21世紀へのメッセージ 2002年4月28日〜12月29日(トップページへ戻る)

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[ベースボールの夢]
 アメリカではじめてベースボールの言葉が使われたのは、ロビン・カーヴァー『スポーツの本』(1834年)であり、このような打球遊びはサミュエル・ウッド『子どもたちの楽しみ』(1820年)に紹介されている。それまではタウン・ボールとかラウンド・ボールとかゴール・ボールとか呼ばれていた。ダイヤモンドの大きさが定められたのは、アレグサンダー・ジョイ・カートライトというニューヨークの消防士が仲間と世界最初のチームであるニッカーボッカーズをつくり、歴史上初めての野球規則を1845年に作成した。対角線42ペイス、塁間90フィートというルールが現在まで続いている。その当時の勝敗は、21点を先に取り、投手は必ず下手から投げるというもので、最初の公式戦はエリジアン・フィールド(現野球博物館)でおこなわれた。ベースボールが全米に普及したのは、南北戦争の両軍兵士が戦場で遊び、戦後に各地に帰って広めたのである。1869年に最初のプロチームであるハリー・ライト率いるシンシナテイ・レッドストッキングスが誕生し、少年達の遊技から本格的なプロスポーツへと発展した。
 現代の米国では、野球は天才的なスポーツマンが競う最大のショー・ビジネスとなっており、普通の子どもたちが楽しく遊ぶ草野球は衰えて、むしろアメリカン・フットボールが主流となっている。野球は観るスポーツなのだ。逆に日本は、草野球が発達し全国各地で休日に苦労して野球場の予約をとらなければならないほどだ。反対にプロ野球は次第に管理スポーツとなってしまい、本来の伸び伸びした遊技性とスポーツ性の歓びが失われて、さらには巨大球団オーナーの独裁などによって頽廃していっている。
 私の少年時代は、時代劇のシーンを友達で演じるか、野原で野球をして跳びはねていた。そこにはなにか無限のハラハラドキドキするものがあり、子どもの生命の充実があったように思われる。こうした懐かしい少年期の高揚を思い起こさせてくれたのが、詩人平出隆『白球礼賛−ベースボールよ永遠に』(岩波新書 1989年)である。(2002/12/30 9:41)

[中国社会主義市場経済型民法草案について]
 23日から開かれている全人代常務委9期31回会議に、1950年代から3回にわたって提出されながら制定されなかった民法草案が提出された。80年代半ばから個別法として、基本事項を定める民法通則や婚姻法・会社法・著作権法が定められたが、今次草案には物件法・人格権法・インターネット侵入禁止・肖像権・プライバシー保護・汚染物排出責任・対外民事関係・野生動物保護・精神的被害賠償など9編1209条からなる包括的民法典だ。市場経済の関係を調整する市民社会の基本規則、平等な主体間の財産関係と人身関係の規範を制定するとしている。
 注目される物件法では、人及び法人が不動産・動産を直接支配する権利であり、所有権・用益物権・担保物権が含まれる。具体的には、国家・集団・私人の所有権、建造物区分所有権、用益物権としての土地請負経営権・建設用地と宅地の使用権・隣接地利用権・抵当設定権・居住権・鉱山探査採掘権・漁業権・取水権などを規定し、担保権は抵当権・質権・留置権を規定している。所有権の横領・破壊を禁止し、個人所有権には賃金・ボーナス・家屋・生活用品・労働用具・原材料が含まれ、個人の貯蓄・投資・収益・個人財産相続が保護されている。物権の侵害・破損には、原状回復賠償が規定されている。
 この段階で不明確なのは、、土地所有権であり、憲法で規定している都市土地=国家所有、農村と都市郊外地=集団所有、宅地・自留地・自留山=集団所有が民法でどう具体化されるのか分からない。
 社会主義システムが残るのは、土地所有権だけであるのか、労働用具と原材料などの生産手段が個人所有権に移されている個人所有に移されているのをみると、資本主義市場経済に接近しているように思われる。社会主義経済論の専門家に詳しくお聞きしたい。
(2002/12/29)

[クローン人間誕生によせて−四海 波静かならず]
 スイスに本拠を置く新興宗教団体ラエリアン・ムーブメントのフランス人女性化学者ブリジット・ボアセリエ氏は、26日にクローン人間の女児を世界で初めて誕生させたと発表した。不妊に悩むカップルの31歳の米国人女性がクリスマスに自分の皮膚の細胞と胚からつくったクローン胚で妊娠し、クローンである体重約7ポンド(3.2キロ)の女児を帝王切開で生み、イブと命名した。同教団の子会社クローンエイドは27日に正式発表するとしているが、さらに来週に北欧系1人が出産し、アジア系2人、北米系1人が続くとしている。赤ちゃんが本当のクローンであるかは、中立的な専門家によるDNA鑑定が退院する3日目からの検査で1週間で確認できるという。他にもイタリア人産婦人科医師のセベリノ・アンテイノリ氏が、1−2月にセルビア共和国で誕生させると予告している。
 ラエリアン・ムーブメントは、フランス人ジャーナリスト・ラエル氏が1973年に設立し、全世界84カ国に55000人の会員がいる、世界最大のUFO関連非営利団体で、ラエル氏が異星人に遭遇して地球に大使館を建設するよう要求されたという。日本人会員は約6000人で最も多い。クローン人間つくりは遭遇した異星人からの天啓であり、1997年にクローンの安全かつ確実な方法の開発を目標にバハマ諸島にクローンエイド社を創設し、同社は20万ドル(2400万円)でクローン人間つくりを引き受け、現在100人ほどと契約しているという。
 先日このHPで予告しておいた情報はやはり事実であったのだろう。クローン人間は、時間差を持って生まれた体細胞提供者の一卵性双生児であり、母子関係ではなく双子なのである。人工的に作り出された同一の人間が複数はいないという古代以来の人間観が揺らいだ瞬間である。正直に言って私は、どう考えていいか分からないのだ。特に個の尊厳を至高のものとみなす近代的人間観が音を立てて崩れていくのではないかという予感を抱く。或る特定の人間が大量にこの世に複製化されて創造されていくSFの世界が現実のものとなりつつある。原子核分裂に次ぐ人類史上最大の実験ではないか。羊、牛、豚、猫等の動物実験でも成功率は1%以下という未知の世界に挑戦したのが、やはり新興宗教団体であったというオームの論理が巨大化しているとも思えてくる。契約者は20万ドルを投資できる先進国ブルジョアであり、実験場所は永久中立国スイスであるということも、現代世界の象徴的な関係を暗示しているように思われる。以上朝日新聞12月27日付け夕刊、12月28日朝刊参照。追記・・・・韓国ソウル地検は、クローンエイド韓国支部を医療法違反容疑で捜索した。同支部は、7月に半年後にクローン人間が誕生する見通しだと発表し、3人が代理母として同社の研究に参加中であることを明らかにしていた。同上紙12月30日付け朝刊。03年1月2日にラエリアン・ムーブメントのボアセリエ氏は、「2人目が今週中に欧州オランダで生まれる。昨年12月26日に生まれた女児の匿名性が守られるか不安でクーロンテストを延期した。米国フロリダ州の弁護士が女児保護を求める訴えを起こした後、両親がストレスを感じている」と語った。朝日新聞03年1月4日付け。オランダ人女性が3日夜、世界で2人目のクローン女児が生まれ、母子ともに健康、両親は同性愛のカップル。朝日新聞03年1月5日付け。

 ここ数年、社会の全ての仕組みに狂いが生じてきたと感じてならない。戦後の短くない時間をかけてつくりあげてきた価値観が、白蟻に食われるように崩れかけている。その軋みが日を追って大きくなっていないか。困難な局面に立たされた時、人の想像なんて貧寒なもので、安易に過去のモデルに縋りたがる。教育の場に愛国心を持ち込もうとする動きはほんの一例に過ぎない。戦前は貧しかったけれども、心温まる家族の暮らしがあった、といった類の言い方がはやる。その半面、東北の農村では昭和30年代まで、藁の中で寝なければならない人がいた現実は、忘れ去られたままなのである。また不安は、時に人を威丈高にする。気に入らぬ相手を、非国民、国賊と罵る声が大っぴらに聞こえ始めた。時代のフイルムが確実に巻き戻されつつある。(中略))誤った指導者を持った国民は、運命とともに黙って死ななければならないのか。9.11テロ犠牲者に対する丁重な弔いに対して、アフガンの死者はどうなったのか。アフガンの死者は誤爆によって生まれたと云うが、私は信じない。地上に誰がいようと頓着なく爆弾を投下した結果だ、と思う。(中略)戦後2,3年たった時分に、40代に差しかかったばかりの私の叔母が、よちよち歩きの幼児を見て、この子が大きくなる頃には、またみんな戦争を始めるね、とまったく何気なく言ったのを思い出す。高井有一「2003年への船出」(朝日新聞同上日付け夕刊。
 私は今まで高井氏の文学は何か高踏的な純文学のイメージがあって、敬遠していたが、この文章を読んでしみとおるような戦中派のメッセージを感じた。大江健三郎氏と同年代ではあろうが、大江氏のような晦渋な表現ではなく、素朴な実感が重く籠もっている類い希な名文だと思った。威丈高な新保守主義のイデオローグがどんなに声高に論じても、この文章には及ばないだろうと感じた。痛苦の歴史的な体験を経た者のみが、静かに諭すようなトーンがある。こうして現代日本の地下水脈のような理性に裏打ちされた、潮流に流されない確固とした場を占めている人の存在を知って、私は改めて自らのポジションが間違っていないという確かな証を得ることができた。恐らく2003年は戦争でもって始まるかもしれないが、クローン問題を含めた新しい人間観の創造への始まりが本格的に始まることを秘かに期待することができる。(2002/12/27 19:47)

[カタカナ語がヤタラ多い時、それは本気だ]
 ショウ・ヒ・ゼイShow he theyに関しては、アクションプログラムとアジェンダをアメニテイーにし、かつガイドラインとサーベイランスとシーズとをスキームに分けつつゼロエミッションとバリアフリーをめざしまた一方ではセキュリテイーのトレーサビリテイーにセカンドオピニオンを加えプロトタイプのスクーリングを避けフレックスタイムのライフスタイルをめざすコンセンサスとしたい。(ふう−小泉首相)以上山田紳(朝日新聞12月27日朝刊。
 先日国立国語研究所が外来語の氾濫に危機感を覚えて、日本語言い換え表現を例示したが、私も基本的に同意する。例えばフランスでは、英語の侵入を批判しハリウッド映画もすべてフランス語に吹き替えて上映する。マグドナルドやデイズニーランドの進出にも拒否反応を示し、フランス内外国人しか利用しないといった呈をなしている。上記の山田紳の風刺漫画に象徴されるように、現代の日本は政治・経済を米国スタンダードに再編成する動きが急ピッチで進展しているが、もはや日本語という言語文化までが植民地の様相を示している。私は英語文化を否定するものではなく充分尊重するが、現代日本語の破壊は日本語の生存自体を脅かしつつあると思う。ここまでくると英語帝国主義と言ってもやむを得ない状況ではないか。この背景には、ITの世界標準が英語であると言うことも関係しているが、中国や韓国は明確に自国語に翻訳して使用している。例えばIT=電脳と云うが如く。このような外来語の氾濫は、日本国内に操作できる層とそうでない層のデバイド(!)をも生み出している。私が専攻している経済学の分野でも外来語が知的分析の基準となっているかのようだ。しかし外来語の氾濫とデフレスパイラル(!)は同時並行で進行しているのではないか。(2002/12/27 9:41)

[天翔ける敵を憎む前に・・・・・・発掘された早世詩人鈴木泰治]
 プロレタリア詩人鈴木泰治は早世し一冊の詩集も残さないでこの世を去った。彼は三重県四日市出身で、富田中学(現・四日市高校)卒業後30年に大阪外国語学校(現・大阪外国語大学)に進み、雑誌「プロレタリア詩」に階級闘争を呼びかける「赤い火柱−農民からの詩」を発表後32年に逮捕され大学を中退した。故郷への帰還後検挙歴のある思想犯として村人から白眼視され、38年招集されて中国山西省で戦死した。検挙され転向後、屈折した精神を故郷の美しい自然と対比させた自由を奪われた内向する魂が歌われた。将来を嘱望された若い魂の無惨な精神の彷徨として代表作「田螺」がある。こうした才能が生きながらえて戦後を迎えていたらと悔やまれてならない。恐らくこのような多くの歴史に帰国されない俊秀がいただろうことを想起して、私は今更ながら慚愧の思いを抱く。

 田螺

 田螺
 天翔ける敵を憎む前に今日も1日自らのいのちの扉を閉めつづけねばならんとは
 おのれの甲冑を疑いはじめたのに、甲冑を試すただ一つの方法は
 ああ、自らを暗いかげの蹂躙に委ねることだけだ

 尾西康充『プロレタリア詩人・鈴木泰治−作品と生涯』(和泉書院) 連絡先電話06−6771−1467(2002/12/26 20:18)

[揺らぎつつある米軍−米国国防総省年次報告から]
 ソ連崩壊後「米軍に未来はない」と考えて軍籍を離脱する人々が相次いでいる。陸軍兵の自然減(離脱率)は1994年会計年度に38.9%に達し、2002年度は36.1%に達している。海軍では、最初の任期を終えた水兵が海軍に止まる率は59%で、3年前よりは2.1ポイント上昇している。危機感を抱いた米国政府はテロ報復戦争後大規模な待遇改善政策を実施し、昇給率4.6%と過去最高の給与体系、住宅手当と医療手当や家族支援計画を改善した。
 同時に先制軍事戦略を急速に展開し、核兵器実戦使用を含む核態勢見直し(NPR)が実行に移り、新型兵器開発は兵器の能力が100%開発されていなくても実戦配備する螺旋的開発と漸進的取得方針を採用し、実験失敗を繰り返すミサイル防衛システムの04年度配備を決定した。対テロ問題では、160カ国以上でテロ組織の資産を凍結し、9.11以降米国が3400万ドル以上、他国が7700万ドル以上の資産を押さえたとしている。
 40%近い兵隊が離脱する軍隊はもはや崩壊に近く、ハイテク化を急ぐ背景にはこうした兵士の厭戦ムードがあるからではないか。そのなかで日米地位協定や行政協定によって片務的な優遇政策を採り主権を喪失している東アジアの先進国の戦略は、地獄への道をともにしているかのようなリスクを背負っている。(2002/12/26 8:31)

[テロニモマケズ 別処珠樹]

 テロニモマケズ タリバンニモマケズ
 アルカイダニモ ビンラデインニモマケヌ
 丈夫ナ基地ト軍事力ヲ持チ
 欲ハ多ク 決シテ自省セズ イツモ乱暴ニ怒鳴ッテイル
 1日ニ ハンバーガー10個ト コーラト少シノ プレツエルヲ食べ
 アラユルコトヲ他国ヲカンジョウニ入レズニ
 ヨク威嚇シ タカリ 恨ミヲワスレズ
 両洋ノ間ノ大陸ノ端ノ 大キナ白イ家ニイテ
 アフガンニ テロノ首謀者ガイレバ 行ッテ空爆ト誤爆ヲ行ナヒ
 極東ニ京都議定書ガアレバ 無視シテCO2ヲ排出シ続jケ
 北ニ金氏ノ王朝ガアレバ 違約ノ核開発ハヤメロト言ヒ
 中東ニ独裁国家ガアレバ 空母片手ニ査察ヲ迫ル
 9月11日ノトキハ涙ヲ流シ
 8月6日ノ夏ハ両耳ヲフサギ
 ミンナニ一国主義トヨバレ
 ホメラレモセズ 感謝モサレズ
 サウイウ国ガ 世界ノ王様

             (2002/12/25 23:50)

[現代の棄民政策]
 12月21日に637人の中国残留日本人孤児が、国家賠償と謝罪を求めて東京地裁に提訴した。原告団は孤児に対する3度の棄民政策の責任を問うている。。@終戦前後の混乱のなかで中国に置き去りにして放置した(在留法人保護のための日本軍出動といった大義名分は全く虚偽であった−筆者)A戦時死亡宣告により死亡扱いされたB帰国後の冷遇施策である。第2次大戦終了後、1946年から引き揚げが開始されたが、49年の中華人民共和国成立を承認しなかった日本政府との国交断絶によって引き揚げ事業は一時中断したが、52年に中国政府が帰国援助を表明し民間レベルの引き揚げ事業が再開された。しかし58年に全面的な断絶状態となって再度中断した。そのなかで59年に日本は「未帰還者に関する特別措置法」を制定し、残存日本人がいることを知りながら調査せず、生死が分明でない者の戦時死亡宣告をおこなって戸籍から抹消した。この措置によって残留日本人の帰国は閉ざされてしまったのである。1度目は軍隊が民衆を置き去りにし、2度目は政府がこの世から生存を抹殺し、3度目は生活権を奪ったのである。ここに国家の本質が明確に表れている。国家は自己保存を優先して民衆を捨てるのである。
 韓国人・郭貴勲氏は、日本政府に被爆者援護法の適用を求めて提訴し勝訴した。被爆した朝鮮人は広島で50000人、長崎で20000人であり、被爆直後救援を求めたら「朝鮮人のくせにギャアギャア云うな」と放置され、解放後帰国した被爆者は傷跡を怖がられ治療を受けれないで今日までに至った。日本帝国は韓国併合後「内鮮一体」「股肱の民」として同化政策を展開し、敗戦後は棄民した。なぜ広島・長崎の朝鮮人被爆者が多いかというと、軍需工場の労働力として強制連行したからである。ある韓国人被爆者は「歴史は車だ。バックミラーを見ながら運転しないと事故を起こす。歴史も過去を振り返らないと過ちを犯す」と言う。
 日本帝国は同時に、20万人もの朝鮮人少女を従軍慰安婦として強制連行し、日本帝国の兵士の性欲のはけ口とした。彼女らは今や一言の謝罪も受けることなく命脈が尽きようとしているが、日本政府の謝罪と補償がなかったという恥ずべき歴史的事実は残る。強制労働禁止条約・婦女売買禁止条約などの国際条約違反として2003年の国際連合総会に遂に取り上げられることとなった。恥ずべき非道の歴史に決着が付けられようとしている。

 21世紀の棄民政策は米国の知的財産権問題に象徴的に表れている。先週の世界貿易機関WTOで、エイズ治療薬に用いる薬の特許料を免除して途上国への輸入を認める合意が米国一国の反対で成立しなかった。昨年11月のWTOドーハ閣僚会議で合意された、エイズやマラリアに苦しみながら自国に製薬産業を持たないゆえに高価な特許薬を輸入せざるを得ない途上国に、例外的に特許料を免除する合意であった。特許権=知的財産権に対する健康権の優位を確立したドーハの原則は21世紀の真のグローバルな人権を確認した当然のヒューマニズムの精神に基づいたものであった。しかしその後の多国籍製薬企業の猛烈な巻き返しによって、米国政府は単独行動主義に転換し、全世界のエイズやマラリア患者を裏切ったのである。ここには企業の利益を生命に優先するという最低限の人道すら失った一極帝国の論理がある。私は現代の棄民政策が置き去りや拉致というこの身体のレベルから、生命そのものの剥奪という地獄へと進んでいることを指摘したい。一極帝国は、ハイテク兵器の乱舞の中で無惨に死んでいくいたいけな生命への想像力を持たず、マネーと株価に最も関心を寄せるという究極のニヒリズムを示している。
 現代の日本では、医療費の負担増と年金カットによって高齢者の被害は甚大となった。戦後の高度成長を支えたお年寄りに、長生き=罪として罰金を科すようなものだ。こうしたニューリバタリアニズムの猛威は実は自らの手で墓場を準備しているに過ぎない。漕ぎ出した自転車が間違った方向に走っていることに不安を抱きながら、漕ぎ続けざるを得ない悲惨な状況に陥っていることを彼等自身がよく知っている。奈落の底へ転落しようとしているこの国を希望の国へと再度転換させる草もうの民の志が燎原の火のように燃え拡がるはずだ。もしそうでなければ、ヘーゲル弁証法の論理が間違いだということになる。(22/12/25 8:26)

[エルジビエータ・エテインガー『Hannah Arendt/Martin Heidegger』(みすず書房 1996年)]
 今宵はクリスマス・イブであり、今私はエンヤの『聖夜』の透き通るような声を聞いている。ハイデッガーは20世紀を代表するドイツの実存主義哲学者であり、アーレントは彼の弟子にして鋭い反ユダヤ主義告発で知られるユダヤ系ドイツ人女性哲学者である。傑出した2人の思想家が出会ったのは、18歳のアーレントがマールブルグ大学に入学し、ハイデッガーの哲学授業に出た時であり、それから半世紀にわたって情熱的な恋愛にのめり込んだ2人は、ナチズムの嵐と第2次大戦を経て、1975年のアーレントの死を持って終わる。本書は、未公開の両者の往復書簡集を元にこの秘められた関係を赤裸々に再構成し、全世界に大反響を呼んだ。
 希有の天才的哲学者ハイデッガーは、ファッシズム支配下においてナチ党に入党し、師であるユダヤ人哲学者フッサールの葬儀を無視し、親友ヤスパースの教壇からの追放に沈黙を守り、ユダヤ系研究者の教授職昇進を阻止するという時代追随的な反ユダヤ行動をとりながら、妻子ある身にもかかわらず秘密裏にユダヤ人女性アーレントを愛し抜いた。一方アーレントは、師でり愛人であるハイデッガーとの恋愛に苦しみつつ、米国に亡命後精力的にナチスを告発する省察を次々と公刊し、世界的な名声を得るに至る。親友ヤスパースは、遂にハイデッガーとの友情を断ち切って批判に転じるが、アーレントは終生ハイデッガーを擁護してその生を閉じる。
 世界の深奥に思索をめぐらせた巨大な思想家が、同時に浅薄な政治的振る舞いに走り、尚かつ自らが否定する出自である女性を愛し抜いたという−この類い希なパラドックスは、まさに思想と人間性の説明しがたい関係を示している。同時に反ユダヤ主義を告発した女性哲学者がナチスイデオローグの権威であった哲学者を献身的に擁護するという信じがたい愛情の在り方に驚嘆する。
 ドイツの若者がその為には死んでもいいと信じるに対する理念を創造した哲学者、ゲシュタポと強制収容所によってユダヤ絶滅「夜と霧」作戦をおこなう国家に加担した哲学者が、一方でかくも1人の女性に傾倒していったその心情の裏にあるのものはなにか。自らを迫害した男性を愛する女性哲学者とは何か。
 こうした2人の個人的な関係を捨象する哲学思想の内実とは何なのか。世界に対する解釈の普遍性は、こうした具体的なザッヘをはるかに越える余人には理解できない質を持っているのか。あまりにもあまりにも日常人の振るまいと両立する精神構造の異様さを思い、私は想像を超える人間的な共感を持ったとともに、世界を解釈し人類に判断の方向を示す哲学者の責任とは何なのかを思って慄然とする。(2002/12/24 21:27)

[キューバ危機40年検討国際会議の検証]
 恐ろしい事実が明らかとなった。10月10日からキューバで開催された会議では、米国元国防長官マクナマラ氏など米ソの最高指導者が出席し、衝撃の事実を明らかにした。62年10月23日米国家安全保障会議執行委員会はソ連潜水艦に対し、カリブ海の米国駆逐艦の前に浮上するよう通告し、ソ連のアナデール作戦(ミサイル・核弾道秘密輸送作戦)輸送船団護衛潜水艦4隻は核魚雷を装備していた。米軍は陸軍25万人、B−52等航空機1000機、核空母など艦船250隻がカリブ海に展開し、キューバでは革命軍27万人、民兵その他総員40万人。駐留ソ連軍43000人が24−72時間以内に予測される米軍の侵攻に備えて一触即発の事態にあった。午後5時米駆逐艦はソ連潜水艦の核装備を知らないまま爆雷を投下し、ソ連原潜B−130のシュムコフ政治将校は被弾した場合の核魚雷発射準備指令を出したが、特別武器管理将校は司令部の許可が必要と反対した。爆雷投下に憔悴したサビツキー艦長が核魚雷発射準備指令を出したがアルキノフ副艦長が反対し、潜水艦は浮上した。その15分前にドブルイニン駐米大使がケネデイー大統領のキューバ不侵攻とトルコミサイル撤去をソ連議長に伝え、世界史上最悪の核戦争の危機は回避された。
 この人類絶滅の危機を示した迫真的な事実は幾つかのことを明らかにしている。@現場指揮官の冷静な職業意識、A人間と機械の偶発的な事故の恐怖とリスク管理、B核兵器そのものの廃絶にしか未来はないこと−等である。現在世界には、2万数千発の戦略核弾道弾、36800発の戦術核弾道弾が保有されている。イラクや北朝鮮の核開発に対する抑止は不可欠だが、既に大量に保有している核武装諸国の戦略的優位を保持する目的であれば何の意味もない。核超大国米国が自ら進んで全ての核兵器を廃棄するという宣言を実行に移せば、地球人類の21世紀の安全は保障される。マクナマラ氏の言動が、核兵器の段階的削減から即時全面廃棄へと主張を移していることに象徴的に表れている。今しも米国映画『K−19』はソ連原潜の核事故を扱っているが、キューバ危機との連動を正面に描けば、違った歴史的意味を持つものとなってであろうにと残念に思う。(2002/12/24 9:41)

[プチ・ナショナリズム症候群の諸相]
 精神科医香山リカ『プチ・ナショナリズム症候群』(中公新書)は、最近の若者の素朴なナショナリズムについて分析している。今年のW杯サッカーでスタジアムを埋めた日の丸とニッポン、ニッポンと叫ぶ姿に、素朴な愛国主義をみて深刻な危機感を表明している。青年が愛国主義を無自覚に受容しているのは、心と歴史的思考が切り離されているからだと指摘する。スポーツがナショナリズムを発揚するツールとなるのは、ベルリン・オリンピックのリーフェンシュタールに象徴されるように歴史的な法則である。そこでは日常の欲求の不充足が爆発的に発散される連帯感の組織化がある。W杯に熱中した若者はまさに連帯の感動を味わったのである。 
 香山氏の指摘の弱点は、日本の若者は同時に決勝リーグに進出した韓国チームにも熱い連帯のエールを贈ったのであり、決して単線的な排外主義的なナショナリズムへと向かったわけではない。しかし日の丸や君が代に対する抵抗意識がほとんど姿を消してきたのは確かであり、筆者が日頃の授業で接する若者の間でも皇室に対する無条件の謙譲語がみられる。フランスやドイツでのネオ・ファッシズムに流れる青年の心情と共通した側面があるのは、、石原都知事の暴言が見過ごされ一部で支持する傾向が見受けられることと共通点がある。歴史の事実に対する謙虚な認識と判断力が衰弱していることは否めない。香山氏の指摘は現状認識の危機において鋭い点があるが、事態の重層的な質と打開のための戦略に決定的な弱点がある。祭りで発散せよ−とかエリートとの同棲を目指せ−等という荒唐無稽な対応はほとんどリアリテイーを失っている。私は「連帯」の感動をどちらの側が組織できるかに懸かっていると思う。
 時代の閉塞感は、高校生の就職内定率がついに50%を切った所に象徴的に表れ、若者のルサンチマンが深まる中で、断定主義的な物言いによるパフォーマンスの虚像に支持を表明する若者が一定の基盤を形成し、常に裏切られるという悪循環の過程にある。その裏切りの被害者意識が蓄積されれば、ヒットラー型自立への最後の期待度も強まるであろう。この場面では、若者は両極に分解し、一定の知的思考とNPO的な感覚の持ち主は反ファッシズムの方向へ進み、情念的な突破口に賭ける者はかってのファッシズムの道を選択するであろう。問題は情報技術を駆使する若者達がその分岐点の鍵を握っている点にある。韓国の若者は情報ネットによる大統領選と米軍地位協定の告発に動いているが、日本の若者達は沖縄問題では遂に動かなかった。
 今世界では1分間に1人の女性が、妊娠と出産のために命を落としている。自ら望まない妊娠と出産、危険な出産の環境に置かれた女性の姿が浮かび上がる。貧困や、医者がいない等の理由で家で出産しなければならない女性、非衛生的で最低限必要な出産用具がない等である。いつ生むのか、何人生むのかという基本的な問題で女性の自己決定権がない。女性自身の自己選択力も身に付いていないのである。ジョイセフ(家族計画国際協力財団)は、パスポートを小さくした大きさの赤い紙箱に、石鹸・麻ヒモ・ビニールシート・剃刀を入れた出産用具を配っている。自分で家で出産しなければならない女性達のためだ。こうした第3世界の人間を放置して、なんのナショナリズムが成立するであろうか。コインロッカーに赤ちゃんを置き去りにする日本の少女を置き去りにしてなんおナショナリズムが成立するであろうか。現代日本で問われているのは、排外主義的なナショナリズムの基盤にある閉塞状況の要因を解明し、人々が共同できるオルタナテイブを明確に提示することであり、それに失敗するならば2度目の喜劇としてファッシズムを迎えることになる。
 ではオルタナテイブはあるか。阿久悠『書き下ろし歌謡曲』(岩波新書)は、一曲2時間という恐るべきハイペースで作詞したアンソロジーであるが、そこで彼は「歌謡曲に総論はないというのが僕の信念だ。すべて個別の事例があり、特別の事情がある。」と言って、次のような短歌を残している。

 子らよ子ら 書を読め 解せ 文を書け 人の目を見て 言葉語れよ

 あなたは自営業か、会社員か、学生か、教師か、何であっても打開するための総論はないのだ。あなたとあなたの周りの人が今まさに直面している具体的な状況を具体的に打開する具体的な方針−それを提起する能力がなければ何の有効性もない。受験生にとって合格へのちから、教師にとっては悩める若者の羅針盤−が必要なのだ。総論は原理的な打開策であり、間違えば総論に逃げ込んで各論のリアリズムを放擲する麻薬のような危険性を持っている。(2002/12/23 19:40)

[デイーセント・ワーク(人たるに値する労働)とリビング・ウエイジ(生活賃金)]
 ILOは労働の国際標準としてデイーセント・ワーク(人たるに値する労働)を掲げてきた。その内容は個別の国によって異なるが、戦後日本では「生活給」=「家族賃金(妻子を養うに足る賃金)」として男性労働者主体の目標であったが、そのなかで女性労働者の重層的な較差構造が形成され、実はそれが男性労働者を含む全体的な低賃金構造の逆発的な形成要因ともなった。こうした構造が日本的経営基盤となって高度成長の推進力となった。バブル崩壊後女性労働者の非正規雇用は拡大し、今や50%に迫り男性労働者の賃金水準を全体として抑制する誘発効果を持った。性を越えて日本型雇用関係は崩壊・解体の過程をたどり、この変容は男女関係そのものの解体を誘発させた。男性が妻子を養うべきだとする発想そのものが解体するなかで、家族賃金形態そのものも実態としても規範としても解体しつつある。若年男女は、ともに働かなければ、生活の存立自体がありえず、結婚や出産に進むことができないような状況が拡大している。
 このような労働市場の激変は、逆に見れば男女が共同してデイーセント・ワークを担う新しい家族の生成を予告している側面がある。こうした新しい雇用形態の登場は、性・年齢・学歴を越えた新たな労働の構造を告げているかも知れない。すでに米国では、地方自治体と契約を結ぶ企業が労働者のリビング・ウエッジ(生活賃金)を最大限保障する制度を導入する州が増えてきている。((2002/12/22 14:36)

[パラサイト・シングルとは何か]
 寄生する独身者−大人になっても親の元で暮らし続ける駄目人間の代名詞。東京学芸大学の山田昌弘教授が使い始めた言葉であり、住居や家事を親に依存して豊かな生活を送る独身者を指す。彼等が自立した生活を回避したことによって経済の活力が奪われたと云われる。しかしここに来て、青年が就職せず、家を出ないのはパラサイト・シングルと呼ばれる若者に主たる問題があるのではなく、青年が置かれた社会的就業状況に主たる問題がある−とする論が登場した(宮本みち子『若者が社会的弱者に転落する』洋泉社)。大卒の就業率は60.1%(1999年)から56.9%(2002年)に低下し、「今の条件で子どもを育てられるか」という質問に29.4%しかイエスと答えられない状況が生まれている(全労連青年部1万人調査)。バブル期に急上昇した住宅費は、現在も横ばいであり、青年は住宅費コストに耐えられず親元で生活をせざるを得ない状況となっている。青年が大人として自立できる空間を確保できない状況を青年心理の変化とするパラサイト・シングル論は、青年の表層的な現象の変化を画一的に捉えた表層文化論に過ぎない。
 パラサイト・シングル論に対する社会科学的分析はその限りで正しい内容を含んでいるが、重要なのは青年心理の内部からパラサイトを自ら志向する意識が醸成されていることである。飛躍的に云えば、小学校の通知票に「愛国心」評価が登場しているように、市民的自立を否定する前近代的共同体への無条件の埋没を評価する社会システムが進行していることの影響を否定できない。このシステムが日本型集団主義の「甘え」と連結した時に、残念ながらパラサイト・シングルの心情が誘発される。
 こうした愛国心は表層的なレベルに止まるから、自らの命を賭して祖国のために死ぬという信念は育たない。そうした外発的に醸成された愛国心の限界が露わになったのが旧日本軍の特攻攻撃である。出撃するパイロットの動揺を抑えるために覚醒剤が投与され、彼等は正常な神経系を攪乱されて出撃した。同じように米軍パイロットもアンフェタミン(錠剤)服用の義務があり、アフガンでの米軍機誤爆は実はここに原因があった。アンフェタミンは、通称チャンまたはSpeed=シャブ古い表現ではヒロポンともいい、フラッシュバックという副作用がある。フラッシュバックは、摂取をやめて相当の時間がたってもある時に幻覚が襲うことがあり、その幻覚が被害的な幻覚であった場合に恐るべき結果が誘発される。米軍は自発的にアンフェタミンを摂取しないパイロットの作戦飛行を制限した。
 さてさて現代世界の最大の問題は、米国の一極帝国に衛星国がパラサイトしていることである。一極帝国の論理は、人道や人権やジェノサイドに反対する自然権的な介入主義の原理であり、これはいかなる主権にも優越するという原理的な価値を根拠とする。この論理に対し、外部からの全ての介入は侵略でありいかなる正当性も持たないという主張がある。こうして現代は至高の価値と主権が対立するパラドックスの様相を呈している。ここで想起されるのは、ラス・カサスの原理(生命を救うための介入は、それが防ごうとする害よりも大きな害をもたらさない場合に限って正当だ)の指針だ。一極帝国にパラサイトしている諸国の包囲網によってイラクの孤立は深まっているかに見える。フセインが所有する大量破壊兵器によって生じる被害と、多国籍軍による攻撃によって生まれる被害を冷酷に分析し、ラス・カサスの原理を適用すべきであるかもしれない。少なくとも攻撃と非攻撃のリスクを最大限冷静に考慮すべき段階に来ているが、ラス・カサスの原理を越えた至高の犯してはならない原理が実は背後にあるのではないかという気がする。(2002/12/21 20:52)

[2002年とは何であったか]
 世界レベルでみれば、ポスト冷戦後の世界システムをめぐる熾烈な覇権闘争の画期であり、インテリジェンス劣位の米国の経済・軍事的絶対的優位によるパックス・アメリカーナの序章が始まり、諸国はその力関係に応じた屈従のスタンスを強いられ、一極帝国に対して自らの尊厳を如何に保持するかを問われた年であった。このようなシステムが原理的にヒューマニズムと背理することを見抜いている中で、自らの生存をどう確保するかという自己保存要求が先行して諸国は自らのスタンスを選んだ。どのようなスタンスをも選択不能な第3世界の急進的な部分は追いつめられた果てに、最後の手段として成算なきテロリズムの報復戦術を採用したが、それはめくるめくような地獄への道を選んだことを意味する結果となった。公正と正義をめぐる一極覇権帝国との熾烈なシステム間闘争は、現状では一路敗退の道をたどっている。閉ざされたジャングルでは、マハトが究極の決定要因になるという前近代の論理が21世紀に復活したかに見える。正義が力ではなく、力が正義だという19世紀正戦論の時代が復活しつつあるかにみえる。こうした力の論理による世界史の操作は人類に類い希なニヒリズムを沈殿しつつある。国家−地域−職場−学園−学級などなどあらゆる集団のレベルで、正論を述べる者が孤立し、あらゆる冷笑や迫害を浴びつつある。自らの良心の残滓を撃つが故に却って憎悪が生じるという、無惨なファッシズム型大衆心理が醸成しつつある。もはや人は、互いを信じ合うことをやめ、、或る目標への共同の接近をやめ、私的な自己閉塞の世界に満足を求める哀れな姿態を纏いつつある。今や廃棄された用語となってしまった「疎外」という状況が、自己意識なく進行しているという最も「疎外」された事態が人間を蝕みつつある。他者を攻撃することに快楽を見いだすばかりでなく、今や他者の命すら剥奪なしに自らの生の充実を実感し得ない恐るべき自己疎外が進行している。
 夜も更けて背後でエンヤの歌う「聖夜」の静謐な声が流れてくる。人間の全ての汚れを洗い流すかのような天からの降誕の調べだ。しかしこの瞬間に餓死している、エイズでこの世を去るいたいけなおさなごのいることを思い浮かべて、私は神がいないことを確信する。神なしに生きていけることを確信した人間は、神からの審判を恐れることからも解放されて、21世紀の初頭をテロと報復の血なまぐさい悪循環のただ中に置いてしまった。
 私の2002年は、こうしたミレニアムの汚濁に戸惑い、率直に言って何らなすすべもなく終わってしまった。一切の弁明の許されない私の自己責任に帰するこの逡巡は、私の血でもって贖わなければならない。私にとっての残り時間は少なく、私の振る舞いの如何によって左右される事態があるとすれば、私は残された余力を振り絞って挑まなければならない。
 未来に対する創造的でしかもリアルな実現性を持つ対案を準備できるかどうか、ここに全ての可能性の有無が懸かっている。そうした対案を提起する能力は、それまで蓄積した生のエネルギーと知的蓄積の全てを問い直すものであろう。直感的に把握した状況と対象の悪と不公正が、力の論理によって制覇することに対抗する理性の展開をリアルな政策次元で真に説得力ある水準に成熟できるかどうかが問われている。敗れ去ってもいいではないか。自らの志向する目標に向かい、自らの能力の全てを使い果たして、戦いきったのであれば。鬼気迫るというのはまさにそうした場ではないか。
 私は敗北の美学を肯定しない。それは引かれ者の小唄に過ぎない。未来に対する戦略的な展望なしに誰が戦い得るであろうか。最後に笑う者が最もよく笑うのである。私は最後に笑う者であるために、現在を汚濁の中で過ぎていくのである。過ぎていく2002年よさようなら。私はかくてあったし多くの悔いを残した年であった。そのような全てを含めて私であった。だからこそ来るべき2003年の構想を再びの志で強固に構築していかなければならない。(2002/12/21 00:32)

[イバン・イリイチ逝去 享年76歳]
 1970年代に高度産業社会での学校・病院・交通の3大サービス制度の肥大化によって、人間の身体や魂が産業に飲み込まれてしまうことを批判し、1980年代には産業化=近代化の裏で隠蔽されるシャドウ・ワークの労働論によって性自体が単一化されるジェンダー論を展開した。当時のマルクス主義フェミニズム派は、イリッチを批判して近代化=女性解放論を主張したが、現在ではまさにイリッチが解明したジェンダー論が実証されつつあるかに見える。こうして近代化=資本主義的産業化の陥穽がますます露わになりつつある。近代化の遺産を引き継ぎその成果を享受しつつある現代人は、近代化が胚胎する根元的なアポリアをイリイチによってラデイカルに突きつけられた。1990年代以降の彼は、水や言語や身体といった人間の基礎素材的な領域に対する考察を進め、最近では速度やまなざしといった領域にも思索を深めつつあった。
 私は、イリイチの最初の問題提起には残念ながらその意義を正確には把握できず、専らマルクス体系からの逸脱としてユートピア思想の現代化としてしかとらえていなかったが、環境危機の深化の中で19世紀マルクス思想では射程に入っていなかった問題群をイリイチは先導的に対象としたのではないかと、大きな衝撃を受けた。しかし彼自身が詩人であるように、彼の展開は直感的な鋭さはあるもののサイエンスとしての分析力がないのでは等と勝手に思いこんでいた。
 しかし21世紀にいたって、生態系理論や環境経済学、女性学や近代理論の探究にイリイチの果たした先駆的業績はもはや無視できないものとなっている。彼がアカデミズムの人でなかったというハンデイによって、彼の理論は不当な非正当理論の位置づけを受けてきたが、まさに歴史は正しく評価したのである。(2002/12/20 19:58)

[憤怒を理解すべきだ−イスラエル作家ウリ・アブナリーの告発]
 イスラエルの良心を示す重い文章が伝えられた(イスラエル平和組織「グッシュ・シャローム」のサイトに掲載されたウリ・アブナリー氏の文章)。以下はその要約。

 1つの問題に悩んで私は眠れない。ユダヤ人入植地に侵入して母親と抱かれた幼児を撃ち殺したパレスチナ人をそうさせたものは何か。彼等は貧困家庭出身の者もいるが、学生や裕福な家庭の息子であり、彼等が代々受け継いでいる資質は我々のものと同じだ。ではなぜあのような行為に至るのか。なぜ彼等を賞賛するパレスチナ人がいるのか。母親の腕の中にいる幼児を撃つ行為を世界の誰も正当化はしない。同じように眠りにつこうとする子どもがいる家を爆破するイスラエル人の行動も正当化されない。イスラエル軍首脳は云う。たたけ、またたたけ、常にたたけ、だ。侵略者を殺せ、彼等の親分を殺せ、彼等の組織の指導者を殺せ。彼等の家を破壊し、親たちを追放せよ。結構だ!巨大なブルドーザーがテロのインフラを破壊し、全てを打ち壊し、彼等の道をねこそぎにした翌日には新たなインフラが作られる。
 この理由を一言で云えば、憤怒である。恐るべき憤怒が人間の魂に満ちあふれ、全ての感情を押し流し、個人の生活を支配し、その命さえ軽いものにしてしまう。占領地に足を踏み入れたことのない普通のイスラエル人はこの憤怒の理由を想像すらできない。我々の新聞やTVは何の報道もしないか、わずか無味乾燥なものを報じるだけである。2つの村の間の丘にユダヤ人過激派が入植地の前哨として不法キャンプを作った。イスラエル軍がそれを守り、パレスチナ人の村人が畑を耕そうとすると、上から撃つ。無力な農民は、子どもたちに食べさせるものがないのに、木に実っている果物が腐り、背丈まで伸びたイバラで畑が覆われるのを見るだけだ。そして彼等のうちの誰かが強力なカミカゼ(自爆テロ)を実行するのだ。飢餓の淵をさまよう家族、栄養不良の子どもたちもいるのだ。父親達は、途方に暮れる。彼等のうちの1人がカミカゼに訴える。
 数十万人が長期間にわたって夜間外出禁止令のもとで、外に出ることができないまま、2つか3つの部屋に閉じこめられて生活する。想像もできない地獄の外では、入植者が祭りを催し兵士の保護の下で踊っている。悪循環だ。昨日テロ攻撃で外出禁止令が敷かれたと思えば、今日にもその外出禁止令が翌日のテロリストを生み出している。あなたがパレスチナ人ならば、生きるも死ぬも、あなたの街を警備する18歳のユダヤ人の若造の気分次第なのだ。一方で入植者の一団は、何の障害もなくあなた達の村を訪問し、財産を略奪し、オリーブをオリーブを盗み、木々を焼き払う。そうした現実を見たことがないイスラエル人は想像すらできない。しかし彼等に軍服を着せ、軍事マシーンを手にさせて占領軍の兵に仕立て上げた時、勇敢な若者は全てを起こす。こうした蛮行を理由として母親の胸にいる子どもたちを殺害するどのような正当化もできない。しかしこうした殺害は、占領が続く限り悪夢限のように起き続けることを理解すべきだ。(2002/12/19 23:31)

[カーター元大統領ノーベル平和賞受賞演説とブッシュ・ドクトリン]
 「教義が違っても全ての偉大な宗教は、我々の現世での理想的な関係を律する誓約を共有している。全ての偉大な宗教は、人間の苦しみを軽減し、平和を擁護する共通の努力で、ともに手を取り合うことができる。残忍で非人間的な行為はゆがめられた教義信仰から派生しており、自爆テロ犯は神の意志の仮面を被って罪もない人の人命を奪っている。非人間的な戦争に関わるためには敵対者の人間性を否定せざるを得ず、それ自体があらゆる宗教の理念を踏みにじる行為だ。新千年紀のはじまりにあたり、最も重大で普遍的な問題として、富めるものと貧しい人の間の隔たりを指摘したい。最富裕国10カ国の市民は、最貧国10カ国の市民の75倍もの豊かさを享受しその較差は年ごとに広がっている。それは飢餓、非識字者、環境悪化、暴力的紛争、エイズばど世界の未解決の問題の根本的な原因となっている。痛ましいことに、先進国には絶望的生活に耐えている人々への恐るべき無関心と無理解がある。過剰な富を他者と分かち合う誓約がまだ行われていない。
 今日地球上には、少なくとも8カ国の核兵器保有国が存在し、そのうち3カ国は国際的緊張の高い地域で隣人に脅威を与えている。大国が予防戦争(先制攻撃)の原則を採用するなら、破滅的結果を招きかねない手本を示すことになろう。平和を維持する最良の手段が国連だという前提を受け入れるならば、これと異なる方法は統制のきかない暴力と敵対の拡大に導くことが証明されている。我々は苦難の克服を選択できる。平和への共同を選択できる。」(クリントン受賞演説から世界の現状に関する部分を筆者要約。過去の米国の行動を美化する部分は省略した)。この対極にあるのがブッシュ・ドクトリンだ。
 米国政府のブッシュ大統領カバー・レター(署名入り)「国家安全保障戦略」(9月20日)は、軍事力によるアメリカ絶対主義(スプレマテイズム)の実現に向けて、国連憲章が禁止している先制攻撃を一般原則とした点で米国世界戦略の基本的な転換を示している。これはクリントン時代の介入戦略を究極に拡大した「前進抑止」軍事戦略を柱とし、「俺が核兵器を持つのは自由だが、お前が持てば攻撃する」というジャングルの法則である。具体的にはハイテク化したスタンドオフ兵器(遠距離から投射する精密誘導兵器)で、米兵は自らの生命を危険にさらすことなく気軽にボタンを押す戦争形態であり、被攻撃国の民衆の悲惨な被害を想像する必要はないから、厭戦ムードは絶対に起こらない。「9.11は重大な危機が潜む時期であるだけではなく、巨大な好機である。米国が新しいチャンスを手に入れる決定的な行動を起こさなければならない」(ライス大統領補佐官)。第2次大戦後の戦争違法論を原理的に否定する米国戦略の大転換がなされた。それは米国独立宣言の輝かしい理念自体も否定する野獣のような帝国の思想であり、ローマ帝国・大英帝国に続くパックス・アメリカーナを実現しようとする信じがたい非人間的な思想である。
 このような表面的には強者に見える戦略は、実は自らの経済が決定的に崩壊の危機にあることの裏返しである。イラク攻撃をした場合の米国経済は、一時的には軍需景気が誘発されるが、1ヶ月で60−90億ドルの戦費を支出し、財政赤字は一気に膨らみ、世界第2位の原油輸出国イラクの被害は原油価格を高騰させインフレが爆発する。軍需産業をバックに当選したブッシュ政権はしかし戦争の道を選ばざるを得ないという自己矛盾の状態にある。米国の世界的孤立が深化し、わずかイギリス一国がサポートするに過ぎない状態になる。エオンロン・ワールドコムの倒産から不正会計に始まって、ウオールストリート型米国経済は奈落の底に沈みつつある。もはや平和であることは米国の存立自体を脅かす状況となっている。
 こうしたアメリカ絶対主義の戦略は成功するであろうか。かってのベトナム戦争時には、開戦後3年でやっと反戦運動が始まったが、今回はすでに改選前から大規模な反戦デモが全米で起こっている。全世界で米国を支持しているのは英国一国でしかない。ブッシュ大統領は実は孤立しているからこそ、開戦の勝利によって世論の支持を得るしかないという袋小路に追い込められている。全ての戦争を否定する世界の理性は、野蛮な米国一極覇権主義を最後には敗北に追い込むであろう。(2002/12/19 19:33)

[暮れゆく2002年よ サヨウナラ]
 平井康三郎11月30日肺炎で死去92歳。東京音楽学校卒業後作曲家の道に入り、「平城山」「とんぼのめがね」「スキー」「ゆりかご」などの童謡を残した。90歳を越えてもひとりで新宿界隈を歩き回った。今年に入り、肺炎で入退院を繰り返し、看護婦が励まそうと「とんぼのめがね」を歌ったら「テンポが遅い!」とおどけて返した。なくなるその日、病室にはお気に入りの「ゆりかご」のCDが流れていた。ふいに目を開け、微笑んだような表情のまま両目からスーッと涙が流れて、そのまま眠るように穏やかに逝った。何という美しい静かな最後だ。私も斯くこの世を去りたいと思う。チェリスト平井丈一郎氏は長男。

 「空も、土地も、木も、私にささやく。お帰りなさい・・・・。だから私も、うれしそうに帰ってきました、ありがとうと元気で話します」(曽我ひとみ)。02年を代表する、まるで金子みすずの詩のように美しい日本語だ。今年を代表する漢字は『帰』だそうだが、彼女の場合は、劇的な拉致からの生還ですが、私は「帰郷」の語がふさわしいと思う。このような美しい心の持ち主の家族を引き裂いてはならない。

 「米国の無法に何もできないという無力感に襲われました。そこでインターネットを通じて米大使館へのろうそくデモを呼びかけました。みんな同じ気持ちだったのです。私たちは屈辱に沈黙するのでなく、立ち上がる勇気をお互いに与え合いながら、ここにいるのです」(12月14日ソウル10万人追悼集会で高校生キム・ギボさん。韓国女子中学生2人が6月13日、60トンの米軍車に轢き殺され米兵2人は無罪判決がでた。韓国全土で米軍糾弾の大行動が展開中)。沖縄の少女が米軍兵士から強姦された時に、私たち本土の日本人は見て見ぬ振りをした。無力であった。

 ハンセン病癒えて故郷に 思い切り仕事がしたしまだ79歳(歌集『心ひたすら』)−作者浅井あいさんは、14歳でハンセン病を発症し、29歳で両目を失明して、作歌活動に入り82歳の現在も営々と続けている。昨年かって退学を余儀なくされた郷里の母校から卒業証書を受け取ったことが報道され、大きな感動を呼んだ。

 「子どもたちは孤立して苦しいのは自分が悪いからだと考えてしまう。自分のしんどさを言葉にして語り合えば、自分だけじゃあなく他の子も同じように苦しんでいることに気づいていく。怒りをどこに、どのようにぶつけていけばいいのかも見えてくる」(小学校教師川村亜紀さん、学級崩壊のなかでひたすら学級通信を日刊で書く)

 こうして今年も暮れていく。おそらく2002年は世界史で記憶される年として残るだろう。同時代を生きているさまざまの人々の精一杯の生を心に刻んで新しい年を迎えたいと思う。(2002/12/16 21:46)/16 21:47)

[政治言語の陥穽について]
 ヒトラー『我が闘争』の唯一科学性があるといわれる叙述が、政治宣伝の技術に関する部分である。社会的不安に翻弄される民衆にアピールする宣伝のレトリックをヒトラーは、@疑いや反論の余地を与えない断固たる断定的主張A徹底的な刷り込みのための反復B論議の具体化を回避する単純化・一般化であると説明している。直裁に云えば、迷える民衆に断固として同じことを何回も単純な命題を繰り返すことによって、小さな嘘を見抜く民衆も大きな嘘には熱狂的に賛美すると主張している。その代表的な事例は、ゲルマン選民思想とユダヤ思想の決戦という図式であり、ユダヤ的汚辱から世界を解放する使命を持つドイツという命題によって、民衆のルサンチマンを結集することに成功した。21世紀初頭の現代で、このヒトラーのデマゴギー戦術を駆使している人物が2人いる。
 ブッシュ大統領は、<悪の枢軸>と闘う<限りなき正義>を怒号し、<邪悪なテロリスト>と闘う<自由の女神>を自称することによって、現代米国史の恥部を隠蔽し、米国民衆の正義感を動員することに成功した。東アジアのジュニア・パートナー国の首相は、断固たる口調や簡潔な断定によって新鮮な印象を誘発し、圧倒的な支持を集めている。「改革なくして成長なし」「備えあれば憂いなし」「神学論争はやめて常識でいこう」といったスローガン的な言辞で大衆動員に成功している。このままヒトラー時代と同じデマゴーグが制覇するのであろうか。そうではない。

 20世紀までの幾多の政治のレトリックによって悲惨な運命を歩んできた人類は、はるかにそれを上回る知恵を手中にしている。背後にある理念や理想に対する確信なしに、単なる技術で広範な民衆を組織できる時代は既に終焉している。人間らしく平和に共存したいという地球的な市民の連帯のこころは、もはやうち消しがたい潮流として存在し、一時的なレトリックの虚偽を見抜く水準に達している。「少数の人間を永久に騙すことはできる。多数の人間を一時的に騙すことはできる。しかし多数の人間を永久に騙すことはできない」(リンカーン)という確固とした審理が歴史に定着している。以上宮田光雄氏論考(『図書』644号)参照。

[性転換手術をどう考えたらよいか]
 1969年に東京地裁が、3人の男性に性転換手術を実施した産婦人科医に優生保護法違反で有罪判決を下してから、日本ではタブーとなっていたが、1996年の埼玉医大答申、1997年の日本精神神経学会答申を経て、1998年に埼玉医大が最初の正当性転換手術を実施した。
 埼玉医大答申は、性同一性障害と性転換症を定義して「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性にに属しているかハッキリ認知していながら、人格的に自分が別の性に属していると確信している状態」とする。こうした人に対する@精神療法Aホルモン療法B手術療法の3段階治療を公認している。性同一性障害の国際診断基準DSM−IVでは、@反対の性に対する強く持続的な同一感A自分の性に対する持続的な不快感Bそのために臨床的に強い苦痛または社会的機能障害をもたらしている」としている。
 性同一性障害と同性愛は概念的に区別される。性同一性障害は、自分の性に対する明確な身体違和感があるが、同性愛者は自分の性に対する違和感がないまま同性を愛することだ。性同一性障害は、自己のジェンダーの同一性に基づいて自己の身体上の性を否定するが、同性愛は自己の性の同一性に基づいて制度としてのジェンダーを否定する。

 性概念は2世紀に驚異的な進化を遂げた。性には、生物的性(セックス)、文化的性(ジェンダー)、欲望的行動(セクシュアリテイー)など後天的な要素にまで意味するようになった。キリスト教文化圏では、人間の本質は肉体ではなく精神であるから、身体的性によって社会的な役割を決定するのは間違いであるというフェミニズム思想から、ジェンダーという環境や学習によって身に付く性概念が提唱された。従って性同一性障害を決定する要因は、@遺伝子の変異A母体内のホルモンのアンバランスB幼児期における性意識の形成過程C性の社会的な大勢など多様である。埼玉医大は、最先端脳科学の成果によって、妊娠20週頃に生じる胎児の脳の男性化現象を指摘している。確かに身体の性と脳の性が一致しない場合があるが、これは性の身体的決定論であり、ここに性転換手術の強力な根拠が生まれる。

 性転換手術は、臓器移植や遺伝子操作と同じく現代の外科技術の驚異的な進歩によって、技術的に可能になったからこそ問題として浮上してきた。古代からの去勢手術とは根本的に異なり、現代医学はホルモン調整と外性器の形成が可能となり、生殖能力には限界があるが、、基本的には性の選択が可能となったのだ。この技術的な可能性と倫理的な認容の間に大きな問題が生じたのである。性という絶対的な境界にファジーな領域が生じたのである。

 問題の基本は、現代医学のインフォームド・コンセントによる患者の自己決定権という基準を性の選択の基準にしてよいのかどうかと云う点にある。安易な性転換は、生殖機能をかく乱し、人間の侵犯になるのではないか。極端な事例で云えば、女児を嫌う中国では強制的性転換という場合が生じる。そこで性同一性障害に限ってのみ性転換を認めようと云うガイドラインが出されてきたのだ。
 性同一性障害者は、自殺を考えたり日常生活が破壊される身体違和を抱いて生活しているから、患者のQOL(生活の質)を配慮するならば、性転換を禁止する法がむしろ非人間的ではないか。しかし問題は更に、患者の苦しみを除去するという一般医療の名目で性転換手術が許容されてよいのであろうかという点にある。

 従って本質的な問題は、性における「正常」と「異常」とは一体何なんだということを根本的に解明しなければならない。生殖を目的とする性を正常とし、それ以外の性を変態とみなす見方を問題としたのがフーコーだ。フーコーはこうした見方は、国富である人口増殖を実現するために@女性の身体のヒステリー化A子どもの性の学習化B生殖の社会的管理という権力構造から生まれたと分析し、こうしたシステムから逸脱した倒錯現象を扱う精神医学が誕生したと説明する。確かに性的倒錯は、先天的異常ではなく、むしろ社会的に作り出された異常であるから、それに対する精神医学的な治療自体が倫理的には問題だということになる。

 性同一性障害は、身体的性が問題となるが、それは生殖能力と云うよりも、外形や胸・性器というシンボル的な身体的特徴を意味している。このシンボルこそジェンダーそのものである。このシンボルを人工操作する性転換手術は、外形を変えるに過ぎない大がかりな整形手術と概念的には同じではないかという意見が出てくる。本当にそうだろうか。通常は、差異化された身体というシンボルは、3歳以前の幼児期に性意識が形成され、性的同一性が確立する。ラカンの鏡像段階理論では、幼児は運動神経系の未成熟でバラバラの身体イメージしかないが、生後6ヶ月から16ヶ月の前エデイプス期において、鏡に映る自分と母親からの示唆によってはじめて自分が「私」だという統一的なイメージをイメージを持てるようになる。つまり他者からのまなざしによって自分が自分だと認識するようになる。
 性同一性障害者に対して周りの意識に合わせるように治療をおこなえば、症状は解決されるが、彼等はそれを無理矢理適応された自己欺瞞だと感じる。従って外性器の手術を求めるが、この点で自己同一性を維持したままの整形手術とは根本的に異なる。

 さて最後に結論を整理しよう。本来的に性の選択の自己決定権を認めてはならない。男性であるか女性であるかは100%先天的に決定され、当人がこの世を去るまで選択の自由を許すべきではない。しかし性同一性障害という障害が決定的な意味を持つ当人の自由意志が、性転換手術以外にないならば、それに限って公認すべきである。以上『東京文化短期大学紀要』第17号参照。(22/12/14 17:)

[少女はなぜ化粧するのか]
 いまプチ整形といわれる比較的小規模な整形が静かに進行している。まぶたを二重にしたり、鼻を高くするなどだ。このプチ整形は、美容外科業界が美容整形への抵抗感を少なくするために打ち出した経営戦略だ。こうした異星人のような少女を見かけることはないか。なぜこのような人工的な顔の変形に興味が行っているのであろうか。さまざまの評論がある中で代表的なものを拾い出してみたい。
 TVやマスコミに登場する芸能人達の華やかなイメージが、少女にあこがれの意識をつくりだし、自分もそれに近づきたいという欲求を生み出すからだ−という虚栄欲求説。現在の若者は児童期の遊びが衰弱し、木登りによって落ちた痛みなどの冒険的な遊びが減り、ゲームなどを通したバーチャル体験が主流になって成長してきたから、自分の身体に対するリアル感が希薄になっている。手術の痛みや血を見るなどの想像力が衰弱して、服を着替えたりする感覚で整形を受容するのだ−といった仮想現実説。クローン技術による人工人間の創出など科学技術による人間操作が進みアイデンテイテイーの喪失が自分の身体を部品のように意識するようになった−という科学技術操作説。自分自身への確かな信頼感が薄らぎ自信を失っている人たちが外見の操作によって自己を回復しようとしているのだ−自己回復説。このなかで最も悲惨なのが、自分の顔付きや表情を理由に激しいイジメを受け、そこから脱出するためには自分の顔を変えるしかないとして整形に踏み切った少女がいる−これは人間関係破壊説と云おうか。この少女は次のように云う。「自分はブスだからいじめられてもしょうがないと思った。人間、第1に評価されるのは外見なんだと思いました。整形してもうブスだと云われることがなくなるのでは。外見にしか価値を見いだせない自分の考えは、いじめる人と同じで間違っていると思います。本当は、毎日を生き生きと過ごせば表情もよくなってくると思うんです」・・・・・。
 以上の全ての説は部分的に正しい評価を含んでいるであろう。大事なことは基本的な要因は何であるかということだ。それをつかまないと授業中にせっせと化粧している少女や、毎日着せ替え人形のように通学する風俗嬢のような少女の問題を正しく分析することはできない。一方では、こうした化粧は自己の身体の自由による表現の自由の行使であるから、第3者は一切介入すべきではないと云う意見もある。せいぜいプチ整形の手術は大半が失敗して取り返しのつかない被害をもたらしたり、逆に人間関係を壊したりする場合が多いというリスク情報を提供し、後は本人の自己選択と自己責任に任せるべきだという主張だ。この主張は、一見近代的権利に立脚した正論であるかに見えるが、実は子どもを社会的頽廃から保護して人間的に成長させる責務を担っている教育者であれば、最も無責任な主張だ。プチ整形失敗によって自殺に追い込まれている多数の少女の存在は知らされず、少数の成功例だけを宣伝している美容整形業界の利益極大化経営戦略に客観的には加担している。
 では基本的な要因は何であろうか。上記の最後の例で示された外見至上の人間観がどのようにして生まれ、そのような人間関係がなぜ支配的になっているかを解明しなければならない。学習やスポーツ、文化活動その他無数の自分らしさを生きる要素があるにもかかわらず、なぜ外見が浮き出ているのか。実は、学習やスポーツ、文化活動に生き生きと活動している人は、結果的に表情が輝き魅力的になってくるのだ。表情の筋肉構造はほぼ遺伝子で決定されているから、人工的な改作に走らざるを得ないのは、じつはその人自身の生き方そのものが緊張と張りと喜びが交錯する豊かな場面にいないと云うことだ。この責任は大人の場合は、ほとんど自己責任に委ねられるだろうか、子どもは違う。
 つまり子どもの世界になにか不健康で不正常な事態が誘発されているのだ。競争的学習による学ぶ喜びの剥奪か、権威主義的指導によるスポーツの堕落か、強迫的な文化活動による成長の喜びの衰弱か、幼少期の子ども集団の崩壊と孤立化か(遊びに来た子どもが互いに無言で漫画を読んでいる)、地域集団の衰弱による子育て文化の衰弱か・・・・おそらく全て正しい。
 しかし私は、本当に基本にあるのは、日本という国が未来に対する自然で素朴な可能性の意識を奪ってしまうシステムを作りだしているのではないかと思う。ネオリバタリアニズムによる競争原理と優勝劣敗のシステムは、人間が本質的に持っている共同と協力の原理(1人はみんなのために、みんなは1人のために)を何か嘘っぽい虚しいものにしてしまった。こうした弱肉強食のシステムが、多様な価値観の中での相互承認の契機を弱め、或る特定の価値観でしか評価しない(自分自身もそれに加担する)人間関係をつくってしまった。こうしたアングロサクソン型自由主義が、日本型集団主義(大勢順応主義)と奇妙に接ぎ木され、羞悪で奇怪な関係をもたらしてしまった。もはやいま、合唱や斉唱は成立しなくなった。或る目標に向かって手を取り合いながら、前進する喜びを味わうことはなくなってしまった。
 では絶望か。いやそうではない。こうした負の側面は蓄積するとある時点で反転し、一歩高い次元の共同へと転化する。化粧する少女は、さまざまの経験をくぐり抜けた後、なんて馬鹿なことをやっていたのか−と気づく瞬間が来る。その時に彼女は今までより一歩高いレベルで新しい自分の魅力を創造するために再び出発する。こうした転換は、必ずしも内発的には起こらない。何か外部から転換の契機が提供されて共鳴作用を起こして起こる。この共鳴作用の転機を提供するのが教育者の責務ではある。教師は、社会システム全体の転換の作業に参加しながら、目の前にいる子どもとの具体的で切実な作業をも両立しておこなうという−すぐれて全体的な人間である。
ウーンこれはつらい・・・・・。(22/12/14 9:57)

[刑務所も株式会社になるのか!!ー政府総合規制改革会議第2次答申]
 12月12日に提出された第2次答申の主な内容は次の通りで、
全面的規制緩和の一里塚と位置づけている。

●教育−全国一律画一的教育システムの転換→国立小中高大学の公設民営化、民間委託化→外国語・情報授業を塾や民間企業・NPOに外注、学校運営のPFI方式導入(民間資金で建設し、自治体が買い上げた後民間に運営させる)、社会人向け職業大学院への株式会社参入、私立学校設置基準(校舎、運動場面積)緩和、全ての学校の外部評価と公開、能力処遇のための教員評価制度導入

●社会保障−公共サービスの全面市場開放→保険外診療範囲拡大、自由治療費用徴収制導入、患者の保険外負担推進(高額医療サ−ビス、評価の高い医師の特別料金制)、診断群別定額報酬払い制導入、標準医療費による入院日数短縮、コンビニでの医薬品販売認可
 
●社会保障−特養ホームのホテルコスト(家賃・水光熱費)の利用者負担

●農業−農業協同組合の解体・再編、信用・共済事業の分社化と事業譲渡、農産物流通販売の独禁法適用除外解除、有料農地の転用規制、株式会社による農地取得

●商業−大規模店の出店審査簡素化

●雇用−職業紹介事業の有料化、労働者派遣法の派遣期間1年制延長・撤廃と対象業務拡大及び届け出制への転換、有期雇用契約の契約上限期間の3年(専門職5年)延長と解雇自由化、裁量労働制の手続き簡素化と適用事業所拡大、解雇救済手段の金銭賠償方式導入

●その他−国立病院民営化、水道事業の民営・民間委託化、刑務所の民間委託化,、駐車違反業務・競売手続き・証券切手ハガキ製造の民間委託


 ウーン・・・・スゴイ!!何でもありだ・・・・!!構造改革と規制緩和は此処まで来ているのか。財には市場に任せる私財と利潤の対象にはふさわしくない公共財があり、公共財は原則公営がふさわしいとしてきた、既成の経済学は根本的に間違っていたと云うことになる。さらに20世紀に発達した自由権的基本権に対する社会的基本権(生存権)による社会的規制もほとんど間違っていたことになる。全てが自己選択・自己決定・自己責任の市場原理に委ねなれ、ハンデイを持つ人や社会的弱者はこの世から去れと云っているに等しい。競争と弱肉強食の動物のような世界が出現する。公共性とかパブリックという言葉すら不必要な社会システムをめざしている。まさにこれは、ネオリベラリズムをはるかに越えた究極の野蛮なリバタリアニズムではないか
 しかしこの第2次答申の基本的な弱点は、出版物再販制の廃止を謳っていないことだ。おそらく渡辺恒男読売新聞社長の権力に恐れ戦いたのであろうが、規制緩和の原理を主張するならば最初にやり玉に挙げなければならないのが出版再販制であるにもかかわらず、それには触れていない。権力に遠慮して例外をつくる原理など、最初から原理としての意味と資格が失われていることが自己暴露されている。
 この第2次答申は、憲法の基本的人権の原理と正面から衝突するから、人権の制限を公共の福祉という名目でおこなうことすら不可能だ。なぜなら彼等自身が公共原理を廃棄した上での市場原理の主張であるからだ。国民の間に既に定着してしまったバリアフリーやユニバーサルデザインなどの思想は、この第2次答申の主張と厳しく矛盾し、最後には答申が墓場の中に行くだろうことは確かである。

 なぜなら第2次答申の基礎にある経済思想は、マンデイヴィルBernard Mandeville(1670-1733)『蜂の寓話−私悪すなわち公益』(1714)The Fable of the Bees:or Private Vices,Publick Benefits)における利己主義の肯定思想に他ならないからだ。彼の思想のエッセンスを引き出してみよう。

 「詐欺師、たかり、妓夫、遊び人、掏摸、贋金づくり、藪医者、占いなどその他地道な労働を忌み嫌い、悪知恵絞って人の労働を己が食い物とする輩の一党。この手合いは悪漢と呼ばれるが、名こそ違え堅気の人々も、実はやはり同じこと、欺きは仕事や地位に付き物だ。嘘偽りのない職業などありはしない。
 以上によって私は次のことを証明し得たと信じる。すなわち人間に生まれながらの友好や親愛、理性と克己によって身につける真の徳も社会の基礎ではなく、私たちが自然界でも道徳界でも悪(悪徳)と呼ぶものこそが、私たちを社会的動物にする大原則であり、例外なくすべての商売や職業の基礎であり、生命であり、支柱であるということ。また私たちはここにこそ一切の技術と科学の進歩を求めるべきであり、悪がやんだその瞬間に、社会は全体が崩壊しないまでも、台無しにならざるを得ないということである。」(「社会の本質の探究」)
(2002/12/13 21:08)

[ユニセフ『2003年版世界子ども白書』]
 国連児童基金(ユニセフ)が12月11日に発表した白書を見ると、現在世界には1億5千万人の子どもが栄養不良状態にあり、学齢期にありながら小学校に通えない子どもが1億2千万人に達する。エイズに感染する青少年数は毎日6千人であり、強制労働や売春で売買される子どもは年間120万人に達するという。女性の識字率が2%であるパキスタンの親は、「女の子に教育を受けさせるのは隣家の植物に水をやるようなものだ」と云い、ブラジルでは貧困と家庭内暴力によってストリートチルドレンが激増し子どもたちを迫害する暴力団が横行している。
 国連ミレニアム総会(2000年)は、2015年までに貧困と飢餓人口を半減させる「ミレニアム開発目標」を決定し、2002年の国連子ども総会は「私たちにふさわしい地球」と題する文書で、この目標達成には子どもと青年の全面的な参加が不可欠だと宣言している。世界の子どもが、家庭・地域・国の政策決定に参加するシステムをつくり、またそのような能力を開発するのは大人の責任であるとしている。
 私はこうした国連の決定と行動の意味を否定する者ではないが、最も責任を負うべき米国が脱退している現状ではなにか空しいものを感じるとともに、改めて米国の単独行動主義に怒りがこみ上げてくる。米国は、一極覇権に浮かれて自らに膝を屈しない国をならず者国家と称して叩きつぶす戦争に血眼になり、いたいけな子どもの犠牲者を大量につくりだしていることに痛みを感じない。私は、国連加盟国の全てに呼びかける。国連憲章を無視して我が物顔で行動する米国を国際連合から除名せよと。かって日本帝国は、満州問題で国際連盟から除名されたが、現在の米国はそれ以上の悪逆非道な行為をおこなっている。一極帝国に媚びへつらい、誇りと矜持を捨ててヨタヨタと追随している東アジアの国に住む私は、アフガンの石仏が恥じらいのために崩れ落ちたと同じく、赤面の至りである。
 さらに子どもの参加権を呼びかけるユニセフ報告に対して、東アジアのこの国は子どもが勝手なことをやり出したのは教育基本法の責任だとして、もっと公共責任と愛国の心を養うために改正すると叫び始めた。あなたの所属する学園にはいないか。自らは権力に媚びへつらいながら、子どもの負の側面を発見することに喜びを見いだしサデステックな特別指導と称する権力を行使する暴力団的な教師の一群を。自らの権力への屈従と比例して子どもへの迫害を増幅させる教師の存在を。こうして自らの首を自らで絞める子どもと教師の悪無限の頽廃が始まっている。彼等は一見表面的には無私の情熱で取り組んでいるかのように装いながら(或いは本気でそうかもしれない)、取り返しのつかない不信へと学園を堕落させていく。まことに地獄への道は善意で掃き清められているのだ(ダンテ『神曲』)。
 彼等はある場面では多数派になる可能性を持っている。なぜなら目の前にいる子どもたちの頽廃が極限の様相を呈してきた場合、特に先進成熟国の子どもの頽廃は対話不能の不信に満ちて、力と権力でしか抑制ができない場合があるからだ。しかし彼等の決定的な弱点は、暴力的制圧後の信頼回復に至る戦略的展望を完全に欠落させている所にある。行き着く所絶対的権力と暴力が支配する監獄のような学園秩序しか思い浮かべることができない想像力の絶対的な貧困にある。バカではない子どもたちはそれを鋭く見抜いているから、表面上は媚びへつらいながら面従腹背の態度をとる。ただしほんとうに恐ろしいのは、子ども自身が権力的支配システムを学んで、同じ秩序を子ども世界に裏社会をつくりだし、番長が支配するおなじようなイジメの構造を作り出すことだ。こうして全社会的な頽廃が、螺旋状のきりもみのように進んで、取り返しのつかない破局に至る。此処にいたってはじめて、残忍な結果に身がすくみ、再生への取り組みが反転して誘発される。地獄を見なければ天国を想像できないのだ。歴史は繰り返される。1度目は悲劇として2度目は喜劇として。私たちは、この悲劇と喜劇の両方をこの目で見なければ立ち上がることができないようにすでにDNAが構成されているのだ。そのような遺伝子決定論に批判的な人は、いま・ここで・すぐに・一歩踏み出すべきだ。全き孤立の中でその勇気を持つ人がいるか。かく云う私自身が、すでにして妥協を賽の河原に積み重ねてきた慚愧にたえない人間の1人なのだ。
 いまいちど澄み切った眼で、1億5千万人の子どもが餓死していくこの地球を見つめよう。共食い状態にある先進成熟国を見よう。この身一つで何ができるかを考えよう。恐れず次の一歩を踏み出そう。アフガンの飢えて死んでいくこどもが、日本から来たボランテイアの青年に云った。「私たちの前を歩いて欲しくない。私たちは引っ張られていくだけだ。私たちの後から歩いて欲しくない。私たちは後ろから押されていくだけだ。私たちと並んで歩いて欲しい。その時に本当の友人になって私は溌剌とした勇気が出る」。(2002/12/12 20:41)

[フランス労働審判所に学ぶ]
 フランスには個別の雇用契約に関する労使紛争を裁く司法機関である労働審判所があり、5年に1度の判事選挙がある。労働審判所は、原則として各県に1つあり、工業・商業・農業・その他・管理職の5つの部門に別れ、それぞれに労働者選出・使用者選出の判事が4人ずつ選ばれ、各部門に和解調停部、急速審理部、裁判部があり、やはり労使同数の判事がいる。労働者は、雇用契約の締結や執行、解約に関する個人的な紛争を申し立てると、審判所は最初は和解・調停部で和解の可能性を探るが、それは10%程度であり、和解できなかった場合は裁判部に送付される。ここで賛否同数で決まらなかった場合は、職業裁判官が加わって裁決をおこない、控訴審以上は司法職の判事からなる通常裁判所で判決が出る。急速審判部は、職場復帰など緊急を要する事態に暫定的な執行命令(行政処分)をおこなう。労働者代表の判事選挙は、複数の組合が候補者を立て雇用契約を結んでいる全ての労働者に投票権がある。労働審判所が、1年間に処理する事例は、およそ20万件であり、労働者側の勝利が約80%に上る。労働審判所は、職場に社会的正義を実現する重要なツールとなっており、不当解雇を受けて職場復帰することははるかに容易となっている。
 さすが直接民主主義をめざしたフランス革命とパリ・コミューン、対独レジスタンスをくぐり抜けた民主主義国家フランスだけはある。不当解雇後数十年を経てやっと和解が成立するどこかの国とは、根本的に異なりため息が出る。こうしたフランス基準がEU基準となり、やがてはグローバル・スタンダードとなって、海外展開する日本企業の労使関係を規制する大きな役割を担うだろう。日本企業は、いやおうなくこうした国際基準の洗礼を浴び、やがては日本国内の労働基準に対する誘発効果をもたらすだろう。哀しいけれども、こうした外圧でしか事件基準を前進させられない哀れな国に日本は成り果てているのだ。
 残念ながら黒船以来、GHQを経て外圧からしか自分の国の歴史を前進させられなかったこの国は、いままさに断末魔にあえいでいる。なぜならつねに国際基準(米国スタンダード)に合わせて戦後を歩んできた日本の哀しい宿命であるのだ。あなたの所属している職場、学園、地域を見よ。常に多数がどこにあるかを戦々恐々としてみながら、自己決定をおこなっている哀れな民衆はいないか。最も怖いのは、若者の世界でこうした風潮が広がり、My Wayを歩んでいく人を逆に孤立させて喜んでいる悲惨な状況が生まれている。(2002/12/11 19:38)

[日本経済の現状をどう見たらいいのでしょうか!?]
 日本の経済の現況を原理的に解きますと、不況のマクロ関係は次のようになります。
(1)供給=国内生産X+輸入Im+純在庫St+海外観光Tf+海外投資流入Ia
(2)需要=家計支出C+国内企業投資I+財政支出G+輸出Ex−海外投資流出Id+外国観光受け入れTi(+海外所得×消費率)
∴供給X+Im+St+Tf+Ia>需要C+I+G+Ex+Id+Tiとなっているからです。
 では不況時の経済行動はどうなるでしょうか。
(1)家計 賃金下降・雇用条件悪化→社会不安増大→消費抑制→需要減退
(2)企業 売り上げ減退→価格低下→金利上昇→金融逼迫→生産縮小→投資抑制→工場閉鎖・リストラ・清算→倒産
 こうした経済主体の合理的行動が社会的不均衡を拡大し、頂点に達すると反転し、好況→恐慌の循環をもたらし、資本主義は維持される。では景気循環に対する政策構想にはどのようなものがあるか。
(1)社会主義:不均衡是正の手段としての国有化・計画経済・生産手段の私的所有の廃絶
(2)19世紀古典派:労働者の抵抗が市場均衡を阻害して不況に陥るから、抵抗を排除する
(3)ケインズ派:需要は消費と投資からなる→資本主義は成長すると需要不足になる→追加的需要を実施する@消費率の小さい高額所得者への課税A財政支出による需要補完B金保有量から自立した管理通貨制度C中立的国際通貨制度。
(4)20世紀新古典派:財政赤字はインフレと怠惰、国家による金融管理による銀行家の自由剥奪
 現在は(3)ケインズ派と(4)新古典派の激しい闘争状態にある。では不況時の短期的な経済政策にはどのようなパターンがあるか。
(1)財政支出による需要補完
(2)金融緩和による投資と消費刺激
(3)為替引き下げと輸出拡大
(4)制度的改良(累進課税、社会保障によるによる所得再分配)
 さてもともと資本主義の景気を規定する要因は何でしょうか。@内的要因としての投資A外的要因としての輸出(世界が同時に不況である時は効果がないか対立を誘発する)B消費は投資に追随する−では投資を刺激するにはどうすればいいでしょうか。@市場全体の拡大A市場フロンテイアの拡大(個別予測利潤率の上昇、戦略産業の設定、技術革新によるコスト低減と品質上昇、新製品開発)B資金確保である。こうした視点から日本経済の推移を見るとどうなるか。
(1)80年代後半−92年:87年まで急激な円高を合理化によるコスト切り下げで対応し輸出回復。好況期に財政支出・金融緩和・規制緩和・労働時間短縮を実施しバブルを誘発した。
(2)バブル崩壊後:円高誘導→輸入増加→企業構造転換、中国の元安政策→中国生産→国内空洞化→内需低迷→財政赤字→金融引き締め→貸し渋り→投資抑制→株価低迷→自己資本率悪化
 このなかで小泉構造改革戦略はどういう意味を持っているのであろうか。
(1)ポスト冷戦期のグローバル化戦略−米国スタンダードと中国市場利用、最適生産地戦略
(2)70年代型日本的システムの解体
 つまり自立的国民経済の解体による究極の企業国家の創出に他なりません。こうした激変戦略はさまざまの矛盾を誘発しています。
(1)グローバル企業と非グローバル企業
(2)製造業と非製造業
(3)大企業と中小零細企業
(4)グローバル企業に支えられたメデイアとグローバル意識(解放意識=みんな地球人)
 しかしなぜこうした矛盾にもかかわらず小泉戦略を支持している階層はどこにあるのでしょうか。
(1)高度成長期後を出発点とする若年層
(2)地方、農業、製造業との関係が希薄化した都市住民層
(3)安価な輸入品を期待する女性、若年層
(4)財政赤字=年金削減、増税、インフレとみる高齢者層
 最後に小泉改革に対するオルタナテイブはあるのでしょうか。
(1)内需拡大・雇用保全→環境・教育・福祉増進型財政支出
(2)金融安定→投資促進
(3)参加と公正原理による日本型システムの改革
(4)円安誘導と元切り上げ
(5)新ブレトンウッズ→変動相場制から購買力平価基準・賃金均等平価、WTO改革(変動幅制限、国民経済保全権、短期資本移動規制、中立的国際通貨創出、中立的国際銀行)
 以上海野八尋(金沢大教授)説を参照して作成。(2002/12/10 23:12)

[読書が禁止された時代があった・・・・]
 昭和期では、本を読むことが奨励されず禁止に近い状態があった。本を読むと赤くなる(!)と言われて、自分の頭でものを考えるようになる読書は抑圧された。確かに当時の読書青年の一般的なパターンは、白樺派(武者小路実篤・有島武郎)→キリスト教→社会主義へんと展開するところにあったように思う。白樺派やキリスト教の理想と社会主義の現実的理念は連続した地平にあったからだ。私自身の読書遍歴を見ても、高校時代の白樺派→キリスト教を経て大学時代の社会主義へと一足飛びに展開した足跡をたどることができる。いま活字離れと言って若者を非難するする人々は、このような読書の弾圧に加担する危険性を持っていると言えなくはない。なぜなら「自分の頭でものを考える」というデンカーの初歩の条件を備えているかどうか、私自身を含めて疑わしいからだ。芥川龍之介の『侏儒の言葉』は、大正天皇と軍人に対する皮肉と警句に満ちているが、現代でこうしたエスプリを発揮すること自体が憚られる雰囲気がありはしないか。現代は、芥川の大正期よりも表現の自由を失いつつある危機の時代だと云えるだろう。
 例えば「ならず者国家」というブッシュが言いだした言葉について考えよう。この言葉は、米国が北朝鮮・イラン・イラクを名指しして「rogue states」と云い、外務省は公式訳語として違法国家・無責任国家と訳したが、朝日新聞が「ならず者国家」と訳して広まったものだ。rogueという英語は、もともとは由緒ある言葉で文語に近い言葉であるが、朝日新聞の意図はそのように他国を侮蔑して云う米国のイメージを非難する意図で訳した。ところが現実には朝日新聞の意図に反して、このイメージはまさに北朝鮮のイメージとしていつのまにか定着していったのです。このイメージが拉致問題と連動して、現在恐るべきファナテイックな拉致非難フィーバーが繰り広げられ、イラク後の戦争準備さえ準備しているかのようです。この間自分の頭で考え判断する異論派の声はかき消され、1億北非難の大合唱という憐れむべき雰囲気が国中に満ちています。拉致犯罪に対する糾弾は当然ですが、それによって過去の罪責を全て洗い流すかの世論の動員は、まるで民衆によるファッシズムのごとき有様です。
 かって読書が禁止された時期があった。現代の日本は、ありあまる読書の自由に目が眩んでしまい、ソフトな情報操作がじわりと浸透しているのではないでしょうか。こうしたソフトな支配のほうが、実は真綿で首を締め付けられる苦しさがあり、多数派に入って安住したい→良心を覚醒させる異端派に対する逆の憎悪→少数異論派に対する包囲攻撃への参加−という螺旋状の悪夢限の論理が働く。行き着く先は善意で掃き清められた地獄であるということが薄々分かっていながら。(2002/12/10 20:45)

[あなたは終身刑の導入をどう考えるか?]
 死刑廃止を主張してきた人たちが、死刑廃止後の代替刑として仮釈放を認めない重無期刑(終身刑)を導入する刑法改正案を提出する。この案は、死刑は存置したまま、20−30年の服役をしなければ仮釈放を認めない特別無期刑を導入し、施行後2年程度の死刑執行停止も盛り込む。理由は、現行の無期刑は10−15年で釈放されるため死刑代替の意味がないというところにある。
 本来自由刑(受刑者の自由を剥奪する)は、反省によって罪を償い社会復帰をめざすという意味を持っているから、社会復帰を閉ざす終身刑は自由刑と矛盾する関係にある。現行の無期刑受刑者の仮釈放数は、激減し、96年9人、00年6人に過ぎず、逆に99年無期囚1000人のうち25年以上服役67人、45年以上服役4人、50年以上の服役者もあおり、20年以内の仮釈放者はほとんどいない。この理由は、98年検察庁通達によって死刑に準じる凶悪囚は仮釈放を認めないマル特無期囚という事実上の終身刑を導入したからだ。
 この背景には、凶悪犯罪の急増があるといわれるが、確かに殺人以外の凶悪犯罪は激増している。その内容は、従来捜査対象外であったストーカーやDVなどが立件されるようになったからであり、もし本当に凶悪犯罪が激増したのなら殺人も増えているはずだが殺人の著しい増加は見られない。終身刑(特別無期刑)は、自由刑の趣旨と矛盾し「重罪だから刑務所で一生苦しめ」という見せしめ刑に近い。欧州では、死刑を廃止し、長期刑を最高20年とする国が増えている(ドイツ、スウエーデン)が、その狙いはどんな凶悪犯でも社会に危険をもたらさないように更正させて復帰させるのが責務とする民主国家の思想がある。再犯の可能性を減らす為の最大限の努力が傾注される。死刑廃止の代替刑としての重無期刑は必要悪としてありえても、死刑を存続したまま終身刑を導入することは許されない。
以上秋山映美論文(『週間金曜日』439号)参照。
 無期刑の定義は「終身拘禁する自由刑。無期懲役と無期禁固の総称。10年を経過すれば仮釈放の可能性がある。終身刑」(『広辞苑』)となっており、終身刑の定義は「一生拘禁する刑罰。無期刑。現行法の無期懲役・無期禁固については10年を経過すれば仮釈放が可能」となっており、事実上無期刑=終身刑と解釈されている。ここに一つの問題があるのではないか。この問題は人の命に関わるので、今回はこれ以上のことは言えない。よく勉強して私自身の考えを構築したいと思う。詳しい人がいましたら、ご教授願いたい。(2002/12/9 22:12)

[30000人が自殺する国日本とは何か!?]
 日本の自殺者数は、1998年に31755人を記録し、以後4年連続で3万人を越え、なかでも経済・生活問題が動機となっている者が、6845人で過去最悪となり、40歳以上の中高年が全体の75.5%を占めた。自殺者一人に対する未遂者数は約10倍で、身近な人のうち5人が影響を受けそれは10年以上に及ぶとされるから、日本では150万人が直接関係し、約160人に1人が身近な自殺を経験している。自殺者の遺児は90000人に上る。戦後50年間で云えば、50年代、80年代に次ぐ戦後3回目の山が来ている。自殺者の男女比は、一貫して男性が高い比率を示し、ここ数年では男性が女性の3倍である。年齢で見ると、50年代は中高年ではなく青年期の自殺が深刻であったが、80年代以降男性中高年が圧倒的多くなっている。この世代は、子ども時代に戦争と貧困を、少年期に敗戦による価値観の転換を、壮年期に高度成長期を経験するという戦後日本史の中枢世代である。自殺の地域的特徴は、男女とも秋田県がトップであり、奈良・滋賀県が最低であり、全体として農山村部で高く、若年女性は大都市部でも高い。
 自殺率急増の背景には何があるか。男女ともに1998年から急上昇に向かうが、98年は失業率が大きく悪化する年であり、明らかに失業率と自殺率は相関関係にある。91年のバブル崩壊後必死にもがいた人たちが、数年を経て絶望して自殺に至ったのである。産業別自殺者率は、鉱業(6倍)・林業狩猟業(3倍)など斜陽産業での自殺率が高い。
 しかし今回の自殺率急増の特徴は、従来の失業者ではなく就労者の自殺が急増し、就労年齢ではない未成年・若年・高齢者・女性など全ての世代にわたって自殺率が急増していることである。在日韓国・朝鮮人を含めて社会的弱者とマイノリテイーに自殺者が集中してきているのだ。私は、今までの日本的集団主義が崩壊し、自己選択・自己決定というシステム転換によって優勝劣敗が進み、痛みを伴う構造改革が全ての根元にあると思う。小泉純一郎の罪は万死に値する。
 自殺対策のポイントは何か。量的に多い都市男性中高年に焦点を当てるのか、より自殺リスクが高いマイノリテイーに焦点を当てるのか−ここにポイントがある。たとえば、高齢者が自らを邪魔者と規定して命を絶つとか。孤立と孤独の深化によって自殺に至る青年層とか、社会的リスクが高くない層への対応を後回しにするのはやむを得ないことなのか。
 私たちは今、心の深層に不安を抱えつつ一方向に向かって、雪崩を打って突っ走っている。一端立ち止まるべきである。はたしてこれでいいのか、小泉純一郎を60%が支持していていいのか冷静に再考すべきである。華やかなサクセス・ストーリーの裏で累々たる遺体が積み重なっているような社会をつくっておいていいのか。このような社会を次世代に渡していいのか、再検討すべきである。自殺者=弱者=自己責任として冷酷に放擲するような社会をこのまま続けていっていいのか。
 さらに1998年以降凶悪犯罪発生件数が急増している。つまり、社会的不適合の心情は、自己に対する自虐的な攻撃に向かえば究極に自殺があり、他者に対する攻撃に向かえば凶悪犯罪に至るという構造にあり、メダルの裏表の関係にある。日本社会は、基本的に末期的症状にあり、いずれにしても希望を語ることが空しくなる社会となっているかに見える。果たして夜明け前の闇は深いと言えるか。夜は明けないまま崩壊に至るのではないか。こうした失望の突破口として、外部への攻撃=戦争を準備しているのが政府の戦略である。いつか来た道を再び歩み始めようとしている日本の現状を鋭く見つめ、最後の黙示録の世界を深い希望の世界を指し示す密やかな道が準備されていなければならない。我慢できない人は、アルカイダ=テロの道を選ぶであろうが、それは螺旋状に無限地獄への転落を意味している。このように課題が重いからこそ、じつは未来を開くほんものの試行が試練にさらされて、よりホンモノになっていくのである。21世紀はこうした選択を否応なく迫る緊迫した世紀となっている。
 いままでこうしたアイデンテテイー・デイスオーダー(人格障害)は不適応としてカウンセリングの対象であったが、むしろ彼等の方が健康な人であり、異常なシステムに適応している人の方が不健康なのだ−というカウンセリングの大転換が誘発されている。正常な市民生活を送っている人がじつは深い所で不健康を隠蔽しており、彼等の中から自殺者が発生しているのである。こうした社会は、すでに社会の基礎的なシステム条件を決定的に欠落させている。(2002/12/9 20:16)

[9.11以降の世界構想について]
 9.11による近代社会の脆弱性が露呈された。第1に、知らない人間に対する信頼で成立する社会(近代的公共圏)のゆらぎ、第2に公安の逆説の顕在化(自由を守るための公安活動が、逆に市民の自由を抑圧する)、第3にローテクによるハイテク破壊活動の顕在化、第4に政治的怨念の宗教的原理主義による正当化、第5に法的意志の貫徹と社会政策の関係のゆらぎ(テロリズムのに対する断固たる断罪とその基盤に対する許容)、第6に自由概念のゆらぎ。
 自由の行使の前提には、「君が僕であっても耐えられるか、そうでなければこの関係は不公正だ」「君が社会のどこに生まれ変わっても耐えられるか」という公正原理がある。このような公正原理は、先進国で一国的に外部を犠牲にして実現してきた。グローバライゼーションは、軍事力の一極集中・高度情報化社会・アメリカ的生活様式という三位一体である。途上国の「幸せになろうとしてシステムに適応したら、果たして幸せになれるのか」(キャッチアップ適合不全の悪)という逆説が問われる。すでに米国精神医学界では、ひきこもりや不登校のパーソナリテイー・デスオーダー(人格障害)の」ほうが実は健康なのであって、無理のあるシステムへの強制的包摂自体が不健康なのだとする学説が登場している。途上国の貧困は、こうしたキャッチアップ戦略によって誘発されており、テロリズムは現代のネオ・ラッダイド(打ち壊し運動)に他ならない。先進国と途上国の関係の絶対性は、無辜の民衆や子どもを巻き込むとしても、それを越えてそそり立つ絶対的な関係である。別の絶対性によって対抗することは虚妄であり、内発的な止揚しかあり得ない。テロ=アルカイダは、実はアフガン民衆自身が「おまえ達は要らない」ということによってはじめて克服されるものであって、報復戦争によって駆逐しても無限の怨念の連鎖が再生産されるだけである。
 しかし現代では人権基準が反転し、「疑わしきは罰せず」=「百人の罪人を放免しても、一人の無辜の民を救わねばならない」という近代人権理念が逆転し、市民が国家を監視するのではなく国家が市民を監視するシステム転換が起こっている。
 人間の歴史は、連結された長い列車であり、先頭車に自由と豊かさを満喫する先進国があり、後ろに抑圧される途上国の列車がある。前方は豊かさ故の不幸を抱えているが、決して後車両には移らず、後車両は貧困にあえぎつつも先頭車に追いつこうとしている、そのような一方向へ走っている列車の連結態として地球がある。この列車の方向性を常に冷静に点検しつつ、人類は走って行かねばならない。この関係の絶対性を、ローテイーは「入れ替え可能性」、ロールズは「初期条件の平等」、ノージックは「自由な個人の選択」によって乗り越えようとするが、なぜ現実はうまくゆかないのか。以上『論座』2003年1月号参照。

[拉致被害報道をめぐるファナテイシズム]
 コロンビア大学ジャーナリズム専攻学生への質問−「あなたが戦場で取材中に、そばで兵士が傷ついた。取材を続けるか、兵士を救うか」8:2で救うと答える学生が多い。次にベトナム戦争の悲惨を伝える沢田教一写真集を見せ「この写真がすくなくともベトナム戦争の終結を2年間早めた」と説明すると、答えは逆転し2:8で取材を続けるが多くなる。筑紫哲也氏は、この例によってジャーナリストの職業倫理を説明し、取材を優先すべきだという。
 このような極限状況における行動の選択をどうするかは、何もジャーナリズムだけではなく、全ての市民生活が日常的に直面している問題だ。そのような選択の究極の事例として、アウシュヴィッツのコルベ神父、山手線で墜落した人を助けて轢死する行動があり、今回の北朝鮮拉致残存家族への取材がある。筑紫哲也氏は、取材行動の継続をジャーナリストの崇高な職業倫理とするが、そこに特権意識を感じる人もいるだろう。なぜならジャーナリズムが国家の論理を越えて情報の真実のみに献身するという神のごとき使命を持っているならば、現在の日本のマスコミ状況は余りにも惨めな北朝鮮バッシングを狂信的に展開しているからだ。まるで戦時中の大本営発表のように、一方向への流れをファナテックにつくりだしている状況となっている。
 個人の尊厳が地球より重いとすれば、明らかに個人の自由意志を最大限尊重し、国家の論理に埋没させてはならないはずだ。帰国した被害者と北朝鮮に残っている家族の個人としての自由意志こそ、なにものも奪うことができない基本的な生存権としてある。北朝鮮と日本という国家の論理を越えて、拉致被害者とその家族の生まれながらに持っている居住の自由を実現しなければならない。このような観点から筑紫哲也氏の取材が展開されているならば、私は賛成する。
 しかし現状は、北朝鮮国家自体の解体をめざす勢力のキャンペーン戦略に拉致事件が利用され、あらゆる敵視政策と迫害が在日に対して加えられている。あたかも長期不況下で沈殿したストレッサーを排外主義的に弱者攻撃に転化する絶好の材料であるかのように。とくに在日教育機関に通学するいたいけな幼児に対する迫害は、日本の一部にまるで動物的な本能でしか行動できない人の存在を実証し、恥じ入るばかりだ。かって無数の民衆を虐殺し、強制連行した日本国家と日本人に対して、東アジアの民衆が同じような迫害を加えたと想像したら、日本人はどうするのであろうか。現時点でそうした迫害を日本人に加える東アジアの民衆は一人もいないなかで、日本の國の中で在日に対して迫害がおこなわれている。在日は、日本が怖くて住んでいけない國になり果てようとしている。
 再度繰り返す。自由往来を拉致被害者と家族に保障し、自由意志による初歩的な居住の自由を先ずは保障すべきである。(2002/12/8 8:33)

[20億光年の孤独 谷川俊太郎]

 人類は小さな球の上で
 眠り起きそして働き
 ときどき火星に仲間を欲しがったりする

 火星人は小さな星の上で
 何をしているか 僕は知らない
 (或いはネリリし キルルし ハララしているか)
 しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
 それはまったくたしかなことだ

 万有引力とは
 引き合う孤独の力である

 宇宙はひずんでいる
 それ故みんなはもとめ合う

 宇宙はどんどん膨らんでゆく
 それ故みんなは不安である

 20億光年の孤独に
 僕は思わずくしゃみをした

 −私の部屋の壁に天才物理学者アインシュタインが、眼をいっぱいに開けて、ベロを大きく出してあかんべ−をしている写真が貼ってある。彼はいつも私の貧しい思考を嘲笑い、いいかげんにしておけ!無駄な抵抗はやめよ!と皮肉っぽく語りかけてくる。谷川俊太郎のこの詩は、実にアインシュタインの写真にピッタリであり、ジタバタ、ドタバタ、クヨクヨといったつまらん世俗の迷い事を吹き飛ばすような気にさせる。とにかく20億光年!の孤独!という想像力がすごいので、発表当時はおそらく衝撃を与えたのではないか。それをくしゃみで日常に戻してしまう転換がまたすごいのだ。ただし谷川の詩は、この小さな惑星の上で飢えて死んでいく幼子をつくりだしているたった一つのエイズウイルスの恐怖には思い及ばない。彼の詩の決定的な限界!!彼がエリュアールやマヤコフスキー、アラゴンに及ばない理由・・・・。(2002/12/7 10:22)

[四時零落して・・・・・]

 四時零落して三分減じぬ 万物蹉蛇として過半凋めり 醍醐天皇

 『和漢朗詠集』「冬」所収の醍醐天皇作(宇多天皇第1皇子で第60代天皇 延喜の治をおこなう)。−四季空しく過ぎ、春夏秋冬の4分の3は減じて今は冬が残るのみ。万物萎縮して大半は凋落している(大岡信)。ウーン漢詩調の和歌ではあるが、なかなかのもんだ。まるで現代の世相に通じているではないか。東京山谷涙橋の朝4時のドヤからでてきた数百人が手配師のミニバスを待っても、たった数台しか来ない。あぶれた男達が山谷労働センターの朝6時開門と同時に殺到するが仕事はなく、玉姫と河原町のハローワークに行っても仕事はなく、空は明るくなって今日のあぶれがきまる。日本経済を底辺で支えてきた山谷は、今や労働者よりも生活保護受給者の宿泊施設であり、労働者は路上生活へと移っている。以上朝日新聞 天声人語12月7日付け参照。
 高校生の就職内定率は今年も最悪を記録し、9月末で33.4%、10月末で51.9%、2人に1人しか決まっていない。10年前に160万人以上あった求人は15万人に急減し、逆に希望者は20万人いる。とくに女子の就職が厳しく、従来の販売職はほとんど短大と大卒にシフトし、生徒は人身売買のように買われていく。求人倍率は91年次の3.27倍→0.72倍に急落し、企業の独身寮はガラガラの状況だ。不況下においても各国は若年雇用対策を強めており、雇用対策費の対GDP比をみると、フランス0.42,イギリス0.15,ドイツ0.09と年々上昇させているが、先進国でただ一つ統計がない国がある。我が日本であり、0.00%に無限に近いのである。若者が、自分の未来に希望を失うような政策を次々と実施しているライオンヘアーは、犯罪や麻薬と退廃文化を蔓延させて、尚かつ痛みに耐えよ−とどこ吹く風だ。
 「このままいくと21世紀の半ばに、日本は先進国から脱落する。昔、アジアの東に日本という国があった」と云われるようになると、ノーベル賞経済学者ガルブレイスは、小泉構造改革を痛烈に批判したが、すでに手遅れの取り返しのつかない段階に入ったような気がする。醍醐天皇はまさかこのような時代を予測したわけではあるまいが、まさにピッタリではないか。ただし彼は御所の高見から赤子を見下ろして宣うたに過ぎないが・・・・・。(2002/12/7 7:52)

[男女混合名簿について]
 最近各学校でクラス名簿を男女混合に変更するところが増えている。今までの男子・女子のアイウエオ順に慣れ親しんできた人の間でも、表だった反対の声は弱くなってきた。この背景には、男女差別撤廃条約以降の世の中の大勢の流れがあることは疑いないが、こうした大勢順応主義の賛成論には少し疑問を感じる所もある。表面では賛成しながら心の中では、つまらんことだと思っている、特に男性が少なくないのではないか。はやりのジェンダー論(社会的性)をふりかざして真っ向から主張されると、とても反論できないし、少しでも異議を挟めば後から袋だたきに合うので黙って賛成するしかないと云う雰囲気もある。という訳で今回は男女の呼称順について少し考えてみたい。
 レデイファーストの欧米で、なぜサムソンとデリラ、トリスタンとイゾルデ、ロミオとジュリエットというように男を先に呼ぶのだろうか? 江戸時代はなぜお軽勘平やお染久松のように女性を先に呼ぶのか(逆に安珍清姫は)? 明治以降現代に至るとなぜ男を先に呼ぶようになったのか? 例えば寛一お宮、ヒデとロザンナ、大助花子(大助は花子に頭が上がらない)などなど。中国でも梁山泊と祝英台のように男を先に呼ぶ例が多い。
 江戸期の浄瑠璃や歌舞伎の世界では必ず女が先に呼ばれるのはなぜか。浄瑠璃は女人救済を主眼とする宗教的芸能であるから、救われるべき本体は女であって、男ではないからだとする山本健吉説が有力だが、ほんとうにそうなのかどうか分からない。安珍清姫や権八小柴のように男を先に呼ぶのは、単なる口調の関係であるに過ぎないと云う丸谷才一説は正しいのか、これもよく分からない。最近大流行の日本語本ではどのように説明しているのだろうか。ここらで待ってましたとばかりに登場するに違いないフェミニズムジェンダー論の上野千鶴子氏の分析を聞けたらと思う。これから男女混合名簿を導入しようと云う学校では、ジェンダーについての理解を深める絶好のチャンスではあるだろう。(2002/12/6 21:39)

[鬼子母神人食い夜叉考]
 鬼子母神は、ハーリテイ(訶利帝母)が原型で夫パンチカとともにカシミール地方で隆盛した鬼子母神信仰に由来するとされる。安産、kどもを守る御法神として、インド特にネパールで人気があり、愛母子、歓喜母とも呼ばれる。鬼子母神は500人の子供を持ち、他人の子どもはさらって食べるという恐ろしい夜叉であった。ある時、釈尊が諫めて彼女の最愛の赤子をの一人を鉄鉢の底に隠した。彼女は動転する悲しみのなかで、子を想う母親の心を諭されて改心し、釈尊は人肉の代わりにザクロを与えて慰めたという。鬼子母神はそれ以来吉祥果ザクロを持つようになった。
 ザクロは種が多く、多産と豊饒のシンボルであったが、その名の由来はペルシャのザクロス山脈であり、中国に漢の武帝の時、西域に派遣された張けんが安石国(ソグド)からもたらし、安石瑠・石瑠の字が当てられた。ユダヤ神秘主義(教典『ソハール』)ではアダムの前妻の豊饒神リリトに、人さらいや人喰い話が纏わり、キリスト教ではザクロは神の最高の神秘と偉大さを示しているとされる。
 インドから中央アジアを経て中国にいたり、次いで日本に伝播した鬼子母神は、東京入谷が有名で、「恐れ入谷の鬼子母神」といって畏怖されているのはよく知られている。 
 私の生まれた村にも里のはずれに鬼子母神といわれる何かお宮のようなものがあり、意味は分からないまま懐かしい遊び場となっていた。今でも残っているだろうか。インドと私の村がこのようにつながっていることを知って、文明の伝播のはるかな空間と時間の距離を実感し、さまざまの感慨が浮かび上がる。仏教の、天地垂迹の、民俗化していく外来宗教の日本的習俗化など民俗学の豊かさを想像したり、中尾佐助の照葉樹林文化論を思い浮かべたり、実に底が深いとしみじみと想う。それにしても子どもを500人も持つ母親の存在など、日本文化では決してつくり出せない物語だ。(2002/12/6 20:45)

[エミール・ゾラ没後百周年に]
 自然主文学者で19世紀後半のフランスの文豪エミール・ゾラは、1840年に生まれ1902年にこの世を去って今年は100周年である。ゾラの代表作は『居酒屋』『ナナ』が有名だが、実は近代産業社会の矛盾を赤裸々に描いて、高度資本主義社会の将来を予言した最初の文学者でもある。彼が生きた19世紀後半は、商工業が発展し、都市化が進行し、情報化の時代が幕を開けたまさに興隆する資本主義のまっただ中にあった。マルクスが『資本論』第1部を刊行したのが1867年であり、ゾラ27歳の時であった。ゾラの代表作『ルーゴン・マッカール叢書』全20巻は、南フランスを舞台に、実業家から芸術家、労働者・農民、娼婦の生き様がリアルに描写され、矛盾に満ちた近代産業社会の全体像が浮かび上がる野心作だ。バブルや地上げを描いた『獲物のわきまえ』、株価操作やインサイダー取引を演じる『金』、ブランド品に殺到するバーゲンセールを描いて大衆消費社会を浮かび上がらせた『ボヌール・デ・ダム百貨店』などなど近代都市にうごめく欲望をアクチュアルに結晶させた。
 美術評論家であった若きゾラは、スキャンダルを巻き起こしたマネの≪オランピア≫の現代性を最初に賞賛し、晩年のゾラはドレフェス事件でユダヤ人擁護の論陣を張り、冤罪を勝利に導いた。。ゾラは自然主義の手法で産業社会の疎外をリアルに活写し、他方では美の狩人、真実・正義の人としてフランス文学に不滅の足跡を残した。以上宮下志朗「いま明かされるゾラの全貌」(雑誌『機』131号)参照して記す。
 このような巨大な普遍人的な文学者は、日本には少ないかまたはいない。なぜか。ただ単なる時代の相違ではなく、文化の違いだ。ルネサンスのユマニスムを通り抜けたフランス知識人は、その教養と視野の広さや鋭い現実観察において、寄って立つ基盤が異なる。そこにはそびえ立つ教会権力と王政への反抗と血なまぐさい争闘をくぐり抜けた、たじろがぬ牢固とした個の尊厳がある。残念ながら我が日本は、民衆が自力で市民革命を遂行した実体験をもたず、この手で王を処刑した経験がない。日本の変革は常に上から(薩長藩閥権力)、外から(GHQ)の力に依存してシステム変革を行ってきた。従ってこうした「上からの近代化」を遂行した国は、必然的にキャッチアップのために開発型独裁の道をたどり、民衆が主体的に自力で何かを選び、何かを実現することを通して個の自立や尊厳の実感を味わうことは少なかった。
 21世紀の日本は、自己決定・自己責任のシステム創出によって国際競争を勝ち抜くという戦略が提起されているが、この戦略すら民衆の主体において出されているのではなく、権力によって権威主義的に出されており、大勢順応主義の横行の中で、勢いとして進んでいるに過ぎない。だからこのような表面の外皮だけの自己責任原理では、ほんとうの内発的な力は育っていないから、象徴王のオーソリテイーが際限なく演出され、民衆の心を蝕んでいる現実がある。こうした真実を見抜いている人も少数いないではないが、子どもの世界で激しいイジメが起こり、ホームレス襲撃によってストレスを発散するように、集団主義の陥穽によってかき消され、悪無限の泥沼に落ち込んでいく。かえすがえすも未完の市民革命を残念に思う。自由民権運動期と戦後民主化期の2回のチャンスがあったが、それも逃してしまった。その主要な要因の一つは、変革を思考する勢力自体が権威主義的な思考に染まり、自分の頭で考え、自分の判断で決断するのではなく、権力側のシステムと同じように権威にすがる体質に陥ったからだ。ドイツのナチズムに見られるヒットラー崇拝現象は、実は私たち自身の内面にも確実にある権威依存思考の究極の姿なのだ。少年少女が熱い眼差しをアイドルに注ぎ、自分を失ってキャアキャアと熱中しているのも本質的には同じであり、それは大人達が次々と交代するヒーロー政治家を日替わりメニューのように追い求めていくのと同じだ。
 立ち止まって目を覚まし、自らの思考を思考せよ。立ち止まって目を覚まし、自らの行動を行動せよ。さなくば、いつか来た道を再び歩んでいくことになる。地獄への道が善意で掃き清まられているのを、あなたはすでに知っているはずだ。(2002/12/5 20:50)

[人口爆発と地球の未来]
 国連人口基金(UNFPA)の「世界人口白書2002年版」によると、02年の世界人口は62億1110万人であり、00年からの伸び率推計は1.2%。人口増加が激しいのはシエラレオネ(4.5%)ソマリア(4.1%)エリトリア(4.1%)であり、乳幼児死亡率トップは、アフガニスタンで1000人当たり61人が死亡した。70年代からの家族計画によって人口抑制が進んだ途上国は経済発展に成功し、後発開発途上国(LDC)は過去50年間で人口が3倍増で、今後50年間もさらに3倍に増大すると予測している。
 世界人口のうち個人所得の上位20%と最下位20%の較差は、60年に30:1であったが、94年には78:1に拡大し、南北格差は激化している。また毎日14000人が感染しているエイズが貧困の解消を妨げ、エイズが経済成長を毎年0.8%抑えていると計算し、今後20年間で20−40%抑制すると推定している。2010年までにエイズ孤児は4000万人に増大し、地球はまさに危機の時代を迎える。女性のリプロダクテイブヘルツ(性と生殖の健康)が途上国で緊急に求められる事態となっている。
 逆に日本は成熟社会とデフレ不況の中で、出生率が劇的に低下し少子化社会を迎えようとしている。日本は次世代を創造することに不安を覚える社会となっている。そこでは基本的に飢餓は解消され、むしろグルメと飽食にうつつを抜かし、希望なき快楽主義に陥っている。毎日大量に廃棄される食材の山が築かれて、TVではおいしいメニューがこれでもかと放映されている。一体何だこの非対称性は!明らかに地球惑星は死滅に向かって密やかな死の行進が始まっているにもかかわらず、娘達は化粧に没頭しケータイで戯れている。敗者になりたくないとして必死に他人をけ落とす受験競争に埋没している連中もいる。ごく自然に集中してコツコツ勉強すれば、だれでも80%は得点可能なセンター試験に血眼になっている、この狂想曲が演奏されている現代日本とは一体なんだ!(2002/12/4 20:12)

[乳幼児の世界が民営化され、障害者がまっさきに解雇される日本とは何だ!?]
 厚生労働省の保育所民営化が本格的に始動し、保育所を評価する第3者評価制度がスタートする。保育園を企業やその他の団体が運営し公的保育制度を抜本的に規制緩和するという流れだ。評価項目は、発達援助・子育て支援・地域連携・運営管理の4点であり、調査方法は、自己評価・調査員の1日訪問・利用者アンケートである。しかしこの評価基準では、保育士数、クラス定数、施設と設備の要件などは除かれている。明らかに国や自治体の財政負担となる項目は排除され、保育環境の質の向上は目的となっていない。
 未来を担う乳幼児の最も大事な時期を、民営化して利潤対象にするということが、明らかに公共財である子どもの保育を蝕む時代が確実に忍び寄ろうとしている。私たちの税金の主要な支出先であるべき保育や教育の世界が金儲けの対象になるという無惨な国に成り果てようとしている。お母さん方は怒らないのか、お父さん方は怒らないのか、保育会社に通う子どもを見て。私はなにもプラトン的な強制集団保育を求めているのではない。保育を営利事業の対象として、儲かったか・損したかのレベルで扱うことの恐ろしさを直感的に指摘しているのだ。
 両親ともに教師である私の息子は、0歳から共同保育所に入れ、小学校では学童保育で生活し、私は公的保育の貧困を身にしみて味わった。共同保育所も学童保育所も親が共同で出資した民間保育であり、その点では民営化の形態ではあったが、決して利潤の対象として経営するというものではなかった。保育内容は、保育士と父母が共同で考えて豊かな保育を展開してきた。息子はそのお陰で人との共同を考える心優しい人間に成長してくれた。私はその点において心から感謝している。厚生労働省の保育所所管者は、自らの
進退を賭けて保育市場化に抵抗すべきではないか。小泉首相は子どもの世界を金儲けの対象とする歴代最悪の首相として後世に記録されるだろう。
 小泉構造改革の下で保育所入所児童総数がはじめて定員を超える事態となった。最小コストで最大受け容れという待機児童ゼロ作戦は、98年に定員の125%まで入所可能という規制緩和をし、01年に無制限となった。ゼロ歳児保育定員が200%を越える園が27もある地域が生まれている。ここではハイハイするスペースもない。待機児童は増大し全国で4万人に達している。これを解消するためには、90人規模で444カ所の保育所が必要であり、これには700億円が必要で国庫補助金は350億円であるから、公共事業費350億円のごく一部で充当できる。70年代には、毎年500〜600カ所が建設されたが、02年ではわずか58カ所に過ぎない。さらに希望が集中する産休明け保育や延長保育は全体の40%に過ぎず、乳幼児保育促進事業も全体の20%に留まっている。つめこみ保育は保育士の加重負担を誘発し何よりも子どもの危険と隣り合わせで進行している。なんだこれは!これが先進国の子育てか!

 民間企業で雇用されている障害者25万3千人が、大不況の中でまっさきに解雇されている。公共職業安定所に届けられた昨年度の障害者解雇は、最悪の4017人(前年度比60%増)であり、今年度上半期はすでに1658人(前年同期8%増)にのぼっている。解雇の方法が残虐で、隔離や遠距離配転によって強制的な退職を強要している。障害者雇用促進法によって、企業は障害者の自立と雇用安定の公共的責任を負わされているなかで、日本の企業は常用労働者の1.8%の障害者雇用を義務づけられているのもかかわらず、実雇用率は1.49%に過ぎない。未達成企業が56%(34400社)にのぼり、大企業の4社に3社は未達成だ。未達成企業のうち雇用計画の作成を命じたのはわずかに0.46%(159社)であり、公表を前提にした特別指導は2社、社名公表はゼロである。厚生労働省は社名公表は「企業の社会的信用度の低下につながる」としているが、障害者差別をおこなう企業が信用されないのは当然ではないか。この原因は、未達成企業の名前が公開されず、常用労働者300人以上の企業は障害者雇用納付金を納めればよい仕組みになっていることだ。ドイツとフランスの法定雇用率は6%であり、米国と英国は障害者差別禁止法で雇用差別を厳しく禁止している。
 小泉首相の「痛みを伴う」構造改革とは、こうした社会的弱者をこの世から抹殺することに他ならないのだ。彼は地獄の入り口で閻魔大王にどのように釈明するのであろうか。天の声を恐れよ!(2002/12/3 19:33)

[ホームレスとは何か?]
 名古屋市の白川公園付近をいくと、青いビニールカバーで覆われたホームレスのテントの集住が見られ、それは年を追う毎に増大している。都市の美観を損なうとした名古屋市は、彼等の自立支援の簡易住宅を造り収容する政策を出したが、就業できない時にはすぐ退去を命じられると云うことで、多数のホームレスが入居を拒んでいる。
 貧民層の経済的定義は、相対的過剰人口(資本の有機的構成の高度化によって生まれる)の最下層をなす沈殿層であり、受救貧民層である。貧民層は、浮浪人・犯罪者・売春婦などのルンペン・プロレタリアートと云われる層と、@労働能力ある者A孤児や子どもB零落者・労働無能力者の3層からなる。以上がマルクス『資本論』の定義であり、ホームレスは本質的にこの範疇に入るだろう。しかしこの定義はあくまで19世紀資本主義を前提にしており、21世紀の貧民層はもっと多様な内容を含んでいると思われる。ルンペンとはドイツ語のLumpenぼろ−の意でいかにも差別用語だ。相対的過剰人口の範疇からはみ出した多くのホームレスが存在し、彼等は現在の社会システム自体に適応し得ない思考と感性と生活感覚を持っている場合もある。例えば、売春が援助交際と呼ばれたり、学校における不登校などは、生活的な問題よりも対人関係が原因の場合が多い。ホームレスにもそうした例がある。しかしどのような理由であれ、ホームレスは零落した最貧困層であることには変わりなく、冷酷な市場原理の犠牲者といえる。まともに就業する機会がなく、たまの稼ぎや公的支援による最低の生活を迫られている点では、19世紀と同じであるから、単なる救済対象として救貧政策で対応するのではなく、社会権を剥奪された者の権利回復として位置づける社会政策をとらなければならない。。
 彼等は納税と労働の義務を果たしていないから、社会福祉の対象とはならないというのは、19世紀的な救貧思想に他ならない。リストラによってホームレスに転落せざるを得ない多くの人の存在は、まさに私自身やあなた、否全国民がホームレスに転落する可能性を持っていることを示している。
 一方中学生によるホームレス襲撃が激化し、東村山市や熊谷市、千葉市では殺人に至っている。ストレスが蓄積した中学生にとっては、ホームレスは無抵抗の社会的弱者として格好の攻撃目標である。しかし私は、襲撃する中学生は、自分自身の未来を重ね合わせて映るが故に余計にイラダチと怒りが沸き起こるのではないかとも思う。こうした中学生を少年法改正による罰則強化で取り締まっても、基本的には効果はない。ホームレスが発生するシステムとホームレス生活に至る過程を綿密に分析し、誰しもホームレスになる可能性を持っているという前提に立って、自立した生活圏の再構築のための社会政策を実施する必要がある。
 ホームレスの存在の量と質、解消のための社会政策は、実はその国の豊かさを測る象徴的な指標であり、私とあなたの福祉水準を示すモデルでもある。(2002/12/2 20:50)

[君は歌声喫茶を知っているか?−丸山明日果『歌声喫茶「灯」の青春』(集英社新書)]
 思わず懐かしくてこの書を千種正文館書店で買いました。学生時代の歌声は私を解放し、友との熱い連帯をつくり出しました。当時の歌は、まさに世界を変えようという熱病に囚われた若者の賛美歌であり、人が信じうるものであるという確かな手応えを身体で伝えるものでした。とくにロシア民謡やイタリア民謡にあふれでるヒューマニテイーは、人間の尊厳を高らかに歌い上げたメッセージソングであったとも思います。当時の私は、ロシアやイタリアでなぜコミュニズムの伝統があるのかを民謡を通じた国民性に求める学説を考えたものでした。その歌声運動の拠点が新宿の「灯」や「どん底」であり、学生時代の私はその名前をうっすらと聞いてはいましたが、カネもなくそのような場所へ出入りすることすら思いも及びませんでした。しかし歌声運動によって私の心の中に沸き起こった無条件の共感はうち消しがたく、就職してから中年に達し3度ほどFSビル6階にある現在の「灯」に行きましたが、その時にはすでに東京大学に入学した私の長男と一緒でした。息子ははじめてそのような場所にいって、「不気味だ、異星人のようだ」と云って拒否反応を示し2度と同行しませんでした。
 いま俳優として活躍している丸山明日果さんは、実は「灯」創設者である丸山理矢の娘であり(父は詩人丸山辰美)、フトしたきっかけで母親の青春を知ってから、母親の青春を探す旅に出て、荒廃した敗戦後日本の激動の青春を追体験することになります。青春という言葉が、まだまぶしく光り輝いていた時代の、貧しい中で必死に生き抜く母親の姿を再発見して、歌声の意味を確認していきます。
 皆さんは、上条恒彦の名前を知っているでしょうか? 彼もここで歌唱指導をしながらメジャーに巣立っていったメンバーの一人です。私は残念ながらノスタルジーの世界でしか回顧できませんし、現在の「灯」の客はほとんど中高年層で占められているそうですが、私はそれでよいと敢えて思います。なぜならそこにはある歌の普遍の世界があり、時代を超えて再生すると確信するからです。興味を持たれた方は、灯ホームページを参照されるか、実際にお出かけください(新宿紀伊国屋裏FSビル6F)。現在は常任指導者青柳常夫さんが親切にリードしてくれます。私がいつもリクエストする歌は、「橋をつくったのは俺たちだ」です。(2002/12/2 19:35)

[思想は長夜の一閃光にに止まる−家永三郎先生逝く]
 高校教科書「新日本史」(三省堂)をめぐる32年間にわたる壮絶な教科書裁判によって、文部省の教科書検定の違法性を問いつつけ日本の教育権史上に歴史的な業績を刻印された家永三郎先生が、11月29日夜89歳で逝去された。あえてわたしが、先生と記すのは、先生が東京教育大学文学部に在籍中に当時若手歴史学者として頭角を現しつつあった先生の授業「日本近代憲法思想史(?)」を聴講する学生の一人であったことにもよる。先生の授業は、膨大な授業ノートをそのまま読み上げ学生はそれを必死で書いていくというものであり、現代のパフォーマンス化された授業からみれば恐ろしく古典的な形態ではあった。しかしそこには、妥協を許さない実証主義的な学問の在り方が漂い、教室の中はせきとして声なくただひたすら鉛筆の音が聞こえていただけである。確か最前列に東大の女子学生も聴講に来ており、先生の学問的な吸引力を実感していた。先生の講義録はただちに岩波書店から刊行されるということも、学生にとっては崇敬の的であり、私たちはそこにある権威の存在を見ていたのである。先生の鶴のように痩せた痩身は、ただひたすら学問にのみ生きる魂のようなオーラがあり、冗談一つ・笑顔ひとつない先生の淡々とした講義は、そのまま学とは何かを静かに滲み通るように伝えていた。学生運動の末端にいて政治的アジテーションに明け暮れていた私は、はじめて実証の尊さを教えられたのである。大学での最終講義で先生は、フランスのアンリ・ポアンカレの「思想は長夜の一閃光に止まる」を引用し、「私たちは研究者として、その一閃光に全てを賭けねばなりません。人間の歴史は有限であります。しかしその有限なる歴史の中で、無限のために私たちは全てを尽くさなければなりません。われわれは全力を挙げて、一閃光を永遠のもの、一切のものとしなければなりません」と静かに語りかけた。
 だから私が就職後、先生が文部省を敵に裁判を起こすというのを聞いた時に、あの物静かな学者が政治的な実践にはいるとは!と正直言って驚いたのである。その後の後半生をかけた先生の戦いは、日本教育史に残る金字塔となったが、私がむしろ尊敬するのはそのような政治の舞台にあっても次々と専門研究を世に問い、あくまで研究者としてのスタイルを崩さなかったことにある。先生は、日本のアカデミズムの最もよき部分を象徴したモデルでもあった。先生の基盤には、太平洋戦争の渦中にあって研究生活を開始する中で、「不作為の戦争責任」を自覚された所にある。戦争に協力しなかったことで免罪されるのではなく、止める側に回らなかったところに責任があるという自覚が、戦後の先生の生き方を規定された。こうした問題意識の結晶が太平洋戦争開始張君に書かれた『日本思想史における否定の論理の発達』という何とも魅力的な題名の論文である。それまでの日本思想史研究が、楽天的な肯定の論理で描かれていたのに対し、先生ははじめて否定・罪業という虚無的な否定の視角から分析されたのである。先生の座右の書は、右翼と軍部の迫害に抗して発禁処分を受けながら自説を曲げなかった美濃部達吉『憲法撮要』であったというが、齢60歳に達しようとしている今、日本はまさに「不作為の責任」が問われる戦争突入期と同じような状況がある。下手なコミュニストより戦闘的な自由主義者の方がより節操があるというが、まさにまさに先生がそうであった。
 先生が最もうれしいのは、、中国新華社通信が「家永氏の人生の信条はいかなる迫害にも自分の学説を曲げず、正義のための闘争において頑強な精神を保った」という論評にあるのではないだろうか。「私は戦争で死ぬべかりし世代だが、生き残ってこの裁判の原告となれたことがうれしい.戦争を止める努力もせず、空しく祖国の悲劇を傍観した罪があり、だからこそ戦争を明るく描けというような要求には屈することはできないのです」といった先生は、立派に「不作為の戦争責任」を果たされたと思う。真理と正義の統一を模索した一人の希有の歴史学者がこの世を去った。合掌・・・・。(2002/12/2 8:55)

[地下経済の横行する日本とは]
 地下経済とは、非合法の所得や利益を追求する経済活動を云い、脱税による所得隠蔽、賭博、売春、密航ビジネス、偽ブランド、違法ドラッグ賭博、八百長、ネズミ講型詐欺などがある。日本の地下経済は、1991年に34兆8千億円のピークを記録後にその後は減税に伴う脱税の減少で縮小してきたが、2000年度で最大19兆3千億円と再び急成長を遂げつつある。その背景には、貸し渋りによるヤミ金融業者の非合法利益、インターネットによる覚醒剤密売や援助交際の増大などがあり、今後の高齢化に伴う税負担を回避する脱税とIT犯罪が増大し地下経済は急成長していくだろう。−以上第1生命経済研究所門倉貴史副主任研究員報告より。
 91年はまさにバブル期の虚業による拝金主義の横行の時代であり、現在は不況下のモラルハザードと情報犯罪にある。小泉改革による弱肉強食とセイフテイーネットの崩壊は、企業と労働の倫理を衰弱させ、もはや何でもありの時代に入りつつあり、カネが全てという状況が蔓延しつつある。ヤミ金融では、サラ金と携帯で融資する090金融が横行し、小口・短期の安易で高金利を貪る傾向が目立つ。違法な超高金利は、10日で125割(年利45625%)など年利換算で10000%を越える事例を含めて大半が数千%の異常なものとなっている。ヤミ金の電話に怯えて切羽詰まっている人が激増している。
 サラ金がスポーツ業界に侵食し社会的に公認され始めている。1995年の世界体操選手権鯖江大会ではじめてサラ金広告が公認された後、サラ金のTVが深夜規制をはずし93年TV朝日がはじめて解禁し、99年に日本TVとフジ、1年にTBSが解禁し今やすべてのTV局がゴールデンタイムを含めて流している。企業メセナが崩壊して企業スポーツが解体する中で、サラ金は最有力のスポンサーにのし上がり、スポーツ界を支配するに至っている。かってはサラ金は家庭崩壊の原因となっており、サラ金が公演する試合は放映しないとされたが、現在はどこ吹く風でモラルハザードが進んでいる。サラ金CMは95年まで年間5000本で推移したが、96年から増大し00年は2万本に激増している。サラ金業界の業績(貸付残高)は、95年の5.2兆円が00年には9.6兆円に倍増している。サラ金を地下経済に参入すると、28兆9千億円の膨大な経済となっている。皆さんは、武富士やアコム・三洋信販などの大手サラ金が堂々と夕方のTVCMに登場し、水泳や陸上の国際大会の主催スポンサーとなっていることに違和感をすでに感じないのではないか。サラ金の新規顧客の50%は20歳代で、30歳代と合わせると実に70%に達し、若者はサラ金を銀行とほぼ同一視している。
 サラ金スポンサーに対する市民の反撃が始まり、00年の全日本大学女子駅伝は、学生スポーツの世界をサラ金業者に売り渡すのは反対という声で遂に「プロミ」の名前がゼッケンから消えた。仙台ハーフマラソンでは、ランナーがあんなゼッケンを付けて走りたくないという声で、アコムの名前が98年から消えた。このマラソン運営費は子が0000万円を負担し、アコムの協賛金はたった70万円であった。
 こうした拝金主義の横行と比例して、エイズの大流行が進んでいる。2年度末の全世界エイズ患者・感染者は4200万人で、今年の感染者は500万人、死者は310万人に上る。サハラ砂漠以南が2940万人(70%)で、特に南部アフリカ6カ国の成人人口2600万人のうち500万人が感染し、15歳未満の子ども60万人が感染している。アフリカ25カ国で85年以降農業労働者700万人がエイズで死亡している。これらの国の平均寿命は、周辺国に比べて30歳短く、たった一つのウイルスのために70−80年前の平均寿命に戻してしまった。毎年新たに教師になる2倍の速度で先輩教師が死亡し学校教育は崩壊しつつある。さらに東欧と中央アジアに拡大し、2年の新たな感染者が25万人で総数は120万人に達している。アジアでは、昨年比10%増の720万人が感染し昨年だけで49万人が死亡、15歳から24歳までの若者の感染者は210万人である。インドの感染者は現在の4倍以上の2000万〜500万人に増大し、中国の感染者は100万人で10年後には1000万人に増大すると予測され、インドと中国で世界の50%を占めてくると予測される。中国の感染者の60%が29歳以下の青年であり、感染経路は、薬物注射68%・採血9.7%・性的接触7.2%・血液製剤1.5%・母子感染0.2%・不明13.4%である。危機は遠いアフリカの話ではなくすぐそこに迫ってきている。日本では、昨年記録的な621人が感染し(ほとんど男性)、その40%が10−20歳代の少年でエイズウイルスが蔓延する傾向にある。ユニセフによると、現在の世界のエイズに感染している子どもは300万人で、親のどちらかを或いは両親をエイズで失った子供は1340万人であり、世界のエイズ孤児の数は2010年で2500万人に達するとしている。エイズ治療薬は安価となり、患者一人当たり年間350ドル(4200円)で済むが、それでも貧困層は買えない。各国が支出した基金への拠出総額は2600億円(日本は240億円)でしかなく絶対的に足りない。
 麻薬や覚醒剤の蔓延はエイズ感染者を激増させ、結果的に地下経済を繁栄させている深刻な現状がある。ネオリベラリズムのモラルハザードは人類の生存自体を危機にさらしている。とりあえずサラ金のCMを禁止し、スポーツ界のスポンサーから駆逐することが必要不可欠だ。プロ野球ホーム球場11のうち、サラ金広告は8球場で20社以上が掲載し、サラ金広告を拒否しているのは甲子園・広島・神宮の3球場であり、いずれも公共性にふさわしくないとしている。米大リーグでは選手がユニフォームを着用してタバコや酒のCMに出ることは禁止されている。(2002/12/1 17:25)

[遺伝子組換え作物のポリテイカル・エコノミー]
 環境ホルモン(内分泌攪乱化学物質)、牛海綿状脳症(BSE)、虚偽表示、抗生物質漬けの養殖魚、年20回農薬を散布する蜜柑など健康でいるためには断食しなければならない状況があり、食に対する不信は極限に達している。遺伝子組換え技術による新種開発も加速されている。
 遺伝子組換え作物の開発推進論の根拠は、農業者利益論(農業の技術革新による農業利益上昇)や途上国利益論(飢餓救済の技術開発)・消費者利益論(安価で多様なの食生活実現)などにある。しかし現実には、農業者は市場競争に駆り立てられ、新技術導入のコスト負担が増大し、途上国飢餓の根本問題は解決されず、消費者は食の安全性を脅かされている。農業バイオテクノロジーの基本的な欠陥は、農業をめぐる社会経済的な問題を技術突破論によって打開しようとする技術至上主義にある。基本的には、農業の工業化を推進するバイオメジャーと呼ばれる多国籍アグリビジネスの農業=私財観にある。バイオメジャーは、植物育種者権制度・公的農業研究の駆逐・安全性評価制度などの制度構築を通じて、さらに流通・加工業を巻き込む農業産業構造全体の再編成をめざしている。遺伝子組換え作物の種子価格プレミア、開発企業利益、農産物価格の低落など複雑な問題を誘発させて、技術評価やリスク管理・知的財産権をめぐるWTOや生物多様性条約を舞台とする著しい対立を生じさせている。
 遺伝仕組換え作物の当面する課題は、市場における適正な管理と研究開発段階における市民参加と合意形成が制度的に可能かどうかという点にある。適正な管理の基準は果たして成立し得るのか、誰がどのようにして決定するのか、市場のでの適正な管理自体が途上国と基本的に背理するのではないか。先進国市民だけの参加によってそうした決定をしていいのか−等々問題は未踏の領域にある。
 おそらく原理的には、科学技術社会論(STS)による農業技術分析、農産物=公共財性の問題に関わり、突き詰めれば生命操作を含む生命倫理の問題とも関わるすぐれて本質的な問題をはらんでいる。(2002/11/30 23:26)

[いま日本文化が滅びる兆候がある−大江健三郎氏について]
 いま小泉首相の言辞が一定の支持を得ているのは、文字にすると意味がないのに話をすると力を得る扇動政治家の本質があるからだ。石原慎太郎のような極右が支持されているのも同じことであり、こうした日本型ナショナリズムは日本の危機を強調しながら自分たちの支配構造は安泰だと思いこんでいる。しかし彼等の言辞の現実的な破産が明らかとなって国民の支持が失われた時に、彼等は凶暴な本質を剥き出しにしたファッショ暴力を振るうだろう。
 現在の日本を覆っている背景には、言語論的には批評を喪失した会話主義の蔓延がある。対話やトークショーなどの話し言葉が日本文化を覆い、それを煽る安易な出版現象によって、翻訳書は『ハリー・ポッター』が占領して翻訳書の衰退が著しく、日本は文化的な鎖国状態に陥りつつある。
 トークシンク(談話思考)が登場したのは、作家菊池寛による雑誌『文藝春秋』での座談形式の企画に始まる。トークシンクの流行は、書き言葉による内省的な思考回路を衰弱させ、戦前期の国体思想の制覇を実現した。『文藝春秋』の座談会の開始と治安維持法の制定が同時期であったのは、話し言葉のちからと天皇制的思考が結びついたものであることを示している。話し言葉は、書き言葉に比して決定的に他者理解と媒介的思考が弱いのである。以上東京大学言語態シンポ(11月)より。 
 しかし話し言葉の本質批判が、シンポ形式で語られるというアナロジーはなんとしよう。私は、戦前型思考の特徴は、むしろ難解な書き言葉(例 西田幾多郎など)によって基礎づけられた観念的思考にあり、リアルな事実に基づいた自由闊達な話し言葉が成立せず、個の自立した思考回路が絶たれたことにあると考える。ジャーナリズムがレベルの低い情報の場として軽蔑され、結果として講壇アカデミズムが天皇制と結合し、国民意識を主導する結果となったのではないか。このような超越的な書き言葉主導の文化に対して、リアルな思考を重視する戸坂潤などの潮流は「おけさほどにも広がらず」敗北していった。従って話し言葉の流行は、庶民が個として自他を語り始めたという積極的な意味をもはらんでいるのであり、真の戦場は「話し言葉か書き言葉か」という対抗ではなく、多様な思考表現のなかで個の自立した思考に裏付けられた双方向的なコミュニケーションをどう豊かに展開するかにあると思う。つまり話し言葉自体に問題があるのではなく、話し言葉の質に問題があるのではないか。大江健三郎氏の重大な問題提起を踏まえながら、あえて私は大江氏の限界を問いたい。(2002/11/30 8:10)

[2002年末は人類生命史の画期となるか]
 今年4月にクローン技術を使って3人の女性が妊娠したと発表した医師セベリノ・アンテイノリ(伊)は、26日にローマで記者会見し、来年1月にクローン赤ちゃんが誕生するとことを明らかにし、胎児は2500−2700cで生育は順調という。女性の国籍・出産場所などは秘匿している。27日に新興宗教団体ラエリアン・ムーブメント(拠点・スイス)は、世界初の女の子のクローン赤ちゃんが年内に誕生する予定であると発表した。計画を指導しているフランス人科学者ブリジッド・ボアセリエ氏によると、クローン赤ちゃんを既に妊娠しているのは、米国人2人、アジア人2人、ヨーロッパ人1人の計5人であり、最初に出産するのは米国人女性だという。
 クローンは、ギリシャ語で「小枝」の意で全く同じ遺伝情報(DNA)を持つ生物を意味する。体細胞クローンは、動物の未受精卵の核を取り除いた後に体細胞から取り出した核を移植し、それを母体に戻して妊娠・出産させる方法であり、これまで羊や牛で誕生しているが成功率は低く誕生後の病気が多発しており、開発途上の技術である。
 国連や米国・EUをはじめ全世界のほとんどがクローン人間計画を禁止しているにもかかわらず、もはや無視し得ないクローン出産の潮流が実態として進展している。イラク核開発の危機を煽りながら、この人類生命史の原理問題について暴走が許されている。生命操作問題は、宗教や倫理の領域から現実の人権問題を左右する基本問題となっている。生命に関するあらゆる学問的領域からのアプローチが数ヶ月の範囲で集約され、国連主導においてクローン妊娠と出産に関する決定的な強制力を持つ指針を国際基準として決定する必要がある。同一のDNAと遺伝子構造を持つ人間がこの世に複数人工的に創造されることを許すのか許さないのか。
 残念ながら現時点で私は、生命倫理学・生命工学・生命思想・生命科学について充分な知見を持ち合わせていないから、ただ単に直感的に述べているに過ぎない。神による生命創造説であれ、自然進化説であれ、一つしかないいのちは地球より重い−という個の尊厳の思想はとりあえず有効性を失う。それに立脚した近代思想や文学、法体系など全ての存立根拠が崩れ去るのではないか。すべての「わたし」は消え去り、後には人工的に創造されたヒトの大勢が残るだけとなる。
 さて遺伝子が同じなら同じ人間というのは間違いで、環境因子によって生命は大きく異なる(オオカミ少年)。一卵性双生児でもきいんさんぎんさんと同じく違う。クローン技術の応用は、同じ遺伝子を持った動物を無限に生産できる。米国の育種会社は、良質の霜降り肉を得るためのクローン牛を大量に生産している。最大期間における最大多数の最大幸福という修正功利主義の考えがある。人間のクローンは不妊治療から発達した。最初の試験管ベイビーであるルイーズ・ブラウンの誕生(1978年)は、受精卵がどの時点で人格となるか、胚と凍結卵の管理を問う深刻な問題を提起した。カソリックを中心とする「生命の尊厳」派は、精子と卵子が結合する瞬間を人格の誕生とみなし、すべての実験や中絶を禁止した。他方の女性の人権派は、胎児の人権を否定し、妊娠22週未満の母胎の自己決定権を主張した。しかし受精卵がどこから人格を持つかという境界線は原理的に非常に困難だ(英国ノーワックは14日目の原始線状の形成をいう)。現在は妊娠23週目の人格の承認という法的規定がある。
 米国生命倫理委員会は、クローン計画を否定した上で例外として3つの例を挙げている。@互いに致死性の劣性遺伝子を持っている夫婦が、劣性遺伝子を持たない細胞を使ってクローン子供を作る場合A自己で父親と子どもが死に、母が赤ん坊の細胞を使って体細胞核移植により子どもをつくる場合B致死の病気を持った子供の両親が、死にかかった子どもの細胞からクローン人間をつくり、新しい子どもからの骨髄移植により歳の違う一卵性双生児ができる場合。
 さて臓器のクローンは、脳のないクローン人間をつくることにより、生物的には人間だが、倫理的には人間でない命を創造すると云うことだ。脳のない胎児は、最初から胎児の属性だけを目的に、生きることができない人間を創ることであり、それはまさに臓器工場に過ぎない。(2002/11/29 20:23)

[マジッド・マジデイ(43)イラン映画監督インタビューから考える]
 氏は『運動靴と赤い金魚』など貧しさの中でけなげに生きる子どもの世界を描いて全世界で注目されているイラン映画監督だ。テヘランで毎日新聞記者のインタビューに答えて、9.11以降の世界を語っている。
 -米国は9.11の原因が自国にあることに気づかず、他国を脅かし続けている。アフガンの子どもたちは、米国からもタリバンからも苦しめられ、一片のパンで死と生が決まる状況に置かれている。パンをもらった子は生き、もらえなかった子どもは死んでいく。しかし子どもたちは希望を失っていなかった。子どもたちにチョコレートを持っていったが、子どもたちはチョコレートよりも風船のおもちゃをほしがった。生死をさまよう子どもたちが遊ぶことに対するエネルギーを持っていることに希望を感じた。米国のイラク攻撃は、世界の指導者の想像力の欠如のひどさを示している。爆撃の犠牲となる民衆の姿を想像できない。私は、かって馬が川に流れる場面を撮影したが、多くの動物愛護団体から厳しい批判を受けた。人間は動物の権利のためにあれほど一生懸命になれるのに、人間に対してどうして冷たいのか分からない。以上毎日新聞11月25日付け朝刊。
 米国のイラク攻撃が迫りつつある。攻撃の理由は、最初はテロ組織アルカイダとのつながりを理由としたが、その証拠が提示できないので大量破壊兵器疑惑に変わった。しかし核兵器や生物化学兵器で云えば、パキスタン、インド、米国、ロシア、中国、フランス、イスラエルなどすべて査察の対象になるではないか。とすればイラク攻撃の目的は、テロの土壌となる独裁政権の排除を目的とするブッシュ新世界戦略の最初の目標と云うことになる。ところが世界最大のテロ国家は実は第2次大戦後の米国自身なのである(ノーム・チョムスキー)。真実の理由は、湾岸戦争時の父親のうらみをはらし、ビンラデインを捕捉できなかった不満のすり替え、第2位の石油蔵量への利権獲得にある。要するにブッシュは人間ではなく、モンスターに過ぎないのであり、自分に誇りがないからこそ弱者に対して迫害を強める最も卑怯な動物的存在なのだ。マジデイーがほんとうに云いたいことは、こうしたことであろう。(2002/11/25 21:15)

[ミス・ワールド世界大会の粉砕について]
 ナイジェリアで開催予定のミス・ワールド世界大会に抗議するイスラム教とが暴徒化し、教会や学校が焼かれ、リンチ殺人も起きて市街戦の様相を呈し、死者105人を含む死傷者600人以上の大惨事となった。直接の契機は、地元紙が「イスラムの預言者マホメットが生きていれば、大会参加者から妻を選んだに違いない」と聖なる指導者を侮辱したことにある。イスラム人口が47%を占める同国のイスラム指導者会議が「宗教上の非常事態」を宣言して暴動を煽った。
 全土の3分の1の州でイスラム法廷が公認されている同国では、婚外子を生んだ女性を姦通罪で石打の死刑判決が下され、世界の抗議を浴びている。南アフリカ、スイス、コスタリカなど5カ国のミス代表が「女性の人権を無視する国に行きたくない」と参加をボイコットした。
 かって名古屋大学学園祭でのミス名古屋大学コンテストの会場に、ウーマンリブが殴り込みをかけて中止に追い込んだことがあったが、女性の裸体をさらし者にして男性が楽しむ行事に私自身も不快を覚えた。一方女性の美を素直に讃えるのもいいかなと思ったりして、よく分からない所もあるが、ナイジェリアの件はどうも西欧文明に対するイスラム文明の反発という要素の方が強いような気がする。圧倒的に押しまくっているアングロ・サクソン型キリスト教文明に対する鬱屈した不満が爆発したかのような気がする。
 ただ私は、女性がみずからの肉体によってしか自己をアピールできず、しかも男性に媚びへつらうような自己表現には、人間の尊厳を自分からかなぐり捨てているような気がして、男性としてもいたたまれない。私の身の回りの女性を見ても、ファッションにうつつを抜かして毎日を着せ替え人形のように飾り立てて職場に来る女性を見ると、アホかと思う。いずれにしろミスコンは、女性を侮辱する最大の行事であり、それにいそいそと参加する女性は動物そのものだ。(2002/11/25 20:17)

[なんとなく症候群・・・・・漂流ニッポンの今をどう見たらいいのだろうか]
 経済協力開発機構(OECD)が01年に発表した国際学習到達度評価において、日本の15歳の国語、数学、理科の宿題や自分の勉強時間は1日約24分9秒で参加32カ国中で最低にランクされ、先進国では飛び抜けて低かった。ギリシャ60分、英国・伊・仏・米国・独・韓国が40分台だ。日本の子どもは世界1学ばなくなったのだ。文部科学省は、勉強時間が少ないのは「学習意欲が低いせいだ」とアホのような笑えるコメントを出しているが、なぜ学習意欲が低下しているのか自らの政策責任に対する痛みは全く感じていない。学歴信仰の崩壊、少子化による誰でも進学が可能などなどをあげているが、私はこどもたちが口癖のように云う「なんとなく・・・・」に本質的な問題があると思う。
 「たるい、かったるい」「分かるってことがわからない」「めんどくさい」「受験受験じゃなく休ませてくれよ」「将来の目標がないのになぜ勉強するのか分からない」「受験技術と知識を詰め込まれるだけだ」などに、「なんとなく」という気持が表れている(朝日新聞11月24日付け)。どうせ学んでも無駄、自分には能力がないから無理というニヒリズムとシニシズムが蔓延している。
 しかし「なんとなく学校へ行き、なんとなく部活に入り、なんとなく進学し・・・・、なんとなく就職し」の次に実は恐ろしい世界が待ちかまえているのだ。それは、過労死かリストラかそれがいやなら親の財産を食いつぶして「なんとなく死んでいく・・・」世界だ。こうして可能性と希望とこころざしを生み出す子どもの世界は、哀しいまでに破壊されてしまっているのだ。
 なぜこうなったのかはハッキリしている。ネオリベラリズムによる弱肉強食の競争原理によって、わずかに残っていた協同のシステムが完膚無きまでに破壊され、最後に残された愛情共同体である家族ファミリーにも陰惨なDVが忍び寄りつつある。子どもを餓死させる親がいる国は我が日本だけである。では将来のエリートに勝者のエネルギーがあるかというと、「自分はどう生き、何のために勉強するのか分からない」と答え(東京私立海城中学3年生アンケート)、子ども全体に目標喪失症候群が誘発されている。
 では、先進国の全てがネオリベラリズム型競争原理を推進している中で、なぜ日本だけが極端な希望なき国と成り果てたのであろうか。それは日本型企業社会の集団主義的共同原理という極から、一気に米国型競争原理という極にドラステックなシステム転換をおこない、狂気のようなリストラによって裏切られた膨大な企業人間の敗者をゴミのように捨ててきたからだ。みずほフィナンシャルは遂に45歳(!)以上の社員の早期退職制度を決めた(朝日新聞11月24日付け)。後世から厳しく指弾される戦略転換を主導した小泉ー竹中慶応学派の罪は万死に値する。さらに東アジアの開発型高度成長を担う順位追求の強迫型受験システムにある。右肩上がりの経済成長期には勉強に対する強いモチベーションを誘発したこのシステムは、すでに破産し有効性を喪ってしまった。OECD調査では学習時間の減少が東アジアの諸国に突出してみられるという注目すべき結果がでている。

 こうした社会の冷酷さを子どもたちの感性は、直感的に鋭く見抜いている。訳が分からなくなった子どもたちを捉えているのは、最大の消費需要を生み出している少年少女市場の一見華やかな頽廃と浪費の乱舞する爛熟した退廃文化だ。あなたの目の前にいる少女を見よ。髪は茶色に染まり、目の周りを黒く縁取り、授業中もせっせと化粧し、スカートを極端に短くして階段を上る時に尻を手で押さえて、男子を挑発している風景はないか。教師達は、意気高に校門で見張りスプレーをかけて強制的に髪を染め直したり、授業への出席を拒否して帰宅させたりする狂想曲を演奏している。

 こうした日本狂想曲を強烈なパロデイーで皮肉るのが、自称「知のテロリスト」というマッド・アマノ氏だ。逮捕された教祖2人を握手させて「オレたちグル」、巨人球団をコーヒーショップにして「スターバッカシコーヒー」、失言の目立つ前首相を「痛恨時代劇 森のふし松」などなど当事者が顔を引きつらせるような毒気に満ちたパロデイーを連発している。堕落した権力に対する批判は、最初は落書きやパロデイーから始まり、次いで陰口やサボタージュへと発展し、徐々に高度化して一揆などの集団行動に転化するという歴史の法則がある。平安末期に貴族の頽廃を皮肉った「二条河原の落首」はその有名な例だ。しかし所詮パロデイーはパロデイーであり、権力者はせせら笑いを浮かべて冷笑しているに過ぎない。私が恐れるのは、やり場のない不満がこの国の階層や世代を越えてマグマのように蓄積し、何時の日か臨界点に達して火山の爆発を誘発し、システムそのものがメルト・ダウンを起こすのではないかということだ。

 こうした危機を打開する試みとして私が最も注目しているのは、福岡県立城南高校の実践だ。1年生の入学時に一冊の進路ノートが全員に配布され、将来の進路に対する意識を自分で形成していく歩みが3年間にわたって積み上げられ、明確な目的意識が徐々に形成されていく。隣にできた受験システムの私立高校に生徒を奪われ、国公立進学者が激減した危機に対して、同じ受験システムではなく強い進路意識の構築という戦略で対抗し見事に再生した学校だ。

 シノという8歳の雌チンパンジーが日本モンキーセンターにいる。彼女は1歳の誕生日を前に突然倒れ、脳梗塞のように右半身不随となったが、介護とリハビリによって半年後に自力で起ち果物を口に運べるまでに回復した。「残酷な印象を与える不具動物などを展示しない」という動物保護法による総理府告示によって、入場客の目に付かない類人猿舎の裏で1頭だけ飼われていたが、群れで住むほうが幸せではないかと寝室内に限って共同生活を始めた。最初は猛烈な攻撃を受けたが、徐々に仲裁に入る雌が出現し始め、怖がっていたシノも群れに近づくようになり、近く昼間も屋外施設で一緒に住むようにするという。障害者と健常者の共生が動物の世界で進みつつあり、動物保護法の規定は再検討されようとしている。
 ここに人間が恥ずかしくなるような動物的自然の本来の姿がある。つまり人間もチンパンジーと同じように排除と競争のシステムをつくるが、逆にそれを抑制し共生する方がみんなの居心地もよく幸福になり得るのだ−ということを示していないか。現在の日本が狂乱の競争に向かって一方向に突き進んでいる異常な状態は、治療とリハビリを施さなければならない。「痛み」をともなう構造改革の果てに地獄が待ちかまえているということが明らかになりつつあるいま、私たちは一人のシノも出さないような新たな協同のシステムを創出しなければならない。しかも早急に。否定の否定がより高次の肯定につながる、その時に日本の子どもたちの眼は輝き、身体は軽やかに跳びはね、歌声は高らかに響きわたるだろう。(2002/11/24 8:37)

[遂にケータイを買った]
 本日名古屋は今池関西ギガスで遂にケータイを買った。ズラリと並んだ機種の中からNTTドコモのIモード・カメラ付きで3800円の機種である。先端的コミュニケーションの大衆製品を遂にして我がものとしたのである。光沢ある小型の金属製品は、私にどのような生活の変貌をもたらすであろうか。実は大したことはないのだろうとも思うが、こうして私のケータイ生活がスタートするかと思うといささか期待する所がないでもない。購入した本当の理由は、電話がない所での生活が長期にわたって予想されるのでやむを得ずというところである。
 実は今まで私は、ケータイを軽蔑していた。。電車や街中であたりかまわず、傍若無人に会話している姿を見てはなはだモラルの低下を憂えていたのが正直な気持ちである。最悪は教室の授業中にケータイの音が鳴り響き、授業そっちのけでボタンをいじくっているのを見ると、これ以上の腹立たしさを覚えたことはない。さらにもっと云えば、本当のコミュニケーションができない連中の空しい会話であり、日本のコミュニケーションの頽廃の極地とも考えていた。TVに次ぐ1億総白痴化のツールに過ぎないとも。
 そして私は遂にケータイの軍門に下ったのである。ハッハッハッハ!まあどうなることかよく分からんが、それなりに使いこなしてみようとは思う。日本のデジタル音声文化が、遂にはというかようやく私をも捕らえることに成功したのである。記念すべき日ではあるのかもしれない。少なくとも私にとっては。(2002/11/23 20:34)

[分裂する保守派-西部邁氏の主張について]
 いままでうごめいていた存在に過ぎなかった保守思想が表舞台に登場し、靖国や教科書問題で強力な活動をはじめてから久しい。そのリーダーのひとりであり、教授人事をめぐって東大教養学部を辞職した西部邁氏が親米保守派を激しく批判している(毎日新聞 02/11/18)。現代の保守思想がどのような特質を持ち、その分岐を通してどのような日本を構想しているかを分析するうえで、格好のの題材を提供していると考えられる。氏の主張は次のようになっている。

 保守思想とはその国の歴史の「伝統の英知」に根ざす→憲法・教育基本法の「戦後」体制批判→その基礎にある米国的価値の批判→にもかかわらず一部の保守派は個人主義・ネオリアリズムの米国型グローバリゼーションと構造改革を無条件に賛美している

 米国型価値観に対する批判。伝統の英知を基礎としない民主主義は、多数派の専制、欲望の暴走、技術と制度の一人歩きとなり、その典型が集団主義国家ソ連と個人主義国家米国という2大人工国家だ。米国型グローバリゼーションの正体は、米国型価値による伝統の破壊、抑圧に満ちた他者攻撃であり、被抑圧者のテロへの衝動を誘発する。この基礎にある理論は、ネオリアリズムの国家戦略論であり、無政府状態にある世界で国家がゲーム論状況で短期の武力的決着を付ける自然状態のなかで、決断・武断の蛮行をおこなうに過ぎない。ホッブス的な社会契約が世界規模で成立する弱肉強食の世界である。国家の最大の課題は、自国の伝統的価値の保存である。親米保守思想は、近代主義左翼の変種に過ぎない。

 米国型グローバリゼーションを批判する民主派からみれば、保守派からの援軍が現れたかのように思われる主張である。西部氏の決定的誤謬は、西欧近代思想の二重性について無理解であることだ。西欧近代思想は、多数の専制に堕し文明化作用を強制する生産力主義の面があるとともに(環境危機、南北問題など)、多元的民主主義による共生を追求する両面がある。西部氏は西欧的価値観の一面を問題として、近代思想そのものを否定する。伝統的価値観を究極の不可侵的な祭壇に置く主張は、結果的に硬直したイスラム原理主義の思想と同じである。氏は、テロを実質的に容認している。第2の誤謬は、国家戦略論のレベルでしか議論しないので、その基底にある経済の論理=資本の論理を分析できないことであり、従って資本に対する社会的規制(社会権)の意味について思考が及ばない点にある。第3は、米国型価値の否定の根拠を日本型伝統的価値にしか求め得ないから、視野狭窄した天皇制ナショナリズムという狭い戦略に留まってしまう。

 従って問題は米国型グロバリぜーションに対するオルタナテイブは、閉塞した自国の伝統に帰れということではなく、グローバリゼーションの別のモデルを提示することである。それは、おそらく人類的価値を軸とする自国の伝統をハーモナイズしたグローバリゼーションであり、国家や多国籍企業が後景に退いた市民主導型のグローバリゼーションであろう。(2002/11/23 9:24)

[現代のホイッピング・ボーイ]
 王子が悪いことをした時、お仕置きをしなければならないが、王子を鞭打つわけにはいかないから、かわりにご学友が鞭打たれる習慣が英国にあり、その身代わりのご学友をホイッピング・ボーイと呼んだ。米国のある社会学者はTVがその役割を担い、現代社会の王子は大衆(視聴者)であり、暴力は性犯罪の増加は大衆の責任ではなくTVのせいだとするTV=ホイッピング・ボーイ説を唱えた。
 私は、日本社会そのものがホイッピング・ボーイの構造を持っているのではないかと思う。行政や企業の日本型集団主義システムの中で、つねに上位者の罪を被る役割を演じる下位者が存在し、責任は下へ下へと無限の連鎖で繋がっていく。いいかえればこれは、 丸山真男の云う無責任の体系にあたるとも言える。この構造はあなた自身の属する集団にも確実に存在し、あなた自身もその役割の一端を演じている。もちろん私自身もその例外ではない。
 そして欧米のホイッピング・ボーイは自らのその役割をある種の尊厳をもって受容するが、日本型集団主義ではホイッピング・ボーイの役割を相互に他者に押しつけ合う陰惨なイジメの構造に堕落する特徴を持っている。そしてこうした構造の頂点に菊の花に象徴されるファミリーが君臨し、無責任の体系のエアー・ポケットとなっている。このエリアは、頂点であり、空白であり、また尚かつ全てであるような精神構造を構築し、ここからの社会的近接の距離が社会的評価の全てを決定するという抜きがたいシステムが牢固として歴史的に定着してきた。こうしたシステムはマイノリテイーに対して最も生き難い、真綿で首を絞めるような息苦しさを味あわせる。中心と周辺の逆転する血なまぐさい可能性が常にドラステックに展開してきた欧州に対して、日本では中心が万世一系の血族として制度的にも心理的にも保障されてきた。まことにこの国は、ホイッピング・ボーイの構造を自ら形成しながら、いかにして自分だけはホイッピングから抜けだして他者をホイッピングの犠牲者にしようとするあさましい競争原理をもつくりだして、その構造を再生産してきた。近代が未完のままで現代が接ぎ木されるモンスターのような社会ができあがってしまった。(2002/11/22 20:12)

[飢えて死ぬこどもは政治に無関係だ・・・・・]
 世界食糧計画(WFP)の報告によれば、北朝鮮の食糧事情は支援が不足しているため、来年にかけて400万人の子どもが餓死するという。当初WFPは、今年の北朝鮮への支援を640万人強を対象とする合計61万人としていたが、支援は11月までに半分しか届いていないため、11月に約300万人の、さらに来年1月にはさらに約150万人の供給を見送らざるを得ないという。実に総計450万人のうち400万人が子どもなのだ。支援食糧が末端まで行き渡っているかについて、WFP管理分は二重チェックをして、到着した食糧は最初に支援国の名札を付けた袋に入れ各地域の拠点までWFPの監視の元に運ばれ、その後各家庭や孤児院などをスタッフが直接訪問して実際に食べたかどうかチェックする。昨年は25人のスタッフが約4170回訪問調査した。
 WFPの管理が厳しいのは、支援食糧が政府や軍隊へ優先配分されて、各国の協力が得られない状況を打破するためと考えられるが、危機の深刻さはそのようなレベルを遙かに超えていることは間違いない。餓死が子どもから始まることは事態の深刻さを裏付けている。なぜなら一般的に親やオトナは子どもを優先して食糧を確保しようと行動するからだ。
 餓死が誘発されている要因は、経済システムの破綻や権威主義的独裁の問題などがベースにあるだろうが、おそらく体制崩壊をねらう諸国の支援抑制があることは容易に想像できる。現に米国は、厳しい冬季に向かう現在に重油供給を停止した。政治的意図を越えた真の人道の立場が問われている。現にこの瞬間に飢えてこの世を去っていっているいたいけな命がある時に、私は何をしたらいいのだろうか。(2002/11/21 20:48)

[消滅する言語は何を語るか・・・・]
 世界の言語総数約6千のうち少なくとも半分、多ければ9割が21世紀中に消滅する。日本では、アイヌ語と琉球語、方言では八丈島、出雲、隠岐など僻地離島の方言の消滅が予想されている。アイヌ語は、2400年前の縄文期の日本列島で使用されていたアイヌ・エミシ系言語の地球上の最後の生き残り言語である。大和朝廷の蝦夷侵略を受けて蝦夷地(北海道)のみに生き残り、採取狩猟を生業として松前藩の支配を受け、明治以降経済的基盤も消滅した。和人が縄文人+朝鮮渡来人であるならば、アイヌ人は縄文期以降の先住民として迫害と差別を受けた。
 琉球語は、弥生期に北九州から南方へわたった移住者が広めた日本語の分派である。日本の古代国家は琉球を支配した経験がないため、琉球語は」本土日本語とは異なる変化の道をたどった。琉球語は、奄美から与那国まで島毎に異なり、琉球列島は方言の博物館と化した。17世紀初め琉球を征服した薩摩藩は、中国朝貢貿易を優先して植民地化を行わず、琉球王国の言語は滅びなかった。しかし明治期になると、琉球は日本国へ併合され、学校での琉球語の禁止され消滅に向かった。琉球語の一般的な単語を挙げてみよう。ター、ヌー、マー、チャ、チュ、クワ、ナー、クーン、チューン、ウーダは、誰、何、どこ、どう、人、子、あなた、来ない、来る、見ようであり、琉球語が単なる日本語の方言を越えて変容していることが分かる。
 日本型集権的ナショナリズムは、貴重な言語文化を迫害し、マイノリテイーの貴重な文化を今や絶滅に追い込みつつある。このような日本型集団主義の発想は、つねに少数者を迫害し、イジメの対象としてきた。言語のその例外ではなかったのである。そして今や企業からこの集団主義は崩壊しつつあるが言語に関してはもはや手遅れなのである。アイヌ語と琉球語の運命は、日本人のマイノリテイー認識を根元から照射していると思う。以上植村幸雄沖縄言語研究センター代表の論考を参照。(11/19 21:04)

[珠玉の言葉・・・・・考]
 中学2年の時に、ひとりで風呂に入っていると、父が無言で入ってきた。何年もそんなことはなかった。恥ずかしいので、すぐに出てしまった。その翌日に父は自殺した。背中を流しながら「長生きしてね」の一言でも声をかけていれば、父は自殺を思いとどまったかもしれない−自殺遺児の記録『自殺って言えなかった』より。

 挫折のない人生を送れる人はいないだろう。それをどう乗り切るかで人間の真価が問われる−ブラジル代表栄光の10番ジ^−コは、体格に恵まれないハンデイ、会長の策略による欧州移籍、故障との戦いの果てにこのように記している(『ジーコ自伝』朝日新聞社)。

 疋田桂一郎さん(天声人語筆者)は、我が身の羽根で機を織るようにして、文を彫琢した。それが見えるように、その音が聞こえるようにかく。”雪の道を角巻きの影がふたつ「どサ」「ゆサ」”この新人国記青森編の書き出しは、一瞬のうちに人を雪明かりの小道へと誘い込んだ−朝日新聞11/18素粒子。

 バカが意見を言うようになったのが、いまの世の中だ。最近聞いて忘れられない言葉となった。驚いて、そうか、そういうことなのか、と改めて見回すとたしかに、なるほどと思うシーンが多い。どうせなら、いっそ、なにをいまさらそんな野暮な、ということや、過激な意見を言おうと思う−吉田直哉 朝日新聞11/18付け夕刊。

 ある日、広大な国立公園をとぼとぼ歩くレンジャーに会った。聞くと、給料を受け取りに半日歩くといった。すぐ自転車を送った。・・・・学生時代に反戦ビラを配って捕まった時に、焼けたストーブに両手の指を押しつけ、指紋押捺を拒んだ。・・・・お別れ会で映画監督の羽仁進さんは、ナイロビではじめて会った小倉さんの4輪駆動車に「俊寛」と書かれていたことを明かした。平清盛の怒りを買い、島に流された僧の名前。前半生の輝かしいお仕事の後に置かれた不当な立場が、胸に滲みるようだった−元日航労組委員長小倉寛太郎。山崎豊子『沈まぬ太陽』のモデル逝く。11月9日肺ガン71歳。

 歩くアナクロニズムと揶揄され、一匹狼として上院の採決で99:1になることも恐れなかった。一途な戦闘的姿勢は、保守派からも尊敬を集めた。選挙運動で乗った飛行機が悪天候で墜落した。39年間連れ添ったシーラ夫人と長女のマーシャさんも運命を共にした−米連邦上院議員ポール・ウエルストン逝去。

 私が直木賞をいただいた時の中山義秀さんの選評。「五彩の花火を観るようで消えた後に残るものがない。きらびやかな才能は、人を幻惑させるが、底浅いはかなさに魅力があるうちが花である」。数十年後葉書がきた。「直木賞の時の私の評は間違っていました。今後も精進してください」・・・・・中山さんが亡くなられた時に、なにか大きなものをなくしたような気がした。私は、大事にとってあった中山さんのハガキを焼いた−五木寛之

 ホンモノの仕事をし、本気で生きている人の言葉は、なにか木霊すような響きがある。多くの人は市井の片隅にこの世に生きた足跡を記すだろうが、私はそれで充分である。彼等は何かを後世に残さんがために言葉を記したのではなく、必死で生きてきたら結果的にそうなったのである。無名であれ有名であれそれは所詮名前であり、その人自身ではない。名前は結果名詞なのである。(2002/11/18 22:03)

[米国の不思議な光景]
 迫り来る米国軍のイラク侵攻をめぐって米国内で不思議な現象がある。タカ派的な積極戦略を主張している人々が、かって病気や州兵応募で徴兵を逃れた人々であり、正副大統領や政府高官、マスコミ人らの戦争体験を持たない民間人が大半であるのに対して、慎重論を唱えている人たちはベトナム戦争や湾岸戦争を体験した軍人が多いということだ。イラクを知り尽くした男と云われるジニ元中央軍司令官は「戦争という最後の手段に訴えるのは、慎重にも慎重を重ねなければならない」と述べ、ホワイトハウス内慎重派といわれるパウエル国務長官は湾岸戦争時の統合参謀本部議長であった。米国史上初めて米軍が敗北したベトナム戦争に従軍したヘーゲル上院議員はもっと露骨に「頭の中ではなく、ジャングルで頭を吹き飛ばされた兵士の霊を思い浮かべながら、戦争を語りたい。最強硬派がそこまで言うのなら、バグダッド急襲部隊の先頭に立てばいい」という。
 かって戦争は常に単純脳細胞の軍人が主導し、文民が抑制するという構図があったが、どうもアメリカでは文民が主導し軍人が抑制しているかのようだ。現代の軍人はそれだけ戦争と戦場をリアルに把握し、多くの兵卒が政治戦略によって無意味な死を遂げていった実態を体験的に実感しているからであろう。ということは、米国の文民国家指導層がいかにファナテイックな衝動に囚われているかと云うことを逆に示していると云うことだ。
 私の手元に、ジョエル・アンドレアス『戦争中毒』(合同出版)という世界史における米国の汚い侵略の歴史をマンガで描いた本がある。この本を読むとまるでヴィン・ラデインは正義のテロリストにみえてくるほど、米国現代史の裏面を鋭く告発している。米国でベストセラーとなっているこの本にみられるように、アメリカン・デモクラシーは重層的な複雑な性格を持っている。間違いないことは、ソ連崩壊後一極覇権を構築した米国が、パックス・アメリカーナとしての世界帝国をめざしていることである。しかし私は、米国内において市民によるデモクラシーが脈々と流れていることを確信し、パックス・ポピュレールに組みする世界的な潮流が同時に成長しつつあることも知っている。(2002/11/17 20:13)

[崩壊する組織の法則を知った者は?]
 ある組織が崩壊に向かう過程をつぶさに観察すると、そこにはある法則性がみられる。組織が上げ潮に向かう時には、内部矛盾の軋轢は隠蔽され、内部的緊張は集団目標に向かって接近するむしろ前進的エネルギーとして発現する。そこでは集団目標のレベルをめぐり自己犠牲をいとわない少数の集団がリーダーシップを握る。従ってこの場面では単に権力を把握しているからといったレベルではなく、高いモラル水準と理念を持ち尚かつその実現に寝食をいとわないグループが集団の賞賛と尊敬を集め、集団は前進的方途を歩む。ここでは自己犠牲に費やされるエネルギーと与えられる社会的評価がパラレルであるために、力の傾注は快い疲れでありさらには明日へのエネルギーの再生産となる。しかしここにはすでに集団を自己崩壊させる恐るべき要因が孕まれているのである。その第1は、右肩上がりの集団には、幻想的なリーダーシップに対する盲目的服従が形成され、そこではあるカリスマ性を持った個人的なリーダーシップが構築されている。第2はすでに反対集団が反主流派として隠然たる権力奪回を意図する集団として無意識のうちに形成されているのである。
 さて問題はこうした内部構造を持つ集団がある種の打開し難いかにみえる困難に直面した時に、徐々に姿を現して公然たる覇権闘争に転化することである。ここでは集団内部にさまざまの分岐が生じる。第1に外部権力の垂直的な関係に敗北意識を覚えて、みずからの私的な安寧をとりあえず確保しようとする層が誘発される。この層はみずからの主体的な心情とは無関係に常に力関係で自己決定する層であり、声なき多数派であるが故に集団の方向を決定する可能性を持っている。ただしこの層は伝統的に蓄積された成果に対して破壊的なメッセージをもって登場する似非革新のイメージを提起するファナテックな独裁に結集する危険性を常に持っている(I東京都知事にみられる)。
 第2は、過去の苦闘の中で構築された遺産を遵守し、流れに抗して自らの信条を貫こうとするグループである。この層は最も誠実であるが故に悲劇的に孤立する可能性もあるが、方法によってはふたたび主導権を回復する可能性もある。その条件は、所与の困難を打開する政策的な展望を確信的に用意しているか否かにある。第3は、このような集団の葛藤自体を冷ややかに見て、私生活主義の道を歩む冷淡且つエゴのグループである。実態としての個人は、この3つの層の間を揺れ動く重層的な構造をもって苦しむ。
 いうまでもなく明瞭なのは、第1の権力に身を預ける層と第3の日和見派に集団の未来はなく、集団は確実に一直線に崩壊の道をたどることであり、従って決定的な問題は第2のグループがイニシアテイブを握るかどうかにある。この可能性はさらなる困難を伴う。なぜなら第1の層が顕在化したのは、世の大勢がその方向に流れているからこそであり、日本文化が最も弱いのはこのような大勢順応主義である。この恐ろしい力は、第2の層の一部にに自己保身のための媚びへつらいや迎合を生み、第2の層の集団の結合の質が徐々に低下し、内部闘争(かって総括といわれた)を誘発することである。第2の層に確実にいる賢明なメンバーは、そのような内部崩壊の傾向を克服し、新たな段階の集団の凝縮性を実現する必死の努力をおこなうだろう。
 以上がある集団が崩壊に向かう時に証せられた歴史的な法則である。現代は幾世紀に渡る体験を通して、知的にはすでにこの法則を理解している。にもかかわらずこの法則が相も変わらず反復されるのは、その法則の知的認識自体が弱いか又は生活次元と背反的にとらえるからである。あらゆる権力から自立する個の尊厳と、それを実現する必要条件としての連帯が、生活の中から内発的に形成され成熟するまで、おそらく未だ多くの時間が費やされるであろう。(2002/11/16 19:07)

[あるハンセン病者のうれし涙は・・・・・・]
 愛知県が10月下旬に全国のハンセン病療養所に暮らす県出身の元ハンセン病患者に故郷を訪ねてもらう郷土訪問を実施しました。国の政策で長く隔離され偏見の中で家族にさえ自由に会えなかった人たちに郷里に触れてもらうためです。強制隔離政策を全国最初に実施したのが愛知県でした。東京の療養所で暮らす平野あき人さん(70)もその参加者の一人として、少年時代を過ごした愛知県内の疎開先を訪ねました。
 「戦争中ここに住んでいた平野といいます」
 「ああ、どこに言ったのかなあ、と思っていました」
 平野さんが手をさしのべると、85歳という女性はしっかりと握り返しました。出会った女性は間借りしていた家の親類でした。57年ぶりの再会でした。車に戻った平野さんは、涙で顔をくしゃくしゃにしました。
 「ああよかったなあ。これで死んでもいい」
 昔の知り合いに会えただけでなぜそんなにもうれしいのでしょうか。同行していた記者が尋ねると、返ってきたのは予想外の言葉でした。「僕の病気のことを知らなかったから」
 平野さんは元患者を代表して社会復帰に必要な支援を国に要望する運動の先頭に立っています。その平野さんさえ、「相手が病気のことを知らなかった」と喜んでいる。本当は、病気を知った上で社会に温かく迎えられることをのぞんでいるのではないか。もう一度本心を確かめたいと思った記者は東京の療養所に平野さんを訪ねました。
 「あの日ぼくは、おばあさんの前で犯罪者みたいに硬直しました。長いこと自分が悪いと思いこまされてきましたから。それが隔離政策の結果なんです」辛い差別の記憶を淡々と語り始めました。発病したのは、戦後まもなくの16歳の頃。ライ病と呼ばれ、恐れられた時代。保健所の職員は家の消毒を繰り返し、すれ違う人は口を覆って行きました。家族は買い物を拒否され、療養所へ向かう汽車には「ライ患者輸送中」と張り紙がしてありました。こうして心の中に深く刻まれた傷は、今もって懐かしい人の前で体を硬直させるほど深いものだったのです。
 平野さんにとって、発病前に暮らした疎開先は、唯一病気とは無縁の幸せの地であったのです。半世紀を経てその地を踏み、再会した女性がもし握手を拒否したら、「ふるさと」を失う想いだったのです。愛知県の担当者は「ふるさとに戻ろうと思えばもう戻れるはずだ」と言いますがそれは違います。全国の療養所では今も約4000人が暮らしています。戻りたくても怖くて戻れないのです。以上朝日新聞11月15日付け朝刊参照。

 おそらくこの4000人の人たちは故郷へ戻ることなくこの世を去っていかれるでしょう。謂われなき強制隔離によって、この世から生きて追放された人たちです。私はこのような人たちの姿を横目で見ながら、自分の生き甲斐と幸せを追い求めています。私がしたことといえば、毎月の所得税のなかから数円が政府の支援に回されていることだけです。それも被害者の皆さんが完全な孤独の中で必死に戦い裁判でやっと勝利したからであり、私は知識があっても何もしてはいません。こうした罪は考えれば考えるほど行き場を失い方向を見いだすことができません。
 欧州映画のドラマの迫真的な場面で、腕に囚人番号が彫り込まれた肌をサッと見せるシーンがあります。私はこの場面を見て強制収容所の生き残りと直感してハッとします。この人たちも必死で隠しながらトラウマにじっと耐えて来ましたが、それが一瞬のうちに暴露されるのです。加害ー被害の構造は国家から地域、学園から身近な所にいたる諸相でさまざまな形で発現しています。私は私自身が所属するその場所での小さな芽を諸刃の裡に摘み取っていくしかありません。そうした網の目の取り組みが大きなこの構造を地上から一掃していく手がかりとなるでしょう。(2002/11/16 00:11)

[消された日の丸ーベルリン五輪マラソン孫基禎氏の死]
 孫基禎氏が15日午前0時40分ソウル市内の病院で死去した。90歳であった。
 日本の植民地化にあった時の1936年ベルリン・オリンピックのマラソンに出場した24歳の朝鮮人孫基禎は、「心ならずも日の丸を付けて走り、言いしれぬ屈辱」のなかで2時間29分19秒のの5輪新記録で見事に優勝を飾った。表彰式でで「君が代が流れ、日章旗が揚がった時には血が逆流するような」屈辱感を覚えたという。朝鮮の新聞は歓呼してその優勝を讃える記事を掲載したが、意識的に日の丸を抹消した写真を掲載した東亜日報は発行停止後解散処分を受け、すべての歓迎行事が禁止された後、朝鮮半島でのマラソン競技は禁止されてしまった。
 孫基禎は、16歳の時に長野県上諏訪の食堂に住み込み、深夜までの出前で疲れ切った体の足首にヒモを結びつけ、その端を窓の外に垂らして、毎朝隣の理髪店の青年にひっぱてもらい強引に目を覚まして凍り付いた諏訪湖の湖畔を黙々と走った。その後明治大学で学び、世界的ランナーに成長して「日本代表」となった。
 五輪公式記録の孫基禎の国籍は今もって「日本」のままであり、1970年に韓国の国会議員が記念碑の「JAPAN」をノミで削り、「KOREA」と彫り直したが、国際オリンピック委員会は「JAPAN」に復元した。米国政府は、1986年に韓国系住民の請願を認めて、カリフォルニア州にある歴代マラソン優勝者のレリーフと五輪記録集を改訂し国籍をすべて日本から韓国へ改めた。1984年のロス五輪に公式招待して「韓国の孫」と満場にアナウンスして全観衆は歓呼を浴びせて彼を迎えた。ここらに米国デモクラシーの底力を感じる。
 しかし日本オリンピック委員会は今もって国籍変更を認めず、国際公式記録の表示は日本国籍となったままである。過去の罪責の象徴であるこの問題の決算は処理されないまま現在にいたって平然としている日本スポーツ界の態度は正義にふさわしい矜持を示しているとは云えない。日本のスポーツ水準が大きく世界から遅れてしまっている現状の原因は、対外的には罪責を処理し得ない、対内的には半封建的な権力構造というおよそスポーツにふさわしくない体質が隠然として続いているところにあるのではないか。葬儀会場は韓国の歴代大統領や国会議員や韓国陸上競技連盟からの供花で溢れていたが、日本の政治家や大使館や陸連からの供花はひとつもなかった。柳美里さんは次のように云う。孫さんが国名変更を求めたにもかかわらず、日本オリンピック委員会は、現在も日本の金メダルとして扱っている。ならば、なぜ供花ひとつさえ贈らなかったのか? 孫さんの言葉がいまも耳の奥で木霊している。「いつも涙を流しているよ。走りながら・・・・・」 以上朝日新聞11月15日及び21日付けを参照して記す。(2002/11/15 23:00)

[シュミレーション 米英軍のイラク軍事攻撃による死傷データ]
 IPPNW(核戦争防止国際医師会議)の英国支部である医療専門家団体MEDACTが12日にまとめた米英軍によるイラク軍事攻撃による被害シュミレーションの報告書は次のようになっている。通常兵器による戦争が3ヶ月続くとすると、死者は双方で48000人から26万人、次いでイラク国内の内戦で2万人、健康悪化による死者が20万人に上ると推定される。イラクが化学・生物兵器を使用した場合は、イスラエルが核兵器で反撃し、核兵器の先制使用を排除していない米英軍による核攻撃が加われば、その死者は最高390万人に達し、いずれも被害の大部分は民間人である。
 ブッシュ大統領が承認したイラク侵攻計画では、米英両軍の大規模な空爆→25万人の地上軍による拠点確保→バグダード侵攻となっている。MEDACTレポートは、イラク軍の反撃として@イラク国内油田炎上→A産油国クウエート、サウジ油田へのゲリラ攻撃→B米英両国と同盟国内への同時多発ゲリラ攻撃→C米英軍出撃拠点の湾岸諸国の民間施設攻撃が一斉に展開され、その被害状況は予測不可能としている。
 このシュミレーションでは、米英軍の攻撃とイラク軍の反撃による戦闘とゲリラ戦のみを想定しているが、私はイスラム原理派の一斉テロが全世界で同時に起こると推定する。とすれば原理派の拠点に対する総攻撃が誘発され、アラブ油田地帯は壊滅する。日本も含めた打撃は想像を絶するものとなるだろう。なぜなら日本の主要なエネルギー源である原油供給が断絶し、日本経済は備蓄分を考えても相当なダメージを受けることは想像に難くない。
 第2次大戦後の紛争でもっとも死者数が多かった戦争は、朝鮮戦争約300万人、次いでベトナム戦争235万人である。死者400万人の戦争は、17世紀ヨーロッパの30年戦争であり、ドイツでは数千に上る町と村が犬1匹人っ子一人見あたらないほど破壊された。30年間かけて戦い400万人が犠牲となったのに比べ、今次のイラク攻撃は数ヶ月で同じ死者が予測されている。その死の実相は、もはや人間の死ではなくハイテク兵器と核兵器によってモノが蒸発するようなバーチャルな様相を呈する。超軍事世界帝国アメリカは、本土防衛軍、欧州軍、、中央軍からなる全地球惑星をカバーしたまさにスターウオーズである。米国の地下深くある中枢の最高司令部では、空調が行き渡ってコーヒーを飲みながらデイスプレーをまるでゲームのように見つめて指揮しているブッシュ最高司令官が、ゆったりとした肘掛け椅子に座っている。(2002/11/14 21:41)

[風 石川逸子]

 遠くのできごとに
 人はやさしい
 (おれはそのことを知っている
 吹いていった風)

 近くのできごとに
 人はだまりこむ
 (おれはそのことを知っている
 吹いていった風)

 遠くのできごとに
 ひとはうつくしく怒る
 (おれはそのわけを知っている
 吹いていった風)

 近くのできごとに
 人は新聞紙と同じ声をあげる
 (おれはそのわけを知っている
 吹いていった風)

 近くのできごとに
 私たちは自分の声をあげた
 (おれはそのこえをきいた
 吹いていった風)

 近くのできごとに
 人はおそろしく
 私たちは小さな船のようにふるえた
 (吹いていった風)

 遠くのできごとに
 立ち向かうのは遠くの人で
 近くのできごとに
 立ち向かうのは近くの私たち

 (あたりまえの歌を
 風がきいていった
 あたりまえの苦しさを
 風がきいていった)     -詩集『子どもと戦争』

 いま拉致被害者への憐れみと同情が溢れ、「うつくしく怒っている」声が列島に満ちています。だけれど彼の地に置き去りにされた子どもたちのことについて、引き裂かれた家族について、どのような怒りが沸き起こっているでしょうか。日本に永住させる道を強引に迫っているようなやりかたに疑問を抱く人はいないのでしょうか。他人の悲劇には同情しやすいが、それは同情している自分に満足を味わうところがないでしょうか。遠い歴史では私たちの親の世代はもっともっと多くの人たちを拉致したのです。そのような自分たちの恥部を相殺できるような免罪符を手にしたかのように、この国は一方向へ突っ走っています。拉致加害者への審判は厳正におこないましょう。たとえそれが私たちの父を罰することになったとしても。それだけの覚悟を持った人のみ石を投げることができます。”汝らのうち罪なき者のみこの女を打て!”とイエスと共に言いましょう。「吹いていく風」は全てを見抜いているのです。(2002/11/13 21:39)

[エンヤを聴きながら私は考える]
 アイルランド独立運動の感性を静かに詠い上げるエンヤの歌を聴きながら、私は21世紀の現在が直面している幾つかのことどもについて想いをめぐらす。北朝鮮からもたらされた遺骨が本人のものではないという日本側鑑定結果にマスコミは大騒ぎしているが、こうした次元になってくるともはや謀略の匂いが漂う。一時帰国した拉致被害者の家族を分断して恥じない日本政府の方針に引きずられた政策的意図が漂う。どこに真実があり、解決の方途はどこにあるのか判然としないまま、個の尊厳が国家意志に翻弄されている悲劇が繰り広げられている。ファナテiックな無知を利用しながら国家意志のマキャベリズムが跋扈している。アアー何なんだ此は!? 拉致=強制連行の歴史を集約した本格的な研究が求められている。何だか拉致被害者の哀しみを遙かに越えた国家による操作が繰り広げられいるような気がする。オイ!君はほんとうにこの問題に対する歴史に恥じない結論を用意できているか!私は問いたい。
 「9.11以後の国家と社会」と題するシンポジウム(11/2於明治学院大)では、「どんな社会になればテロを無くせるか。そういう社会を構想することが大事だ」と主張する見田宗介に対して、「テロを完全に無くせると思わず,減らす現実的な策が大事だ」と橋爪大三郎は云い、「65億の人間が飢えないでいくには先進国アメリカが必要だ」と主張したという。宮台真司は「素朴な反米主義はだめだ。アメリカに立ち向かう権謀が必要」と主張したという。橋爪と宮台が社会科学者として完全に資格がないことを証明しているが、こうしたポスト・モダンの言説が大衆的人気を集めている現実にこそ恐るべき日本の頽廃がある。彼等にとっては飢えていままさに死んでいこうとしている途上国の幼児の瞳は眼に入らないのだ。「飢えて死ぬ子にとっての料理の本とは何か」というサルトルの問いは、橋爪や宮台がいる限り残念ながら有効だ。この論争を単純な反米と親米の位相を越えたものと解説する朝日記者の底の浅さが露呈されている。
 大江健三郎氏のジョナサン・シェルに宛てた往復書簡は、大江氏の希に見る認識の深さを示している。大江氏の今までの往復書簡は、どこかに高踏的な書斎文化人の限界が確かにあったが今回は何か氏の決意のような気迫を感じた。≪もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれてこない者達だけに向けておくれ≫(劇作家ウオーレ・ショインカ)の引用に私は、粛然と襟を正すものを覚えた。テロや国家権力の迫害にも関わらず、なおそのような悲惨のなかから生み出された人類への遺産はないかと氏は問う。そうした遺産はひとかけらもないほど実はこの世はグロテスクそのものだ。部屋の中の背後で依然としてエンヤの歌声が静かに流れている・・・・・。
 大江氏は、近い歴史が与えた痛苦、さらに近い現実である拉致の痛苦を互いに相殺するのではなく、悲しみ苦しむ者としてともに担いながら新しい地平を開いていこうではないかと呼びかける。なんと崇高で感動的な呼びかけではないか。しかし残念ながら「近い未来は困難であり、暗いが、遠い未来では解決可能であり、明るい」という氏の確信は私の確信ではない。2000年に渡って人類が繰り広げてきたことは、強者が弱者を食うという「社会的な関係の客観的絶対性」(見田宗介)にあったのは確かだから。私はこの点に関する限り大江氏のオプテイミズムに共感はできない。ジョナサン・シェル氏の返書は、北朝鮮の核兵器開発によって米国の世界戦略が破産したとして全世界の核廃絶に進むだろうと予言し、次の言葉で結んでいる。「使者達は問うー我々の死は無駄だったのか、と。生まれ出でざる者達は問うー我々は生まれ出るべきではなかったのかどうか。生まれ出ることを選ぶべきでしょう。そうさせるのが今生きている特権を持つ私たちの義務なのです。」
 エンヤのオリノコ・フライが部屋に満ちて私を突き上げる・・・・。私は、大江氏のオプテイミズムの虚妄を指摘したがゆえに、大江氏に対する対案を提起する責務がある。アー何なんだそれは! エンヤの声が静かに消えていく間に私は答えを出せるだろうか。私はアメリカ映画『7月4日に生まれて』のタイトルバックに色褪せた星条旗のもとに流れた「人は生まれながらに生命・自由および幸福の追求という権利を持ち、それを疎外する政府を転覆し新たな政府を樹立する権利を持つ」というアメリカ独立宣言の輝かしい思想が、イラク破壊を決定した議会決議にも関わらず、少なくともアメリカ市民の心に地下水脈のように流れていることを確かに信じることができる。それは、石油利権のために大義を振りかざす自らの大統領に対する痛烈な刃となるだろう。(2002/11/12 20:35)

[パチンコ依存症について−深化する日本社会の頽廃]
 不況下でパチンコ人口はピーク時より30%以上減少しているのに、総売上高が10%減に留まっていると云うことは、それだけヘビーユーザーが激増し、それはパチンコ依存症による生活破綻が進んでいることとを示している。私の友人の一人に、日頃は社会運動に参加するまじめな生き方をしている人がいるが、彼は裏ではパチンコにのめり込みかなりの財産を投入し夫婦関係にも支障が誘発されるまでになった。ところが驚いたことに妻がパチンコ依存症に陥ってしまい、せっせと通うという事態になっている。パチンコ依存現象は現代日本の社会的頽廃を象徴しているのではないだろうか。

 01年度のパチンコ人口(年1回以上)は1930万人で最も多かった94年より34%減少しているが、総売上高は27兆8千億円で9%減である。1人当たり平均回数は、25.6回と過去10年で第2位だ(約月2回か)。不況で時間つぶしに遊ぶライトユーザーが減少し朝から並ぶヘビーユーザーが激増している。ギャンブル性の高い高い機種の増大や投資額が50%多いとされるパチスロ台の増加も背景にある。こうした投機的娯楽産業の隆盛の背景には、経済システム自体が投機的なカジノ資本主義に堕落し、まじめに働くモノづくり製造業を海外に移転させ、国内にはサービス産業しか残らないと云う経済構造の転換にある。国際競争に勝ち抜くという企業論理によって、大規模なリストラが誘発され史上最高の失業率が横行している中で、街は華やかでイルミネーションに溢れ、行き交う人も小金を貯め込んでいそうな若者が占領しているという異常な状態にある。こうしたなかで蓄積したストレスの発散場所として、笑顔で迎えてくれる店員がいる豪華なパチンコ店があるのだ。
 パチンコ依存症になって会社を解雇されたり、鬱病になったりしてメンタルクリニックを訪れる患者が激増し、消費者金融に頼って家計を破産させたり、ギャンブル性の高い機械にはまって学費をつぎ込み中退する学生も増えている。つまりパチンコ依存症は、自己責任を越えた社会問題として登場しているにもかかわらず、メンタルケアーはほとんど進んでいない状況にある。世界最大のギャンブル都市である米国ネバダ州ラスベガスは、カジノの売り上げの一部をギャンブル依存対策にあてる州法があるが日本では皆無だ。もっともこうした対策自身がギャンブル産業の存立を維持する方便に過ぎない面があり、逆に依存症を増加させる構造をつくりだしているとも云える。
 いま日本の自治体では、不況下の歳入減をカバーする目玉策として自治体による公営カジノ建設が始まろうとしている。その先頭を切っているのが石原東京都知事であり、壮大な東京都庁は日本最大のギャンブル場になろうとしている。恐るべき頽廃、感性のマヒ、堕落した痴性・・・・一体21世紀の日本はどこに向かって歩み始めたのであろうか。いまネットワーク上では、パチンコ依存症からの脱却をめざす告白サイトが激増している。石原都知事は一回でも覗いたことがあるのだろうか。(2002/11/10 8:03)

[日本の刑務所は一般社会の人権を凝集している]
 名古屋地検特捜部は8日、名古屋刑務所の刑務官5名を特別公務員暴行陵辱致傷罪で逮捕した。男性受刑者に革手錠をかけた上で集団暴行を加え腹部内出血の障害を加えたとされ、5月末にも受刑者に暴行を加え死に至らしめたという。「塀のなかの懲りない面々」は実は隔絶した密室で動物的な悲惨な虐待を受けていたのだ。被害受刑者は2月の入所以来革手錠を15回、保護房に8回収容されたと証言している。
 刑務所における囚人待遇の国際基準は、国際人権規約(1979年)・拷問等禁止条約(1999年)・被収容者最低基準規則(1955年)など日本政府が全て批准した規定がある。「何人も拷問又は残虐な非人道的若しくは品位を傷つける取り扱い若しくは刑罰を受けない」(国際人権規約B規約第7条)「自由を奪われたすべて者は、人道的ににかつ人間の固有の尊厳を尊重して取り扱われる」(同第10条)「全ての者は思想、良心、及び宗教の自由についての権利を有する」(同第18条)といった遵守規定がある。
 日本の刑務所の一般的な生活は、@集団生活(食事ー作業ー休息ー運動ー入浴ー睡眠)が基本でありプライバシーはない、A外部と隔絶した軍隊式命令による規律主義が原則であり、世界でも最悪の刑務所規則は国際人権規約人権委員会から是正勧告を受けている。朝の出役(工場へ移動すること)は、1列縦隊となって号令をかけながら、大口を開けて舌を上下に動かしながら裸のまま歩かされる(カンカン踊り)。懲罰行為が発生した時は、現場で片手を前に片手を後ろに革手錠をはめられ保護房に強制収容される。革手錠は、長さ140cm・幅4.5cmのベルトで腕を固定されると、食事は「犬食い」と云われる犬のように這いつくばって口に入れ、便器は床に埋めてあるので用便はできず通常は垂れ流しとなるが、「股割れパンツ」をあてがわれることもある。「犬食い」はどうして起こるか。多くの受刑者は革手錠の状態では”こんな状態で食えるか”と食事を蹴り食べ物が床にこぼれる。刑務官はそれを掃除せずそのままにしておく。時間が過ぎると、空腹に耐えられない受刑者が床にこぼれた食べ物を食べる。その時にはじめて「犬食い」状態が生まれる。二重、三重に辱め権力に対する無力さを思い知らせて、人間としての最後の誇りを奪い、文字通りの動物に転落させる。受刑者の腹の上で刑務官が飛び跳ねる「トランポリン」がおこなわれ、暴行を加えた刑務官が誰だか分からないようにするために麻袋を頭にかぶせる。こうして人間的な品位は最悪の状態に傷つけられ蔑視の視線を浴びてプライドを徹底的に剥奪される。名古屋刑務所は革手錠使用率が急上昇し全国トップであるという。
 第2は、通風、照明、衛生、運動、作業災害補償、作業報酬、着衣などほとんどの面で国際基準はクリアーされていない。日本の作業報酬は、賃金制を採用していないのみならず1日8時間労働で1ヶ月の平均作業賞与金は4149円であり、2年の懲役の場合出獄時に受け取る賞与金は約2万円である。つまり収益のほとんどは国庫に入り受刑者の賃金は国家が剥奪している。つまり懲役という名の強制的奴隷労働に他ならない。名古屋の吹上ホールで毎年開催される囚人労働による素晴らしい製品の売り上げは、囚人の手には入らないのだ。
 第3は、刑務所内のすべてが垂直的な特別権力関係にあり、規律と秩序が全てで、労働組合もない階級社会である。こうした絶対服従のなかで弱い受刑者へ抑圧が移譲する。明治以来人権感覚は奪われ、暴力についての秘密主義が貫徹していることにある。受刑者の屈辱は、@入所時の臀部にガラス棒を挿入する検便と看守の指による陰部検査、A厳正独居処遇といわれる会話が禁止された状態で糸通しなどの単純労務を強制され、言葉を失い精神が破壊されることである。新聞はスポーツ面以外は墨塗りされ手紙は月1回に限定される。映画会ではスクリーンに敬礼を強制される。まるで江戸期の踏み絵のような見せしめと看守の気分による懲罰に戦かなければならない。
 第4は、不況と競争社会によって社会的軋轢が強まり、日本が徐々に犯罪国家に近づきつつあると云うことだ。現在全国の刑務所に収容されている受刑者は約6万7千人であり、定員を2000人(3%)オーバーしているが、刑務所職員定数は変わらず、刑務官300人を含む375人に過ぎない。特に名古屋刑務所は収容定員1924人に対して、2200人という約15%オーバーの過密状態だ。垂直的閉鎖集団では、その人数の量に比例して集団の質は低下し暴力的秩序の度合いが高まる。名古屋刑務所では、革手錠を装着された受刑者が苦痛から嘔吐するのに挑発的な言辞を浴びせ、笑い声を浴びせながらさらに締め上げたという。これらはすべてビデオに収録されていた。
 第5に日本の刑務所制度の構造的な問題がある。日本の刑務所は、法務省矯正局の管轄下にあるが、その長は日本最強の権力機関である検察が占め、有罪追求機関の本質から受刑者の人権には無関心である。その指揮下で刑務所を運営する刑務所長は絶対権限を持ち自己の信条や思想がストレートに刑務所運営に浸透する。

 ロンドン郊外の刑務所では、面会に来た人と抱き合い、テレフォンカードを使って外部と通話し、週2回1時間ずつトレーニング・ジムを利用している。英国では独立の刑務所観察官制度があり、受刑者の苦情を独自に調査するオンブズマン制度がある。アムネステイーは989年に革手錠と保護房は国際人権規約に反しているというレポートを出し、国連規約人権委員会は独立した人権救済機関の創設を勧告したが、法務省の外局として設置することに抗議する書簡を小泉首相に送った。
 刑務所の処遇基準は、一般的にその国全体の権利水準を象徴的に表現していると云われるが、日本の一般市民の市民生活における人権水準も実は世界の先進国では最悪の状況にある。企業やその他の組織で批判的な意見や行動に対する徹底的な差別と抑圧のシステムがある。この基礎には、集団と自分を運命共同体とみなす日本的集団主義があり、その枠から一歩でも出た者や批判的な者或いは内部告発者は徹底的な排除の対象となる。これはみせしめとしての効果を最大限に追求する「ガラスの檻」のような極限の形態となり、会社の異端分子をガラスの部屋に閉じこめてみんなの視線を浴びて1日中掃除をさせるといった屈辱を味あわせて退職に追い込む。普通の人は正論を恐れて常に多数派を求めて行動し、孤立を絶対に避けるようになる。こうしたオトナ社会の行動様式は、そのままストレートに子ども社会に反映し、悲惨なイジメという集団的抑圧になり、自分がいじめられないために却って激しくいじめるという泥沼のような状態になる。こうして全社会的に人間性が失われ動物的な本能が支配するようになる。フーコーは、名著『監獄の誕生』で監視社会の論理をみごとに暴いたが、実は日本ははるか昔から最も陰惨な監視社会を実現しており、名古屋刑務所の事件は氷山の一角を示しているに過ぎない。

[子ども兵士のつぶらな瞳は何を訴えているか]
 私の目の前に1枚の写真がある。ミャンマーのカレン族武装集団の子ども兵士だ。頭にターバンを巻き軍服を着て自動小銃を両手に持って、カメラを見つめている瞳はつぶらだ。ユニセフ(国連児童基金)報告書によれば、全世界に17歳以下の武装した子ども兵士が30万人存在し、そのうち7万人は東アジア・太平洋地域にいるとしている。紛争が収まった国でも依然として政府軍や武装集団に使われている。カンボジア、東テイモール、ミャンマー、パプアニューギニア、フィリピンなどの現役や元兵士の聴取調査から、子ども兵士の過酷な訓練や厳しい懲罰の実態を紹介している。その訓練とは、殺人と暴行の残虐行為の現場を強制的に見せること、家族や友人が殺害されるのを目撃することにある。兵士として徴発された平均年齢は13歳であるが、最低年齢は7歳で兵士に仕立てられている。
 子どもの権利条約特定議定書では、18歳未満の子どもの戦闘参加、兵士採用は厳禁された完全な違法行為だ。しかし現在までに同議定書を批准したのは、東アジア・太平洋地域ではベトナムとフィリピンのみで、カンボジアとモンゴルが批准手続き中である。東アジア・太平洋地域の民主主義のレベルが白日の下に晒されている。この地域では開発独裁によって経済発展に熱中している、その内実はいたいけな子どもを武装させて権力を維持しているのだ。
 どのような大義名分があろうと、自らの目的を遂行するために武装闘争を採用するグループの兵士調達は、あくまで目的に対する自主的な判断力を持った年齢層に限定し、子どもは基本的に保護して学習を保障するシステムを採らない限り、民衆の長期的な支持は失われるし、賢明な武装闘争は厳しくその一線は守るものだ。それが最低限の武装闘争のモラリテイーなのだ。ユニセフは、動員解除と社会復帰への支援を訴えているが、少なくともこのような子ども兵士を採用する国は国際連合から追放すべきである。ここにユニセフ型人道主義の限界があり、哀れみと憐憫の視線から援助を乞うレベルに終始している。(2002/11/7 20:3)

[罪深き偏見について]
 1939年にソ連占領下にあったポーランド北部にナチス・ドイツが侵入した直後、20以上の町で数百人のユダヤ人が地元町民に虐殺されたことがポーランド国家記憶協会(IPN)の調査で明らかとなった。約1600人が納屋で焼き殺されたイエドワブネ事件以外にも30数件の虐殺があった。いままでユダヤ人虐殺をナチスの犯罪として隠蔽してきたポーランド現代史の闇の部分が姿を現しつつある。ユダヤ人がソ連軍の圧政に協力したという偏見にもとづく憎悪やナチスのユダヤ人絶滅政策のファナテックな狂気がポーランド人自身の犯罪を誘発したのだ。しかし私たち日本との決定的な違いは、自分自身の手によって自国の歴史の恥部を暴き出し真実に対して頭を垂れようとする姿勢だ。それにひきかえ日本は、それらの犯罪的な加害を自虐史観として否定する勢力が跋扈しているなんとも知的に頽廃した状況にある。、
 3日夜にイエメンを走行中のテロ組織アルカイダ幹部が乗っていた車を、米CIAの無人偵察機のミサイルが攻撃し車は炎上して6人が死亡した。イエメンでは現在、CIAと特殊部隊50人が展開してアルカイダ掃討作戦をおこなっているが、まさか無人偵察機やミサイルによる殺人作戦をおこなっているとは予想できなかった。国際刑事犯罪に対する基本的なルールは全く無視され、まるで西部劇風の報復に近い野蛮な行為ではないか。この背景には、本質的に米国の異文化に対する、また有色人種に対する偏見と蔑視があることは明らかであり、広島・長崎に対する原爆投下と共通した戦争犯罪がある。

 さてひるがえって我が日本の現状を障害者問題を対象に考察してみよう。現在政府は、03年度から5年間の障害者福祉の整備目標を決める新障害者プランを策定中だ。全国の知的障害者は認定された数で約45万人であり、そのうち12万人が施設に入所している。入所を実質的に決めているのは、「保護」を要望する親や周囲の判断であり、本人の意思ではない。入所者対象の意識調査では「施設で暮らしたい」当事者はわずかに18%であり、約70%が地域での生活を希望している。1981年の国際障害者年以降急速に進んだはずのノーマライゼーションの理念の中で、入所者数を増大させているのは先進国では日本のみだ。知的障害者支援予算の70%は施設に使われ、地域整備は全く進んでいない。「施設から地域へ」という理念は内容が空疎な外国向けのプラン策定に終わることは間違いない。この背景には何があるのか。健常者の奥深い障害者に対する偏見と差別があり、地域での共同生活ではなく隔離政策を望む心情があることは否定できない。アジア諸国民への加害を隠蔽する日本は、国内では隠然とした障害者差別を抱えている。学園における陰惨なイジメやホームレス攻撃と本質的に共通した構造がある。

 02年度上半期(4−9月)の過労死や後遺症による労災認定件数が115件と、過去最多だった昨年度の143件に迫り最悪の事態が誘発されている。脳や心臓疾患で死亡したり後遺症がある労災認定者を云うが、それ以外の過労が原因となる自殺や鬱病などの「精神障害者の労災認定は半年間で44件と昨年度の70件の半分を既に上回っている。このうち過労自殺は未遂を含め20件である(昨年度31件)。東京都調査では、過労死認定17件のうち11件が、月平均残業時間が92時間44分、最も長い人は127時間30分であった。単純に日平均にすると、平均4時間強であり10時間を超える労働をしていたことになる。しかし請求件数は600−700件だから救済されたのはごく一部に過ぎない。請求するためには、労働時間が明確でなければならず、サービス残業はここに含まれないから、実質的には膨大な過酷労働が存在している。”我が亡き後に洪水はきたれ”という企業論理のなかでこの世を去る企業戦士が後を絶たない。親が自殺した後に残された家族や子どもは拭いがたい傷を受けてその後の人生を生きていかなければならない。アジアや障害者に対する偏見や差別の心情の裏側は、自らをこのような非人間的な奴隷労働に追い込んでいる冷酷な企業社会が聳え立っている。おそらく竹中某氏は薄ら笑いを浮かべて、敗者に対する冷笑を浮かべて云うだろう。”自己決定・自己責任”!!。私は、このような日本をつくりだした全責任を担う慶応経済学派は地獄に堕ちるだろうと確信する。シカゴ学派を盲目的に信奉し日本を攪乱した曲学阿世の輩として後世は評価するだろう。それにしてもあの竹中某氏の知性の全くない顔貌こそ象徴的ではないか。残念ながら慶応学派は人間的知性が欠落し、単純な勝者の偏見と差別の目でしか世を見ていないという本質が見事に現れている。(2002/11/6 20:20)

[あなたはあなた自身の11桁番号を覚えていますか]
 住民基本台帳ネットワークが、全国民に11桁の固有番号を割り当て、氏名・生年月日・住所など6情報をデータベース化してからはや3ヶ月が過ぎた。発足当初盛り上がった議論もいまは沈静化して無意識のうちに定着化していくようにみえる。しかし一方ではネットそのもから離脱している東京都杉並区や福島県矢祭町、個人選択制にしている横浜市など400万人強がこのネットに組み込まれていない変則の事態は続いている。ネット不参加の自治体に不測の事態や不利益が発生しているかと云えばそれも聞かない。前代未聞の強大な個人情報ネットワークのデータベースはしかし音もなく日常に定着しつつあるかにもみえる。
 全国民に番号を付与して管理する国民層背番号制は、もともと韓国にあるような北朝鮮スパイの選別と摘発という軍事目的から出発した管理社会による安全性基準が主要な目的であった。韓国政府自身が「日本のような民主主義国家でなぜこうした総背番号制が必要なのか」と逆に問いかけてくるところにこの制度の本質がある。
 住基ネットは、電子政府・電子自治体構想の基盤システムとして、電子化された行政資料をオンライン化して、国民に対する申請事務のワンストップサービスを実現するという情報化社会の必然的な方向に乗った制度だ。ネット上では不可能な印鑑や筆跡による本人確認を背番号による電子署名でおこなうということであった。しかし既に行政は、運転免許証や社会保険番号などの個人立証が可能な番号を持っているから、全国民に総背番号を割り振るというのは隠された別の意図があるということになるのは当然だ。すでに納税者番号制度や病歴を含む健康情報へとデータベースは拡大されつつある。
 個人情報へのアクセスを可能とするマスターキー、侵入と漏洩、個人情報の流出などなど恐るべき監視社会が近づきつつあるといえる。現に米国では社会保障番号を利用した犯罪が多発して深刻な社会問題になっている。来年夏から希望者に交付されるICチップ内蔵の住基カードでは、税の補足に関する所得や取引行為、社会保障の需給関係、教育歴、運転免許、車の所有、犯罪歴、病歴などの個人情報が結合され基本的にプライバシー情報は政府に集中的に管理される。このカードは、福祉、公共施設利用、印鑑登録など広範な目的に利用できるとされている。帰着するところ、汎用的な身分証明書、国内パスポートとして携帯を義務づけられるようになるのは韓国を見れば明らかだ。こうしたIDカードに絶対のセキュリテイーはなく罰則など吹けば飛ぶようなものであるだ。国民の個人情報を総管理する行政権力は、まさにリヴァイアサンのような怪獣としてそそり立つ強大な権力を把握しつつある。かってナチスは、IBMのパンチカード技術を駆使してコンピュータ管理した人口統計と登録システムをユダヤ人選別に転用して強制収容所に送った。すでに道路を通行する車両を撮影するNシステムやコンビニに配置された警察の監視カメラによって市民生活の隅々まで監視されるようになった。遠からず予想される地震対策への応用や最後には徴兵制への転用は、私たちが未来世代にどう責任を持つかという重大な問題をはらんでいる。
 400万人の未参加者の生活にみるように住基ネットは必ずしも不可欠ではないと云うことが明白になりつつある今、制度の廃止か或いは個人情報保護法を前提とした最低限の自由選択制に向けた再検討が早急に求められている。利便性と人間の尊厳は基本的に両立しないものなのだ。以上朝日新聞11月5日付け園田寿論文参照して筆者論究。(2002/11/5 21:22)

[18歳選挙権について]
 現在18歳選挙権を住民投票条例で対象としている(または予定している)自治体は、秋田県岩城町・愛知県高浜市・静岡県東伊豆町・長野県平谷村(中学生以上)などがありその後検討を開始した自治体は増加している。未成年者のよる住民投票の是非についての議論は大きく分岐している。推進論の主な論拠は、@将来を担う若い世代の社会参加を推進する、A深夜労働や婚姻年齢、納税年齢も成人と同じだ・・・という点にあり、反対論は@判断力のない世代の参加は衆愚政をもたらす、A表面的な気分で判断するムード投票をもたらすなどである。
 岩城町の投票結果は、未成年者投票率68、46%で全体の81、24%を下回ったが棄権者の多くは町を離れた大学生であり町内在住未成年者はほぼ全員投票した。20歳と18歳で主権者意識にほとんど差異はなかったということが証明されたのである。逆に仕事や生活のしがらみがないことによって将来を純粋に考えられるということもあった。今回は全国マスコミの注目を浴びたため投票率が上昇したとも考えられるが、20−24歳の全国投票率が31、36%(01年度参院選)を考えれば若い世代が民主主義の決定機会を放棄している現状に刺激を与えたと云える。
 自らの住む将来の地域について自己決定の機会を保障する18歳住民投票条例は、少子高齢化が進む地域社会の再構築に計り知れない地域意識の転換をもたらすことは確かだ。18歳選挙権は、先進国全てで実現されており唯日本だけが20歳を固執している。しかも日本は少年法改正によって罪に対する罰だけは未成年も成年と同じ制裁を受けることとなったにもかかわらず。未成年者に対する義務をのみ追求して同時に権利を保障しない日本の現状は、実は成年者の権利をも侵害し自らの首を自分で絞めている事に他ならない。私は当面住民投票条例を持つ自治体はすべて18歳選挙権を保障し、近い将来に全国国政選挙に於いても18歳選挙権が実現すると確信する。
 こうした日本の後進性の源流は実は明治維新以降の上からの近代化にある。民衆が下から立ち上がって血を流して手にした民主主義の経験が薄い日本は、牢固として市民の主導性に対する嫌悪感があり、またこれを補完する市民意識の未成熟がある。ムラ共同体の垂直的で曖昧な意志決定様式が現代まで跡を曳き、青年の参加を拒否する悪しき民衆意識が形成されてきた。他ならぬムラ共同体が過疎化によって劇的に崩壊しつつある状況で、過疎村が未成年者の主権参加を保障するというパラドックスが眼前で展開されつつある。(2002/11/5 19:01)

[人間の攻撃性について]
 人間が極限状態に置かれた時に、個人の生存への意志がどのように現れるか? そのパターンを極端な形で表すと、タイタニック型とマクシミリアン・コルベ型になるのではないか。英国の豪華客船タイタニック号が処女航海で氷山に激突して沈んでいく時に、船長は専属の楽団を甲板に上げてベートーヴェン「第9」交響曲を演奏させてパニックを沈静化し、救命ボートに乗る順番を病人→子ども→老人→女性→壮年男性→青年男性と指定し、整然と乗り移り始めた。ところが救命ボートの数が少なくなりかけた時に最後尾にいた青年男性が他の人を押しのけて飛び移るという行為をこなった瞬間に、全ての人が我先にボートに突進するという第2のパニックが発生し、その結果助かるべき多くの命が逆に失われるということになった。
 ユダヤ人強制収容所アウシュヴィッツでは、囚人が脱走するとその数倍の囚人を全員の前で公開処刑し脱走を防止しようとした。ある日の公開処刑でアトランダムに選ばれた囚人の中で、一人が私には妻と幼い子どもがいて私の帰りを待っている・・・・どうか殺さないでくれ・・・・と絶叫し始めた。すると見守っていたある囚人が前に進み出て、私には妻も子もいない、私があの人の代わりに撃たれる・・・と申し出た。ナチスはそれを認め処刑した。その人こそ後にローマ法王によって聖人の座に列せられたマクシミリアン・コルベ神父である。身代わりとなって助かった人はその後奇跡的に収容所から生還し、戦後はイスラエルでコルベ記念館をつくって顕彰している。コルベ氏の行為はキリスト者なるが故に可能であったのか。そうではない。山手線で線路に落ちた人を助けようとして自分も瞬間的に飛び込み轢死する人もいる。しかしシベリア強制収容所での旧日本軍捕虜は、惨憺たる生存のために云うに耐えない争闘を繰り広げ、帰還した人は自らの行為を慚愧の念で回顧している(高杉一郎氏の著作参照されたい)。
 以上の極限的な実例から限定的に導き出される結論は、人間は天使でもあり悪魔でもあり得る重層的な存在であるということであろうか。その人がコルベ氏であり得るかどうかは何で決まるのだろうか。しかもコルベ氏の行為を無条件に賛美することに批判的な言辞もある。つまるところ理性と正義の在り方がどのように状況に規定されているかという問題と、どのような状況であれ個人の尊厳をかけた決断と振る舞いという2つの問題がある。前者に力点を置けば、強制収容所を作り出した戦争とナチズムという制度を2度と繰り返さないという社会的な戦略が重視され、後者に重点を置けばあらゆる状況にもかかわらず堅持しなければならない精神の在り方を絶えず検証する主体が重視されるだろう。
 さて私は生の帰趨を決する極限状況は、ある日突然聳え立つように現れるのではなく、毎日の日常のなかに徐々に積分されていき、ある瞬間に取り返しがつかない巨大な奔流となって現れるのではないかと思う。その積分の集積が質を変える瞬間が必ずあり、その質はそれまでの目立たない日常の一つ一つの選択によって実は事前に決せられているのではないか。とすれば、今日のこの日にある小さな選択に全霊を込めて参加することーここにこそ決定的な意味があると思う。
 つまり制度的な状況は、日常の主体的な選択の総和の凝縮であり、敢えて云えば強制収容所で私が天使であるのか悪魔であるのかは、今日のこの日の私の行動が天使であるのか悪魔であるのかの最後的な表現なのだ。

 最後にこの問題を人間の攻撃性という問題と関わらせて、学校共同体を対象に考えてみたい。現代の制度的な学校は、中心から周辺に至る垂直的な編成のどこかに位置づけられている。卑近な例を挙げれば、垂直の中心校から周辺校に至る制服の自由が明瞭にその位置を示し、制服自由から制服管理に至る服従のレッスンに極端な差異が見られる。周辺に位置する学校では、常に他者からの攻撃性にさらされているから、人間に対する肯定感や信頼感が衰弱し自己否定感とない交ぜになって、攻撃性が逆エネルギーとなって噴出する。自分の中のコンプレックス(攻撃性を満たす)を自分より弱い仲間に向けて擬似的な権力の裏社会をつくるか、眼前の権力者にみえる教師に集中するか、その他さまざまの形態がある。これは青年発達心理学で云う正常な精神発達で必須の不可欠とされる第2反抗期とは異なる。こうした心情にある青年に対してマクシミリアン・コルベ型の人間モデルを提示しても有効性はない。青年にとってコルベ氏の行動は、偽善か自己満足のいかがわしいものに映るだろう。それは自らのなかに必ず残存している良心にある鋭い痛みを与える行動だから、現在の自己を守るためには余計に許せないものとして排斥しなければならない。
 では展望と希望はどこにあるか。自分より下にあるものを見て安心したり、自分と同じ境遇にある者と戯れる群れ行動で解消したり、外界と他者を遮断して自己世界に閉塞するというパターンは、多くのダメージを受けた経験の末にはじめて無意味であったと気づく。そのような傷ついたオオカミとして荒野を渡るには、人生の1回性は余りにも無惨で取り返しのつかないものになる。では展望と希望はどこにあるのか。アパルトヘイトに苦悶した南アフリカの黒人達、米国公民権運動によって差別解消に向かう米国黒人達・・・・・日本と世界に無数にある垂直的な編成システムを変革する確かな生き方、人間の尊厳の証となった誇りある生き方、そして学園や職場に脈々と地下水脈のように流れているイマ・ココにある無名の行動・・・・・それを発見する想像力は必ず自らを直撃し、透明でハーモニーある関係を再構築する泉を湧出させるだろう。ここに確かな希望がある。(2002/11/2 9:28)

[PC中毒症候群について]
 10月28日PCが電源を入れても全く反応しなくなった。驚いて購入先の名古屋は大須のパソコン工房に搬入すると、電源ユニットを交換し起動はするようになったが、今度は終了ができなくなった。詰まるところマザーボードに問題があるということになり、そのまま修理に委ねた。翌日電話するとこのマザーボードは外国製で取り寄せて修理する場合は1ヶ月はかかるという返事で、私は「それは困る」と強行に抗議したら、国内メーカーに問い合わせ同じ製品があるということで1週間に短縮した。教訓第1:要求は強硬におこなえ!(デイーラーはユーザーの言辞に相当左右される)。そして1週間後の本日11月1日修理が完成し自宅で今快適に駆動している。パソコン工房はマイナーな店ではあるが、誠実な商法を展開していることが確認された。
 さて私がこの数日間で骨身にしみて感じたのは、私自身がある種のPC中毒症候群に犯されているのではないかということです。仕事を終えて帰宅すると、まず電子メールを確認してそれから主なサイトをサーフィンし、最後に自分のサイトの更新をおこなうという、ここ数年続いている習慣が身に染みついてしまい、デイスプレーしかない机上を見るとなにか気が失せてしまい、読書の絶好のチャンスだと思ってベッドに横になって本を手にしてもすぐ寝入ってしまうのである。その本とは、長谷川宏訳のヘーゲル『エンチクロペデイー』であり、訳のモダンさとヘーゲルの華麗な論理展開に感動するのですが、いつの間にか寝ています。お陰で私の生活リズムはここ数日狂ってしまい、毎日が物足りなさの悔いが残りました。
 結論的に言うと、情報機器に依存した生活は人間の主体性を剥奪しているという冷厳なる事実です。これは考えてみると恐ろしい世界ではないか。私は情報それ自体の海を自由に泳ぎ回り、先端的なコミュニケーションを展開しているように思いこんでいましたが、実はそうではなく情報機器に私が依存し情報機器なくしては成り立たない構造に、無自覚のうちに嵌り込んでいたのです。情報化社会論で理論的には指摘される情報の自己疎外を私は自分の体験を通して検証したとも云えます。
 しかしこうして発信している今現在の私は、私自身の存在を回復できたかの如く嬉しいのです。このサイトにアクセスしていただいている皆さん、数日間のブランクがありましたが、これからも約束通りほぼ毎日の更新を実現すべく励んでいきますのでよろしくお願いします。(2002/11/1 18:12)

[賭博本能を娯楽で満たす中で人間が伸びていく]
 先日東京都庁45階の地上220mにある展望室で開かれたカジノ体験イベントでの石原都知事の開会挨拶である。目眩くようなカクテル光線のなかで、一般都民の入場を禁止して酒を飲みながら39台の賭博ゲームに興じている970人の自治体関係者や自民・民主・公明の議員の姿がある。臨海副都心開発計画の企業誘致が2年間で応募企業がわずか1社という惨憺たる情況で、窮余の策として打ち出されたのが小泉内閣「構造改革特区」構想に悪乗りしたカジノ特区という嗤うべき構想である。
 刑法第186条2項は賭博を厳しく禁止し、賭博場の開帳は3月以上5年以下の懲役である。組織的な開帳は3月以上7年以下の懲役刑である。その理由は、いたずらに射幸心を煽りギャンブル依存症と家庭破壊、青少年の頽廃、暴力団の横行を生むところにあり、かって美濃部都知事が後楽園競輪を廃止したのもその荒廃が余りにも酷かったからである。
 デフレスパイらによる不況が深刻化していく中での景気対策がこうした賭博の開帳にあるとは開いた口がふさがらない。倒産続出が予想される中小企業を尻目に夜な夜な賭博に興じる首都の光景を思うと、その余りの想像力の貧困と非人間的な為政に怒りを越えた哀しみを覚える。極右都知事の面目躍如たる政策であり、かっての享楽的な頽廃におちいったナチスを彷彿とさせる極限の非常識がある。極右は本質的に非人間的な思想と信条を基盤とするが故に、自らの頽廃を瞬間的に忘却するために破滅的な自己破壊の道に陥っていくことを見事に示している。それは多くの場合、深酒、ギャンブル、麻薬、異常性愛といった形態をとる。(2002/10/27 19:14)

[教育基本法見直し中間報告案について]
 教育基本法見直しは、森喜朗前首相の私的諮問機関である教育改革国民会議によって初めて提起されたが、前首相の「神の国」発言によって頓挫。その後学習指導要領改訂による「日の丸・君が代」の導入を経て、新しい歴史教科書をつくる会の教科書編纂にいたり、遂に中央教育審議会の教育基本法見直しに関する中間報告案が提案された。中間報告案(素案)と中間報告案の異同を見ると、審議会の教育理念が揺らいでいる情況が分かり、それは見直しの必然性の根拠自体を極めて不鮮明なものにしている。

 素案→「国際社会の一員であることを自覚し国際社会に貢献しようとする意識とともに、自らのアイデンテイテイーの基礎となる伝統、文化を尊重し、国や郷土を愛する心を持つことが重要である。しかしながら教育基本法にはこのような視点が明示されていない」

 中間報告案→「重要である」の次に「このような自らの国を愛し、平和のうちに生存する権利を守ろうとする国民一人一人の思いが、わが国だけではなく、同じ思いを持つ他国の主権を尊重しなければならないと言う国際的な視点に通じるものとなる。」という記述が追加された。
 この追加は、偏狭なナショナリズムの鼓吹に対する国内と東アジア諸国の批判を想定して追加したものと思われるが、この追加自体が現行憲法・教育基本法の理念を再確認するという自己矛盾を招いてしまい、改正の根拠がないと言うことを証明するという皮肉な結果に終わっている。なぜなら憲法は「平和を維持し、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」とする平和的な国際貢献を規定し、教育基本法は「世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した」教育の目的を明示しているからである。教育基本法はちゃんと明示しているのであり、中教審委員諸子はほとんど教育基本法を精細に読む作業をしないまま改正を先行させようとしているかにみえる。さらには、素案の「公」は滅私奉公の国家主義という批判を浴びて、すべて「公共」と書き直してしまった。些末な言葉の追加や言い換えによって「戦後教育の大きな転換」(朝日新聞)をもたらそうとしている文科官僚の作文に過ぎないことがよく分かる。

 改正案の基本的な論理は、「世界規模の競争が激化する試練の大転換期」→「大競争時代を生き抜く」「21世紀を切り開く心豊かでたくましい日本人の育成→「重要な資質として、創造性、チャレンジ精神、リーダーシップ、世界水準の知識・技能」である。「心豊か」は「たくましい」だけでは経済原理ではないかという批判に応えて追加挿入されたカモフラージュ用語に過ぎない。世界を大競争で理解しひたすら勝ち組をめざす論理である。本当にそうか。地球環境やエネルギー、核廃絶や平和、人権等々競争ではなく共生でしか解決不可能な地球的課題に満ち満ちているのが真実の姿ではないか。現行教育基本法の「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する心身共に健康な」人間の育成という課題は、ますます21世紀の人類的課題として輝いているのではないか。

 見直し案の方向の一つに「学校・地域・家庭の役割」の規定がある。現行教育基本法制定時に、家庭教育の規定を導入しようとする意見に対し、「親は自然に子どもを教育し、兄弟は自然に弟妹を指導教育していく・・・・これを熱心に家庭でやれというのは・・・・日本国民に対する侮辱ではないか」という反対意見が多数を占めて葬り去られた。国家が市民の内面の自由に不介入であるという近代市民社会の原理に対する感覚は遙かに60年前の方が鋭敏であったことが分かる。「豊かな心」「美しいものに感動する心」「自然を愛する心」といった本来内発的な精神的価値を国家が決定し、国民に強制するというファッシズムに近い論理は、最終的に「郷土や国を愛する心」に帰着して戦前型国民精神総動員を再現することになりかねない。こうした内面的価値への介入をもはや、「国民に対する侮辱」とすら思わない感性の頽廃がある。
 このような頽廃した審議の果てに21世紀の日本の教育システムの基本が決定されるとしたら、未来は危うい。21世紀の子どもの生命と文化をいじくり回して、自らの利益を追求しようとしているのは誰か。子どもの命に現場責任をもって日夜苦闘している現場教師は今何をしなければならないのかー鋭く問われる分岐点がヒタヒタと近づいている。(2002/10/27 9:14)

[国家に弄ばれる個人ー拉致被害者の尊厳とは何か]
 人間の生命を無惨に蹂躙した国家犯罪の犠牲となった方々は、現代の国家と個人の関係を象徴的に身を以て示している。この小稿は、故横田めぐみさんの娘とされるキム・ヘギョンさん(15)の単独記者会見に触発されてしたためるものである。彼女は自分の両親の出自がどうであれ、一個の独立した人格を持ちその15年間の成育過程は北朝鮮にあり、価値観や文化はその中で形成され日本は遙か彼方にある異国に過ぎないのである。そうした自己のアイデンテイテイーを根本から揺るがし、否定するような執拗な質問が日本人記者から浴びせかけられている。日本人記者は、あなたの生育がどうであれ全て断ち切って日本へ移住すべきだと主張しているかのようである。15歳の少女は動転し、けなげにも自分のアイデンテイテイーを守ろうと必死に答えている。祖母の横田早紀江さんは、その中継を見て「見ているのが辛い」と言って席を立った。この情景はファナテックな北朝鮮非難に巻き込まれて、ナショナリックな心情を無自覚に主張して恥じないジャーナリズムの堕落しした現状が白日の下に晒されている。横田夫妻がヘギョンさん宛に書いた招待状は「冬休みに来てください」とあったが、中山恭子内閣官房参与は「今すぐ来て」と書き直させたという。私信の内容に政府が指示をするということうぃお異常とは思わない情況がある。
 こうした情況のなかで日本政府の永住帰国を強制するという恐るべき決定が出され、拉致犠牲者は今度は日本政府によってあたかも合法的に拉致されようとしているかにみえる。この予期せざる決定を受けた拉致被害者は、二重の苦悩にあえぎ帰趨を決しかねている。蓮池薫さんの「24年間俺は何をやってきたんだ。それを無駄だだというのか」といううめきは、国家の間で引き裂かれようとしている叫びである。この日本政府決定の欺瞞は、逮捕されることが確実な米軍脱走兵をも日本へ誘うことに示されている。
 国家>個人という前近代的な関係が陰惨なる姿を現し、国家<個人という近代原理はどこかに消えてしまっている。個人の内面の自由、居住の自由、国籍選択の自由といった自然権の原点に立ち戻って、個の尊厳を回復する立場から処理すべきであるにもかかわらず、ファナテックな雰囲気に包まれているこの国は自らの首を自らの手で締めていることに気づかない。日本国の矜持はどこへいってしまったのか。
 拉致被害の解決の基本について、私は以下のように提案する。なによりも被害者個人の選択の自由が最優先されなければならない。洗脳や脅迫によって自由意志そのものが奪われているーという批判は傲慢である。たとえそうであったとしても、少なくとも自由往来を保障した上で被害者個人の選択に委ねるべきである。被害者とその家族の選択意志こそが、出発であり結論であるような選択を制度的に保障しなければならない。国交正常化をめぐる政府間交渉の前提は、拉致被害者とその家族の自由往来の保障であり、自由往来の過程のなかから得られるさまざまの見聞や経験によって最終的な最適選択が保障されるようにすべきである。
 個の尊厳が2つの国家によって気ままに蹂躙されようとしている現状に日本の知識人はなぜ沈黙しているのか。人間の命が地球より重いと主張してきたはずの知識人は、国家よりも遙かに重いはずの個人の生命の剥奪に対する抗議を逡巡している。最後に苦衷の最中にある被害者家族に訴えたい。娘や息子に対する愛情が深ければ深いほど、自分自身の希望を厳しく保留して当事者の意志に委ねるべきであり、そのような制度的な保障を両政府に求めるべきではないか。親ではなく異郷にいる家族を選ぶという選択は、20数年の別離からみると身を切られるような辛いものではある。なおかつよかれと思う親の愛情によって、一度しかない息子と娘の人生を絡め取ってはならないのではないか。(2002/10/26 19:58)

[女性差別撤廃への歴史的ページが開かれた]
 芝信用金庫の男女昇格差別是正事件の和解が最高裁で成立し、歴史的な地平が切り開かれた。2001年の国連人権規約委員会最終見解では「日本では同じように働いても男女の賃金は事実上の不平等があり、多くの企業では女性に専門的な仕事に昇進する機会がほとんどないという労働慣行が続いていることに懸念を表明する」とした。ILO調査では、管理職に占める女性の割合は米国45%、カナダ35%、英国33%、独26%、伊19%に対し、日本は9%に過ぎない。日本の女性の平均賃金は、パートを除いても男性の60%であり、国際的にも甚だしい昇格・昇進差別がある。
 日本では、はじめて結婚退職制度を無効とした66年住友セメント事件判決から、女性差別是正の判断が大きく前進し、遂に昇格・昇級差別の差別が禁止されるに云った点で、芝信用金庫裁判は画期的な意義を持つ。
 さて私はあらゆる女性からの批判を覚悟した上で敢えて云う。こうした男女平等が比較的に保障されている世界が教育公務員の世界であり、現実に教育公務員の世界では男女差別を直接に対象とする訴訟事件は皆無に近い。しかし実態は女性管理職の占拠率は民間企業と変わらず圧倒的に低い。これはなぜか。男性側からの無意識ないし意識的な差別的処遇があることは否めない。しかし私が敢えて指摘したいのは、教育公務員の世界における女性の主体的な姿勢を問いたい。会議における主体的な意思表明の実相、インフォーマルな場における同僚評価に傾く傾向、さらには戦略的思考における弱さ、強力な男性に対する依存傾向、権力に対する批判の躊躇、さらには同性に対する陰惨な他己評価、孤立しても堂々たる主張をする点での弱さ、帰する所の甘え、小市民的な私生活への安住、狭窄した視野などなどを指摘しなければならない。まして表面的にフェミニズムを演ずる男性への誤認せる賛美、感情優先の人間認識など素朴な日常経験から指摘することができる。
 私はこれらの女性にまとわる諸現象を生まれながらの生得的なものとみなす立場ではなく、女性が置かれた成長過程でやむなく身につけた特徴だとみる。その主たる責任は、封建社会以降歴史的に積み重ねられてきた男性支配システムにある。しかしなお私が率直に指摘したいのは、女性差別撤廃の制度的な前進が実現されればされるほど、女性自身の主体的な弱点を克服する自立的な努力が求められるだろうということだ。小泉内閣を構成する女性大臣の振る舞いを目にすればするほど、私は最も洗練された形で女性が飾り物にされているという実感を抱く。その方がネーションの立場から見ればより危険なことではないか。
 以上私が述べてきたことは、世の女性達からの、特に一定の知的レベルの女性から総攻撃を浴びるかもしれない。私は、女性に問いたい。制度的前進に甘えた女性の存在を許す同性の存在をどのように処理するのか。上野千鶴子型の新たな装いを凝らした女権主義である講壇フェミズズムの限界を超えた地平に進み出ていかなければならない。その点で今回の芝信用金庫裁判に於いて、最高裁まで生活を賭けて戦い抜いた女性社員13人の行動に無条件の敬意を表する。(2002/10/25 20:33)

[埋もれた思想家安藤正楽について]
 今年は戦前期の人道的博愛主義者安藤正楽の50回忌にあたる。故郷の愛媛県以外には知られていない無名の人物であり、私も初見であった。安藤の生地がある愛媛県宇摩郡土居町の片隅には、明治40年に安藤が筆を執った碑文が全文削除された日露戦争記念碑がある。建立3年後に官憲が削除を命令した。碑文は、日露戦争戦没者を悼んだ後に次のような語句がある。
 「戦争の非は世界の公論であるのに事実は之に反して戦いは亦明日にも始まる」
 「之を如何にすればよいか」
 「世界人類のために忠君愛国の四字を滅すにあり」

 当時は天皇制絶対主義の支配下にあり、大逆事件後に彼は逮捕、拘置された後この文章も削除された。与謝野晶子、犬養毅、安達峰一郎(ハーグ国際司法裁判事)らとの交流があり、実証史学の研究や女性解放を主張した。以上朝日新聞10月24日付け夕刊参照。
 おそらくこうした先駆的な思想家がまだまだ歴史の光を浴びないで埋もれているであろう。江戸期の世界的な革命思想家安藤昌益すら、敗戦後にGHQの一員として来日したハーバート・ノーマンの発掘によって初めて「忘れられた思想家」として発見されたのだ。安藤昌益は、士ー農ー工ー商の身分制社会を鋭く告発し、武士階級を自らは汗を流して働かないで百姓を搾取する「不耕貪食之徒」として批判し、皆が耕して働く世を理想とする「自然真営道」を主張した。
 奇しくも両者の姓は一致しているが、親戚関係はない。安藤正楽のスゴイのは、反戦論を主張するのは当時の反体制の枠内であるが、「忠君愛国」を否定する反天皇・反国家主義を主張した点にある。この主張自体が自らの命を懸けなければ云い得なかったことである。ほんとうに歴史が動くのは、HNK的『その時歴史が動いた』というような英雄史観ではなく、こうした無名の未来志向を持った無数の草もうの志を持った人々によってである。そうした視点で、今・ここで生きている自らの世界を点検し、創造の一歩を踏み出すべきではないか。そのような一歩は、かっては処刑を意味するいのちの問題であったが、現代は真綿で締め付けられていくような問題であり、抑圧の質が違うが本質的には同じである。(2002/10/24 20:33)

[♪大きな古時計My Grandofather's Clock 童謡考(6)]
 平井堅が歌って大ヒットしているこの歌は、もとは1962年にNHK「みんなのうた」でオペラ歌手の故立川澄人が最初に歌い、1973年に立川と長門美保歌劇団児童合唱部の演奏で再演され、78年と85年にも再放送され、その後音楽教科書に掲載され広く歌われるようになった。平井は母親が台所で歌うこの曲を聴き、大好きな歌となったと云う。立川の歌唱は堂々たるアリアだが、平井は語りかけるようにフレーズ毎に独特の軽いこぶしのような揺れを付けて歌う。それがたまらない郷愁感を呼び起こし、若い世代の心にも深く染みいるような残照をもたらしたと思う。ふっと口ずさむ歌がなくなってしまい、リズムと音響の支配する現代音楽に絶望している人たちが、メロデイーと歌詞を再生させたいと願う潜在的な願いが込められているのではないかと思う。

 この歌は1876年に米国の当時44歳の作曲家ヘンリー・クレイ・ワークが、巡業公演でイギリスのビアスブリッジのホテルに宿泊した時、11:05を指したまま止まっている大きな古時計をみて、主人から聞いたエピソードから浮かんだインスピレーションを受けてその晩に一気に書き上げた。
 そのホテルはもとはジェンキンズという2人の兄弟が経営し、地元の人望が厚いいい兄弟であった。兄が生まれた時に父親が購入した2mを越える木製の大時計は極めて正確で、宿泊客が馬車の出発時間を正確に知ることで定評があり、1年中正確な時間を刻んだ。ある日弟が病に倒れて亡くなった時から、急に時計が遅れ始め、葬儀の後修理屋が一生懸命に修理したがついには1日に15分も遅れるようになった。弟の死から1年を経過したある日、兄が後を追うようにこの世を去った。ロビーに集まった友人達は、大きな古時計を見て騒然となった。時計の針は彼の死の瞬間の時刻である11:05を指して、動いていたはずの振り子の動きも止まっていたのである。新しい経営者は専門家を動員して時計を修理したが、何度なおしても11:05で針は止まってしまうのである。ワークはこの話を聞いて、自分がジェンキンズ兄弟の孫の気持ちで作曲しミリオンセラーとなった。

 この歌を日本語に訳した保富康午氏は、原詩の作者であるワークが苦労して散りばめた韻(ライム)と呼ばれる同じ発音部分を持つ技巧的な配置を全く無視して翻訳しました。これによって原詩の深い味わいはほとんど失われて伝わってしまい、原詩を知る人はほんとうは悲しいのです。ここでは1番のみのライムと思われる部分を斜字体で記します。

 My grandfather's clock was too large for the shelf,
 So it stood ninety years on the floor.
 It was taller by half than the old man himself,
 Though it weighed not a pennyweight more.

 It was bought on the morn of the day that he was born,
 And was always his treasure and pride
 But it stopp'd, never to go again
 When the old man died

 CHORUS
 Ninety years without slumbering,tick,tick,tick,tick,
 His life seconds numbering,tick,tick,tick,tick,
 But it stopp'd short,never to go again
 When the old man died.

 私たちは、ふだんはモノを消費し使い捨ててしまいますが、本当に自分が大切に思うモノは愛情が乗り移ってしまい、あたかも自分の人格があるかのように扱います。するとモノは別のモノに絶対に代替できないこの世に一つしかない、自分にとってかけがえのない尊いモノになっています。これをフェテイシズム(物神崇拝)と云いますが、ジェンキンズ兄弟にとっての時計は自分の命の次に大切なモノになっていたのです。時計自身が生命を持ち、時計自身もジェンキンズ兄弟を自分のいのちと思うようになったと言っていいと思います。兄弟が亡くなった時に、時計は自分の生命も終わり、時を刻むことを永遠に止めたのです。
 このような人間とモノの関係が失われて久しい時が過ぎていますが、この歌は失われたそうした関係を回復することを願っているようにも思えるのです。つまり私は、この歌は人間と自然が共にあるエコロジー讃歌のようにみえてくるのです。だからこそ私たちの心を惹きつけるちからがあるのではないでしょうか。(2002/10/23 20:43)

[若者が変わる時ー中国でのインターンシップ体験]
 本日のNHK番組「クローズアップ現代」で、中国深釧テクノセンターでの日本人学生のインターンを通しての変貌を放映していた。センターには、中国内陸部から出稼ぎに来ている少女5000人が時給50円で8時間から12時間働き、宿舎はカーテンで区切られた1畳ぐらいのスペースで寝起きしている。日本人学生は、彼女たちと同じ条件で働き同じ食事と宿舎で2〜3週間を過ごす。時給50円だから機械をセットするよりも遙かに安く、しかも若くて優秀な労働力として欠陥商品をつくらない彼女たちは、真剣な眼差しで集中して働き生き生きとしている。工場中が熱気に溢れている。細かいチップを埋め込む作業は1日約1万回の作業である。日本人学生は2時間で限界に達する。彼女たちが迫力に満ちているのは、明確な目標をしっかりと持っているからであり、それは技術を身につけて故郷へ帰る・親を幸福にする・金を貯めるその他である。彼女たちは、四川省から交通費がないため2000kmの道を徒歩で2ヶ月かかって広東省の工場に来るのである。一見すると日本の明治期の女工哀史に似ているが、本質的に権利面が異なっている。
 将来の夢や目標を真剣に考えたり、探したりする体験がなく、何となく生きて希望を持たない日本人学生は、まずこの中国人少女の生き方に衝撃を受ける。みるみるうちに日本人学生は変貌し、背筋が伸びてゆく。それは2つのタイプを生み出す。1つはこのままアジアに留まりアジアで自分の将来を位置づけたいというタイプであり、もう一つは日本の故郷に帰って元気のない地域を変えたいというタイプである。「僕は世の中のことを何も知らなかった。ここで初めていろいろなことを知りました。この状況では社会に出られません。1年留年して考えさせてもらいます」という学生も登場する。
 このインターンは、「生きるとは何か、働くとは何か」を深く考えるものであり、只単なる企業と学生が知り合うレベルではない。センター長石井氏は「人生に閉塞感、、方向を見いだせない学生を積極的に受け容れる」とし、人生の基本を現場で学ぶ。帰国する日本人学生を歓送する会で中国人少女から「あなたがたは大学生なんでしょ、日本のためにがんばりなさい」と言われてショックを受けた学生を紹介していたが、彼は日本でこのような言葉を一度も聞いたことがなかったからだ。このインターシップ制度は、香港までの往復航空券代3万円を用意すればあとは全て現地が面倒を見る。
 青年の変化が何を契機に誘発されるかを示す実証的な事例である。それは、詰まるところ希望や目標を実感するか否かである。日本の若者が希望や目標を本気で探しているかどうか疑わしいーそのような日本社会を残念ながら大人達は作り出してしまった。こうした生きる基本を外国に依存しければ発見できないこの国の現実は哀しい。私はしかし、日本の中にも隠れた姿で青年に衝撃を与える現場があると信じる。それはまさに私自身がいるーその場所でなければならない。
 詳細は関満博『現場主義の知的生産法』(ちくま新書)を参照されたい。関氏は、一橋大で地域産業論を専攻する私が最も尊敬する研究者の一人である。氏は自らの方法論を「唯物史観的な歴史認識が縦軸にあり、ミクロ経済学の競争論的な視点が横軸にある」としているが、その接点は「現場」以外にないのだとつくづくと思う。(2002/10/21 21:04)

[ビジネス版悪魔の辞典(山田英夫 メデイアファクトリー 1998年)]
 ビジネスマンには、思わず笑えてくる、身につまされる定義が並んでいる。以下はその一部。

●取締役 社長の思いつきを何の翻訳もせずそのまま部下に伝える人。
●人事考課 先に順序を付けてから各人に評点を書き込む作業。
●目標管理 ノルマの割り当てが美しい衣を着て再登場したもの
●賞与 君に期待しているよーという上司の言葉が嘘だったと分かる瞬間。
●辞表 多くの人が叩きつけるのを夢見ているが、いざ提出する時はそっと置いてくるもの。
●OB 職場に遊びに来ても、時間の経過と共に誰からも話しかけられなくなる人。
●社宅 上の階の騒音に文句が言えない住宅。子どもの運動会のかけっこにも、父親が過度の関心を払う集団。
●企業文化 簡単に変えられればそれは文化ではなく、変えられないと企業の成長をそがれるもの。
●有能な社員 上司の指示のどれを受け容れ、どれを聞き流すかの判断が瞬間的に出来る人。
●無能な社員 上司の指示をすべて受け容れ、実行することに生き甲斐を感じている人。
●ほう・れん・そう(報告・連絡・相談) 自分で主体的に意志決定できない社員を育成して倒産する日本型システム。
●振替休日 とれないことによって忙しさを誇示できるーと本人のみが思いこんでいるもの。
●定期異動 仕事が面白くなってきた頃に発令され、人間関係に悩んでいる時には発令されないもの。
●栄転 本人を目の前にした場合の左遷の丁寧語。
●さんづけ運動 最後まで誰からもさんづけで呼ばれない人は誰かを探す運動。
●裁量労働 誰の裁量かよく分からない残業なしの勤務形態。
●ワークシェアリング 痛み分け
●出向 体は出向先会社にあるが、心は本社に残るという錯綜した心理状態を経験させる仕組み。
●女子制服 ときどき若々しいデザインに切り替えて、男性社員に揺さぶりをかけるための手段。
●通勤途上災害 小学校時代に教えられた寄り道はいけないーが経済的に意味を持つ瞬間。
●人事 人生を決定する非常に重要なことをヒトゴトのように扱う冷酷非情な仕事。
●分科会 責任を分散し、曖昧にする時に用いられ、出来る限り意志決定を遅らせたい時に使う大仰な行事。
●管理職研修 自分が職場にいない方が仕事がうまく回ることを悟る瞬間。
●通信教育 脱落するために参加するマラソン。全員が修了すると通信教育会社が倒産する教育システム。
●デイベート 日本企業においては、上司に使ってはならないとされている討論法で、この能力があると会社では排除される。
●暗黙知 分かったような気になる日本的思考のキー概念で、本当は分からないのでまた来年聞きたくなるように講師がし向ける。
●アカウンタビリテイー 日本文化にはない言葉。いちいち説明せにゃあいかんか?
●デボネア 三菱系企業の役員の数だけ生産される特殊な乗用車。
●戦略的 自分の考えを重厚に見せるための枕詞。
●企画 創造性がある印象を受けるが、実際は代替案の組み合わせから、実現性のない案を削る仕事。
●グローバル・スタンダード かっては黒船と呼ばれたが、過去のしがらみを廃止する時の枕詞。日本では「皆さんそうやっておられます」と平易に云う。
●アウトソーシング 自分で出来るが他人にやってもらった方が安上がりなものを、他人にやってもらっているうちに、自分ではできなくなってしまうこと。
●耐久消費財 耐久性がなく定期的に売れる商品で、修理費は新品のほうが得だーと思わせる水準に設定する。
●アウトレット 東南アジアに出すか、裁断・解体する直前の在庫保管場所。
●データベース 蓄積している間は価値がないが、外に漏れると法外な価値が付く情報。
●生活者 メーカーがつくったものを消費するだけの「消費者」ではあまりに失礼なので言い換えられた呼称。あるスーパーで一流メーカーの「白い歯ブラシ4本セット」の格安セールをおこなったがさっぱり売れなかった。スーパーは、4人家族がどうやって歯ブラシを識別しているのかという生活者の視点がなかったのである。
●お客様相談室 怒りを満足に変える目的でつくられた心理実験室。
●会議費 飲むという字が御法度の伝票に記す語句。
●住宅貸付 転職を思いとどまらせる最後の砦。
●広報 事が起きた時に報道を止める力があるかないかで存在価値が問われる。覚える言葉は3つだけ。「世間をお騒がせして申し訳ない」「誠に遺憾である」「訴状を見ていないのでコメントできない」
●年金の支給年齢 逃げ水の別名。
●パソコン さも仕事をしているかのように見える箱状の物体で、嫌な奴の前に立てるとついたて効果を持つ。
●マイクロソフト 社名とシェアが天文学的にかけ離れている企業。
●ユーザーマニュアル 作り手が自分自身のためにつくった備忘録で、普通の人は利用できないように仕組んである。
●携帯電話 女子高生にはやったら終わりという説を証明する、日本から恥の文化を消失させた電子機器。
●暗証番号 生年月日か電話番号以外では使えない秘密の番号。
●システム手帳 かってはビジネスマンの時間管理の必需品であったが、今は女子高生のプリクラ貼付の台紙。
●会議 出ないと不安だが、出ると損したと感じる集会。
●全員一致 出席の必要がない人がたくさん出席している会議での決定方法で、会議後に非協力者が出る兆候。
●業務上横領 厳密に適用すると全員が首になる法律。
●非常階段 消防署の査察が入る前の日までと、その翌日からの倉庫場所。
●宴会  ある種の液体を服用させた上でおこなわれる同僚評価の実験室。「これから無礼講」という言葉は、これから本格的な評価を始める合図となる。
●委員会 前回以来の経過を確認し、今回の配付資料を読み上げるとちょうど終了時間を迎えるようにセットされた会議。
●プリペイドカード 使ってもらうために発行するが、実は使ってもらわない方が得するもの。退蔵させて利益を上げる点では、記念切手や三越商品券(財布に入らない大きさで、桐の箱に入っているので最後は忘れてしまう)と本質的に同じ。

 企業経営の本質は、「悪魔のように考え天使のように実行する」ところにあります。抱腹絶倒から悪魔のささやきまで現代日本企業の現場がうかがえます。ビアス『悪魔の辞典』も真っ青のエスプリが満載されています。掲載したのは一部ですので、興味がある方は直接ご覧ください。(2002/10/21 21:12)

[社会政策学会第105回大会参加記]
 共通論題は「現代日本の失業」であり、伍賀一道(金沢大)・玄田有史(東京大)・久本憲夫(京都大)・大木一訓(日本福祉大)の四氏のレポートを下に論議は、@社会政策は経済政策といかなる関係にあるかA正規と非正規労働の区別は何かB世代間ワークシェアリングの有効性C失業と無業概念の変容の4点で展開された。私が最も興味を持ったのは、失業対策として民間による再就職ビジネスの評価をめぐる問題、世代間ワークシェアリングの評価、失業概念の変容をめぐる論議の分岐である。玄田氏の若い感性による縦横無尽の奔放な論理展開に久しぶりの刺激を受けた。伍賀氏と大木氏の古典的な理論展開はきらびやかさはないが、リアルな労働市場の現場を動かすにはこうした地味な議論になるであろうとも思った。久本氏はやや思いつきのマッチポンプに近い議論であり、実践的にも学的にも無意味である・。
 社会的公正論に立つ社会政策論はマルクシズムの影響を受けることは避けがたいが、その潮流を代表する伍賀氏と大木氏の戦略展望における政策的実証性の欠如は、現代社会政策論の直面する限界を露わに示していると実感した。伍賀氏のオルタナテイブは、ILOのデイーセントワーク戦略に依拠するものでしかなく、なんのために日本社会政策学会の歴史があったのか分からない。いまだに国際的なスタンダードの外発的なフレームワークを借りてしか日本の問題を処理し得ない悪しき伝統が引きずられている。国際的なレベルの到達点から学ぶべきではあるが、本質的に内発的な政策論理を展開をしない限り未来はないと思う。この点でシカゴ学派の丸写しでしない新古典派も、それを批判するマルクス派も同根の発想構造を持っている。
 結論的に云えば日本労働力市場の想像を超えた激変に、社会政策の学的探究が付いていけていないといった状況を露呈したと云える。そのなかで玄田氏の新鮮且つ精緻な論理展開と社会的弱者に対する誠実なアプローチは好感が持てた。彼には具体的状況の具体的分析を踏まえたシャープな政策思考の論理展開があった。ただし後追い的な現象の数理分析の本質的な限界がある。私は伍賀氏と大木氏を批判しているかに見えるが、リアルな争闘はお二人の主張と新古典派の抜き差しならない対決にあることは否定できない。だからこそアカデミズムの場で、新古典派玄田氏に対抗する普遍的な理論的ヘゲモニーを握る責務があると思うが故に敢えて呈した苦言ではある。フロアーからの発言はやはり熊沢氏が現場を踏まえた理論の重みを伝えていた。社会政策学というすぐれて実践性をもつ分野の社会科学としての学的な在り方を鋭く問う大会ではあった。以上は一専門外参加者の率直な感想である。小雨降る名古屋市昭和区の中京大学八事キャンパスにて。(2002/10/20 19:29)

[拉致事件に対する歴史理性の審判]
 拉致被害者の帰国報道がマスコミを占領し、日本全国は同情と哀惜の念に溢れているかに見える。被害者は一定のマインドコントロールは受けたであろうが、それを越えた望郷の念と家族・知人への無条件の愛情は胸を打つものがある。私が拉致被害者であればまさに同じような心性に傾斜するであろう。彼等は身に覚えのない迫害を受けてなお、異郷における強いられた生活を受容ししたたかに生きたとも云える。彼等の涙と笑顔が交錯する真情は決してつくられたものではなくヒューマンな庶民の嘘偽りないこころがそのまま表れている。
 しかし歴史理性は、朝鮮人従軍慰安婦が訪日して決死の訴えをおこなった時に同じような同情と慰謝の態度をとらない日本人を鋭く見据えている。はるかに人間性を剥奪され蹂躙されたいたいけな少女の生き残りの絶叫に対して、日本の想像力は余りにも貧しい。拉致被害帰国者自身がそうした日本の現実を「恥ずかしい」と述べている。15年戦争で従軍慰安婦にされた女性は8万人から15万人といわれ、朝鮮や中国、東南アジア全域に渡っている。91年に提訴以来02年にはじめて日本の裁判所は事実を認めたが、賠償責任は否認した。39年の政府通牒「朝鮮人労働者内地移住に関する件」によって、強制連行した朝鮮人の数は45年までに約150万人に上り、過酷な労働による犠牲者が続出した。これらは明確な国家犯罪であり、また拉致事件も北朝鮮の国家犯罪である。
 戦前の朝鮮人強制連行という国家暴力と、拉致という国家テロをともに「吾がこととして連想し、・・・・2つの重大な史実は未来永劫帳消しにするべきではなく、相殺すべきでもなく、・・・・・こうした国家の暴力を繰り返さないためには、民衆の視点に立った史実を能う限り正確に後代に語り継いでいかなければならない」(辺見庸 毎日新聞10月27日付け)というのはその限りに於いて正しい。ただし辺見氏の国家を相対化して歴史の継承問題にするにはあまりに事実は共時的である。事実の責任を解明し客観的な責任を明確に追及し賠償をおこなう、そのような審判する政府を同時に持つこと、これなくして歴史は幕を下ろさないのではないか。(2002/10/19 23:22)

[あなたはベトナム二重体児ベトちゃん・ドクちゃんを知っているか]
 ベトナム戦争で米軍はジャングルに潜むゲリラをあぶり出すために強烈な枯葉剤作戦を展開した。枯葉剤を浴びた解放軍兵士が戦後結婚し出産した子どもから大量の奇形児が発生し、なかでも結合二重双生児であるベトちゃん・ドクちゃんはその象徴的存在として全世界の救援活動が展開され、現地では分離手術が出来ず日本の三重赤十字病院で手術を行い無事成功して帰国した。それは14年前であった。それは私自身が現勤務校に赴任して新たな出発を遂げようとしたその時ではなかったか。私は日常のよしなしごとにそれを忘れベトナムのドイモイ市場経済化戦略にもっぱらの関心をいだいて今までが過ぎた。
 ところがドクちゃんはたくましく成長して21歳となり、バイクの後部座席にガールフレンドを載せて疾駆している。彼は、ホーチミン市内のツーズ病院の一角で寝たきりのベト君と母親と共に暮らし、昼はコンピュータを使い病院の仕事をしている。ガールフレンドは、同じ病院で働くウインさん(17)で日本の若者と同じように携帯電話のメールを一緒にのぞき込んで楽しんでいる。ドク君の将来の夢は、自分の力で家族を養い、病院の外で暮らすようになることだ。以上朝日新聞10月19日夕刊参照。
 私の学生生活はベトナム戦争と日韓条約問題で明け暮れ、その象徴の1つがベトナム二重双生児であった。彼等は、米軍犯罪と平和を希求する全世界の良心の象徴的存在として存在した反戦の結晶体であった。しかし不思議なものだ。彼等は普通の青年として成長し、ベトナム社会の一隅を占めるエンジニアとして生活し、恋愛をしながら家族の責任ある位置を占めようとする極く普通の青年に成長している。私はこれでよいのだと思う。全世界の平和を一身に担うメッセンジャーとしての役割を期待する方が、まさに当事者に対する無礼で過度の誤った政治主義的な期待なのだ。想えば誰もが自らの生の自己決定権を持ち、誰にも従属せず誰をも支配しない関係を作ることがベトナム反戦の究極の目標ではなかったか。これでいいのだ・・・・これでよかったのだ、こうした生活こそ私たちのもとめる姿ではないか。しかし、そこにこそ最も強烈な戦争犯罪者と侵略者に対する静かで深い告発があるとも思う。(2002/10/19 19:14)

[封印された禁断の書、ナチス安楽思想の原点 カール・ビンデイング/アルフレート=ホッヘ『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(窓社)]
 本書は、ドイツが第1次大戦に敗北し革命と反革命の嵐が吹きすさぶ1920年に、刑法学者ビンデイングと精神科医ホッヘが公刊した62ページの小著であり、後の1939年に始まったナチス安楽死計画の原典となったとされる禁断の書である。しかし一読して分かるように、ここには現代生命倫理思想の本質的な問題が提起され、「生命の質」論による積極的安楽死肯定論の源流がある。ナチスによる残酷な人種絶滅政策の思想的基礎を理解し、現代における原爆投下やアフガン報復爆撃を正義の名の下におこなう西欧思想の源流を解明するためには避けて通れない著作である。しかもこの書は、単なるプロパガンダではなく一定の法理論的・医学思想に基づいて論理的に展開しようとしている限り、現代の生命倫理思想はこの書との対決が求められる。こうした問題意識により私の詳論を展開する。最初にビンデイングの立論を紹介し、次いで私見を述べる。

 問題:命を終わらせる行為が許されるのは、緊急事態を除けば本人の自殺に限定されるべきか、それとも他人による殺害へと拡大すべきか? 自らの生命の主権者は自らであるということによって自殺は承認される。利他的な自殺(自害)から下劣な堕ちる自殺であれ自殺の違法性は証明できない。生命の占有権は万人が持つ。自己を殺害する権利が譲渡可能ならば共犯行為も合法となる。自殺を妨害する行為に対しては正当防衛権があり、自殺を中止する行為は違法な強要に当たる。
 第3者による殺害で無罪になるのは死の幇助としての安楽死のみである。死が確実に間近に迫ているならば、死に至る手段の時間差は問題とされない。死が切迫した痛みを除去するモルヒネ注射は殺害行為ではなく治療行為である。苦痛に苛む患者に対する安らぎに満ちた安らぎに満ちた治療行為である。その際の患者の同意は重要ではなく、第3者の幇助も許される。
 他人の殺害は無条件に否定すべきか。要請された殺害は減刑される。殺人罪は、犠牲者の生存意志を暴力で蹂躙する犯罪を対象とする。死が切迫した患者、瀕死の重傷者の要請による殺害は特別減刑される。こうした命はもはや刑事上の完全な保護受けるに値しない。以上が現行法体系の状況である。根本は、生きるに値しない生命はあるのかーということである。
 重度知的障害者はいかなる価値もない連中であり、その介護からの解放に意味がある。殺害される当人がむしろ救済と感じ、殺害の解禁はむしろ同情義務である。重度知的障害者は、生の意志も死の意志もなく、彼が死んでも家族が傷つくことはない。治療不能な知的障害の診断が下されたら、殺害の解禁を申請するのが最善である。殺害の執行者は必ずしも家族だけではない。憎悪が同情の仮面を被る場合がある。カインがアベルを殺したように。
 殺害の認定者は国家官庁であり、解禁審査委員会のメンバーは身体を診る医師1名、精神科医1名、法律家1名で編成され、全員一致制を採る。委員会は殺害の手段を明示した詳細な実施計画書を作成する。殺害の認定以前に独断的に実行された殺害は、無罪であり説明義務が課せられる。解禁判断の誤謬があるとしても、審査を実行しなければならない。誤謬によって人類の貴重な命が失われても、少数の死は現実には重みを持たない。生命が維持されていた場合の余命の値段と苦痛を越えるものはない。安らかな死を望む患者の意志を認めない者は逆に非情である。

 以上がビンデイングの主張の概要である。その基本的な特徴は、知性=自己意識のよる生命の質の垂直的編成観であり、知性的意志の有無を生きる資格の基準とする点にある。ここから(1)知的障害者と瀕死の人は「生きるに値しない」動物的生命とされ、(2)その救済は経済効率から共同体に不利益をもたらし、(3)最終的により高い国家倫理を疎外するとする安楽死肯定論が導かれる。
 こうした安楽死肯定論の規定には、垂直的個別生命観と水平的平等生命観の対決がある。中世カソリックに於いては、神からの距離で生命を質的に編成したが、近代では神を知性に置き換えたに過ぎない。これに対し水平的平等観は、神との関係((原始基督教)人間の共同性(連帯)や個の尊厳、生態系論などに依拠して安楽死を否定する。
 私は現在この論争に確信ある判断が出来ない。少なくと云えることは、安楽死肯定論が「用済みになった不要な生命」といった思想を含む限り、社会ダーウイニズムによる優性思想に発展し、39年安楽死命令にとって1年間で7万人の障害者を一酸化炭素ガスで殺害し、ユダヤ人絶滅作戦に応用される破局的な結果がもたらされる必然性をはらんでいるということだ。人間の生命に優劣は原理的になく、優劣を付けるべき人間もこの世にはいないーという厳厳かつ単純な事実を踏まえた上で、少なくとも安楽死は耐え難い痛みや植物状態からの解放として「安らかな死・尊厳ある死」の問題として限定的に論じなければならないのではないか。
 「穏やかで安らかな死」→「慈悲死」→「安楽死」と展開し、安楽死=無罪説は1913年に西欧で議論が始まった(OED)。森鴎外『高瀬舟』(1916年)は此の状況を受けて書かれた。現在「積極的安楽死」(直接的な致死的治療行為)が認められているのは、オランダと米国オレゴン州のみであるが、医療現場では「ホスピス」「緩和ケア」という名称の下に「非自発的安楽死」(本人の要請がない)や「間接的安楽死」が実態として表面に出ることなく拡大している。高齢化社会に突入しつつある現在、このテーマを問われる日が必ずすべての人に訪れる。シンプルな答えを期待すること自体が不可能であり、誰しも自分自身の頭脳で考え抜くしかない。なぜなら国家による制度化が何をもたらすかはナチスによる痛恨の体験があるからだ。私の考察はこれが限界です。(2002/10/20 8:14)

[米国が反テロ戦争に狂奔している裏で恐るべき飢餓が進行している]
 国連食糧農業機関(FAO)は、15日に『世界における食糧不安の状態2002年度版』を発表した。98−00年度の世界の栄養不足人口は約8億4千万人であり、その95%の7億9千9百万人が途上国に集中し、毎日飢餓と貧困で2万5千人が死亡している。途上国の栄養不足人口は、90−92年の3年間の平均に比べて2千万人減少しているが、北朝鮮では380万人増加して750万人になるなど合計47カ国で悪化している。国別では、中国の栄養不足人口1億9千3百万人→1億1千910万人と改善しインドネシア、タイ、、ベトナム、ガーナ、ナイジェリアでも減少したが、国内紛争の続くコンゴやインドは2億1千560万人→2億3千330万人へ増加し、イラク、バングラデイシュ、タンザニアでも栄養不足が激増している。現在飢饉で1400万人が飢餓に瀕している南部アフリカを含むサハラ以南のアフリカは最も深刻な事態が続いている。
 96年世界食糧サミットは15年までの飢餓人口半減を決めたが、現在の削減速度では100年以上遅れる見通しだ。特に乳幼児への被害は深刻で、5歳未満児600万人が飢餓で死亡し、貧困国では乳幼児死亡率が7人に1人に達している。豊かな先進国24カ国で平均寿命が70歳以上に達し、貧困国では新生児平均寿命は38年でしかない。
 人間の成長に不可欠なビタミンやミネラルが不足する「隠れた飢餓」が進行し、1億人から1億5千万人のこどもがビタミンA不足で失明の危機にあり、ヨウ素欠乏症で約2千万人が精神障害となっている。飢餓の主要原因は貧困にあるが、干魃と洪水や武力紛争などによる混乱が共通の要員となっている。01−02年の深刻な食糧危機に直面した15カ国の主要な飢餓の要因は戦争と内戦であった。世界食糧サミットの目標達成に必要な追加公共投資は毎年240億ドルであり、目標が実現すれば毎年少なくとも1200億ドルの世界的な利益がもたらされるとしている。
 国連世界食糧計画(WFP)は、飢餓とエイズの最悪の組み合わせを克服する能力開発なしに国家が崩壊する危機にあると述べ、南部アフリカでは旱魃と経済政策の失敗により1440万人が飢餓に直面し、その50%はムガベ大統領の土地政策で白人商業農業が崩壊したジンバブエに集中しているとし、さらにエイズのためジンバブエ、ザンビア、マラウイ、スワジランド、レソト、モザンビークで400万人の子どもが孤児になっているとしている。

 全世界8億4000万人が飢餓に瀕していることを目の前にして、すべての学問、芸術、思想、教育、スポーツ、経済活動は何を考えるべきか。競争の業績を競って日夜費やされているエネルギーの意味はどこにあるのか。私の勉強のこの瞬間に餓死している幼気な子どもをどのように連結すべきか。つまらない世迷いごとで過ぎている日常の卑賤さは何か。有り余る時間を無駄な行いと飽食に浪費している先進国市民とは何か。飢えて死んでいく人にとっての「料理の本」ではないのか。化粧やファッションにうつつを抜かして戯れている先進国市民とは何か。原始的貧困の第1次的な告発を無力に終わらせている真の原因は何か。問うは易しく答えは至難か。答えはごく簡単でそれを実行するのに戸惑いがあるのみだ。(2002/10/17 21:37)

[パブリック・アクセス市民参加とは何か?]
 韓国初のデジタル衛星放送SkyLifeはパブリックアクセス専門チャンネルで、市民が直接制作した映像を中心に1日10時間の放送を開始し、KBS(韓国放送公社)はパブリックアクセス番組「開かれたチャンネル」を開始した。この背景にある韓国の視聴者運動を見ると、@モニター活動を通じた監視・批評活動A視聴者意識を高める啓蒙活動B市民メデイアを設ける政策運動C放送法整備や意志決定過程への参加を求める政策立法活動に分類でき、86年の韓国KNCC(韓国基督教教会協議会)のTV受信料不払い運動、93年の韓国YMCAのTV視聴拒否運動、93年の国民放送設立運動などマスコミ部外者の問題提起が内部の改革運動をもたらして発展してきた。
 98年に登場した金大中政権によって00年に制定された韓国新放送法は、アクセスチャンネルの新設・メデイア教育支援・知る権利と反論権を規定し、民間独立規制機関である放送委員会によるKBS毎月100分以上の視聴者作成番組の編成義務を定めた。現在KBSは、毎週土曜日午後4時半から30分枠のレギュラーによるパブリックアクセス番組を提供している。01年に放映された主な番組は以下の通りである。

  5月 5日 戸主制廃止(韓国女性団体連合) 
  6月23日 なぜ新聞改革か言論改革連帯)
  7月21日 外国人労働許可制(外国人労働者対策協議会)
  8月11日 従軍慰安婦(韓国挺身隊対策協議会)
 11月11日 農家負債(韓国全国農民連盟)
 11月24日 緑色の足跡(緑連合支援活動家会)
 12月01日 KDTV(西江大映像制作団)
 12月01日 拉北者家族(サ・ユジン)
 12月29日 パブリックアクセス(民主言論運動市民連合)

 ここにみるように市民団体制作がほとんどで、一般市民の製作番組がないのは、技術ハードルや制作費支援・保険加入の問題が壁となっているからである。韓国民主化運動の進展は、日本をはるかに上回るメデイア民主主義の水準を創出しつつあり、ある意味では世界の最先端を歩んでいる。韓国メデイアの現状から見て、日本のはるかに遅れた市民参加の水準は寒々しいものがある(2002/10/15 21:37)

[近代スパイ組織の生誕]
 スパイが密偵と呼ばれた時代は、戦時や非常時の難局に際して臨時的に採用されたサイドビジネスか、または個人雇用の情報屋に過ぎなかったが、公的な国家機構に編成されたのは16世紀後半の大英帝国である。プロテスタント絶対王政をめざすエリザベス女王と次期王位継承者である敬虔なカトリック教徒メアリー・スチュアートの間に展開された暗闘は、メアリーの処刑を持って終焉したが、この勝利を影で演出したのがエリザベス女王の詔勅を受けて設置されたロンドン秘密情報部責任者サー・フランシス・ウオルシンガムである。彼はエリザベス暗殺計画とスペイン王フェリペ2世の無敵艦隊遠征に関する決定的情報をつかみ、エリザベスを勝利に導いたイギリス秘密情報部の父と云われる。
 この時期の情報部員の条件は、サーの称号を持つか、それに準ずる家系であり、かつ13世紀に創立されたオックスフォードかケンブリッジ大学卒業者に限定された。その理由は、由緒ある出自であれば祖国を裏切らないであろうこと、教養と語学の即戦力、階級社会の人脈の豊富さであり、「紳士だからこそ汚い仕事ができる」というイギリス情報部の伝統的な矜持が形成された。
 ウオルシンガムが獲得した著名スパイには、クリストファー・マーロウ(1564−93 劇作家)がいるが彼は29歳で暗殺されたとされる。『ロビンソン・クルーソー』で有名なダニエル・デフォー(1660−1731)は、反政府組織の動向を探索するスパイネットワークをロンドンに作り、自ら全英を隠密行脚して幾つかの大旅行記を出版した。彼のテロネットは全欧に展開しスパイマスターとして君臨したが、1730年突然失踪して翌年に安宿で寂しくこの世を去ったが、会葬者はほとんどいなかった。
 7つの海を支配する大帝国に成長したビクトリア時代を支えたのが、英国の世界大のテロネットワークであり、20世紀になって対独防諜のために1909年陸軍省、海軍省、海外情報組織の3者が正規秘密情報部を創設し、これが現在のM15(国内諜報)・M16(海外諜報)となった。M16に所属した著名人は、サマセット・モーム(1874−1965)で『人間の絆』刊行後41歳でスパイとなり、ロシア10月革命阻止工作や訪日して大東亜共栄圏阻止工作を展開し、「親日派の大作家」は完全に隠れ蓑であった。独宣伝相首ゲッペルスは大学時代のクラスメートであり、モームは戦後米国CIA創設時に米国大統領顧問となって生涯を閉じる。
 グレアム・グリーン(1906−91)は、オックスフォード在学中18歳でドイツ大使館に雇われ対仏諜報を行い、第2次大戦勃発時にM16の正式メンバーとなり、最大の裏切り者といわれたキム・フィルビーの直属の部下となって西アフリカやイベリア半島のスパイ活動に従事するが、フィルビーの権力闘争をみて43年に辞任する。
 『寒い国から帰ってきたスパイ』のジョン・ル・カレは、最初M15に所属し後にM16に移った。『007』のイアン・フレミングは、英国海軍情報部中尉として独海軍司令部に潜入し秘密文書と提督を拉致し、第2次大戦期にはコードネーム17Fとしてニューヨークで、日本総領事館の金庫内の暗号書と鍵をすべてコピーし、その後ナチス党副総裁ヘスを占星術を駆使してスコットランドに単独飛行させた。

 イギリス階級社会のスパイは、帝国への忠誠を誓うエリートであり、フィルビー事件は敗北したケンビリッジ派の象徴でもある。これに対し、CIAや公安調査庁の米国型は、なんとなく陰惨なイメージが漂う大衆型秘密情報機構であり、スパイ組織自体も時代の中で変容し、現代化が進んでいると思われる。いずれにしろ歴史の闇にうごめく謀略組織という本質は変わらず、人間が人間として生存するには余りにも想像を超えた領域である。今日10月15日は、1894年対独スパイ容疑でフランス砲兵大尉ドレフェス逮捕、1917年仏特別部隊が独スパイの女性ダンサーマタハリを銃殺。そして1941年ゾルゲ事件の主犯である尾崎秀実を逮捕。折しも北朝鮮特殊機関に拉致された5人の一時帰国。尾崎は処刑の時に、社会主義ソ連に対する理想に殉じた自らの生を誇り高く受容したであろうが、その理想も今ははかなく潰え去ってしまい、何らかの理想や理念で秘密活動に従事する人生の無惨なパラドックスでしかなかったのだろうか。「愛情は降る星の如く」消えていってしまったのか。(2002/10/15 7:46)

[ファッシズムは洗練された装いでやってくるー文部科学省『心のノート』]
 このノートは文部科学省が今年の3月に道徳向け副読本として作成し全国に配布した実質的な国定教科書であり、作成協力者会議委員に河合隼雄文化庁長官や中村桂子氏など心理学や生命科学の専門家が入っている。このお二人は日本の修身科以来の道徳教育の歴史的意味についてほとんど知識がないと推定される。専門学者が一般的な領域に関係する場合の最も無惨な形態がある。
 最初の見開きページに道徳についての23の鍵と称する項目が羅列され、相互の必然的な関係もなく無秩序に羅列されている。

 心も体も元気→目標向かうくじけない心→自己決定自己責任→理想を持って→自分の過去と現在→心を体に表す→温かい人間愛→友情→異性→他者との認め合い→自然への畏敬→かけがえのない命→良心の声→役割と責任→秩序と規律→公徳心→公正公平→勤労による社会貢献→家族愛→学校愛→郷土愛→愛国心→世界へ

 きらびやかで洗練された一見ヒューマンな徳目が連続して登場し、日本の近代道徳教育史の基礎知識がない人にとっては、思わずひきこまれる魅力的な編集ではある。特に「大切なことは目に見えない」(サンテグジュペリ)といった私もグラリとする魅惑的な語句もあり、エコロジーなどの先端倫理もある。だからこそ私は、微笑するファッシズムの到来ではないかと指摘したいのだ。幾つかの特徴を挙げてみる。

 (1)自分の主体は自分と云っているようだが、社会の主体=主権者としての私たちという視点は一切無く、進歩・前進していく社会変革の志向は無視されている。
 (2)課題への対応は、主観主義的な心構え主義に終始しており、客体としての構造主義の問題が失われていること。
 (3)対象に対する適応主義が基本にあり、秩序と規律がアプリオリに前提とされ、対象に対する貢献主義が貫かれていること。
 (4)愛の連鎖は家族から国家に至る円環的な大家族主義であり、戦前型システムを踏襲していること。
 (5)自然や人間を越えたものへの無条件の畏敬を強制する点で、信教の自由を否定し憲法違反の恐れがあること。
 (6)何よりも国家が特定の価値を決定し、義務教育に提示して無辜の子どもの心を左右するという問題に対する節度意識がないことなどである。

 社会システムの規制緩和を云いながら、最も尊厳ある自主的な領域である心の内面を規制する点でこれ以上の矛盾した形態はない。私は道徳教育一般を否定するアナーキズムを主張しているのではなく、憲法と教育基本法に依拠したシビル・ミニマムに依拠しつつ、広範な自由闊達性がないと本質的に人間は成長しないと云っているのだ。現代の子どもは、とっくにこのような偽善を見抜き冷ややかに対応する結果、このようなノトーで教育する学校そのものに不信を抱くことは間違いない。なぜならこうしたノートを編集している政府自身がありとあらゆる汚れの中に安住しているのだから。(2002/10/14 20:02)

[♪しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ  童謡考(5)]

 「しゃぼん玉」は野口雨情作詞・中山晋平が大正11年(1922年)に雑誌『金の船』に発表され、娘恒子が満2歳で亡くなったことを悼んでつくられたとされている。ところが雨情は恒子の前にも長女みどりを小樽で生後わずか8日目で亡くしている。生まれてすぐに壊れて消えたのは・・・・まさに彼の子どもの命であったのです。風 風吹くなとは、子どもが生きていけない辛い世への告発のメッセージです。
 軽快なテンポで楽しく歌われているこの歌は、実はこの世で生を奪われた無数の子どもの鎮魂の歌でもあります。雨情が作ってから80有余年が過ぎようとしている現在でも、この歌に込められた悲しみは終わっていません。私たちは、本当はスローテンポで語りかけるように歌うべきではないでしょうか。(2002/10/14 16:40)

[おらだちはもうせんそうしたがね・・・・・・・バード上院議員演説]
 日本各地の31方言で表現した憲法9条が「風の便りの会」によって刊行された。次は茨城県真壁町のもの。

 おらだちはもう戦争したがね。んだからー、国の力みせつけっぺと思って戦争おっぱじめたりー、どっかの国ごとおどがしたり、力ずくでなんとかすっぺー、なんてもうやんねーことにしたんだ

 米上下両院で可決された対イラク武力行使容認決議で感動的な反対討論をおこなったロバート・バード上院議員と、風の便りの会の方言版9条は平和ピースの原点で通底しています。バード演説は、20世紀最高の演説とされるマーチンルーサーキングのワシントン大行進演説にも匹敵する21世紀初頭の良心の証を示す演説だと確信しますので転載します。

 私は信じ続ける。一連の審議の後、上院がこの国やこの国が依って立つ合衆国憲法に対し厳粛なひどい仕打ちをおこなうと。新たに公表された国家安全保障戦略ーイラク決議に盛り込まれるだろう前例のない先制抑止政策を明らかにした文書で、大統領は憲法が我々に大変役に立っていると断言した。まるで汚い過去の遺物が引退する前に誉め称える必要があるかのように。彼は間違っている。合衆国憲法はその理念が設立されて以来、聖書ほどに年月がたっているわけではない。
 私は深く失望した。上院が厳然たる合衆国憲法の規定に注意を払わず、それとは逆に戦争か平和かを決定する議会が持つ専一の権限を大統領に委譲してしまったことを。
 私は数万のアメリカ人の声をずっと聞いてきた、アメリカ全土の津々浦々から。彼等は私に戦い続けるよう強く主張し続けてきてくれた。私は小さな州選出の1上院議員でしかない。だが過去1週間に私の見解を支持する2万件近くの電話と5万件近くのEメールが届いた。私にとっては彼等すべてがヒーローだ。
 私と精神を共にしてきたアメリカ全土の国民と上院の少数の一群が、すばらしいたたかいをたたかっている。私はこの場にとどまりたたかい続けることができる。それは努力に値する戦いだ。上院でのたたかいに負けることは明らかだが、まだ我々は戦争に負けたわけではない。次の戦場はホワイトハウスだ。この論議に参加しているすべての人や私の努力に励まされた人が大統領に注意を向けるよう私は力説してきた。合衆国憲法に注意を払わせ、短絡的にイラク決議が与える巨大な権限を行使させないよう大統領を説得しよう。もし大統領が望むなら、この決議をもってまず国連に働きかけさせよう。米国が軍事行動にでるときは、議会の承認を得るよう大統領を議会に引き戻そう。
 私は、わが国の政治制度に対する揺るがぬ信念を持っている。この国を形成する基本的な価値観に対し揺るがぬ信念を持っている。これらの価値観に、他国を先制攻撃することは含まれていない。これらの価値観には、世界で最も強大で恐るべき力を持つわが国が、他国に対し威張り散らしたり脅迫したりすることを含んではいない。これらの価値観には、先制軍事攻撃を正当化するために他国を敵国リストに挙げ連ねることを含んではいない。
 私は、上院が行おうとしている愚考に対し、合衆国憲法がどんなことであっても耐えきれると信じるが故に、私はこのたたかいを放棄してはこなかった。私は、私の体細胞の1つひとつまで、私の全エネルギーをもって、処分を得るまですべての議会手段を用いてたたかってきた。私は憲法が嵐を呼ぶであろうことを強く信じる。この大嵐が過ぎ去った後、上院議員は自分たちがやったこと、そして憲法に負わせた被害を知るであろうことを願う。
 私は、大統領が憲法の理念を逸脱してまでイラクへ宣戦布告するという疑問に対し、十分考慮する時間を費やしたとは信じられない。私はアメリカ国民に告ぐ。私やそれ以外の人々が憲法を支持するように勇気を与えてくれた人よ、たたかい続けよう。声を響かせよう。私は常にあなた方の声を聞いている。そして私は大統領もあなた方の声を聞くであろうことを信じる。(赤字は筆者)

 日本の議会では、恥ずかしくて顔を赤らめるような格調高い演説です。日本では具体的な問題点の指摘や批判が中心で、このように理念そのものを直截に語るスタイルは少ない。欧米では、ソクラテス以来全き孤立の中でも堂々と自らの信ずるところを披瀝する者が最も賞賛を浴びるという歴史的な伝統と文化があります。個の自立とはまさにそのようなことを云うのだと思います。
 演説文中の「合衆国憲法」をそのまま「日本国憲法9条」に当てはめてみましょう。私たちの日本国は、アメリカと同じような分岐点に立っているのではないでしょうか。風の便りの会のように、方言で自分自身のことばで憲法9条を語る重大な選択の時が迫ってきています。うすうすとそのような実感を持ちながら、学園や職場のなかで一見すると無関心が漂っているように見えます。少年はロックに興じ少女は化粧に余念が無く、大人達はリストラにおびえ、先が見えないが故の不安をうち消す瞬間の享楽に身を委ねているように見えます。しかし、いま気づいているあなた、危機を自覚している私、人に自立を説いているその本人、すべての人の存立の条件が奪われようとしている今、たった一人のおずおずとした決然たるその一歩が全局を左右する条件が熟しているとも逆に言えるのではないでしょうか。(2002/10/14 8:22)

[日本にプライバシー権はあるのか・・・・プライバシークライシスのはじまりからサイバーファッシズムの危機!?]
 大阪市内の調査業者に次のようなダイレクトメールが届いた。≪携帯電話番号から住所・氏名の割り出し=23000円、氏名・住所から預金残高の割り出し=55000円、銀行口座番号から住所・氏名・勤務先の割り出し=35000円≫。送り主はプロの情報屋であり、実験では預金口座番号の割り出しにに6日、住所の割り出しに2日かかった(このような実験自体が違法ではないかと思えるが)。入手ルートは、会社と機関の内部協力者やOBだという。個人情報流出を規制する個人情報保護法は、規制が厳しくなって逆に相場が上がるので大賛成だ、どうやっても情報は漏れると云ってはばからない。
 これらの個人情報は最も基本的な秘匿事項であるにもかかわらず、すでに個人情報を売買する法規制を越えた情報市場が形成されているのだ。金融機関は公然と融資の返済を遅らせた人物の債務データを互いに交換していると云うことは聞いていたが、事態がここまで進んでいるとは知らなかった。以上朝日新聞10月13日付け朝刊参照。
 8月5日に稼働を始めた住民基本台帳ネットワークは、個人情報保護法がないまま個人に固有番号を付けて住基カード(身分証明書)を携帯させる。これまでのNシステム、盗聴法、コンビニ監視カメラが個人番号と連動すれば、超監視・中央集権情報システムが完成するという批判もある。少なくとも住基ネットは、これまで各自治体が営々と作り上げてきた住民登録のシステムをすべて水泡に帰し、PCに疎い自治体職員に替わって大量の外部業者の派遣社員が自治体に導入されて、個人情報の流出が始まったことは確かだ。自分にやましいことがないなら自分のプライバシーなどべつに・・・とのんきに云えた時代は確実に終焉を迎えている。まさにフーコー「監獄社会」が高次に実現されつつある。すでに韓国籍を持つすべての人は、プラステイックの住民登録証の携帯が義務づけられ、そこには固有番号・名前・顔写真・右手親指の指紋が印刷されている世界最悪といわれる総背番号制度が韓国では導入され、実施直前に中止に追い込まれた。韓国では住基ネットと徴兵制が連動し、軍事教練部隊名・教育時間・参加時間・不参加時間が詳細に記録されている。
 住基ネットに対抗する方法は、@コード通知案内の返送・返却 Aコード変更手続き B自治体の個人情報保護条例による自己情報のアクセス開示請求 C自己情報の中止・削除請求 D住基ネット不参加通告提出 E住基ネット離脱申し入れ・選択方式導入申し入れ F住基法による異議申し立てなどが各地で取り組まれている。自己情報削除請求は次のような手順でおこなわれている。

@区役所「住民課」へ電話して条例の有無を確認する
A条例がある場合、中止請求や削除請求が認められているかどうかを確認する
B区役所に行き条例のコピーをする
C請求書をもらい記入して提出する(この時保険証などの身分証明書がいる)
D請求に対する決定通知が決められた期間以内に到着する
E決定に不服がある場合は、不服申し立て(異議申し立て)をする                (2002/10/13 8:18)

[インターネット・デモクラシーは可能か]
 いま幾つかのテロリスト・グループがホームページで聖戦を公然と主張し、衛生電話と電子メールで世界的なネットワークを持っている。米国防総省国家安全保障局(NSA)の通信傍受装置エシュロンは、事前にテログループの交信をキャッチしたが解析できたのは事件後であった。21世紀は機動戦から陣地戦を経て情報戦の時代に入った。米国では、9.11以降平和の祈りや癒し・チャリテイーのサイトが急増し、市民は自分で情報を収集して双方向で交歓し会う新たなオルタナテイブとしてインターネットにアクセスしている。途上国のテロに対する反応の圧倒的多数は、悲しいことだが自業自得だーというものであった。日本のマスメデイアが米国のメデイアに依存した垂れ流し報道をおこなう中で、少数意見やイスラムの実情はネット上で流れ、韓国総選挙での落選運動を含めて、今やE・デモクラシーの時代に入ったと云われる。
 (1)もう一つのアメリカ情報 テロ犠牲者自身が暴力的報復に反対するサイトを開き、さらに無実の人の生命を奪う権利はなく、それはまたひとつのテロであるというメッセージはすぐに日本語に翻訳され引用された。
 (2)異論・少数意見の紹介・リンク・発信 ウオーラーステイン、チョムスキー、サッセン、アタリ、ソンタグ、ハンチントンなど世界の知識人の主張はすぐに外国語サイトに載り全世界に発信された。
 (3)意見広告、反戦署名、難民支援
 坂本龍一のメッセージは直ちにリンクされ、嘆願署名や義捐金、アフガン難民支援サイトが続々と誕生し、ニューヨーク・タイムスへの意見広告代1200万円がアッという間に集まり、募金は1ヶ月で2500万円に達しロスアンジェルスタイムス・スタンパ・ジャバナンへの意見広告に発展した。
 (4)意見表明、双方向討論と情報のデータベース化 毎日の政治家の発言がすべてデータベース化され、池沢夏樹氏の日記風反戦文学や世論調査、学生の動き等が即座に伝えられ、100人の地球村は圧倒的な反響を呼んだ、。ただし小泉首相のメールマガジンは200万人が登録しEデモクラシーの幕開けといわれたが、双方向の場が鳴くアッという間に見放された。テロにも報復にも反対するネットワーク運動は前進したが、しかし霞ヶ関は揺るがなかった。
 (5)既成社会運動へのインパクト
 宇多田ヒカル、黒柳徹子、中田英寿などの発言は若い世代に影響を与え、既成の社会運動のイメージを大きく変えた。
 (6)国際連帯 中村哲医師を中心とするペシャワールの会は、講演情報を次々と伝え、1ヶ月で15000件2億5千万円の基金を作り、小麦粉5ヶ月分14万人、食用油5ヶ月分17万人を現地に搬入した。
 (7)言論の自由の危機 反戦クラブを作ろうとした女子高校生は退学し、全米で40人以上の学者が非愛国者として大学を追放され、アジア経済研究所のテロレポートが回収・破棄され、言論と思想の自由の迫害が進んだ。
 (8)マスコミ報道と出版 日本のマスコミ報道や出版物はすでにネット上で公開されたものの後追いが目立ち、アナログ媒体は事態の流れに付いていけなかった。

 しかしEデモクラシーは様々の問題を抱えている。PC所持者が地球人口の1%という絶対的な限界があり、日本の携帯電話は出会い系や迷惑・犯罪に使用されて紛争を激化させている。IT革命の受益者は先進国の特権であり、こうしたなかでネットだけで政治を左右するのはむしろ反民主主義的である。OSではマイクロソフトの独占が進み、サイバー空間の英語帝国主義が制覇し、テロ対策を理由とした情報統制が逆に強まっている。個人情報流出・名誉毀損・著作権侵害が後を絶たない。Eデモクラシーは、政府と市民のせめぎあいばかりでなく、市民相互のネチケットの問題を問いかけている。21世紀情報戦の帰趨は、グローバルなネット・ガバナンスを問いかけている。しかし電子投票を含むインターネット選挙運動は公選法改正によって「大きく前進し、21世紀の電子民主主義の位置は否定できないものとなった。以上は加藤哲郎氏サイト参照。(2002/10/12 20:43)

[NHKスペシャル『奇跡の人』をめぐるメデイア・リテラシー]
 4月28日に放映されたNスペ『奇跡の人ー11歳 脳障害児のメッセージ』は、話すこともできない歩くこともできない脳障害の少年の詩が感動的に描かれた。この方法は、90年代はじめに開発されたFC(Facilitated Communication)という介助者が障害者の手や腕、肩を支えてやると、それまでこと言葉がない知的障害であるとされていた人が、文字盤やキーボードを使って会話ができるというものだ。オーストラリアのR/クロスリーが主催するコミュニケーションセンターが自閉症児対象に始め、シラキュース大学のD/ビクレンが報告した論文で有名になった。
 ところが障害者のFCメッセージに家族からの虐待を告発する者が相次ぎ、テストの結果介助者が知らないことは障害児も答えられないということが明らかとなり、介助者が作成に関与するいわゆる「こっくりさん」や「自動書記」の現象と類似しているという指摘がされた。その後FCを推進するドーマン法(人間能力開発研究所による脳障害児のための訓練プログラム)とFC批判派との論争が展開され、FC評価は批判派に落ち着いたようである。
 今回のNスペはこのような世界の状況を踏まえないで、一方的にFCを肯定する報道をしたが故に関係者に大きな混乱をもたらした。特に脳障害者と日常的に必死でコミュニケーション開発に取り組んでいる当事者へは計り知れない打撃を与えた。NHKスペシャルの報道責任は重いものがあるが、私は今回の事件を契機に障害者の障害者能力におけるIT利用の可能性と限界を本格的に考察することを望む。残念ながら私自身も情報不足でFCに関する評価に確定的な結論を出せない。そうした平均的な国民意識を刺激するような啓蒙的な番組を作ることがNHKの責任の取り方ではないか。(2002/10/12 8:07)

[アダム・スミス『道徳感情論』・・・・美しい人間とは何か]
 スミスは、ひとが自分の感情を他人の同感し得る程度にまで抑制することによって、平静さや落ち着きを取り戻すところに美しさがあると云った。喜びや悲しみを互いに共感しあえるのが友人であり、知人になるとその同感の程度は弱まり、見知らぬ他人になるとさらに弱くなる。この「見知らぬ他人」の同感のレベルに、自分の感情を抑制することが必要だ。もし逆境に陥っているのなら、孤独の闇のなかで悲しんだり、或いは友人の同情によって自分の悲しみを調節したりしないで、早く社会の日向、社会の白日の下に返り、その不幸について何も知らず、何も心配していない人々と生活せよ。以上のスミスの主張に対し、猪木武徳氏は「ここに国と時代を超えた誰もが美しいと感じる人間の姿がある」という(朝日新聞10月9日夕刊)。果たしてそうか。

 この世で悲しんでいる例として、ツインタワービルでテロの犠牲になった人の遺族の悲しみ、アフガン報復で遺された孤児達の悲しみ、海岸を歩いていて拉致された人の家族の悲しみを考える。スミスでは、このような悲しみに包まれている人は、直ちにそうしたことに無関心の人々のところにいって生活せよと云うことになる。帰する所そのような悲しみは非者の将来の人生にとって、何の生産性もない無駄な感情だということになる。そのような第1次的な悲しみを放擲できる人がほんとうに「美しい」と云えるであろうか。確かに悲しみを表さないでじっと耐えて日常の市民生活を淡々と送る人にこそ、実は深い悲しみが伝わってくるということはある。悲しみを剥き出しにして泣き叫ぶ人よりも、じっと悲しみに耐えている人間にこそ悲しみの深さを覚えると云うことだ。
 しかしここには人間の素朴な感情を封殺する洗練されたロボットのような冷たさがある。人間と人間の切れた関係がある。私は迫害されるハンセン病患者に、悲しみや怒りに耐えて日向の生活に帰れということほど残酷なことはないと思う。ではなぜスミスはこのような主張に至ったのか。それは彼のイメージした人間が、近代産業社会を上昇する力を持った「自立した人間」にあるからだ。悲しみや怒りという第1次的な感情を越えて、なおかつ貨幣社会を生き抜くすさまじい経済人が措定されている。経済学者が道徳を論じる致命的な欠陥がある。
 私は泣き叫べといっているのではない。泣き叫ぶ感情に流されるのではなく、生々しい感情を踏まえつつその基礎にある真の原因を想起して解決する理性の力によって、その悲しみをより発展的に昇華させようと云うのだ。その意味でブッシュ氏は、同胞を殺害された怒りを只素朴に報復に発散し、悲しみの根元を解決しないまま悪魔の殺し合いの連鎖を選んでしまった無能な大統領だ。ブッシュ氏には、自らに諌言する真の意味の友人を持たなかった不幸がある。
 最後に云う。スミスは、人間関係を「友人」ー「知人」ー「見知らぬ人」という個人的な面識のレベルで分類している。そうではなく、生き方や思想・価値といったレベルでは、面識がない「親友」があり得ると云うことに彼は気づいていない。(2002/10/9 20:26)

[この世で最も清らかな心の持ち主であったヨブは、なぜ最もこの世で醜く悲惨な生命であったか]
 旧約聖書の『ヨブ記』では「その人となりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ウヅの地のヨブという人が、子どもも財産も奪われ、病とあらゆる災いに襲われ、醜い身体を引きずって生きていったが、それでも決して神を呪うことなく清らかな信仰を保ったとある。『ヨブ記』の最終章では、最後に神がヨブを哀れみ、幸せに140歳の長寿を遂げたことになっているが、実は最終章は誰かが作為的に追加したものとされ、ホッブスの『レヴァイアサン』は、最終章の文体の異同を分析して作為説を展開している。私はこの作為説に共感を覚える。
 このヨブをめぐるストーリーは、この世の善=幸福と悪=不幸という単純な図式が成立し得ない事実をリアルに凝視する無二の説話である。無数の善良な人々が残酷な仕打ちを受けてのたうちまわる残忍な現実が確かにあり、この矛盾を説明する答えを人間は見いだすことができない。キリスト教神学では、アダムとイブの原罪に対する贖罪説が有力であり、また人智の及びがたい神慮の問題だという人もいる。しかし”清らかな人がこんな酷い目に遭うはずがない”というごく素朴な観念が最終章を追加させたのである。

 このヨブは現代において無数の無辜の民として私たちの日常の中に存在している。ワシより強い武力を持つ者は許さんとして結婚式会場を爆撃する米軍によって新婚家族は殺害され、海岸を散歩していたら不意に拉致され、必死で働く中小企業経営者が不良債権処理で倒産自殺し、公的資金で助けられた大銀行経営トップはそのまま居座り、まじめに教室の清掃をする者が馬鹿にされ、娘達がケバケバしい化粧をして化粧品業界が利益を上げ、力の強い者にひれ伏して弱い者を攻撃し、教師はあたかも自分が偉くあるかのごとく生徒をけなし、街は老人と病者は立ち入れないほど若者が支配し、教室の中では自分がイジメに遭わないようにいじめる側に加わり、職員室ではどの意見が多数であるかを戦々恐々として周りを見る、こうして地球上のあちこちに涙を流すヨブが満ち満ちている。
 
 ヨブは最終章でほんとうに救われたのか。彼はハンセン病に冒された自らの羞悪な肢体を全身に晒してこの世を終えるべきではなかったか。100歳で幸せになり140歳でこの世を去る40年間のどこに彼の尊厳はあったのか。彼の無比の清らかさは、怒りに転化すべきではなかったか。自らの最後の力を振り絞って不正と闘うべきではなかったか。彼は祈りを断念すべきではなかったか。
 ヨブはかくあってはならないと、(もし神がいるとすれば)その神が私たちに投げかけた反面教師であり、そこにしか彼の最後の尊厳はない。生の一回性をどう生き抜くかを問いかけた逆説である。私たちは、繰り返してはならない生の在り方として、あまりにも悲惨なヨブから無限のメッセージを受け取るのだ。”これが人生であったのか! よし!さらば今一度!!”(ニーチェ)と、今はの際に呟けるかどうか、これがすべてだ。私たちは、すべてを成し遂げようとして矢尽き弓折れた敗残の身を横たえて後にはじめて、ヨブとしての自らを微笑みつつ受け容れることができる。(2002/10/8 20:34)

[混声合唱組曲「正義の基準」 森村誠一原詩 片岡輝編詩 池辺晋一郎作曲]

♪正義とは何か
正義の基準が勝者にあるなら力こそ正義となるだろう
正義の基準が時間にあるなら
常に後世が正しいだろう
神があまたいるのなら
人はいずれを信ずればいいのか

人はみな
一本の鍵を
神から託された旅人
その鍵は
心を閉ざすためではなく
心を開くための鍵
そのことに気づくために
どうしてそんなに
長い時間がいるのだろうか


 同時多発テロからアフガン空爆へ、衝撃的な展開が世界を揺るがせてから1年が経過しつつある今、ブッシュ政権のイラク先制攻撃が迫りつつある。詩人片岡輝氏は、「血で血を洗う愚かさ、空しさ、あきらめ、疑問、絶望といった言葉にならないいらだち・・・・」と今の思いを述べる。ニューヨークの子どもの絵はツインタワーと飛行機の遠景が多く描かれているが、カブールの子どもの絵は青い点線で弾道が描かれ、撃たれた男の口から赤い点線が流れ、部屋に銃弾を撃ち込まれて父と兄が殺される状態が描かれている。正義を実現するためにいかに多くの無辜の民衆の命が散り、子どもの命が犠牲となっているか。
 折しも日本では、長渕剛が語りかけるように歌う「静かなるアフガン」(5月9日)は放送界から追放されつつある。

♪アメリカが育てたテロリスト
ビンラデインがモグラになっちまっている
ほら また 戦争かい
戦争に正義もくそもありゃしねえ・・・・・・


            (2002/10/8 00:31)

[♪花いちもんめ 童謡考(4)]

 これほど悲惨な歌があるだろうか。人買いのやりとりを子どもたちが楽しいワクワクする遊びの定番としているのです。

 ♪ふるさともとめて 花いちもんめ
   あの子がほしい あの子じゃわからん
   この子がほしい この子じゃわかrん
   ○○ちゃんがほしい

   勝ってうれしい 花いちもんめ
   負けてくやしい 花いちもんめ 


 この歌の発祥地は、関東の佐倉から印旛沼、手賀沼あたりの田園地帯といわれ、大正期の鉄道開通に伴う特産の花を東京市場に運ぶ花電車に乗って東京から更に全国にひろがったとされる。”花”とは特産の花であり、どこの市場に卸されるか分からない、新しい故郷を求めて花電車が行くと意味だとされていた。最初は”ふるさとまとめて”と歌われ、たった1匁で買われたと解釈された。
 しかしこの歌は実は、少女を買い遊郭に売り飛ばす女衒と子どもを餓死させるくらいなら売った方がいいと考える親との売買の歌であるという解釈が登場した。ジャンケンは、まさに価格を決定する駆け引きの瞬間を歌っているとする。女衒のプロのマーケッテイングに易々と親は屈して親には1匁の金がわたる。”負けてくやしい”は勝敗の意味ではなく、値段を差し引く意味なのだ。親と女衒のやりとりを側で聞きながら娘はどのような想いを抱いたであろうか。残された妹や村の子どもたちは、自分の将来を重ねながらどんな気持ちで歌い遊んだのであろうか。日本の原始的貧困をかくも残酷に歌った童謡はない。
 更に第3の解釈が登場した。”花”とは、遊郭で女郎を買う花代を意味し、かって村の青年は自分が愛した少女が女郎として遊郭に売られたことを知り、一目会いたいと必死に働いた全財産を持って東京へ向かう。まごうかたなくそこに見たのは、かって自分が愛した清らかな娘のけばけばしい姿ではないか。彼は花代を支払い”買ってうれしい”と歌うが、彼女はどのような気持ちで彼を受け入れたか。これほど残酷な青年男女の再会があるだだろうか。第3の解釈はあまりにも悲惨であり、到底こどもの遊び歌ではないが、私は第3の解釈に最も共感する。それほど前近代日本の原始的貧困はすさまじく、純粋な恋愛はむしろ遊郭で成立するというパラドックスがあり得たのだ。(2002/10/6 17:31)

[♪叱られて 童謡考(3)]
 薄曇りの朝、カウンターテナー米良美一の『日本歌曲集 母の歌』を聴いている。米良はCD刊行後に『もののけ姫』のテーマ曲を歌って有名になったが、最近はあまり聞かない。元気でやっているのだろうか。なかでも「叱られて」が絶品であったので今回はそれをとりあげる。
 この詩は大正9年(1920年)に少女雑誌『少女号』に編集者清水かつらが掲載した。清水の父は、旧没落士族であり母はノイローゼになって清水が4歳の時に家出して実家に戻った。その後新しい母が来て弟が生まれ、清水は自分を捨てた生母に対する再会の慕情に苛まされた。継母は彼女にお使いや子守を命じ、けなげに彼女はそれに従ったがそれに比例して生母の暖かい乳房を想い起こした。当時の村からはるか離れた町へ買い物に行き、トボトボと家路につく寂しさは激しく胸を打ったであろう。遠くへ行った母とかって楽しく花見したあの春の情景こそ彼女の遺された唯一の希望である。

 ♪こんときつねが なきゃせぬか

 この歌が作られた大正期は、都会以外ではどこでもきつねが生息し、きつね憑きとか人を化かすとかきつねの嫁入りなど人間とした親しい里山の共生動物であった。清水の母は、きつね憑きとして強制的に実家に戻されたのだ。きつねは、優しい心の持ち主や病で衰弱した人間を選んで憑き、強く力強い者には憑かなかったとされる。清水の母は、心優しいが故にきつねに憑かれ、それを悲しんで自ら実家に帰ったのだ。もしかしたら母はきつねではなかったのか?たとえそうであっても母に会いたい、こんと鳴く声だけでも聞きたい。以上が私の「叱られて考」の想像力の限界です。もし誤りがあればご指摘ください。(2002/10/6 10:17)

 叱られて 叱られて
 あの子は町まで お使いに
 この子は坊やを ねんねしな
 夕べさみしい 村はずれ
 こんときつねが なきゃせぬか

 叱られて 叱られて
 口には出さねど めになみだ
 2人のお里は あの山を
 越えてあなたの 花の村
 ほんに花見は いつのこと


 注)CD解説から
 Beung Scolded
 It is an elegy,words by Katsura Shimizu(1898-1951)and misic by Ryutaroh Hirota,not merely girlish but unbearably lonesome tune.Hirota's Misic sounds attractive with his warm expression in its melody,as if he were trying to cheer up a child who is depressed after being scoded.the melody is un major key and somewhat folk-flavored.It would be difficult,therefore,for a child to sing it perfectly,although it is a children's song.It would be rather suitable for an adult vocalist who sings it thoroughly so that people could enjoy the song to its full extent.

[追われたのは誰だったのか? 赤とんぼ 童謡考(2)]

 ゆうやけ こやけの あかとんぼ
 おわれて みたのは いつのひか

 やまの はたけの くわの みを
 こかごに つんだは まぼろしか

 じゅうごで ねやは よめに ゆき
 おさとの たよりも たえはてた

 ゆうやけ こやけの あかとんぼ
 とまって いるよ さおの さき


 「赤とんぼ」は、大正10年(1921年)三木露風32歳の時に童謡雑誌『樫の実』に発表され、山田耕筰が昭和2年(1927年)に曲を付け、レコード化されたのは更に4年後の昭和6年であったが、この曲は最初さっぱり売れなかった。この名曲「赤とんぼ」は完全に日本語のアクセントを無視した歌であった。このチグハグな歌が急速に名曲に育ったのは、今井正『ここに泉あり』(昭和30年 小林桂樹、岸恵子主演)が清冽な感動を呼び、この歌がクローズアップされた。映画は高崎市民交響楽団が山奥の学校や療養所を回って演奏しながら必死に音楽を民衆に届ける物語であり、山の子どもたちは峠まで見送って声を限りに歌ったのが「赤とんぼ」だった。この映画を契機に「赤とんぼ」はアクセントの違和感を乗り越える名曲となり、当時全盛期を迎えたうたごえ運動の中で全国に広まった。
 その後”おわれて”の解釈が問題となり、「追われて」ではなく「負われて」が正しいのははっきりしているが、一体誰の背中に負われて赤とんぼを見たのかが問題となった。ほとんどの人は母親だと考えたが、実は15歳で嫁にいった姐やではないかという云うことになった。姐やは、当時は女中さんと呼ばれた子守奉公の少女を意味したのである。
 三木露風自身が「私の作った童謡赤とんぼは、懐かしい心持ちから書いた。振り返って幼い時の自己をいとおしむ気持ちであった。まことに真実であり感情を含めたものであった赤とんぼの姐やとは、子守娘のことである。私の子守娘が私を背負って広場で遊んでいた。その時私が背の上に見たのが赤とんぼである」(『日本童謡全集』1937年)と解説したことによってこの論争は決着が付いた。三木の母親は、三木が6歳の時に離婚して実家に帰ってしまい永遠に会うことはなかったのである。一番母親が恋しい時に彼は引き裂かれ、姐やが母親代わりとなって育った。彼の自分を捨てた母親への無限の思慕が胸にある哀しい歌である。(2002/10/5 20:08)

[哀しい戦争の歌 ♪しずかな しずかな 里の秋 童謡考(1)]
 鮫島有美子さんが歌う童謡「里の秋」を聞いていると、思わずこみ上げて懐かしいものがあります。この歌が初めて電波に乗ったのは、昭和20年(1945年)12月24日に南方戦線からの引き揚げ兵士第1便が浦賀に入港するするのを祝し、NHKが放送した『外地引き揚げの同胞激励の午後』という特別番組でした。当時の童謡歌手川田正子が哀愁を込めて歌い上げ、大反響を呼びその後『復員便り』という番組のテーマ曲となりました。この歌を作ったのは小学校教師斉藤信夫であり、開戦直後の昭和15年(1941年)に戦地に行った父親への慰問文で原題は『星月夜』でした。戦局傾くなかで哀愁漂う歌はすべて禁止され、この歌は戦時中は放送禁止となり、敗戦後の中で川田正子の師であった海沼実が戦場へ送り出す歌から敗残兵を迎える歌に変えて発表しました。1番と2番の歌詞は現在のものと同じですが、3番と4番の原詩は次のようなものでした。

3.きれいな きれいな 椰子の島
  しっかり護って くださいと
  ああ 父さんの ご武運を
  今夜もひとりで 祈ります

4.大きく 大きく なったなら
  兵隊さんだよ  うれしいな
  ねえ 母さんよ 僕だって 
  必ず お国を 守ります


 
童謡が癒し系の音楽として静かなブームを呼んでいます。夢があって懐かしく、想い出にあふれた歌の数々を私たちは知らずに口ずさみます。曲も詞もすべて覚えていますが、その裏にある意味を考えたことはあまりありません。実は日本の童謡は、いずれの詩も悲しくちょっと怖くて深い意味が含まれています。
 教師斉藤信夫は、このような戦意高揚歌を作って透明な子どもの心をつかみ、戦場に送り出しました。敗戦で希望も夢も失い、食べ物もなく打ちひしがれて焦土に立ちつくして、戦場の父の帰還を迎えるなかで、はじめて自分の歌が全国的にヒットするというパラドックスを味わいました。彼は戦後をどのように生きたのでしょうか。国中がファナテックな戦時高揚にある中でほとんどの国民は理性を失いました。9.11からアフガン報復そしてイラク先制攻撃へと突き進むアメリカ合衆国の国民もまたこうした心情にあるでしょう。ニューヨークの大リーグスタジアムで7回裏の攻撃前に厳粛に合唱されている「ゴッド・ブレス・アメリカ」を聞くと、まさにそのような実感が迫ります。
 童謡の背景に興味を持った方は、ぜひ次の歌を調べてみてください。しゃぼん玉の歌、花いちもんめ、赤い靴、五木の子守歌、赤鼻のトナカイ、しかられて、てるてるぼうず、ロンドン橋、もみの木、かごめかごめ、赤とんぼ、うれしいひな祭り、7つの子、お正月、ずいずいずっころばし、大こくさま、浦島太郎などなど。悲しい歌、怖い歌、奇妙な歌、艶っぽい歌それぞれにドキッとするような意味があります。(2002/10/5 9:09)

 
[日本のお母さんへ 或るベトナム少女の自立]
 妻とともにベトナム戦争孤児ホアさん(17歳)の支援をささやかにおこなっています。ホアさんはストリートチルドレンとして公園で寝ているところを保護され、「子どもの家」でミシンの作業を修得して刺繍土産物店で半日だけ仕事をすることになりました。最初は、商品を扱うという緊張感から失敗をして涙を流していましたが、徐々に仕事にも慣れ、今ではミシンが必要な袋物やテーブルクロスの縁取りを任され、アイロンがけや梱包などの仕上げも担当し、信頼されるようになりました。まだ彼女はお金の管理をしたことがない(使い方を知らない)のでほんとうに苦労しています。次第に「自立したい」という気持ちが強くなり土産物店の正社員として雇われ、子どもの家を巣立つことになりました。
 ベトナムの少女にとっての自立とは、ミシンの仕事を覚え、お金の計算ができることを意味しますが、戦争孤児から15年を経て遂に彼女はそれを成し遂げたのです。私はいままでのささやかな浄財が決して無駄になることなく一人の少女を救うことができたことに感動しています。お母さんが見つかりましたが、母は路上でタバコを売りながら公園で寝泊まりする生活を細々と続け、今は社会保護センターに入所していますが、センターの生活が楽だから出たくないというのを説得して、はじめて母子2人一緒の生活が始まりました。日本の少年・少女が自立するということは、退廃文化をシャワーのように浴びつつ、高度の知識を身につけたはるかに複雑な過程をとおって行きますが、私は本質的には同じだと思います。ホアさんがよき伴侶を得て幸せな家庭を築く日を願うばかりです。ホアさんに万歳三唱!
 ホアさんからきた妻宛のベトナム語の礼状を紹介します。翻訳が正しいかどうか自信がありませんが。

 日本のお母さんへ

 しばらくお母さんへ手紙を書きませんでしたがごめんなさい。
お母さんお元気ですか。
仕事は順調ですか。仕事が忙しいかもしれませんね。

 私は元気です。毎日仕事をしています。
私は今年の9月に「子どもの家」を退所しました。
これからはお母さんの里子ではなくなるので、ちょっぴり悲しいです。
お母さんの子どもになることができて、私は大変うれしく幸せでした。

 お母さんにはたくさんの支援をいただきました。
お母さんに感謝の気持ちをお伝えします。
お世話になりました。どうもありがとうございました。
お母さんの恩を一生忘れません。
これからもお母さんのことを思い出します。

 自立して新しい仕事を始めることは不安もありますが、段々になれてくると思います。
今では「子どもの家」を退所した友達も、最初は私と同じ条件でしたが乗り越えました。
だから私も一生懸命に困難を乗り越えてがんばろうと思います。
お母さん、仕事が忙しくても、お体を大切にして元気にお過ごしください。
最後にお母さんのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 私はいつもお母さんのことを思いだしています。
どうもありがとうございました。

                           2002年9月11日 フエにて
                              お母さんの子ども ファム・テイー・ホア

 追伸 関心をお持ちの方は、ベトナムの子どもの家を支える会 ベトナム事務所 福田もえ子、ファン・テイー・ゴック・ハンさんまでご連絡ください。

[拉致問題の陥穽]
 拉致について一斉に噴き上がる日本の報道は、在日に計り知れない衝撃をもたらす。普通の在日の生活が日本人に見えていないために、植民地時代に蓄積された偏見が生き物のように侵入してくる恐怖がある。1945年の解放、冷戦による大国の介入を許した朝鮮戦争、戦乱と分断による対立がすべての無法と憎悪を生み出した。私は自分の住む町で罵詈雑言を浴びた。1959年からの帰還運動は韓国独裁政権の暗黒と対比する北朝鮮の楽園イメージをつくりあげ、朝鮮人と称することにプライドを抱いた。帰国事業に続く日韓条約は北朝鮮からの反対の烽火と熾烈な対決をもたらし、日本政府は南北対立を外交カードに使って植民地支配の清算を回避してきた。
 1970年のよど号事件と韓国民主化運動は、北朝鮮に自主武力統一の幻想をもたらし、大韓航空機爆破や拉致事件を誘発し、9.11テロによる米政権による「悪の帝国」規定は北朝鮮の喉元を締め上げ過去の清算という鉄則をあっさり放棄せしめ、日本外交の勝利をもたらした。日本の濃厚なナショナリズムは、戦争も植民地支配も拉致によって免罪する雰囲気を作り出すことに成功した。局部的な感情的被害者論によって北朝鮮のみを断罪することでは未来を生み出すことはできない。
 W杯によって日韓交流は進み、見える部分では静かな変化があるが、日本人の差別感覚には変化がない。韓国には「始まりは半分だ」という諺がある。なし得ようとすれば、それは半分成功したという意味だ。南北朝鮮を含む日朝・韓関係の再構築には長い歳月が必要だ。以上 李 正子「時代遅れの犯罪犯罪なぜ?」(朝日新聞2002年10月2日付け 夕刊 一部筆者改編)。

 夕食を摂りながら拉致のニュースを見ていた李さんは、食べ物を喉に詰まらせ箸を置いたそうだ。日本人としての私は、次のように云う。拉致問題追求の分水嶺は、過去の罪責を同時に自らの罪責として受容するかどうかにある。かって私たちの旧世代が遂行した植民地政策のなかでおこなった創氏改名、日本語強制、神社参拝強制、強制連行、慰安婦など今次拉致事件をはるかに越える民族絶滅政策に対する謝罪と賠償を自らの問題として考えるかどうかだ。過去の罪責に触れない拉致追求を一切許さない矜持こそ日本人の尊厳を守る唯一の道である。賠償を放棄して経済協力を求めた金正日カリスマ政権(注参照)は明らかに戦術的理由によって原則を放棄した反民族的逸脱者であり、それを外交的前進だというすべての日本人は自らの尊厳をも侮蔑している。

 注)「党の唯一思想体系確立の10大原則」(朝鮮労働党中央委員会 1974年)
 (1)偉大な首領金日成同志の革命思想で全社会を一色化するために命を捧げて闘争しなければならない。
 (2)偉大な首領金日成同志を忠誠を以て仰ぎ奉らなければならない。
 (3)偉大な首領金日成同志の権威を絶対化しなければならない。
 (4)偉大な首領金日成同志の革命思想を信念とみなし首領の教示を信条化しなければならない。
 (5)偉大な首領金日成同志の教示執行において無条件生の原則を徹底して守らなければならない。
 (6)偉大な首領金日成同志を中心とする全党の思想意志的統一革命的団結を強化しなければならない。
 (7)偉大な首領金日成同志に学び共産主義的風貌と革命的事業方法、人民的事業作風を所有しなければならない。
 (8)偉大な首領金日成同志から授かった政治的生命を大切に守り、首領の大きな政治的信任と配慮に高い政治的自覚と技術により、忠誠を以て報いなければならない。
 (9)偉大な首領金日成同志の唯一的指導の下に全党、全国、全軍が終始変わることなく活動する強い組織的規律を確立しなければならない。
(10)偉大な首領金日成同志が開拓された革命的事業を代を継いで最後まで継承し完成しなければならない。
                                                      (2002/10/4 20:08)

[こころざしつつたふれし少女よ 新しき光の中におきておもはむ 土屋文明]

 高い世をただめざす少女等ここにみれば 伊藤千代子がことぞかなしき 土屋文明

 この2首は1953年に歌人土屋文明が、歌誌『アララギ』に「某日某学園にて」と題して諏訪高等女学校時代の教え子伊藤千代子の死を惜しんで発表した一連の短歌の中にある2首である。伊藤千代子は、東京女子大在学中から反戦地下活動に従事し、治安維持法違反で逮捕後激しい拷問を受け発狂し、東京府立松沢病院に収容され24歳でこの世を去った。1年5ヶ月に及ぶ激しい取り調べに抵抗した千代子は、夫浅野晃の転向上申書を読まされて拘禁精神病を発病した。浅野が病院に面会に行って、「千代、分かるか僕だよ」と声をかけるが、千代子はいやいやと首を振って逃げていった。千代子は病院で「嫌ダ、嫌ダ、知らない」という言葉を繰り返し、特高の取り調べがいかに過酷であったかを示している。みずから命を懸けて守り通した思想を、誰あろう自分の夫が裏切ったことを知って、遂に精神に異常を来したのだ。彼女の死亡直前の様子はあくまで夫の裏切りを許さなかった態度であり、本当は狂気を装った正気であったのではないかともいわれている。
 伊藤千代子の存在が発掘され碑が建てられたのは、戦後も最近になってからである。太平洋戦争期に秘かに繰り広げられた地下反戦レジスタンスで命を散らした無数の人は未だ以て多くが埋もれている。千代子の生も土屋文明氏の短歌なしにこの世に復元されることはなかったであろう。欧米の元首が第2次大戦解放記念日にレジタンス犠牲者の墓に頭を垂れるのとは決定的に違う日本の無責任の文化がある。20数歳の青春をけなげにも抵抗に捧げ無惨にこの世を去った者たちを、新しき光の中に置いて想わねばならない。伊藤千代子73回忌9月24日の墓参のニュースを聞いて。(2002/10/4 16:33)

[修学旅行についての小括]
 『広辞苑』の修学旅行の定義は、「児童・生徒らに日常経験しない土地の自然・文化などを見聞学習させるために教職員が引率しておこなう旅行。わが国独特の学校行事」とあり、『岩波 教育小辞典』ではやや詳しく「学習経験を土台としながら、日常見聞できぬ事物・現象を子どもたちに知らせ、科学的認識の拡大、美的・芸術的認識を豊かにすることをめざしておこなわれる日本独自の教育活動。森有礼の改革により師範学校に兵式教練を導入、その一環として行軍が実施され、行軍の際演習の他、動植物・鉱物の採集、名所旧跡の見学をおこなった。1880年代後半のことであり、これを修学旅行の起源とみてよい。その後、軍隊式教育への反発もあり、行軍から博物・地理・歴史の野外教育を内容とする修学旅行が切り離された。その普及のきっかけは1890年の第3回内国勧業博覧会であり、このとき各地の師範学校が東京見学旅行をおこなった。20世紀に入って、この方式がしだいに中・小学校へひろがったが、目標は近代文明との接触より、国体の尊厳を体得させることに置かれ、行き先も伊勢・奈良・京都に集中した。戦後は、名所だけでなく、民衆の歴史的遺跡、生産現場、展覧会などに範囲を広げた。また広島や長崎を訪ね、積極的に平和教育を行う学校や学級もある。交通安全の保持は充分ではなく、また慣習的な学校行事に終わっていることも少なくない。中学・高校へすすむとともに生徒自身が企画・運営に参加させる方式が望ましい」となっている。
 以上の定義の問題点の第1は、家族の遠距離宿泊旅行が生涯にわたって困難な時代にあって貧富の差を超えて保障する大旅行の意味に触れていないことであり、第2は学年集団総員の一斉宿泊旅行の持つ集団意識形成の意味に触れていないことである。従って集団の価値観が多様化するなかでの現代的意義に迫り得ないという限界が生まれる。問題点の第3は、19世紀から20世紀段階の修学旅行の総括的な定義になってはいても、新たな新世紀段階の課題を提示し得ていないということである。その中心的な課題は、グローバリゼーションに対応する国際認識の形成である。こうした基本的な視座に立って今次修学旅行を一付き添い者として分析する。
 広島原爆資料館→被爆体験の聞き取り→大原美術館(倉敷散策)→うどん打ち→四国金比羅周遊というパターンは、中部地方から2泊3日という条件ではもっともコンパクトにまとまったシンプルな慣習的修学旅行の最高の形態である。幾多の経験を経ながら到達した汗が滲んでいる叡智の産物といえよう。しかも集団行動訓練的要素を可能な限り否定した分散行動重視型の自主・自発性を涵養する狙いがある。一定の平和への願いと美的認識を培い、さらに地場産業と歴史遺跡への関心が深まることが期待される内容が強行軍ではなくまとめられている。
 従って今後の方向として考えられることは、現在の完成された形態を維持・発展させる方向であり、これはマニュアルの引継からみて最も無難な方向であろう。しかし若者が直面する東アジアグローバル・ネットワークのなかで生きるちからを開発するという課題からは、近い将来再検討を迫られるであろう。特に中国を舞台に展開する産業の海外展開の生々しい現場の見聞や加害体験への省察を触発するような修学旅行への転換を試行する段階が来る。学習から逃避し、成熟した消費文化に翻弄される若者の現状に衝撃を与え、自らの生き方と将来を本気に考える契機となる修学旅行の可能性がここにある。(K.ARAKI  2002/10/3 21:10)

[岡田寧次を知っていますか]
 日中国交回復30周年を迎えたこの9月に朝日新聞と中国社会科学院が実施した世論調査。「日本の人と云えば、まず誰を思い浮かべますか」という質問に、中国人は第1位小泉純一郎を挙げ、次いで山口百恵・中田英寿・東条英機と続き、第10位に岡田寧次が来ている。小泉氏の名前がトップに来る理由は、歴史教科書・靖国問題からであろうが、第10位の岡田寧次については私は全く知識がなかった。実は岡田は、日中戦争期の大日本帝国支那派遣軍総司令官であり、従軍慰安婦のための慰安所を設置した人物であったのだ。
 中国人が彼の名を記憶し、私がその名を一切知らないと云うことの背後には戦争の禍害と被害の問題があるような気がします。中国人は岡田の名前を記憶することによって、過去の罪責を未だ以て私たちに問いかけているような気がします。私自身はこの時期にこのように生まれていなかったということでその罪責を逃れることはできません。その後の同時代を共有しており、その同時代は過去の罪責について正面から謝罪せず、賠償をしなかった政府の存在を認めてきたという戦後責任があり、そのような発想をもって被虐史観とする歴史学と歴史教育の台頭を許してきたばかりか、国家神道への公式参拝を許すようなマインドが克服されていないと云う意味においてであります。打たれた側はその記憶は鋭く、打った側は忘却の速度が速いということでもあります。調査では、中国人の41%が未だ以て日本に「心からの謝罪」を求めています。(2002/9/29 20:49)

[民主主義に万歳2唱]
 英国の作家フォスターは第2次大戦直前、ナチス・ドイツの脅威に向かいながら「民主主義には2度万歳しよう。1度目は多様性を許し、2度目は批判を許すからである。ただし2度で充分。3度も喝采する必要はない」と記した。なかなかの箴言だ。米国民主主義は、80年前に憲法修正で禁酒法を実施し、太平洋戦争では東京大空襲に続く原爆を2発日本に投下した。ブッシュ・ドクトリンは国際法無視の先制的核攻撃を唱えている。こうした傲慢不遜が許されるのも2度までだと、フォスターなら云うであろう。
 日本は日清戦争で台湾を植民地化し、日露戦争以降朝鮮を植民地化し、その後中国を侵略して、民主主義に3度万歳を唱えさせた恥ずべき国だ。ブッシュ政権のイラク攻撃の前線出撃基地として日本が本格的に加担しようとしている今、私たちは何度民主主義に万歳すればよいのであろうか。
 「拉致」とは「強制連行」の最も野蛮で暴力的な非合法的な形態だ。大日本帝国がおこなった朝鮮人強制連行は、国家総動員法によって1939年から実施された労務動員計画と国民動員計画によって、朝鮮本土から連行し、次いで国民徴用令による日本国内からの労務動員、さらに軍人・軍属・従軍慰安婦としての戦時動員全てを含む。強制連行は、最初は労務動員計画による割り当て人数を会社が募集する方式であったが、太平洋戦争勃発後より強制的な朝鮮総督府による官斡旋方式に切り替え、隊組織を組んで労務訓練を実施した後割り当て事業所に供出した。44年から徴用令による法的強制手段によって、手当たり次第にトラックに乗せて連れ去る残酷な形態になった。畑仕事をしている者や、道を歩いている者を強引に連れ去る「拉致」という形態である。
 現在「拉致」事件を糾弾している人は、自らの国も先の世代が膨大な数の「拉致」をおこなったことを同時に謝罪し責任者を処罰し賠償し「過去の克服」をしなければならない。”汝らの内罪なき者のみ彼女を打つ”資格がある。真っ赤に汚れている自らの両手は隠して、同じ行為をした者を責めるというダブルスタンダードは、いかにも恥ずべき行為ではないか。民主主義に万歳2唱。(2002/9/28 00:00)

[新仲裁法についてー小泉構造改革による人権剥奪]
 小泉司法制度改革改革推進本部は、契約当事者が合意すれば、紛争が起きても裁判ではなく仲裁で解決する制度を準備されている。当事者間で「紛争は裁判ではなく仲裁で解決する」と合意しておれば仲裁に同意できなくても裁判は起こせなくなる。最初は国際商取引の紛争を迅速に解決するためであったが、最終的には国内取引の全ての当事者を対象とする無限定なものとなった。従って企業と労働者、企業と消費者、家主と借り手、フランチャイズ契約など全てが対象となる。この「新仲裁」の問題は何であろうか。
 仲裁は本来的に対等な立場で自由意志による合意が前提となるが、対等でない契約関係にまで適用するればどうなるか。就職の際に、「争いは仲裁で解決する」という就業規則があった場合に新入社員は実質的に異議を申し立てることはできない。借地・借家契約で契約書に「何かあれば仲裁合意」とあっても契約拒否するのは難しいだろう。
 憲法第32条は「何人も裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と明記してあり、国民の権利の最後の拠り所となっている。社会的弱者の救済の機会がこの「新仲裁法」では剥奪される。対等関係にない社会的弱者の契約は、仲裁契約の対象から外すべきではないだろうか。例えば学校でいうと、入学契約にこのような仲裁規定があった場合に、親子がこの規定を理由に入学を辞退することは考えられないだろう。小泉構造改革が社会的強者のための改革であることがますます露わとなっている。(2002/9/26 20:04)

[まとまるということーなだいなだ『権威と権力』(岩波新書)から]
 ークラスがまとまらないと悩んでいるクラス委員君へ。まとまらせようとすることに問題があるんだ。僕たちは、まとまりのある社会ではなくて、ハーモニーのある社会を目指さなければならない。そして結局のその方向しかないのだ。

 みんなに同じ方向を向かせ、同じ方向に歩かせようとする。ぼくは、なぜみんなが同じようにしなくてはならないのか、どうしても分からなかった。逆に言えば、なぜみんな同じようにしたがるのか分からなかった。そのことが不思議だった。また、同じようにはしないけれど、ただ逆らって乱暴するのも分からなかった。
 なぜみんな権威とかが好きなんだろうと、という疑問は子どもの頃から持ち続けている。たぶん権威に自分から従った方が不安を感じないで済むからかもしれない。なぜ?と自問しないでも、権威だからという理由があればいいのだろう。権威は権威の顔をして権威の言葉を話し、権威の云ったことはそのまま権威であって疑う必要はない。

 僕は不安でいるのもいやだったが、少しでも納得できる方を選びたかった。納得できないことはできればしたくなかった。迷惑をかけることはできればしたくなかったが、まとまりを作ることを原理としている場所では、まとまらないと云うことだけで迷惑になることがある。その延長線上にヒコクミンということがでてきた。それはなにも昔のことではなくいまでも続いているのではないか。

 以上は精神科医なだいなだ氏の『権威と権力』からの抜粋です(一部省略と改編)。このような文章を読むと、かっての青年期の私を思い起こす。マカレンコの集団主義教育の全盛期で、日本では班ー核ー集団づくりが風靡し寝ても覚めてもクラスの「団結」を崇高に追求した時代があった。しかし現在このような集団主義教育は死語となり、逆に保守派が追求するような逆転現象が起こっている。戦後日本の教育を席巻したのは一体何だったのか。特に矢川徳光氏の理論を信奉して忠実に実践した全国の教師達の苦闘は何だったのか。私は、ここに日本の教育学のあまりの清算主義に愕然とする。今度は逆に自己決定・自己責任の個性主義に煽られて、協同や連帯といったイデーそのものが霞みつつある。
 教育も社会現象の枠内にあることは否定しがたいが、歴史の激動と転換のなかでかくもあっさりと捨て去れるものものだろうか。教育の論理は、社会の論理とは異なる一定の独自の普遍性をもっているとすれば、マカレンコー矢川徳光というラインの光と影(正負)を誠実に総括して新たなステージに歩み出さなければ、文字通り清算主義以外のなにものでもない。

 こうした視点からなだいなだ氏の論考を読むと、集団の新たな意味が浮かび上がる。「まとまり」ではなく、「ハーモニーある社会」とは一体どのような姿であろうか。思うにそれは、それぞれのパートが独自の音をフルに出しつつ、なお全体として一つの複合音が響き渡るオーケストラのような社会であろうか。しかしオーケストラには絶対的なコンダクターの存在が不可欠だ。私はこのようなコンダクターの存在そのものに耐えられない。コンダクター無きオーケストラ? みんながコンダクターでもありパートでもあるオーケストラは存在できるのだろうか。(2002/9/25 22:28)

[米国政府は「スターウオーズ」の見過ぎではないかー『ブッシュ・ドクトリン』について]
 20日に発表された『米国国家安全保障戦略』(1986年の国防総省再編法に基づく政府の議会への提出義務による)は、一言で云うならばハリウッド映画「スターウオーズ」そっくりの一極世界帝国による世界侵略宣言とみなされます。まずその世界認識から見ると、「20世紀の自由と全体主義の戦いは、自由主義、民主主義、自由企業の決定的な勝利で終わった」(序文)として、米国型モデルが21世紀モデルであると宣言し、「戦略の基礎となるのは米国の価値観と国益を反映した米国の国際主義だ」(第1章)とし、「人間の尊厳の盟主」(第2章)である米国を「潜在的な敵がしのいだり、並んだりしようと思って軍事力を増強するのを許さない」(第9章)ために、「先制攻撃」と「単独行動をためらわない」(第3章)としています。しかも「冷戦時には最後の手段として考えられていた大量破壊兵器」を「選択的に使用できる兵器とみなし」「必要な場合は先制攻撃する」として明確に先制核攻撃を断言しています。
 このような非常識で恥ずべき独善的な国家戦略は、おそらく古代ローマ帝国のシーザードクトリンやナチスの第3帝国ドクトリン以来であり、19世紀以降積み上げられてきた戦争違法論による国際法を根底から破壊する好戦的な戦略です。普通このような強者の論理による威嚇的な戦略は、実は追いつめられた独裁者が用いるものですが、一極帝国が覇権を剥き出しにしたところに今次戦略の危機があります。たとえ米国に正義があったとしても、自らを世界モデルに君臨する帝国として宣言したり、国際法違反の戦争正当化論などは人類に対する犯罪に該当します。米国が「人間の尊厳の盟主」であると言うに至っては、かってのナチスの「世界に冠たるドイツ」を想起させるまさにファッシズムの論理です。米国のいう「自由」とは、米国を批判することを許さない自由を意味するのです。
 米国はなぜこのような凶暴な覇権帝国の論理に陥ってしまったのでしょうか。それは実は破局的に進行する米国経済の破綻が覆いがたく迫りつつあるからです。経済の世界での米国モデルが既に破産し、大不況から恐慌へのシナリオを食いとめる経済戦略の力をすでに失って、双子の赤字から破滅のトライアングルへとまっしぐらに進む米国経済の崩壊が始まっているからです。クラウゼヴィッツの云うまでもなく「対内的危機を対外的危機へ転化せよ」という戦略にしか過ぎません。
 こうして21世紀は米国一極覇権帝国モデルの制覇か、それとも国連憲章モデル(=米国独立宣言モデル)の実現かという予想もできなかったシステム間闘争の世紀となる可能性が強くなりました。自由と民主主義の輝かしい歴史を築き上げてきた星条旗は、常にダブルスタンダードを内包していましたが、その負の側面が前面に出てしまったことを私は悲しく思います。しかし私には希望があります。一見強力に見える覇権の論理は、自らの内に持つ弱点があるが故に最後には崩壊していくというのが、人類史の否定できない法則化した事実であるからです。ブッシュドクトリンは、平和を愛する人類から孤立し、聡明なアメリカ人自身の手によって自己否定される時が来るでしょう。(2002/9/23 22:31)

[中国一人っ子政策の転換]
 中国は1979年から「一人っ子政策」を実施し、82年憲法には「計画生育の義務」を規定したが、2002年9月1日からはじめて「人口と計画生育法」という法律を制定し施行した。「計画生育」という言葉は中国語では自然な表現なのだろが、どうも違和感がある言葉だが、今回の法律は従来の政策に対する微妙な転換が見られる。以下それを見てみよう。
 これまでの一人っ子政策では、晩婚・少子を各自治体の賞罰によって推進した。奨励金の支給・学費補助・優先入学等の優遇措置と、第2子出産に対する超過出産費徴収・夫婦双方の賃金カット・課徴金の罰則を科した。こうした政策によって放置した場合の予測人口15億5千万人を12億7600万人に抑制することに成功した(2001年)。
 しかしこうした20年以上にわたる人口抑制政策は逆の矛盾を生み出してきた。第1に将来の高齢化社会を支える危機であり、98年の合計特殊出生率が1.8まで落ちた結果民族の存続自体が危うくなってきたのである。第2は、第1子が女子である場合に間引きされ、闇っ子が発生しても届け出出生数が女子1:男子1.2となって男子の婚姻の危機が起こったのである。ただし一人っ子政策は、都市部中心であり、農村部や少数民族では「第1子女子の場合は、一定年数経過後第2子可」とか「親が一人っ子同士だと第2子可」などの緩和措置があり、人口抑制政策の矛盾は都市部に集中していた。中国政府は今後の人口予測を、2010年14億人→2050年16億人としその後徐々に減少に向かうとしている。
 さて今次の「計画育成法」は、「条件があれば第2子出産を求めることができる。具体的には直轄市・省・自治区が定める」とし、「一人の子を育てようと提唱しているのであって、一人しか育てるなと云っているのではない」として、出産と避妊の選択制を採用したところに最大の意味があり、実質的には一人っ子政策の軌道を修正し人口増加のペースを上げる方向へ切り替えたのである。
 問題は出産に対する意識が都市部を中心に変容し、もはや法規制があるから出産を抑制するのではなく、豊かな生活を送り高い教育を受けさせたいとする先進国型の成熟した少子化が進行しているところにある。都会の若者層は、豊かな生活を送るためにもはや多くの子どもを望まず、子どもの高い教育費(越境入学やお稽古ごと)のコストを避けたいという意識が強くなった。
 予想される事態は、労働力を求める農村部での出産増と生活水準の低下、都市部の少子化による生活水準の上昇による国内格差が拡大し、それを解決するための社会保障制度の拡充とそのコストが飛躍的に上昇することであるが、開発と市場経済に邁進する国家戦略がそのような福祉政策への限界をもたらすのではないかということである。中国の人口政策がいままでの人口爆発抑制の途上国型から徐々に持続可能な発展をめざす先進国型に転換していく実態が表れている。(2002/9/21 8:35)

[拉致事件その2ー地獄への道は善意で掃き清められている]
 北朝鮮金総書記が拉致への謝罪を表明したことで在日朝鮮人の間に深刻なゆらぎが生じている。これまでは「拉致は韓国情報機関からの情報であり、それがマスコミや政治家の間で膨らみ事実であるかのように一人歩きした」と云ってきたし、またそれを真実だと思うだけの冷戦下の客観情勢があった。もっとも痛ましいのは愛知朝鮮学校の女教師(30歳代)の「拉致など絶対にないと信じていたので衝撃的だ。総書記が公の場でおっしゃったのだから、そうなのでしょう」という言葉だ。31歳の朝鮮籍女性(名古屋市)は「拉致された人の家族の話を聞いたら、涙が出てきた。頭が混乱して整理がつかない」と語る。以上朝日新聞9月19日付け夕刊。このような在日朝鮮人の根元的なゆらぎを体現しているのは朝鮮学校の生徒だ。彼等は故金日成主席が抗日戦で英雄的な活躍をしたとする歴史教育を受ける。卒業生の女性(30歳)は「拉致が明らかとなって辛いです。自分が受けてきた民族教育が否定されたようなものだから」と言葉少なに語った。
 私は多くの在日が戦後55年有余を異境の地で生きてきた、その根底にあった共和国の理想に対する信頼が音を立てて崩れる、その瞬間の痛ましい存在理由の崩壊と混迷を痛感する。薄々とは感じていたであろう虚偽が自らの目の前で音を立てて実証されていくのをみる有様は、まさに自分自身のアイデンテイテイーが喪われていくこととパラレルである。
 かって私は大学時代の親友に徐勝君という在日がいた。彼はゼミでは最も優秀な学生であり、将来は研究者の道を歩むと誰もが見ていた。大学卒業後彼は、ソウル大学大学院に進学し、北朝鮮のスパイとして死刑判決を受け、すさまじい拷問の果てに全身はケロイド状態になって両耳を喪い、長期の獄中生活を経て奇跡的に生還し、今は立命館大学で政治学教授の職にある(詳細は岩波新書『獄中14年』参照)。彼が青春の全てを捧げた理想に偽りはなかったと今でも思うが、残酷なことに北朝鮮自身が彼を裏切る犯罪者であったことがさらけ出された。私は、彼との再会を恐れる。なぜなら彼が自らの生命を賭けて守り通そうとした尊厳とは何であったのかを聞かなければならないからだ。私にはそのような残酷きわまる問いかけはできない。
 私が愛知県の高校へ赴任した最初の学校で在日の少女がいた。利発で明るく活発な少女で新聞部の主要メンバーとして活動し、大学進学後に私の下宿を訪れてはじめて日本名ではなく本名を名乗った。私は一瞬とまどい「おめでとう」という声もかけることができず、ただ黙っていた。今以て振り返ると悔やまれることが多い。彼女は次第に当時の南朝鮮の独裁に対する抵抗運動に参加し、そのような組織への加盟を私に相談してきた。その当時の私は、自らの持つ政治的な知識水準からそのような根元的な問いに答える力量はなかった。私は黙っていた。私は再び悔恨の念に打ちひしがれた。若い私は実は彼女が好きだったのである。彼女も私に対して好意を持っていたと確信する。こうして別れは生じ、それ以来2度と会ったことはない。今以てあの輝かしい時代への憧憬が沸き起こってくる。
 私が親しく触れ合った在日は以上2人である。この2人は私にとって在日の象徴である。最も尊敬すべき無私の人達である。だからこそ今次の拉致と「殺害」(?)という悲劇的な事実はまことに表現しがたい自己否定なのである。私以上に彼等は表現しがたい煩悶のなかにあるであろう。想えば或る理想的なイデーの下に多くの優秀な生命が散ったのである。そのような悲劇的な献身の上に君臨する独裁的な最高権力者のめくるめくようなパラドックスの数々。最後に私は云う。歴史への道は、地獄への道は善意で掃き清められていると。このような歴史の真実を知った者の遺された責務は量りなく大きい。最後にある在日の方の詩を記す。日本の詩人のなかでで誰一人として同胞の死を悼む追悼の詩を作った者はいない。

 自らの意志で行ったならいざしらず
 不本意に騙され拉致され連行され監禁され
 奴隷にされ道具にされた身の上は
 かって父母や祖父母がそうであっただけに
 呪わしく忌まわしく
 誰が何を云おうと許されるべきでなく
 当事者と特務機関員を
 何らの同情も酌量もなく
 国際法に則り冷徹に
 極刑に処すべきだ

 ご両親やご家族の
 悲しみ、怒り、憤りを覚える時
 我らは自分が「人間」であることを再認識する

 敵味方に分かれることが「人間」であるならば
 我らはなんと哀しい「人間」に属すことか。
 「敵」をも人間として接することができれば
 我らは尊厳をもった人間だと誇れたであろうに。

 異境で散った魂よ!
 海を越えれば近いあなたの故郷。
 海が繋がり
 空も一つなのに
 あなた方はかえって
 痛み、苦しみ、悶え
 ご両親やご家族も
 この永い歳月を
 胸を痛め、苦しんできた

 我らも騙されたとはいえ
 その罪は重く
 どのような罰を受けようと
 幾万の献花をしようとも
 幾億回頭を垂れようとも
 永劫に念灯会をおこなおうとも
 貴いその命が戻らない限り
 その罪は
 決して許されるものではない
         ーKOB zainichi:23453 (2002/9/19 21:25)

[拉致事件その1ー恐れていた危機が始まった]
 日朝首脳会談の内容を海外の新聞はどのように伝えているかを見ると、いずれもそのトップに拉致問題がきている。例として『ニューヨークタイムズ』と『ワシントン・ポスト』はいずれもAP通信記事を次のように報道している。
 PYONGYANG,North Korea IN an astonishing concession,North Korean leader Kim Jong Il confirmed Tuesday that Japanese citizens were kidnapped decades ago to teach language and culture to spies.Kim said at least four of the victims were still and might be allowed to return home.
 欧米から見ても拉致問題は衝撃的な犯罪であったのだ。北朝鮮の国家犯罪の背景には、冷戦期社会主義建設の戦略を秘密主義的な軍事精鋭建設と諜報活動がある。これはスターリン主義下のソ連戦略と同様だ。国家犯罪の犠牲となった犠牲者とその家族の方は無辜の民として悲惨な運命をたどったのだ。心から哀悼の意を表する。ただしこの犯罪の真相究明と謝罪と補償という当然の措置を越えた陰惨な攻撃が在日朝鮮人に加えられることを許してはならない。近視眼的な民族拝外主義とショービニズムに絶好の機会を提供する恐れがあり、その兆候は既に見られる。
 大阪市内で朝鮮学校の中1の少女が無言の中年女性に背中を突き飛ばされ、チマ・チョゴリを着た中3女子が男性から投石され、初級学校には「生徒を殺すぞ」との脅迫電話が入った。朝鮮総連愛知県本部には嫌がらせ電話が相次ぎ、商工会の外壁には死亡した日本人女性の名前が落書きされ、東京本部には爆破の脅迫電話が入った。各地の朝鮮学校は、臨時休校するか、民族服の着用を避ける私服登校と集団登下校をおこない、ターミナルでは教員が警護に当たっている。以上 朝日新聞9月18日付け夕刊参照。拉致事件に対する国民的怒りを政治的に利用した右翼を中心とする民族拝外行動が激化し、その集約として石原東京都知事が権力を把握しかねない事態がもたらされる可能性がある。
 北朝鮮特務機関の国家犯罪であり多くの在日朝鮮人は無関係であるにもかかわらず、最も悲惨な民族対立を演出しようとする勢力が跋扈するかどうかは、戦後日本民主主義の真価を問うものとなっている。ある在日朝鮮人の心からの言葉を聞く。


 拉致被害者の会見を見て私も涙が出ました。

 ある日突然家族を失った驚きと悲しみ。
 でも被害者家族の涙を見ながら同時に朝鮮民族の流してきた涙のことも思うのです。

 やられたらやりかえしていいのか。それは絶対にない。
 そう思うからこそ、被害者家族に深い同情を覚えるのです。
 そうして子どもにもそれでも朝鮮人として胸を張って生きることを教えたいのです。

 日本と共和国、韓国、朝鮮半島
 分断されている祖国、日本にいる我々、朝鮮学校の子どもたち、
 どうなるのか、、どうすればいいのか、自問が始まりました。
 私はいま動揺しています。
      ーチュウオル  zainichi@cup.com 2002/9/18 0:11

 金栄です。朝鮮学校に子どもを通わせる者です。
 大変なショックを受けています。
 夕べ学校からの連絡網が忙しく回ってきました。
 制服一切止めて私服で登校すること、通学路、乗換駅で教員が出て安全を確保するというものです。
 私が連絡を回した家庭では両親が深夜まで働き、小学生の子どもがひとりで留守番していました。
 その子に、明日は絶対に制服で行ってはだめだよ、と懇々と話しながら
 哀しく複雑な思いでいっぱいになりました。
 今朝子どもたちは私服で登校しました。ーzainichi@cup.com 2002/9/18 16:26

 朝鮮学校の子どもたちよ 何も恐れるな 君たちが犯した罪は何もない
 君たちは今日も 勉学に スポーツに 芸術にいそしめ。
 君たちには未来がある。君たちには自己を実現する権利がある。
 決して惑わされるな、決して 決して・・・・・
 もし君たちが朝鮮人という理由のために、いかなる暴力に出会おうとも
 決してひるむな。決して逃げるな。
 僕も一緒に闘う。多くの僕がいることを信じてくれ。
            ー韓基徳 gideok@sanzenri.gr.jp 2002/9/18 23:41

 日本という国は、大不況によるイラダチが内向して、在日外国人をしてこうした心境に追い込む国なのだ。国際交流とか異文化理解といった国際理解教育の帰趨が基本から問い直される決定的な事態がいま誘発されている。(2002/9/19 0:14)

[会社とは何か・・・・・吾が亡き後に洪水は来たれ!]
 米国のエンロンから始まって日本でも、東京電力や日本ハムなどの企業犯罪が頻発していますが、これほど企業(と製品)に対する信頼が揺らいだ時代はないでしょう。本日は企業=会社について考えてみたいと思います。
 「会社」を辞書でひくと「商行為又はその他の営利行為を目的とする社団法人」(「広辞苑」)とあり、世界最初の株式会社であるオランダ・東インド会社が作られた1602年から400年の歴史、日本最初の株式会社である第1国立銀行が作られた1873年から約130年が経過しています。会社の形態は多様化し、出資者の出資範囲で責任を負う有限会社、出資者が全責任を負う合名会社、その中間である合資会社、広く株式を発行して資金を集める株式会社があり、株式会社こそ「資本主義が生み出した最大の発明の一つ」と云われています。
 株式を買っているのは、金融機関が40%、事業法人が20%強ですが、最近は外国人(法人・個人)が18%を超えて増加しています。企業集団内の株式の持ち合いは、年々減少し過去最低の10.1%になりました。さらに日本型経営の3種の神器といわれた終身雇用制、年功序列型賃金、企業別組合前3者が崩壊し、会社と社員が運命共同体として成長する会社本位主義の企業型社会がゆるみ、企業の内部告発が多発してきました。従来の日本型経営と株式所有構造が変容しているのも係わらず、新たな企業イメージ(コーポレイト・ガヴァナンス)が未だ不鮮明な状態で迷走しています。現時点での企業原理の再構築に向かう課題は何でしょうか?
 第1は、株主の投資観の転換です。自分のもうけだけではなく、自分の投資した資金が社会的に有益な生産やサービスに使われているかどうかに投資の基準を置くことです。近年株主オンブズマン運動など経営に対する介入増えていますが、こうした企業改革運動が株主の重要な責任になるでしょう。第2は、続発する企業モラルの崩壊の裏にあるコーポレイトガヴァナンスの再構築です。その為には、企業内社員が自立した市民として企業活動に経営者と対等の立場に立つかどうかが重要です。
 第3は、会社形態以外の事業協同組合やNPOといった「社会的経済」によるアソシエーション協同体の構築です。環境や高齢化・ジェンダーといった公共性の高い分野に会社が続々と参入していますが、会社はあくまで営利法人ですから公共活動には限界があります。21世紀はおそらく「社会的経済」の形態が重要な位置を占めざるを得ない時代になるでしょう。(2002/9/17 9:33) 

[もの食うヒトの危機]
 いま昼食を食べたばかりなのに、夕食は何を食べようかと考えてしまうことがあります。私は、このような食事への意識は、生活のどこかに不全感があり充実していないことの表れではないかと考えて、ある種の卑しさを覚えていましたが、どうもそれだけではないようです。ヒトが日々食事ごとに異なった物を食したいと思うのは「人類の祖先が毒成分を含む食物を連続して摂取するのを避けるために、1日に食べる食物品数を増やすという進化した採食戦略行動」の面があるそうだ。現在1日30品目を食べることがガン予防の基礎だそうですが、これも進化したヒトの食行動と関連がありそうです。京大霊長類研究所では、天才チンパンジーのアイちゃんとその息子アユムちゃんの食行動から、母親の影響を調査しています。生後2週間で甘味と苦味を識別し、母乳を通して母親の食習慣が子どもの味覚への感受性と嗜好性を左右することが明らかとなっています。
 つまりヒトにとっては、食べるという行為はもはや本能的な行動よりも、多様に・おいしく・美しく・楽しく・栄養あるといった文化的な行動になっていることが分かります。こうして全世界に驚くべき食文化が発達し、その交流がエスニシズムの重要な要素となっています。しかしいまヒトの食行動に回復不可能な危機的な事態がもたらされています。

 人間の愚かな行動によって、第3世界の人々に最低限の本能的な食欲すら実現できない絶対的な飢餓が進行し、毎年少なくとも3億人が餓死しています。地球上の食糧生産は優に全人類を養うに足るレベルにあるのに、なぜこうなるかと云えば先進国市民の人々が有り余る農産物を加工して、素晴らしい食事をした上で大量に廃棄しているからです。その裏にはアグリビジネスのあくなき資本の利益極大化の行動があります。では先進国市民の食生活はほんとうヒューマンな文化的な食事行動になっているでしょうか。

 日本の場合を見ると、ファーストフードやコンビニ弁当など極めて単純化され画一化した食行動が進み、とても1日30品種摂取するという状態ではありません。こうしたファーストフードで成長した少女が母親となって、子どもに授乳する時の母乳は明らかに化学物質や環境ホルモンに汚染された単純食品の影響を受け、子どもは最も大切な神経系が形成される授乳期に歪められた神経が形成されます。ここに少年少女期における「キレル」「イジメ」「ジコチュウ」「ひきこもり」「自閉」といった反社会的で非社会的な行動が誘発される要因の一つがあります。食行動による動物的レベルへの退化は、長いスパンでみるとヒトの進化の歴史を逆転させる可能性をはらんでいます。
 ところが他方では珍味を求めて渡り歩くグルメ番組がTVを占領し、記者が「ウン!これはイケル!」とワンパターンの報道をおこない視聴者はヨダレを垂らして見入っています。食文化は多様なカルチャーのなかの大切な構成部分ではありますが、あたかも全人生の意味がここにあるかのような雰囲気です。学問や芸術、スポーツ、政治や社会といった人間的発達を保障する文化の世界があまりにも、歪んでいたり高踏的であったりするために、庶民は食文化の世界に没入しその他の世界への関心を衰弱させています。我が子に美容整形を施したり、香水をかけて飾り立てたりする母親の歪んだ愛情行動とも関連があるのではないでしょうか。先進国文化の頽廃と破綻は、明らかに自らは気がつかない形で深く進行しています。これは自らの自主的な選択行動だと錯覚しているために、さらに事態は深刻ではないかと思います。
 しかし他方ではこのような危機に対する回復の取り組みも徐々に進行しています。例えば急速に進んでいるスロー・フードを含むスロー・ライフ運動です。この先端的な動きについては詳細を把握していませんので今後勉強してみたいと思っています。以上 上野吉一『グルメなサル 香水をつけるサル』(講談社)を参照して考えました。(2002/9/16 9:14)

[英国国教会『対イラク戦争の正当性と道徳性についてのキリスト者の宣言』について]
 英国の主な教会指導者がブレア首相に提出した宣言であり、その要旨は以下の通りとなっています(筆者要約)。
 「9月11日の緊急問題は、国連の権威と国際法によって賢明かつ有効に対処することが求められている。世界の指導者にテロリストを捕らえ、適切な法廷で裁判にかけることにより、テロ問題を公正かつ平和に解決するよう呼びかける。テロ戦争は、政治的な表現であり主権国家に対する軍事行動とは区別が必要だ。反テロ戦争と称してイラクへの攻撃を正当化することはできない。イアラク市民は、戦争や政府の残虐な支配に加えて、国連による制裁と米英両国による爆撃によって恐るべき犠牲を強いられている。軍事行動の開始の権限は国連安保理にのみある。自衛権の発動は主権国家への軍事攻撃が実際に起こった時である。イラクの大量破壊兵器がどんなに危険であるとしても、イラク政府が攻撃を仕掛けない限り、他の国による戦争を正当化することはできない。査察を要求している米英なども自国の核、化学施設を同じ国際査察に公開することは有益だ。イラクへの軍事攻撃は、道徳に反するのみならず違法である。世界の最強国がいつまでも戦争や戦争の威嚇をいつまでも外交政策の道具とみなし、国連とキリスト教の教えの両方を踏みにじっているのは極めて遺憾である。平和への道は、戦争ではなく、不公正な構造や排外的な政策を変革することにある」

 私はこの宣言を読んで2つの感想を持ちました。第1は英国国教会が毅然として米国政府を批判し、キリスト教の思想を現代の政治的緊張のなかで堅持しようとしていること。第2に、面白いことに宗教的な立論がほとんどなく、もっぱら国際法の論理に依拠して主張を展開していることです。この点が私はだめだと思います。普遍的なキリスト教のメッセージに依拠しながら、教会とイエスの教えに反する言動は「罪」として明確に断罪すべきではないでしょうか。宗教者のしかも最高教会指導者の他者批判は、あくまで教会と教義による宗教的批判のレベルを保った時に真の有効性を獲得できると思います。この論理で云えば、国連安保理が制裁決議をすれば国際法的には問題がないことになります。宗教者は、そのような世俗のレベルを超えた神の声として自らのメッセージを伝えなければなりません。(2002/9/15 19:28)

[夕張メロンには魂がこもっている]
 過日のNHK「プロジェクトX」は、北海道夕張農民のメロン開発の苦闘の歴史が紹介されていた。私は、企画ー製品開発ー生産ーマーケッテイングの全過程が生々しく象徴されているモデルとして感動した。炭坑町が閉山に追い込まれ地域経済が崩壊していくなかで、追いつめられた地元農民が最後の賭けに等しい新品種開発に取り組む。企画提案は、農業改良普及員のA氏であり、従来の地元産の香りと紅い肉芽を持つ瓜に近い種に、甘味のある静岡産メロンの原種を交配して全く新しい夕張メロンが創造されていく過程だ。
 静岡産メロンの秘匿されている原種を農家の庭先で土下座して入手することから始まり、倒産寸前の農協からの融資がないまま自費で粗末なビニールをかけ、徹夜して3時間おきに自らの体温で温度調節する。開発されたメロンは最初は見向きもされない市場から無視された存在だった。勝負は品質のみであるとして、品種改良に全力を傾け遂に市場の評価を得るに至るが、そのとき夕張炭坑は閉山する。市場を失った農民たちは、遂にリスク覚悟で東京圏への販売を決意する。船便やや貨物便では鮮度が保てないため、航空便に切り替えるがそれもだめだ。最後にデパートと契約した産地直送システムを開発する。逡巡するデパート側を説得する最後の手段は、選果場での容赦のない品質検査の現場を直接見てもらうことだ。次々と廃棄されていく高級メロンの山を目の前にしてデパート側は感動する。こうして全国ブランドが誕生し市場を制覇していく。スタジオで歴史を語る普及員と農民は、あくまで純粋な朴訥さが現れている。こうした人格が日本の農業とものづくりを支えていると実感した。

 さて経営学的には貴重な実例である。第1には、なによりも起業家精神なしに成功はあり得ないことを示している。自ら敗北のリスクを覚悟して試練を乗り越える迫力ある姿勢が不可欠であることを実証している。夕張農民はまさにそうであった。第2は、製品の競争力は、あくまでその妥協しない最高レベルを求める「質」の追求にあることだ。1年にわたって丹誠込めて育て上げたメロンが、情け容赦なく目の前で廃棄されていく時の農民の表情はなんとも云えない無念にあふれていた。しかし検査官は冷酷に妥協せず厳しい態度で審査する。市場の信頼の獲得は、この製品の質にかかっているということがよく分かった。第3は、現代の産官学連携とか戦略的提携が不可欠だと云うことだ。農業改良普及員(官)と農民(産)、そして学はいないが農協というベンチャーキャピタルの連携だ。いずれが欠けてもこの夕張メロン・ブランドは誕生しなかったであろう。第4は、マーケッテイングである。東京市場をつかまなければ全国ブランドになれないということがよく分かった。その為には血の滲むような苦闘が求められる。これは鹿児島焼酎「いいちこ」が、東京歌舞伎町に殴り込みをかけ、飲食店で最も軽蔑されていた焼酎をブランド飲料に成長させる契機となったこととも共通している。

 NHK「プロジェクトX」は、日本のものづくりの苦闘と感動を伝える優れた番組だと思う。株価にのみ狂奔する米国型カジノ資本主義を宣揚していま奈落の底に転落しようとしている日本経済の救世主は、無名の献身的な黙々と夜をついで研究開発に没頭している職人的なスキルにしかないと改めて確信する。竹中某大臣などは絶対に見なければならない番組だ。

 その前に放映されたワープロ開発の過程も興味あるものであった企業が契約書を作成する時に、和文タイプの非効率性に手を焼いたことからの発想である。5万の漢字とひらかな、カタカナをどうしたら簡単に英文タイプライターと同じように活字の文章にできるかーという開発過程である。問題に直面して、ああでもない・こうでもないと泊まり込みで徹底的に意見を出し合い、不具合を指摘しあい、さらにそれを検討することを繰り返し、テストを繰り返す試行錯誤の最後に奇跡的な技術開発が行われる。
 私はこの開発過程から2つのことを学んだ。第1は、問題や困難は必ず解決されることー最後まであきらめないこと(ここが最も重要)、第2にチームに絶対に垂直的な関係を作らないこと。議論が沸騰した時に、どこか権威筋がご託宣をのたまって終わるというような権威的垂直関係では絶対に事態を打開できないこと。組織内の地位や部署の如何に関わらず、オープンで自由闊達な水平的な関係でないと、問題の解決には至らないことである。

 私たちの周囲には、垂直的な組織関係が充満し、権威や権力の意向を気にし周りの様子を見ながら、自らの安全を保とうとする日常的な構造が抜きがたく形成されている。夕張メロンやワープロの開発過程は、そのような垂直的関係に未来はないということを白日の下に晒している。(2002/9/15 10:17)

[フェアープレーとは何か]
 ヤクルトの4番打者ペタジーニ内野手は、、自分への死球の報復をしない味方投手に立腹し何度か試合放棄をして物議を醸している。米国大リーグではぶつけられたらぶつけ返すという暗黙の了解があり、「仕返しをしないのは野球ではない」とか「報復が抑止効果になっている」とまで言われる。これを歪んだスポーツ観だとしてペタジーニの要求を拒否する若松ヤクルト監督を賞賛する向きもある。スポーツをめぐる文化論の問題として興味がある。「ぶつけられたらやり返せ」という”目には目を 歯には歯を”という一神教的な罪責論は、危うくするとブッシュ大統領に象徴される一極強者の報復論理となる。しかしこの論理の基礎には、客観的罪に対しては対応する客観的責任があるというモラリテイーがある。従って一極強者も同じ罪責を追求される本質的に公正な構造がある。相手に対して大量破壊兵器を破棄せよと迫るならば、自らも廃棄することが当然の論理ではないか。
 第2はペタジーニの怒りは日本文化論を直撃している。わざとぶつけたうえで、日本の投手は心から謝る態度を示せば水に流されるという暗黙の了解がある。日本文化では、集団的人間関係の調和が優先されるから、互いに分かり切った上で許し合うのだ。ペタジーニ選手の個人倫理は、日本の野球文化と正面から衝突するわけだ。いずれにしろ米国大リーグでも日本のプロ野球でも本質的には、フェアープレーはないと云う点で共通している。しかし大リーグが優っているのは、(報復という間違った方法ではあるが)相手の不正をあくまで追及するということにある。日本ではあいまいな微笑の中にあたかもなかったかのように洗い流してしまうのである。

 サッカーでいうと、1949年にイタリアのトリノ・クラブ、そして1958年にイングランドのマンチェスター・ユナイテイッドがともにチームの1軍選手を飛行機事故で死亡するという悲劇が起こった。シーズン中でまだ試合が残っており、両チームともユース選手で試合に臨むこととなった。イタリア・トリノの相手チームは、同じような若いユース選手を出すのがフェアープレーだとしてユース選手で戦った。ところが、イングランド・マンチェスターの相手チームは、どんな事情があれ最強チームで戦うのが礼儀だとして1軍選手で戦った。あなたはどちらが真のフェアープレーだと思いますか。自分が監督ならユースで選手編成をしますか、いつものように1軍群最強メンバーを出しますか? ここはこのHP上で議論をしていただきたい。

 02年ワールドカップ決勝戦のシーンを皆さんは覚えていますか? 自らの失策で破れたドイツのGKカーンが、打ちひしがれてゴールの側に倒れ伏して動けないでいる時、ブラジルのカフー只一人がカーンに歩み寄り何か言葉をかけた。両者は互いに相手の言葉を理解できなかったが、何か無言の中に伝わってくるものがあった。ここにブッシュとフセインの間には決して実現はしないスポーツマンシップの世界があるのではないか。(2002/9/13 20:7)

[犠牲者の名をかたるな・・・・・もう一つの9.11テ追悼集会]
 全米各地でテロ1周年を迎えた反戦集会が催されている。「正直に言って自分自身のなかで納得させるまでに時間がかかりました。テロを口実に新たな暴力、犠牲者を出すことはいけない、我々の悲しみは戦争遂行への叫びとなってはいけないということです」(テロで兄を失ったアンドリュー・ライス)、「私は米国民としてこの国に誇りを持ちます。でもイラクへの攻撃はやるべきではない。暴力で解決できることは何もない。世界1の富裕国家アメリカが今なすべきことは、衛生や教育、環境などの分野で全世界へ寄与することではないでしょうか」(ルイース・ラズボーン)。実は愛国法制定以降こうした声を挙げるのは非常に厳しく、FBIの尋問を覚悟しなければならない。公立図書館は、特定の本を読んでいる者のリストをFBIに提出しなければならず、その情報を第3者に話せば逮捕される。特にアラブ系米国人はほとんど人権が剥奪されているに近い。しかし「9月11日にアメリカ国民が流した涙は、戦争欲しさの涙ではないということを、ブッシュ政権と世界に伝えなくては」(ジニー  80歳女性)としてプラカードづくりにいそしんでいる多くの米国人がいる。
 荘重な政府主催追悼式典とは別の会場で、こうした草の根の平和の声が全米に広がっている。第2次大戦後の米国は、世界で最も戦争をした国として歴史に記録される。しかもそのほとんどは、植民地支配のための汚い戦争だった。指導者の語る「自由と平等」の大言壮語の裏で幾多の米国青年と世界の無辜の民衆の命が犠牲になっているかを、考え始めている多くの米国人が出現し始めている。連邦議会で只一人報復戦争に反対票を唱えたバーバラ・リー女性議員はもはや孤立してはいない。
 それにしてもブッシュ大統領の追悼演説の終盤で「我々は、自身を守り自由の恵みを広げるために戦う。・・・・米国の理想は全人類の希望だ。」という傲慢な発想は驚きであり言うべき言葉が見つからない。あなたが何を理想とするかは自由だが、それを全世界に押しつけるとは! つまりあなたの言う「自由」とは米国が全世界を支配する自由という意味なのだ。あなたは、自由のごく初歩的な学習で赤点を取っており、もう一度追認考査を受ける必要があることは確かだ。(2002/9/12 21:25)

[9.11追悼の日に想う]
 9.11同時多発テロから1周年を迎えた今日の日に、全世界で犠牲者を悼むモーツアルト「レクイエム」の合唱による祈りの式典が営まれる。テロの対象になった無辜の民の犠牲者に私もこころからの哀悼の意を表する。ただ私が言いたいことは、WTCに勤務していた企業市民は第3世界からWTCが米国スタンダードの象徴的建築物であることへの自覚がなければ、それは世界システムに対する基礎知識が欠けていたということだ。あなた方の企業に対する献身は、そのまま第3世界に対する収奪と抑圧の加担者であったことを冷厳な客観的な事実として怜悧に受け止めることに繋がらなければならない。
 さらに私は、今日の合唱に参加される合唱団メンバーに真摯な自己検討を求めたい。ニューヨークで倒れた命の報復に、アフガンの無辜の幼子の命が無関係に奪われ、この世を去った。NWの犠牲者を悼むあなたがたは、同時にアフガンの無辜の幼子のために慰霊の歌を歌うのかどうか。モーツアルト「レクイエム」は、無実の罪で十字架の処刑を受けたイエスを悼む歌である。その歌は、異教徒イスラムのいたいけな無辜の幼子のこの世をあっけなく去った命には捧げられないのか。全世界で繰り広げられている悼みの荘重な調べが、今の私には堪らなく偽善的な装いをもって響いてくる。
 ポール・フォスター(米人作家)は言う。「アメリカはニューヨークから出ていけ」として、ニューヨークが合衆国から独立した独立都市国家となる真剣で暑い声が満ちあふれている。ここにきて明らかに米国大統領と良心的米市民に深刻な亀裂が生じていることが示されている。ファナテイックな時代にあって自らの良心を冷静に維持するのは至難だ。岩城宏之氏(N響正指揮者)は、「35歳以上のオトナは絶対に信じない」という。中1の授業で教科書を墨で塗り、先生の言葉が「鬼畜米英の撃滅」から一夜明けて「米英を民主主義のお手本に」へと変わった。心の底からオトナ不信に変わり、オトナは嘘つきだと分かり、絶対に僕はあのオトナになるまいと誓った。最後に岩城は言う。しかしやっぱり僕は騙されていた。軍隊を持たない国がいつのまにか世界第3位の軍事力を持つに至った。しかし僕は絶対にあの「オトナ」にはならないと言う。
 私は、アフガンの幼子が視野に入らず、NWテロ犠牲者を悼むレクイエムを歌う合唱者は、岩城の指摘する「35歳以上のオトナ」とどこかで通底しているのではないかと思う。(2002/9/11 20:20)

[上野千鶴子氏のフェミニズム9.11論]
 日本の代表的なフェミニズム論者による9.11論は「非力の思想」と名付けられている。それを要約すると以下の通りである。
 報復は強者の論理、力ある者のみのおごりの論理である→非力で無力な者は反撃の選択肢はない→非力な女はかって男並みの戦力になろうとしたがそれは無意味だった→女も戦争の共犯者であり女が本来的な平和主義者であったことはない→フェミニズムは弱者が弱者のママで尊重される思想だ→DVから戦争まであらゆる暴力は犯罪だ→DVがなくなれば戦争もなくなる・・・・・以上が彼女の主張のアウトラインだ。朝日新聞9月10日付け夕刊。
 全ての戦争(暴力)が犯罪であるという考えは、すでに20世紀の末に国際法で確立された戦争違法論のバリエーションであり、彼女のオリジナリテイーがあるわけではない。2つの問題がある。戦争犯罪論が絶対平和主義であるならばそれは間違いであり、抵抗権を否定することになる。抵抗権の究極の形態としての暴力は許されるか否かというギリギリの界域が問われている。被占領や植民地状態にある人に(パレスチナ)、全ての暴力は犯罪だから止めよと言う権利は誰にあるのか。たとえあったとしても暴力に替わる抵抗の有効性を明示しなければならない。日常的暴力においても正当防衛権は否定されるのかどうかが問われる。
 もう一つの問題は、彼女がすべての対立的なテーマを男と女の支配・被支配の関係に還元する発想である。フェミニズムの思想的な限界が此処にある。帝国主義対植民地支配というレベルの問題に、性的暴力関係を安易に絡ませると、どちらの課題も混乱して当面の戦略の重点が絞りきれない。DVがなくなれば戦争がなくなるといった単純な問題ではない。たとえば、ブルカの強制はイスラム女性への男性のある種の暴力を伴う性的な支配形態であるが、しかし異教徒がその廃絶を要求することは信教の自由を侵犯することになる。ブルカは、イスラム教義の内発的な変革なしには実現できないことだ。
 結論的に言うと、上野氏の主張は、現代的なフェミニズムという先端的で華やかな外皮をまとってはいるが、実はその中身はごく通俗的で傍観者的な一般ヒューマニズム(暴力は止めようよ)に堕している結果、リアルに展開してい争闘に具体的に対処する有効性を持ち得ない非歴史的で無力な議論に終わっている。しかし上野氏のフェミニズム論の最大の欠陥は、男性=強者、女性=弱者という前近代からのシェーマを現代まで継承し、誤解を恐れず言えば彼女自身がその上にあぐらをかいていることだ。強弱が性と必ずしも一致しない新たなレベルで現象していることは周知の事実であるにもかかわらず。こうした上野型フェミニズムが流通している限り、女性の真の「解放」は永遠の彼方まで持ち越されることになろう。(2002/9/10 20:37)

[獄中歌人 郷隼人の歌から]
 郷氏は殺人罪で終身刑の判決を受け、85年間から米西海岸の刑務所で服役中の囚人だ。日本の故郷には母がおり、会うことができない娘がいる。彼は、ほぼ毎週朝日歌壇に投稿している。

・口笛でクリスマス・キャロルを奏ずれば 更に寂しき聖夜のプリズン
・老い母が独力で書きし封筒の歪んだ英字に感極まりぬ
・手作りのカードに獄庭の草花を押し花として母に贈りぬ
・十余年写真すら見たことのなき吾娘の誕生日祝う獄中教会にて
・独活三葉山葵筍紫蘇茗荷想いつつ食む獄食スパゲッテイー
・感謝祭の特別食を食み終えて獄庭を歩けば夕風さみし
・報復を恐れての措置かアラブ系の囚徒いきなり髭剃り落としぬ

 米国の終身刑とは文字通り終身であり、日本のような14年で釈放といった可能性はないであろう。獄中で命を閉じる人間のこの世とのつながりがこのような短歌の線で結ばれている。森山法務大臣も関心を持っているらしいが、白々しいというものだ。彼女は日本の死刑囚に対して冷酷にも執行命令書を何人出したのか? そのような人物の感慨など底の知れた偽善そのものではないか。しかし私は、郷隼人氏に告げたい。自らの贖罪がこのように故国日本の新聞に対する短歌投稿に何の意味があるのか。あなたは自らの殺人のよってきたる経過について赤裸々に語るべきである。ひょっとしたら私は、言ってはならない恐るべき言の葉を弄しているのであろうか。あなたの短歌が絶壁から詠われている様相を感得するが故にこそ、私は敢えて言うのである。そしてその私の言葉はそのまま私に返ってくることも覚悟している。”汝らのうち罪なき者のみ この女を打て!”というイエスの言辞によって、歴史のうえで如何ばかりの多くの人が免罪されてきたかを想う時に、私は人類の罪と罰の在り方に慄然とするのである。(2002/9/10 19:23)

[ナチス体制下における医者の戦争責任追及は今も続く]
 ドイツでナチス協力者となった医師は45%で、弁護士・裁判官・教授の30%に対して異常に高率だ。その理由は、第1に健全な人間を作り弱い人間を無くすというナチス優勢思想と一致したこと、第2に失業率の高い青年医師に、ユダヤ人や社会主義者の医師を追放して仕事を保障したこと、第3にナチスが医師に国民の健康増進の指導を委ねたこと等にあると考えられる。
 ベルリンの6000人の医師の中3500人を占めたユダヤ人医師は、1938年に700人に減り、その後亡命できなかった者は強制収容所で殺害された。ナチス協力の医師は、35万人の男女に不妊手術を実施し、20万人を安楽死させた。ベルリンフィルのホールがあるテイーアガルテン通り4番地は「T4行動」と呼ぶ安楽死計画本部が置かれた場所だ。その地面の碑文は、「犠牲者の数は多く、有罪となった犯罪者はわずかだ」と記されている。つまり今もってドイツ医師会の中枢に潜んでいるナチス協力者への追求がねばり強く行われている。
 ひるがえって日本では満州731石井部隊の医学者群は、研究成果の譲渡と交換に戦争責任を免罪され、K大学やQ大学医学部の中枢に復帰して日本医学界の指導的立場に君臨してきた。ドイツでは、ベルリン保険医協会、医学歴史研究所、ベルリン人間健康研究センター(ロルフ・ウイーナウ所長)という医学者自身から現在も内発的な戦争の追求が継続されている。この驚くべき差異はどこに原因があるのか。最近の医療ミスの多発と重なる医療の社会的責任の公共モラル自身に基本的な差異があるのではないか。(2002/9/8 8:31)

[長田弘はすごい詩人だ]
 以下は長田弘「ここに、共に在ること」と題されたエッセイ(朝日新聞9月4日付け夕刊)からの筆者要約。
 18世紀前半に大坂の街につくられた町人の学問所である懐徳堂は、誰でも学ぶことができる市井の学校としての性格を失わず、「貴賤貧富を論ぜず」富永仲基、山片幡桃といった知性を生み出し明治維新で150年の歴史を閉じた。権威を求める江戸型学問に対し、自由な学問空間として「今を生きる人々の言語の多様性の中に道を見いだす」「普通の人々のあたりまえの理」を極め、人と人が「ここに共に在る」場所として、プルーラル・アイデンテイテイー(他者のいる独自性)をすすんで担った。
 法哲学者恒藤恭は、京大滝川事件で京大法学部を去り、大阪市大で懐徳道の理念を実践した。恒藤は、鈴かけ次郎の筆名で少年小説を連載し、旧制一高時代は芥川龍之介の級友として芥川の自殺に際して名編と云われる友情の書『旧友芥川龍之介』を捧げた。 恒藤に宛てた芥川の手紙では、「自分は一高時代の記憶はすべて消滅しても君と一緒にいたことを忘却することは決してないだろうと思ふ」とあり、プルーラルアイデンテイテイーの感覚と記憶を伝えている。「ほんとうに親しい間柄の人と人は、一緒にじっとしているだけで、すでに充分に幸福である」と恒藤は返している。20世紀のこの国で真っ先に失われたのは「ここに共にある」という感覚であり、学校もそれを学べる場ではとうになくなったのだ。

 私がびっくりしたのは、法哲学者恒藤恭のこの来歴であり、また大阪の学問的風土の脈々たる現代への流れである。しかし長田弘の致命的限界は、学校を含むその他の市井の共同体に依然として受け継がれている「ここに共に在る」というリアルな事実への認識を失っていることである。それは夜ごとに歌舞伎町界隈で飲み散らかしている詩人には、決して視野に入らない無名の無垢のかげ替えのない存在の世界である。耳を澄ませば、目を凝らせば、この荒廃した世界のあちこちに「共に生きる幸福」を追求しようとしている試行が網の目のネットワークとして広がっている。長田弘の感性の素晴らしさは、失われた過去へのノスタルジアに向かい、現代の先端にあって尚かつ希望を求める人たちへの視野が閉ざされている。それにしてもプルーラルアイデンテイテイー(他者のいる独自性)とは、泣かせる表現だ。(2002/9/4 20:33)

[ゴッド・ブレス・アメリカ(神よ、米国を守りたまえ)]
 大リーグでニューヨークを本拠地とするヤンキースタジアムとシェイススタジアムでは、7回裏の攻撃前に最初にこの聖なる国歌が頭を深く垂れて神聖な意味を込めて歌われ、次いで明るく陽気な「私を野球に連れて行って」が酔っぱらって歌われる。どちらも浅薄な米国人の本質をよく表している歌だ。前者は米国至上のユニラテラリズムへの厳粛な忠誠を、後者は脳天気なプラグマチズム文化を象徴している。
 米国の浅薄さを象徴しているのが、世界食糧計画(WFP)がアフリカへの食料援助に配布した米国産トウモロコシの40%にGM種(遺伝子組み換え)が含まれていることが明らかとなったことだ。ザンビア政府は、健康被害、在来種との交配、生態系への影響を予知できない等の理由で受け入れ拒否を決めた。アメリカ本国で売れないGM種を援助に回して得点を稼ごうとする米国の犯罪性が露わとなった。ザンビアは、自国の子どもたちの餓死を覚悟しながら生態系を守ろうとするドラステイックな選択を選んだ。この志の高さは、東アジアの米国に媚びへつらっているジュニア・パートナー国家にはない。
 こうした偽善的な人道支援を行いながら、一方ではイラクに対する先制核攻撃のオペレーションは全て完了している。おそらく21世紀最大の難民が流出し中東全域が大混乱となるだろう。かっての汚いベトナム戦争の戦死者は、米国人6万人、北ベトナム50万人、南ベトナム50万人、避難民500万人(全人口の30%)、ポートピープル100万人。米国史上初めて惨めな敗北を喫した戦争だ。現代の世界で、難民として流浪する民(マイグラント、デイアスポラ)は、統計上は約1億5千万人、非合法移民を入れると2億5千万人、世界人口60億の4%に上る。20世紀初頭、先進帝国主義国2500万人の欧州人が6億6千万人の第3世界の人を支配し、4%の人が96%の人を支配したと云うことになる。21世紀の初頭も基本的には同じ構図であり、ただ一つ違うのは、欧州の帝王として米国が君臨しその他はアレコレと弁解している手下がいるという構図だ。
 01年12月にハーグで開かれた女性国際戦犯法廷では、日本軍従軍慰安婦の問題に関する昭和天皇と旧軍幹部、日本政府の責任を認め、歴史教育で慰安婦問題を教えることを日本政府に勧告した。法廷で証言した被害者は「正義はいつも私を置いてきぼりにしてきた」と証言し、ある在日朝鮮人女性は「いま戦争が起きたら慰安婦にされるのは私たち在日朝鮮人ではないか」と述べている。
 私は米国に対して礼儀を逸した侮辱的言辞を投げかけているかもしれない。しかし私は、輝かしいアメリカ独立宣言の理念を信じているし、その伝統を受け継いでささやかながらも(孤立し迫害を受けながらも)国内で平和を訴えている米国人がいることをを知っている。国境を越えてこうした声が手をつなぎ合えば、平和は必ずどのような長い時間がかかろうともやってくるはずだ。ゴッド・ブレス・アメリカ!守るべきアメリカの内実は何かが今問われている。そして守るべき日本は何かも同時に問われている。(2002/9/3 19:57)

[芝木のり子『この失敗にもかかわらず』]

 この失敗にもかかわらず     芝木のり子

 5月の風にのって
 英語の朗読が聞こえてくる
 裏の家の大学生の声
 ついで日本語の逐次訳が追いかける
 どこかで発表しなければならないのか
 よそゆきの気取った声で
 英語と日本語交互に織りなし

 その若々しさに
 手を休め
 聴き入れば

 この失敗にもかかわらず・・・・・
 この失敗にもかかわらず・・・・・
 そこで はたりと 沈黙がきた
 どうしたの? その先は

 失恋の痛手にわかに疼きだしたのか
 あるいは深い思索の淵に
 突然ひきずり込まれたのか
 吹き抜ける風に
 ふたたび彼の声はのらず
 あとはライラックの匂いばかり

 原文は知らないが
 あとは私が続けよう
 そう
 この失敗にもかかわらず
 私もまた生きてゆかなければならない
 なぜかは知しらず
 生きている以上 生きものの味方をして


 ウーン芝木さんの詩はなにか人を励ます希望があるんだな。一歩間違えば矜持に傾いた道徳詩におちいる寸前でさわやかにとどまる技量があるんだな。有名な『表札』もまさにそうだ。ポスト・モダンからは無視され、いまや魑魅魍魎が跋扈する日本の現代詩にあって、或る大切な健康な魂の在り方を健気に譲らないと云ったところが私は好きだな。というわけで次は私の連詩だ。

 そう 私にも
 2度と帰りこぬ時が過ぎて
 取り返しのつかない悔いのなかで
 でも私は繰り返したい
 にもかかわらず・・・・・
 にもかかわらず・・・・・
 私は前に歩むと


 参照:『芝木のり子集 言の葉1 50年代から60年代』(ちくま書房) 再びめぐりきた新学期の初々しさに打たれて。     (2002/9/2 20:9)

[先進国の子どもたちの悲惨はなにか]
 途上国の子どもたちの悲惨は云うまでもなく、その日の食糧が手に入らない飢え、何時どこから弾丸が飛んでくるか分からない戦争、文字や計算の修得ができない教育の崩壊、自ら労働しなければならない家族の生活、宗教的戒律への無条件の服従−といった原始的貧困にある。こうした貧困の要因は極めて単純化された1次的生活圏の崩壊にある。この1次的生活圏の崩壊をもたらしている基本的な原因は、多国籍企業による新植民地主義的な収奪の構造と国内の前近代的な社会関係といった可視的なシステムにあることは考えなくても分かる。従って貧困途上国の子どもたちにとっては、今日の飢えをどう凌ぐかが最大の緊急課題であり、そこに筆舌に尽くしがたい労苦の力が注がれる。こうした構造を認識しうる教育階梯を経た途上国知識人は、先進国水準に追いつく使命感を持った開発独裁型と、民族的尊厳を重視する反先進国型に分かれ、後者のなかに即時的で単線的な打開を幻想する原理主義型抵抗が生成する。いずれにしても、極貧の過程にある途上国の子どもたちにとって、自らを抑圧する偉い人は誰か・敵は誰か−その打倒なしに未来はない−という極めて簡素にして単純な行動戦略が素朴に構想され得る日常的な条件があるのだ。ここから途上国の子どもたちは、飢えの危機のなかでも学習に対するあのきらめくような輝かしい傾倒を示すのだ。
 これに対し成熟した先進国の子どもたちには、原始的貧困は基本的に消去され、かわりに創り出された虚栄の肥大化する欲望過程のただ中にさらされて、自らの本源的なヒューマンな自己規定との矛盾を無自覚のうちに抱え込む日常を送ることになる。複雑多岐に分化して重層的に聳え立っている巨大な現代社会の建築物に対し、自らの存在は余りにも卑小に映らざるを得ない。こどもたちが依拠する世界は、せいぜい身の回りのわずかな家族や友人の手触りの実感がある世界に過ぎない。そうした世界で互いの承認を求め合うケータイといった実りのない空しいとりとめのないコミュニケーションに没入することになる。先進国の子どもたちの致命的な悲惨さは、物質的な生活の完了のなかで、確かな未来を構想する条件が空洞化し、未来そのものが自ら参加して創造するという実感が持てないはるかな第3者の世界に見えることである。何かよく分からないイラダチや腹立たしさをもたらしている真の敵はますます見えにくくなっているから、目の前にいる個別の大人に打撃を集中して自らの解放を求めようとしたり、自分より弱い仲間に対して攻撃を集中したりする生産性のない泥沼の世界に陥るか、逆に内向的な自己攻撃性に集中してひきこもりや自死に至る悲惨な結果を選ぶ。
 こうして或る意味では、途上国の子どもは飢えを克服した未来を構想できる希望を持ち得る可能性があるが、先進国の子どもは漠然とした未来に対する不安を持ってこの世を去っていくだけの人生に終わる危険性がある。では打開のために何が最も求められているのか。それは未来に対する希望をひとかけらの希望であっても、構想できるような時代認識の力を獲得することでしかない。めくるめくような巨大な力によって翻弄されている小さな個人に見えるその背後に、実は時代を本当に動かしている伏流水が確かにあるのではないか−という認識に至る社会の科学的認識のちから−ここにこそ明日を創造する豊かでさわやかなこどもが誕生する最後の根拠があると思う。(2002/9/1 20:12)

[越中矢利一『一兵卒の震災手記』から]
 あー、どうして××××すことができたのか?−自分の前によろよろと両手を合はして跪いた彼等、××××は、国を追われ、××と侮辱と虐遇の鐵鞭に絶えず生存を拒否されつつ流浪して、今喰うに食なく、宿るに家なき−彼等を、どうして此の××××××突くことが出来たか。
 ××!これが××でないと誰が云えるのか?××××!云ふを止めよ。××××××××××××××××××?××××、××、××××?否否、と彼は呟いた。そして夫れは最つと最つと巨大な、夫等をして手足の如くに××××××××、××××××××、×××××××××××××××あることを、革めて湛ゆることの出来ない憤りを籠めて考へてみた。
 が、とは云へ、彼の怒りは結局は只徒らに心頭に止まって、ブスブスと燻るのみに過ぎなかった。威大な、動かすことが出来ない、恐ろしい力が彼を無言の中にねじ伏せたのだ。−
 『卑怯者!』彼は斯く叫んで、自らを劇しく責むるより他に無かった。(以下2頁削除)

 この小説は、関東大震災で治安出動した南軍警備隊騎兵連隊に所属する一兵卒が、朝鮮人蜂起のデマ情報によって、大量の朝鮮人を銃口で虐殺するシーンを描いています。内務省の検閲によって見るも無惨な伏字となり、もはや小説の体をなしていません。越中矢利一なる作家は文学史に名をとどめずすでに消えていったのか、或いは誰かのペンネームであるのかは分かりません。
 この作品は戦争に反対する文学者が結集して作られた日本左翼文芸家総連合が編纂した最初で最後の反戦アンソロジーである『戦争に対する戦争』(1928年刊 1984年復刻 不二出版)に収められています。そこにある作家を見ると、江口渙、林房雄、、鹿地亘、金子洋文、黒島伝治、前田河広一郎、村山知義、小川未明、高田保、武田麟太郎、立野信之、壺井繁治など錚々たるメンバーが並んでいます。これらの半数はその後反戦から脱落するか又は戦争宣伝者になった者もいますが、1929年の世界大恐慌を翌年にひかえ、迫りくる戦争の危機に立場を越えて反戦の一点で結集しようとする姿勢がアリアリとうかがえます。
 その序文では、「戦争の危機が全世界を覆っている。資本主義列強は一方に軍備縮小を唱えながら、他方において戦争の熱病的準備に余念がない。(中略)。否、既にその前哨戦は開始せられた。世界は、欧州大戦の血未だ乾かぬ中に、再びあの惨憺たる戦禍の中に投ぜんとしつつある。しかも来るべき戦争は、必然に、国内無産大衆に対する狂異なる搾取と圧迫とをともないきたるであろう。−我々はあくまでもそれと抗争し、一切の戦争に対する準備に反対しなければならない」としていますが、70数年後の現在でもリアルな迫力を持って迫ってきます。

 いままさに立場と思想を越えて、このようなアンソロジーを再び編まなければならない時期が来ているのではないでしょうか。私たちに検閲による伏字は許されない表現の自由という何人も奪われない基本的人権があるうちに、それを行使するヒューマニズムの一点で心をそろえる現代の新しいフロント・ポピュレールが求められているのではないでしょうか。イラク攻撃が迫りつつある関東大震災記念日に。(2002/9/1 9:21)(

[Determinism and Free Will−全てのことはあらかじめ決められているとすれば−地球惑星とその運命]
 この世の全てはすでにあらかじめ決められているという決定論と、そうではなく人間の自由意志で創造していくものだという永遠の問いがある。すべてのことが決定されているとすれば自由意志は無意味であり、銀行強盗もそれが決定されていればその人の罪は問えない。ではその決定者は誰かというと、かっては神であり現在は自然法則(例えば宇宙の大統一理論)ということになる。大統一理論は宇宙の全てを説明する精密で簡潔な方程式であり、宇宙のグランド・セオリーとして有効ではある。このような決定論の元祖は、ラプラスの悪魔といわれる物理法則である。しかしこの理論はミクロの世界を対象とする量子力学の不確定性原理を説明できない。粒子と速度の両方を同時に正確に測定できないとすれば、ここには意識の自由な判断領域があるということになる。人間の脳には10の26乗、つまり10億の10億倍のそのまた1億倍の粒子があるから、脳の神経データが与えられても頭脳がどのように振る舞うかを予測することは出来ないのである。人間の振る舞いを決定論的に説明すると、すぐに自己言及性のパラドックスに陥る。もし将来自分がどう振る舞うかを事前に分かった人間は、事前にそれを回避しようと思うから、あらゆるギャンブルやゲームは成立不可能となる。
 大脳神経系のニューロンを完全に組み込んだ第6世代コンピュータは、限界を超える予測を乱数を用いて次の行動を決めるが、その致命的な限界は量子論的不確定性原理と力学系カオスを組み入れることが出来ないことである。

 人間の初期生命は自己複製で繁殖し、複製能力に欠陥があった生命体が淘汰され、生き残った生命体の情報がDNAの二重螺旋構造に記号化されて世代間に継承された。原始生命が人類にまで進化するのに30億年かかったが、人類の過去1万年の間にはDNAの進化はなく、言語による知性の発達でしかなかった。しかし人類が他の生命との闘争のなかで生き残りのために培った攻撃的本能はDNAに記号化されて残ったまま現在に至っている。この攻撃性を制御できなければ、人類がこの惑星に生存していく可能性はない。現在の米国大統領の行動は攻撃的DNAが文化の影響を受けて表面に躍り出ているに過ぎない。
 宇宙の全てを説明する大統一理論の方程式が完成したとしても、未来予測はできない。なぜなら初期条件の微少な差異が不安定なカオスを生み出し、天候予測すら不可能な実態を生み出すからである。私たちは、宇宙を支配する大統一理論のグランド・セオリーの方程式を知ることは出来るが、その有効射程時間は何百億年という単位なのである。私たちは、1000億個の恒星を持つ標準的な銀河系の外側の隅にある、ごく平均的な恒星である太陽の周りを365日かけて回るつまらない一惑星の住人なのである。この太陽と呼ばれる恒星は約50億年で核燃料を使い果たし、赤色巨星となって膨張し地球やその他の惑星を飲み込んで白色惑星になることが分かっています。

 時間の不可逆性はいわゆる「親殺しのパラドックス」にある。過去にさかのぼって自分を生む母親を殺したら、自分は生まれないが、ではその自分がなぜ母親を殺すことが出来るのか−という自己矛盾である。こうして過去と未来を生きることは絶対に出来ないと云う相対性理論が出てくる。しかし時間が単線的に延びるのではなく、ループ状に閉曲線のトポロジー構造であるならば、私たちは理論的にはタイムマシンを作ることが出来る。これが1mmの長さで1000兆トンの重さを持つという超ひも理論である。

 現代宇宙論は無限に進化する宇宙を証明しているが、そのなかでたった一つの生命体である人類がDNAに記憶させた攻撃本能が、最高度の科学技術を駆使して構築した絶滅兵器によって、この進化をストップさせる最大の危機が生じている。その象徴的人物がブッシュという名の男である。50億年後の燃え尽きる太陽恒星を見切って、はるか銀河系に宇宙移住をする能力を手に入れるべき人類はその以前に自ら開発した核エネルギーの爆発によってその運命を閉じるのである。

 以上は筋萎縮性側索硬化症という難病と闘いながら、頭脳のみで生きているホーキング博士の『時間順序保護仮説』(NTT出版)を読みながら、残暑厳しい8月の終わりに私が綴った妄想に過ぎない。博士は、ニュートン、アインシュタイン以来の天才と呼ばれている。彼の発言は口話ではなくすべて車椅子にセットされたワープロ、パソコンを使った電子会話である。(2002/8/31 18:37)

[ならず者国家とは誰か]
 一極帝国がイラク、イラン、北朝鮮その他を「ならず者国家」に指定し、これらの諸国に対する一極帝国の核攻撃を含む先制攻撃を国家戦略として打ち出してから(国防総省報告)、遂にその瞬間が近づこうとしています。
 「米国が必要なことは何でもやることを全世界は知るべきだ。何か行動した上での危険より何もしない危険の方が大きい。希望的観測をしてはならない。敵は恐怖の大量破壊兵器で中東と世界の石油供給を支配しようとしている。イラクには豊富な天然資源と人材がある」(チェイニー副大統領 26日ナッシュビル演説)、「ブッシュ大統領が決断を下したら何カ国がこれに参加するか分からない。米国が正しい判断を下したら、他の諸国もこれに協調し参加する。正しい判断をする指導者は追随者と支持者を見つける。ヒトラーの脅威を人々が理解したのはフランス、オランダ、ベルギーを占領し英国も攻撃してからだった」(ラムズフェルド国防長官 7日カリフォルニアペンドルトン海兵隊基地演説)、「大統領はまだ明確な決定を行っていないが、決断する際には日本など同盟国と協議する。テロを排除する米国の行動について議論してほしい。日本はドイツのように反対しないで協力してほしい」(アーメテージ国防副長官 28日東京米国大使館記者会見)。
 ラムズフェルド国防長官は、戦闘服を着た海兵隊員が戦車に乗って取り巻くなかで行うというファナテイックな演出で傲慢そののでしかない演説を行いました。しかし少し冷静に考えれば、国連憲章が武力行使を認めているのは武力攻撃が発生した場合のみであり、他の国を先制攻撃する権利はどの国にもありません。湾岸戦争時の国連決議は、大量破壊兵器廃棄の措置をイラクに求めていますが、政権を打倒する等という根本的な内政干渉は当然認めていません。いわんや「勝利するためにはあらゆる手段を用いる」(国防総省報告)という核先制攻撃など人道に反する罪にあたります。一極帝国の戦略は国際法上の正当性を全く欠いた史上まれに見る強盗的な「ならず者」の論理でしかありません。まるで暴力団の親分ではありませんか。彼らの演説に国際法という言葉は一切使用できないのです。
 一極帝国がなぜこのような破廉恥で無知なヤクザのような行動に出ようとしているのでしょうか。第1に、アフガン戦争で一極帝国が圧倒的な宇宙衛星と精密兵器の軍事力の優位を証明し(報復軍の犠牲者はたった1名)、全世界を服従させることを確信したからです。第2は、にもかかわらず全世界が一極帝国の戦略に反対し国内でも批判が相次いで逆に孤立状態に陥ったからです。第3は、国内経済が深刻な不況に直面し経済システムが崩壊に直面するなかで対内的な危機を対外的な危機に転化するという統治の原則を使わざるを得ないからです。第4は、政権そのものの基盤がエネルギー産業にあり中東石油の支配権を入手したいからです。
 一極帝国の大統領はいま、休暇先の別荘で机上にある地球儀の中東地域を指さしながら、必死になって戦争プログラムを作成し、地球惑星の運命を左右するヨハネスブルグ国連環境・開発サミットへの首脳の出席を拒否して戦争ゲームに熱中しています。こうして2002年○○月○○日は、現代世界史上で最も羞悪で悲惨な日として年表に記載される時が迫っています。
 ところが全世界で孤立した一極帝国の政権に支援を表明している国が一カ国だけあります。それは東アジアにある一極帝国のジュニア・パトナーと呼ばれているGDP世界第2位の大国ですが、あまりの主体性のなさに全世界から軽蔑の眼差しを持って遇されています。「攻撃を了承する」(小泉首相 2月日米首脳会談)、「テロ特措法の枠組みの延長線上なら支援の可能性がある」(防衛庁長官 アーミテージ会談)」。
 この国はかって悲惨な戦争を経験し、2度と戦争はしないという輝かしい憲法を基本戦略として経済的発展を遂げてきましたが、最近は着々と戦争システムへの道を進み、同じアジアの国への攻撃の積極的な加担者となっています。100年前の脱亜入欧戦略から現在は脱亜入米戦略によって、強者に見苦しく媚びへつらう矜持を投げ捨てた国へとまっしぐらに転落しつつあります。正しいから従うのではなく、強いから従うという態度は最も人間的に軽蔑される態度ではないでしょうか。サキャ・パンデイタの格言を今一度想起したいものです。(2002/8/29 9:17)

[これから起こることを/起こる前に観察する時/賢者と愚者の違いが分かる。/起こってから観察するのが愚者である。『サキャ・パンデイタ格言集』(岩波文庫)より]
 サキャ・パンデイタは13世紀チベットの学者であり、強大なモンゴル帝国に対抗してチベットの独立を守ろうとした万学の人です。岩波文庫にチベット文学が入ったのは初めてであり、私は本書でチベット文学とチベット仏教の一端に触れることができました。辛口の箴言が散りばめられている格言集は、賢者−愚者の視点から統治者の資格を説いていますが、時代を超えて現代にもつながる普遍的なメッセージとなっています。”自分が好むことを/人にしてあげるなら/人も自分が好むことを/同じように返してくれる”とはまさにイエスのいう道徳の黄金律ですが、時代と地域を越えて同じことを言っています。ただし前近代部族社会の戒律の限界を感じますが、チベット民族の魂の宝庫であるのでしょう。最後に彼の箴言を1つ。”明日死のうとも学問する。/今生で賢者になれなくても/学問を来世に託して/受け取るようなものである”。これは孔子の”朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり”とそっくりではありませんか。

 学問や勉強ほど世界で異なっている姿のものはありません。アフガンでやっと始まった難民の子供の学校を描いた『アフガン・アルファベット』(マフバルバフ監督)では、次のようなシーンがでてきます。ブルカを脱がない少女に女教師(この先生も小学校4年しかでていない)が、ブルカを脱がすために顔を水で洗うように言います。
 「イヤよ。人前で顔を見せたくないの」
 「みんな友達よ」
 「友達でも何でも、顔を見せて洗うのは罪よ。私は誰もいないところで顔を洗うわ」
 「なぜ罪なの」
 「オマル師は預言者のつくった箱に奥さんを入れて、好きな時に箱を開けて匂いをかぐの。決して奥さんを外には出さないのよ」
 「あなたも箱に?」
 「入るわ。男の人の前では顔を見せない。もし人前で顔を見せてしまったら、来世で神の罰を受けることになるわ。だから決して顔を見せてはならないの」
 「もし本気で勉強したいのなら、目を覆っていては出来ないわ。授業がいやなら出ていって」
 出ていった彼女を友達が説得に行く。自分も顔を見せて罪を犯したが、10回お祈りをして悔い改めれば神は許すから、と言う。(マフマルバフのナレーショ)「アフガンの少女のほとんどは未就学だ。もし空がもう少しだけ大地にやさしく、爆弾の代わりに雨が降っていたら。もし少女たちが他の国に生まれていたら・・・・・」。彼女は友達と教室に戻り先生に顔を洗うと言ってブルカを挙げる。The END.

 私たちの誰が彼女の態度を嘲笑うことが出来るでしょう。彼女は自分が育ってきた文化の教えを最もけなげに守り抜こうとしている幼気な少女です。このような文化の呪縛を嘲笑するならば、違った呪縛にとらわれている先進国の私たちも同じような蒙昧な世界に生きています。このような少女の頭上に大型爆弾をばらまいて恥じない先進国もあるし、それを応援する奴隷のような国もあります。アフガン女性の美しさは、化粧を塗りたくった先進国少女が足元にも及ばない崇高なものがあります。原理主義の教えを厳格に守りながら、しかも勉強に対する素朴で強烈な希望を持っています。1年生は「AB(アーベ 水)」という単語を最初に学習します。続いて歯の磨き方の学習に移ります。少年や少女たちの澄み切った輝くような黒い瞳に惹きつけられます。先進国の子供にこのような真摯な眼差しはありません。まさに今日と明日を生き抜く力と学習がピッタリと結びついています。
 先進国の私たちは、別の意味のブルカを被ってあたかも自由に生きているかのような幻想を持っているに過ぎません。星条旗を国旗とする国の人々は、明らかに有色途上国の人たちに優越した差別意識を持っています。だからこそヒロシマ・バガサキに原爆を投下することができ、またアフガンにバンカーバスター爆弾を投下することができたのです。このような白色優越主義に対して媚びへつらっている国がアジアに一カ国だけあります。ひょっとしたらあなたはそこの国の国籍を持ってはいませんか。私はアフガン爆撃が始まってから初めてアフガンの一端を知りました。もし私が賢者であったなら、それ以前にタリバンやアルカイダを含む原理主義の依ってきたる背景を観察し得ていたでしょう。(2002/8/28 17:04)

[日本政府の態度は世界に説得的であるか・・・・・東京地裁731部隊判決をめぐって]
 日中戦争最中の40−42年に旧日本軍731部隊が実施した細菌戦の中国人遺族180人が日本政府を相手に起こした訴訟判決で、東京地裁ははじめて国際法違反の細菌実施を認める判決を下した。政府の主張を特とご覧あれ。@明治憲法下における「国家無答責」(国家が公権力を行使して発生した被害は賠償責任を負わない)、A不法行為から20年で賠償責任が消滅する「除斥期間」を過ぎた−とする主張である。@とAは明らかに矛盾する。@は自ら無条件に受け入れた東京裁判を拒否する論理となり、Aは一般犯罪に適用される時効の論理であり、戦時国際法では恥ずかしくて主張できないものだ。
 さて最大の問題は、細菌戦の有無について政府側は認否を明らかにしなかったという逃避、回避の態度にある。国家の尊厳を懸けて対峙しているこのような性格の裁判で、”逃げる”という態度をとる政府のレーゾンデートルはどこにあるのか? この問題に関する限り日本政府に日本国民を代表する資格がないということが白日の下にさらされた。有り余る証拠の提示に詳細に反論して、細菌戦の存在の認否の結論を出し得ないと言う実証論理であるならば、分からないでもないが、それ以前の段階で歴史の真実に迫る誠実な分析を放棄しているのである。石井四郎軍医中将のもとで細菌戦研究に従事して尚かつ戦犯追及を免れて、医学界の中枢にいる細菌戦学者の人間的な尊厳をも実は逆に踏みにじっているのである。
 私はこのような責任倫理の空白を日本的文化論に収斂して一般化して論じることは無意味だと考える。180名の今まさに親族の無念を晴らすがために、日本法廷に登場している中国の方々への具体的な回答としてこれでよいのかと問いかけたい。東京地裁判決は、現状の力関係のなかで最も良心的な判決であるかもしれない。日中平和条約で国家責任は解決済みだという論理は、果たして現代国際法の賠償責任論理から言っても正しいのか。なぜドイツ型の責罪の行為が日本ではできないのであろうか。(2002/8/27 20:00)

[NHK第2回詩のボクシング全国大会を観て]
 世の中にはすごい細やかな感性でこの世を生きている人がいるもんだ。こういう人ばかりであれば、金や戦争に浮かれる世界は過去の歴史となるであろうに。いやそうではないか、スゴイ感性の持ち主はまた燃え上がるような戦争詩を作るんだろうか? 技巧を凝らした、意表を突いた、素朴な直球・・・・さまざまのバラエテイー豊かな詩の朗読の世界に久しぶりに堪能した。
 哀しいことに日本の詩は、歴史と人間を真正面に据えたグランド・スケールは排除されるんだということが、またつくづくとよく分かった。なぜ戦争や環境などの人間の生き死にに呻いている世界をまっすぐに描くことを逃げているんだろうか。確かに心が洗い流されるようなカタストロフィーを味わうことはできる。しかしどこか自己の感性の世界に閉塞した狭い空間での繊細な痛々しい感性の飛翔だ。広島の詩人だけが、戦争や死の世界を対象として果敢に挑んだが審査員は日本的なスタンダードを守って評価からは逃げた。繊細な感性は、逆に見ればやせ衰えた敗者の感性だ。こうした両極を統合して尚かつ日本語の美しい世界を紡ぎ出す日本詩が創造されないのであろうか。これだけ戦いや競争や挫折が充ち満ちているこの現代を真正面から詠い込む繊細と雄大の統合された詩の世界を私は求める。風刺や諧謔があってもいい。世界の基本とつながっているのであれば。浅薄歌人俵万智などを登場させるのはやめてほしいな。(2002/8/26 22:23)

[和太鼓奏者 村上功氏(32歳)の健闘を祈る]
 第1回東京国際和太鼓コンテストの大太鼓部門の本戦出場者11人に選ばれた氏は、黒革衣装で肩まで伸びた茶髪を振り乱して演奏する。生まれ付き強度の難聴で、右耳は聞こえず手術した左耳も補聴器が要る。外耳がないため小中学校ではイジメの対象となり、孤独・不登校・家庭内暴力を繰り返し、中学2年の時自宅でロープを首に懸けたが、5歳から続けていた和太鼓が支えとなって寸前で思いとどまった。23歳で全国太鼓フェステイバル個人の部で優勝し、世界的な和太鼓集団「鼓童」メンバーとなりカーネギーホールの舞台を踏んだが「感動はなかった。自分個人の力ではなかったから」と厳しいソロの道をめざす。「自分は太鼓に助けられた。だから太鼓でみんなを勇気づけたい」。川崎港の倉庫街が稽古場。そこで毎夜基本の「三ツ打」に磨きをかける。以上日本経済新聞8月26日付け夕刊参照。
 聴覚を失ってからのベートーベンの創作活動はむしろ飛躍的に活性化し幾多の名曲が創造されたと同じく、音楽家にとって決定的な聴覚がない氏がむしろ日本の伝統的な音の世界を創造し飛翔する。私たちの前に聳える壁やハンデイーが実はその人の才能を開花させる条件となるという弁証法的な質の飛躍のドラマをまさに体現している。氏が凄いのは、鼓童メンバーとしての安定的なアーテイストとしての生活が約束されたにもかかわらず、最も極大化されたリスクを背負ってソロの道を決然として選択したことだ。何かを得るためには、大いなる喪失に耐えねばならない・・・・しかし何かを捨てたがために何かを得るとは限らないのだ。そのような決然たる選択をした氏は、このまま敗北して消えていく人かもしれない。でもそれはそれでいいのではないか。振り返って悔いることのない、省みて自ら恥じざる選択であったと思うからだ。1度しかないこの世の生をこのような形で刻む人を私はむしろうらやましく思い、自らも驥尾に付していきたいと願う。ここにこそ若者の特権があり、ここにしかないのではないか。漆黒の闇を貫いて躍動する筋肉でばちを握る氏は、限りなく美しい。勝利の栄誉と敗北の無惨の狭間をギリギリで生きる絶対の孤独にあるからだ。(2002/8/26 19:28)

[にっぽんど真ん中祭にみる爆発する若者のパワーを考える]
 帰り道に覚王山に差しかかったら何かお祭りのような雰囲気が漂っているので、車を止めて見学に行った。どうやらにっぽんど真ん中祭が今年から栄・大須・覚王山へと開催を広げたようでそれに出くわしたわけだ。若者が全身に汗を滴らせながら踊る行進は、パワーがありエネルギーの爆発につい引き込まれてしまった。白眉は江戸末期の世相を庶民の視点から描いた”ええじゃないか”であり、ただ単なる肉体のパフォーマンスを越えた時代批判の舞踏であった。
 このような舞踏の爆発を見ていると、学生時代のデモンストレーションを思い起こす。指揮車に乗った学生が大音響でアジテーションを叫ぶと酔ったようなリフレーンがこだまして一種異様な興奮状態となる。権力と正面から対峙している緊張感がみなぎり、腕を組んだ縦隊との熱い連帯感が生まれる。現代の若者の集団舞踏とかっての学生デモンストレーションの行動様式は酷似しているのではないかとも思った。
 そのような一観客の的はずれかもしれない印象とは無関係に、若者たちはひたすら踊り狂っている。時代閉塞の現状に抗議するかのごとく若者は踊りながら前方に進む。踊り終わった後のグループの解散集会を見ていると、かっての学生デモの解散集会と同じくさまざまの総括がおこなわれている。リーダーが舞踏行進の意義を再確認し、沿道の人が熱い拍手を送ってくれたことを蕩々と述べている。ウーン!行動形態が祭りであれデモであれ若者の連帯を求める情熱は今も変わらないと実感した。
 日本の集団舞踏の歴史を見ると、必ず革命や変革が勃発して権力が交代する前年に庶民の爆発的な集団舞踏が起こっている(”ええじゃないか”が典型例)。ここに私は政治闘争の表舞台に登場し得なかった民衆の自己表現のエネルギーを実感する。彼らは反権力の鬱積した情念を肉体を賭けた集団舞踏という形態でしか表現し得なかったのだ。東北地方の有名な祭りのあの圧倒的な迫力は、まさに日常的に抑圧された労働する民衆の爆発する自己表現ではなかったのか(私は山形花笠お踊りしか見たことがないが)。
 日本ど真ん中祭はもともとは、愛知の大学生の企画から始まったものだという。こうして徐々にメジャーな行事として公認されていくと、企業が主導権を握る大祭典に転化しやすい。私はいつまでもこの祭りが鬱積した庶民のパワーの素朴な表現として継続していってほしいと思う。町衆の力を武士に示した京都の祇園祭や農民一揆の力を藩に示した郡上踊がそうであるように。それにしてもいつものことながら祭りの後の虚脱感は何としたことだ。あのパワーが一夜に終わらず明日の日本の変革をもたらす力に連動することを願う。(2002/8/25 19:29)

[地球は救えるか−次々となりゆく論理−温暖化現象・南北問題に対する日本的感性の陥穽]
 欧州の1000年に一度の大洪水、中国の洪水、アフリカの干ばつ、日本の猛暑・・・まさに予測通りの異常気象の事態が今夏急速に進んでいます。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第3次報告書(01年)によれば20世紀中に地上平均気温は0.6度上昇し、1990年代の北半球は観測史上最も高温になり、海水温上昇による海水膨張によって平均海面水位は10−20cm上昇し、北半球の中・高緯度地域の大雨の頻度は2−4%増加しています。具体例で見ると、アラスカ氷河は毎年96立方km(東京ドームの7万7千倍)の氷が溶け毎年0.2mm海面上昇し、南太平洋島輿国ツバルは海水に没しつつあります。
 IPCCは、2100年までに地上平均気温は1.4−5.8度上昇、海面水位は9−88cm上昇し、気温上昇は北米北部・アジア北中央部で平均より40%高温になるとし、特にグリーンランドの氷床は3度高い気温が数千年続けば完全に溶けてしまい、海面水位が7m上昇すると予測しています。IPCCは「CO2濃度を現在のレベルに保つためには、その排出を直ちに50−70%削減し、さらに削減を強化する必要がある」と指摘しています。
 92年の気候変動枠組み条約を受けた97年京都議定書の温室効果ガス排出削減目標は、先進工業国全体でわずか5.2%ですが、世界の36.1%を排出している米国はサッサと議定書を離脱してしまい、日本(世界の8.5%排出)も米国を批判しないで黙認しています。根底にあるのは、四半期ごとの株価で企業業績を判断し目前の利益を追求しなければならないカジノ型米国資本主義にあり、それをモデルにする日本の姿勢にあります。こうして”我が亡き後に洪水は来たれ”という米国型資本主義モデルと地球惑星・人類の生存そのものが基本的に両立できない矛盾していることがますます露わとなってきています。

 文部科学省は全国の小・中・高校の全教室にクーラーを設置する方針を決め、それを大部分の人が成果として賞賛しています。しかしこの前提には電気を再生可能な自然エネルギー化するということが同時に追求されていかなければなりません。「地球に優しく」と授業で教えながら他方で化石燃料を燃やしつつけているという光景ほど矛盾したものはありません。このような政策の発想が出てくる背景には、総論賛成・各論反対という日本型思考形態、その基盤には流れの大勢に身を任せる「次々となりゆく」という日本型の論理(丸山真男)があるのではないでしょうか。

 南北の富と貧困の較差は、奴隷制時代より拡大しています。世界の最富豪上位3人が、最貧国48カ国の総資産を上回る財産を独占し、30先進国が世界の85%の合成化学製品、80%の再生不能エネルギー、40%の淡水の生産と消費を独占しています。10億人の人が飲料水が手に入らず、30億人が汚染された水を飲み、その汚染水で毎日3万人が死んでいます。9.11テロ犠牲者の10倍以上の人が毎日死んでいます。

 こうして人類の絶滅をもたらす地球環境・南北問題をめぐる危機は、普遍と特殊、一般と個別、理想と現実、未来と現在といったグランド・スケールの問題を鋭く日常化して個人の選択を迫る抜き差しならないイエスかノーかの保留が許されない問題となってきました。それは、日本型集団主義の発想と態度を根本から揺るがす可能性を持っています。今夏の猛暑を私自身もクーラーで自己矛盾的に凌ぎながら敢えて提起する次第です。明日から開催される6万人が参加する国連史上最大のヨハネスブルグ環境・開発サミットをひかえて。先進国首脳でただ一つ米国大統領のみが参加しませんが。(2002/8/25 9:44)

[誘致外来型カジノ導入による地域活性化戦略に未来はあるか]
 各地の自治体が財政難と企業の海外展開による地域経済の危機の突破口をカジノ導入に求める動きが活発化している。主な地域をあげると、秋田県「イーストベガス」、石川県・珠洲市「珠洲ラスベガス」、三重県・鳥羽市「離島カジノ」、愛知県・常滑市「空港カジノ」、香川県「瀬戸内海カジノ」、宮崎県「シーガイアカジノ」、沖縄県「リゾート観光カジノ」、その他東京都、大阪府、熱海市、別府市等であり、地域限定によるカジノ解禁を求める特区構想が浮上している。常滑商工会議所は3軒のカジノを設置し、ルーレット・カードゲームのテーブル150台、スロットマシン2150台稼働で年間収益300億円と予測し、香川経済同友会はカジノホテル10棟と商業施設へ移設による新規雇用75000人・収益1580億円と予測している。
 カジノとは、ルーレットやスロットマシンを備えた賭博ゲーム施設であり刑法で禁止されている。反対派は犯罪増加、住環境悪化、青少年の勤労意欲低下を懸念している。以上日本経済新聞8月24日夕刊。
 私はこのような地域活性化戦略を構想する自治体の神経を疑う。確かにバブル崩壊後の不況と企業の海外展開によって地域経済は危機にあり、膨大な負債を抱えた自治体は倒産寸前にある。しかし投機を煽るカジノ資本主義の失敗は地域に取り返しのつかない致命的な打撃をもたらすだろう。各地の大型リゾート戦略が行き詰まり、USJの破産が近づいているという事実を真剣に考えているのであろうか。競馬の場外馬券売り場が設置された町は浅草を代表として沈滞してしまっている。21世紀が生活の質を求める内発型地域振興にしか打開の方向がないにも係わらず、このような目先の黄金色に目が眩むとはとても地域の長期的なスパンを念頭に置いているとは思われない。サッカーW杯以降急速に観客数が伸びているのも係わらずサッカー籤の売れ行きは激減している。満艦飾のカジノに一時的な観光客吸引はあってもそれはすぐ醒めてしまうか、個人資産を奪い尽くして自殺者を激増させるだろう。遊びやゲームで得た金に浮かれる社会ほど退廃した社会はない。しかもそれを公的資金を導入して個人資産を剥奪する施設を作ろうというのだ。大型アミューズメントがデイズニーしか生き残らないのと同じく、カジノで生き残れるのは東京都のみであろう。ラスベガスから客を奪うことができるとでも思っているのであろうか。自治体為政者の発想を根本的に疑う。遂に日本の退廃は此処まで来てしまったのだ。(2002/8/24 23:29)

[校内暴力の減少と電子犯罪の激増にみる少年期の変容]
 全国の公立小・中・高校で昨年起きた児童生徒による校内暴力は33000件と過去最高を記録した前年度より4.2%減少し、校外暴力は5100件(同4.2%減)た。総数では減少したが、小学校は1464件(10%増)を記録し、発生学校数は6291校で2%増えている。形態別では対教師暴力5200件、生徒同士15600件でいずれも7%減少している。イジメ報告件数は25000件(18.9%減)、高校中退者104900人(3.9%減)である。スクールカウンセラー制度や警察と連携したスクールサポーター制度などは全国平均より9ポイント近く減少率が高い。以上文科省昨年度調査より。
 2000年の児童買春検挙件数は985件、児童ポルノ検挙数は170件、今年前半期の出会い系サイト関係の事件は793件(昨年比2.6倍)で児童買春は3倍で全体の50%を占めている。殺人、婦女暴行、強制わいせつなど重要犯罪の被害者は、94%が女性であり88%が未成年であり、全体の70%が女子中高生が被害者となっている。出会い系サイトで援助交際した17歳の少女は「18歳になったらヘルス嬢になりたい。楽しいし、こんな私を必要としてくれる相手がいる。ママの言うとおりにしていたら自分がなくなる」と言っている(下線部筆者)。以上警察庁発表資料から。

 さてこうした傾向はどう考えたらいいでしょうか。第1に校内に警察を導入することによって強圧的な指導が加えられ、さらに出席停止処分が導入された結果、校内で封殺された行動が匿名で行動できる電子分野に移行しているのではないでしょうか。第2に、調査は全体の件数・学校数・加害者数・学年・生徒間か対教師かといったデータであり、掴み合うのも重傷を負わせる行為も同じ1件として扱われ、質をつかまない調査が継続されている。第3に校内暴力や非行件数は表面的には減少していますが、それは子供の母集団の数そのものが減っているからであり、逆に低年齢化と広範囲化の傾向があり、決して抑制されてはいないと思います。第4に、売春防止法(1957年)や児童買春・ポルノ処罰法(1999年)が電子世界に対応できず、インターネットで発信される膨大なポルノ画像が蔓延し、日本は全世界から非難される児童ポルノの世界最大の産出国として人権感覚がマヒする社会的退廃が広がっています。
 ではどうしたらよいでしょうか。国連こどもの権利条約(94年批准)を推進する2つの選択議定書(子供の性的犠牲からの保護、武力紛争からこどもを守る)を早く批准しインターネット規制を含む国内法改正を早急に進める必要があります。しかし問題は、下線部の援助交際に走る少女の意識にあります。現代の競争原理は、母親をして娘を競争に駆り立てる子育てを強い、一人一人のかけがえのない尊厳を奪い、「こんな私でも」と子供自らが自分を卑下するこころを持つようになっています。つらさや寂しさに耐えきれないで、表面的に自分を大切に扱ってくれる男性買春者との触れ合いに一時的な「楽しさ」を感じるようになります。本当に少女は本心から楽しいのでしょうか。退廃の泥沼に落ち込んでいくなかで束の間の享楽に身を任せているのではないでしょうか。結論的には法的規制を強めつつ、現代日本の退廃を生み出すシステムそのものを変えていく−協同の充実のなかで生き生きとした個性的な生き方が可能となるシステムへ転換する必要があるのではないでしょうか。(2002/8/24 9:57)

[最悪の進路状況と混迷する若者の進路観−キーワードは「個性」概念の迷走にある]
 高校新卒者の求人数・内定率は、1992年の170万人・98%をピークに急減し、02年は30万人・88%となり、15−24歳の完全失業率は男子11.1%・女子9.2%という深刻な事態となった(厚労省、総務省調査から)。しかしさらに深刻なのは若者自身に「卒業したけど何をしたらいいのか分からない」「自分にぴったりの仕事が見つからない」などのフリーター的な模索があり、途中退社や転職率も高くなっていることです。就職情報誌を見ると、このような若者の意識を捉える「転職のイロハ」「アッと驚く転職ドラマ」「求人広告の正しい読み方」等の記事が満載されています。しかしこうした記事は若者の模索や試行を根本的に分析しないで、表面的なノウハウに終わっていますから、若者たちはますます不安と混迷の状態を深めていきます。その根本的な原因は、「個性」を正しく位置づけていないことにあります。
 1990年代以降企業や文部省を含めて「ナンバーワンではなくオンリーワンの時代だ」といって「個性化時代」の到来を吹聴し、学校の進路指導も「希望優先」「個性重視」を重視し、結局のところ自主性尊重に名を借りた指導放棄と追随に堕してきました。90年代初頭の若者たちは、個性の発見を「自分探しの旅」と位置づけて多様な試みを行いましたが、この段階での「個性」は一定の積極的な意味がありました。それは社会や大人たちがすでに決めているレールの上を歩むのではなく「本当は自分は何をしたいのか」を探る姿勢であり、ただ単に企業に所属する「就社」ではない本当の「就職」を求めたからです。だからこの時期のフリーターは、大人や企業の価値観から自由でありたいという一定の積極的で自由なイメージがあり、また「転職」も自分の可能性への挑戦的な意味がありました。その探究の過程で友人や仲間との社会的なコミュニケーションも生まれました。つまり「個性」に社会性があったのです。
 ところが90年代半ばから、バブル崩壊後の社会システムの混乱と弛緩(大人も含めて未来を語り得なくなった)から、自己決定・自己責任という美名による「いつ何をしようとどこへ行こうとあなた次第」として若者たちは放り出されてしまい、フラフラと迷走するなかで「自分探しの旅」は極めて個体的で非社会的なイメージになっていきました。すべてが自分に任され責任は自分でとるのだから、他者と交流したりする必要がなくなったからです。或いは他者と交流することは、競争に勝つ機会を失う効果を持つといった事態が生まれました。
こうして登校拒否とかひきこもりとか云われる自閉的な「自分探し」が拡大していきました。

 さてどこに問題があったのでしょうか。第1に「個性」を社会と切り離して個体的にイメージすることにあります。自分自身の関心が前面にでて、今自分が生きている時代がどんな時代であり、どんな課題が突きつけられているのか、そのためにどのように他者と手をつないで解決していくのか−という思考が弱まっていき、自分一人の「個性」にのみ関心が向かったからです。本来的に、「個性」とは仲間のうちで相互に刺激しあう中で輝くのであり、孤立した個性はもはや個性ではありません。こうして「社会が見えないまま自分を見よう」という幻想的な「自分探し」の実態が進行しました。
 第2に「個性」を競争的な秩序の中で序列化し、どのような「個性」も他者との比較の中でデータ化した垂直構造のどこかに埋め込まれ、個性の最も大事な要素である「自分はこうしたい」「自分はこの目的に進んでいきたい」という内発的なインセンテイブから生まれる情熱を奪ってしまいました。水平的であるはずの「個性」が垂直的になり、しかもそれは持って生まれた先天的な能力であり、努力しても限界があると自分から思うようになりました。

 ではどうしたらこのような状態から脱して自らの進路と本当の個性の発見に歩み出せるでしょうか。第1に時代の課題に向かって真剣にがんばっているモデルのような身近な大人に出会うことだと思います。迷いながらも真剣に取り組んでいる尊敬する大人を発見することが、若者が自分を発見する一つの契機になると思います。第2に若者が自分自身の同世代のしかも同性のがんばっている友人を発見し、親友またはよきライバルとして互いに激励・批判しあう人を、たった一人でもよいから見つけることだと思います。第3に最も大事なことは、「人間は結局のところ、自分が自分を作っていくところのそういう自分になっていくんだ」と考えることではないかと思います。動物は先天的・本能的にすべて決められた行動しかできませんが、人間は悪も善もすべて自分自身の自由意志でおこないます。つまり人間は自由であり、その自由が最高に発揮される時が青年時代です。かく言う私自身も迷い多き青年時代を過ごし、振り返ると慚愧に耐えないことがいやその方が多い青年期でした。しかし私は、そのような私の青年時代をいとおしく思い、決して無駄ではないし、誉めてもよい部分もあります。それは他ならぬ私自身が歩んだ道であり自分自身で刻んできた道であるからです。”ヨシッこれが人生であったのか!さらば今一度!!”(ニーチェ)・・・・・に習って”ヨシッこれが青年時代であったのか!さらば今一度!!”と云えるような悔いなき日々でありたいと思います。(2002/8/23 23:30)

[さまざまの戦後−リーフェンシュタールと八路軍に育てられた少女]
 1936年のベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』で名声を得、ヒットラーの絶賛を浴びた女性映画監督リーフェンシュタールは、22日100歳の誕生日を迎え、民衆扇動と死者に対する名誉毀損で起訴された。記者会見で1940年のシンテイ・ロマ(ジプシー)を題材とした映画『低地』に触れて「この映画にでたすべてのシンテイ・ロマとは戦後再会したが、誰にも何も起こっていなかった」とナチスによる迫害を否定した。これに対しシンテイ・ロマ団体が「120人のシンテイ・ロマが収容所から映画撮影にかり出され、その後強制収容所で殺害されたり、悪条件の下に置かれた」として告訴した。戦争責任の追及にかくも厳格であるドイツの象徴的な事件である。
 中国戦線で八路軍の攻撃を受けて両親が志望した日本人の乳児杤美保子さんは八路軍副司令に救われ指揮所で育てれた後、砲弾の飛び交う中を日本軍に送り届けられ奇跡の帰還を果たした。62年ぶりの今年自分を育てた村を訪問し感謝の意を伝えた。次は副司令が日本軍に彼女を送り返したときに添えられた手紙である。「人を派遣して幼女を送り返すので親族に渡して育ててもらいたい。どうか罪のない孤児を異境の地で路頭に迷わせ、野垂れ死にさせるようなことはしないでもらいたい。中国人民は、決して日本兵士や人民を敵とは思っておらず、よって抗日戦争を堅持して命を懸けて日本軍に抵抗するのは、日閥の侵略に余儀なく自衛しているだけである」」。焼き尽くし殺し尽くし奪い尽くす三光作戦を展開し、日本鬼子よ呼ばれた日本軍をはるかに上回るヒューマンな行為である。
 リーフェンシュタールの民族拝外主義と優越意識は、現在の日本人の一部にもある。彼らは民族の誇りを回復すると称して「新しい歴史教科書」をつくって全国にばらまいている。(2002/8/23 20:45)

[勤務校OB有志との夏旅行−諏訪をめぐる雑感]
 毎年慣例のOB旅行は8名参加の諏訪温泉となった。皆さん退職後の生活をそれそれ堪能されているご様子でひとまずは安心した。私は諏訪地方には特別の関心がある。諏訪は、明治維新期産業革命を領導する繊維産業のメッカであり、次いで時計・カメラ等の精密機械工業の生産基地となり、次いで電子・電気産業というように常に日本の先端産業のフロント・ランナーの位置を占めてきたモデル地域であるからだ。ところがそれらの先端産業がすべて軒を連ねて海外へ展開し、空洞化率全国一位という現代日本地域経済の象徴的な地域となっている。私は、OBの人とは行動を共にせず、この機会を利用して諏訪地域経済のヒアリング調査を実施した。訪問したのは、諏訪市役所・諏訪商工会議所・諏訪市図書館の3カ所であった。ヒアリング調査が実施できたのは、諏訪市役所商工課のみでありその他は文献収集のみにとどまった。
 諏訪市役所商工課係長B氏は、地域経済活性化をナノテクノロジーなど中国を遙かに凌駕する最先端テクノロジー開発に定め、地域産業集積を基盤とした産官学連携による民間主導型技術開発に熱弁をふるわれた。氏の主張する戦略はまさに現在通産省が主導する地域産業開発戦略とピッタリ一致していた。その情熱には頭が下がるものがあったが、遂に氏からは内発型発展の言葉はでなかった。
 宿舎で再会したOB諸子は相変わらずの元気さで長野知事選からはじまって、世界情勢から家庭の問題まで議論が飛び交って久しぶりに堪能した。私は疲れてしまい早々と人事不省に陥ったが、諸子は深夜遅くまで談論風発の由であった。翌朝私は、私の処女歌集『暫定的な歌集』を皆さんに高覧を得てひとまず退去した。残り少ない夏期休業の涼しい諏訪湖畔の一夜であった。諏訪から奥美濃の道を車で行くと、懐かしい田園の風景が広がる。道路は見事に整備されてツーリングに最適だ。時代を超えて生きている田舎の雰囲気が伝わるが、その裏にある過疎と村おこしのせめぎ合いは実感できない。(2002/8/23 18:48)

[USJの失墜−誘致外来型観光開発に未来はあるか]
 大阪市のテーマパークUSJが開業2年目で苦況に陥っている。開業初年度は目標を4割上回る1100万人の入場者を集めたが、今年5月から減少を始め6月には54万人と約45%減少した。7月の賞味期限切れ食材、飲料水への工業用水混入、火薬の不正使用といった不祥事で7月は57万人(32%減)となった。USJは大阪市が25%、USが24%出資する米国系第3セクターであるが運営権は米国側が握る。増資、株式上場、コンテンツは米国の同意がいる。大阪市は建設時に公的資金を200億円投入したが、当初総事業費1700億円のうち米国企業が500億円の発注権限を持ち、関西で調達できるはずのベンチや歩道の敷石まで米国から持ち込まれた。
 年間売上高1182億円(01年度)のうち7.05%はロイヤリテイー(ノウハウ指導料)として米国USに支払われ、来年導入予定の大型アトラクション「スパイダーマン」の100億円のうち20数億円は開発負担費としてUSJが米国側に支払う。不祥事公表に最も抵抗したのがbeiUS出身スタッフであり、経営情報公開と株式上場を競争力を失うとして拒否している。関西経済への誘発効果を期待した大阪主要18ホテルの稼働率は10.5ポイント低下し、近くのJ]ALホテルズは売上高が目標を大きく下回っている。USJの負債は1835億円に達し不良債権化する恐れがでてきた。以上日本経済新聞8月19日付け参照。
 誘致外来型開発経済論理の致命的な帰結が浮きとなっており、しかもそれが外資であるところに取り返しのつかない政策ミスがある。つまり日本側の経営努力が真剣であればあるほど、利益はハリウッドの貫流されるという仕組みなっているからだ。反中央や反権力の伝統がある大阪人がなぜこのような開発戦略を採用したのであろうか。デイズニーにあやかったエンターテイメント事業は所詮二番煎じであったのだ。リゾート開発やエンターテイメント開発自身がバブ期の空中の楼閣の経済開発の論理であったことが白日のもとにさらされつつある。パリ市民はデイズニーの進出に猛反対して、仏蘭西デイズニーランドを訪れているのは外国人観光客だけであるという。このような文化のアイデンテイテイーの基本的な違いは如何ともし難いのであろうか。文化的侵略に疑問を抱かない日本人の群れ・・・・。(2002/8/21)

[平等とはなにか-21世紀日本の教育の分水嶺]
 中教審による教育基本法見直しの最終答申が年内に出され、来年には改正される方向が推進されています。最大の論点の一つが、戦後教育=行き過ぎた平等主義→画一的悪平等→個性と競争の排除として、競争原理による「個性」の伸長をめざすという点にあります。問われているのは学力における「平等とは何か」、「個性とは何か」、「競争とは何か」のナショナル・ミニマムです。
 平等の反対概念を差別とすると、日本では「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって教育上差別されない」としており、当然教育における差別も禁止されています。だから学力を理由とする差別待遇も許されません。しかし現実にテストを行うと学力は一般的には正規分布を示す較差があります。この較差を所与の事実として承認しすべての子供が一定のレベルに到達することを保障するのが、公教育の理念とされてきました。
 学力のナショナル・ミニマムは「社会的に必要とされる一定の水準の基礎的学力」であり、この基礎学力と公教育で保障する学力は本来一致するべきものです。例えば水泳で言うと誰でも25m泳げるというのは基礎的なスポーツレベルです。ところが水泳選手にとっては、遙かに下位のレベルになります。現代の公教育は25m泳げない子供のためにあり、それ以上の能力を持つ子供の才能は殺されている−というのが画一悪平等論の主張です。大学入試で言えば、センター試験で8割の得点力ということになります(?)。
 この問題に対する3つの主張があります。第1は25mのナショナル・ミニマムを下げて最低泳げるようになればいいとして後は自費でやりなさいという「学校スリム化・週3日制」の主張です(経済同友会)。第2はそれぞれの子供に応じて到達水準を変え「できる子」は伸ばし「できない子」は25m以下でもよいとする主張です。個性は多様だから水泳以外の分野でやれということです。第3はすべての子供が最低25mを泳げる力を付けた上で尚かつ自分の潜在能力を最大限に伸ばす機会を提供するというものです(私の主張)。
 これらの主張の正当性をどのような基準で判断すべきでしょうか。第1の基準は、公教育を普通教育(多面的な分野での基礎学力の保障)と専門教育(特化された分野の学力の保障)に分断し、両者を対立的にとらえる身分制期の教育観を捨てると言うことにあるのではないでしょうか。江戸期士農工商制度の下では、それぞれの身分に特化した学力だけを習得していればその限りで生活と社会参加が保障されましたが、職業選択の自由を実現する選択能力の形成と総合力に裏付けられた専門能力が求められる現代では要求される学力が基本的に異なります。第2の基準は、能力の先天性の問題です。生まれつきの先天的能力が決定的な意味を持つのは、高度の芸術活動や研究活動の分野であり、そのレベルはもはや「教育」によってはカバーされませんから、公教育が対象とするのはそれ以前の工夫と努力によって解決可能なレベルの領域です。
 次に最大の問題は「個性」とは何か?ということです。個性を他人との違い、差異、他人より優れている点という解釈は間違っています。個性は本人自身がこうありたい、そのための力は何か、それを達成するために努力する内発的な自分のかけがえのない存在を自覚でき、同時に同じように努力している他者を認める中で支え合う連帯の状態です。ところが個性を競争的な差異に矮小化すると、個性の核心にある自分自身の願いよりも、他者に勝つことのみに誇りを見いだし脅迫的な競争に埋没して結果的には画一的な子供しか育たなくなります。
 結論的に言うと、誰でも工夫と努力と時間があれば到達できるとする人間の発達能力を信頼するか、それともそれは無駄な努力であり早くその子供の生きる特化した能力を見つけて早々と人生を選択させた方がよいとするかの違いです。先記した第1と第2の主張は、先天能力による決定論と自助主義論による公教育否定というニヒリズムに帰着し、学力による差別社会の構築をめざすものです。哀しいことに現代の子供自身が先天能力論に自らも巻き込まれています。程々に生活できればよいという身分制期の発想から、現代はすべての人が主権者として社会参加するはずですから、当然第3の主張が正しいことになります。しかし第3の主張はロマンチシズム丸出しの理想論に堕落する危険性をはらんでいます。なぜなら教師にとって最も厳しい努力が要求されるのが目に見えているからです。第3の立場の実現は、個々の教師の最大限の努力と工夫なしにできませんが、その前提として子供や教育を市場原理を越えた「公共財」とみなした学級定数や持ち時間のインフラ整備が求められます。(2002/8/20 9:11)

[タイヤル族(高砂族)は高らかに歌った]
 今年の8月12日に来日した台湾「高砂義勇隊」の遺族が靖国神社に合祀取り消しを要求した際に、本殿前で民族衣装を着て高らかに次のような歌を歌った。遺族代表の声明とともに掲げます。

 敬愛的長輩(敬愛する先輩)   唄:張雲琴華

 私たちは今来ました
 私たちはあなたたちを連れて帰ります
 長い間ご苦労様でした

 あなた達が生きているとき、あなたたちが踏みにじられて侮辱され
 最後の息をどこで引き取ったかも分からない
 その後あなた達の魂は流浪している
 しかし私たちはあなたの魂を決して流浪させない

 私たちはあなた達を連れて帰ります
 私たちはあなた達がいつも心にとめている古里に
 連れて帰ります

 子供たちが友達が待っています
 
 一緒に帰りましょう
 一緒に帰りましょう

 <台湾先住民二次大戦犠牲者遺族代表声明>

 先祖の霊を返してください

 1895年に日本軍が台湾を占領してから51年間日本植民地政府は160数回もの「生蛮征伐」の戦争を起こしました。そして最も大規模な何回かの戦役では甚だしきに至っては1万人以上にも及ぶ日本正規部隊を派遣して深い山奥にまで入って先住民の部落を攻撃したのです。1910年から15年までの5年間に日本軍の壊滅的な「全部殺せ、奪え、焼き払え」という三減政策の下に攻撃を受けた先住部落は、ほとんど絶滅に近い打撃を受け、幸いにして逃げて残った婦女子だけが山林のなかで散住するようになりました。なかでも最も激しく日本軍に抵抗したタイヤル族は最も悲惨な目に遭いました。
 ところが1941年太平洋戦争が勃発した後、日本軍は先住民の生き残った青年たちを「高砂義勇隊」という美名でだましたり脅したりして無理矢理徴兵し、2万余の先住民を遠くの南洋に送り従軍させました。ほとんどは第1線に送られたので戦後の生還者は3分の1に過ぎませんでした。しかも生還者のほとんどは戦傷者でした。
 敗戦後日本は、さらにわれわれの同胞である「高砂義勇隊」犠牲者の霊位を靖国神社に入れ、かって台湾を侵略した日本軍国主義者及び戦犯たちの位牌とともに一緒に合祀して参拝を受けさせているのです。加害者と被害者を同じところに祀ってあるということは、根本的に台湾の先住民を侵略者に服従する臣民とみなしていることになり、これは台湾先住民にとって許し難い最大の侮辱です。
 犠牲者の遺族である私たちは、いま親族の霊魂がこのような侮辱と虐待を受け続けていることにこれ以上忍耐を重ねることはできません。光と闇が共存できないように、被害者の霊魂を加害者の霊魂と合祀することは残酷であり、絶対に平和的に共存できることではありません。ですから私たちは、靖国神社に祀ってある親族の霊魂を彼らが日夜望んでいる懐かしい故郷へ連れ帰って身内の側に祀り、子孫たちの思慕と敬意を受けさせたいと思います。私たちの先祖の霊位を靖国神社から取り下げてください! 私たちはこのことを強く要請いたします。「高砂義勇隊」犠牲者姓名及び家族姓名。


 厚生省調査(1975年現在)によれば、台湾出身軍人・軍属は約33000人が戦没、そのうち27656人が靖国に合祀されている。朝鮮出身者は20636人が靖国に合祀されている。
 あなたは自分を侵略した国の墓に自分が葬られていることをどう思いますか。少なくとも私は耐えられません。死後まであの世まで支配と隷従を強要されるのか。しかしこれは紛れもない事実であり、その状態を57年間放置してきた責任が私にはある。戦争を直接体験しなかった者の戦後責任の思想をアレコレ論じる前に、最低限の死者に対する礼儀をわきまえない戦後日本ではあった。百歩譲って平等に合祀したというのであれば、日本国籍以外の人に対する援護法の適用を平等に行うべきであった。このような行為を無反省に行ってきた戦後日本は真に戦後を清算できない哀れな畜生道を歩んできたことになる。(2002/8/19 20:45)

[村景観の意味]

 農村の風景を観光的に訪問すればそれは感動の対象であろう。しかし在地の生活者からみればそれは厳しい自然との闘いである。
自然環境の保全と開発への期待は永遠の両立しない矛盾であろうか。かっての農村は先祖伝来の地の生業を守るという伝統的な価値のもとで営々と積み重ねられてきた汗の結晶であり、それが都市生活者の一時的な滞在者にとってはえもいわれぬ美しい風景を醸し出していた。それは労働集約的な人為が込められた労働の果物であった。高度成長期以降の向都離村を促した政策によって、農村は荒廃し過疎にまみれる忌みの地となり、若者は農村を捨て都市に向かった。日本の食糧自給率は危機的なレベルになり、農村は大手外部資本の誘致外来的な開発の餌食となった。美しくたなびく田園は姿を消し、モザイク状の休耕田が目立つ荒廃地に堕そうとしている。
 ところが欧州を旅した人はすぐ分かるがそこには緑豊かな農村の田園風景が延々と広がっている。なぜか? EUは1960年代からの共通農業政策(CAP)によって農家を支援し食糧自給率を逆に高めてきた。80年代の過剰生産とWTO自由化政策はEU共通政策の再検討を迫ったが、介入価格制度による支持価格のレベルを国際価格に引き下げると同時に農家の所得減少を政府が補填する直接補償金を支払う制度によって対抗した。農産物市場開放を認めつつも農村の景観保全、農村の活性化、、環境保全は譲れない一線であるとする非市場原理制度である。さらにEUの農村開発政策は、@環境保全型農業支援A有機農法と僻地農村支援B品質向上の投資助成Cインフラ投資と農村部雇用の創出支援といった多様な農村部開発政策を実施している。欧州食品の多様性、伝統的産地の保全や特産品保護といった分厚い内容となっている。
 農家を市場経済に放り出して食糧管理法を廃止し、水田農業の危機を誘発している農業構造改革路線は、底知れぬ食糧自給率の低下と農村部の荒廃を誘発している。農業はあるレベルでは公共財であるという認識が日本では全く欠落している。(2002/8/18 18:28)

[近未来小説から現代日本をみる]
 日本の近未来をシミュレーションする小説が売れている。この背景にはバブル崩壊後の底なしの不況と社会の崩壊現象の危機感が蔓延し、なおかつそこからの脱出を描けない不安が蔓延していることにある。いま刊行されている幾つかの近未来小説は、逆に現代日本に対する現状認識の特徴を照射している。
 ●16年後の日本は消費税12%、年収の40%を税金と社会保険にとられ、経常収支は1千億ドルの赤字、60万社あった建設業はわずか3社になって道路補修をしている。急成長した中国がモノづくりだけでなく医療・介護まで参入し揚子江沿岸では5万人の日本人町がある。こうした日本を再生させる政治家が登場し、医療介護・農業・教育すべてを自由化し税・歳出・公務員数を半減する革命的な改革案を実行に移す(堺屋太一『平成三十年』)。
 ●経済は疲弊し、治安も乱れきった日本に、歌手出身の政治家がポピュリズムに乗って華々しく登場し。日米安保破棄と核武装を唱える。中国の中南海では日本を米国依存からの離脱させ中国の支配下におく陰謀が進められ両者は共闘する(ピーター・タスカ『カミの震撼する日』)。
 ●ある日突然米国が安保破棄を通告し、中国は「沖縄の中国返還」をねらい、中米両国は同盟して日本を封鎖するとともに大量の難民を日本へ輸出して日本占領計画を実行する(杉山隆男『日本封印』)。

 荒唐無稽な笑い話と切って捨ててもいいが、どこかに現在の日本の不安をつかむ要素があるからおそらく一定の売り上げを示すだろう。三者とも共通するのは、パワーポリテックスという浅薄な歴史観であり民衆的視点はない。座標軸は[崩壊する日本−台頭する中国]の図式にあり、ここにも浅薄な中国認識がうかがわれる。さらにポピュリズム独裁による強力なファッショ国家による革命的な政策の実行である。危機の時代には、国民の不安を最大限つかむ能力を持つ誰も言い出し得ないようなメッセージとスーパーなヒーローが登場しやすいが、ここにもそれがあらわれている。
 結論的に言うと、現在のライオンヘアーの構造改革と戦争推進法の実現をあおる陳腐な見え透いた意図が見え隠れする。賢明な日本国民は、このようなシナリオとは別のシナリオ−つまり日米平和友好条約・日中平和友好条約・東アジア経済共同体による平和で安定した東アジア構想−をすでに持っているし、そのような戦略以外に日本の未来はないという確信が自らの実体験を通じて成熟しつつある。それにしても平成三十年とは!この人物の君主制観がよく表れている。(2002/8/18 9:58)

[人はなぜ他人の痛みや喜びに共感するのだろうか−神経細胞ミラーニューロンについて]
 サルに紙を破る音や棒を床に落とす音を聞かせると脳内で自分がその動作をする時に働く神経が活性化すし、人間が食事をすると自分が餌を採るときに働く神経細胞が活性化したという実験(伊パルマ大学ジャコモ・リゾラッテイ教授『サイエンス』8月号)。サルの脳内に他人の動作を写し取り自分の頭の中でそうの動作を仮想的に反復する神経細胞ミラー・ニューロンの存在の可能性を示している。この神経細胞が人間にもあるとすれば、他者の痛みや喜びに自分に置き換えて共感するコミュニケーションの世界を脳生理学的に説明できるということになる。それは広く人間の社会的な関係を説明できる可能性を開くかもしれない。例えば乳幼児の言語習得や動作の習得は、親の口の動きや動作を再現する神経細胞の発達過程を示していることになる。人工ニューロンをロボットに組み込めば人間の動作を学習するロボットが誕生する可能性もある。以上日本経済新聞8月18日付け参照。
 かって哲学や心理学はこのようなアプローチを還元主義的唯脳論として排除してきた。確かに大脳の神経活動のメカニズムを直線的に精神活動のレベルに適用する方法は、安易な飛躍的な推論に堕する可能性がある。しかし逆に大脳生理学の研究成果を無視する
主観的な精神研究も非科学的だ。高次神経活動としての精神活動は、学習を越えた独創や価値の選択、想像の世界に踏み込んでいく。そのような領域を神経細胞のメカニズムですべて解明することは不可能だ。
 私が興味を抱くのは、人間の高度の共感能力が神経活動を基礎として展開される唯物論的な説明が科学の世界で大きな前進を遂げていることだ。痛みへの共感能力とともに、人間の多様な攻撃活動のメカニズムは、戦争やテロ、イジメ等の行動が反共感を司る別のニューロンによってある程度解明される可能性を開く。ここで重要なのは、では神経細胞を操作すれば人間の活動を操作できるという幻想が生まれることであり、これは退廃したタダモノ論となる。(2002/8/18 9:19)

[妖怪・怪異研究の隆盛は何を示しているか・・・・現代の妖怪Windows]
 日本文化研究の総本山である国際日本文化研究センターが開設したサイト「怪異・妖怪伝承データベース」が異常なアクセス数を示しているそうです。小松和彦氏は「妖怪を通して日本人の精神文化を読み解く」狙いだそうです。しかし妖怪や怪異現象の裏にある日本人の心性といった観点も重要ですが、時代精神との相関研究の法がより重要ではないかと思います。
 日本における最初の本格的な妖怪研究は哲学者井上円了『妖怪学講義』であり、明治期文明開化の近代化を推進するために非合理的な妖怪現象を合理的に説明することによって妖怪現象の撲滅をめざしました。第2期は風俗史家江馬務氏による妖怪の歴史学的研究であり、妖怪の変遷を辿りながら妖怪の分類を行っています。ここまでは近代主義や近代歴史学の方法を駆使したよう妖怪研究期であした。ところが近代化の展開とともに喪われていく日本の民俗現象を発掘し保存しようとする民俗学が昭和初期に登場します。昭和初期の日本民俗学の祖と言われる柳田国男氏によって妖怪研究は日本人の基礎にある心性を表現しているとして全国の妖怪現象が採集されました。柳田民俗学の画期的な点はあくまで膨大な実証を基礎とした研究であり、彼は妖怪を日本人の畏怖心に根ざしたものと解釈しました。 
 戦後の本格的の妖怪研究は高度成長期まで衰弱していましたが、バブル崩壊期以降の閉塞的な社会状況と将来展望の喪失の中でふたたび興隆期に向かいつつあります。奈良期の代表的陰陽師安部晴明の研究史を見ると、第1期ブームは平安時代末で貴族社会の崩壊の不安な時代を背景に注目され(『今昔物語』)、第2期は中世末の戦国期であり、第3期が現代です。
 時代全体が不透明で大きな偶然の力にもてあそばれていると感じ、自らの生き方に確信が持てないような時代にまさに非合理主義的な思考と感性が培われ、妖怪や怪異現象が登場してきます。問題はそれらの現象を時代を超えた日本人の心性とか精神構造とかに還元するのではなく、その発生と形態の特質の底にある時代との相関性を解き明かすことにあります。以上日本経済新聞8月17日朝刊参照。
 さて高度情報化現代の最大の妖怪は全世界を支配するOS妖怪としてのWindowsです。現在のOS世界市場の99.6%を支配し、唯一の対抗OSである水平型無料のオープンソースLinuxは0.4%に過ぎません。しかしこの大妖怪は永遠に不滅でしょうか。改良と配布が無償で自由にできるLinuxは低コストで高性能の情報システムの構築が可能ですから、次々ハイテク大手企業が採用する可能性があります。すでにサン・マイクロシステムズがリナックス搭載の汎用低価格サーバーを発売し、デルコンピュータは顧客企業に対するリナックス導入の支援サービスを展開し、IBMは大型汎用機ハードデイスクのリナックス対応を進め、ヒューレットパッカードもリナックス対応新製品を売り出しました。リナックスのシェアは2006年に1.2%に拡大する見通しで恐らく雪崩を打った収穫逓増の法則によるリナックス制覇の時代が来ると予測されます。現代の大妖怪が本当に妖怪であったのかどうかが明らかとなるでしょう。(2002/8/17 9:14)

[ギャグは勇気だ]
 「ガメラ」では「どうして日本ばかり怪獣に襲われるのだろう」というセリフで笑いを取り、昨年の「ゴジラ」では「ゴジラに酷似した巨大生物がニューヨークを襲ったが、日本の専門家はゴジラだとは認めていない」という軍人のセリフで笑いを取った。コメデイーであるからには、最初は共感もせず腕を組んで「さあ笑わせてもらおう」と威張っている奴がプッと吹き出してしまうのをめざしたい。ギャグを放つには勇気が要る。ハズした時に軽蔑されても平然としていられる勇気が。映画には「笑えるストライクゾーン」があるようで、そこをめざしてガンガン剛速球を投げていき暴投を恐れない。そういうヒトに私はなりたい。以上金子修介氏(映画監督)の言。
 では暴投を恐れない剛速球で勝負することは可能か。帝国データバンクの調査では、倒産ベンチャー企業は過去最多で資本金・負債額ともに大型倒産率が高く、ネットベンチャー構成比は36.5%と飛躍的に伸びている。47.3%がベンチャーキャピタルから融資を受け官公庁指定企業が24.3%に上っている。多くの公的資金がベンチャーに流れ雲散霧消した。ナスダックジャパンは閉鎖に追い込まれ日本から撤退することになった。21世紀を開く夢の産業と言われたネットベンチャーの無惨な敗退・・・失望されても平然としていられるか。
 ジェトロ2002年版貿易・投資白書では、生産拠点の海外転移にもかかわらず、機械設備の資本財や基幹部品の中間財輸出によって日本の優位は保たれるとする空洞化否定論を展開してきた一部議論を破砕する報告内容となった。資本財輸出効果は海外生産拠点による設備拡充以外に戦略が無く、部品などの中間財の現地調達比率が高まり予測とは逆の国内空洞化が誘発されているとしている。海外展開に平然としていられる比較優位はどこにあるのか。
 国連経済社会局の報告では、過去100年間に水使用量が6倍となり人口増加率の2倍の早さとなり、世界人口の40%の20数億人が水不足であり2025年には50%の35億人が水不足状態となる。大気汚染で年300万人以上、水汚染で年220万人が死亡している。ここには勇気の要るギャグは要りません。浴びるようにワインを飲むプレジデント・ブッシュが「俺より強い奴がいるか。俺を攻撃する奴はぜったいに許さん。俺から先に攻撃して根こそぎにしてやる」というゴッドファーザー顔負けの無知をさらけ出しているからです。米国内ではこのようなギャグは迫害を覚悟する勇気が要ります。自由とチャンスの国は、安全と力の国に変貌を遂げたからです。ここに21世紀初頭の最大のギャグがあります。(2002/8/16 20:37)

[ボスケ山荘の避暑]
 ひるがの高原にあるボスケ山荘で2泊の短い避暑生活を過ごしました。標高1500mぐらいで下界の35度の暑さが信じられないくらいに涼しい。ボスケとはスペイン語で森という意味だそうだ。ひるがの高原はまさに田園という感じで美しい。ただしどこか外部資本が人工的に開発した美しさの感じもうかがえます。田舎の屋敷はそれはそれは豪勢であり安定した生活が一見営まれているような感じを与えています。過疎とは縁がないようなデンマーク型の農村風景です。リゾート型観光開発を中心とする村おこしは、郡上八幡とか古川においては成功収めているようですが、表に出ないところでの2極分解があるような気がします。しかしそれにしても生き残りを掛けた村おこし、町おこしの意気込みを感じさせます。
 昨夜は郡上踊りとは比較にならないローカルな踊りである白鳥踊りを深夜見学してきました。素朴な村踊りの延長に近いですが、以外と青年男女が多く逆に年寄りが少ないような気がしました。それにしても日本の盆踊りの風景はいいものです。老いも若きも日頃の邪念を洗い流して汗を光らせながらただ踊りを愉しむ夢中になっている姿は本当に良いものです。
 かくして名古屋に帰ってきましたがいやーその暑さには驚きました。まだまだやり残したことがたくさんあるこの夏の日ですが、残された日々精一杯力を尽くしたいと思います。皆様も残暑厳しい折ご自愛ください。(2002/8/16 15:25)

[自殺の経済的効果GDPマイナス1兆3000億円]
 7日に厚生労働省で開けれた自殺防止対策有識者懇談会(!)で、国立社会保障・人口問題研究所は、賃金と産業構造に関するデータをもとに自殺による勤労所得、老齢年金、遺族年金などの喪失分を加算して、労働者と自営者の自殺による生涯所得損失額を試算した。その結果、日本の自殺者の生涯所得損失額は95−97年が年平均1兆7820億円だったのが、自殺者が3万人を突破した98−00年の年平均は2兆5480億円と1.4倍に増大した。01年の自殺者数は3万1042人であり98−00年の年平均総消費額が約6000億円で、GDPの損失が約1兆3000億円と試算した。同時に日本の自殺率と失業者は正比例の関係にあるが、政府の予防対策が進んでいるスウエーデンでは失業率が上昇しても自殺者は減少しており、ストレスを持つ人の割合を低くする心のケアが重要だとも指摘した。以上毎日新聞8月8日付け。

 自殺の経済効果という発想に先ず驚いたのは私だけか。経済効果がプラスであれば自殺は経済効果を生むとでも報告するのだろうか。自殺の要因は明らかに自己責任原則の社会システムが誘発している社会的病理現象であることは明らかだ。個の命の絶対的尊厳を数値化したデータで包括してその経済効果を計算するという発想自体が、人間的に許されない冒涜的な行為ではないか。3万1042人の裏に潜んでいる痛みへの想像力が決定的に欠落している。
 自殺率と失業率がパラレルであれば、主要な対策は失業率を抑える雇用政策に向かうはずだが、逆に自殺を個人的なストレス対応力に還元し対症療法的な心のケアに矮小化している。つまり失業は必然的な経済現象であり、それによって生まれる個人の行動はココロで解決せよということなのだ。厚生労働省は自らの存在基盤であるはずの生存権や社会権の思想をどのように把握しているのであろうか。現代の日本社会のシステム運営の制度的な責任を担う行政機構の恐るべき荒廃がここまで進んでいるとは知らなかった。(20028/14 7:59)

[見て見ぬ振り・・・・・・問題状況に対する日本型対応について]
万延元年(1860年)3月3日に起きた桜田門外の変では、幕府大老という地位にあった首脳が暗殺されただけではなく、首なし死体が放置され、首は刀の先に貫かれて現場から持ち去られた。この江戸期史上最大のテロに対して、当時の幕府は大老の死を否定し、井伊家からは登城の途中で暴漢に襲われて負傷したという欠勤届が提出された。幕府も井伊家も大老は生きていることにしてしばらくの間まるで何ごともなかったのごとく振る舞った。江戸中の町民はすでに事実を知っていたにもかかわらず、アングラ情報のみが駆けめぐり事件の真相は公式には誰も口にしない。いわんやテロに対する怒りや復讐、同情の声も誰も挙げなかったのである。
 桜田門(現在の警視庁前)は大名が江戸城に登城するメーンルートであり、3月3日は登城の定例日であり幕府最高官僚の行列が途絶えなかった。事件直後に紀州藩の藩主の行列が現場に近づいてきた。乱闘の痕をとどめる血と雪が入り交じり、踏みにじられた路上では彦根藩士達が大きな傘を広げて主君の遺体を隠した。紀州藩士は、それに目もくれず日頃と全く同じ態度で粛々と現場を通過していった。以上野口武彦「見て見ぬ振り」日本経済新聞8月13日夕刊。一部筆者改作。

 ウーン何たる秩序意識か!テロによる主君の殺害をひたすら隠す家臣、他家の主の悲劇を黙殺して通る感性・・・・スゴイモンダナ・・・!? なぜこのような行動様式が決定的瞬間に存立するのだろうか? 日常と非日常を超える超越的な価値への畏怖といった錬磨が存在しない日本的なモラル観か、永遠に不変なる日常の秩序を攪乱する敵対的行為は無かったものとしてただ過ぎゆくのを待つといった生活態度か。
 このような「見て見ぬ振り」のビヘイビアーは現代の日本に於いても蔓延しているのではないか。9.11テロの標的が東京タワーであれば日本政府は血に飢えたオオカミのような復讐と制裁に踏み切ったであろうか。私は米国政府の報復戦争を全面否定するが、しかしそこには汚された尊厳に対する少なくとも正当な復讐という一神教のモラルがある。
 見て見ぬ振りは言い換えれば大勢順応であり、易々と多数者に屈服してみずからの信条をアッサリと投げ打って恥じざる行動形態である。それは自己の安寧を保持する究極のエゴイズムである。いささか封建的に言えば、井伊藩士は敢然として復讐に出るべきであり、紀州藩主は自らも雪の中で大老の遺体をかき抱かなければならなかったのである。
 世の大勢を見ながら右顧左眄し、目の前にある誰かの権威を探してそれに依拠しながら自らの行動パターンを計るといった何とも見苦しい眼を覆わしめる事態が現代の日本にある。我は我が道を行く、神よ照覧あれ・・・・といった一神教のモラルは依然として日本では実現されていない。(2002/8/13 19:44)

[或る在日アフガニスタン難民Y・Tさんの自殺について]

 「遺書・・・Y・T」
 神の名において
 アフガニスタンの皆様、兄弟の皆様、私のことが皆様を悲しませることを謝ります。
 私はほんとうにこの生活に疲れました。これ以上この世界に残る必要はありません。残ることに意味にありません。私の身体はどうなってもいいのです。
 私が自殺したことは家族に言わないでください。脳のショックで死んだと言ってください。人は皆いつか死にます。分かっているから私も死ぬのです。私が皆様の悪口を言ったり、悪いことをしていたとしたら謝ります。ごめんなさい。アフガニスタンの皆様へ。2002年8月9日 午後11時。誰かが私に教えたのではありません。私が自分自身で死を選んだのです。


 [経緯]
●身上 1972年生まれ。妻と子2人。イスラムシーア派。アフガン少数民族ケゼルバッシュ人。ハラカット・イスラミに属し反タリバン運動に従事し主として首都カブールでシーア派住民の警護を担当し、96年3月仲間とビラを貼っているところをタリバン兵に見つかり、逮捕されて西カブールで3ヶ月の拘束を受けるも脱出し、タリバンのカブール侵攻後直ちにブルカを被って女装してイランに脱出。その後韓国に渡り、99年日本へ。タリバンからは逮捕状が出ている。99年貨物船で下関に深夜上陸し、通行人にドルを渡して円と交換し、夜行バスで東京に行きUNHCRに支援を求めた。
 99年に難民申請を行い、その後知り合いを頼って大阪へ行き、塗装工場で働いた後一時東京で働いたが給与不払いで大阪へ戻る。難民申請不認定の決定に異議申し立てを行う。ここで9.11テロが発生し米軍によるアフガン空爆が開始された。この空爆でカブールにいる妻と2人の子が死亡するが本人は知らないまま過ぎる。
 その後日本の衆議院院内集会で「連日の空爆で不安です。一日も早く難民認定をしてもらい、兄のいるイランにいって妻子の所在を確かめて日本に呼び寄せたい」と訴える(7月16日付け毎日新聞)。異議は却下され同時に法相在特扱いとなる。妻子を迎える準備をするために兄のいるイランへ行き、そこで妻子が空爆で亡くなったことを知る。親友の在日アフガン人が難民不認定の異議を却下され収容されたことを知る。02年7月下旬に西日本収容センターへ行き親友と接見した後、ひどく落ち込む。02年8月9日深夜(午後10時から1時と推測)大阪市の自宅でネクタイで首をつって自殺。

 以上はアフガン難民支援運動をしている大貫弁護士が作成したメールを一部筆者が改作したものです。端的に事実を見つめて日本の難民受け容れ政策のあり方を考えてください。合掌・・・・(2002/8/13 17:19)

[今年も盆がめぐってきた]
 盆とは何だろう。死者の魂がこの世に帰還しそれを迎える行事だと思っていたのですが、『広辞苑』では次のように説明されています。

 正式には盂蘭盆(梵語ullambana倒懸と訳され、逆さ吊りの苦しみの意とされるが、イランの語系で霊魂の意urvanとする説もある)。盂蘭盆の目蓮説話に基づき、祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事。陰暦7月13日〜15日を中心に行われ、種々の供物を祖先の霊・新仏・無縁仏に供えて冥福を祈る。

 ウーン死者はすると死後の世界では苦しみの世界にあえいでいるのか。これは地獄を意味しているのだろうか。とすれば盆の行事をないがしろにすることは、先に逝った者への痛ましい仕打ちとなる。私の場合は、仏壇や墓参を通じて1年に1度今は亡きファミリーとの生活を回顧する非日常的な瞬間です。古里を出てから育った家は荒れるに任せ、墓掃除もままなりません。時とともに現在の生活が中心となり、ノスタルジアも徐々に薄らいでなにかもの悲しい気持ちに襲われます。盆ぐらいは帰郷して廃屋を確認し過ぎ去りしなにか自分の流れている原点を再度確かめる時間にすべきでしょうが、遠ざかる勢いもまた我が身を戸惑わせるのです。こうして盆は、かくある私とは何か、あるべき私とは何かについて一瞬立ち止まって考える契機を与えてくれます。
 盆前後の激しい道路の渋滞を聞くと、60年代以降の向都離村と高度成長によってもてあそばれた多くの家族の運命と偶然のたわむれ、過密と過疎のはざまで廃れゆく農村風景が浮かび上がってきます。GDP世界2位に浮かれたかっての日本と不況に打ちのめされている現在の日本の行く末の如何を否応なく思いめぐらざるを得ません。私たちは未来の子どもに何を手向けようとしているのでしょうか。(2002/8/13 11:22)

[人間は永遠にプロメテウスの末裔か]
 人間の運命はプロメテウスによって決定された。彼は粘土と水で「人間」をつくり、女神アテナイから授けられたあらゆる学問、技術、芸術とともに「自由」を人間に与えた。ゼウスは野心的で増長した人間を嫌悪し、自分を裏切って人間の味方をしたプロメテウスを岩山に鎖で繋ぎ、全ての悪を封じ込めた壺を持つパンドラという女を作って人間を罰しようとした。もしパンドラが蓋を開けず悪が飛び出すことがなかったら、人間の世界に悪と不幸と苦悩はもたらされなかった。しかし、ゼウスが象徴する力(自然・非理性)に対して戦う知(理性)の自由意志を手にした人間は、囚われの師匠であるプロメテウスに代わって自らの手で自分自身を創造するゼウスの領域に遂に踏み込みつつある。最先端分子生物学によるDNAとゲノム解読による生命操作である。こうしてもたらされた知の勝利は、同時にパンドラによる善と悪、光と陰のゾロアスター的争闘の中を手探りで進んでいる。
 自然の究極の原子構造を解明する原子物理学は同時に地球を7度滅亡される核兵器を開発し、人間の遺伝子的解明は出生前診断による優性技術を開発した。現代のプロメテウスのゼウスに対する闘争は圧倒的な勝利を収めつつあるかに見えるが、実はそれは同時にゼウスの復讐戦が最終局面に近づきつつあることを意味しているのかもしれない。人間は、永久にゼウスとプロメテウスの血生臭い闘争から放たれたパンドラの犠牲者として、プロメテウスと同じく縛られた存在である。
 急いで壺の蓋を閉めたパンドラによって、たった一つ壺に遺された「希望」はこの世にもたらされていない。あたかも暗い獄中の囚人のように、出口の灯りを求めて迷路の中をヨロヨロと徘徊し、挫折と苦悩のなかに突き落とされている。朝日が差し込めて囚人が闇から脱する保障はどこにもない。あらゆる悪の汚濁を全身に浴びながら、彼はゼウスに挑戦する自由を行使する磔刑に処せられている。
 人間はこのように無限に進行するゼウスに対する探求と挑戦を止めることができるだろうか。しかしそれは自らに付与された真実を恐れ逃げることによってゼウスに屈服することを意味するのではないか。パンドラの壺に残された「希望」がどのような姿をしているのか、知りたいという無限の欲望は消え去ることはない。自然の解明と挑戦は究極の領域に迫りつつあるが、そこには未だ依然として「希望」が自分の姿を現していないままである。果たして「希望」は壺の中にあるのか、ゼウスが与えた嘘の約束ではないのか、人間はひょっとしたら「希望」だけは自分自身でつくりなさいと定められているのかもしれない。フランソア・ジャコブ『ハエ、マウス、ヒト−生物学者による未来への証言』参照。(2002/8/13 9:34)

[究極の世界的盗聴網エシュロンについて]
 欧州議会エシュロン盗聴システムに関する特別委員会最終報告書(A5−0264/2001)は、宇宙衛星通信をすべて傍受し解読して全世界を監視している世界的な盗聴網エシュロンについて、初めて詳細な調査を実施しその全貌を解明して全世界に警告を発した。エシュロンの前身は、第2次大戦中の英・米共同情報協定であるUKUSA協定を発展させ、現在では英・米・カナダ・オーストリア・ニュージーランドがエシュロン国家を形成し、その後独・韓国・トルコ・日本が第2グループとして自国に盗聴基地を置き共同して盗聴をおこなっている。
 日本の通信傍受基地は三沢基地にあり、1948年以降14の巨大な放射状アンテナと「象の檻」と呼ばれる円形状の300m幅のアンテナで東アジア全域をカバーしている。盗聴情報の全ては、米国ワシントンDCから60kmにある「暗号の町」と言われるフォート・ジョージ・ミードに置かれたNSA本部に送られ10万人の職員が解読あたっている。インターネット傍聴も世界スタンダードであるウインドウズの開発過程に傍聴の機能を添付する要請をおこなっていると言われている。日本で成立した盗聴法は、範囲を国内に限定しているが、エシュロンと何らかの関係があることを示したのは、米国自由人権協会が情報公開を請求した時の米国政府の回答が、警察ではなくCIAによっておこなわれたことにある。こうして全世界の個人から国家に至る情報がキャッチされ、個人のプライバシ−や産業スパイと諜報活動が静かに行われている。欧州エアバス社の旅客機の売り込みは、エシュロンを使った情報によって米国ボーイング社に取られ、日米自動車交渉時に米国政府が掴んだ秘密情報はエシュロンに依ったとも言われている。2001年にローマ法王が歴史上初めてイスラムとの対話に踏み切った時に、エシュロンはローマ法王の発言を事前に正確に予測しその情報はイスラエルに渡され、同じ日にイスラエルはパレスチナ自治区に戦車で侵攻した。
 欧州委員会委員長は日本に対して次のような警告を行っている。「日本の平和運動は残念ながら充分でない。一発の弾丸もミサイルも飛ばず、一台の戦車も動かないにもかかわらず、明らかに諜報が戦争の一部であることを忘れている。自衛隊が海外に派遣されるということは、艦船や航空機が派遣されるということだけではなく、情報が軍事行為の不可欠の部分を為していることが軽視されている。日本の諜報活動とエシュロンは明らかに日本国憲法の規定に反する」。
 愛知県は全国のトップを切って、県警とコンビニ防犯カメラをオンラインで結び、コンビニにおける私たちの購買活動を店のみならず県警が全て把握するというシステムをつくった。こうして生活の隅々まで電磁的な痕跡が記録される社会が実現し、遂には住民基本台帳ネットワークにより私たちは全て個人番号に記号化された個人として国家に把握されるようになった。
 恐ろしいのは、こうした仕組みに私たちが慣れてしまい、それを監視されていると感じる感性が失われて、逆に便利になったとか安全になったとか感じて自ら監視を求める究極の監視社会の実現である。それは権力が民衆を監視すると言うよりも、民衆自身がお互いを監視するシステムに発展する。欧州エシュロン特別報告書は2001年7月に反対1票で採択された。(20028/12 10:05)

[福島県矢祭町「いかなる市町村とも合併をしない宣言」について]
 矢祭町は人口7000人の福島県南端にある町ですが、住基ネット不参加で一躍全国的に有名になりましたが、実は前年に合併拒否宣言を全会一致で可決しています。以下はその全文です。

 「市町村合併をしない矢祭町宣言」

 国は市町村合併特例法を楯に平成17年3月31日までに現在ある全国3239市町村を1000から800に、さらに300にする平成の大合併を進めようとしています。国の目的は、小規模自治体をなくして国家財政で大きな比重を占める交付金、補助金を減らして国の財政再建をしようとする意図が明確であります。
 市町村は戦後半世紀を経て地域に根ざした基礎的な地方自治体として成熟し、自らの進路の決定は自己責任のもと意志決定する能力を充分に持っています。地方自治の本旨にもとづき、矢祭町議会は国が押しつける市町村合併には賛意できず、先人から享けた郷土矢祭町を21世紀に生きる子孫にそっくり引き継ぐことが、今この時ここに生きる私たちの使命であり、将来に禍根を遺す選択はすべきでないと判断いたします。よって矢祭町はいかなる市町村とも合併しないことを宣言します。

 記

1、矢祭町は今日まで合併を前提とした町づくりはしてきておらず、独立独歩自立できる町づくりを推進する。
2、矢祭町は規模の拡大を望まず、大領土主義は決して町民の幸福につながらず、現状をもって維持し木目細かな行政を推進する
3、矢祭町は地理的にも辺境にあり、合併のもたらすマイナス点である地域間格差をもろに受け、過疎化がさらに進むことは間違いなく、そのような事態は避けなければならない。
4、矢祭町における昭和の大合併騒動は、血の雨が降りお互いが離反し、40年過ぎた今でもそのしこりは解決しておらず、2度とその轍を踏んではならない。
5、矢祭町は地域ではぐくんできた独自の歴史、文化、伝統を守り、21世紀に残れる町づくりを推進する。
6、矢祭町は常に爪に火を灯す思いで行財政の効率化に努力してきたが、更に自主財源の確保は勿論のこと地方交付税についても、憲法で保障された地方自治の発展のための財源保障制度でありその堅持に努める。以上宣言する。平成13年10月31日 福島県東白川郡矢祭町議会


 胸のすくような感動的な宣言です。中央陳情型自治体が蔓延している中で、地方自治の尊厳を真っ向から高らかに謳い上げています。しかも全会一致というところに心からの敬意を覚えます。まさに現在の中央政府の地方政策の本質を正面から批判しているよほどの覚悟を込めた堂々たる地方自治の宣言文書であり、将来の歴史家が必ず評価する宣言文書となるでしょう。
 逆に見れば戦後日本の貧しい地方自治の姿が、特に恐るべき過疎が進む中山間地域のこれ以上後に引けない追いつめられた実態が象徴的に表れているとも云えましょう。願わくば、矢祭町が内発的な地域起こしと町づくりに成功を収め、輝かしい独立自尊の町として、日本現代地方行政史にその名を刻まれんことを心から望む次第です。(2002/8/11 22:32)

[バリデーション療法の普遍性について]
 バリデーションとは、本来は「確認」「承認」「批准」と言う意味だが、痴呆症にかかった高齢者への新しいケア療法として注目を浴びている。「痴呆症高齢者の言動を否定しないで、ありのままを認めて受け容れる」ことによってコミュニケーションが回復するいう意味だ。ナオミ・フェイル『バリデーション』(筒井書房)によれば、痴呆の進行度に応じて4段階のケア法がある。
@認知傷害の段階→同じ立場になって一緒に悩むことから始める。相手の言葉を繰り返すことから始める。
B言葉が通じない段階→両手を握りながらしっかり眼を見つめ、アイコンタクトによって相手の気持ちを全身で掬いあげる
 同じことばかり繰り返す興奮状態→頬の上、耳の後ろにそっと両手を添えて母親のように接するタッチングを取り入れる。同調しても嘘は駄目だ。相手は事実を知りながら認めたがらないだけだから、すぐ信頼を失うことになる。こうしたバリデーション療法は、日本でもあった「なじみの関係づくり」「寄り添う介護」という介護法をより精緻に体系化したものだ。以上日本経済新聞8月11日付け朝刊参照。

 私は、このバリデーション・メソッドは痴呆症高齢者を超えた、現代のコミュニケーションの再生にとって或る普遍的な意味を持っているのではないかと思う。市場原理による自己決定・自己責任の生活によって、現代のコミュニケーションは自立した個人の競争的な様相を帯び、相互に弱みや痛みを素直に交流できない、互いにバリアーを張ったよそよそしいものになっている。市場が認知した「標準」的な基準によって、勝敗を意識し合う対立と攻撃や無視という闘争型コミュニケーションが横行し、人々は疲れ切っている。ヒューマンで透明なコミュニケーションは喪われ、弱い個人は引き籠もるか暴発するかといった退行行動をとらざるを得ない。バリデーション・メソッドにある水平的な寛容の構造が、つまり間違いや過ちを許し合う構造が、現代の疲弊したコミュニケーションの再生にとって一定の意味を持っているのではないか。(2002/8/11 8:34)

[螺旋状の問い]
 ベルグソンは「問題を出すことが一番大事だ。上手く問題を出せばそこに則ち答があると」と言っています。似たようなことを実は、マルクスも「人間は誰も解き得ないような問いは出さない。自ら解決可能な成熟した段階になってはじめて問題が提起される」と言っています。問題の問題性は人間のリアルな発達と成長の段階にマッチするのであって、その段階と無関係な問いは問いとしての意味を持たないと言う意味だろうか。ところが現状は答だけを要求し、自分から問題を出さない傾向が充ち満ちています。「なぜ?」という問いは、自らを目くるめく迷宮の世界に誘うリスクがあるということを経験的に知っているが故に、答を先に求めて安心したいという気持ちが出てきます。だから答も、自らの頭脳を振り絞って考え抜くというよりも、権威やマニュアルまたはポピュリストへの依存に頼ろうとします。実は本人自身も薄々とはこの誤謬に気づいていますが、見て見ぬ振りをすることによって得られる結論の方が社会的安定性があるからです。
 ところが汚染されていない子どもは、素朴に問い掛け時には大人を惑わせてしまいます。大人が用意している問いと答の1対1対応がゆらぐ場合があるからです。子どもは問いの重要な意味を自覚しないまま、単なる想像力によって問い掛けますが、大抵の大人は権威と権力の力で威圧して、その問いのゆらぎを回避しようとして、子ども達の素朴な問いのちからを封殺しようとします。こうして子どもから徐々に知的好奇心と探求力が失われ、子どもは大人へと「成長」して行きます。
 ということは唯単に答を要求する問いは、一方向の直線であり相互応酬的な知的コミュニケーションを産まないことによって、知的生産性を失うことになります。従って最もよい問いは、何もない無の状態から出発して次第に確実な問いに進んでいく螺旋状の構造を持ちます。ということは、社会認識でみればすべての常識として与えられていることを一端否定し、ゼロから自分自身で問いと答を反復しながら、より高く深い次元へと積み上げていくことになります。そのような作業自体がある歴史の段階の規定を受けているという限界認識が生まれれば、実はしめたものだと思います。
 かって人間は、「昔からそうしてきたのだから正しい」という伝統を聖化した答で満足しましましたが、次に人間を超えた力を持つような個人に依存する「あの人が言うから正しい」というカリスマの答で満足し、現在では多様な主張の共存の中で試行錯誤していくというデモクラシーの段階に至っています。デモクラシーの危険は、常に「みんながそうしているから」という多数者支配による独裁を生むところにありました。こうしてマイノリテイーが迫害を受けないで、しかも多数者はあくまで副次的な決定のある段階での一時的な存在であるというレベルにまで到達しているのが現代だと思います。
 あなたの側にもしかしたらイジメ、異端の排除、謂われなき他者攻撃、大勢順応の人がいて、しかも見て見ぬ振りをしているのであれば、実は重大な共犯者なのです。かく言う私も実は多くの共犯的行為を積み重ねて参りましたが、どこかでキッパリと堕落と悪の連鎖を断ち切る勇気が求められると今は痛切に思っている次第です。(2002/8/10 21:08)

[猛暑の夏 プロ野球を観戦した]
 暑中お見舞い申し上げます。実は中日−阪神戦のチケットが手に入ったので久しぶりにドームに行ってきました。緑の人工芝がきれいでクーラーの利いた快適な人工空間です。アトラクションの後いよいよ試合開始。ピッチャーは中日朝倉、阪神星野。投げ合いが3回まで続き中日先制後阪神が追いつく頃から何か物足りない気がしてきました。ドーム前の汚い球場でのドキドキムンムンするような試合への集中が生まれてきません。確かに場内アナウンスは迫力があり、打席毎のBGMなど演出効果は遙かに進んでいますが、如何せん外野席からは選手は米粒のごとく動いて見えるに過ぎません。ところがガラス張りのスイートルームを見ると、数人がゆったりと食事をとりながら観戦しています。このような設計思想には基本的な欠陥があると思いました。要するに名古屋的なムラ文化には合わないのです。
 それにしても阪神の応援団のエネルギーはまだまだ凄いものがあります。ビジターなのにはるかに人数が多く、応援の迫力も凄いのです。しかし何時来てもワンパターンの繰り返しで試合よりも応援自体がストレス発散の自己目的になっているような感じはぬぐえません。米国大リーグの観客席の風景は、ゆったりと談笑しながら選手の動作に集中し、野球を楽しんでいる雰囲気があります。そういうものがどうも感じられないのです。時々ロビーに出て煙草を吸いながらTV放映の画面を見るとこちらのほうがよく分かります。W杯のサッカー中継をみてそのスピードと変化を堪能した経験から、野球はスピード感がありません。それにしてもかっては、息詰まるような1級1球の勝負に引きこまれるような魅力があったがどうもそれがないのです。と言ったところで途中からドームを後にして、夜の街を自転車を漕ぎながら涼風を受けて帰宅することとは相成った次第です。(2002/8/10 8:05)

[記憶としての歴史、証言としての歴史]
 歴史、特に現代史を語る時に「記憶」という言葉が用いられるようになったのはいつ頃からでしょうか。最初は「記憶」という言葉に馴染めず、リアリテイーを感じることもなかったように思います。恐らくドイツでの「過去の罪責」という形でナチズムの戦争責任を引き受けて償う流れの中で、「歴史の記憶」が登場し特にヴァイツゼッカー大統領の世界的に有名になった「過去に眼を閉ざす者は未来に対しても盲目となる」という言葉によって世界に普及していったのではないかと思います。
 甲子園では終戦記念日の8月15日正午にサイレンが鳴り渡って試合が中断し、選手と観客は戦没者を悼んでその場で一斉に1分間の黙祷をおこないます。甲子園に戦後初めて参加した沖縄県代表の高校生は、15日の試合中に黙祷の意味が分かりませんでした。なぜなら沖縄県は、6月23日に守備隊が全滅して降伏し終戦の日はこの日に設定されていたからです。6月23日は、沖縄女子ひめゆり部隊が集団自決をした日でもありました。少年の日の私は、甲子園という最高の野球の舞台を中断させるサイレンの音と黙祷行事によって、はじめて戦争の「記憶」といわば外側からの力によって向き合わされることとなりました。

 敗戦後57年間沈黙を守ってきたアジアの戦争犠牲者が自らの記憶を語り出しました。朴永心さんははじめて従軍慰安婦として日本兵から暴行を受け、妊娠7ヶ月で米軍に保護され流産した後誰にもその体験を話すことなく北朝鮮で生きてきましたが、2000年のハーグ女性国際戦犯法廷で証言しました。被害者の多くは、記憶が薄れ識字率も低く正確な事実確認は困難を極めています。生年は干支で数え、麦の穂の成長具合などから連行された日時や日本兵の行動を記録しようとしています。1995年に設立された従軍慰安婦に償い金を渡す「アジア女性基金」は、国民の寄付によって償うものであり、政府の公式謝罪はないまま実施に移されて、今まで受け取った人は韓国、台湾、フィリピンの285人に過ぎず、遂に今年廃止に追い込まれた。被害者が望んだのはお金ではなく公式の謝罪による名誉回復であった。こうして20満員を動員した旧日本軍の従軍慰安婦問題の戦後処理はおこなわれていない。
 広瀬雪江さん(74)は、初めて今年の8月6日にみずからの被爆体験を語りました。原爆投下の瞬間に爆心地から約12kmで被爆し、親から「結婚に影響するから被爆は隠せ」と言われて結婚後2度の流産と肺ガン手術をしました。ところが驚いたことに実は、夫も被爆の事実を隠し、「夫が亡くなる5年ほど前まではお互い知りませんでした」と言っています。被爆者30万人の内、政府が原爆症と認定したのはわずかに1%です。膨大な被爆者の人がおそらくみずからの被爆の事実を隠し続けてこの世を去っていったに違いありません。私は現代を描いた西欧映画にしばしば腕に囚人番号を入れ墨されたユダヤ人が登場するシーンをみて、ア〜この人達も戦後を隠れて生きてきたのだと実感することがありました。
 戦争の被害者はすでに60年が過ぎようとしている中で高齢化し、この世を去る今はの際に自らの体験の真実を遺されていこうとしています。あたかも歴史の女神に背中を押されるようして、真実を朴訥にまたほとばしるように白日の下に曝そうとされています。御自身にとっては、身を裂くような辱めの行為であり、それを自ら語る苦しみは想像に余りあります。そのような汚濁の中にこそ私はむしろ、煌々と光を放つ菩薩のような荘厳さを覚えます。
 聖戦を信じ込んで天皇のために死のうと思いこんだ小国民であった少年少女は、1945年8月15日の降るような蝉時雨の中で玉音放送を聞き、至高の神の没落と幻滅を覚え、御真影を焼き、教科書に墨を塗りました。あの墨とともに塗り込めたものを再び再生させないことが戦後の平和を決定しました。しかし少年少女達が信じ切っていた聖戦の名の下に、戦場でどのような修羅と悪魔的な行為が為されたかは、闇の中に封印され、戦争の最高責任者は免罪されてきました。

 残念なことには、証言の部分的な危うさを捉えて証言全体を否定したり、また元日本兵の加害体験の証言が圧倒的に少ないことです。確かに、自らの非人間的な行為を進んで他者に告白することは辛い自己否定ではあります。かって1兵卒が旧上官を捜して激しい追及を行う『ゆきゆきて神軍』という映画を見て、私は衝撃を受けるとともに吐き気を催しました。なぜなら根元的な最高戦争責任者への追及を放棄した弱者攻撃に見えたからです。私はこのような暴力的な責任追及は否定します。しかし加害者の方も自らの体験を沈黙の内に墓場まで持っていっては救われないと思います。私の父も中国戦線に従軍し右足に銃創貫通の傷跡をがあり、風呂場でその意味を聞いても父はなにも答えませんでした。父は沈黙の内に膵臓ガンでのたうち回りながらこの世を去りました。
 いま最も危険なことは、過去の罪責を隠蔽することによってナショナル・アイデンテイテイーを再建しようとする歴史修正学派が台頭し、それを宣揚する漫画家が大手を振って振る舞い、ふたたびあの狂気の文化を正当とみなして公教育に強いようとしていることです。彼らがいう大東亜共栄圏に参加した輝かしい皇軍の戦没者230万人の過半数が戦死ではなく、無能な参謀本部の補給途絶から来る野垂れ死の餓死であったのです(藤原彰氏の研究)。しかし、旧日本軍兵士の血に汚れた手は、「洗っても洗っても落ちない」(マクベス)のです。1993年に国連は「女性への暴力撤廃宣言」を採択後、国連人権委員会・ILOが旧日本軍の従軍慰安婦問題を主要な議題として追究し日本政府の国際的孤立は深まっています。
 こうして今なぜ歴史の「記憶」が意味を持ってくるのか、おぼろげながら浮かび上がってきます。それは歴史学でいう「経験」や「歴史認識」という理論的作業のはるか彼方にある極めてリアルな実存的な体験が地上から消滅する前に、みずからの痛みと罪責を賭けて告白することによる原歴史の復元ともいうべき、2度と再び帰り来ぬ作業を象徴した言葉ではないかと思います。長崎原爆の曇りの日に記す。(2002/8/9 8:36)

[沖縄学の祖 伊波普猷の琉歌]
 伊波普猷はニーチェの「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉がある」を次のような琉歌に翻案している。

 深く掘れ
 己の胸のなかの泉
 堯所たよて
 水や汲まぬごとに

 ふかくふり
 などうぬむにうちぬいずみ
 ゆすたゆてい
 みじやくまぬぐとうに

 伊波が終生格闘したのは、ヤマトンチュウから自立できる沖縄の根拠を何処に求めるかであった。自らを産ましめ育て上げた古里の聚落共同体とそこではぐくまれた生活の文化こそ、彼が沖縄の将来を考える基礎にしたのではなかったか。地域の将来は、地域に今ある貴い財産を未来の何に向けて使うのかという選択と決断に掛かっている。汝の立つところを深く掘れば掘るほど、自らを生かす清冽な泉が湧きいずるのではないか。基地経済に圧倒的に依存する沖縄経済が、基地撤去を視野に置いた本格的な自立経済に向かう構想が網の目のように推進されている。
 一人の人間の発展も、このような内発型発展であり、余所から何かの権威を借りて誘致外来型の人間開発をしても、それはいつかは無理が生じるだろう。自らが潜在的に持っているはずのダイヤモンドを掘り当て、あらゆる外界からのプレッシャーに曝しつつ、自ら鍛え上げていく以外に、他ならぬ君が君としてこの世に生きた存在証明書は永久に入手できないであろう。連日猛暑の続く夕暮れの少しの風の中で、忽然として浮かんできた思考の一端を記す。(2002/8/8 18:21)

[国立墓苑をめぐる論争について]
 首相の靖国神社に反対する仏教会が提起した新たな神道施設でない国立墓苑構想をめぐる論争が発生している。推進派は、@追悼対象を軍人以外の戦没者すべとするA対象者は明治維新から第2次大戦までとするB特定の宗教に関与しないものとしている。A級戦犯については個々人の内面の問題として触れないこととした。ここが問題だ。戦争犯罪者への明確な拒否と指弾の心なくして、慰霊の意味が何処にあるのか。批判派の主張は、第2の靖国をつくることになる、国立施設は人の生死を国家が管理することになる、靖国参拝を強行する小泉内閣のもとでの代替施設は次の戦争に備えるものだ・・・などである。
 私は、原理的にこのような構想とそれをめぐる宗教界の言辞に違和感を覚える。なぜなら死者に対する慰霊の形態の決定権をあたかも宗教界が特別の権利を持ち、関与するのが当然だという姿勢が、推進派と反対派双方にあるからだ。仏教界の現実が葬送儀礼に依ってしかその経営が成立していない実態が、彼らの心情に無意識のうちに沁み込んでいる。特定の宗教に偏しない宗教的施設の建立という点では、彼らの違和感はない。無宗教や無神論者を含む慰霊のありかたを発想する意識がうかがえない。「祀る」とは、「神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉る」(『広辞苑』)ことなのだ。個人的には、既にある千鳥が淵戦没者霊園を再編成することが最良の道ではないかと思う。良心的な仏教徒ほど善意の裡に道を踏み外してしまうのだ。まことに、地獄への道は善意で踏み固められている。(2002/8/7 20:21)

[元米海兵隊員アレン・ネルソンにみる人間の再生]
 アレン・ネルソンは19歳で海兵隊に入隊し、沖縄のキャンプハンセンで苛烈な訓練を受けた。
 「おまえらのしたいことは?」
 「殺すこと!」
 「聞こえない!」
 「殺すこと!!」
 「ベトコンは?」
 「畜生だ!」
 「畜生は?」
 「殺せ!!」
 連日繰り返される上官との問答は、戦場での殺人を条件反射的に快楽化し、恐怖を克服する究極のマインド・コントロールだ。従軍したベトナム戦争では、密林の中を、ハエの羽音に全神経を集中し、死臭をかぎ分けながら敵と戦った。「相手ははなから人間じゃあないと思っていた」・・・・こうした狂気の構造は、『地獄の黙示録』『デイア・ハンター』『7月4日に生まれて』などのハリウッド映画を通してかいま見える。多くの健やかなアメリカ人青年がトラウマを抱えて戦場から帰還し、家族への暴力や殺人を犯した。今もアフガン帰りの米兵の暴力事件が頻発している。
 アレン・ネルソンの狂気が正気にもどるきっかけは、ベトナム軍の攻撃を受けて命からがら村の壕へ逃れた時だ。暗闇の中に、下半身裸の15、6歳の少女がいた。震える少女をよく見ると、両足の間から赤い血が流れ、そこから小さな子どもの頭がのぞいている。「海兵隊では、新しい命が誕生する時、何をすればいいのか教えられていませんでした。とっさに両手を広げて赤ちゃんを受けとめました」・・・・はじめて命の尊さを知って除隊しますが、悪夢や被害妄想に苦しめられた。洞窟の決定的瞬間で彼は、赤ちゃんを受けとめたのだ。狂気の兵士は、少女を殺し赤ちゃんを銃剣で刺したかもしれない(旧日本軍は中国戦線でまさにそうした)。実はこの瞬間における荘厳な行為にこそ、彼が将来正気に立ち戻る潜在的な可能性が示されている。
 アレン・ネルソンは、帰国後に友人から子ども達を前にした戦争体験の講演を依頼され、悩んだあげく承諾した。目を閉じて「人を殺した?・・・・・・・・・・イエス」と遂に告白すると、子ども達は泣きながら彼を抱きしめた。「私の人間性を取り戻した瞬間でした。でも戦争の後遺症を克服し、戦争反対を唱えるまでにはまだ15年もかかりました・・・」。アレン・ネルソンは今、「日本国憲法第9条を世界に、9条はビューテイフル、核兵器よりもパワフル」と微笑みながら訴える。アレン・ネルソン55歳、ニューヨークで妻、1男1女と暮らす。

 米国が広島に原爆を投下したことに抗議するローマ法王に対して、トルーマン大統領は「日本軍は真珠湾を攻撃し、捕虜を虐待する畜生だ。畜生を相手にしなければならない時には、相手を畜生として扱わなければなりませんでした」という返事を送った。それから57年後のアフガンで、米軍はアフガン人の結婚式場にミサイルを撃ち込み、大量の死者を出しても償おうとはしない。韓国では6月W杯の最中に、米軍第2師団所属の54トンの重量がある装甲車が公道で下校中の女子中学生2人をひき殺し、2人の身体は内蔵もぺしゃんこになってつぶされた。沖縄では米兵士が女子小学生を襲撃して強姦した。日韓米軍地位協定はともに、公務中の米兵の犯罪に対する裁判権はない。米兵は、黙秘権を行使して事件の真相に口を閉ざし、加害の事実を認めていない。

 こうした戦争犯罪、戦場での残酷な行為、軍隊の犯罪に対するさまざまのアプローチがある。闘争本能・攻撃本能、戦争の狂気、マインドコントロール、有色人種への蔑視、米国ユニラテラリズム等など。大事なことは、ごく普通の市民が殺人兵器になる過程を明らかにし、そのようなメカニズムをつくりだした真の敵を明確に把握することだ。しかし私は、無数のアレン・ネルソンがこの世に存在し、サイレント・マジョリテイーが遂には声を上げてこの惑星から殺し合いを無くす日が来ることを信じたい。それまでまだまだ膨大な無辜の民の死体が、屍となって地にはらばうこともまた覚悟しなければならないが。IMAGINE!WAR IMAGINE!PEACE!(2002/8/7 8:34)

[青春の文学・夭折の詩人と8・6ヒロシマ・デー]
 かって詩人は夭折の代名詞であった。北村透谷25歳、石川啄木26歳、宮沢賢治37歳、北村初雄25歳、八木重吉29歳、富永太郎24歳、中原中也30歳、立原道造24歳等など凛々しさと詩人の運命は逆比例していた。伊藤信吉氏が95歳で逝去された。1933年のプロレタリア詩集『故郷』刊行後詩作を絶ち、1976年70歳(!)で第2詩集『上州』を出して以後95歳まで詩作に全精力を注いだ。もって瞑すべし・・・黙祷・・・・。私の年齢からはるかに遠い再起だ。これ以上励まされることはない。
 ヒロシマのゴッホと呼ばれる金崎是(すなお)さん(85)は、画家として順調な道を歩んでいた28歳の夏、爆心地から15kmで被爆し大地に叩きつけられた。妻と幼い子を探して素足で駆けていた湿地帯で全身焼けただれて倒れている少女。「おじさん・・・・。岩国のお父さん・・・・お母さんの家に帰りたい・・・・連れて行って・・・・」苦痛にあえぐ少女に何も言わず去りました。「人として、その子を背負って一歩でも二歩でも・・・・。彼女の願いをかなえてやるべきだった・・・・。背中で亡くなっても」。身内7人をみずからの手で焼きました。3歳と5歳の女の子は3日間けいれんで苦しみ、死んでいきました。黒紫色の斑点で覆われた小さな遺体でした、白い煙を哀しみと怒りで見つめました。「こんなことがあっていいもんだろうか・・・許されるだろうか・・・・・」。そして夢見た画家への道を捨て「どっちを選ぶべきか・・・。今後こんな爆弾が使われたらなにも生存できん」と思って、その後は平和への運動に参加しました。「米国は先制核攻撃をやるかもしれんと言っている。それを思うと死んでも死にきれん」彼は60歳を過ぎて再び絵筆を取った。そこには、かって見捨てた岩国の少女が描き込まれています。

 猛暑のなか今年も8・6ヒロシマ・デーがめぐってきた。57年間の戦後を貫いて被爆者の辛い夏は今年は格別の意味を持つ。日本が再び戦争国家となり、核武装すると明言する政府が出現したからだ。秋葉広島市長の平和宣言は、比類ない真摯な重さを頌えた美しく格調高いメッセージだ。彼は史上初めて米国を名指しで批判した。万人が頭を垂れて傾聴すべきである。
 「被爆者に辛い暑い夏が再びめぐってきた。暑さとともに当時の悲惨な記憶が甦る。それ以上に辛いのはその記憶が世界的に薄れつつあるからだ。忘れられた歴史は繰り返す−という言葉通り核戦争の危機や核兵器が使用される可能性が高まっている。9・11以降暴力と憎しみの連鎖を断ち切る道は忘れ去られ、今に見ていろ、俺の方が強いんだぞという哲学が世界を覆いつつある。世界の紛争地で犠牲になっているのは圧倒的に女性・子ども・老人など弱い立場の人々だ。広島がめざす万人のための心の故郷−には豊かな記憶の森があり、その森から流れ出る和解と人道の川には、理性と良心そして共感の船がゆきかい、やがて希望と未来の海に達する。米国はパックス・アメリカーナを押しつけたり世界の運命を決定する権利を与えられているわけではない。人類を絶滅させる権限をあなたに与えていない−と主張する権利を私たち世界の市民が持っています。日本政府の役割は、核兵器の絶対否定と戦争の放棄であり、政府は広島・長崎の記憶と声を米国に伝え、明日の子どもたちのために戦争を未然に防ぐ責任を有する」(以上筆者一部改作)。
 秋葉宣言に対する米政府の公式反応。「ロシアとの戦略攻撃戦力削減条約などをみてほしい。ロシアと協調し、例えば軍縮面でモスクワ条約を結んだことを思い起こしてもらいたい」(米国務省リーカー副報道官)。米国政府は何を考えているのであろうか? 秋葉氏は米国の先生核攻撃戦略を批判したのであった、米露交渉を批判したのではない。ただし米国政府高官がヒロシマ・デーに注目していることがよく分かった点は今回の収穫だ。(2002/8/6 1/8:40)

[2004年新紙幣発行について]
 2004年春に千円、5千円、1万円札のデザインが切り替わり、福沢諭吉(1万円)は継承され新たに樋口一葉(5千円)と野口英世(千円)が登場する。政府の更新理由は偽造封じと経済効果にある。偽造技術が発達し手口が雑誌にも紹介され、今年上半期に見つかった偽札は1万円札3401枚、5千円札503枚、千円札5979枚の合計9883枚であり、前年1年間の総数7613枚を既に上回っている。しかし日本の通貨偽造率は米ドルの1/300と言われそれほど高率ではない。次に経済効果はどうか。
 第1生命経済研究所の波及効果試算では、総額2年間で9600億円(GDP 0.2%)である。
○国内ATM15〜16万台→新札対応改造費用30〜50万円/1台=400億〜500億円
○全国紙幣対応自動販売機250万台→紙幣識別器2万円/1台=500億円
○財務省原版作成費数十億円
○印刷コスト1枚20円(1万円札)×年間40億枚=800億年
 確かに金融・貨幣関連機器メーカーは10%を超える株価上昇を示したが、製紙・印刷株は反応がない。経済効果論の最大の問題は、混迷する実体経済に対する打開策がことごとく失敗し、日本経済が奈落の底に転落しようとしている現状に対する苦し紛れのパフォーマンスだと云うところが見えてしまっているという点にある。新紙幣発行事業は、既存の紙幣とATMをリフォームするだけの、いわば「穴を掘って穴を埋める」無駄な公共事業と本質的には同じであり、リフォーム費用を国と銀行が負担するだけのことであり、みずから破産宣告をしたケインズ主義以外の何ものでもない。経済効果を裏返せば、現在の最大の問題である財政危機と銀行の負担を倍加すると云うことでしかない。
 次に登場する歴史的人物を検討したい。女性候補は賛成だが、なぜ樋口一葉なのか。与謝野晶子とか平塚雷鳥その他の候補がいると思うが、やはり政府批判派は避けたと云うことか。野口英世は、偽造防止用の髭の持ち主だそうだが、世界第1級の開発医学者であるからよしとしよう。問題は継承された福沢諭吉だ。首相も財務省も同じK大学出身という穿った見方もあるが、福沢継承はなかなかの問題意識があると思う。彼のデビュー作『学問のススメ』の語句を引用する。

 「独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。・・・・・人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて」・・・・「独立自尊」を歌い上げた高らかな近代人の封建制を打破するメッセージだ。福沢は、英語の「コンペテイション」をはじめて「競争」と訳し、幕府高官の「争いという文字が穏やかならぬ」と批判を招いた。この前期福沢の言葉が、時代を超えて現代の自己決定・自己責任の市場競争原理を称揚する竹中某などの新自由主義派にとっては無限の励ましに聞こえているのではないか。国際競争を勝ち抜いて生き残るための構造改革と称して、日本経済を奈落の底に転落せしめた元凶達にとっては。
 しかしもっと怖いことがある。『文明論之概略』以降の後期福沢は、「悪友と親しむものは自分も悪くなり、良友と親しむ者は自分もよくなる」という脱亜論を主張し、遅れたアジアから脱して欧米と拮抗する帝国建設を主張し、これがその後の太平洋戦争に至る日本の悲劇的結果を招いたのである。だからこそ大日本帝国から悲惨な侵略を受けたアジア諸国(特に韓国)は、日本紙幣に伊藤博文と福沢諭吉が登場したことに激怒したのだ。後期福沢の主張も現代日本の軍事膨張戦略にぴったりと適合していることが分かる。

 一国の通貨のデザインがこれほど、当該の時代の政治的・経済的動向を反映しているとは驚き以上の危うい動向を覚える。「野口英世」は国際貢献型科学立国を象徴し、福沢諭吉はG8メンバーとして激烈な国際競争を勝ち抜く経済大国を象徴し、樋口一葉は男女共同参画社会の範囲で活動する総合職女性を象徴する21世紀日本のグランドデザインだ。最高位が福沢にあることもまた危うい。(2002/8/5 9:04)

 付記)私は野口英世を「世界第1級の開発医学者」と記したがどうもそうではないらしい。渡辺淳一『遠き落日』によれば野口英世の実像は次のようだ。浪費癖、借金王、ずぼら、女遊び、お調子者、厚顔無恥、コンプレックス、自己顕示、名誉欲、傍若無人、負けん気、つっぱり、人間発電機、直情径行、熱血漢、頭脳明晰、集中力語学力、演説上手、自信過剰、冷淡、報復心、東大嫌い、敵対心、栄誉人間、ナショナリスト、英雄、母親孝行などなど化け物のような存在だ。黄熱病ウイルスは顕微鏡では見えないのに発見したと錯誤し自ら開発したワクチンを過信して死亡した。細菌学の教科書では、野口は細菌学者として登場していないのだ。ドイツの若手細菌学者から批判された時に「若造のくせに」と弾圧した。貧困と障害にさいなまれ、偉くなりたい一心で努力した結果が先記した歪められた人格が作られていった。後生の伝記作家が野口英世の実像を大きく歪めたのが事実なら、私もそれを頭から信じていたことになる。財務省通貨発行局もまた同じであったのだ。(2002/8/27 8:18)

[トルコ共和国の死刑廃止と日本のEU除名]
 8月4日付けニューヨークタイムズによれば、トルコ共和国はEU加盟条件である死刑廃止を決定した。国連死刑廃止条約による死刑廃止が相次いでいるなかで我が日本は、米国とともに世界史上最後の死刑廃止国の道を歩んでいる。来年日本政府は欧州連合のオブザーバー資格を剥奪される。云うまでもなく死刑制度を温存しているからだ。日本のメデイアは、安易な死刑制度の是非論を羅列して報道するだけで世界の趨勢の真実をほとんど報道しない。
 死刑存続論者は、政府に委託して犯人を殺す実質的な殺人者である。死刑存続論の基軸は被害者の報復感情にあるが、しかし本当に報復すれば被害者とその遺族のトラウマは癒されるのか。アカデミー賞『デッドマン・ウオーキング』の原作者の女性が来日し、熊本の死刑が執行された死刑囚を支援している。「福岡事件」の死刑囚は、死刑執行後も冤罪を訴えて国家と争っている。共犯者(80歳)は恩赦で出獄し、「殺したのは私です。彼は撃っていない」と訴えている恐るべき誤審・冤罪である。死刑廃止論の基軸は誤審と冤罪にある。熊本の生命山シュバイツアー寺は、恩赦で釈放されたその人が余命を送り、残りの人生を冤罪を証すために生きる毎日を送っている。彼は戦後40年牢獄で過ごした最長記録を持つ。
 私も凶悪犯罪については、許し難い報復の感情を持つ。死刑廃止論者は浅はかなロマンチストに過ぎないと思うこともある。被害者の言葉にし難い無念の気持ちは恐らく測りがたいものがある。死刑廃止論者は、この8月に死刑執行が間近に迫っていることを既にご存じであろう。死刑廃止論者は、いのちの問題である限り即行動と一次元的でなければ信頼されないであろう。私の死刑廃止論はその意味では、主張と根拠を失う。明日処刑される冤罪かもしれない死刑囚を想像して、あなたはどう考えますか? いまこの文を読んだあなたは?(2002/8/4 19:33)

[国宝の地域的偏在をみよ]
 都道府県別国宝指定数をみると、京都254・東京232・奈良205が群を抜いて多く、後は大阪60・滋賀55と続くが愛知は8に過ぎず、北海道・沖縄など7県は国宝がない。この目眩くような信じがたい偏在は、そのまま日本列島の権威的文化財の偏在とその背後にある天皇制を基軸とする歴史的首都の垂直的権力構造を象徴的に表しており、原理的に民俗文化財が範疇に入っていないことを示している。
 「国宝」の歴史は、明治期の神仏分離令による廃仏毀釈という仏教排撃運動によって危機に直面した仏教文化財を保護する「古社寺保存法」(1897年)によって、価値ある文化財を国宝指定したことに始まり、その後寺社以外の公有・私有の文化財も対象とする「国宝保存法」(1929年)に発展したが、戦後の「文化財保護法」によってすべての国宝は「重要文化財」になり、文化審議会がそのなかから新たに国宝指定をおこなうようになった。現在の定義は、「重要文化財のうち製作が極めて優れ、かつ、文化史的意義の特に深いもの」となっており、02年7月1日現在1063件が指定されている。朝日新聞8月3日付け夕刊参照。(2002/8/3 19:53)

[IMAGINE! 今日もまた、35,615人の子ども達が飢えて死んだ]

 犠牲者:35.615(FAO)
 場所 :この地球の貧しい国
 特集 :なし
 新聞論説:なし
 大統領声明:なし
 非常招集:なし
 連帯表明:なし
 黙祷:なし
 追悼式:なし
 対策会議:なし
 教皇メッセージ:なし
 株式市場:暴落続く
 ユーロ相場:下降傾向
 警戒水準:不変
 軍隊移動:なし(除くパレスチナ)
 犯罪識別推測:なにもなし
 気温:35度
 可能性ある犯罪委任者:豊かな先進諸国

      以上 加藤哲朗「イマジン反戦日誌」より(2002/8/3 7:12)


[進展する恐るべき空洞化]
 総務省「事業所・企業統計調査」(01年10月1日現在 5年ごと実施)から。
●総事業所数6,492,000(−367,000(5.5%))、総従業員数60,187,000人(−2,594,000人(4.1%))。総事業所数は前回初めて減少に転じ今回減少幅拡大、従業員数は今回初めて減少。
●産業別事業所数 卸売り・小売り・飲食店41.0%(2,622,000)、サービス業28.8%(1,827,000)、製造業10.3%(651,000)、建設業9.6%(607,000)。第2次産業大幅減少。
●産業別従業員数 サービス業29.3%(17,653,000人)、卸売り・小売り・飲食店29.3%(17,620,000人)、製造業18.5%(11,124,000人)。製造業の減少著しい。
●製造業動態 繊維工業事業所数−30.1%・従業員数32.2%、衣服その他の繊維製品製造業事業所数−28.9%・従業員数−38.0%。特に織物業・織物製外衣・シャツ製造業の減少が著しい。
●サービス業動態 情報サービス・調査業事業所数+28.4%・従業員数+33.6%、社会保険・社会福祉事業所数+22.7%・従業員数35.3%などが顕著な増大。
● 雇用者内訳 正社員・正職員30,710,000人(65.9%)、パート・アルバイト14,345,000人(30.8%)、臨時雇用者1,515,000人(3.3%)。特にパート・アルバイトの常用雇用者+30.2%。卸売り・小売り・飲食店の非正規雇用者数6,978,000人、特にハンバーガー店(92.6%)・コンビニなど各種食料品小売業(79.0%)・焼肉店(78.9%)が目立つ。

 ここからうかがえるのは、@製造業の海外移転とリストラによる国内空洞化、A日本の産業構造がサービス業中心に転換していること、B非正規雇用の激増と価格破壊である。(2002/8/2 11:59)

[激増するホームレスと『心のノート』 ]
 厚生労働省によれば、01年のホームレス者は全国で24000人(前回比3600人増)おり、大都市圏以外の地域にも拡大し、産業分類も従来の建設業から他産業にも及んでいる。01年9月の名古屋市調査では(261人対象)、平均年齢57.5歳(全国1位)、60歳以上43%、3年以上53%と高齢化・長期化の傾向がみられる。小屋・テント生活者の89%が、安全性・利便性・仲間を求めて公園を選んでいるが、場所が確保できないで深夜の町を徘徊し、最低の食費すら入手できないで炊き出しに頼る人もいる。公園利用者は一般市民との感情の軋轢を生んでいる。
 このようなホームレス激増の要因は、バブル崩壊後のデフレ不況にあり、00年から政府が開始した「仕事と住宅」セイフテイー・ネットが充分に機能していないことを示している。基本的には、自己選択・自己責任原理による市場主義システムが、1600年代初頭の救貧法社会の状況を再現しているところにある。
 手元に文科省が7億3千万円かけて全国の小中学校に配布した『心のノート』小学校版の教師用指導書がある。上からの徳目羅列主義の道徳が満載されているが、、著者諸子もこれらのモラルを体現しているかとなると赤面されるのではないか。ホームレス激増の要因は、「みんなのために流す汗はとても美しい」「社会のために進んで働く」公共道徳の欠如にあると云わんばかりだ(会社のために献身してリストラされた中高年ホームレスの激増!)。現代日本の社会システムを破壊している大人が、子ども達に説教を垂れるという恥ずべき頽廃がある。しかし注意すべきは、戦前型のハードな強要ではなく、オブラートにくるんだソフトな誘導をおこなって、最後の徳目が「文化に親しんで国を愛する」「郷土や国を愛する心」「世界の中の日本人としての自覚」というナショナリズムに帰結しているところに真の狙いがある。
 私が注目したのは、責任と規律を条件とする「自由」観であり、ここには生まれながらに持っている奪うことができない基本的人権という発想は一切登場しない。さらに「人間の力を越えたものへの畏敬の念」という宗教的心情を無条件に育成しようとしていることである。それにしても、責任者の河合隼雄氏は師のユング心理学の正当な継承者であるのだろうか、また中村桂子氏は生命科学の科学的思考をどのように考えているのであろうか。21世紀に生きる人間の最大の条件である主体的思考、自律的思考、批判的思考、発信能力、共生能力などが全く欠落しているこのような「ノート」では日本の未来は暗いかむしろ危険だ。

 空蝉の百並びたる戦意かな   あざ蓉子   (2002/8/2 10:08)

[地球環境危機を利用する究極のマネー・ゲーム:天候デリバテイブ]
 企業が冷夏や暖冬、多雨などの異常気象の影響で売り上げが落ちたりするリスクを補償する金融商品である天候デリバテイブが急成長している。損保は実際に被害が出ないと補償金が支払われないが、天候デリバテイブは一定の条件を満たせば実害がなくても補償金が出る。破綻した米企業エンロンが開発し全世界に普及し、97年度からの累計で1兆円を突破した。デリバテイブ市場110兆円の1%に過ぎないがその成長力は際立っている。
 降雨量が多い日本では降雨や降雪に関する契約が多く、清水エスパルスは試合開催日に10mm以上の雨が降ると補償金を受け取る契約を結び、神社は正月の降雨による初詣のリスクを補償する契約を結んでいる。他には風力発電や台風デリバテイブなどがある。以上日本経済新聞8月1日付け朝刊参照。
 地球の環境危機を利潤の対象とするマネー・ゲームは流石というか、マルクスの云うようにまさに資本は確かに全身から血を滴らせながら市場を徘徊している。京都議定書にみられる温暖化ガスの排出権取引制度も根底には生産活動を維持する企業論理に妥協して、「持続可能な開発」戦略の枠内にとどまっている。企業は、一方で温暖化やオゾン層を破壊する生産活動を活性化して地球環境を破壊し、破壊された影響を逃れるための商品を開発する、環境危機の悪循環を止めどなく推進しなければ利潤が上昇しない悪魔のサイクルを歩んでいる。それにしても神社のデリバテイブとは何だ!神への祈祷料を取りながら一方では保険をかけているとは!? 神社に行く人は神頼みであるのに、これほど神の威光を汚している行為はないだろう。(2002/8/1 8:32)

[日常空間における尊厳と主体的な思考]
 第2次大戦中にフィリピンなどで旧日本軍の収容所に収容されていた米国人とその家族598人が「1941年当時、旧日本軍の侵攻を予測していながら放置された」として、29日米国政府に対する損害賠償を求める集団訴訟をワシントン連邦地裁に起こした。ここには、市民生活の日常と国家意志の最高決定が同列の次元で位置づけられる、公務員による不法行為によって生じた被害に対する日本では信じがたいような国家賠償訴訟感覚がある。
 名古屋の地下鉄の車内放送は、宣伝も入った至れり尽くせりの「騒音」放送であり、黙って聞いている市民は完全に愚民扱いされている。何ごとも指示されなければ行動できない管理文化の象徴だ。しかし管理されている市民は自らそれを受容しているようにもみえる。名古屋の地下鉄は、知り合いの乗客同士のとりとめもない会話の雑踏が溢れているが、東京ではひとりで読書している人が多い。名古屋の市民は、電車一つも孤独でいるのを恐れて、友達同士で群れて乗るのであろうか。東京のある私鉄は、発車・停車とも一切車内放送がなく、最初は不安だが実は日常を主体的に生きる文化が確実に育っている。「安全で静かな快適空間」は、社会の成熟度を示している。
 日本の都会のけばけばしいネオンサインの広告の光り輝く夜の街と、欧州の闇につつまれた街頭しかない夜の街と何れが人間的環境を大事にしているか。私の隣家の或る企業の社長の家は、クリスマスが近くなると家全体を電飾化して点滅させている・・・・何と貧しい発想か。音も光もBGMもヘッドフォンのシャカシャカ音も、日本の公共空間はミーイズムが溢れている。
 日本語改革は、一面では工場で機械の操作法が読めて作業日誌が書け、兵士が歩兵操典を読め斥候報告書が書ける能力を向上させたが、思考の道具としての能力を奪う言語政策でもあった。明治日本は、主体的思考を奪い教育勅語を暗記する国民を育成し、40年体制も戦後の日本株式会社も主体的思考を忌避し、思考の道具としての言語機能を奪ってきた。日本語は、厳密な論理や精密な分析に適さない、説得と納得や反論と論駁の技術を奪われ、曖昧朦朧とした御稜威のもとに大政翼賛し、今は毅然たる態度で右傾化を進める。日本語が思考に向いていないのは、生活語と観念語の乖離に示されている。庶民は「世の中」「有りの儘」、専門家は「社会」「現実」と言い、生活と知の世界が乖離している。大衆も知識人も思考の道具が整備されていない。読み書き能力と思考能力は分離された。崩壊する日本を前にして、誰もが憂えているが、何をどう考えていいか分からないし、何も頭に浮かばない。大衆は弱者を攻撃してストレスを発散し、政府は他国を攻撃する有事法制を準備している。以上朝日新聞7月31日付け夕刊丸谷才一氏論考参照。(2002/7/31 22:05)

[『高校生戦争協力拒否宣言』]
 下記は佐藤知弘君(東京 和光高校生)が全国の高校生に発信した宣言の全文です。もしこのホームページにアクセスしている高校生の人がいましたら参考にしてください。なお筆者自身の『宣言』に対するコメントは控えます。

内閣総理大臣 小泉純一郎殿
■私たち高校生は日本政府に以下のことをアピールします
 1,私たちは殺されたくありません。あらゆる戦争協力を拒否します。
 2,日本政府は憲法第9条をいかし、世界の先頭に立って戦争とテロをなくすために行動すること。

 [請願趣旨]
 私たちはいま学校、部活、家庭やバイトなどで家族や友達と過ごし、いろいろ考えながら、自分の未来に向かって生きています。しかし戦争が起きれば、今までの生活は破壊され、自由を制限され、自分と愛する人の命が奪われます。第2次世界大戦を始めとして、日本がひきおこした侵略戦争により、アジアと日本の人々のあらゆる権利と自由が制限され、多くのかけがえのない命が奪われました。特に私たちと同じ若者の未来ある命が、戦場でたくさん失われたことを忘れることはできません。そのような悲劇を2度と繰り返したくありません。
 人間にとって生命や権利はすべて平等のものであり、他人が奪うことができないすばらしいものです。だから私たち高校生は、殺したくも殺されたくもありません。あらゆる戦争への協力を拒否します。
 私たちは、戦争やテロが無実の人の犠牲を生み出し、憎しみと悲しみを拡げている様子を目の当たりにし、大きなショックを受けました。いまなお米国軍はアフガニスタンへの攻撃を続け、さらに戦争を他国に広げようとしています。日本政府はこの戦争に自衛隊を派兵しています。さらに、いま戦争によるあらたな犠牲と悲しみをうみだす恐れのある法律案(=有事法制)が国会で審議されています。私たちはこの法律が作られると、日本の自衛隊が海外で武力攻撃を行えるようになり、さらに日本国民がその戦争に強制的に協力させられるのではないかと心配しています。
 日本は第2次大戦などの悲惨な体験を経て、平和な世界をつくるために、憲法第9条を定め世界に2度と戦争を起こさないと誓った国です。戦後、日本が一度も他国と戦争をしなかったのは、憲法第9条を大切にしてきたからです。だから日本が憲法9条をもち、世界の国々から注目されていることは私たちの誇りです。
 いま国際社会では、紛争に対して武力による解決ではなく、平和的な話し合いによる解決を求める流れが大きくなっています。日本政府は世界の国々の先頭に立って憲法第9条の「国際紛争を武力によって解決することを永久に放棄する」という精神に基づき、世界から戦争やテロをなくすために先頭に立つことを求めます。
 私たち高校生は、このアピール署名の「戦争協力拒否」「憲法第9条をいかして平和な社会を」という声を、全国に大きく広げてゆきます。(2002/7/31 13:46)

[米国の宗教活動・・・・・・米紙クリスチャン・サイエンス・モニターの世論調査から]
 5,682人対象の世論調査結果から。設問「9.11の惨劇から6ヶ月以上過ぎた。貴方は正直なところ、世界貿易センター破壊に背後にいる勢力の中心は誰だと思うか」

 (最初に発表された結果)
 アラブ人:26.5%
 シオニスト・新世界秩序派・ユダヤ/クリスチャン反乱分子:71%
 米国大統領府:21.9%

 その後この結果は改竄されてアラブ人主犯説の比率を上昇させているが、米国人の多数がイスラム原理派に対する謀略の臭いをかぎつけているかのようにみえる。フランスでは米国=イスラエル謀略説を唱える『ぞっとする詐欺』が20万部を越えるベストセラーになっている(ニューヨークタイムス6月22日付け)。新世界秩序派NWO(New World Order)は、現職大統領の父親が湾岸戦争時に唱えた世界戦略である。クリスチャン・サイエンス・モニターは、キリスト教科学(Mary Baker Eddyが唱えた信仰治療主義の一派。精神のみが実在であり、病気は精神的な妄想であるとする信徒数20−30万人)が発行する国際的にも一定の評価を得ている日刊紙クリスチャン・サイエンス・モニターを発行している。どうも米国という國の世論調査のデータはよく分からん。恐らく購読者の多数が信徒であるからだろうか。小稿は米国の宗教活動の一端に迫ってみたい。

 米国は宗教性が非常に強い国だ。日常の挨拶は「ゴッドブレスユー」であり、スポーツ競技は「星条旗よ永遠なれ」の斉唱で始まり、議会の開会はチャプレン(司式司祭)が登壇して祈りを捧げることから始まる(憲法の政教分離原則はない)。90年代以降、クリスチャン・ライトとかレリジャス・ライトと呼ばれる宗教右翼活動が活発化し、3大TVのメインストリームに登場し市民権を得た。主張の中心は、家族価値観・同性愛者批判・中絶反対・進化論反対などであり、公教育への介入を始めている。
 宗教右翼の歴史をみると、19世紀は禁酒法・移民制限・奴隷制維持を主張し、経済的にはリベラリズムに反対する企業規制や住民投票(イニシアテイブ・プロポジション)・リコール制などの直接民主主義を主張した。第1次大戦後は、KKKの人種差別主義やミリシア(武装極右)と連携したが、民主党政権下では後退した。ベトナム戦争とウオーターゲート事件の混乱で再登場し新右派やサイレントマジョリテイー・モラルマジョリテイーといった伝統重視を掲げ、70年代に男女平等憲法修正破棄等の成果を挙げたが、73年妊娠中絶合法化判決に対抗するヘリテージ財団を設立する。公費援助を受けて中絶手術を行うクリニックを襲撃する人工中絶救出作戦(レスキュー)と云われる狂信的な殺人作戦も展開した。90年代になると、クリスチャンライトと共和党が連携するクリスチャンコアリション(連合)が成立し、共和党の主導権を握るまでになった。
 ブッシュ政権は、宗教団体への税制優遇措置、教育バウチャー制度(私立学校通学生徒への学費補助)、判事任命の米国法曹協会による候補者評価制度廃止などを次々とうちだした。9.11以降、「米国に神の恵みを」という集団祈祷運動、学校での組織的祈祷、モーゼの十戒擁護法(公共建築物に十戒を掲げる)を推進し、「新しい世界秩序」(クリスチャンとユダヤ人だけで政府をつくる)運動を展開している。湾岸戦争時の参謀本部議長が大統領選立候補を辞退したのは、米国黒人への連帯を説く姿勢にクリスチャンコアリションが強硬に反対したからである。

 米国の宗教人口は、ロ−マ・カソリック25%・プロテスタント25%・ユダヤ教1.3%・イスラム教0.5%その他であるが、大都市部におけるイスラム教の伸長が著しく、貧困層のコミュニテイー活動を中心に他宗派からの回収者が30%近い。米国憲法修正第1条は「宗教の自由、国家と宗教の分離」を掲げているが、共和党・民主党の2大政党制の下で宗教右翼原理派が政治進出する条件があり、社会進歩のチャネルが閉ざされているという最大の問題がある。現在の米国のユニラテラリズムを背後から操作しているキリスト教原理派に対する冷静な分析が求められる。(2002/7/31 11:37)

[権力と芸術の緊張関係・・・・・ショスタコーヴィッチ『交響曲第5番』にみる]
 亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』(岩波書店)。1936年のプラウダ批判に答えたショスタコーヴィッチが畢生の大作『交響曲第5番』は実は激烈なテロル批判にあった。第5番は公式には「社会主義リアリズムの神髄を伝えるソビエト音楽の傑作」と礼賛され、終楽章は従来では社会主義の勝利をもって締めくくられると解釈されてきたが、現在ではその解釈は根本から否定された。公式解釈の虚偽性は、実はスターリン体制を擁護する芸術家の方が直感的に見抜き、例えば作家ファジェーエフ(『若き親衛隊』)は「むしろ誰かに対する刑罰のように響く。感情に訴える恐ろしい力。それも悲劇的で重苦しい気持ちを起こさせる」と日記に記している。
 公式の礼賛の背景には「ショスタコーヴィッチの反抗を反抗として認知することは、当局の威厳を根本からゆるがすものとなりかねなかった」からだと亀山氏は云う。ソ連崩壊後、スターリン主義時代の芸術や学問と権力の緊張関係を解き明かす文書情報が公開されつつあり、真実に迫る再評価運動がさらに進むだろう。
 それはドイツにおけるハイデガーとナチズムの関係を白日の下に明らかにする研究が進展し、ハイデガー哲学自体への内在的な再検討を誘発しつつあることと軌を一にした流れだ。。しかしこうしたスターリン主義やナチズムとの芸術・思想の関係に肉薄する研究が深化している欧州に較べて、国家総動員体制下の日本ファッシズムと芸術・思想の緊張関係を訣開する研究はなぜ進まないのだろうか。敗戦直後に澎湃として起こった知識人戦犯追及運動は、華々しい民主化の副産物であったが、その後の反動期を経て戦争責任と加害責任に対する緊張した罪責を真っ向から引き受けることを回避する戦後責任問題が改めて問われている。(2002/7/31 8:24)

[日本地域産業特区の発想について]
 日本青年会議所(日本JC)は、7月27日に日本経済再生に向けたプラン「活力ある日本へ」を発表した。日本経済新聞7月31日朝刊。
 現在の地域経済が抱える課題として以下の3点を指摘している。
 @地域経済の課題と個別企業の経営課題が乖離している
 A地域の既存産業が市場変化に充分対応していない
 B地域社会が産業構造の変化に対応していない
 従って日本経済再生に向けた地域社会と中小零細企業の変革が問われている。打開の方向として、
 @既成の産業分類(第1次から第3次)にかわる新しい産業クラスター(区分)を設定し、強化すべき産業分野へ戦略的投資を行う
 A既成の自治体単位を越えた経済圏単位によって経済コミュニテイーをつくり、新産業を創出し、地域の質を高める
 具体的な政策として次の4点を上げている。
 @地域産業特区を生活圏単位で創設し、研究開発・マーケッテイング・規制緩和を実施し、既存産業と中小零細企業の活性化を促進する
 A地域経済に根ざした金融システムの構築
 B公正で自由な競争を制限する規制の早期撤廃
 C地域施策や方向性を住民自身で決める「コミュニテイー立法」を導入する

 幾つかの斬新な提案があり、特区・産業クラスター・コミュニテイー法など検討の意味がある。地域経済衰弱の要因としての、誘致外来型開発政策や大規模小売店問題の分析が必要であり、ピラミッド型下請制から脱却するネットワークの形成や地域ブランドイメージなど幾つかの課題に触れていない。不良債権処理に伴う地域金融機関の崩壊やプロジェクト型開発に傾斜する地域産業政策や高齢化社会に直面する地域社会の問題など検討課題が残されている。新聞記事だけなので本格的な検討はできないが、地域経済再生に向けた刺激的な提案が含まれている。(2002/7/31 7:03)

[生物の差別的和名について]
 日本では動植物に今日の価値観では明らかに問題がある名前がある。例えば「メクラチビゴミムシ」・「メクラガメ」等に対して博物館は抗議を受けている。名前を言い換えたり、展示を中止したり、展示物の入れ替えを行う博物館が現れている。人権啓発運動によって、80〜90年代にかけて多くの人権博物館が設立されたが、一般歴史系博物館では差別問題に触れる展示はしない傾向がある。歴史資料にみられる差別の痕跡を消去してしまうことが正しいのか、現代的な価値観から過去の資料を断罪するような扱いは間違っているのか・・・・現在生きている人に不利益をもたらす効果を持つ資料は避けるべきか、過去の資料は事実として明示して対話に委ねるべきか・・・・問題は厳しい。特に生物名のように学術的に承認された「標準和名」の場合は、関連学会の問題があり、さらに学問の問題がある。文学から始まってメデイア・戒名に及んだ差別表記の問題が、いよいよ学問の世界にも避けがたい重大な課題となってきた。朝日新聞7月30日付け夕刊参照。(2002/7/30 21:18)

[蔵書大移動の夏に・・・・・・]
 本日の午前中は暇があったので、蔵書を2階から1階へ下ろす大移動をおこない、併せて煙草の脂で黄色に変色しているクーラーの清掃を行った。全身から汗が湯水のように噴き出して久しぶりに労働の実感を味わう。何年かのゴミを吸って真っ黒になったクーラーの網を洗い、雑巾で拭くと綺麗になって冷却力も回復したようだ。山と積まれた蔵書は、時代の変遷を反映して、かっての脚光を浴びた書籍も今は単なる古典的古書としての価値しかなく、学問と思想の無力が哀しく迫ってくる。書棚に背文字が見えるだけで知的興奮をもたらした書籍の数々を、1階の書庫に横にうず高く積んでいく時には、唯そこにあると言うだけの意味で捨てるには忍びないが、私の参照文献に記されることのない本の堆積に過ぎなくなった。しかし私の思索の過程においてはこれらの本はまぎれもなく羅針盤に近い知的権威を持っていたのであり、やたらと「○○的」の多い本は今はじっと廃棄の日を嫌悪して横たわっている。
 替わって登場したポスト・モダニズム風の背表紙が書棚に並び、徹底して我が世の春を謳歌しつつある。そのような時代を超えた、時代に媚びない不変の価値を持つ書を書きたいとは、誰しも願うところであろうが、それは何時の日のことか。少しはスッキリした部屋を眺めつつ、この部屋を過ぎていった現代史の激動を想い、さらに整理したいという念が深まるが、少々疲れを催したので本日はこれにて終息し、水風呂に入って冷えたビールを飲んで午前の部を終わる。午後からは評判の『ノーマンズランド』を観て、いよいよ明日からは勉強三昧だ。(2002/7/30 12:25)

[速水歴史人口学の到達点をめぐって]
 フランスで従来の政治権力中心に叙述するマクロ歴史学に対抗して、人間の営々とした生活の営みに焦点を当てる社会史学が登場する前から、実は日本の速水融氏が、結婚・出産・死亡といった人口学的なミクロ史料から歴史分析を行う歴史人口学というパイオニア領域を開拓した。農業以外の生業に注目した網野史学と並んで、初期はマイナーな研究として脚光は浴びなかったが、ここにきて急速に注目され後継研究者が輩出している。
 彼が依拠した史料は、江戸期のキリシタン禁制下の宗門改めという世界に冠たる家族史料であり、個人と世帯の構成・村の人口・誕生から死に至る個人記録が網羅されている。このデータを積み上げるボトムアップ手法で全体が見えてくる。彼の研究では、近代日本以前は大きく東北日本・中央日本・西南日本の3パターンの社会があった。東北日本は、アイヌ・縄文系の狩猟採集の生業経済が中心で、人口増減に敏感な社会が形成された。早婚で子どもの数は少なく、妻は45人産んで労働力に復帰するから、親子の年齢差は比較的小さく、3〜4世代の家族が住む直系家族中心となる。中央日本は、弥生文化をもたらした渡来人の文化が主体で、農業発展のなかで人口制限はなく、女子結婚年齢は22〜25歳と比較的遅いが子どもはたくさん産む。家族は2〜3世代が同居する核家族か直系家族であり、都市化の進展による人口移動が多く、都市死亡率の上昇が地域全体の人口増を抑制した。西南日本は、南方海洋民の文化の影響を受け、結婚年齢は遅いが、婚前出産や、離婚、再婚前の出産がが多く、比較的性行動は自由であった。家族は傍系の夫婦も同居する合同家族と直系家族であった。以上日本経済新聞7月29日付け夕刊参照。

 速水氏の研究は、主として宗門改帳の保存状態がよい諏訪・濃尾地域を対象に分析し、全国的な比較研究に移った。家族の動態から日本の社会構造を浮き彫りにしていく手法は誰も手を付けなかった未踏の分野であり、専門外の私も瞠目する。こうしたミクロ史料を駆使するアプローチは、従来の法則適用型分析手法(ある法則を念頭に置いて、その法則を証明するようなデータ収集に力点を置く石母田史学など)の限界を破るか又は補強する可能性をはらんでいる。ただし文化類型論に傾斜して、決定論に堕することなく、相互補完的な複眼的な歴史像を構築する方向に発展して欲しいと願う。(2002/7/30 8:50)

[鳥羽釣行き紀行]

 28日から1泊でY・E先生と3人での鳥羽への釣り紀行となった。海・空未だ自然を残すリゾートの片隅に漁村の生き残りを図る半漁・半観光の民宿に一夜の宿を借りて、1日目は堤防からの投げ釣り、小物1匹で釣果なし。早々に引き上げて民宿での酒宴。ほどよく酔った後の就寝がクーラーの利きが悪く睡眠での煩悶を繰り返しながら、5時に起床し6時から小舟で海上釣り堀へ。曇天で猛暑から逃れて絶好の釣り日和であった。Y・E両先生は、鯛や青物のまあまあの良釣であったが、私は鯖1匹のみに終わってしまった。11時に竿を上げて一路帰路に就いたが、なんとも口惜しい釣り行きであった。
 しかし率直に言うと鳥羽はもう開発戦略で駄目になっているな思った。こんないかにも海浜リゾートという感じのところに誰が自然の郷愁を感じて訪問するであろうか。特に山の上に金ピカの天守閣を建てた戦国時代村にはがっくりした。民宿の外は、深夜まで自動車の音がこだまし、かってのうら寂し漁村の雰囲気はなくなっているのみならず、都会の雰囲気がそのまま持ち込まれて騒ぎまくり、悠久の自然とつながるというような気配は殆どない。釣り堀なんていう経営形態も、実は効率的な釣りの退廃であり、たとえ坊主でもいいからゆっくりと釣りを愉しむことはできない。ほんとうになにか現代のバブル崩壊の荒廃を感じさせる釣り行きとはなった・・・・というのは嘘で、ただ単に私に釣果がなかった不満にかこつけてアレコレ云っているに過ぎないのかもしれない。(2002/7/29 20:00)

[イランカラプテ 朴慶南パク・キョンナム氏の講演「在日コリアンからみた有事法制」から・・・・・]
 在日朝鮮人作家朴慶南氏の挨拶は、アンニョンハセムニカ・イランカラプテ(こんにちは、アイヌ語であなたの心に触れさせてください)で始まった。

 1919年3月1日 京城・平壌で朝鮮独立宣言 3.1独立運動全土拡大(万歳事件)
 1923年9月1日 関東大震災 朝鮮人暴動デマ拡大、虐殺6000名(?)
 日本人民衆が警視庁長官のデマに踊って大量の朝鮮人殺戮をおこなうなかで、鶴見署長大川常吉は保護した朝鮮人を身を賭して守った。以下はその経過であり、朝鮮人の虐殺は鶴見署管内では防止された。
 群衆「朝鮮人を直ちに引き渡せ」
 署長「彼らは何をしたのか」
 群衆「井戸に毒を投入したのだ」
 署長「ではその井戸水を持ってこい。俺が飲んでみる」(彼は群衆が持ってきた井戸水1升を飲み干した)
 署長「彼らを殺すのなら、まず私を殺してその屍を乗り越えて行け」
 大川署長は後日なぜ彼らを助けたのか?と聞かれて「命は誰でも同じ重さを持つ。私は警察官として、その命を守る当たり前のことをしただけだ」と答えた。在日朝鮮人は戦後彼の行為を顕彰する記念碑を建立し、韓国に彼の孫である大川豊氏を招聘した。豊氏は韓国で「祖父のしたことはそんなに立派なことか?祖父は極く当たり前のことをしたに過ぎません。余りに周りがひどいので美談になるだけです」と述べた。朴慶南氏は、大川常吉署長の行動から@孤立しても勇気を持つことA知恵ある判断が大事B冷静沈着C命の重さは同じ・・・・ということを学んだと述べた。続けて若い世代に訴えることは、@死ぬなA殺すなB踏みにじるなC踏みにじられるな・・・・の4点だと静かに語った。
 早稲田実業の日本史の松本先生(現在89歳)は、戦時中の憲兵が監視する授業で、皇国史観に反対する授業を行い、「この戦争は終わりです。次の新しい時代が始まりそれは若い君たちが担うのです」と述べた。死生観のみを教えられていた早稲田実業生以外の多数の朝鮮人生徒が食い入るように彼の授業を聴講し、敗戦直前に祖国へ帰って独立運動を展開しようとしたが、その船は玄界灘で沈んだ。
 彼女は、権力の情報操作を激しく告発し、湾岸戦争時の「イラク兵が保育器からクウエート少女を放り出す」映像によって米国の攻撃が開始されたことの真相を述べた。米国の広告会社が周到に企画し、米クウエート大使館の館員の娘が数回のリハーサルの後撮影されたでっち上げ映像であったと指摘した。これは私も初耳で驚くべき情報であった。
 最後に彼女は、日本が侵略されたのは蒙古襲来1回だけで後はすべて侵略の歴史でした。なのになぜ今有事法制なのでしょうか。私は怖いのです。在日朝鮮人は炭坑の安全を予知するカナリヤの役割を担わされており、「私自身も今は息も絶え絶えだ」と思わず漏らした。彼女は一見、類い希なるアジテーターのようにみえるが、常に微笑みながら悲惨な事実を語っていることによって、逆に私たちの方が励まされるのだ。在日の人は、極限の地獄の継承者なるが故に告発者の資格を持ち、また日本を外部から冷酷に視るまなざしを持つが故に、私たち日本人よりはるかに深く現代日本を認識していると思った。
 私が大学卒業後新任教師として赴任した学園に、日本名を名乗る在日の少女がいた。なかなか活発で明朗であった彼女は、日本の民主運動に積極的に参加して学園民主化運動の指導的な役割を担い、若い私には魅力的な異性にも映った。大学進学後私の下宿を2,3度訪れた彼女は、ある日突然日本名を捨てて本名に戻したと語った。私は突然の告白に戸惑い、励ましの言葉一つ何も云えないで終わってしまった。彼女はその後韓国民主化運動に参加していったようであるが、私との音信は途絶えた。数年経った後、百貨店で思いもせぬ赤ちゃんを抱いた彼女と再会した。微笑みながら互いに挨拶を交わして終わった。今彼女はどうしているであろうか。元気でやっているだろうか。朴慶南氏の講演を聞いて、若い日のほろ苦い出会いの想い出が不意に頭をよぎった。名古屋市女性会館視聴覚室にて。参加50数名。(2002/7/27 20:59)

[武力攻撃事態における国民の自由と権利について・・・・7月24日政府見解をどう思いますか?]
 7月24日政府見解概要・・・・
 「憲法で保障されている基本的人権も、公共の福祉のために必要な場合は合理的限度において制約が加えられることがあり得る。従って武力攻撃事態への対処のために国民の自由と権利に制限が加えられるとしても、国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のための制限は憲法に反するものではない。第19条思想・良心の自由、20条信教の自由は、内心の自由という場面にとどまる限り絶対的な保障を受けるが、外部的な行為は原則として自由だが絶対的ではなく公共の福祉による制約を受ける」

 基本的人権とは文字どおり生まれながらの自然権であり、誰も一指も触れることのできない「侵すことのできない永久の権利」(第11条)としてあります。「公共の福祉」を理由として制限できるのは、「居住・移転・職業選択の自由」(22条)・「財産権」(29条)などの経済的自由の制限のみと憲法では規定しています。ところが「公共の福祉」の意味を広く人権一般に拡大すると、本来の基本的人権の意味が根本的に失われる危険があります。たとえば、条件をクリアーしている愛し合う2人の「婚姻の自由」を公共の福祉という理由で制限できるでしょうか。
 内心の自由(心の中で何を考えてもよい)と表現の自由(それを外に表してもよい)は必然的に結合し、切り離すことはできません。「外部的行為」のみを制限することは、実は内心の自由をも制限することになります。戦争はイヤだ・・と心の中で考え、その良心に従い兵役を拒否するという外部的行為は同じ良心の連続なのです。すでに先進諸国は良心的兵役拒否という行動を「内面の自由」を優先してとして認めています。だからこそ、戦後占領軍は「政治的民事的及宗教的自由ニ対スル制限ノ撤廃ニ関スル覚書」(1945年)を出して、戦前期の15種類の思想・表現の自由を制限した法律を廃止したのです。私たちは戦時期の痛苦の体験に立って、今次の武力攻撃事態対処法案を鋭く見抜く必要があるのではないでしょうか。(2002/7/27 10:54)

[2019年2月 小惑星地球に激突か?]
 直径1−4kmの小惑星が17年後の2019年2月に、地球に最接近する。衝突の確率は、7万5千分の1ないし100万分の1とされている。『サイエンス』最新号に、6500年前の北米への巨大な小惑星衝突によって壊滅的な森林破壊が全地球的規模で誘発されたということを示す初めての証拠を発見したというニュージーランド科学者のレポートがある。
 ニュージーランド西海岸にある炭坑の石炭層に残留している花粉の粒子に、高濃度イリジウムが含まれている。イリジウムを含む地層が地表に出ていた頃地球外からの降下物があったことを示している。それまで顕花植物や針葉樹・木生シダの生い茂る森林が、ある時一度に数種類の地生シダに取って代わられたのだ。シダ類が急速に大繁殖するのは、環境の激変で植物層が完全に破壊された跡に見られる現象だ。この地層での高濃度イリジウムは、植物層の破壊が小惑星の衝突期とぴったり一致する。北米以外で植物層の破壊の痕跡が見つかったのは始めてである。
 この衝突で地球規模の森林破壊と恐竜や多くの生物が一度絶滅し、地球は白亜紀から第3紀に入る境目のK/T境界となった。この衝突は瞬間的な大災害に終わらず、K/T境界の後気候変動が繰り返され、徐々に環境が回復されていった。シダの種類は、地球は衝突後大量の塵が雲のように拡がって一時温暖化したが、その後は温室効果ガスが数千年というかなり短期間で消滅し、次いで100万年の氷河期に入ったことを示している。こうした変動の過程の理由はいまだ解明されていないと報告書は云う。

 6500万年という気の遠くなる時間を経て、地球は再び生命を回復し最も高度に発達した人間という生命体をつくりだした。ところがその人間は、18世紀後半からイギリスで始まった産業革命を経て、たった200年間という極小時間で地球という惑星環境に致命的打撃を与えて傷だらけにしてしまった。温暖化とオゾン層の破壊は急速に進み生命を育む森林と珊瑚礁は急速に減少し、海水面は1m上昇しようとしている。地球惑星を最低7回は破壊できる核兵器を貯蔵し、宇宙からの先制核攻撃の体制が整備されようとしている。17年後の小惑星衝突は、すでに壊滅しつつある地球への最終的なトドメの一撃となる可能性がある。しかし私たちは、環境危機の打開の方法と核兵器廃絶の方法と知恵をすでに知っている。環境保全と核廃絶をグローバリゼーションの中心的なテーマとして直ちに行動を起こせば、17年後に麗しく再生した緑の地球という姿で小惑星を待つことができる。6500万年かけて再生された地球環境を再び回復させる契機を、7万5千分の1という果てしなくゼロに近い確率が与えてくれている。(2002/7/27 9:37)
 2019年小惑星衝突説はどうも不明確な情報であったようだ。国際天文学会での検討を経ないで事前に発表された。地球小惑星接近監視研究が進み、先行したようだ。衝突回避手段は、ロケット発射による軌道調整に一定の可能性があるようだ。(2002/8/5 7:48補記)

[朝鮮半島10年以内に統一・・・・?]
 米国ハドソン研究所のロバート・ドウジャリク上級研究員は、在沖米総領事館の招きで来日し、8日に沖縄県議会で北朝鮮問題について講演し、「朝鮮半島は10年以内に統一される可能性が高い。統一後も日本を含む東アジアに米軍が駐留することが地域安定に不可欠である。その理由は@日韓の対立を緩和し両国の協力を容易にするA日中の対立を緩和するB日米の緊密な関係を維持するうえで不可欠だ。沖縄に基地を集中させる理由はない。沖縄県外に基地を移設することは可能だ。北朝鮮の崩壊のシナリオは、@経済が完全に崩壊するAクーデターが起こるB韓国との戦争に敗れるーの3つを上げ、北朝鮮が韓国に吸収される形で統一される」と述べた。
 いかにも米国中心型の分析である。南北朝鮮で進行中の太陽政策と平和統一への試行が分析対象に入っていない。日中間の平和共存に最も障壁となっているのが米軍の東アジア駐留であるという事実認識がない。現実に進行する東アジア経済圏の進展は、このような米国の覇権システムを事実でもってゆるがすだろうし、米国経済の破局は米軍の世界展開のコスト限界を超えるだろう。実にユニラテラリズムに満ちた米国一極覇権思想の披瀝であり、米国研究機関のレベルがいかに貧しいものであるかを示している。(2002/7/26 11:21)

[地球温暖化の危機・・・・・ツバル政府の米・豪告訴への支援を心から訴えます]
 地球温暖化の指標の一つは、海面上昇による南太平洋島輿諸国の水没にありましたが、遂に島国ツバルの水没が始まりました。ツバルは9つの珊瑚礁の島からなり、総面積約26平方キロ、人口1万1千人です。平均海抜が2m以下で近年沿岸の浸水が多発し、井戸水に海水が侵入したり主食のタロイモが栽培できなくなる被害が出ています。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、温室効果ガスの排出で今世紀末までに1.4〜5.8度上昇、海水面で最大88cm上昇すると予測しています。ツバル政府は、98年に海面上昇で島が水没するとしてニュージーランド政府に、温暖化被害による環境難民として移民受け入れを要請しましたが、ニュージーランドは従来の労働者移住制度の適用を示しただけです。日本の環境省予測では、日本で海面1m上昇すると海抜0m以下の地域は現在の2.7倍の2300万平方キロに広がり、410万人が危険にさらされ、砂浜は90.3%が消失して東京・京都・大阪・秋田・福井・和歌山の砂浜は完全に消失します。『地球白書02−03年版』では、1990年代に世界の森林面積は−2.2%、珊瑚礁は−27%減少した。特に珊瑚礁の減少率は予想をはるかに超え、2010年には−40%となると予測されている。
 一方モンゴル・ウランバートルでは、寒暖の差が激化し最低気温が10年前より10度下がり、最高気温は12度上昇し、10年に1度だった干ばつが数年おきに起き多数の家畜が死んでいます。モンゴルの年間環境予算は日本円で1200万円で、測定機器も専門家も不足しています。
 ツバル政府は、温暖化対策に消極的な米国と豪州を国際司法裁判所(ハーグ)に告訴する準備を始めました。米国は京都議定書から離脱し、豪州はこれを支持して国際法に違反する行動によってツバルの主権を侵害した損害賠償責任があるというものです。ツバル司法省は、温暖化と海面上昇の因果関係の立証と損害額の算定基準の策定を進めています。
 米国ブッシュ大統領とチェイニー副大統領は、ともに石油業界出身で業界利益を優先させて京都議定書から離脱し、アラスカ州野生生物保護区域の油田開発を「石油自給率向上が重要」として推進しています。他方反大統領派は、カリフォルニア州で全米初の温室効果ガス排出削減法を制定し、GMやIBMなど10社は2010年までの再生可能自然エネルギー100万キロワットの開発計画を進めています。米国内での環境派と開発派のせめぎ合いもすすんでいます。以上毎日新聞7月24日付け朝刊参照。
 このホームページにアクセスされている皆さんに心から訴えます。ツバル政府の国際司法裁判所提訴は、温暖化の責任をめぐる世界最初の国家間訴訟であるだけでなく、危機に瀕する地球環境を守る人類を代表した裁判になる性格を持っています。この訴訟の結果は、ツバル国のみならず地球に住む生命と全人類の取り返しのつかない運命を決めるものです。学問に励んでいる皆さん、受験勉強に励んでいる皆さん、部活動で汗を流している皆さん、音楽を聴いている皆さん、海水浴へ行っている皆さん、そして連日35度を超える暑さに耐えているすべての皆さんに心から訴えます。あなたの時間の1分を、あなたの使用するお金の1円をツバル政府支援に向けてください。(2002/7/25 19:38)

[ルワンダ100万人大虐殺の「ガチャチャ」はどこへ]
 ルワンダは多数派フツ族と少数派ツチ族などの部族国家であり、植民者ベルギーは少数派ツチを重用して部族対立を煽り、94年にフツ族による100日間に及び100万人の犠牲者を出す大虐殺が起こった。刑務所には11万5千人が拘束されているが、通常の司法手続きでは約200年間かかり、生きている間の正義の実現は不可能であり、多数のビジネスマンが拘束されて経済復興にも支障が出てきた。政府は虐殺加担者を@首謀者A積極的実行者B消極的実行者C騒ぎに乗じた犯罪者に分けて、@Aを裁判で、BCをガチャチャで裁くことにした。
 ガチャチャ(由来は草の名)は、村の賢者の前で加害者と被害者が並んで事実を究明し、罪を認めた者は村の生活に戻す和解の場でもある。ガチャチャの判事は全国で26万人、法廷は1万カ所に上る。多数派フツのなかで少数派ツチが正直に被害を話せるか、加害者フツは出席しにくい等問題も生まれているが、200年の裁判を6年に短縮できる。
 南アフリカ真実と和解委員会は、通常の司法とは別にアパルトヘイトの加害者と被害者が同じ公聴会で事実を究明し、罪を認めた者は免責するという和解を実現してきた。ルワンダの方法も民族和解に向けた知恵があると思う。差別や内戦によるテロと虐殺のトラウマは深く、このような和解を認めるにはよほどの寛容が求められるだろう。それにしても果てしなく続くテロの悪循環のなかで、底知れぬトラウマを刻み込んでいるパレスチナに、果たしてこのような真実と和解の日は来るのであろうか。(2002/7/25 12:25)

[落ちた偶像・・・・欲望の連鎖・・・・米国型資本主義モデルの崩壊]
 主要米企業の破綻から。
●エンロン:エネルギー関連花形企業。粉飾会計による株価操作で破綻
●ワールドコム:全米第2位の長距離通信企業。前CEOへの不正融資と38億ドルの粉飾決算で破綻・総資産12兆円
●ゼロックス:97年から5年間で売上高64億ドル水増しの不正会計
●タイコ・インターナショナル:前CEOの絵画購入脱税起訴
●インクローン・システムズ:前CEOの癌治療薬をめぐる自社株インサイダー取引
●グローバルクロッシング:売上高水増しの不正会計
●アデルフィア・コミュニケーションズ:創業者一族への簿外融資で破綻
●AOLタイム・ワーナー:他社との紛争和解金を広告収入に計上など異例な会計処理による320億円の売上高水増し工作
●クエスト:不正決算により株価26%下落
 これらの企業は90年代のバブル期にM&A(合併・買収)で急成長した新興企業であり、株式交換で優位に立つために自社の株価をつり上げ、ストックオプションの報酬をねらう「株価本位制」のもとで、決算書類を操作するというモラル崩壊によって企業統治(コーポレートガバナンス)が崩壊した。米企業の売上高上位50社のCEOが得た年間平均報酬は1千100万ドル(13億円)で10年前の4倍だ。

 ソ連崩壊後世界標準として称揚された米国資本主義は、次のようなモデルだ。
@株主の利益極大化=株価至上主義=株価本位制
A厳格な企業会計基準と経営公開
B規制緩和によるM&A推進
Cストックオプション(自社株購入権)による取締役優遇
D起業家のためのナスダック型市場(株式店頭市場)

 株式による直接金融に依存する米企業では、上場企業は4半期ごとに決算発表するから、企業業績動向による株価をたった3ヶ月で結果を出すために狂奔する。その指標はROE(株主資本利益率)=税引き利益/株主資本×100であり、1株あたりの利益が上昇すれば株価も上昇する。経営戦略は、人件費抑制・リストラでは限界があり、株価上昇のために即効性のあるM&Aが多用されるが、最後の手段として粉飾決算による架空の黒字を作り出すことになるざるをえない。。ビジネスチャンス極大化のためのM&Aは、国民生活安定機能をもつ既成の公的規制を廃止する規制緩和を推進し、エンロンは電力自由化を媒介に急成長した。
 モデル@〜Dはすべて実体経済から背理する危険性があり、右肩上がりの株価を維持するための架空操作という惨めなモラル・ハザードが誘発された。こうしたリスクを回避するシステムとして外部会計監査制度と証券取引委員会による監視があるが、アンダーセンなど超一流会計監査企業自身が不正会計に加担していた。2001年までの3年間で破綻した米大手企業25社の208人の元幹部の報酬は、合計33億ドル(3960億円)に上った(フィナンシャルタイムズ調査)。このようなカジノ資本主義に政権中枢も加担し、チェイニー副大統領はエネルギー大手ハリバートンCEO時に未契約の長期プロジェクトの売り上げを収入として計上する不正会計を行い、ブッシュ大統領はハーケン・エナジー社役員時に2300万ドルの損失発表直前に85万ドルの自社株を売却するインサイダー取引の疑惑が持たれている。
 つまり米国型資本主義モデルは致命的な欠陥があり、世界標準でもなく世界が決して導入してはならないことが証明されたのだ。第1に最低限の公正原則すら維持できない不正取引が横行すること、第2に現代の先端企業が政官財癒着システムによって運営されていることである。レスター・C・サロー教授(マサーチュセッツ工科大学)は「どんな規制をしても株市場の公平と透明性は保障できない」と述べ、ポール・クルーグマン氏(97年アジア危機を予告)は「米市場は企業収益が実体より過剰評価されている」と批判している。英ガーデイアン紙コラムは「ウオール街の輝かしい10年は、腐敗した野放しの欲望の行進に失墜した、評判の「規制緩和」は全くの海賊行為だった。90年代から世界に波及した「民間」「市場」に対する全ての称賛は口を閉ざすだろう」としている。こうして日本型土建国家システムを批判して規制緩和を推進する米国モデルを導入する論理自体が破産した。では第3の道としての雇用や福祉水準を重視する欧州型社会的経済モデルや、人間開発指数を重視する北欧型福祉国家モデルの相対的な有効性はあるのだろうか。ポスト・キャピタリズムの本格的な考察が求められている。少なくとも我が日本だけは米国標準を死守しつつ地獄への道を歩んでいるかのようだ。(2002/7/25 10:29)

[社会解体現象はどこまで進むのか]
 幾つかの最新のデータから。

●2001年 自殺者31042人(4年連続3万人を越える) 内訳別 男性22144人(70%)・勤労者12000人(40%)・無職14443人(46.5%)・健康問題15131人(48.7%)・40歳以上中高年(75.4%) 以上7月24日付け警視庁発表
●2001年 家出人102130人(1984年以来10万人突破) 家庭関係21609人(前年比+5.1%)事業・職業関係13703人(前年比+4.1%)・未成年女性16111人(前年比+13.9%) 以上同上調査
●2002年5月 完全失業者375万人(5.0% *常用被雇用者数4600万人)
●2001年 青少年失業率 15−19歳12.2%・20−24歳9.0%・25−29歳6.7% 以上『2002年版青少年白書』から
●2001年 有給休暇取得日数8.9日(平均付与日数18.0日 消化率50%)・自由時間放棄総日数4億日・有給休暇完全消化の場合の推定誘発効果→雇用創出148万人・経済波及効果11兆8千億円 以上『2002年版レヒャー白書』から
●2000年 児童虐待相談件数17725件(前年比+6094件90年調査開始以来最高) 身体的虐待(50.1%)・ネグレクト(35.6%)・心理的虐待(10.0%)・性的虐待(4.3%) 実母による(61.1%)・実父による(23.7%) 乳幼児(50%) 以上『2002年版青少年白書』から
●2001年 刑法犯検挙・補導少年数(14−19歳)138654人(前年比+4.8%) 以上同上書から
●2001年 未成年被害刑法犯罪件数410507件(前年比+16.4%) 性犯罪被害6898件(前年比+23.0%) 以上前掲書より

 以上のデータは、日本の社会解体現象が止めどなく進み、その主要な被害は中高年と乳幼児・少年という社会的弱者に集中していることを示しています。特に日本の自殺者数と自殺率は、先進国で異常な突出した高さを示し、交通事故死亡者数の3倍以上という異常な事態は、長期不況とリストラ・長時間労働による過労とストレス、精神疾患の急増という悲惨な結果の氷山の一角です。緊急の失業対策とメンタルヘルスが求められますが、なによりも競争原理に対する社会的規制とセイフテイーネットの構築なしに、社会解体現象の克服はあり得ません。(2002/7/25 9:15)

[天地創造の最後に・・・・・めくるめく偶然の世界を生きる]

 [第1話:天地創造]
 神は先ず宇宙を作り、その片隅に小さな球状の惑星を一つ置き、そこで面白おかしい出来事が起こるように仕組んだ。その出来事はつまり生命である。たちまちプランナー志願の天使が殺到し、無数の動植物の下絵を持って参上した。全能の神は幕僚達と議論の末に大半のプロジェクトを裁可した。ところが一人困っている天使がいるので、その図面を見ると、何とも気持ちの悪い動物の絵が描いてある。ひとつはオスの絵、もう一つはメスの絵だ。他の動物と同じ4つ足なのにどうやら絵で見ると2本足で歩くらしい。体にはほとんど毛がなくツルツル、ところどころモジャモジャがあり、一番目立つのは頭。これを眼にした神は余りお気に召さないご様子。そこで天使は力説し、これは極めつけの発明で、この動物だけが理性を持ち神を称えて神殿を建立し、神の名による殺戮までしてみせる、と。「お前の云うのは、こいつらがインテリということか!そいつだけはお断りだ!」と神はおぞけをふるって断った。これを聞いて、アダムとイブの発明者は憮然として引き下がった。
 地球の誕生後、驚異と残虐、愉楽と苦悩、愛と死、美と醜、優しさと暴力、意味と無意味・・・・等などあらゆる被造物が満ちあふれた地球。夜の帳がおり、全能の神もさすがにぐったりして、ウトウトしたその時に突然、マントの端を引っ張る者がいる。あの性懲りもないアダムとイブの発明者がまたやってきたのだ。なんと危険な発明だ!と神は考えたが、一方で妙に気も引かれる。神は眠りに落ちる直前に、最後になってこの致命的なプランにOKを出した。

 [第2話:ビッグバン]
 ビッグバンの1兆分の1秒後、宇宙の温度が千兆度に下がった時に、粒子と反粒子の生成と消滅が猛烈なスピードで起こった。その後宇宙の膨張と冷却が始まり、生成がより穏やかとなりほとんど全ての粒子は消えた。その時にもし、エレクトロンが反エレクトロンより、クオークが反クオークより、わずかでも多くなかったら、物質の基礎となる素粒子が今日の宇宙には存在していない。反物質に対する物質のわずかな超過、およそ百億分の1と推定されるその超過が、数分後に軽い原子核を生み、それが百万年後に原子をなし、さらにはるか後に星をつくる重い元素となった。こうしてようやく生命世界が誕生する材料が整ったのである。この百億分の1の超過がなかったならば、私たちの宇宙は存在せず、あなたも私も存在していない。
 地球は、45億年前に宇宙の塵が集まり、細かい粒子から徐々に大きな石となって最後には星となった。この星だけに、水があり、適度の温度を保障する太陽との距離が保障された気の遠くなるような偶然の産物の結果として生命が誕生した。そして遙か過ぎた現代では、最も高度な発達を遂げたアダムとイブの末裔が、原子核そのものを操作してこの星を何回も破壊できる強力兵器を開発して星の支配権をめぐって激しく争って殺戮しあっている。以上フランソワ・ジャコブ『ハエ、マウス、ヒト』(みすず書房)参照して要約。

 第1話のギリシャ神話と第2話の現代宇宙物理学は、どちらも極微の偶然性の目眩く可能性を示している。眠りに落ちる寸前の神のたわむれがモシナケレバ・・・・・、物質が反物質を百億分の1上回っていなければ・・・・・どうなっていたか。わたしたちの生活でも「もしあの時にあのようにしなかったら、もしあの時にこちらを選んでいたら」という偶然によって今の私がある。取り返しがつかないという感覚、逆にサクセスをもたらしたという感覚、いずれにしろ私たちは偶然に翻弄されて生きるしかない存在のようだ。
 では私たちは偶然の奴隷なのか。私たちは偶然の奴隷でもあるが、主人でもありうる。もしすべての細部が「神の最初の一撃」によって決められた必然でしかないとすれば、なんと味気ない無機質の世界ではないか。動物は盲目的な本能的必然の世界を生きるが、人間は神の意志にも逆らう理性的DNAを持っている。偶然性を貫いて或る必然性が徐々に姿を現すが、それは後からの解釈による記述に過ぎない。いまこの瞬間に一歩先を予見するかのような確率の世界でこそ、私たちはこの偶然を逆手にとって思うがままの決断をくだしている。そして偶然の無限の連続として最後に必然が姿を現す。その必然の歴史的評価は後生に任せるしかない。「これが人生だったのか! よしさらば今一度!」(ニーチェ)と最後の瞬間に晴れ晴れと云える人こそ、真の主人公だ。(2002/7/24 9:29)

[中東テロの悪魔のサイクルのなかで]
 イスラエル空軍F16戦闘機は、22日深夜ガザ地区のイスラム過激派幹部の暗殺をねらい、ロケット弾で住宅6棟を攻撃し子ども3人を含む12人を殺害、約150人に重軽傷を負わせた。テロの連鎖のなかで大量の無意味且つ悲惨な死が誘発されている。このような砂地獄のような悪循環から脱する希望の途はないのであろうか。
 92年5月、パレスチナ青年が市場でイスラエル中学生を刃物で襲撃し重傷を負わせた。大勢の通行人が彼を捕らえて押し倒しリンチが始まった。靴で体を蹴るドスッ、ドスッと言う音が聞こえた。正統派ユダヤ教徒で保守派であった主婦ベラ・フロインドさん(50)は、「やめて!」と叫んだが興奮した群衆は誰も耳を貸さない。このままだと若者は死んでしまうと思った彼女は、とっさに男の上に身を投げた。彼は血だらけで恐怖でがくがく震えていた。「そこをどけ!お前も殺すぞ!」という声が聞こえ、脇腹や太股を蹴られたが彼女は若者にしがみついて離れなかった。彼女はなぜテロリストをかばったのか。彼女は、「生まれて以来私の周りは殺し合いばかりでした。不信、憎悪、対立。もう憎しみ合いはたくさん。とっさに体が動いてしまいました」と述べた。事件が報道された後、見知らぬ人から「あなたは素晴らしいことをしました。同じユダヤ人として感謝します」といわれたが、顔をのぞき込んで唾を吐く人もおり、バスの運転手からは「テロ犯を助けるような人間は乗せられない」と言われた。子どもからは「お母さんは素晴らしいことをしたけれど、もうしないでね。もしものことがあったら私たちはどうすればいいの」と言われた。自宅にはいやがらせ電話で「裏切り者」「アラブ男がそんなに好きなのか」「今度市場に来たら殺してやる」と脅迫された。以上朝日新聞7月23日付け夕刊参照。
 彼女のとっさの行動は、山手線で転落した人を助けようとして飛び込んで自ら命を落とした人の行動に似ています。こうした瞬間に彼女のような行動をとれるかどうか私は分かりません。私もリンチする群衆の一人であったかもしれません。彼女と彼女を励ました人は、静かに深く進んでいる平和への願いを象徴しています。テロと暴力の連鎖から何も生まれないことは、当事者の理性から互いに分かり切ったことです。にもかかわらず当事者として現場にいれば憎悪が優先するのです。しかも現在は米国の反テロ戦略によってイスラエルの報復は悲劇的なスタンダードになりつつあります。ユダヤ人は本来豊かな感性と知性を持って、西欧を彷徨いながら素晴らしい音楽や文学・科学を生み出してきました。第2次大戦で悲惨な迫害をナチスから受けたユダヤ民族は、アラブ人を追放して同じようなパラドクシカルな行為を犯しています。「人間の深さや豊かさをつくるエネルギーが目の前の対立と憎悪に吸い取られてしまいました」(前記フロインドさん)。「目には目を 歯には歯を!」を掲げるイスラム原理主義の行動も出口の見えない哀しい戦術です。92年にテロリストを救った市場で、10年後の今年再びテロ事件が発生し、彼女の考えはまた大きくゆらぎ始めました。
 願わくば彼女のような人が双方の多数を制して平和への願いを歩んで欲しいと思いますが、その前提は追放されたアラブ人のパレスチナ国家独立以外にありません。しかしこのようなことを日本人である私が助言する資格はありません。なぜなら日本政府は米国のジュニア・パートナーとなってイスラエル支援政策を恥じらうことなく展開してきましたし、今はもっとより強くパレスチナを見放す政策をとっているからです。いま酷暑のなかで受験生諸君は必死に勉強していますが、どのような専攻を選ぼうと、地上の片隅で悲惨な殺し合いがどうしたらなくなるかを大学で我が事として考え抜くことを切に願うものです。(2002/7/23 18:27)

[学校の株式会社化について]
 次の計算をし漢字の読みを記しなさい。18+33=? 273÷3=? 140÷0.5×0.05=? <非業>の死 <帰趨><昵懇>の間柄 
 トヨタなど200社は社員に毎日読み書き計算ドリルを課し帰宅後1日30分は机に向かわせる。他に小説など月に最低3冊の読書感想文を提出させる。以上は会社の学力向上を謳う研修会社アイウイルが添削する。「10人中9人は読み書き・しつけもできていない。計算や国語の基礎ができないヒトに独創的な考えを期待しても無理です」(同社社長)。リクルートは毎年5千社敬10万人のが受験する入社試験の結果を分析し、「計算や論理の基礎学力は落ちていないが、語彙力が低下した」とし、「高卒社員の学力低下がひどく、仕事に支障が出る」(東京電力)ので6ヶ月の社内授業を始めたが「発見したのは学ぶ意欲が極端に低下したことだ」とし、バイク急便は「基礎学力そのものより意欲が問題だ」としている。

 政府の総合規制改革会議は、学校経営の株式会社化を提案し、教育需要に直結した顧客満足型教育や株主の意向による教育内容の改変など競争原理による教育の活性化が実現されるとする。この背景には、経済界の教育政策が大きく転換していることにある。従来は学校を学生の選別機能と位置づけ、教育内容は入社後の企業内教育と終身雇用制によるOJTでカバーしてきた。ところが終身雇用制の崩壊とリストラの常態化は企業内教育の比重を低下させ、職業的スキルの育成が学校の教育内容に求められるようになった。経済界の求める人間像は、「考える力、広い知識、教養の裏付けのある高い専門性、世界に発信できる能力」を持った人間だ(経済同友会代表幹事)。
 ここにみられるのは、国内の教育は高度の専門的なスキルを持って国際的に活動する多国籍企業の上層労働力であり、事務や労働集約的労働力は海外で調達するという発想であり、国際競争に勝ち抜くマンパワーの育成であり、そのような極く少数の人間を育成するための学校教育の市場化だ。

 現在子どもの学力低下に関する危機論争が激しい。日教組報告では、戦後の学力低下論争を5期に分け、何れも不況期に起きているとしており、現在の第5期学力低下論争は経済界が前面に出ていること(大企業の社長でつくる地球産業文化研究所は新指導要領の中止を求める提言を首相に提出した)、通産官僚が新たな文教族として登場し政府内部で文科省批判が起こるなど社会全体を巻き込む大論争になっているという特徴がある。以上朝日新聞7月20,21日付け記事を参照して筆者要約。
 では学力低下を客観的に示す調査データはあるのか。実はない。世界の児童学力調査結果でも日本の児童の学力は分野の問題はあるにしても世界トップクラスだ。では何が問題なのか。それは学ぶ意欲自体が決定的に衰弱しているということだ。つまり現代の学力問題の焦点は、戦後日本教育史上初めて大人を含めたこどもの学ぶこと自体への忌避・拒否・逃走が誘発されていることにある。ではなぜ学びへののぞみが絶たれてしまったのか。ここを解明しなければ全ての処方箋や対策は、対症療法に終わり社会自体の解体現象を食い止める有効性は持たないことになる。
 端的に言うと、日本の中学高校生の3分の2が「21世紀には希望がない」,85%が「日本社会の一員でない」と答えて世界の子どもと全く逆の傾向を示していることだ。私たち大人は、子ども達から希望を奪うような社会システムをつくりあげているというここにこそ基本的な問題がある。この失望と絶望を生み出した原因の一つは、弱肉強食の競争システムをなんの恥じらいもなく脳天気に主導する国家政策にある。終身雇用は崩壊し、どんな大企業も明日は倒産の憂き目にあうという事態は、従来の企業内安定型生活スタイルを掘り崩し、将来目標に向かう努力自体を虚しいものとするニヒリズムをもたらした。子どもの世界に自然に生まれる、互いに励まし合って協同するなかでよきライバル関係を構築してきた従来のシステムは破壊された。未来志向性を失った子ども達は、目の前に溢れかえる刺激的な大衆消費文化の暴力を全身に受けて、現在ー将来ー未来をつなぐ連続的な視野を奪われ、現在の時間軸に埋没し漂流している。疲れ切った子どもの幸福観は「ゆっくりと眠る」といった1次的・生理的次元に堕している。

 こうした教育の解体を学校の株式会社化によって救い出すことができるだろうか。学校会社の主要目標は最大限利潤の追求であり、株主の利益最大化である。儲かる学校とは、進学率を保証する偏差値であり、しかも従来型の全国偏差値ではなく、高度の個性化された偏差値である。「広い知識と教養に裏付けられた高い専門性」を輩出する最高位の頂点校から低辺校に至る目も眩むような学力の垂直編成のなかで、学校の淘汰が進行し、恐るべき大量の脱落者が生み出される。そうではなく、個性化された能力を局部編成する水平型のシステムだとしても、広い知識と教養を剥奪された部分能力はやはり敗者なのだ。

 では学力問題を真に打開する方向はあるのだろうか。私は、協同・共生型競争をキー概念とする社会システムに転換するなかにあると考える。「勝った、負けた」を至上価値とするのではなく、「伸びた」かどうかを至上価値とする内発型システムだ。そこでは、相互の成長を讃え合う励ましの関係があり、他者の喜怒哀楽を自らの喜怒哀楽とする相互浸透の関係がある。競争に勝たないと生存が保障されないといった動物的な関係ではなく、競争のなかで自他の尊厳を評価し合う協同の関係だ。教育の本質は、人間の全的な成長の条件を作り出すすぐれて公共性ある営みであり、金儲けの対象とは本質的に馴染まないものである。(2002/7/23 12:08)

[社会解体現象をどうみるか]
 中高年の自殺者が年間3万人を越えるという異常事態は、失業率の上昇や雇用形態の激変・自己破産件数の激増を背景としている。利己的と非難される「パラサイト・シングル」は、若年層の雇用に規定されて容易に離家しにくい背景がある。少年犯罪の激増を示す客観的データはないが、90年代末からひったくり件数は増加している。私学での学費納入困難による退学者が増加し、高卒無業者数が高卒就業者数を上回り、若年層は社会での落ち着き場所を失いつつある。
 このような社会解体現象をとめどない「個体化」・「私民化」現象の結果と見る視点は、失敗や敗北を個人の問題としてとらえ、社会問題としてとらえない。ここから強い権威による危機対応として、例えば少年法改正や「三国人」非難(石原都知事)という統制強化がでてくる。自己決定・自己責任を唱える新自由主義市場原理は、強い個人を前提に弱い個人は淘汰されるかせいぜいセイフテイー・ネットの対象でしかない。
 ここから自分は社会からの脱落者だとする意識がひろまり、大規模な脱社会感覚として現れてくる。青少年の意識についての国際比較調査(日本青少年研究所 00年)は、3分の2の中高生が「21世紀に希望がない」として他国と逆の異常な傾向を示している。先進国では、下層青年層の街頭暴力の脅威に対する上層市民による治安政策が推進されているが、日本では逆に自己破壊的な社会攻撃が進むという特異な現象が現れている。日本では抑圧の下方移譲によって、縁辺層ほど水平暴力が噴出している。小学校高学年からはじまる思春期・少年期の世界で、恐喝による金銭授受が当たり前のように横行し、そこをくぐり抜ける知恵による自己防衛が常態化している。いじめが心配なら私学に行け・・・・といった政策的な言説は水平暴力によって逆に上層の脅威が和らいでいることを示している。
 90年代のイジメは、「いじめ切る」残酷さと被害者の自死を「当てつけに死んだ」と攻撃する点で80年代と決定的に異なる。被害者は、無惨にも自分の尊厳を守るが故の「いじめ切られること」の究極の結果として「死」を手段としている。はてしなく内向的になる水平暴力の深度は、同時に自己の「無力感」に比例している。自らが尊重されるような実体験を生む集団や組織が衰弱するなかで、集団や組織一般に対する不信感や離脱意識が強まり、デイアスポラ(漂流)のスタイルが自然となる。
 デイアスポラする個人は、外的な権威にも平然としているニヒリズム、自分の弱さをさらさない自己防衛機制を身につけて、問題を内向させてなんとか自己処理しようとする。我慢しないで反抗する人はかっては英雄化されたが、いまや敵意の対象となる。自分がこれだけ我慢しているのになぜ彼らは放置されるのか、なぜ彼らはフリーライダーなのかという不公平感がつのる。内向する無力性は、「無力であること」に仲間意識を求め、他の人も同じように無力であって欲しいと願う。この内向した無力性は、潜在的な反抗を無限に蓄積するから、電脳世界でのむき出しの攻撃となって暴発する場合もある。
 こうした自己解体的な無力さの内向化は、他者に対する痛みの感覚をも失い「壊れた」状態となって、人間らしい最後の尊厳をも失わせてしまう。どれだけ貶められ、無視され、損害を受けても反逆しない状態となった人間は、他者に対しても同じような状態を求め、堂々と自己主張したりする人間を異端として排除したり攻撃するに至る。こうして互いに無関心で酷薄な関係のなかで、相互の安全を維持しようとする「理想状態」があらわれる。
 新自由主義市場原理は、「強い個人」になりえない「弱い個人」を弱者・敗者として無力感を抱かせ、あたかも自分自身が社会に存在しないかのような状況に追い込む。こうして愛情共同体である家族や地域の紐帯までも競争原理に浸食され、子どもを産まない家族や結婚しない男女という究極の社会的解体が進む。愛情も「強い個人」によって独占される。
 このような敗退する弱者の突破口として提示されているのが、小林よしのり『ゴーマニズム宣言』や猿岩石の冒険であり、先進日本国より弱い層への拝外主義的な情熱である。ブラジル人少年を襲撃して殺害したのは、逸脱する日本人少年達であった。これをしもファッシズムの心理的基盤ではないか。以上現在の社会的解体現象に対する分析であり、対抗可能なオルタナテイブの提示は次回に回したい。しかしこれはホントニ難しい。(2002/7/22 13:17)

[米国防総省報告『Findings of the Nuclear Posture Review(NPR)核態勢見直し』(1月9日)について]
 米国が核兵器を使用する非常事態を次の3つに分類している。
(1)即時非常事態:イラクによるイスラエル攻撃、北朝鮮による韓国攻撃、台湾をめぐる軍事対決
(2)潜在的非常事態:米国に敵対する軍事同盟の出現
(3)不意の非常事態:核保有国内の政権交代による敵対的指導部の出現、突然の大量破壊兵器所持
 仮想敵国は、中国・ロシアの核保有国と「ならず者国家」(北朝鮮・イラク・イランシリア・リビア)であり、非核保有国への一方的核使用政策が提起され、特に北朝鮮・イラクは「慢性的な軍事的懸念国家」としている。
 NPRは、従来型戦略核戦力(戦略爆撃機・大陸間弾道ミサイル=ICBM・潜水艦発射ミサイル=SLBM)にかわる新3本柱(核兵器+攻撃用通常兵器+ミサイル防衛=MD)をめざす。NPRは、核攻撃と生物化学兵器による攻撃のほか、「不意の軍事的事態の展開」に核兵器を使用する。米国防総省機密文書「2004−09年国防計画指針」は、冷戦型戦略から脱皮した先制攻撃に対処するハイテク兵器の開発を提起し、アアフガン型脅威・大量破壊兵器に対処する精確な攻撃と地下攻撃兵器開発を求めている。具体的には、バンカー・バスター爆弾への核兵器装填と無人戦闘機部隊創設であり、すでに地下貫通核兵器の開発は03年度会計から予算措置が執られ、3月の下院軍事委員会では、地下核実験の再開をめざす準備を2年以内に行う提言がまとめられた。
 NPRは、今後20年間の主要挑戦課題を7種の核兵器に置き、@地中貫通核爆弾B61-11A潜水艦発射ミサイルW76/W88B空中発射巡航ミサイルW80C熱核爆弾B83D大陸間弾道ミサイルW78/W87の21世紀半ばまでの主要使用核兵器としている。核兵器開発の人材育成計画である「国防生産基盤の再活性化」政策は、核エネルギー管理をおこなうエネルギー省核安全保障局と国立核兵器研究所の合同による「先進弾道概念チーム」を再構築し、次世代設計者とエンジニアを養成するとしている。
 NPRは、核兵器とミサイル防衛(MD)を結合する構想を提起している。従来のMDは、敵の先制攻撃をミサイルで迎撃するシステムであるが、迎撃ミサイルに核弾道を搭載して米国側の一方的先制攻撃を可能とする先制核攻撃戦略に転換する。MDは、米国の宇宙独占支配計画と連動し、戦略核兵器を管理する戦略軍と弾道衛星を管理する宇宙軍が統合される計画が進んでいる。まるでかっての大日本帝国の「高度国防国家」構想の21世紀版をみているようだ。
 こうして地球惑星全体を宇宙規模で米軍が支配する一極帝国の覇権という巨大な軍事構想が提起された。全世界が星条旗の前に忠誠を誓ってひれ伏す21世紀システムだ。米国は究極の軍事的支配によって、世界の経済と社会・文化をも一極支配するだろう。地球惑星に君臨してそびえ立つ一極帝国システムという、まるでスターウオーズを地で行くような構想だ。

 しかしこの構想の現実的な結果は、惑星規模で拡がる核戦争と被爆の際限のない悲惨な累々たる死であり、米国本土も例外ではなく、米国自身も地獄への途をのたうつ破局に直面する。NPR構想の背景には、破産に瀕する米国経済を軍事的ケインズ主義によって救済する最後の致命的な選択があり、実は米国自身が展望を失って打ち出した最後のあがきにみえる。巨大な軍事予算の調達は、米国財政を破綻に導き世界経済のカタストロフィーを誘発する。米紙の終末時計は今年2月に2分進められ「人類破滅まで7分」となった。核兵器廃絶と平和経済への転換を求める国際的な世論が爆発的に昂揚し、逆に米国が孤立することは明白ではないだろうか。ヒト一人の命は地球よりも重いのだ。

 *参考資料[世界の核兵器の現状]
●米国 保有核兵器10600発うち7000〜8000発実戦配備(戦略核弾頭6480発、ミニットマン3型500基・XP型50基のICBM1700発、18隻原潜SLBM432基3120発、長距離爆撃機115機1660発)、非戦略核弾頭1670発。核兵器総爆発力TNT火薬換算1800メガトン。
●ロシア 保有核兵器18000発うち8400発実戦配備(略核弾頭5000発、ICBM706基3011発、原潜14隻232基SLBM
1072発、長距離爆撃機78機868発)、戦術核兵器3400発。
●英国 保有核兵器200発すべて戦略核弾頭で原潜4隻配備、総爆発力55.5メガトン、戦術核兵器は98年で廃絶。 
●フランス 保有核兵器350発すべて戦略核兵器で原潜3隻48基288発、爆撃機84機60基巡航ミサイル。
●中国 保有核兵器400発(戦略核兵器250発うちICBM20発・中距離ミサイル120発・SLBM12基)
●インド 95発分の核物質保有、保有核兵器30−35発
●パキスタン 52発分の核物質保有、保有核兵器24−48発
●イスラエル 保有核兵器100−200発 爆撃機255機・ミサイル100基
●核疑惑国 北朝鮮国1−2発分の核物質保有、イラク70年代製造開始?、、イラン研究中?、リビア70年代中国から購入?、南アフリカ6発核兵器保有ご91年廃棄、ブラジル90年計画放棄、アルゼンチン83年計画放棄、ウクライナ・ベルラーシ・カザフスタンは全てロシア移管。(2002/7/22 8:28)

[暑い夏は 自由且つ自己実現の充電の夏だ]
 学生の喧噪が一斉に学園から消え、クラブ活動や秋の学園祭に向けての準備をする姿が見える。明治以来百数十年今年も夏休みがめぐってきた。自らの自由意志にもとづいて、自らの自由な選択と行動が実現される壮大な時間がスタートした。灼熱の太陽が蝉の鳴き声のなかで降り注ぐなかを、川遊びと山野を駆けめぐったかってのめくるめくよなワクワクする気持ちで迎えた夏も、じょじょに年齢を重ねるに従って時間の純潔性への処女のような期待は薄らいできたが、出発に当たって為すべき何ごとかを決定しなければならないという気持ちも依然として強い。不惑の年を越えてなお惑いのなかにあるこの身の世俗をあざ笑いながら、決然たる選択の渦中に自らを投げ込まなければならない。
 今夏の課題は、第1に「地域産業ノート」の完成、第2に出版情報化と公的規制の紀要論文の完成、第3に身体の再生産に向けての基礎的ちからを再構築すること、第4に研究集会での旺盛な知的刺激の吸収、第5にできうるならば山か高原での開放された生活、第6に田舎の実家の補正などだ。午前中は1と2に捧げ、午後は3に投入し、対費用効果を極大化しなければならない。
 皆さんとの再開の日に、何ほどかの成果を引っさげて相まみえることを記してまずは第1歩を記す。初日の朝は、なぜかステレオ・プレーヤーのガラスが全壊し、砕け散った破片を掃除してプレーヤーそのものを廃棄するというなんとも無惨な事態とはなってしまった。何だ一体!心して歩めという警告か!? (2002/7/21 9:32)

[イタリア心理圧迫被害者救済運動(MIMA)について]
 イタリアでは価格競争が激化するファーストフード業界中心に、職場で非効率な労働者に心理圧迫を加えて退職に追い込む事件が相次ぎ、01年政府調査によれば全ての業界で被害者は約200万人に達するという。すでに欧州連合(EU)では89年に労働者の健康と安全改善の指令を発し、フィンランドやスウエーデンは心理的圧迫を禁止する国内法を制定した。イタリアでも同様の国内法制定運動が進み、職場での孤立・遠隔地配転・セクハラ・部屋への閉じこめなどの心理圧迫を禁止し、告発後5日以内の行為停止命令と被害者補償義務を立法化しようとしている。
 驚いた。社会的人権と厚い労働権保護が定着しているはずの欧米で、このような職場内心理圧迫があるとは。グローバルな企業間競争が激しく進むなかで、利潤極大化を追究する経営戦略が欧州の社会的文化を破壊しつつあるのだ。欧州は輝かしい「労働の人間化」の先端を歩み、グローバリゼーションの問題は移入外国人の排斥が焦点となっているものと思っていたが、間違いだった。
 基本的には新自由主義市場原理の弱肉強食文化が、欧州の企業文化をも浸食しつつあることを示している。しかし日本では、グローバル化が進む以前から、企業主義的な統合のなかで職場での陰惨な排除が進み(ガラスの檻)、少数派労働運動は徹底的に排除されてきた。しかも集団主義的な伝統文化が強固に埋め込まれている日本では、個人や異端に対する同化強制の圧力は二重に強い。出向や遠隔地転勤が常態化し、リストラに対する政府の補助金が出るという恐るべき企業国家になっている。
 しかしここにきて、運命共同体と位置づけられた企業がアッサリと倒産したり、献身的に働く労働者をいとも簡単に整理する野蛮な経営のなかで、自己の人生を企業に重ねる価値観は一挙に衰退してきた。とくにそれは青年層に顕著に見られる。日本社会の解体状況の進展は著しく、「日本社会の一員とは感じない」中・高生が85%に達し、自分は日本人ではなく本当は白人だと思っている中・高生もいるという驚くべき実態がひろがっている。「家族の一員だと感じたことがない」というこどもが小学校高学年で4人に1人、中学校で3人に1人という調査結果もある。和歌山県小・中学生12000人対象の調査では、「日本の社会は人に優しくない」と答える小学生が50%、中学3年生で73%に達している。
 企業のみならず家族という愛情共同体までもが砂のような「他人は他人、自分は自分」という共同性を剥奪されてバラバラの「個体」になってしまった。企業内での排斥は、子どもの世界では「いじめ」というかたちで発現し、しかも90年代以降のいじめによる自死は「当てつけで死んだ」という、死んだ人間を逆に怒るという信じがたい倒錯した状況が起こっている。電子上での匿名に隠れた他者攻撃は陰惨を極め、果てしなく泥沼のような人間らしさの喪失が進んでいる。排斥と他者攻撃は、自らがそうならないための保険のように位置づけられ、競争の敗者予備軍のストレス発散の主要な手段ともなっている。
 結論的に云うと、企業でも学園でもこの世で生きていけない人は徹底して排除し、最終的には死んでもよいという無惨な意識が自然だと感じてしまう究極の疎外が起こっている。逆に、敗者の勝者に対するルサンチマン(恨み)が深化して勝者に対する暴発的復讐(大阪池田小事件)という対抗行動が誘発され、人間らしい豊かなヨコのネットワーク関係が失われつつある。すべての社会的な退廃現象の原因は、新自由主義的な無差別競争原理にある。新自由主義は、結果の平等よりもチャンスの平等を説いたが、今や日本ではチャンスの平等も確保されず、社会的に上手くいくかどうかは結局は偶然的な「運」なのだという意識が若者をとらえている。「努力すれば何とかなる」という意識が衰弱し、「世の中は運だ」と思う若者が30%を越えた。
 さてこのような非人間的な現象はとめどなく進展していくのであろうか。希望はないのであろうか。希望はある。かっての強制収容所における究極の疎外のなかで、なおかつマクシミリアン・コルベが存在することが証明され、山手線の転落事故で直感的に助けようとして自らの命を犠牲にする人がいる。グローバリゼーションに対抗するNPO運動は遼原の火のようにひろがっている。つまり負の現象は必ずそれを否定する正の現象とパラレルに進んでいく。人間の喪失の体験は、より一層高い次元で人間性を再建する可能性の条件をも準備している。もう疲れ切った闘争や対立の世界とキッパリ訣別して、手をつなぎながら歩み出す希望の時代を選び取った方がいいという人々が沸き起こる夏雲のように現れるだろう。それはキット余り目立たない形であなたの身近な隣人の何気ない行動をとりながら、おそらくある日積分された巨大な力となって噴出するだろう。夏休み初日に記す。(2002/7/20 8:45)

[ステイグリッツのIMF批判]
 J・Eステイグリッツ(97年から3年間世界銀行副総裁・クリントン政権経済諮問委員会委員長・01年度ノーベル経済学賞)が痛烈にIMFを批判し、「IMFの構造調整政策は、多くの国で飢餓と暴動を生み出した。結果がそれほど深刻でなく、どうにか一時期の成果を促した場合でも、その恩恵の行き先は富裕層に偏り、下層の人々は更なる貧困に直面することがある。だが、私がもっと驚いたのは、こうした政策に非常に重要な決定を下すIMF上層部の人々が誰も疑問を持たないことだった」と述べてアジア通貨危機に対するIMFの対応を批判し、全世界の反響を呼んでいる。
 IMFは1944年のブレトン・ウッズ協定により設立された為替相場安定を目指す国際金融機関であるが、70年代以降の途上国累積債務を解決する構造調整政策を進めた。短期ドル融資の条件として、支払い能力を高めるための需要抑制・賃金切り下げ・政府支出削減・平価切り下げ・輸入自由化を推進したため途上国の国民生活は極度の貧困に陥った。こうしたIMFの政策が逆に累積債務を増大させ国際通貨危機を誘発する危険性が増大した。世界銀行(国際復興開発銀行IBRD)は、IMFと同時に発足した先進国向けの経済復興のための長期ドル融資をおこなう機関であるが、実際には米国民間資本導入の露払いの役割を果たした。両者は共同して構造調整政策を進めたのである。
 ステイグリッツは世界銀行副総裁であり、自らも途上国の貧困の責任の一端を担っているから、目くそ鼻くそを笑うの感なきにしもあらずであるが、米国スタンダードによるグローバリゼーションのなかで生じている途上国問題の評価をめぐって新自由主義市場原理派の間に対立が生じていることを示している。これはおそらく対テロ戦略をめぐる国務長官と国防長官の対立とも連動していると思われる。
 国際通貨危機期の根元にあるドル支配が問題であり、両者の対立はドル支配を推進する方法上の差異に過ぎない。巨視的にはドルに対抗するユーロ型地域通貨モデルが、アジアでも立ち上がりIMF・世界銀行のくびきから解放される必要がある。(2002/7/19 21:38)

[1枚の写真がある]
 広島原爆投下直後のネガ写真が、米国メリーランド公文書館カレッジパークで発見された。金属缶に保存され状態はかなりよい。原爆投下12日前の45年7月25日に撮影されたものが59枚。投下翌日の8月7日が4枚、8日が28枚、11日が24枚あった。撮影範囲は、現在の広島市中・南・西区のほぼ全域と東・佐伯・安芸区とその周辺の一部。投下直後の写真は県産業奨励舘(現原爆ドーム)や日本銀行広島支店を除き焦土と化している。日本の国土地理院が所有している被爆前後の広島市の航空写真は、39年に旧日本軍が撮影したものと47年に米軍が撮影したものだけだ。以上朝日新聞7月15日付け。
 さまざまの想いが浮かんでよぎる。直前の整然とした元安川と広島城をはさむ広島の道路の街並み、直後の全てが焼き払われた白い野原を唯一本の蛇行する元安川。そこには無数の死体が焼けただれ、煙を発して横たわっているに違いない。阿鼻叫喚の巷は、写真からは浮かび上がらずただノッペラボウの焼け跡がひろがる無機質な風景だ。想像力の貧困を恐ろしく実感させる写真だ。
 それにしても残された建物が産業奨励館と日本銀行の2つのみだというのがさらに象徴的だ。産業と金融のメッカが地獄のなかでも生き残る力を持っていたのだ。なにか近代日本の開発経済を象徴しているような気がする。(2002/7/19 19:27)

[欧州石炭鉄鋼共同体ECSCの終焉と東アジア]
 第2次大戦後の欧州不戦の誓いから1952年7月23日に発効したECSCは、基幹産業の共同管理と市場統合によって、フランスとドイツの資源獲得争いを封じ込め、今日のEU欧州連合の基礎を作った。第2次大戦後壊滅状態にあった鉄鋼と石炭産業は、関税障壁の撤廃によって再建されたが、60年以降の産業構造の変革に対応できず今や衰滅の運命にある。ルール地方の拠点都市エッセンは、80年代に閉鎖されるまで最大級の炭鉱地帯としてドイツ復興を牽引したが、今はユネスコ世界遺産に指定され、青々とした緑の町に変容した。
 「石炭と鉄鋼は経済力の鍵であり戦争の最大の要因であった」(ECメモワール)として、独仏不戦共同体のプランとしてシューマン・プランが立ち上がり、欧州経済共同体EEC→欧州共同体EC→欧州連合EUへと発展した。チャーチル英相が46年に欧州合衆国構想を提唱してから50年を擁した。
 欧州における不戦共同体構想から国家連合に至る米国経済圏から自立する過程に比して、アジアにおける不戦共同体は全くその兆しもうかがえなかった。欧州の文化的自尊に比する日本の国家的矜持はなく、戦後日本はひたすら米国のジュニア・パートナーとして屈辱的な戦後を刻んできた。しかし微かに最近は、米国型グローバリゼーションに対するアジアの独自の動きが見られる。それは我が日本ではなく、マレーシア・マハテイール首相の路線である。彼は、民族的尊厳を賭けてIMF路線への自立政策を展開してきた。日本に於いても、ちゅうごく=韓国=日本を核とする東アジア経済共同体構想が浮上している。この構想が、米国スタンダードに対するアンチ・テーゼとしての自立的な国際経済圏としての可能性を持っているか、どのように構築していくのか未だ未知数でha
ある。(2002/7/19 19:00)

[マジック 極東概]
 敗戦直後に日本軍が、組織的に公文書を処分していたことが米国立公文書館の公開資料から明らかとなった。外交上不利益となる公文書の焼却を指示する日本軍の暗号通信を傍受して解読していたからだ。その文書は「マジック 極東概略」といわれ、米陸軍省が関係部門に配布した速報だ。処分の指示は45年8月15日午前0時に始まった。
 「ご真影や連隊旗、天皇の手によって書かれた書類を集め、部隊指揮官は崇敬の念を持って焼却せよ」(午前0時 野戦司令部命令)、「陸軍の機密文書と重要書類は保持している者が焼却せよ」(午後)、「敵の手に落ちたとしても帝国にとって外交上不利にならないもの(捕虜のリスト、死亡記録)」(16日海軍省軍務局命令)、「(登録簿、勤務経歴)即座に焼却せよ」(20日支那方面艦隊)、「化学戦用機材、ダムダム弾を処分せよ」(8月24日 インドネシア海軍23根拠地部隊)などなど・・・・・・。
 戦犯追及に備えて不利な証拠を冷静に識別し、徹底的な組織的処分が行われたことが分かる。ここに日本軍と欧米軍の決定的な差異がある。欧米軍は、自らの行為に徹底的なプライドを持つから、たとえ敗れたとしても詳細な記録を後世に残して歴史家の判断に委ねようとする。それは責任意識と云うよりも、神に対する自己の存在証明であり自らの行為への矜持であった。従って戦争に限らず、欧米では歴史の記録=記憶が厳密に保存され後世に残されていく。たとえそれが犯罪行為であったとしても、ニクソン大統領のウオーターゲート事件に関する犯罪を証明する記録は細部に渡って保存されていたのだ。
 ここに「神よ我を照覧あれ」・・・・悪人であればこそ逆に神の審判を恐れる文化が厳然としてある。日本的なあいまいで水に流す文化との原理的な差異があり、これは戦争犯罪をめぐる過去の克服という現代の問題に確実につながっている。以上朝日新聞7月18日付け夕刊参照。(2002/7/18 20:50)

[太郎を眠らせ・・・・・・・・]

 雪              三好達治

 太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ
 次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ

 たった2行の詩です。月明かりの夜に雪がしんしんと降りそそいでいます。何も聞こえない静寂のなかで永遠の時間が過ぎゆくかのように雪は降りそそでいます。なにかこの世の汚れをすべて洗い流すかのごとく雪はあくまで静かに降りそそいでいます。私の心も洗い流されるようです。私は、この詩を高校時代の角川教科書で初めて読みました。なんか大きな安らかな、あったかあい包まれるような気持ちを抱きました。学生期には、戦前の寄生地主制下の貧しい小作人が泥のように疲れて眠りこむ茅葺きの農家を想いながら、農村の貧困の救済のイメージを想い浮かべていました。今でもそれは変わりません。
 しかしこのような静かな詩的イメージの想像力をとらえた三好達治氏は、太平洋戦争期には痛ましい戦意昂揚歌を作りました。智恵子の死を悼んだ絶唱とも云うべき抄歌を歌い上げた高村光太郎氏はさらに激しい戦争歌を献上しました。このような経過を見ると、詩人の世俗的生は自らの詩を冒涜しているかのような残酷な現実に翻弄されています。いっそ、詩は詩人を離れて詩だけで自立して欲しいとも願います。それほどこの詩は私の心を掴んで離さないいのちというかオーラを放っています。すべての諍いを包み込むような神の調べとも聞こえます。
 小学校の授業では、この詩は超越的な神や無限のイメージに迫る教材として使われているそうですが、私もそのような教材化を決して否定するものではありません。しかしやはり戦前期の貧しい農村の生活の現実と切り結ばない授業はなにか寂しい気がするのです。三好氏自身の意図とは違っていても、袖寄せ合いながら生きていく明日がない小作人のつかの間の癒しの歌に聞こえるのです。
 なぜ太郎と次郎なのでしょうか。姉さんや妹は屋根の下に一緒に眠っていないのでしょうか。姉さんはもしかしたら人買いに曳かれて吉原に向かってトボトボと歩んでいるのではないでしょうか。妹はしょぼん玉の歌を歌いながら間引かれてしまったのではないでしょうか。これは私の勝手な想像ですが、そんな全てを包み込みながら雪はあくまで沈黙の裡にひたすら降りそそいでいるのです。(2002/7/17 20:20)

[『いくたびか死線を越えてー金大中自伝』を読んで]
 第15代韓国大統領である金大中氏の、生い立ちから大統領に就任するまでの波乱に満ちた半世紀である。現代大統領経験者の中では、南ア共和国前大統領マンデラ氏と並ぶ激動の半生であろう。私は、金大中氏の政治的立場を必ずしも全面的に支持するものではないが、この自伝を読むと、激しい祖国への想いや責任感、民族の尊厳とか矜持が強烈に伝わってくる。多忙な職務を縫って記したものであり、恐らくゴーストライターがいたことも想像できるが、それにしても日本の政治屋に近い政治家とは較べものにならない高い次元で行動していることが分かる。大体日本の政治家の自伝を読みたくなるような気持ちすら生まれてこない。いや『原敬日記』『1年有半』ぐらいか。
 金大中氏は、幾たびかの投獄ー亡命ー拉致(殺害未遂)ー死刑判決ー追放ー引退ー復活ー大統領という目も眩むような韓国現代史の渦中を生きた。たしかにその醸し出す威厳は余人を寄せつけぬ凛たる雰囲気が漂う。しかし彼の自伝では、家族との生活も赤裸々に語られ、特に死別した妻への文章は美しい。

 「私はいまでも彼女に対する感謝と追慕の念を忘れられずに生きている。そしてたとえ一時であれ、そのような妻を持てた私自身がどんなにか幸せだったと思う。ときどき彼女が残した2人の息子と孫達と席をともにするが、その度に彼女に話しかける。「ごらん、これがあなたの残した分身ですよ。あなたは決して死んでいない。この息子達の中で永遠に生きている。(中略)私は異性を心から愛することのできなかった人には、何らの魅力も感じない。そのような人は、人間に対する愛情も、また人生の意味が何たるかを知らない無味乾燥な人だ。愛することができない人は、ほんとうに重要な仕事はできない」

 金大中氏が大統領就任後に開始した太陽政策による南北統一への試行、特に自ら北を訪問して首脳会談を行い南北共同声明を出したことは、韓国現代史に永遠に刻まれた偉業である。しかし金大中氏は今、大統領として失政を追求され、また自分の息子は汚職で逮捕されている。祖国の民主化に向けて全霊を傾け奇跡的に大統領に就任した彼は、また民衆からの指弾を受けて大統領の座を去ろうとしている。まさに権力闘争の修羅場を生き抜いたドラマそのもの人生である。自伝で彼はそのようなライバルとの権力闘争をそのまま描き、自らの権力欲を隠さず、また学歴コンプレックス(商業学校卒)を素直に披瀝している。南アのメンデラ氏も最後は、最愛の妻が汚れた権力を行使し離婚して大統領の座を去った。まさに政治の世界は、悪魔とも手を結ぶ世界である。最後に彼の語を記してこの文を閉じる。

 「私の考えではこの世で最も恐ろしいのは、自分の眼である。鏡の中に現れる自分の眼こそ最も恐ろしい。自分の眼をまっすぐ見つめていると、自分がどのように生きてきたか、また問題にどう対処してきたかすべてわかる。誰も知らなくても、自分の眼だけはそれを見てきたからである。私は私自身の眼に恥じない生き方をしてきたと自負している。また残された生もそうありたいと思っている」(『金大中自伝 わが人生わが道』千早書房 2000年) (2002/7/177 5:38)

[在日4世 出生届不受理に]
 愛知県新川町の在日韓国人3世の男性イチニョンさん(26)が、長男の出生届を「栄洙」町役場に提出したところ、人名用漢字・常用漢字にないとして受付を拒まれ、表記を変えるよう促された。しかし日本の戸籍を持たない外国人には、名前の漢字に制約はなく、家族が翌日改めて抗議したところ名古屋法務局は外国人の場合日本で使われる漢字であれば一切制約がないことが分かり、町側は誤りを認め謝罪した。男性は週明けにも出生届を出し直す予定だ。
 新川町住民課長は、「在日の方の出生届が人名用漢字の範囲であったため、職員の認識が欠けていた」とし、イさんは「役場の窓口で駄目だと云われて泣く泣く名前を変えた在日や中国人が多いのではないか」と云っている。
 人間の最も基本的なアイデンテイテイーである人格権の一部を為す人名表記について、外国人に日本型表記を強要するということについて、瞬間的に問題意識を持たなかったのであろうか。この場合名古屋法務局は、2度の問い合わせを受け、1度目は「使えない」と回答したことから役場も受理しなかった。役場のミスは未だ許せるとしても、法制の最高責任者である法務局の態度はほとんど常識では考えられないミス以前の問題がある。それは敢えて云えば、漢字文化圏における日本語優位の無意識の優越意識であり、その背景にある植民地意識である。日韓のパートナーシップはこうしたレベルで問い直されている。(2002/7/15 20:43)

[国連が原爆展を拒否する論理]
 日本原水爆被爆者団体協議会(被団協)が9月18日から10月27日まで国連本部会議場ロビーで開く予定の原爆展に対して計画中止の連絡が入った。展示内容は、投下直後の広島・長崎の様子、火傷を負った被爆者のパネル写真80枚・投下時間8:15を指した時計など十数点であった。理由は、熱線で火傷を負った男性や顔面を火傷した女学生の写真で「子ども達の目にも触れる。酷すぎる写真だ」ということである。開催時期が米国同時多発テロの1周年直後というのも影響している。
 95年1月に米国ワシントン国立スミソニアン航空宇宙博物館が、広島に原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」号に併せて計画した原爆展も中止になった。退役軍人団体が「原爆投下は多くの米国人の生命を救った」と反発し、上院が変更を求める決議を採択して中止に追い込まれた。
 問題は2つある。第1は、国連主催行事に米国が干渉する権利はなく、また米国の要求に国連が従う必要はない。国連の国際的な核兵器廃絶運動の展開にとって、過去の被爆の実相を広く世界に知らしめるのは国連にとって当然の責務ではないか。国連分担金を拠出していない米国の意向をなぜ尊重するのか。第2に、米国はなぜ被爆の実態を直視する勇気がないのか。被爆の悲惨な実相は、たとえ児童期ともいえど回避させてはならない20世紀の大量殺戮の姿である。アフガン報復戦争におけるクラスター爆弾や巨大大型爆弾の投下を何の痛みもなくやってのける米軍の無差別大量殺戮戦略に対する冷静な自己分析ができない根元的要因がここにあるし、先制核攻撃を公言してはばからない米国政府の脳天気な無神経さがある。(2002/7/15 19:30)

[シングル女性の都市空間]
 都道府県別に見た30歳代女性の未婚率は、東京25.1%、大阪17.9%以下北海道・福岡と続き、愛知は11.7%と全国平均を下回る。ここに愛知の風土性が如実に発現している。一人暮らしシングルでは、東京圏に全国の40%が集住し、しかも渋谷・目黒・世田谷の山の手地区に多く郊外は少ない。居住地を選択した理由は、@駅への距離A価格の妥当性B職場への距離が多く、住環境や雰囲気の良さは予想ほど高位ではなかった。つまり彼女たちは通勤を重視して居住地を選択している。夜道の安全性を重視して駅から10分以内を条件とする人が多く、郊外はファミリー向け住宅が多く環境に馴染めないとしている。地方出身者は最初に住んだ地域の沿線を重視し、東京出身者は親元から1−2時間の範囲で探す傾向がある。これらの組み合わせが単身者向けストックが多い山手地区へシングル女性が集中する結果を生みだした。
 住居の所有形式は、民間賃貸住宅が過半数を占め、単身者入居を制限する公営住宅と新規物件の多くが郊外に立地する公団住宅の問題が浮かび上がる。年収500万円以上の高収入層では、約20%が持ち家を取得し、同世代男性に比べて高いが、40歳を越えるシングル女性を敬遠する民間賃貸住宅の問題がある。住宅を購入した女性も、仕事の将来への不安は強く必ずしも非婚を貫く意志はない。持ち家は、シングル女性の生活基盤と安心感を生んではいるが、住宅購入時に融資を受けられるかどうかで居住水準の格差が今後拡大すると思われる。以上日本経済新聞7月13日付け夕刊若林芳樹都立大助教授調査より。

 私はこのようなシングル職業女性を無条件に尊敬する。砂のような大都会の片隅で一人で生きていく条件は、男性に比べてはるかに厳しい。それを認めた上で尚かつ私は云いたい。このようなシングル女性の増大は、確かに一面では女性の自立の随伴形態ではあるが、本質的には男女のイコール・パートナー関係が豊かに作り出されていない日本型男女関係の模索を反映していると思う。結婚を最上の幸福と考える前近代的な婚姻観を打破している面とともに、男女の豊かな人間的な関係自体も失っているのではないか。少子高齢化社会の進展の中で、現在の自助政策が続くならば、高齢化に直面するシングル女性の豊かな老後を社会的に実現することは難しく、高齢化政策自体を再構築しなければ報われない大量のシングル高齢者女性が発生するのではない。(2002/7/14 20:15)

[無限とは何か]
 京都大学霊長類研究所のチンパンジー・アイちゃんは、数を数えることができ「ゼロ」の意味も理解できるが、「無限」の概念は理解できるのだろうか。無限を理解するためには、単に数を数える知能とは異なる働きが必要だ。正5角形の対角線を全てつなぐと、中に小さな正五角形ができ、その対角線をつなぐとまた正五角形ができ、こうして果てしない正五角形の連鎖が始まる。これが無限の存在だ。3角や4角を組み合わせると多様な図形がいくらでも生み出せるが、これは無限ではない。数千程度の単語を組み合わせればさまざまな意味と内容を持つ膨大な文章を無限に作り出すことができる。これが言語概念の本質だ。道具の製