21世紀へのメッセージ 2003/9/13〜2004/5/3 第5エッセイ集(トップページへ戻る)


[5月3日の街をゆく]
 連休3日目の憲法記念日は曇天であり、自由民主党の改憲案の骨子が発表され、結党50周年に向けて本格的なスタートが切られた。名古屋の街を車に乗っていくと、2つのグループに出くわした。1つは10人弱の学生グループが大勢の警官に囲まれて、宣伝カーにB紙で「平和憲法を守れ」とたどたどしく書かれた後をバラバラになって、デモというより三々五々歩いていた。私の学生時代と較べて様変わりだ。私もデモの経験があるがこんな少数の行進を見たのは初めてだ。なにかうら哀しくなって横目で見ながら車を早めた。大通りに出ると、大型のバスを装甲した真っ黒におどろおどろしい字でスローガンを書いた右翼の宣伝カーが、大音響で軍歌を流しながら憲法擁護集会を粉砕すると威嚇して30数台が圧倒的な迫力で行進の準備をしていた。暗青色の戦闘服の集団が路上で集合している風景は近寄りがたい危ない雰囲気がある。こちらのほうに警察官の姿はない。演説はかっての絶叫調ではなく、どちらかと云えば説教調で「アメリカに安全を委ねて恥ずかしくないか。自主憲法を制定して自主防衛体制をつくろう。奴隷の憲法を守る護憲集会に強く抗議する」とそれなりに筋の通った訴えをおこなっている。かっては日の丸と星条旗を両方掲げていたが、いまは星条旗がない。
 世を挙げての改憲ムードの中で、真っ黒い装甲車があながちアナクロニズムに見えない。議会内の憲法擁護派が少数派に転落し、改憲勢力が声高に改憲論議を重ねていく時代潮流を反映しているのだろうか。フト想像した。あの暗青色の戦闘服集団は、遠くない日にはみすぼらしい学生集団を襲撃して徹底的に痛めつけ、市民は遠くから怖がってそれを眺める日が来るのではないだろうか。70数年前に茶褐色の戦闘服に身を固めたナチス突撃隊が、反対派市民を襲撃して血祭りに上げたドイツの街と同じ光景が来るような予感がした。自由に意見を言うことが実際にはじょじょに困難になって、身を引いていく状態があなたの身の回りにもありませんか。(2004/5/3 15:51)

[人質事件を契機に21世紀の日本を考える(15)]
 バグダッド・アブグレイブ刑務所におけるイラク人虐待事件の概要は次の通りです(米誌ニューヨーカー電子版)。
@昨年10月から12月にサデイスト的で露骨な犯罪的虐待が、第372憲兵中隊と情報機関員によって行われた。同中隊は03年春にイラク入りし交通を担当後に10月から刑務所担当になった。兵士は、CIA等の情報機関員からトイレや水道、窓もない独房に裸で押し込め3日間放置するよう指示され、良い情報が得られるとよくやったと称賛された。楽にさせてやれ・いやな夜にさせてやれ・ちゃんともてなしてやれと虐待を示唆され、尋問にふさわしい体力と精神状態を整えるよう積極的に要請された。
A▽リンを含む液体をかけた▽箒の柄や椅子で殴打した▽軍用犬で脅しかみつかせた▽自慰行為をさせて見学した▽裸の人間ピラミッドをつくらせた▽頭から袋をかぶせて性器を露出させた▽電線を身体に巻き付けて箱に立たせた▽裸にして冷水を浴びせる▽男性に対してレイプするぞと脅かす▽ほうきの柄で性的暴行を働く▽裸の男性収容者に女性用下着を履かせる▽複数の男性収容者を裸にして集め性的陵辱行為をおこなう▽女性収容者を裸にする▽拷問で死亡した囚人を袋に詰めて氷りづけにして放棄する

 戦場における非人間的行為の発生一般に還元するのではなく、なぜこうした行為が米軍に発生しているかを分析したい。とくに女性兵士があざ笑っている姿が象徴的だ。正義なき軍隊は死の恐怖を肯定的に突破できず、戦場において尊厳を失う。志願制で編成された米軍兵士は、アメリカ社会の下層を主体に編成されそれ自身トラウマを抱えている。アングロ・サクソン型思考は、異文化に対する優越感と蔑視意識が強く(十字軍いらい)、米国下層市民の異文化認識水準は絶望的に低位だ(アホでマヌケな米国市民)。米国軍隊のトレーニング水準の低下(ジュネーブ条約は教育されていない)。米国本土社会そのもののモラル・ハザードの蔓延(殺人率、麻薬使用率、婦女暴行率)とその外延化。死亡米兵士帰還に対する政府の冷酷な視線。優れたモラル水準を示すイスラム兵士への困惑。ベトナム体験世代の減少による戦争体験の非継承。虐待はこれらの複合的な集積の結果であるでしょう。ブッシュ大統領はこのニュースが流れる2分前に「我々はフセインを排除するという任務を達成しました。その結果、イラクから拷問部屋やレイプ部屋、大量虐殺がなくなったのです」と戦闘終結1周年記念演説で述べた。このおそるべき非対称性の世界!
 イラクの刑務所に収容されているイラク人は、国際戦争法の捕虜身分ではないからジュネーブ条約の適用を受けない。いわば米軍が私的に拉致して収容しているに過ぎなから、尋問はMP以外にもCIAや民間契約会社の要員が公然とコンサルタントとして参加している。囚人への尋問は、民間に下請に出されているのだ。最も重大なことは、この事実は1月に内部告発で発覚した後、正式の報告書が国防総省に提出された後も黙殺され、民間TV局の報道で表面化したが、米政府首脳は謝罪せず末端兵士の「自己責任」を追求していることだ。

 さて日本にとっての最大の問題は、米兵士による虐待と本質的に同じような精神構造が現代日本に蔓延していることです。すなおな正義感と目的意識で果敢に献身的に行動する若者を見て、我が身との違いに嫉妬しジェラシーを感じて、苦境に陥った若者をイジメ、バッシングしていたぶる快感を覚えている。日の丸・君が代の強制を拒否して起立しない教師を寄ってたかって虐めている構造と同じく、ファナテックなファッシズムの心情が忍び寄っています。ナチス突撃隊のメンバーは、失業下層市民のトラウマを組織してユダヤ人迫害にはけ口を爆発させたのです。ひょっとしたらイラク捕虜の人間ピラミッドの裸群を見て快感を覚えた人はいませんか。イラク派遣自衛隊員が同じような虐待をしないという保証はありません。本質的に虐待を行った加害者も、実はさまざまの要因を抱える被害者であるのです(戦争犯罪者として責任をとらねばなりませんが)。しかし米ABCTV番組ナイトラインは、戦死した700人の名前を40分以上かけて一人一人読み上げる特別番組を放映した。ここには明らかに米国市民の良心があり、いまの米国が深刻な分裂におちいっていることをしめした。未来が何れにあるかは明確ではないでしょうか。(2004/5/3 9:08)

[漂流する日本ー憲法記念日を迎えて]
 明日は憲法記念日です。与党幹事長は訪米して米国政府に改憲を宣言しました。自国のアイデンテイテイそのものである最高法規の改正を他国の首脳に誓うという信じられないような国家主権に対する矜持の喪失です。憲法に対する考えがどうであれ、外国の首脳に対して、自国の憲法を貶めて恥じない感覚はもはやステイツマンの条件を喪失しています。自らは無自覚であるところに、救いがたい下劣さを覚えます。自国の最高法規をけなす指導者を見て、外国の首脳は心の中では最も軽蔑すべき対象だと実感したでしょう。ここには外交の基礎的な条件を失った恥ずべき人間が立っているだけです。日本に対する国際的な評価は、奈落の底に沈んでいます。
 経済レベルでの指標は、日本国債の格付けです。米国のスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は、02年4月に日本の長期国債を先進7ヶ国(G7)最低の「AAマイナス」というアフリカ最貧国レベルに引き下げていましたが、今年4月24日には「ネガテイブ(弱含み)」から「安定的に」と少し上方修正しました。しかし「AAマイナス」自体は修正せず、慎重な判断を崩していません。S&Pと並ぶ大手格付け会社であるムーデイーズ・インベスターズ・サービスは、02年5月にボツアナ以下に引き下げ、いまも同じ評価です。つまり米国国債を地獄の底まで買い続け、巨額の赤字財政を抱え、大銀行と大企業がいとも簡単に倒産する日本国家を全く信用していないという冷厳な現実があります。
 政治レベルの指標として、韓国総選挙で圧勝したウリ党議員対象の調査を見ると、最も重視する外交通商相手国として、日本を挙げたのはわずかに2%であり、圧倒的に中国重視の回答を示しました。小泉靖国参拝に強く抗議すべきという人が40%に上り、外交摩擦を覚悟して小泉首相に抗議すべきだというのが40%に達し、外交摩擦は避けて小泉首相に抗議すべきだというのが43%であり、合計83%が小泉首相への反対を表明している。つまり経済的にも政治的にも、日本政府は国際的な信頼をほとんど喪失しているのです。おそらく短絡的な反発が右翼から上がり、憲法改正が多数を制してきた日本の世論からは、強者にすがる下からのファッシズムの心情がうかがえます。5月3日をひかえて、冷静に現在の日本を考え、日本国憲法をすみからすみまで自分の頭で読み切ってみようではありませんか。ほんとうにこの憲法を改正する必要があるかどうか、自分自身の頭で結論を出しましょう。(2004/5/2 1:05)

[あなたは五十嵐顕氏の最後を知っていますか]
 五十嵐顕氏は、日本の戦後民主主義教育理論構築の先駆者であり、、東大退官後に中京大で教鞭を執られた。氏の最後は劇的な幕切れであった。名古屋で催された戦争を考える集会で、南山高校生の質問に答えながら絶句して脳梗塞で息を引き取られたのである。その最後の瞬間の状況が安川寿之輔氏によって語られている(『五十嵐顕追悼集』同時代社)。1995年9月17日「高校生と『聞け、わだつみの声』を見よう」という集会であった。以下は1995年9月20日の安川氏の弔辞から(概要)。

 ドイツ人は、ホロコーストに関わった人は親しい人でも告発し、証言台に立って事実を伝えますが、あなた方は同じことができますか? 同じ問いを自分自身に問いかけることで、自らの命を絶った。或る高校生の質問で「戦時中に疑問を持った人は、どう考えていたのか?」に答えて、自分は突き詰めて考えていなかったと怠慢であったと云います。他の人よりも知的に考えることができたのに、考えようとしなかったーと云います。自分は豊橋予備士官学校を首席で卒業し、侵略軍の少尉として区隊を指揮し、50年後にそれを表明して、この怠慢はじつはおさまりがついていないんだーと自分を責め、僕が手榴弾を投げるとき、投げないと僕の連隊は全滅するわけです。隣の戦友が死ぬ分けですね。その、そういうその、小さな仲間の中の・・・・・というところで万巻胸に迫り、絶句しながら倒れられた。その瞬間、顔色が変わり、表情が歪みながら、マイクを握ったまま崩れるように倒れられました。

 実に壮絶な最後である。以て瞑すべきである。戦争責任とはかくも十字架として人生の最後まで背負うていかねばならないものなのか。記憶の文化が余りにも薄っぺらになっているかのいまの日、五十嵐氏の渾身の訴えは重い。実は私の妻もこの集会に出席しており、氏の最後の喧噪を見ていたのである。思想の重厚さがとみに衰えていくこの頃にあって、どのような最後を迎えるべきか、つくづくと考えさせられた。(2004/4/30 20:51)

[人質事件を契機に21世紀の日本を考える(14)]
 28日にアフガニスタン国際戦犯民衆法廷(京都)でイラク失業労働者組合のアムジャッド・アルジュハリー、アソ・ジャバール両氏の講演があった。私たちが得ているイラク情報は、FOXやCNNなどの欧米系メデイアによるものが多く、かなり偏向していると感じたので紹介します。

 現在のイラクの政治勢力は@米英占領軍Aイスラム政治主義(バース党の残党)B人道主義と自由を求める勢力の3グループに分けることができる。Aのグループはムスリム宗教グループではなく、イスラム原理主義によるシャリア法の強制や女性を2級市民として位置づけベールをかぶらせるなど当地評議会に参加しつつ、占領批判を行っている。このグループの占領批判は、占領自体ではなく占領下で権力から排除されていることに抗議している。彼らのレジスタンスは、米国との権力分割に最終目的がある。Bのグループは、イラク民衆の80%を占め、失業者組合や女性の自由のための団体、労働組合、イラク共産党などが共同した政教分離の民主主義を実現する運動を展開している。直接目標は、占領軍の完全撤退と宗教と地域の分裂を克服する政教分離政権の実現にある。現在の統治評議会は、宗教と民族代表の傀儡政権に過ぎない。私たちが実現する政権は、政治的自由と基本的人権を保障する。私たちのメンバーの多くは、35年間にわたる弾圧生活を経験し、自由と権利、特に男女の平等権の実現をめざしていま25万人を組織している。
 欧米のメデイアは、イラクの状況をファナテックな宗教世界と描いているが、70年代までは中部から南部のシーア派が強い地域ではムスリムが全人口の60%を占めていたが、そのうち55%はイラク共産党に属していた。これに対しイスラム原理主義グループは、イランやサウジとタリバンからの支援を受け、決して草の根の層ではなく民衆とはつながっていない。イラクでイスラム色が強くなったのは、サダムが大々的な宗教キャンペーンを展開して大勢がモスクに集まるようになったからだ。シーア派とスンニ派が対立している印象があるがそれは違う。サダムがシーア派を抑圧したというのは、80年代にイランによってつくられてイラクに持ち込まれたものであり、米国の分裂支配のための宣伝という傾向が強い。


 この講演内容が真実に近いとすると、私のイラク認識はかなり曇っていたということになる。イラクの民衆の近代化がかなり進み、必ずしも原理主義は支持を得ていないということ。さらに近代国家を再建する主体的な力量を蓄積しているということである。米占領軍の占領政策が失敗しているのは、こうした現代イラクの政治社会の状況を正確に学習し、政策立案に活かしていないことにある。イラン原理主義政権を攻撃するためにフセイン軍を支援し、それが失敗すると逆にフセイン打倒に走りイラクを混乱に陥れるという、基本的に戦略性が欠落したプラグマテイズムにある。公職追放した旧バース党員を復活させるなどは最たるものだ。結論的に言えば、トライ・アンド・エラーのプラグマテイズム思想の有効性がためされ、そして破産したということだ。(2004/4/30 17:50)

[人質事件を契機に21世紀の日本を考える(13)]
 陸上自衛隊が駐屯しているサマワの地元紙アル・サマワが22日に行った自衛隊に対する世論調査の結果を紹介します。

○自衛隊の活動はサマワ市にとって有益か?  はい43% いいえ51%(*初期は肯定が86%に上っていた)
○自衛隊の駐留を望むか、撤退を望むか?   駐留49% 撤退47%
○外国軍のイラク到来は侮辱か解放か?    解放43% 侮辱40%

 ファルージャを包囲している1500名の米海兵隊が27日に再び無差別攻撃を開始した。大型地上攻撃機AC130、F16戦闘機、武装ヘリを総動員しての無差別爆撃とクラスター(集束)爆弾による残虐攻撃だ。1500名の海兵隊の半分は日本の沖縄基地から飛び立った。抵抗勢力に本格的な軍事力があれば、とうぜんに沖縄を攻撃するだろう。なぜ日本の市民派は沖縄問題に関心が弱いのか? 日本市民はファルージャ攻撃に加担している構造になっている。上記の自衛隊に対する支持の激減は、こうした加担としての戦争責任を問いかけてくるようだ。
 米軍兵士は高性能銃を手に、ゲームを楽しむスナイパーのように女性や子どもを射撃している。こうした行為に耐えられない兵士は、精神状態が不安定になって逃亡と従軍拒否や自殺者が激増している。その速度はベトナム戦争をはるかに上回る。星条旗に包まれた遺体は、故郷に帰っても無視され歓迎されないから冷ややかに遺族に引き渡される。
 日本の国内では、年金の掛け金を支払わない閣僚が続出して、国民からの強制的徴収方法を議論して強行採決を行っている。人質が命の危険に直面すると、まず被害者と家族の思想調査を行い、政府批判を攻撃する反日分子と規定した。命よりも服従しているかどうかが大事なのだ。日本の全線で究極のモラル・ハザードがすすんでいる。ある宗教原理主義団体の最高幹部の発言は、人の死に対する浅ましい下劣な言辞に溢れている。しかもこれは機関紙上での公的な発言なのだ。

 「○○が今日10日に死んだそうだな」
 「死相もとにかく悲惨だったようだ」
 「まさに堕地獄そのものですね」
 「××も死んじゃったが最後は悲惨だったな」
 「モルヒネで意識不明となり、結局2ヶ月もの間、そんな状態で死んでいったそうだ」
 「△△という嘘つき爺さんがいたな」
 「あいつは今年5月に死んだらしい」
 「本当にいやらしい男だったな!」
 「◇◇のヤツ、ひっくり返ってどっかの病院で寝込んでいる」
 「敗北者の人生だ」
 「仏罰は厳しいな!恩知らずの反逆者の末路は本当に厳しい。例外はない」
 「当然の報いだ」
 
 いまこの国では憲法改正の本格的な動きが始まっている。権利ばかりを主張せず、迷惑をかけない普通の人だけを国民とみなし、社会に違和感を持たない、いつもニコニコした葛藤のないクニをめざそうとしている(文科省副読本『こころのノート』)。異議を申し立てたり、個人を主張したりする人は受け付けない「普通の全体主義」が蔓延している。人質を迫害する日本が国際的に異様で奇異なものに写っている。なぜこうなったのか。個と個の連帯が衰弱し、嫉妬と不振で互いの足を引っ張る関係が、隣人への恐怖と不安をあおるなかで、強い国家に寄りすがろうとする雰囲気を誘発させた。以上は酒井隆史氏の分析(朝日新聞29日)ですが、さらになぜ個の分断が誘発されたかの要因を分析することが必要です。明らかに竹中・新古典派シカゴ学派による無制限競争原理の導入に他なりません。自分だけ生き残るためには、イジメる側に加担しないと、自分もイジメの対象になってしまう地獄の悪無限の状態が引きおこされています。近代憲法の原理は、権力者を縛り、国民の権利を確保するために政府が勝手なことができないようにつくるのですから、ここにきて日本は近代そのもの否定するラインにまで後退をしてきました。未来の子どもたちにこうしたクニを手渡すのでしょうか、私たちは。(2004/4/29 10:34)

[人質事件を契機に21世紀の日本を考える(12)]
 撤退を要求するデモを首都で行えーさもなくば人質を殺す、もしこれが日本に対する要求であったらあなたはどうしますか? 要求犯は国家と市民の区別の認識に質的な違いがあるようだ。イスラム共同体の意識が強い文化圏では、国家(政府)と市民の区別が弱く、逆にいわゆる先進国では国家(政府)と市民の関係が希薄で、国家が派遣している占領軍に対する市民の責任意識が弱い。イスラム圏から見ると、占領軍を派遣している国家と市民への同一視の傾向が強いのだろう。さらに戦争の民営化によって、警備のアウトソーシングが進み、民間警備会社が本来的には軍隊が遂行する警備行為を民間人が武装して行っているから、たとえ民間人といえども占領軍の一翼を担っていると客観的にはみなされてもやむを得ない。今回のイタリア人の人質は、武装したガードマンであり、ボランテイアとジャーナリストである日本人とは基本的に異なる。従って私がイタリア人であるならば、自発的な撤退要求のデモは行うが、誘拐犯の要求に応じるようなデモは拒否する。
 さて日本国内では人質を非難する高踏的議論が登場してきた(中西寛氏 朝日新聞26日夕刊)。その内容の概略は、@人質救出の特殊部隊を派遣するよう求めるべきであり、政府の対米支持と自衛隊派遣を批判するのは政治的なキャンペーンである、A市民派は普段は反政府を標榜しながら、問題が起こると責任を政府に押しつける権力万能主義という矛盾に陥っているーとする批判である。政府の救援も危険な業務命令でいく政府職員の安全があるから限界がある。イラクの人を救う本当の活動は、イラク人自身によるイラク政府の樹立であり、日本政府に協力する意識がない世界市民主義的活動は影響力がない。以上が中西氏の立論である。
 国際政治学者の理論水準がこの程度とは実に哀しくなる。国際連合自身が、軍服を着た支援は無意味だとする国際的なスタンダードすら理解していないし、現地イラク民衆自身が軍隊ではなく民間ボランテイアを求めているリアルな現状を理解していない。基本的には今次イラク戦争が国際法違反の戦争犯罪であるという初歩的な国際政治学の認識がない。現在の京大法学部の主流が親米プラグマテイズムのパワー・ポリテイックス理論であり、こうした高踏的に偽装された対米追随思想が登場するのは不思議ではない。滝川事件に象徴される歴史的光栄はとっくに失われているのだ。主権概念を基礎から勉強することをお勧めするしかない。(2004/4/27 23:31)

[巨人はなぜ低迷するかー自己責任型競争原理の陥穽]
 史上最強打線を豪語して優勝候補の最右翼であった巨人が、いまや防御率がリーグ最下位となって、単独最下位に低迷している。直接の原因は無能監督の投手起用策の失敗にあるが、基本的な原因はフロントの球団経営戦略にある。他球団の4番打者を莫大な年俸で集めながら、他方では投手の補強と育成をネグレクトし、前監督を根拠なく交代させるという権威主義的なトップダウンの経営手法によって、プロ球団の前提であるフロント=ベンチ=選手の協働と信頼関係が崩壊してしまったのだ。コーポレイト・ガバナンスにおける人材輸入の短絡的な導入によって、人的資源の内部養成システムがゆらいでしまい、選手個々の相互に刺激し合う競争の方向性が不透明となり、いわば開発輸入型成長と内発型発展のバランスが崩れてしまった。自己責任原理による競争が支配的となり、集団スポーツに不可欠の協働関係が疎外されてしまったのだ。分かりやすく言うと、個人スポーツの論理を集団スポーツに持ち込んで、選手個人は卓越した力量を持っていながら、内的なコミュニケーションの繋がりを持たない機械的に集められた群れとして、相乗効果が期待されない、経済学で言うところの「合成の誤謬」が誘発されてしまった。ズラリ4番打者が揃っている中で、だれがバントをするだろうか。1番打者からホームラン狙いで本塁打数はトップだが、チームプレーは軽視されてしまう。
 巨人球団がつねにその時々の日本社会のシステム全体を象徴してきたことをみれば、実は現在の日本そのものが低迷する巨人球団化しているのだ。企業経営は高度知的労働を行う正規社員に絞り込まれ、縁辺部分は派遣・パート労働とアウトソーシングをおこない、初歩から自覚的に地道な努力を積み重ねて熟練社員に到るという本来の経営は吹っ飛んでしまっている。社内は実に砂漠のような冷ややかな雰囲気がただよい、同僚を振り落とすための醜い成果主義賃金によってニンジンの競争が行われている。
 ひるがえってイラク問題を見ると、自衛隊とは別個にオリジナルな人道支援を行うボランテイア活動家は、異端半日分子として迫害され派遣労働者の扱いすら拒否されている。ある与党議員が国会で、「人質の中には自衛隊派遣に反対している人もいる。こんな反政府・反日的分子のために血税を用いるのは強烈な違和感、不快感を抱かざるを得ない。解決のために、政府、官邸の機能が妨害、寸断された。事態によっては致命的な国際政治への影響を与えた可能性をもあり、無事解決してよかったでは済まされない。」と述べた。ここには政府批判自体を封殺するファッシズムの本音があからさまに覗いている。政・官・財・市民の協働とコラボレーションによって、人道支援を成功裏に推進しなければならない状況にあって、政府批判を許さないということは、まさに権威主義的ナベツネ巨人の球団経営戦略に酷似している。政府が解放された人質に請求する自己負担金は260万円であるという。ドバイでの診療費・宿泊代・航空運賃・滞在費などである。これに対し北海道知事は、家族の待機場所であった北海道東京事務所の職員の時間外手当の負担を家族に求めないことを明らかにした(以上毎日新聞27日電子ニュースから)。地方自治体はまだまだ住民に寄り添う姿勢が見える。アメリカのマスコミは、日本語の「自己責任」と「お上」にふさわしい英単語が見つからないので、それぞれ外来語として、JIKOSEKININ・OKAMIを使っている。(2004/4/27 9:29)

[沖仲仕の哲学者 ERIC HOFFER『Working and Thinking on the Waterfront』]
 アメリカにもこういう修道院型のデンカーがいたんだ。エリック・ホッファーは1902年ニューヨーク生まれで、15歳まで盲目で視力を回復した後から猛烈な読書と執筆活動を始めた。小学校も行かず、さまざまの肉体労働を経験し最後は沖仲仕で生涯を終えている。世界的なベストセラーとなった『The True Believer』(1951)で哲学者としてデビューした。彼の表現方法はモンテーニュ型エセーであり、透徹したアフォリズムが散りばめられている一方、冷戦イデオロギーでは反ソ・反共という限界を持っているがこれはやむをえない。本書は、1958年6月からほぼ1年間の日記であり、日本では『波止場日記』という題名となっている。私が驚いたのは、ほぼ毎日朝から8時間の荷下ろし労働を終えた後に、読書と思索に打ち込む生活である。場所は20世紀アメリカであるが、生活スタイルは中世修道院の労働と祈りに近い。しかし彼の欠陥は、シモーヌ・ヴェーユのような労働そのものの省察がなく、労働と思索が架橋されていないことだ。最後に彼の思索の一部を示そう。(2004/4/26 8:53)

 12月 7日

 トロッキーの『亡命日記』を今読んでいる。いつまでたっても子ども。彼はまじめと献身の徳に最も高い価値をおく。技術者はイヤイヤながらでも機械をつくることができるが、詩はイヤイヤながらつくるわけにはいかない、と彼は言う。人間は遊び半分に機械や詩を作るといったことは、彼の頭に浮かばなかったようだ。個人的な悲惨さ、弱さ、あらゆる不実と卑劣さーを超克する偉大な思想を人間が持たない限り、人間は品位ある存在になりえない、と彼は確信している。トロッキーのような人間は、騒ぎ立てたりもったいぶったりせずに世の中の仕事を行う膨大な民衆は道徳的に品性下劣であると考える。斧を振り上げて人類を動かすことを神聖な義務と考えるひとりよがりの魂の技師たちに対して、私と同じように嫌悪を抱いている人はどれくらいいるのだろうか。

  4月21日

 知識人は教師であり、無知な大衆に何を為すべきかを説くことを自己の神聖な権利と考える。教えたいという熱情が現代の革命運動興隆の決定的な要因である、と私は確信している。革命家がある国の権力を握るとき、ほとんどはその国をおどおどした囚われの身の生徒が彼の足下にまとわりつく巨大な教室に変えてしまう。彼が口を開くと国中が耳目を傾ける。


[山浦玄嗣 ケセン語訳『新約聖書』(イー・ピックス)]
 実に驚くべきオリジナルな業績だ。岩手県気仙郡在住の医者である山浦氏が、気仙方言をケセン語と称して、新約聖書・福音書をすべて方言に訳してしまったのだ。氏はこの訳業に「ケセン語辞典」編集から始めて50年の歳月を費やしたという。この仕事の画期的な意義は幾つかあると思いますが、私は4つほど取り上げてみたいと思います。
@日本のキリスト教信仰人口の1%の壁を突破する土着化の課題に新たな地平を切り開いたのではないでしょうか。聖書の日本語訳は、すべて標準語訳であり地方の生活感覚にフィットし得なかったことがあります。
A聖書自身が史的イエスの言語から離れ、ローマ帝国化のラテン語によって編集されていることに対し、原始聖書を復活させようという取り組みが進む中で、日本と一地方の方言訳は逆の世界的な普遍性を持つのではないでしょうか。
B氏自身も語っていますが、標準語=共通語という政府の言語政策によって切り捨てられた地方文化の復権という意味があると思います。東京文化から自立した地方文化の再生といった見事な解答だと思います。
C日本の仏教や神道の典籍もシステム化した教団が編集したものではないか、当時の民衆自身が使っていた言葉で教祖の言葉を復元すると全く違った世界が出現するのではないか。
 以上はカソリック信仰には全く無関係の唯物論者である私が、門外漢の立場からの感想ですが、人間こういう仕事してこの世を去れたらと深い感慨にとらわれます。氏は今年のローマ法王一般謁見に出席してこの書を法王に献呈するそうです。最後にケセン語訳聖書をイエス処刑の最後の場面で紹介したいと思います。(2004/4/25 20:31)

  ヤソア死ぬ事

 昼時んなって、辺りア暗ぐなって、それア3時頃まで続いた。3時んなった頃、ヤソア大ぎな声で叫びやった。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ?」
 これア、我らア言葉に直さば、こういう事た。
 「神様んす、神様んす、何故俺アどごオ見捨てやりアすたれ?」(マッコアたより マルコによる福音書P155)


[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(11)]
 米紙ニューヨーク・タイムスは、1面と国際面の半分を使い日本の人質帰国報道の大特集を行った。以下その概略を紹介し、日本政府の態度が国際報道機関からどのように見られているかを検証する。

  解放された日本人 帰国しいっそう苦痛に(ニューヨーク・タイムス23日付け)

 イラクで人質になった日本の若い民間人は、黄色いリボンではなく、非難に充ちた、国を挙げての冷たい視線のもとで今週故国に戻った。政府は凶暴な反応を示した。彼らの罪は人々がお上と呼ぶ政府に反抗したからだ。彼らは犯罪者のように扱われ、事実上自分の家に囚人のように隠れている。人質になった若者は、日本の報道機関が危険な取材を避けるなかで、真実を探しに行ったフリーランサーとストリートチルドレンを助けに行ったNGOのメンバーで、誘拐犯に生きたまま焼かれると脅かされた。にもかかわらず日本の外務省は、事件が起きたのは自己責任であると主張した。彼ら若者はある一つの国の政府から公的な称賛を受けた。日本の人々は大いに誇りに思うべきだーと述べたパウエル国務長官に較べて、人質を批判した福田官房長官や小池環境相は対照的だ。イラクでの活動を続けるという人質に対して、日本の政府関係者が寝食忘れて努力したのにまだそんなことが云えるのかーと怒った小泉首相の発言は、米国政府からは聞かれない発言だ。危険な地域に行くのは個人責任と吹聴する態度は、基本的に海外旅行者は身の安全を守りトラブルから逃れる上で政府の助けを期待してはいけないと言っているようなもので、日本政府は海外にいる国民の安全を保障しようとしていないのだ。

 英紙タイムズは次のように日本政府を批判している(28日付け)。
 解放された人質は、日本に帰国してからほんとうの悩みが始まった。自由になった英雄の帰国からはほど遠く、3人は犯罪者が強制送還されたように伏し目で空港を通り抜けた。3人は典型的な日本人とは異なり、特に今井紀朗氏は劣化ウラン弾の影響についての調査を計画していた。問題の一つは家族が誘拐者の要求である自衛隊のイラクからの撤退を要求して、反日分子といわれたり費用負担を求められたりしたことである。日本人は誇りに思うべきだーという言葉は日本政府からではなく、パウエル国務長官のもので高遠さん慰めとなってはいない。

 政府の自己責任論が国際的に批判されているにもかかわらず、国内で一定の支持を得ているのはなぜか。あなたの身近にも人質は助けて貰うのに政府を批判する身勝手なミーイズムだと非難する人が少なからずいるはずです。日本がこうした異常な雰囲気になっている根本的な原因を明らかにし、これからの課題を明示することが求められます。幾つかの原因の中で私が指摘したいのは、2つです。第1は構造改革戦略の基本にある新古典派市場原理の発想です。自立した個人の競争の中で社会が活性化し発展するという論理は、自己選択・自己決定・自己責任にすべてをゆだね、個人の関係は互いをオオカミとする敵対関係に堕落します。良い意味での日本的集団主義は衰弱し、他者との協働関係が失われます。生き残りをかけた・適者生存のシステムが社会の全線で浸透しています。敗者は惨めな脱落者としてブルーテントに入り、社会全体から相互扶助のこころがなくなっています。公共的な正義や人道主義は灰燼に帰してしまい、そのような行為に対する腹立たしさの感覚が湧き起こってきます。あなたの職場や学園でも、正義を主張する少数者を排除・攻撃する雰囲気はありませんか。
 原因の第2はつくづく考えることですが、未だ日本は成熟した近代を持っていないことです。政府や国家は国民に奉仕するサーバントであり、納税者である市民が主権者であるのもかかわらず、日本では政府=お上>市民という関係が根強く残り、上の言うことには従う臣民の意識が払拭されていません。上からの近代化を成功させた日本は、色濃く国家主義的ナショナリズムが尾を引いて、市民生活を疎外する政府権力者に対する抵抗権の思想が育っていません。法は権力の横暴を縛るためにあるという近代原理が成熟せず、法は国民を縛るという意識が錯誤されています。自分で立ち上がって革命を起こした経験がない日本の近代の欠陥が今持って根強いのです。ここから寄ってたかって先駆者への攻撃と排除を行う村八分のようなイジメが蔓延し、誰かをいじめないと自分がいじめられるという悲惨な構造ができあがります。
 この2つの原因は本来は並立しないものであるはずです。なぜなら市場原理は近代的個人を前提にして成立するものであり、そこでは大勢順応のような自己主張をしない者が逆に軽蔑されるからです。その典型がアメリカであり、他人と同じ意見を言う者は軽蔑され、孤立しても自分の意見を言う者が尊敬されるから、自己責任原理が普通になっているのです。日本は個人原理が成熟しないまま大勢順応の中で自己責任を問うという、奇妙で不透明な競争システムに移行しようとしていますから、より陰惨な社会ができつつあるのです。以上の考察が正しいとすれば、私たちの課題は明らかです。もう一度立ち止まって、近代の原理を新たに再構築することではないでしょうか。(2004/4/25 9:44)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(10)]
 いま全米でベストセラーになっているボブ・ウッドワード『攻撃計画』(ウオーターゲート事件報道でニクソンを辞任に追い込んだことで有名なNYタイムズ記者)が明らかにしたイラク戦争の政策決定過程の内幕もの。

2001年11月21日 
 ブッシュ大統領ラムズフェルド国防長官にイラク攻撃計画を命令 同長官フランクス司令官に指示  
2002年 初頭    
 チェイニー副大統領イラク戦争熱望、大統領戦争以外でフセイン打倒不可能とのCIA報告を受け戦争容認
 チェイニー副大統領はフセインが大量破壊兵器欲しがっているーを保有しているに転換し大統領鵜呑み
2002年 7月    
 極秘で進行中の戦争準備資金として70億ドルを上院の承諾なしに調達
2002年12月21日 
 テネットCIA長官が大量破壊兵器の証拠写真を正副大統領に提示するが、大統領説得力なしとコメント
2003年 1月11日 
 ブッシュ大統領戦争計画をサウジ大使に伝達、大使は大統領選挙向けに原油価格を下げると約束
 (ブッシュ大統領は父親には相談せず、ライス補佐官とヒューズ広報官に相談し、パウエルにも伝えたらと助言受ける)
2003年 1月13日 
 ブッシュ大統領は戦争決定をパウエル国務長官に伝達、長官は最終的に同意するが避けられたと落胆
2003年 3月19日 
 米国最後通告「国連安保理はその責任を果たさなかった。我々はみずから立ち上がる」
 開戦、大統領はフランクス司令官他9人の軍人にTVもにたーで準備確認、準備完了の報告
 大統領は敬礼し涙を浮かべて部屋を出、ホワイトハウスの裏を一人で歩き神に兵士の命を守り許しを乞う
 フセインがバグダッド南部の牧場に向かうとのCIA情報で爆撃したが作戦は失敗
 ブッシュ大統領はライス補佐官に「コイズミと食事しながら北朝鮮情勢を話したのは嬉しかった。敗戦国でも
 こうして同盟国となって良い関係を築けるんだ」と言う 
 戦争終結宣言後チェイニーとパウエルの関係は悪化し、復興の治安と暴力について誰も想定せず。ブッシュ大統領は、大量破壊兵器がなくてもこの戦争は正しく、21世紀の語りぐさになる。イラク人民を自由にするのが自分の義務だーと確信。ブッシュは思慮深い人ではなく自分をエリートとは思っていない。歴史はどんな審判を下すかと聞かれて「歴史?そんなのわかんない。。みんな死んでるもの」と答える。
以上は藤岡惇氏及び冷泉彰彦氏の紹介記事から筆者作成。

 01年11月時点でイラク戦争を決めていたということは、半年後から始まる国連による査察は全くの茶番であり、ブッシュは国連を愚弄していたということだ。この本から分かることは、ブッシュ大統領が米国史上稀にみる無能で単細胞の知性がない大統領だと言うことです。歴史の審判に敬虔な意味を自覚しない為政者だとは! 最高指導者としてスタッフの主要メンバーに相談せずチェイニーに引きずられた、暴れん坊のヤクザに過ぎないことが赤裸々に示されている。こうした大統領を選出した米国民の政治意識のレベルも合わせて。しかしこの本にはイラク人自身の生活と意見は全く登場せず、ただ単にブッシュの政治判断が克明に記録されているだけだ。要するにウッドワードはもっとうまくやれという言外のメッセージを送っており、米国による世界支配という枠内でブッシュを批判しているに過ぎない。(2004/4/24 14:14)

[愛知県経営者協会の要請書について]
 3月26日に愛知県経営者協会(日本経団連の地方組織)が、愛知労働局(厚生労働省の出先機関)に提出した労働時間管理に関する要請書は次のような内容です。
@タイムカードによる時間把握方法はホワイトカラーに適さないから労使協議に委ねよ
A労働時間の法規制が除外されている「管理・監督者」(深夜労働残業の残業手当支払い)の範囲を拡大すべきだ
B労使の36協定の特別条項の適用期間半年以下の制限を撤廃し、労使協議に委ねよ
Cホワイトカラー・エグゼプション制度(事務・技術系労働者を労働時間法的規制から除外する)を早期に導入すべき

 厚生労働省による「労働時間の把握は使用者責任」通達(01年4月)が出された背景には、90年代後半からの異常な長時間労働と不払い残業の横行や、健康破壊と過労死の急増にあった。従来の労働者の自己申告制による残業手当請求方法を、タイムカードなどによる客観的記録による確認への転換が進み、01年以降の不払い残業代金は250億円に上った。これは氷山の一角であり、今後残業代請求が進めば膨大な負担が予測されている。焦点はホワイトカラーエグゼプション制度の導入にあり、日本のホワイトカラーは労働時間の規制から解放されて、自由でフレクシブルな自己選択による働き方に移行できるーというのが日本経団連の主張である。「仕事の成果が労働時間の長さに比例しない労働者が増加している状況を踏まえ、・・・・ホワイトカラーが高い付加価値を実現するためには、新しい発想に基づく柔軟性の高い時間管理の枠組みが求められる」(日本経団連経営労働政策委員会『経営労働政策委員会報告』2004年版)というわけである。第2の焦点は、労使関係を法規制から解放し、労使協議制に委ねることである。
 労働時間短縮は世界の趨勢であり、日本の長時間労働は貿易摩擦の要因として国際批判を浴びているが(欧米に較べて年間数百時間長い)、日本は労働時間に関するILO条約を批准せず、形式的な40時間制への移行と引き替えに8時間労働制を形骸化してきた。ホワイトカラー労働を時間規制から適用除外すれば、殆どの日本の労働者は無制限の労働を強いられるであろう。自己選択労働の機会を受益できる労働者はごく一部の知的労働者に過ぎない。成果主義賃金と連動して地獄のような競争労働が出現するであろう。
 労使協議制の本格導入は、労働基準法の団体交渉権を形骸化させるだろう。企業の経営や生産計画について協議を行う制度は欧米で定着しているが、労働組合の自律性が強い欧米では労働者代表の主体性が維持されているが、日本ではむしろ労働者に経営責任が転嫁されるだろう。従来も工場閉鎖やリストラにむしろ労働組合が協力してきた実態がある。「労働者が人たるに値する生活」(憲法27条、労基法第1条)を実現するために、セットされてきた労働法規による労働者保護規定が根こそぎリセットされようとしている。99年以降大卒無業者率は20%を超えて実質4人に1人が職を持てない状態になった日本は、かろうじて就職できた人々の無制限労働が迫りつつある。新古典派市場原理を強行しているシカゴ学派が権力機構の中枢にはいって、実質的に19世紀的な前近代的な野蛮労働がよりソフトな形で実現しようとしている。(2004/4/24 10:26)

[プロ野球 中日・阪神戦を観る]
 何年ぶりかでプロ野球を観戦した。延長されて便利になった地下鉄に初めて乗り、ナゴヤドームに向かいました。6時15分試合開始と思ったら6時開始ですでに1回表は終わっていました。生まれて初めてネット裏内野指定席でダイヤモンド何とかという恐ろしいヴィップ表現の座席で、選手が近くでプレーするのを観ると迫力があり、ファールが近くに飛んでくるのです。外野席を除いては7分ぐらいの入りでそれでもよく入っているそうですが、阪神の元気な応援が中日の応援を圧倒しているようです。試合は、1−2で中日の惜敗ですが、中日の残塁とミスが目立ち先発の平井投手には可哀相な試合でした。特に立浪選手の不振が目立ちました。
 人工芝のグランドはきれいに整備されていますが、なにか箱庭のようななかでスポーツの自然の良さがないように感じました。オリックスの神戸スタジアムの自然の雰囲気でスポーツらしくやりたいのではないか、なにか選手が人形のように見えてきます。アメリカのメジャー・リーグの迫力がありませんし、とても選手がきゃしゃに見えます。阪神応援団の野性味溢れる怒濤のような迫力と中日応援団のおとなしさは、対照的でそのまま文化の違いを示しているようです。トヨタに依存した中京経済圏で育まれる文化は、個性を殺したムラ社会の様相があり、リスクを張って将来を切り開くエネルギッシュな迫力がありません。オーロラヴィジョンに促されて手拍子を打つ様は、常に誰かに従って周りを見ながら合わせていく名古屋文化そのものです。これは右でアレ左でアレ似たような行動様式をもたらし、時代を切り開いていくようなドクドキする緊張関係がありません。名古屋は下位ではないが、決してトップやアウトサイダーにはならず安全志向で万事無事に体制に従うセカンド・ランナーなのです。野球を観ながらついこんな事を考えましたが、プレーに集中して3時間余り観ていると疲れ切ってしまい、家に帰るとすぐ眠ってしまいました。私はしかし、熱心な中日フアンですので、今日は不完全燃焼の一夜でした。(2004/4/23 12:20)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(9)]
 すでにあらゆる指標は米軍のイラク占領が破綻したことを示しています。殺し合いの無間地獄はイラクという国が地図から消えるまで続くのでしょうか。米国大統領を戦争犯罪者として裁く日が来るでしょう。もともとアメリカ人は、英国社会で落ちぶれた無能な弱者が逃げ出して新大陸へ行った人がつくった国です(ホッファー『波止場日記』)。広大な土地と資源をもとに一気に強国にのし上がったために、知性と教養が欠落した人種差別民主主義をつくりあげて全世界に輸出し、有色人種を殺すことに何の躊躇もしません。広島と長崎に原爆を投下できたのは、日本が有色人種国家で軽蔑しきっていたからです。アメリカン・デモクラシーの光と影の両面をきちんと見ないと、真のアメリカを理解することはできません。かって鬼畜米英と言って戦争をして一敗血にまみれたアジアの工業国家は、今度は手のひらを返すように帝国に媚びへつらい、全世界から軽蔑されています。ライオンヘアーは、ポチ公と言われて恥ずかしいので、自分を批判する正義漢に充ちた若者が人質になると、逆に攻撃をかけて村八分のようなバッシングを行っています。ライオンヘアーは、大不況の不安を利用して中間派を巻き込んで一定の支持をかすめていますが、この虚勢の権力は歴史の女神から見放され、大地に這い蹲って赦しを請うでしょう。21世紀の初頭に日本は選択を間違い、アイドルのような感じでライオンヘアーを支持しましたが、こうした負の経験の蓄積は成熟した中味となって遠からずほんものの民主主義を求める奔流となるでしょう。本日はそれらの徴候を示す幾つかの資料を紹介します。

◆中曽根元首相「米国人は湾岸で政治をしたことがない。しかも単細胞だから自分の民主主義が一番いいと思って押しつける癖がある。アラブの民衆の所へ行ったら失敗するに決まっている」(21日講演)

◆イスラエル国防省「(核技術者)バヌス氏はまだ国家機密を握っており、暴露の恐れが強い。」(21日 米国科学者団体はイスラエルでは100発前後の核爆弾が実戦配備が可能としている。大量破壊兵器のないイラクを攻撃し、イスラエルを批判しない米国の恐るべき二重基準!!)
 
◆イスラエル・シャロン首相「私は首相就任当時はアラファト議長に危害は加えないと約束した。いま私は、この約束に縛られない。私は自由だ。」(14日ブッシュ大統領との会談で。その翌日にランテシ師を殺害。アラファト議長は「シャロンの脅かしは初めてではない。私は殉教者として死ぬ覚悟だ」と述べた。ブッシュとシャロンは世界史上最大のテロリストだ)

◆福田官房長官「他の人の生命を危険にさらす可能性があるにもかかわらず、自分の主義や信念を遠そうとする人を称賛できるのか」(21日参院本会議 無理矢理自衛隊を派遣した親分に言うべきではないのか!)

◆冬柴公明党幹事長他政府高官「連中が何者かを掴むのがウチは早かったよな。(自衛隊撤退を求める家族に)もうあいつらには何も教えてやるな。自作自演だろ。何様のつもりだ。どうせ共産党だろう」(『週刊現代』5月1日 公明党は被害者の思想調査をやって対応を考えているのか!)

◆朝日新聞4月22日社説「テロとは何か。日本の朝鮮支配に抵抗し伊藤博文を殺した安重根はいまなお義士として韓国民の尊敬の的である。米軍と闘うイラク民衆は解放と抵抗の戦士だ。反米勢力をすべてテロと括り、力でたたきつぶすという考えは単純だ。」

◆エジプト・ムバラク大統領「人々はフラストレーションを感じている。一部の者をテロに追いやっているのは絶望だ。今日中東では米国に対するかってない憎悪が存在する。人々は米国が何も言わずシャロンがやりたい放題やっているのを見ている。彼は飛行機もヘリコプターも持たない人々を殺している。F16やアパッチ、戦車を使い、それが自衛だと主張している。」(フランス紙21日付けインタビューで)

◆アラブ紙・アルハヤト「小泉首相はアスナールに次ぐブッシュの第2の犠牲者になるだろう。サマワの自衛隊が実際に行ったことは、軍事拠点の構築と、クエートでの軍事訓練だった。彼は人質家族との面会すら拒否した。自衛隊はイラク人のためにではなく米国の政策を支援するために行っている」(19日付け)」

◆京郷新聞「政府の言うことを聞かない国民の命には責任を持たない、という傲慢さがある。危険を覚悟ですべてを失ったイラク人を支援する行為は評価するに忘れてはならないことだ。隣国を全く考慮せずに、政治的な立場の強化にばかり没頭する小泉政権より、苦しんでいる他人を配慮できる彼らのこころの方が、日本の未来のためにはるかに重要かも知れない」(4月19日付け)

◆ハンギョレ新聞「生命の危険を冒して激しい紛争や飢餓、災難に苦しむ人々を助けることこそが真の人道支援だ。イラク人が好まない軍服姿の自衛隊を送り、その邪魔になるからボランテイア活動をやめさせるべきだと主張するなら本末転倒ではないか」(4月20日付け)

◆中央日報「5人は良心に従って行動した人々だ。自衛隊のイラク派兵がなかっtら、彼らは拉致されなかっただろう。人質になった第1の原因は日本政府だと言うことだ。」(4月22日付け)

◆朝鮮日報「読売や産経など右派系の新聞は、自己責任を主張し、一部の週刊誌は人質と家族の過去の経歴など私生活にまでふみいって人身攻撃に熱を上げている」(4月20日付け)

◆バングラデイシュ・デーリー・スター「人質が解放される前、居場所も分からないウチから、一部の人々は政府の勧告を無視してイラク行きを許した家族の責任の欠如を責めるむきだしのキャンペーンを始めた。家族は全くショックで、命を救うための自衛隊の撤兵という初期の要求さえ口にすることができなくなっていた。連立パートナーの仏教原理主義集団は、政府に救出にいくら支出したかを公表するよう求めているが、いっぽうイラクの戦場で軍を維持するために日々支払っている他の経費について完全に沈黙を続けている」(4月21日付け)

◆東京新聞4月21日「政府の危機管理が問われる事件でありながら、矛先を被害者に向けて世論操作を行った。自衛隊員たちは非戦闘地域なんて信用していない。政府の屁理屈に辟易している。」

◆橋本大二郎・高知県知事「たとえ未熟であっても、政府と考え方は違っても、志を持った若者を、よってたかって批判する風潮が広がるとすれば次に続く志の芽が摘まれてしまいます。TVに自宅に戻った被害者たちが自宅前で家族と並んで深々と頭を下げる光景が映されましたが、その様子を見て、何か異様なものを感じると同時に、、そのうちどこかから非国民といった罵声が浴びせかけられはしないかと不安になりました」(ウエブログ・だいちゃんぜよ 21日付け)

◆潮谷義子・熊本県知事「人質が解放された背景にはイラクに対する友好的、人道的な活動があったからだ。自己責任論だけで片づけていいのか。彼らの活動は自分の命も省みずボランテイアをしたり、後世に歴史を残す報道活動であり、短兵急にこの時点で評価すべきではない。自己責任論で草の根の国際貢献活動を押し切れば、その芽が摘まれてしまう」(23日記者会見)

◆瀬戸内寂聴「若い人の一途な気持ちをすべてためたら、国は老衰するばかりだ。自業自得とはなさけないことである。日本人はいつからこんなに卑しくなったのだろう。被害者の過去の行状や家庭のプライバシーまで書き立てる週刊誌は、まったく国の品位が疑われて情けなさが先に立つ。」(『京都新聞』4月21日付け)                          
                                      (2004/4/22 10:31)

[日本は一体どうなろうとしているのか]
 防衛庁の海上幕僚長が20日の会見で集団的自衛権の承認する見解を示した。世界の海軍がコアリッション(有志連合)に向かう情勢の中で、国際的に充分な活動が柔軟にできるために他国海軍との共同作戦ができるようにすべきだとした。憲法と自衛隊法自体が厳格に禁止し、政府自身も違憲とする集団的自衛権の承認に踏み込む、重大な文民統制違反の発言である。自衛隊の政治的発言はシビリアンコントロールのもとで厳しく規制され、そうした行為を行った自衛官は議会の指弾を浴び、政府は罷免してきた。ところが今回の発言に対して、政府は言及を避け、メデイアも「異例」とは報道するが公然と批判はしていない。
 自衛隊違憲論はおくとしても、特別公務員たる自衛官は憲法と自衛隊法の遵守義務があり、公然と憲法改正を求めるような政治的発言をおこなえば直ちに罷免されるべき立場にある。こうした違法行為が公式の場でなされても、何ら追求されない異常な事態がこの国に生じている。首相が憲法改正を宣揚し、裁判所判決に従わないで靖国参拝を行うという、ほとんど法治国家の基礎的な条件が失われていることが背景にある。戦前期の軍国主義国家への過程は、まさに軍部の立法・行政・司法権への無法な介入行為から始まって、悲惨な敗戦へと到った。過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる(ヴァイツゼッカー演説)ーという言葉が深刻な現実味を帯びてきた。私は今、一つの国でファッシズムと軍国主義がどのように時代の中で力を得て、勝利していくのかーそのシナリオがリアルに面前で展開されていくのを実感する。非戦と非軍事のイラク人質に対する異様なバッシングもこうした日本に蔓延するファナテイックな戦争国家の雰囲気にある。大不況の内部矛盾を対外的矛盾に転化し、閉塞する国内市場を世界市場に転化し、「自国のことのみに専念し他国を無視する」違憲国家の現状は、、正義を掲げる者と社会的弱者に攻撃を集中して、相手を蹴落とさなければ生きていけない、最悪の社会となっている。いい加減に目を覚まそう、正道に立ち戻ろう、2度と人殺しはしないと誓った原点を想起しよう。私たちは、このような惨めな国を子々孫々に残してはいけない。 
 いま何か異論を唱えれば排除され、家族もろとも孤立する異常な構造がすすみ、声を上げることができない「沈黙の螺旋」状態となっている。迫害する者は権力を持って一見すると強そうに見えるが、実は逆であり、政策がすべて失敗し奈落の底への転落を見切っているからこそ、必死の最後の手段としての危険な賭に出ている。つまり彼らは知的には低レベルで、情熱においては野蛮で、感性においては薄弱なのである。弱い犬が最もよく吠えるのだ。しかし犬が吠えても歴史は進む。犠牲を出す前にストップすることは、ほんの小さな勇気からはじまる・・・あなたの。(2004/4/21 9:20)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(8)]
 フランス紙ル・モンドの東京特派員フィリップ・ポンス氏の4月19日付け記事から。
 
 最初に人質になった日本人3人が、18日の日曜日、うなだれ暗い表情で東京に到着した。何らの声明も発表されなかった。PTSDの徴候ありということで口を閉ざしているが、その原因は誘拐だけによるものではないようだ。この3人は皆、自分たちの行動が政府を困難な立場に追いやったとして家族が非難されたことに、明らかにショックを受けている。周囲の人々は、彼らの傷を悪化させないために報道関係者から遠ざける方針を選んだ。
 解放直後3人の人質のうち2人が、イラクに戻りたいといういう意向を表明した。高遠菜穂子は、自分の人道的活動を今後も継続したいと述べ、また郡山総一郎はカメラマンとしての仕事を続ける意向を明らかにした。これら発言を聞いた日本の保守系メデイアと政府には無理解と激昂の怒号が湧き起こった。家族は謝罪せよ!と。
 鞭を持った厳父の役を任じる小泉首相は、自分の意志で行動した3人について、我々が救出のために寝食を忘れて働いたのに、どうしてそんなことが云えるのか?目を覚ますべきだ!と叱責した。輪をかけて、経済産業相の中川昭一は、どこへ行こうと勝手だが、なにか起こったら自業自得と言うことになるだろう、と述べた。抑制を欠いたこれらの発言にさらに制裁の要求が続く。防災担当相の井上喜一は、家族は自分たちが問題を引き起こし自衛隊の撤退要求を行ったことについて謝罪すべきだと述べた。
 しかし実際に家族たちは、騒ぎの原因になった者は反省の気持ちを表すという日本の慣習に従って、これまでも何度か謝罪の表明を行っている。にもかかわらず井上大臣は、帰国にかかった費用の一部を家族に負担させるよう要求している。医療検査と帰国費用として、一人当たり35万円から40万円を自己負担させる見込みである。国会議員の一部はさらに、彼らの解放にかかったコストの一部を負担させろと要求している(右派ジャーナリズムの産経によると、20億円)。
 一方バグダッドのイスラム聖職者協会は人質の解放に決定的な役割を果たしたにもかかわらず、日本の首相から一言も感謝の言葉を受けていないとして不満を表明している。
 人道的価値に駆られて行動した一人の若い日本人女性の純粋さと無謀さは、必ずしも良好とは云えないこの国のイメージ(死刑存置、精神病者の人権制限など)を高めこそすれ低めるものではない。彼女の存在を誇りに思うべきであるのに、日本の政治指導者や保守系メデイアは、解放された人質を無責任とこきおろすことに喜びを感じている。人質を勇気づける一言を吐いたのは、他ならぬ米国のコリン・パウエル国務長官であった。彼はTVで「危険を冒す人がいなければ、進歩というものは決してありません」と言明した。

 *コメント:NGO活動に対する国際的な常識が奈辺にあり、今の日本が異様に写っていることが分かる。高遠さんの痛々しい姿を見ると、このような日本政府を選んでしまった国民の一人として申し訳なく思う。更に驚いたのは、日本のイメージが死刑の存置と精神病者の人権においてこのようなマイナスイメージを持たれていることである。(2004/4/20 23:59)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(7)]

 いのち     宮腰由貴奈(小児ガン 98年11歳で長野県立子ども病院にて死去)

 いのちはとても大切だ
 人間が生きるための電池みたいだ
 でも電池はいつか切れる
 いのちもいつかはなくなる
 電池はすぐにとりかえられるけど
 いのちはそう簡単にはとりかえられない
 何年も何年も
 月日がたってやっと
 神さまから与えられるものだ
 いのちがないと人間は生きられない
 でも
 いのちなんかいらない
 と言って
 いのちをむだにする人もいる
 まだたくさんいのちが使えるのに
 そんな人を見ると悲しくなる
 いのちは休むことなく働いているのに
 だから 私はいのちが疲れたというまで
 せいいっぱい生きよう


 生きたくても生きられない友だちをみて、由貴奈は悲しい思いを込めてこの詩を書,いた後にこの世を去った。いま私の目の前に一枚の写真がある。イラク中部ファルージャから車で家族と逃げる際に米海兵隊から銃撃され、両親等5人が亡くなり、生き残った4歳の少女だ。彼女の肩には、数発の銃創の跡が黒い斑点となっている。大きな黒い瞳をいっぱいに拡げて何とも云えない表情でカメラを見ている。小児ガンでこの世を去る少女と、銃撃の中で家族を失って生きていかなければならない少女ーこのめくるめく非対称性の世界を私はどう考えたらいいのだろうか。要するに神はいないのだ。自らの手でこうした世界をやり直していくしかないのだ。この瞬間にも大勢の悲しい瞳をしたこどもが何も分からず苦しんでいるのだ。

 赤い炎   澤田春彦(一部筆者改作)

 海から吹く風が焼かれた街の匂いを運んでくる
 黄色い光が街で眠っている男の瞳を射抜いた
 眠っているのに見ひらいた瞳
 眠る前にその男が見たものは何?
 瓦礫と化した街の姿
 倒れていく人々の姿
 強烈な熱を運んできた風
 海から吹く風が燃やされた街の匂いを運ぶ
 あちらからこちらから赤い炎が光っている
 笑いながら女に狙いを定める兵士
 笑いながら赤ん坊に銃口を向ける兵士
 笑いながら街を燃やせと叫んでいる将軍
 闇の中で 恐怖におびえる瞳を狙っている銃口
 あちらからこちらから赤い炎がひかる
 サプラ、シャテイーラ、ソンミ、ジェニン
 あちらからもこちらからも赤い炎が光る
 埋葬された墓地から魂が噴き出して青い草花となって埋める
 青い草花は踏みつけられても、踏みつけられても死者の魂が乗りうつり、野原一面に茂る
 笑いながら銃口を向けている兵士の顔がひきつる
 ファルージャ
 ファルージャ
 ファルージャが守っているのは人間の壮大な歴史
 ファルージャが守っているのは人間の尊厳
 青い草原が死者の魂をのせて一面に茂る
 青い草原が死者の魂を乗せて一面に茂る


                       (2004/4/20 20:08) 

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(6)]
 作家・高橋源一郎氏が、溜飲の下がるような痛快な日本政府批判をおこなっている。人質の高遠菜穂子さんたち3人が「一体どうなっているのでしょうか。私たちが間違っていたのでしょうか」という人生相談に答えるという、また秀逸な方法で。こういう意表を突くような表現はさすが作家だと感心した。思考の柔軟さと分かりやすい表現は大いに学ばねばならない。彼の文章は、近代社会契約による政府と市民の関係があざやかに述べられ、近代契約理論の有効性がまだ十分に機能しうることを示しています。原文を少し変えて紹介しますが、じっくりと味わってみて下さい。朝日新聞4月19日付け夕刊所収。藤原新也氏の文章とともに掲載する。

 どこかの国の人質問題 高橋源一郎

 この国ではどんなにいいことをするより、他人に(或いはお上に)迷惑をかけないことの方が大事なのでしょう。家に閉じこもってTVを見ながら戦争は大変だなーと鼻毛でも抜いている人が立派なのでしょう。私は、私の国の政府が信じられないくらい無能で嘘つきの集団だとおもっています・・・・。私は法律で決められた国民の義務を遵守し、働いて得た収入から毎年国税を政府に文句も言わずに納めています。そしてそのカネで私は政府の役人や政治家たちを雇っているのです。私の義務を完全に果たし、あとは政府の役人や政治家たちに彼らの義務を果たして貰うのです。ところがですよ。信じられないことに、私の国の政府の役人や政治家たちは義務を果たしません。というか仕事をしたくないといっているみたいなんですねえ。
 誘拐された人質が解放されて、よかった、よかったと思ったら、政府の偉い人たちが寝食を忘れて救出活動した人のことを考えろ、とか分けが分からない文句を言い出したんです。だって国民の保護は彼らが一番先にやらなきゃあいけない仕事なんですから。やって当たり前。もしかしたら政府は、人質救出はサービス残業みたいなもので、やりたくないけど無理矢理やらされたと思っているんでしょうか。それから迷惑をかけたと怒っている人もいますが、ヘンですね。どんな迷惑をかけたんでしょうか。ボランテイアの仕事が迷惑なら、そんな迷惑はどんどんかけてもらいたい。私の血税はそのために使って貰いたい。金がかかったから支払えーという人もいますがこれもヘンですね。人質の人たちはいいことをしに海外へ行ったら、自分の力を超えたものに拉致された。そういうときのために、私たちは政府とか役人を雇っているわけですよね。まあガードマンみたいなものです。そしたら保険はきかんぞーと言われて、どうやら私たちは詐欺にかかったみたいですね。
 米軍はイラクでガンガン女や子どもと老人をぶち殺しています。日本政府は見て見ぬふりです。民間のボランテイアは民衆を助けて、日本人の名誉を高め、その結果日本の安全に寄与しているのです。ブッシュに気に入られることばかり考えているコイズミのような人間だけではなく、良い日本人もいることをイラクの人たちに証明してくれたのです。バカな政府の犯した過ちを、人質の人たちが償ってくれたのです。10万人の軍隊より、彼らの果たした役割は大きかった。政府やマスコミは、彼らに感謝状を贈るべきなのに、金を返せと非難の嵐とは。こんな恩知らずの国のことなんかもうほっておきなさい。

 藤原新也「一億総無責任の時代に自己責任の大合唱にはゾッとするな」
 最良の自己責任とは自分の命を担保することなのである。そのような自己責任をとれる人が、自己責任と合唱する人の中に一体何人いるのかね。少なくともビールの一杯もやって夕食を飽食した後にTVを見ながら、自己責任などとほざいている平和呆け、、もしくはビジネスライクなご託宣を述べて悦に入っている人間より、あの3人の方がちったあましに生きているんじゃないか。もう一つ云えば、この大合唱には今日の教育現場で顕著な同調圧力の卑屈さと同質なものを感じる。みな一律同じことをやり、ちょっとでもその同調の和音を崩そうとするような単独行動をする人間が現れると、寄ってたかってイジメるというあれだ。インターネットで嵐のように飛び交う人質や家族に対する誹謗中傷はまさにこのメンタリテイ以外の何ものでもない。それから今回ドジを踏んだ(若くてドジを踏むのはいいことだ)ことで一歩大人になったであろう3人の若い人よ。あの時の俺のように、いかなるプレッシャーにも負けず、そしてド厚かましく、そうしたいと思っているのならまた性懲りもなく同じことをやりなさい。そしてまた失敗し、一歩一歩ほんとうの大人に近づきなさい。以上藤原新也氏のサイトから。


 私は、人質3人は国民を守る義務を放擲して自分たちを罵倒して名誉を毀損した政府に対して、謝罪を要求する充分な資格があると思う。3人は精神的衝撃が強く、「かなり感情の起伏が激しく、世間話をしてもその最中に泣き出し、カメラのフラッシュに足がすくんで歩けなくなり、情緒不安定で何度も泣き、時々他人の話が聞き取れないこともあり、感情のマヒがあり、他人との接触を避ける傾向があり、何か落ち着かない、手を握っても震えがある、落ち着きがない躁状態で、話をしても涙を浮かべ、脈が微弱で弱く、食欲はなくふらふらしている状態」という典型的なPTSD(心的外傷後ストレス障害)症状を発現している(朝日新聞4月19日朝刊)。よってたかってなぶり者にした一部のマスコミ、それを裏から煽った政府が、哀しいかな国民の敵であることがこれほど明確に示されたことはない。自衛隊の死者には、1億円の見舞金を支払うと約束した政府は、民間人のボランテイアには飛行機代と健康診断料を請求するのである。小中学校の教育であれだけボランテイア活動を推奨している政府が、いざという場面では裏切るのである。文科大臣は小中教育に問題があったーと述べた。正しいことをやった者が、謝まらなければならない日本とは一体なんだ。最後に皆さんに告げる。高橋源一郎氏は愛想を尽かしたのですが、あなたがたはこのような政府を戴いて恥ずかしくありませんか。(2004/4/19 19:58)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(5]
 保守大都市圏を基盤とする中日新聞は、従来から保守的な主張を展開し、東京新聞を吸収して良心派記者を排除して以来ますますその傾向を強めてきたと思っていたが、ここにきて急速に朝日を上回るような良心的主張を展開しつつある。その背景には何があるのだろうか。

●中日新聞4月18日付け社説
 人質はすべて解放された。本当によかった。だが、喜びの後に待ち受けるのは自己責任の大合唱か。NGOや報道の使命感まで断罪されるべきなのか。小泉首相がボランテイア活動の継続に不快感を表明し、自民党総務会で損害賠償の請求を訴える声が相次いだ。揚げ句は渡航禁止まで。なにかが変だ。NGOやフリージャーナリストは隙間を埋める人々だ。とりわけ紛争と交渉に明け暮れる国際社会は隙間だらけである。環境、貧困、衛生、水、教育・・・・・。地球上には国家という枠組みでは解決が難しい問題が山積みしている。NGOが大切なのは、国家間の交渉には付きものの手続きではなく国教を容易に飛び越えられる存在であるからだ。
 縦の命令系統に支配されて現場での動きが緩慢になりがちな国家に較べて結びつきやすい。国籍とは無関係にネットワークで結ばれて機動力を発揮することから、人と人の関係を基本に結びつく。紛争地域での人道支援にあたっては、そんな特性が生きる。統治と秩序を結び直すには、人と人の関係をまず築くしかないからだ。ボスニア、ソマリア、コソボ・・・・。NGO抜きにして人道支援は語れない。
 解放された高遠菜穂子さんは、イラクの少年が身代わりを申し出たほどに現地の人の対日信頼も育った。それを知り武装勢力は、早くから犯行の間違いに気づいて、釈放された二人が丁重に扱われたのも、聖職者が積極的に介入したのも、彼らを理解していたからだ。ジャーナリストは、危険と使命感をはかりにかけたうえ、戦場に赴いた人たちであり、危険を避け続けては国民の目と耳になれない。だとすれば、邦人が有事に遭ったとき救出に全力を挙げるのは、政府として当たり前のことではあるまいか。本人や家族の感謝の言葉を受け入れてまず5人の生還を率直に喜び、それから彼らがやがて再開するであろう活動を責めることはできない。
 政府とNGOは、これからもお互いを尊重し合いつつ、人道支援の両輪であるべきである。今度の事件を教訓に、危機管理、情報収集、後方支援体制や政府との連携を強め、可能だと判断できた時点で活動を進めていけばいい。5人に沈黙を強いるとしたらそれは危険である。(2004/4/18 20:36)

[アントニオ・ネグリ マイケル・ハート『帝国』(以文社)]
 イタリアの非共産党系左翼である著者は、「赤い旅団」のテロリストとして逮捕・投獄され現在は仮釈放中である。弟子ハートとともに、湾岸戦争からコソボに到る10年間で世界の動態を「帝国」として再定義し、グローバリゼーションに対するオルタナテイブとして「マルテイチュード」による再構築を提起する。579頁に及ぶ大著であり、そこで述べられている斬新かつ本格的な理論構築の正当性にについては即断できないが、とりあえずの感想を記したい。
 訳者後書きに要約された本書の内容は、次のように整理される。
@今までグローバリゼーションは、経済現象とみなされ、政治的にも国民国家による主権に対する帝国主義の脅威とみなされてきた
Aしかし現代のグローバリゼーションは、ある国民国家の主権の延長としての帝国主義ではなく、中心を持たないネットワーク上に支配装置として物理的領土を持たない<帝国>であり、主権と生全体を対象とする新しい世界秩序なのである
B従って従来の国民国家の枠内で単一・均質の同一性として語られてきた「人民」「国民」は革命主体としては有効性を失い、グローバリゼーションそのもののなかで登場した<マルチチュード>が新たなグローバル・デモクラシーの主体となる。つまりグローバリゼーションに対するオルタナテイブは国民国家のノスタルジアではなく、グロバリゼーション自体に内在している変革主体による転換と再構成が必然なのだ。
 主権概念が従来の国家主権から、新たな超国家主権に移行し、グローバルな主権形態=帝国が登場した。世界の空間的3分割であった第1世界・第2世界・第3世界はハイブリッドに融解し、第1世界の中に第3世界が、第3世界の中に第1世界が混在して第2世界は消滅した。産業的には、コミュニケーションと協働・情動労働が中心となるポスト・モダン型生産に移行した。グローバル化した世界の権威は、どのような国民国家も担うことはできない。超大国アメリカも世界の指導者となることはできない。本書は、哲学、政治学、歴史学、文化論、経済学、人類学などの広範な学際的な知が動員されているが、それはまさに<帝国>自身が生活の全局面を支配しようとしているからである。
 私が共感するのは、、変革主体の場をあくまで生産に置いていることである。生産の領域こそが、社会的不平等の発現の場であり、<帝国>権力に対抗する実質的な抵抗とオルタナテイブが生じる場所であるーと述べている点である。哲学は、歴史が実現した後に、その幸せな結論を祝福すべく飛び立つミネルヴァの梟ではないーとする主体的な実践の重視にある。プロレタリア・インターナショナリズムの時代はもはや終わりを告げ、彼らが求めていたものは彼らの敗北にもかかわらずもたらされたーという歴史的継承の論理である。資本主義的グローバリゼーションに付随して発生した新自由主義的民営化に対する新しい公共空間の構築が求められる。その障害は@共通の敵への認識不足A闘争の共通言語の不在であるが、<帝国>に対する攻撃はいかなる地点からも可能であるという。
 私が共感しないことは、マルチチュードの主体を遊牧的移動・脱走・脱出に求めるというバーチャルな観念性である。サバルタン(非抑圧者)やデイアスポラ(漂流者)による無数のベトナムの出現といった幻想的な主体が想定されていることである。経済的には平均利潤率の絶対的減少法則に資本主義の限界を求める理論である。いくつかの刺激的な提起に充ちている本書は、現代思想の宝庫であるとともに、雑炊物の危険も併せ持っている。(2004/4/18 19:58)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(4)]
 本日掲載したあらゆる資料は、米国のイラク政策の失敗と全世界からの孤立を証明しています。そのなかで私が最も心を痛めるのは、ファルージャの700人を超すイラク人虐殺の先頭に立ったのが、沖縄で訓練された米海兵隊であったということと、日本政府が国民救出の国家義務を棄てて人質本人への損害賠償を決めたということです。日本が米軍の共犯者となり、民間人の人道支援行為を敵視する政府が私たちの政府であることがますます明らかになってきたことです。戦前の日本やマカーシズム時代の米国に比肩しうるバッシングが展開している。以下の諸資料を精査のうえ、貴方の決定的な判断を求めます。

●外務省幹部「外部の人に負担を求めるには、内部の規定があり、チャーター便についてはエコノミーのノーマル料金を負担して貰い、健康診断については当然かかった費用を基本的に負担して貰うことになろうかと思う」(17日)

●イスラム聖教者協会・アルクベイシ師「私たちは日本政府は人質の解放を望んでいないかのように感じました。日本の外相の声明をTVで観ましたが、イラク人や聖職者協会への感謝の気持ちが伝わってきませんでした。私たちはイラク人の代表として、そのことを外相に伝えることを望みます。私たちは日本国民ではなく日本政府を責めているのです。自衛隊をイラクに派遣したことで憲法に反する行動をとったからです」(17日 上村大使に対して)

●武装グループ声明(口頭で2人の人質に)「米英はイラクの敵なので今後も闘う。日本人はなるべきイラクに来ないで欲しい。なぜなら、我々は友人を傷つけたくないからだ。自衛隊はイラクから出て行って欲しい」(16日)

●防衛庁ホームページ「C130輸送機は3月3日から4月13日までの間、19回の空輸任務をおこない、人道支援関連物資のほか陸上自衛隊や米軍などの生活関連物資と人員など86.4トンを運びました」(武器を携行した連合軍兵士も空輸 17日)

●在日米海兵隊機関紙オキナワ・マリーン「第5海兵連隊第1大隊はイラクに到着する前、沖縄で3ヶ月間過ごし、市街地戦の訓練をおこなった。都市環境での能力を高めるため、接近戦での訓練を完了した。沖縄での訓練の成果が出たことが、1週間の戦闘で証明された。イラクでの治安維持活動の訓練を完遂させることができた」(4月13日付け この部隊がファルージャで700人以上のイラク人を虐殺した主力部隊であった)

●クワシニエフスキ・ポーランド大統領「大量破壊兵器問題で釣り上げられたことは不愉快だ。我々は作り話に騙された」(3月末日)
 レッペル・ポーランド自衛党党首「イラク戦争はブッシュとチェイニーの個人的利益のための戦争だ。大量破壊兵器問題は戦争をするためのでっちあげだった。占領が泥沼化し終わりが見えないからこそ、即時撤退が必要だ」(4月17日 日本の新聞記者に))

●イラク民間防衛隊第36治安部隊(米軍と共同するイラク国軍)隊員「米軍は我々にファルージャの町を攻撃しろと云ったのでびっくり仰天した。どのようにイラク人がイラク人と戦えるというのか。米軍は戦闘機で町を爆撃しクラスター爆弾も使用した。私はこの片棒を担げない。私は逃げたが、約200人の同僚が拘束された。彼らの釈放を要求する。」(4月17日)

●「ホワイトハウス・メクレラン報道官は、ブッシュ大統領は米軍がアフガン国土の半分を占領した時の11月21日、ラムズフェルド国防長官を呼び出し、新しいイラク攻撃の計画を立てるよう秘密に支持をしたーという趣旨のワシントンポスト・ウッドワード記者の著書『攻撃の計画』の内容を事実として認めた」(CNN4月17日報道)

●アブドラ・ヨルダン国王「人々はTVをつけると、イスラエルの戦車がパレスチナ市民に戦車戦を仕掛けているのを目にし、番組を変えると米軍戦車がイラク人と対峙しているのをみる。私が耳にしたことのない、米国に対する、ある種の敵意が生み出されている。中東で初めて経験したことだ。世界中の人々が米国に対して抱いている感情は健全なものではない。つまるところ善かれ悪しかれあなたたちは責任を負わされている。あなた方の友人の一人、この国の多くの国民を思う一人として、米国と米国人に対する受け止め方を大変心配している。対米感情を元に戻す方法は、イラクとパレスチナの紛争を解決し前進させることだ。そのことなくして我々は誰一人として安全ではない」(ブッシュ大統領との会見を前にサンフランシスコで16日演説)

●人質事件朝日新聞緊急世論調査(4月16日 820人電話調査 括弧内は1月実施)
  ◆日本政府の対応 評価する64%・評価しない22% ◆自衛隊撤退しなかった 正しい73%・正しくない16% ◆今後も派遣を続けるか 続けるべき50%・撤退すべき32% ◆米国のイラク政策を評価するか 評価する12%(21%)・評価しない71%(63%)

                                                 (2004/4/18 11:17)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(3)]
 日本人人質についてのパウエル米国務長官のコメントは、日本全体の意表を突いた。損害賠償を話し合う日本政府の態度に比して、あまりに尊厳ある矜持に充ちたものであるからだ。パウエルの真意は、イラクで死んでいく米軍兵士を英雄として称えることにあるが、たとえそうであってもこうした意識は日本社会からとっくに消えている。アメリカン・デモクラシーとボランテイア型市民社会の光と闇が交錯して、米国の二重性を浮かび上がらせる。

 「誰もリスクを冒さなければ、私たちは前進しないでしょう。日本の市民がよりよい目的のために、身を挺したことを嬉しく思う。日本人はそういう行動をした市民を誇りに思うべきですし、イラクに派遣された兵士たちが進んで危険を引き受けていることを大いに誇りに思うべきです。そのリスクのために、彼らが捕らえられても、それは「ああ、お前は危険を引き受けたではないか。これはお前の過ちだ」等と云っていいということではありません。それどころか、私たちはやはり、彼らの安全を回復するためにできる限りのことをする義務がありますし、彼らの身の上を深く案じる義務があるのです。彼らは私たちの友人であり、私たちの隣人であり、同じ市民同士ではありませんか」(コウリン・パウエル米国務長官 日本人記者のインタビューに答えて)

 米軍によるファルージャの無差別虐殺は、米国人4名のリンチに対する報復から始まった。パウエルの美しい言葉は、一方で米軍のジェノサイドを肯定しています、ここに米国の悲劇があります。次にリンチを非難する米国人に対してあるイラク人女性が送った手紙を紹介します。痛ましい暴力の連鎖の必然性が浮かび上がると思います。

 或るイラク人の母親から、ファルージャで殺された米国人の母親たちへの手紙

 親愛なる姉妹

 私たちは母性において姉妹なので、貴女達をこう呼びます。ファルージャで黒こげにされたアメリカ人の遺体を暴徒がリンチし、またイラク人が遺体を打ち、鉄橋に吊り下げた騒動の後で、アメリカのメデイアは私たちのことを野蛮人、残忍、犯罪者と書きました。けれどアメリカのメデイアはそれらの場面で起きた真実を知らせてはいません。なぜイラク人があのようなことをしたのか、知らせてはいません。イラク人があのような行動をとるほどに、占領軍兵士を憎むようになった経緯を知らせてはいません。
 私は、母親、姉妹、妻そして娘として、貴女達をアメリカ人女性と呼びます。姉妹よ、私は愛する人を失うことが女性にとってどんなに辛いことかを知っています。私は貴女がたの痛みを感じることができます。私たちイラク人女性は、あまりに多くのものを失い、地球上の多くの母親が知らずにいる苦しみを舐めてきました。例えば貴女達の政府が、私たちの国に不公平な制裁措置を課したとき、私たちは毎日子どもたちが薬の不足で死んでいくのを見ました。貴女達の兵士が使用した大量破壊兵器、特に劣化ウラン弾のせいで醜く変形して生まれるのを見るために、9ヶ月間赤ん坊を子宮に抱えていなければなりませんでした。きっとそれだけで貴女達の政府は十分ではなかったでしょう。私たちの財産の石油と資源を支配したいばかりに、嘘の口実で始めた戦争で総仕上げをしました。そしてそれは、私たちの子どもがおおぜい、息子も娘も殺され、逮捕された残忍な戦争でした。
 今日に至っても貴女達の政府は、私たちの息子や娘を殺し逮捕し続けています。それでもまだ、なぜイラク人が貴女達の子どもに対して憎しみを抱くか分からないとおっしゃいますか!? 親愛なる姉妹よ、貴女達の息子は決して天使でもなく、慈悲の信仰を説く宣教師でもありませんでした。貴女達の息子は、私たちの父親、兄弟、姉妹、息子と娘を殺しました。盗み、レイプし、略奪し、地球と水を汚染し、焼け野原にしました。親愛なる姉妹よ、実際に貴女達の息子は真正の野蛮人、殺人者で犯罪者です。だから彼らを憎んだからと言って私たちを非難しないで下さい。
 親愛なる姉妹よ、イラク人の兄弟や息子が能う限り最悪の方法で侵略者によって殺された痛みを経験した、ちょうど貴女達の誰かとして、私たちは貴女達をこう呼びます。もし私たちの共通の痛みが増大しないことを望むならば、どうか彼らをイラクから立ち去らせて下さい。彼らはここでは歓迎されていないのです。親愛なる姉妹、なぜこのように愛する人を犠牲にするのですか? ブッシュやラムズフェルド、シャロンにハリバートンのような人殺しの獣がいっそう金満になり力を増すばかりではないですか? それは彼らが死ぬには十分な理由ですか。私たちはそうではないと思います。私たちと貴女達のために、すべてを止めていただきたいのです。どうかお願いです。貴女達の子どもにイラクを離れさせて下さい。こころを込めて。あるイラク人の母親より。

                                                            (2004/4/17 8:59)

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(2)]
 人質救出にかかった費用の損害賠償をどうするかと一生懸命議論している日本政府の頽廃に対して、救出に努力したイラク人の気高さには頭を下げるものがある。日本全体が殺伐とした末法の感が深い。次は人質救出に努力して実現させたイラク人ファデイ・マデイ氏の手紙です。

 いまは語る言葉がありません。後で最初のコンタクトから最後の瞬間までのすべての経過をお話しします。でも次のことを理解することは私たちにとってよい教訓となるでしょう。もし私たちが、自分の利益を忘れ、人間性を求めるなら誓って云いますが、私たちは命を奪うことも与えることもできる神の御手のなかに我が身があるということを知るだろうと云うことです。私は生まれて初めて涙が心の中を流れるのを感じました。私はほんとうに幸福ですが、うまく説明することができません。誰も私に「ありがとう」を言う必要はありません。しなければならないことをしただけです。イラクとパレスチナのレジスタンス万歳! ジュネーブの反戦集会で私は、帝国主義ノー、シオニズムノー、人種差別ノーと言いましたが、たった一つのイエスを言おう、レジスタンスイエスーと発言しました。その頃、私は孤独でしたが神がともにいました。いま私は誇りを持って言います。私はレジスタンスだと。私はレジスタンスのために死にます。

 次は、イラクの子どもたちにサーカスを見せる活動をしている外国人グループのメンバーであるジョー・ワイルデイングさんが戦闘下のファルージャに入ったときのレポートです。あまりに生々しいですが最後までお読み下さい(抄訳)。

 私がファルージャに入った理由は、知人からファルージャの状況が絶望的であり、手足を吹き飛ばされた子どもを運び出していたと聞いたからです。米軍兵士は夕暮れまでにファルージャを離れないと殺すと言っていました。けれど人々が荷物を積んで逃げ出そうとすると、町はずれの米軍検問所で止められ、町を出ることは許されなかった。
 どうして私が決意したのか。自分で何を思ったか、互いに何を聞いたかは想像にお任せします。私の決断を狂気というのも結構。私は、もしわたしがそこにいなければ、誰がするのか?と思いました。診療所に女性たちが叫びながら入ってきた。ベッドに行くと、頭に銃によるケガをした10歳くらいの子どもが横になっていた。米軍の狙撃兵が、ファルージャを逃れようとするこの子どもと祖母を撃ったのです。明かりが消えて換気扇も止まり、急に静かになった。すぐに懐中電灯を点けたが2人の子どもの生命はすでに絶たれていた。
 米軍の狙撃兵は、ただ大虐殺を進めているだけではない。救急車と救急活動をマヒさせ、路上に遺体が転がったまま、遺体を取り戻しに道に出ると狙撃されるので誰も遺体を取り戻すことは出来ない。
 怪我をした男性の背中から血が流れ出た。私は蠅を追い払った。彼はサンダルを履いていたとと思ったが、裸足だった。20歳になっていない感じで、診療所で降ろすと黄色い液体が口から流れ出た。みんなは彼の顔を上向きにして臨時の死体安置所に運び込んだ。妊娠し早産しかけている女性を連れて行くことになった。私は外国人としてパスポートが外から見えるように窓側に座り、そこでなにかが飛び散った。救急車に銃弾が当たり、窓が抜けて飛んでいった。私たちは車を止めてサイレンを止めた。目は建物の影にいる米軍海兵隊の男たちに向けていた。何発かが発砲され、赤い光が窓と私の側をすり抜けていった。私は歌い出した。誰かが私に向かって発砲しているときに、他に何が出来るだろうか。大きな音を立ててタイヤが破裂し、車がガクンと揺れた。
 もう一人の男が担架に乗せられてきた。医者たちはクラスター爆弾だと言った。飛行機から火の玉が落下して、明るい白い光を発しながら小さな弾へと分かれていった。私は高遠菜穂子のことを話題にした。目の前の戦士グループは日本人を捕虜にしたグループとは無関係だが、菜穂子がストリート・チルドレンにしていたことを説明した。こどもたちがどれほど彼女のことを愛していたかも。戦士のグループは、何も約束できないが菜穂子がどこにいるかを調べて解放するように説得を試みると言った。朝、医者たちはやつれて見えた。この一週間誰一人2時間以上寝ていない状態だった。一人はこの一週間でたった8時間しか寝ておらず、弟と叔母の葬儀にも出られなかった。死人は助けれない、怪我人の方が心配だと彼は言った。
 道を行くと、白いシャツを着た男がうつぶせに倒れており、背中を突き抜けた弾丸が心臓を破裂させ、胸から飛びだたせていた。彼の手には武器はなかった。息子たちが出てきて、父は武器を持っていなかったと泣き叫んだ。誰も彼の遺体を取り戻すことは出来なかった。55歳で背中から撃たれていた。彼の顔を布で覆い、小さな女の子がバーバ、バーバと小声でつぶやいた。
 13歳の少年が私と握手した。私は両手で彼の手を握り、無事でと告げたが、これ以上馬鹿げた言葉はなかった。目と目があってしばらく見つめ合った。彼の目は炎と恐怖でいっぱいだった。彼を連れて行くことはできないだろうか。重武装した男たちの中に彼を置いていかねばならないのだろうか。そうなのだ、私は彼を置いていかねばならない、世界中の子ども兵士と同じように。
 ジョージ・ブッシュは「イラクで我々がやっていることは正義だ」とTVで言っている。白旗を手にした老母たちを殺すことが正しい?家から逃げ出そうとしている女や子どもを射殺することが正しい?救急車をねらい打ちにすることが正しい? ブッシュよ、今となっては私も分かる。あなたがかくも残虐な行為をおこない、失うものがなくなるまでにすることがどのようなものか、私は知っている。病院が破壊され援助がない中で麻酔なしで手術することがどのようなものか、私は知っている。救急車に乗っているにもかかわらず弾丸が頭をかすめることがどんなことかも、私は知っている。胸の中がなくなってどんな臭いがするのか、妻と子どもがその男の処に飛び出してくるシーンを私は知っている。これは犯罪である。そして私たちみんなにとっての恥辱である。

*ホワイトハウスFAX番号:+1-202-456-2461 米国国連代表部FAX番号:+1-212-415-4443

[イラク人質事件を契機に21世紀の日本を考える(1)]
 イラク人質事件は21世紀の日本の国際戦略を根本的に再定義しなければならない時に直面していることを示したーいま日本の市民は決定的な選択を迫られつつあるのではないか。将来の歴史の教科書は、2000年代初頭で日本は決定的な誤謬を犯したと記すのではないか。イラク人質問題に対する対応はその象徴的な端緒ではないかーを考察するためにいま収集しうる幾つかの資料を整理する。

@ブッシュ政権の方針:「我々は正しいことをしている。専制政治によって窒息させられていた国で自由を前進させるのは困難なことだ。しかし我々はこの方向にとどまる。それは最終結果が我が国の利益になるからだ。イラク国民はフセインを取り除いたことを感謝している。彼らは治安維持のため我々に援助して欲しいのだ。テロ攻撃の責任を負うのはヴィン・ラデインだ。イラクの抵抗はイスラム過激派と一体となったフセインの一部残党の攻撃であり、秩序を維持し軍隊を守るに必要なら決定的な武力を行使する。」(ホワイトハウス14日記者会見)

A米兵遺族:「ブッシュは嘘をついた。そして子どもたちが死んだ。多くのイラクの子も死んでいる。イラクに今必要なのは人道援助であって兵器ではない。直ちに米部隊をもどせ。ブッシュは私の息子を殺した。大統領は米兵と家族のために祈るというが、私が求めるのは戦争をやめて遺族に面会に来ることです。」(14日ホワイトハウス前集会)

Bサラヤ・ムジャヒデイン・アンバル(アンバル州の聖戦士軍団)声明:「人質事件が明らかになった後、日本人は自衛隊の撤退を求めるデモをおこなったり、アラーの神を称賛してくれたりしたことを評価する。我々はこの日本人の態度に共感して解放を決断した。引き続き自衛隊やその他の外国軍の撤退に向けて日本政府に圧力をかけることをのぞむ。あなたたちは米国による最初のテロであるヒロシマ、ナガサキの被害者である。我々はそのような国の人々に対し、我々の国から撤退することを求める。さもなければ今後は容赦はしない。」(16日付朝日新聞の記事から転載したもので正確ではありません)


C川口外相:「今後も屈せず、毅然と対応する。イラクへの渡航はどのような目的があっても、絶対に控えるよう強く勧告する。自らの安全は自ら責任を持つという自覚を持って行動を律して欲しい」(15日22時記者会見) 政府周辺:「政府として一貫して方針がぶれなかったのがよかった。武装グループは日本はいうことを聞かないということが分かったはずだ。内閣支持率も上がるでのではないか」(朝日新聞16日) 安倍自民党幹事長「自衛隊は撤退させないとテロに屈しない姿勢をいち早く鮮明にしたのは正しかった。その毅然とした態度が人質解放と結びついた。今年に入って13回も退去を勧告したのに、それに従わない者には本来自己責任がある」  公明党党首:「政府の方針は立派だった。小泉首相のリーダーシップに敬意を表する。人質解放で国会審議にもさほど影響がなくなるのではないか」(15日TVで)

Dアブドルジャバル師(イスラム聖教者協会理事):「日本政府が自衛隊撤退の要求を即座に拒否したことに、抵抗勢力の反発が広がった可能性がある。日本政府が抵抗勢力をテロリストと呼んでいることにも反発が出ている。ファルージャでは米軍の掃討作戦によってすでに700人以上が死んだ。日本ではたった3人のためにデモをしているが、ファルージャの犠牲者のために、なぜ声を上げてくれないのか」(16日付朝日新聞)

E高遠菜穂子:「ここ本当にバグダッド? 信じられない 死ぬかと思った」(解放直後に聖教者協会事務所にて) 

F人質家族の外国特派員協会での記者会見(14日)
 アメリカ記者「あなたは小泉政府の人質対策に満足しているか」
 今井隆志「申し上げられません」
 ドイツ記者「あなたは日本政府の役人からあなたの批判を緩めるよう要求されたのですか」
 今井隆志「申し上げられません」
 スイス記者「あなた方の政治的立場が報道から見えてこないが、先の総選挙ではどの政党に投票したのか、一人づつ聞きたい」
 今井洋介「その質問と3人の命を守ることとはどう関係があるのですか」
 井上綾子「3人の安否さえ分かっていないのです。どうかみなさん、私たちの家族の命を危険にするかも知れない質問はしないで下さい」
 ドイツ記者「18歳の息子を世界で一番危険なイラクに行かせる親の責任という批判が出ているが」
 今井隆志「責任といわれると何と言っていいか分かりません。息子はイラクでの劣化ウラン弾の被害を知り、平和を発信するための絵本をつくろうと行動していました。自分に責任を持って行動していた息子を誇りに思っています」
 今井洋介「弟を誇りに思う。そういう弟の思いを家族は支持しました」
 記者「自衛隊の撤兵を今も求めているのか」
 今井隆志「申し上げられません」

 *以下は出席した記者の感想から。
 バングラデイシュ記者「家族が圧力の中にあることが明白だった。当初家族は自衛隊の撤兵を求めて発言していたのに。小泉首相に会うことについてのコメントも控えめだった」
 フランス記者「人質になったフランス人記者は平和のためにイラクに行った。小泉首相がいま決断しなくてはならないのは、ブッシュ大統領に追随することではなく、国連を尊重し、ブッシュに物を云うことだろう。日本は平和国家のままであってほしい」
 ドイツ記者「家族の後ろに政治的な動きを描き出そうとするメデイアこそ問題ではないか。メデイアがすべきことは、政府が正しいことをしているのか、日本の軍隊がイラクに行っているのが正しいのか、政府は人質の家族を支援しているのかなどを問うことではないだろうか」

G高知新聞10日付け社説:「小泉首相等現政権は、国民に当事者意識を抱かせないまま、ここまできた。米軍は米軍、私たちは復興支援。実に強引、巧みに物事を切り分けてきた」

H週刊文春・週刊新潮の自作自演説(4月22日号)
 警察庁から出向中の小野次郎首相秘書官と飯島秘書官の間で、当初から自作自演の可能性が話し合われていた。被害者に対して失敬な憶測ではないか。事件発生当夜に自作自演の疑念が官邸で蔓延し、事件翌日に疑念を裏付けるようなネット上の書き込みが捏造だったことが明らかとなった後も、疑念は強く残り、このために初動が遅れたことは否めないと官邸記者に語った。小泉首相の側近や公安担当部門が、記者たちに「調べてみろ」と圧力をかけた形跡があると全国紙政治部記者が語った。だから事件直後に、自衛隊は撤退せずという発言が政府首脳から自信を持って飛び出したのだ。政府首脳の発言を聞いた家族が、記者会見で感情的になったり自衛隊撤退を訴えることを非難することはできない。政府は警察や公安を使って人質の思想調査を行い、それをマスコミにリークして情報操作をしたのだ。飯島「参っちゃたよ家族の中に過激派がいてさ」「武装グループが日本国内の人間とつながっている可能性も否定できない」・・・・。被害者を攻撃することによって、政府の責任を免罪する卑劣な情報操作である。

I自己責任説:電話が鳴る。無言・・・・、そして「死ね」最後に「チーン」と鳴る仏具の音・・・・・人質家族の自宅電話にこうした背筋が寒くなるような嫌がらせが殺到した。自分がその立場だったらーという想像力のかけらもない卑劣な仕打ちだ。危険を承知で勝手に行ったのだから、自分で責任をとれ、自分の行為が多くの人に迷惑をかけているのだ(官房長官)ーという自己責任論が政府から発せられて以降急速に嫌がらせが増え、或る家族の処は16万件にも達した。或る宗教団体による組織的な攻撃だという説もあるが、確証はない。安全な非戦闘地域と政府は云い、与党党首は数時間の滞在で安全を保障した一方で、責任は自分でとれ!という恐るべき背理! 政府への批判をレッテルを張って排除・弾圧して恐怖によって国民を一方向へ総動員するシステムが構築されつつある。以下は16日の政府・与党関係者の発言から。実に卑しい言葉だ。彼らは自分がパブリック・サーバントだとは思っていないらしい。
 冬柴鉄三公明党幹事長「損害賠償請求をするかどうかは別として、政府は事件への対応にかかった費用を明らかにすべきだ」
 額賀福志郎自民党政調会長「渡航禁止の法制化も含めて検討すべきだ」
 安倍晋三自民党幹事長「山の遭難では救助費用は遭難者・家族に請求することもある」
 中川経済産業相「人質の家族が東京での拠点に使った北海道東京事務所の費用負担をどうするか、知事は頭を痛めている」
 井上防災担当相「家族はまず迷惑をかけて申し訳なかったと云うべきで、自衛隊撤退が先に来るのはどうか。多くの方に迷惑をかけたのだから責任を認めるべきだ」
 河村文科相「自己責任という言葉はきついかも知れないが、そういうことも考えて行動しなければならない。或る意味では、教育的な課題という思いもしている」

 政府関係者「チャーター機の飛行機代とメデイカルチェック料金は請求することになるだろう」(日本経済新聞17日付け)
Jフランス紙ルモンド17日付け「日本が平和ドクトリンを放棄しつつあるときに、NGOは戦争、暴力、不寛容を新たな形態で拒否する担い手だ。それはイラクで最初に人質となった3人が抱いている理想だ。3人の不幸な日本の若者は泥沼のイラクに何をしに行ったのか。日本人人質事件は、アフリカやアジアの辺境の地まで人助けに行こうという世代が日本に育っていることを世界に示した。グローバル化が国際色豊かな若者文化を育て、いまでは国境なき若者たちに、より開かれた、外部に対してより注意を払う利他主義的側面をもたらしている。ボランテイアたちはしばしば与えるよりも多くのものを受け取ったという感覚を持って外国から帰ってくる。消費と流行の気まぐれは一部の若者の動機であり続け、軽率で無邪気すぎるかもしれないが、ネクタイ・スーツ姿と夜遊びギャルの間に、激動する社会に積極的に関わろうとする者がいることだけは分かった。彼らは別の満足を望み、自分なりに世界を変えたいと考えている。親の世代のように企業社会に服従することを拒み、新たな感受性を見つけた若者たちを束ねる10万の活動にも注目しなければならない。利他主義に精神の充足、生き甲斐を見いだそうと模索する若者たちがいる。阪神大震災以降、経済成長下で育った日本の若者たちの間で、人道と奉仕活動に身を投じる子どもたちがますます増えている。日本人の人質は、一つの象徴だ。」
                                                            (2004/4/16 11:46)

[WAR DEPARTMENT TECHNICAL MANUAL『HANDBOOK ON JAPANESE MILITARY FORCES』]
 名古屋・鶴舞の古本屋を覗いたら、面白そうな本があったので少々高かったのですが奮発して買いました(3800円)。1944年10月に、フィリピン決戦を目前に米陸軍省が作成した秘密文書”TM-E 30-480”『日本陸軍便覧』です。帝国陸軍の地上部隊と航空部隊の、中枢から最前線の分隊までの編成と戦術、捕獲兵器のテスト結果や操作方法など膨大なデータが詳細に整理・分析され、帝国陸軍の全貌が明らかとなっています。敵の軍事技術に関して、その極細部まで徹底して把握した上で、米軍が戦闘に入っていることがよく分かります。日本兵の精神構造や心理に到るまで詳細に分析されています。
 日本参謀本部にこうした客観的な米軍分析の基礎資料はなかった。軍事技術的にみても、明治期の小銃や大砲を精鋭兵器と信じ、三八式歩兵銃を誇りにし、戦闘精神を神懸かりにした日本軍の前近代性と較べて、米国の近代思想の水準の高さがうかがわれる。日本軍は破れるべくして破れたのだ。ルース・ベネデイクト『菊と刀』が象徴するように、米国は日本の社会と文化を徹底的に研究し、占領後の統治政策の原理を開戦時から考察して、天皇制を温存した間接統治を採用した。日本の軍部特に参謀本部は、こうした研究・資料作成部門が決定的に弱く、冷静・緻密な作戦計画を立案する企画・作戦機能のレベルが決定的に劣っていた。旧満鉄調査部のような水準の高い戦争研究もあったが、軍部指導層は無視した。その最大の要因は、前近代的な天皇制絶対主義の軍隊という基本性格にあった。つまり皇軍は神軍であり、敵に勝つか負けるかを論議する習慣はなく、客観的な認識を基本とする戦略と戦術ではなく、玉砕を中心とする戦闘精神に軍事思想の基軸があったからである。

 さて米国によるイラク占領が混迷に陥り、挫折している原因を冷酷に分析すると、米国防総省の企画・研究・作戦立案部門が第二次大戦中に較べてかなり衰弱したのではないかと考えられる。アラビア語を理解し、イスラム文化に造詣が深いスタッフが決定的に弱いのではないか。中東専門家は、おそらく占領政策に批判的な意見が強いだろうから、作戦部門から排除されたのではないだろうか。国防総省は、ラムズフェルド国防長官をトップに狂信的なネオコングループが主導権を握り、かっての日本参謀本部と同じような偏狭な軍事主義が制覇し、イスラム文化とイスラム社会の独自の構造に配慮する戦略思想が欠落しているのであろう。しかしかっての日本は、軍人が政治の中枢をも掌握していたから、間違った戦略決定を反省・批判して転換する可能性はなかったが、現在の米国は戦略転換の可能性を回復できるレベルにはあると思う。ここに最後のギリギリの希望を託すことができるだろう。ただし戦略の転換と修正に到るまでには、多大の米国兵とイラク民衆の犠牲がでるだろう。(2004/4/15 1:00)

[小泉首相のアキレス腱]
 休刊になった『噂の真相』によれば、小泉氏は慶応大生の時に強姦事件を起こし、警察に逮捕されて調書を取られ、ほとぼりを冷ますために或る財界人の斡旋でロンドン留学に送られたという。この情報を米国の諜報機関に握られて、ブッシュ大統領に媚びへつらわねばならない事態になっているという。この小泉スキャンダルを最大限に利用する米国のやり方も汚いが、かってアラブの石油の直接取引をしようとした田中角栄を政権から追放するために、ロッキード事件をロスアンジェルスで仕組んだ米国の謀略の凄さを思い起こす。双頭の大蛇ーシオニズムとネオコンはマフィア顔負けのマキャベリズムを行使している。なぜならブッシュ大統領自身も、青年時代にはアル中で人生を棒に振る直前でパパ・ブッシュのコネで生き延びてきた同じ穴の狢なのだから。英語もまともに話せない人物が米国大統領として世界を攪乱している、まさに21世紀の初頭は野獣と人間の戦いと化している。小泉首相も自分が国民のサーバントである本質を知らないで、ブッシュに媚びへつらいポチ公といわれて軽蔑されている政治屋に過ぎない。彼が政権についてから日本経済は地獄に転落し、失業率は最悪の水準を行進し、自殺率は過去最高となり、実質賃金は過去最悪となり、倒産件数も戦後最悪を記録し、財政赤字も国家破産の寸前にある。せっせと米国国債を買い、ドルを維持しながら忠勤を励んで、日本国家は倒産寸前の状態にある。テロに屈するな!と声高に言い募るならば、ファルージャで女性や子どもの命700人以上を虐殺している米軍の国家テロに、「あなた、酷いことをしてはいけない、直ちにやめなさい」とブッシュになぜ云えないのか。こうした小泉氏のダブルスタンダードのモラルハザードが日本社会全体を覆ってしまい、あなたの周りでも強者に媚びへつらい弱者に威張る者どもが跋扈しているのだ。旗や歌に起立しないといっては、無理矢理強制して処分する野蛮な国になってしまった。
 しかし悪が栄えれば栄えるほど、実は悪は自ら墓穴を掘っていることに気が付かない。悪の振る舞いに失望して善を求める人間的な希望が深いところでじわりじわりと蓄積し、いつか火を噴くのだ。それが弁証法の真理そのものだ。歴史は最終的には人間を裏切らないだろう。(2004/4/14 22:26)

[第2次イラク戦争は現代型ナチズムの亡霊ではないか]
 ファルージャへのアパッチ攻撃ヘリとF16戦闘機による大量無差別殺戮は、女性や子どもを含む民間人虐殺と避難所であるモスク爆撃で千数百人を超える住民の死傷者を生み出した。包囲市街戦の戦闘はイラク民族の対米抵抗独立戦争の様相を帯びて、事実上の第2次イラク戦争が開始された。日本のマスコミで報道される被害者の写真は、毛布でくるまれて損傷された遺体は隠されているが、アラブ系サイトに掲載されている被害者の写真は目を覆わしめる痛ましい惨憺たるものだ。もはやこれはナチスのジェノサイドと本質的におなじだ。イラク国民の米国への憎悪と恨みは極限に達し、手段を選ばぬ報復の悪循環が進んでいる。まさにベトナム戦争の末期に近く、テト攻勢に近いイラク全土民衆蜂起が必ず起きるだろう。大義なき占領の行き着く先がどんなものかが、赤裸々に露わになろうとしている。
 「民間人を人質に取ることは犯罪であるが、占領はそれ以上に醜い。日本人誘拐の責任は、米国の圧力に負けて占領に参加している弱い日本政府にある」(エジプト・アルアクバル紙11日付)と鋭く指摘しているように、小泉首相はこの期に及んでも「米国の大義と善意を信頼して、自衛隊を撤退させない」と来日中の米副大統領に忠誠を誓い、信頼熱いアジア人を見殺しにして醜い姿をさらけ出した。哀れない日本政府は、どこまでも米国に付いていくための国内軍事法体系を整備する法案を提出した。

「武力攻撃事態法」(2003成立) 日本が攻撃されなくても予測されれば米軍の要求に自衛隊と日本国民が参戦する
「米軍行動円滑化法案」 米軍の支援を全地域で、予測事態から弾薬提供する。自治体と事業者の米軍協力は責務となる
「特定公共施設利用法案」 公共施設の米軍と自衛隊の優先使用 従わない自治体への首相の代執行 
「国民保護法案」 国民の土地・家屋の使用・立入禁止・物資収容の刑事罰適用、自治体の国民動員計画づくりの義務化、自衛隊員を委員とする国民保護協会による国民啓発活動
「緊急事態法案」 武力攻撃・テロ・自然災害すべてを包括する社会と生活の統制

 太平洋戦争期の国家総動員法の再版ではないか。米国の忠犬ポチ公からどう猛な番犬へと変貌しようとしている平和国家・日本、310万人の犠牲者に対する非戦の誓いがいま試されようとしている。(2004/4/14 10:08)

[イラク人質事件にみる政府・マスコミ心理の卑劣な退嬰的劣情]
 イラクで誘拐された国際ボランテイア・高遠菜穂子さんや今井紀明の実家に、家族の発言に対する批判といやがらせの電話や手紙が相次いでいるという。「自業自得だ」とか「自己責任なのに迷惑をかけるな」などの脅迫もあるという。家族の自宅周辺に多数の人間が集まってきていることから、政府は警備を強化するという。私が最も驚いたのは、ネット上に現れた狂言誘拐説である。誘拐被害者3人は事前にイラク抵抗勢力と話し合って、誘拐事件を演出して自衛隊撤退を実現しようとしたのだという。一部保守系マスコミは一斉に、3人の行為を非難する世論誘導をおこなっている。

「誘拐された家族が自衛隊の撤退を求める政治的な発言をすれば、誘拐犯に取引の余地を与え逆効果だ」(産経4月13日)
「人質の家族の言動にもいささか疑問がある。武装グループの脅しに応じ、政府の重要政策の変更まで求めることが適切といえるだろうか」(読売4月13日)
「再三の退避勧告にもかかわらず、人質3人はなぜイラクに入ったのか」(産経4月10日)
「イラクでは一般市民を巻き込んだテロが煩瑣に発生している。それを承知でイラク入りしたのは、無謀な行動だ。3人にも自らこうした事態を招いた責任がある」(読売4月10日)
 日本政府自身が非戦闘地域と定義しているところへ、民間人が自己犠牲的に人道支援に赴いた行動をこのように非難するとは、いったいどういう神経をしているのであろうか。物事を色眼鏡で見る卑しい偏見の持ち主がまだたくさんいるということを思い知らされた。しかも彼らは抵抗できない家族に対し、匿名で卑怯な罵詈雑言を浴びせて恥じない振る舞いに及んでいる。こうした唾棄すべき心情を持った非人間的で卑劣な人の言動は、憐れみと軽蔑を持って遇さなければならない。かってのナチスを熱狂的に支持したドイツ民衆の一部は、みずからは市民社会の底辺で人生に失敗した人々がその怨念を差別された弱者に対して集中的な攻撃を浴びせて、怨念を発散するという民衆的心情の頽廃的現象を代表した。水晶の夜からアウシュビッツへと極限の地獄へと到った。こうした一部の民衆の劣情は、誠実に正義を主張する人に対してより一層憎悪を剥き出しにして攻撃を加える。誘拐家族を攻撃してあざ笑っている卑劣な者は、歴史の裁きを受けなければならない。(2004/4/13 19:33)

[韓国大統領弾劾抗議集会で全員合唱された民衆歌ーいま韓国が熱い]

1,そうさお前らのいう通り 大統領は辞めるべきかも
  親戚、側近みんなが黒いカネを受け取ったかも知れない
  労働者、農民は自らの死を叫び
  庶民が借金で首をつる犬のような世の中 逆さまのこの国
  誰かが正さなければならないとしても

  しかしお前らじゃあない  ×××お前らじゃない
  お前等は国のことを心配しなくてもいいぜ
  段ボール、林檎箱、カネをやりとりする暴力団の奴ら
  だからお前らじゃない ×××お前等じゃない
  どうか、もう国のことを心配しないでくれ
  かすめ取るお前等がいなければ経済だってよくなるさ ×××お前等じゃない

2,そうさ お前等がいう通り 戦闘兵を派兵するのが国益なのかも
  ストライキで国が滅びる 検察の捜査がショーなのかもしれない
  時代が変わっているのに 北を敵だとして
  アメリカに媚びて血盟だという お前等のたわけごと
  千万歩譲って それが正しいとしても

  でもお前等じゃない ○○○お前等じゃない
  お前等が国を心配する資格はないんだ
  天皇のために死ねと言い 全斗煥を英雄だと 誉めそやしたクソ新聞
  だから お前等じゃない ○○○お前等じゃない 
  どうかお前等国を心配しないでくれ
  お前等崩れればこの世はましになるさ ○○○お前等じゃない

  ×××お前等じゃない ○○○お前等じゃない
  お前等手をつないで出て行ってくれ


 3月20日におこなわれた世界反戦同時行動ソウル集会に集まった大統領弾劾抗議キャンドル集会(20万人参加)で大合唱された民衆歌です。×××=ハン・ミン・ジャ=ハンナラ・民主・自民連、○○○=チュ・チュン・ドン=朝鮮日報・中央日報・東亜日報であり、韓国ではすぐ分かる隠語です。弾劾決議を阻止できなかった議員が土下座して国民に詫びるシーンが日本のTVでも流れましたが、私は韓国独特の政治文化の直裁性を実感しました。クールで互いに冷めた関係の日本の政治文化との落差を感じました。
 一体日本でたとえ20万人が集まったとしても、全員が心を通わせて熱い告発の合唱できる歌があるでしょうか。せいぜい「世界でたった一つの花」でしょうが、この歌に何のリアルなメッセージがあるでしょうか。爆弾の一発で吹き飛んでしまうでしょう。韓国を動かしている民衆運動の意志と底力を示しています。
 韓国は開発独裁を経て日本を部分的には凌駕する驚異的な発展を遂げて、いまや成熟した先進国に移行しつつあるのではないかと考えていた私の認識は浅かったのです。明らかに冷ややかにニヒルに私生活主義に埋没している日本にこそ、もはや未来はないと言わざるを得ません。リストラで自殺率が史上最高水準で推移しつつある国で、怒りは爆発せず、なにかヘラヘラ笑ってその日を過ごしている末期的な症状に気づいている人は、それほど多くはないでしょう。いや気づいていても、自分でなにかをする気力が失われているような感じです。政府が国民を見殺しにするこの国では、戦地でのボランテイアやNGO活動はある種の覚悟が求められます。(2004/4/12 17:16)

[空は希望色に染まったのか?]

 未確認情報ではイラク抵抗武装勢力が、日本人3人の解放を決定する声明を発表した。そのなかで、日本政府の自衛隊駐留継続を厳しく批判しながら、家族の悲痛な姿に共感し、3人がイラク支援活動者であることが判明したからだと述べたという。抵抗武装勢力の決定はイラクの将来を切り開く賢明な判断であり、残された焦点が自衛隊撤退にあることがますます浮き彫りとなった。本日は誘拐から解放に到る関係者の言動で後世に伝えたいことを記しておきたいと思う。

 ◆サラヤ・ムジャヒデインの誘拐声明(要旨 原文とはかなり異なっています)

 神の名の下に
 この世の中にいるいろんな国民がみな良き関係になるように生きなければならない
 日本の友人たちへ
 日本の国民はイラク国民の友人だ
 我々、イスラム教のイラク国民は、あなた達と友好関係にあり、尊敬もしている
 しかし、あなたたちはこの友好関係に対し、敵意を返してきた
 米軍は我々の土地を侵略したり、子どもたちを殺したり、いろいろとひどいことをしているのに、あなたたちはその米軍に協力した
 いま、あなたたちの国民3人は、我々の手の中にある
 そして、あなたがたは二者択一をしなけらばならない
 自衛隊が我々の国から撤退するか、それとも彼らを殺害するかだ
 ファルージャでやった以上のことを3人にもやるだろう
 このヴィデオを放映してから、要求を実行するために3日間の猶予を与える


 ◆高遠菜穂子さんの母親・京子さんの詩

 空は希望         高遠京子

 朝日が昇り始めた
 思わず 手を合わせ祈った

 この空 イラクにも続いている
 地球上のどんなところにも空がある

 雲が出て 雨降りになっても
 青空が戻る ましてや
 空がなくなることはない

 空は希望
 地球をとりまく空は 世界の希望
 地球上のあらゆる苦難も
 希望にかわる

 菜穂子 空を見ていて下さい
 イラクの空も 日本の空も
 希望色に染まるまで


 ◆事件発生時点の小泉首相の行動

 4月 8日(金)18:20 カタール・アルジャジーラTVから外務省へ誘拐の第一報が入る
          18:41 小泉首相 紀尾井町・赤坂プリンスホテル着 宴会(安倍慎三、報道各社編集委員)
          18:45 外務省から首相へ第一報伝える
          19:00 首相官邸に対策本部設置 
          20:30 プリンスホテル宴会閉会       
          20:40 小泉首相  ホテル発 
          20:58 小泉首相  対策本部に寄らず公邸に帰宅着
 4月 9日(土)官房長官 記者会見で「自衛隊撤退しない」と明言
          小泉首相 人質家族の面会要求を拒否し「自衛隊撤退ありません」と明言
                 自衛隊派遣の責任を問われて「国の問題であって私自身の問題ではない」と答える
          野党 衆議院本会議と委員会の年金・道路公団問題の審議延期を求めるが、与党側拒否
          与党「こういう時だからあたふたしてはいけない」と審議強行
          久間章生幹事長代理 家族の要請に「政治の世界は非常なものだ」と言明

 *コメント:事件発生直後異の小泉首相の行動は、「顔色一つ変えずビールとワインを飲み、ステークを平らげ、・・・・・熱弁を振るう傍らで安倍幹事長の携帯電話がしきりに鳴り、安倍氏は何度も席を外した。そろそろと安倍氏に促されてお開きになったのが8時半頃」であった(毎日新聞10日付)。決定的な国民の命の危機に臨んで、政府がなにもしないで放置することは、すでに阪神・淡路大震災で示されたが、今回も国民の命をよそにアルコールを飲み続けたのである。同時に政府の危機管理システムが全く作動していないことが示された。いざというときに政府は国民の生命を守る気はサラサラないということが白日の下にさらされようとしています。報道各社の編集委員も常識を疑われる。国民の生命が危機に瀕しているときに、首相と酒を飲んで演説を拝聴するジャーナリストって一体なんだ。

 ◆サラヤ・ムジャヒデインの解放声明

 慈悲深き慈悲あまねく神の名において

 我々は、日本政府が3人や日本の国民を軽んじる評価を軽んじる行ったことを強い痛みを持って聞いた。こうした悲しい状況のなか、我々は日本政府に変わって、日本政府に代わって日本国民の生命を守る完全なる正当性を与えられた。日本政府は、自国民への最低限の尊重の念を持ち合わせていないようだ。いわんや日本の首相の発言を拒否するイラク国民の生命を尊重するだろうか。我々がイラク国民のためにどうするかを考えるときがきた。高慢な日本政府の指導者は、ブッシュやブエラの犯罪的な振る舞いに従ったまま考えを改めず、自衛隊を撤退させようとしない。

 米国は広島や長崎に原子爆弾を落とし、多くの人を殺害したように、ファルージャでも多くのイラク国民を殺し、破壊の限りを尽くした。ファルージャでは、米国は禁止された兵器を用いている。

 我々は、イラクの抵抗はいかなる宗教、人種、党派に属していようとも、或いは責任者のレベルにあろうとも、外国の友好的な市民を殺すつもりはないと全世界に知らせたい。なぜなら、我々はイスラム聖職者協会の原則、純粋性、勇気を信頼して、我々に殺害をとどまるように求めたことを今晩の報道や特別の報道や特別な情報源から知ったからだ。彼ら3人は、イラクの人々を助けており、占領国への従属に汚染されていないことを確認した。彼らの家族の痛みと、この問題への日本の人々の立場に鑑み、我々は次のことを決めた。
(1)我々は、イラクのイスラム聖職者協会の求めに応えて、神が望むならば、3人の日本人を24時間以内に解放する。
(2)我々は、米国の暴虐に苦しんでいる友人たる日本の人々に、親愛なる日本の民衆に対して、日本政府に圧力をかけ、米国の占領に協力して違法な駐留を続ける自衛隊をイラクから撤退させるよう求める。なぜなら自衛隊の存在は不法なものであり、米国の占領に貢献するものであるからである。

 神は偉大なり。勝利するまでジハード(聖戦)は続く。

  ヒジュラ暦 1425年サファル月19日
      西暦 2004年4月10日
       サラム・ムジャヒデイン

                                      
 *コメント:驚いたことにメデイアによって翻訳がかなり異なる。原文は同じ筈なのになぜこれほどの意訳がおこなわれるのか。日本への原理的な批判をカットとする翻訳は許されないし、イスラムに対する基礎的な理解が欠落しているものもある。しかしこの武装グループの知的水準は高い。この声明に対して、日本政府関係者の一人は誤字と脱字があるとかケチをつけて、驚いたことに彼らの知的レベルは低いなどと侮辱的な発言をおこなっている。こうした国際感覚と外交センスでは人質は見殺しにされるだろう。米国に媚びへつらってイラク人虐殺の共犯者として自衛隊を派遣している、みずからの行為に対する反省の能力が全くない。恥を知れ!!

 ◆誘拐家族声明

 我々被害者家族は、イラクのアルジャジーラ放送による「拘束者3名の24時間以内の釈放」という報道を確認しました。言葉に出来ないほどの安堵感を感じています。我々の家族の解放に尽力頂いたアルジャジーラとイラク・ムスリム・ウムラー協会をはじめとする、世界中の仲間に対し、心からの感謝を捧げますと同時に、あらためてこのような混乱を招いたことをお詫び申し上げます。しかしながら、家族の心境としては無事な姿を確認するまでは不安は依然ぬぐえないのも事実です。引き続き我々は、自衛隊の即時撤退と、イラクからのすべての武力の廃絶を訴え続けます。同時に我々は、継続してイラクをはじめとするアラブ諸国の皆さまとともに平和な社会をめざしたいと考えております。また解放の速報以前にワールド・オファーより配信された川口外務大臣のコメントに対し、その文中に使用された「怒り」・「わが国の自衛隊もこのために派遣されているのです」という表現を、配信以前に削除することを要求しました。削除することができないならば、放映の中止を求めました。繰り返します。我々は継続して、イラクをはじめとするアラブ諸国の皆さまとともに平和な社会をめざしたいと考えております。
                                   2004年4月11日 AM4:43 家族一同


 *コメント:日本政府に対する痛烈な批判がある。自衛隊派遣を肯定し、誘拐に対する怒りを表明した川口外相のVTR内容が武装グループを激怒させる危険があるからだ。家族の声明から、国際ボランテイアを生み出す家族の高度な知的レベルが伺われる。早朝4時に書かれているということは家族の方々はおそらく一睡もしていないのであろう。驚いたことに、家族の自宅のすぐ側にマスコミが押しかけて居座りながら自宅を撮影して報道している。このマスコミの姿勢は何だ!(2004/4/11 9:44)

 ◆アル・ダライミ(イラク防衛権利同盟)「イラクのレジスタンス」声明
 日本の外務副大臣はバグダッド西方のファルージャを訪問し、米軍の大量虐殺の現場に自分で立つこと。日本政府がイラクの人々に公式に謝罪し、自衛隊がイラクから撤退すると表明する。日本政府が延長不可能な24時間の期限を守れなければ、最初の人質を一人殺害する。日本政府が自衛隊の撤退とその他の条件を満たさなければ、他の人質も12時間後に処刑される。(アルジャジーラ 4月12日AM1:34)

 *コメント:日本政府はこの声明を無視している。自称仲介者を名乗るこの男についての信憑性は不明。武装グループの内部に方針の違いがあるのかどうか。今後の展開は全く分からない。家族の不安は頂点に達している。相変わらず小泉首相は米国に救出を依頼している。米国が無視することは明らかだ。米国人の人質についてすら無視しているからだ。だいたいファアルージャで無差別攻撃をしながら、人質救援など交渉できるはずがない。米軍は誘拐武装グループを拘束して裁判にかけると脅迫している。こうした米軍に救出を依頼したら、人質の生命は危険にさらされるだけではないか。日本政府の無能がますます露わとなってきた。(2004/4/12 9:17)

[イラク人質事件を自分自身の頭で考え抜く]
 結論的に云うと、自衛隊は撤退せず政府は3名を見殺しにし、3名は殺害される。自衛隊が撤退するまで累々たる民間人の命が犠牲にされる。占領軍撤退まで何百年間かかろうがアラブ民族主義は抵抗を続ける。大義なき軍隊派遣を選択した小泉首相の責任は歴史の法廷によって裁かれる。3名の犠牲の段階で大義なき派兵を撤回し、非軍事的方法による支援に転換する。これが私の結論です。こうした決定的瞬間における決定的判断の質が全局を左右する。かって中国侵略を決定したときに、膨大な民間日本人の犠牲を食い止める虚構の大義がつくり出されて、地獄の泥沼に転落し2千数百万人の犠牲を出した痛苦の体験を想起するときだ。しかし撤退論は必ずしも多数派ではないようだ。そこでメデイアを中心にどのような議論があるか、今の時点で整理してみたい。大まかにみると、占領継続貫徹論と即時撤退論及びそのバリエーションになる。

T)反テロ貫徹・自衛隊占領継続論:小泉政府及び米政府の主張。自衛隊は人道支援の任務、人道支援の民間人テロは国際世論から孤立する。卑劣な脅迫に屈すればテロに敗北することだ。世界的な反テロ戦争の主要な部隊であるイラクからの自衛隊の撤退は、反テロ連合の瓦解につながり、テロの横行を許す。(米政府)反テロ戦争における犠牲は崇高な犠牲だ。退避勧告を無視した民間人に責任あり。

U)反テロ・即時撤退論:非戦団体の主張。非軍事的手段による反テロ人道支援を追求。民間人の生命を犠牲にして占領継続する意味はない。イラク特措法の非戦闘地域の根拠は消滅し、占領継続は違法状態となった。国連主体の平和秩序回復へ転換すべき。米国単独行動主義への加担は国際社会から日本が孤立する。

V)反テロ貫徹・将来撤退論:朝日新聞社説の主張。脅迫への屈従は同じ事件を誘発し、日本の遵法脆弱性を暴露する。イラクの現実と特措法の背反を検討し、必要な時期に撤退する。

W)反テロ・多極型占領継続支援論:一部政治学者の主張。日米同盟が日本への批判を招いている。欧州型多国主義によって米国単独主義とは独立したアジア諸国家連合による独自の支援をおこなう。

 すべての議論は反テロでは共通しているが、その方法で軍事が非軍事かに分かれる。選択の基軸は、撤兵=屈服論にある。では撤兵は屈服を意味するのか-を考えてみよう。スペインは鉄道爆破を契機に撤兵を決めたがこれは屈服か。テロと戦い民主主義を守る撤退は、大義なき派兵を認める真に勇気ある行為だ。テロがあろうがなかろうが、本来の撤退すべき正しい選択をおこなったことだ。スペインの撤兵を非難する国際世論はない。不正義のイラク占領を国際世論は非難している。だとすれば日本の選択は明らかではないか。

 こうした論議に鋭く反応しているのが、株式市場と為替市場だ。日経平均株価は12000円台を割り込み、1000円台に下降しようとしている。円相場は1ドル=106円78銭に下落し急落の可能性が出てきた。政権支持率の急降下による経済政策信任の喪失、米国経済の好循環の破綻による市場不安が誘発されている。占領継続は犠牲者増大による政府崩壊をもたらし、撤退は日米関係の動揺による対日経済圧力強化をもたらすという二律背反の袋小路に入り込んだ。市場は冷酷に米国単独行動主義と日本の追従政策を批判している。(2004/4/10 22:45)

[アメリカ帝国の行動をどう理解するか]
 アメリカ帝国の行動を理解するためには、その建国の理念の二重性に注目する必要があります。
 1620年に祖国イギリスを脱出したキリスト教原理主義のグループ・巡礼始祖(ピリグリム・ファーザース)によって開始された植民地アメリカは、1775年から独立を求める武力闘争に入り、開戦翌年の76年7月4日に独立宣言を発表し、83年に独立を実現して200年を経て今日に至る。このアメリカ独立宣言は、フランス人権宣言と並ぶ民主主義の2大古典と呼ばれる。この独立宣言の光と影にこそ現代アメリカを分析する鍵がある。生命・自由・幸福追求権と人民の抵抗・革命権を高らかに宣言しながら、その受権者から人口の20%を占める黒人奴隷は除かれ、先住民は蛮族と規定され、女性の市民権はなかった。米国史上最大の62万人の死者を出した南北戦争を経て奴隷制は廃止され、黒人の市民権も認められたが、南部諸州は黒人市民権を剥奪した。独立期の人権が「国家の抑圧からの自由」を意味したのに対し、1964年の公民権法によって「国家が保護すべき弱者の権利」が付加され、はじめて人種隔離と差別の禁止と性差別の禁止が実現した。「機会の平等」から「結果の平等」へと平等の内実が前進し、特定集団に特別な機会を保障するアファーマテイブ・アクション政策が採用された。この政策によって受益する黒人層が生まれたと同時に、階層分化が進行して黒人の人種的結束が衰弱するという結果が誘発された。
 しかし1970年代後半以降から90年代にかけて、「すべての個人を平等に扱うアメリカ原則」という論理によって、特定人種優遇政策は廃止され、同時に新古典派自由主義市場経済原理によって米国の階級・階層間格差は拡大していった。特に都市中心部スラム街に集住している黒人の貧困・犯罪・監獄人口・家族解体・教育の状況は劣化し、実質的な人種隔離現象が誘発された。黒人層を基盤とした民主党の「脱黒人化」政策によって人種問題は希薄となり、ラテン・アジア系の人口増加と連動して黒人問題は副次化していった。黒人差別撤廃政策は形骸化し、黒人運動は既得権擁護か自助運動へ分化し展望を見失った。つまり現代米国の内部の両極分解は深化し蔓延してはいるが、鬱積している抵抗の情熱を表現する結節点がない状態で矛盾は内向して沸点に達しようとしている。
 ここから内部矛盾を外部へと転化する大戦略が登場する。異化され作為された敵に対する祖国防衛の大義が宣揚され、すべての内部矛盾を止揚する情熱の集中が人為的につくり出され、国内の統合を実現しようとする。敵は異文化の野蛮な自由を破壊するものとして、理解ではなく抹殺の対象となる。究極的にはジェノサイドである。こうした内部矛盾の止揚のレトリックは歴史上枚挙にいとまがない。1915年から16年にオスマントルコ帝国のアルメニア人150万人が、対露戦争遂行の労働力確保の選別・移送によって虐殺され、第2次大戦中にクロアチア国家で起こったセルビア人50万人〜70万人の虐殺、そしてナチスによるホロコーストなどなど。東アジアにおいては、関東大震災下における朝鮮人虐殺や南京大虐殺、カンボジアにおけるポル・ポト派による虐殺なども例外ではない。ジェノサイドの背景にあるのは、国民国家形成における異民族排除、総力戦体制の構築のための国民統合、独裁的国家権力の体制など共通した要因がある。
 アメリカ帝国が推進している世界戦略は、まさに星条旗の占領に抵抗する敵を次々と転換しながらジェノサイド型の虐殺を遂行しつつ、帝国の権威を世界に誇示するところにある。わが日本は帝国に従属しつつ、ジェノサイドに加担している。なぜなら日本政府は、ジェノサイド条約(1948年)と国際刑事裁判所設立条約(1998年)の批准を拒否しているからだ。強者に媚びながら、強者と手を組んで弱者を攻撃するのは、最も卑劣で恥ずべきことだ。最前線で無駄な死に直面している同胞を私たちはどのような眼差しで見つめているのであろうか。折しもイラクで日本の無辜の民間人3名が武装勢力の人質となって、3日間の期限で日本軍の撤退を迫られる事態が起こった。武装勢力は3名を焼き殺して食べると脅迫している。日本自衛隊の人道支援の内実が崩壊し、主要任務がイラク人との戦争に移行しているからだ。404億円のうち、イラクに提供された支援物資は、族長を買収するために贈られた羊110頭だけであり、給水活動も1日80トンのみで、1万6千人分としているが、これは1人5gと計算した数字であり、自衛隊員1人100gと比較すれば虚偽宣伝に過ぎない。ボランテイア団体は、すでに数千万円の予算で8万〜10万人分の給水をおこなっている。自衛隊の存在はぐんじてき・政治的な意味しかないのである。拘束された高遠菜穂子さんは、現地でイラク人と握手しようとしたらピシャリと叩かれたという。日本はいい加減に帝国幻想と訣別して、撤退すべきすべき瞬間が近づいている。しかし残念ながら3名は見捨てられる可能性がある。わが日本は決定的な分岐点に直面した。(2004/4/8 22:58)

[さもなくば誰が国に命を捧げるか-首相の靖国参拝違憲福岡地裁判決]
 この言葉は、1985年8月15日に戦後最初の靖国神社参拝を強行した中曽根首相のものです。彼は同時に「過去のことではなく、21世紀に向けて前進の体制をつくる戦後政治の総決算」と位置づけ、戦後民主主義システムを転換させる契機としました。なぜ靖国神社参拝はこれほどの歴史的意味があるのでしょうか。靖国神社は1869年に東京招魂社として東京・九段に建てられ、1879年に靖国神社と改名しました。内務省管轄の一般神社と異なり、陸海軍省が所管する軍事宗教施設として発足しました。「靖国に祀られている人々の忠義に倣って、君のために尽くさなければなりません」(国民学校4年修身)とあるように、天皇への忠誠死を象徴する施設として戦争システム構築の精神的主軸となりました。戦争への精神的動員体制の中心となった神道天皇制を全面否定した戦後憲法によって、靖国神社は1宗教法人となりましたが、1978年にA級戦犯14人を合祀し現在210万人が祀られています。その中には朝鮮・台湾出身者47000人も含まれています。憲法第20条第3項では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とし、こうした歴史的経過を踏まえた政教分離原則によって靖国神社は運営されているはずです。
 4月7日の福岡地裁判決は、首相の靖国参拝を違憲と断じましたが、その内容は私の予想を超えた憲法原理的なものでした。「靖国神社は戦没者追悼施設として適切ではない」と靖国神社そのものを否定し、首相の参拝は「政治的意図に基づいている」と首相の参拝が政治行動であると断定し、「今後も繰り返される可能性があり、裁判所の責務として判断する」として今後の参拝を拒否しているからです。愛媛玉串書証最高裁判決での尾崎行信判事が、大正末期から昭和への軍国主義と戦争の歴史を振り返って「情勢の急変に10年を要しなかった・・・・些少だと思われる事態が既成事実となって、取り返し不可能な状態になることは歴史の教訓」と述べましたが、今回の福岡地裁(亀川清長裁判長)判決はそれに優るとも劣らぬ画期的な憲法判断です。
 違憲立法審査権を持つ司法が実態としては、違憲判断を回避し事実上なし崩しに違憲状態が社会全線で浸透していく中で、福岡地裁判事の独立した精神は称賛に値すると思います。

 公職者の宗教活動に対する判断基準は、愛媛玉串訴訟最高裁判決の「目的効果基準」が確定しています。その行為のおこなわれた場所、その行為に対する一般人の宗教的評価、行為者の意図、目的、行為の一般人に与える効果、影響等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断する-というのが目的効果基準ですが、今次判決はこの基準によって違憲という結論を出しています。今次判決は、傍論として述べられているので拘束力はなく、国も控訴できないのですが、しかし司法の違憲判断は重大な意味を持ちます。おそらく次は、日の丸・君が代をめぐる内面の自由の基準が問われるでしょう。こうして次々と日本の国家の基本を問うような事態が進行しつつあり、もはやアレカコレカの選択を否応なく明らかにする時代が近づいています。その最終局面は、憲法改正を問う国民投票となるでしょう。アジア・太平洋戦争で犠牲となったアジア人2500万人、日本人310万人の死者たちが闇の中から息を詰めて現代日本の動きを凝視しているに違いありません。

 牡丹江の河に棄てたる幼な子の 溺るるさまを君泣きていふ   (中川尚志 1947年「アララギ」1月号所収)

 徴兵は命かけても阻むべし 母・祖母・おみな牢に満つるとも    (石井百代 1978年「朝日歌壇」9月16日付)

 *付記 梅原猛氏は、首相の靖国参拝は理性の復讐を招くとして警告して次のように述べている。明治政府の廃仏毀釈は、天皇をただ一つの神として仏を否定し、全国の寺院を国家神道の統制下に置く大教院をつくって、本部が置かれた増上寺の本尊は阿弥陀仏から天照大神に換えられた。島地黙雷は西欧の政教分離を主張して東西本願寺を大教院から離脱させて、この制度を崩壊させたが、精神的には戦時中まで続いた。首相の靖国参拝は、大教院の亡霊を復活させ、小泉首相は東条英機の二の舞を演じている。朝日新聞4月20日朝刊。

                                                  (2004/4/8 11:18)

[米軍のイラク占領体制は崩壊に直面している]
 イラクでのシーア派と占領軍の全面対決の様相はすでに戦争状態に近い。米占領軍CPAは、シーア派指導者サドル師支持の週刊紙アルハウザを反米暴動を扇動したとして60日間の発禁処分を行い、側近のヤクービー師を拘束し、サドル師の逮捕に踏み切った。これを契機にイラク全土でシーア派と米軍の全面対決が誘発されている。「我々にとってデモの必要性はもうない。敵は意見を抑圧しイラク人を蔑んでいる。我々はもう沈黙を守ることはできない。敵に対してテロの手段を」との声明がサドル師によって発せられ、明らかに第2次イラク戦争の段階に突入しようとしている。イラク暫定基本法では表現と出版の自由を保障しているから、米軍自身がこれを侵したことになる。イラク国民の60%を占めるシーア派が反米に転じたことによって、スンニ派との連合が実現し、イラク戦争はイラク抵抗戦争の性格を帯びつつある。
 なぜこうした事態が誘発されているのか? 米占領軍の主権移譲が形式的で、実質的には米占領の継続であることが明らかとなってきたからである。新設米大使館は3000人の職員を擁し、大使の有力候補がネオコントップのウルフォイッツ国防副長官であり、イラク治安部隊が引き続き米占領軍の指揮下に入ることが明らかになって、10万人以上の米軍占領体制が続くことをイラク民衆は許せないのである。殴り込み部隊の米軍海兵隊は、一旦は任務を終えて帰還したが、この3月にまたバクダッド西方に25000が再展開している。彼らがなにをやったのか。拘束されたイラク人は米軍発表で9000人(アムネステイ発表では15000人)に達し、監獄での暴行と陵辱がおこなわれている。残された妻の一人は「米軍が来て良いことはなにもない。挙げ句の果てに夫は連れ去られ生活費も奪われた。米軍が憎い」、部族長の一人は「こんな平和な村の誰がサダムとつながっているというのか。私の大切な部族民を囚人番号で呼ぶ米軍は決して許さない」と言う。この村の掃討作戦で抵抗しないように頭に布袋をかぶせられた男たちが、屈辱的な姿で地面に座っている写真を見ると、米軍は自ら進んでイラクの敵となるように振る舞っていることが分かる。米海兵隊の主力である第5海兵連隊第1大隊800人は、部隊配備計画によって米本土から沖縄に展開し、2ヶ月間駐留の後イラクへ出動した部隊だ。沖縄での訓練の中心は、デモと武装勢力鎮圧訓練であった。沖縄でのテロ発生の可能性が高まっている。 
 イラク人口約2500万人のうち97%がイスラムで、うちシーア派が60-65%、スンニ派が32-37%を占め、フセイン時代に抑圧されたシーア派は占領初期に米軍を解放軍として歓迎したが、ここにきて米占領体制との対決に転じた。民族自決権という国際基準から言えば当然の政策転換であろう。今まで聖戦=ジハードはアルカイダ系組織によって宣言されてきたが、米軍のクラスター爆弾によるモスク爆撃によって遂にスンニ派宗教指導者が反米聖戦を宣言した。
 明らかにベトナム戦争末期の状況と酷似してきた。抵抗勢力の政治的指導勢力が、マルクス主義か宗教勢力かの差異はあれ、占領軍が全国民的な抵抗に遭遇する事態は共通している。驚くべきことに日本政府スポークスマンは、シーア派への攻撃を「やむを得ない」と表明して恥ずべき追随の姿勢を示した。この恐るべき判断停止の単純脳細胞の行き着く果てに何があるか-と考えると戦慄が走る。ここまで第3世界に対する理解を欠いている日本政府の認識水準は無知を通り越してすでに統治能力を喪失していることを示している。(2004/4/6 19:50)

[五百旗頭氏の嗤うべき改憲論]
 現代日本国家の出発点は2つある。一つは1945年8月15日の敗戦を契機とする大日本帝国憲法体制の崩壊の日であり、第2は1952年4月28日のサンフランシスコ条約・日米安保条約の発効を契機とする日本国憲法体制への転換です。ここから戦後日本の基本矛盾である憲法システム=非軍事平和路線と安保システム=対米従属軍事路線のせめぎ合いの歴史が始まりました。この矛盾は帰する所、憲法を変えるか安保をなくすかの二律背反の絶対矛盾を内包していました。あらゆる下位法は憲法による法・政令体系と、安保による行政協定・特別協定という背反的な法体系が二重にそそり立ってきました。その象徴が米兵の日本国内での犯罪を裁く日米地位協定の刑事裁判手続きにあります。犯罪米兵の裁判権は日本にあるが身柄は米側が拘束するという地位協定17条5項Cによって、米側は犯人を引き渡さず米兵犯罪は急増してきました。今次改訂合意ににおいても、引き渡しは米側の「好意的配慮」に委ねるという治外法権は解消されず、引き渡した場合には米軍代表が捜査に立ち会うという日本の司法史上かってなかった主権侵害を許容するものとなりました。かって明治政府が進めた不平等条約改正のなかで、外人判事の裁判出席をみとめるという屈辱的な主権侵害に匹敵する屈辱的な内容です。  
 さて現在声高に推進されている憲法改正の動きは、明らかに安保システムに憲法を合わせる方向であって、改正論者は安保システムの屈辱的な内容については一切沈黙しています。例えば五百旗真頭氏の改正論理をみてみましょう。氏は次のように言う。
 現在の日本の安全保障は、@多国籍軍型国債安全保障への参加A日米同盟の深化拡大B地震・テロ等へのセキュリテイ
の3つのレベルであり、戦後平和主義の過度な自己規制から抜け出した正しい選択である。現憲法は国際安全保障活動についての明文規定がなく、その分野の規定は議会の立法で対応すべきであるから違憲ではない。以上朝日新聞4月5日付参照。

 氏の論理はいかなる法も最高法規である憲法との整合性を持つという近代法治国家の論理にやむを得ず従って、憲法にないから法で補完したのだと説明しつつも、国際紛争を解決する手段として一切戦争を放棄している-という憲法との矛盾を否定できない。違憲ではないといいつつも、第9条改正論を@真楽戦争否定の1項は残しA自衛戦争を義務としB国際安全保障行動に参加する-との主張を行う明らかな自己矛盾を犯している
。氏の独自の主張は国連も米国も誤るから、自主的な国際軍事行動を認めようというところにあるが、結局の処米軍の行動に自主的に参加せよと言っているに過ぎない。氏は屈辱的な安保問題に関しては一言も触れない。氏の論理は実質的に安保システムの再構築による衛星国家・日本の主張に他ならない。いま世界の主要な平和の敵は、米国のユニラテラリズムと、それに反対する原理主義テロであるという、素直にみれば誰でも気づくはずの事実を曇ったメガネで偏見をもって誘導している恥ずべき政治学者の姿がある。(2004/4/6 10:32)

[今日はチョット夢のあるお話-200万円で宇宙に]
 1984年にアメリカが立ち上げた国際宇宙ステーションの建設が進み、日本も「希望」棟を担当しています。2010年完成予定でもうすぐ宇宙旅行が実現します。ステーションへの道は、スペースプレーン(滑走路から飛び立ち或る高さになるとロケットエンジンに切り替わって高速飛行する)とスペースエレベーター(素材の強度が問題)の2つです。すでに宇宙体験ツアーを主催する旅行社が設立され、Space Adventures社はすでに2名宇宙旅行に連れ出しています。2005年にペア席の8日間滞在プランを立て、条件は3つです。18歳以上・半年間のトレーニング・US2000万ドル(!)負担ですが、旅行代金がチョット高いですね。日本のロケット協会も、50人乗りの観光用ロケット「観光丸」の建造を開始し、激安の200万円で高度200kmで無重力遊泳と地球惑星を見る会を企画しています。また幾つかの惑星不動産会社が月と火星の土地権利書を販売し、価格数千円で取引が開始されました。この権利がどうして取得されているのか、宇宙空間条約との関係でよく分かりませんが、けっこう売れ行きがよいそうです。
 あまりにも地球惑星が住みにくくなったので、こうした宇宙への夢浪漫のお話が飛び交っているようですが、なにかチョット愉快でチョット哀しくなります。とりあえず宇宙での食生活を体験する宇宙食がセットで4名さまにプレゼントされますので、興味がある人は応募してみて下さい。http://ad.melma.com/go/to?id=8950           (2004/4/4 17:48)

[我々はこんなに善意なのに、なぜ彼らは我々を憎むのだろうか、いったいなんで-道化師ジョージ・ブッシュの末路]
 朝のニュースで抱腹絶倒のシーンが流れた。ブッシュ大統領が反テロを真っ赤になって力説しているすぐそばで、少年が大あくびをしたり、首をひねったり、運動して最後は座り込んでしまった。少年は正直だから演説の無内容に退屈して自分をもてあましてしまっているのだ。ブッシュの権威が地に堕ちていることをまざまざと全世界に知らしめた、最近では最も素晴らしい映像であった。
 表題のブッシュの言葉はそのまま彼の知的水準がいかに低レベルであるかを暴露しているが、イラク戦争は米国の市民大衆を含めて、米国が薄っぺらい善意に充ちた社会であることを物語っている。民主主義の伝道者というネオ・コンサーヴァテイブの無知を示している。その象徴的モデルが、ジェシカ・リンチだ。ジェシカは、3月20日に始まったイラク侵略で、最初に米軍が遭遇した地上戦であるナーシリーヤで、イラク軍が米陸軍507工兵工兵部隊を奇襲攻撃した際に、数人の敵兵を相手に弾薬を使い果たして勇猛に応戦して捕虜となり、米軍突撃部隊によって救出された-として一躍イラク戦争の英雄となった。ジェシカの出身地であるウエスト・バージニアの街は黄色いリボンが飾られ、ジェシカ一家には全国からメッセージやプレゼントと寄付が殺到し、地元のボランテイアは新築の家を贈った。
 ところがこの英雄神話は彼女自身によって否定された。彼女は武器をほとんど持たない補給兵で、ナーシリーアに迷い込み、奇襲を受けて逃げる際に、乗用車が衝突事故を起こし負傷して病院に収容されたが、そこは誤爆によって死傷した民間人が溢れていたにもかかわらず、イラク人医師は彼女を誠実に治療したというものであった。

 この事実はブッシュの戦争プロパガンダの本質を見事に表している。不正義の戦争に民衆を動員する宣伝のメカニズムだ。不屈に自己犠牲の精神で祖国のために戦う女性兵士の映像が国防総省にとって必要であったのだ。これは日本の外交官2名の殉職の時にも最大限利用された宣伝技術だ。しかし大事なことは、米国市民大衆の多くの部分がこの宣伝を支持したことだ。ジェシカはなぜ戦場に行ったのか。彼女の出身地は産業がほとんどなく、未来への夢は大学進学の奨学金取得にある。軍隊と戦場への志願は、大学進学を優先的に保障するのであり、徴兵制から志願制に切り替えた米国で兵士を調達する方法として採用されているのが、このような優遇措置だ。米兵の構成は貧困層に傾斜し、戦場で犠牲となる兵士の多数は貧困白人と有色人種だ。ジェシカ・リンチの神話は、こうした米国社会の現状を浮き彫りとしている。わが大日本帝国もこうした戦争宣伝がじょじょに浸透しているのではないか。参照:リック・ブラック『私は英雄ではない ジェシカのイラク戦争』(阪急コミュニケーションズ)。

[日本のタンポポは雑種が多数派となった、文化もまたそうか]
 日本列島のタンポポは在来種と外来種がせめぎ合い、自然が残る郊外に在来種、開発された都市部に外来種という棲み分けが環境指標としての意味を持っていた時代は過ぎ去った。強い外来種に生育地を奪われて在来種のタンポポが姿を消していくという説明も古くなった。こうして在来種と外来種に二分して分布を調べてきたタンポポ地図の意味も有効性を失いつつある。
 タンポポのDNA分析による雑種類型は3つに分かれる。動植物の個体は、染色体のセットを2つ持つ2倍体が一般的だが、タンポポの染色体は8本セットであり、雑種は4倍体・3倍体・雄核単為生殖雑種(3倍体)の3つだ。各タイプの染色体のセットのうち、外来種からのものと、在来種からのものの内訳はそれぞれ、4倍体で(3+1)、3倍体で(2+1)、雄核単為生殖雑種では外来種からの3セットのみとみられる。いずれも在来種のめしべに外来種の花粉がかかって生まれた雑種だが、2倍体でないため、受粉による有性生殖とは異なる方法で繁殖してきた。4倍体雑種の97%には花粉がなく、タンポポの花の下にある外総包片が在来種は反り返らず、外来種からの染色体の比率が高いほど大きく反り返る。ところが最近は雑種が更に在来種と交雑したり、在来種の花粉が外来種にかかってできる新たな雑種ができたり、識別するのが困難となってきた。在来種と外来種と雑種が人間活動を媒介に、複雑な雑種を生み出している。特に4倍体雑種は日本の暑さを乗り切る特性を持ち、純粋な外来種以上の耐性を持って主流となっている。以上は朝日新聞4月3日付夕刊参照。

 こうした植生における雑種の制覇は、文化の領域にも適用できるであろうか。かって加藤周一は雑種文化論を日本文化の特徴としてとらえたが、それは日本文化と外来文化とが融合された独自の雑種文化というものであった。逆に丸山真男は、通奏低音としての古層文化を基調とする日本文化論を展開した。日本文化と外来文化がせめぎ合いながら、独自の雑種文化を創り出しているという加藤・雑種文化論の方にタンポポは軍配を上げるかのようだ。
 しかし本当に文化といえるような雑種文化が誕生しているのだろうか。日本のアイデンテイテイを統合し得るような雑種文化が果たして育っているだろうか。現状は混沌として、伝統文化に復帰したり(日の丸・君が代の強制)、折衷したり(コラボレーションというナウい言い方で)、追随したり(帝国の思想)、結局の処座標軸を喪失してコスモポリタンとなって漂流しているのが現状ではないか。そうした混迷状態にある心情の披瀝として、今回の芥川・直木賞の作品があるのではないか。タンポポのようなDNAの変容を日本文化もたどっているのであろうか。(2004/4/3 22:41)

[ファルジャでのアメリカ人惨殺はなにを物語っているか]
 イラク中部のサルジャで3月31日に米国民間人4人が惨殺された。4人は治安訓練や警備を請け負うブラックウオーター社(ノースカロライナ)の社員で、米軍特殊部隊や秘密警察機関に属していた人物だ。武装グループは、燃え上がる車から遺体を引きずり出し、棍棒で乱打した上で、車で引きずり回して2遺体をユーフラテス川にかかる橋に吊した。写真を見ると、両手を挙げて歓呼している民衆が周りを取り囲んでいる。12歳の少年は「米国は占領者だ。またこんな事が起きるよ」と怒りを込めて叫んでいる。米軍の死者は海鮮から597人となり、戦闘終結宣言から459人となったが、今回の殺害は従来と質的に異なる。
 単なる爆殺ではなく、リンチによってさらし者にする残虐性があり、しかも武装グループの行為を民衆が共感を持って支持している。かって米軍に対する襲撃によって撤退したソマリアと同じような状況が生まれている。さらに米政府のネオコンが推進する戦争の民営化戦略が浮き彫りとなっていることだ。国際法の占領軍規定では、占領地の治安と安全を維持する責務が占領軍に課せられるが、ファルジャ事件は、食糧輸送の警備を民間企業のガードマンが請け負っていたことを示している。警備員も武装しているのだろうが、企業利潤の追求のために占領地での食糧配給を請け負わせる米政府の頽廃した発想がある。ラムズフェルド国防長官が直接経営するハリバートン社が有名だが、驚いたことに商業取引を禁止されているイスラエル企業100社近くがイラクビジネスで数百万ドルの売り上げをしていることだ。彼らは、中古バスや防弾チョッキ、塗料、、燃料などを販売し、運送会社がイラクに商品を運んでいる。同時にイスラエル国籍を隠すために文字と印は消している(イスラエル紙マーリブ 1日付)。ここからイラク戦争は米国とイスラエルの陰謀という説が登場する。

 イラク民衆の米占領軍に対する怒りと憎悪が極限にあることを示した今回の事件は、占領政策の問題ではなく、占領そのものに問題があることを再び問いかけている。もはや米軍はテロリストと戦っているのではなく、民衆すべてを敵としているのだ。ではどうしたらこの地獄のスパイラルから脱出できるのだろうか。その一つのモデルがスペインにある。3月11日にスペインで3台の列車に対する同時多発テロによって莫大な犠牲者が出た。。9.11航空機と本質的には同じである。しかしスペイン人は反テロの爆弾や戦争の道を選ばず非暴力の道を選んだ。幾つかの事例を挙げよう(J・マシア・SJスペイン・コリャミス大学生命倫理研究所長「スペインからの手紙」3月20日付)。もし日本でテロがあったときに、こうした崇高な態度がとれるだろうか。

 1)被害者の大多数はモロッコ人を含む11の国の移民労働者と学生であった。遺族の多数は不法入国者であたが、法務大臣は遺族に在留許可を与え、国籍取得も保障すると発表し、マドリード市長は「私たちは決して移民やイスラム系を差別しては行けない、彼らは私たちであって、私たちは彼らである」と述べた。徹底して移民とイスラムを排除した米国愛国者法と較べよう。

 2)キリスト教とイスラム教の和解が推進された。モスクでテロ事件を断罪し、「イスラムのテロ」ではなく「アルカイダのテロ」と呼んで糾弾し、両宗教の原理主義を克服する対話が進んだ。キリスト教会は十字軍と宗教裁判を自己批判した。

 3)直後の総選挙は、恐怖ではなく勇気の投票となった。反テロ=戦争と暴力ではなく、非暴力によるテロ犯罪克服の道を選んだ。殺人者を殺せと叫ぶ霊安室の職員を、一部しかない子どもの遺体を前にした父親が、「私は復讐を求めない。戦争と憎しみはもうたくさんだ。殺された息子の死が無駄にならないよう、私も怒っているが、暴力はやめよう、黙って祈った方がいい」と慰めた。

 4)犠牲者遺族から来た手紙には「私は3.11で息子を殺されました。痛みで胸がいっぱいですが、ともに泣いてくれた人を通して神の慈しみを感じました。みなさんもお祈りして下さい。それは息子のためではなく(なぜなら息子は天国にいます)、テロを実行し計画した人々のために祈って下さい。彼らがもたらした傷を癒すために、彼らを支配している悪を、彼ら自身が乗り越えるための必要な愛を見いだすことが出来るよう祈って下さい。私は、息子の遺体を前にして、暴力がこの世から亡くなるよう、全力を尽くすことを誓いました。世界に暴力より愛を選ぶ人が増えれば、いくらテロが起きても愛が打ち勝つことを確信しています」。

                                             (2004/4/2 8:41)

[高階秀爾氏の美術館論について]
 日本の代表的な美術評論家の高階氏の美術館論(朝日新聞4月1日付夕刊)について論評したい。氏は日本の特に地方公立美術館を中心として冬の時代を云う。不況による予算削減で作品購入や活動縮小、民間委託から身売りを含む経営危機を取り上げている。本来的に美術博物館の収益性がないとするならば、存在意義をどこに求めるべきかを問いかける。海外の著名美術館長を集めた国際会議において提起された意見は、@公的予算が切り離された美術館は収益性重視に向かい、商業化と収集活動と調査研究の軽視が生まれるA永続的な価値を持つ芸術遺産の保存と継承B充実した常設コレクションの衰退C市場原理による経営手法から学びつつもそれが唯一の手法となってはならないD異文化理解と交流機会の保障、多様性ある教育機会の提供・・・・などを指摘し結論的に収益性原理を否定する。
 しかしこうした問題状況はとっくの昔から指摘されていたことであり、芸術が置かれた今日的状況の今日的分析はもっと鋭く深くなければならない。彼の致命的な欠陥は国際的権威の意見を羅列し、主体的な問題状況を打破する政策的な問題提起がないことにある。では問題の根元と政策的な打開はどこにあるのか。

 @文化芸術振興基本法における文化を国民の基本的権利とする視点が氏には欠落している
 A日本の労働実態や税制が芸術鑑賞の機会を奪っている現状への問題意識がない
 B独立法人化や民営化に対する政策的批判がないこと、文化行政に対する問題提起が全くないこと
 C行政の支援政策が、事業助成主体であり、教育・研修機関による人材育成政策が弱いこと
 D芸術施設への固定資産税減税や寄付税制の税制改革の提起がないこと
 E芸術家に対する労働条件や社会保障の視点がないこと
 F政府の芸術支援政策が、国家戦略としての先端産業育成の枠内で把握されていること(コンテンツビジネス政策)
 G子どもの芸術鑑賞機会の保障を含む草の根からの芸術活動を展望していないこと

 高階氏の美術館論は、抽象的な普遍芸術価値論のレベルにとどまり、芸術が置かれている社会政策的な問題状況と切り結ぶ具体性を持たない。せいぜい芸術価値の超時代的な普遍価値を訴えているに過ぎない。かっての高階氏の主張は、もっと思想性に裏付けられた政策的有効性をもっていたはずだ。(2004/4/1 21:46)

[マイケル・ムーアは米国民主主義を象徴しているのか]
 いまでもありありと思いおこすのですが、ムーアが2002年に発表した反銃社会ドキュメンタリー映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」で米国アカデミー賞を受賞した式典で”恥を知れブッシュ!”と叫んで会場が騒然としたことがありました。さすが米国型市民社会は違うな−とその時は感じました。彼がブッシュと米国社会を痛烈にこき下ろした『アホでマヌケなアメリカ白人』(柏書房 2002年)を読んでまたまたその迫力に驚きました。日本では名誉毀損で出版差し止めか裁判に訴えられるような代物です。
 ムーアのスタンスは、独立派市民運動の立場をとっているのでしょうか、共和党も民主党も見限って、大統領選ではラルフ・ネーダー陣営のスタッフとして活動していたようですが、主敵はブッシュ共和党政権にあるようです。しかしこうしたスタイルでもハリウッド・メジャーとして遇されるところに市民社会の在り方の違いを感じます。幾つか彼の言辞を紹介しましょう。

 黒人のためのサヴァイバル術 1,走行中に人種を特定されないように、等身大の白人の風船人形を助手席に置く。警官はあなたをお抱え運転手として見逃してくれる。

 アメリカには小学生4年生レベルの読み書きが出来ない人間がーつまり機能的文盲者が1400万人もいる。平均的アメリカ人が読書に費やす時間は、年間わずかに99時間に過ぎない。それに対し、TVをみる時間は1460時間だ。ちゃんとした新聞記事を毎日読むアメリカ人は、たった11%。そんな国は世界を動かすべきじゃあない少なくともコソボの位置を地図で示せるようになるまでは。

 いつのまにか南部連合の保守派がこの国を支配している。公共の場所に聖書の十戒が貼り出され、学校では創造説が教えられ、祈りの時間が設けられ、本が禁書となり、戦争が待望され、何でも暴力で解決しようとし、長い目で見れば南北戦争に最終的な勝利を収めたのは南部連合国だ。大統領選挙に勝つためには南部出身でなければならない。

 米国が国連の子どもの権利に関する条約を批准しないのは、18歳以下の子どもの処刑を禁止しているからだ。先進工業国で子どもを処刑している国は米国だけだ。未成年者に死刑を適用している国は、米国、イラン、ナイジェリア、パキスタン、サウジ、イエメンの6ヶ国しかない。米国の死刑囚37000人のうち70人が未成年者だ。

 チャイニー副大統領はホワイトハウスが同性愛者に反対する法案を提出しようとするのを握りつぶした。なぜか?彼の娘がレズビアンであるからだ。


 その他ブッシュは低能で親父の名前で進学し、アル中で麻薬を飲み、自動車事故で拘置所に収監され・・・等々激しい暴露が続く。詳細は是非とも読んで下さい。米国の現状が、日本のメデイアの報道とは全く違った惨憺たる状況にあることがお分かりでしょう。輝かしい独立宣言の国がどうしてこうなってしまったのか、米国の自由民主主義の深奥を探索して桔解する必要があるそうです。(2004/4/1 17:12)

[現代の踏み絵と魔女裁判]
 東京都教委は卒業式で、国旗・国家を強要し服務責任を追及して176名(77校)の処分を強行した(3月31日第1次分 戒告171名 うち3人は再雇用取り消し 嘱託5人取り消し処分、理由は不起立・退席・入場拒否・伴奏拒否)。次いで公立小中学校に20人の処分を行った(4月6日第2次処分 2度目の都立教員は減給1・戒告7、理由は不起立18人・伴奏拒否1人・指揮拒否1人)。さらに都立板橋高校では、警視庁板橋署が学校の被害届(建造物不法侵入・公共物破損)を受けて捜査に入った。人の心の内面に公権力が介入できないとする内面の自由、思想・良心の自由という自然権としての近代が打ち立てた基本的人権が侵された処分という権力による強制は、ナチスの特別権力関係論を想起させる。軍隊や警察の指揮命令の絶対性を根拠づける理論である。しかしこの理論は、ニュルンベルグ・東京裁判で明確に否定され、平和と人道に反する上司の命令には服従義務がなく逆に抵抗する義務があるとする理論によって下士官の戦争責任が確定された。今回の強制通達は明らかに、市民個人の内面の自由に対する侵犯であるから、国旗・国家に賛成する人も含めて抵抗しなければならない義務が生じている。米国においても公立学校での星条旗敬礼義務を憲法違反とするバーネット判決によって、個人の内面の自由が遵守されている。国連子どもの権利委員会は日本政府に対し「子どもの影響を与えるすべての事柄について、子どもの意見の尊重および子どもの参加を促進し、助長すること、ならびに子どもがこの権利を認識することを確保すること」「(表現、思想・良心・宗教、結社の自由を全面実施するために)学校内外における活動を規制する法律及び規則・・・を見直すこと」を今年1月に勧告した。
 さて基本的人権を制限する唯一の根拠は、「公共の福祉」という公共性原理と教師の全体奉仕者原理にあるが、この2つの原理によって有罪とするに足るだろうか。教師の公共性とは、憲法ー教育基本法ー学校教育法という法体系によって主権者・国民から負託された職務の性格を云うのであって、今次の国家・国旗服従は子ども自身の自由意志に付託されるという保障を遂行するところにあるはずだ。それが同時に全体への奉仕者としての教師のとりうる態度であろう。ところが都教委の発想は、公共性=公権力=都教委通達への絶対服従と偏狭に囲い込んで、実質的に特別権力関係をつらぬく結果となっている。都教委は、国旗・国歌法制定時の強制しない−という政府答弁を間違っていると批判している。文部省は都教委の法令違反を指導する義務がある。
 しかし現場での最大の問題は、子どもに対する心理的脅迫を主要な手段として強要しているところにある。「君たちがしっかり歌わないと先生方が処分される」(或る校長卒業式式辞)という言葉は、もはや教育の場ではなく軍隊や警察で使われる言葉ではないか。さらに教室でどのような指導がなされたかをを調査するに到っては、子どもに密告を強いるファッシズムの形態に近い(フランス映画『蝶の舌』)。不起立の生徒が数人出た或る学校では、学級担任を「ちゃんと指導したのか」と尋問し、「しなかった」と答えれば職務命令違反、「した」と答えれば指導力不足と認定する踏み絵が行われている。哀しいことに対教師不信感が蔓延しつつある状況では、平気で教師を密告する子どもが出現するだろう。こうして最も大事な信頼共同体としての学校集団は崩壊する。
 さらに教師の意識分化が生まれる。積極的に服従する確信的な教師、処分を覚悟して抵抗する教師、処分が恐くてしかたなく従う教師などなど。真実と真理と正義を信頼関係の中で育てていかなければならない教育の場で、教師の信頼関係が崩れて相互の疑心暗鬼が生まれる。最も恐いのは、処分を回避するためにイヤイヤ従う教師の内面に生まれている精神的荒廃と頽廃の進行である。もはや彼らは真実と真理と正義を子どもに語るときに、確信を持って語ることができない。最も良心的な教師は沈黙の態度をとるであろうが、客観的には共犯者として振る舞うことになる。ここで問題は、非戦・民主主義を掲げる東京都高等学校教職員組合が、不起立の運動や裁判を公式には支援しないという方針をとっていることだ。処分覚悟の闘争は組織の弱体化と分裂を招くからだという。組合の原点を自ら放棄した情けない態度だ。
 恐ろしい事態ではないか。江戸期のキリシタン禁止の踏み絵に直面した信徒の心情、欧州中世の魔女裁判に熱狂した民衆の心情、東京第1中学での内村鑑三の不敬事件、1930年代のファッシズムの渦中で生じた自己選択の分岐・・・と本質的には同じ状況ではないか。そしてその内実は、ひとり超越権力が冷ややかに冷笑しながらそそり立ち、民衆全員がひれ伏す独裁社会の完成ではないか。(2004/3/31 8:49)

[働かせる自由の横行と午後4時の気分]
 日本経団連の「新時代の日本的雇用」が打ち出したフレクシブル雇用の蔓延は、地獄のような労働市場をつくりだした。それは非正規雇用による企業利益極大化であり、実に高度成長期をはるかに超える利潤を企業にもたらしている。現代日本の被正規雇用の幾つかの形態を例示する。内橋克人論考(朝日新聞3月30日付夕刊)参照。
A:オンコールワーカー=携帯電話への連絡だけでセンターに駆けつけ、今日はファミレスの皿洗い、明日は倉庫の貨物運びと日替わりメニューで働く
B:パート=1週間に30時間を超えると企業の年金掛金を回避するために29時間ギリギリで働く。1日契約社員。
C:インデペンデント・コントラクター=正規社員が2年ほどで仕事を覚えると突然雇用契約を破棄される擬似独立自営業への切り替え。
 細切れの使い捨て労働によって、ほんらいの熟練による昇給を保障した職能システムも崩壊しつつある。働かせる自由の技術が精緻に磨かれて、働く自由が急速に萎縮しつつある。自立した若者のモラトリアムによって生き甲斐ある職業との邂逅をあたためるという新たな職業観ともてはやされた選択理論は見事に崩壊しつつある。労働が人間の自己実現として、或いは社会参加としてありえた姿はもろくも崩れ去って、いまや契約という形式を持った奴隷制へとしての苦役に過ぎなくなった。それでもなお日々の糧を手にせざるを得ない人間は、心に添わずしてラットレースに参加せざるを得ないのだ。
 しかし労働が生まれながらの自然権としての労働基本権として、資本から自立した対等の権利としてあるのは、19世紀以来200年間をかけて人類史が獲得してきたものだ。こうした人間の生存の基礎条件である労働を汚し、収奪し、搾取する構造が大手を振って横行し始めたのはこの10年に他ならない。人間の尊厳を踏みにじる振る舞いには鉄槌が下るだろうが、鉄槌を下すのは同じ人類に他ならない。働かない若者→正規雇用の崩壊→自由な非正規雇用という図式こそ、若者から働く意欲を奪い、遂には生きる意欲自体を薄弱化させている。企業は目の前の利潤を実現するが、長期的にはスキルの継承の機会を剥奪し、消費市場を縮小させ、企業自身の存立基盤を奪っている。こうした経済社会のシステムの異常な悪循環をどこかで絶ちきらなければならない。すでに気づいている人は行動に移らなければならない。

 一方こうした労働市場論とは全く異なる主意主義的な青年心理学的労働論もある。女子大生に「人生を1日に喩えるとあなたは何時にいるか?」と訊ねると、「自分たちは生まれてこの方、ずっと午後4時の気分です」と答える(何かに夢中になった経験など一度もない)。有名企業をすぐ退職したり、さいしょから大卒無業のフリーターが増えている。本当の自分という幻想が肥大化し、現実の空虚との不整合にしらけている者もいる。就職難の時代になぜ正規社員の早期離職が多いのか。理想の職業と現実の背理もまた確実に深化している。小倉千加子は、就職と結婚の理想と現実のパラドックスを指摘し、愛(働きがい)の特権性を裏切られる痛みを最初から拒否する行動としてのシングルや就職回避を見ようとする(朝日新聞3月31日付夕刊)。ほんとうにそうであれば未だ救いはある。しかし学生の就職活動は実は冷たい反応を受けて何十社から断られ、自分は社会から必要とされないという挫折感に苛まされる者が圧倒的だ。理想を求めて妥協しない精神貴族的な態度は極少であり、この点で小倉の認識は甘い。生の直接性と関係の純粋性が実現している職場などあり得ない−と分かり切っている企業から冷たく拒否されたときの自己喪失感はあまりに深い。小倉がいう学生は、いまだパラサイト可能な学生を対象としているに過ぎない。
 従って小倉の結論は最悪のところに帰着してしまう。組織に従属することなく仕事自体に没入せよ、企業を自分のために利用せよ、企業のことは気にかけず生きよ−とまるで日経連の云う上流正規社員の自己選択の可能性がすべての青年にあるが如くに云う。労働市場の社会経済システムの問題構造を捨象して、心理主義で分析すると洗練された無責任な「心がけ主義」に転落するかという見事な例がある。要するに小倉は有閑パラサイト女子短大生を相手にしているに過ぎない。(2004/3/30 20:23)

[ジャン・ジオノ『木を植えた男』(あすなろ書房)]
 フランス映画によく登場する緑深き南仏プロヴァンスはかっては荒れ地でした。なぜ緑したたる森の地帯になったのでしょうか。55歳の老人エルゼアール・ブフィエは山の麓で農場を営む気ままな一人暮らしの老人でした。或る日フト、待てよ人生の後半をまんぜんと過ごすのではなく、何か一つくらい世のためになることをやってそれから死んだっていいじゃないか・・・考えた末に荒れ地にドングリを植えて、それがいつかは林になり森になったらどんなにすてきだろう。それから老人はたった一人でただ黙々とドングリを植え続け、歳月は流れ第1次大戦が始まって終わり、そして第2次大戦が始まって終わりました。プロヴァンスの荒れ地はいつの間にか、緑したたる美しい森に生まれ変わっていたのです。戦争を起こしてすべてを破壊する人間もいれば、ただひたすら木を植え続けた人間もいたのです。絵本の最後は次の言葉で結ばれています。「神の行いにも等しい創造を成し遂げた名もない年老いた農夫に、わたしは限りない敬意を抱かずにはいられない。1947年、エルゼアール・ブフィエは、バノンの養老院で安らかにその生涯を閉じた」。

 さてみなさんジャン・ジオノという作家を御存じでしょうか。彼は日本では知られませんが1895-1970年に生きた、アンドレ・マルローと並び立つ現代フランスの大作家なのです。彼の『木を植えた男』という絵本は全世界に反響を巻き起こし、世界のあちこちで緑を育てる運動が広がりました。日本では新潟県が、22世紀を展望した100年間にわたる壮大な植林プロジェクトを始めています。サッカー・ワールドカップ新潟大会開会式では、さだまさしさんの歌う「木を植えた男」の4万人の大合唱が響き渡りました。

 しかしみなさんこの話はここから始まるのです。実はこの話は真っ赤な嘘で、エルゼアール・ブフィエなる男は実在していなかったのです。米国のリーダース・ダイジェスト社が「私がこれまで出会った最も偉大な人物」というテーマでジオノに執筆依頼をして、ジオノが作り上げたフィクションであったのです。RD社はその裏をとって実在しないことが分かって原稿を送り返しました。ジオノはその原稿の著作権を放棄した後に、ヴォーグ社が紹介してから世界に広まったのです。

 では「木を植えた男」はほんとうにいなかったのでしょうか。確かにブフィエという羊飼いの老人はいませんでした。でもそのような無名の老人がたくさんいて、ポケットにいっぱいのドングリを入れて、羊を追いながら植えていたのです。そのドングリたちが集まってプロヴァンスの美しい森が広がったのです。ジオノは、コツコツとドングリを植え続けた無数の男や女たちを一人のブフィエ老人に託して一冊の絵本を書いたのです。

 ここには幾つかの大事なことがあるように思われます。事実を超えた真実というものが確かにあり、その象徴的な真実を支えるものは注目を集めない無名の事実の集積であることを。そしてひとりひとりが、木を壊す側に立つのか立つのか、それともだまって木を植える側に立つのか、または傍観するのか、一つの人生が終わったときに安らかな表情をしてこの世を去っていくのはどれか、そういう大切な選択を問いかけているような気がします。かって岐阜県に住む田舎のバスの車掌さんが、コツコツと桜をバス路線の沿線に植えて、いまは見事な桜街道になっています。私たちは、この世に自分で何かを植えて去っていくーそういう自分の果たす役割があるように思われます。自分は何を植えて去ることができるだろうか、それを探すためにいま生きているような気がします。世界のすべての人が自分の植えるべき木を探して生きたら、世界は全く違ったものになるのではないでしょうか。いま一つの職を去った私の後半生への問いかけでもあります。(2004/3/30 9:07)

[山口 瞳「卑怯者の弁」(1981年)]
 山口氏は「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を得た作家で1995年に亡くなったが、1981年に清水幾太郎の「日本よ国家たれ」の核武装論に反発して書いた文章だ。清水の「古い戦後から新しい戦後への転換のエネルギーは、古い戦後の甘い空気を育った諸君、日本国憲法の無邪気な受益者である諸君の中に求める」に強い異議を申し立てている。清水は戦後民主主義の指導的位置から急旋回して、核武装を唱える極右へと転換したことは当時の私にとっても漫画チックな驚きと軽蔑をもってとらえられた。なぜなら清水自身が書いているように、「憲法改正は衆参両議院の3分の2、国民投票の過半数であるから、改正はほとんど不可能である」という雰囲気の時代であり、総じて清水の戦後転向を嗤ったものだ。ところがいまやどうだ、改正勢力はゆうに3分の2を超えて着々と改正案が準備され近い将来に国民投票が行われる時代になっているのではないか。ひょっとしたら清水は、時代の予見した先駆者として荒野に孤立しても叫び続けた偉大な予言者ではないか、彼はいま墓の中で呵々大笑しているのではないかという時代になった。
 だからこそ山口氏の文章は大学者を正面から批判した文章として現代にも異彩を放っている。かって故・寺山修司はみずからの祖国への純情を痛切にうたいあげた。

 マッチ擦るつかのまの海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

 ここに込められている祖国愛の絶唱はあまりに美しいが故に危険があると思う。寺山の意志に反して、清水の心情に通底する背反性ががあるからだ。もちろん少年・寺山は、反戦政党の機関紙を売る活動をやっていた頃の歌だから、寺山の意志の在り方は明確であるが。そして山口は次のように云う。「敗戦によって私は睾丸のない人間になってしまった。戦後の私には宦官という言葉が一番ぴったりくるように思われるのである。アメリカが旦那であって日本国はその妾であり、日本の男たちは宦官であって、妾の周りをウロウロして妾を飾り立てる事だけを考えているような存在である。戦争に負けることとはそういうことではあるまいか」と云い、清水の「複雑に屈折した感情を持つ戦中派は、もう転換の主役ではなく、主役であってはならない」という言にカッとなったとして、「私は小心者であり臆病者であり卑怯者である。戦場で何の関係もない何の恨みもない一人の男と対峙して、いきなり撃ち殺すというようなことは出来ない。卑怯者としてむしろ撃たれる側に命をかけたいと念じているのである」と結んでいる。

 ここには市井に根拠を置く市民の独立した感性がある。戦場に臨んで敵兵を射殺できないというせっぱ詰まった気持ちは、ひょっとしたら素朴なインターナショナリズムではないだろうか。山口氏の清水批判は、国家とは無関係の市井に生きる生活者の視点からの、最も鋭い痛撃を浴びせた抗議となって、現代から見ても不朽の尊い意義をはらんでいると思う。(2003/3/29 16:37)

[ベストを尽くすとは・・・・ある制約条件が付加されているときでは]
 先生が人間として最も忌み嫌われたのは、人気取りと付和雷同であった。(1960年代の)安保条約反対闘争の時に、学習院大学の学生が国会に突入して検挙された。部長の教授が心配し、学生たちを先生の部屋へ連れて行って、押されて入ったので積極的に突っ込んだのではなかったのだと説明した。不機嫌だった先生は、後ろを向いたままで、ほんとうにそうかと尋ねた。学生は、部長は好意を持ってそう言って下さったと思うが、そうではない、自主的に決断して入ったのだと答えた。先生はくるりとこちらを振り向いて、そうでなければいかん、と云われ、何の小言もなかった。私はこのような先生の態度を他にも幾つか知っているが、何とも云えない懐かしさを感じる」(久野収「ベストを尽くすとは 安倍能成先生を偲んで」東京新聞1966年6月9日)

 対話はむしろ反対の立場に立つ者同士のほうが、より興味深い展開をするともいわれる。同じ立場の者は頷きあって終わる場合もあるからだ。進歩的文化人と称された久野収が典型的保守派の安倍能成に送った追悼の文章の一部です。いまはこのような保守ー革新の判然とした2項対立の時代は去って、新保守が革新とみまうがのような融解した状況で、冷ややかなシニシズムも蔓延している。そのようななかでかって存在した自らの立場への矜持と、毅然たる主体責任の姿はむしろ戯画的にも写ってしまう頽廃もある。そうなのだ、このような頽廃が無自覚に蔓延しているところに今日の実はほんとうの頽廃があるのだ。久野収氏は、かって私の学生時代に学内講演で聴いた「日本全体をサーチライトのように照らす灯台のような知性を持とう」との呼びかけが印象に残っているが、当時の学生には久野収氏の『思想の科学』的な立場は生ぬるく、もっと急進的な運動の方に魅力を感じていた。久野収ー鶴見俊輔ー加藤周一と連なる戦後民主主義派は、時代が変わっても自分のスタンスに固執し、今では逆に左翼に近い立場になっている。確たる自分の座標軸を持ちながらも、なおかつ鋭い時代感覚を研いていくことの大切さを痛感する。”動かざる初心、たしかな目と耳、しなやかなステップ”(安江良介の土井たか子宛)という励ましの言葉を思い起こす(土井氏がそのステップを間違わなかったかどうかは疑問だが)。
 今私は一つの職を退いての開放感にあるが、最近ますます感じているのは或る制約条件に限界づけられて、生き生きした自由が生まれてくるという実感を持つ。外生的な制約がなければなくなるほど、内発的な制約を自ら課していく注意深い生活技術の必要を痛感している。そう言ったわけでのびのびとした集中が生まれる作業プランを意識的に構成していこうと考えている。ベストを尽くす・・・課題設定と遂行のちから・・・それがどこまで自分に備わっているのか試験してみよう。(20043/29 8:54)

[ILO条約勧告適用専門家委員会:29号強制労働条約に関する意見書 対日本 主題:強制労働(概要)]
 CEACR:Individual Observation concerning Convention No.29,Forced Labour,1930Japan(ratification:1932 Published:2004)は慰安婦と呼ばれていた軍事性奴隷と戦時産業強制労働に関し、当委員会は日本政府に対し情報提供を依頼した。日本政府は、すでに表明された謝罪と痛悔に言及し、アジア女性基金の活動と過去の裁判記録についての情報を提供した。これについて韓国民主労働組合総連盟と韓国労働組合のコメント、全日本造船労組、全日本労働組合連合のコメントに関する報告が届いた。以上についての2004年度日本政府報告の提出期限が迫っている。この間に生じたいかなる変化も報告することを要請した。

 CEACRの報告書が4年連続で出された。しかし今次報告は中国人強制連行に対する新潟地裁判決によって画期的な転換を画する報告内容となるべきである。第2次大戦中に中国から強制連行され新潟港で強制労働させられた中国人原告12人が、日本政府とリンコー(株)に対する損害賠償と謝罪広告を求めた裁判に対し、一人あたり800万円(総額8800万円)の損害賠償を命令する判決が出されたからだ。その意味は、@明治憲法下での公権力行使の不法行為に対する国家無答責の否定、A国と企業の安全配慮義務違反認定、B除斥期間(20年経過)による消滅時効の限界認定、C日中共同声明(1972)による損害賠償券放棄説否定など従来の政府主張をすべて否定した点にある。戦後外国人強制連行・強制労働補償裁判に画期的な意義を持っている。日本政府はこの新潟地裁裁判の内容を忠実にILOに報告しなければならない。

 第2次大戦中に日本政府は、100万人以上の朝鮮人、4万人の中国人を日本へ強制連行し強制労働を強いた。中国人強制連行は、1942年に閣議決定され44年から本格的に実行され、38935人を連行し、全国135事業所で就労、わずか2年間で6830人が死亡した(『外務省報告書』1946年)。さらに現地で動員したロームシャ(労務者)の生存者に支払われた軍票(占領地通貨)は紙切れとなりその未払い分も未解決となっている。これらの被害に対する償いである戦後補償は、(1)賠償(2)補償(3)援護の3つの形態がある。
(1)賠償:戦勝国に対する国家間補償を云う。連合国は対ソ戦略で対日賠償権を放棄し、アジア諸国にも強制した結果、日本はフィリピン他4ヶ国のみに賠償を支払い、その形態も経済協力という形態で民間企業の製品を供給する形で日本の高度成長に貢献した。
(2)補償:すべての非人道的行為に対する被害者への償いを云う。日本政府は政府間決着を理由に一切の個人補償を拒否しているが、民間による人道支援が一部にある。
(3)援護:国の戦争行為で被害を受けた人への補償が恩給、年金、一時金でおこなわれるが、日本国籍の軍人・軍属が中心で、旧植民地出身者や民間人被害者には適用されない。

 戦後補償を求める人々は、高齢化が進み当時15歳の人は今や70歳を超えている。正式な謝罪をしないでカネで済まそうとする日本政府と企業の見苦しい態度は、ドイツの共同基金による6兆円補償に比較して恥ずべき非人道性を示している。若い人たちの一部にも親がやったことで関係ないという人もいるが果たしてそうか。直接の戦争責任がない若い世代も、戦後の責任については沈黙することはできない。親たちが果たし得なかった責任について苦しんでいる人がいる限り、後継世代は未来に向けての新しい関係を構築するために逃れることが出来ない問題ではないか。戦後は終わっていない。終わらせるのは私たち自身である。
 いま日本の紫金草合唱団100名が中国公演をおこなっている。紫金草は薄紫の花で、華大根とも呼ばれ、39年に南京を訪れた日本人医師が大虐殺に心を痛め、種を持ち帰って不戦の祈りを込めて日本各地に広めた。それを元にできあがった合唱組曲を演奏している。

 ♪♪
 奪え 殺せ 焼き尽くせ
 暴虐の限り 突き進む 軍隊の男たち
 海を越えた 花の種
 いのち受けつぎ花咲かせておくれ
 過去の過ち 忘れぬように 祈りを込めて花を捧げよう

               (2004/3/28 19:59)

[Manga`spins Japan,s forex intervention as evil U.S plot]
 漫画が日本の為替介入を邪悪な米国の陰謀として描いている−AP通信は3月18日付けで、日本のコミック「ゴルゴ13」を全世界に配信した。小泉政府はたった1年間で30兆円(!)ものドル買いによる為替介入を行い、イラク戦争を推進する米政府の陰謀にひっかかっているが、日本国民へのアカウンタヴィリテイは果たされていない−と報道している。日本の外貨準備高は3100億ドル(30兆円)でそのかなりの部分は米国債となっている。その純増額は全世界の44.3%で米国自身の22.5%をも大きく上回り、日本のみが突出した異常な介入を行っている。国債購入は米政府への貸し付けであるからいつでも売却して現金化できるが、日本政府は絶対に米国債を売却しないから実態としてはタダでカネを提供していることになる。この米国にあげたカネの大部分はイラク攻撃後であるから、そのほとんどは米政府の戦費調達に回されたことになる。
 小泉政府が推進するドル買いに必要な円資金は、日本政府が発行する国債(外国為替資金証券=為券)によって日本国内から調達しているから、結局の処日本国民の税金を元手としていることになる。小泉政府は円・ジャパンマネーでドルを買い、その買ったドルで米国債を買っているから、米国経済の双子の赤字(財政+貿易)の危機の付けはすべて最後に日本国民に回されてくる仕組みだ。価値が螺旋状に下降しているドルと、紙切れになる危険がある米国債を必死に貯め込んでいる日本の財務政策はどうなっているのであろうか。もし日本が米国債を売りに出れば、一気に米国債は暴落し、次いでドル相場の暴落を誘発してドルも紙切れになってしまうだろう。こうして小泉政府は米政府と地獄の底まで付き合う悪循環のスパイラルに入っている。米国は、大きすぎてつぶせない−巨大な不良債権国家に転落しているのと同じだ。
 本来の為替取引はジョージ・ソロスのように、機敏に市場に介入し流れを変えてサッと引っ込む速攻原理にこそ有効性がある。米国がイラク戦争のような強力な覇権の威力を見せつけているのは、破綻直前の自国経済と財政の弱みを少しでも見せると、一斉に全世界からドル売りと国債売却を浴びせかけられてほんとうに破綻してしまうからだ。米国の強さは、ほんとうは弱さの逆表現なのだ。その証拠に英国・ドイツ・中国は米国債保有高をほとんど変化させず、横ばいか減少で冷酷に米国との距離を維持している。
 いま日本で推進されている構造改革と行政改革による政府支出の抑制は、ドル買いと米国債購入によって誘発された財政赤字を国民の自己犠牲によって切り抜ける危機回避の緊急政策に過ぎない。近い将来の消費税率の大幅アップと連動して、国民購買力は急下降し日本経済の国内需要は疲弊し、一部製造業の海外輸出しか期待できない奇形的な構造に転落しようとしているのが、現在の日本だ。(2004/3/27 15:36)

[Jean Guitton :mon testament philosophique]
 フランスのカトリック哲学者・ジャン・ギトン『私の哲学的遺言』(新評論)は、1997年に刊行されその2年後の99年3月21日に著者は97歳でこの世を去った。90歳を超えてこのような思索と諧謔溢れるエスプリを営む精神活動に驚愕を覚えた。内容は、100歳の臨終を迎えた著者の部屋に歴史上の賢者が次々と訪問して哲学的な対話を交わし、最後は著者に対する最後の審判が展開されて終わるという構成である。臨終のベッドを訪問した賢者の名前を順番に記すと、ブレーズ・パスカル、ベルグソン、パウロ6世、グレコ、サンゴール、ド・ゴール、ソクラテス、モーリス・ブロンデル、マリ=ルイーズ(妻)、ダンテ、聖ペテロ、フランソワ・ミッテラン・・・・などなど。そこで繰り広げられる対話のテーマは、信仰、死、悪、魂の不滅、自由、道徳、愛などフランス・カソリシズムが現代と向き合いながら真摯に誠実に格闘しながら神を求める姿がある。
 圧巻はギトンを被告とする天上の法廷における最後の審判である。裁判官は、上部司教座にキリスト、彼の下に天国の鍵を持つ聖ペテロ、その左右に聖ヨハネ、聖テレーズ、少し向こうに陪席判事野天地、陪審団の中にジュスタン・ル・マルテイール、アウグステイヌス、トマス・アキナス、ブレーズ・パスカル、フレデリック・オザナン、ポール・クローデル、モーリス・ブロンデルといったフランス思想学芸界を代表する錚々たるメンバーだ。もし私であれば目を回して失神するか、早々と敗北を宣言して地獄を選ぶであろう。ここでギトンに対して放たれる峻厳な質問の刃は、実に冷酷無惨で一切の虚偽を許さない峻烈を極めた鋭いものだ。宗教審判は斯くのごときか、その一端がうかがえた。アカデミー・フランセーズで活躍しミッテランの顧問をも務めたギトンの偽善が次々と暴露されていく。そして最後にキリストが判決を下す。その内容は・・・・・・?(実際に読んでみて下さい)
 しかし本書はギトン自身が遺書として刊行したものである。彼は自らの偽善を自ら告白しているところに注目しなければならない。フランス・カトリシズムの真髄がうかがえる作品だ。フランス人は、ドイツ的な厳密な論理よりも、瞬間的なひらめきや直観に素晴らしい才能を示す。彼らの主要な表現方法は、箴言というかたちだ。(20043/27 8:34)

[ゴジラは戦後史とともに終焉を迎える]
 ゴジラ映画は50年を経て今年封切り予定の28作で終焉を迎える。ゴジラ映画の歴史はまさに戦後日本史の展開を象徴している。ゴジラ映画の展開過程をみるならば見事に戦後日本現代史の画期と重なり、それは戦後自衛隊の展開過程と一致している。ここでは3期による分析を試みる。
第1期:戦力なき軍隊期→1954年製作ゴジラは、米国のビキニ水爆実験の被爆による第5福竜丸事件と防衛庁設置による自衛隊発足に重なる。水爆実験で放射能を吐く巨大怪獣と仮したゴジラが帝都・東京を襲い、迎え撃つ自衛隊が逃げまどう群衆とともに壊滅する。自衛隊は自衛のための戦力なき軍隊という「非軍事」の米軍空白時の補完部隊の性格であった。
第2期:・2000年のゴジラ・ミレニアムは、ゴジラを倒す軍隊へと自衛隊の攻撃的性格が強く押し出された。1990年代以降の自衛隊は、新兵器開発、情報戦略、防大出身幹部の進出によって攻撃戦力へと変貌した。しかしこの第2期までは、独特の異形性によって人類の文明の暴走に警告を与えるメッセージ性があった。
第3期:最新ゴジラ映画は明らかに米国型先制攻撃戦略に変貌している。「怪物が現れた、怪物を殺せ」→「怪物を見つけ出し、怪物を殺せ」と命令の質が深化し、圧倒的に強力な自衛隊が哀れで小さな怪物ゴジラを懲戒するストーリーとなった。ゴジラはもはや主役ではなく、自衛隊が主役の座を奪還してしまったのだ。人類の野蛮に対する自己批判を求めるゴジラは姿を消し、主役に躍りでた自衛隊はスクリーンからも躍りでて全世界に進撃するようになった。双方ともスクリーンで活躍する根拠と条件を超えてしまったのである。しかし厳然とある自衛隊の現実に対して、姿を消したゴジラはどこに行ったのであろうか。ゴジラは私たち自身の内面の良心に宿ったのである。私たち自身が自らをゴジラに姿を変えて攻撃しなければならない時代に入ったのである。謹んで哀悼の意を表し追悼すべきである。(2004/3/26 20:37)

[反帝国・経済学者が逝った]
 米国の代表的なマルクス主義経済学者であるポール・スイージーが2月27日に死去した(享年93歳)。。氏の理論は、消費性向の上昇と資本財投資の可能性による過少消費説を基礎に、独占段階の資本蓄積停滞を内在化させる経済余剰の拡大と吸収のメカニズムの解明にあり、マルクス理論の現代化に貢献されたとされる。マルクス主義を北米の知的生活に統合する精神的営為は党派を超えた権威を確立した。旧ソ連型マルクス主義の破産を乗り越えた先進国マルクス主義の先駆的な業績を上げたとされる。私には彼の理論を評価する力量はありませんが、帝国の渦中にあって資本主義批判の理論を進化させた生き方自体は学ぶべきものがある。
 折しも現代の帝国は、大型減税と戦争経済によって必死の景気回復をねらっているが、膨大な戦費による財政と貿易の赤字は通貨暴落の危機をはらんで進行し、雇用なき景気浮揚となっている。スイージー理論の過少消費説による蓄積停滞が照明されつつあるとも云える。しかしイラク戦場では、米軍兵士の自殺が月平均2人のペースで起こり(10万人あたり17,3人 全米平均11,9人)、600人ほどの逃亡兵が発生し、政権中枢からテロ戦略批判が相次いで戦争政策自身が破綻しつつある。帝国の国際的孤立と政策破綻、経済破綻の危機は、あたかも巨像が大音響を立てて崩れる直前にあるかのようだ。スイージー理論は、帝国経済の限界を理論的に究明したが、違った道の解明は残された者の責務である。(2004/3/26 9:59)

[ミサイルが降ってくる−テロと暴力の連鎖を断ち切るには]
 パレスチナ抵抗運動ハマスの指導者がイスラエルのアパッチ攻撃ヘリのミサイル攻撃を受けて死亡した。ターゲットの乗る車両をミサイル攻撃するとは一体どのような状況になるのだろうか。私が想像できるのは、コッポラ『地獄の黙示録』で大音響でワグナーの音楽を流してミサイル攻撃するベトナム戦時の米軍のシーンである。向精神薬剤をのんだ米軍兵士が嬌声をたてながら、民家に打ち込みドッと炎を上げるなかを子どもや女が逃げまどう情景である。米兵はまるで狩猟を楽しむかのように機関銃を乱射して撃ちまくった。驚いたのは、攻撃しながらサーフィンに絶好の波を見つけて歓喜の声を上げていたことである。いまイスラエル兵はおなじようにパレスチナ人を虐殺する快楽に酔いしれているのであろう。次は3月17日に行われたイスラエル・アパッチヘリによるミサイル攻撃の惨状である(一部略)。

 3月17日午前1時23分、空から大音響と赤い光りが降ってくる。誰もが家から逃げ出そうとして必死だ。通りから完全に人影は消えた。2時50分、至る所から救急車のサイレンが聞こえる。真夜中にミサイルが来るのを目撃した僕は、驚かない。助けて!助けて!と叫ぶ女の人。みんなは白い布を握って空に向けて、もう撃つなと云うように振っている。その女性の周りは血の海だった。狭い通りの壁の至る所に肉塊が張り付いている。女性は泣き叫びながら、zスタズタにされた犠牲者の断片や肉片を毛布で覆っている。女性は15歳になる息子の遺骸を見ると云ってきかなかった。バラバラになった遺骸を見ても息子だと確認できないで彼女は気を失った。二人の少年が死んだ。一人は以前に母親を銃撃で失い、母の埋葬が済んだ後に二人の叔父を殺され、家も親族もすべて失った。もう一人は、第1次インテフィーダで父親を失い、最近叔父を一人失って家も壊された。
 アパッチ・ヘリが去ると、イスラエルの最新型メルカヴァ戦車とブルドーザーが現れて瓦礫を片づけはじめた住民は一斉に石を投げ始めたが、アパッチ・ヘリがまた飛来すると姿を消した。18日午前6時、朝の光の中に、昨日の攻撃の惨状がくっきりと浮かび上がってくる。死者6名。負傷20名。破壊された家91軒、うち31軒は跡形もなく崩れている。下水と水道、電気はズタズタ・・・。以上ラファ在住ムハンマド氏のサイトから紹介。

 明らかにこれはハマス指導者暗殺のための予行演習であったと推定される。国家テロ以外の何ものでもない。次々と暗殺を繰り返して、パレスチナの自爆攻撃を誘発させて和平を破綻に追い込んでパレスチナを崩壊させる戦略である。イスラエル軍も悪いが自爆攻撃も悪い−という評論家的な言い方はもはやテロ加担の責任を負う。国連人権委員会60会期はイスラエル批判決議を採択して終わったが、同時に米国による激しいキューバ攻撃が行われた。キューバ代表の反論を記す。「よく聞いてくれ、ミスター帝国主義者。キューバ革命への非難と破壊に専念するがいい。わが人民の答えはただ一つ。故郷か死かだ。We shall overcome!」その瞬間、国連人権委会場は大きな拍手に包まれ、米国代表のメンツは丸つぶれとなった。

 世界史上まれにみる最大のテロ国家はどこか、すでに皆さんお気づきのことであろう。そのテロ国家にヤクザの子分のように媚びへつらってご機嫌を伺っている国は東アジアにある。その国の首相はまるでライオンのようなパーマを髪にあてて、全世界の冷笑を買っていることに気がつかない。しかし彼を選挙で信任した国民の多数がいるのも事実だ。私たちはテロ責任を共有する国民の一人なのだ。星条旗を掲げるテロ国家の政府は、イスラエルの暗殺作戦を支持し、ただ結果が思わしくないことに困惑しているという非人道性を発揮している。ライオンヘアーも同じく困惑して政府声明は二転三転するというていたらくだ。

 24日午後、パレスチナ・ナブルスにに住む14歳の少年が衣服の下に約8kgの爆弾を身につけて検問所に自爆攻撃を行う直前に逮捕された。少年は治安当局の調べに「100シェル(約2400円)で請け負った。殉教すれば天国で72人の処女が待っていると云われた」と自供した。さて世界はこのイスラエル当局の発表を素直に信じるhど甘くはない。子どもを使った過激派の報復、カネで買った行動、イスラム聖典の快楽主義などなど見えすいた非難の羅列に過ぎない。しかしその一部は事実かも知れない。イスラエルはそこまでパレスチナの子どもを追い詰めてしまったのだ。パレスチナは、テロと暴力の無限の連鎖が続く地獄と化そうとしている。星条旗を掲げる政府が国家テロを積極的に是認する限り、残念ながら地上からテロが姿を消すことはない。(2004/3/25 21:00)

[三菱のコーポレイト・ガヴァナンスと企業倫理の崩壊]
 三菱はかって2000年に内部告発によって発覚した30数年に及ぶクレーム・リコール秘匿に続いて、今回は大型車のタイヤ脱落のハブ設計ミスによる死傷事故の責任を事実上認めるという2度目のモラル・ハザードを起こした。02年の横浜母子死傷事故後に回収したハブの亀裂を発見しながら、国交省への報告を遅らせれ整備不良という責任転嫁をおこなってきた。国交省もリコール命令権や勧告・立入調査権を行使せず放置した。市民の生命よりも企業利益を優先する最悪の経営モラルの崩壊がある。企業の利益極大化は、公共性を犠牲にしながら遂行されている。自動車メーカーは、コスト削減競争と開発期間短縮競争にのめり込んで、公共責任を事実上犠牲にするまでになった。市民の生命と公共性を代理する国交省もメーカー利益を代弁して放置してきた。
 製造物責任法(PL法)と道路運送車両法によって、ハブを含む走行装置の安全基準は「堅牢で安全な運行を確保できるもの」としか規定されていないことによって、新車時の型式認証さえぱすすればメーカーは設計変更して売り出すことが出来る。三菱は最初のクレーム隠匿時に法令遵守体制を整備することと引き替えに株主代表訴訟で和解することが出来た。今回は横浜事件後責任を認めないまま、3ヶ月限定の無償交換を行っていたことは三菱自身が事故の危険性を放置できない水準だと認識していたことになる。しかし横浜以降ハブ破損事故は17件発生し、しかも三菱以外のメーカーの事故はゼロであったことは整備不良説が虚偽であることを示している。
 神奈川県警は横浜事故について業務上過失致死傷容疑で捜査を続けているが、整備士と運転手を犯罪者扱いしても意味はない。彼らは三菱の虚偽報告の犠牲者に過ぎない。100%欠陥車であったのだから。三菱は警察の強制捜査が始まってはじめて欠陥を認め、リコールに踏み切るという恥ずべき態度をとった。同社の対象車種は11万2千台で総経費65億円ということだ。はたして大型車だけか、三菱は自家用車を含むすべての車種の総点検を行うべきである。さもなければ、車づくりの能力はないとして企業解散をすべきである。ところが三菱は社内処分をして終わりという方針を打ち出している。究極のモラルハザードが蔓延している。(2004/3/25 12:37)

[軍神の母の慟哭]
 かって軍神の母ともてはやされた加藤まさ(77)は、長男・健一を軍人にするために全エネルギーを注ぎ、江田島海軍兵学校へ首席で入学させ、敗戦半年前の2月に特攻作戦に行く最後の挨拶に帰宅した息子に、黙って先祖伝来の短刀を置き、「生きて虜囚の辱めを受ける前に、潔く自害せよ」と言い渡した。息子は、まるで上官に対するように母に挙手の敬礼をして、そのまま一度も振り返ることなく発ってしまった。それは22歳の誕生日を迎えた日であった。母は、国存亡の時に各自の本分を守り抜いたという恍惚とした満足を覚えた。その7日後に健一は自ら率いる特攻作戦で玉砕し、「後に続くものを信じる」との遺書が母の元に届いた。
 そして「敗戦」。茫然自失して抜け殻のようになった加藤まさを息子の戦友が訪ねてきた。彼は生き残った者が互いに遺族jに届けるという約束の息子の手紙を携えていた。もちろん検閲は受けていないものだ。息子の遺影に語りかけた戦友が帰った後に、母は息子の遺書を開いた。そこには、ただ一行かすかに震えるような文字で「僕はただ母さんに抱いて欲しいと願っていただけなのです」と記してあった。息子の遺書を読んだ瞬間に、痛恨の想いが突き上げた母は、声を絞り出すように云った。「心の奥底には、死なないでおくれ−と息子の足にすがりつきたいという気持ちがありました。わたくしは子どものいのちよりも、我が身の保全を選んだのです」。母は、今は特攻の残骸を求めて南方の島々を行脚してまわる。「その残骸を見つけ出して、我が子と思い黙って抱きしめてやりたい」・・・・と。

 思えば無数の鋳型にはめ込まれて、ひとの道を誤った多くの親子がいた。戦場からの遺書はすべて検閲され、重く悲痛な自己欺瞞の手紙が家族に送られた。誰が20歳代の若者の知性にこうした精神の奴隷を強いたのか(安田武『きけわだつみの声』解説)。
和田稔(23 東大法学部学生 人間魚雷回天で戦死)の次の遺書には、検閲を通過した美しくみごとで悲痛な自己欺瞞が溢れている。美しくも無惨な遺書だ。

<若菜(妹)、私は今、私の青春の真昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に咲くことがなかった。とはいえ、私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大きな華を大空に咲きこぼれさすことができるだろう。私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい>

 靖国神社には、こうした若者の祖国に殉じた麗しい自己犠牲の精神に充ちた遺書の数々が展示されている。私たちは、戦時下に強いられた無惨な精神の高揚を、ただ美しいものと受けとめてはならない。私の母は、父が中国戦線に出征する前夜に父にすがって、「ダルマになってもいいから還ってきて!私を未亡人にしてはいや」と泣いた。その母は、結核を得てすぐに此の世を去った。私が3歳の時だ。敗戦で中国から帰還した父は、母の死を知らず、玄関ではじめてそれを聞いて絶句した。

 悪魔のシナリオは無数の美しい物語を創造する。それをして否定するに忍びないこころの痛みが、またもや新たな虚妄をつくり出していく。油断するな!美しい物語の裏には飢えて死んでいったほんとうの無惨な死があったことを記憶しよう。一切の戦争を地上から永遠に除去するという約束を守らなければ、わたしたちは「英霊」を二回裏切ることとなる。(2004/3/24 23:32)

[便所掃除 濱口國男]

 扉をあけます
 頭のしんまでくさくなります
 まともにみることは出来ません
 神経までしびれる悲しいよごしかたです
 澄んだ夜明けの空気もくさくします
 掃除がいっぺんにいやになります
 ムカツクヨウナババ糞がかけてあります
 
 どうして落ち着いてしてくれないのでしょう
 けつの穴でも曲がっているのでしょう
 それともよっぽどあわてたのでしょう
 おこったところで美しくなりません
 美しくするのが僕らの務めです
 美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

 くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
 静かに水を流します
 ババ糞に おそるおそる箒をあてます
 ポトン ポトン 便壺に落ちます
 ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
 心臓 爪の先までくさくします
 落とすたびに糞がはね上がって弱ります

 かわいた糞はなかなかとれません
 たわしに砂をつけます
 手を突き入れて磨きます
: 汚水が顔にかかります
 くちびるにもつきます
 そんな事にかまっていられません
 ゴリゴリ美しくするのが目的です
 その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
 大きな性器も落とします

 朝風が壺から顔をなぜあげます
 心も糞になれて来ます
 水を流します
 心に しみた臭みを流すほど 流します
 雑巾でふきます
 キンカクシのうらまで丁寧にふきます
 社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます
 
 もう一度水をかけます
 クレゾール液をまきます
 白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
 静かな うれしい気持ちですわって見ます
 朝の光が便器に反射します
 クレゾール液が 糞壺の中から七色の光りで照らします

 便所を美しくする娘は
 美しい子供を宇無といった母を思い出します
 僕は男です
 美しい妻に会えるかも知れません

 迫真的な真実を歌い上げて最後の3行で崇高な人間の世界に回帰します。私がこの詩を初めて目にしたのは、確か30数歳、真壁仁『詩の中に目覚める日本』(岩波新書)でした。ひきこまれた私は、学生たちに朗読したのですが、私の朗読能力に問題があったのか、一部に笑い声が起こりました。全体にとまどいが生じたような雰囲気でした。濱口さんはJRがまだ国鉄と呼ばれていた頃の鉄道員でした。ここには労働の事実を通しての新しい社会への静かに燃えるような希望が湛えられています。この詩を読むと、いつも自分勝手なパッションによって世の中を裁断する自分を諫められます。最も汚れたところにこそ、最も高貴な魂が生まれていることを否が応でも迫られます。しかし便所を美しくする娘はほんとうに美しい子どもを産むのでしょうか、僕は美しい妻に会えるのでしょうか、そこに哀しくなるような世の矛盾が告発されているような気がします。濱口さん、あなたは素晴らしい母上を持って幸せです。美しい妻と美しい子どもはいつの日か必ず、そうそれは人間が互いに雑巾で便所をきれいにする社会が必ずくるということの証しです。濱口さんはあたかも地に腹這えるメシアのようなこころのお方です。(2004/3/24 19:52)

[FOR MY MOTHER LAND 母なる祖国のために]
 いま日本を母なる祖国と自然に感じている人は少ないのではないでしょうか。一部のウルトラ・ナショナリストを除いたら、明日なき競争に疲れて自分の生活を維持するために精一杯でしょう。日本を離れて異郷から日本を見つめている人のほうが、今の日本の異常性に気づいているのではないでしょうか。次は欧州在住の渡辺幸一の作品です(『短歌』角川書店 3月号所収)。

 恐れつつ我は見手をりすさまじく 面変はりゆく母なる国を

 京都市本能国民小学校の昭和18年の卒業アルバムの冒頭にある学校長祝辞は、”強く生きよ、最後まで頑張れ、、征け、戦いへ、死ね−という言葉を皆さんへの門出のはなむけとして贈る”とある(早乙女勝元)。子どもを励ます言葉が”死ね”であった当時のファナテイックな時代をよく示している。しかしいま勇壮な軍艦マーチ(パチンコ店の定番曲であったが)と日の丸が打ち振られる中を出港する海上自衛艦を見ていると、もう戦後ではなく新たな戦中に突入したことを実感する。聖なる大義=国際貢献・人道支援は、かっての五族協和・大東亜共栄圏の聖戦と変わることはない戦争スローガンだ。かっての戦争体験者は全国民の20%を切り、80%以上がGDP世界2位の繁栄を享受し安逸への全体主義(藤田省三)に流れる中で、戦争国家が確実に再構築されつつある。

 作家・三浦朱門はイラク派兵について「この度のことは、憲法がもはや現在の日本にふさわしくないということを国民に知らせる一つの機会であるし、もし戦死者が出れば、それは憲法改正の貴い犠牲なのだと考えたい」といっている(『文藝春秋』3月号)。人間のいのちの諸相の真実を描く文学者の底知れぬ頽廃である。死者を求める戦争国家をつくろうと呼びかける−もはや非人間的な悪魔的文章である。度し難い確信犯であるが故に軽蔑して退場を求めるしかない。根底には恐るべき死への暴走を追求するニヒリズムしかない。

 挨拶 原爆の写真によせて 石垣りん

 あ、
 この焼けただれた顔は
 1945年8月6日
 その時広島にいた人
 25万の焼けただれのひとつ

 すでに此の世にないもの
 とはいえ
 友よ
 向き合った互いの顔を
 も一度見直そう
 戦禍の跡もとどめぬ
 すこやかな今日の顔
 すがすがしい朝の顔を

 その顔の中に明日の表情をさがすとき
 私はりつぜんとするのだ

 地球が原爆を数百個所持して
 生と死のきわどい淵を歩くとき
 なぜそんなにも安らかに
 あなたは美しいのか

 しずかに耳を澄ませ
 何か近づいてきはしないか
 見きわめなければならないものは目の前に
 えり分けなければならないものは
 手の中にある
 午前8時15分は
 毎朝やってくる


 
1945年8月6日の朝
 一瞬にして死んだ25万人のすべて
 いま在る
 あなたの如く 私の如く
 やすからに 美しく 油断していた


           −2003/3/24 9:34

[山は深く、崖は厳しく、海は広く大きいのでしょうか−ZC計画管理名簿]
 「山は深く、崖は厳しく、海は広く大きく、月は昇り、日は沈み、人は獣と交わり、死者と生者が、海から陸へ、陸から海へ、縦横微塵に行き交いめぐるところであります」(伊藤比呂美『日本ノ霊異ナ話』)−『日本霊異記』を熟読したあとに、吉祥天女の像に恋した和泉国の仏教僧に日本の伝統の質をみる−というが、それは原始アニミズムへの心情的回帰に他ならないではないか。行き場を失ったポスト・モダンは日本原始の回帰の世界へと身を沈めつつある。こうした感性は、もはや世紀末袋小路の亜ニヒリズムと近親相姦の極にある。朝日文芸時評の関川のテーマは、「不在の重さ」である(これはクンデラ「存在の耐え難き軽さ」のパロデイであろうか)。「存在」の全局面と真摯に向き合おうとしない姿勢からこそ、情緒や感性の危うい世界への屈従が生まれるのである。こうした実感主義の垂れ流しこそ、ポリテイークにおけるファッショ心情へと転落していく回路を巧妙に準備しているのだ。ザッヘに対する曇なき理性のまなざしこそ、現代文芸の環である。未来に対する希望可能性にかけないものに災いあれ。「不在の重さ」とは、神・真実・正義の不在だとすれば、悪・虚偽・不正の充ちくる根元をリアルな経験と観察の神経で反応しなければならない。決して心情や原始伝統の霊異に安易に浚われてはならないのだ。
 昼下がりの渋谷を歩けば、平日でも10歳代の男女が3,4人づつかたまっている。何日も家に帰らず街を游動し気のあった者同士なじみの地域で出没し、ケータイでやりとりしながら時を過ごす。アフリカの野生チンパンジーは群れ全体で食物を求め、いくつもの小グループに分かれて、行き当たりばったりに離合集散を繰り返す。現象的には原始と現代の日常はそっくりなのである。彼らに憲法9条を守ろう−と呼びかけても何の反応もないであろう。戦争の悲惨を体験した世代とは根本的に感性が異なっているから。少年少女の離合集散は基本的にアイデンテイテイーへの模索過程であるとすれば、そうした模索が軍隊的な社会でどうなるのか−を問いかける作業が必要だ。渋谷でプチ家出を試みている面白オカシイ(実際には砂漠のような)心情とつながることに失敗すれば、その後に来る世界は非常なものとなるであろう。
 しかし私は率直に云ってこうした少年少女とは付き合う余裕は残念ながらない。東京都教委の儀式実施指針は、壇上での卒業証書授与を強制し、障害児学校のこどもの人権を侵害して恥じない恐ろしい事態を生んでいる。フロアのマットの上でこどもを抱いて姿勢を介助している教師に「子どもを抱いたまま起立せよ」と命令したり、君が代斉唱途中で子どもをトイレに連れて行った教師を強制的に呼び戻すという偏狭極まりない事大主義に陥っている。命令と処分で特定の思想を強制するファッシズムが事実上まかり通っている。まことに現代は戦争とファッシズムの道を歩んでいる。江戸期の踏絵が復活している。

 徴兵は命かけても阻むべし 母・祖母・おみな牢に満つるとも(石井百代 1903-82)に負けじと歌わねばならない。
 独裁は命かけても阻むべし 父・祖父・おのこ牢に満つるとも(荒木國臣 1941−)

 総合重機メーカー・石川島播磨重工は、約40年間にわたる労働者思想差別を謝罪し、コンプライアンス(法に従う)・ガイドを実施すると約束した。ZC(ゼロ・コミュニスト)計画管理名簿は、同社人事部が日常的に警察・公安と情報交換して作成した。企業批判を展開する労働者をA・B・Cにランク分けし、備考欄には家族状況と持病等まで詳細に記入していた。名簿搭載の社員には、「口をきくな、目を合わすな、職場の行事に呼ぶな、香典は受け取るな、仕事は周りが覚えて取り上げろ、定年の挨拶はさせるな」という、火事と葬式以外は接触を禁じた封建時代の村八分に等しい迫害を加えた。原告の一人(64歳)は、人工衛星の傾きを地上から測定する技術を開発して社長賞を受賞したが、退職までの仕事はコピー係になった。仕事中には同僚たちは別の場所でインフォーマルな会合を開いてボイコットし、お花見や歓送迎会からは閉め出された。見かねたパートの人たちが、駅で花束を隠れて渡してくれた。こうして会社は45日間で7000名の首切りをおこなった。自殺者が頻出した。
 こうした差別政策によって、熟練労働と技術の継承がなくなり、職場の士気がが低下し、ミスが頻発する中で会社の業績が急速に傾き始めた。たった8人が提起した裁判は、憲法と労基法に準拠した運動が企業の労務管理を突き破る可能性を現実に示した画期的な和解になった。覚え書き別紙で交わされた差別禁止事例を紹介する。すでにこれはファッシズムではないか。J・オーウエル『1984年』やハックスリー『素晴らしき世界』も真っ青ではありませんか。

@女性であることを理由に補助業務や資格と賃金を抑圧すること
A思想やインフォーマル組織への協力度を理由に、仕事・資格・賃金などで格差を付けること
B合理的な理由なく、本人の意志に反して仕事を取り上げ隔離すること
Cミスや行き違いを理由に、みんなの前で罵倒し、つるし上げ、私的制裁を加えること
D合理的な理由なく研修の機会を奪うこと
E合理的な理由なく福利厚生施設の利用を制限又は拒否すること
F特定の従業員を行事や交友から無視・排除・嫌がらせをすること
G合理的な理由なく会社サークルへの入会拒否や退会を求めること
H話をすると同じとみなされるよ−などの助言という形であっても結果的に特定従業員との挨拶・対話・交友を監視・制限・妨害すること
I香典・祝い金・餞別など特定の従業員を冠婚葬祭から排除すること
J就業時間中にインフォーマル組織の活動や会議をおこなうこと
K特定の従業員が配布するビラなどを受け取らないように働きかけること
L新入社員教育などで特定の従業員や団体を非難すること
M従業員の思想や傾向・居住地での活動・家族・病歴などを調査したり、リスク・マネイジメントの対象とすること

 百年前の1904年の日露戦争と同じ頃に、ドイツ帝国は「ドイツ領西南アフリカ(ナミビア)」で起こった反植民地蜂起に対して残虐な殺戮戦をおこなった。退路を断って砂漠に追い込んだり、孤島に閉じこめて餓死させたり、鎖で捕虜をつないで奴隷にしたりして、蜂起の中心部族ヘレロの80%、ナマの50%が虐殺された。この事件は植民地ジェノサイドの先駆として最近注目を浴び、ホロコーストに帰着するドイツの将来を与示するものとなった。100周年の今年、ヘレロの人々が植民地戦争の被害を補償する訴訟を提起したことに対して、ドイツ政府は開発援助で答えるとして謝罪と補償を拒否している。一部には事実そのものを否定する強硬な歴史修正主義の動きもある。欧米による植民地支配の補償は、国連・反人種主義会議(ダーバン会議 2001年)ではじめて取り上げられ、国際社会で認知される兆しが見られる。台湾・朝鮮に対する大日本帝国の植民地支配が再審される日もまた近いであろう。石川島播磨といい、ナミビアといい、一路反動に向かっている世界で確実に進歩の潮流も始まっている。(2004/3/23 23:44)

[與謝野晶子「君死にたまふこと勿れ」]
 よさのあきこ 歌人 1878〜1942年 大阪府堺市生まれ 『乱れ髪』(明治34年 1901年)以降5万首を超える作歌 この詩は忠君愛国の日露戦争期のわが国初の反戦歌 孤立して退くことはなかった 百年を経てまた彼女の歌が現実になろうとは思わなかった

ああをとうとよ戦ひに
君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中にある弟を嘆きて)

ああをとうとよ君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ

旅順の白は城は滅ぶとも
ほろびずとても何事か
君知るべきやあきびとの
家のおきてになかりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみづからは出まさね
かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思されむ

ああをとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
過ぎにし秋を父君に
おくれたまへる母君は
なげきのなかにいたましく
我が子を召され家を守り
安しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりけり

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかに新妻を
君わするるや思へるや
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君しにたまふことなかれ

  −「明星」明治三十七年九月号(2004/3/22 18:15)

[WORLD PEACE NOW]
 3月20日は全世界でイラク占領に抗議する行動が一斉に開催されました。日比谷公園ではロックバンド「ゴッド・ブレス」の演奏があった。ゴッド・ブレスは、ヒロシマ平和公園内の鶴を持った少女のモデルの親類筋にあたる。”泣いて泣いて泣き疲れて折り鶴にいつも励まされ・・・・愛する人はそばにいませんか・・・”という歌が響き渡りました。今は亡き尾崎豊は、”誰も手を差し伸べず、何かにおびえるなら、自由、平和、そして愛を何で示すのか”と歌いました。今日はただ数字のみを示したいと思いますが、この数字はその数だけの悲しみと怒りと嘆きが秘められています。ありったけの想像力を駆使して、この惑星の殺し合いの虚しさを心に刻みたいと思います。日本の平和団体・WPNは、日本の自衛隊関連での死者が発生した場合の緊急行動計画を作成し、ネット上で公開しています。内部で用意しておくのはやむを得ませんが、公開する神経は分かりません。なにか死者を待望しているかのようです。とまれ今この時にいたいけな命が生き延びようと格闘していることに思いを馳せましょう。(2004/3/21 23:13)

 イラク民間人死者 10282人(イラク・ボデイ・カウント調べ 3月3日現在)
 イラク人拘束者数 15000〜20000人
 派兵国別兵士死者数(CNNTV 3月15日現在)
  アメリカ 565人
  イギリス  59人
  イタリア  17人
  スペイン  10人
  ブルガリア 5人
  ウクライナ  3人
  ポーランド  2人
  タイ     2人
  エストニア 1人
  デンマーク 1人
  合計   665人

 3.20イラク戦争1周年国際行動参加数
  東京    10万人
  ローマ  100万人
  マドリード  6万人
  バルセロナ20万人
  ロンドン  10万人
  パリ     1万人
  アテネ    1、5万人
  テッサロニキ0、2万人
  リスボン   0、5万人
  タリン    50人
  カイロ    0、3万人
  カラカス   0、1万人
  ナガルコイル 400人
  ニューデリー1500人
  チェンナイ   300人
  スリナガル  700人
  メキシコシテイ数万人
  ブエノスアイレス数千人
  サンテイアゴ 0、3万人
  ニューヨーク 10万人
  サンフランシスコ5万人

[出来合いの思想への寄りかかりはやめよう]
 国連が危機にある現状をなんとかしようと、最初に構想を提起したドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724年生まれ 今年没後200年)への関心が高まっている。彼は『永遠平和のために』で、常備軍の全廃、国家による他国への暴力禁止、殲滅戦の手段禁止、自由な諸国家の連合に基礎を置く国際法を基礎に、互いの抑制と均衡による国際連合を提案した。
 彼の主著『純粋理性批判』は、神に依拠することなく人間はどこまで認識可能であるかを考察し、始めて神から自立した近代の人間の認識を示した。人間には本源的に普遍と必然を知り得る能力がありそれは「自発性」に根拠を置くとし、人間のみが自由による自律行動を営むが故に、互いに他者を手段としてではなく目的とみなさなければならにと主張した。人間の自発性と自由という本質が、互いの他者を目的として尊重し合う「目的の王国」が国家関係に適用されたときに、互いの神の相違については禁欲し、宗教的な政治目標と世俗的な政治目標を峻別する国際法による平和が可能になると云う。
 人間理性の進歩と可能性に対する疑うことのない信頼と、現代の帝国のヴァンダリックなユニラテラリズムの余りの非対称性こそ、現代におけるカント回帰の要因であろう。ドイツの外相は国際協調の源流をカントに求め、帝国の生存競争至上主義の源流をトマス・ホッブス(万人の万人に対する闘争)に求めて批判している。それはその限りにおいて有効性を持つ。なぜなら帝国の思想は、近代ヒューマニズム以降に形成された人間観そのものを、そして西欧思想の源流にあるキリスト教思想(汝の敵を愛せよ)そのものを否定する野蛮な退行現象を呈しているからである。
 しかし我々は、欧米と米国にある衝突の深層をみるならば、軍事か非軍事かの手段の違いの裏にあるインペラリズム(第3世界の利権)の論理を見過ごすことはできない。理性の名によってなされてきた第3世界の開発論理の虚妄を鋭く見抜いている国際社会は、カントとともに歩める範囲は限定的である。我々は出来合いの哲学思想史の欧州中心主義の限界を知っているが故に、単純なカント賛歌に組みすることはできない。カントの最良の部分を継承しつつ、21世紀の国際平和論は我々自身の頭によって創造するしかないのだ。(2004/3/20 17:12)

[R.ハバード/M.ランダル『赤のかたち』(みすず書房 1993年)]
 米国籍の2人の女性の往復書簡集。一人はウイーン出身の亡命ユダヤ系のハーヴァード生物学教授であり、他方は米国出身でメキシコで活動するエッセイスト・写真家。ニカラグアで開催された会合で出会い、互いに自らの出自と半生を語りながら米国現代社会でので左翼フェミニズムがどのように内面化されていったかがよく分かる。キーワードはインサイダー/アウトサイダーであり、多民族社会米国で市民社会にどう係わるか、そこでの包摂と排除の構造が浮き彫りとなる。すぐ分かるように、米国で思想の自律的な自由を実質的に獲得できるのは、知識人か芸術家の世界である。ここにはアメリカ市民の層としての自己形成はない。9.11以降の愛国者法によってマイノリテイにたいする排除と抑圧が星条旗に対する忠誠を大義として推進されている中で、インサイドとアウトサイドの緊張関係が強まっている現代で、良心に忠実な生活を具現することはより困難となっている。マッカーシズムの修羅をくぐり抜けた2人の女性の精一杯の生き方は、現代米国の良心を象徴している。しかし問題は、秀でた才能だけではなく、無名の市民層がどのようにアイデンテイテイを形成していけるのかが問われていると思う。自由の女神の国は、思いの外思想の自由は実質的に機能していないのだと云うことがよく分かる。(2004/3/18 9:41)

[狂気に包まれた東京都]
 さながら1930年代のナチス突撃隊の野蛮をみているかのようだ。東京都は、国連子どもの権利に関する条約を実現するために設置されていた「子どもの権利擁護委員会」を5年間活動の後に2004年に廃止する。しかし最も重要なことは、これと同時に東京の小・中学校から、児童会と生徒会を廃止するそうだ。
 確かに児童会や生徒会の現状が学校の下請機関化して形式化している現状はあるかも知れない。しかしこれら子ども集団は、学校制度がない時代から連綿と寄り合いや「組」組織として、子どもの仲間集団を組織してきた歴史とともに古くかけがえのないものであったことは否定できない。子どもたちが自主的に企画し話し合って運営し、学校に対する要望も出していくことは民主主義の基礎を為す体験を獲得する。
 加えて都は、卒業式・入学式で日の丸・君が代で起立・斉唱する生徒が少なかった学校を調査し、担任の日常の指導内容を確認して処分するそうだ。こどもに国旗国歌を尊重する気持ちが育っていないのは、教師の偏向教育に責任があるそうだ。学校への立入調査と生徒への密告を奨励する卑劣極まりないやり方だ。明らかに内面の自由を泥靴で踏みにじる行為に他ならない。ある音楽教師は、「自分が演奏している姿を生徒に見せたくない」といって影で君が代を演奏したそうです。東京都立学校の管理職には大量の体育会系が進出し、草の根からこうしたファッショ体質を構築している。
 ここまでくると石原慎太郎が骨の髄までのファッシストであることを確認せざるを得ない。要するに彼はポピュリズム・ファッシストに過ぎない。都教委幹部諸子は、憲法に忠誠を誓って職を遂行しているのか、目の前のファッシスト個人に対して忠誠を誓っているのか、もはやギリギリの選択を迫られている。(2004/3/17 20:51)

[現代日本の前期ファッシズムを担う人々]
 3月は全国の学校で門出を祝う卒業式が営まれる。東京都では、卒業式前日に教職員全員に個別に職務命令省が渡され、起立しない職員を特定するための職員の座席はすべて指定され、一覧表が作成された。都教委は昨年10月に学校行事での日の丸と君が代の実施を強化する通達を出し、創立記念式典で斉唱時に起立しなかった教職員10人を昇給3ヶ月停止を含む戒告処分を強行した。或る都立高校の卒業式では、昨年まで生徒と対面していた教職員の座席を含めて全員壇上の日の丸を向くように座席が設置され、起立しない教師に教頭が歩み寄り、都教委職員が最後列で監視する体制をとった。
 すでにこの光景は明治期に東京第1中学(現東大教養学部)の教育勅語奉戴式で、内村鑑三が敬礼を拒否して退職せざるを得なかったものではないか。内面の自由が確立している今日では、通常司会は「(君が代を)歌う歌わないは内心の自由です」と云って式典は流れるが、今年の式典は戦前期でもあり得なかった監視の体制下で挙行された。皆さんは抑圧の移譲という心理現象を御存じか。最上位にある権力が命令を下すと、下位にある者がそれを増幅して次々とそのまた階層に命令を伝える法則を云う。国歌・国旗法の国会審議の過程でも、内面の自由は括弧としてあるという確認で法は成立した。米国においても星条旗への敬礼義務を憲法違反とする連邦最高裁判決が確定している。抑圧の移譲を増幅して伝えるおろかな亜権力の惨めな姿が自己暴露されている。ファッシズムが民衆自身の擬似自発性を伴って登場するとおうナチス経験が悪夢のように蘇っている。

 UFJ総合研究所報告「フリーター人口の長期予測とその経済的影響」によると、フリーター人口は2001年に21,2%(417万人)から2010年に28.2%(416万人)→2020年30,6%(444万人)と3人に1人がフリーターと予測している。平均年収は、正社員387万円に対し106万円であり、格差3,3,7倍、生涯賃金では4,2倍、年金受給額2,2倍の格差を生み、この格差は可処分所得の格差から消費支出は正社員282,9万円に対し103.9万円と3倍の格差を生み、住民税と所得税・消費税を合わせると実に5倍の格差となる。この結果生じている社会全体の経済的損失は、税収1兆2100億円、消費8,8兆円、貯蓄3,8兆円の損失をもたらし、名目GDPを1,7%減少させている。さてこの壮大な損失分だけ丸儲けしているのが企業に他ならない。企業から云えばGDP成長率よりも自社の利益極大化が最大の関心事であり、フリーター制を合法化している政府も国民全体の利益の代表ではあり得ない。現代のファッシズムは、政治的表象のみならず経済的な独占権力としても登場している。注)フリーターとは学生と主婦を除く15〜34歳の若年労働力のうち、パート・アルバイト(派遣を含む)及び働く意志のある無職の人−という内閣府の定義を援用している。

 オウム教団組織は、カリスマ的な指導者を中心に、信徒の強固な団結と異端排除を前提とする集団帰属制にある。ポアはかっての非国民!に等しく、神聖な教祖はかっての神聖不可侵の天皇制であり、信徒の修辞法は神風や護国の鬼の永久戦争論に等しい。対外的な孤立閉鎖空間は国際連盟の孤立に等しく、サリン散布は侵略行為に等しく、オウムはまさしく大日本帝国との連続性を復活しつつある現代日本ファッシズムの凝集的な縮図なのだ。それはナチスドイツ、スターリニズム、北朝鮮の精神構造と本質的に同じであり、首都・東京を支配している元作家の頭脳と共通している。公権力は、似非ファッシスト・オウムを弾圧しつつ、より巨視的なファッシズムの傘を構築しつつある。

 率直に云って私はこのような時代がこようとは予測できなかった。現代日本の前期ファッシズムの根拠がどこにあるのか、その歴史的な必然可能性はどのように説明されるのか−すべての知的ツールを動員した解明なしに克服もまた困難であろう。(2004/3/16 22:28)

[旧石器研究の方法論的再構築は何を問いかけるか]
 藤村石器という捏造事件の検証作業は、昨年5月の日本考古学会報告書をもって、すべて終了し藤村遺跡はすべて抹消された。古いことに目を奪われて、繰り広げられた発見の競争という悪しき弊害は一掃されたか。昨年12月に設立された日本旧石器学会は、捏造の検証方法として、後世の傷があるかないか、新しい土が付着しいているかどうかという探索方法を共有しただけだ。相変わらず前・中期旧石器の発見競争は続き、石器観察と特定の方法論は未成熟のままだ。石器研究は、石器観察によって人工物と自然物を峻別し、製作技術を分析して遺跡文化を復元的に再生することにある。石器を分析する基礎的な観察力を成熟させた研究者の視点は成熟していない。
 第1に60年代以降発見されている前期旧石器時代遺跡の評価が分かれ、基礎的な指標すら確立していないこと、第2に康樹旧跡時代遺跡の整理と分析が完了していない。ここには藤村石器の捏造を見抜けなっかた方法論の水準がそのまま継承されている。以上・竹岡俊樹氏の論考から(朝日新聞3月15日付け夕刊)。
 私は日本旧石器研究をめぐる方法論の致命的な欠陥は、現代の日本社会科学の方法論の欠如と分散をそのまま反映していると思う。とくに思想や哲学分野での方法論は、百家斉放といえば聞こえはいいが、それぞれ勝手な主張を鼓吹し、原理的な方法自体を拒否するポスト・モダンのゆれが蔓延している。価値相対主義とか多角的方法主義とか述べ立てて、閉塞したたこつぼ学派が乱立して混迷状況を呈している。世俗的な流行と大衆的な受け狙いの浅薄な講演向きの頽廃した言説が乱舞している。新規と抜け駆けと競争と媚びへつらいの修羅場となっている。
 一なる原理に接近する多様な方法があり得ても、原理そのものは一であるという、初歩的な前提がゆれ始め、ニヒルな時代が覆い始めている。観察と分析とは、過ぎ去った近代の方法ではなく、まだ完結していない厳密な吟味の問題ではある。(2004/3/15 22:41)

[愛犬コロが逝った]
 愛犬コロがこの世を去った
 昨日からめっきり弱り
 哀しげな吠え声がじょじょに小さくなって
 小屋の片隅で小さく横たわった
 朝起きてみると
 身体は硬直し目は閉じられて
 硬い物体に還っていた
 あっけなく彼は逝った
 サヨナラもいわず
 私はさほどの悲しみは訪れなかった
 20年を私の家族と過ごし
 十数匹の子供を産んで
 こころよい時を人間に与えて去った
 私は遺体の処理が心配になって
 警察に電話したが警察は何も知らなかった
 八事の霊園に電話したら
 留守電の女性の声が朝8時45分から受け付けるという
 私はコロをゴミ袋に入れて 霊園の事務所にいった
 受付の係が事務的に段ボールでなければだめだという
 段ボールに入れて秤に乗せたら10kgあった
 申請書に記入して2200円を払い 冷蔵室に入れて
 すべては終わった
 私は仕事が一段落した気持ちになって家に帰った
 もはや私の家にコロはいなかった
 コロはどこへ行ってしまったのだろう
 街は早春の陽気がただよい 女子マラソンの選手が走り抜けた
 愛犬コロはこうしてこの世を去った
         −2004/3/14 17:25記

[在野にあって輝く独立した精神−藤田省三]
 フト手にした本が輝きを放ち始めた。それはなにか薄明かりの向こうから差し込んでくる一筋の光か、漆黒の海を照らす探照灯のようだ。ドグマの言葉を一切排除した独立の思索の言葉がある。考える−ということの見事な圧倒的な吸引力がある。私はまだ読み始めたばかりであるが、最初の数行から引き込まれるような頭脳の作動を感じた。
 20世紀は全体主義を生み、かつ生み続けた時代であり、最初は戦争の、次いで政治の、そして生活の全体主義=安楽への自発的隷属という末期の時期にあるとする。一見ニヒルに響くが実はそうではない。対象との生き生きとした、ドキドキするような相互関係=経験を回避し、欲望する自我の肥大が無自覚に進んでいる現状を、見抜く自我が出現し営々と経験を積んでいくならばそれは新たな社会の再生を準備している。藤田氏は高度成長期の実相を鋭く解き明かした珠玉のような考察を展開している。ポスト・モダニズムの不安は藤田氏の生きた時代とはまた様相を変えつつあるが、その思考の方法は時代を超えた有効性を持っているようだ。沖仲仕の哲学者といわれるエリック・ホッファーを超えるような鋭い思考を目の前にしていると実感した。読み始めたばかりの感想であるが、じつにホンモノの凄さを味わった。藤田省三『全体主義の時代経験』(みすず書房)。(2004/3/13 23:30)

[リベラルが注目される時代は危機の時だ!−”断而不行 行易不行難”(長谷川如是閑)]
 長谷川如是閑(萬次郎 1875−1969)は、独立独歩の孤高の言論人として国家主義や軍国主義と対決したリベラル派であり、近年注目を浴びてきた。「断而不行」は、彼のジャーナリストとしてのスタンスを象徴するモットーと言われるが、その解釈は批評をおこなう者は実行に関与すべきではない、批判の自由のためには実行に距離を置くべきだという言論の独立性の文脈で理解すべきだという積極的な解釈が普通だが、結局実践に踏み込めなかったリベラルの限界だという批判もある。朝日新聞3月13日朝刊参照。
 なぜ彼の思想が注目されているのかは、いうまでもなく最近の「やられたらやりかえす」「有言実行」「断じておこなえば鬼神もこれを避く」などのライオンヘアーが主導する武闘派のイニシアテイブが強まり、大勢順応の流れに乗って時代が混迷に陥っているからである。不安の時代には強烈なメッセージを発する者に大衆の支持が幻惑されるという法則が働いて、異議申し立てを排除する雰囲気ができあがりつつあることに対する抵抗の拠点として如是閑にすがろうとする反転が働いているのだ。
 かってはこうしたリベラリズムの潮流をひ弱な非実践派として軽蔑するセクト主義的批判があったが、現代では新たなパートナーシップの再構築としてとらえ返す必要がある。確かに近代リベラルは、西欧近代社会をモデルとしてその裏にある血を滴らせた生産力主義と植民地主義に目をつむったが、ファッシズムに対抗する輝かしい歴史も刻んできた。資本主義型近代のリベラルから、協働型現代リベラルへとリベラルの中身が豊かに再編される可能性が満ちている現代では、むしろ或る特定のセクトから身を離した独立系市民(いわゆる無党派)の積極的な意味が登場しつつある。NGOやNPOのめだたないボランタリー精神が一定の支持を受けつつある。
武闘派の果敢な行動主義に対抗する対抗軸として成長しつつある。
 ただし確認すべきことは、武闘派ファッシズムは最初に批判主義的行動部隊に攻撃を集中させて壊滅させ、次に民主主義的組織に攻撃を移し、最後に独立派リベラルを壊滅させて、ファッシズムを完成させるという法則的な論理は貫かれていることには変わりはない。ドイツのマルチン・ニーメラー牧師が痛恨の告白をしたように、1030年代の悪夢がふたたび形を変えて蘇ろうとしている現在にあって、長谷川如是閑や桐生悠々のスタンスがデモクラチックな市民の選択肢に含まれなければ、人類は2度目の悲劇を味わうこととなる。(2004/3/13 9:08)

[故・奥大使は謀殺であったのか!?]
 イラクで射殺された日本の外交官・奥大使等はアメリカCIAによる謀殺であったという有力な説が浮上している。イラク占領米軍は、今以て射撃された物的証拠を日本側に示さないのみならず、日本の外交官は金品を執られていないが、電子手帳とFDがすべて持ち去られている。その中にはイラクの石油関連の重要資料が入力されていたと云われる。つまり米軍からみると、漁夫の利を得るかのような日本の行動に対して強く警告するための牽制球であったという。岡本行夫首相補佐官は衝撃を受けて真っ青になったという。米国の警告を受けて、日本の外交官の葬儀は、国葬はおろか外務省葬にもしないで、粗末な施設で千葉県警葬として営まれた。小泉首相が落涙したのは、米国からの厳しい警告に震えた結果であった。
 こうした陰謀説が流布するのは一定の根拠がある。それは現在の日本政府の米国に対する常軌を逸した奴隷的な屈従の状態を見れば明らかだ。米国の石油戦略が日々露骨に展開されている中で、日本の利権が安易に得られるほど甘くはない。イラクでの日本外交は、「人道援助」を隠れ蓑とした浅ましい行動であることを暴露している。おどろおどろしい世界だ。(2004/3/11 22:24)

[2000年に生まれた世界の子どもが100人だったら−国連子ども総会メッセージ]

 2000年に生まれた子どもが100人だったら

 53人は アジアに生まれました
 そのうち 18人はインドに 15人は中国に生まれました

 19人は サハラ砂漠より南のアフリカに
 7人は アメリカ ヨーロッパ 日本などの
 お金持ちの地域に生まれました

 40人は 生まれたことを役所に届けてもらっていません

 30人は 栄養が充分ではありません
 18人は きれいな水が飲めません
 40人は からだを洗う水やトイレに不自由し
 ごみや 病気をはこぶ虫などに苦しめられています

 17人は 学校へ行けません
 そのうち 9人は女の子です

           (2004/3/10 22:26)

[障害児のインクルージョンとオートポイエーシス理論]
 インクルージョンとは「包含(包み込むこと)」を意味し、エリミネーション(排除)の反対語だ。いまこのインクルージョンが教育のキーワードになったのは、1994年のサラマンカ宣言(ユネスコ・スペイン共催「特別なニーズ教育に関する世界会議」で採択)以降だ。同宣言は、障害児や児童労働従事者・貧困児など「特別な教育的ニーズを持つこども」を「排除」するのではなく、学校システムに「包み込む」ことを提案している。
 ところが文科省「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」(2003年)は、現行障害児学級を必要な時間だけ通級する特別支援教室に再編する提言を打ち出し、これを従来の分離型障害児教育をインクルージョン・システムに転換する一歩だと把握する潮流がある。従来の障害児教育システムは分離型でインクルージョンに反するという主張からだ。
 そこでインクルージョンの正確な把握が求められる。インクルージョンは、一人一人の障害に対応する適切なサポート付きの教育を意味し、サポートなしで通常教育へ統合することをダンピング(投げ込み)として否定している。これが世界の障害児教育の到達点だ。つまり、多種・多様な障害児の個的な困難を、その種類と程度に応じて、最適なサポートを提供する連続的な支援システムを制度化することだ。可能な限り健常者との近接した場を保障しながら、障害に対応する段階的な支援環境を整備することだ。特別な支援がセットされている通常学級、通常学級に在籍しながら一部通級する通級指導学級、ほとんどの時間を特別なカリキュラムで学ぶ障害児学級という連続的なシステムだ。しかし文科省報告は、障害児学級と通級指導教室を一体化した特別支援教室を提案し、障害児学級を解体するとしている。ここでは「教室」という物的施設と、「学級」という生活場を混同するという初歩的な間違いがあるが、最大の問題は障害のレベルに応じた最適支援としての連続的な支援システムを解体する、反教育的な提言に堕していると云うことだ。文科省報告は、インクルージョンを巧妙に利用しつつ、実は障害児教育への財政支出を切りつめるための解体・再編に他ならない。
 いま身体的・精神的な障害を抱える児童数が増大し、小・中学校に併設された障害児学級と通級指導教室と養護学校の児童数が激増し、深刻な教室不足と過密化・大規模化が進展している。障害児に「最善の利益」(子どもの権利条約)を実現するには、障害児に寄り添うより精緻な支援制度を整備する湯水のような教育投資が求められている中で、文科省報告は障害児を犠牲にして財政赤字を抑制する最悪の結果をもたらそうとしている。

 さて本質的な問題は、インクルージョンの理念を本格的に考察することにある。私は、インクルージョンの理念を人間論そのものから問い直してみたいと思う。その分析ツールとして、現代の最先端人間論であるオートポイエーシス理論によるアプローチがどこまで可能かを考察してみたい。

 日本におけるオートポイエーシス理論を情報論に取り入れた先端研究を担っているのが、西垣通氏(東大)だ。以下彼の理論を批判的に検討しながら、インクルージョンの論理を解析してみる。オートポイエーシスとは、「自己(オート)を作る(ポイエーシス)」と言う意味で、自己創出システムとか自己組織化とも訳される。20年前に神経生理学者であるマトウラーナとヴァレラが提案し、社会学者ニクラス・ルーマンが社会理論に適用して脚光を浴びてきた。個人は、生物学的には200種類ほどに分類される約60兆個の細胞の共生体であり、自律的存在である個々の細胞がそれぞれの役割を果たしながら、生きている小さな社会だ。生命進化という巨大な遺伝情報流の中で、神経やリンパ腺が無意識の情報を交換し合って生きている。細胞は自分のDNA遺伝情報にもとづいてつくられ、過去の記憶情報をもとに自己循環的に自己形成を遂げる。人間の想念も、過去の記憶による自己循環的な矛盾をはらみつつ浮かんでは消えていく。その矛盾は、無意識とか暗黙知とか直感という非論理的な形態をとる。社会も、自分で自分を作り続けるオートポイエーシス的な存在で、生成消滅する個人を超えたコミュニケーション流である。個人というシステムは、社会システムの制約条件の下で、本来の自律的な存在を維持しようと自己生成を遂げていく。
 さてこの西垣理論を障害児に適用すれば、「障害者」神経細胞の破損と歪曲によって個体内の情報流に外界に適応できないようなミスマッチが起こり、社会システムの制約条件を逸脱する特別な情報流が個体内に発生している状態と云うことになる。しかし社会システムの側が、意識的に情報流に働きかけ、適切な支援のコミュニケーションをおこなうことによって、個体内の情報流に変化を与え、より調整されたコミュニケーションを恢復する新たな情報流を創出することができる。ここに障害者教育という社会システムと個人システムの相互関係の新たな情報流が誕生する根拠がある。この新たな情報流の誕生は、個体内の神経細胞の破損や歪曲のレベルに最適な対応によってしか生まれ得ない。なぜなら個体内のオートポイエーシスの自律性が破損しているか奪われているかという条件を前提に、意識的(作為的)なコミュニケーションを作動させるしかないからである。そこでは交響し合う情報流が必要なのであって、おのずから作為的なコミュニケーションの作動範囲は限定されるからである。確かにこうしたオートポイエーシス理論によっても、文科省の特別支援教室還元論は有効性がないということが確認される。(2004/3/9 23:46)

[障害児を壇上に強制するとは!?]
 ファッシズムの前期を覚える悲惨な事態が東京都で起こっている。都立養護学校では卒業式で壇上に肢体不自由児を上げるために、講堂の壇上に張り出しステージとスロープを80万円の公費を使って設営している。写真で見ると、舞台の幅の半分はある異様なスロープがセットされている。なぜこのような異常な装置と無駄遣いが起こっているのであろうか。都教委が学校行事は日の丸を舞台壇上正面に掲揚し、卒業証書は壇上で日の丸の下で授受せよという通達を発したからだ。自分の意志を表出できない、短い人生で終わる可能性もある障害者を無理矢理に強制して日の丸の直下で証書を渡すという、非人間的で残酷な式典を強要する神経とは、もはや教育者否な人間の条件を喪失している。日の丸・君が代の内面の自由をめぐる問題はここでは触れない。ここではある一つの象徴への服従を貫徹させるためには、障害者を犠牲にして恥じない教育権力者の人間としての条件が問われている。君たちは間違いなく人間失格の鬼にふさわしい。
 肢体不自由児にとっての最適な設定を優先させることが教育者の前提条件ではないか。肢体不自由児の最適な条件の設定とは、身体を横たえて、親と教師と子どもたち同志が互いに顔を一番楽に見られる設定だ。無理矢理車椅子に乗せて、いつ転落するか分からない壇上で恐怖心に戦いて卒業証書をもらうことではない。ある子どもは、生後3ヶ月で難病の点頭てんかんとなり、言葉をしゃべることはできず、股関節の脱臼が進行して移動は車椅子だ。彼女は一生懸命歩行訓練を重ねてきた。補助具をつけて歩く訓練をしてきた子どもにとっては、晴れの式典で歩く姿を見せる晴れがましい場が、歩けるのに車椅子に乗せられて先生に舞台に引かれていくのは屈辱ではないか。言葉で自分の気持ちを伝えられない子どもたちに代わって、悲痛な願いを誰かが伝えてやらなければならない。権力者にとっては儀式は儀式でしかないが、子どもたちにとっては生涯に一度の尊厳ある式典なのだ。
 私は今日ほど怒りに震えたことはない。頽廃した権力が無自覚にどこまで人の心を泥足で踏みにじるかまざまざと身に滲みて思った。抗議の声を発せられない最も弱い層に攻撃を掛けて恥じない堕落の極地! 明日おこなわれる卒業式で、車椅子に乗せられたいたいけな子どもたちが連なって壇上に運ばれていくシーンは、そのまま日本全体が地獄へと運ばれていく悪夢のような風景だ。時あたかも、京都の養鶏業者の老父婦が、裏庭の木に紐を掛けて自死した。世の中挙げてのバッシングに誰が耐え得るであろうか。町役場は、「自死する前に、説明責任を果たせ」とコメントしている。なにか日本全体が狂気に包まれていっているような気がする。それを見下ろして冷ややかに冷笑しているのが、2人いる。ライオンヘアーと元作家だ。彼らはまちがいなく地獄の炎に焼かれて阿鼻叫喚のなかでのたうち回るであろう。
 最後に云う。アウシュビッツを知らなかった−と云って免罪されるドイツ人はいない。こうした情景をつくり出してきた原因の一端を私も担っている。最初に小さな疑問に沈黙し、正当な批判を発し得なかった怯懦が積み重なってこのような事態に至ったのだ。しかしまだ遅くはない。まだ遅くはない。しかし・・・・(2004/3/8 23:23)

[異物排除の安全保障はファッシズムの前期症状だ]
 オウム・麻原死刑判決を受けての栗原彬氏の論考はなかなかに興味あるものである(朝日新聞3月4日付け夕刊)。先日観た映画「ドッグビル」の村に迷い込んだ逃亡者排除の物語とも重なった。以下彼の論考を参照しながら現代世界の人間的な絆の再生について考える。

 「(我々)は、悪を打倒して、善と正義と真理の王国を建設することによって、人々を解放し、救済する」(オウム教典)

 質問:(  )内の中に入る具体名は何か次の中から選びなさい。@麻原彰晃 Aブッシュ B小泉純一郎
 答え:@〜Bすべて正しい
 理由:その1=或る大義を無条件に信じる
     その2=我々が善で、彼らが悪だと無条件に信じる
     その3=悪が悪である証拠がなくても先制攻撃する権利があると無条件に信じる 
     その4=悪を倒し善を建設する責任があると無条件に信じる

 善良で知的レベルの高い若者がなぜ暴力装置に転化したのか? 信仰厚きムスリムがなぜ無差別テロとなって世界貿易センターに突っ込むのか? 無防備をさらけ出した市民にとって、安全の自衛が至上の課題となり、脅迫的な安全志向は、少しでも不安を誘発する要素を除去し、または自ら不安の原因を作為して、それら異物を徹底して除去しようとする社会風潮をつくりあげた。オウム・ムスリム・北朝鮮・中国人・アジア系外国人・パナウエーブ・狂牛病・鳥インフルエンザなどなど次々と社会的異物が拡大し異物排除のシステムが構築された。異物排除による安全保障方式は、、連鎖的にさまざまの社会的な場面に波及し、遂には我々自身が異物の一部であるかの完全な純潔性を求め始めた。こうして互いに他者を排除し合う無間地獄の異物排除運動が社会全体を覆い始めた。他者を他者としてほどよい距離に保つ「公共的親密圏」というネットワークを対置しなければならない。ここまでが栗原氏の論考の概要だ。
 私は実は事態はもっと悲惨な方向に進み始めていると思う。排除のシステムは、「我々」と「彼ら」という2項対立を超えて融解し始め、「我々」内部の些細な差異を極大化して、「我々」内部の異物を探索し排除の力を振るうまでになろうとしている。それはかっての強固なイデーに結ばれたはずの連合赤軍の無惨な殺戮の論理と共通している。純度が高まれば高まるほど、亜不純に対する異物感度が上昇し、物理的排除に到る無限連鎖の過程が坂道を転がり落ちるようにはじまる。ユングで云えば、影の集合的無意識に追い詰められる強迫心理の極大化だ。今繰り広げられている鳥インフルエンザをめぐる養鶏業者に対する社会的バッシングの異常性はここにある。もはや鶏を飼うこと自体が犯罪視される寸前にある。本質的にファッシズムなのだ。不透明で先が見えにくく不安が醸成する時代では、スケープゴードをつくって犠牲者に打撃を集中するか(ユダヤ人狩り)、または自己自身に打撃を集中するかだ(芥川龍之介)。そして誰もが傍観が許されない状況になった時が一番の危機だ。なだれを打って加害者側に加担して自らの安全を保持しようとするからだ。
 立ち止まって頭を冷やせ、ちょっとやりすぎでは−という感覚の時に立ち止まれ、躊躇する感覚があるときに本当に自分の頭で考えよ、希望が薄らぐときにこそ自分の勇気を試せ、そしてストップ!と声に出そう、誰かに依存する生き方から抜け出そう!直立歩行が人間の本質であるならば自分自身の足で立ち歩き出そう、必ずあなたの傍らに「親密な人」が現れる。ホモ・サピエンスは動物的な調教はできない。いよいよ日本国憲法第9条改正に向けた国民投票が迫ってきた。(2004/3/4 22:03)

[『エリック・ホッファー自伝 Truth Imagined 構想された真実』(作品社 2002年)]
 アメリカはやはりとんでもない人物を生み出す国だ。ホッファーは、1902年にニューヨーク・ブロンクスにドイツ系移民の子として生まれ、7歳で失明し17歳で突然視力を回復。正規の学校教育は一切受けていない。18歳で天涯孤独となって、ロサンゼルスに渡りさまざまの職を転々とし、28歳で自殺未遂のあと季節労働者となって、10年間カリフォルニア州を渡り歩く。41年から67年までサンフランシスコのの港湾労働者として働きながら、51年に処女作The True Believer(邦訳『大衆運動』)を発表し著作活動に入る。社会の最底辺の肉体労働の中から独自の思索を続けた<沖仲士の哲学者>として知られる。83年に逝去。
 彼の最大の特徴は、アカデミズムの解釈学から無縁な自分自身の頭脳による思考世界の構築にある。彼の思考の表出は、アフォリズムの箴言であり、幾多の古典の読書から紡ぎ出された鋭い人間観察である。社会の底辺にうごめく人間群像のなかから立ち上がってくるハッとするようなモノローグに、アカデミーの粉飾から逃れている純なる思想があふれでる。人間の情熱的な行動をすべて被抑圧心理から説明するフロイト的傾向や反共主義には賛同できないが、一瞬と局部から本質を見抜く鮮やかな思考は、既成の思想体系を超えた独自の境域が広がっている。しかし彼の思考からは、実践に踏み出す変革的な契機はなく、諦念や諦観のおもむきが強い。そうであっても珠玉のようなアフォリズムの言葉は鋭く本質を突いている。ヘーゲル的な概念操作の論理はない。久しぶりに知的な興奮を与える書にめぐりあった。彼の箴言は『魂の錬金術』(作品社)に納められている。以下幾つか紹介しよう。

12 山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰は要らない。

27 自律的な人間の魂は、火山地帯の風景のような一面を持っている。そこには地溝帯が走っており、自己との境界線をなしている。われわれの熱狂、情熱的な追求、夢、向上心、目覚ましい成功は、すべてのこの亀裂を源にしている。そうした魂の格闘においては、ものごとを成就し自己と和解することによって亀裂を癒すか、無私無欲になることによって亀裂の存在を誤魔かすか、自己否定によって亀裂を除去するほかない。 

28 われわれは、自己の才能を開花させるか、多忙に紛らわすか、自分とはかけ離れた何か−大義、指導者、集団、財産などと自己を同一化するかによって、価値の感覚を獲得する。3つの方法のうち、最も困難なのは自己実現であり、他の2つの道が多かれ少なかれ閉ざされたときにのみ、この道は選択される。才能のある人間は、創造的な仕事に従事するよう激励され、刺激されねばならない。彼らのうめき声がや悲嘆の声は、時代を超えてこだまする。

44 強者が弱者の真似を始めるとき、世界に大きな災厄がふりかかる。弾圧と粛正という強者の手中にある無比の手段は、弱者が生き残るための絶望的な手段である。

58 知っていること、、知らないことよりも、われわれが知ろうとしないしなことのほうが、はるかに重要である。その人が或る考えに対してなぜ鈍感なのかを探ることによって、われわれは、しばしばその人の本質を解明する鍵を手に入れることができる。

61 ある魂の弱点は、遠ざけねばならない真実の数に比例している。

63 非妥協的な態度というものは、強い確信よりもむしろ確信のなさの表れである。つまり、冷酷無情な態度は外からの攻撃よりも、自身の内側にある疑念に向けられているのだ。

69 我々は自分自身にウソをつくとき、最も声高にウソをつく。

101 人間に過大な期待をする者は、人間を本当に愛しているとは云えない。

102 魂を病んでいる者はみな、病んでいるのは人間全体であり、その手術ができる外科医は自分しかいないと思っている。彼らは世界をひとつの病室に変えたがる。そして、ひとたび人間が手術台に縛り付けられると、斧を手にして手術をはじめる。

103 自己蔑視する者は自分の価値を高めるよりも、他人の価値を貶めることに心血を注ぐ。

104 他人と分かち合うことをしぶる魂は、概して、それ自体、多くを持っていない。ここでも、けちくささは魂の貧困を示す兆候である。

145 実りある成果をあげたければ、熱情を薬味として限定的に使うことだ。大義を人生の主要部分にしてはならない。せいぜい伴奏か、付属品に留めるべきである。

146 ある理想のために一世代を犠牲にする者は、人類の敵である。

158 われわれは自分自身を見通すときにのみ、他人を見通すことができる。

164 いざ跳躍しようとするときに、足場を気にする者は誰もいない。自分の位置の安全性を気にし始めるのは、跳躍すべき場所がないときである。成功を手にする者は、安全性を気にしない。

170 アメリカ人の知性を測るのは、彼らと話をしても無駄である。一緒に仕事をしてみなければわからない。

176 自由を測る試金石は、おそらく何かをする自由よりも、何かをしない自由である。ファッシズムの確立を阻むのは、差し控え、身を引き、やめる自由である。絶えず行動せずにはいられない人は、活発なファッシズムの下に置かれても不自由さを感じない。

196 人生の舵取りは、金庫の数字合わせのようなものである。つまみをひとひねりしても、金庫を開くことは稀である。前進と後退のそれぞれが目標へ向かう一歩なのだ。

204 人類の兄弟愛を主張する者は、あらゆる戦争を内戦のように戦う。

223 失敗者の孤独ほど大きな孤独はない。失敗者は、自宅においても他人である。

237 世界はわれわれ次第である。われわれが落ち込むとき、世界もうなだれて見える。

260 プロパガンダが人を騙すことはない。人が自分を騙すのを助けるだけである。

279 過去の不幸の記憶を大切にするのは、よいことである。それは、いわば不屈の精神の銀行を持っているようなものだ。

                                                        (2004/3/3 22:04)

[隔離壁と俳句]
 イスラエルが建設しているアパルトヘイト・ウオール(隔離壁)は、ナチス強制収容所・ワルシャワゲットーと旧東ドイツが建設したベルリンの壁を想い起こす。ハーグ国際司法裁判所(ICJ)でその違法性の審議が始まったが、シャロン首相はその判決に関係なく壁を完成させる方針だ。ローリー・キング=イラーニは「人種差別の愚行を余すところなく表現した、みだらな記念碑」と評し、haiku(俳句)という日本的詩形で表現した。「俳句はカテゴリーが混ぜ合わされ、隠喩の魔法を通して、垣根を軽々と飛び越える」と彼女は云う。俳句がここまで国際化し解放闘争の詩形になっているとは知らなかった。カッコ内は和訳。パレスチナ・ナビより転載(2004/3/223:10)

 Laurie King-Irani 2004/2/17

 Concrete smothers sky
 Shadows mar all they covet
 No birds can reach us
 (コンクリが空を遮り  鳥も来ぬ)

 Separation Wall
 No branches roots or flowers
 A graves i midーair
 (分離壁 草も木もなし 宙の墓)

 Arrogant tower
 Robotic head so haugty
 How sad you can`t dance
 (監視塔 高慢な木偶は踊れない)

 A scar legios long
 But the operation failed
 Bitterness infects the land
 (疼く傷 失政に胸が張り裂ける)

 Their father our sons
 encircled by fearand hate
 Bricks are kin to slaves
 (囚われし父子が檻をつくりて 憎しみ生まれ煉瓦の奴隷)

[網野史学は歴史プロパーを超えて]
 2月27日に他界された網野義彦氏の歴史学に刻んだ総括的な評価が安丸良夫氏によってなされた(朝日新聞3月1日夕刊)。以下それを参照しながら網野史学の個人的な評価を試みたい。
 既成の日本史学の世界で通念化されていたパラダイムとして、@稲作中心の農耕社会A単一言語の単一民族社会B孤立した閉鎖的な日本列島C固有の日本民族文化等々に対して果敢なパラダイム転換を挑戦的に試みたのが網野史学だ。@水田と並ぶ畑作農業A農業と並ぶ狩猟・漁業・商業の位置B陸と並ぶ海・山・皮・島の位置C海による交流と結合D定着農耕民と並ぶ漂白職能民E男性と並ぶ女性の労働などの実証的な提起だ。それは今まで縁辺文化として排除されてきた主体を浮き彫りにし、中心を相対化し日本という単位を解体していく壮大な歴史の読み替えであった。日本の象徴的中心主体としての天皇制は、水田農耕耕作の祭司的主催者(ウイットフォーゲル)から商業を含む多様な職能民や被差別者を対極にある存立条件として再定義する画期的な照明を当てた。青年期・網野善彦が所属していた正統派マルクス主義史学の概念的なイデオロギー装置への根元的懐疑と格闘と克服とを通して、はじめて日本における社会史的な視点を導入することとなった。欧州におけるアナール派社会史の興隆と網野史学は客観的な同時代性を獲得した。
 従来の中世史研究の、領主-農奴の階級間系を基軸とする身分制社会というパラダイムを転換し、領主支配の外縁にある非農業的な公界を生業とする多彩な少数者の周縁的な世界が自由に展開していたとする強烈な想像力を実証的に展開した。ただしこの自由空間が、農業世界と領主支配とどのような関係にあったのか-は未だ未解明であり、浪漫主義的傾向に流れたことも否定できない(永原慶二)。網野氏の開拓した先駆的な中世史研究は残された者に多くの課題を残しているとも云える。

 しかし網野史学は決して転向によって上部構造の文化史に逃げていったのではなく、社会史現象を社会的存在から基底的に捉え返す史的唯物論的な視点を失うことはなかった。しかも網野史学は歴史学を超えた文学・映画・漫画などの多様な分野に知的な刺激を与え、学際的な展開を遂げていった(もののけ姫のタタラ製鉄技術や山岳民の活動を見よ)。網野史学は極めて地味な日本中世史研究という限定された領域で、現代史の課題意識との緊張関係をはらむみごとな専門研究であったと思う。
 さて私は、網野氏がやり遂げた歴史学のコペルニクス的転換を、思想史や哲学の領域でやり遂げる未開拓の領域があると思う。彼の分析概念である無縁・公界・無所有・楽や差別・辺境・漂白・女性等々いままで周辺概念とされていたものと、同様の概念が思想や哲学概念の世界に存在するのではないか。マルクス主義哲学の終焉が進行していまや見る影もなく有効性を失ったかにみえるのは、マルクス主義哲学を宣揚していた者の怠惰にある。概念操作に明け暮れた従来のパラダイムを転換させる作業を与えて、網野氏は逝ったと思う。主婦連元会長・高田ユリさんは、78歳で94年に早稲田大学院に入学し「環境問題と法」研究に従事し、修士論文作成中に脳梗塞で倒れ、昨年12月24日にこの世を去った。言語学の白川静氏と並んで賛辞を捧げるべき生涯だ。網野氏の挑戦的な反逆の精神とお二人の強靱な真実への探求の姿勢は無限の汲むべき泉となって流れ出ている。(2004/3/1 20:30)

[退職教師は去っていった]
 昨夜は犬山で私の勤務校の退職者を励ます会がもたれた。現場と切り結ぶ実践を回顧されたおふたりの先生の最後の言葉には、実践者のみが持つ重いメッセージがあり感慨深いものでした。贈る言葉もそれぞれの個性がにじみ出て、ともに学校づくりにちからを協働した者の熱い結びつきを覚えるものでした。

 中国の偉大な教育者・晏陽初Yen Yang Chu(1893−1990)の次の言葉を思い起こしました。

 人々のなかへ行き、人々を愛し、人々から学びなさい。
 人々が知っていることから始め、人々が持っているものの上に築きなさい。
 しかしほんとうにすぐれた指導者が仕事をしたときは
 その仕事が完成したときに、人々はこういうでしょう。
 私たちが、これをやったのだと。


 Go to the people
 Live along them
 Love them
 Learn from them
 Start with what they know
 Bulid on what they have
 But of the best leaders
 When the task is accomplished
 The work is done
 People all remark
 We have done it ourselves

 なにか教育の真髄にあるものをしっかりと掘りあてているような気がします。残念ながら私の半生はこれとはほど遠いものでした。だけども私は私の道を歩んできたのであり、それ以外の道もあり得たでしょうが、私がみずから選びとったものであり、大いなる悔いと肯定の狭間で過去を振り返ってもそれは未来への糧としたときにのみ意味を持ちます。最後に晏陽初の詩を改作いたします。

 子どもたちのなかへ行き、子どもたちを愛し、子どもたちから学びなさい。
 子どもたちが知っていることから始め、子どもたちが持っているものの上に築きなさい。
 しかしほんとうにすぐれた教師が仕事をしたときは、
 その仕事が完成したときに、子どもたちはこう云うでしょう。
 私たちがこれをやったのだと。


 つまり教師はあくまでサポーター又は産婆役であり、何かを成し遂げた喜びにあふれる子どもたちを「よくやった、スゴイ!」と讃え、自らには光を当てない黒子に徹するのです。昨夜の会からつくづくとそういうことを学びました。教育Educationの語源educeは「引き出す」という意で教育(=教え育てる)という用語は間違いに近いとも云えます。つまり教師とはある寂しさをともなう職業です。(2004/2/29)

[派遣労働は現代の奴隷か]
 あなたの身の回りに派遣社員というかたちで働いている人はいませんか。この3月にその法規が大改訂されようとしています。その中身を見てみましょう。派遣労働者数は現在213万人に達し3年間で倍増した(95年50万人→99年100万人→2002年213万人)。企業は雇用責任なしに必要なときに必要なだけ働かせ、派遣の80%は仕事が入ったときだけ派遣企業と雇用契約を結び(登録型派遣)、派遣企業は仕事がないときの賃金を支払う必要がない。同じ有期雇用でも契約社員・パート・アルバイトは使う企業の雇用責任があるので人件費コストは大違いだ。
 1986年に労働者派遣法が発足したときには、派遣労働は専門13種(ソフト開発、通訳、秘書など)を除いて原則禁止されていた。つまり一定の知識と経験を持つ業務のみが例外として認められ、企業支配から自立できる夢のような働き方と喧伝された。96年改定でも専門業務はアナウンサー、デザイナー、雑誌編集など専門的26種に拡大されただけだ。ところが96年改定では、この原則が逆転し派遣は原則自由で例外を禁止する内容となり、港湾運送・建設・警備・医療関連・物の製造業務を除いた一般的業務も派遣可能となった。04年3月改訂は港湾運送・建設・刑微雨を除いて、医療関連・物の製造業務も可能となる大改訂がおこなわれる。対象労働は800万人を超え日本の労働形態に根本的な変容が起こる。
 大企業の製造ラインは、すでに業務請負(請負企業が委託企業から独立したラインで指揮命令する)が進行しているが、実際にはラインも同じで委託企業が指揮命令する違法行為が蔓延している。今次改訂はこれお合法的に追認する。医療関連業務は、紹介予定派遣(病院が労働者を直接雇用することを前提に6ヶ月以内の派遣を認める)を認める。生命を対象とする医療労働では、煩瑣に交代が生じると安全と質に重大な問題が発生するために従来は厳禁されていたことだ。
 さらに派遣期間は、専門26業務が3年間から無期限になり、一般業務は1年から3年に延長された。派遣期間の延長は、契約が長期安定することではなく、よりフレクシブルな労働が可能となるに過ぎない。現に派遣労働者の70%は「3ヶ月未満」、90%は「6ヶ月未満」で打ち切られている(厚生労働省調査)。明らかに正社員が極減されて、高度な知識を持つ労働者は長期派遣契約、一般労働者は短期契約という二極分解となる。
 派遣労働者の平均時給は1432円(東京都産業労働局調査 02年)であり、パート時給を上回っているように見えるが、交通費は支払われずいつ打ち切りになるか分からない不安定な状況に置かれている。派遣労働者平均年収は250万未満(60%)であり、派遣先企業は人件費ではなく物品費とみなしている。派遣契約を競争入札して派遣料金を買い叩くなかで、派遣企業の取り分(ピンハネ)は28%に達し、笑いが止まらない(厚生労働省調査 登録型派遣対象02年)。

 戦後日本の労働契約原則は、労働者を指揮命令する者が雇用の全責任を負う直接雇用原則であったが、日本経団連「新時代の日本的雇用」の圧力とロビー活動を受けてこの原則は投げ捨てられてしまった。日本国憲法25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」→労働基準法第1条は「労働条件は労働者が人たるに値する生活を営むための必要を満たすものでなければならない」という永久の価値は泥にまみれようとしている。
 必要なときに必要なものを必要なだけ調達するJITトヨタシステムが蔓延し、遂にはものから人間そのものの最適調達に移行している。一部輸出型製造業の恢復によってGDPがバブル期以来の高成長を遂げたとして大喜びしている竹中氏の背後には、累々たる派遣労働の屍体が横たわっている。日本経済と労働システムのパラダイムを大転換させる必要に迫られている。(2004/2/28 21:43)

[啖呵売とええじゃないか]
 皆さんは映画・「男はつらいよ」で主人公のフーテンの寅が、口上ひとつで物を売るシーンを覚えていますね。縁日や初詣の大道で生き生きと自由に営業する香具師の姿が消えて久しくなりました。企業社会から見ると、彼らは異界からきた、どこか怖さがありながら不思議な魅力をもって郷愁と憧れを覚えた人もいるでしょう。私が生まれた村での最大のイベントは、旧盆の夏祭りであり、いまは無形文化財指定を受けている村踊りの広場を取り巻いて、煌々と辺りを照らす電飾の下で、威勢のいい香具師の掛け声が響き、非日常の祝祭空間に胸が高鳴りました。長い1年間の農作業からたった一晩の解放された時でした。子どもたちも大人に混じって思う存分踊りましたが、私はなにか恥ずかしくて踊りの輪に加わることができませんでした。香具師のマーケッテイングは、口上の工夫から客との呼吸、各地を歩くときの作法など言葉の技術と誇りが結晶しています。いま全盛のTVショッピングのおまけ満載商法の源流もここにあります。縁日や祭りが廃れ路上販売が規制され、香具師をヤクザと同一視する警察、一方では100円ショップの隆盛で啖呵売は姿を消しつつあります。坂田春夫『啖呵こそわが稼業』(新潮社)参照。
 私が注目するのは非日常の祝祭空間にあふれ出た庶民のパッショネイトな心情の発露にあります。ひょっとしたらアレはひたすら忍んで耐えてきた庶民の抑制されていた心性が表面に躍りでた瞬間ではなかったでしょうか。一夜の喧噪と解放の雄叫びを経て、また明日から黙々と汗を流す労働へ回帰していくことを分かり切った上での忘我の瞬間はその当時もなにかモノ哀しいものを感じました。かっての幕末期に高揚した世直し一揆は、抑圧権力が一気に崩壊するときに民衆自身の集団心理が解放された行動でしたが、同時に展開した「ええじゃないか」という民衆乱舞は崩壊する権力を目の前に、自らがそのシステムの一員であった構図が否定されても、新たな構図の描写に参加できない庶民の混迷した心情の陶酔ではなかったでしょうか。
 庶民の抑圧された心情の表現形態は時代とともに多様化していきましたが、同時に日常化していきました。ライブハウスに行けば、いつでも大音響の束の間の解放空間がセットされ、大枚のチケット代と引き替えに擬似的な開放感を味わうことができます。そして恐いのは解放空間の日常化と制度化によって、本来の非日常が日常化してしまい、労働との非対称性を喪失してしまったことです。演奏する側はそれで生活資金が入手できますが、鑑賞する側の庶民が日常化された非日常を日常としてしまって、労働を蔑視していくのです。世直し一揆が「ええじゃないか」に転化していく過程をほくそ笑んで利用し操作したのが倒幕勢力であったように、現代の大音響のハードロックに酔いしれる若者をみて最も喜んでいるのが権力層ではないでしょうか。
 さて最近大流行の大音響で戦争反対を叫びながら行進するサウンド・デモは、じつは抑圧された庶民の心性の「ええじゃないか」的な発散の要素があるのではないでしょうか。サウンド・デモの参加者には失礼ですが、そんな印象を持ってしまうのです。渋谷の繁華街を反論と対話を許さない大音響で行進するシーンを見るとどうしても「祭り」の集団陶酔を思い浮かべるのです。最近の祭りの衰退の中で対照的に浮上しているのが、、ラウドスピーカの音量を極大化して乱舞する若者の群舞です。汗をしたたらせながら真剣に踊っている若者を見ると、そのパワーに圧倒されるのですが、どうもどこかかっての伝統民舞とは異なる違和感を持つのです。率直に云いましょう。現代の「ええじゃないか」はどこかでファッシズムの大衆的な真理基盤を準備しつつあるのではないでしょうか。これを誤謬というのであれば安心ですが・・・・・。(20004/2/27 22:20)

[自分で考えるには勇気が要るー麻原彰晃被告判決を控えて]
 オーム教団に対する社会的評価には2つの潮流がある。教団の反社会的行為に対する客観主義的断罪と教団内部の精神構造に対する内在的な評価だ。感染症や衛生学の専門家は、マツモトサリン事件を9.11以降の反テロ危機管理の歴史的画期とみなす。なぜなら松本サリン事件は、生物科学兵器(BC兵器)を無辜の市民に対する無差別殺人に使用した人類史上最初の化学テロであったからだ。広島・長崎をヒロシマ・ナガサキとカタカナ表示する象徴性とおなじくマツモトと表示すべき普遍性を持つ。日本はABC兵器の実験と被害をすべて受けた世界で唯一の国なのだ。8月6,9日に次いで6月27日をマツモトデーとして記憶していかなければならないのだ。しかし私は敢えて云えば、6・27から9・11を経て世界は危機管理を大義とするファッシズム前期に突入したと考える。なぜ前期であるかは、テロとテロの基盤を分けて議論する分岐があり、反テロファッシズムに対する明確なノン!の潮流が健在であるからだ。
 第2の潮流は麻原信仰教団員の内在的な意識に焦点を当てる。彼らにとって麻原の存在は、この世で心の寄る辺を失い、傷つき震える惨めな自分を受け入れ、進むべき方向を教義で明確に示したグレイト・マザー(ファーザー)の無償の愛であった。大いなる母(父)は教義を体現した尊師であり、尊師に対する信頼の告白は彼の命令に対する無私の献身であり、絶対者の意思を無謬の真と確信するなかでしか自己の存在の証しを示すことはできなかった。無辜の市民に対する無差別の殺戮は、こうした究極の虚構の真理からあまりにもナイーブに導出された。麻原の死刑判決を前にしてなおかつ絶対的な親子の至高の愛情関係を維持しているメンバーの心情は、不安とおびえ、師を失う恐怖の根元には自己自身を失う恐怖がある。反テロ危機管理ファッシズムの外生的な圧迫と、唯一の信の象徴を喪失する孤絶感にうち震える魂がさまよっている。しかし世界貿易センターに突入したモハメッド・アタ(28)の殉教意識との共通性と異質性を峻別しなければならない。方法における無差別テロは、必ずしも理念における無差別殺戮を意味しない。一方は人類全体を、他方は支配の象徴を敵とする無限の違いがある。両者の共通点は或る象徴からの洗脳(マインド・コントロール)にある。その方法的原理は@当人の社会と家族からの孤絶した隔離A初心者に親和的な雰囲気B同じことを繰り返し教え込む反復C感想文や日誌による精神管理D粗食による食事管理E睡眠不足状態に置く睡眠管理F組織を離脱すると不幸になるという呪いの暗示G幻覚剤による神秘体験ーこれらがオームが駆使したMC技術である。神秘体験は大脳の独自の働きであり、手足を失った人が指先の痛みを感じ実際に光がなくても視神経が作動すれば見えるのだ。身体のすべてを伴った思考が信仰に到る。検証不能のレトリックで精神的に呪縛されマインドコントロールされる。だれがこの高度精神活動の技術の体系から独立した思考を保てるであろうか。
 そして最も警戒すべきことは反テロの至高の大義を宣揚しつつ、恐怖による逆支配を構築しようとしている「帝国」の国家テロリズムにある。国家権力を掌握し合法的な外見的正義を振りかざして、パンとサーカスを使い分けながらじょじょに浸透している現代の帝国ファッシズムこそ人類史上最悪のテロリズムに他ならない。彼らは最大の自己矛盾を抱えている。常にテロを行使するための、偽装された虚構の敵を次々と創出していかなければ、自己の正義を行使できないという悪無限の循環に陥っているからだ。しかし私は信じる。テロと報復の無限の連鎖過程に突入しつつある21世紀初頭の世界システムに対するアンチテーゼ、パラダイム転換の曙光は確実に準備されつつある。そこに病める魂の不幸がほんとうに救済される条件が生まれてくる。それは麻原の呪縛から脱出した信徒たちが、しばしの休息を経て反テロの最前線に立つことに他ならない。以上朝日新聞2月25日夕刊掲載の芹沢俊介・小林照幸論文を参照して考察。(2004/2/25 21:41)

[まつだたえこ『日本人的一少女』]
 作者は17歳で講談社「少女フレンド・なかよし新人まんが賞」と集英社「別冊マンガレット・少女まんがスク−ル」に同時入賞したが、編集者から読者は恋愛ものが好きだから、どこかの焼き直しでもいいから恋愛まんがを書いてよーと言われて激怒し、プロデビューの話を蹴る。その後出版業界から忘れ去られ、現在では関西の雑誌や新聞にギャグや4コマ漫画を連載している。「日本人的一少女」は500頁にも及ぶ中学生少女が差別問題と格闘しながら成長していく物語。自費出版(定価1500円)。 
 ストレートに現代日本のほとんどすべての差別問題がやや硬直した感じで登場するのには戸惑うが、やはり関西ならではの被差別者の糾弾闘争的な雰囲気がうかがえる。少女漫画の綺麗事やお涙ちょうだいは一切許されない、それぞれの個性の持つ本質が白日の下に曝されるリアルな緊張がみなぎっている。たかが漫画というなかれ。妥協を峻拒する厳しい世界が充満している。こんな少年少女の世界は、あまりに迫真的で痛々しく目を背けざるを得ないところもある。こうした若者がほんとうに日本で成長しているのであれば、日本の未来は捨てたもんではないとかえって中年おじさんは励まされる。率直に云えば、差別問題を差別意識のレベルでギリギリ追求しようとする糾弾の論理は、差別が生み出されていく物質的な条件の解明と融合の論理の開拓が弱くなるように思う。被差別者の心情的な解放のレベルから社会的解放に到るプロセスが弱いのではないか。私が驚いたのは、外国籍の少年が帰化への道を選ぼうとすることに対し、家族や周りの運動者がそれを個人の最終的な選択の自由に委ねるという態度をとることだ。現実にこうした選択があり得ても、個人選択の自由に任せることが普遍性を持つのであろうか。しかし作者が渾身の力を込めて描ききった力作であることは間違いない。特に、少女期に日本人から強姦された体験を持つエイズ患者の中国人女性が、憎悪の中で尊厳を頑なに守ろうとする複雑に屈折した造型は圧巻である。前半はアジテーションであるが、後半は見事に一人一人の個性が描き抜かれている。連絡先:神戸市灘区山田町3-1-1神戸青年学生センター 電078-851-2760 (2004/2/24 20:29)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
[いまなぜ小林多喜二なのかーあ〜また2月がくる]
 小林多喜二は「蟹工船」などの作品で知られる戦前のプロレタリア作家で、共産党の地下活動の中で1933年(昭和8年)2月20日に築地警察署で29歳で拷問によって無惨な死を遂げた。彼の遺体は、打撲で全身が黒く充血して腫れ上がっている。私はその遺体を写真で見て暗然とした覚えがある。通夜の席で彼の遺体を沈痛な表情で見下ろしている高名な文学者の顔を見て戦前期の峻厳な時代を実感した。
 白樺文学館はかっての白樺派同人の資料館として活動しているが、同人の一人・志賀直哉の旧家の隣にある。いま志賀直哉と師弟関係にあった小林多喜二のライブラリーとシンポなど多彩な活動を展開している。この行事は多喜二生誕100周年、没後70年の昨年にスタートし、埋もれていく小林多喜二に照明を当てようとしている。いまなぜ小林多喜二なのか。多喜二が生きた時代と現代が戦争前期の相貌を呈してきたのではないか。多喜二のような覚悟を私たちは迫られつつあるのではないか。東京都は日の丸・君が代に敬礼しない教職員10人に対して2月17日付けで戒告処分に付し、事情聴取の中で「3回やったらクビ」と言い渡した。昨年10月の創立記念式典から卒業式、入学式と3回目を迎えようとしている教職員は、生活をとるか良心をとるかーという選択を迫られている。天皇を讃える歌が祖国をシンボライズする歌かどうかはすぐれて個人の内面の自由に関する問題(憲法19条)だ。学校の至高の祝福の場を残酷な選択の場にしてしまった卑劣な権力。いま時代はここまできてしまったのだ。多喜二が生きた時代を私たちもふたたび生きなければならないのだ。
 多喜二の母セキは、1873年(明治6年)に秋田県の貧農に生まれ、学校へは行けず文字が書けなかった。囚人となった息子に手紙を書くために家族に隠して文字を必死で勉強した。没後に彼女の行李の奥底にひっそりと保管されていた、自筆のたどたどしい秋田訛りで綴られた筆跡の手紙が発見された。この詩こそ日本語で書かれた詩の中で希有の最も美しい詩の一つではないか。

 あ〜また二月がくる 小林セキ

 あ〜またこの二月の月かきた
 ほんとうにこの二月とゆ月か
 いやな月こいをいパいに
 なきたいどこいいてもなかれ
 ないあーてもラチオて
 しこしたしかる
 あ〜なみたかてる
 めかねかくもる


 (あ〜またこの二月の月がきた
 本当にこの二月という月はいやな月
 声をいっぱいに泣きたい
 どこへいっても泣かれない
 あ〜でもラジオで少し助かる
 あ〜涙が出る
 メガネが曇る)

        (2004/2/2422:29)

[焼き場に立つ少年]
 粛然として凝視するしかない写真がある。丸坊主の汚れた半ズボンをまとい裸足で直立不動の姿勢で前方をキッと見つめている小学生ほどの少年。背中には顔を上向けにして目を閉じている子どもが背負われている。幼い弟の亡骸を葬るために、荼毘に付す順番を待っている少年だ。1945年の原爆投下直後に米占領軍の従軍カメラマンとして現地に入ったジョー・オダネルさん(81)が、長崎で撮影した写真だ。その姿はまさに私の少年時代そのものの姿ではないか。いたいけな弟の亡骸を背負い、少年は屹立して立っている。わずか60年前の日本の姿ではないか。おそらくこの少年も後遺症でこの世を去ったのではないか。頽廃した現代日本の狂騒の世俗を鋭く射抜いて、頭を垂れざるを得ない。
 ジョー・オダネルさんはすでに81歳の齢に達して来日し、自分が撮影した少年少女を訪ね歩いて再会の交歓をおこなっている。この丸坊主の少年のみが消息不明で再会できないでいる。憂いと緊張に満ちた表情の少年は、家族の誰一人の助けも借りないで、幼い弟の亡骸に火をつけるためにジッと佇んで待っている。朝日新聞2月21日付け夕刊参照。(2004/2/21 21:12)

[日本美の陥穽ー美しい花がある 「花」の美しさというようなものはない。(小林秀雄)]
 あまりにも有名な小林の言葉は『無情といふこと』(1946年)に納められた「当麻」の一節。能「当麻」を観たあとに世阿弥の・能楽論の中心概念である「花」(演技の魅力=華)を考察するなかでいっている。現代的には「オーラ」という意味でもあろうか。小林の逆説的な表現には人を惑わせるテクニークがあるがゆえに何か深遠なものが潜んでいるような気になって、人を悩ませるのだ。随想集は敗戦後2年目に出版され、戦争の危機にさらされた現代人は同じ危機をくぐった中世のなま女房ほどにも「無情」が分かっていないとご託宣を垂れている。小林40歳の作品であるから彼の最も活動的な時期が戦時真っ只中であったのだ。
 確かにファナテイックな戦争宣揚ではない、冷ややかな覚めた戦争無常観は個の意識としては或る非戦の立場につながる可能性がある。あまたの芸術家と文筆家が熱狂的な戦争賛美を繰り広げた後に、敗戦後には鉄面皮に平和を説く無惨さには少なくとも堕落していない。私は小林をよく知らないのでこれ以上は云えないが。
 小林は日本的美の探求者であり、徹底した数寄者、数奇者まああまり役に立たないものを愛でたり集めたりする「すきしゃ」であり、当然に生活は京都中心であった。そこで彼は骨董屋を巡り歩いては片っ端から買い集める蒐集家であった。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。これは賛成だ。
 現代では、対象それ自体よりも対象に粉飾されている社会的評価が先に情報として入って、それから次に対象を観るという行為へと移行する。そこでは自らの主体は薄弱化し、すでに或る程度主体を喪失して他者の意識に媒介されて対象に接近する。絵を観ても、音楽を聴いても、スポーツでも、そして人間自身も観ても、私たちは外在的な評価のヴェールに侵されてしまっている。私自身も無意識のうちに流されている。徹底してまず「見よ」という小林の主張は現代に於いても私たちをハッとさせるものがある。こうした小林型思考形態が現代にマッチしないのは、彼は明らかに情報を2次的で媒介にしか過ぎないと排除するから、現代の情報社会の意識とはずれてしまうのだ。かっては大学入試問題の花形であった小林は今ではほとんど登場しなくなった。以上朝日新聞2月21日付け参照。

 では私はどのような対象への接近方法をとっているかを紹介して高評を受けたい。私の映画の見方は、まずはじめにさまざまの紹介記事の中からコレはというものを定め、次に映画館に行ってそのまま見る。見終わった後に、批評の必要を感じたらパンフを買いおもむろに評論を読んでいき、自分が受けた印象と比較して自己批評に入る。以上が私の映画の見方だ。
 この方法の問題は、選定の段階で事前批評から影響を受けることである。ゼロからすべての映画を観るほど生活は暇ではないからだ。しかし大体がATG系であるのでそれほどのはずれはない。一部は監督名だけで必ず見るものもある。圧巻はパンフの批評と自分の印象を照らし合わせて自己批評を作りだしていく段階で、ここで私の神経は高ぶる。映画評論家の水準と私の水準が正面から激突するからだ。こうして私はこの対決の中から創造的な批評をつくり出そうとする。プロの映画評論は明らかにその人の生活の蓄積の広さと深さ、研ぎ澄まされた感性を赤裸々に写し出している。最近はポスト・モダンに媚びへつらう薄っぺらな批評が増えてがっくりする。
当分この方法は変わらないだろう。私の書斎にはうずたかく映画パンフが積まれていくだろう。 
 小林の美意識の超越性(世俗に媚びない)は、独自の芸術批評の世界を構築しており、学ぶべきことも多いが、あの戦後直後の民主化を伴う大混乱期の中で独り美の世界に沈潜する姿勢は批判すべきである。自らを或る高みに置いて世俗を省みない方法は、歴史的な意味を失い、高級な閉塞の世界を構築したに過ぎない。その点では加藤周一の現実とつながった知識人スタイルの方が豊かな内容を持っている。なぜなら美意識そのものが社会的意識の一形態であるから。(2004/2/21 9:31)

[憲法論議の前提ー宮台真司氏の当然の問題提起(中日新聞2月18日付け)]
 憲法問題を考えるときの当然の前提となる理解が日本にあるのだろうか。
T、憲法が統治権力に対する国民の命令であること(権力が勝手なことが出来ないように国民が国家権力を縛ることー筆者注)
 (1)憲法が国民から統治権力への命令であり
 (2)法律が統治権力からの国民に対する命令であり(正確には国民の代表者からの国民に対する命令ー筆者注)
 (3)国民の命令である憲法の範囲内でのみ統治権力は国民に命令できる(法の制定)
U、憲法は事情変更の原則が適用できない
 憲法は制定時の始祖が意志した本義を変更することは永久に許されない。事情変更の判断は統治権力がおこなうことはできず、その判断は国民のみが遂行できる。国民のみが事情変更による国家権力への命令を変更できる(憲法改正)。
V、法と道徳を分離し国家権力は道徳の分野に介入してはならない
 法は人権保護を超えて市民道徳の領域に介入してはならず、何が道徳的かは市民のコミュニケーションに委ねる。
 こうした前提となる理解があれば、日本国憲法は権利規定ばかりで義務規定がないーという意見は幼稚だと云うことが分かる。国家権力に対する命令規範が憲法であるなら、国民の義務規定がないのは当然だ。義務教育(26条)や納税義務(30条)は、国民の義務と云うよりも国家がそれを実現するように国家権力の義務として書いてあるのだ。
 事情変更禁止原則の理解があれば、制定時の吉田茂が認めなかった自衛権を次々と政府解釈で変更してきた国家権力の歴史は明らかに憲法違反だ。ここで宮台氏は決定的な比喩を用いている。「かって三島由紀夫は憲法上自衛隊の海外派兵ができない事実が故に憤死した。目的次第では海外派兵できるとする小泉答弁を聞いた三島は、墓の中で椅子から転げ落ちていることだろう」。
 近代憲法は国家権力のリバイアサン性(怪物)を前提に、「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ」という推定無罪を原則とするが、9.11以降米国は「百人の無辜の民を刑するとも一人の罪人を放免するなかれ」という前近代原則に逆転し、21世紀は近代憲法原則を蹂躙し、リバイアサンが跋扈し始めた。
 近代憲法原則の蹂躙は、実は近代憲法自体の限界と同時進行している。憲法原則の私利追求の自由が環境と南北問題の悪循環をもたらし、一方では国際法システムを無視する米国の単独行動主義が横行している。憲法途上国の日本は、近代憲法原則が定着しないまま米国型帝国行動に追随し、かっての近代を理解しないまま近代の超克を唱えた愚を繰り返そうとするのか。

 宮台氏の問題提起は非常にクリアーで原理的だが、交戦権否認(9条)と生命財産維持(13条)を対立的に捉え、その選択を国民に委ねるという欠陥がある。戦争違法論の人類史的到達点に立って生命財産維持が保障されるのであって、両者は相互依存的なのだ。近代法の原理である「王が国民を縛るためではなく、国民が王を縛るために法がある」ということを、今更復習し確認しなければならないほど、現状の日本の頽廃はひどいのだ。問題はこうした頽廃の原因がどこにあるかを明らかにし、その原因を取り除くことを早く始めないと手遅れになるということだ。
 原因の第1は、明治維新を含めて日本では民衆が下から立ち上がって犠牲を払って王を倒した経験が薄いと云うことだ。市民革命の原体験がないということは、自分で国家権力を縛るための法をつくった経験がないということだ。ここから法(ルール)は上の者が作って市民は従うというイメージが抜きがたく定着してきた。今の若者には、校則が増えると縛られるという感じを持つ者が圧倒的に多い。確かに校則は禁止ルールがほとんどであり、校則作成への意見表明を保障されていない現状ではやむを得ない意識ではあろう。しかし本来の法(ルール)は権力者が勝手なことができないように権力者を縛るためにつくられたのだから、法(ルール)が増えれば増えるほど自分たちは自由になるはずである。欧州の若者はそのようなイメージでルールを捉えている。
 原因の第2は、日本的集団主義文化だ。常にまわりと流れを気にして和を乱さないように集団に合わせることが良きこととみなされて、そのなかにドップリつかっている生活文化がなかなか変わらない。相変わらず、自分の頭で考えて独自の考えと思想を述べる者に対してプレッシャーを掛ける傾向がある。外資系の会社では、人と同じ意見を言う者は就職試験で不利になるのだが、日本のいろんな組織ではまだまだ大勢順応による調和が優先される。しかしここにきてグローバリゼーションの中で日本的集団主義の限界が露呈され、日本企業は軒並み沈没してしまった。あわててオリジナリテイーを育てる自己決定戦略が跋扈し始めたが、これも内発的な必然性がないからオープンな競争ではなく、陰湿な排除競争に堕してしまっている。
 原因の第3は、従って変革が内発的なものでなく、常に外発によってしか歴史の変革が起こっていないということだ(=黒船、GHQ)。現在の憲法改正論議は米国からの圧力による集団的自衛権の明文化に他ならない。但し保守派の一部にある押しつけ憲法論は、一見ナショナルな内発性に依拠しているように見えるが、それは憲法作成過程の事実によって否定される。ポツダム宣言を無条件に受容した大日本帝国は、ポツダム宣言をベースにした新憲法作成をネグレクトした結果、GHQ草案が作成され、しかも衆議院での審議と修正を経て、国民世論の大多数の賛成を経て決定されたのだ。押しつけられたのは明治憲法守旧派であり国家ではなかった。  以上の原因が日本の近代化の不徹底によるものか、近代自体の欠陥によるものかという日本資本主義論争は、太平洋戦争によって決着がついた。
 さて以上の3つの原因を取り除くという作業は容易なことではない。下からの変革はその後の分厚い戦後史の展開があり、現在では市民派地方自治体の自立として確かな曙光が見える。和の文化は、現実の成果主義と競争原理によって客観的に崩壊しつつあるが、ここでの問題は自立と共生(共同・連帯)が背反的に展開し、共生の契機が犠牲になって進んでいることだ。歩みは遅々として試行錯誤しているかも知れないが、確実に広がりつつあることを見逃すべきではない。たとえそれが一部の現象のように見えても、それがあなたやわたし自身の一歩であればいいのだ。(2004/2/20 21:47)

[GDPが虚妄の数値に過ぎないことが白日の下に曝された]
 18日に内閣府が発表した03年10月〜12月期のGDP速報値が7.0%というバブル期に匹敵する数値となった。これほど実態と乖離した数値はない。リストラとサービス残業によって総人件費を極縮した一部製造業の輸出攻勢が表面的に挙げた数値であり、国民生活とはまったく無関係の虚妄のものだ。薄型TVやDVDレコーダー等のデジタル家電や液晶と半導体等の増産はあるが、多くは対米輸出の伸張に依存している。基軸となる個人消費支出に支えられたものではない。この対米輸出の増大ほど砂上の楼閣はない。米国経済の回復の要因は、@ブッシュ政権の減税・低金利政策=つまり借金経済、Aイラク戦争経済による軍需、Bドル安誘導による輸出であり、米国は財政と経常収支の綱渡り運営に陥り、ドル不安が爆発すると一気に崩壊する危機にある。その米国借金経済の国債を必死で買い支えているのが日本に他ならない。一部製造業の輸出伸張に依存するしかない奇形的なGDP7,0%に他ならない。国内消費を犠牲にして省みず、血眼になって輸出を伸ばす一部製造業の血だらけの戦略こそ、この国を奈落の底に転落させている。一将功成りて万骨枯るーこれがGDP7,0%の本質に他ならない。近い将来のドル暴落が避けられないなかで、こうしたサーカスのような米国依存型経済の破綻は目を覆おう悲惨な結果をもたらすだろう。
 GDPとは国内総生産Gross Domesutic Productであり、一定期間に国内で新たに生産されたモノとサービスの総計を云う。部品を購入し製品化して売った人は、売値ー仕入れ値=付加価値分がGDPに計上される。国民経済計算によって算出するが、実際は生産額と同額となる需要(支出)統計から計算する推計値である。製品をどこへ売ってもGDPは増大し、何を売っても増大するから国民生活の向上とは原理的に無関係だが、今日ほどGDPと国民生活が乖離したことはない。(2004/2/19 20:55)

[司祭はなぜ性的虐待をおこなうのか]
 CNNTVが米国カトリック司教会議で公表する報告書の草案を引用し、次のように報じた。米国では1950年-2002年までの間で、4450人のカトリック聖職者が子どもに対して11000件に上る性的虐待を加えた疑いがある。概算で1年間に220件の児童虐待が発生している。現代の世俗化された教会の最も羞悪な側面を象徴する実態であり、おそらく氷山の一角に過ぎない数字であろう。私は米国カソリシズムの原理主義的傾向と政治的な表現としてのネオコンサーヴァテイブとの関連を考えざるを得ない。
 聖なる信仰の共同体として世俗生活から断絶し隔離された閉鎖空間で、ナイーブな人間的世俗を超越したはずの神の代理人がなぜ羞悪な恥ずべき卑劣な行為に堕落するのであろうか。しかも4000人を超える聖職者といえば、ごく一部のアウトサイダーではなく、教会司祭集団の組織的な問題であることを赤裸々に示している。更に云えば米国カソリシズムにとどまらず、現代宗教組織全体の闇の部分を浮き彫りにする性格をもはらんでいるのではないか。以下私の考察を述べるが肝心の本質的なところには及ばない歯がゆさがある。
 考察1:純度の高い聖性を前提にした集団は、対極にある不純な価値に反転し、聖性による隠蔽という逆転が生じる。禁欲された性による聖性の獲得は、それ自身歪められた潜在的な欲望を生産する弁証法的な構造を生む。
 考察2:聖的な集団が垂直的なヒエラルヒーを構造化した場合には、聖性自体に階層性を誘発させ、ヒエラルヒーから疎外されたメンバーの世俗への反転をもたらす。または上位階層による聖性の占有は、上層における虚構の偽善を必然化させ、集団全体の頽廃をもたらす。
 考察3:垂直的なヒエラルヒー集団は本質的に、権威主義的関係による抑圧の移譲のシステムを生み、最下層に抑圧は集中的に堆積する。それは最も弱者で抵抗しがたい層に向かって発散される。
 考察4:特定の真理に対するファナテックな集中を組織された集団は、市民的な感覚から離脱して超越的な別個の統制体系を構築する。ハルマゲドンと称して殺害=救いなどという偏執的狂信という感情共同体を創出する。

 結論:聖俗2元的な世界観そのものが、虚構であり、たとえそのような世界観を抱いたとしても個人の内面に封印すべきである。なお布教の自由を主張するならば地上に於いては世俗的世界観に対抗すべきではない。(2004/2/18 23:30)

[親切な日本人よさようなら]
 アラブ首長国連邦(UAE)のアルバヤン紙14日付けの日本自衛隊のイラク派遣への論評記事の題名です。「日本の外交関係は親切で平和的という努力を台無しにした。イラク復興なら技術者を派遣すべきではないか。第2次大戦の野蛮な犯罪をまた繰り返すことによって米国に協力している」と痛烈に批判しています。私たちが失おうとしているものは、取り返しがつかない貴重な財産であったと痛感します。こうした大切な日本の財産の喪失は実は国内ですでに既成の事実として進んでいるのではないでしょうか。
 吉村萬壱「ハリガネムシ」(第129回芥川賞)は反吐が出るような暴力と爛れた性の描写が延々と続き、現代人の不安を描いてはいますが、作者の恥ずべき人間認識のゆがみを露呈しています。選考委員の文学認識の恐るべき頽廃がうかがわれます。人間の生の哀しいまでの美しさを否定し、汚れた表現のみを称揚する潮流に希望と未来はありません。美しい親切なー日本の確かな存在を誰が否定し得ましょうか。時代という大きな外部に対する関心を断ち切って、個人の極微の内面に閉塞していく方法論の致命的な欠陥に気づくべきです。
 こうした閉塞した時代感覚の象徴が「新撰組」ブームです。近藤勇一派は、武州多摩郡の農村支配層を基盤に君臨する封建的な社会層の最も武闘的なグループでした。「敵手打倒」を至上のドクトリンとする天然理心流は、超武闘派武道理論に依拠してテロリズムの道をひた走って自滅したのです。彼らの非道と冷酷さは、かっての美しい「親切な日本人」を容赦なく切って捨てた唾棄すべき暴力集団に過ぎませんでした。彼らの敗北の過程を美しく描くのは虚飾の美学にしか過ぎません。池田屋襲撃に際して、長州藩士に残虐な拷問を加える土方歳三はもはや権力の犬としての特攻警察に他なりません。拷問に屈して自白する長州藩士のヒューマンな苦悩は、土方にとっては冷笑の対象にしか過ぎません。注:村山知義『新撰組』(河出書房新社)参照
 警察庁調査では、03年に検挙された児童虐待事件157件、虐待を受けた児童166人のうち42人(25%)が死亡しています。虐待の種類は、身体的虐待109件・性的虐待29件・養育拒否19件であり、子どもの内訳は男児66人・女児100人です。年齢別では1歳未満28人・1歳13人・2歳21人・3歳12人・4歳14人・5歳9人・6〜17歳69人で、5歳未満の子どもが97人と全体の58%を占めています。加害者は、実母58人(32%)・実父49人(27%)・養継父40人(22%)となっています。これを総括すると、実父母が5歳未満の女児に身体的な虐待を加えるという一般的傾向が浮かび上がってきます。これは氷山の一角で推定5倍に及ぶ虐待があります。こうした痛ましい悲劇が芥川賞受賞者・吉村萬壱にとっては、淡々と冷酷に描写する文学的素材にしか過ぎません。浅ましい人間としての堕落ではありませんか・・・・・・。競争社会で構築された目眩くような抑圧の移譲の垂直的なシステムの犠牲者として虐待の加害者はありますが、それを冷酷に描写する吉村萬壱は無惨な共犯者です。そして真の犯人である竹中平蔵は高みから薄ら笑いを浮かべて冷笑しているのです。
 しかし映画「シービスケット」(米)は試行錯誤のまっすぐな希望と勇気を正面から描きます。愛児を失い妻に去られた馬主、西部を追放された老調教師、一家離散した不幸な少年期を送った騎手、孤独に打ちひしがれた男たちが見捨てられたサラブレッドによって生きる希望を恢復していきます。どんな境遇にさらされてもくじけるな、と体高150aに満たない小さな馬が精一杯の走りを見せて駆け抜けていきます。最後まで全力で走り抜ける馬の美しい姿ははげましの無言のメッセージです。ひょっとしたらシービスケットは、あなたの側にいる誰かではありませんか。辛くても顔に出さないで必死に生きている人はいませんか。それはひょっとしたらあなた自身ではありませんか。「親切な日本人」よ、こんにちは・・・・・さわやかな笑顔で明日を準備している小さな希望を誰も奪うことはできません。(2004/2/17 20:16)

[えっ!サブリミナル・メッセージってまだやってるの!?]
 日本TVのバラエテイー番組「マレーの虎」で1万円札の福沢諭吉の顔の短いカットを挿入した映像が流された。番組の導入部で福沢の顔を1秒30コマ中0.2秒間隔で6コマ挟み込んだ。この番組は、起業志望の出場者が成功した経営者に自分の計画を示し、経営者たちがその計画に投資するという番組。01年10月に深夜1時間番組としてスタートした時からこの映像を挿入していた。過去のサブリミナル・メッセージは95年にTBSがオウム真理教の松本智津夫被告の顔を短いカットで2回挿入した「報道特集」が厳重注意処分を受け、同じ時期に日本TVがアニメ番組に松本被告のカットを挿入したことがある。
 サブリミナルメッセージとは、普通は気がつかない早さの瞬時の映像をTVや映画の途中に挿入し、観た自覚はないのに潜在意識に働きかける方法で、コカコーラ社が全米の映画館で使用し爆発的な売れ行きを記録したのが最初。その後ハードロックのCDに「Do it!やっちゃえ」というメッセージを聞いた少年が殺人に及んだことをきっかけに、他人の意識を人工的に操作する危険があるとして全米で禁止され、日本でも禁止されている。日本での禁止は緩やかなのでかなり多く使われている。ウイスキー会社のオンザロックの広告写真に氷の中にハートを射抜く矢が使われていたりする。
 コカコーラ社の宣伝が打たれたのはモノ溢れるアメリカのイメージが全世界のあこがれになった1950年代だ。コカコーラ、マグドナルド、ホットドッグ、漫画ダグウッド、ハリウッド映画、雑誌セブンテイーン、ホームドラマなどアメリカが世界の夢の工場となった時代だ。なりふり構わぬ販売競争が脳神経科学を駆使するコマーシャル技術を生み出した。アメリカン・ドリームが現実となるヒーローの出現がチャンスの国・アメリカのイメージを極大化した。
 しかしここにきて急速にアメリカの夢はしぼみつつある。最後のヒーロー世代であるシュワルツネッガーは、カリフォルニア山火事の消防士をヒーロー連呼して失笑を買った。イソップ物語の『ライオンとネズミ』では野蛮な強者ライオンが自然体の自分の大切さを悟り、『蟻とキリギリス』は怠け者と非難されたキリギリスこそ、音楽で喜びを与える勤勉な生きものとして逆評価されるようになっている(トニ・モリスン『誰がゲームに勝ったのか?』)。シカゴ学派の新古典派自由主義が誘発した激烈な競争原理によって弱肉強食の階層格差が極限まで拡大したアメリカ的価値観に対する深刻な疑問が生まれている。我が日本は輪を掛けて深刻な状況となっている。なぜならアメリカは建国以来フロンテイア精神の伝統で競争原理がそれなりに作動していたが、日本は伝統的な集団主義システムで成長してきた国であり、極から極への転換に振り落とされた無数の中高年が失望のなかに喘いでいるからである。利潤極大化の人生観が、芸術や創造力・言葉やロゴスを軽蔑し貧困化する日米の頽廃文化は遠からず退場するだろう。(2004/2/16 19:39)

[黄色いハンカチは幸せなのか?]
 イラク派遣自衛隊の中核となる陸自第2師団の司令部がある北海道旭川市の中心部にあるロータリータワーに180枚の黄色いハンカチが寒風にひるがえっている。地元の商工会議所と自衛隊OBが始めた無事帰還運動のシンボルだ。黄色いハンカチはいうまでもなく、山田洋次監督『しあわせの黄色いハンカチ』で刑務所に収監された恋人の帰りを待つ印しに家に掲げた感動のサインだ。イラク派遣自衛隊員の家族の不安は余人には計りがたい。ところが東京で自民・公明・民主3党の国会議員186名が参加して結成された「黄色いハンカチ運動の普及をめざす国会議員の会」に防衛庁長官が激励挨拶したことを聞いて、ひょっとしたらこれは戦時の国民精神総動員に近いのではと思った。素朴な無事帰還を願う気持ちが派兵を前提にした促進運動に変わろうとしているのではないか。おそらく戦時期の兵士壮行の風景を記憶がある方は何かしら違和感を覚えたであろう。駅頭で「○○君の武運を祈ってバンザーイ!」といって戦地に送り出したあのシーンだ。旭川のニュースを見ると、いたいけな幼い少女が泣き出して、手紙を何とか渡そうとする妻がバスに走り寄っているではないか。旭川市では市内町内会で黄色いハンカチを全世帯に配布し、玄関先に掲げることを求めている。隣近所が掲げたらやらざるを得ない雰囲気がかもし出されている。トントントンカラリンと隣組という戦時期の民衆動員システムがじょじょに忍び寄っているようで不気味だ。何ら大義がない派遣であったなら、派遣中止を求めるのが本来の態度ではないか。大体先に派遣しておいて後から国会が事後承認するというー最も自衛隊員に非礼な行為をおこなったのは小泉ではないか。
 戦争に加担するということは、人々のこころや文化、社会に何世代にもわたり深い傷跡を残すことが首相には分かっているのだろうか。太平洋戦争で無辜の民を戦場に動員する命令を発した司令官は今は地獄の渦中で苦しんでいる。黄色いハンカチ運動は、人々の善意を利用しながら戦時体制を構築する国民統合をつくり出そうとする右翼軍国主義者の卑劣な謀略の臭いがする。国民の過半数の反対の声を背後に戦場に行く自衛隊員の心の中の苦衷を想像すると思い半ばするものがある。彼らに名誉の戦死を呼びかける防衛庁長官の坊ちゃん顔を見ていると、自衛隊員の寂寞たる決意とオーバーラップして怒りがこみ上げてくる。
 ここでかっての太平洋戦争で学徒出陣した大学生の遺書『きけわだつみのこえ』から最初の遺書を取り上げたい。じつはいままで私はこの書を何か遠い昔の過ぎ去った若人の悲劇として受けとめ、迫真的な実感を持っては受け取っていなかったことを告白する。しかしここに来てなぜか他人事ではない緊迫した気持ちで新たに読み返そうという気持ちになったのだ。

 上原良司(慶應義塾大学経済学部学生。昭和18年入営。20年陸軍特別攻撃隊として沖縄米軍機動部隊に突入戦死。22歳)

 遺 書

 生をうけて20数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かきご両親の愛のもと、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日々を送ることができました。そしてややもすれば我が儘になったこともありました。ご両親様に心配をおかけしたことは兄妹中で私が一番でした。それが何のご恩返しもせぬうちに先立つことは心苦しくてなりません。
 空中勤務者としての私は、毎日が死を前提にした生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空に於いては死は決して恐怖の的ではないのです。このまま突っ込んで死ぬだろうか。否決して死ぬとは思えないのです。そして何かこう突っ込んでみたいという衝動に駆られることもありました。私は決して死を恐れてはいません。むしろ嬉しく思います。なぜなれば懐かしい龍兄さんに会えると信じるからです。天国における再会こそ私の最も願いとすることです。
 私は明確に云えば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要と思ったからです。これは馬鹿なことに聞こえるかも知れません。それは現在、日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし真に大きな目を開き、人間の本性を考えたとき、自由主義こそ合理的な主義だと思います。
 戦争に於いて勝敗を得んとすれば、その国の主義をみれば事前に於いて判明すると思います。人間の本性にあった自然な主義を持った国の勝ち戦は、火を見るよりも明らかであると思います。
 私の理想はむなしく破れました。人間にとっては一国の興亡は実に重大なことではありますが、宇宙全体から考えたときは実に些細なことであります。
 離れにある私の本箱の右の引き出しに遺本があります。開かなかったら左の引き出しを開けて、釘を抜いて出して下さい。
 ではくれぐれもご自愛のほどを祈ります。
 大きい兄さん清子はじめみなさんによろしく。
 ではではさようなら、ご機嫌よろしく、さらば永遠に。
                           
 良司
 ご両親様

 上原良司の考察力は鋭い。すでに日本の敗戦を予知し自らの行為が無意味な死にすぎないことを熟知している。しかしなお彼は突入したのだ。かくして日本の若き知的生命は絶たれたのだ。彼に特攻を命令した司令官大西中将は最初にサッサと逃亡し生き残って老醜をさらした。このような無数の若き生命を犠牲にして現憲法第9条がある。踏みにじってはならない。我らの父祖が殺害した2000万人のアジアの命、我らが父祖300万人の死の意味は何であったのか。それは自らが犠牲になることによって後世に非戦の在処を示したのだ。父に告ぐ、あなたはいま黄色いハンカチを打ち振って息子を戦場に送るか、母に告ぐ、あなたはみずからを痛めて産み育てた息子を戦場に送るか、そしてすべての教師に告ぐあなたは黄色いハンカチを子どもたちに作らせるのか・・・・・血のにじむハンカチを・・・・・。(2004/2/16 00:10)

[グリーンケミストリー]
 グリーン・サステイナブルケミストリー(GSC)、通称グリ−ンケミストリー(GC)は、持続可能な社会の実現に向けた科学技術開発の理念と活動を云う。化学史をひもとけば、世紀半ばから驚異的なな発展が始まり、合成薬品や合成染料を中心とする化学工業が出現した。20世紀にはいるとナイロンの発明から高分子化学工業が誕生し、第2次大戦後は石油を原料とする多様な新素材が頻出した。しかし1970年までは、主反応をいかに効率よく低コストで生産するかの激しい競争が展開され、化学反応過程で作り出された人体に有害な副産物にはには目もくれなかった。日本では四日市喘息や水俣病に象徴される深刻な公害が発生した。
 最近の企業は、環境破壊型生産は企業イメージ自体を傷つけるので環境対応型生産に転換し始めた。この転換は利潤の範囲内に限定されて遂行されるから充分ではないが、紆余曲折を経て生産自体が環境を最重視するものに移っていくだろう。化学系学会と団体がGSCネットワークが2000年に設立されたが、この組織は産官学連携型GSCの枠内で活動をしているが、将来はそのような枠を超えた生態系化学研究のネットワークへと変貌するに違いない。すべての化学反応の機構が解明されるに比例して、化学反応を人間的に制御する方法が開発されていくという希望は楽観的であろうか。
 神経活動がある種の化学反応の連鎖であるとすれば、人間それ自身を対象とする科学の領域でも効率とコストを至上原理とする営みが繰り広げられてきたが、この領域は抽象度の高い認識論レベルから即自的な政策科学まで重層的かつ広範囲であり、結果のリアル性が身体的レベルで検証されないために誅求の度合いは低かった。これがために人間科学や社会科学の専門家は、勝手な思惟を張りめぐらして、現実の厳しに対する結果責任を問われることなく頽廃の極地を示してきた。ほんの少数の理論家が権力の弾圧を受けて牢獄に下り命を散らしてきた。理論が理論であることの証明は、こうした緊張関係に自らを位置づけて右顧左眄しないかどうかにある。グリーンケミストリーのような自然科学におけるナイーブな学的進展の真髄が、人間・社会科学に於いても埋め込まれていなければならない。一体人間同士が殺し合うとはどういうことなのか、私的なリンチから世界戦争に至る重症的な目も眩むような行為の方程式は何なのか、殺し合いの・戦争の科学こそ人間・社会科学の基軸テーマである。(2004/2/15 20:36)

[バレンタインデー]
 世の男性の皆さん、たくさんのチョコレートがきましたか? 欧米ではこの日に独身男性が愛する女性に贈り物をするのですが、日本では1958年に或るチョコレート会社が記念セールを始めて女性がチョコレートを贈る日となりました。バレンタイン(イタリア語ではバレンチノ)は3世紀のローマ帝国・イタリアに実在したカトリック司祭です。若者の多くが戦場への出陣を拒否したので、ローマ皇帝クラウデイウス2世が、女性と家族が若者を引き留めるためだとして若者の結婚を禁止してしまいました。バレンチノ司祭はそれを可哀相に思って秘密に結婚をさせたために、投獄されて270年2月14日に処刑されました。獄中で看守の眼の見えない娘に祈りを捧げると眼が見えるようになりました。バレンチノは処刑前に「あなたのバレンチノより」と署名した手紙をその娘に残しました。その話が伝わって2月14日に男性が愛の手紙を女性に出すバレンタインカードが始まったのです。2月14日は恋人の守護神となった聖者バレンタインの命日を祭る聖なる日なのです。

 さてここから日本の文明批評。日本は欧米外来文化を取り込んでウマク融合して発展してきましたが、キリスト教国でもない日本が聖バレンチノ祭の聖なる行事をチョコレートのマーケッテイング戦略に利用して大成功を納めたわけです。誘致外来型開発経済戦略の見事な成功例です。しかし1958年当時はまだまだ女性の自立は進んでいなく、女性から進んで愛を伝えるというのはかなり勇気の要る時代でした。バレンタインデーはそうした日本の男女関係に革命的な変化を誘発させた世俗行事となりましたから、それなりの意味を持ったと思います。欧州では男性からの愛の手紙を届ける郵便配達人が最も忙しい1日ですが、日本ではチョコレート会社が最大の利益を計上する日と計算されています。聖なる犠牲者の記念日の意味は薄れて楽しい恋人の交歓の日となったのです。マアそれでもいいではありませんか。

 次に日本ではなぜ内発的にこうした行事が発生しなかったのでしょうか。ひとつの理由が宗教文化の違いがあると思います。アジアと日本の宗教は、西欧の宗教と違って痛ましい犠牲や迫害の悲劇はそんなに起こらない予定調和的な物語が基調となっています。イエス・キリストは完全な孤独のうちに十字架の処刑を受け、セクトが違うだけで激烈な殺戮を繰り返してきたのが西欧の宗教文化です。だから犠牲者を悼み思い起こすための無数の記念日がつくり出されました。
 ところが釈迦は瞑想して眠るように見守られてこの世を去り、孔子も泣き叫ぶ弟子たちに「コレガ定めジャー」と云って幸福な面持ちで死んでいきました。日本の神々も時々喧嘩はするがみんな仲良く暮らしていくのです。こうした文化では、悲劇的な末路を遂げる聖人は出現せず、それを記念する聖なる日もつくられないのです。
 さて問題はなぜ日本では女性→男性と逆転したパターンになったのでしょうか。ひょっとしたら女性の従属的な地位が固定化されているのではないかーとも思うのですが、今日の考察はここらで終わります。何か分析があればメールで送って下さい。(2004/2/14 20:39)

[詩2編]

 「尹東柱は27歳という若さを福岡刑務所で散らした朝鮮の抒情詩人。太平洋戦争の敗戦という芽吹く季節がそこまで来ているというのに、春に先立って死ななければならなかった詩人の存在は、めぐり来る春とともに蘇ってきてはならないのである」(金時鐘)。

   序詩  尹東柱

 死ぬ日まで天を仰ぎ
 一点の恥じいることもないことを
 葉あいにおきる風にすら
 わたしは思いわずらった
 星をうたうこころで
 すべての絶え入るものを愛おしまねば
 そしてわたしに与えられた道を
 歩いていかねば

 今夜も星が 風にかすれて泣いている 
   (1941/11/20)

 なんたる、うち震えるような抒情をたたえた革命の歌ではある。大日本帝国はこの繊細ないのちを奪った。

   青春   サミュエル・ウルマン 訳 作山宗久

 青春とは人生のある期間ではない
 それはこころの持ち方をいう
 薔薇のまなざし 紅の唇 しなやかな手足ではなく
 たくまざる意志 豊かな想像のちから 燃え上がる情熱をさ 
 青春とは人生の深い泉の清らかさをいう

 青春とは臆病を退ける勇気
 安きにつく気持ちをふり捨てる冒険のこころ
 時には20歳の青春よりも60歳の人に青春がある
 年を重ねただけでは人は老いない
 理想を失うときにはじめて人は老い 
 歳月は皮膚にしわを増すが 情熱を失えばこころはしぼむ
 苦悩と恐怖、失望によって気力は地にはらばい精神は芥になる

 60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
 驚きに惹かれ おさな児のような未知へのおののき
 人生の興味の歓喜
 君にも我にも見えない駅亭がこころの世界 

 霊感が絶え  精神が皮肉の雪に覆われ
 悲嘆の氷に閉ざされるとき
 20歳であろうと人は老いる
 頭ををたかくあげ希望の波をとらえるかぎり
 80歳であろうと人は青春にして已む
       (2004/2/142:05)

[老いらくのアカ]
 アカとは赤色であり、かっての社会革命派の旗が赤色であったためにコミュニストの俗称を意味した。戦前期日本の治安維持法下では共産主義に限らず反天皇制派を封じ込めるレッテルでもあった。徹底した迫害と宣伝によってアカは恐怖と反社会分子の代名詞となって日本社会の隅々に及んだ。だから戦前でアカといわれることを覚悟する行動は罪五族に及ぶ孤立を意味する語句でもあった。不思議なことに赤色は誠忠をも意味し、赤心というのは純粋な天皇への献身を意味し、日の丸も純白に赤色を持ってデザインされている。現代の若者はアカという言葉から何を連想するのだろうか。
 さて政治学者・篠原一さんが面白いことを云っている。かって青年の心を捉えた「不条理に沈黙することは不条理に加担することになる」といった反体制運動の言辞が老年になって蘇り、年取ったらアカになるという「老いらくのアカ」が今増えているそうだ。78歳にして現役の氏は、市民とともに勉強会を続け『市民の政治学ー討議デモクラシーとは何か』(岩波新書)を出版した。おそらく最近の状況が度を超した不条理にあることに危機感を持たれたのであろう。
 イラク戦争の最大の大義であった大量破壊兵器が見つからず追い詰められた米政府・中央情報局(CIA)は、驚いたことに懸賞金付き情報提供キャンペーンを始めた。「情報提供にあたっては名前、国籍、職業、電話番号などの連絡先を教えて下さい。秘密は守ります」とホームページで訴えている。自らの情報提供でイラク侵攻を開始し、すでに1万人以上のイラク人を殺した米国政府が開戦の根拠を募集し始めたのだ。常軌を逸する非常識!不条理!怒りを通り越して哀しくなるほどの無定見だ。それに媚びへつらう東アジアの同盟国の首相はライオンヘアーを振り乱して、若者を戦場に送り出して恥じない。こうした上層の底知れぬ頽廃が社会の隅々にモラルハザードをもたらし、最も敏感で繊細な青年層にいい知れない不安をもたらしている。
 そのような不安が特に日本で異常なひきこもり現象を誘発している。ひきこもりの正確な実態把握はないが、全国ひきこもりKHJ親の会の推計では18歳以上だけで130万人に及んでいるとしている。厚生労働省の「ひきこもりへの対処ガイドライン」は@ひきこもりは誰にでも起こりうるAなまけや反抗ではないB過保護や放任の問題ではないC対処の仕方次第で解決できるーという支援原則をうちだした。日本はひきこもり先進国と言われ、全世界から取材が殺到している。富んだ豊かな社会、効率とカネとモノだけを追いかけるヒステリックな社会では生き残れる人はわずかで多くの人が振り落とされる。感性が繊細でクリエイテイブな人ほど能力が発揮しにくい社会、ヒューマンであるほど生きにくい社会ーそれが日本だ。
 かってある女流詩人が”みんな違って、みんないい”と歌ったが、そうした多様でふところの深い共同を回復することなしに日本の未来はないだろう。負の現象が広がれば広がるほど、じつは実は潜在的に新たな発展の芽が準備されているーという弁証法が本当に試されているような気がする。(2004/2/13 22:09)

[フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店)]
 ある国で世の中全体が「茶色」に統一されていきます。最初は茶色以外の猫や犬が始末され、それがじょじょに人間世界に広がっていきます。最初は違和感を感じた人々もそれに慣れて、異議を云う人を迫害するようになるという短編の寓話です。ファッシズムが極日常の市井の普通の市民から立ち上がってくる恐怖を描いた、あくまで慎ましいおとぎ話ですが、恐怖がじわりと忍び寄ってきます。若い感性であれば、胸を締めつけられるような息苦しさを覚えるでしょうが、私はすでにみずみずしい反応が薄れているのが残念です。

 茶色はおそらくナチス初期の突撃隊の制服をイメージしています。
 「茶色に守られた安心、それも悪くない」・・・・この言葉に普通の市民がファッシズムを受け入れる意識をよく表しています。

 仕事が忙しい・・・・
 他にやりたいことがたくさんある・・・・・
 みんなも受け入れているし・・・・・
 上の人が決めたんだからしょうがない・・・・・
 彼も一生懸命やっているんだから余り責めるなよ・・・・・
 流れに逆らうと、偏った人間と見られて仲間はずれになるよ・・・・・
 なんだかんだと言ってもまだまだ自由だ、毎日の生活はそんなに捨てたもんじゃない・・・・

 こうして驚きや疑問と違和感がじょじょに薄れ、めんどくさくなって考えなくなります。こうしてファッシズムが成立していきますが、気がついた時には取り返しがつかないのです。1930年代のドイツと日本がまさにそうであり、日本の今はだんだんそれに近づいているような気がします。20世紀に1億6千万人が戦争で命を落としました。この人たちを殺した側に立つのかどうか問われています。無数の今村歩さんが必ず出てくるに違いありません。(2004/2/11 9:19)

[私の別れの宴に次のことが執りおこわれることを望む]

 1,私の歓送を準備する者は、良心の捕囚であるように
 2,私の退場を認める者は、私の邪魔をせず私が未来へ向かって歩けるように
 3,誰も泣いてはならず、誰も振り返ってはならない
 4,かって私とうまくゆかなかった者が、私を訪ねたり、別れを告げたりすることを受け入れる
 5,汚れた者や裏切り者が私に別れを告げることを望まない
 6,女性が私の家に来て私に別れを告げることを拒まない
 7,別れの宴を執りおこなう者は平和を願い、私が良心とともにあることを祈りなさい
 8,私の身体を清める者は、良き憲法第9条擁護者であるように
 9,私の性器を清める者は直接触れないように、手袋をしなければならない
10,私の別れの礼装はごく普通の背広であるように
11,特定の性の者が別れの宴に出たり、見送ることを拒まない
12,別れの式典は静かに執りおこなうように、憲法を読む時、別れの儀式の時、授業の時、この3つの時に静かであることを好むと良き先達が云ったから
13,私が良きヒューマニストたちとともに、故郷に顔を向けて見送られるように
14,身体の右側を下にして見送るように、「お前は土から生まれ、土となり、土に帰る。土からまた新しい教師が生まれる」と唱えながら私の身体の上に土を3回かけるように。
15,参列する者は私が共に楽しめるように、私のテーブルの前で1時間過ごしなさい
16,40日ごとに、或いは1年に1回、別れを追慕するしきたりがあるが私は好まない
17,別れの式典に送別の辞を書いて、カバンの中に入れておくのは虚妄だ
18,私が残していくカネは、真理に従い、分かち与えられるように
 これはキリスト教歴2004年3月6日に書かれた。筆者は荒木國臣 
                  証人 ○○○○(署名)
                  証人 ××××(署名)


 以上は9.11で世界貿易センタービルに突入したモハメッド・アタ(27歳)の遺書のパロデイです。私は彼の行為を全面的に否定しますが、原文の遺書には圧倒的な迫力を覚えました。先進国の人工的な無機質の死に較べて、最後の瞬間に臨んでのイスラムの荘厳な重みを感じませんか。次にその原文を紹介します。

 1,私の埋葬を準備する者は、良きイスラム教徒であるように
 2,私の遺体を棺に入れる者は、私の目を閉じさせ、私が天に昇るように祈るように
 3,誰も泣いてはならない
 4,かって私とうまくゆかなかった者が、死後も私を訪ねたり、キスしたり、別れを告げたりすることを私は望まない
 5,妊婦や不浄な者が私に別れを告げることを望まない
 6,女性が私の家に来て私の死を悼むことを望まない
 7,通夜を執りおこなう者は神を思い、私が天使と共にあることを祈りなさい
 8,私の遺体を清める者は、良きイスラム教徒であるように
 9,私の性器を清める者は直接触れないように、手袋をしなければならない
10,死に装束は3枚の白い布であるように
11,女性が葬儀に出たり、墓参りに来ることを望まない
12,葬式は静かに執りおこなうように、コーランを読む時、埋葬の時ひざまずき祈る時、この3つの時には静寂であることを好むと神が云ったから
13,私は良きイスラム教徒たちとともに、メッカに顔を向けて埋葬されるように
14,身体の右側をしたにして埋葬されるように、「お前は土から生まれ、土となり、土に帰る。土からまた新しい人間が生まれる」と唱えながら、私の身体の上に土を3回かけるように
15,参列する者は私が共に楽しめるように私の墓で1時間過ごしなさい
16,40日ごとに、或いは1年に1回、死を追悼するしきたりがあるが私は好まない
17,葬式で追悼の辞を紙に書いて、鞄の中に入れておくのは迷信だ
18,私が残すお金は、イスラムの教えに従い、分かち与えられるように
                                                 (2004/2/10 23:36)

[あなたの街の商店街のシャッターは開いているかー東京都足立区東和銀座商店街]
 大不況下の大型店の進出の直撃を受けた地元商店街は壊滅状態にある。店頭に商品を並べシャッター上げれば売れた時代があった。コンビニと大型店が営業時間を延長していくなかで地元商店街は急速に売れ行きが落ちた。コンサルタントは「効率本意の商売をせよ」とアドバイスしたが腑に落ちなかった。大型店やコンビニは効率の悪い商品を切るが、それを求める地元の顧客に答えるのが専門店だ。東和銀座商店街は、空き店舗を拠点に高齢者への弁当配達サービスや学童保育クラブなど採算度外視の地域ニーズに応える事業を展開した。弁当を温かいうちに配ろうと思えば、1時間以内に80軒配達しなければならない。すると車2台が必要で、つくる人と配達する人を雇って600円の弁当は採算が取れない。すると地元の主婦が応援しようとまとまった注文を出してくれるようになった。利益ではなく地域の人に喜んでもらえれが利益は後からついてくる。学童保育も区の施設には入れない待機児童が多いというのを聞いて、jyqああ商店街で始めようということでスタートした。こちらは最初から赤字にならなかった。子どもたちにオヤツを差し入れてくれて応援してくれる。送り迎えに来るお母さんが買い物していくから学童保育やると商店街が潤うーと言われたがそんな考えでやったのではない。俺が全責任を持つ、財産全部投げ出してもいいからやるーという先駆的な人が出てこないとこういう事業はやれない。100%儲かる事業なら誰だってやる。リスクを負い損する可能性もいっぱいあるからその仕事が残っている。商売の原点は自分のためじゃあない、人のためにやるんだ。人のためというのは、結局ウソで全部自分に返ってくる。
 買い物は大型店でいいから、相談は商店街にして欲しいとお願いしている。冷蔵庫を捨てる方法が分からないお婆さんに、相談してよかったと言われた時には嬉しかった。商店街は植物だ、この街に根ざして、ここに生えている。多少赤字になっても頑張るしかない。地域のお客さんと一緒になって街を形成していく。いい木を植えていい花を咲かせて栄えていく。大型店は動物だ。獲物がいなくなると消えていく。以上は東京都足立区東和銀座商店街・田中武夫理事長談(毎日新聞2月3日付け)。
 ここに再生の法則が示されている。@顧客ニーズに寄り添うA地域ニーズを取り上げるB地域総体の活性化に貢献するという発想C献身的な先駆的指導者がいる等々・・・・これは商店街のみならずすべての組織現場の鉄則であろう。分かり切っていることだというなら実践してみたまえ。実際にやり切っているのが東和銀座だ。(2004/2/10 19:52)

[千 龍夫 在日韓国人2世ハンセン病語り部逝く]
 大阪府東大阪市生まれ。52年5月8日12歳の誕生日に長島愛生園に収容され、家族に会いたい一心で脱走し実家を訪ねたが、すでに家族は引っ越し音信不通となった。母が「5本の指はどれを噛んでも痛いんやよう。母親はね、そう言って俺を抱きしめてくれたんよ」。熊本判決での国の控訴断念に「これで人間になれた」と叫んだ。判決後生き別れていた母を探しだし40年ぶりに再会。「俺はもとハンセン病者や。自分はどこまでいっても千龍夫。怖がらず、自分を隠さずに生きていく」。昨年秋にガンで入院し、友人と親族にみとられて生涯を閉じた。死の直前まで熊本のホテル宿泊拒否に「なんとかせなあかん」と繰り返し「生きて生きて闘うんや」とは言い続けた生涯であった。

 63年の生涯のうち52年間を強制療養所で送り、人間として認められてからわずか2年でこの世を去った。国籍の故に受けた差別にハンセン病の二重差別の一生であった。こうした生涯をみると、この世に神はいないと云うことをつくづくと思う。すべての綺麗事など吹き飛んでしまう真実の巨大な証明の力が無条件に迫ってくる。熊本ホテル宿泊拒否事件は、私たち日本社会の中での差別意識が根底で隠然と残っていることを明らかにした。特効薬プロミン開発後も強制隔離を推進した光田医師に宮内庁は叙勲した。天に皇する高貴な身分を維持するためには、対極に地に腹這う卑賤を用意しなければならない。垂直的な階層ヒエラルヒーの中間にいる多くの人は、下位への連鎖的な排除と抑圧のシステムを作動させる。ここにこそ最高位に位置する者の支配が安定する秘密がある。この構造は制度的に否定されても心性としては連綿として存続しているのだ。
 私は青年期に松本清張『砂の器』という映画を観て震えるような感動を覚えた。それはハンセン病で収容されている父親が、調べにきた刑事に自分の息子ではない!と言い放つシーン、それに重なって父と子が凍てついた雪降りしきる海岸を襤褸を纏って歩んでいくシーン、これは今も忘れがたい。しかし私は当時ハンセン病そのものは恐く近づきがたいという抜きがたい偏見を抱き、それはごく最近まで続いていた。私も確実に共犯者の一人であった。無知は犯罪なのだーということを肝に銘じた。千龍夫 1月11日死去(肝不全) 1月13日葬儀 合掌・・・・。(2004/2/9 21:44)

[ヘルムート・シュミット旧ドイツ首相「追憶・悔恨・責任」(広島大学講演から)]
 原文は長文に渡りますので一部筆者の責任で意訳・省略しております。

 ロバート・マクナマラ(元米国務長官)によると、この血なまぐさい20世紀に起きた戦争のために、1億6千万人の人々が命を落としています。多くの国がアジアの朝鮮のように、欧州のポーランドのように服属させられました。多くの国でたくさんの市民が亡くなりました。欧州ではドイツが、極東と太平洋では日本が仕掛けた戦争でした。戦後の両国は信じられないような経済再建を実現し、最高の生活水準に到達することができました。しかし私たち両国をめぐる現在の状況は明らかに大きく異なっています。
 ドイツは1990年の再統一によってヒトラー時代より相当に小さな領土になりましたが、我が国の全政党は現在の国境線を承認しています。日本は小さな島の一群・・・いわゆる北方4島を失いましたが、東京はこれをまだ受け入れがたいようでロシアとの平和条約は締結されていません。ドイツは9ヶ国と国境を接する国で、侵略と非侵略の歴史を経験し、自らを守る同盟としてNATOとEUを組んで自らを守っています。日本は有史以来列島に住んで、外国の兵士を1人も入れず同盟の必要もありませんでしたが、1941年以来皆さんの父祖たちは軍事技術によって満州、朝鮮、台湾その他を征服しヒトラーに続きました。欧州で第2次大戦を仕掛けたのがヒトラーであることを疑う者が一人もいないように、アジア太平洋地域で第2次大戦を仕掛けたのが日本であることを疑う者はいません。
 こうした悲しむべき事実、あの壊滅的な戦争が、あたかも両国民が犯した罪悪でありその責任を負うべきであるかのような告発を認めるべきではありません。罪悪は常に個人的なものであり、国民全体の連帯的な罪悪ではありません、日本国民もドイツ国民を全体として罪悪や犯罪行為の罪を背負っているのではないのです。けれども私たち両国民の父祖や父親が数え切れない人間にたいして犯罪行為を犯した者がいたのは確かです。他者が犯した罪悪や犯罪行為を悔い改める義務はありませんが、私たち両国民はそうした犯罪行為を将来に於いて2度と再び繰り返さない重い責任を負っています。ヒロシマの平岡敬市長が「広島・長崎への原爆投下を、日本の犯した悪行から目をそらさせるために誤用してはならない」とおっしゃているのを読んで、深い感動に打たれました。この平岡市長さんの態度が、私たちドイツ人の圧倒的多数の態度であり、またドイツの若い世代のほとんどすべての女性や男性が抱いている信念なのです。犯された犯罪を中国、朝鮮、フィリピンはもとより、日本のすべての近隣の人々は忘れ去っていないのです。ポーランド国民もオランダ国民もフランス国民もユダヤ人もそうなのです。その限りに於いて私たち両国の状況は類似性を示しています。ではありますが、ドイツは何十年かに渡って自責の念を表し和解を請うてきました。近隣諸国も和解に意欲的であります。このことが重要な相違点です。アジアでは日本に対する赦しを本格的に考えるようになるまで実に長い時間を要しました。日本が犯した犯罪行為や罪悪に対する公開の正式認知は勇気あるものでした。私は日本の一友人として村山首相と細川前首相に祝意を表する者であります。
 日本は広い世界で友であり同盟者である国をひとつ持っているだけです。その唯一の盟友である米国との関係も、貿易摩擦にみるように流動的であやうい状態です。

 私の見解を述べます。日本は朝鮮に対する長い占領で極めて多数の犯罪行為を生み、中国に対する侵略占領で極めて多数の犯罪行為を生み、東南アジアと太平洋諸国への侵略占領で多くの犯罪行為を生んだのです。これらの犯罪行為は、軍部を中心とする日本指導者層と一世代前の個人によって犯されたのです。これらの犯罪行為を公然と正面から告白することが日本の利益にとって最善なのではないでしょうか。 
 沖縄で起こった少女へのむごい強姦事件に対する、沖縄の人々の激情と憤慨に心から共感しております。そしてまた戦争によって甚大な被害を受けた同島の人々の米軍削減の要求をよく理解します。そして更に付け加えさせていただきたい。この事件は朝鮮やその他の国で、祖国を占領した外国人兵士の性的必要に奉仕するために慰安婦にされて個人的尊厳を辱められた何万人もの女性たちの身に起こったことを思いおこし認知する機会なのではないかと。

 戦争終結五〇周年にあたって、戦没兵士の英雄化や美化は真実に対する冒涜であると考えます。私自身一老兵として「戦場の兵士の誰にとっても、死は血まみれ、汚れ、浅ましいものでしかない」と証言します。死はヒロシマの母子にとっても同じようにゾットするほど恐ろしいことだったのです。親たちを英雄として死んだと言い聞かすことは、子どもたちに対する反道徳的な欺瞞であります。彼らは皆な政府の無謀かつ無責任な行為の犠牲者だったのです。戦争を避けることは、統治の任にある者の他に抜きんでた責務であり使命であります。

 日米同盟について現在の役割を問題にしようとは思いませんが、米国は自制の必要性を理解しなければなりません。米国の政権と議会が極東と日本の問題に介入する合理的な根拠は極めてわずかしかないのです。平岡市長さんの「私たちは国家を超えて人間として連帯し、英知を結集しともに行動すべきである・・・」という言葉は、生き残った広島市民の呼びかける高らかな資格があります。私は一老人であり、求められてもいない提言をしようとする世界市民の一人に過ぎませんが次のように申し上げたい。「この機会を生かさぬまま過ぎ去らせることなく、軍備削減に向けてASEANやAPECや日米安保条約をはじめとする現存の諸条件の包括的な完了をはかれ」と。

 最後に半生に渡る政治的な経験から生まれた私の強い確信を強調したいと思います。それは国家国民の運命のすべてを政治家の手に委ねてはならないということです。自らの国の歴史を理解し、、制約や偏見に束縛されない自由な立場から政治を評価する義務があります。現在は過去の産物であり、現在は未来の基盤となります。理性と道議と意志と勇気は現在を変えることができ、未来を準備することができます。若い学生の皆さんは、過去の歴史の誇らしいことも悪いことも見つけるでしょう。皆さんはいかなる意味でも過去に対する責任はありません。しかし将来に対しては皆さんが責任を問われるのです。皆さんが教職や医者或いは労働者や事業家、母親の何れになるにしろ、明日からの毎日毎日に責任を負うことになるのです。若い米国の大統領が「国が何をしてくれるかでなく、国のために何ができるかを自問せよ」と呼びかけましたが、今日私たちは更に一歩を進めて、我らの国が全人類のために平和のために何ができるかを自問せよーと呼びかけるべきです。歴史は善意だけでは不充分であることを教えています。善意を行動に移し、現実のものとするために、理性と合理性と勇気が必要とされるのです。


 実に高潔で真摯な誠実さがにじみ出るようなメッセージです。ステイツマンの文化の深さを感じ、同時に日本の政治屋の浅はかな貧困を恥じ入ります。政治文化の歴史の違いがあるのでしょうか。日本の政治家の誰がこうした格調あるメッセージを若者に訴えれるでしょうか。戦争責任論には一部異論がありますが、励ましと希望を若い世代に伝える歴史認識の凄さを覚えました。(2004/2/8 23:38)

[英国の階級意識は抜きがたいのかージョン・ケアリ『The Intellectuals and the Masses知識人と大衆』]
 普通教育の普及と大衆文化の隆盛に直面した英国知識人の不安と憎悪を痛烈の告発する衝撃の文芸批評。少なくとも私にとっては、無条件に受容していた英国を中心とする欧州知識人のスタンスに驚愕を覚えた。抜きがたい階級社会システムの心性を徹底的に暴く問題の書と言って差し支えない。要するに知識を独占してきた階級が、大衆の知的水準の上昇に即時的な反発と危機感を覚え、大衆文化に対する抑圧をそれとは自覚せぬ貴族主義に於いて守り抜こうとするスタンスに対する仮借なき批判である。戦後日本を制覇してきた欧州文化の似非ヒューマニズム告発する。ニーチェ『ゾロアスターはかく語りき』やオルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』に無限の共感を覚えつつ、本質的にはアエドルフ・ヒトラー『我が闘争』における大衆蔑視とアーリア至上主義と変わらないのだーと言うメッセージは、英国における階級権威主義を痛烈に白日の下にさらけ出している。批判の対象となる英国文芸思想家はいずれも20世紀の英国を代表する文芸思想家である。
 そこで批判の対象となっている巨匠たちの名前を挙げよう。トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、アンドレ・ジイド、バーナード・ショウ、」ジョージ・エリオット、イエーツ、オルダス・ハックスリー、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、エリアス・カネッテイ、D・H・ロレンス、バーナード・ショウ、ジョージ・オウエル等々20世紀の英国文芸界の巨匠たちが完膚無きまでに解剖される。
 精神的貴族主義の典型的な表現をみてみよう。
 
 もし根絶を徹底的に同時に人間的にまた弁解しながらおこなうというのであれば、科学的な基礎の上に載せなければならない。・・・もし私たちがある型の文明と文化を望むのであれば、それに適合しない種類の人々は根絶しないといけない。現代欧州にいる人間の大半は生きている用はない。(ジョージ・バーナード・ショー『不釣り合いな結婚』)

 こんな調子でケアリは幾多の英国文芸の巨匠と言われる人たちの作品にあらわれた、大衆蔑視と精神的貴族主義の表現を取り上げる。その執念は恐るべきものだ。知識人は通常は「人民の友」とみなされてきたが、大衆文化との関連では、民衆は嫌悪と軽蔑の対象でしかなかったという赤裸々な事実が明らかとなる。(2004/2/8 20:05)

[荒れ野の60年]
 
1985年のドイツ敗戦40周年を記念する旧西ドイツ大統領リフィヤルト・フォン・ヴァイツゼッカーの演説は20年後の現在でも光彩を放っている。ナチに抵抗したマルチン・ニーメラー牧師の言葉とともにその一部を紹介する。

 問題は過去を克服することではありません。そんなことができるわけはありません。しかし過去に目を閉ざすものは結局の所現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険におちいりやすいのです。

 人間は何をしかねないのか。これを私たちは自らの歴史から学びます。これからも人間として危機にさらされつづけるでしょう。しかし私たちは、こうした危機を繰り返し乗り越えていくだけの力が備わっています。

 若い人たちにお願いしたい。

 他の人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。若い人たちは互いに敵対するのではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んでいただきたい。民主的に選ばれた私たち政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であって欲しい。そして範を示して欲しい。

 自由を尊重しよう。平和のために力を尽くそう。公正をよりどころにしよう。正義について内面の規範に従おう。今日の日に際して能う限り真実を直視しようではありませんか。

 最初にナチスはユダヤ人を迫害した。私はユダヤ人ではなかったから何も言わなかった。
 次いでナチスは社会主義者を攻撃した。私は社会主義者ではなかったから、なにも行動しなかった。
 さらにナチスは共産主義者を攻撃した。私は共産主義者ではなかったから、なにも行動を起こさなかった。
 最後にナチスは教会を攻撃した。私は牧師だったから戦いに立ち上がったが、その時はもう遅かった。(マルチン・ニーメラー)


 5日に東京は明治公園で「イラク派兵STOP!防衛庁を平和の灯火で包囲しようーピースキャンドルナイト」大集会が開催され、自由法曹団の呼びかけで1万人を超える人々が集まった。紙コップの底に差し込んだローソクなど色とりどりの光の隊列が静かに防衛庁に向けて続いた。寒風の中、空には月齢14.3の満月に近い月が冴え冴えとした光をたたえ地上には光の川がゆっくりと流れていく。その中を高校生の大集団が光をかざして進んでいく。この厳寒の中での荘厳な光の群像にこそ、21世紀の希望が凝縮している。
 しかし私はなぜか1930年代のドイツでヒトラーが政権を握る直前のベルリンの反独裁大集会の映像を思い起こす。30数万の民衆が漆黒の闇を貫いて光の大行進をおこなった。それはドイツ民衆の反ファッシズムの意志を示した最後を飾る壮大な大行進であった。その後の歴史を知るものは、この映像から悲劇的な敗北に抵抗する最後の良心の燃え上がりをみるだろう。
 今次5日の明治公園集会をほとんどのメデイアは無視して報道しなかった。国民の知る権利と意見表明権が高らかに宣言されてから久しいが、マスメデイアの現状は惨憺たる状況となっている。かっては客観報道主義の原則に基づいて一定の範囲で多様な事実を報道していたマスメデイアは、ここにきて政府情報を垂れ流し情報操作をおこなっているかのようだ。実質的に戦中期の大本営報道に等しい。NHKの2日夜のトップニュースは、陸自先遣隊長にこれから来る本隊に伝えることはあるかーと審議中で結論が出ていない段階で既成事実のように伝えていた。先遣隊の視察報告はたった1.5日の調査で安全報告をおこない、しかもその報告内容は事前に防衛庁がFAXで指示した内容を忠実に繰り返したという欺瞞的なものであった。現地の部族長にカネをばらまいて歓迎の演出を写させるというお粗末な映像操作もおこなわれた。
 防衛庁は派遣前に報道の取材の自主規制を求める依頼をおこなったが、記者クラブの誰1人して抗議せず黙ってオズオズと聞いていた。政府情報のみを都合よく国民に流して情報操作をおこなう迎合的な姿勢には、もはやジャーナリストの原点となる資格はないということをしめしている。イラクのサモア市民の本音は「軍隊は要らない、欲しいのは雇用だ」、雇用の幻想が壊れた時に激しい憎悪に転化するだろうーという「毎日」の片隅での報道のみが唯一事実を伝えている。

 第2次世界恐慌への突入を戦争景気で防止しようとする米国の対外戦争、国内の大不況を国外にそらして権力の維持を図ろうとする日本の対米追随ーここにすべての真実から目をさらし国民統合と動員を図る追い詰められた虚妄の国家戦略がある。残念ながら日本のマスメデイアは共犯者となっている。英国のBBCは強烈なインデペンデント精神によって政府批判を展開し、現在深刻な矛盾に陥っているが、英国国民はBBCを圧倒的に支持している。ここにこそマスメデイアのアイデンテイテイを象徴する見事なモデルがある。朝日新聞は太平洋戦争への協力を自己批判して戦後直後に「国民とともに立たん」という社説で再出発を誓ったが、もう一度悲劇を繰り返して同じような社説を書くことになるのではないか。

 丸山真男の云う「次々と成り行く」論理、大勢の流れに順応することで良心がマヒして最悪の地獄に到る日本型集団主義と行動様式は、21世紀を迎えても基本的に克服されていない。では希望はないのか。1万人の光の帯がそれぞれの生活に帰って、その渦が次々と波及し、必ずある瞬間に質的な飛躍を果たすであろう。人類史の長いスパンで見れば歴史の真実はどこにあるかを教えてくれる。そしてその1人があなた自身なのだ。私たちは荒れ野の60年を過ぎつつある。(2004/2/7 9:04)

[今村歩さん(18)めげずに頑張れ!]
 武力によらないイラク支援を求めて5300人の署名を集めた宮崎県の高校生・宮崎歩さんに無条件の尊敬の念を捧げる。高校生の意見表明権は国連子どもの権利条約で保障されているにもかかわらず、彼女の行為を批判した小泉首相は罪万死に値する。以上の意味を込めて彼女の請願書全文を紹介する。

 イラク復興支援についての請願書

 日本国総理大臣殿

[請願事項]
 平和的解決をめざし、各国軍隊撤退を呼びかけ、これ以上イラク国民を傷つけないよう、そして日本国民一人一人の安全に責任を持つべき一国の首相として、勇気ある行動をして下さい。

[請願趣旨]
 イラク復興支援は必要なことで、私たちもイラクの国民を救うことを望んでいます。しかし、自衛隊や軍隊では問題は解決せず、イラクの人々との溝はますます深まっていくばかりだと考えます。
 テロに反撃することが、テロに屈しないことなのでしょうか。武力で対抗するのではなく、一滴の血も流さないような平和的解決こそイラクの国民を救うのに必要なことであり、小さなことでもめげずに復興を支援することこそテロに屈しないことなのではないでしょうか。
 私たちは憲法第9条に誇りを持ち、暴力の連鎖を断ち切るため、平和的解決を願います。


 部分的にはつたない表現もあると言われるかも知れないが、高校生の真摯な願いがストレートににじみ出ています。彼女がこのような認識を形成していった足跡を知りたいなーと思います。彼女への励ましは、イラク救済基金代表・大平直也さん(http://www.iraqhelp.jp   imamurafight@myad.jp)までどうぞ。

 彼女の警告を証明する事件が4日イラク・キルクークで起こりました。米軍が9歳のイラク人少年を迫撃砲で攻撃し死亡させました。殺された少年は、イスラムの犠牲祭の期間中に、家族とともにピクニックを楽しんでいる最中で、少年の母親と兄弟2人も重傷を負いました。米軍は現場に武装勢力がいた疑いがあると説明し、死亡した少年に2500ドル(26万4千円)、重症の家族にそれぞれ1500ドル(15万8千円)を賠償すると発表しています。
 私はこの米軍の発表の信憑性を疑います。現地米軍兵士の間には、ストレスとノイローゼが蔓延し同士打ちや自殺が激増しています。かってのベトナム戦争の時に、米兵は面白半分のゲームのようにベトナムの民衆を殺戮しました。遠くで楽しく遊んでいる家族連れが何でゲリラに見えるでしょうか。しかも迫撃砲という重火器でねらうとは! いずれにしても狙撃した米兵は、連合国暫定当局(CPI)の占領軍命令17号によって、すべての裁判権から免除され、逮捕・拘禁されません。おそらくすでに加害米兵は本国に送還され、自分の家に帰って市民生活を始めているに違いありません。あなたが、被害家族のメンバーであったらどう思いますか。同じ行為を多分自衛隊員が起こすでしょう。自衛隊員も占領軍要員の待遇を受けていますから、日本に帰国してくるのでしょう。無辜の民を殺害したトラウマを一生背負って生きることになるのです。自衛隊員は「祖国を攻撃から守る」目的でのみ入隊し、無関係の他国人を殺す義務はありません。自衛隊員にこうした違法な命令を強制した小泉首相の罪は万死に値します。彼は私たちの祖国・日本を地獄に陥れて恥じるところはないのでしょうか。それにしても少年1人の命の償いが26万円とは!(2004/2/6 21:33)

 追伸:今村さんは首相の対応に、涙がポロポロこぼれ、いろんな圧力に悩みましたが、その後の全国からの励ましを受けて再度署名運動を始めました。彼女はHP「毎日毎日TVで流れてくる映像を見ているうちにどんどん何とも云えない気持ちがつのってこて、限界を超えたんだと思います」と云っています。署名用紙はHPからダウンロードできます。(2004/2/11 8:54)

[良寛とともに学び舎を去る]
 良寛は江戸期の禅僧にして歌人。号は大愚。諸国を行脚のあと帰郷して国上山の五合庵に住し、村童を友とする脱俗生活を送る。弟子貞心尼編の歌集『蓮の露』などがある。越後の乞食僧・良寛は、出雲崎の名主の長男でありながら権門勢家を捨てて仏門に入り、生涯を流浪、1草庵人として生きた。生活は困窮を極め、小さな山麓の草庵を営んで自炊と托鉢の喜捨に頼る以外に生きる方途はなかった。凍てつく冬の厳寒は身に滲み、容赦なく寒風が吹きすさぶ山中の小庵は、下界との往来を絶たれて雪に閉じこめられた。薪水はなく、食物も欠乏し、訪れる人もいない寂寥のなかで唯1人虚しくひもじさに耐えた。飢えと寒さにうち震えながらも、浮き世の人々に何かしら手を差し伸べたいという意欲と善意だけが彼を支えた。権門勢家の身を駆使して財貨と政策をあやつれば、我が身も他者の苦しみも救い得たであろう。全てを捨てた我が身を、いまわの辛苦の中で省みてはおそらく悔い煩悶したであろう。しかし何もかもがおのれが選び取った世界であり、こうなることも予測できた世界であった。彼がすべてを捨てて選び取ったのは、魂の自由と己の意志による自己決定の世界であった。そのためにはすべてを犠牲にして打ち捨てる断念、何かを得るためには大いなる喪失に耐えねばならないということを彼は身を以て示した。
 21世紀の初頭が未曾有の失職とリストラに彩られ、巷にホームレスの哀しいブルーテントが溢れる街に誰がしてしまったのか。それは自らもその踊りに参加した構造改革の悲劇的な乱舞の結末でしかなかったのか。新たな世紀が良寛のように、自己選択・自己決定・自己責任のイデーをもって始まったのはその限りにおいて正しい。こうした選択可能性に満ちた多様性の世界こそ良寛とともに私自身がめざしたものに他ならない。
 しかしここにあくなき競争の原理が覆い被さってきた時に、「良寛」は見事に裏切られてしまったのではないか。パフォーマンスの虚妄は、世の端々に目を配らない非人情と無神経を生み、人を蹴落として恥じない修羅の世となって、新世紀への希望は喪われてしまったかに見える。細やかな繊細さとリリックな自然のポエム、こころの機微に深い配慮が及ぶ選択と生き方を求める本然の人間世界はどこへ行ってしまったのか。片隅の取るに足りない生と魂への思いやりなしくして、真実の自己選択と決定は永久に訪れないだろう。ひとつの選択と決定に対する無限の共感、そこにある魂の叫びを聴くちから、「良寛」はこうしてふたたび私たちの目の前に蘇ってくる。
 いままさに去りなんとする学び舎は、そうした自己選択と決定を互いに認め合い、励まし合う希有の学園であったし、これからも脈々たる地下水脈となって未来へと流れていくだろう。さようなら春の夜の嵐のように雷鳴とともに過ぎ去っていった数々の想い出、さようなら私の学び舎、さようなら後に続こうとしている若人たち、桂冠は必ずやあなたがたの頭上に輝くであろう。(2004/2/5 21:02)

[訣別の辞・・・・]
 わたしの人生のワンクールの終わりが近づいた。私の前史は幕を閉じた。いよいよこれから我が生涯の正史、本史が始まろうとしている。春の夜の嵐のように雷鳴とともに過ぎ去っていった青春の日に、無限の哀惜の気持ちを込めて。

   訣別の辞

 現実の世界には闘争がある
 闘争なしに変革が進むことはない

 いつの日か歴史が白日の下にさらされる日が来る
 その日のために
 私は学び戦わなくてはならない
 どのような非難と嘲笑を浴びようとも
 
 学ぶ時間が足りないというのは言い訳に過ぎない
 ちからがないというのは怯懦の裏返しだ
 私にいましばらくの時間とちからをいただきたい
 さようならは新たな出会いの言葉だ
 無学な私は 再会への希望を発していく
 私の残り時間は少ないのだ

 さようなら あなたは乗り越えられない試練はないことを教えてくれた
 さようなら あなたは希望が最後に起ちあがることを教えてくれた
 さようなら あなたはすべての人間が大文字で書かれていることを教えてくれた
 さようなら 桜の園 The Independent Garden 私の学び舎  
                              
                         (2004/2/4 22:15)

[人類の思考能力は進化しているのか]
 地球周航を果たしたマゼランの部下がセネガル沖の島に寄港したのは、航海日誌で1522年7月9日の水曜日だった。食料調達で上陸した船員は、船に奇怪な報告をもたらした。陸では今日は木曜日だというのである。詳細な日誌をつけてきた部下は、記録に誤りがあるはずがないと強く主張した。水先案内人の日誌も水曜日の日付が記されていた。地球周航船の日誌から1日が失われたという知らせは、全欧州に衝撃を与えた。ある賢者が教皇の前に進み出て「太陽と同じ方向へ航行する船では、時間は遅く進む」と説明して決着した。
 それから400年後、スイス連邦特許局に勤める26歳の技師が、「運動する系では時間は遅く進む」という奇怪な結論に達した。この理論の間接的な証拠は、20km上空で崩壊してしまうはずのミュー粒子が、高速のために寿命が延び、地上に届くことだ。もし人間がミュー粒子に乗れるなら10万年くらい生きられる。マゼランの時代に経験によって時間の性質を獲得した人間は、400年後に頭脳だけによって獲得した。人類は明らかに400年間で進化したのだが、このアインシュタインが1921年にノーベル物理学賞を受けた理論は、光電効果法則の発見によった。選考委員が相対性理論を理解できなかったからだ。進化したのは人類の一部だけだった。以上野口悠紀雄「人類の頭脳能力」(日本経済新聞 2003/11/11)参照。

 昨年3月20日のイラク開戦から1月13日まで死亡米兵は496人、戦闘以外の死者は153人、うち少なくとも21人が自殺であった。陸軍が18人。戦闘死343人の3分の1は同士打ちである。米軍への抵抗攻撃技術が高度化し、迫撃砲やロケット弾から遠隔操作の爆破装置で車両を吹き飛ばすのが主流となった。車列を組み移動すること自体がロシアン・ルーレットのような恐怖に陥る。武装した戦闘と自爆攻撃の恐怖で米国の青年兵士の心理はひどいストレス状態となっている。国防総省は自殺防止のカウンセリングを始めたそうだが、自爆テロの恐怖を克服することはできないだろう。違憲や利益の対立を平和的に解決する方法を人間はまだ発見していないのか。逆に劣化ウラン弾や高性能地雷の開発などをみると、相変わらず殺し合い技術の進歩はあるが、紛争の平和解決の進化はない。捕捉:6日現在の米兵の死者は529人
 宮崎県三股町の高校三年生・今村歩さん(18)が自衛隊派遣をやめる請願書と5358人の署名を内閣府に手渡した。暴力の連鎖を断ち切るために首相への直談判を決断したった1人で署名を集めた。人類の一部は確実に進歩していると信じることができる。若者の真摯な行動に対して、首相は請願書を読みもしないで、学校教育の指導が悪いと批判した。彼は最低の憲法感覚が欠落している。第1に全ての国民は請願権が保障されておりその行使によって不利益待遇は受けないということ、第2に特定の政治的立場を学校教育に強制する支配・介入行為を侵していること、第3に高校生の自発的な活動を傷つけて恥じない無感覚。人類を退歩させる犯人がここにいる。人間の頭脳の進歩は激しくせめぎ合っているかのようだ。(2004/2/3 22:54)

[鳥インフルエンザをめぐる文明の危機]
 インフルエンザウイルスは直径1万分の1mmの球形で、内部に遺伝情報を担うRNA(リボ核酸)が8本含まれている。外側を包む蛋白質の殻には2千数百本の突起H(ヘマグルチニン)とN(ノイラミニターゼ)があり、赤血球と細菌に付着し内部に入り込む役割を果たす。インフルエンザウイルスはA型・B型・C型に大別され、A型はHとNが異なった多くのタイプがありH○N○型と表現される。ウイルスが体内に入り込むと、免疫機能はウイルスの蛋白質を抗原と意識して攻撃を加えるが、A型ウイルスは抗原となる蛋白質を頻繁に変化させるので毎年インフルエンザが流行する結果となる。ところが1968年の香港風邪では、ヒト・ウイルスとトリ・ウイルスのRNAが混ざり合いヒトに大流行する新型ウイルスが創られた。場所は中国南部の飼育豚の腸であった。こうしたヒトに感染するウイルスは、過去の免疫機能が働かず世界的な大流行を誘発する。現在アジアで流行している鳥インフルエンザを早急に壊滅させないと新型ウイルスが出現することになる。
 現在拡大しているH5N1型高病原性鳥インフルエンザは、高い致死率を持つ。97年に香港で登場してから(6人死亡)香港で毎年発生し、昨年には韓国からベトナムなどアジア10ヶ国に広がった。こうした広い伝播力は、体内にウイルスを潜ませた水辺の鴨などの渡り鳥が国境を越えて自由に移動するからだ。日本では1925年に鶏で高病原性インフルエンザH7N’型が発見されており、1月に山口県の養鶏場で発生したウイルスはH5N1とやや異なる亜種であり侵入ルートと感染源は不明だ。これまでのH5N1型は鶏などとの濃厚な接触から大量のウイルスを浴びて人間に感染しており、もともとは人間に直接感染して重症化することはないと考えられていた。しかしすでに2ヶ国で12人の死者が出ているが、現状ではヒトからヒトへの感染を生む変異ウイルスは確認されてはいない。しかし、アヒル、カモ等の水きん類や豚の体内で変異する可能性は高い。その場合、人間は強毒型H5N1ウイルスには免疫力がなく上気道だけでなく全身の重症化が予測される。
 ウイルスの遺伝子組み換えが起こりうる全ての鳥の全家禽類の全頭処分が必要となる(香港は97年に140万羽を処分して発生を食い止め、今回は2500万羽以上が処分された)。このウイルスは加熱(75度で1分)で死滅するので鶏肉と卵からの感染は薄い。

 昨年の新型肺炎SAARSの発生から牛海綿状脳症を経て鳥インフルエンザに到る一連の流れは、人間社会にどのような影響を与えているだろうか。
@畜産・養鶏業者と農家経済の崩壊をもたらしている。山口の養鶏場は閉鎖に追い込まれ倒産した。途上国では主力産業だから経済全体を破壊する効果を持つ。各国政府は全頭処分の補償と免疫注射費用の援助をおこなうとしているが、途上国の財政は厳しいから農家は信頼せず闇市場に大量に流れていると云われる。
A旅行キャンセルによる観光業の大打撃、渡航禁止措置による国際交流の途絶が誘発される。筆者も昨年5月に予定されていた中国社会科学院との学術交流が中止になった。
B社会国家システムの限界が浮き彫りとなる。昨年の新型肺炎発生時の中国政府は情報を公開せず、WHOとの間に激しい摩擦が生じた。中央集権国家においては、現場当事者の判断よりも中央政府の判断が優先し、流行を未然に防ぐシステムが弱い。さらに畜産の安全基準と衛生管理システムのレベルが国によって異なり、同じ国でも地域によって落差があり、発生源の特定と波及の防止が困難となっている。米国の牛ウイルスは米国政府のダブルスタンダードで、たった数頭検査で輸出再開を日本に迫るという信じられないモラルハザードを誘発している。
C健康の南北格差を極大化させる。高価なワクチンを大量に量産し備蓄できる財政力がある国とない国の格差が極大化する。
C文明の本質的な問題を提起している。遺伝子組み換えDNAのバイオ食品が急速に展開するなかで、人間では予知できない変種が誕生し、人間の文明を破壊する危険はないか。ゲノム産業が最先端産業と位置づけられて、生命操作が急速に進むなかで自然界のリズムそのものが根底から壊れていくのではないか。科学技術論の本質的な再検討が求められている。地球惑星の未来があるのかないのかとい基本に係わる問題に逢着している。(2004/2/3 20:52)

[白井義男はまだ生きていたのか!]
 1952年5月19日に日本人初のプロボクシング世界王者・白井義男(フライ級)が誕生した。敗戦後の日本に夢と希望をもたらした戦後のヒーローの典型であった。私は彼を指導したアルビン・カーン博士(元GHQ天然資源局将校)の方にカリスマ性を感じた。身寄りのないカーン氏は、そのまま白井の自宅に居つき、痴呆症のあらわれた晩年も白井の世話を受けて生涯を終えた。白井の3人の子は、白井が亡くなる9日前に51回目の結婚記念日を病床で祝い、母にハートのペンダント、白井にはそれを開く鍵を贈った。。白井は、「ママの全部が好き、生まれ変わっても一緒になりたい、かき分けてもママを探す」と笑いかけた。白井義男 03年12月26日死去(肺炎)80歳。戦後日本の大衆社会の終焉がまたひとつ印された。私はもともとボクシングが好きで上京するとよく後楽園ホールにいく。つまらない試合もあるが本当に真剣にぶつかり合う勝負は魂の響きを覚える。徹底したストイシズムの世界に何とも云えない思い入れを感じるのだ。白井氏の試合を直接観たことはないが、彼はボクシングの本質を具現していたような人物であったと思う。

 彼の訃報に接して現代日本の頽廃がいかにすさまじいか、とどまることのできない奈落へと転落していっているような気がする。ある先物取引会社のセールス・マニュアル(60枚以上)。
@「応酬話法」のひとつ「イエス・バット法」:相談してみるといって断る客に、ハイと一旦は受け入れて、しかしと切り返し、ハイありがとうございます、しかし相談されてもし反対されたらせっかうのチャンスを逃すことになります、ここは○○様ご自身の判断で思い切ってご決断してみて下さい、決して御後悔する場面ではございません。
A「資料活用法」:リスクが大きいと懸念する客に、罫線や各種データを見せて安全性を強調する、新聞の切り抜きなど具体的な資料でためらいを取り除く、資料は自分で改竄して有利に見せるテクニックもある。
B「実例法」:事実に基づいた多少のフィクションなどをあげる、事実を多少おおげさに云って説得する、相場に対して不安という客には、とんでもございません、今の状態では100%とは云えませんがそれに近い確率で値上がりが期待できる場面です、絶対に儲かるというと違法行為になるから微妙な言い回しにする。
C「所有暗示法」:客に契約書に印鑑を押させる最後の詰めであるクロージングは、儲けた満足感をイメージさせる話法であり、○○様、素晴らしいですよ、彼女を隣に乗せてウオーターフロントをドライブする今一番のデートです。
 営業マンは、毎朝7時30分から30分間、マニュアルに基づいた応酬話法の商談の練習をおこない、上司がチェックする。成績不良の営業マンは商談例の丸暗記を命令される。先物取引は1人あたり被害額700万円という危険な取引だ。日弁連は一般消費者に先物取引の勧誘を禁止することを勧告している。白井の世界とはあまりにもかけ離れている。(2004/2/2 23:51)

[不安定な弧と米帝国の世界戦略の再編]
 米帝国の海外軍事基地再編プロジェクト・リーダーである国防長官戦略担当補佐官アンデイ・ヘーンの新たな世界認識が「不安定な弧」であり、それに対抗する予防戦争戦略の中核が「蓮の葉」による「地球騎兵隊(機甲師団)」戦略である。「不安定な弧」とは、南米アンデス山地(コロンビア)から北アフリカに抜け、中東を横断してフィリピン・インドネシアに及ぶ紛争とテロの多発地帯であり、勝手の第3世界に一致し、しかも世界の主要石油埋蔵地域と重なっている。ところが現在の米軍の海外基地の展開は、この弧と重なっておらず、これが米軍の世界戦略を困難にしているとする。従って米軍基地をこの弧と重なるように再配置するために、「(水面に浮かぶ)蓮の葉」と比喩される新設基地を設け、米本土やNATO基地・日英の基地から重武装の米軍が機動的に飛び移る条件を整備するという戦略だ。
 南極を除く全ての大陸に展開する米軍基地の現状は以下のように推測される(国防総省『基地造営物報告書』2003年度版)。

 海外130ヶ国702基地の保有・借用
 米本土・海外領の6000カ所の基地保有
 海外基地の資産価値1132億ドル
 海外・国内基地資産評価総額5915億1980万ドル
 米軍最高司令部による海外配属軍人数25万3288名、同数の扶養家族・国防総省文官、現地雇用外国人数4万4446人
 国防総省保有建造物4万4870棟、借用物件4844棟
 米海軍艦隊編成13艦隊
 海外基地居住女性数10万人、軍隊内性的暴行・未遂数約14000件(年)

 さて不安定な弧に新設が予定される新たな米軍基地は以下の通り。
 アジア:インド、パキスタン、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、フィリピン、ベトナム(!)
 欧州:ルーマニア、ポーランド、ブルガリア
 北アフリカ:モロッコ、チュニジア、アルジェリア
 西アフリカ:セネガル、ガーナ、マリ、シエラレオネ
 削減・縮小:ドイツ、韓国、沖縄サウジアラビア、トルコ、国内基地

 富裕国から最貧国へ基地を移転する戦略は、「蓮の葉」戦略にあるが、実は環境規制問題がある。米国と駐留国の間に締結される「地位協定」は米軍による環境破壊と犯罪の免責条項を規定するが、先進国ではこれが困難になり、環境規制が緩やかで野放しの最貧国への移転によるリスク削減がめざされる。さらに海外基地の再編は、兵器の製造や基地の管理運営を請け負う民間企業に莫大な利潤をもたらす。その代表はハリバートンの関連企業ケロッグ・ブラウン&ルート社であり、それら企業のCEOはラムズフェルド国防長官でありチェイニー副大統領である。これほど軍産複合体が政府権力の中枢を握った例はない。イラク戦争に支出された戦費約300億ドルの3分の1は米系民間企業の業務に支払われた。

 では米軍の世界戦略の再編は効果があるだろうか。

 第1に地球騎兵隊構想の最大の欠陥は、重武装の機動戦による対テロ戦争にあるが、逆にテロのグローバル化を誘発し軍事攻撃によってテロは更に増大することである。1993年ー2001年9月11日までのアルカイダによるテロはわずか5件であったが、その後の2年間の爆弾攻撃は17件に激増した。にもかかわらず再編を追求するのは、テロ抑止を名目とする帝国の覇権の世界化にあることを示している。玄関を蹴破り、自由と民主主義のインチキ万能薬をひっさげて、古代から続く複雑な社会に押し入るのではなく、相手の文化を深く理解しながら政策を遂行する賢明な理性を失ってひたすら暴力で世界支配を追求する米軍は、遂に2020年までの月面基地の開設を打ち出し惑星を含む宇宙支配を宣言した。
 第2は膨大な国家財政の赤字の累積が修復不可能な破綻をもたらすだろう。米政府はこの負担を日・英のジュニアパートナーに負担を転嫁し、米・英・日による財政コスト戦略を考えているが、これら衛星国家の赤字は目を覆うレベルに達している。
 第3は米国市民のプレゼンス抵抗運動が激化する。すでにイラク駐留米兵の40%が予備役と州兵によって占められ、その任務も前線部隊の支援から最前線勤務に転換すると予測されている。イラク駐留米兵の自殺率と前線離脱率が急増している。戦時離脱停止令によってすでに4万人の兵士が退役の道を立たれ、完全志願制という原則が実態的に崩壊しつつある。再志願による戦闘任務に対して特別手当を増額するという緊急措置も効果を上げていない。近い将来に退役在郷軍人の召集が開始されると予測されている。米国内での家族とコミュニテイの不安は高まり反戦・反軍への契機となるだろう。

 パックス・アメリカーナは21世紀初頭を現象的には領導するだろうが、その本質的な矛盾は遅かれ早かれ顕在化し、巨像が音を立てて倒れるように崩れ落ちるだろう。その時に我が祖国日本は運命をともにするのだろうか。私たちの息子と娘の未来を私たちはいま奪いつつあるのではないか。チャルマーズ・ジョンソン『帝国の悲哀』を参照して筆者考察。(2004/2/1 8:16)

[日本政府は自分自身と国民を嘲笑しているーアラブ紙の告発]
 1月28日付けのヨルダン紙アッドスールが痛烈な日本批判を展開している。アラブ知識人の目に日本自衛隊のイラクがどのように写っているかを知ることができるので紹介する。

 小さく貧しい飢えている国が米国の圧力に屈して米占領軍を助けるために軍隊を派遣するー米国のどん欲さのために息子を差し出すーことは理解できるかも知れない。しかしなぜ大きく富める国が、人道援助という口実で派兵するのかまったく理解できない。米国は、日本のような最も誇り高い国に多大な侮辱を与え、1945年から現在に至るまで日本が米国の支配にあることを示しているのではないか。日本国内での反対運動にもかかわらず、日本政府が米帝国主義の圧力に屈していることは恥ずべき従属である。
 もしサマワに駐留する日本兵が、人道援助をおこなうというのであれば、なぜ日本政府は日本兵を保護するためにイラクの部族長に多額の金を支払うのか。これは日本政府が米帝国主義の利益に奉仕するために、日本の息子を死ぬまでイラクに引きずって行くことが危険だと思っていることを証明している。さらに日本政府は自分の行為が、自分自身と日本国民を嘲笑していることを証明している。自分自身が保護されることを求める兵士が、どうして人道援助などを与えることができるだろうか。イラクでは一体誰が誰を保護しようとするのか?


 まことに鋭い告発です。私たち日本が今回の派兵によっていかに尊い財産を失ったかにあらためて気づかされます。この財産は、戦後平和国家として60年余唯1人の外国人をも殺害せず、一切の戦争参加を拒否してきた日本が得ていた目に見えない信頼財です。信頼財という心理的なブランドはいったん失うと回復のためには数倍の時間と努力が要ることは企業経営のイロハです。おそらく自衛隊はイラク人を殺すでしょう。殺された時の撤退が大きく議論になっていますが、むしろイラク人を殺した時の喪失は日本に致命的な打撃を与えるのではないでしょうか。
 日本政府の卑怯な点は、親分が戦争に突入し勝った後にノコノコ媚びへつらって後始末に出かけ、現地の屈服した親分に金を払ってウマクやろうとしていることです。しかも私は親分の指揮命令は受けず、親分の仲間ではないとゴマカシを言いつくろって、とにもかくにもプードル犬のように振る舞っています。
 どうしてこのような誇りを失った、後世から見て奴隷期と記されるに違いない態度をとっているのでしょうか。それはあなた方自身がどこかで気がついているのではありませんか。自分自身がいる学園や職場を見渡すと、つねに強者(権力)の目を気にしオドオドと従っている人はいませんか。そして自分より弱い者に対しては逆の態度をとり偉ぶって振る舞う。私はつくづく思います。個人の自立と尊厳を打ち立てる市民革命を実体験した歴史がない国の哀れさを。変革は黒船からからGHQを経てつねに外部からの強制でおこなわれてきた日本は、ここにきてその欠陥を露呈し始めました。不殺生を至高の原理とする宗教団体すら人殺しを推奨して恥じない頽廃を示しています。そして最も残念なことは、抵抗運動の組織内部の一部にもこうした垂直的な権力関係が浸透し、自らの頭で考え抜くのではなく上位者の指示を待って忠実に動くという習性が蔓延していることです。
 ではどうしてこうした媚びへつらいとイジメの垂直的なヒエラルヒーのシステムが制覇したのでしょうか。そうしたシステムに嫌気がさして、多くの市民が引きこもり状態になってしまったことです。選挙の時の大量の棄権がそれを示しています。常に他人と強いものを気にして緊張していなければならないような社会では、疲れ切ってしまのです。引きこもりの子どもが部屋を出る決断をする時は何がきっかけでしょうか。それは自分の存在が認められた時です。自分の存在に意味があり、自分を大切に思えるようになると他人を大切に思う気持ちも芽生え、回復過程に入ります。大人社会でも同じです。互いに他者を思いやり共感しあう関係が、媚びへつらいとイジメを軽蔑する気持ちを生み、互いの尊厳を認め合う社会システムができていきます。

 結論を言います。真に自分の頭で考え抜き、互いの尊厳を認め合うようなネットワークで行動するシステムへの根本的な変革が求められています。その時にはじめて日本歴史は自分の足で立ち本格的な市民革命を刻むことができるのです。そしてどのような紆余曲折をたどろうとも、この道は必然であり誰しも避けて通ることはできません。(2004/1/31 9:19)

[集合的記憶の残滓か]
 1904年日露戦争ー(41年)ー1945年敗戦ー(15年)ー1960年安保反対闘争ー(44年)ー2004年現在
 敗戦時の日本人は日露戦争時の戦争体験を重ねて考えることができ、1960年の安保闘争が空前の大衆運動になり得たのは敗戦体験が鮮やかに残っていたからだ。04年の現在は、60年前の記憶は跡形もなく消え去った。しかしその前後約20年は前世代の体験が一定継承され記憶は残る。すると歴史の集合的な記憶は20ー30年のスパンしか維持できないと云うことになる。
 1964年米軍北爆開始(ベトナム戦争)ー(40年)ー2003年イラク戦争
 米国の戦争の記憶もベトナム戦争のトラウマが40年を経て消失しイラク攻撃に踏み切ったわけだ。おおざっぱなサイクルとして、歴史を画す戦争はおよそ40周年周期で誘発されていることになる。それは集合的な記憶が20−30年で消え去った後に、約10年を掛けて実戦に突入することになる。日本が60年を経ていま戦争に突入しつつあるのは、その意味では世界史上希な平和期を維持してきたことを意味している。独・仏を中心とする欧州諸国がイラク戦争に参戦しないのは、第2次大戦の悲惨な集合的記憶を連続させる記憶の再構築が営まれてきたことを示す。日本の記憶の継承の大きな要因は憲法第9条にあったが、いまや声高に改正が論じられる雰囲気が醸し出された。

 現代戦争は、一般市民をも当事者とする総力戦だから、戦争遂行は国民の一定の自発的な支持なしにはあり得ない。国民意識を戦争へ動員する多様な方法が開発されたが、その中心は内部矛盾の対外的矛盾への転化にある。不況による生活の悪化や階級間対立を、対外的な敵に対する憎悪に転化させる抑圧の移譲という方法が最大の効果を発揮する。北朝鮮の評価は措いて、荒れ狂うバッシングはその象徴的な形態だ。
 現代日本の国内矛盾は餓死などの1次元的な生活破壊ではなく、むしろかなり洗練された高度の心理的トラウマの蓄積という特徴がある。それは自ら自主的に選択していくかのような極限の残業による過労死などに見られる、あたかも非権力的な抑圧の形態にある。ある流通業の支店では、朝礼で目標を達成できなかった社員が、大勢の社員の前で「足手まといの歌」を歌わされている。彼らの顔は屈辱で惨めに歪んで涙を流しながら歌っている。この支店は、個人成績を合算したグループ目標の管理がおこなわれ、未達成のグループが罰を受けるのである。流通業界は、不況下で商品単価が落ち込み、それをカバーするためにこれまで以上の売り上げが求められ社員は過重なノルマを課せられる。競争が煽られ互いを思いやるのではなく、他人を蹴落とす地獄のレースである。この会社では、4人に1人が鬱病となって休職者が激増し自殺者が過去4年間で26人に上った。まさにフーコーのいう一望監視システムの完成である。人間らしい生き生きとした表情が消え、無表情の追い立てられる姿は、もはや通常の神経活動を展開する人間ではない。現代は最初にこころが病んでから次いで身体が病み、その過程は不可逆的に進む。自殺者約30000万人の背後には数倍の未遂者がおり、その背後には数10倍の心を病む人がいる。こうした蓄積されたトラウマは、容易に他者に対する抑圧に転化し、ついには他国に対する攻撃に転化してしまうのである。過去の戦場で信じられないような非人道的な迫害や暴虐が誘発された理由は、抑圧された主体がその被虐を加虐へと一気に暗転させるメカニズムがあったからだ。

 戦争の集合的記憶の連続性は、内部矛盾の敵対形態への転化の悲惨をリアルに継承できるかどうかに懸かっているともいえる。言い換えれば、戦争における被害体験の継承から加害体験の痛みに耐える高次の記憶へと上昇させなければならない。ところが米国と日本はこの点に決定的な弱点を抱えたまま、歴史を刻んできた。被害体験の継承が途絶える前に、はるかに自己努力を要求される加害体験の継承は途絶えている。ところが日本から被害を受けた国々の被害体験は継承されているから、その落差は二乗化してしまうのである。ここから導き出される答えは、万が一被害国になったとしても決して加害国になってはならないと云うことだ。イラク占領軍の一翼を担う日本自衛隊は、他国に対する戦後最初の占領行為という加害行為をおこなうのだ。その賛成が50%を超えると云うことは、日本国内の内部矛盾によるトラウマがいかに深刻であるかを示している。

 第2の具体例を挙げよう。引きこもり現象は、1950年代に学校恐怖症として最初の症例が報告された。1960年代半ばには、登校拒否・不登校が都会の高校生に広がり始め、80年代半ばには中学生に拡大し、90年代初めに小学生にも波及した。これまでは引きこもりを何か悪いことのようにいうムードがあったが、最近はむしろ細やかで人間的な繊細な感性の持ち主という見方が増えている。「友だちを傷つけたくないし、自分も傷つきたくない」という追い詰められた人間防衛反応だ。本来はナイーブにつながり助け合うはずの人間が、競争のなかで内部矛盾を蓄積し繊細な心ほど破綻が先に来るのだ。最悪の場合はそれを冷笑して敗者とみなす頽廃状況が誘発される。根底には、生産性と速度を求める社会システムとしてのフォーデイズムがあり、最近はコンペテイション至上主義がある。

 傷ついた鳥は羽を休める。必ず一回りも二回りも大きくなって必ず羽ばたくに違いない、それには時が必要だ。それには確かな出会いが必要だ。現代のトラウマははるかに複雑で多様だから、一人一人みな異なる形態を抱えている。こうしたトラウマの根元にある内務矛盾は内部でしか解決してはいけない。決してそれを外側に向かって放射するエネルギーに転化させてはいけない。それはグローバルな垂直的な抑圧の移譲の構造をつくり出すだけだ。ここに非戦の根拠がある。日本国憲法第9条の非軍事主義の理想は、かえっていま輝かしい光を放ち始めている。

 集合的記憶の継承は、意識的努力の質と量に比例する人為的な努力の問題だ。それに失敗すれば、悲劇を甘んじて繰り返すのを受容する結果となる。そこまで人類の知性的な水準は頽落してはいない。このホームページをごらんの皆様、どうか一歩を踏み出して下さい。(2004/1/30 22:38)

[強烈な訓読み]
 訓読とは「@漢字に国語をあてて読むことA漢文を国語の文法に従って読むこと」(『広辞苑』)ことであり、「漢文を字音で読む」音読に対比される。訓読は決められた規定がなく本人の言語観が強く反映される。自由奔放な訓読の例として柴田天馬訳『柳斉志異』から紹介する。(  )内が訓読み。スゴイとは思いませんか。

 醒然頓蘇った(いきかえった)
 興不佳(つまらない)
 心灼熱い(じれったい)
 毛森立する(ぞっとする)
 憩止む(やすむ)
 喧雑しい(さわがしい)
 疾呼く(わめく)
 遊郊野(ゆさん)
 儘情傾吐く(うちあける)
 滅跡匿影い(あとかたもない)
 以隠語く(それとなく)
 羞曇満頬る(まっかになる)
 悼痛終夜す(なきあかす)
 心灰意敗(がっかり)
 痛哭欲死(かなしい)
 意致清超(すっきり)
 色昏黄(ぼんやり)
                   (2004/1/29 21:38)

[自由か死か]
 米国大統領選挙の予備選が激しく戦われてた最東部・ニューハンプシャー州(人口120万人)の州のモットー(標語、信条)は「自由か、死か」であり、対英独立戦争の時のバージニア議会での唱語も「自由か、死か」であった。初代大統領ワシントンの軍に対する布告は「」アメリカ人民が自由人となるか、それとも奴隷となるか・・・・決定すべき日がいま目前に迫っている。・・・・勝利か、それとも死か」であった。アメリカ独立革命は、世界史上ただ一つ[独立+革命]となっており、唯単に英国からの独立ではなく国内における市民革命の達成を意味している。輝かしい米国独立宣言を提起した当時の米国市民の決死の思いが伝わってくる。
 しかし200年を経た今日では、米国独立革命を戦った市民の理想は泥にまみれてしまった。自らの独立時に命をかけて実現しようとした理想を踏みにじって他国を先制攻撃して恥じない国になり果ててしまった。いまや全世界はアメリカの一極覇権主義に対する怨嗟の声が溢れている。思い起こせばベトナム戦争以降過ちを再び繰り返している米国の世界史的な存在意義は死滅してしまった。
 米国独立宣言の崇高な理想を継承したのは、反米と呼ばれているキューバとベトナムではないか。キューバ・カストロのスローガンは「自由か死か、我々は勝利する!」であり、ベトナム独立宣言ではアメリカ独立宣言の一節がそのまま記載された。米現政権は自らの祖国の歴史的なメッセージを自ら投げ捨ててしまった。(2004/1/29 20:53)

[論争の不毛-この世の地獄を見よ]
 論争は対立点を単純化し、敵対者を制圧する性急なスタンスに陥りやすく、双方が相手を抹殺するかのごとく不毛な結果に陥りやすい。特に共同体的な残滓が色濃く残る日本では、論争を避けてうまくくぐり抜けるか又は人格批判にまで及ぶ激しい形態をとるから、そうじて生産的な論争の風土は弱い。
 記憶回復療法をめぐる最近の論争も非生産的だ。記憶回復療法は、1980年代から米国中心に登場した精神分析の手法を駆使した精神科の方法である。過去の虐待や暴力の被害のトラウマを無意識下に抑圧してきた患者に対して、精神科医が忘れ去られていた過去を想起させ、カタストロフィックな心理的な解放を体験させて病を治す方法である。ところがカウンセラーの指示を受けて、過去の虐待を捜索して損害賠償を求める裁判が急増し、裁判所も「蘇った記憶」のみを証拠とした事実認定を認めないようになり、本人自身もより心理不安定になり記憶回復療法は急速に衰退した。ところが記憶回復療法を精神医学的なレベルから、被害者の立場を極大化するフェミニズムのレベルに及んで、加害者批判の立場から記憶回復療法を擁護する反論が出るに及んで、論争は一気に学術的なレベルから罵倒に落ち込んでしまった。本質的な批判の応酬は大いに歓迎するが、当事者たる病める患者を措いた論争は滑稽ではある。心的外傷後ストレス症候群(PTSD)やアダルト・チルドレン等の流行用語を再審する必要がある。以上朝日新聞夕刊1月26日参照。

 中学3年生の男子が、父親と継母から虐待を受け食事を与えられず体重わずか24kgで意識不明となって救急病院に送られた。大阪府警は両親を殺人未遂容疑で逮捕した。児童福祉法における虐待による児童保護は、通告→一時保護→立入検査→施設入所→家裁審判による施設入所と規定し、00年に特別法として児童虐待防止法が制定された。同法は、早期発見→児童相談所への通報義務を課し、守秘義務より優先するとし児童相談所の立入調査権を認めた。今回の場合学校は親の面会拒否にあって児童相談所に通告したが児童相談所は立入調査をおこなわなかった。児童相談所の相談件数が急増し、この10年で約20倍に増えているにもかかわらず、全国182カ所しかない相談所ではとても対応できていない制度的な欠陥が露呈された。ところが驚いたことに、警察庁は教師の家庭訪問に警察官を同行させる強制立入権を認めよーと記者会見で云っている。問題の本質は児童虐待の相談所をめぐる制度的な欠陥にあるにもかかわらず、警察権力が泥足で介入する要請をおこなっている。この不毛性が無自覚のうちにおこなわれているのが何とも哀しく、空恐ろしい警察国家への一里塚ではある。

 子どもの権利国際条約が発効してから10周年を迎えた今年、28日にジュネーブで各国の現状の審査がおこなわれる。日本の子どもの意見表明権は充全に保障されているだろうか。例えばある不登校児は「学校を休んだのは、生まれて初めて自分で自分のことを決めたこと、自分が生きていくための人生の選択だった。私にとって不登校は自立への一歩だった。常に競争に追い立てられる競争社会ではなく、一人一人が大切にされる社会づくりをやってほしい。自分が自分であっていい、その上で何がしたいのかーをきめる支援が欲しい」といっている。日本での子どもの意見表明権がいかに貧困であるかー私自身が責められている感じがする。

 社会保険庁の国家公務員・横森真二(23)が投身自殺する前の1週間の超過勤務は54時間!、1ヶ月前は125時間に及び、直前の5日間は午前1時15分・同5時・徹夜・午前3時・当日は3時であった。亡くなる前日の午前5時に泣きながら上司に電話を入れ、「眠れない。仕事をやっていく自信がない。異動させて欲しい」と云ったが、上司の答えは「悩むな。頑張れ」であった。その日は出勤し翌朝2時50分まで勤務し、1時間後マンション11階から飛び降りた。人事院に公務災害を審査請求した両親の訴えは認められたが、社会保険庁からの謝罪の言葉は一切ない。

 チョウチョウのように舞い落ちる小さな地雷である旧ソ連が開発したPFM1は、航空機で上空からばらまかれ、地面に落ちた後で、プラステイックの本体に圧力が加わると爆発する。緑やベージュの色に惹かれる子どもたちが犠牲者の多くを占める。アフガン山中で8歳ほどの羊飼いの少年は、足を吹き飛ばされ動けなくなって、出血多量であっけなく死んだ。地雷除去を試みる人間を殺傷する地雷装置は、直接の対人地雷ではないとして対人地雷禁止条約(オタワ条約)では禁止対象外となっている。この装置は@地雷が動かされた時A明るい光にさらされた時B探知機が近づいて磁力を感じた時に爆発する仕組みだ。地雷を守る悪魔の知恵と呼ばれている。多くの国は「防衛に不可欠」としてこの地雷の禁止に反対した。日本はこの地雷生産国に参入し、全世界に地雷をまき散らす死の商人の国となっている。アフガン・バーミヤン遺跡の復興が遅々として進まないのはこのためである。(2004/1/28 21:45)

[今が戦時前期にあるとすれば・・・・・]
 戦争に直面した時に日本人はどのように行為したのであろうか。1931年の柳条湖事件に始まる15年戦争は、国家総力戦として物理的動員を含む国家総動員システムつまり精神という内面的動員を極大化した。逆に言うと全ての人が、自己体験としてこの事実を自らの問題として肯否定の立場の違いはあれ主体的に参加していった。こうした戦争体験はどのように語られたであろうか。
 戦時体制下に於いては、国民統合をめざす共同性を構築する戦場体験の「報告」として語られ(火野葦平、林芙美子)、マイナーな国民であった女性と児童を動員するルポルタージュが一世を風靡した(平野婦美子「女教師の記録」、小川正子「小島の春」、豊田正子「綴方教室」など)。しかしファッシズムのファナテイシズムは、平野正子を教壇から追放し、火野葦平と林芙美子や豊田正子は軍部に協力して戦場報道を過熱させた。
 戦後における戦争体験の語りは、否応なしに戦争に巻き込まれたという被害体験を共有する「体験」として叙述され、侵略戦争の加害者としての視点を持ち得なかったのが1950年代から70年頃までの状況であった。ところが1970年代にはいると、戦争体験を持つ人が減少し、体験の共有性が希薄化するなかで、戦後社会の虚栄を告発する「証言」としての語りに転回する。戦場体験以外の空襲や配給、疎開といった国内体験が登場し、また加害体験が始めて登場する。しかし歴史学界での遠山茂樹他『昭和史』と家永三郎『太平洋戦争』はいずれも「国民」というフレームにおける反戦の叙述であり、辺境の声は未だ主役ではなかった。1990年代にはいると、「記憶」としての戦争体験が語られるようになる。ここでは「われわれ=国民」というナショナル・ヒストリーを超えて、「われわれ=国民」からこぼれ落ちたデイアスポラや辺境者(従軍慰安婦や沖縄など)の証言に焦点が移ってくる。
 こうして戦争の物語のスタイルは、戦場「報告」による国民統合→被害「体験」による告発→多様な「証言」による実相究明→辺境「記憶」による責任解明と転回してきた。加害と国民範疇の脱却は、超国家主義による反発を生みナショナリズムの反転をも誘発した。しかし先記した『昭和史』の問題意識である”なぜ私たちは戦争に巻き込まれ、押し流されたのか、なぜ国民の手で防ぐことはできなかったのか”というテーゼは、2004年に形を変えて新たな問題として私たちに再び突きつけられている。いつの時代にも転換の画期を画すターニング・ポイントがあるとすれば、いまがその時であることを心ある人は気づいている。
 先日ある卒業生の女性から「聖教新聞」の購読依頼の電話が入った。彼女は在学中はまじめでおとなしい学生であったが、いまは情熱を持って宗教活動を展開している。私は彼女の所属する宗教団体のイラク政策を批判し丁重に辞退したところ、なにか勝ち誇ったような声調で電話を置いた。歴史的な転換の日々にあって、私は理性の呼びかけにあくまで謙虚に耳を澄ませ、自らの頭脳で自らの生とこの国の運命に想いをめぐらせたい。今が戦時前期にあるとすれば「なぜ防ぐことができなかったか」という二度とあってはならない問いかけを次世代に味わせてはならない。(2004/1/26 22:29)

[ウル第3王朝からトヨタへ]
 BC2500年頃にメソポタミアを支配したウル第3王朝の都市ウルは、日本・陸上自衛隊が駐屯するイラク・サマワの南東すぐ近くにある。1920年代から30年代にかけてウル遺跡を調査した宗主国・英国の調査隊は、王の墳墓から世界最古のクルマを発掘した。牛が引く四輪駆動車であり、別の遺跡からはラバが牽く戦車の図を箱も発見し、古代メソポタミア文明がクルマをすでに道具として使用していたことが明らかとなった。家の建築や燃料用の木材を遠隔地から運搬する大量輸送は、クルマによる街区と農地の拡大によって、砂漠化が進展し森林の絶滅と都市の滅亡を誘発した。
 それから4千年後の現在、中東の砂漠はクルマ文明に不可欠の推進力・石油の発掘に成功して、強国の石油利権をめぐる激しい修羅場となっている。驚異的な進化を遂げた自動車文明は、排気ガスをまき散らして地球惑星の温暖化水準をもはや人類生存の限界にまで至らしめた。大量生産システムの先駆となったフォード・システムが全世界の生産モデルとなって、石油消費型文明はその極点に達した。しかしフォードシステムによる需要開発の壁は、多品種少量生産システムのポスト・フォーデイズムに転回してその世界モデルとして登場したのがJITを核とするトヨタ生産方式である。先日の発表では遂にトヨタはフォードを抜いて世界第2位の販売量を誇る自動車メーカーに躍りでた。フォードシステムの黄昏を象徴するデータである。
 問題はJIT(Just In Time)システムが自動車産業のみならず、製造業から流通に到る全産業のモデルとして制覇し、一切の無駄をカットして人間労働力を極限まで切りつめる究極の非人間的労働を誘発していることである。例えば現代の最先端産業であるソフトウエア開発産業をみてみよう。ある女性(23)は、文系で情報とは無縁であったが就職難の末に大学卒業後関西系企業のSEとして働き始めた。入社時の技術研修は男性社員のみ対象という差別を乗り越えて、2年目から本格的なプロジェクトのメンバーとなった。午前9時から午後5時45分の定時にもかかわらず、顧客先のバッチ処理システムに午前8時から午後10時まで張り付き、トラブルが発生すると明け方4時まで働いた。2度にわたる優秀社員証を受賞し、プロジェクト・リーダーを任されてさらに責任が重くなった彼女は、午前2時に帰宅し仮眠して5時に顧客先に出勤する毎日となった。朝食はコンビニ・サンドで過ごし夕食は忙しいので抜いた。そのうち食欲がなくなり慢性胃炎にかかって眩暈がするようになった。心療内科を受診すると、強度の鬱病と診断されたが出勤を続けた。いったん構築したシステムの大幅変更を命令され、4ヶ月かかっても納期に間に合わず座骨神経症も併発し、休憩所がない顧客先のトイレで身体を伸ばした。こうして再度の鬱病を引き起こし、38キロのやせ細った身体になった。「なんでフォローしてくれなかったの?と上司に云ったら、もっと早く倒れればよかった、まじめなのが悪いと云われた」。年間自殺者が30000人を超え、過労自殺が急速に増大している背後には、こうした鬱病などの精神疾患が長期療養者のトップを占めるに到っている。彼女は、会社から自主退職を言い渡され、1枚の離職表とともに荷物が会社から自宅に返送されてきた。彼女の在籍期間はわずか3年である。これは現代のJITシステムの氷山の一角である。
 現代の主力産業である自動車産業の帰趨は原油の確保にある。ここに米・英・日は軍事力によってフォーデイズムとトヨテイズム戦略を強要し、石油戦略の支配権を確立しつつある、いやもう確立した。しかしそこはテロと強圧の悪無限の連鎖が続く地獄と化す可能性もある。アフリカ・シエラレオネでは内戦で子どもたちが拉致され、そのまま少年・少女兵としてAK47自動小銃を握らされ、無差別の殺戮を強要されている。少女兵士ファトマ(17)はゲリラ隊長に関係を迫られ、妊娠後村に帰った。畑仕事の両親を手伝い、9歳から1歳までの4人の弟妹の世話をしつつ出産を待つ。収容された15歳の少年は「アア、俺は何人も殺したぜ」とうそぶくが、国連スタッフが「昔のことは忘れよう、君のせいじゃあない」と肩を抱きしめられると、急に辺り構わず泣き出し始めた。子どもたちの将来の夢や希望は完全に絶たれてしまっている。以上は朝日新聞朝刊連載記事参照。
 
 日本で鬱病にかかって病んで企業から廃棄される女性と、劣化ウラン弾で身体を侵されているイラクの子どもと、AK47自動小銃で意味もなく殺戮している少年少女兵は、本質的に同じなのだ。全身から血を滴らせて最大限利潤を追求するフォーデイズムとトヨテイズムは、ロビー活動によって強国の軍事力を駆使しつつ世界展開を冷酷に推進している。人類の理性は、このような世界システムをハッキリと見抜き、遠からず根元的なパラダイム・チェインジの道を歩み始めるだろう。(2004/1/26 9:46)

[山は動くかー与謝野晶子のインパクト]

 与謝野晶子はいうまでもなく明治期女性運動の先駆的詩歌人であり、『青鞜』同人として時代の先端を走り抜けた。日露戦争出征の弟の無事を祈った反戦歌「君死にたまうことなかれ」では、驚くなかれ次のような一節がある。当時の天皇制絶対主義の渦中にあってなぜこのような言葉を表出しえたのか、表現の自由が歴然としてあるはずの現代ですら、みんな口を噤んでいるではないか。

 ”すめらみことは戦いに おほみずからは出でまさね”・・・・・・・スゴイ!

 次は『青鞜』創刊号の巻頭を飾った彼女の詩『そぞろごと』を紹介する。

 『そぞろごと』    与謝野晶子

 山の動く日来る。
 かく云えども人われを信ぜじ。
 山はしばらく眠りしのみ。
 その昔に於いて
 山はみな火に燃えて動きしものを。
 されど、そは信ぜずともよし。
 人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
 すべて眠りしおなご今ぞ目覚めて動くなる

 

 いかにも意気軒昂とした高らかな出発の宣言である。封建遺制に真っ向から挑戦しなければならなかった当時の女性たちの決意が象徴的にほとばしり出ている。平塚雷鳥の「元始、女性は太陽であった」という宣言文も見事だが、晶子がスゴイのは夫・鉄幹の子を11人も産み育てながら、こうした運動の最先端を担ったところにある。この生命力には圧倒される。天皇制と軍部支配に対する真っ向からの挑戦状である。青鞜派女性解放運動が持つ大都市文化を背景とする知識人女性の文化運動という限界は歴史的なものであり、彼女たちの責任ではない。100年を経ようとしている現代の運動は、はるかに豊かな展開を遂げているが、青鞜派の雲を切り開き天を突くようなパッションを連綿と継承していると信じたい。未来を切り開き得ない享楽と競争の支配力が強大であればあるほど、山を動かすマグマが深く静かに怒りを蓄積しているのだーと晶子は時代を超えて呼びかけている。(2004/1/25 22:02)

[イラク戦争の法理論的検討]
T、国際責任論
 国連加盟国191ヶ国で軍隊を派兵しているのは38ヶ国(1/5)。非同盟とイスラム圏諸国は派遣していない。国連安保理事会15ヶ国中5ヶ国が派兵し、常任理事国の多数(仏、露、中)と独は派遣していない。量数的な多寡ではなく、米軍の先制攻撃と占領行為の国連憲章規定に対する整合性が問われている。
U、日本国憲法第9条「交戦権」
 占領は戦争状態の一形態である。占領状態の領土内での活動は「自衛権」の必要最小限度の行使に含まれない。イラク在住自衛隊の法的な地位は、連合国暫定当局(CPA)の見解で占領軍として位置づけられ、イラク特措法でも「安全確保支援活動」「イラク人による米占領軍への抗議・抵抗運動への鎮圧支援」「米軍鎮圧活動支援」を含む軍事行動を規定している。イラク国民の抵抗運動に対して、正当防衛の名による武力行動をおこない、家屋の捜索と破壊、民衆の示威行動に対する弾圧をおこなう。
V、正戦論
 正当な大義のやむを得ざる最終手段としての戦争は許されるというーいわゆる正戦論は1928年のパリ不戦条約によって否定され、あらゆる戦争は悪であるとする戦争違法論が20世紀の国際理念となった。百歩譲って米軍の先制攻撃の正戦論的根拠である大量破壊兵器の緊急事態回避権を認めても、ではその大義である大量破壊兵器の存在はどうか。米国イラク調査グループ(ISG)責任者であるデイビッド・ケイ中央情報局(CIA)特別顧問は、大量破壊兵器の存在可能性をゼロとする報告を23日におこなっている。正戦論の根底が崩壊したのである。
W、反テロ戦争論
 テロとは民間人に対する無差別殺戮を含む暴力的手段によって目的を達成しようとする究極の最悪の抵抗形態である。抵抗闘争一般とテロは厳密に区別しなければならない。敵メンバーに対する個別攻撃をテロ一般と同一視することも峻別しなければならない。反テロ戦争論は、抵抗闘争一般をテロとみなして敵対する含意があり、究極的には抵抗権一般を否定する誤謬をもたらす。国連安保理事会テロ対策委員会報告書は「フセイン政権崩壊後から、テロ集団の活動機会を提供するようになった」とし、米英占領軍の占領行為自体がテロを誘発する行為だとしている。テロはむしろ米英占領軍の客観的本質となっている。(2004/1/25 20:08)

[Eppur si muoveそれでも地球は動いている]
 ガリレオ・ガリレイはミケランジェロが死んだ1564年に生まれ、ニュートンが生まれた1642年に死んだ。ルネサンスの最後と近代科学の幕開けの過渡期を生きた悲劇の人物だ。日本は織田信長の全盛期と鎖国の完成の間で科学的な思考はまったく出現していない時代だ。ガリレイは有名なピサの斜塔があるピサで生まれ、ピサ大学で医学を学び数学教授となった。医学生時代に振り子の原理を発見し、保守的な教授陣のなかで孤立して落下の法則を発見して2000年間のアリストテレス力学を否定した後、ベネテイア共和国・パドバ大学数学教授として活動し、望遠鏡を駆使したデータによる地動説を立証した。生国トルカーナ大公国首都フィレンツエに帰還後、ローマ法王庁の異端審問所の裁判にかけられ、1次裁判は執行猶予となったが、その後刊行した『天文対話』をめぐる2次裁判で有罪判決を受け、自説を撤回し処刑を免れた。Eppur si muovehaは監獄の壁に刻まれた語句である。彼はフイレンツエ郊外・アルチェトリの別荘に幽閉され生涯を終えた。両眼を失明後『新科学対話』を著している。
 遺体はミケランジェロやマキャベリ等とともに、フィレンツエのサンタ・クローチェ教会に眠る。最初は片隅にひっそりと葬られたが、死後100年後法王庁の許可で立派な霊廟になった。フィレンツエ科学史博物館には、正式に埋葬された時に好事家が切断したと云われる「ガリレオの指」や使用した望遠鏡とレンズなどが展示されている。1992年に359年を経て、ローマ法王はガリレオ裁判の誤りを認め名誉を回復した。以上朝日新聞2004年1月24日朝刊参照。

 地動説はすでにコペルニクスによって唱えられたが弾圧を恐れて公開されず、ブルーノーは教会審問で自説を撤回せず火炙りの刑に処せられた。科学史上のパラダイムの大転換をコペルニクス的転換という。ブレヒト『ガリレイの生涯』は、第1稿と第2稿に大幅な改編がある。ブレヒトがナチスの迫害を逃れて38年に発表した第1稿は、科学に殉教することなく真理を伝えるために信念を曲げたガリレイの態度を肯定している。彼の業績はむしろ裁判で自分の罪を認めて生き延びた後に展開され、秘密裏に伝書鳩に論文を括ってオランダに飛ばしたから、その記録が現代の私たちに残っているのである。ガリレイの屈服なしに近代科学史はなかったのである。これは社会運動における「偽装転向」の評価とかかわる大問題を提起している。
 しかしブレヒトは、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の惨状を聞いた直後に、この第1稿を根本的に改編し、権力に利用される科学者を批判する視点から、ガリレイの屈服を否定するシナリオに書き換えた。この問題はすぐれて現代的な意味を持っていると直感する。それでも第9条はあるーというつぶやいて私たちは戦場に出かけていくのであろうか。(2004/1/24 9:47)

[国のなか寂としてこえなく歴史は音もなくその巨大な一頁をゆっくりとめくった]
 いうまでもなく有名な宮本百合子『播州平野』に登場する8・15を描写した言葉である。歴史的な画期は後世に事後的に整理されて記録されるが、その瞬間では無自覚のうちに歴史の轍は大きな回転を遂げている。今まさにその瞬間が経過しつつあるのだが、一体何人の人がそれを自覚的に受けとめているであろうか。
 英米系の調査グループ「イラク・ボデイ・カウント」は、1月18日現在のイラク民間人の死者が9852人に達したと発表した。米軍主導の直接軍事行動やテロ、医療と衛生の悪化による死者である。米兵の死者約500人を圧倒的に上回り、戦争が一般市民に莫大な犠牲をもたらしたのである。その血塗られた武器の一端を我が国軍が遂に担うことになったのだ。歴史がまさに現代の同時代史であることを私たちは学習しつつある。その主要な責任は政府が負うが、それを許している市民の責任が免れるものではない。陣地戦における職場での戦闘形態は、まさに私であり・あなたでありー平穏な安逸に埋没している市民の振る舞いを問うているのである。とくに若者に問いたい。あなた方のナイーブな正義と真理に対する直截な反応はどうなっているのか。詩人・宮沢賢治「生徒諸君に寄せる」は次のようにうたう。

 それは一つの送られた光源であり
 決せられた南の風である
 諸君はこの時代に強いられ率いられて
 奴隷のやうに忍従することを欲するか
 むしろ諸君よ
 さらに新たな時代をつくれ

 新たな時代のマルクスよ
 これらの盲目な衝動から動く世界を
 素晴らしく美しい構成に変えよ
(全集第六巻)

 冬敏之(2002年2月26日没 享年67歳)、ハンセン病患者にして小説家。代表作『埋もれる日々』『ハンセン病療養所』『風花』。1942年秋に10歳で発病し、父と兄とともに愛知県から多摩全生園に強制隔離入院。少年舎のこどもは教育はなく患者の葬儀に動員された。父と兄は療養所で死んだ。1968年に上京し、差別社会のなかに飛び込む自殺行為と言われたが、すさまじい創作意欲で次々と作品を発表した。レストランにはいると、必ず真ん中の席に座った。重度の後遺症で夏でも手袋をし、眉毛も薄く、30回を超えた整形手術の跡は周囲の好奇の視線を浴びた。隅っこで人目を避ける怯懦を彼は徹底的に唾棄した。自分が死んでも葬式は絶対にやるなと云い、ハンセン病文学と冠するのを嫌悪した。彼はハンセン病という特殊性を通して文学の普遍性に到達したのだ。時代の転換期にあたっていかに振る舞うべきかを冬は自らの悲惨を通じて無言のうちに示している。それは決して譲れざる矜持だ。最も醜い者のなかにこそ高貴がある。この世で最も醜い姿のヨブこそ最も美しい心の持ち主であったのだ。このめくるめく神の摂理とパラドックスを君はどう解くか。世のなだれを打つ転換期にこそ、おのれの姿勢が試練の前に立つ。

 モスクワ・ロシア現代史記録保管センター(RGASPI)のコミンテルン・アルヒーフのなかにスポルチンテルン・アルヒーフがある。1921年創立、37年解散の赤色スポーツ・インターナショナル(RSI)。所蔵史料点数は6万枚強に上る。RSIがコミンテルンのスポーツ情報部門に転化して政治的な従属に陥る解散の過程が赤裸々に明らかとなる。1930年代の反戦・反ファッシズム運動の範疇で反ファッシズムスポーツ運動の全経過を検討するなかで自律的スポーツ運動の現代的課題が逆照射される。米国大統領の臨席を得て屈辱的なアメリカ公演をおこなったイラク国立交響楽団の痛ましい姿を繰り返してはならない。スポーツの世界でも同じことだ。(2004/1/24 22:23)

[純愛症候群の社会分析]
 韓国のドラマ「冬のソナタ」が爆発的な人気を呼び、片山恭一「世界の中心で愛を叫ぶ」(小学館)が140万部を超える超ベストセラーとなり、衆議院議員・船田元と参議院議員・畑恵の政界失楽園は船田氏の返り咲き選挙で終わった。いま日本では純愛症候群とも云うべき純愛に恋するといった切ないムードが溢れている。純愛は周囲の価値観を超えて内的な深い結合を無条件に追求するという特質を持つ。なぜいま純愛か。簡単ではないか。大不況と競争原理で外界があまりにもすさんでしまった日本は、一方で出会い系サイトなどの表層的な接触の虚しさばかりが昂じて何を信じていいか分からなくなった。何らかの外的目的の手段としてしかものが考えられなくなった状況への自己嫌悪がある。信じられるのは、唯1人への想いを貫く希少な世界こそ価値を持つ純愛の世界しか残らないという淡い幻想がある。つまり純愛症候群の大流行は、追い詰められた現代人のはかない溜息とも云える。
 注意すべきは、恋愛感情を誘発する脳内物質が、フェニールエチルアミンという麻薬系物質であることだ。この物質の作用期間はせいぜい3〜4年であり、ほとんどの純愛は4年で終止符を打つことだ。従って4年を超えて持続する純愛はホンモノの愛情であり、それは初期の原始感情を昇華させる知性に裏付けられた双方の深い努力が条件となる。しかも純愛の期待値は、一般的に男性の方が高い。なぜならフェニールエチルアミンは相対的に男性の分泌力が強く、女性は受容的な傾向が強く自己の人生への計算作用が瞬時に働くからだ。女性が一般的に、対象となる男性の外的条件(地位、学歴、経済力など)をすばやく計算するのに対し、男性は一気にのぼせ上がって周りが見えなくなるのはこのためだ。ロミオが先に毒を飲んだのであり、逆ではない。野菊の墓の民子の対象は、地主の息子であって小作人の息子ではないのだ。これは歴史的に女性が被抑圧的な立場に置かれてきたことから生じている本能的な防衛反応であるから、女性を一方的に責めるわけにはいかない。
 しかし私は現代の純愛症候群の大流行をみて、少しホッとする。これだけすさんで荒廃した日本社会で、純でナイーブな人間的原始感情を求めると云うことは、それだけヒューマンなものへの希求が連綿として存在して消えていないということを証明するからだ。問題はふたりの純愛が、外界へ向かって開かれたオープンな関係に変貌するかどうかだ。ふたりだけの世界に自閉して内在的な深みにはまれば嵌るほど、孤立系における自己完結した閉鎖系の自己満足に終わるか、外界から逃避する心中といった敗北のパターンが生まれやすいからだ。心中こそ純愛の究極の完成形態だと美化することは、実はふたりを追い込んだ真の悪を免罪する共犯関係を構成する。心中を最高の愛の確認として絶賛する人は、ふたりの醜い遺体と遺体処理の作業を実見したことのない人だ。
 純愛物語には一般的に性の登場は忌避される。とくに韓国や日本などの儒教的な伝統が強い国では、性自体が禁忌に近い待遇を受けやすい。先日妊娠した女子高校生が便所で出産し、こどもを男子と一緒に裏山に埋めて逮捕された。実に痛ましいが、こうした物語は崇高な純愛の範疇から排除される。しかし現実には、現代の純愛はこうした非人間的形態に容易に転化する危険を抱えている。結論的に云うと、現代ではかってのような純愛の成立は困難なことを示している。現代的な純愛は、孤立閉鎖系の精神世界とリアルな身体世界を豊かに統合した重層的な構造を持つ。北欧における性の存在形態は、人間の個の尊厳という視点からジェンダーとしての社会的な性をイコール・パートナーとして把握し、同性間の婚姻を含めてあらゆる性関係の多様性を相互承認し、相互の関係性を連帯という観点から深める。日本では性を含めて自己決定水準が未成熟で、多様性をおおらかに承認しあうという文化が育っていないから、幻想的な憧れとしての純愛物語に救いが求められる。もっとも純愛感情は理屈ではなく、パッと咲き誇る桜のようなものだから、こうした恋愛理論を説いても馬耳東風だ。大事なことはパッと燃え上がる主体が、前もってすでにどのような社会観を育て上げているかどうかだ。
 なぜ私は今日の日に、何10年ぶりかの恋愛論を展開したのであろうか。要するに失われた純な世界へのノスタルツジアが忽然と湧き起こってきたからに過ぎないのか。(2004/1/22 22:33)

[銀の滴降る降るまわりにーこんな美しい日本語があったのか!!]
 これは知里幸恵『アイヌ神謡集』にある口承伝承で実際には文字言語ではなく、日本語への翻訳である。アイヌとは人のことであり、カムイは「人間にはない力を持ったものすべて」つまり神のこと。神謡=カムイ・ユーカラは神が一人称で自分の体験を語る。知里幸恵氏は、滅びゆくアイヌ口承文化を集大成した記念碑的作品『アイヌ神謡集』(岩波文庫)を残したことによって最大の貢献をした。彼女は次のように語っている。「愛する私たちの祖先が起伏す日頃互いに意を通じるために用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんなはかなく、ほろびゆく弱き者とともに消え失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにも痛ましい名残惜しいことでございます。アイヌに生まれてアイヌ語の仲に育った私は、雨の宵、雪の夜、暇あるたびに打ち集まって私たちの祖先が語り興じたいろいろな物語のうちごく小さな話の一つ二つを拙ない筆に書き連ねました」と。では最も美しい口承詩を紹介しましょう。

 梟の神の自ら歌った謡『銀の滴降る降るまわりに』

 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴
 降る降るまわりに。」という歌を私は歌いながら
 流れに沿って下り、人間の村の上を
 通りながら下をながめると
 昔の貧乏人がいま大金持ちになっていて、昔の大金持ちが
 いまの貧乏人になっているようです。
 海辺に人間の子どもたちがおもちゃの小弓に
 おもちゃの小矢をもって遊んでおります。
 「銀の滴降る降るまわりに
 金の滴降る降るまわりに。」という歌を
 歌いながら子どもらの上を
 通りますと、(子どもらは)私の下を走りながら
 云うことには、
 「美しい鳥! 神さまの鳥!
 さあ、矢を射てあの鳥
 神さまの鳥を射あてた者は、いちばんさきに取った者は
 ほんとうの勇者、ほんとうの強ものだぞ。」


 そして私は歌う、「銀の滴降る降るまわりに 金の滴降る降るまわりに 君はイラクへ行ってはならない!」

                                                     (2004/1/20 22:30)

[汝自身を知れ]
 余りにも有名なソクラテスの警句(デルフォイの神託か?) 究極の知をめざすソクラテス的アイロニーの極地。

 ギリシャ語ではgnothi seautonグノーテイ セアウトン、ラテン語ではnosce te ipsumノスケ テ イプスム、ドイツ語ではErkenne dich selbstエルケンネ デイッヒ ゼルブスト、英語では know yourselfでいいのか。

 某自動車会社の車にイプサムというのがありますが、これはnosce te ipsumからきているのか。だとすると”あなた自身”というスゴイ命名だ。製品戦略論においてネーミングはマーケッテイングの枢要な要素だ。この自動車会社には、おそらく文系出身のかなりのセンスを持った企画部員がいるようだ。もっともクルマそのものが名前にふさわしいかどうかは別問題だが。

 ソクラテスは当時のポリスの社会的パラダイムを根底から疑い、あらゆる権威を問い直す知的探求を試みた結果、遂には外見的権力から迫害を受け、、裁判の最後の場面でたった一人孤立して敢然と数時間に渡る「弁明」を敢行し、一切の妥協を拒否して死を選んだ。彼のたどり着いた究極の知はいうまでもなく”無知の知”であり、さまざまのドグマに囲まれて知を誇るソフィストの偽善を暴露した。私は「朝まで生テレビ」という討論番組をみてつくづくと思う。現代のソフィスト連中がうようよと破廉恥な自己主張をして恥じない光景を見ていると、ソクラテスでなくても赤面してしまう。そこには双方向的な弁証法のコミュニケーションは死に絶えて、互いに自分の偏見とドグマに固執して罵倒の応酬が展開する悲惨な姿がある。唯ひとり羹尚中(東大教授)のみは例外のようだ。その理由は彼が在日外国人で日本を相対化してみる視点を持ちうる条件があるからとも云えるが、それ以上に客観的な分析を展開する資質の違いにあるように思われる。私が敬意を表する政治学者の一人だ。
 それに対し朝日新聞に時々登場する五百旗頭という少々変わった姓の持ち主(神戸大教授)の思想はひどい。日米領袖に媚びを売り、小泉首相を歴史的偉業を為しつつあると手放しの評価をおこなっている。違憲の軍隊派遣を論じない点で、法治と人治の区別もできない権力の番犬を演じて、喪われている矜持を恥じ入る自覚すらない。”無知の知”はまさに彼にこそ放たれなければならない言葉だ。(2004/1/20 20:15)

[高齢社会の階層構造ーいのちは平等ではない]
 社会疫学から老後の健康をみると、日本のある自治体に住む身体障害のない高齢者約3000人を2年間追跡調査した結果、低所得者層の要介護と死亡が高所得者層に較べて高という結果が出た。現在の東京の百寿者調査では、身体的に自立している人は20%で約40%は寝たきりであり、男性では高等教育進学者が34%、女性では中等教育進学者が42%と大正期の進学率ではかなり高学歴層である。高学歴を可能とした経済的条件と長寿は明らかな相関性を持っていることが分かる。
 現代の経済的格差進行は、低所得者層に心理的・社会的ストレスを集中させ、精神的・身体的な影響を蓄積させている。健康の階層間不平等はおそらく全世代に渡って蔓延し、富の再分配政策があらためて問われようとしている。しかし現実の社会保険と年金制度の再編は本人負担上昇と給付率軽減をセットでおこなおうとしているから、健康の階層間格差構造はより進化するだろう。しかもそうした格差を自己責任原則のもとで肯定する非常識の常識が、、市民自身の似非自発的な内面性によって支えられる悲惨な事態がもたらされる前に、理性による政策転換が必要だ。以上日本科学者会議『日本の科学者』2月号参照。
 一方子どもたちはどうか。疫学的なデータはないが、ひきこもりや不登校の階層間発生状況の分析が必要ではないか。ひきこもり調査は、文科省では13万人を超えているが、実態としては100万人近くいるのではないかとも云われている。ひきこもりを誘発する膨大なイジメの構造もある。ある19歳の青年は、5年間のひきこもりを”アノコロボクハ、フロクダッタ”と言って小学校から続いたシカトとイジメをうつむき加減の苦しい表情で振り返る。私たちはこうした人たちがいることを知っていながら、自分はそうではないというとホッとして過ごしている。地球人口60億のうち59億9999万9999人(自分以外全て)が我が敵に見えるとひきこもりの人は云う。文科省は自己責任原理主義で処断し、自らの制度的要因を解析しようとしない。世代を超えたカウンタームーブメントが近い将来に爆発するのではないかーそうした爆発なしにもし過ぎていくなら、奈落の底が待っているだろう。(2004/1/20 9:53)

[日本の治安は危機か?ー警察庁「緊急治安対策プログラム」について]
 警察庁は、平成14年度の刑法犯認知件数285万3739件と7年連続で戦後最多を記録し、刑法犯は過去最低の検挙率となっているとし、3年で治安を回復する「緊急治安対策プログラム」(2003年8月)を発表した。これは事実か?
 犯罪発生率は人口10万人あたりでみると以下のようになる。重要犯罪にあたる凶悪犯(殺人・強盗・砲火・強姦)、粗暴犯(凶器準備集合・暴行・生涯・脅迫・恐喝)を警察白書(昭和50、54,59年版、平成元、6,11、15年版)でみると次のように推移している。

 凶暴犯総数 14,6→8,9→6,8→5,9→9,9人
 うち殺人2.3→1,7→1,5→1,0→1,1
   強盗4.0→2.0→1.9→2.2→5.5

 粗暴犯総数 146,9→71,7→42,9→29,2→60,1
 うち暴行44,9→22,1→11,7→4,9→15,3
 窃盗犯 1045,5→927,3→1117,5→1250,7→1866,2

 お分かりのごとく凶悪犯・粗暴犯の人口10万人あたり発生率は最近は増加傾向にあるが、長期的には減少傾向にあり、窃盗犯だけが長期的に増加傾向にある。
 これを欧米諸国と比較すると日本の治安状況は明らかに安定している。

 殺人の仏・独・英・米・日の1988年度の件数は次のようになっている(括弧内は2000年)。平成14年度犯罪白書。
 仏 認知件数 2567、発生率3.7(2166、3.7)
 独 認知件数 2543、発生率4.1(2860,3.5)
 英 認知件数  992、発生率2.0(1558,2.9)
 米 認知件数 20675、発生率8.5(15517、5.5)
 日 認知件数  1476、発生率1.2(1462,1.2)

 日本の犯罪は、窃盗犯と強盗犯が増大し認知件数の増加とと検挙率の低下をもたらし、明らかにバブル崩壊後の長期的大不況と相関関係がある。犯罪捜査の重点となる殺人・強盗・傷害・放火の欧米比較では日本は最も安定した治安状況にある。ところが体感治安は相対的に悪化して、これが治安の悪化という全体的な印象をもたらしている。この主要な原因は、マスメデイアの犯罪報道が煩瑣に刺激的になり視聴率を稼ぐ編集方針にあり、発生率自体は有意味な変化がないにもかかわらず、あたかも身の回りで頻発しているかの感覚が醸成されているからである。
 しかしなぜ認知件数が増大し検挙率が低下したのであろうか。第1は先記した長期大不況による窃盗と強盗の増加であり、第2は捜査を担当する警察自体の危機が進化していることである。日本の警察は、刑事・防犯・交通・警備の4部門のなかで警備警察が全権を把握し、政治警察的な領域に主力を注いでいる。さらに警察組織の垂直的な官僚制がそそり立ち、市民や自治体の監督権は形骸化し、欧米のほとんどの国が法制化されている警察官組合が禁止されているという恐るべき後進性にある。本来の市民警察的な側面が薄弱となり、さまざまの監視機構が中心となっている。市民警察の理念を実現する警察の民主化なしに検挙率の上昇はない。治安悪化キャンペーンは明らかに、江戸期の5人組や戦前期の隣組をベースとする草の根からの警察国家の構築をめざしているものに他ならない。(2004/1/18 19:53)

[πの神秘]
 ギリシャ語のアルファベットで16番目の文字(π)は、円の直径に対する円周の比率を表す=円周率:3.141592・・・・と無限に続く数値であり、古代から全世界でその計算の挑戦がおこなわれた。日本におけるπの研究は、1663年の村松茂清『算俎』で内接する正多角形を使った円周の概算を示したことに始まる。彼の研究の画期的な点は、それまで学派の秘伝とされていた計算法を公開し、7桁まで計算したにもかかわらず自信がなくπ=3.14まで発表したことにある。村松の計算法は、急速に普及しその後の100年間に影響を与えた。関孝和は1712年に16桁まで伸ばし、建部賢弘は1722年までに40桁を計算した。そして1722年に鎌田俊清がπを証明する別の方法を発見し、内接する正多角形と外接する正多角形の両方を使うという方法で、πを小数点以下24桁まで計算した。しかし当時の日本の知識人は無名の数学者の挑戦的な最先端の証明を無視し、江戸期末期の19世紀まで√10の値を使い続けた。1997年時点で世界の最高峰は、金田康正が日立SR2201を用いて29時間かけて515億桁(3×234)を計算し、1999年に金田と高橋大介が日立SR8000を用いて687億1947万桁まで伸ばしている。
 日本での200年間における7桁→687億桁という驚異的な展開から私たちは何を学べるだろうか。
 第1に、人間の知性は必ず進歩するとうことを証明しているということです。どのような乗り越え不可能に見える壁に直面しても、長いスパンで見ればそれは必ず切り開かれるということを示しているように思えます。
 第2に、時代の激動のなかで唯ひたすら自らの専門にひたすら固執して力を尽くしていくーそのようなエネルギーです。これは狭い専門に閉じこもって他界に関心を持たなくてもよいという意味ではなく、どのように他界が激動しようとも自らの専門を、自らのポジションでしか歴史に貢献できないと云うことを示しているように思えます。
 第3に、πの計算は無限ですが、まさにこれは人類の無限の歴史そのものを示していると思います。これは現在を生きる人間が、過去の到達点を踏まえて、自分自身がそこに何桁かの前進を付け加えること、そしてそれを未来世代に手渡すことーそこにこそ個人が生きる意味があるように思えます。
 第4に、πの歴史が示しているのは、先人が開拓した方法とは異なる方法を開発し、新たなパラダイムと地平を切り開くことによってしか前進していないことです。唯単に人の物まねや他人の頭に従ったり、云われるままに従って生きていることには意味がないということを示しています。πの歴史はまさに人類史そのもの象徴なのです。(2004/1/18 16:29)

[西澤實「瀬戸内の鬼」]
 あの桃太郎とやらいう少年侵略者が、私どもの島を占領した屈辱の日に、愛しい夫青鬼は仲間の赤鬼や斑鬼の皆さんとともに命を失いました。桃太郎が来さえしなければ、夫は今でも元気で私と幸せに暮らしていたでしょうに。鬼ヶ島の私どもがどういう悪いことをしたんでしょうか。桃太郎一派の言いぐさによれば、鬼は人間の女を拐かし、宝物を盗み出しなどと罪を並べ立てました。証拠はあるんですか。誘拐や盗みだの・・・証拠がありますか。被害者はどこにいますか。いないでしょう。当然です。あれは桃太郎という侵略者がでっち上げた大嘘です。
 そうです。平和で美しい鬼ヶ島の豊かさに目をつけた侵略者です。残酷で恥知らずの軍国主義者です。しかもどこかの港の船を略奪し、犬・猿・キジつまり泳ぎのできる犬ー海軍、木登り上手の猿ー陸軍、そして空軍のキジ。この3軍を引き連れてある日突然殴り込んできたのです。それもいいかげんなー証拠もない作り事を、犬・猿・キジに巧みに信じ込ませて、その頭の悪いお腹をすかしていた2匹と一匹をご覧なさい。吉備団子一つという、まったく最低のエサで買収して命がけの戦に投入するのです。この欺瞞。大嘘。
 しかも戦意なんかまったくない鬼たちをーそれは見かけは恐い顔をしてツノ生やして、虎の皮のパンツを履いている裸の私たちは、一見悪い生きものに見えます。こりゃ仕方のないことです。生まれつきなんだからー見かけが恐いからといって、性格・性質までが悪いと判断するのはいかがなものでしょうか。
 いまさら愚痴を並べても済んだことは仕方がない。死んだ夫は二度と私の胸には戻ってこない。そのことは諦めます。私の願いはただひとつ。キビ団子たった一つで買収された、犬・猿・キジは云いようもない愚か者だと思いますので、おいといて、主犯の桃太郎。どうぞ世界平和のためにーあなたがた人類の平和のためにーどうぞ法に照らして、あの侵略者・殺人者・略奪者を至急に逮捕・処断して下さいますようー沢山の鬼の後家を代表してーあえて一筆。

(最高裁判事の返事)お申し越しの件、もっとも至極ですが、ご指摘の桃太郎はご希望のように逮捕処断はいささか不可能と思料いたします。彼はなにしろ満10歳なので少年法の上から何ともならんのであります。ご賢察下さい。

 桃太郎伝説のパロデイですが、よくできていると思いませんか。あまりにも現在の中東のある国に酷似して。(2004/1/17 20;:50)

[伊谷純一郎の先駆的平等論]
 伊谷純一郎は日本のサル学研究の先駆的な業績をもとに「人間平等起源論」を上梓した(おそらくルソー『人間不平等起源論』への反措定であろう)。既成の平等論は、超越的な本質論として語られ(イエス”飢え渇くものは幸いである、天国は彼らのものである” 福沢諭吉”天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず” 親鸞”善人なほもて往生すいはんや悪人おや”等々)、現世の不平等を鋭く告発し民衆に希望と勇気を与える画期的な意味を持ったが、一方では平等を彼岸に置いて現世での屈従を甘受する作用も果たした。超越的な平等論と現実がぶつかる場面では、鋭い対決か妥協という2つの選択肢しかなかった。最悪の場合は超越論が反転して平等を攻撃するパラドクシカルな裏切りを平然とおこなう場合もあった。
 例えば福沢諭吉が日清戦争直後に書いた「戦死者の大祭典を挙行すべし」(1895年)は、凱旋将兵は爵位と勲章を授与されて栄光に包まれているが、戦死した将兵と遺族は冷遇されている、もう一度アジアで戦争をする時に兵士と国民は死の意味を納得できない、招魂祭を分散しておこなうのではなく靖国神社を建立して名誉ある戦死を讃える天皇の勅語を出すべきだと主張した。いうまでもなく日清戦争は朝鮮半島の支配権をめぐる日中の帝国主義戦争であり、これ以降日本の朝鮮支配が進んだのである。福沢の天賦人権論にはアジア被抑圧民族の平等ははなから存在しなかったのだ。
 なぜこうした超越的な平等論の反転が誘発されるのであろうか。それは現実そのものの内在的な平等の必然性を明らかにできなかったからだ。唯一マルクス主義が此岸における現実的な平等の可能性を理論化したが、平等の方法論において致命的なミスを犯し「社会主義体制」は崩壊した。マルクス主義の超越論的な解釈がこうした取り返しのつかない逆転を生んだ。両者とも人間社会の現世の自然科学的な平等論が構築できず、ダーウイン的な進化論を前提にして社会理論を構想したからである。このパラダイム転換を成し遂げたのが伊谷純一郎の人類学理論ではないだろうか。伊谷氏は、もともと不平等であったサル社会から、ある条件の下に平等をつくりだしたことが人間社会の開始を実現させたとする。その条件は、遊びや挨拶、食事の分配といった行動に、個体間の優劣を崩壊させるようにあらわれるという。サルは、強いサルから攻撃を受けると自分より弱いサルに攻撃を転化し、喧嘩が起こるとより強いサルに味方して集団の安全を守ろうとする。優劣関係を忠実に守ることによって、勝者をつくりだし反撃を防ぐのが喧嘩を収める最適な方法なのだ。劣位なサルは常に優位のサルの視線を気にし、不平等を公に顕在化し制度化させることによって共存を追求する。人間社会で云えばヤクザ集団のようなモデルだ。
 ところが類人猿のゴリラやチンパンジーは、挨拶や遊びの場面で弱い者が強い者をジット見続ける。喧嘩の仲裁や食事の分配は、仲裁者が弱い方に味方し、食事の要求は弱い方から先に始まるという。ジッと見続ける視線は強者の行為を抑制し、遊びも年少者が主導権を握り、年長者が抑制しないと遊びそのものがストップする。つまり類人猿は、強者の行動を抑制するシステムによって集団の維持を実現している。人間という種は、類人猿の条件的な平等システムを発展させ、次々と高度化させてきた歴史でもある。強者が弱者に場所の権利をゆずり、ともに生きることを歓びとする感性が発達してきた。さらに分子遺伝学の知見では、優越遺伝子のみで構成された種は絶滅し、優越遺伝子と劣等遺伝子とが混在して共生してきた種が生き延びてきたことを明らかにしている。

 さてみなさん現在の地球の上に生きている人間たちは、サルに近いのか類人猿に近いのか。私たちの身近なところで、弱者に攻撃を集中する抑圧の移譲という現象はありませんか。国際関係で常に強国に媚びへつらって安全を確保しようとする行動はありませんか。ザ・ニュースペーパーというコントグループが次のようなことを云って笑わせます。”日本はアメリカの犬だ、という意見があるが、それでもいいじゃん。犬ってのは主人を守るものだけど日本は守ってもらうチワワなんだ。だからアメリカに決してしっぽは振らない。ただ目をウルウルさせるだけ、アメリカはそういったチワワ日本が可愛くてたまらないんだよ”ー意外と真実を射ていませんか?

 でもみなさんこうした事態は、確実に取り返しのつかないカタストロフィーに向かって時間とともに速度を上げて進行します。もしサル社会がいいというなら歓迎すべきですが、地球を剥き出しのジャングルの掟に委ねたら最後は種全体が絶滅して終わると云うことも分かっています。しかし何か恐ろしい事態へと転落が始まっている時には、「普通」の生体的な拒絶反応が必ず起こります。”王様は裸だよ”と云った子どもは、勇気をふるって云ったのではなく普通に疑問を出しただけです。まだ間に合います、ギリギリではあるけれどまだ間に合うーそういう時に今あるのではないでしょうか。まだ生まれてはいないが、必ず生まれてくるあなたの子どもを想像しましょう・・・・・。朝日新聞1月17日朝刊参照して筆者考察。(2004/1/17 9:46)

[恐るべし白川静ー学問の鬼]
 福井の小学校を終えて、大阪の法律事務所に一人で住み込む。書物を読む生活が希望で、事務所には漢籍も国文書もある自分で選んだ環境だ。家は洋服屋で親父が後を継げと云ったら一生ミシンを踏んでいた。夜学に通いながら立命館漢文学科を卒業し、同大予科教授を経て教授に。故郷は幕末の志士・橋本左内や歌人・橘曙覧の出身地で自然と古典に向かった。「万葉」と「詩経」の比較研究から東洋の解明が生涯のテーマ。民俗の事実を押さえるために折口信夫と柳田国男を読む。そこから字の成立の源泉に向かい、「説文解字」を拠り所に根本から考え直そうと甲骨文字のトレースをおこなう。東洋の回復は漢字文化の回復にしかないと思い定める(ベトナムはフランス占領下でローマ字になり、南北朝鮮も同じ)。
 60歳で一般書『漢字』を刊行し、甲骨文と金文研究を踏まえた講義録『説文新儀』と『金文通釈』を出版。大学を退官し13年かけて74歳から『字統』『字訓』『字通』の字書3部作を出版し着実に漢字文化の再建に向かう。目標を遠くに置かず、現在の条件で実行可能な範囲を見極めて実行する。88歳から年4回、5年計画で連続講座「文字講座」を始めて予定通りに終了し、現在93歳になる。
 これから30数年前の原稿を改訂した『金文通釈』全10巻を出版する。現在9巻分は完成したが、殷王朝の形成過程を扱う最後の1巻をどうしても今年中に完成させなければならない。要望が強いので「文字講話」を秋から再開するが、それ以外にやりたいことがいろいろ多い。

 ウーン学問の鬼だ! しかもアカデミズムの誰もが為し得なかった漢字の根底的な再構築の事業・・・・・何の名誉や報いのためでもなく、ただその一つに全てをかけた職人としか云えない作業のめくるめくような積み重ね・・・・ここに古典学の一典型がある。こうした学問の重要性は、理論的な説得では何の効果もなく、ただ自らの寝食を忘れた小石を積み重ねて頂上に到る気の遠くなるような作業の実際を示して始めて可能だ。ただ伏して頭を垂れるしかない壮大にして、決して目立とうとしては不可能な学問の道だ。74歳から字書3部作を完成するとはいったいなんだ(もちろん何人かの助手はいるだろうが)! こうした先達の存在自体が励ましと勇気を与える。世の栄枯盛衰を超えた学問の本道があると思う。

 私の専門で云えば、戸木田嘉久『労働運動の理論発展史(上・下)』がある。氏は「使命感に駆られて」79歳で本書を上梓した。我が人生の本史(正史)は定年後である。それまでは前史に過ぎなかった。私も同じように秘かに心に期して歩み出したいと思う。

 おりしもわたしは年頭にあたって次の歌を詠んだ。

 ひとすじの光さしこむ朝焼けに 歩みいださんふたたびの道

                   (2004/1/13 20:43)

[ござらっせ-長久手温泉の一日]
 連休最終日の成人の日です。40年前の今日、私は故郷の公会堂で催された成人式に出席し、市の幹部の式辞を受けてなにか憮然とした想いで会場を後にしたことを思い出します。当時の私は学生運動の真っ只中にあって、集会と言えば旗とプラカードが林立し、演説が飛び交う高揚した雰囲気で過ごしましたから、官制の取り澄ました式典に大いなる違和感を覚えたものでした。今日の成人式の日、街は静かで成人の日を迎えた若者の姿は少なく、晴れがましい晴れ着姿もチラホラとしかみかけません。成人式の式典を酒を飲んで騒ぎ会場を混乱させる若者を非難がましく報道しますが、若者が大人の恩着せがましい演説に短絡的であれ拒否の姿勢を見せるのはあながち批判するする資格が大人の側にあるのだろうかー等と考えてしまいます。私の息子も成人式の日には帰省し、地元の小学校で開かれた式典に参加したことを昨日のように思い起こします。彼らにとっては懐かしい同窓会を兼ねるのです。
 今日は妻と妻の友人Yさんと3人で長久手町の天然温泉”ござらっせ”にいきました。途中の道は愛知万博のモノレールの橋脚と電車道が完成間近で、遠くには幾つかのパビリポンらしきものがすでにできあがっているようです。一過性のイベントに何百億円もの巨費を投入し、終わってみればつわものどもが夢の後の荒廃したイメージが浮かんできます。”ござらっせ”は名古屋市近郊都市である長久手町が開発した福祉施設兼温泉で田んぼのなかに近代的なエンタテイメント施設がそびえています。温泉は老若男女が満員でそれぞれ温かい入浴を満喫しています。私は、サウナが大好き人間なので、大いにサウナを楽しみながら1時間30分も過ごしました。身体全体がポカポカとして家路につきました。
 温泉を中心にした大型エンタテイメント施設が各地で集客力を誇り、あたかも極楽に似た癒し系空間が出現しています。バブル崩壊後の大不況のなかで1回700円の入泉料で、身体も心もリフレッシュできるというところに、巨大なマーケットが出現しているのでしょう。”ござらっせ”に附属している売店では、地産地消の農産物と瀬戸焼の販売コーナーがありました。福祉とともに地域起こしの懸命な努力がうかがえて少々哀しくなりました。なぜならこういったコーナーには客がいないのです。大状況における戦争と大不況、小状況における亜極楽の非対称性に幾ばくかの感慨を覚えるのです。
 いまイラク派遣自衛隊員のための桐製の棺桶が発注され、イラク派遣輸送機に積み込まれているそうです。自衛隊員の死者が出ることを前提に今回の派遣が強行されています。犠牲者の命を最大限に宣揚し、崇高な行為に昇華して賛辞を捧げる儀式のマニュアルも儀仗からはじまってすべて準備されています。現地イラクは水という最低限のインフラが破壊されているなかで、米系企業による衛星放送受信機が市場に並べられて売られています。日本の自衛隊は友刺鉄線で隔離された駐屯地内で、きれいな水を準備しイラク人が取りに来るのを待つシステムだそうです。これが人道支援の中身なのです。
 宮田光雄氏の「出エジプト ≪選民意識の光と影≫」は、旧約聖書の『出エジプト記』を対象に現代のアメリカ帝国の行動を分析しようとする原理的な作業として注目されます(『世界』2月号 P204)。イスラエルの民がファラオの専制から離脱し、十戒を得て遂には<乳と密の流れる>約束の地カナンへの脱出を描いたストーリーは、現代の閉塞した現状からの脱出と未知の未来へ向かう新たな出発を基礎づけるストーリーとして、米国とイスラエルの根底にある象徴的な意味を持つ物語となっています。神から選ばれたピューリタンが北米原住民を虐殺して土地を蹂躙し土地を奪って現代のアメリカ帝国ができあがり、アラブの民を追放し虐殺しながらイスラエル建国を成し遂げたユダヤ人の依拠する救済のモデルが「出エジプト記」となっています。
 アメリカ帝国のキリスト教には、預言者型と祭司型の2類型がある。預言者型の指導者は、超越的な力に訴えて偶像崇拝的なナショナリズムに対抗する正義を追求するが(M・Lキング牧師)、祭司型の指導者は米国が世界で最も偉大な国と絶叫して自由の普及を宗教的な使命とする(ネオコン=ブッシュ)。後者は善ー悪二元的な世界観で敵ー味方を分別し、米国の単独行動主義を神の祝福を受けた聖なる行動として美化する。この宮田氏の分析は素晴らしい。キリスト教原理衆主義による「出エジプト記」の恣意的な解釈は旧約の思想そのものを貶めている。なぜなら「出エジプト記」は、まさに帝国の抑圧を受けて奴隷化された民族の解放の物語であって、帝国の物語ではないからだ。「出エジプト記」の正当な後継者は、M・Rキング、解放の神学のなかにこそ最もその意味を開示しているからだ。本日は”ござらっせ”での入浴から解放の神学に及ぶ長い道程の1日であった。(2007/1/12 17:29)

[子どもたちはどこへ行こうとしているのか?]

 警察庁少年犯罪犯罪統計(20003年1−6月)から。
 @殺人63人(前年34人の2倍)
 A強盗876人
 B凶悪犯罪(殺人+強盗)1105人
 少年が被害者となった事件数。
 @少年被害数170000件(小学生120000件、未就学児252件)
 A未成年者連れ去り件数200件
 B強姦・強制猥褻被害件数 前年比46%増

 大人社会の対応形態。
 @厳罰主義ー犯罪者の親を引きづり出せ!(鴻池担当大臣)、”少年犯罪から社会を守る”(政府検討会報告)、スクールサポーター(元警察官)による学校内巡回システム
 A監視主義ー自治体がGPS・ブザー提供

 子ども環境の激変
 @学校の塾化・予備校化
 A家族解体ー孤食による食文化崩壊(小学生の51%が朝食を1人、同じ時間帯で個室で別メニューで、朝食の朝オヤツ化)、乳幼児虐待(24195件うち身体的虐待46%・ネグレクト38%・心理的虐待13%・性的虐待3%、7人に1人が虐待体験を持つ)
 B子どもの消費市場化ールーズソックス2兆円産業化、小中学生向け化粧品コスメテイック
 C子どもの性商品化ー出会い系サイト児童買春件数400件(うち90%が少女からの勧誘)、高校生の50%が売春売春容認
 D労働市場からの排除ー高校生就職内定率34.5%(沖縄6.6%)

 どうすればいいか
 @大人が責任の全てを引き受けるー母子カプセル子育てシステムの脱却
 A子どもの意見表明・参加権保障ー合併住民投票小学校5年生から(北海道奈良江町の子どもの権利に羹する条例)
 B自己肯定感と協働を育むカリキュラム

 以上は『世界』2月号の特集記事の要約です。最初に注意すべきは少年犯罪の統計処理です。殺人統計のような絶対数が極少のものは増加率の意味はなく、警察の検挙率も成人犯罪よりは検挙が容易い少年犯罪の検挙率が上昇する可能性がある。また少年犯罪は共犯が多いので1つの事案の検挙数が多くなると云う特徴があり、統計データを見てただちに少年犯罪が増加しているーというような短絡的な結論は出せない。さらにかっては「窃盗」と「障害」で立件した事案も最近は「強盗致傷」で立件しているという変化があり、ただちに凶悪犯罪が増加しているという結論は出せない。 
 理解不能なモンスターのような子供が増えている、子どもの質が変わっているーという印象も実は大人の側の問題があり、「心の闇」というような主観的な表現でアプローチしても意味がない。問題は大人のほうが夢と希望を語れない閉塞状況にある。情熱と真剣さを以て子どもに対する大人がいなくなった。過去と未来がなく現在だけの光のない道を子どもだけで歩ませれば、安易で歩きやすい刹那的な道を暴走するしかないのだ。ある意味で現代の子ども世代は、戦後最も不幸な世代だとも云える。バブル全盛期に出生し有り余るモノと情報をに囲まれて、弄ばれてきた世代であるからだ。変わったのは社会の方であって子どもの世界ではない。
 最も注意すべきは「子どもの好きにさせる」という無責任な自由の提供ではないか。自由の本質的な意味を把握しないまま、自由のママに放り出すと、やりたいことだけをやり自滅する。するとそれみたことかーと管理に逆転する。大人と教師が希望ではなく管理的権力で対するのは、自分自身がより上位の権力から受ける監視が強力になったからである。援助交際を批判する大人は、自分自身が買っているのであり、ケータイはだめだと言いながら売りつけ与えているのは大人だ。こうした欺瞞の氾濫が子どもたちをシラケさせてしまう。20歳代に引きこもりが増えているのは、こうした欺瞞に闘えない繊細な感受性を持った少年の正常な反応なのだ。
 こうしたなかで地域から先生たちはサボって楽しているというバッシングが強力になっている。そして大人自身に分岐が誘発され、大人たちが手を結べなくなって孤立している。

 さて子どもたちは変わったのであろうか。明らかに変わった。その原因は、コミュニテイーの崩壊と個室化のなかでもっぱらゲームとケータイによるコミュニケーションが支配的になったからだ。ここではケータイについて考える。携帯メールの特徴は、文字による1次元的な交流であり、トーンや表情を入れた全身的交流はないから、文字が重視されちょっとした記号が重要な意味を持ったり即レスが基本となる。携帯は個人単位であるから孤立した閉鎖関係を強め、家族で携帯を使っていてもじつは家族は集合としては交流していないので家族全体は見えない。娘がホームレスになって携帯で連絡していた親は、自分の娘がホームレスになっているとはまったく知らなかったというプチ家出が増えている。携帯が入って親が外出と外泊をうるさく云わなくなった例が多い。
 携帯は対面的な親密性を奪ったが、結合の親密性は極度に増した。かって親密性は私的=深さ=全面性という特徴があったが、携帯の親密性は私的=結合性という特徴がある。携帯のハード・ユーザーの最大の不安は、この人は何で返事をよこさないのだろうという他者のレスポンスにある。携帯は、孤独感と孤独恐怖を増加させ、一人でいることに耐える孤独耐性を衰弱させた。一人で昼ご飯を食べられない学生が急増している。フーコー的な見られているという監視の不安から、見られていないんじゃないかーという孤独の回避が起こっている。これは実はかなり大変な問題だ。じっくりと一人で考えるーという深い思考は孤独のなかで展開するからだ。携帯のハード・ユーザーの学力は確実に落ちるだろう。
 もう一つの問題は、孤独の回避がつのって、自分を包み込んでくれる強さへのあこがれが出てくることだ。マトリックス・オフでみんながエージェント・スミスの格好をして集まろうと呼びかければサーと集合し、「朝鮮学校に○ひ○時に石を投げよう」といったオフを呼びかけても集まってしまう。どちらも「楽しんじゃおうぜ」という感覚の共通性があり、プチ・ナショナリズム(香山リカ)の心情が生まれている。リアル感覚の消失だ。ネット上での自傷行為の公開や自殺・心中のようにあっけなくルーレットのように一線を越える。本当に思い詰めているのかどうか疑わしい。
 さらに第3の問題。携帯は生き生きした身体動作を奪ってしまった。一カ所にじっとして動かないで交流するから、行動とエネルギーを奪い、いろんなことがめんどくさくなってしまう。河内長野の同棲したいから親を殺害した事件は、駆け落ちするエネルギーがなくなっているからだ。自傷行為をネットで公開するのは、生の実感や存在感を確認する追い込まれた行為であり、その背後にはネット世界の恐るべき希薄感がある。最近、古武道や格闘技が全盛を極めているのは、血が流れたりするリアルな実感を味わうことができるからだ。宅間守受刑者は「別に死刑になったってかまわない。どうせ生きていたってしょうがない」と云った。

 さて最後に結論。最大の問題は子どもたちが夢を持てなくした大人の側にある。労働力市場から若者が排除されている。フリーターを分類すると、モラトリアム型(もう少し考えてみたい、遊んでみたい)と夢追い型(芸能人・職人などをめざす)とやむをえず型(正規採用なしと学費稼ぎ)になるそうだが(日本労働研究機構『フリーターの意識と実態』)、政府統計では学生と主婦を除く15ー34歳のパートやアルバイトと定義し、417万人(01年度)であり「やむをえず」型が急増している(内閣府『国民生活白書』)。50%以上が年収200万円以下でパラサイト傾向が強い。ここから希望を虚妄と意識する若者のニヒリズムが生成する。この虚無感が内へ向かえば、引きこもりやリストカットなどの自傷を生み、外に向かえばいじめとキレを生む。どちらも本質的には同じなのだ。被虐的なニヒリズムと攻撃的なニヒリズムの心情は、行き着くところ強者への憧憬と賛美=ファッシズムをもたらす。
 私たちはこうしたメカニズムをきちんと解明し、若者と共有しながら、別の人間らしい生き生きとした回路と道があることを証明しなければならない。その作業は1930年代のナチス・ドイツでは残念ながら失敗した。そうした50年前の悲劇を学習したはずの人類は、ここにきておなじような事態に出くわしているように思う。であるならば明らかではないか。敵は誰かーを明確にして真の敵に砲火を集中すること。こうした惨憺たる若者の状況を冷ややかに冷笑し、高みから軽蔑して薄ら笑いを浮かべながら監獄を用意している者が確かにいる。明日は成人式だ。(2004/1/11 17:57)

[互いに欺かず 争わず 真実を以て交わるー雨森芳州]
 江戸期の木門五哲(儒学者木下順庵の門下、他に新井白石・室鳩巣など)の一人で朝鮮通信使の時代に活躍した雨森芳州は、東アジア関係史にはじめて平等・互恵の立場から日朝中3国間系を構築しようとした希有の人物だ。彼は朝鮮語と中国語を駆使して活躍した。私は琵琶湖沿岸にある芳州記念館を2度訪れたが、静かなたたずまいのなかに彼の足跡を示す資料群を見て感慨にふけった。なぜなら日本から朝鮮半島を経て中国大陸に及ぶ東アジア共同体の原初的な発想がすでに1607ー1811年に存在したからである。こうした発想がなぜ鎖国江戸体制期の閉鎖空間で芽生えたのかは今以て未解明であり、明治以降逆回転して侵略帝国の道を歩むようになったのかも疑問だ。
 私がただ一つ云えることは、日本近代化の思想を領導した福沢諭吉の有名な「脱亜入欧」というグランド・デザインが、非男鹿市アジアとの互恵・平等の共同体関係の可能性を狭めたことは間違いない。私は丸山真男氏の福沢研究に多くの示唆を得たが、丸山政治思想の唯一の欠陥が福沢的な近代化論の限界を見極めて、もう一つの近代化の選択可能性を考察できなかったところにあると思う。なぜこの問題が現代的な意味を持つかというと、かって東アジア圏に限定して自らの行動を展開した日本帝国が、その挫折後はじめて西アジア圏であるイラクに軍隊を派遣するという実力行動に出ようとしているからだ。
 いうまでもなく冷戦崩壊後二元的な世界圏のフレームが一元的な「帝国」による世界支配へ強行的に展開しようとしているなかで、私の祖国日本もまた亜帝国として自らを再編成しようとしている。帝国を創設し維持する帝国主義運動の露骨な操作が似非民主主義(小選挙区制)の下で着々と進行し、その到達点・総括として日本の「帝国」化というシナリオがある。雨森芳州そのひとが先駆的に開拓してきた東アジア共同体の発想と原理的に矛盾し対決する性質の運動がまさに今展開されているのが日本ではないか。世界史をひもとけば、古代ローマ「帝国」以来本格的な「帝国」システムが登場しつつある現代で、共同体システムと帝国システムが正面衝突する決戦の時期が近づいているのではないか。
 歴史上の最初の帝国であったローマ帝国の帝国概念に関しては諸説がある。ローマローマ帝国の支配構造を帝国主義とみなす説(石母田正・ロストフツエフ)や共同体の原理の外延化説(弓削達)、属州保護関係説(吉村忠典)、中枢化説(南川高志)などなど。現在の日米同盟は明らかに属州中心化説によっているように思われる。在日米軍総司令官=日本総督という植民地化ではなく、属州保護国を中心アメリカ化する戦略である。米国型競争原理の導入と二大政党制の導入は明らかにその証左だ。ローマ帝国は属州を相互に戦わせることによって統合する分断統合戦略を採用した。現代の朝鮮半島南北分断、日中朝韓の歴史認識をめぐる対立はその証左である。古代ローマ帝国の属州支配において、親分であるローマ帝国と子分である属州の部族長の利害が一致したが故に、衛星属州民族はローマの支配下に入ったのであり、現代でも同じである。英国=プードル犬、日本=ポチとして。
 ではこのようなアメリカ帝国のアジア支配は可能であろうか。その帰趨がもっぱら軍事力に懸かっているならば可能であるが、それは幻想にしか過ぎない。なぜならすでに東アジアは日本多国籍企業による企業内国際分業と企業内国際貿易が制覇している東アジア経済圏がデファクト・スタンダードとして運動しており、それは政治的な東アジア共同体への不可避の潜在的可能性を胚胎しつつあるからである。
 韓国の廬武絃大統領の就任演説は、「釜山でパリ行きの列車の切符を買い、平壌、新義州、中国、モンゴル、ロシアを経て欧州の中心部に到着する」と壮大な構想を述べたが、実は名古屋からパリ行きの列車の切符を買い、関釜トンネルを経て壱岐駅と対馬駅を経て、釜山経由でパリに到着するというより壮大な構想を持つことができる。まり結論的には、21世紀日本は「東アジア共同体」の道を選ぶのか、アメリカ帝国の属州の道を選ぶのかーとう2つの選択肢しかない。あなたはどちらを選ぶか。中川信義「東アジア共同体への道か、アメリカ帝国への属州永久化か」を参照して考察。(2004/1/10 19:48)

[寒い月 ああ貌がない 貌がない  (富沢赤黄男)]
 携帯電話料金の未払い分5万円を工面するために、同級生の女子高校生に集団リンチを加えた上で、マンションに監禁して売春を強要し約14万円を脅し取った14ー16歳の少女5人が逮捕された。耐えかねた女子高校生は飛び降り自殺を図り、6ヶ月の重傷を負った。
 あまたの非行評論家が登場してかますびしい評論を加え、いつのまにかこの事件は忘れ去られていくだろう。私は、この事件は今までの非行とは質が違うような感じがするのだ。教室で学生に聞くと、「カネが欲しければてめえがやれ!」と言い切った女生徒がいた。これは素直で健康的な怒りの爆発だろう。しかし私は、多くの人はこのような事件が起こっても不思議ではないという感じを持っているのではないかと思う。心の底からこうした行為に対する断固たる怒りが湧き起こってこない状態がひょっとしたらあるのではないかーと不安になる。なぜかというと、自分が過ごしている日常がいまやほとんど、ナイーブな怒りを発露させる回路が摩滅して、せいぜい自分が傷つかないように周りに合わせていくふるまいにマヒして心の痛みを覚えないようになっている気がする。そのくせ、自分が安全で強者の立場に立ち得れば、自分より下位の者に対して偉そうな説教を垂れてストレスを発散している状況がありはしないか。良心のかけらが残っている者は、そうした頽廃する自分の心に気づいて、自分は何も言う資格がないとして逆に何が起ころうと沈黙を守り抜くことを通して良心のかすかな証しとしている。
 言葉のほんとうの意味で日本は、もはや救いがたいあり地獄のような悪のスパイラルに転落し果てしない泥沼に落ち込んでいっているのではないか。あなたは身近にほんとうに信頼できる人間がいますか?と問いかけられて、はたして何人の人がYESと応えられるでしょうか。いたいけな乳幼児に対する痛ましいバイオレンスを耳にすれば、最後の愛情共同体である筈の家族すらもはや自分を安心してゆだねることはできない人がいることが分かる。そして多くの人が、自分と自分の家族はまだまだ大丈夫だとホッと胸をなで下ろしてもなお一抹の不安を覚えていはしないだろうか。
 この世の隅々までが拭いがたく汚されてしまったのだ。その汚れの源は大人にある。大人は手馴れた経験で糊塗できるが、その汚れの影は周囲のナイーブな子どもたちが一身に引き受け、常識では測りがたい行為へと結びつく。恐ろしいことに、子どもたちが本源的に持っている学習のエネルギーは、大人の汚れを速習して自分たちの世界に学習効果を及ぼしてしまうのだ。強制売春を強要した少女グループも被害者の女子高校生も同じ被害者だーという言い方が良心派に見られるが、これは許せない言辞でありかつ何の有効性も持たない。なぜなら追い詰められて自殺した者と追い詰めた者を本質的に同質の者とみなすからだ。私は加害者を厳罰に処せばこうした事件は減少するとは思わないが、少なくとも加害者責任を霧消させる分析は有効性を失ったと思う。ではどうするのか。
 最も許せないのは、こうした事件を高みから軽蔑しきったせせら笑いで冷笑し、せいぜい慈恵的なお恵みを垂れて二重の軽蔑を浴びせかけている元凶たちだ。厚化粧して街を浮遊してさまよい歩く暴力と性と遊びの世界に子どもたちを投げ込んだ元凶がいる。誰だ!その元凶は! 大不況下で最後の商品市場として子どもたちをターゲットにして最大限利潤を貪っているもろもろの大人たちだ。遊ぶために限りなくお金を湯水のように浪費させる仕組みをつくって、子どもたちを絡めとっているおとなだ。そうしてその背後には、大人たちを無限の競争サイクルに巻き込み、ハツカネズミのように自転車を漕ぎながら生きていかなければ脱落する経済システムをつくりだしたおとなーハッキリ言おう!それは慶応大学経済学部ミクロ経済学科を拠点にして日本の権力中枢を把握した新古典派自由主義理論の連中だ。少なからぬ人々がこのような日本の悲劇的な構造に気づきつつある。希望はあるが、しかし厳しく哀しいせめぎ合いが続くだろう。(2004/1/9 21:58)

[日本の穀物自給率とミサイル防衛]
 農水省『食糧自給率レポート』の最新データでは、日本の順位が175ヶ国中過去最低の130位(28%)に転落した。穀物自給率(重量ベース、飼料用を含む)は国内生産量/国内消費穀物量×100で計算される。穀物自給率28%はG7で最低で2番目に低いイタリアの80%と較べても異常な低さだ。日本政府が推進している農産物輸入自由化拡大を前提とする自由貿易協定(FTA)交渉のメキシコ70%・タイ158%・フィリピン82%・マレーシア28%・韓国36%と較べても下回っている。供給熱量で測る食糧自給率(カロリーベース)も、データの測定可能な主要先進国12ヶ国で最下位(40%)であり、50%を切っているのは日本だけという最悪の状態だ。穀物自給率の世界ランクを主な国でみると次のようになる。

 1位オーストリア273%・7位フランス175%・8位タイ158%・9位カナダ142%・ドイツ132%・13位米国127%・45位中国95%・48位英国88%・62位フイリピン82%・67位イタリア80%・83位メキシコ70%・86位北朝鮮68%・117位韓国36%・128位マレーシア28%・130位日本28%・173位セイシェル0%

 驚くべきことに飢餓にあえいでいる北朝鮮ですら68%水準を維持しており、日本の農業政策が完全に破綻していることを示している。あなたが毎日食べている食料の72%は輸入なのだ。どうしてこのような悲惨な事態におちいってしまったのか。それは日米経済関係を最優先し、工業品を輸出することと引き替えに米国カリフォルニアの海に捨てられていた米国農産物を全て日本が引き受けるという屈辱的な取引をおこなってきたからだ。FTA交渉によって米国以外の農産物の輸入も自由化して、工業製品を売りつけようとしている。地球気候の変動や動乱によって海外への輸出が途絶すれば、日本は世界最初に最悪の飢餓が誘発される。
 こうした危機を回避するために日本は米国のジュニア・パートナーとなって軍事力で世界を制覇し、食料輸入の安定を確保しなければならない。ここに今次イラク派兵の一つの理由があり、海外派兵を推進する憲法改正の狙いがある。米国のミサイル防衛構想に天文学的な予算を提供して開発研究を推進し、米国の核戦略で世界支配を完成する究極の先制攻撃戦略に出ようとしている。日本の運命は全面的に米国に依存し、サテライト国家としてしか生き延びることができない最悪の国に転落した。

 1月3日の革命45周年記念式典でのカストロ議長の演説は、反カストロ派をもフト考えざるを得ない説得力があるようです。
 「人類はその生存を脅かす核兵器による陰謀の下で揺れ動いている。人類の命は、少数の人々が考え、創造し、決定する内容に依存している。このような核兵器を独占する一握りの国々は、この兵器を生産、管理する排他的な権利を勝手に主張している。われわれはあきらめるわけにはいかない。われわれには、核保有国を非難し、圧力をかけ、われわれ全員を人質にしてしまう途方もなく馬鹿げた状態の中止と変革を要求する権利がある」

 細い糸で吊り下げられたダモクレスの剣が地球人類の頭上に垂れ下がっている。その糸を上で握っているのは、いまや帝国といわれる国の大統領だ。(2004/1/8 20:32)

[桃太郎と憲法9条]
 今年の干支である猿はニホンザルであり、身近な野生動物として民話や昔話によく登場し、「猿知恵」「猿まね」「猿も木から落ちる」等の諺や俗諺になり、『猿蟹合戦』『桃太郎』のお供になって登場する。私の故郷である岡山駅玄関に犬と猿とキジを従えた若武者・桃太郎が鬼ヶ島に向かう出陣のブロンズ像として建っている。岡山の彫塑家岡本錦朋が1972年に建立した。桃太郎伝説は室町期に成立し、現在で全国30箇所余の伝説地がある。ほとんどが勧善懲悪の微笑ましい若き英雄伝説であるが、戦時期には皇化侵略の軍神・桃太郎となり、敗戦後には桃太郎と鬼が仲良くダンスして終わる平和・桃太郎となり、歴史の中で桃太郎像は変容を受けた。鬼は金品の略奪、婦女子の拉致を繰り返し、「鬼に金棒」という大量破壊兵器で世界を脅迫してきたが、いったん反撃を受けると「金棒」などどこにもなく簡単に敗北し降参した。桃太郎は、金銀財宝をしこたま、とりわけ石油利権を手に入れて悠々と凱旋した。
 いま桃太郎=ブッシュ、猿=小泉、犬=ブレア、キジ=ベルルスコーニという図式が成立しているとすれば、本来の桃太郎は真っ赤になって怒るだろう。しかし猿=小泉は顔つきから見ても間違いなく、親分は真っ赤な顔をした大猿であろう。しかしこれは本来の平和主義者である猿たちが怒るであろう。ことほどさように現代は欺瞞に満ちた桃太郎伝説の偽作が展開されている。
 本来の桃太郎は憲法第9条を戴く「気は優しいが力持ち」の平和主義者であり、いじめられていた民衆に代わって国連平和軍として出動したのだから。爺と婆は、思いやりがあって品位を有する仲良い夫婦であり、捨てられた私生児でありで不具の出生を持つ桃太郎を引き取り、貧しくても吉備団子(黍団子)ひとつでつましく育て上げた。夫婦はなにも金銀財宝を望むような人ではなく、財宝は村人に平等に分けられたのである。爺は山へ榛葉刈りに、婆は川へ洗濯に行くという男女性別役割分業の限界を持ちつつも、いくさによる解決を否定する絶対平和主義者であったのだ。この本来の桃太郎と彼を取り巻く共同体の群像の関係にこそ、自然な人間的世界があり、そして現在の憲法第9条へと連綿と流れ込んでいるのだ。
 1999年5月にオランダのハーグで開かれた「ハーグ平和アピール市民会議」は、世界100ヶ国・1万人が参加する第2次大戦後最大の国際市民平和会議となった。最終日に採択された「公正な秩序のための10の基本原則」の第1原則には「各国議会は、日本国憲法第9条のように、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」と明記された。憲法第9条が世界市民のグローバル・スタンダードとなり、世界の平和運動の共通目標となったのである。「21世紀の平和と正義のためのハーグアジェンダ」は50項目の行動課題を決め、すでに「非武装平和部隊NVPF」が創設されて非武装の平和構築のスキルを修得した市民が紛争地で活動を開始し、日本のNVPFもスリランカで活動中だ。さらに国際刑事裁判所の設立の呼びかけは国連によって承認され(米国のみ反対)、コロンビア大学中心に国際平和教育計画が全世界で推進されている。憲法第9条は、国連憲章の水準を超えた「軍事力によらない平和」という思想によって、21世紀の世界が追求すべき方向を明示している。
 私たちは桃太郎とともに、猿は猿として、犬は犬として、キジはキジとして、それぞれの独自の文化を維持しつつ、鬼に対する理性的な説得を試み武装を廃棄するあゆみへと大きく一歩踏み出している。鬼とはいま世界帝国と自他共に認めているーその国のことに他ならない。(2004/1/7 21:35)

[医療データの検定とTV視聴率の魔術]
 次のような質問にはどう答えたらいいのでしょうか。

 2種類の薬品を別々の患者群に投与し、投与前と投与後の疼痛の評価をします。評価の基準は以下のようになります。
 0:無痛 1:軽度 2:中程度 3:重度
 被験者となる患者群は薬品Aは20数名、薬品Bは30数名という小規模データです。薬品AとBのどちらの方が効果があるかを示すためにはどのような検定をおこなえばいいでしょうか。

 私は統計学は無知なので分からないが、こうした小規模集団による検定で治験薬の有効性が確定されて、許可薬として販売されるとしたら少々不安になる。この不安は先年10月に起きた日本テレビのプロデユーサーによる視聴率買収事件によって明らかとなった視聴率の物神化に似ている。彼は対象世帯4世帯に接触したが、4世帯は視聴率0.67%に相当し、関東地区では11万人がその番組を見た計算になる(1%が16万世帯)。彼の番組「奇跡の生還 芸能人版」は週間視聴率第1位を獲得した。日テレ社内調査では3世帯で0.5%(関東地方で8万500世帯)とでている。3世帯で8万500世帯を代表するという天文学的な推定値!(関東世帯の全世帯数は600世帯サンプル)
 この視聴率の物神性の凄さはGRP(Gross Rating Point)というスポットCM単価計算にある。スポットCM本数×視聴率に基づいて契約単価計算がおこなわれる。例えば1本20%前後の番組の前後に月4回各10本のCMを流すと、20%×4回×10本=800GRPとなる。これはTV局の広告収入を決めるだけでなく、スーパーはGRPによって製品を棚の前に出すので、いくらよい製品でもCMをうたないと棚の後ろに置かれる。消費者はCMで製品名を叩き込まれ、スーパーに行くとその製品しか手が届かない仕組みになっている。視聴率サンプル600世帯は、番組の評価を決めるだけでなく日本中の食卓の中身を決める。あなたの子どものおやつは600世帯が決めているのだ。600世帯の%が巨大な流通網を支配し国民の趣味や嗜好を決定している。自分の趣味や芸術館も女性の好みも600世帯に委ねられている究極の欲望操作があたかも自ら選んだかの錯覚を与えておこなわれている。
 TV局でみると、年間視聴率1%が約100億円分になるから6世帯がみないと100億円の減収になり、予定視聴率が取れなかった契約はその分をスポンサーに補償しなければならないから余計に負担が増える。特に外資系企業と外国人経営者が入った企業のGRP評価は厳しい。プロデユーサーは視聴率コンマ以下の数字で厳しい成果主義評価を受けるから、血眼になって迎合的な番組製作に走る。視聴率調査会社自身が上下2.5%の誤差があるというのに、その誤差でプロデユーサーが首になったり左遷される。ニールセンはこうした視聴率評価に嫌気がさして日本から撤退し、1社独占になってしまった。
 もっと恐いのは選挙の事前予測と出口調査であり、特に出口調査のサンプル数は少なく午後6時以降の投票行動を大きく左右する。例えば開票速報で「民主党200を窺う」とぶちあげた結果民主党支持層は午後6時以降の投票行動をやめたのである(公明党は不在者投票を推進しているからもともと出口調査の影響はない)。

 結論:統計学に無知である私ですら、こうした数字のマジックで踊らされているのではないかと不安になる。データと数字の物神性を排除する統計的な正確性をどう構築するか-日本の民主主義が抱えている大きな問題ではないか。(2004/1/6 20:43)

[民主主義のパラドックス]
 民主主義はそれ自身のうちに自らを否定する鬼子を抱えながら営まれる。民衆の多数によって決定が為されるなら、民衆が独裁を望む場合もあるからだ。1930年代に最も民主的と云われたワイマール憲法がナチス独裁を生み出した。ナチスは、ワイマール憲法を維持したまま合法的な独裁=授権法を成立させてヒトラーの独裁を完成させた。従って民衆の多数を掌握する技法が開発される。その本質は論理による獲得ではなく、心情による動員だ。ナチスの宣伝戦を総括したゲッペルス宣伝相の戦略は「沈黙のスパイラル(螺旋)」といわれる。第1段階:ファナテイックな断定的な大声で反論を許さない→第2段階:その主張の中身の吟味を許さない→第3段階:敵・味方の二分法による選択の強制→第4段階:大衆動員と異端の排除、恐怖による吸引である。
 今の世界は第3段階にある。テロリストは敵だ! 構造改革批判は敵だ!など内容の吟味がないままに外部に敵を探して攻撃を集中する。特に日本では大不況下の社会不安が深化し、断定的で破壊的な物言いに強者待望が結びついたポピュリズムが横行し、メデイアの批判精神が失われて情緒と心情による動員が極端に進んでいる。真実を言う論理は、疲れ切った労働の後ではめんどくさく単純で一刀両断する言い方に惹きつけられる。それでも論理を云う人には、感情的な反発と敵意によって自分の不安を隠蔽しいじめにかかる。リストラと過労死によって自らの生活破壊が深化することとパラレルに、理性と論理による知的活動は衰弱する。遂にはデモクラシーそのもへの敵意に転化して、独裁を自ら期待するようになる。これが世界の中で外国人・有色人種・イスラム教徒・同性愛者を排除する極右が急速に政治的力を伸ばしている心理的基盤だ。ニヒリズムとシニシズムが内向すると、自損行為の蔓延やアパシー(政治的無関心)と棄権行為が激増して私生活と個の領域への耽溺が流行する。現在の日本のTV番組で料理と野蛮スポーツとお笑い番組がほぼ独占状態となっているのは、理性による論理的な思考が疲れ切ってしまい、一次元的な欲望(色と食)の瞬間的な享楽に埋没することによってある種の安定と安らぎを得ようとする心情の衰弱がある。
 こうした頽廃的な心理が形成される要因は幾つかあるが、最大の要因の一つが市場原理主義による新自由主義の経済システムが急速に浸透していることだ。かって全国一斉学力テストの時に、試験問題の正解をわざわざ間違って教えて自分の偏差値を上げようとする子どもが氾濫したが、いま企業の成果主義業績給で同じ現象が起こっている。競争と協調の微妙なバランスで経営が成り立つはずの企業では、いま協調はなく剥き出しの競争が制覇している。隣の同僚がその日会社からいなくなっても、心配ではなく逆にホットする地獄のような職場が増えている。前記した魂の労働とシテイズンシップにも同じような競争原理が働くならば、より洗練された敗者に対する淘汰が進展するから、それは非人間的なジャングルのゲームの世界と化す。ゲームの至上目標は勝利であり、その過程で一時的に組まれる協調は、誰か敗者をつくり出すための洗練された技術にしか過ぎない。最後に残された愛の共同体である「家族」もジャングルの中に包摂されてしまい、よそよそしさと支配-服従関係が貫徹する。
 以上がファッシズム前期にある現代日本の異様な負の状況だ。しかし私は最後に指摘したい。人間が猿から進化して人間になり得たのは、労働による前足の手への進化と手の駆使による大脳の進化なのだ。そして労働は協働とそれ自身が大脳を駆使する喜びであったのだ。動物的なジャングルの浸透が進めば進むほど、この人間的な本質=人間的な自然との矛盾は激しくなり、最後には協働を選ばざるを得ない。そうでなければ自己自身の本質の否定に結果するからだ。自分の条件を放擲する時の痛みは耐え難いものだ。(2004/1/5 19:07)

[魂の労働とシテイズンシップ]
 かって労働は、人間が自然に働きかけて人間的に改作する作業を意味したが、近代以降になると身体の即自的な動員よりもより高次の神経系を駆使する精神的労働が主要な位置を占めるようになり、対象も自然から人間そのものへと移行してきた。その象徴が介護労働である。介護は今までは女性がもっぱら家庭の閉鎖系において営むアンペイド・ワーク(不払い労働)とされたが、次第に社会化され市場化された有償労働へと転換し、従来価値計算困難とされた介護行為が社会的な対価労働になっている。あるハンバーガーショップの品書きに「スマイル0円」という表示があるが、笑顔という感情表出が顧客に便益を与えるある種の商品として意識されているように、こうしたサービス産業における感情の管理はもはや感情労働となっている。この感情労働が、介護の現場においてはより深化した長時間労働=魂の労働となってくる(渋谷望『魂の労働』青土社)。そこでは用益の提供者と受容者の間により深化した親密圏が形成され、近代市場原理の個と個の契約関係を超越する即自的な精神的経験が交流される。このような親密圏は、感情労働が内在させていた市場と非市場価値の矛盾をより激化・顕在化させる。例えば利用者の性的感情が流出して介護労働者を混乱させ動揺させるような事態が起こる。この例は従来の家族内での閉鎖系で秘密裏に展開されていたものが、公的な市場空間に公然と登場することを意味する。性的な関係性は近代的な介護契約関係には当然含まれていないから、介護労働者は拒否可能ではあるが、介護の水準が高まって親密圏の相互距離が接近すればするほどこうした行為はより自然の必然性を伴うから、介護労働者の困惑は増大する。従って感情労働=魂の労働を市場空間でいかに管理するかが重大な問題として自覚されるようになった。
 介護労働にとどまらず、多様な精神労働が市場化すればするほど、強いられた自発性・用益としての愛・動員されたボランタリー性などアンビバレンツな労働が登場する。こうした現代の問題は、近代的個人の契約関係による市民社会の成立という従来のパラダイムをゆるがし、相互承認(ヘーゲル)=分かり合えることを前提にした共同体では処理できない、自分の思い通りにはならない異質な他者との公的な関係をどう構築できるかという問題を投げかけている。かって教師たちは全ての生徒が分かり合える集団として教室を単一親密圏に包摂しようとしたが、いまや生徒も思い通りにならない異質な他者として教室内にいかに共存可能な公共空間を創造できるかという新たな地平に直面している。ハーバマス・アレント的な政治的公共性の空間が教室にも要請されるようになった。従来の子ども中心主義(シュタイナー)でもなく、教師の権力主義のシニシズムでもない、さらには集団主義教育(マカレンコ)でもない第3の道として公共=シテイズンシップの思想が浮上している。魂の労働においても、患者中心主義でもなく権力主義でもなく契約主義でもない第3の公共労働としての質が問い直されている。(2004/1/4 17:45)

[帝国の破綻]
 チェイニー副大統領がホワイトハウス関係者に送ったクリスマス・カードは米政府の脳天気な本質を暴露している。そこには次の言葉が記載されている。「神が知らざれば一羽のスズメすら落ちることはない。ならば、神の加護なくして帝国の興隆がありえようか」(ベンジャミン・フランクリン)。つまり建国の父がまさに帝国の建設を追求し神もまた支持しているではないかというネオコン派のメッセージだ。チェイニー氏は米国史の初歩的な把握の誤謬がある。英国の植民地からの独立戦争を闘ったフランクリンの真の意味は、大英帝国からの独立であり、その近代的な民族自決権と内政不干渉の理念は米国独立宣言の崇高な表現に結実し、それはホーチミンのベトナム民主共和国独立宣言に引用されて現代に到っている。チェイニー氏は自らの祖国である米国の独立の理想を完全に裏切っていることに気づかないばかりか、それをイラク侵略に利用することによって建国の父を辱めていることに無知である。米政権の中枢を把握している最高権力者の思考構造がこうした浅薄で無知な発想で占められていることに米国の黄昏と危機が浮き彫りとなっている。
 こうした帝国の思想に真っ向から挑戦する現代的な先端に躍り出ているのが、日本国憲法第9条非戦の思想である。たとえ米国占領軍が起草した原文であったとしても、初期の意図を離れて客観的には21世紀の地球システムを先駆的に示すマニュフェスト=地球憲法となっている。政府与党は党憲法調査会で各条改正要綱案策定に入り、最大野党のグループも年内改憲案作成作業に入り、憲法9条が持つ世界史的な意義が問われる決定的な選択の年となった。憲法9条が存在するかしないかは、私たちの日常生活に巨大な転換を与える性質をはらみ、ただ単なる死文化した規範ではないことが白日の下に曝される時が音を立てて近づいている。知恵ある者は知恵を、力ある者は力を、カネある者はカネを、自らのもてるものをすべて披瀝して対面せざるを得ない瞬間が推移している。(2004/1/4 10:08)

[21世紀の希望ー東アジア共同体構想]
 今年の5月1日EUは拡大25ヶ国・総人口4億5千万人・国内総生産9.162(10億ユーロ)という米国に並ぶ巨大な国家連合が誕生する(米国:人口2.89億人・GDP10.979、日本:1.27億人・GDP4.240)。20世紀の2度にわたる世界戦争の惨禍を受けて「戦争のない繁栄した欧州」を求めて、1951年欧州石炭鉄鋼共同体ECSCから始まった欧州統合という歴史の画期が実現しようとしている。
 EU憲法草案は、男女平等・ストライキ権などの広範な権利を規定した欧州基本権憲章が挿入され、前文「人間の尊厳、自由、平等、連帯の普遍的価値」によるEU市民権の確立を謳っている。EU市民の欧州議会選挙と地方自治体選挙権と被選挙権及び請願権、「雇用、労働や賃金を含むあらゆる分野での男女平等」、妊娠を理由とした解雇からの保護・有給妊娠休暇・有給出産休暇、妊娠・病気・労災事故・高齢・失業の場合の社会保障給付と福祉サービス、不当解雇・労働時間の上限規制・労働者への情報提供と協議権・交渉権・ストライキ権などの団体行動権、強制労働・児童労働・クローンの禁止、個人情報保護など包括的な近現代的人権が認められている。しかし加盟国の平均失業率格差(現加盟国8%・新加盟国14.2%)など著しい経済格差による闇労働の横行やイラク戦争への不一致や新規加盟支持率52%など一時的な熱狂から覚めた冷静な態度もある。
 しかし私はEU構想の画期的な意味を認めたい。第1は国の歴史と文化の多様性を乗り越えた国家統合の壮大な実験であること、第2は一極米帝国のスタンダードに対抗する巨大なアンチテーゼが誕生すること、第3は新自由主義的市場原理の世界戦略に対抗する近代的人権の擁護と現代的復権という思想の実体化、第3に否応なく東アジア共同体構築への反作用を生みだし契機となるだろうということである。
 EU構想を手放しで礼賛できないのは、南北問題を克服する新国際経済秩序へのシステム転換が本格的に進むのか、それとも世界市場をめぐる米日との覇権闘争に堕するのかが未だ見極められない点にある。実質的な第3極に位置している日本は最終的に米国のジュニア・パートナーの道を選ぶのか、それとも米国経済圏から自立する東アジア共同体の道を選ぶのかの選択を迫られることになる。すでにマレーシアを先頭とする東南アジア共同体への中国参加による東アジア共同体結成への第1歩が始まっている。ライオンヘアが靖国への参拝でもってはじまった2004年のスタートは、この年が容易ならざる回転軸となることを予測させるが、それは東アジアからの孤立の道でしかない。私たちは未来世代と子々孫々に何を受け渡すのか決定的な分岐点に立っている。(2004/1/3 16:42)

[いつかきた道を川柳でたどる]

 (1931満州事変1932上海事変)
 旗立てることが日本に多くなり  岸本水府

 (1937南京事件)
 手と足をもいだ丸太にしてかへし  鶴彬

 (1939ノモンハン事件)
 戦争が廊下の奥に立っていた 渡辺白泉

 (1945ヒロシマ原爆)
 進化とは地球を灰にすることか 青龍刀

 (1945敗戦)
 黎明の大気の中に開く花 剣花坊
 暁を抱いて闇にいる蕾 鶴彬


 (そして2004)
 星条旗にくるまれてゆくライオンヘアー 荒木國臣
 末法の世に希望はらむか弁証法 荒木國臣


            (2004/1/3/9:32)

[2004年まばゆいばかりの晴れ渡った新年の空に]
 謹賀新年
 雲一つなき陽光に包まれて新年がめぐって参りました。この真っ青に澄み切ったおなじ青空のもとで、それぞれの人と家族がそれぞれのかたちで正月の日を同じくしていると思う時に、生きとし生けるものの営みに無限のシンパシーを覚えます。

 大晦日息子が帰省し親子3人水入らずで年を越しました。いつもは紅白を観て除夜の鐘を聞いて行く年来る年のよしなしごとを想うのですが、はじめて格闘技を観てイッセー尾形の舞台を観みたあとに朝まで生TVをみて徹夜してしまいました。大晦日に民放3局が同時に格闘技を流し、大晦日の夜に血を流して闘うのを観て興奮しているっていうのは少々異常な姿ではあります。老壮青それぞれを対象に、じっくりと過ぎていく1年を振り返り来る年を展望する本格的な番組が日本にはありません。イッセー尾形氏の演劇は本格的でマイナーな彼の舞台はもっと日頃に放映されていいと思いました。お陰で除夜の鐘を聞くのを見逃してしまいました。朝まで生TVは日本の危機を反映してそれぞれ主張をぶつけ合っていましたが、ネオコンのような勉強不足丸出しの男女2人の評論家はおいて、直面している問題へのとまどいと展望のなさがさらけ出されていました。羹尚中氏が最も責任感ある分析をおこない、保守派の武見氏は保守派なりの真剣さがありました。こうして我が家の年越しは終わり真っ青に晴れた朝を迎えたのです。

 ひとすじのひかりさしこむ朝焼けに 歩みいださん再びの道

 この句は私の年賀状に記したものですがピッタリと一致する天気とはなってしまいました。喜劇俳優の森繁久彌氏が新春のエッセーで苦いことを云っていましたのでご紹介します。「いつもこの時期には厳しい寒気の中に、人の心の様が底の底まで浮かび上がってくるような気がします。世の景気がいい時は浮かれまわり、悪くなると陰気な顔になって話も棘が生えて、揚げ足をとり、僻みあったりー卑しいものです。モノへの執着と拘りがはびこり思いやりと余裕がありません。だからウソと真実の境目がよく分からなくなります。前はうっすらと積もった小雪を静かに踏んで行く年を見送りましたが、この頃は荒々しい足音を立て往来を駆けめぐり風情がありません。貧しくともしみじみと風趣を楽しみ、師走の風も除夜の鐘も美しかったのではないでしょうか。なぜかもうひとつ素直になれない、どこかに無理がある。庭の八手の葉に宿った滴の珠が、朝の陽にキラリと光って零れると、ホッと嬉しくなります。昔も今も陽は昇って燦々と光を降り注ぎ、夕暮れには赤々と海を染めて沈んでいきます。人はそれでも生きていくのでしょう」。成熟した細やかな感性が高齢の中で息づいています。年寄りのノスタルジアとは云えない現代の人間の危機が写し出されています。この私も例外ではありません。「希望」が希なる望みであるならば、それはいよよやり甲斐のある意味を持って参ります。

 午前中は年賀状を整理して昼が過ぎていきました。のどかな新春の一日はかくして閉じようとしております。(2004/1/1 1310)

[2003年よさらば]
 シンとして声なき大晦日は室内温度15度という暖かい年越しですが、本HPをご覧の皆様におかれても幾ばくかの感慨を抱きつつお過ごしのことと思います。本HPも幾たびかのシュトルム・ウントドランクを乗り越えて営々とケルンを積み重ねて参りました。運営者の主観に満ちたよしなしごとにアクセスしていただいて心より御礼申し上げます。筆者の原点は同時代の記録とオマージュにとどまらず、同時代に対するアンガジュの刻印として筆者なりの想いが発信されていたらと念じつつ、無謀とも誹謗とも席を隣にする敢えて恥をさらしつつオープンかつ率直な意見を披瀝して参りました。こうした行為が意味があったのかどうかは歴史の女神の審判に委ねるしかありませんが、筆者としてはいかなる悔いも残しておりません。
 2003年を総括すれば、ただ2つの概念「平和」・「公共性」が世界の基底を決する意味を持って再定義する試練の年であり、その再定義の帰趨は決せられないまま新たな年へと繰り越されたのではないかと思います。「平和」と「公共性」という2つの概念に生じた深い裂け目が大きな意味を持って、いやおうなく全ての市民にザッヘとして突きつけられ、誰の助けも借りないで自らの頭脳でもって責任を引き受ける決定的な選択の瞬間が日々積み重ねられているという状況におかれています。

 久方の光のどけき春の日に しずごころなく花の散るらん

 あまりにも美しいこの日本詩は、全てをやさしく包み込んで慰撫する包容力の妖しい魅力に満ちていますが、私は対極にある無辜のいのちの状況のほうに自らの思考と行動の基点を置くことを宣言したいと思います。思いをめぐらせばこの瞬間に何の意味もなくこの地上から姿を消している多くの命の存在への想像力なくしてなんの美学がありましょう。
 我が庭では100歳を超えんとする愛犬コロが散歩をせがんで吠えている声の他には、せきとして物音はありません。しばらくすると紅白歌合戦かK1の跫音が響き渡り、やがて静寂な除夜の鐘が鳴らされるでしょう。かくして2003年は去っていこうとしています。私は次世代に何を残してきたでしょうか。「平和」と「公共性」をめぐる激烈な戦闘は、人類の現代史の未来を決する極限の状況を呈しておりますが、それを大空はるかの空中戦ではなく、今ここにある日常のとりかえしのつかない選択の集積として実は存在していることを未来世代への確かな手触りとして構築しなかったとすれば私の生命の存在の意味はなかったと云えるでしょう。そしてそれはなかったのです。
 秘やかに期した学への道を世俗の栄達では計らず、学のみの基準に委ねるいさぎよい道を刻まずしてこの世に何の足跡があるでしょう。いささか頭脳労働への衰えと貧しくなる感受性を身に覚えれば覚えるほど、いよよ新たな年に対する私の責務が浮かび上がって参ります。澄み切った透明な理性と細やかな感性の恢復と、営々とした事実の集積による理論の構築にこそ我が半生の苦い総括が明示されています。ここがロドスだ!ここで跳べ!(2003/12/31)

[米国良心派の対日認識からーステイーブン・クレメンス ニューアメリカ財団副理事長]
 以下のインタビュー記事は、米国有力シンク・タンクの知日良心派の対日認識がよくあらわれているので参考にしてください。

 小泉首相はアメリカ帝国の旗持として行動し、多国間主義的国際関係を投げ捨てた。日本は独立国であり、米国に従属する必要はなく、対等なパートナーであってアメリカ帝国のプードルであってはならない。アーミイテージは自分たちは日本の成長を助け、日本を子どもから大人へ成熟させていると思っている。小泉首相は、イラク国民を援助するよりも米国に媚びを売ることを考え、より強力な米国の衛星国家にしようと考えている。日本はいま日本の未来と現在の問題、誰とどういう原理で付き合うか全てを検討すべきではないか。小泉首相の思想はポピュリスト・ナショナリズムであり、日本国民と世界にとって危険であり、日本の行くべき道を真剣に論議しないまま軍事国家になって欲しくない。米国が殿様、日本はその家臣という封建的な関係は、日本への信頼を損ない、米国のために血を流す悲しむべき結果を生む。
 ブッシュ政権がやっているのは、基本的にエリート・ゲームであり、湾岸戦争からガイドラインなど危機の度に一つづつコマを進めて日本を試し、日本は統御しやすい国だと思っている。ラムズフェルドは、自民党をコントロールし、裁判所をコントロールし、メデイアもコントロールしていると思いこんでいる。
 米国の戦略は、強力な日米同盟のアジアでの前進基地、米国の利益にかなう衛星国家として、近代民主主義と経済のスタイルをまといながら米国のために肉体労働で貢献する日本にあり、重要な武器庫として位置づけることにある。ドイツは、米国の支配から卒業し、冷戦期の衛星国家ではなくなり、ほとんどのドイツ人は米国の傲慢な行動に憤りを感じている。ドイツが世界の役割を拡大しているのは、米国に奉仕する主要プレーヤーとしてではない。ドイツは冷戦を卒業したが、日本は逆に冷戦に再び突っ込もうとしている。日米には健全な橋を架ける必要がある。(一部筆者意訳)。(2003/12/30 10:08)

[人はなぜ裏切るか]
 「裏切る」は「@敵に内通して主人又は味方に背くA約束、信義に反する行為をする。人の予期に反する」(『広辞苑』岩波書店)と定義されている。ここでは@及びAの前半の意味での裏切りを取り上げたいと思う。同じAで人の予期に反する行為は@とは根本的に異なる反人間的な行為とみなされ、軽蔑と制裁を受ける。なぜなら「敵」が存在するからである。スポーツにおける「敵」は勝敗が決した後に互いに祝福しあえるが、@の場合は地上から姿を消す可能性がある。ユダはイエスをなぜ裏切ったか?それを知ったイエスはなぜ非難ではなく哀しみをもって応えたか? それは裏切りという行為者の激しい自己侮蔑の痛ましい心境を知り尽くした者の対応である。「裏切り」が誘発される最大の契機は、「愛」の非対称性にある。「愛する者が愛される存在になれなかったとするならば、その愛は無力であり不幸である」(マルクス『経哲草稿』)は、愛の非対称性の無惨を指摘している。ここに愛の逆転が誘発され、対極の憎悪と裏切りに転化する契機がある。「裏切り」の深刻さは、「愛」の深さとパラレルである。なぜなら「愛は、何の保障もなしに行動を起こすことであり、愛すれば愛されるという希望に全面的に自分を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか人を愛することができない」(フロム『愛するということ』紀伊國屋書店)ということを知り尽くした果てにおける「裏切り」は相手を売り渡すと同時に自らの存在を喪うからである。従って裏切った者は、かって愛した者に対する最大限の攻撃を加えることによって自らの平衡を保とうとせざるを得ない。かって愛した者の根元的な魅惑を否定し得ない時には、その細部と局部の非愛的要素に最大限の攻撃を集中して自らの裏切りの正当性を証明しようとする。こうした愛と裏切りの濃密な相互関係は、閉ざされたアウトサイダーの小集団において最も凄惨で痛ましい形態をとる。しかし世界と歴史のマクロな空間と時間からみれば、それはほとんど戯画的な無意味なものとなってしまい、当事者の心境がどんなに凝集したものであっても大河のひと泡にすぎない。
 裏切りに対する対応は、徹底して客観的で冷厳であることがのぞましい。裏切りによってもたらされた負の現実は取り返しがつかないが故に、裏切りの背景にある心情に惑わされてはならない。その意味で「目には目を、歯には歯を」という責任の客観主義を遵守しなければならない必然性がある。対峙する集団の敗走戦の局面が最も難解な困難をもたらす。敗走集団における裏切りの多発は、外面のみならず内面においても責任を回避する形態が生まれやすい。戦時における裏切りが一般的に殺害をもって報われるのは当然の措置である。問題は、成熟文化圏における裏切りは一次元的な形態ではなく市民原理に則って遂行されるから、裏切りに対する制裁は高度の精神的・文化的ヘゲモニーが求められる。戦場における裏切りは銃殺という一次元的な制裁によって、裏切りと制裁は即時的な権威をもたらすが、成熟文化圏の市民生活での裏切りは砂を噛むような侮蔑という形態をとるが故に、素朴な権威の維持は難しい。侮蔑は行為としては無視という形態をとるが、この形態は高度の知的形態であり精神的な衝撃を自覚する水準にある者には致命的な効果をもたらすが、多くの者はさまざまの口実を駆使することによって逃走可能だ。
 最後にもう一度、愛とは何らの報いを期待しない無償の行為であるというレベルに達した者のみが最もよく裏切りを制裁できるーということを確認したい。それはもはや神の領域に接近している。そして人間が神でないならば、人間の世界の秩序において裏切りに対する制裁を加える他はない。それはやはり憐れみと無視である。(2003/12/29 19:28)

[日本の思考]
 「日本」という言葉は、ヤマトの新たな名称として7世紀に出現した国家概念であり、日本語ではなく漢字表記の漢語として人工的につくられた。中国の史書・新旧「唐書」から日本の正史『日本書紀』を経て漢字文化圏の東アジア国際関係の場で認知され、次いでジパング(マルコ・ポーロ)がジャポン(仏)・ジャパン(英)として国際的認知を受ける。ヤマト語は無文字言語であり、漢字音によって「万葉仮名」と言われるかな文字の初発形態が表記文字として生まれた。ヤマト語は、ウタと祝詞など生活言語であり思考言語ではなかった。思考の世界は漢字によって可能となった。思考は、外来語である漢語で漢字を用いておこなわれる。東アジアにあっては、漢字が標準文字、漢語が標準言語であり精神世界は漢語による漢字表記がグロ−バルスタンダードであった。現代日本語は、かって漢語を取り入れた歴史を繰り返し、英語を取り入れてあたかも最先端の新たな日本語かのごとく構築に励んでいる。
 私たち日本人は、思考する言語を外国から輸入し日本化して独特の日本語を開発した。まるで明治以降から高度成長期までの技術導入による応用によって世界水準を構築してきた日本経済の論理と同じではないか。しかしここに外来語以前の原始日本語で生活してきたヤマト心に対するノスタルジーは隠然と地下水脈のように流れて、ついには弥生文化に対する縄文文化の源流にさかのぼるルーツの探索が始まる。私の国日本は、思考の基礎にある言語において、正しい意味の尊厳と矜持を失っている。
 現代ではウルトラナショナリズムの心情的な基盤として復古主義的な言語論が展開される場合もある。こうした心情は、西欧近代に対する反発と結んで、ポスト・モダニズムが民族虚無主義と手を結ぶ羞悪な連合も形成されている。原日本主義と雑種文化論の衝突が繰り広げられ、健やかな国民国家の形成が歪められている。現代の現象総体を言語と文化から切り取る作業は、魅力的であるとともに還元主義的な危険を併せ持っていることを踏まえたうえで、日本語の現在と未来を考えねばならない。(2003/12/28 19:12)

[惜別]
 朝日新聞夕刊の「惜別」欄(東京本社企画報道部)は、人は晩年をどう迎えるか・どういう死を迎えるか・死の直前の姿はどうであったか・いかに弔うか・葬儀はどう進行したかなど細部にわたってそのエッセンスを伝え、さまざまの感慨がおこる。幾つかの特徴があるが、私がいま専門としようとしている経済学分野の人は少ないと言うことに気づく。死に臨んでの経済学とは人の生き死にの決定的な意味を持たない学問であるのか。或いは世に見られるほど経済の問題は本当の人間の問題を扱っていないのか等とも思う。印象に残った人を記す。
 冬敏之(作家・ハンセン病患者)2月20日多喜二・百合子賞を入院先の病院で正装して受け取った。その6日後に妻の嘉子さんに看取られてこの世を去った。葬儀の会場では、小説の感想文で全国優勝した中学生の少女の感想文が朗読された。冬さんが命をかけて闘った人間の尊厳への志は、確かに若い世代に伝えられた。
 岡本健一(照明技師)黒澤明「羅生門」・溝口健二「雨月物語」など多くの名作の照明を宮川一夫カメラマンとともにてがけた。「太陽は一つしかありません」。かっての東映ではスター俳優専用のライトがあったが、彼はそれをやめた。太陽が2つになってしまうとからだ。
 小笠原日凰(元宝塚スター 瑞龍寺門跡)芸名・桜緋紗子は少女歌劇団の娘役トップとして、”すみれの花咲く頃”を歌った。華やかな世界の陰で、役をめぐる激しい争いに苦悩し、周囲の反発や妬みを招いた。51歳で髪を下ろし、近江八幡の荒れ寺を再興して、晩年は宝塚の歌を口ずさんだ。芸名は”久方の光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ”(紀友則)からつけた。
 葛野辰次郎(アイヌ文化伝承者)55歳で肺結核で入院した時に、見舞いに来た10歳代の長男がアイヌ語の教えを請うた。いまさらすったこと覚えてどうすんだーと言ったら、長男はアイヌ語を残せないでなにがアイヌだーと怒った。ショックだった。病床で頭に浮かぶアイヌ語を片っ端から書き残し、「キムスポ」(山にある倉)を出版した。葬儀は数十年ぶりの伝統的な土葬であるアイヌプリでおこなわれた。
 斉藤史(歌人)父は2・26事件で位階を剥奪された陸軍少将。<暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守歌>幸いであれ、不幸であれ、はじめて出会うことはすべて自分には新しい。見られるところまで見てやろう。<我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生まれしことに黙す>(91歳で逝った母に)。見舞いに来た孫に「幸せになるのよ」と何度も語りかけた。
 浅井力三(東山動物園飼育係)41年に飼育係としてゾウを担当したが、戦時の戦時の射殺命令を逃れてゾウ列車の夢を与えた。59年からゴリラを担当し、世界ではじめてゴン太のショーを実現した。家に帰らない父を心配した次女が様子を見に行くと「やっと寝ついたところなのに」とゴリラに添い寝している父が怒った。運動不足のゴリラを心配して園内の池で一緒にゴリラと泳いだ。入院の夜なかにうわごとで2頭の象の名前を呼んだ。今いる雌ゴリラオキは、ケガをすると患部を差し出す。ケガは動物の弱点だから普通は見せないが、オキは治療の痛みにも耐える。動物との信頼関係を築く姿は神業だった。

 私はいま一度目の惜別の時を迎えようとしている。何事かを為した人の振る舞いはさすが胸を打たれるものがある。私は人の胸を打つほどのなにものもない。ただ「日々新面目あるべし」、毎日こころを新たにして励むこと(会津八一)の姿勢は失いたくないと思う。(2003/12/28 00:50)

[命令17号による占領軍特権と私戦予備罪]
 遂に26日に航空自衛隊輸送航空隊先遣隊第1陣20人が成田空港から英国民間航空機で飛び立った。日本国憲法第9条が死んだ日として現代史の教科書に記載される。イラク派遣自衛隊はイラク占領当局(CPA)命令17号が適用される。命令17号は米英占領軍の責任と権限を明記した国連安保理決議1483を受けてきていされた。同命令は、イラク占領軍のメンバーは刑事・民事・行政のいかなる裁判権も免除され、逮捕・拘禁されない特権を持つ。裁判権は母国に属し、イラク市民の被害は加害者の母国に訴えねばならない。イラク市民はテロと誤認されて射殺されても、部隊行動基準(ROE)に従って行動した隊員を訴えることはできない。政府は同時にクウエートとの間に、自衛隊の地位に関する交換公文を締結し、隊員の事故や犯罪に関する免責特権を得ている。クウエート政府は、公務中の自衛隊員の刑事・民事・行政裁判権を全て放棄している。日本自衛隊は名実ともに占領軍として行動する。
 戦後日本は占領軍の犯罪に関して何の関与もできず、特に沖縄県での米兵の犯罪に屈辱的な被害を受けても何の追求もできない無念を味わってきた。これは占領軍規定でなく、同盟による日米地位協定の恥辱的な規定によってであった。私たち日本は、自らが味わい尽くしてきた屈辱を他民族に強制しようとしている。戦後日本は、はじめて正々堂々と犯罪を犯しに他国に行く自由と権利を手に入れたのである。他国を侵す者は自分自身自由ではない、おそらく海外での犯罪自由行動権は、国内に跳ね返って恐るべき国家犯罪が横行する国となるであろう。

 刑法93条は、「外国に対して私的に戦闘行為を為す目的で、その予備または陰謀をした者は、3ヶ月以上5年以下の禁固に処する」としている。「外国」とは、国際法上の未承認国を含む国家と政府を意味する。米英占領軍は、国連決議を経ることなく私的に独断的な違法攻撃と占領行為をおこなっている。「戦闘」とは単なる暴力行使ではなく、武力による組織的攻撃と防御を指し、国家の合法的意志によらない戦闘は、国家機関であっても「私戦」にあたり、組織ととしての自衛隊の戦闘も私戦にあたる。内閣総理大臣や防衛庁長官がその職務規程に反し自衛隊に違法な戦闘命令を発した場合、それは「私戦」命令である。私戦目的で自衛隊に出動命令を発する予備または陰謀をおこなえば私戦予備罪にあたる。
 ほんらい日本国憲法第9条第1項は、戦争と武力による威嚇と武力の行使を永久に放棄し、第2項は交戦権を否認しているから、自衛隊をイラクに派遣すること自体が違法であり、国連憲章による国際法上の根拠も持たない反立憲的な行為である。さらに自衛隊の出動規定は、防衛出動と治安出動・災害出動以外に他の出動規定は一切ない。
 従って自衛隊の出動命令権を持つ内閣総理大臣は、憲法と自衛隊法によって授権された職務権限の範囲を逸脱した準備と陰謀を企てた私戦予備罪を犯している。よって当法廷は裁判官の全員一致によって被告を5年の禁固に処すものとする。以上前田朗氏論考を参照して筆者判決を下す。(2003/12/27 21:07)

[帝国の思想ー自由の前方戦略]
 悪との共存は不可能とする善悪二元論は、かっての善神((アフラ=マズダ光の神)と悪神(アフリマン=アングラ・マイニュ闇の神)の決戦として世界を描いたゾロアスター教の教義に酷似している。善神の象徴である太陽・星・火を崇拝し勤倹力業によって悪神を駆逐するという世界観だ。ブッシュの外交政策を推進するバルカン・グループは、ライス補佐官の故郷であるバーミンガム市のシンボル像が火と鍛冶の神バルカンから命名されている。「自由の十字軍」が「悪の帝国」と「悪の枢軸」に対する果敢な攻撃を集中して駆逐する宗教的な使命感は、まさにサリンをまいた麻原オームの心情と本質的に同じだ。彼らのいう「自由」とは、内面と思想の自由を本源とする近代民主主義の自由を意味しない。価値の多元性を原理的に否定するキリスト教原理主義の自由は、実は帝国の自由なのだ。「世界中の神の子がいかなる障壁もなしに生きられる日が訪れるまで我々はさらに励まなければならない。またその日こそ、歴史上最も偉大な帝国が完成する時でもある」(ロナルド・レーガン 1990年フルトン冷戦勝利記念碑の除幕式演説)として、米国が「ある神聖な使命を帯びた」特別な国だという。この特別な国は、今もキューバはグアンタナモ基地に約600名の元アルカイダ兵士を閉じこめて拷問にかけ、捕らえた元独裁大統領を侮蔑し冷笑する映像を流して高笑いしている。
 冷戦崩壊から現在まで帝国の進撃はとどまるところを知らず、世界はひれ伏しつつあるかに見える。しかしよくみれば、累々たる無辜の民の死体が横たわり、人間の精神が荒廃し、強制された自由の下で星条旗に屈服する奴隷があふれかえっている。歴史的理性の象徴である国際法と国際連合は足蹴にされ、事務総長の遠吠えが聞こえるだけだ。帝国の勝利とともに世界は闇と化し、地上から「希望と「未来」という言葉はいまや辞書の片隅に残っているだけだ。帝国の大統領が全世界に君臨し支配する神の座に就いたかに見える。
 かって帝国は、全世界の迫害され貧しい民が「自由」を求めて集う輝かしいフロンテイアであり、多彩な思想と文化のDNAの集合体として開拓の途を歩んできた。いまやその異種混合のDNAが巨大なモンスターと化して、爛熟した退廃と無思想に堕し、健やかで豊かな想像力を失ってしまった。彼らは劣化ウラン弾を投下して数世紀に渡る放射能汚染を恥じないデーモンとなっている。帝国の中枢は、激烈な競争を勝ち抜いた権力によって独占され、選挙は拍手と同じ意味しか持たないなかで、市民たちは無力感と喪失感が沈積し、さながらショーのようにデイスプレー上の爆撃を笑ってみている存在となった。パックス・アメリカーナは帝国内部のパンとサーカスによって支えられている。帝国は世界を民主化できるか?という問は虚妄で、世界は帝国を民主化できるかという問が正当なものとなった。帝国は、史上最強のテロ国家となった。
 ヘーゲル弁証法のすべてがいまや検証されつつある。「くたばれ!ブッシュ」と叫ぶアカデミー賞受賞監督、「米国を民主化することが世界の義務だ」という女性学者(テッサ・モーリス=スズキ)、「アメリカ人が覚醒するまで更にどれだけの涙を流すのか」と問いかけるイラク派遣兵士などなど・・・・グラース・ルーツデモクラシーが不死鳥のように蘇るかどうかーヘーゲル弁証法は究極の試練に対面している。1945年8月15日に「日本全国が息を呑んで静まりかえっているなかで、歴史は巨大なその一頁を音もなくめくった」と記した宮本百合子は、すでに世界の転換を深く見抜いて新たな出発の準備に入った。
 いま私たちが乗っている船は沈みかけた泥舟のようだ。船長以下乗組員は操舵の方向を手探りで試みている。私たちは奇跡のように登場する指し示す者を待っているわけにはいかない。私たちは、どのような不滅と思われた帝国も無惨に崩れ落ちた歴史を知っている。帝国のジュニア・パートナーとして媚びへつらっている人物が獅子吼しても、それが操舵不能なるが故の喇叭にに過ぎないことが見抜かれつつある。
 こうして新世紀の3年目が回転し、終幕のコールが近づいてきた。新たな年は日本現代史の命運をかけた決戦の年となる。熱い気を静かな理性で刳るんで迎えようと思う。最後に微笑む者が最もよく微笑むのだ。サヨウナラ幾多の試練を残していった2003年よサヨウナラ!(2003/12/25 11:10)

[恐るべき幕末のエナジー:安岡章太郎『大世紀末サーカス』(朝日新聞社 1984年)]
 安政6年(1859年)の開港直前の横浜は、相州横浜村という漁師小屋が数軒ある湿地帯に過ぎなかった。万延元年(1860年)には、わずか1年で商家200軒に昇る外人居住区というオーバーナイトシテイとなった。驚いたことに、倒幕前にここから欧米に向けて、高野平八曲芸団と中天竺軽業団という2つのサーカス団が公演に向けて出発し、米国から英・仏・スペインを回って拍手喝采を浴びたのだ。当時の日本のサーカスは、動物を駆使する欧米型の大型サーカスとは違い、人間の身体運動を駆使する軽業が主体であり、エキゾチズムも手伝って大入り満員の盛況となった。プロデーユサーは、一儲けをたくらむ欧米公使館の職員であったというのも面白い。安岡は丹念に資料を発掘して、日本を発ってから帰朝するまでの情景をありありと浮かび上がらせながら、農村出身の庶民の欧米体験の態様に迫っていくという手法をとる。若き南方熊楠が貧困の中で、通訳兼の団員であったというのがまたまた面白い。
 いまでこそ海外旅行は珍しくないが、100年以上前に未知の先進文明と接触して、大胆に挑戦する精神の在り方に私は愕然とする。今は死語に近い進取の気性そのものの躍動する姿がある。スペイン公演中に王制打倒の市民革命が起こり、無敵艦隊の砲声を聞きながら彼らは何を考えたのであろうか。さらに帰朝後の彼らが明治の時代の中でどう生きたのか?残念ながらそこの発掘はない。安岡氏はエンタテイメントを通して、激動の時代を生きた日本人のパイオニオア・スピリットを見事に復元している。(2003/12/22 22:20)

[来年の基調はピンク色]
 来年の春夏物コレクションを予告するパリ・ミラノコレクションでは、幸せの象徴ピンクが提案されている。ベビーピンクのような可愛いピンク、灰色がかったダステイピンク、サーモンピンク、歳月を漂わせるアンテークローズなど多士再々だ。息を呑むほど美しいピンクが登場するかも知れない。ファッションの要素に占める色の要素の力は絶対的で、着る人の気持ちを変え引き立たせたり癒したりする。なぜピンクか?
 欧米のデザイナーは、イラクの惨状を見て逆に明るく軽やかなファッションによって乗り越えようと提案し、平和の象徴であるピンクを提案している。つまり欧米のデザイナーは、明確な社会的メッセージを秘めてファッションを捉えようとしている。東京コレクションはどうか? 日本のデザイナーはニューヨークコレクションに媚びへつらって自分の確たる思想を持たないから、右往左往していることがよく分かる。日本自身のオリジナリテイーを見失って欧米追随のファッションは、ライオンヘアーが冷笑されると同じく、使い捨てファッションと流行奴隷になって恥じない。流されない自己の確立は、ファッション界のみならず全ての生活で今決定的な意味を持っている。久保田一竹氏の辻が花染のようなオリジナル・ファッションを全世界に発信しよう。(2003/12/21 9:35)

[精彩を放つ戦後漫画]
 昨日は名古屋・古書会館で全品半額セールがあったので、期待して顔を出したら、ひょこり退職した同僚のM先生と出くわした少し元気がないようであった。2階のコーナーで物色したらマアマア面白いものが幾つかあったのでまとめ買いした。最近は購入するだけで満足して、読まないで積んでおくのが多くなり少々困っているが、これも仕方がない。入手した中でもっとも面白かったのが、『漫画戦後史 T政治編』同『U社会風俗編』(1970年筑摩書房)で、鶴見俊輔・佐藤忠男・北杜夫という異色の顔ぶれが編集している。
 なぜ面白かったかというと、社会と権力を風刺する批判的なまなざしのエネルギッシュな力が満ちているからだ。時代と正面から向き合い、斜めからシニカルに批判するのではなく、攻撃的なスタイルに溢れている。現代の漫画は、なにか力が弱くシニカルで直線的なスタイルがない。攻撃性も弱く、揶揄していればまだいい方のような感じがする。恐らく当時の漫画家は、生活も貧しく食うに困る状況の中で、精神だけが研ぎ澄まされたように充実していたに違いない。現代の漫画家は、商業ベースに乗れば安定した生活が手に入り、マスコミに登場してちょっとのカタストロフィーを味あわせて終わっているような気がする。戦後直後の漫画は、改革ではなく変革とか革命のエネルギーを押さえがたく持っているような感じだ。
 なぜだろうか。直接民主主義のチャネルが多様に広がっているにもかかわらず、関節民主主義で決着し、なにかソフトな管理の進展で息苦しくて、抵抗という行為すらがおぼつかなく、また私的安逸への誘惑が蔓延しているからだろうか。としたらまぐれもなくファッシズムの心理的基盤が醸成されていることになってしまう。新自由主義的な自己選択・自己決定・自己責任の原理と裏腹に、ますます選択と自己実現の機会が剥奪され、自由の領域が狭まっている。戦後漫画は、強烈なメッセージを放射している。現代漫画は、技術的には格段のシンポを示しているが、人間の本源的なエネルギーが衰弱している。(2003/12/20 9:08)

[現代のオノマトペ]
 オノパトペとは、フランス語起源の擬態語、擬音語を意味する言葉でスポーツ用語に多い。すばやく動くことを「サッ」とか「スッ」と形容し、リズムをとるのを「タン・タン」とか「トン・トン」などの表現をあてる場合である。柔道の大外刈りで相手の体勢を崩す段階で、右手で相手のあごを『○○』と押すと言う時の○○には、「グッ」とか「ガッ」というオノマトペが多い。柔道の各段階や場所で使われるオノパトペの効果を、パワーとスピードの両面から数値化する。何れにも「ッ」という促音が無意識のうちに多用されている。わずか数文字で相手に意思を伝達するオノパトペの潜在的な可能性がうかがわれる。以上井上康生(シドニー五輪柔道金メダリスト)の言葉から。
 この擬態語はスポーツのみならず政治世界でも多用されている。「テロ!」といえば自分になびくと思っている超大国大統領、「構造改革!」「規制緩和!」と言えば自分が正しいと思っているライオンヘアー、しかも後者は「同盟」と云って前者に媚びへつらっている。これらは、オノパトペの典型であって,心理学的には条件反射行動に他ならない。または宗教的な呪文でもあって、それはすでに擬態語であって理性的な分析を拒否する超越的な効果を発揮する。ところがオノパトペの本性であるパワーとスピードは、ライオンヘアーには期待できない。なぜなら彼は、主人持ちで自分の頭で考えていないから、常に主人の顔色をうかがって主体的な判断と行動ができないので全世界から嘲笑と軽蔑の視線を浴びている。より悲惨なことには、自分自身でそれが分かっていないから、「阿呆!」と言われて得意げに喜んでいる悲喜劇があることだ。こうした指導者の下で生活している民衆がどういう運命をたどったかは55年前に経験済みだ。(2003/12/19 00:33)

[弥生時代始期の画期的改編]
 弥生の開始年代は、傾斜年代法で測定されてきた。副葬品として出土した中国製の鏡は、製作年代は特定できるが墓に納められた年代は分からない。そこで文化伝播に要する時間を入れて、中国を中心に年代を少しずらせるという傾斜年代法が開発された。鏡は、中国での製作年代かた日本で墓に納まるまでを数十年〜100年の範囲で遅らせた。弥生期は、北部九州で夜臼T式という土器が出現した時期を以て始期とするが、従来の傾斜年代法に替わって加速器質量分析法(AMS)では従来の通説より約500年間さかのぼるBC10世紀頃というデータが歴博から発表された。弥生の各時期についても、前期はBC780年頃、中期はBC380年頃という新年代観が打ち出された。
 AMS法による年代研究は、中国、韓国でも進行中で、弥生と関係がある韓国南部では、無土器文化の開始が200年さかのぼり、BC7〜6世紀頃と考えられていた水田耕作の開始が300年ほどさかのぼるという推定が浮上している。稲作の開始は、朝鮮半島と北部九州がほぼ同時期となり、文化はタイムラグなしに伝播したとする傾斜年代法を否定する見解が強くなった。一方AMS法による測定はBC5世紀を中心とする500年間は計測不可能とする意見もあり、論争となっている。
 こうした科学的年代測定法の進展は歴史認識に何をもたらすだろうか。縄文ー弥生という区分すら融解する問題がはらまれているのではないか。実は時代区分は多様な具体の抽象であり、抽象の裏には捨象がある。明確な区分は実はある危険性をもたらすのではないか。漠然とそんな感想が湧いてくる。決してロマンチシズムで考えてはならないとも云える。(2003/12/17 23:13)

[アメリカン・デモクラシーの虚妄ー眼から鱗とはこのことか!?]
 生まれたばかりの赤ちゃんは何歳か? みんなゼロ歳と答えるでしょう。しかしひと昔前の日本では数え年で1歳と云っていました。人類がゼロを発見したのはインドの数学で、ゼロは1と−1の中間に位置し、1÷0が無限大であることに気づいたのもインド人でした。インド人が発見したゼロを最初に取り入れたのは7世紀のイスラムであり、次いでイタリアの貿易商の息子・フィボナッチがイスラム教徒から数学を学び、『算盤の書』(1202年)でゼロを含むアラビア数字を導入し、最初に飛びついたのはイタリアの商人や銀行家でした。西洋に導入されたイスラム数学は西洋科学を飛躍的に発展させ、遂にはニュートンとライプニッツによる微積分を考え、フランスのロピタルが1696年に微積分にあらわれる0/0を解決する方法を発見しました。冷却の技術開発による絶対零度には無限に接近できるが絶対に到達することはできません。以上チャ−ルズ・サイフェ『異端の数ゼロ』(早川書房)参照。
 今この世界で絶対零度に到達しそれを世界に認めさせようとしている超帝国があります。絶対零度はアメリカ合衆国憲法という至高の政治モデルに発現したとしています。民主主義のモデルとみなされる合衆国憲法は真に民主主義を具現しているのでしょうか。ここに実は国際法を蹂躙してイラク占領を強行している秘密を解く鍵があります。1787年制定の米国憲法には基本的な欠陥が7つあります。その中心は大統領制と2大政党制を含む選挙・政治制度の致命的な欠陥です。憲法制定時には、世界には英国の小選挙区制モデルがあるのみで比例代表制は存在せず、米国は完全小選挙区制を採用し現在に至っています。その他の政党は実質的に排除され、マイノリテイーを含む多様な市民の意見は反映されるチャネルを失っています。しかも憲法草案作成者は、政党自体に恐怖感を抱き、「人民は手に負えない暴徒」だから「人民による支配に抗する憲法上の障壁を立てなければならない」として強力な大統領制を施いたのです。大統領選挙は直接投票ではなく「選挙人団」に委ねる制度をしき、州人口の大小にかかわらず各州2議員選出するため1票の重みが1:70になる不平等な上院制度をつくりました。完全小選挙区制による2大政党制による「暴徒」の排除、「選出された君主制」としての大統領制という世界の民主主義史上で最も奇怪な制度ができあがったのです。最後に確認しましょう。米国憲法は、東部白人エスタブリッシュの民衆は無知で危険だとする愚民思想と徹底したマイノリテイ排除の偏見が根底にあるのです。こうした米国憲法の特異性の故に、全世界でどの国も米国憲法をモデルにして自国の憲法を作った国はありません。以上ロバート・A・ダール『アメリカ憲法は民主的か』(岩波書店)参照。
 ダール氏は現代米国政治学の最高権威の1人(イエール大学教授)ですが、私は久しぶりに眼から鱗が落ちる思いで新知識を手に入れました。合衆国憲法は奴隷制を容認する民主憲法という恐るべき自己矛盾に満ちていました。グローバリゼーションの名で全世界に強制されているアメリカン・スタンダードはこうした歴史的な限界を持っています。ダール氏は米国憲法の根本的改正を提案していますが、この改正に私は賛成いたします。明治憲法以来英国モデルを採用してきた日本国憲法は、この点ではるかに米国憲法に比較してすぐれた水準にあることもはじめて知ることができました。
 原爆を投下した唯一の国である米国、ベトナム戦争を遂行し、他国の指導者の暗殺を繰り返してきた米国を本当に理解するためには、米国憲法制定過程にある反民主主義的基盤を分析する必要があることに気がつきました。一方でこうした自国の恥部を公然と指摘し世に問う米国デモクラシーの奥の深さも実感することができました。フセイン逮捕直後の米国大統領と占領軍司令官のいかにも得々とした蔑視溢れる汚い大言壮語に、実は寒々とした非人間的な感性を覚えたのは私だけではないでしょう。(2003/12/16 20:52)

[囚われの独裁者]
 私はイラク国民を塗炭の苦しみに陥れたフセインの逮捕について何の感慨も抱かない。占領軍がこれを勝利として大宣伝し情報戦に利用するのを恐れる。独裁者が囚われの瞬間に何を言うかに最大の関心がある。以下は報道で知る限りの逮捕直後の言葉。

(発見の瞬間)「撃つな。私はイラク共和国大統領だ」
(尋問官の「ごきげんよう」に)「私は悲しい。なぜなら私の国民が囚われの身であるからだ」
(コップの水に)「もしそれを飲んだら、トイレに行かなければならない。私の国民が囚われの身にある時に、どうトイレを使えばいいというのだ」
(パチャチ元外相に)「君は昔の外務大臣だね。彼らと何をやっているんだ」
(殺害したシーア派サドル師について)「胸のことを聞いているのか、それとも足のことか」(注:サドルとはアラビア語で胸という意味)
(相次ぐテロについて)「私がやった。自分が今でも正当かつ不変の統治者だ」
(大量破壊兵器)「もちろん所有していない。米国が戦争を仕掛ける口実をつくるためにでっち上げたものだ。国連の査察を受け入れなかったのは、大統領宮殿などのプライバシーを侵害されたくなかったからだ」
(クルド人への化学兵器)「当時イラクと戦争をしていたイランの仕業だ」
(クウエート侵攻)「クウエートはイラクの領土の一部だ」
(集団埋葬地)「遺体の親族に聞いてくれ。彼らは盗人、逃亡軍人、反逆者等だ。イランやクウエートとの戦争から逃げ出した奴らだ」
(湾岸戦争時の米兵捕虜)「我々は誰も捕虜にしていない。行方不明の米兵に何が起こったかまったく知らない」
(お前をイラク国民に引き渡すーと迫ると)「やつら民衆扇動家(デマゴーグ)にか?」
(最後の審判の日に神にどう向かうかーという問に)「静かな心で向かうだろう」

 付記する。フセインの潜伏場所の情報を提供したのは、第2夫人サミラ・シャー・シャーバンダルである(独・DPA通信 衛星電話の盗聴説あり)。或いは元大統領警護担当者(米陸軍第4歩兵師団大佐談 AFP通信)。最後に、米英軍に告ぐ。あなた方の国家テロと不正義が同時に裁かれるだろう。(2003/12/15 20.53)

[エノラ・ゲイと人間の尊厳]
 日本に原爆を投下した米軍B29「エノラ・ゲイ」号が、15日から米国立スミソニアン航空宇宙博物館に展示公開が始まる。B29の技術的側面に焦点を当て、飛行の発達史や飛行を可能とした技術史を示し、原爆投下と被害の実態は一切触れない。実は同館は以前に被爆の実態と合わせての公開を企画したが、在郷軍人会などの強い抗議を受け中止に到った経過がある。明らかに米軍の原爆攻撃は第2次大戦の終結を早め、日本での地上戦を避け得たとする投下正当論が依然として強力な社会的勢力を保っていることを示している。あわせて現米政府が推進するきれいな核爆弾、地中貫通核爆弾などの小型核爆弾の開発などの核兵器開発計画がある。米軍は、アフガンからイラクに到る戦争で、最先端の精密誘導弾、劣化ウラン弾、地中貫通大型爆弾などありとあらゆる衝撃兵器を先制使用し、実質的な実験開発を実戦で試みてきている。こうした非人道的兵器を使用する殺戮に少しの痛みを感じない背景には、否定しがたい有色人種に対する蔑視があることは間違いない。ブラックであれイエローであれ、ホワイト以外は劣等な人種と見なしているのだ。ヒロシマ・ナガサキの被爆者はすでに70〜80歳を超えてこの世において自らの体験を語る残り時間は少ない。彼らに対する二重の核攻撃に他ならないという自覚は米国人にはない。日本政府の米政府に対する抗議は一切ない。日本の総選挙で当選した国会議員のかなりの層が日本の核武装を求めている。ミレニアムの数年が過ぎて、この惑星の破局が間違いなく近づいている。(2003/12/13 20:05)

[小津安二郎とイラク戦争]
 12日は世界的に著名な小津安二郎監督生誕100周年、没後40周年にあたり、日本でも世界でも記念行事が行われている。NHKは彼の全作品を上映し、昨日は新藤兼人と岡林宣彦両監督を招いた座談会が行われていた。新藤兼人がすでに90歳を超えて明晰な頭脳活動を維持しているのには驚愕した。小津映画の中核となるテーマを岡林氏は「個として生きる」という視点から、新藤氏は「死と孤独」という視点から取り上げていたが、私は日本における家族共同体の変容における父ー娘関係の新たな展開を生きる市井の人の心情ーちょっと紋切り型ですがーと考えたい。そうしたテーマをリアルなこの心情の深層に寄り添いながら浮き彫りにしていると考えたい。実は私の青年期には、小津映画はまったく評価されず、日本型の前近代的な家族の狭い関係を描いて、何の社会的な開かれた視点をももたないとしてこき下ろしていたように思います。私が小津映画をはじめて観たのは、実は家族を形成した中年に達した時からでした。「東京物語」は胸を締めつけられるような哀しみをもたらし、孤独に沈潜してかざるをえない家族のそれぞれの姿はまさに諦観といってもいいような印象を残しました。なぜんなら現象的には異なっても、私自身が歩んでいる家族の離散の気持ちと通底していたからです。しかし別れの哀しみを描くその背後に、痛切につながりを求めたい強い希望がない交ぜになっていたと思います。しかし、本当の問題は現在の時点でなぜ小津映画が奇跡のような復活を遂げているかです。まぎれもなく砂を噛むような家族の崩壊が蔓延し、崩壊していく家族の現状に対する痛みの感情があるからだと思います。
 配偶者の暴力DV法が01年に成立し、家庭内暴力を犯罪として刑事告発するようになりました。いま毎年約100人が殺害され、5人に1人の女性が被害者、20人に1人が身に危険を感じる暴力を受けています(内閣府調査)。保護命令(加害者の7カ月間接見禁止、2週間自宅退去)は、すでに2千件以上も出され、訴えはその数10倍に上っています。殺害の危険は、離婚が浮上した時点が最も多く、また離婚を切り出す生活条件がなく暴力を耐えている実態があります。加害者の30%以上は、幼児期に暴力を振るわれている母親を見て育った男性で、暴力の連鎖という法則が成立しています。加害者の子どもへの接見禁止は実質的に不可能で、学校帰りに待ち伏せて子どもを連れ去ったりしています。

 こうした家族の崩壊の原因は多様でしょうが、私は社会システムの新自由主義的な再編成による共同性の契機がゆらぎ、むしろ競争と抑圧の関係が全面展開しているところにあると思います。強者が上にそそり立ち、抑圧を受けた男性が家庭に帰り、自分より弱い妻に向かって抑圧を移譲する・・・妻はこどもへ・・・こどもはどこへ、ない!(飼い犬か!)ーこうした抑圧の移譲のシステムが生活の隅々に広がっているのではないでしょうか。新自由主義型の市場原理は、単に経済の論理だけではなく生活の全線に浸透し、日本はもはや互いに信頼することができないジャングルの生活になりつつあります。そうした状況に飲み込まれて弄ばれる弱者に暴力が不可欠の生活の一部になりつつあるのではないかと思います。

 もっと広くみると、地球大で抑圧の移譲のシステムが垂直的にそそり立ち、星条旗帝国が君臨し、少しでも反抗する者には容赦なくアイアン・ハンマーを振るうというシステムがグローバルに形成されつつあります。下位に属する国々は恐れおののいて媚びへつらいながら、自分より下位の者に暴力を行使しています。アフガンで米軍は、数日離れて6名と9名の遊んでいる子どもたちを爆撃で殺害しましたが、デイスプレー上で発射ボタンを押しただけで実際にはなんの痛みもないでしょう。上位者内部の犠牲者は最大限の敬意を持って厚く葬られ、さらに下位の者を虐待するために美化された宣伝が大々的におこなわれます。
 
 小稿をお読みの皆さん、なぜいま小津映画が注目されているかお分かりでしょう。そこには別離の哀しみを通して、ふたたび結びつこうとするピュアーな、私たちがすでに喪ってしまったなつかしい世界があるからです。そうして過去への回顧というノスタルジックな甘い世界に包まれるやさしさといやしがあるからです。そうして実は、喪われたものの尊さを取り返す希望の力を生み出しているのであって、敗者の美ではありません。新自由主義の撤退に21世紀の半分以上は費やされて、私はこの世から撤退するでしょうが、」その時にどうしても新自由主義は道連れにしてあの世へ持って行きたいと願います。(2003/12/13 9:51)

[ようこそ自衛隊のみなさま]
 政府のイラク調査団報告書で「サマワでは自衛隊歓迎の横断幕が出ている」とあるが、実は下手な情報操作であることが暴露された。アラビア語では「ようこそ日本人の皆さん」、その下に「ようこそ自衛隊の皆さま」と赤字の日本語で記されているが、この日本語は日本人のあるジャーナリストが現地の人に頼まれて書いたーということだ。皆さんは日本のTV番組に登場する街頭インタビューがほとんどヤラセであることをすでに御存じであろう。前もって街頭の群衆の中にTV局が期待するようなことをしゃべる人を配置してあたかも市民が述べているように撮影する。日本人はまだTV画面を素直に信用する感覚が強いから、一定の効果はある。もし横断幕の真実を明らかにしなかったら、本当だと思う人も多いだろう。米軍の傀儡でしかないイラク統治評議会の議長でさえ、これ以上の外国軍は要らない、我々イラク国民こそがイラクを統治すべきと考えており、イラクの問題はイラク人自身で解決すべきだーと述べているではないか。 
 いま国会前に目が見えない視覚障害者と肢体障害者が、寒風の中で戦争による障害者を出さないように派兵反対の座り込みをおこなっている。戦争による障害者の痛みを身に滲みて味わってきた方々の必死の抗議である。障害は最も弱いこどもや老人、女性から順番に発生し、最後に自衛隊の若い兵士が障害を負って帰国するのだ。すでに7000人の米兵が精神障害で送還され、2200人が手足を失って帰国している。はしゃぎ回る最高司令官の背後には、無数の遺体と障害者がのたうち回っているのである。
 防衛庁は、派兵費用として陸海空総計350億円の予算を立てすでに個人装備品の調達は終えた。入札公示では、10月末から11月下旬までに、防弾マスク20個、携帯式爆発物検知器1台、関節防護用パット260組、爆弾処理防護衣2セット、防弾楯33個などがテロ対策として購入された。350億円に群がる日本企業の死の商人たちは、自衛隊員の命と引き替えに莫大な利潤をあげてほくそ笑んでいる。「復興需要という商売がでてくる」(日本経団連会長)、「第9条を含む憲法改正を」(経済同友会代表幹事)など経済人にとっては戦争は最大の利潤を生む事業なのだ。
 自衛隊出身の民間航空機飛行士の次の言葉を最後に記す。「全ての自衛官に自衛隊を愛する友の会の諸君に、全ての自衛隊関係者に心から訴える。派遣命令に従うべきではない。君たちの任務は、外的の攻撃から身を挺して守り、命をかけて国民の生命と財産を守ることであったはずだ。米英軍の占領支配に、イラクを支配するために、かの地に行くことがあってはならない。あなた方が守るべきはずの国民の生命と財産が、あなた方の派遣によって逆に狙われるのだ。この声をもう一度胸に止めて、思い直して小泉首相の命令には従わない決意を固めてもらいたい。この国を世界に愛される国にするために、私は身体を張って戦う、誇り高く戦う。」

 自衛官を恋人に持つ女性2人が、1人は札幌で1人は千葉でたった1人で街頭で派兵反対の署名活動をはじめた。千葉の女性の恋人は、すでに多種類の予防注射を終え「別れてくれ」と女性に云ったそうだ。戦地に行く不安を彼女に味わせたくない気持ちからだ。なんと太平洋戦争時と同じような戦争が引き裂いた家族の離別の光景が展開されているではないか。ドイツのプロテスタントの牧師であるマルテイン・ニーメラーの自戒の言葉を想起しよう。最初の一歩で最大の抵抗が必要だ。(2003/12/12 22:52)

[あなたがたはなぜ戦争に反対しなかったのか? 戦後日本の分水嶺]
 TVではライオンヘアーが”テロに屈するな!”と絶叫している。テロがなぜ発生するかー何も分かっていない。国際法を蹂躙し民族の尊厳を剥奪している米英占領軍の占領こそ究極の抵抗としてのテロを生んでいる。イラク石油は日本の生命線ともいうー過ぎし太平洋戦争時の南方資源や満州が日本の生命線といって侵略の戦争を推進した最大のデマゴギーがまた再び繰り返されようとしている。どのような異見であれ、最高法規である日本国憲法=2度と戦争はしない、武力による威嚇と武力の行使は認めないーは一顧だにされない。歴史の最悪の転換はこのように展開するのか、亡霊の軍事国家がいままさによみがえろうとしているこの時にあって、日本の良心は渾身の残されたちからをふるって反撃に出なければならない。机上の解釈と論議の時は過ぎた。日本の現代史に責任を持つ全ての人が、街頭に出なければならない。自らの良心と心の痛みを覚える者は、自らの姿を現さなければならない。カネある者はカネを、力ある者は力を、知恵ある者は知恵を、自己のレーゾンデートルをかけて進み出なければならない。戦後史の分水嶺を目の前にして行動の時がきた。省みて悔いのないふるまいが問われている。
 自衛隊の諸子に告ぐ! 銃口は誰に向けるのか! 殺戮の大海に船出していいのか! 諸子の生命の結果を決定する最後の結論が下されようとしている。「自衛」のために入隊した諸子は、いま見も知らぬ他国に行って、虚偽の生命線を守るために無辜の民を殺めようとしている。命令を拒否する尊厳ある選択がなされなければならない。最高司令官の虚偽の命令にNon!と言わなければならない。諸子は家族のもとへ帰るべきではないか、オープンな議論が果たして隊内で旺盛に展開していなければ、いま気づいた者から口を開かなければならない、もうすぐ手元に届く給与伝票が毎日を高級レストランで会食している司令官のおこぼれであるならば突き返さなければならない。諸子は入隊時の宣誓で、右手を挙げて「日本の安全と平和を守るために献身する」と誓ったはずで、見も知らぬ他国へ行ってその国の国民を殺せーとは誓っていない。諸子は大日本帝国の軍隊とは本質的に異なる平和防衛部隊だ。殺人部隊ではない。
 かって私たちは父母に向かって、なぜあなたがたは戦争に反対しなかったのか? 徴兵が来れば逃げればよかったではないか、なぜ悲惨な戦争に加担したのか?と詰問したが、いまや私たちが子どもたちから同じ問が投げかけられるようになった。歴史は繰り返されるのか? いや決してそうではない。繰り返してはならない歴史がある。(2003.12.10 23:10)

[あなたはイスラエル支援企業の買い物をしますか?]
○スターバックス・コーヒー:会長はシオニズムの貢献に対し、イスラエル政府から勲章を受けている。(株)サザビー社長鈴木陸三は石原慎太郎氏の選挙参謀であった。
○マグドナルド:ユダヤ人基金、ユダヤ人協会の主要な企業パートナー。アフガン攻撃時の上空からの食糧ばらまき作戦に参加。
○コカ・コーラ:イスラエル政府が奪ったアル・マンシャビ村の300軒の家を破壊し2000人のパレスチナ人を追放した跡地に工場を建設
○ネスレ:イスラエルへの多額の投資でネタニエフ首相からJubilee Award勲章を授与される
○インテル:コカ・コーラと同じ跡地に工場建設
○マイクロソフト:イスラエルのテルアビブ付近の高速道路に「心からイスラエル国防軍に感謝を捧げる」という広告看板を多数掲示。
○IBM:パンチカード・マシンをナチスに売り込み、ユダヤ人の判別と収容所連行の鉄道の効率運用を実現して虐殺に貢献した
○デイズニー:ミレニアム博覧会でイスラエルの首都をエルサレムと提示したことに感謝したイスラエル政府から180万ドルの寄付を受けた
○その他:ダノン(ヨーグルト)、エヴイアン(ミオネラルウオーター)、ロレアル(コスメ&ファッション)、サラ・リー(ファッション)、ジョンソン&ジョンソン(医薬品)、ノキア(携帯電話)などのイスラエル支援企業がある。こうした企業の製品を買うことによってパレスチナ人がどうなっているかを考えてみましょう。

 ここで究極の情報を提供しよう。アルカイダの指導者であるオサマ・ビン・ラデインの兄から一族の資本を投資する事業を請け負っている男が、1979年にテキサスの石油採掘会社アルブスト・エナジーに5万ドルの投資をおこない5%の株を取得している。この会社のオーナーが実はブッシュ大統領なのである。以来25年間ブッシュ一族とビン・ラデイン一族はビジネス・パートナーとして交際を続け、パパ・ブッシュが最高顧問に就任しているカーライル・グループにも投資している。9.11テロの直後に、米国在住のビン・ラデイン一族24人が9月18日に自家用ジェット機で米国内をボストンまで飛び、パリに出国する時に、FBIはブッシュから全ての調査を禁止された。つまり、9.11以降の全てのシナリオは、ブッシュとビン・ラデインの共演による自作自演劇であったのだ。以上はマイケル・ムーア『おい、ブッシュ、世界を返せ!』(アーテイスト・ハウス 黒原敏行訳 2003年)から。(2003.12.7 20:38)

[地獄の黙示録ー内部崩壊するイラク占領米軍]
 イラク戦線に派遣されている占領米軍の脱走兵はすでに1700人を超え、7000人が精神的病で撤収させられ、2200人が手足を失っている。「或る脱走兵(28歳)の告白」と題する記事を紹介する(仏紙ジュルナル・デユ・デイマンシュ11月23日付け)。彼は大学院生で開戦直前に招集され戦闘終結宣言直前に現地入りした。

 最初の任務は捕虜の士気を喪わせ尋問を容易にするために最低2日間は眠らせないことだった。恐怖心を抱かせるためにしばしばハンマーで格子を思いっきり殴った。処刑させると信じ込ませるために、弾を込めない銃を耳に当てて引き金を引かせた。その後テクリットに配置され、戦闘で自分の撃った銃弾で殺害した死体と直面した。機銃掃射で頭が吹っ飛んだものだ。私の部隊の1人が頭を撃たれ、車の中は血と脳味噌が飛び散った。彼は今しゃべれない。しばしば兵士は金縛りにあって動けなくなり、話すことを拒否し、2週間もじっと壁を見つめている。その後聞いたところでは、眼球恐怖症という理由で本国に送還されたそうだ。私は2週間の帰国休暇で自問・熟考し、任務期間と脱走兵の生活、逮捕の場合の生活崩壊を考え抜いた末に脱走を決意した。なぜ不法な道義なき戦争で死ななければならないのか。戦争が不法なら部隊に戻らないことは犯罪ではない。道義的義務は軍事的義務に勝る。一番辛いのは戦友を残してきたことだ。しかし私は彼らのためにも戦っているのだ。クレジットカードは使わない、誰にも電話はかけない、電子メールも開かない、そして2週間ごとに住まいを変えている。逮捕されれrば5年間の軍刑務所か南米出身国への強制送還だ。

 彼が語っている内容は事実だろう。戦場の悲惨を体験し、戦争の不法性の認識に到っているのは一定の認識力を持ち、また不名誉と引き替えに脱走兵の道を歩んでいるのは、人間的な高貴さを最後の瞬間に選び取ったことを示している。彼の家族は非愛国者として地域から激しい非難を浴び孤立の道をたどっているだろう。しかしアメリカ人に告ぐ。あなた方は30余年前に不正義のベトナム戦争でむごたらしい犠牲者と脱走兵を大量に出し、最後に敗北して撤退したなかで脱走兵こそ英雄であったと再評価する苦い教訓を得たではないか。ニュールンベルグ国際軍事裁判では、不正義の戦争に協力したり、間違った上官命令を拒否しなかった戦争責任を認めて裁いたではないか。こうしてまた未来への可能性をはらんでいる若い米国青年が、無意味な他殺と自らの死を強制され、魂を汚されて大量のPTSD症候群の患者を発生させている。歴史は1度目は悲劇として、2度目は喜劇としてーというのは間違いで何度繰り返しても悲劇なのだ。
 自暴自棄となってさまよう米兵は、飲酒や麻薬、買春の果てしない泥沼に堕ちていくだろう。正義なき軍隊の本質だ。旧大日本帝国軍隊がまさにそうであった。第2次大戦中に多数のアジア人女性を従軍慰安婦として働かせた慰安所の運営に旧日本軍が直接関与していたことが明らかとなった。カリフォルニア大バーサイド校の研究者チーム(エドワード・チャン教授)が米国立公文書館の機密指定解除文書から発見した1945年11月15日作成のGHQ報告書だ。慰安所の運営者は旧日本軍から許可を受け、軍の直接監督下で運営し、利用兵士数・階級を記載する日誌の記帳を義務づけられ、毎月決算を担当将校に提出していた。一貫して旧軍の公的関与を否定してきた日本政府の根拠は崩壊した。天地に恥じざる責任が緊喫におこなわねばならない。
 皆さんは戦場で起こっているこうした事態と、本国の生活が無縁だと思っているならば間違いだ。戦場は実は本国の生活が凝縮された極限の状態に他ならない。異見者は常に監視され逮捕されるシステムが整備されていないと、戦争へ踏み込むことはできない。現在日本では明らかに戦争型国家システムの構築が進んでいる。派出所と連動する監視カメラの設置、民間自警団の組織化、国民総背番号制の導入などなどまさに戦時下を思わせる国民総警察官化ではないか。翼賛システムに異見を持つ者はどうなるか。6月17日の朝日新聞朝刊では、公衆便所に「戦争反対!」と落書きした青年が1ヶ月半勾留され、最高裁で懲役5年の建造物損壊罪で起訴された。皆さんの周りで、なにか異見を憚る雰囲気がじょじょに浸透していないか。真綿で首を絞められるような心理的な圧迫感はないか。表現の自由を奪うファッシズムが微笑みながら忍び寄ってはいないか。現代日本から人間の自由と尊厳がいつのまにか姿を消す日が目に浮かばないか。カシャカシャとケータイ・メールにのめり込んでいる間に、気がついたら取り返しがつかないことになりはしないか。こうした寒々としたシステムは現実にどのような社会をもたらすだろうか。
 今年東尋坊(福井県三国町)で自殺を試みようとして保護された人は11月24日までに44人、昨年1年間で66人に達している。彼らは県警三国署に年間3万円ほど寄せられる募金や署員のポケットマネーから帰りの交通費と食費をもらう。今年9月、居酒屋の経営に失敗し200万円の借金を返せないことを苦に自殺を試みた東京都の男性(55歳)と女性(72歳)が説得保護され、「もう一回頑張ろう、どんな仕事をしてでも生きる」として再出発を誓ったあとの帰路、新潟県内で首をつって命を絶った。その後2人は野宿に疲れ、施設への保護を求めて訪ねた福井県職員から「他県の者などもってのほかだ、死ぬならどうぞ、傘を2本も持っているのか、いい着物を着ているのに」と交通費500円を渡され、日に日にめざす希望が粉々に打ち砕かれたという(残された遺書より)。福井県と三国町の職員は、生活保護の説明はしたが”死ぬならどうぞ”とまでは云っていないと釈明している。以上毎日新聞11月25日付け。(2003/127 8:49)

[ケータイと若者のコミュニケーションの変容]
 或る高校生ーケータイなしの生活って無理、寝るときも握っている、ケータイ依存症かも。ケータイを含む移動電話の契約数は8千万台を超え、固定電話より多くなった。いまやケータイは若者のライフラインのよう、歩きながら用がなくてもメールチェックに余念がない。こっちが送信している間に受信もしているから訳が分からなくなる。煩瑣に送受信している相手からのメールが途絶えると不安になり、メールが来るとすぐ返事を返さないと何か起きたらと恐くなる。遊ぼうよと何人かに呼びかけてもたまたまつながらなかっただけで孤立感を抱く。一方では、口では云えないことも云えるけど文字に残るから、すごく考えて打つので時間がかかるし疲れる。相手の表情や声の感じが分からないから、本当に相手がそう思っているのか不安になる。ケータイはウソをついてもばれないから。
 悩み相談系サイトでは相談されたことが解決できないと自分自身を許せなくなる傾向がある、ケータイはその場に居合わせる人の誰かを取り残す傾向があるので孤独感を味あわせることもある。悩み相談型につながる人は、ネガテイブになる。恋人は24時間つながるので、かってのように空想や余韻に浸る時間は奪われてしまう。ケータイによって恋愛の展開が速くなり、燃え上がるのも速いが仲が悪くなって分かれるのも加速される。匿名の人と知り合う出会い系サイトは、メル友や趣味の仲間を探すのが多いが、なれていない人が多くトラブルが増加している。出会い系関連の検挙数は約95%がケータイ使用で、被害者の80%以上が18歳未満であり、強盗や殺人などに発展するケースが前年度に比して倍増している。さらには最悪のチェーンメールである「不幸の手紙メール」が広がってどう対処していいのか困惑する事態が発生している。「○人に送らないとあなたは交通事故で死にます。実は、私は死んでいるんです」・・・などという人の不安につけ込む卑劣でグロテスクなメールがある。
 ケータイは明らかに人間的コミュニケーションの質を変えつつある。インターネットと同じく瞬時のしかも水平的な双方向のネットワークの可能性をもたらし、速度と範囲のレベルを一気に拡大した。こうした可能性とともにわたしは不安に思うことがある。自分に沈潜しじっくりと1人で考え抜く時間が奪われたのではないか。他者とのつながりを優先して孤独がもたらす生産性を喪わせつつあるのではないか。公共空間で私的な会話が恥じらいなく横行するが、実は顔の見えるコミュニケーションの機会が奪われ、公の場で堂々と主張することを避けるようになるのではないか。対象が無限に広がる可能性とともに、実は自分とよく似た者同士の会話に限られた狭いものになっていくのではないか。
 かってTVが家庭に入ってきたときに、一切TVを拒否して自分の時間を守ろうとする人々が少数登場したが、あの時に感じたTV番組に飲み込まれて自分が失われるという感覚に似ている。共働きなどで親子のコミュニケーションがボードにメモを書き込んでつながろうとするときの一種寂しい感覚を思い出す。ケータイはこのような世界を究極にまで広げているのではないか。確かにわたしの体験では、はるか遠くで生活している息子と瞬時に会話できるのは楽しいし嬉しいが、せいぜいその程度まででよい。
 大都市の地下鉄の風景で印象深いことがある。東京の地下鉄では、友だちと一緒ではなく1人で乗りシートで読書をしている風景が多い。どちらかといえば若者が遠慮している。名古屋の地下鉄は、友だち同士一緒に乗りワイワイ言いながらしゃべる光景が多く、読書している人は少ない。どちらかといえば中高年が遠慮している。こうした都市文化の違いにケータイはどのような影響を及ぼしたのであろうか。今回はケータイ文化について考えようとしたが、結局よく分からない。今後も考察を続けたい。
 ところでケータイ先進地域である欧州はどうなっているだろうか。世界最大のケータイ・メーカーであるノキアの本社があるフィンランドをはじめ、欧州の子どもたちはプリペイド式で高額の請求書に青くなることはない。フィンランドの普及率は02年で72.6%であり現在では90%を超えた高い普及率である(日本は52.6%)。共働き世帯が普通だから、子どもとの連絡手段として不可欠であり、ケータイはkどもの誕生日にあわせてプレゼントし、一人前になった印として贈るから、子供も責任感を持って受け取る。小学生からインターネットを使い、小さい時からリスクや責任をきちんと教えられる。成熟した情報リテラシーを持って成長する。ケータイ契約数に占めるインターネット契約数の比率は世界第1位である日本は、リテラシーなしに面白半分で接続するから安易に出会い系サイトに取り込まれてしまう。情報教育もハウツー中心で情報に対する主体的なコミュニケーション能力と姿勢は育っていない。要するに日本では高等な玩具に過ぎないのだ。当面日本もプリペイド式に変えなければならないし、学校での無秩序なケータイ使用は自主規律を設けなければならない。(2003/12/6 8:40)

[良寛とともに学舎を去る]
 良寛は江戸後期の禅僧にして歌人。号は大愚。諸国を行脚のあと帰郷して国上山の五合庵に住し、村童を友とする脱俗生活をおくる。弟子貞心尼編の歌集『蓮の露』等がある。以上『広辞苑』(岩波書店)より。

 越後の乞食僧・良寛は、出雲崎の名主の長男でありながら権門勢家を捨てて仏門に入り、生涯を放浪、一草庵人として生きた。生活は貧窮を極め、小さな山腹の草庵を営んで、自炊と托鉢の喜捨に頼る以外に生きる方途はなかった。冬の厳寒は身に滲み、容赦なく寒風が吹きすさぶ山中の小庵は,下界との往来を絶たれて雪に閉じこめられた。薪水はなく、食物も欠乏し、訪れる人もない寂寥の中で虚しくひもじさに耐えた。飢えと寒さに震えるながらも、浮き世の人々に何かしら手を差し伸べたいという意欲と善意だけが彼を支えた。権門勢家の身を駆使して財貨と政策を操れば、我が身も他者の苦をも救い得たであろう。全てを捨てた我が身を、いまわの辛苦の中で悔いるのか、省みておそらく煩悶したであろう。しかしなにもかもがおのれが選び取った世界であり、こうなることも予測できた世界でもあった。かれが全てを捨てて選び取ったのは、魂の自由とおのれの意志による決断である。そのためにはすべてを犠牲にして捨てた、何かを得るためには大いなる喪失に耐えねばならないということを彼は身をもって示した。以上 大星光史の論考参照。

 21世紀初頭が未曾有の失職とリストラに彩られ、巷にホームレスの哀しいブルーテントが溢れる街に誰がしてしまったのか。それは自らもその踊りに参加した構造改革の悲劇的な乱舞の結末でしかなかった。新たな世紀が良寛のような自己選択・自己決定・自己責任のイデーをもって始まったのはその限りにおいては正しい。こうした多様性の世界観の選択こそ良寛とわたしがめざしたものに他ならない。
 しかしここに競争の原理が覆い被さったときに、良寛は見事に裏切られてしまったのだ。パフォーマンスの虚栄は、世の端々に目を配らない非人情と無神経を生み、人を蹴落として恥じない修羅の世となって、新世紀への希望は喪われてしまったかにみえる。細やかな繊細さとリリックな自然のポエム、こころの機微に深い配慮が及ぶ選択や生き方を求める本然の人間世界はどこへいってしまったのか。片隅の取るに足りない生と魂への思いやりなくして、ほんとうの自己選択は永久に訪れないだろう。1つの選択に対する無限の共感、そこにある魂の叫びを聴くちから、良寛はこうしてふたたび現代に蘇ってくる。いままさにわたしが去りなんとするこの学園は、こうした自己選択を互いに認め合い励まし合う希有の学園であり、それは脈々たる地下水脈となって未来へと開かれている。さようならわたしの学舎、さようならわたしの第2の母校、春の世の嵐のように過ぎ去っていった想い出の数々、桂冠は必ずやあなたの頭上に輝くであろう。(2003/12/2 20:31)

[爆発する憎悪と歓喜の果てに]
 29日にバグダッド南方でスペイン軍情報機関員7名が殺害された現場は、イラクの現状を象徴的に示している。4人が乗った最初の車両にロケット弾が命中して炎上し4人が即死。スンニ派の村人は狂喜して後部座席から焼けただれた2遺体を引きづり出して踏みつけ、周りにいた子どもたちは遺体を足蹴にした。2台目に乗っていた4人は脱出して応戦したが銃撃戦の末3人が死亡した。路上に横たわった死体に最後の一斉射撃を加え、「サダムの名においてお前たちを処刑する」と叫び、若者は飛び上がって拍手しながら「これはイラクにいるあらゆる外国の連中への教訓となる。彼らが我々の国から出て行かなければ、一人ずつ片づけるまでだ」と叫んだ。
 すでに出ているスンニ派指導者による占領軍攻撃のファトワ(イスラム教の宗教見解)は、すべての住民は@地域住民はゲリラ戦に参加するA武器を提供するB資金を提供するC情報を提供するーのいずれかの方法で武装勢力に協力せよとし、「米兵の最後の1人がイラクを去るまで戦う。日本が軍を派遣すれば当然攻撃する」としている。明らかに占領軍そのものを撤退させる国民的抵抗戦争(レジスタンス)の様相を帯び、単なる原理主義によるテロリズムではなくなった。戦術的にも爆弾による無差別攻撃とは異なり、最少の犠牲で最大の効果を上げるネットワークによる精密な個別攻撃へと質的に変化している。
 殺害された日本人外交官2名はこうした文脈のなかで冷静に分析しなければならない。単純な近道反応として、人道的な支援活動の前線で献身した優秀で有為な人材であり、彼らの意志を継いでたじろがずに推進しようなどと、もっぱら崇高な犠牲者として讃え軍事占領に加担するファナテック世論操作がある。しかしよくみよ。イラク国民から見れば、日本は占領軍の最大の支援国であり占領軍を派遣する決断をした敵国であり、その国家意思と国家権力を現地で代表する存在として2人はあったのだ。2人の心情がどのようなものであれ、2人は客観的に占領国家の代表者として振る舞っていたのだ。衆議院議長は「政府が2人の死をほんとうに我が身のこととして思って受けとめているかどうかが大事だ。イラクに行けといった人、イラクで仕事をさせた人は、相当重く受けとめないといけない」と実質的に最高司令官を批判しているが、このようなレベルこそ現状での最適な集約点であろう。かっての大日本帝国が中国戦線で泥沼に陥り2000万人を犠牲にした痛苦の体験をいままさに想起しなければならないだろう。(2003/12/1)

[いったい この人は何をやっているのだろうか]
 世界最強の国の国家元首がお忍びで他国に駐留している自軍の激励に行き、たった2時間ほど滞在して兵士と豪華な食事を共にする! しかも彼はトレイで兵士に食事を運んでいる! なんだ この人はまるで幼稚園の喧嘩の一方の大将みたいにはしゃいでいるではないか。国家元首の他国訪問はその国の代表者への最大の敬意と公式会談が外交の常識であろう。泥沼状態にある国民は、豪華な食事会で兵士と歓談する大統領をどのような思いで見つめているのであろうか。大統領には最も非礼で侮辱的な行為をしているという想像力が全くない。そういえば戦闘終結宣言直後に空軍戦闘服を着て軍艦の甲板にヘリコプターで着陸し、凱旋よろしく振る舞ったこともあった。こうした子どもじみたパフォーマンスで自国民の人気を回復できると思っているなら、よほどおめでたい人だ。それにしても自分たちの親分の見えすいた幼稚な行動をかの国の人は恥じらいを覚えないのであろうか。
 一方でこの親分は、死亡した兵士の帰還の報道を禁止し、葬送の式典にも出席せず遺族へのお悔やみを言うこともなかった。あまりにも犠牲者が出てきたのでやっと兵士遺族の前で演説したときに、或る母親から「なぜ息子の死にこれまで敬意を表さなかったのか?」と問いつめられて真っ赤になって頭を下げた。

 親分がポカンと一発殴ってしまえばその瞬間、勝負あったとなる。殴ったことの正当化は後からなんとでもなる。見物人もあいつはひどいことをするなあとみんな思っているけど、腕っ節がものすごく強い大男なので口出しが恐い。しかも少々おつむが弱そうで、下手に口出しするといきなり殴りかかってくるかもしれないし、手加減も知らない気がする。遠巻きにしながら心にもない拍手をしている。
 ところが驚いたことに、このおつむの弱そうな親分と兄弟の契りを結んで、大量のカネを貢ぎ手下を助太刀に繰り出そうとしている子分がいる。すでに”地獄の門”が開かれて、被占領国民2300万人のほとんどが敵に回るレジスタンス戦争の様相を呈しているにもかかわらず、どこか安全な地帯を探して行きたい、行きたいと駄々っ子のように云っている子分がいる。この子分も親分に似て威勢だけはいいので、みんな不安を抱えながらとりあえず付き従っている。

 なんともはや子どもじみた喧嘩ごっこではないか。子ども世界では微笑ましい行為として許されても、大人の世界では実際に死者が出る暴力のすさまじい連鎖になる。それとも最初にコータロー君に行ってこいと命令するか。アホでマヌケなナントカという親分の本が翻訳されて出回っているが、大人の火遊びにいつまでも付き合ってはいられない。追伸。この文を記した直後に日本人外交官2名が暗殺されたというニュースが飛び込んできた。ついに地獄の門が開かれた。(2003/11/30 8:17)

[死に方は選べても、死そのものは誰も選べない]
 一族郎党の型どおりの葬儀や埋葬を拒み、海や山へ散骨する人が増えている。NPO法人「葬送の自由をすすめる会」の会員は発足後12年で600人から12000人へと急増し、実施した自然葬は800回を超えた。イエ制度と結びついた葬送の歴史はせいぜい明治以降に過ぎない。最近は家族と子孫をあてにしないe永代供養堂や合祀墓も急増している。子どもの世話にはなりたくない。そのかわり遺産は全部自分のために使う、家具も着物も処分し確保した貯金は残りの人生を望み通りに過ごす費用とする。ホスピスは全国で全国で100を超え、患者の意思と選択で自分らしく最後を迎える場所としての社会的認知も広がっている。余命数ヶ月の際に自分が受取人になる「生前給付型生命保険」の加入者も増加している。家族と共同体の中で看取られて逝った死が、「個」として融解し浮遊しはじめている。
 都市化と近代化が老・病・死を隔離した傾向は特に戦後日本では極端で、経済協力開発機構(OECD)の調査では60年以降の病院死の増加率は日本がトップであり、火葬率もほぼ100%となって、遺体は焼却されてすぐ目の前から消えてしまう。東京都教職員研修センターの98年度調査報告では中学生の12%が「家族の死を何とも思わない」としている。欧米ではデス・エデユケイション(死の教育)が義務づけられているが、日本ではタブー視されてごく一部の教員が試行しているに過ぎない。死の床にある祖父母の声を聞き、遺体に触れて死語の処置を手伝うーそんな小さな不可欠の体験をするこどもはほとんどいない。死を身近なものに取り戻す動きも確実に広がっている。75歳のKさんは昏睡から目覚めた深夜に、驚く家族の一人一人に向かって「お前はうかつだ!」などと全員の長所と欠点を順番に指摘し、最後に「後を頼むぞ」と云って右手を挙げるガッツポーズを示して息を引き取った。何と荘厳な人間くさい最後だ! 最後を家で過ごしたい人は約80%、かなった人は昨年で13%、ガン患者では6%にすぎない(第1生命保険経済研究所調査)。地方では特に在宅ケアは、長男の嫁の悲劇を招き、在宅死を安易に採用はできない。老・病・死が隔離されず、住民全体に看取られるようなシステムは構築できるか。死の個人化の流れはこのままとどまらないのであろうか。迫り来る超高齢化社会の最後の死の瞬間を想像することは恐ろしい。それは確実に死の個人化=孤立化を意味する可能性が高い。
 個人化を先駆的に試行してきた人は大丈夫か。見よ!「死にたくない」と周囲をはばからず取り乱す人、最後まで煩悶を抱いてこの世を去る人は、実は共通性がある。自ら癌の告知を希望しホスピスを選ぶ自立心があり、自ら最後の人生を選ぼうとする人がそうなのだ。まさに人生の最後を主体的に選ぼうとする人ほど、その瞬間は見苦しい振る舞いをするのだ。死に方は選べても、死の恐怖自身と死そのものは選べないのだ。納得の死をを求めた果てに更なる苦悩がある。何というパラドックスか! 親しい人の死や遺体を間近に体験することが少なくなった現代は、自らの死に際に極端に弱くなった。産業化は死をも産業化し、死を病院に封じ込め、葬儀産業の経営学が隆盛を極めている。私たちは死生観を育む機会すら喪失しつつある。
 自らの死をどのように受容するか、あまたの哲学と宗教と思想が色とりどりも主張を披瀝してきたが、本然において主体的な構えを構築できなかった。生を通じて実現しようとしてきた希望と目標が、後に続く世代にどう受け継がれるかーそうした信頼が抱ける人は死の恐怖を超克できるだろう。なぜなら自らの生をそのために捧げ費やしたオブジェクトが、確かなものとして次世代に受け継がれていくことを信じ得れば、肉体的生命は滅びても精神的生命は滅びないという普遍に連なることができるからだ。
 ロン・フリックの映画『バラカ』はそうした人間の最後の瞬間のありかたを全世界の多様な存在の位相においてとらえる。一切の言葉を使わない、ただ映像と音楽だけで人間の生と死の無限のイマジネーションを伝える。圧倒的な臨圧のエネルギーがある。あなたは遺体を見た経験はあるか。物言わぬ死者の無限の圧力を覚えて、何も語り得ぬ絶対の限界を実感したであろう。カーバ神殿を取り巻く群衆が幾重にも広がって周りをとりまく最後のシーンは、荘厳なブッデイズムの拝殿や天に突き刺さるクリスト教会の尖塔とともに、私たちの最後の死の瞬間を象徴している。これをしも実存の限界状況というのか。あなたは微笑んでこの世を去りうるか? 「我がこころをいよよ高まらしむもの、空にあっては星、地にあっては我がこころの道徳律」と本当にいえるか?(2003/11/29 20:05)

[日本は崩壊するのか-19世紀型絶対的貧困への逆転]
 憲法25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ー高らかに宣言された生存権を具体化した生活保護法は日本の生活の最後の生命線といわれる。本人の自己責任に帰せられない事由によるハンデイを保障する人類史の到達点の結晶である。不況とリストラによる受給者数は増大し続け01年度は過去最高の約80万5千世帯となっている。三位一体改革によって厚生労働省は生活保護国庫負担の切り下げ(3/4→2/3 −1681億円)と児童扶養手当国庫負担切り下げ(-284億円)を発表した。すでにデフレを理由とする保護費引き下げや高齢・母子加算の廃止が推進されているが、国庫負担切り下げによってそのマイナス部分はすべて地方が背負うことになり、著しい地域格差が生まれ弱小自治体の受給打ち切りは確実となる。生活保護という基本から削減を開始したことを突破口に医療、介護、福祉など生活関連予算の再編成がくることは間違いない。
 ところが政府税調がまとめた中間報告では、公的年金控除縮小による年金課税強化、個人住民税増税、住宅ローン減税の縮小など減税項目はほとんどなく庶民増税が目白押しだ。減税項目のほとんどは、法人税連結付加税廃止、欠損繰越控除期間延長などの企業向け減税である。みなさんは、リストラと輸出によって自動車や電気中心に大手製造業のV字型利益回復の好業績を御存じであろう。かっては企業業績の伸張→賃金上昇→購買力上昇→景気回復という好循環を実現するパイの理論の可能性があったが、現在の大不況は国民の購買力を切り捨てた企業主義が横行している。
 私は新古典派シカゴ学派経済学がここまで日本を席巻するとは正直にって信じてはいなかった。厚く蓄積された社会的経済の、いわゆる欧州型社会国家が一定の抵抗をすると思っていた。戦後構築されてきた社会国家は崩壊の危機に瀕している。社会的弱者は生きる資格はない、そのような者を救済するのは国家的な損失だ、この世から去れ-という動物の論理が支配する日が近づこうとしている。「一方における富の蓄積は他方における貧困の蓄積」という貧困化法則は、19世紀の絶対的貧困ではなく相対的貧困として語られてきたが、いまや物質的生活を直撃する絶対的貧困という19世紀レベルに逆転していきそうだ。
 希望はないのか。人間の叡智はこうした最悪の体験を経た後に、より高次のレベルで必ず再生する-という歴史の法則的事実をより精密に刻んで再構築するというより困難な道が残されている。社会科学を勉強される皆さんのこれからのキーワードは公共性だ。試練に直面している公共性をより救い出してより豊かに再構成する課題だ。(2003/11/29 9:32)

[或る18歳の若者の声に未来をみた]

 例えば戦場に人を送ろうとする人間と、それを止めようとする人間。同じ人間でもいのちへの見方が違う。生まれたときから戦火の中にいた少女と、安全なところにいた少年。同じ人間でも背中に負うものが違う。目の前で親を殺される少女と、親を殴る少年。同じ人間でも暴力の見方が違う。銃弾の中を逃げまどう少年と、、お菓子を手にブラウン管でそれを見ている少女。同じ人間でも明日に待っているものが違う。この一瞬を生き延びようとする戦場の少女と、これを書いている僕。同じ人間でも発する言葉の重みが違う。今こうして安全に生きている僕たちと、親を失って泣き叫んでいる彼ら。生きて背負うものと、その先に待っているものが決定的に違う。安穏に慣れて関係ないーと他国の子どもに見て見ぬふりをする。もしかしたら自分たちの明日の姿かも知れないのに。

 或る新聞に掲載されていた川崎市の18歳の浪人生の文章です。素晴らしい感性とイマジネーションだ。問題を問題としてイメージすること自体を忌避する若者たちにあって、こうしたナイーブな感性を育んでいる若者が確かにいることにホッと救われるような思いがする。私はあなたに日本の未来を信託することができる。あなたのよな若者が現在にあって真に日本の未来を代表している。できうればすこやかにスックと伸び続けてほしい。(2003/11/29 8:27)

[エコロジカル・フットプリントにみる犯罪国家・日本]
 環境・生態学(エコロジー)と足跡(フットプリント)を組み合わせたエコロジカル・フットプリントとは、ある地域の人間の生活を支えるのにどれだけの”生物学的に生産可能な土地・水域”が必要かを面積で表したものであり、人間が「踏みつけている」生態系面積という意味で「経済の環境面積要求量」とも訳される。カナダのブリテイッシュ・コロンビア大学のウイリアム・リース教授が開発した指標だ。
 この面積は、消費資源量を平均的生物学的生産力の土地面積に換算して算出する。ある国の穀物消費のフィットプリントは必要耕地面積であり、魚介消費のフットプリントは必要漁場面積となり、石油燃焼量のフットプリントは排出二酸化炭素の吸収に必要な森林面積となり(海洋吸収分は除く)、水力発電量のフットプリントはダムと貯水池の専有面積となる。
 地球全体の生物学的生産力は有限で表面積の25%に集中している。世界自然保護基金(WWF)の試算では、世界のフットプリントは70年代に生物学的限界を超え、20世紀末に20%超過し、超過分は生態系を食いつぶして賄っている。日本は、国民1人あたり国土供給可能面積0.86fを超え、今や海外を含む5.94fの環境面積を踏みつけている犯罪国家だ。世界が日本並みのフットプリントになれば2.7個分の地球が必要となる。
 リサイクル(再生利用)よりリュース(再利用)へ、さらにリデユース(廃棄抑制)へと進まなければ未来はないことは明らかであるにもかかわらず利便性の欲望は果てしない。牛乳のペットボトル化と小型化が拡大し、リターナル瓶への移行は遅々として進まない。企業の論理を打破できない容器包装リサイクル法は直ちに改正しなければならない。こうした消費者心理に追随する企業のモラル・ハザードは社会の全線に渡って目を覆わしめるものがある。
 例えばこのほど発売されたビートルズの「レット・イット・ビー」のオリジナル版をみよ。1970年にリリースされたアルバムは、フィルスペクターによるオーケストラ編曲と音響処理が行われていたのを除去して、ビートルズが演奏した部分のみを編集したものだ。「ザ・ロング・アンド・ワインデイング・ロード」はオケと合唱がないためにポールの歌が鮮明に響いている。オリジナルとアルバム制作者の手を経た演奏を較べると、音楽作品が純粋な音楽の質ではなくその時代の音楽商品市場の価値によって歪められていることがよく分かる。しかも日本版は、コピーコントロールCD(CCCD)で発売され、さらに音質が悪く再生機器が破損するなどの事態が起きている。愛好家は日本版ではなくCCCDのない海外版を買っている。音楽芸術の世界にもエコロジカル・フットプリントの指標を適用しなければならない。(2003/11/27 ) 22:36)

[カジノ資本主義の究極の頽廃ー米国の情報先物取引について]
 将来に起こる事柄を「先物」として金銭取引する情報先物取引市場が米国で開設される。商品先物取引とは、農産物や石油、債権や貴金属などの商品を将来の一定期日に売買する取引価格を現時点で決める、いわゆるデリバテイブをいうが、将来ある事態が起こるかどうかを予測して売買を現時点で行うというまでに情報を商品化したカジノ的な市場が拡大する。日本の商品先物取引市場は、農林水産省と経済産業省が所管する7カ所の商品取引所がある。一般投資家は、取引所の「商品取引員」(仲介業者)に取引を委託し、委託証拠金と委託手数料を支払う。委託手数料は来年から完全自由化される。01年度の委託手数料収入総額は3187.9億円で取引金額は96年89兆円が02年196兆円へと急増している。取引被害も急増し国民生活センターに寄せられた被害相談は03年度8302件と00年より倍増している。98年の商品取引所法の大改正で新規委託者の保護を目的とした3ヶ月間の取引量規制が廃止されたからだ。特に女性と高齢者の被害が増えている。先物取引は本質的にギャンブルなのだ。
 米国の社会事象を商品化する情報先物取引市場の最初のプランは、国防総省の「テロ先物取引市場構想」で、次の1年を四半期に分けてそれぞれの期間にテロや政権転覆などの事態が起きるかどうかを売買する仕組みだ。例えば「04年第1四半期にフセインが捕捉される」或いは「されない」を先物で売買し、その期ごとに決済が行われ、実際に起きた(又は起きなかった)結果を先物契約した投機家が外れた人の契約金を総取りする。将来情報を売買して契約金はギャンブルの掛け金の性格に近い。国防総省は、その他の事例として「アラファト議長暗殺」「北朝鮮のミサイル攻撃」を挙げている。この構想がメデイアに漏れるや、政治をギャンブルの対象にするのかとの批判が渦巻いて構想は頓挫した。
 ところが国防総省とこのシステムを開発した「ネット・エクスチェインジ」社が政府とは無関係に先物政策分析市場をたちあげると発表した。批判の強いテロや暴力は外し、トレーダー1人あたりの投資限度額も低くしている。注目されているのは、情報集積能力による未来予見性というこの市場の側面である。農産物や石油価格の先物市場の情報集積力は自然的要因や政治的要因まで含めて先物市場の水準は高度である。選挙結果の賭を行うアイオワ大学の「アイオア電子市場」は、88年の開設以来、過去4回の大統領選候補者の得票数を誤差1.5%以内で的中させていることからも分かる。実際に金を賭ける時には参加者の思慮はより深くなり一般的世論調査より正確になる。来年開設予定の別の情報先物市場である「オピニオン・エクスチャインジ」は”ブッシュ再選はあるか”等の関心の高い社会事象を投資対象とするが、利益は投資家の契約手数料ではなく市場に蓄積される情報データの販売で得るという。すでに立ち上がっている国防総省を揶揄する「アメリカン・アクション市場」は”ブッシュの次の標的はどこか”、”CIAとの関係を絶って次に追放される外国元首は誰か”などのテーマで政権の行動予測を取引している。

 米国は政治や社会の事件を商品として扱い、それを利潤の対象として取引する国であり、しかもそのアイデアは政府が企画している。自由と民主主義を軍事的手段で世界に輸出している米国は、政治や文化などの人間的な行為の結晶をカジノやギャンブルの対象にするという信じがたい資本主義の究極の腐朽に陥っている。かっての古代ローマ帝国のコロセウムで剣闘士を戦わせて楽しんだ末期ローマのパンとサーカスよりもすさまじい頽廃だ。サッカー籤導入に反対する日本ではあり得ない新事業であり、国防総省という政府機関が発案したというのもすさまじい。確かに米国の政府中枢は、戦場で無惨に死んでいく死体の映像を嬉々として酒の肴にして楽しんでいるのだろうーそういう情景を想い浮かべさせる頽廃である。かってドイツのナチスに協力して莫大な利益をあげたクルップ社を描いた『地獄に堕ちた勇者ども』という映画で錯乱していく権力者が登場したが、現代米国の権力中枢はまさにそうした退廃の淵にいるのだろう。(2003/11/26 23:34)

[石原慎太郎氏の韓国併合論を検証する]
 10月28日の集会と31日記者会見における石原氏の発言を記す。集会では「(韓国併合に関し)彼らの総意でロシアを選ぶか、シナを選ぶか、日本にするかということで、近代化の著しい同じ顔色をした日本人の手助けを得ようということで、世界中の国が合意した中で合併が行われた」との発言があり、記者会見では「中国・清国、あるいはロシアに併合されそうになって、(中略)清国のほとんど実質的な属領から解放してもらった日本に下駄を預けた(中略)それが正確な歴史。彼らの代表が国会なるものをもっていたのだろうから(中略)政治家たちが合議して採決したんでしょう。(中略)あの頃は国際連盟もありましたけれども、外部の国際機関は誰も日本を誹謗する者はなかった」と発言(一部筆者責により略す)。下線部が歴史的な事実かどうかを検証する。

 日清戦争後の清国は韓国への政治介入を一切やめ、ロシアはポーツマツ条約第2条で日本の韓国における政治・軍事・経済上の権利を承認しているから介入はできなかった。1905年の第2次日韓協約で外交権を日本外務省に奪われた韓国政府にも選択の自由はなかった。抗議した大韓帝国皇帝は、1907年の第2回ハーグ平和会議に密使を送り日本侵略を訴えた。
 大韓帝国には国会に相当するか又は準じる合議機関は存在しない。大臣会議が存在したが、1907年の第3次日韓協約によって政府各部(日本の省)の次官は日本人が就任し実権を把握して韓国人大臣の実質的な決定権はなかった。韓国併合当時の大韓帝国政府の政治運営は事実上日本人が把握し、統監の承認なしに法律の制定と管理の任免は制度的にできなかった。韓国軍の解散指令に反対する義兵闘争が各地で激化し、伊藤博文統監は安重根によって射殺されるに到った。韓国併合は韓国国民の総意ではなく、統監府と李完用首相との秘密交渉で日本側原案が押しつけられ、日本軍が兵力を展開する厳戒態勢の中で調印された。部分的に親日団体である韓国一進会が日韓合邦に関する上奏と請願書を韓国皇帝と統監に提出して拒否された事実はあるが、これはとても総意の証明とはなりえない。
 「世界中の国が合意」ということは国際連盟が存在しない当時においていかなる根拠もない。1905年の第2回日英同盟でインドと韓国における互いの優越的地位を確認し、米国とは桂ータフト協定でフィリピンと韓国における相互の優越的地位を確認しているが、それは互いの植民地支配を正当化するためであり、英米が日本の韓国支配に異議を挟む立場ではなかった。英米との確認を「世界中の国の合意」とすることはできない。以上は『近代日本総合年表』(岩波書店)の日韓近代関係史の部分をピックアップして検証した。さらに日本で使用されている山川版高校日本史教科書の日韓近代関係史の叙述によっておなじような検証を加えたが、石原氏の発言に見られる歴史的事実は一切見いだすことはできなかった。
 以上からもたらされる結論は、石原氏の日韓近代関係史に関する認識はすべて誤謬であり、石原氏自身の主観的な願望の表現に過ぎないことが明らかとなった。氏自身の個人としての信念は自由であるが、首都知事という公的人格として公式の場で対外的にこうした意図的発言をおこなったとすれば、それはまさにデマゴーグ(大衆扇動家)という最も悪しき政治家類型に属することを自己証明している。
 補説:こうした石原発言が一定の大衆的な支持を得る根拠について考察すれば、戦前期ナチスのユダヤ人迫害に類似した心理的現象があると分析できる。大不況によって没落する中間階層が将来展望を喪失し、堆積する不安感情を周辺部弱小民族への軽蔑と迫害に集中し自己救済を図るという悲惨な心理があるという点で共通している。このようなファッシズムの大衆心理を見事に分析したのが、E・Hフロム『自由からの逃走』という名著であり、同時にアドルフ・ヒトラー『我が闘争』と併せ読めばファッシズムの大衆操作の技術が鮮明に浮かび上がる。現代的にはフーコー『監獄の誕生』によって現代型ファッシズムの管理技術が解明されている。石原なる個人名詞は実は現代型ファッシズムの代名詞ともいえる。(2003/11/26 21:14)

[ラモン・センデール『スペインのある農夫へのレクイエム』(星雲社 昭和60年)]
 ラモン・センデール(1901−1982)は、スペイン内戦後アメリカに亡命した現代スペインを代表する作家。この作品は、スペイン王政崩壊後の市民戦争の最中に命を落としたある純朴な農村青年を描く。都会の政治生活とは切断されたアラゴン地方の農村部で、共和制と民主主義を求める運動が自然発生的に展開され、農村部の因習とカソリシズムの隠然たる支配のなかで純な魂がどのように成長し敗北していったかを、短編なるが故の緊密な筆致で描く。この作品から私は、スペインの社会の基層を支配するカソリック教会が民衆のこころをいかに掴んでいるか、また時代を進める革命的な精神が農村部青年層にどのように形成されていったかを知る。彼らは理論は要らない。単に純朴な正義の感覚で農村部の変革がもたらされたこと、理論がないアナーキズム的な心情が直線的に発揮されたことを知る。教会が革命期にあって良心のはざまで痛みを感じつつも、遂には権力の側にあったことも知る。この作品は、良心の痛みを感じつつも青年を権力に売る司祭の目を通して、農村の青年変革者の半生涯を同情を込めて描くことによって、かえって逆にスペイン市民革命へのレクイエムとなっている。都市部における華々しい英雄的な革命行動は多々語られることはあっても、歴史の表舞台に登場することなく無名のままでこの世を去った無数の青年がいたことを想起させる。そして遂に民衆に対して手をさしのべることのなかったカソリック教会の大いなる罪を照射することにもなっている。こうした小説を読むと、世界はますます豊暁でかつヒューマンであることにホッとするような信頼を覚える。(20003/11/24 18:38)

[日本から高音の声が消えつつある!]
 小学校音楽の教科書に載る童謡と唱歌を調べると、かっての尋常小学校教科書と較べて現行の小学校音楽教科書の曲の最高音は平均で半音1・6個分低く、最高音が上のドかレまでの曲がほとんどだ。今の子どもは上のミの音は詰まってしまい、気持ちよく歌えるのはラから上のドくらいまでだ。日本の小学生の話し声は極端に低くなり、85年当時と較べて93年の児童の声は平均20ー30ヘルツ周波数が下がっている(鈴木松美・日本音響研究所の山梨県上野原町小学生の調査から)。
 こどもだけではなく大人の声調も低くなっている。街中で甲高い声を耳にすることが減ったのは、子どもの数が少なくなっただけではない、なにか社会的に大きな変化が起こっているのだ。生理的な声域がたった30数年で変化することはあり得ないから、生活の声の変化が起こっていると考えざるを得ない。興奮したり驚いたりして裏声の高い叫びのような声を発する機会が減ったのか、遠くにいる人に呼びかける地声の高い大声が減ったのか、大声ではしゃぐ子どもの外遊びが減ったのか、恐らくそのすべての複合であろう。携帯などコミュニケーションの在り方が激変し、家の中の近い距離だけで話す生活で声全体が低くなり、上のミを使わなければ出せない頭声(裏声)を使わない大人が増え、日常生活の声の質が変容してしまった。特に若い人や子どものしゃべり言葉が低くなっている。以上朝日新聞11月22日付け夕刊参照。
 私は社会的諸関係とコミュニケーションの本質的な変化があると思う。人間相互の透明な裏表のない関係が衰弱し、喜怒哀楽を率直に披瀝し合う関係が薄れ、互いに傷つかない範囲で接触するという関係が進んでオーラル・コミュニケーションが薄っぺらなものになったこと。および電子的なコミュニケーションが進み、機械と自分が対話したり、携帯やメールを媒介とする間接的コミュニケーションが異常に浸透していることなどである。こうした現象は、人間自身の表現の自然性を奪い、それが声調の衰弱へとつながっているのではないか。こうした声調の変化が数世代に渡って蓄積すると、生理的な声調自身が遺伝的に変化していくのではないか。それは人間に調教された動物が野生の声を喪い、人間に歓迎されるようなペット声調に変化していることと同じではないか。「野生の呼び声」はもはや2度と起こらないまでに人間世界の変容は進んでいるのではないか。ハード・ロックなどの絶叫の声調は、喪われつつある人間世界の束の間の原初的な恢復であり、普段の日常生活に戻ればピコピコと奏でているに過ぎない。ところがライオンヘヤーや首都知事のように思い切って断定的な内容を高音の声調で演説すると意外に人気が集まるのは、自分の本然的な欲求の代弁者として映っているのではないか。よくよく考えるとこれは恐るべき予測を超えた人間世界の変容ではないか。
 ある高校では、生徒が誰1人として校内で携帯電話を持たない。学園生活に専念するために、生徒たちが納得して自主ルールになっている。「ほしくない?」と女子生徒に聞いたら、「ここではみんなすぐ隣にいるから」という答えが返ってきた。みんな寂しくないんだ。それにしても”みんなすぐ隣にいる”という言葉はスゴイ表現だ! あなたはいま、こころから笑ったり悲しんだり泣いたり喜んだり怒ったりするーそういう透明で自由な自分を思い起こせるか。(2003/11/23 22:22)

[中句の世界]
 中句とは俳句と詩の中間にあるという短歌でもない新たな表現型を云い、宗左近氏等が中心になって推進している。以下その例の一部を示そう。

 生き死にの外の絶対 大満月
 宇宙分の一ほどの夢か 蝸牛の角濡れて
 夜蝉鳴いた 朝戦争始まった
 生者を生存させるものこそ死者 虹の夜


 平易な言葉が雄大な宇宙の広がりを示すこの詩形は、なにか無限の可能性をはらんでいるような予感がする。無限と一瞬が切り結ぶ張りつめた緊張がある。

 ある日私の家に鳩が巣を作った。母親がそこで雛を育てている。親鳥は周囲に気を配りながらセッセと雛にエサを運んでいる。やがて雛がまわりを探索できるほどに成長すると、ある日突然に親はパッタリと来なくなった。雛は不安そうに夢中になって親鳥を探している。そのうちに雛はあきらめたのか、とうとう自力で飛び立ってどこかへ行ってしまった。こどもが成長して親を離れ、1人で生きていくのはごく自然な営みなのだ。親は辛いけれども子どもと離れる儀式を準備しなければならない。人間の場合、それはおそらく就職と結婚であろう。子どもは1人で生きていくちからを充分に持っているはずであり、親もそのように育ててきたはずだ。その力を互いに信じて、互いに離れていく勇気を持たねばならない。(以上DVカウンセラー・松本和子氏のエッセイから)

 いま日本ではHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の爆発的流行の予兆がある。02年の1年間に発生したHIV患者とエイズ患者は922人、累計で7696人(血液製剤患者を除く)であるが、新規患者の発生率は最悪のアフリカと等しい(アフリカのサハラ以南は2940万人)。日本の新規患者の感染経路は男性間性行為54%、異性間性行為33%であり、疫学的に男性間性行為にからやや遅れて異性間性行為の感染が始まるという傾向から見て、異性間性行為の感染者が15〜24歳で急増している現状は将来の本格的な流行を予測させる。第2に性感染症であるクラミジア感染症患者が約100万人に激増し、その大半が20歳前半と10代後半に急増していることであり、クラミジア感染者はHIV感染に移行する格率が高いからである。第3にHIV感染者が発症を防ぐためには、3種以上の抗HIV薬を併用しなければならないが、感染者の95%以上の服薬率を維持しないと耐性ウイルスが出現し治療は失敗する。今の日本で感染者の服薬率は極端に低い。以上3点が近い将来の爆発的感染を予測させる確かなデータである。犯罪国家アメリカの感染者数は98万人、西欧州は57万人であり、遠からず日本の数字はこれに接近するであろう。 

 世界で一番美しい花は何か。それは30数年前にベトナム戦争に抗議してワシントンに集まった若者たちのなかの1人の女性が、自動小銃で武装した兵士の隊列に向かって差し出した一輪の薔薇の花である。貧しい画家は、恋する女性のために百万本の薔薇を贈って姿を消したが、銃口の前に立ちふさがった一輪の薔薇はそれにも増して美しい力を持った。権力と民衆の構図を鮮やかに切り取った一瞬の光景である。あなたは銃口の側に立つか、それとも一輪の薔薇の側に立つかーと加藤周一氏は問いかける。私は、銃口を捨ててともに一輪の薔薇を手にする側に立つ。いまほどこうした勇気が試されている時代はない。

 いま被爆者健康手帳を交付されている被爆者は約28万人、このうち原爆が原因で病気や障害が起き治療を受け原爆症の認定患者はわずか約2000人に過ぎない(手帳所持者の1%にも満たない)。こうした恐るべき事実の原因は、DS86と呼ばれる米国の核兵器開発機関がつくった被爆線量の測定表の機械的適用にある。日本の放射線関係の専門家がいずれもこの認定基準は、米軍の軍事的配慮に基づいたもので医学的判定基準にはふさわしくないとしている。被爆後から80歳を超えてこの世を去ろうとしている多くの原爆症患者は見捨てられたままだ。日本政府は米軍の核戦略に追随して、自らの国民を犠牲にしているのだ。

 人間はみんなで一緒に豊かになるのがいいことなのか。それとも豊かな人とそうでない人がいる矛盾した世でこそ創造力が生まれると考えるか。それともみんなそろって適当に貧しくなるという第3の道かいいかーと小沢昭一氏は問いかける。途上国の問題を捨象すれば、私はこれ以上豊かになることは必要ないと答える。いわゆる先進国はもはや豊かさに疲れている。
 さて本日の結論。戦後日本は重厚長大の長詩の世界をひたすら構築し、同時にミクロの極美をを追求する俳句の世界を疾走してきたが、いずれもその限界を露呈した。そのような限界を超える第3の道=中句の世界という未知にして未踏の道に踏み出でようとしているということになるのか。(2003/11/23 21:40)

[地に堕ちた虚像ー石原慎太郎の本質]
 本多勝一氏の痛烈な石原批判から。
 1967年のベトナム戦争時に記者団とともに訪問した石原は、米軍指揮下のサイゴン政府軍の砲兵陣地から解放区に向かって引き金を引こうとした。写真家・石川文洋は「あなたは、この向こうにいるかも知れない人間たちを殺す理由は何もないはずです」と石原を制止した。石原は「(もし石川が強く咎めていたら)私は天の邪鬼だから引いていたかも知れない」と自分自身述懐している。あたかもゲーム機を扱うかのように一般住民が住む解放区を銃撃する神経はいったい何であろうか。自分の卑劣さに気がつかない鈍感そのもの精神。石原は本質的に卑劣な臆病さを隠している。
 堀江謙一のヨットによる単独・無寄港地球一周の新記録を終始一貫ウソだと言い募って、自らの嫉妬心を暴露したのも石原だ。石原は自分自身も冒険家として売り出し無知なメデイアを欺いてきたが、実は自らは冒険などまったくできない臆病者だった。彼は真の冒険家に対して根深い嫉妬心を抱き続け、堀江の冒険が写真で証明される証拠が示された後でも執拗に堀江を攻撃した。東アジアの新聞は一斉に日韓併合を人道的だとうそぶく石原を批判して、「日本は石原のような政治家を放置している限り、アジア国家との和合は諦めざるを得ない」(朝鮮日報)・「日本社会に厳しく問いたい。石原の妄言があなた方のホンネなのか」(中央日報)と問いかけている。。石原発言をまったく問題にできない日本のマスコミと、彼を圧倒的に信任する市民の民度が問われている。

 さすがに戦後民主主義派のジャーナリストの言辞ではある。こうしたジャーナリストは、本多勝一・斉藤茂男・鎌田慧・辺見庸などごく少数になっている。デマゴーグ石原の妄言は、実は大不況下で不安と怨念を堆積しつつある日本の一部の民衆のホンネなのだ。それは実に太平洋戦争の最高責任者を自らの手で斬罪できなかった敗戦日本の限界が再生産されて現代に蘇っているに過ぎない。ヒトラーは自殺し、ムッソリーニは処刑され、スターリンは断罪されたにもかかわらず、ひとり日本の最高責任者のみが生き残って老醜をさらした。残念ながら日本の無知な若者層の一部が、真剣な研究抜きに単純に信じ込んで追随している現象があることだ。(2003/11/21 21:24)

[日本TV・視聴率不正操作の背後にあるものはなにか]
 日本TVプロデユーサーによる視聴率不正操作事件問題の本質は何か。経営陣は本人の懲戒解雇という個人責任に収斂させているが実は問題は構造的だ。日本TV玄関には「視聴率大明神」なる神様が祭られ、経営陣以下毎朝それを拝んで業務が開始される。社長の年頭の訓辞は、視聴率トップの座を死守する至上命題を獅子吼して社員を叱咤する。視聴率トップの座を守りぬくために、日本TVが採用した経営戦略は、他の民放各社に先駆けての成果主義賃金体系の導入だ。唯一最高の評価基準が視聴率であり、しかも相対評価だから高い評価と低い評価の賃金格差は著しい。カネと権限をプロデユーサーに集中させて相互の激烈な競争を煽り、強力な権限を手に入れたプロデユーサーは、逆に担当番組の視聴率のコンマ以下の数字に戦々恐々とする強迫神経症に陥っている。日本TVでは全社員が成果目標を書き、例えば自分の担当番組がいま15%の視聴率だとすると、2%アップするなど。上がればボーナス時に最大で125万円、年2回で250万円の差がつき、これが月例賃金に連動し、積算して定年までには膨大な賃金差が発生する。番組制作費の水増し請求を制作会社におこなわせ、本人に環流させるシステムが横行し、取引内容を明示した契約書が交わされない商習慣を温存する放送局の「優越的地位の乱用」という独占禁止法違反の実態が蔓延している。視聴率至上主義の評価基準による成果主義賃金体系が、今回の恥ずべきモラル・ハザードを生んだ最大の要因であることをすべての関係者は熟知していながら、当事者の個人責任に矮小化している。一部の経営陣の減俸とかカットは当人からの自主的な申し出を受けたと言うから、厳密には処分ではないのだ。
 恐ろしいのは、こうした成果主義賃金システムが社会のあらゆる組織に浸透し、全社会的なモラル・ハザードが誘発され、日本から公共性原理が喪失し、ジャングルの掟が支配しつつあることだ。しかもジャングルの中は、強者と弱者が機会の平等という名のもとに熾烈な競争を展開し、敗者の社会淘汰が進んでいることだ。@上司への媚びへつらいA同僚の足を引っ張るB他人の成果を横取りするーなどの従来から指摘されていた問題は日常茶飯事となり、ついには成果自体を不正操作するという究極のハザードにまで及んでいる。あなたの職場にこのようなモラルの崩壊の芽生えはないか。ひょっとしたら私たち自身が巻き込まれてはいないか。日本TV視聴率不正操作事件は、実はゆがめられて地獄に転落しつつある現代日本の象徴的な出来事なのだ。
 最後に問われていることは、正しい意味での競争は果たしてあるのか、それはどのような姿をとるのか、正しい客観的な評価はあるのか、それはいかなるかたちをとるのか、初期条件が異なる者の競争をどう組織すべきかー等々現代的な正義論が根底から再構築されなければならないことを示している。ロールズの正義論を再検討したうえで現代日本へどのように適用可能かーを解明しなければならない。これは待ったなしの緊喫の課題だ。(2003/11/20 21:45)

[破滅の淵に沈む犯罪帝国アメリカ]
 アメリカの刑務所収看率は中国を抜いて世界トップとなった。刑期1年以上の収監者数はこの20年で4倍jに増え、02年末遂に200万人を超えた。米国経済の持続的成長とは裏腹に、失業者数は800万人(失業率6%)で、200万人の収監者と400万人を超える保護観察と仮釈放者を合計した者にほぼ等しい。連邦・州の刑務所予算も20年間で4倍にふくれあがり、99年の警察・司法・矯正支出の合計は1465億ドルに達し、連邦・州総予算の10%、軍事支出の40%に相当する額に達した。州政府は、囚人1人当たり年間25000ドル以上を支出している。囚人すべてをハーバード大学に進学させれる額だ。米国は自ら播いた種を自ら刈り取るガードを固めては地獄に転落しつつある。こうした犯罪帝国は、必然的に国内の矛盾を外へそらすための対外戦争をやらざるを得ない。他国を侵略する者は、自ら自由ではあり得ないのだ。

 イラクにおける米兵の死者は遂に400人を超え、5月1日の大規模戦闘終結宣言後265人に達した(11月17日現在)。問題は死者の死因である。265人の死者のうち、イラク側の攻撃によらない死者が103人となっている。彼らは事故と病死及び自殺である。自殺者は戦闘死の10%を超えている。いつ襲撃されるか分からない恐怖、いつまで駐留するのかという不安、故郷へ帰りたくて自ら足や腹に銃弾を撃ち込む兵士が激増している。戦時の精神障害と精神異常のほとんどは、休戦協定や戦争終結によって自然に治癒すると言われる。第2次大戦時の日本軍の精神障害患者は8.15を契機に症状が消えたと言われる(斉藤茂太氏の話)。イラクはベトナム戦争末期の状況に酷似してきた。皆さんはフランイス・コッポラ『地獄の黙示録』や『7月4日に生まれて』、『デイア・ハンター』などのハリウッド映画をご存じだろうか。正義なき戦争はたとえ世界最強の帝国軍隊といえども内部崩壊してしまったのだ。ロンドン市長・リビングストン氏は、ブッシュ米国大統領を「地球上の生命に対する最大の脅威であり、ブッシュの政治は我々を死に追いやるだろう。ブッシュは最も堕落した大統領だ」と痛烈に批判した。
 アフガンではいま、米国の会計事務所やシンクタンクが現地に殺到し、アフガン経済の市場経済への移行プランを作成しているという。米軍のイラク侵攻の真の目的がどこにあるかを見事に示している。米国の最終目的は、中東全体の米国型市場経済への移行であり、ただ単なる石油資源ではない。外発的な強制力によって主権を無視した社会システムの転換が実現すると考えているとすれば、それは致命的な判断ミスだ。奴隷国家の市場経済こそ語義矛盾も甚だしい。(2003/11/19 20:54)

[世界はどうなっているか]
 カマキリはその冬が大雪になることを事前に知っている。卵が雪に埋まらないように高い場所に産卵する。カマキリが高いところに卵を産むかどうかで百姓は冬の雪を予測することができる。この自然の予知能力はどうして身についたのか。ほんの小さな虫の習性から私たちはとても大切なメッセージを読み取ることができる。それ以前に私たちは自然そのものを破壊し尽くそうとしている。その最終的な結果は私たち自身の破滅ではないか。

 IOC国際オリンピック委員会は、性転換手術を受けた選手の五輪参加を認める新たな規則を制定する。男女どちらからの性転換でも認められ、手術後どの程度の期間を置いて参加資格を与えるか等の細部の検討に入った。理由は一切の差別を禁止する人権の問題にあると説明している。人権の国際基準が私たちの予想を超えて進んでいることを実感する。

 日本の子ども虐待総数は、児童相談所が継続的なデータを採り始めた1990年度の1101件から、最新の2002年度では13738件へと12年間で21倍と激増している。このデータが氷山の一角であることは皆さんすでにご存じであろう。特にSIDS(乳幼児突然死症候群)の診断をめぐる問題は深刻である。実はこのデータには多くの虐待死が含まれているのではないかと推定されるからである。こどもに最善の利益をという視点から児童虐待防止法の改正gqあ求められる。凍てついた瞳というあまりにも痛ましい犠牲を防ぐにはどうしたらいいのか。私は弱者への抑圧の移譲が横行する社会システムの在り方自身を問い直さなければならないと思う。いくら泣き叫んでも母親から虐待を受ける赤ちゃんは、遂には泣き声を上げることをやめてしまうまでに傷つくという。少し大きくなると、イジメに耐えてもいい子になろうと努力する痛々しいまでのけなげさを示す子どももいる。LDやADHDが激増しているのはなぜか? 子どもが生きにくくなっているという悲惨な社会! 神からも見捨てられた呪われた社会に転落しつつある日本・・・・・・。

 アフリカ中心に28ヶ国で今も女子の割礼がおこなわれている(ある国は90%以上の女性に施している)。女性の外性器を縫い合わせたり、一部切り取ったりする。切除の瞬間の激痛、出産時の苦痛、生命への危険、そして心理的なトラウマ・・・・女性の人権をこれほど傷つける行為はない。お嫁に行くための絶対条件として割礼を強制しているのだ。婚姻前の性交を防ぐことで男性優位の社会を守ろうとする悪しき風習が続いている。かくまでして女性を支配する男性自身が実は恐るべき犠牲者となっている。

 紆余曲折と試行錯誤を経ながら、それでも人類の歴史は前に進んで進歩していくという、楽天的な歴史館は少し保留しなければならない。もしかしたら退歩しているのかもしれないと考えた方がいいのかも知れない。それほど危機は深化している。その深層にある主たる要因は、新古典派経済学の跋扈跳梁にある。最後の結論は飛躍があるという人はあまりにもおめでたい。(2003/11/18 23:52)

[究極のモラル・ハザード=現代の賃金奴隷制ー三井住友銀行の成果主義賃金体系について]
 成果主義賃金とは、仕事の目標を決め、その達成度によって賃金・一時金・昇進・昇格を決める制度で労働者間の競争によって仕事に対するモチベイションを喚起するシステムだが、同時に総人件費を抑制する効果を持つ。従来の勤続年数をベースとする年功型賃金に替わって90年代から導入され、すでに約80%を超える大企業が採用している。ところが三井住友銀行が本年度から打ち出した成果主義システムは究極の賃金奴隷制に等しく、まるで人参をぶら下げられたチキンゲームだ。
 行員は、1年間の仕事の目標を書いた「成果責任評価シート」を上司に提出し、そこには収益目標・投資信託獲得額など詳細なデータが記入されている。上司が目標の達成度をS,A,Bで評価し昇格・昇進・ボーナス査定をおこなう。問題は、毎月の給与から一定額を天引きし、成果に応じてボーナスを払うというシステムだ。つまりボーナスは行員同士が他人の給与を奪い合う熾烈なゲームとなる。天引き額は、部長級35000円、支店長級20000円、課長級15000円、主任級10000円、その他5000円で、行員24000人のうち入行5年目以上の総合職と専門職15000人に適用する。天引き総額がすべて再配分されるのかどうかも不明で、多くの行員は天引き額は返ってこない。通常の成果主義賃金で年平均100万円がダウンしているなかで、ボーナスによって実質的な賃下げがおこなわれる。
 明らかに労働基準法の賃金支払い原則である@全額をA直接B本人にC現金でーに違反する形態であり、さらに労働者を動物的に蔑視する反人間的な形態である。最初から成果主義であった外資系企業では、すべての企業で@上司に媚びへつらうA同僚の足を引っ張るB他人の成果を横取りするといったモラル・ハザードが横行し、日本IBM社員の自殺率は急激に上昇している。この成果主義の恩恵を受ける人は10%で残り90%は減収になるという悲惨な実態となっている。成果主義の原則は公平・公正な評価が絶対条件であるがこうした原則はほとんど貫徹されない。つまり成果主義賃金システムは、基本的に人間不信観ないし利己主義的人間観を前提にした反人間的な本質を持つ。とくに集団主義文化のよい面を成長のエンジンとしてきた日本型企業文化(プロジェクトXをみよ!)とは本質的になじまない性格を持っている。上司が強力な権力を持って冷酷に社員を管理するシステムは、企業も社員もダメにしてしまうことがあまりにもハッキリししている。累々たる同僚の屍体のうえに、自分の幸福を築くというシステムは恐るべき人間破壊を生み出すだろう。分裂させて支配せよ!は支配の論理の鉄則であるが、現代では暴力や強制によらずとも、カネを散らすかせれば支配できるとでも本気で思っているとすれば、経営のモラル・ハザードは極まっていると言わざるを得ない。

 米国の辞書出版社メリアム・ウエブスターが今年7月に出版した人気の高いカリジエート辞書の新版に「マックジョブ」を新語として追加し、定義を「低賃金で将来のない仕事」としたことに対し、ファーストフード最大手マグドナルドが激怒し、削除を要求するに到った。マグドナルドCEOは、定義が「正確性に欠け従業員に対する侮辱だ」としている。同社の最高執行責任者COOが15歳の時にアルバイトとして入り、19歳で母国オーストラリアの最年少店長となった例を挙げて「将来性がない仕事という定義は事実に反する」としている。ウエブスター側は「言葉がどんな意味で長期的に使われてきたかを慎重に判断した結果であり削除や変更は一切考えない」と拒否している。言語学者による客観的な定義であるからマグドナルドは率直な自己反省を加えなければならない。COOのような天文学的な偶然の華やかなサクセスストーリーの背後で惨めなマジョリテイーの実態に目を向けない限り、マグドナルドの将来はないことは明白だ。(2003/11/16 22:29)

[永 六輔『商人(あきんど)』(岩波新書)]
 さすが当代随一のエンタテイナーによる商業の知恵の数々。無条件に面白かった。以下一部を紹介。
 
 商業の「商」とは、女陰、つまり子供が生まれるところという意味で、商のなかの口は膣口を表している。人類最古の職業は娼婦というのは文字通り正しいのである。物を売るという意味では「唱」が正しく、従って唱業・唱人が正しいのであり、本来は声を出して歌ったからである。店の「广」は家屋、「占」は品物を並べるという意味で、もともとは品物はすべて行商というスタイルで販売していたが、織田信長の楽市楽座によって集住する行商人が定住して屋台を開き、日本最初の商店が誕生したのである。屋台が幕末に発展して、本格的な店が開かれ、それらはいまは老舗といわれるようになった。その集住地がほぼ職業別になったので現在でも紺屋町とか左官町、駕籠町、歌舞伎町、呉服町などの町名となって残っている。
 幕末の外国貿易で大量の外国商人が流入し、幕府にも薩長にも武器を売る死の商人が登場し、その代表が長崎観光で有名なグラバーであり、彼は南北戦争で残った中古品の武器を大量に日本に売って莫大な利益をあげた。特に南軍のために製造された軍服が必要なくなったので日本に輸出され、明治政府はそれを日本の男子学生服(詰め襟)として採用した。日本の学生の学生服ファッションが世界で珍しがられるのは、南北戦争の南軍兵士の制服を思い起こさせるからである。
 日本の代表的なデパートである松坂屋、松屋、伊勢丹、三越がすべて伊勢出身の商人である理由は、当時のお伊勢参りで全国の情報が伊勢に集中し、当時の戦略産業である藍木綿の先端ファッションが松阪木綿に取り入れられ、巨大な呉服屋が誕生してそれを基礎に百貨店に発展したからである。
 商売は<約束を守る><嘘をつかない><言いわけしない>この3つにつきまんな(大阪・笹倉玄照堂主人71歳の言葉)。彼は作務衣ブームの火付け役で藍木綿の魅力を世に広めた。


 この3つはすべてに当てはまる至言だ。ライオンヘアーに聞かせてやりたいところだ。いま商売はマーケッテイングと言い換えられ、ありとあらゆる外来語でクイックレスポンスに語られているが、現実の商いはもっともっと平凡な真理を含んでいるようだ。教育の世界も同じだ。学校経営なんて言葉は死語にした方がよい。(2003/11/15 20:14)

[ILO・ユネスコの日本政府に対する勧告ー日本の教師人事政策は国連規定に違反]
 文科省が推進する指導力不足教員政策と新たな人事考課による勤務評価制度に対して、ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)の「教員の地位勧告」専門家委員会は、国連決定に違反するとするレポートを作成し、日本政府に勧告することを決定した。第1は、新勤務評価制度は労働条件の重大な制度変更にも係わらず、団体交渉を拒否していることであり、第2にこの制度が本人への説明や不服申し立て権を規定せず、評価プロセスが極めて不明瞭であるなど国連「教員の地位勧告」の関係団体との事前協議や評価の客観性の実現を求める規定を遵守していないというものである。
 専門家委員会は、教員団体との事前協議が存在しなかったことを認定し、評価機関から現職教員が排除され、非公開でおこなわれることなどを強く批判している。過去の勤務評定が、公正かつ有効に適用されず結局は廃止されている実態を指摘し、主観的評価の恐れがあり、教員が評価の詳細や根拠を知る権利が与えられていないことをあげ、『勧告』に抵触し遵守していないとしている。
 こうした国際基準に背反する管理システムが導入されている背景には、いうまでもなく新古典派経済学の新自由主義の競争によるモチベーション誘発戦略が民間企業から公務分野にまで無制限に拡大し、遂には人間相互の信頼関係に基礎を置く教育という場面に浸透してきたことにある。新古典派の人間観は、すべての人は自己利益を極大化する行動をとるはずだーということを前提にし、相互の競争システムによって全体の利益は調整されるというものだ。民間企業の人事管理に目標管理による業績給が導入されてきたのはこの原理による。こうした人間観は、経済活動の一部には適用されるが(ただし民間企業でも排他的競争原理によって企業利益は実は打撃を被っている場合が多い)、人間の相互関係が信頼と依存を唯一の財産とする教育活動には本質的になじまないものだ。
 こうした評価制度が貫徹するならば、教育における学びの共同性は根底から否定される。教師の世界は、垂直的な権力機構となり、常に上位者が下位者を監視し、下位者はそのまた下位者を監視するという階層的な垂直性によって、非抑圧が次々と下位へ移譲され、最下層の教師は遂に子どもに抑圧を加えるという悲惨な状態となる。こうして「目標」ー「査定」の恐怖による支配が完成し、恐るべき管理社会が実現する。この管理は、前近代的な暴力と刑罰による管理ではなく、自らが自主的に参加する虚構のシステムであるから、より一層精神的な圧力は強い。真綿で首を締めつけられるような圧迫感がただよう。信頼と愛情の共同体である学校に、民間企業と同じ経営理論を適用できるはずがない。他社を排除し、自社のみ生き残る企業経営理念は本質的に子どもの成長法則と背反する。こどもの競争は互いの成長を励まし合い、相互承認のシステムのもとでのみ、その効果は最大限に発揮される。
 残された問題は、教育という人間の精神と身体の成長を課題とする生命の営みの領域で、どのような評価が成立するのか、評価体系の構造(基準、評価主体)が学問的に未確定なままで推移していることである。精神の交流の場にある基準を導入すること自体が、精神の本質的な自由を殺してしまうのではないか。今後の課題としたい。(2003/11/15 9:03)

[君は秦テルヲを知っているか]
 秦(ハダ)テルヲは、明治末から竹久夢二や今東光等と交遊した流浪の忘れ去られた画家である。1887年に広島で生まれ、京都で育ち、大阪、神戸、東京を流離い最後は京都で病死した。初期の「煙突」は、工場の大煙突を大胆に切り取った下を歩く結髪の3人の女性が前屈みで早足で歩いていく、一見のどかだが辛い労働が待ち受ける近代社会の労働を暗示している。次いで浅草や吉原の娼婦をモデルにしたあやしい生と性の世界にうごめく暗く頽廃した女性群が描かれるが、そこには苦界に沈んだ女性たちへの深い共感が秘められているかのようだ。
 一転して大正末期には、結婚して家庭を持ち、子どもの誕生を機に奈良近辺の村落に転居し、様式化された母子像や仏画が描かれ、すべてを受け入れた調和の世界があらわれる。デカダンであれ光明であれ、近代の光と影を一身に担って探求し求道していく真実の魂ともいえる。病死する直前の戦中絵日記は、幼年期の両親との楽しい想い出や死を迎える慈愛に溢れている。
 この漂白の画家の作品を修復して世に残した次男・瑠璃男氏は、その後突然に家族とともに姿を消し、瑠璃男氏から作品を紹介された美術館学芸員も行方不明となり、テルオを取り巻く周辺人もいまはいなくなってしまっている。近代日本を彷徨した異端の画家は、ほんとうは真実を求めてさすらった真の近代人ではなかったか。以上朝日新聞11月13日付け夕刊参照。(2003/11/14 22:31)

[アメリカ帝国のクライシス]
 米国の1億900万世帯のなかで、1210万世帯(11.1% 3490万人)が低所得で家族の食料が自力で確保できず、その割合は増加傾向にある。その30%の380万世帯(940万人 全世帯の3.5%)が飢餓状態にあり、家族の誰かが8−9ヶ月間は月に1から7日間食事がとれない状態にある。この飢餓世帯も増加傾向にある。残りの70%の世帯は、食事の種類を減らし連邦政府の食料援助(低所得者用食料切符、給食代減免制度、女性向け栄養補助計画など)を受け、さらに地域社会や教会の支援で飢餓状態を防いでいる。この世帯の多くは貧困ライン(4人家族で年収18244ドル=199万円)以下の世帯と母子家庭・ヒスパニック・黒人層が占めている。通常は大人が自分の食事を抜いて子どもに与えるが、昨年は26万5000世帯の56万7千人の子どもがしばしば食事を抜かざるを得ない状態に陥っている。これが”思いやる保守主義”を掲げて擬似当選したブッシュ政権がつくりだした高失業と貧富の格差の恐るべき実態である。以上は米国農務省報告書『米国世帯の食料保障事業2222年』から。
 イラク戦争に投下した膨大な軍事費と総額4013億ドル(43兆円)にのぼる国防予算の結果であり、弱肉強食の新古典派経済学の実践の結果である。米国社会は富裕な白人系高級市民層と極貧のマイノリテイの両極に分解したことが明確に示されている。外国を侵略する国民はそれ自身自由であり得ない、対外的な侵略は対内的な不満を外へそらす政策的な意図を持つーという国際関係の法則が露骨に作動している。米帝国の深刻な内部矛盾がここにあり、こうした矛盾の象徴として、いまなおキューバ・ガンタナモ海軍基地収容所に幽閉されているアフガン捕虜700名の無権利の拘束がある。多くがもとタリバンかアルカイダであるが、少数の欧州人も含まれている(英国人2名、オーストラリア人2名、クエート人12名)。彼らは外国で拘束・連行された外国人であるとして、「囚人」でもなく、戦時捕虜としても認定されずジュネーブ条約の適用を受けない悲惨な無権利状態にある。動物園のような檻の中で拷問を受け、精神障害や自殺者が激増し、全世界からすでに忘れられた存在として孤立している。彼らは「テロリスト」という認定を受けているに過ぎない。彼らは裁判を受けるのか、軍法会議に服するのか明日のことはまったく分からない状態にある。国内で10%の世帯を飢えに追いやった政府は、対外的には国家テロに等しい行為をほしいままにしている。(2003/11/14 21:55)

[速度の囚人-ADSLに変えて]
 インターネット接続をISDNからADSLに変えて確かに操作が早くなったが、フト顧みて私はなぜこのように速度を競う競争に巻き込まれて一種の恐怖症にかかっているのではないか-とも思った。近代以降のテクノロジーはあらゆる分野で高速化を推進し、チキンゲームのように絶壁に向かって突進しているかのようだ。いったい文明化とは高速化を意味するのであろうか、本日はこの問題を考えたい。
 God speed thee and thy close!(汝等と汝等の目的に幸いあれかし!)とミルトンが言ったときに、speedという動詞は「速く行く」ではなく「栄えさせる」を意味したが、いつの間にか幸い=速度に転化してしまった。中世末期から速度への関心が高まり、機械と原動機が時代をリードし、自宅から工場や学校に到るあらゆる社会生活の場面が緊密にスケジュール化されていった。遅刻という概念が登場し、設計された時間に対する遅れは犯罪となり人間失格を意味するようになった。1日24時間という時間の希少性をメガヘルツMHzという光速に基礎を置く定数c(光が真空中を進む速度=高速度)が時代を支配し、スピード中毒症とも言うべき神経症が昂進していった。人間が速度を実体験したのは、最初に汽車に乗った人々である。車窓から後ろへ流れるように通り過ぎていくだけの場所を「風景Landscape」という単語で表現し、汽車の時刻表は人類にはじめて分という時間単位をもたらし、蒸気機関車のシュシュッポッポという韻律的なリズムに速度が加わった。車窓から見える風景は実際に訪れて体験することのない「風のような景色」となった。これは驚くべきショックを与えた体験であり、人類ははじめて自分では体験しない空間を見ることになった。これは果たして人類に幸せをもたらしたのであろうか。
 私たちが歌を歌い、音楽を聴いて演奏したりしているときに果たして時間計算をしているか。そこではリズムがすべてで時間速度はまったく無関係だ。音楽に速度感覚が入ったときに感動は喪われる。ガリレオが速度の概念を提起し、斜面による引力を研究し、ケプラーが天体の運動を計算したときに、はじめて時間の物理学が誕生し、それからたった300年で量子力学の時間が生まれ、流れている時間とは分離された「瞬間」という時間が生まれ、時間はミクロの世界に入った。
 地球上で100年の間に物体がどの程度移動したかをみると、人間社会が誕生してから人間誕生以前に比べて10万倍速く物体を移動させることとなった。平均して1年間で10km動かしている計算になり、人間が誕生してから1万年というのは、1万年×10万=10億年に相当する。地球上に生命が誕生してから約20億年だから人間は恐るべき速度の打撃を地球に加えたことになる。遺伝子で言えば、1万世代かかってゆっくりと遺伝子を変化させた生命は、人間の手によってたった1世代で遺伝子を変化させてしまうと言うことだ。10億年かけて起こる変化は地球に打撃を与えないが、たった100年で変化させてきた人類はひょっとしたら地球に致命的な打撃を与えているのではないか。以上イバン・イリイチ及び松井孝典氏論考参照。
 私たちは速度の時代が実は終焉を迎えている時代に逢着しているのではないか。ゆっくりでないといい仕事ができない時代に、実は入りつつあるのではないか。高速化が何を生みだし、何を奪ってきたかを深く考えて見る必要がある。ベートホーフェンのメトロノーム体験はいまでもその真実を失っていない。(2003/11/13 22:04)

[ひょっとしたら21世紀を代表する作家ではー柳美里『8月の果て』]
 この小説は日本人に騙されて慰安婦に転落した13歳の朝鮮人少女の物語であり、連載460回を超えて8.15後故郷へ帰還するシーンである。創氏改名で金本英子とされた通称ナミコは決して自分の本名を同胞に語らない。それは最後に残された自分の誇りを意味している。私は、在日朝鮮人作家の小説は幾つか読んできたが、金達寿や李恢成氏のものはいまでも印象深く刻まれ、それらを映画化した小栗康平監督の作品も幾つか観てきた。しかし慰安婦の真実の世界をこれほどリアルに胸迫る痛々しさで描ききった作品は初めてだ。柳美里氏の作品はいままで読んだことはなく、この朝日新聞夕刊連載小説ではじめて目にした。途中から読み始めたが、日朝現代史の闇の部分を赤裸々に浮かび上がらせて、慰安婦の流浪を通して鋭く天皇制と侵略の問題を日本人に突きつけている。発想や意識までも日本語で日本的思考に染められて、なおかつ民族の尊厳を恢復しようとする希望と絶望のはざまで生き抜かなければならないいたいけな少女は全朝鮮民族の心性を象徴している。しかも日本人助産婦が朝鮮人の子どもをとりあげるシーンを通して、憎悪を超えた確かな架橋をも展望している。柳氏は在日前衛俳優として出発し、日本人演出家と結婚して一子をもうけ、いまは文筆に専念しているが、この小説を記すために調査・収集したに違いない膨大な資料群を想像させ、おそらく彼女は文字通り身命を投げ打ってライフワークとして全力投球したに違いない。天皇制に対する庶民の激しい怒りと憎しみは日本人ではテロを恐れて絶対に表現しないレベルで展開されている。朝日新聞がよく連載を続けていると率直に思う。私たちは、ひょっとしたら21世紀を代表する在日作家を目の前にしているのではないか。知的なアクロバットか病理的なアウトサイダーを描いて恥じない現代日本の小説家に登竜門となる賞を与え続けている日本の凡百の文芸評論家は青ざめて頭を垂れるだろう。なぜなら世界を破砕するような事実をして語らしめ、それを1人の少女の生涯に結びつけて描ききっているからだ。こうした小説を読むと、ハッキリと大江健三郎氏の限界が見えてくる。大江氏の世界は、真実に接近しつつも汚れきって堕落して泥沼で咲こうとする底辺は登場しないという安心の世界があるからだ。柳氏は最も汚れ軽蔑され侮辱され尊厳を失った者の残された最後の高貴を証明している。465回の最後の文章を転載させていただく。これはナミコが自分の半生涯のすべてを語った後に、本名を明らかにせず故郷への帰還を拒んでどこかへと去っていく前のシーンの独白である。

 抉られた季節(21)

 日の出は見えなかった。スアースアーと勢いを増した雨に匿われたまま太陽はあたりを灰色に染め、空と海の境に白い線を引いた。ナミコは雨ですべる手摺りから手を離した。身世打令(身の上話)をしてわかった。わたしの人生は損なわれている。わたしの人生は決定している。わたしの人生は終わっている。ナミコは顔を空に向けた。雨がナミコの顔を打った。ナミコはうたった。

 アメアメフレフレ
 カアサン ガ
 ジャノメ デ オムカイ
 ウレシイナ
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン
 カケマショ カバン ヲ
 カアサンノ
 アトカラ ユコユコ
 カネ ガ ナル
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

 あなたの名前は?
 ・・・・いえません・・・・ミアンヘヨ(ごめんなさい)


 日本の多くの人は(わたしも含めて)、最期の2行に込められたナミコの心情を本当に理解することはできないだろう。ナミコが見事に正確に歌った日本の唱歌を、日本人の中で同じように歌える人は少ないだろう。願わくば彼女の作品が欧米語に翻訳され、ノーベル文学賞のチャンスをと願う。(2003/11/12 22:06)

[今どき 与話情浮名横節 源氏店ーやいポチ公戦争ごっこはもうやめよ]

 総理大臣さんえ
 ライオンヘアーえ
 ペットさんえ
 いやさ ポチ公 ひさしぶりだな
 (ポチ公驚いて)
 そういうお前は!
 (戦没者)
 戦没者の亡霊だ!おぬしは俺を見忘れたか。
 しがねえ戦争に狩り出され、命の綱もプッツリと、娑婆からそのままあの世いき
 もう2度ともどれねえと諦めていたその矢先
 おめえがちょくちょく靖国へやってくるので いってえ日本の首相はいまどきなにやってんのかと気がかりで
 娑婆に戻ればこの始末。


 聞けばてめえはブッシュの囲い者となって、旦那のご機嫌とるために軍隊送ると言うじゃねえか
 身の程知らぬ大たわけ、おめめはそれでも本当に日本の首相でいるのけえ
 いやいやそればかりじゃねえ ブッシュのための義理立てに 日本を売るなど、聞くもおぞまし下司根性
 おまけに世界が誉めてる憲法を、とりわけ珠玉の9条を、一寸試し、五分刻みと痛めつけ 殺めようとは
 お釈迦様でも気がつくめえ よくまあお主は首相って面か
 おお蝙蝠安、これじゃこのまま帰られねえ
 (蝙蝠安)
 なるほど!こいつアこのままけえれねえ

 世界の中のどの国も軍隊送らんと言う中で、軍隊だけでなく国民の血税提供し、同盟強化の証しなど。
 てめえよくもやってくれるじゃねえか
 言わずと知れた戦争犯罪におめえは首でも洗って待っていろ。
 おめえばかりか呆け那須の議員の野郎は、末代の面汚しとはこのことだ。

 もしもおめえが兵隊のいのちを美国に捧げてえのなら、おめえの倅の孝太郎 一番先に送ったら
 男一匹ライオンヘアーのポチ公名前は少しはあがる。(走れ走れコータロー 追いつけ追い越せ ぶっとばせ)
 あの世で安穏と眠っている暇ありゃせんぞ!このまま娑婆にとどまっててめえの末路を見届けて
 晴れやか啖呵は江戸っ子でやっとあの世へもどろうぞ

 (成駒屋!)

  以上は阿部政雄氏の傑作歌舞伎を筆者の責任で一部改作いたしました。(2003/11/11 21:12)

[Ernst Friedrichエルンスト・フリードリッヒ『Krieg dem Kriege!戦争に反対する戦争』] 
 フリードリッヒは、1920年代から30年代にベルリンで活躍したアナーキストで、25年に設立した反戦博物館でナチスの弾圧を受け、チェコを経てスイスに亡命しスイス政府から国家元首ヒトラーに対する侮辱罪で追放されてベルギーに亡命し、40年のナチス侵略後にフランスで自由フランスレジタンス運動に参加した後、戦争終了後フランス国籍を取得して617年に不遇のうちにこの世を去った反戦運動家である。1914年の第1次大戦では、反軍意識から徴兵拒否で精神病院に強制収容され、24年に第1次大戦の反戦写真集『戦争に反対する戦争』を出版したが、長い間この著書は埋もれ1980年代の欧州反戦運動の効用の中で80年にフランクフルトの出版社から復刻され、1988年に日本語版が出版された。
 今日11月9日に学会に出席した後、フト古本屋に立ち寄りこの書を購入して驚愕した。第1次大戦の旧プロイセン軍の生々しい禍害と被害の表現しがたい痛ましい写真のオンパレードだ。第1次大戦がはじめての現代総力戦として立ち現れ、敵味方を超えた悲惨な無機質な死をもたらした。彼は迫り来る第2次大戦を予感してこの写真集で戦争の根底的な無意味さを被写体自身を通して語らせている。塹壕戦の疲れ果てた末の死、毒ガスによる大量の死、捕虜に対する残虐な処刑、醜く変形した顔貌の数十回にのぼる麻酔なしの手術ーこれらの無数の敗残の無惨と楽しく遊ぶ君主と軍司令官たちが鮮やかに戦争の本質を浮かび上がらせる。しかし人類は、わずか20数年後に第1次大戦をはるかに上回る殺戮戦となる第2次大戦をを繰り広げ、言語に絶する最終戦争をおこなった。
 この写真集を見ていると、人間の何たび経験したらいくさの悲惨が骨身にしみて体得できるのか、ある種ニヒルな絶望が浮かんでくる。そしていま日本は地獄へのみちをふたたび歩み出そうとしている。あまりにも直截な現実を突きつける写真集、しかも第1次大戦の。シュペングラーが第1次大戦に「西欧の没落」をみた気持ちがよく分かった。戦争という愚かな行為をなんで人類はいつまでも繰り広げてきたのか、ほんとうに原理から問い直さなければならないとつくづくと考えさせられる。最後にこの書のアピールの一部を掲げる。いかにも獅子吼する口調ですがその反戦の熱情が伝わってきます。

 戦争をふせぐ道

 汝の子どもを成長して軍人にならぬよう育てよ。母よ、汝が赤子を膝に置いて軍歌を歌えばそれは軍人になる準備をしているのだ。父よ、汝が子に兵隊の玩具を与えるならば戦争意識を鼓吹しているのだ。肝に銘じて記憶せよ。汝の子のかぶる紙でつくられた玩具の甲冑は、必ずいつか殺人者の頭上のヘルメットとなるのだ。汝の子が一度空気銃を撃つことを学べば、その子はライフルで人を撃つのだ。汝の子が手にする木製玩具のサーベルは、必ずいつかは軍刀に変わり人間の身体を突き刺すのだ。我が子が他人の愛しき子を殺すことを望まぬ父よ母よ、汝等肝に銘じて記憶せよ。愛と連帯の中で教育され、人の命の高潔さをいかなる場合も尊ぶ家庭に成長する子どもは必ずや軍隊と戦争を厭う子に成長する。汝親として、子の悪を未然にふせごうと願うなら、こうした行動をなすべきである。
 汝等女性たちよ、万一汝の夫がが心弱いとき、夫に替わって汝自身がこの仕事を遂行せよ。夫の愛の絆は軍隊の命令よりも強いことを立証せよ。夫を前線に行かせてはならない。夫のライフル銃を花で飾ってはならない。女性たちよ、汝の夫が心弱きとき、これらを実行せよ。全世界の母たちよ、団結せよ。
(一部筆者略 2003/11/9 22:50)

[産声ーいのちの叫び]
 母親が自分の身体に向き合い、静かに生まれてきた赤ちゃんは、泣き声を上げない。静かに横たわっている。母親は動物のような、驚いたような、野生のようなまなざしで、子どもの背中をさする。子どもの鼻から、粘液が自然に流れ出て、初めての呼吸が静かにおこなわれる。母親が抱き上げると、子どもは目を開き、母と子はカッと静かに見つめ合う。「ここでね”おめでとうございます、男の子ですよっ”なんていうと、このお母さんと赤ちゃんの静かな時間が壊れてしまうのです。この時間を大切にできると、お母さんは赤ちゃんをほんとうに可愛い、と思い始めるんです」と助産婦は静かに言う。荘厳な瞬間だ。いのちはほんとうは静かに始まるのではないか。
 現代の出産は、煌々と照るライトの下で、金属や騒がしい雰囲気で、赤ん坊が泣かないと何とか泣かせようと医者はざわめく。産声が聞こえると、ああ、よかった、と安堵する。産声は肺胞を膨らませるために、啼泣が必要であり、泣くことによって呼吸が始まると説明されている。しかしほんらいの人間の誕生は、静かな静寂のなかでおこなわれた。もし大声で泣いたら、弱い哺乳類であった初めての人類は、無防備の出産後の母と、産まれたばかりの湯気の立つ柔らかい子どもは、肉食獣の餌食となったであろう。
 いのちは静かなしじまのなかで始まったのである。新しいいのちは、この世界との静謐な出会いから始まったのである。そのような出会いを約束できないところに、人間の根元的な暴力の始まりがありはしないか。以上は三砂ちづる氏(国立保健医療科学院部)の言葉から。
 驚いた。はじめて私は知った、人間のほんらいの誕生は、母子の静かな出会いから始まったことを。そしていま、まわりを見渡すと、なんと騒がしい音が氾濫しているかを改めて気づかされる。このような音の暴力の世界に生きている私たちは、いつの間にか静かな沈黙を恐れ、饒舌で無意味な会話に不安を紛らわさざるを得ない、不幸な存在になってしまっているのではないか。そしてそれは、人間が人工的な出産の最初に、産声を強制されて挙げざるを得ないところにあったのだ。赤ん坊は、母ではない人に触れられる恐ろしさで、大声をあがて泣かざるを得ないのだ。それを私たちは産声と呼んでいた過ぎないのだ。私たち現代人は、原初的な母子関係の信頼が芽生える本源的な静寂のコミュニケーションから、なにか大切なものを失い、騒がしい洪水のような音の暴力の世界で過ごしているのではないか。(2003/11/8 23:37)

[戦後日本とは何か]
 戦後POST WARの意味はそれぞれの地域によって大きく意味が異なっています。米国の戦後とはベトナム戦争後を意味し、フランスの戦後アプレ ゲールは第1次大戦後を意味し、日本では1945年8月15日後を意味する。しかし日本でも沖縄では戦後はもっと早まってしまう。旧ソ連圏での日本の戦後は敗戦直後の日本を指している。だから日本の1945年から現在までを戦後として通史的に見なす単純な作業はできない。占領から現在までを日米安保関係史でみるか経済成長史でみるかで大きくまた食い違う。戦争と革命という視点から見るか、科学技術革命史という視点から見るかでも異なる。多様な視点によって1つの事実の位置づけが異なってくるから、より複眼的な見方によって豊かな歴史像をつくることが可能となるが、他方一元的な見方から遠ざかる相対主義の危険も出てくる。そうするとさまざまの歴史的な事実を根底から動かしている基底的な力は何だろうかーという歴史の動因を掴みたいという気持ちになるのは当然である。それは神の力だ、英雄だ、階級闘争だ、経済の力だー等々多くの歴史の動因が主張されたが、結局のところいずれもが主張としての支配的な力を失っているところに実は現代の不幸がある。それぞれがミクロの世界から評価を行い、ミクロそのものを成り立たせているマクロの世界に踏み込むことを逡巡する傾向がある。
 どのような営みをしようとも、それ自体が成立する条件は平和の屹立にあることは自明だ。戦後の区分をどのように設定しようが、殺し合いはしないという暗黙の前提があるはずだ。その前提は国連憲章と日本国憲法9条にあることも自明だ。この2つの文に込められた理念は時代とともにうつろいゆきても、その基底的な内容は不滅だ。この理念が歴史的変容を遂げて自らをより豊かに刻印し、鍛え上げていくーそのありようが戦後史の展開でもある。風雪に耐えてなお生き残っていこうとするちからと新たな時代に自らを広げて内実を成熟させていく道程として戦後史を描くことも可能だ。しかしこの理念はいま決定的な分岐点にさしかかっている。この理念を後世に残すために、アジアでは2000万人の命が日本では300万人の命が散った。過ぎ去った過去の記憶をどこまで想起しうるかの想像力が問われ、死者をして再び語らしめねばならない時がこようとしている。逝ってしまった魂はまだ慰められてはいない。粛然として明日11月9日の総選挙速報を聞こう。(2003/11/8 19:53)

[現代のゲットー]
 
    海が見たい

 少年は海を見るのが好きだった
 家から地中海まではわずか15km
 でも海に行くことはできない
 そこはイスラエルでパレスチナ人の少年は立ち入れない
 父親が必死でつくった家のバルコニーから海が見えた
 少年はずっとその海を見てきた

 ある日 海が少年の前から消えた
 かわって8mの壁が目の前にあらわれた
 ぼくは壁ではなく 海が見たい
 夕日が沈んでいく海を見るのが大好きなんだ

 少年の家は壁に近いという理由で取り壊された

                         ーパレスチナ・カルキリヤ

 イスラエル政府がヨルダン川西岸地区に建設中の壁は、高さ8mを超え高圧電流が流れる。パレスチナとイスラエルの境界であるグリーラインより西岸地区のはるか内側に食い込んで、パレスチナ人の豊かで水が溢れる土地は没収され、農地も家も根こそぎ破壊された。この壁は西岸地区を3つに分離しそれぞれは孤立し、パレスチナ人はわずか4割の土地に閉じこめられることとなった。イスラエルは安全のための分離フェンスーと呼ぶが、パレスチナ人はアパルトヘイト・ウオール(隔離壁)と呼ぶ。国連安保理は壁の撤去を求める決議案を米国の拒否権使で葬ったが、緊急総会は賛成144・反対4(米国、イスラエル、ミクロネシア、マーシャル群島)・棄権12の圧倒的多数で可決した。イスラエルは従うつもりはない。
 カルキリヤは農産物が集積する商業都市として繁栄してきたが、今は町の面積の半分は切り離され、1800の商店のうち600が閉鎖に追い込まれ、完全に監獄状態となった。こうして世界最大の野外監獄が出現した。私は敢えてカルキリヤを現代のゲットーと呼びたい。
 思えば人類の歴史にあって抑圧者は多くの壁を人工的につくって支配を永続させようとしてきた。万里の長城、ガリアの壁、マジノ線、ゲットー、ベルリンの壁などなど・・・・しかしすべて虚構の壁は虚しく音を立てて最後には崩れ去った。イスラエルはナチスの抑圧に打ちひしがれたユダヤ人が最後の希望として人為的に建国した国だ。ナチスによって封鎖されたゲットーの悲劇を骨身にしみた痛苦の体験をしてきたユダヤ民族が、同じ行為を追放したパレスチナ人に加えようとしている。歴史は1度目は悲劇として、2度目は喜劇としてという法則は実は間違いだった。2度目も同じ悲劇として起こっているのだ。
 カルキリヤの少年がふたたび海を見るのはいつだろうか。おそらく彼は自分の一生のうちに2度と海を見ることなくこの世を去るだろう。彼は自らの身体に爆弾を巻き付けて自爆テロの道を選ぶだろう。そして彼の息子は父親を英雄として心から尊敬し、おなじ抵抗戦士の道を歩むだろう。こうした悪無限のどこかで終止符を打つことができるだろうか。歴史ではすべての壁が最後に崩壊したように、パレスチナの壁もかならず崩壊するだろう。それは単純ではあるが巨大な苦難が伴う道だ。イスラエルとそれを後ろからリモコンする世界帝国が完全に孤立する日が間違いなく来るーその日にこそ壁は音を立てて崩れ落ちるだろう。その日にはすべての人が赦し合ってともに夕陽に輝く海をジッと見つめるだろう。(2003/11/8 8:37)

[日本はファッシズム初期段階に突入しつつあるー生活安全条例の恐怖]
 ファッシズムの語源は、ラテン語fasces古代ローマの儀式用の棍棒であり転じて団結を意味するが、対内的には全体主義による権力強化をおこない、対外的には武力強化と勢力圏拡大のための侵略をおこなう独裁主義的な政治形態(旺文社・国語辞典参照)。合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的な思想を宣伝する(岩波・広辞苑参照)。注意しなければならないのは、軍部・警察による上からの強権的な権威主義的支配という前近代的で野蛮な形態とともに、民度が成熟してくると洗練された技術によって下からの民衆の怨念を動員する微笑するファッシズムとか管理ファッシズムという近代的な形態があることだ。後者は議会制度を否定せず現象的には多数による独裁的な支配を貫徹する。日本の現状は確実に現代型ファッシズムの初期段階に突入しつつある。

 警察庁調査では、79年の京都府長岡京市から始まって今年の4月現在で全国自治体1467に生活安全条例が制定されている。94年に警察庁保安部が生活安全局に再編成されてから急速に増大している。条例のほとんどは自治体と住民の双方に「安全な町づくりを推進する責務」を課し、警察の主導下でコミュニテイの相互監視力強化をうたっている。路上喫煙に2000円の過料を科す東京・千代田区生活環境条例では警視庁OB10人がパトロール隊を編成し、摘発は警視庁から出向した警察官がおこなっている。東京・武蔵野市では、民間警備会社が学校や幼稚園を定期巡回し、警察に届けられない不審情報を把握して警視庁派遣の指示を仰ぐシステムだ。千葉県警は、最寄りの郵便局と連携する「ポリス・ポストネットワーク」を立ち上げ、郵便局員が犯罪情報を収集して警察に通報するシステムで検挙率を挙げようとしている。9.11同時多発テロ以降、郵便局員と公益事業職員が不審人物情報を政府に通報する計画が立案された。犯罪予防のポイントは、見知らぬ人が町に来ればすぐ分かるような地域の連携の強化にあると警察庁は主張する。
 一部の市民が公権力の目となり耳となる密告社会と相互監視社会が静かに構築されようとしている。かって古代エジプトで「王の目、、王の耳」と称するスパイ網が全土に張りめぐらされて王権の支配を強化し、戦前期日本では隣組制度と自警団制度によって反政府批判分子を根こそぎ一掃することに成功し、関東大震災では警視庁のデマ情報によって大量の朝鮮人とコミュニストを虐殺するという野蛮行為がおこなわれた。反戦勢力は地域から完全に孤立して日本は侵略と悲劇的な敗戦を迎えることとなった。9.11以降米国では愛国法による無制限盗聴と密告が奨励され、反戦派は地域から隔絶された。
 このようなコミュニテイの相互監視システムの背景には、凶悪犯罪の検挙率が5年前の84%から48%に落ち込んだことにある。民間警備産業が莫大な利潤を挙げ、セキュリテイ機器の売り上げが急増しているのは、日本の安全神話が完全に崩壊したことにある。こうした不安社会の真の原因がどこにあるのかを明確に分析しない限り真の解決はない。凶悪犯罪の増大は、実は新古典派経済学による新自由主義=競争原理の政策が強化されたのとパラレルであり、同時に公安警察部門が異常に強化され一般警部部門が軽視された警察行政の再編成を時期を同じくしている。地域監視システムは一時的に当該地域の犯罪発生率を下降させるが、抑圧された怨念はより深化した爆発的な犯罪の横行を誘発させるのは、犯罪国家・米国の事例を見れば明らかだ。最終的にはフェンスを築いて24時間監視する高級安全住宅街とスラム化した犯罪地帯の両極に分かれる悲惨な状態となる。少年法改正によって強権的な罰則強化が進んだが、かえって少年犯罪が上昇していることをみれば分かる。

 煙草や治安というという市民の不安状況を最大限に利用した管理統制システムが着々と構築され、ついには思想・表現の自由が実質的に奪われる初期ファッシズム国家が実現しようとしている。それは暴力的な恐怖よりも真綿で首を締めつけられるような息苦しい、カネと権力ある強者のみが保護されて明るく振る舞う国家だ。(2003/11/7 23:48)

[エドワード・W・サイードを悼むーダニエル・バレンボイム]
 9月25日にこの世を去ったエドワード・W・サイード(パレスチナ出身の米国人文学者)の葬儀が、9月29日にNWリバーサイドチャーチでおこなわれ、親友のダニエル・バレンボイムは、モーツワルト、バッハ、、ブラームスのピアノ曲を演奏したのに続いて弔辞を述べた。世界的なピアニスト・バレンボイムは、イスラエル国籍のユダヤ人であり、2人はイスラエルとアラブから若いクラシック演奏家を集めてウエスト・イースタン・デイビアン楽団を創設して演奏活動を展開してきた(この楽団名はゲーテ『西東詩集』からとっている)。この楽団の理念は、音楽によるアラブとイスラエルの共生にある。バレンボイムは弔辞で次のように述べている。「パレスチナ人は自分たちの願望をこの上なく雄弁に擁護してくれた最良の人物を喪った。イスラエル人は公正で極めて人間らしい対抗者を(!)喪った。私は心の通い合った親友を喪った」。血なまぐさい闘争を繰り広げて出口が見えないパレスチナにおいて、類い希な希望の在り方を象徴的に示してきた2人の一方がこの世を去ったのである。
 私は芸術家とアカデミズムの世界を代表する両者がこうした和解しがたい敵対関係にある世界を架橋していることに無条件の感動を覚える。同時にある著名な指揮者がイスラエル交響楽団を指揮して、ユダヤ人が最も忌み嫌うナチスが賛美したワーグナーを演奏して、演奏会場が騒然たる賛否の議論に包まれたことも想い出す。少なくともこういうことは云えるのではないか。芸術の世界は政治的な緊張を超えた次元で、対立を超克する可能性を現実化し得るちからを持っていると。そのような試行は政治世界から激しい指弾を受けるが、芸術家は決してひるまないと。
 同時に私は、ナチスのユダヤ人強制収容所で組織された交響楽団がその素晴らしい演奏能力で、ユダヤ人を毒ガス室へ送り込んだ音楽の巨大なちからを知っている。まことに芸術の究極にあっては、芸術は天使とも悪魔とも手を結ぶー恐ろしい両義性を持った人間の表現世界であることも深く気づかされることとなった。(2003/11/6 21:11)

[風の舞ー闇を拓く光の詩 世界に希望はあるのか]
 塔和子さん(ハンセン病者 12歳で発病し15歳で強制収容され57年間を瀬戸内に浮かぶ小島・大島青松園で暮らす)は、90年に及ぶ強制隔離政策によって、家族との絆を断たれ実名を奪われ断種を強制され、死してなお故郷へ帰れない患者の、なおかつ生き抜く強靱で純粋な魂を歌い上げた詩集『記憶の川で』(98年)で第29回高見順賞を受けた。映画『風の舞』(宮崎信恵監督 朗読・吉永小百合)はその詩の世界を映像で紹介するドキュメンタリーだ。”風の舞”とは青松園にある納骨堂には入れなかった残骨(!)の合同墓の墓碑銘である。島で生涯を閉じた無念の魂が、風に乗って解き放たれる願いを込めて命名された。

 長く辛い夜にいたから
 苦悩の鎖につながれていたから
 解き放たれたこころの
 輝くような楽しさを知った (豊かに身ごもるー詩集『希望の光を』)


 物乞いや花売りでは稼げなくなる年齢が必ず来る。少年の父親は酒好きで生活が成り立たず、少年は5歳でチェンマイの孤児院に収容された。100人以上の子どもがいる施設では規則が厳しく近くの池に遊びに行っただけで処分され、少年は14歳の時に脱走し、姉がいるバンコクの孤児院を訪ねたがもはや姉はいなかった。17歳の頃故郷のチェンマイに戻ったが住むところはなく、路上生活を送り夜になると西欧人の男が来て子どもたちを買った。少年も500バーツ(1500円)で買われた。それからお金がないと、2、3日に1人客を取った。生きていくのに他に手段はなかった。髪が短く少年っぽい頃は高く買ってもらったが、髪が伸びてくるとタイ人も相手にした。NGOからエイズの検査を勧められて無料で受診して感染が分かった。20歳だった。人間は生まれたら死ぬもんだーそう自分に言い聞かせるしかなかった。それからはシンナー、酒、麻薬に溺れて気を紛らわせたが遂に動けなくなって収容された。少年は29歳になって人生の最後をNGO施設で過ごす。生まれ変わるなら家族が欲しい、こんな流浪の生活はもういやだーやせ細った手でそっと自分の髪をなでる。体調がいいときは資金集めのカードづくりや食事の準備をする。自分が何か役に立っていると感じて喜ぶが、一方ではすべてを諦めている。私のような子どもはもう2度と出て欲しくないーこうした買春をしている少年はチェンマイだけで200人以上いる。両親がいなかったり、孤児院から抜け出した子どもがほとんどで全員が麻薬をやり6割はHIV感染者だ。友だちの少年は、職業ゲイとして身体を売っている。8歳の時にチェンマイにきて物乞いと花売りをし、8歳でシンナーを、10歳で麻薬を覚え、15歳で客を取った。こわいよ、でも生きていくためには必要なんだー友だちはとろんとした眼で話す。シンナーと麻薬の影響で口が震え反応は鈍い。ゲイバーに出て客を捜す日々に将来はまったく見えない。客のほとんどは西欧人と日本人の男性。
 日本の渋谷では少年・少女があっけらかんと身体を売って面白おかしく生きている。”カラダ売って何が悪いという少女 日本は渋谷から沈んでいく”ー彼の地では貧困とその日の糧を求めて地獄の日々を送る少年少女、日本ではブランド品で身を飾り立てるためにアッケラカンと身を売る少年少女。先進国で唯一HIVが急増している国ニッポン。原始的な貧しさと精神的な貧しさの違いはあれ、少年少女をかくも哀しい状態に追い込んでいるものは同根だ。それは金儲けに狂奔する一部の大人が少年少女を食い物にして狂った快楽を弄んでいるからに他ならない。

 強者がカネを独占し、ニンジンをぶら下げて弱者を競わせるシステムの浸食ーここにこそこの世の悪の根元がある。強者は毎晩快楽をむさぼりながら、のたうつ弱者を弄んで冷ややかにほくそ笑んで嬌笑しているー最悪の地獄の風景だ。イラク国境で爆弾が破裂し、7歳から14歳までの子ども4人が死亡し7人が負傷した。野原で不発弾を叩いたところ突然爆発した。なぜ野原に不発弾があるのか。国連の制止勧告を無視して先制攻撃をおこなった米国がイラク全土にばらまいたからだ。米軍の犠牲者は痛ましく報道され、星条旗に厚くくるまれて厳かに埋葬されるが、イラクの子どもたちの死は無惨に石ころのように捨てられていく。タイー渋谷ーイラクの子どもたちの生と死は何か一本の糸でつながっているような気がしないか。
 総額50億ドルのイラク復興資金(内実は米軍占領維持費)の大半は日本が負担する仕組みとなっている。なぜなら米政府の資金のほとんどは、米国国債でまかなわれ、その総額の35.6%(1兆3465億ドル)は海外で買われ、ダントツの米国債保有国が日本であるからだ(4410億ドル)。日本は直接支援以外に膨大な米国赤字国債を買い支えて、イラクの子どもたちを虐殺する米占領軍を助けている共犯国家なのだ。泥沼と化したゲリラ戦のなかで米軍がベトナムに続く第2の敗戦を迎えるだろう。その時に日本は米国に媚びへつらった奴隷国家として全世界の冷笑を浴びるだろう。それまで何人の子どもが爆死し、身を売ってこの世を去っていくか。遂に希望は絶望の虚妄に等しいまでに喪われてしまったのか。いやそうではない。

 新聞の片隅に小さく報道されたキラリと光るニュースがある。文化の日3日に、日本と在日韓国人の青年たちが新宿駅前で東アジアの平和と日朝関係の平和解決を願う署名運動をおこなった。主催は「ピースナウコリアジャパン」。いったい戦前と戦後を通して日本と在日韓国の青年による共同行動が街頭で取り組まれたのは今回が初めてだ。”ピースナウ11.9に(いい国)つくろう総選挙”がスローガンだ。在日韓国人の青年が日本の選挙に関して公然と街頭で発言したのも初めてではないか。なにか新しいウエーブが起きているような予感がする。ここに確かな希望がある。希望は自らつくりだしていくところの、そういう存在以外の何ものでもない。(2003/11/4 21:02)

[世界は人類は燃えたぎる溶鉱炉か]
 本日は朝刊幾つかからどうしても見逃せない事実を取り上げて、世界で何が起こっているか、世界はどこへ向かおうとしているのか、その一部である私とはなにかーについて考えてみたい。

 中国西安市の地方名門校・西北大学で日本人留学生の演じた寸劇に対する中国人学生の抗議運動が激化した。このような意表をつくような行動の背景にはなにがあるのだろうか。中国人学生の掲げたスローガンは「民主への支持を解禁、理解しよう」「捕まった学生を釈放せよ」「封鎖の解除を」「真実を報道せよ」「中華の振興」などである。もとはと言えば、卑猥な格好をした日本人留学生が「これが中国人だ」との札を下げ、「日本、ハートマーク、中国」と書いて友好を表そうとした。自分の職場や学園での決定への参加と情報公開、厚遇される留学生に対する不満、授業続行して封鎖した措置、事実を報道しない政府系新聞、中華思想を鼓舞する愛国教育などなど錯綜した要員が絡み合っているが、私は敢えて言えば開発経済戦略下のなかで支配システムと民主主義の間の調整の模索が外見的には抗議しやすい日本人留学生への運動となって爆発したのではと推測する。

 国連人口基金(UNFPA)は23億人の地球人口の約半数を占める青年層特に10〜19歳の思春期に注目する統計を発表した。思春期の若者層は12億人(全人口の5人に1人)は、14秒ごとに1人の若者(15〜24歳)がHIVに感染し、推定1180万人がキャリアで自分の陽性を知っている者は数%にすぎない。1億1500万人が初等教育を受けず、読み書きできない女性が9600万人と男性の1.2倍にのぼり、15〜19歳の主たる死因は中絶による合併症である。リプロダクテイブ・ヘルツ(性と生殖に関する権利)を確立した国際人口会議(94年)は人口を数で捉える視点から質の向上へと重心を移したが、危機的な状況は深化している。1人当たり年間所得1000ドルの貧困国ではHIV感染者を1人減らす経済効果は34600ドルに達する。日本では性の低年齢化が急速に進み、エイズやクラミジアの性感染症が増加しているのは先進国で日本だけだ。10歳代の妊娠中絶率(千人あたり)が急伸し、01年には95年当時の2倍にあたる13.0人となった。性教育は性の混乱を招くとする保守層の攻撃で後退し(東京都養護学校の例)、ブッシュ政権はUNFPAへの拠出金を撤回した。性教育の貧困が全世界で若者の健康をむしばんで、先進国での性産業の氾濫をもたらしているにも拘わらず、保守層の性教育批判は強まっている。私は敢えて言う。性産業を野放しにして甘い汁を吸う保守層の本当の目的は、優生思想による淘汰にあるのではないか。

 カラダ売って何が悪いという少女 日本は渋谷より沈没す(朝日歌壇 11月3日)

 天皇家の財産はどうなっているか。皇室関連予算は272億8105万円(03年度)、聖域となっている私的費用の「内廷費」は3億2400万円、公的活動費である「宮廷費」は63億6200万円。その内訳の具体例は、朱肉費30万円、晩餐会用ケーキ1個120円、水道代930万円、前皇后稜総工費18億5000万円(2年間)、御料牧場からの直送野菜・牛乳、株の運用益等々。アンタッチャブルな菊のカーテンの裏側には莫大なカネが動いている。これ以上は言うまい。事実をして語らせよう。森よう平『天皇家の財布』(新潮新書)より。

 水と食料のチャレンジ・プログラム協会は、アフリカで清潔な水を利用できない人が2025年に今の倍の4億100万人になり、今後水の供給不足による収穫高は23%不足し、穀物輸入を今の3倍にあたる3500万トンにしなければならないとする調査を発表した(2日)。莫大なイラク戦費のごく一部を回せば途上国の人の命は助かるのである。見よ この恐るべき非対称性の世界。

 いま欧州連合憲章に「戦争放棄」を明記する運動が急速に進んでいる。イタリア国民の70%が提案に賛成し、イタリア憲法の戦争放棄条項を全欧州に広げようとしている。日本国憲法は太平洋戦争直後に米国が日本軍国主義復活を警戒する例外的な条項として入ったが、歴史は皮肉にも当初の目的から全く違った次元に発展させて、日本を世界の進歩と平和の最前線に立たせるとこととなった。同時に背後には、国際法の考えを革命的に転換した国連憲章の思想があり、強国の軍事均衡による平和から諸国人民の連帯による平和論理へと進み出たことがある。世界は国連憲章前文と日本国憲法第9条をモデルに進んでいる。日本が9条を破棄することは世界の民衆に対する犯罪行為なのだ。特にアジアにとっての日本モデルとは、非軍事平和国家による経済発展なのであり、9条破棄はアジア諸国にとって衝撃的な対日警戒感を誘発する。
 日本の首相はTV番組で「自衛隊は国軍というか、侵略を阻止する基本的な集団だ。自衛隊が軍隊だというのは常識でしょう。憲法違反だという議論は改めた方がいい。まぎらわしい解釈がないように、国軍だと表現を改めた方がいい」と特別公務員の憲法遵守義務に違反する発言を繰り返している。こうしたモラルハザードが大した抵抗も受けずに進んでいる異常事態に日本はある。2年後に日本とアジアの運命を決める決定的な分岐点がくることは間違いない。日本の皆さま、どうかよく考えてみずからの1票を投じてください。(2003/11/3 10:02)

[Kahlil Gibranカリール・ジブラン『THE WANDERER漂泊者』]
 古本屋の100円コーナーで何気なく手にしたこの書は、私に対して新鮮な一撃をもたらした。率直に言って私は、アラブ・イスラム圏の近代文学と思想がこのような深い豊かな内容を持っているとは知らなかった。ジブラン自身は、1883年にレバノンの寒村で生まれ、9歳の時に移民の子として米国・ボストンに渡り、12歳から17歳の5年間を帰国してアラビア語の高等教育を受け、再び渡米して22歳で文壇デビューし、その後パリに渡って美術学校に学び、ロダンやドビッシーと親交を結び、画家として頭角を現し、その後再び渡米して米国のアラビア移民文学サークルの中心的人物として活動し、48歳でニューヨークの病院で亡くなっている。晩年の著作活動の重点がアラビア語から英語へと移ったためにアラブ圏からは激しい非難を浴びたが、最近再評価の声が著しい。以上は本書解説から。

 本書は、散文詩や童話、箴言のアンソロジーであり、故郷を離れて異郷に暮らす異邦人としての孤独が通奏低音のように響き、孤高の魂が深いメッセージ性をもって伝わってくる。私は、こうした汚れなき魂と思考の純粋な発露を失って久しい。イスラムは直接には登場しないが、アラブ民主主義の独自の宗教的な色彩を帯びた存在が浮かび上がっている。それは西欧近代の個人主義文化と格闘しているアラブ文化の悲痛な戦いでもあるように思える。政治性は一切なく静謐で訴えるような独白に近い。1つだけ「友よ」と題する散文詩を紹介しよう。一部筆者改訳。

       友よ

 わが友よ、私は見かけ通りの人間ではない。外見は私の着る衣装にすぎない。それは君の問いかけから私を守り、私の無視によって君を傷つけないようにするために、注意深く織りなされた衣装だ。
 わが友よ、私の中の「私」は沈黙の館に住まい、気づかれも近寄られもしないまま永久にそこに踏みとどまるであろう。
 私の言うことを信じたり、私のおこなうことを信頼してほしくない。なぜなら私の言葉は君自身の想いが音になったものに他ならず、私の行為は実行された君自身の望みに他ならないのだから。
 君が「風が東から吹く」と言えば、私は「そうだ。風は東から吹く」と言う。私の心は風にではなく海にあることを、君に知らせたくないからだ。君は私の海への想いを理解できないし、理解してほしくもない。私は海に独りでいたい。
 わが友よ、君には陽の照るときも、私には夜だ。しかしそれでも私は、丘の上で踊る陽光のきらめきや、谷を忍び這う紫の影について語る。なぜなら君には私の闇の歌を聞けないし、星空に羽ばたく私の翼を見ることもできないのだから。そして私は、君に聞かせたいとも、見せたいとも思わない。私は夜には独りでいたい。
 君が君の天国に昇るとき、私は私の地獄に降りる。その時でさえ、君は橋渡しできない深淵を超えて私に呼びかける。「私の仲間、私の同志よ」。そして私は君に呼び返す。「私の仲間、私の同志よ」。なぜなら君には私の地獄を見せたくないからだ。地獄の炎は君の眼を焼き尽くすだろうし。地獄の煙は君の息を詰まらせるだろう。私は自分の地獄をあまりにも愛しているので、君には訪ねてほしくない。私は地獄に独りでいたい。
 君は真実と美と正義を愛する。そして君のために言うが、こういったことを愛するのは、素晴らしい立派なことだ。しかし心の中では私は君の愛を笑う。けれども君には私の笑いを見せたくはない。私は独りで笑いたい。
 わが友よ、君は善良で思慮深く賢明だ。いやそれどころか、君は完全だ。そして私もまた、君と話すときは賢く思慮深く話す。けれども私は狂っている。しかし私は狂気を仮面で隠している。私は独りで狂っていたい。
 わが友よ、君はわが友ではないのだ。けれどもどうやって君にそれを理解させることができようか? 私の道は君の道ではない。それでも私たちは一緒に歩く。手に手を取り合って。

 なにか痛々しい、つながっていたい孤独の苦悩がただよっているではないか。(2003/11/2 23:59)

[変わり果ててしまった頽廃日本のいまに寄せて]
 1960年代末に日本を離れて30数年後に帰国した彼が見いだしたものは・・・・・「足の太さが上から下まで同じの女の子。白いギブスのように膨れた靴下。水を商品にして売り買いする世界。金を取って酸素を吸わせるバー。キャンパスには赤旗もなく、ビラも散っていない。そこらに座り込んだ学生は本を読むより、誰もが携帯電話をかけて、拝むように持って両手でプッシュボタンを押している」自閉した私生活主義が蔓延している社会である。一見自由そうに見えるがなにかニヒルな息苦しさが漂う。互いに批判したり信じ合ったり攻撃したりする関係は、ダサイの一言で片づけられ、表面の明るさの裏にここからは一歩も入れないという心の閉じられた社会。毎日あちこちで常識を越えた凶悪とすらいえるミーイズムの犯罪が頻発している。
 「希望」とか「かけがえのない目的」とか「未来」とかの日本語はすでに死語となって、使うことすら違和感を感じる雰囲気が充ち満ちて、今日首になっても文句一言言わずホームレス生活をし、若者の異議申し立てすら姿を消して、女子高校生は化粧に余念がなく、明日の就職すらおぼつかない世の中に諦観の表情を浮かべ、ビートとか称する無機質な殺し合いの映画に殺到し、安アパートに返れば疲れたように眠り込み、東に涙を流している人があっても関心はなく、西に堕胎している人があっても援交にいそしみ、パンツが見えそうな短いスカートで階段を尻を押さえてあがり、ぶち壊しを獅子吼するライオンヘアーに拍手喝采を送り、大音響のハードロックに身を任せ、隣の家の人と顔を合わせても知らん顔をし、軍隊が海外へ人殺しに行っても我関せずで、一人数百社受けても返事が来ない学生生活の最後を乱交パーテイで過ごし、ドロップアウトしたホームレスと外国人をいじめ抜き、涙の夏をヨロヨロ歩き寒さの冬はスキーもやめて、生きることすら大儀そうにその日その日を何となく過ごしている。目の前で繰り広げられている光景に慣れてしまって、これが普通だとする感性が染みこんで、疑うことすらできないエネルギーの衰弱がある。
 要するに日本は壊れてしまったのだ。誰が壊したのか。その犯人の名前はすでに文中にある。彼はこの現状を一刀両断し、敗者と弱者は去って強いものが領導する帝国建設に忙しい。ひょっと思い起こせば70年前のリベラル全盛期のデカダンスに酷似してきたこの日本。もしかしたら現状を一気に切り開く人間離れした強いリーダーの出現をひそかに期待しているのではないか。いったんは日本の外側に立って、自分をも含む大衆の姿を冷静に観察すればギョッとする風景が見えてくるのではないか。見えたとしてもそれを分析して腑分けするツールを持たない者は、阿鼻叫喚の大海に弄ばれて溺れてしまうだろう。耳を澄ませば、目を凝らせば、聞こえてくる・見えてくる醜い姿の基盤を掘り崩すいたいけな気高い方法を探ろう。一度目は悲劇として70年前に起こった事態を、記憶の底から蘇らせてムンクの叫びのようなひ弱な世界ではなく、二度目は喜劇としてでなく自らの手によって再構築の途を創造的に切り開く想像力を鍛え上げよう。想像の力をふたたび正当な玉座につけよう。頽廃の堆積が蓄積の果てに反対物に転化し、矜持と尊厳の恢復をより高次の次元で見いだすかすかな可能性を君は信じることができるか。以上・矢作俊彦『ららら科學の子』(文藝春秋)参照。(2003/11/2 19:37)

[ゆるがない座標軸]
 ー21世紀には、米国の存在意義を問わざるを得ない時期が必ず来る。日本はまだ欧州のように米国を問うだけの思想的な基盤がない。ただ1つあるとすれば平和の価値であり、これだけは米国を問うことができる力だ。日本は所得格差の少ない中産階級国家としてやってきたが、いま米国型の所得格差の大きい階層分裂国家をめざしている。現在の政府は幕末に例えるならば、最後の将軍・徳川慶喜であり、幕藩体制を維持して上層武士階級のための改革を試みるあがきに過ぎない。何れ坂本龍馬のようなグループが出現してほんとうの改革をなしとげるだろう。
 いま日本は狭い横道に入り込んで青空が見えない状態で、見通しのない不安ななかを手探りで進んでいる。横道を抜け出して街角まで走っていって表通りまで出ると、そこには青空が広がった違う景色がある。今はまだ横道に迷わされている人が多いが、近い将来必ずやみんなが表通りに出て行くだろう。

 この79歳になる経済人の発言を通して、現代日本のゆるがない座標軸があることに気づかされる。こうしたゆるがぬ信念の背後には、少年期の悲惨な戦争の記憶が刻み込まれているのだろう。俳優・米倉斉加年氏は、敗戦の10歳の時に1歳半の弟を餓死で失っている。出征兵士の家族で差別されて配給を受けられなかったからだ。いま「改革」を叫んでいる人たちの言辞と風貌を見て、ただ1つ直感的云えることは、彼らから他者の痛みに共感するヒューマンな感性が滲み出てこないということだ。直感にもかかわらずこれだけ間違いがないと思う。痛みを集中的に受けているのは若者と地方だ。

 総務省の労働力調査(31日)では、9月完全失業率5.1%(346万人)、就業者と完全失業者を合わせた労働力人口6692万人、雇用者5328万人であり、求職活動自体をあきらめた非労働力人口が57万人増加している。厚生労働省調査(31日)の一般職業紹介状況(9月)は、有効求人倍率0.66倍で前月比0.66%伸びているが、中身はパートタイムの伸びであり、パートを除くと0.52倍となり求職者2人に求人は1人という深刻な求職難が続いている。この影響を最も受けているのが青年層である。15ー24歳の完全失業率9.4%(男性10.7%、女性8.0%)、完全失業者数63万人(男性37万人、女性26万人)であり、25ー34歳の完全失業率6.5%(男性6.2%、女性7.0%)、完全失業者数100万人(男性57万人、女性43万人)となっており、15ー34歳の完全失業者数合計は163万人で全体の43%を占めている。

 国土交通省調査では、旧国鉄のJRへの移行によって、全国45のローカル線が廃止され、距離1850km(青森八戸〜山口門司に匹敵)に及んでいるが、その中身は北海道1316.4km、鹿児島164.6km、福岡99.3kmなどほとんどが生活の足として機能していたローカル線であり、地方生活者は徒歩で移動せよと言うのだ。郵便局も同じような末路をたどることは間違いない。

 こうして日本は米国型の階層分裂国家となって富裕層と貧困層の分化が異常な速度で進んでいる。資産を持つ者のみが享受できる政策減税で、相続税の最高税率が70%→50%に軽減された。所得税の最高税率はかっては85%(49年)であり、高額所得者と資産家への累進課税で税収を確保し低所得者対策を充実させたが、75%(70年)→50%(89年)→37%(99年)と激減し代わって消費税による徴収に転換した。この結果所得税収入は27兆円(91年)→14兆円(03年)と半減し国の一般会計予算の半分を借金(国債)で賄うというおそるべき借金国家になった。政府自体がサラ金から借りて運営する火の車財政に転落した。失業と貧困層の激増は、ホームレスと生活保護家庭を生みだし、生活保護受給者は87万世帯と過去最高を記録している。日本総合研究所調査では、英国の低所得層に対する給付は社会保障負担の5.4倍になるが、日本は0.9倍に過ぎない。政府が世襲や官僚出身の勝ち組が占めて、低所得者層の声が全く反映されないシステムがつくられたからだ。これが失われた10年の日本の姿であり、この矛盾はマグマのように堆積して近い将来火を噴くことは間違いない。ゆるがない座標軸はなにかー本当に問い直さないと取り返しがつかない事態が迫っている。(2003/11/1 8:30)

[Czeslaw Miloszチェスワフ・ミウオシュ『Zniewolony umysl囚われの魂』1951年(邦訳 共同通信社)]
 著者は1911年リトワニア生まれのポーランド国籍詩人で、51年にフランス亡命後ポーランド社会主義の内実を鋭く暴き、800年のノーベル文学賞を受賞している。イワユル傷跡文学の先駆的な作品であろうが、こうしたかって自らが所属していた共同体を逃れた後にる告発する書は、そのまま信頼することはできないと思う。なぜなら自分自身の罪の告白と自己分析は弱く、どうしても亡命に到った過程を説明する他者批判に終わる傾向があるからだ。この書も自己自身の分析はゼロであり、ポーランド社会の内実と巧妙な文学者の内部告発の傾向が強い。しかしそうしたことを念頭においてもなぜ東欧社会主義が崩壊していったかという理由を赤裸々に示しており、一読に値する。多くのことが語られているが、ここでは権力の自己の良心の狭間を揺れ動く行動パターンを幾つかに類型化しており、それが最も私の興味を引いた。それはある種の演技をして状況適応を図るやり方が幾つかに類型化されるからである。

 T)民族主義型 支配民族に対すする軽蔑を心に秘めて、社会主義の民族的な途を探る、いわゆるチトー型
 U)革命的純粋型 支配権力の独裁制を過渡的な必要悪と見なし、自らは聖なる純粋な理想を追求する
 V)審美型 公式な場では支配権力を賛美し、プライベートな場ではひたすら自分の美意識を追求する(芸術家に多い)
 W)職業型 支配権力が動かす社会全体はそのままにして、自分の属する専門的な領域でひたすら業績をめざす(研究者に多い)
 X)懐疑型 状況への伸縮自在な外面的対応を試み、事態の進行をシニカルに観察しながらいきていく(知識人全体に多い)
 Y)形而上型 宗教や芸術の価値を至上なものとして、支配の現実に従いながらそのなかで実現しようとする(カトリックに多い)
 Z)倫理型 支配権力の価値を積極的に受け入れ、私情を捨てて自己犠牲的にそれに献身する(支配幹部の一部にある)

 ミウオシュの限界は、社会と自然の認識論の探求が弱いことにある。ある状況に規定された理想の現象論で基本的な判断を終えている。現象に致命的な欠陥があれば、理想はその責任をとって退場しなければならないが、彼は現象を本質と同一視してしまい、本質自体をも否定する。そこには表現しがたいほどの深刻な体験があり、外部からの批判を拒む資格が間違いなくあるだろうが、それでも普遍を選びたい場合はその痛みを超えた探求があるはずだ。(2003/10/31 10:28)

[囚われの魂]
 私が大学生活を終えて卒業の時に、級友が集まって最後の別れの宴がもたれた。ある級友が教師となって赴任する私に、「君の名前が学生の間で尊敬の念を持って発せられるようになってくれ」と最後のはなむけの言葉を贈ってくれた。私はこの言葉が強く心に残り、教師生活のスタートからいつも心の片隅に刻み込まれて過ごした。私はいま振り返って、過ぎていった歳月の自分がこの言葉を裏切ってきた存在だと知り、とりかえしのつかない慚愧の念に駆られる。外国人の級友は祖国の首都の大学院に進学し、翌年に敵国のスパイとして逮捕され、その顔写真が日本の全国新聞の一面に大きく踊った。かれの白面の顔は醜くゆがみ、両耳はなくなって眼鏡はひもで結ばれていた。誰しもが想った。残虐な拷問によって彼は全身を痛めつけられたのだと。真実は激しい拷問の恐怖に耐えられなく、厳寒の取調室にあったストーブの灯油をかぶって火を放ちみずから自殺を試みたのだ。級友はそれから10数年を獄中で過ごし、私は教壇で淡々と授業の日々を送ったが、暗闇の中から凝視する級友の視線を逃れることはできなかった。軍事政権の崩壊によって奇跡的に出獄した級友の名は徐勝君である(現立命大教授)。
 幾星霜が流れ、徐君の行為がなにほどの歴史的意味を持っていたのかが問い直されている。まことに歴史という名の女神の審判は冷酷である。徐君が命がけでやり遂げようとしたことは、歴史の法廷では何の意味のない路傍の石ころに過ぎなかったのか。同時代を過ごしてきた私の半生涯はいったい何の意味があったのか、果てしなく問いかけなければならない。しかし私を裁くのは、いま目の前にいる音楽に興じ、化粧に忙しい、くったくなく明るい髪を染めた若者に他ならない。私は万巻の書を読み漁り、幾冊かの著書を世に問い、ホームページで発信してきた。私は私以上の私でも、私以下の私でもなく、あなたの目の前で喜怒哀楽にあえいでいる私以外の何ものでもない。2度といくさをしないーと誓ったこの国の住人であり、そのために用意された牢獄にはいさぎよく服さなけれならないと思う。”これが人生であったか、よしさらばいまいちど!”とニーチェに倣ってつぶやくのである。(2003/10/30 22:43)

[米兵の死者は数えるが、イラク人の死者は数えないのだ]
 10月29日に米兵の死者は戦闘終結宣言後から116名に達し、それ以前のイラク戦死者数を超えた。米兵の死は、尊厳ある人間の死として毎日報道されるが、イラク人の死者数は一切公式には報道されていない。イラク人の死は人間の死に値しないのである。米民間シンクタンク・プロジェクト・オン・デイフェンス・オルタナテイブスが独自におこなった調査では、イラク開戦から戦闘終結宣言までのイラク人死者数は推定値で民間人3200〜4300人を含め、11000〜15000人に上ると発表した。米国防総省は一切イラク人死者数を公表しないので、3月19日から4月末日までを対象に、米軍の戦闘情報や戦況報道、病院調査によって推定している。13000:116これが「慈悲に満ちた戦争」(ブッシュ大統領)の成果なのである。米兵の遺体は丁寧に整えられて星条旗にくるまれて故郷の家に運ばれるが、米政府は米国メデイアがこの写真を報道することを一切禁止している。米国内で厭戦気分が満ち、政府批判に発展することを恐れているからだ。こうして米兵の死も米本国では尊厳ある死とは遇されず、家族の手で密かに埋葬されているのだ。要するにイラク戦争は米国にとってベトナム戦争に次ぐ汚い戦争なのだ。28日に発表された中南米6ヶ国の政府と財界指導者537人の世論調査で、ブッシュ大統領を肯定的に評価する人は12%、否定的な評価は87%に達し、米国衛星国からも完全に信頼を失っている。
 ブッシュによく似た日本の首都知事は、28日の集会で戦前期日本の朝鮮植民地化について「私たちは決して武力で侵犯したのではない。むしろ朝鮮半島が分裂してまとまらないから、彼らの創意でロシアかシナか日本を選ぶかで、近代化著しい同じ顔色をした日本人に手助けを得ようとして、世界中が合意した中で合併がおこなわれた。私は日韓併合を100%正当化するつもりはない。彼らの感情からすれば、いまいましいし、屈辱でありましょう。しかし、どちらかといえば彼らの先祖の責任であって、植民地主義といっても、最も進んでいて人間的だった」という暴言を吐いた。旧日本軍が朝鮮王妃を強姦して虐殺した上でサインを強制した事実を彼は知らない。東京都民よ!あなた方の選んだ首長を恥じよ!

 静謐に人生の真実を凝視しようとした小津安二郎の生誕100年を経て、彼が残した名画の中から幾つかの言葉を記す。「いつまでも若いもんを邪魔することはない」(『麦秋』)・「欲言やあ切りにゃあが、まアええ方じゃよ」(『東京物語』・「死んでも死んでも、あとからあとからせんぐりせんぐり生まれてくるワ」(『小早川家の秋』)・「結局人生は一人じゃ、一人ぼっちですわ」(『秋刀魚の味』)・・・・・おもわずグッとくる諦観のこもった珠玉の言葉である。残念ながら私はこれらの墓場に近いような言葉を受け入れるわけにはいかないのである。なぜなら教育基本法から憲法改正へと進む流れは、私の後世を裏切り決して未来世代に手渡すことができないことなのなのだ。返って小津のようなやすらかな世界を滅ぼしてしまうことになるのだ。当分私は、人生独りぼっちでも若いもんの邪魔をしなければならないのだ。(2003/10/30 20:48)

[米国女子高校生の孤立の勝利を讃える]
 デトロイト郊外にあるデイアボーン公立高校3年のブレトン・パーバーさん(17)は、ブッシュ大統領の顔と「国際テロリスト」という文字が印刷されたTシャツをインターネットで購入して着用し、学校側は着用禁止処分を出した。彼女は未成年のため母親との連名で、同校と校長を相手取って「言論の自由を保障した米国憲法に違反する」として、着用禁止の差し止めを求める訴訟を3月におこし、このほど連邦地裁の判決が出された。学校側は「学校は政治的議論をおこなう場としては不適」と主張したが、判決は「暴力などで学校生活が成り立たなくなる事態が予想されるときのみ、生徒の言論の自由を規制できる。さまざまな考えや意見の表現を通じて他人の意見への寛容さを学べる」とし、パーバーさんを支持した。学校側は判決に全面的に従う方針である。
 イラク戦争前夜は、騒然たる戦争支持の雰囲気がこの高校に満ち、彼女は完全に孤立していた。その後のイラク戦争の推移は、彼女に正義があったことを立証し、彼女を批判していた級友の多数が支持へ転じた。孤立した状況のなかでなお自らの正義を信じて行為することは難しい。しかし彼女は孤立を恐れずあらゆる手段を駆使して戦い抜いた。母親が地域からの批判を受けつつ、娘の行動を支持したことも立派である。戦争のただ中で政府方針に反対することはより困難である。米国議会ですら反対投票した議員はただ一人であった。米国にいまだ良心があることを告げている。ひるがえって我が日本はどうか。興味と関心すらが衰弱してはいないか。もはや現在の日本では、歴史を創造的につくりだす意欲するなくなっているのではないか。彼女は、学校を告訴したのみにとどまらず、全世界の平和の声を一心に代弁したのである。讃えるべきではないか、現代のジャンヌ・ダルクを。(2003/10/29 21:19)

[戦争が廊下の奥に立っていた(渡辺白泉)ー裁かるるジャンヌ]
 いつの間にか始まり、気がついたときには取り返しのつかないことになっていたー15年戦争の不気味な恐怖を歌っている。かっての廊下は厠へ向かう闇の果てにあり、そこに戦争が立っていたのである。安穏と流れている日常がある日突然に断ち切られるという感じでかっての戦争は始まったのである。現代の戦争はそれを再び繰り返してはいないか。今次総選挙は、現行憲法の下でおこなわれる最後の選挙になる可能性が高い。次の総選挙は徴兵制の下で国防の義務を背負っておこなわれる。果たして何人の人がそれに気づいているであろうか。かくして殺戮の世紀は始まったのである。欧州では「アウシュヴィッツ以後詩を書くのは野蛮だ」(アドルノ)という内在的な批判からはじまって、日本では再び戦争への序曲が奏でられつつある。最新版『俳句年鑑』(角川)ではこの2年間に俳句誌に載った7500句中で戦争を詠んだ句はわずか40句に過ぎない。
 100年戦争でフランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルクは、英軍に捕らえられて魔女裁判で火炙りの刑となった。カール・ドライヤーは、恐れおののいておびえるジャンヌをリアルに描いて、人間のもろさを析出し、教会や迷信の暴力によって、正常な普通の人間が魔女に仕立て上げられていく過程を凝視する映像をつくった。そうした人間のもろさを徹底して描くことを通じて、逆にこういう人間をつくってはならないとする逆説的なメッセージをおくっている。第2次世界大戦は、7200万人から1億人の生命を奪う惨禍をもたらして終わり、その戦火の中からの人類の叫び(チャールズ・オーバビー)として日本国憲法第9条が登場した。この第9条の言葉こそ、21世紀の新世界秩序を予言する黙示録の意味を込めてこの世に記されたのである。私たち日本人が考える以上に、人類の希望の証としてしての意味をもって存在してきたのである。イラクから毎日多くの米兵の遺体袋が本国へ送られ、戦争の嘘が白日の下に曝されつつある。白馬にまたがった正義の戦士としての米国のイメージは地に堕ちてしまった。米国憲法に日本国憲法第9条の精神を織り込もうという米国憲法改正運動がおこり、200年かかってもやり遂げようとする息の長い取り組みが続いている。今や日本国憲法第9条は、地球惑星の希望を象徴する平和の鳩がくわえているオリーブなのだ。平和が廊下の奥に立って戦争を監視している。
 幾多の無数の命の墓碑銘として、日本国憲法第9条は燦然といま輝いて地上を照らしているのである。漆黒の闇を照射する探照灯として深い夜の海を照らしているのである。あなたとあなたのこどもの命がかろうじて戦場で散ることをふせいでいるのが第9条なのである。世界史の不朽の汚してはならないことばとして存在しているのである。未来からの呼びかけなのである。すべての人間の営みの存在を可能とする希望の泉なのである。それは無条件に擁護すべき歴史の声なのである。(2003/10/28 21:02)

[小栗康平監督を迎えて]
 小栗監督は私にとって何よりも『泥の河』を通じての出会いです。出会いといっても映画を通してでしかありません。私が世界映画史のベストテン・トップに持ってくるのが、『泥の河』と『かくも長き不在』の2本ですが、最も感動した作品では黒澤明『生きる』も加えます。今日は、その小栗監督が在日作家美信子とともに名古屋シネマテークでの座談会がありました。午後2時30から始まって私は3時過ぎまでしか会場に居られませんでしたが、監督の風貌に始めて接する体験でした。思索型の誠実そうな語りでゆっくりと言葉を選んで語っていましたが、今日はマッコリ映画祭の企画の一環で在日の意味を探るといったテーマでした。ソ連によって韓半島から中央アジアに強制移住された20数万の漢民族を取材した美氏の話は祖国を失って流浪する民族の問題を生活感覚の次元で問いかけるものでした。彼らが心を込めて歌った歌は、実は日本の「故郷」と「美しき天然」そして「ここに幸あり」でその録音テープから流れる歌は、他ならぬ日本人が歌っているかのような美しい日本語でした。
 在日の国境感覚とか越境感覚についてのテーマが展開しましたが、在日の多様な存在形態のなかで、確かな方向について必死に模索しているかのようでした。生活と政治の狭間をどのようにくぐり抜けて行くか、とても重く錯綜した問題に格闘しているようにみえる若い在日作家の感性はリアルでビビッドで新鮮な感受性に溢れて好感が持てました。
 原理的には政治の力学に木の葉のように弄ばれながら、そこで必死に生きていくありふれた日常を大切にしようという姿勢はとても大事なことだと思われますが、私は政治世界自身が日常の市井を生きる姿と溶け合うような性格に変化しなければーと考えます。政治と日常の二元性はありえず、それを架橋する主体に日常を生きる庶民が変貌しなければ、いつまでも政治世界に翻弄される歴史に終止符を打つことはできないと思いました。
 すべての民族が日常性のレベルでは普遍的な淡々とした人間としての時空を共有しながら、なぜかくも民族の差異を理由とする幸不幸と悲喜劇の問題に引き裂かれるかといえば、それは政治世界の論理によってです。お二人は、映画と文学という表現によってその論理の乗り越えの途を探られますが、しかしやはり根底的にすべての人間は政治的な存在であるのです。「政治」というイメージがあまりに手あかに汚れ、うさんくさい権力闘争によって敬遠される存在ですが、非政治的であることは不可能であるし、政治の本来的なイメージはもっと人間らしい美しい可能性を持っていると思います。両氏は先刻そんなことは承知していますが、現代のこの瞬間の場で、それに一歩でも接近していくには、やはり赤裸々に政治が語られまた我が事として受けとめていく必要があるのではないでしょうか。その意味で『泥の河』や『生きる』は最も深いレベルから政治性に対するあるメッセージを提出していると思います。名古屋・シネマテークにて。観客30人弱。会費1000円でマッコリのサービスあり。(2003/10/26 20:37)

[フロリダ州の尊厳死、日本人女性の代理出産及び中央線・開かずの踏切について]
 13年間も意識がない植物状態で生きている39歳の女性が、地方裁判所の判決で栄養補給チューブを外して穏やかな最後を迎える直前になって、ブッシュ大統領の弟のジェブ・ブッシュ知事の介入で栄養補給が再開され女性は生き続けることとなった。尊厳死を主張する夫と反対する家族の争いに裁判所と知事が政治的に生命を弄んだのだ。チューブを外せば、内蔵の機能が低下して緩慢な死にたる直前に知事が介入できる緊急立法がつくられた。
 尊厳死をどう考えるか本質的な問題が突きつけられていると思う。植物状態の患者をめぐる家族の対立は、政治権力ではなく経験豊かなカウンセラーが仲介すべきではないか。「愛する妻に尊厳死を」という夫と、「娘を殺すな」という親の争いと政治権力の介入は、それ自体患者の生命の尊厳を冒涜する行為ではないかという非難もある。ブッシュ知事は、イラクでの兄貴の失態と巨額な州財政の赤字によって失われている支持を回復する政治的な計算に利用したことは間違いない。
 米国は尊厳死・安楽死問題を先駆的に取り上げてきた国だ。自己決定権を重視するマルチン・ルター型民主党と、神に決められた生命を重視するカルバン型共和党という2つの価値観が激突し、州によって異なる法律をつくりながら、実態としてはカウンセラーによる合意が追求されてきた。

 日本政府は、米国で代理出産した双子の赤ちゃんが日本人の母親の年齢が50歳という生殖年齢を超えていることを理由に、日本国籍の取得を認めないという決定を下した。代理出産を認めるカリフォルニア州法によって日本人夫婦が親であるという出生証明書があるにもかかわらずだ。改めて「産みの母親」の子である出生証明書に書き直して、日本人夫婦が養子縁組をする形で双子の日本国籍を認めるという決定だ。

 この2つの事例は、もはや米国が生命倫理について理性ある冷静な議論が不可能な混乱状態にあることを示している。その背景にはネオコンサーヴァテイブを中心とするユニラテラリズムが横行し、イラク戦争に象徴されるちからによる対決の論理が全米を覆い、生命の世界までも宗教右翼が政治権力とむすんで操作できるという現実がある。

 日本自身の生命倫理の議論は決定的に遅れている。日本で今老境にさしかかっている世代は、高度成長に人生を捧げた人たちが帳尻あわせで最後まで生き抜こうとする意欲が強く、次の世代は高齢者を支える苦労を自分の後の世代に負わせたくないという考えが強い。つまり老後に関する価値観が全く違う世代が交代して今後の日本に登場する。生命倫理の外国モデルに依存できない時代が迫っているにも係わらず合意システムすらつくられていない現状がある。

 日本社会はじょじょに米国暴力社会に染め上げられてきている。倫理的な合意形成のメカニズムが壊れてしまい、暴力や性表現の常軌を逸したマヒ寸前のなかにしか緊張感が見いだせなくなり、あっさりと軍事力や軍隊で始末しようとする(映画で云えば、タランテイーノ、深作欣二)。日米とも理念・思想や信仰のレベルは吹っ飛んで経済のレベルを最優先した競争至上主義が蔓延している。強者と大衆追随の果てしない泥沼のなかでいかに保身を保つかという処世術が大流行している。

 日本の末期的な症状を象徴するのが、JR東日本・中央線の「開かずの踏切」に首相が直接に指示をしているという問題だ。地域コミュニテイの自主的な問題解決能力、民事処理の解決システムが完全に欠落し、最高権力者がしゃしゃり出て選挙の票を集めようというーとんでもない事態になっていても、それを面白そうに眺めている一部のマスコミがいる。以上冷泉彰彦氏論考参照。(2003/10/26 10:10)

[醜悪なキッス・シーン]
 スペインのイラク復興会議で、日本の女性外務大臣が眼を閉じ唇を突き上げて、米国国務長官にキスしているシーンほど醜く羞悪なものはない。世界銀行が算定した復興金額の60%しか集まらず、総計330億ドル(3兆6千万円)のうち米国と日本だけで253億ドルを占め、77ヶ国も集まりながら主要先進国はノーを突きつけた。国連やNGOが全面撤退する中で復興以前の治安が悪化し、復興基金と石油収入の管理と使途が不透明で実質的な米国系多国籍企業の復興ビジネスになるという危惧からだ。日本は最低の国際感覚を失って米軍占領体制の副官としてATM(現金自動支払機)の役割を果たし、全世界の冷笑と軽蔑を浴びている。日米外相のキッスが異様に醜悪にみえる所以である。
 いま欧米では2つの陰謀論が大流行している。1つは9.11同時多発テロはCIAが仕掛けた陰謀説(アンドレアレス・フォン・ビュロー元独研究技術相『CIAと米同時多発テロ』)であり、@航空燃料の燃焼温度では世界貿易センターを支える特殊鋼は熔けないA鉄骨が手薄な場所に旅客機が正確に衝突しているー等を挙げて旅客機は遠隔操作のダミーで衝突と同時に仕掛けられた爆弾が爆発し、ビルが崩壊したと推定している。本物は安全に着陸していたという説だ。かって米軍が60年代のキューバ危機で本物とダミーの飛行機を同時にキューバに飛ばして、ダミーを爆破しキューバ侵攻の口実を作ろうとした計画を立案したことがある。イラク戦争の経過は、こうした陰謀論の登場に拍車をかけている。
 第2は故ダイアナ妃のパリでの交通事故は、英王室関係者の暗殺作戦であったというものだ。これは元執事がダイアナ妃からの直筆の手紙で「ブレーキ故障で私が頭部に重傷を負い、皇太子が再婚できるようにする計画がある」として謀殺を図る者の実名も記しているという有力な証拠があるというものだ。この2つの陰謀論は、その正負はおいてある共通点がある。それは混乱する権力を維持するために、権力の周辺にいる者がみずから邪魔者は消すという陰謀を企てて実行していることだ。
 こうした陰謀論を加味して、先のキスシーンをみるとさらに醜悪な権力の泥まみれの抱擁が浮かび上がってくる。なぜなら陰謀が事実であるならば、日本政府も先刻承知の上でなに知らぬ顔をしてにじり寄っているからだ。さてさて我が日本でもこうした陰謀による大衆操作がおこなわれているんではないかーと考えると薄気味悪くなる。ナチスは国会放火事件をでっち上げてドイツ共産党を壊滅に追い込んで独裁権力を掌握した。薄汚い闇の権力機関が密かに暗躍し、それに踊らされている者がいる。(2003/10/26 9:00)

[日本語の支配ー従属構造]
 大江健三郎氏が面白いことを云っているー日本語は途中で言葉を切って、だけれでも とか、ではあるが、などという言葉で結論を出さないで前に進んでいく構造を持っている。「結構ですが」の「が」は、積極的に肯定する場合と、言外に否定的な意味を込める場合とアクセントが少し異なる。こうしたニュアンスは子どもにはよく分からない大人の世界だ。日本語の話し方は、強い相手には都合のいいように受け取ってもらうもので、弱い者が自分の意見をハッキリと主張できないようにできている。話し言葉が、相手と自分との人間関係をよくするために話すというやり方が、日本語には多い。互いにパートナーであればそれでうまくいくが、地位や権力を持った人は自己中心的で、相手の云うことを全部自分が望むように受けとめる場合が多い。だから人の言葉に注意深く耳を傾ける習慣や能力のない人が指導的立場につくと、集団全体がおかしくなる危険がある。この人と仲良くつきあっていたら自分が嘘をつかないではいられなくなることがよく起きる。その場合は絶交した方がいい。

 大江氏はこう云ってなぜ自分が石原慎太郎氏と意識して会わないようにしているかの理由を語っている。確かに日本語は、できるだけ人間関係を壊さないようなアイマイ表現を得意とするのは、背後にある日本的な集団主義的文化があるだろう。稲作集団農耕では、みんなが同じリズムで田植えをし、同じリズムで稲刈りをしなければならない。こうした生産の様式が社会の隅々の関係に浸透し、言語の世界もそのように組み立てられた。究極は「アウンの呼吸」等という非言語による表現によって最高のコミュニケーションがおこなわれる場合もある。大江氏のノーベル賞受賞講演は「あいまいな日本の私」と題されている。しかし日本語という場合の標準日本語は、実は東京方言語であり、関西方言語がドギツイ中に温かさが漂っているのに対し、どちらかといえばハッキリと言い切るがゆえの冷たさを持っている。権力中枢に近い東京方言語を標準語にしたにもかかわらず、地方方言語が息長く続いているのは日本的な人間関係が根強く定着しているからであろう。
 欧米語は意志を明確に伝えてYES or NOを断定的に言い切る特徴があり、アイマイ表現をできるだけ避けるような構造となっている。この背景には、たった一人で羊や牛を飼い全責任を個人が引き受けなければならない個人主義文化にあるといわれる。(この・・・といわれるという表現自体が極めて日本的だが)。
 さてこのような言語論的な文化の考察は限界があるというのが私の考えだ。要するに日本語のアイマイ表現は、近代化の過程が革命という転換を通じて個人の自立を促してきた西欧に対し、外発的な輸入追随型で主体はそのままにしてきた日本の違いにある。問題は、ここにきて「上から」の強制として自立が押しつけられていることにある。それは「自己選択」「自己決定」「自己責任」という米国原理を外発的に強いている点で何ら変わっていないのだ。これは日本的な集団主義よりもより悲惨な結果をもたらすだろう。なぜなら個の自立とパートナーシップが形成されないままに、ニンジンをぶら下げた醜いラットゲームに叩き落とすことになるからだ。
 いま排他的な競争主義の傾向が強まり、人の不幸をあざ笑うような心性が蔓延する社会をもたらしているのは、ライオンヘアーの構造改革路線に他ならない。子どもがどっぷりと漬かっているゲームの世界は、悲惨な弱肉強食を勝ち抜く強い個人の世界で、パートナーシップが育っていく契機は剥奪されている。続発する凶悪犯罪の真の犯人は、ライオン・ヘアーなのだ。
 ただしこうしたアンチ・ヒューマンな趨勢は逆にそれだけ強くヒューマンな世界を求める力をも生み出すという弁証法の論理が働く。いまはその激しいせめぎ合いの時代だ。これは原理そのものをめぐる闘争なので、日本の将来を決する性質をはらんでいる。(2003/10/25 9:31)

[『ハリー・ポッター』の環境思想と想像力の問題]
 世界的なベストセラー『ハリー・ポッター』の作者J・K・ローリング氏ら英国の代表的作家14名は、今後のすべての自著をリサイクル紙を使用すると発表した。英国出版だけで9万6千本の天然木を救済することになり、第5作目の『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』はすでにカナダでリサイクル紙を使って印刷され、4万本の木と530万キロの自動車走行に匹敵する温室効果ガスを削減したとする。今行動しなければ私たちのひ孫は、紙に印刷された本の中でしか原生林を知ることができないーと述べている。
 こうした動きを受けて日本の作家も追随する人がでてくるだろう。私はそれ自体の意味を否定しないが、モデルを外部に求めて模倣する日本的行動様式という点では疑問を持つ。マエストロ・リヒテルはヤマハ・ピアノを終世愛用したが、その理由を次のようにいっている。「なぜ私がヤマハを選んだのか。それはヤマハがパッシブな楽器だからだ。私の考えているとおりの音を出してくれる。普通、ピアニストはフォルテを重視して響くピアノがよいと思っているが、そうじゃあなくて大事なのはピアニッシモだ。ヤマハは受動的だから私の欲する音を出してくれる。心の感度をそのまま伝えてくれるんだよ」ーここに日本的感性の本質的な表現がある。うまくいけば創造的活動になり、悪いときは無節操の、無性格の大勢順応となる。以上河島みどり『リヒテルと私』(草思社)参照。ライオンヘアーの米国追随を見事に表してもいるとも思う。こうした日本型追随主義・迎合主義は社会と文化の最先端を切り開くことはできない。選択と決断のときに日本人が浮かべる不可解な微笑ー欧米人にとっては神秘的で気味が悪いと映るそうだが、私は最近とみにこの大事なことから逃れて責任を回避するための微笑を見ると怒りを覚えるようになった。私自身がそうした振る舞いをしているからこそ、よけい自己嫌悪におちいるのだ。

 代理母やクローン技術などの生殖医療の倫理の枠組みがますます欧米的な発想で語られている。家族や親族を重視してきたアジア型生命倫理の探求が必要ではないか。台湾では家族が決定的な重みを持ち、子孫を残さないことが最大の親不孝と見なされ、生命倫理もこの観点から語られる。台湾の規範である「輩分」とは親族間の世代秩序をいい、本人から見て親の代は「上一輩」、子の代は「下一輩」でこの関係は絶対であり、民法でも「直系血族や直系姻族の間で養子縁組を結ぶことは禁止」されている。こうした輩分重視の原理は、親族間の精子と卵子提供にも反映し、不妊治療を受ける夫婦と精子・卵子を提供する者との関係は「輩分が同じで4親等以内」という条件がある(人口生殖法案)。日本では祖父母が孫の養父母になることはそれほど違和感はないが、台湾ではありえず、輩分を無視して両親・祖父母・叔父叔母など上の世代から提供を受けたり、姑・実母・叔母に代理母を依頼するのは乱婚罪にあたる。家族重視の原理は、養子よりも実子を重視する血縁的優生思想を抵抗なく受け入れることになる。日本や欧米では優生に対する拒否感が強いが、台湾では積極的な意味を持ち「優生宝宝(優生ベイビー)」の出産をめざす優生ママが急増し、優生=健康で賢いという意味に転化している。台湾政府は、34歳以上の妊婦の婚前健康診断と出生前診断を呼びかけ、染色体異常がある家系では特に推奨され、もし異常が見つかった場合は抵抗なく人工中絶する。こうした生命観は、台湾儒教文化の影響であるとともに、社会福祉と障害者支援がおくれたままで先進国医療に入っている台湾社会の問題でもある。華人社会では、香港は英国型生殖技術システムを導入し、中国は人口政策の枠内での議論にとどまっている。以上 チャン・チョンファン氏論考(朝日新聞10月20日付け夕刊)。台湾の生命倫理思想が、危うい優生思想に転落する危険を示しているが、同時に欧米的なフレームワークに無条件には追随しない、自国の文化的土壌に根付いた議論を展開している点で日本よりもはるかに自律的であるとも思う。

 妊産婦死亡率は全世界平均で74回の妊娠・出産で1回の割合で女性が死亡しているが、先進国は2800分の1、南部アフリカは16
分の1と異常な格差がある。医療施設と助産婦配置率、合併症の診断率がこの原因となっている。最も死亡率が高いのは、アフガニスタンとシエラレオネの6分の1、次いでアンゴラ・ニジェール・マラウイの7分の1であり、米国は2500分の1、日本は6000分の1となっており、日本は世界で最も安全な母体保護国であり高度医療が充実している。こうした先進国での高度医療は生命操作を加速しており、実は台湾以上に無謀な生命操作がおこなわれる危険があるとともに、途上国に出かけていって子どもの臓器を高額で買いまくっている国である。 

 大江健三郎氏は「新しいひとへ」と題する最新作で、大人に成長していくためには@嘘をつかない力をたくわえることA相手の話をしっかり聞く力をつけるB未来にはみ出す力をつける(今の自分から少し前を想像してあたかも現在であるかのように考えること)という3つの力を挙げている。これは子どもが大人になることだけでなく、大勢順応から抜け出すための必須の条件ではないか。最後にみずみずしい想像力を見事に発揮した歌人としての若き寺山修司のデビュー当時(18歳)の作品をいくつか挙げてみよう。

 アカハタ売るわれを夏蝶超えゆけり 母は故郷の田を打ちてゐむ(デビュー作 『短歌研究』54年11月所収)

 啄木祭のビラ貼りに来し女子大生の 古きベレーに黒髪あまる

 チェホフ祭のビラ貼られし林檎の木 かすかに揺るる汽車通るたび

 籠の桃に頬痛きまでおしつけて チェホフの日に電車に揺らる               (2003/10/21 20:53)

[エドワード・W・サイード(コロンビア大学教授)の逝去を悼む]
 パレスチナ人であり、アメリカ人でもある彼は、『オリエンタリズム』(邦訳 みすず書房)などで西欧文明による世界の浸食を解明し、故国パレスチナの奪われた人権の回復に生涯を捧げ、92年から白血病と闘いながら異文化共生の可能性を探求した。娘で俳優のナジュラさんは「闘い続けなさい。仲間内のささいな食い違いなど乗り越えて、ひたすら書いたり演じたりを、休むことなく続けていくんだ」という父の励ましを受けて成長した。思えば全世界の被抑圧にある人々が同じ言葉を聞いて生きる励ましを受けてきたのではないか。とりわけ知識人の世界でパレスチナ世界の正義を説得的に解明した功績は敬服すべきものがある。日本に対して警告した「日本の平和憲法は、世界の目標だ。改訂されるなら悲劇だ」と云う言葉は私たちは肝に銘じなければならない。以上朝日新聞10月20日夕刊参照。さてパレスチナ人にして米国アカデミズムの最高峰を極めた教授は、ごく希な偶然と幸福を得たマイノリテイであったことは疑いない。それは氏自身の類い希な努力と能力のなせる技であり、またそれを受容した米国アカデミズムの公正な知識人政策にあることを認めざるを得ない。それはアメリカ社会の光と闇の二重性における光を代表していると思う。私はサイード教授の研究室を襲撃した米国人がいると同時に、彼を擁護した米国人がいることを知っている。米国の希望は明らかに後者にある。

 イラク侵略戦争を遂行している米軍は、サイードの警告通り現在崩壊の危機に瀕している。大規模戦闘終結宣言後にすでに米軍の死者総数は218人、うち戦闘死は103人に達している(10月19日現在)。イラク占領米兵の30数%が戦争の意味が分からないといい、34%が自分たちの士気が低いと答え、49%が自分たちの部隊の士気が低いと答えている(米軍星条旗紙)。イラク占領米兵の自殺者が公表されただけで14人に達し(実際はその倍)、神経を病んで送還された兵士は478人であり、補充兵として予備役数千人が動員されようとし、「兵士の戦線離脱と脱走が起きるかも知れない」(ヘルムリー陸軍予備役司令官)という事態となっている。最近米国で話題となっているイラクからの「ニセ手紙」は、士気の低下に不安を覚えたイラク北部駐留の米軍中佐が約500通の同文の手紙を兵士の名前で新聞社に送付して掲載された者と判明した。こうした幼稚な情報操作をせざるを得ないところまで米軍の内部矛盾は進行している。かってのベトナム戦争における『地獄の黙示録』や『7月4日に生まれて』の再現ではないか。

 ドイツの代表紙である南ドイツ新聞は、小泉首相が04年だけで15億ドル、4年間で50億ドルもの巨額のイラク支援金を提供し、1000人の軍隊を派遣することをとりあげて、「日本は米国の衛星国家であり、かっての東独のソ連との関係にそっくりだ」(チャルマス・ジョンソン米国日本政策研究所長)の言葉を紹介し、「アーミテージ国務副長官は、それほど重要でない植民地の総督のように振る舞っている」と日本政府を冷笑する記事を掲載している。確かに海外からは、日本政府はATS現金自動支払機のような恥ずべき国家に見えるだろう。

 結論。驕れる者は必ず滅びる。蟻の一穴で巨像は音を立てて崩れ落ちる。(2003/10/20 23:18)

[60年を経てふたたび学徒は出陣するのか]
 60年前の10月21日、雨の神宮外苑で挙行された出陣学徒壮行会の記録フィルムを見たことがあるでしょう。女子学生が小旗を打ち振る中を凛々しく行進する若き学生の大半は戦場で散りました。壮行の辞を高らかに獅子吼する東条首相のこころには何があったでしょうか。敗色濃い大日本帝国軍は、すでに海軍で消耗率が高い航空機搭乗員を短期養成する飛行予科練習生(予科練)の制度をつくって小学高等科と中学3,4年修了の少年を集めました。彼らが卒業する頃には日本の戦闘機はなくなり、新型特攻兵器「回天」(人間魚雷)と「震洋」(ベニヤ製の自爆高速艇)の要員に転用されました。その隊長になる下級仕官にあてられたのが、大学と高専から予備学生を採用し1年短期の予備少尉をつくりました。特攻兵器隊長の補給源として学徒出陣があったのです。プロの軍人である士官学校や兵学校の卒業生は優秀な指揮官養成コースにおくり、生還できない死が約束される特攻作戦の最前線に学生が立たされたのです。陸軍でも歩兵部隊の最前線で突撃する小隊長は少尉であり、この少尉クラスの消耗率が最も高く、その補充に苦しんだ司令部はその絶好の供給源として学徒出陣の幹部候補生出身の予備少尉をあてたのです。大日本帝国の軍事思想の基本は、精神主義的な肉弾突撃攻撃を核としましたから、兵は消耗品としか位置づけられず,軍隊は極限の非人間的な組織となりました。
 ”若い血潮の予科練の七つ釦は桜に錨”と軍国少年のあこがれを煽った司令部は次々とボロ雑巾のように若者を戦場に投入したのです。にもかかわらず少年たちは苦悶の果てに敵艦に突入し、空と海を血に染めました。「父上様、母上様 元気デ任地ヘ向イマス。春雄ハ凡ユル意味デヤハリ学生デシタ。春雄」(『きけ わだつみのこえー日本戦没学生の手記』)・・・・・多くの若者がこうした遺書をしたためて晴れやかにか、はたまた無念のうちにか、苦悩を隠してか、この世を去りました。彼らに死を命じた最高司令官は敗戦後星条旗にひれ伏して生き延びました。特攻作戦の司令官大西忠治郎中将はどのように責任をとったでしょうか。

 こうした肉弾消耗戦の思想は現代でも姿を変えて、若者を企業戦士として猛烈な特攻作戦に従事させています。現在日本企業の30歳代正社員の25%は週60時間以上の過酷な労働に従事し、まさに特攻作戦の消耗兵器となって働いています。これは公式統計であり、表面化しない無償超過労働の氷山の一角に過ぎません。まさに旧大日本帝国軍の特攻戦略の思想そのものであり、なぜこうした思想と心情が連綿として継承されているのかー日本社会と文化の根底に何があるのかーを徹底して糾明しなければならない責務が社会科学の学徒にはあると思います。遂に2005年には憲法9条を改正するという決定的な分岐点を迎えます。雨の神宮外苑で軍歌の音高く行進した学生は、なぜ戦争を疑えなかったのか、なぜ抵抗できなかったのか、学生を死地に向けた責任はどこにあるのか、息子を戦場に送った親は何をしたのか、すべてすべてこうした問題が未解明のまま現代に残されています。すぐそこに迫った憲法9条の改正問題を契機にどうしても決着をつけなければなりません。わずか60数年前に起こったアジア人2000万人の虐殺と310万人の日本人の犠牲者の魂を前にどうしても成し遂げなければならない作業です。(2003/10/19 8:40)

[夜間定時制生徒は、夜行動物なのか!?]

 大阪府教委が夜間定時制14校の廃止を決める会議で、教育委員の驚くべき発言があった。もはやこれは確信犯以外の何ものでもない。「昼間はいややけど夜やったら行く。人は夜行動物ではないんだから。夜間福祉高校ではない」(津田サントリー相談役)、「バーやキャバレーではない」(熊谷阪大教授)、「ただの過保護やないか。挫折した子どもに愛はいらない」(井村シンクロコーチ)などなど。皆さんはどう思われますか。日本はおそらく間違いなく末期的段階にきている。いじめや不登校によってやむをえず定時制に来ている子どもに対して決して云うべきではない言葉を平気で宣うこの人たちの人格はいったい何であろうか。「人格が高潔で教育、学術及び文化に関し識見を有する者」(地方教育行政法第4条)という大阪府教育委員の資格は根底から失われている。問題は彼らが確信犯であり、恥ずべき無知をさらけ出してもそれすら気づかない最悪の人間失格の状態にあることだ。論評するだに恥ずべき非人間的な連中だ。いかなる状況にある子どもも「最善の利益」を享受し、学習権を持ち親とその集合である行政は無条件に保障する責務があることは、国連子どもの権利条約に指摘するまでもない。
 ああ〜ここまで堕落してしまった日本とはいったい何だ! 定時制に通う子どもは中学・高校でいじめやjひきこもりの体験を持つ子どもがいる。ひきこもる子は、実は「まじめな子」というより「我慢強い子」が多い。壮絶なツッパリもいる。「ただ一人だけでも無条件に愛してくれる人が、1人に1人、絶対にいたら、この世の中はなにかしら違うんだ」というーそうした存在が今この時に求められているのだ。たとえ殺人を犯したとしても、抱きしめて生きる道を示していくこと。あなたにそれができるか。そうした根元にある人間の無私の愛情にこころを開かないこどもが果たしているか。教育委員の諸子は教育権力の中枢を把握している。それは実は権力そのものなのだ。権力に近づくことを誰しも警戒はする。しかし権力は知らないうちに向こうからにじり寄ってくるのだ。その決定的な選択の瞬間で自分の良心を売るか否か。

 いましも阪神ーダイエーの日本シリーズが放映されている。阪神が負けているのか。ここで私は凄い評論を読んだ。阪神フアン=シーア派であり、少数派への差別と偏見に絶えていつの日かの救世主の来訪を待つのだ。少数派だと弾圧されるのでじっと我慢して信仰を隠しても生き抜いてその日を待つ。その勝利の得た歓喜は計り知れない爆発で、群衆は街を埋めて行進しパレードが街全体を興奮の渦に巻き込む。殉教者の回顧に自らの身体を傷つけて歓喜するシーア派教徒と道頓堀に飛び込むファンは先達の苦難に共感して追体験しているのだ。阪神の悲願である優勝は、シーア派のイラン革命であり悲願成就に同じである。かって阪神は「ベンチがアホやから」といって王国を侮辱したが、それは王制を打倒したホメイニ革命そのものであった。定時制高校を侮辱する大阪府教委の言辞は、そのままシーア派を侮辱する王政そのものだ。将来(近いか遠いか)必ず王政は打倒される。

 他者を侮辱する人は、実のところ本人は侮辱だとは露も思っていない。米国防総省高官は教会でイスラム教を侮辱し「私の神は本当の神だが、彼らの神は偽りの神である。ブッシュを選んだのも神である。イスラム過激派が米国を嫌うのは、我々がユダヤ教・キリスト教を基盤としているからだ。敵の名前はサタン(大悪魔)だ」と発言した。米国中枢は明らかに異文化理解に於いて決定的な欠陥を持つ。日本で定時制を攻撃するやからも、米国でイスラム教を攻撃する高官も両者の根は共通している。それはただ単に単細胞のファッシストに過ぎない。(2003/10/18)

[男女が平等であるとはー日本の女性はなぜ怒らないのか]
 働く女性は全労働者の40.9%(02年労働省)を占め、日本経済は女性なくしてなくしては成り立たない。ところが日本の女性労働者の平均賃金は男性の50.6%(パートを除いても65.3%)であり、フランス88.1%、英国81.1%、米国76.5%、EU平均80.8%と比べて圧倒的に低い(内閣府調査平成15年)。男女雇用機会均等法の改正で、募集・採用・配転・昇進の差別禁止が義務規定となったが、コース別採用と業績給によって実質的な格差は温存されている。日本政府は、国際基準である男女同一労働・同一賃金は日本の労働事情に合わないとしている。日本の特殊な労働事情とは何であろうか。いわゆるM字型雇用だ。出産を契機にいったん退職し、子どもが大きくなると再就職する傾向は世界で日本と韓国に著しい。出産を契機に仕事を辞めた人が72.8%(00年国立社会保障人口問題研究所)にのぼり、第1次産業と自営業では70%が仕事を継続するのに、事務職は19.5%、専門技術職は34.6%でありいかに日本企業での就業継続が困難であるかが分かる。若年女性が70ー80%と圧倒的に多い派遣労働は特に妊娠・出産を契機とする解雇が蔓延している。パートなど有期労働者は育児介護休業法が適用除外であり、妊娠・出産リストラが横行している。99年に労働基準法の女性保護規定が撤廃され、女性の時間外労働と深夜勤務が拡大し、5000人以上の大企業の31.8%が深夜業を導入し、女性の健康と母体の破壊が進んでいる。つまり、女性たちは就業意欲を充分持ちながら、やめざるを得ない条件を強いられているのであり、常に低賃金若年女性労働力が循環する企業の人件費は極小化する仕組みとなっている。
 もちろんと家族責任を両立させる社会システムと男性の家事協同の意識が著しく遅れている現状もある。正規男性労働者は異常な長時間勤務を強いられ、派遣による使い捨てがすすみ、カンパニーのみが栄えて民衆生活は枯れるという先進国では異常な事態が誘発されている。世界の半分を支える女性をいじめぬくシステムによって、男性自身もヒューマンな生活を剥奪されている。

 国連女性差別撤廃委員会は、03年8月に日本政府に対する差別是正勧告をおこない、@雇用差別禁止A間接差別是正B民法改正を強く迫った。男女の賃金格差と女性の不安定就業に懸念を表明し機会均等の実現を求めた。
 一方01年に制定されたDV法(配偶者間暴力防止法)によって約1600件の保護命令が出されたが、実態は5人に1人という深刻なDV被害がある。現行法の被害者保護を拡大して離婚した元配偶者も保護の対象にし、子どもも被害者として接近禁止命令が出せるように改正する必要に迫られている。選択的夫婦別姓制度と女性のみの再婚禁止期間規定などの民法改正も求められている。日本は黒船以来変革は外圧によってもたらされ、内発的に正義を実現してきた経験は少ない。そんな日本的な伝統にハッキリと決別する時ではないか。

 しかし街を歩く若い女性はくったくなく明るい。ブランドで全身を飾り立てボデイラインを露わにして男性を挑発するかのように生活を楽しんでいる。女子高校生に到っては、男子を向こうに回してしゃべりまくり、やりたい放題に自由を謳歌しているかのようだ。ほんとうにそうか。私はそれは不安の裏返しとしての現世享楽に他ならないと想う。進学や就職といった或る選択に直面するときにそれは露わとなる。もちろん大多数の女性は真剣に生きようとしていることは疑わない。男性依存を放擲して毅然と自らの意志で生きようとしているけなげな女性も多くいる。願わくば消費文化の頽廃にはまって引きずり回され、自らを失って漂流する女性がハッと目覚める瞬間がくることを。そして男性自身にある内なる女性蔑視を鋭く見抜く女性が確かに増えるだろうと信じたい。(2003/10/18 9:16)

[アンネの薔薇によせて]
 アンネ・フランクは第2次大戦中にナチスの強制収容所でわずか15歳の短い生涯を閉じました。彼女の残した日記が『アンネの日記』です。アンネの願いを後世に残すために、ベルギーの園芸家デルフォルゲ氏が新種の薔薇を作出して「アンネの形見の薔薇」と命名して種苗登録しアンネの父オットーに贈りました。アンネのように気高い、黄金色とピンクの混ざり合った見事な薔薇は、1972年にオットーから日本に送られて、平和を希う多くの日本人によって広められています。「もし神様が私を長生きさせてくださるなら、私はつまらない人間で一生を終わりたくありません。私は世界と人類のために働きます」ーこの願いが「アンネの薔薇」となって世界に植えられました。デルフォルゲ氏は「この薔薇は平和を守り戦争に反対するために、従って金銭に換えてはならない」として売買を禁じ、そのため名花でありながら拡がらず日本以外では絶滅しました。日本には1万本あると云われますが、枯れたり行方不明となっています。頒布は@公共の場所A平和教育の場所が優先されます。このHPをご覧の皆様も是非とも庭先に植えていただけたら幸いです。
 <問い合わせ先>
 ・アンネの薔薇の教会=電0798(74)5911
 ・ホロコースト記念館=084(955)8001
 ・のむぎオープンコミュニテイスクール=FAX045(961)6895

 アンネの願いは、私たち日本にとってはそのまま日本国憲法第9条の願いにつながっています。ライオンヘアー氏は2005年11月に改正案を提出すると獅子吼しています。その前の04年に教育基本法が改正され、防衛庁が国防省に昇格します。もし第9条が無くなって戦争と海外派兵が憲法の規定になったら、当然に国民の義務によって志願制は徴兵制になり、強制的な兵役の義務が課せられます。育て上げた息子と夫が婚約者が戦場に行った後の女性がどのような悲惨な状態におちいったかは、すでに私たちの母や祖母の世代が身に滲みて経験しています。残念ながら私たちの母や祖母の世代は銃後を守る軍国の女神として、息子や夫と婚約者を励まして戦場に送った痛苦の体験を持っています。

 徴兵は命かけてもはばむべし 母 祖母 おみな牢に満つるとも

 日本は遂に戦争と平和の雌雄を決する決定的な時に逢着しています。私も含めてみなさまの日常は、よしなしごとの集積のなかで慌ただしく過ぎておりますが、私たちの未来の世代の運命を決する分岐点が確定的な事実として近づいてきております。このHPが存在して私が発信している意味が根底から問い直される時が迫りつつあります。私たちは、そしてこのHPは時代に棹さす少数派に過ぎないのでありましょうか。私の父は徴兵で中国戦線に送られ、大腿部に銃創を負って帰還し、私の母は父が中国戦線で戦っている最中に当時の不治の病である結核でこの世を去りました。その時私は3歳であり亡き母の記憶は全くありません。父は敗戦で帰国して家にたどり着いたときにはじめて母の死を知りました。父の驚愕と哀しみは如何ばかりだったでしょう。私は決して繰り返してはならない戦争の息子として成長して今日に至っています。私は自らの体験を告白して皆さまに憐憫を乞おうとは想いません。もしかしたら戦争ができる「普通のくに」になるべきだと考えている方もおられるでしょう。私は問いかけます。人を殺すことを国是とする国を何のために再びつくらなければならないのでしょうか。大日本帝国は第2次大戦でアジア諸国2000万人を超える人々を殺戮し、310万人を超える日本人の犠牲者が生命を失いました。「敗戦で万死に一生を得て中国から帰還したときに、たとえ殺されてもいいから2度と戦争はしまい、子や孫にどんなことがあっても銃はとらせない」(86歳男性 朝日新聞)という気持ちはそのまま父の決意でもありました。1999年5月に開催されたハーグ世界平和市民会議の行動準則『公正な世界秩序のための10の基本原則』の第1原則は「各国議会は、日本国憲法第9条のように、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」と明記しました。アンネの薔薇でこの日本をいっぱいに飾ろうではありませんか。私のささやかな決意を込めてもう一度記します。

 徴兵は命かけてもはばむべし 母 祖母 おみな牢に満つるとも

                                                  (2003/10/17 21:27)

[怒りを込めて振り返れ]
 派遣労働者A君(27)は携帯を扱う。派遣会社トラステイからDDIへ派遣され、さらにDDIの携帯を売るためにヨドバシカメラに出向しし、そこで@笑顔が足りないと頭を硬いバインダーや紙筒で50発叩かれ、仕事をミスしたと客の前でリンチを受け、遅刻したという理由で監禁され、仕事を辞めるという彼を家まで追いかけて家族の前でリンチ、派遣先に謝罪させるために強制連行されて、遂に裁判に訴えた。A君は出血して顔が腫れ、肋骨を骨折して全治2週間の重傷を負った。派遣元の会社トラステイはヨドバシとDDIとの取引関係を最優先し、派遣先から笑顔が足りないと云われれば幾度も暴行を加えて謝罪させた。逆に派遣先のヨドバシはDDIの正式社員ではないA君をストレスの発散対象とした。違法な二重派遣の間に入るDDIは、この暴行を無視してA君を使い捨てのコマのように扱った。11月18日(火)に東京地裁で第1回公判が11時から開かれる。
 いま青年の就職難はかってなく深刻で、若年層(15-24歳)の失業率は男11.0%、女7.7%で失業と無業者は100万人にのぼる。15-34歳の青年の5人に1人=417万人がフリーターとして働き、うち70%が正社員を希望する不本意就業を余儀なくされている。同世代の正社員の賃金を100とすると、フリーターの時給は63%に過ぎず(日本労働研究機構調査)、年収100万円未満が60%に達する(総務省労働力特別調査)。政府は、若年失業率の上昇を「職業意識が不充分」(森前首相)とかパラサイト・シングルという寄生する甘えた青年と批判してきたが、真の原因は大企業が108万人もの青年の新規雇用を減らした点にあることは間違いない(95-01年)。一方の青年正社員は、30代男性の25%が週60時間以上労働し、1人で2人分の仕事を強制されている。フリーターの急増は@青年の不安をもたらしA若年の職業能力衰退による経済の制約B社会総体の不安定C未婚化と晩婚化・少子化による社会の維持など社会システムそのものを崩壊させる危険をはらんでいる。サービス残業を廃止することで、161万人の雇用が創出され、失業率を2.4%引き下げ、GDPを2.5%押し上げる効果を持つという予測がある(第1生命経済研究所)にもかかわらず、不安定雇用戦略が続けられている。日本の労働は破滅的な危機を招く危機的な状況を呈している。

 欧米の状態は日本と逆だ。ドイツでは、社会的に妥当と認められない解雇は無効であり、認める場合も労働者の代表組織である事業所評議会に解雇理由を詳細に説明し意見を聴取しなければならない。会社と事業所評議会は社員の不利益を緩和する「社会計画」を作成し、解雇一時金と新たな職業に就く職業訓練をおこなわなければならない。会社の提案に不満があれば、労働裁判所に解雇無効や補償条件の引き上げを求めて訴えることができる。解雇制限法は、6人以上の従業員を雇用する事業所に適用され、会社が解雇できるのは@従業員の違法・不当行為A差し迫った経営上の必要B従業員が3年間療養した場合に限定している。差し迫った経営上の理由による解雇の訴訟は、全国で60万件=解雇件数の約10%で10人に1人が制限法を楯に裁判を行っている。さらに派遣労働者の均等待遇を規定した法律の適用対象が同一派遣先に12ヶ月移住勤務する人とされて、企業は1年以内で雇い止めして提供を逃れてきたが、今年すべての派遣労働者の均等待遇に改正され、次いで職能別の時給最低賃金(今まで7ー800円)の追放や週35時間労働制、31日間というドイツ休暇法より長い休暇保障が実現された。ドイツでは現在約4千の派遣企業があり27満2の派遣労働者がいるが、この法改正によって失業救済が進んでいる。
 イタリアでは1997年にできた雇用促進法で、全国労組と企業が全国労働協約で企業が契約できる派遣労働者の条件を、@企業の事業が繁忙で通常の体制では生産できないときA極めて特殊な作業で専門労働者が必要なときに限定し、他社との競争を理由とはできません。フランスも派遣労働を厳しく規制し、許されるのは@休暇中の労働者の代替A業務の一時的な急増の場合のみで最高期間は18ヶ月で、通常業務を派遣に代替することは禁止されています。EU全体では派遣先での均等待遇を規定し、スウエーデンは仕事がないときの派遣賃金を85%と決めています。デンマークの建設業界の85%は派遣労働者が占め、労働裁判所は均等賃金と均等待遇の画期的な判決を9月に出し、他のすべての派遣労働者にも適用するとした。こうした欧州の流れを受けてEU連合委員会は、全欧州での派遣先均等待遇原則を適用するEU指令を準備している。

 日本の現状はどうか。99年に施行された産業再生法は、従業員解雇に実績を上げた企業に優遇措置を講じるという信じられない法律だ。解雇計画が一定基準を満たせば、登録免許税(会社の設立と分割の登記に必要な増加資本額の0.7%)が0.15%に軽減される(例えば増資額100億円では5500万円)。03年に認定対象を大幅に拡大し、@複数企業の共同事業再編A他の企業による事業継承B技術革新の成果を生かすという個別企業の枠を超えた産業再編支援に踏み出した。その結果施行以来217社が認定され、認定リストラ従業員数89025人、減税額810億25万円で労働者を1人減らすと91万円の減税の恩典が与えられた。そのモデルは3回認定されたみずほフィナンシャルで減税額256億円に達し、みずほは03年までに3000人の削減をおこなった。ドイツの雇用促進政策の逆を行く日本の雇用政策は、国民の消費需要を一気に衰弱させて平成大不況は奈落の底に沈もうとしている。

 私が最も恐れるのは、日本の実態を所与の逃れ得ない状況とみなして、労働者相互の間に激しい生き残りの競争が誘発され、いかに他者を敗北させるか、け落とすかーという意識に駆られて敗北の他者を快感を持ってみる心情が形成されていくことだ。なぜなら社会システム自体の融解は、最も繊細で敏感である少年層へ決定的な影響を及ぼしつつあるからだ。12歳で幼児誘拐殺人をおこなって補導された長崎の少年は、児童自立支援施設への送致が決まり1年間の行動の自由の制限されることになった。ハサミで暴行し屋上から突き落とすという冷酷・非常な犯罪をおこなった少年の背景には恐るべき日本の社会システムの融解があるのではないか。明らかに人が苦しむのを見て楽しむサデイズムの感情がある。サデイズムの感情は、子どもが一定期間他者或いはシステムの絶対的な支配によって強い不安感や抑圧感を受けて、嗜虐的な感情を持つところに生まれる。裁判所は、少年を広汎性発達障害のアスペルバーガー症候群(情緒不安定で他者との相互情緒的な交流ができないで、孤立感と孤独感がなく対人交流が希薄となる症状)と判断したがそれが事件と直接結びつくものではないとしている。つまり潜在的な素質があっても生育環境がより作用して偏倚した人格が形成されたとする。それは彼自身が幼児期に受けた性的な虐待にあった。この少年に性的な虐待を加えた大人は、まさに企業の血も涙もないリストラ政策の犠牲者であり、そのトラウマをより弱者に向けて発散するという卑怯な行為に及んだ。犯罪当事者の個別責任は厳しく追及されなければならないが、巨視的に見れば関係者すべてが現代の新古典派社会システムの犠牲者であり、ほんとうの犯人はライオンヘアーその人に他ならない。そのようにみなければ非情な犯罪はこれからも続くだろう。犯罪心理学者は個人の偏倚した資質に原因を求めて解説しているが、現代はもはやそのような牧歌的な時代ではない。ここにこそ事態の真の危機がある。(2003/10/16 20:22)

[対テロ戦争の認知神経科学]
 下條信輔氏(カリフォルニア工科大)の興味ある論説を紹介する(朝日新聞10月14日付け夕刊)。以下はその概要。

 無意識の層に働きかける情報操作のメカニズムを分析する。不確定な状況に対する判断のバイアスは、@サンプリングバイアス(送り手が情報を取捨選択して流すことによる情報の偏り)A動機バイアス(受け手が自分の好むものを受け入れる)が重なって、人々の嗜好にマッチする情報を送り続けると、情報が事実から離れて雪だるま式に独走する。Webの噂を利用した株価操作や新作映画のプロモーション、リークなど至る所で情報が操作されている。情報の独走メカニズムを熟知した送り手は逆用による効果の最大化を狙うことができる。情報操作は受け手の認知能力が未熟だからか。もともと動物は、不確定な状況にすばやく反応し、特定の刺激に型にはまった行動をとる反応図式を持つことによって生存を維持してきた。七面鳥の母親は、天敵であるイタチの剥製にヒナ鳥の鳴き声を発するスピーカーを仕込むと、親鳥はそれを自分の翼の下に抱いてしまう。ヒトも経験や文化の影響を受けて、あるチャネルに働きかければ一定の反応を示す。ヒューリステイック(最初の行動と後の行動に首尾一貫性を持たせる無意識)という心理ルールやステレオタイプはそうした事例だ。
 9.11以降の米国でのセキュリテイー=国防=愛国というという反応図式は、イスラム原理主義=テロリストというステレオタイプと連動して、政府のタイミングのいい国民意識のチャネルへの反復した働きかけは、反応図式が人々の認知過程に刷り込まれて、米国民の思考と判断を停止させた。マスメデイアの巨大な大衆誘導の力によって、送り手が受け手の認知過程を意図的に操作するようになった。一方受け手の反応も無意識の認知反射という性質を持っている。大脳皮質が意識と思考を司り、その下を流れる無意識の感情と感覚ー運動の回路は情動系と呼ばれる情動脳のの自働的な機能がある。情報操作はこの情動系の潜在的な認知過程に顕れる。人は、無意識のレベルへの潜在的な働きかけにはまったく無抵抗であり、パニックやヒステリーなどの反射的反応が集団感染しやすく、意志による制御は困難であるから、危険性が高まる。
 現代の情報操作の真の危険は、情報操作と情報公開が紙一重であることにある。潜在認知のメカニズムは、情報公開は常に情報操作の要素を含みながらおこなわれる。送り手の情報公開の完全な公正の裏には、無意識の情報操作への加担が潜んでいる。米国防総省はテロの危険度をイエロー、オレンジと色分けして公表しているが、公表のタイミングと危機の根拠は公表されず、セキュリテー=国防=愛国という反応図式の情報操作の要素がある。
 マスメデイアの巨大化と大衆誘導技術の発達は、人間の潜在意識の集合性、情動性、反射性、無自覚性というチャネルをほとんど完璧に掌握している。近代社会の基礎をなす「自由で責任ある個人」の理性がゆらぎ始め、善悪の境界が融解し、グレーゾーンが野放図に拡大していく時代に入った。

 実に興味ある分析だ。確か、人間の存在的無意識を最初に利用したのは、米国コカコーラ社のCMだ。全米の映画館のフィルムの間に何分の1かで「コーラはうまい」というCMを入れ、観客は見た覚えはないのに映画が終わると一斉にコーラを買いに走った。いわゆるサブリミナル広告の最初だ。その後ハード・ロックCDに殺人を示唆する言葉が挿入されて実際に殺人事件が起こった事態を受けて、米国政府はこの広告を禁止したが、日本では野放し状態だ。サントリーの新聞広告のオンザロックの氷には、心臓を貫いた矢が巧妙にデザインされている。いましも自衛隊のイラク派遣という戦後史の大転換が意識誘導されている。理由が最初あいまいでもとりあえず合意を取り付けておけば、細部にも合意が得やすくなるというー初期のコミットメントが後の行動の首尾一貫性を保持するという心理ルールが明らかに働いている。下條論考は、認知神経科学から現代の戦争心理を分析している点が面白い。「自由で独立した個人」の復権と再生の条件がどこにあるかが本格的に問い直されている。国民と受け手の側がどのように情報リテラシーで武装できるかにかかっている。認識の科学性と限界性の弁証法的な高度化が進展するかどうかにかかっている。もし人類がそれに失敗するならば、私たちはかって経験したことのない恐るべき情報ファッシズムの時代を生きることになる、いやもう生きている。
 100本もの足を見事に操って歩いているムカデに、「よくこんがらがりませんね。そんなにたくさんの足をどのように操縦しているのですか?」と尋ねられたとたんに、ムカデは一瞬足が止まってもつれてしまいひっくりかえってしまった。無意識のパターン化された思考と行動が、突如異文化に接して受けるショック症状をよく表している。私たちは情報操作の渦中にいて、自ら進んでそうとは知らず行動している。(2003/10/14 22:13)

[現代の踊り念仏、ええじゃないかー渋谷テクノ反戦デモンストレーション]
 JR渋谷駅を降りるとビート音が響き渡り、先導車の4トントラックに搭載された16発のスピーカー、荷台にはサウンドシステムとともにDJ数人が乗り込み、サウンドデモとかストリートパーテイ、ライブデモとか呼ばれるヒップホップ音楽の爆音に合わせ、飛び跳ねたり踊りながらのデモンストレーションが進む。ヘルメットに覆面という女性はちゃんと化粧している。楽器持参で太鼓にラッパ、サックスにマラカス、表参道から公園通りを抜けて公園に戻る3kmの行程。デモ先導車からプロジェクターを使ったサイケな映像がビルの壁面に映し出されれる。警察の警備も強まり、指揮者が公安条例違反と公務執行妨害で逮捕された(何れも不起訴)。実際の参加者はただ踊りたいだけーというのがかなり多い。
 サウンドデモの起源は、80年代の米国のゲイ(同性愛者)解放運動に始まり、「沈黙は死」を掲げる反グローバリズム運動に継承され、90年代に欧州各地に拡がって、「レクイエム・ザ・ストリート(路上を取り戻せ)」を合い言葉に燃え上がった。英国政府は「反復するリズム禁止法」で3人以上が路上に集まることを禁止した。
 非暴力直接行動で、踊るという身体レベルでの抵抗を示すという新しい形態が生み出され、路上という公共空間を単なる交通手段から人々のコミュニケーションの場へ取り戻すという評価もあるが、果たしてどうであろうか。かって60年代末のベトナム戦争反対運動で新宿西口はフォークギターによる反戦集会が大規模に開催されたが、機動隊の強制排除で消滅した。当時の反戦フォークシンガー高石ともや氏は、サウンドデモの没思想性を批判し、単に興奮を求めるサウンドの大音響の暴力的な権力性を指摘する。

 みなさんは次の歴史的な事実をご存じであろうか。革命などの時代の大転換が起った年の1年前にかならず民衆舞踏の大乱舞が勃発しているという法則的な事実を。「ええじゃないか」は1868年・明治維新の前年に全国一斉に”ええじゃないか”と叫びながら伊勢神宮に向かう民衆の舞踏が街道を覆ったのだ。中世以来の日本史をひもとくと、時代の変革期の前年にこのような舞踏の爆発が起こっている。そういえば最近の祭りに、大音響をバックにパフォーマンスを駆使した乱舞に近い踊りが目立って増えている。既成の価値観が崩壊し未来が不透明なときに、不安の中で民衆のこころに蓄積したトラウマがマグマのように噴出する現象がある。抑圧されて行き場を失ったエネルギーは、身体の暴走の姿をとって荒々しく表面にあらわれる。こうした怨念や不安の爆発は情念に呪縛されてややもすれば理性的方向を失ってファッシズムの潜在的な基盤を形成するか、または理性と結んだ革命的な行動へと昇華する可能性の両極をはらんでいる。渋谷のサウンドデモもそのような視点から見ることができるのだろうか。(2003/10/13 22:32)

[忍び寄る健康ファッシズムー悪夢の第3帝国は繰り返されるか]
 世は挙げて健康ブームだ。健康産業は急成長しありとあらゆる効能を並べ立てたCMが速射砲のように消費者を直撃している。だがちょっと立ち止まって考えてみよう。世界最長寿国になった日本の健康ブームの背後に実は底知れない不気味な不安が広がり、もはや最後の防衛戦として自分の身体しか残っていないという追いつられた感覚が潜んではいないか。
 今春施行された「健康増進法」第2条は、「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」とある。ちょっと待てよ。なにか変ではないか。健康に生きることは、日本国憲法25条[生存権]で「すべて日本国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。国はすべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」として明らかに生まれながらにある国民の基本的な権利として位置づけられ、その実現は政府の義務とされている。ところが「健康増進法」では、健康が国民の義務とされ政府が国民に健康を命令しているではないか。こうした信じられない逆転が起こっている背景には何があるのかー本気で考えてみる必要がある。
 
 くわえタバコに罰金を付加したり、デイーゼル車の走行を禁止する条例を次々と発して強制的な抑圧政策を発する一方で、タバコを売りまくる企業の営業活動は野放しにし、デイーゼル車を生産し続けた企業の責任は問わないで運転者責任のみが追及され、有害な健康薬品を供給する薬品メーカーの責任は問わないで消費者の自己責任のみが追及されている。これはもはや破産したサプライサイド経済学(供給が需要を喚起して経済の好循環が実現されるというシカゴ学派の主張)の最も羞悪な事例ではないか。こうした環境指向と健康ブームは1930年代のドイツで展開されたものと酷似している。
 かってナチス・ドイツは国民の健康を最優先課題として、大規模な反喫煙キャンペーンを展開し、衛生教育、広告規制、喫煙場所の制限などさまざまの手段を総動員して「煙害」封じ込めを実現した。昨今の日本の禁煙キャンペーンと酷似している。さらにアスベストの高い発癌性を先駆的に認定して世界で最初に労災認定をおこない、また放射性物質と化学物質の危険性を最大限に警告した。ナチスは、ホメオパシー(同毒療法)や菜食主義、自然食運動とミネラルウオーターの普及を大々的に推進し、アルコールなどの嗜好品と食品添加物規制政策を積極的に推進した。こうしてできあがったナチス第3帝国は、世にもあらぬ幸福なユートピア国家となったであろうか。
 よくみるとその深層には、恐るべき人種差別と弱者排斥の社会システムの創造があった。国民衛生重視政策は、実はアーリア人種至上主義の優性思想による障害者・精神病者と同性愛者の断種法による絶滅政策であり、アーリア人との婚姻を禁止し政府による健康なゲルマン男女の強制結婚を推進する婚姻法によるゲルマン純血主義であった。有害物質や危険物質に曝される危険な仕事は非アーリア民族と共産主義者の強制隔離労働とされ、ここに究極の異端排斥国家が完成し、頑健で強壮かつ頭脳明晰なアーリア民族の創出による世界支配をめざす健康帝国ができあがったのだ。

 こうしたナチス第3帝国の悪夢は、21世紀の初頭にもっとソフトで洗練されたかたちで、我が日本に忍び寄ってはいないか。ナチス医学は当時の世界最高水準にあって、公衆衛生と予防医学、自然保護と動物愛護において世界医学史上先駆的な業績を残した。大日本帝国の石井中将率いる満州731部隊は、最高水準の医学技術を駆使して先端細菌兵器を開発し、戦後そのデータはすべて米軍に引き渡されての石井中将は免責され、部下たちは全国の大学医学部の中枢を独占してきた。
 現代日本の健康ブームとそれに支えられた政府・東京都のポピュリズム的政策と、それらを熱狂的に支持する圧倒的な民衆の存在は、ナチス的な文化が決して特殊歴史的な鬼子ではなく、私たち自身の内部にじつは潜在的な無意識の闇の部分として深く共有されているのではないか。最も戦争動員を推進してファッシズム的な言辞を振りまく政治家が、最も環境衛生に熱心である日本の現状を私たちはどうみるか。「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整を及ぼそうと企てる権力」(フーコー『性の歴史T 知への意志』)ー死なせる権力・殺す権力に対する生かす権力がふたたびその姿を現そうとしているのではないか。ナチス将校は真っ白い手袋をして生活し、異常なほどの清潔志向をしめしながら、他方で冷静に人体実験と毒ガスによる異端排除を推進した。以上 ロバート・プロクター『健康帝国ナチス』参照。

 小稿は環境衛生運動をファッシズムの先駆けとして批判しているのではない。そうではなくて現代のファッシズムは、民衆の哀しいまでに激しいさまざまの願いを組織しながら、噴出する怨念を基盤として草の根から構築されるのだーということを肝に銘じようと呼びかけているに過ぎない。ナチスは決して暴力で独裁を実現したのではなく、ワイマール民主制の下で着々と議席を増やし選挙の勝利によって、民主主義を否定する独裁を他ならぬ民主主義を通じて実現したということを忘れないがためである。(2003/10/13 8:35)

[朱鷺トキは、自らの尊厳を賭けて自裁したのだ]
 最後の日本産の朱鷺キンが、老衰でほとんど動けぬなかを突然自力で飛び立とうとして頭を打って死んだ。推定36歳、人間で云えば100歳の死である。江戸期の日本は博物学の宝庫といわれ、野生生物と人間が里山を中心に見事な生態系を維持していた。ドイツ人医師シーボルトは、日本の動植物の標本を収集して故国オランダに送り、朱鷺は「ニッポニアニッポン」の学名で登録された。明治以降、淡い紅色の美しい羽根や肉を目的にはげしい乱獲がおこなわれて朱鷺は追い詰められていった。農薬を使った農業が田畑と水辺をドジョウが住めない荒廃した場所に変えてしまうと、朱鷺は好物のエサを失ないもはや生きることさえ困難な時代がきた。
 生物多様性条約を受けて、政府は1981年から絶滅寸前の朱鷺の全量を捕獲し、人工繁殖をはじめてから20数年が経過した。一方では農産物自由化政策によって減反政策を強行し、農薬投下による経営合理化を進め競争原理を煽った。この驚くべきパラドックスを見よ。かって朱鷺と人間が共生していた中山間地農村は荒廃し、過疎が著しく進んだ。日本産朱鷺の絶滅は、、20世紀後半の日本農政の本質的な問題を象徴的に浮き彫りにしている。佐渡島の住民は、朱鷺の舞う島を復元するために農薬を使わない自然農法と、朱鷺のエサの調査を始めて、本来の農業の姿を取り戻そうと必死で苦闘したにもかかわらず。朱鷺の絶滅は、新古典派市場原理の弱肉強食による地球生態系の行き着く先を示している-それはつまり地球と人類の絶滅なのだ。最後の日本産朱鷺キンは、自らのいのちの最後を飛び果てることによって、自らの尊厳と地球の惑星への最後の警告を込めて自死したのだ。
 いま地球上では毎年何千、何万種の生物が注目されることなく絶滅し、日本の脊椎動物と緑色植物の20%が絶滅危惧種に指定されている。皆さんは、ゴリラやパンダの緊急保護や日本のメダカやフジバカマが絶滅寸前であることをご存じであろう。メダカとトキは、原生林の手つかずの河川ではなく人間が手を加えた里山と水田とう生態系のもとで生息してきた。これらの生物はかってのゆるやかな自然と人間の生活を復元しなければ絶滅を防ぐことはできない。減反、都市化、造成という開発型の産業構造を規制する勇気が私たちにあるだろう。保護か開発かーという二項対立を超えた新しい共生のシステムをつくり出さなければ、最後には人間自身の絶滅に到るであろう。02年の新生物多様性国家戦略は長期的な視野に基づいた自然の物質循環の維持を打ち出しているが、それを具体化する教育政策・税制・罰則はまだ緒に就いたばかりである。

 私の祖母も90歳を過ぎて、居宅を出たまま小川に落ちてはるか昔にこの世を去った。祖母の死が事故であったのか、何らかの理由でこの世をはかなんで自ら身を投げたのか、真実は分からない。少女がそのまま大人になったような、純で可憐な魂を抱えて祖母は逝った。祖母が祖父とともに守り慈しんできた故郷の豪壮な館は、いまや朽ち果てて生い茂る雑草に埋もれている。ひょっとしたら祖母は朱鷺のような最後ではなかったのかと今にして想う。高度成長期に私たちは多くのものを捨てて向都離村をめざしながら、決して捨ててはならない、多くの大切なものも置き去りにしてきたのではないか。私はいまも労働の果てに汗が滲み出ている祖母の背中をありありと想い出すことができる。その背中に負われて私は育ったのだ。過酷な労働で昼に大いびきをかいて居間に横たわっている祖父の寝姿を眼に浮かべることができる。ふたりの生涯はすべてを労働に捧げられ、篤農家といわれる生涯を終え、たった一度の旅行や汽車に乗ることさえまれであった働きづめの一生であった。ふたりの唯一の楽しみは、村を挙げてのたった一夜の夏祭りの喧噪であった。夏の夜の祭りの歌声の中に誇らしく笑う祖父の顔があった。いまはあの懐かしい村の風景は、私のこころに消え去ることのない記憶としてしか残っていない。ひょっとしたら祖母は荒廃していく田園にこころを痛めてこの世を去ったのではないか。
 しかしちょうど祖父母が営々と田畑を耕していた時代に、玄界灘を超えた半島ではいたいけな少女たちが自らの処女を日本兵に捧げて花を散らした時代でもあった。戦争こそ自然と人間を荒廃させる究極の愚かな行為である。従軍慰安婦ナミコは哀しみで重くなった頭を垂らし、自分の人生の残りすべてを沼底に沈めるようにこの世を去った。最後に「ふるさと」を口ずさみながら・・・・・(柳美里『8月の果て』 朝日新聞10月11日夕刊)。祖母や祖父、そしてナミコの最後の姿が朱鷺の死と重なって胸が締めつけられるような痛みと怒りが湧き起こってくる。半島を荒廃させ、虐げられた少女への国家補償を拒否する政府に、自然保護の資格も能力もないことは明らかだ。私たちは本当に忘れてはならない大切なことを記憶しているのであろうか。歴史の教科書にも記憶の片隅にも痕跡を残すことなく消えていった無数のいのちのかすかな慟哭が聞こえるであろうか。いまこころから「ふるさと」を歌える人がいるだろうか。

 夕焼小焼で 日が暮れて
 山のお寺の 鐘が鳴る
 お手々つないで 皆かえろ
 烏と一緒に 帰りましょ
                                                          合掌・・・(2003/10/12 20:02)

[「歴史上最も慈悲深い戦争だった」!!]
 9日に米大統領がニューハンプシャー空軍基地で語った言葉。彼は慈悲の意味を理解しているのであろうか。慈悲とは「@仏・菩薩が衆生を憐れみ慈しむこころ。一説に衆生に薬を与えるを慈、苦を除くを悲という。Aいつくしむようにあわれむこころ。なさけ。慈悲心」(『広辞苑』)と説明されており、人間を超えた存在が人間の罪深い行為に同情し癒す意味ではないか。言葉の正しい意味で、慈悲を受け憐れむべきは米国大統領ではないか。米国の致命的な判断誤謬によってイラクの無辜のいのちが大量に奪われ、米兵の犠牲も増大し、戦争と暴力の地獄のはどめなき悪無限におちいってしまった現状を米国の歴史教科書は、21世紀初頭に祖国は恥ずべき戦争をおこなって世界の嘲笑をかった-と記すであろう。いやそれ以前に過重な軍事費と財政赤字で米国経済が破綻したとも記すであろう。
 アムネステイとオックスファムは米英による人権抑圧国に対する武器輸出の実態を報告した(9日)。米国から武器援助を受ける人権抑圧国として、コロンビア、アゼルヴァイジャン、パキスタン、インド、ウズベキスタンなどをあげ、パキスタンへの軍事援助は350万ドル(3億8千万円)から13億ドル(1400億円)と370倍に増え、英国の軍事援助も2000年の200万ポンド(3億8千万円)から02年に4千万ポンド(74億円)と20倍にも増えている。人権抑圧国に対する軍事援助の禁止という国内法は全く遵守されていない。

 さて我が日本はどうか。ASEANの基本理念を体現した「東南アジア友好協力条約(TAC)」にインドと中国が加盟し、20数億のアジア人口が協同の道を歩み始めた中で、日本政府のみが加盟を拒否した理由が「米国との関係にどのような影響を与えるかについて問題がある」(日本政府代表)というものだそうだ。つまり日本政府はTACと日米安保が矛盾するので日米安保を優先したというのだ。アジアではASEANと中国・インドの間の自由貿易地域協定(FTA)の合意が進み2010年には広大なアジア自由貿易圏が誕生し、一人日本のみがこのパートナーシップから孤立している。アジアが平和経済の国際的なネットワークを形成しつつあるときに、日本のみが海外派兵と戦争の道を歩むという未来から見て最も愚かな選択をおこなっている。わたしたちは、日本の未来と子供たちにどのような国を手渡そうとしているのであろうか。折からライオンヘアーが街頭で弱肉強食を叫んで獅子吼しているが、もはやあなたの命運は絶たれているのだ。(2003/10/11 8:05)

[小数点は「.」「、」か-イスラエル空軍パイロット27名の攻撃拒否声明に想う]
 小数点はコンマかピリオドか? 日本ではピリオドだがこれは英米流。世界の多数派はコンマだ。英語が事実上の国際標準となっている力を利用して、英米豪は13日から開催される国際度量衡総会で(パリ)でピリオドへの統一を提案する予定だが、欧州諸国は文化侵略だとして反発している。一方、国際標準化機構(ISO)と国際電気標準会議(IEC)の「専門業務用指針」(2001年)は「記述言語に無関係に小数点にコンマを使う」と規定しており、世界の多数の言語がコンマを使用している限りコンマが標準だと主張している。ちなみに日本政府はピリオドに賛成投票するそうだ。日本は度量衡まで米国追随で情けない限りだ。日本の明治期の脱亜入欧思考は戦後になって脱亜入米になっただけで、強勢制な他者に対する依存思考は変わっていない。こうした他者指向型造はじつは権力から遠ざかる民衆部分に近づくほど恥ずかしげもなく日常化し、覆いがたく唾棄すべき現象が横行し頽廃が深化してもはや疑うことすらできなくなる。
 私は9月25日付けのイスラエル紙「イデイオット・アハロノート」ネット版を見て驚愕した。イスラエル国防軍の空軍パイロット27名がパレスチナ占領地内への攻撃を拒否する声明を司令部に送付したとある。イスラエル憲法では満場一致は可決と見なされない。異論がないような異常事態は正常な思考と判断がないことの証明であるとみなされるからだ。孤立しても自分の主張を堂々と貫く者が称賛を浴びる。満場一致を至上として異論を排斥する日本的風土とは天と地との差だ。しかし今回の攻撃拒否声明は、上官の命令に対する抗命罪に当たり軍法会議を覚悟しての行為だと推測される。ささやかな抵抗ではあるが、こうした人が存在することに実はイスラエルの未来と希望があると思う。次はその攻撃拒否声明の全文である。 

 合計27名のパイロットと乗組員は本日、空軍司令官ダン・ハルーツ将軍に意見陳述書を送り、占領地内での攻撃任務に参加しないと宣言した。意見陳述文全文は以下の通り。
 「私たちシオニズムと犠牲的精神、そしてイスラエル国への献身という価値観のもとに育った空軍パイロットは、常に最前線で祖国の防衛と強化のためにいかなる任務の履行をもいといませんでした。私たちパイロットと乗組員は、イスラエル国が占領地内で実施してきた非合法かつ非道徳的な攻撃命令の履行に反対します。イスラエルを愛し、シオニズムという大事業に献身するように育てられた私たちは、民間人の居住する地区に対する空軍による攻撃に参加することを拒否します。私たちは、イスラエル国防軍と空軍を引き離すことのできないわが身の一部だと見なしています。そのような者として私たちは、無実の一般市民をこれ以上傷つけ続けることをここに拒否します。こうした行為は非合法かつ非道徳的なことです。この直接の原因は、いまも続いている占領であり、占領こそがイスラエル全体の崩壊を引き起こしているのです。占領の永続はイスラエル国家の安全とひいてはモラルを決定的に脅かしています。私たち空軍パイロットは、イスラエル国を防衛するあらゆる使命のために、イスラエル国防軍と空軍に今後も奉仕することをここに宣言します。以下署名者27名連名」

 10月9日朝日新聞夕刊は、暗殺拒否の准将空軍教官を解任-と題して次のように報道している。「イスラエル空軍パイロット27名が軍のパレスチナ過激派暗殺作戦に抗議し作戦参加を拒否する書簡を空軍司令官に送った問題で8日、署名者の指導者格であるユフタ准将が空軍パイロット養成所の教官職を解任された。ユフタ准将はハルーツ空軍司令官から考えを改めるよう求められ、拒否すると解任されたという」
 ちなみにユフタ准将は、多くの飛行編隊の指揮を執ったいまや伝説的な人物で、イラクの原子炉攻撃に参加した経験を持つ次期空軍司令官の有力候補者だ。実は空軍内部に暗殺作戦を拒否するパイロットが増大し、彼らは司令官との話し合いで内密裏に暗殺作戦の任務をはずされているという。イスラエル国防軍の上層部にまで現在の作戦に対する明白な疑惑が誘発され、国防軍の指揮系統がゆらいでいることが分かる。圧倒的な武力でパレスチナゲリラを制圧しているかに見えるイスラエルは深刻な内部矛盾を抱えている。過酷な軍事予算の膨大な支出によって、国家財政は最悪の赤字に陥り、観光産業の壊滅とともにイスラエル経済は破綻に瀕しつつある。それにしても、もしイラク派遣を拒否する自衛官が出現した場合に、日本の防衛庁はどのような対応をとるのだろうか、それと日本の民衆はまたしても戦時のように村八分にして迫害するのだろうか。(2003/10/9 21:05)

[中原中也『サーカス』に関する次のような問題をあなたはどう考えますか]

 次の詩を読んで後の問いに答えよ。

 幾時代かがありまして
  @茶色い戦争がありました

 幾時代かがありまして
  冬は( A )吹きました

 幾時代かがありまして
  今夜此処でのA-と殷殷盛り
   今夜此処での-と殷盛り 

 サーカス小屋は高い梁
  そこに一つのブランコだ
 見えるともないブランコだ

 頭倒さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋のもと
  Bゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 それの近くの白い灯が
  安値いリボンとC息を吐き

 観客様はみな鰯
  D咽喉が鳴ります牡蠣殻
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

  野外は真っ闇 闇の闇
  夜は劫劫と更けまする
  落下傘奴のノスタルジアと
  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

問1 詩全体から受ける印象で次のどれが適当か。記号で答えよ。
   1,悲痛な調子 2,おどけた調子 3,荘厳な調子、 4,軽快な調子
 
問2 傍線部@の「茶色」とは何をイメージしたものか説明せよ。
問3 空欄Aには「強く吹く風」という意味の漢字2字の熟語が入る。それを記せ。
問4 傍線部Aにはひとびとのどのような心情が表されているか。次から選べ。
   1,楽しかった子ども時代を懐かしがっている 2,観客のすべての心が一つになり興奮している
   3,一時の間だけでも楽しみを求めようとしている 4,ひとつひとつの演技はどれもすばらしいと感じている
問5 傍線部BCのような表現をそれぞれなんというか。
問6 傍線部Dの状況を分かりやすく説明せよ。

[更けゆく秋の夜に]
 スターリン体制を痛烈に戯画した作家ジョージ・オーウエル(『動物農場』『1984年』等)の生誕100年にあたって、英紙ガーデイアンはオーウエル晩年の1949年にチャプリン等38人の隠れ共産主義者のリストを情報機関の女性に渡して密告したことを報じた。リストの最後の生き残りとなった歴史学者の文章だ。さらに今年は米国の核物理学者ローゼンバーグ夫妻がソ連のスパイとして無実で処刑された事件の50周年にあたる。狂気の冷戦下でソ連ではスターリン主義の恐怖の弾圧がはじまり、米国ではマーッカーシズムによる共産主義者狩りが吹き荒れた。オーウエルを弁護する外岡英俊のようなジャーナリストもいるが、無実の罪で下獄し処刑された人の命は帰らない。

 死ぬことのできるぼく 田中清光

 きみに本当の死を取り戻すのは
 じつは天使でもなければ 花で美しく装われた柩でもない
 それはまだ死ぬことのできるぼくが
 ぼくのなかのきみを探し当てることからはじめられる
 ・・・・・・・・・
 この傷ついた世界を流れている水を
 いまもきみとわかち 呑むべく
 きみの焼亡を個の論理から糺すだけでなく
 共同体の罪状としても わかち呑む
 身体が言葉であるのなら
 きみもぼくもここから
 きびしい音節の川を下ってゆこう
 さいごの日まで
 カオスの現世であるこの作業をつづけ
 詩もたたかい死なねばならぬ

 東京大空襲の3月18日に昭和天皇は焼け跡を視察し、富岡八幡宮で陸軍高官の報告を受けた。いつのまにか集まった被災者が涙を流して土下座しながら、陛下、私たちの努力が足らずむざむざと焼かれてしまいました。誠に申し訳ありません。この上は命を捧げて・・・・・と口々に泣きながら天皇に向かって呟いている。身内を殺された被害者が最高責任者に詫びている。どうしてこんな奇怪な逆転が起こるのか。27歳の若き文学者・堀田善衛はこの光景を見て戦慄し混乱におちいった。北朝鮮の独裁者への忠誠をあざ笑う日本人の58年前の姿である。

 チェコの哲学者カレル・コシークが今年の2月21日に逝去した(享年76歳)。反ナチレジスタンスに加わって18歳で逮捕されテレジン強制収容所から奇跡的に生還し、ヘーゲル論文で修正主義と批判されて下獄し、68年のプラハの春で「2千語宣言」に署名して大学を追放されてトラック運転手となり、親友ムリナーシからの亡命の誘いを断ってチェコにとどまった。彼の到達した最後の人間概念は「ホモ・レリギオーススhomo religiosus(結ぶひと)」であり、有限と無限、崇高と卑俗、日常と祝祭、労働と閑暇などをむすぶことが人間の真のあり方であると主張した。チェコ現代史の生き証人。合掌。(2003/10/7 23:27)

[忘却のアフガニスタン]
 2年前にはあれほど全世界の注目を集めたアフガニスタンは今は忘却の荒れ野になろうとしている。2年前の10月7日に米軍の空爆が始まって3000人以上の民間人犠牲者をだしてタリバンが放逐された後、アフガンはまた以前の軍閥支配の無秩序状態になっている。民間開発援助団体(CARE)は「アフガン32州が極めて危険で立ち入り禁止区域に等しい」(9月15日付け報告書)と指摘し、昨年9月から今年2月までNGOに対する襲撃件数は13件であったが、3月から8月までで80件に急増し、ゲリラは親米カルザイ政権=アフガン国軍=援助団体すべてを米軍協力者と見なして無差別攻撃をおこなっている。2年間で米兵36人が死亡し8月末から5人が殺害されている。パキスタンのイスラム神学校では聖職者が「タリバンに参加して戦え」と扇動し50ドルで若者を勧誘している(カブール駐在欧州通信社記者)。首都カブールの治安は、ハイテク兵器で武装した1万人の米兵と国際治安支援部隊(ISAF 30ヶ国)の5500人の配置でかろうじて治安が保たれている。米軍はタリバン・アルカイダ掃討作戦で、軍閥に資金をばらまき非合法の税収や麻薬密輸で軍閥は逆に強大化している。タリバン政権が厳しく取り締まったアヘン生産は、急速に復興し世界シェアは01年で12%に達し、02年では76%と驚くべき拡大を遂げている。米国務長官は「需要がある限り米国は麻薬密輸と戦う答えがない」と事実上の公認状態で旧ソ連によるアフガン侵攻の末期と酷似した状況となっている。続くイラク占領と連動して反米のイスラム原理主義テロリズムのレジスタンスが展開され、米国の将来戦略は事実上立案不可能ととなっている。米政府は石油と天然ガスのパイプラインを死守することにしか現在の対応はとれていない。これらの事態がパレスチナにおける暴力とテロの応酬と結びついて、好むと好まざると関わらず文明の衝突という極限的な対立の構図が現実となりつつある。
 しかし人間はたった2年程度で破局の地域に対する関心を喪失するのだ。メデイアもほとんどアフガンの実情を報道することはなくなった。おそらくタリバンはまたイスラムのジハードを宣言して大義のもとに民衆を結集するだろう。それはまた再びの中世的な権力の復活をもたらすだろう。1度目は悲劇として国のすべてを破壊し尽くしたが、2度目は喜劇に終わらずふたたびの専制的な大義による権力が出現するだろう。この結果の果てに、米国が被る挫折とアイデンテイテイの喪失はベトナムを遙かに上回る虚脱を味わうだろう。なぜならベトナム戦争の時は疑似的な自由主義システムの大義があったが、今回のイラク戦争はなんらの大義の根拠がないからである。米国は大義自体を根底から疑う虚脱状態に陥るだろう。ここに最も恐れなければならない恐怖がある。大義を失って地に打ち伏した米国は血にまみれた汚辱を究極の暴力で報復するという最悪のテロ国家に転落するからである。(2003/10/7 20:35)

[アラン『定義集』(岩波文庫)]
 1868年生まれのフランス人哲学者。リセ(高等中学)で40年間哲学教師。本名エミール・シャルテイエ。手稿はカードに書きすべて削除線なしで修正よりは別の定義を上に貼り付けていた。私はこの定義集を呼んでフランス精神のリベルテ・自由の神髄を感じる。何ものにも捕らわれない自由な精神の飛翔を感じる。日本の思想が未だ持ってドイツ的なしがらみを引きずっていることを私自身に於いても感じる。それはやはり個の尊厳の精神から流れ出るような観察力だ。以下その幾つかの定義を掲載する。いちいち評論するのではなく味わうような滋味があふれ出ている。

 悪口:咎め立てる慧眼より赦す慧眼のほうが上手なのだ
 叡智:これは怒り狂った判断を克服した徳である
 自由:自由というのは世界のどこにもない。自由はそれを用いることによって存在するのであって、それ以外に自由はない。自由であること、それは自分が自由であると思う精神である。
 信仰:証拠なしに、否、証拠に反して信じようとする意志。
 人間:考えるか考えないかであって、半分考えることなどできない。あらかじめ入港先を考えて、われわれは船出をする分けではない。人間は犬のように一片の砂糖の前でちんちんするためにつくられているのではない。犬はそのようなものによって導かれるが、人間は導かれることを拒否する。脅迫に屈するものは人間ではない。完全な奴隷状態は自分が奴隷であることを知らない。自分が自分であるためには目覚めていなければならない。最大の悪はもはや悪であることを知らない。イエスを殺した人たちは自分が悪いことをしているとは思わなかった。われわれは無理やり生きるように命じられているのではない。われわれは、むさぼるように生きている。生きることは生きようと欲することだ。
 悲しみ:悲しみに対する唯一の助言は「一度にただ一つのことをやるがいい」だ。
 :これは魂の浄化である。刑罰は強制された苦しみであって、恐怖と見せしめによってやむなくそうさせられている。罰はもっと深く、罪人が心の底から変わろうとすることをねらう。罰は強制されたものではなく、受け入れられたもの、否、求められてさえいるものだ。
 不服従:自由の試みであり、勇気の試みである。従ってそれは友情を持って見守らねばならない。不服従が非難されるべきは、ただ、それが怠惰で卑怯であるときだ。生徒が宿題をしないのは、それが怠惰であるときは悪いことであるが、傲慢からならば傲慢なものに自由を返さねばならない。
 精神:精神とは否定するもの、拒否するもの、経験の諸要素、観念、またすべてのものをうち捨てるものである。すべてのものを拒否することによって、人はすべてのものを所有する。人は、否と云うときに、その人の最大の自由を発揮する。
 率直:中国の礼節は質問することを禁じている。なぜなら答えないことが答えであるから。人を傷つけない命題を、思考と呼ぶことができる。従って、率直さは特別な要求がなければ、またすべてに慎重を期して一度ならず延ばした上でなければ、舞台に登場することはできない。
 激高:激高している者には拘わらない方がよい。彼らには沈黙と隔離によって対処する方がよい。人が身を投げると、重力が人間を引き受ける。おなじようにいらだちが人間を引き受ける場合がある。
 嫉妬:嫉妬は他者の美点に関するぶしつけな関心である。
 醜さ;美しい顔に表れた愚かな笑いを想像してみたまえ。それ以上醜いものはない。
 支配:支配とは自分を支配することである。自分を司る者でなければ支配者とは呼ばない。以上抄訳(2003/10/6 22:44)

[アルンダテイ・ロイ『帝国を壊すために-戦争と正義をめぐるエッセイ』(岩波新書)]
 1961年生まれのケララ州出身のブッカー賞受賞のインド人女性作家の米国批判エッセイ集。The Algebra of Infinite Justice(2001)
・War is Peace(2001)・War Talk(2001)・Democracy:Who is She When She Is At Home(2002)・Come September(2002)・Confronting Empire(2003)・The Ordinary Person's Guide to Empire(2003)・Instant-Mix Imperial Democracy:Buy One,Get One Free(2003)など9.11以降のエッセイと講演がまとめられている。直裁にして諧謔に富んだ米国批判のオンパレード。宗派主義ファッシズムが横行するインドでこうした発言活動はテロを覚悟しなければならないだろう。アッケラカンとしたその語調はそうした恐怖を突き抜けた明るさがある。日本の良心派知識人の米国批判には決して見られない潔さがある。それは何だろうか。
 それは彼女が徹底した第3世界の知性を代表して発信しているからだ。日本の知識人は、脱亜入欧の後に(それを肯定しようがしまいが)西欧的なヒューマニズムの立場から米国批判を展開して、どうしても歯に衣を着せない攻撃性がゆるんでいる。日本の米国批判は、米国内の良心派との連携を探ることを優先させてどうしても半身に構える傾向がある。その理由は、多国籍ビジネスのグローバライゼーションという戦略では日米は運命共同体にあり、そこから帝国批判における企業批判が弱まってしまうのだと思う。私がロイのエッセイを読んで最初に受け取った印象がこの点である。もっと云えばロイの米国批判は、米国の有色人種に対する蔑視を鋭くえぐる。有色人種に核爆弾を持たせたら何をするか分からん-というのが米国のホンネだという。思えばヒロシマ・ナガサキへの原爆投下は日本人が黄色人種という劣等人種であったからということを日本人のすべてが知りながら、日本の反核運動はこの点を指摘しない。平和の抵抗が軽蔑を持ってあしらわれる時代-という彼女の批判はそのまま日本に当てはまるではないか。彼女は惜しげもなく差別用語を駆使する。中国野郎(チンクス)、ニグロ、ベトナムの奴ら(デインクス)、東洋の黄色い猿ども(グークス)、アラブ連中(ウオブス)などなど。私たち日本はまぎれもなくグークスなのだ。
 オーム(OM)とはヒンドウー教で儀式の際に唱える神聖な音を意味するが、インドでは虐殺されたムスリムの額にナイフで刻む言葉だという。彼女の祖国インドは、もはやガンジーの故郷ではなく血なまぐさい宗派ファッシズムが吹き荒れている。私が研究対象としている絞り染織産業の中心地アーメダバードはいまやヒンドウーによって集団レイプされるジャガナート(ヴイシヌ神の第8化身であるクリシュナ神の像)的怪物が支配するムスリムの街となってしまっている。
 9.11以降全米で打ち振られている星条旗のほとんどは中国製であるという。このなんという対比!元アナーキスにしてトロツキストの米国防長官ラムズフェルドは、イラク占領後の略奪を見て「ま、みにくいですな、自由とはみにくいもんです」とうそぶいたという。
 彼女の最後のメッセージは次の言葉で結ばれている。「覚えておこう-私たちは多く、彼らは少ない。私たちが彼らを必要としている以上に、彼らは私たちを必要としているのだ、ということを」。(2003/10/5 19:14)

[ウイトゲンシュタインで人類は生き残れるか]
 20世紀を代表する哲学者ウイトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』は、第1次大戦に従軍し何百万の兵士が虫けらのように無意味に死んでいった塹壕の中で書かれた(橋爪大三郎氏論考参照)。弾丸飛び交う戦場のただ中で世界の根元を考え抜く精神の強靱さに圧倒される。またそうした兵士の精神活動を許容した軍隊のあり方が日本軍と本質的に異なることも。彼は、理想や希望を一切交えない世界の事実を厳密に記述する数理言語を厳格な規則で構成した。いわゆる論理実証主義の宣言である。こうした冷徹かつ厳密な世界構成の背後には、狂気の戦争をもたらして人間を押しつぶしていったさまざまの理想を語った哲学に対する根元的な懐疑と抗議のパッションがある。
 <1 世界は成立している事柄の総体である>
 <7 語り得ぬ事柄については、沈黙せねばならない>

 整然と番号で記された命題がナイフのような言葉で世界を凝縮している。大戦後のニヒリズムはナチズムとスターリン主義という両極の全体主義という鬼子を産み、さらなる悲劇的な惨状をもたらし、哲学もヴァチカンの役に立たなかった。しかし彼はみずからの構築した哲学世界をあっさりと捨て去ってしまう。世界を厳密な簡潔さで記述することができるはずがないという単純な理由によって。<1 世界は成立している事柄の総体である>とは実は何も語っていないに等しい。世界を成立させているのは何か、誰か-について語らなければならない。事柄の総体を意味あるものと無意味なものに分けることができるかできないかについて語らなければならない。塹壕の中で無惨に死んでいった兵士の死に意味はないのか-について語らなければならない。整然たる数理言語で全世界を記述し得たとしても、そこで生きて死ぬたった一人の生命の意味について語らなければならない。
 理想と希望をまき散らした哲学が、戦争の前でいかに無力であったかはハイデッガーや西田哲学の末路をみれば分かる。しかしだからといって<7 語り得ぬ事柄については、沈黙しなければならない>のであろうか。世界を根元から考えてなお残る「語り得ない事柄」は、「沈黙すべき」ではなく、いさぎよくその記述の担い手を次世代に手渡すべきである。

 ウイーンに生まれた金髪の美貌の哲学者は、英国のバートランド・ラッセルのもとに留学し、氏の数理論理学を徹底して世界解釈に適用した。その時に師のラッセルは、ベトナム国際戦争法廷で米国の侵略を糾弾する判決文を起草していた。成立している事柄の総体のどこにみずからをむすびつけ、沈黙しないで敢えて語ろうとした師の行動は、飢えて死ぬいたいけな子どもの生命をくい止める確かな一歩を記したのではないか。事柄の総体を冷ややかに観察して個の思考と感性の世界に閉塞していったポスト・モダニズムは、実は世界との関係に責任をとろうとしない卑怯者の哲学なのだ。彼らは自己の観念に呪縛されて、世界との協働関係に怯える恥じらい屋なのだ。語り得ぬ事柄について敢えて沈黙を破らなければならない事柄が充ち満ちているこの地上では、ウイトゲンシュタインで人類は生き残ることはできない。(2003/10/5 8:27)

[因果律について]
 ある出来事Cがある出来事Eの原因であるための条件は、ヒュームによればCとEが近接していること、CがEに時間的に先立っていること、そしてCとEの間に必然的な結びつきがあるという3点がなければならない。因果の連鎖は連鎖の不確定性を閉じこめて縮減する。不確定性の「他のようであり得る」ことを「他のようであり得ない」因果の連鎖として必然性の流れに置き換える。のである。
 中世ヨーロッパで流行した錬金術は、硫黄と水銀と塩の合成から金や長寿薬をつくるハリーポッターの世界であるが、そこに魔術が加されることによって真実性を高め、その後の化学の発展の契機となった。近代化学は、化合物を要素=元素に分解し元素の組み合わせが変化しても元素自体は変化しない錬金術の虚妄を指摘して錬金術は衰退した。要素の組み合わせの集合は複雑系であり、システムは関係の多様な可能性に対して選択的に振る舞うことを通して、自己を差異化する圧力と同時にチャンスをつくりだしている。(以上永井俊哉氏論考参照)
 世界が「帝国」という覇権システムへとなだれを打って進んでいるのは、幾つかの要素が組み合わさるなかで基底的な要素が他の要素に対ししてより強力なシステムへの影響力をもっていることの証左であり、不確定性のさまざまの要素の間の熾烈な闘争の連鎖である。一つの事例から考えよう。58年前の敗戦時に旧日本軍が中国に遺棄した毒ガス弾(中国側推計200万発、日本側推計70万発)が処理されないままに放置され、漏れる毒ガス液によって皮膚のただれや障害、死亡事故という被害が発生している。国際条約で禁止された生物化学兵器の開発から遺棄の連鎖に否定できない因果律がある。1931年柳条湖事件(満州事変)・満州国建国→1937年廬溝橋事件(日中戦争開始)の過程で石井軍医中将指揮の731部隊による生物化学兵器の研究が始まり、1945年の敗戦によって中国大陸に毒ガス兵器が遺棄された。戦後の北京政府不承認を経て1972年日中国交正常化から30数年後に中国人被害者の補償請求裁判で日本政府は敗北した。日本政府は、賠償請求権は放棄され満州国は独立国家であったというサンフランシスコ平和条約に違反する主張によって、この裁判の判決を認めない。因果の連鎖の主導性を握った側が、現実の因果の連鎖の被害に責任が生じることは明らかだ。ここには過去の罪責をも、別の因果に導こうとする「帝国」の論理が働いている。21世紀が東アジア共同体という新たなシステムして展開されるだろうという「ありえる不確定性」から、錬金術のように星条旗との運命共同体という別の「ありえる不確定性」に賭けようとする「帝国」の無理が横車のように横行している。
 このような恥じらいなき振る舞いは東アジアの嘲笑と軽蔑を全身に浴びて歴史の藻くずとなって記録されるだろう。なぜなら因果の連鎖を決めるのは、最終的に少数の権力ではなく共存しようとする多数であるから。鰯雲たなびく朝焼けの空をみながら。 (2003/10/5 7:34)

[ある卒業生から]
 10年ほど前の卒業生からメールが入ってきた。偶然にこのホームページをみて懐かしくなってレスしてきたという。彼とはワンダーフォーゲル部で一緒に鈴鹿や夏の北アルプスの縦走を経験した。彼はいま航空自衛隊に所属し、C-1輸送機の操縦士資格の取得をめざして猛訓練に励んでいる。10年を経て挑戦している操縦士資格の難関を実感させます。在学中の懐かしい想い出を記した後に「あの学校の卒業生において、このような進路をとる人間は異端なのかも知れません。・・・戦争なんかないほうがよい。しかしもしそれがわれわれの意に反して生起してしまったときに、日本という素晴らしい国を守る術は必要である。私はいままでにお世話になった家族、友人、恩師そしてこの国に恩返しをしたいのです。このような考えは偏った考え方かも知れません。でも私は、この仕事に就いていることを誇りに思っています」とあった。
 このホームページをごらんの方は、彼と私の立場が異なっていることがお分かりでしょう。彼は少壮の自衛官として最前線で戦う戦士として成長しています。いくさで自らのいのちを投げ出す使命感をしっかりと持っています。しかしかれは母校で培われた何か大切なものも忘れないでいます。私と彼とは違う道を歩んでいるようですが、しかし同窓と云うことはそのようなレベルを超えたつながりをもたらしています。
 かれが活動していた頃の黄金期のワンダーフォーゲル部は、夏の死にそうな北アルプス縦走を成し遂げた愛知県でも希な山岳部といった方がいいハードな命がけの活動をやっていました。私の教師生活の終幕が近づいた今、過ぎ去りし日々の想い出があざやかによみがえってきます。彼は自衛隊入隊時に母校を訪問し、瞳をキラキラ輝かせながら大空への夢を語っていました。若者が日本の未来に真剣に自分を結びつけて考え、行動している姿に打たれ、私は退場の間近いことをより実感します。彼は彼の道を行き、私は私の道を行くのです。そうしてこそ互いの健闘を讃え合えるのです。君は君の道を行け!そして人をしてその云うに任せよ!(ダンテ)(2003/10/4 8:34)

[青く澄み渡る秋空のもと 野に遊ぶ]
 真っ青に澄み渡った秋の空の1日、碧い海を一望する常滑の公園にてさわやかな大気を満喫した。展望台から間近に中部空港の巨大な空港島が浮かび、陸に向かって高速道路が延びる。大型公共事業のモデルとして決定からの突貫工事の姿が海の真ん中に浮かんでいる。開港後には巨大な赤字を抱えてのたうつ巨像の姿だ。若者たちはそれを知ってか知らずか-軽やかに歌を歌い、ボールを追い、バーベキューを楽しんでいる。かれらが将来こうむる巨大な負債はすべて私たちの世代の責任なのだ。若者たちはその責任を真っ向から追及する充分な資格を持っているにもかかわらず、あくまで大人たちに対して従順だ。こんなに生きにくい世が迫っているにも係わらず彼らの明るさはあくまで明るい。何か滅びの前の束の間のひとときを2度と帰り来ぬ青春の想いを刻みつけているかのようだ。彼らを見ていると、私は大いなるちからとエネルギーがふつふつと湧いてくる。いたいけな魂の若者よ、願わくば大いなる旅立ちの希望を刻んで飛翔せよ、たとえ大人たちの準備した行く末がいかなる姿を纏おうと、次世代の主人公は確かに君たち以外のもではない。数年後のいくさの場でかって精一杯にクラスメイトと楽しんだあの18歳の野原をノスタルジーを込めて振り返ることが決して来ないように、平和が充ち満ちていた時代を懐かしく回顧することが決して起こらないように、今はただそのことを願う。それらの予想されるすべての責任は私たちの世代にある。

 ロシア極東カムチャッカ半島の北部・コリャーク自治区にわずか5000人の話者しかいない絶滅寸前のコリャーク語がある。こどもたちはロシアに同化し、自由に話せる人の最低年齢は40歳代で平均寿命から見て30年後には消滅すると予測される。グローバリゼーションは世界の少数言語を衰滅させて巨大言語のみが権力を把握していく。こうした少数言語の消滅は仕方のないことなのだろうか。それは文化の豊かさの発展を意味するのであろうか。コリャーク語の絶滅はコリャーク民族が営々と育んできた狩猟-漁労-採集の多様な自然経済の文化のすべてが継承されないことだ。例えば家畜トナカイを精密に分類する名詞の数々は巨大言語が決して持っていなかったものだ。コリャーク語の歌は決して巨大言語が表現し得なかった人間の豊かな感性の内実を伝えている。ブルドーザーで破壊したようなこうした豊饒な人類文化の世界に私たちは2度と触れることはできないのだ。マイノリテイの光るダイヤモンドなしにマジョリテイの豊かさも保てないのだ。みんな違ってみんないい-のだ。迫害のマイノリテイへの記憶の仕事が問われている。

 今年度のノーベル文学賞は南アのオランダ系白人アフリカーナのJ・Mクッツエー(63歳)が受賞した。西欧の植民地主義の根元を先鋭な自意識をもって描き抜こうとする、日本で云えば大江健三郎的な作家といえようか。「ずっと昔に犯罪が犯されたの。・・・・ずっと昔で、あたしはその中にうまれてきた。それはあたしが受け継いだ遺産の一部なのよ」(『鉄の時代』)。94年に黒人政権が誕生した後、黒人の白人に対する恐るべき凄惨な復讐が陰惨に続いた。黒人たちに輪姦された白人の娘は、心身ともに重いトラウマを背負ってなお、自らの被害を過去の罪責の罪滅ぼしとして引き受けようとする。歴史の過去の過誤は自分が犯した罪ではないが、その罪責は自分の肉体と精神の痛みとして<恥辱>にまみれた凄惨な被害体験を通してしか償うことはできないのではないか-という究極の倫理性において肯定する(『恥辱』00年ブッカー賞受賞作品)。以上村田靖子氏論考参照。私の祖国である日本もかって60数年前にアジアにおいて消しがたい悪業を犯してきた。それ紛うかたなき私の祖父であり父であった。その子孫たる私は、クッツエーが背負おうとした罪責観で自分の責任を考えたことは一度もない。世上喧噪を極める拉致問題の思想的な解析のひとつのモデルがここに明らかにある。拉致を糾弾する倫理性にこうした過去の罪責の償いが重なったときに、はじめて問う者の充全な資格が与えられるように思われる。荒れ野はいまだ拓かれていない。
 私は柳美里の小説『8月の果て』(朝日新聞連載中)に云うべき言葉を失う。従軍慰安婦の血を吐くような告白も幾たびか耳にしたが、私がほとんど何も知らなかったことを、無知の恥をこれほど破砕されてただ息を呑むばかりだ。これほどのことを私の祖父と父の世代はやってきたのだ。クッツエーのいう自らの凄惨な被害でしか償えないものがあることをただに感じる。十字架の処刑を無限に受けなければならない民族なのだ-わたしたち日本民族は。私は、柳氏の小説の一部を転載することができない。あまりにも凄惨で、地獄よりももっと地獄のような事実がリアルな筆致で突きつけられる。柳氏はあまたの在日作家の水準を遙かに超えた21世紀初頭の最大の在日作家となったと-確かに思う。ヒロシマの凄惨を描いた日本の作家が加害の描写をどこまでできるか-いのちをほんとうに捨てる覚悟がいるだろう。荒れ野は未だ清められていない。(2003/10/3 22:15)

[Only one Earthとにんげんの危機]
 気候変動と温暖化によるマラリアから栄養失調による途上国の死者は毎年16万人にのぼり、今後の保健と医療の改善の要素を入れても死者数は2020年にほぼ倍増するという予測が発表された(世界気候変動会議におけるWHOとロンドン大学衛生・熱帯医学部の発表 9月30日)。死者の大部分はアフリカ・中南米・東南アジアの途上国に集中し、気温上昇と洪水・干ばつによる栄養失調とマラリアの被害を受ける地域であり、被害は最も弱いこどもたちである。先進国の人々は酷暑を冷房装置をフル稼働させてさらに温暖化を誘発する。いったいこの構造はなんだ!

 地中海東岸で繰り広げられる暴力の応酬は極限に達し、9月28日で3年を迎えた。想えばイスラエル・シャロンのエルサレム・イスラム聖地アッシャリーフ訪問というという挑発行為を契機に始まった衝突で、パレスチナ人2604人とイスラエル人819人(9月24日現在仏AFP通信調査)合計約3500人に達した。イスラエル占領地でのパレスチナ人の行動制限は封鎖、検問、外出禁止令により生活は破産状態に陥った。封鎖の結果、パレスチナ人の60%が1日の生活費2ドル以下に転落し、失業率は50%を超え、逆にイスラエル人の入植はさらに進み遂にはヨルダン川西岸の分離壁の構築に到った。見よ!イスラエル空軍予備パイロット27人は暗殺作戦への参加を拒否し、公然たる兵役拒否運動が続き、イスラエルは観光収入と外資の激減で国家財政は危機に瀕して破産状態が近づいている。しかし危機になるほど民衆は独裁者を支持するニヒルなデスポテイズムが蔓延している。イスラエルが1967年の境界線に撤退し、入植地と家屋を撤去する最終的な解決まで血みどろの戦闘は続く。Peaceとは何か-遙か離れた異境への想像力とは何か!?すべての哲学はこの疑問に応えよ!祈る前に答えよ!神はやはり沈黙しているのか!

 日本では世界史上例を見ない異常なリストラという名の解雇が進んでいる。2001年の産業活力再生法(!)によって大企業は810億円の減税の恩恵を受けて89000人を解雇して26ヶ月も5%台の完全失業率が続いている。こうした異常事態は製造現場での巨大災害を誘発し、安全も一緒にリストラしてしまっている。この被害を真っ向から受けているのが若者の就職難と高失業だ。若者の5人に1人がリーターという不安定雇用状態に陥り、国民年金の未納率が60%にせまり日本社会の再生産と存続自体が危機に陥ろうとしている。青年層の未婚率の上昇、晩婚化、少子化という深刻な実態は日本の次世代が崩壊することを予告している。労働政策の根元的な転換-違法なサービス残業の廃止による160万人、年間有給休暇4億日の放棄の取得による140万人の雇用拡大で一気に解決可能であるにもかかわらず、展望を失った国民の一部はライオン・ヘアーにすがってトラウマをよりつのらせている。

 オーイ!自分の頭で考えてみようではないか、誰にも頼らずとりあえず自分の頭で考え抜いてみようではないか! すべてを疑って疑って疑い抜いて確かな拠点から再出発しようではないか、その日その日を誤魔化して生きるのはもうやめようではないか、強そうな誰かに頼って不安を消そうとするのはやめようではないか。君の足下をただ深く掘れ、そこにしか泉が湧き出るところはないのだ。勝負となる2005年が刻々と近づいている-日本国憲法改正案が国民投票に付される年だ。(2003/10/2 20:39)

[2人の異邦人の死]
 99年の米国アカデミー賞の授賞式をBSで観ていた私はそこで驚くべきシーンに出くわした。名匠エリア・カザンが名誉賞で登壇したときに会場の半数以上の映画人が拍手を拒否したり起立しなかったのだ。とまどう司会者の進行を聞きながら、私は誰が起立して拍手を送りだれが着席して抗議の姿勢を示したか興味津々で凝視した。年老いたカザンはそうした反応に臆せず淡々とスピーチをして降壇した。カザンは『エデンの東』『欲望という名の電車』等の不朽の名作を残したハリウッド映画監督であり、俳優養成のメッカである「アクターズ・スタジオ」を主催してマーロン・ブランドやジェームズ・デイーン等の名優を育て上げた。彼はギリシャ系住民としてトルコに生まれ幼くして米国に移住した異邦人であった。1950年代の冷戦期のマッカーシズムの嵐の中で、元共産党員であった彼も議会に召還されて証言し、自分の友人であった共産主義者の名前を云ったことによってハリウッドからの追放を免れた。逆に彼の証言によって追放された映画人はハリウッドに生還することはほとんどなかった(ドルトン・トランボは本名を隠して「地獄の黙示録」のシナリオを書いたが)。カザンの作品の殆どは、裏切った後につくられている。『アメリカ、アメリカ』は自由と差別が共存する米国を鋭く描き、そうした社会で生き抜くための裏切りをやむを得ないとして肯定し、卑怯者の言い分を芸術的表現にまで高めた。しかしハリウッド映画人は決して50年後の今日まで彼を許してはいなかったのだ。私はハリウッド映画人をこの一点に於いて称賛する。才能溢れる一介の芸術家が表現の機会を奪われないがために、人を密告させる社会が米国なのだ。そのエリア・カザンが28日にニューヨークの自宅で死去した。享年94歳。

 同じ日にパレスチナ出身の大学教授がこの世を去った。9.11テロ以降の米国の戦争政策を鋭く批判して研究室を焼き討ちされて大学内で孤立しながらもアラブ世界の正義を訴えたエドオワード・サイードだ。すでに日本では大江健三郎氏との往復書簡によってその名を知られていたが、米国ではイスラム原理主義を振りまく学者として異端視されていた。彼の代表作『オリエンタリズム』(平凡社)は、西洋の近代植民地帝国主義が生み出したオリエント=非西洋に対するエキゾチズムの歪曲を告発し、西欧とアラブとの交流の再建を展望する浩瀚の書であった。彼の世界認識は現代のパレスチナ絶滅をめざすイスラエルの隔離政策批判につながって、イスラエルを擁護する米国の中東政策を厳しく批判するものとなった。彼も学問の世界で成功した異邦人であったが、米国での成功を維持するための裏切りや妥協を峻拒してカザンとは別の道を歩んだ。

 この2人の異邦の地で生きる異邦人から私たちは何を知るべきであろうか。それは芸術と学問の世界での名声の裏に絶えざる惨めさの落とし穴があると云うことだ。たとえ一時期を偽りで乗り切ったとしても、最後は無惨な侮蔑が約束されていると云うことだ。たとえ一時期において迫害を被ろうともいつかは真実が照らし出されると云うことだ。この法則的な真理は、芸術や学問の領域にとどまらず、私たちの毎日の営々とした生活の隅々に同じようなテーマが常にあると云うことだ。(2003/9/30 20:32)

[日本から外国人が逃げていく]
 日本への海外からの観光客が激減し遂にマカオの数を下回ってしまった。京都に永住していた日本好きの外国人が次々と本国へ帰っていくという。欧米諸国の観光収入は軒並み黒字の中で、日本だけが大幅な赤字を続けている。その原因は何であろうか。購買力平価でいって日本の国内物価が異常に高いことはもちろんだが、本当の理由は日本が独自の魅力を喪失し、地方都市は街が崩壊され空洞化がすすんで、日本の文化的な伝統性が根底から崩れつつあるからだ。欧米諸国が伝統文化の観光資源に努力を注いで、歴史的な町並みの保存と復元に取り組む中で、逆に日本は古い建物を破壊して街を壊しアメリカ型生活スタイルを蔓延させていく中で、日本のオリジナルな文化風土を喪失させていった。街中に英語が溢れ、メデアイや日常日本語にも英語文化を虫食い状態で氾濫させて、まるで米国を見に来るような感じを抱かせてしまう。
 欧州では、町並みの外観は少なくとも歴史的な景観を保存して、内部だけは近代化した家屋を建てるが、日本の場合は外観から内装まで米国型の現代建築を林立させて喜んでいる。こうした風景や日本人と接触する外国人は、米国崇拝で尊厳を失っている日本人を見て声を失うほど失望する。文系大学で云えば、英語学や英文学が難関となるという欧州では信じられない現象が起こる。英語・英文学を専攻する学生の意識は、実際には英語・英文学ではなく米語・米文学であり、底の浅いアメリカ文化を徹底して軽蔑する欧米から見ればこの主体性のなさも殆ど侮蔑に近いほどのレベルだ。
 これほどの文化の貧困を経験する時代も日本史上では初めての事態だ。つい50数年前には鬼畜米英といって激しい憎しみを煽り立てた大日本帝国は、ひとたび無惨な敗北を喫するや今度は手のひらを返して米国に屈従し媚びへつらう醜い国となった。私はなにもナショナルな国粋主義に帰れと云っているのではない。福沢諭吉は脱亜入欧といってアジアを軽蔑して欧米文化へのキャッチアップを主張したが、100年を経て現代日本は脱亜入米の道を狂奔して走っている。米国の軍隊に植民地のような基地を提供して恥じない国は日本だけだ。同胞の少女を陵辱されても声一つあげないのが日本だ。こうした人間的な尊厳と矜持を喪失している国に、世界の誰が魅力を感じるだろうか。世界で最も軽蔑される国になり果ててしまった我が祖国日本。最も恐いことは、一人一人の日本人が、自分の生活している学園や職場で自らの人間的な矜持をなくして、強者に媚びへつらい他人の目を見て行動し、決して自らの存在を主張せずただオロオロとその日を送り、スポーツか酒かデイスプレーに埋没してその日暮らしのホームレス生活を送って痛みを感じない。戦争大好きのライオンヘアーに拍手を起こり、ババアは早く死ね-とうそぶく作家知事にアイドルのような賛辞を送っている。ここまでだめな日本という国に、一体どこの外国人が大枚を払って旅行に来るだろうか。05年に開催される万国博覧会は、万国博ではなくただ単なる地方博に終わることは確実であり、莫大な赤字を予測して最初に公務員の給与が減額されているにもかかわらず、黙って何も言わずに奴隷のように命令に服従しているホームレス国家・日本に、一体世界の誰が人間的な魅力を感じるであろうか。奈落の底の地獄に沈んで始めて声を上げても、それは遅いのだ。(2003/9/29 23:13)

[新古典派経済学の危機-新日鐵名古屋製作所の大事故から]
 ブリジストン栃木工場から新日鐵名古屋製鉄所の爆発など大工場の事故が続発しています。現場管理の不注意でしょうか。鉄鋼五社では1999年から2001年の10年間で人員は161200人から95900人へと60%激減していますが、粗鋼生産額は1億1171万トンから1億200万トンとほぼ横ばいで、一人あたり生産高は世界最高水準となっています。今年度の鉄鋼関係の死亡災害はすでに7月28日現在で15件発生し昨年同期を大きく上回りました。7月11日に発生した新日鐵八幡製鉄の溶鉱鍋では1600度の度の熔けた鉄が流出し47歳の社員が死亡しています。この職場では従来5人一組の作業を4人に減らし、定年退職者の補充を無関係のリストラ社員で埋め、熟練労働者はたった一人という実態で考えられない事故が起こりました。八幡製鉄所の粗鋼生産額は4年前の22200トンが今年7月に48400トンに倍増しています。現場は超過密労働になって疲労度は極限に達し、しかも熟練者がいないという状態でおこなわれています。
 こうした製造現場の危機は本質的には新古典派による経済活動のジャングルの掟にあります。安全を犠牲にする収益率至上経営は、かっての原始的な蓄積時代の原生的労働関係を現代に蘇らせ殺伐とした過密労働と神経を摩耗する作業を強いて正常な判断と管理を奪っています。リストラによる脅迫によって社員は無間地獄の労働を甘受せざるを得ない実態に追い込まれます。歯止めを掛けるべき行政機関の指導は通達行政でしかありません。行政機関のリストラも激しいからです。こうして「雇用なき成長」という経済の空洞化が進展しています。このような危機をもたらした新古典派の経済理論のモデルが米国であり、現在の米国経済の景気回復は失業と貧困の進展とパラレルに進んでいます。
 米商務省の02年度貧困統計では、貧困ライン以下で生活する貧困比率は12.1%(対前年比0.4%上昇)・貧困者数3460万人(170万人増加)となっています。世帯実質現金収入の中央値は42400ドル(約475万円)でマイナス1.1%・金額マイナス500ドル(56000円)減少し、99-02年で3.4%減少しています。相対的に黒人やヒスパニックで貧困比率が増加し、失業率は5.8%「(対前年比1.1ポイント上昇)という状態です。景気回復/失業率上昇というギャップは米国の社会経済をますます歪んだものにしています。行き詰まった貧困層が海外派遣の軍隊に志願して給料を稼ぎ、アフガンやイラクで人を殺しています。海外軍事戦略に支出する膨大な予算が、国内社会保障予算を食いちぎって貧困対策が衰退し、減退する政府の税収を特に日本に依存する国債発行で補うという悪循環が進んでいます。こうした悪魔のサイクルの手っ取り早い突破口は、海外戦争による軍事経済の活性化であり、世界最強の「帝国」はますます脆弱な基盤でしか成り立たない極めて不安的な状況に追い込まれています。新日鐵名古屋製作所の爆発事故は、こうして米国のイラク侵攻戦略とも深いところで連動しています。(2003/9/28 8:42)

[犬-金子みすずに寄せて]

 うちのだりあの咲いた日に
 酒屋のクロは死にました
 おもてであそぶわたしらを
 いつでもおこるおばさんが
 おろおろ泣いておりました
 その日学校でそのことを
 おもしろそうに話してて
 ふっとさみしくなりました

 イラク・バグダッドの動物園で酔っぱらった米兵が、世界的な希少動物であるベンガル虎を射殺しました。虎は14歳でイラク戦争を奇跡的に生き延びてきました。米兵は毎晩、動物園で酒を飲んではドンチャン騒ぎを繰り返し、虎にエサをやろうとして噛まれたことに腹を立てその場で射殺しました。動物はどのような者であれ、愛する人間にとってはみずからの愛情が乗りうつったアイデンテイテイに等しくなります。虎はイラクの尊厳を象徴しています。米軍にイラクを語る資格がないことをこれほど証明する事例はありません。

 100歳を超えて先日死去したドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールは、ナチス・ヒットラーを賛美する幾つかの映画をつくり、戦後を生き延びてきました。政治と芸術の関係をこれほど体現した芸術家はいません。「意志の勝利」(1934年 ニュルンベルグナチ党大会記録)・「オリンピア」(1936年 ベルリンオリンピック長編記録映画 邦題「民族の祭典」「美の祭典」)で圧倒的な映像美溢れる記録映画の先駆的な表現を駆使して世界映画史に巨大な影響を与えました。戦後の戦犯裁判で、彼女は自分の作品を芸術作品と主張して無罪判決を受け、自己の過去について一切の謝罪を拒否して戦後を生き抜いてきました。ハリウッドを訪問したときに、デイズニー以外の映画人は面会を断り、作品の上映は各地で猛烈な抗議運動を引き起こし、昨年のペテルスブルグ映画祭では抗議の中で非公開となりました。ひるがえって戦意高揚映画に狂奔した日本の映画人は、戦後堂々と復活してこんどは平和を主張する映画をつくって恥じることはありませんでした。

 かえりみて一点恥じることなき生活-困難のように見えて実は簡単なことです。ほんの小さな勇気さえあれば。心のほんの小さな痛みに敏感であれば。迷ったときに自然に譲りがたい良心に味方すれば。ふっとさみしくならないように。(2003/9/27 21:23)

[ぼくの好きな先生]
 フランスのある片田舎の小さな村の小学校、全校で1学級、3歳から11歳までの13人の子どもがたった1人の先生の下で学ぶ。70年代初めまでは全国1万校あったこの種の小規模校も予算削減で現在は半減している。読み書き算数だけでは不充分な基礎教育。4歳の子どもは丁寧な言葉使いを身につけるまで55歳の先生が何度も問い正す。静かな声だが妥協はない。中学進学を控えた子どもは不器用ながら次の段階に進もうとする。そんな子を案じて家族挙げて取り組む一家。詩情溢れる田園風景や、あどけない子どもの瞳に魅せられているうちに、人間らしさとは何であるかがジンワリとしみ込んでくる。いたいけなひとつのいのちが、学び、じょじょに成長し、一人の独立した人格の存在になっていく。人間はそれぞれ違うという認識から自然に生まれる尊敬と信頼の心。大都会に住むわたしたちがとっくに忘れてしまった、或いはいまこのときに失いつつある根元的な人間のしるしがある。以上は封切り間近いフランス映画『ぼくの好きな先生』(セザール賞受賞)のストーリー。
 こどもが過ちを犯した時にわたしたちはどう接しているであろうか。ひょっとしたら、刑事の取り調べのようなサデイステイックな快感で子どもを追求し追い詰めていないか。封建時代の応報主義でみせしめにさらそうとしていないか。教師の本質が露わとなる場面だ。「教育的情熱」の美名に自己陶酔して「厳しさ」を競い合う悪魔の循環の奈落の底へと沈んでいっていることに気づかない。
 逆に子どもの歓心に媚びへつらって無限の妥協を重ねて、最後には侮辱のうちに沈んでいく、いわゆる「微笑する」教師がいる。両者はメダルの裏表の関係にあり、教師と子どもが垂直の関係にある。前者はかってに自分を子どもの上に置いて命令する自分に満足し、後者は自分を子どもの下に置いて哀しむ哀れむべき心情がある。他者の痛みに対する共感の深みがどこまであるか、それは技術としては「妥協を許さない静かな寸鉄石をうがつ語り」ができるかどうかにある。
 新古典派の弱肉強食の競争原理によって、底知れない殺伐とした人間の関係が真綿で首を絞めるように蔓延しつつある。学校も例外ではない。互いに励まし合い、協働し、互いに成長していくことを我がこととして歓び合う人間の関係はもはや彼岸のものとなりつつあるのか。人の不幸には共感でき、人の幸せには嫉妬を感じるようなこころの頽廃がすすんでいる。人の不幸に共感できるのは、自分がそうでない安心による安易な憐れみの垂れ流しに過ぎない。だからその人が君の本当の友人であるかどうかは、君の不幸に涙するよりも君の幸せをこころから祝福してくれるかどうかだ。
 温かい共感が流れている集団は心配がない。心を開いて率直な励ましと批判がフランクにできる集団は心配がない。罪を犯した子どもをあげつらい、放逐して秩序を維持していこうとする集団は、愛情と信頼による結合の前提を喪失しているから、次々と問題が誘発され処断の水準を無限に重くしていく悪循環に陥り、結局のところ集団の秩序は崩壊に陥る。それ以前に集団全体のなかに「私たちは愛されていない」という致命的な負の感情がまき散らされて、手のつけられないものに堕していく。
 このような状況を典型的に象徴するのが、死刑存続-廃止論争だ。最近の死刑存続論の異常な伸張は、日本という社会が取り返しのつかない人間の崩壊への過程にあることを示している。異常な凶悪犯罪の発生件数は絶対的に減少しているにかかわらず、それを極大化して報復を煽る議論が巻き起こっている。恐らく大不況下で蓄積するトラウマが誰かをターゲットとする生贄をつくって集中的に攻撃し発散してはいないか。集団がうまくゆかなくなるとこの傾向は増幅される。『ぼくの好きな先生』は、決して声高には語らないが、静かな描写の中に私たちの頽廃を根っこから問いかけている黙示録のような映画だ。私は人生の折り返し点に立って、あらためて孤立してもいいから守らなければならない領域があることをありありと感じている。そして日本は、もはや取り返しのつかない-という地点に近づいていっているような気がする。(2003/9/25 22:19)

[日本はルビコンを超えようとしている]
 現在の日本の最も危険なことは、時代閉塞の現状をトリックスターが横行してパンとサーカスによる動員を進めるなかで、民衆自身がファンタジックに巻き込まれつつあることだ。「3国人」「ババア」「北朝鮮と戦争だ」「爆弾仕掛けて当然だ」という確信犯的な都知事の発言は、大不況下でトラウマをため込んだ民衆の劣情を解き放つ効果を持つ。彼は『太陽の季節』でデビューしてから一貫して権威と常識を攻撃し大衆の隠された怨念を剥き出しで表現し喝采を浴びてきた。彼が道化役者として許容されていた時代は戯画化された大衆芸能の世界で終わっていたが、ここにきて時代の方が恐ろしく変容して、彼の言説は時代を扇動するリアルで客観的な力を持ち始めた。押せ押せの極右的な大勢の流れに乗り遅れまいと狂奔する惨めな姿が実相であるにもかかわらず、彼は影を追い立てるような扇動政治家として振る舞い始めた。日本の集団行動の妖しいまでの爆発が、戦争と軍隊に対する理性的な認識を嘲笑うまでに漂流している。じょじょに日本は奈落の底へと転落する道を集団ヒステリーのような姿をとって驀進しているかのようだ。こうしたプレファッシズムの心情は実は背後に底知れない不安を抱え込むが故に、かえって表面的には剛直なステロタイプの強さを印象づけて演技をしなければならない。一見して革命的なメッセージを持って登場する強そうな指導者への依存的な帰依の心情が増幅してますますひろがっていく。指導者自身も理性と展望なく不安を抱え込んで突っ走って、外側から岡目八目で冷静に観察していると、なんと漫画チックな行為をと軽蔑しても、本人たちは真剣そのものであるから自分とは異論を持つ人を暴力で排除しようとする衝動が働く。その熱狂は作為的につくり出された集団感情であるから、格好の攻撃目標を痛めつけて敗北に追い込むと目標の喪失感は大きく、次々と新たな攻撃目標を創作して打撃を加えるという止めどない悪魔の循環が始まる。これがかってのナチスであり、大日本帝国のサデイズム的な侵略行動に発展した。そうしたファッシズムの熱情の欺瞞を未曾有の犠牲を払って体験した世代は今や少数になり、大不況下に於いての理性的な打開の方向を自らの頭で考え抜く作法は衰弱している。ことばの正当な意味で日本は今や、プレファッシズムのルビコン川を超えようとしている。
 こうした虚偽意識を自らの意識として共同幻想を持って参加している民衆は、最悪の結果を覚悟しなければならないのが歴史の教訓だ。自由と星条旗を信じて命を捧げた米国兵が中東へ派遣された後にどのような帰還生活を送っているか。1991年の湾岸戦争の米軍帰還兵に筋萎縮性側索硬化症(ALS)が急増している。ALSは脳や脊髄の神経細胞がマヒし筋肉弱体化や発話、飲み込み、呼吸困難となる症状で症例の5%は先天性とされるが正確な説明はついていない。91-98年の間にALSと診断された45歳未満の湾岸戦争帰還兵17人のうち11人が死亡したが遺伝性はゼロであった(テキサス大学医療センター調査)。中東へ派遣された軍隊は、本国にいる軍隊のほぼ倍の格率でALSに罹り、107人のALS患者のうち40人は外国へ展開した69万6千人の軍隊の出身で、残り67人は本土にいた180万人の兵士からの患者であった(米退役軍人省・国立衛生研究所調査)。これらは『7月4日に生まれて』等のハリウッド映画で深刻に描かれたものだ。ベトナム戦争から40数年を経て再び米国は悪夢の体験を繰り返そうとしている。より悪いのは徴兵制から志願制に切り替わってより貧しいマイノリテイがその被害の大半を占めるようになったことだ。
 さて我が日本も先の大戦の体験者がこの世を去り、ふたたび悪夢のフィーバーが吹きすさぶ絶好の条件が整いつつある。少しスマートでソフトなスタイルで接近しているが、本質的にはおなじ「帝国」の思想と感性だ。いまほんとうに警告しなければならないことは、パンとサーカスを見抜き、トリックスターを英雄と勘違いしない研ぎ澄まされた理性による鋭い観察力だ。(2003/9/24 21:29)

[『アメリカ国務省人権報告2002年度版』(現代史料出版)-米国民主主義と北朝鮮]
 アメリカ国務省は世界の人権情勢について毎年報告をおこない、外交と貿易政策は人権と労働者の権利に関する情勢を考慮しなければならないとされている(1994年クリントン政権)。報告はゴア大統領の情報ハイウエイ構想でインターネット上で公開されている。本書はそのWebから日本・北朝鮮・アフガニスタン・東チモールの部分を翻訳している。米国民主主義のダブルスタンダードを分析する第1級資料である。北朝鮮の部分に関して注目すべき部分を紹介する。

 1950年以降当局は社会を「核心」「動揺」「敵対」の3階層に分類した。3つの階層は朝鮮労働党および指導に対する忠誠に基づいてさらに細分化された階層に分類される(50以上に区分され出身身分という)。この出身身分は自分の家族や親族の所属によって個人単位で決められ人口のほぼ半分が[動揺]もしくは[敵対]階層に分類されるという報告もある。このような忠誠の格付けにより、雇用・高等教育・居住地・医療施設・配給品が決定され、違法行為に対する罰則の軽重に影響する。朝鮮戦争時に親族が韓国に逃れた市民は、厳密な忠誠システムのもと「敵対階層」に分類され、ある亡命者は全人口の25〜30%に及ぶと推測する(ある者は20%近くと推測する)。最後に添付資料としてある北朝鮮住民の成分分類は目を覆わしめるような階級制を示している。それは1級から51級までとなっている。
 労働者-作男-貧農-事務員-党員-革命遺族-愛国烈士遺族-8・15以降養成されたインテリ-被殺者家族-戦死者家族-後方家族-栄誉軍人-小商人-中商人-手工業者-小工場主-下層接客業者-中層接客業者-越南者家族-無所属-中農-労働者(8.15以降)-富農-民族資本家-地主-親日・親米主義者-反動官僚-越南者家族(第1分類)-越南者家族(第2分類)-カトリック青友党員-中国帰還民-日本帰還民-入北者-8.15以前に養成されたインテリ-クリスチャン-仏教信者-カソリック-儒学者・地方有志-出党者-撤職者-敵機関服務者-逮捕・投獄者家族-スパイ関係者-反党・反革命宗派分子-処断者家族-出所者政治犯-安逸・不和・放蕩な者-接待婦・迷信崇拝者-経済事犯-民主党員-資本家

 列挙していると気が重くなる。学生時代に「平壌はわが心の故郷」という美しい歌があり、私たち学生は行進の時によく歌った。なぜあのような名曲がこのような牢獄のような社会から生まれるのか。ロシア民謡もソビエト歌曲も美しい調べがたくさんあって学生時代によく歌った。あらためて思う。自らの頭でよく考えなければならないことを。植民地支配からの解放をやりぬいて多くの犠牲を払って、理想に燃えてつくりだした社会がこのような社会であったとは!にもかかわらず私はイデーそのものまでも放擲することには疑問を持つ。なぜならこうした野蛮なシステムを作り出した責任は明らかに、大日本帝国の血なまぐさい植民地支配にあるのだから。汝らのうち罪なき者のみ彼らを打て!!背後にキリテ・カナワの絶唱のアリア”アヴェ・マリア”が静かに流れる。人間の歴史の栄光と悲惨を想う。(2003/9/23 17:41)

[覚えるな 根本から考えて理解しろ-超伝導の世界]
 物質の究極を探ると素粒子-原子-凝縮系という階層をなし、それぞれの階層は下の階層を基礎に異質の階層を形成している。凝縮系物理の先端に超伝導がある。リング上の超伝導体に流した電流は電気抵抗がゼロになり半永久的に宇宙が滅びるまで流れ続ける。超伝導状態の物質を磁場に置くとその物質の中に磁場が全く入り込まない(マイスナー効果)。超伝導は1911年にカマリング−オネス(蘭)が水銀で発見し、米国のバーデイーン、クーパー、シュリーファーが超伝導のメカニズムを解明するBCS理論をつくった。超伝導が発現する転移温度(臨界温度)は4.2Kから現在は130Kまで上昇し室温超伝導も可能ではないかといわれるようになった(K=絶対温度 0K=-273度)。将来の送電線、磁石、シリコンなどの応用が期待される。しかし超伝導は、臨界電流があり電流を流しすぎると超伝導は破壊され、臨界磁場を超えても破壊される。
 超伝導は電子と電子がペアを組み不純物を排除するマクロ的な量子現象だ。普通のマクロの世界では、多数の粒子の運動はA,B,C・・・とすべて個性を持った区別可能な世界であるが、ミクロの世界では粒子の状態は量子力学のシュレデインガー方程式で表され、常伝導の状態では多数の電子はみな異なる波動関数でそれぞれの位相はバラバラだが、超伝導の状態では電子の波動関数の位相がすべてそろい、全体が一つの波動関数で表される巨大な電子波が出現している状態になる。2つの超伝導体を薄い絶縁膜(厚さ1000万文の1)で挟んで接触させると電子が絶縁膜を通過するジョセフィン効果がある。異なる波動関数を持つ超伝導体をトンネル効果で電子が往復すると位相差に比例する電流が電圧を掛けなくても流れる。ここに電圧を掛けると、直流電圧の場合は交流の電流が流れ電圧を掛けない場合は直流の電流が流れる。無限小の電圧を掛けると+と-の電流が流れ、ここに小電力・高速の素子として未来コンピュータに応用できる。

 物質の世界は人間の知恵だけでは発展が行き詰まり、新しい物質が次々と見つかることで発展してきた。その新しい物質はセレンデイピテイ(思わぬものを偶然に発見するちから)に依存している傾向がある。その能力は論理的な積み重ねではできない。田中耕一のタンパク質分析や白川英樹の導電性高分子の発見も偶然であった。偶然を逃さない能力、これはおかしいと思わず捨てないで詰め切る能力-運はみずから掴まなければ運とはならないという認識の世界がある。ワクワクするような発見が基礎研究にはあるが、最近の科学政策は応用重視に傾いている。ナノテク(原子レベルで構造や配列を制御する技術)がその輝かしい先端にあるが、実際の研究者は純粋な・美しい・汚れなき基礎研究にあこがれ、応用を軽蔑する。研究が進めば進むほど未知の世界が広がり、勉強と学問がますます面白くなる。若者よ!夢を持とう!!その対象はあなた自身が決めればよい。以上 秋光純氏(青山学院理工学部)の講演を参照して。(2003/9/23 9:00)

[アブナー・シモニ『Tibald and The Hole in The Calendar テイバルドと消えた10日間』(翔泳社)]
 台風一過、一気に秋の気配が漂う朝だ。さわやかな冷気が頭脳も洗い流してくれるようだ。シモニは哲学者にして理論物理学者、本書は中世の改暦のなかで科学的な宇宙観がどのように世の中に受け入れられていったかを、少年を主人公にわかりやすく天文学の真理を展開する。こうした良質の子ども向けの本は、日本では吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)だけのような気がする。
 1582年ローマ教皇グレゴリウス13世は、ユリウス歴の1年が天文学上の1年よりも数分短く、すでに10日のズレが生じているので、暦を変える際10月5日から14日までの10日間を削除した新たなグレゴリウス歴を公布した。改暦は困難を極め、迷信溢れる中世では改暦で渡り鳥が迷うなど本気で信じていた。冒頭で大自然の<大きな世界>と人間社会の<中くらいの世界>とにんげんの<小さな世界>という世界観が示され、小さな世界が大きな世界を変える可能性を説き、少年が削除される自分の誕生日を教皇に拝謁して復活させるという破天荒のドキドキする物語が繰り広げられる。日本の少年少女がこうした本を読めば、創造力を本当に刺激されていくだろうと思う。ちなみに改暦の1582年は、天正遣欧使節で日本の4人の少年がローマをめざし3年後にグレゴリウス13世に謁見を果たしている。こちらも何か胸躍る物語だ。しかし帰国を果たした彼らはすでに鎖国で残酷な運命が待っていたが。

 さて現代のマクロとミクロの世界はユリウス歴以上の破綻を宇宙にもたらしつつある。ブッシュ政権は3年間で7回目の未臨界核実験を強行した。この実験は、核爆発の引き金として火薬を爆発させるが、核分裂の連鎖反応を核爆発直前で終わらせる核実験だ。ブッシュ政権は先制攻撃と核兵器の先制使用戦略を実現する小型核兵器(爆発力がTNT換算で5キロトン以下)の開発に全力を注ぎ、さらに03年度予算で強力な地中貫通核兵器の開発に着手し、地下核実験再開に向けた準備を進めている。2000年の核不拡散条約(NPT)再検討会議での「自国の核兵器の完全な廃絶を達成する」と明確に約束した米国は、イランや北朝鮮の核開発を禁止する脅迫をおこないながら自国の開発は推進するというダブルスタンダードに恥じらいはない。いままで核兵器は実際には使用しない抑止力というタブーを踏みにじって単独行動主義を極限まで進めている。とうぜん非核保有国の一部やテロリストは使える核兵器で米国に対抗するだろう。世界は地獄だ。核兵器の残酷さを経験した国である日本はこうした米国の単独覇権主義の暴走にとどめを刺す使命がある。

 マクロとミクロの原子核の世界をいじり回して、人間を殺す先端兵器を開発して地球支配をねらう悪の帝国の名前が21世紀初頭に存在したと世界史の教科書は記すだろう。世界のピース・ムーブメントがそれを食い止めたことも。ノアの箱船から飛び立った最初の鳥はカラスであり、次にオリーブの小枝を加えた鳩が飛び立ち、鳩のみが箱船に帰還したと旧約創世記にはある。太古から暴力と平和はこういう関係にあったのだ。(2003/9/22 8:52)

[ヒューマンであること]
 にんげん-ヒューマンであること、この美しい言葉が今日ほど汚されている時代はありません。なぜなら偽善と悪がこの言葉のもとで恥じらいもなく繰り広げられているからです。人間は本質的に平等感を持っているのか、生まれながらにして公平でありたいとの感覚を持っているのか、それとも生まれたときは白紙で成長の過程でつくられていく感覚なのか-についてある答えが出されました。米国の霊長類研究グループがサルによる公平実験をおこなった(『ネイチャー』9月18日号)。実験に使ったのは南米に生息するフサオマキザルで、体調とほぼ同じ40cmの尾を持つ褐色のサルで果実や昆虫を主食とする。まず小石を実験者に渡すとキュウリがもらえることをサルに教え込んだ上で、2頭を1組にしてそれぞれが小石を持ってきたときに、1頭には従来通りキュウリを、もう1頭にはサルの好物のブドウを与えました。報酬として何をもらったかは互いに見ることができます。実験を繰り返すと、キュウリをもらったサルは、小石を渡すのをやめたり、もらったキュウリを食べなくなり、別の実験で1頭には小石を持ってきてもキュウリしか与えず、もう1頭には小石を持ってこなくてもブドウを与えたところ、こうした傾向はますます強まった。この実験は明らかにサルの世界には公平の感覚があり、それから進化した人間も生得的に平等感を持っていることを示している。私は現代の平等を悲惨な現状を示すいくつかの例をあげる。
 
 国連児童茎金(ユニセフ)イノセンテイ研究センターは、経済協力開発機構(OECD 経済的に比較的豊かな先・中進国が参加)の加盟国27ヶ国で児童虐待によって15歳未満の子どもが毎年3500人死亡していると発表した(18日)。15歳未満の人口10万人あたりの死者は、ポルトガル3.7人・メキシコ3.0人・米国2.4人・フランス1.4人・ハンガリー1.3人等であり、日本は1.0人で10位となっている。子どもの虐待死が多い国は大人の暴行死も多く、社会全体の暴力と児童虐待が比例している。加害者の80%が実父母で、家庭内の児童虐待の背景に麻薬とアル中があることを明らかにしている。すべての国が刑法で子どもに対する体罰を禁止し、学校での体罰を禁止しているが、子どもの体罰を全面的に禁止しているのはオーストラリア・デンマーク・フィンランド・ドイツ・アイルランド・ノルウエー・スウエーデンの7ヶ国で何れも0.8人以下となっている。最低はスペイン0.1人・ギリシャとイタリア0.2人で、最高はポルトガル3.7人だ。日本の場合は全面的な体罰禁止法がなく、懲戒権行使としての親の体罰が許容される弱点がある。

 ナイジェリアのアミナ・ラワルさん(31)は、離婚から10ヶ月後に子どもを出産して逮捕され、裁判で不倫による出産とされて石を投げつけて殺害される死刑判決を受けた。控訴審判決は9月25日に出される。想像を超えた女性虐待ではないか。これを異文化の律法として許容することは到底できない。

 人間の歴史は滔々たる平等への道程の歴史を刻みつけてきた。いま現代は最後の弱者の世界である子どもと女性に対する野蛮な暴力の痕跡を残している。抵抗ができない非力な存在がどのように遇されているかが平等のメルクマールだ。(2003/9/21 20:29)

[あのときかもしれない(2) 長田 弘]

 あのときかもしれない(2)

 きみが生まれたとき、きみは自分で決めて生まれたんじゃなかった。きみが生まれたときにはもう、きみの名も、君の街も、きみの国も決まっていた。きみが女の子じゃなくて、男の子だということも決まっていた。
 1日が24時間で、朝と昼と夜とでできている、日曜は週に一どだ。一二の月で一年だ。そういうこともぜんぶ、決まっていた。きみはきょう眠った。だが目がさめると、きょうは昨日で、明日が今日だ。それも決まっていた。きみが今夜寝て、一昨日の朝起きることなど、けっしてなかった。
 きみが生まれる前に、そういうことはなにもかも決まってしまっていたのだ。きみがじぶんで決められることなんか、なにも残されていないみたいだった。赤ちゃんのきみは眠るか、泣くしかできなかった。手も足もでなかった。手も足もすっぽり、産着にくるまれていた。
 はるばるこの世にやってきたというのに、きみにはこの世で、することがなにひとつなかった。ただおおきくなることしか、きみにはできなかった。それだってもともと決まっていたことだ。赤ちゃんのきみはなにもできないじぶんがくやしかった。いつもちっちゃな二つの手を二つの拳にして、固く握りしめていた。
 ところが、きみが一人の赤ちゃんから一人の子どもになり、立ち上がってじぶんで歩きだしたとき、そのきみを待ち伏せていたのは、まるでおもいがけないことだったのだ。きみがじぶんで決めなければ、ほかにどうすることもできないようなことだった。きみはあわて、うろたえ、めんくらった。何もかも決められていたはずじゃなかったのか。だが、そうおもいこんでいたきみはまちがっていた。
 きみが生まれてはじめてぶつかった難題。きみが一人の男の子として、はじめて自分で自分に決めなければならなかったっこと。それは、きみが一人で、ちゃんとおしっこにゆくことだった。おしっこしたいかしたくないか、だれかにきめてもらうことはできない。きみにしかできない。きみは決心する。一人でちゃんとおしっこする。
 つまり、きみのことは、君が決めなければならないのだった。きみのほかには、きみなんて人間はどこにもいない。きみはなにが好きで、何がきらいか。きみは何をしないで、何をするのか。どんな人間になっていくのか。そういうきみについてのことが、何もかも決まっているみたいにみえて、ほんとうは何一つ決められてもいなかったのだ。
 そうしてきみは、きみについてのぜんぶのことを自分できめなくちゃならなくなっていたのだ。つまり、ほかの誰にも代わってもらえない一人の自分に、きみはなっていた。きみはほかの誰にもならなかった。好きだろうがきらいだろうが、きみという一人のにんげんにしかなれなかった。そうと知ったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。


 (論評)にんげんの自立の過程を淡々と描いているのか、それともにんげんの深淵をかいま見たおののきの表現か、突き放す者と突き放される者の哀しみか、サルトルは云うだろう。にんげんはじぶんでつくりだしていくところのそういう自分になっていく-にんげんはあらゆる選択の可能性の中からたった一つの可能性を選択する無限の過程にある。無限の自由の中からたった一つの自由を選ぶ瞬間の総和としてのじぶんがある。にんげんはだから自由という名の処刑を受けている。
 しかし見よ!爆弾を身にくくりつけて自爆していく少年にとっての自由とは何か。明日なき飢えにのたうつ少女にとっての自由とは何か。劣化ウランに汚染された母体から生まれでるおさなごにとっての自由とは何か。家族が生き抜くためにゴミ拾いに一日をすごす少年にとっての自由とは何か。みずからの身を売ってブランド品で全身を飾る少女にとっての自由とは何か。いわれなきバイオレンスに身を沈める子どもにとっての自由とは何か。サルトルは云うだろう、「飢えて死んでいくこどもにとっての料理の本とは何か」と。飢えとは食べるものがないことであり、さらに養うべき精神の不在を云う。
 20世紀はこのような問いに答えないまま先送りして次の世代に渡した。果たしていつまで先送りして渡しつづけようとするのか。もはや渡すことさえむつかしい時代に逢着しているのではないか。きみのぜんぶのことをきみ自身がぜんぶ決められるときがくるまで、気の遠くなるようなじかんがいるような、この瞬間にきみじしんがもっとも得心できる選択をきみをふくむすべてのひとがおこなうようになれば、なんと気高く崇高な地上のせかいが具体のすがたをとってあらわれるだろう。きみがみんなのなかのきみであるような、みんながきみのなかのみんなであるような-銀の世界の鈴をだれがならすのだろうか。ならしてくれる誰かを探しにいく時代はとっくの昔に去ってしまった。鳴らすのはいまのきみじしんだ。

 告示 長田 弘

 殺されたものは
 殺したものによって殺されたが
 殺したものがいないのであれば
 殺されたものもまたいないであろう
 きみが殺されるまで

                    (2003/9/16 22:07)

[マックス・ブーツ「米国は世界の警察官か」-米国ネオコンの自己主張]
 アメリカ帝国論の拠点である米誌ウイークリー・スタンダード補助編集委員にしてネオコンの代表的論客マックス・ブ-ツ(34)の主張をみる(朝日新聞9月3日付け朝刊)。

 9.11以降大きな衝撃うけた米国は急進的になり、危険の及ぶ前に先制攻撃する単独行動主義を強めた。9.11以前のネオコンは冷戦後も脅威があるから米国は積極的行動を果たすべきだと主張したが支持されず、9.11を契機に一気に政策に反映されるようになった。1898年のスペインによるメーン号爆破事件と1941年の日本による真珠湾攻撃の衝撃と酷似しており、いずれも米国が積極的行動にでた。イラクでは独裁の幻想が打ち砕かれ長期的には民主化への願望が強まり、アラブで最も自由な国となりつつある。悪の枢軸であるイランと北朝鮮の全体主義体制が続く限り平和的解決はなく体制転換が必要だ。両国は極めつけの邪悪な国家で外からの圧迫しかない。帝国の目標は、自由と民主主義を全世界に広げることであり、世界の警官として法の支配と自由・民主主義を擁護しテロと対決することだ。領土を拡大する過去の帝国ではなく、ある国の運営を外国人に任せるリベラルな帝国主義だ。オスマン帝国や大英帝国のようなよい帝国と同じだ。米国の外交は戦略的・経済的な利益もあるが利他的要素もかなりある。欧州の外交は利他的要素がなく米国を理解できない。米国の軍事費はGDPの3.5%にしか過ぎなく財政赤字を理由に隊を減らすのは無責任だ。国連を過大評価すべきでなく、平和維持と国家建設に絞らなければならない。国連の資源は限られているから、企業や雇い兵を使うべきだ。国連は各国が米国に協力するときのお墨付きとして有益であり、使えるときは使う。世界の繁栄は、米国による安全保障の上に成り立っている。誰が世界の法と秩序を守るか、米国以外にない。やさしい一極支配が最善の方法だ。多極支配の夢を見ないで一極支配の世界でいかに生きていくかを考えるのが米国だけでなく他国の利益になる。

 米国ネオコンの主張が最も明確かつ露骨に述べられている。第2次大戦以降に到達した国際法と国際連合による集団安全保障という人類の英知の思想はひとかけらもない。出生率も経済成長率も軍事力も最も高い水準を維持しているパックス・アメリカーナのハッキリ言って奴隷として生きよと述べている。しかしただ一つ欠けているものがある。それは人類のモラリテイーと理性に対する信頼だ。異文化に対する共存の多元的論理はない。こうした力の論理による秩序は遠からず崩壊することは明白だ。それは他者の尊厳を顧みない強者の脅迫に過ぎないからだ。それが支配できるのは動物の世界のみだ。私はこうした思想と人間が米国を主導し世界を支配しようとしていることを哀しく思う。かっての西部開拓期の米国は、いかなる難関にも屈しない開拓精神と欧州を迫害されて逃れて来た人たちのヒューマンな結びつきがあった。カントリーフォークの哀愁の漂うヒューマニズム、ニグロスピルチャルを源流とする魂のうめきのようなロックはいずれもちから弱き人たちの健やかな抗議と連帯の唄であった。私は現在の米国の虚妄を想い、驕る平家は久しからず-もう一つのヒューマンな米国が必ずや姿を現して祝福されることを信じる。(2003/9/15 17:19)

[新古典派経営の栄光と破綻]
 みなさんはカルロス・ゴーンというフランス人の日産社長をご存じでしょう。破産寸前の日産を再建した奇跡のサクセス・ストリーの演出者です。米国企業からフランス・ルノー社長に引き抜かれて副社長となり「コスト・カッター」の異名で辣腕を振るい、2年後に日産に乗り込んで再建するという世界を渡り歩いて会社再建に凄腕を振るっている人物です。彼が日産に乗り込んでおこなったことは、5つの工場閉鎖と従業員21000名の削減、下請関連企業の半減など冷酷非情に徹する合理化政策でした。日産系からは膨大な退職と単身赴任、系列企業へのリストラ波及でした。一言で言えば一将功なりて万骨枯るという状態です。低賃金派遣労働者で巨万の富を築いたビル・ゲイツ(マイクロ・ソフト)や成績下位10%を解雇したジャック・ウエルチ(GE)と並ぶ成功経営者と称賛されています。
 これが現代最高のコーポレイト・ガバナンスだとするならば、結局のところ「冷酷非情に徹せよ!」ということにすぎません。阪神タイガースの星野監督は、選手の半分をリストラし暴力を含む恐怖の支配で競争を煽って勝利の道を驀進していますが、本質的には新古典派経済学の競争優位の自己利益極大化戦略なのです。この戦略には未来がありません。なぜならいずれも限定されたパイを奪い合うジャングルの争闘であり、生き残りのためには冷酷無惨な犠牲をつくり出すしかないからです。自然界における動物の本能的な生存競争の論理と同じであり、将来への発展可能性を共有しフェアーな競争によって相互に進んでいく人間の理性は極端に偏狭なものになるからです。
 企業の正規社員は極限まで絞り込まれ、失業者が300万人を超え、自殺者が10000人を超えるというすさまじい末期的な破綻社会がつくりだされています。欧州社会はセイフテイーネットがそれなりに整備されているので、不況がそのまま自殺に結びつくことは少ないのですが、日本のような労働社会の安定装置が整備されていないところに米国型競争システムを持ち込めば社会システムそのものが壊れてしまうのです。
 ILOの貧困基準は平均所得や中所得の50%であり、EU基準は60%です。日本の平均年収は450〜460万円ですから、その50%は230万円であり、いま日本には年収200万円以下の人が24%(1000万人)います。このラインは生活保護基準より少し上で青年や女性に集中しています。日本の青年は、自分の親の世代の生活水準を超えることは非常に難しくなっています。政府はこの生活保護基準をさらに引き下げ、連動して最低賃金の引き下げをもめざしていますが、こうした方向は間違いなく社会システムの崩壊を誘発し、犯罪国家へと転落することが目に見えています。一見街に出れば物が溢れ、何でもある豊かな社会が広がっているように見えますが、家に帰って冷蔵庫を開ければ入っているのはインスタントラーメンだけという豊かさの裏に貧困が拡大しています。
 先日の体育祭でゴールイン後に倒れてうずくまった女性を抱えて救護に運んだ男性がいました。彼の行為はいかにも自然で、「助ける」という行為自体に目的性があり、何の報いも期待しない素朴なものでした。カネと自己利益が自分の行動の基準となっている日常では、絶対に振る舞えない行為でした。ここに日本のかすかな未来の萌芽を見たように感じて、希望をまだまだあると思いました。人間は日常のすみずみにささやかながらも崇高で美しい行為を無意識のうちに営んでいます。(2003/9/15 9:31)

[第5エッセイ集の発刊にあたって]
 初秋といえど異常な酷暑のつづくこのごろみなさまお元気でしょうか。およそ9ヶ月を経てエッセイ画面を刷新し、新たなスタートを切りますので今後ともよろしくお願いします。学園祭のまっただ中で若者たちの生き生きと輝く表情を見ていますと、やはりユースの底知れないパワーを覚えてこちらがややたじろいでしまいます。私自身も半生涯をターンして新たな出発を期する時が近づいて残り時間が少しづつなくなろうとしております。このエッセイ欄をお読みのみなさまは、すでに私の原点らしきものにお気づきのことと思います。自分の頭で考え、独りよがりとならず、その座標軸はいのちの尊厳のあらゆる侵犯を許さない−という点に置こうと期して参りました。おそらく終世このスタンスは変わらないであろうし、変えません。さまざまに織りなすいのちの尊厳の営みの対象を、地域と生活の視点から考え抜く所存です。
 このような問題意識からみると第4エッセイまでの稚拙さはよく分かっておりますが、こうした限界を乗り越えていきたいというパッションだけは失ってはならないと秘やかに期しております。ややもすればエッセイは、自己満足と自己陶酔におちいりやすく私もそれを免れてはおりません。ほんとうに現在にあって未だ姿を現さざる未来からの付託に応えられるような観察と推敲と判断のちからを磨き上げて行かねばならないとも思っています。
 初秋の漂うやわらかな朝の木漏れ日が窓辺におちて、遠からず木の葉がはらはらと舞い落ちるなかをもの想いに沈んで歩く日が近づいて参りました。あふれ出る精悍なちからに替わる、落ち着いた冷徹なまなざしがふさわしい齢の頃とはなりましたが、迷いとゆらぎの時は依然として、最後まで続くであろうと予感しております。生をうけた限りにおいてひとたびはなにほどかのことを残して去らなければならないでしょう。生まれた時に与えられていた時代になにを刻んで去っていくか、少しは時代を前に進めて去っていくか、前とは何か、具体の仕事で証すしかありません。みなさまの忌憚のないご批判を心から期待しております。(2003/9/14 8:46) 

[阪神が優勝する年はよくないことが起きる]
 18年前の1985年に阪神タイガースは驚異的な快進撃で優勝し日本シリーズを制覇した。この年臨時教育審議会の第1次答申が出され、日航ジャンボ機が墜落して520人が死亡し、コロンビア火山の大噴火で25000人が死亡した。2003年阪神の優勝は動かしがたいが、イラク戦争にともなう有事法制・特措法によって日本が大きく戦争国家へと転換する年となった。阪神が優勝する年はよくないことが起こっているのだ。つまり大衆の不満と怨念が極限に達して噴出するときに、そのトラウマを吸収し爆発する形で阪神はブッチキリで優勝するのである。さらに地球の温暖化が気候変動を誘発し天変地異が起きる年に阪神は優勝している。時代の心情を最も激しくストレートに突きつけるのが関西人であり、阪神は革命の根拠地である関西地方を象徴する時代の変革期を予告する球団なのである。予測や計測が可能で順調に社会が右肩上がりで動いているときには、データと管理中心の巨人が優勝している。この両極の誤差の範囲で、偶然的にヤクルト・中日・広島・大洋などの群生球団が単年度の優勝を分け合うという構図だ。阪神の優勝サイクルは大体において20年周期であり、従って戦後日本史は革命的な変革期を20年周期で繰り返してきたことになる。
 ところが今次阪神の優勝はいままでの循環型発展周期を攪乱する時代の混迷期にある点が従来の法則と大きく食い違っている。この平成大不況の出口は全く見えず、最悪の場合は循環そのものが否定される恐慌期に瀕しているという説もある。不況の次には過剰生産が廃棄されてふたたび好況期が来るという図式が崩壊しているのではないかという深刻な危機にあるからだ。ということは、いままで1度の優勝で力を使い果たして次の年は最下位に転落してきた阪神球団という図式も崩壊しつつあると云うことだ。結論的には阪神球団の優勝は単年度ではなく、しばらく続くかAクラスという状態に変化することが、かなりの確率で予測される。これは阪神フアンにとっては歓喜の極大化であるが、日本全体にとっては致命的なプロ野球の存続に係わる事態だということになる。
 しかしここにきて阪神フィーバーの哲学的分析が現れた(宮原浩二郎・朝日新聞9月17日夕刊)。阪神は勝つか負けるかであって、中庸の徳を知らない。優勝しなければ2位も最下位も同じであり、優勝めがけて疾走し失速するがたまに優勝する我がまま集団なのだ。「我」が「まま」、他人は関係なく自分の赴くままの道を行く。「これが私の趣味なのだ。いい趣味でも悪い趣味でもなく、私の趣味なのだ。戦っているのは私であり、あなたではない。誰も私に代わって私の戦いを戦うことはできない」(『ゾロアスターはこう語った』)「男の成熟-それは子供の頃の遊びがそのまま真剣さであったことを再び見いだすことを云う」(『善悪の彼岸』)といったニーチェの思想がまさに阪神なのだ。
 ただし宮原氏に云っておく。ニーチャの積極型ニヒリズムはファッシズムの思想的根拠を提供しナチズムの悪夢を招いた。阪神もファッシズムを準備する危険性があるということになるぞ。実際の阪神は反権力であり民衆の権化だから、やはり宮原氏の阪神=ニーチェ論は間違いなのだ。以上阪神球団の戦跡と時代のワンダーフォーゲル的展開の関係から考察したが、どこかに間違いがあれば教授されたい。(2003/9/14 21:01)