■映画/演劇/音楽批評04(~2020年12月9日更新) トップページへ戻る

映画/演劇批評01(~2004年12月17日)

映画/演劇批評02(~2006年12月28日)

映画/演劇批評03(~2013年12月31日)

◆日本・ユーゴ合同・劇団東演『マクベス』(演出/ワレリー・ベリャコーヴィッチ)
 久しぶりに本格的な古典演劇を観ましたが、舞台と演出は前衛的な形式があふれ、場内を圧倒するような迫力がありました。主役は文学座と俳優座が占めていました。演出はユーゴ出身であり、ユーゴ演劇のあり方を見せつけていますが、人間の本質的な権力への欲望についての鋭い考察を感じさせます。権力そのものに無自覚で、野放図に行使している日本の浅薄さを射ぬくまなざしがあちこちに感じさせました。演劇は全力投球で、久しぶりに堪能しました。名古屋市芸術創造センターにて。にて。客席は少し空席がみられました。(2020/12/9)

◆劇団青年座『横濱短編ホテル』(作/マキノソノミ、演出/宮田慶子)
 横濱の老舗ホテルを舞台に、1970年から5年ごとの出来事がオムニバス風に繰り広げられます。微笑ましく人間の哀感がにじみ出るような物語が紡がれ、新型コロナで痛んでいる気持ちを癒やしていきます。こうした、軽喜劇風の人間物語もなかなかよいものですが、背後にある世相の変化が一切描かれず、時代の流れの中で生きていくというリアリテイがないのが残念です。会場は、新型コロナ対策のせいか、空席が目立ち、観客層が70歳代を超えて婦人層が多く、勤労者演劇運動のあり方を考えさせられます。名古屋市民開館にて。(2020/12/1))

アグニェシュカ・ホランド『赤い闇 スターリンの冷たい大地』(2019年、ポーランド・ウクライナ・イギリス)
 ウーン、じつに8ヶ月ぶりに映画を観た。コロナ禍で自粛しているうちに、映画館に行くのもおっくうとなってしまった。この映画は、ポーランド人監督がメガフォンをとっていますが、現在ロシアと紛争中のウクライナが出資しているところに意味があるような気がします。スターリン独裁期のソ連の農業集団化の犠牲となったウクライナ大飢饉の深層に迫る英国人記者の姿を描きますが、印象に残ったのは、ニューヨークタイムスなど欧米系のメデイアが飢饉を隠蔽してソ連との国交回復をねらう姿勢をとっていること(背後には対ヒトラー共同戦線)。第2は、スペイン市民戦争で革命政府とソ連を批判したジョージ・オーウエルが主人公の単純な反ソ記事のスタンスを批判することです。この映画は、英人記者のジャーナリズム精神をえがいて、旧ソ連の惨状を生みだした背景に迫り切れていないことです。ポイントは、スターリン主義の恐怖政治が近代化に遅れた国の社会主義の本質であるのか、それとも社会主義そのものの本質であるのか、監督のスタンスが明確でないところにあります。おそらく、脚本家と監督は後者に近いのでしょうが、オーウエルの苦渋に富んだ描写はそうでないようなところもあります。「ひとりの死は悲劇となるが、なん万の死は統計に過ぎない」というスターリンの個人的な人格に還元するのではない、多面的で重層的なアプローチであれば、ウクライナ大飢饉の本質に迫り得たのではないでしょうか? 物語構成も映写技術も素晴らしく、久しぶりに堪能しました。ミリオン座にて。新型コロナ規制で座席を隔離しており、観客は30名程度か。(2020/8/27)

ポン・ジュノ『半地下パラサイト』(2019年、韓国)
 久しぶりに映画を観ました。映画批評も数ヶ月ぶりです。韓国の貧富の両極に分解した格差社会をリアルに描いたブラック・コメデイで、世界の主要な映画祭の作品賞を受賞している。ポン・ジュノ監督の作品は、いつも韓国社会の暗部を穿つような、どこか重苦しいものが漂う告発型の作品となっていますが、世界の映画批評家の多くが評価していることはよく理解できないところもあります。北朝鮮を揶揄するようなシーンも流れるが、どうもしっくりと画面展開に溶けこんでいない。後半部に至る物語展開の必然性と物語構成にどこか飛躍とほころびがあり、下層階級の怨念と上流階級の虚構がリアリテイをもって描き出されていない。基底に流れている心性は、朝鮮の民衆史に沈殿している”恨(ハン)”であるように思いますが、この心性は変革のエネルギーにも転ずれば、怨念に終わる場合もあり、どう知性と結ぶのかよく分からない。中国の西寧市映画祭は、この映画の上映を禁止したそうですが、まさか中国の格差社会批判につながることを警戒したのだとすれば、、だとすると中国の文化水準は心許ない。ミリオン座にて。観客40数名で空席あり。(2020/2/19)

劇団・民藝『野の花ものがたり』
 鳥取市に実在するホスピス「野の花診療所」の院長である德永進『野の花通信』を原作とし、ふたくちつよしが脚本、演出は中島裕一郎です。終末期医療と「死」を正面から描いた挑戦的であり、感動的な舞台ですが、多くの患者が末期癌患者であり、それなりの施設で最後には死を受け容れて此の世を去っていきますが、こうした浄土の行くような死は幸福であり、むしろ実際の死は残酷無残、あっけなく複雑です。しかし、「死は無限のある点であり、素粒子となって宇宙を巡る」といった形而上的なセリフも散りばめられ、また、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し、「死は豊かな個性の一回性にあり、それを全うしないで奪う事は許されない」と最後に医師が述べますが、脚本家の死にたいする深い考察がうかがわれます。惜しむらくは、こうした説明的台詞ではなく、劇作に昇華してほしかったと思います。観終わった後に、深い感慨を抱いて、黙って帰っていくような印象深い作品になったと思います。名演・少々空席あり。ほとんどは中高齢者。(2019/9/20)

マイク・ニューウエル『ガンジー島の読書会の秘密』(2018年、英・仏)
 第2次大戦でナチス・ドイツが占領した島があったことを初めて知りました。この映画の真の主人公は、ロンドンに住む女性作家ではなく、占領された島でレジスタンスを試みながら、ドイツ兵と恋愛して娘を産み、密告されて強制収容所で銃殺された英人女性であり、こうした複雑に交錯する時代を正義を貫いて生きた女性の民衆物語です。英国人の今でも消えないナチスへのルサンチマンと、浅薄なアメリカ人への軽蔑を見事に映しだした映画であり、脚本も複雑なストーリーによって構成されて成功しており、堪能しました。あるいは、イギリス人の文芸に対する敬意がうかがえますが、そこには越えがたい階級性もあるようにみえ、日本との差異を感じました。それぞれの俳優が個性豊かに演じながら、その底にイギリス流のヒューマニズムが流れていること、そしてそれを映画化するイギリス映画界の力量を示しています。こうした映画は日本映画資本ではつくれないでしょう。センチャリー・シネマにて。観客10数名。(2019/9/9)

佐古忠彦『米軍が最も恐れた男 カメジロー』(2019年、日本)
 1ヶ月間も映画を観なかったのははじめてであり、さて何を見ようかと探して、この映画にしました。第1部の前作は沖縄返還前の瀬長亀次郎を描き、第2部の本作は復帰と復帰後の米軍基地の存在を糾弾する亀次郎を描きます。徹底したリアリズム描写であり、坂本龍一の音楽と役所広司のナレーションが華を添えています。こうした本来なら、もっとも避けたがる主題に敢然と挑んだ佐古監督に敬意を表します。こうした直球勝負の日本の現実への批判と、それと闘う男の物語は、映画界では誠にマイナーですが、日本の映画史に残る不朽のドキュメンタリー映画となっています。歴史の真実を厳然と後継世代に伝えていくと行くという作業が衰弱して、フェイクが蔓延している現代日本に真正面から挑む姿勢は、映画以外の表現ジャンルにも影響を与えると思います。名演小劇場にて。観客10数名。(2018/9/3)

前進座『裏長屋騒動記』(2019年、脚本・山田洋次、演出・小野文隆)
 江戸下町の裏長屋で生きる町人と零落した浪人父娘、ヤクザや武士たちの生活が哀感豊かに描かれ、まるで『男はつらいよ』の江戸版のような感じでした。根底には、人間は互いに相手を思いやって生きているという生きているという山田洋次の人間への温かいまなざしが流れており、現代の殺伐とした世相に癒しと肯定感をもたらします。中高年ばかりとなった鑑賞会には、ホッとした予定調和の充足感をもたらしますが、はたして現代の若者たちにとってはどうなのでしょうか。山田洋次の作品には、真っ向勝負の鋭さや悲しみははありませんが、けなげに生きる人間の尊厳にたいする共感や励ましがあります。場面転換や冗長に流れる点に幾ばくかの物足りなさを感じましたが、結局生きていくこととはこんなことかなとも思わせる肯定感があります。残念ながら会場は空席が目立ち、これから先の鑑賞会の可能性についても考えさせられました。前進座の苦闘に敬意を表します。名古屋市民会館中ホールにて。(2019/8/2)

鄭義信『焼肉ドラゴン』(2018年、日本)
 大阪万博をひかえた高度成長期を生きる大阪の在日ファミリーの心温まる世界を描きます。植民地帝国日本に対する告発は抑制され、在日の哀感が入り混じる描写は、過去の罪責を決済しないまま生きている日本を告発することなく、精一杯に生きる日本の姿と重なって、日本の観衆の共感を誘いますが、ハットするような告発の要素が求められます。虐められて自殺した息子は、果たしてこのような物語の結末を望んだのでしょうか? 在日の劇作家が日本で生きていくに必要な妥協線のあり方を示しているようで、余計に哀しくなってきますが、それが怒りに転化する要素がありません。ただし、日韓関係が危うい状況で、この映画を上映したTV局には敬意を表します。wowow。(2019/7/24)

パヴェル・パヴリコフスキー『COLD WAR あの歌 2つの心』(2018年、ポーランド)
 久しぶりにポーランド映画を観ました。しかもモノクロです。スターリン主義と社会主義リアリズムに翻弄される歌舞団のピアニストと歌手の悲恋を描きますが、二人ともが秘密警察のスパイとなって密告しなければ生きていけない体制を生きぬき、最後は(おそらく)心中に至る物語です。ポズナニ暴動や連帯運動をからめて描けば、もっと深みがでたかも知れません。ポーランドの民俗音楽に特化しようとする潮流とスターリン体制に協力する潮流の内部矛盾が印象に残りました。しかし、移民を排斥する極右が政権を握った現代ポーランドの実態とむすぶような問題意識はありません。冷戦崩壊後のポーランド社会の混迷があらわれています。ポーランド映画はどこに向かっているのでしょう。伏見ミリオン座にて。観客10名弱。(2019/7/19)

藤井道人『新聞記者』(2019年、日本)
 現在の日本政府の謀略と戦う女性ジャーナリストと良心的官僚の煩悶を真正面から描く批判的リアリズム映画です。制作スタッフから「こんな政府批判の映画つくっていいの?」という疑問の声が上がったそうですが、それ程に現在の日本は批判的精神と正義の感覚が摩滅していることを示します。この監督は1986年生まれだそうですが、若い監督にこうした感性があることに、まだまだ日本は捨てたものではないと思いました。週刊誌のイエロー・ジャーナリズムとむすんで世論操作をする内閣府や内閣調査室の実態の一部がうかがえて興味を覚えましたが、ベンサムのようなパノプテイコンの形式で、勤務場所の机が配置されているのも驚きであり、社会部の記者がツイッターにすがりついて事実を追っているのも驚きでした。この映画製作に朝日新聞が関わっているようであり、東京新聞はどうしたのだろうとも思いましたが、こうした批判的リアリズム映画がまだつくれるところに、日本の可能性を感じました。会場は満席で、前から2列目という見上げるような鑑賞形式であっというまに2時間が過ぎました。ミッドランドスクエア2にて。(2019/6/29)

ラース・クラウメ『DAS SCHWELGENDE LLASSRENZIMMER(沈黙の教室) 邦題:僕らは希望という名の列車に乗った』(2018年、ドイツ)
 1956年のハンガリー動乱に共感を覚えた東ドイツの高校生たちが、授業で「黙祷」をささげた行為が問題となって当局の追及を受け、友情や裏切り、密告の葛藤を乗りこえて、最期は西ベルリンへ脱出する物語です。それぞれの親の世代の物語が暴露されて煩悶する過程を通して、ナチス現代史の闇の部分が浮かびあがり、それがまた絆を強めるというドラマテイックな展開です。東ドイツの権力層が反ナチ抵抗運動をくぐり抜けた共産主義者であり、この1950年代はまだ社会主義が希望溢れる時代でしたので、高校生たちの行為が反革命と指弾される悲劇的な状況がうみだされます。惜しむらくは、ナチスの罪責がそれほどに描かれず、社会主義への志向が則スターリン主義と同一視されている点です。西ベルリンへの脱出がほんとうに「希望という名の電車」なのかどうか、資本主義の競争社会と引き換えの幻想の自由という視点があれば、より深味のあるドイツ戦後史の物語となったでしょう。当時の東ドイツの高校生が、西ドイツに行ってアメリカ映画を見るとか、東ドイツの学校がすでに進学と就職というコース別編成になっていること、西ドイツに行っても卒業試験が受けられる共通カリキュラムが存在していたことなど、興味を覚える場面がありました。崩壊した社会主義へのレクイエム、違った社会主義への途があったのではないか、と云った視点があれば、物語は更に深まったでしょう。この映画は、親の世代の歴史をどう後継世代へ伝えるか、あるいは世代間葛藤を通じた青年期の自立といった普遍的なテーマともつながっています。名演小劇場にて。それにしても、家族を捨ててまで自由を求める若者といったドラステイックな青年期の物語は決して日本ではなく、彼我の歴史的経験の重さの差異を痛感します。観客席ほぼ満席。(2018/5/19)

イ・ジュンイク『金子文子と朴烈』(2017年、韓国)
 叛逆のロマンテイシズムあふれる直球のリアリズム映画であり、日本のチマチマした小市民映画を吹き飛ばすような迫力がありますが、アナーキズムの本質に迫るような問題意識はありません。前近代が色濃く残るなかで、個の尊厳を求める理論なき反抗はピュアーではありますが、自滅にむかうことを約束されています。そうした歴史的限界のもとで苦闘する過渡期の典型を凝縮しています。個の尊厳は精一杯に開花していきますが、そうした生き方を美化するような表現が、市場原理に翻弄される現代に、かえって光彩を放っています。閉塞状況にある現代に共鳴してカタルシスを生みだす効果をもたらし、観衆の心をつかんでいきます。興味ある描写は、大正期の都市生活の風景、尋問する判事のやや過剰なヒューマニテイ、大正期の裁判風景、それなりに自由なメデア取材、などなど時代考証として疑問に思うところもあります。しかし、こうした正義を臆することなく、正面から描く韓国映画人の感性には敬意を表します。文子など韓国俳優陣の演技も見事です。正義が衰えて空しくひびくような現代日本の若者にとって、衝撃をもたらすのでしょうか、冷笑を呼ぶのでしょうか、それともこうした生き方そのものが違和の世界であり、ピンとこないのでしょうか? シネマテークにて。驚いたことに会場はほぼ満席でした。(2019/9/17)

青年劇場『みすてられた島』
 おそらく沖縄をメタファーとするユートピアをめざす本土から見捨てられた島の希望の物語です。予定調和の美しい物語と揶揄する人もいるでしょうが、これほどに亀裂を生じて、人間を信じられない列島のなかで、救いと癒しを求める心情に見事に応えています。作・演出の中津留章仁氏のけがれなき感性に敬意を表します。ここには、救いを求める傷ついた人たちが寄り添うようなアットー・ホームな新宗教のような世界に落ちこむ危うさがありますが、精一杯にヒューマンに生きようとする人間世界への信頼を恢復する素朴な連帯への希求があります。注目すべきは、見捨てられた島の本土に対する怨念をこえた矜恃と高次の連帯を求める志であり、地域システムで云えば、内発型発展モデルの模索です。演劇を問わず、芸術が希望なき時代の希望の在処を告げる役割を果たすことを痛感させます。市場原理に抗して表現する青年劇場のアイデンテイと可能性を再確認しました。会場ほぼ満席。(2019/5/14)

ミキ・デザキ『主戦場』(米国、2018年)
 日系アメリカ人のユーチューバーが、従軍慰安婦問題について、日米の主要な論者の主張をデイヴェート風に編集したドキュメンタリー映画です。否定論者の確信犯的なレイシズムが浮き彫りとなりますが、印象的だったのは、アメリカでの少女像設置をめぐってアメリカ人の反対論が思いのほか強力であること、櫻井よしこ初め日本会議が多額の金を米国人ジャーナリストに支払って、有利な報道を操作し、もとは日本会議系であった小林節氏が、「殺されてもいい」として安倍改憲に反対を表明するシーンでした。2時間近い番組があっという間に過ぎました。会場満席で、若い人が多いのに驚きました。シネマテークにて。(2019/4/28)

ジアード・クルスーム『セメントの記憶』(2017年、ドイツ・レバノン・シリア・カタール・アラブ首長国連邦
 「中東のパリ」と呼ばれるレバノンのベイルートの超高層ビルの建設現場で働くシリア人移民労働者の過酷な労働をリアルに描くドキュメンタリー映画です。そそりたつ超高層ビルを垂直に上下する労働と、水平に広がる東地中海の鮮やかな非対称性、内戦による破壊と建設バブルの建設の非対称性が重なりあって、シュールとも言えるリアリズムで描かれます。無機質で冷たいコンクリートの建築物に、生身の人間の身体がのみ込まれるように共生する光景は、現代の悲惨を浮き彫りにしますが、労働者は一言も発することなく、沈黙のうちに絶望の悲しみをただ瞳のまなざしによってのみ伝えます。声高な告発のメッセージはいっさいないがゆえに、かえって観る者に”お前は黙って見ているの?”と語りかけてきます。内戦の悲惨を越えて復興にむかい、またそれが破壊される人間の実相を浮き彫りにします。カメラの果敢な動きと現場音しか使わないリアリズム表現の意味をあらためて、確かな方法として示しています。日本も加害の一端を担っている石油戦略の下で、いかに多くの犠牲を出しながら、私たちが謳歌している石油文明の欺瞞を告発しています。シネマテークにて。観客10名弱。(2019/4/26)

クラウデイオ・ポリ『ヒトラーvsピカソ』(2018年、伊・仏・独)
 ナチス・ドイツが欧州各地から美術品を略奪した過程を当時の記録フィルムを交え、略奪された末裔や返還運動を推進する人のインタビューを交えながら、現代に蘇らせます。ヒトラーとゲッペルスが争って略奪を指示するシーンは圧巻であり、ファッシズムの背後にある妖しい美への欲望、政治の美学化を浮き彫りにします。印象に残ったのは、ナチスが推奨する美学に恥毛つきの裸体画が多いこと、ルーブルを超える総統美術館の建設に向けて、廃坑の地下深く巨大な収蔵庫をつくっていたのは圧巻でした。ミリオン座にて。観客20名弱。(2019/4/22)

アレクサンドリア・ボンバッハ『ナデイアの誓い』(2018年、アメリカ)
 イラクの少数民族であるヤジデイ教の娘が、イラク内戦のなかでISの性奴隷となり、家族が殺害されるなかで奇跡的に生還し、ISの戦争犯罪を告発する証言者となって世界に訴え、国連親善大使となるまでのドキュメンタリー映画です。イラク内戦とナジデイ教の状況が描かれないので、背景はよく分かりません。しかし、英国からドイツ、カナダ、ギリシャまで、ひろくヤジデイ教の難民を受け入れていることには驚きました。ナデイア・ムラドという娘が証言を通じて、ヒーローのようになっていく過程を描きますが、イラク内戦やISの本質に迫ることはありません。ここには、欧米や国際連合のイスラム圏に対するオリエンタリズムのまなざししかありません。これが、ボンハッハという監督の本質的な限界を示しています。シネマテークにて。観客が10数名いたのには驚きました。(2019/4/11)

NHKTVドラマ『浮世の画家』(2019/3/30)
 ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの処女作『遠い山なみの光』(1981年)に次ぐ第2作『浮世の画家』(1986年)をTVドラマ化しています。アジア・太平洋戦争下で戦争画を描いて戦意高揚に貢献した戦争画家が、戦後に筆を断って過去の罪責を自責していくストーリーです。先ず驚かされるのは、東アジアの戦争芸術をめぐる日本人画家の煩悶が、西欧文学界で評価されたことであり、これは率直にいってよく分かりません。主人公の戦争画家は、みずからの戦争加担について自責していくのですが、こうした情緒的な自責の在り方について、欧州は共感するのでしょうか? 多くの戦争画家が敗戦後は手のひらを返したように、何ごともなかったように作画に励むのですが、この主人公は一切絵筆を捨てて、最後に自分の戦争画をすべて焼いていまいます。カズオ・イシグロの決定的な限界は、「あの時代は自分の信念を賭けて必死に戦争画を描いた」と同僚の画家に語らせて終わる戦争責任観です。そんな自己肯定で、2000万人を殺害した戦争画に決着をつけることができると思っているのでしょうか? こうした点はこの作品をドラマ化したNHKのデイレクターの戦争認識の限界を示しています。しかし、こうしたアジア・太平洋戦争期の戦争芸術について、真摯に考察する小説をノーベル賞受賞とする欧州の認識であり、救われるのは右傾化を強めるNHKがこうした作品をドラマ化したことです。(2019/3/31)

アンドレス・ファイエル『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』(独、2017年)
 20世紀のアートプロジェクトというモダン・アートの世界を切りひらいたボイスのドキュメンタリー映画ですが、作品そのものよりもボイス自身の言動に焦点をあて、それはそれで興味ある仕上がりとなっています。第三の道とか「拡大された芸術概念」とか、「社会芸術」など概念芸術の意味について、その内実は伝わりません。緑の党とむすぶ必然性も明らかではありません。なにか、第2次大戦期のマリネテイなど、イタリア未来派の戦後版のようなイメージがあり、これが現代の革命芸術ならば、民衆とは無関係だろうと感じました。シネマテークにて。観客10名弱。(2019/3/28)

文化座公演『三婆』
 有吉佐和子の原作で、1960年代という高度成長期を生きる庶民の哀歓を描きますが、その主題は高齢化社会での庶民の葛藤と予定調和です。とにかく問題意識が決定的に貧困であり、これでは市場原理を生きる高齢者問題の本質に迫りえません。勤労者演劇の危機を示しています。ただ、演技はなかなかものものであり、それだけに文化座の将来が心配となります。このままでは、自然消滅していくのではないでしょうか。名古屋市文化会館にて。会場入り8割。(2019/3/27)

エマニュエル・フィンケル『あなたはまだ帰ってこない』(フランス 2017年)
 マルグリッド・デユラスの『苦悩』を映画化した作品です。彼女は夫とともに、第2次大戦期のナチス・ドイツのフランス占領に対するレジスタンス運動に参加して、ナチスに逮捕され、夫はドイツの強制収容所に送られました。この映画は、夫の移送の情報をえるために秘密警察と接触したり、手を尽くして帰還を待つ苦悩を描いています。フランスにもナチスに協力した多くの市民がいたことを知りました。パリ解放の街頭で歌われた歌が「インターナショナル」であったことには驚きました。デユラスがこの過程でフランス共産党に入党したことは知りませんでした。やはり、フランス映画の技術的水準の高さとエスプリを感じさせ、風景の描写や主演女優の演技、パリの喫茶店の描写、なによりもBGMの洗練された感性には、まだまだ日本にはない成熟した美意識を覚えました。自律した個の感性に生きるフランス女性の尊厳が、デユラスという作家を通して表現されます。それはエゴとスレスレの危うさにありますが。デユラスが書いた映画脚本に、「かくも長き不在」「ヒロシマわが愛」という名作があるのも、むべなるかなです。名演小劇場にて。観客10数名。(2019/3/20)

ダナ・ヴァフロヴァー/ヨゼフ・フィルスマイヤー『アウシュヴィッツ行最終列車』(独・チェコ、2006年)
 ドイツの敗戦が迫った1943年4月19日に、翌日のヒトラー誕生日のプレゼントとして、A・シュペーアはベルリンに残ったユダヤ人688名を逮捕して、アウシュヴィッツ向け貨物列車に収容して出発させます。100人収容の車両には、排泄用のバケツ1つと水の入ったバケツ1つのみが載せられています。この映画は徹頭徹尾、到着までの列車内での阿鼻叫喚の極限状況をサデイズムに近いようなリアリズムで描写します。護送部隊はもっとも凶悪なSS髑髏部隊であり、人間がどこまで野蛮な存在に頽廃し、追いつめられたユダヤ人の軋轢も容赦なく描きますが、現実はもっと凄惨であったと想像させます。こうした映画を見ると、ドイツ人の本質的な国民性にある悪を実感させ、イスラエルの正統性を共感させますが、それは又別問題です。アウシュヴィッツに到着した最後のシーンで、ユダヤ人の歌手が「歓喜の歌」を詠唱して射殺されるシーンに、この映画のメッセージが凝縮しています。3年前に訪問したアウシュヴィッツの収容所門をアリアリと想い起こしました。それにしても、エンドロールの協賛企業にナチスに協力して莫大な利益を上げたBMWとシーメンスが協賛企業として登場していることには驚かされました。こうした偽善的なふるまいは、ナチス時代がもう一度来ることを告げています。シュペーアの一族が現在も経営権を握っているのですから。「アウシュヴィッツ以降詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)の意味を再認識し、ドイツは永遠に贖罪していかねばならないことを痛感しますが、贖罪も補償もしないでやり過ごそうとする日本は、このままいけば、地獄に落ちるでしょう。(2019/2/24)

ロベルト・シュヴェンケ『小さな独裁者』(独・仏・ポーランド 2017年)
 ナチス国防軍の1兵卒が部隊を脱走して逃亡し、偶然に将校の軍服を手に入れて大尉になりすまし、その制服の権威によって逃亡兵を偽親衛隊に組織し、狂気のような殺戮を繰り返して最後は逮捕され、軍法会議で釈放され、パンを盗んで英軍の捕虜となり、英国の軍事法廷で死刑判決を受けて、1946年8月29日にギロチン処刑されたというヴィリー・ヘロルト上等兵の実話を映画化しています。脱走兵を収容する強制収容所の権力を把握して、囚人を無為差別殺戮して、夜のパーテイでドンチャン騒ぎを催す狂気のような宴会は、底知れぬ歪んだファシストの心性の極限を映しだします。どのような良心ある者も権威の前に服従し、その葛藤を無差別殺人にふり向ける集団心理の攻撃性は、人間の深部にある闇の欲望を照射しています。怖いのは、この偽親衛隊部隊が現代に蘇って、市中をパトロールしながら市民の私生活を検査していく最後のエンドロールです。
 この偽大尉は、挫折した画家であるヒトラーを暗喩しており、ファッシズムがどのように権力を握っていくか、それは権威にたいする自発的隷従を組織する集団力学の心理であり、それはごく普通の市民の誰にもある心理に他ならないことを暴きだします。現在の日本に蔓延する忖度と呼ばれる権力への自発的隷従は、その帰結は取り返しのつかないファッシズムにいたる前兆だと警告しています。名演小劇場にて。観客20名弱。(2019/2/16)

エヴァ・ウッソン『バハールの涙』(仏・ベルギー・ジョージア・スイス 2018年)
 シリアのクルド人自治区のIS(イスラム国)にたいする戦いを描きます。クルド人女性にたいするISの性的奴隷政策に対して、女性部隊を組織して戦うクルド人女性を主人公に、従軍記者として参加したフランス人女性記者の複眼的な視点から描きます。あまりにも西欧的に洗練された映画手法で、ゲリラ戦のリアリテイはあるのですが、ISが生みだされた背景やクルド民族の歴史的な実態は描写されませんので、クルド民族の高級なプロパガンダ映画となっています。あるいは、米軍の空爆が描かれるのですが、欧米が中東紛争に介入する要因も描かれません。フランス人女性記者は西欧オリエンタリズムの象徴であり、登場する必要はありません。もっと中東の歴史的背景を描き込めば、骨太の物語になったっと思います。唯一の収穫は、イスラム女性が男性に抗して立ちあがるイスラム・フェミニズムのような事態が進展していることに大いなる興味を抱いたことです。ミッドナイトスクエア2にて。観客50数名。(2019/2/3)

チャ・スンホ『共犯者たち』(韓国、2017年)
 韓国保守政権によるメデイア支配に抗して戦う良心派ジャーナリストのドキュメンタリー記録映画です。とにかく、300名をこえるジャーナリストが解雇されたというのも驚きであり。そうした現場のリアルな取材フィルムを蓄積したアーカイブの分厚さも驚きです。抵抗する者と権力者が直接に接触し合う関係も日本ではありませんし、抵抗運動の集団的な示威の組織性にも感嘆します。戦前期からの反植民地闘争から戦後の軍事独裁をへた韓国民主主義の蓄積が、世代をこえて継承され、メデイアの世界にも脈々と埋めこまれていることを実感します。そこにあるピュアーな正義感ともいうべき直観的な心性は、とっくに日本からは失われた淋しさのようなものを覚えます。おそらく韓国は、21世紀の東アジアの民主主義を主導していく国家になるでしょうが、右翼的潮流に乗っ取られてしまった日本のメデイアの現状には寒々とした末期的な頽廃症状が広がっています。日本は成熟した民主主義の実験場として十分な意味を持っていると思いますが、如何せん正義感が衰退しているところに大きな問題があります。シネマテークにて。観客10数名。(2019/1/30)

セドリック・ヒメネス『ナチス第3の男』(仏・英・ベルギー、2017年)
 「ユダヤ人の最終的解決」を決定したヴァンゼー会議を主導したラインハルト・ハイドリッヒの特別攻撃部隊(死の武隊)による虐殺とテロによる彼自身の死亡までを劇的に描きます。1海軍将校が狂信的なファッシストに転身していく内面的な過程がほとんど描かれませんので、ナチスを主題とする新手の高級なエンタテイメントでしかありません。ナチスの凄まじい残虐行為を描きますが、ハイドリッヒはヴァイオリンを弾く優美な感情の持ち主で、ナチスの信念に生きてテロに斃れた英雄のように受けとる人もいるでしょうし、レジスタンスで死んでいく人も英雄的にみなされ、双方とも時代を感じて「愉しめる」エンタテイメント映画となっています。あれこれと主題を探して撮るナチス映画市場の一コマに過ぎませんが、ナチスの実態を現代に伝える意味はあると思います。観客20名弱。ミリオン座にて。(2019/1/28)

クリステイアン・ペッツオルト『未来を乗り換えた男』(ドイツ・フランス、2018年)
 私がこの映画を観ようと思ったのは、原作が旧東ドイツの作家アンナ・ゼーガースの『トランジット』であるからですが、ナチス期の亡命と現代の移民問題を重ねる改作が施されていて、ストーリー展開がよく飲み込めないで終わりました。亡命や難民の問題が日常に埋めこまれている欧州では、直観的に理解できるのだと思いますが、私にはよく理解できませんでした。亡命や難民問題を私的な恋愛感情に還元しているようで、監督の主観に空転しているように感じました。パンフの映画批評の劣化には暗然としました。。名演小劇場にて。観客6名。(2019/1/27)

ASPイッツフォーリーズ公演『死神』(鵜山仁演出)
 三遊亭圓朝の落後『死神』をもとに、今村昌平がオペラにし、さらに劇団がミュージカル・コメデイに翻案して上演し、鵜山仁が現代風にアレンジした。人間の愚かさや可笑しさをヒューマンに歌いあげる人間ドラマです。音楽の作詞が藤田敏雄、作曲がいずみたく・・・1960年代のベトナム戦争が熾烈を極め、日本列島が沸騰していた時代のエネルギーが噴出するような舞台で、初演時は今陽子や西村晃が演じ、今回は左とん平の急死を受けて園岡新太郎が主役を演じた。バンドの生演奏が圧倒的な音量で迫り、演技を含めてエネルギッシュな時代を復元している。時代精神の変容を実感しましたが、観衆のほとんども70才代を超えている。もう一度、頑張って立ちあがろうと訴えているような演劇でした。名古屋市民会館中ホールにて。会場はほぼ満席。(2019/1/25)

フィリップ・ド・ブロカ『まぼろしの市街戦』(フランス・1966年)
 1966年制作というのが先ず驚きです。おそらく60年代のベトナム戦争やアルジェリア独立運動を背景に、戦争の愚かさを戯画的なタッチで描いたフランスのペーソス溢れる作品となっています。戦争によって秩序が崩壊した後に、精神病院の患者たちが束の間の自由を謳歌し、秩序が回復されてふたたび精神病院に還っていくというストーリーは、戦争の狂気がじつはリアル世界の狂気にあり、精神病者こそがじつはヒューマンな人間的存在ではないのかと、逆説的に問いかけています。正常である兵士が、リアル世界を去って精神病者の世界に参加していくのは、そうした狂気と正常が反転した現実の世界を鋭く逆説的に照射しています。さすが、フランス的なエスプリとユーモアにあふれる映画です。観客はわずか5人ほどでしたので、ほんらいなら抱腹絶倒するシーンも静かに鑑賞していました。フランスの精神病院はカトリック教会が運営しているというのも、チラッとうかがえました。名演小劇場にて。観客5名。(2018/12/10)

イ・ジェハン『戦火のなかへ』(韓国、2010年)
 朝鮮戦争のなかで、韓国軍に動員された学徒兵が北朝鮮軍との壮絶な戦いで全滅した実話にもとずく物語です。学生のあいだにあるまじめ派とチンピラ・アウトサイダーの葛藤、北朝鮮軍内部にある軍事指揮官と党から派遣された政治委員の対立、韓国軍内部の正義派と冷徹な戦術家の葛藤など、濃密な脚本構成によって、第1級の戦争エンタメ映画となっており、迫真的な緊張と感動を残して終わりますが、本質的には高質のプロパガンダ映画です。それは、李承晩軍事独裁政権への批判が完全に欠落しているところにあらわれています。或いは、冷戦の代理戦争という戦争の本質的な側面もいっさい言及はありません。北朝鮮軍に英雄的な抵抗を試みて散った学徒兵を観て、感動する人も多いでしょうが、ここに、プロパガンダのツールとしての映画の恐ろしさがあらわれています。命がけの自己犠牲の献身が、じつはカリカチュアに過ぎないという戦争の本質は、かなりの想像力がないと浮かびあがりません。豊かな才能を持っているこの監督の現代史にたいする認識の貧しさは、みずからの表現が韓国の現代史を後戻りさせる犯罪性にあることが、おそらく分からないでしょう。それにしても、2010年という年に、どうしてこのような映画がつくられたのでしょう。(2018/11/27)

マイケル・チミノ『デイア・ハンター』(米国、1978年、DVD)
 なんと40年ぶりに観た。日本語では「親愛なる狩人」となるのだろうか、ベトナム戦争に従軍した3人の青年兵士が、苛烈な戦闘のなかで傷病兵となって帰還したり、狂気におちいって、拳銃で撃ち合うロシアンルーレットにのめり込んでいく。封切りで観た時は、その狂気に圧倒され、なにか実存的な虚無感を覚え、ベトナム解放戦線に親和感を抱いていた当時は、北ベトナムの描き方や米軍の加虐性を描かない点で批判的な気持ちを抱き、多くのリベラル系批評家もそのようでした。改めてみてみると、当時のアメリカの重工業地帯で働く下層青年労働者の日常感覚がリアルに描かれており、脚本に感心しました。おそらく、ベトナムでも戦争需要で儲けようという悪徳ビジネスが横行していたのでしょう。結局は、国家戦略の犠牲となった米国青年の苦悩を描いて、戦争を告発しているのですが、ラストシーンは全員で米国讃歌を静かに合唱して終わります。この呟くような合唱が、依然として星条旗に忠誠を捧げるアメリカ人の精神を歌いあげているのか、それとも星条旗の虚構を告発しているのか、ハリウッドで映画をつくるには前者であるような気がします。その後大女優といわれる存在になるメリル・ストリープのデビュー作であり、まだ初々しさがあります。しかし、あれから、40年をへて、こうした重厚な真正面から社会を問うハリウッド映画はあらわれないでしょう。このチミノ監督はその後どうなったのでしょう。(2018/11/27)

こまつ座公演『マンザナ、わが町』(鵜山仁演出)
 大平洋戦争期に強制収容された日系アメリカ人の収容所における人権闘争を描いて、多文化共生を訴えるドラマですが、あたかもトランプ現象にたいする抗議のメッセージとなっています。テーマに劣らず、井上ひさしの生き生きとしたセリフが踊るシナリオと場面構成、個性豊かな人物像の描写が圧巻であり、しかも当時の米国政府の戦争戦略など、相当な学習の跡がうかがえます。久しぶりに、ドラマらしいドラマを堪能し、ある種のカタストロフィーを覚えました。リアリズム演劇の傑作です。俳優の演技も見事です。名古屋市民会館中ホールにて。(2018/11/23)

シュパシシュ・プテイアン『ガンジスに還る』(インド、2016年)
 年老いた父親が最後の終焉の地を、ガンジス河のバラナシに求め、息子とともに行って静謐な時を過ごし、息子との最後の和解を遂げてこの世を去るという物語です。誰しも迎える生涯の最後をどう過ごすか、普遍的なメッセージを放っています。輪廻をめぐる息子との対話は圧巻です。数年前に息子夫婦とともに訪れたバラナシの神秘的な夜の祈りのシーンも登場しますが、映画では少ししか描かれていませんので、少々残念でした。映画は、老人がこの世を去るにさいして、主として家族に焦点をあて、また現世の生活に埋没して生きる息子との葛藤と軋轢、最後の和解という身近なシーンに絞って描いていますので、インド文化をこえた伝統と近代の軋轢という普遍性を持って、世界の共感をえることに成功しています。しかし、ヒンズー教の伝統に傾斜しているために、インド人の死を取りまく社会的な背景はすべて捨象されています。おそらく、バラナシに行って盛大な野辺の送りを催す階級は限られているでしょう。ここに登場する人々は、おそらくインドの中産階級であり、カースト制度や富と貧困のめくるめく格差などは登場しません。監督にそうした社会的視点があれば、この映画はもっと骨太のメッセージを放ったに違いありません。BG音楽も、西欧風の哀愁が溢れたものを使っており、インド民俗音楽を使えば、さらに深い感慨を残したものと思われます。名演小劇場にて。観客10名弱。(2018/11/17)

テンギス・アブラーゼ『希望の樹』(旧ソ連・グルジア、現ジョージア、1977年)
 まずこの映画が1977年に制作されていたことに驚きました。おそらく、当時は社会主義リアリズム全盛期であり、こうした正面からロシア革命を称えない表現が国立映画製作所で認可されたことに驚きました。表現手法は、リアリズムと云うよりもシュールさが漂う自然主義の手法で、淡々と悲劇を描いていきます。映画は、革命前の前近代農村の因襲が漂うなかで、近代を夢みる農民が狂人のように描かれ、彼を支持するのは子どもだけです。ロシア正教と一体化していた家父長制が隠然たる支配を浸透させ、親の決めた結婚のしきたりを破る女性が、馬に乗せられて村中を引き廻されます。マルクスは、ロシアのミール共同体を未来の共同社会への可能性を潜在していると評価しましたが(「ザスーリッチ宛の手紙」)、この映画を見ると、そんな単純なものではないことを思い知らされます。シネマスコーレにて。観衆15名。(2018/11/15)

ユイ・ハイボー/キキ・テインチー・ユイ『世界で一番ゴッホを描いた男』(中国・オランダ、2016年)
 実に胸迫るような哀しい,ペーソスあふれるドキュメンタリーです。中国現代化の先端都市である深圳市に、このような複製画をつくる工房町があるとは知りませんでした。中国の貧しい絵描きたちを下請けにシステム化した複製画ビジネスを正面から描きます。彼(女)らはごく自然に使命感を持って複製画を描き、欧米の注文主に何千枚と売り、その日の生活費を得ています。この映画の圧巻は、彼(女)らが、忽然と自らの芸術性に目覚め、オリジナルな作家へと変貌するその瞬間の表情です。オリジナルを描いて売れなければ、貧困へ転落する恐怖に打ちのめされる涙のピュアーさは、すでに私たちが忘れたものです。複製画の描画に、或るプライドを賭けていたものが、木っ端微塵に打ち砕かれて、呆然とする姿も、干からびた日本からは失われたピュアーさでした。開発途上経済の飛躍のなかで、翻弄される中国美術界の底辺の状況とそれに抗って生きる芸術精神の片鱗を映しだしています。伏見ミリオン座にて。観客10数名。(2018/11/4)

サムルノリ名古屋公演
 朝鮮半島の農楽を舞台向けにアレンジした金徳珠をリーダーとするグループの圧巻の公演でした。金は賤民による芸能集団である男寺党出身で、農楽を現代化して舞台芸術に高め、いまでは世界を対象に公演しています。朝鮮の打楽器を縦横に駆使する渾身の演奏は観る者を圧倒します。こうした全身芸術家と云ったエネルギーは日本ではありません。そこには、朝鮮独特の”恨”の美学が溢れでており、演者自身が恍惚たる表情で演奏しています。名古屋栄ライブハウスにて。会場満席。在日の方が多い。(2018/11/2)

サミュエル・コーヘン『運命は踊る(原題・FOXTROT)』(イスラエル、2017年)
 久しぶりに精神性の高い高質の映画を観た。しかも、ヘブライ語が流れるイスラエル映画だ。ホロコーストの惨酷さを忘れて、同じような行為でパレスチナを蹂躙する悪の国・イスラエルと云ったイメージが吹き飛んだ。この映画は、上映前に政府の大臣から、政府の映画支援基金にふさわしくないという攻撃を受けたそうだが、そうした映画を制作できる現代イスラエルの複雑な文化状況を知った。男女とも18歳で兵役に就く徴兵制が埋めこまれ、テロの恐怖が埋めこまれている日常生活、無神論を公言するユダヤ教徒や原理派と世俗派の対立、18万6500人のホロコースト生存者がいて過去の記憶が現在にある国、世代感覚の落差等々。娘をあやうくテロで失いかけた監督自身の原体験が基にあるそうだが、そうした緊張した状況を生きるイスラエルの深い人間認識と偶然に弄ばれる人間存在がもたらす実存的状況がむすぶ世界が描かれる。しかし、パレスチナ人がいっさい登場しないのは、政府資金を得るためなのだろうか、それとも対パレスチナ戦争に批判的な監督の思想があるのだろうか? 
 とにかくストーリー展開がギリシャ悲劇の3部構成のように凝っており、しかも答えが後から分かるようなミステリー編成になっているため、観ている私の思考が追いつかない、もう歳をとってしまったのかと少々不安になった。綿密な物語構成と意表を突く画面構成、シュールな魔術的リアリズムの演出技法が際だっており、抑制され計算された台詞、表情だけの変化で感情を表現する研ぎ澄まされた想像力と映像技術、とくに音響とラストに流れる音楽が素晴らしい。この映画は、逃れられない運命の不条理を描いているようにみえるが、じつはすべて人間の行為が生みだした必然性にあり、じつはイスラエル政府の戦争政策を批判するメッセージを秘かに込めた反戦映画ではないだろうか? 伏見ミリオン座にて。観客30数名。(2018/10/4)

コンスタンチン・ハベンスキー『ヒトラーと戦った22日間』(2018年、ロシア、リトワニア、ポーランド)
 ロシア映画を見たのは何年ぶりでしょうか。しかも、ロシアが描いたナチス強制収容所の映画は初めてです。ロシアが、いまこうした映画をつくる意味と背景はどこにあるのでしょう。絶滅収容所であるソビボル収容所と、そこで囚人による蜂起と脱走が起こったのも初めて知りました。囚人音楽隊(ほぼヴァイオリンで構成)が楽しげな歓迎演奏をするなかで、囚人列車が到着するシーンは迫力がありましたが、囚人たちは自分の運命を知らず、普通の会話をしています。ただちに、女性たちがガス室に送られて殺害されるのも強烈です。収容所長が親衛隊曹長であったのは意外でしたが、親衛隊メンバーの多くがルサンチマンを囚人に放射する下層階級出身であることもうかかえました。親衛隊の酒席で狂気のように囚人を虐待して、馬車を引かせるシーンはナチスの狂気を象徴しており圧巻でした。ロシアがこの映画をつくったのは、蜂起指導者が優秀なユダヤ系ソ連兵であり、屈従する一般ユダヤ人を導いていくという英雄性にあったのではないでしょうか。あるいは、強制収容所には、ユダヤ人以外のソ連兵捕虜も多数いたことを示すためでしょうか。蜂起は、1943年10月14日に決行され、約600名が蜂起し、360名が脱出に成功し、うち約200名が追及で殺され、160名が森に逃げ込み、多くが偏見を持つポーランド人によって密告・殺害され、大戦終了後まで生き延びたのはわずか47名であった(芝健介)。驚いたのは、生き残った1名が戦後にブラジルに移住して、ブラジルに潜伏している元親衛隊員数名を殺害したことでした。センチュリー劇場にて。観客10数名。(2018/9/27)

チャン・ジュナン『1987年、ある闘いの真実』(2017年、韓国)
 1980年代の軍事独裁に抗する民主化運動を正面から描く本格的な劇映画です。KCIAの活動家に対する拷問を契機とする民主化運動や学生運動の高揚と弾圧をステロタイプではなく、それぞれの背後にある人間を描きだして浮き彫りにします。民主化の支持勢力が、カトリック教会や刑務所の看守にまで広がっており、たんなる尖鋭な学生運動ではなかったことが分かります。斃れていった学生のヒロイックに描きすぎた感じもありますが、むしろこうした映画が市場にのるところに、現代韓国の民主主義の成熟を感じます。パク・クネ前大統領に抗議する100万のロウソクでも背後にある歴史の重みがうかがわれます。それにしても、日本の直接民主主義の脆弱性とのあまりの非対称性に絶句するしかありません。リアリズムの手法が高度に駆使されています。センチュリー・ホールにて。観客50名弱(2018/9/23)

新劇合同公演『12人の怒れる男たち』(2018年名古屋市民会館)
 『12人の怒れる男たち』の原作をかなりアレンジしていますが、陪審の過程を通じて、アメリカ民主主義の成熟をとらえています。少数意見が諄々と説得を通じて多数派を形成する過程は、いつもの通りに展開しますが、それぞれの偏見の背景が浮き彫りになって正義の実現に至ります。正義の感覚そのものが衰弱している日本の現状に対する痛切な訴えのようなコンセプトが込められています。アートピア・ホール。会場満席(2018/9/21)

ジアド・ドウエイリ『判決、ふたつの希望(原題:THE INSULT侮辱)』(2017年、レバノン・フランス)
 はじめてレバノン映画を観ました。首都ベイルートはあまりに西欧化された都市風景で驚き、またアメリカの裁判風景のような近代裁判が展開され、しかも女性判事や女性弁護士が堂々たる活動をするなど驚きました。イスラム教やキリスト教、パレスチナ難民が入りくむモザイク状のなかで、暴力が日常に蔓延するなかで、日本的日常では信じられない緊迫した生活が営まれています。この映画は、レバノン現代史の知識なしに観ても、映画のメッセージを本当に理解できないことを痛感します。それぞれの虐殺体験を持つ異教徒が、日常の些細な口論から、取り返しのつかない対立に至り、最後には相手の痛みを理解して和解に至る希望をもたらして終わりますが、現実にはこうした和解はありえるのでしょうか。女性裁判長が、2:1で被告無罪を言い渡しますが、判決理由はいっさいなく、2:1が現在のレバノンの状況を象徴しているように思いました。こうした過酷な現実に比べて、日本の日常はなんと安穏なことでしょう。イスラム文化圏に於ける名誉のモラルの独特な尊厳性を示しています。リアリズム映画の勝利を示していますが、日本語の題名は、安易で、原題の侮辱を生かした題名がよかったように思います。伏見ミリオン座にて。観客約60名。こんなシリアスな映画に集まる日本人の多さに、すこし希望を感じました。(2018/9/1)

クリステイアン・クレーネス/フロリアン・ヴァイゲンザマー/オーラフ・S・ミュラー『ゲッペルスと私(原題:A GERMAN LIFE』)』(2016年、オーストリア)
 最初に記すべきは、今なおナチス・ドイツの過去の記憶を復元し、現代にメッセイジーを伝えようとする欧州映画ジャーナリストの歴史観感覚の凄さです。製作はオーストリアのドキュメンタリー映画集団であり、監督は50才代から60才代前後と思われますが、過去の記憶の歴史を伝承していこうという気魄が感じられます。それに比して、わが日本の歴史感覚はどうなのか、と深く自省する次第です。この映画は、ランズマン『ショアー』の手法を踏襲して、作為を排した徹底した独白に近い証言となっており、オーラル・ヒストリーによる歴史の再現と事実の提示です。
 主人公は30歳でゲッペルス宣伝省相の秘書として、ナチスの中枢部で働いた103歳の女性であり、「ユダヤ人虐殺は知らなかった」「私に罪があったとは思わない」「あの時代では抵抗はできず、私は忠実に義務を果たした」と淡々と述べますが、アイヒマンのような自己免罪ではなく、当時のドイツの中産階級のリアルな心性を浮かびあがらせ、原題「あるドイツ人の生」に普遍性があることを伝えます。深く幾重にも刻みこまれたシワの陰翳ある願望に圧倒されます。しかし、書籍版を見ると、彼女は半ユダヤ人の恋人がおり、オランダに亡命した後も会っており、オランダで亡くなっていますが、こうした真実はいっさい語られません。ファッシズムの指導者が洗練された貴族性を持ち、豪華なオフイスで楽しく働き、真実を知ろうとしなかった普通の市民にこそ、ファッシズムの土壌があったことを静かに伝えています。途中で挿入される初公開のホロコーストの実写記録が生々しく、それをそれ程の痛みなく見る自分に驚かされます。名古屋シネマテークにて。観客50名弱。(2018/6/30)

ラウル・ペック『マルクス・エンゲルス(原題・若きマルクス)』(2017年、仏・独・ベルギー)
 欧米のマルクス・ルネサンスに呼応する映画なのでしょうか、新ライン新聞時代の森林法違反問題から、パリへの亡命、そしてロンドンへの亡命をへて、共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』の起草までを描きます。正義感あふれる人間マルクスを描いているのはよいのですが、ほんとうは3時間ほどの大河ドラマであれば、より深みがでたと思います。産業革命期のマンチェスターが登場し、過日訪問したマンチェスターの印象をありありと思い浮かべました。欧州には、マルクス主義の思想と運動が生活に根づいており、日本はやはり輸入思想であると言うことが実感されます。しかし、やはりマルクス主義は知識人が主導した運動であり、民衆は唯拍手していただけだという印象が強まり、それは当時の時代の故の限界であったと思われます。こうした伝記映画は、紋切り型のヒーロー物語に終わるのですが、そうしたレベルを超えようとする意欲的な作品です。名演小劇場にて。観客20数名。(2018/4/30)

チャン・フン『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年、韓国)
 1980年の光州事件を舞台に、ドイツ人記者の現地取材を助けるタクシー運転手が遭遇した過酷な現場をドラマテックに描きます。事件の要因となった軍事クーデターと戒厳令にたいする市民の怒りに迫れば、そしてなぜ光州であったのかに迫ればより深みがでたと思いますが、2時間弱では無理なのでしょう。政治に無関心であったタクシー運転手の庶民感覚でえがき、またドイツ人という外部のまなざしを入れているために、より立体的な描写となっています。さらに、素朴な庶民の葛藤や生活を織りまぜているために、政治事件が身近に感じられます。こうした監督の庶民感覚が武装抵抗という政治事件を通して、画面にあふれ出ています。民衆の世界にある素朴な信頼感はすでに日本で失われているものであり、こうした映画は日本では決してつくれません。「男は辛いよ」の寅さんの感覚と政治闘争が結ぶような韓国民主主義の骨太さがひしひしと迫ってきます。明けても暮れても、低次元の紛争に明け暮れている日本の現状の頽廃を逆照射します。この映画を観た同じ日に、画期的な南北首脳会談が板門店で開かれ、東アジアの歴史は大きな転換を遂げようとしており、日本は巨大な噴流から取り残されてあてどなく漂流しています。ミッドナイトシネマにて。観客30数名。(2018/4/27)

アレックス・ギブニー『ラッカは静かに虐殺されている』(2017年、アメリカ)
 シリア内戦でイスラム国(IS)の首都となったラッカでの、ISの虐殺を告発するドキュメンタリー映画で、ラッカのシリア人民間ジャーナリストRBSSが撮影してSNSで世界に発信する様子を編集しています。ISの虐殺は、ISに組織された子どもたちが捕虜を並べて一斉に後頭部を何発も射撃するという凄惨なものであり、ISはオカシや玩具で子どもたちを集めて洗脳する光景も映しだされます。おそらくは、斬首などもと酷いシーンがあるのでしょうが、それはカットされています。首がころがっているシーンはありました。しかし、このドキュメンタリーはイスラム原理主義が最悪のテロ行為に陥っていく背景については一切描かず、まるで生まれながらの悪魔のように描いています。これを製作した監督は、すべてが大義なきイラク侵攻から始まったことを知っていながら、アメリカの世論や資本に遠慮しているのか、結局はISに憎悪を集中させる編集をしています。ISの残虐さは浮き彫りとなりますが、その第1原因をつくったブッシュ政権の暴虐を描かない限り、暴力の連鎖は終わりません。名演小劇場にて。観客10数名。(2018/4/21)

ダイアン・クルーガー『女は二度決断する』(2017年、ドイツ)
 トルコ系移民に対するネオ・ナチの爆弾テロの犠牲となった家族の復讐劇ですが、犠牲者の怨念と復讐を描くだけに終わって、これでは暴力の連鎖を誘発して終わるような描き方です。ドイツの警察と司法のネオ・ナチに対する寛容を告発する効果はありますが、ネオ・ナチがうまれてくる社会的な背景や市民のネオ・ナチへの批判をもっと深めて描けば、さらに深い表現ができたと思います。それにしても、麻薬が日常に蔓延しているドイツの実態と、いとも簡単に爆弾が製造できるのには少々驚きました。ミリオン座にて。観客20数名。(2018/4/20)

ステイーブン・スピルバーグ『ペンタゴン・ペーパーズ』(2017年、アメリカ)
 ベトナム戦争に関する米国防総省の秘密報告を暴露したワシントン・ポスト紙の、情報入手からスクープに至る新聞社内の経営と報道部の葛藤を描き、アメリカン・デモクラシーの正統性を正面から訴えます。アメリカのジャーナリズムの良心の矜恃をうかがえる作品ですが、いささかアメリカ的正義の宣揚に終わって、内容に深味がありません。しかし、日本の大手メデイアの退廃を逆照射する意味はあります。こうした現代史の暗部を描く作品では、どうしても欧州映画と比べて堀が浅く、『シンドラーのリスト』と同じように、スピルバーグの限界があらわれています。では、9・11以降の大義なきイラク戦争に対するワシントン・ポストの報道の実態はどうだったのでしょう。メリル・ストリープとトム・ハンクスの演技も、定型化されたレベルであり、『ソフィーの選択』の圧巻の演技から比べると深味がありません。ミッドランド・スクウエアにて。会場満席で驚きました。(2018/4/7)

アタン・アリム・クバト『馬を放つ』(2017年 キルギス・フランス・ドイツ・オランダ・日本)
 
キルギスの映画は初めてのような気がします。遊牧の血が流れるキルギスですすむ近代化と伝統の亀裂をえがき、またイスラム教に包摂されていく伝統宗教の亀裂を描いていますが、全体としてオリエンタリズムの心性が流れており、欧州映画祭でもそれが評価されたからでしょう。日本でみる私たちも、そうした視点から免れないようです。岩波ホールにて。(2018/3/17)

テアトル・エコー『もやしの唄』(作・演出 小川未玲)

 1960年代の高度成長にむかうなかで、手作りのもやしをつくる一家が機械化に呑みこまれて廃業に至る過程を哀感込めて描きます。商品化と機械文明に対する珠玉のような何気ない批判の言葉があります。過ぎ去っていく美しい過去への懐旧の心性がうかがえますが、「明日世界が滅ぼうとも、今日樹を植える」というジャン・ジオノのような思想とも受けとれます。しかし、自分探しに住み込んだ大企業の息子が、最後は経営者になって再訪するなど、予定調和の世界にあふれています。深化する危機の現在にあって、こうした演劇ははたしてどのような意味を持つのか、つくづくと考えさせられます。高齢化が進む勤労者演劇の癒しなのでしょうか、それとも文化庁の受賞をねらったしたたかな戦略が込められているのでしょうか。名古屋市民会館にて。観客は3分の2くらいか。(2018/3/18)

ジョン・グロス/ナナ・エクフテイミシュヴィリ『花咲く頃』(2013年、ジョージア=ドイツ=フランス)
 独立直後のグルジア(ジョージア)の内戦下を生きる青年の姿を描きます。略奪婚に近い結婚形態が残っている男性家父長制文化、食糧供給不足による行列、学校秩序の崩壊、徒党を組む若者不ループの暴力、結婚披露宴と民俗舞踊、若い女性の自立への志向等々、現代のジョージアの日常にある苛立ちと模索ががうかがわれて興味を持ちました。すべてが旧ソ連社会の残滓のように見えますが、内戦そのものは描かれないため、混沌としたジョージア社会の背後にある社会主義の荒廃とのむすびつきがよく分かりません。若者の内面にせまろうとするリアリズム映画です。名演小劇場にて。観客10数名。(2018/2/21)

テリー・ジョージ『The PROMISE/君への誓い』(2016年、スペイン=アメリカ)
 第1次大戦期のオスマン・トルコ帝国で起こった少数民族・アルメニア人への民族虐殺を描いています。この主題そのものがよく知らないこともあり、興味を持って観ました。しかし、なぜトルコがアルメニア人を迫害するのかーという肝心のことは描かれず、虐殺がドラマテイックなエンタテイメントのタッチで描かれていますので、映画としては深味がありません。なぜ、フランスが戦艦を派遣してまでアルメニア人を救援するのかも分かりません。事前の歴史学習なしには分からない映画です。なぜ、スペインとアメリカ資本がこの映画製作に資本を投下したのでしょうか。どうも、現在のトルコとシリアをめぐる国際情勢が背後にあるような気がします。そうすると、この映画監督は芸術家としては失格です。ただ、トルコでのアルメニア人の生活と、当時のトルコが欧米文化に染められていたことがうかがえて、その点は興味深くみることができましたが、それもオリエンタリズムの視点からです。センチュリー・シネマにて。観客10数名。(2018/2/18)

キャスリン・ビグロー『デトロイト』(2017年、アメリカ)
 1967年のアメリカ・デトロイトの黒人暴動を衝撃的なリアリズムの手法で描きます。こうした映画にハリウッド資本が投資をOKするのも驚きですが、いまもって有色人種(!)にたいする差別が根強くあることがうかがわれ、対象は黒人ですが、アジア系はイエロー=卑怯者とイメージされているのも驚きでした。おそらく、女性としてはじめてアカデミー賞監督賞を得たこの監督のメッセージは、移民をターゲットとする排外主義を煽動するトランプ大統領に対する怒りにあるのではないでしょうか。ただし、黒人ミュージッシャンの抵抗の歌が、最後は黒人教会のニグロスピルチャルの讃美歌(それはそれで感動的ですが)、抵抗への志向が宗教の次元にとどまったのが、ハリウッド資本が許した理由になっているのでしょう。1960年代のデトロイトの機械工場のシーンを興味深くみました。ひさしぶりにアメリカの良心をみるような本格的な直球の映画でした。伏見ミリオン座にて。観客10数名。(2018/1/31)

文学座『女の一生』(森本薫作、鵜山仁演出)
 じつに生き生きした演出で、俳優陣の演技も素晴らしく、近代日本の上昇期を生きた女性の一生を浮かび上がらせる。しかし、この作品の真のメッセージは、逮捕されていく共産党員の義弟を特高警察に売った女のアンビバレンツに象徴される限界ではないだろうか? 必死にけなげに生きた近代日本の女性は、イエと天皇制に呪縛されて、警察に肉親を売るようなふるまいにいたったのだ。敗戦後の廃墟のなかで、生き残った2人は恩讐を超えて戦後の新しい時代に生きる希望を共有したのだ。しかし、あれから70有余年が過ぎて、ふたたびあの戦争の時代が巡りくるような予感への危機感は、それほどには強調されていない。名演例会。名古屋市民劇場にて。(2018/1/24)

ヴィターリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』(1989年、ソ連)
 ソ連崩壊前のペレストロイカとグラスノスチのなかで、検閲が大幅に縮小された時代のリルで前衛的な表現の映画です。主題は東方の寒村で生きるストリート・チルドレンの姿であり、体制から排除され、ドロップアウトした少年少女の凄まじい生活が描きだされます。しかし、社会主義の規範が緩んで明るさが出てくるのかと思いきや、少年少女の動きの活発さに比べて、画面はシニカルなニヒリズムが漂い、最後はあっけなく少女が銃殺され、母親が狂気となって終わります。今まで描かれなかった旧ソ連の裏社会に迫って、それはそれで面白いのですが、「動くな、死ね」はあっても「甦れ!」はありません。ソ連崩壊直前の混沌とした無秩序を描いていますが、それはソ連社会主義そのものへの絶望が潜んでいるかのようです。シベリヤ抑留中の旧日本兵がソ連兵に媚びへつらって生きる姿と、彼らが歌う日本民謡が胸に迫ってきます(かなりの歌唱水準)。パンフの映画批評には、みるべきものなし。シネマテークにて。意外と観客多く10数名。(2017/12/20)

ミック・ジャクソン『否定と肯定』(2016年、英米合作)
 ホロコーストを否定する歴史修正主義とユダヤ系女性学者の法廷闘争をドキュメンタリータッチでリアルに描いていますが、見終わった後は期待していたほどの感銘は受けず、複雑な印象を残しました。それは、イギリス弁護団のヒューマニズムあふれる敢闘を浮き彫りにしていますが、当事者であるユダヤ人自身による批判と告発を排除し、ユダヤ人は西欧のヒューマニズムによって救済される「弱き」被害者として位置づけられているところにあります。ホロコーストの生存者の法廷証言が、二重の侮辱を受けるとして、弁護方針から外されるところに、なんとも言いがたいイギリス・ヒューマニズムの限界を覚えます。もっぱらアングロサクソンのヒューマニズムと良心が、歴史修正主義との戦いを通じて宣揚され、イギリス民主主義の成熟に感動を残して終わるからです。こうしたスタンスは、スピルバーグ『シンドラーのリスト』でも見られたものであり、ユダヤ人自身はみずから抵抗に立ちあがるのではなく、アングロサクソンの支援を受けて救済されるというイメージです。日本でいえば、悪人に虐められた庶民が、水戸黄門の葵の印籠で救われるというパターンと本質的に同じです。最近とくに、ユダヤ人迫害とホロコーストを描く欧米映画が増えているのはなぜでしょうか? アメリカの大義なきイラク戦争やイスラエル擁護にある不正義を免罪するような良心の自己満足をもたらしているのではないでしょうか? それにしても、イギリス法廷の権威主義と高額な裁判費用(200万ポンド)には驚きました。ミリオン座にて。観客100名近くで、関心の高さに驚きました。(2017/12/13)

キム・ジウン『密偵』(2016年、韓国)
 日帝支配下の独立闘争を描く韓国の長編映画です。韓国では大ヒットを記録したようですが、今日の劇場は10名ほどで閑散としていました。ストーリーは、韓国亡命政府系の義烈団と日本警察、日本警察に雇われた韓国人警官がくりひろげる三つどもえの暗闘であり、二重スパイが暗躍するハラハラドキドキのエンタメとなっています。当時の都市風景と生活を再現するセットが素晴らしく、また日本人が敵そのものとして描かれ、韓国の人にとっては無条件に楽しめ、ナショナリズムを満足させます。独立闘争の主要手段は爆弾テロであり、テロ戦術を全面的に肯定している点で、現代の反テロ戦争の宣揚に一石を投じています。独立運動の諸潮流とその葛藤、日本警察の内部矛盾を描けば、もっと彫りの深い展開となったと思います。センチュリー劇場にて。(2017/12/1)

パブロ・ラライン『ネルーダ』(2016年、チリ
 チリの反ファッショ抵抗詩人パブロ・ネルーダの弾圧下におけるチリからフランスへの逃亡劇を描きます。しかし、描写の焦点はネルーダの女狂いと、追跡する警官の1:1の人間的な関係に絞られ、当時のチリの社会的背景は一切描かれず、監督の視点の浅さが露呈しています。ただし、映像技術は水準が高く、雪に閉ざされた山越えのシーンは観るべきものがありました。当時のチリ共産党の支持基盤が、労働者・農民から一部貴族層まで及んでいたいたことが分かります。政治犯収容所の所長が、その後の独裁者ピノチェトであるのも興味深いものでした。全体として、この映画は抵抗派詩人をエンタメの視点から描く底の浅さで失望しましたが、それは現代チリの一定の民主化の到達水準を示しています。。観客4名。名演小劇場にて。(2017/11/18)

フランソア・オゾン『FRANR(邦題・婚約者の友人)』(2016年、フランス・ドイツ)
 久しぶりに、香気あふれるフランス映画を堪能しましたが、テーマはとてもシリアスで、複雑な主題が入りくんでいます。第1次大戦で、前途希望ある青年たちが、父親たちのナショナリズムに煽られて敵同士となって殺しあいます。当時は徴兵制ではなく、志願制だったのでしょうか。第1次次大戦が大義なき植民地争奪戦であり、両国の市民はナショナリズムに巻きこまれていた時代の雰囲気がよく分かります。敵兵を殺して生き残った者にたいする赦しはありうるか、恩讐をこえて信頼と愛は成立するか、真実を知らなせない嘘によってほんとうの幸福はもたらされるか、無意識の誠実がかえって人を傷つけるのではないか、さまざまのテーマが混融しています。モノクロームと抑えたカラーが交錯する映像も見事でした。しかし、西欧文明の終焉をもたらした第1次大戦の惨酷さは描写不足で、敗戦ドイツよりもフランスの惨状が顔を覗かせます。フランスとドイツの知識階級の葛藤、とくに女性心理の機微に焦点をあてており、悲劇をのりこえていく女性の強さを描いて引きこまれますが、ほどなくして起こる惨酷な第2次大戦を予告していると、この映画はより深い余韻を残して終わったでしょう。現代のフランスやドイツで、こうした真摯に戦争と向きあう香り高い映画がつくられることに、文化の深みを覚えます。それにしても、ドイツの田園風景は美しい。伏見ミリオン座にて。観客30名弱。(2017/10/29)

エミール・クストリッツア『アンダーグランウド』(1995年、仏・独・ハンガリー合作
 ナチス占領下のセルビアを舞台に、対独レジスタンスをへて、ユーゴ・チートー政権の成立から崩壊を描く歴史映像叙事詩ですが、その描法が破天荒の魔術的リアリズムというか、バフチン的なカーニバルの圧倒的な様式であり、濃密なアヴァンギャルドの演出にあふれています。ヴィスコンテイのような骨太の大河叙事詩を嘲笑うような嬌笑の凄さに驚かされます。奔流のようにほとばしって人間を巻きこんで翻弄する激動の歴史をしたたかに生きる人間と、その対極にある弱さを織りまぜて、ある種のカタルシスをもたらします。凝りに凝った映像芸術の到達点を堪能しましたが、その背後にあるひっそりと無名のままに死んでいった無辜の民衆の哀しみのようなものも浮かびあがってきます。多民族国家ユーゴの歴史の複雑な深みの一端に触れました。名古屋・シネマテークにて。観客10名弱。(2017/10/20)

クリス・クラウス『ブルーム・オブ・イエスタデイ』(2016年、独・襖)
 久しぶりに骨太の欧州映画を堪能しました。それにしても、戦後70年をへてナチズムは欧州の主要な主題となっており、形を変えて次々とナチズムを描く映画が制作されています。ナチズムの傷痕を清算しながら生きるドイツ人とユダヤ人の葛藤という戦後ドイツが抱えるテーマに挑んでいます。ナチスの戦犯を祖父に持ち、ユダヤ人を密告した過去を持つ男と、家族をガス車で殺害されたユダヤ人女性の愛と葛藤を描きます。ナチスのSS男性と収容されたユダヤ人女性の屈折した愛の世界を描いたリリアーナ・カヴァーニの『愛の嵐』と本質的に共通の物語です。ドイツ人とユダヤ人が過去の恩讐を超えて、和解への途を切り開けるのかー現代ドイツが直面する課題を正面から描いています。
 注目したのは、ナチスの家系を断種して断つという選択を選ぶのにたいし、日本では戦犯の孫世代が権力の座に着く戦後日本の異常性です。研究者と研修生が台頭のコミュニケーションを交わすのも驚きでした。ベンツやオペルなどの大手自動車会社がナチスに協力してガス車を製作してナチスに提供し、ユダヤ人にとってはベンツに乗るのは忌まわしいことなのも印象深いものでした。子どもがないドイツ人が、黒人の子どもを養子にしているのも驚きでであり、最後のシーンは敵対するものが和解にいたる希望を示しています。伏見ミリオン座にて。観客10名弱。(2017/10/16)

阪本順治『エルネスト』(2017年、日本・キューバ合作)

 キューバ革命の指導者エルネスト・チェ・ゲバラは、革命の英雄として神格化され、最後はボリビアの軍事独裁に抵抗するゲリラ戦争を展開し、36歳で殺害されました。そのゲリラ軍に、鹿児島出身の日系2世フレデイ前村がいたことを初めて知りました。フレデイは、革命後のキューバのハバナ大学医学部に入学し、ゲバラの感化を受けて医者の道を断って、ゲリラ戦争に参加し殺害され、ゲバラの霊廟にともに葬られています。阪本監督は、ゲバラとフレデイの史料を深く読み込んで制作しています。映画の導入部が訪日したゲバラが広島の原爆記念碑を訪問するところから始めるシナリオとなっており、観客はすぐに画面に引きこまれていきます。ゲバラやカストロが民衆生活のなかに、ストレートに参加していくのも興味深いものであり、ゲバラがハバナ大学で大学で学ぶ意義を演説し、そこに「新しい人間」というソ連型人間像が述べられるのも、ロシア革命の影響がうかがわれました。キューバ危機がキューバ政府に知らせれないまま、米ソの合意にいたり、中南米全域が失望したことも初めて知りました。
 日系2世のフレデイの学生生活の描写に時間を割きすぎており、医者の道を捨てて革命闘争に参加する肝腎の意識の転換の描写が弱く、俳優オダギリ・ジョーの抑えた演技が弱々しく、効果を発揮していません。フレデイが少年期に助けた貧しい子どもが、独裁者側の兵士として参加し、ゲリラ兵となったフレデイを射殺する場面に、民衆の屈折した心性があらわれていますが、ここをもっと突っ込んで描けば、さらに深みのある映画となったと思います。しかし、正面から直球でこうした映画にとりくんだ阪本監督の志に大いに敬意を表したいと思います。名演小劇場。観客10名弱。(2017/10/6)

黄亜歷『日曜日の散歩者 忘れられた台湾詩人たち』(2015年、台湾)
 1930年代の日本統治下の台湾で活動したシュールレアリズムの詩人結社「風車詩社」の戦前から戦後にかけての活動をドキュメンタリーで描きます。日本語が国語となった台湾では、日本語で詩を書くしかなく、日本語を完璧にマスターしたのは、当時の台湾エリートであり、そこに彼らの悲劇性があります。彼らに影響を及ぼした日本のシュールレアリズム詩人に、そうした痛みは理解できなかったでしょう。解放後の日本語が禁じられた台湾で、彼らは台湾語と北京語を学習しながら詩作し、主要メンバーは中国共産党シンパと疑われ、投獄や白色テロで銃殺されます。私は、こうした台湾詩人グループを初めて知り、驚愕しました。監督の資料収集の凄さとシュールな映像の見事さに驚き、台湾映画の水準の高さを感じました。映画上映後に、台湾人の三重大准教授が情熱を込めたトークを1時間強おこない、これも感銘深いものでした。彼は、冒頭に自分がLGBTであることを告げ、虹色のネクタイを着けていました。シネマテークにて。観客10数名。(2017/9/30)

佐古忠彦『米軍が最も恐れた男、その名はカメジロー』(2017年、TBSテレビ)
 米軍占領下の沖縄で、祖国復帰運動の中心となった沖縄人民党(その後、日本共産党へ合流)のリーダーとして活躍した瀬長亀次郎の半生をふり返ったドキュメンタリー映画です。闘士としての瀬長の無私の献身を、偏見なくリアルに描いて、現代のオール沖縄の原点を探っっており、米軍占領の抑圧性を告発するメッセージ性が浮き彫りとなります。それにしても、TBSがこうした映画の制作を認めたことに驚きをおぼえました。名演小劇場にて。観客30数名。(2017/9/27)

ダニエル・トンプソン『セザンヌと過ごした時間』(2016年、フランス)
 後期印象派のセザンヌと文学者エミール・ゾラが、小学校以来の親友とは知りませんでした。成功したゾラと死後にしか評価されなかったセザンヌの交流と葛藤を描きますが、互いに相手の才能を認めあいながら、その才能が何であるかという考察がないまま、描かれますので深みがなく、いわゆる単純な芸術映画に終わっています。パリ・コミューンやドレフェス事件という激動期の渦中にあって、時代との関連は描かれることはなく、たんなる皮相な内面描写に終わっています。パリ・コミューンの人民委員を務めたクールベや、マネやモネなど印象派の若き頃が登場しますので、そうした時代状況を描けばもっと深い描写になったと思います。それにしても、コルセットで身を固めざるをえなかった当時の女性たちが、いとも簡単に裸体となってはしゃぎ廻るのには驚きました。伏見ミリオン座にて。観客20数名。(2017/9/21)

ショーン・エリス『ハイドリッヒを撃て!』(2016年、チェコ・英・仏)
 ミュンヘン協定によるナチスのチェコ占領に対抗するチェコ・レジスタンスの総督・ハイドリッヒ暗殺作戦を描くリアリズム映画です。ナチスの主題とする映画は、絶えることなく続き、これはレジスタンスの大義と暗殺計画をめぐる葛藤が息もつかせぬリアルな描写となっていますが、内面に迫る本格的なナチス映画と云うよりも、緊迫した銃撃戦のリアリテイで勝負するエンタメ映画となっています。チェコ人がナチスに加担して、レジスタンスを迫害する構図には興味を持ちましたが、ナチスを主題とする映画は、ヒューマニズムと正義が約束された予定調和になりやすく、この映画もその枠内にあります。移民やテロなどの現代的な課題とむすぶ物語構成となれば、深い意味を持った作品になると思います。名演小劇場にて。観客20名弱。(2017/9/11)

ローラ・ドワイヨン『少女ファニーと運命の旅』(2016年、フツ・ベルギー)
 ナチス占領下のフランスで、ユダヤ人の子どもたちを匿って、スイスへ逃亡させる地下組織の支援をへて、自力で苦難を乗りこえてスイス国境をこえる子どもたちの物語です。子どもたちの個性があふれ出る演技によって、この映画は成功しています。逃亡を助けるフランス人と阻止するフランス警官の非対称性が浮かびあがります。逃亡した少女の、今はお婆さんとなったイスラエル在住の女性が最後に登場するのですが、このあたり何か、もっと演出ができたのではないかと思います。ナチスに協力して子どもたちを収容所に送った多くのフランス人もいたのであり、そうした側面を重層的に描いたら、もっと深みがでたように思います。名演小劇場にて。(2017/8/24)

マージー・キンモス『エルミタージュ美術館』(2014年、英国)
 エルミタージュ美術館の歴史と現在の一端を堪能することができます。多くは王室による金にあかせた購入品と、戦争による略奪や戦利品です。現在は、展示の現代化に向けて彫刻を台座から降ろしたり、現代美術と並べたり、工夫をこらそうとしていることが分かり、またソ連崩壊後の市場経済下で経営に苦労していることなどが浮き彫りとなりますが、プーチン礼賛には辟易しました。終始、幼い子どもが案内係のように、遊びながら動き、美術館ドキュメンタリーも工夫されています。10数年前に訪れたのですが、印象と記憶はなく、映画を見て思いだしたシーンもありませんでした。ミリオン座にて。観客30数名。(2017/8/23)

チャイタニヤ・タームハネー『裁き』(2014年、インド)
 久しぶりにインド映画を観ました。唱って踊っての準ハリウッドではなく、現代インド社会の実相を、裁判システムを対象に炙りだそうとする意欲作です。もっとも印象深かったのは、体制に意義を申し立てる民衆運動の重要なパフォーマンスとして、民衆の歌声運動があり、民衆詩人と呼ばれるストリートシンガーが活動していることです。その表現は、悪を告発して煽動するプロテスト・フォークであり、インド音楽をバックに扇動的に唱うスタイルは迫力があります。その歌唱に刺激しされた労働者が、歌唱通りに自殺し、その歌手が自殺幇助で立件されるという荒唐無稽な裁判がはじまり、前近代的な法廷手続きで人の運命が翻弄されていきます。カフカ『審判』のような不条理世界と評価する映画評論もありますが、本質は現代インドの前近代の批判的な告発にあり、監督もそれを描いたのだと思います。インドに詳しい人は、各所にカースト制度があらわれていることが分かるそうですが、私には見抜けませんでした。私も、インドに行った時には、その原始的貧困の凄まじさに絶句したのですが、この映画はムンバイという大都会のスラムを描いていますが、その貧困には迫りえていません。サタジット・レイの映画は、インドをリリックな映像で芸術に高めましたが、この映画は徹底したリアリズムでインドの実相を描き抜きました。わずか27歳でこうした映画をつくるインド映画の質に驚きました。シネマテークにて。観客10名弱。(2017/8/3)

イ・ジュニク『空と風と星の詩人 尹東柱の生涯』(2016年、韓国)
 植民地朝鮮で成長し、創氏改名して日本に留学し、英文学を学びながら詩を書き、独立運動容疑で逮捕され、福岡刑務所で獄死した朝鮮詩人の生涯であす。モノクロの映像は、久しぶりで最初は戸惑いましたが、次第に慣れてきて一種の貴品のようなものを感じました。この映画の特筆すべき点は、日帝の植民地支配をステロタイプに告発するのではなく、開発型近代の日本の歪みとしてとらえる点にあり、反戦的な立場から尹を支援する日本人を描いたり、取り調べの刑事の野蛮よりも、西欧近代への「劣等感」からでた大アジア主義の虚構を描くなど、人間的視点から見ようとしている点です。彼の清冽な抒情詩人としての姿が浮かびあがりますが、対比的に描かれる闘士型の従兄弟と対比して描かれ、久しぶりの真摯な印象を受ける映画となりました。私は、彼の詩が日本語で書かれたものとばかり思っていましたが、原詩は朝鮮語であり、日本語訳の素晴らしさが浮き彫りとなりました。しかし、尹東柱の最後は毒殺ではないかという説があり、それとなく薬物注射の実験シーンとして暗示されており、それは朝鮮人の囚人全員に科されたことを知って驚きました。観客は10名程度。シネマスコーレにて。(2017/7/31)

劇団・民藝『蝋燭の灯、太陽の光』(名演例会)
 T・ウイリアムズ25歳の無名時代の脚本が数十年をへて再発見され、上演された。小林多喜二に等しいプロレタリア・リアリズムの直球であり、青年期のウリアムズの思想がうかがえる。多喜二と異なるのは、定型的な描写ではなく、個人の生活と内面に迫り、階級的主観の葛藤や弱さなど人間的なまなざしを注いでいるところにあります。物語は、アメリカの炭坑労働の原始的貧困を生きる労働者階級の日常を描きながら、最後はストライキを組織して苦難の果てに勝利して終わるというものです。さまざまの個性が豊かに描かれているところが、凡百のプロレタリア・リアリズムをこえています。
 なぜ民藝は、いまこの作品を選んだのでしょう。格差と貧困が深化する現代日本へのメッセージ性を読みとろうとしたのでしょうが、1930年代と異なる現代労働の問題は、こうした作品では描けないように思います。単純な原始的貧困ではない複雑な状況には対応できないように思います。それにしても盲目の人への差別語である「△△△」が平気で頻出しているのには驚きました。(2017/7/19、名古屋市民会館)

ヴァンサン・ペレーズ『ヒトラーへの285枚の葉書』(2016年、独・仏・英)
 21世紀に入って以降も、ナチスを主題とする映画は多い。本作は、息子が戦死した両親がヒトラーを告発する葉書を書いて、秘かに配り続け、最後に逮捕されてギロチン刑に処せられるという物語です。父親は、自らの職能に誇りを持つ製造工場の職工長というナチスから一定の距離を置いたベテラン技能工であり、ナチス党員の職場での政治論議に嫌悪を示しています。息子の戦死をヒトラーの責任ととらえて死刑覚悟の行動に訴える内面的な動機の過程の描写が不足しており、少し説得力に欠けます。当時は国全体がナチス賛美であり、戦士は愛国的な思考の行為として讃えられ、遺族にも誉れと手厚い補償を受けてからです。しかし、ここにあるのは、たとえ孤立しても命を掛けて自分の意志を貫く市民的精神であり、現代日本にとって大きな示唆を与えます。こうした映画をつくり続ける欧州は、ナチズムの再来を許さない文化が埋めこまれていることが分かります。最後に登場するギロチン処刑機が、電気仕掛けの近代化されたものとなっていたのには驚きました。名演小劇場にて。20名弱。(2017/7/16)

アンジェイ・ワイダ『残像』(2016年、ポーランド)
 社会主義体制下のポーランドの構成派の画家ヴデイスワフ・ストウシェミンスキが、体制派への屈従を拒否して圧迫されて零落し、生を終えるまでの物語をリアリズムで描きます。この画家がロシア構成派のカジミール・マレーヴィッチの助手であり、ウラジミール・タトリンなどと交流していたポーランド構成派の代表的な存在であることを初めて知りました。スターリン型社会主義リアリズム芸術の体制下での異端派にたいする凄まじい弾圧がリアルに描かれており、悲痛な気持ちを込めて、告発して断罪し、名誉回復を図ろうとするワイダの心情があふれ出ています。画家が逮捕されなかったのは、第1次大戦で片手片足を失った戦功にあったのでしょうか? ポーランドでさえ、こうなのですから、ソ連や東ドイツの凄まじさは想像を絶します。しかし、ソ連崩壊後のポーランドを20数年は生きたワイダが、資本主義復活後の実態をふまえて描くと云うよりも、たんにスターリン主義にたいする告発に終わっているような問題意識には疑問を持ちます。社会主義体制崩壊後のポーランドは、市場経済下で市民は生き残り競争にあえぎ、中東難民の受け入れを拒否するナショナリズムにおちいっており、ワイダの現状にたいする認識は浮かびあがってはいません。残念ながら、ここにワイダの限界があらわれているのかどうか、考えさせられます。それはポーランド民主化運動の指導者ワレサが、民主化達成後にたどった軌跡と二重写しになります。岩波ホールにて。カトリックの修道女が2名いたのには、興味を持ちました。観客約80名。(2016/6/19)

ダニエル・ルケッテイ『ローマ法王になる日まで』(2015年、イタリア)
 アルゼンチンのカソリック神父がローマ法王に就任するまでの半生をドラマテイックに描きます。興味深かったのは、アルゼンチンの軍事独裁政権下で、民主化運動に献身する解放の神学派の神父が激しい弾圧をうける描写であり、普通の市民が政府批判派として逮捕され、睡眠薬を注射されて飛行機から太平洋上に投げ落とされて殺害されるシーンです。主人公の神父は、良心派として民主派に協力しながら、途中から沈黙に転じて枢機卿となり、ローマ法王に選出されます。中南米カトリック教会の良心を描いた点はよいのですが、大地主制と資本への批判はなく、無学文盲の民衆を指導する良心派神父を英雄化している限界があります。ナチスに協力して、ホロコーストに沈黙したローマ法王の過去の罪責まで描けば、もっと深い現代史の映画になったでしょうが、これがカトリックのパラダイムにあるイタリア映画資本の限界なのでしょうか。ミリオン座にて。観客40数名。(2017/6/10)

マイケル・ラドフォード『イル・ポステイーノ』(1994年、イタリア)
 チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダが軍事政権の弾圧を逃れてイタリアに亡命し、ナポリ湾のカプリ島にいた頃に、地元の青年と交流した日々を回顧するヒューマン・ドラマです。なんとも底抜けにヒューマンな哀愁が漂うイタリアン・タッチの映画で、風景と場面展開、そしてBGMの素晴らしさはさすがと思わせます。人間がたがいに素朴に信じ合える透明な関係にあることを、これほどにシンプルでピュアーな映像に収めた事例はないでしょう。イタリア共産党がレジスタンスの栄光をバックに、民衆の深い支持を集めた1950年代の実相を浮かびあがらせます。素朴でケガレなきピュアーな青年が、ネルーダと出会って自己省察を深め、ネルーダ自身も変わっていく過程が淡々と描かれており、告発型のイタリアン・ネオ・リアリスモを刷新した表現となっています。青年が反政府デモで命を落とすシーンも淡々と描写され、イタリアのヒューマニズムを普遍的に昇華する作品となっています。こうした時代から、70数年をへた21世期の現代は、人間史の展開においてほんとうに人間の豊かさが深まったのかどうか、鋭く問いかけられます。カソリック教会が、共産主義者を食人する者という偏見にあった時代も興味を持ちました。この映画は、映画としての映画の原点を静かに訴えています。主役を演じた青年が実は喜劇俳優であり、この映画化に全力投球して、亡くなったことも印象深いものがあります。驚いたことに、100%イタリア映画と思いきや、監督はイギリス人でした。WOWOWプライムにて。(217/5/26)

フレッド・ピーボデイ『すべての政府は嘘をつく』(2016年、カナダ)
 現代アメリカの正義を追求して報道する独立系ジャーナリズムの活動をを描いたドキュメンタリー映画です。「すべての政府は嘘をつく」とは、I・F・ストーンというフリー・ジャーナリストの先駆となった人の言葉だそうですが、チョムスキーやマイケル・ムーアなどが登場し、デモクラシー・ナウの活動が紹介され、アメリカの独立系ジャーナリズムの良心が描かれます。メイシコからの不法入国者の遺体が闇に隠れて集団埋葬され、その身元をDNA検査で追求する大学や、前オバマ大統領もリベラルからは不評であることなどは驚きでした。名演小劇場にて。観衆6名。(2017/4/12)

ケン・ローチ『わたしはダニエル・ブレイク』(2016年、イギリス)
 81歳になったイギリスのコミュニスト(?)映画監督は、最後まで自分の信念を貫いて頑張っているな~と感心しました。サッチャリズムの市場原理で社会保障システムが崩壊しつつあるイギリスの実態を、ほとんど古典的なリアリズムの手法で描きぬきます。無料で日用品や食料を配るフードバンクなどというシステムがあり、原始的な貧困におちこんだ人々が並んで配給を待つ光景や、主人公が心臓麻痺で死んだ後に教会で開かれる葬儀が、朝9時からはじまる「貧者の葬式」と呼ばれるのも驚きでした。新自由主義で傷みきったイギリス社会の最底辺を生きる労働者階級の尊厳にたいするケン・ローチのゆるぎない愛情が伝わってくるリアリズム映画です。さらに驚きは、カンヌ映画祭がこの映画にパルムドール賞を贈っていることであり、欧州に埋めこまれた左翼文化の深さを感じます。現在の日本映画で、ホームレスを主題にした大作などつくれるわけがなく、せいぜい山田洋次どまりです。ミリオン座にて。観客11名。(2017/4/10)

山崎欽毅・千原礼子『あるアトリエの100年』(2016年、日本)
 近代アカデミズム洋画を主導した岡田三郎助が遺したアトリエを舞台に、彼に学んだ画家群が回顧的に描かれるドキュメンタリーですが、森田元子や三岸節子、いわさきちひろ、古沢岩美などほとんどが岡田の画風を逸脱した画家たちが中心です。日展や光風会という日本画壇の家元制に近いような風土をつくりだした背景にはほとんど触れていません。岡田の妻が小山内薫の妹であったことは初めて知りましたが、むしろそちらに焦点をあてた方が面白かったかも知れません。あるいは古沢岩美に焦点をあてて、岡田の位置を浮き彫りにする手法もあったでしょう。この映画をつくった人々は、日本近代洋画の光と影の全面をみないで、単に権威を誉め称えるだけで意味がありません。シネマスコーレにて。観客は2人。(2017/4/5)

ジャンフランコ・ロージ『海は燃えている イタリア最南端の小さな島々』(2016年、イタリア=フランス)
 中近東やアフリカから海を渡って、ヨーロッパへむかう難民の最初の島が、イタリアのランペドウーサ島であり、この映画はその島に住む漁師の家族の生活を淡々と描きながら、一方で繰りひろげられる難民の凄惨な姿を描きます。いずれも感傷を一切排除した冷厳なリアリズムの手法で、島民の静謐な生活と凄惨な難民の姿が非対称的に浮き彫りになります。難民と無関係(?)に生きる島民の生活は、あたかも世界の、そしてに日本の平凡な生活を象徴しているようであり、かえって無知と無関心にある無意識の罪を問いかけているかのようです。この映画を見た後に、私は焼肉屋でおいしい餃子を食べながら、それほどに痛みは感じませんでした。7,586人の難民申請者のうち、わずか27人(!)しか認定していない日本の姿と重なっています。PKO参加による国際貢献の虚構の背後にある日本の偽善性をつきつけます。飢えて死ぬ子どもの姿を見ながら、リヴィングルームでワインを愉しむ私の姿も同じでしょう。それは、ブラック企業で過労死しているプレカリアートを横目で見ながら、安逸をむさぼる姿でもあります。お前はどうするのか?という問いかけをよそに、いつもの日常が過ぎていきます。こうした安逸のファッシズムのなかで、いつのまにか自縄自縛されて終末に至る先進国の悪無限の連鎖を断ちきる道が問われています。名演小劇場にて。観客10数名。(2017/3/16)

山田火砂子『母 小林多喜二の母の物語』(2016年、現代ぷろだくしょん)
 原作は三浦綾子『母』であり、特高に虐殺されたプロレタリア文学者・小林多喜二の母の生涯を描きます。戦前期日本の農村の原始的貧困のなかで、学校に行けず文盲のままで成長し、息子が共産主義作家として虐殺されるのを見送り、万年はクリスチャンとなって生涯を終えた日本の底辺民衆の母親像を象徴しています。多喜二が左翼作家へ成長していく時代背景は、詳しく描いていないので、近現代史の知識がなければ理解しにくいところがあります。小作料を払えない農民の娘が身売りされても、けなげに生きようとする子ども時代の農村風景は哀れであり、三従の教えがそのまま生きていた時代の女性をリアルに描いていますが、原作者の社会認識の限界を反映して、ともすれば苦闘の物語に終わります。しかし、それが日本の母親の実相であったのです。母親や多喜二の内面的な苦悩と変革への意識転換がもっとていねいに描かれれば、現代のプレカリアートである若者たちの心性を把握できたでしょう。イタリア・ネオ・リアリスモのような演出法を駆使すれば、もっと観客に異化効果を与えたのではないでしょうか? しかし、こうした正面からの直球の映画をつくる監督がいることによって、日本映画は救われています。名古屋・シネマスコーレにて。観客は中高年10数名。(2017/3/15)

ギャヴィン・ウッド『ツオツイ』(2005年、南ア・イギリス)
 アパルトヘイト廃止後の南ア共和国の凄まじい貧困を生きる少年ギャング団を描きます。マンデラの指導した黒人解放運動は、新自由主義の下でさらなる格差をつくりだしたのでしょうか? 『自転車泥棒』や『靴みがき』のイタリアン・ネオ・リアリスモを思いおこすようなリアリズム映画です。この映画の限界は、ゆがんだ反抗をくりひろげる少年が、正当な抵抗の世界へ踏みだすのではなく、両手を挙げて警官に屈服して体制へ従う誓約を暗示するところにあります。BS12にて。(2017/3/4)

クリスチャン・カリオン『ブラックボード 戦火を生きて』(2014年、フランス・ベルギー)
 反ナチ運動家のドイツ人の父と息子が、フランスに亡命し、ドイツ軍侵攻下で離ればなれになって再開するという物語です。ドイツ占領下で難民となって南部フランスに逃れるフランスの実態をはじめて知りました。苦難をこえて助けあう人もいれば、冷ややかに生きのびようとする人もおり、いかにもフランス的なヒューマンがただよう作品です。第2次大戦期の難民体験が、現代でもイスラム系の移民を受け入れる土壌をつくっているのでしょうか。それにしても、現代フランスのルペン派極右が台頭していることにも暗澹たるものがありますが、21世紀になっても、こうした第2次大戦期のヒューマンドラマをつくる欧州文化の埋めこまれた深さを覚えます。それに較べて、日本の戦後の歩みは何であったのでしょう・・・いまや教育勅語を暗唱させる幼稚園があらわれたのですから。BGMがエンニオ・モリコーネであったとは、いったいこの作曲家は御年何歳なのでしょう。WOWOWプライムにて。(2017/3/1)

キム・グドク『The NET(網に囚われた男)』(2016年、韓国)
 南北分断をのりこえようという監督の痛々しいまでのメッセージが伝わってくる全力投球のリアリズム映画です。分断国家の論理に翻弄される一猟師の悲鳴のような叫びを通して個としての尊厳を浮かびあがらせます。北朝鮮の国境付近の貧しい猟師が漁船のエンジンが故障して、国境を越えて流され、北朝鮮のスパイ容疑で苛烈な取り調べを受け、北に送還後に国家保衛部の取り調べを受け、最後は漁に出ようとして射殺されて終わります。興味深かったのは、KCIA崩壊後の韓国の治安警察の一定の民主化の前進がうかがわれ、脱北者を一律にスパイとしてみるのではなく、一定の証拠に基づいて取調べて、メデイアの報道を警戒しながら、北に送還することです。反共偏見に満ちた取調官にむかって、猟師が「お前のような下司がいるから、南北統一ができないのだ」と軽蔑を込めて云うところや、韓国の夜の女を映しだして資本主義の虚妄をえがくところに、監督の思想が凝集しています。「朝鮮民主主義共和国万歳!」と叫ぶところは、北朝鮮崇拝よりも、人間としての尊厳の叫びが、この言葉に表象されているようで、いっそう苛烈な現実を浮かびあがらせます。「成熟した」先進国にあるポストモダンの安逸な民主主義の虚妄を木っ端微塵に打ちくだくような久しぶりの本格的な映画であり、日本では決してつくれないでしょう。しかし、こうした映画さえも、市場の論理に包摂していく資本主義のちからをも感じさせます。シネマテークにて。観客30名弱。(2017/2/25)

ゲイリー・ロス『ニュートン・ナイト/自由の旗を掲げた男(原題:FREE STATE of Jones)』(2016年、アメリカ)
 Freedomとしての「自由」をもとめるアメリカン・デモクラシーの源流を描いた直球派のリアリズム映画です。南北戦争における南部軍の内部状況に迫って興味深く観ました。南部軍は「黒人20人法」によって、20人以上の奴隷を有する農園主の息子の徴兵を免除し、南部軍は奴隷を有しない貧困白人から編成されたというのは初めて知りました。ニュートン・ナイトは、そうした南部軍に疑問を抱き、白人脱走兵と逃亡黒人奴隷からなる自由軍を組織し、南部軍と戦ってミシシッピー・ジョーンズ自由国を建国したというのも初めて知りました。ジョーンズ自由国4原則は、①差別を認めない、②何人も他者に命令してはならない、③自分が作ったものを他者に搾取されることがあってはならない、④誰しも同じ人間である(なぜなら皆な2本足で歩いているから)というものであり、これはフランス革命の理念を一歩進めて社会主義に近づいています。こうした南部の歴史があったことは驚きです。それに対抗するKKKの跳梁など、アメリカ南部の暗部もうかがえて、久しぶりの歴史劇映画で堪能しました。「自由」が支配の自由に転化するアンヴィバレンツにある現在のアメリカ、トランプ現象にたいする別のアメリカの歴史を浮き彫りにしています。伏見ミロン座にて。観客⑩数名。(2017/2/23)

デイーター・ベルナー『エゴン・シーレ 死と乙女』(2016年、オーストリア=ルクセンブルグ)
 ウイーン分離派クリムトの愛弟子で28歳で早逝した表現派(?)の生涯を描いています。彼がなぜあのような痛々しく歪んだ女性像を描いたのか、その精神世界に迫ることなしに、日常生活を描写していますので作品の本質に迫りえていません。彼に献身的に尽くすモデル女性たちの内面描写もありません。第1次大戦に従軍して捕虜収容所の看守を務めるのですが、この体験を通して世界を見る感性がどう変わったのかも描かれず、20世紀初頭の追いつめられていく不安な世界との関係ぬきに、個人的な心象風景を描いた伝記映画に終わっています。名演小劇場にて。観客20名弱。(2017/2/16)

ルカ・ルチーニ/ニコ・マラスピート『レオナルド・ダ・ヴィンチ 美と知の迷宮』(2015年、イタリア)
 ダ・ヴィンチの美術史的権威に寄りかかった作品で、題名だけで動員しようとした駄作。観客10名弱。ミッドランドスクエアにて。(2017/2/3)

ヴィタリー・マンスキー『太陽の下で』(2015年、ロシア)
 北朝鮮の日常を少年団に入った少女に焦点をあてて描いたドキュメンタリー映画で、北朝鮮の抗議を受けてロシア政府が上映禁止した作品です。逸脱した「社会主義」独裁制の日常がこぼれでた真実として描写され、無垢な子どもの精神が見事なまでに帝王信仰に染めあげられていく非対称性のうちに、残酷なまでに浮き彫りになります。社会主義がアジア的生産様式の残滓と結びついた時に、人格と感情を操作する野蛮な全体主義に転化するか・・・あどけない少女の涙を通して浮かびあがります。しかし、それは米ソ冷戦が残した21世紀の疵痕であり、日本の植民地支配の暗黒の歴史が背後にあります。会場は中高年で満席。名演小劇場にて。(2017/2/1)

オリバー・ストーン『スノーデン』(2016年、アメリカ)
 米国CIAやFBIによる令状なしの無差別な盗聴を暴露したCIA要員の物語です。ストーンの企画は、ハリウッド・メジャーからすべて拒否され、独自の資金網でつくりあげたそうですが、CIAが全世界に張りめぐらせた盗聴網と破壊政策の一端が浮かびあがり、もはや制御不能の暴走状態にあることが分かります。日本が安保条約を破棄して自立に向かった場合の破壊工作もすでに完成しているという告白には驚きました。私たちは底知れぬ闇を生きているようですが、過大評価も過小評価もせず、冷静に告発していくしかなさそうです。センチュリー・シネマにて。(2017/1/30)

サラ・ガブロン『未来を花束にして』(2015年、イギリス)
 20世紀初頭のイギリスにおける女性参政権運動の描いた力作です。脚本も本格的な物語構成となり、俳優の抑えた演技も、当時の街や工場もよく再現された直球のリアリズム映画です。女性参政権運動のリーダーが上流階級の夫人であり、実際の活動家は学歴のない女性労働者が主体となって、階層間の葛藤も浮き彫りにし、男性労働者の王政崇拝も表現するなど、イギリスが階級社会であることがにじみ出ています。カリスマ・リーダーがいないと運動が成り立たない時代の限界も描かれています。それにしても、爆破や自殺的な行為など、今日ではテロとみなされる手段が当時の運動のツールとなったのです。女性参政権は、男性権力から与えられたものではなく、女性みずからが血を流して戦いとったものであることがよく分かります。ひるがえって、日本の民主主義が下から民衆自身の手で実現したのかるという限界も覚えます。世界で最初に資本主義へすすみ、労働運動の蓄積があるイギリスの20世紀初頭が、こうしたスウエット工場で維持されているとは思いませんでした。当時の社会主義運動が、婦人参政権にどう対応したのかを描くと、もっと深みが出たと思います。この映画は、イギリス労働者階級の文化が社会に埋めこまれたものであることを示しており、おそらく監督自身もそうなのでしょう。久しぶりのりアリズム映画を堪能しました。伏見ミリオン座にて。観客40名弱。(2017/1/28)

トム・プロジェクト『花咲く頃に』(名演例会)
 東北大震災を契機にバラバラとなった家族の恢復物語であり、感情移入を誘う演技がすぐれていますが、3・11は付け足しで大震災との関連を問う問題意識はありません。家族内部の葛藤を極大化して、最後は予定調和の大団円にいたってカタストロフをもたらしますが、それは観劇中のことであり、市場原理の荒れ狂う現実のリアル世界ではアッというまに冷めてしまいます。演技そのものは、さすがプロなのですが、日本的情緒にひたりきって感情を操作する日本的共同体の美学が、いつまで観衆を動員できるのでしょうか。この劇団は、小市民的な予定調和に埋もれていては、未来はありません。名古屋市民会館にて。会場はほぼ半分の空席が目立つ入りでした。企画そのものを再審しなければなりません。(2017/1/27)

マーテイン・スコセッシ『沈黙』(2016年、アメリカ)
 キリスト教の布教にきた宣教師の苦闘と「転び」を描いた遠藤周作『沈黙』の映画化です。原作の深い読みと時代考証、演出は完全に日本的であり、外国人監督とは思われないできばえです。しかし、イエズス会の世界布教の背後にあるオリエンタリズムと、西欧帝国のアジア進出の尖兵となったカソリック教会への批判はありません。この映画もまた、極限状況における決定的な選択と決断を描いたものであり、最近はこうした主題が多いように思われ、21世紀初頭に於ける人類史の行き詰まった不確実性を生きる状況を反映しているように思います。スコセッシは、少年期にカソリック司祭をめざしたようであり、最後のタイトルバックに流れるように、この映画は世界のカソリック信者と司祭に捧げられています。率直に言って、この映画でスコセッシは、21世紀の初頭に何を問いかけようとしているのか、よく分かりません。妥協せずに信念に殉ぜよーというのであれば、現代の原理主義と変わらず、多元的な民主主義という現代の課題とは交わりません。遠藤周作の原作そのものが、強いられた転向は許されるという日本的な赦しという甘えの構造にあり、ユダヤ・キリスト教の論理とは相容れません。それは、この映画のラストにおける火葬される転び宣教師の手に、十字架像が握られているところにあり、ひとたび転んだ者は増幅して転ぶのであり、心に何を信じていようと、裏切った罪は許されるものではありません。それとも、ピュアーな布教に献身したカソリックの世界布教の苦闘を讃えるのであれば、あまりに世俗的な論理であり、企業に殉じて過労死する者と変わりありません。ミッドランドスクエアにて。中高年で50%の入り。(2017/1/23)

ギャヴィン・フッド『アイ・イン・ザ・スカイ』(2015年、イギリス)
 イギリス民主主義の限界が浮き彫りとなる映画です。イギリスがアメリカと組んで、対テロ戦争のドローン作戦をおこなっているとは知りませんでした。ケニアのアブ・シャラフというイスラム原理主義の自爆テロを食いとめるために、ドローン機からミサイル攻撃をおこなうのですが、標的の近くに一人の少女がいることを発見し、作戦を実行するかどうかをめぐる司令部内の葛藤と、最後は確率計算処理されて攻撃し、少女は死ぬというストーリーです。シナリオはそれなりに能く書きこまれていて、限界状況における決定的判断と選択の問題を問いかけます。英政府内の自己責任を回避する無責任を浮き彫りにし、比較衡量説によって感情抜きに判断する米政府高官、軍人と官僚の対立など、よく描かれています。高度技術を駆使した対テロ戦争の軍事技術もよく描かれています。
 問題は、ドローンのような「非人道的兵器」の本質に迫ることなく、それを操作する先進国のヒューマンな葛藤に還元する思考方法であり、イスラム原理主義を悪と描いて、その背後にある経路依存性に迫らないことです。かってのケニアは、第2次大戦後の植民地独立運動の輝かしい指導者・ケニヤッタの国であり、それがなぜかくも無残な実態におちいったのかなども描かれません。救いがたいのは、こうした極限状況に於ける決定的選択をドラマ化して、ハラハラドキドキする演出を施して提供する映画資本と、それを楽しむ先進国市民であり、私も例外ではありません。ドローン操作部門の兵士のPTSD発症率と離職率はもっとも高く、米軍は要員確保に苦心している現状や、むしろコーヒーを飲みながら愉しんでボタンを押している現場や、イラク・アブグレイブ刑務所の囚人虐待など、アメリカ軍の頽廃を描いたら、もっと深みのある映画になったでしょう。監督は、ドローンのような軍事技術を告発しているのかも知れませんが、かえって極上のエンタテイメント映画をつくって先進国の偽善に加担していることに気づいていないようです。伏見ミリオン座にて。観客は意外にも50名弱と多い。(2017/1/22)

レア・プール『天使にショパンの歌声を』(2015年、カナダ)
 カナダにこのような女性監督がいたことは知りませんでした。1960年代のカナダのフランス語圏であるケベック州のカソリック修道院が経営する女子寄宿舎学校を舞台に、現代カトリシズムが直面する問題が描かれます。カナダ政府が進める近代化政策の中で公立学校が優先され、宗教学校の経営が危機に陥り、それをくぐり抜ける物語です。修道女がヴェールを脱いで制服を近代化していくシーンは、とても興味深いもので、現代のイスラム教のヴェール問題に通じます。良妻賢母をめざす学校と、人間的な青春を求める生徒の葛藤も60年代の時代を反映しています。音楽教育を優先するこの学校の苦闘は、修道院でも一定の教育の自由が許されていたことを示しています。最後に敗北して廃校となって、修道院をあとにする修道女のバックに流れるショパンのピアノ曲と合唱が印象的でした。カナダにおけるカトリック教会の隠然たる力を知りました。伏見ミリオン座にて。観客40数名。(2017/1/15)

ロナルト・シェアフェルト『アイヒマンを追え!』(2015年、ドイツ)
 アルゼンチンに潜伏していたホロコーストの執行責任者アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐を探索し、逮捕にいたるドイツ検察陣の苦渋の取り組みをリアルに描いています。幾度となくドイツでくり返される反ナチものの一つですが、つくられる毎にナチス期の実相が明らかとなり、過去の罪責が戦後ドイツに完全に埋めこまれていることを示しており、戦後70年を経過しても、なお謝罪を拒否する醜い日本の姿と鮮やかな非対称性を示しています。さて、この作品が映画芸術としてどうかという評価はおいて、私が注目した点は、第1に検事長と州政府首相が反ナチの社民党左派であり、首相執務室に虐殺されたローザ・ルクセンブルグの肖像写真を飾っており、それが政局の推移の中で取り除かれることに、監督の暗示が隠されているということです。第2は、検事長の執務室や居宅には、ナチスによって頽廃芸術として否定されたドイツ表現派の絵画が飾られていることです。これは、ドイツ表現派が市民生活に芸術として根づいていたいたことを示しており、また戦後ドイツの芸術精神のありかたを象徴的に示していることです。ただ気になったのは、検事2人ともが同性愛者であり、それを理由に社会的に孤立するのですが、これはナチスがユダヤ人とともに同性愛者を殺害したことを暗示し、検事は同性愛による友情によって手をむすんだとも解釈され、ここはもっとていねいに描かないと、現代では理解できないように思います。伏見ミリオン座にて。会場はほぼ満席。(2017/1/9)

マーチン・サントフリート『ヒトラーの忘れ物』(2015年、デンマーク・ドイツ)
 
第2次大戦でドイツ軍が敷設した地雷を、デンマーク軍が敗戦後にドイツ軍少年兵を動員して撤去する撤去する物語です。次々と少年兵が命を落としていきますが、デンマーク軍の軍曹がしだいに自らの行為を恥じて、少年兵を逃亡させるラストです。いわば、デンマーク軍の恥部ともいえる戦争犯罪を描くデンマーク映画界に、讃嘆を禁じえません。戦争そのものを相対化する非戦の思想、あるいは現代のEUシステムの背後にある欧州とデンマーク社会に埋めこまれた思想を感じさせます。伏見ミリオン座。会場ほぼ満席には驚いた。2016/12/18)

ヤン・ウソク『弁護人』(2013年、韓国)
 
1980年代の全斗煥軍事政権下の反体制運動にたいする謀略裁判を弁護した若き日の盧武鉉(元大統領)弁護士の活躍を描きます。直球勝負の正義感あふれる描写ですが、韓国社会の複雑な状況はそれなりに描かれています。私がもっとも注目したのは、ある青年社長が「韓国の民主化は、市民階級の成長なしにありえず、そのために経済発展が必要だ」という、開発独裁の後を見越した展望を語っているところです。いったい成熟した門主主義とは何か、それは経済発展のなかから自生的にもたらされるものなのかー、ひるがえって「成熟国」日本の民主主義の惨憺たる状況は、いったい何なのか? いろいろと考えさせる映画でしたが、韓国社会のピュアーな正義感には敬意を表したいと思います。パククネ大統領を退陣に追いこんだ現代韓国の底流にある民衆の力を感じさせます。日本では、絶対につくれない映画です。センチュリー劇場にて。会場は半分の入り。(2016/12/19)

ホアン・ミンチェン『湾生魁家』(2015年、台湾)
 下関条約によって台湾を併合した日本帝国は、太平洋戦争敗北までの50年間にわたって植民地支配を続け、敗戦時に海外にいた660万の日本人のうち、台湾からは50万人が引揚げ、うち台湾生まれの日本人である湾生が20万人を占めていた。このドキュメンタリーは、湾生たちの戦後70年とそのなかでの台湾との交流を淡々と描いています。彼らにとっては、台湾が故郷であり、望郷の念断ちがたく、台湾人との幼少期の思い出をたどっていきます。台湾の人々の親日感情には驚かされるほどの愛情はあふれており、植民地支配への負の感情がほとんどないのに驚かされます。植民地支配をこえて、日本と台湾との庶民レベルに埋めこまれた絆が美しく描きだされますが、私はかえってそこに植民地支配への免罪へ誘導していくような痛ましさを覚えました。しかも、これが台湾人監督による作品であることが二重の痛みをもたらします。このドキュメンタリーは、植民地近代化論によるノスタルジーに満ちた共感によって、支配の本質が隠される洗練された効果をもたらします。はたして、この映画は「日本と台湾の歴史をあらためて見つめて有効につながる」映画なのでしょうか。岩波ホールの映画思想の限界が、はしなくもあらわれています。岩波ホールにて。会場はほぼ満席。(2016/11/12)

東京芸術座『蟹工船』
 名にし負う戦前期プロレタリア文学の代表作であり、小林多喜二の原作を村山知義が演出するというプロレタリア芸術運動の記念すべき作品です。資本と労の階級性がくっきりと浮かびあがり、搾取と抑圧のはてに抵抗に立ちあがるという典型的な社会主義リアリズム作品です。教条的なカンパニアに終わると思いきや、21世紀の現代においても、リアリテイを放つ舞台となっています。かなり手を加えて現代化した戯曲となっているのでしょうか? しかし、舞台装置は戦前期をそのまま復元しているようで、1930年代の市民たちがどのような熱い想いを込めて観入ったのかを想像しました。いまなお、リアリテイをもっているのは、階級性の時代と条件こそ違え、格差と貧困が深化し、ルサンチマンが蓄積していく実態は本質的に共通しているからでしょうか。名古屋市民会館にて。会場は中高年女性で満員。(2016/11/10)

パトリシオ・グスマン『チリの闘い』(1976ー78、チリ、フランス、キューバ)                                                                                                   チリ・アジェンデ社会主義政権の誕生から崩壊までを民衆運動の視点から描いたドキュメンタリー映画です。70年代の世界的な政治の高揚期を彷彿とさせ、熱く燃えた日々を思い出す人も多いでしょう。全3部の263分に及ぶ長編ですが、映画館はウイークデイにもかかわらず満員で、まるで21世紀のネオ・リベラリズムが浸透する現在に、こんな世界があるんだ!と呼びかけてくるような作品です。ひょっとしたら、現在の出口のないゆきづまった日本の状況から脱出をもとめる潜在意識に応えているかのようです。この映画にたいし、「快楽に身を委ねる」ような対象と観る作家(中原昌也)、「矢張り武力闘争でなければ駄目なんだ」と煽られる評論家(廣瀬純)など、戯画的な評論も散見されますが、この作品は第1級のドキュメンタリとして映画技術にも優れていますが(おそらく決死の撮影)、なによりも自らの血を流して現代に遺していった歴史のメッセージなのです。チリ革命の挫折を身をもって贖い、現代に伝えたい歴史の貴い遺産として刻みこんだのです。この映画への正統な応答は、この遺産を現代に生かそうとする志を持つ人にしか、その資格はないでしょう。名古屋・シネマテークにて。会場満席(2016/10/20)

チャン・ヤン『ラサへの歩き方 祈りの2400km』(2015年、中国)
 2400kmを徒歩で”五体投地”しながら、徒歩で踏破して聖地に行くチベット仏教徒11人の村人をドキュメンタリー・タッチで描きます。途中で妊婦が出産し、その赤ん坊が成長して歩き出したり、老人が死んで真っ白な袋に包まれて鳥葬に付されるなど、民俗色豊かに描きます。輪廻転生の循環史観が生活意識そのものとなっているチベット仏教の一端がうかがえます。ラサのボタラ宮の豪華絢爛たる聖地への畏敬の念を支える心性が浮き彫りとなります。自給自足の村人の喜捨を集めてそそり立つ宮殿に、宗教の本質が浮き彫りとなります。数年前に訪れたラサは、自治を求めるチベット民族と中国の抑圧政策の中で、武装警官がたむろする厳戒態勢であり、私も警官から暴行に近い取締りを受けたことを思い出しました。しかし、この映画はそうしたチベットをめぐる現代の亀裂などはいっさい触れないで、ただ純朴な村人の聖地巡礼をえがきだします。宗教の本質は、この世の疎外の究極の反映であり、疎外の超克の中で宗教は姿を消すという科学的思考は、現実の実際には太刀打ちできないはるか遠い話と言う事が実感されます。ここには、山岳地帯での大乗仏教の実相が映しだされています。名古屋シネマテークにて。会場満席。(2016/8/20)

チェ・ドンファン『暗殺』(2015年
 日本植民地下の1930年代で、亡命韓国臨時政府の日帝支配者と協力者に対する暗殺系計画をめぐる暗闘を描く第1級のエンタテイメント映画です。こうした暗殺事件は当時多発したようですが、それをアクション満載の娯楽調にするところに、現代韓国の成熟性を感じさせます。1千万を超える観客動員を記録したそうですが、独立運動の実相から離れ、娯楽調に描いていくところにある種の危うさがあります。1930年代の上海や京城(ソウル)のセットや街の光景は、かなり忠実に復元されてレトロな雰囲気が漂い、京城に三越百貨店があったことなど興味を持ちました。登場人物がいりくんで複雑であり、テンポが早く、ストーリー展開について行けない部分がありますが、エンタメ調でみるには、、日本人としては複雑なものがあります。韓国のメジャー映画でありながら、日本の大手が配給しないのは、現在の日韓状況を反映しているのでしょうか。会場は8割程度の入り。シネマスコーレにて。(2016/7/23)

オサーマ・モハンメド/ウイアーム・シマヴ・ペデルカージ『シリア・モナムール』(2014年、シリア・フランス)
 中東民主化運動のなかで、シリアは泥沼の内戦状態に陥る。この映画は、内戦を撮影した市民の映像をつなぎ合わせたドキュメンタリー映画ですが、欧米の映像技術を駆使したきわめて詩的な映像となっているのが驚きです。虐殺や拷問、子どもの死体など、眼を背けるような実写フィルムが詩的な映像に昇華されています。監督は、リアルな内戦の実相を詩的に昇華することによって、内戦の悲劇への共感を求めたのでしょうか。とにかく、原始的な殺戮のリアルを詩的に昇華する方法は、観る者をある種の芸術的な次元に誘う危険性を秘めています。先進国西欧市民にとって受容されるでしょうが、なにかオリエンタリズムの陥穽をまぬがれないように思うのです。なぜ詩的なファンタジーへの演出ではなく、徹底した1次元的な素朴リアリズムへ徹し得なかったのでしょうか? 中東でのポスト・コロニアルが欧米文化の影響に包摂されてiいることをまざまざと示している。ナゴヤ・シネマテークにて。(2016/7/21)

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』(2013年、ロシア)
 本作は、ストルガッキー兄弟の原作『神さまはつらい』を映画化したものであり、2000年に制作に入り、10年以上を要する大作となりました。全編がおどろおどろしい幻想的な描写であり、知性を弾圧する独裁が崩壊していく過程を描きます。いわば、徹底したこれ以上ない魔術的リアリズムの演出は、吐き気を催すような糞尿磹仁あふれています。ドストエフスキー以降のロシア独特の神秘的な感性が全編にあふれ、圧倒されます。いつものように、日本の批評家はこうした作風を天馬で持ち上げる主観的で恣意的な批評言語をまき散らし、作品そのもの内在する批評とはなっていません。それにたいし、ウンベルチョ・エーコの批評は、リアルな考察となっており、人間存在の真相に潜む地獄性に焦点を当てています。おそらく、本作は、醜悪なソ連社会主義にたいする原理的否定の集成となっています。DVD。(2016/7/21)

アンジェイ・ムンク『鉄路の男』(1957年、ポーランド)
 モノクロの映像美と演出の深みのあるポーランド映画の高度な制作技術にあらためて感嘆しました。戦後ポーランドの社会主義システムのなかで、芸術的感性がスターリン主義と格闘する苦衷が滲み出ています。体制の転換の中で、社会主義的運営に馴染まない職人の気質とアイデンテイテイが浮き彫りとなり、誇りある鉄道機関士の職業に対する尊厳の意識とシステムの間に生じたきしみを描きます。轢死した機関士の真相をめぐる探究は、芥川龍之介『薮の中』(黒沢明『羅生門』)を思い浮かべるようなサスペンスがありますが、最期は職業に殉じた機関士の職業愛を示して終わります。この映画は、社会主義システム内部における内部矛盾を普遍的な人間の葛藤として描きだしますが、そこには権威主義的な支配に対する異議申し立てがあるように思います。システムと格闘するヒューマニズムを描いて、戦後の世界映画界をリードしたポーランド映画は、体制転換後にいったいどうなっているのでしょう。DVD.(2016/7/20)

ソト・ウオーリーカー『シアター・プノンペン』(2014年、カンボジア)
 女性カンボジア人監督によるカンボジア映画を初めて見ました。クメール・ルージュによる300万人の犠牲者を出したジェノサイドの渦中を生きた映画人の現在に残る傷痕と次世代に繋がる希望を描きだしています。市場経済を歩む現在のカンボジアのなかで、ドロップアウトした若者たちの生態を描きだしており興味深く観ました。典型的人物を描く素朴リアリズムの描写には、まだたどたどしい技術の未熟がうかがえますが、こうした映画をつくる迄に成長しつつあるカンボジアの現状に驚きました。しかし、なぜ300万人もの大虐殺が起こり、しかも現在ではその事実に触れることを避ける状況があることに、迫り得ていません。現在の映画制作をめぐる状況では無理なのでしょうか。なぜコミュミズムが原始的で野蛮な形態におちいったのか、その背景にはなにがあるのか、当時のクメール・ルージュの加担した人たちが、普通の市民としていまどう生きているのか、考えされられることがたくさん残りました。上映終了後に拍手が起こったことが印象的でした。岩波ホールにて(2016/7/16)。

ローラ・ポイトラス『シテイズン・フォー』(2014年、米・独)
 CIAの国際的な盗聴活動の記録を暴露した元CIA職員であるスノーデンのドキュメンタリー記録映画です。911以降のアメリカの諜報活動が際限なく、市民の自由を侵害している事実にゾッとしますが、スノーデンの市民的良心に忠実であろうとする決意と、ジャーナリズムの真実を報道する姿勢には頭が下がります。しかし、オバマ大統領は、諜報活動を改めることなく、逆にスノーデンを告発し、命をねらい、スノーデンは亡命を余儀なくされます。内部告発直後のスノーデンに密着取材する映画作家もたいしたものです。しかし、秘密法制定後の日本はどうなっているのだろうと思うと、不安になります。日本では、こうした内部告発が起こるような市民的な知性はなく、メジャーのメデイアも報道に尻込みするでしょう。伏見ミリオン座にて。(2016/6/11)

前進座『怒る富士』
 宝永4年(1707)の富士山大噴火によって、灰燼に帰した村の窮状を救おうとする幕府郡代の必死の努力を描きますが、幕府中枢は権力闘争に明けくれて支援の手をはさしのべません。あたかも、福島原発事故の荒涼たる大地を放置して、再稼働に走る現代とオーバーラップしてきます。幕府内の良心派官僚と頽廃官僚の内部闘争に焦点をあてたために、現場農民層がみずから立ち上がって、新しい世界にむかうという主題はなく、まるで水戸黄門の葵の印籠にすがる庶民イメージです。最後は一揆のシーンも登場しますが、それはそれはナレーションに留まり、歴史を動かす主体とはなっていません。歌舞伎界の革新をめざして出発し、歌舞伎の現代化に挑戦してきた前進座の志には、敬意を表しますが、もともっと演出に工夫を凝らし、現代の感覚にマッチする物語と演出にしないと、今は見向きもされない社会主義リアリズムの歌舞伎版として、市民の支持を失っていくでしょう。驚いたことに、会場は空席が目立ち、閑散としていました。前進座は、本腰を入れて戦略を立て直す時期に来ています。名古屋市民会館中ホール。(2016/6/6)

ユンデイ・リーショパン・コンサート
 この18才でショパンコンクールで優勝した中国人・天才ピアニストが演奏するショパンは、輝くようなブリリアントな音色で、私はいつも朝の散歩でイヤフォンで聴いています。はじめて生まで聴くということで、興味津々でしたが、演奏は文字どおりのリーの演奏で、華やかな音色につつまれました。しかし、そこにはショパンをマスターしたコスモポリタンの感覚があり、ショパンの哀しみに深く迫っていく精神性という点では、物足りないものがあり、少しの失望も味わいました。ピアノの調教そのものが、甘い音調となっており、観客へのサービス精神はビジネス・ライクにふるまわれるのですが、リー自身の実験的な精神はありませんでした。はじめて2階席のステージ側という場所を経験しました。空席が目立ったのは、どうしてでしょう。愛知県芸術劇場コンサートホールにて。(2016/6/3)

マイケル・ムーア『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』(2015年、米国)
 ムーアが、欧州の社会文化の現場をめぐって、米国の新自由主義との差異を際立たせるメッセージ・ドキュメンタリーです。もっとも印象に残ったのが、ノルウエーの開放型刑務所で、のびのびと個室で普通の生活をしながら、刑期を過ごすのが印象的でした。その他イタリアの有給休暇、ドイツのフォルクスワーゲン工場、ポルトガルの死刑制度廃止、フィンランドの学校教育などが描かれています。アメリカの実態を告発する映画ですが、日本の実態をも二重写しになり、あらためて、欧州の市民社会に埋めこまれた社会的経済の水準を知らされました。しかし、台頭するネオ・ナチなど極右問題については、描かれていないので、あたかも天国のように見えますが、多角的な視点から描きだせば、より深まったと思います。いつものように、パンチの効いた底抜けに明るいドキュメンタリーですが、そこにはムーアの鋭い視線が隠されています。名古屋・ミリオン座にて。(2016/6/2)

ジャン・ベッケル『ピエロの赤い鼻』(2003年、フランス)
 ウーン、久しぶりにフランス映画らしいフランス映画をみました。ユーモアを織りこみながらペーソスあふれるヒューマンな感動をもたらします。ああ~、生きているっていいことだ、人間ってまだまだ捨てたもんじゃあない、ほんとうは信頼に値するいきものなんだ-というほのぼのとした温かい余韻を残して終わります。それを支えているのは、どんな人にもある侵しがたい尊厳のようで、声高に言うのではなく、黙ってそれをなし、黙ってこの世を去っていくごく普通の市井に生きる庶民の哀感に隠れているようなものです。たった500円で買ったDVDですが、はかりしれない救いのような力をたたえています。日本で云えば、山田洋次の世界に似ていますが、遙かに洗練されています。
 笑いをふりまくピエロには、その背後に哀しみが宿っているという物語はよくありますが、この映画にはシンプルなヒューマン・ドラマを通して、じつは深い問いを発しているような怖さもあります。それを真っ向から突きつけないで、ある優しさを込めて、しかしじつは嘘は決して許さないと云う厳しさを突きつけているようで、だから見終わった者に”風立ちぬ、いざ生きめやも”というような静謐な生きる勇気を与えてくれます。やっぱり、フランス文化は成熟した人間観をもっていることに感心します。いま日本で、100万人をこえる引きこもっている人たち、300万人をこえる自死していく人たち、その周りにある10倍をこえる未遂のひとたち、この日本のささくれだった世界に、こうした映画は別の世界があるよ-と静かに示しているようです。私は初めてベッケルという監督の名前を知ったのですが、ますますいとおしさがただよってくるような名前です。それにしても、ミシェル・カンの原作があの扶桑社から刊行されているのにはビックリしました。映画のストーリーは、あえてここでは記しません。ぜひとも、紹介サイトをごらんください。(2016/5/22)

西原孝至『わたしの自由について~SEALSs~』(2016年、日本)
 安倍首相の集団的自衛権行使容認をめざす安保法制に危機感を抱いた学生有志が立ちあげたSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)の半年間の活動を追ったドキュメンタリー映画です。この活動の特質は、党派性を超えた1点共闘であり、指導組織をもたないフラットな組織、自分の言葉で一人称で自分の考えを話す、リズミカルな太鼓に合わせた掛け合いのようなシュプレヒコールという、日本の今までの街頭運動にはなかった新しいスタイルです。これを日本最初の「新しい市民革命をめざす運動」と評価する潮流もありますが、私がもっとも注目したのは既成の党派に敵対的ではなく、現在の代議制民主制を前提にしてその内実を改革しようとする点にあります。60年代に「ベ平連」という市民運動がありましたが、ベ平連と既成政党が連携することはなく、一部には敵対性もありましたが、SEALDsはそうした傾向がありません。SEALDsは、制度変革をめざすプランをもたず、あくまで安保法制に反対する一点のイシューで、参院選挙ともに解散するそうですが、既成の政治状況をゆるがして前進させた点で歴史的な意味を持ちました。このドキュメンタリーは、中心メンバーの個性の内面に迫り、日本の若者の真面目な誠実さを浮き彫りにし、映画としても成功しています。しかし、若者たちの希望を奪って追いつめていく告発の悲鳴のようでもあり、戦後70年を経た日本の暗澹たる状況をも逆照射しています。こうした声をあげる青年の背後に広がっている、声を上げれないで孤立していく多くの青年のことを思うと、暗然たる感慨もわき起こってきます。ナゴヤ・シネマスコーレにて。観客10数名。(2016/5/21)

ポール・アンドリュー・ウイリアムズ『アイヒマン・ショー』(2015年、イギリス)
 アイヒマン裁判をTV中継するクルーの現場をドキュメンタリー・タッチで描いています。この裁判と同時に、宇宙の有人飛行とキューバ危機が展開され、プロデユーサーは営業を狙い、監督は裁判を通してアイヒマンにある誰もがファッシストになる要素を見ぬこうとします。欧米では、ホロコーストをめぐる手の込んだ映画が形を変えて次々とつくられていることに感心します。登場するドキュメンタリー映画の監督が、ハリウッドを赤狩りで追放された著名人であることを初めて知りました。イスラエルの生還したユダヤ人に、「ここはアラブ人の土地ではなかったのか?」と監督が問いかけ、「この国をつくることが必要だった」と答えるところに、現代のイスラエルの無意識の偽善が浮き彫りとなっています。主題はアイヒマンを通してのファッシズムの解明にあるのですが、むしろ私はこのシーンに興味を抱きました。アイヒマンの実像を見ていますと、アーレントの「悪の凡庸さ」にある戦慄する悪が想像力を刺激します。観客30数名。伏見ミリオン座にて。(2016/5/6)

ハニ・アブ=アサド『オマールの壁』(2013年、パレスチナ)
 この監督についてはよく知らないのですが、100%パレスチナ人のスタッフ、資本でつくられたパレスチナ映画は初めてみたような気がします。ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区につくられた分離壁に象徴されるイスラエル秘密警察とパレスチナの抵抗運動の渦中を生きる若者たちの愛と信頼がテーマであり、極限状況のなかでの裏切りと葛藤を描きます。イスラエルに内通しようとした裏切り者が、最後にそれを拒否してイスラエル秘密警察の捜査官を殺しにいたる物語は、平穏な日常を生きる日本人にとっては、衝撃的な状況であり、安逸の民主主義を根底から問いなおします。しかし、この監督にとっては政治的な状況は2次的であり、あくまで状況を生きる人間性の本質に迫ろうとするものです。この映画の制作にイスラエル警察が全面協力したというのも驚きであり、イスラエル人もこの映画を見て感動したというのは、パレスチナとイスラエルの複雑な状況には想像を超えたものがあるようです。
 俳優の演技は、スタニスラフスキー・メソッドを完全に習得して役になりきって演じており、スリルに満ちたリアリズムの勝利を示していますが、それは映画論であって、やはりホロコーストを経験したユダヤ民族が、なぜ同じ行為をパレスチナ人に平然と加えるのかを考えて暗然となります。パレスチナの上映会では、最後に捜査官を銃撃するシーンに盛大な拍手が起こり、満場総立ちとなったそうです。ユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレントは、なぜイスラエルを非難しないのでしょう。名演小劇場にて。観客10名弱。(2016/5/5)

エルマンノ・オルミ『緑はよみがえる』(2014年、イタリア)
 85才を過ぎたオルミ監督の反戦というよりも静かな非戦のメッセージが哀切に詩情豊かに描かれます。第1次大戦のイタリアとオーストリア軍の冬のアルプス戦線の塹壕の消耗戦は、大義なき戦争の無残な頃シアに過ぎません。抑えたカラー映像に美しい銀世界が浮かびあがり、あまりに神秘的ともいえるBGM(パオロ・フレス)が流れ、戦争の空しさが胸に迫ってきます。牧歌的ともいえる光景と砲弾が飛び交う非対称性は、今までの戦争映画にはなかったものです。”戦争は休むことなく大地をさまよう醜い獣だ”という独白は、やがて春が来て「緑はよみがえる」という希望につながりますが、その犠牲はあまりに大きい。観客10名弱(名演小劇場にて、2016/5/4)

東京芸術座『Biloxi Blues
 第2次大戦期に徴兵によって新兵訓練所に送り込まれた6人の若者たちが、出自も生まれ育った文化も違うなかで、激しい訓練をへながら互いの人間性を剝き出しにする葛藤をへて、戦地に送り込まれ、それぞれの戦争体験をへながら、終戦を迎えるという物語です。静かに戦争のむなしさを訴えているようにもみえ、また星条旗のもとには戦うという愛国心を問うようにもみえ、また閉鎖空間での訓練で殺人マシンに変身していく無残さを訴えているようにもみえ、なかなか考えさせられる舞台です。劇団のアトリ公演ですので、30数名の観客で、場面転換もふくめ演出がすばらしい。(2016/4/17)

サム・ツオウ・ソリコンサート
 韓国の民主化闘争のなかで、民衆的抵抗のパトスを歌いあげたフォーク・グループの10年ぶりの日本公演ツアーを聴きにいきました。男性2,女性3の編成でかっての若者も中年になっていました。1970年代の熱い歌が蘇り、ひさしぶりの高揚感を味わいました。ただし、日本の聴衆も60才以上の中高年が多いようにみえ、いまは過ぎ去った時代へのノスタルジックな雰囲気が漂っているようです。しかし、日本も韓国の格差と貧困が蔓延し、システム転換をめざす市民運動がまきおこるなかで、プロテスト・ソングがよみがえるのかどうか、新たな時代への胎動を表現する歌の力を求められているように思います。日本では肩を組んで合唱するような文化が衰えているなかで、新しい共同の契機を表現する音楽運動の可能性が芽ばえているように思いました。名古屋芸術創造センターにて。(2016/4/8)

エルマンノ・オルミ『L’ALBETO DEGLI ZOCCOLI(木靴の樹)』(1978年、イタリア)
 ああ~私は37年前にこの映画を観てから、今日ふたたび観ることになりました。37年前の記憶は、小川の流れる川辺の樹木のシーンであり、あとはほとんど記憶に残っていませんでした。印象深かったのは、抑えた色彩の宗教画のようなイタリア農村地帯の映像の静謐な美しさであり、さらに小屋の群像シーンの配置の美しさです。物語は、19世紀末の北イタリアの大地主制が支配する木訥な小作人家族の生活を淡々と描きながら、権力にもてあそばれ、あくまで大地に生きる農民の家族史です。その視点は、カトリック左派とマルクス主義の思想から、農民の忍従にある生活の心性を淡々と描くという描写であり、あきらかに戦後をリードしたイタリアン・ネオ・リアリスモの手法の影響を受けています。小屋を追われていく農民一家の期待の星であった少年の痛ましいまなざしは、心を打つものがあります。思えば、支配に忍従しながら誠実に信仰を守って、無名のままに死んでいった無辜の民衆への哀切あふれるオマージュとなっています。
 観る者によっては、なぜカソリック教会を美しく描いて、その頽廃を告発しないのか、小作農民の抵抗をなぜ描かないのかーなどの批判的な意見があるでしょう。たしかに、イタリア人の直線的で烈しい気質は一切描かれていませんので、そうした物語を構成すればより重層的な描写となったでしょうが、物言わぬ忍従の心性をそのままありのままに描くことによって、より深い印象をきざみこんで抵抗と変革への意志をうみだすようにも思えます。しかし、20世紀のファッシズムの勝利をみれば、カトリック的な純朴な誠実さは諸刃の刃となるとも言えます。でもやはり、直線的な告発よりも、想像力をより喚起するような描写がリアリズムの本流にあるように思えます。現在を生きる者は、過去の歴史のなかで、物言わぬまま沈黙のうちに死んでいった無辜の民衆の声を拾い上げて、現在に生かす責務があると、静かに訴えているように思います。名演小劇場にて。観客10数名。(2016/4/3)

俳優座『もしも、終電に乗り遅れたら』
 ロシア現代演劇の人気作品だそうですが、大いなる失望とともに劇場を後にしました。中流家庭の家族関係の微妙な機微と老いていく者の哀しみがテーマのようです。現代ロシアが、こうした小市民の家庭生活へ自閉しているとすれば、じつに哀しいことです。いったい社会主義体制崩壊後の現代ロシアの問題関心が、こうした領域へ収斂されているとすれば、ロシア文化と演劇の将来はないでしょう。そうした作品を取りあげる俳優座の演劇思想も根底から問われます。どうも中高年層が観客層の中心となった演劇鑑賞会の需要に合わせた企画でしかなく、こうした媚びへつらうような企画を続ければ俳優座の将来もないでしょう。名古屋市民会館。(2016/3/22)

ハイロ・ブスタマンテ『火の山のマリア』(2015年、グアテマラ・フランス、第65回ベルリン映画祭銀熊賞受賞)
 中南米の映画はいくつか観た記憶がありますが、マヤ文明の先住民をテーマにした映画が初めてです。伝統的な民俗文化とスペイン人による征服以降のメステイソが支配する近代化のなかで、翻弄され苦闘する原住民女性を描きます。人口1400万人のグアテマラは、人種差別による幼児誘拐が続発し、幼児の国外流出数が世界1であり、この映画はアメリカのへの密出国を夢見て欺されて妊娠した少女が、出産した子どもを医師団によって売り飛ばされるという悲劇に遭います。中南米での人間の尊厳を劇的に訴え、静かな社会批判を込めています。全編が中南米風の色濃い光景があふれ、つい物珍しいオリエンタリズムのまなざしにおちいりますが、イタリアのネオ・リアリスモの手法が現代に生きる秀作です。原始的な民俗とモダンな近代な混融する中南米の現在をかいまみることができました。名演小劇場にて。観客10数名。(2016/3/12)

イヴァン・イキッチ『バーバリアンズ セルビアの若きまなざし』(2014年、セルビア=モンテネグロ=スロヴァニア)
 東欧社会主義崩壊後のユーゴの内戦下で、コソボ独立にいたる2008年のセルビアに生きる10代の不良少年の希望なき日々を描いています。仕事も目標もなく、街頭でたむろし、ときにはサッカー試合のフーリガンとなって鬱屈した心情を発散させる彼らは、一方ではセルビア民族主義の青年運動のヴァンダリズムにのめり込んでいきます。社会主義崩壊後の怒濤のような資本主義の浸透と民族紛争のなかで、経済と生活の基盤は崩壊し、酒と女と喧嘩に明けくれる若者たちの姿は、1930年代のナチスを支持した若者たちや、現在の日本の非正規労働の若者たちに重なります。
 33歳のセルビア人青年監督は、若者の無残な実態をリアルに描くことに集中し、未来への希望を見いだすことはありません。セルビアの指導者・ミロシェヴィッチは、欧米や日本では悪の権化の独裁者のイメージが強いのですが、この監督を含むセルビア人にとってはそうではないようで、軍事基地をえるためにコソボを独立させたアメリカへの怨念が強いようです。元サッカー日本代表オシム監督の通訳をしていたという千田氏のパンフでの解説を読みますと、テニスの世界的プレーヤーであるミルテイン・ジョコビッチも、アメリカ大使館襲撃事件では煽動者のひとりであったというのは驚きでした。いったい、ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義と非同盟運動の輝かしい歴史はどこへいったのか、粛然と考えさせられる映画です。名演小劇場にて。観客7名。(2016/3/2)

ネメシュ・ラースロー『サウルの息子』(2015年、ハンガリー)
 久しぶりにハンガリー映画を観たのは、この映画がカンヌ(!)映画祭グランプリ、アメリカ・アカデミー賞の外国映画賞を得たからでしょう。アウシュヴィッツ収容所を描いた数ある映画に比して、この映画の独自性は、ガス室の遺体を処理するゾンダー・コマンドという囚人部隊に焦点をあて、ガス室での集団殺戮を正面から描き、またユダヤ人の蜂起と逃亡を描いたところにあります。SSは犯罪の痕跡を消すために、ゾンダー・コマンドは数ヶ月働いた後に全員殺害します。収容所への到着からガス室にいたるリアルな描写は、今までになかったものです。
 ゾンダー・コマンドの一員となったハンガリー系ユダヤ人が、ガス室内で亡くなった死体の一人が、自分の息子だと気づいて、必死になって埋葬しようとする物語は、彼が同胞を無神経に殺害する道具から、しだいに人間性を取り戻し、息子をユダヤ教の形式で埋葬することに、自分の人間としての最期の証しを求めることを意味しています。最期は、冷酷にも逃亡のはてに、ポーランド(?)の少年の密告によって殺害されるラストとなります。数年前に訪問したアウシュヴィッツの光景が、どこまで映しだされるか期待したのですが、収容所の全景は登場せず、ガス室と穴と称する銃殺の場所が主な撮影場所でした。それにしても、ユダヤ人を迫害してナチスに協力して収容所に送りこんだハンガリーの監督が、どうしてこのような映画を撮るのでしょう。次から次へと、反ナチ映画を世に送りだす21世紀の欧州のあり方に、いつものことながら考えさせられます。驚いたことに、映画館はほぼ満席でした。(2016/2/27)

塚本晋也『野火』(2014年)
 1944年のレイテ戦で8万名の戦死をだして敗走する日本兵の飢餓となって、互いを喰い合う修羅を描いた大岡昇平の小説の映画化です。石川忠氏のオープニングの音楽に驚かされましたが、途中のBGMは大げさとなり、かえってシリアスさを失わせます。現代日本の戦争への危機感から、出資者なく自主映画としてつくりあげたそうです。字幕のキャストに沖縄系の人の名前が数多く登場するのですが、沖縄でのロケもおこなわれたのでしょうか。最後に、生還した大岡らしき作家が原稿を書きながら、咽ぶように食事をする後ろ姿が映りますが、これは戦場体験のトラウマを示しているのでしょうか。私は、動画となった人肉食の光景を初めて見たのですが、普通では嘔吐観が込み上げるような反応を受けると思うのですが、淡々と画面を見つめている自分に驚きました。あふれかえる映像の洪水のなかで、人肉食のような1次的な反人間性にもさしたる反応をおこさいないほどに、感性が摩滅しているのだろうかとみずからを怪しみました。極限の惨酷をどう表現するのか、あらためて”アウシュヴィッツの後では詩を書くことは野蛮である”ーというアドルノの言葉や、ゴヤの≪わが子を喰うサトウルヌス≫を想い浮かべたのですが、やはりランズマン『ショアー』のような事実のみをして事実を語らしめるドキュメンタリーの手法をとるべきではないかとも考えました。この映画は、クローズ・アップを多用してリアリテイを求めるのですが、かえって撮る者と演じる者が同一化する劇画的なタッチになって、リアリテイから遠ざかる逆効果を生んだようにも思います。驚いたことに、観客10名もいました。シネマスコーレにて。(2016/2/22)

ルイ・マル『ルシアンの青春』(1973年、仏・西独・伊合作、DVD)
 ナチス占領下のフランスの田舎町に暮らす少年は、父はドイツ軍の捕虜、母は地主の愛人、自分は病院の清掃夫としてとして働く、希望のない鬱屈した生活を送っています。その少年がゲシュタポの一員となって、レジスタンスの恨みを買いながら、驚くべきことにユダヤ人の娘に恋をして、ドイツ警察官を殺害して、スペインへの逃避行をくわだて、最後はレジスタンスによって処刑されるという暗澹たる最後をとげます。私は占領下でナチスに協力するフランス人の精神風土の一部を見たような気がしますし、アクション・フランセーズといった極右、あるいは現代の国民戦線を支持する心性があらわれているようにも思えます。貧しさや希望のない状況を生きるなかで、他者へのまなざしを身につけるような成長の過程を奪われ、鬱屈した心性を受けとめる場所を右翼が提供し、内面に残る良心との葛藤を振りきって、より狂暴になっていくのです。
 しかし、この映画はフランスの恥部を密告する手紙があふれるゲシュタポ本部を描いたり、大金を貢いで逮捕を逃れるユダヤ人の複雑な逃避生活を描くなど、従来のレジスタンスを描く映画にはない、フランスの屈折した暗部を正面から描いています。こうした闇の世界を生みだしたのも反ユダヤ主義と戦争なんだ、というよりひねった視点から反戦を浮かびあがらせる、ここに監督の深い思想性があるように思います。可塑性に富んでいるがゆえに、輝かしいはずの青春がゆがめられ、取り返しのつかない愚かなふるまいに、みずから進んで堕ちていく傷だらけの青春の痛ましさが浮かびあがります。こうした愚かさへの共感が、さらに矛盾を深めていくという悪魔の罠を準備します。ユダヤ人の娘の父親が、泊まろうとする少年を「家に帰りなさい」と毅然として言い渡し、少年が素直に去っていくシーンや、最後にドイツ警察官を殺害してユダヤ人母娘を助けるという選択のきっかけになったのも、ユダヤ人の娘の筆時計をドイツ人警官に横取りされたという些細なことが契機です。もし、この些細なことがなければ、少年はユダヤ人母子を助けなかったかも知れません。青春の残酷な哀しい美しさを見事に描いていますが、最後の幕切れはテロップではなく、処刑されるシーンまで描ききる方がよかったように思うところもあるのですが、想像力を誘発させて終わらせる幕切れのテクニックでしょうか。最後まで、ほとんど言葉を発することのなかったユダヤ人の母親の姿にも、迫害されてきたユダヤ人の歴史が刻みこまれていたようにも思いました。思えば、戦争もちょっとしたきっかけで取り返しのつかないスパイラルに転落していくことでは、同じような本質をもっています。学習せよ!と警告しているような映画です。(2016/2/13)

フェルナンド・アラバール『ゲルニカの木』、『死よ、万歳』(DVD)
 このDVDではじめてこの監督の名前を知りました。1932年に旧スペイン領のモロッコで生まれ、マドリード大学卒業後に、戯曲「戦場のピクニック」を発表し、その後パリに移住して、アレハンドル・ホドロフスキーとパニック芸術運動をおこし、映画制作に参入したとDVDの帯びに書いてあります。ホドロフスキーは、チリの軍事独裁に対する抵抗を描いた『リアリテイのダンス』を観ただけですが、同じようなシュールな作風です。『ゲルニカの木』は、ナチスのゲルニカ無差別爆撃後の壊滅する人民戦線を描いています。数年前のスペイン旅行でゲルニカに行って、この焼け残った「平和の木」を見たことを思いおこしました。『死よ、万歳』も敗北する人民戦線にたいするフランコ軍の弾圧を描きますが、その内容はファッシズムにのめりこむ妻が、共産主義者の夫を密告し、その真相を知った息子が煩悶の果てに、父を選ぶというシリアスな物語であり、監督自身の自伝的要素があるそうです。全編が、シュールレアリズムの映像が満ちあふれ、1930年代のフランス芸術の潮流から色濃く影響を受けていることが分かります。「死よ、万歳!」とはフランコ軍の演説の最後をむすぶ合言葉で、反乱軍のニヒルな攻撃的思想性を象徴しています。歴史的にみれば、スペイン人民戦線=共産主義=反キリスト教会というイメージであり、ここに人民戦線が敗北した要因の一つである事が分かります。欧米では、ファッシズム期の生活を描く映画が、いまもって続々と新しい装いをもって制作されているのに対し、日本の過去の歴史に対する貧しいまなざしが痛感されます。(2016/2/13)

ファテイ・アキン『消えた声が、その名を呼ぶ(原題:THE CUT)』(2014年、独・仏・伊・露・加・ポーランド・トルコ)
 はじめて第1次大戦時の1915年に、オスマン・トルコで起こったアルメニア人にたいするジェノサイドを主題とする映画を観た。しかも、トルコ系の映画監督だから驚きだ。もし日本人の監督が南京大虐殺を映画化しようとしたら、テロを覚悟しなければならないだろうし、だいたい俳優が怖がって出演しないだろう。迫害されて生き残ったアルメニア人の父親が、亡命した娘を探してキューバからアメリカに向かって再会を果たすという単純なストリーですが、そこにはユダヤ人と同じくデイアスポラとなって世界に散ったアルメニア人へのオマージュが込められています。印象に残ったことは3つ、ジェノサイドと惨憺たる難民キャンプの実相にせまる場面を初めてみたこと、主人公が神への信仰を捨てたこと、しかも全編に信仰共同体の絆がしみこむようにあることです。なぜ欧米では、戦後70年をへて過去の闇に閉ざされたタブーや消えていった人々に光を当てる表現が次々と生まれているのだろうか。過去を隠蔽して、なかったかのようにひたすら遠ざかろうとする日本の現代史を見ると、哀しくなってくる。名古屋・ミリオン座にて。観客40数名。(2016/1/16)

ソウル・デイブ『フランス組曲』(2014年、英・仏・ベルギー合作)
 戦後70年をへて、いまなお多くのナチスを主題とする映画をつくる欧州文化について考えさせられます。しかも本作は、ユダヤ系フランス人の女流作家イレーヌ・ネミロフスキーで、彼女はフランス憲兵隊に逮捕され、1942年にアウシュヴィッツに送られて1ヶ月後に死亡しています。またこの監督はイギリス人であり、それゆえにナチス占領下のフランスの恥部を隠さずに描いたのかも知れません。占領軍に市民から送られた大量の密告文は驚きですし、ナチス兵士とフランス女性の間に生まれた約10万人といわれる私生児のことも触れられ、この映画はまさに敵兵と恋愛におといるフランス女性の物語であり、最後にはファッシズムを選ばずに人間の尊厳を選ぶという人間の選択にせまります。少々図式的なドラマ展開なのですが、ナチス軍人の人間的側面と葛藤を描いて十分に文芸的エンタメとしても成功しています。それにしても、第2次大戦時にフランスの農村が寄生地主制として営まれ、貴族制が残っていたのには驚きました。名古屋・ミリオン座にて。観客40数名。(2016/1/13)

モフセン・マフマルバフ『大統領と小さな孫』(2014年、ジョージア、仏、英、独)
 15歳で地下活動に入り、17歳で投獄され、4年半の獄中生活を送り、イラン革命で解放された自らの体験とイラン民衆を寓意的にドラマ化しています。倒された独裁者と孫の逃亡生活の過程を描きながら、当時のイランの状況が映しだされ、最後は逮捕される結末に至りますが、復讐の連鎖を断ちきるメッセージで終わります。首都テヘランの近代化された都市風景と農村部の貧困、売春宿の存在、軍隊の性格など革命時のイランの光景がうかびあがります。演出と撮影技術、孫の子役の演技がすばらしく、一気に大団円に持っていきます。原始的な殺害や拷問の痕など、イスラムの前近代的な(?)文化は、現在の原理主義の惨たらしい側面がうかがえます。現在の宗派間対立の和解ををもとめるメッセージと最後の演出にもう一工夫あれば、深い感動を残したといえるでしょう。名古屋・伏見ミリオン座にて。観客30数名。

ジェイコブ・コンブルース『みんなの資本論』(2013年、米国)
 クリント政権の労働長官を務めたロバート・ライシュの大学での講義を中心にしたアメリカの格差社会批判です。本質的には、フランスのトム・ピケテイと同じく、市場原理主義による格差がもたらす資本主義の救済をめざす発想であり、『資本論』の論理とは関係ありません。超富裕層によるトリクルダウンか、中間層重視の社会政策かの選択にあり、底辺層の問題は捨象されますが、中間層重視論がアメリカでは共産主義とみなされ、それほどにアメリカの弱肉強食のひどさが浮き彫りとなります。要するにこの映画は、アメリカには未来がないということを逆説的に述べています。アメリカ型の薄っぺらいドキュメンタリーです。名古屋・シネマテークにて。

幹の会『王女メデイア』
 エウリピデスのギリシャ悲劇の翻案ですが、原作に忠実です。物語は、夫に捨てられた妻の復讐物語というシンプルなもので、日本では自死して怨霊となって祟るという展開になりますが、ギリシャ悲劇では実際に毒殺して復讐するというリアルな展開になります。平幹二朗(78歳)の渾身の演技と現代化された舞台装置と素晴らしい音楽がなければ、この公演は意味は無く、単なる復讐物語に終わります。こうしたギリシャ悲劇をなぜ現代のいまの日本で上演するのかという問題意識が伝わってきません。時代を超えて、人間の恩讐のような業の哀れさでしょうか? 観客の拍手は、平という俳優への拍手であり、それ以上のものはありません。名古屋市民会館にて。(2015/11/26)

小栗康平『FOUJITA』(2015年、日本・フランス)
 私が無条件に称賛する『泥の河』の小栗康平は、哀しみをたたえる叙情性の映画監督であり、この映画は随分それから離れてしまったように思います。フランスで圧倒的な成功を収める藤田は西欧の文化にたち向かうオリエンタリズムの勝利が象徴され、戦争画で圧倒的な成功を収める藤田は西欧モデルによって日本文化に立ちむかい、その両極のはざまを生きた芸術家の「哀しみ」を描いたそうですが、そうした内面の葛藤は浮かび上がってきません。パリにあってはドンチャン騒ぎ、日本にあっては戦争の太鼓をたたいた、超絶技巧の持ち主のイメージであり、哀しみよりもサーカスの道化師に近い。道化師の笑みの裏には、哀しみが隠されているのですが、そうした藤田の内面描写にはまったく迫り得ていません。映像そのものは静謐で凝りに凝った芸術性に溢れていますが、藤田という芸術家の本質に迫ると云うよりも、藤田を借りて監督の映像美学をうちだしているように思えます。
 ひょっとしたら、小栗康平氏はさまざまな主題を扱いながら、過去・現在・未来の歴史に生きようとする主体へのまなざしを諦めているのではないでしょうか。「未来」イメージが築けない日本の表現者の多くが、前近代の共同体への土俗的なノスタルジアの美にのめり込んでいきますが、小栗氏もそうなってしまったのでしょうか。これでは、藤田が渾身の力をふるって描いた戦争画の意味も解明されることはなく、戦争の世紀の本質も歴史的に位置づけられることはなく、類い希なる技量を戦争画に捧げた藤田が、戦争責任を引きうけて浮かばれることもないでしょう。そうした歴史性のコンテクストをはなれて、純粋に映像の美を愉しまれる方は充分に満足するでしょう。ただひとつ、救われているのは、≪サイパン島同胞臣節を全うす≫が水の中に沈んでいくシーンでしたが、水の中ではなく、原爆ドームか長崎の教会堂をバックに、この絵が消えていくように撮れば、小栗氏は藤田を救い得たのではないでしょうか。名古屋・センチュリー・シネマにて。(2015/11/14)

オリヴァー・ヒルシュビーゲル『ヒトラー暗殺 13分の誤算』(2015年、ドイツ)
 『ヒトラー最後の12日間』の監督が放つナチス映画2作目です。1939年11月8日に、ミュンヘンの酒場でヒトラー暗殺を企てた、平凡な家具職人ゲオルク・エルザーの物語です。この事件と人物は実在の史実であり、現在ではこの人名は街の名前として残り、プレートも刻まれているそうです。この映画の最大の特徴は、ナチス台頭期にドイツの片田舎の普通の民衆たちの心性を描き、ドイツ共産党が主導する赤色戦線とナチス突撃隊が、たがいに田舎の村人に浸透し、しだいにナチスが優位になっていく状況を描いていることです。私は暗殺事件そのものよりも、ナチスが民衆の心性をつかみ、子どもたちや女性たちが褐色の思想に染まっていく過程に関心を持ちました。ナチズムの初期は、むしろ資本家や体制の腐敗の犠牲となった底辺層の粗暴な下からの運動として始まり、たんなる暴力とテロの恐怖で民衆を支配したのではなく、また共産党との強烈なヘゲモニー闘争に勝利していったのだと云うことが分かります。日本のファッシズムは、体制そのものが独裁化して上から組織されていきましたが、ドイツのファッシズムは国家社会主義という反体制のイメージをもっていたのです。普通の市民が個の責任で暗殺を実行するということも、日本との違いを感じました。反ユダヤ主義も、ナチスが上から煽動した側面と、ドイツ市民に潜在している側面があり、強烈な独裁に救いを求めるポピュリズムの心性は、現代の日本の一部にある実態と共通しています。名古屋・ミリオン座にて。観客20数名。(2015/10/16)

ジュリオ・リッッチャレッリ『Im LabyrinthでsSchweiigens(沈黙の迷宮、邦題:顔のないヒトラーたち)』(2014年、ドイツ)
 監督は、ドイツ在住のイタリア人俳優で、みずから脚本を書いて演出した経過が知りたい。戦後経済復興の波に乗って発展する1958年のドイツで、多くの人がアウシュヴィッツの事実を知らないでいたというのが、まず驚きでした。とくに、この映画の舞台であるフランクフルトは、戦後ドイツの批判哲学のフランクフルト学派の拠点であったにもかかわらず。ハーバーマスやマルクーゼは一体何をしていたのでしょう。有能で正義感の強い若手検事が、周囲の冷ややかなまなざしとたたかいながら、ついにドイツ人自身の手で、ナチスの残党を摘発し、1963年12月20日のフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判にいたり、収容所の関係者20人を起訴し、17人を殺人幇助の罪で有罪に追いこんでいくまでのドラマです。
 この裁判を契機に、西ドイツ社会に収容所の実態が広く知られるようになり、1968年の学生運動のなかで、「お父さん、あの時、あなたはなにをしていたのですか?」と問う運動に発展し、西ドイツ連邦議会は計画殺人についての時効を停止し、現在でもナチスを追求して裁判にかけるという劇的な戦争の罪責の決済にいたったのです。日本の同じ時代の学生運動は、父親たちの戦争犯罪を問うことはほとんどなく、いまもって日本は、戦後処理をはたさないまま、南京事件や従軍慰安婦問題で被害諸国との軋轢を引きずり、歴史修正をめざす極右が政権を握るという信じがたい特殊な現代史を歩んでいるのとは、あまりに対照的です。この映画は、ドイツ市民にとっては、戦後史の歩みを再検証する意味を持っているのでしょうが、日本にとっては歴史を決済できないままに歩む恥ずべき姿を突きつけ、日本の市民に多くのことを問いかけています。
 ただし、この映画は、ナチ戦犯追及が検事の個人的な奮闘に傾斜して描かれ、ドイツの市民運動自身による過去の告発がいっさい登場していません。また、ドイツ在住のユダヤ人収容所生還者は告発そのものを諦めた弱者として描かれ、憐憫の対象となっています。さらに、南米に逃亡したアイヒマンやメンゲレの捜査と身柄引き渡しに際し、ドイツ検察当局がイスラエル秘密機関モサドの協力を仰いだことも初めて知りました。こうした問題点はおいても、戦後70年をへて、なおこうした過去の罪責を告発するドイツ映画界に敬意を表したいと思います。名古屋・シネマテークにて。観客満席。(2015/10/15)

日韓朗読音楽劇『はにかみの国~石牟礼道子と「菊とナガサキ」考』
 長崎原爆の在日朝鮮人被災を朗読と詠唱、日舞、韓舞、鼓、ピアノというコラボレーションでうたいあげます。濃密な2時間の公演でしたが、石牟礼の原作に引きずられて、原初的な呪術的な情念の世界にさまようように演じます。朝鮮民族の恨の心情と、石牟礼特有の浄土信仰がむすんで、独特の心性世界をつくりあげますが、どうしても被害と罪の情念世界につつまれて、諦観におちいるリスクがともない、告発と新しい世界への出発というイメージが薄れます。このシナリオは誰が書いたのでしょう。日舞の踊り手と韓舞の踊り手が抱き合うところに、希望が見えます。こうしたジャンルを超えた前衛的な表現の世界と、リアルな現代史をむすぶ企画にとり組まれたことは評価したいと思います。千種文化小劇場にて。ほぼ満席。(2015/10/8)

池田博穂『薩チャン正チャン 戦後民主的独立プロ奮闘記』(2015年)
 戦後日本の映画界をリードした山本薩夫、今井正、家城巳代治など独立プロ映画運動を回顧するドキュメンタリーです。いずれも、イタリア・ネオ・リアリズモ(『自転車泥棒』など)の影響を強くうけて、戦後民主化の激動と運命を運命をともにし、「思想を売らなかった」人たちの悔いることのない物語です。なによりも、たんに思想で映画をつっくたというよりも、メジャーにはないリアリズムの芸術性で勝負した人たちであり、人間がたがいに信じ合える存在であることをピュアーに伝え得た稀有の時代であったことに深い感慨を覚えます。この遺産をどう受け継ぎ、現代的に発展させていくかが問われます。シネマスコーレにて。観客は私を含めて3名。(2015/9/16)

クリステイアン・ペッツオルト『あの日のように抱きしめて』(ドイツ、2014年)
 ドイツ人の夫を持つ女性が、ナチス政権下で夫に裏切られてアウシュヴィッツ収容所におくられ、奇跡的に生還し、傷ついた顔を整形して別の顔になり、夫と再会し夫の裏切りの真実を知って、別れにいたるという物語です。21世紀に到っても、次々とナチスやホロコーストの物語を造形化するドイツと、歴史修正主義の右翼が政権を握る日本の非対称性に、、あらためて深い感慨を覚えます。この映画のコンセプトは、ドイツが犯したユダヤ人にたいする根源的な悪は、未来永劫永遠に赦されることはないというテーマであり、どいつはいつまでも許しを乞い続けるしかないという戦後ドイツに埋めこまれた過去の罪責にたいする贖罪の意識です。煩悶するドイツは裏切った夫に象徴され、決然と別れを告げる妻はユダヤ人を象徴しており、ドイツとユダヤに和解は永遠にないのです。日本の首相は、戦後70周年談話で、父祖の謝罪を次世代に負わせることはできないと言いましたが、ここに日本とドイツの恐るべき罪責の意識があります。
 拳銃自殺する妻のユダヤ人の親友の絶望は、ユダヤ人全体の心情を示していますが、この絶望の深さがいまいち伝わってきませんでした。妻がイスラエルへの出国を選ばず、ドイツを選んだのは、たんに夫への思慕以上の意味があるように思いますが、ドイツはそれを裏切ったのです。パンフの解説は、造形表現の部分的な演出のあれこれに焦点をあて、同化をめざすユダヤ人の選択とドイツの裏切りへの本質的な考察はありません。現代日本の戦争認識が、いかに貧しいものとなっているかを、残念ながら示しています。名演小劇場にて。観客10数名。(2015/9/14)

小谷忠典『フリーダ・カーロの遺品ー石内都、織るように』(2015年)
 メキシコの女性画家・フリーダ・カーロの遺品を撮影する写真家・石内都のドキュメンタリー映画です。メキシコの土俗性あふれる文化を背景に、撮影は進みますが、カーロを疑うことなく神格化しているために、カーロの実相に迫ることはなく、メキシコ伝統産業の刺繍や、伝統的な民俗祭に焦点をあて、カーロそのものに迫っていませんので、遺品の持つ象徴的な意味が浮かびあがってきません。リベラなどメキシコ社会主義運動は一切描かれず、この監督の社会的視野の薄っぺらさがうかがえて、映画そのものの技術に比して、残念です。激動するメキシコ社会のなかに、カーロを置かないと、たんなる石内の撮影シーンを映して終わります。名古屋市美術館の山田学芸員のトークがありましたが、それをしも、表層的な印象批評で、カーロの本質にせまり得ていません。名古屋シネマテークにて。若い女性の観客が多いことに驚きました。(2015/9/12)

こまつ座『父と暮らせば』
 こまつ座の定番劇であり、出演は父と娘の二人だけですが、完璧な広島弁を駆使して、演技そのものは完璧です。問題は、いつまでも過去の遺産に寄りかかって、挑戦的な姿勢が見えないことです。観客は、すでに物語を知っており、あとはどう演出が施されているかに注目し、俳優の演技の完成度に関心を寄せるだけです。中高年対象の勤労者演劇サークル向けとして、やむをえないことだとは思いますが、現在の時代はそうした安逸な姿勢は許されない緊迫した状況にあると思います。中小企業センターにて。ほぼ満席。この中ホールは舞台と観客席が接近し、音響効果も素晴らしい。(2015/9/9)

ペペ・ダンカート『2つの名前を持つ少年』(2013年、独・仏)
 ナチス支配下のゲットーから、逃亡して生きぬいたポーランド系ユダヤ人の少年の物語です。ポーランド人のなかに、ユダヤ人を助けようとした人と、ナチスに協力しようとした人、、我関せずで傍観した人の3つのパターンがあり、ユダヤ系を助けようとした人たちは反ナチ・レジスタンスと重なっていたことが分かります。ユダヤ人のなかに、ソ連軍を解放軍とみなす人と、ナチスと同じく警戒する人がいたことも分かります。少年の苦難の逃亡記は、そのままユダヤ人のゆるぎなきアイデンテイテイの発見と重なり、最後はイスラエルに移住して幸福な生活を実現するハッピー・エンドに終わりますが、そこにはアラブとの葛藤は浮かんできません。ユダヤ人の苦闘の歴史を、主人公が少年とは言え、もっと重層的に描けば、深みが出たように思います。ポーランドの森と湖と河の風景が、あまりに美しいので、惨酷な物語との非対称性が浮かびあがります。名演小劇場。観客10数名。(2015/8/26)

ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』(2014年、フランス・ブラジル・イタリア)
 原題は、『THE SALT OF THE EARTH(地の塩)』であり、これを邦題のように入れ替える日本の知性の貧しさに悲しくなります。しかし、私も邦題の”サルガド”の名前がなかったら、この映画をみなかったかも知れません。数年前に、労働と内戦に打ちひしがれた民衆を撮影した彼の写真集をみて、衝撃を受けたのですが、それは報道写真にみるような現場の剥きだしのリアリテイではなく、なにか聖なる尊厳をたたえた芸術性にありました。惨酷な生の極限の現実が、聖性に転化しているような有無を言わせぬ迫力がありました。思わず、私は、内戦で息子の手を引きながら、砂漠を行く痩せた母親の写真を100号の油絵に描いたのです。
 この映画は、サルガドの私生活を織りまぜながら、被写体と生活をともにしながら撮影していくスタイルを淡々と映しだし、観るものを引きこんでいきます。最後は環境保護運動家として、かっての故郷の森の再生を映して終わりますが、しかしやはり、彼は持てるものの側から眺めたのではないかという深い感慨におちいります。しかし、サルガドほどに、世界の貧困と内戦の悲惨を伝ええた写真家はいなかったでしょう。監督が、『ベルリン天使の歌』のヴェンダースとサルガドの息子であることも、この作品を唯一無二のサルガドの物語にしました。今年の暑い夏も過ぎていこうとしています。名演小劇場にて。観客10数名。(2015/8/25)

ベニト・サンプラノ『スリーピング・ボイスー沈黙の叫び』(2011年、スペイン)
 スペイン映画はほとんど観た記憶が最近はありませんが、正攻法の堂々たるリアリズム映画です。スペイン内戦(1936-39)終結から75周年、フランコ死去から40周年の2014年のスペインでは、本格的な内戦の記憶の語りが始まったのでしょうか。戦後フランコ独裁崩壊後のスペインは、独裁政権の罪責を裁かないで恩赦を施したことが、かえって人民戦線側の沈黙を強い、あたかも韓国の従軍慰安婦が証言をはじめたように、過去の記憶の証言が堰を切ったように閉ざされた口を開きはじめたのでしょうか。”ノーパサラン!奴らを通すな”という有名なドロレス・イバルリ共産党女性議長の演説が浮かびあがってきます。なぜかくも、スペイン内戦はロマンテイシズムをかき立てるような魅惑を放つのでしょうか。
 本作は、崩壊した人民戦線の中核となった共産党員たちにたいする弾圧と銃殺の日々を描きます。銃殺のシーンは、まるでゴヤの絵を見ているようです。私が注目したのは、カソリック教会が独裁政権の走狗となって、共産主義者への弾圧に手を貸す様相です。カソリックの尼僧たちが、「汝の敵を愛せよ」というイエスの愛の教えもものかわ、恥ずべき弾圧に参入していきます。あらためてスペインに埋めこまれたカソリック教会の意味を考えされられます。スペイン共産党に参加した人々の多くが貧農の出身で、読み書きのリテラシーすらない人々であり、大学卒が希少価値として崇敬される有り様も浮かびあがります。スペイン革命の本質が、封建大地主制に依拠する王制打倒の民主主義革命であったことが分かります。そのゆえに、共産党に参加していった人たちが、前近代的な命令と服従の規律を裏返した信念に献身し、崇高な自己献身に殉じていったのです。女性党員が獄中で出産した子どもの洗礼を拒否して、子どものいのちを犠牲にしても信念を貫くシーンとなってあらわれます。幾度か集団銃殺のシーンがあらわれますが、囚人が叫ぶ”労働連盟万歳!”という言葉は、字幕作成者の基本的な知識がないことを露呈しており、正しくは”労働総同盟万歳!”です。
 スペイン人民戦線政府は、共産党からアナキストまでを含む広範な統一戦線であり、そうした重層的な構造を描いておれば、この映画はもっと骨太の造形となったことでしょう。しかし、この映画は2012年のゴヤ賞3部門を受賞しており、共産党を正面から描く映画が公的な認知をうける現代スペイン文化の状況に深い感慨を覚えます。戦後70周年を迎えた日本が、戦前の反戦抵抗運動を正面から描き、そうした映画が公的な認知を受けるなどとは想像もできません。しかし、現在のスペイン共産党が見る影もなく退潮している実態をみると、つくづくとソ連スターリン主義の罪の深さを思い知らされます。あらためてリアリズム芸術の今日性を痛感させられました。名古屋・シネマテークにて。観客15名。(2015/7/5)

ジャン・ピエール・メルヴィル『影の軍隊』(2007年、仏、DVD)
 1942年のナチス占領下のパリを舞台とするドゴール派のレジスタンス運動を描きます。仲間の密告や逮捕による自白による組織の自己崩壊を、容赦のない裏切り者に対する処断がストーリーの中心です。描写はサスペンスでドキドキするような展開ですが、裏切りへの冷酷な処断が浮き彫りになりますが、裏切りの過程に焦点を当てると、もっと骨太の物語となったように思います。映画はやはり、リアリズムだということが実証されています。(2015/6/27)

マイク・リー『ターナー、光に愛を求めて』(2014年、英・独・仏)
 イギリスの19世紀を代表するロマン派の風景画家の伝記映画です。母親が精神疾患で学校教育は受けず、ロイヤル・アカデミー附属学校から出発して,国民的と言われる画家になり、印象派を先取りしているともいわれます。この映画で感心したことは、19世紀のイギリスの都市と田舎の風景が精密に復元され、描きこまれていることです。綿密なリサーチで画家の人間性に迫ろうとしていますが、いかんせん当時のイギリス社会の生活そのものから、生まれてくる美意識に迫ろうとするよりも、画家の個人的な行動スタイルのみに焦点をあてていますので、社会的な深みがありません。彼自身の絵にあるような美しく劇的な風景が映像として浮かびあがりますが、これでは所詮、写真がない時代の美術映画です。名演小劇場。驚いたことに会場は満席。(2015/6/26)

石川友美『だれも知らない建築の話』(2015年、日本)
 現代の著名な建築家たちが、現代建築の問題状況を語ります。磯崎新、安藤忠雄、伊東豊雄、アイゼンマン、コールハウス、ジェンクスなどが登場し、市場に流される建築や現代批判としての建築などを語り、建築家ではなく行政や市場が建築を主導している現状を嘆きますが、本人たち自身が市場に侵食された都市建築を推進してきたのですから、説得力に欠けます。とくに新国立競技場の責任者である安藤氏はいったい何を考えているのでしょう。問題は、監督の現代建築に対する思想性の問題にあり、ただ著名人に語らせて、現代建築のモデル例を映像で流すだけのドキュメンタリーであり、人間が住まう建築そのものにたいする思想的な接近がありません。シネマテーク。観客は30数名。(2015/6/21)

エヴァ・デユヴァルネ『グローリー 明日への行進』(2014年、英・米
 M・ルーサー・キング牧師の公民権運動を描きますが、キング牧師の歴史的業績を認めた上で、この映画は公民権運動そのものを描くよりも、ひとりの英雄的な人物像の描写に終わっています。 マルコムXのブラック・ナショナリズムと学生非暴力調整委員会は縁辺に押しやられ、キングの非暴力抵抗運動に焦点が当てられています。また、またベトナム侵略戦争を主導するジョンソン大統領が、リベラルとして描かれ、アメリカ現代史の深層に迫り得ていません。1960年代のアメリカ黒人解放運動を総体として描かなければ、たんなる感動を演出するだけのエンタメ映画に終わります。アメリカ黒人社会内部の階層性などに迫らなければ、リアリテイはありません。伏見ミリオン座にて。観客50数名。(2015/6/20)

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ『サンドラの週末』(2014年、ベルギー、フランス、イタリア合作)
 太陽光パネルを製作する中小企業が、アジア製品に押されて不況におちいり、合理化のために現場作業員17名(うち2名が移民の非正規)のなかで、病気療養開けの女性社員を解雇するという物語です。驚いたことに、療養休暇明けの正規社員を解雇できるということ、しかも作業員の1千ユーロ(約14万円)のボーナスをとるか、彼女の解雇を選ぶかという、作業員の全員投票にかけるということです。経営者が療養明けの正社員を解雇するということは、日本では労働法規上できませんが、西欧(フランス?)ではできるのでしょうか、あるいは解雇の予告義務はないのでしょうか? それとも労働者の全員投票に付せば解雇が可能となる労働法規があるのでしょうか? さらに、1回目の投票が記名制で、主任の圧力がかかったので、社長が労働者の無効要求を聞き入れて、無記名の再投票をやり直すという展開です。この会社には労働組合は存在しないようですし、監督は組合に興味はないようにも感じられます。
 ここから、女性主人公の就業継続を働きかける仲間への説得活動が始まり(日本の労働慣行では違和感があります)、そのシーンを通して下層労働者の生活実態や労働者意識がリアルに浮かびあがり、主人公は困難をのりこえて、最後の投票に到ります。結果は、8:8の同数で過半数に1票達せず、主人公は解雇にいたります。社長は、彼女を呼んで、非正規2名を再契約しなければ、君は就業できると告げますが、彼女は労働者の尊厳と矜恃を示して、それを拒否し、微笑を浮かべながら会社を去っていくという結末です。
 この映画は、西欧の中小企業の現場に、市場原理が浸透し、強固に築きあげてきた西欧型の労働条件の権利が脅かされていることを、女性労働者の苦境を通じて淡々と、しかも生活意識に密着しながら、ドラマテイックなリアリズムの手法で描いています。イタリアのネオ・リアリズム(例えば『自転車泥棒』)が脈々と、現代に生きていることを如実に示しています。『自転車泥棒』は惨酷な絶望的な結末をえがいて、労働者の怨念のような変革への意識を観る者に与えますが、『サンドラの週末』は、労働者がたがいにバラバラにされて敵対しながらも、それをのりこえて手を結ぼうという希望を残して終わります。ここに埋めこまれた西欧の労働の伝統的な強さがあります。明らかに、資本主義は人間同士を敵対させ、ダメにしていくがゆえに、資本主義をこえた新しいシステムが求められるという、監督の強烈なメッセージがあり、それはすべての敗北をこえて必ず最後に訪れるという強い確信となってあらわれています。
 この映画は、リアリズム芸術の手法がなお生命力をもって生活意識にはたらきかける生きた手法であることを、力強く伝えています。大事なことは、登場人物たちの個人的なパーソナリテイに還元して批評したり、演出の手法に集中するポスト・モダニズム批評におちいらないことです。非正規労働者の惨酷な実態を正面から描けなくなった日本映画の現状と競べて、西欧映画の市民意識に埋めこまれた民主主義の伝統をえがくマクロ的な視点からの批評が求められます。アフリカ系の非正規労働者が、率直に不安と恐怖を口にして、女主人公に賛成できない実態を語りますが、じつはここにパリ郊外での都市暴動の背景があるように思います。ダルデンヌ兄弟の演出に注文を付けるとすれば、映画のシーンに都市暴動の光景を挿入などすれば、さらにリアルな迫真性が高まったのではないでしょうか。主演女優の演技は見事であり、こうした映画が商業ベースにのるのも、西欧映画の蓄積を実感します。ミリオン座にて。観客19数名。(2015/6/6)

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』(2013年、ロシア)
 前作の『フルスタリョフ、車を!』をはるかにうわまわるようなおどろおどろしい異様な悪魔的なリアリズムと幻想が入り交じる映画です。いったい物語がどう展開しているのか、まったくわかりません。一歩間違えば、倒錯したスカトロジーのアングラ映画に転落します。この映画を観る人は、原作であるストルガッキー兄弟『神さまは辛い』(1963年)を事前に読んでおくか、パンフレットに目を通しておいたほうがよいかも知れません。あるいは何の知識もなく、ただ映像に圧倒されて想像力を張りめぐらすという鑑賞もあり得るかも知れません。文明の発達した地球人が、中世の暗黒時代の惑星に秘かに参入して、独裁と戦うというSF映画ですが、そこにはあきらかに、20世紀の忌まわしいスターリン全体主義の悪夢への寓意がこめられています。問題は、CG技術などは一切使わず、ハリウッドをあざ笑うような混沌としたロシア映画のパワーの基礎にある現代ロシア文化と意識の独自性をどうつかむかということです。ツアーリズム専制期から培われたロシア独特のドストエフスキー的な神秘と実存が入り交じるような人間観が、スターリン全体主義の経験によってさらに深まり、やすっぽい希望や努力を吹き飛ばすような迫力に満ちたパワーが生成しているような気がします。この国には、民主主義などという西欧的な観念と制度では処理できないような、人間観と社会観があるように思います。それが、芸術至上主義ともいえる芸術にたいする敬意と結びついて、ロシア独特の文化意識が生成しているような気がします。残念ながら、パンフの浅田彰や磯崎新氏などコメントは、表現様式の表層の凄さに心を奪われて、ロシア文化そのもの精神構造に迫っていません。名古屋シネマテークにて。会場ほぼ満席。(2015/5/23)

俳優座『春、忍び難きを』(佐藤信演出)
 信州の大地主の一族が、戦時から敗戦、戦後民主化の農地改革のなかで没落していく過程を描きます。いわば戦前期支配システムの主柱であった絶対主義天皇制を支えた半封建的地主制の崩壊過程を或る地主家族のそれぞれの変貌をとおしてうきぼりにしますが、時代の奔流に必死に対応しながら流されていくという日本型家族の物語であり、どこか悲哀に満ちた同一化と感情移入をもたらし、歴史へ主体的に介入していくという意志がみられない点で、日本型受容の美意識に包み込まれていきます。信州は、日本ではめずらしい変革的な文化が形成された地域であり、そうした視点は描かれません。「どっこい生きている」という日本型庶民意識の力強さはあるのですが、21世紀の現在性のなかでどういう意味をもつのか、いまいち浮かびあがってきません。ノスタルジックに敗戦直後を回顧するような作品であり、体験者はグッとくるような内容でしょうが、自然主義的なリアリズム演劇であり、現代的な課題に応えられていません。俳優の演技はさすが、俳優座というしっかりしたものです。名古屋市民会館にて。(2015/5/15)

ミシェル・アザナヴィシウス『あの日の声を探して』(2014年、仏、グルジア
 1999年のチェチェン紛争を背景に、両親をロシア軍に殺された男の子が、EU人権委員会の女性の支援をうけて、しだいに心を開いていく物語と、ロシアの青年が強制的に徴兵されて、しだいに殺人を愉しむような兵士に変貌していく物語が同時進行します。私は、チェチェン紛争については正確な知識と理解がないので、ロシア側を悪とし、独立派イスラム系を被害者とし、EUの支援行動を美化するこの映画の立場についてはコメントできません。だからといって、山田洋次や大林宣彦のように、戦争の残酷さと人間の絆を描いたヒューマンドラマとして観ることを全面的に認めることもできません。しかし、ロシア軍による残虐行為によって、イスラム系住民の多くが惨酷な運命におちいったのは、おそらく事実であり、逆のテロ行為も事実でしょう。戦争によって、無垢な子どもが傷ついたり、普通の若者が狂気の兵士に変身していく過程は、戦争そのものの根源悪をうきぼりにして、痛々しい警告のメッセージと受けとめました。映画の冒頭のヴィデオ撮影が、ロシア軍兵によるものと最後のシーンで明らかになるのは、映画の演出構成の技術の高さを示しています。
 この映画がフランスとグルジアの合作であるのも、現在の政治情勢を反映しているようにみえ、フランス人がEUや国際赤十字の代表として,現地で難民支援に努力するのは(それはそれとして貴重な支援活動ですが)、どこかオリエンタリズムの匂いが感じられます。この映画は、いま戦争政策が進む現代日本へのなまなましい警告となっています。名古屋・伏見ミリオン座にて。観客30数名。(2015/5/5)

フィリップ・ファラルドー『グッド・ライ~いちばん優しい嘘』(2014年、アメリカ)
 スーダン内戦で難民となった子どもたちがキャンプに収容され、その後成長してアメリカに移住し、アメリカ社会に溶け込んでいく物語です。難民たちが、ヒューマンなアメリカ人の支援を受けながら、異文化に適応していく過程は印象深いものがあります。そのまま素直に観れば、自由の国アメリカで頑張って成功していく麗しい物語となりますが、よく考えるとこの映画は少し複雑な意味を含んでいます。ゲリラ兵士に銃撃されて逃げまどう主人公の少年には、しっかりと聖書が握られており、自分たちの災厄をモーゼの話に託して語りあいます。米国では、教会で自分の苦難の物語を証言します。こういう映画を観ると、アメリカの複雑な重層性が浮き彫りとなって困惑するところがあります。米国は全世界に軍隊を派遣して紛争を拡大しながら、他方ではせっせと難民を受け入れる国でもあるのです。この監督はカナダ人のようですが、難民を支援して自立させていくアメリカの美しい部分を描いて、それだけで終わっているようで、彼の世界認識の浅さが示されていますが、アフリカの内戦や紛争を戦争一般へ還元しないで、もっと深層にある真実に迫ろうとすれば、よりリアルな映画となったように思います。センチュリー劇場。観客9名。(2015/4/23)

クロード・ランズマン『ショア』第2部(1985年、フランス)
 アウシュヴィッツ収容所解放70周年を迎えて、『ショア』のリヴァイバル上映が始まっています。私は第1部は1995年に見た覚えがあるのですが、第2部以降ははじめてです。 第2部は、ポーランドの森でトラックに詰めこまれてガスで殺された生き残りのユダヤ人と、村人たちがインタビューを受けるシーンが印象的でした。生き残りのユダヤ人は、終始笑みを絶やすことなく、淡々と被害の事実を語り、聖母降誕祭のキリスト教会の前で村人たちに囲まれています。いったん教会に押し込められたユダヤ人たちに、ユダヤ教のラビが、「われらの始祖のユダヤ人は、イエスを処刑した罪があり、後世のユダヤ人はそれを償わねばならず、いまがその時だ、ドイツ人について歩いていこう」と一場の説教をおこないます。その時の光景をポーランドの農夫たちが、口々に証言します。完全に傍観者であったポーランドの農民の素朴な生き生きとした表情は、ユダヤ人を見捨てた罪悪感はみじんもなく、ランズマンはあたかも無知ゆえの罪を鋭く描いているようです。そうした証言を微笑みながら聞く生き残ったユダヤ人も無垢で素朴な表情をたたえ、根源的な悪が犯されているときに、民衆はあくまで傍観者として加担する構造にあることを告げているかのようです。この映画は1985年に完成するまで、11年を要していますから、ポーランドでの証言は社会主義体制下に生きる庶民の表情でもあり、聖母降誕祭に集う村人たちのキリスト教信仰の根強さもうかがわれ、社会主義政権が教会活動を公認していたことも分かります。淡々たるドキュメンタリー映画を通して、ナチズムとホロコーストの真実の一端が浮かびあがってきます。ところで、11年余もかけて、日本のアジア侵略の証言を集めるようなドキュメンタリー映画がつくれるでしょうか、なぜ日本にはそうした志を持った作家があらわれないのでしょう。名古屋・シネマテークにて。観客20数名。(2015/4/21)

ヨアンナ・コス=クラウゼ/クシシュトフ・クラウゼ『パプーシャの黒い瞳』(2014年、ポーランド)
 ほんとうに久しぶりに、ポーランド映画を観ました。しかもモノクロ・フィルムで独特の深みのあるシュールな映像を楽しむことができました。絵画が連続して描写されるような映像が続きます。ポーランド映画は、ほんとうに深い人間的な洞察とヒューマニズムあふれる端正で香り高い芸術作品となっています。この映画は、欧州を放浪するジプシー民族のある若い女性が、ジプシ-初の詩人となって世に出ますが、民族のタブーを侵したとして迫害され、精神を狂わせて孤独のうちに世を去るという物語ですが、1920年代から1950年代の激動するポーランドの時代背景も織りこまれて興味深く観ることができました。ジプシ-の共同体が長老を頂点にした部族的な社会であり、重要事項は長老が司会をする男女を含む全員参加の会議で決められ、裁定は長老が下すというのも面白く見ました。ジプシ-の言語であるロマニ語は、話し言葉であって書き言葉がなく、パプーシャはポーランド語のアルファベットを使ってロマニ語で詩を書いたのです。パプーシャを発見した詩人イエジ・フィッツオスキ(1924~2000)は、第2次大戦期は国内軍でワルシャワ蜂起に参加し、共産党政権を逃れてジプシ-集団に身を投じるという数奇な運命をたどり、政権のジプシー定住政策を支持して、パプーシャをそのプロパガンダとする誤りもあったようですが、この詩人なくしてパプーシャが世に出ることはなく、映画のラストシーンも2人の和解を暗示して終わっていました。こうした映画の背景は、パンフなくしては分からないのですが、とにかく映像がシュールで美しいので、それだけで堪能できましたが、肝腎の詩そのものの素晴らしさについては、残念ながらよく分かりませんでした。名演小劇場にて。観衆10数名。(2015/4/11)

フォン・シャオガン『唐山大地震』(2010年、中国)
 1976年の死者24万人を出した唐山大地震と、2008年の四川大地震をめぐるパニックと家族の絆を描いたハリウッド的なヒューマン・ドラマです。地震で生き埋めとなった2人の子どものうち、どちらか一人を助けるという極限の選択を迫られた母親と、奇跡的に生き残った姉妹の成長過程が織りなす家族愛が主旋律となっています。ナチスに2人の子どものうち、どちらかを選べという選択を迫られてトラウマにおちいっていく『ソフィーの選択』(主演アンジェリーナ・ジョリー)を思い浮かべました。この映画は、改革開放をへて驚異的な高度成長を遂げる中国の都市風景と、そのなかでの庶民生活の変貌がうかがえて興味を持ちました。生き残った弟は開発特区・深?に出稼ぎに出て成功して会社社長となり、姉はカナダ人の弁護士と結婚してバンクバーに移住するという、「サクセス・ストリー」の軌跡を描き、現代中国の理想とする幸福感がストレートに出ており、もはや社会主義による平等理念ではなく、個人の資本主義的な成功モデルを何の疑問もなく肯定的に描いています。ただし、被害の貧困者への集中や防災対策への批判は一切なく、地震の救援に英雄的に献身する人民解放軍を称賛したり、巨大な犠牲者モニュメントを建立した共産党に謝意を表するなど、階級や拡大する貧富の差を超えて、巨大地震に立ちむかう中国民衆の集団的な結集を宣揚する点で、現代中国のシステムにもっとも適合する演出となっています。久しぶりに見る群衆シーンと、ふんだんに盛りこまれるCGを駆使した光景など中国映画の技術的な水準を彷彿とさせますが、過剰な演技とBGMによって涙腺を緩める手法もふんだんに盛りこまれ、いわば資本主義化しつつある体制システムのナショナリズム的な高揚をめざす「社会主義リアリズム」映画の現代版といえましょう。必死で地震に立ちむかう民衆の姿に疑義を呈するつもりは毛唐ありませんが、その裏にある現代中国映画会社の意図が無意識のうちにあらわれています。(2015/3/26)

フォルカー・シュレンドルフ『パリよ 永遠に』(2014年、独・仏)
 第2次大戦末期のヒトラーのパリ破壊命令をめぐって、無視するように説得するスウエーデン領事と占領軍司令官のデイスカッション・ドラマです。『パリは燃えているか』という同じテーマの映画を思い出しますが、この映画ではパリの破壊を食いとめたのは、2人の指導的人物の決断にすべて懸かっていたという設定になっており、レジスタンスの一斉蜂起などパリ市民の抵抗の姿は登場しません。エンタテイメントとしては、よく出来ており、数年前に行ったセーヌ川の夜の観光船に降りそそぐ夜のパリの美しさと、ムーランルージュの観覧を印象深く想い起こしました。ヒトラーと親衛隊を軽蔑する国防軍の微妙な関係もうかがえ、それはそれで面白いのですが、やはりパリ市民のレジスタンスと交錯して描けば、より深みが出たと思います。全編がフランス語で演ぜられているのは、フランスに敬意を表してのことでしょうが、背景にEUを主導する独仏の和解という現代的なメッセージが見え隠れします。名演小劇場にて。観客20数名。(2015/3/20)

モーテン・テイルダム『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014年、英)
 第2次大戦時に英国の外務省暗号研究所で、ナチスの暗号「エニグマ」の解読に従事したケンブイリッジ大学の数学者アラン・チューリングの生涯を描きます。チューリングは、チューリング・マシンやチューリング・テストなど現代のプログラム内蔵型電子計算機の先駆となった科学者です。ガタガタと音を立てるお化けのような当時の電子計算機が登場し、研究所の採用試験がジグゾー・パズルの速解き競争など、それなりに面白く観ました。チューリングは、エニグマの解読に成功し、連合軍の勝利に貢献した英雄ですが、他方では当時は猥褻罪で投獄される同性愛者として、最後は青酸をあおって自殺し、1960年代に同性愛が刑罰の対象ではなくなって、名誉を回復しました。つまり、彼はドイツ軍の暗号と同性愛禁止という2つのコードに挑戦したのです。
 問題は、戦争と科学という視点から描くことなく、たんに英雄として描いていることです。ナチスに協力した科学者や原爆を開発したアメリカの科学者など、科学の倫理や社会的責任という視点から描けば、もっと深みが出た現代的な意味をもった映画になったでしょうが、この映画はたんなるエンタテイメントに終わってしまいました。ミリオン座にて。観客20名弱。(2015/3/17)

東京演劇アンサンブル『第3帝国の恐怖と貧困』
 アンデパンダン展に作品を搬入してから、この演劇を観に、はじめて「ブレヒトの芝居子屋」(西武新宿線・武蔵関徒歩10分)へいきました。もとは東映の映画撮影所だったようで、バラックづくりのいかにも場末といった雰囲気の小屋でしたが、前衛風の3方から舞台を見おろすつくりで、目の前で演劇が展開されます。2年前に、ベルリンのベルリーナ・アンサンブルという劇場にいって、ブレヒト劇を観たことを思い出しましたが、ベルリンはそれなりに劇場の雰囲気が漂う小劇場でした。さて、『第3帝国の恐怖と貧困』は、ヒトラーが政権を把握する時代に、市民たちがどのようにファッシズムに巻き込まれているかをえがいています。突撃隊に参加していく若者たちと、それに反発する労働者の緊迫jしたやりとりや判事の煩悶を通じて、あなたならどうしますか?と問いかけてくるドラマです。おそらく劇団は、現在の日本の状況に重ね合わせる狙いで上演したのでしょうが、ブレヒト特有の異化効果をともなう緊迫性が、残年ながら伝わってきません。ピアノ伴奏と並行しながら進むかなり前衛的な演出なのですが、どこに問題があるのでしょうか。それとも、私の感性が衰えてきたのでしょうか。1時30分開演で、5時30分終演という4時間近い時間はあっという間に過ぎていくのですが、めまぐるしく変わる場面転換と、時にはさまれる長い独白に、聴衆の目と耳をぐいぐいと引っ張っていくのですが、直截な劇的効果が伝わってきません。しかし、現在の日本で、商業ルートに乗れないこうした演劇を、時代に抗して上演を続ける劇団のこころざしには頭が下がります。(2015/3/15)

チャン・イーモウ(張藝謀)『妻への家路』(2014年、中国)
 ウーン、久しぶりにイーモアの映画を観ました。武闘映画をつくったり、北京五輪の総監督など、政府派のプロパガンダ監督に堕したと思いきや、今度は反右派闘争の傷跡芸術のような純愛映画です。日本ではもはや、失われてしまった純愛の世界を正面から描くのですが、監督の思想が奈辺にあるのかはよくわかりません。反右派闘争で労働キャンプに送られた夫の還りを待つ妻は、PTSDで夫の顔貌の記憶を失い、父を密告した娘との葛藤に苦しみ、帰還した夫を見分けられず、失われた記憶を求めていつまでも待ち続けるという物語です。ピュアーで色濃い愛情が最後まで解決されることなく終わる過程は、すこし儒教的な純情にも思えます。反右派闘争の歴史的総括がない現在で、それを描くのは純愛に還元するしか、検閲をパスすることができないのでしょうか。それとも、社会的背景は個の純愛を際だたせる背景にしか過ぎないのでしょうか。高級幹部の汚職が相次ぐ中国共産党の頽廃を目にする現代では、もはや社会や共同体ではなく、個の世界に意味を求めるしかというメッセージが込められているのでしょうか。夫が「もう終わったことだ」としみじみと述懐しますが、ここに負の歴史へのある種の断念の心性がただよってきます。個の純愛にしか救いがないとすれば、中国も中国芸術も未来への可能性を失っているといえるでしょう。演出も撮影技術も俳優の演技も見事であり、現代中国映画の文芸大作と評価されるでしょうが、もはやこうした方向性では対応できず、あまりに複雑化していく現代世界でのヒューマニズムは、もっと奥深いものが要求されるような気がします。おそらく、中国は共産党による検閲のシステムや一党制そのものが問いなおされる時代が、必ず来るでしょう。それにしても、パンフの映画評論は年を追うごとに貧しくなり(とくに、よしもとばなな)、わずかに字幕作者の評論のみが本格的な批評となっています。ミリオン座にて。観客は40数名で盛況でした。(2015/3/14)

劇団エイコーン『桜の園』
 栗原小巻が健在であることを、ある感慨を持ってみました。いったい彼女は何歳になっているのでしょう。新劇の正統の道を歩んでいる姿は、もはや過ぎ去っていった時代への郷愁のような滅びの美学を思わせます。演出も現代的な工夫が凝らされていますが、はたしてこれが現在の日本の時代感覚に切り込んでいるかどうか。古い時代が去って、新しい時代への転換を迎える決意を込めたチェホフ劇は現代によみがえっているのでしょうか? 「ああ、私の愛しい、懐かしい、美しい桜の園、私の青春、私の幸せ、さようなら、永久にさようなら」・・・滅びゆく階級の美意識は、戦前期の公演では半封建日本の滅びによって、感銘を与えたのでしょうが、現在の日本の時代的感性はもっと複雑であり、おそらく若い世代にはピンとこないのではないでしょうか? さらなる根本的な翻案が求められるような気がします。2階の末席からは遠すぎて迫真性が伝わりません。名演例会、名古屋市民会館にて。(2015/3/13)

藤本幸久・影山あや子『圧殺の海』(2014年)
 上映10分前にいきましたら、超満員でやっと補助席に座ることができました。辺野古の埋め立てに反対する市民運動の人たちと、むきだしの暴力で弾圧する海上保安庁の生々しい攻防を、実写のカメラでとらえたドキュメンタリーです。無機質な国家暴力を担う若者たちの無表情と、正義による説得調でたちむかう市民の非対称性があらわとなり、じょじょに哀しくなってきます。日本の民主主義の帰趨を決する最前線の現場からの報告であり、それを映画館で眺めるしかないのが悔しいほどにせまってきます。辺野古は日米安保体制の本質が、外に向かっての侵略が内部には抑圧となる政府の偽善をうきぼりにします。昨年末の訪問した現地の美しい海と自然が思い出されます。上映終了後に、拍手が起こった映画は久しぶりです。ナレーションやBGMがほとんどない演出が、、日本のドキュメンタリー映画の技術水準の上昇を思わせます。名古屋・シネマテークにて。(2015/3/5)

アンジェイ・ワイダ『灰とダイヤモンド』(1958年、ポーランド)
 何年ぶりでしょう、TV放映でたまさか観ていると、グングン引きこまれて、いまもって新鮮に感じられます。ウーン、さすがにワイダというか、ポーランド映画です。青年時代に観たときには、最後に虫けらのように死んでいく若者に感情移入し、映画評論も政治に翫ばれて犠牲となっていく傷だらけの青春を宣揚する評論が多かったのですが、東欧社会主義が崩壊して20年以上経ってしまった現在では、もと客観的に多彩な人間像のリアリテイを観ていきたいような気がします。ワイダ自身のモテイーフを離れて、この映画はポーランド現代史の決定的瞬間における選択に直面した人間群像の哀しみに迫っているようにみえるのです。逆さ吊りになったキリストの十字架がゆれるシーンとか、白馬が登場する場面や、宴会とテロが同時進行する演出など、現代から観ても充分にシュールな高度の技術が散りばめられています。「運命」という言葉は好きではないのですが、ギリシャ悲劇の重厚さに匹敵するような悲劇性の哀しみがただよってきます。理想や希望に全身をかけて挑んだり、賭けのような選択に破滅していく凝集した生命の燃焼がたしかにあった革命期ポーランドの気品を失わない重厚な文化の豊かさがあります。そして、戦争国家に向けて改憲路線をひた走る現代日本の薄っぺらな現代史と、若者を惨めな非正規の生活の貶めてせせら笑っているモラリテイの崩れてしまった日本の実態にため息が出てくるのです。名古屋の講演会で、握手したワレサ大統領の手の温かさを思い出します。最後に、映画の中で束の間の逢瀬をした恋人たちが口ずさんだ詩を紹介します。

 松明のごとく 汝の身より火花の飛び散るとき
 汝知らずや わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
 持っているものは 失われるべき定めにあると
 残るはただ灰と 嵐のごとく深淵に落ちゆく混迷のみなるを
 永遠の勝利の暁に 灰の底深く りん然たるダイヤモンドの残らんことを
       (2015/2/25)

フレデリック・ワイズマン『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』(2014年、英=米)
 英国の国立美術館ナショナル・ギャラリーの学芸員や修復部門の世界を追った3時間に及ぶドキュメンタリー映画です。ダ・ヴィンチやミケランジェロ、レンブラント、ターナーやゴッホ、モネなど世界美術史上のいわゆる傑作が登場し、学芸員がそれをどう説明するか、どのように修復がおこなわれるかなど詳細な現場の情報が伝わります。基調は、市民サイドに寄り添った美術館経営であり、展示のコンセプトを革新し、新自由主義による補助金削減に対応した予算編成を話し合う学芸員会議の光景、市民参加型の展示説明会や修復現場に市民を入れた説明会など工夫が見られます。絵を前に市民が自由に模写している光景、ピアノ演奏会やロイヤルバレエ団とのコラボ、詩の朗読会、パーテイなど日本でも参考になる大胆な催しがおこなわれています。
 ただし、美術史上の傑作や名作にたいする物神崇拝とそれに携わる仕事へのプライドなど、いかにも大英帝国らしい権威主義は否定しがたく、こうした名作路線による観光戦略で当面は乗り切れるでしょうが、とても21世紀の美術をリードしていく存在ではなく、NY近代美術館(MOMA)との大きな違いがあります。映画そのものの撮影技術はすぐれており、3時間があっという間に過ぎていきます。センチュリーシネマにて。観客30名弱。(2015/2/25)

ウベルト・パゾリーニ『おみおくりの作法』(原題「Still Life(静物、静かな生)、2014年、伊・英)
 ひさしぶりにプロレタリア・ヒューマニズム(?)の映画を見ました。日本とおなじように、欧米の都市では誰にも看取られぬことなく、ひっそりと孤独死を迎える人が多いのです。本作は、ロンドンの区役所の孤独死をした人を埋葬する中年の民生係をえがきます。中年公務員は、半生を与えられた仕事を淡々とこなす波乱のない人生を歩んできた典型的な公務員像を示しています。彼の仕事は埋葬係ですが、孤独死した人の宗教に添った葬儀を出席者が自分一人というなかで、淡々とおこない、死者の最後の尊厳に敬意を表してきました。ここでは、英国の英国国教会、ギリシャ正教、カソリックの葬儀の違いが浮かびあがり、英国の埋葬が土葬も火葬もあり、火葬はただ灰を墓地にまくだけというのも驚きであり、興味深くみることができました。彼を通じて死者の人生が浮かびあがってくるのですが、あたかも彼は神のまなざしを替わって死者たちに降りそそいでいるようで、黒澤明『生きる』の主人公や、明日世界が滅びようとも今日樹を植えたジャン・ジオノの生涯を想い起こさせます。
 しかし、この映画は明確なサッチャリズム批判の映画であり、この中年の公務員は誠意を込めて葬儀をした仕事の非効率性を理由に、あっさりと役所を解雇され、サッサと機械的に火葬に付す公務員に交替させられます。英国の公務員の解雇規制がこの程度のものというのも驚きですが、サッチャー元首相の公務労働のネオ・リベラリズムの深刻さをうかびあがらせます。また、最後に登場する孤独死のホームレスが、フォークランド紛争の従軍兵士であり、あの戦争が英国兵士に及ぼしたPTSDの深刻さをうきぼりにしています。この映画は、たんなる無辜のピュアーな人生を生きた無名の公務員の聖なる物語ではなく、背後に英国社会への鋭い批判を秘めているが故に、深い印象を残すのです。ラストシーンは、この公務員自身があっけなく自動車事故で孤独死して、誰にも送られることなく埋葬されていく胸にしみ入るようなシーンで終わりますが、最後に奇跡的な希望が待ちかまえていて温かいものが流れて終わります。私は、この最後のどんでん返しがないほうが、イタリアのネオ・リアリズムのような終わり方で深い余韻を残すと思うのですが、それは観る人によって違ってよいでしょう。このような上滑りではないヒューマンな表現が日本でももとめられています。名演小劇場にて。観客7名。(2015/2/16)

ケン・ローチ『ジミー、野を駆ける伝説』(2014年、アイルランド・英・仏)
 アイルランド・リートリム州出身で、アイルランドを追放された実在の人物で、アメリカ共産党員となったジミー・グラルトンの半生を描いたドラマです。緑豊かなアイルランドの田園風景とアイリッシュ・ダンスに興じる労働者・農民の質朴な表情が素晴らしい。時代背景は、アイルランド独立戦争終結後の大土地所有、教育文化のカトリック教会独占、ファッシズムの台頭、共産主義思想の浸透などが織りこまれており、独立運動を担ったIRAの右派が教会や大地主であったことが分かります。戦後もIRA左派による武装闘争や、スコットランド独立国民投票など、大英帝国の歴史は重層的に入りくんでいますが、この映画はそこまでは描きません。
 この映画は、社会主義者であるケン・ローチによる現代版社会主義リアリズム映画といえます。日本では、天皇制絶対主義に抗する運動を描くことはほとんどなくなりましたが、ソ連・東欧圏崩壊後も、イギリス社会主義は根強く生き残っているばかりか、現代の貧困を告発する多様な表現活動を続けていることにまず驚きます。その表現の核心は、ルサンチマンの爆発ではなく、みずからこそがヒューマニズムを体現していることを爽やかに描く楽天的な明るさにも、考えさせられるものがあります。英国のマルクス主義は、ソ連崩壊後にマルクス主義を正面から論じるのではなく、カルチャルスタデイーズという、労働者文化運動に参加していきましたが、この映画もアイルランドの農村部の民衆文化運動の姿が描かれて興味深いものでした。21世紀において、「社会主義リアリズム」が再生するとすれば、民衆的ヒューマニズムにむかう方向があるのかなとも思わせるものがあります。ミッドランド・スクエアにて。観客10数名。(2015/1/21)

ウケ・ホーヘンダイク『みんなのアムステルダム美術館へ』(2014年、オランダ)
 アムステルダム国立美術館は、2004年に全面改修にはいり、2008年にオープンの予定でしたが、建築デザインと自転車道の設計をめぐって議論が起こり、2013年にずれ込みました。この作品は、この過程を10年かけて追いかけたドキュメンタリーであり、美術館経営をめぐる裏面が描かれて興味深くみることができました。まず最初に、美術館全面改修の宣言をするのが、ベアトリクス女王であるのに驚きましたが、オランダの王政はここまで内政問題に介入できるのでしょうか? さらに、改修計画の承認と実行はアムステルダム市議会と市議会という自治体が担うのも驚きでした。日本では、文化庁か文科省がサッサと推進し、市民の意見を聞くことはないでしょう。つぎに、オランダは自動車を放棄して自転車を意識的に使うサイクリストが多いと云うことに、ビックリしました。しかもサイクリストが、美術館の設計に異議を申し立てて、自転車通行の交通権を人権として主張し、芸術鑑賞権より優越していると説き、おそらく緑の党の議員がそれに賛成討論をしていることです。オランダ民主主義の一端がうかがえ、沖縄・辺野古を連想しながら、少々うらやましく思いました。
 映画の主な内容は、収蔵作品の修復と展示品の選別、サザビーズによる落札の風景などなど、美術館経営の裏側を映しだして、興味深くみましたが、ポイントは市民に開かれた美術館の方向を追求していることです。内装をめぐる意見の対立、館長の辞任と新館長の選出をめぐる人間模様なども面白いものがありましたが、なんといってもレンブラント『夜警』への物神崇拝のような傾倒ぶりです。さらに、日本の廃寺から仁王像の対を購入し展示することにも驚かされ、日本の僧侶と神官が読経や祈りをささげて開館するというシーンも、オリエンタリズム丸出しのオランダ人の文化がうかがえて興味を持ちました。美術館職員に黒人系がいたのも、現代のオランダの社会を反映しているのでしょう。日本の美術館も、これぐらいの裏側を見せて市民に開かれていかないと、未来はないでしょう。ウイークデイにも拘わらず、観客10数名。名古屋シネマテークにて。(2015/1/13)

ハロルド・クロック『神は死んだのか』(2014年、米国)
 アメリカ・キリスト教右派の高度なプロパガンダ映画と云えるでしょうが、その背後には都会の孤独のなかで救いを求める悲鳴のような痛々しく荒廃する米国の姿があります。大学で無神論を説く教授とクリスチャンの学生が正面からぶつかって論争し、無神論が敗北するという単純なストーリーなのですが、カネと競争に明けくれるアメリカの市民社会の一端が散りばめられ、映画の制作技術も熟達しており、それなりに観せるものとなっています。無神論を説く人々がほとんどステロタイプとなって戯画的に描かれていますので、情緒に流れて「泣かせ」ますが、それはポピュリズム的な描き方で全米で600万人を動員する基盤となっています。ただし、アメリカの教育界で神と信仰をめぐるキリスト教原理派と世俗派の激しい闘争があることがうかがわれますが、教授が学生に無神論の署名を求めるなんてことはありえず、ここにも無神論をカリカチュアとして描こうとする浅薄な意識があります。
 神がイコールキリスト教であるというのもおかしな話で、ムスリムの女性がクリスチャンに改宗していくというのも、あるいは中国系の学生がクリスチャンになっていくのも、作為性が見えすぎています。キリスト教原理主義の野蛮さは、自動車にはねられて死んでいく無神論の教授に、運転していた牧師がキリスト教への転向を迫って追いこんでいくシーンにあらわれています。最期の瞬間に精神的打撃を与えるこの暴力性を崇高に描くところに、キリスト教原理主義の野蛮な暴力が無自覚に露呈されています。無神論にある人間的な洞察の深さを描いて、キリスト教信仰と対峙させる描写であればこの映画はすぐれて現代的な意味を持つものになったでしょうが、おそらくこの映画の資金を提供した組織のことを考えれば、それは無理なことでしょう。それにしても、キリスト教原理主義のアメリカにおける根強い支持をあらためて知らされることとなり、またこのような薄っぺらな映画しか作れない潮流に哀れを覚えます。公式サイトにある日本の関係者のコメントも酷いものであり、これでは21世紀のアメリカに未来はなく、ローマ法王もこうした映画には怒りを覚えるでしょう。神を信じる者も信じない者も、そうした差異を超えてともに解決しなければならない多元的な民主主義の課題が地球上にはたくさんあるのです。名演小劇場にて。観客10名弱。

◆フェオ・アラダグ『クロッシング・ウオー 決断の瞬間』(2014年、独)
 侵略戦争を禁止しているドイツ憲法の下で、アフガニスタンの多国籍軍に参加したドイツ軍の葛藤を描いて、撤退にいたった背景をうきぼりにします。タリバンから村人を守るという大義が、現地の現実のなかで美名にすぎないことが前線の兵士の任務を通して明らかとなっていきます。反タリバン派の村人が、決してドイツ軍を手放しで歓迎しているのではなく、つねに外国の侵略下にあったアフガンの苦悩の歴史を浮かびあがらせ、タリバンがなぜ根強い支持を受けているのかを逆説的に示しています。印象に残ったのは、車座になって英語の授業を受ける子どもたちの元気な姿と、およそ大学とは云えないような設備の中で、真剣に学ぶ男女学生の姿ですが、授業の内容すらほとんどまともではありません。村社会には、前近代的な部族社会の家父長制が残っており、部屋にはカルザイ大統領の写真が掲げられていますが、それは混迷するアフガンの現状を示しています。先進国からみれば、前近代性そのものである生活とイスラム信仰ですが、それを欧米の基準で裁断して、外側から近代化するという論理がいかに傲慢であり、現地の秩序そのものを破壊して部族間抗争の修羅をつくりだすかは、イラクの現状を見ても明らかです。文化は外部から変容できるものではなく、内発的にしか変えるしかないのだということをつくづくと思い知らされます。ドイツ兵が、しみじみと「俺の行為はなんの意味もないのではないのか」とつぶやくところに、象徴的に表れています。
 コッポラ『地獄の黙示録』と比較したくなるのですが、コッポラはハリウッドの巨額の資金を駆使して、やはり欧米のオリエンタリズムの視点から描き、現地住民のまなざしはほとんどなく、ゲリラも人形のように描かれていますが、このドイツ映画はドイツ兵とアフガン人を対等に描き、両者の苦悩を人間的に描く点が根本的に異なります。最後のシーンは、希望を描いて終わるのかと思ったら、最後の最後に暗転し、ふかい混迷を暗示して終わります。これがアフガンの現状そのものでしょう。パキスタンのタリバンに銃撃されて奇跡的に命をとりとめて、ノーベル平和賞を受賞したマララという少女は、堂々たる近代化の演説で世界を感動させたのですが、はたしてあのような奇跡のヒーローは欧米先進文明の贖罪の役割をはたしているような複雑な感慨を覚えます。シネマスコーレにて。観客6名。(2014/12/15)

◆イ・ジュヒョン『レッド・ファミリー』(2013年、韓国)
 久しぶりの韓国映画です。私の観る韓国映画は、朝鮮戦争や南北分断を主題とするものが多いのですが、そのなかでも北の工作員を描く映画は、鉄の規律に殉じるこころざしの背後にひそむヒューマニテイを映しだして、最後は悲劇的な終末にいたるというものでした。この映画も同じく、北の工作員が家族を偽装して潜入し、普通の市民生活を営みながら暗殺をくり返していくなかで、隣家に住む人間丸出しの家族との交流を通じて、しだいに理念や国家をこえた家族愛の世界に引きこまれて人間性に目覚め、最後に機関の制裁を受けて自滅していくという、分かりやすいストーリーです。ストーリーもハラハラドキドキする展開のなかでエンタテイメントのメロドラマが充満し、観客は悲劇をヒューマンドラマとして味わうことができます。
 韓国の生活をけっして手放しで礼賛しているわけではなく、中流家庭がサラ金の借金漬けであったり、工作員の一人がくらす零細家内工業を描くなどしてしていますが、基本的には韓国の市民生活は自由な人間性が表出できる民主制として描かれており、冷酷な集中制の統制を生きる北の組織と対照させて、その差異をうきぼりにします。工作員のグループがかくももろく南の生活になじんで煩悶していく描写がまたそれを際だたせます。この映画は、韓国がほんとうに北を抱擁するような太陽政策の高度に組織化されたプロパガンダにも見え、また統一を心から願うヒューマニズム映画のようにもみえます。この映画は北朝鮮への共感の要素を一切排除して、すくなくとも北朝鮮の絶対悪を印象づける点で、大成功を収めています。いったい日本で暮らしている北系の朝鮮の人々は、どのような気持ちでこの映画を観るのでしょう。東独が西独に吸収されていった統一モデルをみるのではないでしょうか。ネオリベラリズムに翻弄させる韓国の現実をもっと鋭く描いたならば、この映画はさらに深みのあるものになったでしょう。私は、北朝鮮モデルでもなく、韓国モデルでもない、第3の統一モデルをぜひとも模索していただきたいと思うのです。ミリオン座にて。観客20数名。(2014/11/25)

◆文学座『くにこ』(名演例会)
 作家・向田邦子の生い立ちを描くものですが、なぜ向田なのかーその文学の本質に迫る肝腎の表現がありません。それは、結局小市民の卑近な煩悶を描いてメデイアにもてはやされた作家の限界を示しています。脚本を書いた中島淳彦という人は、いったい非正規と福島でのたうっている現代の日本列島をどう考えているのでしょう。こうした作品は、退職して小金を貯め込んだ中高年層の気晴らしの演劇でしかなく、文学座はそうした上澄みの上に胡座を掻いているようで、未来はありません。問題は勤労者演劇運動が、こうしたポピュリズムに媚びるような作品をとりあげないと、経営が立ちゆかなくなっていることです。勤労者演劇運動の大劇場での鑑賞形態という方式は、もはや限界にあります。文学座の演出技術と役者の演技がプロらしい高水準にありますので、その演劇思想の貧困はとても残念です。名古屋市民会館にて。会場は中高年でほぼ満席。(2014/11/18)

◆フィリップ・ウイチュス/ヴァレリー・ベルトー『聖者たちの食卓』(2011年、ベルギー)
 インドのシーク教総本山ハリマンデ・サヒブ黄金寺院を参拝に訪れる信徒に提供する5万~10万食の食事をつくる場面から、一斉におこなわれる聖餐を撮影したドキュメンタリー映画です。淡々と事実を忠実に再現し、無償で作業する信徒の無表情な光景が映しだされます。インドの凄まじい民衆の生活が映しだされることもなく、豪華絢爛たる総本山の建物と貧しい民衆信徒が集う光景があるだけです。シーク教の信仰に迫ることもなく、圧倒的な食事の光景で終わり、オリエンタリズムのまなざしはありませんが、インドの宗教文化に迫る問題意識もありません。つい先日にインド旅行から帰ったばかりで、期待してみたのですが、少し拍子抜けでした。名演小劇場にて。観客6名。(2014/11/10)

◆フォルカー・シュレンドルフ『シャトーブリアンからの手紙』(2012年、仏・独合作)
 『ブリキの太鼓』で有名なドイツ人監督によるフランスの共産党系政治犯の反ナチ・レジスタンスの映画化です。この映画には、EU統合の背後にいたる欧州の非戦思想が結晶していますが、その背後には命令にたいする絶対服従、フランス国内のナショナリズムの諸潮流の差異、ドイツ国防軍の反ヒトラー意識、フランス共産党内部の政治戦略の矛盾、無神論と信仰などなど欧州現代社会の問題と現代史を生きる民衆の選択の問題など、根源的な現代のテーマが錯綜して、たった4日間の歴史の渦の中に凝集して巻き込まれていきます。ドイツ人占領軍将校の暗殺にたいする報復テロとして、150名の政治犯の処刑が行われ、そのなかに17歳の少年であるギイ・モケも含まれていました。この大量処刑を契機に、レジスタンスがフランス全土で爆発し、彼の名はパリの地下鉄の駅名となって保存されているそうですが、決してこの映画は英雄物語をつくりだそうとはしていません。サルコジ大統領が、この共産主義者の少年の遺書を高校で朗読することを強制するようなナショナリズムのレベルは、日本との差異を際立たせます。東アジアの今を生きる私たちからみれば、欧州の歴史にたいする記憶と良心は、はるか先を歩んでおり、現在のヘイトスピーチに明けくれる日本のマンガ的な痛ましさに恥ずかしくなるほどです。パンフの解説には、レジスタンスも狂気の1形態であり、フランス共産党の政治神話化を非難する論調がありますが、レジスタンスを主導し最大の犠牲者(7万人)を出したのもフランス共産党でした。スターリン主義に呪縛されて現代では支持を失ってしまいましたが、当時はフランスの良心を象徴した存在でした。問題は、ナチスに協力した多くのフランス人がいたことであり、この映画にある「あなたは命令の奴隷となるのか!?」という神父の言葉は、政治的スタンスをこえて人間に響いており、処刑されるフランス人政治犯がカソリック神父に連帯を表明し、また「ドイツ共産党万歳!」と叫ぶシーンは、当時のまっとうなインターナショナリズムを反映しています。
 面白いのは、ドイツ現代思想を代表する哲学者エルンスト・ユンガーが、パリの独軍参謀本部に勤務して冷静な歴史の観察者としてふるまって、客観的にナチスに加担し、ノーベル文学賞をえたハインリッヒ・ベルが銃殺隊のメンバーとして神経をかき乱されるシーンでした。ここには、どのような立場にいようと、冷厳な歴史へのまなざしをもつ西欧的理性の限界と、ナチスの狂気に巻き込まれない繊細な神経の限界が示されています。映画的表現としては、真っ向勝負のリアリズム映画ですが、あと1時間ほど伸ばせれば、より内面に迫る表現が可能であったでしょう。
 2014年は、ナポレオン戦争200周年、第Ⅰ次大戦100周年、第2次大戦のパリ解放70周年という欧州の歴史的な記念すべき年ですが、こうした祝祭年をレジスタンスの視点から、ドイツ人監督が独仏合作で映画をつくるところに、戦後の欧州と日本のめくるめく差異を覚えます。明日も、新宿ではヘイトスピーチのデモ行進がおこなわれる日本は、歴史の恥部となって世界の蔑みを浴びています。名演小劇場にて。観客20数名。(2014/11/3)

◆サイモン・ブルック『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』(2012年、仏・伊)
 世界的に著名なイギリス人演出家ブルックの稽古シーンを撮影したドキュメンタリー映画です。89歳のブルックが新鮮な神経を保持して指導し、日本人の俳優と楽器奏者が数人出演しているのには驚かされました。ブルックの演出がなぜ画期的だったのか詳しいことはまったく知りませんでしたが、一流の俳優が演技術を修得していく一端に触れたような気はします。研ぎすませた感覚を集中し、一切の演技を拒否した場と空間への一体化といったらいいのでしょうか? これは役への没入を要求するスタニスラフスキー・システムともちがうようです。ただし、ブルックの演出は感覚至上の技術主義のような感じで、思想性がまったくうかがえませんが、世界の対象を媒介なく把握するリアリズムという点では賛成です。とにかく澄み切った歪みなき感性と鋭敏な感受性が求められるようです。日本人演奏家の日本楽器を用いた伴奏は、なにかアジア的神秘へのオリエンタリズムが感じられます。名演小劇場にて。観客4名。(2014/10/27)

◆ウオン・シニョン『サスペクト 哀しき容疑者』(2013年、韓国)
 全編がハリウッド流の暴力アクションが満ちあふれるエンタテイメントであり、素材となっている脱北者の物語はエサでしかありません。ネオ・リベラリズムの競争を生きる韓国映画の一端が、うかがえ、息もつかせぬアクションは市場の猛々しい暴力を象徴しています。カネと権力の権謀術数の世界と、家族愛の対極を二項対比で描くのもハリウッド流です。こうしたエンタテイメント映画を貫いて見えてくるのは、首都ソウルのそそり立つ高層ビルの郊外にあるスラム街と、南北の分割国家をのりこえようとする心性がチラリとうかがえることです。センチュリー劇場にて。観客30数名。(2014/10/22)

◆ステファニー・アルゲリッチ『アルゲリッチ 私こそ、音楽』(2012年、仏・スイス)
 ピアニスト・アルゲリッチの日常生活を娘が撮影したドキュメンタリー映画で期待したのですが、失望の極みです。アルゲリッチ・フアンにとっては、彼女の日常と生活感覚がうかがえて興味を持つでしょうが、それはごく普通の女性の日常に過ぎず、娘たちは母親の芸術の深奥に迫ろうとする姿勢がまったくありません。アルゲリッチの思想や世界観がまったくうかがえず、彼女のピアノが唯美主義に基づくものでしかないことを暴露しており、アルゲリッチ神話の崩壊を味わうものでしかありません。これが、女性芸術家の本質的な限界を示しているとしたら、残念なことです。ただ一つ、演奏前の異常な神経の高ぶりを示すイライラだけが、芸術家の感性の一端を示していますが、それもたいしたことではありません。ミリオン座にて。(2014/10/15)

◆ヤーノシュ・サース『悪童日記 LE GRAND CHAIER』(2013年 独・ハンガリー)
 ハンガリー出身の小説家アゴタ・クリストフの原作の映画化です。私は、原作の題名は知っていたのですが、どうも悪ガキ風の題名で読まなかったのですが、この映画をみて甘っちょろいヒューマニズムを吹き飛ばすような惨酷なリアリズムに圧倒されました。戦後初期の戦争の惨禍を生きるイタリアン・リアリズムと本質的に同じ主題ですが、イタリアが哀感を込めた描写によって悲しみを凝集するような演出にたいし、この映画は徹底した冷酷な乾いたリアリズ描写によって、人間的本質に迫ろうとします。舞台は第2次大戦時のハンガリーで過酷な大人社会の抑圧を受けて、したたかに生き抜いていく双子の少年の物語であり、欧州文化の基底に流れる残酷性に迫っていきます。
 シンプルでストレートな演出によって、息もつかせぬ苛烈な展開となり、これぞリアリズム映画の極地とも言うべき作品になっています。ナチズムとスターリン主義への批判を内在させた原作者の思考と体験がにじみ出ています。評者の一部は、「静かなラデイカリズム」は、言葉と思想をもてあそぶフランス風の文化、さらにはチマチマした日本文化を木っ端みじんに粉砕します。BGMを含む演出と演技人が、特に主人公の2人の少年の演技が抜群です。私は、ハンガリー映画をあまり観る機会はなかったのですが、ハンガリー独特の乾いた感性に潜むヒューマニズムを覚えました。第2次大戦とその後の社会の激動を生きる本格的な芸術表現の分厚さにまたも敬服です。名演小劇場にて。(2014/10/14)

◆パヴェウ・パブリコフスキ『イーダIDA』(2013年、ポーランド)
 ウーン、久しぶりに気品ある映画を観ました。ポーランド映画もひさしぶりです。この映画は、ポーランド現代史の基礎知識なしには理解できない隠喩が散りばめられています。時代と状況に真正面から向きあって、自分の生きる方向を見出そうとする少女の「自分探し」の物語という点に普遍的な意味がありますが、モノクロと遠近法をふんだんに使った映像美という点でも本格的な映画芸術となっています。第2次大戦中に孤児となったユダヤ系の修道女が、たった一人の肉親である伯母と出会って、両親が亡くなった運命を探索し、世俗の生活との一種の触れ合いの体験をへて、決然と修道院生活を選んでいくというストーリーです。パンフのポーランド文化研究者・久山宏一氏の解説が懇切丁寧であり、映画の背景をよく理解することができます。
 冒頭に古いキリスト像を洗い清めて、修道院の庭に建てるシーンは、1962年の雪どけのなかで政府の教会政策がかなり自由化された時代を象徴的に暗示しています。主人公の孤児の修道女は、ドイツ占領期のポーランド人によるユダヤ人虐殺の奇跡的な生き残りであり、同じく生き残った叔母はスターリン期の赤い検事と云われて恐れられた共産主義を信奉するユダヤ人であり、スターリン批判後はみずからの信念がゆらいで、身を持ち崩して投身自殺します。しかし現代ポーランド政府には、国民記憶院(!)が設置されて、過去の歴史の汚濁を再調査し、誠実に向きあおうとしていることは、極右が政権を握って歴史修正をすすめる日本と較べて、ため息が出るような落差があります。
 この映画は徹底したリアリズムで物語を進行させるのですが、登場人物の名称やひとつひとつのふるまいに、とても象徴的な意味が込められており、ポーランド現代史の黙示録のような作品となっています。またしても、欧米と日本の映画水準のおそるべき落差を味わうこととなりました。いわゆるポーランド派と呼ばれる戦後ポーランド映画の伝統が、現代に生きています。キーワードは人間の尊厳です。それにしても、カトリック教会への批判的なまなざしがないのも驚きでした。名古屋・シネマテーク。けっこう若い人も多く、観客20名弱。(2014/9/27)

◆青年劇場『島』
 敗戦後数年の広島で被爆した人たちが暮らす島の生活を描きます。1次被爆や2次被爆の苦しみが、島の生活が重層的に交錯するなかで、リアルに展開します。堀田清美作の1951年岸田戯曲賞を得た作品で、1950年代の時代のパッションが生々しく噴出され、剛速球の直球勝負のリアリズム演劇です。しかし60有余年を過ぎて、フクシマを体験した現在に上演する意味が問われます。劇中では、原子力の核兵器への利用を批判し、原発の平和利用を推進する科学を宣揚するメッセージが登場し、違和感を持ちます。現在上演するならば、原作の改編が求められます。私見では、最後に「生き抜くぞ!」と叫ぶ主人公の背後に、フクシマ第一原発の映像を映しだす演出などを試みたら、核の過去と現在が交錯する意味をもたらしたのではないでしょうか? しかしこうしたテーマ演劇を愚直に上演する劇団のこころざしは、荒廃が進む現代にあって依然として尊いものです。名古屋市民会館にて。中高年でほぼ満席。(2014/9/18)

◆ビレ・アウグスト『リスボンに誘われて』(2012年、ポルトガル)
 世界的なベストセラーとなったパスカル・メルシェ『リスボンへの夜行列車』の映画化だそうですが、私は寡聞にして知りませんでした。スイスの中年を過ぎた高校教師が、ふとしたきっかけでポルトガルのリスボンを訪れ、サラザール軍事独裁政権を倒した1974年のカーネーション革命をたたかった地下グループの生き残りを訪ね歩き、みずからの残された月日の意味を探るというものです。革命そのものではなく、その地下抵抗運動内部のさまざまの軋轢をふりかえるという描写になっています。なぜこうした小説がベストセラーになるのか、またしても欧米文化の深みに触れた思いです。この映画は、ポルトガルの前近代的な貴族制と身分制度、家父長的な家族生活の一端がうかがえましたが、カーネーション革命をになった勢力がどこにあったのか(市民か青年将校か)については突っ込んで描かれず、また秘密警察の孫娘の配置などが唐突で、いくつものテーマが入りくんで脚本の難しさを実感させました。かなり前にみたリリアーナ・カヴァーニ『愛の嵐』で、ナチスにもてあそばれる少女役を演じたシャーロット・ランプリングが、再登場していたのには驚きました。いったいあれから、何年も過ぎているのでしょう。観客が100名を越えたのにはビックリ。こうした深みのある映画を日本もつくってほしいものです。名古屋・ミリオン座にて。(2014/9/15)

◆パブロ・ラライン『No』(2012年、チリ)
 ピノチェト政権末期の信任投票をめぐるTV・CMを通して、ピノチェト政権崩壊に至るエンタテイメント映画です。チリを含む南米の諸国が、都市部においては西欧的近代化が進んでいること、しかし軍部の政治的関与が依然として強く、開発型近代化であることがうかがえます。この映画は、軍部独裁による開発型近代化の段階から、民主化への過渡期を背景に、その主導権が作用の影響を受けた中層知識人階級によってになわれていることが分かり、労働者階級や原住民の抵抗運動は一切描かれません。TV・CMをめぐる対立に焦点があたり、それを背後から支え得ている民主化勢力の姿はそれほど登場しません。まるで1つのCMが政権崩壊を導いたかのように描かれ、映画としては面白いのですが、結局は軍部がピノチェトを見限っただけのようであり、深部で進む民主化の動向を入れると、さらに深みが増したことでしょう。名演小劇場にて。観客30名弱。(2014/9/6)

◆エラ・プリーセ『おばあちゃんが伝えたかったこと』(2011年、カンボジア)
 ポル・ポトによるカンボジアの虐殺を生きのびた村人たちが、ワークショップをおこなって虐殺を再現して演じる過程を描いたドキュメンタリーです。インドネシアのスハルト政権による虐殺を描いた『アクト オブ キリング』と同じ手法ですが、この映画はまるで幼稚園の演芸会のような素朴なシーンが展開し、まるで虐殺の深層は浮かんで参りません。村人たちが、淡々と虐殺をふり返り、自然の大災害のようにふり返っているのが、むしろ衝撃でした。こうした映画をつくるドイツ人の映画監督のまなざしに、どこかオリエンタリズムがうかがえるのは、私だけではないでしょう。制作国はカンボジアとなっていますが、自国虐殺事件の記憶を外国人に撮影させるカンボジア映画界の「植民地的擬態」(バーバ)を感じます。ただし、こうした当事者自身が演じるドキュメンタリーの手法は、注目されます。名古屋・シネマテークにて。(2014/9/1)

◆リテイ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013年、カンボジア・フランス)
 1975年から79年にわたって、カンボジアを支配したクメール・ルージュは、毛沢東主義によって、都市の資本家や文化人を農村へ強制隔離して170万人を抹殺し、監督も11才で収容され、両親と親族を殺害され、脱出して難民収容所をへてフランスに移住し、パリ高等映画学院を卒業して、映画監督としていまに至っています。映画は、自らの体験を含むポル・ポトによる強制労働と虐殺を素朴な土人形と記録映像を交替で使いながら、大虐殺の真実に迫ろうとしていきます。ナチスによるホロコーストには、「もはや詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)として形象化することそのものが不可能とされてきましたが、この映画は死者たちを土人形に形象化して描こうとしています。土人形は詩的に形象化されて、哀しみの追悼を表現しているようにみえますが、この映画で本当にポル・ポトの虐殺の真相に迫りえたのでしょうか。アメリカの傀儡政権に対抗する抵抗運動が、ポル・ポトのような形態をとるにいたった理由はなんなのか? それは毛沢東思想を単に受容したのではなく、そこにある原始的な平等思想が短期間とはいえ、カンボジアの民衆の心情をとらえたのではないか? なぜかくも文化や知識人たちが迫害の対象になったのか? それは農民の悲惨の上に成りたった文化であり、農民たちのルサンチマンの対象となっていたのではないか? 監督はフランス文化を受容してフランス的に大虐殺を詩的映像にとらえたのではないか? 沈黙して消えていった民衆の声を発掘することにほんとうに成功したのか? 欧米の新聞や評論家が相も変わらず絶讃して終わっている背後に、なにかオリエンタリズムのまなざしを感じるのは私だけでしょうか? 名古屋・シネマテークにて。観客10名弱。(2014/8/23)

大浦信行『靖国・地霊・天皇』(2011年)
 靖国の描き方は多様であり、この映画はスピルチャルなまでの情念による演出となっています。ストリーは、靖国派と反天皇制派の弁護士の、非対称的な意見を対峙させて、観客に考えさせるものとなっています。監督は、いずれの情念にも与せず、両者がどこかで手を握り合うような危うい効果に導いていく妖しい危険があります。ホロコーストを描いた、ランズマンの『ショアー』の徹底したリアリズムの語りのような方法もあります。この映画の手法は、情念の深度にはまりこんで、天皇制の制度的な本質を異化効果によって浮かびあがらせることがありません。問題は、靖国がポストモダン的な差違の物語のオモシロサのイメージに変容して、若者の一部の心情をつかんでいることにあるのではないでしょうか。しかし、大浦氏が徹底的に天皇制にこだわり、美的に昇華させて批判しようとする姿勢は、客観的には命がけの表現であり、むしろ現在の大衆天皇制への批判的描写に及んでいけば、と思うのですが。名古屋・シネマスコーレにて。観客6名。(2014/8/17)

アレハンドロ・ホドロフスキー『リアリテイのダンス』(チリ、2013年)
 実はこの監督の名前も知らず、彼のドラマを観るのも初めてです。1920年代の軍事独裁政権下のチリを背景に、ロシア系ユダヤ人の家族を描きます。父親は、スターリンを崇拝する共産主義者であり、独裁者を暗殺する行動に出て挫折します。青年期の思想ドラマと、家族の軋轢が入りくみながら、最後は家族の愛情関係を回復して終わります。それだけで、充分にドラマテックなストーリーなのですが、想像力がほとばしる徹底した魔術的リアリズムの演出によりますので、めくるめく圧倒的な映像のうちに終焉を迎えます。手足をもぎ取られた炭坑夫たちの乱舞や、妻の放尿によってペストから蘇生する父親、解放の神学に近いようなチリのカソリック教会、共産主義者の秘密の会合、ナチス賛美者の行進・・・などなど、おそらく監督の実体験を元にしたシュルーな映像が連続します。ここには、修羅の現代史を生き抜いたユダヤ人のデイアスポラの経験が凝縮されており、あたかもホロコーストを描くのが困難なように、こうした経験は魔術的なレアリズム、あるいはシュールレアリズムでしか描けない世界が広がっています。残念なことに、戦前期で終わっており、戦後のアジェンデ政権をめぐる激動につながる描写はありません。ホドロフスキーは、日本の禅を讃美しているようですが、苛烈な体験が、スピルチャリズムの方向へのめり込んでいるような気がします。
 いつもと同じように、パンフの解説は映像の唯美主義に耽溺し、チリ現代史を背景としたユダヤ人家族のデイアスポラ物語という本質に肉薄したものはありません。日本の映画評論は、ここまで、対象の本質をとらえる想像力を失って惨めな姿をさらしています。日本映画は、こうした現代史を真正面から描く、歴史的な大河ドラマをつくる能力は、もはや失われているのです。シネマスコーレにて。観客20名弱。(2014/7/28)

フランク・パヴィッチ『ホドロフスキーのDUNE』(米、2013年)
 ホドロフスキーが企画したSF超大作『DUNE』の企画段階から映画会社への制作交渉(結果は失敗)までをえがくドキュメンタリーです。企画段階の絵コンテからスタッフの召集の内実が浮かびあがりますが、とくに詳細な絵コンテと特殊撮影を含む演出シナリオの膨大な資料は参考になりました。結局、この映画はデイヴィッド・リーンが撮影して、見事な失敗に終わりますが、その後のハリウッド系のSF超大作の走りとして影響を与えました。私は、ハリウッドのSF映画にほとんど興味がありませんので、なぜわざわざこうした映画をつくる意味があるのか、久しぶりに裏切られた映画です。シネマテークにて。(2014/7/19)

劇団民藝『八月の鯨』(丹野郁弓演出)
 人生の最後の晩年の日々を淡々とえがく秀作です。2度と還りこぬ過ぎ去った黄金の日々への郷愁がよみがえり、従容とした諦念のうちに最後のその日を迎えます。「これが人生であったか!よし!さらば、いま1度!」(ニーチェ)のような心境で迎える人は、ほんとうにどのくらいいるのでしょう。民藝の最近の路線は、労演会員の高齢化を背景とした階層にこたえる作品が多くなり、現代のリアルな課題と真正面から向きあうのではなく、安定した文芸路線を採用するようになりました。それはそれで重要な意味を持つ課題ではありますが、筋がすでに予測できるような予定調和の世界にとどまっています。しかし、それがほんとうに求められている現代演劇であるかどうかは、厳しく問われなければなりません。名古屋市民会館にて。会場中高年女性で満席。(2014/7/17)

バーナード・ローズ『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』(ドイツ、2013年)
 超絶技巧のヴァイオリニストであるニコロ・パガニーニ(1782-1840)の半生を描いています。当時の西欧の都市風景や生活、或いはロンドンのおそらくは道徳再武装運動の女性のデモ行進などが登場し、それなりに面白かったのですが、物語は天才芸術家の愛の遍歴と演奏会風景を中心にした定番の音楽劇であり、掘り下げた描写はありません。ただし、音楽家をデビューさせるプロデユーサーのようなシステムが生成する音楽システムはそれなりに描かれており、また超絶技巧の演奏スタイルが、伝統を打破する現代のロック・コンサートのような光景を呈し、失神する女性が出るのには驚きました。パガニーニを演じるのが、デイヴィッド・ギャレットという現代の著名ヴァイオリニストであり、5億円のストラデイヴァリウスでの演奏は、それなりの迫力はありました。もう少し、当時の音楽システムや音楽家の生活と意識に迫り得たら、すぐれた芸術映画となったでしょう。名演小劇場。(2014/7/11)

鄭智泳『南営洞1985 国家暴力22日間の記録』(韓国、2012年)
 全斗煥政権下の1985年に逮捕されて22日間の拘留で強烈な拷問を受けたソウル大出身で民主化運動の指導者であった金槿泰(キム・グンテ)の手記『南営洞』の映画化作品です。全編が残酷な拷問シーンの連続であり、人格を破壊されて犬のように自白して釈放されるまでの経過がリアリズムの極地で描かれます。キリストの最後を描いた『パッション』の破壊的なリアリズムに似て、取調官たちの冷酷で無残なサデイズムが浮かびあがります。私は、大学時代の在日留学生である徐勝君(現・立命大教授)が焼身自殺未遂に追い込まれた拷問の真実の一部に接近したような実感を持ちました。しかし私がむしろ衝撃を受けたのは、こうした凄まじい拷問のシーンをそれほどに心乱されることなく見入っている私自身の鈍磨した感性に他なりません。それほどに現代は刺激と暴力のなんでもありの文化が広がっており、私自身も無自覚のうちに侵されているのではないかという問題でした。
 韓国民主化運動の熾烈な体験と国家権力の野蛮をストレートに表現し、あまりの日本との落差に呆然とするならば、この映画を語る資格はないように思います。朝鮮半島を植民地支配した日本の存在がなければ、現在のような朝鮮半島の分断と韓国軍事独裁政権の歴史とは根源的に異なる道を朝鮮が歩んだことを思えば、日本の罪はどのように謝罪しても許されることはありません。従軍慰安婦や強制徴用問題で責任を逃れる無感覚にある現在の日本は、またその罪を上塗りしていることは逃れようもありません。さらに複雑なことは、朝鮮半島内部に、日帝の支配を「神の意志」と認めるような人物が国家情報院長官に就任するという屈折した野蛮があることです。結局のところ、歴史をほんとうに切りひらくのは、日本と南朝鮮と北朝鮮の市民レベルのむすびつきが決定的であると思い知らされます。それにしても、過去の軍事独裁の闇を徹底的にさらけだして真正面から告発するようなリアリズム映画がどうして日本ではつくられないままに歴史がきざまれているのか? こうした韓国と日本のめくるめくような差異は、しだいに積み重なっていつの日にか、取り返しのつかないような恥ずかしい事態を招くのではないかーと思ってしまいます。名古屋・シネマスコーレにて。ウイークデイの昼にもかかわらず、こうした映画に10数名が集うことに驚きました。(2014/6/19)

鄭智泳(チョン・ジオン)『南部軍』(韓国、1990年)
 このような映画監督が存在し、こうした映画を撮影する韓国映画とその背後にある戦後韓国社会の圧倒的な歴史の重みを実感します。南部軍とは、1945年8月15日の日帝からの解放をへて、1950年の朝鮮戦争という米ソ冷戦へ突入する朝鮮現代史の激動期にあって、祖国の民主統一をめざす反米遊撃戦を展開した南朝鮮のパルチザン部隊であり、休戦協定によって北朝鮮への帰還を閉ざされて全滅した武装勢力をさします。私は数年前の韓国旅行で、ゲリラの拠点である智異山に行ったことを思い浮かべながら観ていました。この映画は、ゲリラ部隊の艱難辛苦を戦闘場面中心に描きだし、いま一歩、多くの民衆や知識人がゲリラ闘争に突入していったのかの内面に迫る点で描写不足であり、また一方でなぜ米軍や軍事政権に参加する者がいたのか、双方の視点から描かれると深みが生まれたと思います。それは敗走するゲリラ指導部の内部論争で、「朝鮮は自力で日帝から独立できなかった、外部勢力の力によって独立した、この内戦は北が勝っても南が勝っても意味がない」と民族自主権の立場から批判する意見がありましたが、ここに原作者または監督の思想が凝集されているように思います。さらにゲリラ指導部の多くが知識人であり、知識人ー大衆という途上国型革命の図式の歴史的限界が、このパルチザン闘争にあらわれています。それにしても、朝鮮の真の独立と未来社会の建設に賭けて、朝鮮労働党に命を捧げて歴史に消えていった人たちの生の意味と、現在の「北朝鮮」のめくるめくイメージの乖離には、暗澹たる歴史のアイロニーを覚えます。
 現在の韓国が民主主義的に成熟し、総力を挙げてみずからの歴史の恥部を解明し、真実を明らかにして後継世代に伝えようとする動向は、歴史を改竄して塗りかえようとする日本の軽薄さと、あまりにも非対称性であり、日本は現代史を生きる資格を失って東アジアで嘲笑を浴びる存在へと転落しつつあるとさえ、思わしめます。ここに、20年をへて、この映画が日本で公開される意味があるのでしょうか。名古屋シネマスコーレにて。上映に先立って字幕翻訳者の挨拶があった。観客6名。(2014/6/14)

アレクセイ・ゲルマン『フルスタリョフ、車を!』(ロシア=フランス、1998年)
 先日観たベリャーコヴィッチ演出のハムレットといい、この映画といい、ブルガーコフ的な悪魔的リアリズムの世界が妥協を許さない破天荒な映像のダイナミズムとしてよみがえってきます。物語は、ユダヤ系の高官の軍医がユダヤ系への迫害に巻き込まれて収容所に送りこまれ、独裁者・スターリンを最後に診察するために呼び戻され、スターリンの死を以て自宅に帰るという物語のようなのですが、それはパンフを読んだから言えることであって、映画を観ている最中は何が何だかちっともわかりません。こうしたおどろおどろしい映像の背後には、スターリン主義によって密告社会と化した旧ソ連、社会主義リアリズムによって事実をすべてねじ曲げられた映画制作の経験、そしてにもかかわらず、人々が全体主義へ引きつけられていった恐ろしい魅力、そうしたスターリン現象を帝政期以降のロシア独特の文化に求める思考(ロシアはいつまでもロシアだードストエフスキー)などが、すべて混融した精神世界があふれだすような悪魔的なリアリズムの世界となり、それは中南米の土俗的なリアリズムとはかなり違います。ひょっとしたら、アジア的生産様式の残滓として、現在のプーチン支持の心情的基盤となっているものかもしれません。DVD。(2014/9/5)

ジャステイン・チャドウイック『マンデラ 自由への長い道』(米・英・南ア、2013年)
 南アの反アパルトヘイト運動を指導したネルソン・マンデラ『自由への長い道』の映画化です。こうした映画を観ると、「英雄がいない国は不幸だ」にたいし、「英雄を必要とする国はもっと不幸だ」という言葉を思いおこします。独立や革命は基本的に無名の市民たちの膨大な犠牲のうえに、遂行されるのですが、歴史の記憶に残されるのは指導者の名前であり、その指導者は犠牲者たちの象徴的な人称代名詞となります。マンデラのグループが、27年間の投獄を耐えて目標を達成したことは、歴史に残る偉業ですが、かれらが新たな権力を握った時に何が起こるのかと云うことを、現代の歴史はあまりに苦い体験として刻みこんできました。とくに途上国の革命の指導者は、西欧の教育を受けたエリートたちであり、独立や解放の指導的能力をもっていますが、新たな権力を得た時に、特権財を独占して、南アの場合は新自由主義のもとで、ブラック・ブルジョアジーへと転化していきます。この映画で、マンデラが暴力路線を遂行する妻を「(組織に)忠誠であれ」と説得しますが、これは抵抗運動内部の権力関係を象徴しています。
 現在の南アは、皮膚の色による政治的な差別を形式的には廃止しましたが、黒人特権層と白人特権層が支配を独占し、底辺の黒人層の生活は前と変わらないのです。だから、現在では、こうした解放への苦闘を描くだけの映画は、もはや有効性を持たず、再出発と建設の過程を描くことが課題となっているのです。マンデラの歴史的意味を否定するという意味ではなく、新たな建設の過程を生きる理念と戦略、そして人間的な把握が求められます。それほどに感動が深まらないのは、そうしたシナリオの限界にあるのでしょう。109東宝シネマにて。観客10名弱。(2014/5/24)

劇団東演『ハムレット』(V・ベリャコーヴィッチ演出
 モスクワのユーゴサバド劇場のベリャーコヴィッチ演出の破天荒な『ハムレット』でした。妥協を許さないダイナミックな悪魔的リアリズムとも云うべき演出で圧倒されました。堂々たる現代劇として、古典劇がよみがえっています。日本のチマチマした小市民的な演劇と日本的な淡泊な演技を吹き飛ばすような迫力があります。ブルガーコフなどのロシア文学の世界と共通するような人間のたくましい群像が生き生きと躍動します。しかし、どこか胸にしみいるような深い余韻を残して終わるというのではなく、「アア面白かった」というある種のカタストロフを残して終わります。しかし、さすがロシア演劇の先端を行く演出です。ただ1カ所、日本語表現でいう差別用語が使われていますので、ここは日本側が訂正すべきだと思います。名古屋市民会館にて。会場は中高年女性で満席。(2014/5/22)

カルロス・アグーヨ/マンデイ・ジェイコブソン『ネルソン・マンデラ釈放の真実』(南ア、2013年)
 マンデラ釈放に活躍したフランス人実業家のドキュメンタリーです。歴史の裏舞台での交渉は、興味を抱かせましたが、それ以上のものではありません。アパルトヘイト体制の打破は命がけで戦ったANCを中心とした民衆運動であり、そうした運動は対象としていませんので、なにか権力相互の交渉で決まっていたかのように思わせます。アフリカを支配してきた西欧植民地主義に対する自責の視点もありません。キューバの独立運動支援も権力ゲームとして描かれ、60年代の植民地独立運動の息吹は伝わってきません。ただし、ドキュメンタリーの演出テクニックは優れたものであり、学ぶべきものがあります。独立運動内部の権威主義的構造などをも描き込んだら、独立後にさらなる貧富の差が広がっている南アの苦悩に迫ることができたでしょう。観客6名。名演小劇場にて。(2014/5/13)

アンジェイ・ワイダ『ワレサ 連帯の男』(ポーランド、2013年)
 何年前でしょうか、名古屋の大学での講演でワレサと握手したことを懐かしく思い出しました。彼の手は労働者らしく、堅くて温かいものでした。いったいワイダ監督は何歳になるのでしょう。ドキュメンタリーのような映像とロック音楽をBGMに、ときにユーモアを交えながら、ポーランド民主化運動がまるで西部劇の活劇のようなテンポで展開します。私は3つの点を印象深くみました。ポーランドでの労働者階級と知識人がハッキリと階層意識で違っており、ワレサは生粋の労働者としてあくまで知識人とは違ったスタンスから、変革をとらえていることであり、第2はカトリック教会の甚大な影響力です。ワレサのアパートの壁にも、ローマ法王の写真が掲げられており、東欧崩壊に果たしたカソリック教会の影響力も描かれています。ナチスに加担したカソリックを無批判に受容することには少し疑問を覚えました。第3は国家指導部が社会主義を志向しつつ、自信を失って動揺しており、必ずしもスターリンニストとして描かれていない点です。秘密警察はどこも同じですが。
 それにしてもなぜワイダは、21世紀の今ワレサを英雄のように描いたのでしょう。東欧社会主義の全体主義を倒す過程は、民主主義への歩みでしたが、その後の新たな社会へのヴィジョンには幾つかの潮流があり、現在のような弱肉強食の資本主義ではない別の途もあったはずです。あるいは、ナチスに協力してユダヤ人やシンテイ・ロマを迫害した現代の恥部もありました。ワレサの家族は、夫の政治活動を支えながら懸命に生きる家事労働者としての妻を描いていますが、フェミニズムへの潮流もあったはずです。このようなポーランド社会の重層的な構造を複眼的に描けば、ポーランド現代史の深部がもっと巨視的にとらえられたはずです。ワレサがアメリカ上院で演説して喝采を浴びるシーンは、率直に言っていただけません。私は、一昨年にポーランドに行ったのですが、もうワレサの歴史の記憶はうかがえませんでした。名演小劇場にて。観客20名弱。(2014/4/24)

マチェイ・ドルイガス『他人の手紙』(ポーランド、2010年)
 旧社会主義ポーランド政府内務省検閲局による手紙の検閲システムが、当時の資料によって生々しく再現され、バックには政治の激動を写したドキュメンタリー・フィルムが流れます。手紙の検閲のシステムは、熱で温めて糊を溶かし、ペーパーナイフで開封して読むというごく普通の方法です。淡々と無表情に作業を進めるロボットのような検閲官には女性もおり、内容によっては起訴されて投獄されます。ドキュメンタリーの手法で、押収された手紙や検閲の指令が朗読され、東欧社会主義の全体主義システムが浮き彫りとなりますが、生存する検閲官へのインタビューとか被害者の証言などが織り込まれれば、さらにリアルな時代の再現となったでしょう。現代では、アメリカ・CIAによる全世界的な電子盗聴が、スノーデン氏によってよって暴かれ、権力による監視は社会主義体制だけではないことが明らかとなり、日本でも警察公安部の電話盗聴やメール検閲が横行し、街路での監視カメラの横行などもはや市民の感覚はマヒしているような状況に陥っていますが、あらためて手紙という即物的な開封は原始的であるがゆえに、リアリテイがあります。こうした検閲のシステムの下で、なぜアンジェイ・ワイダが存在できたのか、ポーランドは複雑です。それにしても、この程度のドキュメンタリーの制作に20数年が費やされたとは。名演小劇場にて。観客20数名。(2014/4/20)

◆ジョシュア・オッペンハイマー/クリテイーヌ・シン/匿名希望『アクト・オブ・キリング』(デンマーク、ノルウエー、イギリス/2012年)
 ウーン・・・リアリズムが模写的な反映論ではないことが、実証される映画です。リアリテイは、いわゆるリアリズムからも、またシュールレアリズムからも生成し、むしろ主体の意識に衝撃的なちからをもたらすことが分かります。この映画の主題は、多くの映画評論家が言う「悪の陳腐さ」や「根元悪」、あるいは「狂気」という人間の存在論的なテーマに還元することは、大虐殺という歴史をほんとうに解明することにはならないでしょう。この映画は、1965年9月30日に発生したインドネシアのスカルノ大統領親衛隊の一部が、陸軍のトップ6人を追放して革命評議会を設立した9・30事件を契機に、右翼のスハルト将軍が共産党関係者100万~200万(?)を虐殺した事件を、現在は支配者の一員として生活している加害者の再現ドキュメンタリーとして描いています。当時、学生のわたしも、この事件に興味をいだいたのですが、メデイアの報道そのものが少なく、深く知ることはありませんでした。当時の時代は、全世界が変革の雰囲気に満ち、途上国では軍部の青年将校が左翼化して、実力で左翼政権を樹立しようとする動きがあり、たしかポルトガルでも青年将校の軍事革命政権が誕生したように思います。インドネシアは左翼に親和的なスカルノ大統領の下で、インドネシア共産党が350万人の党員を誇り、もしインドネシアが左翼化すれば東南アジア全域に影響が及び、CIAの秘密工作も激化していました。ですから、正義感に駆られた青年将校の軍事クーデターに近い行為は、途上国特有の急進主義であり、日本のような一定の民主主義が定着している国には、左翼冒険主義のように映った記憶があります。しかし同時に、巨大な左翼政党が出現しても、議会を通じる変革の道は波乱に富んでいるのであり、チリ・アジェンデ政権の崩壊とともに、変革はいかに市民層に深く根ずくかどうかが問われると考えていました。しかしこの映画は、そのようなインドネシア現代史の政治過程は扱わず、なぜ、ごく普通の市民が喊声を上げ、使命感に燃えて大量虐殺に向かうのかという人間論的な考察の方法を採用しています。
 率直に言えば、人間の深層にある根源的な悪の無意識や狂気といった解釈は、人間観の認識を深めることでは意味がありますが、歴史を切りひらく真に有効な方向を切り開くことはできません。社会システムが市民社会として充分に成熟していない場合には、虚偽意識に包摂されて常識を越えた逸脱行動があらわれるという側面にも注目すべきでした。虐殺の心理的なメカニズムは、人間を「敵」と「味方」の2項にカテゴライズし、自分と異なる集団にレッテルを貼って排除し、生活の困難のすべては敵に原因があるとして攻撃を合理化し、さらに虐殺の記憶を緩和する酒や麻薬の装置の3点がセットされた時に、大虐殺は起こります。インドネシアの場合は、敵は悪の共産主義者と経済を独占する華僑であり、味方は虐げられた貧困のイスラム教徒であり、大虐殺は聖戦として誇り高く遂行されたのです。天皇制下の日本の関東大震災の大虐殺も本質的に同じです。重大なことは、もしインドネシア共産党が権力を握っても、反共勢力に対してに似たような行為が行われた可能性があることです(カンボジアのポル・ポト政権のように)。すると、この問題は実質上のクーデター革命であったロシア革命とスターリン主義の評価につながっていきます。このような壮大な時代をすべて映像化できるわけはなく、この映画はそうした修羅の時代の部分を担った虐殺者の心理過程に焦点をしぼっており、その意味では成功しています。
 インドネシアでは、現在も共産主義者は「不浄」とされ、マルクス主義は非合法であり、被害者は仕事もなく、子どもは教育の機会を奪われ、加害者が権力を握っていることは驚きであり、アメリカ製品があふれる街のきらびやかさとスラム街の非対称性が虚しい映像となって迫ってきます。この映画の作成は、軍部からの脅迫を受け、インドネシア人の協力者は匿名で登場し、加害者が嬉々として殺人のシーンを再現する心理療法の「サイコドラマ」のような破天荒な演出となっています。虐殺者の中心グループは、おそらくCIAと右翼軍人が組織した「アルゴジョ」とか「プレマン」と呼ばれるイスラム系のヤクザ的な右翼集団であり、これはナチスの突撃隊や日本の極右グループとも組織的に共通しています。市民社会に埋め込まれたグラムシ的な変革の道について、つくづく考えさせる傑作です。名演小劇場にて。観客6名。(2014/4/15)

◆ステイーブ・マックイーン『それでも夜は明ける』(アメリカ、2013年)
 アメリカ南北戦争前の北部の自由黒人が、誘拐されて南部に売り飛ばされ、悲惨な奴隷生活をへて奇跡的に北部に生還する話です。北部の解放された黒人を奴隷として売り飛ばす奴隷商人がいたことは驚きです。この映画の凄いところは、南部の黒人奴隷にたいする白人のサデイステックな抑圧を赤裸々に描いたところにあり、いままでアメリカ映画で黒人奴隷の実態を描いたのは観たことがなかったので、迫真性がありました。白人の抜きがたい人種差別の心性に迫っており、抑圧された黒人のルサンチマンと諦念が交錯しています。とくに、労働のなかで歌われるニグロ・スピルチャルは、アメリカ黒人音楽の源流をみるようで非常に参考になりました。黒人へのキリスト教の普及が、白人の奴隷主の説教からはじまっているところも、非常に興味深くみることができました。、

 この映画の決定的な限界は、『アミスタッド』のように、黒人がみずから抵抗に立ち上がるというのではなく、良心的な白人の善意によって救済されるという点にあります。北部州が黒人を解放したのも、奴隷制プランテーションは、北部の工業化への労働力調達にフィットしないから解放したのであって、平等の理念からでは必ずしもないことを描いていない点にあります。これがステイーブ・マックイーンの民主主義にたいする感覚の限界を示しています。だから主人公の黒人は、仲間の黒人奴隷のまなざしに、後ろめたさを感じつつも、個人的に救われていくことに喜びを感じるように描かれています。危うくすれば、黒人が第2白人に上昇していくように描かれ、黒人の尊厳を二重に傷つける結果におちいります。映像は丁寧に撮影されています。名古屋・ミリオン座にて。観衆20数名。(2014/4/8)

オ・ミヨル『チスル』(韓国、2012年)
 1948年に、南朝鮮単独選挙に反対する済州島済州島の民衆の武装蜂起にくわえられた南朝鮮政府と米政府の血の弾圧であった3・11事件をはじめて描いた映画です。チスルとは、「地実」であり、ジャガイモを意味します。映像は、逃げまどう島民と容赦なく殺戮をくわえる政府軍の対峙が、シュールなモノクロ映像で描かれます。物語は、韓国の祭祀方式のパターンで、亡くなった霊が現在によみがえり、自らの体験を描き、最後は供養のシーンで終わりますが、71年生まれの監督が執念を持って、韓国現代史の闇の世界を映画化しようとする精神に驚かされます。いったい、現在の日本の40歳代の監督で、戦後史と正面から向き合う発想や感性をもっている監督がはたしているかどうか、彼我の歴史意識の深い差異を感じます。あまりに詩的な映像で描かれているために、殺し合いの背後にある歴史的リアリテイは、必ずしも浮き彫りになりませんが、それは何も知らない日本人の印象にしか過ぎないでしょう。歴史の過去の記憶と罪責を真正面から見つめ、犠牲者の復権をめざす韓国現代史の歴史を再審する深い蓄積があるからこそ、こうしたシュールな殺し合いの描写がリアリテイをもって迫ってくるのです。渋谷・ユーロスペースにて。(2014/4/1) 

ジスワク・スコヴロンスキー『巨匠』(劇団・名芸、2014年)
 何年前でしたでしょうか、大滝秀治が演じる俳優座の舞台を観たことを思いだし、1時間に縮めた今回の公演を興味深く観ました。満席80席の小劇場は、大劇場とは違って手づくりの迫真性がありました。劇では、若い俳優は部屋の影からすべての進行を盗み見するのではなく、同じ部屋に逃げ込んだ設定に変えられていますが、あとはほとんど同じシナリオです。その若い俳優が尋問の対象とならない点で、進行に違和感が生じますが、それはたいした問題ではありません。ほぼ原作に忠実であるため、ポーランドの社会的特質が反映され、極端に知識人が尊重されているため、下層の民衆は部屋の隅で怯えるだけの存在となり、現在の日本の状況にはフィットしません。進行役の最後の台詞が、現代へのメッセージなっていますが、現代を決定的な選択の限界状況が見えない時代と描いていますが、ここは木下順二のエセーを踏襲しており、選択が露わに問われている現在の日本の状況に変えた方がよいのではと思いました。しかし、1時間に縮めた脚本は成功しており、こうした直球のテーマにあえて挑戦する劇団のこころざしを評価したいと思います。(2014/3/21)

マルク・ヴィーゼ『北朝鮮強制収容所に生まれて』(ドイツ、2012年)
 北朝鮮の政治犯収容所に生まれ育ち、脱走して韓国に暮らす青年シン・ドンヒョクが語る収容所生活のドキュメンタリーです。彼の表情や長く続く沈黙は、演技しているとは思われません。脱走の話をしていた母と兄を密告し、父とともに、母と兄の公開処刑をみるシーンは、とても残酷で哀切ですが、本人は完全に洗脳されているので、冷ややかに眺めています。驚くべきは、「愛する」とか、喜びをあらわす「うれしい」などの(その他、悲しみをあらわす言葉や挨拶用語)などをほとんど知らずに成長したと云うことです。収容所では、そうした用語を必要としない生活が強制され、囚人たちもそれを自然の感情生活として身につけていたと云うことです。しかし、韓国で暮らす彼は、ごく普通の青年のように見え、落ち着いた優秀な知性の持ち主に見えます。これは、「存在は意識を規定する」という唯物論的な認識論を証明しているのでしょうか、意識を把握する言語もまた必要ではなく、ひたすら看守に従う調教された無残な精神生活がひろがっています。人間性を無限に解放して豊かにするはずの「社会主義」の惨酷な実態は、アウシュヴィッツの動物化された生活とほとんど同じであり、北朝鮮がなぜこのような実態に陥ったのか、ほんとうに解き明かさなければ、人類の未来史は存在しないでしょう。もっとも驚くことは、彼が韓国でも居場所がなく、強制収容所を懐かしみ、「もう一度帰りたい」という衝撃的な言葉です。かってみた『愛の嵐』という映画で、ナチスのSSと倒錯した愛情関係におちいったユダヤ人女性が、戦後も彼と再会して、愛情関係を求めるという物語です。それにしても、この映画はまたしても、ドイツ人がつくっています。日本の映画制作者は、どんどん浅薄になって、人間と世界の深奥に迫れなくなっています。シネマスコーレにて。会場は超満員。(2014/3/16)

ヴァデウム・イエンドレイコ『ドストエフスキーとともに愛に生きる(原題:5頭の象と生きる女)』(ドイツ、2013年)
 1923年にキエフで生まれたロシア系ドイツ人の女性ロシア文学翻訳家人スヴェトラーナ・ガイヤーの日常を描くドキュメンタリー映画です。1938年にスターリンの粛清によって父を失い、1941年にキエフを占領したドイツ軍のバービー・ヤールのユダヤ人虐殺によって親友を殺害され、自身はドイツ軍に協力して通訳として働き、ドイツ軍の撤退とともにドイツに移住し、フライブルグ大学で学び、以後ドイツに定住し2010年に87歳で死去している。彼女は、ドイツ軍とゲシュタポの偶然の善意によって生きのび、祖国からは裏切り者とみなされ、帰郷しても冷たい視線にさらされる。彼女の聖女のような表情と、時には生の辛酸をなめた妖怪のような表情が交錯しながら、圧倒的な迫力をもって迫ってきます。ここまでは、こうした二重性を生きた人の物語ですが、彼女はロシア文学のドイツ語新訳に全精力を費やし、ドイツの外国文学研究に新しい地平を開いた点に独自の意味があります。原題の「5頭の象」とは、ドストエフスキーの5大長編(『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』)を意味していますが、彼女自身がドストエフスキー文学をどう評価しているのかの言及はありません。彼女は、キエフに帰郷してウクライナ大聖堂に詣で、父親の墓前でロシア正教による祈りの言葉をささげますが、ここに彼女の信条があらわれているように思います。彼女自身の思想的な立場はおいて、苛烈な欧州の現代史を生きのびた生の重さは充分に伝わってきます。ブッシュやプーチンを痛烈に批判する彼女の言説は、みずからの重い体験からでています。名演小劇場。観客10名弱。(2014/3/12)

スタンリー・キューブリック『フルメタル・ジャケット』(1987年、米)
 たまたまBSをみていたら、20数年前の懐かしい映画が上映されていたので、最後までみることとなりました。これぞ「典型的状況における典型的人物」を描いたリアリズム手法の映画です。2部構成で、1部はベトナム戦争に志願する海兵隊の訓練をえがいています。徹底的に人間の尊厳を奪い、本能をむきだしにして、殺人そのものを名誉と思い込む殺人マシーンに仕立て上げる海兵隊の過酷な訓練を描き、ついには神経を病んで指導教官を射殺し、自らも自殺する青年に、アメリカ軍隊の非人間的な本質が浮き彫りとなります。2部は、テト攻勢直後の都市フエでのスナイパ-どうしの戦闘を描き、敵軍の女性ゲリラ兵士が惨殺されるシーンに、まだ人間性を少しは宿しているアメリカ兵の無機質な表情と、さらに前線に向かう姿を映して終わります。
 監督の意図は、ハリウッドの英雄物ではなく、「戦闘」そのものをリアルに描いて戦争の実相を浮かび上がらせるところにありますが、期せずして侵略戦争の無意味な残酷さをつたえる反戦映画となっています。米海兵隊の大義なき侵略軍の頽廃のなかで、なお人間性をとどめている青年たちの悲劇といえますが、映画は戦争を命令し指導しているペンタゴンやホワイトハウスに迫ることはありません。
 辺野古基地移転に賛成し、あるいは新大久保でヘイトスピーチに明け暮れている青年、9条「改正」に賛成している方々にはお薦めの作品です。ベトナムやイラクで命を落としたアメリカ青年は尊厳を持って埋葬されることはなく、故郷にかえった帰還兵は侮蔑のまなざしで迎えられ、多くが薬漬けのような生活におちいりました。原作はグスタフ・ハスフォード『ショート・タイマーズ(短期現役兵』、「フルメタル・ジャケット」は銅弾鉛で覆って貫通力を強化した「被覆鋼弾」をいいます。日本でも特攻作戦の生き残り帰還兵は、冷ややかに迎えられ、「特攻帰り」という不名誉な称号をうけて、自暴自棄におちいり、白衣の傷痍軍人となって街頭で物乞いの生活に入りました。いま靖国にA級戦犯とともに英霊として祀られている戦没兵士は、二重の裏切りの無念の声を発しています。侵略軍の本質は、米国も日本も変わらず、何も知らないで欺された若者たちの霊は救われることはありません。(2014/2/26)

佐々部清『東京難民』(2013年、原作・福澤徹三『東京難民』)
 日本で1881万人(36,2%、2013年)にたっした非正規労働の悲惨に迫るリアリズム映画です。プロレタリア文学の小林多喜二『蟹工船』やプロレタリア演歌『ヨイトマケの唄』がなぜヒットするのか、この映画は敗戦直後のイタリアン・ネオリアリズムの現代版といってよいでしょう。学費の未納で除籍となり、父親も蒸発して天涯孤独となった青年が坂道を転がり落ちるように、非正規労働に転落し、ついにはホスト・クラブのホストとなって頽廃し、ヤクザの手を逃れて日雇い労働から、最後にホームレスにいたるという日本の非正規労働の末路を描きます。ズタズタに引き裂かれていく尊厳の最後の希望を求めて、どこかへ旅立ちますが、その先にはたして希望はあるのかという哀切きわまるラストです。
 街頭でのテイッシュの手渡しやホストクラブのシーンは、初めてみる世界であり、それはそれで面白いのですが、しかしかってのイタリア映画『自転車泥棒』のような、胸をかきむしるような痛みの共感がないのはなぜでしょう。それは、主人公の青年が消費文化の欲望の肥大化のなかで、オモシロおかしく生きて、自分でもどうしていいか分からない漂流の生活を送ってきたからであり、労働とは無縁の小市民的な生活から一気にカネと労働の修羅場にたたき落とされたからです。自己責任論をそのまま受け入れる土壌があり、これが敗戦直後の必死に生きる生活を描いたイタリア映画と、晩期資本主義のめくるめく消費を生きる日本との根元的な差異を示しています。『自転車泥棒』をみた観客は、胸を締めつけられるような哀しみのなかから、システムへの変革に向かう復讐のようなこころが湧き上がりますが、『東京難民』は蒸発した父親を探すというミクロの家族愛に救いを見いだす方向へ向かい、マクロ世界に誘われることはありません。登場人物はすべて、悪役も含めてマネー社会の犠牲者として描かれ、マクロ世界への批判は秘かに爆弾を製造するテロリストに転落した青年でしかなく、飯場の日雇い労働者のシステムを問う会話が登場しますが、システムそのものは変わらないとするシニカルなニヒリズムに終わっています。NPO自殺対策支援ライフリンクの大学4年生(就活がほぼ終了した時点)対象の調査によれば、日本の社会は「正直者が報われる社会」(31%)、「正直者がバカをみる社会」(69%)であり、「いざという時に援助してくれる」(35%)、「何もしてくれない」(65%)という結果となっていますが、日本社会への負のイメージがしみこんでいる荒涼たる風景がひろがっています。
 この監督は、当然に日雇い派遣村の活動や非正規ユニオンについて取材しているでしょうが、この映画には一切描かれません。最後の救いは、最底辺に生きる者同士の優しい傷のなめ合いであり、最後の希望は予定調和の家族愛に向かい、非正規の悲哀をのりこえる社会的な回路は閉ざされています。この映画を観た観客は、現代日本のマネー資本主義と市場原理主義に翻弄される者の痛みへ共感しながらも、弱き者どうしの自己愛に還元され、下手をすれば新大久保のヘイトスピーチや田母神候補に投票するようになるかもしれません。それでもなお、この映画は現代日本の虚妄を鋭く撃つ問題作であることは確かであり、今後の問題意識の展開がのぞまれます。センチュリー劇場にて。(2014/2/24)

ジェームズ・グレイ『エヴァの告白(原題:THE IMMIGRANT移住者)』(2013年、米・仏)
 ウーン、これは『なにが彼女をそうさせたか』という戦前期の日本のプロレタリア演劇を想起させるプロレタリア・レアリズム映画そのものです。リアリズムの手法は、社会主義リアリズムの挫折とともに、もはや顧みられない手法のようになっていますが、映画がリアリズムの様式なしにありえないということを実感させます。音楽や絵画の世界では、リアリズムはゴミ箱に捨てられていますが、映画の世界ではそうはならないということを示しています。ポーランド系移民のアメリカへの移住をめぐる緊張した物語が、全編にくりひろげられ、必死に生きぬく女性の姿が浮き彫りとなります。しかしこの映画の致命的な欠陥は、アメリカ社会の基底にある資本主義の全体像に迫り得ず、「自由」の実現があくまでも個人の努力の極大化に終わっていることです。監督自身はユダヤ系の出自として、東欧でのポフロムを経験した祖父母の世代の体験に思想的な影響を受けていますが、その主題は絶望的な状況をけなげに生きる個の物語であり、それと交錯する人間的な良心の葛藤に焦点があてられています。1920年代のニューヨークの下町のユダヤ人街の実相がリアルにえがかれています。こうした奥深いアメリカ現代史の実相に迫る作品が、ハリウッドから生みだされたことに、私はアメリカの良心の確かな存在を知らされ、感銘深く見ることができました。原題の「移住者」を日本向けに「エヴァの告白」と言いかえた意味は分からないではありませんが、こうした市場を意識した改題よりも、やはり「移住者」という原題こそが、アメリカ現代史の真相に迫るように思います。主演女優の豊かな表情は出色の演技です。例によって、パンフレットの解説は表層批評に堕し、日本の批評水準の劣化をまざまざと示しています。ミリオン座にて。観客30数名。(2014/2/19)

テオ・アンゲロプロス『エレニの帰郷(原題:The Dust of Time)』(2009年、ギリシャ)
 上映期間の終わりにきて、やっと観ることができましたが、期待を裏切ることのない重厚な映画でした。この監督の作品で、もっとも印象に残っているのは、裏切られた理想の深い悲歎をじっと抑えて、静かによたよたと故郷を去っていく老夫婦を描いた『シテール島への脱出』でしたが、このテーマは監督の作品に一貫して流れているように思います。表面的には、時代に翻弄されて生きる女性と彼女を愛する2人の男の終焉にいたる物語ですが、20世紀の戦争と革命の世紀をみずから選びとった思想のもとで生きぬき、苦い現実の苛烈な体験をくぐり抜けながら、なおその思想を捨てることなく、明日への微かな希望を見いだそうとする20世紀末の精神史的な叙事詩です。こうしたテーマは、日本映画では市井の日常の隅にある哀歓と描かれ、大状況と向き合って果断に生きる大河ドラマの骨太の描写は回避され、かっての山本薩夫の『戦争と人間』のような映画は姿を消してしまいました。小津安二郎のようなじっくりとしみ渡る哀感の世界もいいのですが、日本ではどうしても諦観に流れていくような気がします。アンゲロプロスは、さぞかし21世初頭のネオ・リベラリズムに翻弄される祖国・ギリシャの痛ましい姿に、深い憤りと苦渋をいだいているに違いありませんが、交通事故によってこの世を去り、20世紀3部作の最後をみることができないことは、かえすがえすも残念に思います。どうも欧州と日本の歴史感覚は重さと深さにおいて、こえられないような差違があるような気がします。かって訪れたモスクワやベルリンのたたづまいと、日本の都市の風景をみて実感します。こうした現代史の核心に切り込んだ骨太のロマンを、日本でも表現の世界につくりださねばならないと深く思った次第です。名古屋・ピカデリーにて。観客10名弱。こうした映画に関心が向けられなくなった日本の映画ファンの状況をとても哀しく思います。(2014/2/4)

俳優座『わが町』(名古屋市民会館)
 アメリカの田舎町で淡々とすぎていく庶民の日常の哀感を簡潔な舞台で描きます。亡命中のブレヒトが観て、「進歩的な舞台だ」と云ったそうですが、大状況(戦死)は不慮の事故として受容し、喜びも悲しみも幾歳月といった小状況にある生活に、じっくりとした重量感をただよわせる物語です。思わずも、小津安二郎『東京物語』を思い浮かべましたが、現在の日本を覆う不安とルサンチマンにある心情は、こうした世界とは無縁です。いったい俳優座はこの演目をもって名護市にいけるのでしょうか? アメリカの古き良き時代をノスタルジックにふり返るような世界は、現在の小金を貯め込んだ中高年退職者が会員を占める勤労者演劇の格好の題材とはなるでしょうが、現在の日本で上演する意味はほとんどないばかりか、逆に時代の現状を肯定するような役割を果たす気がします。ブレヒトが評価したのは、当時としては舞台装置を排除して、役者の動きだけで勝負した簡素な舞台づくりにあったのではないでしょうか? 『巨匠』のような作品を上演した俳優座はいったいどこへ行ったのでしょう。第1幕で早々に引き上げました。(2014/1/30)

ケイト・ショートランド『LORE さよなら アドルフ』(2012年、豪州)
 まず驚いたのが、豪州映画でしかも女性監督がえがいたナチス映画という組み合わせあり、しかもナチス高官の娘の敗戦後の歩みを描くという、従来なかったテーマです。ナチス高官の子どもたちは、マルテイン・ボルマンの息子は戦争孤児を装って農家に隠れ、後に告白して修道士になり、ハインリッヒ・ヒムラーの娘はナチズムを棄てきれずにネオナチに救いを求め、或いはユダヤ教に改宗してラビになった人もいます。この映画の14歳の娘は、反ユダヤ主義をふかく内面化しながら、逃亡生活のなかで収容所帰りのユダヤ人青年に助けられ、信じ切っていたナチズムの価値観がゆらぎ、虚構の信念をついに捨てていく過程をたどります。この映画は、ナチス高官の娘を主人公にしていますが、娘はナチズムを信奉したドイツ民族の多くを象徴しているのであり、真実に目覚めてユダヤ人と手をつなぐにいたる和解への道を示していますが、青年の財布の盗難を契機に青年は深い懐疑をいだいて、娘の元を去っていきます。この青年と娘の哀切な別離は、ナチスに加担したドイツ人とユダヤ人の間にある越えられない亀裂と溝を象徴しているように思います。最後にたどり着いた祖母は、敗戦後もナチズムを信じており、この祖母はドイツ民族の市民の闇にひそむ戦争責任を体現しているようです。クローズアップや台詞の少ない演出、色彩のすばらしさや場面転換のスピードなど映画技術の高さには刮目すべきものがあり、最後まで息をつかせぬシーンの連続です。
 ドイツ人は最終勝利を怒号するヒトラーを信じて裏切られた挫折感から、みずからの手で戦犯を裁いて、過去の在籍と訣別しようとしていますが、現人神を信じて少年を特攻に送った日本は、敗戦後は現人神に涙を流して謝り、戦犯を再び戦後の指導者とし、いままた過去の戦争を栄光とする指導者を支持しています。このあまりのアナクロニズムの非対称性には、暗然たるものがあります。最後に、ナチス高官の子どもたちの苦悩への共感と同情が生まれるとすれば、この映画は失敗です。600万人の惨たらしい死を死んで逝ったユダヤ人の、一人一人の苦悩とは比べものになりません。名演小劇場にて。観客10数名。(2014/1/29)

ハイファ・アル=マンスール『少女は自転車に乗って(Wadjda)』(2012年、サウジアラビア・ドイツ)
 この映画はイスラム圏での女性を描いて、宗教と世俗の葛藤や子どもの自立という普遍的なメッセージがこめられています。わたしは、はじめてサウジアラビア産の映画を見たのですが、イラン映画とともに、イスラムの日常生活にある人間的な志向や希望の葛藤がうかがえました。直接的な宗教批判が犯罪となるこの国では、女性の置かれた差別状況を日常のリアルな葛藤という視点からしか問題を描けないのです。とにかく女性が一人で学校に徒歩で通学することが異常であり、男が4人までの妻帯を赦される1夫多妻制が日常に滲み込んでいます。女性が自転車に乗るという行為が文化的な規範の侵犯であり、描き方によってはシリアスな映画になる可能性がありますが、少女の軽やかな自立志向という視点から描かれていることで、開かれた未来性を感じさせます。女性監督は公的な撮影場面では、男性スタッフと同じ場所でいることは赦されず、無線で指示を与えるというのだから、驚かされます。生理中にはコーランに触れない禁忌とか、女同士の握手や手紙の交換も禁止されるという規範にも、イスラム文化の日常が西欧的な規範と大きく異なっていることを実感させますが、それはたんなるオリエンタリズムではありません。
 イスラム文化を決して抑圧的な側面からのみみるのではなく、共同体を共に生きる男女が人間的な葛藤を共有するほほえましさとしてとらえられ、どの文化圏にもある人間的な解放をすなおな感情の発露としてして自然に描いていることで、普遍性を獲得しています。「イスラム近代化」というアラブ圏の21世紀の課題を、少年と少女の世界から見つめ、また第2夫人の結婚式を遠くからみつめる第1夫人の母親をえがいて、非イスラム圏からの共感を得ることにも成功しています。あらためて宗教のしめる位置と意味の重さ、そこからの解放の問題をかみしめるラストです。名演小劇場にて。観客10数名。(2014/1/6)

マルコ・トウルオ・ジョルダーナ『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』(2012年、伊・仏)
 1969年にイタリア・ミラノで起こった銀行爆破テロ事件の捜査をめぐる過程を考察するドキュメンタリー・タッチの劇映画です。要するに監督の結論は、イタリアの左翼運動を潰滅に追い込むために、アナキストを犯人にでっち上げた国家秘密警察とネオ・ナチが仕組んだ謀略であるというものです。映画はそうした背景をサスペンス的に描きますが、なぜイタリアでアナキズムや極左派が根強い影響力を持っているのかの背景は描かれません。主犯とされて投身したアナキストも、普通の家庭生活を営む鉄道員として人間的に描かれており、この監督は心情左翼であるようです。暗殺されたモロ外相はイタリア共和民主制の守護者のように描かれていますが、ではなぜ『赤い旅団」という極左がモロを暗殺したのかいまいち分かりません。アントニオ・ネグリのような著名哲学者の生活背景をも連想させます。この映画は、イタリア社会運動におけるアナルコ・サンジカリズムやアナーキズムの根強い文化をうかがわせ、国家権力がスパイ網を張りめぐらせて謀略を駆使し、イタリア国家権力の構造の退嬰的側面を浮き彫りにし、日本で云えば、『真昼の暗黒』のような権力の恥部を描いています。特定秘密保護法が成立して、公安警察が合法的に暗躍しはじめた日本では、他人ごととは云えない恐怖を覚えさせる映画です。名演小劇場にて。観客10数名。(2014/1/5)