍の中で生き残っている。
 だからよく考えると、日本の未来の唯一の現実的な可能性は、アジアとの平和共存による東アジア経済共同体の構築にしかないことが分かる(かっての大東亜共栄圏の再版では困るが)。米国経済が破綻に直面しているからこそ軍事戦略に偏倚せざるを得ない実相を見抜くならば、日米同盟路線に未来はないことも分かる。
 歴史の実相と国民の意識は必ずしも一致しない。大不況下で呻吟する民衆意識が、メデイア戦略によって大国主義に転化し冒険主義的な海外侵略にはけ口を求める心情が醸成される可能性もある。かっての満州・王道楽土論はこのような意識をベースにした虚妄の夢であったにもかかわらず、多くの国民が故郷を捨てた。いま地を腹ばうようなシジフォスの神話に等しい日常のメッセージ活動が帰趨を決するだろう。2000万人のアジア人と300万人の日本人を犠牲にしたかっての戦争の悲惨が繰り返されないために、いよいよ日本の平和勢力がマジョリテイに転化するかどうか際どい地点にいる。(2004/10/5 10:08)

[山田洋次監督のまなざし]
 『たそがれ清兵衛』から『隠し剣 鬼の爪』にいたる藤沢周平の世界を描いて、時代に翻弄されながらも必死に生きる若者の姿が現代に投影されます。山田氏のような豊かでヒューマンな感性が日本の映画界に存在していること自体が驚異です。ニンジンぶら下げて競争を煽りたてる為政者の頽廃に立ち向かおうとする無名のピューピルへのまっとうな応援歌ではないでしょうか。以下は氏の若者への想いの一端です。

 「今の若者たちは、大人がつくったさまざまの仕組みのなかで、のたうちまわるようにして生きている。それでいて無責任とか、遊んでばかりいるとか、文句だけが言われる。キレそうな思いを抱えながらがまんして生きているとおもいますよ。この国は彼らの着地点を用意しないんだから。自分の個性に合わせた仕事を選べるシステムというものをつくらなきゃあいけないのに。年配者だって、粗大ゴミみたいに扱われてしまう。この国は、国をあげてどこが悪いのか一生懸命考えなきゃいけないんじゃないですか。そんなことを時々想いますね。・・・・(東北弁の田舎の風土について)それぞれの地方に方言を含めた固有の文化があるんだけれど、それが失われてしまったな、という思いが集約されているんですね。方言のよさというのは、その地方の暮らしのよさでもある。四季の移り変わり、日々の明け暮れ、暮らしのありかた・・・・」(30日公開をひかえたインタビューから)

 私はフトかってみた『男はつらいよ』(第何作だったか)で、田舎道を放浪する寅さんが夕暮れの帳が降りて灯がともった田舎屋をみて云ったセリフが今でも脳裏に残っています。それは次のような言葉ではなかったかと思います。
 「日が暮れて農家に明かりが灯り、庭にはりんどうの花々が咲き乱れているんだ。部屋では家族みんなが集まって仲良く談笑しながら夕食をともにいただいている。田舎のなんでもない風景だが、人間のほんとうの幸せってこんなところにあるんじゃないかとふと思うんだ。月が煌々と田畑を照らすなかで子どもたちが眠りに就く側で、母親がなにか父親に話しかけて夜なべ仕事を終えようとしている。俺はこういう風景を見るといつも泣けてくるような気持ちになるんだ

 私の胸にもなにか温かいものがながれ、人間はそれでも信頼するに値するもんだという勇気をもらったような気がして、明日からも歩きだそうと思いました。地上のすみずみまで山田氏のようなこころが流れていくならば、この世はまだまだ捨てたもんじゃあないと思い直すことができたのです。なにかささくれだった騒がしさが勢いを得ていくような世にあって、山田氏のようなまなざしは灰のなかにひかるダイヤのようでもあります。わたしも自分がになう仕事の分野で、こうした灯をともしつづけたいと願いながら、幾星霜が過ぎ去っていきましたが、なお残り時間はまだまだじゅうぶんなものがあります。(2004/910/4 8:28)

[批判の鋭さと課題提起型言説の陥穽]
 日本の現状に対する危機認識から創刊された『前夜』の批判スタイルは、果たして時代変革の実体的な規定のちからを持つであろうか。知識で武装された批判の鋭さが「批判」の水準にとどまり、打開の展望を課題にとどめて実践部隊に委ね、また後からそれを評論するという悪しき日本型知識人の伝統を踏襲しているとすれば、告発型スタイルの「孤高」に終わる。なぜそうなるのかを問えば、自らの拠って立つ場においてのリアルな課題と対峙する生活上の逼迫した構造がないからだ。まず彼らの鋭い批判をみてみよう。

 (徐京植氏の言説から)
 ・無自覚のうちに憲法を消費し、享受してきた日本国中心部の「国民」は憲法を自らの手で勝ち取ったわけでもなく、日々その憲法の理念を実現して分けでもない、そのためにいま憲法が崩されようとしている時に「国民」たちはその危機を自覚し得ないでいる。
 ・人権とは自国民にだけ保障された特権ではなく、無条件に保障されるべき普遍的価値であることを根本的に理解していないのではないか。それが日本国「国民」に対して私が恐怖を抱く大きな理由なのです。・・・・基本的人権という普遍的理念を特権としてしか解釈できない中心部日本国民の意識が形成されたのです。
 ・3000万人といわれるアジア人を戦争の犠牲者にいた上で、中国人や朝鮮人やアジア人が死んだからこそ、彼らが殺されたからこそ、日本国民に民主的憲法が押しつけられ、中心部日本国民は戦後民主主義を享受したのです。・・・・私たち在日朝鮮人と沖縄の皆さんは、中心的日本国民を目覚めさせる歴史的責任がある。

 以上の徐氏の言説に対して、新城郁夫氏(沖縄在住 文学評論)のリプライはほとんど土下座に等しい「連帯」の表明であり、周辺部革命論によるアナーキーな暴力を許容するかの言辞を展開している。両者に共通しているのは、歴史の根元的な規定力としての無名のピューピルに対する焦りと突き詰めれば不信の表明に他ならない。徐氏の日本帝国支配と戦後日本の虚妄に対する批判を受けとめた上で、なお私は問いたい。歴史的過程の実相は支配的権力過程の表れであって、批判の刃は支配のメカニズムを解明しきった上で、操作されたピューピルの主体分析に向かうという手法をとらなければならないのではないか。埋め込まれた学習効果によって派生するピューピルの負の側面を主要な敵として批判する方法は、支配と被支配の実体的な矛盾関係から目をそらせ、結果的に支配の側を利することになる。徐氏は、日本帝国のもとで生きたピューピルの負の側面とともに、同時にそれを告発していのちを散らした少なくない人々の意味を消し去る客観的効果を持つ。徐氏の言説に決定的に欠落しているのは、ある現象的な事実に対する歴史内在的な対抗関係の視点である。
 徐氏が自らの属する祖国の展望を語らないのはなぜか。もはや先進帝国の一員に参入せんとしている祖国は、ベトナム戦争に於ける猛虎軍団からイラク戦争派兵に到る侵略の片棒を担ぎつつある。国家保安法によって全人生を牢獄で終えようとしている同胞が放置されている。鋭い日本批判がなぜ自らの祖国に対する批判へと連動しないのか。私が在日朝鮮人であるならば、自らの運命を強制的に規定した日本帝国とその戦後に対する鋭い批判を発しつつも、抑圧国ピューピルに対する批判の限界をわきまえる矜持を保つだろう。何よりも玄界灘の向こうにある祖国の未来戦略に責任を持ちたいと希求するだろう。ある高みから支配ー被支配抜きにピューピルの負を究明する左翼エリート的な発想は、裏返しになったポピュリズムであり、最後には屈折したニヒリズムに転落していく危うさを感じる。彼らは批判と課題は語るが、遂にして実践的な戦略構想を提起する責任は負わないのである。最後に徐氏に忠告する。抑圧者の被抑圧者に対する態度は、冷笑と媚びのふたつがある。たちが悪いのは、いかにも抑圧責任を自覚したかのスタイルで媚びる態度だ(新城郁夫氏)。真の友人が誰であるか、賢明なあなたはお分かりであろう。あらゆる誤りを超えて手をつなごうとした反植民地朝鮮ピューピルと反戦日本のピューピルが存在した歴史的事実は、連綿として今も流れている(中野重治「雨の降る品川駅」、槙村浩「間島パルチザンの歌」)。

 (高橋哲哉氏の言説から)
 ・私は日本の地金というものの存在を強く感じる。・・・国民の大部分が改憲ムードの雰囲気に流されて、改憲支持をしていく可能性はかなり高いと思うのです。
 ・国民が日本国憲法を歓迎したという、その歓迎の質が改めて問われなければならない。はっきり言って憲法も教基法も、日本の国民・人民がみずから獲得したものではなかった。敗戦の結果もたらされたものだったいう弱点を、戦後日本の護憲運動・平和運動ははたしてどこまで克服できたのかと自らに問いかけたいのです。
 ・抵抗できる主体は、最後はやはり「個人」でしょうね。
 ・この国の主権者たちの多くが世界の重要問題に対して思考を停止しているとしか言いようがない。自分たちの利害に直接関わって来ない限りは世界で何があってもほんとうは関心がない
 ・生活保守主義が、楽しければいいじゃないか、という安楽への全体主義になってしまった
 ・日本人が敗戦によって一夜にして民主主義者や平和主義者になれたと考えるのは虫がよすぎるという気もします。

 高橋氏の批判も実に鋭く私も多々共感するところがある。しかし批判はついにして徐氏と同じく、ピューピルの無知蒙昧に向かう。なぜか。彼らに生活者の感覚と視点が欠落しているからである。ピューピルは、崇高なまでの美しい行為をなしうるし、同時におぞましく醜い行為を平気で為しうる錯綜した存在なのである。ピューピルが日常を刻む過程は功利でもあるし理念でもある重層的な構造を持っているから、高みからの外在的な批判は届かないのだ。同じ生活者のレベルでともに視点を共有する作業をどのように遂行するかが問われるのだ。知識で武装した者の仕事は、支配と操作のメカニズムをあばきあげて赤裸々に提示するところにある。歴史を後知恵で回顧して批判を加えても有効性はない。その時点でのピューピルの意識がなぜそうなったかのメカニズムを解明し、学習するのが後に生まれた者の務めである。さらに残念ながら御二人とも、抵抗の最後の拠点を「個人」に置く。あれこれの個人的抵抗を試みた個人を形象しながら、客観的には敗北に誘導する「沈黙の共謀」に加担している。お二人の限界は、ピューピルの権力を展望する組織論が欠落している。教員組合が日の丸・君が代を拒否する教師を支援しない基底には、実は錯綜した矛盾の構造があるのではないか。この深部の矛盾に鋭く切り込んでマジョリテイーに転化する地を腹ばうような作業の論理こそ、リアルに歴史を動かす動因力になるのではないか。
 矛盾の深底に迫る冷酷非情なリアリズムと、なおかつ単純素朴な怒りの発露がマッチして、ピューピルは変革への道を選択する。お二人のピューピル批判のスタイルには、自己自身が他ならぬピューピルの一員であるという1次的な意識がない(のか捨てたのか)。御二人はあたかも神の如く、自らの歴史内在的な戦後責任はないかのようだ。以上は『前夜』(影書房)創刊号を読んでの率直且つ偽りなきコメント。(2004/10/3 10:17)

[中日ドランゴンズの優勝は、内発型発展論の勝利だ]
 地域の発展戦略は、莫大な予算を投じてインフラを整備し外部から企業を誘致する誘致外来型開発と地域にある自然や伝統的な資源を新たに発展させる内発型発展論の2つが鋭く対立してきました。高度成長期からバブル期は誘致外来型開発が全盛を極め、日本各地にコンビナートや工業団地と大規模リゾートが林立しましたが、90年代以降のバブル崩壊と生産の海外移転に伴い惨憺たる空洞化が生じ、一部を除いて失敗に帰しました。都市部の地域も、大型ショッピングセンターの誘致による活性化をめざした結果、地域の商店街は疲弊しシャッター通りと呼ばれる街が出現しています。大型店は採算が悪いとさっさと撤退するのでここにも空洞化が出現します。いま地域は、かって打ち捨ててきた自然と地域産業の内在的な資源に依拠して付加価値を求める内発型発展を求めて苦闘しています。

 私は中日ドラゴンズの優勝は、地域の内発型発展の優位性を証明する象徴的なケースではないかと思います。落合監督が、莫大な資金を投じて外部から強力な選手を補強する戦略ではなく、現有勢力で出発し各選手の内在する力を10%伸ばすことによって優勝することができると高らかに宣言した時に、実は私を含めて多くの人が信じませんでした。一方巨人球団は多額の誘致費を投入し、各チームの看板選手をかき集め史上最強の補強を行い圧倒的な戦力でシーズンに突入しました。結果は皆さん御存じの通りです。
 ここには日本の地域や経済と外交を含めた国家戦略を考える無限の学習資料があるように思います。
 1)内在的な力に依拠しない発展はないという根本的な問題です。個々の個人の優れた力を算術的に合計しても、集団全体の総和力とはならないと云うことを示しています。巨人の選手の個々のデータは優れたものですが、チームの勝利を生み出す総和力は弱かったのです。企業で云えば、中高年を次々とリストラし即戦力を採用して若年社員を採用しないという労働力政策は、企業内部の集団としての成長力を育てないということになります。落合監督は唯1人もクビにしていません。
 2)選手の水平的なネットワーク戦略です。落合監督は、1軍と2軍の壁を取っ払い、ただ選手のスキルのみによって出場機会を与える流動化するチーム経営をおこないました。すべての選手の内発的な成長力を信じ、選手の成長インセンテイブを極大化する戦略を採用しました。こうして個々の選手の個性的な能力が開花し、その個性が有機的に結合して集団としては最大効果を挙げることに成功しました。オーケストラで云えば、各パートがフルに自分の能力を発揮しつつ、全体として最高のハーモニーが流れるということと同じです。
 3)権力におもねる権威主義的なコントロールではなく、主体者はあくまで選手にあるとする指導スタイルです。決定的瞬間での決定的判断を選手に委ね、失敗を非難するのではなく失敗から学習する指導は、かえって責任を自覚する選手の内発的なインセンテイブを生み出しました。コーチが選手を叩いたり威圧する権威主義的な恐怖による支配を排除し、選手の主体性を最大限に尊重しました。集団スポーツでは、指導と被指導の方法論は非常にむつかしく、指導者は冷酷非情に徹することも求められますが(川上哲治型)、落合監督はひとつの答えを示したような気がします。
 4)徹底して選手サイドに立っていることを身を以て示しました。プロ野球選手会のストライキ前夜に、落合監督は井端選手会長を呼び、「徹底して闘え、遠慮するな。野球の将来が懸かっているのだから、優勝や日本シリーズが無くなってもいいから闘え」とアドバイスしたそうです。さらにコミッショナー会議がストで流れた試合の再試合を検討していることに、「選手会を馬鹿にするな」と心から憤りの声を発しました。会社で云えば、社員と経営者の間にある中間管理職が、経営者の間違いを毅然と糾弾する立場に立ったと云うことです。会社生活を経験した人は、こうした振る舞いがどんなに危険で勇気が要ることかはお分かりでしょう。他方の巨人軍渡辺オーナーは、選手の切実な声に「たかが選手が何を言うか、無礼だ」と罵倒したのです。

 いま日本では、企業が争って成果主義賃金で社員を競わせ、社員は戦々恐々としながらサービス残業に励んでいます。業績を伸ばしているのは、国内でリストラし海外生産する一部の製造業のみで、日本経済全体は空前の失業率で不況に喘いでいます。国は太平洋の向こうにある巨大帝国に媚びへつらって、少女が強姦されヘリが墜落しても抗議しないという態度です。日本全体がモデルを外部に求め、誘致外来型の国家経営を展開して袋小路におちいっている中で、中日の優勝は無限の教訓を投げかけているような気がします。落合監督は知ってか知らずか、身を以て日本の現状を打開するもう一つの道を示したのではないでしょうか。しかし落合戦略を神のように礼賛することはまた落合氏を落胆させるでしょう。落合氏の勝利から学習しつつ、新たなモデルは私たち自身が自分の頭で創り出していくのですから。(2004/10/3 6:07)

[アメリカ・ユニラテラリズムの末路ーロシアの京都議定書批准をひかえて]
 先進国・地域の二酸化炭素など温暖化ガスの排出削減を義務づける京都議定書は、1997年の地球温暖化防止条約締結国会議(京都)で採択され、発効には55ヶ国以上が批准した上で、批准した先進国の排出量(1990年実績)の合計が先進国全体の55%以上になることが条件となっている。日本は02年に批准し現時点で125ヶ国・地域が批准し、先進国全体の排出量の44%に達したが、2001年に世界最大の排出量を誇る(!)米国が離脱して発効が危ぶまれ。ところが排出量17%を占めるロシアが批准を決定し、ついに55%を超えて61%に達すしることとなり、議定書の発効が実現する条件は整った。ロシアの批准は、ロシア産天然ガスの価格とロシアのWTO加盟というEUとの政治的妥協のがあるが議定書が発効すると、第1約束期間(2008年ー2012年)の間に温暖化化ガスを先進国全体で90年比5、2%以上削減することになり、各国ごとの目標も決められている(日本6%、EU8%、ロシア0%、米国7%など)。2012年までに目標未達成の場合は、超過量の1,3倍にあたる量の削減義務を第2約束期間(未定)に持ち込む罰則が課せられる(法的拘束力はない)。京都議定書の抜け穴は、削減目標に余裕がある国が目標達成が難しい国に、その余裕分を売却できる仕組み(排出量取引)であり、これはロシアの余裕分を米国が買い取ることを狙いとしたが米国の離脱で無意味となった。
 ただしこの目標を達成したとしても地球温暖化自体を食い止めることにはならない。なぜなら中国が議定書を批准しているが削減目標のない途上国扱いとなり国際規制を受けない点とともに、世界最大の排出国である米国が議定書から離脱していままで通り排出を続けるからだ(自主的に規制するとは云うが)。しかもこの目標値自身が、国連報告の現状レベルで2酸化炭素濃度を推移させるには排出量50−70%削減が必要とする目標にほど遠い。
 日本は米・中・露に次ぐ世界第4位の排出国である。日本は排出実績が90年比で7,6%増加しており合計13%以上の削減が義務づけられる。日本の温暖化対策は個人や家庭の努力を呼びかけているが、鍵は排出量の80%を占める企業・公共部門だ。日本政府は産業界の自主的取り組みに委ねているが、EU型の産官協定制度を導入して規制をかける必要がある。日本企業の排出削減義務と環境税をめぐる排出権獲得競争の負荷は避けられないことになる。03年度の原発運転停止による火力発電で2酸化炭素排出量は18%増大している(前年度比)。電力、鉄鋼などのエネルギー多消費型産業の競争力は多きな打撃を受ける。鉄鋼業界の排出量は1億8千万トンで業種別合計の30%強を占める。液晶パネルの国内生産(三重県・亀山工場)を強化したシャープの03年度2酸化炭素排出量は66万トンで前年度比8,6%増加し、電気電子関連業界の2酸化炭素排出量は、02年度に90年度比28,5%増加している。企業の戦略は、途上国の排出量削減プロジェクトに協力する「クリーン開発メカニズム(CDM)による排出権獲得にある。2酸化炭素の排出権は、現在1トン=5ドル前後であり、議定書の発効によって値上がりする前に先取りする競争が激化する。温暖化ガス排出削減に向けた企業の取り組み事例を挙げる。

 ソニー 鹿児島の半導体工場に40億円を投下した高効率空調システム導入
 大王製紙 木くずなどのバイオマス(量的生物資源)を燃料とするボイラー導入
 花王 国内全工場にコージェネレーション(熱電供給)設備導入
 リコー トナーの生産設備を多品種少量生産に転換し消費電力削減
 コニカミノルタ 社内で2酸化炭素排出権の仮装取引を開始、事業会社間で競争を促進する
 西友 エネルギー使用量に応じて課税する社内環境税を試験導入
 佐川急便・JR貨物 電車型特急コンテナ貨物列車を共同開発、物流の鉄道シフトを促進する

 住友商事は排出権獲得の登録を世界で初めて国連におこなった(温暖化防止に関する国連理事会 9月ボン)。同社がフロン削減事業をインドで実施し、年間500万トンの排出権を獲得し、現在の市場価格で売却すれば年2000万ドルの利益を挙げる。EUでは来年1月から域内大企業13000社へ政府が企業ごとの排出枠を割り当て、割当枠を下回ると罰則金が科せられさらに排出権購入の義務が課せられる。この規制によって今年度1億5千万トンの排出権取引が欧州市場でおこなわれる。
 議定書発効によって日本の排出量削減は2008−12年で14%となり、現行の削減措置での達成は不可能だ。日本政策投資銀行は、排出権獲得をめざす企業からの出資を募る新たな環境ファンドを設定する。企業からの資金を政策投資銀行が海外での排出削減事業に投資し、企業は配当金の代わりに排出権を受け取る。自社で削減事業を展開できない企業が小額の投資で排出権を獲得できる制度だ。
 さらに排出権会計制度が企業会計基準委員会によって整備され、企業が得た排出権は無形固定資産や棚卸し資産として認められ、排出権を自社の削減量として償却したり転売した際の費用や利益として計上できるようになる。日本政府が承認した排出権削減の海外事業はすでに12件に上っている。

 このように批准先進国の企業は、環境をクリアーする社会的責任経営を一定程度展開しつつある。これを高みからせせら笑って、2酸化炭素を巻き散らしながら、生産に励む米国企業の醜い姿を見よ。彼らは一時的には市場を制覇するかも知れないが、ステークホルダーの投資は彼らを見捨てるだろう。それほど世界は甘くない。地球温暖化は、21世紀末で平均地上気温が1,4度から5,8度の幅で上昇し、洪水、熱波、干ばつ、海面上昇や食糧危機など不可逆的な影響が予測される。日本でも真夏日(最高気温30度以上)が今の3倍になると予測される。環境を優先しない企業と国は遠からず市民消費者から拒絶の憂き目に遭うことは間違いない。一国帝国主義の黄昏は近い。(2004/10/1 19:42)

[アフガン戦争からもう3年が経ったー10.9大統領選挙を控えてフェミニズム・アフガン論]
 ソ連侵攻後4半世紀、米軍侵攻後3年を経てアフガンは米国大統領選挙向けを控えた「米国型民主主義」の実験に踏み出そうとしている。大統領候補は18人で、投票所は4800カ所のセンターを含む2万2千カ所で、11万人余のスタッフでおこなわれる。投票は指に特殊インクで印を付け二重投票を防止する。アフガン女性の平均寿命は46歳、識字率は21%といわれ(この統計すら信憑性はない)、彼女たちは初めて選挙権を持つ。国連とアフガン政府合同の選管が発表した有権者登録1千200万人(パキスタン在住75万人とアフガン難民を含む)のうち女性は41%。この41%はどのように登録されたか。地域社会に女性指導者は皆無なので、選管は男性の地域リーダーや宗教指導者に選挙の意味と仕組みを説明し、次いで彼らが家族の長(男性)の集まりで伝え、家に帰った家長が女性に説明する。登録所は男女別に組織され、読み書きができる女性が登録を受け付ける。「王を選ぶ」と勘違いしている人も多いし、多くの女性は「家では登録証を隠しておかないと、もし夫に見つかったら殺されてしまう」と言う。87%の女性が投票には夫の許可がいると答え、南部の24%、北西部の32%の男性が妻に投票させないと答えている(週刊誌『カブール・ウイークリ』掲載アジア財団調査)。選挙の知識もなく、読み書きができない多くの女性に適切な投票行為が可能であろうか。しかし18人の候補のうち1人は女性である。私の関心はこの女性候補の得票数である。
 先進国女性文化理論の主流がいまやフェミニズム・アプローチであり、先進国内部のジェンダー分析を精緻におこなうことによって、女性の新たな抑圧を鋭く批判しているが、途上国における原始的なジェンダー構造についての分析は弱い。私自身も、率直に云って途上国でのプレ・モダン的な社会構造と宗教教義が結合した牢固として抜きがたいジェンダー抑圧を、壊していく切り口を考えることができない。爆弾によって先進国型民主主義を上から強制する今回の実験は、歴史の進歩が推進されていくパターンの一つとしてあり得るのであろうか。いまけなげに進歩を信じて殺されても選挙に参加しようとしてアフガンの先駆的な女性の痛々しいばかりの姿勢をみると、単純に爆弾による民主主義を否定しさることにも疑問を持つ。全世界が「人道的介入」というあらたな開発理念を現実に遂行しつつある中で、一方にある主権の絶対性とどう共存できるのかも考えざるを得ない。
 ただ一つ云いたいことがある。先進国女性の家事労働からの解放による女性の自己実現の裏を暴いてみれば、途上国の少女労働力を家政婦として雇用し、家事や育児と介護から解放されていこうとする実態を横目に見ながらの、先進国女性のフェミニズム論は虚妄だ。(2004/10/1 9:00)

[他者を辱める者はみずからの無知をさらして恥じないー町村某外相発言について]
 町村某なる者が外相に就任しての記者会見で恥ずべき発言をおこなった。靖国神社参拝の根拠として、@恒久平和を英霊に誓う行為であり、A慰霊の仕方は各国の自由であり、B日本は亡くなった人をすべて弔う死生観があるなどという。
 不正義の戦争(ポツダム宣言)の最高戦争犯罪者(A級戦犯)を「英霊」(祖国に献身した英雄的な魂)とするのは小学生でも分かる倫理的間違いだ、慰霊の仕方は個人の自由であるが国家機関は国際法に従属するのは国際法の初歩だ、靖国は天皇命令による死者を祀っているのであってすべての亡くなった人を祀ってはいない(西郷隆盛や戦災犠牲者など)こともイロハだ。
 彼には2000万人のいのちを奪われたアジア諸国民の痛みに対する想像力が基本的に欠落している。参拝中止を求める中国に対して「分からない」というのも浅はかだが、「ムキになりすぎている」と批判するに到っては、アホで間抜けな外相を選んだ日本国民の一人として赤面の至りだ。親分からポチ公といわれて、喜んで媚びへつらっているコンプレックスをアジアに対する優越感に置き換えてしのごうとしている。福沢諭吉・脱亜入欧はいまや姿を変えて、脱亜入米となり、連綿として常に強者に屈従し弱者を威圧する最も卑劣な振る舞いとなっている。東アジア共同体構想なしに21世紀の日本の未来を語れない時にあって、この外相のアナクロニズムは度し難いレベルだ。小学校社会科赤点により落第を命ず。(2004/9/30 9:20)

[私はどう考えていいのか分からないー遺伝子組み換え観賞魚「夜の真珠」販売について]
 台湾企業が「夜の真珠」と命名する素晴らしい蛍光色をもったゼブラフィッシュの販売を開始し、全世界の観賞魚業界が注視している。インド南部を原産地とするこの魚は、ネズミやマウスに替わる絶好の実験動物であった。繁殖が容易で、72時間以内に卵から稚魚になり、皮膚が半透明で器官の細部まで監察できる。卵の段階で遺伝子を組み換えれば、72時間後に器官に起こった変化を観察でき、心臓や血液細胞、筋肉、脳などの形成に関わる遺伝子が解明可能となり、器官形成学は飛躍的な発展を遂げた。
 ところがシンガポール国立大学の研究チームが、緑色蛍光蛋白質遺伝子をクラゲから採取して、ゼブラフィッシュの遺伝子に入れると、半透明の皮膚を通して器官が光り始めるという奇跡が起こった。最初は自分の研究対象の器官だけに蛍光遺伝子を埋め込んで蛍光色を付ける秘密裏の実験を続けたが、次いで汚水に触れると赤く発色し水質汚染の指標として使えるようになり、さらに温度の変化に応じて色が変化するゼブラフィッシュ種を開発した。水中でホタルのように点滅する品種も開発された。いまは自分の好む色を選び、特注の魚をつくる技術も開発した。

 ここに目を付けた台湾最大手の観賞魚生産会社が、研究資金を援助するかわりに魚の商品化権を得る契約を交わし、はじめての遺伝子組み換えペット「TK−1」(フランケンフィッシュ又は夜の真珠と命名)の販売を開始し、最初の生産量は1ヶ月で10万匹、1匹15ユーロで売上高100万ユーロという莫大な利潤が転がり込んだ。日本や欧米の動物衛生局は環境保護団体の圧力を受けて輸入を禁止しているが、こうした遺伝子組み換えペットへの規制法はなく、実質的に輸入は野放し状態となっている。
 ゼブラフィッシュ実験で、確実にポスト・ゲノム時代の幕が開け、個々の遺伝子の役割を精確に解明し、発現をコントロールできる時代に入った。種Xの遺伝子を種Yのゲノムに入れて形態の変化を引きおこし、遺伝子機能を解明できる。しかし同時にそこには、人工的に創造されたまったく新しい変異体(怪物、キメラ)が創造されることも確かだ。生命の発生から人間への進化に到る気の遠くなるような長い過程を凝縮させることができ、耐性や抵抗力や収量と生産性を高める変異種を人工的に産出できる。
 遠からずこの遺伝子組み換え技術は、人間に適用されて人工的な人間の進化が可能となるし、その技術開発はすでに着手されている。遺伝子組み替え技術の開発規制が実態から大きく立ち後れたまま、生命操作が疾走している。

 観賞魚市場規模は、年に2億から3億3千万ドルに達し、養殖されて寄生虫に感染していない寿命の長い養殖魚は莫大な利潤を生み出している。米国のあるバイテク企業は、蛍光色がクラゲではなく蛍光サンゴの遺伝子で同じようなグローフィッシュという蛍光観賞魚の販売を開始し、次々と新たな変異体が創造されている。商業用生命操作に関する対応は現実からはるかに遅れてしまっている。
 環境派の抵抗を受けた台湾企業は、ゼラフィッシュの後継世代の不妊化を約束したが、現在の不妊化技術の確率は70%でしかない。全世界でゼブラフィッシュが拡散して自然界に放たれれば、繁殖力が強いので(1回の産卵数200個以上)、コントロール不可能となる。かって強健さで選別された養殖サケが間違って放流され、野生のサケを絶滅に追いこみ、生物多様性を破壊し、気候などの環境変化とからまって種全体が絶滅した(ノルエー漁業省は、莫大な予算を投下して養殖サケを一匹残らず捕獲した)。発生学的に人間に近い脊椎動物であるゼブラフィッシュの変異体の蔓延の危機について予測不可能だ。驚いたことに、今度は減少する野生の在来種を保存して繁殖させ、遺伝的多様性を売る企業が現れた(オレゴン州・ゼブラフィッシュ・インターナショナル・リソースセンター)。とどまることのない商業主義と生命技術がドッキングした恐るべき時代が到来している。

 遺伝仕組み替えと生命操作をめぐる倫理学は、一時ブームを呈したがいったい具体的な政策化は進んでいるのであろうか。私はこの分野の研究は、なにか泥沼に落ちていくようで実は本気で考える勇気がない。とりあえず観賞魚店に行って現物を見てみたい。以上・フランク・マゾワイエ「フランケンフィッシュの物語」(ル・モンド・デイプロマテイーク所収)参照。(2004/9/29 20:22)

[アメリカン・ドリームからヨーロピアン・ドリームへ]
 9月20にN.Yで開催された貧困・飢餓撲滅行動のための世界首脳会議(50ヶ国参加)で、仏・ブラジル・チリ大統領とスペイン首相が、国際税(トービン税、武器取引税、炭素税など)の導入を提案した。さらにその後の「グローバリゼーションに関する社会的次元」の会議終了後、50億ドルの資金をつくための国際税導入が承認された(110ヶ国)。
 米国大統領はこの2つの会議をボイコットし、代わりに出席した農務長官が「経済成長が、飢餓と貧困の長期的な解決だ。国際税のような外部資源を当てにするのは、非民主主義的で実現不可能だ」と全面否定した。米国以外は、不公正と不平等を放置したままの経済成長は貧富の差を拡大させるだけだという主張だ。こうした機会の平等をなぜ非民主主義的というのか分からない。
 ジェレミー・リフキンによれば、かって世界を魅了したアメリカン・ドリームに替わり、ヨーロピアン・ドリームが台頭しつつあるという。前者の自由は、より多くの富を持つことによる個人的な独立と安全をめざし、後者は共同性と福祉による惑星的な自由をめざすという。20世紀は、競争と経済成長と軍事力であったが、21世紀は平等と公正と人間らしい生活をめざす欧州の世紀だという。欧州のビジョンを手放しで礼賛する傾向には疑問がありますが、確かに米一極帝国に対する対抗軸の一つではあります。
 さて根本は、成長なき発展は構想できるかということにあると思います。この問題は「持続可能な開発(発展)」(ブルントラント報告書)というグローバル・モデルに再検討を迫ります。つまり将来世代の福祉を犠牲にしないで、現在世代の福祉を保障することが可能なのかと云うことです。無限に経済成長を続けていくことが、自然環境の維持や社会問題の解決と両立しうるという仮説に疑問が投げかけられています。

 サステイナブル・デイベロップメントの理論的根拠は、@技術進歩によって生産に必要な天然資源は減少し、より少ない原材料とエネルギーでより多く生産可能となり、A経済成長によって貧困と不平等が減少し社会的厚生が上昇するというところにある。しかし現実には、資源消費原単位の減少は総生産量の増大で相殺され、資源の消費と汚染の発生が激化している(UNDP、IEA報告)。さらに世界の最貧層(20%)と富裕層(20%)の格差は、1960年に1:30→2002年に1:80に急拡大した。いま11億人が1日1ドル以下で暮らし、2015年までの絶対的貧困層半減の目標は絶望的となった(世界銀行報告)。太陽からエネルギーを受け取る開放系である地球は、資源と空間の有限性に絶対的な限界があり、環境影響評価(EFP 生態均衡を破壊することなく活動可能な土地面積)は、すでに地球面積の120%に達し、世界のすべてがアメリカと同じ生活水準になって廃棄物を放出すると、地球が4〜5個必要となる。

 では成長と開発をストップしなければならないのだろうか? 確かに一部のエコリジストと代替グローバリズム運動は、生産至上主義による開発の放棄と人間的な開発を全面否定する(ニコラス=レーゲン「縮退」理論、ジルベール・リスト、セルジュ・ラトウーシュ、玉野井芳郎など)。彼らの主張は現在の途上国の貧困を解決する経済成長をも否定する。欧米の生活水準を基準として貧困を考える必要はないとする。しかし、水がない、医者がいない、学校がないなどのヒューマン・ニーズすら奪われている人々に対して、開発と成長の権利を奪うと云うことが云えるだろうか。生産の自己目的化による成長崇拝と、反開発の自己目的化による縮退はメダルの裏表の関係にある。反開発思想は、「経済」「開発」等という行為すらないいわば原始文明を理想化して、経済活動や開発行為そのものを悪とみなす。
 一方反開発思想の亜種として、成長と開発を峻別し、成長=量、開発=質とみなす主張もある。特にIMFと世界銀行の構造調整政策が失敗してからUNDPで強くなった主張だ。成長は開発の条件ではないのか。この矛盾をどう乗り越えたらいいのか。

 成長と開発を区別した上で、福祉と人間の潜在能力の開花をめざす戦略は可能だろうか。それはモノの交換価値と使用価値を区別した上で、使用価値へシフトする社会構想にある。@現在の生産至上主義は、社会的な公共財とサービスの供給を縮退させているのではないか。Aすべての生産が環境負荷を与えるのではなく、環境負荷の影響が少ない生産に成長を切り替えることは可能ではないか。B資源利用を途上国のヒューマン・ニーズに振り向け、豊かな国は節約モデルに切り替えることは可能ではないか。すると豊かな国のパラダイム転換は次のようになる。

 選択的な縮退(有害活動の縮退)→公益製品とサービスの質への転換→労働時間の短縮(雇用促進)と所得の公平な分配→文化創造と生産史上主義の払拭
 以上 ジャン=マリー・アリベ(ボルドー第4大学助教授)「必ずしも発展に成長は必要ない」(ル・モンド・デイプロマテーク所収)参照。(2004/9/29 12:54)

[Washington Million Worker March  Why Are They Marching?]
 ワシントン100万人大行進が迫ってきた。36年前にM・ルーサー・キング牧師が呼びかけた100万人の貧者の行進で、”合衆国政府は世界で最大の暴力執行人の一人である。・・・アメリカはいま歴史の分岐点にある。我々が新しい道を選び、決意と勇気を持ってその道を進むことが危急に重大である”(「I have a Dream」)という有名な歴史的名演説を行って、その場で射殺された。そうなのだ、あれからすでに36年も過ぎてしまったのだ。でもキングの呼びかけはいままた新しい意味を持って甦ろうとしています。今回のワシントン100万人大行進の要求事項をみると、現代アメリカ社会のもう一つの側面が浮かび上がってきます。

 1保険会社に頼らない、ゆりかごから墓場までの全般的医療
 2貧困から救われる国民的生活賃金
 3民営化によらない社会保障の強化
 4すべての労働者に人らしい生活を保障する賃金
 5NAFTA,MAI,、FTAAを含むすべての自由貿易協定の破棄
 6民営化、アウトソーシング、規制緩和の中止と国境を越えた労働者の競争の中止
 7団結権の保障、タフト・ハートレー法の廃止
 8見捨てられた学校の再建と公教育への資金援助
 9機能的識字力をやめ、見捨てられた子どもと成人の潜在能力を解放する教師への資金援助
10貧困の犯罪化と刑務所産業複合体(による囚人搾取)廃止のための全国民的能力訓練計画
11荒廃する中心市街地の清潔にし、安定価格住宅による再建、ホームレスをなくす
12企業と富裕者への累進課税、環境再生のための緊急計画
13すべての都市と町の、効率的・近代的な自由大量輸送道路新設
14愛国者法、反テロ法の廃止
15軍事予算の大幅削減
16国防総省と情報機関の機密予算帳簿の公開
17市民生活に影響を及ぼす決定が価値の生産者である労働者によって決められる経済民主主義
18市民的権利と人種差別・労働差別を否定する全国民的教育キャンペーン
19すべての不法就労者の恩赦
20文化系公立学校への連邦予算の増額
21すべての声を聞く民主主義的メデイア

 ここにはアメリカの「自由と民主主義」に深い亀裂が走っていることが示されています。市場原理主義が貫徹するとどのような社会が出現するかを先駆的に示すモデルでもあるようです。日本がひた走る米国モデルは、やがてどのような現実を生み出すか具体的に実感できるのではないでしょうか。それにしても「イラクからの撤退」がないのは、イラク戦争に対する労働者層の意見が一致しないからでしょうか。原文はhttp://www.millionworkermarch.org/です。(2004/9/28 12:08)

 米国勢調査局「所得、貧困、医療保険2003年度現状報告」(8月31日)では加速する貧困の実態が浮かび上がります。

貧困ライン 4人家族年収18810ドル(205万円)以下では 2000年:3158万人(11,3%)→2003年:3586万人(12,5%)
貧困ライン以下比率推移 1999年:11,9→2000年:11,3→2001年:11,7→2002年:12,1→2003年:12,5
階層格差(5分位階層) 最上位層の所得占拠率 1975年:43,2%→1995年:48,7%→2003年:49,8%  
               最下位層の所得占拠率 1975年: 4,4%→1995年: 3,7%→2003年: 3,4%
               最上位・最下位間格差  1875年:9,8倍→1995年:13,2倍→2003年:14,6倍
医療保険未加入者 1999年:14,5→2000年:14,2→2001年:14,6→2002年:15,2→2003年:15,6(4496万人)

 1975年以降所得割合が増大したのは最上位層のみで中間層含めてすべて所得割合は減少し、GDP成長は最富裕層へ集中し貧富の両極分解が進んでいる。米国は民間保険が中心で、公的保険は高齢者・障害者・低所得者・軍人に限られているから、公的保険の対象は全国民の25%に過ぎない。失職などによる所得減が民間保険に加入する機会をすぐに奪い、無保険者に転落する。無保険者の割合はついに国民の6,4人に1人という恐るべき水準におちいっている。生産拠点の海外展開→ダウンサイジング(規模縮小・合理化)→製造業から低賃金サービス業への労働力シフト→若年層失業率上昇という悪魔のサイクルが進展している。 (2004/9/2910:24追加)

[母とは何か]
 人の命を育てる場所は、母の胎内と生み出されてからほぼ7年間を日本国民としてではなく、人間として生きている。学齢前まで子どもの側にいるのは、母又は母代わりの人だ。学校に入ってから、子どもは国民として形成され、時には人を殺すことも正しいと考えるようになる。こうした動物は人間以外にはない。母は、生まれい出た我が子を或る時までは人間として育て上げ、育った我が子が学校で国民に成長しているのを知る。戦前期の母はこの二重の世界に引き裂かれた存在だった。
 俳優・三国連太郎の母は、兵役を逃れて行方不明となり母親へ連絡してきた息子を密告し、息子は警察に逮捕され軍隊に強制的に送られた。三国は母親に裏切られたという絶望感に苛まされ、いまでもそれは深いトラウマとなって彼の演技を支えている。
 詩人・槙村浩は、戦時期に日本帝国への抵抗をうたう詩を創作し(代表作「間東パルチザンの歌」)、警察に逮捕されたあと刑務所から脱走し、母親の元へ逃げ込んだ。母は息子を精神病院に入れて息子はそこで病死した。母親はただひたすら、息子を刑務所に戻さないがために持てる知恵と勇気を振り絞ったのだ。
 ベトナム戦争で戦場に送られた或る兵隊が休暇で両親の元に帰郷したときに、両親は「戦場に戻るな。兵役を逃れた兵隊を助ける組織があるそうだ」と逃亡を勧めた。この両親は戦中派の日本人で、戦争のむごさを知っており、いのちの大切さと他人のいのちを奪ってはいけないというこころを持っていた。
 日本の多くの母親は、どちらかといえば三国連太郎の母親に近かったのです。私の父親も戦場で病を得て帰還したときに、祖父母の待つ家にまっすぐ帰れないで、しばらく遠くの友人の家で過ごしました。父は、戦果を挙げないでおめおめと傷病兵として帰還した自分の姿を故郷にさらすことはできなかったのです。おそらく私の祖父母も三国の母であったのです。三国は裏切りの母を「僕自身の内部にある問題として役作りをしていく」と云っていますが、我が子を売るという行為は当時の戦時期で誰しもがせざるを得ないものなのでした。

 学校へ行くまでは、どんな子どもも「他の子どもと喧嘩したら殺してもいいよ」とは思いません。人間が「国民」になっていく過程をつかさどっているのが国民教育であり、この巨大なちからはあとから振り返ってみるとありありと想い浮かべることができます。他人を殺すことはもう2度とやらないと誓い合ってから、すでに60有余年が流れようとしていますが、かっての記憶はじょじょに薄らいで、なぜか殺し合いをしてもいいよというささやきが聞こえてきます。そのサタンを両手を挙げて防ぐかのように、戦時期の食糧難で肺を患い齢27歳でこの世を去った母の無念が木霊してきます。人間の刻み込んできた記憶は忘れさられようとしているそのときに、フイに強い力となって人間をふたたびとらえます。我が子を警察に売ってしまった魂も、精神病院に入れた魂も、逃亡を勧めた魂も、墳墓の蓋を渾身の力を込めてこじ開け、もう2度と私たちのような時代を繰り返すなと哭いています。戦争で散り去った無辜の無数のいのちがほんとうにやすらいで永遠の眠りにつくためには、あの時代を地中深く封殺しなければなりません。以上は鶴見俊輔氏(82歳)の講演(9月26日 9条の会京都講演会)を聞いて記す。(2004/9/27 20:38)

[パロデイング現象の危機と雁行型発展]
 マスコミは世論調査のデータに統計科学的処理を施して、市民意識の動向を合理的に把握する(とされている)。しかし松本サリン事件の河野義行氏の冤罪報道による世論操作は、マスコミによる意見形成の致命的な限界をさらけ出した。第1次情報をすべて県警とキー局に依存した報道によって、無辜の市民を犯人視する圧倒的な世論が形成された。この回路を見事に暴いたのが、松本美寿々高校放送部製作の『テレビは何を伝えたか』である(95年NHK杯高校放送コンテストラジオ部門優勝、98年東京ビデオフェステイバル大賞受賞)。
 さてここで面白いことがある。河野真犯人説は新聞各紙によって微妙な差異があり、どの新聞を購読しているかによって世論の差異が誘発されたことである。購読する新聞の論調をオウム返しにする傾向は、購読紙が1種類が多い日本では特に強い。重要なテーマになればなるほど(憲法、日の丸、有事、靖国など)、読売・朝日・毎日・産経の購読紙別調査によって明らかな有意差が生まれてくる。情報を多面的に収集してより主体的な判断を下そうという姿勢が衰弱し、自分の好む傾向の新聞にますますのめり込み、異見に反発する傾向も強くなる。パロデイング現象とは、もとは「下手な物まね」を云うが、争点に関する意見表明が主体を離れて表層的に操作される現象を指す。嫌いなものはますます嫌いに、好きなものはますます好きになって、もはや両者を架橋するインタラクテイブなコミュニケーションは成立しなくなる。以上・石川旺『パロデイングが招く危機』(リベルタ出版)参照。
 こうしたパロデイング現象は、純粋な仮想信念で行動する学生セクトに最も典型的に誘発される。ここでは対抗セクトの名前を聞いただけで、生理的な反発が生じもはや論戦よりもゲバ棒で解決するという陰惨なテロの応酬が展開する。端から見ると漫画チックなお遊び喧嘩に見えても、当事者は命をかけたアイデンテイテイの二律背反なのだからもはや如何ともし難い。敵を抹殺せよ!ヤツは敵だ!ヤツを殺せ!という恐るべき三段論法に陥る。互いの存在自体を抹殺の対象とするテロリズムの世界だ。
 かってのテロリズムは追い詰められた絶対的な弱者の最後の抵抗手段として行使されるレジスタンスという社会的な了解があったが、今はない。なぜなら正当性を最高度に体現する国家そのものが、異見に対する先制攻撃権を主張するという国家テロリズムが出現しているからだ。かってテロは色分けされて、左翼のテロを赤色テロ、右翼のテロを白色テロと呼んで、ある同次元の異見間のヘゲモニー闘争の暴力を指し、対抗集団間の水平的な関係があった。ところが現代のテロは、国家と市民個人ないし集団間の垂直関係にまで拡大している。キューバ・グアンタナモ基地のアルカイダ収容者は、「戦時捕虜」ではなく「敵性戦闘員」とみなされて、ジュネーブ条約を含む一切の戦時国際法と米国内法の適用を除外されている。国家が私的に市民を逮捕・監禁しているのだ。こうして現代のテロリズムは、水平関係と垂直関係が複合する重層的な構造になってしまい、網の目のように複雑に入り組んでしまった。こうした錯綜した融解するネットワークのどこかに、ある個人は置かれているので自分の位置が自分の頭で規定することが困難となり、強力な権威に依存した意見をあたかも自ら選択したかのような形成するしかない。強者依存による安心のファッシズムの心情がじょじょに蔓延し、一閃暗闇を切り開く強力なリーダー願望が誘発され、一刀両断矛盾を絶て!と余人を持って代え難いカリスマ型ヒーローを待望するようになる。

 いま世界を直視してみよう。毎日22億ドルが死の生産に投下され、一種の狩猟ゲーム世界と化している。同一種内部の熾烈な狩猟で同類をどちらが多く殺すかという浪費の蕩尽が繰り広げられている。反テロがさらにテロを拡大再生産する悪魔サイクルのスパイラルにおちいり、きりもみ状態となっている。反テロ帝国経済の回復傾向は、メソポタミア地域の軍事支出に依存している。国連安保常任理事5大国は世界平和の番人であるとともに、同時に武器製造・販売国上位5ヶ国を構成している。東アジアのジュニアパートナーが”俺も入れてくれ”と頼み込んで馬鹿にされている。恐るべき非対称性の世界がつくりあげられつつある。例えば男女の賃金が平等になるまでにはあと475年を要するという試算がある。魚を差し出すより釣りの仕方を教えよーと開発理論は言うが、すでに川は毒水となり大気はCO2で汚れ切って猛暑に喘いでいる。
 サーカスの熊に踊りを教える調教師は、熊がうまく踊れば肉を与え、駄目なら血を流すまでムチで叩き、それでも駄目なら日が落ちても食べ物を与えず檻に入れる。ムチの恐怖と飢えの恐怖から、数日の拷問を経て遂に熊は自ら踊り始める。調教師の歓喜が爆発し、打ちのめされた熊は永遠に奴隷となる。これがいままで星条旗帝国が世界でやってきたことであり、時々は失敗したがほとんどはうまくいった。何しろ最強の敵ミーシャを打ち倒したからだ。しかしメソポタミアの民衆はいままでの熊に近い人間とは違う。ひょっとしたら、ムチと飢えの恐怖に打ち克って最後のツメを立てて抵抗するのではないか。全世界の民衆も、東アジアのプロ野球選手会の闘争に学んで、どうしたら勝てるか学習を積んだのではないか。

 2001年のニューヨークで2機目がタワーに突入し、倒壊し始めたときに人びとは争って階段を駆け下りた。その時拡声器から高らかに全従業員は職場に復帰せよとの指示が流れた。この指示に従順にしたがった人はこの世を去り、指示に従わなかった人だけが奇跡的に生還した。この事実は全世界の人びとに、無限の学習の教材を提供している。おそらく日本人の死亡率が最も高かったのは、他者志向性が強い集団主義文化が決定的瞬間に選択を誤らせたのではないか。

 鴨の編隊飛行の技術は、最初の1羽が飛び立って2番手のために道を切り開き、2番手は3番手に道を示し、3番手に助けられて4番手が飛び立ち、4番手が5番手を引っ張り、5番手の勢いに乗って6番手が飛翔するという力の連鎖的な移譲にある。サプライチェーンマネイジメントだ。先頭に立った鴨が疲れると群れの最後尾につき、別の鴨に席を譲る。この鴨が逆V字型の頂点に進み、こうしてすべての鴨が順送りで群れの先頭と最後尾を務める(経済学の雁行型発展)。いかなる鴨も、先頭に立って優越感を味わったり、最後尾になって劣等感を味わったりすることはない。鴨は無言のうちに、いま考えられる人間のあるべき姿を教えているのではないか。これを学習の教材とするかどうかは、私たち次第だ。先頭に立つために仲間を殺し合う飛行を続けるならば、逆V字は解体し目的地に達する前に全員が墜落するだろう。以上エドワルド・ガレアーノ「常識礼賛」(Le Monde diplomatique 2004年8月号)参照。(2004/9/26 23:37)

[中国の「美女経済」を考える]
 最近中国で行われた美人コンテストで、優勝者の整形手術が判明して取り消され、怒った本人が裁判に訴えた。主催者は、整形者のみのコンテストを別個に開催する代案を出して拒否された。いかにも笑えてくる話ですが、意外とここには中国の風俗に現れた生活感覚の変貌があるような気がします。かっての文革期には、女性が化粧するだけでブルジョア的と非難され迫害を受けましたが、逆に現代では美容整形や美人コンテストの「美女経済」が隆盛しているようです。
 美女経済とは、「女性の容貌や身体、性の特徴を利用して消費を刺激し、経済的利益を追求するもの」(彭凧雲婦女連名誉主席)を意味します。彭氏は、「その実質は女性を商品化、オモチャにし、女性の独立した人格と社会的価値をおとしめ、女性の成長、未成年の健全な影響にマイナスだ」と激しく批判し、「美女経済の氾濫と低俗化は、一部の女性は外見をよくすることが成功の近道と考えるようになり、勤勉に学び自らの資質と能力を高め、社会により貢献するという正しい方向からの逸脱だ。断固として食い止めなければならない」と抗議しています。
 ここに現代中国の生活感覚をめぐる近代化の凝集点があります。女性が「独立した人格」であれば、自分の身体の表現について独立した自己決定権を持ち、それは完全に個人の選択の自由に委ねられます。商業主義的な女性操作に批判的であったとしても、個人の価値観の領域に権力が一歩でも介入することはできません。こうした中国の状況をあざ笑う人がもし日本にいれば、大いなる無知を自己暴露しています。日本の学校の大半では、女生徒の髪型から化粧、ピアスなどの装飾品や衣類の基準を決めて、厳しく検査して逸脱者の学習権を奪っていることは珍しくありません。日本は未成年対象で、中国は全女性を対象としているというのも理由にはなりません。女性の身体の自由は生まれながらの基本的な人権であり、年齢を超えて誰も奪うことはできないからです。
 人権的視点を離れて考えると、中国市場社会主義が風俗を含む生活感覚に巨大な変容を誘発していることは確かです。資本主義の本質は、全身から血を滴らせながら利潤を求めてあらゆる分野に浸透し、人格さえも取り込んでしまいます。地主制から一気に強行的に社会主義に移行しようとした中国は、儒教的な文化の残滓に対する拒否感が市場経済のもとで一気に開放され、こうした歪んだ現象が誘発されたのです。一部では反権力や非権力の自己表現としてアブノーマルな表現も生まれるのは必然的な現象です。しかしまっとうに生きたいと思う女性は、こうした「頽廃」現象を超えて人間の尊厳の道を歩むでしょう。それは独立した生活を生き抜くなかでの女性美に対する共感の感覚を育てるでしょう。それは云ってみれば、場末で踊るストリッパーの挑発的な「美」とミロのビーナスの違いでしょう。(2004/9/26 9:17)

[日本人女性はいつから体毛を剃り始めたのか?]
 朝日新聞・相談室(33面 9月25日付け)に次のような相談が載った(三重県女性 主婦 34歳)。
 「私は腕や脚の毛を剃っていません。先日TVで「女性が体毛を剃るのは当然」というのを聞いて、私も剃らなければならないのかと、ちょっとしたカルチャーショックを受けました。私の体毛が他の方に不快感を与えているのでしょうか。」(筆者の責任で一部略)

 TVのチョットした発言に影響を受ける庶民の没主体性がうかがわれますが、回答者のTetsuyaさんの答えがなかなか面白い。
 「小学校5年生の時に、いち早く脇毛が生えた同級生の女子にジャングルというあだ名を付けて泣かせてしまってから、私は他人の体毛と自分の薄毛について言葉を選ぶ人間になりました。体毛を剃る文化的背景について触れます。進駐軍と一緒に上陸したアメリカ文化は、ジャズ、ハンバーガーと一緒にムダ毛処理という不自然な文化を持ち込みました。ところが西欧やアジア諸国では伸び放題にほったらかしています。以前プラハで買った絵には、ペインターの女性の脇からヨーロピアン的な毛がはみ出ていることに気づき、ああこれがほんとうの「存在の耐えられない軽さ」なのだと思いました。何れにしろ我々は、体毛という微少な問題すら、アメリカ的な力と反アメリカ的な力の拮抗線上を生きていることを意識すべきでしょう。美醜もいいけど思想もね、なのです。だからといって、脚や腕の毛を「No WAR(戦争反対)」と剃り残すのはやり過ぎかもしれません。でもやりすぎなら剃ればいいんだし、基本的にあなたの自由ですよ。あなたの毛なんですから」(筆者の責任で一部略)

 例によっていつものようにTetsuya氏のエスプリのきいたちょっとオブラートにくるんだ主体性論の展開です。質問した女性に「存在の耐えられない軽さ」がミラン・クンデラの代表作であり、美醜といいけど思想だよーというメッセージが伝わったかどうか分かりませんが、ここには結構深い意味があると思います。
 第1は、戦後日本を占領した米軍は、日本の文化に大きな影響を与え、日本女性の身体観までも変えてしまったと云うことです。私が思い出すのは、少年期にアメリカ映画を観たときに大人たちが媚びいるような笑いを漏らすことです。確かにそれまで抑圧されていた儒教的な文化を打ち破る自由な雰囲気を伝える米国的な生活への憧れもあったでしょうが、媚びの感情もあったように今は思います。
 第2は、自分の身体の自由と表現について、かくもあっさりとTV文化に無意識に従属している意識です。この女性を責める気はありませんが、日本女性のファッション感覚にほんとうに個としての主体性は育っているのでしょうか。その典型はスカートの長さで、短くなればみんな短くし、長くなればみんな長くするという集団志向です。いま気になるのは、女性が尻の一部を見せるようにジーンズを着て歩いていることです。特に女子高校生がパンツが見えるような短いスカートをして手で後ろを支えて階段を上るのを見ると蹴り上げたくなる怒りを覚えます。個的なファッションであればいいのですが、流行だからしているという面があるのではないでしょうか。アパレルメーカーの服地販売戦略の宣伝にいとも簡単に乗せられていることに唖然とします。もちろん女性ばかりか男性もそうですが。つまり日本からほんとうに創造的な個性が育たない理由が依然としてあるような気がします。
 第3に、TVを観て不安になったこの女性は、Tetsuyaさんというある権威にお伺いを立てて安心を求めたのですが、この他者志向性の権威性にも首をかしげます。おそらく学校教育で制服をcmの単位まで規制し、服装検査でパスしなければ登校できない生活「指導」によって、いつのまにか権力(権威)のOKがでなければ行動できない感性が育ってしまったのではないでしょうか。こう考えていくと、実はこの質問の意味はとてつもなく大きな現代日本の基底にある問題と連動しているような気がします。ライオンヘアーやヨン様といって殺到している少なくない日本人女性の発想様式は、ハイル・ヒトラー!を絶叫したかってのドイツ人女性とそれほど遠くない地点にいるとしたら恐い。リストラされて文句も言えず会社を去っていく男性に主たる責任があるのですが。
 第4に、この投書を掲載して回答させた朝日新聞編集部の意識です。おそらく編集部が持つ編集方針に、どのような意識階層を対象にするかというマニュアルがあるのでしょうが、記者は充分な大衆蔑視の意識と裏腹にある大衆迎合の意識を併せ持っているでしょう。お茶を飲みながら「しょうがないわねえ、でも興味を引くにはいいかもね」等と云いながらこの質問を採用したのでしょう。それとも朝日新聞家庭部の意識自体がこのレベルなのでしょうか。Tetsuyaさんが苦笑しながら回答を考えているシーンが目に浮かぶようです。9条を守る会の発足集会を一切無視したマスコミの意識の一端が現れています。以上の私の批評に多くの方のご意見を期待します。(2004/9/25 19:35)

[なぜ常任理入り? そこに山があるから(川口外相)]
 国連安保理の任務は、侵略行為の認定・強制措置発動など集団安保の中枢任務を担う平和強制機関であり、拒否権を持つ常任5ヶ国と非常任10ヶ国(2年任期で地域別に半数改選)合計15ヶ国から構成される。日本政府は95年の国連創立50周年に続いて、国内論議なしに常任理事国入りの国連外交に攻勢をかけている。アジアでただ一つの常任理事国である中国とアジアその他の国の反応はどうか。

 「中国青年報」紙系サイト「中青在線」の調査結果(9月23日 2462人回答)。
 支持する 41人(1,7%)
 支持しない 2381人(96,7%)
 (支持しない理由)
 歴史問題 1351人(55%)
 日本は経済大国であるが政治大国ではない 654人(27%)
 途上国が優先されるべき 270人(11%)
 日、独、インド、ブラジルのどの国に賛成するか
  ドイツ1433人(58%) ブラジル734人(30%) インド267人(11%) 日本28人(1%)

 「人民日報」論評(9月23日論説「日本が常任理事国入りする4つのハードル」)
 @平和憲法 アーミテージの云う、派兵・参戦ができない平和憲法という制約
 A歴史への態度 現実に基づいて歴史を扱い深く反省できないことが政治大国になれない根本原因。日本は未だ平和を愛する広範な国の十分な信頼を得ていない。過去を清算せず、独自の外交を持たない国には説得力がない。金銭取引の場にみなして失笑を買うだけだ。
 B米追随で国家主権がない 代表性が必要な常任理事国で日本は主権を失っている国だ。日本は米国を喜ばせようとするだけだ。
 C手続きの複雑性 加盟国の4分の3、安保理15ヶ国の9ヶ国、加盟国の3分の2以上の批准
 (D)国連改革のビジョンがない 具体的プランの合意なくしてただ単に数を増やしても混乱するだけだ

 ムシャラフ・パキスタン大統領(国連総会一般演説 9月22日)
 安保理は中小国の代表性を確保すべき。圧倒的多数国は、新たな特権センターをつくる一部の国の野望について反対している。

 フラテイニ・イタリア外相(国連総会一般演説 9月23日)
 包含性、効率性、民主的参加、途上国を含む地理的代表性という原則による国連改革の最善の道は、非常任理事国の議席増加にある。新たな常任理事国参加は、加盟国間の対立・不満・離反の種を播くだけだ。

 潘基文・韓国外相(国連総会一般演説 9月24日)
 安保理が現在より代表性を持ち、民主的に運営されるために、公平な地域配分の原則による非常任理事国の増大ガ必要だ。

 韓国・ハンギョレ新聞社説(電子版 9月22日付け)「厚顔無恥な主張」
 小泉首相は靖国参拝など侵略を反省せず、軍事力強化と憲法改定を狙うような国が、国際平和を守る中核的な位置を占めてはならない。分担金の支出が多いからといって権利があると考えるのは誤算だ。

 韓国・朝鮮日報(電子版 9月22日付け)「道徳的障害」
 現在の常任理事国はファッシズムと戦った第2次大戦を勝利に導いた道徳的大義がある。この基準に照らして、A級戦犯に参拝しながら、それを日本の伝統と慣習と合理化する道徳的姿勢が問題となる

 韓国・韓国日報(電子版9月23日付け)
 左右も保革も国民感情に基づいて不快感を表明している。植民地支配を受けた歴史の経験と、歴史の清算に関する日本の意思に対する不満が累積した結果だ。

 尹徳敏外交安保研究院教授(東亜日報24日付け)
 平和憲法と専守防衛は安心と説得の材料だった。いまや日本はこの基準を捨てて急速な軍事的変化を推進している。靖国参拝に首相が固執するなら、隣人の不安を増大させるだけだ。常任理入りは、アジアの隣人の支持を受けるかどうかはすべて日本の姿勢にかかっている。

 金聖哲世宗研究所委員(中央日報24日付け)
 歴史の徹底した反省と謝罪をへたドイツが欧州をリードしているのと対照的に、日本は過去の歴史をまともに反省しないまま、軍事大国化への道を歩み、周辺国からの信望を集めることができないでいる。

 (コメント)イタリア型改革によっても日本の常任理事国入りはない。中国指摘の4つのハードルのうちクリアできるのはCのみで後は無理だ。安保常任理事国は国連軍に軍隊を提供し、軍事参謀委員会のメンバーとして国連軍の作戦を戦略的に指導する責任がある。それにしても中国青年層の圧倒的多数(サイト参加者は青年と推定)が痛烈な日本批判を展開しているのに改めて、私の国の惨めな姿を想起させる。韓国の激しい非難を理解する能力が日本政府にはない。アジア侵略戦争を美化する教科書を教え、戦争責任者を慰霊するライオンヘアーがアジアの支持を完全に喪失している事実の前に慄然とせざるを得ない。21世紀のかなり遠くまで私たちのアジアでの信頼は回復しないだろうと予感させる。
 しかも日本政府は従来の「国際貢献」論から「国益」論へ世界戦略を根本的に転換させようとしている。「安保・防衛力に関する懇談会」(小泉首相私的諮問機関)は、自衛隊の海外派兵を「第3者的な貢献と云うより、国際的な安全自体が日本の国益という考えが必要であり、(海外派兵は)日本防衛と同義だ」とする論点整理を提出した。海外派兵国益論は、「日本の安全をできるだけ前方で食い止め、間接防衛又は間接安全保障」にあるとする。さらに「自国の防衛のみならず、テロなど新たな脅威に対して、日米同盟国間の役割分担を具体的に考える」として、米国世界戦略の同盟軍として位置づけることを提案している。
 ここから日本の従来の戦略である「国防の基本方針」(1957年閣議決定)の国連中心主義(国連の集団安保実現までの過渡的措置としての日米安保条約)を、「今日の安全保障環境に合わない」として改訂の方針を打ち出している。すでに自民党国防部会は「国防基本法」制定による「憲法改正をにらみ、自衛隊の軍隊化と集団的自衛権行使を含む国防の基本方針」策定を提言している(04年3月)。
 少しでも日本近現代史を繙いた人は、日本の中国侵略時の「満蒙は日本の生命線」として「東亜共同体」実現に向かったかってのフレームアップをご記憶であろう。日本の国益型平和戦略は、明らかに戦前期日本の日米同盟型再版であり、国連総会での美辞麗句が見抜かれて冷笑と嘲笑を浴びているかお分かりであろう。国連を放擲した米軍に媚びへつらって派兵し、国内では侵略戦犯を慰霊するライオンヘアーを誰がまともに受けとめるだろう。

 窪島誠一郎氏(無言館館主 故水上勉氏の子息)は日本国憲法について次のように云う。「平和運動のために咲いている花はないのです。花は咲きたいから咲いている。個々のいのちが精一杯咲いている姿がそこにあるということを心に留めたい。人間が花を愛するのは、それによって自分が生かされているからです。憲法9条は、花や鳥やそれを描く絵描きや、私たちを守ってくれているのです。憲法9条に守られているという意識を、守りたいという意識と同じ分量だけ持つべきではないか。僕は憲法を守る、同時に憲法が守っていてくれるという幸せを、精一杯享受したい。その日々の積み重ねがやがては大きな力となって、てこでもうごかない、しっかりとした平和を求める大地となっていくと思うのです」。
 「いちばん大切なものは目に見えないんだよ」(サン・テグジュペリ『星の王子さま』)のように戦後60年間私たちを必死に守ってくれた憲法は、いま無頼漢によっていたぶられレイプされて満身創痍となっています。ほんとうに大事なものの価値は失って初めて身に滲みて分かります。愛する人を喪って初めてその愛情の深さを感じます。私たちに無限の愛情を降り注いでくれた憲法が、恥辱のうちに崩れ落ちようとしている様を見て傍観している者はもはや犯罪者です。全ての人に人生いずれにすべきかという決定的瞬間があり、後から振り返って悔いの涙を流さないようにいまのこの瞬間にこそ、花にたっぷりと水を注ぎ咲かせる作業が求められています。その作業とはそれぞれの生活の隅々で、違ったかたちであれライオンヘアーを撃つことに他なりません。そうしないと花は枯れてしまい、遂には荒涼たる大地が残るだけです。60年前に累々たる遺体が散乱したように。(2004/9/25 10:41)

[武器を出せ!! も・・もってねえよ ウソをつくな! バキューン ギャー]
 朝日新聞夕刊漫画「地球防衛家のヒトビト」(しりあがり寿)の一節です。次いで”ありゃーありませんでしたー まいったなー悪そうなヤツだったから、ま、いいんじゃない? ランボーに云えばこーゆーことだろう・・・フツーゆるされないよなー”と続きます。現在のブッシュとそれに媚びへつらうライオンヘアーの戦犯性を見事に衝いています。
 「国連憲章違反」(9月15日 アナン国連事務総長)であるイラク攻撃・占領を敢行した米軍行動の「大義」はただ一つ「大量破壊兵器の脅威」に対する先制攻撃にあったはずですが、米政府自身が「大量破壊兵器は発見できなかったし、今後も発見できないだろう」(9月13日 パウエル国務長官)と自ら虚偽を認めるに到ったのです。米軍を支持して出動した各国は大義を失って次々と撤退し始め、遂にアジアでは韓国、モンゴルそして日本3国のみとなりました。違法非道な米多国籍軍は12000名を超えるイラク民衆を虐殺し、9月に入ってからも数百人の子どもや女性の虐殺が続いています。いまやたった二人だけが、それでも戦争は正しかったと普通では考えられない神経で言い張っています。この二人が誰かはすでに皆さんお分かりでしょう。
 9.11からイラク戦争を経て世界は虚偽と不正が大手を振って闊歩する異様な状態に陥っています。追い詰められた被抑圧弱者は、最後の手段としてテロという絶望的手段に訴えています。テロと暴力の悪の連鎖が悪無限のスパイラルとなって、互いに殺し合いながらまっしぐらに地獄に向かって互いに転落していっています。日本が最も強い影響を受け、仮装攻撃を想定した戦争国家づくりが私自身の予想を超えた速度で急展開しています。おそらくあのお二人は、戦争のむごたらしい実相や戦場への想像力を欠落させ、「たかが選手のくせに、無礼なことを云うな」というどこかの球団オーナーと同じような感覚で国民の命をみているのでしょう。こうして21世紀初頭の世界を混迷に陥れた元凶が浮かび上がってきました。人類は出口のない袋小路に逢着しているのでしょうか。

 強大な世界帝国の超越的な武力の威圧を見ると、誰しも正面から抵抗することはできませんが、しかし今回の日本プロ野球選手会のストライキという正当な抵抗権の行使は、極めて明確にその答を身を以て示したのではないでしょうか。巨人・オリックス・西武の3国同盟が野球機構(安保理事会)を支配し、1リーグ制という大義なき目標を掲げて空爆を開始し、選手・国民の犠牲を冷笑しながら、話し合いを求める選手会を経営権介入と非難し、団体交渉を拒否して一気に占領に入ろうとしました。あろうことか「たかが選手(国民)のくせに何を言うか、無礼だ」と軽蔑・嘲笑を浴びせました。こうした対立の時には、コミッショナー(国連事務総長)がプロ野球規約(国連憲章)に基づいて、違反者を厳しく諭すのですがグズグズして何もしませんでした。追い詰められた選手会は、遂に抵抗権の最高の手段であるストライキ権を行使しました。すると3国同盟は、「違法ストだ、不当ストだ、損害賠償を要求する」と更に脅し(無差別爆撃)をかけましたが、どこが違法で不法なのか一切説明できません。労働組合法第8条は民事・刑事上の責任を問わないとし、もし問えば第7条の不当労働行為にあたるからです。大義なき不当かつ違法な行為は、労働条件に直結する球団の合併行為を選手との団体交渉抜きに強行する経営側にあったからです。正義と権利や真実は、脅迫や強制に屈しないという人間的尊厳の原点を高らかに宣言したのです。3国同盟は崩壊し、選手会と経営者の信頼は回復され、プロ野球界(国際連合)の権威は再び確立されたのです。親企業の広告塔とみなし、「野球が社会の文化公共財となるよう努める」(野球協約)努力を放棄し、親企業の専有物となっていた支配構造に革命的な変革をもたらしたのです。「われわれにはユニフォームを脱ぐ自由しかない」(原辰徳元選手会長)という劣悪な状態から、1985年に初めて労働組合として認可され、93年にFA制度を導入し、00年からは制限付き代理人制度を導入するという過程を経て今次本格的な対等の立場を実現されました。
 
 しかし一方では、日本の民間企業の至る所で吸収・合併が進み、従業員は何の権利も主張することなく涙を呑んで馘首されています。特に中高年層に犠牲が強いられ日本の自殺率を一気に押し上げてしまいました。ここから「高額所得者のプロ選手がストをやるとは一体なんだ」というルサンチマンのスト批判が出てきました。しかし選手会は年俸アップを目標としたのではなく、組織の存亡をかけて体を張ったのです。むしろ高額年俸のカットさえ提案しています。
ではなぜ「たかが」プロ野球選手会が、基本的に要求を獲得し勝利し得たのでしょうか。私が考え得ることを幾つか挙げてみます。
 @選手会の団結が崩れなかったこと。(*私が最も恐れたのはこのことです。ストの時は必ず出世をめざすスト破りが現れるからです)
 A選手会のストライキ目標が選手の生活維持とともに、野球という公共財を維持するより高次の目標に置かれ、圧倒的な国民の支持を得て、経営側が孤立したからです。元巨人老害オーナーは選手を侮辱しながら、改憲案を提唱するA級戦犯であり、孤立して辞職しましたが、黒子として動いた西武現オーナーはB級戦犯として辞職しなければなりません。
 B古田選手会長の人格的勝利です。誠実且つ謙虚にして理想に殉じる姿が国民の胸を打ったのです。指導者問題がいかに重要であるかを示しました。
 以上3点ですが、要するに団結して正当な手段を行使し、ステイクホルダーから孤立しないという単純な条件なのですが、これが実はほんとうに難しい。追い詰められて絶望的なテロに走る(例えば社長をぶん殴ってクビ)ことなどが起こるのです。いま民間企業で進む経営の専制によって地獄のような労働市場が蔓延している時に、今次選手会のストは日本全体に勇気と希望を与えました。残念ながら、イラクでは民族を裏切って米軍に媚びへつらう勢力が出現し、対極に絶望して無差別テロに走る勢力が自爆攻撃を行い、宗派と絡んでイラク民衆の団結は構築されていません。しかし報道されない着実な反占領運動が地を這うような努力で形成されています。「反占領」という一点でイラク民衆を統一する古田型リーダーが必ず出現するでしょう。日本国内においても、大義なき解雇に反対する労働者が手を結んで抵抗権を行使し、さらには大義なき戦争から「日本軍」を撤退させる一点で足並みをそろえる時が必ずくるでしょう。(2004/9/24 20:16)

[性交渉年齢を行政権力が指定する究極のファッシズム]
 東京都は条例で性交渉を許す年齢を制定する。東京都「青少年の性行動について考える委員会」は、性交渉をしても許される年齢を青少年保護育成条例に盛り込む検討を始め、年内に最終判断を下す。子どもたちの妊娠中絶や性感染症が社会問題になり、性の知識が十分でない時期の性交渉は、危険が多いことを警告し避けるよう規定する。22日の初会合では「中学校卒業までは絶対いけない」などと口角泡を飛ばして議論したという。中高年のおじさん、おばさんが真剣に議論している様子を想像すると、漫画チックで笑えてくる。確かに中絶や性感染症の増大は少年少女の身体を蝕み、人生に大きな負のリスクを負わせる。都内の教師が2002年に実施した調査では、中学3年の性交経験率は男子6.8%、女子8.7%で99年より男子1.5ポイント、女子5.4ポイント上昇しているという。しかし権力が、人間の最も尊厳あるプライバシーの領域に年齢指定を行うという本質的な人権侵犯の感覚はないのであろうか。しかもこの委員会は中学教師で組織されているという。かってナチスは、未婚青年のデータをつくって非アーリア系を排除する婚姻法をつくり、遂には人種法による断種やユダヤ人絶滅まで進んだが、本質的には同一の発想である。
 指定年齢未満の性行為は処断されるという恐るべき首都が日本に出現する。それは高層ビルが林立するオーウエル型全体主義国家だ。どうも東京都はオカシイ。タバコポイ捨て禁止条例、君が代日の丸強制、性教育処分、公園ベンチの肘掛け椅子化、性交渉年齢指定と個別テーマの問題を権力介入で禁止していく手法が、全体としてファッシズム効果を確実に誘発している。本質的な問題は、モラルの問題に権力が介入するということだ。確かに一部の学校では、異性間交流と接触をすべて「不純異性交遊」の犯罪とみなす校則をつくり、生徒の男女交際を抑圧している。男女の交流が「純か不純か」を学校権力が判断するというシステムに慣れきっている現状がある。
 9月17日に施行された国民保護法によって、市町村に設置される国民保護協会(警察+自衛隊+行政+住民代表)は、町内会をベースに相互協力義務が課せられ、結果的には異見者を排除する草の根ファッショ組織となるだろう。江戸期の5人組制度、戦時期の隣組制度は明らかにファッショ権力をしたから支える暴力組織に転化した。各地で進む安全条例制定はその地域版であろう。名古屋市「安心・安全で快適なまちづくりなごや条例」が上程され、空き缶ポイ捨て禁止、指定地区での路上禁煙違反2万円以下の罰金、落書き禁止などが盛り込まれている。表面的にはみんなが苦々しく思っていることで処分するのは当然という感覚が働くが、よくみるとモラル部分に権力が介入・処断するというファッショ的性格がある。条例第5条では、各区に住民による推進組織を作るとなっている。これらの行為を互いに監視し、違反者を警察に密告し、処断させるというシステムに問題性を感じない雰囲気が醸成されている。それは9.11以降に全世界を覆った不安と不信の感情だ。さらに日本では長期不況と競争の推進で相互の信頼がゆらぎつつある。身近なところに不安の元凶を見いだし、それを根こそぎ取り払うことで安心を取り戻そうとする、安心のファッシズムの影が秘かにしかし確かに忍び寄りつつある。だんだんと息苦しくなり、そのルサンチマンを自分より弱いところへ向けていく下からのファッシズムだ。その先駆的なモデルとして東京都が先導しつつある。(2004/9/23 9:43)

[いまや天動説の時代なのか]
 国立天文台などによる全国小学生(4〜6年生)対象の調査によると、「地球が太陽の周りを回っている」とする子どもは56%で、「太陽が地球の周りを回っている」が42%に達しているそうだ。太陽が沈む方角は、「西」73%「東」15%「南」2%となっている。小学校の学習指導要領では地球の自転・公転を教えず、教える月の形は「2つまで」で星座も「2つ又は3つ」とされている。星の彼方の神秘に胸躍らす年頃に宇宙への関心を封じ込めている教育に問題があると指摘しています。またこの比率は大都市ほど増大するそうで、都会の子どもは太陽が沈む地平線を見ることはなく、林立するビルで東西南北の感覚が分からず、また24時間照明で夜空の星を見る体験がないことも影響しているのではないかという。
 
 キリスト教会が絶対的な権力を持っていた時代には、聖書に記された神がいる地球が宇宙の中心であるとする天動説が真理であった。プトレマイオスは、「地球のまわりに見える事柄は、地球を天空の中央に仮定することによってのみ起こりうる」(『アルマゲスト』)と天動説を根拠付け、教会はこれに対する批判を徹底的に封殺した(ブルーノーの火刑、ガリレオ裁判)。コペルニクスが「美しいものをすべて確実に包んでいるところの天」(『天体の回転について』)として地動説を主張するまでに千数百年かかった。

 ブレヒトは戯曲『ガリレオ・ガリレイの生涯』で、ガリレオがローマ教会に屈しながら隠れて地動説の研究を続けたのを評価する第1稿を破棄し、その態度を間違いとする第2稿に改作した。その理由は、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下のニュースを聞いたからです。ガリレオが批判を拒否して処刑されていれば、その後の研究はなく(成果を伝書鳩に括り付けてオランダに飛ばした)、科学の進歩も数世紀は遅れたでしょう。しかしブレヒトはやはり、科学者の良心と社会的責任を問うたのです。

 さて私はこの地球で、現代でも或る種の天動説が跳梁跋扈しているように思う。それは星条旗を掲げる帝国が世界を支配し、星条旗の秩序が世界秩序になることを自然で当然なことだとする考えです。確かに星条旗帝国のボスの地盤である南部地域の学校では、聖書原理主義による天動説と創造説が公教育で教えられていますが、今やあたかも全世界で教えるべきだというような態度です。
 問題は私が生きているこの国で、それを支持して媚びへつらう首相が百鬼夜行のように動いていることです。彼は選挙で「この国を想い、この国を創る」というキャッチコピーを出しましたが、内実は「あの国を想い、この属国を創る」(マッド・アマノ氏の添削版)という実態です。このライオンヘアーの首相はかなりの権力を持っていますから、多くの人は内心は批判して違っていても、恐れおののいて屈従しています。そうして国中の隅々まで、正しいから従うのではなく、恐いから従うという雰囲気が充ちていこうとしています。「王様は裸だ」と叫ぶ子どもすらいないのです。ところが星条旗帝国の中では、ガリレオのような人が少なからずいて、「華氏911」なんて云うプロパガンダ映画をつくって痛烈にボスを批判しています。かの国では、人権と表現の自由の伝統は結構強いので、作者であるマイケル・ムーア氏は未だ殺害されていませんが、一方では大統領さえ暗殺する国ですから、彼のいのちの保障もありません。その彼が日本に当てたメッセージがあるので紹介しましょう。

 「俺はな、君らが世界でただ一国、実際に核攻撃を受け、多数の犠牲者を出した国の国民として、君ら日本人こそが、世界を核のない未来へ導いて行ってくれるのを期待しているんだ」(『アホの壁in USA』)

 ムーアさん残念ですが、今のところこの国はあなたの期待に応えてはいません。ばかりかますますあなたを裏切るかの事態が進展するでしょう。あなたの国はいま双子の赤字で倒産寸前で、不況を戦争景気で乗り切ろうとするために全世界で理由を付けては戦争を行っています。膨大な赤字を縮めるために全世界に配置された米軍を再編成し、その拠点として中東から中央アジア・東アジアの最高司令部を日本に置くというプランを示しました。陸軍第1軍団司令部(ワシントン)・陸海空海兵隊統合司令部を日本に集中するというものです。ムーアさんの言う「アホ大統領」は、次のように要求しています。
 @アフリカ〜バルカン半島〜中東〜東南アジアに到る広範なテロと紛争が多発している「不安定の弧」で、米軍配備が弱い
 A冷戦期の米軍編成体制を再編成し、「非対称性脅威」に柔軟に対応する
 B海外米軍基地の展開を4レベルに編成し、その筆頭である「戦略展開拠点」(PPH)に日本を位置づける
 具体的には、陸軍第1軍団、第7艦隊、第5空軍、第3海兵遠征軍を統合した柔軟反応戦略機能を持たせるというものです。これは明らかに日本が米軍世界戦略の中枢司令部になり、日本から全世界へ米軍が出動する体制を意味し、必然的に日本自衛隊が全面的な共同作戦をおこなうことを意味します。明らかに日米安保条約(私は不承認ですが)の「日本防衛」(第5条)と「在日米軍の極東展開」(第6条)の規定を逸脱した超法規且つ違法なプランです。このプランの実現は、必須として日本国憲法9条改正による対外戦争合法化と徴兵制を伴うものになるでしょう。

 あなたの映画にあるように、フロリダ州小学校の授業参観で9.11WTC事件を耳打ちされた大統領が呆然として判断不能な状態に陥っている様を通じて、全世界はすでに彼の無能を痛感して嘲笑していますが、アホが世界権力を弄べばどんな地獄が出現するか、すでにイラクの民衆は骨身に滲みて味わっています。日本も遠からずそうした煉獄を目にすることになるでしょう。

 第5福竜丸(*)元乗組員の大石又七さん(70)は語ります。*1954年3月1日の米軍ビキニ水爆実験で死の灰を浴びた23人のうち、12人がガンと肝機能障害で死去し、今もって被爆認定を受けていない。米政府は200万ドルの慰謝料で責任は認めない。大石さんも肝臓ガンで、子どもは奇形児で死産した。
 「ビキニ事件は私たちに核兵器の怖さを教えたが、いま3万発の核兵器が地球上にあり、なくすのが難しい状況だ。また戦争はしょうがないという動きもあります。もう一回戦争してみたら・・・と思うことがあるくらい、今の状況は物足りない。被爆者として怒りや悔しさでいっぱいだ」

 最強の星条旗帝国が世界秩序をつくるんだ、日本は星条旗モデルで国をつくる、核兵器は最高の抑止力だ、星条旗が世界の中心でそのまわりを他の国が回っているーという現代版天動説が徘徊し、世界は対等で国連による平和をめざす地動説は地に伏せていくかのようです。しかし天動説の最大の弱点は権力はあっても真理ではないという点にあり、しかも星条旗型天動説は財政破産国家という致命的な弱点を抱えています。いまのところその強大な軍事力による脅迫で、ガリレオ型裁判を強行していますが、遠からず平和共存の地動説が新世界秩序を形成するコペルニクス的転換が起こるでしょう。
 なぜなら神に全てを決めて貰って自分は動かないでジットしていることは、本質的に人間にはできないのです。自分で動き回りながら(自転・公転)世界を自分の力で変えていくというのが人間の地動説的本質なのです。いま星条旗に追い詰められた人びとが、破壊的な手段で絶望的な抵抗をしていますが、抵抗権を行使する全世界の民衆は遠からず一極帝国を包囲しひれ伏させて赦しを請わせるでしょう。私は、私の子どもと未来に対して野蛮な一極天動説の地球を残したくありません。(2004/9/22 11:07)

[厚労省「精神保健医療福祉の改革ビジョン」-精神障害者との共生は可能か]
 精神障害者とは、統合失調症(幻聴、妄想、思考障害)、うつ病、神経性障害(パニック)といった精神疾患を患う人を云い、全国に約258万人,32万人が精神科病院に入院し、うち3分の1以上が10年以上の入院生活をおくっている。日本の病院の総ベッド数183万床のうち5分の1が精神科だ(02年度厚労省調査)。日本では精神障害者が利用できる地域の福祉サービスが貧困で、家族依存の傾向が強く、ここから医学的入院ではなく社会的入院といわれる事態が放置されてきた。現在精神病床は35万床であり、社会的入院患者が町域に渡って人生を病院内で過ごしている。厚労省ビジョンは、入院医療中心から地域生活医療中心への転換を進めることを基本に、2015年までに7万2千床を減らして社会復帰させ、1年以上入院している人の年間退院率を29%以上(現21%)にするというものだ。退院患者は、地域のグループホームなどでリハビリや作業によるサービスを受けるという。日本の精神障害者政策は欧米から30年遅れていると云われる。
 果たしてうまくいくか。2003年度「新障害者プラン」では、精神障害者グループホーム12000人分、生活訓練施設6700人分という目標にはほど遠い計画で、しかも申請の2割しか補助金を認めず、今年度も132件申請のうち78カ所しか認めていない。つまり目標と実態があまりにも乖離しているのだ。一方では精神障害者犯罪観による地域の相互監視システムが警察庁の主導によって全国に展開されている。これは主として薬物濫用やテロと精神障害を同次元で扱う社会的風潮を誘発している。他方では、市場原理主義による自己責任論が蔓延し、障害者を社会的に排除する動向があり、最悪の場合は遺伝子的処分に到る措置を考える潮流もある。
 厚労省のビジョンは、WHOの国際標準に基づいた外圧的側面もあるが、その十全な実現に向けた国民的運動が草の根から起こらない限り、机上のプランに終わるだろう。誰しも発症する可能性を持った緊張社会そのものを転換させる必要がある。(2004/9/21 10:26)

[日本のセイフテイネットは崩れつつあるのか]

 日本のセイフテイネット制度の基軸は云うまでもなく、生活保護制度にある。現在生活保護を受けている人と世帯は、1995年・88万2千人(60万2千世帯)から2004年度3月時点で139万1千人(97万世帯)に急増している。この生活保護制度をに対して厚労省は、4月1日から老齢加算をカットし、今後3年間で全廃する。これら保護費減額に対する不服審査請求が全国600件を超えた。さらに厚労省は、母子加算について低所得者の勤労母子世帯から基準額が高いことを理由に廃止する方向だ。さらにさらに厚労省は、給付費の4分の3を占める国庫補助(4分の1は地方自治体)を3分の2の補助率への引き下げを提案している。さらに厚労省は、受給者の就労計画を点検し、不充分な人の保護費減額と停止を考えている。この政府の動向を先取りして、北九州市門司区は、保護申請者の生活歴に犯罪歴を申告させ、65歳以下の人への無条件の就労を迫っている。
これに対し、全国知事会長と市町村会長は連名で「生活保護事務を返上する」とし、指定都市市長会も国が経費の全額を負担すべきだとする強硬な抗議をおこなった。
 かって資本主義経済のもとで誘発される貧富の差は、個人の責任として「同情慰謝の念」による救貧思想の対象であったが、20世紀になって恐慌による失業など個人責任説は否定され、生存権思想による社会保障思想が定着した。「全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と高らかに宣言した日本国憲法25条によって、「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低の生活保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」生活保護法(第1条)が制定されている。日本では歴史的にお恵みとしてとらえられ、受給者も恥の感覚があったが、そうではないのだ。病気や失業・倒産によって収入の道が絶たれた者は、本人のせいだから行き倒れてもしょうがないという考えは否定され、そうした人を守る責任が政府にあるということだ。「最低限度の生活」は食べて寝れればいいという原始的な1次元の生活ではなく、「健康で文化的」な生活でなければならないとしている。日本最初の生存権裁判である「朝日訴訟」が人間裁判といわれた意味はそこにある。その水準は、「政府予算の有無によって決定されるものではない」(朝日訴訟東京地裁判決)のだ。
 いま日本では、バブル崩壊後戦後最大の不況が続き、企業倒産などによる世界有数の自殺者数と失業者数となり、医療費患者負担10%→30%になって病院に行けばギョッとする多額の医療費が請求される。政府による国民負担計画は、年金保険料引き上げ毎年0,354%(年6000億円増)、所得税の公的年金控除縮小と老年者控除廃止による2400億円、住民税の配偶者特別控除縮小と公的年金控除縮小、老年者控除廃止による3980億円、雇用保険料引き上げによる3000億円、国民年金保険料引き上げによる毎年800億円など目白押しの弱者自己負担計画だ。すべてのセイフテイネットの基礎をなす生活保護制度の削減はまるで19世紀救貧思想への退歩の道を歩んで歩んでいるかのようだ。

 生活保護は、生活・教育・住宅・医療・出産・生業・葬祭・介護の8つがありその中心は生活扶助だ。基準は地域と世帯状況によって異なり、東京23区・4人世帯では、生活・児童養育加算・教育・住宅を合わせて月額27万8670円となり、実際にはその世帯の収入額を差し引いた額が支給される。皆さんは4人家族だとして27万8670円で「健康で文化的な生活」ができると思いますか。しかも厚労省は、受給者を減らすために、資産監査・収入認定・扶養義務徹底などを厳格化し、所得が低いからといって簡単に受給資格を認めないように審査基準を厳格にしています。「働けるのに働いていない」、「住所が定まっていない」等の理由で却下される例が起き、ブルーテントで生活するホームレスが激増しています。

 生活保護受給者数131万1千人、精神病患者258万人、完全失業者数319万人の人たちから30251人の自殺者の多くが誘発され、その基礎には潜在予備軍としての1654万人の非正規労働者が存在する。これらを単純に合計すれば2224万人強(約17%)の人たちが、不安定な社会生活におとしいれられている。これはもはや社会自体の存続がゆらいでいる末期的な天文学的データではないか。プロ野球選手が、スポーツマンとしての尊厳をかけてストライキによって野球の将来を訴えているが如く、追い詰められた生活困窮者の「暴動」が起こったとしても不思議ではない。(2004/9/20 21:17)

 厚労省社会福祉行政業務報告(9月29日)は2003年度中に「に生活保護を受けた世帯の実態を明らかにした。
 1ヶ月平均受給世帯 94万1270世帯(はじめて90万世帯を突破し過去最高 前年度比+7万339世帯+8,1%)
 世帯類型別 高齢者43万5804世帯 障害・傷病者33万6772世帯
 03年9月に受給を開始した世帯 1万9440世帯
 保護開始の主な理由 傷病38,6% 収入喪失20,4% 医療緊急扶助18,4%
 03年度1ヶ月平均生活保護受給者数 134万4327人(前年度比+10万1604人) (004/9/30 8:48)

[プロ野球選手会ストライキ支持宣言]
 日本プロ野球選手会と日本プロ野球組織(NPB)の団体交渉が決裂し、ついに日本プロ野球史上はじめての画期的なストライキ突入という事態に至りました。本サイトは選手会のストライキを全面的に支持する立場から、このストライキの意味を考えます。
 今次ストライキの責任は、基本的にプロ野球を一貫して私的財産とみなし、狭い企業経営の観点からのみプロ野球を位置づけて、戦略的な改革構想を提起し得ない経営陣の無能にあります。のみならずプロ野球を一極支配する巨人元オーナーの独裁に追随し、野球ファンと選手を侮蔑し裏切ってきたオーナーに根本的な責任があります。渡辺恒雄元巨人オーナーは、自らの一極支配に目が眩み、ファンと選手を利潤を挙げる商品としか見なしていなかったのです。彼の罪は万死に値すると言っていいでしょう。例えば、渡辺氏の意向に必ずしも従わなかったオリックス・ブルーウエーブは、オープン戦の巨人戦を組まされないいやがらせが依然として続いています。
 NPBは球団削減による10球団・1リーグ制というパイの争奪による生き残りという狭隘な視野からしか問題を提起できず、民間企業のM&Aと同じ論理で考えてきました。彼らはプロ野球の文化スポーツという公共財性について、まったく無知であり、プロ野球の可能性を自ら放擲するという致命的な破滅の道を選ぼうとしたのです。プロサッカーの地域フランチャイズ制による驚異的な発展から、何の学習もしていない彼らは、経営者としても失格しているのです。プロ野球の公共財性という観点から云えば、経営の立場を超えた権限を持っているはずの根来コミッショナーが、何ら指導責任を発揮せず傍観者として振る舞った無責任な姿勢は許し難いものがあります。彼はストライキ決行を受けて辞任を発表しましたが、むしろ遅きに失しました。
 この全過程を通じてプロ野球選手会は、解雇という自らの選手生活の危機にとどまらず、プロ野球総体の危機を打開するという立場から行動してきたと云えます。それは彼らが単なる労働者としての労働条件に留まらず、プロ野球という国民的スポーツを維持発展させようとする深い責任感があったからです。
 さてこのストライキは日本プロ野球にとって一時的には打撃となり、特に選手は損害賠償請求に直面して血を流さざるを得ません。しかし何よりも選手会は、組織が組織自体を壊滅させる誤った選択をしたときに、個々の人間が尊厳をかけて権力に抵抗するという、今の日本から姿を消そうとしている人間的矜持の原理を鮮明にしました。ここに古田会長を先頭とする選手会を無条件に支持する最大の根拠があります。しかし今次ストライキが何らかの具体的な意味を残して終わるための具体的な成果が必要です。それは、今次ストライキが、選手会のただ単なるヒロイズムに終わらない貴重な成果でなければなりません。以下はそのための一定の提言です。

@日本プロ野球を企業経営組織から、企業を含む地域経営組織へ脱皮させる(地域フランチャイズ制にする)
A球団経営に於ける収入の平準化システムを導入する。具体的には、放映権と放送権、マーチャンダイジング(商品化権)、スポンサーシップをコミッショナーが一元管理して、全球団に一定のルールによって分配する。
B球団経営に於ける支出の平準化システムを導入する。ドラフト制の自由獲得枠を廃止して完全ウエーバー制に移行する。FAとトレードにおけるサラリーキャップ制を導入する。
C新規参入の条件を緩和し、メジャー的型1部・2部・3部制の独立リーグ制にする。
Dプロ野球選手の最低年俸制を適切に設定する(*平均10年の選手生命の平均年俸380万円は生涯賃金とは云えない)
Eセ・パ両リーグの交流試合を設定し、或いは入れ替え制を導入する。

 最後に。苦衷の表情を浮かべてファンに詫びる古田選手に比べて、NPBの選手会攻撃の声明は卑劣の極みである。選手会の苦悩は深まり、経営者はせせら笑うだろうが、どちらが将来に誠実であるかはもはや満天下に明らかとなっている。激化する懐柔や分裂工作にひるまない選手会の至上の団結を確信し、こころから連帯の手を差し伸べたいと思う。弱肉強食のジャングルの市場と化しつつある日本の社会に正面からチャレンジするあなた方は、現在にあって日本の未来を代表している。最後に経営者に聞きたい。あなた方は選手会のストライキが「違法・不当」と攻撃しているが、その根拠はなにか。労働組合が争議権を行使するのは、東京高裁の裁定の如く基本的な人権ではないか。いま日本の企業で相次いでいる暴風のようなM&Aに対して、労働者は声を挙げることもできず屈従している現状こそ、世界から批判を浴びる異常な事態なのだ。
 
 付記:深夜1時に近い民放TVに古田選手が出ていたのには驚いた。彼はこの数ヶ月は試合と選手会の会議と団体交渉で神経をすり減らしているのではないか。番組の中で、根来コミッショナーが全球団のオーナーに「選手会は労働組合ではないから、もっと強行に臨め」という極秘文書を流していたことが暴露された。彼は事態が混乱して責任をとって辞職したのではなく、遁走したのです。なんだこれは! ファンからの激励のメッセージを聞きながら、古田選手の瞳が潤み、最後には絶句していた。その涙を見て私は表現しがたい誠実さと真剣さを覚えた。そこには真剣に戦う者のみが持つ確かな美しさがある。ダイヤのように輝く涙が頬を伝わってしたたり落ちた。おそらく渡辺恒雄は冷ややかに冷笑しているだろう。
 私たちファンのとりうる最後の選択肢は何だ!? 私はふたたび読売新聞の不買運動を呼びかけることを真剣に検討する。この間の読売新聞社説の題字は、「ファン裏切る億万長者のスト」(18日)、「選手会の弁護士と一握りの選手によって議論は振り出しに戻った」(19日)、「不毛なストの代償は大きい」(20日)など選手会に対する一方的な悪罵に充ちており、文化公共財としてのプロ野球の発展戦羅薬の構想などは微塵もない。スト目的に年俸アップは全くなく、選手会は団結しているなど初歩的な事実認識がなく、経営者の立場をオーム返しに繰り返すエピゴーネンに過ぎない。経営管理事項論に依拠して、黙ってプレーせよと呼びかけているに過ぎない。これはまさにファッシズムに酷似している。論説委員はボス・ナベツネの顔色をうかがって媚びへつらい、社会の木鐸としてのジャーナリストの意味をどこかへ置き忘れてしまっている。読売新聞が事実と真実に基づいた報道をしない限り、自然発生的な不買運動が起きるだろう。いやもう始まっている。(2004/9/18 1:00 9/21 10:00追加)

[9・11陰謀説について]
 9・11事件はアルカイダ・グループが旅客機をハイジャックして起こし、米政府はアフガン・タリバン政権に報復攻撃をおこない、次いで無関係のイラクを大量破壊兵器疑惑で征服・占領するというように流れたかに見える。しかしここにきて、9・11を巨大なフレームアップとして疑惑を投げかけるさまざまの情報が飛び交っている。その最も有名なサイトが「9・11in Plane Site」という英文サイトであり、その日本語訳サイトも開かれ、それに依拠した航空評論家のサイトもある。ここではそこで出されている疑問の主要な点を挙げて、皆さんの判断を仰ぐことにする。

@「米国防省に衝突したのはミサイルだ」という事件直後の目撃者の証言が無視されたのはなぜか。
A国防総省が攻撃された直後の外壁には直径5mの穴があり、外壁が崩壊した直後の穴の幅も航空機の機体の半分以下なのはなぜか。幅40m以上の機体がなぜ5mの穴しか残さなかったのか。航空機の残骸や遺体や荷物が一切ないのはなぜか。消えたボーイングはどこへ行ったのか。
BWTCに航空機が激突する直前に閃光が走っているのはなぜか。なぜビル崩壊以前に多くの人が爆発音を聞いたのか。
CWTC第7番ビルは、「危険だったので解体爆破を指示した」とシルバーシュタイン(ビルのオーナー)がCBSインタビューで答えている。あの惨事の中で、ビル解体業者に爆破を指示し、実行することが可能なのか。
 
 サイトは、詳細な写真入りでこの他にも多くの具体的な疑問を投げかけている。陰謀説を前提としないで、冷静に事実を客観的に分析して疑問を指摘し、サイト閲覧者の判断に委ねている。確かに歴史の転換点でフレームアップが組織され、歴史に大きな影響を与えたことは数限りない(ナチスによるドイツ国会放火事件はその白眉だ)。ここでは陰謀説を主張するつもりはない。先記したサイトを訪問し、自分の目で確かめていただきたい。(2004/9/17 21:38)

[ウーン 無条件に頭を垂れる まだまだ人間は捨てたものではない]
 84歳にして小学校1年生 キマニ・ンガンガ・マルゲさん(20年1月生まれ)。ケニアの首都ナイロビの北西300kmにある穀倉地帯の町エルドレッド郊外のカプケンデユイヨ小学校に昨年入学。ケニア新政権が小学校教育を無料にしたことを聞いて決意、最初は校長に「制服が必要」と追い返されたが農作業のアルバイトで得たお金で制服を買い入学を許可された。世界最高齢の小学校入学ーとギネスブックから認定された。毎朝授業開始1時間半前に来て校庭の片隅で予習する。ここまでは美談の部類にはいるかも知れない。8人兄弟で貧しく学校に行けなかった彼は、50年代に英国からの独立をめざす武装組織・マウマウに参加し、8年間の獄中生活で拷問で左足の指を失い、両耳に障害が残った。6年前に妻に先立たれ牛と羊の世話をして暮らす。「家族のような子どもたちと勉強できてとても幸せだ。学校で学ぶ悦びを知らない人はぜひ自分に続いて欲しい」・・・・。ケニアといえば、想い起こす輝かしい独立運動の指導者・ケニヤッタは、私の青年時代にガーナのエンクルマやコンゴのルムンバ(虐殺)と並んで輝かしい存在であった。かっての独立運動の一戦士が、いまこのようにして黙々と働き、なお学びへの参加を志す生き方に胸をうつものがある。同時期に反体制運動に参加した先進国の若者も今や高齢に達して、ほとんどが転向してしまった。

 同じく84歳の原田義道さん。尋常高等小学校卒業後に就職し、76歳で退職して夜間中学に入学、定時制高校を経て昨年明星大学経済学部に入学。彼の英語のノートはカタカナでいっぱいだ。法学の授業で中国戦線での放火と略奪の体験を初めて語った。「知らないことばっかりで毎日が新鮮だよ。何もかも。生きるって学ぶことだよ。人生に余生なんてないんだよ。1日、1日を大切に100%生きる。幾つになっても夢は叶うと思うよ。今の夢?大学院で学びたい」・・・。(畏れ入りました)

 94歳登山家・板倉登喜子さん。10歳で父に連れられて山へ、25歳で谷川岳岩附付近でエーデルワイス(薄雪草)に出会ってから、日本と世界の山へ登る。56歳でペルー、62歳の退職でネパール、インド、カナダ、スイスには28回、88,90,91歳でモンゴルの無名峰に3回、岩手県の早池峰山には薄雪草を求めて毎年登る。「来年は誰もいかないエーデルワイスの咲いた山を探して行こうと思っている。いのちの続く限り登りたい」・・・。女性の登山を開拓した先駆者は今も元気だ。

 93歳組子職人・佐藤重雄さん。飾り障子や欄間の透かし彫り、茶席に使う風炉先屏風は薄さ1,5mmで人の爪ほどに切った木片を接着剤や釘を使わず、1枚1枚組んで8千枚の文様をつくる。気の遠くなる作業だ。名人といわれた父の後を18歳で継ぎ、50歳で初めて面白さが分かり、60歳で仕事が分かってくる。100以上の編み出した技法を惜しげもなく弟子に伝える。東京のお茶の師匠の「お金なら幾らでも出す」という言葉で売るのをやめた。「私たちが最後になってしまった。使う道具を作る職人がいない。昔の職人がよくぞ、こんな素晴らしいものを残してくれたと感心する。いいものだけをできるだけつくっておきたい。長く続けると、仕事が教えてくれる。だから長生きしないとつまらないんです」・・・・。ウーン、まさに職人芸術の世界だ。ものづくりの極地だ。自分のいのちと作品が一体となっている。魂が入っているんだ。現代の使い捨て、モデルチェインジで大量廃棄している産業を撃ち抜く世界だ。

 世界がどうあろうとも、自分の世界を貫くことが、結局は世界とつながっているーという弁証法の証しではないか。9月20日敬老の日をひかえて。人間はどのような存在であれ讃歌されるものだ。(2004/9/17 18:16)

[Think Globally Act Now]
 @経済の不安 国連貿易開発会議(UNCTAD)『2004年版貿易開発報告』(9月16日)から。
 世界経済の状況と途上国の経済見通しは1年前より明るいが、需要の不均衡な分布と原油価格の高騰が為替レートに影響を与え財政不安定と成長率の鈍化を招く危険がある。世界経済は2年間の低迷後、米国経済と東・南アジアの好調で03年に2,6%、04年に3,8%を記録した。しかし米国の赤字拡大による米国依存の持続性に不安をもたらしている。03年成長率は、途上国4,5%、移行経済国5,9%であったが工業国は2,0%にとどまった。途上国の成長率格差が拡大し、中国・インド9,1%、東・南アジア全体6%であり、中南米諸国も回復傾向があるが、アフリカ諸国は回復の恩恵はない。

 A政治の不安 『ホルナダ』(メキシコ有力紙社説)より。
 「国際平和と安全が深刻に悪化し、人道的な国際法の有効性が後退した。ブッシュ大統領の原理主義は、西欧の大惨事を脅かすイスラム過激派と同じであり、両者とも同じ言い訳で世界を恐怖に陥れ続けている。互いに戦争装置に油を注ぐ口実として役立っている。文明社会全体にとって、テロと反テロの両極の原理主義が脅威となっている」
 アナン国連事務総長(BBCインタビュー 9月15日)
 「ブッシュ政権のイラク戦争は、我々国際社会の観点からも、国際連合憲章からも違法なものである。私はこれから先ずっと、国連の承認や国際社会の広範な支持のない、イラク型の戦争が起きることを目にしたくない。ブッシュ政権の先制攻撃戦略は国連憲章の平和ルールへの根本的挑戦だ。治安状況が現状のまま続くなら、信頼できる選挙は実現しない」
 パウエル米国務長官(上院政府活動委員会公聴会証言 9月13日)
 「我々が化学・生物兵器のどんな備蓄についても発見しないということとなった。我々が何らかの備蓄を発見することはありそうにないと思う。そして我々は、立ち返って、なぜ異なった判断をしたかの理由を発見しなければならない」
 
 B自然の不安 東大・国立環境研究所・海洋研究開発機構「地球温暖化予測」(9月16日)
 IPCC(気候変動に関する政府間パネル)作成の2つの温暖化シナリオに基づいて、「地球シュミレータ」(海洋研究開発機構)による地球全体の気温と降水量の計算をおこなった。1つのシナリオでは、2071年ー2100年に平均気温が1971年ー2000年と比較して4℃上昇、降水量が6,4%増加し、他のシナリオでは気温が3℃上昇、降水量が5,2%増加するという結果が出た。日本の夏は、前者では6−8月の最高気温が4,4℃上昇し、降雨量が19%増加する。後者では、最高気温が3,1℃上昇し、降雨量が17%増加する。真夏日は現在の3倍となり、東京は1年の半分が真夏日となる。

 C社会の不安
 03年度の配偶者暴力相談支援センターの相談件数は、増加の一途で4万3225件に達し過去最高となった。DV被害者は協議離婚のために直接に話し合いを求めるのは危険であるため、DV裁判を起こすのがいいが、現状の法制度では難しい。「調停前置主義」によって、まず最初に家庭裁判所への調停を申し立てなければならない。調停は一方が不同意であれば引き延ばされる。一般の主婦にとって、裁判自体の知識が不足し弁護士費用の着手金が40万ー50万かかり、それに実費と終わった時点での成功報酬がかかる。資力のない人のための「財団法人法律扶助協会」の立て替え制度があるが、調停だけで15万円、裁判は別途料金が20万円かかり、結局弁護士を付けないで本人弁護を頑張る人が多い。米国ではDVを特別に扱うDV法廷があるが、日本も調停前置主義の例外をつくらないと、DV被害者は孤立無援の状態が続く。
 東京都観察医務院の調査では、2002年の餓死者は34人であり、90年と較べて2倍を超えた。この10年間で餓死者は229人となっている。豊島区では77歳の母親と41歳の息子が餓死(96年)、杉並区では老夫婦が餓死(01年)。ほとんどが、失業・倒産による収入途絶で、ライフライン(電気、ガス、水道)の滞納と一方的な供給停止による餓死である。餓死以前に自殺を選ぶケースも激増している。背景に社会保障費削減による生活保護基準の支給規定の厳格化と保護費減額がある。『誰も知らない』事態が確実に広がっている。
 警視庁捜査2課によると、都内1−8月に発生したおれおれ詐欺は未遂も含めて808件、被害総額15億4300万円で、昨年1年間の10億5600万円をはやくも上回った。最近の傾向は、警察官を偽装し被害者の身内が事故に遭ったとして示談金名目で騙し取るケースが25%を占め、被害者が高齢者から主婦層へ移行している。

 (筆者コメント)国務長官の証言は、イラク戦争の戦争目的が虚偽であったことを初めて公式に認めた重大な意義を持っています。国際法と国連憲章に違反した戦争犯罪であったことを認めたわけです。パウエル氏は、米国情報機関の欠陥に限定しようとしていますが、米国政府の国際法上の戦争責任と2万人を超えるイラク人死傷者への賠償責任を果たさなければなりません。
 Cについては本日の朝刊・社会面から拾い上げたものです。何れも社会のシステムそのもののゆらぎを示しています。@からCが複合的な様相を呈し、負の側面を並べ上げれば末世のような状態です。問題が提起されたときには、すでに解決が8割の可能性で準備されているーとは誰かの言葉ですが、ほんとうにその真価が問われています。冷静な対案とオルタナテイブもまた確実に進展しています。人類史が到達している全智を傾注して、一人一人が自分の足下で取り組むなかに希望があります。
   Think Globally Act Locally  Think of the Future Act Now      (2004/9/17 14:02)

[寄贈による肘掛けベンチの登場と善意のファッシズム]
 近ごろ公園のベンチが次々と新しいものに取り替えられている。ベンチの背に名刺大より少し大きいプレートが貼り付けられ、そこには寄贈者の名前とコメントが書き添えられている。東京都公園管理予算が縮小され、市民が寄付する替わりにネームを付すという、いわばPFIの行政手法のよく分かる形だ。
 新たに設置されたベンチの形状は、2人がけで背もたれが付いているが、ベンチの両端と中央に肘掛けが付いている。前のベンチは肘掛けが一切なく、ゴロリと横になって寝そべったり、家族で弁当をひろげて食べることができた。なぜ不便な肘掛けをわざわざ付けたのであろうか。おそらくホームレスが寝床にするのを防止するためだろう。
 このベンチは現代日本のある種の社会構造の特徴をみごとに象徴的に示している。意識しにくいソフトな形で公園からホームレスを排除し、しかもそれが市民の善意の寄付によって推進されていることだ。そもそも「公園」は全ての市民に開放され、その使用の機会に差異はないはずだが、結果的にはホームレスの市民権を排除するという仕組みになっている。中央に肘掛けがある利便性を考えると、複数の他人が同時に安定的に座ることができるということにあるかもしれない。しかし自由な安らぎの空間である公園は、見知らぬ他人との自然なコミュニケーションがおこなえるように施設がセットされているのが普通ではないか。個人を肘掛けで切り離す肘掛け付きベンチは、ある超越的なちからによる個人の分断があるように思われる。それは大げさな考えだ、というのであれば、少なくともホームレスを排除する効果を生むベンチは、異端排除の日常意識の具体化ではないか。とにかく私は直感的に息苦しさを覚えてしょうがないのだ。
 さらに現在宣揚されている「新しい公共」とか「第3の公共」という、政府(自治体)でもなく企業でもない、市民による自発的な社会参加という公共モデルの転換の一つの悪しき具体化ではないか。もちろん寄贈という市民の善意の尊さを否定するものではないが、それが生活関連公共サービスの削減とセットで推進されているならば、それは善意を利用する悪意でしかない。こうしたケースは、皆さんの街でも違った形で多様に導入されてくるのではないか。そして肘掛けベンチを批判的に見る人は、異端として市民の中で孤立していくのではないか。公共性をどういちずけるのかという本質的な問題があるような気がする。以上は大塚英志氏(漫画家)のエッセイを参照して考察。(2004/9/16 9:35)

[だまされること自体がすでに一つの悪である]
 1945年の敗戦で、日本人の多くは「だまされた」と云いました。伊丹万作(映画監督)は、「だまされること自体がすでに一つの悪である。あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切ををゆだね、『だまされた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」と書きました。それから60年を経た今、私たちは再び「だまされ」ようとしてはいませんか。
 
 1937年6月4日に、今の小泉首相をはるかに上回る熱狂的な期待を持って登場した近衛首相(敗戦時ピストル自殺)は、3つのキャッチフレーズを云いました。@国際正義による真の平和 A社会正義による施設実施 B革新による国家=新体制です。これは今の小泉首相の「国際貢献」「構造改革」と酷似しています。時代が行き詰まったときに、ある種の革命的なスローガンが国民の心をつかみますが、近衛の実際の行動は@「国際正義」=満州から南京占領 A「社会正義=国家総動員法 B新体制=大政翼賛会というファッシズムの完成でした。この時に国民は、欧米帝国主義からアジアを解放するという期待を抱いて「だまされた」のです。それは300万人に上る日本人を犠牲にして2000万人のアジア人を虐殺する悲惨な結果となりました。戦争拡大を批判した朝日新聞の幹部は、「従業員とその家族のことを考えると、軍部と闘って会社がつぶれるという覚悟ができなかった」と在郷軍人会の朝日新聞ボイコット運動に屈服しました。敗戦後のドイツでは、全ての新聞がナチスに協力したとして廃刊となりましたが、日本では同じ題字で途絶えることなく発行されてきました。後から振り返ると、「あれが曲がり角だった」という決定的瞬間がありますが、その時は日常生活のなかでの慣れで身に迫る深刻さは感じません。

 時代の雰囲気を丸ごとつかむような言葉がメデイアを覆い、国民は茹でガエルのようにその雰囲気に呑まれていきます。いま「日米同盟」として「同盟」という言葉が無自覚に使われていますが、かって鈴木善幸首相が「同盟」という言葉を使ったときに、時の外相は抗議の辞任をしています。少年犯罪で登場する「心の闇」という言葉は、明らかに異物を排除する効果を持っています。「国益」とは誰の利益なのかを曖昧にしてイラク占領軍に参加していきました。戦場から送られるリアルなデジタル映像によって、逆に迫真的な真実のリアル感は薄くなり、9.11WTCの映像から驚愕と恐怖は伝わりませんでした。汎用的な言葉とバーチャルな映像が、どんどん人間の想像力を衰弱させています。管理されているにもかかわらず、その実感がないまま管理が進行しています。『1984年』(ジョージ・オーウエル)では、ビッグブラザーという巨大な独裁者がニュースピークという、日常会話の語彙を貧しくして国民から思考を奪う究極の管理社会が登場しますが、いまこの日本でほんとうに自分の言葉で思考している人はいるでしょうか。メデイアに登場する言葉と思考に乗っかって、強い多数派になびいている安心があるのではないでしょうか。

 「人の生きるはパンのみにてあらず」と同時に「人はパンなしに生きられない」のです。限界状況で「パン」に手が伸びるのは当然なことなのです。そこに毒が仕込まれていても食べざるを得ないのです。そうして多くの人が毒を食べて、後から「だまされた」と云って悔いてきたのが歴史なのです。「王様は裸だ!」と云えるのは、子どもであって生活を抱えた大人は云えないのです。そうして連綿と歴史はつくられてきました。しかしどこかに「パンのみのために生きているんではない!」という心が確かにあり、その声がじょじょに蓄積してきているのも歴史なのです。パンがあって初めてパンなしに生きられるのですが、辱めを受けるよりは死を選ぶのは人間であることの条件でもあります。動物のような卑しさと神のような高貴さの両極に引き裂かれているのが人間です。しかしたとえそうであったとしても、「だまされた」経験を次世代に伝え、後継世代が同じ経験をしないようにする学習のちからが人間にはあります。
 大きな物語ほどだまされやすいのです。いくさや革命といった巨きな言葉が登場したときにこそ、先行世代の学習を生き生きとよみがえらせなければなりません。そしていまがその「あれが曲がり角だった」という瞬間ではないでしょうか。学習効果を積んできた日本の人たちは、日本国憲法改正案を否決するでしょう。私は、自分の祖父母や戦争で逝った父母の眠る墓の前に立って、日本国憲法改正の報告はできません。(2004/9/15 11:55)

[AK47自動小銃で武装しながら殺し合う米国社]
 米国で攻撃用武器の保有を禁じた攻撃用武器禁止法が10年の期限を経て9月14日に失効した。AK47自動小銃やウージー短機関銃などの軍事目的に使われる攻撃用武器の個人保有が解禁となり、銃砲店に発注が殺到している。銃愛好者団体である全米ライフル協会(NRA)の強力なロビー活動によって右傾化する米国政治は、大統領選挙を控えたブッシュに禁止延長のサインを押させなかった。民主党ケリーもNRAの歓心を買うために選挙集会でライフル銃を振りかざして銃愛好者であることを印象づけた。
 攻撃用小銃は「自己防衛」のレベルを超える殺害目的の兵器であり、銃を持つ権利を認めている米国憲法修正第2条の範囲を明らかに逸脱する。私はかってフランスからイタリアを旅行したときに、空港で重武装した軍人が警備しているのに出くわして、恐怖に近い違和感を感じたが、米国では普通の一般市民が重武装することができるのだ。マイケル・ムーアの「ボーリング・フォア・コロンバイン」をみるまでもなく、犯罪や無差別殺人とテロが急増するだろう。果てしない相互不信と暴力の連鎖の社会が出現するだろう。世論調査では、大多数の米国市民が攻撃用武器の禁止を望んでいるのも関わらず、なぜ一層武器社会を強化する選択をするのであろうか。
 ここに西部開拓期から連綿として形成された米国の自己責任による安全思想をみることができる。西部開拓期の決闘では、相手に先に抜かせて撃った場合のみ正当防衛を認めたが(だから西部劇のドキドキする決闘シーンが生まれる)、いまやブッシュは予防的先制攻撃論の正当性を主張しているから、これが市民間の私闘に適用されると、銃による無制限の殺し合いの地獄が出現する。西欧近代社会は、個人の生命保全のための個人武装を認める段階から、無制限の殺し合いを避けるために一定の集団のみに武装権を認めて市民の安全を守るシステムに移行したが(近代国家の警察権の根拠)、ただ一つ米国のみが近代前期の野蛮な自己防衛権を引きずってきた。
 いまや米国は世界で最も野蛮な国となった。武器に対する歴史的な無感覚は他国に対する無辜の市民の殺害を楽しむかのような感覚を醸成している(イラク刑務所虐待)。米国の自由と民主主義は、攻撃用武器でしか守れない危うい水準に頽廃している。米国市民は、せっせと昼休みに射撃練習場に通い、人よりも速く精確に撃って殺害する練習にいそしむことになるだろう。富裕層は、セキュリテイを張り巡らせた24時間監視システムの高級住宅街を要塞化し、貧困層をテロの温床として敵視するような分裂社会が完成するだろう。その行き着く先は、相互に殺し合う殺害ゲームの社会で全身から血を滴らせながら自己崩壊していく憐れむべきジャングルの檻である。ペン(文化)は剣(暴力)に対して無力なのだ、米国では。(2004/9/15 9:52)

[現代をどう生きたらいいのだろう]
 自由民主党は05年11月策定の憲法改正案に向けて次のような「論点整理」をだしました(6月4日)。
 @前文の全面的書き換え→利己主義的風潮を改め一国平和主義の誤りを正し、日本の伝統文化を盛り込む
 A9条2項を変えて軍隊と集団的自衛権を明記する
 B新しい権利を追加し、家族扶助の義務と非常事態での国民の協力義務を記す
 C2院制を廃止し、政府閣僚の文民条項を削除する
 D憲法裁判所を設置し、最高裁国民審査を廃止する

 このプランは、戦前期の北一輝「日本改造法案大綱」に匹敵する保守クーデタの性格があります。なぜなら近代憲法は、国民が王の専制を縛るためにつくったのですが、この案では国家が国民を縛るという根本的な性格の変化があります。「お国のためにいのちを投げ出してもかまわない日本人を生み出す。いのちを投げ出した人があってはじめて、今ここに祖国があるということを子どもに教えることができる。国民の軍隊が明記されてはじめて、国民教育が復活する」(教基法改正促進委員会結成集会 西村衆院議員)という戦争国家が復活します。すでに東京都では「憲法も教基法もない」(石原都知事)というクーデターが進んでいます。
 この基底には、国際競争を勝ち抜いて生き残る多国籍企業をバックアップする国家構造の再編成があります。多国籍企業にとってのコスト負担となる従来のケインズ国家を廃止すると云うことです。要するに、強いか弱いか、生きるか死ぬか、勝つか負けるかという2項対立にすべてを委ね、もはや国家は勝ち組しか支援しないというかたちです。それに抵抗する者には、圧倒的な軍事力のハードウエア(軍隊)とそれを支持するソフトウエア(愛国心)で包囲し殲滅するというモンスター国家です。
 さて9条の理念と現実の背理を、現状に合わせて新たな規制で自衛隊を統制するという「立憲的護憲論」がありますが、ここにきてその論の限界が露わとなりました。案は平和原則を原理的に否定して集団的自衛(と予防的先制攻撃)国家を転じようとしているのですから、条件の可否をめぐるレベルではなくなってしまったからです。すでに米国は、愛国法によって不服従の市民を拘束する全体主義(ファッシズム)国家の様相を呈してきました。自由は、戦争をする自由のみを認め、しない自由は合法的に抑圧するという国家はすでに半ばファッシズムです。日本でも外見的議会主義に基づく超法規的なイラク派兵という、実質的なクーデターが進展しています。
 こうしてできあがる国家は、戦前期のような帝国による覇権を競い合う対抗国家ではなく、多国籍企業を共通の基盤とする超国家連合の一翼を担います。その統括者がアメリカ帝国であり、もはや国連ではありません。すでにWTOやIMF、世界銀行の決定は、国際連合の決定を超える強制力を持って世界を支配し、軍事的に米軍が国連を超えるユニラテラリズムを演じていることで証明されます。
 ただし多国籍企業の行動とナショナリズムは内部矛盾をはらんではいます。経済同友会は、海外進出マニュアルで、君が代は儀式上の国歌として認めるが海外企業で働く従業員に歌わせるわけにはいかない、国家とは別の国民歌をつくれと云っています。多国籍企業の自由を無条件に実現しようとする新自由主義の考えは、平等権を排除し一定の自由権を認めます。アジアとうまくやるためには君が代を歌わない自由が必要なのです。こうしたナショナリズムと新自由主義の内部矛盾の接点は、自由の実現を能力に求めます。能力の高い層には海外で君が代を歌わない自由を認め、負け組はそうした自由を認めないということです。国内では、民主主義は形式的には全員の選挙権を認めても、実質的には衆愚政に堕落するからその内実はエリートが独占すると云うことになります。
 つまり自由と平等の関係が逆転し、形式的な自由が実質的な平等を奪うということになり、「機会の平等」のみを認めて「結果の平等」(所得再分配)は認めないことになります。いやもっと進んで「人の能力は生まれつきや生い立ちから出てくるので、その差から社会での処遇が変わるのは当然で、結果として差別があることが最も合理的な資源配分を実現するのだ」(宮内義彦オリックス会長)という「機会の平等」の否定にまで行き着く、恐るべき動物世界のジャングルの頽廃をもたらします。性・人種・年齢等の属性差別を形式的に否定した上で、能力差別に全てを還元します。雇用機会均等法や男女共同参画のような制度的な反差別運動を一定許容しつつ、実質的な差別を公認しようとします。しかし形式的な平等が行きすぎて、バラバラに暴走すると困るので家族や共同体の絆を強化するという歯止めを置きます。米国のビジネスマンによく見られるように、家族にのみ紐帯の愛を傾注して、自らの利益行動を肯定する心情です。これが広範な草の根保守の基礎にあります。自分と自分の家族の価値に自閉した激烈な競争社会は、連帯と協同を失い、暴力関係に頽廃していきます。最近の日本のアチコチに起こっている他家族殺人の深層の原因はここにあります。一方で誠実な心の持ち主は攻撃を自分自身に向けて、無能な自分に絶望する自殺となってあらわれます(年間30251人 33,5%が55−64歳)。

 日本の国内で醸成されている草の根保守は、西欧型近代モデルに対する根深いコンプレックスを、弱いアジアに向けるという明治以来のスタイルをとっています。中国や北朝鮮に対する直情的な嫌悪感と蔑視、ODAでの日本に批判的な国へのカットという形で表れています。国内で首相の靖国参拝への批判が弱いのはなぜでしょうか。大事な命を国に捧げた行為を犯罪と見なされるのは哀しい、イラクに行く兵士が間違ったムダな行為だとされるのは耐え難い、せめて崇高な犠牲者として息子を位置づけたいという草の根の心情が、積極的な国際貢献論にリンクしたときに、「侵略」の合意が成立します。かって「軍部に騙された無念」として2度と戦争はしないと誓った国民は学習効果がなかったということになります。

 1000万の読者を持つ読売新聞の論説から見て、すでに大量の日本国民が戦争肯定への慣れが生まれ、自覚しないで「騙され」つつあります。すでに「お上に逆らう」のは犯罪だという意識が醸成されています。イラク人質が、弱者として政府に助けを求めて哀願しているときには同情を寄せた人びとが、人質家族が権利を主張して政府を批判しはじめたとたんに、「何様のつもりだ」「生意気だ」「分際をわきまえろ」と猛烈なバッシングに転じました。メデイアはこのバッシングにたじろぎ、同調に転じてしまい、人質家族は孤立してしまいました。私が最も恐かったのは、2チャンネルなどの掲示板で罵詈雑言の恥ずべき人格攻撃が繰り広げられたことです。明らかに閉塞状況の中で、弱者がより弱者に攻撃を転化するという草の根ファッシズムの芽を感じました。渡辺巨人軍オーナーが「たかが選手」といって古田選手を蔑みましたが、こうした権威主義的な垂直の抑圧がかなり行き渡り、権威に従わない者が異様に映ってしまう雰囲気があるのではないでしょうか。憲法を守ろうとする大江健三郎氏や加藤周一氏などの日本の一流の知識人が立ち上げた「9条の会」を、ほとんどのマスメデイアが報道しないという事実を直視しなければなりません。今後上程される「緊急事態基本法」によって、戦争状態以前に反テロを大義に、社会と市民の監視をする権限を政府に与える、明かな非常大権(超法規)を持つファッシズム国家へ移行しますが、そうしたシステムを支える心情がすでに醸成されつつあります。

 なぜこうした草の根保守とファッシズムの民衆的な基盤がつくられたのでしょうか。小泉構造改革によって90年代後半から中間層の没落が始まり、「漠然とした不安」が日本を覆い、自殺者が3万人を超える異常な社会となりました。皆さんの周りでも、健やかな対話が姿を消しなにかギスギスとした状態になっていませんか。一体不安の原因は何なんだーというルサンチマンを吸収するポピュリズムが表れ、強力な「改革」のメッセージを持って登場したり(石原慎太郎)、不安の仮想敵を設定しバッシングするサイクルが生み出されました(地下鉄サリン→オーム→北朝鮮→アルカイダ)。一時的なバッシングで不安は緩和されますが同時に新たな敵を求めてさまよっています。
 自宅の鍵から建物の防犯、街中に張りめぐらされる監視カメラの氾濫にもはやにもはや違和感を持たず、「安心のファッシズム(セキュリテイ・ファッシズム)」(斉藤貴男)が浸透しています。私自身も、コンビニに監視カメラがセットされて警察署とオンラインで結ばれたときには反射的に違和感を覚えましたが、いまはマヒしてしまいました。「安心」のためには、自由と人権が制限されるのはやむを得ないとして権力が日常生活に土足で入ってくる現状です。ワイマール末期のドイツで、没落する中間階級の不安の敵をユダヤ人への攻撃に動員したナチス(39年11月9日「水晶の夜」)と似たような状況が目の前にあります。「敵はテロだ」とする風潮が蔓延し、テロと戦う戦争は当然だとする雰囲気が漂っています。驚いたことに、この夏に岐阜の山奥を自動車で通ったときに、ダムの入り口に「テロ警戒宣言発令中」という大看板がありギョッとしたことでした。

 放っておけば間違いなく、無制限デスマッチの市場競争と戦争、ファッシズムの方向へいきます。どうしたらいいでしょうか? 第1に、市場原理をほんとうに正しく活用する道を見いだすことだと思います。能力による無限競争のシステムは間違いだという人間の原点に立ち返ることだと思います。「機会の平等」を実現するための能力の手厚い発達保障、公正な競争によって生まれた弱者は再出発のセイフテイネットの権利があるというシステムにこそ、経済の安定的な発展があるんだという常識を認め合うことです(北欧型新福祉国家)。弱者に誘発され易いより下方へのルサンチマンの放射という抑圧の移譲というファッシズムの方向は、実はみんながまとめて地獄に堕ちていくんだということを明らかにし、弱者による下からのファッシズムを食い止めなければなりません。
 第2は、変革の他者依存(89年参院選社会党躍進→青島・ノック現象→95年参院選新進党躍進→98年参院選共産党躍進→01年参院選小泉ブーム→04年参院選民主党躍進)という変革願望のワンダーフォーゲルとの訣別です。自分の足で立って、自分の頭で考えながら、自分のカネを使ってネットワークで動く市民の自発だと思います(赤と緑の連合)。ここには、電子ネットによる広範で自由な結びつきも含まれます。
 第3は、平和と民主派は孤立して鼻であしらわれるような状態になるのではないかということです。もちろん少数であることに誇りと矜持を持ち、着実に一歩を刻もうとするスタイルもあるでしょうが、このイデーは生活の論理には勝てませんから、多数派にたなびく弱者を憐れむ前衛エリート主義に堕す危険があります。しかし限界状況はいやおうなく全ての人に決断を迫り、中間妥協派でいることを許さない状況が出現します。だからいま孤立しているような状況にあるときにこそ、多様なチャネルによってつながっている必要があると思います。いま問題は複雑多様で、かってのような戦争か革命か、占領か独立かという絞り込まれた2項的な分岐ではなく、教育の民営化か否か、BSEの全頭検査を続けるか否か、遺伝子組み換えを認めるか否か、ダム建設を認めるか否か、広域合併を推進するか否か、ジェンダーを認めるか否か、外国人労働者を認めるか否か、米軍基地を移転するか廃止するかなどなど数え切れない具体問題が日常で噴出し、そこで一つ一つの選択が問われる状態です。そうした多様で広範な選択問題が巨大なムーブメントの一部として合流しています。この問題のどれかに自分自身が切実に関係しているはずです。そこに関わっていることが、すでに巨大な変革運動の一部として機能しているのです。「汝の足下を深く掘れ、そこから清らかな泉が湧き出でるであろう」(ニーチェ)または「別個に進んで同時に撃て」というスタイルが現代の問題解決の最適解ではないでしょうか。

 ともすれば日常の安逸に流される誘惑もあります。TVのスイッチを押せば、お笑いと料理とエステ番組が満載でオモシロオカシクその時を過ごすことができます。「世界の中心で愛を叫ぶ」生活は甘く清らかで、「冬ソナ」世界はまるで世界の矛盾を洗い流してくれるかのような至純の愛を感じます。でもこれは世界とのつながりを絶ったミーイズムの美学です。こうした世界を理想とする人を否定はしませんが、自分だけ実現できると思うのは幻想です。そればかりか純粋であるが故に不純なものに対する攻撃に転化する可能性があります(これを私は純粋=純情ファッシズムと云います)。かってのナチス将校は偏執狂的な潔癖症が多く、つねに真っ白な手袋をしていました。
 「ちょっとオカシイ」「それは違うんじゃない」という素朴な疑問や違和感の1次的な感性を大事にし、それにこだわって行くべきだと思います。そのこだわりは少しの差異も許さない集団ファッシズムにも向かいますが、同時に豊かな民主主義の成熟の方向にも向かいます。この点でヤクルト・古田選手会長は、現代の変革を考えるモデルだと思います。「たかが選手のくせに、無礼だ」という権威主義的な侮蔑を冷ややかに笑い流して、冷静に淡々と我が正義の道を歩むスタイルは、おおげさな革命家のスタイルではないが故にかえって現代のプロ野球の「革命」をもたらそうとしています。私は、ストがなくて今日の試合が見れてよかったーと大喜びして球場に向かうファンにはなりたくありません。以上・座談会「現代日本とイデオロギー」(小森陽一・二宮厚美・桂敬一・五十嵐仁・庄子正二郎 『経済』04年10月号)を参照して筆者考察。補言:この座談会全体が最近の白眉であると思いますが、特に桂敬一氏(元東大新聞研教授)の発言には敬服しました。(2004/9/14 12:03)

[対等な眺め合いへの第1歩かー「ヨン様」現象を読む]
 日本の韓国に対する関心は、1970年代の軍事独裁に対する否定的な関心を持って始まった。雑誌『世界』でのA・K(池明観氏)の「韓国からの通信」は地下抵抗運動の苛烈さを伝えたが、その関心は学生・知識層にとどまった。私の学生時代の同期である徐勝氏(現・立命大教授)の拷問から死刑判決に至る過程は、私にとって初めて韓国の現実を突きつけられた衝撃的な事件でした。民主化以降の80年代のソウル・オリンピックを経て、02年のW杯に至る過程で明らかな変化が生じた。政治レベルの関心から大衆文化レベルへと関心がひろがって、大衆心理のレベルで過去の支配ー被支配パラダイムから一定の共感のレベルへの移行が生じたように思う。しかし同時に慰安婦・強制連行をめぐる問題意識の共有は限定的であったのではないでしょうか。日本人は、同時にキーセン観光に浮かれて厳しい批判を浴びていましたから。
 03年に大衆文化のレベルでの質的な変化が生じたと思います。私にとっては、それは圧倒的な迫真力を持った韓国映画でした。日本人がとっくに失っている、ものごとに対する真摯な姿勢をパワフルに描いた数々の韓国映画は、ホンモノを生きる姿勢とエネルギーを私に思い起こさせてくれました。そしてここに来て、日本がはるか遠くに置き忘れてきた純愛の世界が登場しました。「冬のソナタ」が日本の中高年女性のハートをつかみ、今やヨン様CMが日本を席巻し、ロッテのガムを噛みながらオロナミンCを飲みSONYのDV撮影機を使うという爆発的ブームを呼んでいます。
 しかしこのヨン様ブームに対する冷ややかなまなざしもあります。「こぎれいなヨン様で、あの泥臭い韓国がほんとうに分かるのか」(『ニューズウイーク日本版』8月11日号)とソウル生まれの大学教師は云います。極めつけは、ビートたけしの「20年前には、ニッポン人の田舎のオヤジたちの間でキーセン観光ってのが大人気になったのと、どこかで通じる部分があるような気がする。韓国人女性は控えめで慎ましやかなのがいいーとオヤジが喜んでいた分けだけど。韓国人男性は、ピュアで誠実って騒いでいる女性に、どうにも薄気味悪さを感じるのはオレだけかね」(『SAPIO』04年8月18日号)というコメントです。ビートの直感的な感性の鋭さを感じました(実は私はビートたけしを見るだけでジンマシンが出るのですが、この発言で見直しました)。
 そうなのです。ヨン様崇拝の背後には、依然として消しがたい蔑みのまなざしがあり、まるでペットを可愛がるがように崇めている面がないとはいえないでしょう。そうではないとすれば、わたしは安堵します。つくづくと思うのは、植民地の過去の清算をうちやって進む、こうした大衆的心情の交流は嘘っぽい表層のような気がします。ただ一つ云えるのは、日本の中高年女性が理想を失って漂流する日本人男性に失望していることは間違いないということです。鄭大均氏(東京都立大)は、新韓国ブームを「対等な眺め合いへの第1歩」と高く評価していますが(朝日新聞9月13日夕刊)、私にはハリウッドに進出して喝采を浴びて喜ぶ日本人俳優の媚びへつらいと同じような質を感じます。だけども歴史が一歩前に進むときには、こうした大衆意識のレベルでの変化が実は底の深いところで規定するのかも知れません。(2004/9/13 19:59)

[これこそほんとうの痛みではないかードイツ ナチス(86歳)戦犯裁判開始]
 スロバキア出身のドイツ人・ラデイスラフ・ニズナンスキ(86)は、スロバキアのナチス傀儡政権協力部隊「エーデルワイス」の隊長として、1945年1月にレジスタンスを援助したとしてオストリ・グルン、クラクの2つの村の住民146人の射殺を命じ、自ら20人を射殺し、その1ヶ月後には穴に隠れていた18人のユダヤ人を射殺した。犠牲者には3ヶ月の赤ん坊から72歳の老人までが含まれていた。戦後ミュンヘンに逃れ、米国の「ラジオ自由ヨーロッパ」で働き96年にドイツ国籍を取得した。チェコの裁判所は、62年に死刑判決を下したが、西独当局は証拠不充分として逮捕しなかった。00年にスロバキア政府がドイツに再度要求し逮捕され、9日に裁判が始まった。ドイツではナチスの戦争犯罪の時効はないのである。
 日独の戦争犯罪に対する恐るべき格差をまたも示すこととなった。東条内閣の閣僚を務めた人物が戦後首相となる日本では、かっての戦争犯罪の追求は実質的に連合軍に任され、自ら自己責任を追及して被害者に赦しを請い、償うことはなかった。逆に現在でも最高戦争犯罪人の慰霊所にぬかずく首相がいる。彼は恥を知らない。彼を含めて私たち全員が恥ずべきくにづくりを放置してきた。
 こうした日独の差異について多くのことが語られてきた。近代的市民社会の成熟度の問題、個人文化と集団文化の違い、一神教と多神教の違い、欧州市場をめぐるドイツ資本の問題などなど多様な視点から論じられてきた。
 戦争の被害者も加害者もこの世を去りつつある時代に入って、過去の清算をやり遂げて未来へ向かうのと、放置して埋もれさせてしまうのとでは、その国に生きる人びとととりまく世界の在り方に取り返しがつかない差異が出てくる。歴史は決して過去の中に埋もれて行きはしないだろう。他者に向かって自己責任を要求し、構造改革の痛みに耐えよと国民に迫る政府は、いままで一度たりとも自らに向かって痛みに耐える懺悔をおこなわなかった。私たちは、いつか痛烈なしっぺ返しを受けるのではないか。自ら崩れていく累々たる屍であふれている光景だ。親分の命令でイラクに行って、人殺しに加担している憐れむべき子分のポチ公は、全世界の軽蔑嘲笑を浴びて全身からしたたる血を国民に求めようとしている現代のモンスターだ。

 今日9月11日はWTC同時テロから3年目にあたる。跡地では540mを超える「フリーダムタワー」の建設が始まったそうだ。何か虚しい気持ちがする。米国の偉容を誇示すればするほど、また再び崩壊するような予感がする。9.11以降の世界は、人間が(わたしたち普通の市民が)制御できない無惨な殺し合いの時代に入ったような無力を覚える。「中東を民主化すれば、希望や尊厳を持った人びとが爆弾を腰に巻き付けて無実の市民を殺すことはないということを、テロリストは知るだろう」(ブッシュ)というアホで間抜けな予測は裏切られ、「殉教者は死の苦痛を感じない。ただちょっとつまれたように感じるのみだ。これらの若者は、お前が生を愛するのと同じように死を求めている。説明を要することなどない。ただ殺害と斬首あるのみだ」とビンラデインはブッシュに対する聖戦を宣言している。イスラムの聖地を犯す者に対しては、死があるのみだ。おそらくイスラムの若者は神に召される法悦のうちに、憎しみを込めて死を自己目的としている。数千年の人類史の到達点がかくもミゼラブルなものに頽廃することを誰が予想したであろうか。その血まみれの綱の片端を私たちも握っている(握らされている)。TVを見れば、お笑いと料理があふれでる安逸な幸せでその時を過ごすことができるが、なにか言いしれぬ不安が漂っている裏返しではないか。一刀両断に切り開く強いヒーローの出現を待望する気分が殷々と押し寄せてはいないか。そして世界がどうあろうと、その自己中心で愛を叫んでいればよいとするミーイズムに侵されてはいないか。
 世界がどうあろうと、自分の責任はどのような痛みが伴おうとも、黙々と果たしていくードイツの戦犯裁判はそうした不動の良心と決意を感じる(而も国家レベルで)。(2004/9/11 9:45)

[自殺数世界第5位・自殺率が先進国トップになった日本]
 WHO世界保健機関精神保健局の世界自殺調査(5歳以上の10万人当たり自殺数 99ヶ国対象)の概要から(9月8日発表)。

 リトアニア 44,7人(02年)
 ロシア   38,7人(02年)
 日本    24,1人(00年 *旧ソ連東欧圏を除く主要先進国で第1位)
 フランス  17,5人(99年)
 ドイツ    13,5人(01年)
 米国    10,4人(00年)
 英国     7,5人(99年)
    
 全世界年間自殺者数 約100万人  (参考)殺人による死者数50万人 軍事紛争による死者数23万人
 全世界自殺者数将来予測 年間150万人(2020年)

 日本の自殺者数
  総数30251人(24.1人 実数世界第5位 率は23位 96年調査では16,8人) *1位は中国195000人
  男  21700人(35,2人)  
  女   8600人(13,4人)
  特徴 55−64歳までの中高年男性自殺率急増 60歳以上11259人(33,5% 00年警視庁調査)
       (*世界的には15−25歳の若年層自殺率増大)

 WHO見解
 (自殺の原因)貧困・失業・家族の死亡等の社会的要因、アルコール・薬物濫用・幼児期虐待・抑鬱等の精神的要因
 (自殺の対応)「防止可能な公衆衛生問題」、自殺に追いこまない心理的ケアと農薬・銃の自殺手段の入手を困難にすること
 (日本の自殺急増について)「十分な分析はできないが、不況による仕事のストレスの増加が大きな理由のようだ。また日本の場合は”腹切り”の伝統があるように、自殺に寛容な文化的土壌があるのではないか」

 まず最初に無念のうちにこの世を去らざるを得なかった3万251人の魂に謹んで哀悼の意を表したい。率直に云って、21世紀初頭の日本を主導したライオンヘアー首相と経済学専攻金融財政相の感想を聞きたい。「痛みを伴う構造改革」が着実に前進している証しとして冷酷非情に捉えているのであろう。それはあくまで弱者の自己責任だから。しかし残された遺族の哀しみと背後にいるはずの数倍に上る潜在的な自殺予備軍を考えれば、「防止可能な公衆衛生問題として捉え、心理的ケアと自殺手段から遠ざける」(WHO)程度の対応では不可能な限界にきている。それは日本の自殺が、最も精神的に成熟し社会の中枢で活動しているはずの55ー64歳で急増し40%に迫るまでになったという根本的な質の変化があるからだ。これは従来の不況期の自殺とは明らかに異なり、個人の努力とか気質のケアリングをはるかに超えている。それはなにか。
 一言でいえば、「資」(カネ)が「本」(すべて)となる資本主義の競争システムが剥きだしとなり、相互不信が蔓延する社会になったのだ。資本主義初期のまじめに働いた者が収入を得る公正な競争ではなく、カネを動かして過剰流動性から収益を上げるアングロサクソン型システムの競争だ。<過剰流動性の罠→競争による利益極大化→能力主義管理>というサイクルの最大の犠牲者は、いままで一心不乱に会社に忠誠を尽くしてきた中高年となった。朝の打ち合わせでみんなの前で批判を浴びる恐怖、明日出社しても自分の机はないのではないかという不安、膨大な負債を抱えて自己破産を迫る銀行との連日の交渉で神経をすり減らす中小業者。まじめな人ほど自らの無能を責め、家族への責任との間に引き裂かれる不安社会が醸成された。誰も助けてくれないなかで、ギリギリまで追い詰められた誠実なこころは、遂にどこに出口を求めるだろうか。
 では日本のモデルとなった米英での自殺率が相対的に低いのはなぜか。それは18世紀以降の市民革命の歴史の中で、個の自立についての猛烈なトレーニングをジャングルの中で重ねてきた経験があるからだ(ここでは自殺を禁止するキリスト教文化については触れない)。日本はつい最近まで、仲間と一緒に頑張る企業社会の共同体で生きてきたのであり(NHK「プロジェクトX」を見よ)、擬似大陸北欧型の福祉システムでうまく回転していた面がある。ドラステイックな個人競争原理への転換が、相互扶助と協働のネットワークを根こそぎ奪い去って、非情なオオカミ社会をつくりだしてしまった。なにしろ人質となったボランテイアを敵視して自己責任を追及し、モデルである米国の国務長官から叱責を浴びる国なのだから。

 3万251人の自らこの世を去ったひとびとの最後の叫びに真摯に耳を傾ける想像力が求められる。彼らは告発者である。ライオンの檻に入ったジャングルの競争はやめよう。協働とネットワークの関係を恢復し、公正な競争と安全網をセットしたシステムに切り替えよう。自己利益のために場面ごとに最適選択して人を蹴落として生き残ろうとする粗野な生き方はやめよう。いま今日の1日で100人が自らこの世を去っているこの瞬間に思いを致せば、取り返しがつかない痛みを分かち合うならば、少なくとも私は次のように云う。
  人類のいのちの法廷でライオンヘアーを主犯として裁きにかけよう!                 (2004/9/10 11:25)

 警察庁発表によれば03年度自殺者数は34427人で過去最高となった。1日約100人、15分に1人。小泉首相は「どういう事情か分からんが、悲観的にならないで頑張っていただきたい」そうだ。彼はこのHPを見て勉強して欲しい。政府の自殺予防対策はほとんどゼロに等しく、3年前に3億円の研究費がやっと計上され、予防対策が動き始めた。厚労省は、過重労働とメンタルヘルス対策の報告書を発表したが(8月)、対症療法的な施策に過ぎない。日本の自殺数は以下のように推移している。

 1998年 32863→1999年 33048→2000年 31957→2001年 31042→2002年 32143→2003年 34427

                                                      (2004/9/27 8:53追加)

[米軍墜落ヘリが放射性物質を撒き散らし、首相がプロ野球選手を非難する日本]
 沖縄国際大学に墜落した米海兵隊ヘリは、ストロンチウム90を含む回転翼安全装置6個を装備し、米軍はうち5個を回収したが残り1個は焼失して放射能が大気中に気化した。米軍は周辺土壌を持ち帰り汚染調査を始め、日本側は放射能汚染を解明する機会を剥奪された。それにしても日本の土壌を勝手に持ち去る法的根拠がどこにあるのか。あなたの自宅の庭に突然米軍が入り込んで、自分の庭の土地を勝手に持ち帰ったら、あなたは黙って見逃すのか、それとも住居侵入罪と窃盗罪で告発するのか。日本は米軍の治外法権状態にあり、独立国の主権を剥奪されているにもかかわらず、川口順子なる外相は日米地位協定を擁護して憚らない。こういう人物を売国奴と云わずして誰を売国奴というのか。在日米軍の原子力安全法や放射能管理法及び土地所有法の規制を免除される特権的地位を誰が認めたのか。
 日本からストライキが姿を消して久しく、いまやストライキ自体を犯罪視する雰囲気があるかにみえる。労使対等の原則が雲散霧消して、労働者は人参をぶら下げられたラット競争を強いられ、労働者の権利を主張すること自体が異端的な扱いを受けるまでに人間の尊厳が蹂躙されるなかで、プロ野球選手会のスト宣言は人間恢復宣言に等しい意味を持つまでになった。小泉なる首相は、スト宣言に対して「ストなんかしたことないでしょう、日本の選手。もっとファンのことを考えてもらいたいですね」と選手会を敵視するコメントをおこなっている。自らは、学生時代の違法行為を留学で免れ(マスコミ報道による)、民間企業の給与を得ながら政治活動をおこなうという職務専念義務違反を犯しながら、民事不介入の原則を犯して恥じない心性はいったい何であろうか。
 さてプロ野球選手会の日本プロ野球組織(NPB)に対する要求内容を正確に確認してみよう。
 @近鉄・オリックス球団統合の1年間凍結による是非と労働条件の協議・交渉
 A新規参入条件の緩和(加盟料・参加料の撤廃又は大幅緩和、新規加盟のための承認要件の明確化)
 Bドラフト改革、収益分配策の具体的検討(不透明な金銭支出を生む現行ドラフト制度の改革、球団間の不均衡を是正する収益配分の制度化 例えば放映権収入の集中管理)

 以上の@〜Bの要求は選手のエゴイステイックなものでしょうか。@合併推進経過をみれば、近鉄の球団命名権売却問題の拒否から始まった1リーグ制への強行であり、統合による労働条件変動に対する団体交渉拒否という実態は明らかにNPB規約「文化的公共財」規定と労働基本権を全面的に剥奪している。A及びBは積年に渡る日本プロ野球界の欠陥を指摘しているのであり、文化的公共財として再生する可能性を問うている。発展する米メジャーリーグがとっくに実現している基本原則を要求しているにすぎない。これに対しコミッショナーは経営権管轄事項論による選手会の越権行為を主張するが、いまや経営に関する基本事項に労働者が参加する労使協議制こそ国際標準になっている。民間企業で云えば生産計画や工場配置計画に労働者の参加協議を認めなければ、経営計画を策定できないのである。
 さて一般国民はこの問題にどのような意見を持っているであろうか。以下は日本リサーチサービスによる世論調査結果である(9月6日発表 8月実施 15〜79歳男女無作為抽出 有効回答数1332人)。
 
 (1リーグ制について)
 大いに賛成  2,9%
 やや賛成   4,1%
 やや反対  13,6%
 大いに反対 23,2%
 どちらともいえない 22,8%
 分からない 32,3%
 (賛成の理由 自由回答)
 今まで見られなかった試合が見れる 15件
 球団経営が赤字だから仕方ない   12件
 現在の野球はマンネリ化している   8件
 (反対の理由 自由回答)
 オールスター戦、日本シリーズがなくなる 135件
 つまらなくなる 93件
 ファンが減る  39件

 約半数は保留か中間派であり、残り半数の70%強が反対しているという状況で、現在の意識状況の一端を示していると云えますが、保留・中間派がスト突入によってどう流動するかに注目したいと思います。結論的に云うと、基本的にはスポーツの文化公共財性を維持するかどうかが問われ、国民スポーツとしてのプロ野球を一部企業経営論理に委ねていいのかどうかが問われていると思います。市場競争原理主義が貫徹している米大リーグでさえ、ドラフト制や放映権収入のポジテイブ・アクションを適用しています。
 日本プロ野球選手会は、東京都労働委員会が労働者の労働組合として認定し、団体交渉権やストライキ権は当然の労働基本権であり、労働組合法による不当労働行為の救済や民事・刑事免責を受ける組織ですから、一部オーナーの損害賠償請求の脅しは明かな不当労働行為です。繰り返しますが、今次プロ野球界の問題の推移は日本の社会システムの基本に関わる公共性原理の将来を決める性格をはらんでいるように思えます。
 主権を外国軍隊に蹂躙されて黙っている首相と、文化スポーツを一部企業経営に蹂躙されて選手を攻撃する首相は、本質的に公共性を喪失している点で同じなのです、(2004/9/7 11:36)

[英国の『鉄格子なき刑務所』システムと相互監視社会]
 英国政府は、性犯罪や家庭内暴力(DV)の常習犯を、衛星を利用する24時間監視システム実験をマンチェスター他国内3カ所で開始し、1年後に全英に拡大する計画を発表した(9月2日)。「鉄格子なき刑務所」と呼ぶ5カ年計画の一環である。児童に対する性犯罪や家庭内暴力で有罪判決を受けた常習犯は、足首に信号発信のリングを装着し、GPS(全地球測位システム)で得た位置情報を地域の監視センターに発信する。民間警備会社が運営する監視センターは、毎日定時に対象者の動向をチェックし、立入禁止区域に接近した場合にはリアルタイムで動きを把握し、警察と保護者に連絡する。例えば、児童への性犯罪常習者が学校や公園に近づくと自動的にセンターの警報が鳴り、また家族や特定の個人に暴力や嫌がらせを繰り返す監視対象者が被害者の居住区域に接近すると警報が鳴るという仕組みだ。
 こうしたIDチップ・システムはすでに米国では日常化している。デジタル・エンジェル社のものは、アルツハイマー病者の居所確認や仮釈放中の受刑者を監視するために、腕時計型の装置と、ポケベルのようなベルトに装着するタバコ箱サイズの発信器を装着する。IDチップシステムは、クライアントの皮膚下にIDチップを埋め込み、GPSと連動させて動向をキャッチするものである。アプライド・デジタル・ソリューションズ社は、依頼人が誘拐された場合の追跡と救出装置を販売している。IDチップは被害者が薬で意識不明状態になったり、殺されて遺体で発見されたときの身元確認に最適である。すでにペット用のIDチップの埋め込みは何百万匹に達し、動物保護機関が迷い子になったペットを探して飼い主に返すシステムが確立している。米粒より少し大きく、2から3程度のデータを登録でき、最大120cm離れたところからスキャナーで読み取れる。利用する人の前腕か肩に埋め込む手術は外来で部分麻酔で行われ、皮膚にはなんの痕跡も残らない。誘拐向けのIDチップに対しては、居所を突き止めて警察を送り込むんで銃撃戦になるより、取引する方が安全な場合があるという強力な反論もあるが、しょせん技術論に過ぎない。
 すでに世界の管理・監視システムがここまで電子化しているとは正直言って驚いた。せいぜい新宿の街角や商店街に監視カメラがセットされて警察と連動している日本の水準とは大違いだ。確かに、日本でも指紋を押さないとレンタカーが借りられなくなったし、狂牛病対策のためにDNA指紋で牛の個体管理がおこなわれるようになり、脳波測定によるテロリスト識別装置の開発や、指紋スキャナー装置による指一本での決済システム、レンタカー会社がGPS装置でスピード違反に罰金を支払わせるシステムなどなどかなりの電子化が推進されているが、世界最初の人権・市民国家がこうなるとは驚きだ。

 かって『格子なき牢獄』という映画があったが、英国政府の『鉄格子なき刑務所』システムはただ単に犯罪者監視を超えた空恐ろしい社会が到来しているような気がする。社会全体が相互に他を犯罪者と仮想して監視し合う社会だ。ジョージ・オーエルやフーコーの指摘を待つまでもなく、究極の相互監視社会がすでに出来上がりつつあるのだろうか。
 しかしよく考えてほしい、こういう監視システムを導入している国はアングロサクソンの市場原理主義が蔓延している国ではないか。新古典派市場原理主義は、剥きだしの相互競争と相互不信を誘発するのだ。ホッブスの云う”万人は万人に対してオオカミ”であり”万人の万人に対する闘争”という恐怖社会を逃れるために絶対君主に主権を譲渡して服従すれば安全が確保されるーという19世紀思想への逆転ではないか。尤も君臨するのは「絶対君主」にかわる「電脳権力」ではあるが。アングロサクソン系の国々は、世界最高の犯罪発生国であり、こうしたセキュリテイーシステムの高度化が進めば進むほど犯罪発生率は上昇していく悪循環にある。その根底には、相互不信関係の深化がある。対する大陸系や北欧では地域の協同力に依拠する刑務所の開放化が進み、自宅で刑期を終えるシステムが進んでいる。日本はどちらの道を行けばいいのだろうか。(2004/9/6 20:15)

[世界の中心で怒りを叫べ!]
 600人に及ぼうとする子どもたちを冷酷に惨殺したテロリストと見殺しにした鎮圧部隊をみて、もはや世界の中心で愛を叫ぶことは犯罪だ。無辜の子どもたちの命を奪い尽くした武器は誰が製造し売りまくったのか。殺し合いがあるほど儲けが増える死の商人がいま、高笑いをしながら殺害ゲームを鑑賞している。
 アメリカ議会調査局調査(03年)によれば、世界の武器輸出国は米国1兆6千億円(44%)、英国(15%)、フランス(13%)、ロシア(10%)、ドイツ(5%)、中国(3%)でこのワースト6ヶ国で世界の武器輸出額の90%以上を独占し、国連常任理事国のすべてが入っている。彼らは国連の舞台で世界の平和を論じながら、裏では自国の軍需企業(死の商人)による軍事経済システムを構築している。テロや無差別殺戮による流血の惨事が繰り返し起こらないと、自国の経済の再生産が維持できない構造になっている。テロと暴力の連鎖は彼ら自身がつくり出しているシステムであり、惨劇が起こるたびに哀しみの涙が流されるが、影で冷ややかに高笑いしながら武器販売の増加を嬉々として喜んでいる勢力がある。互いにブーメランを投げ合うワンダーフォーゲルのような蟻地獄に落ち込んでいるのだ。
 世界が末期的な症状を呈しているなかで、「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」憲法9条は、夜空に瞬く北極星のような光芒を放ち、世界のサステイナブルな希望のメッセージとなってきた。しかしその発光源ではその光を消そうとする勢力と守ろうとする勢力がはげしく対抗し、次第に光度を下げてきているかにみえる。
 生命よりもカネのほうが大事だという思想が次第に勢力を拡大し、不況と正比例して戦争待望論が台頭してきた。軍用ヘリコプターが墜落しても意に介しない政府が登場し、死の商人たちが殺人兵器の自由な生産と輸出を声高に要求するまでになった。日本経団連は武器禁輸原則の再検討を求め、政府も日米共同生産を打ち出しはじめた。遠からず殺傷能力の高い優秀な日本製武器が、世界の紛争地帯で活躍し、多くの無辜の子どもたちがあっけなくこの世から去っていく時代がくるだろう。死の商人たちが、生贄となった子供の命と引き替えに金庫に蓄えられた莫大な利潤を前に嬌声を挙げる情景が目に見えるではないか。
 日本経済は、不況の深化を軍事生産によって打開する再生産構造の特徴を帯びつつある。日本の軍事関連大企業の軍事依存度は次のようになっている(総売上高に占める軍事売上高 2002年度 日本経団連資料)。
 
 三菱重工業 13,4%
 川崎重工業  8,9%
 石川島播磨  5,2%
 三菱電機    2  %
 日本電気    1   %
 東芝      9,9%

 もし私たちがチャチェンの母親であれば、テロを裁き根絶するためにあらゆる手段を執ろうとする悲しみの深さを分かるだろう。そのテロリストが手にしている武器がどこで生産され、誰が儲けているかという構図を知ったならばその悲しみはより深いものであろう。それは自分たち自身が生活のために働く企業と工場で生産されたものだ。こうした悪無限のサイクルに遠からず日本が転落していくのを目の前にして、日本の母親はどのように行為すべきかすでに理解している。(220024/9/6 8:21)

[世界で際だつ日本の異常性ーILO報告『より良い世界に向けた経済安全保障』(9月1日発表)]
 ILOは所得の公平性・労働条件の充実・雇用の安定度・賃金水準・職業教育・職場の労働安全性・労働者代表制など7指標をもとに「経済安全保障指数」を算出し、アフリカ・中東・アジアなどの一部途上国を除く世界90ヶ国(世界人口の86%)をを対象に調査した。日本の雇用保護指数26位、労働者代表保障22位など総合的経済安全保障指数は18位となっている。1位デンマーク、2位フィンランド、3位スウエーデンと北欧・欧州諸国が上位にあり、米国はILO諸条約を批准していない・解雇規制が弱いことによって25位にある。以下は日本に関する記述。
 「労働市場では、日本の実質10%強という劇的な失業率と労働市場の不安定性による年間3万人の自殺者数との関連を指摘し、日本では過労死が広まり、おそらく最も衝撃的な社会的苦痛の指標は、20世紀の最後の3年間に交通事故死者の3羽に上る人が自殺していることだ」ーと指摘している。
 「労働環境については、時間のプレッシャーと過労が精神の緊張をもたらし、自殺は現在では主要な健康問題と見られている。ジャスト・イン・タイム(カンバン)方式とQC(品質管理)サークルなどの日本型管理方式が世界に拡大し、労働者はより過密な労働過程を押しつけられている」ーとしている。
 衝撃的な自殺者数に象徴される日本の労働環境の異常性は、ILO(国際労働機関)の国際基準からみて際だっていることが示されている。日本人自身はその内部にドップリとつかっているが故に、もはやその異常性に馴らされてしまっている面がある。JITシステムとQCサークルが世界化して、全世界の労働環境の日本化が進んでいることに対して、私たちは犯罪者の立場にある。ILOは国際機関だから、なぜ日本がそうなったのか、どうすればいいのかについては沈黙している。この沈黙の部分については私たち自身の問題だ。(2004/9/5 15:57)

[嗚呼 このめくるめく鋏状格差の向こうになにがあるのだろうか]
 ドイツ政府はナチス時代の強制的不妊手術を施された約2500人の犠牲者への補償金を1ヶ月61ユーロ(8200円)を100ユーロに増額すると発表した(9月1日)。ナチスは、数万人の民族混血者と障害者は子供を持つにふさわしくないとして不妊手術を実施し、次いで障害児などを対象に安楽死と称する大量殺戮をおこなった。不妊手術を受けた人はその傷に一生苦しみ続け、家族も絶えてたった一人で孤独のうちにこの世を去ろうとしている。しかし不妊手術を名乗り出ない大量の被害者もまた存在するに違いない。さらにドイツ政府は政治的、民族的、思想的理由で刑務所に投獄された人の補償金を収容1ヶ月ごとに77ユーロ(一人最高2556ユーロ)を支払うと決定した。これまで強制収容所の犠牲者を補償の対象とし、刑務所収容者は補償の対象としなかった。
 めくるめくような日独間の戦争と迫害に対する罪の意識の違いは、時間とともに薄らいでいく記憶のなかで恐ろしい鋏状格差を生み出しています。旧大日本帝国が刻み込んだ血塗られた記憶、強制連行と強制労働、従軍慰安婦、無辜の市民への大虐殺、細菌兵器の人体実験そして侵略によって2000万に上るアジア人の生命の補償などは今もって放置されたままです。かろうじて生き残った、余命幾ばくもない元従軍慰安婦や強制労働従事者が補償を求めてわざわざ日本にきて、孤独な苦しい裁判をおこなっていますが、彼らに向けられる眼差しはなにか異分子への冷ややかな視線です。日本の裁判所は一般民法の時効を適用して逃れました。ヨン様に狂奔する日本人の手から真っ赤な血が滴り落ちているにもかかわらず、それに気づいてはいません。日本は過去の罪責に対する責任をとらないままに、繁栄を築いてきた犯罪国家なのです。
 驚いたことにこうした犯罪行為はなかった、かっての戦争はアジア解放の聖戦であった等という歴史修正主義の教科書が、遂に公立中高一貫学校で採択され、この学校に通う子どもたちは大東亜肯定論を信じて大きくなっていきます。そうした子供を育てながら、一方では世界平和をめざす主要な責任を負う国際連合の常任理事国のメンバーをめざすという破廉恥極まる態度。戦争犯罪を否定し責任を回避しながら、世界を指導していきたいという恐るべき鉄面皮は全世界の軽蔑を浴びるに違いありません。
 思えば日本の戦後社会で生起しているすべてのモラル・ハザードの原点がここにあるような気がいたします。視聴料を着服するNHK職員、ニセ出張で公費を私服化する警察、新宿ノーパンシャブシャブで遊興する旧大蔵省官僚、殺人車を販売し儲ける三菱自工、イラクに群がる石油関連日本企業、内申書を改竄する教師・・・・挙げだしたら切りがない全線に渡る日本社会の公共性原理の頽廃は、目を覆わしめるものがあります。この私とて例外ではありません。振り返れば恥ずかしくて口にはできない行為で手は汚れています。たとえそれが取るに足りないちっぽけなことであったとしても。
 アテネ五輪でイスラエル選手との対戦を拒否してメダルを放棄したイランのレスリング選手は、その方法に賛否はあれ、毅然として捨ててはならない責務と矜持のようなものを感じました。かってアフガンニスタンに侵攻した旧ソ連を批判してモスクワ五輪をボイコットした世界は、国連決議を無視してイラク侵攻をした米国の五輪参加を歓迎しています。この恐るべき非対称性の世界! 忘れた頃に伝わってくるドイツ政府の贖罪の態度を耳にして、私の胸はキリリと痛むものがあるのです。(2004/9/4 9:16)

 偶然にNHK・ETV特集「よみがえれ ドレスデン聖母教会」を観た。ドレスデンは第2次大戦中に連合軍による無差別大空襲で廃墟となった街として有名だ(無差別大空襲は旧日本軍による重慶大爆撃とか米軍の東京大空襲がある)。誇り高い文化の街であり、ドレスデン音楽祭は全世界からファンが集い、マイセン磁器で有名だ。欧州で強く印象に残るのは、瓦解した建物を市民が総出で煉瓦を一つ一つ運んで原形通りに復興し、今以て中世の町並みが保存されていることだ。日本は廃墟と化した街に、占領米国のビル群を林立させどこに日本的建築文化があるのか分からない街にしてしまった。TVでは、破壊された聖母教会をそのまま戦争記念として保存するという意見と、原形通りに復興しようと意見が対立した。全世界から再興資金が寄せられ、先端の十字架は英国人の寄付によるものだ。ナチスを防ぐことができなかったドレスデン市民と大空爆によって犠牲を強いた英国人が、互いの過去の赦しを求めて握手し合うシーンは感動的だ。齢80歳を超えてなお戦争の記憶に生きる欧州人の文化の深さといったものを実感させた。
 戦後日本は、アジアのどの破壊された施設に復興の手を差し伸べ、過去の赦しを請うてきたであろうか、つくづくと日本に生まれたこと自体を恥ずかしく思わざるを得ない国の惨めな姿ではある。戦争の罪責を主張する人に対して迫害を加えながら、戦争の最高責任者を奉って首相がぬかずいでいるこの国とはいったい何であろうか。(2004/9/4 19:23追記)

[目からウロコの・・・・]
 突然霧が晴れ渡るように分からなかったことが理解できるようになる瞬間を指して云うようです。原辞は「たちまち鱗のようなものが、目から落ちて、見えるようになった」(『新約聖書』使徒行伝)です。『岩波ことわざ辞典』では、「ヘビの目の鱗が脱皮の際に剥がれるように、眼球に張り付いた鱗がぽろりと落ち、突然眼が見えるようになること」とあり、他の辞書には「ウロコscalaは目のかすみであり迷いが消えた」としています。
 昭和の日本人の最大の目からウロコは、大元帥陛下が敗戦5ヶ月後に自ら人間宣言をしたことでしょう。ところで「これまでの日本の平等な所得分配構造は一つの完成されたシステムである」(森永卓郎『目からウロコの日本経済論』)は、残念ながらまったくウロコが落ちませんでした。国税庁統計では、所得階級を(A)1500万円以下(B)1500万円超(C)5000万円超の3階層に分けています。708万人いる個人企業から大金持ちを含む申告所得者は、(A)が94%でその平均は399万円であり、民間給与所得者4500万人は99%が(A)でその平均は433万円で申告所得者の8,5%増しです。免税点以下の申告不要者と非正規労働などの低所得者は統計から除外されています(これらの人は社会の構成員ではないと国税庁はみなしているのでしょう)。
 (B)は43万人(6%)でその平均所得は3000万円強で、(C)は4万人(0,6%)でその平均は1億円強です。すると、6%の人が全所得の33,7%を独占し、0,6%がその10,6%を独占していることになります。しかも所得税の最高税率は37%ですが、富裕層の株や配当の大部分は手元に残るので実際には37%を大きく割り込んでいます。だから1000兆近い国の債務はほとんど貧乏人が支払っているということになります。もっとも1億円の小切手をもらっても記載することを忘れる政治家もいるので、この(C)層の収入の実態は闇の中ですから、森永氏は何を以て目からウロコというのでしょうか、まったく分かりません。このエッセイをお読みの方々は、そんなことは先刻ご承知のことと思いますが。(以上君塚芳郎氏の論考参照)。
 最近私の目からウロコが落ちたのは、政府がイラク人質事件で「自己責任だから、帰りの航空運賃は自分で支払え」と請求したことで、はじめて政府が国民の命を守るというのは幻想であったことが分かったことです。もう一つは、沖縄ヘリ墜落事件で、首相が知事との面会を拒んで六本木で映画鑑賞をしたことで、日本人の命より米軍が大事だとうことがハッキリ分かったことです。こうしたことは頭では理解できていたように思っていましたが、実際にほんとうにそうなんだということがよく分かりました。この夏は、自分の無知さ加減を骨身にしみて味あわされた暑い暑い夏でした。昨夜は猛烈な台風が吹き抜けて、我が家のすだれが全部吹っ飛んでしまい、今朝あちこち探してやっと見つけることができました。アテネ五輪も終わり明日から新学期をひかえて、いよいよ肌身に滲みて目からウロコの生活が始まるような予感がします。
 アテネ五輪といえば、いろんなことがあった中で印象深かったのは、男子マラソンのブラジル選手が妨害を乗り越えて笑顔でスタジアムを駆け抜けたこと、腕を脱臼したロシアの柔道選手が20分後に3位決定戦で勝った瞬間の雄叫び、同じく体操選手が祭典に激怒する観衆をなだめるシーン、イスラエル選手との対戦を拒否してメダルを捨てたイランのレスリング選手、なぜかスポットが当たらない水泳女子800m自由形で優勝した日本人女性、そして式典のクラシックな人間的な演出などなどでした。今でもイラン選手の態度をどう評価するかーよく考えてみたいと思っています。
 では皆さん、過ぎ去っていく二度と帰り来ぬ夏の思い出を胸の片隅に秘めて、澄み渡る秋空の下での互いの健闘を祝福し合いましょう。(2004/8/31 9:54)

 所得格差が進み、「勝ち組」と「負け組」の二極化を実感する人が増えている(朝日新聞9月4日日曜版)。二極化を否定的に見る人は28%程度で、能力主義・成果主義賃金に賛成する人は64%、痛みを伴う構造改革を推進すべきだという人が3分の2を超えている(2632人対象調査 調査対象の属性を示していないので統計価値は低いが)。働かない人を優遇する年功序列への不満が鬱積していた日本型集団主義への批判だろうか。とりあえず調査の概要をみてみよう。
 
 身近で二極化が進んでいると感じますか? はい71% いいえ29%
 (はいの人へ)どんなところですか?
  所得格差 1399人
  企業業績格差 1140人
  高額品と低価格品など消費傾向 1058人
  非正規労働など働き方 1031人
  東京への一極集中と地方の衰退 662人
  私立学校への進学など学歴 532人
  レジャーの楽しみ方 449人
  政治や選挙の結果 264人

 (はいの人へ)どう評価しますか?
  よくない是正すべき 28%
  よくないが仕方がない 30%
  どちらともいえない 33%
  どちらかといえばいい 7%
  より進めるべき 2%

 (賛成の人へ)なぜですか?
  努力の結果が明確で公正だ 1230人
  年功主義では不充分 1084人
  一人一人が創意工夫する 823人
  企業の競争力維持に必要 653人
  やる気が出て士気が高まる 598人
  国際的に自然な流れ 412人

 (全員)企業内能力主義による二極化は? 賛成64% 反対36%
 (反対の人へ)なぜですか?  
  上司の恣意的な判断 704人
  評価の公正が難しい 623人
  結果がすべてではない 585人
  短期で安易な目標になる 483人
  組織がぎすぎすする 398人
  仕事や生活の安定が損なわれる 358人

 総人件費を抑制してコスト削減し高利益率を実現しようとする企業の論理に取り込まれている。ゲームやスポーツの論理が短絡的に生活の次元に持ち込まれ、人参をぶら下げられたラット競争の悪無限に転落しようとしている。自己利益極大化という経済人モデルが社会を覆い込もうとしている。モノとは決定的に異なる人間の生存権の考え方が日常意識に根付いていない。欧米型社会国家よりも、アメリカ型市場国家の論理が見事に貫徹しているーというように一見見えるかも知れない。ライオンヘアー首相はポチ公と呼ばれて喜んでいるが、そのアドバイザーである金融相もおそらくここまでの野蛮さは想像していなかったのではないか。いや逆にもっと冷酷かも知れない。とにかく人間のボランタリーな協働を嫌悪する彼らだから。
 しかしこの調査をよく見ると、何らかの形で「二極化はよくない」という人が、是正すべき28%+仕方がない30%=58%で、33%の迷っている人がいることに注目すべきだ。言うなれば怒濤のような市場原理主義の蔓延に対して、91%の人は困惑を覚えているのだ。個性と多様性を開花するべき市場競争社会が、逆に個性を否定する少数派抑圧社会になり(君が代、教科書問題など)、2世議員が国家権力の中枢を握り、犯罪と犠牲が子供に集中するというパラドックスが露わになってきたなかで、多くの人が困惑している状況がある。「どちらともいえない」という曖昧な中間的な態度で自分の安全をとりあえず守ろうとする人が33%もいることは、競争社会そのものが実際には自己選択と自己決定の契機を奪っていることを示している。要するに結論的に云えば、他者を蹴落として恥じない動物的な排他競争の非人間性を本能的に身に感じているのであり、まだなお日本は救われる可能性を秘めていることが分かる。カール・ルイスと私を競争させて、負ける私の自己責任を追及するような社会を誰しもオカシイと感じているのだ。(2004/9/4 11:22追加)
 
[日本の大人は,子どもたちをどうしようというのか]
 文科省「生徒指導上の諸問題の現状」(27日)によると、03年度の公立小中高校の校内暴力が増大している。31278件(前年比+6,2%)、小学校1600件(+347 +27,7%)・中学校24463件(+5,4%)・高校5215件(4,3%)。校外暴力は、4114件(-4,6%)であるが、小学校のみ177件(+37件 26,4%)と増加している。養護学校を含むいじめ件数は、23351件(+5,2% 最高は95年度60096件)、高校中退者(私立校を含む)は81799人(-8,5%)、中退率2,2%(-0,1ポイント)。
 この数字を誰が信用するだろうか。現場はもっと陰惨で氷山の一角に過ぎない。増加傾向にあるという特徴が重要で、その要因を判然と明らかに確定しないと取り返しがつかない時代がくるような予感がする。行政や警察に通報されたリアルな刑法犯の他に、把握できないチャットやメールによる電子上のバーチャルなイジメが蔓延している。

 背景に何があるか。最も発生率が高い中学生の状況を高校入試からみてみる。現在全国的に自己選択・自己責任型入試改革が強行され、形式的には選択機会を増やし内容的には主観的な選抜の論理が強まっている。その象徴が自己推薦や自己PRなどの人格的な評価を数値化して選抜資料とする主観的選抜方法の怒濤のような普及がある。そのモデルが東京都立高校入試の自己PRカードだ。私もかって入試面接官として自己PRスピーチを聞いたときに、それぞれが明るい笑顔で夢と希望を語り、精一杯の自己アピールをするのを聞いて、感動すると同時に何か痛々しいものを感じた。それは私たち教師がソフトな形で人格に侵入し、支配しようとしている畏れに似た感じだった。彼らは膨大な準備をしてたった1分間に備えてきたと云うことがありありとうかがえたからだ。
 すべての受験生は推薦でも学力検査でも自己PRカードを提出する義務が課せられる。「入学希望理由」「選択教科、総合的な学習」「諸活動の状況と実績」をA4版に項目ごとに記入する。「諸活動」は、学級、生徒会、学校行事、部活動、ボランテイア、資格・検定など自分が特にPRしたいことを具体的に書く。各高校は、推薦入試は調査書点+面接点+自己PR点の合計で選抜し、一般入試は学力検査点+調査書点+自己PR点の合計1000点満点で選抜する(自己PR点は100点以上で1教科の重みを持つ)。子どもたちは、各高校が作成した冊子『本校の期待する生徒の姿』を参考にして書かねばならない。この結果どのような偽善と自己欺瞞を中学生は強制されているか。
 担任が指導し本来の自分とは違う期待される自分像をデッチ上げねばならない子どもの心、不合格の時に味わう人格否定感、落ちたショックで自己PRを書き直す屈辱感、市販本のマニュアルを真似して書く気持ち、自分を売り込むこと自体に尊厳を傷つけられるという気持ち、合格のために有利なボランテイアを選ぶ意識等々子どもの精神に与える傷は深い。
 もともと15歳という年齢は客観的な自己分析と評価と表現能力自体がまだまだ成熟していない年齢階梯だ。こどもの人格と人間性を点数評価して憚らない感覚とは一体なんだろう。入り口で良い生徒を採るという発想自体に実は原理的に問題があるが、工場労働者を採用するような侮辱的な選抜試験制度によって、日本の子どもたちは15歳にして大人の偽善と権力への屈従を学ぶのだ。推薦制と面接制などによって、教師に屈従する子どもたちが急増し対教師暴力は減退した。15歳にして日本の子どもたちは、日本社会がほんらいの人間らしいものではなく、権力に屈従しなければ生きていけないという現実を学び、受け入れるのだ。彼らのうちに刻み込まれた疑問と不信は、競争の中でほんらい協同関係にある自分たちの仲間にその刃を向ける。ここに日本の校内暴力が上昇に転じた一つの要因がある。最前線にいる教師たちは、子どもたちの苦しみに共感しつつも、こうしたシステムに批判的なスタイルをとれない。なぜなら教師たち自身が企業と同じ成果主義の競争原理で仕事を迫られ、良心によって歌と旗の強制に不服従の態度をとれば翌日から家族が路頭に迷うことになるからだ。蓄積されたトラウマは、いまのところ内向的に仲間集団に矛先を向けたミゼラブルな暗闘に転化されているが、いつの日か吹き出るマグマとなって予測できない行動が起こるだろう。外に対する侵略と異端者排除の時代が準備されている。(2004/8/30 11:26)

[10億人が汚染水で生きている地球]
 WHO(世界保健機関)とユニセフ(国連児童基金)26日発表。
 全世界で10億人以上が汚染された水を飲んで生活している。アフリカ、アジアの農村地帯では、毎年180万人が下痢を伴う伝染病で死亡している。この主な犠牲者は乳幼児に集中する。2015年までに汚染水で生活する人口を8億人に減らす計画であるが、対策の遅れと人口増加で逆に3億人以上増大する可能性もある。何を隠そう、私は1週間前に水道のカルキを抜く装置を水道栓に付けた。
 米国国勢調査局によると、米国の貧困層は3590万人(03年度 12,5% 前年比+130万人 0,4%)に達した(4人家族で年収18810ドル(207万円以下)を貧困層と定義)。収入の中央値は女性で-0,6%、18歳以下の貧困層が+17,6%とはね上がった。医療保険に加入していない人が4500万人(前年比+140万人 未加入率15,6% +0,4ポイント)であり、雇用先での保険加入が130万人減少し、個人加入も高薬価による高保険料による解約が増大している。多国籍企業の海外展開と正規雇用の減退によって貧富の格差増大と中間層の没落が急速に進んでいる。南北問題と北の階層分解ーここに米国が今戦争しなければ国が崩壊する深層の原因がある。これは日本も同じだ。
 資本主義は私的利潤の極大化を第1原理にし、経営は合理的効率性という非人間的な自己中心性を帯びざるを得ない。この価値基準に適合しない者は、使い捨てられ切り捨てられ排除される。この価値観は社会の全線に行き渡るから、排除される方も「自分の能力がないからだ、努力が足りないから」という自己責任感に苛まれるという善意の悲劇が誘発される。システムは、水をきれいにし貧困をなくしても鐚一文儲からない。いまなぜ10億人が汚い水を飲み、4千万近いアメリカ人が貧困ライン以下で生きざるを得ないのかー深層の要因がこのシステムにあることを見抜き、時間はかかっても犠牲者を極小化する取り組みを始めなければメルト・ダウンが近い。(2004/8/30 9:48)

[米国・チャータースクールの崩壊]
 瀕死の荒廃状態にある公立校から逃げたい親への自由市場的解決として、米国教育の再生の切り札として鳴り物入りで登場したチャータースクールが危機に陥っている。いわゆるPFI教育版だ。親や住民と教師が教育内容を決め、教育委員会の承認を経て公費で運営される学校で、民間企業が参入し、全米3000校に約60万人が通学する。大都市下層地域の荒廃した公立校を忌避して設立される。日本でも学校の民営化や株式会社化のモデルとして導入されようとしている。
 米教育省が、公立校児童対象に実施する統一テストを、チャタースクールの小学校4年生6000人対象に実施して比較したところ、算数・読みの2分野とも、充分な学力にある生徒が公立校より5〜7%低いという結果が出て、米教育界に衝撃を与えている。大都市貧困地区の比較調査であるからかなり精度は高い。以下は人種別・校種別学力度(*人種別に統計を出すというのが米国的)。

         算数       読み
     チャーター 公立 チャーター 公立
 白人  84    87   71    74
 黒人  50    54   37    40
 ヒスパニック 58 62   45    43 *単位% 基礎レベル以上の児童(ニューヨーク・タイムズ)

 問題はどこにあるか。公立校の荒廃の真の原因を解明しないで、安易に市場原理に依存した点に最大の問題がある。教育は、利潤になじまない公共財であり、効率性原理とは矛盾するという本質を持つ。学力を利潤対象として競争を煽るのは、教育の本質的な機能である協同やパートナーシップを阻害するから、集団が疲弊するのだ。
 それにしてもこうした米国モデルを天まで持ち上げて称揚する日本の教育関係者の恥ずべき他者志向は覆いがたいものがある。しかも日本のチャータースクールは、荒廃する公立校からの脱却をめざす米国型ではなく、一部選良を創出するより一層選別的な傾向にある。(2004/8/26 9:10)

[ニート現象と日本の未来]
 NEET(Not in Education,Employment,or Training)とはイギリス発の、就学もせず就労もせず職業訓練も受けていない若者を指す(玄田有司『ニート フリータでもなく失業者でもなく』幻冬舎)。玄田氏の定義は「学生と主婦を除く35歳未満で就職したいが求職活動をせず諦めている人」であり、厚労省「労働経済白書」では52万人、総務省「就業構造基本調査」では「就職をしたいが求職活動をしない15−34歳未満の無業者(求職しない理由が家事、育児、通学、介護、看護の人を除く)」で141万人(10年前より40万人増)、25歳未満で40万人と推定する。第1生命経済研究所の試算では、00年75万1000人→05年87万3000人→10年98万4千人→20年120万5000人と膨張すると予測し、ニートによる消費抑制で03年度名目GDPは0,15ポイント押し下げられ、労働人口の減少によって00〜05年の潜在成長率は0,25ポイント押し下げられるとした。
 学びの意欲も仕事を探すこと自体も放棄している若者の心情はなんだろうか。「やる気もない能力もない」(小泉首相)若者が増大しているのだろうか。政府施策は、労働市場と雇用のシステムの改善よりも、若者の職業意識や能力開発に重点を置いている。企業は即戦力を求め、過密労働によって労働力コストを極小化し、かっての日本型OJTは姿を消してしまったかのようだ(若者の正規雇用はこの6年で108万人削減された)。
 連合調査機関「労働調査協議会」が首都圏の大手企業社員(34歳以下)5千人対象の「不安感」調査は次のようになっている。
 雇用流動化による生活設計 52,8%
 自分の収入で生活維持できない 57,2%
 将来の生活イメージが描けない 51,9%
 人生のパートナーと出会えない 46,2%
 いまの働き方では病気になる 39,0%

 ニート現象が蔓延している英米日の共通点は、1990年代以降の新自由主義政策による自己責任を追及した国々だ。マイケル・ムーア『華氏911』で荒廃した街で黒人青年中心に軍隊志願の場面があったが、どの若者の表情も明るさがない。しかたなく従軍し職業資格と奨学金を得ようという感じだ。日本で痛々しいのは、就職の挫折を「やりたいことが絞れていないから」「自分の能力と努力が足りないから」と自分を責めている人が多いことだ。とりあえず自分が生き残るにはどうすればいいか、勝ち組になればいいという価値観に追いこまれている。
 政府の若者就労支援策のモデル事業である「日本版デユアルシステム(実務・教育連結型人材育成)」(週3〜4日は企業で、残りは職業学校でというドイツの制度を参考にして創設)は、35歳未満の学卒未就職者と無業者・フリーターを対象とし、4月から委託訓練活用型が始まった。従来からの3ヶ月座学の委託訓練(専門・専修学校)に2ヶ月の企業実習を組み合わせるものだ。受講料は無料で(教科書は自己負担)、ハローワークの受講指示と推薦が必要だ。実習中は賃金は出ない。訓練の内容は実践的な知識と技術よりもマナーが重視される。ここには、人間関係への苦手意識やコミュニケーションの力に自信をなくしている若者の就業支援がある。しかし就職難の真の原因は若者のマナーにあるのではなく、企業の即戦力重視戦略にある。デユアルシステムは、形式的には前進しているが、内容において無給でありなおかつマナーという非実践的な教程に問題性をはらんでいる。世界の職業訓練費の対GDP比率を見ると、スウエーデン0,29%、ドイツ0,32%、フランス0,23%、英国0,02%、米国0,03%、日本0,04%と何れも構造改革路線を採用している国が極貧である。「企業の要求が高度な技能と知識を要求する人材とパートなどの両極に分解し、外部で教育された人材を受け容れる新たなシステムが必要だ」(竹中経済財政相)というような発想では、当面の企業利益は上がっても熟練能力のある若者が減る合成の誤謬が誘発されて、日本経済の基盤が崩れることは明らかだ。
 おそらく責任感の強い若者ほど自分を責め、より努力しようという気持ちで、過酷な過労死に到る状態が生み出されていくだろう。もっと悲惨なのは、こうした職業生活に入ること自体をすでに忌避し、同時にまともに生きること自体を降りてしまうニートが出現していることだ。ライオンヘアーとその子分がつくってきた競争社会は、惨憺たる結果を生み出して、日本という社会の基本的なシステムそのものを壊しつつある。少数の勝者が高みからせせら笑って嘲笑している異常な社会をつくりだした元凶がこの二人だ。そしてそれを支持している多くの大人たちも、その日の糧を稼ぐに汲々として共犯者となってしまった。
 
 ちょっと立ち止まって考えれば、オカシイと思うことが次々と繰り広げられている。オリンピックで大躍進している日本選手の活躍をみて、私は少々困惑する。さっそくライオンヘアーは、日本のスポーツ政策の成功を宣揚し、努力しないヤツは敗れて当然だという風潮をまき散らし、多くの若者が自分はやはりダメだという自己否定感を強めるのではないだろうか。選手個人は立派だと思うが、長いスパンで見て日本のスポーツのすそ野は決して楽観できるものではない。甲子園の高校野球を見ても単純には喜べない。全国から特権を与えて選手を集め、専用球場をつくって深夜10時頃まで練習して勝利をめざすあり方は、もはや学校教育法の高校教育の基本を逸脱しているのではないか(四国の準優勝校その他)。

 こうして生きる目当てそのものがゆらいでいる若者になにがプレゼントされるか。それは他者と他国に対する嗜虐の感情の動員だ。日本の東京都知事は、特攻のシナリオをつくって映画化し来年公開するそうだ(新城卓監督・東映配給)。来年の敗戦60年にあたって特攻の意味を書き残し、後世に残したいそうだ。特攻隊員の青春のピュリテイー(純粋性)を賛美し、彼らを祀る靖国神社に天皇が参拝して特攻隊員の霊を慰めるためだそうだ(石原慎太郎「特攻と日本人ーある見事な青春群像」(『文藝春秋』9月号)。彼は、若者を特攻に追いこんだ責任意識と侵略の本質を理解できない頭脳でしかなく、祖国に殉じた若者の苦悩を語る資格はない。壊れていく日本と漂流する若者の精神をファッシズムに動員するやり方は、かってのヒトラー・ユーゲントの方法だ。ドイツでは、ファッシズムを賛美することは重大な刑法犯罪で、ましてや政治家は重罰を受ける。韓国では、旧日本軍に協力した家族がいたと云うだけで、責任をとる。あまりにもグロテスクなアナクロニズムにおちいった日本的現状を前にして、すべての人がある種の覚悟が求められる時代がきた。(2004/8/25 9:20)

[疑う目、それがジャーナリズム おかしいぞ!日本のマスコミ(『ニューズウイーク』日本版8月4日号)ーアテネ五輪で巻き起こるUSAブーイングの意味は何か?]
 米国に本社を置く週刊誌『ニューズウイーク』は、「戦争の旗振り役を務めたマスコミにはこの失態を説明する義務がある」とし、自社のイラク戦争報道を自己批判し、ひるがえって自己検討を一切加えない日本マスコミの異常性を指摘している。ワシントン・ポストは大量破壊兵器に関する情報を一面で扱わない政府サイドの報道を自己批判し(8月12日付け)、ニューヨーク・タイムスも自社報道を検証する記事を掲載した(5月)。ところが日本のマスコミで開戦から自衛隊参戦に到る過程を自己検証したマスコミはほぼ皆無ではないか。特に「読売」は、大量破壊兵器を放棄する国連決議を無視しているとイラク政府を批判しながら、いま以て何らの総括も加えていないばかりか、8月6日の広島平和宣言を「反核に政治を絡めるな」と市長の憲法擁護宣言を攻撃し、「産経」は戦後の超克を果たすために憲法改正の時期が来たなどと極右的主張を撒き散らしている。事実と真実のみに依拠して報道し、権力の情報操作を監視するというジャーナリズムの本旨は地に堕ちている。この点でアメリカン・リベラリズムの批判的な質を私たちは他山の石とすべきである。
 さて改憲論の戦略目標は9条改訂にあるが、国民多数の9条擁護論の突破口として「新しい人権」改訂論が登場している。これは9条改訂には批判的であっても、新しい人権挿入には賛成する中・上層市民をターゲットとする改憲論に過ぎない。「知る権利」「プライバシー権」「環境権」「情報公開権」等々はすでに憲法21条(表現の自由)や13条(幸福追求権)によって実定化されているにもかかわらずなぜ改憲を主張するのであろうか。逆に環境基本法では「環境権」挿入を忌避し、情報公開法では「知る権利」挿入を忌避したにもかかわらず。改憲論の主張を見れば、環境権は「環境保全義務」としてボランテイアの強制や災害・国防での協力義務に力点を置き、知る権利では「プライバシー権」による知る権利の限定という特徴を持っている。人権を奏でてじつは規制するという本質が見えている。マスコミ・メデイア諸子は、イラク戦争報道の禍根とともに、改憲潮流を冷静に報道する責務があると思われる。
 さらに生命倫理規定を憲法に挿入する主張は、私人間の基準に関しては最高法規は介入せず市民間の判断に委ねるという国家基本法の本質を逸脱する危険がある。犯罪被害者権の制定は表層的には多数の支持を受けるが、これも重大な問題をはらんでいる。憲法が刑事被告人の権利を主体としているのは、国家と個人関係の人権保障を重視しているからであって、国家基本法が犯罪をめぐる個人関係には介入しないという原則を逸脱する。これらは憲法規定がないから問題なのではなく、刑法や民法と家族法の改定で十分であるのもかかわらず。原理的に憲法は国家の恣意的な行動を許さないように、政府を縛るために国民が強制するという本質が、決定的に転換し国家が国民の父母として国民の生活に介入するという方向に踏み出そうとしている。
 他者依存の大勢順応・他人指向型の日本的文化の束縛が依然として強固に残っているなかで、国家基本法の安易な改訂は未来世代からの審判に耐えられないであろう。例えば日本のキリスト教人口が1%の壁を越えられないのは、日本人の現世指向的な集団文化があると言われる。日本人の信仰は2階建てで、ふだんは1階で生活し、日曜日だけ2階の教会に行って祈り、その祈りも願い事が中心で懺悔が弱い、これが教会の戦争責任も曖昧にしてきた(隅谷三喜男氏)。左翼も昼はマルクス、夜は亭主関白という二重構造を不思議とも思わない。従って戦争を賛美したマスコミも、罪を懺悔するのではなく、水に流せばまた仲良くできるという発想で戦後も生きてきたのだ。
 例えばアテネ・オリンピックで、熱烈なUSAコールとともに、ブーイングの大合唱が起きていることを報道しているメデイアはあるか(開会式、18日男子団体個人総合等々)。明らかにギリシャの戦後民主化運動を弾圧してきた米国の干渉と、イラク戦争に95%が反対するギリシャ市民の意識がある。かってベルリン五輪マラソン優勝者である韓国人・孫基禎さんが日本国籍者として優勝したことを知っている人はいるか。前畑秀子には絶叫した日本マスコミはマラソンを無視したのである。それにしても彼の息子である孫正寅氏が横浜で健在であるのは知らなかった。(2004/9/23 20:20)

[経営相談ー店の近くにスーパーが進出し、私が営む八百屋のお客が安売り目当てに流れるようになった。スーパーの安売りに対抗するにはどうすればいいでしょうか]
 八百屋さんに限らず大型店が出店した街のお店屋さんの共通した問題です。どう答えたらいいでしょうか。
 答1:市場原理の競争で敗れれば仕方がない
 答2:大型店に勝つ比較優位を価格以外でつくりだす
 答3:個店で対応は難しいので地域の商店と共同して活路を開く
 その他にもいろいろな答があるでしょうが、現実には答2・3で苦闘しながら結果は1の方向に流れていくのが実態です。大型店に通えない高齢者や障害者の日用食材の入手が難しくなってきます。ここでは、その八百屋さんに絞って今日明日の当面のやり方を考えてみましょう。
 中小の八百屋さんは、値入れという仕入れ原価に一定の利幅を見て売価を決める方法をとり、利幅の割合を値入率と云います。値入率を一定にしておくと、値引きの時には簡単ですが、価格競争が激化すると競合店価格との違いをアピールする点で迫力が弱くなります。スーパーの大量仕入によるバーゲン価格に勝てる価格訴求力はでてきません。
 そこで多くの小売業界は値入ミックスという価格政策を採用します。八百屋さんの商品全体の売り上げを想定し、この売り上げで店に必要な粗利益が確保できるかを考えます。そして、価格競争する商品はスーパーなどの競合店の価格と同価格かそれ以下の価格に売価を設定し、必要粗利益は競争しない商品で確保します。具体的には、0%(目玉商品)・10%・20%・25%等と細分化した値入率を個別商品ごとに決めていきます。例えば、大根や白菜は低値入れにし、メロン等は高値入れにする等の方法です。
 今回は価格政策という点に絞って考えましたが、当然に多様な方法による比較優位構築が求められます。産地直送・契約販売、安全性重視など製品差別化や、高齢者や障害者向けの通信販売(FAX注文)や宅配システム、広告宣伝など地域密着型経営が求められます。八百屋さんの商圏を半径なんkmかに置き、そこの地域の人口構成や野菜や果物に対するニーズを把握する顧客調査も必要でしょう。今日は八百屋さんのことについて考えましたが、思うにおよそ人間がおこなう個性的な活動とはこうしたことを云うのではないでしょうか。(2004/8/23 13:10)

[アホで間抜けなアメリカ人ーアーミテージ・レポート(INSS Special Report)は地獄のアジアを準備する]
 このレポートは21世紀の日米関係を規定すると言われる重要な意味を持ったレポートです。おそらく眼前で展開されていくだろう日米間の政治的諸現象を裏からコントロールしている指標的な位置にあるだろうと思われます。それを私が、アホで間抜けなアメリカ人と表現したのは、人類史が到達している国際関係の成熟した経験の宝庫をほとんど踏まえず、カウボーイのようなおめでたい論理で日米関係を構想しようとしているからです。レポートの端々に恐るべき知的貧困が見え隠れして、嘲笑をも浴びせかけたくなるのですが、これが帝国の権力中枢を把握している頭脳の程度かと思うと、逆に寒気を催すのです。なぜならこうした単純細胞的な精神は、どのようなミゼラブルな事態を招こうとも、勝者の栄光を自己賛美してはばからない、まるでプロレスラーのような傲慢かつ卑劣な特徴を持っているからです。
 一言で言うならば、このレポートはアジアにおいて永遠の世界帝国として君臨する米国の栄光のために、日本を忠実なパートナーとして組み込み、最終戦争をも辞さない覚悟を持てと強要している暴力団の親分の質とほとんど一致しています。その論理の象徴的な部分を抜き出してみましょう。

 欧州では今後20〜30年間は大戦争は考えられないが、アジアでは戦争の見通しが遠のいていない。朝鮮戦争と台湾海峡はいつ何時でも戦争が起こりうる。日本は米国の重要な要石であり、米日同盟は米国のグローバル安保の中心に位置している。・・・一部の日本人は、アジア化の観念に魅入られEUと同じような東アジア共同体という希望に囚われている。・・・日本の政治の冷戦的な二極に分かれたイデオロギーの時代は終わり、政官界エリートの若い世代の間には、安保問題に関する新しいプラグマテイズムが出現し、新しいリーダーを育てる土壌ができた。・・・政治家の後継世代も一般大衆も、国旗と国家に公式の位置を与え尖閣列島のような領土要求に関心を集中して国家の主権と保全を尊重することを証明している。・・・冷戦後のアジアは、日米防衛計画のもっとダイナミックな取り組みを求めている。日本の集団的自衛権の禁止は、米日同盟協力の束縛となっている。・・・・米英のような特別の関係が米日同盟のモデルだ。以下のことを実行せよ。
 ・新ガイドラインの誠実な履行と有事法制の国会通過
 ・平和維持活動の制約となっているPKO法を取り払う
 ・日米防衛産業の長期且つ緊密な提携関係
 今やバードン・シェアリング(費用分担)からパワー・シェアリング(力の分担)へと進化すべき時期である。
 米空軍嘉手納基地は地域の戦力投射の要の位置にあり、在沖第3海兵隊遠征軍は侵略者を叩く最新戦力の大型作戦ができる。
 ・CIA長官は日本の国家安保にかなったやり方で協力関係を拡大せよ
 ・日本の指導者は秘密保護法制定を実現せよ
 ・日本経済が回復するためには、短期的な犠牲をもやむをえぬ方法が必要である
 大体のところ、日本は米国の激励に応えてきたと云える。・・・日本は抜け駆けのようなことをやるべきではない。日本はワシントンとの調整なしにアジア通貨基金のような発想をしばしば打ち出した。・・・日本は国際的なリーダーシップが伝統的なバラマキ外交ではなく、リスクの負担を含むことを知るべきだ。
 ・日本の常任理事国入りには集団安保への参加という義務があり、日本はそれに取り組むべきである
 ・ロシアの莫大な天然資源の開発を援助すべきである
 ・ ASEANを活発で、独自的で、民主的で繁栄する方向へ向かわせる
 150年前にペリー提督の黒船が東京湾に来航して以来、米日関係が日本とアジアの歴史をつくってきた。将来はどうあれ、これは確固たる事実である。


 ほとんど傲慢な命令口調の内政干渉の羅列である。しかもそれが無自覚で展開しているところに、アホで間抜けなアメリカ人の本質が赤裸々に示されている。再度繰り返すと、日本は最終戦争の準備をせよと呼びかけている文書だ。(2004/8/21 00:24)

[いま甦るチャプリンのスピリットーマイケル・ムーアの明るい鋭さは何か]
 18日朝日新聞とのインタビューから彼の言説を紹介する。

 映画で描こうとしたほんとうの悪漢はブッシュじゃあない。米の主流メデイアだ。ブッシュの戦争にメデイアはチア・リーダーとなって戦争を煽った。怒りの矛先はむしろそっちに向いている。小泉首相が「華氏911」は政治的に偏っているから見たくないと云ったのは、自国民よりブッシュを愛しているという公言したようなものではないか。知的な人間なら、さまざまな意見や真実に好奇心を持つものだろう? 真実に目を伏せて、無知なままでいたいなんて、最愛のブッシュに似てきたね。(中略)私の仕事は、人びとが見ないでいたものを目の前に突きつけることだ。主流メデイアのエリート連中には恥じ入って欲しいものだ。あなた方が怠けてしなかったことを、こんな野球帽をかぶった高卒の男が世界中で映像を掘り起こして、補っているんだから。戦争の恐怖を最も知っている日本が、イラク戦争に加担するなんて、まったく悲しいことだ。第2次大戦後、日本は世界で、平和のたいまつのような存在だったはずだ。60年間大事にしてきたものを、ブッシュへの貢ぎ物にしてしまった。それで日本はより安全になったのかい。目下の目的はブッシュを政権から追い落とすことさ。だが最終的には、一握りの金持ちの支配からアメリカを救い出したい。超大国といわれながら、子どもの5人に1人がまともな教育も医療も受けられない貧困の中で暮らしている。イラク戦争も、戦場で戦っているのは貧乏人の息子や娘だ。戦争を仕掛けた閣僚や議員、戦争で利益を得る石油企業の重役の息子らが、真っ先に行くべきなんだ。徴兵制は復活させるべきだ。そうすれば戦争はうんと減るだろう。

 要するに真実は単純かつ簡潔な言明にあるということがよく現れている。西部開拓を進めたバックにあるフロンテイア・スピリット、何ごとも恐れず正義と真実の道を果敢に進んでいくという精神の最も良質な部分を彼は代表している。しかし私にとって、再確認させられたのは、戦後日本の平和路線がいかに世界から注視されてきたかと云うことだ。明日から始まる映画をまた観ていないので、映画自体の批評は後日に回すが、日本のマイケル・ムーアは現れるだろうか。自国の最高権力者を公然と呼び捨てにする文化をまだ私たちの国は持っていない。以上朝日新聞8月20日付夕刊参照。(20004/8/20 20:24)

[HIVイズ感染者・AIDS患者急増とコミュニケーション]
 厚労省エイズ動向委員会は、HIV感染・AIDS患者数について、新規感染者数3−6月199人(前回150人)で過去最高の昨年10−12月194人を更新し、患者も78人(前回69人)となったと発表した(7月26日発表 医療機関からの報告のみ)。*HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染してから長い潜伏期間を経て、体の抵抗力が弱まりさまざまの病気にかかった状態をAIDSと呼ぶ。
 1986年にWHO(世界保健機関)が提唱したヘルスプロモーションは健康支援に関する社会的戦略として、@健康的な公共政策A健康支援の環境づくりB地域活動強化C個人技術向上D保健サービスの方向転換を打ち出したが、日本でも10年前にエイズ問題が騒がれ対策が進んだにもかかわらず、なぜ日本では急増しているのだろうか。
 予防教育のレベルが、HIV感染の生物学的なメカニズムと差別・偏見批判に留まり、人間的対話と関係性のコミュニケーションレベルまで進まなかった。自己責任の技術レベルでは対応できなくなり、より異性間関係が健やかであるための自己決定水準の高度化が求められるようになった。感染者に「相手が病気を持っていると考えなかった?」に聞くと、逆に「じゃ貴方は奥さんが病気を持っているって思える?」と聞き返されて絶句する。愛する人の過去を気にしなければならない現実を受け入れ、それを乗り越えた愛情の関係を構築しなければならない時代に入った。素朴な原始的信頼関係と、現実のリスクのめくるめく背理を乗り越えたコミュニケーションが求められる時代に入った。(2004/8/20 10:28)

[文科省 ネット蔵書検索システム構築へ]
 指定地域内の全図書館の蔵書検索をインターネット上でおこない、コンビニで貸出と返却ができるシステムを来年度から文科省が発足させる。当初は都道府県や複数市町村規模の3地域で2年程度実施。ネット上での本の目次や表紙の閲覧によって事前の内容確認が可能となり、高齢者や入院患者に配慮した自宅や病院への配送・回収サービスを構築する。検索システムの開発や蔵書の共同保管庫の設置などの効率性ある管理と運搬・物流システムを支援する。このネットワークは、地域内大学、博物館、商工会議所などのデータベースを結び、図書館を知の情報拠点となる。
 文科省調査では、ネットによる蔵書検索可能な図書館は34%、他の自治体と蔵書の横断検索が可能な地域は17%に過ぎず、自治体横断検索はさらに少ない(02年10月)。
 日本の情報化水準ではむしろ遅すぎたプロジェクトですが、公営賭博などに狂奔せずこうした領域にこそ地域活性化の本来の道があると思う。(2004/8/17 10:05)

[公認賭博は地域を活性化させるか]
 刑法185条(賭博罪)・186条(常習賭博罪、賭博場開張罪)で禁止されている公認賭博を開設する「ゲーミング(カジノ解禁)法」の提案の動きが急ピッチで進んでいます。構造改革特区構想に鳥羽市、熱海市が名乗りを上げ一部の知事連名でカジノ合法化要望書を提出した。カジノ計画は、リゾート施設・テーマパーク・ホテル・ショッピングセンター・スポーツ施設を組み合わせた複合娯楽施設と賭博場を一体化したもので、ラスベガス・モデル(米国西部の賭博都市で45万都市が年間3600万人の観光客を集客する)を目標にしている。1事業当たり投資額数百億円から数千億円の資本を投下するビッグ・プロジェクトは莫大な利潤を企業にもたらすから、日本経団連や日本プロジェクト産業協議会、三井物産、博報堂などがカジノプロジェクトを立ち上げ推進している。
 議員連盟の「ゲーミング(カジノ)法基本構想」は、観光振興・地域再生・雇用増による国内外観光客誘致と地域活性化を基本目標とし、施行者=地方自治体、監督機関=カジノ管理機構を設置し、ゲーミング税課税と税収によるカジノ依存症患者の予防と治療をおこなうとしている。
 こうした地域活性化戦略に未来はあるだろうか。私はゲームそのものの開放的な快い楽しみを否定はしないが、一獲大金を夢見て射幸心を煽るカジノは、実は決闘や戦争心理の裏返しであって、人間心理を操作して胴元が莫大な利益をあげる犯罪であると思う。人間の競争心理を極大化し、蝕んで崩壊にまで至らしめるマインド・コントロールに近い行為だと思う。カジノは、明らかに暴力団を育成し、青少年犯罪など社会問題を激発させる。ラスベガスを見れば明らかだ。例えば、サッカー籤(toto)が惨めな失敗に終わっているのは、健康なスポーツ感覚とカネが結びつくことを本質的に忌避する人間らしい心理が働いたからだ。
 こうした賭博を自治体が胴元となって利益を吸い上げるシステムに、はたして住民の生活と安全を守る自治体の姿があるだろうか。
かってバブル期に自治体はリゾート開発に狂奔して巨額の財政負担を招き、今ではペンペン草が生い茂っている無惨な挫折に終わっている。しかもギャンブル税の収入を依存症救済に回すという破廉恥な政策に到っては、人間としての基礎条件が疑われる。人間性を剥奪することと引き替えに実現される地域活性化とは、まさに地獄の阿鼻叫喚に他ならない。(2004/8/17 9:42)

[続・日本は独立国ではなく、奴隷州に成り下がったのかー首相は事故当日、六本木ヒルズを散策し映画鑑賞を楽しんだ]
 8月13日に米軍大型輸送ヘリCH53が沖縄国際大学1号館付近に墜落した。沖縄県警と消防は、日米地位協定の実施に伴う刑事特別法に基づく現場検証を行おうとしたが、事故機の管理権が米軍に帰属することを理由に立入を拒否され、10分間の写真撮影のみを許可されて引き上げた。最高管理権を持つ国際大学学長は自らの学長室がある大学1号館立入を拒否され、大学の被害状況すら確認できない。事故機の管轄権が米軍に帰属するとしても、その敷地と建造物の管轄権は米軍にはない。つまり日本国の領土である現場一帯は、独立国としての主権を喪失し完全に米軍占領状態になったのだ。
 日米地位協定23条の米軍の「財産の安全を確保する」日米の協力規定によって、事故機の管理権を主張するが、問題は基地外で米軍の警察権を排他的に行使することができるかどうかにある。地位協定に基づく日米合意は、米兵相互間の「秩序及び規律の維持」の場合に米軍の警察権の行使を認めているが、これは基地外で米兵同士が喧嘩をしている場合などを指すから今回の事態は該当しない。逆に日本側は「司令官に通知する」ことによって、捜索・押収・検証をおこなうことができるとあるから、今回の事態は米軍が日本の公務執行を妨害したことになる。米軍機が墜落・不時着した場合には、「米軍は公有又は私有の財産に立ち入ることが許される」規定があり、単に立入を認めているに過ぎない。
 しかし最大の問題は日米地位協定自体にある。公務中の犯罪の第1次裁判権が米軍に帰属していることです。日本国民の生命・財産が侵された時の第1次裁判権は当然に日本側にあるはずです。公務中であれば無限定の裁判権を米軍に与えています。これは明治期の不平等条約そのものです。
 事故機のCH53は、空中給油機とセットになって、インドネシア・フィリピン・タイへの迅速で自給自足の遠征介入態勢を整えた海兵隊「東南アジア・エア・ブリッジ」システムの中核機であり、普天間→岩国→厚木→硫黄島→グアム→セブ(フィリピン)→ボルネオ→シンガポール→マレーシア→ハトヤイ(タイ)→下地島(宮古諸島)→普天間と東アジア全域をカバーする米国地上戦戦略の中枢をなしている。空中で静止し旋回可能な軍事ヘリは、地上戦での強襲と退避の急発進など予測不可能な緊急事態に対処する主要な兵器であり、性能を上回る過激な航行を繰り返すから、事故発生率は最も高くなり、しかも在沖の訓練用機は老朽化が進み、いままでも不時着や燃料タンクの落下を何度も起こし、5年前には国頭村で墜落し乗員4人が死亡している。今回の事態は当然予測されたことであり、米軍の作戦マニュアルはこうした事故リスクを組み込んで作成されているから、今後も大規模な被害が発生して許容限界を超えるまでこの種の事故は続くだろう。 
 かって明治政府は打倒した前政権が欧米と結んだ不平等条約の解消に心血を傾け、紆余曲折を経て平等の恢復に到った。尤も大日本帝国は、欧米から強制された不平等条約の内容をそのままもっと過酷な形で東アジア諸国に強制したのではあるが。戦後69周年を経て日本国は形式的にも実質的にも半占領状態にある。その痛みのほとんどは南の島・沖縄県に転嫁されて、共有されることのない時間が過ぎてきた。現世を風靡している沖縄ブームは、芸能や料理を求めて年間500万人が訪れる観光沖縄に過ぎない。おいしいところだけをつまみ食いし、嫌なものにはフタをする自己閉塞的な風潮が蔓延する日本は、すでに沖縄を見捨てているのである。あなたが噛んだ小指の痛さは、噛まれた本人しか分からないという想像力の貧困が戦後日本を覆ってしまった。
 サッカー・アジア杯でブーイングを加えた中国観衆の行為を、政治とスポーツを分離しない中国市民意識の未成熟とか反日教育の問題とか評論し非難の大合唱を加えている日本の現状は、レジスタンスをすべてテロリストとして虐殺するイラク米軍の人種優越主義とほとんど変わらない。2000万人を虐殺した責任を回避しながら、星条旗に屈従する日本が中国民衆にどのように写っているかの想像力はない。だからこそ同じ行為が日本の無辜の民衆に加えられた時に、薄ら笑いを浮かべて媚びへつらう卑しい政府しか持てない国に成り下がってしまったのだ。
 確かに最悪の失業率のなかで呻吟する沖縄経済が、基地経済の恩恵に組み込まれて抜け出せないシステムの罠に落ち込んでいることは否定できない。だからこそうち続く米軍犯罪と事故の被害を受けても、抗議はするが基地撤去までに到らないという沖縄の苦境がある。辺境に犠牲を強いて自らは安逸のファッシズムをめざしている私たちに、沖縄を責めるなんの資格があるだろうか。あたかも絶壁に向かって突進するチキン・レースのように、最後の取り返しのつかない悲劇に向かいつつある現実は、基地の全面的な撤去と復興計画にしか未来がないことを気づかせた瞬間にその幕を閉じることになるだろう。(2004/8/16 9:24)

 小泉首相は事故当日、六本木ヒルズを散策し、映画鑑賞をして夏休みを満喫した。翌日は終日アテネ五輪をTV観戦し、15日は金メダルを獲得した選手に電話をかけて祝福するパフォーマンスを展開、16日は歌舞伎を見物した。首相の取るべき行動は、国家主権にかかわる事態に対応した米国との交渉、現地視察、首長との面談など現場斧状況と要望を把握し、緊急かつ適切な手段を執るというのが第1義的な任務であろう。ところが宜野湾市長と沖縄県知事が上京して首相との面談を申し入れたら、夏休み中で日程調整がとれないと言う理由で拒否した。要するに首相にとっては沖縄県民のいのちの安全と国家主権の侵害よりも、自分の安逸のほうが枢要なことなのだ。裏を返せばそんなことも理解できない宜野湾市長と沖縄県知事は、実に幼稚な現地首長なのだ。つまり日本のモラルハザードが取り返しのつかないところまで頽廃しているという実態をありのままに示していることに他ならない。(2004/8/19 23:57追加)。

 沖縄県宜野湾市の米軍ヘリ墜落事件の現場から南東約300m(普天間飛行場まで約600m)の住宅地にある志真志小学校で、1日の始業式で児童660人対象に事故のアンケートが行われた(回答数643人)。「米軍ヘリが墜落するのを見たり、音を聞いた」204人、約半数の316人が「また落ちるのではないか」と答え、「事故のことが気になってよく眠れない」17人、「食事がちゃんと食べられない」7人、「集中して勉強ができない」25人となっている。おそらく欧州であれば、こうした事故を脇に置いて映画鑑賞する首相は即刻辞職に追いこまれるであろう。この子どもたちの不安は少なくとも基地移転が終わる10年後までは続き、そして今度は辺古野の子どもたちが荒れ果てた海をバックに同じような不安を抱いて生きていくだろう。(2004/9/2 17:272004/9/2 17:28追加)

[NHK「週刊子どもニュース」の吸引力は?]
 NHK「週刊子どもニュース」の視聴率は巨人戦と並ぶすごいものだそうだ。面白いことに60歳代以上では20%に達し、孫の名前で手紙を書いてくる人も多いそうです。普通のニュースでは分かりにくく、大人は説明しただけで通じると思いこみやすいが、語句や基本的な事項を知らず理解されていないことが多い。普通のニュースは「そんなことも知らないのか」という姿勢が言外に漂っている。放送している本人も分かっているかのような雰囲気で読んでいるが、実はほんとうには分かっていない。年金の問題点を正確に説明できるか?と問われて答えられる人が何人いますか? 郵政民営化に国民の多数が反対している理由は?と聞かれて正確に答える人は? ことほど左様に私たちは、コトの基礎知識と正確な理解なしに、イメージやパフォーマンスと先入観で自分が安心できる方へなびいている面があります。取り返しのつかない判断を”騙された!”と言っては何度も同じ歴史を繰り返してきたのです。特に日本人は大勢順応の傾向が強く、多数派の顔色をうかがいながら自分の行動を決める傾向が強い。
 「週刊子どもニュース」は、基礎知識そのものを丁寧に説明し、そして事象の本質をそれなりに伝えようとするから、実はほんとうに難しい番組だと思う。分かりやすく伝えようとすればするほど、実は本質的な思想が生々しく露呈されるからです。大人の番組や書籍は、概念と用語をひねくり回して、幾らでも本質そのものをオブラートにくるみ、さも深いことを云っているような印象を残して終わらせることができますが、子ども向けのニュース番組は簡潔な原理と基礎を伝えなければなりませんから、より番組作成者のイデオロギー性が露わになるのです。
 「週刊子どもニュース」は純然たる生放送であり、火曜日に打ち合わせ、水曜日に業者に仕掛けを発注し、金曜日に届いて放送するそうです。説明は子どもの生の反応に対応し台本はありません。子どもの出演者は児童劇団員だそうですが、一切前日までニュースは見ないようにお願いし、子ども自身に意見を言って貰うなかで考えるようになります。
 ここに知識とは何か? ある事象に対する認識をどのように形成したらいいのか、真実の評価はどのように導き出されるかの原点があるような、刺激的な番組が誕生し大人が見ても面白いのです。大人の間の対話もこのようなものでありたいと思います。但しココが重要なのですが、NHK「週刊子どもニュース」は明らかに日本の多数の常識の範囲を絶対に逸脱することはありません。つまり異端や非正統派の考えが採り上げられることは皆無なのです。想像力がある子どもは、すぐにこの番組の操作性を見破り離反していく可能性があります。(2004/8/15 19:41)

[猛暑の中で日本と世界は壊れつつあるのか? 確かな希望はあるか]
 この暑さは日本の末法の世を象徴してはいまいか? これは単なる自然現象ではなく人間の営んでいるシステム自体にどこか欠陥があるからだ。気の遠くなるような猛暑のなかで、シカと見据えなければほんとうに破局に向かうようなカタストロフィーが迫りつつあるような感じだ。

○東京都教委は、学校の男女混合名簿の作成を禁止する通知を出すそうだ。その理由は、ジェンダー・フリー(男女の社会的・文化的な性差別の禁止)は男女の差異をすべて否定する思想だからだそうだ。国連男女差別撤廃条約がうちだした、従来の男子先・女子後の名簿はふさわしくないという国際基準を否定するつもりなのだろうか。男女混合名簿は都教委自身が「男女共同参画のための行動計画」で導入を推進し、公立小学校の80%、中学校の40%、都立学校の90%がすでに作成されているにもかかわらず、こうした方針転換は行政の連続原理を侵犯する。背景には石原なる都知事の「男女の違いを無理矢理無視しようとするジェンダーフリー論が跋扈している」という6月都議会の発言がある。
○公務員の給与を決める人事院勧告は、官民格差解消(207円)のためにのみ、無関係の寒冷地手当を廃止・削減する。寒冷地独自の生活費増を補てんするこの手当廃止は、本州の40%に上る寒冷地の切り捨てにつながる。
○公立保育所運営費の国庫補助金1661億円を廃止して一般財源化した政府の決定で、財政危機にある自治体が一斉に公立保育園の民営化に踏み切った。子どもを営利対象とするような国に未来はあるだろうか。民営化によって保育士すべてが入れ替わった園の子どもは「先生がいなくなったのはいい子にしていなかったから?」と親に痛切な言葉を云っている。少子化対策として進む幼保一元化で保育園と幼稚園が統廃合が進み、信じられない遠距離通園が起こっている。一方で膨大な待機児童が置き座入りにされたままだ。子どもの世界を市場効率ではなく、子どもに最善の利益を提供するのが国の責務ではないか。
○大量破壊兵器を理由に非道な攻撃を加える国が、一方で小型核兵器の開発による先制核攻撃を準備しているというーこのおそるべき非対称性の世界がある。広島平和記念式典では新たに5142人の被爆者の名前が納められ、原爆死没者数は23万7062人に達した。核医学者の疫学調査基準(死の灰を浴びた者)によって認定を拒否されている被爆者(被爆食料摂取者)が放置され、科学者の社会的責任が問い直されている。
○国際NGO武器貿易調査報告「銃か?成長か?」から
 第3世界が武器購入に使う資金は年平均220億ドル(2兆4千億円)、サハラ以南のアフリカは90年代後半に軍事支出が47%増加し平均寿命が50歳から46歳まで低下した。南アフリカは潜水艦と航空機に60億ドル(6600億円)を使うがそのカネで同国のエイズ患者500万人の治療が2年間提供できる。インドは空母を15億ドル(1650億円)で買うが、このカネで110万戸が1年間生存を維持できる。武器輸出を推進する欧州とロシアは武器輸出と貧困の関係を考慮する義務があるが、実際に開発担当者と協議しているのは英蘭のみであり、持続可能な開発の観点から武器輸出を禁止した国は英蘭スエーデン、ブルガリア4ヶ国に過ぎない。
○パウエル国務長官は、日本の国連常任理事国参加は日本国憲法第9条の検討が必要と語った。彼には独立国に対する実質的な内政干渉という意識はないし、日本政府も一切抗議しないで「困惑」している。自主憲法制定を声高に主張する改正派は、半強制的な改憲要求を飲んでなお自主憲法を云うのであろうか。
○03年度小中学校の不登校児童生徒総数12万6022人(30日以上休む 文科省学校基本調査)、中学校では37人に1人でありクラスに必ず1人いる。背景に何があるか。父のリストラ、母子家庭で母の深夜労働、学校での競争学習などなど。しかしもっとも深刻なことは、不登校児によって評価が下がる教師が不登校の子どもの心ではなく、無理矢理不登校をなくすために虚偽申告することがあることだ。
○米陸軍監察官「イラク捕虜虐待に関する報告書」は、虐待をもたらす米軍の組織的な問題は存在しない、事件はすべて個々の兵士が軍紀を破って行った行為だと結論した。米陸軍占領規定では、捕虜尋問に関して睡眠を奪い尊厳を剥奪するマニュアルを精密に書いてあるではないか。他人の人間性を奪う者は、同時に自分の人間性を殺しているのだ。米軍では、大量のPTSD症候群の兵士が発生し、逃亡兵士と良心的兵役拒否宣言をする兵士が続出している。嘘で固めた戦場で、微かに残る人間性を守ろうとする崇高な行為がある。
○日本の旧陸軍は戦争末期にブリキ板でつくった特攻機「キ115」を群馬県・中島飛行機小泉工場で105機製造した。全長8,55m、全幅9,72m、単発、最大速度時速550km、乗員1人で1トン半爆弾を装填した。特攻機はいっさい武装せず、離陸と同時に脚が落ちる仕組みであった。勤労動員で働いていた少年がなぜ脚がないのか?と聞くと、技術将校は平然と、爆弾が重いので機体を軽くし、落とした脚を次の飛行機に再利用するためだと答えた。特攻作戦を部下に命令した司令官は敗戦とともに生きながらえている。
○沖縄戦の修羅のなかで、渡嘉敷島で日本軍と行動を共にした住民に集団自決を命令した日本軍は、肉親合い撃つ姿を尻目に、自らは逃亡してしまった。現地住民を楯にして自らは助かるーこれが帝国軍隊の本質であった。

 59年目の敗戦記念日を明日に控え、幾つかの事例を切り取ってみた。これらは共通した本質がある。利潤極大化とモラルハザードによって人間がみずから進んで悪魔になることができることを示している。しかしそうした一線を越えられない人間も、限界状況の中で確かにいるーということも否定しがたい事実だ。そしておそらくかの首相は、東アジアの憎悪を視線を浴びてA級戦犯の慰霊にむかうだろう。(2004/8/14 9:59)

[人類最初の原爆投下59周年は、新たな戦前を準備しているのであろうか]
 8月6日の今日は米国B52爆撃機エノラ・ゲイによる世界最初の人類に対する核爆弾投下の日です。本日開催される記念式典ではこの1年間に逝去された原爆死没者5142名の名簿2冊(合計83冊)が永遠の火が灯されている原爆碑に納められ、広島原爆死没者の合計は23万7062名になりました。存命被爆者の平均年齢は72,2歳(被爆者健康手帳所持者 広島市分3月末現在)で、昨年より0,7歳上がりました。原爆投下直後に1万人の負傷者が運ばれて埋葬された広島市南区沖の似島では、5月から7月に行われた市の第3次遺骨発掘調査で遺骨85体と遺品65点が新たに見つかり、遺品1点の名札から遺族が名乗り出て身元が確認されました。似島の遺骨は3日に荼毘に付され供養塔へ納骨されました。納められている7万人の遺骨のうち、名前が分かりながら引き取り手がない遺骨がいまだ837人(6月現在)います。この837人の魂は、家族と出会えずいまだこの世にさすらい鎮められていません。被爆した人は52年の講和条約まで沈黙を強いられ続けてきました。そして837人は今も沈黙を強いられています。
 
 かって59年前の子どもたちは、木銃を担いで元気よく歌を歌いながら行進しました。

 ♪肩を並べて 兄さんと
   今日も学校へ ゆけるのは
   兵隊さんのおかげです・・・・(「兵隊さんよありがとう」)

 ♪兵隊さん兵隊さん旗を立てて
   今日はどこへ行きますか
   お国のために
   強い兵隊さんになれる子どもを呼びにいく

 そして学徒動員され、一緒にいた10人がほとんど即死するなかで、「私は逃げたのです。瀕死の重傷を負った学友を救おうともせず、卑怯にも逃げてしまったのです・・・・」(黒木和雄『私の戦争』岩波ジュニア新書)。親友を失い、建物の下敷きとなった父を見捨てて逃げた娘は、生き残ったことに負い目を抱き、幸せになるのを拒んで生きてきました。幽霊となって現れた父が「わしの分まで生きてちょんだいよオー」・・・それはあの日のことを伝えていくことかと思い至った娘は「おとったん、ありがとありました」とつぶやく。(井上ひさし「父と暮らせば」より)。

 そして今は亡き最高司令官は「・・・億兆一心にして国家の総力を挙げて聖戦の目的を達成する」と宣戦布告し、「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」と無条件降伏をしました。この2つの言葉の間で、アジア2000万人、日本300万人が尊い命を落としました。彼は記者会見で広島・長崎の原爆をどう考えるか?と聞かれて「そういう文学方面のことはよく分かりません」と答えました。無差別爆撃は、スペイン内戦における独軍機のゲルニカ攻撃(1937年)から日本軍による中国の重慶大空爆(1938年)そして英米軍によるドイツのドレスデン空襲(1945年)を経て米軍による広島・長崎への原爆攻撃(1945年)へと連なり、今やバーチャルなピンポイント照準による電子制御攻撃へと進化しています。誰かを置いて自分が逃げ出すことができない大量殺戮兵器の時代に入っています。
 1千回生まれても、なお私はこの国に生まれ、この国を愛したいーパブロ・ネルーダに倣って日本をもう一度生まれたい国にするために、そういう明日のために種を播く人でありましょう(澤地久枝)。種とは何でしょうか。どのようにして種を播けばいいのでしょうか。すでに米軍ではイラク攻撃を忌避する戦線離脱兵が2000名を超え、韓国軍では年約700人が徴兵拒否宣言をおこない439人が入獄しています(6月現在)。人類史上最悪の悲劇であった先の大戦の犠牲者の魂が残していったかすかな希望が日本国憲法第9条に結晶した種であるとすれば、罪責から逃れるすべを持たない残された者の作業は、帝国に抗して全世界に向かって種が花を開くまで何十年かかろうとも第9条の旗をうち振らねばなりません。新たな戦前などという破線を越えて、逝った者の無念の視線に自らの視線を重ねて昂然と頭を上げてともに歩んでいくことでしかありません。誰かを置いて逃げ出さなければならないようなことを2度と強いてはなりません。(2004/8/6 10:02)

 勧告国家人権委員会が、韓国人被爆2世の健康被害等の実態調査を開始することを決めた。大韓赤十字社に登録されている韓国人被爆1世(韓国在住)は03年3月現在で2100人、うち1400人が韓国政府から手当てを支給されている。2世の統計はないが、市民団体調査では健康被害を訴えている2世は2300人に上る。韓国人被爆2世は国家と社会から放置され、生存権と健康権を脅かされているーとして初めての公式調査をおこなう。チョットオカシイのでは。加害者は米軍であり、責任者は日本であるにもかかわらず、なぜ韓国政府の自己救済か。日韓条約の請求権放棄の範囲には含まれないはずだ。(2004/8/17 20:08追加)

[オリンピックの光と影]
 パトリオット・ミサイルを会場周辺に配備したNATO軍が厳戒し、ガス・マスクを持参する選手団もいるなかでアテネ五輪が開催される。アテネ市民は膨大な負担と外国軍隊の駐留に反対する大規模な反オリンピック・デモンストレーションをおこなった。トップ・アスリートたちは、スリリングでこの上なく美しい肉体の限界を競う記録争いに全力を傾注する。その最終目標は国旗と国歌のもとでのメダル獲得である。しかし日本に引き寄せれば、日の丸・君が代はすでに色あせてしまった。思想の自由を選んだ学校教師に権力がどのような陰湿な迫害を加えたかを見れば、すでに日の丸・君が代自身が汚辱のシンボルに転落したことを知っている我々だ。文科省「スポーツ振興基本計画」(2000年)が決めた「1996年アトランタ五輪で1,7%に低下したメダル獲得率を早期に倍増し、3,5%(76年モントリオール五輪時)となることをめざす」というメダル至上主義は、政府強化補助費の貧困とサーッカくじ破産と企業スポーツの破綻によってすでに自ら裏切られつつある、先進国でもっとも貧しい選手への公的支援によって、実は競技生活は選手自身の自前の自己負担によって維持されている。政府が提供するのは、国民栄誉賞という紙切れ1枚に過ぎない。
 五輪創設者・クーベルタン神話も地にまみれてしまった。彼自身が、出場資格を成年男子個人に限定して女性を排除し、白人男性に限定して有色人種を排除し、独裁者ヒットラーを崇拝するオリエンタリストに過ぎなかったことが明らかとなっている。しかし現実の五輪は彼を裏切り、非西欧人と女性が競技場を制覇して、ここにこそ我々の希望がある。五輪休戦を通じた人類の和解の希望がある。
 しかし記録の計測は100分の1秒を争うデジタル世界に入り、身体そのものが人工的に改造されたモンスター選手の饗宴となってしまった(ドーピングは必要条件となった)スポーツは、もはや生の手触りの身体運動の究極の現象形態ではなく、虚数化したバーチャルな高度資本主義社会のポスト・モダンの記号世界に過ぎなくなった。第1回オリンピックの男子マラソン優勝タイムは2時間58分50秒(ギリシャ スピリドン・ルイス選手 40km)であり、それから108年後の現在の世界記録は2時間4分55秒(ケニア ポール・デルガド選手)となり、4kmの延長を入れて60分短縮された。賞金レースの普及と運動生理学や人間工学を応用したスポーツ医科学やシューズの飛躍的な向上によって、選手は走るマシーンと化し、人間の潜在的な可能性を極限にまで開発するテクノクラシーの時代に入った。
 だからこそ、日の丸・君が代も過去の歴史的遺制が剥ぎ取られて、何の歴史的規定性も持たない記号に過ぎなくなった。但しこの記号に対する過去の記憶が鮮明である地域とそうでない地域の非対称性は埋めがたく広がって、一方の地域ではなぜブーイングを浴びるのか理解できないといった状況が生まれている(ほとんどそれは加害国だ)。
 オリンピック自体が現代世界の非対称性を象徴するモデル・パターンを構築している。1つには、莫大な放映権料の支払能力がない国では、競技の視聴は不可能となっていることであり、第2は五輪開催地をめぐるIOC委員買収工作が横行し、崇高な理念は実は汚い買収にまみれていることだ。4日報道のBBCでは、1人20万ユーロ(2700万円)の買収金額を提示する工作現場が放映された。
 オリンピックは五輪憲章の原点に回帰すべきである。その原点とは、競技者が個人の資格で身体能力の限界を競うという初歩的な理念の確認である。以上・多木浩二氏論考(朝日新聞8月5日付夕刊)参照して作成。(2004/8/5 19:41)

 残念ながらオリンピック休戦はない。アテネで白熱した饗宴に全世界が熱狂している裏側で、占領をより強固にするチャンスとしてレジスタンスに対する壊滅作戦が続くだろう。壁の建設は急ピッチで進むだろう。「イラク人民闘争」が調査した03年3月から10月までのイラク市民の犠牲者は3万7千人を超えた(アルジャジーラ掲載 民間人のみ)。同組織の調査活動は03年10月に調査員の一人がクルド人民兵に捕まり米軍に引き渡されて以来中断している。イラク政府職員は死者数に関する情報の公表をすべて禁止されているなかで、米英の研究者チーム「ボデイ・カウント」が試みた死者数は11000〜13000人であるが、この報告では3倍に上っている。
 死者数の州別内訳
 バグダッド 6103
 モスル   2009
 バスラ   6734
 ナシリア  3581
 カデイシャ 1567
 ワシト    2494
 バベル   3552
 カルバラ・ナジャフ
        2263
 ムサンナ   659
 ミサン    2741 
 アンバル  2172 
 キルクーク  861
 サルフ・アルデイン
        1797

 この膨大な犠牲のうえに米企業ハリバートンの繁栄が築かれた。連邦政府の契約企業トップ200社と国防総省の契約高は、03年に31億ドル(3400億円)と前年の4億9200万ドルの6倍にはね上がった。契約事業は、兵士の給食、クリーニング、住宅提供等の兵站活動という戦争事業のアウトソーシングであり、油田消火活動と石油採掘事業という本業である。ネオコン副大統領がCEOであるハリバートン社は92年に兵站支援事業に参入し莫大な利潤を上げた。ハリバートンに流れた戦費の一部は、ブッシュ再選と共和とへの政治献金に流用され、同社役員による6月末までの献金額は30万ドルでその99%は共和党候補者であり、同社の別の政治資金団体も13万3500ドルを献金しその90%は共和党向けだ。以上・『ガヴァメント・エグゼクテイブ』誌掲載記事より。

 米国疾病管理センター(バーバラ・ロペス・カルドゾ氏主催)のアフガニスタン市民調査(02年末実施 799人対象)から。
 身体に障害のない人 うつ症状68% 不安症状78% PTSD41% (15歳以上の国民の3分の2にのぼる) この比率は女性や身体に障害を持つ人は更に高まる。原因は@79年のソ連侵攻から01年の米侵攻に到る20年以上の戦乱状態A3年間にわたる干ばつによる慢性的食料・水不足B難民生活で身を守る場所がないなどにある。戦争で荒廃したアフガンには、精神疾患者に対する支援活動は皆無で、多くの人が祈祷などの民間呪術に依存している。以上・ロイター通信記事より。(2004/8/6 8:40追加)

[加賀乙彦氏の賭け]
 氏の果敢に生きるスタイルは参考になる。氏は10年という枠で生き方を変えるそうだ。氏自身の生き方は以下の通り。
 16歳:敗戦 読書に専念し文学を渉猟。
 28歳:フランス留学。医学の勉強に専念。医学者を目指す。
 38歳:医学研究とともに長編小説執筆。二足のわらじ。
 49歳:大学退職し小説家となる。
 58歳:カトリックの洗礼を受ける。 
 70歳:ただ一つの長編小説「雲の都」執筆に沈潜。2002年第1部上梓。
氏の言葉から。「私は人生には賭が必要だと思っている。状況や他人の意志に従うのではなく、自分のやりたいことに賭けるのだ。そのためには、一生という茫漠とした時間で計画を立てるのではなく、10年単位ぐらいで今までと違う方向に目標を立て、それへと突き進む生き方を選んできた。負けるか勝つかは不確かだ。だから賭なので人生が面白くなる」(以上朝日新聞8月3日付夕刊)。
 もっとも氏は次いで、「老いた私は、もはや自由に飛翔する力を失い、土に生えた植物のように動けぬ生家の中を、うろちょろしているだけなのだ。そして誰かに追われて、かならず行き止まりになって目が覚める。あわれである。・・・最近は夢そのものが出口のない陰惨な結末で、小説の参考にならない。老いとは夢を失うことだと実感する」と弱気なことを云っている。しかし夢を旺盛に見ること自体が、ひとつの生の力の証しであることを氏には云いたい。
 私はつい先日100頁近い論文を納めたFDを壊してしまった。その瞬間、頭が真っ白になり、必死で悪戦苦闘して修復しようとしたがダメであった。何度試みても「原因不明のエラーで読み込めません」というメッセージが出る。パソコン屋に行って、ナントカナランカと無理を言っても、これはもうダメです、なぜ予備を取っておかなかったのかと冷ややかに言われた。それから数日呆然として全くやる気が起きず、あの過ぎ去った膨大な労力を想い起こしては悲嘆にくれた。そのような時にこの加賀氏の文に出会ったのである。チョット救われた気持ちになり、所詮消え去るべき仕事であったのかも知れない。褌を締め直してもう一度挑戦しようと新たな気持ちが湧いてきたのである。私は加賀氏の小説は読んだことがない。死刑囚の心情を記録したものはどこかで見たことがあるがそんな程度だ。要するにライフワークとは何かーを氏は自分の生き方を通して示しているのだ。ライフワークは10年単位で刻めとでもいうのだろうか。或いは10年で一つの仕事ができるぞーと言うのだろうか。マンネリに陥ったり、日常性に埋没している人にとっては、つまり私にとっては、結構響いてくる文章ではあった。70数歳を過ぎて仕事に集中する氏を見ると、世の中の大体のことはたいがいたいがいなんだとも思う。(2004/8/3 18:07)

[日本は独立国ではなく、奴隷州に成り下がったのか]
 皆さんはプロレスラーのような米国国務副長官・アーミテージ氏を御存じでしょう。ベンチプレスで鍛え上げた巨躯で知られるアーミテージ氏には知性のひとかけらもありません。なぜならGNP世界第2位という東アジアのある先進国に対して、国家主権の基本法たる憲法の改正を迫るという恥ずべき内政干渉をおこなったからです。その東アジアの国の名は、日本国といいますが、別名米国州の1州に入ったとも云われています。アーミテージ氏は日本からの議員に、「日本国憲法第9条が日米同盟関係の妨げの一つになっている」と改憲を迫ったのです。中学生でも分かる露骨な国家主権の侵害であり内政干渉です。驚いたことに面会した与野党の幹部は、一言も反論することなく積極的に賛成したのです。彼らは内政干渉として毅然と抗議することなく、唯々諾々と媚びへつらって賛意を表したのです。ヤクザの世界でも、親分は自分の子分の家のことに口出しすることはありませんから、もはやヤクザですらなく奴隷と主人の関係でしかありません。巨漢プロレスラーにすごまれて、恐怖に煽られて恐れ入ったのでしょうか。確かに日本は、埼玉県警草加派出所のように、暴力団に追われて派出所に助けを求めて逃げ込んだ人を暴力団の暴行が恐くて見殺しにする国ですから(3ヶ月の重傷)。それにしてもアーミテージ氏は暴力団も真っ青の迫力ある脅迫を日本に投げかけ、日本は土下座してそれを実行してきました。

○「ショー・ザ・フラッグ(日の丸を見せよ)」(01年9月 9.11同時テロの4日後にアフガン攻撃を決意して海上自衛隊のペルシャ湾派遣を迫る)
○「フィールドでプレーせよ(戦場に来い)」(03年6月 イラク戦争戦闘終結宣言後にイラクに自衛隊派遣を迫る)
○「逃げるな、茶会じゃない(震えるな)」(03年8月 バグダッド国連事務所が自爆テロで20数名死亡し、自衛隊派遣に動揺する日本政府に対して)

 アーミテージ氏は日米同盟の米国側責任者として、超党派研究グループの対日政策提言「アーミテージ・レポート」を作成し、露骨な内政干渉を主導してきました(2000年)。その要旨は@日米関係の米英関係化(日米連合軍)A米外交のアジア化B米中新冷戦構造C日本の集団的自衛権容認D日本独自の情報衛星容認E日本市場の規制緩和F日本の小切手外交からの脱却であり、 「日本が集団的自衛権を禁止していることは、同盟間の協力にとって制約となっている。この禁止事項を取り払うことで、より密接で、より効果的な安全保障協力が可能となろう」とあります。「我が心をいよいよ高鳴らせるもの、そは天にあってはまたたく星、地にあっては我が心の中の道徳律」とはあるドイツ哲学者の至言ですが、アーミテージ氏にあっては星条旗のもとに馳せ参じる日の丸軍隊であるようです。面白いことに、このアーミテージ・レポートを忠実に推進してきた日本側安保研究者が困惑しています。こんなに内政干渉的に迫られては、自分たちが番犬ポチ公であることをあからさまに示すことになるからです。
 この日本国の現状はDV被害者に酷似しています。DV被害者は、専業主婦が多く、どんな非道暴力を受けても離婚したくないと云います。その原因は不況下で年齢的にも仕事もなく、貧乏で食べていけない生活の方が辛いからです。夫の暴力さえ直ってくれたらと微かな希望を持って耐えています。加害者は加害依存症という嗜癖病理に陥り、相手を自分の思うようにコントロールしたいという欲求を持ちます。だからDVは反復され、加害者自身が自分の暴力性を自覚して直そうという強い意志がない限り改善の余地はありません。ところが加害者が自ら自覚する可能性はほとんどなく、最悪の事態になっていく確率が高いのです。いまの日米関係は、日本を自由にコントロールしたい欲望に囚われた米国が軍事基地という暴力で日本を脅迫し、経済的に自立できない日本が恐怖に怯えながら媚びへつらっているDV状況にあります。そのもっとも典型的なサデイステイックな人物がアーミテージと云えるでしょう。

 アーミテージ・レポートに反応する日本側の対応も急ピッチで進んでいます。日本経団連・国の基本問題検討委員会では、「日本が東アジアでリーダーシップを取るには軍事力充実が必要ではないか」(奥田碩会長)とされ、日本経済調査協議会・憲法問題を考える調査専門委員会の提言「憲法問題を解く」(7月29日発表)では、日本が攻撃されなくても米軍が攻撃された場合に武力行使できる集団的自衛権を憲法改定によって実現するとしている。経済同友会・安全保障問題調査会「安全保障問題調査会報告書」(1996年)はすでに集団的自衛権の容認を求め、日本経団連「今後の防衛力整備のあり方」(7月22日)は武器輸出禁止が「先進国間の共同開発プロジェクトの流れから取り残される」と再検討を求め、宇宙平和利用原則について「安全保障に於ける宇宙利用の重要性」を指摘している。しかし経済界は必ずしも改憲論一色ではなく、経済同友会の憲法問題意識調査では、集団的自衛権容認賛成76,9%に上ったが、1400人の会員のうち回答者は434人(31%)に過ぎず回答しなかった70%は回答拒否であった。改憲反対は7,2%であった。世界に誇る平和憲法14,9%、軍事大国の恐れ12,6%となっている。
 
 いよいよ憲法改正案が提起されて国民投票にかけられる日が近づこうとしています。その内実は実質的なアーミテージ憲法と云えます。しかし日本の良心が不滅であることを全世界に証す貴重なグループが出現しています。井上ひさし・大江健三郎・奥平康弘・小田実・加藤周一・澤地久枝・鶴見俊輔・三木睦子の諸子が立ち上げた9条の会です。どちらの側に日本の未来があるか、歴史は冷厳な審判を下すでしょう。(2004/8/2 22:49)

[女性が活躍する企業はなぜ業績がアップするか]
 21世紀職業財団「企業の女性活用と経営業績との関係に関する調査」(455社回答 03年1月実施)から。
 女性の活用に積極的に取り組んでいる企業(自己評価)売上高 115(5年前100)
 女性の活用が余り進んでいない企業(自己評価)売上高 97,8(5年前100)
 女性管理職が大幅に増えた企業 経営業績が良いとするもの25% 売り上げ指数173,7
 女性管理職が大幅に減った企業 経営業績が良いとするもの-    売り上げ指数 83,5

 経済産業省・男女共同参画研究会「女性の活躍と企業実績」は女性社員の比率が10ポイント高いと、総資産利益率が0,2%高くなると云う結果を報告している。女性の募集→採用→育児支援→セクハラ対策→平均金属年寸の男女差縮小と連鎖的に発展し、これが企業経営を活性化させる要因となる。本格的な分析が求められる。(2004/8/2 18:19)

[日本サッカー・チームは、なぜアジアでブーイングを浴びるのか]
 重慶市で行われたサッカー・アジア・カップで、中国人観客が日本のサポーターに物を投げて罵倒した。日本対タイ戦では、日本の国歌演奏に対して多くの観客が起立せず、大声を上げて騒ぎ、試合中は日本チームに対する強烈なブーイングを浴びせかけた。アジア・サッカー連盟事務局長は、「いきすぎた民族感情でファンは報復の快感を味わう。中日関係に不満を持つ市民は多いが、これは主に日本の右翼勢力の劣悪な行いのためだ」と述べている。日本のサポーターは安全を恐れて当初の10分の1に減少した。
 いうまでもなく重慶市は日中戦争期に南京から首都を移した蒋介石政権に対して、日本軍が猛烈な無差別爆撃を加えて大量の民間人を虐殺した街だ。肉親を殺された遺族の人の体験が現在まで連綿と語り継がれているから、決して中国の人たちは過去を忘れてはいない。しかしなぜサーッカ場で報復行動が誘発されるのだろうか。
 来年度の中学校教科書採択に向けて、「新しい歴史教科書をつくる会」は改訂版を出し、「日本を糾弾するために捏造された南京大虐殺、朝鮮人強制連行、従軍慰安婦強制連行などの嘘は一切書かれていません。旧敵国のプロパガンダから全く自由に書かれています」(藤岡信勝)と語っている。こうした潮流が一部右翼勢力だけでないのは、文科省がこの教科書を検定で合格させ、都立白鳳高校では採択の動きがあることをみても明らかだ。自らの犯罪に責任をとらず、歴史を修正し湖塗する日本の行動に対して、アジアの人びとが憤怒の念を誘発し、サッカー場で表現することを責めることはできない。鬼子と言われたかっての日本軍の行為を免罪することは一部右翼はおいて、歴史そのものが決して許さない。未来志向を呼びかける「ルック・イースト」(日本を見習え)を云うマハテイール・マレーシア首相に対し、日本政府は靖国戦犯参拝と太平洋戦争肯定論で応えた。なぜアジアで過去をめぐるこうした恐るべき非対称性が誘発されているのであろうか。
 1930年代の欧州ファッシズムの基盤は、分解する中間階級の不安心理にあった。大不況下で没落する中間層が、強力なリーダーの出現を待望し、シンボルとしての民族共同体の復権を図り(血と土)、民族の歴史を聖化した。同じく大不況下にある現代の日本でも、うちに貯め込まれたトラウマとフラストレーションを外側に犠牲者をつくり出すことによって、暴力的に爆発させる攻撃的なファッシズムの心情が確実に育っている。しかもそれは銃剣でもって上から動員された統制ファッショであると同時に、下から主体的に参加する草の根ファッショだ。東京都教委は、君が代斉唱に不服従の教師を再教育し、反省文を提出させる研修を実施するという、内面の自由を権力で恫喝するファッショ型トレーニングを強行する。
 草の根grass rootsとは「社会の底辺をなす民衆、庶民」(広辞苑第5版)の意であり、世界史ではアメリカで最初に1912年に用いられ、20年に農民労働党がスローガンとして使い、ニューデイール政策下で流行した。日本では70年代の革新自治体登場期に用いられ始め、83年12月第3版広辞苑に記載された。草の根民主主義とは、その土地に住む人が大地に根を張り、花を咲かせ、踏まれても枝葉を伸ばす雑草のようなデモクラシーの原義を表す美しい言葉だ。しかし大衆民主主義は恐るべき二重性を持つ。ナチス・ヒトラーは、暴力的脅迫で権力をにぎったと云うよりも、熱狂するマスの圧倒的な投票行動によって独裁権力を手に入れた。こうした二重性を持つ草の根が試されるのは、大不況期の生活不安と失業によって中間層の没落は始まる時だ。

 内閣府「高齢者の地域社会への参加に関する意識調査」(28日発表 60歳以上男女4千人対象 有効回答率71,5% 03年12月実施)は、日本高齢社会の実態を示している。
 生きがいを感じる  81,7%
 生きがいを感じない 16,9%(独居老人は30,5%)
 親しく近所づきあいをしている 52,0%(独居老人は43,5%)
 ほとんど近所づきあいはない  7,1%(独居老人は12,4%)
 親しい仲間や友人がいない 7,2%(独居老人11,5%)
 若い世代との交流の機会がない 52,8%(独居老人57,7%)
 地域行事やスポーツに参加した 54,8%(48,8%)

 迫りくる高齢化社会を象徴する独居老人は、30%が生きがいを感ぜず、60%弱が近所づきあいがなく引きこもる実態となっている。おそらく放置されれば、自助自立の老後を推進する政府政策によってこの実態はさらに拡大するだろう。一方あちこちで若者以上に元気で溌剌として活躍している老人たちもいる。ここに高齢社会の草の根の二重性がある。

 1978年の統計開始以降26年間で自殺者は最悪を記録し、34、427人となりこの5年間で16万人が自死している。自死の反対概念は「希望」であり、同一概念が「絶望」である。日本は、イラク戦争の戦死者数をはるかに上回る内戦状態にある。30歳代から40歳代の急増は何を意味しているか、経済生活問題の急増は何を意味しているか。社会の中堅層の希望を奪い、心豊かに病と闘えなくしているのはなにか。それは、すべてを「自己責任」で処理する政府の、内側に攻撃を向けさせる「構造的暴力」でしかない。保険金を家族に残すために自死する悲惨な実態をもたらしている構造を草の根から明らかにし、悪しき構造を変えることが残された者の責務ではないか。異常台風が荒れ狂う日本列島は、ふたたび猛暑の夏に戻り、草の根は全身の汗を滴らせて働き、権力者たちは軽井沢でゆっくりと静養している。(2004/8/2 9:17)

 サッカー問題から草の根問題へと少々飛躍してご迷惑をおかけしましたが、いま信じられないニュースが飛び込んで参りました。アジアカップで示された中国民衆の反日感情に対する、河村なる文科相のコメントです。「スポーツとは教育的な場。国旗・国歌に対する敬意がはらわれないというのは問題だ。お互いの国の教育の問題ではないか。スポーツではフェア精神を発揮するのが大事。日本では政治的なものを持ち込まないのが大原則であり、中国政府にも十分対応してもらえると思っている」(朝日新聞8月3日付夕刊)だそうです。
 スポーツの一般的なフェアプレーの次元では処理できない問題が内在していることをこの人は全く理解できないらしい。日中現代史の基礎知識がほとんど欠落している。この人は高校日本史・世界史の単位は取得できたのであろうか。日本は政治問題を持ち込まないという大原則があるそうだが、米国に追随してモスクワ五輪をボイコットしたのはどこの国か分かっているのだろうか。こういう恥ずべき無知な人物が権力の座にいる日本では、東アジア経済共同体というただ一つの日本の21世紀未来戦略は実現されないだろう。(2004/8/3 17:30追加)

 山東省済南の準決勝戦では、日本人サポーター約80人が中国人観客から隔離される形でゴール裏に固まり、約50人の警官に守られて観戦した。日の丸と応援の横断幕は許されたが、罵声を浴びせられた。その横断幕は「威風堂堂」となっていたが(「堂々」の間違いではないか)、威風堂々はかっての鬼子日本軍を連想させるに十分な威圧性があった。メデイアのコメントを見ると、90年代江沢民・愛国教育の成果、経済成長による大国意醸成、高まるナショナリズム、貧富の格差の拡大などの不満が自国政府批判に向かわず、批判しやすい日本に向かっていると解説している。憲法9条を改正せよーと迫る帝国には媚びへつらい、同じアジアの国には冷ややかな冷笑を加えている。2000万人を虐殺した戦犯を慰霊する政府をもった国に、庶民が表す素朴な批判の表現であるという視点が全くない。日中の民族感情の対立を煽るかのようなメデイアの報道スタイルに、現代日本の危機の深層がある。
 おりしも8月1日はポーランドにとっては、ワルシャワ蜂起60周年記念日だ。蜂起が始まった時間である午後5時に街中にサイレンが鳴り響き、レストランやテラスで飲食している人たちが一斉に起立し、黙祷を捧げる。救援を求めた米英軍に無視され、市郊外に迫ったソ連軍も侵攻を止め、63日間の孤立無援の戦闘で20数万人の市民が命を落とし、ワルシャワは瓦礫の街と化した。独首相は、戦後初めて犠牲者の記念碑の前でナチス犯罪を懺悔・謝罪して許しを乞い、その後に子ども兵士を追悼する歌が流れ大合唱となった。
 2日にはアウシュヴィッツ収容所跡(現オシフィエンテイム)で、第2次大戦中に約50万人が虐殺されたシンテイ・ロマ(ジプシー)の犠牲者追悼式典が行われた。この日は60年前の1944年に、アウシュヴィッツに最後に残ったシンテイ・ロマ約3000人がガス室で殺害された日だ。2日夜から3日未明にかけて女性、老人、こどもがガス室に送られ、成年男性は強制労働でドイツ国内に輸送された。ドイツ政府を代表して出席した環境相は「ジェノサイドはドイツの歴史の一部であり、われわれは歴史的政治的責任を負う」と懺悔した。
 ドイツ政府と企業は8月2日に、第2次大戦中のナチスによる強制労働犠牲者13万人へ4億100万ドル(440億円)の補償金を支払った)ニューヨーク対独補償請求ユダヤ人会議発表)。62ヶ国の強制労働犠牲者13万681人に1人当たり3000ドル(33万円)が、独政府と6000社の企業でつくる「記憶・責任・未来基金」(2000年設立)が補償した。ドイツは、いままで数回にわたってホロコースト犠牲者に対する補償金を支払ってきたが、強制労働と旧東欧在住者への救済は遅れ、独政府と企業が折半した総額13億2000万ドルの基金を設立し、いままで支払った総額は7億400万ドルに上る(今回分除く)。補償の過程で新たにブルガリアのナチ強制労働キャンプ被害も発見され補償リストに追加された。

 中国の人にとっても同じように、2000万人の同胞が虐殺されたことは忘れがたい記憶として今日に至っている。強制労働被害者に対する補償裁判は、時効として冷酷に措置する日本政府の態度。今以て旧日本軍が放置した毒ガス兵器による犠牲者が相次ぎ、日本側調査団が現地で抗議する住民に取り囲まれて糾弾される状況がある(8月2日)。ひるがえって日本では、戦後60年を経て日本が中国を侵略し、アメリカと戦争をした事実を知らない若者が増えている。サッカーでの中国庶民の日本に対する「侮辱」の本質的要因は、今以て謝罪し懺悔しないばかりか、虐殺は嘘だという教科書で若者を洗脳している日本政府の態度にある。ライオンヘアーは今となっては遅いけれど、中国の大地にひざまづき許しを乞うべきである。(2004/8/4 7:50追加)

 敗戦記念日の8月15日に、中国広東省深せん市で市民約100人が反日集会を開き、日本製品の不買運動を呼びかけるビラを配布した。地元のIT技術者が不動産関係の掲示板で呼びかけ、市内中心部3カ所で日本軍による中国侵略下の行為を非難し、家電製品や食品・化粧品・防衛産業の不買運動を呼びかけた。主催者は毎年、7月7日(廬構橋事件)と9月18日(満州事変)などに活動を継続するとしている。以上朝日新聞8月17日付け夕刊(2004/8/17 19:34追加)

[老年は荒野をめざすーあっぱれ 橋田信介は生きた]
 還暦の戦場記者・橋田信介は、5月27日にイラク武装勢力の銃撃を受けて61歳の生涯を閉じた。「老年は荒野をめざす」ー宇部市の地元紙に寄稿した連載記事の最終回の見出しである。ベトナム北爆下で唯1人の特派員体験を持つ稀有のジャーナリストは、「戦場の強者なんかじゃなくて、普通の楽しい友人だった」(戦場カメラマン・鈴木幸夫)。ビザなしでイラクへ入り、当局の規制を超えて迫力ある空爆映像を日本へ発信し、偽造ビザがばれて国外追放されると、義勇軍のビザを入手して再び入国した。マリファナと硝煙の匂いはどこか似ていて男をかき立てる、今の日本に失望した、武士がいなくなったからー骨太の矜持を守ってバンコクに定住した。肩書きで仕事をしない人間のプライドとは何かーこうした凝縮した人生は私たちに無言の意味を伝えてくれた。妻の幸子氏の立ち居振る舞いは、それがそれでまた一個の自立した女の姿を示していたように想う。
 橋田氏を英雄化しようとは想わない。なぜなら日本の閉塞された日常を生き抜く生活者のスタイルは、また別の矜持を迫る呪縛の力を持っており、ステージは異なれど、荒野をめざす無名の人びとがその生を刻んでいるからだ。心地よく我に働く仕事あれ、それをし遂げて死なんとぞ思うー宇部の郵便局員から夜間大学を出てジャーナリストになった橋田信介の生涯と、危うい矜持を維持しながら市井を生きる人に何の差異があろうか。朝日新聞7月26日付夕刊記事を参照して記す。(2004/7/26 20:25)

[おそれおおくも畏くも-時局奴隷の思想]
 つぎつぎとなりゆく論理に打ち克つ人間の可能性が問われています。「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌わない大リーガーが注目される一方で、エンペラーを賛美する歌を歌わない教師を摘発している国もあります。この国は昔から大勢におもむき時流を歩まない人を極端に排斥し虐めるメランコリー親和性の土壌が抜きがたく堆積してきました。外部からもたらされる圧力によって自己を革えるスタイルが身体に浸みこんできました。すべてを超えた超越的な一神教の伝統とは対極のなんと800万もの神々と暮らしてきたこの国では、すべてを裁く超越的な存在に対する畏れというこころは育たなかったのです。マジョリテイ圏に位置することによってしか安心感が得られず、自分のたった一つしかない身体と頭脳をいとも易々と大勢のおもむきに委ねてしまう安心の逃避とも云うべき心情が培われてきました。
 こうした歴史とともに牢固としてつくりあげられた文化の呪縛を、根底からゆるがす機会がたった1回だけありました。それが太平洋戦争敗戦による至高価値の没落と転換でしたが、外発勢力からの衝撃に依存する限界のなかで、自らの拠って立つところを自らの頭脳で埋めていく営みは残念ながら弱かったように思えます。そうして60年を経た今にいたって、遂にその原体験は打ち捨てられようとしています。超越的なものへの畏れの規範は内発化されることなく、また大いなる帝国に身を委ねようとしています。
 
 いのちの消えた死者の眼窩の暗闇が恐い
 政治をなだめえぬ無為無能が重くかなしい(中正敏)

 確かにこの中氏のように畏れを内在化させ、大勢に抗して奪われがたい自己を構築している詩人もいますが、多くの現代詩人が前衛からスタートしながら、いまはエンペラーが主催する詩歌の集いに身を委ねています。かって戦争詩歌を詠って多くのヤング・ジェネレーションの純情を発火させて戦場に散らした詩歌人は、敗戦を契機に大胆に民衆詩歌を宣揚し民衆詩歌人として再登場しました。ここには大勢に対する屈従と権威に対する追従の憐れむべき個の尊厳の喪失があるのもかかわらず、彼らは恥じることなく遂行したのです。右翼でアレ左翼でアレ、指導者に対する崇拝の心情は言葉遣いまで酷似してくる哀れな存在でした。吉本隆明なる者が痛烈に批判した構造はなんといまや吉本氏自身をも包摂し流していっています。
 至高の個の尊厳の感覚を日常生活のすみずみにまで、空気のような無自覚の習慣としてあらしめる文化がほんとうに問われる時局が近づいています。しかし個の尊厳は強者によって寡占されるダーウイにズムに堕してしまい、排除された弱者マジョリテイは喪った個の尊厳を、薄ら笑いの追従に紛らわせるという怯懦が世を覆いつつあります。簒奪された個の尊厳の奪還を呼号する人自身が、もはや強者の中からしか出現しないという極限の頽廃が忍び寄っています。弱者でないのに弱者の立場に身を置く欺瞞性を告発する勝ち誇った強者の大合唱が聞こえてきます。もういい加減にしましょうや、あくせくと時流を観て我が振る舞いを考えるのは、君の道を行け!そして人をしてその云うに任せよ!!(2004/7/26 20:05)

[スピルチャルペイン状況の現代日本]
 極度の限界状況で自分の存在意義を模索したり、不安に陥るこころの痛みをスピルチャルペインという。ナチス強制収容での収容者や末期ガン患者に典型的に現れる。普段は「死」を実感していない人が、急に約束された「死」に直面する辛さは想像を絶する。フランクル『夜と霧』は、そうした絶望状況を生き抜いた者は身体剛健な人ではなく、収容所の外に愛する人がいるとかやり残した仕事があるとか、守るべき子どもがいるなどの何らかの「希望」を持った人が最期まで生き抜いたという。
 彼は人が生きる意味を@創造的価値(仕事や子どものために)A体験価値(いい音楽を聴いたり景色を見たり恋人と過ごす等)B態度価値(最後まで人間らしい態度で後に残る者を励ます)に分類する。@の創造的価値が絶望となれば(死)、AかBでどう生き抜くかということになる。欧米や中東では一神教による死後の救いを信じることもできるが、無宗教の多い日本では難しい。そこで最近導入された手法が、「ライフレビュー」という方法であり、生まれてから今までの出来事や感じたことを振り返り、自分にとって今一番何が大事かを考えていく作業だ(非行少年の更生に用いられている)。なぜ生きたいのか・なぜ死にたくないのかをA体験価値やB態度価値に転換し、前向きに生きるために一日一日を大事に積み重ねていこうとする。死の絶望の恐怖から解放されて悟りきった状態になる人はいないからこそ、最後の瞬間を大事にしようという発想である。時には薬を使用することもあるだろう(うつ病など)。以上・岩瀬哲氏(東大病院)の論考参照。
 私がその人の最後の瞬間を看取ったのは、祖父・祖母・父の3人ですが、みんな最後は意識不明の状態でこの世を去りました。しかしそこに到る過程であっただろう不安や苦悩を、若い私は実感していませんでした。想えば人間はこのように順番でサヨナラするのでしょうか。さて飛躍しますが、日本という大きな存在も何か最後の極限状況に直面しているような気がします。まだまだ@はあるし、当然にしてABもあるのに自殺者数が過去最大の34427人に達しました。実に1日に100人、1時間で5人ではありませんか。私は自らこの世を去ったこれらの人の心情を想い無念でなりません。一家扶養の中心を失った遺族は、母子平均勤労月収13万円という貧困生活に転落し、救えなかった後悔で深い傷を負う。人口10万人当たり自殺率で日本は27,0人で、主要18ヶ国中仏・米・英を抜いてロシアに次ぐ第2位で、欧米諸国の3倍に達する異様な国となっています。

 警察庁2003年度自殺調査(22日発表)
 自殺者数34427人
 経済・生活問題25,8%(8897人)
 健康問題44,8%(15416人)
 30歳代4603人(前年比+17,0%)
 40歳代5419人(前年比+12,6% うち経済・生活問題1992人)
 男性自殺者73%
 都道府県別 東京2967人 大阪2180人 北海道1745人 神奈川1640人 愛知1633人 自殺率は秋田第1位
 三重県自殺数519人(前年比+62人 97年316人) うち男性371人(71,5%) 
   原因別 病苦170人(32,8%)・経済生活問題122人(23,5%)
   職業別 無職者301人(58,0%)・被雇用者144人(27,7%)・自営業者40人(7,7%)

 NPO「いのちの電話」に03年に寄せられた自殺願望相談は43600件、男性が44%を占めるが、実際の男性自殺者は73%だ。膨大な自殺予備軍の存在があることが分かる。私が最も許せないのは次の2人の言葉だ。

○小泉純一郎「どういう事情か分からないが、あまり悲観的にならないで頑張っていただきたい。できるだけ少なくする対応は必要だが、なかなか特効薬はない」(23日)
○竹中平蔵「失業者減っている中で自殺者が増えている。それが大変厳しい状況だ。多角的観点からの構造改革は進めなければならない」(下線部筆者)

 98年以降の自殺者統計は明らかに構造改革路線の強行に根本の原因があることは明確だ。この二人は自らの政策が人の生命を追い込んでいるという最低の人間的感性が摩滅した殺人マシンになっている。この二人は遺族を目の前にして同じ言葉を言えるのであろうか。私はこの二人を決して許すことはできない。

 厚生労働省・施設児童の実態調査(24日発表)
 児童養護施設入所児童数381、318人(98年比+11,3%)
  入所理由
   虐待(放任・養育拒否を含む)28,4%(+7,2ポイント)
   父母の就労10,4%
   父母の行方不明10,2%
   父母の精神疾患 8,5%
   破産など経済的理由7,4%(+3,1ポイント)
  心身の状況
   身体・言語障害20%
   PTSD(心的外傷後ストレス症候群)
    情緒障害児施設3,1%
    児童養護施設1,5%
    自立支援施設1,4%
 母子生活支援施設入所世帯数43、143世帯(+2,6%)
  入所理由
   配偶者からの暴力28,4%
   経済的理由26,8%
   住宅事情16,0%

 *調査は里親、児童予後施設、乳児院に入所している児童対象に5年ごとに実施。
 
 企業戦士を自殺に追い込み、女性と子どもを施設に追い込むことと引き替えに、手にする国際競争力とは何だろうか。哀しいまでに救いがたい地獄の阿鼻叫喚を冷ややかに冷笑している者が確実にいる。(2004/7/24 8:59)

[教育基本法改正(案)の思想は、プレ・モダン型ファッシズムシステムの復活なのか]
 教育基本法改正促進委員会(自民党・民主党)「新教育基本法大綱(案)」(6月10日)、教育基本法改正協議会(自民党・公明党)「教育基本法改正中間報告」(6月16日)と相次いで、改正案の戦略方向が示された。そこには曲学阿世のアナクロニズムがある。教育目標として「国を愛する、もしくは国を大切にする態度の涵養」ことが明記され、「国は教育の目的を達成するため、初等中等教育における教育内容を定め、評価の責任を負う」(大綱)とか、「教育行政は不当な支配に服することなく、国民全体に直接に責任を負っておこなわれるべきものである」(中間報告)とある。何れも下線部筆者。

 日本語の「国」ほどあいまいなものはない(大江健三郎)。英語では、Land((自然の国土)、Country(国土に住む人の集団)、Nation(その集団の政治的な統一体)、State(国家機構)と明確に区別するが、日本語の「国」はそのすべてを含む。「国を愛せよ」という意味内容はそのどれを対象とするのかでまったく違ったものとなり、しかもどれかの内容を強制すること自体が憲法の「内面の自由」を侵犯する。かって戦争に反対して「非国民」「国賊」といわれて迫害された人こそ、真正のパトリオットであったのだ。都立深川高校と千早高校の校長が10月2日の創立記念式典で「日の丸・君が代」を強制する職務命令を初めて出したが(9月)、彼らは内村鑑三の不敬事件をご存じないのだろうか。彼らの根拠は都教委が校長連絡会で口頭で要請した「学習指導要領にもとづく適正に生徒指導」というものに過ぎない。憲法と教基法と国旗国歌法の政府見解を蹂躙する職務命令が明らかに脱法違法行為であり、校長は毅然と公務員法違反で都教委を告発すべきであった。彼らは子どもの口をこじ開けてでも歌わさなければ処分するのであろうか。

 国家教育権を否定し、国民(父母)教育権に基礎を置く戦後憲法システムでは、国家は教育内容を一方的に規定・管理できず、教育に不当な介入をおこなった最大の元凶は行政当局にあった戦前期国家主義教育の苦い経験がどこかへ吹き飛んでいる。国家が教育内容を統制するファッシズムやソ連型社会主義教育のシステムは、学問と教育の自由を根こそぎ剥奪した痛苦の歴史的体験はどこへいったのか。310万人の日本人犠牲者、2000万人のアジア人犠牲者の生命を殺害した戦前期日本国家の犯罪型教育に対する反省的理性のひとかけらもない、この感性の衰弱には呆然として声を失う。
 こうした権威主義的内容によって教育の現場は惨憺たる状況になるだろう。「国を愛する心」が指導要領に入っただけで、全国172校の小学校で通知票の評価項目に「愛国心」が入った。「愛する」という感性的心情を評価する基準は、詰まるところ外的に表現された行為である「君が代」斉唱の声の大きさ等という視覚や聴覚になる。子どもたちは、内面の感情とは別に評価を上げるために「大きな声」で君が代を歌うだろう。教員採用試験の面接試験で必須の質問項目になるだろう。もはや近代社会の基本的な人権としての「内面の自由」の領域に、泥靴で踏み込み監視するファッシズム・システムが完成する。
 基本的には、日本は近代国家としての最低限の原理を喪失することになる。なぜなら近代法は、国王や国家が勝手なことをしないように、国民が国王(国家)を縛るためにつくったのが本質であるからだ。敗戦によって近代原理をやっと手に入れた日本は、また国家が国民に命令するために法をつくる外見的立憲主義システムに暗転していくのだろうか。(2004/7/23 23:26)

[或る大リーガーの静かな抗議と日本プロ野球の希望]
 米大リーグ、トロント・ブルージェイズのスラッガーであるカルロス・デルガド一塁手(アメリカンリーグ打点王 プエルトリコ出身)は、ヤンキースタジアムで流された愛国歌「ゴッド・ブレス・アメリカ(米国に神の祝福あれ」の演奏中は、グランドに出ず、ベンチに留まって歌うことを拒否している(ニューヨーク・タイムス21日付)。プエルトリコ・・ビエケス島の米軍演習反対運動にも参加した。彼は、こうした形でイラク戦争に抗議を続け、平和の意志を示している。米大リーグでは、7回の表が終わったミッド・オブ・セブンに、「私を野球に連れて行って」を合唱するが、9.11以降にコミッショナーの通達で選手全員が背中と帽子に星条旗をつけ愛国歌を合唱するようになった。ところがその後のイラク戦争の中で愛国歌の合唱は廃止され、また元の歌に戻った球場が多いがヤンキースタジアムだけが愛国歌の合唱を続けている。コミッショナーはデルガド選手の意向を聞き、場合によっては処分があると脅迫している。しかしトロントのチームメイトは彼を擁護し「ヤツは静かな人間なんだ。だからこの話も静かにやっているというわけさ。ただこういう思想的な問題を、ヤツは自分のベースにしているんだ。そのこと自体はオレは敬礼しなくちゃあいけないって思っている」(グレーッグ・ゾーン捕手)と言っている。残念ながら日本人の大リーガーでこうした姿勢をとる選手はいない。はるかメキシコ・オリンピックの400mリレーで優勝した米国黒人選手団が表彰台で真っ黒い手袋をはめ、星条旗に向かって腕を突き上げたシーンをマザマザと思い起こす(彼らはメダルを剥奪され、陸上競技界から追放された)。彼らはスポーツマンであると同時に、一人の自立した市民であることを証明している。
 こうした背景には、YES・NOを明確にいい、政治的立場をハッキリするという単純な選択の文化があるとも云えます。有名人が政治的立場を表明するのは、知名度を利用するとかプライドなどよりも変化の激しいリスク社会を生き抜く智慧でもあるようです。デルガド選手は、故郷ビエケス島の放射能汚染から子どもたちを救う基金を主催し、右翼的ファンの信頼をも集めているから、愛国歌拒否にもブーイングが少ないのです。以上・冷泉彰彦氏論考参照。

 日本のプロ野球選手は率直に云って、子ども時代から野球漬けで野球マシーンとして育てられてきたから、社会現象に対する自立した市民的な判断力を形成し得ていないという側面がないとは云えない。これは彼らの責任と云うよりも、日本スポーツ界と体育教育の構造的な要因だ。
 しかしここにきて、巨人・ナベツネが仕組んだ1リーグ制への移行に対して、毅然としてストライキ権を行使する決断を下した古田プロ野球選手会の決定に敬意を表する。自分たちの生活権の問題もあるが、基本には文化公共財としてのプロ野球を愛するファンとともに生きることを選択したのだ。
 ところが驚くなけれ、球団幹部は選手を愚弄し侮辱する言辞を吐いて恥じるところがない。「古田君はアホと違うか、たかが選手のくせに何を言うか」(渡辺巨人オーナー)、「2軍の選手には何らかの保護が必要だが、年俸1000万円を超える選手に労働者性はあるのか。歌手も役者もみな個人事業。野球選手会の任意団体が労働組合なのか疑問を感じる」(峰岸横浜球団社長 13日付「スポーツニッポン」)などと暴言を吐いている。峰岸氏はTBS時代の労政部長として組合弾圧の先頭に立った。プロ野球選手会は1985年に東京都労働委員会から正式認可を受けた労組だ。1978年の国会質問で政府は、@自分の労働力を提供するA使用者の指揮命令下に入るBその代償として収入を得るーから労働者であると答弁し、1976年の最高裁判決でも放送局の管弦楽団員労組を認めたことからプロ野球選手の労働者性は明らかだ。
 選手会がストに突入した時に皆さんはどのような態度をとりますか。団体交渉を拒否している不当労働行為に対する正当な権利行使だと考えますか。私はすでに読売新聞の不買運動を呼びかけています。プロ野球選手が、普通の市民労働者としての権利を行使することに対して擁護することは市民の義務ではないでしょうか。(2004/7/23 22:45)

[好きで働いて死んだのか、なぜ人は死ぬまで働くのかー過労死・と過労自殺の心理]
 欧州の過労死を説明するモデルは「カラセック・モデル」であり、職務上の要請の強度にもかかわらず裁量権が不足している場合に誘発される職場ストレスによって過労死に到る(日本では小淵首相のケースが該当する)。しかしこのモデルでは日本の過労死は説明できない。
 過労死(過労自殺)の主因は職場環境における監督責任(労災裁判の論理)にあるが、或る個人が過労死に到る心理的メカニズムの側面にも注目する必要がある(本人責任論ではない)。ここで日本人に特に多い「メランコリー親和性」(ドイツのテレンバッはが提起したうつ病に移行しやすい病前性格の概念 下田光造「執着気質」概念に近似)というパーソナリテイが果たす主体的な条件に注目する分析が登場する。
 欧米型職務構造の特質は、生産プロセスを多段階の職務要素に分割し、独立した職務として再配置して生産を組織し、細分化された職務と作業者との対応関係を軸とする個人責任制にあり、それは流動的な労働市場を前提に成立している。日本型職場構造は、終身雇用制を前提に職場集団が一定の裁量権を持ち、職能関係は分業の境界を明確にするよりも職務の重なり合いを重視し、成員間の相互交換可能性による集団主義が、経営者の指揮命令権や社内規則にから慣習的な職場自主性として成立してきた。この職場集団主義が、「メランコリー親和性」性格の「秩序志向性」と結合して、高度の生産性を実現してきた。ここに「欧米人が理解できない「死ぬまで働く」メカニズムが埋め込まれていく。
 このメランコリー親和的な集団主義は、個人と世界が溶け合い、個人は外部世界を想像できないまでに集団に埋め込まれる。しかしメランコリー親和性は、親しい他者には家族に近い気遣いと依存を示すが、一端疎遠になった他者には酷薄とも云うべき無関心に転化する。これは職場内異端者に対する異常な迫害に発展する場合がある(ガラスの檻などの見せしめ的懲罰)。
 さていま怒濤のような勢いで繰り広げられている業績主義による欧米型制度への大転換は、職場心理にど根底的なゆれをもたらした。日本的集団主義という組織がすでに崩壊しようとしているにもかかわらず、最後まですがりつく「メランコリー親和性」はすでに競争原理による信頼の内実の喪失によって孤立しているにもかかわらず、「沈没船からの逃げ遅れ」として個人が追い詰められていく。
職場で「かけがえのない存在」として過大な課題を背負い込んだ個人は、かってのような集団への「期待・依存の習慣」による可能性を喪失した「孤立無援」のなかで、死ぬ向かう決意の最後の瞬間に近づいていく。
 孤立を恐れない「孤独」に耐え得る個人の成立は可能か、それは自分中心の自由闊達な自己形成か、無邪気な個人主義か、コミュニケーション合理性か、或いはより人間的な職場コミューン・アソシアシオンの形成か、メンタルヘルスで解決可能か、或いは外圧による規制か(ILO国際労働基準勧告など)、現状が悲惨であればあるほど、未来への構想力の課題がより一層重視される。大野正和『過労死・過労自殺の心理と職場』(青弓社 2003年)参照。(2004/7/18 16:37)

[子どもの世界に何が起こっているかー遊べない・衰弱する子どもたちの誕生]
 中村和彦氏(山梨大)の子どもの遊びの変遷調査(子どもの時の遊び 山梨県内 2000年)から。
 
 70歳以上→60歳代 →50歳代 →40歳代  →30歳代  →小学生(低〜高学年男子)  
@メンコ     @メンコ  @メンコ  @野球    @野球    @TVゲーム
A野球      Aビー玉 Aビー玉  Aメンコ    A缶蹴り   Aサッカー
Bかくれんぼ   B野球  B野球   BソフトボールBメンコ    B野球

 70歳以上→60歳代 →50歳代 →40歳代  →30歳代  →小学生(低〜高学年女子)
@お手玉    @お手玉  @缶蹴り @ゴム跳び @かくれんぼ @TVゲーム
Aなわとび   Aなわとび @かくれんぼ Aかくれんぼ A缶蹴り A一輪車
Bかくれんぼ  Bかくれんぼ@縄跳び B缶蹴り    Aゴム跳び Aお絵かき

 子どもの遊びの世界に重大な変化が起こっています。外遊びが途切れ、残っている野球と縄跳びも全く内容が異なります。かっては3角ベースのような野原の野球でしたが、現在は大人が管理する少年野球チームやサッカーチームの練習であり、縄跳びも大勢で跳ぶ大縄ではなく一人で跳ぶものです。
 遊び場所も屋外遊びと屋内遊びが逆転し、遊び絶対時間が半減し、遊び集団規模も男子7.77人→4.09人、女子5,47人→3,11人と激減しています(30歳代との比較)。学習塾や習い事優先で子ども集団が成立しない、成立したとしても遊び場が消滅している、地域の見守るシステムがない、誘拐など危険がある等々遊びの外的条件が崩壊しています。遊びの予約を電話で取り、最大遊び時間が1時間を切り、帰するところ短時間で完結する室内の個人遊び(TV,カード)に帰着する状況になっています。こうして自ら遊べる子どもが減り、大人が一緒に遊んでやらないと遊べない子どもが増大しています。貴方の住んでいる町で子どもたちが喚声を挙げて駆け回っている姿が消えてはいませんか。こうした子どもの遊びの世界の崩壊は子どもたちにどのような変化を与えているでしょうか。
@身体・運動機能の衰弱
A自分で工夫したり創造する力の衰退
B集団の社会性の衰退                                 以下続く。(2004/7/17 9:56)

 いま子どもの体力と運動能力が急速に低下しています。中央教育審議会は「最大の原因は人びとの意識にある」としていますが果たしてそうでしょうか。文科省・学習指導要領の変遷と子どもの体力の相関を見てみましょう。64年から実施されている文科省のスポーツテストでは、体力・運動能力ともに85年を境に下降傾向が現れ、同じ年の子どもの運動能力の格差が急速に広がってきます。85年までに何があったのでしょうか。学習指導要領の体育編では、70年代は「体力づくりの体育」で持久走・縄跳びが奨励され、体力・運動能力ともに上昇しましたが、80年代は「楽しい体育」で運動やゲームを楽しむことに目標が移行し、授業も教師の「指導」から「支援」へと形態が変化します。こうして基礎的な技術やトレーニングなしにいきなり実践形式に入る授業が中心となりました。例えばソフトボール投げでは、投げ方が分からないまま(特に女子は者を投げる経験がなく下手投げしかできない)試合をするために、ソフトボール投げの距離は30年前と較べて男子3,64m・女子2,61m短くなり、運動に自信を持てない子どもや少しできないとすぐ諦める子どもが増えています。つまり学校体育の方法論にも問題があったのですが、98年指導要領では現場の実態に応じた「弾力的な指導」が導入され、運動できない子どもはその子の「個性」であるとして許容する傾向が強まりました。体育の授業時間も小学校では年間105時間が90時間に減少し、高学年では身体の調子を整えたり、仲間と交流する手軽な「体ほぐしの運動」が導入されました。ここでは体育は、他の教科で疲れた身体を癒す時間に転落し、独自の存在意義を失っています。
 こうした体育方法論は、かっての注入主義的な訓育主義体育を否定する方向を持っていますが、こどもの自由意志という名の放任主義へと逆ブレを起こし、基礎的な体力と運動能力の形成という前提条件を欠落させる危険があります。ほぐす前にまずからだをつくらなければなりません。以下続く。(2004/7/18 9:26)

[「人間の豊かさ」指数 日本世界9位 女性開発指数38位]
 国連開発計画(UNDP)04年度人間開発報告書」(15日)は、人間の豊かさを示す人間開発指数(平均寿命・康・識字率・1人当たりGDP・女性の社会進出など)による177ヶ国・地域の調査結果を発表した。

ジェンダー・エンパワメント指数(GEM) @ノルウエーAスウエーデンBデンマークCフィンランドDオランダM米国Q英国 ポーランド27位ナミビア33位ボツアナ35位フィリピン37位日本38位 *女性の議員・政府幹部職員・経営者・技術者比率を指数化
人間開発指数 @ノルウエーAスウエーデンBオーストラリアCカナダDオランダEベルギーFアイスランドG米国H日本

 スカンジナビア・モデルを中心とする欧米の厚い社会的経済と、英米型アングロサクソンの市場経済モデルの対比が明確に浮き彫りとなっている。豊かさとは何かーもういちど振り返ってみる必要がある。(2004/7/16 8:07)

[加藤周一「拷問の論理」(朝日新聞7月15日付夕刊 夕陽盲語)批判]
 加藤周一氏はイラク拷問問題を、中国戦線での日本軍のゲリラ掃討作戦とアルジェリアでのフランス植民地軍によるゲリラ拷問の事例を出しながら、「目的は必ずしも手段を正当化しない、目的が手段として犯罪を要求するとき、その他の有効な手段を発見できなければ、目的そのものを再検討する他に抜本的な解決を見いだすことはできない」として、日本軍の中国撤退とフランス軍の撤退が最適選択だと主張し、米軍のイラク撤退を要求している。
 しかし捕虜の虐待や拷問を国際犯罪として禁止しているジュネーブ捕虜条約は、主権国家の発動する戦争をすべて前提とする正戦論概念の元での国際協定であり、たとえ一方から見て侵略であったとしても、侵略軍に科せられた責務なのである。それは現在の国際司法裁判所が米軍のイラク侵攻を裁くことなく、拷問行為についてのみ言及し、イスラエルのパレスチナ分断の壁建設についても、イスラエルの侵略行為自体は問わないことにも現れている。
 加藤氏の拷問の論理は、原理的な戦争本質論を無媒介に取りあげて撤退論による拷問の解消を主張するという飛躍した論理がある。いかなる戦争(侵略でアレ独立戦争でアレ)のどのような状況の戦場であろうとも、遵守しなければならない戦時国際法としてのジュネーブ捕虜条約の意味を理解していない。この論理は危うくすれば、侵略行為の下での拷問は虚偽の目的が生み出した必然的な行為であり、撤退がなければ拷問もなくならないという実は客観主義的な肯定論に堕する危険性がある(氏の主観的意図とは無関係に)。
 現代では、いかなる拷問もなしに遂行されるスマートな侵略行為は可能であり、加藤氏の論理は拷問なき侵略に撤退を主張し得ない悪意の解釈が成立する余地がある。つまり侵略とそれに付随する拷問は質的に違うレベルの問題であり、厳然と区別しなければならない。私がかって観た「アルジェの戦い」という映画では、独立を求めるゲリラレジスタンスが一般市民対象の爆弾攻撃をおこなっていたが、当時では彼らをテロリストとして非難する言辞は耳にすることはなかった。ところが現代ではレジスタンス=テロリズムと見なす傾向が強い。現代のイラクで自爆攻撃をおこなっている者は、レジスタンスなのかテロリストなのか果たしてどちらカーを加藤周一氏に聞きたい。なぜなら加藤氏の云う「手段としての犯罪を要求する目的は、目的そのものの再検討を迫る」のであれば、米軍に対する自爆攻撃は非合法的な「テロ」行為であって、従って「独立」や「米軍の撤退」という「目的」自体を再検討するという結論になるからだ。私たちは安重根の伊藤博文暗殺をどう評価するのであろうか。(20004/7/15 19:05)

[国連女性差別撤廃委員会「暫定的特別措置」の意味]
 国連女性差別撤廃条約の採択(1979年)から25周年の今年に、遅々として進まない現状の打開に向けた新たな勧告が出された。中心は「結果の平等・事実上の平等」を実現する次の「暫定的特別措置」(第4条第1項)の適用にある。
@男性との事実上の平等を実現する措置は、実現後廃棄される(例:女性の雇用や登用の数値目標設定)
A母性保護のための特別措置(恒久的措置)

 今まで用いられてきた「アファーマテイブ・アクション(積極的改善措置)」「ポジテイブ・アクション(同)」などの多様な用語の曖昧性を払拭し、「暫定的特別措置」を統一用語とする意義はどこにあるのだろうか。
<基本理念の明確化>
 国際法の一般的基準は男性・女性双方の権利保障にあるが、女性差別撤廃条約は特に「女性差別に焦点を当て」、形式的平等ではなく実質上の平等を達成するためにある。女性に同等の待遇を保障するだけでなく、現実にある差別を男女での違った待遇で解決するということだ。男性優位の労働システム(例えば遠隔地転勤や遠隔地転勤=正社員)の現状の上に、男女平等を築くのではなく、システム自体を再編するということにある。
<日本的意義> 
 政府主導の男女共同参画社会は基本的に「機会の平等」にあり、公的活動や政策決定、登用での女性参加率は世界44位という低位にある(国連開発計画03年度報告)。政府審議会1733人に占める女性委員は465人(26,5%)うち78人が兼務であり(03年9月現在)、審議会の下部機関である部会の委員兼務も多い。05年までの政府目標は30%である。事実上の平等を実現する行動計画と数値目標化した措置を決定し、国連に対する報告義務を課せられたのだ。それにしてもいつまで経っても外発的な外圧でしかデモクラシーが前進しない日本ていったいなんだ。(2004/7/14 8:54)

[人はなぜ他人を殺すことができるのかーデーブ・グロスマン『戦争における人殺しの心理学』(ちくま学芸文庫)]
 人はもともと人間を殺すことはできない、逆に愛する者のために自らのいのちを捨てる遺伝子の流れにある。人間以外の動物は進んで自らの命をなげだす遺伝子は発達していない。その人間がなぜ戦争で人を殺せるようになるのか?ーというテーマに迫ったのがこの書である。著者は米国軍人で軍事科学の専門家である。
 第2次大戦で敵に向かって発砲した兵士は、15〜20%にとどまり、圧倒的多数は発砲しないか、わざと目標を外して発砲した。ところが朝鮮戦争では発砲率55%になり、ベトナム戦争では90〜95%に上昇した。その理由は、「人間に生来備わっている同種殺しに対する強力な抵抗感を克服するために数世紀に渡って開発された心理的メカニズム」にある。新兵訓練プログラムでは、映画の残酷な暴力的シーンを反復して兵士に見せる訓練によって、「脱感作」(感受性の絶滅と除去)効果を埋め込み、敵に銃を発射できなかった兵士がためらいなく引き金を引くように兵士を改造する。
 こうした映像による「脱感作」トレーニングが、現代ではマスコミや対話型TVゲームの暴力シーンに発展し、こどもたちの神経系統に無差別殺人の心理を条件付けるバーチャル・リアリテイが誘発されている。戦争に於ける殺人行為の宣揚は、部族や民族・祖国防衛に対する名誉や犠牲者への最大の賛辞という精神動員や、命令拒否者に対するみせしめ懲罰による恐怖動員から、自己防衛を経て最後には殺人=快楽にいたる狂気の構造へと発展する。人間心理の攻撃研究は、ローレンツ「攻撃」やワイズマン実験の権威主義アプローチが有名だが、この軍事心理研究は人工的な神経操作の恐怖を証明して戦慄的である。(2004/7/12 9:45)

 グロスマン説を否定する根強い本能説も依然として流布している(柳澤桂子氏など 朝日新聞7月27日朝刊参照)。

 チンパンジ等の類人猿と人間の分岐は300万年前から500万年前
 人類は100万年前にアフリカを出て、50万年前にヨーロッパに達した
 言語は80万年前に使用されはじめた
 ホモエレクトスからホモサピエンスが分岐したのは20万年前
 旧人(ネアンデルタール)・新人(クロマニヨンの石器には殺人可能なものがあり、骨の化石に他殺の痕跡がある
 狩猟採集民
  エンバー 1978年報告 世界31部族調査) 2年に1度戦争したもの64% それ以下26% 全くしない10% 
  シャノン  1988年報告 ニューギニア・フリ族 成人男子の死因19,5%が暴力
                  ニューギニア・マエ・エンガ族 成人男子25%が戦死
                  ニューギニア・ドウグム・ダニ族 成人男子の戦死28,5%

 [ムートン説]人間は集団を形成し、同一メンバーは特別の感情を持ち外部に対し攻撃的になる「内集団・外周団偏向」という気質的固定観念が形成される。この偏向は、年齢→性→宗教・民族と強固になり、他グループを非人間視し、迫害しても罪の意識は起こらない。この成功は戦時に強く表れ、兵士は@残忍性A内集団・外周団偏向B誇りという3要素にに陥る。これが利害・権益という欲望要素と結合して戦争はなくならない。戦争はDNAレベルに原因がある。

 柳澤氏がこうした陳腐な議論におちいってニヒリズムをばらまくことは、自然科学者としての資質を問われる。こうした本能論やDNA説は、歴史と友に古く闘争本能的進化のバリエーションに過ぎない。本能とは、食欲や性欲を典型例とするが、人類は乱婚を排除し、食欲も素晴らしい文化として本能性を脱却している。闘争本能説は、自己愛説に基底を置くが、もし動物のように自己愛本能に留まっていれば人類の誕生自身がなかったことになる。人間が人間になり得たのは、ただ単に種としての生存から類としての成長へと発展できたからである。人間だけが本能を統制下に置くことに成功したのである。現在でも戦争があるのは、私的欲望を誘発するシステムが残存しており、グロスマンが証明したように本能的心理を扇動する一部の欲望主義者が強固な権力を把握しているからである。柳澤氏の致命的な欠陥は、原始・古代の人類の痕跡を超時間的な本質として適用し、人間発達の歴史性を阻却するところにある。(2004/7/27 9:06追加)

[ハンセン病のポスト・コロリアニズム]
 韓国・小鹿島(ソロクト)の国立ソロクト病院のハンセン病元患者28人が、ハンセン病補償法による補償請求を厚労省におこなっている。日本に渡る鶴の寄港地として有名な釜山南西の鹿洞から海へ浮かぶ小さな島にある病院は、1916年に唯一のハンセン病病院として官立全羅南道小鹿島慈恵病院がつくられ、戦後は韓国国立病院に移行している。現在の療養者700人のうち100人は日本統治時代から収容されている。
 日本統治時代には、最大6000人が収容され、強制的な患者作業は赤レンガ製造であった。日本人職員の厳しい監督の下で過酷な労働を強いられて懲罰が加えられた。監禁・断種に耐えかねて逃亡したり、手足を切断した患者が増大した。国内療養所の断種は結婚の条件としておこなわれたが、朝鮮では懲罰としておこなわれ、所内の会話は日本語が強制され、急病時でも日本語で依頼しなければ診察は拒否された。神社参拝が強要され、カトリックの多い国では信仰を裏切る精神的な苦痛が倍化した。今も小鹿島神社の跡地が残る。日本人には日本語で話さなければならないという恐怖感が現在でも続き、日本側のヒアリングに対して「タイショウ○○年」「ショウワ○○年」とほとんどの人が元号で答える。
 ハンセン病国家賠償訴訟・熊本地裁判決によってハンセン病補償法が成立し、戦前期に「武力で一等国になった日本にライ患者がいることは国の恥である」とする強制隔離と治癒後の生涯隔離を違法とした。この法は、国籍と居住地を問わず慰謝として補償金を支給するものであるから、当然に日本統治下の元患者にも適用されなければならないはずだ。しかし同法・運用規則は旧植民地療養所を対象としていない。従って韓国・小鹿島療養所と台湾の台北・愛楽園療養所は含まれない。厚労省はこうした立場で韓国と台湾での患者調査を戦後一切おこなっていない。熊本地裁判決を実現した熊本ハンセン病元患者を中心に、ヒアリングと記録精査がはじまり、収容者確定と補償請求意思確認がおこなわれ、入所者28人が補償請求に踏み切ったのである。
 従軍慰安婦強制労働と連なる戦後処理の象徴的な問題であり、病の苦痛と植民地支配の苦痛を二重に加えた旧日本帝国の責任は、いま日本に生きている現世代が果たさなければならないポスト・コロリアニズムの恥ずべき遺産である。(2004/7/12 8:55)

[人道支援とは何か]
 人道支援・援助は美しい行為ではない。被援助者は生存のために他者に乞うという尊厳の放棄と引き替えの行為を採らざるを得ない。贈与の一撃によって類い希なる権力関係が生成する。復興支援や人道支援、難民救援は贈与の絨毯爆撃の側面がある。生存の基礎条件と引き替えに、降り注ぐ贈与の爆弾は被贈与者の権力的な被支配関係の生成と同義だ。先進国NGOの若者が、自分探しの自己陶酔とパラレルに、被災者の屈辱と自己放棄は進行する。援助の本質は、助けるという行為自体が相手を苦悩の極地に追い込む効果をもっている。生存のために自己の尊厳の一部を(または全部を)一時的に棚上げにして受容する壮絶な覚悟をした人を目の前に置いて、なおかつ冷酷に援助を続ける先進国市民との関係にこうした作業は推進される。幾つかの援助形態を例にこの問題を考えたい。

Income generation(収入上昇)戦災や難民で収入ゼロの人に対してなされる援助。パン製造、換金作物、大工仕事、刺繍政策、服地製造、石鹸、養鶏、養殖等々その地域の条件に依拠するプロジェクトを提供する。このプロジェクトの特徴は成功の困難性にある。この活動の本質は、援助のレベルを超えて経済活動の再生というレベルに踏み込んでいる。つまり援助者のコントロールを超えたその地域の経済システムに規定されているからだ。
 労働マーケットから排除されている難民が、難民キャンプを出てその地域(国)の労働市場に参入することは至難だ。形式的な就労許可証を入手したとしても、言語・宗教・地縁・血縁によって確実に地元労働力が優先される。奇跡的に雇用されても、難民は弱い労使関係のもとで過酷な労働条件を強いられる。
 あるNGOが500万円の予算で革靴生産プロジェクトを実施したとする。材料の皮革・木型・道具を揃え、指導的な職人を雇用し、生産にはいる。製品の売り上げを材料費に回してsustainabilityを確保し、NGOが撤退しても難民による再生産が継続するself-reliance が実現するとうのがドナーへの説明であった。生産された革靴を市場へ出すと、多くの靴屋はもっと良質で安価な靴があると忌避する。NGO職員は援助理念の崇高性を説明して販売にはいるが、靴の売れ行きは少ない。生産過程での歩合制と技術指導によって革靴製造の速度は上昇するが、靴の売れ行きは増えない。NGOは500万円の予算が底を尽き、遂に支払賃金をカットせざるを得ない。難民の不満を心配するが、実は難民達はキャンプ生活からの脱出が目的であったので低賃金自体への怒りは誘発されない。先進国のドナーは、製品を手にして感嘆し、TVを意識しながらプロジェクトの成功を讃える。難民は、ドナーを傷つけまいとして拍手をして交流する。
 income generationの決定的限界は、マーケットでの競争力がない(製品が売れない)という点にある。ほとんどのincome generationは予算を支出しきった段階で消滅する(数千足の革靴の山を残して)。しかし先進国NGOよりも、難民はずっとリアルであるからそれほど失望はしない。

 実はincome generationプロジェクトの悲惨は製品が売れて利潤が上がっている場合だ。市場を知り抜いた練達の商人が組織するプロジェクトは、何が売れるか知っており、バイヤーが安く仕入れて自国で高値で売るチャネルを利用する。プロjyクエト・デイレクターは、他の製造業者より安く売るので注文が殺到し、難民は収入源の確保を図るために過酷な労働を自らおこなう。income generationプロジェクトは偽装された援助活動に転落する。sustainabilituyやself-relianceやジェンダーなどのBuzz word(専門用語)で記されたプロジェクト計画は、じつは偽善的なものか有効性がないのだ。難民の決定的な弱者性を利用して、援助関係者が性行為を強要したり、PKO要員の買春などの最高度の卑劣な行為の裏には、こうした表面に顕れないプロジェクトの欠陥性が隠されている。
○マイクロ・クレジット 普通なら融資を受けられない最貧困層に小額のカネを貸し付け、それを元手に収入に機会を与えるプログラム。マイクト・ファイナンスとも云う。バングラデシュのグラミン銀行が始め、NGO中心に世界に広まった。タリバンがこの援助を断ったのは利子を禁止するイスラム教義からだ。マイクロク・レジットの1つの手法にグループ・ギャランテイ方式という連鎖的な融資の方法がある。イスラマバードの場合、50ドルを屋台製造に投資し、あと50ドルを材料費に投資し、1日1ドルで2ドルの売り上げがあれば次のグループに100ドルを連鎖投資できる。しかしこれは経済インフラがある程度正常に機能している場合であり、戦後復興過程ではリスク極大化で最初の100ドルは誰も投資しない。従って戦後混乱期の援助の基軸は、治安・通信・法律・司法・行政など社会の基礎システムの再建に集中されざるを得ない。アフガンでは米国同盟軍が空から現金のばらまきをしたが、これは援助ではなく対テロい戦略でしかなかった。以上・山本芳幸「援助プロジェクトについての覚書」から。

 *コメント:この論考では人道支援を含む援助一般の人格的分析という点で鋭いものがあります。しかしその問題の批判的分析によって、支援それ自体に対する批判的なスタンスに(自己責任論や野蛮文明論)に親和的になる危険性があります。なんらかのシステム要因によって難民化した人びとの部分的な自己責任はあるでしょうが、多くは植民地主義がつくり出したシステムの結果として難民が発生します。支援のシステムを外在的なものから自立的なものへと切り替えるプロジェクトも多く存在します。そうした両側面を見切らなければなりません。どのような状況であれ人は生存権の主体ですから。山本氏の援助論は効用価値説によるミクロ経済学の方法を適用したものに過ぎません。(2004/7/11 22:08)

[読売新聞の不買運動を呼びかける]
 昨夜はおそらく日本プロ野球セ・パオールスター最後の球宴となるのでしょうか。日本の球宴は1951年の甲子園から、50数年の歴史を刻み、夏休み直前の浮き立つような気持ちでこどもたちはワクワクしてスター選手の活躍を見つめてきました。国民的スポーツとしてスポーツ文化を担ってきた文化的公共財性がプロ野球にはあります(日本プロ野球憲章)。こうしたスポーツを企業の経営論理でしか把握しない一部のオーナーが、損益分岐点計算のみで2リーグ制を解体する戦略を専断的に打ち出しました。      
 オールスター戦で12球団選手会は12色のミサンガを腕に巻いてグランドに立ち、「ぼくらはプレーで抗議する。頑張っている姿を見て、上の人は気持ちを変えてほしい」(近鉄・中村紀洋選手)と2リーグ制存続の願いを込めて、9回2アウトから本塁打をバックスクリーンに叩き込み、「三振よりも球速、ファンが一番喜ぶから。普段の試合よりも力を入れた。球場が盛り上がっていたのが嬉しかった」(西武・松坂選手)と、自己最速の156キロの剛速球で勝負しました。おそらく万感の思いを込めて全選手がプレーしたに違いありません。彼らは、自らの成長過程を通じてプロ野球が単なる金儲けの球技ではなく、文化的公共財であることを身体的に体得しているのです。
 球宴に先んじて開催されたプロ野球選手会臨時大会は、球界の構造改革を含む幾つかの提案をおこない、最後の手段としてのストライキ権を留保する決定を下しました。
 「1ヶ月やそこらで決まってしまうなんて。ストの可能性はありますね」(巨人・小久保選手)
 「ストの覚悟はできた。いつやるかは分からないが、他に方法がないのなら覚悟はできている」(ヤクルト・真中選手)
 「ストは最終手段だが、今日の話し合いではほんとうに突入するのでは、という空気があった」(横浜・鈴木尚選手)
 画期的なことは、近鉄・オリックスという2球団の問題を、全球団の選手が我が事として受けとめ、ストを含む戦いの決意を固めたことです。2リーグ制解体を闇の中で仕組んできたシナリオ・ライターは、云うまでもなく巨人・渡辺恒雄オーナーであり、彼に媚びへつらい迎合したのが西武・堤オーナーです。彼らは一連の過程で選手に対する脅迫に近い言辞を振りまいて圧力をかけてきました。特に渡辺オーナーの古田選手会長に対する暴言は許し難いものがあります。「馬鹿ではないか」「無知で非礼で無礼な態度だ。たかが選手が何を言うか」・・・などなど。これらの侮辱的な挑発に冷静に対処する古田選手は、労働組合委員長として最適な存在であり、はるかに人格的な優越性を示しています。しかも年俸高騰への対応策など自らの痛みによってプロ野球全体を守ろうとしているのです。近鉄・山口社長は「なんで中村(紀洋)みたいなアホに5億も払わなアカンの、ドロボーや」と罵りました。巨人・渡辺オ−ナーには公共的精神が一切ありません。まるでヴェニスの商人のシャイロックの拝金思想と独裁者ヒットラーの権力的な振る舞いを何ら恥じることなくおこなっています。私は、古田選手や中村選手に対する人格的な侮辱と名誉毀損をただちに謝罪し、労基法違反の団体交渉拒否を直ちに撤回し、オーナー専断体制から関係者協議制への転換を呼びかけます。その前提は古田・中村選手の名誉回復です。私たちプロ野球ファンが真にプロ野球ファンであるならば、選手を侮辱するオーナーの謝罪と罷免は最低限の前提条件ではないでしょうか。
 プロ野球選手会がストライキに入った時に、私たちが採用できる最高の支援と抵抗手段は読売新聞不買の運動ではないでしょうか。私は最後の日を迎えつつある日本プロ野球文化の分岐点に立って、決定的瞬間に於ける決定的判断として敢えて読売新聞不買運動を呼びかけます。(2004/7/11 9:20)

[高遠菜穂子さんからの最新メッセージ]
 私は4月にイラクで拘束され、9日目に解放された高遠菜穂子です。無事に帰国し3ヶ月が経とうとしている今も、みなさまにご心配をおかけしたままでいることをお許しいただきたいと思っています。先日の韓国人の金鮮一さんの殺害のニュースを聞いた時に、少しづつ前向きになっていた心を奈落の底に突き落とされたような気が致しました。「私が殺されていたかも知れない」という恐怖と、「生き残ってしまった」という思いでいっぱいになりました。しかし同時に、私がなぜ「生かされたのか」を真剣に問い直すことにもなりました。金さんやその他にも人質となって殺された方々、空爆や戦闘で亡くなっていく兵士と巻き添えになって死んでいくイラクの民間人、そして世界中で理不尽に散っていくたくさんの命に思いを馳せ、私にできることをふたたび全身全霊でやっていこうと決意しました
 この度イラクの友人のスレイマンさんが来日します。彼とは昨年の6月にバグダッドで知り合いました。ストリートチルドレンの件で、いろいろとお手伝いをしていただき、こどもたちの就職先の斡旋もしてくれました。また私が拘束された直後に、バクダッドやファルージャでビラを配って解放を訴えてくれた命の恩人でもあります。23日は彼にイラクの本音を語って頂きたいと思っています。またこの1年を半年ずつイラクと日本で暮らして感じたこと、さらに事件後3ヶ月を経た今、これからどうイラクと向き合っていくかなどを皆さまにお伝えしたいと思っています。「真実を知る」ことはおそらく怒りを抱えることになるかもしれません。しかし怒りは怒りを呼ぶだけで、泥沼化させることだけだということは、どこをみても明白です。私は、私たち日本人にできること、それをイラク人との対話の中で皆さまと一緒に見つけたいと切に願っています。
(下線部筆者)

 コメント:自己責任論のトラウマがまだ彼女を捉えて放さないことがうかがわれる。まだ彼女は日本に向かって謝罪しなければならない心境にある。スレイマン氏の来日におそらく外務省は何の支援もしていないだろう。日本人を救出してくれた恩人に報いるに、これ以上の非礼で無礼な態度があるだろうか。しかし高遠さんがまた新たに元気を出して立ち上がろうとしているのをみるとホッとする。サマワで水を供給している日本自衛隊をはるかに上回る人道支援をしてきたことに誇りを抱いて欲しいのは私だけではないだろう。

 イラク市民と語る〜私たちにできること

 日時:7月22日(木) 18時会場 18時30分開会
 場所:東京・中野ゼロホール(地下鉄東西線中野駅南口)
 挨拶:今井紀朗・高遠菜穂子
 ゲスト:イフサン・アリ・スレイマン
 報告:田保寿一                                             (52004/7/10 11:11)

[学童保育の現在ー全国学童保育連絡協議会全国調査(6日発表)・厚労省調査(16日)から]
 学童保育は両親が共働きで小学生の放課後を過ごすために自主的に父母によってつくられている保育所です。私の息子も共同保育所から学童保育所まで通園致しました。

 学童保育所数(公営・民間含めて) 14、678カ所(前年比+881カ所) 02年995カ所、03年971カ所と急増している
 児童の年間在校時間数 1200時間(-100時間)
 児童の年間学童保育在所時間数 1600時間(+400時間)
 学童保育所規模 平均39,0人(5年前より+4,4人) 20〜30人規模が減少、40〜70・71〜89・90以上の大規模学童が増大し詰め込みが問題となっている

 この統計の背景には、学校5日制完全実施後に小学校低学年の児童の受け入れが困難になって、放課後・土曜日・夏休みの受け皿がなくなっていることを示します。施設の分割が大都市部で困難となり、大規模化が進んでいる実態があります。保育効果が期待できる規模上限40人水準への分割と生活室・遊戯室ともに子ども1人当たり1,98平方b以上が求められます。名古屋市ではサテライトスクールなどの放課後措置がありますが、実態はどうでしょうか。少なくとも児童期教育の最適化に向けた基本的な検討が必要です。(2004/7/9 19:05)

 厚労省調査(16日発表 7月現在)は次のようになっている・
 施設基準がある自治体 全国3169自治体中45自治体(2%) 東京都、埼玉県、札幌、大阪、広島、北九州、福岡
 学童保育所数 13,698カ所(全国2303市町村)
 登録児童数 56万6000人(02年比+13%)
 待機児童数 6180人(02年比+5,6%) (2004/8/17 19:14追加)

[平和原則の再構築に向けて]
 日本国憲法第9条改正論に対する日本の世俗的反応は余り芳しくない、その理由は戦争体験の直接継承世代が他界するなかで、戦争批判派が影響力を失ったからだ。ということは、戦争体験の継承のありように致命的な欠陥があったということだ。とくに加害犯罪の糾明と伝承に力を尽くし得なかった戦中派の責任は重い。そしていまや日本全体が、平和呆け症状で侵略行為に対する素朴な痛みの感覚すら失いつつあるかに見える。再び取り返しのつかない痛苦の体験を再体験する機会がヒタヒタと寄せてきている。本日は人類史の到達した世界の平和水準と現状を確認して、深い思考の沈潜の契機としたい。

○平和主義原則を掲げる世界憲法
・不戦条約(1928年)戦争法規に関する国際法規定
・国連憲章(1945年)武力による威嚇又は武力の行使の禁止(第2条)
・イタリア憲法(1948年)イタリアは他国民の自由を侵害する手段としての戦争、及び国際紛争を解決する手段としての戦争を否認する。他国とn同等の条件の下で国家間の平和と正義を保障する体制が必要ならば、主権の制限に同意する。この目的を持つ国際組織を促進し支援する(11条)
・韓国憲法(1948年)韓国は国際平和の維持に努力し、侵略戦争を否認する(第5条1項)
・コスタリカ憲法(1949年)軍は恒常的組織としては禁止する(12条)
・ドイツ憲法(1949年)諸国民の平和的共存を阻害する恐れがあり、かつそうした意図で為された行為、特に侵略戦争を遂行する準備をする行為は違憲である。これらの行為は処罰される(26条)
・フィリピン憲法(1987年)国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に受託された国際法の諸原則を国内法の一部として採用し、平和・平等・正義・自由・協力・すべての国の友好の政策を固く支持する(2条)

 日本国憲法第9条はこうした平和主義原則を最高度に高めたモデルとして全世界から称賛を浴びている。特に日本の加害国では。
・中国人民抗日戦争記念館(北京市 1987年) 1997年改装時に第9条を展示”勿忘歴史、自強不息(歴史を忘れることなくたゆみなく努力を”
・ハーグ世界市民会議(1999年)21世紀の平和と正義を求める課題ー公正な世界秩序のための10項目行動指針ー第1項日本国憲法第9条の世界化
・第9条の会(1991年)日本国憲法を地球惑星の世界秩序の土台に

 太田尭氏(教育研究者)は、教育基本法改正の動向に対して「我が生涯、最後の抵抗」として教基法擁護にとりくんでいますが、おそらく今のこの時こそ日本国憲法を守る最後の瞬間であるでしょう。(2004/7/9 18:49)

[世界の知性をリードするフランスの秘密は何か]
 フランスの大学入学資格試験・バカロレアは、高校の授業が終わる6月に一斉に実施され、毎年約50万人が受験する。全国共通試験で、専門と選択により内容が異なるが、筆記試験は8科目。午前と午後に1科目づつ、4〜5日間でおこなわれる。バカロレア試験の初日は哲学であり、これはすべtの受験生の必修科目だ。文系では哲学の配転が最も高い。文献の持ち込みは禁止で、試験時間は4時間。フランスではこの哲学のテーマが何であるかに社会的な注目が集まる。04年度のテーマは、「人間は国家にすべてを期待すべきであるか」「人間は統治される必要があるか」「人間はすべてを論証しようとしなければならないか」である。こうした設問に答えうる力を持った日本人高校生が果たして何人いるだろうか。

 いま日本では各大学で「哲学」の講座そのものが消え去りつつある。かっては必修科目であり(特に教職教養では)、「万学の女王?」の座に君臨して他の学問を睥睨していた。私は、そのような制度を通じて日本の高等教育に分厚い教養の尊厳のような、知的伝統が形成されていたような気がする。しかし今や、もの好き・デイレッタントとして蔑みのまなざしを味わうようになっている。おそらく21世紀の世界の知的活動をリードするのは、間違いなくフランスであろう。日本の米国追随の教育システムが末期的な症状を呈してくることは間違いない。(2004/7/9 18:15)

[「地獄の黙示録」が繰り返されているー日本は恥ずべき汚点を現代史に残した]
 かって1970年代のベトナム戦争期に戦場で精神を病む米兵が続出し、それはさまざまのハリウッド映画に描かれて反戦運動の高揚から撤退に至った経過があります(「地獄の黙示録」「7月4日に生まれて」など)。しかしこの歴史の反省は生かされないまま、イラクで同じことが繰り返されています。
 米陸軍病院研究所調査報告(米医学専門誌『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メデイスン』7月1日付)から。調査は陸軍兵士3グループ、海兵隊兵士1グループを対象に、イラク展開前と、アフガン・イラク帰還後の比較実態調査。
 PTSD・うつ病・全般性不安障害 派遣前9,3%→アフガン帰還兵11,2%、イラク帰還兵15,6〜17,1%
 うち治療希望者23〜40%(多くの者は不名誉感情から受診忌避)
 第1海兵遠征軍(イラク開戦時の最前線部隊 815人対象)
  待ち伏せ攻撃を受けた 95%
  砲撃を受けた 92%
  銃撃を受けた 97%
  敵戦闘員を殺害した 65%
  非戦闘員を殺害した 28%
  死体を見た 94%
  死体を扱った 57%

 非戦闘員殺害が28%に上ると云うことは、小隊編成で行動する場合には殺害に加担した経験者がほぼ100%に上ると云うことになる。すさまじい激戦だ。しかも相手は正規軍ではなく非戦闘員だとすれば、自分が何のために命をかけているのかー根底から参戦の大義に疑問を持つだろう。こうした加虐と不安が昂じて狂気にいたり、捕虜虐待のサデイズム心理が蔓延するメカニズムが誘発される。もはや殺さなくては、虐待しなくては快感と生き甲斐感が生まれない地獄の頽廃に転落していく。

 S・アルファタラウイ氏(バグダッド大政治学部国際研究センター所長)の日本自衛隊参戦批判論文(アルバスラ・ネット掲載)から。
 「アラブ人は日本人が好きだ。大戦後に自国を再建した誠実さを尊敬し、ヒロシマ・ナガサキの被爆の悲劇にこころを痛めている。アラブ人は、日本人がアラブの富に貪欲になって米軍の協力することは想像すらしなかった。パレスチナでもアラブ側に立つことを願ってきた。日本は湾岸戦争でも90億ドルの戦費を負担したが違憲の派兵はしなかった。イラク開戦時も直接参加はしなかった。占領開始とともに日本はなぜ侵略に参加したのか。@代償を払ってもイラクの石油の分け前が欲しかった A軍隊の装備と武器の実践での確認と兵士の訓練をしたかった。これが広大な砂漠が広がるサマワを選んだ理由だ。日本の対米協力は、他国の犠牲の上に他国を無視しておこなわれている。日本政府は人道支援と復興支援を宣伝しているが、占領に加担しているという事実は変えることはできない。賢明なイラク人の心をつかむことはできない。日本はげんだいしにおいて、恥ずべき汚点を残した。日本は他国を侵略するのではなく、自らの国を米国の占領から解放すべきだ。日本人はアラブと人道に敵対する行為に責任を負わなくてはならない。イラク人は自らの資源で国を再建する資格と能力を持っている。再建の口実でイラク人を欺くことはできない。私たちは日本に対して問いたい。もし米国が撤退表明したら、日本は再建のために残るのか? それとも米国より先に撤退するのか。」(以上一部筆者意訳)。

 イラク知識人の典型的な対日観であり、日本自衛隊に対する評価の最も正当な分析と考えられます。現地の日本批判の少数ではあるが1つのモデルではあるでしょう。幾年かの試行錯誤の果てに、日本政府は国際法侵犯を謝罪し国際法のもとに復帰するjことになるでしょうが、それまでに膨大な犠牲がイラクでは発生するでしょう。日本を米軍の占領から解放しなさいーというメッセージにこそ私は第3世界民衆のほんとうの対日観を感じました。(2004/7/9 9:33)

[或る世界経済認識ー西川潤『世界経済入門 第3版』(岩波新書)]
 世界経済認識のひとつのモデルであろう本書の概要を紹介して検討したい。

1)グローバライゼーション(国際化からネイションを超えたボーダレス経済)の2つの側面
 (1)経済のグローバル化 貿易・マネー・労働力・難民
 (2)意識のグローバル化 第3世代人権(自治、環境、情報、マイノリテイー、性と生殖権の国際人権化)→(1)と(2)を結ぶ情報化
2)反グローバライゼーションの3形態
 (1)市民運動 1960年代ベトナム反戦→1980年代反核運動→1990年代反新自由主義(例:世界社会フォーラム運動)
 (2)テロリズム 
   @国家テロリリズム(反政府派民衆への恐怖支配のための暴力行使)
   A反政府テロリズム(反政府勢力による秩序崩壊のための暴力行使)
   Bアピール・テロリズム(グローバル化を利用するアピールのための第3者市民を含む暴力行使)
 (3)地域主義(リージョナリズム)  
   ローマ条約によるEEC発足(1957年)からEU統合
   北米自由貿易協定(1992年)以降の地域経済圏協定
3)グローバリゼーションの推進要因
 (1)多国籍企業の海外進出
   @プロダクトライフサイクル(バーノン)による海外市場進出
   A資源の開発輸入
   Bオフショア(沖合)生産(安価な労働力を求めるワンゲル型展開)
   CNIEO型生産(途上国開発経済への投資)
   多国籍企業の進出方法
   @子会社設立・現地資本との合弁
   A巨大企業の連携(研究開発や新製品などの部分的提携協定)
   B国際間M&A(買収・合併)
 (2)国際為替相場の変動
4)世界経済の諸要因
 (1)人口問題
   @人口爆発
   A人口転換
    ・都市化
    ・高齢化
    ・労働力不足と外国人労働者問題
 (2)食料問題
   @食料・農業政策
    ・国際分業論
    ・農業公共論
 (3)資源・エネルギー問題
   @資源危機
    ・枯渇論
    ・分配論(資源主権)
   A循環・再生・自然エネルギー
 (4)持続可能な発展問題
   @工業化と環境
   A循環型経済社会
5)世界経済の将来
 (1)南北・南南問題   
   @債務問題
   A援助問題
 (2)地域主義
   @EUと第3の道
   A東アジア経済圏
 (3)軍事・帝国問題
   @軍事化と恐怖のスパイラル
   A政府と市場の失敗
 (4)市民社会の4形態  
   @都市に住む人びととしての市民
   A文民としての市民(非暴力民主主義の担い手)
   Bブルジョアとしての市民(資本主義の担い手)
   C主権者としての市民(非営利・連帯の担い手)
    ・NGO
    ・NPO
    ・コミュニテイビジネス(社会的企業)
6)新しい豊かさ
 (1)国家・市場主導型から市民主導型経済システムへの転換
 (2)ナショナリズム・帝国主導型グローバリズムから地域主義・市民主導型グローバリズムへ

*コメント 世界経済の主要なテーマとしての欧州・社会的経済モデル、資本ー労働関係、冷戦後の新自由主義・市場原理、階級・階層論、公共性制度論などがほとんど欠落しているか、又は部分的に触れるに終わっている。基本的に新自由主義・市場原理による構造改革と規制緩和を肯定しつつ、市民主導型による経済成長論の枠内にある。日本の政党で言えば、民主党戦略の理論的オファーである。(2004/6/30 23:43)

[日本社会の存立の基礎条件が喪失してきたー兵庫県警・捜査書類偽造]
 仮想空間と現実を混同する脳の変化の文科省10年調査プロジェクトがスタートする。対象に警察を加えるべきでは。東に架空捜査協力費を偽造して上司に献納した会計書類を隠滅する者あれば、西に捜査書類を偽造して実績報告をおこなう者あり、警察組織はすでに仮想空間を生きている(以上・朝日新聞「素粒子」6月30日付夕刊)。法の奴隷にして監視官であるが故に、他人を逮捕・拘禁する特別権力を付与されている警察が、白昼堂々と違法行為をするシステムを体化しているという恐るべきモラル・ハザードの極み、会社から給料を得て選挙活動をしても「人生いろいろ、会社もいろいろ」とうそぶく首相、それを心から怒ることができない市民・・・・日本社会全体が水平的にも垂直的にも汚濁にまみれた退嬰現象を呈している。かく言う私も潔白ではなく忸怩たる傷を持っている。

 兵庫県警自動車警邏隊は摘発実績をあげるために虚偽の捜査書類を作成していた。偽造に関与した警官は100人に上るから、これは組織として遂行されていた。02年〜03年の自転車・ミニバイク窃盗事件の処理過程で被害者名・容疑者名を偽造した警官は、現場捜査の責任者である警部補・巡査部長である。偽造書類は保管されて実績づくりに利用するか、検察庁に報告された。重大なことは、余罪がある実在の人物名が使われ、容疑者欄に「前歴」が記入されたことだ。偽造時期は、職務質問強化月間に集中し、2人乗車のパトカー1台につき10件の刑法犯摘発を目標としたから、1回乗車で最低1人を摘発しなければノルマ達成はできないという状況だ。ノルマ達成はそのまま他の時期よりも業績評価が加算される。

 ここで警察の捜査は、本来の刑法犯摘発自身よりも、摘発ノルマ達成に虚栄化され目標の頽廃が誘発されて、職務の内容が空洞化してしまい、それに対する危機感や罪悪寒も喪失していく。身に覚えのない罪で「前科」履歴が記入される市民が出現しても、良心の痛みは起こらない。検察庁が集約した全国データは何の客観的意味を持たない単なる偽造数字になっている。先の秘密捜査費の濫用ともかかわって警察庁のデータはほとんど意味がないのだ。なによりも警察の本質的機能である、犯罪捜査の対象が自らに向けられるという底知れぬ機能喪失である。あらゆる犯罪捜査に恣意的な証拠の捏造が人為的におこなわれているということを、市民は覚悟しなければならないという末期的な事態が来ている。
 さてこうした不正操作に怒りを発しない市民がいるとすれば、それは自らが属するさまざまの社会集団でそのような偽装があることの反映ではないか。こうして日本社会の運営自体が意味をなさない虚偽のうちにあることになる。どうも日本社会は自衛隊の参戦から君が代強制に始まって、警察書類の偽造、議員の掛金未納、火を噴くパジェロを買いたいという岐阜県知事、参院議長の不正資産報告などなど全線に渡ってほとんど壊れてきている。(2004/6/30 17:57)

[いま日本は、半世紀に(ないし1世紀に)1度あるかないかという、大きな歴史の曲がり角を曲がりつつある]
 今の日本は持続可能でない数字で埋め尽くされている。国の借金残高703兆円地方長期債務200兆円フリーター400万人出生率1.29・・・・・。そして金利上昇とともに世界中のバブルが崩壊すれば(世界の住宅バブルはオーストラリアではじけ、次いで米国ではじけ始めた、中国バブルのハードランデイングが失敗すれば・・・・)日本経済は崩壊する。
 主権不可侵という国際法原理を破壊した米国にただ追随する日本は、もはや国際的な信頼を喪失しつつある。星条旗民主主義は、「化学照明器具を割って燐酸液を捕虜の身体に垂らし、男性収容者に強姦の脅迫をおこない、監房の壁に激しく打ち付けて傷を憲兵に縫わせ、肛門を棒状の化学照明具や箒の柄で犯す」という拷問をおこなっている(タグバ報告より)。CIA協力者という恥ずべき人物を首相に据えて、「主権移譲」のセレモニーをコソコソおこないすぐに帰国した米占領機構代表。
 イラク占領軍は多国籍軍へと改称するが(6月8日国連安保理決議1546)、多国籍軍の統一指揮権は米軍に帰属し(ロドマン米国防次官下院軍事委員会16日公聴会)、米軍行動に対するイラクの拒否権はなく、イラク暫定政府は米軍への協力者(アラウイ首相「戦略的パートナーシップ」)となる。多国籍軍は湾岸戦争の武力行使型から復興支援の防御型に移行するというのは幻想で(ケーシー米陸軍副参謀長・多国籍軍司令官の上院軍事委員会公聴会24日)、ファールージャ型作戦を継続する。日本自衛隊は多国籍軍司令官の「作戦上の統制下に置かれる」(キミット駐留米軍副司令官)。イラク暫定政府は日本自衛隊の駐留継続を要請したが、アラブ連盟ムーサ事務局長は批判し、イラク国民の86%は外国軍の撤退を求めている。日本は歴史上初めて国際犯罪の共犯者となる。

 イラク戦争死者総数(6月24日現在 ロイター通信) ( )内は03年5月1日戦闘終結宣言以降

 <イラク人> 最少    最大
 民間人  9,436人〜11,317人
 軍  人  4,895人〜 6,670人
 合  計 14,331人〜17,987人
 <米軍兵士>
 戦闘死    626人(517人)
 非戦闘死   218人(189人) 
 合  計     844人(706人)
 <英国その他連合軍兵士>
 戦闘死     71人(63人)
 非戦闘死    45人(20人) 
 合  計     116人(83人)

 すべてをなし崩しの事後承認で進める政府はもはや議会すら不要とする政治的意志決定過程の空洞化が進んでいる。日本首相官邸は飯島秘書官が実権を握り、ホワイトハウスはカール・ローブ顧問が実権を握って、形式民主主義のもとでの実質的独裁を推進している。
 扇情的な犯罪報道に怯える日本(犯罪発生率は絶対的減少傾向にあるのにもかかわらず)、安心と安全の原点であった家庭が変容し、孤独とストレスが閾値低下をもたらして子どもの単独犯罪が激発、子育て失調現象は児童虐待をもたらす。まわりとの関係性を形成できない親とそれをカバーできない地域力の衰退。あらゆる現象が崩壊へといざなっている。こどもを追い込んでいる最大の原因は、学校という教育共同体を競争と相互不信に投げ込んだ文科省と現場管理職層の媚びへつらいにある。例えば昨年度の東京都教委の管理職試験の面接では、国旗・国歌に関する次のような質問がおこなわれた(教育開発研究所『教職研修』7月号)。

 <教育の基本法規>
 ○国旗・国歌法をどう思いますか
 ○終戦記念日に国旗の半旗を揚げることになるのは知っていますか。現任校ではおこなっていますか。
 ○校長から「国旗を掲げて欲しい」と言われたらどうしますか

 実に恐るべき質問だ。内面の自由や思想・信条の自由を実質的に剥奪する現代の踏み絵だ。すべての教師は、大学時代の教職教養で「憲法」は必修であるから、内心ではこうした質問自体が違憲であると思うであろう。しかし管理職になりたい人は無条件に「YES」と答えなければならない。内村鑑三の不敬事件が亡霊のようによみがえっているではないか。終戦記念日に半旗を掲げるとはどういう意味なのか。国旗・国歌法制定時の官房長官であった野中広務氏すら「東京都教委のやり方は異常だ」と批判するほどの実質的なファッシズムが東京には蔓延している。以上『サンデー毎日』特集参照。

 昭和初期の原始的貧困と社会経済の頽廃が、ハードなファッシズムを誘発させたように、いまや強者依存の無気力な合意の調達によるソフト・ファッシズムが誘発されつつある。「冷たい頭脳と熱い心臓」をおのがじじ恢復して、いまこの瞬間に歴史の歯車が大きく轍を踏み外そうとしている事実を見抜こう。今日明日の目先のことに埋没することなく、ロングスパンの眼を養おう。振り返って間違った選択を悔いることのないようにしよう。天地に省みて我がことの恥なきを確認しよう。夜明け前が最も暗いーというその瞬間の判断を間違わないようにしよう。以上・金子勝「将来の選択」(朝日新聞6月29日夕刊)参照して記す。(2004/6/29 19:55)

[キム・ソニル氏は殺害の瞬間に次のように絶叫した]
 イラクの武装抵抗勢力に拉致され殺害されたキム・ソニル氏は、殺害の直前に次のような絶叫を残して首を落とされました。動画付きですが、ここではその公開は避けます。(2004/6/29 8:52)

 To President Roh.MooHyun
 ノムヒョン大統領に

 I want to live
 私は生きたい

 I want to go to Korea
 私は韓国へ帰りたい

 Piease,do't send to Iraq Korean soldiers
 頼むからイラクに韓国軍人らを送らないで下さい

 Please,this is your mistake
 頼むから! これはあなたの失敗です

 This is your mistake
 これはあなたの失敗です

 Many korean people don't like their to send to Iraq
 多くの韓国人は イラクに送りたくないのです

 All Korean soldier must out of Iraq
 すべての韓国軍人は イラクから出て行くべきです

 Please,please this is your mistake
 頼むから 頼むから これはあなたの失敗です

 Why do you send why do you send Korean soldiers to Iraq
 なぜあなたは なぜあなたは 韓国軍をイラクに送ったのですか

 To my all people all Korean people please support me
 同胞の皆さん 韓国同胞の皆さん 頼むから私を助けて下さい

 please,President please Bush to Presidennt Roh.Moohyyun
 頼むから 大統領様! 頼むから、ブッシュ!頼むから、ノムヒョン大統領! 頼むから

 please I want to live,I want to go to Korea
 頼むから 私は生きたいです 私は韓国へ帰りたいです

 *原文 http://www.pressian.com/scripts/section/article.asp?article-num=30040624152809&s-menu

[島田雅彦氏の天皇制感覚]
 実は私は島田氏の小説はそれほど読んでいるわけではない。彼の名はたしかデビュー作「優しいサヨクのための喜遊曲」で少し知っているだけだ。現代日本で天皇家とか天皇制をテーマにした小説化や論考はある種危うい覚悟がいると思われるが、最近の「無限カノン」は、皇太子妃になった女性との恋を通じて、皇室の未来像を探っているそうだ(朝日新聞・文芸時評6月28日付)。彼は、現代のファミリーロマンはゆらぎや危機に直面している家族を描かないと読者にヒットしないという。その法則は皇室にも当てはまるという(しかし太古よりただ幸福なだけの家族を描いてヒットした作品がないことは当たり前のことだー筆者)。そして中沢新一「僕の叔父さん」を取りあげて、皇太子が天皇家の末裔として古代王権の謎を解き、皇室からみた戦後史を語れば画期的な日本(人)論ができ、日本的霊性に科学的検証を加えよと呼びかけている。以上・朝日新聞6月28日付夕刊。
 私は彼の論旨ではなく、そこに顕れた天皇制に対する心性のこぼれを指摘したい。彼は「皇室の内情は宮内庁を通じてしか公にならず、報道自体が宮内庁の秘密主義に協力する格好になっていたが、皇太子のご発言は憶測、勘ぐりを含め、波紋を呼んだ」、「さらには御自ら古代王権の謎を解き、皇室から見た戦後史を語り始めることを」と主張している。「ご発言」「御自ら」という尊称語は、天皇家が特殊なファミリーであることを無意識に(意識的に)承認している表現だ。一方で彼は皇室を「権利と自由を剥奪された不幸な人びと」として「この状況を改善するには皇太子自らきっかけをつくるしかないのだ」ともいっている。確かに皇太子が天皇制を正面から論じれば強大な反響を呼ぶだろうが、それで天皇制が微動だにしないことは明らかだ。島田氏は、天皇制とファミリーの区別が分からないまま、要するに象徴天皇制の大衆天皇制化をより徹底して推進せよーと呼びかけているに過ぎない。
 小説家が社会的な対象に人間的感性の考察を仕掛けるというのは当然だが、認識の社会的基礎知識が欠落していれば、感性の奴隷と化して歴史的にはみすぼらしい表現にしかならない。特に日本では天皇制には反発と賛美の両極の感性で留まってしまう。島田氏は自分ではそうした単純な二元論を批判しているが、先記したような尊称語に違和感を持たないという感性の貧困におちいっている。いわば手の込んだ天皇制賛美論に他ならない。彼によれば天皇家は「日本で最も古くたどれる一族であり、大和魂と呼ばれる日本的霊性を体現し、自然界の合理性に自らを似せ、公平無私に徹しながら、日本史のあらゆる局面にかかわってきた」そうだから。かってポール・ニザンは「権力の番犬」としての知識人を批判したが、左翼を揶揄して登場した日本の作家も客観的にはその役割を演じているようだ。(2004/6/28 18:52)

[世代感覚を喪失した世代]
 現代の若者には「世代」という言葉は実感がないという。ある時代意識を共有し、同じ遊びや同じような読書、同じような大人観、そして同じような社会観という共通のベースとなる感覚自体が成立する条件がないからだ。それだけ一人一人が多様化している。大学では学生同士が討論しなくなり、小中では蛸壺のようなグループの孤立空間が成立している。ネット上で本音を露わにしたかのようなカキコが飛び交っているが、実はそれはバーチャルな空間での疑似体験に過ぎない。フェイス トウ フェイスになれば殻に閉じこもっていないと、傷つく恐れがあることを互いに知っている。あっけらかんと「人を殺しても云いジャン」と云ったり、実際にパット実行したりする。確かに自分をある程度曝してコミュニケーションすることはしんどいから、何とか共通点を見つけてオタク点でつながるが、どこかに「何で分かってくれないの」という気持ちを互いに持っている。理解できない・分かってくれない→嫌い→付き合わないと短絡的に進行する。共通の話題が明確にあり、共通の読書対象があり、趣味の範囲が限られていたかっての時代とは様変わりだ。

 なぜこうした感覚が若者世代に蔓延しているのだろうか。幾つか考えてみたい。
 1つは、現在の経済システムが多様化した嗜好を個別にくみ上げる多品種少量のフレクシブル生産で、商品市場は極度に細分化されている。人の心に大きな影響を与える文化市場も、そうした多品種少量市場が進展し、それらを統合しているような普遍的な共通性のイメージが薄れてきている。狭く細く深くーという蛸壺文化になっている。若者全体を対象とする一般的商品はなくなった。少品種大量生産・大量消費システムの下では人の感性も単一化する。現代は個性化というプラス面と孤立化というマイナス面が同時に裏表で進行している。
 2つは、大人を含めた社会全体に統合された未来イメージや連帯のシンボルがないことだ。実は若者だけではなく、大人も蛸壺化し共通した一般目標を失い、せいぜい私的な家族空間に生き甲斐を見いだしている。これは最近の韓国映画のエネルギッシュな連帯感と対照的だ。
 3つは、地域コミュニテイが希薄化し、生活基盤から地域が失われていったからだ。自分の子どもを住んでいる地域で他人の子どもと気兼ねなく・不安なく遊ばせる親がいったい何人いるだろうか。かっては街角で異年齢少年・少女集団が集い、そこでこども集団独自の文化を形成し、無意識の同一化と連帯観が形成されたが、現代では親が子どもを連れてスポーツ教室や学習塾へ個別に通っている状態である。
 4つは、市場原理システムの急展開による若者の将来イメージの剥奪だ。若者の高失業率、フリーター就業の進展は、若者の現実的な生活の基盤を奪い、他者との共生の契機を衰弱させつつある。

 いくつかアトランダムに取りあげてみたが、こうした若者状況の生活基盤の変容には二重性がある。なにかの主義主張のモデルに影響されるのではなく、おのおのが模索する主体として個別に成長している個性的なネットワーク文化の誕生の契機ともなっている。他方ではしかし、自分の安全を強者依存に頼る現実追随で変革の志向性を喪失している。豊かなネットワーク型文化か、新たなファッシズム文化の分岐点が特に日本では近づいてきているように思う。以上は若者文化の外在的な批判に過ぎないかもしれません。いろんな問題を抱えつつ必死で生きている若者ほど、実は自分の問題を克服して他者に依存しない生き方を目指しています。無条件でボランテイアに献身する若者がいます。阪神・淡路大震災で現地に駆けつけた若者がいます。若者を生きにくくさせた元凶は大人にあることはハッキリしているのですから、大人が責任をとらなければならないことは明かです。(2004/6/28 10:02)

[情報とは何かーその資本主義的形態]
 複雑化する現代を一つの切り口から総体としての現代を解明することは不可能なのか。その切り口の一つとして焦点となるのが情報(化)である。ウエブスターは情報社会アプローチを5つに類型化する。
@技術論的アプローチ:情報技術の革命的発展による社会変容に焦点を当てる(ダニエル・ベル、アルビン・トフラー、セーブル、ポスト・フォーデイズムなど)
A経済アプローチ:GNPに占める情報・知識産業の比率を計量計算する(マッハルプ、ポラトなど)
B職業アプローチ:全職業に占める情報労働者比の上昇を「新しい階級」の登場として注目する
C空間アプローチ:時空制約を超えた情報ネットワークの革命的意義に注目する
D文化アプローチ:情報によるポスト・モダン文化に注目する

 資本主義が「機械と大工業」段階から「コンピュータ制御様式」段階(松石勝彦)へ転換していくなかで多くの問題群が誘発された。直接生産過程を対象とする資本主義の解明(『資本論』)はすでに時代遅れか。『資本論』の現代化でカバーできる一般理論であるのか。産業革命がマニュファクチュアから機械制大工業への契機となったように、機械制大工業を超える新たな情報資本主義という段階へと発展しつつあるのか。問題の環は、労働価値論が情報労働において成立するかどうかである。情報化による労働価値概念のゆらぎ(野口宏)や労働価値説の無機能説(貫鷹夫)が登場し、物質的資源の希少性に立脚する資本主義一般理論に情報は適用されない(ポスター)、労働価値論は19世紀型機械論的世界観であり有機体論的世界観による価値論が必要(高木彰)、労働価値論に代わる固有価値論の提起(池上惇)などなど。これらは現代資本主義の特質としての、「生活の質」や「豊かさ」の内実、階級関係が直線的に発現しにくい、非営利・協同の発展などが背景にあり、労働価値説からの逸脱として単純に把握できない問題をはらんでいる。     
 はたして剰余価値生産が資本主義の規定的な目的であるのか。現代では労働と労働力の区別は成立するのか。剰余価値の創出を説明できない価値論は、現代のある側面を反映はしているが本質を把握してはいないーというのは正しいか。こうして自由主義段階→独占資本主義段階→情報資本主義段階の各段階に於ける労働価値論と剰余価値論が問われることとなった。

 労働自己犠牲説(アダム・スミス)と労働自己実現説(フーリエ)の両側面を持ちつつ、なお労働=自由となる条件は何か。それを労働時間の絶対的消滅と自由時間の無限化と等置していいのか(大工業は労働時間による価値規定を無機能化させるとマルクスはいっているが)。人間の直接生産過程での直接労働はもはや規定的ではなくなり、芸術・科学労働としての指揮・監視労働が残るのみだ。こうして科学的労働の進展→機械体系の発展→直接的労働の縮減→剰余価値源泉の枯渇→資本主義の崩壊に到るという自働崩壊論は成立するか。
 「抽象的人間労働」=「単純な社会的平均労働」は現代で成り立つかどうか、生産的労働であるかどうかは剰余価値のポイントであるが、カネに外化しなければ生産的といえない多様な労働が出現している。

 以上のような現代資本主義の問題群を情報労働から考える。情報化がもたらした変化は次の3つである。
@直接的生産価値における労働の変化:オートメーションやME化による情報処理労働化による既成の機械熟練労働の解体、研究開発労働が主要な生産労働となる
A事務労働の生産労働化:OAによるFAの包摂の進展など事務労働は間接的な生産労働に転化した
B商業労働の生産労働化:従来は流通過程は生産過程での剰余価値の配分を受ける非生産的労働=使用価値の生産ではなく、価値の実現を担当する過程(命がけの飛躍)とみなされたが、情報処理労働の発達は商業労働の生産労働化を推進した(例 POSなどの製販同盟)。
 情報資本主義は、「いかにつくるか」ではなく「なにをつくるか」(差別化と開発)、「実行」よりも「構想」が重要となり、生産労働の多様性と階層性が進む(例 正規労働と非正規労働の労働の分裂)。シンボリック・アナリスト(情報・言語・音声・映像を操作する創造的職業人)に富が集中し、ルーテイン労働を担当する者への貧困の集中が進む。こうした労働の分裂と多極分解は、社会的平均労働概念をゆるがす。労働力編成の歴史的な変化は次のように類型化される。
 19世紀:<単純・不熟練>ー<半熟連>ー<熟練>ー<監督>
 20世紀:<単純・不熟練>ー<半熟連>ー<熟練>ー<技術開発>
 21世紀:<単純・不熟練>ー<半熟連>ー<熟練>ー<技術者>ー<研究開発>ー<構想・管理>

 19世紀は単純・不熟練が社会的平均労働となり、20世紀は半熟連が社会的平均労働であったが、21世紀の社会的平均労働は半熟練層と研究開発層の2つに分岐してくる。このことをもって、労働力の価値規定の消失とか無機能化と云えるだろうか。労働価値が知識価値に接近すればするほど、現実の労働力価値の実現は困難となり、高度な知的労働力を持っていながら単純労働に従事する人が増える可能性もある。雇用と労働能力のミスマッチが生まれる。では創造的な知的生産物である情報という商品に価値法則は働かないのか。
 たとえばソフトウエアはどうか。
 受注ソフトの商品価格は、[開発にかかった人数+時間+その他費用(+ステップ数)+マージン]=商品価格となるから労働価値論で説明できるが、パッケージソフト(市販ソフト)の商品価格は制作コストとは無関係である。あるソフトは爆発的に売れ、他のソフトは売れなければ商品価格は労働価値を反映できない。しかし業界全体での価値→個別企業レベルの価値→個別商品レベルの価値というように価値のレベルが違ってくる面もあるから、1ソフトのみの商品価値を個別に考えることは意味がない。開発に特化したファブレス企業やネット上のヴァーチャルカンパニーのように、個別資本を超えたネットワーク生産のもとでの商品の価値計算は困難となるが(市場価値=生産価格)、総体的な長期平均として労働価値は貫徹しているとみることはできるのか。

 現代は@資本が介入しにくいと考えられていた非物質的生産や精神的生産を含むほとんどの領域を包摂し、生産的労働と非生産的労働の区別も意義を失い、A資本ー賃労働関係に組織化されない自営労働形態(例 SOHO)が出現し、B公共サービス、非営利協同、社会的経済という第3の領域が登場している。以上・北村洋基『情報資本主義論』(大月書店)参照。(2004/6/26 7:59)

[沈黙の螺旋ー歴史はこのようにしてつくられるのか]
 「沈黙の螺旋」とは、社会現象である意見が強い影響を持ち出すと、それに対抗する意見は影響力が弱くなり、批判意見の持ち主は発言をしなくなる。するとますます影響力を持った意見が多数を制し、遂には批判意見は沈黙するか無視されるようになり、実際の力関係以上に強い影響を持ち始めて社会全体の意見になったかの如く振る舞うようになるという法則を言う。日本で言う「大勢順応」とよく似ているが、日本の場合は個の思考を封殺して村八分のような暴力的な形態をとるのに対し、「沈黙の螺旋」はあくまで自主的な判断であるかのようなソフトな装いを持つところに違いがある。
 さて現在の日本では、「沈黙の螺旋」と「大勢順応」が重層的に絡み合って進行しているという深刻さがある。いわゆる「進歩的知識人」が雪崩を打って市場原理肯定へ向かう様と、大衆社会の強者依存の「大勢順応」という2つの潮流が相互補完的に「雰囲気」を制しつつある。実はこうした事例は戦前期の満州事変と酷似している。1931年(昭和6年)の満州事変時に国民の大多数は批判的であり、指導層も分裂していた。当初の不拡大という政府方針は「出てしまったものは仕方がない」という声に吹っ飛んでしまい、妥協から果てしない拡大路線に突っ走って、もはや原則論や理想論は空しい遠吠えにしか過ぎなくなった。次いで上海事変日中戦争と既成事実が積み重なって、逆にそれを擁護する「五族協和」とか「東洋平和」・「大東亜共栄圏」等の大義が宣揚されて最後には致命的な対米戦争へ転落していった。
 現代との最大の違いは、現地軍部急伸派が危機を専断的に実力で突破するという統治システムの崩壊の中から進展していった戦前期に較べて、現在は国家統治機構の最高指導層が付託された原理を自ら放擲して先導的に危機を突破しているところにある。異端政策が前線で挑発的に行使されて後から最高指導層が追随するか、最高指導層が自ら扇動して議会の同意を得つつ民衆が追随するかの違いがあるが、ポピュリズムという政治形態は共通している。

 1992年PKO協力法(自衛隊のカンボジア出動)から12年で日本正規軍は無関係の占領軍の一翼に参画し、国内では戦時を想定した国家総動員法の現代版がほとんど審議なく成立していく。「国民保護法」に明記された「国民の協力」は国民の基本的義務にすべきではないか、「武力攻撃事態法」における国民の権利制限は憲法の枠内として国軍の行動を制限していいのか、等々憲法改正を怒号する勢力は沈黙の螺旋の状況をつくりつつある。

 今が時代の転換点だとか、分岐点だとか、展開期だとかはその時代に生息している人にとっては見抜くことが難しいのだ。歴史はたいてい後になって、あの時が大事だったという過去反省形として形づくられてきたのだ。明日の歴史がどうなるかは、歴史自身は沈黙して語らない。「人が歴史から学ぶ最大の教訓は、人は決して歴史から学ばないということだ」(ヘーゲル)。「日本人はぐずぐず文句を言ったりソッポを向いたりしていても、鉄砲を一発ぶっ放すと、みんな黙って付いてくる」(小村寿太郎)のだ。これらは、権力が愚民思想に依拠して国家経営をおこない、確かにその通りに民衆は追随してきたことを表している。近代市民革命が未完に終わった日本では現代に到るも前近代的遺制が根強く残り、政府の民治政策は「愚民・搾民・棄民」の「三民主義」が基本にある。
○愚民政策:新宿ーパンシャブシャブではしゃぐ大蔵官僚、日本警察の裏金つくり、近代組織の体をなしていない社会保険庁等々「公僕」が死語と化した高級公務員世界・・・・誰が主権者であるのか初歩的な知識が体化していない。
○搾民政策:源泉徴収という強制自動徴税システムで巨額の歳入を確保し、歳出をブラックボックスとして利権国家機構を私益に総動員している。
棄民政策:先の大戦で大日本帝国軍隊は居留民保護とは名ばかりの、先頭を切って逃げ出して大量の居留民を遺棄した、北朝鮮拉致事件を最大限の免罪符として利用する厚顔無恥。自国民を遺棄して何のイラク人道支援か。
 小泉氏は情報を弄んで志を失い、民心を弄んでモラル・ハザードに陥り、自ら省みて何の痛痒も感じない。こころ優しい民草の棄権行為に乗っかって議会制の独裁をめざしている。「人民は選挙の時だけ自由で、後は奴隷だ」(ルソー)は18世紀の戯言で、現代では選挙の時すら自由でなく、絶望した大量の非政治的市民を生み出してアナーキズムの道を歩んでいる。(以上朝日新聞6月25日夕刊「経済気象台」参照。この朝日新聞こそ小泉氏の路線を宣揚して民草を欺いた元凶であることを忘れている)

 いま世界で、戦争大好き国民に写っているのは実は日本のみだ。なぜこのような歴史的知能指数が劣化した国に転落してしまったのか。そして老いも若きも弱い者イジメに狂奔する国に転落してしまったのか。「沈黙の螺旋」と「大勢順応」が、「村八分」という凶暴な封殺のシステムが蔓延してしまったからだ。ではどうしてそのような論理が支配的になったのか。したり顔で綺麗な分析をする時はとっくに過ぎ去っているのもかかわらずご託宣を垂れる連中もいる。冷徹に全体を分析するなかで、「沈黙の螺旋」を切断するリアルな回路を発見しなければ、「歴史は繰り返す、1度目は悲劇として2度目は喜劇として」(マルクス)ではなく、2度目はさらなる悲劇として立ち現れるだろう。その最後の分岐点が確実に今だ。以上半藤一利氏の論考(朝日新聞6月23日夕刊)参照して考察。(2004/6/24 18:13)

[20世紀の最も偉大な思想家は誰かー英国BBC放送の投票結果から]
 英国BBCが03年9月に実施した過去1000年間のThe Greatest Thinker最も偉大な思想家投票ベストテンは次のようになっている。
1,Karl Marx(カール・マルクス)
2,Albelt Einstein(アルバート・アインシュタイン)
3,Sir Isaac Newton(アイザック・ニュートン)
4,Charles Darwin(チャールズ・ダーウイン)
5,Thomas Aquinas(トーマス・アクイナス)
6,Stephen Hawking(ステファン・ホーキング)
7,Immanuel Kant(イマヌエル・カント)
8,Rene Descartes(ルネ・デカルト)
9,James Clerk Maxwell(ジェームス・マックスウエル)
10,Friedrich Nietzche(フリードリッヒ・ニーチェ)

 半数を自然科学系が占め、哲学が3人、キリスト教1人、社会科学1人つまりマルクスとなっている。ウーン アングロサクソンから見るとこうなるのかな・・・しかしマルクスがトップにきていることが注目される。次はそのマルクスのBBC作成紹介記事。

Karl Marx is probably the most influential socialist thinker to emerge in the 19th century. He was a piilosopher,a social scientist,a historian and a revolutionary,whose ideas still influence political regimes today. 

His social,,economic and political ideas became centoral to the socialist movement.Although dictatorships throughout the twentieth century have distorted his original ideas,he is greatly by academics.

Karl Heinrich Marx(1818-1883)was born into a middle-class family in Germanay,but he became a revolutionary in Paris,Brussels and London.

It was in France,where he became a Communiast and met fellow thinker Friedrich Engels(1820-1895).Together they wrote The Communist Manifesto.

Amongst Marx's other influential works are the Economic and Philosophical Manuscripts,which remained unpublished until the 1930s,and Capital.
                                    (2004/6/24 11:41)

[ヒトクローン胚容認について]
 政府総合科学技術会議生命倫理専門調査会は、ヒトクローン胚の作成と利用の条件付き容認を決めた(23日)。条件の内容は以下の通り。
@クローン人間誕生の防止など管理に万全を期し、材料である未受精卵の提供女性を保護する制度的枠組み
A胚を用いた再生医療に向けた研究を推進する意義の科学的検証
B以上が整備できるまで、胚の作成・利用はモラトリアムとし、個別研究が不適切な場合は研究中止を勧告

 ヒトクローン胚は、卵細胞から核を除去しそのなかに患者の体細胞から摘出した核を移植してつくる。この胚から、身体のあらゆる細胞に分化可能な胚性幹細胞(ES細胞)をつくり、このES細胞で患者が必要とする臓器をつくれば拒絶反応を回避することができる。しかしヒトクローン胚を母胎に戻せば、患者と同じ遺伝子を持つクローン人間を誕生させることが可能となる。
 国際連合は、ヒトクローン胚作成をめぐる意見対立で、クローン人間禁止条約の審議を1年間凍結しており、日本の決定は世界に衝撃を与えた。以上朝日新聞23日付夕刊。(2004/6/24 10:01)

[沖縄・糸満市「平和の礎(いしじ)」にハンセン病者の刻銘はなかったのか!?]
 本日23日は沖縄戦の終結記念日59周年である。沖縄戦は、太平洋戦争末期の45年4月1日の米軍沖縄本島上陸で住民を巻き込んだ本格的地上戦となった。米軍54万8千人と日本正規軍・学徒隊・防衛隊11万人の激戦で、一般住民9万4千人、沖縄県出身軍人・軍属2万8千人を含む20万人が殺害された。沖縄戦の犠牲者の名を刻んだ「平和の礎」への刻銘は遺族からの申告を条件とした。ハンセン病患者の遺族は家族にハンセン病者がいたことを秘匿して申告しなかったので、今までハンセン病者の犠牲者は存在しない状態であった。国立療養所「沖縄愛楽園」自治会は95年の礎建設時から再三にわたって沖縄県に要請したが、やっと県は03年7月に申告権を遺族以外に拡大し、愛楽園入所者55人と「宮古南静園」(平良市)入所者56人の合計111人の名前が刻銘された(同時に戦艦大和の乗組員177人も)。沖縄戦の渦中で、入所者による横穴式防空壕建設が始まり、つるはしや鍬で固い岩盤を堀田。手足の豆が破れてもマヒ症状で皮膚感覚はなく、傷口を化膿させて指を切断する人が相次いだ。壕造りの傷とマラリアで274人が犠牲になった(愛楽園自治会副会長・迎里竹志さん 71歳)。療養所では米軍機の見張り役にハンセン病者を当てた結果、多数の患者が機銃掃射を浴びて殺害された。
 この刻銘をめぐって2つの事態が起きている。一つは、刻銘を契機に療養所に遺骨を引き取りにくる遺族が出現していることである。死亡した274人のうち55人は引き取り手が現れず納骨堂で眠っている。消失して戦後に作り直した戸籍では、戦死としたり最初からこの世にいなかったとされた。刻銘を機にたった1人遺骨の引き取り手が現れた。もう一つは、刻銘によって残された遺族への人権侵害事件が誘発されていることである。ライ予防法が撤廃された後も、人の心から偏見や差別が消えることは簡単ではないー機銃掃射で生き残った知花重雄さん(80)の言葉が胸に突き刺さる。(2004/6/23 8:46)

[皇太子「人格否定」発言と象徴天皇制]
 「それまでの雅子のキャリアやそのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」(5月10日)という発言が世の注目を集めている。雅子とは皇太子の妻(40歳)であり、発言者は皇太子(44歳)であり、5月10日に東宮御所檜の間での記者会見である(開始が30遅れて始まった)。さまざまの論評がある。「宮内庁の無能」「宮内庁と外務省の対立」「皇太子の妻への愛」「雅子の病状の深刻さ」「愛子の自閉症」「雅子妃は皇室からドロップアウト」(英紙タイムス)などなど・・・・しかし私は象徴天皇制のシステム論的なアプローチを試みたい。
 「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」(皇室典範第1条)と規定している。皇室には天皇・皇后他24人の皇族(皇室典範第2章)がいる。1965年に秋篠宮が誕生して以降8人生まれたが男子はいない。皇太子と小和田雅子の婚姻後愛子が生まれたが、このままでは皇位継承者はいない。皇族外の人が皇族と婚姻すると戸籍が消滅して皇統譜(皇統譜令)に加わって苗字を失うから、皇太子は自分の妻を「雅子」と呼び捨てにしたのである。
 戦前期は天皇は側室を設けることができ、明治天皇は側室が生んだ子が皇位を継承して大正天皇となった。皇族の血統を維持するために14の宮家が設けられ、華族制度によって藩屏というシステムが形成されて万世一系の天皇家を護持した。1945年の敗戦によって皇室典範は改定され、14宮家は4家に再編されたが世襲制度は維持された。
 皇室を管轄する宮内庁は、1869年(明治2年)宮内省として創設され、敗戦後の47年に5分の1に縮小されて宮内府となり、49年に宮内庁に改称した。宮内庁トップは創立以来旧内務省出身者が就任してきたが、ここにきて東宮職幹部の在職期間は短縮し、自治省・外務省・文科省の寄り合い世帯となり、各省庁の縄張り争いが激化した。現在は特別職49人、一般職1232人で構成され、天皇制との一体感は希薄化していった。
 宮内庁財政は、日常費として内廷費3億2400万円、皇族費3億円、宮廷費(公的活動)63億円、宮内庁費108億円であり、この他皇宮警察(1000人)と宮内庁病院(27床の総合病院)がある。
 平成天皇は皇室史上初めて親子同居で、母乳で生育したが、それまでは乳母制度で育てられた(この改革自体が革命といわれた)。皇太子は学習院に通学し英国留学を果たして、既成の「帝王に私なし」という帝王学は姿を変えた。雅子の出産を担当した堤治東大教授は、その後科研費の不正流用を暴露されて東宮御用掛を辞職した。
 皇太子は婚姻時に「雅子さんのことは、僕が一生全力でお守りします」と約束したから雅子は結婚を決断したのである。今回の言葉は、精神を患った妻への思いやりがほとばしり出た発言であるとも言えよう。03年12月中旬に帯状疱疹で退院した直後の湯浅長官の「秋篠宮に3人目を強く希望する」という発言は雅子にとって致命的な衝撃であったろう。その発言直後に雅子は長期入院したのである。宮内庁は、昭和天皇の妻が危篤状態になった時に御所に駆けつけた小和田亘を皇族ではないという理由で追い返し、小和田家の皇居訪問の機会を拒否している。しかし雅子は療養のために自分の実家の軽井沢の別荘を使っているが(このこと自体が異常である)、愛子を同行した皇太子が小和田家の別荘に宿泊することを宮内庁は拒否した。ある手品師が昭和天皇の面前で芸を披露し、何かを左右のどれかの手に隠して「どちらにありますか」と天皇に聞いたら、沈黙の後に侍従が「陛下はお答えになりません」と言ったそうであるが、人物の好悪やアレカコレカの選択をしないのが帝王だと育てられてきた。明らかに皇太子の発言は伝統的な帝王学のパラダイムを逸脱したのである。以上『文藝春秋』7月号及び村岡到氏論考参照。
 象徴天皇制と民主主義は原理的に背反関係にあるが、その存続は憲法に規定するように主権者たる国民が決定する。皇太子の発言は、個人的感情と制度的矛盾がじょじょに非和解的な関係に発展しつつあることを象徴的に示している。(2004/6/22 20:25)

[日本人は、透明のブルカをかぶっている]
 イスラム原理主義国の女性は、アフガンでは全身をブルカで覆い、イランでは髪をスカーフで隠している。タリバン政権は、女性の労働と教育を禁止し家庭に閉じこめて抑圧した。最近では反米を表現する手段として知識人女性が逆にスカーフをかぶる行動に出ている国もあるが、青いブルカの下には抑圧された女性の夢や情熱と希望が噴き出さんばかりにあふれている。サミラ、ハナのマフマルバフ姉妹の映画『午後の5時』『ハナのアフガンノート』や『アフガン零年』等の映画を観ればその息吹が伝わってくる。これらの映画は、タリバンが禁止した映画への恐怖と誤解から出演を忌避するなかで撮影された。ハナ・マフマルバフは「アフガンの女性は青いブルカをかぶらされているが、世界の女性は考え方のブルカを無意識のうちにかぶっている。女性が自由に考え行動するためには、考え方のブルカを外して欲しいと思う」と述べている。
 私は日本社会にこうした無意識のブルカを(自ら望んだかのように)かぶっている傾向があるのではないかと思う。構造改革と規制緩和の大合唱のブルカ、自己責任のブルカ、普通の国のブルカ、菊と鶴タブーのブルカ、学歴のブルカ、大勢順応のブルカ、村八分のブルカ、外国人へのブルカ、米国崇拝のブルカ・・・・私たちにアフガンのブルカをあざ笑う資格があるのだろうか。そしてなによりも「自由と民主主義スタンダード」を暴力で強制する帝国のブルカこそ、21世紀の地球を破滅に瀕しさせているものではないか。
 日本は今もってなぜこのようなブルカをかぶっているのだろうか。それは15年戦争の犯罪をきっぱりと清算できないままあいまいに生きてきたところにある。戦争犯罪は国内の戦争反対者の抑圧と、対外的な侵略と暴力の両面が重なり合っている。国内の戦争抵抗者を治安維持法で逮捕し、精神病患者として隔離・虐殺し、対外的には占領地性暴力と人体実験という恐るべき犯罪行為をおこなった。こうした戦争に積極的に協力した教師や医師など知識人に対する責任追及はほとんど為されていない。それは次のような言説で合理化されてきた。
 「一部の狂気の集団であった、全体はそうではない」
 「ほんとうはやりたくなかったが、強制されてやむを得なくやった」
 とくに中国に於ける細菌兵器や毒ガス弾研究に従事した旧731部隊の究明はなく、彼らのほとんどは戦後医学界の指導的立場に復帰した。731部隊がおこなった人体実験と生体解剖は闇に葬られ、戦後医学界は人体実験一般がタブーとなった。日本医療倫理学会の主要テーマは、臓器移植・生殖治療・クローニング・遺伝子解析などの先端医療のトピックをアトランダムに取りあげて、歴史的事実であった人体実験と生体解剖問題を正面から取りあげることを回避してきた。こうした歴史的責任の忌避から、トピックのテーマ自体へのなし崩しの承認が生まれてきている。第9条改訂による戦争国家のなかで、私たちは再び戦争犯罪と犯罪責任回避を繰り返すのではないか。イジメの加担者は「ほんとうはやりたくなかったが、強制されてやむを得なくやった」と異口同音に言う。(2004/6/22 9:53)

[日本型反知性主義の可能性はあるか]
 リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(みすず書房 2003年)は、アメリカに蔓延する反知性主義の風潮を1950年代までの米国史の展開の中に探っている。知性マインドを軽蔑し知識人を軽視し批判精神を敵視する社会的ムードを「反知性主義」とするならば、冷戦崩壊後の世界のアメリカン・スタンダード化は全世界の反知性主義化といえるだろう。筆者はその画期をマッカーシズム全盛期の米国大統領選挙でのアイゼンハワー勝利に置くが、建国以来のアメリカ史における反知性主義的潮流を克明に実証する。分析の視点は幾つかある。
(1)宗教史的分析ー米国福音主義の伝統
 人工的な文明化による抑圧的で頽廃的な人間性喪失を批判する原始主義としての文明から自然への脱出としての西部フロンテイアの発見、キリスト教原理主義に依拠する福音主義による文明の再建
(2)ビジネス思考の優位 迅速に決定を下し好機を素早く我がものとする実業と産業指向 新大陸は実業的野心以外に既成秩序の野心ははじめからない、知的文化がビジネス優先で形成された 内省的な精緻さや論理性はリアルな有効性を持たない 知性はチャンスの平等をむしろ阻害するものとみられてきた ビジネス的生活様式が生活文化となった
(3)ジェントルマンの凋落 建国期の指導者=知識人というジェファーソン民主主義にかわるポピュリズム民主主義・大衆民主主義・平等民主主義の台頭、経験と直観によって獲得された民衆の英知は洗練された教養民主主義の自己中心性より優れているという信念が広まった ニューデイール期にジェントルマンに替わる専門職が台頭し一時的に知識人と大衆の距離は縮まったがそれもマッカーシズムによって終焉し再び反知性主義が制覇した
(4)自助主義=叩き上げ(アメリカンドリーム)は、天才や秀才にたいする猜疑主義を生んだ 正規教育よりも果敢な経験主義を重視する 大学は不毛な研究と優雅な余暇への欲求を高める 特に古典教育の否定 大学の職業教育・実業教育重視 労働運動も肉体労働者を重視し知識労働者を排除した
(5)デユーイ・生活適応主義教育の制覇 常に前進する改革者を育成するダーウイン主義教育理論と、知的体系の注入ではなく子どもの好奇心から出発するロマンチシズムの混合
 こうしたアメリカの反知性主義の伝統が、数百年遅れで21世紀の日本へ機械的に導入されてはいないか。
(1)福音主義→「こころの教育」 
(2)ビジネス指向→教養教育の排除
(3)ジェントルマンの凋落→「進歩的知識人」の消滅
(4)自助主義→「自己責任」の称揚
 しかしこうしたアメリカン・スタンダードの日本化は失敗するだろう。日本型集団集団主義の強固な残存、欧州的生活様式の一定の定着、そして決定的なことは日本にはアメリカ型フィロンテイアは存在したことがなく、これからも存在しないからだ。そして東アジア共同体への潜在的な希求がつねに未来戦略として登場するからだ。(2004/6/21 17:22)

[平田清明「個体的所有」論について]
 1970年代のマルクス主義に新たな視点を導入した平田氏の個体的所有論は、その後は姿を消してしまったかに見える。21世紀になって、自己選択・自己決定・自己責任論が制覇し市場原理主義が世界を席巻しつつある中で、「私」と「個」と「公」の関係を再構築するシステムが問題の焦点となっている。その切り口として平田氏の「個体的所有」論を検討したい。
 平田氏は日本マルクス主義の西欧基準による一般理論化を批判し、『資本論』の西欧限定性を指摘する(マルクス「ザスーリッチ宛手紙」)。『資本論』の西欧限定性の根拠をsらにマルクスの著作に依存するという思考方法に問題はあるが、『資本論』の空間的限定性を指摘した点は重要だ。これは資本の活動に於ける文化と社会システムの規定性を指摘するウオーラーステイン理論とも通底すると思う。
 例えばマルクス理論の基本にある「剰余価値MEHR WERT」という言葉は、西欧では「剰余価値税」(あらゆる販売行為によって獲得される利益に対する課税)という日常語として定着していた言葉を理論概念として再定義したものだ。ところが日本語の「剰余価値」は、日常生活の用語としてではなく、輸入概念としてのアカデミー用語であった。ある理論的概念と日常用語が密接に融合しているなかからのみ、批判的科学認識が生まれる。
 日本型マルクス主義は、西欧型一般理論の抽象概念を理論レベルで導入し、日本型社会の生活の態様(法と道徳)から出発する点が弱かった。日本社会の基本問題は、市民が自らの手で自らの法と道徳をつくり出すという市民社会の基礎条件を欠いているところにある。それぞれの仕事を持つ諸個人が相互の約束によって、個人の仕事が社会的に「不可欠なものとして享受し合うーという社会の1次的な構成がないままに、生産と流通・消費が展開されてきたのが日本である。<私>が<個>として<公>に相互に関わり合うという関係の認識が成熟しないまま、経済活動が展開された。<私>が剥きだしになって<公>と一致した時に、絶対主義的天皇制という擬制専制社会が社会を覆ったのである。スリーダイヤは経済的な天皇制権威であり、<私>が自動車生産という<公>活動に参入して、欠陥車を隠蔽してまで<私>の利益を最大化する三菱の反社会的経営が定着したのである。
 <私>とは共同体から奪い取ったPRIVATEなものであるが、<個>は共同体との連関を持つIndividualである。ところが資本制的市民社会は<私>が<個>を隠蔽する競争型社会となる。失われた<個>を再建する条件は、私的所有から社会的所有への切り替えである。高度成長期以降、マネー・ゲームが燃えさかり競争と排他性の私的闘争が激化したのは、<個>が成熟しないままに、<私>=<公>となって極端なナショナリズムに転化する。相互の無関心と敵対関係に入った<私>は、自分のセキュリテイーを<公>=国家に一面的に依存し、グローバル化と超保守主義がパラサイトしていく。
 現代の<公>=国家は市場原理主義派の「小さな政府」論とは逆に、私生活の領域をますます<公>=国家に簒奪し包摂しつつある。出産、性愛、死、生命操作、、代理母、安楽死など私生活領域にあった諸問題を国家決定へと奪いつつある。ほんらい<個>の協働関係として私生活領域の問題を自己決定していたはずの<公>が専断的に国家に吸収されつつある。英米アングロサクソン型新自由主義のまだ救われる点は、市民の契約による国家形成という<個>の独立性が担保された競争原理であるから、<私>と<公>=国家が無制限にパラサイトすることはない。つまり専制には堕さないのだ。コイズミ・イシハラ現象は、自分の手で国家形成した経験が未熟である日本社会が生んだ、奇形的なパラサイト権力なのである。
 平田氏の「個体的所有」論を切り口として、現代日本を切開する作業は未だ尚ある有効性を持っていると思う。平田氏は、市民社会の<個>の復権の具体的な可能性を、労働現場を越える消費者運動や市民運動に求めているが、ここに問題がある。規定的な社会空間が労働の場(生産点)にあることは、マルクス学派のイロハであろう。マルクス学派でなかろうとも、<公>を<私>に還元する公共空間の民営化が急進化する現代にあっては、消費者・市民運動は<個>の再建に向かう重要な場ではあるが、それしも消費と生活の原点にある生産=労働の現場で<個>の再建の条件がない限り、相対的な意味しか持てないと思う。
 フランスの国営電力労組は、民営化阻止の戦術として、政治家の私邸を狙い撃ちする停電ストライキを敢行しているが、フランス市民社会からの敵対的批判はない。日本の電力労組が首相私邸への狙い撃ち停電ストライキを実施したら、ただちに刑事犯罪として警察権力が出動し、労組が壊滅することは目に見えている。ここには<個>の成熟水準を示す欧州と日本の著しい格差がある。(2004/6/20 11:05)

[辛淑玉『怒りの方法』(岩波書店 2004年)から学ぶべきこと]
 いま鋭い日本批判で活躍する在日女性・辛淑玉の「怒り」という感情の分析と対処マニュアル。自らの実体験と経験以外のア・プリオリな見方を一切排した実感主義的な迫力があるが、日本社会一般に適用できるかどうかはあなた自身が考えて下さい。在日という究極の差別体験を踏まえて、有無を言わさぬ強烈なメッセージ性を持ち、日本的感性の曖昧性を正面から撃つ。しかし私がほんとうに聞きたいのは、こうした華やかに活躍する在日女性の声だけでなく、一生声を発することなく名もなく底辺に生きてこの世を去っていく在日の声だ。辛氏の発言はおそらくそのような恨を代表しているのでしょうが、秀でた能力や資力を持たない庶民との対話なしに、ほんとうの日朝のコミュニケーションはないと思うからだ。彼女の主張から印象に残った部分を紹介する。

 日本社会は弱者がものも言わず耐えている間は同情を寄せるが、弱者が声を上げて主張し始めると、今度は強烈な嫌悪感と憎悪で攻撃し排除する。イラクの人質事件はまさにそうだ。(ホントウニソノトオリデス)
 他人も組織も当てにならない。大切なのは役職や肩書き、所属団体がなくても問題解決できる力をつけることだ。自分で考え、自分で働いてこそ、自分の道は開ける。(ソンナニコジンノチカラハイダイカ、ココニカノジョノ、シジョウゲンリテキコジンヲカンジル)
 幼稚園に行っても「自分は日本人の子どもと同じことを望んではいけないのだ」と痛切に感じた。見上げる父の顔は哀しげだった。朝鮮学校に通っても私のあだ名は「パンチョッパリ、反動分子、宗派分子」であった。異論は許されないのだ。(コノゲンタイケンガ ニホンジンニハナイ)
 ある被差別部落の女性が家の周りを一生懸命掃除していた。「きれいにしておかなければ差別されるからな」と彼女は言った。しかしきれいにしておいても差別はされる。差別はこちら側の問題ではないのだ。(コレコソサベツノホンシツダ)
 私の基準は「自分より弱い者、小さな者はどんなことがあっても守る」「学問とは、学ぶことができなかった者のために、何ができるかを学ぶことだ」(コレハカンドウテキダ スベテノゲンテンダとオモウ)
 私にとって向き合うべきは人ではない。「無知」だ。「無知」との戦いはデモや集会では勝てない。権力と連動した「無知」な人びとが、隣人が、弱者を排斥していくという現実に、いかに抗していくか。確信犯を説得している暇があったらそうでない人を説得しよう。(ソウナノダ ココガイチバンムツカシイ)
 石原都知事のお陰で差別をすることに自信を持った人たちが増え、社会が扇動に乗って動くという状況が、目の前まで来ている。怒り方、闘い方を変えなければならない。(スルドイ ナゼソウナッタノカノブンセキガヒツヨウ)

 彼女の主張は非常に直観主義的な鋭い感性に支えられているが、社会科学の視点がほとんどない。そして在日社会に絶望して、自分の能力だけで生き抜こうとする姿勢に限界があるーと敢えて指摘しておく。(2004/6/19 17:54)

[日本国憲法第9条擁護論の究極的完成形態ー加藤周一氏「また9条」(朝日新聞6月17日付夕刊夕陽盲語)]
 憲法9条擁護論をこれほど簡潔に概論化した論考はない。以下その概要を紹介する。

 9条は国際紛争解決の手段としていかなる武力も用いないとし、戦後日本の安全保障政策は非核3原則・武器輸出禁止・軍事予算制限・海外派兵禁止措置を決めた。直接自衛権の行使は例外として許容した。他方日米安保条約は米軍を支援する軍事同盟として戦争を許容した。9条原則と安保原則の二律背反が生じた。解決法は9条を変えるか、安保条約を変えるかである。安保条約を変えて非軍事的な日米友好条約を結べば、9条は保存・再生される。安保条約は冷戦期の反ソ脅威にあったが、超大国は消滅し安保条約の意義はなくなった。にもかかわらず日米安保に連動した解釈改憲によって軍事力使用の範囲が拡大し、遂に明文改憲に到った。戦後史は事実上de factonoの改憲から明文de jureへの転換を迎えた。
 改憲論の一つの根拠は占領下「押しつけ論」にあるが、疲弊した日本国民は無抵抗で受容したのであって泣く泣く服従したのではない。逆に現在の改憲論は米国の押しつけという外圧がある。もう一つの根拠である「戸じまり論」(備えあれば憂いなし)は、仮想的との無限の軍備競争と緊張関係を誘発する。軍備強化による戦争抑止の確率と戦争誘発の確率の比較考量は、明らかに9条による平和の確率性が高い。9条を優先していれば、大義なき戦争でイラクの破壊に日本が参画することはなかった。この戦争は米国大統領弾劾にあたる最悪の戦争であった(William Pfaft,International Herald Tribune,June 12-13,2004)。
 9条廃止で日本はどうなるか。東北アジアでの不信感と緊張激化による国際孤立。9条があれば、外交選択幅の拡大、対米従属からの脱却、対米を含む国際協力の拡大である。この時私は軍国日本の犠牲となった友人や知らなかった中国・朝鮮の人の霊と過ぎ来し方を語ることができる。以上どちらを選ぶかはこの国の主権者である国民が決める。(2004/6/18 10:53)

 憲法第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」としている。基本的人権はThe AGE OLD(太古からの)STRUGGLE(心身をかけた闘い)の成果に他ならない。第12条の「不断の努力」ENDEAVOR(ことを為そうとするする試み)と異なり、世界史の無数の心血が注がれた表現である。無辜の民の計り知れない困難といのちの犠牲の積分として存在している人類史の侵しがたい財産である。さらに近代民主主義の致命的欠陥(女性・障害者などを排除)を乗り越える、すべての生命の尊厳を実現しようとする新たな民主主義への転換の可能性をも含んでいる。最後に「人類の多年にわたる努力」とは歴史的到達点の結晶であるとともに、現在の「努力」をも含んでいる未来規定である。

 中曽根元首相は、今次参院選当選者の任期(6年)中に改憲する可能性が大きいとする。05年秋(結党50周年)までに自民党憲法改正案が完成し、民主党は06年までにつくると言っているがおそらく自民党より先に繰り上げてつくるだろう。05年秋以降改正案が出揃い、論争が始まり06年に憲法改正の国民投票がおこなわれるだろう。今次参院選は、日本政治史上最も重要な歴史的選挙になるから、使命感と責任感が求められるーと語った(文化放送主催23日講演会)。いよいよ日本は、決定的な分岐点にさしかかっていることは間違いない。(2004/6/20 8:41)

[日本プロ野球はナベツネによって崩壊する]
 パリーグ緊急理事会は、近鉄・オリックスの合併をたった2時間の会議で承認しました。1球団消滅がこんなにあっけなく決まるということが、日本のプロ野球経営の危機を象徴しています。古田選手会会長は「球団が1つ減るのは大きなコトであり、充分議論が尽くされず急いでいる気がする。選手の稼働に大きく影響することを勝手に決められては困る。減らない方向で考えて欲しい。球団譲渡に必要な30億円の撤廃、球団数の減少を回避する方策を考えるべきだ。選手契約事項を話し合う特別委員会の開催を要求する」と語りました(17日)。
 パリーグ2球団の合併と1リーグ制への移行は、渡辺恒男巨人オーナーのシナリオであることが明確になってきました。球団命名権売却問題で近鉄を罵倒し、犬猿の仲といわれたオリックス宮内義彦オーナーとの会談でシナリオは実演段階に入りました。1993年に巨人(渡辺読売社長)と西武が主導し阪神・ダイエーを抱き込む「新リーグ構想」によって、ドラフト制に逆指名権を導入し、条件付きで移籍の自由を認めるフリーエージェント制の採用でプロ野球は一気に自由化時代に突入しました。その結果は皆さん御存じのように惨憺たる状況が誘発されています。4番打者を金で集めた巨人、戦力の不均衡の拡大、慢性赤字球団の常態化、トップ選手の大リーグ流出等々・・・巨人依存型の球団運営に傾斜していきます。
 しかしその巨人球団も今や危機を迎えています。戦績は横ばいで、TV平均視聴率は激減し、プラチナチケットと言われた入場券も売れ残りが続出しています。追い詰められたナベツネ戦略は「球界を活性化しようと思うなら、プロ野球全体が根本から考え直し、経営者・選手すべてが犠牲を払い球界再編をする」(17日 近鉄首脳との会談)という本格的な構造改革路線に踏み出しました。早速奥田碩・日本経団連会長も「球団数を減らし1リーグ制が合理的、8球団か10球団くらいが面白い」と応援しています。奥田経団連会長ははしなくも恐るべき文化スポーツに対する無理解と無責任を自己暴露しました。日本の社会経済システムの構造改革戦略の嵐が遂にプロ野球に及んでいます。おそらくプロ野球経営に、正規選手と非正規選手(派遣選手・請負選手)というコスト削減を極大化する大量解雇が誘発されるでしょう。1950年の2リーグ制誕生以来、各チームが地域に定着し根強いファン層を形成し、国民的スポーツに成長してきたプロ野球は、ここにきて文化公共財性を放棄した新自由主義・市場経済路線に大転換しようとしています。
 日本プロ野球選手会の特別委員会開催申し入れにたいし、セ・リーグ会長は直ちに拒否し、渡辺恒雄オーナーは「古田君はバカだと思うよ。球界全体の活性化を考えることに抵抗しているんだから」と罵倒し、ヤクルト球団社長は「合併は企業同士の問題で選手が口を出すことではない」と交渉拒否という不当労働行為に近い発言をしました。プロ野球協約は「実行委員会の審議事項中、選手契約に関係ある事項については特別委員会の議決を経て、これを実行委員会に上程する」(第19条)とい選手の労働条件に関する審議参加権を認めています。こうしたプレ・モダンの選手観は実は野球ファンをも無視しているのであり、球団私物化の論理に他なりません。
 例えば近鉄球団の親企業である近鉄の野球経営をみてみよう。近鉄は関西から愛知に到る広大な鉄道網を持ち、莫大な運賃収入を上げ、グループには近ツリ(旅行業界2位)・近畿百貨店・福山通運などトップクラスの企業を抱える企業集団です。しかし近鉄本社の野球経営理念は、広告塔でしかなく野球発展の経営思想は皆無でした。現役大リーガーのドン・マネーが退団した理由は、藤井寺球場(1928年完成)のロッカー室にゴキブリがでるお粗末さに愛想を尽かしたからでした。ナイター施設がないので日生球場を借り、持ち回り制のオールスターゲームを辞退し、日本シリーズは大阪球場を借りておこなわれました。近鉄本社は潤沢な土地と資金を持ちながら決して自前の球場を整備しようとしなかったのです。74年ドラフト会議で、目玉であった山口高志の一番くじを手にしながらカネがかかるとして辞退したのです。近鉄球団の歴代社長と代表は、ほとんど近鉄本社からの出向と天下りの野球理念がない役員が就任し、年間予約席や前売り券販売などのマーケッテイング能力は皆無で、キャラクター商品の開発も試みず、宣伝担当の球団広報はファンを無視する態度に出ました。一方で近鉄本社はバブル期に放漫投資をおこなって莫大な借財をつくり、そのツケを球団廃止に回したのです。近鉄球団の経営失敗の責任は誰もとってはいません。

 本場大リーグのプロ野球経営は市場原理ではなく、相互支援的経営です。TV放映権の一括管理、弱小球団への資金支援、コミッショナー権限の強化など経営努力を最大限におこなっています。日本プロ野球も最低限、TV放映権の一括管理、両リーグ交流試合など改善を早期に行うべきでしょう。プロ球団は選手、ファン、球団職員、関連会社を抱える社会的な存在であり、社会的責任を問われる存在です。
 「野球が社会の文化的公共財となるよう努めることによって、野球の権威及び技術に対する国民の信頼を確保する」(プロ野球協約第1条目的)に背反する渡辺恒男オーナーを直ちに除名し、選手会や地域とファンの代表を参画させた長期構想機関を直ちに設置して戦略再構築をおこなわなければなりません。

 こうした日本のスポーツ界の問題の根元は企業スポーツにあります。企業経営によってチームが解散したり、不況で大会スポンサーが撤退すると直ちにそのスポーツの命脈は絶たれます。スポーツと選手は企業の広告塔でしかなく、宣伝効果をめざした酷使や契約解除が日常茶飯事であり、怪我や故障に対する保障はほとんどありません。競技力向上は、選手とコーチの自己負担で、競技団体間の強化費の格差によってマイナー競技は慢性的な資金不足です。政府のスポーツ予算は極小化し、その予算は施設設備費ではなく競技費重点に偏重し、五輪選手強化費の財源であった「サッカーくじ」も売り上げ激減で今年10月から3ヶ月間停止されます。五輪競技の不振の一つの原因は先進国の中で日本のみがナショナルトレーニングセンターを持たないことにあります。各国のセンター設置年とメダル数の変化をみてみましょう(1076年モントリオール→2000年シドニー)。( )内はセンター設置年。

 韓  国(1966年) 6→28
 イタリア(1971年)13→34
 フランス(1975年) 9→38
 オウストラリア(1981年)5→58
 日  本(なし)25→18

 フランス「身体活動・スポーツの組織化と促進に関する法律」は、「ハイレベルのスポーツは、人類を豊かにし発展させる源となる。ハイレベルのスポーツ選手は、重要な社会的・文化的・国民的役割を果たすものである」と高らかに宣言しています。日本にこうしたスポーツの理念をうたいあげスポーツ権を基本的人権としたスポーツ基本法はありません。せいぜい企業利益にプラスかマイナスかで判断している貧しい先進国でしかないのです。(2004/6/18 9:18)

[それでも私は抗議をやめないーブルキッチ加奈子さん(28)の孤独な訴え]
 東京・米国大使館前で2年前からたった1人で「Yankee Go Home From Iraq」と叫んでいる女性がいる。近くの日本官庁でアルバイトを続けるブルキッチ加奈子さんは、昼休みに毎日大使館前に出かけている。赤坂署は「警備上の理由で大使館関係者かビザ申請者しか通さない」とし、抗議する人は自由に歩道を通れない。今は200m離れた分離帯から拡声器を使って抗議している。
 ある日大使館から出てきた米国人と言い争いになり、拡声器で怒鳴りつけたことが暴行罪に当たるとして、捜査員2人が職場に来て出頭を命じ、神奈川県の自宅の家宅捜査と勤務先の捜査を受けた。表現の自由を行使しただけで、いまや犯罪となる時代がきた。加奈子さんは「いつ逮捕されるか恐ろしい。米大使館前で戦争反対と声を出すのは犯罪なんでしょうか」という。
 加奈子さんは間違っています。あなたは日本の主権がまだ日本にあると思っていますが、実はとんでもない間違いなのです。日本の主権はとっくにアメリカにあるのです。だから赤坂署も必死で米国大使館を守るのであって、日本人であるあなたを守ることはないのです。よく分かりましたか。よくみればあなたを支援しようとする日本人は少ないでしょう。日本人みんなが首相に倣ってポチ公になっているのです。ココ掘れワンワンと命令されて、ホイホイと世界の果てまで出かけていくのです。まるでヤクザの親分が恐くてひたすら恭順の意を表している三下ヤクザではありませんか。だけど加奈子さんの行為は最後に歴史が審判を下します。その時にあなたの行為の正当性は白日の下に晴れやかに表彰されるでしょう。以上朝日新聞6月17日夕刊参照して作成。(2004/6/17 20:12)

[考古学・古代遺跡学の現在]
 縄文期に階層性はあったのかーを古人骨から分析する(山田康弘・島根大)。縄文期は平等社会という通説だ。しかし大規模盛り土遺跡や三内丸山遺跡(青森)の掘っ立て柱建造物は組織力なしに構築不可能な遺構である。ここから集団を統帥するリーダーや首長の存在を指摘する。山田氏は、食料摂取量による骨の発育から階層差を分析する米国の研究を参考に、同一遺跡での抜歯形式と墓の立地が異なるグループの人骨を比較分析し、身長差はなく縄文期の骨格に影響を与える階層差はなかったと結論。それ0に対し谷畑美帆氏(明治大)は、近世ロンドンの富裕層と貧困層の共同墓地の骨を比較し、貧困層はビタミン不足からのくる病と骨軟化症の割合が高いことを証明した。日本では人骨研究は理系人類学で、発掘は考古学者が担当しているため有機的な連携がとれていない。
 ヘレニズム文化を伝えるペルガモン大祭壇の修復作業が終了した(ベルリン・ペルガモン博物館)。大祭壇は19世紀後半にトルコ西部のペルガモンの丘でドイツ人が発掘。BC170年頃の建造とされ、神々と巨人の闘争が描かれたヘレニズム文化の貴重史料だ。19世紀の末に船でベルリンに運ばれ、ベルリン博物館の主要展示品として復元された。ドイツ敗戦の45年に旧ソ連が没収したが54年にベルリン博物館に返還された。94年から4億円をかけた修復作業が開始されていた。以上朝日新聞6月16日付夕刊。
 この2つの話題は直接には何の関係もない。しかしペルガモン大祭壇はなぜイラクに返還されないのだ? 古代遺跡を保存し修復する力量は確かに西欧技術が優れているだろう。しかし以下に朽ち果てようとも、「そこにある」ものはそこに置いていなければならないのではないか。西欧文明が発掘時代を迎えて資力にものを言わせて収奪したのは紛れもない事実だ。戦争期の占領軍が戦利品として略奪した行為とそれほど変わりはない。城址の高みから眺められる悠然と大地に沈む夕陽は、人類史の闇をはるかに照らし出している。(2004/6/17 19:28)

[私たちはこれを黙過するのかー沖縄米兵小学生に性的虐待]
 沖縄米軍嘉手納基地の米空軍マーク・パルモシナ2等軍曹が98年10月、99年5月、00年5月、01年10月の総計4回に渡って嘉手納基地内か周辺で12歳未満の子どもに対して性的虐待を加え、99年5月と01年10月に16歳未満の女性の身体を触った。軍内部で訴追された(04年5月)。2等軍曹は帰国してカリフォルニア州トラビス空軍基地で国際テロリスト組織アルカイダが収容されているキューバ・グアンタナモ基地に勤務していたシリア系米兵のスパイ捜査などの重要任務に就いていた。トラビス基地でも01年10月から03年10月にかけて未成年者暴行事件8件を起こし、軍は5月下旬に軍曹を軍紀違反で訴追した。
 沖縄での暴行の被害者の国籍、性別、犯行場所などの詳細は不明であり、沖縄県警捜査1課は「事件の把握ができていない。基地の外で日本人が関係する事案なら我々が知らないはずがない」とし、沖縄県基地対策室が事実関係を在沖米軍に照会したが担当者は「知らない」と答えた。
 第1に、12歳未満のこどもに対する性的虐待にもかかわらず、犯人は本国に転籍し通常勤務をおこなっている。この犯罪に対する無問責は在沖米軍司令官の犯罪に他ならない。第2に沖縄県と沖縄県警の姿勢である。明治期の治外法権そのもの実態であるのもかかわらず、日本政府はとくにあの女性外務大臣はいったい何をやっているのか。北朝鮮交渉で日本の外務大臣は不要であることがよく分かったが、自らの国の国民が名誉と尊厳を冒された可能性があるにもかかわらず、なにもしないこの女性外務大臣とはいったいなんだ。特に許せないのは、沖縄県警が「暴行事件では被害者が名乗りでないケースがある」と言い放っていることである。このニュースはロスアンゼルス発のロイター・共同電である。私は真実の究極の摘発をのぞむ。怒りは深奥に達し制御できない噴出に到る可能性がある。とくに沖縄の人にとっては。以上朝日新聞6月16日夕刊参照。(2004/6/16 19:38)

[これだから私の古書寡集癖はとまらない]
 梅雨のあいまの快晴で40度近くに達する暑さですですが、湿度がないので意外とさわやかです。今日は思い立って名古屋市郊外の一宮まで脚を伸ばして古本散策といきました。一宮市内にはいると、最初にうどん屋に入ったのですが、ここの女将さんがなかなか感じのいい人でいっぺんに一宮に好感を抱きました。都会の摺れたところがなくとても感じがいい人なのです。
 尾張一宮駅前の大通りに2軒の古本屋がありました。一軒は福田書店という名前ですが、ここはほとんど書籍が整理されてなく、雑多の本が雑然と棚に並んでいます。こういう中からオヤッというような専門書が顔を出すのです。場末の古本屋に行くとこういう感じで探索するのがまた楽しみなのです。名古屋の大きな古本屋ではとっくに売れているような本が格安で鎮座ましましています。芭蕉自筆『奥の細道』(岩波書店)、ウオーラーステイン『アフターリベラリズム』(藤原書店)、サルバドールダリ『ミレー<晩鐘>の悲劇的神話』(人文書院)などしめて9冊8千円弱で購入しました。それから少し離れた大誠堂に行きました。ここの主人は天衣無謀で楽しく会話しました。諸橋轍次『大漢和辞典』を見て「アレ幾ら?」と聞くと「3万5千円」という(ウーンこれは名古屋市内と値段は変わらんな・・)。そして「これを買わんかな、5千円にしとくよ、ちょうど整理したいと思っていたんだ」というので見ると、小学館『国語大辞典』(全20巻)が並んでいる(ジツはこれは最近小学館から復刊されて20数万円だ)。私は何気ない素振りをして、200円コーナーに行って、テーラー『科学的管理法』を発見し嬉しくなったので、国語大辞典全20巻を一緒に買ってしまった。段ボール箱4つに古書を入れて車に入れた。家に帰ってどこに置くのか、妻の怒声を覚悟しつつ、本日はホクホクで帰途についた。混み合うバイパスもいくらか短く感じられた。ホンダCRVが調子よく走る。ウッフフフ・・・(2004/6/16 17:20)

[日本の人身売買は世界最低水準なのか]
 米国務省『2004年度人身売買年次報告書』は、世界131ヶ国・地域を対象に、売春と強制労働をめぐる人身売買の状況を調査し、防止措置を3段階で評価する。@最低限の基準を満たしている「分類1」(25ヶ国・地域)、A基準を満たす努力をしていない「分離3」(10ヶ国)、Bその他の国々「分類2」そして分類2の中で分類3に転落する危険性があるとして42ヶ国を監視対象国としている。分離3の10ヶ国は、3ヶ月以内に改善措置を執らなければ人道支援を除く援助を打ち切る制裁を科す(北朝鮮、ミャンマー、キューバなど)。主要8ヶ国(G8)で監視対象国に挙げられたのは日本とロシアであり、他のG8はすべて分類1に入っている。他の監視対象国は、タイ、ベトナム、フィリピン、パキスタン、インド、ジンバブエ、ギリシャ、メキシコ、ペルーである。
 日本に対しては「アジア、中南米、東欧などから子どもや女性が労働力や売春の目的で送り込まれている。日本の人身売買が規模が大きく、国際的に活動している暴力団(ヤクザ)が関与している。日本には人身売買を防ぐための包括的な法律がない。人身売買の被害者に対する日本政府の保護措置、特に法律上の助言と心理的・経済的支援が不足している」と厳しく批判している。93年国連総会「暴力撤廃宣言」→95年北京女性会議行動綱領→00年国連・国際組織犯罪防止条約(日本政府批准)→同条約を補足する人身取引補足議定書(日本政府未批准)という国際的な流れの中で日本の取り組みは遅れている。

 人身売買とは、強制売春・強制労働・臓器売買などの搾取目的で18歳未満の子どもを売買・移送・受領・監禁する等の全体を云う。米国報告書は、世界で60万〜80万人の被害を推定し、80%が女性でうち70%が性目的だとし、途上国での児童強制労働が蔓延している。日本の実態は20数万の不法滞在外国人の半数を女性とすると、少なくとも数万人の被害者がいると推定される。タイ大使館に売春などで駆け込んでくる女性は年間約30人いる。長野、茨城、群馬、横浜などが多い。
 日本の国内法では、略取・誘拐罪の適用、有害業務の職業紹介(職業安定法)、不法就労延長(入管法)、売春斡旋(売春防止法)などがあるが、海外からの人身売買自体を取り締まる法律はない。今後人身売買防止法制定による加害者処罰・被害者保護・救済を規定しなければならない。被害者女性の多くが不法滞在で犯罪者扱いされ強制送還で、加害者を告発できないからだ。しかし法規制を強化しても、心身共に傷を負っている被害者救済システムがないと「被害の証言」はない。根底には、外国人女性を金で買う日本人男性の需要構造、しょせん外国人問題として無視する市民の意識構造がある。ある大人女性(37)は障害者と3人の個を抱えて困窮し知人から日本のレストランで働けば、月1〜2万バーツ(30から60万円)稼げると来日し、三重県内アパートに監禁され売春を強制され、暴力団に転売すると脅かされて逃亡し、その際脅したタイ人女性を殺害し、強盗致死で懲役7年の刑を受けた。日本の警察は不法滞在だけを捜査し、人身売買と背後の売春組織は全く不問に付した。

 最後に当然ながらこうした犯罪を根絶する取り組みが必要だが、米国国務省が全世界を査定し制裁の脅迫をおこなうというのは偽善に満ちてはいないか。あたかも人権先進国のグローバルスタンダードで審査する資格があるかのように振る舞う厚顔無恥は呆れてしまう。そのまえにやるべきことは、キュバ・グアンタナモ基地に幽閉しているアフガン捕虜と、イラク刑務所での捕虜虐待をきっぱりと清算し,責任をとらなければならない。こうした国際児童強制労働と性的搾取に対する取り組みは、アメリカ単独行動主義ではなく国連そのものの主要な課題ではないか。(2004/6/16 8:40)

 ブローカーがブルガリアの貧困地区で出産間近の女性に、「西側の清潔な病院で出産できる」とか「大金がもらえる」などと生まれたこどもを欧州で第3者に売る事件が続発している(それにしてもまだ西側と言うのか!)。ある母親は妊娠中にフランスに入国し、パリ郊外の病院で出産後、あるカップルに男児6000ユーロ(1ユーロ=138円)、女児5000ユーロで売り渡し、金を払って新生児を引き取ったカップル2組とブルガリア人計9人を逮捕した。ポルトガルでは夫を装ったブローカーが訪れ、出生届の両親名に買い手のカップルの名を記入した。6人が逮捕されたイタリアでは、新生児の引き取りを母親が拒否し、買い手の男性が父親と偽って子どもを認知する方法であった。欧州ではこうした新生児売買ビジネスが横行している。以上・朝日新聞8月17日付け夕刊。(2004/8/17 19:52追加)

[君が代・強制批判のPTA会長を辞任に追い込んだのは誰か?]
 <事実経過>
○4月6日 東京都中野区立桃園第2小学校入学式で、高橋聡PTA会長(35)は新入生式辞に続いて「保護者の皆さん、教育は脅しや押しつけとは共存できません。立場の違いはあっても、教育の場を強権的な押しつけから守ることには協同すべきだと思います」(暗いニュースが続く中で、内面の自由が傷つけられるようなことは、学校ではあってほしくないと問題提起した。迷ったけれど今云わねばいつ云えると力を振り絞ったー高橋さん談)
○4月 6日 式終了後校長「PTAや学校の総意と思われては困る。公の場であのような私見は控えて欲しい」と高橋さんに苦言。ある中野区議電話で「時と場所をわきまえろ、反省しろ」と高橋さんに迫る。
○4月 7日 PTA役員会で批判噴出し、「PTAは思想的に真っ白であるべきだ」「重大問題なのに私たち役員には相談もなかった」。高橋さん辞意表明
○4月 8日 PTA役員会 高橋会長抜きで開催「一身上の都合で会長辞任」の告示決定
○4月 9日 PTA役員会 高橋会長含めて開催 役員から「辞めろとは言っていない」「信頼関係を戻してくれるなら」等の発言あり。高橋会長辞意を撤回し校長に報告。校長同意せず学校評議委員会への出席を求める。
○4月12日 学校評議委員会開催。評議員の一人が「いったん辞意を表明したのだから実行するのが賢明」と迫る。高橋会長「辞めればかえって混乱する」と抵抗。役員「お子さんがいじめられるかも知れない。私はそれが心配だ」と脅迫。教頭(PTA副会長)「他の役員全員が一緒に仕事をしたくないと言ったら辞めるかと尋ねる」。高橋会長応じると、教頭は別室に待機させて残り9人の役員を呼んだ。一人ひとりが「一緒にやっていけない」「勘弁して下さい」と口々に発言。校長「辞任します」と一筆書くよう要求。教頭がペンと紙を差し出す。「持ち帰って考えさせて欲しい」という高橋会長に、校長「こういうことは早く済ませた方がいい」と促す。高橋会長捨て鉢になって、「皆さんと一緒に仕事を続けていく自信を失いました」と記し署名、押印した。

 *コメント 以上は朝日新聞関東版での報道から。高橋会長の祝辞は、憲法と教基法原理の思想・良心の自由を忠実に厳守した発言だ。学校管理職はPTAの人事に介入・助言する資格はない。校長・教頭の発言は脅迫の疑いが濃厚である。従って高橋会長の辞任表明は法的な効力がない。思想・良心の自由は多数決になじまない基本的な人権である。高橋会長が辞任しなければならない、いかなる要件も構成していない。教師→こどもと進んできた日の丸・君が代強制は遂に教育権の主体たる親に及んできた。ジャズピアニストである高橋さんは、神経衰弱で演奏活動に支障をきたしている。ただちに桃園第2小学校PTAは、学校の介入を排除して高橋会長の復帰を求めるべきである。もしこのような事態が許されるならば、草の根ファッシズムそのものではないか。(2004/6/15 19:55)

[あなたは”がんばろう”を歌ったことがありますかー森田ヤエ子さん(76歳) 5月25日逝去(敗血症)]
 総資本対総労働の決戦といわれた1960年の三井・三池闘争から生まれた歌「がんばろう」は、一度もTVで登場したことはないが、これほどまた全国の運動の場で合唱された歌はないでしょう。いわゆるうたごえ運動という日本の民衆歌唱運動の最盛期を担った人でした。作詞:森田ウアエ子 作曲:荒木栄のコンビは幾多の労働愛唱歌を創作して遂にこの世を去りました。「この勝利響けとどろけ」「わが母の歌」「花を送ろう」などは単なるプロパガンダ唱歌を超えた頌歌の域に達していました。

 がんばろう つきあげる空に
 くろがねの男のこぶしがある
 もえあがる女のこぶしがある
 たたかいはここから
 たたかいはいまから

 彼女は福岡県山田市で閉山後も日雇い労働をしながら、詩の創作を続けて、国の棄民政策を告発した。丸顔に白粉、真っ赤な口紅で反体制運動のシンボルであった。上野英信主催のサーカス村にも加わった自由人であったが、最後は借家の側の集会所の密葬で共産党員の仲間10人が寂しく見送った。少女のような可愛い死に顔で、柩には20数年前に亡くなった夫・実五郎さんの写真が入れられた。以上 朝日新聞6月14日付夕刊。実に矜持と節操と芸術に殉じた生涯であった。安らかに眠れ 合掌。(2004/6/14 21:00)

[2010年W杯南アフリカ大会は画期的な意味を持っている!]
 国際サッカー連盟(FIFA)の開催地選定報告書は、南アの治安状況の危機(殺人事件は日本の100倍)と民主化の未達成(失業率40%)を率直に指摘したが、しかしなおかつ世界は南ア開催を決定した。W杯の社会経済効果は五輪をしのぎ、日韓W杯は280万人が競技場で観戦し288億人がTV観戦した。南ア大会はアフリカ大陸が抱える貧困と飢餓、人種と部族問題、蔓延するHIVへの大きな関心を呼び起こすだろう。欧米諸国の植民支配を背景に暗黒大陸と呼ばれてきた歴史を白日の下にさらすだろう。ネルソン・マンデラは元気で2010年を91歳で迎えるだろう。FIFA行動規範(1995年)は「人種差別などサッカーに危害を及ぼすものを拒絶する。すべてのサッカー関係者がスポーツの健全な発展を脅かすあらゆる社会悪に立ち向かうことを呼びかける」としている。世界のサッカー界はすでにアフリカの時代に入っている。オリンピックでは96年アトランタ大会でのナイジェリアの金、00年シドニー大会でのカメルーンの金などすべてアフリカ勢が連覇している。国際サッカーの地政学的位置は明らかにアフリカ大陸が主要な舞台となっている。 南ア大会は21世紀の世界がパックス・アメリカーナではなく、途上国が社会経済と文明モラルを主導しているということを世界に確認する歴史的な大会となるだろう。裏返せばもはや欧米の開催能力は喪失したということだ。以上二宮清純論考を参照して記す。(2004/6/13 19:41)

[一枚の写真ーハゲワシと少女から]
 地面にうずくまる骨が浮き出た少女、それをジット後ろから見つめるハゲワシ。飢餓のスーダン南部・アヨド村でケビン・カーター(南ア・フォトジャーナリスト)が撮影し、1994年にニューヨークタイムズに掲載されピュリッツア賞を受けた。この写真に対して「撮影する前に助けるべきだ」、「写真家としてはパーフェクトだが人間としてはゼロだ」との非難を浴びて、彼は自殺した。
 フォトジャーナリストという職業の本質的な意味が根底から問われた。取材の動機は所詮、生活の糧、野心、名誉ではないのか。彼らのみが、なぜ目の前にある命を犠牲にして撮影する職業特権を持つのか。そこで自分が救助できる立場にいて、他に救助する人がいなければ救助が優先されるーとしたり顔で言う人もいる(広川隆一)。そうではなく「その一瞬の救いはあっても、飢餓にある数十万の一人に一滴の水をあげる行為に何の意味があるのか、飢餓の真実を撮影することによって他の幾多の飢餓が救われる」という強力な反論もある。さらには「ジャーナリストは客観者の宿命を背負い、彼らが最も良い仕事をする時ほど、あたかも悲劇の現場で沈黙を守るように、その場の善にも悪にも手を染めようとしない」(石山永一郎)という専門職論もある。
 この議論はある普遍的な問題を提起している。フト私は、芥川龍之介の小説を想起した。絵師が究極の美の世界を描くために、自らの娘を焼き殺し、その炎の中で焼死する娘を見つめて絵を完成させていくというものだ。フォトジャーナリズムは写真芸術ではないが、究極の真実を伝えるという瞬間にどの行為を選択するかーということはすぐれて決定的瞬間における決定的判断の問題であると思う。「報道か命か」といえば「命」に決まっている素朴なヒューマニズムの基軸が商品の論理によって浸食されているのではないか。
 思うにこの議論の根底にはアレカ・コレカの選択に直面した時の、瞬間的な全人生のDNAの発露ではないか。教育で言えば「ある生徒を退学処分にするかどうか」、戦場で言えば「捕虜を殺すかどうか」、イジメでいえば「加担して安全を手に入れるかどうかどうか」などなど迫真的でもありごくごく日常的な選択の問題を問いかけている。その源流は、十字架の処刑に臨んで”エルエルアバクタニ(主よ主よ何で我を見捨てたもうか)”と絶叫したイエスの迫真の言葉にある。以上『DAYS JAPAN』創刊号によって想念を述べた。(2004/6/12 16:56)

[渡辺修考氏 損害賠償請求へ]
 イラクで人質になったNGO活動家・渡辺修考氏(36)が、国を相手に500万円の損害賠償請求を東京地裁におこした(8日)。請求理由は「日本が自衛隊を派遣したことを理由に拘束され、精神的、肉体的苦痛を受けた。帰国時の航空運賃として外務省が請求した2万3千円についても支払義務はないことの確認を求める」としている。訴状によれば、自衛隊の活動状況を取材するために2月からイラク入りしたが、米国の占領体制に反対する市民から監視され、民間武装勢力に拘束された。武装組織は「軍隊を派遣している国の国民だから」と説明したという。記者会見で「実際に見たサマワの状況は、非戦闘地域にはほど遠く、憲法違反、イラク腹腔支援特措法違反は明らかだった。本格的な憲法論争を提起したい」と述べた。以上下野新聞6月9日付。

 折しも著名9氏が「9条の会」を発足させアピールを出した(10日)。梅原猛・大江健三郎・奥平康弘・小田実・加藤周一・澤地久枝・鶴見俊輔・三木睦子・井上ひさしの各氏である。すでに米国人オーバビー博士が中心となる「第9条の会」というのが同じ趣旨の活動をおこなっているが、ここにきて日本国憲法を守る人たちの結集軸ができたような気がする。日本現代史はいよいよ歴史の分岐点にさしかかる決定的な時期がきた。詳細は後日。(2004/6/11 13:17)

[らららさんの平等論]
 祖父江真奈さん(劇団ふるさときゃらばんプロデユーサー)の愛娘は”ららら”というチョット珍しい名前ですが、脳性マヒ(出生児の脳の損傷で障害を持つ)で身体不自由な障害児です。杖を使えば歩けますが、一番苦手なのが運動会の徒競走です。いつもビリでした。小学校5年生までは個人競争でしたが、6年生でリレー種目になりました。担任の先生は無理だと言いましたが、らららさんは「私、みんなと同じ距離を走りたいです。私がみんなと同じ距離を走ったらなにか迷惑ですか」と申し出ました。お母さんはうちの子のチームは必ずビリになると、少し困りましたが、みんなは「らららさんの申し出にどうやったら、らららさんとみんなが接戦になって走れるか考えよう」と言いました。当事者のらららさんは、そんなことはどこ吹く風で、家の中で杖を持って走るトレーニングを始め、スタート第1歩をどうするかなど汗びっしょりかいて特訓しました。学校では2弾号砲のスタートにし、1発目でまずらららさんが走り、接戦になりそうなところで2発目が鳴りみんながスタートする方法にしました。本番の日が来ました。
 2弾号砲のスタートはとてもうまくいって、大接戦、大興奮、大感動の全員リレーとなりました。らららさんもたった一人でスタートを切り、2発目でみんなが追いかけてくるのをなんとか吹っ切ってスレスレトップで第2走者につなぎ、チームはそのまま1位となりました。
 その夜お母さんは小さな声で言いました。「ららら、ごめんね、脳性マヒで産んじゃって」。ジットお母さんの顔を見つめたらららさんは、「お母さん、10年経ったら時効ダヨ!」と言って、さらに右手を差し出して「和解成立だね」とニコッと笑顔で握手しました。

 現代の人びとがとっくにどこかへ置いてきたような人間らしい結びつきが生き生きと躍動しているようです。今の日本のすみずみにこうした関係が流れているならば、ほんとうに日本は美しい、貧しくとも美しい国になっているのではと思わず溜息がもれてきます。どのような人も大切にされ、キラッと光るなにかを手にして互いに励まし合って前に行こうという姿が目に浮かんできます。
 実はこの話を記すのは数年前に報道された小学校の運動会の徒競走のニュースが頭に浮かんできたからです。小学校では勝敗を決める個人レースに対して、保護者の批判が強く(我が子が負けるシーンを見たくない!)、日頃のタイムでスタートラインをずらす方法を取り入れ、ゴール付近で白熱したレースになるようにしたところ、一気に盛り上がり保護者も満足したというものでした。実は私はこの方法に少し違和感を持ったのです。たとえ勝敗がともなってもみんなが全力を出し切ればそれで良いのではないか。人為的に操作して勝敗による歓喜と屈辱から逃れさせる方法は、ほんとうにこどもを伸ばすことになるのか。誰しも光る個性があり、運動でダメであっても他の点で個性を発揮して互いに健闘をたたえ合うようなスタイルがいいのではないかーと考えました。思いは昂じて米国などのアファーマテブ・アクション(有色人種や障害者の優先入学・優先就職など)の是非にまで考えは及びました。特に本人自身の責任ではないハンデイキャップについて、どのような救済措置を設けたらいいのか、「逆差別」が誘発されないようにするにはどうすればいいのか等々考えはまとまりませんでした。
 しかしこのらららさんの場合は、無条件に共感する気持ちがあるのです。いったいどうしてでしょうか。先記したデイスアビリテイスタデイでは、「愛と正義を拒否する」障害者の意見と安易な感動を拒否する考えを紹介しましたが、やはりこの障害学という思想はなにか視野の狭さを感じます。いま私が記していることについてもっと考えを深めていかなければと思います。ほんとうの平等とは何だろうか。ほんとうの個性とは何だろうか。平等を実現するためにどのような制度がほんとうにいいのだろうか。(2004/6/11 12:34)

[小泉社会保障戦略は歴史への冒涜である]
 現在の日本が直面している最大の課題の一つが、平等・公平のあり方をめぐる問題だ。それが最も強く発言する分野が「社会保障」をめぐる領域だ。生活弱者を社会的に位置づける社会保障思想は、伝統的な家族や地域共同体に価値を置く共助型「保守主義」(農村型)、市場中心の自助型「自由主義」(米国型)、個人を公共性で支える「社会民主主義」(欧州型)の3類型に分類するとすれば、コイズミコイズミ社会保障戦略は、保守主義→自由主義への転換であり、もう一つの選択肢として欧州型がある。これは都市型社会への移行過程で採用される2つの鋭い戦略分岐を意味する。

 私的利益の極大化原理で運動している資本主義システムでは、必然的に倒産・失業・労災などの「社会的事故」が誘発され、個人の自助努力SELF HELPは限界に直面するから、この部分は社会的に救済する。公共性を体現する政府はこの個人限界状況に介入して修正し、いかなる状況でも生存権による人間的尊厳を保障する「社会保障」システムが20世紀の人類史の到達点である(日本国憲法25条)。小泉氏は「給付は厚く、負担は軽く」という時代は去り、これからは「自助・自律」を基本とする「痛み」を分かち合う持続可能な社会をめざすとして、社会保障の基本を<自助努力・自己責任>に置いた。政府文書に記載されていた「自助・共助・公助」からいつのまにか「公助」が脱落し、社会保障システムの原理的な否定が進行した。「公助」=公的責任の削除はもはや社会保障ではなく個人保障への転換を意味する。
 社会保障システムを攻撃する有力な根拠は、努力しないで受益を享受する甘え社会を生むとか、非生産的人間のレントシーキング(ただ乗り)を誘発する合成の誤謬論にある。例えば年金最低加入期間(25年)をクリアしない人にも無条件に最低保障年金を支給するというプランは秩序自体を破壊するものだという主張がある。しかし最低加入期間をクリアできない状況を生んでいる実態的要因を調べるならば、こうした貧困=個人責任とはならない。リストラ、派遣、パートなどの不安定雇用政策の蔓延は自助努力の経済的基盤を剥奪している。貯蓄なし世帯が21.8%に急増し、生活保護世帯の10倍に上る1千万を超える世帯が生活が苦しくとも取り崩す貯蓄はないという実態がある(03年家計の金融資産に関する世論調査)。社会保障の減退→家計消費需要減退→不況進行→税収・社会保険料納入減退→社会保障減退という悪魔サイクルが進展する。
 経済的理由による高校退学者 293人(平均1.38人)
 経済的理由による修学旅行不参加数 503人(全国私教連03年212校・183、700人対象調査) 
 具体的理由を見ると、夜逃げ・父の蒸発・音信不通・事業失敗・負債による離婚・営業不振・倒産・失業などであり、数値は過去最高を記録している。修学旅行に参加できない子どもを、親の「自己責任」と規定し放置できるだろうか。
                                                          (2004/6/10 8:32)

[デイスアビリテイスタデイーズ障害学の視点は真に障害者のものか]
 「障害学とは、障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動である。それは従来の医療、社会福祉の視点から障害と障害者を捉えるものではない。個人のインペアメント(損傷)の治療を至上命題とする医療と福祉の枠組みからの脱却をめざす試みである。そして障害者独自の視点を確立を指向し、文化としての障害、障害者として生きる価値に着目する」(石川准・長瀬修『障害学への招待』明石書店 1999年)が障害学の定義として打ち出されてから数年が経った。長瀬修氏はこの学派の定義をさらに拡大して次のように言う。
(1)社会モデルとしての障害:障害者の損傷ではなく、社会が築いている障壁こそ問題だ。障害者に対する合理的配慮が欠如している社会にこそ問題がある(国連「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約一般的意見第5号」)
(2)文化モデルとしての障害:障害者は独自の行動様式と価値観を持つ障害文化の存在と見る。障害者と健常者の接触は異文化コミュニケーションとして理解する。
(3)主体モデルとしての障害:障害者自身の視点の重視。Nothing about us without us(私たち抜きに私たちのことを決めないで)。

 長瀬氏は障害学思想のモデルとして、「われらは愛と正義を拒否する」という行動綱領(1970年)を打ち出した脳性マヒ者の組織である「青い芝の会」を挙げる。「自己の立場を忘却できる立場にあることの特権性、暴力性を暴き、ゆさぶり、そうした非対称性を壊していくのがアイデンテイテイの政治だ。障害者に感情移入して共感したり、感動したり、激励したり、憐憫したり、知ったかぶりする健常者に、そのような余計なことをする前に、自己の在り方を相対化し、反省することを迫るような言説を紡ぎ出していくことが障害学には求められている」(石川准『障害学を語る』)と問いかける。

 かって部落解放運動や障害者解放運動として、外部者の自己差別意識の反省を徹底的に迫る論理が展開されたことがあった。差別そのものではなく、差別「意識」に根元的な罪悪があるとして糾弾と言われる闘争形態が採用された時代がある。こうした原理的な問いかけは、外部者を深刻な自己批判に曝す契機となったが、両者の溝と敵対関係を拡大再生産した側面もあった。差別の本質が、垂直的なヒエラルヒーによる抑圧の移譲システムにあるとすれば、糾弾形態は差別構造の最上位にあるシステム君臨者への共同批判に向かうよりも、連帯可能性のある者同士の矛盾を拡大した。しかしほんとうに問わなければならなかったのは、部落や障害者問題を問題化するシステム自体の解明と批判によるシステム転換の問題であった。
 こうした運動の質を見事に象徴したのが、ハンセン病者隔離・抹殺問題である。大日本帝国は帝国のモデル国民として、戦時労働力と軍事力動因の対象として、青壮年健常男子モデルを主体として、ハンセン病者を恥ずべき存在として隔離・抹殺しようとした。ハンセン病者にとっての抑圧者は、大日本帝国権力とその政策実行者であることが白日の下に明かとなった。文字通り物理的強制力を持った制度そのものであった。もしハンセン病者が健常者全般の排除意識を対象に問題提起を集中したならば、解放ははるかに後退したであろう。
 ただし障害者運動のなかに、健常者を正常モデルとして、そこに向かって発達していくという発達理論は、差別を巧妙に隠蔽する効果を持つ危険性があった。ノーマライゼーションバリアフリーの思想は、発達理論だけでは導出されないということが分かってきた。障害者の人権に於ける普遍性と独自性の弁証法的な構造を正確に位置づける理論が求められた。しかし発達理論の欠陥を鋭く攻撃するグループは、「発達」自体を拒否して障害そのものを神聖絶対化する逆の誤謬に陥ってしまった。障害者と健常者がほんとうに互いを成長の糧として支え合うシステムの開発には長い時間がかかった。
 こうした日本の障害者運動の歴史的なパースペクテイブからみて、障害学が障害絶対化に陥る危険性を回避するためにはどのような回路があるか真剣に問われている。長瀬修氏の論考にしばしば登場するミクロ経済学の概念である「財の分配」とか「ロジステックス」の頻用にはそのような不安がある。最も心配なのは、障害者を研究「対象」とするという障害「学」という発想である。長瀬氏は既成パラダイムを批判しながら、自分自身を無意識のうちに神のような立場に置いているという幻想がありはしないか。以上・長瀬修「障害学とは何か」(東大出版会『UP』2004/6号)を批判的に解読。(2004/6/10 00:15)

[アブグレイブ虐待写真の汚濁]
 イラク・アブグレイブ刑務所の虐待写真を見て、ブッシュは「私の知っている米国ではない」と言い、マイヤーズ将軍は「酷い悲劇だ。我々が高い道徳的優位性を持っていることは間違いない」と言った。この2人は米国のモラルをほんとうに気高いと思っているとしたら恐るべき厚顔無恥であるし、分かって言ったのならば偽善も甚だしい。世界で最も凶悪犯罪の発生率が高い国はどこだか知っているのか。ボーア戦争以降「映像」が戦争の行方に大きな影響を与えてきた。戦争は互いに相手の残虐行為を訴えるメデアイ戦争でもあった。1枚の写真が決定的な影響を戦局に与えたこともある。
 1937年8月28日第2次上海事変で、日本海軍機が上海南駅の避難民を爆撃し170人を殺害したときに、国際通信社INAのH/S・ウオンが撮影した路上に見捨てられた赤ん坊の写真は全世界で1億3800万人が見て、欧米はこの「上海ベイビー」によって対日攻撃の決意を固めた。
 1972年6月の米軍機がサイゴン北西でナパム弾を投下したとき、AP通信ニック・ウトが撮影した9歳の逃げまどう裸の少女の写真は、全世界のベトナム反戦に火をつけた。そして今回の米誌『ニューヨーカー』に掲載された全身に電流を流されているイラク人捕虜の写真は、全世界に米国の汚らわしさを刻印した。以上ピーター・オコーノ氏(武蔵野大)の論考参照(朝日新聞6月9日夕刊)。
 オコーノ氏は残虐写真はどっちもどっちだと言うのが結論だが、ここに彼の欧米的中間主義の限界がある。それを鋭く指摘しているのが同じ頁に掲載されているS・ソンタグ氏の論評だ。アブグレイブ虐待写真は、一部兵士の特殊な異常行為ではなく、ブッシュの政策と植民地支配の具体的な腐敗であり、暴力の空想と実践が善良な娯楽となっているアメリカそのものなのだという。彼女は、イラクの虐待写真は、1880年代から1930年代の白人がリンチした黒人の死体と並んで誇らしげに立っている記念写真とそっくりだという。たしかにそうだ。わたしも真っ白い悪魔服を着たKKK団の写真を見たことがある。彼らは自分たちが正当な行為をしていると本気で信じ切っている。今回のイラク虐待写真の異常さは、かっては決死の戦場ジャーナリストが撮影したものを、兵士自身が自分の楽しみのために記念写真を撮っていることだ。観光のようにカメラを持ち歩いて、虐待の嗜虐を味わい、自分自身の生活記録として撮影する感覚の退嬰は現代アメリカそのものではないか。そしてバトルロワイアルを鑑賞してこころから楽しみ絶賛している日本人もまた同じではないか。(2004/6/9 20:58)

[マンガにみる漂流・日本]
 少年マンガが競技や戦いを通じて外界へ働きかけ自己実現をめざすのに対し、少女マンガは今のままの私が特定の異性を受け入れることを媒介に世界内受容をめざす。少女マンガの多数は、身の回り半径1mの出来事だけでつくられている(かっての「ベルサイユのばら」「美少女戦士セーラームーン」では闘う少女が描かれたが)。なぜ少女マンガはこうなったか。少女達は一緒にトイレに行く友だちをキープする親密競争のただ中にあり、容姿に気をつけて手を加えても自然に見せなければならない。互いに傷つきたくないので身を近接し合うがそれは傷を深くする関係でもある。一方では少年マンガ「ONE PIECE」のお飾りではないナミに共感を示す少年マンガを読む処女も多い。
 いっぽう架空空間の物語が増えた少年マンガは、弱肉強食の二極世界で闘えない・勝てない男子が逃避する世界としてある。こうして男女とも、多様な価値観が認められず、拒食・過食→オタク・ヒキコモリ→暴力という逸脱に向かう回路が準備されている。佐世保で切った少女は特異な子どもではなく誰でも起こる確率の範囲にある。
 「クレヨンしんちゃん」のアンケートで、母=みさえは家にいるか・4時間程度のパートがいい、父=ひろしはフルタイムがいいという回答が多く、小学生段階から女性=家事・育児、男性=稼ぎという性別役割分業のジェンダー意識が浸透している。
 現代のマンガではまっとうな大人は登場しない。特に成熟した自立女性は皆無だ。少女達は努力や痛みを伴う成長を忌避し、新専業主婦路線をひた走っている。以上岩本美佐子氏の論考参照(朝日新聞6月9日夕刊)。

 岩本氏の論考は従来のジェンダー論で説いた既成の解釈のパラダイムに過ぎない。新自由主義市場原理が伝統保守家族主義と奇妙に結合していく論理を解析することが現代の課題であるのもかかわらず、相も変わらず女性が女性自身をいたぶって悦んでいる。自らがこうした劣位ジャンダーから解放された自立的存在だとも思っているのだろうか。彼女の論からは、せいぜいのところ意識変革=心がけ主義による現状打破の戦略が提起されるだけであり、これでは大正期の青鞜派女権主義とそれほど遠くはない。少女達をそのように追い詰めているシステムの論理を厳密に解析し、その矛盾をつかなければ真の展望は生まれない。特権的位置にある女性が漂流する女性をしたり顔で解釈し(あざ笑う)構図自体に劣位ジェンダーを再生産する構造がある。(2004/6/9 20:10)

[イラク斬首米国人ニック・バーグ氏の父親マイケル・バーグ氏の血の叫びー息子の命を奪った殺人者にもまして、私は最高政策責任者を断罪する]
 以下に紹介するのは3月24日にユダヤ系スパイと疑われてイラク警察に引き渡された後米軍に引き渡されて消息を絶ったニック・バーグ氏の父親の手紙である。ニックを尋問したFBIが身元確認をし、両親に情報が伝わって両親が釈放を求めて4月5日に米軍を相手に提訴した翌日にニックは釈放されたが、10日から行方不明となり、5月8日にバグダッドで遺体が発見され、その後犯人による処刑ビデオが公表された。この手紙は5月22日にロンドンでおこなわれた戦争反対デモへの支援として、前日の英紙ザ・ガーデイアンに掲載されたものを筆者が意訳しました。

 私の息子ニックは、私の英雄でした。私の知る最もこころ優しく親切な人間でした。彼がボーイスカウトを辞めたのはピストルの撃ち方を教えられそうになったからでした。ニックはまた、私のことを語るに必要な力を私に注ぎ込む存在でもありました。なぜ息子の無惨な死についての責めをブッシュに向けるのかと尋ねられます。彼を殺した5人の男をなぜ責めないのかと聞かれます。私は5人を非難することはブッシュを非難するのと優劣はないと答えてきました。でも間違いでした。私の息子を知っている人は、彼がいかに並はずれた人間であったかを知っています。彼を殺した男達が実行の時に悪意を込められなかったということに私は慰めを感じます。きっと彼らはニックを讃えたはずです。ニックにナイフを振るった者は、その手に彼の呼吸を感じ、そこにいる現実の生きている人間を知ったはずです。他の者もきっと息子の目を見たでしょう。世界の人が見たものを微かに見たのです。だから殺人者達は自分の行為をほんの一瞬は嫌悪したはずだと私は思います。
 ブッシュは私の息子を一度も見たことがありません。ブッシュは私の息子を知りません。だから彼はより冷酷になるのです。ブッシュ自身も人の親でありながら、私と家族のの苦しみを感じることはできず、ニックを嘆く世界の苦しみを感じることはできません。単なる政策立案者であって、自分の行為の結果を担わなくてもよいのです。ブッシュは、ニックの心もアメリカ民衆の心も見ることはできず、ましてや毎日死んでいるイラクの人の心を見ることはできないのです。
 ラムズフェルドはイラク捕虜への性的虐待の責任をとると言いましたが、行為の結果が自分の身に返ってこないのにどうして責任をとれるのでしょうか。ニックがその責任を引き受けたのです。息子の命を奪った殺人者にも増して私が耐え難いのは、多くの人の命を絶ちなお生き続ける人の生活を破壊する政策を安穏と座って立案している者達です。
 ニックは軍隊には入りませんでしたが、軍人の規律と献身を持っていました。ニックがイラクに行ったのは、個人的利益を一切期待しない行為でした。彼は一人の人間に過ぎませんが、その死によって多くの人間となりました。自分自身の心で正しいことをするために、自分の全てを与えるという無私の精神は、たとえ危険だと分かっても正しいのです。この精神がニックを知る人に広がり、それが今も全世界に広がりつつあります。
 では私たちは9.11に不名誉な攻撃を受けた時にどうすべきだったでしょうか。それまで一度もしたことがなかったことを、あの時にすべきであったのではないでしょうか。私たちが敵というレッテルを貼った人の言うことに耳を傾けるということです。この小さな惑星の上で、私たちの平和共存について条件を付けるのをやめて、すべての人間の自由に自律的に生きたいという願いを尊敬し尊重し、どんな国家の主権をも尊重することを始めるべきでした。他の人が従う規則をつくっておきながら、自分自身は別の規則をつくることはもう辞めましょう。
 ブッシュの無能な指導性は、ひとつの大量破壊兵器であり、いくつもの連鎖反応で、私の息子は不法に拘束され、エスカレートする暴力の世界に沈められたのです。もし拘束されていなければ、私はニックをふたたびこの腕に抱いたでしょうが、彼はファルージャ包囲攻撃と多くの残虐行為が明るみに出るまで拘束され、そのためにすばらしい生涯にピリオッドを打ったのです。
 私の息子はいまなお働き続けています。以前は平和の作り手の一人でしたが、今は何千人もの人が参加し便りが届きます。ニックは自分の信念にもとづいて行動した人間であり、私たちもまた自分たちの信念によって行動する必要があります。大西洋の両側にいる悪人に、もう戦争はご免だということを知らせ、罪もない人を殺し、爆撃し、一生の障害を負わせることはご免なのです。嘘もご免なのです。そうです、私たちは自爆攻撃も殺し合いもやめる道を求めます。互いが平和を排除するような条件をあらかじめ決めた交渉と和平会議もご免です。私たちはいまただちに世界に平和を、と望んでいます。
 多くの人がニックと私たち家族のために祈ろうと提案してくださいました。ありがたいことです。ただ私は、祈りのなかに平和への祈りを含めていただきたいとお願いします。また祈ること以上のなにかをして下さるようお願い致します。いまただちに平和をと要求して下さることをお願いします。


 息子の死の意味を普遍性にまで高めた感動的な手紙です。アメリカの知的良心のレベルを実感致しました。おそらく21世紀の初頭の歴史に記憶される手紙でしょう。私は一時期ニック氏を戦争のアウトソーシングの一員と誤解していたことを謝罪し撤回します。ニック氏の無念の死を悼み、安らかに眠るために残された者の責務は何かを考えていきたいと思います。(2004/6/8 18:15)

[中国人従軍慰安婦の告白にどう答えるのでしょうか]
 戦時期の中国・山東省で日本軍の性暴力被害を受けた損害賠償訴訟控訴審(東京高裁 地裁は提訴期間を過ぎていると門前払い)で元中国人従軍慰安婦である李秀梅さん(76)の最終陳述がおこなわれました。
 「16歳の時に日本兵によって昼夜を分かたず性行為を強制され、抵抗したらベルトで叩かれ右目を失明、体中に傷が残った。一番辛かったのは、死ぬことばかり考えていた監禁中から5ヶ月後、家に戻ると母親が失望のあまり首をつり、自らいのちを絶ったことです。その後PTSDに悩まされ、私は一度も人間らしい生活を送ったことはない。年齢も80歳近くで1日も早くよい判決を出して欲しい。死んでしまっては証言することもできない」と云い、陳述終了後席に着くとゆっくり息を吐き、ハンカチで涙を拭った。 

 日本の戦争責任は、中国での性暴力・731細菌化学兵器人体実験・強制連行から韓国での従軍慰安婦・創氏改名・強制連行からフィリピン・東南アジア・欧州人への性暴力と強制労働など目を覆わしめる残虐行為のオンパレードである。日本の司法は、事実認定を回避し、提訴期間を過ぎているとか政府間で解決済みという態度をとっています。過去の罪責に目を閉じる者は未来に対しても盲目となるーという有名なワイツゼッカー演説は今でも私たち日本人を撃つものです(盲目という表現には違和感がありますが)。こうした責任の真空状態は、連綿として現在の日本に継承され、保険料未納の政府高官が国民に強制収納を迫るという破天荒な事態が起きています。日本での責任は、泣いて土下座して謝れば許されるという心情倫理の傾向が強いのですが、戦争責任で土下座した指導者はいません。被害者を放置して死を待っているという究極のモラル・ハザードに何の痛みも覚えない現状が蔓延しています。高遠さんに対する「自己責任」バッシングは、実は無責任の体系(丸山真男)の裏返しであるのです。週刊誌は拉致被害者家族の弟(16)の喫煙問題をでっち上げて人格攻撃をおこなって恥じないレベルに頽廃しています。ひょっとしたらこういう弱者への加虐を快感をもって秘かに薄ら笑いを浮かべている人がいるのではないでしょうか。辛淑玉さんは「奪われてきた(ほんとうの)怒りを奪還することだ。これは人間性を回復することでもある」と強烈なメッセージを日本人に投げかけています(『怒りの方法』岩波新書)。日本社会はほんとうの怒りを怒れず、チマチマとした弱者攻撃に向けて奈落の底へ転落しつつあるような気がします。近くのほんの些細な差異には異常な注意を向けるが、遠くの大きい差異に対する抗議はとっくに諦めている。”つまらないからヤメロ”(宮沢賢治)と言うと、即座に村八分になる恐れがあります。それを上から見て、せせら笑って君臨している大きな力があります。(2004/6/8 9:11)

[若者はなぜ子どもを生まないのかー出生率戦後最低1.29へ]
 生まないのではなく生めないのである。家計経済研究所「消費生活に関するパネル調査」によれば、正社員女性は非正社員より結婚率が高く子育てでも派遣より有利という実態が浮き彫りとなった(慶応大・樋口美雄)。同調査は93年に24-34歳の既婚・未婚女性1500人を対象に、97年に24-29歳の女性500人を加えて現在までの生活の変化を調べた大規模継続調査だ。
 93年に25歳で見込んであった正社員グループと無職・非正社員グループの夫がいる割合は、正社員が80%に対し非正社員は70%弱である(37歳時点)。既婚組の夫の収入は、バブル崩壊直後の93-95年では無職・非正社員グループで533万円、正社員グループで496万円であったが、96-98年に逆転し、99-02年には無職・非正社員499万円に対し正社員530万円の格差が拡大した。キャリア志向の強い女子正社員の非婚率が高いという神話は崩壊し、不況が無職・非正社員グループの家計を直撃していることが分かる。
 旧労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」(99年)を分析した永瀬伸子(お茶の水大)は、パートや臨時社員で子どものいる割合は50-60%台であるが、正社員と契約社員は30%前後、派遣社員は15%であり、正社員が出産離職し非正社員として再就職したときの低収入が出産離れを招き、派遣勤務の過酷さが出産後の受け皿を狭めているとしている。生活設計が困難であり、育児の制度保障がない女性の不安定雇用が女性の結婚と出産の阻止要因となっているのは明らかだ。

 日本の合計特殊出生率(*)は毎年最低記録を更新し、遂に1.29まで下降した。この率は先進国中異常な数値である。03年に生まれた子どもは推計112万4千人(前年-3万3千人)であり、出生数1万人はほぼ出生率0.01ポイント分にあたる。国立社会保障・人口問題研究所の予測は3つあり、生涯未婚率の全国平均による中間予測では03年1.32→07年1.30で底を打ち50年かけて1.39に上昇するとしたが、80年代からこの予測はすべてはずれた。東京都の生涯未婚率基準による最低予測は、01年1.32→02年1.29→03年1.27でありほぼ1年遅れでこの水準が実現されている。20歳代後半の婚姻件数は28万2千件(-1万7千件)、平均初婚年齢男子29,4歳、女子27,6歳でともに晩婚化が進む。離婚件数は28万4千組(-6千組)、死亡数は101万5千人(+3万3千人)、自殺者数3万2千人で過去最高。
(*)合計特殊出生率は女性一人が15歳から49歳までの間に産む子どもの平均値であり、おうべいは全て低下傾向に歯止めをかけたが、日本のみが超少子化の異常現象が続いている。フランスは育児休業中の養育手当で94年1.65→02年1.88、スエーデンは育児休業中の所得保障をする親保険による02年1.65に下げ止まった。
 日本の人口は2007年から遂に減少に転じ、出生率低下がこのまま推移すれば、労働力減少・消費需要減退による企業活動の低迷と経済成長の衰弱・地域社会の崩壊をもたらす。自殺者数が毎年最高値を更新している。日本社会自体が衰退し歪みが危機的になっていることを示す。高失業率・不安定就業・長時間労働・保育環境など全ての面で深刻な危機にある。超克の道はないか? ある、それは次のような具体的緊急対策である。
@全ての人が「家族的責任」を果たし得る社会システムの構築が必要だ。労働時間規制・変則勤務や夜間勤務・単身赴任規制。育休賃金保障・代替要員確保・原職復帰制・非正規雇用への育休制拡充・パパクオーター制・子ども休暇制度など。
A青年の安定雇用:フリーター規制(5人に1人! パート年収100万円台が60%!では)、企業の社会的責任経営、正規雇用制義務化、均等待遇制等々オランダ・システムの導入
B男女賃金格差是正
C乳幼児保育整備による認可保育所拡充、延長・夜間・休日・一時保育・病後時保育制度拡充、保育民営化規制、無認可保育所支援制度、学童保育所拡充、乳幼児医療無料化、小児救急医療体制整備

 改正年金法は政府推計の中位推計で03年出生率1.32→07年出生率1.30→50年出生率1.39を前提に将来人口を算出し、公的年金の給付と負担の財政見通しを立て、厚生年金保険料を年収の18.30%(現行13,58%、労使折半)に引き上げて固定し、現役世代の平均収入の50%を維持するというものだが、50年の出生率が1,39を下回れば、賃金上昇率等の前提が同じとして給付水準は40%台に落ち込み、保険料の引き上げ(上限見直し)と税金投入などの制度見直しが必要となる。(2004/6/7 8:44)

[ウイリアム・モリス『ユートピアだより』(晶文社)]
 英国の社会主義者・モリスの代表作で、日本では堺利彦『理想郷』(平民社 1904年)、『無何有郷だより』、『ユートピアだより』(岩波文庫)など5つの邦訳が出ている。モリス56歳の作品ですでに装飾芸術、文学、社会主義運動で業績を上げていた時期のものだ。私が彼の名前を知ったのは、数年前に日本の伝統染織産業である絞りの研究の中で、伝統工芸運動の先駆者としての彼の業績を知ったときからである。モリスはヴィクトリア朝の産業革命による新興ブルジョア階級が台頭する一方で、都市労働者階級の貧困に対する批判運動が起こった時期である。彼が最も影響を受けたラスキンから、労働の意味を芸術創造の観点から問い直し、労働の質を生涯の課題とするに到る。彼の本業は建築デザイナーですが、アーツ・アンド・クラフツ運動の指導者として活躍し、社会主義同盟の中心メンバーとして活動するがアナキストと対立し別の道を歩む。その後は書籍出版活動に従事して62歳でこの世を去る。
 モリスのユートピアは、貨幣経済が廃棄されて労賃が消滅し、報酬がないのに働く社会だ。それは労働が創造活動であり、芸術労働になっている。ここでいう芸術とは、アーテイスト(芸術家)とアーテイザン(職人)或いはクラフツマンが分離した近代芸術ではなく、ファイン・アーツとか大文字のアート(the Art)という制度化された特権的・抑圧的芸術でもなく、レッサー・アーツ(民衆芸術)という意味である。芸術は精神労働と肉体労働を統合した大地の生きる歓びそのものである。そうした芸術の創造は、資本主義システムでは不可能であり社会主義システムでのみ可能である。
 ここでは平和と安らぎに充ちて清らかでにこやかに心を通わす牧歌的な社会、ゆったりと時間が流れるファンタジックなユートピア・ロマンの社会が描かれている。まさに空想的社旗主義の極地ともいえるであろうが、殺伐とした競争社会を生きている私たちにとって、どこかへ置き忘れてきた少年期の目眩くような時間を想い起こさせて実はハッとするのである。現代のオルタナテイブで云えば、スロー・ライフ運動といってもよいであろうが、しかし私はつくづくと思う。私たちはいま立ち止まって、ほんとうに今のような刺激に充ちた目まぐるしく回転する社会でほんとうにいいのかーと考える時ではないか。フォーデイズムを裏返した生産力主義の左翼思想の虚妄をも撃っているのではないか。科学的社会主義という概念の裏側でとっても尊いものを捨ててきたのではないか。もちろんモリスの思想を上昇する中間階級の幻想と切って捨てることも可能であろうが、社会全体が中間社会化する中でもう一度モリスは検討に値する意味を持っているのではないか。(2004/6/6 18:25)

[”武器を持っているイラク人には焼き殺されなかったけど、武器のない日本で私の心は焼き殺された”ー高遠菜穂子(『日経ビジネス』6月7日号) いま日本で湧き起こる弱者バッシングの蔓延は戦後型ファッシズムを準備している]

 いまや首相が、ヒューマンなボランテイア活動によって拉致された被害者を”お前が悪い”と非難する国に成り下がってしまったのです。反撃される心配のない弱者に対する集中攻撃が蔓延している真の要因を解明しなければ、ふたたび戦慄のファッシズムが襲いくることになるでしょう。
 弱者攻撃の特質は、無名の大衆による電子表現を駆使した匿名の攻撃であり、強者に対する正統な批判活動を封殺して一斉バッシングを加え、反撃リスクゼロを前提に暗闇から行うというものです。実名で被害者個人を見せしめに照らし出して完全に孤立させるという、最も卑怯で反人間的な形態をとっています。イラク人質3人の自衛隊批判と同時に起こった激しい自己責任追求、北朝鮮拉致被害者家族の首相批判と同時に起こった激しい攻撃、熊本ハンセン病者のホテル側謝罪に対する宿泊拒否宣言を契機に殺到した非難など枚挙にいとまがありません。
 大衆は、憐れむべき弱者が屈従して耐えていると同情の涙を流しますが、一旦異議を唱えると同時に「感謝がない」「権利ばかり主張するな」「自分勝手なことを云うな」「お前だけが苦しいのではない」等の激しい攻撃に転じます(辛淑玉)。これは被害者側にも被害を誘発する落ち度があったーという今までの日本独特の犯罪観と通底しています。おそらく佐世保小学生殺害事件でも被害者の欠点を突く発想が遠からず登場するでしょう(すでにチャット内容の紹介という形で起こっています)。
 こうした攻撃の集中砲火による恐怖と痛みは、それに曝された被害者にしか分からないので(想像力ある加害者は別として)、まさにバーチャルなゲームを楽しむ嗜虐的な快感で攻撃が続けられます。被害が究極にまで及んで生命が抹殺されるまで続く論理構造を持っています。しかもハードな攻撃よりもジンワリと浸透する心理攻撃の凄まじさも成熟社会の特徴です。
 特にプレモダンの集団主義の残滓が強い日本社会では、「世間」という共同体がある特定の方向に向かい始めると争ってそれに参入して強者側に加担しないと、逆に自分自身がターゲットになる危険があります。イジメの惨憺たる構造をみると明らかです。こういう状況で自分の良心を維持することは困難であり、佐世保事件でも加害少女は「ブリッ子するな、エエカッコするな」という攻撃メールを受けていました(詳細は未確定)。例えば雪印の牛肉詐欺を内部告発をした西宮冷蔵という会社はどうなったでしょうか。リスク覚悟で勇気をふるって告発した今西憲之社長の行為によって、会社は仕事が来なくなり自己破産に追い込まれました。おそらく欧米社会では企業イメージは上昇し支援者が殺到するでしょうが、日本は逆なのです。不正を告発する人がバッシングされ、市民は何事もなかったかのように雪印製品を買っています(今西憲之『内部告発』鹿砦社)。私が驚くのは、幾度にもわたって市民を欺いて欠陥車を売りまくり、殺人事件を引きおこした三菱自動車の車をまだ購入している人がいるという事実です。街で三菱の車を見ると、犯罪車を運転していて恥ずかしくないのかと運転手に聞きたくなります。三菱の内部告発者は一人も出なかったのです。内部告発者が出ないような企業はそれ自身企業ガヴァナンスが崩壊し存続の条件を失っているのですから直ちに解散の手続きをとるのが普通でしょう。

 全国182カ所(分室を含むと204カ所)の児童相談所が相談を受けて児童虐待の事実を確認し、指導処置の処理方針を決めた件数が速報値で2万6573件(前年度+12%)と統計を取り始めた90年度から13年連続で最多を更新した(90年度1101件の24倍!)。処理方針を決める前の受付件数は04年1月+33%、2月+68%、3月+76%と驚異的な伸び率だ。03年度都道府県別相談件数は(政令指定都市を除く)、大阪府2782件(前年度比+11%)、東京2206件(+22%)、埼玉県1422件(+5%)、神奈川県1315件(+23%)と続く。
 虐待による児童死亡数は125件・127人(2002年11月〜03年6月の厚労省把握分)であり、うち児童相談所が関わった事例は24件(19,2%)であり、関係機関が児童相談所へ通告しなかった事例が6件(4,8%)、関係機関が虐待に到るとの認識がなかったもの56件(44,8%)となっている。被虐待児童は就学未満児が90%、虐待加害者は実母54%・実父18%である。具体的な支援課題は@一人親家庭と転居などの養育環境A育児不安と10代出産者の養育環境B未熟児・疾患など子どもの状況把握が問われている。

 さてこうした弱者攻撃の社会システムがなぜ蔓延してきたのでしょうか。確かに一般的に垂直型抑圧システムでは、自己安全機能はより下位者へ攻撃を向けて発散する特徴があります(抑圧の移譲心理)。最底辺に位置する階層は、社会的な諸矛盾を一身に受けるスケープゴードとしての存在意味を付与され、中間諸階層は常に上位階層への畏敬と上昇志向によって自らの生活リズムを定数化させます。そして最高位へ不可蝕の神々しい存在を置いて真空化すると、この垂直型抑圧システムは完成し容易にゆらぐことはありません。これは江戸期から昭和戦争期にかけて牢固として構築されてきた日本型集団主義システムです。しかし現在繰り広げられている弱者攻撃はこうしたプレ・モダン型支配ではないように思います。ではなんでしょうか。
 現代の攻撃特徴の最も劇的なモデルが乳幼児虐待とDV・外国人攻撃です。虐待された幼児は決して親を告発したり反発したりすることはありません。親の愛情を恢復するために必死に媚びへつらい、自虐的に屈従して責任を自分自身に向けます。究極には生存意義すら自己否定して、カッテイングや自閉的行動から自己生命の抹殺に到る場合があります。愛情関係にあるはずの親子がなぜこうしたミゼラブルな状態に陥るのでしょうか。
 DV(配偶者暴力)は女性の5人に1人で20人に1人が生命の危険を感じ、毎年約100人が夫に殺されています。「コメのとぎ方が悪い」「料理の味付けが違う」「包丁を持って妻を襲う」「殴られて骨折する」「階段から蹴落とされた」等シェルターに駆け込む女性はまだ良い方です。逃げた後の生活、子どものケア、離婚調停、裁判、住居の確保、子どもの転校、加害者の追跡、居所を知らせないために住民票を移せない・・・・気の遠くなるような壁に直面して女性たちは怯えています。密室で展開される陰湿な迫害と暴力。5月に成立したDV防止法は、@警察・福祉事務所・民間シェルター・市町村婦人相談所談所→A地裁への保護命令申し立て→C地裁の保護命令(6ヶ月間接近禁止・2ヶ月間の住居退去)→D違反処分(1年以下の懲役又は100万円以下の罰金)となっています。強制的な近接禁止命令と元配偶者へ適用、自治体の支援計画策定義務(公営住宅優先入居・就労支援・シェルター財政支援・被害者住所非開示)など画期的な内容となっていますが、命令期間終了後の効力執行による恐怖と加害者更生対策及び直接暴力以外の脅迫行為などが今後の課題となっています。しかも保護命令はあくまで緊急措置であり、被害者の生活再建と自立が実現せず、加害者が無反省であればDVの反復の可能性があります。次に精神的暴力の内容が不明確であり、すくなくとも刑法上の脅迫にあたる言動は保護命令の用件とすべきではないでしょうか。被害者にとっては、精神的暴力の恐怖が切実でありPTSDなどの精神障害を誘発するケースがあります。社会の闇の中で隠然と続いている配偶者・児童・高齢者に対する虐待ほど悲惨な実態はありません。

 さてこのような抵抗能力がない弱者への攻撃がなぜ頻発するような社会になってしまったのでしょうか。仮説的に云うと、プレモダンの日本型集団主義(「新しい教科書学」派)が克服されないまま、米国型市場競争原理(竹中慶応経済学派)が接ぎ木されて二重の抑圧システムができつつあるからです。米国型市場原理はプレモダンの集団主義を超克した個人主義をベースに置き(他人と同じ意見を言う者は返って軽蔑される)、ハードな自己主張はあっても陰湿な背後からの攻撃を忌避する合意形成があります。フセインの拳銃を見せびらかして自慢する大統領やイラク人捕虜を虐待する米兵は、欧米の闇の部分を示していますが。日本の弱者攻撃は、集団主義的な排除によって攻撃を共有する奇妙な連帯と自己責任原理による排除が重なり合って、より陰惨な形態をとるのです。まったき孤立の中でもなお敢然と自らの良心を貫く行為は、欧米では畏敬の対象となって絶賛を浴びますが、日本では最もリスクの高い馬鹿馬鹿しい行為なのです。これは皆さんが学園や職場で経験されているでしょう。異端分子として徹底的に排除されている人はいませんか。

 日本で極端な外国人犯罪報道が繰り返されるのはなぜでしょうか。道を聞いただけで外国人登録証のコピーを採る警官、職務質問で身体検査する警官、賃貸アパート入居拒否をする家主市民・・・・。すべて外国人排斥の風潮が蔓延していることを示しています。私の経験でも、学会の留学生の研究発表に対して無意識のうちに会場に侮蔑の意識が充ちます。外国人犯罪の誇大報道は事実でしょうか。03年度外国人犯罪検挙者数は8700人であり(全刑法犯検挙者数38万人の2.3%、検挙件数の4.2%)、ここ10年間2%前後で推移しています。全刑法犯検挙者数38万人に占める留学・就学在留資格検挙者数は各1200人(0.3%)に過ぎません。この5年間の留学生数が5万1千人→11万人に急増している中でです。以上警視庁3月発表03年度犯罪統計より。
 外国人不法残留者は93年30万人→03年22万人と激減し、03年度外国人刑法犯検挙者数8700人に占める不法滞在者数は1500人(17%)であり、83%は正規滞在者が犯罪を犯しているのです。日本の治安の悪化は、不法滞在している外国人留学生にあるという世論は、日本の犯罪実態と乖離した神話に過ぎません。97.7%を占める日本人による犯罪の多発性の背後には、先記した弱者攻撃型社会があるにもかかわらず、外国人に責任に転嫁することによって、ますます弱者攻撃型社会は強固なものとなっていきます。

 こうした日本社会の全線にわたる弱者攻撃型システムの浸透が、子どもの心を蝕みつつあります。 遊び集団での同一行動による仲間関係の構築(小学段階)→秘密の共有による同質的仲間関係への移行(中学段階)→個性を尊重し合う自立的関係への発展(高校段階)を経て成熟した自己実現(成人段階)へ到るというライフサイクルに取り返しのつかない攪乱が生じています。小中学段階では、閉鎖秘密集団による排他的な排斥関係と敵対的な葛藤状態のなかで、「ムカツク」「超ウザイ」「ぶっ殺してやる」「死ね」という究極の攻撃用語が日常化しています。更に悪いことには、こうした児童・少年集団の退嬰化現象を統制できない担任に攻撃を集中し、教師管理につなげる上位権力の戦略があります。「何らかのサインがあったはずだ、見逃したのは指導力がないからだ」として当該担任は自己責任を追及され、バッシングの対象となります。こどもの成長サイクルを攪乱させている弱者攻撃型システム自体への真摯な分析は忌避され、担任をスケープゴードにして集団責任を回避しようとします。言い換えれば弱者攻撃型社会の日本的形態は、スケープゴード型社会なのです。だれもがスケプゴードにならないために密告し合う関係が醸成されようとしています。このようなシステムは、建設的な協同と連帯による民主主義システムと原理的には背反するファッシズムの前期形態に他なりません。以上朝日新聞6月5日付辛淑玉・白石勝巳・黒澤幸子氏の論考を参照して筆者考察。

 最後に対置すべきオルタナテイブを語らなければなりません。それとも希望はないのでしょうか。諸共に地獄の阿鼻叫喚への崩壊に向かって突進している集団ヒステリー状態なのでしょうか。そうではない、そうではないことを自己証明しなければなりません。多様な対案が出ていますが、私は私自身の頭で考え抜いてみたいと思います。なぜならば情報が氾濫する現代では、無意識のうちに権威ある他者とか誘導された報道の意見を自分の意見としていくようなメカニズムが働くからです。
 例えばイラクで邦人ジャーナリストを殺害した真犯人は誰でしょうか。彼らのビデオとカメラなどの証拠品は全て消されています。米軍は志願兵だけでは軍隊編成が不能となり、大量の特殊部隊経験者やCIAがらみのプロの殺し屋が跋扈し、金で雇われたイラク人を含めて約2万人が闇の作業をおこなっています。イラク戦争開始後40人のジャーナリストが米軍によって直接に殺害されていますが、邦人ジャーナリスト殺害で最も利益を受けるのが、テロ非難宣伝による米軍の「解放軍」イメージであるとすれば、そして最も打撃を受けるのが反米抵抗勢力であるとすれば、仕組まれた殺人であった可能性も十分に成立するからです。以下続く。(2004/6/5 9:57)

[カール・バルト『モーツアルト』(新教出版社)]
 カール・バルトは20世紀プロテスタント神学を代表する思想家であり、1919年刊行の『ローマ書』で近代プロテスタント神学への衝撃的な批判をおこなった。ナチスに迎合した「ドイツ教会」に対抗する「告白教会」の父と呼ばれて反ナチ教会闘争の指導者として、弁証法神学を創始した。神は人間を超えた超絶的な存在であり、イエスを媒介としてのみ神を把握できるとする。イエスの福音=神のヒューマニズムが全ての人間的尊厳の根底にあり、その逆ではないとする(主著『教会教義学』1932−59年)。この書は、モーツアルト生誕200周年を記念して1956年に刊行された世界のモーツアルト研究の必読書と言われている。以下はその抄訳の冒頭である。

 「5歳の時に父の弾く『魔笛』の一節を聞いて楽の音は私の骨まで貫いて響いた。それから私は次第に歳を重ねてついに年老いてしまった。時が経てば経つほど彼はますます私の地上における生の定数となった。あなたの神学では別の巨匠がいるはずだとも云われたが、この人こそかけがえのない唯1人の人である。私はそう告白しないわけにはいかない。私は毎朝まずモーツアルトを聴き、しかる後にようやく『教義学』の原稿に向かっていることを告白する。私が天国に召されたならばまず誰よりも先にモーツアルトを訪ねようと考えていることも告白する。その後に、アウグステイヌス、トマス、ルター、カルヴィン、シュライエルマッハーの様子はどうかと尋ねるだろう。
 私はともかくひたすらモーツアルトのみを聴く。私は彼の音楽に他の人には認められないある秘技を聴き取ることができる。見事な音楽は幼子のように万物の中核を知り尽くしていなければ生まれてこない。始源と終末を知り尽くしていることが前提である。彼が自ら悦びとしたが故に自らに課した制限が聞こえる。この制限が彼の音楽を聴くときに私をも悦ばせ元気づけ慰めてくれる。私はモーツアルトにこのようなこころを抱いていることを彼だけには告白することができる」(「モーツアルトへの告白」)。

 いま私の背後ではモーツアルトのピアノ・ソナタが流れている(演奏は宮沢明子)。バルト神学の基底にある心情を共感を持って感じることができ、バルトが一層身近になる。確かに天上から聞こえてくる汚れなき神の音のような感じだ。この地上のなにか全てを洗い清めるような妙なる響きだ。しかし私はバルトに云いたい。あなたに熾烈な弾圧を加えたナチスの将校も大いなるモーツアリタリアンであったのだ。あなたが天国に召されて最初に会いたい人がモーツアルトというのは素晴らしい。私にはそういう人がすぐ思い浮かばないのだ。このすさんだ世の中にその人だけ屹立するような人が存在することに私は絶望的だ。最後に。このような書の翻訳はよほど綿密でないと繊細な感性をすぐに左右してしまう。この世にモーツアルトが存在しなかったとすれば、この世は何の慰めがあっただろうかー血なまぐさい戦さと地に堕ちた議事堂の茶番に疲れ切った魂の堕落を一瞬浄化する音の響きではある。(2004/6/4 18:36)

[イラク女性の2次被害について]
 バグダッド・アブグレイブ収容所に拘束されたイラク人女性は、約4万人の全被拘束者のうち80人ほどを占めた。彼女たちはほとんど旧政権要人の妻と武装組織支援の容疑者である。彼女たちに対するすさまじい性的虐待は、目を覆わしめるものがある。米兵の前でイラク人警官から1日に17回にわたって性的暴行を受けたり、獄房の格子に縛られた夫の目の前で米兵から何度も暴行されるという悲惨なものだ。夫の証言を引き出す有力な手段として妻の拘束を認める米軍規定がある。もっとも卑怯で非人道的な方法ではないか。米国型自由と民主主義の虚妄を鮮やかに示している。問題は被害女性のその後だ。
 性的虐待を受けた女性がそれを苦にして「釈放されたときに夫のまなざしを見たくない」として自殺したり、汚名をそそぐという目的で家族の手によって殺害されたり、自殺を幇助する者がいたりする。まさに地獄の阿鼻叫喚ではないか。こうした地獄の上に築かれるイラク民主主義(?)は砂上の楼閣に過ぎない。最高責任者である米軍最高司令官に罪責の許しを請わせ処刑に値する。同じ行為を受けて屈辱を浴びるかいずれかである。21世紀をこのような煉獄で飾り立てた者は裁かれなければならない。私の怒りは沸騰し、極限状態である。現代の野蛮の全ての根元に星条旗を翻す最高司令官がいる。以上フランス紙ジュルナル・デユ・デイマンシュ30日付参照。(2004/6/4 10:30)

[仏教はぜ女性を差別しなければならないか]
 ”世尊長老に告げて曰く、女人に9つの悪法アリ。云何が9つとなすや。1に女人は臭穢にして不浄なり。2に女人は悪口す。3に女人は反復なし(浮気)。4に女人は嫉妬す。5に女人は堅嫉なり(欲深い)。6に女人は多く遊行を喜ぶ(遊び好き)。7に女人は真圭多し(怒りっぽい)。8に女人は妄語多し(おしゃべり)。9に女人は言うところ軽挙なり(軽口)”(増ー阿含経第41巻馬王品)

 釈迦は女性(養母マハーパジャーパテイー)の教団参加を歓迎せず、8敬法を遵守するという差別的条件で許可した(『パーリ律』)。5障説と変成男子説では、女性が成仏するには男の姿に転じねばならないとしている。釈迦の根本仏教は、苦の原因である執着を捨てて涅槃に到るというものであり、苦行という自傷行為(欲望からの解放)の果てに釈迦は解脱した。苦行は自傷行為(失われた主体を恢復し、傷を癒す行為であって自らを傷つけることで傷を癒す)と同じく、欲望を実現する(解脱)ために欲望そのものを消滅することである。釈迦は出家した後に、髪の毛を全て切り断食を行った。剃髪は全ての執着を絶つ象徴的行為であり、断食は飢えているにも係わらず飢えを否定する自分を創造していくことだ(拒食症は飢えているのも係わらず欲しくないという行為でプライドを示す)。いずれも挫折体験からの恢復を志向する究極の行為だ。釈迦の挫折体験には諸説があるが、4門出遊説(東門で老人に会い、南門で病人に会い、西門で死者の葬列に会い、北門で出家修行者にあって感激した)が有力であるが、部族闘争挫折説もある。
 チベット仏教では釈迦の母子近親相姦とかセックスによる解脱を説く立川流的解釈があるが(中沢新一『ブッダの箱船』)、それは実はバラモン起源に他ならない。バラモン(祭司)は犠牲獣を食い、ソーマ(幻覚キノコ)を祭火に供えた後に残りを飲んでトランス状態となりエクスタシー状態に達する。これが梵我一如(ブラフマン=アートマン)による輪廻からの離脱である。ブラフマンは女性であり梵我一如の神秘的合一は実は母子相姦であって解脱とはエクスタシーのことである。
 こうしたバラモン自然宗教を乗り越えた釈迦の意義は、相姦や薬物による解脱ではなく、煩悩自体をリセットする究極の自発的な欲望の消去にある。では食欲を捨てたら餓死に到るという矛盾をどうするか。「およそ苦の起こるは、すべて食を縁としてあり、食を滅するならば苦はもはや生じない」(釈迦)。しかし餓死から逃れる食の生産は大地への執着を生むから、釈迦教団は在家信者の布施と托鉢に依存して自らの手を汚すことを回避したのである。釈迦はリターンとして来世での果報を約束し、「聖者に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して礼拝せよ。食べ物を捧げて供養せよ。こうした施しが成就して果報をもたらす」と宣伝した。タイの寺院は金品を寄進する在家信者に「祝福の証し」という領収書を発行している。播いた種が必ずプンニャ(功徳)となって実る田という福田思想がある。
 宗教者は自己の私的所有をすべて廃棄することにより普遍的な神の座を得るのであり(イエスは十字架の処刑=肉体を廃棄して神となり、釈迦は私的所有への執着を全て廃棄して仏陀となる)、自らは実現できない民衆はスケープゴードを創出して神を創造することによって免罪の手段を獲得した。<預言者→罪人→神>・<王者→苦行者→覺者>・<ケ→ケガレ→ハレ>は3段階弁証法という点で共通している。
 仏教はなぜ女性を差別するか? @最も忌避しなければならない煩悩モデルとして性欲があり、性欲の誘発者が女性である。女性を忌避するためには、女性自身が最も汚らわしい不浄な存在だという神話をつくり出さなければならない。汚らわしい不浄な存在への欲望は起こらないはずだ。A釈迦=仏陀という父権宗教への転換が男尊女卑という日常意識を生んだ。

 以上は永井俊哉「縦横無尽の知的冒険167号」を参照して一部改編。永井氏の論考は実に面白いが、フロイト的深層心理分析が基調にあり、必然的に超歴史的な普遍心理として宗教心理を分析する。母系社会から父系社会への大転換という男女の社会関係の局面を生産と労働の関係から把握して、社会心理現象としての分析という視点を導入すれば、より重層的な女性差別構造の解明に成功するのではないか。(2004/6/3 10:32)

[日本の都市民度分析法]
 日本の都市の民度を比較する1つの方法は、街の案内標識が何語で記されているかではないでしょうか。当然日本語がトップにあるのですが、補助的にどの外国語が記載されているかということです。第2言語として英語標識があるのは当然ですが、それで終わらないで、ハングルで記されている都市が地方に意外と多いのです。中国語記載やその他スペイン語・フランス語記載も部分的にあるのではないでしょうか。その都市に占める外国人比率とは無関係に、その街独自のポリシーが表れているような気がします。特にハングル表示を採用している都市は、在日が多いこともあるでしょうが、実は国際認識の水準からその見識を大いに称賛すべきではないでしょうか。
 なにせ100円ショップダイソーの印鑑売り場を覗けば、「李」「」「金」「朴」「劉」等が並んでいます。これは在日向けか中国向けかは判然としないところもありますが、ダイソーの利益極大化路線からいけば当然の販売戦略なのです。21世紀の日本経済が東アジア・ネットワークで展開されることの証しであるのです。こうして外国人やニューカマーが日本の市民社会に定着しつつあることを示す身近な例がありますが、自治体によっては案内標識に外国語として英語しか表示しないところもあります。どちらが国際感覚が優れているのでしょうか。当該公安委員会か警察の国際化認識のレベルを示すのですが、当然に同時にその街の公教育の水準や市民社会の成熟度と関連しているのではないでしょうか。あなたも国内旅行する時にこうした点に注意すると、結構面白い日本文化の地域間落差に気づくでしょう。(2004/6/2 19:16)

[ファッションの色彩美とは何か]
 色彩は社会的意味を持つ記号であるし(喪服、交通信号)、情動を喚起する場合もあり(美術、工芸)、人間精神の大きな影響を及ぼす作用を持つ。衣装デザイン史における色彩の意味は何か。黒ーモダニテイ、マルチカラーー現代的多様性、青ー普遍性、赤/黄ー交易、白ー純粋性などなど衣装に於ける色彩の規定性は強烈である。
 ファッションの社会性は、衣装とその色彩は趣味の表現から社会的地位・生活規範の表見に到る多様性を持つ。生地と染料の技術的制約性をうける場合もある。19世紀末の産業革命による織物工業の発達は、大量の布地供給と、アニリン染料などの人工染料の開発によって鮮烈な色彩の登場を可能とし、ファッション概念の変革を誘発した。これが美術工芸世界に革命をもたらし、印象派の豊富な色彩世界の背後には鮮やかな色彩の衣装を身に纏う市民文化の誕生があった。
 次いで光の表現の多様性に色彩が駆使され(モネ)、色彩が対象の再現から自立した世界を構築し、独自の色彩自体を表現するフォービズムや印象絵画へと変容した。中央アジアに広がる民族衣装や装身具などの華麗な色彩美術が驚くべき豊堯な色彩世界を生んだ(遊牧テント内の極彩式織物や華麗な刺繍の施された婚礼用敷布など)。本来の機能は魔術的魔よけにあるが、同時にそこに人は美的興奮を感じたに違いない。このようなファッション色彩史の流れが現代デザイナーであるデイオールやジョン・ガリアーノに流れ込んでいる。日本の西陣織や鹿の子絞りその他の工芸染織もまたその例外ではない。以上高階秀爾氏論考(朝日新聞6月1日付夕刊)参照。残念ながら高階氏の考察は、高度な色彩美の世界を創出した社会システムと職人を含む芸術創造構造には分析が及ばない。高階芸術評論であって、芸術社会学評論ではない。もはやレベルははるかに進んでいる。つまり高階氏の論では時代を超越して純粋美が創造されるのである。(2004/6/1 17:55)

[学校運営協議会は学校を活性化するか]
 5月20日に衆院を通過し現在参院審議中の学校運営協議会制度導入法案の概要は以下の通り。
@運営協委員は地域住民・保護者・その他教委が必要と認める者を教委が任命
A設置対象校・委員の任免手続き・議事手続きは教委規則で規定
B教育課程編成等基本方針は校長が作成し運営協の承認を経る
C学校運営・人事について校長・教委へ意見陳述権を持つ

 さて以上の条件は教育の国際標準に合致しているであろうか。
@委員から校長・教職員が除外されている *米国学校協議会・独学校会議・仏学校管理委員会(評議会)・韓国学校管理委員会はすべて保護者・地域・教職員の3者代表を含んでいる。ILOユネスコ「教員の地位に関する勧告」(1966年)は「教育政策とその明確な目標を決定するためには、権限ある当局・教員・使用者・労働者及び父母の各団体との間で緊密な協力が行われなければならない」という国際的な動向と水準から見て異常な排除基準となっている
A委員の教委任命制 公正基準による選出(国際的には選挙制)ではなく恣意的な委員任命の危険がある(東京都教委を見よ!)
B子どもの参加がない 米国学校協議会は高校で生徒代表が参加、フランスリセでは生徒代表5人参加で投票権あり、独では州法で生徒参加規定あり。国連子どもの権利委員会の「日本政府への勧告」では「教育・余暇及びその他の活動を子どもに提供している学校その他の施設に於いて、方針を決定する会議・委員会その他の会合に子どもが継続的かつ全面的に参加することを確保すること」となっている。

 オープンスクールそのものの理念は正しいが、なぜこのような偏狭なシステムが推進されるのか。教育に於ける主権者意識の決定的な衰弱があるからだ。上からの国民統合を創出する狭隘な教育観が根底にある。政府自身がいう21世紀システム「自己選択・自己決定・自己責任」原理と基本的に矛盾する教育システムである。日本の文部官僚の質の低さが露骨に顕れている。この異常さは地方に行けば行くほど深化し、上司に対して「仕える」という意識が蔓延している。21世紀日本の未来はまだまだ気の遠くなるような回り道が必要なのか。子どもの胚胎している潜在能力をのびのびと極大化してエデユース(引き出す)する教育機能の十全な発揮なしに日本の未来はないにもかかわらず、のびのびとした環境を奪い、特別権力関係による閉塞した学校が出現するのは明らかだ。日本の子どもたちは、つねに上位に君臨する強者に媚びへつらう態度を養われて成長していく。あくなき排他的競争原理のもとで生き残りをかけた適者生存原理が貫く。人間的協働を実現する創造的破壊が求められる21世紀において、システムそのものを破壊し乗り越えていくような創造的精神は育たないだろう。(2004/6/1 9:37)

[イラクにおける第3の道]
 米英占領軍が多国籍軍に転化して日本自衛隊もその一翼に参画しようとしている。制定されたイラク基本法を根拠に「連合軍」は「多国籍軍」(国連安保理による編成)へとすでに再編され、日本自衛隊はイラク南部を統括する「多国籍師団」の一員として「英軍の指揮下」に入った。この任務は「連合軍やイラクに敵対する勢力との戦争を戦う」(連合軍機関紙シミタール)武力行使軍隊であり、従来の連合軍暫定当局(CPA)による治外法権特権で「人道復興援助」任務に限定された自衛隊の性格を一変する。CPA解散後に日本自衛隊が駐留を継続するためには、イラク新政権との特別地位協定を結ぶか安保理決議による多国籍軍に編入するかのいずれかだ。米国提案の安保理新決議は「テロを予防し抑止するあらゆる必要な行動をとる権限」としているから、抵抗勢力に対する武力鎮圧に他ならない。遂に日本自衛隊はテロと暴力の悪夢の連鎖の渦中に主体的に参加し、殺し殺されることになる。イラク国民の88%は米軍主導の連合軍を占領軍と見なしている(英紙フィナンシャル・タイムズ20日付)。日本自衛隊は遂に日本国憲法を逸脱した非合法行動に参加することになる。

 さてイラクでは日本で全く報道されない重要な変化が起こっている。米英の占領に反対しながら、同時にイスラム原理主義とバース党残党による武装レジスタンスを批判する第3の道を志向する勢力が着実に伸張している。彼らの基盤は、イラクの労働者と貧困層・抑圧された女性にあり、米英占領軍からの解放とイラクの新しい社会システムを構想するオルタナテイブを準備している。彼らは、米英占領軍と武装レジスタンスのテロと暴力の連鎖が、イラクの生活と民主主義存立の条件を奪いつつあると指摘する。従って世界の米英占領を批判する人々が武装レジスタンスに共感し支持することは間違いだと強く批判する。ムクタダ・アル・サドル師のグループを反人間的で野蛮な原理主義であり、客観的に反動勢力を強化し人権と自由を破壊するホメイニ型路線として批判する。アル・サドル師などのイスラム原理主義派は、現実のイラク社会を無階級の信仰社会とするムラー(イスラム法学者)の狂信的立場から、イスラム近代化と民主化を否定する独裁的なイスラム革命を信奉しているに過ぎない。アル・サドル派が主導権を握れば、宗教異端派は排除され市民社会は崩壊する。彼らは米英異教徒戦争を勝ち抜くことが至上命令であって、描く社会はムラーが支配するイスラム宗教国家に過ぎない。そのためにはバース党残党などの最も反動的なファッシスト・グループとも同盟関係を結ぶ。

 *コメント:私はこの第3の道がイラクの未来を代表する戦略ではないかと思う。教義が日常生活と一体化しているイスラムでは、政教分離の水準が決定的な分岐点だと思う。イラクの現状を打開する可能性はこの第3の道にしかないが、その現実的な可能性は現状では少ない。幾多の血が流され、多くの時間をかけてこの道の正当性が歴史の検証を得ていくだろう。(2004/5/31 9:18)

[遂に日本はこんな国になり果てたのか]
 東京都教委日の丸・君が代実施指針」通達(2003年10月)を受けたある都立高校の職員会議。校長「国歌斉唱時起立しない生徒については、担任が保護者に起立していないことを伝え、理由について聞くこと、その内容を管理職に報告すること」という生徒と親の内面に迫る摘発行動を指示した。日本国憲法体制下では禁止されている行為が、最も護憲に峻厳なるべき公教育の場で乱舞している。都教委は不起立教師206名を大量処分し、第3次処分ではピアノ演奏非協力など39名への戒告、職務命令違反による減給1/10(1ヶ月)をおこなった。
 しかし最も重大なのは、「不適切な言動」「指導力不足による生徒不起立の誘発」「不参加」「指定職務場所離脱」を理由として67人を厳重注意処分したことだ。自分が立たなかったことで自分の担任が処分を受けると言うことは、子どもの内面に対する強迫的な威嚇というもっとも反教育的な強制手段を行使することだ。
 都教育委員の発言は彼らが教育行政への市民統制という本来の職務を根底から逸脱していることを示している。
○清水教育委員長「大事なことですから。日本人なんだから。日本人じゃないと言うことを表明するなら話は別だけど」(*彼は国際化教育の基本が理解できていない)
○鳥海委員「反対する教員は半世紀の間につくられたガン細胞であり、少しでも残せば増殖する。徹底的にやる」(*彼は1930年代のファッシズムの亡霊のようで唖然とする。デモクラシーのイロハから再教育が必要だ)
○国分委員「教職員の責務と個人の思想信条の自由は別だ」(*彼は少しは知識がある。しかし個人の思想・信条の自由が基本であることが理解できていない)
○米長委員「職務命令書を出さない校長がいる。規律違反だから指導部長が呼びつけてわびさせよ」(*この人は将棋に専念すればいいのであって、教育への無知をさらけ出して論評に値しない)
○内舘委員「そういう人はバカな人たちだ」(*この人は作家の資格がない。他者に向かって”バカ”といえる感覚はもはや作家ではない)
 アムネステイ・インターナショナル日本は「良心の自由宣言」(00年4月16日)で、日本の君が代斉唱強制を国際人権規約・子どもの権利条約・人種差別撤廃条約に反する重大な犯罪行為だと指摘している。結論的に言うと、ナチス特別権力関係理論(軍隊や警察に於ける絶対命令・服従関係)がストレートに教育の場に適用されているのだ。ハードな恐怖支配型ファッシズムを前時代のものとした知的成熟から、遠く離れてしまった哀れな人々が元気に恫喝的な異分子狩りをやるマーッカーシズムの再来だ。無知な人が信念を持つと実は底知れぬ軽薄の誤謬が制覇するという痛ましい事態がが生まれる。無知が力を得てある一方向へ突っ走ると、多くが不安に駆られてそれを増幅するというユング的な影の集団心理現象が誘発される。そこで待てよ?と疑問を挟む者は苛烈な攻撃を浴びる。しかし全き孤立においてなお、良心に反する命令は拒否しなければならないというモラルス・スタンダードこそ20世紀が残した貴重な財産だ。(2004/5/31 8:16)

[あるジャーナリストの視点]
 斉藤貴男氏の発言から。米兵の拷問のニュースを聞く度に憂鬱になる。これを人権侵害というと、では殺戮だけの戦争ならOKなのかと言いたくなる。人殺しを避けたがる人間性を奪って生産性の高い殺人マシンに仕立て上げる心理学的手法は何か。第2次大戦までは敵に発砲できる兵士は20%であったを、ベトナム戦争では95%に高めたのが米陸軍士官学校である(デーヴ・グロスマン『戦争における人殺しの心理学』)。太平洋戦争に限りなきロマンを抱いて従軍し、激戦から奇跡的に生還を果たしたら、戦友を死に駆り立てた”現人神”が自決もせずに、まるで従者のように「出てこいニミッツ、マッカーサー」の片方と並んで写っている写真を見せつけられた時の気持ちは何であったか。<とにかく偉い人ほど他人に向かって道義を説くが、いざ自分のこととなるとその不感症は白痴に等しい。天皇さえ責任者としての責任をとらずにすむなら我々は何をやっても許されるのだーというおそるべき道義の頽廃が進んだ(渡辺清『砕かれた神』)。人質青年の自己責任を言う政府高官が年金未納では何ら恥じることがないモラルハザード。議事堂の中は2世、3世が私物化して利己主義丸出しで何の恥じらいもない。
 94年以降アメリカ政府が日本に突きつける「年次改革要望書」の内容を忠実に構造改革の美名で実行している。実行された「改革」である建築基準法緩和、商法改正、司法改革すべて米政府の要望を鸚鵡返しに行っただけだ(関岡英之『拒否できない日本』)。
 かっての戦時期に戦争体制のアウトサイダーは”非国民”と呼ばれて迫害され、愚劣・野蛮な戦の果てに惨憺たる敗北を喫した。わずか60年前のことだ。人質青年を非国民と呼ぶおぞましいこころがなぜ今の日本に蔓延してきたのか。監視体制の整備、衛星プチ帝国化、そのテコとなっている差別政策などによって「支配されたがる人々」が出現した。国家の広報機関化したメデイアが自発的に権力にすり寄り垂れ流す情報が刷り込み効果によって自発・積極的ファッシズムの心情が醸成されている。イラク報道では、従軍記者は「保安検閲」によって米軍の承認した範囲内でしか報道できない。最初にロンドンから2時間の広大な軍事訓練所で実戦を想定した安全トレーニングを受けて、いつの間にか自分も軍隊の一部だという錯覚に陥ってしまった。”国家ごときに貶められてたまるか”という矜持、怒るべき時に怒り、一人一人が自ら「非国民」になるなかでほんとうの平和と平等が築かれていく分岐の時代が来ている。
 「真っ先に撃て。責任は問われない」は、ナチス占領期にユダヤ人移送に協力し戦後パリ警視総監になった人物がアルジェリア人虐殺を正当化した言葉だ。NHKは女性国際戦犯法廷の報道に作為を加えて戦争責任を回避した。私たちの職場や学園の小さな現象の一つ一つに、ファッシズムの萌芽が芽生え始めている。これだけ殺伐としてきた日常は、私が生をうけて以来初めてのことだ。(2004/5/30 21:52)

[東アジア共同体が東亜共同体にならないために]
 5月に東欧諸国が加盟して25ヶ国の拡大EUが誕生し、GDPで米国と並ぶ日本の2倍の巨大な政治経済共同体が出現することとなった。東アジアで、@米国と友好関係は持つが従属はしないA対等平等Bアジアの独立政治経済共同体の構築は可能だろうか。ASEAN(東南アジア諸国連合 1967年に反共親米グループとして結成)が、非同盟・非核・平和主義を基調とするグループへと変容を遂げつつある。1971年平和・自由・中立地帯宣言→1976年東南アジア友好協力条約→1977年SEATO(東南アジア軍事同盟)解散→1995年ベトナム加盟→2003年ASEAN10ヶ国プラス3(日本・中国・韓国)東アジア会議(クアラルンプール)→2003年中国とインド東南アジア友好協力条約加盟という流れは明らかにEU型の東アジア共同体構築への志向を示している。 
 アセアン外相会議共同コミュニケは、「東アジアの協力ための東アジア共同体」を明記し、アセアン共同体への一歩を踏み出した。その内容は、@安保共同体A経済共同体B社会文化共同体であり、@の安保共同体から歩み始めた。「アセアン2020年ビジョン」の将来像を確定し(97年 第2回非公式首脳会議)、米国一国行動主義に対抗する行動として注目されてきた。

 この点で中国とベトナムが社会主義システムであるのも係わらず、社会主義市場経済の道を歩み、冷戦型路線との訣別を選択したことは、20世紀初頭のロシア革命の歴史的意義を上回る意味を胚胎している。全体としてシステムの違いを超えて東アジア共同体への流れが確固たる現実的意味を持って登場してきている中で、唯一わが日本のみが特異な異様な選択をしている。選択以前に戦後日本は独自の戦略決定を遂行した経験を持たず、戦前期日本は天皇制と軍部の独裁的意志決定であり、戦後日本は米国従属型意志決定であった。
 おそらく東アジア共同体への道は紆余曲折をたどろうとも、歴史的必然であろう。しかしそれは戦前期の構想であった東亜共同体ではない。欧米列強に対する植民地分割の帝国的野心を東亜共同体の美しい理想として掲げることによって、欧米型植民津主義との訣別を探求する正統ナショナリズムを巻き込むこむ幻想を抱かせて(尾崎秀実、竹内好)、挫折していったイデーではない。少なくとも過去の罪責を清算して共同体結成へ踏み出したEU型共同体を一つの参考モデルにしなければならない。東アジアで言えば、マレーシアの世界戦略にそのような矜持がうかがわれる。(2004/5/30 20:28)

[自殺幇助は愛の行為か]
 88歳の母親の安楽死を助け自殺幇助罪に問われた息子が執行猶予1年の判決を受けた(同罪の最高刑は禁固21年)。自殺した母親は、料理家で作家であり慢性的な筋肉痛で苦しみ、アレルギーでモルヒネも使えず、「もう自活できない」と2度自殺を試みたが失敗し、息子の助けを借りて処方された鎮静剤を飲みポリ袋をかぶって自殺した。判事は「故人は自殺できないほど弱っていた。被告は自殺の意志決定に関与しておらず、幇助は思いやりと愛に基づいた行為で最後の手段だった。自殺幇助は有罪だが自殺自体は無罪であれば、身体が弱って自力で自殺できない人は、弱さ故に差別されることになる矛盾がある。この世に無価値な生命が存在し、合理的な方法で消し去ってもやむを得ない」としている。安楽死推進団体は、安楽死を支持する一方で、危険な淘汰思想を批判している。

 米国フロリダ州で10歳の男児を誘拐して性的暴行を加えた男が有罪判決を受け、過去に性犯罪歴があったことから「仮釈放なしの終身刑」が確定した。被告は刑務所内で、死刑判決を得るために他の服役囚の首を絞めて殺害した。「一生刑務所に閉じこめられる人生は耐えられない。生涯の牢獄生活から逃れるにはこれしか方法はなかった。執行承認の署名をする州知事に自殺を助けて貰うことにした。殺した相手には謝罪する。だがこんな人生は終わりにしたかった」と答え死刑が確定した。被告は薬物注射によって処刑され希望を実現した。
 米国ではテキサスなど3州を除いて「仮釈放なしの終身刑」があり、38州に死刑制度がある。終身刑がないテキサス州は全米で群を抜いて死刑執行数が多い。終身刑は「死刑に替わる陪審団の選択肢」として存在意義が認められているが、服役者から希望を奪い人格を破壊する「緩慢な死刑」として深刻な問題をはらんでいる。日本でも死刑廃止代替刑として終身刑(無期懲役ではなく)を求める主張がある。私は国連死刑廃止条約の精神を尊重するが、代替刑として何を置くのか、分からない。(2004/5/27 21:30)

[戦争のアウトソーシング-米国戦争請負業の頽廃]
 イラクやアフガンで軍事企業が米軍の発注を受けて、「社員」が戦場で戦い収容者を拷問している。戦争の民営化なしにイラク戦争はない。彼らは刑法にも戦争犯罪にも無答責である。幾つかの民間軍事企業(PMC)の実態を報告する。

ハリバートン社(ヒューストン) 1919年にテキサス・オクラホマで設立された石油関連企業で現在は総合的戦争請負企業に発展。ブラウン&ルート(BR)社は、第2次大戦中に基地建設・艦船建造に従事し、朝鮮・ベトナム戦争で米軍支援活動をおこない、ジョンソン大統領(63−69年)と結んだ建設会社で、63年にハリバートン傘下に入り、98年に石油パイプ製造のケロッグと合併してKBRとなった。91年の湾岸戦争時のブッシュ政権の国防長官であったチェイニー副大統領が95年にハリバートンCEOに就任して以降、KBRの軍サービス事業は飛躍的に拡大し、政府契約額は12億ドルから23億ドルに倍増、国防総省契約額順位は73位から18位へ急上昇した。KBRはイラクで下請を含めて24000人の労働者が働き、死者40名・行方不明2名の犠牲を出している。イラクでの陸軍支援活動で▽1ドル60セントで買えるタオルを5ドルで販売▽1ガロン(3,78g)あたり96セントで買えるガソリンを3ドルで販売し▽1日当たり42、042食の食事代を請求しながら実際には14、053食しか提供しなかった等政府への過剰請求は8500万ドルに達した。米軍は石油売却の売上金をハリバートンへの支払に充てている。ハリバートンとKBRのブッシュ大統領選への献金額は第7位であった。

タイタン社(サンデイエゴ) 同社のHPの求職頁には「米国の軍事予算がどこへいくかとお思いならば、まずはタイタン社を御覧下さい。米国防総省や情報機関、連邦政府各省の情報・通信問題を解決する一流企業」とある。同社の株価は昨年夏からおよそ2.5倍という高騰を示している。アブグレイブ刑務所でのタイタン社社員は3名でいずれも通訳として雇用されている。拷問を証言した同社社員は即日解雇され、刑事捜査の対象となった。

CACI社(アーリントン) 事業案内で「宇宙を舞台とする活動から人を情報源とする活動まで情報問題の解決にあたる。反テロ戦争に於けるグローバルな情報の収集・分析・共有によって情報機関を支援する」としている。同社社員は民間契約取調官として、150回以上尋問を担当し、看守である憲兵に拷問を指示した。同社会長は「CACI社員は陸軍の監督下で監視されており、社員の行動は米陸軍との契約通りだ。イラクと全世界の軍の任務を支援する」と述べている。しかしタグバ少将の内部報告書(2月)は、「夜番の時にFBI(連邦捜査局)・CID(軍刑事捜査部)・MI(軍情報機関)・OGA(他の政府官庁)が区域に出入りし、収容者を連れ出しては尋問していた」と述べている(ワシントン・ポスト22日付け)。

ブラックウオーター社 同社HPには「政府による銃火器・治安訓練のアウトソーシング需要に応じるため、1996年に設立した。射撃訓練センターは米国で最も総合的な民間戦術訓練施設」と述べている。ファルージャで吊された米民間人4人は、米国防省省と契約してイラクでの要人・施設警護をおこなう同社社員であり、3人はレンジャー部隊など陸軍出身で、一人は海軍エリート特殊部隊シールズの出身とされている。 米軍の戦争行動はこうした民間企業に極度に依存しており、その存在なくして戦争を遂行できないレベルにある。

 PMCの事業内容を整理すると次のようになる。
@兵站後方支援活動 基地建設・食事供給・洗濯・発電・医療・郵便配達・通訳・収容所建設管理
A訓練活動 米軍兵士と多国籍軍兵士の対ゲリラトレーニング
B情報活動 活動地スパイ活動、機密情報分析、捕虜尋問
Cエンタテイメント活動 映画・演劇・音楽提供、慰安婦売買
Dハイテク兵器操作活動 F117ステルス戦闘機、M1A1戦車、パトリオット・ミサイル、グローバルホーク無人偵察機、アパッチ攻撃ヘリコプターなどの最新鋭兵器の操作支援活動
E開発途上兵器実験活動 プレデターRQ1無人偵察・監視機(ヘルファイアミサイル発射、開発途上で空軍の操作管理能力はなく企業がアフガン戦0全面参加、つまり企業の開発実験として戦場が利用される)
F戦術コンサルタント活動 

 米国PMCの急成長は91年ソ連崩壊と冷戦終結による米軍再編成にある。米正規軍は85年・215万人→95年・152万人と大幅削減され、その補完としてPMCが登場した。92年「米陸軍兵站民間補強計画LOGCAP」が作成され、最初の受注企業がKBRだ。92年tッイェイニー国防長官が指示して国防総省が390万ドルをKBRに支払って、世界の潜在的戦争地域での米軍支援活動の機密報告書を作成させ、次いでさらに500万ドルを支払って報告を更新させた。同年KBRはザイール・ハイチ・ソマリア・kソボ・バルカンの米軍との5年間兵站契約を陸軍工兵隊から獲得した。その後チェイニーはKBRのCEOに就任し、産軍共同体をつくり、副大統領となってからもKBRから給与の後払いとして01年・20万5千$、02年16万2千$を受け取っている。02年のバルカン半島での米軍活動に占めるPMC要因は米兵の2倍に達している(03年度米会計検査院報告)。KBRは多国籍化し英国やアフリカのシエラレオネ・アンゴラ・コンゴでも作戦指揮と訓練などを指導し、英国軍事関連契約企業の上位5社に入っている。国際調査ジャーナリスト協会(ICIJ)の02年度調査では、世界110ヶ国で少なくとも90のPMCが営業を展開している。
 民間企業が戦場で戦争業務を遂行することが常態化し、戦争ビジネスを・つまり人殺しを利潤極大化の手段とするに到っている。戦争は国家専決の最高度の公的国家行為である。国民の生命に最も責任を持つ国家が、国民の生命を犠牲にしても敢えて遂行する崇高な国家行為であるのが近代戦争の哲理だ。戦争をビジネスとして公認するのが戦争の民営化であるとすれば、この国家ははもはや共同体の最高善を体現する国民意志の結晶体ではない。国家自身が国家機関を利用して利潤極大化を志向する株式会社になっている。軍部の政治介入が露骨なり、しかもその一部が民営化されてしまえば議会のチャック機能は衰弱する。民間企業が給与を払って戦闘行為をすれば、政治的軋轢はなくなり、より一層戦争行為が安易に進行する。軍事をめぐる政府と企業の境界線は曖昧にあり、軍産複合体が国全体を操作する事態となる。ここには近代国家の原理を投げ捨てた最悪のモラルの崩壊がある。ヘーゲル的な絶対精神の最高の段階としての国家観は崩壊した。いかに儲けるかのために国家機構を動員する新自由主義的民営化路線の究極の形態だ。「公共」概念自体がすでに消去されている。(2004/5/27 20:45)

[林ノ前遺跡が日本古代史を揺るがしている]
 青森県八戸市郊外で発見された10-11世紀の集落跡で、130軒の竪穴住居、堀をめぐらした支配者住居、多数の鏃(200個)、不自然な人骨(10体のうち7体は頭部のみ)など戦闘の跡を示す防御性集落であるい林ノ前遺跡が日本古代史に革命的転換をもたらしている。10世紀は律令体制がゆらぎ朝廷軍の北方進出はなくなり、征服の脅威から解放された北方社会の交易による富の蓄積と有力豪族が生まれた。
@交易利権をめぐる蝦夷の内部闘争説(斉藤利男):朝廷の「夷をもって夷を征す」戦略で、朝廷と結合した食料と武器の交易特権をめぐる豪族間闘争が誘発された。
A朝廷による北方略奪説(小口雅史・下向井龍彦):摂関政治の全盛期を迎えた朝廷から北方統治を委ねられた源氏主体の地方軍閥が手段を選ばない富の搾取に狂奔した。捕虜の虐殺と裏切り者の処刑が横行する。平将門の武装蜂起を鎮圧した朝廷側武士集団が東北支配のために派遣されて蝦夷部落襲撃の略奪に走った。
B蝦夷内部の集落連合体間闘争説(工藤雅樹):蝦夷内部の覇権闘争に源氏武士団が係わったもののみが歴史に記録され、英雄物語として構成に継承された(前9年後3年)。
C東北武力闘争による武士団形成説(入間田宣夫):農業生産力上昇による富の防衛者や都貴族社会の防衛者としての武士団の誕生という従来のパラダイムは崩壊した。東北制覇をめぐる激烈な闘争が強力な軍団を誕生させ、北方から中世武士社会が始まった。農業の発展段階から武士団の形成を説明した従来のパラダイムはゆらいでいる。

 @〜Cの何れに正当性があるかは判然としない。新鮮なのは従来の史的唯物論の歴史的発展段階説の教条的適用から抜け出した北方社会の解明が進んでいることだ。ここにも網野史学の確かな影響があるといえそうだ。(2004/5/26 20:19)

[ハーレクイン・ロマンスの経営学とキルケゴール]
 恋は本屋さんで売っているーというキャッチコピーで有名なペーパーバック・ロマンス叢書は、米国ペーパーバック業界で唯一売り上げを伸ばしている。その経営戦略の秘密は何か。ハーレクイン社(カナダ)は、徹底的なビジネス出版の合理化をめざした。周到な市場調査で、女性読者のロマンス傾向を把握し、ロマンス小説のガイドラインを作成して作家に要請した。女性読者のロマンス願望は、取り立てて才能があるわけでもない・身よりもなく・美人でもない平凡なヒロインが、ハンサムで才能と財産を持ったヒーローの愛を得るシンデレラ・ストーリーにあることを市場調査で把握した。この夢の実現の過程にさまざまの障害(優秀で美人のライバルの出現など)を設定し、唯一の武器としての性格の良さが最後に勝利するというストーリーだ。
 さらにこの出版社はこのシンデレラ・ストーリーをすべて同じパターンで統一し、繰り返しとハッピーエンドの安心を提供してリピーターを獲得した。世界中どこでもいつでも同じ味が提供できるマグドナルド商法の出版版である。多様性を徹底して排除する安心の定番商品という戦略である。こうして著者の名前と作品の質とは無関係のハーレクイン・ブランドが確立し驚異的に販売部数を伸ばしたのだ。少品種大量生産という生産システムで言えばフォーデイズム生産方式である。読者は中味を読むことなく、ハーレクイン叢書という名前だけで毎月出版される膨大なロマンスを購入していくのだ。現在ハーレクイン・ロマンスは全世界で毎秒5.5冊が売れ、過去10年間で刊行されたものを1日1冊で読むと全部読むのに25万年かかるという凄まじい販売部数だ。
 調味料ー味の素、化粧品ー資生堂、清涼飲料水ーコカコーラ、エンタテイメントーデイズニーなどという確立したブランドはそれだけで絶対的な参入障壁をつくり出す。ロマンスで言えばハーレクインなのだ。しかし人の人生がハーレクインの対極にあるということを見抜き始めた読者はいつの日か離れていくだろう。絶えず新たな購読層が参入したとしても、いつかこのブランドは成熟産業の壁に突き当たり、あっというまに姿を消すだろう。おそらく経営層は、次の新たな飛躍を求めて創造的破壊の戦略を構想しているに違いない。しかしハーレクインの徹底した市場調査に依拠する顧客満足クイックレスポンスは全ての経営学の一つのモデルではある。

 さてこうしたハーレクイン・ロマンス戦略に吐き気を催すのが、デンマークの哲学者・キルケゴールであろう。彼は学生時代の3年間で3人の兄弟と母を同時に失う悲運に見舞われ、絶望的な学生生活を送った。さらに残された父の告白から自らの出生の秘密を知った。母は父の家の家政婦であり、先妻の生存中に父に犯されて身ごもり出産した子どもが自分であったという忌まわしい事実を。ここから彼の精神的な煩悶と危機がはじまり、終世その考察に費やされた。当時全盛を極めたヘーゲルの体系になんの救いも感じることはなかった。自信を持って世に問うた『おそれとおののき』は無視され、全き孤立のうちにこの世を去った。「悩んでいるのはこの私であり、誰が私に代わって私の悩みを悩むことができるか」と実存の先駆的な思想を残した。キルケゴールにとって、ハーレクイン・ロマンスは大衆の唾棄すべき安逸の頽廃に写るだろう。しかし我々はキルケゴールに涙し、ハーレクイン・ロマンスに安心する存在なのである。(2004/5/26 00:32)

[BC級戦犯を大量処刑した米国は、虐待米兵士を処刑するか]
 太平洋戦争の最高責任者(東条英機など28人)をA級戦犯(戦争犯罪人)と呼び、ハーグ陸戦法規違反などの通常戦争犯罪人をBC級戦犯と言い(泰緬鉄道など捕虜虐待)、25000人以上が逮捕され、起訴された人は5700人で、920人が処刑された。この判決の主要な根拠は、良心に反する命令に対する拒否責任であり、命令に抗せず虐待した者は処刑されたのである。この東京裁判を頂点とする連合軍裁判は国際法的に確立したものとなって今日に至っている。戦争指揮官は部下の戦争犯罪の知の有無にかかわらず、結果責任を負うて処断された。
 さてイラクの拷問・虐待をおこなった米兵は、共通して上官の命令であったと自己弁護している。第2次大戦の戦争法廷で確定した法理を適用すれば、彼らはBC級戦犯である。司令官は知らなかったと自己弁護しているが、彼らはまさにA級戦犯である。ところがBC級戦犯として処刑された者のなかに、朝鮮・台湾出身の軍人と軍属がいる。
 「ある朝鮮人の元戦犯は巣鴨を出て母親に会いに韓国に帰ったら、深夜に来るように言われ日が昇る前に村を出ろと言われた。夫が戦犯になった妻は、対日協力者として指弾されて自殺した。」(内海愛子)。いわば戦争のアウトソーシングも戦犯として有責であった。米軍の外注で捕虜取り調べにあたった民間人も有責となる。

 良心に反する命令に対する拒絶がいかに困難であるかを、スタンレー・ミルグラム実験は明らかにするが、人道に対する罪は最高刑が適用されるのだ。日本の職場や学園や地域で、良心に反する決定や命令に内心で抵抗しながら、やむをえず実行せざるを得ない状況が周りに広がっている。この私もその例外ではない。内心忸怩たるものを感じながら実行したことがある。こうした妥協の集積は、いつしか良心のマヒをよび、遂には正当な行為を憎悪するまでに頽廃し、攻撃の対象を次々とつくり出して真綿のように首を絞めていく。これがファッシズムなのだ。学園でのイジメの蔓延、マイノリテイーへの冷ややかな視線そしてあからさまな攻撃参加など実はファッシズム前期の状態がまぎれもなく出現しつつある。日本人人質に対する社会全体の視線はゾットするところに日本が来ていることを示した。BC級戦犯の歴史的体験を記憶し、共有し、継承するしごとはいまだもって未完の大事業ではないか。(2004/5/25 12:22)

[世界はまだ許すのか]
 米軍機が19日、シリア国境に近いイラク西部カイム郊外の村を空爆し、少なくとも住民45人が死亡し、子どもや女性が多数犠牲になった(アラブ首長国連邦衛星TVアルアラビア)。同TVは遺体が埋葬されるシーンを放映した。複数の米軍機ヘリコプターが100発以上の爆弾を投下し、結婚式が催されていた住宅などが破壊された(住民談)。イラクの結婚式では祝砲として銃を空に向けて撃つのが一般的で、米軍機が地上からの攻撃と受け取った可能性もあるというが、それが全くの虚偽であることはその後の駐留米軍の記者会見で明らかだ。キミット准将は「武器の収集をしている外国人武装勢力の隠れ家を攻撃し、地上からの攻撃に対する反撃で約40人を殺害したと推定している。実際に現場から自動小銃が見つかった」と述べている。日本のTVでは結婚式のテーブルでパーテイをしているシーンが爆破されるありまさを放映している。
 刑務所での捕虜虐待と本質的には同じで、米兵はあたかも虫けらを殺すようにゲーム感覚でイラク民衆を殺害し、死体を前に喜びの声を上げている。女性憲兵が氷詰めにされた遺体の袋に向かってVサインを出して歯をむき出して笑っている写真を是非見て下さい(朝日新聞)。私は怒りが抑えられない。このような無辜の民衆の結婚式という最大の祝賀を血に染めて平気な米軍の蛮行を許しておいていいのか。特に私は日本の教師たちに問いたい。無垢なこどもたちの過ちを逃さず、正義とヒューマニズムの説教を行う日常の教育活動は、まさにいのちを育むという崇高な使命があるからではないか。君が代と日の丸の強制に従った教師は、思想の自由を蹂躙する権力に屈従しながら、別の顔で子どもを慈しめると思っているのか。鞭と野蛮のスパイラル過程に自らの手は汚されているのではないか。全ての教師は憲法と教育基本法を遵守する制約をしなければ教師として採用されないはずだ。ひとたび虚偽と違法を見逃せば、あとは奈落の底へと一緒について行くことになる。良心の痛みを隠しながら。どこまでも。批判の対象が違うのではないかと怒る人に問う。譲ってはならない一線は自分にとって何なのかを決めておくべき時が残念ながら近づいている。イラクの民衆にとってこの一線はとっくに飛び越えられているのではないか。イラク調査・戦略研究センターが虐待発覚前にイラク人1600人を対象に実施した世論調査では、回答者の88%が連合軍を占領軍とみなし、過半数が撤退を要求(昨年10月では20%)、強硬派サドル師支持は68%に達して最高指導者シスターニ師を凌いでいる。結婚式の祝賀会jに出席していたイラク人45人を虐殺したのは、まぎれもなく沖縄基地から派遣された米国空軍の一部である。(20045/20 20:06)

[同性婚とは何か]
 アメリカ・マサチューセッツ州で全米初の同性婚が同州最高裁で認められ、合法的な裏付けによって自治体が結婚証明書を発行した。結婚を希望する同性カップルが各地で殺到し、ケンブリッジ市では270組が列をつくり、「ワールドシリーズとスタンリーカップの両方で優勝した気分だ」と歓喜を表した。同性婚カップルは、社会保険・税制度・遺産相続・養子縁組で男女夫婦と同等の権利を入手する。同州知事が同性婚禁止の根拠にしたのは、1913年制定の白人と黒人の婚姻を禁止する州法であった。ブッシュ政権は「結婚という神聖な制度は政治的信条を持った少数の判事によって再定義されるものではない」といって同性婚を禁止する連邦憲法の修正を連邦議会に求めた。米国ではサンフランシスコ市(カリフォルニア州)等が自治体独自の判断で結婚証明書交付に踏み切ったが、その後裁判所から発行停止を命令され証明書の有効性は保証されていなかった。
 婚姻が異性間であるのが常識であり、同性間婚姻はアブノーマルな形態であると常識は捉え、聖書においても異性間婚姻を清浄な婚姻としてきたが、ここにきて同性間愛情関係も正常な婚姻形態であり、人間本来の素朴な愛情関係に他ならないのだという意見が主流となった。03年には米国聖公会が同性愛者の司祭の司教就任を認めて同会は分裂し、国連が同性愛カップルの職員に対し、出身国が同性婚を認めている場合には家族手当を支給すると決定し、北欧での同性婚合法化など人権と多様性の共存原理は紆余曲折を経ながらも前進している。
 米国では賛成派=リベラル進歩(民主党)、反対派=宗教保守派(聖書原理主義共和党)というイメージで、イラク問題の賛否と重なっている。(2004/5/18 20:00)

[北朝鮮帰還事業の光と闇]
 在日朝鮮人の帰還事業は、1959年の閣議了解に基づいて、日朝赤十字が同年12月に共同事業として始められ、84年7月までに9万3340人が祖国へ帰還した。在日朝鮮人の夫に同行した1830人の日本人妻を含め、6840人の日本人も海を渡った。97年11月から00年9月まで3回に分けて43人が日本に一時帰国したが、今もって音信不通の人も多い。帰還者たちのその後については、いわゆる脱北者たちを中心にした多くの実態報告があるが、ここではその真相究明は行わない。私が初めて帰国事業を知ったのは、浦山桐郎『キューポラのある街』という映画であり、そこでは凛々しい若者が祖国の社会主義建設に献身する麗しい物語として描かれていた。おそらくそうであったのであろう。私の青年期においては、確かに中国や朝鮮民主主義人民共和国は楽園の国のようなイメージで語られていたから。しかしここにきて帰還事業の真相を明らかにする貴重な研究が登場した(朝日新聞5月18日夕刊参照)。

 川島高峰明大助教授が、01年8月に情報公開法に基づき、外務省に帰還事業関連文書の開示を請求し、約2000頁の公開文書を分析した。50年2月13日付「閣議了解」には「基本的人権に基づく居住地選択の自由との国際通念に基づく」と謳われていたが、極秘指定が解除された行政文書「閣議了解に到るまでの内部事情」と題する付属文書には驚くべき内容があった。「在日朝鮮人は犯罪率が高く、生活保護家庭が1万9千世帯であり、これに要する経費年額17億円にのぼる。本人が希望するなら帰還させたいとの声が一般世論となり、与党内でも圧倒的となった。国交正常化のための日韓会談再開後本件を実施すれば、かえってリパーカッション(影響)が大きいので会談休会中に最大の障害を除去し」と説明している。対北朝鮮交渉の当事者であった井上益太郎日本赤十字外事部長)がジュネーブから日本政府に送った59年3月24日付電報では、「帰還者の意思確認が重要であり、乗船寸前まで確認作業をする必要がある。彼らは帰国条件を正しく理解しているか? 殊に再び日本へ来られないことを知っているか?等を問う必要がある」としているが、実際には充分な確認作業は実施されなかった。
 川島助教授は「当時の日本政府が、帰国者の再入国の可能性がほとんどないことを隠して事業を進め、社会の中の差別を解消するのではなく、差別対象者そのものの減少を図る方法で問題解決をめざしたことが分かる」としている。

 在日朝鮮人の多数は云うまでもなく日本植民地以降に強制連行された者を含め、旧日本軍へ徴兵されたり、従軍慰安婦として拉致されたり、生活に行き詰まって日本へ来た人が大半であり、日本国内で最大限の差別を受けた歴史を持ちいまもってその残映は続いている。他民族に対する国際犯罪の責任者が正当な謝罪と責任をとることなく、帰還の美名に隠れて処理しようとしたのが事実ならば、我らが父祖は恥ずべき所業を後世に残したことになる。歴史の闇の部分の記憶は困難であるとはいえ、後継世代にその責任は受け継がれていることを受けとめなければならない。拉致問題に対する正当な抗議と同時に過去の罪責の清算をやり遂げて初めて、対等のパートナーとしての歴史が始まる。もう一度『キューポラのある街』の現代版をつくらなければならない。(2004/5/18 20:49)

[モハメッド・アリの夜ー五木寛之・みみずくの夜メール]
 五木寛之氏の朝日新聞での連載であり、いままでは100寺訪問とか称して超俗的な話の満載であり、これがかっての「さらばモスクワ愚連隊」の作者かと失望して読みもしなかったが、今回のモハメッド・アリとの対談回顧は面白く読めた。読めた。試合のために東京に来たアリと麻布の白亜館というレストランでの対談記事である。

 彼は控えめで物静かな男だった。私は英語はダメだが彼のボキャベラリーがすこぶる知的なものであることは推察できた。なぜ名前を変えたのかと尋ねると彼はこう云った。「私たちは奴隷として米国へ連れてこられた人間の子孫です。そしてカシアス・クレイというのは、支配する側の言語による名前です。私は自分の名前が必要だった。だからモハメッド・アリという名前を選んだのです。制度を変えただけで差別はなくならない。たとえば、ブラックメールは脅迫、ブラックマーケットは闇市、ブラックリストとかブラックフラッグとか、ブラックは常に悪いイメージだ。それに対しホワイトは清浄で美しいものをしめす。そのような言語を使う限り、人間は自由ではあり得ない。言語が絶望的なほど大きな力を持つ。そう思いませんか」(朝日新聞5月17日)。
 彼はベトナム戦争の徴兵を拒否して世界チャンピオンのベルトを剥奪され、下獄後に再び返り咲いて世界チャンピオンとなった。彼は黒人解放運動の象徴的な人物となった。大統領官邸は永遠にホワイトハウスと呼ばれるのか。もう30数年があれから経過した。アメリカはふたたび異教徒への攻撃を始めて泥沼に陥っている。

 米陸軍軍曹カミロ・メヒア(28)が南部ジョージア州の軍法会議にかけられる。彼は03年4月からシンニ派三角地帯で5ヶ月戦い、5月にイラク空軍基地での捕虜収容所で勤務した。手当たり次第に逮捕されてきた通行人に対して、本名を開かさない3人の尋問官が眠らせるなと指示し、ハンマーで壁を叩いたり耳元で銃の撃鉄を起こした。勲章ほしさの上官が不必要に危険な任務を負わせて、戦闘で無関係に市民が巻き添えになった。休暇で一時帰国した際に「良心的兵役拒否」を宣言し、次のように述べている。「テロへの戦争気分に操られ、みんなイラク戦争の現実が見えていない。誰かが真実を話すべきだと思った。イラクの経験は悪夢だった。罪もない人間がたくさん死んだ。我々はこの場にいるべきではないと感じた。兵士であることと、人間であることとの間に違いがあると、気づかなければいけないときに来ている」。米陸軍規定では、30日を超えた無許可離隊は脱走兵とみなされ最長禁固1年と懲戒除隊処分を言い渡される。弁護団に加わったクラーク元司法長官は「虐待の罪で兵士を裁こうとしている国が、地球の反対側では虐待に耐えられなかった兵士を裁くのはおかしい」と言う。
 大量の脱走兵と良心的兵役拒否者が発生したベトナム戦争と同じ事態がイラクで誘発されている。(2004/5/17 20:18)

[はじめて高遠菜穂子さんの声を聞いた]
 イラクの子どもたちへの献身的なボランテイアの最中に人質となった不幸を、日本政府から自己責任だと云われて打ちのめされた高遠さんの生の声を聞いた。醍醐東大教授を中心とする「5人をサポートする会」が札幌で高遠さん・今井さんと歓談した。高遠さんは熱弁をふるい、拘束中に武装勢力と交わした平和・宗教論を話した。インドでの非暴力主義を例に「あなた方はなぜ対話による平和をめざさないのか? 日本は50年非戦を通してきた、こういう世界の現実をあなた方は知っているのか?」と激しい口調で詰め寄ると、武装勢力は反発するどころか、もっと知りたいと近寄ってきた。そばで聞いていた今井さんも「あの時の高遠さんはすごかった」と言い、高遠さんの「人道は怒りを持ってやってはいけない、許しの気持ちを持ってやるもの」という言葉は自らの体験に裏打ちされている迫力があった。高遠さんと今井さんは、自分たち自身の人道活動が理解されて釈放されたのです。お二人は自分を自分自身で守ったのです。これこそ真の自己責任です。多くの人の支援には感謝が必要ですが、それ以上の謝罪は不要です。どうか胸を張ってマイペースで休養して下さい。

 イラクで解放された高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さんが帰国したときの羽田ードバイ間の航空運賃198万円が、旅行会社を通じて家族に請求された。なぜ政府負担とされなかったのか。外務省は先例によると言うが先例とは何か。外務省にあるガイドラインとは何か。3人はすでに日本への復路航空券を持っていたがその補償はどうなったか。いったい外務省は3人の人道支援活動を評価しているのか。郡山さんは「家族に対する攻撃には胸が痛むけれど、僕自身はバッシングにはたじろがない。自己責任と云うよりもイラクの現状に関心を向けて欲しい」と言う(5月10日衆議院第1議員会館集会)。なんとかという女性外務大臣よりはるかに立派ではないか。
 いま3人の自己責任をもっともシビアーに追求した政府・与党のメンバーは、年金未納問題で自己責任を回避して必死で逃げまわっている。自ら天に唾して恥じない連中が国家権力の中枢に君臨して、人道支援の犠牲者を攻撃機している虚妄が白日の下にさらされつつある。日本のモラルは地に堕ちた。おそるべき奈落の底に向かって頽廃の道を進んでみずから省みるところがない。それをしも許している国民とは一体なんだ。あア〜虞よ虞よ汝を如何せん。(20041/5/16 20:16)

[抱腹絶倒!ザ・ニュースペイパー 松下アキラ小泉首相を語る]
 いつ自分の名前が出てくるのかドキドキしていた。年金改正法案の中身が国民はよく分からないようだが、議員も分からないんだから当然だ。わかっても、わからなくても、痛みに耐えて耐えて耐えて耐え抜いていただきたい。そうすれば痛みになれてしまいます。未納、未納と騒ぎすぎる。私たちはお金を貰うのになれているが、支払うのには慣れていないんだ。公明党といっしょに出した法案だが、公明党の支持者には、納めることで安心する”お布施”ということで納得して頂きたい。(2004/5/16 9:38)

[人間、うれいの花ざかりー悲嘆心理学の極地]
 悲嘆心理学は、人間の「悲しみ」の感情にアプローチする学問で、阪神淡路大震災でのメンタル・ケアで注目された。特に死別の悲しみは、パニック→苦悶→抑鬱→無気力→現実直視→見直し→自立の過程を経て克服に到るとされる。こうした克服プロセスを知ることによって、深い悲しみもいつかは癒えるという見通しを持って立ち直りを助ける。その克服の過程を話し、記録することが有効とされる。(以上東京学芸大・相川充氏参照)。
 悲しみの極地を描いた謡曲・観世元雅「隅田川」は、息子の梅若丸を人買い商人に誘拐された母親が、その跡を追って京都から江戸に到り、隅田川で疲れて死んだ息子の墓を見つける。最後に梅若丸の幽霊が墓の影から姿を見せ、母親と言葉を交わす。母親は絶望して自ら命を絶つ。救いのない絶望を表現した「人間、うれいの花ざかり」が悲しみの極地を示す。
 作者・観世元雅(144?〜1432)は能を大衆娯楽から純粋芸術に変貌させた世阿弥元清(1363〜1443?)の長男であり、「我が子ながらたぐいなき達人」「祖父(観阿弥)にまさる堪能」と期待された。隅田川の演出をめぐり父子は激しく論争した(『申楽談義』)。世阿弥にとっては優秀な息子は自分が構築した芸術世界を破壊する可能性を秘めたライバルでもあった。当時のパトロンであった足利将軍は次第に世阿弥の甥・音阿弥へ傾斜し、支援を喪った観阿弥は地方巡業に出て旅先で死ぬ(享年40歳 反足利勢力に接近したとする暗殺説もある)。残された世阿弥70歳は、「秘伝奥義ことごとく伝えた数々が夢のように消えてしまった。そんなものをいま残しても誰のための利益になるだろうか」と悲痛なうめきを上げている(元雅への追悼文「夢跡一紙」)。そのあと世阿弥は元雅に連座し佐渡へ流罪
となりその地で81歳の生涯を閉じる。観世家の実権を掌握した音阿弥は現在に至る観世流家元となる。世阿弥の系統は娘婿・禪竹にかろうじて継承され櫻間右近の属する金春流となって現在に至る。
 なんともギリシャ悲劇シェイクスピアの世界に匹敵する壮大な現実と権力の闘争、ファミリーの継承をめぐる激闘ではないか。栄光と悲惨の両極を一身に浴びて最後は悲劇的な死を遂げた日本中世最高の芸術家の生涯は、まさに悲嘆心理学のモデルではないか。こうした形象が、悲しみの克服にいたるプロセスはもはや滑稽だ。あらゆる悲惨をこの身全身に受けてこの世を去るときの無念、このようなドラマなしに実は「隅田川」の芸術的昇華もあり得なかったであろう。(2004/5/14 9:36)

[アテネ・オリンピックから米国とイスラエルは追放すべきではないか]
 IOCはイスラエルのパレスチナ占領と米英軍のイラク占領を黙認するのだろうか。かれらはオリンピック憲章とその精神を完全に蹂躙しているのではないか。詩人・寺山修司氏はかって1972年のミュンヘン・オリンピックの大会組織委員会が企画した芸術プログラムに劇団・天井桟敷を率いて参加した。天井桟敷は、68年のメキシコ・オリンピックの開催に反対する400人の学生が政府軍によって銃殺された事件をテーマにした野外劇を上演した。ところがその時にアラブ・ゲリラによるイスラエル選手団襲撃事件が起こり11人の犠牲が出た。その生々しい体験を寺山氏は次のように云っている。
 「オリンピックはスポーツの祭典ではなくもう一つの戦争になった。クーベルタンの国家の尊厳に殺されてしまった。100mランナーの栄光と悲惨もいまでは国家が肩代わりして、選手は国家の代理人として走っている。122本の国旗が掲げられたときから、オリンピックは政治ゲームとして開始され、その歪みを受けてテロを誘発するに到ったのだ。私たちの劇団を最大限に評価していた組織委員会は、テロ事件によって突然豹変し、あのような演劇がテロを誘発すると言い直してしまった。国家がガードを堅め政治的亀裂はオリンピックによって一層深められた」(『死者の書』土曜美術社)。
 ところがそのミュンヘン・オリンピックで女子円盤投げアメリカ代表であったコノリー選手は、「アメリカは片手にオリーブ、片手に爆弾を持ってオリンピックに来た」と言って選手連名のベトナム空爆の抗議書をニクソン大統領に提出した。各国の選手の署名を集めたが選手村当局から禁止された。オリンピックがほんとうに平和の祭典であるなら、IOCこそ古代のエケケリア(オリンピック休戦)にちなんで反戦アピールを出すべきではないか。開会式で「4年ごと 戦いを棄てよ、親しき友情の証しのために」と高らかに朗唱されるアポロンの神託を実際に実現すべきであった。
 私がオリンピックで最も強く印象残っているのは、1968年のメキシコ五輪陸上の表彰式です。400mリレー決勝で優勝した米国黒人チームが全員真っ黒い手袋をはめて拳を握り、掲揚される星条旗に向かって腕を突き上げたのです。一瞬私は目を疑いました。米国内で燃えさかる有色人種差別反対運動を弾圧する米国政府への抗議の意思表示でした。米政府は、帰国した黒人選手の金メダルを全て剥奪し、スポーツ界から追放する処分をとりました。その後黒人差別は少なくとも法律上は禁止され、逆にさまざまのアファーマテブ・アクションが採用されて米国の人種平等は格段に進みました。彼ら黒人選手団は、その捨て石になり名誉は回復されないままです。
 米英は今年のアテネ・オリンピックに「片手にオリーブ、片手に大量破壊兵器と虐待」を持って参加する。日本も日の丸金メダルを史上目標に友情よりも国家主義を前面に出して参加しようとしている。アテネ・オリンピックは国際反戦の意志を高らかに示す舞台にしなければならない。以上・谷口源太郎「歴史の反省を踏まえアテネを反戦の舞台に!」(『放送レポート』188号)参照。(2004/5/14 16:58)

[米政府は全ての国際法規からみて有罪を宣告される]
 世界人権宣言第5条 拷問・虐待の禁止
 国際人権規約第7条 拷問・虐待の禁止
 拷問等禁止条約(1984年) 戦争などいかなる例外的事態においても拷問は正当化されない
 ジュネーブ捕虜条約第13条(1949年) 捕虜に対する人道的待遇 
 ジュネーブ文民条約第32条 虐待の禁止、人道的待遇
 ジュネーブ諸条約第1追加議定書第76条(1977年) 女性は特別の保護対象とし強姦や猥褻行為から保護される
                    同第77条        児童の保護
 国際刑事裁判所規程第7条 拷問・性暴力は人道に対する罪
             同第8条 戦争犯罪(拷問などの非人道的待遇・個人の尊厳に対する侵害・性暴力)

 以上の国際法の諸規定に米英軍は全て違反している。米軍最高司令官はブッシュ大統領である。米政府は訴追を恐れて国際刑事裁判所規程を批准していないから(それに追随して日本政府も)、形式上は訴追できないが、人類の歴史の法廷は彼らを必ず裁く。

 カタール衛星TV・アルジャジーラが放映した証言を紹介します。
○アッマール・ナーギ(17歳 高校生)
 自宅と学校が離れているため学校近くの宿に滞在していた冬のある雨の夜、米兵が突如押し入ってきた。米兵は部屋のドアに爆弾のようなものを投げ込み、僕は顔と手を負傷した。視力もほとんど失った。それなのに米兵は僕の頭に布をかぶせ、手を後ろに縛り床に放り出した。その後収容所に連行された。ある日バスルームにいたら、負傷した僕の目に米兵が化学物質を振りかけ、痛みで3日間眠ることができなかった。女性兵士が僕の身体の上に覆いかぶさってきたので、僕がはねつけると別の兵士がやってきて、僕をベッドに縛り付け虐待した。米兵は僕の髪の毛をヘンな格好に刈り上げ、みんなでそれを見て笑っていた。

○オム・ハイダル(女性)
 私の息子は15歳です。この3月29日に米兵に連れて行かれました。40日ほど方々を探しましたが、アブグレイブ収容所にいるのか、それとも他の場所にいるのか、息子の消息はいっさい分からないのです。私の息子は特別な活動など何もしていません。米軍に対してもその他の誰に対しても罪になるようなことはしていません。夜中の12時過ぎに寝ているところをいきなり連れて行かれてそのままです。

○ヒシャーム・サッバール(51歳)
 早朝5時でした。米兵は隣の家から我が家の屋根に降り、そこを壊して押し入ったのです。現金や貴重品を盗み、家具の半分を壊しました。これが米軍の云う自由です。サダム時代だってこんな乱暴なやり方は聞いたことがなかった。収容所では10日間も手を後ろで縛られたままで、その間、米兵は私たちの口に辛い香辛料を押し込み、その他の食料も水も与えてくれませんでした。たまにトイレに行くことが許されても、用を足さないうちに引きずり出されることがありました。収容所では空腹で死んだイラク人もいました。これはアブグレイブだけでなく多くの収容所で行われていることです。

 01年9・11からのアフガン戦争で逮捕されたタリバン、アルカイダ容疑者がいま以てキューバ・グアンタナモ米軍基地に幽閉されている。米政権は収容者を非正規戦闘員としてジュネーブ条約の戦争捕虜に対する処遇を適用しないと決定し、米国の領土ではないので米国法も適用されないとし、「対テロ戦争の新しい範例であり、ジュネーブ条約の厳格な適用を時代遅れにした」と自画自賛している。同基地司令官は「収容者を尋問者の質問に答えさせる状況に置く圧力と、それに見合った見返りを得る制度をつくった」とし、この司令官は現在のイラク全ての収容所の責任者になった。グアンタナモ・モデルがイラクに適用され、一切の人権を剥奪した拷問と虐待が蔓延していった。一切の国際法と国内法の規制を受けないで、他人の身体を自由に扱うことがなぜ米軍にだけ許されるのか。神からそのような特権を受けたのか。かってのナチスや日本軍でさえも形式的には法規を遵守するとして虐待を免罪しようとしたが、米政府と米軍は一切の法的規制から解放されていると自ら称して他者の身体を拘束して自由に扱っている。これはまさに形式法において「奴隷」ではないか。人類はこの野蛮な記憶を永遠に刻みつけて後世に伝える。血塗られたブッシュとラムズフェルドは(敢えて尊称はつけない)、必ずや燃えさかる地獄の業火のなかで泣き叫びながらのたうちまわるだろう。(2004/5/14 9:35)

[西垣通氏の情報理論]
 日本の代表的な情報理論家である西垣氏の世界認識の概略を紹介する(朝日新聞5月13日夕刊)。
 現実は多様である。社会学システム理論によれば、近代社会は機能的に分化した社会だ。社会全体は、経済・学問・法律・家族友人システムなど機能ごとに分かれた独立のシステム群から成り立っている。現代人は相矛盾した、複数の現実に囲まれて生きている。昔は神の権威が全てでそれに従っていればよいが、今や多様な現実が勝手な制約を押しつけてくる。現代人は多様な現実によって引き裂かれている。専門化が進むと現実は複雑になり見えなくなるが、普段はそれを意識することなく生活している。こうした不安に戦く我々にまとまりのある現実のイメージを与えるのがマスメデイアで、各システムの活動に関するイメージが手際よく編集されコンパクトに並べられている。しかしマスメデイアは統一的世界観を与えるわけではなく、局所的な興味を煽っているに過ぎない。近代社会では統一的な唯一の現実はない。世界はマスメデイアのパッチワークだ。パッチの量が増し洗練されるほど世界の全体性から遠ざかる。自分がメデアイを通して世界をどう眺めているかよく反省してみないと見失うものがある。生物から社会までを一貫するオートポイエーシス(自己創出)システムとみなす探求が大切だ。

 コメント:社会を分節化されたシステムの総体だとする認識は正しい。しかし西垣氏にはシステム相互間の関係理論がない。システムの相互規定性の理論がない。並列的に並べられたシステムが無関係に運動しているようだ。現実はそうではなく、上位システムと下位システムの垂直性と相互侵入性で成立している。基底的なシステムが何かを考えないと、相対主義的な世界しか残らない。最後の自己創出性は論議不足であり、言及されない方が良かったが、要するに人間の働きかけにかかわらず貫いていく法則性があると言いたいのだろう。この部分は勉強不足で他日を記したい。(2004/5/13 21:00)

[正義なき侵略軍兵士の頽廃]
 正義なしの命の犠牲を強制される侵略軍隊の本質がいよよ露呈されてくることとなった。米CBStVがイラク南部のブッカやアブグレイブ刑務所に勤務した米軍女性兵士のビデオ日記の一部を報道した。「彼らイラク人は、1週間に3度暴動を起こしているけれど、私の当番時には決してしない。私を怖がっているからよ。このあいだは彼らに石を投げつけて問題になった。今日私たちは収容者2人を撃った。一人は棒を振り回したから胸を、もう一人は腕を撃った。胸を撃った収容者が死んだかどうかは知らない。刑務所周辺の毒蛇は噛まれたら6時間で死ぬ。すでにイラク人が2人死んだ。でもそれがどうしたっていうの。たった2人じゃない。ここはもうたくさん。家に帰りたい。もう一度市民に戻りたい」と彼女は淡々と語っている。
 米国防総省は上下両院議員にイラク刑務所で撮影された千数百枚の写真とビデオ映像を公開した。シャツをたくしあげられて胸をはだけさせられたイラク人女性、自慰や性行為を強制されるイラク人男性、壁に手錠で繋がれた男性が頭を壁に叩きつけているもの、あげくは米兵男女の性行為などなど吐き気を催すおぞましい映像が繰り広げられる。
 現代アメリカ人の文化水準をみごとに写しだしているではないか。特に女性兵士の文化レベルは現代アメリカ人の典型だ。異文化知識はが欠落し、米国底辺白人生活に染められている白人米人のおめでたさを見事に象徴している。彼女は米国本土では黒人差別に熱狂している人種だ。異文化接触を始めて味わう無知蒙昧なアングロサクソンが、とまどいの揚げ句に弱者に対して激しい攻撃を集中するしかない自己肯定の世界を典型的に示している。かっての中国戦線における日本帝国の兵士の所業と本質的に同じだ。しかし驚いたのは米人斬首事件に対して、TVである米国人が「こういう報復があるのは覚悟していた」と述べたことだ。こういう発想は日本人にはできない。西部開拓以来の自己防衛システムの心情が自然に出ている。彼らにとって、”目には目を 歯には歯を”が当然のルールなのだ。(2004/5/13 19:26)

[アメリカ人人質斬首事件]
 5月11日にアルカイダ関連とみられるグループが、アメリカ人ニック・バーグ(26)を斬首するビデオ映像をイスラム系HPに流した。バーグが「僕の名前はニック・バーグ。父の名はマイケル、母はスーザン、デイビッドとサラの兄弟姉妹がいる。住所はフィラデルフィア」と云った後に、覆面をした5人グループの一人が「神は偉大なり」と叫びながら、大きな刃物で頭部を切り落としカメラの前に掲げた。メンバーは「イラク囚人への拷問に対する報復だ。拘留者との交換を米政府に伝えたが奴らは拒否した。アブグレイブのイスラム信徒の尊厳は地と魂による以外は回復されない」と述べた。殺害者はアルカイダ幹部ザルカウイと説明している。米軍当局は後ろ手に縛られたバーグの斬首遺体をバクダッドで発見したと述べた。日本のメデイアでは映像はカットされているが、これが日本の報道から知られる「事実」である。

 アルジャジーラはこのニュースに関して次のような論評を行っている。バーグは民間の請負で03年12月にバグダッドに入り、アンテナ工事をしていたが米軍関係ではない。モスル・ハイファ・パイプラインのモスルで拘束され、3月24日に交信が途絶える。イラク警察から米国CIAに身柄が移され2週間拘束される。同時にFBIは3月31日にバーグ氏がイラクで何をやっていたのか両親に尋問を行う。4月5日に両親が不法拘束を理由に米連邦裁判所に提訴した翌日の4月6日に釈放され、9日にヨルダン・トルコないしクエート経由で帰国する旨両親に伝えた後にアルカイダとされる集団に拘束され消息を絶った。米国諜報機関は欧米人権機関にイスラム世界の虐待を発表するよう圧力をかけている。この殺害は、パキスタンでイスラム教徒(?)によってスパイ容疑で斬首された米人レポーター、ダニエル・パールの殺人に似ている。アブグレイブ拷問事件の非難をかわすために積極的な活動が行われている。
 
 その他にもさまざまの情報が乱れ飛んでいるが、確かに虐待の告発で窮地に追い詰められている米英軍にとっては効果的な映像である。米国内では再びイラク・テログループへの報復感情が高揚している。ここではこれ以上の論評を加える資料はない。現象的な事実報道の裏に何が真実としてあるのか見極める必要がある。特にネット情報では。(2004/5/13 10:21)

[慨嘆する保守政治家ー野中広務]
 野中広務は権力中枢から現在は反小泉・抵抗勢力として昔日の面影はない。しかしかっての石橋湛山のような保守の矜持を堅持してぶれないように思う。いまあてどもなく漂流している小泉首相はおそらく歴史の審判の前で頭を垂れるだろうが、野中広務氏は昂然と胸を張って答えるだろう。我が道に迷いなしー私とは基本的に立場は異なるが学ぶべき点多々ある。以下は対談記事からの抜粋(『放送レポート』188号)です。

 私は記者諸君に「第2次大戦が始まったときに、君たちの先輩が書いた記事をながめよ」とよく言った。負け戦も武勲嚇嚇という大本営発表を国民は信じた。そして取り返しがつかないあの戦争にのめり込んでいった。根底から日本の民主主義が音を立てて崩れているのではないかと思う。取り返しのつかない衰退国への道を辿っているのではないかと思う。いろいろな批判を受けても、自分の言葉を持つ以上は、私は生涯言い続けなければならないと思う。メデイアは取材・報道の自由を自分たちで放棄しているのです。日本人というのは、残念ながら行き着くところまで行かないと気が付かないでしょうか。私は自分の信念として、差別や人権侵害のない社会を築くために捨て石になりたいと思ってきたのです。これからも命ある限りそうしていきたいと思います。いちばん自分の良識に従って番組を扱っているなと感じたのは筑紫哲也さんぐらいですね。あとはいかに視聴率を稼ぐかというところからスタートしている。
 日本人は短い言葉に弱い民族になっている。これが非常に恐い。景気について「計画は順調に進んでいる」「備えあれば憂いなし」等というのは「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」と云っていた時代と一緒です。こういうくらい時代ですが、夜の次には必ず朝が来るのですから、この国の形をどうしていくのかということをもう一度日本国民が日本を再生させる役割をぜひメデイアに担って欲しい。


 コメント:私が最も関心を持ったのが、「2人の外交官の犠牲があったが、韓国軍の犠牲は犯行声明が出ているのに、日本の2人は声明が出ていない。この検証がされていない」という言葉です。2人の外交官を殺害したのは、テロ・グループないしイラク抵抗勢力ではなく、米軍の誤射であったという未確認情報があるが、野中氏の言葉の意味はそこにあるのかと思った。これは非常に重要なので、情報をお持ちの方があれば是非お知らせいただきたい。私は野中氏のような誠実な保守は敵に回しても存在を認める。小泉首相とそれを取り巻くお粗末な連中は、論争の相手としては無意味であり無視するしかない。そこまで日本は末期的な頽廃状態におちいっているのだ。私は天皇制論者ではないが、皇太子が宮内庁の皇室運営を公然と批判する発言を行った。要するに后姫が人格的な侮辱を受けているというのだ。皇室侮辱罪という犯罪がもしあればどうなるのだろうか。(2004/5/12 23:17)

[お郷ことば・憲法9条ー岡山県赤磐郡]

 わいらー日本のんは、みながええ考えを持ってえて、世の中が乱れることのねー、くつれーで暮らせる平和な世界を、ぼっけー願っておるで。じゃけー、国と国がごじゃくそをゆーていがみおーたとしても、そけー出てって、くらわすじゃくらわさんじゃゆーて力ずくで解決するよーなこたー、けーから先、ぜってーにせん。
 せーじゃから、戦争やこーするための、陸軍じゃ、海軍じゃ、空軍じゃ、大砲じゃ、ミサイルじゃ、爆弾やこーのひょんなげな兵器は、のーなすことに決めたんじゃ。ほんで「国にゃー戦争する権利がある」やこーゆー、きゃーくそわりーこたー、ぜってーおえんことにする。


 方言で日本国憲法を読む取り組みが広がっています。紹介したのは私の生まれ故郷で小学校3年生まで生活した村の言葉です。ウーンそういえばこういう表現はよく使ってゐなた・・・・と懐かしく思い浮かべます。憲法9条であれば余計に身近に迫ってきます。皆さんの地域の表現も味わってみて下さい。坂井泉『全国お郷ことば・憲法9条』(合同出版)です。(2004/5/12 20:36)

[薔薇とは何か]
 庭の薔薇は2日間で散った。入れ替わりに新しい薔薇が咲いた。薔薇の木はもっと咲き誇るのかと思っていたら、妻はあの薔薇は小薔薇だという。庭の屋根に上るような大輪を期待した私が甘かったのか。でも薔薇という言葉はなぜこんなに秘やかな魅入られるような印象があるのだろうか。あの厚みに充ちた何重もの花びらはビロードのようである。私は咲き誇る薔薇の花々をみたいのですが、妻は厳しく否定する。

 みづからの光のごとき明るさをささげて咲けりくれなゐの薔薇 (佐藤佐太郎)
 
 ウーンしびれるような歌だ。なにか宗教的な畏敬の感が漂うと想う彼方で、官能的な豊満さがただよう。

 愁いつつ岡にのぼれば花いばら (与謝蕪村)

 こうした歌の世界に耽溺すると、殺し合っている世俗の世界が卑小に見えてくるという陥穽が生まれやすい。裏返せば歌人は最もエゴの世界なのだ。自分の感性世界に浸って生活が営まれるのだから。1982年に陸上やり投げで世界記録を出したソフィア・サコラファさん(47)がパレスチナからのアテネ五輪出場をめざす。自由のために格闘しているパレスチナ人のために、古代ギリシャの精神を生かす必要と義務を感じたーと語っている。彼女は現代の薔薇である。日本のスポーツプロ選手でこのような意識でスポーツを位置づけている者はあるか。ない! 現代の薔薇のイメージはこうした緊張関係にあると想う。(2004/5/12 19:42)

[武器輸出3原則が崩れると?]
 1967年4月21日の衆院決算委員会で当時の佐藤栄作首相は、@共産諸国A国連決議による武器禁輸対象国B国際紛争当事国に対する武器輸出を禁止する武器輸出3原則を決め、1976年2月27日の三木内閣で3原則以外の国にも武器輸出を謹むという政府統一見解を決めた。理由は「憲法の精神に則り、平和国家としての我が国の立場から国際紛争を助長することを回避するため」としている。ところが1983年1月14日に中曽根首相は、米国が紛争当事国になった場合も含めて無条件で軍事技術を米国に提供するという決定を行い、小泉内閣で報復の危険性がない先制攻撃可能な米国ミサイル防衛戦略に参加することを決定した。
 すでに99年から日米は4つのミサイル部品の共同研究が行われ(赤外線シーカ、赤外線防御ノーズコーン、敵弾道破壊キネテック弾道、第2段ロケットモーター)、実際の生産段階では米国への武器輸出が必要で武器輸出3原則と衝突する可能性が生まれた。
 日本政府は軍需研究開発に177億円を投下し企業の軍需割合は5-10%に達している(三菱重工11.4%2797億円・川崎重工14.0%1322億円・三菱電機4.1%1121億円)。最悪のシナリオは[武器輸出3原則解禁→企業軍需依存度上昇→軍事予算上昇→戦争による需要増期待→憲法9条改正→徴兵制]と進むと予測されるが、もうかなりこのシナリオは確実に進行している。
 米国がなぜ戦争をやらないと生きていけない国になっているかと言えば、米国企業の軍需依存度が異常に上昇し戦争需要なくして経済の再生産構造が維持できなくなっているからだ。軍需企業世界上位の軍需依存度をみると、ロッキード・マーチン63.8%166億ドル、ボーイング27.8%156億ドル、レイセオン75.9%148億ドル、ブリテッシュ・エアロスペース90.2%105億ドル、ゼネラルエレクトリック46.2%59億ドルなどとなっている。(2004/5/11 9:54)

[地に堕ちた帝国ー星条旗は恥辱にまみれている]
 バグダッド・アブグレイブ刑務所内でイラク人の少女が米兵に裸にされて暴行を受けた。兄が収容されて刑務所に連れてこられた12歳の少女は、裸にされて殴打され、兄に助けを求めて泣き叫んだ。(アルジャジーラ・カメラマン スハイブ・バズ氏の証言 英国ITVテレビ7日報道)。虐待を行った女性兵士サブリナ・ハーマン(26歳)は「イラク人たちは、手錠をかけられ、顔に袋をかぶせられた状態で連行され、裸にして何時間もたたせたり、ひざまずかせたりする一方で、協力的なイラク人は服やマットレス、煙草やあ温かい食事を与えた。私たち憲兵の仕事はイラク人たちを眠らせずに、刑務所を地獄にして自供させることだった」とのべ、虐待が上部の指示だったと述べた。マイク・シンダー軍曹(25)は「収容者を虐待することは普通のことでいつも起きていた。兵士たちは怒りを鬱積させとても攻撃的だった」と証言し、ラモン・リール憲兵は「頭にかぶせた袋には、”米国人を殺そうとしたが今は刑務所の中”といった侮蔑的な言葉が書かれ、女性兵士が拘束者の群れにパチンコを打ち込んだり、入ったばかりの14歳の少年を倒れるまで殴り続けた。軍の調査官が実態調査に入る1週間前にはあらかじめ予告され、それとなく証拠を消してうまくいった」と述べた。以上ロイター通信。
 英軍も例外ではない。ランカシャー連隊の英軍兵士は、「イラク人が殴られ蹴られる4つの事件を目撃した。或る伍長は袋をかぶせた被疑者に殴りかかり、彼の目に指を突っ込んだ。袋をとった後の顔を見ると鼻が曲がっていた」と証言し、袋を頭にかぶせられた上半身裸のイラク人に向かって放尿した(英紙デーリー・ミラー7日付け)。ラムズフェルドは此の期に及んで「写真の公表は単なる犯罪捜査にとどまらず、結果的に戦略的にも重大な影響をもたらした」としてメデイアを攻撃した。米政府は捕虜全てをジュネーブ条約の対象外としている。イラク人男性の首に革ひもを結びつけて犬のように引いたリンデイ・イングランド上等兵は、同じ虐待の加害兵士との間で妊娠して帰国した。バグダッドの米軍は、シーア派指導者ムクタグ・サドル師の肖像画の撤去を命令し、従わない市民を拘束している。イスラムを侮辱して虐待した米軍は、実は星条旗そのものを侮辱していることに気がつかない。非人道的命令は拒否しなければならない義務があるにもかかわらず。彼らはジュネーブ協定の教育を一切受けていないと述べた。

 イスラムシーア派指導者サドル師はナジャフ近郊の集団礼拝で「米軍が収容所でイラク人を拷問して喜んでいるときに、我々はどのような自由と民主主義を味わえるのか」と言い、バスラの集団礼拝では説教師が英軍の虐待写真を示しながら「英軍兵士を拘束し、殺害した者には賞金を出す」と述べ、殺害の指示はもはやヴィンラデイン等のテログループにとどまらずに、モスレム全体に波及している。
 ベトナム戦争での犯罪を描いた映画「7月4日に生まれて」のラストで、星条旗が斜陽の中で薄暗く翻っていた。40年前の唾棄すべき体験をまた米軍は繰り返している。彼らは学習能力がない。1度目でも許されないが、それを2度も繰り返している頽廃した米軍は直ちに組織を解散すべきだ。さらに人道支援をして人質となった同胞の自己責任を問い、懸かった費用の請求をした日本政府と、それに付和雷同しているジャーナリストに問いたい。あなた方は、このような恥ずべき軍隊の自己責任を問わないのか。堕落した軍隊を後方支援して恥ずかしくないのか。もはや問題を真摯に受けとめる一片の人間性すら残されていないのか。昨夜のTVで自衛隊が駐留するサマワでの自衛隊を歓迎するデモのシーンが放映されたが、自衛隊から金を貰ったイラク部族長が組織したということが見え見えであった。「虐待の罪大きさは謝罪をはるかに超える。虐待は米政権によるイスラムとアラブに対する軽蔑から引きおこされたものだ」(ムスタファ・オルフィーカイロ大学政治学教授)とか「我々はブッシュ大統領に謝罪を要求しない。求めるのは彼の辞任だ」(エジプト紙アルワフド8日付け)というように、事態の本質は米英占領軍対全イスラム国民の対決という構図になった。
 どうしたらいいだろうか。いまやここにきて、米英占領軍の単純な撤退と主権移譲では済まされない。虐待が軍情報部とCIAによる組織的なものであり、赤十字国際委員会の度重なる勧告を無視して行われ、米軍内部報告書でも事前に詳細に把握されていたからには、犯罪行為の客観的責任は明らかに米軍と米政府自身にある。最高責任者は、国連憲章違反・ジュネーブ協定違反・世界人権宣言違反の罪名で国際裁判(国際刑事裁判所或いは国連の組織する特別裁判所)の裁きを受けるべきである。自衛隊派遣の根拠が総崩れになったからには、戦争犯罪に加担した政府と与党の責任者も同様の裁きを受けなければならない。「自衛隊は米国の占領の基礎固めであり、米国を助けイラク国民に対して同じ犯罪を繰り返している」(アラブ首長国連邦アルバヤン紙)日本現代史の恥ずべきページを未来世代に残さないために、即座にスペインの道を選択すべきである。日本国憲法は厳然として生きている。(2004/5/8 20:11 9日一部追加)

[”目には目を 歯には歯を” 人を殺した者は誰でも殺されなければならない、アシュラ!!]
 BC18世紀にメソポタミアを統一したバブロニア王ハムラビが定めた282条の成文法典にある言葉。「もしもある市民が他の市民の目をつぶすならば、彼の目をつぶさなければならない」(196条)「もしも・・・歯をつぶすならば・・・・」(200条)が原文である。真意は、目をつぶされても報復は同じ目をつぶす行為で留めるべきだということであり、過剰な復讐の連鎖を防止する報復思想の原点とも云うべきものだ。楔形文字を刻んだ石碑は、バビロンの首都からイラン南西部へ持ち去られ、20世紀初頭にフランス人が発掘して現在はルーブルにある。バビロンの遺跡はイラク中南部ヒッラ近郊にあり、ポーランド軍が警備している。最も華麗な遺構であったイシュタル門は、発掘したドイツ人コルドバイが持ち去り、現在はベルリンのペルガモン博物館にある。サマワ東方1時間に楔形文字の最古形の絵文字を刻んだ粘土版が出土した古代シュメールの都市国家ウルク遺跡がある。バグダッド・イラク国立博物館の貴重な文化財15000点が略奪され、4000点が戻ったが展示室は空洞で一般公開はされていない。少なくともフランスとドイツ政府は略奪を謝罪して、法典と門をイラクに返還しなければならない。
 いったいブッシュが始めた戦争は何であったのか。フセインを倒して石油利権を中東支配権を奪取することと引き替えに、4000年にわたる人類の貴重な古代文明遺跡の宝庫を2度と復元できないまでに破壊し、その末裔であるイラク民衆を侮辱し殺害し、連動してパレスチナ民衆を虐殺しているイスラエルを支援しているだけではないか。彼は人類史においてヒットラーに比肩する最大の犯罪テロリストである。
 いましも3月に繰り広げられたイラク・シーア派最大の祭り「アシュラ」は、預言者ムハマド(マホメット)の孫であるシーア派第3代イマーム・フセインが、680年、アラブ世界を支配していたウマイア朝に対する反乱でカルバラの戦いで殉教したのを悼む祭典だ。メーンは武装した騎馬戦闘の壮観な野外の受難劇にある。十重二十重に取り囲んだ市民たちは落涙しながら英雄を追悼するが、果たして彼らの胸中には何が去来しているのか。同胞の囚人を辱め、虐ぶり続けている米兵への報復の決意か、イスラム聖地を占領している異教徒への憎悪か。いま日本ではフランシス・コッポラの娘が制作した『パッション受難』というイエス処刑を描く映画が封切られているが、宗教において悲劇的な死を遂げて崇拝される指導者は多い。ビンラデインは占領異教徒とその協力者に対する暗殺を呼びかけ、純金を与えると約束した。国連事務総長から始まって民間日本人の殺害に到る報酬は見事にランクづけられている。この情報の謀略性(フレームアップ)を確認しないまま、日本のメデイアは垂れ流しているが、すでにして復讐の連鎖が始まったのだろうか。
 イラクを学習すればするほど、イスラム文化圏は近代思想を吸収し宗教との共存を図る政教分離システムを構築しようとする先進的なグループが成長していることが分かる。彼らは無意味な復讐の連鎖を否定して、自決による民主国家と平和共存を構想している。しかしあの屈辱的な辱めを受けた民衆が、喪われた尊厳を回復するために、”目には目を 歯には歯を”を選択したとしても誰が非難できるだろう。占領に抵抗するレジスタンスをテロリストと呼んで殲滅作戦を展開している米軍と、それに加担している日本軍の根底には、イスラム現代思想に対する決定的な理解の欠如がある。(2004/5/8 10:11)

[アメリカの自由がどの程度のものか]
 マイケル・ムーア監督の9.11同時多発テロをテーマにし、ホワイトハウスのテロ対応やブッシュ一族とビン・ラデイン等著名なサウジ一族との関係に焦点を当てたドキュメンタリー映画「華氏911度(ファーレンファイト9/11)」(*)を配給停止にすると、米娯楽大手産業ウオルト・デイズニー(DIS.N)が傘下のミラマックス・フィルムズに伝えた。この映画はすでにカンヌ映画祭への出品が決まり、その後に世界上映される予定だが、これで北米での上映機会は失われた。ムーア監督は、高校銃乱射事件を取りあげた「ボウリング・フォア・コロンバイン」で03年度米アカデミー賞を受賞し、その授賞式で「ブッシュよ!恥を知れ!」と痛烈な大統領批判を展開したあの監督だ。筆者も授賞式の中継を見ていてアッと驚いた。場内のオーケストラ指揮者が慌てて演奏を始めてスピーチを消そうとしたが無駄だった。アメリカ民主主義のナイーブな奔放さとそれを許容する社会の成熟を改めて実感したが、ここにきて実はそれも虚妄であったのではないかと思う。なぜならデイズニー本社は、ブッシュ大統領の弟知事の州から巨額の補助金を受けており、この映画の公開でカットされることを恐れたのだという。以上ロイター通信5/6。
 大衆娯楽とはいえ大衆芸術の一端を担うデイズニー社は、基本的に権力から自立しているはずだ。米国自由主義を夢のように描いて世界に配給してきたデイズニー映画の限界がはしなくも露呈された。米国の自由主義とは、貨幣と利益と経営の枠の中でしか許されないのだ。9.11後の愛国者法によって、政府批判者は24時間の監視体制に置かれ、海外渡航は禁止ないし制限されている。政権による新たなマッカーシズムとそれを支える大資本という構図がみえてくる。アメリカ市民がこの映画の配給禁止に抗議し、上映を実現するかどうか、米国民主主義の内実を問うものとして、今後注目したい。*注:華氏911度は摂氏230度でグラタンを焼くオービンの温度に近く、紙の自然発火点として近未来の焚書の世界を描いたブラッドベリ『華氏451度』をもとにして、ムーアがつくった映画。(2004/5/7 19:45)

[虐待を受けるこどもたちとイラクー日本政府高官を虐待罪で告発しよう]
 親の事情で家庭では暮らせない子どもたちがいる乳児院は、家族に代わって24時間子供を預かり保育する児童福祉施設だ。生後1ヶ月未満から2歳までの子どもたち3000人が全国115施設にいる。この3000人の子どもたちは、現在の日本と世界の負を象徴している傷ついた天使たちだ。その90%は虐待が原因だ。赤ちゃんはうまくゆかない時に大人に泣いて助けを求めるが、ここの生後6ヶ月の男の子は何があっても泣かない。今までいくら泣いても親の応答はなく、ついに泣くことを諦めたのだ。多くの子どもは能面のように表情がなく、目は一点を凝視して動かない。抱っこすると全身がこわばり、決して寄りかかってはこない。触れあいをいやがり、机の下に隠れたりしている。人に甘えた経験がなく、絶えず殴られるのではといつもキョロキョロ周りを見て様子をうかがっている。多くの子はネグレクトで食事が与えられておらず、ガリガリに痩せている。浴室で熱湯を浴びせられてきた4ヶ月の子どもは、浴室に入っただけで大泣きする。夜な夜なつんざくような泣き叫びを繰り返す子どもがいる。これがGDP世界第2位の先進国で子どもたちが置かれている状態だ。この子どもたちは特殊な環境なのだろうか。
 学校へ行けば、自分がイジメられるのを恐れて誰かをターゲットにして虐めを繰り返し、そのあげく大量の不登校児が発生している。人と違ったり、なにか正しいことを云ったりするとムカツクとか云って攻撃対象となるから、つねに周りに合わせて強そうな人に従う行動が染みこんでいく。会社に入れば、欠陥製品を告発したり労働条件の改善を提案したりすると隔離部屋に入れられて口も聞いてもらえない、激しいバッシングが起こる。日本全体に少数者をいたぶる村八分の現象が蔓延している。皆さんの周りで、能面のように表情がなく、互いの接触をいやがり、人を信じる安心を失い、相互ネグレクト構造におちいっている雰囲気はありませんか。
 こうした日本の負の面の象徴が、怯えながら崩れ落ちるように帰国した高遠奈保子さんの姿だ。彼女は政府が支援してやまなかったイラクのNGO活動に長い間献身的に働き、その揚げ句に政府から見捨てられて自己責任を攻撃され、費用負担の請求書を示されたのだ。高遠さんの心境は、信頼している親から虐待された子どもと同じく、追い詰められた混乱状況でポッカリと空洞ができ悲鳴を上げている。明らかに日本政府高官(特に外務大臣)は、罪万死に値する虐待罪が成立する。この女性外務大臣は、NGO活動を主体とする国際貢献活動の最高責任者であり、手のひらを返すように高遠さんを裏切って攻撃しているのだ。
 自称ジャーナリストの一部が政府の子分のように追随して高遠さん等を攻撃している。権力から自立し、監視し、批判するという、真実のみに服従するジャーナリストの尊厳ある使命感は屑籠に棄てられてしまい、、哀れな頽廃した売文家に堕落している。実はジャーナリストの一部に、冷戦期に米CIAの秘密協力者としてメデイアで活躍の場を得ている者が多いと云われるが、その係留は綿々として今も続いているのであろう。
 恐ろしい写真がある。女性米兵が全裸のイラク人男性囚人に首輪を付け、笑いながら革ひもで引っ張っている写真だ。女性兵士はウエストヴァージニア出身で、放映後母親に電話で「間違ったときに間違った場所にいた」と話した。バグダッド・アブグレイブ収容所では大量のデジタル写真がCDに保存されて基地内に出回っている(以上米紙ワシントン・ポスト6日付け)。米軍に拘束された収容者のうち25人が、02年12月以来死亡した。1人は兵士による射殺、1人はCIAによる殺害、脱走を図った1人は殺害、12人は自然死か死因不明、残り10人は捜査中(以上米陸軍4日発表)。「そこで何が起こっているか、私たちは写真を必要としなかった、写真は衝撃的だが私たちの報告はもっと悪い、私たちは知っていたしアブグレイブで起きていることを抑制するよう米軍に勧告してきた」(赤十字国際委員会広報担当アントネラ・ノタリ 仏紙ルモンド6日付け)。虐待で処分を受けたフレデリック二等軍曹の妻は、「命令に従っただけで上官をかばうためにスケープゴードにされた、夫は命令され国の安全保障のためと思って実行した、通常は行わないことだと知っていた、責任者は夫が罪をかぶるのを隠れてみているだけだ」と語り、顧問弁護士は「虐待の写真は演出。彼は女性兵士と一緒にカメラに向かって微笑むよう、情報将校に指示され、これに従った」と語った(4日付け米TVインタビュー)。
 イラクでの囚人虐待、高遠さん等へのバッシング、日本の子ども虐待は本質的に共通している。それは、不正義な行為を恥じてストレッサーを貯め込んだ強者が弱者を集中攻撃することによって、瞬間的な快楽を味わうサデエイズムの心理にはまり込んでいることだ。上官の間違った命令には服従してはならない、自分のストレスを弱者に向けるのは恥ずべきことだーなどと最初の場面ではみな心の片隅で痛みを覚えているが、加担を繰り返すうち加虐の快感に転化して、もはやそれなくして意識が高揚しない無間地獄に落ち込んでいく。見て見ぬふりをする側にまわるのがせめてもの良心の証しだという悲惨な状況が生まれ、集団全体がファナテイックな暴走を始めていく。
 4月23日に始まった東大教官を中心とする人質への非難・中傷を止めるネット署名は、わずか3日間で4091人に達し、第1次集約分が政府に提出され、人質5人に届けられる。良心への浸食は必ず良心の反発を呼び起こし、それは灯台のように全国の闇を照射し、良心の回復をもとめるうねりとなって包囲するだろう。不安と希望が交錯するいまの日本は、最後の分岐点に向かってチキンレースを展開しているような気がする。(2004/5/7 9:47)

[動き出した汽車はどこへ行くのか]
 劇作家・福田善之氏のエッセイは日本の現状に対する志にあふれている(日本劇作家協会『ト書き』)。「汽車は動き出したら乗らなければない。それが分別というものだ」として、いまの流れに順応する風潮を嘆き、自由民権派が日露戦争時に雪崩のような転向現象を起こしたのと同じではないかと指摘している。憲法改正賛成65%(読売)・50%(朝日)と何れも戦後初めて過半数を超えた。しかしよくみると、解釈・運用で対応と厳密に守るを合わせた反対47%(朝日)、9条は変えない60%であり、護憲と改憲の流動的なせめぎ合い状態にある。しかし9条改正に等しい自衛隊のイラク派遣の現状の惨憺たる現状をみれば、集団的自衛権=米軍の奴隷軍という実態が明らかではないか。
 長谷川恭男氏(東大法学部)の憲法改正論議はひとつの盲点を突いている(朝日新聞6日付け夕刊)。
 現在の憲法改正論議で無意味なのは、@条文ごとの具体的な改正論ではない(仏憲法の大統領任期、米国憲法の上院議員選出など)、プライバシーや環境権も13条ですでに保護されているからいまさら改憲しても実定法上は無関係だ、A憲法9条の根拠にある国際貢献論は、他国に感謝されることを期待する幼稚な議論である。憲法は必要があれば変えればいいし、必要なければ変えないというごく普通の論議をすればいいのであって、なぜそうならないのか。一般市民の法に対する疎外感があるからだ。法が緻密になればなるほど市民は法が分からなくなっている。しかし最高法規である憲法だけは、専門家ではなく自分で動かせると思っている人が多い。(社会と法の現状に対するいろんな思いを込めて、すべて憲法に流し込む意識が生まれているーこの部分は筆者)。所詮憲法も法であり、条文の解釈運用は専門家の手に委ねられる。憲法も普通に考えればよい。
 最近の風潮として「ふつう」という言葉で論議を収束させる傾向がある。長谷川氏の論議も「ふつう」をくりかえすが、こうしたあいまいなタームで原理を処理しようとするのは実は思考欠如を示している。しかし長谷川氏の論議の内容自体は正しい。或る意図が先行して後づけで合理化するやりかたは、憲法の内容を具体的に掘り下げて論議することを回避しているのだ。その点で国民全てが憲法の全文を詳細に検討し、自分自身の頭で主体的に判断することが望まれる。ただし、長谷川氏の云う、解釈運用は専門家の手に委ねるーというのは間違いだ。解釈運用過程にも当然国民主権の原理によって国民自身が参加するというのが正しく、その解釈が分かれたときには司法に従うというのが国民主権の制度的保証である。
 私の乗る汽車は、後方へ逆行する汽車ではなく、前方へ向かう汽車であり、ただ単にみんなが乗るから乗るのではない。(2004/5/6 19:48)

[A Message forJapan`s Article 9`s birthday May 3,2004 by Dr.Chuck Overby]
 How very sad your Japanes(e government has once again capitulated to my United States government in the continued desuturuction of your war-renouncing constitution`s Article 9 wisdom.By sending Japanese soldiers to Irag to help rescue the USA from its stupid,destabilizing,and very dangerous Irag preemptive war folly and the resultant quagmire in which it now finds itself-your Koizumi goverment has demonstrated its continued subservience to US interests.
 There is a huge worldwide need for trained humanitarian relief skills work that can tap the creative ideals of youth-something impossible to do by giving our youth military training in how to kill and destroy.
 オハイオ大学のチャック・オーバービー博士から3日の憲法記念日に贈られてきたメッセージの一部です。全訳は第9条の会へどうぞ。新たに「21世紀へのメッセージ」第6エッセイ集を始めるにあたって、その冒頭に置かせて頂きました。(2004/5/5 16:40)

[戦争の民営化と戦争の犬たちー究極の新古典派マクロ経済]
 3月末にバグダッド西方55kmのファルージャで殺害された米国人4人を喚声を挙げて死体を引き回し陸橋に吊した映像を御覧になった方は多いでしょう。彼ら4人はブラック・ウオーターという警備会社の社員であり、冷戦崩壊後に米海軍特殊部隊出身者が設立した軍事行動も引き受ける傭兵派遣会社であり、ゲリラ・特殊作戦のベテランを集めた軍事専門の民間企業である。イラクには、こうした私兵の警備員を派遣している民間企業が、英国・南アを含めて20社余り営業しており、その兵数は2万人とも云われ英国軍の数を抜いて米軍に迫る量だ。傭兵の給与は高級であり、年俸10万〜20万ドルで、現地では経験と能力によって500〜1000ドルの日当がプラスされている。米国政府がこれらの警備会社に支払っている金額は、イラク派遣総予算180万ドルのうち10%程度を占めている。しかし最近の情勢悪化で最前線に立たされることが多く、25%程度まで膨張すると云われている。
 囚人虐待が行われたバクダッド・マグレイブ刑務所の取調官は未経験の民間企業社員に委託され、米軍は規定尋問数を達成しないと罰則を付加するので、会社は実績を上げるために調理師や運転手まで取調官として総動員し、その結果として日常的な虐待がおこなわれた。

 かって絶対主義王政まではスイスに典型的な傭兵軍であったが、ナポレオンによる徴兵制国民軍の結成によって、戦争は一国王のためではなく、祖国防衛に命を捧げる近代戦へと移行して、少なくと傭兵部隊は表面には現れなくなった。混乱期アフリカで部族長の傭兵が活動した時ぐらいであり(フォーサイス『戦争の犬たち』)、民間企業も軍隊の兵站やロジステックスという周辺的業務を担当し、戦闘自体の主力となることはなかった。ところがイラク戦争では、軍隊と緊密に結びついて軍事業務の中枢に参加するようになった。彼らは正規軍ではないので戦争法規の制約を受けず、会社の戦闘服で最も危険で汚い分野を受け持っている。バグダッド刑務所で捕虜に対する虐待行為に参加したのも彼らだ。

 さてこうした戦争の民営化をどう考えたらいいだろうか。
 @新古典派マクロ経済の主張する公共部門の民営化の究極の形態である。軍隊は、合法的な殺人技術を最も高度化した学習・実戦組織であり、その根拠は祖国防衛という崇高な目的にあるから、経済学的には最高の公共財的性格を持つ。彼らの身分は特別権力関係に組み入れられた特別公務員であり、合法的殺人の免責特権を与えられる代わりに、戦争法規を厳格に遵守し、国家命令に対する反逆は抗命罪として裁かれるという無条件の服従義務がある。
 こうした軍隊の公共財性は重い財政負担を政府にもたらし、政府は非戦派志向の国民と常に争いながら、軍隊を維持し経営していかなければならない。現実の軍事行動はさまざま規制を受けて、自由な作戦と戦闘行動を制限される。ここから財政負担を低減し規制から解放された自由な軍事行動を実現する軍隊の民営化戦略が推進された。私企業は、殺人という最高のリスクと引き替えに利潤を極大化する営利行動をおこなう。その利潤最大化の根拠は、鉄道や郵便局の民営化と異なり、究極の価値である「いのち」の対費用効果を計算できるからである。
 A私企業がおこなう戦争は、いままでの戦争の性格を一変させる。軍隊私企業は次々とアウトソーシングを外延化し、最もリスクが高い戦闘と汚い分野は、表面には出ない非上場企業によって地下行動のように担われる。いままで暗殺行動は殺人プロとの秘密契約でおこなわれてきたが、もはや非公式契約を交わした民間企業が担っていくことになる。
 B民間企業が担う戦争行為は、公共機関の指揮と統制から自立し、国民主権による議会からの統制からも解放される。戦争という国家機関が担う国民国家の最大の公共行為が、国民主権のコントロールを受けない私行為となり、多国籍企業が主体となった戦争のスペクタル世界が到来する。
 C軍隊の民営化は、社会全体の公共部門の駆逐と民営化をもたらす。すでに犯罪社会米国では公共警察の安全システムがマヒし、市民自警団や民間警備会社による安全システムが急速に進行し、高級住宅街はフェンスと壁を構築して専門会社が警備している。日本でのセキュリテイー・ビジネスの急成長はその端緒的現象に過ぎない。
 結論的に云えば、「生命」という最も貨幣換算不可能な価値を相互に市場で奪い合うことは、他者の生命の剥奪を貨幣換算するという究極のモラル・ハザード社会をもたらすだろう。すでにそれは臓器売買ビジネスとして蔓延している。
 米ABCTV・ナイトラインは、虐待に関する2つの心理学実験を取り上げて虐待心理を説明していた。1つは有名なスタンレー・ミルグラム実験で、権威ある教授の命令に従って被験者に高圧電流を流し続けるというものであり、もう一つはスタンフォード大学の学生を看守と囚人に分けて刑務所生活を過ごさせると1週間で看守役の学生は権力をカサにして囚人役の学生に対する可逆的行為に及ぶというものだ。なぜABCTVはこうした実験でイラク虐待事件を説明できると思ったのだろうか。これらの実験は、どのような善良な市民も権力や権威の命令には服従して想像を超える加虐を行い得るということを証明するものであり、人間の深層に潜む本質的心理だとして結果的には免罪する効果しかない。心理過程がどうであれ、犯罪責任は客観的であることにこそ注目しなければならない。第2次大戦のB・C級戦犯の有罪は、上官の命令が人道に反するものであったら毅然と拒否する責任があるというものだった。(2004/5/6 8:40)